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■オーギュスト×アンリ
「教科書では42ページになるかな。今日から新しい章だね」
神秘学の講義が始まった。
受講生のアンリは万年筆を持ちながら、話し手を眺めている。
教壇に居るのはオーギュスト・ボージェ教授。神秘学の権威だ。
スーツとベストはダージリン色。
首許にはクロスタイ。中央のピンはグレイ。初めて見るものだ。
「第4章では呪術について勉強しよう。
『呪術』という言葉を聞いて、諸君は何を想像するだろう?」
チョークで『Magic』と綴る。
黒板の左端に立ち、生徒達に向き直った。
「魔女が大きな鍋にサソリやカエルを入れて掻き回す姿を思い出すかね?
魔法や呪い、宗教的儀式など、如何にもオカルティズムなイメージが強いかな」
アンリは自分の唇を万年筆で撫でていた。
頭の中では以前読んだことのある、黒ミサの方法や、魔法円などが展開していた。
特別講師は教壇から降りる。カタン、と靴が鳴る。
「だが、現代にも呪術は残っている。諸君のすぐ傍に潜んでいるよ」
話しながら、教室の窓際をゆっくり歩く。アンリは目で追うのを止めた。
彼の練れた声が教室の後方から聞こえてくる。
「言葉の定義としては、『何らかの目的を達する行為』だ。
場合によっては、超自然的な力を借りてね?
これから4回に渡って学んでいこう。 初回の今日は親しみ易い呪術から」
第二化学室に響くのは講師の声のみ。
彼が黙ると水を打ったように静まり返った。
「それは迷信やジンクスだ。世界的に有名なのは、
『13日の金曜日は縁起が悪い』かな。
科学的根拠はないが皆が信じていることも呪術の範疇なんだ。
不幸を避ける為、また、縁起を担ぐ為の行動だからね。
諸君には少々物足りない話だったかい?」
後ろから聞こえてくる声だけで、彼が微笑んだことが解った。
「けれども、国単位の人間を対象とした大規模な催眠術とも考えられないだろうか」
アンリの万年筆が頬に2、3度触れる。
オーギュストの声が前方に戻ってくる。
「『13日の金曜日は不幸である』という呪いに皆が掛かったままなんだ。
数百年の時を越え、科学が発達して尚、先人が残した言霊が現代人を束縛している。
これもまた神秘的で、恐ろしいことだと私などは思うのだがね」
窓側の中央で立ち止まった。彼の背景には空と雲。
午後の青は柔らかい。もうすぐ朱色が混ざるだろう。
「諸君の祖国では、どんな呪いが、人々の思考と行動を操っていたかな?」
アンリは、先月、商談で外出した際、ある人間に言われたことを思い出した。
不思議に思ったので後で調べてみようかと思ったまま、今まで忘れていた。
「何か思いついたかね? アンリ」
まるで心を読んだようなタイミングで名前を呼ばれた。
何故僕を当てるの、と視線で彼に問うと、穏やかな微笑を見せられた。
琥珀の瞳は少し不機嫌になる。
「祖国ではないけれど?」
「もちろん、構わないよ」
暑苦しい顔は記憶から除外し、台詞だけを再生する。
「イタリアに行った時、花の本数は必ず奇数だとか、
ベッドの上に帽子を置くなって言われたんだけど、これも迷信なの?」
「うん。イタリアでは、偶数の花は死者に手向けるものだからね」
講師はアンリが言った2つの迷信を、箇条書きで黒板にメモしつつ、
迷信の由来について解説した。
「ベッドの上に帽子、というのは、かつて、
カトリックの司祭が亡くなった患者へ祈りを捧げる時に、
帽子をベッドの上に置いていたから、という説があるね」
講師は他の生徒にも同じように尋ね、黒板に書き出していく。
同じようにノートに書き写す生徒も居たが、アンリは書かなかった。
黒板には世界の迷信が勢揃いした。
こうして並べてみると、どれも不幸を呼ぶというには根拠が薄弱なものばかりだ。
生徒が挙げた迷信の全てについて、講師は補足説明や由来解説をしていた。
次に、何故皆は信じ続けているのか、迷信の存在意義は何か、などの、
正答のない質問を生徒達に答えさせた。
名を呼ばれた生徒は全員、物静かながらも何かしらの意見を発表していた。
当てられて発言できない生徒は居なかった。
もしかしたら、講師が生徒ひとりひとりの僅かな仕草や表情を読み取って、
意見を持った生徒を的確に当てているのかもしれなかった。
講師は黒板いっぱいの迷信を眺めている。
「興味深い迷信が集まったね。紹介してくれた諸君、ありがとう。
世界各地、実に様々な迷信があるものだね。
これらも全て呪術なんだ。講義前よりは呪術を身近に感じてくれたかね?」
神秘学の教授は迷信を綴った板を上にスライドさせる。
「現代では他に心理的な呪術もある。例えば、偽薬効果」
下に降りたまっさらな板に『placebo』と綴る。
「その名の通り、偽物を薬だと信じ込ませることで目的を達することだ。
呪術者と信仰者の間に、ある程度の信頼関係があれば、
意外と上手くいくものだよ。やり方によっては、
人を元気をもたらし、また死に追いやることもできる」
講師は教壇から窓を眺める。
青と白だった四角は、朱に染ろうとしていた。
「時として、言葉は万能薬。また、毒薬にも為り得るからね」
淡い夕暮れ。
教室に夕陽が差し込む頃、この講義は終わる。
「次回の講義では、諸君の好きな呪術をひとつ選んで、皆に教えて貰えるかな?
黒魔術から現代の呪術と言えるものまで何でも構わないよ」
講義終了の鐘が鳴る。
時計を見ながら講義を進めているようには見えないのだが、
彼の講義は時間配分が悪くない。空の色で判断でもしているのだろうか。
「では今日はここまで。次回、楽しみにしているよ。
この頃、寒くなってきたから風邪など引かぬように」
生徒達が教室を出て行く。
アンリは使わなかった教科書を閉じて、ブックバンドを掛ける。
必要ないなら最初から今日は要らない、と言って欲しいものだ。
生徒の板書が終わったのを確認した後、彼はいつものように黒板を消し始めた。
アンリは今日の講義を思い返しながら講師の後ろ姿を見やる。
徐々に消えていくチョークの跡。
すっかり綺麗になるまでの十数秒。
今日はどうしようかと考えてしまう。
振り子時計の如く揺れるカフス。
教室からまた一人減っていく人影。
ダージリン色の背中。
君が振り向く前に、
席を立つか、立たないか。
いつも少し迷う。
fin
「教科書では42ページになるかな。今日から新しい章だね」
神秘学の講義が始まった。
受講生のアンリは万年筆を持ちながら、話し手を眺めている。
教壇に居るのはオーギュスト・ボージェ教授。神秘学の権威だ。
スーツとベストはダージリン色。
首許にはクロスタイ。中央のピンはグレイ。初めて見るものだ。
「第4章では呪術について勉強しよう。
『呪術』という言葉を聞いて、諸君は何を想像するだろう?」
チョークで『Magic』と綴る。
黒板の左端に立ち、生徒達に向き直った。
「魔女が大きな鍋にサソリやカエルを入れて掻き回す姿を思い出すかね?
魔法や呪い、宗教的儀式など、如何にもオカルティズムなイメージが強いかな」
アンリは自分の唇を万年筆で撫でていた。
頭の中では以前読んだことのある、黒ミサの方法や、魔法円などが展開していた。
特別講師は教壇から降りる。カタン、と靴が鳴る。
「だが、現代にも呪術は残っている。諸君のすぐ傍に潜んでいるよ」
話しながら、教室の窓際をゆっくり歩く。アンリは目で追うのを止めた。
彼の練れた声が教室の後方から聞こえてくる。
「言葉の定義としては、『何らかの目的を達する行為』だ。
場合によっては、超自然的な力を借りてね?
これから4回に渡って学んでいこう。 初回の今日は親しみ易い呪術から」
第二化学室に響くのは講師の声のみ。
彼が黙ると水を打ったように静まり返った。
「それは迷信やジンクスだ。世界的に有名なのは、
『13日の金曜日は縁起が悪い』かな。
科学的根拠はないが皆が信じていることも呪術の範疇なんだ。
不幸を避ける為、また、縁起を担ぐ為の行動だからね。
諸君には少々物足りない話だったかい?」
後ろから聞こえてくる声だけで、彼が微笑んだことが解った。
「けれども、国単位の人間を対象とした大規模な催眠術とも考えられないだろうか」
アンリの万年筆が頬に2、3度触れる。
オーギュストの声が前方に戻ってくる。
「『13日の金曜日は不幸である』という呪いに皆が掛かったままなんだ。
数百年の時を越え、科学が発達して尚、先人が残した言霊が現代人を束縛している。
これもまた神秘的で、恐ろしいことだと私などは思うのだがね」
窓側の中央で立ち止まった。彼の背景には空と雲。
午後の青は柔らかい。もうすぐ朱色が混ざるだろう。
「諸君の祖国では、どんな呪いが、人々の思考と行動を操っていたかな?」
アンリは、先月、商談で外出した際、ある人間に言われたことを思い出した。
不思議に思ったので後で調べてみようかと思ったまま、今まで忘れていた。
「何か思いついたかね? アンリ」
まるで心を読んだようなタイミングで名前を呼ばれた。
何故僕を当てるの、と視線で彼に問うと、穏やかな微笑を見せられた。
琥珀の瞳は少し不機嫌になる。
「祖国ではないけれど?」
「もちろん、構わないよ」
暑苦しい顔は記憶から除外し、台詞だけを再生する。
「イタリアに行った時、花の本数は必ず奇数だとか、
ベッドの上に帽子を置くなって言われたんだけど、これも迷信なの?」
「うん。イタリアでは、偶数の花は死者に手向けるものだからね」
講師はアンリが言った2つの迷信を、箇条書きで黒板にメモしつつ、
迷信の由来について解説した。
「ベッドの上に帽子、というのは、かつて、
カトリックの司祭が亡くなった患者へ祈りを捧げる時に、
帽子をベッドの上に置いていたから、という説があるね」
講師は他の生徒にも同じように尋ね、黒板に書き出していく。
同じようにノートに書き写す生徒も居たが、アンリは書かなかった。
黒板には世界の迷信が勢揃いした。
こうして並べてみると、どれも不幸を呼ぶというには根拠が薄弱なものばかりだ。
生徒が挙げた迷信の全てについて、講師は補足説明や由来解説をしていた。
次に、何故皆は信じ続けているのか、迷信の存在意義は何か、などの、
正答のない質問を生徒達に答えさせた。
名を呼ばれた生徒は全員、物静かながらも何かしらの意見を発表していた。
当てられて発言できない生徒は居なかった。
もしかしたら、講師が生徒ひとりひとりの僅かな仕草や表情を読み取って、
意見を持った生徒を的確に当てているのかもしれなかった。
講師は黒板いっぱいの迷信を眺めている。
「興味深い迷信が集まったね。紹介してくれた諸君、ありがとう。
世界各地、実に様々な迷信があるものだね。
これらも全て呪術なんだ。講義前よりは呪術を身近に感じてくれたかね?」
神秘学の教授は迷信を綴った板を上にスライドさせる。
「現代では他に心理的な呪術もある。例えば、偽薬効果」
下に降りたまっさらな板に『placebo』と綴る。
「その名の通り、偽物を薬だと信じ込ませることで目的を達することだ。
呪術者と信仰者の間に、ある程度の信頼関係があれば、
意外と上手くいくものだよ。やり方によっては、
人を元気をもたらし、また死に追いやることもできる」
講師は教壇から窓を眺める。
青と白だった四角は、朱に染ろうとしていた。
「時として、言葉は万能薬。また、毒薬にも為り得るからね」
淡い夕暮れ。
教室に夕陽が差し込む頃、この講義は終わる。
「次回の講義では、諸君の好きな呪術をひとつ選んで、皆に教えて貰えるかな?
黒魔術から現代の呪術と言えるものまで何でも構わないよ」
講義終了の鐘が鳴る。
時計を見ながら講義を進めているようには見えないのだが、
彼の講義は時間配分が悪くない。空の色で判断でもしているのだろうか。
「では今日はここまで。次回、楽しみにしているよ。
この頃、寒くなってきたから風邪など引かぬように」
生徒達が教室を出て行く。
アンリは使わなかった教科書を閉じて、ブックバンドを掛ける。
必要ないなら最初から今日は要らない、と言って欲しいものだ。
生徒の板書が終わったのを確認した後、彼はいつものように黒板を消し始めた。
アンリは今日の講義を思い返しながら講師の後ろ姿を見やる。
徐々に消えていくチョークの跡。
すっかり綺麗になるまでの十数秒。
今日はどうしようかと考えてしまう。
振り子時計の如く揺れるカフス。
教室からまた一人減っていく人影。
ダージリン色の背中。
君が振り向く前に、
席を立つか、立たないか。
いつも少し迷う。
fin
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