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■クロイツ
「そうか。今年はできないな」
海は夕闇に染まろうとしている。
窓の向こうに広がる海を眺めながら、貴方は唐突にそう仰った。
聖アルフォンソ島の警備本部。
この司令室に居るのはゲーテ司令官と、
副司令官である私、ラインハルト・クロイツのみ。
私に話しかけて下さっているのか、
それとも独り言かと逡巡する。
今年はできない、と仰っていたが、
何ができないのだろう。
やはりそれは、貴方が司令官を退任する日が、
数日後に控えているからなのだろうか。
「クロイツ」
「はい」
「ひとつ頼まれてくれんか。儂の代わりに」
司令が海を眺めたまま仰った事は、
とても些細で、とても重い、頼み事だった。
「どんな花をお探しですか?」
おばあさん、と呼べる年頃の御婦人は、
目尻をしわくちゃにしながら、私にそう声をかけた。
普段、花屋などに足を向けたことがない私は、
ここまで来たものの、どの花を手にとって良いか全く解らなかったので、
手助けを頼めることは有難かったのだが、
花を求めに来た目的を、正直に言うのは憚られた。
御婦人はフフと微笑みながら、
「恋人への贈り物かしら?」
「いいえ。そのようなものでは」
「あらあら。照れちゃって、可愛いのねえ」
「違います。相手は男で」
「まあ。恋人は男性の方なの?
そうね、そういう恋の形もあるわよね」
「ですから、そういうことではなく。
恋人などに贈る花ではないのです」
「そうだったの? ごめんなさい、私、早とちりしちゃって。
ではどなたに? それともお部屋に飾るお花をお探しですか?」
つぶらなグリーンの瞳を向けられて、
つい私は、正直に告げてしまった。
「亡くなった者へ手向ける花です。
彼はあの海で亡くなったので、
あの海に手向けて欲しいと、頼まれまして」
だから、話したくなかったのだ。
初対面の人間からこんな暗い話をされても困るだろう。
そう思ったのに、年老いた御婦人は慈悲深い顔で私を見た。
「そうだったの。偉いのね。きっと喜ばれますよ」
そんな言葉をかけられるとは思わなかったので、
私は何も言葉を返せなかった。御婦人は花を眺めながら、
「お花、お幾つくらいご用意しましょうか。
ご予算があれば、その範囲で花束をお作りすることもできますが」
「いえ、花は一本で構わないとのことでしたから」
「そう。では、どのお花が良いかしらねえ」
「じゃあ、ガーベラが良いよ」
いつからそこに居たのか、気付かなかった。
御婦人の後ろから出てきたのは少女だった。
少々動転していたとは言え、傍に子供が居ると知っていたら、
このような話はしなかったのに。
少女は迷わずに黄色い花を一本取って、
「はい、これ」
差し出された物を、私は受け取れずにいた。
「どうしたの? これだよ、ガーベラ」
何故彼女がそれを選んだのか解らなかった私は
「どうして、その花なんです?」と尋ねた。
彼女はどうしてそんな簡単なことを聞くんだろう、
といった顔をして、私にこう答えた。
「これなら、海の中からでも良く見えるから」
彼女の隣で御婦人が目尻をしわくちゃにする。
「そうね。この子の言う通りだわ。
こちらにします?」
「あ、はい」
「ありがとうございます。
ローザ、そこのリボンをとってくれる?」
「はーい」
少女は数種類あるリボンの中から、
黄色のリボンを切って、渡した。
御婦人はたった一本の花を綺麗に包み、リボンまで結んでくれた。
それから、彼の命日が来る度に、
同じ花屋で、同じ花を買い求めるようになった。
同じことを何年も続けているので、
私の顔はすっかり覚えられてしまった。
つい先程、花を買った時も「そろそろガーベラのお兄さんが
いらっしゃる頃ねってこの子と話していた所なんですよ」
といつもの笑顔で迎えられた。
今日の御婦人は、いつも以上に幸せそうだった。
会計を済ませる時、壁にクレヨンで描かれた絵が一枚飾られていた。
去年までは、そこになかった。
白い画用紙に描かれていたのは、笑顔のおばあさん。
その下にはクレヨン特有のガタガタした文字で、
「おばあちゃん おたんじょうび おめでとういつまでも げんきでね」
というメッセージが綴られていた。
これを描いたのが誰なのか私にはすぐに解った。
「彼女からの誕生日プレゼントですか?」
グリーンのキャップを被った少女を見ながら尋ねると、
御婦人は今までに見たことがないくらいの笑顔になって、
少女の肩を抱き寄せた。
「ええ、ええ。そうなんですよ。
私の誕生日に、この子が描いてくれたんです。
私、とっても嬉しくって。本当にありがとうね」
「おばあちゃん、それ、何度も言い過ぎだよ」
見つめ合う少女と御婦人は、二人共とても幸せそうだった。
そして今年も、花を手に海の見える公園に来た。
公園と言っても、遊具の類はなく、
ここにあるのは舗装された道と柵とベンチだけ。
ここでできることは限られる。
海を見下ろしながらのジョギングか、犬の散歩、
ベンチに座って読書をするくらい。
およそ子供には向かない公園であるところが良い、
今年も私以外に誰も居なかった。
眼下には柵越しに、眩しい海が広がっている。
空も同様に真っ青で、夜勤明けの目には沁みる程だ。
非番の朝を迎え、仕事帰りの足で花を買い、ここへ来た。
手にしている物がパタパタと音を立てた。
一輪の花を包んでいる、透明なセロハンが、
潮風に煽られ、身を震わせていた。
花を手に海を見るなど、
我ながら似合わぬものだと解ってはいるが、
私はきっと来年もここに来るだろう。
再び、潮風が花束の包みを鳴らす。
まるで「早く」と急かされているかのようだ。
私は包みを解き、一輪の花を手にする。
柵の上から花を海に投げる。
宙に浮いた黄色は、重力に逆らうことなく、海に落ちた。
青い海に黄色がよく映える。少女の言った通りだ。
一年前も、その前も、そう思ったことを思い出す。
白い海鳥が二羽、連れ立って高い空を飛んでいる。
そう言えば、あの花屋で見かける顔は、
いつもあの御婦人と少女だけだ。
今日、店に寄った時も、店の壁に飾られていた絵には、
御婦人しか描かれていなかった。
少女が選んでくれた花が海の上で優雅に揺れている。
今は鮮やかな色を見せているあの花も、
やがて色を失い、朽ち、消える。
亡者に花を手向けること程、意味のないことがあるだろうか。
海鳥が高く鳴いて、一羽が沖のほうへと向かった。
一羽足りない。先刻まで、もう一羽、傍に居た筈だが、
見回しても、姿を見つけることができなかった。
柵に手を置き、見下ろすと、そこにはまだ黄色い花があった。
海の中では異物の花が波の間で揺れている。
「また来ます」
ふいに零れた言葉。誰からも返事はない。
ただ、波の音だけが返された。
fin
「そうか。今年はできないな」
海は夕闇に染まろうとしている。
窓の向こうに広がる海を眺めながら、貴方は唐突にそう仰った。
聖アルフォンソ島の警備本部。
この司令室に居るのはゲーテ司令官と、
副司令官である私、ラインハルト・クロイツのみ。
私に話しかけて下さっているのか、
それとも独り言かと逡巡する。
今年はできない、と仰っていたが、
何ができないのだろう。
やはりそれは、貴方が司令官を退任する日が、
数日後に控えているからなのだろうか。
「クロイツ」
「はい」
「ひとつ頼まれてくれんか。儂の代わりに」
司令が海を眺めたまま仰った事は、
とても些細で、とても重い、頼み事だった。
「どんな花をお探しですか?」
おばあさん、と呼べる年頃の御婦人は、
目尻をしわくちゃにしながら、私にそう声をかけた。
普段、花屋などに足を向けたことがない私は、
ここまで来たものの、どの花を手にとって良いか全く解らなかったので、
手助けを頼めることは有難かったのだが、
花を求めに来た目的を、正直に言うのは憚られた。
御婦人はフフと微笑みながら、
「恋人への贈り物かしら?」
「いいえ。そのようなものでは」
「あらあら。照れちゃって、可愛いのねえ」
「違います。相手は男で」
「まあ。恋人は男性の方なの?
そうね、そういう恋の形もあるわよね」
「ですから、そういうことではなく。
恋人などに贈る花ではないのです」
「そうだったの? ごめんなさい、私、早とちりしちゃって。
ではどなたに? それともお部屋に飾るお花をお探しですか?」
つぶらなグリーンの瞳を向けられて、
つい私は、正直に告げてしまった。
「亡くなった者へ手向ける花です。
彼はあの海で亡くなったので、
あの海に手向けて欲しいと、頼まれまして」
だから、話したくなかったのだ。
初対面の人間からこんな暗い話をされても困るだろう。
そう思ったのに、年老いた御婦人は慈悲深い顔で私を見た。
「そうだったの。偉いのね。きっと喜ばれますよ」
そんな言葉をかけられるとは思わなかったので、
私は何も言葉を返せなかった。御婦人は花を眺めながら、
「お花、お幾つくらいご用意しましょうか。
ご予算があれば、その範囲で花束をお作りすることもできますが」
「いえ、花は一本で構わないとのことでしたから」
「そう。では、どのお花が良いかしらねえ」
「じゃあ、ガーベラが良いよ」
いつからそこに居たのか、気付かなかった。
御婦人の後ろから出てきたのは少女だった。
少々動転していたとは言え、傍に子供が居ると知っていたら、
このような話はしなかったのに。
少女は迷わずに黄色い花を一本取って、
「はい、これ」
差し出された物を、私は受け取れずにいた。
「どうしたの? これだよ、ガーベラ」
何故彼女がそれを選んだのか解らなかった私は
「どうして、その花なんです?」と尋ねた。
彼女はどうしてそんな簡単なことを聞くんだろう、
といった顔をして、私にこう答えた。
「これなら、海の中からでも良く見えるから」
彼女の隣で御婦人が目尻をしわくちゃにする。
「そうね。この子の言う通りだわ。
こちらにします?」
「あ、はい」
「ありがとうございます。
ローザ、そこのリボンをとってくれる?」
「はーい」
少女は数種類あるリボンの中から、
黄色のリボンを切って、渡した。
御婦人はたった一本の花を綺麗に包み、リボンまで結んでくれた。
それから、彼の命日が来る度に、
同じ花屋で、同じ花を買い求めるようになった。
同じことを何年も続けているので、
私の顔はすっかり覚えられてしまった。
つい先程、花を買った時も「そろそろガーベラのお兄さんが
いらっしゃる頃ねってこの子と話していた所なんですよ」
といつもの笑顔で迎えられた。
今日の御婦人は、いつも以上に幸せそうだった。
会計を済ませる時、壁にクレヨンで描かれた絵が一枚飾られていた。
去年までは、そこになかった。
白い画用紙に描かれていたのは、笑顔のおばあさん。
その下にはクレヨン特有のガタガタした文字で、
「おばあちゃん おたんじょうび おめでとういつまでも げんきでね」
というメッセージが綴られていた。
これを描いたのが誰なのか私にはすぐに解った。
「彼女からの誕生日プレゼントですか?」
グリーンのキャップを被った少女を見ながら尋ねると、
御婦人は今までに見たことがないくらいの笑顔になって、
少女の肩を抱き寄せた。
「ええ、ええ。そうなんですよ。
私の誕生日に、この子が描いてくれたんです。
私、とっても嬉しくって。本当にありがとうね」
「おばあちゃん、それ、何度も言い過ぎだよ」
見つめ合う少女と御婦人は、二人共とても幸せそうだった。
そして今年も、花を手に海の見える公園に来た。
公園と言っても、遊具の類はなく、
ここにあるのは舗装された道と柵とベンチだけ。
ここでできることは限られる。
海を見下ろしながらのジョギングか、犬の散歩、
ベンチに座って読書をするくらい。
およそ子供には向かない公園であるところが良い、
今年も私以外に誰も居なかった。
眼下には柵越しに、眩しい海が広がっている。
空も同様に真っ青で、夜勤明けの目には沁みる程だ。
非番の朝を迎え、仕事帰りの足で花を買い、ここへ来た。
手にしている物がパタパタと音を立てた。
一輪の花を包んでいる、透明なセロハンが、
潮風に煽られ、身を震わせていた。
花を手に海を見るなど、
我ながら似合わぬものだと解ってはいるが、
私はきっと来年もここに来るだろう。
再び、潮風が花束の包みを鳴らす。
まるで「早く」と急かされているかのようだ。
私は包みを解き、一輪の花を手にする。
柵の上から花を海に投げる。
宙に浮いた黄色は、重力に逆らうことなく、海に落ちた。
青い海に黄色がよく映える。少女の言った通りだ。
一年前も、その前も、そう思ったことを思い出す。
白い海鳥が二羽、連れ立って高い空を飛んでいる。
そう言えば、あの花屋で見かける顔は、
いつもあの御婦人と少女だけだ。
今日、店に寄った時も、店の壁に飾られていた絵には、
御婦人しか描かれていなかった。
少女が選んでくれた花が海の上で優雅に揺れている。
今は鮮やかな色を見せているあの花も、
やがて色を失い、朽ち、消える。
亡者に花を手向けること程、意味のないことがあるだろうか。
海鳥が高く鳴いて、一羽が沖のほうへと向かった。
一羽足りない。先刻まで、もう一羽、傍に居た筈だが、
見回しても、姿を見つけることができなかった。
柵に手を置き、見下ろすと、そこにはまだ黄色い花があった。
海の中では異物の花が波の間で揺れている。
「また来ます」
ふいに零れた言葉。誰からも返事はない。
ただ、波の音だけが返された。
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