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■オーギュスト×アンリ
■挿絵提供:蔦様 地図には載らない小さな島 annex
神秘学の授業が終わり、生徒達が第二化学室を出て行く。
僕はその日、なんとなく席を立たずに居た。
教壇では、いつものように、
講師が黒板消しを左右に振っている。
神秘学の特別講師、オーギュスト・ボージェ教授。
黒板掃除を清掃スタッフに任せる教師も居るが、
彼は自分で書いた文字は自分で消す主義だった。
今日は暗いブラウンのスーツを着ているので、
袖口の淵に付いた、白い汚れが目立つ。
板書していた時に汚した、チョークの粉だ。
その腕が黒板から、
Upyr'(ウプィリ)、Uber(ウバー)、
Upoir(ウピール)などという単語を消していく。
神秘学の講義で、黒板に綴られる言葉は、
おかしな単語ばかりだが、今日もまた常軌を逸している。
神秘学を受講していない生徒が見たら、
何をテーマにした授業なのかも解らないだろう。
あれらは全て、ある『怪物』の由来となった言葉。
今、教授が消したのは、スラブ語の『飛ぶ者』、
トルコ語の『魔女』、ポーランド語の『翼ある亡霊』。
今日のテーマは『吸血鬼』だったのだ。
黒板消しを持つ手が一番下に近付いてくる。
僕は窓の向こうに視線を移した。
外はまだ明るい。空の裾が仄かに色を変える程度だ。
青い空の中で、大きな雲がひとつ浮かんでいる。
雲もオレンジには染まっておらず、自分の色を保っていた。
「おや、アンリ」
黒板は少しの白も残さず、すっかり綺麗になっていた。
「まだ残っていたんだね」
講師がこちらを見て微笑んでいる。
「何か質問があるのかな?」
今日の授業で解らないことは特になかった。
「別に、ない」
「そうか」
講師は、カツンと靴音を立てて、教壇を下りた。
そのまま、こちらに向かって歩いてくる。
僕が座っている、後方の席まで、ゆっくりと。
彼の靴音が、二人しか居ない教室に、一歩ずつ響く。
目の前まで来た講師が僕を見つめる。
しかし、何も言葉を発さなかった。
普段の彼なら「ではティタイムでも一緒にどうかな」とか、
「見頃の花があるから植物園に行こう」などと言ってくるのに。
今日は、ただ黙って、僕を見ている。
違和感を覚えたのはこの時が最初だったのかもしれない。
何、と僕は言おうとした。けれど、できなかった。
身を屈めた彼が、僕の頬に手を添えて、
そっと唇を重ねたから。
一度、静かに触れただけで、教授は唇を離した。
彼に、こういうことをされるのは、
初めてじゃない。それ以上のことも。
彼の"素性"を知ってからも、それは終わらず、
僕達の無意味な関係は、今も続いていた。
けれど、授業が終わったばかりの教室でなんて、
これほど弁えていないのは――いや、
初めてキスをされたのは、この教室だった。
いつ、誰が、廊下を通るとも限らないのに。
彼の手は、まだ僕の頬に残ってる。
「教室だよ、ボージェ教授」
「Oui(うん)」
そう言いながら、
僕の頬に触れていた手が、横髪の奥へと進む。
耳たぶの下をなぞられる感触に、ぞくりとする。
「オーギュス、ト……」
僕の制止が静かに塞がれる。
先程はただ触れるだけだった薄い唇から、
今度は生暖かい物が優しく差し込まれる。
それは一度だけ僕の舌を撫でて、出て行った。
勝手に早くなる僕の心音に腹が立つ。
「教室だって言っているでしょう。聞こえてる?」
彼を見上げた時、僕はやっと気付いた。
知性的なマリンブルーの瞳が、今日はどこか曇っている。
まるで、生気が宿っていないように見えた。
「Oui(うん)」
ワンテンポ遅れた、ぼうっとした声。
彼も母国語はフランス語らしいけれど、
授業中は英語で話しているくせに、
どうして今に限ってフランス語で話してる?
やはり、今日の彼はいつもと違う。
ふわりと香るチョークの匂い。
また近付いてくる両肩を、僕は両手で抑えた。
「止めて」
強く言うと、彼は大きく瞬いた。
マリンブルーの瞳がすうっと澄んでいく。
普段の彼に戻ったようだと感じて、
僕は少しほっとしたのだけど。
本人は愕然としている様子だった。
いつも余裕のある彼が、
こんな顔を見せたことがあっただろうか。
「On dirait un vampire」
彼の唇から零れた言葉。
僕は自分の耳を疑う。フランス語のように聞こえたけれど、
聞き間違いだったのかもしれない。だって、それは、
まるでヴァンパイアのようだ、という意味だったから。
「それ、どういう意味?」
「すまない。時と場所を弁えていなかったね」
「答えになってない」
すると彼は、微笑して肩を落として見せた。
「アンリから、元気を分けて貰いたかったんだ、と思うよ」
「英語かフランス語で話してくれる?」
「英語のつもりだったけれど」
「英語になってない」
「そうだったかな?」
彼は苦笑して見せたあと、
「今日は本当にごめんね、アンリ。
今日はもう退散するよ。ではまた来週の授業で」
そう言って、彼は教室を出て行った。
僕は真っ直ぐに寮へ帰る気にはなれなくて、
一人で天文台へ向かった。
広い草原のようなところに、
白い石が輪のように並んでいる。
かつて天文台だったと思われる遺跡だ。
天文台に着いた頃には、空では夕陽の浸食が進んでいた。
オレンジの面積が広くなり、
ブルーがオレンジに徐々に溶かされていく。
幾つかの白い石も、夕陽色に染め上げられようとしていた。
僕はまだ真っ白な石の上に腰を掛けた。
何か文庫本を持ってくれば良かった。
でも、今は神秘学のテキストとノートしか持っていない。
今はテキストを読む気になれなくて、僕はただ空を見ていた。
大きな白い雲が真上にある。
ずっと眺めていると、雲が風に流されていくのが解る。
少しずつ、ゆっくりと、時に形を変えながら。
今、僕が見ているあの雲も、人と同じように唯一の物で、
この先、もう二度と見られない物なんだろう。
さわさわと足元の草が揺れている。
風が草原に弧を描いていく。
何重もの波。
まるで海のように草原が波立っていた。
その時、背後から視線を感じた。
他の生徒が来たのかとも思ったけれど、
それにしては、全く足音がしなかった。
視線は、そのまま暫く僕に向けられていた。
まるで僕に何か言いたいことでもあるかのように。
無視し続けるのにも飽きてきて、僕は振り向かずに言った。
「誰?」
僕が言葉を発した時、偶然、風が止んだせいか、
場の空気が一瞬、止まったように感じた。
「僕に言いたいことがあるなら、さっさと言えば」
返ってくる言葉はない。やはり、誰も居ないのか。
一人で何を言っているんだ、僕は。
そう思った時だった。
何か聞こえた気がして、僕は立って振り返った。
だが、そこには誰も居ない。
バサッと上空で何かが羽ばたいた。
白い小鳥、その片翼の先端だけが見えたのだろうか。
その翼は先が少し欠けた、歪な形をしていた。
「あー、アンリ、やっと帰ってきたー!」
ウーティス寮に帰り、サロンに入ると、
ユウタがニコニコしながら近付いてきた。
まるで僕をずっと待っていたかのような顔をして。
「これからカードゲームするんだー!
だから、皆でやろうと思って、
アンリが帰って来るの待ってたんだよー?」
サロンには僕以外の生徒が全員揃っていた。
中央のテーブルにカードが置かれており、
それを囲むように皆がソファに座っている。
レッドが頭の後ろで手を組みながらソファに凭れた。
「俺はアンリなんか待たずに、
さっさと始めよーぜーって言ったんだけどなー」
「あれ?」
ユウタは僕の顔を見て、首を傾げた。
「アンリ、髪に何か付いてる」
「何?」
「何だろう? 白っぽい粉みたいなのが。ここら辺に」
僕の近くに居たジョシュアが、その場所を見つめる。
「本当だ。俺が取るよ」
彼は立ち上がって、僕の正面に立つ。
「動かないで、アンリ」
ジョシュアは手を伸ばし、僕の横髪にそっと触れた。
既視感を覚えたのと同時に、
僕の髪に『粉』が付く原因が解った。
ジョシュアは自分の人差し指に付着した物を見ていた。
白っぽく見えるが、ほんの少し赤や黄色が混ざってる。
その不可思議な色合いで、ジョシュアも解ったようだ。
「これ、チョークの粉かな」
「チョークの粉ぁ?」
声を上げたのはアルフレッドだ。
「なんで、そんなモンが髪に付くんだよ。
お前、黒板にへばりついて遊んできたのかあ?」
一瞬、僕は言葉を返せないでいた。
黙っている僕を見て、ジョシュアが心配そうに僕を見る。
「チョークを触った指で、髪に触っちゃったんじゃないですか?」
明るい声。シルヴァンだ。
「ほら、こんなふうに」
シルヴァンは耳に髪をかける仕草をして見せた。
「僕も髪が長いので解るんですが、
無意識にやっちゃうんですよ、コレ。ね、アンリ?」
今日の授業で、僕はチョークに触っていない。
けれど、この寮で神秘学を受けている生徒は僕一人。
そうだったかもね、と僕は答えた。
fin
■挿絵提供:蔦様 地図には載らない小さな島 annex
神秘学の授業が終わり、生徒達が第二化学室を出て行く。
僕はその日、なんとなく席を立たずに居た。
教壇では、いつものように、
講師が黒板消しを左右に振っている。
神秘学の特別講師、オーギュスト・ボージェ教授。
黒板掃除を清掃スタッフに任せる教師も居るが、
彼は自分で書いた文字は自分で消す主義だった。
今日は暗いブラウンのスーツを着ているので、
袖口の淵に付いた、白い汚れが目立つ。
板書していた時に汚した、チョークの粉だ。
その腕が黒板から、
Upyr'(ウプィリ)、Uber(ウバー)、
Upoir(ウピール)などという単語を消していく。
神秘学の講義で、黒板に綴られる言葉は、
おかしな単語ばかりだが、今日もまた常軌を逸している。
神秘学を受講していない生徒が見たら、
何をテーマにした授業なのかも解らないだろう。
あれらは全て、ある『怪物』の由来となった言葉。
今、教授が消したのは、スラブ語の『飛ぶ者』、
トルコ語の『魔女』、ポーランド語の『翼ある亡霊』。
今日のテーマは『吸血鬼』だったのだ。
黒板消しを持つ手が一番下に近付いてくる。
僕は窓の向こうに視線を移した。
外はまだ明るい。空の裾が仄かに色を変える程度だ。
青い空の中で、大きな雲がひとつ浮かんでいる。
雲もオレンジには染まっておらず、自分の色を保っていた。
「おや、アンリ」
黒板は少しの白も残さず、すっかり綺麗になっていた。
「まだ残っていたんだね」
講師がこちらを見て微笑んでいる。
「何か質問があるのかな?」
今日の授業で解らないことは特になかった。
「別に、ない」
「そうか」
講師は、カツンと靴音を立てて、教壇を下りた。
そのまま、こちらに向かって歩いてくる。
僕が座っている、後方の席まで、ゆっくりと。
彼の靴音が、二人しか居ない教室に、一歩ずつ響く。
目の前まで来た講師が僕を見つめる。
しかし、何も言葉を発さなかった。
普段の彼なら「ではティタイムでも一緒にどうかな」とか、
「見頃の花があるから植物園に行こう」などと言ってくるのに。
今日は、ただ黙って、僕を見ている。
違和感を覚えたのはこの時が最初だったのかもしれない。
何、と僕は言おうとした。けれど、できなかった。
身を屈めた彼が、僕の頬に手を添えて、
そっと唇を重ねたから。
一度、静かに触れただけで、教授は唇を離した。
彼に、こういうことをされるのは、
初めてじゃない。それ以上のことも。
彼の"素性"を知ってからも、それは終わらず、
僕達の無意味な関係は、今も続いていた。
けれど、授業が終わったばかりの教室でなんて、
これほど弁えていないのは――いや、
初めてキスをされたのは、この教室だった。
いつ、誰が、廊下を通るとも限らないのに。
彼の手は、まだ僕の頬に残ってる。
「教室だよ、ボージェ教授」
「Oui(うん)」
そう言いながら、
僕の頬に触れていた手が、横髪の奥へと進む。
耳たぶの下をなぞられる感触に、ぞくりとする。
「オーギュス、ト……」
僕の制止が静かに塞がれる。
先程はただ触れるだけだった薄い唇から、
今度は生暖かい物が優しく差し込まれる。
それは一度だけ僕の舌を撫でて、出て行った。
勝手に早くなる僕の心音に腹が立つ。
「教室だって言っているでしょう。聞こえてる?」
彼を見上げた時、僕はやっと気付いた。
知性的なマリンブルーの瞳が、今日はどこか曇っている。
まるで、生気が宿っていないように見えた。
「Oui(うん)」
ワンテンポ遅れた、ぼうっとした声。
彼も母国語はフランス語らしいけれど、
授業中は英語で話しているくせに、
どうして今に限ってフランス語で話してる?
やはり、今日の彼はいつもと違う。
ふわりと香るチョークの匂い。
また近付いてくる両肩を、僕は両手で抑えた。
「止めて」
強く言うと、彼は大きく瞬いた。
マリンブルーの瞳がすうっと澄んでいく。
普段の彼に戻ったようだと感じて、
僕は少しほっとしたのだけど。
本人は愕然としている様子だった。
いつも余裕のある彼が、
こんな顔を見せたことがあっただろうか。
「On dirait un vampire」
彼の唇から零れた言葉。
僕は自分の耳を疑う。フランス語のように聞こえたけれど、
聞き間違いだったのかもしれない。だって、それは、
まるでヴァンパイアのようだ、という意味だったから。
「それ、どういう意味?」
「すまない。時と場所を弁えていなかったね」
「答えになってない」
すると彼は、微笑して肩を落として見せた。
「アンリから、元気を分けて貰いたかったんだ、と思うよ」
「英語かフランス語で話してくれる?」
「英語のつもりだったけれど」
「英語になってない」
「そうだったかな?」
彼は苦笑して見せたあと、
「今日は本当にごめんね、アンリ。
今日はもう退散するよ。ではまた来週の授業で」
そう言って、彼は教室を出て行った。
僕は真っ直ぐに寮へ帰る気にはなれなくて、
一人で天文台へ向かった。
広い草原のようなところに、
白い石が輪のように並んでいる。
かつて天文台だったと思われる遺跡だ。
天文台に着いた頃には、空では夕陽の浸食が進んでいた。
オレンジの面積が広くなり、
ブルーがオレンジに徐々に溶かされていく。
幾つかの白い石も、夕陽色に染め上げられようとしていた。
僕はまだ真っ白な石の上に腰を掛けた。
何か文庫本を持ってくれば良かった。
でも、今は神秘学のテキストとノートしか持っていない。
今はテキストを読む気になれなくて、僕はただ空を見ていた。
大きな白い雲が真上にある。
ずっと眺めていると、雲が風に流されていくのが解る。
少しずつ、ゆっくりと、時に形を変えながら。
今、僕が見ているあの雲も、人と同じように唯一の物で、
この先、もう二度と見られない物なんだろう。
さわさわと足元の草が揺れている。
風が草原に弧を描いていく。
何重もの波。
まるで海のように草原が波立っていた。
その時、背後から視線を感じた。
他の生徒が来たのかとも思ったけれど、
それにしては、全く足音がしなかった。
視線は、そのまま暫く僕に向けられていた。
まるで僕に何か言いたいことでもあるかのように。
無視し続けるのにも飽きてきて、僕は振り向かずに言った。
「誰?」
僕が言葉を発した時、偶然、風が止んだせいか、
場の空気が一瞬、止まったように感じた。
「僕に言いたいことがあるなら、さっさと言えば」
返ってくる言葉はない。やはり、誰も居ないのか。
一人で何を言っているんだ、僕は。
そう思った時だった。
何か聞こえた気がして、僕は立って振り返った。
だが、そこには誰も居ない。
バサッと上空で何かが羽ばたいた。
白い小鳥、その片翼の先端だけが見えたのだろうか。
その翼は先が少し欠けた、歪な形をしていた。
「あー、アンリ、やっと帰ってきたー!」
ウーティス寮に帰り、サロンに入ると、
ユウタがニコニコしながら近付いてきた。
まるで僕をずっと待っていたかのような顔をして。
「これからカードゲームするんだー!
だから、皆でやろうと思って、
アンリが帰って来るの待ってたんだよー?」
サロンには僕以外の生徒が全員揃っていた。
中央のテーブルにカードが置かれており、
それを囲むように皆がソファに座っている。
レッドが頭の後ろで手を組みながらソファに凭れた。
「俺はアンリなんか待たずに、
さっさと始めよーぜーって言ったんだけどなー」
「あれ?」
ユウタは僕の顔を見て、首を傾げた。
「アンリ、髪に何か付いてる」
「何?」
「何だろう? 白っぽい粉みたいなのが。ここら辺に」
僕の近くに居たジョシュアが、その場所を見つめる。
「本当だ。俺が取るよ」
彼は立ち上がって、僕の正面に立つ。
「動かないで、アンリ」
ジョシュアは手を伸ばし、僕の横髪にそっと触れた。
既視感を覚えたのと同時に、
僕の髪に『粉』が付く原因が解った。
ジョシュアは自分の人差し指に付着した物を見ていた。
白っぽく見えるが、ほんの少し赤や黄色が混ざってる。
その不可思議な色合いで、ジョシュアも解ったようだ。
「これ、チョークの粉かな」
「チョークの粉ぁ?」
声を上げたのはアルフレッドだ。
「なんで、そんなモンが髪に付くんだよ。
お前、黒板にへばりついて遊んできたのかあ?」
一瞬、僕は言葉を返せないでいた。
黙っている僕を見て、ジョシュアが心配そうに僕を見る。
「チョークを触った指で、髪に触っちゃったんじゃないですか?」
明るい声。シルヴァンだ。
「ほら、こんなふうに」
シルヴァンは耳に髪をかける仕草をして見せた。
「僕も髪が長いので解るんですが、
無意識にやっちゃうんですよ、コレ。ね、アンリ?」
今日の授業で、僕はチョークに触っていない。
けれど、この寮で神秘学を受けている生徒は僕一人。
そうだったかもね、と僕は答えた。
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