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◼︎テオ×クラウス
「クラウスは次の時間、どうするんだい?」
校舎から寮に戻る途中。
高等部三年のクラウスは一年後輩のテオにそう尋ねられた。
今は五講目が終わったところ。次は当然六講目なのだが、
テオがわざわざ「次の時間はどうする」
と聞いてくる意味はクラウスにも解っている。
今日の六講目はクラウスとテオが一緒に受講している帝王学なのだが、
今週は教授が学会で島の外へ出張されている為休講。
休講となる場合、他の授業では自習用のプリントが配布され、
それを教室で行う場合もあるのだが、
帝王学の教授からは、先週の授業でこう言われた。
「休講の時間は、教室での自習とは致しません。
時間の使い方は皆さんにお任せします。
帝王学の受講生である皆さんなら、
きっと有効活用して下さるでしょうから。
学生課にもアクティヴィティへの振り替えとお伝えしますので、
どうぞご自由にご利用下さい。
いち、王として有意義な時間を過ごして下さいね?」
この授業は帝王学というだけあって、
他の授業より、『自ら考える』機会が多く設けられているのだが、
休講ひとつとっても、授業の方針が徹底されているな、とクラウスは思った。
その日のうちにテオから「クラウスは何をするの?」と聞かれたが、
確かその時は「やりたいことは幾つかあるが、まだ解らない」と答えた筈だ。
生徒代表の仕事が立て込んでいたので、
そちらに使うことになるかもしれないと思ったからだ。
しかし、関係者が思いのほかスピーディーに動いてくれたおかげで、
早いうちに仕事は片付き、今日は身体が空いた。
課題や予習なども昨日までに全て済ませているので、
己の心身を鍛えることに使いたかった。
「俺はジムで泳ぐ予定だ」
そう答えると、テオは「ワンダホー!」と声を上げた。
クラウスから見て、テオは感動するポイントが多過ぎる。
何を見ても、何を聞いても、
大袈裟な言葉で褒め称える癖がある奴なのだ。
「では私もジムに行くよ!
クラウスの華麗なスイミングの見学に!」
「駄目だ」
「え!? どうしてだい?」
「お前なあ、俺を見ているだけでは時間の無駄だろう。
どうせジムまで来るなら、お前も泳げよ」
「私もね、泳ぐことは好きなのだよ?
けれど、私自身が泳いでいたら、
クラウスの美しくも逞しいスイミングを
じっくり見られないじゃないか?」
「じっくり見るな! もっと時間を有効に使えないのか」
「私にとっては、とても有意義な時間の使い方なのだがねえ」
「どこが有意義だ。帝王学の教授は俺達を信用して、
自由な一時間をくれたんだ。俺達は帝王学の受講生として、
恥の無い時間の使い方をしなくてはならないんだぞ?」
「うん。それは解っているのだけど、
水泳は良くて、水泳を見学するのは駄目なのかい?」
「駄目だろう、どう考えても」
「でも見たいのだよ。だって貴方は、
『アルフォンソ島のシャチ』だもの」
「俺にまで変なあだ名を付けるのは止せ」
うーん、と唸りながらテオが腕組みする。
どこまで行っても二人の意見は平行線のようだ。
「ねえ、クラウス。どうしても……駄目かい?」
「どうしても駄目だ! いいか! 絶対付いて来るなよ!」
そう言い付けて、クラウスは一人、ジムに向かった。
仄かに感じる塩素の匂いに気が急く。
黒の競泳用水着に着替えたクラウスは、
ゴーグル、帽子、スイムタオルを持ち、ジムの更衣室を出た。
素足でプールへと続く階段を降りていく間にも、
早く水に入りたくて、歩みが早くなりそうになる。
しかし、もしここで転んで怪我でもすれば泳げなくなる。
はやる気持ちを抑えながら、階段を降りて行った。
ドアを開けると、温水プールのあたたかな空気と、
塩素の濃い匂いに迎えられた。
プールで泳いでいる者は居なかった。自分だけの貸し切り状態。
他の生徒は授業中の時間だからだろう。
すいているプールが好きなクラウスは更に、
はやる気持ちでシャワーを浴び、準備体操を始めた。
深呼吸を終え、ゴーグルを手に水面に向かう。
ゴーグルのレンズの色は青。
以前は黒を愛用していたのだが、
ある人物に青いレンズのゴーグルを勧められ、プレゼントされた。
そいつ曰く「青のほうが水の色が明るく、綺麗に見えないかい?」
黒い帽子と青いゴーグルを付け、足からプールに入る。
ヒヤリと冷たい感触も、そう長くは続かない。
一度、ザバッと頭まで潜り、顔を出す。
今は水を冷たく感じても、1ターン泳いだ頃には、
冷たさなど感じなくなっている。
自分以外誰も居ないプール。
波立たず、まっさらな水面に興奮にも似た感情を覚える。
深く息を吸って、水面に入り、両足で真っ直ぐに壁を蹴る。
蹴伸びで行けるところまで行ってから、クロールを始める。
泳ぐ間は、なるべく何も考えないようにしている。
最初は考え事をしていても、自然と泳ぎに集中して、頭の中から全てが消える。
ただひたすらに、前へ向かって身体を動かす。
プールの底では、太陽の光がオーロラのように輝いている。
以前は気にも止めなかった光景を、
綺麗だ、と素直に思うようになったのは、
ゴーグルの色が変わったせいなのだろうか。
地上より軽く感じられる身体で、
水を掻き、水を蹴った分だけ前に進む。
時にゆっくり、時に速さだけを求めて。
身体を動かしている間は、全てを忘れられる。
水中に居る間、クラウスは自由だった。
ジムを出て心地良い疲労と爽快な気分で、
クラウスは寮へ帰ってきた。サロンのドアを開けると、
その場に居た全員が一斉にクラウスを見た。
いくら今年度の生徒代表だからと言っても、
誰かとは違い、サロンに入ったぐらいで、
これほど注目を浴びる存在でないのは自分でも解っている。
寮生達の表情は一様に暗く、明らかに雰囲気がおかしい。
何かあったのか、と言う前に、
小さな身体がクラウスの腹に飛びついてきた。
「クラクス!」
腰に手を回され、しがみつかれた。
自分にも他人にも厳しいクラウスを相手に、
このように抱き着いてくる人間は少ない。
抱き着いてきたのは、中等部一年のラビット・マルセロ。
13歳から入学できる学院なので、ここでは一番下の学年になる。
最年少とは言え、こいつは見た目も中身も子供っぽく、
おまけに甘えん坊で泣き虫ときている。
そういったタイプと接する機会が少なかったクラウスにとって、
ラビは、最も扱い方が解らない下級生だった。
未だスキンシップに慣れていない性質のクラウスは、
細い両肩に手を置き、とりあえず離れさせた。
「いきなり何だ、ラビ」
こちらを見上げてくる顔を見て、更にクラウスは驚かされる。
ラビの目は潤んでいた。
「どうした、何があった?」
訊ねているのに、ラビはそれきり固く唇を結び、
目には涙が溜まっていく一方だ。
泣いてちゃ解らないだろう、男が人前で涙を見せるな、
と思いながらも、普段から泣き虫の下級生に対して、
どう対処して良いのか、クラウスは今も解らない。
だが、こういう時、あいつは常に上手く対処する。
「大丈夫だよ」と言葉を重ね、優しく抱き締めたりする。
クラウスには逆立ちしてもできない芸当を、
空気を吸うかのようにやってのけるあいつはどこへ行った?
涙をいっぱいに溜めた目から、一筋の雫が零れる。
「テオが帰ってこないの」
クラウスは改めてサロンの中を見回す。奴だけが居ない。
「こ、交通事故とかじゃないよね?」
そう聞かれても、今までジムに居たクラウスには知り得ない。
「テオはどこかに出かけたのか?」
「うん。シュークリーム、買いに行ってくれたの」
クラウスの眉間に皺が寄る。
「……シュークリーム?」
ラビはしゃくり上げ、切れ切れに続ける。
「今日ドニが風邪でお休みだから、
おやつ買ってくるって、皆の分」
聖アルフォンソ学院の寮にはそれぞれ専属のシェフが就いており、
クラウス達が暮らすシュヌーシア寮のシェフの名はドニ・ドームという。
放課後にはいつも生徒達におやつを用意してくれているのだが、
ドニが風邪で休むことになった為、今日はアルファルド寮のシェフが、
シュヌーシアの食事も担当するとバトラーから今朝聞いていた。
サロンのテーブルの上には市販のクッキーの缶が置かれていた。
おそらくアルファルドのシェフか、うちのバトラーが用意した物だろう。
「テオはいつ出かけたんだ?」
「六時間目が始まる前だよ。
休講だから街まで買いに行ってくるって」
俺がジムに行ったあとか、とクラウスは思う。
帝王学の教授がくれたアクティヴィティの時間を、
あいつはシュークリームなんかを買う時間として使ったのか。
ラビは手の甲で目許を拭う。
「おやつの時間までに帰ってくるからね、
って言ってたのに、まだ帰ってきてないの。
どうしよう、クラウス」
おやつどころか、直に夕食の時間だ。
六時間目が始まる頃に出て行ったのなら、
例え徒歩だったとしても、とっくに帰ってきている時間だ。
テオに何らかのトラブルが発生した可能性はある。
ラビは堪え切れないようにポロポロと涙を零した。
「ごめんなさい。僕が悪いの。
僕がオレンジのシュークリームが食べたいって言ったから」
それは別にお前のせいではないだろう、
とクラウスは思ったが、口にはしなかった。
おそらくはテオから「ラビはおやつに何が食べたい?」
などと聞かれて素直に答えただけなのだろうから。
第一、そんなことを議論している場合ではない。
「他に、何か知っている奴は居るか?」
誰も何も言わなかった。
寮生の中で最後にテオを見たのはラビらしい。
皆も次の授業に向かったのだろうから無理はない。
「解った。あとは俺に任せろ。警備組織に話をする」
「警備のお兄さん達が、テオを見つけてくれるの?」
ああ、とだけクラウスは言った。
テオが街へ出かけたのなら、おそらく車を使った筈。
であれば、どのドライバーがどこまでテオを乗せたのか、
警備組織に問い合わせようとクラウスは思ったのだ。
しかし、それについてはラビに言わなかった。
正門前に立っている門番など、
一般生徒が普段目にする警備スタッフも多いが、
学院の専属ドライバー全員までもが警備の人間であることは、
生徒代表以外の生徒には伏せられている情報だったからだ。
「お前達はここに居ろ。絶対に学院の外に出るんじゃないぞ。解ったな?」
クラウスがドアを開けようとした時、勝手にドアが開いた。
「すまない! 遅くなってしまって!」
「テオ!?」
張り詰めていたサロンの雰囲気は、
一気に気が抜けて、明るくなった。
「テオ、よかったあ……」
目を真っ赤にして、その場にへたり込んだ一年生を見つけ、
テオはすぐさま傍へ駆け出した。
手にしていた長い箱を置き、ラビの肩に手を置く。
「ど、どうしたんだい、ラビ!? 何があったの?」
クラウスは息を吐きながら、
「お前のせいだ、お前の。
お前の帰りが遅いから皆心配してたんだぞ」
「えっ!? そうだったの!?
ああ、そうか。遅くなると一言連絡を入れれば良かったね。
慌てて帰ってきたから、連絡することも忘れてしまって。
私も最初はすぐに帰ってくる予定だったから」
目に涙を溜めている下級生を見つめて、
「すまない、ラビ。心配をかけて」
頭から包み込むように抱き締めて、
「随分、不安にさせてしまったかな?
本当にごめん。でも、もう大丈夫だからね?」
ぽんぽんと優しく背を撫でた。
それを見て、他の生徒達は笑みを溢していたが、
クラウスは納得がいかなかった。
シュークリームを買いに行っただけで、
何故こんなに時間がかかったのか。
「あ、そうだ。ラビ、ちゃんと買ってきたよ、
オレンジのシュークリーム」
傍らに置いていた黄色い箱を見せた。
「でも、すぐに夕食の時間だね。
おやつの時間に間に合わなくてすまない。
シュークリームはデザートにしようか?」
「うん」
控えていたバトラーが「では箱をお預かり致します」と申し出る。
「ありがとう、バトラー。あ、それから」
テオはバトラーに何かを囁いてから、箱を渡した。
「畏まりました」「ありがとう」という声だけが聞こえた。
「さあ、ではダイニングルームに行こう。と、その前に」
テオはポケットからハンカチを出し、
ラビの涙を綺麗に拭いながら、こう言った。
「ラビは涙を流していてもラブリーなのだけど、
やはり、笑顔が一番だからね? ほら、可愛い」
そんな二人の遣り取りを見ていられなくて、クラウスは視線を外した。
テオは下級生に甘過ぎる。いや、後輩に限らず誰にでもか。
何故、奴は相手を問わず歯が浮くような言葉が言えるのだろう。
「立てるかい? よし。じゃあ一緒にダイニングルームに行こう」
テオは自然にラビに手を差し出した。
あろうことか、二人は手を繋いで食堂に向かっていった。
中等部と高等部の男子生徒だというのに。
その後ろ姿を見て、クラウスは頭が痛くなるようだった。
夕食が終わる頃、バトラーがデザートとして、
テオが買ってきたシュークリームを大皿に乗せて持ってきた。
寮生達は歓声を上げて、わっと集まってくる。
「ああ、すまない。先にひとつ頂いて良いかな?」
そう言って、前に出てきたのは、
シュークリームを買ってきたテオだったので、
皆は「いいよー」「テオが買ってきてくれたんだもんな」
と皆が快く一番乗りを譲った。
「ありがとう、みんな。えーと、あ、これだ、これだ」
シュークリームはひとつずつ白い紙に包まれ、
その紙には、赤や黄色などのシールが貼られているようだった。
テオが手にとった物にはオレンジ色のシールが付いていた。
おそらく、あのシールに何味かが書かれているのだろう。
寮生達もシールを見ながら「俺はコレー」とひとつずつ選んでいく。
甘い物が得意ではないクラウスはその輪には加わらず、
食後のコーヒーを飲みながら、後輩達の様子に目を配る。
こういう時、自分がちゃんと見ていないと、
お菓子の取り合いなどで揉めたりする場合があるからだ。
輪の後ろで、おどおどと右に左に頭を動かしている奴が居る。
最年少のラビだ。やや内気で、背が低いせいもあり、
輪の中に入っていけないようだった。
「ラービ。はいっ。ラビはオレンジで良いのだよね?」
笑顔でシュークリームを差し出していたのは、
先程、一番乗りでシュークリームを取っていた奴だった。
自分の分をひとつずつ選んだ寮生達は、
席に戻って「ウマイウマイ」と言いながら唇をクリームで汚していた。
中等部や高等部にもなって、もう少し綺麗に食べられないのだろうか。
「クラウスは要らないのかい?」
クラウスの顔の真横から、にゅっとテオの顔が出てきた。
「俺はいい」
「エスプレッソ味というのもあるのだよ?
あれならきっと、貴方の口にも合うのではないかな?」
「コーヒーなら今飲んでいる。お前こそ、取って来なくて良いのか?
さっきはラビの分を確保しに行っただけだろ?
早くしないと、無くなるぞ」
「大丈夫だよ。シュークリームは多めに買ってあるし。
私はどの味でも良いから」
「テオ!」
「ん? なあに、ラビ?」
「オレンジのシュークリーム、美味しいよ!
買ってきてくれて、ありがとう!」
「フフッ。こちらこそありがとう、ラビ。
君のスウィートな笑顔が見られて私はとても幸せだよ?
けれど今日は、おやつの時間に間に合わなくて、すまない」
「ううん、気にしないで。いつ食べても美味しいもん」
「ありがとう。ああ、本当に君は優しい子だ」
「そういや、今日はなんであんなに遅くなったの?」
ティーカップ片手にそう言ったのは、中等部三年のシルフェだ。
「一体どこのシュークリーム屋まで行ったんだって話してたんだけど、
アンタが持ってた箱、黄色だったし、
やっぱ、いつもの黄色いお店に行ってきたんだろ?」
「うん。あのお店だよ?」
「じゃあなんで、帰ってくるのにあんなに時間かかったのさ?
街でなんかあったの?」
それはクラウスも少し気になっていたことだ。
テオ本人も放課後が始まる前に帰ってきたかった筈なのに、
やはり何かトラブルがあったのだろうか。
クラウスはテオを見る。他の寮生達もテオを見ていた。
皆の視線を受け止めたテオは楽しそうに微笑んだ。
「うん。私、今日はね?」
テオは少し前に乗り出す。
「心の優しいプリンセスに、二人も会ったのだよ」
fin
「クラウスは次の時間、どうするんだい?」
校舎から寮に戻る途中。
高等部三年のクラウスは一年後輩のテオにそう尋ねられた。
今は五講目が終わったところ。次は当然六講目なのだが、
テオがわざわざ「次の時間はどうする」
と聞いてくる意味はクラウスにも解っている。
今日の六講目はクラウスとテオが一緒に受講している帝王学なのだが、
今週は教授が学会で島の外へ出張されている為休講。
休講となる場合、他の授業では自習用のプリントが配布され、
それを教室で行う場合もあるのだが、
帝王学の教授からは、先週の授業でこう言われた。
「休講の時間は、教室での自習とは致しません。
時間の使い方は皆さんにお任せします。
帝王学の受講生である皆さんなら、
きっと有効活用して下さるでしょうから。
学生課にもアクティヴィティへの振り替えとお伝えしますので、
どうぞご自由にご利用下さい。
いち、王として有意義な時間を過ごして下さいね?」
この授業は帝王学というだけあって、
他の授業より、『自ら考える』機会が多く設けられているのだが、
休講ひとつとっても、授業の方針が徹底されているな、とクラウスは思った。
その日のうちにテオから「クラウスは何をするの?」と聞かれたが、
確かその時は「やりたいことは幾つかあるが、まだ解らない」と答えた筈だ。
生徒代表の仕事が立て込んでいたので、
そちらに使うことになるかもしれないと思ったからだ。
しかし、関係者が思いのほかスピーディーに動いてくれたおかげで、
早いうちに仕事は片付き、今日は身体が空いた。
課題や予習なども昨日までに全て済ませているので、
己の心身を鍛えることに使いたかった。
「俺はジムで泳ぐ予定だ」
そう答えると、テオは「ワンダホー!」と声を上げた。
クラウスから見て、テオは感動するポイントが多過ぎる。
何を見ても、何を聞いても、
大袈裟な言葉で褒め称える癖がある奴なのだ。
「では私もジムに行くよ!
クラウスの華麗なスイミングの見学に!」
「駄目だ」
「え!? どうしてだい?」
「お前なあ、俺を見ているだけでは時間の無駄だろう。
どうせジムまで来るなら、お前も泳げよ」
「私もね、泳ぐことは好きなのだよ?
けれど、私自身が泳いでいたら、
クラウスの美しくも逞しいスイミングを
じっくり見られないじゃないか?」
「じっくり見るな! もっと時間を有効に使えないのか」
「私にとっては、とても有意義な時間の使い方なのだがねえ」
「どこが有意義だ。帝王学の教授は俺達を信用して、
自由な一時間をくれたんだ。俺達は帝王学の受講生として、
恥の無い時間の使い方をしなくてはならないんだぞ?」
「うん。それは解っているのだけど、
水泳は良くて、水泳を見学するのは駄目なのかい?」
「駄目だろう、どう考えても」
「でも見たいのだよ。だって貴方は、
『アルフォンソ島のシャチ』だもの」
「俺にまで変なあだ名を付けるのは止せ」
うーん、と唸りながらテオが腕組みする。
どこまで行っても二人の意見は平行線のようだ。
「ねえ、クラウス。どうしても……駄目かい?」
「どうしても駄目だ! いいか! 絶対付いて来るなよ!」
そう言い付けて、クラウスは一人、ジムに向かった。
仄かに感じる塩素の匂いに気が急く。
黒の競泳用水着に着替えたクラウスは、
ゴーグル、帽子、スイムタオルを持ち、ジムの更衣室を出た。
素足でプールへと続く階段を降りていく間にも、
早く水に入りたくて、歩みが早くなりそうになる。
しかし、もしここで転んで怪我でもすれば泳げなくなる。
はやる気持ちを抑えながら、階段を降りて行った。
ドアを開けると、温水プールのあたたかな空気と、
塩素の濃い匂いに迎えられた。
プールで泳いでいる者は居なかった。自分だけの貸し切り状態。
他の生徒は授業中の時間だからだろう。
すいているプールが好きなクラウスは更に、
はやる気持ちでシャワーを浴び、準備体操を始めた。
深呼吸を終え、ゴーグルを手に水面に向かう。
ゴーグルのレンズの色は青。
以前は黒を愛用していたのだが、
ある人物に青いレンズのゴーグルを勧められ、プレゼントされた。
そいつ曰く「青のほうが水の色が明るく、綺麗に見えないかい?」
黒い帽子と青いゴーグルを付け、足からプールに入る。
ヒヤリと冷たい感触も、そう長くは続かない。
一度、ザバッと頭まで潜り、顔を出す。
今は水を冷たく感じても、1ターン泳いだ頃には、
冷たさなど感じなくなっている。
自分以外誰も居ないプール。
波立たず、まっさらな水面に興奮にも似た感情を覚える。
深く息を吸って、水面に入り、両足で真っ直ぐに壁を蹴る。
蹴伸びで行けるところまで行ってから、クロールを始める。
泳ぐ間は、なるべく何も考えないようにしている。
最初は考え事をしていても、自然と泳ぎに集中して、頭の中から全てが消える。
ただひたすらに、前へ向かって身体を動かす。
プールの底では、太陽の光がオーロラのように輝いている。
以前は気にも止めなかった光景を、
綺麗だ、と素直に思うようになったのは、
ゴーグルの色が変わったせいなのだろうか。
地上より軽く感じられる身体で、
水を掻き、水を蹴った分だけ前に進む。
時にゆっくり、時に速さだけを求めて。
身体を動かしている間は、全てを忘れられる。
水中に居る間、クラウスは自由だった。
ジムを出て心地良い疲労と爽快な気分で、
クラウスは寮へ帰ってきた。サロンのドアを開けると、
その場に居た全員が一斉にクラウスを見た。
いくら今年度の生徒代表だからと言っても、
誰かとは違い、サロンに入ったぐらいで、
これほど注目を浴びる存在でないのは自分でも解っている。
寮生達の表情は一様に暗く、明らかに雰囲気がおかしい。
何かあったのか、と言う前に、
小さな身体がクラウスの腹に飛びついてきた。
「クラクス!」
腰に手を回され、しがみつかれた。
自分にも他人にも厳しいクラウスを相手に、
このように抱き着いてくる人間は少ない。
抱き着いてきたのは、中等部一年のラビット・マルセロ。
13歳から入学できる学院なので、ここでは一番下の学年になる。
最年少とは言え、こいつは見た目も中身も子供っぽく、
おまけに甘えん坊で泣き虫ときている。
そういったタイプと接する機会が少なかったクラウスにとって、
ラビは、最も扱い方が解らない下級生だった。
未だスキンシップに慣れていない性質のクラウスは、
細い両肩に手を置き、とりあえず離れさせた。
「いきなり何だ、ラビ」
こちらを見上げてくる顔を見て、更にクラウスは驚かされる。
ラビの目は潤んでいた。
「どうした、何があった?」
訊ねているのに、ラビはそれきり固く唇を結び、
目には涙が溜まっていく一方だ。
泣いてちゃ解らないだろう、男が人前で涙を見せるな、
と思いながらも、普段から泣き虫の下級生に対して、
どう対処して良いのか、クラウスは今も解らない。
だが、こういう時、あいつは常に上手く対処する。
「大丈夫だよ」と言葉を重ね、優しく抱き締めたりする。
クラウスには逆立ちしてもできない芸当を、
空気を吸うかのようにやってのけるあいつはどこへ行った?
涙をいっぱいに溜めた目から、一筋の雫が零れる。
「テオが帰ってこないの」
クラウスは改めてサロンの中を見回す。奴だけが居ない。
「こ、交通事故とかじゃないよね?」
そう聞かれても、今までジムに居たクラウスには知り得ない。
「テオはどこかに出かけたのか?」
「うん。シュークリーム、買いに行ってくれたの」
クラウスの眉間に皺が寄る。
「……シュークリーム?」
ラビはしゃくり上げ、切れ切れに続ける。
「今日ドニが風邪でお休みだから、
おやつ買ってくるって、皆の分」
聖アルフォンソ学院の寮にはそれぞれ専属のシェフが就いており、
クラウス達が暮らすシュヌーシア寮のシェフの名はドニ・ドームという。
放課後にはいつも生徒達におやつを用意してくれているのだが、
ドニが風邪で休むことになった為、今日はアルファルド寮のシェフが、
シュヌーシアの食事も担当するとバトラーから今朝聞いていた。
サロンのテーブルの上には市販のクッキーの缶が置かれていた。
おそらくアルファルドのシェフか、うちのバトラーが用意した物だろう。
「テオはいつ出かけたんだ?」
「六時間目が始まる前だよ。
休講だから街まで買いに行ってくるって」
俺がジムに行ったあとか、とクラウスは思う。
帝王学の教授がくれたアクティヴィティの時間を、
あいつはシュークリームなんかを買う時間として使ったのか。
ラビは手の甲で目許を拭う。
「おやつの時間までに帰ってくるからね、
って言ってたのに、まだ帰ってきてないの。
どうしよう、クラウス」
おやつどころか、直に夕食の時間だ。
六時間目が始まる頃に出て行ったのなら、
例え徒歩だったとしても、とっくに帰ってきている時間だ。
テオに何らかのトラブルが発生した可能性はある。
ラビは堪え切れないようにポロポロと涙を零した。
「ごめんなさい。僕が悪いの。
僕がオレンジのシュークリームが食べたいって言ったから」
それは別にお前のせいではないだろう、
とクラウスは思ったが、口にはしなかった。
おそらくはテオから「ラビはおやつに何が食べたい?」
などと聞かれて素直に答えただけなのだろうから。
第一、そんなことを議論している場合ではない。
「他に、何か知っている奴は居るか?」
誰も何も言わなかった。
寮生の中で最後にテオを見たのはラビらしい。
皆も次の授業に向かったのだろうから無理はない。
「解った。あとは俺に任せろ。警備組織に話をする」
「警備のお兄さん達が、テオを見つけてくれるの?」
ああ、とだけクラウスは言った。
テオが街へ出かけたのなら、おそらく車を使った筈。
であれば、どのドライバーがどこまでテオを乗せたのか、
警備組織に問い合わせようとクラウスは思ったのだ。
しかし、それについてはラビに言わなかった。
正門前に立っている門番など、
一般生徒が普段目にする警備スタッフも多いが、
学院の専属ドライバー全員までもが警備の人間であることは、
生徒代表以外の生徒には伏せられている情報だったからだ。
「お前達はここに居ろ。絶対に学院の外に出るんじゃないぞ。解ったな?」
クラウスがドアを開けようとした時、勝手にドアが開いた。
「すまない! 遅くなってしまって!」
「テオ!?」
張り詰めていたサロンの雰囲気は、
一気に気が抜けて、明るくなった。
「テオ、よかったあ……」
目を真っ赤にして、その場にへたり込んだ一年生を見つけ、
テオはすぐさま傍へ駆け出した。
手にしていた長い箱を置き、ラビの肩に手を置く。
「ど、どうしたんだい、ラビ!? 何があったの?」
クラウスは息を吐きながら、
「お前のせいだ、お前の。
お前の帰りが遅いから皆心配してたんだぞ」
「えっ!? そうだったの!?
ああ、そうか。遅くなると一言連絡を入れれば良かったね。
慌てて帰ってきたから、連絡することも忘れてしまって。
私も最初はすぐに帰ってくる予定だったから」
目に涙を溜めている下級生を見つめて、
「すまない、ラビ。心配をかけて」
頭から包み込むように抱き締めて、
「随分、不安にさせてしまったかな?
本当にごめん。でも、もう大丈夫だからね?」
ぽんぽんと優しく背を撫でた。
それを見て、他の生徒達は笑みを溢していたが、
クラウスは納得がいかなかった。
シュークリームを買いに行っただけで、
何故こんなに時間がかかったのか。
「あ、そうだ。ラビ、ちゃんと買ってきたよ、
オレンジのシュークリーム」
傍らに置いていた黄色い箱を見せた。
「でも、すぐに夕食の時間だね。
おやつの時間に間に合わなくてすまない。
シュークリームはデザートにしようか?」
「うん」
控えていたバトラーが「では箱をお預かり致します」と申し出る。
「ありがとう、バトラー。あ、それから」
テオはバトラーに何かを囁いてから、箱を渡した。
「畏まりました」「ありがとう」という声だけが聞こえた。
「さあ、ではダイニングルームに行こう。と、その前に」
テオはポケットからハンカチを出し、
ラビの涙を綺麗に拭いながら、こう言った。
「ラビは涙を流していてもラブリーなのだけど、
やはり、笑顔が一番だからね? ほら、可愛い」
そんな二人の遣り取りを見ていられなくて、クラウスは視線を外した。
テオは下級生に甘過ぎる。いや、後輩に限らず誰にでもか。
何故、奴は相手を問わず歯が浮くような言葉が言えるのだろう。
「立てるかい? よし。じゃあ一緒にダイニングルームに行こう」
テオは自然にラビに手を差し出した。
あろうことか、二人は手を繋いで食堂に向かっていった。
中等部と高等部の男子生徒だというのに。
その後ろ姿を見て、クラウスは頭が痛くなるようだった。
夕食が終わる頃、バトラーがデザートとして、
テオが買ってきたシュークリームを大皿に乗せて持ってきた。
寮生達は歓声を上げて、わっと集まってくる。
「ああ、すまない。先にひとつ頂いて良いかな?」
そう言って、前に出てきたのは、
シュークリームを買ってきたテオだったので、
皆は「いいよー」「テオが買ってきてくれたんだもんな」
と皆が快く一番乗りを譲った。
「ありがとう、みんな。えーと、あ、これだ、これだ」
シュークリームはひとつずつ白い紙に包まれ、
その紙には、赤や黄色などのシールが貼られているようだった。
テオが手にとった物にはオレンジ色のシールが付いていた。
おそらく、あのシールに何味かが書かれているのだろう。
寮生達もシールを見ながら「俺はコレー」とひとつずつ選んでいく。
甘い物が得意ではないクラウスはその輪には加わらず、
食後のコーヒーを飲みながら、後輩達の様子に目を配る。
こういう時、自分がちゃんと見ていないと、
お菓子の取り合いなどで揉めたりする場合があるからだ。
輪の後ろで、おどおどと右に左に頭を動かしている奴が居る。
最年少のラビだ。やや内気で、背が低いせいもあり、
輪の中に入っていけないようだった。
「ラービ。はいっ。ラビはオレンジで良いのだよね?」
笑顔でシュークリームを差し出していたのは、
先程、一番乗りでシュークリームを取っていた奴だった。
自分の分をひとつずつ選んだ寮生達は、
席に戻って「ウマイウマイ」と言いながら唇をクリームで汚していた。
中等部や高等部にもなって、もう少し綺麗に食べられないのだろうか。
「クラウスは要らないのかい?」
クラウスの顔の真横から、にゅっとテオの顔が出てきた。
「俺はいい」
「エスプレッソ味というのもあるのだよ?
あれならきっと、貴方の口にも合うのではないかな?」
「コーヒーなら今飲んでいる。お前こそ、取って来なくて良いのか?
さっきはラビの分を確保しに行っただけだろ?
早くしないと、無くなるぞ」
「大丈夫だよ。シュークリームは多めに買ってあるし。
私はどの味でも良いから」
「テオ!」
「ん? なあに、ラビ?」
「オレンジのシュークリーム、美味しいよ!
買ってきてくれて、ありがとう!」
「フフッ。こちらこそありがとう、ラビ。
君のスウィートな笑顔が見られて私はとても幸せだよ?
けれど今日は、おやつの時間に間に合わなくて、すまない」
「ううん、気にしないで。いつ食べても美味しいもん」
「ありがとう。ああ、本当に君は優しい子だ」
「そういや、今日はなんであんなに遅くなったの?」
ティーカップ片手にそう言ったのは、中等部三年のシルフェだ。
「一体どこのシュークリーム屋まで行ったんだって話してたんだけど、
アンタが持ってた箱、黄色だったし、
やっぱ、いつもの黄色いお店に行ってきたんだろ?」
「うん。あのお店だよ?」
「じゃあなんで、帰ってくるのにあんなに時間かかったのさ?
街でなんかあったの?」
それはクラウスも少し気になっていたことだ。
テオ本人も放課後が始まる前に帰ってきたかった筈なのに、
やはり何かトラブルがあったのだろうか。
クラウスはテオを見る。他の寮生達もテオを見ていた。
皆の視線を受け止めたテオは楽しそうに微笑んだ。
「うん。私、今日はね?」
テオは少し前に乗り出す。
「心の優しいプリンセスに、二人も会ったのだよ」
fin
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