×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
■オーギュスト×アンリ
■アンリの日記ベース
見慣れた天井。
それを見て、夢だったのかと理解する。
僕は今、聖アルフォンソ学院に居るのだと。
手の甲で額を覆う。しっとりと濡れていた。
子供の頃、何度も見た夢を、最近また見るようになった。
引き金になったのは、とても些細なこと。
それは夕食後のことだった。
僕は本を読もうと、ウーティス寮サロンに向かっていた。
今夜は雨が降っていて、なんとなく部屋に居る気がしなかったから。
サロンに近付くと、廊下までバカ騒ぎしている声が溢れていた。
扉を開けると、他の寮生達が生徒代表殿を除いて、全員居た。
サロンは楽しげな空気に包まれていた。今年は特にこういう夜が多い。
ひとつのテーブルを囲んで、何か話し合っていたようだ。
「あっ、アンリが来た!」
輪の中心に居た今年の新入生は、僕の姿を認めると素早く席を立った。
「ねえ、アンリも一緒に考えよ?」
新入生は僕の腕を取って、テーブルの方へ歩いて行く。
僕よりひとつ下の高等部一年。日本からの転校生だ。
この学院では珍しいタイプの人間で、他人の領域に平気で土足で踏み込む。
笑ったかと思えば、その黒目に涙を溜めていたりと忙しい。
今は人懐っこい笑顔を向けられている。屈託のない明るさ。
ユウタは、どうしてそんな顔を人に向けられるのだろう。
「随分楽しそうだけど、一体どうしたって言うの?」
「じゃーん! コレね、シェフのカミーユさんに作って貰おうかと思ってるんだ!」
テーブルの上にはユウタのスケッチブックが乗っていた。
大きな白画用紙に鉛筆で描かれた絵。
一目で何のデッサンか判った。文字での説明が要らないくらいだ。
ウエハースの屋根、チョコレートの窓、ビスケットの壁。
ユウタは無邪気に笑う。
「今ね、皆でアイディア出してたとこなんだ。アンリの意見も聞かせてよ」
アルフレッドがユウタの首に腕を掛ける。
「なあ! カミーユに任せんじゃなくてさ、俺達で作らねえ?」
「そっかあ! 皆で作った方が楽しそうだね!」
ユウタの同意を得て、アルフレッドの笑顔が更に輝く。
最年長のお調子者も両手を合わせて笑顔を見せた。
「面白そうですねー♪ じゃ、明日、皆でスーパーに行って、お菓子買って来ちゃいます?」
「ええ? それって、6人でぞろぞろスーパー歩くの? あの、恥ずかしくない?」
シャイな日本人の意見は、周囲の歓声に掻き消された。
「よしっ、決まりな! んじゃ、デザイン早く決めちまおうぜ!」
ますます賑やかになるサロン。華やかで、あたたかくて。
頭痛を覚える。耳鳴りがする。
僕はこの場に居られなかった。
踵を返し、ドアへと向かう。新入生が僕の動きに気付いた。
「ちょ、ちょっと、アンリ? 行っちゃうの? 一緒に考えようよー」
「用事を思い出したから、失礼するよ」
サロンの扉を開ける。誰かの胸にぶつかった。
「あっ、すまない。大丈夫かい?」
簡単に謝る最高学年。一瞬、僕の顔を覗かれた。
お節介な生徒代表殿の表情が曇る。
「アンリ? どうしたの?」
返事をせず、彼の横を通り抜ける。
後方で彼が皆に何か聞いている声が聞こえた。
僕は自分の部屋に戻った。ドアを閉め、鍵を掛けた。
まだカーテンが開いていた。
憂鬱に降り注ぐ窓硝子越しの雨と、その先に広がる森。
この風景は子供の頃と似ている。
いつのまにか握り絞めていたカーテンで、窓硝子を覆った。
ベッドへと歩いて行く。制服のまま、横たわる。
柔らかいベッドが僕を受け止める。
此処はこの世で最も落ち着く空間だった。サン・ジェルマン邸よりも。
4年間見て来た天井。
僕がフランスから、あの人から逃れて、もう4年になる。
フランスから遠く離れた孤島。こんなところまでやってきたのに。
此処から一歩出れば、彼の手先が待ち構えている。
あの人から逃れる術なんてあるんだろうか。
目を閉じる。先程、目にした絵が浮かんでくる。
お菓子の、家。
僕だって昔は嫌いではなかった。絵本に描かれる、その家は魅力的だった。
辺りは甘い香りに包まれ、いつでも好きなときに好きなだけお菓子が食べられる。
夢のような場所に辿り着いた、小さな兄妹は夢中で家にかぶりつく。
そのページを見て、羨ましいと思う子供が殆どだろう。
僕だって、昔はそうだった。けれど、絵本は捨ててしまった。
『捨てて』と頼んだのは、僕。
「寮の子と喧嘩でもしたのかね?」
大人の声。壁に凭れて居たのは僕の講師。
身体を起こし、こちらにやってきた。
神出鬼没にもほどがある。僕は身体を横たえたまま、
「…オーギュスト」
彼はどうかしている。
時折こうして、勝手に僕の部屋に訪れ、ベッドにまで入ってくる。
講師は、僕のベッドに腰を掛ける。君の重みを受けて、僕の身体も少し沈む。
僕を見下ろして、髪を手で梳いた。
君の指が、僕の耳に触れる。すうっと撫でられた。
***
オーギュスト・ボージェ。神秘学の特別講師。
彼に初めて会ったのは、おそらく教室だろう。
第一回目の講義が終わった後、黒板を消す背中を眺めていた。
チョークの跡が綺麗になると、講師はこちらを向いた。
教室でただ一人残っていた僕を。
「どうしたのかね? 何か質問かな、サン・ジェルマン君」
「アンリ」
「そう呼んでも良いのかね?」
「此処ではファーストネームで呼び合う習慣だから」
「ほう、面白い習慣だね。では私もオーギュストと…いや、オーギュでも良いよ?」
「オーギュ…」
「よろしく、アンリ」
神秘学の講義は僕の知的好奇心を刺激するものだった。
サン・ジェルマンの邸の地下書庫で隠れて読んでいた学問。
暗い場所で埃を被っていた本。あの人に見付からないように読んでいた。
そんな僕を、誰もが気味悪がって、後ろ指を差していた。
あの人に取り上げられて、燃やされた本もあった。
伯爵が書いた本もあったのに。
かつてはタロットの話をするだけで煙たがられていた。
神秘学の講師は今までの大人達とは違った。
僕のタロットを見て、嬉しそうに言ったんだ。
「おや、良いものを持っているんだね?」と。
フランス語で記された大アルカナ22枚、小アルカナ56枚。
彼は、78枚全て言えるどころか、タロットに纏わる言い伝えまで話せた。
講義中にどんな意地悪な質問をしても、彼は適確な答えを返してくる。
彼の造詣が深いのは神秘学だけじゃない。
話せない言語はないように見えるし、地理や歴史に関しては見て来たように知っている。
今までの他の講師は、やろうと思えば打ち負かすことができたのに。
講義の後、二人になった時、講師は言った。
「とても良い質問だったよ、今日のは。私の回答では不十分ではなかったかい?」
そうは思えなかった。君はいつだって完璧で、僕では歯が立たないのに。
僕が質問した点について、文献を読んでみるかい、と尋ねられた。
初めて来た、君の研究室。
古い書物に囲まれた空間。神秘で満たされた聖域だった。
君の長い指は、本棚から一冊の本を引き抜く。
渡されて。読んだ本は必ず、僕の知的好奇心を満たすものだった。
返しに行くと、次も読んでみるかい、と。
研究室で君が淹れてくれる紅茶は美味しくて。
リーフの香りに包まれながら、錬金術について意見交換をしたり。
放課後、君と二人きりの個人授業は退屈しない時間だった。
今まで禁じられた学問が、僕の中に蓄積されていく。
この大人は、神秘学の知識を教えてくれる。
あの人が与えてくれなかったものを、この大人は僕に与えてくれる。
初めて唇を重ねたのは、多分、講義が終わった、第二化学室。
夕陽が教室の窓から差し込んでいた。
「オーギュ、何、してるの?」
「これはね、キスだよ。愛しい、と伝える手段のひとつだ」
「愛しい、って…何?」
「解らないかい?」
「愛されたことなんてないもの。解るわけないよ」
「解らないことは私が教えるよ。君が知りたいことなら、何でもね」
夕陽から夜に移ろう時刻だった。校舎内は静かで、廊下から足音はしなかった。
教室の時計が、夜へ時を進めている。
「教えて、欲しいかね?」
ずっと年上の男性。親子ほども離れている。
最初は講師と生徒というだけだったのに。
放課後の教室で。君の肩越しには夕刻の空。
美しい朱色が紫と溶け合っていた。
***
「誰と喧嘩したのか、当ててみようか?」
生徒のベッドに腰を掛けて、講師は今宵も丁寧な戯れを始める。
僕の耳たぶの柔らかさを精査するように。
弄ばれて、熱を、帯びてしまう。
「新入生の子。違うかね?」
「別に、喧嘩なんかしてない…ねえ」
「ん?」
講師は僕の首許に手を伸ばす。リボンタイがするりと抜けた。
「まだ、サロンにいっぱい居るんだけど? もし誰か来たら、どうするの?」
「生徒手帳には、講師は生徒を愛してはいけないとあったかな?」
ボタンが外れていく。遠くで騒いでいる寮生の声がする。
「そんなこと書いてある生徒手帳が何処にあるの」
講師は微笑んで身を屈める。一瞬、視線が絡む。
触れるだけの口付け。
その後で君は僕の瞳を確かめる。続けていいかと無言のうちに尋ねている。
思えば、初めて君と唇を重ねた時から、君は同じ方針だった。
一度キスをした後で僕にお伺いを立てる。
そこで僕が「嫌」と言えば終わるのに。僕は黙って目を合わせる。
君は穏やかな顔で、もう一度唇を重ねる。
二度、三度と触れて、ゆっくりと。
丁寧なのか、意地が悪いのか区別し難い。
どうして彼と、こんなことをしているんだろう。
彼にされるままでいる僕もどうかしている。
僕達は同じ性で、講師と生徒なのに。
この夜を境に、懐かしい夢を見ることになった。
夜の森で迷う夢。
それは夢というだけではない。
僕がまだサン・ジェルマン邸に居た頃、実際にあったことだ。
邸からそう遠くない森で、僕は迷子になった。当時の記憶はあまりない。
ただ、断片的に覚えているのは、夜の森と、
泣きじゃくりながらあの人を呼んでいる自分。
目を開けたら、僕は邸の自分のベッドに寝かされていた。
メイドが言うには、僕は突然居なくなって、一晩、帰ってこなかったらしい。
翌日、邸の前で倒れているのをメイドに発見された。
衣服はところどころ擦り切れていて、土や葉が付着していた。
うわ言で「夜の森に居た」「いろんなものが居て怖かった」などと呟いていたそうだ。
まるで何かに呪われたかのように高熱に侵され、何日か寝込んだ。
僕の世話をするメイド達から、無事の帰宅を喜ぶ言葉を幾つか浴びた。
その大半が立場上、演じられた『台詞』だと解った。
僕は当時から大人の心が読めたから。
やっとベッドから出られるようになって、僕は森にもう一度行こうか迷った。
森に居たいろんなものが何なのか知りたい、という気持ちがあった。
夜ではなく、昼間なら大丈夫かもしれない。
病み上がりの身体でベッドから起きる。
メイドの目を盗んで、邸から出た。
大きな扉を開けると雨が降っていた。
行くのを止めようかという考えが浮かんだが、傘を差して森へ向かった。
まだ午前中なのに、辺りは暗く、森へ続く道は薄気味悪かった。
森に足を踏み入れる前、足が動かなくなった。
理由が解らないが、近付いてはいけない、と頭の中で警笛が鳴っている。
その時、強い風が吹いて。思わず目を瞑る。
傘が煽られて、手を放してしまった。灰色の空に傘が舞い上がる。
横髪を手で押さえて、ゆっくりと目を開ける。
黒いものが、木々の間を横切った。
人間の動きではない。動物でもない。今、僕の目に映ったものは何だ。
傘を拾いに行く余裕などなかった。僕は走って、邸へ引き返した。
上等な靴に泥水が跳ねる。
雨でぬかる道に足を取られながら、必死で走った。
振り向いたら、何処かへ連れ去られそうな気がしていた。
やっと見えてきたサン・ジェルマン邸。
門を走り抜けて、扉を閉めた。
雨を全身に浴びて、服はびっしょりと濡れていた。
息は切れて、身体は汗ばんでいた。また熱が出てきたのかもしれない。
大理石の床に、髪から流れた雨粒が落ちる。
広い吹き抜けの玄関ホール。目の前には、二階へと続く大階段がある。
階段の上、其処へあの人が現れた。二階から僕を見下ろしている。
広い邸では、互いに居ても顔も見ないこともあった。
数日振りに見た父親。森で迷子になってからは初めて会った。
あの人の顔を見た時、僕はどんなにほっとしたか。
ただ、恐怖しか与えてくれない貴方を、森の中で何度呼んだことか。
そうして、数日振りに僕の顔を見たあの人は、言ったんだ。
「帰って来なければ、良かったのに」
冗談でも、からかうでもなく。
ただ、本当に、ぽつりと。
虚実めいた響きは、何処にもなかった。
それが、貴方の素直な感想だったんだろうと思う。
貴方を見上げたまま、動けなくなった僕に、
続いて投げかけられた言葉。
「無事に帰ってこれるとは、やはり悪魔だな」
遠くなる、貴方の足音。
耳の奥で鳴り止まない、貴方の言葉。
壊れた機械のように、何度も、何度も。
カエッテ コナケレバ
真っ暗な森。
自分の足音さえ、恐ろしくて。
おうちに帰りたくて。
泣きながら呼んだのに。
また貴方に、会えたのに。
どうして帰ってきてはいけないの? 僕の家は此処しかないのに。
森から帰ってこなければ、僕は死んでしまうかもしれないのに。
貴方にとって僕は、死んでもいい子供なの?
ああ、そうか。
なんだ、解った。そうなんだ。
本当は知っていたのに。
僕は信じたくなかっただけだ。
もし、森で小さな亡骸を見付けていたら、
貴方がどんな顔をするのも、僕には解っていたんだ。
だって、大人の心は、僕には読めるもの。
ヘンゼルとグレーテルだって理解していた。
親が子供のことをどう思っているのかを。
僕はただ、気付かない振りをしていただけだ。
だけど、もう、聞いてしまった。
貴方の口から。
カエッテ コナケレバ ヨカッタノニ
僕は、立っていられなくて。
足許から崩れるように、その場に倒れた。
また暫くベッドから出られなくなって。
メイドには「病み上がりで無理をされたからです」
と言われたが、違うだろう。
それからだ。
森で迷う夢を繰り返し見るようになったのは。
森という場所に拒否反応を示し、
さらに『ヘンゼルとグレーテル』が読めなくなった。
本棚に並ぶ背表紙。その題名を見るだけで怖かった。
森で子供が迷う話。
親に捨てられる子供の話。
童話に出てきた親のように。
僕の親も望んでいたんだ。
森の中から子供が帰ってこないことを。
絵本はメイドに捨ててくれるよう頼んだ。
訳を察したメイドは、僕の言うことを聞いてくれた。
僕の部屋から絵本がなくなっても。
夜の森は僕から付かず離れず。
忘れた頃、嘲笑うかのように、僕の夢に現れた。
夢の中、僕は、夜の森で彷徨っている。
決まって、僕の姿は幼い。
僕は歩き疲れた足でふらふら歩いている。
鬱蒼と生い茂る森。木は化け物のように見えて。
フクロウの鳴き声に耳を塞いで。
夜は寒くて、子供の細腕は震えてた。
お腹は空いて、元気なんてこれっぽっちも残ってなかった。
枝に引っ掛けた袖は擦り切れてしまった。
前も後ろも見えない、夜の森。
やがて、一歩も進めなくなって、膝を抱えて泣きじゃくる。
震える声で、呼んでいる。
助けに来ないと解っている、あの人のことを。
何度も呟いて、止まらない涙を自分の手で拭っている。
―― もう大丈夫だよ、アンリ ――
何処からか聞こえてくる声。
小さな僕の手が包まれる。
紳士の手。不思議なほど、安堵を感じる。
あの人ではないと直感的に解る。
懐かしい、あたたかさ。
昔会ったことでもあるのだろうか。
彼はどうして、僕の名前を知っているんだろう。
暗くて、紳士の顔が見えない。
―― おいで。おうちまで案内しよう ――
「おじさま…だあれ?」
紳士が微笑む気配。
夢はいつも其処でブラックアウトする。
見慣れた天井。
それを見て、夢だったのかと理解する。
僕は今、聖アルフォンソ学院に居るのだと。
今日もまた見てしまったんだ、森で迷う夢を。
何度も同じ夢を見ているのに解らない。
あの紳士は誰なんだろう? 僕が創り出した幻なのか。
それとも、僕が家に辿り着いたのは、本当に彼のおかげなのだろうか。
解らない。夢の内容も何処までが事実なのか解らない。
事実として覚えているのは、夜の森と、
泣きじゃくりながらあの人を呼んでいる、幼い僕。
夢を見た後はどうしても、あの人を思い出してしまうのが嫌だった。
脳では夢の残像が、耳の奥では台詞が勝手に再生される。
手の甲で額を覆う。しっとりと濡れていた。
「おや。起きたのかい? 早いね」
僕のベッドなのに隣から声がした。僕の講師。
開かれたワイシャツから、素肌が覗いている。
僕達は同じ毛布の中に居た。
まだあまり覚醒していない頭が、昨夜の記憶をおぼろげに思い出す。
そう言えば、昨夜は君が来ていたんだ。
夕食の後、サロンでお菓子の家を見せられて。
部屋に戻ったら君が居て。リボンタイを取られて――
夜、森で迷う夢を見た。
そして今、覚めたところだ。過去に囚われた時間から。
「おはよう、アンリ」
練れた大人の声。
夢を見た後に聞く声は、いつも以上に安心する。
君の声は聞いていると、何故かとても落ち着く。
講義で聞く声も。真夜中に囁かれる声も。
どうして、こんなに…
「アンリ? どうしたんだね?」
「…夢を、見ていた」
「怖い夢かい?」
「嫌いな夢」
「そうか」
ゆっくりと僕の髪を撫でる。
長い大人の指。僕が子供の頃の、あの人と同じくらいの年齢。
この大人に愛されることで、僕は何を補完しているのだろう。
「もう大丈夫だよ、アンリ。怖い夢から覚めたのだから」
夢で聞いたのと同じ台詞。
森で泣いている僕に、手を差し伸べてくれた人。
「もう大丈夫だよ、アンリ」と言ってくれた人。
彼はオーギュストなのだろうか。
紳士であるという類似点には合致するが。
思い出そうとすると、夢の記憶は霧のように薄れていく。
「オーギュ。少し可笑しなことを聞くけれど」
「なんだね?」
「君、僕の名前を呼んだ? 僕が眠っている時に」
「いいや」
「そう…」
部屋はまだ薄暗かった。
耳を澄ますと、微かにガラスを打つ音が聞こえた。
「雨、まだ止んでいないんだね」
「うん。夜中は一度止んでいたけれど。先程私が起きた時にはまた降っていた」
時計を見やると夜とも朝とも言えない時間帯だった。
光の差さないカーテンの向こうには、灰色の空と黒の森。
夢に現れる森も、必ず闇に包まれている。夜はまだ明けない。
けれど、こんな憂鬱な旋律を聞きながら、再び瞳を閉じる気にはなれなかった。
視界が暗黒に染まれば、また同じ夢を見るだろう。
耳の奥にあの台詞が甦る。
カエッテ コナケレバ
時計に向けられた視線にオーギュストが気付く。
僕の髪を撫でていた手が止まる。
「もう少し眠るかね?」
「ううん。ねえ、オーギュ…」
カエッテ コナケレバ ヨカッタノニ
この耳鳴りを止めて。
あの人を忘れさせて。
「キス、して」
オーギュストは少し驚いたようだった。
だけど、何も聞かずに、僕の頬に手を添えた。
君の甘い舌が欲しかったのに。薄い唇は僕の目許に触れた。
「何処に、してるの」
問うのと同時に、理由が解る。
静かな空間で、僕の声は僅かに震えていた。
添えられた手は離れ、反対の頬を拭う。君の手は濡れていた。
また零れた雫に、口付けが落とされた。
fin
■アンリの日記ベース
見慣れた天井。
それを見て、夢だったのかと理解する。
僕は今、聖アルフォンソ学院に居るのだと。
手の甲で額を覆う。しっとりと濡れていた。
子供の頃、何度も見た夢を、最近また見るようになった。
引き金になったのは、とても些細なこと。
それは夕食後のことだった。
僕は本を読もうと、ウーティス寮サロンに向かっていた。
今夜は雨が降っていて、なんとなく部屋に居る気がしなかったから。
サロンに近付くと、廊下までバカ騒ぎしている声が溢れていた。
扉を開けると、他の寮生達が生徒代表殿を除いて、全員居た。
サロンは楽しげな空気に包まれていた。今年は特にこういう夜が多い。
ひとつのテーブルを囲んで、何か話し合っていたようだ。
「あっ、アンリが来た!」
輪の中心に居た今年の新入生は、僕の姿を認めると素早く席を立った。
「ねえ、アンリも一緒に考えよ?」
新入生は僕の腕を取って、テーブルの方へ歩いて行く。
僕よりひとつ下の高等部一年。日本からの転校生だ。
この学院では珍しいタイプの人間で、他人の領域に平気で土足で踏み込む。
笑ったかと思えば、その黒目に涙を溜めていたりと忙しい。
今は人懐っこい笑顔を向けられている。屈託のない明るさ。
ユウタは、どうしてそんな顔を人に向けられるのだろう。
「随分楽しそうだけど、一体どうしたって言うの?」
「じゃーん! コレね、シェフのカミーユさんに作って貰おうかと思ってるんだ!」
テーブルの上にはユウタのスケッチブックが乗っていた。
大きな白画用紙に鉛筆で描かれた絵。
一目で何のデッサンか判った。文字での説明が要らないくらいだ。
ウエハースの屋根、チョコレートの窓、ビスケットの壁。
ユウタは無邪気に笑う。
「今ね、皆でアイディア出してたとこなんだ。アンリの意見も聞かせてよ」
アルフレッドがユウタの首に腕を掛ける。
「なあ! カミーユに任せんじゃなくてさ、俺達で作らねえ?」
「そっかあ! 皆で作った方が楽しそうだね!」
ユウタの同意を得て、アルフレッドの笑顔が更に輝く。
最年長のお調子者も両手を合わせて笑顔を見せた。
「面白そうですねー♪ じゃ、明日、皆でスーパーに行って、お菓子買って来ちゃいます?」
「ええ? それって、6人でぞろぞろスーパー歩くの? あの、恥ずかしくない?」
シャイな日本人の意見は、周囲の歓声に掻き消された。
「よしっ、決まりな! んじゃ、デザイン早く決めちまおうぜ!」
ますます賑やかになるサロン。華やかで、あたたかくて。
頭痛を覚える。耳鳴りがする。
僕はこの場に居られなかった。
踵を返し、ドアへと向かう。新入生が僕の動きに気付いた。
「ちょ、ちょっと、アンリ? 行っちゃうの? 一緒に考えようよー」
「用事を思い出したから、失礼するよ」
サロンの扉を開ける。誰かの胸にぶつかった。
「あっ、すまない。大丈夫かい?」
簡単に謝る最高学年。一瞬、僕の顔を覗かれた。
お節介な生徒代表殿の表情が曇る。
「アンリ? どうしたの?」
返事をせず、彼の横を通り抜ける。
後方で彼が皆に何か聞いている声が聞こえた。
僕は自分の部屋に戻った。ドアを閉め、鍵を掛けた。
まだカーテンが開いていた。
憂鬱に降り注ぐ窓硝子越しの雨と、その先に広がる森。
この風景は子供の頃と似ている。
いつのまにか握り絞めていたカーテンで、窓硝子を覆った。
ベッドへと歩いて行く。制服のまま、横たわる。
柔らかいベッドが僕を受け止める。
此処はこの世で最も落ち着く空間だった。サン・ジェルマン邸よりも。
4年間見て来た天井。
僕がフランスから、あの人から逃れて、もう4年になる。
フランスから遠く離れた孤島。こんなところまでやってきたのに。
此処から一歩出れば、彼の手先が待ち構えている。
あの人から逃れる術なんてあるんだろうか。
目を閉じる。先程、目にした絵が浮かんでくる。
お菓子の、家。
僕だって昔は嫌いではなかった。絵本に描かれる、その家は魅力的だった。
辺りは甘い香りに包まれ、いつでも好きなときに好きなだけお菓子が食べられる。
夢のような場所に辿り着いた、小さな兄妹は夢中で家にかぶりつく。
そのページを見て、羨ましいと思う子供が殆どだろう。
僕だって、昔はそうだった。けれど、絵本は捨ててしまった。
『捨てて』と頼んだのは、僕。
「寮の子と喧嘩でもしたのかね?」
大人の声。壁に凭れて居たのは僕の講師。
身体を起こし、こちらにやってきた。
神出鬼没にもほどがある。僕は身体を横たえたまま、
「…オーギュスト」
彼はどうかしている。
時折こうして、勝手に僕の部屋に訪れ、ベッドにまで入ってくる。
講師は、僕のベッドに腰を掛ける。君の重みを受けて、僕の身体も少し沈む。
僕を見下ろして、髪を手で梳いた。
君の指が、僕の耳に触れる。すうっと撫でられた。
***
オーギュスト・ボージェ。神秘学の特別講師。
彼に初めて会ったのは、おそらく教室だろう。
第一回目の講義が終わった後、黒板を消す背中を眺めていた。
チョークの跡が綺麗になると、講師はこちらを向いた。
教室でただ一人残っていた僕を。
「どうしたのかね? 何か質問かな、サン・ジェルマン君」
「アンリ」
「そう呼んでも良いのかね?」
「此処ではファーストネームで呼び合う習慣だから」
「ほう、面白い習慣だね。では私もオーギュストと…いや、オーギュでも良いよ?」
「オーギュ…」
「よろしく、アンリ」
神秘学の講義は僕の知的好奇心を刺激するものだった。
サン・ジェルマンの邸の地下書庫で隠れて読んでいた学問。
暗い場所で埃を被っていた本。あの人に見付からないように読んでいた。
そんな僕を、誰もが気味悪がって、後ろ指を差していた。
あの人に取り上げられて、燃やされた本もあった。
伯爵が書いた本もあったのに。
かつてはタロットの話をするだけで煙たがられていた。
神秘学の講師は今までの大人達とは違った。
僕のタロットを見て、嬉しそうに言ったんだ。
「おや、良いものを持っているんだね?」と。
フランス語で記された大アルカナ22枚、小アルカナ56枚。
彼は、78枚全て言えるどころか、タロットに纏わる言い伝えまで話せた。
講義中にどんな意地悪な質問をしても、彼は適確な答えを返してくる。
彼の造詣が深いのは神秘学だけじゃない。
話せない言語はないように見えるし、地理や歴史に関しては見て来たように知っている。
今までの他の講師は、やろうと思えば打ち負かすことができたのに。
講義の後、二人になった時、講師は言った。
「とても良い質問だったよ、今日のは。私の回答では不十分ではなかったかい?」
そうは思えなかった。君はいつだって完璧で、僕では歯が立たないのに。
僕が質問した点について、文献を読んでみるかい、と尋ねられた。
初めて来た、君の研究室。
古い書物に囲まれた空間。神秘で満たされた聖域だった。
君の長い指は、本棚から一冊の本を引き抜く。
渡されて。読んだ本は必ず、僕の知的好奇心を満たすものだった。
返しに行くと、次も読んでみるかい、と。
研究室で君が淹れてくれる紅茶は美味しくて。
リーフの香りに包まれながら、錬金術について意見交換をしたり。
放課後、君と二人きりの個人授業は退屈しない時間だった。
今まで禁じられた学問が、僕の中に蓄積されていく。
この大人は、神秘学の知識を教えてくれる。
あの人が与えてくれなかったものを、この大人は僕に与えてくれる。
初めて唇を重ねたのは、多分、講義が終わった、第二化学室。
夕陽が教室の窓から差し込んでいた。
「オーギュ、何、してるの?」
「これはね、キスだよ。愛しい、と伝える手段のひとつだ」
「愛しい、って…何?」
「解らないかい?」
「愛されたことなんてないもの。解るわけないよ」
「解らないことは私が教えるよ。君が知りたいことなら、何でもね」
夕陽から夜に移ろう時刻だった。校舎内は静かで、廊下から足音はしなかった。
教室の時計が、夜へ時を進めている。
「教えて、欲しいかね?」
ずっと年上の男性。親子ほども離れている。
最初は講師と生徒というだけだったのに。
放課後の教室で。君の肩越しには夕刻の空。
美しい朱色が紫と溶け合っていた。
***
「誰と喧嘩したのか、当ててみようか?」
生徒のベッドに腰を掛けて、講師は今宵も丁寧な戯れを始める。
僕の耳たぶの柔らかさを精査するように。
弄ばれて、熱を、帯びてしまう。
「新入生の子。違うかね?」
「別に、喧嘩なんかしてない…ねえ」
「ん?」
講師は僕の首許に手を伸ばす。リボンタイがするりと抜けた。
「まだ、サロンにいっぱい居るんだけど? もし誰か来たら、どうするの?」
「生徒手帳には、講師は生徒を愛してはいけないとあったかな?」
ボタンが外れていく。遠くで騒いでいる寮生の声がする。
「そんなこと書いてある生徒手帳が何処にあるの」
講師は微笑んで身を屈める。一瞬、視線が絡む。
触れるだけの口付け。
その後で君は僕の瞳を確かめる。続けていいかと無言のうちに尋ねている。
思えば、初めて君と唇を重ねた時から、君は同じ方針だった。
一度キスをした後で僕にお伺いを立てる。
そこで僕が「嫌」と言えば終わるのに。僕は黙って目を合わせる。
君は穏やかな顔で、もう一度唇を重ねる。
二度、三度と触れて、ゆっくりと。
丁寧なのか、意地が悪いのか区別し難い。
どうして彼と、こんなことをしているんだろう。
彼にされるままでいる僕もどうかしている。
僕達は同じ性で、講師と生徒なのに。
この夜を境に、懐かしい夢を見ることになった。
夜の森で迷う夢。
それは夢というだけではない。
僕がまだサン・ジェルマン邸に居た頃、実際にあったことだ。
邸からそう遠くない森で、僕は迷子になった。当時の記憶はあまりない。
ただ、断片的に覚えているのは、夜の森と、
泣きじゃくりながらあの人を呼んでいる自分。
目を開けたら、僕は邸の自分のベッドに寝かされていた。
メイドが言うには、僕は突然居なくなって、一晩、帰ってこなかったらしい。
翌日、邸の前で倒れているのをメイドに発見された。
衣服はところどころ擦り切れていて、土や葉が付着していた。
うわ言で「夜の森に居た」「いろんなものが居て怖かった」などと呟いていたそうだ。
まるで何かに呪われたかのように高熱に侵され、何日か寝込んだ。
僕の世話をするメイド達から、無事の帰宅を喜ぶ言葉を幾つか浴びた。
その大半が立場上、演じられた『台詞』だと解った。
僕は当時から大人の心が読めたから。
やっとベッドから出られるようになって、僕は森にもう一度行こうか迷った。
森に居たいろんなものが何なのか知りたい、という気持ちがあった。
夜ではなく、昼間なら大丈夫かもしれない。
病み上がりの身体でベッドから起きる。
メイドの目を盗んで、邸から出た。
大きな扉を開けると雨が降っていた。
行くのを止めようかという考えが浮かんだが、傘を差して森へ向かった。
まだ午前中なのに、辺りは暗く、森へ続く道は薄気味悪かった。
森に足を踏み入れる前、足が動かなくなった。
理由が解らないが、近付いてはいけない、と頭の中で警笛が鳴っている。
その時、強い風が吹いて。思わず目を瞑る。
傘が煽られて、手を放してしまった。灰色の空に傘が舞い上がる。
横髪を手で押さえて、ゆっくりと目を開ける。
黒いものが、木々の間を横切った。
人間の動きではない。動物でもない。今、僕の目に映ったものは何だ。
傘を拾いに行く余裕などなかった。僕は走って、邸へ引き返した。
上等な靴に泥水が跳ねる。
雨でぬかる道に足を取られながら、必死で走った。
振り向いたら、何処かへ連れ去られそうな気がしていた。
やっと見えてきたサン・ジェルマン邸。
門を走り抜けて、扉を閉めた。
雨を全身に浴びて、服はびっしょりと濡れていた。
息は切れて、身体は汗ばんでいた。また熱が出てきたのかもしれない。
大理石の床に、髪から流れた雨粒が落ちる。
広い吹き抜けの玄関ホール。目の前には、二階へと続く大階段がある。
階段の上、其処へあの人が現れた。二階から僕を見下ろしている。
広い邸では、互いに居ても顔も見ないこともあった。
数日振りに見た父親。森で迷子になってからは初めて会った。
あの人の顔を見た時、僕はどんなにほっとしたか。
ただ、恐怖しか与えてくれない貴方を、森の中で何度呼んだことか。
そうして、数日振りに僕の顔を見たあの人は、言ったんだ。
「帰って来なければ、良かったのに」
冗談でも、からかうでもなく。
ただ、本当に、ぽつりと。
虚実めいた響きは、何処にもなかった。
それが、貴方の素直な感想だったんだろうと思う。
貴方を見上げたまま、動けなくなった僕に、
続いて投げかけられた言葉。
「無事に帰ってこれるとは、やはり悪魔だな」
遠くなる、貴方の足音。
耳の奥で鳴り止まない、貴方の言葉。
壊れた機械のように、何度も、何度も。
カエッテ コナケレバ
真っ暗な森。
自分の足音さえ、恐ろしくて。
おうちに帰りたくて。
泣きながら呼んだのに。
また貴方に、会えたのに。
どうして帰ってきてはいけないの? 僕の家は此処しかないのに。
森から帰ってこなければ、僕は死んでしまうかもしれないのに。
貴方にとって僕は、死んでもいい子供なの?
ああ、そうか。
なんだ、解った。そうなんだ。
本当は知っていたのに。
僕は信じたくなかっただけだ。
もし、森で小さな亡骸を見付けていたら、
貴方がどんな顔をするのも、僕には解っていたんだ。
だって、大人の心は、僕には読めるもの。
ヘンゼルとグレーテルだって理解していた。
親が子供のことをどう思っているのかを。
僕はただ、気付かない振りをしていただけだ。
だけど、もう、聞いてしまった。
貴方の口から。
カエッテ コナケレバ ヨカッタノニ
僕は、立っていられなくて。
足許から崩れるように、その場に倒れた。
また暫くベッドから出られなくなって。
メイドには「病み上がりで無理をされたからです」
と言われたが、違うだろう。
それからだ。
森で迷う夢を繰り返し見るようになったのは。
森という場所に拒否反応を示し、
さらに『ヘンゼルとグレーテル』が読めなくなった。
本棚に並ぶ背表紙。その題名を見るだけで怖かった。
森で子供が迷う話。
親に捨てられる子供の話。
童話に出てきた親のように。
僕の親も望んでいたんだ。
森の中から子供が帰ってこないことを。
絵本はメイドに捨ててくれるよう頼んだ。
訳を察したメイドは、僕の言うことを聞いてくれた。
僕の部屋から絵本がなくなっても。
夜の森は僕から付かず離れず。
忘れた頃、嘲笑うかのように、僕の夢に現れた。
夢の中、僕は、夜の森で彷徨っている。
決まって、僕の姿は幼い。
僕は歩き疲れた足でふらふら歩いている。
鬱蒼と生い茂る森。木は化け物のように見えて。
フクロウの鳴き声に耳を塞いで。
夜は寒くて、子供の細腕は震えてた。
お腹は空いて、元気なんてこれっぽっちも残ってなかった。
枝に引っ掛けた袖は擦り切れてしまった。
前も後ろも見えない、夜の森。
やがて、一歩も進めなくなって、膝を抱えて泣きじゃくる。
震える声で、呼んでいる。
助けに来ないと解っている、あの人のことを。
何度も呟いて、止まらない涙を自分の手で拭っている。
―― もう大丈夫だよ、アンリ ――
何処からか聞こえてくる声。
小さな僕の手が包まれる。
紳士の手。不思議なほど、安堵を感じる。
あの人ではないと直感的に解る。
懐かしい、あたたかさ。
昔会ったことでもあるのだろうか。
彼はどうして、僕の名前を知っているんだろう。
暗くて、紳士の顔が見えない。
―― おいで。おうちまで案内しよう ――
「おじさま…だあれ?」
紳士が微笑む気配。
夢はいつも其処でブラックアウトする。
見慣れた天井。
それを見て、夢だったのかと理解する。
僕は今、聖アルフォンソ学院に居るのだと。
今日もまた見てしまったんだ、森で迷う夢を。
何度も同じ夢を見ているのに解らない。
あの紳士は誰なんだろう? 僕が創り出した幻なのか。
それとも、僕が家に辿り着いたのは、本当に彼のおかげなのだろうか。
解らない。夢の内容も何処までが事実なのか解らない。
事実として覚えているのは、夜の森と、
泣きじゃくりながらあの人を呼んでいる、幼い僕。
夢を見た後はどうしても、あの人を思い出してしまうのが嫌だった。
脳では夢の残像が、耳の奥では台詞が勝手に再生される。
手の甲で額を覆う。しっとりと濡れていた。
「おや。起きたのかい? 早いね」
僕のベッドなのに隣から声がした。僕の講師。
開かれたワイシャツから、素肌が覗いている。
僕達は同じ毛布の中に居た。
まだあまり覚醒していない頭が、昨夜の記憶をおぼろげに思い出す。
そう言えば、昨夜は君が来ていたんだ。
夕食の後、サロンでお菓子の家を見せられて。
部屋に戻ったら君が居て。リボンタイを取られて――
夜、森で迷う夢を見た。
そして今、覚めたところだ。過去に囚われた時間から。
「おはよう、アンリ」
練れた大人の声。
夢を見た後に聞く声は、いつも以上に安心する。
君の声は聞いていると、何故かとても落ち着く。
講義で聞く声も。真夜中に囁かれる声も。
どうして、こんなに…
「アンリ? どうしたんだね?」
「…夢を、見ていた」
「怖い夢かい?」
「嫌いな夢」
「そうか」
ゆっくりと僕の髪を撫でる。
長い大人の指。僕が子供の頃の、あの人と同じくらいの年齢。
この大人に愛されることで、僕は何を補完しているのだろう。
「もう大丈夫だよ、アンリ。怖い夢から覚めたのだから」
夢で聞いたのと同じ台詞。
森で泣いている僕に、手を差し伸べてくれた人。
「もう大丈夫だよ、アンリ」と言ってくれた人。
彼はオーギュストなのだろうか。
紳士であるという類似点には合致するが。
思い出そうとすると、夢の記憶は霧のように薄れていく。
「オーギュ。少し可笑しなことを聞くけれど」
「なんだね?」
「君、僕の名前を呼んだ? 僕が眠っている時に」
「いいや」
「そう…」
部屋はまだ薄暗かった。
耳を澄ますと、微かにガラスを打つ音が聞こえた。
「雨、まだ止んでいないんだね」
「うん。夜中は一度止んでいたけれど。先程私が起きた時にはまた降っていた」
時計を見やると夜とも朝とも言えない時間帯だった。
光の差さないカーテンの向こうには、灰色の空と黒の森。
夢に現れる森も、必ず闇に包まれている。夜はまだ明けない。
けれど、こんな憂鬱な旋律を聞きながら、再び瞳を閉じる気にはなれなかった。
視界が暗黒に染まれば、また同じ夢を見るだろう。
耳の奥にあの台詞が甦る。
カエッテ コナケレバ
時計に向けられた視線にオーギュストが気付く。
僕の髪を撫でていた手が止まる。
「もう少し眠るかね?」
「ううん。ねえ、オーギュ…」
カエッテ コナケレバ ヨカッタノニ
この耳鳴りを止めて。
あの人を忘れさせて。
「キス、して」
オーギュストは少し驚いたようだった。
だけど、何も聞かずに、僕の頬に手を添えた。
君の甘い舌が欲しかったのに。薄い唇は僕の目許に触れた。
「何処に、してるの」
問うのと同時に、理由が解る。
静かな空間で、僕の声は僅かに震えていた。
添えられた手は離れ、反対の頬を拭う。君の手は濡れていた。
また零れた雫に、口付けが落とされた。
fin
PR