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■ソクーロフ×アイヴィー
「日曜日の午後、空いているか?」
金曜の夕方。
保健室からアイヴィーの携帯に電話が掛かって来た。
「…え。ソクちゃん…どーしたの?」
「空いているかと聞いているのだが?」
「あ、うん。ヘーキだよ、今んトコは」
不確定な言い方をしたのは、
その日、タクシードライバーとしての予定は入っていなかったが、
警備責任者という肩書き故、有事の際には問答無用で出勤となるからだ。
「では学院のプライベートビーチまで乗せてくれ。お前も水着を着て来い」
水着? と聞き返す。
「何、泳ぐの? あ…海で、泳ぐんだよね? あのさ、海岸行って、
水着まで着て車の中で……とかそういうオチはヤだよ?」
「それはお前の願望か?」
「ち、違いマスっ!」
「では日曜日、正午に正門前で」
「あ、ちょ、ちょっと待って!」
電子音。切られてしまった携帯を見つめる。
「…今の、おデートのお誘いだったのかなあ?」
昼間の海で何をするつもり何だろうと訝る。
やっぱりアレな絵しか思い付かない。
二人きりで波打ち際を走るよりは現実的、と思っている自分にガッカリした。
日曜日の正午。
タクシードライバーが正門前に到着すると、向こうに人影が見えた。
月桂樹のアーチをくぐって、こちらに向かってくる。
白衣、長髪、眼鏡のヒト。と、その後方に二人。
「あっ…こ、こんにちは」
高等部一年コンビのミハイルとユウタ。
「アイヴィーさん、こんにちはー!」
引率の先生が優しく言う。
「君達は後部座席へ。私は助手席に乗るから」
「はーい」
ドライバーは、助手席へ回ろうとする先生をチラと睨みながら、
こういうオチかよと呟いた。
「てゆうか、気付けよ、オレ…」
聖アルフォンソ学院プライベートビーチ。
他に遊びに来て居る者は居なかった。
つまり、此処には、海岸で遊んでいる生徒二人と、
それをキャビンから見守ってるドクターとドライバーだけ。
ユウタは早速、海の中へ入っていった。
ミハイルも一緒に行こうと誘っていたのだが、
ぼくはいいの、と固辞したようで浜辺に残っていた。
ユウタは沖に出て、ミハイルは一人で砂遊びを始めている。
保護者達は木製の屋根の下でくつろいでいた。
夏の強い日差しが当たらないキャビンは良い休み処となる。
小屋の中には万一の時に備えて、救命用具も装備されているし、
簡易の冷蔵庫もあるので、冷たい物がいつでも飲める。
今日はドライバーとして来ているので缶ビールを入れられないのが残念なくらいだ。
潮風に混ざって木の香りがする。
隣の保健医も、ゆったりとビーチチェアに寝そべっている。
「あ、ちょっと、ドクター」
アイヴィーが白衣を引っ張る。
「あんたのクライアント、お城作って泣いてますけど、波打ち際で」
「ああ。泣いているな」
「落ち着いてないでアドバイスして来いよ。今こそ出番だろ、カウンセラー」
「カウンセラーは、そっと見守ることも仕事だ」
「それ、ただの放置プレイとドコが違うの?」
そうこうしているうちに、ユウタが海から浜に戻って来た。
泣いているミハイルを慰めている。
もっと向こうで作った方が良いよ、と指を差しているのが見えた。
大人が出て行かなくても良かったようだ。
こうなることを見越していたのだろうか、と隣を見る。
寝そべりながら、重そうな本を読んでいた。
「ねー、ドクター。海まで来て何読んでんの?」
「心理学会の論文集だ。読みたいのか?」
「ゼンゼン」
「なら、お前は生徒達から目を離すなよ」
「…俺も放置プレイかよ」
アイヴィーは煙草を咥える。
カチリとジッポを押して火を点ける。
身体にとって毒にしかならない煙は、異常にウマイ。
唇の先から昇る紫煙をぼんやり眺めながら、ぼうっとしていた。
こうしていると、この島はとんでもなく平和なんじゃないか、と思いたくなる。
が、実際は全くそうではないということは良く知っている。
それは大人達だけが知っていればいい。
ドライバーが煙草を片手にのんびりしていると、
ユウタとミハイルが一緒にこちらへ向かってきた。
「あ。なんか、あいつら来たよ?」
それを聞いた博士は身体を起こした。
生徒を前にすると、放置主義者は人が変わったように丁寧な話し方をした。
「どうしたのかな? 休憩かい?」
「はい。ちょっと喉が渇いちゃって」
ユウタはそう言って、奥へ入り冷蔵庫を開けた。
「ミハイルー、何飲む? オレンジジュースとかアップルジュースとかあるけどー」
「ユウタと、おなじのがいいな」
「オッケー。じゃあ、オレンジ」
ミハイルは友達の傍へ行こうとする。
ソクーロフは主治医らしく労わりの声を掛けた。
「ミハイル、体調は悪くないかい?」
「はい、博士。ぼく、とっても楽しいです」
にこっと、はにかむ。
「連れて来てくれてありがとうございます」
「どういたしまして。良かったね、ミハイル」
その声は何処までも優しい。
ぞんざいに扱われるドライバーは頬を膨らましていた。
誰にも聞こえない程度の声で、ぼそっと文句を言う。
妙なところで気が小さい男だった。
「その優しさを、俺にもちょっとくらい分けろよ」
ジュースを飲み終わるとミハイルは、もじもじしながら言った。
「博士、ぼくも、海に入ってみても良いですか? ちょっとだけ」
「もちろん、構わないよ。少しは泳げるんだったね?」
「はい。でも子供の時で…もう何年も泳いでないから…」
「深いところに行かなければ大丈夫だよ。それから、準備運動を忘れずにね?」
「はいっ」
生徒達が海岸で仲良く準備運動をしている。
ユウタが体操を教えているようで、その動きをミハイルが真似していた。
アイヴィーはその様子をじぃーっと見ていたが、初めて見る体操だった。
深呼吸や屈伸などは普通だがユニークな動きが時折混じる。
かなり念入りに体操をした後、
ユウタに手を引かれて、二人で海に入っていった。
浅い場所なのに、おそるおそる海に近付いていくかんじが可愛らしい。
最初は海の冷たさにビクついていたようだったが、
身体が慣れてくる頃には、楽しそうに遊んでいた。
仲良しコンビを見ていると、なんだか羨ましくなってきた。
こちらの相棒は、まだ読書中。
ドライバーは、とことん放置されるらしい。
「…イジワル。ミハイルには優しいのにー」
すると、隣から反応があった。
「何の話だ?」
「ソクーロフ先生の話だよ! 他に居ないでしょ、こんなイジワル!」
「私は、相手の望むスタニスラフ・ソクーロフを演じているだけだ」
自分はクライアントの欲望を映す鏡だとこのドクターは言う。
それが私のカウンセリング手法だと。
「ミハイル用のソクーロフ、お前用のソクーロフ。
両者の私が異なるのは当たり前だろう。
ミハイルとお前では私に望むものが違うのだから」
「俺がドMみたいに言ってんじゃねーよ」
「事実を述べたに過ぎない」
「…またイジワル言うー」
堂々巡りにしかならないので、ジトとした目でサディストを見る。
長い髪はいつもの如く、大儀そうに一つに結わえている。
羽織っている白衣はいつも目にしているものだが、その下は違う。
普段のファッションセンスは悪くないのだが、
このヒトのビーチファッションは、明らかに普通の感覚ではない。
「てゆうかさあ、そのカッコなんだけど…」
「何だ?」
襟元では鎖骨を晒し、白い裾から覗いているのは素足。
「…水着に白衣って保健教師モノじゃないんだからさ」
「保健教師モノ? ――ああ、だから電話であんなことを口走ったのか」
「えっ…」
カウンセラーはクスリと笑い、こう断言した。
「最近、水着を着た保健教師が、車の中に居る作品を見たな?」
「ま、まっさかー」
金髪の耳がさっと赤くなる。
「えと、俺、お城でも作ってこようかなー」
背けた目が海岸を映す。砂浜ではユウタがお城を作っていた。
ミハイルが居ない。
視界の隅にキラリとしたものが映る。沖の方に金髪が見えた。
砂浜ではユウタがお城作りのクライマックスを迎えていた。
波打ち際からかなり離れたところ。此処なら波に流されることはない。
ミハイルが作った土台を基に、その続きをユウタが作っていた。
てっぺんの三角部分を、いかに滑らかなトンガリにするか調整中だった。
砂遊びなんてミハイルは子供っぽいなーと最初は思っていたが、
久し振りにやってみると、これがとても面白い。
小学校の図工の時間にやった粘土細工や、
幼稚園の時に姉貴と公園で作ったダムなどを思い出していた。
懐かしい思い出に浸りながら、両手でトンガリを整える。
口からは自然と、子供の時に好きだったアニメソングが流れていた。
「よーしっ、カンセイ!」
自分でも惚れ惚れするほどの仕上がりで、思わず携帯で写真を撮りたくなった。
荷物はキャビンに置いてきてしまっている。
取りに行くのはちょっと面倒くさい。でも撮りたい。
姉貴に一枚、送りたい。
その想いが勝った。
ミハイルに声を掛けてから、携帯を取りに行こうとした。
「ミハイルー。…あれ?」
さっきまで近くで水遊びをしていた筈のミハイルが居ない。
きょろきょろしていると十数メートル先に居た。
ミハイルは唇の所まで海に沈んでいた。
「ミハイルッ!」
「あ、足が、つっちゃっ…」
そう喋った時、海水を飲み、咳き込んだ。
開いた口にまた海水が流れ込む。
「ミハイル、今、助けに行くからっ!」
ユウタの肩に手が置かれる。
「はーい、ちょい待ち」
振り返ると、アイヴィーが立っていた。
「俺が行くから。お前さんはコレ、頼むぜ?」
アイヴィーは救命用の浮き輪を手にしていた。
浮き輪にはロープの束が付いていた。束の先をユウタに手渡す。
「命綱だ。俺が合図したらドクターと引いてくれよっ」
海の中へ入っていく。
ユウタの後方から声が聞こえて来た。
「覚えておきなさい、ユウタ。このような場合、
単独で助けに行ってはいけないよ」
ソクーロフ博士は黒いバッグとランチ用のビニールシートを手にしていた。
シートを砂浜に敷きながら話を続ける。
「溺れている人はね、救助者にしかみついてしまい、
両者とも沈んでしまうことが多いんだ。どんなに泳力があっても関係ない。
だから、あれが正しい救助方法の一例だ」
海を見る。ミハイルの傍まで辿り着いたアイヴィーは、
正面からは向かわず、わざわざ背後に回ってから、
ミハイルに先ず浮き輪を被せていた。
腕を浮き輪に捕まらせると、こちらに向かって手を挙げた。
「合図だっ!」
ユウタはソクーロフと一緒にロープを引く。
浮き輪が浜に引き寄せられていく。
アイヴィーは顔を上げたままの状態で、ミハイルに併走して泳いだ。
浜辺に着くと、ユウタはロープを捨てて駆け寄る。
ミハイルは目を閉じており、ぐったりした様子だった。
「こちらへ運べ」
「あいよっ」
博士の先導で、アイヴィーはミハイルを抱えて、
敷かれたシートの上にそっと寝かせる。
テキパキと動く二人をユウタは呆然と見守ることしかできなかった。
博士は広げた黒いバッグから、医療用具を出していた。
慌てる様子なく、診察を行っている。
ユウタが保健室で見る優しい先生より、冷静に見えたくらいだった。
「ごめんなさい、ぼくのせいでっ、ぼくのっ」
迅速で適切な処置を受けたミハイルは、すぐに意識が戻った。
幸い、水を飲んだ程度で済んだ。
誰も叱っていないのに、ミハイルは泣いて謝った。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ」
主治医は生徒の濡れた髪を撫でる。
「謝ることはないよ」
「でも、ぼくが、ぼくが泳いでみたいって言ったから」
「今日はたまたま、足がつってしまっただけだ。君のせいじゃない」
「ごめんなさい、ぼく、もう海に行きたいなんて…」
涙で濡れた頬を主治医が拭う。
「さっきまでのミハイルは、海に来てとっても楽しい、と私に言ってくれたよ?」
大きなブルーの瞳が瞬く。博士は生徒を引き寄せた。
頭から抱え込むように抱き締めた。
白衣に透明な滲みがじんわりと広がっていく。
ミハイルは自分の身体がびしょ濡れであることに気付き、慌てた。
「あのっ、博士、白衣が…」
アイヴィーは見逃さなかった。
頭を抱える手に少し力が入ったのを。
感情を抑えた声でカウンセラーは言った。
「無事で良かった、ミハイル」
これが演技なら職業を間違えている、とドライバーは思った。
その夜、大人達はソクーロフが暮らす部屋で、夕食を共に食べた。
教職員の宿舎はメルキュール館と言う。
知恵を司る神を意味するのだろうという説があるが、
教授陣にも正確なところは知らされていない。
それは此処に住んでいる保健医も同じだった。
落ち着いた一流ホテルのような建物に自分も一室借りている。
テーブルには来客が作った大雑把なディナー。こちらは既に空になっている。
自分はフォークでチョコレートを刺す。
これは冷蔵庫によく入れているもので、
好んでウイスキーの肴にしている高級生チョコレート。
来客はソファに座って、自分で持ってきた缶ビールをちびちびやっていた。
口に運ぶともう空だったらしく、
ぐいと角度を高くして残りを飲んだようだった。
缶を置くと、腕を伸ばして、断りもなく高級チョコを摘む。
指に付いたココアパウダーごと口に入れていた。
六年前、広い意味での同僚として出逢った男。
――『訳ありの王子』は子供だけではないらしい――
それが第一印象。
この男から目を離してはいけない。心理学者としての直感だった。
六年もの間、幾度も幾度も、その澱を吐き出す機会を与えているが、
その度に拒まれ、痛々しい笑顔を見せられる。
自分は幼少期から人の心が読み取れた。
そして自分は、この男に何を望まれているのかも解っていた。
「でー、ミハイルの様子は、どうよ?」
金髪は二個目のチョコレートに手を出しながら言った。
「身体的には問題ない。精神的ショックの方が強いな」
「海、キライになっちゃうカモ?」
「それはこれからのカウンセリングで緩和できることだ」
金髪のトーンが少し低くなる。
「今日の記憶、消すつもり?」
「まさか。そう往々に施していい手段ではないだろう」
「うん」
沈黙。
カウンセラーはウイスキーに口付けながら、相手を観察する。
金髪の男は既に空の缶を口に運ぶ。
口付けてから何も流れてこないのに気付いたようで、
飲んだフリをして、テーブルに戻していた。
カウンセラーは一歩踏み込んだ質問をした。
「お前は、消し去りたい記憶があるのか?」
アイヴィーは言葉を発さず、微かに笑みを浮かべる。
首を横に振る。金髪がさらさらと揺れた。
「さーてっ」
アイヴィーは空缶を持って立ち上がった。
そう遠くないゴミ箱に向かって放る。
他の空缶とぶつかった音が聞こえた。
カウンセラーを振り返った時には笑顔になっていた。
「もう寝よっか」
ひひー、とソクーロフのベッドに座ってみせる。
わざと子供っぽく笑う顔は、深い傷を負った大人にしか見えなかった。
博士は一息遅れて、そうだな、とソファから立ち上がった。
ベッドで足をブラブラさせている大人が言う。
「今日はー、痛いオモチャとかナシだからね、ヘンタイさん?」
「それでは私の部屋に来たイミがないだろう?」
机の引き出しから何やらゴソゴソと出している。
見せ付けるようにそれをベッドに転がした。
「まーた新しいオモチャ買ってるし…どこでゲットしてくんのさ、こーゆーの。
あんね! 見てるだけのヒトは愉しいだろうけど、って聞いてんの?」
博士はクローゼットを開けていた。
ハンガーから取ったのはよく見る仕事着。
「ちょっと、なんでわざわざ白衣着んの?」
「スキなんだろう?」
自らワイシャツのボタンを外していく。
アイヴィーには背を向けていた。
肩からするりと、ワイシャツが滑る。
素肌の上半身。その上に白衣を纏った。
背を見せたまま、声だけ後方に投げる。
「水着も必要か?」
「要りませんっ!」
「脈拍が上昇している」
「声だけで脈、判んのかよっ?」
「判るさ」
医師はゆっくりとベッドに歩いてくる。
隣に座ったカウンセラーは相手を見つめた。
金髪は僅かに首を傾げた。
「ソクちゃん? どうし…」
白衣の腕を持ち上げる。
素肌から滑った布。白い手首が覗いた。
ドライバーの頬を通りながら、金髪の間に滑り込ませる。
右耳を包むように触れている。
自分の舌は、唇を割って奥へ進んでいた。
口内を犯しながら、耳たぶを弄ぶ。
柔らかい皮膚が徐々に色付き、熱を帯びてくる。
口の端からは向こうの吐息が漏れ始める。
相手の舌は甘かった。
右下の奥から、大臼歯、小臼歯となぞっていく。
甘い。よく知っているチョコレートが残っていた。
やはりビールは飲んだフリだったようだ。
どうでもいい裏付けを取っている間に、吐息は嬌声へと変わっている。
反対の手で、緩いネクタイの結び目に人差し指を掛ける。
静かに下に引く。首の周りをネクタイが蛇のように這う。
黒い蛇を抜き終わると、片手でボタンを開けていく。
口内では、もうチョコレートの味はしない。
とろりとした液体から、微かにウイスキーの味を感じた。
白衣の左肩を掴まれながら、カウンセラーは自己の能力を疎ましく思っていた。
――私は刹那の慰めしか望まれていないのか――
欲望を映す鏡は、相手が望むものを忠実に演じ続ける。
今は、そうするより他になかった。
fin
「日曜日の午後、空いているか?」
金曜の夕方。
保健室からアイヴィーの携帯に電話が掛かって来た。
「…え。ソクちゃん…どーしたの?」
「空いているかと聞いているのだが?」
「あ、うん。ヘーキだよ、今んトコは」
不確定な言い方をしたのは、
その日、タクシードライバーとしての予定は入っていなかったが、
警備責任者という肩書き故、有事の際には問答無用で出勤となるからだ。
「では学院のプライベートビーチまで乗せてくれ。お前も水着を着て来い」
水着? と聞き返す。
「何、泳ぐの? あ…海で、泳ぐんだよね? あのさ、海岸行って、
水着まで着て車の中で……とかそういうオチはヤだよ?」
「それはお前の願望か?」
「ち、違いマスっ!」
「では日曜日、正午に正門前で」
「あ、ちょ、ちょっと待って!」
電子音。切られてしまった携帯を見つめる。
「…今の、おデートのお誘いだったのかなあ?」
昼間の海で何をするつもり何だろうと訝る。
やっぱりアレな絵しか思い付かない。
二人きりで波打ち際を走るよりは現実的、と思っている自分にガッカリした。
日曜日の正午。
タクシードライバーが正門前に到着すると、向こうに人影が見えた。
月桂樹のアーチをくぐって、こちらに向かってくる。
白衣、長髪、眼鏡のヒト。と、その後方に二人。
「あっ…こ、こんにちは」
高等部一年コンビのミハイルとユウタ。
「アイヴィーさん、こんにちはー!」
引率の先生が優しく言う。
「君達は後部座席へ。私は助手席に乗るから」
「はーい」
ドライバーは、助手席へ回ろうとする先生をチラと睨みながら、
こういうオチかよと呟いた。
「てゆうか、気付けよ、オレ…」
聖アルフォンソ学院プライベートビーチ。
他に遊びに来て居る者は居なかった。
つまり、此処には、海岸で遊んでいる生徒二人と、
それをキャビンから見守ってるドクターとドライバーだけ。
ユウタは早速、海の中へ入っていった。
ミハイルも一緒に行こうと誘っていたのだが、
ぼくはいいの、と固辞したようで浜辺に残っていた。
ユウタは沖に出て、ミハイルは一人で砂遊びを始めている。
保護者達は木製の屋根の下でくつろいでいた。
夏の強い日差しが当たらないキャビンは良い休み処となる。
小屋の中には万一の時に備えて、救命用具も装備されているし、
簡易の冷蔵庫もあるので、冷たい物がいつでも飲める。
今日はドライバーとして来ているので缶ビールを入れられないのが残念なくらいだ。
潮風に混ざって木の香りがする。
隣の保健医も、ゆったりとビーチチェアに寝そべっている。
「あ、ちょっと、ドクター」
アイヴィーが白衣を引っ張る。
「あんたのクライアント、お城作って泣いてますけど、波打ち際で」
「ああ。泣いているな」
「落ち着いてないでアドバイスして来いよ。今こそ出番だろ、カウンセラー」
「カウンセラーは、そっと見守ることも仕事だ」
「それ、ただの放置プレイとドコが違うの?」
そうこうしているうちに、ユウタが海から浜に戻って来た。
泣いているミハイルを慰めている。
もっと向こうで作った方が良いよ、と指を差しているのが見えた。
大人が出て行かなくても良かったようだ。
こうなることを見越していたのだろうか、と隣を見る。
寝そべりながら、重そうな本を読んでいた。
「ねー、ドクター。海まで来て何読んでんの?」
「心理学会の論文集だ。読みたいのか?」
「ゼンゼン」
「なら、お前は生徒達から目を離すなよ」
「…俺も放置プレイかよ」
アイヴィーは煙草を咥える。
カチリとジッポを押して火を点ける。
身体にとって毒にしかならない煙は、異常にウマイ。
唇の先から昇る紫煙をぼんやり眺めながら、ぼうっとしていた。
こうしていると、この島はとんでもなく平和なんじゃないか、と思いたくなる。
が、実際は全くそうではないということは良く知っている。
それは大人達だけが知っていればいい。
ドライバーが煙草を片手にのんびりしていると、
ユウタとミハイルが一緒にこちらへ向かってきた。
「あ。なんか、あいつら来たよ?」
それを聞いた博士は身体を起こした。
生徒を前にすると、放置主義者は人が変わったように丁寧な話し方をした。
「どうしたのかな? 休憩かい?」
「はい。ちょっと喉が渇いちゃって」
ユウタはそう言って、奥へ入り冷蔵庫を開けた。
「ミハイルー、何飲む? オレンジジュースとかアップルジュースとかあるけどー」
「ユウタと、おなじのがいいな」
「オッケー。じゃあ、オレンジ」
ミハイルは友達の傍へ行こうとする。
ソクーロフは主治医らしく労わりの声を掛けた。
「ミハイル、体調は悪くないかい?」
「はい、博士。ぼく、とっても楽しいです」
にこっと、はにかむ。
「連れて来てくれてありがとうございます」
「どういたしまして。良かったね、ミハイル」
その声は何処までも優しい。
ぞんざいに扱われるドライバーは頬を膨らましていた。
誰にも聞こえない程度の声で、ぼそっと文句を言う。
妙なところで気が小さい男だった。
「その優しさを、俺にもちょっとくらい分けろよ」
ジュースを飲み終わるとミハイルは、もじもじしながら言った。
「博士、ぼくも、海に入ってみても良いですか? ちょっとだけ」
「もちろん、構わないよ。少しは泳げるんだったね?」
「はい。でも子供の時で…もう何年も泳いでないから…」
「深いところに行かなければ大丈夫だよ。それから、準備運動を忘れずにね?」
「はいっ」
生徒達が海岸で仲良く準備運動をしている。
ユウタが体操を教えているようで、その動きをミハイルが真似していた。
アイヴィーはその様子をじぃーっと見ていたが、初めて見る体操だった。
深呼吸や屈伸などは普通だがユニークな動きが時折混じる。
かなり念入りに体操をした後、
ユウタに手を引かれて、二人で海に入っていった。
浅い場所なのに、おそるおそる海に近付いていくかんじが可愛らしい。
最初は海の冷たさにビクついていたようだったが、
身体が慣れてくる頃には、楽しそうに遊んでいた。
仲良しコンビを見ていると、なんだか羨ましくなってきた。
こちらの相棒は、まだ読書中。
ドライバーは、とことん放置されるらしい。
「…イジワル。ミハイルには優しいのにー」
すると、隣から反応があった。
「何の話だ?」
「ソクーロフ先生の話だよ! 他に居ないでしょ、こんなイジワル!」
「私は、相手の望むスタニスラフ・ソクーロフを演じているだけだ」
自分はクライアントの欲望を映す鏡だとこのドクターは言う。
それが私のカウンセリング手法だと。
「ミハイル用のソクーロフ、お前用のソクーロフ。
両者の私が異なるのは当たり前だろう。
ミハイルとお前では私に望むものが違うのだから」
「俺がドMみたいに言ってんじゃねーよ」
「事実を述べたに過ぎない」
「…またイジワル言うー」
堂々巡りにしかならないので、ジトとした目でサディストを見る。
長い髪はいつもの如く、大儀そうに一つに結わえている。
羽織っている白衣はいつも目にしているものだが、その下は違う。
普段のファッションセンスは悪くないのだが、
このヒトのビーチファッションは、明らかに普通の感覚ではない。
「てゆうかさあ、そのカッコなんだけど…」
「何だ?」
襟元では鎖骨を晒し、白い裾から覗いているのは素足。
「…水着に白衣って保健教師モノじゃないんだからさ」
「保健教師モノ? ――ああ、だから電話であんなことを口走ったのか」
「えっ…」
カウンセラーはクスリと笑い、こう断言した。
「最近、水着を着た保健教師が、車の中に居る作品を見たな?」
「ま、まっさかー」
金髪の耳がさっと赤くなる。
「えと、俺、お城でも作ってこようかなー」
背けた目が海岸を映す。砂浜ではユウタがお城を作っていた。
ミハイルが居ない。
視界の隅にキラリとしたものが映る。沖の方に金髪が見えた。
砂浜ではユウタがお城作りのクライマックスを迎えていた。
波打ち際からかなり離れたところ。此処なら波に流されることはない。
ミハイルが作った土台を基に、その続きをユウタが作っていた。
てっぺんの三角部分を、いかに滑らかなトンガリにするか調整中だった。
砂遊びなんてミハイルは子供っぽいなーと最初は思っていたが、
久し振りにやってみると、これがとても面白い。
小学校の図工の時間にやった粘土細工や、
幼稚園の時に姉貴と公園で作ったダムなどを思い出していた。
懐かしい思い出に浸りながら、両手でトンガリを整える。
口からは自然と、子供の時に好きだったアニメソングが流れていた。
「よーしっ、カンセイ!」
自分でも惚れ惚れするほどの仕上がりで、思わず携帯で写真を撮りたくなった。
荷物はキャビンに置いてきてしまっている。
取りに行くのはちょっと面倒くさい。でも撮りたい。
姉貴に一枚、送りたい。
その想いが勝った。
ミハイルに声を掛けてから、携帯を取りに行こうとした。
「ミハイルー。…あれ?」
さっきまで近くで水遊びをしていた筈のミハイルが居ない。
きょろきょろしていると十数メートル先に居た。
ミハイルは唇の所まで海に沈んでいた。
「ミハイルッ!」
「あ、足が、つっちゃっ…」
そう喋った時、海水を飲み、咳き込んだ。
開いた口にまた海水が流れ込む。
「ミハイル、今、助けに行くからっ!」
ユウタの肩に手が置かれる。
「はーい、ちょい待ち」
振り返ると、アイヴィーが立っていた。
「俺が行くから。お前さんはコレ、頼むぜ?」
アイヴィーは救命用の浮き輪を手にしていた。
浮き輪にはロープの束が付いていた。束の先をユウタに手渡す。
「命綱だ。俺が合図したらドクターと引いてくれよっ」
海の中へ入っていく。
ユウタの後方から声が聞こえて来た。
「覚えておきなさい、ユウタ。このような場合、
単独で助けに行ってはいけないよ」
ソクーロフ博士は黒いバッグとランチ用のビニールシートを手にしていた。
シートを砂浜に敷きながら話を続ける。
「溺れている人はね、救助者にしかみついてしまい、
両者とも沈んでしまうことが多いんだ。どんなに泳力があっても関係ない。
だから、あれが正しい救助方法の一例だ」
海を見る。ミハイルの傍まで辿り着いたアイヴィーは、
正面からは向かわず、わざわざ背後に回ってから、
ミハイルに先ず浮き輪を被せていた。
腕を浮き輪に捕まらせると、こちらに向かって手を挙げた。
「合図だっ!」
ユウタはソクーロフと一緒にロープを引く。
浮き輪が浜に引き寄せられていく。
アイヴィーは顔を上げたままの状態で、ミハイルに併走して泳いだ。
浜辺に着くと、ユウタはロープを捨てて駆け寄る。
ミハイルは目を閉じており、ぐったりした様子だった。
「こちらへ運べ」
「あいよっ」
博士の先導で、アイヴィーはミハイルを抱えて、
敷かれたシートの上にそっと寝かせる。
テキパキと動く二人をユウタは呆然と見守ることしかできなかった。
博士は広げた黒いバッグから、医療用具を出していた。
慌てる様子なく、診察を行っている。
ユウタが保健室で見る優しい先生より、冷静に見えたくらいだった。
「ごめんなさい、ぼくのせいでっ、ぼくのっ」
迅速で適切な処置を受けたミハイルは、すぐに意識が戻った。
幸い、水を飲んだ程度で済んだ。
誰も叱っていないのに、ミハイルは泣いて謝った。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ」
主治医は生徒の濡れた髪を撫でる。
「謝ることはないよ」
「でも、ぼくが、ぼくが泳いでみたいって言ったから」
「今日はたまたま、足がつってしまっただけだ。君のせいじゃない」
「ごめんなさい、ぼく、もう海に行きたいなんて…」
涙で濡れた頬を主治医が拭う。
「さっきまでのミハイルは、海に来てとっても楽しい、と私に言ってくれたよ?」
大きなブルーの瞳が瞬く。博士は生徒を引き寄せた。
頭から抱え込むように抱き締めた。
白衣に透明な滲みがじんわりと広がっていく。
ミハイルは自分の身体がびしょ濡れであることに気付き、慌てた。
「あのっ、博士、白衣が…」
アイヴィーは見逃さなかった。
頭を抱える手に少し力が入ったのを。
感情を抑えた声でカウンセラーは言った。
「無事で良かった、ミハイル」
これが演技なら職業を間違えている、とドライバーは思った。
その夜、大人達はソクーロフが暮らす部屋で、夕食を共に食べた。
教職員の宿舎はメルキュール館と言う。
知恵を司る神を意味するのだろうという説があるが、
教授陣にも正確なところは知らされていない。
それは此処に住んでいる保健医も同じだった。
落ち着いた一流ホテルのような建物に自分も一室借りている。
テーブルには来客が作った大雑把なディナー。こちらは既に空になっている。
自分はフォークでチョコレートを刺す。
これは冷蔵庫によく入れているもので、
好んでウイスキーの肴にしている高級生チョコレート。
来客はソファに座って、自分で持ってきた缶ビールをちびちびやっていた。
口に運ぶともう空だったらしく、
ぐいと角度を高くして残りを飲んだようだった。
缶を置くと、腕を伸ばして、断りもなく高級チョコを摘む。
指に付いたココアパウダーごと口に入れていた。
六年前、広い意味での同僚として出逢った男。
――『訳ありの王子』は子供だけではないらしい――
それが第一印象。
この男から目を離してはいけない。心理学者としての直感だった。
六年もの間、幾度も幾度も、その澱を吐き出す機会を与えているが、
その度に拒まれ、痛々しい笑顔を見せられる。
自分は幼少期から人の心が読み取れた。
そして自分は、この男に何を望まれているのかも解っていた。
「でー、ミハイルの様子は、どうよ?」
金髪は二個目のチョコレートに手を出しながら言った。
「身体的には問題ない。精神的ショックの方が強いな」
「海、キライになっちゃうカモ?」
「それはこれからのカウンセリングで緩和できることだ」
金髪のトーンが少し低くなる。
「今日の記憶、消すつもり?」
「まさか。そう往々に施していい手段ではないだろう」
「うん」
沈黙。
カウンセラーはウイスキーに口付けながら、相手を観察する。
金髪の男は既に空の缶を口に運ぶ。
口付けてから何も流れてこないのに気付いたようで、
飲んだフリをして、テーブルに戻していた。
カウンセラーは一歩踏み込んだ質問をした。
「お前は、消し去りたい記憶があるのか?」
アイヴィーは言葉を発さず、微かに笑みを浮かべる。
首を横に振る。金髪がさらさらと揺れた。
「さーてっ」
アイヴィーは空缶を持って立ち上がった。
そう遠くないゴミ箱に向かって放る。
他の空缶とぶつかった音が聞こえた。
カウンセラーを振り返った時には笑顔になっていた。
「もう寝よっか」
ひひー、とソクーロフのベッドに座ってみせる。
わざと子供っぽく笑う顔は、深い傷を負った大人にしか見えなかった。
博士は一息遅れて、そうだな、とソファから立ち上がった。
ベッドで足をブラブラさせている大人が言う。
「今日はー、痛いオモチャとかナシだからね、ヘンタイさん?」
「それでは私の部屋に来たイミがないだろう?」
机の引き出しから何やらゴソゴソと出している。
見せ付けるようにそれをベッドに転がした。
「まーた新しいオモチャ買ってるし…どこでゲットしてくんのさ、こーゆーの。
あんね! 見てるだけのヒトは愉しいだろうけど、って聞いてんの?」
博士はクローゼットを開けていた。
ハンガーから取ったのはよく見る仕事着。
「ちょっと、なんでわざわざ白衣着んの?」
「スキなんだろう?」
自らワイシャツのボタンを外していく。
アイヴィーには背を向けていた。
肩からするりと、ワイシャツが滑る。
素肌の上半身。その上に白衣を纏った。
背を見せたまま、声だけ後方に投げる。
「水着も必要か?」
「要りませんっ!」
「脈拍が上昇している」
「声だけで脈、判んのかよっ?」
「判るさ」
医師はゆっくりとベッドに歩いてくる。
隣に座ったカウンセラーは相手を見つめた。
金髪は僅かに首を傾げた。
「ソクちゃん? どうし…」
白衣の腕を持ち上げる。
素肌から滑った布。白い手首が覗いた。
ドライバーの頬を通りながら、金髪の間に滑り込ませる。
右耳を包むように触れている。
自分の舌は、唇を割って奥へ進んでいた。
口内を犯しながら、耳たぶを弄ぶ。
柔らかい皮膚が徐々に色付き、熱を帯びてくる。
口の端からは向こうの吐息が漏れ始める。
相手の舌は甘かった。
右下の奥から、大臼歯、小臼歯となぞっていく。
甘い。よく知っているチョコレートが残っていた。
やはりビールは飲んだフリだったようだ。
どうでもいい裏付けを取っている間に、吐息は嬌声へと変わっている。
反対の手で、緩いネクタイの結び目に人差し指を掛ける。
静かに下に引く。首の周りをネクタイが蛇のように這う。
黒い蛇を抜き終わると、片手でボタンを開けていく。
口内では、もうチョコレートの味はしない。
とろりとした液体から、微かにウイスキーの味を感じた。
白衣の左肩を掴まれながら、カウンセラーは自己の能力を疎ましく思っていた。
――私は刹那の慰めしか望まれていないのか――
欲望を映す鏡は、相手が望むものを忠実に演じ続ける。
今は、そうするより他になかった。
fin
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