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■アンリ
ウーティス寮の一室。
この部屋は入学時の状態とは大分異なる。
落ち着いた色合いのインテリアが揃い、
現在の主の好みに合わせ、全面的に改装されていた。
隅には畳まれた譜面台とバイオリンケース。
机上には整然と書物が並ぶ。傍には写真立て。
本の影に隠すように置かれたそれには女性の姿。
手には桃色の花が一輪。彼女が此処に住む生徒の母だった。
母と子が一緒に映っている写真はない。
写真立ての傍にタロットカードが寄り添う。
講義終了の鐘が鳴った。
暫くして、部屋の主が戻って来た。
右手には教科書が数冊。ブックバンドにはウサギがぶら下がっている。
それを机に片付け、机にあった本を手に取る。
紫のハードカバー。表紙には綻びなどまるで無く、新刊らしい。
全9章で300ページほどだ。一読目は斜め読みし、ざっと読み終えている。
今は二読目だった。第7章に入った辺りで、執事が現れた。
「アンリ様、お茶をお持ちしました」
「Merci.テーブルに置いてくれる?」
先程廊下で擦れ違った時に「紅茶と何かお菓子」と頼んでおいたものだ。
ティーポットとカップには校章のナイチンゲール。
同じデザインの皿にはコーヒー色の細いロールケーキ。
執事はカップに一杯目を注ぐ。湯気と香りが立ち昇る。
「本日のリーフは、ディンブラのセイロンでございます」
胸に手を置いて一礼すると、部屋から下がった。
執事の姿が消えると、アンリはカップを手に取った。
『インド洋の真珠』と謳われるスリランカ。
緑に溢れ、国土は雫の形をしている。
世界最大の紅茶輸出量を誇る。旧国名セイロン。
高地のディンブラは、セイロン最古の紅茶産地のため、
『セイロン紅茶の女王』とも呼ばれる高級茶だ。
薔薇にも似た高貴な香り。
琥珀の水色を二口飲んでから、ケーキを引き寄せた。
島の伝統的なお菓子だ。
オレンジピールの甘味と酸味をふわっとしたスポンジケーキが包む。
コーヒー色に染まったそれは仄かな苦味を持つ。
これも悪くはないのだけれど、やはり『天使の顎』の方が好みだなと思う。
ケーキを食べ終えると、空になったカップに紅茶を注いだ。
セイロンは嫌いではないが、今の旬ではない。これは夏摘みのものだろう。
カップを持って机に戻る。紅茶を傍に置いて、読書を続けた。
琥珀の瞳は上から下へと動く。幾度も幾度も繰り返された。
時々、紅茶に手を伸ばしていたが、段々とその回数は減っていった。
髪に触ったりしながら、半分ほど読んだところだった。
ノックをしてから、執事が現れた。
「失礼致します。お電話です、アンリ様」
電話をしてくる人間は限られている。
十中八九、ビジネスに関する相手だろう。
実家、という選択肢は先ずないと言っていい。
あの人は自分に用などないからだ。生徒は席を立つ。
紅茶をもう一口飲み、部屋から出る。バトラーがドアを閉めた。
通信室から戻ったアンリは大層機嫌が悪かった。
耳に纏わり付くしゃがれ声。あの薄汚い笑い声は好きになれない。
マフィアと組んだのは失敗だっただろうか。
しかし、伯爵から信用を得ていた家の者だし、
何故か、どうしても彼等でなくてはならない、という勘が働いたのだ。
理屈ではない直感が正しい選択だったと後で解る。
そんな経験知がアンリには数えきれないほどあった。
誰かに耳打ちされるような感覚。
僕を導いてくれているのは、伯爵なのではないか。
科学的ではないけれど、そう考えるのが適切なように思えた。
『拠り所』としても許される人は、伯爵しか居なかった。
母は亡くなってしまったし、あの人は僕の命を狙ってる。
周囲の大人も子供も、気味悪がって、僕には寄り付かない。
幼い僕を守ってくれる人は誰も居なかった。
僕を傷付けない人、僕を裏切らない人は、伯爵だけだ。
貴方は何処かで、まだ息をしているのではないか。
貴方は何処かで、僕のことを見守ってくれているのではないか。
幼い僕は、そう考えることで自分を支えていた。
その幻想を今も少し引き摺っているのかもしれない。
机からは空だったケーキの皿が片付けられていた。
紫の本と共にベッドに移動して、読書を再開する。
部屋には音楽もかかっていない。
薄い紙が擦れる音。横髪を梳く音など、
ささやかな物音だけが繰り返されていた。
琥珀の瞳が瞬く。
数ページ引き返し、先程見た文面を辿る。
ベッドから降り、本棚へ向かう。
上から二番目の棚から分厚い本を引き抜く。
背表紙には『辞典』という単語が記されていた。
少しの間、立ち読みして棚に戻す。
再びベッドに戻り、次のページへと進んだ。
廊下から足音が近付いてきた。ドアの前で止まる。
「アンリー。ごはんの時間だよー」
本を閉じる。時計を見ると、もう食事の時間だった。
ドアを開ける。今年の新入生が居た。アンリは扉を閉めて、廊下に出る。
「わざわざ呼びに来なくてもいいのに」
「だってー。アンリ、来ないんだもん」
並ばれて、食堂へと向かう。
「あ、今日はフランス料理だって。良かったね。アンリ」
「別に何でも良いよ」
翌日。教室の窓は薄紅と紫を合わせたようだった。
秋が深まるにつれ、空の色が早く変わっていく。
「では続きは次回にしよう。ごきげんよう、諸君」
神秘学の講義終了後。生徒達は静かに退室して行く。
ボージェ教授は黒板消しを持った。
この日、アンリは講師が黒板を消し終わるまで待ってあげていた。
先端が優美にくるりと巻かれるS。
伯爵と同じクセ字が消えゆくのを眺めていた。
取るに足らない、ささやかな偶然。
そのクセを持つのが、神秘学の教授であることは、
悪くない組み合わせだと思えた。
綺麗になった黒板。チョークの粉が黒板消しに移された。
講師が教壇を降りる。目が合ったが、生徒は自分からは動かない。
相手が自分の傍まで来てから、本に手を伸ばす。
不格好なうさぎが付いたブックバンド。
数冊の中から紫の本を引き抜く。
無言で差し出されたそれを、講師は微笑んで、受け取った。
「お口に合ったかい、アンリ」
授業後の君は表情が柔らかく見える。一仕事終わったせいだろうか。
「合わないよ。好みじゃない」
「そうだろうと思った。高圧的な論調が気に食わなかったんだろう?」
口許に手をやり、優雅に微笑む。
その手には僅かに白い粉が付着している。
「解ってて読ませたの? 良い性格してるね」
「けれど、読み応えはあっただろう? 最新の研究成果がよくまとまっている」
「まあ、評価できるのは、そこだけだね」
「では口直しを選ぼうか、今度はアンリが好きそうな本をね」
講師が背中を見せる。アンリは彼の後には続かず、席も立たなかった。
近頃、こうして彼の部屋に付いていくことが多くなった。
特定の人間と親しくなるのは嫌だった。第一、彼は講師だ。
講義以外の場で君と言葉を交わすこと自体どうかしている。
「アンリ? 研究室まで寄ってくれるかい? お詫びに紅茶でも淹れるよ」
勝率の高い賭けを思い付いた。
僕が勝ったら行かない。君が勝ったら行ってあげる。
胸の内でそう決めて、講師を見上げた。
「秋摘みのダージリンなら、付き合ってあげても良いよ?」
北インドで一年の最後に摘まれる茶葉。
夏の日差しとモンスーンに恵まれた葉は重厚で味わい深い。
講師が振り向く。秋の夕暮れを思わせる、穏やかな微笑。
「あるよ、もちろん。ダージリンは今が旬だからね」
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ウーティス寮の一室。
この部屋は入学時の状態とは大分異なる。
落ち着いた色合いのインテリアが揃い、
現在の主の好みに合わせ、全面的に改装されていた。
隅には畳まれた譜面台とバイオリンケース。
机上には整然と書物が並ぶ。傍には写真立て。
本の影に隠すように置かれたそれには女性の姿。
手には桃色の花が一輪。彼女が此処に住む生徒の母だった。
母と子が一緒に映っている写真はない。
写真立ての傍にタロットカードが寄り添う。
講義終了の鐘が鳴った。
暫くして、部屋の主が戻って来た。
右手には教科書が数冊。ブックバンドにはウサギがぶら下がっている。
それを机に片付け、机にあった本を手に取る。
紫のハードカバー。表紙には綻びなどまるで無く、新刊らしい。
全9章で300ページほどだ。一読目は斜め読みし、ざっと読み終えている。
今は二読目だった。第7章に入った辺りで、執事が現れた。
「アンリ様、お茶をお持ちしました」
「Merci.テーブルに置いてくれる?」
先程廊下で擦れ違った時に「紅茶と何かお菓子」と頼んでおいたものだ。
ティーポットとカップには校章のナイチンゲール。
同じデザインの皿にはコーヒー色の細いロールケーキ。
執事はカップに一杯目を注ぐ。湯気と香りが立ち昇る。
「本日のリーフは、ディンブラのセイロンでございます」
胸に手を置いて一礼すると、部屋から下がった。
執事の姿が消えると、アンリはカップを手に取った。
『インド洋の真珠』と謳われるスリランカ。
緑に溢れ、国土は雫の形をしている。
世界最大の紅茶輸出量を誇る。旧国名セイロン。
高地のディンブラは、セイロン最古の紅茶産地のため、
『セイロン紅茶の女王』とも呼ばれる高級茶だ。
薔薇にも似た高貴な香り。
琥珀の水色を二口飲んでから、ケーキを引き寄せた。
島の伝統的なお菓子だ。
オレンジピールの甘味と酸味をふわっとしたスポンジケーキが包む。
コーヒー色に染まったそれは仄かな苦味を持つ。
これも悪くはないのだけれど、やはり『天使の顎』の方が好みだなと思う。
ケーキを食べ終えると、空になったカップに紅茶を注いだ。
セイロンは嫌いではないが、今の旬ではない。これは夏摘みのものだろう。
カップを持って机に戻る。紅茶を傍に置いて、読書を続けた。
琥珀の瞳は上から下へと動く。幾度も幾度も繰り返された。
時々、紅茶に手を伸ばしていたが、段々とその回数は減っていった。
髪に触ったりしながら、半分ほど読んだところだった。
ノックをしてから、執事が現れた。
「失礼致します。お電話です、アンリ様」
電話をしてくる人間は限られている。
十中八九、ビジネスに関する相手だろう。
実家、という選択肢は先ずないと言っていい。
あの人は自分に用などないからだ。生徒は席を立つ。
紅茶をもう一口飲み、部屋から出る。バトラーがドアを閉めた。
通信室から戻ったアンリは大層機嫌が悪かった。
耳に纏わり付くしゃがれ声。あの薄汚い笑い声は好きになれない。
マフィアと組んだのは失敗だっただろうか。
しかし、伯爵から信用を得ていた家の者だし、
何故か、どうしても彼等でなくてはならない、という勘が働いたのだ。
理屈ではない直感が正しい選択だったと後で解る。
そんな経験知がアンリには数えきれないほどあった。
誰かに耳打ちされるような感覚。
僕を導いてくれているのは、伯爵なのではないか。
科学的ではないけれど、そう考えるのが適切なように思えた。
『拠り所』としても許される人は、伯爵しか居なかった。
母は亡くなってしまったし、あの人は僕の命を狙ってる。
周囲の大人も子供も、気味悪がって、僕には寄り付かない。
幼い僕を守ってくれる人は誰も居なかった。
僕を傷付けない人、僕を裏切らない人は、伯爵だけだ。
貴方は何処かで、まだ息をしているのではないか。
貴方は何処かで、僕のことを見守ってくれているのではないか。
幼い僕は、そう考えることで自分を支えていた。
その幻想を今も少し引き摺っているのかもしれない。
机からは空だったケーキの皿が片付けられていた。
紫の本と共にベッドに移動して、読書を再開する。
部屋には音楽もかかっていない。
薄い紙が擦れる音。横髪を梳く音など、
ささやかな物音だけが繰り返されていた。
琥珀の瞳が瞬く。
数ページ引き返し、先程見た文面を辿る。
ベッドから降り、本棚へ向かう。
上から二番目の棚から分厚い本を引き抜く。
背表紙には『辞典』という単語が記されていた。
少しの間、立ち読みして棚に戻す。
再びベッドに戻り、次のページへと進んだ。
廊下から足音が近付いてきた。ドアの前で止まる。
「アンリー。ごはんの時間だよー」
本を閉じる。時計を見ると、もう食事の時間だった。
ドアを開ける。今年の新入生が居た。アンリは扉を閉めて、廊下に出る。
「わざわざ呼びに来なくてもいいのに」
「だってー。アンリ、来ないんだもん」
並ばれて、食堂へと向かう。
「あ、今日はフランス料理だって。良かったね。アンリ」
「別に何でも良いよ」
翌日。教室の窓は薄紅と紫を合わせたようだった。
秋が深まるにつれ、空の色が早く変わっていく。
「では続きは次回にしよう。ごきげんよう、諸君」
神秘学の講義終了後。生徒達は静かに退室して行く。
ボージェ教授は黒板消しを持った。
この日、アンリは講師が黒板を消し終わるまで待ってあげていた。
先端が優美にくるりと巻かれるS。
伯爵と同じクセ字が消えゆくのを眺めていた。
取るに足らない、ささやかな偶然。
そのクセを持つのが、神秘学の教授であることは、
悪くない組み合わせだと思えた。
綺麗になった黒板。チョークの粉が黒板消しに移された。
講師が教壇を降りる。目が合ったが、生徒は自分からは動かない。
相手が自分の傍まで来てから、本に手を伸ばす。
不格好なうさぎが付いたブックバンド。
数冊の中から紫の本を引き抜く。
無言で差し出されたそれを、講師は微笑んで、受け取った。
「お口に合ったかい、アンリ」
授業後の君は表情が柔らかく見える。一仕事終わったせいだろうか。
「合わないよ。好みじゃない」
「そうだろうと思った。高圧的な論調が気に食わなかったんだろう?」
口許に手をやり、優雅に微笑む。
その手には僅かに白い粉が付着している。
「解ってて読ませたの? 良い性格してるね」
「けれど、読み応えはあっただろう? 最新の研究成果がよくまとまっている」
「まあ、評価できるのは、そこだけだね」
「では口直しを選ぼうか、今度はアンリが好きそうな本をね」
講師が背中を見せる。アンリは彼の後には続かず、席も立たなかった。
近頃、こうして彼の部屋に付いていくことが多くなった。
特定の人間と親しくなるのは嫌だった。第一、彼は講師だ。
講義以外の場で君と言葉を交わすこと自体どうかしている。
「アンリ? 研究室まで寄ってくれるかい? お詫びに紅茶でも淹れるよ」
勝率の高い賭けを思い付いた。
僕が勝ったら行かない。君が勝ったら行ってあげる。
胸の内でそう決めて、講師を見上げた。
「秋摘みのダージリンなら、付き合ってあげても良いよ?」
北インドで一年の最後に摘まれる茶葉。
夏の日差しとモンスーンに恵まれた葉は重厚で味わい深い。
講師が振り向く。秋の夕暮れを思わせる、穏やかな微笑。
「あるよ、もちろん。ダージリンは今が旬だからね」
fin
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