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■オーギュスト×アンリ
「アンリ。このあと、何か予定はあるのかな?」
神秘学の授業が終わったあと。
さっきまで教壇に居た人が、真っ直ぐ僕の席まで来た。
僕はテキストとノートにバンドをかけながら、
「特に、予定はないけれど?」
神秘学の教授は穏やかな笑顔を見せた。
「では、一緒に来てくれるかい? 私の研究室でお茶にしよう?」
「何か面白い資料でも手に入ったの?」
「ううん。丁度、良いリーフが手に入ってね。
私の好きな紅茶なんだけれど」
「君が好きな紅茶?」
「うん。とても神秘的な紅茶だからね。
アンリにも気に入って貰えるかは解らないけれど、
一緒に飲みたいなと思ってね。試してみないかね?」
授業には関係がないことなのに、
生徒の一人を、ただ、ティータイムに誘う。
そんなのおかしい。
でも、それは仕方のないことなのかもしれない。
だって彼は、神秘学なんて、おかしな学問の権威と呼ばれる、
オーギュスト・ボージェ教授なのだから。
「良いよ。試してあげても」
「ありがとう、アンリ。では早速行こうか」
教室を出て、彼の背中に付いて行く。
今日のスーツは、チョコレートブラウニーのような色をしてた。
廊下の窓からは、薄暗い空が見える。夜には雨が降るかもしれない。
校舎から外に出ると、冷たい風が吹いていた。
教授は重たい曇り空を見ながら、
「この前まで夏だったのに、もうすっかり秋も深まってきたねえ」
年寄りみたいなことを言う。
「急に秋になったわけじゃない。
徐々に気温は下がっていったよ。毎日少しずつね」
「そうだったかい? やはり、アンリはまだ若いんだね」
「どういう意味?」
「大人になると、そういった日々の変化に疎くなる。
その点、子ども達は敏感だからね」
「それって、僕のこと、まだ子どもだと言っている?」
「いやいや。若いということは素晴らしいね、と言ったつもりなんだが、
いくつになっても、言葉とは難しいものだね」
聖アルフォンソ学院の教授陣には、住まいとは別に、
研究室を与えられている。授業外の時間、教授は大抵ここに居るので、
質問等のある生徒はここに来れば良い。
ボージェ教授の部屋は、研究室棟三階の隅に割り当てられている。
ドアの横に『オーギュスト・ボージェ』と書かれたプレート。
この部屋に、他の生徒が、どの程度来ているのか、僕は知らない。
僕以外の生徒が招かれることもあるんだろうか。
「どうぞ、アンリ」
教授が開けたドアの向こうへ入っていった。
部屋の中央には、グレイのソファと、硝子のローテーブルがある。
部屋の奥に大きな窓があり、その前に教授の机。
そして、まるで壁のように本棚に囲まれた、学問の空間。
常に整頓されていて、小ざっぱりとした部屋だけど、
本棚に並んでいるのは、一般人には理解不能な書物ばかりなのだろう。
僕は部屋の中央にある、グレイのソファに座る。
教授は隅の小さなキッチンに立って、紅茶の準備を始めた。
「ねえ。それ、何と言う名前?」
「ラプサン・スーチョンと言う紅茶だよ」
「変わった名前」
「これは現地の、広東語での発音が、
ヨーロッパ人に、そう聞こえたところから来ているんだ。現地の言葉では」
教授はホワイトボードに『正山小種』と書いた。
「こう書いて、ラプサン・スーチョン。
北京ではチェンシャン・シャオチョンと読むんだけれどね」
何か国語もマスターしている教授は、
ネイティブに近いと思われる発音で説明していた。
「さあ、どうぞ」
オーギュストが僕の前にカップを置いた。
僕は思わず顔をしかめた。
「……何、この香り」
紅茶とは思えない香りがした。
酷くスモーキーで、苦い薬のようでもある。
オーギュストの穏やかな微笑は、確信犯的だ。
「これはね、燻した松の葉で着香しているんだ」
だから、燻製のような香りがするのか。
「着香しているということは、これもフレーバーティの一種、
ということ? アールグレイのように」
「うん。丁度、良いリーフを挙げてくれたけれど、
アールグレイが生まれるきっかけを作ったのが、ラプサン・スーチョンなんだ。
これはまさに東洋の神秘だと、この香りに魅了されたグレイ伯爵が、
何とかあの紅茶を再現したいと思い、
作り出したのが、ベルガモットで着香したアールグレイだからね」
「全く違うものができてくれて良かったよ」
「ああ、講義の時間が長過ぎたかな。冷めないうちに召し上がれ?」
僕は一口飲んでみた。
「ねえ、オーギュスト」
「ん?」
「君、本当にこれが好きなの?」
「うん。とても」
「君に目を付けられただけあって、変わった紅茶だね」
「この紅茶は人を選ぶ。一口飲んだ途端にやみつきになるか、
それとも、二度と口にしないか。そのくらいはっきり好みが別れてしまう。
アンリは後者のほうだったかな?」
「やみつきにはなっていないね」
すると、オーギュストはこう言って笑ったんだ。
「そうか。アンリには、まだ早かったかな?
この美味しさが解って貰えるのは、
アンリがもう少し大人になってから、かな?」
「バトラー」
ウーティス寮のサロンに戻った僕が、執事の名を口にすると、
サロンに居た寮生達は、揃って不思議そうに僕を見た。
ジョシュアはコーヒーカップを持ったまま、
「アンリ。バトラーを探してるのかい?」
「そう聞こえなかった?」
「すまない。ええと、バトラーなら、もうすぐ来ると思うよ?
今、ユウタとハルヤのお茶を煎れに行ったから」
「そう」
都合が良い場所に居るようなので、僕は会いに行くことにした。
バトラーは『バトラーのキッチン』に居た。
ここは主にバトラーがお茶の用意をする為の部屋で、
紅茶を始めとした、リーフがたくさんある。
一般的には、簡易キッチンとか、パントリーと言う。
シェフのキッチンと区別する為に、
ここではバトラーのキッチンと呼ばれてる。
バトラーは日本のティーポットを手にしていた。
グリーンティを淹れているらしい。
「バトラー」
「おや。アンリ様」
「ねえ。ここに、ラプサンスーチョンという名前の紅茶はある?」
「ラプサンスーチョンでございますか? 申し訳ございません。
ラプサンスーチョンは、ここ暫くご用意がなく……」
「では手に入ったら、それから暫く、
僕の紅茶は、ラプサンスーチョンにして」
fin
「アンリ。このあと、何か予定はあるのかな?」
神秘学の授業が終わったあと。
さっきまで教壇に居た人が、真っ直ぐ僕の席まで来た。
僕はテキストとノートにバンドをかけながら、
「特に、予定はないけれど?」
神秘学の教授は穏やかな笑顔を見せた。
「では、一緒に来てくれるかい? 私の研究室でお茶にしよう?」
「何か面白い資料でも手に入ったの?」
「ううん。丁度、良いリーフが手に入ってね。
私の好きな紅茶なんだけれど」
「君が好きな紅茶?」
「うん。とても神秘的な紅茶だからね。
アンリにも気に入って貰えるかは解らないけれど、
一緒に飲みたいなと思ってね。試してみないかね?」
授業には関係がないことなのに、
生徒の一人を、ただ、ティータイムに誘う。
そんなのおかしい。
でも、それは仕方のないことなのかもしれない。
だって彼は、神秘学なんて、おかしな学問の権威と呼ばれる、
オーギュスト・ボージェ教授なのだから。
「良いよ。試してあげても」
「ありがとう、アンリ。では早速行こうか」
教室を出て、彼の背中に付いて行く。
今日のスーツは、チョコレートブラウニーのような色をしてた。
廊下の窓からは、薄暗い空が見える。夜には雨が降るかもしれない。
校舎から外に出ると、冷たい風が吹いていた。
教授は重たい曇り空を見ながら、
「この前まで夏だったのに、もうすっかり秋も深まってきたねえ」
年寄りみたいなことを言う。
「急に秋になったわけじゃない。
徐々に気温は下がっていったよ。毎日少しずつね」
「そうだったかい? やはり、アンリはまだ若いんだね」
「どういう意味?」
「大人になると、そういった日々の変化に疎くなる。
その点、子ども達は敏感だからね」
「それって、僕のこと、まだ子どもだと言っている?」
「いやいや。若いということは素晴らしいね、と言ったつもりなんだが、
いくつになっても、言葉とは難しいものだね」
聖アルフォンソ学院の教授陣には、住まいとは別に、
研究室を与えられている。授業外の時間、教授は大抵ここに居るので、
質問等のある生徒はここに来れば良い。
ボージェ教授の部屋は、研究室棟三階の隅に割り当てられている。
ドアの横に『オーギュスト・ボージェ』と書かれたプレート。
この部屋に、他の生徒が、どの程度来ているのか、僕は知らない。
僕以外の生徒が招かれることもあるんだろうか。
「どうぞ、アンリ」
教授が開けたドアの向こうへ入っていった。
部屋の中央には、グレイのソファと、硝子のローテーブルがある。
部屋の奥に大きな窓があり、その前に教授の机。
そして、まるで壁のように本棚に囲まれた、学問の空間。
常に整頓されていて、小ざっぱりとした部屋だけど、
本棚に並んでいるのは、一般人には理解不能な書物ばかりなのだろう。
僕は部屋の中央にある、グレイのソファに座る。
教授は隅の小さなキッチンに立って、紅茶の準備を始めた。
「ねえ。それ、何と言う名前?」
「ラプサン・スーチョンと言う紅茶だよ」
「変わった名前」
「これは現地の、広東語での発音が、
ヨーロッパ人に、そう聞こえたところから来ているんだ。現地の言葉では」
教授はホワイトボードに『正山小種』と書いた。
「こう書いて、ラプサン・スーチョン。
北京ではチェンシャン・シャオチョンと読むんだけれどね」
何か国語もマスターしている教授は、
ネイティブに近いと思われる発音で説明していた。
「さあ、どうぞ」
オーギュストが僕の前にカップを置いた。
僕は思わず顔をしかめた。
「……何、この香り」
紅茶とは思えない香りがした。
酷くスモーキーで、苦い薬のようでもある。
オーギュストの穏やかな微笑は、確信犯的だ。
「これはね、燻した松の葉で着香しているんだ」
だから、燻製のような香りがするのか。
「着香しているということは、これもフレーバーティの一種、
ということ? アールグレイのように」
「うん。丁度、良いリーフを挙げてくれたけれど、
アールグレイが生まれるきっかけを作ったのが、ラプサン・スーチョンなんだ。
これはまさに東洋の神秘だと、この香りに魅了されたグレイ伯爵が、
何とかあの紅茶を再現したいと思い、
作り出したのが、ベルガモットで着香したアールグレイだからね」
「全く違うものができてくれて良かったよ」
「ああ、講義の時間が長過ぎたかな。冷めないうちに召し上がれ?」
僕は一口飲んでみた。
「ねえ、オーギュスト」
「ん?」
「君、本当にこれが好きなの?」
「うん。とても」
「君に目を付けられただけあって、変わった紅茶だね」
「この紅茶は人を選ぶ。一口飲んだ途端にやみつきになるか、
それとも、二度と口にしないか。そのくらいはっきり好みが別れてしまう。
アンリは後者のほうだったかな?」
「やみつきにはなっていないね」
すると、オーギュストはこう言って笑ったんだ。
「そうか。アンリには、まだ早かったかな?
この美味しさが解って貰えるのは、
アンリがもう少し大人になってから、かな?」
「バトラー」
ウーティス寮のサロンに戻った僕が、執事の名を口にすると、
サロンに居た寮生達は、揃って不思議そうに僕を見た。
ジョシュアはコーヒーカップを持ったまま、
「アンリ。バトラーを探してるのかい?」
「そう聞こえなかった?」
「すまない。ええと、バトラーなら、もうすぐ来ると思うよ?
今、ユウタとハルヤのお茶を煎れに行ったから」
「そう」
都合が良い場所に居るようなので、僕は会いに行くことにした。
バトラーは『バトラーのキッチン』に居た。
ここは主にバトラーがお茶の用意をする為の部屋で、
紅茶を始めとした、リーフがたくさんある。
一般的には、簡易キッチンとか、パントリーと言う。
シェフのキッチンと区別する為に、
ここではバトラーのキッチンと呼ばれてる。
バトラーは日本のティーポットを手にしていた。
グリーンティを淹れているらしい。
「バトラー」
「おや。アンリ様」
「ねえ。ここに、ラプサンスーチョンという名前の紅茶はある?」
「ラプサンスーチョンでございますか? 申し訳ございません。
ラプサンスーチョンは、ここ暫くご用意がなく……」
「では手に入ったら、それから暫く、
僕の紅茶は、ラプサンスーチョンにして」
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