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■テオ×クラウス
「クラウスー、お邪魔するよ。今度の休日なのだけど、ね…」
跳ねる声を出迎えたのは真っ暗な部屋だった。
期待していた「ノックくらいしろと言った筈だが?」
という声どころか、何の音もしなかった。
このシュヌーシア寮の一室に自分の声だけが、ぽつりと響く。
「おや、居ないようだねえ」
ドアを閉めて、部屋の明かりを付けた。やはり誰も居ない。
広く綺麗な部屋が、がらんとして寂しく見えた。
此処に住んでいるのはクラウス・フォン・モール。軍人の家系出身。
今年度の生徒代表だ。その部屋にノックもなく訪れたのは、
同じ寮に住むテオ・メネシス。高等部第二学年。
実家はギリシアにあり、海運王と呼ばれる資産家の子息。
『人生は年中無休』なクラウスと『人生は年中休暇』なテオだが、
何故か仲が良い、というよりテオが一方的に親睦を深めようとしていた。
今日は、次の休日のお誘いにやってきた。『自主活動』の名の下に、
無人島へスキューバダイビングに行こう、という話を持ち掛けに。
海に関する資格は実用と趣味を兼ねてほぼ取得済みのテオは、
スキューバのインストラクター資格も持っているので、
シュヌーシア寮の皆を連れて、深海鑑賞会をしようと考えた。
もちろん安全を期してプロの指導者も呼んでいるし、警備組織にも連絡済みだ。
そんな、ささやかな午後を共に過ごさないか、
とクラウスを誘いに来たのだが部屋には居ないようだ。
大きくシンプルな掛け時計は現在23時だと告げていた。
この時間、生徒達は大抵サロンや各自の部屋に居る筈。
クラウスは夜遊びに行くような人間ではないので、何処に居るのかは予想が付いた。
机上には教科書とノートが置いたままになっている。
つい先程まで此処で勉強していた。
「今宵も生徒代表室に行ってしまったのかなあ」
テオには生徒代表が具体的に何をやっているのかよく解らなかったが、
どうやら最近は、外部との交渉のような仕事に追われているようだった。
「まあ、そのうち来るね。クラウスのベッドは此処にあるのだもの」
誰かを待つ時間は苦ではなかった。
いつ来るかと心待ちにするのも楽しいというものだ。
それも確実に此処に戻ってくると解っているのだから。
テオは本棚の上から話し相手を手に取る。
娯楽要素のない部屋で唯一、異色を放つ白と黒の物体。
シャチのぬいぐるみだ。それほど大きくはなく、手頃なサイズ。
以前、テオプレゼンツ小旅行にクラウスが仕事で行けなかった時に、
テオがお土産としてプレゼントしたものだ。
クラウスにぬいぐるみを集めるような趣味がないのは、
テオも承知していたが、ついこれを選んでしまった。
お店でこのシャチと目が合った時、その見目が醸し出す利発さと、
シャープなボディーライン、白か黒というはっきりした色合いに、
真っ直ぐな眼差しがクラウスにそっくりだと思ったからだ。
渡した時、かなり憮然とはしていたが「これは要らない」とは言われなかった。
実はテオも同じ物を所有しているのだが、クラウスには秘密にしていた。
テオが恥ずかしいからではなく、クラウスが恥ずかしがるといけないからだ。
お揃いだと言ったら、きっとこんな風に部屋には飾ってくれないだろう。
シャチには『エオル』と名が付いている。名付けたのはテオで、
クラウスClausとテオTheoの名前からアルファベッドを取って混ぜた。
エオルは専らクラウス不在時のテオの話し相手として使われている。
クラウスがどのようにエオルと接しているのかテオは知らなかった。
「久しいね、エオル。クラウスに仲良くして貰っていたかい?」
テオはベッドに腰掛け、ぬいぐるみを膝に乗せた。
「最近、クラウスは、ちゃんと睡眠を取っていたのかな?」
丸い黒目は真っ直ぐテオを見上げている。
そのきりりとした眼差しは、この子の主人を彷彿とさせる。
「エオルは良いねえ」
シャチを持ったまま、ベッドに背を預ける。
テオのベッドと比べると、クラウスのは少し固い。
高い高いをするようにシャチを天井に向けて飛ばす。
手を離した位置から少し上がってすぐに戻ってくる。
「私も君くらいに可愛い大きさだったら良かったな」
テオは無意味にその動作を繰り返していた。
シャチは天井とテオの間をスローペースで行ったり来たりする。
「クラウスが卒業しても、ずっと傍に置いて貰えるのだもの」
ぽーん、ぽーん、と軽いシャチは宙を舞っていた。
学生課棟の最奥にある生徒代表室。
クラウスは、警備責任者とのネットミーティング中だった。
定例ではなく理事会からの緊急招集だ。
本日深夜、島への侵入者が上陸するという情報が入った。
信頼性は不確定なのだが、今夜は警備組織が一斉配備される。
モニタ越しの警備責任者は、追憶の塔から通信していた。
クラウスより一回り年上の男。
最高責任者というには若い風貌。長過ぎる髪も緩過ぎるネクタイも、
厳格な人間の下で育ったクラウスにとっては、あまり感心できないことだった。
この男の口調は、警備のトップというには軽過ぎる。
「ん。じゃ今日のミーティングはおしまいってことで」
「そうだな。遅くにすまなかった」
「また俺の声が聞きたくなった時はいつでもどうぞ?」
「誰が。今日は理事会の要請があっただけだ」
重い話をする時も、アイヴィーの口調は軽い。
何かと重く真剣に受け止めるクラウスとは真逆だ。
そのくせ仕事の要領は極めて良く、組んで仕事をするには申し分ない。
生徒達はアイヴィーのことをタクシードライバーだとしか思っていないだろうが。
「クラウスー。どしたの?」
「いや、お前は呑気だなと思ってな。緊急招集だと言うのに」
アイヴィーもこの会議終了後、警備に回る。
「心配すんなって。夜のお散歩してくるだけだよ。後はこっちに任せな?」
「ああ。頼む」
「夜遅いから勉強ばっかしてないで早く寝ろよ?」
「アイヴィー」
「んー?」
生徒代表はモニタを正面から捉える。
「次回のミーティングは、来週月曜20時開始だ。
遅刻せずに必ず来いよ。以上だ」
ブチと切られた通信。
歴代の生徒代表の中で最もガミガミ煩い男は神経質で心配性だ。
アイヴィーは、ひひと笑う。黒い画面にそっと誓った。
「りょーかい」
「君の主人はなかなか帰ってこないねえ、エオル」
クラウスの部屋。テオはベッドに寝そべり、シャチの黒い背を撫でていた。
本物の背は滑らかだが、この子はふさふさと毛並みが良い。
時刻は23時半。時計を眺めた時、シャチが置かれていた本棚が目に入った。
「そうだ。本でも読んでいようかな」
シャチのぬいぐるみをベッドに置いて、本棚へと向かう。
生真面目な男は高い身体能力に加え、努力家で成績も優秀だ。
持っている本の量も半端ではない。棚は隙間無く埋まっている。
「彼はこれを全部読んだのかな」
歴史学に関するものが多い。戦国史の特別講義を受講している。
テオはそれまで戦国史にそれほど興味を持っていなかったので、
何故、その講義を受けようと思ったのか、彼に聞いてみたことがある。
軍人の家柄だからそういうものに心惹かれるものなのかな、
というテオの予想は外れる。クラウスは、少し黙った後、答えてくれた。
彼曰く「紛争の最中に置かれた人間が、何故剣を取ったのか知りたい」と。
後に軍の上層部に就くであろう彼が、真面目な顔をしてそう言ったのだ。
人と人が争うこと、それ自体に疑問を感じているようだった。
彼の家では、こんな疑問を口に出すことがタブーだったことだろう。
「これにしようかな」
厚みのある本を取り出す。手にどさっと重さが乗っかった。
両手で持って部屋を見渡しながら、何処で読もうかと思う。
塵のひとつも落ちていないような部屋なので、何処へ腰を下ろしても平気なのだが。
こちらを真っ直ぐに見詰めているシャチのぬいぐるみと目が合う。
「ベッドで読むことにしようか」
最初のうちは、ちゃんと読んでいたものの、だんだん斜め読みになり、
文字を目で追うのも億劫になってきた。文字がただの記号に見えてくる。
「早く帰って来てくれないと睡魔の誘惑に負けてしまうな…」
ベッドの中で本を読んでいたのと、本の内容が非常に難しかったので、
瞼が重くなってきた。クラウスが興味あるものはテオも知りたいとは思うのだが、
余りにも専門的で、かつ、テオの興味範囲と違い過ぎる。
唯一読めたのは船を使った戦術の部分だけだ。
ぱたん、と本を閉じる。暗くなる視界。意識がだんだん沈んでいく。
毛布を引き寄せると良い匂いがした。花やお菓子などの甘い香りとは違う。
とても心が落ち着く匂いに包まれて、テオは夢の中へ沈んでいった。
仕事を終えたクラウスはシュヌーシア寮に戻って来た。
部屋に戻る前にサロンに顔を出して、まだ騒いでいる生徒に小言を言う。
それは日課に近かった。普段、生徒達の中心に居る奴が今日は居なかった。
自室の前まで来て、眉間に皺が寄る。
ドアの下から光が漏れている。部屋を出た時は、電気を消した筈だ。
扉を開ける。電気が付いた部屋。
誰の姿も見えないが、人の気配はする。
奥へ進むと、ベッドが何故か膨らんでいた。
黄金の髪に小麦の肌。
どうやら、俺のベッドに不法侵入しているのは、テオ・メネシスらしい。
瞳は閉じられていた。穏やかな寝息も聞こえる。熟睡しているようだ。
傍らには分厚い本。読みながら眠ったようだが。
こいつは一体何の用で俺の部屋へ来たのだろう。
ただ遊びに来ただけということも大いに在り得るが。
来るまでならまだ解るが、何故俺のベッドで眠っているんだか。
しかも、ベッドの中央を陣取っている。俺は何処で寝れば良い。
嫌がらせか? そんなことをする奴ではない筈だが。
シャチのぬいぐるみが頬の下で潰されている。
なんとなく苦しそうな目が真っ直ぐクラウスに向けられている。
シャチの名に自分の名前が含まれているせいか、居た堪れない気になる。
テオは起きる気配は一向にない。良い夢でも見ているのか。
毛布を抱き締め、気持ち良さそうな寝顔を晒している。
先程まで張り詰めていた糸が弛緩する。
「ったく、こいつは何なんだ…」
ベッドの前で胡坐を掻いた。
暫くの間、クラウスは半ば呆れつつ、友人の寝顔を眺めていた。
今、この瞬間を含めて、こいつの言動は意味が解らない。
俺のテリトリーに不法侵入し、勝手に居座る。
そして奇天烈なこと言い出すのだ。
気が付けば傍に居て、振り回されている。
今日も何か突拍子もないことを言いに来たのかもしれない。
またろくでもないこと、いや、本人曰く『楽しいこと』を思い付いたのだろう。
こいつは、太陽のように輝くのは髪だけではない。
存在そのものがこの寮を、学院を、明るく照らしているかのようだ。
俺のように融通が利かず、堅苦しい人間より、
テオの方が生徒代表に相応しいのではないかと何度思ったことか。
もし、本当にそれが実現したのなら、今以上に奔放に動くだろう。
時計を見ると、そろそろ眠らなくてはならない時刻だった。
こいつをどうしようか迷う。叩き起こして部屋に戻すべきか。
しかし、今夜はこのまま傍に置いた方が良いかもしれない。
遭ってはならないことだが、もし、侵入者が警備の網を免れ、此処まで辿り着いたら。
アイヴィーには敵わないが自分だって軍人の訓練は積んでいる。
俺にもテオ一人くらいなら守れるだろう。
学院全体が守れなくとも、せめて、こいつだけは――
はたと気付く。俺は今、何を考えていたのだろう。
生徒代表は全生徒が守るべき対象なのに。
誰を措いても、こいつを守りたいと、俺が思ったというのか。
クラウスは音も無くすっと腰を上げる。
ベッドが取られている以上、他の場所で眠らなくてはならない。
今夜は床の上で寝ることにしようと決める。
その時、クラウスの足に何かがぶつかった。
シャチのぬいぐるみ。
先程まで頬の下で窮屈にしていた筈だが、テオの拘束から抜け出したか。
テオはこちらに背を向けていた。単に身動ぎして、頬の下から外れただけだ。
何処かの土産でテオから貰ったものだ。なぜ、シャチなのか。
これを貰った時の声が、すぐさま耳に甦る。
――ほら、見てご覧。クラウスにそっくりだろう?――
時として人はどうでもいいことを憶えているものだ。
クラウスは腕を伸ばし、足にぶつかっているシャチを手に取る。
今、手の中にある、白と黒。テオと自分の名を持つぬいぐるみ。
静かにテオの傍へ戻した。
fin
「クラウスー、お邪魔するよ。今度の休日なのだけど、ね…」
跳ねる声を出迎えたのは真っ暗な部屋だった。
期待していた「ノックくらいしろと言った筈だが?」
という声どころか、何の音もしなかった。
このシュヌーシア寮の一室に自分の声だけが、ぽつりと響く。
「おや、居ないようだねえ」
ドアを閉めて、部屋の明かりを付けた。やはり誰も居ない。
広く綺麗な部屋が、がらんとして寂しく見えた。
此処に住んでいるのはクラウス・フォン・モール。軍人の家系出身。
今年度の生徒代表だ。その部屋にノックもなく訪れたのは、
同じ寮に住むテオ・メネシス。高等部第二学年。
実家はギリシアにあり、海運王と呼ばれる資産家の子息。
『人生は年中無休』なクラウスと『人生は年中休暇』なテオだが、
何故か仲が良い、というよりテオが一方的に親睦を深めようとしていた。
今日は、次の休日のお誘いにやってきた。『自主活動』の名の下に、
無人島へスキューバダイビングに行こう、という話を持ち掛けに。
海に関する資格は実用と趣味を兼ねてほぼ取得済みのテオは、
スキューバのインストラクター資格も持っているので、
シュヌーシア寮の皆を連れて、深海鑑賞会をしようと考えた。
もちろん安全を期してプロの指導者も呼んでいるし、警備組織にも連絡済みだ。
そんな、ささやかな午後を共に過ごさないか、
とクラウスを誘いに来たのだが部屋には居ないようだ。
大きくシンプルな掛け時計は現在23時だと告げていた。
この時間、生徒達は大抵サロンや各自の部屋に居る筈。
クラウスは夜遊びに行くような人間ではないので、何処に居るのかは予想が付いた。
机上には教科書とノートが置いたままになっている。
つい先程まで此処で勉強していた。
「今宵も生徒代表室に行ってしまったのかなあ」
テオには生徒代表が具体的に何をやっているのかよく解らなかったが、
どうやら最近は、外部との交渉のような仕事に追われているようだった。
「まあ、そのうち来るね。クラウスのベッドは此処にあるのだもの」
誰かを待つ時間は苦ではなかった。
いつ来るかと心待ちにするのも楽しいというものだ。
それも確実に此処に戻ってくると解っているのだから。
テオは本棚の上から話し相手を手に取る。
娯楽要素のない部屋で唯一、異色を放つ白と黒の物体。
シャチのぬいぐるみだ。それほど大きくはなく、手頃なサイズ。
以前、テオプレゼンツ小旅行にクラウスが仕事で行けなかった時に、
テオがお土産としてプレゼントしたものだ。
クラウスにぬいぐるみを集めるような趣味がないのは、
テオも承知していたが、ついこれを選んでしまった。
お店でこのシャチと目が合った時、その見目が醸し出す利発さと、
シャープなボディーライン、白か黒というはっきりした色合いに、
真っ直ぐな眼差しがクラウスにそっくりだと思ったからだ。
渡した時、かなり憮然とはしていたが「これは要らない」とは言われなかった。
実はテオも同じ物を所有しているのだが、クラウスには秘密にしていた。
テオが恥ずかしいからではなく、クラウスが恥ずかしがるといけないからだ。
お揃いだと言ったら、きっとこんな風に部屋には飾ってくれないだろう。
シャチには『エオル』と名が付いている。名付けたのはテオで、
クラウスClausとテオTheoの名前からアルファベッドを取って混ぜた。
エオルは専らクラウス不在時のテオの話し相手として使われている。
クラウスがどのようにエオルと接しているのかテオは知らなかった。
「久しいね、エオル。クラウスに仲良くして貰っていたかい?」
テオはベッドに腰掛け、ぬいぐるみを膝に乗せた。
「最近、クラウスは、ちゃんと睡眠を取っていたのかな?」
丸い黒目は真っ直ぐテオを見上げている。
そのきりりとした眼差しは、この子の主人を彷彿とさせる。
「エオルは良いねえ」
シャチを持ったまま、ベッドに背を預ける。
テオのベッドと比べると、クラウスのは少し固い。
高い高いをするようにシャチを天井に向けて飛ばす。
手を離した位置から少し上がってすぐに戻ってくる。
「私も君くらいに可愛い大きさだったら良かったな」
テオは無意味にその動作を繰り返していた。
シャチは天井とテオの間をスローペースで行ったり来たりする。
「クラウスが卒業しても、ずっと傍に置いて貰えるのだもの」
ぽーん、ぽーん、と軽いシャチは宙を舞っていた。
学生課棟の最奥にある生徒代表室。
クラウスは、警備責任者とのネットミーティング中だった。
定例ではなく理事会からの緊急招集だ。
本日深夜、島への侵入者が上陸するという情報が入った。
信頼性は不確定なのだが、今夜は警備組織が一斉配備される。
モニタ越しの警備責任者は、追憶の塔から通信していた。
クラウスより一回り年上の男。
最高責任者というには若い風貌。長過ぎる髪も緩過ぎるネクタイも、
厳格な人間の下で育ったクラウスにとっては、あまり感心できないことだった。
この男の口調は、警備のトップというには軽過ぎる。
「ん。じゃ今日のミーティングはおしまいってことで」
「そうだな。遅くにすまなかった」
「また俺の声が聞きたくなった時はいつでもどうぞ?」
「誰が。今日は理事会の要請があっただけだ」
重い話をする時も、アイヴィーの口調は軽い。
何かと重く真剣に受け止めるクラウスとは真逆だ。
そのくせ仕事の要領は極めて良く、組んで仕事をするには申し分ない。
生徒達はアイヴィーのことをタクシードライバーだとしか思っていないだろうが。
「クラウスー。どしたの?」
「いや、お前は呑気だなと思ってな。緊急招集だと言うのに」
アイヴィーもこの会議終了後、警備に回る。
「心配すんなって。夜のお散歩してくるだけだよ。後はこっちに任せな?」
「ああ。頼む」
「夜遅いから勉強ばっかしてないで早く寝ろよ?」
「アイヴィー」
「んー?」
生徒代表はモニタを正面から捉える。
「次回のミーティングは、来週月曜20時開始だ。
遅刻せずに必ず来いよ。以上だ」
ブチと切られた通信。
歴代の生徒代表の中で最もガミガミ煩い男は神経質で心配性だ。
アイヴィーは、ひひと笑う。黒い画面にそっと誓った。
「りょーかい」
「君の主人はなかなか帰ってこないねえ、エオル」
クラウスの部屋。テオはベッドに寝そべり、シャチの黒い背を撫でていた。
本物の背は滑らかだが、この子はふさふさと毛並みが良い。
時刻は23時半。時計を眺めた時、シャチが置かれていた本棚が目に入った。
「そうだ。本でも読んでいようかな」
シャチのぬいぐるみをベッドに置いて、本棚へと向かう。
生真面目な男は高い身体能力に加え、努力家で成績も優秀だ。
持っている本の量も半端ではない。棚は隙間無く埋まっている。
「彼はこれを全部読んだのかな」
歴史学に関するものが多い。戦国史の特別講義を受講している。
テオはそれまで戦国史にそれほど興味を持っていなかったので、
何故、その講義を受けようと思ったのか、彼に聞いてみたことがある。
軍人の家柄だからそういうものに心惹かれるものなのかな、
というテオの予想は外れる。クラウスは、少し黙った後、答えてくれた。
彼曰く「紛争の最中に置かれた人間が、何故剣を取ったのか知りたい」と。
後に軍の上層部に就くであろう彼が、真面目な顔をしてそう言ったのだ。
人と人が争うこと、それ自体に疑問を感じているようだった。
彼の家では、こんな疑問を口に出すことがタブーだったことだろう。
「これにしようかな」
厚みのある本を取り出す。手にどさっと重さが乗っかった。
両手で持って部屋を見渡しながら、何処で読もうかと思う。
塵のひとつも落ちていないような部屋なので、何処へ腰を下ろしても平気なのだが。
こちらを真っ直ぐに見詰めているシャチのぬいぐるみと目が合う。
「ベッドで読むことにしようか」
最初のうちは、ちゃんと読んでいたものの、だんだん斜め読みになり、
文字を目で追うのも億劫になってきた。文字がただの記号に見えてくる。
「早く帰って来てくれないと睡魔の誘惑に負けてしまうな…」
ベッドの中で本を読んでいたのと、本の内容が非常に難しかったので、
瞼が重くなってきた。クラウスが興味あるものはテオも知りたいとは思うのだが、
余りにも専門的で、かつ、テオの興味範囲と違い過ぎる。
唯一読めたのは船を使った戦術の部分だけだ。
ぱたん、と本を閉じる。暗くなる視界。意識がだんだん沈んでいく。
毛布を引き寄せると良い匂いがした。花やお菓子などの甘い香りとは違う。
とても心が落ち着く匂いに包まれて、テオは夢の中へ沈んでいった。
仕事を終えたクラウスはシュヌーシア寮に戻って来た。
部屋に戻る前にサロンに顔を出して、まだ騒いでいる生徒に小言を言う。
それは日課に近かった。普段、生徒達の中心に居る奴が今日は居なかった。
自室の前まで来て、眉間に皺が寄る。
ドアの下から光が漏れている。部屋を出た時は、電気を消した筈だ。
扉を開ける。電気が付いた部屋。
誰の姿も見えないが、人の気配はする。
奥へ進むと、ベッドが何故か膨らんでいた。
黄金の髪に小麦の肌。
どうやら、俺のベッドに不法侵入しているのは、テオ・メネシスらしい。
瞳は閉じられていた。穏やかな寝息も聞こえる。熟睡しているようだ。
傍らには分厚い本。読みながら眠ったようだが。
こいつは一体何の用で俺の部屋へ来たのだろう。
ただ遊びに来ただけということも大いに在り得るが。
来るまでならまだ解るが、何故俺のベッドで眠っているんだか。
しかも、ベッドの中央を陣取っている。俺は何処で寝れば良い。
嫌がらせか? そんなことをする奴ではない筈だが。
シャチのぬいぐるみが頬の下で潰されている。
なんとなく苦しそうな目が真っ直ぐクラウスに向けられている。
シャチの名に自分の名前が含まれているせいか、居た堪れない気になる。
テオは起きる気配は一向にない。良い夢でも見ているのか。
毛布を抱き締め、気持ち良さそうな寝顔を晒している。
先程まで張り詰めていた糸が弛緩する。
「ったく、こいつは何なんだ…」
ベッドの前で胡坐を掻いた。
暫くの間、クラウスは半ば呆れつつ、友人の寝顔を眺めていた。
今、この瞬間を含めて、こいつの言動は意味が解らない。
俺のテリトリーに不法侵入し、勝手に居座る。
そして奇天烈なこと言い出すのだ。
気が付けば傍に居て、振り回されている。
今日も何か突拍子もないことを言いに来たのかもしれない。
またろくでもないこと、いや、本人曰く『楽しいこと』を思い付いたのだろう。
こいつは、太陽のように輝くのは髪だけではない。
存在そのものがこの寮を、学院を、明るく照らしているかのようだ。
俺のように融通が利かず、堅苦しい人間より、
テオの方が生徒代表に相応しいのではないかと何度思ったことか。
もし、本当にそれが実現したのなら、今以上に奔放に動くだろう。
時計を見ると、そろそろ眠らなくてはならない時刻だった。
こいつをどうしようか迷う。叩き起こして部屋に戻すべきか。
しかし、今夜はこのまま傍に置いた方が良いかもしれない。
遭ってはならないことだが、もし、侵入者が警備の網を免れ、此処まで辿り着いたら。
アイヴィーには敵わないが自分だって軍人の訓練は積んでいる。
俺にもテオ一人くらいなら守れるだろう。
学院全体が守れなくとも、せめて、こいつだけは――
はたと気付く。俺は今、何を考えていたのだろう。
生徒代表は全生徒が守るべき対象なのに。
誰を措いても、こいつを守りたいと、俺が思ったというのか。
クラウスは音も無くすっと腰を上げる。
ベッドが取られている以上、他の場所で眠らなくてはならない。
今夜は床の上で寝ることにしようと決める。
その時、クラウスの足に何かがぶつかった。
シャチのぬいぐるみ。
先程まで頬の下で窮屈にしていた筈だが、テオの拘束から抜け出したか。
テオはこちらに背を向けていた。単に身動ぎして、頬の下から外れただけだ。
何処かの土産でテオから貰ったものだ。なぜ、シャチなのか。
これを貰った時の声が、すぐさま耳に甦る。
――ほら、見てご覧。クラウスにそっくりだろう?――
時として人はどうでもいいことを憶えているものだ。
クラウスは腕を伸ばし、足にぶつかっているシャチを手に取る。
今、手の中にある、白と黒。テオと自分の名を持つぬいぐるみ。
静かにテオの傍へ戻した。
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