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Marginal Prince Short Story
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■アンリ×オーギュスト
■アンリの日記 小説版
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アルフォンソ学院 第3校舎。
此処には教授の研究室が並んでいる。
特別講師には、学院の専任講師とは別フロアだ。
生徒達の希望があればどんな授業も叶える、という教育方針の下、
この学院では、世界中の大学から、その分野専門の研究者を呼ぶことができる。
教授陣には、メルキュール館という宿舎も与えられる。
居住スペースとは別に、学問の空間も用意されていた。

第3校舎の受付係は、すっかり見慣れた生徒の顔に、
感心したように「勉強熱心ですね」と言い、すぐに通してくれた。
本来であれば教授に連絡を入れ、来室の許諾を得なくてはならない。
更に入館記録書に、学生番号、署名、入館時刻、などの記入も必要だ。
毎週のように訪れるせいか、アンリにはその面倒な手続きを省いてくれていた。

「ありがとう」と受付係に一言述べ、3階の一番端の研究室へと歩いていく。
自分の靴音だけが響いている。誰とも擦れ違わすに到着した。
ドアの横にある白いプレートには『オーギュスト・ボージェ』と書かれている。
学院から割り振られた彼の研究室だ。

神秘学の特別授業には、神秘学の権威である彼が呼ばれた。
オーギュストを選んだのは学院だが、彼に白羽の矢が立ったのは僕のせいだ。
サン・ジェルマン家の者が、この学院に入学した場合、
神秘学を修めることが古くからの慣わしらしい。
僕の先祖は、神秘学の本に必ず名が載る人物だから。

アンリは本を一冊持っていた。空いている手で、ドアをノックする。
部屋の中から「どうぞ」と低い声がする。

此処は小さな図書館のようだった。
部屋を囲む本棚には、神秘学の論文や学術書が隙間無く本が敷き詰められている。
部屋の奥には大きな窓。その前に彼の机がある。

机に向かっていた教授が、こちらを向く。
30歳半ばにしては、若く綺麗な顔立ち。
彫りの深い目許は高い知性を感じさせた。
髪は下ろさず、几帳面に撫で付けている。
ダークブラウンのスーツに、襟を立てた白のワイシャツ。
教え子の顔を見ると、講師は少し表情が柔らかくなる。

「やあ、アンリ」
「本を、返しに来たんだ。今、忙しかった?」
「いいや。生徒の来訪よりも優先すべきことはないよ」
アンリは研究室に入り、ドアを閉める。
「本、戻しておくよ」
「ああ、ありがとう」

一週間前、彼がこの本を引き抜いた場所に向かう。
確か窓の近くだった。
先週も天気が良くて、この窓は青に染まっていたのを覚えている。
記憶通りに辿って行くと、本棚に本一冊分の隙間を見つけた。
あるべき場所に本を差し込む。ぴったりと嵌まった。
その様子を眺めていたらしい教授は、吐息混じりに言う。

「いつも思うことだけれど、凄いね、アンリは」
「何が?」
「本があった場所をよく記憶しているね。君が此処に来たのは先週だろう?」
「君よりは、若い頭脳だからね」
「羨ましい限りだよ」
「何を言うの。此処にある文献以上の知識を所有しているくせに」
「この世に存在する神秘の数には遠く及ばないけれどね」

研究者は遠くを見つめる。
視線の先には、書物が並んでいる。
だけど、彼が見ているのは本ではないようだった。

「アンリ、時間があるのなら紅茶でも飲んでいくかね?」
「じゃ、僕が用意するよ」
「構わないよ。私が飲みたいんだ」

教授は腰を上げると、紅茶の用意を始めた。
部屋の隅にある小さなキッチンに向かう。
本が住むこの空間で、生活感があるのはその場所だけだ。
戸棚から、透明な硝子のティセットを取り出す。
紅茶の水色がよく見えるからと、彼が好んで購入したものだ。
教授はまだ封を切っていない袋を見せる。

「今年の春摘みの紅茶を買ったんだよ」
「ファーストフラッシュか。もうそんな時期なんだね」
「今年の2月3月は雨に恵まれたから、ダージリンは当たり年だそうだよ」
「そう」
「このリーフはね、インド北東部のダージリンでも、ネパールの国境に近い」

内線電話が鳴った。
教授は封を切っていない紅茶を置く。
アンリに「失礼」と言って、受話器を取った。
この学院に掛けられる電話は全て交換台に繋がる。
交換台から研究室へ一報が入る仕組みになっていた。
「オーギュスト・ボージェです。……存じませんが、一応回して下さい」
教授は初見の相手と電話をしているようだった。

アンリは窓辺に凭れる。
彼の殺風景な机が目に入った。
机の上は綺麗、というより、殆ど物が乗っていない。
筆記用具と内線電話、後は以前僕があげた卓上時計だけだ。

アンティークな木製の置時計。小さな振り子が、右に左に時を刻む。
商談で島の外を歩いていた時、通りの店先で見つけた。
レトロな品物を集めた雑貨店だった。
振り子を目で追っているうちに、何故だかオーギュストを思い出した。
少し迷ったけれど、それを持って店に入った。
店主のご老人は丸眼鏡を掛けていた。
僕が何も言わないのに、皺だらけの手で丁寧に包装してくれた。

時計を渡した時、オーギュストは驚いていた。

「どうして私に?」
「これを見た時、君の研究室にあると良いなと思ったから」
「私の部屋にかね?」
「殺風景でしょ、君の机周り」
「そうだね。散らかっていると、落ち着かないから」
「要らないのなら返して。僕の机に飾るから」
彼の大きな手は、僕の髪を撫でた。
「ありがとう。とても嬉しいよ、アンリ」
講義の時間には見せない、温かな笑顔だった。
『父親の笑顔』ってこういう表情を言うのかもしれない、と少し思った。

オーギュストを見ると、まだ電話をしている。長くなりそうだ。
今年の春摘み紅茶。その出来具合に興味があったのだけど。
退室した方が良さそうだ。
青空の窓から身体を起こして、部屋を出ようとする。

手首を掴まれた。
オーギュストが僕を見ている。

彼は受話器の向こうに言う。

「お話は解りました。申し訳無いが、今、天使と午後のお茶を飲むところでね。
天使を見たことがありませんか? それは残念ですね。では失礼」

一方的に受話器を置いた教授は、アンリの手首からも手を離す。
何事も無かったように紅茶の準備を再開した。

「…オーギュスト」
「ああ。紅茶の産地の話をしていたところだったね。このリーフは」
「それより。今の電話の切り方、何なの?」
「気に入らなかったかい? 嘘を吐いたつもりはないんだがね」
「神秘学の権威は頭の可笑しな人間だと思われるよ?」
「他人がどう思おうと気にならないよ、私は。
でなければ、神秘学の研究は続けられないだろう?」
「そうかもしれないけど」
「今の電話は、悪質な儲け話への誘いだったし」
「儲け話?」
「ああ。教授を狙った詐欺は割とあるんだ」
「あっそう」
「アンリ。ファーストフラッシュの香り、とても素晴らしいよ、ほら」

封を切られた紅茶の袋を渡される。
顔を近付けると、爽やかな新芽の香りがした。
インドの壮大な茶畑が目に浮かぶ。
仄かに太陽と柑橘の匂いも香る。
当たり年、かもしれない。

「悪くないね」と袋を返す。
オーギュストは茶葉を、正確に3g計ってポットに入れた。
こぽこぽと湯を注いで、蓋を閉める。
茶葉の抽出を待つ間、教授は窓に近い本棚に目をやる。

「今回、君に貸したのは、どんな本だったかな?」
「錬金術の歴史書」
「ああ、そうだったね。大学生用参考書だが、アンリには物足りなかったかな?」
「そうでもないよ。専門用語が多くて、読み難いと思ったけど」
「良かった。退屈はしなかったようだね」

彼が父だったら。
そう思うことが時々ある。
彼は変わっているから。

神秘学の研究者ならば、
サン・ジェルマンの末裔である僕のことを、
根掘り葉掘り調べたいと思っても不思議ではないのに。

彼は僕を普通の生徒として扱った。

幼少期、実家に居た頃は、親戚やメイド達でさえ、
僕のことを特別扱いしていた。
化け物を見るような目付きで、腫れ物に触れるように接してくれた。

神秘学の研究者だからかもしれない。
この世が神秘で満ちていることを誰よりも深く知っている彼だから。
僕を一人の人間として認めてくれた大人は、彼が初めてだった。

「アンリ。紅茶の用意ができたよ。おいで」
「うん」

教授は硝子のカップに、紅茶を注ぐ。
それをテーブルに2つ並べる。
部屋の中央には硝子のローテーブルとグレイのソファが並んでいる。
オーギュストの向かいに座ろうとすると、止められた。

「アンリ。私の隣に座りなさい」
「何故?」
「今日は天気が良いから。こちらの方が、窓が見えて良いだろう?」
「君、変わっているね」

オーギュストの隣に座る。
窓は全面、青に染まっている。
彼に言われてみるまで、今日は天気が良いなんて気が付かなかった。
研究者は、新茶の味が気に入ったようだった。
口に出して「美味しい」とは言っていなかったけれど、
一口飲んだ後の、安らいだ顔を見れば、解る。
だから僕も「美味しい」とは言わなかった。
それより、彼に尋ねてみたかったことを口にする。

「ねえ。君は錬金術についてどんな意見を持っているの?」

「錬金術。卑金属から貴金属への変成、不老不死の霊薬の製造を目的とした技術」

教授は本を読んでいるかのように、淀みなく話し出す。

「錬金術には、真偽が疑わしい伝説は多いがね。功績はあったと思うよ。
錬金術は化学のルーツだ。フラスコやビーカーなど、
現代も使用されている化学実験器具も、
元は錬金術の実験をする為に開発されたものだからね」

生徒は足を組む。
今度の化学の時間には、ビーカーをまじまじと見てしまいそうだ。

「ちなみに、蒸留酒も錬金術から生まれている。錬金術師が実験中に偶然ね。
結果、蒸留の方法と、アルコールという化学物質を発見した」

「へえ。錬成したのは黄金ばかりではないんだ。
欲に目が眩んだ人間ばかりではないんだね」

「欲というものは、際限がないものだよ。
禁忌の領域に及んだ欲がある。錬金術師パラケルススは、
ホムンクルスを創り出すことに成功した、という伝説がある」

ホムンクルス。聞き覚えはあるが、意味を忘れてしまった。
ボージェ教授が神秘学について造詣が深いのは認めるが、
生徒には解説が必要な単語を説明文に使う場合が時々ある。
問題文の意味が解らないテスト問題と同じだ。

一般の生徒には只でさえ馴染みの無い神秘学の世界。
ボージェ教授は、その理解を余計に混乱させている。
神秘学の受講生が少ないのは彼のせいだ。
研究者としては優秀だが、講師には向いていないのでは、と思うことがある。

生徒は足を組み替えて、教授の説明不足を指摘する。

「ボージェ教授? 悪いけど、ホムンクルスの説明をしてくれる?」

「ああ、失礼。ホムンクルスは錬金術を用いた人工生命体のことだよ。
つまりパラケルススは、錬金術で人間を創り出した、と言われている」

「待って。錬金術は中世ヨーロッパで栄えた学問でしょう?
その頃にクローン実験をしていたと言うの?」

「いや、パラケルススの話は伝説の域を出ないよ。
人体創造の話も、賢者の石が無ければ不可能だ」

「賢者の石って、卑金属を金属に変えることのできる石?」

「そう。賢者の石、それ自体の存在も怪しいがね。
パラケルススが目指した夢は、クローン技術者と同じだ」

生徒は、手の中の紅茶を見る。
硝子の器に赤い液体。
上澄みは明るい動脈血、底は静脈血に見えた。
粉状のリーフが沈殿している。

「ああ、そうだ、アンリ」
「何?」
「先程、他の教授からお菓子を頂いたんだ」
「お菓子?」
「シュークリーム、だったかな。食べてくれるかね?」
「別に、良いけど」
「良かった。では用意するよ」
「オーギュスト、甘い物は苦手ではなかった?」
「ああ、私はね」
「貰う時に、どうして断らなかったの?」
「アンリが好きそうかな、と思ってね。君が来たらあげようと思ったんだ」
「僕に…」
「好きだろう?」
「…嫌いじゃ、ない」

教授は小さな冷蔵庫から、箱を取り出す。
他にはミネラルウォーターしか入っていなかった。
薄いブルーの箱から、シュークリームを取って、皿に乗せる。

「オーギュ」
「ん?」
「フォークも」
「はいはい」

僕の前に、粉砂糖が掛かったシュークリームとフォークが並ぶ。
シューを四分の一ほど切り取る。
柔らかい感触がして、淡い黄色のクリームが皿に零れる。
小さく切ったシューで拭って、口に運ぶ。

「美味しいかい、アンリ?」
「まあまあ、かな」
「そう。ではこれをくれた教授にお礼を言わなくてはね」
「君は食べていないのに。どんなお礼を言うの?」
「幸福な時間をありがとうございます、と」
「講義中もそうだけれど、ボージェ教授の言葉は時々理解不能だね」
「それは申し訳ないね。日々精進しているつもりなのだが」
「…ねえ」
「ん?」
「そんなに見ないでくれる?」
「ああ、ごめん。あんまり可愛らしいものだから」

僕がシュークリームを食べている間、
オーギュストは席を立って、何かの本を探し始めた。
本を引き抜いて、目次を眺めて、棚に戻す。
その作業を何度か繰り返していた。

「アンリ、次はこの本を読んでみるかい?」

ハードカバーの本をテーブルに置かれる。
紅色の表紙。同じ色の栞紐は5mmほどで擦り切れていた。
中身はすっかり黄ばんでいる。

「これはどんな本?」
「錬金術の歴史書。今度は学会レベルだよ」
「そう。読んでおくよ」

この研究室にある本を1冊ずつ読んでいく。
いつのまにか習慣になっていた。
彼が読んだ本を読む。彼と知識を共有する。
追い着くことはできないけれど、
少しでも理解し、近付きたかった。
自分の部屋で、彼から借りた本を読む時間は、
何故か、とても特別なものだった。

オーギュストは僕の隣に座る。
紅茶を一口飲んで、唇を舐める。

「人体錬成や不老不死について、アンリは不服かな?」

「どちらも、永遠に生きようとした、ということだよね。
人間の創出や不老不死を追い求める理由が、僕には理解できない。
永遠なんて幻想だもの。永遠を約束することなんてできない。
万物には終わりがあるものだ。そうでしょう?」

「その通りだ。だからこそ、彼等は永遠を欲したんだろう。
手に入らないものは魅力的に映るものだからね」

「サン・ジェルマン伯爵は、永遠に生きたと言われる人物だよね?」

「ああ、そうだね」

「過去から未来まであらゆる知識を持ち、予言まで行った彼を、詐欺師だと思う?」

「伯爵について論じるのは、また今度にしよう」

オーギュストが困ったように微笑む時は、これ以上答える気が無い時だ。
この特別講師は、深い知識を、生徒に惜しみなく教えてくれるのに。
アンリが本当に知りたいことには、何も答えてくれないような気がしていた。
生徒は、ねえ、と教師に質問を重ねる。

「どうして教えてくれないの、オーギュ」
「サン・ジェルマン伯爵については、君の方が詳しいだろう、アンリ」
「僕は君の見解が聞きたいと言っているの」

オーギュストは何故か、伯爵について述べることを避ける。
口を開いたとしても、書物を暗唱してくれるだけで、
自分の意見は述べてこなかった。

伯爵の言動を記した書物の中には、確かに事実とは考え難い記述もある。
彼が詐欺師と呼ばれるのも無理はない。

だけど、オーギュストには、伯爵のことを悪く思って欲しくなかった。
彼に伯爵を否定されることが、堪らなく怖くて。
サン・ジェルマン伯爵について、彼の個人的な見解が聞きたかった。

彼はまた僕の質問を避ける気なのか、
活字を読み上げるように、客観的な知識を口にした。

「サン・ジェルマン伯爵。恐ろしく博識で、
10か国以上の言語から絵画、音楽の才をも持つ美男子。
優雅な物腰と巧みな話術で、宮廷の女性方にも大変に人気があった人物だ」

「それは知っている」

既知情報に対し、アンリが興味無さそうに返す。
話が長引きそうなので、シュークリームへと視線を移す。
残りは3分の1程度だ。シュー生地から溢れているクリームには、
黒いバニラビーンズが星のように散らばっている。
特別教授は神秘学の講義のように話を続ける。

「1710年、フランスの貴婦人ジェルジ伯爵夫人は、
ベネチアでサン・ジェルマン伯爵に会ったと証言している。
当時の彼は45歳前後の風貌だった。それから40年後、ジェルジ伯爵夫人は、
ヴェルサイユ宮殿で全く年をとってないサン・ジェルマン伯爵に再会している。
彼女が『40年前に会った方とよく似ている』そう言うと、伯爵は言った。
『同じ人間ですよ、マダム。貴女のご主人はイタリア大使でしたね?』と」

「彼が時間旅行者として語られる最も有名な逸話だね」

アンリはシュークリームの最後の一切れを口に入れる。
甘過ぎないカスタードクリーム。好みの味だった。
その余韻は口内に残っている。紅茶で流してしまうのは少し惜しい。
教授の講義は尚も続く。僕が知りたいのは、そんなことじゃないのに。

「伯爵は、晩餐会に招かれても、一切食べ物を口にしなかった。
『私は特別な薬しか食さない』と言葉を残している」

「それが不老不死の霊薬だと言われているんでしょ」

「そう。彼は45歳の姿のまま時を止めた、とね。
1784年2月27日死去。ドイツで埋葬されたが、没後も目撃証言がある。
フランス革命直前、当時の王妃マリー・アントワネットに、
亡くなっている筈の伯爵から手紙が届く。
さて、どんな内容だったか知っているかい、アンリ?」

「王妃の末路を予言する最終警告だ。
『民衆の怒りを聞き入れ、国王ルイ16世に退位するよう促しなさい』というね。
しかし王妃は、伯爵の手紙を無視した。結果、国王と王妃は斬首刑に処された。
更に補足するなら、マリー・アントワネットの処刑当日、
刑場でサン・ジェルマン伯爵を見た、という証言も存在する…これで良い?」

「素晴らしい。正解だ」

「ありがとう。嬉しくないけどね」

「以降も、世界各地で目撃報告がある為、
伯爵は今も生きている、と信じている人も居るようだね。
歴史上、最も謎の多い人物だが、彼が実在した人物だというのは、此処に」

オーギュストが僕の肩に手を置く。

「その末裔が居ることからも明らかだが、彼に纏わる逸話の真相は不明。
今私が話したことも、そう記された文献がある、というだけで、
信憑性には欠けるものもあることを付け加えておこう」

「そんなことは解ってる」

肩に置かれた手を払う。

僕が聞きたいのは、サン・ジェルマン伯爵の客観的知識ではない。
オーギュストの主観だ。
伯爵のことを、詐欺師だと思っているのか。
伯爵に対して、否定的な意見を持っているのか。
それだけが知りたいのに。
オーギュストは、まだ答えていない。

教授は渇いた喉を紅茶で湿らせていた。
美味しそうに、こくりと喉が動く。

「オーギュ。僕の質問は」

教授はテーブルに硝子のカップを戻す。
赤い水はもう残っていない。

「おや。アンリ。頬に砂糖が付いているよ?」

シュークリームの粉砂糖が付いたのだろうか。
反射的に手で頬に触れようとする。
その手は、彼に捕らえられた。

「動かないで、私が拭うよ」

オーギュストは僕の頭を抱えると、
頬に唇を落とした。
教授は笑みを浮かべている。

「もう良いよ、アンリ」
「…オーギュ…僕を怒らせたいの?」
「もう次の講義が始まる時間だね。残念だが、失礼するよ」

机上の置時計を見る。
アンティークな時計の針は、確かにその時刻を示していた。
教授は文献を2冊抱える。

「オーギュ」
「紅茶はそのままで構わないよ。ではまたね、アンリ」

ダークブラウンの背広が、扉の向こうに消えた。

教授が居なくなった研究室。
生徒はソファに凭れる。
窓の中にシュークリームのような雲が浮かんでいた。

また、はぐらかされた。

オーギュストの意見が聞けなかった。
だけど、この部屋に入る前よりは、固執していない気がする。
彼が伯爵のことを、詐欺師と思っていても、いなくても。
もう、どうでもいいかもしれない。

青空のシュークリームが、窓の中央から端へと流れていく。
風に撫でられて、ゆっくりと動いていく。
一羽の白い鳥が通り過ぎた。

どうして僕は、急に意見が変わったのだろう。
理由が、解らない。

テーブルの上に視線を落とす。
空のカップ。
空の皿。
紅茶が残るカップ。
紅茶と同じ色の本。

冷たい紅茶を飲み干す。
本を持って、研究室を後にした。


第3校舎の受付係に軽く礼をして、外に出る。
久し振りに外気に晒されて、肌寒く感じる。
空を仰ぐ。
先の雲は、ちゃんと其処にあった。

僕はこの後に講義がなかった。
早速、この本を読もうと、ウーティス寮に戻る。
玄関には、雲より柔らかい笑顔を浮かべている人が居た。
アルフォンソ学院の生徒代表殿だ。

「おかえり。アンリ」
「ただいま」
「あれ?」
「何」
「今、ボージェ教授と会って来たのかい?」
「…どうして、解るの?」
「解るよ。長い付き合いだからね。今日は教授とどんな話をしたんだい?」

頬が熱くなる。
生徒代表から目を逸らすと、紅茶色の本が視界に入った。
アンリは、小さく返事する。

「錬金術について意見交換」


fin
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