机や床に転がっている物はひとつもない。
『シュヌーシア寮の中で一番綺麗で一番つまらない部屋』だと
揶揄されたこともある程の部屋の主は、
既にブルーの寝間着に着替え、ベッドの中で就寝前の読書中。
手にしているのは、色褪せたオレンジの表紙。
学院の図書館で借りてきた、帝王学の参考文献だ。
コンコン、とノックの音がした。
「どうぞ」と言う前にドアは勝手に開いた。
読んでいた本を避けると金色の髪と丸みのある笑顔が見えた。
「おや。もうベッドに入っていたのかい? クラウス」
後ろ手にドアを閉めながら、テオが部屋の中に入ってくる。
「早いね、今日は。もう眠たい?」
「いや、まだ」
読んでいたページに、えんじ色の紐を挟みながら、
「今日はたっぷり泳いだからな。
いつもより早く眠るべきだと思ったんだ」
本を枕元に置いた。
「ああ、そうか。クラウスは休講の時間、
スイミングに行ったんだものね。
見たかったなあ、『アルフォンソ島のシャチ』」
「だから、その呼び方はよせ」
「貴方にピッタリだと思うけれど。ねえ、エオル?」
本棚の上に置いてあるシャチのぬいぐるみをひと撫でする。
あれはテオが以前どこかの土産としてくれた物だ。
男がぬいぐるみと仲良くするなよ、とクラウスは思うが、
テオだと何故か自然な絵に見えて性質が悪い。
クラウスはベッドに入ったまま、テオを見上げる。
「何か俺に用があって来たのか?」
「ううん、別に」
テオはクラウスが横になっているベッドに腰掛けた。
「眠る前にもう一度、貴方の顔が見たいなと思っただけだよ?」
「……お前、そういうおかしな言い方をするなと
いつも言っているだろう」
「おかしいかなあ? 本当のことなのに」
「おかしい。そう言えば、テオ。
少し、気になったので聞くんだが」
「うん?」
「お前が帰ってきて、シュークリームの箱をバトラーに渡す時、
何かバトラーに耳打ちしていただろう?
街で何か困ったことがあったか?
もしそうなら、俺も聞いておきたいと思ったんだが」
ああ、とテオが笑う。
「あれはバトラーに頼みごとをしていたのだよ。
皆の前で言うには、数が足りないから、耳打ちにしたのだけど」
「数が足りない?」
「うん。『箱の中にひとつだけプリンが入っている。
すまないけれど、それはドニに渡して貰えるかい?
いつもありがとう。早く風邪を治して、
また私達に美味しい料理を作っておくれ、と』ね」
テオはイタズラっぽく笑う。
「ね? 皆の前では言えないことだろう?
『俺もプリンが良かったー』なんて話になったら困るからねえ。
クラウスも、この話は皆にはナイショで頼むよ?」
「シェフにまで見舞いの品を……」
「うん。ドニには早く元気になって貰わないと、
私達はドニの美味しい料理が食べられないからね」
「……俺は自分が恥ずかしい。
実は、先程までお前のことを考えていたんだ」
「えっ?」
「今日の、休講の使い方についてな。帝王学の教授は俺達に、
いち、王として有意義な時間を過ごして欲しいと言った。
俺は己を鍛えることに使いたくてジムに行った」
「うん。とても素晴らしいことだと思うよ」
「いや、今思うと俺よりお前のほうが、
有意義な使い方をしてたんじゃないかと、
考えていたんだ。いち、王として」
「でも、私は街へおやつを買いに行っただけだよ?」
「ああ。だが、お前の話を聞く限り、
お前はずっと誰かの為に行動し、
短い時間で、何人もの人を喜ばせたんだと思う。
シュークリーム屋の店員も、宝石を見ていた少女も、
きっと、お前と話せて良かったと思っただろう。
それから、お前が買ってきた物は、
この寮の奴等全員とシェフも喜ばせた」
クラウスは気が重くなる。これは自己嫌悪だ。
「周囲への気遣いや感謝の気持ちを持って行動すること。
そういうところが俺には欠けていて、お前は圧倒的に優れている。
お前は普段から、誰よりも感謝の言葉を口にしているしな。
帝王学の授業でも、己より他者の為に尽くすことは、
王にとって重要な素養だと習っていたのにな。
俺は一時間を自分の為だけに使った。誰も喜ばせていない。
いち、王として、俺とお前のどちらが、
有意義な時間の使い方をしていたかと聞かれた時、
俺は胸を張って『自分だ』とは言えない。これは大きな反省点だ」
すると、テオは声を上げて笑った。
「おい、何が可笑しい? 俺は真剣に」
「ああ、すまない。本当に貴方は何事も難しく考える人だなあと思ってね。
そういった真面目さが貴方の素晴らしいところだ」
「何が言いたい?」
「私はただ、皆の笑顔が見たかっただけだよ。
それにね、全てに感謝する気持ちは、
私がまだ小さい時に、姉上から習ったことなんだ。
生きていられるのは家族のおかげだけではないのだと」
まるで詩を読むようにテオは話す。
「例えば、この寮でいつも美味しい物が食べられるのは、
料理を作ってくれるドニが居るおかげだろう?
でも、ドニが料理を作れるのは、
野菜を育ててくれる人が居るおかげで、
更に、野菜を育てる為の肥料や道具を作ってくれる人が居る。
けれど、生きていくのに必要なのは食べ物だけではないよね?
衣服や家も作ってくれた人、売ってくれた人が居る。
でも、そうした有形物だけではなく、無形の物もある。
私達生徒が学院で貴重な講義を聞けるのは先生方や、
学院の職員、運営組織の皆さんのおかげだし、
寮で快適に暮らせるのはバトラーのおかげだ。
学院の外に出かけられるのはアイヴィー達、ドライバーの皆さんと、
この島の安全を維持して下さっている警備組織のおかげだし。
月桂樹の森がいつも美しく、居心地の良い場所なのは、
森番のバロウズが毎日、木々や動物達を看てくれているおかげだ。
そして貴方を始め、歴代の生徒代表達が、
この学院と、この島を守ってきてくれたように、
私の目に見えないところでも、たくさんの人達が、
私の毎日を支えて下さっている。
だからいつも全てに感謝する気持ちを忘れないように、
と姉上は私に教えて下さったんだ。
この島に来て、その言葉の意味をより強く感じるようになったよ。
この小さな私は、星の数ほどの人から、
際限なく続く支えがなければ、きっと息をすることもできない」
途中から目を瞑って話していたテオが、ゆっくりと目を開ける。
「だからね、クラウス? 貴方はひとつだけ間違ってる。
大きな思い違いをしているよ?」
「何のことだ?」
「貴方は先程、自分は一時間を自分の為だけに使ったから、
誰も喜ばせていない、と言ったけれど。
貴方が誰も喜ばせていないなんて、
そんなこと有り得ないじゃないか、私が居るのに」
クラウスの眉間に皺が寄る。テオは笑った。
「貴方は常に私を喜ばせているよ? 24時間年中無休でね?」
テオは胸に手を置く。
「貴方という存在が、いつも私の胸を温めてくれる。
明日も明後日も、この先何年経っても、
私の中で唯一光り輝く恒星は、貴方だよ、クラウス」
「大袈裟な……意味が解らん」
「おやおや。いつになったら解ってくれるんだろうね、この人は」
フフッとテオが笑う。
「さて。では今日は私も早めに休もうかな」
テオはベッドから腰を上げる。
「ではまた明日、だね。おやすみ、クラウス」
「ああ、おやすみ」
テオは嬉しそうに笑う。
「クラウスに『おやすみ』を言って貰えたし、
今夜はいい夢が見られそうだよ。
今日も楽しい一日をありがとう、クラウス」
おやすみー、と笑顔で手を振りながらテオは出て行った。
枕元に置いていた、帝王学の本が目に入る。
テオとの話が終わったら続きを読もうと思っていたのに。
そのオレンジ色の表紙に、手を伸ばす気が起きない。
天井を見上げると、大きな息と小さな呟きが零れた。
fin
「そうか。今年はできないな」
海は夕闇に染まろうとしている。
窓の向こうに広がる海を眺めながら、貴方は唐突にそう仰った。
聖アルフォンソ島の警備本部。
この司令室に居るのはゲーテ司令官と、
副司令官である私、ラインハルト・クロイツのみ。
私に話しかけて下さっているのか、
それとも独り言かと逡巡する。
今年はできない、と仰っていたが、
何ができないのだろう。
やはりそれは、貴方が司令官を退任する日が、
数日後に控えているからなのだろうか。
「クロイツ」
「はい」
「ひとつ頼まれてくれんか。儂の代わりに」
司令が海を眺めたまま仰った事は、
とても些細で、とても重い、頼み事だった。
「どんな花をお探しですか?」
おばあさん、と呼べる年頃の御婦人は、
目尻をしわくちゃにしながら、私にそう声をかけた。
普段、花屋などに足を向けたことがない私は、
ここまで来たものの、どの花を手にとって良いか全く解らなかったので、
手助けを頼めることは有難かったのだが、
花を求めに来た目的を、正直に言うのは憚られた。
御婦人はフフと微笑みながら、
「恋人への贈り物かしら?」
「いいえ。そのようなものでは」
「あらあら。照れちゃって、可愛いのねえ」
「違います。相手は男で」
「まあ。恋人は男性の方なの?
そうね、そういう恋の形もあるわよね」
「ですから、そういうことではなく。
恋人などに贈る花ではないのです」
「そうだったの? ごめんなさい、私、早とちりしちゃって。
ではどなたに? それともお部屋に飾るお花をお探しですか?」
つぶらなグリーンの瞳を向けられて、
つい私は、正直に告げてしまった。
「亡くなった者へ手向ける花です。
彼はあの海で亡くなったので、
あの海に手向けて欲しいと、頼まれまして」
だから、話したくなかったのだ。
初対面の人間からこんな暗い話をされても困るだろう。
そう思ったのに、年老いた御婦人は慈悲深い顔で私を見た。
「そうだったの。偉いのね。きっと喜ばれますよ」
そんな言葉をかけられるとは思わなかったので、
私は何も言葉を返せなかった。御婦人は花を眺めながら、
「お花、お幾つくらいご用意しましょうか。
ご予算があれば、その範囲で花束をお作りすることもできますが」
「いえ、花は一本で構わないとのことでしたから」
「そう。では、どのお花が良いかしらねえ」
「じゃあ、ガーベラが良いよ」
いつからそこに居たのか、気付かなかった。
御婦人の後ろから出てきたのは少女だった。
少々動転していたとは言え、傍に子供が居ると知っていたら、
このような話はしなかったのに。
少女は迷わずに黄色い花を一本取って、
「はい、これ」
差し出された物を、私は受け取れずにいた。
「どうしたの? これだよ、ガーベラ」
何故彼女がそれを選んだのか解らなかった私は
「どうして、その花なんです?」と尋ねた。
彼女はどうしてそんな簡単なことを聞くんだろう、
といった顔をして、私にこう答えた。
「これなら、海の中からでも良く見えるから」
彼女の隣で御婦人が目尻をしわくちゃにする。
「そうね。この子の言う通りだわ。
こちらにします?」
「あ、はい」
「ありがとうございます。
ローザ、そこのリボンをとってくれる?」
「はーい」
少女は数種類あるリボンの中から、
黄色のリボンを切って、渡した。
御婦人はたった一本の花を綺麗に包み、リボンまで結んでくれた。
それから、彼の命日が来る度に、
同じ花屋で、同じ花を買い求めるようになった。
同じことを何年も続けているので、
私の顔はすっかり覚えられてしまった。
つい先程、花を買った時も「そろそろガーベラのお兄さんが
いらっしゃる頃ねってこの子と話していた所なんですよ」
といつもの笑顔で迎えられた。
今日の御婦人は、いつも以上に幸せそうだった。
会計を済ませる時、壁にクレヨンで描かれた絵が一枚飾られていた。
去年までは、そこになかった。
白い画用紙に描かれていたのは、笑顔のおばあさん。
その下にはクレヨン特有のガタガタした文字で、
「おばあちゃん おたんじょうび おめでとういつまでも げんきでね」
というメッセージが綴られていた。
これを描いたのが誰なのか私にはすぐに解った。
「彼女からの誕生日プレゼントですか?」
グリーンのキャップを被った少女を見ながら尋ねると、
御婦人は今までに見たことがないくらいの笑顔になって、
少女の肩を抱き寄せた。
「ええ、ええ。そうなんですよ。
私の誕生日に、この子が描いてくれたんです。
私、とっても嬉しくって。本当にありがとうね」
「おばあちゃん、それ、何度も言い過ぎだよ」
見つめ合う少女と御婦人は、二人共とても幸せそうだった。
そして今年も、花を手に海の見える公園に来た。
公園と言っても、遊具の類はなく、
ここにあるのは舗装された道と柵とベンチだけ。
ここでできることは限られる。
海を見下ろしながらのジョギングか、犬の散歩、
ベンチに座って読書をするくらい。
およそ子供には向かない公園であるところが良い、
今年も私以外に誰も居なかった。
眼下には柵越しに、眩しい海が広がっている。
空も同様に真っ青で、夜勤明けの目には沁みる程だ。
非番の朝を迎え、仕事帰りの足で花を買い、ここへ来た。
手にしている物がパタパタと音を立てた。
一輪の花を包んでいる、透明なセロハンが、
潮風に煽られ、身を震わせていた。
花を手に海を見るなど、
我ながら似合わぬものだと解ってはいるが、
私はきっと来年もここに来るだろう。
再び、潮風が花束の包みを鳴らす。
まるで「早く」と急かされているかのようだ。
私は包みを解き、一輪の花を手にする。
柵の上から花を海に投げる。
宙に浮いた黄色は、重力に逆らうことなく、海に落ちた。
青い海に黄色がよく映える。少女の言った通りだ。
一年前も、その前も、そう思ったことを思い出す。
白い海鳥が二羽、連れ立って高い空を飛んでいる。
そう言えば、あの花屋で見かける顔は、
いつもあの御婦人と少女だけだ。
今日、店に寄った時も、店の壁に飾られていた絵には、
御婦人しか描かれていなかった。
少女が選んでくれた花が海の上で優雅に揺れている。
今は鮮やかな色を見せているあの花も、
やがて色を失い、朽ち、消える。
亡者に花を手向けること程、意味のないことがあるだろうか。
海鳥が高く鳴いて、一羽が沖のほうへと向かった。
一羽足りない。先刻まで、もう一羽、傍に居た筈だが、
見回しても、姿を見つけることができなかった。
柵に手を置き、見下ろすと、そこにはまだ黄色い花があった。
海の中では異物の花が波の間で揺れている。
「また来ます」
ふいに零れた言葉。誰からも返事はない。
ただ、波の音だけが返された。
fin
少し暗くてカルテが読み辛い。
見上げると窓の向こうは薄暗くなっていた。
机上の時計を見ると、間もなく夕食という頃合いだった。
そろそろ切り上げて、宿舎の部屋に戻るか。
白衣の保健教師が腰を上げようとした時、
保健室のドアが三回ノックされた。
どうぞ、とは言わずにドアを見ていると、
開いた隙間から出てきたのは、黄色い箱だった。
続いて、間抜け面がひょこっと顔を覗かせた。
「ヤッホ、ソクちゃん。じゃーん。おみやげー」
見せびらかすように、箱を突き出していたのは、
学院の専属ドライバー兼警備司令官を任されている男だった。
「ちょちょちょ! 何なの、その冷たい目は!?
ソクちゃんなら食べるかなーと思って、
シュークリーム持ってきてあげたのに!」
「お前が私に手土産持参で来たと言うのか?
第一、シュークリームには遅過ぎると思うが。
……余程、頼みにくい仕事の依頼か、それとも」
「仕事はカンケーないよ、全然!
てゆうか、俺も貰い物でさ。
コレ、テオから貰ったんだ、さっき」
「テオから? 何故お前が?」
「あ、聞きたい? じゃあ話してあげるから、
美味しいコーヒーお願いしまーっす!」
保健医は腰を上げる。
「帰れ。今すぐ」
「あー、もー! 自分で淹れるから、話聞いてよー!
テオに会ったあとアンタに会うと温度差、激し過ぎるわ!」
聖アルフォンソ島の中心街、フィンシャル。
その街角に、全体が黄色い小さな店がある。
店の前に立っている、同じ色の旗には、
『できたてシュークリーム専門店』とある。
「はい。毎度どうもねー」
店員からカウンター越しに、黄色い箱を二つ差し出される。
ありがとうございますと言って、テオは受け取った。
「寮の皆の分のおやつを買い行きたいんだ」
と言うので、アイヴィーは車で街まで乗せてきた。
右手に縦に長い箱、左手に小さめの箱を持ち、
テオの両手は塞がっていた。
「テオ。箱、持ってやるよ。貸しな?」
「ああ、ありがとう、アイヴィー」
アイヴィーが手を差し出すと、小さい箱のほうを渡された。
「いや、じゃなくて。ソッチの大きいほう」
「おや。ジェントルマンだねえ、アイヴィーは」
「何言ってんだよ。荷物持ちで俺を連れてきたんだろ?」
「えっ? まさか。たまにはアイヴィーと一緒に
街を歩きたいなあと思っただけだよ?
やはり、大きいほうは私が持とう、私達の分だし。
アイヴィーは小さいほうを頼めるかい? はい」
「お、おう」
「テオちゃん、テオちゃん」
頭に黄色のバンダナを巻いている女性店員は、
自分の唇に人差し指を立て、テオにウインクした。
「シュークリーム、一個おまけにサービスしといたよ?
いつもご贔屓にしてくれるから、おばちゃんからプレゼント」
「本当ですか!? ああ、なんてお優しい!
どうもありがとうございます、マダム。寮の皆も喜びます!」
「あら、マダムだなんて。ただのおばちゃんよー」
「いいえ。男にとって、全ての女性は気高く、美しい存在ですよ」
「またまたー。テオちゃんったら、いつもお上手なんだから」
「おや。本当のことですよ?」
「フフフッ。ありがと。じゃあテオちゃん、また来てね!」
「はい、また伺います。あ、マダム。
よろしければ手の甲を見せて頂けませんか?」
「手の甲? 良いけど、どうしたの?」
差し出された右手に、テオはそっと触れる。
「柔らかくて、美しい手ですね。
長く男子校に居るとよく解りますよ。
この手は女性の――プリンセスの手です」
彼女の手を恭しく掲げたあと、
すっと引き寄せ、手の甲に口付けを落とした。
彼女は「あらあら、まあまあ」と言いながら口をパクパクさせていた。
「おや? すみません、驚かせてしまいましたか?」
「そりゃ驚くわよう。こんなおばちゃん相手に、
そんなお姫様にするようなこと……」
「男にとって、全ての女性は気高く、美しいプリンセスですよ?」
「まあ……」
「本日は優しいお心遣い、どうもありがとうございました。
またお会いできるまでどうぞお元気で、プリンセス」
またねー、とほっぺをピンクにしたおばちゃんに
手を振られながら、俺達は店をあとにした。
「まー、これで目的の買いモンは終了だな」
「うん」
店から離れたあとで、アイヴィーは切り出した。
「あー、あのさー、テオ?」
「ん? なんだい?」
アイヴィーは頬をポリポリかきながら言った。
「さっきみたいな……ああいうのは、
あんまり、やんないほうがイイと思うぜ?」
「え? ええと、すまない。ああいうの、って?」
テオは何の話をされているのか解らない様子だった。
アイヴィーは苦笑しながら、こう言った。
「いや、お前さん。さっきチューしちゃったろ?
シュークリーム屋のおばちゃんの手にさ」
「ああ、うん。……え? あれはいけないこと?」
「そう思うけどねー、フツーは」
「でも、あれはマダムが私に親切にして下さったから、
彼女への感謝と敬意を表して」
「うん。まあ、そーなんだけど。ナンていうかー。
上流階級のお嬢様相手ならまだしも、
フツーの一般市民相手には、やり過ぎかなーって思うワケよ」
「そうか……そう言えばゼノにも注意されたことがあったような。
ああ、ゼノと言うのは、メネシス家に居る私の執事なのだけど。
彼からも昔、無闇にして良いことではありませんよ、
と言われた気がするよ」
「前科あんのかよ」
「すまない。マダムにもご迷惑だったかなあ」
「メイワクではなかったと思うけどさ。
お前さんみたいなマージナルプリンスにあんなことされて、
あのおばちゃんも悪い気はしなかっただろうしな」
テオはまだきょとんとした顔をしていた。
「まー、それはイイとして。これからどーする?」
アイヴィーはiPhoneで時刻を確認しながら、
「放課後になるまで、もうちょいくらいなら時間あるけど?」
「そうだねえ。ではもう少しこの辺りを――」
テオの言葉が途中で止まる。
アイヴィーがその視線を追うと、寂しげな光景が目に留まった。
商店街のアーケードには道の中央にベンチが置かれている。
年齢は7歳前後だろうか。ベンチに子どもが一人でポツンと座っている。
ブランブランと揺れる自分の足先を見つめていた。
聖アルフォンソ学院は13歳以上でなければ入学できない。
それ以下の子どもであれば島民となる。
この辺りに住んでいる子なのだろう。
アイヴィーは子どもの様子を見る。
装いは青いジーンズに黒いジャンパー。
目立つのは頭に被っている濃いグリーンのキャップ。
ひとつに束ねられた淡いブラウンの髪が、
馬のしっぽのようにキャップの後ろから、ぴょんと短く出ている。
髪を下ろしたら、肩に届くくらいの長さかもしれない。
この距離では少々遠くて性別まで判断できない。
アイヴィーは子どもからテオに視線を戻す。
やはりテオもあの子を見ているようだ。
「どーした、テオ。もしかして、あの子、知り合い?」
いや、とテオの豊かな金髪が横に揺れる。
「けれど、あの子、私がシュークリームを買う前から、
ずっと、あのように悲しげにしていたから。
何があの子を悲しませているのだろうと思って」
テオの言葉にアイヴィーは驚かされた。
はしゃいでシュークリームを買いに来たように見えたが、
意外と周りが見えていることに。
「へえ。俺は全然、気付かなかったけど」
アイヴィーは子どもを再び見る。
光景は変わらず、暗い雰囲気のままだった。
「もしや迷子だろうか?」
「買い物中のお母さんでも待ってるんじゃねえか? お?」
子どもがふと顔を上げた。何かを見ている。
その視線の先にあったのは宝石店だった。
店の前にはガラス越しにアクセサリーなどが飾られている。
子どもは宝石店のほうを見たあと、
再び俯き、肩を落としたように見えた。
「今さ、あの宝石屋見てなかった?」
「うん。そのように見えたね」
「え。じゃあ、まさかとは思うけどー。
あの子……宝石が欲しかったり?」
「ああ。そうかもしれないね」
「マジで? 子どものおサイフじゃムリだろー、いくらなんでも。
つーか、宝石なんて、俺なんか全然興味なかったぞ、ガキの頃、
ってか今もだけど。最近の子は随分とお目が高いモンだ」
アイヴィーは子どもから視線を外す。
「んで、話、元に戻しますけどー。
俺達はもうちょいこの辺ブラブラする?
特に買うモンないんなら、もう寮に帰るか?」
子どもはまだ俯いており、テオはそんな子どもを見つめていた。
「――やっぱり私、あの子とちょっと話してくるよ」
「えっ!?」
「すまない。アイヴィーは車で待っていて構わないから」
「ちょ、おいっ! 待てって、テオ!」
軽く舌打ちしてアイヴィーはテオを追い駆けた。
アイヴィーがテオに追い付いた時には既に遅く、
テオは子どもに話しかけてしまっていた。
「こんにちは」
テオは片膝を着いて、そう言った。
子どもと視線の高さを合わせる、ということを、
あいつは無意識にやっているのだろうか。
子どもはすぐに振り返った。
さっきまでは男の子かなと思っていたが、
近くで見ると解る。小さくても男のそれとは違う顔。
ボーイッシュな装いをしていても、
間近で見たその顔は、間違いなく女の子の顔だった。
警戒した目で見上げられたテオは、
シュークリームの箱を左手に持ち変え、右手を胸に置いた。
「もしかして、何かお困りではないですか?
随分と悲しそうなお顔をしていたように見えたので」
話は前に進もうとしている。
アイヴィーはテオの少し後ろに立って、
成り行きを見守るしかないようだった。
テオは下級生を相手にしている時より優しい声で言った。
「もし、私にできることがあれば、
お手伝いしますよ、可愛いプリンセス?」
「ぷりんせす?」
そう発された声は女の子の声だった。
「ええ。貴女のことですよ、プリンセス」
うわ、また言ってる、とアイヴィーは思った。
つい先程までおばちゃんを「プリンセス」と呼んでいた口が、
今度は年端もいかないお嬢ちゃんをお姫様扱いしている。
全く、守備範囲の広いことだ。この天然の王子サマは。
「あたし、プリンセスなんかじゃない」
少女は首を横に振り、ぶっきらぼうに言った。
「男にとって、全ての女性は気高く、美しいプリンセスですよ?」
少女は小さな頭を傾けるのを見て、テオは微笑んだ。
「それで、プリンセスは何をお困りですか?」
少女は先程まで見ていた物を指差した。
それは見るからに高そうなペンダントだった。
赤い宝石で作られたバラの花がペンダントトップに鎮座している。
その周辺のチェーンは薄いピンク色の宝石が飾られていた。
あんなのを首から下げてたら、ちょっと重そうだ。
少女はペンダントを恨めしそうにチラと見た。
「あれ欲しいの。でも買えなかった。それじゃ全然足りないって」
所持金が足りなかったらしい。
それはそうだろう、とアイヴィーは胸の中で呟いた。
普通の子どもに手の届く品じゃない。
いや、大人でもなかなか手が伸びないゼロの数だ。
テオはペンダントを少し眺めただけで、こう言った。
「ガーネットとローズクォーツですか。
成程、良い組み合わせですね。気品だけなく可愛らしさもある。
まるで……そう。プリンセス、貴女のように」
アイヴィーは「ゲッ」と言った。
「お前さん、ちょっと見ただけで宝石の名前なんか解んのかよ?」
「え? 色合いでそうかなと思ったのだけど。違ったかな?」
「いや、俺には全く解んねえけど」
そう言えば、とアイヴィーは思い出す。
テオはギリシャで有数の資産家、メネシス家の坊ちゃん。
ご実家の宝石箱には、さぞたくさんのアクセサリーがあり、
幼い頃から、そういう物を目にする機会があって、
自然と宝石の目利きができるまでになったのかもしれない。
これが家柄の違いってやつだろうか。
「プリンセス? もしや、どなたかへの贈り物、ですか?」
「えっ? お嬢ちゃんが自分で付けたかったんじゃなくて!?」
少女は頷いた。
「おばあちゃんにあげたかったの。もうすぐお誕生日だから」
「おばあ様へのバースデープレゼントでしたか。
ああ、なんて心の優しいプリンセスだ。
貴女の優しさは、まさにローズクォーツ。
あのピュアで優しい薔薇色そのものですね」
「あのー、お嬢ちゃん?」
アイヴィーは屈んで、ペンダントを指差しながら、
「おばあちゃんがさ、アレが欲しいって言ってたの?」
「この前、ここを通った時、『綺麗ね』って言ってた」
だったら、おばあちゃん本人はあれを綺麗と思っただけで、
実際に欲しいとは思っていなかったかもしれない、とアイヴィーは思う。
テオは優しい笑顔で言った。
「プリンセスは、おばあ様が大好きなのですね?」
少女はこっくりと頷く。
「うん。大好き。だから、あげたいの、おばあちゃんに」
アイヴィーは首を傾げる。お嬢ちゃんの気持ちは解った。
が、しかし。こんなちっちゃいお嬢ちゃんが、
誕生日プレゼントとしてあんな高価な品を持ってきたら、
おばあちゃんはひっくり返って腰を打っちゃうかもしれない。
それをこの子に解るように伝えるには一体どうすれば良いだろう。
「ねえ、プリンセス。実は私も、プリンセスと同じ年の頃に、
美しいペンダントを贈りたいと思ったことがあるのですよ、姉上に」
「おにいちゃんの、おねえちゃん?」
「ええ。私の姉上は、それはそれは優しく美しい姉上で、
絵本の中に出てくるお姫様のような人なのです」
身内の人間を惜しげなくベタ褒めするテオを見て、
アイヴィーは改めてテオは本物だなと思う。
しかし、テオの言葉に嘘がないのはアイヴィーも解っている。
いつかのテレビや生徒資料で見たテオの姉は、
本当に美人さんで、おしとやかな顔をしたお嬢様だった。
「私は姉上の本当に大好きで、次の誕生日には、
姉上に似合う、美しいペンダントをお贈りしたいと思っていました。
絵本の中に居るお姫様達が身に付けているような、
美しいダイヤモンドのペンダントを」
「あたしと似てる……」
「ええ。似ていますね」
「それで、どうしたの?」
「私はプレゼントを選ぶ為に宝石店に行きたいと言ったのですが、
家の者に止められ、私は違うプレゼントを贈ることにしたのです」
「違うプレゼント? どうして?」
「宝石より、もっと喜ばれるプレゼントがありますよ、
と教えて貰ったからです。そして私は、
そのプレゼントを姉上に贈り、本当に喜んで貰えたのです」
「何? 何をあげたの?」
テオはふわっと微笑む。
「知りたいですか? プリンセス」
「知りたい!」
「良いですよ。お教えしましょう。特別ですよ?」
アイヴィーはつられるようにして笑った。
その時のテオの顔といったら。テオ風に何かに例えるなら、
『パンケーキのような笑顔』というんだろうか。
甘くて焼きたてで、ふわっふわなヤツ。
少女と笑顔でバイバイしたあと、
とっくにおやつの時間を過ぎていることに二人して驚いた。
すっかりテオと打ち解けた少女は意外とお喋りで、
テオがまた聞き上手で話し上手でもあるから、
初対面だというのに久し振りに会った友達みたいに
話が盛り上がってしまったからだ。
「ヤッベ! もうこんな時間かよ。おい、帰るぞ、テオ」
「そうだね。アイヴィー、大急ぎの安全運転で頼むよ!」
「ハハッ。あいよっ」
二人は大慌てで駐車場へ向かい、車に乗り込んだ。
ご要望通り、大急ぎの安全運転で、
聖アルフォンソ学院正門前に到着。
アイヴィーは運転席から降り、後部座席のドアを開ける。
「夕食には間に合いそうだね」
テオが車から降りる。
「今日は本当にありがとう、アイヴィー」
「おう。忘れモンないかー? っておい!?」
後部座席を見ると、小さな黄色い箱が残っていた。
そう言えば、シュークリームを買った時、
テオは長い箱と小さい箱の二つを持っていた。
アイヴィーは箱を持ち上げて、
「テオ! 小さいほう忘れてんぞ!」
振り返ったテオが笑う。
「良いのだよ。そちらはアイヴィーの分だから」
「えっ?」
「いつもありがとう、アイヴィー。ではまた」
テオの後ろ姿を見ながら、
アイヴィーは掲げていた箱を下ろす。
「いつもありがとう、ねえ」
アイヴィーは黄色い箱を開けてみる。
そこにはシュークリームが二個も入っていた。
fin
校舎から寮に戻る途中。
高等部三年のクラウスは一年後輩のテオにそう尋ねられた。
今は五講目が終わったところ。次は当然六講目なのだが、
テオがわざわざ「次の時間はどうする」
と聞いてくる意味はクラウスにも解っている。
今日の六講目はクラウスとテオが一緒に受講している帝王学なのだが、
今週は教授が学会で島の外へ出張されている為休講。
休講となる場合、他の授業では自習用のプリントが配布され、
それを教室で行う場合もあるのだが、
帝王学の教授からは、先週の授業でこう言われた。
「休講の時間は、教室での自習とは致しません。
時間の使い方は皆さんにお任せします。
帝王学の受講生である皆さんなら、
きっと有効活用して下さるでしょうから。
学生課にもアクティヴィティへの振り替えとお伝えしますので、
どうぞご自由にご利用下さい。
いち、王として有意義な時間を過ごして下さいね?」
この授業は帝王学というだけあって、
他の授業より、『自ら考える』機会が多く設けられているのだが、
休講ひとつとっても、授業の方針が徹底されているな、とクラウスは思った。
その日のうちにテオから「クラウスは何をするの?」と聞かれたが、
確かその時は「やりたいことは幾つかあるが、まだ解らない」と答えた筈だ。
生徒代表の仕事が立て込んでいたので、
そちらに使うことになるかもしれないと思ったからだ。
しかし、関係者が思いのほかスピーディーに動いてくれたおかげで、
早いうちに仕事は片付き、今日は身体が空いた。
課題や予習なども昨日までに全て済ませているので、
己の心身を鍛えることに使いたかった。
「俺はジムで泳ぐ予定だ」
そう答えると、テオは「ワンダホー!」と声を上げた。
クラウスから見て、テオは感動するポイントが多過ぎる。
何を見ても、何を聞いても、
大袈裟な言葉で褒め称える癖がある奴なのだ。
「では私もジムに行くよ!
クラウスの華麗なスイミングの見学に!」
「駄目だ」
「え!? どうしてだい?」
「お前なあ、俺を見ているだけでは時間の無駄だろう。
どうせジムまで来るなら、お前も泳げよ」
「私もね、泳ぐことは好きなのだよ?
けれど、私自身が泳いでいたら、
クラウスの美しくも逞しいスイミングを
じっくり見られないじゃないか?」
「じっくり見るな! もっと時間を有効に使えないのか」
「私にとっては、とても有意義な時間の使い方なのだがねえ」
「どこが有意義だ。帝王学の教授は俺達を信用して、
自由な一時間をくれたんだ。俺達は帝王学の受講生として、
恥の無い時間の使い方をしなくてはならないんだぞ?」
「うん。それは解っているのだけど、
水泳は良くて、水泳を見学するのは駄目なのかい?」
「駄目だろう、どう考えても」
「でも見たいのだよ。だって貴方は、
『アルフォンソ島のシャチ』だもの」
「俺にまで変なあだ名を付けるのは止せ」
うーん、と唸りながらテオが腕組みする。
どこまで行っても二人の意見は平行線のようだ。
「ねえ、クラウス。どうしても……駄目かい?」
「どうしても駄目だ! いいか! 絶対付いて来るなよ!」
そう言い付けて、クラウスは一人、ジムに向かった。
仄かに感じる塩素の匂いに気が急く。
黒の競泳用水着に着替えたクラウスは、
ゴーグル、帽子、スイムタオルを持ち、ジムの更衣室を出た。
素足でプールへと続く階段を降りていく間にも、
早く水に入りたくて、歩みが早くなりそうになる。
しかし、もしここで転んで怪我でもすれば泳げなくなる。
はやる気持ちを抑えながら、階段を降りて行った。
ドアを開けると、温水プールのあたたかな空気と、
塩素の濃い匂いに迎えられた。
プールで泳いでいる者は居なかった。自分だけの貸し切り状態。
他の生徒は授業中の時間だからだろう。
すいているプールが好きなクラウスは更に、
はやる気持ちでシャワーを浴び、準備体操を始めた。
深呼吸を終え、ゴーグルを手に水面に向かう。
ゴーグルのレンズの色は青。
以前は黒を愛用していたのだが、
ある人物に青いレンズのゴーグルを勧められ、プレゼントされた。
そいつ曰く「青のほうが水の色が明るく、綺麗に見えないかい?」
黒い帽子と青いゴーグルを付け、足からプールに入る。
ヒヤリと冷たい感触も、そう長くは続かない。
一度、ザバッと頭まで潜り、顔を出す。
今は水を冷たく感じても、1ターン泳いだ頃には、
冷たさなど感じなくなっている。
自分以外誰も居ないプール。
波立たず、まっさらな水面に興奮にも似た感情を覚える。
深く息を吸って、水面に入り、両足で真っ直ぐに壁を蹴る。
蹴伸びで行けるところまで行ってから、クロールを始める。
泳ぐ間は、なるべく何も考えないようにしている。
最初は考え事をしていても、自然と泳ぎに集中して、頭の中から全てが消える。
ただひたすらに、前へ向かって身体を動かす。
プールの底では、太陽の光がオーロラのように輝いている。
以前は気にも止めなかった光景を、
綺麗だ、と素直に思うようになったのは、
ゴーグルの色が変わったせいなのだろうか。
地上より軽く感じられる身体で、
水を掻き、水を蹴った分だけ前に進む。
時にゆっくり、時に速さだけを求めて。
身体を動かしている間は、全てを忘れられる。
水中に居る間、クラウスは自由だった。
ジムを出て心地良い疲労と爽快な気分で、
クラウスは寮へ帰ってきた。サロンのドアを開けると、
その場に居た全員が一斉にクラウスを見た。
いくら今年度の生徒代表だからと言っても、
誰かとは違い、サロンに入ったぐらいで、
これほど注目を浴びる存在でないのは自分でも解っている。
寮生達の表情は一様に暗く、明らかに雰囲気がおかしい。
何かあったのか、と言う前に、
小さな身体がクラウスの腹に飛びついてきた。
「クラクス!」
腰に手を回され、しがみつかれた。
自分にも他人にも厳しいクラウスを相手に、
このように抱き着いてくる人間は少ない。
抱き着いてきたのは、中等部一年のラビット・マルセロ。
13歳から入学できる学院なので、ここでは一番下の学年になる。
最年少とは言え、こいつは見た目も中身も子供っぽく、
おまけに甘えん坊で泣き虫ときている。
そういったタイプと接する機会が少なかったクラウスにとって、
ラビは、最も扱い方が解らない下級生だった。
未だスキンシップに慣れていない性質のクラウスは、
細い両肩に手を置き、とりあえず離れさせた。
「いきなり何だ、ラビ」
こちらを見上げてくる顔を見て、更にクラウスは驚かされる。
ラビの目は潤んでいた。
「どうした、何があった?」
訊ねているのに、ラビはそれきり固く唇を結び、
目には涙が溜まっていく一方だ。
泣いてちゃ解らないだろう、男が人前で涙を見せるな、
と思いながらも、普段から泣き虫の下級生に対して、
どう対処して良いのか、クラウスは今も解らない。
だが、こういう時、あいつは常に上手く対処する。
「大丈夫だよ」と言葉を重ね、優しく抱き締めたりする。
クラウスには逆立ちしてもできない芸当を、
空気を吸うかのようにやってのけるあいつはどこへ行った?
涙をいっぱいに溜めた目から、一筋の雫が零れる。
「テオが帰ってこないの」
クラウスは改めてサロンの中を見回す。奴だけが居ない。
「こ、交通事故とかじゃないよね?」
そう聞かれても、今までジムに居たクラウスには知り得ない。
「テオはどこかに出かけたのか?」
「うん。シュークリーム、買いに行ってくれたの」
クラウスの眉間に皺が寄る。
「……シュークリーム?」
ラビはしゃくり上げ、切れ切れに続ける。
「今日ドニが風邪でお休みだから、
おやつ買ってくるって、皆の分」
聖アルフォンソ学院の寮にはそれぞれ専属のシェフが就いており、
クラウス達が暮らすシュヌーシア寮のシェフの名はドニ・ドームという。
放課後にはいつも生徒達におやつを用意してくれているのだが、
ドニが風邪で休むことになった為、今日はアルファルド寮のシェフが、
シュヌーシアの食事も担当するとバトラーから今朝聞いていた。
サロンのテーブルの上には市販のクッキーの缶が置かれていた。
おそらくアルファルドのシェフか、うちのバトラーが用意した物だろう。
「テオはいつ出かけたんだ?」
「六時間目が始まる前だよ。
休講だから街まで買いに行ってくるって」
俺がジムに行ったあとか、とクラウスは思う。
帝王学の教授がくれたアクティヴィティの時間を、
あいつはシュークリームなんかを買う時間として使ったのか。
ラビは手の甲で目許を拭う。
「おやつの時間までに帰ってくるからね、
って言ってたのに、まだ帰ってきてないの。
どうしよう、クラウス」
おやつどころか、直に夕食の時間だ。
六時間目が始まる頃に出て行ったのなら、
例え徒歩だったとしても、とっくに帰ってきている時間だ。
テオに何らかのトラブルが発生した可能性はある。
ラビは堪え切れないようにポロポロと涙を零した。
「ごめんなさい。僕が悪いの。
僕がオレンジのシュークリームが食べたいって言ったから」
それは別にお前のせいではないだろう、
とクラウスは思ったが、口にはしなかった。
おそらくはテオから「ラビはおやつに何が食べたい?」
などと聞かれて素直に答えただけなのだろうから。
第一、そんなことを議論している場合ではない。
「他に、何か知っている奴は居るか?」
誰も何も言わなかった。
寮生の中で最後にテオを見たのはラビらしい。
皆も次の授業に向かったのだろうから無理はない。
「解った。あとは俺に任せろ。警備組織に話をする」
「警備のお兄さん達が、テオを見つけてくれるの?」
ああ、とだけクラウスは言った。
テオが街へ出かけたのなら、おそらく車を使った筈。
であれば、どのドライバーがどこまでテオを乗せたのか、
警備組織に問い合わせようとクラウスは思ったのだ。
しかし、それについてはラビに言わなかった。
正門前に立っている門番など、
一般生徒が普段目にする警備スタッフも多いが、
学院の専属ドライバー全員までもが警備の人間であることは、
生徒代表以外の生徒には伏せられている情報だったからだ。
「お前達はここに居ろ。絶対に学院の外に出るんじゃないぞ。解ったな?」
クラウスがドアを開けようとした時、勝手にドアが開いた。
「すまない! 遅くなってしまって!」
「テオ!?」
張り詰めていたサロンの雰囲気は、
一気に気が抜けて、明るくなった。
「テオ、よかったあ……」
目を真っ赤にして、その場にへたり込んだ一年生を見つけ、
テオはすぐさま傍へ駆け出した。
手にしていた長い箱を置き、ラビの肩に手を置く。
「ど、どうしたんだい、ラビ!? 何があったの?」
クラウスは息を吐きながら、
「お前のせいだ、お前の。
お前の帰りが遅いから皆心配してたんだぞ」
「えっ!? そうだったの!?
ああ、そうか。遅くなると一言連絡を入れれば良かったね。
慌てて帰ってきたから、連絡することも忘れてしまって。
私も最初はすぐに帰ってくる予定だったから」
目に涙を溜めている下級生を見つめて、
「すまない、ラビ。心配をかけて」
頭から包み込むように抱き締めて、
「随分、不安にさせてしまったかな?
本当にごめん。でも、もう大丈夫だからね?」
ぽんぽんと優しく背を撫でた。
それを見て、他の生徒達は笑みを溢していたが、
クラウスは納得がいかなかった。
シュークリームを買いに行っただけで、
何故こんなに時間がかかったのか。
「あ、そうだ。ラビ、ちゃんと買ってきたよ、
オレンジのシュークリーム」
傍らに置いていた黄色い箱を見せた。
「でも、すぐに夕食の時間だね。
おやつの時間に間に合わなくてすまない。
シュークリームはデザートにしようか?」
「うん」
控えていたバトラーが「では箱をお預かり致します」と申し出る。
「ありがとう、バトラー。あ、それから」
テオはバトラーに何かを囁いてから、箱を渡した。
「畏まりました」「ありがとう」という声だけが聞こえた。
「さあ、ではダイニングルームに行こう。と、その前に」
テオはポケットからハンカチを出し、
ラビの涙を綺麗に拭いながら、こう言った。
「ラビは涙を流していてもラブリーなのだけど、
やはり、笑顔が一番だからね? ほら、可愛い」
そんな二人の遣り取りを見ていられなくて、クラウスは視線を外した。
テオは下級生に甘過ぎる。いや、後輩に限らず誰にでもか。
何故、奴は相手を問わず歯が浮くような言葉が言えるのだろう。
「立てるかい? よし。じゃあ一緒にダイニングルームに行こう」
テオは自然にラビに手を差し出した。
あろうことか、二人は手を繋いで食堂に向かっていった。
中等部と高等部の男子生徒だというのに。
その後ろ姿を見て、クラウスは頭が痛くなるようだった。
夕食が終わる頃、バトラーがデザートとして、
テオが買ってきたシュークリームを大皿に乗せて持ってきた。
寮生達は歓声を上げて、わっと集まってくる。
「ああ、すまない。先にひとつ頂いて良いかな?」
そう言って、前に出てきたのは、
シュークリームを買ってきたテオだったので、
皆は「いいよー」「テオが買ってきてくれたんだもんな」
と皆が快く一番乗りを譲った。
「ありがとう、みんな。えーと、あ、これだ、これだ」
シュークリームはひとつずつ白い紙に包まれ、
その紙には、赤や黄色などのシールが貼られているようだった。
テオが手にとった物にはオレンジ色のシールが付いていた。
おそらく、あのシールに何味かが書かれているのだろう。
寮生達もシールを見ながら「俺はコレー」とひとつずつ選んでいく。
甘い物が得意ではないクラウスはその輪には加わらず、
食後のコーヒーを飲みながら、後輩達の様子に目を配る。
こういう時、自分がちゃんと見ていないと、
お菓子の取り合いなどで揉めたりする場合があるからだ。
輪の後ろで、おどおどと右に左に頭を動かしている奴が居る。
最年少のラビだ。やや内気で、背が低いせいもあり、
輪の中に入っていけないようだった。
「ラービ。はいっ。ラビはオレンジで良いのだよね?」
笑顔でシュークリームを差し出していたのは、
先程、一番乗りでシュークリームを取っていた奴だった。
自分の分をひとつずつ選んだ寮生達は、
席に戻って「ウマイウマイ」と言いながら唇をクリームで汚していた。
中等部や高等部にもなって、もう少し綺麗に食べられないのだろうか。
「クラウスは要らないのかい?」
クラウスの顔の真横から、にゅっとテオの顔が出てきた。
「俺はいい」
「エスプレッソ味というのもあるのだよ?
あれならきっと、貴方の口にも合うのではないかな?」
「コーヒーなら今飲んでいる。お前こそ、取って来なくて良いのか?
さっきはラビの分を確保しに行っただけだろ?
早くしないと、無くなるぞ」
「大丈夫だよ。シュークリームは多めに買ってあるし。
私はどの味でも良いから」
「テオ!」
「ん? なあに、ラビ?」
「オレンジのシュークリーム、美味しいよ!
買ってきてくれて、ありがとう!」
「フフッ。こちらこそありがとう、ラビ。
君のスウィートな笑顔が見られて私はとても幸せだよ?
けれど今日は、おやつの時間に間に合わなくて、すまない」
「ううん、気にしないで。いつ食べても美味しいもん」
「ありがとう。ああ、本当に君は優しい子だ」
「そういや、今日はなんであんなに遅くなったの?」
ティーカップ片手にそう言ったのは、中等部三年のシルフェだ。
「一体どこのシュークリーム屋まで行ったんだって話してたんだけど、
アンタが持ってた箱、黄色だったし、
やっぱ、いつもの黄色いお店に行ってきたんだろ?」
「うん。あのお店だよ?」
「じゃあなんで、帰ってくるのにあんなに時間かかったのさ?
街でなんかあったの?」
それはクラウスも少し気になっていたことだ。
テオ本人も放課後が始まる前に帰ってきたかった筈なのに、
やはり何かトラブルがあったのだろうか。
クラウスはテオを見る。他の寮生達もテオを見ていた。
皆の視線を受け止めたテオは楽しそうに微笑んだ。
「うん。私、今日はね?」
テオは少し前に乗り出す。
「心の優しいプリンセスに、二人も会ったのだよ」
fin
誰にともなく呟かれたテオの言葉に、
自然とその場に居た寮生全員が注目した。
「アルフォンソ学院が男子校で、
本当に良かったなあと思ったのだよ」
大半の寮生が首を傾げた中で、一人だけが微笑する。
「そりゃまたどうして?」
ティーカップ片手に、口許に笑みを浮かべながら、
そう言ったのは、中等部三年のシルフェだった。
シュヌーシア寮サロンは放課後のティータイム。
テオは、今日のおやつ『モンブランケーキ』に、
フォークを入れながらこう答えた。
「だって、姫君が居たら、常に取り囲まれてしまって、
ゆっくり話もできない日々になるだろうから……クラウスが」
名前を呼ばれた生徒がコーヒーでむせる。
シルフェは声を上げて笑った。
「何ソレ? もしウチのガッコに女子が居たら、
クラウスが女子に取り囲まれるんじゃないかって言ってんの?」
シルフェが腹を抱えているのに対し、テオは真顔で頷いた。
「うん。やはり姫達はクラウスを放っておかないだろう?
成績優秀、スポーツ万能、容姿端麗に加え、
学院のトップに立つ生徒代表だもの。
内面だって非の打ちどころがないし。
どう考えても、姫達の憧れの的じゃないか」
いやいやいや、という声が幾つか上がる。
「内面には問題あるだろ? 女ウケはしねえと思うけど?」
臆せずそう言ったのは最年少の中等部一年、レオンだった。
「そーだな」
レオンの意見にシルフェが乗っかる。
「てゆーか、誰が一番女子ウケするか、
って言ったら、間違いなくテオだろ?」
「えっ? 私?」
「当たり前じゃん。クラウスは性格キツイから、
テオみたいに優しいフェミニストのほうが、
絶対人気モンになるって」
「そうかなあ?」
テオは首を傾げる。
「クラウスなら、毎週のようにラブレターを頂いて、
きっと大変な毎日になると思ったのだけど」
ナイナイナイ、とまた幾つかの笑い声が上がった。
fin
僕はその日、なんとなく席を立たずに居た。
教壇では、いつものように、
講師が黒板消しを左右に振っている。
神秘学の特別講師、オーギュスト・ボージェ教授。
黒板掃除を清掃スタッフに任せる教師も居るが、
彼は自分で書いた文字は自分で消す主義だった。
今日は暗いブラウンのスーツを着ているので、
袖口の淵に付いた、白い汚れが目立つ。
板書していた時に汚した、チョークの粉だ。
その腕が黒板から、
Upyr'(ウプィリ)、Uber(ウバー)、
Upoir(ウピール)などという単語を消していく。
神秘学の講義で、黒板に綴られる言葉は、
おかしな単語ばかりだが、今日もまた常軌を逸している。
神秘学を受講していない生徒が見たら、
何をテーマにした授業なのかも解らないだろう。
あれらは全て、ある『怪物』の由来となった言葉。
今、教授が消したのは、スラブ語の『飛ぶ者』、
トルコ語の『魔女』、ポーランド語の『翼ある亡霊』。
今日のテーマは『吸血鬼』だったのだ。
黒板消しを持つ手が一番下に近付いてくる。
僕は窓の向こうに視線を移した。
外はまだ明るい。空の裾が仄かに色を変える程度だ。
青い空の中で、大きな雲がひとつ浮かんでいる。
雲もオレンジには染まっておらず、自分の色を保っていた。
「おや、アンリ」
黒板は少しの白も残さず、すっかり綺麗になっていた。
「まだ残っていたんだね」
講師がこちらを見て微笑んでいる。
「何か質問があるのかな?」
今日の授業で解らないことは特になかった。
「別に、ない」
「そうか」
講師は、カツンと靴音を立てて、教壇を下りた。
そのまま、こちらに向かって歩いてくる。
僕が座っている、後方の席まで、ゆっくりと。
彼の靴音が、二人しか居ない教室に、一歩ずつ響く。
目の前まで来た講師が僕を見つめる。
しかし、何も言葉を発さなかった。
普段の彼なら「ではティタイムでも一緒にどうかな」とか、
「見頃の花があるから植物園に行こう」などと言ってくるのに。
今日は、ただ黙って、僕を見ている。
違和感を覚えたのはこの時が最初だったのかもしれない。
何、と僕は言おうとした。けれど、できなかった。
身を屈めた彼が、僕の頬に手を添えて、
そっと唇を重ねたから。
一度、静かに触れただけで、教授は唇を離した。
彼に、こういうことをされるのは、
初めてじゃない。それ以上のことも。
彼の"素性"を知ってからも、それは終わらず、
僕達の無意味な関係は、今も続いていた。
けれど、授業が終わったばかりの教室でなんて、
これほど弁えていないのは――いや、
初めてキスをされたのは、この教室だった。
いつ、誰が、廊下を通るとも限らないのに。
彼の手は、まだ僕の頬に残ってる。
「教室だよ、ボージェ教授」
「Oui(うん)」
そう言いながら、
僕の頬に触れていた手が、横髪の奥へと進む。
耳たぶの下をなぞられる感触に、ぞくりとする。
「オーギュス、ト……」
僕の制止が静かに塞がれる。
先程はただ触れるだけだった薄い唇から、
今度は生暖かい物が優しく差し込まれる。
それは一度だけ僕の舌を撫でて、出て行った。
勝手に早くなる僕の心音に腹が立つ。
「教室だって言っているでしょう。聞こえてる?」
彼を見上げた時、僕はやっと気付いた。
知性的なマリンブルーの瞳が、今日はどこか曇っている。
まるで、生気が宿っていないように見えた。
「Oui(うん)」
ワンテンポ遅れた、ぼうっとした声。
彼も母国語はフランス語らしいけれど、
授業中は英語で話しているくせに、
どうして今に限ってフランス語で話してる?
やはり、今日の彼はいつもと違う。
ふわりと香るチョークの匂い。
また近付いてくる両肩を、僕は両手で抑えた。
「止めて」
強く言うと、彼は大きく瞬いた。
マリンブルーの瞳がすうっと澄んでいく。
普段の彼に戻ったようだと感じて、
僕は少しほっとしたのだけど。
本人は愕然としている様子だった。
いつも余裕のある彼が、
こんな顔を見せたことがあっただろうか。
「On dirait un vampire」
彼の唇から零れた言葉。
僕は自分の耳を疑う。フランス語のように聞こえたけれど、
聞き間違いだったのかもしれない。だって、それは、
まるでヴァンパイアのようだ、という意味だったから。
「それ、どういう意味?」
「すまない。時と場所を弁えていなかったね」
「答えになってない」
すると彼は、微笑して肩を落として見せた。
「アンリから、元気を分けて貰いたかったんだ、と思うよ」
「英語かフランス語で話してくれる?」
「英語のつもりだったけれど」
「英語になってない」
「そうだったかな?」
彼は苦笑して見せたあと、
「今日は本当にごめんね、アンリ。
今日はもう退散するよ。ではまた来週の授業で」
そう言って、彼は教室を出て行った。
僕は真っ直ぐに寮へ帰る気にはなれなくて、
一人で天文台へ向かった。
広い草原のようなところに、
白い石が輪のように並んでいる。
かつて天文台だったと思われる遺跡だ。
天文台に着いた頃には、空では夕陽の浸食が進んでいた。
オレンジの面積が広くなり、
ブルーがオレンジに徐々に溶かされていく。
幾つかの白い石も、夕陽色に染め上げられようとしていた。
僕はまだ真っ白な石の上に腰を掛けた。
何か文庫本を持ってくれば良かった。
でも、今は神秘学のテキストとノートしか持っていない。
今はテキストを読む気になれなくて、僕はただ空を見ていた。
大きな白い雲が真上にある。
ずっと眺めていると、雲が風に流されていくのが解る。
少しずつ、ゆっくりと、時に形を変えながら。
今、僕が見ているあの雲も、人と同じように唯一の物で、
この先、もう二度と見られない物なんだろう。
さわさわと足元の草が揺れている。
風が草原に弧を描いていく。
何重もの波。
まるで海のように草原が波立っていた。
その時、背後から視線を感じた。
他の生徒が来たのかとも思ったけれど、
それにしては、全く足音がしなかった。
視線は、そのまま暫く僕に向けられていた。
まるで僕に何か言いたいことでもあるかのように。
無視し続けるのにも飽きてきて、僕は振り向かずに言った。
「誰?」
僕が言葉を発した時、偶然、風が止んだせいか、
場の空気が一瞬、止まったように感じた。
「僕に言いたいことがあるなら、さっさと言えば」
返ってくる言葉はない。やはり、誰も居ないのか。
一人で何を言っているんだ、僕は。
そう思った時だった。
何か聞こえた気がして、僕は立って振り返った。
だが、そこには誰も居ない。
バサッと上空で何かが羽ばたいた。
白い小鳥、その片翼の先端だけが見えたのだろうか。
その翼は先が少し欠けた、歪な形をしていた。
「あー、アンリ、やっと帰ってきたー!」
ウーティス寮に帰り、サロンに入ると、
ユウタがニコニコしながら近付いてきた。
まるで僕をずっと待っていたかのような顔をして。
「これからカードゲームするんだー!
だから、皆でやろうと思って、
アンリが帰って来るの待ってたんだよー?」
サロンには僕以外の生徒が全員揃っていた。
中央のテーブルにカードが置かれており、
それを囲むように皆がソファに座っている。
レッドが頭の後ろで手を組みながらソファに凭れた。
「俺はアンリなんか待たずに、
さっさと始めよーぜーって言ったんだけどなー」
「あれ?」
ユウタは僕の顔を見て、首を傾げた。
「アンリ、髪に何か付いてる」
「何?」
「何だろう? 白っぽい粉みたいなのが。ここら辺に」
僕の近くに居たジョシュアが、その場所を見つめる。
「本当だ。俺が取るよ」
彼は立ち上がって、僕の正面に立つ。
「動かないで、アンリ」
ジョシュアは手を伸ばし、僕の横髪にそっと触れた。
既視感を覚えたのと同時に、
僕の髪に『粉』が付く原因が解った。
ジョシュアは自分の人差し指に付着した物を見ていた。
白っぽく見えるが、ほんの少し赤や黄色が混ざってる。
その不可思議な色合いで、ジョシュアも解ったようだ。
「これ、チョークの粉かな」
「チョークの粉ぁ?」
声を上げたのはアルフレッドだ。
「なんで、そんなモンが髪に付くんだよ。
お前、黒板にへばりついて遊んできたのかあ?」
一瞬、僕は言葉を返せないでいた。
黙っている僕を見て、ジョシュアが心配そうに僕を見る。
「チョークを触った指で、髪に触っちゃったんじゃないですか?」
明るい声。シルヴァンだ。
「ほら、こんなふうに」
シルヴァンは耳に髪をかける仕草をして見せた。
「僕も髪が長いので解るんですが、
無意識にやっちゃうんですよ、コレ。ね、アンリ?」
今日の授業で、僕はチョークに触っていない。
けれど、この寮で神秘学を受けている生徒は僕一人。
そうだったかもね、と僕は答えた。
fin
「アイヴィーさーん!」
保健室へ行く途中、高めの声に呼ばれた。
身体も中等部の生徒くらい小柄だけど、
あれはシュヌーシア寮専属シェフ、ドニ・ドームだ。
今日のドニは青系で爽やかな服を着ている。
真っ白な半袖のポロシャツに、
ライトブルーの腰巻きエプロンが映えている。
下はジーンズに近い色をした七分丈のパンツ。
頭にはエプロンと同色のバンダナを巻いていた。
キッチンの窓から俺が見えて、
わざわざ走ってきてくれたらしい。
保健室に一番近い寮がシュヌーシア。
俺が保健室に行く時、丁度キッチンの前を通る。
そういう時、俺の姿を見かけると、
ドニはどういうわけか、わざわざ俺を呼んでくれて、
夕食の味見とかさせてくれる良いシェフだった。
小柄なシェフは俺を見上げて、こう言った。
「こんにちは、アイヴィーさん。
今、少しお時間ありますか?」
「うん」
「今日のおやつ、ちょっと作り過ぎちゃいまして、
良かったら、食べて行きませんか?
アイスキャンディなんですけど」
俺は持ってきた手土産を保健室の先生に差し出した。
「ハイッ、コレ。ソクちゃんの分」
先生はソレを受け取らず、
座ったまま、冷たい眼差しで俺を見る。
「今、ドニがおやつの余りモンくれたんだよ。
俺はオレンジでー、ソクちゃんにはチョコ味、
選んできてあげたよ? ソクちゃんスキでしょ、チョコ」
木の棒に刺さったチョコ味のアイスキャンディを、
ハイ、ともう一度、突き出すが、まだ受け取って貰えない。
「もー。溶けちゃうからー、とにかく貰ってよー」
渋々、仕方なく、受け取って貰えた。溜め息混じりに。
「まあ、ドニが用意した物なら、味は保障されているか」
ソクーロフがアイスキャンディの先っぽを咥えた。
俺は診察用の回る椅子に座って、
自分のアイスキャンディを口に入れた。
オレンジの粒々まで感じられる、マジでオレンジ味。
「ドニのヤツ、イチから手作りしたらしいよ?
フルーツ系のアイスキャンディは、
果物をミキサーにかけるとこから始めて、
アイスの型に、その生絞りジュースと、
スライスした果物も入れたんだってさー」
見た目にもキレイなアイスキャンディだ。
「ほら見て? 俺のはね、
オレンジの生絞りジュースがベースで、
サイコロ型に切ったマンゴーまで入ってんのー」
アイスキャンディの中から出てきたマンゴーは、
丁度シャーベット状になっていて、
前歯で齧った時には、まだ少し凍っててシャリッとする。
舌の上で少し転がすうちに、トロッと柔らかくなった。
飲み込むと、まろやかなマンゴーの味がした。
「チョコのアイスキャンディはココアとかで作ってて、
チョコチップも入れてあるって言ってたよ。入ってる?」
「ああ。良いチョコレートを使っているようだな。
しかし、何故、私の分まで持ってきた?
お前がキッチンで自分の分だけ食べてくれば良かったものを」
ソクーロフが、またアイスキャンディを口に入れる。
俺は笑いを堪えながら、白状した。
「だって、見てみたかったんだもん。
似合わないだろーなーとは思ったんだけど」
眼鏡に白衣の先生がアイスキャンディを食べてる。
その姿を改めて見て、俺はとうとう吹き出した。
「いやー、想像以上に似合わないわっ」
fin
聖アルフォンソ学院、保健室。
保健教師兼カウンセラーのソクーロフは、
机に向かい、カルテを書いていた。
次回のカウンセリングに向けての準備だ。
夏の午後。
窓の向こうでは眩しい青空が広がっている。
この時期、聖アルフォンソ学院は、
生徒によって、過ごし方が異なる。
外界と同じように夏休みをとり、
島の外へ遊びに行った生徒も居れば、
学院に残り、いつも通り授業を受けている生徒も居た。
教職員も同様に、夏期休暇をとることもできるが、
ソクーロフは後者のタイプで、今年の夏も外へ出ず、
いつも通り、保健室で過ごしていた。
ソクーロフの手元にある、
コーヒーカップからは、湯気が昇っている。
先程、コーヒーメーカーで淹れたばかりなので香りが良い。
夏になると、冷たいコーヒーを飲みたがる者も居るが、
ソクーロフはコーヒーは温かいほうが好きだった。
何故なら、ホットのほうが、より香りを楽しめるからだ。
最近ではあまり見かけなくなったラジカセからは、
ソクーロフ気に入りのクラシック音楽が流れていた。
コン、コン、コン。
保健室にノックの音が響く。
このドアを三回ノックする人物は一人しか居ない。
ソクーロフはドアに背を向けたまま、何も言わない。
部屋の主が「どうぞ」と言っていないのに、ドアは勝手に開いた。
「今日も暑いねー。アイスコーヒー、ちょーだーい」
入ってきたのは生徒ではなく大人の男。
黒のズボンに、ブルーのワイシャツ。
その背には、金色の長い髪が下ろされている。
ソクーロフは尚も背を向けたままだった。
まるで声が聞こえていないかのように、カルテを書いていた。
完全に無視された男は、軽く笑って、両肩を下げる。
「ハイハイ。じゃー、勝手に貰っちゃうからー」
金髪の男は迷わず、コーヒーメーカーの場所へ向かった。
グラスを手に取り、冷蔵庫を開け、めいっぱい氷を入れる。
そこへ温かいコーヒーを直接注いだ。
冷たいコーヒーが飲みたいなら、氷が解けるまで少し待てば良いのに。
まだ温い状態であろうにも関わらず、男はグラスに口を付けた。
コーヒーに関して、非常に雑な感性を持つ男。
彼の名はアイヴィー。この島ではそう名乗っている。
表向きの肩書きは、学院専属ドライバー。
その裏では、警備組織の司令官を任されている男だ。
アイヴィーはグラスを手にしたまま、簡易ベッドに腰掛けた。
「ちょっとベッド貸してねー、20分くらいー」
この男が保健室に来る理由は、ここにベッドがあるからだ。
不規則な仕事をしているので少し時間が空くと昼寝をしたがる。
保健室が「昼寝もできるカフェ」として便利に使われることは、
保健教師にとっては、あまり本意ではないが、
カウンセラーとしては、密かに歓迎していた。
「ソクちゃんも夏休みナシかー」
ソクーロフが何も喋らないので、それは大きな独り言になる。
「夏だってのに、夏らしいコト全然してないねー、お互い」
アイヴィーも夏期休暇をとることはできる筈だが、
今年は島の外に出ないことにしたらしい。
「あ、そう言えばさー」
カランカランと氷の音。やはりコーヒーは温かったらしい。
早く溶かしたいのか、グラスの中で氷を回していた。
「ソクちゃん、今年はもうビアガーデン行った?」
聖アルフォンソ島の中心街フィンシャルでは、
毎年、夏にビアガーデンが開催される。
近所の店が屋台を出し、広場にテーブルを並べ、
皆で酒を飲むのだ。会場に明かりが付くのは夕刻からだが、
気が早い店は、昼頃から酒を提供していたりする。
ビアガーデンと銘打ってはいるものの、
ビールだけでなく、名産のワインや月桂樹酒の他、
世界各国の酒が用意されているところが、この島らしい特色だ。
島の祭は数あれど、島民の、特に大人達にとって、
ビアガーデンの人気は上位に位置しているだろう。
夜風に吹かれながら星の下で飲む酒が、不味いわけがない。
去年もアイヴィーに誘われて行ったが、
やはり外で飲む酒は、格別だった。
「今年はまだ行っていないが?」
やっとソクーロフの口が開いた。アイヴィーは前のめりになる。
「じゃあ行こっ、今夜! イイでしょ!?」
「何時だ?」
「20時! ココに迎えに来るから!」
「解った」
「やったー!」
大人のくせに。金髪の男は子供のような笑顔を見せる。
「やっぱ夏はビアガーデンだよねっ! 今から夜が楽しみだなー!」
よく晴れた夏の午後。
窓の向こうでは白い雲が悠々と浮かんでいる。
夏の空はいつもより青が色濃く見えた。
fin
左耳を寄せ、幹の中で反響する音を聞く。
以前と比べると、少し空洞化しているだろうか。
位置を変えて、もう一度。
なるべく樹皮を痛めないように、垂直に木槌を振った。
「でね、そん時は、姉貴が俺のアイス食べちゃっててー」
右耳から、生徒様のお声が聞こえた。
「あはは。本当に仲良いよね、お姉さんとユウタって」
あれは、ウーティス寮のハルヤ様と、先月ご入学されたユウタ様だ。
お二人は本日の授業を終えられ、寮にお戻りになる途中のようだ。
「んもう。良くないってばー。
ハルヤ、今の話、ちゃんと聞いてたー?」
「聞いてたよ。あ」
ハルヤ様と目が合う。私は一礼した。
ハルヤ様は、ユウタ様と私が初対面だと思われたのだろう。
「この人は、森番のバロウズだよ」と紹介して下さった。
「あ、うん。俺もこの前会ったことあるんだ、一回だけ」
ユウタ様とはご入学直後に森で一度お会いしたことがある。
ユウタ様は携帯電話の中にある、お姉様のお写真を大切にされていた。
お綺麗で優しそうなお姉様だった。
「ところで、あのー。それって、何をしているんですか?」
ユウタ様は私が手にしている物をご覧になりながら、
不思議そうにお尋ねになった。私はご説明申し上げる。
「こちらの月桂樹の葉が、少々痛んでおりましたので、
こうして木槌で叩き、幹に耳を当てることで、
幹の内部に悪いところがないか、確認させて頂いておりました」
「えっ。じゃあ、聴診器で心臓の音を聞くみたいに?」
「左様でございますね。似ているのかもしれません」
「スゴーイ! 森番さんってソクーロフ博士みたーい!」
「あ、俺もそう思ったことあるよ。
バロウズって、木のお医者さんみたいだなあって」
「恐れ入ります」
本当は、人間にも木々の声が聞きとれたら良いと思う。
植物も動物も、人間も含め、
全ての生き物に、共通の言語が存在していたら良い。
そうしたら、今よりきっと互いに慈しみ合える世界になる。
そう考えるのは、人間側の私だけだろうか。
動物側のエリザベスなら、どうお考えだろう。
ウサギの貴女と、同じ言葉を交わすことが、
どんなに幸せなことだろうかと私は思う。
「あ、そうだ。ねえ、バロウズ」
ハルヤ様は思い出したように仰った。
「今日さ、あの月桂樹の入浴剤って用意できる?」
「はい。可能でございます」
「じゃあ、久し振りに入ろっかな、月桂樹のお風呂」
「畏まりました。ご用意させて頂きます」
ハルヤ様と私の会話を聞いたユウタ様は、
きょとんとしたお顔をされた。
「月桂樹の入浴剤? そんなのあるの?
日本でよく売ってる、温泉のモトみたいな?」
「ううん。粉の入浴剤じゃなくって、
乾燥させた本物の葉っぱを布の袋に入れたやつなんだ。ね?」
「はい。私がお作りするのは、バスポプリにした月桂樹でございますが、
古くは、古代ローマの時代より、
浴槽一面に月桂樹の葉を浮かべて、
沐浴していたそうでございます。
月桂樹のハーバルバスは、血行促進、疲労回復、
肩こり、腰痛、美容にも良いと言われております」
「えー! スゴーイ!」
「ユウタもさ、今日、やってみる? 月桂樹のお風呂」
「うん! やってみたい!」
「じゃ、バロウズ。ユウタと俺の分、お願いしても良いかなあ?」
「はい。ではお二人分、ご用意させて頂きます。
後程、ウーティス寮のバトラーにお渡し致しますので」
「うん。ありがと」
「ありがとうございます! 夜が楽しみだなー!」
「良い香りだよ。確か、葉っぱ以外にも何か入れてくれてるんだよね?」
「はい。カモミールでございます」
カモミールとの組み合わせがお好きだったのは、
ハルミ様。ハルヤ様のお祖父様だ。
当時の森番が、森番日誌にそう記録していた。
初めて、私がハルヤ様に、月桂樹のバスハーブをお渡ししたのは、
ハルヤ様のご入学から三か月程過ぎた頃だ。
当時のハルヤ様は、すっかり学院に溶け込んでいらした。
そのように見えたのだ。
当時の生徒代表テオ様は、ハルヤ様のお顔を見に、
幾度もウーティス寮に通ってらしたし、
バンドの練習もお忙しく、
ウーティス寮や森から流れてくる演奏は、
日に日に上達されていた。
先輩方や寮生の皆様に愛されていたハルヤ様だが、
時折、お一人でふらりと森にいらしては、
木や空を見上げて、切なげなお顔をなさっていた。
そのお姿は余りにも儚げで、すうっと消えてしまいそうな程だった。
そんな折だ。私が初めてハルヤ様に、
月桂樹のバスハーブをお渡ししたのは。
その作り方を私に教えてくれたのは、
古い森番日誌。ハルヤ様のお祖父様がご在学当時のものだ。
お祖父様のお名前はハルミ様という。
ハルミ様は植物がお好きで、森番にもよく話しかけて下さる方だった。
森番もハルミ様をお慕いしており、
森番日誌には何度もハルミ様のお名前が登場していた。
その中で、ハルミ様と当時の森番が一緒に、
月桂樹のバスハーブを作ったことが記録されていた。
ハルミ様の故郷、日本ではシャワーではなく、
浴槽に張った湯に浸かることが一般的で、
日本の方はそのバスタイムがお好きだという。
ならば、同国ご出身のハルヤ様もバスタイムがお好きなのではと思ったのだ。
当時の記録を元に、私は月桂樹のバスハーブを作り、
ハルヤ様にお渡ししたのだ。
差し出がましいことかと悩みもしたが、
森番日誌を読んでいる私にしかできないことだったし、
当時の森番や、今は亡きハルミ様にも、
きっとお喜び頂けると信じ、私はハルヤ様にお渡しした。
お祖父様が在学中にご愛用されていたものと聞き、
ハルヤ様は興味を示され、使って下さった。
以来、今日のように、ふと思い出したようにご所望になる。
その度に、私の心は暖められるのだ。
ハルミ様がお好きだった香りがお孫様のハルヤ様へ。
そしてハルヤ様からご友人のユウタ様へと伝わっていく。
恐れ多くも、その橋渡し役になれたことを大変に光栄に思う。
fin
森の湖の近くでレジャーシートを敷いて、
シェフの御三方がランチを召し上がっていた。
私はたまたまその場を通りかかり、
「お昼がまだでしたら、一緒にどうですか」とお誘い頂いた。
お邪魔になってしまうと思い、最初はお断りしたのだが、
ドニ様とカミーユ様が座るように仰ったので、
大変恐れながら、シェフの皆様のランチにお呼ばれすることになった。
シェフの御三方が時折こうして、
森の中でランチを召し上がることは存じ上げていたが、
ご一緒するのは今日が初めてかもしれない。
今日のランチは、シェフの御三方が、
それぞれお作りになったお料理を持ち寄ったそうだ。
メインは、シュヌーシア寮シェフのドニ様のサンドイッチ。
アルファルド寮シェフのアラン様は、香ばしく焼いた骨付きソーセージ。
ウーティス寮シェフのカミーユ様は、
前夜から煮込んだ野菜スープをご用意されていた。
生徒様にお出しするお料理よりは、
ラフに作ったものだそうだが、
流石は料理のプロフェッショナル。
どれも本当に美味しいお料理だった。
「バロウズさん、甘いものが大丈夫でしたら、
デザートにフルーツサンドはいかがですか?」
ドニ様はサンドイッチが入ったバスケットを、
どうぞ、と私の前に置いて下さった。
「この辺にあるのがフルーツサンドです。
生クリームとイチゴ、あと、缶詰の黄桃も挟んでみました」
「はははっ。ドニは本当に甘いものが好きだな」
そう言ってカミーユ様は微笑ましげにお笑いになった。
「どれ。私もひとつ貰おうか」
「あ、はい!」
ドニ様がカミーユ様にバスケットを差し出す。
すると、アラン様も手の平を見せたので、
ドニ様が「はい、どうぞ」とバスケットを差し出していた。
アラン様は、ランチタイムの間、ずっと無言だったかもしれない。
しかし、決してご機嫌が悪いわけではなく、
アラン様もお寛ぎの様子だった。
温かい日差しも心地好く、
ゆったりとしたランチタイムだった。
fin
私も今日一日の仕事を終え、自室へ下がるところだった。
「ホワイト」
邸の廊下を歩いている時、名を呼ばれた。
振り返ると、そこには、金色のショートヘアに、中性的な顔。
私を呼び止めたのは、私と同じく側近のラルヴィス・レイナだった。
階級上ではレイナのほうが上官なのだが、
本人はそういったことを気にしない質で、
本来は部下にあたる我々に対しても、
「普通に、呼び捨てで呼んでくれ」と言うような奴だ。
だから、私も「レイナ」と呼んでいる。
レイナはワインボトルを一本、抱えていた。
ワインと言えば、陛下がお好きなお飲み物なので、
陛下の寝室へ持っていくワインなのだろうと察した。
レイナはワインボトルの他には何も持っていなかったので、
キッチンにチーズでも忘れてきたのだろうか、と私は思ったのだ。
しかし、レイナが私に言ったことは、全く別の話だった。
「エメリーがどこに居るか知らないか?
部屋に居なかったんだが」
「エメリーなら外出中だぞ」
「外出? 陛下に何か頼まれたのか?」
「いいや。プライベートで飲みに行っただけだ。
ところで、レイナ。そのワイン、陛下にお持ちするんだろう?
エメリーの代わりに何か手伝うか?」
「ああ、いや。これは、陛下ではなくエメリーに」
「え?」
レイナにしては珍しく、もごもごと話す。
「私が休んでいた間、随分、世話になってしまったから」
自分としては不本意だった、と言いたげな顔で、
抱えているワインボトルに視線を落とす。
「これで、借りを返して置こうと思ってな」
ほう。そのワインが、レイナからエメリーへのプレゼントだったとは。
レイナは愛想は良いほうではないが、真面目で律儀な奴だ。
「エメリーが一人で飲みに行ったのなら、何時に帰ってくるか解らないな」
「今夜は、一人ではなかったぞ。
メイスン医師に腕を組まれて出て行った」
「あのメイスン医師と? 珍しい組み合わせだな」
「ああ。メイスン医師が言うには、
今夜はメリーちゃんを慰める会、らしい」
ロレートの繁華街。
その外れにあるバーで、国王陛下側近のエメリーと、
王室医師団の一人であるメイスン医師が飲んでいた。
メイスンは頬杖をつきながら、目の前に居る連れを眺めた。
「メリーちゃんって、なんだか切ないわねー」
エメリーは赤ワインを煽りながら、
「何が?」
「レイちゃんの風邪は、悪化することもなく、
陛下のとこに戻っちゃったわけじゃない?」
「んなの当たり前だろーが。レイナは陛下の側近だぞ」
「そりゃ解ってるけどさー。
あんだけ甲斐甲斐しく看病したってのに。
メリーちゃんって、ホント報われないオトコだなーと思って」
「うるせーよ、バーカ。ていうか、そのメリーちゃん、
って呼び方止めろって言ってるだろ。
羊飼いのオンナじゃねえんだぞ」
「んもう。機嫌悪いわねえ」
二人の前にあるテーブルには、ワインボトルが一本乗っている。
ペースが早いのは、明らかにエメリーのほうだった。
「ねえ。せっかくアタシと良いワイン飲んでんだから、
もうちょっと楽しくやりましょうよ」
「お前がレイナの話を振ってくるからだろーが」
「ああ、そっか。せっかく二人きりで飲んでるのに、
他のオトコの話なんて、野暮だったわよね。
ごめんなさい、メリーちゃん。
だけどね、心配しなくても、アタシはアナタだけよ?」
「うるせーんだよ、バカ」
「もう。今夜はもっと優しくしてよ。
レイちゃんを長く拘束できたのは、
アタシのおかげでしょ?」
「俺は頼んでねえ」
「何言ってんの。メリーちゃんの心の声なんか、
アタシには丸聞こえだったんだから!
メリーちゃんも、アタシがわざと、
レイちゃんの拘束期間を伸ばしたって解ってたから、
今日付き合ってくれたんじゃないの?」
エメリーは言い返してこなかった。
「ねえ。いい加減、アタシにしておきなさいよ。
アタシなら、メリーちゃんのこと」
エメリーはそっぽを向いたままで振り向く気配もない。
メイスンは思わず笑ってしまった。
「あーあ。なんでアタシ、こんなオトコ、好きになっちゃったんだろ」
「そう思うんなら、他の男でも探せばイイだろ」
「あら。そう簡単に乗り換えられるなら、
とっくにそうしてるわよ。
一生、振り向いて貰えないんだろうなって解ってても、
その人を嫌いになれない気持ち、
メリーちゃんなら、解ってくれると思ったんだけど?」
「知るか」
「その冷たさにもジンジンきちゃう」
「あー! なんで、お前はそんなヘンタイ系オカマになっちまったんだよ!?
初めてココ来た時は、普通の男だったのによ!」
「だって、陛下を始め、陛下がはべらしてる、
オトコ達みーんなイケメンなんだもの!
こんな所に来たら、誰だってオトコ好きになっちゃうわよ!」
「なら、俺じゃなくて、他の奴にすれば良かっただろ。
どう見ても、俺よか陛下やラテのほうがイケメンじゃん」
「メリーちゃんには一目惚れだったのよ。
そのキレイで細マッチョな大胸筋に」
「お前はとことんバカだな」
「バカって言うほうがバカなんだからね。
メリーちゃんのバーカ!」
「小学生みたいなこと言ってんな」
「フフフッ。でもホント、バカよ、
メリーちゃんは。だから、大好き」
「イミ解んねえ」
「ねえ。今夜くらいはアタシの部屋に泊まって行かない?」
「ワイン一本空いたな。帰る」
「えー!? まだ良いじゃなーい。
お楽しみはまだまだこれからでしょー!?」
「お前一人で楽しんでろ」
「やーだー。メリーちゃんと一緒に遊びたいー」
「幼稚園児かっ!」
fin
■蔦様の美麗イラスト保健医と夜桜を拝見して、書けたお話です。
最初は、森の中で小さな火が見えたので、気になったのだ。
暗闇の中で浮かぶ、オレンジ色の灯り。
よく見ると、その光から、細い煙が昇っている。
あれは煙草の火だ。
どなたが森で煙草を吸っているのか、
念の為、確認することにした。
静かに近付いていくと、幹に隠れていた人影が見えてきた。
白いシルエット。風に翻ったのは白衣だった。
私の足音に気付き、振り向いたお顔。
眼鏡がよくお似合いになる、理知的なお顔立ち。
やはり、ソクーロフ博士だった。
博士はいつも保健室にいらっしゃるので、
森の中でお見かけするのは珍しい。
お急ぎのご様子ではなかったので、
保健室や警備関連の用事で、
外を歩いているわけではないようだ。
白衣姿でいらしたし、保健室から出てきて、
ふらりと森へお越しになったのだろうか。
生徒様は今頃、ご夕食の時間。
先生方も既に宿舎にお帰りになっている時間だが、
博士はまだお仕事をなさっていたのだろうか。
突然現れた私に対し、博士は一瞬、警戒したお顔をなさったが、
不審者などではなく、森番の私だったせいか、
すぐに、いつもの冷静なお顔に戻った。
唇に銜えていた煙草を、手に移しながら、
「君か」
私は頭を下げた。
「お邪魔をしてしまい、申し訳ございません、ソクーロフ博士」
「いいや。私のほうこそ、すまなかったね」
どうして博士に謝られたのだろう。
「君はこの、煙草の火が気になって、見に来たんだろう?」
博士は木々を見上げる。
「ここは森の中だったね。
そこまで気が回らなくて、すまない。もう消すから」
「ああ、お待ち下さい」
「おや。良いのかい?」
「はい。博士は、葉や幹に吸い殻を押し付けたりはなさいませんし、
この森は、学院の全ての方にお寛ぎ頂く為の場所でございますから。
私はこれで失礼させて頂きますので、
どうぞ、ごゆっくりお過ごし下さい」
私は一礼し、その場を去ることにした。
だが、数歩離れた時、博士に呼び止められた。
「バロウズ」
「はい」
「君は……」
そのあとが続かない。どうなさったのだろう。
次のお言葉をお待ちしていたが、
博士は思い直したように、こう仰った。
「いや、すまない。何でもないよ」
「左様で、ございましたか」
「では、そろそろ戻るよ。おやすみ、バロウズ」
博士は保健室のほうへお帰りになった。
森で何かお考え事をされていたのだろうか。
物思いな雰囲気を纏っていた。
博士は私に何を言おうとしたのだろう。
fin
よく夜間に外出され、朝にお帰りになる。
その為か、日中は森で寝顔を拝見することも多い。
警備組織司令官のアイヴィー様曰く、シルヴァン様のご宿泊先は、
アイヴィー様のご自宅だそうなので心配は要らないだろう。
シルヴァン様はお優しい方だ。
先日、森でお見かけした時、シルヴァン様は、
シエスタする場所を探しておいでのようだった。
ある木の下へ腰を下ろそうとされた時、
根元のほうにある、何かを見て、微笑まれると、
その場所を止めて、もっと森の奥へ向かわれた。
一体、何をご覧になったのだろうと思い、
私はその木を見に行った。
すると、そこには、リスのメイプルが居たのだ。
幹のくぼみの中で、カリカリと木の実を齧っている。
シルヴァン様はメイプルに場所を譲って下さったのだ。
「お優しい方で良かったですね、メイプル」
何事にも動じない性格の彼女は、
私と目が合ったあとも、懸命に木の実を齧っていた。
そんなお優しいシルヴァン様と、
今日、初めてお話しをさせて頂く機会があった。
今朝、私が月桂樹の剪定をしている時、
丁度、朝早くお帰りになったシルヴァン様と、
森の中で鉢合わせてしまったのだ。
新入生の顔と名前は、学院の全職員に知らされるので、
森番である私も、シルヴァン様のことはご入学前から存じ上げていたが、
シルヴァン様と直接お話しするのは、今日が初めてだった。
シルヴァン様が、私の顔を見たのは、この時が初めてだったのだろう。
作業着である、灰色のツナギを着ていた私を見て、
シルヴァン様は、長い髪を右に傾けた。
「あ、えーと。学院の職員さん、ですか?」
通常、生徒様には自分は森番だと名乗るようにしている。
だが、シルヴァン様には、より正確に自分の立場をお伝えすることにした。
「はい。私は森番のバロウズと申します。
この森で月桂樹を始めとした、動植物の管理を担当させて頂いております。
学院に所属する職員の一人としてお世話になっておりますが、
同時に、警備組織のお手伝いもさせて頂いており、
学院内のパトロールを仰せつかっております」
「じゃあ、アイヴィーの」
「はい。私はアイヴィー様の部下にあたります」
アイヴィー様は自分がドライバー兼警備担当であることを、
シルヴァン様には自らお話しになったという。
だから私も、警備のお手伝いをさせて頂いていることを明かした。
私がアイヴィー様の関係者だと知ったシルヴァン様は、
安心されたご様子で、私を改めてご覧になった。
「成程、森番さんも警備の関係者とは。
本当に予想以上のセキュリティですね、この島は」
シルヴァン様は私に手を差し出した。
「ご挨拶が遅れましたが、新入生のシルヴァン・クラークです。
すみません。僕、これから何かと、
皆さんのお世話になっちゃうかもしれませんが、
どうぞよろしくお願いしますね」
「これはご丁寧に。こちらこそよろしくお願い致します」
手を差し出した時に、私の腕時計が袖口から覗く。
時間がないことに気が付いた。
「あっ、お引き止めして申し訳ございません、
シルヴァン様。早く寮へお戻り下さい。
間も無く、クラウス様がここをお通りになられます」
「えっ?」
「クラウス様は早朝ランニングを日課とされております。
そろそろ、お戻りになる時刻でございますので」
しかし、シルヴァン様はその場から動かない。
美しい菫色の目をパチパチと瞬かせながら、
何故か、不思議そうに私をご覧になっていた。
私はクラウス様のお姿がないか、後方を確認しながら、
「シルヴァン様?」
「僕を、見逃してくれるんですか? クラウスに報告せずに?」
「はい。さあ、お早く、寮に」
シルヴァン様はパッと私の両手をおとりになると、
強く握り締め、縦に二回振った。
「ありがとうございます! それじゃ、僕、戻りますね!」
本当にありがとうございますー、と手を振りながら、
ウーティス寮へ駆けていかれた。
背に下ろされた長い髪を軽やかに跳ねさせながら。
その後ろ姿を見ながら、ふと思う。
今、私がしたことはクラウス様への裏切り行為だろうかと。
今年の生徒代表クラウス様の教育方針に従うなら、
私からも僭越ながら、「朝帰りはお控え下さい」と、
一言でもご注意申し上げるべきだったのではないか、
そう思った時だった。
「また朝帰りしてたのか、あいつ」
振り向くと、そこには黒のトレーニングウェア姿のクラウス様が居た。
腰に手を置き、眉間に皺を寄せている。
私はとっさに謝った。
「申し訳ございません、クラウス様」
「何故、バロウズが謝る?」
「あの、シルヴァン様にご注意することもなく、
寮にお帰ししてしまいましたので……」
「バロウズは、それで構わない」
「えっ?」
「但し、俺が見つけた時は、反射的に叱り付けるだろうがな」
そう仰って、クラウス様はシュヌーシア寮へ向かわれた。
クラウス様は、厳しくも、お優しい。
今年の生徒代表がクラウス様で本当に良かった。
fin
森でバーベキューパーティを行われた。
昼頃、私はウーティスのシェフに、
「バーベキューで使う月桂樹の葉を選んで欲しい」と頼まれた。
この学院で行うバーベキューは、月桂樹の葉を挟んで焼く。
すると、葉の青い香りが肉や野菜に移り、
この学院ならではの美味しい料理となる。
私は香りが良い若い葉を選んで、シェフにお渡しした。
夜には、私も森へ向かった。
森の中で火気を使用する際、シェフやバトラーが、
水を汲んだバケツや、消火器等を用意しているが、
森番の私も万一に備え、お側に控えることにしている。
生徒様がお楽しみのところ、
お邪魔になってはいけないので、
皆様の目に入らないよう、いつものように、
近くの木の上に控えさせて頂いた。
最初にシェフとバトラーが森へやってきた。
バーベキューに必要な道具や食材を持って。
準備中、おもむろにシェフのカミーユ様が木を見上げた。
「そうだ。バロウズ、どこかに居るかい?」
呼ばれた私は木から飛び降りて、
「はい。ここに」と答えた。
「はははっ。相変わらず、軽い身のこなしだな。
私にはとても真似できないよ」
大きなお腹を叩きながら、笑っている。
「いつも監視ご苦労さん。
今日のバーベキューが終わったあと、
少し残ってくれるかい?」
「お片付けのお手伝いですね。承知致しました」
「いや……まあ、そういうことにしておこうか。
じゃあ、終わるまで待っているんだよ、バロウズ」
「畏まりました」
私は木の上に戻り、待機させて頂くことにした。
まもなく、ウーティスの生徒様が続々と森へやってきた。
森で行うバーベキューパーティは、
聖アルフォンソ学院で長く続いているイベントらしい。
この日も、生徒様はとても楽しそうで、
笑い声の絶えない夜を過ごされていた。
ただ、お一人を除いては。
まだお姿が見えない、と私が気付いた時、
木の下からこんな声が聞こえてきた。
「どうした、ジョシュア。その肉、マズイのか?」
「あ、いえ。あの、アンリがまだ来てないみたいで」
「ああ。そういや、居ねえな、あの新入り」
「今日はバーベキューだって、知らないんじゃない?」
「朝食の時、ポロが皆の前で言ったのに?」
「聞いてなかったとか?」
「俺、アンリの部屋に行って、呼んで来ます」
ジョシュア様がウーティス寮に向かわれた。
その後、ジョシュア様は森へ戻ってこられたのだが、お一人だった。
上級生の皆様に「アンリは?」と聞かれ、
ジョシュア様は首を横に振った。
「部屋に居たんですけど、行かない、と言われました。
体調が悪いのかなと思って、そう聞いてみたんですけど、
違う、放っておいて、としか言ってくれなくて」
「なんだそりゃ?」
「もしかして、バーベキュー、嫌いなのかな?」
「ええ? そんな奴居るのかよ?」
「丁度、ご機嫌が悪かっただけじゃねえの?」
「カワイイ顔してっけど、高飛車なお姫様だからな、今度の新入りは」
「どーしたー? 何かあったのか?」
最上級生のポロ様がこちらにやってきた。
「新入りがまだ来てねえんだ。
さっき、ジョシュアが呼びに行ってくれたんだけど、
来たくねえんだってさ」
「アンリが? あ、そうか! しまったー。
ジブリールに言われてたのに、忘れてた」
「忘れてたって何を?」
「い、いやー、まあ、とにかく、アンリは来れねえんだよ。
あー、どーすっかなー。えーと、あ、バトラー!」
最上級生がバトラーに何かを耳打ちする。
すると、バトラーは「はい。後程、その予定でございました。
その件については、私もジブリール様から伺っておりましたので」
「あ、そうなの? 意外と気が回るんだなー、
ジブリールって。じゃあ、そういうことで、あとは頼むわ」
「畏まりました」
バトラーはシェフのところへ戻った。
最上級生のポロ様は、他の皆様から一斉に視線を浴びていた。
「つまり、どういうこと?」
「俺達は聞かないほうが良い話なら、これ以上聞かないけど」
「んー。どうなのかなー、これって。
俺の口から言って良いのか解んねえんだよなー。
でも、アンリ的には勝手に言われたくねえだろうしー」
「じゃあ聞かないほうが良さそうだね」
「えー。気になるじゃーん」
「気になるなら、本人に直接聞くんだね」
「うわー、無理ー」
「この話は終わり。ほら、バーベキューに戻ろう。
話してる間に、大分、取られちゃったんじゃないの?」
「わー! 俺の肉がなくなってるー!?」
皆様はバーベキューコンロの周りへ戻っていった。
最後までその場に残っていたのはジョシュア様で、
寮のほうをご覧になったあと、先輩方のあとに付いていった。
その後、バトラーは焼き上がった野菜や肉を皿に乗せたあと、
寮に一度帰った。森へ戻ってきた時には皿を持っていなかった。
バーベキューパーティが終わり、
生徒様が全員、寮へお帰りになった後。
私は木の下に降り、シェフの元へ向かった。
シェフにお片付けのお手伝いを頼まれていたからだ。
「お疲れ様でございました、カミーユ様」
「ああ、バロウズ。君もお疲れ様」
カミーユ様は、木と私を交互に見ながら、
「君は、ずっと木の上に居て、疲れないのかい?」
「いえ。私にとっては落ち着く場所ですから」
「そうか。さすが森番だねえ」
「お片付けをお手伝いしましょう。
何からお運び致しましょうか」
「ああ、それは良いんだよ。
今日残ってくれ、と言ったのはね、
君にもバーベキューをご馳走しようと思ったからなんだ。
今日は、特別良い肉が手に入ったからね。
君の分をとっておいたんだよ、ほら」
「まさか。とんでもございません。
そのように上質な食材を私が頂くなど」
「良いじゃないか。いつも生徒達を、
影ながら見守ってくれているお礼だよ。
遠慮しないで食べていきなさい。
これはめったに食べられない代物なんだから」
ほら、と肉の乗った皿を差し出される。
「しかし」
「じゃあ、こう言えば受け取ってくれるかい?
もう生徒達は寮に帰ってしまったし、
君が食べてくれないんじゃ、このまま捨てるしかないかなあ」
それでは食べ物を粗末にしてしまう。
恐れながら、頂戴することにした。
それから、シェフとバトラーと三人で頂いたバーベキューは、
とても美味しく、シェフお勧めの肉は、信じられないほど柔らかかった。
fin
声がするほうへ向かってみると、
先月入学したばかりのラビ様が、
お一人で泣きじゃくっていらした。
私に気付いたラビ様は、涙で濡れた目で私を見上げた。
「あ、森番の……」
「はい。森番のバロウズでございます。
ラビ様、何があったのですか」
「あ、あのウサギさんが」
ラビ様は震える手で指をさした。
「急に、バタっと倒れて、動かなくて」
月桂樹の根元には、一匹のウサギが、
目を開けたまま、寝転がっていた。
黄金色の美しい毛並、垂れ下がった長い耳。
それは、エリザベスだった。
「し、死んじゃったの?」
私には一目でそうでないと知れたが、
念の為、失礼して、エリザベスのお腹を拝見する。
白いお腹は、やはり、ゆっくりと動いていた。
「大丈夫ですよ、ラビ様。
彼女は今、うたた寝しているのです」
「うたた寝? 眠ってるの?」
「はい。起きたばかりの時間帯ですから、
まだ眠たかったのでしょう。ウサギは夜行性ですから」
「でも、目、開いてるよ?」
「はい。外出時に休憩をとる際などは、
目を開けたまま眠ることがございます。
周囲には、眠っていないと見せかける為です」
「どうして?」
「動物の世界で、ウサギは弱い身の上でございますから、
外敵から身を守る為の知恵なのでしょう」
「じゃあ、ウサギさんって、
眠る時、いつも目、開けてるの?」
「いえ。安心できる寝床で眠る時は、
きちんと目を閉じて、眠りますよ」
「ふうん。そっか。ウサギさん、今、眠ってるだけなんだ。
突然、倒れたから僕ビックリしちゃった」
「驚かせてしまい、申し訳ございません。
エリザベスに代わり、深くお詫び申し上げます。
今後は生徒様を驚かせないよう、
私から彼女にご注意させて頂きますので」
空は白み、直に夜が明ける。
翌日の早朝、私はエリザベスに会いに行った。
彼女の巣穴は森の奥。そこだけ木が少なく、
夜には星が綺麗に見える場所だ。
夜行性のウサギは夕刻に目覚め、夜間に活動する。
夜明け前に寝床に戻り、日中は巣穴で眠っている。
無論、個体差やその日のご気分にもよるが、
大まかにはそのように一日を過ごされている。
エリザベスに会うには、彼女が起きた直後か、
眠る直前に、このご自宅へ伺うのが最善と言える。
私が会いに行った時、彼女はご在宅ではなかった。
月桂樹の下に腰を下ろし、少し待たせて頂いていると、
夜の散歩から戻った彼女が姿を見せた。
手土産に持参したタンポポをお見せすると、
彼女は私に飛びついてきた。
私の膝に乗ったまま、タンポポをお食べになった。
「エリザベス。今日は貴女にお話があって、
会いに参りました。昨日のことなのですが」
エリザベスはこちらを見向きもしない程、
一心にタンポポを召し上がっていた。
「お食事中に失礼しました。お話は後程に致しましょう」
エリザベスの温かい体温を膝で感じながら、
私は彼女のお食事が終わるのを待っていた。
お食事後、エリザベスは満足したように、
目を細めたりしていた。
「お口に合いましたか、エリザベス」
そっと背中を撫でる。黄金色の毛は柔らかく、心地好い。
このままゆっくり過ごしていたいと思いかけたが、
本日はご注意したいことがあったことを思い出した。
「ああ、そうでした。エリザベス。昨日、森で、
ラビ様にお会いしたのを覚えておいでですか?」
反応がない。
「エリザベス?」
手に当たる小さな背は、上下に動いている。
お顔を覗くと、エリザベスは目を閉じて眠っていた。
fin
「おい、エメリー。お前はまた、何て態度だ」
執務中だというのに茶髪の男は、
両腕を投げ出し、机にべったりと頬を付けていた。
見兼ねた私が注意すると、こう返してきた。
「別にイイじゃーん、俺なんかどーでもー」
「良くはない。いい加減、しゃんとしろ」
私の言うことなど、まるで聞かず、
奴は右頬を机に付けたまま、私を見上げた。
「なあ、ラテー」
「今度は何だ」
「お前はさあ、楽しめた?」
「何が」
「この一週間、陛下の一番側に居られてさ。楽しかった?」
「楽しい、などと言う表現は適切ではないと思うが。
まあ、そうだな。私個人としては、身に余る、
幸福な七日間だった。陛下の最もお側に置いて頂いて」
「そっか。なら、まー、いっか」
ひょいと身体を起こす。
「ラッキーだったな、ラテ」
「あ、ああ」
「よーし。じゃあ俺、庭番のお手伝いでもしてくっかなー、天気イイから」
「それはお前の仕事ではないだろう。この執務は!」
「やっといてー。今度なんかオゴるからー」
「エメリー!」
奴はまた瞬く間に部屋を飛び出して行った。
fin
こうして、朝、すっきり起きれるし、
退屈な執務も、何故か良く捗っている。
以前はよく睡魔に襲われ、コーヒーで持ちこたえていたが、
最近では、自分でも驚く程、集中力が持続している。
俺が余りにも黙々と執務に取り組むので、
「陛下。あの、少しご休憩されてはいかがでしょうか」と、
ホワイトに心配されるぐらいだった。
休憩を宣言したことはあっても、促されたことなど、
今までにあっただろうか。いや、無い。
「お目覚めの時間です、陛下」
冷淡な声がした。
ドアの前には、髪が長くない側近が立っていた。
無表情な顔は以前通り。顔色も悪くはない。
だが、頬が少し、やつれたか。
「ラル。もう良いのか?」
「はい。七日もお休みを頂き、申し訳ございません。
大変ご迷惑をお掛け致しました」
「それほど迷惑ではなかったさ。
ホワイトが良くやってくれたしな」
「私が居ない間、ホワイトは余程お役に立ったようですね。
陛下からお褒めのお言葉があったと、
ホワイトに伝えておきます。さぞ喜ぶでしょう」
「拗ねているのか、ラルヴィス」
「違います」
「全くお前は、可愛げのない。
俺に特別優しいホワイトとは大違いだな」
ラルヴィスは無表情な仮面を崩そうとしなかった。
「なあ、ラルヴィス」
「はい」
「お前が居ない間、俺が良く働いていたことは、聞いているか」
「ええ。ホワイトやエメリーから聞いております。
俄かには信じられない程、進んだそうですね」
「ああ。俺もどうしてだろうと思っていたんだが。
今、お前の顔を見ていたら、理由が解ったぞ」
「では後学の為に、お聞かせ頂けますか」
俺は答えた。
「単に、たっぷり眠っていたからかもしれん」
→
少し良くなってきたと自覚できたのは三日目で、
四日目もまだ微熱が残っていた。回復の遅い自分が情けない。
自室に閉じ込められてから、今日でもう五日になる。
医師の話では、完治に近い状態ではあるが、
側近という立場上、陛下への感染を防ぐ為、大事を取り、
あと二日はこのまま安静に、とのことだった。
体調が良くなり、頭が動くようになってくると、
今度は気が滅入ってきた。体調が悪化しなくとも、
あと二日はここを出られないからだ。
もう復帰できるまで体調は回復しているというのに。
ベッドに横になってばかりで、筋肉の衰えを感じる。
今回の風邪には、かなり体力を削り取られた。
こんなことでは陛下をお守りできない。
私は陛下の側近であるというのに。
自分が不甲斐無くて、仕方がなかった。
「雑誌読んだかー、レイナ」
朝、エメリーが来た。
この五日間、こいつと医師の顔くらいしか見ていない。
奴は側近としての制服を着ている。私は夜着のままだ。
「雑誌、全然読んでないじゃん。
せっかく俺が面白いヤツ選んでやったのに」
サイドテーブルに置かれたままの雑誌から視線を私に移す。
「シケたツラしてんなあ」
エメリーは私のベッドに腰掛け、足を組む。
「まーた、情けないとかって、
自分への言葉責めでもしてたのか? スキだねえ、お前も」
何故かこいつには、考えを読まれることが多々ある。
それほど私の考えは、顔に出ているのだろうか。
「可笑しな言い方をするな」
「否定はしない、と」
私は黙ることになる。
「お前さ、もっと気楽に考えらんないの?
臨時休暇が貰えてラッキー、とかって」
「私はお前はではない」
「損な性格」
笑われた。ここ暫くエメリーは良く笑う。
弱っている私を見るのが面白いらしい。
しかし、この数日、こいつに世話を焼かれる中で、
奴は意外とマメで気の付く男だと私は知った。
普段は、やる気無さそうにしているくせに。
陛下から「世話係をするように」とのお言葉があったからか、
この五日、奴は私の身の回りの世話をほぼ完璧にこなしていた。
食事を持ってくるのも、下げるのも全てやっている。
私がいつでも水を飲めるよう、ベッドサイドに、
水とコップを置いてくれたのもエメリーだ。
また、「暇潰しグッズ」と称し、
日替わりでエメリーの私物を持ってきた。
今、サイドテーブルにある雑誌もそのひとつだ。
他に、漫画やゲーム、DVDなどを持ってこられたが、
結果的に、奴と私の趣味が余りにも合わず、
それらに手を伸ばすことはできなかったが。
「んで、レイナ。今日は調子どーよ?」
「もう治ってる。今日からでも陛下のお側に立てる」
「ホントかなー?」
「本当だ。なあ、メイスン医師を呼んでくれないか。
復帰を早めてくれるよう頼みたい」
「何、焦ってんだよ、レイナ」
「焦っている訳ではない。
私の身体のことだ。私が一番理解している」
「ふうん。じゃあ、熱は完全に下がったのかよ?」
私の前髪をそっと避けて、素手で額に触れる。
「んー。もう俺と同じくらいかなあ? 解んないや」
「なら、触るな」
すると、突然、喉に痛みが走り、咳が出た。何度も。
大分、良くなったと思ったのに。
「なんだ。まだ治ってないじゃん」
喉の奥で、僅かに鉄の味がする。
咳が続き過ぎて、胸の中まで痛い。
咳が止んだあとも、呼吸が整うまで時間がかかった。
私が落ち着いた頃、エメリーはコップ一杯の水を私に差し出した。
私は身体を起こして、それを受け取った。
ゆっくりと飲む。荒れた喉が洗い流されていくようで、
気持ちまで、すうっとした。
飲み終わると、奴が私に手を差し出す。
その手にコップを返した。
私は再びベッドの中に戻る。
エメリーがコップをテーブルの上に戻す。
コトン、という小さな音が響いた。
「焦んなよ、レイナ」
エメリーはベッドに腰掛けたまま、
笑顔で私を見下ろしている。
「ちょっと良くなったからって無茶したら、
また熱が上がるぜ? そうなれば余計に、
陛下の側に戻るのが遅れる。それは嫌なんだろ?」
悔しい。こいつに正論で諭されるなんて。
「だからさ」
そう言う顔は確かに笑っているのに、
どこか悲しそうで、私は途惑った。
「もう少し、ぶっ倒れてろよ。な?」
→
俺が陛下の寝室に入ると、陛下は丁度、耐熱用のワイングラスに、
口付けているところだった。中は赤黒い液体。
「甘い香りですね。今夜のお供はホットワイン、ですか?」
「何をしらばっくれているんだ、エメリー」
「え?」
「ホワイトに入れ知恵したのはお前だろう?」
「ありゃ。バレちゃいました?」
陛下が好きそうな赤ワインを見繕って、
これを持って行けば喜ばれるぞと、
あいつに渡してやったのがバレているらしい。
「ラテがそう言ったんですか?
黙ってりゃイイのに。正直者だなあ」
「ホワイトが言うより先に解っていたさ。
俺好みのワインを適確に選べるのは、
この邸に二人しか居ないからな」
一人は陛下と飲み仲間の俺。
もう一人は今、熱にうなされて動けない。
となれば、犯人は俺しか居ない、か。
「成程。流石は陛下。参りました」
「それで、何の用だ? 選んだワインが俺の口に合っているか、
わざわざ確かめに来たわけではあるまい?」
「そろそろ、レイナの様子が聞きたい頃じゃないかなー、
と思いましてね。ご報告に。気が利いてるでしょう、俺?」
陛下は何も言わない。俺は続ける。
「熱はまだ下がってません。お医者さんが言うには、
明日もまだ高いままだろうって話です。
明後日くらいから下がってくるらしいですよ」
「そうか」
「完治するまではこのまま、部屋から一歩も出さない予定です。
陛下の大切な御身に、従者の風邪を移すわけには参りませんから。
陛下の臣下想いは重々承知しておりますが、
間違っても、見舞いには行かないで下さいね」
「要らん心配だな」
「そーですか。じゃあ失礼しますね。
赤い顔しながら、熱っぽい瞳で、
俺を見上げてくる病人のお世話があるんで」
「何だ。自慢しに来たのか?」
「たまにはイイでしょう?
どうせ俺には、今しか独占できないんだから」
恭しく頭を下げる。
「それでは私はこれで。おやすみなさいませ、陛下」
→
部屋の照明は消えているが、
カーテンの向こうからは光が差している。
夜は明けているのに、
どうして私は、陛下のお側に居ないのか。
その答えは自分の熱い呼吸で思い出した。
私は今朝、熱を出し、謹慎せざるを得なくなった。
医師には季節性の風邪だろうと言われた。
腕を伸ばして、携帯電話を手に取る。それしきの動作が辛い。
画面で時刻を確認すると、13時過ぎだった。
もう陛下のご昼食も終わっている時間だ。
今日、陛下には執務の予定が入っていた筈だ。
私の代わりに誰がお側に付くことになったのだろう。
頭の動きが鈍い。身体は熱いのに手足が寒い気がする。
こんなに具合が悪いのは、いつ以来だ。それすら解らない。
「あれ? 起きてんのか、レイナ」
ノックをせずに入ってきたのは、エメリーだった。
靴音を鳴らしながら、こちらに近付いてくる。
何かを小さく呟き、私が居るベッドに腰掛けた。
「近付くな。移る」
「イイねえ。そしたら俺も休める」
「良いわけあるか。早く執務に戻れ」
「戻んなくてもイイの。
俺はお前のお世話係って名目も貰ってんだから」
「何」
「空き時間に、ちょいちょいお前を見に来て、
身の回りのお世話する係。
あ、もちろん、陛下も了承済みだからー」
陛下のお言葉があったなら、
私にはエメリーを無下に追い返すことはできない。
「陛下のお側には誰が」
「ラテが付いてる。午前中はラテに見守られながら、
陛下も大人しくお仕事してたらしいぜ? 珍しいよな」
ホワイトがお側に付いているなら、私が居なくとも、
執務に支障は出ないだろう。あれは優秀な男だ。
「あいつ、マジ嬉しそうだったぜ?
陛下の一番側でお世話できるチャンスだもんな。
あいつの一途な陛下愛は、ほんとスゲーわ。
てゆうか、お前、さっきは本当に大丈夫だったか?」
何の話か解らない。
「メイスンだよ。お前にペタペタ触りやがって。
マジの診察プレイを見せつけられてんのかと思ったぜ」
私を診察したのは、従者担当のメイスン医師。
私とは同年代で、王室医師団の中では最年少になる。
鬼才と言われる人だが、独特な感性の持ち主で、
「レイちゃんのお肌にも元気がない」とか、
「前に会った時のほうが美人だったー」とか、
よく解らないことも言われた。
メイスン医師は他の人よりスキンシップが激しいところがある。
先程の診察時も、少々そういうところがあったのだが、
途中でエメリーが止めに入ってくれた。
「平気だ。お前が止めてくれたから」
「あれ? 何? もしかして俺に感謝してんの?」
「エメリー。お前、ただ無駄話をしに来ただけなら」
「いや、まあ、一応、時間的には昼メシっていうか、
ブランチの時間だって言いに来たんだけど。食えそうか?」
全くと言って良い程、食欲がない。私は首を振る。
「やっぱね。無理そうな顔してるもんな。
じゃ、スポーツドリンク辺りにしとくか。
今、持ってきてやっから、大人しく待ってな」
ポンと私の頭を叩くと、ベッドから離れ、
あっと言う間に部屋を出て行った。
思い立った時の行動力は早い奴だ。
部屋が静かになる。
喉が渇いた。
→
ベッドの中でまどろみながら、
夢の記憶を辿ろうとしたが、徒労に終わった。
「おはようございます、陛下」
いつもと声が違う。
普段、俺を起こしに来る声は、
冷淡なもので、これほど優しくはない。
ベッドの中から目を向けると、
ドアの前には、髪の長い側近が立っていた。
俺はむくりと上体だけ起こす。
ブランケットで覆われている膝だけが暖かい。
「ホワイトか。ラルヴィスはどうした?」
ホワイトが静かに頭を下げる。
礼に合わせて、長い髪がさらりと揺れた。
「申し訳ございません。本日、レイナは、
体調不良の為、お休みを頂きたく存じます」
「体調不良?」
「はい。今朝方、レイナが赤い顔をしている、
とエメリーが気付きまして、
熱を計らせましたところ、38度6分ございました。
後程、王室医師団のメイスン医師に、
診て頂く予定ですが、おそらく風邪ではないかと。
国内でも流行る季節でございますし」
ラルヴィスの身体は丈夫なほうだと、
思っていたが、珍しいこともあるものだ。
はたと思い当たることがあった。
「あの時に、貰ってきたのかもしれないな」
「あの時、と仰いますと?」
「先日、施設の子達に会いに行ってきただろう?
その中に、咳をしている子が居たんだ」
確か、うちの側近と遊んでくれた子達の一人だ。
「左様でございましたか」
元気な少年少女達にラルヴィスが振り回されている間、
俺は保育士達とのティータイムに呼ばれていた。
カップ片手に、優しい女性達に囲まれながら、
子供達の姿をただ愛でていたわけではない。
何か困っていることや、施設に足りない物はないか等、
生の意見を直に聞く為のティータイムだ。
その時、たまたま庭で子供達が遊んでいて、
慣れぬ相手に、弱り切っている側近の姿が、
チラチラと俺の視界に入ってきただけだ。
あっ、とホワイトが声を出す。
「では、陛下もお風邪を召された可能性が!
陛下、お身体の具合は?
どこか苦しいところはございませんか?」
「いや。俺は至って元気だ」
「潜伏期間やもしれません。
念の為、陛下も診察をお受け下さい。
医師団には私からご連絡致しますので」
面倒なことになった。
ホワイトは面倒見が良過ぎていけない。
「俺は別に、たまに風邪を引くぐらいは構わんがな」
つい本音をもらしてしまうと、
「いけません!」と熱く反論された。
俺には風邪を引く自由もないらしい。
「陛下はロレートで唯一の御方。
私共と違い、陛下の代わりが務まる者など居ないのですよ」
俺にだって代わりは居る。俺などより余程立派な後継者が。
だが、それをホワイトの前で口にするのは止めた。
また熱く反論されるのが目に見えているからだ。
事実、ホワイトの言い分も正論で耳が痛い。
王が体調を崩せば、もれなくテレビや新聞に載せられて、
回復するまで刻々と容態が報道されてしまう。
過剰な辱めは国中に、いや、あの小さな島にまで届く。
この身体は本当に、ちょっと風邪を引くこともできないのだ。
「なお、レイナにつきましては、万が一にも、
陛下に病をお移ししないよう、完治するまでの間、
自室にて控えさせて頂きたく存じますが、宜しいでしょうか」
部屋に隔離か。大公家には従者達も住んでいる。
皆が次々と病に倒れれば、困るのは俺だけでは済まない。
「仕方ないな」
「ありがとうございます。陛下のお優しい御心に感謝致します。
それで、あの、レイナがお休みを頂く間のことなのですが」
緊張しているのか、突然、ホワイトの声がしおらしくなる。
「もし宜しければ、私にレイナの代理を務めさせて頂ければと」
でかい図体をしているくせに、
捨てられた小動物のような目をしてくれる。
そんな目を向けられて、YES以外の選択肢はない。
→
こんなに大きくて広いくせに、
エレベーターもエスカレーターもない。
フロアを昇り降りするのにいちいち、
長い階段を使わなきゃいけないのは面倒なところだ。
だから、急いでいて、煩いのが見ていない時は、
階段の手すりに乗って階下に向かう。
このほうが断然早くて気持ちイイから。
今日も俺は、スルスルー、ストン、と一階に到着した。
まだ、エントランスにあの二人の姿はなかった。
余裕を持って、間に合ったらしい。
俺は従者らしく、ピシと背を伸ばして待っていると、
ゆっくりと厳かに扉が開いた。
金髪の側近が開けた扉から陛下が入ってきた。
俺は、すかさず頭を下げて、お出迎えした。
「おかえりなさいませ、陛下。お疲れ様でした」
「ん? どうした、エメリー。
わざわざ迎えに出てきて」
「従者が主のお迎えに上がるのは、
当たり前じゃないですか。私は陛下の側近ですよ?」
陛下は笑ってくれた。俺も笑う。
ドアを閉めた側近が、陛下の側に戻ってくる。
俺の顔を見ると「なんで居るんだ」という顔をされた。
少し錆び付いた金色のショートヘア。
少しくすんだ緑の目。
あれが陛下に最も近しい側近、ラルヴィス・レイナ。
側近の中でも最高位にあり、
レイナ以外の五人から見れば、直属の上官に当たる。
と言っても、俺達の間に大した上下関係はない。
年はそう変わらないのもあって、
互いに気安く話してた。
この女みたいにキレーな顔は、
いつも少し機嫌が悪いか、良くて無表情。
俺が話しかければ、更に機嫌が悪くなる。
だけど今日は、既にご機嫌斜めのようだった。
そんなに俺に出迎えられたことが嫌なのか。
それとも外で何かあったのか。
「何、不貞腐れてんだよ、レイナ」
目だけで「何だと」と言われた。
自分がむくれていることに気付いていないらしい。
「久し振りに、陛下と二人きりのデートだったのに、
面白くなかったのか?」
「馬鹿を言うな。ご視察だ」
視線を逸らされた。図星か?
「女性と間違われたのさ」
答えをくれたのは陛下だった。
「今日はラルヴィスが、新しく入った子達に、
えらく気に入られたようでな。
『お姉さんも一緒に遊ぼう』と、
引く手あまただったのさ。実に見る目のある、
将来有望な子供達だったな?」
それで機嫌が悪かったのか。
その場面を想像して俺も笑う。
「へーえ? モテモテだったんだー。やるじゃん、レイナ」
重い息を吐きながら、レイナは陛下を恨めし気に見上げる。
こいつは怒っている時程、
声が冷たくなる。今みたいに。
「陛下。何故、今、それをお話しになるんです」
「エメリーには、是非聞かせようと思っていた。
良い土産話だからな。そうだろう?」
「ええ。大変貴重なお土産話でした。
お聞かせ頂き、ありがとうございます、陛下」
俺は胸に手を置いて丁寧にお礼を述べる。
横から飛んでくる、刺さるような視線を感じながら。
きっと心の中でこう毒づいているんだろう。
こいつ、こんな時だけ従者らしくしやがって。
「おかえりなさいませ、陛下」
陛下と似た髪をした男が来た。
誰より陛下を敬愛してやまない側近。通称ラテ。
由来はもちろん、そのカラー過ぎる名前から。
初対面で自己紹介をされた時は、
思わず「ブラウン・ホワイトって、カフェラテかよ」
と言ってしまった程だ。
自画自賛できるくらい、こいつに『ラテ』ってのは、
ピッタリな愛称だと俺は思ってる。
何ていうか、ホントにミルクっぽい奴だから。
マイルドで、柔らかで、健康的で、
汚れを知らない、真っ白な男だから。
ま、『ホワイト』より、短くて呼び易いし。
「陛下、コートをお預かり致します」
「ああ」
陛下が脱いだコートを受け取ったラテは、
それを何より大切な宝物のように抱えた。
「陛下? まだ少し早いですが、ご夕食になさいますか?」
「いや、まだいい。それよりコーヒーを頼めるか。
先程は甘いミルクティを出されたのでな」
「畏まりました。すぐにご用意致します」
陛下に御用を命じられると、ラテは目に見えて生き生きする。
陛下はラテと連れ立って、歩き出した。
エントランスに俺とレイナが残る。何故かレイナは、
陛下のあとを追わず、その場に立ち止まっていた。
どうしたんだと思って覗き込むと、小さな呟きが聞こえた。
「……子供は、苦手だ」
そう言う顔は先程よりご機嫌斜めで、ぐったりしていた。
疲労困憊だったことを陛下の前では隠していたらしい。
俺は笑いながら、レイナの肩に手を置く。
「お疲れ、お疲れっ。お前には俺がコーヒー淹れてやろうか?」
無言の拒否。急に歩き出したレイナによって、
俺の手はカクッと外された。
→
「おい、エメリー。何て態度だ」
執務中だというのに茶髪の男は、
両腕を投げ出し、机にべったりと頬を付けていた。
見兼ねた私が注意すると、こう返してきた。
「別にイイじゃーん。陛下とレイナは居ないんだしー」
これがアル・エメリー。
このようにだらしのない姿では、
誰にも信じて貰えないと思うが、
私と同じく、陛下にお仕えする側近の一人だ。
ここはロレート公国大公家。
この国の王であるカーディス国王陛下の邸だ。
陛下にお仕えする者達もここで暮らしている。
私とエメリーは、側近達の執務室にて、
今後の公式行事に関する調整等を行っている最中だった。
私が今、手がけているのは花祭りについて。
早いもので、もう二か月後に迫っていた。
エメリーにも、私と同じ仕事が与えられている筈だが、
今日のエメリーは、いつも以上にだらけている。
これが同じ身分の者かと思うと恥ずかしく、陛下にも申し訳ない。
奴は右頬を机に付けたまま、私を見上げた。
「なあ、ラテー」
ラテ。奴は私のことをしつこくそう呼ぶ。
『ブラウン・ホワイト』という私の本名が、
カフェ・ラテ色のようだから、らしい。
止めろと言っても聞かないので、とうの昔にこちらが折れた。
「陛下達、帰ってくるの、いつだっけー?」
「予定では、そろそろお戻りになる時刻だが」
本日、陛下の午後のスケジュールは、国立の児童福祉施設へご訪問。
陛下が折に触れて、ふらりとご視察に向かわれる場所だ。
この日、空が気持ち良く晴れ渡ったのも、
きっと神が、陛下と子供達に味方したからだろう。
バレンタインやクリスマスの季節になると、
お土産に、たくさんのお菓子を携えて、子供達に会いに行かれる。
子供達は王様からのプレゼントをいつも楽しみにしているという。
今月はバレンタインがあることから施設の女性スタッフ向けに、
お花のプレゼント等も用意されていた。
頻度の上では、公式行事といっても過言ではないご訪問だが、
各メディアを完全にシャットアウトする目的で、
これはあくまでプライベートなご訪問ということになっている。
本日も陛下は「じゃあ、子供達と遊びに行ってくる」
と仰って、お出かけになられた。
大きな行事の際には、全六名の側近をお連れ下さるが、
本日のお供が一人のみであったことも、報道の目を避け、
施設に迷惑がかからぬようにと慮ってのことだ。
私個人としては、子供達と触れ合い、関係者を激励される御姿こそ、
広く世間に報じて欲しい、と常々思っているのだが、
陛下はこのような場合にこそ、目立たぬよう行動される。
それは私にとって、誇らしくもあり、少々もどかしくもあった。
「今日はお忍び用の車で出てったんだよなー」
エメリーはついに席から離れ、窓の下を眺めだした。
執務に戻る気は全くないのだろうか。
よもや、また逃げるつもりではあるまいな、と疑いたくなる。
あいつは、何かと理由を付けては、
私に仕事を押し付けることが度々あった。
「早く帰ってこないかなー」
しかし、ああしていると、まるで犬がしっぽを振りながら、
主人の帰りを待っているかのようだ。
エメリーは、六人居る側近の中で、最も理解のできない男だ。
私とはあらゆることが違い過ぎて、
異なる星の下に生まれてきた人間なのだろうとしか思えない。
第一に、エメリーは対外的な顔と、素の顔が違い過ぎる。
奴が側近らしく振る舞うのは、本当に公の場だけで、
国民の目がない場では、どこにでも居る若い男と変わらない。
カーディス国王陛下にお仕えする身でありながら、
その自覚が全くないのかと思う程、
立ち居振る舞いや口の利き方がなっていないのだ。
時には陛下に対しても、無礼な口を利く。
しかし、陛下はお優しいので、奴を咎めることはなく、
むしろ同じように砕けた口調でお話しになる。
主従の関係であるのに、学校の先輩と後輩かのようだ。
もし奴が他国の従者であったなら、決して許されないだろう。
我が国の陛下は、本当に寛大な御心をお持ちだ。
「あ、帰ってきたっ」
エメリーが声を上げる。車が見えたらしい。
「俺、先、行ってるぜっ」
瞬く間に執務室を出て行った。
執務を放り出していた時の鈍重さは欠片もない。
しかし、お帰りになった主を見て、心躍る気持ちは私とて同じだ。
この邸では、主のお帰りを従者が揃って出迎えることは、
決して義務ではない。そういった主従らしい振る舞いを、
「仰々しい」と言って陛下が好まれないからだ。
しかし、この大公家にお仕えする者達は皆、
陛下をお慕いしているので、エントランスに居た場合や、
お帰りに気付いた際には、自然と陛下をお出迎えする。
それについては陛下も許して下さる。
エメリーも陛下をお迎えせずにはいられないのだろう。
その気持ちはよく解る。気質などはまるで違えど、
私達は同じ主にお仕えする者同士。
奴も高い忠誠心を持っていることは、私も認めている。
無論、忠誠心の高さに於いて、私は誰にも負ける気はしないが。
私も手を止め、席を立つ。
さあ、我々の主をお迎えに行かねば。
→
一軒目のビアバーを出たところだった。
食事はもう済ませたし、このまま帰るか、
それとも二軒目に行こうか、というところだった。
「ソクちゃーん、このあと、どーするー?」
連れも考えることは同じようだ。
向こうの口調が舌足らずになってきたので、
今夜はもう引き上げたほうが良いだろうかと思った時、
知っている人物を見かけた。
バーの前に立ち、一人で店を見上げている姿を。
その横顔が、普段の彼とはまるで違った為、
私は酷く興味を惹かれた。
数秒後、彼は店を去り、どこかへ消えた。
「どっかさー、もう一軒くらい……居ない。もうソクちゃーん」
立ち止まっていた私の元にパタパタと戻ってきた。
「どったの?」
「次は、あそこへ行くぞ」
ウッディな一軒家を顎で示す。もう常連と言えるバーだ。
そこに居るマスターは、我々が学院の教師と、
ドライバー兼警備担当者であることを知っていた。
「ああ。あのマスターのお店か。イイね。行こ行こっ」
肩を押されながら、私達はその店へ向かった。
「こんばんはー」
連れの酔った明るい声が響く。
この店はいつ来ても静かなところが良い。
今日も客入りは数組程度。ここには何度も来ているが、
店内が騒々しかったり、満席だったことは一度もなかった。
カウンターには丸眼鏡をかけた初老のマスターが一人。
白いシャツに赤いチョッキ。襟元は黒いリボンタイが結ばれている。
私達の顔を見たマスターは、いつもの優しい笑顔で、
「ああ、いらっしゃい」と言ってくれた。
木製のカウンター席に座った私は、
酒を注文するより先にマスターに尋ねた。
「先程まで、クロイツがここに居ませんでしたか?」
マスターは少し驚いたような顔をする。
言って良いのだろうか、という迷いが伺えた。
それでこそ、ここのマスターだ。
彼は口が堅い。客の情報について、他人に言って良いラインと、
決して言ってはいけないラインがきちんと解っている。
私は「今、彼が店の前に居るのを見かけたんですよ」と言葉を添えた。
するとマスターは観念したようで、白状してくれた。
私の隣をチラリと見たあとで。
どうやら、今日、連れが居たことが幸いしているらしい。
私一人だったなら、マスターは白状してくれなかったかもしれない。
「はい。確かにクロイツさんがいらっしゃいました」
「え!? クロちゃん居たの? ちょっとソクちゃん!
どーして俺に教えてくれなかったのさー!」
「お前に教えてどうする? 一人で飲んでいた男の邪魔をする気か?」
「あ、いや……」
「マスター。クロイツは、この店に良く来ていたんですか?」
少し迷ったあとで、マスターは控えめながらも話してくれた。
「いえ。クロイツさんがいらしたのは随分お久し振りでした」
「成程。だから、今までここで会うことがなかったんですね」
「ふうん。クロちゃんもココ知ってたんだー。
じゃあ今度、クロちゃん誘って一緒に来てみよっかなー?
あ、でも、クロちゃんと飲んだら、
俺、ずーっと怒られちゃうかなあ?」
マスターが目をぱちくりする。
「クロイツさんに? アイヴィーが何を怒られるんだい?」
「あ、いやー、日頃の行い、とか?
部屋の整理整頓をして下さい! みたいな。
普段使ってないトコまで綺麗にしなさいって言うんだもーん」
「アイヴィー。お前はクロイツと飲みに行ったことはないのか?」
「うん。俺が島に来たばっかの時に、
一回誘ってみたことはあるんだけど断られちゃったから。
仕事以外で、貴方とご一緒する理由が感じられませんが、って」
物真似が微妙に似ていない。
「クロイツと二人きりで飲むことに気がひけるなら、
私が同席してやろうか?」
「そ、それはクロちゃんがカワイソ過ぎるんで、止めときます」
「悪いようには、しないつもりだが?」
「いやっ、ホントに。お気持ちだけで結構ですんで」
それは残念だ。かねてより、クロイツとはじっくり、
話をしたいと思っているのだが、なかなかその機会が訪れない。
「では、いつか二人で来れば良い。
あとはマスターにお任せします」
「おやおや。当店にできるのは、
美味しいお酒と少しのお食事をお出しすることだけですよ」
とんでもない謙遜だ。ここには貴方が居る。
ある種、プロのカウンセラーでも敵わない力と、
長年の経験を持った貴方が。
「そっか。マスターが居てくれれば何とかなるかも」
アイヴィーもそう呟いていた。
こいつもマスターを信用しているのだろう。
「じゃあ俺、今度クロちゃん誘ってみよっかな。
クロちゃんのゴキゲンが良さそうな時に。
マスター、そん時はヨロシク。クロちゃんから俺を守ってね!」
マスターの目尻に皺が刻まれる。
「はい。お二人のお越しをお待ちしております」
アイヴィーとクロイツは、司令と副司令という近い立場ではある。
しかし、未だに、彼等の間に親しさは感じられない。
どちらかと言えば、クロイツのほうが、
司令官との接触を遮断しているように見受けられる。
だが、この店で二人が飲んだなら、少なからず変わるだろう。
きっと良い方向に。その現場を観察できないのが残念だ。
「オーダーが遅れましたね。すみません。
今夜は、私の質問に答えて下さったお礼も兼ねて、
稀少なウイスキーを頂けますか?」
「あ、はい。畏まりました」
「じゃあ良く解んないけど、俺もソレー」
「良いのか? お前には勿体無い程、
高価なウイスキー、という意味だぞ?」
「……じゃあ俺、コロナ」
奴は瓶ビールを注文していた。
fin
| 06 | 2026/07 | 08 |
| S | M | T | W | T | F | S |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | 4 | |||
| 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
| 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
| 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
| 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |