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■切ないアンリ(シハル姉さんのリクエスト)
ある初夏の日。
午前の講義が終わり、アンリは部屋に戻ってきた。
教科書を机に置いた時、ノックの音がした。
「アンリ様にお荷物でございます」
バトラーが抱えていたのは細長い箱。
その形状で何が入っているのか知れた。
自分の名を伏せ、一般の消費者として手に入れた物だった。
伝票を見るとやはりアンリが自ら取り寄せた品。
銘柄として刻まれているのは、女性の名前だった。
「悪いけれど、箱を開けて、中の物を冷やしておいて。後で飲むから」
優秀な執事は感情を表に出さず、主人の命に従う。
「畏まりました。いつお持ちしますか?」
「夕食の後、僕の部屋に。グラスはひとつで良い」
その夜は、あまり食が進まなかった。食事中、いつも騒がしい人達から、
「サロンでカードゲームをしよう」と言われたが「もう眠るから」と辞退した。
今夜、彼等の相手をする気にはなれなかったし、部屋にも来て欲しくなかった。
部屋に戻り、執事から青いボトルとワイングラスを受け取った。
「お注ぎ致しましょうか」という申し出は断り、自分で栓を開け、グラスに注いだ。
机の上に、ひとつだけのワイングラス。
水色は淡い淡い琥珀。瑞々しい果実の芳香。
毎年この時期、初夏に売り出される。
名産である赤い果実で作ったスパークリングワイン。
「おや。リンゴの香りだね。シードルかい?」
振り向くと、神秘学の講師の姿があった。
神出鬼没にも程がある。気配すらしなかったのに。
「…オーギュスト、いつから居たの」
「君達の夕食中にね」壁から背を起こして、こちらへ近付く。
「ところでアンリ、それはお酒じゃないのかね?」
生徒は俯いたが、口では冷静な反論を返した。
「叱られる覚えは無いよ。フランスでは16歳から飲酒可能だ」
「うん。知っているよ。ただ…ちょっと見てもいいかね?」
「オーギュ」
教え子の制止を逃れ、講師はボトルを手に取った。
琥珀の瞳が後ろ暗く滲む。その様子で予想が確信に変わる。
ボトルに刻まれた名を、講師は見つめてしまった。
そして、ボトルをくるりと回し、裏のラベルを確かめる。
原産地は大西洋に面するフランス北西部。
「サン・ジェルマンのご当主は、
ワイナリーをお持ちだったね、ブルターニュに」
アンリの曾祖父の代から、サン・ジェルマン家は、
ワイン醸造所やホテル経営など堅実な事業を起こしている。
ボトルラベルにはリング状のブランドマーク。
ウロボロス、永劫回帰の蛇をモチーフにしたらしい。
当主の子息が顔を上げる。言葉は強気で、冷たかった。
「だから何だというの。言いたいことがあるなら言えば?」
「大いにあるね」
「では早く言って」
教え子に睨まれた講師は、テーブルにボトルを静かに置く。
コトンと重い瓶が音を立てた。
講師は小首を傾げる。優しい声だった。
「1人でボトル1本は、多いんじゃないのかね?」
琥珀の瞳が瞬く。講師は穏やかに続ける。
「それにカマンベールも無しとは頂けないな。少し待っていなさい。
ルブラン・シェフに頼んでくるよ。あと、グラスを2つね」
「どうして、2つなの?」
「3人で乾杯するからだよ」
教え子の頭をポンポンと撫でる。
講師の背はドアの向こうに消えて行った。
机上のグラスからは、フルーティーな香り。
グラス越しに佇む写真立て。
淡い琥珀の中には泡沫と母の微笑が浮かんでいた。
fin
ある初夏の日。
午前の講義が終わり、アンリは部屋に戻ってきた。
教科書を机に置いた時、ノックの音がした。
「アンリ様にお荷物でございます」
バトラーが抱えていたのは細長い箱。
その形状で何が入っているのか知れた。
自分の名を伏せ、一般の消費者として手に入れた物だった。
伝票を見るとやはりアンリが自ら取り寄せた品。
銘柄として刻まれているのは、女性の名前だった。
「悪いけれど、箱を開けて、中の物を冷やしておいて。後で飲むから」
優秀な執事は感情を表に出さず、主人の命に従う。
「畏まりました。いつお持ちしますか?」
「夕食の後、僕の部屋に。グラスはひとつで良い」
その夜は、あまり食が進まなかった。食事中、いつも騒がしい人達から、
「サロンでカードゲームをしよう」と言われたが「もう眠るから」と辞退した。
今夜、彼等の相手をする気にはなれなかったし、部屋にも来て欲しくなかった。
部屋に戻り、執事から青いボトルとワイングラスを受け取った。
「お注ぎ致しましょうか」という申し出は断り、自分で栓を開け、グラスに注いだ。
机の上に、ひとつだけのワイングラス。
水色は淡い淡い琥珀。瑞々しい果実の芳香。
毎年この時期、初夏に売り出される。
名産である赤い果実で作ったスパークリングワイン。
「おや。リンゴの香りだね。シードルかい?」
振り向くと、神秘学の講師の姿があった。
神出鬼没にも程がある。気配すらしなかったのに。
「…オーギュスト、いつから居たの」
「君達の夕食中にね」壁から背を起こして、こちらへ近付く。
「ところでアンリ、それはお酒じゃないのかね?」
生徒は俯いたが、口では冷静な反論を返した。
「叱られる覚えは無いよ。フランスでは16歳から飲酒可能だ」
「うん。知っているよ。ただ…ちょっと見てもいいかね?」
「オーギュ」
教え子の制止を逃れ、講師はボトルを手に取った。
琥珀の瞳が後ろ暗く滲む。その様子で予想が確信に変わる。
ボトルに刻まれた名を、講師は見つめてしまった。
そして、ボトルをくるりと回し、裏のラベルを確かめる。
原産地は大西洋に面するフランス北西部。
「サン・ジェルマンのご当主は、
ワイナリーをお持ちだったね、ブルターニュに」
アンリの曾祖父の代から、サン・ジェルマン家は、
ワイン醸造所やホテル経営など堅実な事業を起こしている。
ボトルラベルにはリング状のブランドマーク。
ウロボロス、永劫回帰の蛇をモチーフにしたらしい。
当主の子息が顔を上げる。言葉は強気で、冷たかった。
「だから何だというの。言いたいことがあるなら言えば?」
「大いにあるね」
「では早く言って」
教え子に睨まれた講師は、テーブルにボトルを静かに置く。
コトンと重い瓶が音を立てた。
講師は小首を傾げる。優しい声だった。
「1人でボトル1本は、多いんじゃないのかね?」
琥珀の瞳が瞬く。講師は穏やかに続ける。
「それにカマンベールも無しとは頂けないな。少し待っていなさい。
ルブラン・シェフに頼んでくるよ。あと、グラスを2つね」
「どうして、2つなの?」
「3人で乾杯するからだよ」
教え子の頭をポンポンと撫でる。
講師の背はドアの向こうに消えて行った。
机上のグラスからは、フルーティーな香り。
グラス越しに佇む写真立て。
淡い琥珀の中には泡沫と母の微笑が浮かんでいた。
fin
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