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■ジョシュア、アンリのシナリオクリア者向け
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ロレートの紋章。
ジョシュアは一通の封筒を見ていた。まだ封は開けていない。
白の封筒に深紅の蝋は良く映えて、嫌でも目に入る。
赤い蝋を溶かして、真鍮製の刻印を押した封蝋。
貴方の国から来た手紙だとすぐに解る。
赤は好きな色なのに、この赤はどうしても好きになれない。
上質な手触りも肌に吸い付くようで、怖かった。
中に何が書いて在るのか。すぐには封を切れず、開けるのを躊躇ってしまう。
「ねえ、開けてくれる?」
ドアの向こうから耳に馴染む声がした。もう4年も同じ寮で生活している友人だ。
しかし、開けて、という要求は珍しい。ノックの音もしなかった。
自分ではドアを開けられないのだろうか? 何か持っていて手が塞がっている?
手にしていた封筒を、机の引き出しに仕舞う。
一時的にでも手放すことに安堵しながら、ドアへと向かった。
扉の向こうに居たのはやはり親しい友人の顔だった。
「やあ。アンリ」
友人は手の平に乗せているものを差し出した。
「これ」
華奢な手には小鳥が乗っていた。
瞳は閉じられて、身体は動いていない。
この島では特別な意味を持つ小鳥。
「ナイチンゲール…。一体どうしたんだい?」
「さっき、森で見付けた。君、動物の世話、得意なんだから何とかして」
アンリが手を突き出すので、ジョシュアは手の平を上にする。
小さな身体がそっと渡される。
手の平に伝わる温かさにジョシュアは少し安心した。
鳥の体温は約40度。ちゃんとその高い体温を感じた。まだ生きている。
冷静さを取り戻し、落ち着いて状態を観察する。
外見は少し羽根が汚れているだけで、怪我をした様子はない。
翼を少し広げて見る。付け根に傷があった。
それほど深くはない。治療すれば回復するだろう。
診察している間、黙っていたアンリがぽつりと呟く。
「助かるの?」
「うん。大丈夫。翼に怪我をして飛べなかったみたいだね。
でも傷は深くないから、暫く安静にしていれば森に帰れるよ」
アンリは愁眉を開く。
「そう」
僅かながらも、常の冷たさより和らいだ声だった。
毒舌家と称される彼だが、時折こんなに優しい表情を見せる。
皆にももっと見せてあげたら良いのにな、とジョシュアはそっと思う。
きっと本人に言ったら、それこそ毒舌が返って来るだけだ。
優しい毒舌家は踵を返した。
「それじゃ。後は任せるよ」
「アンリ」
無言で振り返る。もういつもの冷静な表情に戻っていた。
心優しい行動とそぐわない表情にジョシュアは思わず微笑んだ。
「ありがとう。助けてくれて」
「礼を言われる覚えはないけれど?」
「この子の代わりに、言っておきたくてね」
友人は肩を竦めて冷笑する。
「鳴いてもいないのに、鳥の声が聞こえるんだね、君は」
ドアが閉まった。ジョシュアは早速、怪我の治療を始めることにする。
常備している救急箱があった。主に動物達に処方するものだ。
止血剤、消毒薬、傷用の塗り薬など。人間にも使用できるし、
動物が万一舐めても害のない薬を幾つか所有していた。
ジョシュアには愛馬が居て、動物行動学の特別講義を取っている。
月桂樹の森に行くと、ナイチンゲールは彼に聞かせるように歌う。
自他共に認める動物好きの元に怪我をした森の動物達が運び込まれることがあった。
慣れた手付きで小鳥の傷に薬を塗り、包帯を巻く。
「さあ。これで大丈夫だよ。ゆっくりおやすみ」
静かに鳥かごの中へ横たえる。扉を閉めると、少し肩の力が抜けた。
それで初めて肩に力が入っていたのだと気付く。
鳥かごの周りに置いていた包帯や鋏を救急箱に片付けていく。
すっかり綺麗になった後、ふと机が目に入ってしまった。
深紅の封蝋。引き出しに入れたものが勝手に思い出される。足が机に向かわない。
――せめて夕食の後にしよう。
ジョシュアは部屋を後にし、食堂へと向かった。
怪我をした小鳥は檻の中でまだ一声も発していない。
動かない翼を静かに横たえている。
「アルフォンソ王の前に、月桂樹の小枝を銜えたナイチンゲールが現れた。
王が枝を植えると、其処はたちまち森となった――
確かに、挿し枝でも年月を掛ければ森になるかもしれないけれどね。
メルヘンチックな伝説に組み込まれた君達はどんな気分なのかな?」
アンリは鳥かごを覗きながら、機嫌良く話していた。
彼がナイチンゲールを連れ帰ってから数日後。
ジョシュアは、アンリを部屋に招いた。
そろそろ鳥の様子を見に来たい頃だろうと思ったからだ。
鳥が心配でも、アンリは自分からは訪ねて来ないから。
彼がそういう可愛い所があることを、付き合いの長いジョシュアは心得ていた。
素直ではないというか、意地っ張りというか。
彼のように振る舞うことは、ジョシュアには不可能なことだった。
一種の憧れにも似た気持ちがあったのかもしれない。
彼は何でもずけずけと辛辣な言葉を口にする。ある特定の感情を除いては。
アンリは鳥かごが置いてある棚に凭れて、友人を見やる。
「僕は、ナイチンゲールが銜えていた月桂樹って、比喩だったのかなとも思うんだ」
「どういうことだい?」
「実際の『枝』ではなくて、国を作る為に必要な『モノ』さ。
資材、資金、情報、そして民とかね? だって、森だけでは国にならないもの」
ドライな口調でアンリはビジネスに必要な要素を並べ立てた。
自分の事業を持つ彼らしい発想と言える。
「成程ね。今まで考えたこともなかったな」
琥珀の瞳が机上を捉える。封が開いた白い封筒。
シーリングワックスに描かれた紋章はジョシュアの父方の祖国を示すものだ。
現在は弟君のカーディス1世が国王を務めている。
「それ、ロレート国王からだね。君に何て言って来たの?」
ジョシュアは机上に置きっぱなしだった手紙を見つめる。
友人に発見されたことに後悔し、続けて安堵を感じた。
「俺に、会いたいって」
純白の便箋に綴られていたのは、それだけではなかった。
「カーディス1世は、正式な王位継承者として、俺を迎えたいらしい。
今度の休暇、ロレートに来てくれないかって。そう、書いてあった」
アンリの表情は特段変わらなかった。
来るべき時が来ただけだ。アンリにとっては驚くことではなかった。
そっとジョシュアの額を盗み見る。運命は最初から、其処で輝いている。
「それで、君は行くの?」
「迷ってる。ロレートに行くのも、彼に会うのも初めてだし。
でも、断るわけにもいかないと思う」
この真面目な王位継承者は、ロレートに出向くことを義務と感じているらしい。
其処でどんな話が待っているのかは自ずと解る。
アンリ個人にとっては好都合だ。今はグラント姓を持つ彼。
もしグラントに残れば、家同士が敵対関係にあるアンリは、
後に、彼と争わなくてはならない。そうなれば自分は彼に勝つだろう。
彼の思考も、行動パターンもほぼ把握している。
かつて、毒薬遣いと呼ばれたアンジェロ・ボルジアが、
アルフォンソを殺す為、彼に付き従い、毒杯を差し出したように。
友人の顔をして、彼を騙すことは蟻を踏み殺すより容易い。
僕がジョシュアに対して残虐になれれば、
この真面目な人間を捻り潰すくらい造作もないことだ。
ジョシュア・グラント。
初めて会った時から、いや、生まれながらに、王冠を持つ人。
一体どんな人物なのか興味はあった。
後のことを考えると、彼について知っておきたい。
彼は間違いなく僕のことを友人だと思っているだろう。けれど僕は?
僕は彼のこと、何だと思っているのだろう?
――君が何て言おうと、俺はアンリの友達だよ!――
あの、お目出度い新入生のように。
何ひとつ疑うことなく『友達』なんて言葉、僕には口にできなかった。
鳥かごの中のナイチンゲールは自由にならない翼を小さく震わせている。
「行くとしたら、グラントにも行くの?」
「そうなるね。ロレートまでの中継地点だし、先ずはロンドンに行って、かな」
ロレートに加え、母方の実家に帰ることもジョシュアには気の重いことだった。
ヨーロッパ有数の財閥、グラント家。
ロンドンにあるその家はランベール館と呼ばれている。
ジョシュアの伯父と伯母が居て、表面上は優しく気遣ってくれるのだが、
代々、男系の子供を跡取りにするグラント家にとっては、
ジョシュアは母クリスティーナが連れ帰った厄介者でしかなかった。
自分がランベール館に行くと久し振りに帰ったから、
と親戚一同を集めたパーティを催してくれるのだが、
その形式ばった歓迎の仕方は、実のない寒々しさを感じざるを得なかった。
大勢の人に囲まれながら、あんなに孤独感のあるパーティは居たたまれなく、
正直、あまり行きたくなかった。
アンリは小鳥の僅かな動きを見守りながら、
「ねえ。彼を連れて行けば?」
「彼って?」
「変わった人種が入ったでしょう、今年は。
グラントのパーティで、君の防波堤にはなってくれるんじゃない?」
ジョシュアは今年入った天真爛漫な笑顔が思い浮かぶ。
良案だ。ユウタはウーティス寮を明るくしてくれた。
聖アルフォンソ学院では、特殊な環境に育った生徒達が多い。
その為、他の生徒に干渉しないことが多い中、ユウタは大いに干渉する。
元気で素直な良い子だ。この学院で彼は確かに希少な存在と言える。
グラントの冷たいパーティでも彼なら場を和ませてくれるに違いない。
ユウタとの旅行は初めてだし、少し楽しみになってきた。
「ありがとう、アンリ。彼のこと誘ってみるよ」
「行ってらっしゃい」
気だるげに言い放つ友人を見て、ジョシュアは微笑んだ。
「…なんだか嬉しいな」
アンリは不思議そうにこちらを見る。
「何が?」
「アンリ、ユウタのこと買っているんだね?」
途端に視線を外された。
「勘違いしないで」
機嫌を損ねた素直じゃない人。ジョシュアはまた笑みを零す。
「アンリは今度の休暇も残るのかな?」
「ああ。いつものようにね」
ジョシュアもそうだが、アンリも休暇中は家に戻らない。
正確には、戻りたい場所がないからだ。
「じゃ、アンリにナイチンゲールのこと、頼んでも良いかな?」
「…僕が?」
「皆も寮を空けてしまうそうだから。君にしか頼めないんだよ」
「でも、僕、鳥の世話なんて…」
「大丈夫。それは俺が責任を持って教えるよ」
休暇初日の朝。ウーティス寮の玄関が俄かに騒々しくなる。
旅行用のバッグを持った面々を、アンリとバトラーが見送る破目になった。
わくわくしている一年生を見守っているのは最高学年の生徒代表殿。
「じゃ、行って来るねー。アンリ!」
「ナイチンゲールのことよろしくね」
ジョシュアとユウタはロンドンとロレートへ。
残るデッドプリンスはニッポンへ旅行に行くらしいが、
何故かギターを背負っている。
わざわざ旅行先でストリートライブでもするつもりなのか。
「アンリ、また休み明けにね」
「イイ子でお留守番してろよっ!」
「ニッポンのお土産たくさん買って来ますね!」
アンリは憮然としたまま、息を吐く。
「…要らないから。早く行けば?」
皆がドアの向こうに消えた。
途端に、その場が静まり返る。
「ああ、煩かった。バトラー、僕の部屋に紅茶を」
「畏まりました、アンリ様」
部屋に戻る前、ちらとサロンに目をやる。
煩い人達が居ない。
休暇中のサロンは、音がしない。
『水はこまめに変えてあげて。できれば1日2回ね』
アンリは自室で紅茶を飲みながら、ジョシュアに渡されたメモ書きに目を通す。
ジョシュア手書きの飼育解説書だ。
餌の与え方や鳥かごの掃除の仕方などが丁寧に記されている。
最後には余計な一言も付してある。
――後は愛情だよ、アンリ――
端麗で微笑しているような筆記体を睨み付ける。
とりあえず水は取り替えてみた。けれど、鳥は水に見向きもしない。
餌箱が既に鳥かごの中に配置されているが、食べる様子もない。
解説書の指示通りにしているのに、何故上手くいかない。
「役に立たないマニュアルだな」
午後、アンリは月桂樹の森に向かった。
森はあまり好きではないが、休暇中のせいか普段と違うことがしたくなる。
いつもは生徒が行き交うこの場所も今は静かなものだ。
鳥達のさえずりだけが森に響き渡る。
彼等は変わらない日々を過ごしているようだ。
いつのまにか泉の方まで来てしまっていた。
ほとりに金髪の少年が居た。
シュヌーシアのミハイル・リューリコヴィッチ・ネフスキーだ。
彼は病弱な為に休暇中も寮を離れない。
同じく居残り組のアンリは彼のことを知っていた。
棕櫚(シュロ)の木の傍で、ミハイルはしゃがんでいた。
笑顔で2羽の鳥を眺めている。ナイチンゲールだ。
地面に落ちている何かを一心に食べている。
よく見えなくて、アンリは一歩、彼等に近付く。
「ねえ」
「うわあっ! ご、ごめんねっ、ぼくのせいでっ!」
大きな声に驚いて鳥は一斉に飛び立ってしまった。
アンリは木々の隙間から空を眺める。もう何処まで行ったのか解らない。
「理由もないのに、無闇に謝るの止めてくれる?」
「ごっ、ごめんね…あっ…」
呆れてアンリは嘆息した。これ以上責めても堂々巡りなので、話題を変える。
「君、此処で何してたの? 今のナイチンゲールだよね?」
「うん。あのね、この木の実、好きなんだって。だからあげてたの」
ミハイルの傍には小枝に生った小さな赤い実。
アンリは身を屈めて枝を拾う。
「これ、何て言う実?」
「ごめん…ぼくも知らないの…ほら、あの木にあるんだけど…」
恐る恐る指差す先には、落葉低木らしき木があった。
丸みのある葉の間。鮮やかな赤が鈴生りに実っている。
「あっ、いけないっ」
ミハイルは腕時計を見ていた。
「もうカウンセリングの時間だ。あの、ごめんね、またね、アンリ」
遅い速度で走り去っていく。
アンリは来た道を引き返して、ウーティスに戻った。
小鳥と過ごす休暇。一羽と一人の距離はなかなか縮まらなかった。
小鳥は、世話する人間がジョシュアからアンリに変わったことが解るらしく、
最初は明らかに警戒していた。手の平に餌を乗せてみても、寄り付かない。
アンリが怪我した小鳥を発見したことまでは、小鳥には解らなかったらしい。
きっとジョシュアのことを恩人だと認識しているのだろう。
全く懐かない様子に、アンリは義務的に水を換え、淡々と鳥の世話をした。
日を重ねるうちに、目に見えて、小鳥もアンリも相手に慣れて行った。
ある夕暮れ時。アンリは物憂げにバイオリンを弾いていた。
沈みゆく太陽を眺めていて、自然とケースに手が伸び、
左肩にバイオリンを乗せていた。弓の動くままに弦を奏でる。
誰の曲なのか知らなかったので、今、この右手が創っている曲なのかもしれない。
愁いに覆われた音色に、異質な音が混ざった。
『恋の歌を歌う鳥』その尊称通り、美しい声。
小鳥はその時、初めてアンリの前で鳴いた。
「この僕とアンサンブルするつもり?」
アンリは冷笑を浮かべながらも、手を止めなかった。
観客の居ないコンサート。バイオリンは夕陽色のスポットライトを浴びていた。
アンリは日に一度、月桂樹の森に行くようになった。
ポケットに手を入れて、泉まで行き、帰ってくる。
昼寝をするでもなく、森の動物達と触れ合うでもなく。
あまり長時間、森に居ると、余計な過去を思い出すからかもしれなかった。
その後、鳥かごの中には赤い木の実が置いてあった。
翌朝には赤い実は無くなっている。そんな日々がただ静かに繰り返された。
一人で夕食を食べた後、アンリは部屋から鳥かごを持って、サロンに来ていた。
当然、誰も居ない。
平日ならば、喧しい寮生達がバカ騒ぎをしている時間だ。
いつも彼等が居る場所。広めのテーブルに鳥かごを乗せる。
アンリは部屋の隅にある自分の席に座って、本を開く。
サロンにはページを繰る音だけが響く。
憂鬱な時間。休暇中はどうしてこんなに気分が優れないのだろう。
ページをまた一枚重ねる度に具合が悪くなるようだ。
今回はこの子が居るからまだ良いが。それでも時々、鈍く頭が痛む。
(もし、翼を折ったら、ずっと僕の傍に居てくれるのだろうか?)
自分の中に鬱積している澱。暗い液体に飲み込まれそうになる。
(このまま鳥かごの中に閉じ込めたら、僕だけの為に鳴いてくれる?)
淀んだ感情ごと息を吐き出す。
小さく息を吸うと、重苦しい想いが音律となって唇から紡がれた。
とても健康的とは言えない、束縛的なバラードだった。
拍手の音に振り返ると、一人の紳士が手を合わせていた。
オーギュスト・ボージェ教授。
生徒達には「さっぱり解らない」と評判の神秘学の特別講師だ。
スーツの上着は身に付けていないので講義中よりは幾分ラフだが、
ぴしりとアイロンの掛かったウイングカラーシャツ。
前折れ式の立襟に、トレードマークとも言えるクロスタイ。
袖口にはシックなカフスと、普段通りの出で立ちだ。
「君は伯爵から音楽の才も受け継いでいたのか」
「オーギュスト…驚かせないで」
「いや、失礼。とても素晴らしい歌を聞かせて貰ったのだから、当然の拍手だよ」
「僕は君に聞かせるつもりはなかったのだけど?」
「幸運だったね、君を訪ねて来て良かったよ」
教授は楽しそうに、口の悪い教え子と渡り合う。生徒は不満げだ。
「何故、君が学院に残っているの? 学会は?」
「今回は無いんだ。今、私は論文の執筆中でね、
思うように筆が進まないものだから、
君の紅茶をご馳走して貰おうかと思ってね?」
「ふうん。つまり息抜きに来たんだ? 僕に迷惑を掛けてまで」
「今、バトラーに渡してきたが。手土産にケーキをお持ちしたよ。
さあ、後はアンリと、君が淹れてくれた紅茶があれば、
幸福なナイトキャップティーの時間が創出される。
私のささやかな論文完成の為に、ご協力願えないかな?」
「随分勝手だね。僕の特別講師は」
就寝前の紅茶の時間。アンリの前にベイクドチーズケーキが置かれた。
表面は薄いブラウンの焼き色。周囲はクリームイエローだ。
銀のフォークで小さく切り取る。
ケーキはとても柔らかく、すうっとフォークを受け入れた。
オーギュストの前にはケーキはなく、教え子が淹れた紅茶を堪能している。
「今回の休暇は生徒代表君も居ないのか。広い寮に一人きりで淋しくないのかね?」
「淋しくない」
ケーキを口に入れた途端、舌の上でしゅわっと音がして、溶けた。
甘くて濃厚なチーズの香りだけが口内に残った。
「私の部屋に泊まっても良いよ?」
チーズケーキが淡々とアンリの口に運び込まれる。
「では植物園にでも散歩に行こうか?」
「論文を書けば? ボージェ教授」
ノックの音。一礼して現れたのはこの寮の執事。
アンリ一人の為に、彼は毎回休暇中も寮に残っていた。
「お話し中、失礼致します。アンリ様、お電話でございます」
アンリはフォークを置いて、立ち上がる。
「そう。仕事の電話かな。失礼するよ、オーギュ。
もう研究室に帰ってくれても構わないけれど?」
「君を待っている間、この小鳥に相手をして貰うよ」
帰るつもりのない台詞に、アンリは肩を竦めて、サロンを後にした。
オーギュストは紅茶のカップを置くと、鳥かごの前に進んだ。
翼には丁寧に真新しい包帯が巻かれていた。
「あの子にして貰ったのかい?」
小鳥はきょとんとした黒目を向けている。
「君だけに見せた顔が幾つもあったのだろうね。羨ましいものだな」
アンリがサロンに帰って来た。
ドアの傍に立ったまま、中に入ろうとしない。
搾り出すような声で、アンリは詫びた。
「オーギュ。ごめん。僕、もう休むから」
普段あれほど冷静な子が動揺を隠し切れていない。
逃げ去ろうとする細腕を掴む。
「どうしたんだね?」
アンリの手には走り書き。其処にはフランスにある大病院の名前。
「父が…」
オーギュストは腕から手を離す。
サン・ジェルマン家の母親はアンリが幼い時に亡くなっている。
この家の父親と子息の仲は恐ろしく悪いと、オーギュストは知っていた。
「君の父上が?」
アンリは腕を抱く。
「危篤、だって」
「今回は本当にありがとう、ユウタ。俺に付いて来てくれて」
イギリス上空で、今回の旅についてジョシュアは礼を述べた。
航空機はロンドンの空港から上昇して、今は水平に飛んでいる。
隣の席に居る旅のパートナーは明るい笑顔を見せた。
「お礼を言うのはこっちだよ。俺、ジョシュアと一緒に旅行できて楽しかった」
ユウタの明るさに随分助けられた、とジョシュアは思った。
彼が居なかったら、グラントの食卓はもっと気詰まりしただろう。
頼もしいパートナーが一緒に来てくれたことを心から感謝していた。
「ねえ。ジョシュア」
「なんだい?」
「ジョシュアはさ、ロンドンとロレート、来て良かった?」
心配そうに尋ねる彼に、ジョシュアは自信を持って頷く。
「うん。行く前はね、正直あまり行きたくなかったんだけど、
今になって思うと本当に来て良かったと思うよ」
「そっか。良かった」
ユウタはまた笑顔になる。窓の外に何かを見つけ、身体を乗り出す。
「あっ、イギリスの形、世界地図とおんなじだ」
その地形が徐々に小さくなるにつれて、
ジョシュアはいつもの自分に戻っていくような気がしていた。
海を越えて、早く帰りたいという気持ちが強かった。
地図には載らない、辺境の島。
今の自分が胸を張って故郷と呼べる場所。
ウーティス寮。一番、心の休まる家。
やはり、自分の故郷はイギリスではないらしい。
そんなことを考えながら、海の向こうに消えて行くイギリスを見ていた。
「どうしてオーギュストまで行くの」
「アンリ一人では心配だからね」
アンリは部屋でオーギュストと明日のスケジュールの打ち合わせをしていた。
保護者代わりの特別講師が付き添うと言い張ったからだ。
航空機のチケットは二枚取れた。
翌朝、ジョシュアとユウタが帰って来る。
彼等を此処まで乗せたタクシーで、アンリは空港へ向かうことにした。
運転手には連絡が取れた。二人を降ろした後、正門前で待っているようにと伝えた。
サン・ジェルマンの邸。随分と久し振りの帰宅になる。
が、アンリを待っている血族は――本当に――居ないかもしれない。
あの人は、明日まで生きているのだろうか。
もし、生きていたら。
もし、生きていなかったら。
こんな時でも、両事象の利益、損益が思い浮かぶ。
僕はやはり、頭が可笑しいのだろうか。あの人が言ったように。僕は――
「オーギュ」
「ん?」
教え子は担当教師に質問する。
「もし彼が亡くなれば、僕の身の安全は保証される。
僕の命を狙っていた人が、居なくなるのだからね。
僕の言っていること、間違っている? ボージェ教授」
不謹慎で倫理感に外れる質問。
この子は、それを承知の上で尋ねているのだろう、とオーギュストは感じた。
口に出して、確認せずにはいられなかったのだろう。
正解か不正解の二択ならば、答えは決まっている。
教師は教え子が欲している正答を与えた。
「間違ってはいないね。紛れもない事実だ」
アンリは、こくんと頷いた。
この夜、アンリは頻りに横髪に触れていたが、
オーギュストは敢えて指摘しなかった。
「ねえ。オーギュ。明日以降の僕が、どんな陰口を叩かれるか解る?」
形ばかりの冷笑を浮かべ、アンリは他人事のように呟いた。
「僕が父を殺したって言われるんだろうね」
ジョシュアとユウタは無事に聖アルフォンソ島に到着した。
空港から学院までの車中。
ユウタはタクシー運転手にロレートの土産話を聞かせていた。
「それでね、ロレートの西側に古くてこじんまりした美術館があって、
優しい絵がたくさん展示されてさ、俺、なんか感動しちゃった!」
「随分楽しい休暇になったみたいだな、マージナルプリンス?」
「うんっ」
ジョシュアがカーディス1世と面会している間、ユウタはロレートを観光していた。
ジョシュアのことが気になって、街の人達に、王様のことを尋ねてみたりもした。
本当に信じてるわけではなかったけど、『兄殺し』の汚名があるからだ。
「観光案内所の人達も皆、ジョシュアの叔父さんのこと、好きだったよ。
『カーディス陛下を悪く言う国民なんか居ないのよ』って言ってた」
その国の人達は、誰もが王の潔白を知っていた。マスコミに悪い憶測を書かれても、
こんなに国民に信じて貰える王様は幸せ者だなあとユウタは感動するくらいだった。
運転手は鏡を見ないで相槌を打つ。
「へえー。モテモテだなあ、王様。モテる血筋なのかねえ。な、ジョシュア?」
「そんな、俺は全然」
「えー。俺達も、ジョシュアのこと大好きだよ! 皆も絶対そう思ってるって!」
運転手は鏡を見る気になれなかった。楽しい旅の帰り道は学院に着くまでだ。
こいつらは寮に着くなり、知ることになる。
正門前でタクシーから降りると、二人は揃って我が家に戻った。
ジョシュアは門から寮までの長い道のりをもどかしく感じられた。
久し振りの自分の部屋。
その見慣れた光景に思わず息が漏れた。ほっとする。
気遣いに覆われたグラントの実家より、やはり此処の方が落ち着く。
「ジョシュア。ドアを開けて」
久しい声。この友人の声を聞いて、更に帰郷感に満たされた。
今回の旅行は本当に行って良かった。伝えたいことがいっぱいある。
それから、ロレートのこと。
カーディスに会って、初めて知ったことが幾つもある。
何から話せば良いだろう。順序立てて説明できそうにない。
そうだ。先ずはアンリにお礼を言わなくては。
君の言う通り、ユウタを連れて行ってとても助けられた。
些か興奮気味のジョシュアは感じ取れなかった。
友人の僅かな声色の差異に気付かないまま、ドアを開けた。
スーツ姿のアンリは、鳥かごを手にしていた。
「おかえり、ジョシュア。さっきの表情を見ると、
ロレート旅行はそれなりに楽しめたみたいだね?」
「あ、ああ…」
肯定の返事に、アンリは、そう、と言った。
「じゃ、早速で悪いけど、この子を返すよ」
許可も得ずに鳥かごを近くの棚に置く。
「一体どうしたんだい、アンリ?」
背中を向けたままアンリは呟いた。
「父が倒れたから、帰る」
「アンリのお父さんが?」
「うん。それじゃ、もう行くから」
寮の外でアンリを待っていたのは、
神秘学の特別講師だった。彼も一緒に行くらしい。
言葉少なにアンリは姿を消した。
最低限しか口にしなかったが、彼の父親が深刻な状態だと知れた。
休暇中も必ず寮に残るアンリが家に帰るなんて只事ではない。
ジョシュアの手にはアンリが世話をしていたナイチンゲールが残った。
その夜は雨が降った。
温暖な気候の聖アルフォンソ島にしては、珍しい豪雨。
窓を打ち付ける雨音で、夜中に目が覚めてしまった。
少し空いていたカーテンの隙間から稲光が見える。
起き出して、カーテンを少し開く。
空が泣いている。
涙が止まらないといった様子で、幾度も幾度も雫が落ちてくる。
冷えた窓の頬はもう隙間もないくらい、雨に濡れている。
遠い海の向こうに居る友人の顔が浮かんだ。
君も今泣いているのだろうか。そうでなければ良いけれど。
雨のせいだろうか、悪い方にしか考えられない。
彼は既に母親を失くしている。
もし、万が一のことがあれば彼も俺と同じように二人も親を失ってしまう。
彼は父親との間に軋轢があるが、
本当に居なくなってしまえば良いとは思っていない筈だ。
カーテンの端を持ったまま、闇の空を仰ぐ。
「アンリ…」
部屋の中から物音がする。鳥かごからだ。
ナイチンゲールが小さく鳴いた。
『恋の歌を歌う鳥』のさえずりも痛切で物悲しく感じた。
この小鳥もアンリのことを心配してくれているように聞こえる。
アンリが返した鳥かごは綺麗に掃除されていた。容態も回復に向かっている。
ナイチンゲールの羽にも艶がある。きちんと水分と栄養を与えられた証拠だ。
自分が居ない間、毎日きちんと世話をしていたのだろう。
今、ナイチンゲールが呼んでいるのは、アンリなのかもしれない。
ざあざあというノイズが鳴り止まない。
それから暫く雨音を聞きながら、夢と現を行き来していた。
ほんの僅かに眠ったらしい。
ジョシュアの祈りも虚しく、翌朝のニュースは、
『サン・ジェルマン家の当主が亡くなった』と報じた。
当惑しているだろう友人の名が各メディアに記されている。
彼が父親の事業を継ぐことに、社内は反対しているらしい。
悲しみに暮れる間も与えずに、彼の周囲は後継者問題を騒ぎ立てていた。
アンリがウーティス寮に帰って来たのは数日後。
サロンに顔は見せたものの、その表情には疲労の色が滲んでいた。
心配していた寮生達に、威勢の無い毒を吐いた後は、
自分の部屋に戻り、すぐに眠りに付いた。
翌日には、いつものアンリに戻っていた。
寮の皆もアンリに対して、いつも通りに接してくれた。
ウーティス寮は徐々に『日常』を取り戻しつつあった。
アンリの毒舌にレッドが絡み、ジョシュアが止める。
賑やかで平和な日々が戻って来た。
そして、ナイチンゲールの怪我が完治した。
包帯も外れ、翼は自由に動く。もう飛べる。
お別れだ。森に返すのは、少し淋しいけれど。
この子だって早く我が家に帰りたい筈だ。
ロンドンからの帰り道、ウーティス寮が恋しかった自分のように。
明日、森に戻そう。
自分が居ない間、世話をしてくれたアンリにも一緒に来て貰おう。
そう思って、彼を誘ったのだが「君に任せる」と断られた。
アンリは何も言わなかったけれど、俺以上に小鳥と別れるのが辛いのかもしれない。
元々、彼が見付けて救った小鳥だ。
最初から情が移っていたのだろう。
たった一羽で、家族も仲間も傍に居なかった、この小さな鳥に。
天気の良い夜。ジョシュアは鳥かごを持って、月桂樹の森へ入った。
自分の後を、ナイチンゲールの鳴き声が付いてくるようだった。
鳥かごの中に仲間が居ると解るのだろう。
彼等に見守られながら、ジョシュアは鳥かごを開ける。
「さあ。君の家へお帰り」
小鳥は羽ばたいて、森の中に消えた。
その様子を、アンリは自室から見ていた。
ジョシュアに任せて良かった。
あの場に自分は居られない。翼を折ってしまうかもしれない。
その可能性がゼロだとはどうしても思えなかった。
以前、鳥かごを置いていた場所。
何もない。
空疎に感じる方が可笑しいのに。
最初から其処には何もなかった。
たった数日、其処に居ただけなのに。
ナイチンゲールの透き通った声は、今も耳に残っていた。
小鳥がウーティスから消えた翌朝。
アンリは重い身体を起こす。朝に気分良く目覚めた方が少ない。
しかし、起きなければ、煩い寮生達が叩き起こしに来る。
日光を浴びて、無理矢理、身体に朝だと認識させる。
カーテンを開けると、窓の外に何か見えた。
窓枠に赤いものが置いてある。
赤い木の実だ。
窓を開けて、実の付いた枝を手に取る。
やはりミハイルに教えられたものと同じに見えるが。
風で飛ばされたのだろうか。だが、この実は森の奥にしかない。
此処まで飛んで来る可能性は、低い。
一瞬、脳裡に浮かんだメルヘン。
アンリは赤い実を眺めながら、冷たく笑った。
「まさかね」
同じの日の放課後。ジョシュアは月桂樹の森を散歩していた。
あのナイチンゲールに会えないかなという僅かな期待があった。
「この中に居るのかな、君も」
ジョシュアの上空で鳥達がさえずっていた。
目の前にある木。その枝に一羽の小鳥が止まった。
口に何か銜え、ジョシュアを見ているようだ。
「君なのかい?」
小鳥はすぐに飛び立った。
ジョシュアの足許に何かが落ちた。
細い枝に金色の新芽が付いている。月桂樹の小枝。
新芽はナイチンゲールの好物だ。
食べようとしていたのを、誤って落としてしまったのだろうか。
「王はナイチンゲールが銜えてきた枝で森を作った――伝説の通りだね?」
冷たくて甘い声。アンリがウーティス寮の方から歩いて来た。
「アンリ」
「それ、植えてみたら? 森になるかもしれないよ? まあ、数十年後くらいにはね」
シニカルに笑って、眩しそうに鳥達を仰ぎ見る。
「ナイチンゲールにも見えるのかな?」
サン・ジェルマン伯爵の子孫が見えると言い張るもの。
それをジョシュアは見ることはできない。
この額に在る。友人は真面目な顔をして言う。
嘘にも冗談にも聞こえないけれど。否、と考えてしまう。
ジョシュアは、カーディスのことを思い出した。自分の叔父で、現ロレート国王。
先日の旅行で、初めて彼に会って。父に似た声で、カーディスは言った。
――お前を正式な王位継承者として迎えたい。俺はその為に王になった――
ジョシュアは友人の背中から視線を落とす。
草の間で蟻が列を為して歩んでいる。自然とその先頭を目で追っていた。
ひっそりと名を呼ぶ。友人は無言で立ち止まった。
「…見えるのかい? 今も」
何を今更、という表情で、アンリは王冠の位置を指差す。
「ああ。ずっと此処に」
アンリの瞳にのみ映る、透明な光。
それは初めて会った時からずっと、ジョシュアの頭上にある。
「きっと君が生まれた時から此処にあったんだ。
そして、これから先も。どうして気付かないの? これほどの輝きに」
「ありがとう」
「礼を言われる覚えはない。僕は本当のことを言っただけだ」
アンリはくるりと背を向けて、歩き出す。
「ねえ。そろそろお茶にしてくれない? 生徒代表殿」
微笑んで、ジョシュアは友人の背を追い駆ける。
「そうだね」
「僕、今日はアイスティーが飲みたいな」
「了解」
木漏れ陽の小道を二人で歩いていく。
森を抜ければウーティス寮。自分達の家だ。
二人の上ではナイチンゲールが楽しげに歌っていた。
「あ。明日、レッド達のライブがあるそうだよ? アンリも一緒に」
「行かない」
fin
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ロレートの紋章。
ジョシュアは一通の封筒を見ていた。まだ封は開けていない。
白の封筒に深紅の蝋は良く映えて、嫌でも目に入る。
赤い蝋を溶かして、真鍮製の刻印を押した封蝋。
貴方の国から来た手紙だとすぐに解る。
赤は好きな色なのに、この赤はどうしても好きになれない。
上質な手触りも肌に吸い付くようで、怖かった。
中に何が書いて在るのか。すぐには封を切れず、開けるのを躊躇ってしまう。
「ねえ、開けてくれる?」
ドアの向こうから耳に馴染む声がした。もう4年も同じ寮で生活している友人だ。
しかし、開けて、という要求は珍しい。ノックの音もしなかった。
自分ではドアを開けられないのだろうか? 何か持っていて手が塞がっている?
手にしていた封筒を、机の引き出しに仕舞う。
一時的にでも手放すことに安堵しながら、ドアへと向かった。
扉の向こうに居たのはやはり親しい友人の顔だった。
「やあ。アンリ」
友人は手の平に乗せているものを差し出した。
「これ」
華奢な手には小鳥が乗っていた。
瞳は閉じられて、身体は動いていない。
この島では特別な意味を持つ小鳥。
「ナイチンゲール…。一体どうしたんだい?」
「さっき、森で見付けた。君、動物の世話、得意なんだから何とかして」
アンリが手を突き出すので、ジョシュアは手の平を上にする。
小さな身体がそっと渡される。
手の平に伝わる温かさにジョシュアは少し安心した。
鳥の体温は約40度。ちゃんとその高い体温を感じた。まだ生きている。
冷静さを取り戻し、落ち着いて状態を観察する。
外見は少し羽根が汚れているだけで、怪我をした様子はない。
翼を少し広げて見る。付け根に傷があった。
それほど深くはない。治療すれば回復するだろう。
診察している間、黙っていたアンリがぽつりと呟く。
「助かるの?」
「うん。大丈夫。翼に怪我をして飛べなかったみたいだね。
でも傷は深くないから、暫く安静にしていれば森に帰れるよ」
アンリは愁眉を開く。
「そう」
僅かながらも、常の冷たさより和らいだ声だった。
毒舌家と称される彼だが、時折こんなに優しい表情を見せる。
皆にももっと見せてあげたら良いのにな、とジョシュアはそっと思う。
きっと本人に言ったら、それこそ毒舌が返って来るだけだ。
優しい毒舌家は踵を返した。
「それじゃ。後は任せるよ」
「アンリ」
無言で振り返る。もういつもの冷静な表情に戻っていた。
心優しい行動とそぐわない表情にジョシュアは思わず微笑んだ。
「ありがとう。助けてくれて」
「礼を言われる覚えはないけれど?」
「この子の代わりに、言っておきたくてね」
友人は肩を竦めて冷笑する。
「鳴いてもいないのに、鳥の声が聞こえるんだね、君は」
ドアが閉まった。ジョシュアは早速、怪我の治療を始めることにする。
常備している救急箱があった。主に動物達に処方するものだ。
止血剤、消毒薬、傷用の塗り薬など。人間にも使用できるし、
動物が万一舐めても害のない薬を幾つか所有していた。
ジョシュアには愛馬が居て、動物行動学の特別講義を取っている。
月桂樹の森に行くと、ナイチンゲールは彼に聞かせるように歌う。
自他共に認める動物好きの元に怪我をした森の動物達が運び込まれることがあった。
慣れた手付きで小鳥の傷に薬を塗り、包帯を巻く。
「さあ。これで大丈夫だよ。ゆっくりおやすみ」
静かに鳥かごの中へ横たえる。扉を閉めると、少し肩の力が抜けた。
それで初めて肩に力が入っていたのだと気付く。
鳥かごの周りに置いていた包帯や鋏を救急箱に片付けていく。
すっかり綺麗になった後、ふと机が目に入ってしまった。
深紅の封蝋。引き出しに入れたものが勝手に思い出される。足が机に向かわない。
――せめて夕食の後にしよう。
ジョシュアは部屋を後にし、食堂へと向かった。
怪我をした小鳥は檻の中でまだ一声も発していない。
動かない翼を静かに横たえている。
「アルフォンソ王の前に、月桂樹の小枝を銜えたナイチンゲールが現れた。
王が枝を植えると、其処はたちまち森となった――
確かに、挿し枝でも年月を掛ければ森になるかもしれないけれどね。
メルヘンチックな伝説に組み込まれた君達はどんな気分なのかな?」
アンリは鳥かごを覗きながら、機嫌良く話していた。
彼がナイチンゲールを連れ帰ってから数日後。
ジョシュアは、アンリを部屋に招いた。
そろそろ鳥の様子を見に来たい頃だろうと思ったからだ。
鳥が心配でも、アンリは自分からは訪ねて来ないから。
彼がそういう可愛い所があることを、付き合いの長いジョシュアは心得ていた。
素直ではないというか、意地っ張りというか。
彼のように振る舞うことは、ジョシュアには不可能なことだった。
一種の憧れにも似た気持ちがあったのかもしれない。
彼は何でもずけずけと辛辣な言葉を口にする。ある特定の感情を除いては。
アンリは鳥かごが置いてある棚に凭れて、友人を見やる。
「僕は、ナイチンゲールが銜えていた月桂樹って、比喩だったのかなとも思うんだ」
「どういうことだい?」
「実際の『枝』ではなくて、国を作る為に必要な『モノ』さ。
資材、資金、情報、そして民とかね? だって、森だけでは国にならないもの」
ドライな口調でアンリはビジネスに必要な要素を並べ立てた。
自分の事業を持つ彼らしい発想と言える。
「成程ね。今まで考えたこともなかったな」
琥珀の瞳が机上を捉える。封が開いた白い封筒。
シーリングワックスに描かれた紋章はジョシュアの父方の祖国を示すものだ。
現在は弟君のカーディス1世が国王を務めている。
「それ、ロレート国王からだね。君に何て言って来たの?」
ジョシュアは机上に置きっぱなしだった手紙を見つめる。
友人に発見されたことに後悔し、続けて安堵を感じた。
「俺に、会いたいって」
純白の便箋に綴られていたのは、それだけではなかった。
「カーディス1世は、正式な王位継承者として、俺を迎えたいらしい。
今度の休暇、ロレートに来てくれないかって。そう、書いてあった」
アンリの表情は特段変わらなかった。
来るべき時が来ただけだ。アンリにとっては驚くことではなかった。
そっとジョシュアの額を盗み見る。運命は最初から、其処で輝いている。
「それで、君は行くの?」
「迷ってる。ロレートに行くのも、彼に会うのも初めてだし。
でも、断るわけにもいかないと思う」
この真面目な王位継承者は、ロレートに出向くことを義務と感じているらしい。
其処でどんな話が待っているのかは自ずと解る。
アンリ個人にとっては好都合だ。今はグラント姓を持つ彼。
もしグラントに残れば、家同士が敵対関係にあるアンリは、
後に、彼と争わなくてはならない。そうなれば自分は彼に勝つだろう。
彼の思考も、行動パターンもほぼ把握している。
かつて、毒薬遣いと呼ばれたアンジェロ・ボルジアが、
アルフォンソを殺す為、彼に付き従い、毒杯を差し出したように。
友人の顔をして、彼を騙すことは蟻を踏み殺すより容易い。
僕がジョシュアに対して残虐になれれば、
この真面目な人間を捻り潰すくらい造作もないことだ。
ジョシュア・グラント。
初めて会った時から、いや、生まれながらに、王冠を持つ人。
一体どんな人物なのか興味はあった。
後のことを考えると、彼について知っておきたい。
彼は間違いなく僕のことを友人だと思っているだろう。けれど僕は?
僕は彼のこと、何だと思っているのだろう?
――君が何て言おうと、俺はアンリの友達だよ!――
あの、お目出度い新入生のように。
何ひとつ疑うことなく『友達』なんて言葉、僕には口にできなかった。
鳥かごの中のナイチンゲールは自由にならない翼を小さく震わせている。
「行くとしたら、グラントにも行くの?」
「そうなるね。ロレートまでの中継地点だし、先ずはロンドンに行って、かな」
ロレートに加え、母方の実家に帰ることもジョシュアには気の重いことだった。
ヨーロッパ有数の財閥、グラント家。
ロンドンにあるその家はランベール館と呼ばれている。
ジョシュアの伯父と伯母が居て、表面上は優しく気遣ってくれるのだが、
代々、男系の子供を跡取りにするグラント家にとっては、
ジョシュアは母クリスティーナが連れ帰った厄介者でしかなかった。
自分がランベール館に行くと久し振りに帰ったから、
と親戚一同を集めたパーティを催してくれるのだが、
その形式ばった歓迎の仕方は、実のない寒々しさを感じざるを得なかった。
大勢の人に囲まれながら、あんなに孤独感のあるパーティは居たたまれなく、
正直、あまり行きたくなかった。
アンリは小鳥の僅かな動きを見守りながら、
「ねえ。彼を連れて行けば?」
「彼って?」
「変わった人種が入ったでしょう、今年は。
グラントのパーティで、君の防波堤にはなってくれるんじゃない?」
ジョシュアは今年入った天真爛漫な笑顔が思い浮かぶ。
良案だ。ユウタはウーティス寮を明るくしてくれた。
聖アルフォンソ学院では、特殊な環境に育った生徒達が多い。
その為、他の生徒に干渉しないことが多い中、ユウタは大いに干渉する。
元気で素直な良い子だ。この学院で彼は確かに希少な存在と言える。
グラントの冷たいパーティでも彼なら場を和ませてくれるに違いない。
ユウタとの旅行は初めてだし、少し楽しみになってきた。
「ありがとう、アンリ。彼のこと誘ってみるよ」
「行ってらっしゃい」
気だるげに言い放つ友人を見て、ジョシュアは微笑んだ。
「…なんだか嬉しいな」
アンリは不思議そうにこちらを見る。
「何が?」
「アンリ、ユウタのこと買っているんだね?」
途端に視線を外された。
「勘違いしないで」
機嫌を損ねた素直じゃない人。ジョシュアはまた笑みを零す。
「アンリは今度の休暇も残るのかな?」
「ああ。いつものようにね」
ジョシュアもそうだが、アンリも休暇中は家に戻らない。
正確には、戻りたい場所がないからだ。
「じゃ、アンリにナイチンゲールのこと、頼んでも良いかな?」
「…僕が?」
「皆も寮を空けてしまうそうだから。君にしか頼めないんだよ」
「でも、僕、鳥の世話なんて…」
「大丈夫。それは俺が責任を持って教えるよ」
休暇初日の朝。ウーティス寮の玄関が俄かに騒々しくなる。
旅行用のバッグを持った面々を、アンリとバトラーが見送る破目になった。
わくわくしている一年生を見守っているのは最高学年の生徒代表殿。
「じゃ、行って来るねー。アンリ!」
「ナイチンゲールのことよろしくね」
ジョシュアとユウタはロンドンとロレートへ。
残るデッドプリンスはニッポンへ旅行に行くらしいが、
何故かギターを背負っている。
わざわざ旅行先でストリートライブでもするつもりなのか。
「アンリ、また休み明けにね」
「イイ子でお留守番してろよっ!」
「ニッポンのお土産たくさん買って来ますね!」
アンリは憮然としたまま、息を吐く。
「…要らないから。早く行けば?」
皆がドアの向こうに消えた。
途端に、その場が静まり返る。
「ああ、煩かった。バトラー、僕の部屋に紅茶を」
「畏まりました、アンリ様」
部屋に戻る前、ちらとサロンに目をやる。
煩い人達が居ない。
休暇中のサロンは、音がしない。
『水はこまめに変えてあげて。できれば1日2回ね』
アンリは自室で紅茶を飲みながら、ジョシュアに渡されたメモ書きに目を通す。
ジョシュア手書きの飼育解説書だ。
餌の与え方や鳥かごの掃除の仕方などが丁寧に記されている。
最後には余計な一言も付してある。
――後は愛情だよ、アンリ――
端麗で微笑しているような筆記体を睨み付ける。
とりあえず水は取り替えてみた。けれど、鳥は水に見向きもしない。
餌箱が既に鳥かごの中に配置されているが、食べる様子もない。
解説書の指示通りにしているのに、何故上手くいかない。
「役に立たないマニュアルだな」
午後、アンリは月桂樹の森に向かった。
森はあまり好きではないが、休暇中のせいか普段と違うことがしたくなる。
いつもは生徒が行き交うこの場所も今は静かなものだ。
鳥達のさえずりだけが森に響き渡る。
彼等は変わらない日々を過ごしているようだ。
いつのまにか泉の方まで来てしまっていた。
ほとりに金髪の少年が居た。
シュヌーシアのミハイル・リューリコヴィッチ・ネフスキーだ。
彼は病弱な為に休暇中も寮を離れない。
同じく居残り組のアンリは彼のことを知っていた。
棕櫚(シュロ)の木の傍で、ミハイルはしゃがんでいた。
笑顔で2羽の鳥を眺めている。ナイチンゲールだ。
地面に落ちている何かを一心に食べている。
よく見えなくて、アンリは一歩、彼等に近付く。
「ねえ」
「うわあっ! ご、ごめんねっ、ぼくのせいでっ!」
大きな声に驚いて鳥は一斉に飛び立ってしまった。
アンリは木々の隙間から空を眺める。もう何処まで行ったのか解らない。
「理由もないのに、無闇に謝るの止めてくれる?」
「ごっ、ごめんね…あっ…」
呆れてアンリは嘆息した。これ以上責めても堂々巡りなので、話題を変える。
「君、此処で何してたの? 今のナイチンゲールだよね?」
「うん。あのね、この木の実、好きなんだって。だからあげてたの」
ミハイルの傍には小枝に生った小さな赤い実。
アンリは身を屈めて枝を拾う。
「これ、何て言う実?」
「ごめん…ぼくも知らないの…ほら、あの木にあるんだけど…」
恐る恐る指差す先には、落葉低木らしき木があった。
丸みのある葉の間。鮮やかな赤が鈴生りに実っている。
「あっ、いけないっ」
ミハイルは腕時計を見ていた。
「もうカウンセリングの時間だ。あの、ごめんね、またね、アンリ」
遅い速度で走り去っていく。
アンリは来た道を引き返して、ウーティスに戻った。
小鳥と過ごす休暇。一羽と一人の距離はなかなか縮まらなかった。
小鳥は、世話する人間がジョシュアからアンリに変わったことが解るらしく、
最初は明らかに警戒していた。手の平に餌を乗せてみても、寄り付かない。
アンリが怪我した小鳥を発見したことまでは、小鳥には解らなかったらしい。
きっとジョシュアのことを恩人だと認識しているのだろう。
全く懐かない様子に、アンリは義務的に水を換え、淡々と鳥の世話をした。
日を重ねるうちに、目に見えて、小鳥もアンリも相手に慣れて行った。
ある夕暮れ時。アンリは物憂げにバイオリンを弾いていた。
沈みゆく太陽を眺めていて、自然とケースに手が伸び、
左肩にバイオリンを乗せていた。弓の動くままに弦を奏でる。
誰の曲なのか知らなかったので、今、この右手が創っている曲なのかもしれない。
愁いに覆われた音色に、異質な音が混ざった。
『恋の歌を歌う鳥』その尊称通り、美しい声。
小鳥はその時、初めてアンリの前で鳴いた。
「この僕とアンサンブルするつもり?」
アンリは冷笑を浮かべながらも、手を止めなかった。
観客の居ないコンサート。バイオリンは夕陽色のスポットライトを浴びていた。
アンリは日に一度、月桂樹の森に行くようになった。
ポケットに手を入れて、泉まで行き、帰ってくる。
昼寝をするでもなく、森の動物達と触れ合うでもなく。
あまり長時間、森に居ると、余計な過去を思い出すからかもしれなかった。
その後、鳥かごの中には赤い木の実が置いてあった。
翌朝には赤い実は無くなっている。そんな日々がただ静かに繰り返された。
一人で夕食を食べた後、アンリは部屋から鳥かごを持って、サロンに来ていた。
当然、誰も居ない。
平日ならば、喧しい寮生達がバカ騒ぎをしている時間だ。
いつも彼等が居る場所。広めのテーブルに鳥かごを乗せる。
アンリは部屋の隅にある自分の席に座って、本を開く。
サロンにはページを繰る音だけが響く。
憂鬱な時間。休暇中はどうしてこんなに気分が優れないのだろう。
ページをまた一枚重ねる度に具合が悪くなるようだ。
今回はこの子が居るからまだ良いが。それでも時々、鈍く頭が痛む。
(もし、翼を折ったら、ずっと僕の傍に居てくれるのだろうか?)
自分の中に鬱積している澱。暗い液体に飲み込まれそうになる。
(このまま鳥かごの中に閉じ込めたら、僕だけの為に鳴いてくれる?)
淀んだ感情ごと息を吐き出す。
小さく息を吸うと、重苦しい想いが音律となって唇から紡がれた。
とても健康的とは言えない、束縛的なバラードだった。
拍手の音に振り返ると、一人の紳士が手を合わせていた。
オーギュスト・ボージェ教授。
生徒達には「さっぱり解らない」と評判の神秘学の特別講師だ。
スーツの上着は身に付けていないので講義中よりは幾分ラフだが、
ぴしりとアイロンの掛かったウイングカラーシャツ。
前折れ式の立襟に、トレードマークとも言えるクロスタイ。
袖口にはシックなカフスと、普段通りの出で立ちだ。
「君は伯爵から音楽の才も受け継いでいたのか」
「オーギュスト…驚かせないで」
「いや、失礼。とても素晴らしい歌を聞かせて貰ったのだから、当然の拍手だよ」
「僕は君に聞かせるつもりはなかったのだけど?」
「幸運だったね、君を訪ねて来て良かったよ」
教授は楽しそうに、口の悪い教え子と渡り合う。生徒は不満げだ。
「何故、君が学院に残っているの? 学会は?」
「今回は無いんだ。今、私は論文の執筆中でね、
思うように筆が進まないものだから、
君の紅茶をご馳走して貰おうかと思ってね?」
「ふうん。つまり息抜きに来たんだ? 僕に迷惑を掛けてまで」
「今、バトラーに渡してきたが。手土産にケーキをお持ちしたよ。
さあ、後はアンリと、君が淹れてくれた紅茶があれば、
幸福なナイトキャップティーの時間が創出される。
私のささやかな論文完成の為に、ご協力願えないかな?」
「随分勝手だね。僕の特別講師は」
就寝前の紅茶の時間。アンリの前にベイクドチーズケーキが置かれた。
表面は薄いブラウンの焼き色。周囲はクリームイエローだ。
銀のフォークで小さく切り取る。
ケーキはとても柔らかく、すうっとフォークを受け入れた。
オーギュストの前にはケーキはなく、教え子が淹れた紅茶を堪能している。
「今回の休暇は生徒代表君も居ないのか。広い寮に一人きりで淋しくないのかね?」
「淋しくない」
ケーキを口に入れた途端、舌の上でしゅわっと音がして、溶けた。
甘くて濃厚なチーズの香りだけが口内に残った。
「私の部屋に泊まっても良いよ?」
チーズケーキが淡々とアンリの口に運び込まれる。
「では植物園にでも散歩に行こうか?」
「論文を書けば? ボージェ教授」
ノックの音。一礼して現れたのはこの寮の執事。
アンリ一人の為に、彼は毎回休暇中も寮に残っていた。
「お話し中、失礼致します。アンリ様、お電話でございます」
アンリはフォークを置いて、立ち上がる。
「そう。仕事の電話かな。失礼するよ、オーギュ。
もう研究室に帰ってくれても構わないけれど?」
「君を待っている間、この小鳥に相手をして貰うよ」
帰るつもりのない台詞に、アンリは肩を竦めて、サロンを後にした。
オーギュストは紅茶のカップを置くと、鳥かごの前に進んだ。
翼には丁寧に真新しい包帯が巻かれていた。
「あの子にして貰ったのかい?」
小鳥はきょとんとした黒目を向けている。
「君だけに見せた顔が幾つもあったのだろうね。羨ましいものだな」
アンリがサロンに帰って来た。
ドアの傍に立ったまま、中に入ろうとしない。
搾り出すような声で、アンリは詫びた。
「オーギュ。ごめん。僕、もう休むから」
普段あれほど冷静な子が動揺を隠し切れていない。
逃げ去ろうとする細腕を掴む。
「どうしたんだね?」
アンリの手には走り書き。其処にはフランスにある大病院の名前。
「父が…」
オーギュストは腕から手を離す。
サン・ジェルマン家の母親はアンリが幼い時に亡くなっている。
この家の父親と子息の仲は恐ろしく悪いと、オーギュストは知っていた。
「君の父上が?」
アンリは腕を抱く。
「危篤、だって」
「今回は本当にありがとう、ユウタ。俺に付いて来てくれて」
イギリス上空で、今回の旅についてジョシュアは礼を述べた。
航空機はロンドンの空港から上昇して、今は水平に飛んでいる。
隣の席に居る旅のパートナーは明るい笑顔を見せた。
「お礼を言うのはこっちだよ。俺、ジョシュアと一緒に旅行できて楽しかった」
ユウタの明るさに随分助けられた、とジョシュアは思った。
彼が居なかったら、グラントの食卓はもっと気詰まりしただろう。
頼もしいパートナーが一緒に来てくれたことを心から感謝していた。
「ねえ。ジョシュア」
「なんだい?」
「ジョシュアはさ、ロンドンとロレート、来て良かった?」
心配そうに尋ねる彼に、ジョシュアは自信を持って頷く。
「うん。行く前はね、正直あまり行きたくなかったんだけど、
今になって思うと本当に来て良かったと思うよ」
「そっか。良かった」
ユウタはまた笑顔になる。窓の外に何かを見つけ、身体を乗り出す。
「あっ、イギリスの形、世界地図とおんなじだ」
その地形が徐々に小さくなるにつれて、
ジョシュアはいつもの自分に戻っていくような気がしていた。
海を越えて、早く帰りたいという気持ちが強かった。
地図には載らない、辺境の島。
今の自分が胸を張って故郷と呼べる場所。
ウーティス寮。一番、心の休まる家。
やはり、自分の故郷はイギリスではないらしい。
そんなことを考えながら、海の向こうに消えて行くイギリスを見ていた。
「どうしてオーギュストまで行くの」
「アンリ一人では心配だからね」
アンリは部屋でオーギュストと明日のスケジュールの打ち合わせをしていた。
保護者代わりの特別講師が付き添うと言い張ったからだ。
航空機のチケットは二枚取れた。
翌朝、ジョシュアとユウタが帰って来る。
彼等を此処まで乗せたタクシーで、アンリは空港へ向かうことにした。
運転手には連絡が取れた。二人を降ろした後、正門前で待っているようにと伝えた。
サン・ジェルマンの邸。随分と久し振りの帰宅になる。
が、アンリを待っている血族は――本当に――居ないかもしれない。
あの人は、明日まで生きているのだろうか。
もし、生きていたら。
もし、生きていなかったら。
こんな時でも、両事象の利益、損益が思い浮かぶ。
僕はやはり、頭が可笑しいのだろうか。あの人が言ったように。僕は――
「オーギュ」
「ん?」
教え子は担当教師に質問する。
「もし彼が亡くなれば、僕の身の安全は保証される。
僕の命を狙っていた人が、居なくなるのだからね。
僕の言っていること、間違っている? ボージェ教授」
不謹慎で倫理感に外れる質問。
この子は、それを承知の上で尋ねているのだろう、とオーギュストは感じた。
口に出して、確認せずにはいられなかったのだろう。
正解か不正解の二択ならば、答えは決まっている。
教師は教え子が欲している正答を与えた。
「間違ってはいないね。紛れもない事実だ」
アンリは、こくんと頷いた。
この夜、アンリは頻りに横髪に触れていたが、
オーギュストは敢えて指摘しなかった。
「ねえ。オーギュ。明日以降の僕が、どんな陰口を叩かれるか解る?」
形ばかりの冷笑を浮かべ、アンリは他人事のように呟いた。
「僕が父を殺したって言われるんだろうね」
ジョシュアとユウタは無事に聖アルフォンソ島に到着した。
空港から学院までの車中。
ユウタはタクシー運転手にロレートの土産話を聞かせていた。
「それでね、ロレートの西側に古くてこじんまりした美術館があって、
優しい絵がたくさん展示されてさ、俺、なんか感動しちゃった!」
「随分楽しい休暇になったみたいだな、マージナルプリンス?」
「うんっ」
ジョシュアがカーディス1世と面会している間、ユウタはロレートを観光していた。
ジョシュアのことが気になって、街の人達に、王様のことを尋ねてみたりもした。
本当に信じてるわけではなかったけど、『兄殺し』の汚名があるからだ。
「観光案内所の人達も皆、ジョシュアの叔父さんのこと、好きだったよ。
『カーディス陛下を悪く言う国民なんか居ないのよ』って言ってた」
その国の人達は、誰もが王の潔白を知っていた。マスコミに悪い憶測を書かれても、
こんなに国民に信じて貰える王様は幸せ者だなあとユウタは感動するくらいだった。
運転手は鏡を見ないで相槌を打つ。
「へえー。モテモテだなあ、王様。モテる血筋なのかねえ。な、ジョシュア?」
「そんな、俺は全然」
「えー。俺達も、ジョシュアのこと大好きだよ! 皆も絶対そう思ってるって!」
運転手は鏡を見る気になれなかった。楽しい旅の帰り道は学院に着くまでだ。
こいつらは寮に着くなり、知ることになる。
正門前でタクシーから降りると、二人は揃って我が家に戻った。
ジョシュアは門から寮までの長い道のりをもどかしく感じられた。
久し振りの自分の部屋。
その見慣れた光景に思わず息が漏れた。ほっとする。
気遣いに覆われたグラントの実家より、やはり此処の方が落ち着く。
「ジョシュア。ドアを開けて」
久しい声。この友人の声を聞いて、更に帰郷感に満たされた。
今回の旅行は本当に行って良かった。伝えたいことがいっぱいある。
それから、ロレートのこと。
カーディスに会って、初めて知ったことが幾つもある。
何から話せば良いだろう。順序立てて説明できそうにない。
そうだ。先ずはアンリにお礼を言わなくては。
君の言う通り、ユウタを連れて行ってとても助けられた。
些か興奮気味のジョシュアは感じ取れなかった。
友人の僅かな声色の差異に気付かないまま、ドアを開けた。
スーツ姿のアンリは、鳥かごを手にしていた。
「おかえり、ジョシュア。さっきの表情を見ると、
ロレート旅行はそれなりに楽しめたみたいだね?」
「あ、ああ…」
肯定の返事に、アンリは、そう、と言った。
「じゃ、早速で悪いけど、この子を返すよ」
許可も得ずに鳥かごを近くの棚に置く。
「一体どうしたんだい、アンリ?」
背中を向けたままアンリは呟いた。
「父が倒れたから、帰る」
「アンリのお父さんが?」
「うん。それじゃ、もう行くから」
寮の外でアンリを待っていたのは、
神秘学の特別講師だった。彼も一緒に行くらしい。
言葉少なにアンリは姿を消した。
最低限しか口にしなかったが、彼の父親が深刻な状態だと知れた。
休暇中も必ず寮に残るアンリが家に帰るなんて只事ではない。
ジョシュアの手にはアンリが世話をしていたナイチンゲールが残った。
その夜は雨が降った。
温暖な気候の聖アルフォンソ島にしては、珍しい豪雨。
窓を打ち付ける雨音で、夜中に目が覚めてしまった。
少し空いていたカーテンの隙間から稲光が見える。
起き出して、カーテンを少し開く。
空が泣いている。
涙が止まらないといった様子で、幾度も幾度も雫が落ちてくる。
冷えた窓の頬はもう隙間もないくらい、雨に濡れている。
遠い海の向こうに居る友人の顔が浮かんだ。
君も今泣いているのだろうか。そうでなければ良いけれど。
雨のせいだろうか、悪い方にしか考えられない。
彼は既に母親を失くしている。
もし、万が一のことがあれば彼も俺と同じように二人も親を失ってしまう。
彼は父親との間に軋轢があるが、
本当に居なくなってしまえば良いとは思っていない筈だ。
カーテンの端を持ったまま、闇の空を仰ぐ。
「アンリ…」
部屋の中から物音がする。鳥かごからだ。
ナイチンゲールが小さく鳴いた。
『恋の歌を歌う鳥』のさえずりも痛切で物悲しく感じた。
この小鳥もアンリのことを心配してくれているように聞こえる。
アンリが返した鳥かごは綺麗に掃除されていた。容態も回復に向かっている。
ナイチンゲールの羽にも艶がある。きちんと水分と栄養を与えられた証拠だ。
自分が居ない間、毎日きちんと世話をしていたのだろう。
今、ナイチンゲールが呼んでいるのは、アンリなのかもしれない。
ざあざあというノイズが鳴り止まない。
それから暫く雨音を聞きながら、夢と現を行き来していた。
ほんの僅かに眠ったらしい。
ジョシュアの祈りも虚しく、翌朝のニュースは、
『サン・ジェルマン家の当主が亡くなった』と報じた。
当惑しているだろう友人の名が各メディアに記されている。
彼が父親の事業を継ぐことに、社内は反対しているらしい。
悲しみに暮れる間も与えずに、彼の周囲は後継者問題を騒ぎ立てていた。
アンリがウーティス寮に帰って来たのは数日後。
サロンに顔は見せたものの、その表情には疲労の色が滲んでいた。
心配していた寮生達に、威勢の無い毒を吐いた後は、
自分の部屋に戻り、すぐに眠りに付いた。
翌日には、いつものアンリに戻っていた。
寮の皆もアンリに対して、いつも通りに接してくれた。
ウーティス寮は徐々に『日常』を取り戻しつつあった。
アンリの毒舌にレッドが絡み、ジョシュアが止める。
賑やかで平和な日々が戻って来た。
そして、ナイチンゲールの怪我が完治した。
包帯も外れ、翼は自由に動く。もう飛べる。
お別れだ。森に返すのは、少し淋しいけれど。
この子だって早く我が家に帰りたい筈だ。
ロンドンからの帰り道、ウーティス寮が恋しかった自分のように。
明日、森に戻そう。
自分が居ない間、世話をしてくれたアンリにも一緒に来て貰おう。
そう思って、彼を誘ったのだが「君に任せる」と断られた。
アンリは何も言わなかったけれど、俺以上に小鳥と別れるのが辛いのかもしれない。
元々、彼が見付けて救った小鳥だ。
最初から情が移っていたのだろう。
たった一羽で、家族も仲間も傍に居なかった、この小さな鳥に。
天気の良い夜。ジョシュアは鳥かごを持って、月桂樹の森へ入った。
自分の後を、ナイチンゲールの鳴き声が付いてくるようだった。
鳥かごの中に仲間が居ると解るのだろう。
彼等に見守られながら、ジョシュアは鳥かごを開ける。
「さあ。君の家へお帰り」
小鳥は羽ばたいて、森の中に消えた。
その様子を、アンリは自室から見ていた。
ジョシュアに任せて良かった。
あの場に自分は居られない。翼を折ってしまうかもしれない。
その可能性がゼロだとはどうしても思えなかった。
以前、鳥かごを置いていた場所。
何もない。
空疎に感じる方が可笑しいのに。
最初から其処には何もなかった。
たった数日、其処に居ただけなのに。
ナイチンゲールの透き通った声は、今も耳に残っていた。
小鳥がウーティスから消えた翌朝。
アンリは重い身体を起こす。朝に気分良く目覚めた方が少ない。
しかし、起きなければ、煩い寮生達が叩き起こしに来る。
日光を浴びて、無理矢理、身体に朝だと認識させる。
カーテンを開けると、窓の外に何か見えた。
窓枠に赤いものが置いてある。
赤い木の実だ。
窓を開けて、実の付いた枝を手に取る。
やはりミハイルに教えられたものと同じに見えるが。
風で飛ばされたのだろうか。だが、この実は森の奥にしかない。
此処まで飛んで来る可能性は、低い。
一瞬、脳裡に浮かんだメルヘン。
アンリは赤い実を眺めながら、冷たく笑った。
「まさかね」
同じの日の放課後。ジョシュアは月桂樹の森を散歩していた。
あのナイチンゲールに会えないかなという僅かな期待があった。
「この中に居るのかな、君も」
ジョシュアの上空で鳥達がさえずっていた。
目の前にある木。その枝に一羽の小鳥が止まった。
口に何か銜え、ジョシュアを見ているようだ。
「君なのかい?」
小鳥はすぐに飛び立った。
ジョシュアの足許に何かが落ちた。
細い枝に金色の新芽が付いている。月桂樹の小枝。
新芽はナイチンゲールの好物だ。
食べようとしていたのを、誤って落としてしまったのだろうか。
「王はナイチンゲールが銜えてきた枝で森を作った――伝説の通りだね?」
冷たくて甘い声。アンリがウーティス寮の方から歩いて来た。
「アンリ」
「それ、植えてみたら? 森になるかもしれないよ? まあ、数十年後くらいにはね」
シニカルに笑って、眩しそうに鳥達を仰ぎ見る。
「ナイチンゲールにも見えるのかな?」
サン・ジェルマン伯爵の子孫が見えると言い張るもの。
それをジョシュアは見ることはできない。
この額に在る。友人は真面目な顔をして言う。
嘘にも冗談にも聞こえないけれど。否、と考えてしまう。
ジョシュアは、カーディスのことを思い出した。自分の叔父で、現ロレート国王。
先日の旅行で、初めて彼に会って。父に似た声で、カーディスは言った。
――お前を正式な王位継承者として迎えたい。俺はその為に王になった――
ジョシュアは友人の背中から視線を落とす。
草の間で蟻が列を為して歩んでいる。自然とその先頭を目で追っていた。
ひっそりと名を呼ぶ。友人は無言で立ち止まった。
「…見えるのかい? 今も」
何を今更、という表情で、アンリは王冠の位置を指差す。
「ああ。ずっと此処に」
アンリの瞳にのみ映る、透明な光。
それは初めて会った時からずっと、ジョシュアの頭上にある。
「きっと君が生まれた時から此処にあったんだ。
そして、これから先も。どうして気付かないの? これほどの輝きに」
「ありがとう」
「礼を言われる覚えはない。僕は本当のことを言っただけだ」
アンリはくるりと背を向けて、歩き出す。
「ねえ。そろそろお茶にしてくれない? 生徒代表殿」
微笑んで、ジョシュアは友人の背を追い駆ける。
「そうだね」
「僕、今日はアイスティーが飲みたいな」
「了解」
木漏れ陽の小道を二人で歩いていく。
森を抜ければウーティス寮。自分達の家だ。
二人の上ではナイチンゲールが楽しげに歌っていた。
「あ。明日、レッド達のライブがあるそうだよ? アンリも一緒に」
「行かない」
fin
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