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Marginal Prince Short Story
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■オーギュスト×アンリ
■原案提供:蔦様
晴れた初夏の午後。
聖アルフォンソ学院 研究室棟。その片隅に神秘学の研究室があった。
今日はプライベート・レッスンではなく、
ささやかなプライベート・パーティが開かれていた。
参加者は二人だけ。紅茶を片手に教え子を見ているのが、
神秘学の特別講師、オーギュスト・ボ-ジェ教授。
その隣にはパーティの主役となる生徒、
アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマン。
テーブルには講師が用意したケーキが一人分。
紅茶のティラミス。上部のココアパウダーには、
フランボワーズが3つ、宝石のように添えられている。
通常はエスプレッソを使うイタリアンスウィーツだが、
それをアールグレイに変えたらしい。アンリがフォークを入れる。
柔らかい茶と白の層がくっついてきた。
口に運ぶと、クリーミーなマスカルポーネチーズが広がり、
紅茶に着香されたシトラスの芳香がふわっと残る。
「オーギュ」
「ん?」
「これ、何処で手に入れたの?」
「ウー・シェフに頼んだんだ。紅茶でティラミスを作って貰えないだろうかとね」
アルファルド寮のシェフのことを指しているのだろう。確か名前はアラン・ウー。
エスニックとイタリアンが得意らしいと聞いたことがある。
紅茶を飲んでいたオーギュストがカップを置く。
席を立ち、机の引き出しから何か取り出して、再び席に着いた。
「17歳おめでとう、アンリ」
オーギュストが差し出した小箱に、教え子は軽く肩を竦めた。
「毎年飽きないね、君も」
小箱に掛けられたブルーのリボンを引き、綺麗なラッピングを解く。
ガラスケースに入っていたのは懐中時計。アンリの瞳にも似た金色だ。
閉じられた蓋には幾何学的な彫刻が丁寧に彫られていた。
手に持つと、金のチェーンがシャラと揺れた。
「へえ。なかなか良い趣味してるじゃない?」
蓋を開く。中にはレトロな黒のローマ数字。
文字盤はスケルトンタイプで、透明な硝子板越しに中の機械が透けて見える。
カチリカチリと時を刻む様子は、眺めているだけでも面白い。
蓋の内側には、今日の日付と文字。
――2007.6.6  親愛なる アンリへ――
アンリは仄かに笑った。講師は教え子の表情を伺う。
「気に入って貰えたかね?」
「悪くはない、かな」
琥珀の瞳は、透けて見えるムーブメントの動きを追っている。
「僕、嫌いじゃないよ、こういうクラシックな物って」
「うん。アンリにはよく似合うよ」
アンリは黄金の蓋を静かに閉じる。
ガラスケースに懐中時計を仕舞い、テーブルに置く。
「Merci. メルシー(ありがとう)。使わせて貰うよ」
良かったね、と言ってオーギュストは空を仰いだ。
研究室の外からは初夏の空が見える。
四角に切り取られた青空の中で、雲は悠々と泳ぐ。
神秘学の研究室には、長閑で幸福な時間が流れていた。
誕生日の生徒はティラミスの上にある赤い実をフォークに刺す。
濃厚な甘さに慣れた舌に、甘酸っぱい果汁が快い。
「ところで、ボージェ教授? 此処でのんびりしてて良いの?
僕は次、空講だけど。君は中等部の講義ではなかった?」
講師は反射的に卓上時計を見る。
「おっと。時が経つのは早いね」
「早く行けば? 講師のくせに生徒を待たせないで」
「そうだね。残念だが、今日はこれで失礼するよ。
 今年も君の誕生日が祝えて良かった」
講師はゆっくりと腕を伸ばし、生徒の頭を抱え込んだ。
温かい腕の中、生徒は眉を顰めた。
「何、してるの、オーギュ…」
「Joyeux anniversaire Henri. ジュアヨウ・アンイベルセール アンリ
(誕生日おめでとう アンリ)」
大きな手はアンリの細い髪を優しく撫でた。
オーギュストの腕の中で、アンリは今年も戸惑っていた。
年に一度のこの日、オーギュストは必ず、こうしてアンリを静かに抱き締める。
こんなこと、親にもされたことがないのに。この講師は本当にどうかしてる。
講師が生徒の誕生日を祝うこと自体可笑しい。
けれど、アンリが戸惑っている一番の理由は、
どうして、こんなに気持ちが安らぐのか、ということだった。
か細い声で毒吐く。
「…講師が、生徒にすること?」
穏やかな瞳がアンリを捉えている。
大人の低く練れた声は囁いた。
「君は、私にとって只の生徒ではないよ」
宵闇の髪に口付けを落とす。
生徒は戸惑いを隠せないまま呟いた。
「…早く、教室に行けば?」
「うん。ではまた明日の講義で」
机上から薄い本を二冊取って、ドアへと向かう。
扉を閉める前に講師は、もう一言残した。
「君にとって、良い一年になることを祈っているよ」
研究室のドアが閉まる。その音を聞くと、アンリは息を吐いた。
「可笑しな人」
13歳で此処に入学してからというもの、この特別講師は6月6日になると、
教え子に誕生日プレゼントを渡していた。
教師と生徒なのだから、もう少し距離は離れている方が普通の筈だが。
神秘学を専攻する風変わりなボージェ教授に、
常識というものは通用しないらしい。彼は教え子の部屋に許可なく訪れる。
気配すら感じさせず、いつのまにか部屋で紅茶を飲んでいることもざらだった。
アンリはガラスケースをテーブルから取って、膝の上に置く。
再び開けてみる。黄金に輝く懐中時計。
そっと耳に当て、心地良いリズムに耳を澄ませた。

翌日。聖アルフォンソ学院 第二化学室では神秘学の講義中だった。
生徒はごく少数だ。この特別講義はハイレベルな為に、
付いて来られる生徒が限られてしまう。
教壇には今は講師の顔をしたオーギュストが居る。
身形は至って上品だ。礼服にも用いられる立襟のウイングカラーシャツ。
ダークブラウンのクロスタイ。その中央をパールピンで留めている。
神秘学の権威である彼が、この学院に呼ばれたのは、アンリが居るから。
サン・ジェルマン家の者が入学した場合、
神秘学を修めることが古くからの慣わしらしい。
それはアンリの先祖が、神秘学の本に必ず名が載る人物だからだ。
この日のページには、まさにサン・ジェルマン伯爵の名が載っていた。
錬金術師とも山師ともいわれる伝説的貴族。
ファーストネームは誰も知らない。
直系の子孫であるアンリでさえも知る術がなかった。
神秘学の権威であるボージェ教授にも解らないだろう。
第二化学室には、生徒が教科書を朗読する声が響く。
教科書に綴られていたのは、サン・ジェルマン家にとっての歴史的一場面。
時は1750年に遡る。
当代のフランス国王、ルイ15世は暇を持て余していた。
「何か面白いことはないものか」
そう言えば、と在オーストリア大使のベイアイル元帥は、
フランスに不思議な人物が訪れていることを告げた。
ルイ15世は、気だるげに話を聞いていた。
「サン・ジェルマン伯爵? 知らぬ名だな。一体どんな人物なのだ?」
「私もまだ会ったことがないので、噂でしか知らないのですが。
何でも、彼はあらゆる史実に詳しい博識で、その巧みな話術により、
パリのサロンで持てはやされているとか。
また何故か恐ろしい程の資産家だというのです。
それから、こちらは眉唾ですが…」
言い淀んだベイアイル元帥に、国王は頬杖を突く。
「何だ?」
「その、時間を自由に行き来できるなどと吹いているそうで」
突拍子もない話に、ルイ15世は小馬鹿にするように笑った。
「ほう。それが真ならば、是非にともその術を教えて貰いたいものだ。
 しかし、まあ、退屈凌ぎにはなりそうだな。連れて参れ」
ベイアイル元帥は一人の紳士を連れて、国王の御前に参上した。
紳士は高貴なモノクロの礼服に身を包んでいる。
国王はしげしげと紳士を眺め見る。容貌は40歳前後か。
「そなたがサン・ジェルマン伯爵か。突然呼び立ててすまなかったな」
「いえ。陛下にお目に掛かれて光栄です。お招き頂き、ありがとうございます」
洗練された優雅な礼。
フランス一の美男と謳われるルイ15世の目から見ても、なかなかに見目の良い男だった。
歩き方も微笑も優雅なもので、貴族のそれと変わりない。
王の前でも緊張の類いは感じさせない。宮廷のような場所にも慣れているのだろうか。
上品な振る舞いの中にも堂々とした気風がある。
しかし、麗しい紳士だという他には特段変わった様子は見受けられなかった。
「聞けば、陛下はご退屈されているとか?」
「ああ。それで、そなたを呼んだのだ。面白い話を聞かせてくれるのだろう?」
「私のささやかな旅の話です。ご期待に添えますかどうか」
すると、サン・ジェルマン伯爵は唐突にポケットに手を入れた。
「心ばかりですが、陛下に贈り物をご用意致しました。
よろしければお受け取り下さい」
ポケットから取り出したものを、深紅のテーブルに散らす。
眩く輝いているのは、幾つもの透明な宝石。
フランス国王は自らの目を疑った。
「なんと美しい…これはダイヤモンドではないのか?」
「はい。お気に召されたのならば、またお作り致しましょう」
「何だと? そなたが作ったと申すのか?」
「ええ」フランス王の前でサン・ジェルマン伯爵は跪く。
「この手で作ったものでございます」
それが伯爵の名がフランス中のサロンに知れ渡った逸話。
ルイ15世は手の平を返したようにサン・ジェルマン伯爵を優遇させた。
シャンボール城の一室を与え、「錬金術の実験室として自由に使って良い」
「王の部屋にも気兼ねなく来い」と国王は言った。
これは当時、逼迫していたフランス財政を、
錬金術を利用して回復させようと計画だったとの説がある。
サン・ジェルマン伯爵について、神秘学の教科書はそのように説明していた。
生徒は引き続き、淡々と教科書を朗読している。
「彼は観察眼も鋭く、人から尋ねられる前に、相手の心情を見抜く力があった。
 自分が必要とされている時には、それを感じ取ることができた。
 遙か遠い国にも駆け付け、その手腕を発揮する。時と場所に応じて彼は名を変えた。
 1762年ロシアではヴェルダン将軍、1777年ドイツではラコッツィ侯爵と名乗っていた。
 1784年没後も彼を見たという報告は尽きない。
今も尚、生きていると信じる説もあり、歴史上、最も謎めいた人物である」
「うん。ありがとう、パスカル」
講師の声で、生徒は教科書を読むのを止めた。
教壇に居る講師は片手に教科書を持ってはいるが、見ていなかった。
生徒達を眺めながら、補足説明をする。
「サン・ジェルマン伯爵は、歴史のあらゆる場面でその影をちらつかせている。
ルイ15世の孫、ルイ・オーギュストがルイ16世としてフランス王に即位するが、
その時代、既に埋葬された筈のサン・ジェルマン伯爵から、
王妃マリー・アントワネットに『国民の怒りを受け入れなさい』と手紙が届く。
 警告を無視した王妃の斬首刑を伯爵が見ていたという証言がある。
 他にもナポレオンやキリストとも知り合いだったという説までね。
それら全てが正しいとすると、御年4000歳以上だ。
もちろん、信じるかどうかは諸君に任せるよ」
生徒達の中には、興味深く聞いている者や、
薄笑い、無表情、視線を宙に浮かべたりと、それぞれに思案している様子だった。
講師は生徒達の表情を確かめた後、一枚の封筒を見せる。
「これは、先程、教科書に登場した場面の破片だよ。
ベイアイル元帥からサン・ジェルマン伯に届いた、宮廷への招待状と言われている。
残念ながら、本物かどうかは判らない。
彼の使用人が保管していたとか、いないとか。どうにも曖昧な代物でね」
教科書を読んだ生徒が手を挙げる。
「ボージェ教授、その入手先は何処です?」
生徒の質問に講師が答える。
「私の恩師である神秘学の研究者から譲り受けた品だよ。
彼にも真偽の判断はできなかったそうだ。
ではこれから回そう。諸君の慧眼で鑑定して欲しい。
何か発見があれば、ぜひ教えてくれたまえ。
鑑定が終わったら、後ろの席へ渡して貰えるかな?」
講師は最前列の生徒に古びた封筒を手渡す。
「それでは次章に進もうか」
其処にはもう伯爵のことは載っていない。
アンリは頬杖を突き、冷たい視線で講師を睨み付けた。
明らかに不機嫌な琥珀の瞳。それに気付いた講師は苦笑する。
「おや。何か言いたそうだね、アンリ?」
「別に」
不貞腐れた物言いを、講師は穏やかに受け止める。
「講義中の発言は歓迎だよ? 特に、この時間は」
「続けて、ボージェ教授」
講師は苦笑しつつ、アンリの言葉に従う。
「では次のページに行こうか。
『最後の錬金術師』と呼ばれた、アイザック・ニュートンについてだね」
教室を見渡し、目が合った生徒の名を呼んだ。
「レオシュ、頼んでも良いかな?」
指名された生徒は億劫そうに長い髪を掻き揚げる。
元々そういう声なのか、少々ご機嫌斜めな様子で、文字列を読み始めた。
アンリはもう興味をなくしていた。次章の内容は大体解ってる。
オーギュストの研究室にある文献をアンリは少しずつ読んでいた。
神秘学について知っている知識は大学院生レベルに近い。
それでもオーギュストの講義には毎回新鮮な情報が与えられるのだが。
今日はもういい。他の生徒が朗読する声をBGMに、窓の外を眺める。
アンリは、今日の講義に伯爵の名が登場するので、少しだけ期待していた。
オーギュストが伯爵について私見を語るかもしれないと。
けれど、僅かな期待は裏切られた。
生徒に教科書を読ませ、少し解説した程度ですぐに終わってしまった。
あの古い封筒は物珍しかったが、信憑性の判断は不可能だ。
文章自体は尤もらしく書かれていたが、昔の目立ちたがり屋が書いた可能性もある。
他のページなら、もっと詳しく説明する講師なのに。
だが、予想通りの結果に終わったとも言える。
何故かオーギュストは伯爵の話題を避ける。
アンリが個人的に尋ねてもそうだ。僕が子孫だからだろうか。
子孫が知ってはならないことを、彼が何か知っているのだとしたら?
それともやはり、彼は伯爵に対して否定的な見解を持っているのだろうか。
だから口を閉ざしているのか、僕に。
「では今日は此処までにしよう」
オーギュストが教科書を閉じる。講義終了の鐘が鳴った。
「ごきげんよう。諸君」
教授の挨拶を合図に生徒達は第二化学室を出て行く。
アンリは席を立たず、黒板を消す背中を眺めていた。
彼の筆記体を見るのは嫌いではなかった。
オーギュストが書くSは、先端が優美にくるりと巻かれる。
その微かなクセ字が、アンリの瞳を惹き付けていた。
伯爵の文字と似ていたから。
聖アルフォンソ学院にしかない秘蔵書。
伯爵が直筆したと言う本。あのセピア色の紙に刻まれているSと同じクセ。
そんな些末事を発見してからというもの、彼が黒板に書くSは、
琥珀の瞳に飛び込んで来るようになった。
今日の彼は焦茶のベスト。ジャケットは着ていない。
白いシャツの袖口にはパールのカフス。
黒板を消す手が左右に揺れる度にパールがきらりと光る。
クロスタイのパールピンと揃いのもの。
あれは以前、僕が見立てたものだ。
彼に付いて行った学会の帰り道。
紳士服売り場で「君のセンスで選んで欲しい」と、
ショーケースに並ぶカフスとピンを見せられた。
どれも高級なものだったが、アンリは中でも値が張るものを指差した。
イミテーションではない、本物の真珠。
それを選んでやったら、彼は値も見ずに購入を決めた。
帰路では「良い記念品になったよ」と礼を言われた。
黒板の前で揺れる真珠。
彼は、意識して身に付けているのだろうか。
講義でサン・ジェルマン伯爵が登場するこの日に合わせて。
黒板がすっかり綺麗になった頃。
他の生徒達は皆退室し、第二科学室教室に残ったのは、
機嫌の悪い生徒と講師だけだった。
講師は教壇で数冊の書物をまとめ、教室で一段高いその場所から降りる。
艶のある革靴がカタンと鳴った。教え子の方へ歩いてくる。
「アンリ、余り熱い視線を向けるのは遠慮して貰えないかね。
 君のような美しい瞳に見つめられると、照れてしまうよ」
「講義中に生徒が講師を見て、何が悪いと言うの」
「ご立腹だね」
「ねえ。伯爵のページだけ講義が短いのは気のせいかな?」
「そう感じたかい? 申し訳ないね、講義の時間は限られているから」
「どうして君は、伯爵について語らないの? 伯爵のことが…嫌いなの?」
「まさか。君の始祖に感謝こそすれ、厭う理由が見付からないよ」
「感謝?」
「サン・ジェルマン伯が居なければ、この世に天使は生まれなかったのだから。
 聡明な頭脳の成長をこんなに傍で見られる。この喜びを感謝しなくてはね」
天使と呼ばれた生徒はそっぽを向く。
「子ども扱いしないで。保護者気取りも大概にしてくれない?」
「可愛い教え子には違いないよ。mon ange. モン・アンジュ(私の天使)」
気難しい天使は振り向かない。
「僕は天使じゃないし、君のものでもない」
髪の隙間から見えた白い耳は、ほんのり赤かった。
講師は微笑んで、窓の外を見やる。
空は晴れている。透き通るスカイブルー。
「そうだ。アンリ。今度の土曜日は空いているかね?
 隣の教授から、美味しいスウィーツの店というのを教えて頂いたのだが」
アンリは自分の机上に視線を落とす。
一瞬遅れて、神秘学の教科書をブックバンドで止めた。
「悪いけれど、お断りするよ」
「おや。甘いものが嫌いになったのかい?」
ブックバンドにはアンリには似つかわしくないマスコットが付いていた。
手作りらしい。その縫い目からは既製品にはない味があった。
「僕、フランスに帰るから」
「それはまたどうしてだね?」
アンリは席を立ち、本を腕に抱えた。
オーギュストには背を向けている。
「母の命日なんだ、丁度。だから、母に会いに。それじゃ」
教室のドアへと向かう。講師は空を見ていた。
澄み渡る青空は、初夏から本格的な夏へと変わりつつあった。
「私がお供しても構わないかね?」
「君が?」
アンリが振り向くと、講師は微笑んで、生徒を見つめる。
「可愛い教え子だからね、君は。母上にもご挨拶したいし。
 家庭訪問という所かな? その後はフランスの案内を頼めるかね?」
生徒は肩を竦めてみせる。
「勝手だね。フランス旅行をしたいだけか」
「決して悪くない提案だと思うのだがね?」
ドアに手を置いて、アンリは微笑んだ。
「一泊しか、できないよ?」
「ありがとう。楽しみにしているよ」
マスコットを揺らしながら、アンリは第二化学室を後にした。

約束の土曜日。講師と生徒はフランスに降り立った。
最初に二人が向かったのはマルシェ。
フランスの朝市のことで「此処で買いたい物があるから」とアンリは言った。
広場には多くの店が立ち並んでいる。
華やかな色彩と露店商の賑やかな声に満ちた空間。
開催されていたのは花市。遅い春と早い夏の花が一斉に咲き乱れている。
其処にはこの世の全ての色が集っているかのようだった。
フランスでは花を手土産に、友人の家に訪れることも一般的で、
女性だけではなく、男性の姿もそこここで見掛ける。
酷い人込みの中、アンリは不快感を露にして歩いていた。
二人の前に父と子らしい親子連れが居た。
観光客らしく、父の手には地図と土産物。
少年の手には小遣いで買ったのか、三本だけの花束があった。
擦れ違いざま、大人にぶつかった子供は花束を地面に落とした。
彼の隣に居たオーギュストがさっと拾い、少年に差し出した。
少年は眩しい笑顔を見せる。
「Obrigado! オブリガード(ありがとう)」
そう言った後、自分の言葉が伝わらないと思ったのか、不安そうな顔になる。
慣れていないアクセントで「メ、メルシー?」とフランス語に言い直した。
オーギュストは微笑んで、フランス語ではない言葉で返した。
「De nada. ヂ ナーダ(どういたしまして)」
少年は笑顔になって、父親の元へ駆けて行った。
「オーギュスト、今の何処の言語?」
「ポルトガル語だよ。彼はアフリカに住んでいるようだね。
 少しクセのある言い回しだったから」
神秘学の講義でも時折見られる光景だった。
この教授は、どの生徒の母国語にも対応できた。
講義中、つい国の言葉が口を衝いた生徒や、
該当する英語が解らなくなった生徒に対して、
オーギュストは、生徒の母国語で助け舟を出していた。
アンリが目にしただけでも、彼が話した言語数は片手を下らない。
いや、その倍に近かったかもしれない。
世界中から集まる生徒達の祖国について、彼は必ず何らかの知識を持っていた。
神秘学の権威のくせに、地理や歴史にも明るい。
アンリは自分も決して頭は悪くない方だと自負していたし、
大人にも負けない自信があった。
が、この博識な教授が相手ではその足許にも及ばない。
清々しい程の敗北を認めざるを得なかった。
「ねえ。君って、何か国語知っているの?」
「さあ幾つかな。聖アルフォンソ学院に来るまではあちこち回っていたから。
 以前は旅行が趣味でね。だがやはり、フランス語が慣れているかな。
 君の上品なフランス語を聞いていると落ち着くよ」
「あっそう」

緑溢れる墓地に到着した。
木陰のベンチには旅行者らしい家族連れが一休みしている。
大きな噴水の周りではその子供達がおいかけっこをして遊んでいた。
フランスの墓地が、まるで公園のように見えるのは、
明るく整備された環境と、墓石がそれぞれユニークであることに起因する。
広大な敷地には白い十字架の他、故人の胸像や女神などの彫刻も並び立つ。
特に歴史上の人物が埋葬されている墓地は立派な観光名所だ。
都会の喧騒から離れた此処には緩やかな時間が流れている。
死後100年も経つ作家や音楽家の墓碑は、
世界中から訪れたファンの花や手紙に囲まれていた。
この墓地もあちこちに人影が見える。
墓石を掃除したり、花を供えている者も居る。
並木道の隅ではグレイの野良猫が小さく欠伸していた。
猫とアンリの目が合った。灰色がかった青い瞳。
アンリの瞳は猫の歩みに目を奪われていた。
しっぽを揺らしながら、こちらに向かって歩いてくる。
猫はオーギュストの足首に擦り寄った。選ばれた勝者は猫の頭を撫でる。
「随分、人に懐いた猫だね。アンリも撫でてみるかい?」
「いいよ、僕は」
そっぽを向くと、猫はオーギュストの手から摺り抜けて、墓石の影に消えていった。
「アンリが猫好きだったとは知らなかったよ」
「別に、好きじゃない」
二人は石畳の道を進んでいく。
フランスではカトリックの教えに習い、遺体は焼くことなく土に還される。
近年では徐々に火葬も増えてきたが、土葬が主流だった。
一定の期間が経つと掘り返され、骨を納める慣わしだ。
アンリの母が納骨された場所。白い十字架には彼女の名前が刻まれている。
墓石の前でアンリは呆然と立ち尽くした。顔には困惑が滲んでいる。
「どうしたんだい、アンリ?」
アンリは歯切れ悪く答える。
「昨夜は雨が降った筈なんだ。だから汚れているだろうと思ったのだけど。
 此処の人が磨いてくれたのかな」
雨の痕跡もなく、綺麗に拭かれていた。
墓石の前にはピンクの花が一輪置かれていた。
花弁は瑞々しく、つい先程摘まれたものらしかった。
「おや。アンリが持ってきた花と同じではないかね?」
アンリは花束を抱えていた。ピンク色のバラのような花。
花市でアンリが手に取ったのはこれだった。
遅咲きのチューリップで、名前はアメジストと言う。
花弁がオウムの巻き羽に似ていることから、
パーロット咲き、つまりオウム咲きと呼ばれている一種。
花弁の縁は女性のドレスのようにフリルがあり、ピンクをより華やかに見せている。
花を包んでいる透明なセロハンが音を立てた。
「アメジストは、母が好きだった花なんだ」
「ほう。では君の父上がいらしたのかな?」
「父が…」
「そう考えるのが自然ではないかね?」
アンリは言葉を返さない。風に流された横髪を耳に掛ける。
ピンクのフリルも風になびいている。
「父上とは一緒に此処には来ないのだね」
「今回の旅行は、邸には知らせていないから。
 僕は、母さんにだけ会えれば良い。
あの人は、僕の顔なんて見たくないだろうし」
アンリは墓前に花束を置く。
「オーギュストが、父なら良かったかもしれないね」
父子で墓地に来る。数メール先では現実に其処にある光景だ。
そんな普通の光景が、サン・ジェルマン家の墓前では起こり得ない。
父と此処に来たことは一度もなかった。
「親子で会いに来れたら、母さんも喜んだかもしれないのに」
墓前で祈りを捧げていた父子、それは先程、花市で擦れ違った彼等だった。
オーギュストが拾い上げた三本だけの花束が墓石の上にある。
祈り終わったらしい子は、笑顔で父を見上げていた。
その極当たり前の光景からアンリは視線を引き剥がした。
「ごめん。つまらないこと言ったね。忘れて」
すると、明るい子供の声がした。
オーギュストの姿を見つけた先の子が、駆け寄って来たのだ。
異国の言葉で何かをオーギュストに伝えている。
講師は頷きながら、同じ言語で相鎚を打っているようだった。
そして笑顔で父の元へ帰っていった。
「君って、猫にも子供にも懐かれるんだね。彼に何て囁かれたの?」
オーギュストは少年の小さな背中を見ている。
「彼は此処へ、ご両親に会いに来たそうだ」
墓前の花が揺れ、縁にフリルのある花弁が一枚舞った。
青空にピンクの欠片がふわりと浮かぶ。
「あの子、両親を亡くしているの? では一緒に居たのは?」
「叔父さんだそうだよ。大好きな叔父さんと一緒だから寂しくはない、と」
ピンク色の花弁は風に流れて何処かに行ってしまった。
オーギュストは俯いている教え子を見守っていた。
「君も母上のことを覚えていないのだったね」
「僕を生んで間もなく亡くなったそうだから。
 病弱だったみたいでね。だから、僕が殺したんだよ、母さんを」
「アンリ」
オーギュストは重たい口調で言った。講義中には一度も聞いた事のない声。
アンリが目を見開いていると、オーギュストは静かに諭した。
「いいかね? 二度とそのようなことを言ってはいけないよ。彼女が」
オーギュストは墓前を見やる。
「君の母上が悲しむ。母上は君が生まれたことを心から喜んでいるよ。
 自分の子を愛さない親は居ない、という綺麗事を振り翳すつもりはないがね。
 しかし、少なくとも、君の母上は君を愛していたと、私は断言できる」
「どうして」
「愛されていない子が、こうして遥々会いに来るだろうか?」
琥珀の瞳が揺らいでいる。
「僕を…」
「ん?」
「いや、何でもない」
アンリは膝を伸ばす。母の墓碑を見つめていた。
すると、遠くから明るい声がした。先程の男の子だ。もう帰るところらしい。
間違ったアクセントながらもフランス語で別れの挨拶をした。
「オールボワー! ムッシュー、マドモアゼル! (バイバイ、おじさん、お姉ちゃん)」
オーギュストは片手を挙げて少年に応える。隣からは厳しい評価が飛ぶ。
「C'est degoutant. セ・デグートン(最悪だね)」
流暢な悪態を吐くフランス人に、オーギュストは苦笑する。
「ほら、手を振り返さないと、マドモアゼル?」
「誰がマドモアゼルなの?」
「私ではないと思うがね」
「僕でもないよ。もう行こう」
少し墓石を見つめた後、歩き出した。
頭の中ではオーギュストの言葉が幾つか反響していた。
それを力尽くで抑え付ける。自分の感情が乱れるのは嫌だった。
連れが隣を付いて来ない。
「オーギュスト。何してるの」
講師は墓石を見据え、膝を付いていた。
「私は家庭訪問で此処に伺っているからね。
 『少々愛想は欠けるが、聡明なお子さんですよ』とご報告を」
「余計なことまで、報告してくれてありがとう」
オーギュストは立ち上がり、アンリの隣に並ぶ。
「さて。これから何処に案内してくれるのかな?
 観光ガイドのサン・ジェルマン君?」
「先ずは食事。後は決めてない」
そっけない観光ガイドにオーギュストは苦笑しつつ、その後に続いた。

夜。オーギュストとアンリはサン・ジェルマン邸には行かず、
フランスの高級ホテルに泊まった。
最上階の窓からはライトアップされた『パリの灯』が見えた。
フランス革命100周年に建設された高さ321mの鉄塔。
宿泊予約もしていないのに、アンリの顔を見たフロントスタッフは、
このスウィートルームのキーを渡してくれた。
仕事でフランスに出張する時も、アンリはよく此処に泊まっているのだという。
アンリは既に、セミダブルベッドの中で、寝息を立てていた。
「疲れたから先に休む」と言ってさっさと眠ってしまったのだ。
オーギュストはアンリの寝顔を眺めていた。
「天使の寝顔、だね」
クロスタイもまだ着けたままで、眠る様子は見られない。
教え子の寝顔を見つめる眼差しは親愛に満ちていた。
「生き写しだな。寝顔は特に」
額に掛かる髪を撫でる。雪のような額が覗く。
吸い寄せられたように、口付けを落とした。
突然、辺りの空気中の水蒸気が輝き始めた。
氷点下でしか起こらない筈のダイヤモンドダスト。
眠っているアンリの上で氷の粒が煌めいていた。


フランスの墓地に、一人の紳士が訪れていた。
雨に濡れた墓石を丁寧に掃除しているところだった。
太陽は明るく、気持ちの良い朝だった。
朝の散歩をしているらしい野良猫がのそのそと歩いていた。
雫を全て拭き取ると、紳士はフランス語で墓石に語り掛けた。
紳士の腕にはピンク色の花束。
中から一本だけ抜き取り、白い十字架の前に置いた。
墓碑に彫られている文字は『サン・ジェルマン』。
紳士は温かい眼差しで十字架を見つめていた。
「みゃあ」という鳴き声がした。
彼の足許に野良猫が擦り寄っている。
紳士は身を屈め、優しい手付きでグレイの毛並みを撫でた。
小さな青い瞳が紳士を見上げている。
「やあ。一年振りになるね。元気だったかね?」
喉を撫でられた猫が「みゃあ」と鳴いた。
紳士は腰を上げる。
「それでは、また」
ピンクの花弁に何かが落ちた。
キラキラと空間が輝き出す。
縁にフリルのある花弁が氷の粒に触れる。
猫は不思議そうに眩い光を見上げている。
十字架の前には猫しか居なかった。

フランス、パリ市内の病院。
その一室には、痩せ細った一人の淑女が居た。
枕には青空にも似た空色の髪。
肌は雪のように白い。
淑女には夫があったが、彼は仕事が忙しく、今日も見舞いには来ていなかった。
彼の祖父の代から起こした、ワイン醸造所やホテルの経営に心血を注いでいた。
「Le Soleil. ル・ソレイユ」
淑女が窓から部屋に視線を移すと、傍らに一人の紳士が立っていた。
ノックの音はしなかったが、淑女は気にも留めていない様子だった。
紳士は一枚のタロットカードを見せる。描かれているのは黄金の恒星。
「太陽は、全ての始まり。新たな命を示す良いカードですよ」
ベッドに横たわったまま、淑女は紳士に微笑み掛ける。
「こんにちは。今日もいらして下さったのですね」
「ええ。今日はアメジストをお持ちしました。お好きでしたよね?」
紳士は腕に抱えていたピンクの花束を手渡す。
「嬉しいですわ。ありがとうございます」
「こちらこそ。貴女の美しい笑顔は、私にとって何よりの幸福です。
 本場オランダまで摘みに行った甲斐がありましたよ」
冗談めいた言葉を紳士は穏やかに話していた。淑女は、まあ、と驚く。
「オランダまで足を運んで下さったのですか?」
「ええ。アメジストが最も綺麗に咲いた日のオランダに。
 一面のチューリップ畑は、それはそれは美しかったですよ。
 しかし、貴女の前では色褪せて見えますね」
淑女は少女のように頬を染める。
「あっ、あの…17歳のプレゼントが決まりましたの。ほら、其処に」
テーブルには丁寧に包装された小さな箱があった。
傍らに立っていた紳士は箱を手に取る。彼はこの病室によく訪れていた。
淑女のベッドサイドにある青いバラも、この紳士が持って来た物だった。
「17歳は何になさったのです?」
「懐中時計です。蓋の内側に名前を入れて」
「名前を? では決まったのですか?」
「はい。アンリ、と名付けたいと思っています」
「素晴らしい。16世紀フランス王の名前ですね?
 気位が高く、頭脳明晰、広く国民に愛された王だ」
「よくご存知ですね。あ、もしかして」
「ええ。私は以前お会いしたことがありますから。素敵な御方でしたよ」
紳士の言葉に、淑女は嬉しそうに微笑んだ。
彼女は酷く身体が弱かった。1か月後に出産を控えていたが、
その負担に身体が耐えられない可能性を医師から告げられていた。
そして彼女が取った行動は、前もって子供の誕生日プレゼントを決めることだった。
18歳になるまで、その年に必要になりそうな物を選び、
自分の代わりに誕生日プレゼントを渡してくれるよう、この紳士に頼んでいた。
彼の持つ箱に目をやる。中には金色の懐中時計が入っている。
「懐中時計なんて、古めかしかったでしょうか?
 でも似合いそうな気がしましたの。気に入って貰えると良いのですが」
「きっと気に入ってくれますよ。ではお預かりしますよ」
紳士は箱を鞄に仕舞う。
「すみません。こんなお願い事をして」
「何、お安い御用ですよ。私にとってはね」
「ありがとうございます、伯爵」
「いえ。貴女のお役に立てて幸いです」
紳士は淑女の手を取り、静かに口付ける。
白い手は滑らかで、その時はまだ、温かかった。

6月6日、無事に男の子が生まれた。
母親となった淑女の身体は限界を迎えていた。
雪のようだった肌は、更に血の気が薄くなり、今では青白くさえあった。
残り数日だろうと医者に耳打ちされていた紳士は足繁く毎日通った。
その度に淑女が最も必要としている話を語って聞かせた。
紳士の話を聞いた淑女は静かに微笑んだ。
「私は幸せ者ですね。この子の成長する様子を、
 こうして先にお聞きすることができるんですもの」
「貴女は私を詐欺師とは呼ばないのですね」
「ええ。だって、私、小さい頃にも貴方にお会いしていますから。
 当時から貴方をお慕いしていました。
 一年前、貴方に再びお会いした時に解りましたわ。
 貴方は永遠にお年を召されない御方なのだと。
 だって昔と同じお綺麗なままでしたから。
 私のような薄命も辛いものですが。
貴方もさぞ、お辛い想いをしたのでしょう?」
「ええ。今この時が最も辛いです」
夏の空は晴れている。この美しい人を思い出す色だった。
「ごめんなさい。貴方を置いていって」
「いいえ。貴女が謝ることでは。それに私は一人ではありません。
 貴女はこの子を、アンリを授けて下さいました。貴女と私の天使を」
淑女は傍で眠る赤ん坊を見つめる。
白く、小さな手に、自らの手を重ねる。
「ごめんなさい。幸せを願うことしかできなくて。
 でも大丈夫よ。貴方が必要とした時、この御方が助けて下さるわ。
 貴方は、きっと素晴らしい人になる。
 誰より聡明で、美しく優雅な子になることでしょう」
母親は子供の頭を優しく優しく撫でた。
「傍に居なくても、私は貴方を愛しているわ、アンリ」
柔らかい手を淑女が力なく握る。
「この子が淋しい時、そう伝えて下さいますか、伯爵」
紳士は頷いた。
「ええ。お伝えしますよ、必ず」
「ありがとう」
穏やかに微笑み、静かに瞳を閉じた。
紳士は淑女の手を取る。
誰も、愛さないと決めていた。
どんなに想っても、いずれ自分が残されてしまう。
誰も、愛してはくれないと思っていた。
彼女は紳士の言葉を全て信じてくれた。
長い時空の中で彷徨う紳士に差し伸べられた手。
温かかった。
紳士の手の中で、その温もりが徐々に消えていく。
白く美しい手に紳士は静かに口付けた。
「Adieu mon ange.(さようなら、私の天使)」


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