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■テオ×クラウス
「どうだろう、私の説明で解ったかい?」
夕食後のシュヌーシア寮サロン。
いつものように中等部も高等部も混ざって談笑している。
高等部二年のテオ・メネシスは中等部一年の宿題を手伝っていた。
「うん。解った! ありがとう、テオ」
笑顔を見せたのはラビット。
「俺、わかんねえ」
隣では同い年のレオンが不貞腐れていた。
髪には『神様が掛けてくれた』緩いパーマがかかっており、
毛先はあちこちに跳ねている。色はラビより少し明るい茶色。
クラウスとも渡り合おうとする勝ち気な子だ。
「レオン、僕が教えてあげる」
今度はラビットが先生役となり、もう一度問題の解説をした。
中等部の数学なのだが、テオもやっと答えられるほど難しいものだった。
こんな時、ヤンが居てくれたら、とテオは密かに思う。
ヤン・ハシェク。シュヌーシア寮の卒業生だ。
テオが中等部二年の時に生徒代表だった。
少し風変わりな雰囲気を持つ人だったけれど、寮生は皆、彼を慕っていた。
数学の天才で、このサロンでもよく下級生の数学を看てくれていた。
テオも彼に教わったことがあった。
あれから三年過ぎて、今は教える立場になっている。
ああ、自分も上級生になったのだな、と感じる瞬間だった。
そう言えば、ヤンも同じようなことを言っていた気がする。
彼がテオの教科書を見ながら、ぼうっとしていたので、
「ヤン? ヤンでもこの問題、解らないの?」
と不安になって尋ねたことがある。すると、ヤンはふわりと微笑んだ。
「あ、ううん。なんか、僕も上級生になったんだなあ、って思って」
その時、自分は首を傾げた筈だ。
(何を言っているんだろう、この上級生は)と不思議に感じた。
メネシスの子息は中等部一年からこの学院に入る。
テオにとってヤンは、出会った時から上級生だった。
彼にも下級生だった頃があるのは理屈的には解っているが、
実感を伴う理解ではなかった。
それが今になってやっと彼の言っていた意味が解った気がする。
私はいつのまに上級生になってしまったのだろう。
「あー。なんだ。そういうことかよー。
だったら最初からそう言ってくれよなー」
「テオも最初からそう言ってたよ」
レオンが笑顔になっていた。ラビット先生のおかげで解決したらしい。
「あれ。テオ、どうしたの?」
「なんだか私も上級生になったのだなあと思っていたのだよ」
中等部一年は「変なのー」「テオ、お年寄りみたいー」と笑っていた。
テオも穏やかな笑顔を見せた。
「二人とも宿題お疲れさま。祝杯に『青い月』はどうかな?」
「飲むー!」
一年生の手が二つ上がった。
『青い月』はラベンダー蜂蜜入りのホットミルク。
この蜜はラベンダー畑に置かれた蜂箱から採取される。
それをホットミルクに入れて飲むとよく眠れる。
ラビットはテオからカップを受け取った。
入学直後、なかなか寝付けなかったラビットにテオが作ってくれた。
以来、好きになった飲み物だった。ふう、と冷ましながら飲む。
蜂がラベンダーから集めた蜜は、仄かに花の香りがする。
ずっと昔からシュヌーシアの眠れない夜をあたためてくれるドリンクだった。
レオンは猫舌だと知っているテオは、少し温めのミルクで作ったものを渡した。
それをぐびぐびと飲み、白い口許のまま言う。
「あー! 宿題が終わった後の一杯は最高だなっ!」
周囲から忍び笑いが聞こえた。
パタン、と木の音がした。
掛け時計の小窓から可愛いナイチンゲールが九回出てくる。
これはテオ特注の鳩時計 アルフォンソヴァージョン。
校章に描かれた鳥と同じように、くちばしには月桂樹の枝を銜えている。
テオは卒業してもこの時計は持って帰らず、サロンに寄贈しようと思っていた。
21時を告げる時計を見ながら、テオは帰ってこない友人を嘆いた。
「遅いねえ、クラウス。まだ生徒代表室に居るのかな」
青い月を飲み干したレオンが、あのさ、と話し出す。
「テオ、テオー。俺、前から聞いてみたかったんだけどさ」
「なあに?」
「テオとクラウスってさ、なんでそんな仲良いの? なんかキッカケとかあった?」
レオンの発言で、サロンの空気が変化した。
上級生達が口許を隠して、にやにやしている。
その可笑しな様子に一年生達は首を傾げる。テオの笑顔も何故か増して見えた。
「そうか。レオンは今年入ったばかりだから知らないのだね。
きっかけはやはり、初めて会った時になるかな」
「何それ。どんな出会い方したんだよ?」
テオは微笑んで言った。
「私ね、クラウスに初めて出会った瞬間に唇を奪われてしまったのだよ」
「ええっ!?」と一年生コンビが声を揃えた。
ラビは思わずテオの唇を見てしまう。
「テオ、キスされたの?」
「てゆうか、したのがクラウスかよ?」
「うん。みんなもその瞬間を見ているんだ。ね?」
上級生達は笑いながらも肯定した。
後輩は先輩達の言葉を信じられない。レオンは上級生に指を差す。
「あ、あんたら、俺達をからかってんだろ! 騙されないからなっ!」
テオと同学年の生徒が笑う。
「騙してはいないさ。テオの言ってることは事実だ。
俺達もその現場を見てる。なあ?」
数名の上級生が苦笑交じりに同意する。
「じゃあ、なんでそんな笑ってんだよ!」
「煩いぞ、レオン。お前の声は廊下まで響く」
サロンのドアを開けたのはクラウスだった。入ってきた早々に小言を言う。
「今日は風邪で寝ている奴も居るんだからもう少し静かに…」
小言を無視し、レオンが叫ぶ。
「なあ! あんた、入学初日にテオにキスしたってマジ?」
あまりに唐突で直球の質問にクラウスがたじろぐ。
「そ、それは…」
「マジなのかよ!?」
「バカ! あれは人工呼吸だ! き、キスなど誰がするか!」
ラビットはほっとした様子でへなへなと座り込む。
「なあんだ…」
レオンは生徒代表を不敵に見上げる。
「ってことは、ホントにクラウスからキスしたんだ?」
「だから、人工呼吸だと言っているだろう。
おい、テオ! なんでよりによってその話をこいつに」
「聞きたいのだって」
「もう広めるなと言っただろう」
「おや、クラウス。下級生に教えてと言われたら、
快く説明するのが我がシュヌーシアの良き伝統じゃないか。
それに、好奇心は学問の基本、だろう?」
学院の基本理念を盾にされ、クラウスが一瞬黙る。
テオは笑顔で二人の記念すべき1ページ目を語り出す。
「では私が話すね。そう、あれは二年前、海が綺麗な朝のことでした」
その声を聞き、苦い顔のクラウスもまたあの夏の日を思い出した。
気持ち良く晴れた日曜日。
クラウスは聖アルフォンソ島に降り立った。
生真面目な彼は集合時間より早く到着する性質だった。
この日は特に早かった。
学院に向かう前に、辺境の島を散策しようと決めていたからだ。
街で自転車を借りて、島を見て回った。
少し走り出すと、風の匂いがドイツとまるで違うことに気付いた。
潮風だ。朝の光を浴びた綺麗な海が見える。
輝く水面を眺めながら、トライアスロンができそうだなと思った。
孤島にそんな大会などないだろうが、一度はあの海で泳いでみたいものだ。
島に来るまで自分を覆っていた緊張や警戒心が薄まっていく。
久し振りに海を見たせいか、珍しく開放的な気分で海岸沿いを走行していた。
いつも身に付けている腕時計を確認する。
そろそろ引き返して、学院へ向かおうと思った矢先。
海岸に人だかりが出来ていた。クラウスと同年代に見えた。
様子が可笑しい。砂浜に倒れている奴を囲んでいる。
自転車を置いて、その場へ駆け出した。
クラウスが「おい、どうした」と尋ねると、一人が事情を説明した。
溺れた友達を引き揚げたが意識がなく、息をしていないと。
少年達はうろたえるばかりで、全く冷静ではなかった。
倒れていたのは黄金の髪を持つ少年。心肺停止になったのがテオだった。
この日テオは寮の皆を連れて、海へ遊びに来ていた。
すると、沖合で子どもが溺れていた。
海運王の子息であり、泳ぎには自信があったテオが「私が行く」と沖に向かう。
パニック状態の子に掴まれて、テオも溺れてしまった。
なんとか皆に砂浜まで引き揚げて貰った時、子どもは助かったが、
テオの方が多く水を飲んでしまい、意識を失っていた。
テオはこの日を境にライフセービングについて、
きちんと学ぼうと決意することになる。
一方クラウスは、軍人の家系に生まれ、軍事訓練も積んでいた。
人工呼吸法も当然知っていたが実際の現場で使用したことはなかった。
だが、迷っている時間はない。心肺停止状態では1分1秒が命取りになる。
「俺が人工呼吸をする。退いてくれ」
意識を失ったテオを前に座る。
その時、クラウスは冷静に対処することができた。
習った通り、意識確認、気道確保と手順を正確に再現する。
鼻を押さえ、唇で唇を覆い、息を吹き込む。
それはクラウスの生真面目さが人の命を救った瞬間だった。
テオが目を覚ました時、目の前に見知らぬ青年が居た。
凛々しい顔立ちに短髪。そして彼に唇を奪われている。
意識を取り戻してから数秒の間、テオはそのまま動けず、目をぱちくりしていた。
クラウスがテオの目が開いているのに気付き、唇を離す。
ほっとして笑顔を見せた。
「良かった。気が付いたようだな」
その心からの微笑は、テオが見惚れるほどだった。
周りの寮生達が、わっと駆け寄る。次々と声を掛けられる。
テオは状況がよく飲み込めていないまま、友人達に尋ねた。
「私は…白雪姫にでもなったのかい?」
寮生達が吹き出す中、クラウス一人が真面目に心配した。
「おい、こいつ、頭も打っているんじゃないか?」
寮生の一人が腹を抱えながら否定する。
「いや。大丈夫。意識はハッキリしてるみたいだ」
笑いと安堵で皆の肩の力が抜けた。
すると、クラウスは学院への到着予定時間が迫っていることに気付く。
皆に感謝の言葉を言う暇も与えず、自転車に乗り、行ってしまった。
テオは彼の名前も聞かなかったと後悔した。
学院に着いたクラウスはキャンパスを案内されていた。
当時の生徒代表はジブリール。黒髪で威圧的な目付き。
クラウスは臆することなく、彼の後に続いていた。
月桂樹の森を出たところで、その前にある寮から出てくる生徒と目が合った。
背丈が低い。クラウスより年下らしかった。
ジブリールは少年の方へ歩いていく。
「ひと月振りだな、アンリ。何か不都合なことはないか?」
「あるよ?」横髪に指を通す。宵闇の髪に白い指が映える。
「まだ周りが騒がしいんだよね、何とかしてくれないかな?」
クラウスは驚いた。
年少者が最高学年に生意気な態度を取るとは予想もできなかった。
年長者には礼節を持って接するのが当然だと思っていたからだ。
生徒代表は叱るどころか、むしろ軽く笑っていた。
「それは俺の力ではどうにもならん。お前が顔を変えるんだな」
むくれた少年を放って、ジブリールはクラウスに向き直る。
「クラウス、一応、紹介しておこう。君の少し前に入ったアンリだ。
中等部一年、寮は此処、ウーティスだ。
アンリ、彼は新入生のクラウス。シュヌーシアの高等部一年だ」
クラウスは少年の姿を見る。髪は肩まであり、女みたいな顔をしていたが、
学院には男しか入れない筈なので、これでも男なのかと思った。
その瞬間、少年に睨まれた。琥珀の瞳。色は綺麗だが、眼差しが冷たい。
「Le Pape. 規律の遵守」
自分より三つ下とは思えない冷笑だった。
「…何?」
質問には答えず、白く細い手を差し出す。
「僕はアンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマン」
手を出されて、仕方なく同じ動作をする。
「クラウス・フォン・モールだ」
握り返した手はびくりとするほど冷たかった。
少年は、改めて足から頭までクラウスを眺め見た。
目上に対して失礼にも程がある。
軍では許されない言動が続き、頭の中で警笛が鳴りっぱなしだ。
此処にはこんなのが、うじゃうじゃいるのかと思うと頭痛がしそうだった。
クラウスの観察が終わったらしい少年が、ねえ? と小首を傾げる。
無礼な割りに、ちょっとした動作は優雅だった。
「君、もしかして、チェスが得意じゃない?」
クラウスは心を読まれたかのような錯覚に陥る。
「何故、そう思った?」
「ん。なんとなく、そんな顔してるから。違ったかな?」
チェスは軍の指揮に役立つと言われ、幼い頃から嗜んでいた。
現在は上級者レベルと言っていい。
しかし、この失礼な少年に、お前の言う通りだと答えるのは悔しい気がした。
「チェスは嫌いではないが…」
「僕も嫌いじゃないよ。じゃ、いつか僕の遊び相手になってね」
少年が去っていく。その華奢な背を見ながら、ジブリールはふっと笑った。
「珍しい。どうやら気に入られたようだな、クラウス?」
「そうですか?」
「気に入らない奴には話し掛けないからな、あいつは」
「俺は、彼の言っていることがよく解りませんでした」
「奴が最初に言ったのはフランス語で『教皇』だ。
おそらくタロットの一枚を指しているんだろう」
「タロット? あの、占いに使うカードですか?」
「ああ。オカルティズムに興味があるそうだ。あの錬金術師の末裔は」
「そんなのも居るんですか、此処には」
「あいつは此処でも特例だがな。さて、次の場所を案内しよう」
クラウスは現実主義で非科学的なオカルトの類は苦手だった。
あの少年にはあまり関わりたくない、という最悪の第一印象を持った。
その夜。シュヌーシア寮。
夕食の席で寮の最高学年が言った。
「それじゃ、みんな。お待ちかねの新入生を紹介するね。クラウス、入って」
「はい」
制服をぴしりと身に付けた新入生が現れた。
その顔を見て、テオ達は一斉に騒ぎ出した。食堂は再会の喜びに溢れる。
事情を知らない生徒や最高学年はすっかり取り残されていた。
彼等に海での一件を伝えると、クラウスとテオへ交互に視線が集まった。
場がやっと落ち着いたところで、最高学年が改めて本題に入る。
「えっと、じゃあ、クラウス、自己紹介を頼めるかな?」
生真面目に起立したまま挨拶した。
「高等部第一学年、クラウス・フォン・モールです。よろしくお願いします」
かなり畏まった台詞にきびきびとした動作。
聞く前から軍人の家柄かなと予想が付くものだった。
テオは、口の中で新入生の名前を復唱していた。その名をしっかり刻み込むように。
寮生達も一人一人、自己紹介をしたのだが、自分の紹介よりも、
寮の人気者を救ってくれたことへの感謝や尊敬の言葉が続いた。
いよいよテオの番になった。
「先程は本当にありがとう。私の名はテオ・メネシス。
貴方にまた会えて…しかも同じ寮だなんて。ああ、これこそ『共にある奇蹟』だ」
シュヌーシア、この寮の名前はギリシャ語で『共にある奇蹟』を意味する。
他の生徒達はそうだなと頷いていたが、新入生は理解するのが一歩遅れた。
学院案内での生徒代表の説明を思い出し、そういう意味かと納得する。
テオは感激で高なる胸を抑えつつ、自己紹介を続ける。
「私の年は貴方より一つ下、中等部三年だよ。
此処には一年の頃から居るから、学院や島のことは何でも聞いておくれ?
ねえ、クラウス…ああ、素晴らしい名前だ。なんという響きの良い名前なのだろう」
やはり感激を抑えられず、常のように思ったまま言葉を紡ぐ。
「すまない。早速なのだけど、ひとつ質問をしても良いかな?」
「ああ」
「クラウスは運命を信じるかい?」
信じない方だったのだが、質問されたのに、答える暇が与えられなかった。
「私は今信じたよ。きっとこれからの日々は、より楽しいものになる。
そうだ。感謝と歓迎を込めて盛大なパーティをしなくては!」
それからというもの、テオは命の恩人への謝意から、
興味を持って積極的に接するようになる。
クラウスもまた律儀な性格ゆえに眉間に皺を寄せながらも相手をしていた。
そんな光景を見た寮生達からは「キスした二人」として何かとセット扱いされる。
クラウスは嫌そうだったが、テオはむしろ嬉しそうに乗っかっていた。
戯れにクラウスに甘言を重ね、言葉遊びを楽しんでいた。
クラウスは毎回、仏頂面で「調子に乗るな」などと文句を言うのだが、
何処となく照れて耳が赤くなる様子が可笑しくて、
周囲は余計にクラウスとテオをセットにしたがった。
「クラウス。どうした、疲れているのか?」
入学から二週間程経った放課後。寮へと向かう途中、呼び止められた。
黒髪の生徒代表だ。先輩に対して、反射的に態度が改まる。
「いえ、平気です。こんにちは、ジブリール」
「少しは慣れたか?」
クラウスはすぐに返事できなかった。
生徒代表の猛禽類の眼が新入生の表情を読み取る。
「祖国の暮らしとは勝手が違い過ぎるか」
新入生は素直に頷く。
「慣れるにはもう少し時間が掛かりそうです」
「焦る必要はない。此処には時間がある」
生徒代表はポケットに手を入れる。青空を見つめながら言った。
「クラウス。君は、この学院で少し肩の力を抜くことを覚えるといい」
衝撃的な言葉だった。これまでは前へ先へと言われ続けてきた。
休め、などと言われたことがあっただろうか。
戸惑いの余り、声を失っていた。
「シュヌーシアに、テオという煩いのが居ただろう?」
「え、はい」
「あれを少し見習ってみるといい。
テオは生まれながらに、ゆっくりと過ごす術を知っている。
君のようなタイプには良い手本になるだろう」
「テオが?」
どちらかと言うと苦手な人物だった。
少し話してみて解ったが、あれは自分と違い過ぎる。
同じところを探す方が困難なくらいだ。
その日もまた、クラウスはテオに構われていた。
サロンで新聞を読むクラウスの隣にテオが座る。
「ね、クラウス。貴方の趣味は何なの?」
笑顔を一瞥し、新聞を置く。
「そうだな、トライアスロンとか」
テオは、おお、と歓声を上げる。
「それはまた面白いことを言うのだねえ、クラウスは。
うちの寮には今まで居なかったよ、それほど過酷な趣味を持つ人は」
「そんなに珍しいか?」
「うん。我がシュヌーシア寮は身体の弱い生徒が多いからね。
でも、成程。スポーツマンなのだね、クラウスは。
だからこれほど美しい身体を持っているのか」
「美しいなどと…男に言う言葉か」
「おや。気を悪くさせてしまったかい? すまない。
私は見たままを述べたつもりなのだけれどね。
では、クラウス。近々トライアスロン大会に出場してみるかい?」
「この島にあるのか、そんな大会が」
「此処は聖アルフォンソ島だよ、クラウス」
テオは少年のようにイタズラな笑みを見せる。
「どんな大会でも開催できる島なのだよ、貴方がそれを望むのならね?」
それから二週間後。
横断幕には『第一回 聖アルフォンソ島トライアスロン』とある。
海岸には選手と大勢の観客が集まっている。
クラウスも選手として参加していた。
足首や手首を回し、入念に準備体操をしている。
「主催者より開会の言葉です」
司会者に紹介されて壇上に登った人物。クラウスは壇上を呆然と見上げた。
「選手の皆さん、太陽の下、海と陸を駆ける姿、楽しみにしています!」
にこりと笑ったのはテオだった。右手のピストルを空高く掲げる。
「では位置に着いて、よーい!」
破裂音と共に選手が海へ駆け出す。
其処はテオとクラウスが初めて会った海だった。
「…というわけなのだよ、私達の馴れ初めは」
テオは二人の思い出話を終始楽しく語った。
「おい。馴れ初めって言うな」
しかめっ面で聞いていたクラウスの耳がほんのり赤い。
一年生のレオンがこれ見よがしにからかう。
「じゃーさー、クラウスのファーストキスは、海の味がしたんだ?」
「なっ…」
頬に赤みが差すクラウスを見てテオが、えっ、と驚く。
「クラウス! 私が初めてだったのかい?」
「えっ、お前は違うのか?」
驚いたクラウスを見て、サロンがざわつく。
テオはメネシスの家を思い浮かべていた。
「私は家族だと思うな、ファーストは。それで、クラウス」
人差し指で自分の唇に触れてみせる。微笑を浮かべ、首を傾けた。
「私の唇は、海の味がした?」
クラウスはそっぽを向く。
あまり思い出したくない場面が甦ってくる。耳は真っ赤だ。
「お、覚えているわけないだろう、そんなこと!」
寮生達の楽しそうな視線に耐え切れず、クラウスは席を立つ。
「部屋に戻る。そろそろ就寝時間だ。お前等ももう寝ろよ」
はーい、と笑顔の皆はとても良い返事をした。
自室に戻ったテオは、ベッドに入る前に机に向かった。
勉強しているのではない。取り出したのは日記帳だ。
今し方の楽しい時間を書き留めながら、二年前のことを思い出していた。
テオにとって生真面目なクラウスは非常に刺激的な人間だった。
自分とはまるで違う環境に生まれ育ち、性格も趣向も何もかも異なる人。
命の恩人ということを別にしても、クラウス本来の魅力がひとつひとつ解っていく。
テオ自身も気付かないうちに、自分の中で貴方という存在が大きくなっていた。
けれど、月日を重ねるうちに貴方が大切になっていったのではなく、
海辺で唇を奪われた時、心も共に奪われたのかもしれない。
クラウスとあの綺麗な海で出会うことは、初めから決まっていたのではないか。
今ではそう思えてならない。
いつしか、クラウスと共にある時間を夢のように感じていた。
寮のサロンで貴方と珈琲を飲むこと、ただそれだけでも幸福だった。
いつかこの夢から覚めたらどうしたらいいのだろうと思っている自分に出会う。
日々の楽しかったことを綴る日記には、あちこちに貴方の名前があった。
日記は父上に勧められて、書き始めたものだ。父上もこの学院の卒業生。
入学前、彼の古びた日記帳を見せて貰ったことがある。そして父は言った。
卒業までに綴った言葉は、全てお前の宝石になるだろう、と。
父の言った真意がこの頃になって徐々に解り始めた。
彼が時折、日記帳を読んで悲しげな顔をしていた理由も。
ぱらり、とページを繰る。聖アルフォンソ島でのささやかな日常。
きっとこれらひとつひとつが宝石なのだろうとテオは感じた。
寝る前に、今日楽しかったことを綴る。
それは苦痛を伴う娯楽だった。
この先に残された、真っ白なページ。
一枚一枚消えていくのが、目に見えて解った。
fin
「どうだろう、私の説明で解ったかい?」
夕食後のシュヌーシア寮サロン。
いつものように中等部も高等部も混ざって談笑している。
高等部二年のテオ・メネシスは中等部一年の宿題を手伝っていた。
「うん。解った! ありがとう、テオ」
笑顔を見せたのはラビット。
「俺、わかんねえ」
隣では同い年のレオンが不貞腐れていた。
髪には『神様が掛けてくれた』緩いパーマがかかっており、
毛先はあちこちに跳ねている。色はラビより少し明るい茶色。
クラウスとも渡り合おうとする勝ち気な子だ。
「レオン、僕が教えてあげる」
今度はラビットが先生役となり、もう一度問題の解説をした。
中等部の数学なのだが、テオもやっと答えられるほど難しいものだった。
こんな時、ヤンが居てくれたら、とテオは密かに思う。
ヤン・ハシェク。シュヌーシア寮の卒業生だ。
テオが中等部二年の時に生徒代表だった。
少し風変わりな雰囲気を持つ人だったけれど、寮生は皆、彼を慕っていた。
数学の天才で、このサロンでもよく下級生の数学を看てくれていた。
テオも彼に教わったことがあった。
あれから三年過ぎて、今は教える立場になっている。
ああ、自分も上級生になったのだな、と感じる瞬間だった。
そう言えば、ヤンも同じようなことを言っていた気がする。
彼がテオの教科書を見ながら、ぼうっとしていたので、
「ヤン? ヤンでもこの問題、解らないの?」
と不安になって尋ねたことがある。すると、ヤンはふわりと微笑んだ。
「あ、ううん。なんか、僕も上級生になったんだなあ、って思って」
その時、自分は首を傾げた筈だ。
(何を言っているんだろう、この上級生は)と不思議に感じた。
メネシスの子息は中等部一年からこの学院に入る。
テオにとってヤンは、出会った時から上級生だった。
彼にも下級生だった頃があるのは理屈的には解っているが、
実感を伴う理解ではなかった。
それが今になってやっと彼の言っていた意味が解った気がする。
私はいつのまに上級生になってしまったのだろう。
「あー。なんだ。そういうことかよー。
だったら最初からそう言ってくれよなー」
「テオも最初からそう言ってたよ」
レオンが笑顔になっていた。ラビット先生のおかげで解決したらしい。
「あれ。テオ、どうしたの?」
「なんだか私も上級生になったのだなあと思っていたのだよ」
中等部一年は「変なのー」「テオ、お年寄りみたいー」と笑っていた。
テオも穏やかな笑顔を見せた。
「二人とも宿題お疲れさま。祝杯に『青い月』はどうかな?」
「飲むー!」
一年生の手が二つ上がった。
『青い月』はラベンダー蜂蜜入りのホットミルク。
この蜜はラベンダー畑に置かれた蜂箱から採取される。
それをホットミルクに入れて飲むとよく眠れる。
ラビットはテオからカップを受け取った。
入学直後、なかなか寝付けなかったラビットにテオが作ってくれた。
以来、好きになった飲み物だった。ふう、と冷ましながら飲む。
蜂がラベンダーから集めた蜜は、仄かに花の香りがする。
ずっと昔からシュヌーシアの眠れない夜をあたためてくれるドリンクだった。
レオンは猫舌だと知っているテオは、少し温めのミルクで作ったものを渡した。
それをぐびぐびと飲み、白い口許のまま言う。
「あー! 宿題が終わった後の一杯は最高だなっ!」
周囲から忍び笑いが聞こえた。
パタン、と木の音がした。
掛け時計の小窓から可愛いナイチンゲールが九回出てくる。
これはテオ特注の鳩時計 アルフォンソヴァージョン。
校章に描かれた鳥と同じように、くちばしには月桂樹の枝を銜えている。
テオは卒業してもこの時計は持って帰らず、サロンに寄贈しようと思っていた。
21時を告げる時計を見ながら、テオは帰ってこない友人を嘆いた。
「遅いねえ、クラウス。まだ生徒代表室に居るのかな」
青い月を飲み干したレオンが、あのさ、と話し出す。
「テオ、テオー。俺、前から聞いてみたかったんだけどさ」
「なあに?」
「テオとクラウスってさ、なんでそんな仲良いの? なんかキッカケとかあった?」
レオンの発言で、サロンの空気が変化した。
上級生達が口許を隠して、にやにやしている。
その可笑しな様子に一年生達は首を傾げる。テオの笑顔も何故か増して見えた。
「そうか。レオンは今年入ったばかりだから知らないのだね。
きっかけはやはり、初めて会った時になるかな」
「何それ。どんな出会い方したんだよ?」
テオは微笑んで言った。
「私ね、クラウスに初めて出会った瞬間に唇を奪われてしまったのだよ」
「ええっ!?」と一年生コンビが声を揃えた。
ラビは思わずテオの唇を見てしまう。
「テオ、キスされたの?」
「てゆうか、したのがクラウスかよ?」
「うん。みんなもその瞬間を見ているんだ。ね?」
上級生達は笑いながらも肯定した。
後輩は先輩達の言葉を信じられない。レオンは上級生に指を差す。
「あ、あんたら、俺達をからかってんだろ! 騙されないからなっ!」
テオと同学年の生徒が笑う。
「騙してはいないさ。テオの言ってることは事実だ。
俺達もその現場を見てる。なあ?」
数名の上級生が苦笑交じりに同意する。
「じゃあ、なんでそんな笑ってんだよ!」
「煩いぞ、レオン。お前の声は廊下まで響く」
サロンのドアを開けたのはクラウスだった。入ってきた早々に小言を言う。
「今日は風邪で寝ている奴も居るんだからもう少し静かに…」
小言を無視し、レオンが叫ぶ。
「なあ! あんた、入学初日にテオにキスしたってマジ?」
あまりに唐突で直球の質問にクラウスがたじろぐ。
「そ、それは…」
「マジなのかよ!?」
「バカ! あれは人工呼吸だ! き、キスなど誰がするか!」
ラビットはほっとした様子でへなへなと座り込む。
「なあんだ…」
レオンは生徒代表を不敵に見上げる。
「ってことは、ホントにクラウスからキスしたんだ?」
「だから、人工呼吸だと言っているだろう。
おい、テオ! なんでよりによってその話をこいつに」
「聞きたいのだって」
「もう広めるなと言っただろう」
「おや、クラウス。下級生に教えてと言われたら、
快く説明するのが我がシュヌーシアの良き伝統じゃないか。
それに、好奇心は学問の基本、だろう?」
学院の基本理念を盾にされ、クラウスが一瞬黙る。
テオは笑顔で二人の記念すべき1ページ目を語り出す。
「では私が話すね。そう、あれは二年前、海が綺麗な朝のことでした」
その声を聞き、苦い顔のクラウスもまたあの夏の日を思い出した。
気持ち良く晴れた日曜日。
クラウスは聖アルフォンソ島に降り立った。
生真面目な彼は集合時間より早く到着する性質だった。
この日は特に早かった。
学院に向かう前に、辺境の島を散策しようと決めていたからだ。
街で自転車を借りて、島を見て回った。
少し走り出すと、風の匂いがドイツとまるで違うことに気付いた。
潮風だ。朝の光を浴びた綺麗な海が見える。
輝く水面を眺めながら、トライアスロンができそうだなと思った。
孤島にそんな大会などないだろうが、一度はあの海で泳いでみたいものだ。
島に来るまで自分を覆っていた緊張や警戒心が薄まっていく。
久し振りに海を見たせいか、珍しく開放的な気分で海岸沿いを走行していた。
いつも身に付けている腕時計を確認する。
そろそろ引き返して、学院へ向かおうと思った矢先。
海岸に人だかりが出来ていた。クラウスと同年代に見えた。
様子が可笑しい。砂浜に倒れている奴を囲んでいる。
自転車を置いて、その場へ駆け出した。
クラウスが「おい、どうした」と尋ねると、一人が事情を説明した。
溺れた友達を引き揚げたが意識がなく、息をしていないと。
少年達はうろたえるばかりで、全く冷静ではなかった。
倒れていたのは黄金の髪を持つ少年。心肺停止になったのがテオだった。
この日テオは寮の皆を連れて、海へ遊びに来ていた。
すると、沖合で子どもが溺れていた。
海運王の子息であり、泳ぎには自信があったテオが「私が行く」と沖に向かう。
パニック状態の子に掴まれて、テオも溺れてしまった。
なんとか皆に砂浜まで引き揚げて貰った時、子どもは助かったが、
テオの方が多く水を飲んでしまい、意識を失っていた。
テオはこの日を境にライフセービングについて、
きちんと学ぼうと決意することになる。
一方クラウスは、軍人の家系に生まれ、軍事訓練も積んでいた。
人工呼吸法も当然知っていたが実際の現場で使用したことはなかった。
だが、迷っている時間はない。心肺停止状態では1分1秒が命取りになる。
「俺が人工呼吸をする。退いてくれ」
意識を失ったテオを前に座る。
その時、クラウスは冷静に対処することができた。
習った通り、意識確認、気道確保と手順を正確に再現する。
鼻を押さえ、唇で唇を覆い、息を吹き込む。
それはクラウスの生真面目さが人の命を救った瞬間だった。
テオが目を覚ました時、目の前に見知らぬ青年が居た。
凛々しい顔立ちに短髪。そして彼に唇を奪われている。
意識を取り戻してから数秒の間、テオはそのまま動けず、目をぱちくりしていた。
クラウスがテオの目が開いているのに気付き、唇を離す。
ほっとして笑顔を見せた。
「良かった。気が付いたようだな」
その心からの微笑は、テオが見惚れるほどだった。
周りの寮生達が、わっと駆け寄る。次々と声を掛けられる。
テオは状況がよく飲み込めていないまま、友人達に尋ねた。
「私は…白雪姫にでもなったのかい?」
寮生達が吹き出す中、クラウス一人が真面目に心配した。
「おい、こいつ、頭も打っているんじゃないか?」
寮生の一人が腹を抱えながら否定する。
「いや。大丈夫。意識はハッキリしてるみたいだ」
笑いと安堵で皆の肩の力が抜けた。
すると、クラウスは学院への到着予定時間が迫っていることに気付く。
皆に感謝の言葉を言う暇も与えず、自転車に乗り、行ってしまった。
テオは彼の名前も聞かなかったと後悔した。
学院に着いたクラウスはキャンパスを案内されていた。
当時の生徒代表はジブリール。黒髪で威圧的な目付き。
クラウスは臆することなく、彼の後に続いていた。
月桂樹の森を出たところで、その前にある寮から出てくる生徒と目が合った。
背丈が低い。クラウスより年下らしかった。
ジブリールは少年の方へ歩いていく。
「ひと月振りだな、アンリ。何か不都合なことはないか?」
「あるよ?」横髪に指を通す。宵闇の髪に白い指が映える。
「まだ周りが騒がしいんだよね、何とかしてくれないかな?」
クラウスは驚いた。
年少者が最高学年に生意気な態度を取るとは予想もできなかった。
年長者には礼節を持って接するのが当然だと思っていたからだ。
生徒代表は叱るどころか、むしろ軽く笑っていた。
「それは俺の力ではどうにもならん。お前が顔を変えるんだな」
むくれた少年を放って、ジブリールはクラウスに向き直る。
「クラウス、一応、紹介しておこう。君の少し前に入ったアンリだ。
中等部一年、寮は此処、ウーティスだ。
アンリ、彼は新入生のクラウス。シュヌーシアの高等部一年だ」
クラウスは少年の姿を見る。髪は肩まであり、女みたいな顔をしていたが、
学院には男しか入れない筈なので、これでも男なのかと思った。
その瞬間、少年に睨まれた。琥珀の瞳。色は綺麗だが、眼差しが冷たい。
「Le Pape. 規律の遵守」
自分より三つ下とは思えない冷笑だった。
「…何?」
質問には答えず、白く細い手を差し出す。
「僕はアンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマン」
手を出されて、仕方なく同じ動作をする。
「クラウス・フォン・モールだ」
握り返した手はびくりとするほど冷たかった。
少年は、改めて足から頭までクラウスを眺め見た。
目上に対して失礼にも程がある。
軍では許されない言動が続き、頭の中で警笛が鳴りっぱなしだ。
此処にはこんなのが、うじゃうじゃいるのかと思うと頭痛がしそうだった。
クラウスの観察が終わったらしい少年が、ねえ? と小首を傾げる。
無礼な割りに、ちょっとした動作は優雅だった。
「君、もしかして、チェスが得意じゃない?」
クラウスは心を読まれたかのような錯覚に陥る。
「何故、そう思った?」
「ん。なんとなく、そんな顔してるから。違ったかな?」
チェスは軍の指揮に役立つと言われ、幼い頃から嗜んでいた。
現在は上級者レベルと言っていい。
しかし、この失礼な少年に、お前の言う通りだと答えるのは悔しい気がした。
「チェスは嫌いではないが…」
「僕も嫌いじゃないよ。じゃ、いつか僕の遊び相手になってね」
少年が去っていく。その華奢な背を見ながら、ジブリールはふっと笑った。
「珍しい。どうやら気に入られたようだな、クラウス?」
「そうですか?」
「気に入らない奴には話し掛けないからな、あいつは」
「俺は、彼の言っていることがよく解りませんでした」
「奴が最初に言ったのはフランス語で『教皇』だ。
おそらくタロットの一枚を指しているんだろう」
「タロット? あの、占いに使うカードですか?」
「ああ。オカルティズムに興味があるそうだ。あの錬金術師の末裔は」
「そんなのも居るんですか、此処には」
「あいつは此処でも特例だがな。さて、次の場所を案内しよう」
クラウスは現実主義で非科学的なオカルトの類は苦手だった。
あの少年にはあまり関わりたくない、という最悪の第一印象を持った。
その夜。シュヌーシア寮。
夕食の席で寮の最高学年が言った。
「それじゃ、みんな。お待ちかねの新入生を紹介するね。クラウス、入って」
「はい」
制服をぴしりと身に付けた新入生が現れた。
その顔を見て、テオ達は一斉に騒ぎ出した。食堂は再会の喜びに溢れる。
事情を知らない生徒や最高学年はすっかり取り残されていた。
彼等に海での一件を伝えると、クラウスとテオへ交互に視線が集まった。
場がやっと落ち着いたところで、最高学年が改めて本題に入る。
「えっと、じゃあ、クラウス、自己紹介を頼めるかな?」
生真面目に起立したまま挨拶した。
「高等部第一学年、クラウス・フォン・モールです。よろしくお願いします」
かなり畏まった台詞にきびきびとした動作。
聞く前から軍人の家柄かなと予想が付くものだった。
テオは、口の中で新入生の名前を復唱していた。その名をしっかり刻み込むように。
寮生達も一人一人、自己紹介をしたのだが、自分の紹介よりも、
寮の人気者を救ってくれたことへの感謝や尊敬の言葉が続いた。
いよいよテオの番になった。
「先程は本当にありがとう。私の名はテオ・メネシス。
貴方にまた会えて…しかも同じ寮だなんて。ああ、これこそ『共にある奇蹟』だ」
シュヌーシア、この寮の名前はギリシャ語で『共にある奇蹟』を意味する。
他の生徒達はそうだなと頷いていたが、新入生は理解するのが一歩遅れた。
学院案内での生徒代表の説明を思い出し、そういう意味かと納得する。
テオは感激で高なる胸を抑えつつ、自己紹介を続ける。
「私の年は貴方より一つ下、中等部三年だよ。
此処には一年の頃から居るから、学院や島のことは何でも聞いておくれ?
ねえ、クラウス…ああ、素晴らしい名前だ。なんという響きの良い名前なのだろう」
やはり感激を抑えられず、常のように思ったまま言葉を紡ぐ。
「すまない。早速なのだけど、ひとつ質問をしても良いかな?」
「ああ」
「クラウスは運命を信じるかい?」
信じない方だったのだが、質問されたのに、答える暇が与えられなかった。
「私は今信じたよ。きっとこれからの日々は、より楽しいものになる。
そうだ。感謝と歓迎を込めて盛大なパーティをしなくては!」
それからというもの、テオは命の恩人への謝意から、
興味を持って積極的に接するようになる。
クラウスもまた律儀な性格ゆえに眉間に皺を寄せながらも相手をしていた。
そんな光景を見た寮生達からは「キスした二人」として何かとセット扱いされる。
クラウスは嫌そうだったが、テオはむしろ嬉しそうに乗っかっていた。
戯れにクラウスに甘言を重ね、言葉遊びを楽しんでいた。
クラウスは毎回、仏頂面で「調子に乗るな」などと文句を言うのだが、
何処となく照れて耳が赤くなる様子が可笑しくて、
周囲は余計にクラウスとテオをセットにしたがった。
「クラウス。どうした、疲れているのか?」
入学から二週間程経った放課後。寮へと向かう途中、呼び止められた。
黒髪の生徒代表だ。先輩に対して、反射的に態度が改まる。
「いえ、平気です。こんにちは、ジブリール」
「少しは慣れたか?」
クラウスはすぐに返事できなかった。
生徒代表の猛禽類の眼が新入生の表情を読み取る。
「祖国の暮らしとは勝手が違い過ぎるか」
新入生は素直に頷く。
「慣れるにはもう少し時間が掛かりそうです」
「焦る必要はない。此処には時間がある」
生徒代表はポケットに手を入れる。青空を見つめながら言った。
「クラウス。君は、この学院で少し肩の力を抜くことを覚えるといい」
衝撃的な言葉だった。これまでは前へ先へと言われ続けてきた。
休め、などと言われたことがあっただろうか。
戸惑いの余り、声を失っていた。
「シュヌーシアに、テオという煩いのが居ただろう?」
「え、はい」
「あれを少し見習ってみるといい。
テオは生まれながらに、ゆっくりと過ごす術を知っている。
君のようなタイプには良い手本になるだろう」
「テオが?」
どちらかと言うと苦手な人物だった。
少し話してみて解ったが、あれは自分と違い過ぎる。
同じところを探す方が困難なくらいだ。
その日もまた、クラウスはテオに構われていた。
サロンで新聞を読むクラウスの隣にテオが座る。
「ね、クラウス。貴方の趣味は何なの?」
笑顔を一瞥し、新聞を置く。
「そうだな、トライアスロンとか」
テオは、おお、と歓声を上げる。
「それはまた面白いことを言うのだねえ、クラウスは。
うちの寮には今まで居なかったよ、それほど過酷な趣味を持つ人は」
「そんなに珍しいか?」
「うん。我がシュヌーシア寮は身体の弱い生徒が多いからね。
でも、成程。スポーツマンなのだね、クラウスは。
だからこれほど美しい身体を持っているのか」
「美しいなどと…男に言う言葉か」
「おや。気を悪くさせてしまったかい? すまない。
私は見たままを述べたつもりなのだけれどね。
では、クラウス。近々トライアスロン大会に出場してみるかい?」
「この島にあるのか、そんな大会が」
「此処は聖アルフォンソ島だよ、クラウス」
テオは少年のようにイタズラな笑みを見せる。
「どんな大会でも開催できる島なのだよ、貴方がそれを望むのならね?」
それから二週間後。
横断幕には『第一回 聖アルフォンソ島トライアスロン』とある。
海岸には選手と大勢の観客が集まっている。
クラウスも選手として参加していた。
足首や手首を回し、入念に準備体操をしている。
「主催者より開会の言葉です」
司会者に紹介されて壇上に登った人物。クラウスは壇上を呆然と見上げた。
「選手の皆さん、太陽の下、海と陸を駆ける姿、楽しみにしています!」
にこりと笑ったのはテオだった。右手のピストルを空高く掲げる。
「では位置に着いて、よーい!」
破裂音と共に選手が海へ駆け出す。
其処はテオとクラウスが初めて会った海だった。
「…というわけなのだよ、私達の馴れ初めは」
テオは二人の思い出話を終始楽しく語った。
「おい。馴れ初めって言うな」
しかめっ面で聞いていたクラウスの耳がほんのり赤い。
一年生のレオンがこれ見よがしにからかう。
「じゃーさー、クラウスのファーストキスは、海の味がしたんだ?」
「なっ…」
頬に赤みが差すクラウスを見てテオが、えっ、と驚く。
「クラウス! 私が初めてだったのかい?」
「えっ、お前は違うのか?」
驚いたクラウスを見て、サロンがざわつく。
テオはメネシスの家を思い浮かべていた。
「私は家族だと思うな、ファーストは。それで、クラウス」
人差し指で自分の唇に触れてみせる。微笑を浮かべ、首を傾けた。
「私の唇は、海の味がした?」
クラウスはそっぽを向く。
あまり思い出したくない場面が甦ってくる。耳は真っ赤だ。
「お、覚えているわけないだろう、そんなこと!」
寮生達の楽しそうな視線に耐え切れず、クラウスは席を立つ。
「部屋に戻る。そろそろ就寝時間だ。お前等ももう寝ろよ」
はーい、と笑顔の皆はとても良い返事をした。
自室に戻ったテオは、ベッドに入る前に机に向かった。
勉強しているのではない。取り出したのは日記帳だ。
今し方の楽しい時間を書き留めながら、二年前のことを思い出していた。
テオにとって生真面目なクラウスは非常に刺激的な人間だった。
自分とはまるで違う環境に生まれ育ち、性格も趣向も何もかも異なる人。
命の恩人ということを別にしても、クラウス本来の魅力がひとつひとつ解っていく。
テオ自身も気付かないうちに、自分の中で貴方という存在が大きくなっていた。
けれど、月日を重ねるうちに貴方が大切になっていったのではなく、
海辺で唇を奪われた時、心も共に奪われたのかもしれない。
クラウスとあの綺麗な海で出会うことは、初めから決まっていたのではないか。
今ではそう思えてならない。
いつしか、クラウスと共にある時間を夢のように感じていた。
寮のサロンで貴方と珈琲を飲むこと、ただそれだけでも幸福だった。
いつかこの夢から覚めたらどうしたらいいのだろうと思っている自分に出会う。
日々の楽しかったことを綴る日記には、あちこちに貴方の名前があった。
日記は父上に勧められて、書き始めたものだ。父上もこの学院の卒業生。
入学前、彼の古びた日記帳を見せて貰ったことがある。そして父は言った。
卒業までに綴った言葉は、全てお前の宝石になるだろう、と。
父の言った真意がこの頃になって徐々に解り始めた。
彼が時折、日記帳を読んで悲しげな顔をしていた理由も。
ぱらり、とページを繰る。聖アルフォンソ島でのささやかな日常。
きっとこれらひとつひとつが宝石なのだろうとテオは感じた。
寝る前に、今日楽しかったことを綴る。
それは苦痛を伴う娯楽だった。
この先に残された、真っ白なページ。
一枚一枚消えていくのが、目に見えて解った。
fin
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