×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
■オーギュスト×アンリ
「エメラルド・タブレットの文章って、随分もったいぶってるよね」
「アンリのお口には合わないだろうね。日頃から率直な言い方を愛しているから」
「それって、嫌味? ボージェ教授」
「失礼。嫌味に聞こえてしまったのなら謝るよ」
面白がってるくせに。
水曜日の午後。講義中の時間なので、学院内のカフェは客もまばらだった。
僕とオーギュは紅茶を飲みながら、錬金術について意見交換をしていた。
不運にも、中等部の講義が終わった講師と、法律学が終わった僕が鉢合わせた為だ。
この時間はお互いに講義がないのを知っている為、
そこでお茶でも、と誘われてしまったのだ。
僕の前にはオレンジハニーティー。
カップには輪切りのオレンジが浮かんでいる。オレンジは蜂蜜漬けにしたものだ。
柑橘系の爽やかな香りと蜂蜜の組み合わせは悪くない。
教授も同じものを飲んでいた。真似されたのだ。
「確かに、エメラルド碑文は謎に満ちている。けれど、それは」
「『受け継ぐべき者だけに伝わるように書かれたものだ』と言うのは解ってる」
腹いせに僕は彼の言葉を先取りしてやったのに、
彼は気を悪くした様子は全くない。
「では、アンリはエメラルドの謎が解けないことが悔しいのかな?」
「別に。謎は謎のままで一向に構わないよ。その方が」
「『自由に想像できて楽しいから』かね?」
仕返しされた。むかつく。
今日、お茶受け代わりになっている話題は、錬金術の聖書エメラルド・タブレット。
エメラルドの板には錬金術の奥義が刻まれていた。
作者は、賢者の石を手にしたとされる錬金術師の始祖ヘルメス。
3226年もこの世に居て、3万6525冊の著作を残したとも言われている。
エメラルド・タブレッドは、四世紀頃に書き残された物で、
ヘルメスのピラミッドの中から発見された。
書かれていたのは暗号を散りばめたような、意味不明の十数行。
僕は空で覚えていた。
「これは偽りなき真理であり、紛れもない真実。唯一の奇跡を叶えるには、
下なる物は上なる物のごとく、上なる物は下なる物のごとく。
万物が唯一の誓約によって、唯一の物から誕生したように、
万物は適合によって、唯一の物から誕生する。
その父は太陽、母は月。風はそれを胎内に宿し、その乳母は大地である。
それは全世界の父。その力が大地に向かうなら、完全無欠と化する。
汝、火から土を、野蛮から神秘を抽出せよ。
それは大地から天へと舞い上がり、再び天から大地へと舞い降りて、
上なる物の力と下なる物の力を授かるであろう。
さすれば、汝は、全ての光をその手にし、全ての闇は汝から消え失せるだろう。
それは最も強靭なる力。あらゆる神秘を凌駕し、全てを貫く。
かくして世界は創造された。それを手段に、驚異の適合が始まる。
よって私は、この世の三重の智恵を持つ者、ヘルメス・トリスメギストスと呼ばれる。
太陽の働きについて私が述べることは、以上で全てである」
僕が最後まで唱えると、教授は両手を合わせて、音を立てた。
「素晴らしい。全文を暗唱しているとは」
「何言っているの? 覚えさせたのはそっちでしょう?」
オレンジハニーティーの残りが少ない。
これは底に近付くにつれて甘くて美味しくなる。
「そうだったかね?」
「中等部一年の初めての試験で『エメラルド・タブレットの全文を記せ』って」
「ああ、思い出したよ。あれはアンリしか正解できなかった問題だね?」
「完全回答だったからでしょう? この手の長文は穴埋め問題が妥当だと思うよ、普通は。
この教授はよっぽど性格が悪いんだな、って解った印象的な思い出だよ」
「厳しいね、アンリは」
どちらが?
「それにしても、四年も前のことなのに、今も覚えているんだね。
もったいぶっている、と批評しながらも、嫌いではないのかな?」
いちいち癪に障ることを言う。
「詞としては面白いから、なんとなく覚えてるだけ」
錬金術師の創始者がエメラルドに残した奥義。
謎は読み解けないけれど、惹かれて。
一度覚えてしまってから忘れられないでいた。
「タブレットに刻まれた錬金術の奥義って具体的には何だと思う? ボージェ教授」
「さあ。何だろうね」
「神秘学の権威のくせに解らないの?」
「解らなくて、知りたい人のことを学者と言うんだよ、アンリ。
謎が解けていたら、錬金術師として名を馳せているだろうからね。
エメラルド・タブレットは昔の錬金術師を悩ませた秘密文書なのだし」
「でも、錬金術の聖書なんでしょう?
錬金術は黄金変成や不老不死が最終目標だ。それを叶えるのは賢者の石。
タブレットの最後には『太陽の働きについて』とある。
この『太陽』が石を意味しているんじゃないの?」
教授は両の指を絡める。癖なのか、親指同士の先を合わせる。いつもそうだ。
親指を付けたり、離したりしながら話していた。
「確かに、錬金術師にとっては、太陽のような石だったろうね」
「要するに、エメラルド・タブレットは、賢者の石のレシピ、でしょ?」
「レシピか。そう言うと可愛らしいね。甘いお菓子ができそうだ」
教授は上品に笑ったが、いや、と言って、苦笑に変えた。
「実際、石は魅惑的なお菓子だったのかもしれないね。
それが無くとも、人は生きていけるのに。舐めて、口に入れてみたくなる。
今よりきっと、豊かで幸福な気分になれるに違いない、と無邪気に信じて。
お菓子という存在を知った時、甘い誘惑に魅入られてしまったのだろうね」
空の方から鐘が鳴った。
僕は、ひとコマ分も教授の戯言に付き合ってあげたらしい。
「おや。アンリとの時間はあっという間だね。
有意義な午後をありがとう。では次の授業でね」
講師が席を立つ。椅子に置いていた革鞄を取ろうとして、地面に落とした。
「おっと」
彼は身を屈めて落とした物を拾い始める。
空いていたらしい鞄から幾つかの物が落ちている。
鞄からひょこっと顔を出しているのは、ワラ人形だった。
「…オーギュスト。それ…」
「ああ、先程は呪術の授業だったものでね」
「君、神秘学の権威でなかったら、不審者として捕まってる」
権威は笑っていた。
あの鞄には、『教材』という名目の妖しげな代物が入っているのだ。
もちろん本物ではなく、多くはレプリカだったり、彼のお手製だったりする。
それでも中等部の頃はそういうものを肉眼で見るのは珍しく、興味深かった。
が、高等部になり、変人との付き合いも四年になると、
何が出てきてもそれほど驚かなくなる。せいぜい呆れるぐらいだ。
オーパーツの授業では、水晶ドクロが出てきたこともあった。
当然イミテーションで、実物よりは大分小さい。
「このくらいの大きさだと、なかなか可愛いだろう?」と自慢された。
変人は地面に落とした大事なコレクション達を拾い、
砂をさっと払ってから鞄に戻していた。
彼は鞄を持って、メルキュール館へと向かう。
僕は残っていた紅茶に口付ける。
溶け残りの蜂蜜。嫌いじゃない。
僕も寮に帰ろうとした時。コン、と僕の靴に何か当たった。
座ったまま、足許を覗いてみる。
赤い光。直径三センチほどの水晶球だった。歪みはあるが球体に程近い。
彼の鞄から転がって、拾われなかった物かもしれない。
顔を上げると、オーギュストの背中はまだ見えた。
しゃがんで、赤い石を拾う。オーギュを呼び止めるつもりだった。
手に乗せた石。
綺麗だった。
表面は明るくて、奥は仄暗い。
これと似たものを、僕は知っている気がする。思い出せない。
石を持って立ち上がる。
どうせ、彼には授業で会う。返すのはその時でも遅くはないだろう。
講師の背中を見つめたまま、ポケットに石を入れた。
夕食後。僕はワイシャツ姿のままベッドに寝そべって、赤い石を見ていた。
どのくらい時間が経っているか解らない。
勉強も読書もする気にならず、
バイオリンも、タロットすら手にする気が起こらない。
赤い石。
ライトの当たり具合や、見る角度によって、様々な赤に変わって見えるのだ。
天井の光源に透かしたり、手の中で何度も回して弄んでいた。
表面はつるつると滑らかで、冷たい。
触れていると、何故か落ち着いた。
綺麗で、綺麗で。
舐めてみたい。
きっと、甘い。
まるで冷えて固まった赤いジャムのようだもの。
ストロベリーのような甘さだろうか。
フランボワーズのように少し酸味があるだろうか。
僕の手が口許に近付いていく。
舌で触れたい。
口に入れて、僕だけのものにしたい。
「ジョシュアだよ。入っても良いかな?」
ノックの音に驚いて、石を落とした。
僕の胸に当たる。床に転がりそうになるのを手で受け止めた。
ベッドに横たわったまま、「開いてるよ」と言った。
彼は借りていたミステリを返しに来たらしい。
適当に本棚に戻して、と頼んだ。
僕は彼が来たにも関わらず、また石を眺めた。
なんだか、目が離せない。
本を仕舞った彼は、ごく自然にベッドに座った。
僕の身体が少し沈む。彼が僕の手許を覗く。
「それ、綺麗だね」
この石が綺麗と言われるのは嫌じゃなかった。
「見たい?」
「うん。見たいな」
腕だけ伸ばして石を手渡す。人差し指が少し触れ合った。
ジョシュアは興味深く石を見てくれた。悪い気はしない。
「不思議な色だね。クリスタルかい?」
「解らない。拾った物だから」
彼には予想外だったようだ。石から視線を外し、僕を見つめた。
「学院内で拾ったの?」
「うん」
優等生の表情が曇る。
「じゃあ、落とした人が居るんじゃ…」
「ボージェ教授だよ。今度の授業で返す」
「そうか」
まだ何か言いたそうだったけれど、それ以上の小言は言わなかった。
彼は手の平に乗せた石を見ながら苦笑した。
「神秘学の先生が落とした石なんて、ちょっと怖いな」
「何が?」
「不思議な力を持つ石かもって思えて」
「ああ。じゃあ、呪われた石かも」
深紅の瞳が瞬く。彼は人の言葉を信じ過ぎる。
「冗談だよ。いわくがあったとしてもレプリカだと思うし」
僕は拾った状況を簡潔に説明する。
呪術道具が入っていた鞄から落ちた物だと。
それを聞いたジョシュアは、石を暫し見つめた後、
さりげなくベッドサイドのテーブルに置いていた。
「彼のこと、魔法使いとでも思っているの?
あれは、オカルト好きな、只の変人だよ?」
「先生に噛み付くなよ、アンリ」
「もしかしたら、賢者の石だったりしてね」
えっ、と彼は驚く。いちいち真面目に受け取る人だ。
「でも、賢者の石って、空想上の石なんだろう?」
「それを聞いたら錬金術師達が怒るよ?
黄金変成も、不老不死も叶える、万能の石。
彼等は全てを賭けて、それを作ろうとしてた。
石を求めるあまり、投獄、処刑された錬金術師も少なくない」
僕は久し振りに滔々と語っていた。時折、こういう夜が訪れる。
「賢者の石を実際に手にしたと言い張る者も居る。伯爵だってその一人だ。
彼は石を液化した霊薬を飲み、永遠の命を得たのだから」
少し気分が高揚している、と自分を俯瞰している自分が感じていた。
夜だからかもしれない。今宵は確か新月だったし。
月が消された夜の僕は少し可笑しくなると経験則で解っていた。
それはジョシュアも知っていることだ。彼は黙って僕の話を聞いてくれている。
「ねえ。賢者の石って、何色か知ってる?」
神秘学に興味がない彼が知る筈もないのに、訊ねている。
彼はやはり首を振った。教えてあげる。
「賢者の石はね、製作の過程で色を変えるんだ」
僕は腕を伸ばしてテーブルから石を取った。親指と人差し指で持つ。
ジョシュアが心配そうに僕を見ていた。
僕より可笑しい人間なんて履いて捨てるほど居るのに。
「最初はね、死の象徴である黒。次に復活の象徴、白になる。そして、完成形は完全を意味する…」
僕は石を掲げて、天井のライトに透かす。
良い色だ。澱のあるワインみたい。
「赤だよ」
上澄みは鮮やか。底は暗くて赤黒い。
後から聞いたことだけど、この時の僕は、虚ろな目をしたらしい。
傍にジョシュアが居ることも忘れたように、僕はぼうっと呟いた。
「きれい…」
「アンリ!」
大きな声。僕は少しビクッとした。
石を持つ手ごと握られている。
目の前に真剣な眼差し。僕を怒るような目だった。
「何? ジョシュア」
彼はばつが悪そうに、手を離した。
「…すまない。なんだか」歯切れ悪く続けた。
「アンリが…どこかに連れて行かれそうで」
「どこかに? 何言っているの?」
彼は照れ笑いなどもせず、僕を諭すように言った。
「やっぱり、先生に早く返した方が良いんじゃないかな?
先生も石を探してるかもしれないだろう?」
生真面目に言う彼を見ながら、僕はやっと気が付いた。
「そうか」
石を彼の顔の前に合わせる。
代々グラント家に受け継がれる、禍々しい美しさを持つ色。
グラントが流してきた他人の血液だと揶揄されることもある。
科学的には、メラニン色素の過剰欠乏により、血液が透けて見えるらしい。
これは非常に稀な例で、その持ち主は、世界人口の0.001%しか居ない。
「君の瞳の色に似ているね?」
別に同意して欲しかったわけじゃないけれど、同意は得られなかった。
彼は僕の手を覆った。手の中に指を入れて、僕から赤い石を奪った。
それは決して乱暴ではなく、むしろ優しく抜き取られただけだったのだが、
彼にしては、強引な行動だった。
何も持っていない手が、空虚に感じられる。
気分まで下降していた。
「なんで取るの? それは僕のだ」
「先生の、だろう」
彼は石をサイドテーブルに置く。
コトリ、と小さな音がした。
「お姫様はもう眠る時間だよ、アンリ」
僕が嫌いな台詞。
イヤだって言っているのに時々言われる。
「僕はお姫様じゃない」
睨んだのに、笑顔を向けられた。
「良かった。いつものアンリに戻ってくれて」
事あるごとに思うけれど、可笑しなことを言う人だ。
ではさっきまでの僕は、誰だったの?
「オーギュ、これ、拾ってあげたよ。君のでしょ?」
翌日。僕はわざわざ彼の研究室を訪ねてあげた。
赤い石を差し出すと、教授はきょとんとした顔を見せた。
「私のではないよ?」
信じられない。
「…君のじゃないの? 本当に?」
「うん」
彼の顔をじっと見る。が、嘘を吐いているようには見えなかった。
「アンリ、ちょっと、見せてくれるかね?」
渋々、石を渡す。
「どこで拾ったんだい、アンリ」
「カフェテーブルの下。この前、君と紅茶を飲んだ時」
「ああ。私が鞄を引っ繰り返したから、私のだと思ったんだね?」
彼は石を観察しながら、
「宝石のようにも見えるけれど、これは隕石の類かもしれないなあ」
「隕石? 地球の外から降ってきたと言うの?
広い土地ならまだしも、こんな小さな島に」
「在り得ないとは言えないだろう? これ、私が預かっても良いかな?
知り合いの研究者に調査を頼んでみるよ」
赤い石は、オーギュストに取られた。
その後、石は隕石学者に送ったらしい。
何か解ったら連絡する、と言われたそうだ。
隕石学者からの連絡は、いつまで経っても来なかった。
fin
「エメラルド・タブレットの文章って、随分もったいぶってるよね」
「アンリのお口には合わないだろうね。日頃から率直な言い方を愛しているから」
「それって、嫌味? ボージェ教授」
「失礼。嫌味に聞こえてしまったのなら謝るよ」
面白がってるくせに。
水曜日の午後。講義中の時間なので、学院内のカフェは客もまばらだった。
僕とオーギュは紅茶を飲みながら、錬金術について意見交換をしていた。
不運にも、中等部の講義が終わった講師と、法律学が終わった僕が鉢合わせた為だ。
この時間はお互いに講義がないのを知っている為、
そこでお茶でも、と誘われてしまったのだ。
僕の前にはオレンジハニーティー。
カップには輪切りのオレンジが浮かんでいる。オレンジは蜂蜜漬けにしたものだ。
柑橘系の爽やかな香りと蜂蜜の組み合わせは悪くない。
教授も同じものを飲んでいた。真似されたのだ。
「確かに、エメラルド碑文は謎に満ちている。けれど、それは」
「『受け継ぐべき者だけに伝わるように書かれたものだ』と言うのは解ってる」
腹いせに僕は彼の言葉を先取りしてやったのに、
彼は気を悪くした様子は全くない。
「では、アンリはエメラルドの謎が解けないことが悔しいのかな?」
「別に。謎は謎のままで一向に構わないよ。その方が」
「『自由に想像できて楽しいから』かね?」
仕返しされた。むかつく。
今日、お茶受け代わりになっている話題は、錬金術の聖書エメラルド・タブレット。
エメラルドの板には錬金術の奥義が刻まれていた。
作者は、賢者の石を手にしたとされる錬金術師の始祖ヘルメス。
3226年もこの世に居て、3万6525冊の著作を残したとも言われている。
エメラルド・タブレッドは、四世紀頃に書き残された物で、
ヘルメスのピラミッドの中から発見された。
書かれていたのは暗号を散りばめたような、意味不明の十数行。
僕は空で覚えていた。
「これは偽りなき真理であり、紛れもない真実。唯一の奇跡を叶えるには、
下なる物は上なる物のごとく、上なる物は下なる物のごとく。
万物が唯一の誓約によって、唯一の物から誕生したように、
万物は適合によって、唯一の物から誕生する。
その父は太陽、母は月。風はそれを胎内に宿し、その乳母は大地である。
それは全世界の父。その力が大地に向かうなら、完全無欠と化する。
汝、火から土を、野蛮から神秘を抽出せよ。
それは大地から天へと舞い上がり、再び天から大地へと舞い降りて、
上なる物の力と下なる物の力を授かるであろう。
さすれば、汝は、全ての光をその手にし、全ての闇は汝から消え失せるだろう。
それは最も強靭なる力。あらゆる神秘を凌駕し、全てを貫く。
かくして世界は創造された。それを手段に、驚異の適合が始まる。
よって私は、この世の三重の智恵を持つ者、ヘルメス・トリスメギストスと呼ばれる。
太陽の働きについて私が述べることは、以上で全てである」
僕が最後まで唱えると、教授は両手を合わせて、音を立てた。
「素晴らしい。全文を暗唱しているとは」
「何言っているの? 覚えさせたのはそっちでしょう?」
オレンジハニーティーの残りが少ない。
これは底に近付くにつれて甘くて美味しくなる。
「そうだったかね?」
「中等部一年の初めての試験で『エメラルド・タブレットの全文を記せ』って」
「ああ、思い出したよ。あれはアンリしか正解できなかった問題だね?」
「完全回答だったからでしょう? この手の長文は穴埋め問題が妥当だと思うよ、普通は。
この教授はよっぽど性格が悪いんだな、って解った印象的な思い出だよ」
「厳しいね、アンリは」
どちらが?
「それにしても、四年も前のことなのに、今も覚えているんだね。
もったいぶっている、と批評しながらも、嫌いではないのかな?」
いちいち癪に障ることを言う。
「詞としては面白いから、なんとなく覚えてるだけ」
錬金術師の創始者がエメラルドに残した奥義。
謎は読み解けないけれど、惹かれて。
一度覚えてしまってから忘れられないでいた。
「タブレットに刻まれた錬金術の奥義って具体的には何だと思う? ボージェ教授」
「さあ。何だろうね」
「神秘学の権威のくせに解らないの?」
「解らなくて、知りたい人のことを学者と言うんだよ、アンリ。
謎が解けていたら、錬金術師として名を馳せているだろうからね。
エメラルド・タブレットは昔の錬金術師を悩ませた秘密文書なのだし」
「でも、錬金術の聖書なんでしょう?
錬金術は黄金変成や不老不死が最終目標だ。それを叶えるのは賢者の石。
タブレットの最後には『太陽の働きについて』とある。
この『太陽』が石を意味しているんじゃないの?」
教授は両の指を絡める。癖なのか、親指同士の先を合わせる。いつもそうだ。
親指を付けたり、離したりしながら話していた。
「確かに、錬金術師にとっては、太陽のような石だったろうね」
「要するに、エメラルド・タブレットは、賢者の石のレシピ、でしょ?」
「レシピか。そう言うと可愛らしいね。甘いお菓子ができそうだ」
教授は上品に笑ったが、いや、と言って、苦笑に変えた。
「実際、石は魅惑的なお菓子だったのかもしれないね。
それが無くとも、人は生きていけるのに。舐めて、口に入れてみたくなる。
今よりきっと、豊かで幸福な気分になれるに違いない、と無邪気に信じて。
お菓子という存在を知った時、甘い誘惑に魅入られてしまったのだろうね」
空の方から鐘が鳴った。
僕は、ひとコマ分も教授の戯言に付き合ってあげたらしい。
「おや。アンリとの時間はあっという間だね。
有意義な午後をありがとう。では次の授業でね」
講師が席を立つ。椅子に置いていた革鞄を取ろうとして、地面に落とした。
「おっと」
彼は身を屈めて落とした物を拾い始める。
空いていたらしい鞄から幾つかの物が落ちている。
鞄からひょこっと顔を出しているのは、ワラ人形だった。
「…オーギュスト。それ…」
「ああ、先程は呪術の授業だったものでね」
「君、神秘学の権威でなかったら、不審者として捕まってる」
権威は笑っていた。
あの鞄には、『教材』という名目の妖しげな代物が入っているのだ。
もちろん本物ではなく、多くはレプリカだったり、彼のお手製だったりする。
それでも中等部の頃はそういうものを肉眼で見るのは珍しく、興味深かった。
が、高等部になり、変人との付き合いも四年になると、
何が出てきてもそれほど驚かなくなる。せいぜい呆れるぐらいだ。
オーパーツの授業では、水晶ドクロが出てきたこともあった。
当然イミテーションで、実物よりは大分小さい。
「このくらいの大きさだと、なかなか可愛いだろう?」と自慢された。
変人は地面に落とした大事なコレクション達を拾い、
砂をさっと払ってから鞄に戻していた。
彼は鞄を持って、メルキュール館へと向かう。
僕は残っていた紅茶に口付ける。
溶け残りの蜂蜜。嫌いじゃない。
僕も寮に帰ろうとした時。コン、と僕の靴に何か当たった。
座ったまま、足許を覗いてみる。
赤い光。直径三センチほどの水晶球だった。歪みはあるが球体に程近い。
彼の鞄から転がって、拾われなかった物かもしれない。
顔を上げると、オーギュストの背中はまだ見えた。
しゃがんで、赤い石を拾う。オーギュを呼び止めるつもりだった。
手に乗せた石。
綺麗だった。
表面は明るくて、奥は仄暗い。
これと似たものを、僕は知っている気がする。思い出せない。
石を持って立ち上がる。
どうせ、彼には授業で会う。返すのはその時でも遅くはないだろう。
講師の背中を見つめたまま、ポケットに石を入れた。
夕食後。僕はワイシャツ姿のままベッドに寝そべって、赤い石を見ていた。
どのくらい時間が経っているか解らない。
勉強も読書もする気にならず、
バイオリンも、タロットすら手にする気が起こらない。
赤い石。
ライトの当たり具合や、見る角度によって、様々な赤に変わって見えるのだ。
天井の光源に透かしたり、手の中で何度も回して弄んでいた。
表面はつるつると滑らかで、冷たい。
触れていると、何故か落ち着いた。
綺麗で、綺麗で。
舐めてみたい。
きっと、甘い。
まるで冷えて固まった赤いジャムのようだもの。
ストロベリーのような甘さだろうか。
フランボワーズのように少し酸味があるだろうか。
僕の手が口許に近付いていく。
舌で触れたい。
口に入れて、僕だけのものにしたい。
「ジョシュアだよ。入っても良いかな?」
ノックの音に驚いて、石を落とした。
僕の胸に当たる。床に転がりそうになるのを手で受け止めた。
ベッドに横たわったまま、「開いてるよ」と言った。
彼は借りていたミステリを返しに来たらしい。
適当に本棚に戻して、と頼んだ。
僕は彼が来たにも関わらず、また石を眺めた。
なんだか、目が離せない。
本を仕舞った彼は、ごく自然にベッドに座った。
僕の身体が少し沈む。彼が僕の手許を覗く。
「それ、綺麗だね」
この石が綺麗と言われるのは嫌じゃなかった。
「見たい?」
「うん。見たいな」
腕だけ伸ばして石を手渡す。人差し指が少し触れ合った。
ジョシュアは興味深く石を見てくれた。悪い気はしない。
「不思議な色だね。クリスタルかい?」
「解らない。拾った物だから」
彼には予想外だったようだ。石から視線を外し、僕を見つめた。
「学院内で拾ったの?」
「うん」
優等生の表情が曇る。
「じゃあ、落とした人が居るんじゃ…」
「ボージェ教授だよ。今度の授業で返す」
「そうか」
まだ何か言いたそうだったけれど、それ以上の小言は言わなかった。
彼は手の平に乗せた石を見ながら苦笑した。
「神秘学の先生が落とした石なんて、ちょっと怖いな」
「何が?」
「不思議な力を持つ石かもって思えて」
「ああ。じゃあ、呪われた石かも」
深紅の瞳が瞬く。彼は人の言葉を信じ過ぎる。
「冗談だよ。いわくがあったとしてもレプリカだと思うし」
僕は拾った状況を簡潔に説明する。
呪術道具が入っていた鞄から落ちた物だと。
それを聞いたジョシュアは、石を暫し見つめた後、
さりげなくベッドサイドのテーブルに置いていた。
「彼のこと、魔法使いとでも思っているの?
あれは、オカルト好きな、只の変人だよ?」
「先生に噛み付くなよ、アンリ」
「もしかしたら、賢者の石だったりしてね」
えっ、と彼は驚く。いちいち真面目に受け取る人だ。
「でも、賢者の石って、空想上の石なんだろう?」
「それを聞いたら錬金術師達が怒るよ?
黄金変成も、不老不死も叶える、万能の石。
彼等は全てを賭けて、それを作ろうとしてた。
石を求めるあまり、投獄、処刑された錬金術師も少なくない」
僕は久し振りに滔々と語っていた。時折、こういう夜が訪れる。
「賢者の石を実際に手にしたと言い張る者も居る。伯爵だってその一人だ。
彼は石を液化した霊薬を飲み、永遠の命を得たのだから」
少し気分が高揚している、と自分を俯瞰している自分が感じていた。
夜だからかもしれない。今宵は確か新月だったし。
月が消された夜の僕は少し可笑しくなると経験則で解っていた。
それはジョシュアも知っていることだ。彼は黙って僕の話を聞いてくれている。
「ねえ。賢者の石って、何色か知ってる?」
神秘学に興味がない彼が知る筈もないのに、訊ねている。
彼はやはり首を振った。教えてあげる。
「賢者の石はね、製作の過程で色を変えるんだ」
僕は腕を伸ばしてテーブルから石を取った。親指と人差し指で持つ。
ジョシュアが心配そうに僕を見ていた。
僕より可笑しい人間なんて履いて捨てるほど居るのに。
「最初はね、死の象徴である黒。次に復活の象徴、白になる。そして、完成形は完全を意味する…」
僕は石を掲げて、天井のライトに透かす。
良い色だ。澱のあるワインみたい。
「赤だよ」
上澄みは鮮やか。底は暗くて赤黒い。
後から聞いたことだけど、この時の僕は、虚ろな目をしたらしい。
傍にジョシュアが居ることも忘れたように、僕はぼうっと呟いた。
「きれい…」
「アンリ!」
大きな声。僕は少しビクッとした。
石を持つ手ごと握られている。
目の前に真剣な眼差し。僕を怒るような目だった。
「何? ジョシュア」
彼はばつが悪そうに、手を離した。
「…すまない。なんだか」歯切れ悪く続けた。
「アンリが…どこかに連れて行かれそうで」
「どこかに? 何言っているの?」
彼は照れ笑いなどもせず、僕を諭すように言った。
「やっぱり、先生に早く返した方が良いんじゃないかな?
先生も石を探してるかもしれないだろう?」
生真面目に言う彼を見ながら、僕はやっと気が付いた。
「そうか」
石を彼の顔の前に合わせる。
代々グラント家に受け継がれる、禍々しい美しさを持つ色。
グラントが流してきた他人の血液だと揶揄されることもある。
科学的には、メラニン色素の過剰欠乏により、血液が透けて見えるらしい。
これは非常に稀な例で、その持ち主は、世界人口の0.001%しか居ない。
「君の瞳の色に似ているね?」
別に同意して欲しかったわけじゃないけれど、同意は得られなかった。
彼は僕の手を覆った。手の中に指を入れて、僕から赤い石を奪った。
それは決して乱暴ではなく、むしろ優しく抜き取られただけだったのだが、
彼にしては、強引な行動だった。
何も持っていない手が、空虚に感じられる。
気分まで下降していた。
「なんで取るの? それは僕のだ」
「先生の、だろう」
彼は石をサイドテーブルに置く。
コトリ、と小さな音がした。
「お姫様はもう眠る時間だよ、アンリ」
僕が嫌いな台詞。
イヤだって言っているのに時々言われる。
「僕はお姫様じゃない」
睨んだのに、笑顔を向けられた。
「良かった。いつものアンリに戻ってくれて」
事あるごとに思うけれど、可笑しなことを言う人だ。
ではさっきまでの僕は、誰だったの?
「オーギュ、これ、拾ってあげたよ。君のでしょ?」
翌日。僕はわざわざ彼の研究室を訪ねてあげた。
赤い石を差し出すと、教授はきょとんとした顔を見せた。
「私のではないよ?」
信じられない。
「…君のじゃないの? 本当に?」
「うん」
彼の顔をじっと見る。が、嘘を吐いているようには見えなかった。
「アンリ、ちょっと、見せてくれるかね?」
渋々、石を渡す。
「どこで拾ったんだい、アンリ」
「カフェテーブルの下。この前、君と紅茶を飲んだ時」
「ああ。私が鞄を引っ繰り返したから、私のだと思ったんだね?」
彼は石を観察しながら、
「宝石のようにも見えるけれど、これは隕石の類かもしれないなあ」
「隕石? 地球の外から降ってきたと言うの?
広い土地ならまだしも、こんな小さな島に」
「在り得ないとは言えないだろう? これ、私が預かっても良いかな?
知り合いの研究者に調査を頼んでみるよ」
赤い石は、オーギュストに取られた。
その後、石は隕石学者に送ったらしい。
何か解ったら連絡する、と言われたそうだ。
隕石学者からの連絡は、いつまで経っても来なかった。
fin
PR