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■アンリ
■教えてくれないのなら 続編
今日は人を使って隠れ家探しをやらせてみた。
結局、見付けられなかったのに、僕がケーキを奢る羽目になった。
全部あの講師のせいだ。むかつく。
夜中。僕は日記を綴っていた。
「…オーギュのばか」
どうしても見付けられないとなると、
余計、彼の隠れ家がどんな場所なのか気になってしまう。
僕も昔は秘密の隠れ家を持っていて、誰にも教えなかったけれど。
十年も前の話だから、あまりよく覚えていない。
あの頃は五歳くらいだっただろうか。
「うわ! サン・ジェルマンの子だ!」
僕は家から出て、一人で外に行くところだった。
門を出ると近所に住む子供達の声がした。身なりだけが良い子供が数人。
聞こえないフリをして走り去ろうとした。
彼等も上流階級の家の子だ。優雅さなどは身に付けていないが、
大人達が影で使っている辛辣な言葉はよく知っていた。
「なんかすげーお金持ちそうな服、着てるー!」
「あれって、ひとを騙して手に入れたお金なんでしょ?」
「ハクシャクだっけ?」
「違うよ。サギシって言うんだ、ママが言ってたもん」
伯爵家の少年が顔を上げる。指を差された。
「あいつの目の色、見ろよ! すげーヘン!」
「目を合わせるな! 石にされちゃうぞ!」
「もう行こうぜ、呪われちゃうよ!」
笑い声。今なら品のない笑い方だと一蹴することができる。
けれど、当時まだ五歳の僕には泣かずに走って逃げることが精一杯だった。
家から少し離れたところに、僕は秘密の隠れ家を持っていた。
廃屋。かつてフランス貴族が暮らしていたという古い家。
家主の名前は、子供の頃は覚えていたが、もう忘れてしまった。
屋敷には既に誰も住んでいない。建物は立派だが、手入れされていないので、
庭は雑草が生い茂り、近所では『お化け屋敷』と呼ばれていた。
倒壊する恐れがあるので、大人達は子供にあの屋敷には近付くなと言っていたのだろう。
お屋敷は灰色の煉瓦で囲まれている。
ところどころ崩れ落ちていて、子供がやっと通れるくらいの穴が一箇所ある。
僕はいつも、その隙間をくぐって中に入っていた。
正面玄関には門があるが、とっくに錆付いていて開かないからだ。
今日も僕用の出入り口から入る。
眼前に広がるのは荒れ果てた庭。
此処に人が居た頃は、季節の花が咲く綺麗な庭だったのかもしれないが、
今では玄関まで行くのに、腰の位置まである雑草の中を進んでいかなくてはならない。
半ズボンで来た日は、足を草に撫でられて、ちくちくとくすぐったかった。
玄関に辿り着くと、見上げるほどの大きな扉。
この重たい板を押すことは、五歳の身体には重労働だった。
お屋敷の中には当然、電気は通っておらず、灯かりがない。
窓から差し込む日の光だけが光源だった。
僕は薄暗い場所を怖いとは思わなかった。
家の物置にもよく入っていたから慣れていた。
むしろ明るい場所よりは少し暗い方が落ち着くぐらいだった。
コツコツと僕の小さな靴音だけが響く。
天井が高いので、ちょっと反響して聞こえる。
僕はいつも、窓のある部屋に入る。
適度に明るく、適度に暗いところが良かったし、捨てていかれた家具もある。
もう何も入っていない本棚。その木の板はささくれていて危ない。
部屋の端には、二人掛けのソファがあった。
青い生地は破れかかっているし、色褪せて少し黒っぽい。
けれど、小さな肢体を受け止めるだけの力は残っていた。
部屋には他にも何か家具があった筈だけれど、覚えていない。
僕はソファに座って、家から持ってきた本を読んだり、お菓子を食べたり、
いろんなことを考えたりするのが好きだった。
当時、ゆっくり考えごとができたのは、その場所くらいだったかもしれない。
今日もその『僕の席』に行こうと思っていた。
部屋のドアを開ける。このドアは重たくないのですぐに開けられる。
目に入る青いソファ。歩いていこうとすると、トン、と小さな音がした。
肩がびくっとなって足が止まる。
「だ、だれかいるの?」
返事はない。
お化けかもしれないと思った。
この『お化け屋敷』には本当にお化けが住んでいたのかと。
どうしよう。逃げた方が良いのか、でも少し見てみたい気もする。
普通の子供と比べると、僕はお化けの類に対する警戒心が少なかった。
トン、とまた音が鳴る。
ソファの影から、何か小さなものが出てきた。
ブルーの瞳、グレイの毛に包まれた細い手足、優雅に揺れるしっぽ。
「ねこ…」
グレイの猫は僕をじいっと見ていた。
そして、ゆっくりと僕の傍まで歩いてきた。
信じられない光景だった。
僕には誰も寄り付かないと思っていたのに。
僕のことを何も知らないのに、どうして近付いて来るんだろう。
猫は僕の目の前まで来て座ってしまった。こちらを見ている。
「僕のこと、気味が悪くないの?」
ブルーの瞳は、きょとんとしたまま僕を見ていた。
僕はそっとしゃがんでみる。
猫と距離が近くなり、瞳がよく見えた。空の色に近いブルー。
何かに似ていると思った。家にある大きな絵画。
絵や写真でしか知らないけれど。母さんの髪の色と同じだった。
猫はソファの方へ歩き出した。
伸びやかなジャンプをして、ソファに乗った。
くしゃりと欠伸をすると、其処で身体を丸めてしまった。
僕は静かに近付いていく。ある程度の距離は取って、猫の前に腰を下ろす。
ソファの上の猫と、目線の高さは同じくらいだった。
柔らかそうなグレイの毛。さわってみたいと思った。
動物は嫌いではなかったが、家に動物は一匹もいない。
父が大の動物嫌いだったからだ。
今まで動物に触れる機会はなかったが、今は目の前にある。
僕はそうっと手を伸ばした。
人差し指が滑らかな毛に触れる。
ブルーの瞳は眠たげに僕を一瞥しただけで瞳を閉じた。
今度は五本の指で、できるだけ優しく撫でた。
猫は僕から逃げず、目を閉じたままだった。
「君も一人ぼっちなの?」
猫の身体が思ったよりずっと、温かかった。
「僕と同じだね」
僕は猫の一挙一動を少し離れたところから見ていた。
猫は部屋の中をうろうろしたり、日当たりの良い場所で毛づくろいをしたり。
猫が甘えてくることはなかったが、僕が傍に居ても気にならないみたいだった。
僕に罵声を浴びせず、邪見にもしなかった。
それは奇蹟的な幸福だった。
あっという間に、部屋の中がオレンジ色になっていた。
そろそろ帰らないと、メイドの人達に嫌な顔をされる。
僕はちょっと猫の傍に近付く。
窓の下にできた夕焼けのひだまり。
オレンジ色の中で、うとうとしている。
「また、会えるかな?」
猫は手で顔を拭いていた。
「僕、また来るから」
猫を残して家に帰った。
その日の夜も父に怒られた。
彼はいつも機嫌が悪く、目が合うと睨まれる。
何をしても僕は彼を怒らせた。怒られた理由はいつもよく解らない。
僕の存在自体が彼を不快にさせるから。
僕にできることは、彼とできるだけ会わないよう努めることぐらいだった。
おそらく、僕に罵声を浴びせる近所の子供達が、親に思い切り甘えている頃。
僕は父に怯えながら毎日を過ごしていた。
けれど、この日は。
猫に初めて会えた日は、猫のことを考えながら眠ることができた。
「何かお菓子ちょうだい? ビスケットみたいなのが、いいんだけど」
次の日。メイドに頼んでおやつにビスケットを貰った。
猫が食べられそうだと思ったからだ。
それを綺麗なハンカチに包んで、ポケットに入れた。
久し振りにわくわくとした気分だった。逸る気持ちで隠れ家に向かった。
猫は居た。
昨日と同じ部屋、ソファの上で丸くなっていた。
ポケットからビスケットを出す。
このままでは大きいかなと思い、半分に割ってから猫の傍に置いてみた。
僕は其処から少し離れた場所でしゃがむ。
猫はビスケットをちらりと見ただけで、近付かなかった。
今日は駄目かもしれないと僕は諦めて、
自分用に持ってきたビスケットを食べ始めた。
ブルーの瞳は僕を見上げていた。
やがて、自分の傍に置かれたビスケットに手を伸ばした。
警戒しているようで、ちょん、ちょん、と触る。
おもちゃを扱うようにビスケットを転がしたり、叩いたりしていた。
くんくんと何度か匂いを嗅いでやっと食べ始めた。
猫には名前を付けた。アン。自分の名前から取った。
女性の名前だが、この猫がメスなのかは解らなかった。
偶然、ノドを触った時、猫は気持ち良さそうな顔をした。
ゴロゴロゴロと音がして、びっくりしたことがあった。
そのうちに猫は僕に触れてくるようになった。
ソファに僕が座り、僕の膝に猫が座る。
一緒に同じお菓子を食べることもできるようになった。
僕が隠れ家に行くと、猫は其処に居てくれた。
偶に出かけている時もあったが、暫く待っていると、
カマキリなどを銜えて戻ってくる。猫の口から、はみ出した羽や足。
初めて見た時は、そのグロテスクさに、とてもショックを受けた。
お屋敷の荒れた庭には、猫のエサとなるものが多いようだった。
猫もこのお屋敷を気に入ったらしかった。
僕だけの隠れ家は、アンとアンリの隠れ家になっていた。
膝に乗せた猫にクッキーを差し出した時があった。
家で今日のおやつに貰ったもの。アンの為に残しておいたものだ。
もう手の平に乗せたままでも大丈夫になっていた。
くんくんと少し匂いを嗅いだだけで、すぐに食べ始める。
クッキーを全部食べてしまうと、僕の手の平に付いた欠片や粉まで舐めた。
猫は僕の身体に昇ってきて、口許を舐められた。
小さな舌は少しざらざらしていて、とてもくすぐったかった。
僕は猫を抱いたまま、ソファに倒れ込む。
「僕のおうちで一緒に暮らせたら良いのにね」
父やメイドに言えないことも、この子には打ち明けられた。
当時の僕が唯一、友達と呼べる存在は、この猫しか居なかった。
「でも、駄目なの。パパ、動物嫌いだから。パパは、みんな嫌いなんだ。
パパはママだけが好きだったの。だから、他の人はみんな、嫌いなの。
誰も僕のこと好きになってくれない。近所の子も、メイドのお姉さん達も、パパも。
パパは、僕のことが一番嫌いなの」
猫が僕の頬を舐める。小さな舌が涙の痕を拭った。
くすぐったくて笑うと、また涙が零れた。
「僕に優しくしてくれるのはアンだけ」
あの日。また隠れ家に行った。
猫と会った部屋に行くと、ソファの上に猫の姿はなかった。
「アン、今日は居ないのかな」
肩を落としていると、みー、みー、という声が聞こえた。
部屋の中からだが、消えてしまいそうな小さい声。
耳を澄まして、声のする方に歩いていく。
猫は本棚の影で横たわっていた。
「どうしたの、アン」
足に擦り傷があった。グレイの毛が血で滲んでいる。
その周りは木屑で汚れていた。
はっと本棚を見る。この板は古くなって、あちこち棘がある。
ささくれた板に触れてしまったのかもしれない。
本棚を見ると、グレイの毛が少し落ちていた。
猫は傷口を舐めているが、表情は辛そうだ。
もし、このまま死んでしまったら。
最悪の場面が浮かんで涙が溜まっていく。
弱々しい鳴き声を前にして、どうすることもできなかった。
この猫は僕と出会ったから、不幸にしてしまったのではないか。
近所の子が言っていたように、自分が呪いを掛けてしまったのではないか。
「その猫、怪我しているんだね?」
大人の声がした。
僕の隠れ家に知らない大人が入ってきた。
どんな顔をしていたか忘れてしまったけれど、
コート姿で、黒っぽい鞄を持った男の人。
「私が怪我の手当てをしてあげよう。その猫を少しお借りできるかね?」
優しそうな声。身なりも良い。だが、人間は誰も信用できない。
こんな廃屋に入ってくるなんて可笑しい。
僕は猫を抱え、相手を睨んだ。
「あなたは、だれ?」
出来る限り棘のある言い方をしたつもりだが、彼は穏やかに返してきた。
「私かい? 動物のお医者さんだよ」
「…お医者さん?」
「うん。先程、足を痛めている猫がこの屋敷に入っていくのを見掛けてね、
追い駆けてきてしまったんだ。傷付いた子を見ると放っておけなくてね。
包帯を巻いてあげたいだけなんだ。そうしないと、猫は傷口を舐めてしまうからね」
「舐めてはいけないの?」
「うん。君も自分の髪をブラシで梳くだろう?」
「え、うん」
「猫も同じでね。自分の毛を綺麗に梳くんだ、舌でね。
舌がブラシの役割をするんだよ。
この子が自分の毛を舐めているの、見たことはあるかい?」
「あ、ある」
「あれはね、お掃除をしているんだよ。毛の汚れを取って、綺麗に梳いている。
それで猫の舌はブラシのように、少しざらざらしているんだ。
ブラシのような舌で傷を舐めると、傷口が広がってしまう。
だから、傷口を舐めないようにしないとね。
ああ、すまない。今の君にはちょっと難しい話だったかな?」
「ううん、解った。猫が怪我したら、包帯をした方が良いんでしょ?」
「そう。小さい時から賢い子だね。では猫をお借りして良いかな?」
「うん」
彼は黒い鞄から包帯を取り出す。
猫の細い足に手際良く巻いていく。僕は彼と猫を交互に眺めていた。
「ちょっと足を上げるよ? もう少しで終わるからね?」
猫も大人しく彼の言うことを聞いていた。
グレイの足に真っ白な布がちょこんと巻かれている。
「これでおしまいだよ。良い子だったね」
大人の手が猫の頭を撫でると、猫は気持ち良さそうに目を閉じていた。
僕はその様子をぼうっと見つめていた。
それに気付いたお医者さんは、僕の傍へ来た。
膝を着いて、僕と視線の高さを合わせる。
「君も。怪我した子を心配してくれて、良い子だね」
猫にしたように僕の頭を撫でた。
僕は何も言えないまま、動けなかった。
彼は優しく笑って、膝を伸ばす。
「それじゃ、私は失礼するよ」
「えっ」
「ああ、三日ほど経って、もし君がこの子に会うことがあったら包帯を外してもいいし、
包帯は緩めに巻いたから、放っておいても自然に剥がれるから大丈夫だよ」
「あ、うん。わかった」
「では、ごきげんよう」
お医者さんは鞄を持って出て行く。
パタンと閉まるドアを、ぼんやり見つめていた。
彼が居なくなった部屋は、がらんとして見えた。
「メルシーって言うの忘れちゃった」
僕の声だけが部屋に響く。
唯一、心を許せる友達を助けて貰ったのにお礼も言わなかった。
猫の足に巻かれた綺麗な包帯。
僕は駆け出して、彼の後を追い駆けた。
玄関の重たいドアを開ける。雑草の庭に彼の姿はなかった。
もうお屋敷の外に行ってしまったのだろうか。
草の海を進み、屋敷を囲う塀まで行く。
灰色の煉瓦が幾つか抜けた場所。その小さな穴を通って外に出る。
広い通りに、人影はひとつもなかった。
もう行ってしまったようだ。
「また、会えるかな、お医者さん」
僕は隠れ家に戻ることにした。
もう一度、猫を見てから家に帰ろうと思った。
煉瓦の塀に開いた穴。子供しか通れない大きさ。
いつも通る出入り口を見た時、やっと気が付いた。
このお屋敷に大人は入れない筈だ。
門は開かないし、この穴しか中に入れる場所はない。
彼と会ったことは夢だったのかもしれないとも思ったが、
部屋に戻ると、猫の足にはちゃんと包帯が巻かれていた。
真っ白な布を見つめながら、ぽつりと呟く。
「あのお医者さん…もしかして、お化けだったのかな?」
猫は、みゃあ、と鳴いた。
fin
■教えてくれないのなら 続編
今日は人を使って隠れ家探しをやらせてみた。
結局、見付けられなかったのに、僕がケーキを奢る羽目になった。
全部あの講師のせいだ。むかつく。
夜中。僕は日記を綴っていた。
「…オーギュのばか」
どうしても見付けられないとなると、
余計、彼の隠れ家がどんな場所なのか気になってしまう。
僕も昔は秘密の隠れ家を持っていて、誰にも教えなかったけれど。
十年も前の話だから、あまりよく覚えていない。
あの頃は五歳くらいだっただろうか。
「うわ! サン・ジェルマンの子だ!」
僕は家から出て、一人で外に行くところだった。
門を出ると近所に住む子供達の声がした。身なりだけが良い子供が数人。
聞こえないフリをして走り去ろうとした。
彼等も上流階級の家の子だ。優雅さなどは身に付けていないが、
大人達が影で使っている辛辣な言葉はよく知っていた。
「なんかすげーお金持ちそうな服、着てるー!」
「あれって、ひとを騙して手に入れたお金なんでしょ?」
「ハクシャクだっけ?」
「違うよ。サギシって言うんだ、ママが言ってたもん」
伯爵家の少年が顔を上げる。指を差された。
「あいつの目の色、見ろよ! すげーヘン!」
「目を合わせるな! 石にされちゃうぞ!」
「もう行こうぜ、呪われちゃうよ!」
笑い声。今なら品のない笑い方だと一蹴することができる。
けれど、当時まだ五歳の僕には泣かずに走って逃げることが精一杯だった。
家から少し離れたところに、僕は秘密の隠れ家を持っていた。
廃屋。かつてフランス貴族が暮らしていたという古い家。
家主の名前は、子供の頃は覚えていたが、もう忘れてしまった。
屋敷には既に誰も住んでいない。建物は立派だが、手入れされていないので、
庭は雑草が生い茂り、近所では『お化け屋敷』と呼ばれていた。
倒壊する恐れがあるので、大人達は子供にあの屋敷には近付くなと言っていたのだろう。
お屋敷は灰色の煉瓦で囲まれている。
ところどころ崩れ落ちていて、子供がやっと通れるくらいの穴が一箇所ある。
僕はいつも、その隙間をくぐって中に入っていた。
正面玄関には門があるが、とっくに錆付いていて開かないからだ。
今日も僕用の出入り口から入る。
眼前に広がるのは荒れ果てた庭。
此処に人が居た頃は、季節の花が咲く綺麗な庭だったのかもしれないが、
今では玄関まで行くのに、腰の位置まである雑草の中を進んでいかなくてはならない。
半ズボンで来た日は、足を草に撫でられて、ちくちくとくすぐったかった。
玄関に辿り着くと、見上げるほどの大きな扉。
この重たい板を押すことは、五歳の身体には重労働だった。
お屋敷の中には当然、電気は通っておらず、灯かりがない。
窓から差し込む日の光だけが光源だった。
僕は薄暗い場所を怖いとは思わなかった。
家の物置にもよく入っていたから慣れていた。
むしろ明るい場所よりは少し暗い方が落ち着くぐらいだった。
コツコツと僕の小さな靴音だけが響く。
天井が高いので、ちょっと反響して聞こえる。
僕はいつも、窓のある部屋に入る。
適度に明るく、適度に暗いところが良かったし、捨てていかれた家具もある。
もう何も入っていない本棚。その木の板はささくれていて危ない。
部屋の端には、二人掛けのソファがあった。
青い生地は破れかかっているし、色褪せて少し黒っぽい。
けれど、小さな肢体を受け止めるだけの力は残っていた。
部屋には他にも何か家具があった筈だけれど、覚えていない。
僕はソファに座って、家から持ってきた本を読んだり、お菓子を食べたり、
いろんなことを考えたりするのが好きだった。
当時、ゆっくり考えごとができたのは、その場所くらいだったかもしれない。
今日もその『僕の席』に行こうと思っていた。
部屋のドアを開ける。このドアは重たくないのですぐに開けられる。
目に入る青いソファ。歩いていこうとすると、トン、と小さな音がした。
肩がびくっとなって足が止まる。
「だ、だれかいるの?」
返事はない。
お化けかもしれないと思った。
この『お化け屋敷』には本当にお化けが住んでいたのかと。
どうしよう。逃げた方が良いのか、でも少し見てみたい気もする。
普通の子供と比べると、僕はお化けの類に対する警戒心が少なかった。
トン、とまた音が鳴る。
ソファの影から、何か小さなものが出てきた。
ブルーの瞳、グレイの毛に包まれた細い手足、優雅に揺れるしっぽ。
「ねこ…」
グレイの猫は僕をじいっと見ていた。
そして、ゆっくりと僕の傍まで歩いてきた。
信じられない光景だった。
僕には誰も寄り付かないと思っていたのに。
僕のことを何も知らないのに、どうして近付いて来るんだろう。
猫は僕の目の前まで来て座ってしまった。こちらを見ている。
「僕のこと、気味が悪くないの?」
ブルーの瞳は、きょとんとしたまま僕を見ていた。
僕はそっとしゃがんでみる。
猫と距離が近くなり、瞳がよく見えた。空の色に近いブルー。
何かに似ていると思った。家にある大きな絵画。
絵や写真でしか知らないけれど。母さんの髪の色と同じだった。
猫はソファの方へ歩き出した。
伸びやかなジャンプをして、ソファに乗った。
くしゃりと欠伸をすると、其処で身体を丸めてしまった。
僕は静かに近付いていく。ある程度の距離は取って、猫の前に腰を下ろす。
ソファの上の猫と、目線の高さは同じくらいだった。
柔らかそうなグレイの毛。さわってみたいと思った。
動物は嫌いではなかったが、家に動物は一匹もいない。
父が大の動物嫌いだったからだ。
今まで動物に触れる機会はなかったが、今は目の前にある。
僕はそうっと手を伸ばした。
人差し指が滑らかな毛に触れる。
ブルーの瞳は眠たげに僕を一瞥しただけで瞳を閉じた。
今度は五本の指で、できるだけ優しく撫でた。
猫は僕から逃げず、目を閉じたままだった。
「君も一人ぼっちなの?」
猫の身体が思ったよりずっと、温かかった。
「僕と同じだね」
僕は猫の一挙一動を少し離れたところから見ていた。
猫は部屋の中をうろうろしたり、日当たりの良い場所で毛づくろいをしたり。
猫が甘えてくることはなかったが、僕が傍に居ても気にならないみたいだった。
僕に罵声を浴びせず、邪見にもしなかった。
それは奇蹟的な幸福だった。
あっという間に、部屋の中がオレンジ色になっていた。
そろそろ帰らないと、メイドの人達に嫌な顔をされる。
僕はちょっと猫の傍に近付く。
窓の下にできた夕焼けのひだまり。
オレンジ色の中で、うとうとしている。
「また、会えるかな?」
猫は手で顔を拭いていた。
「僕、また来るから」
猫を残して家に帰った。
その日の夜も父に怒られた。
彼はいつも機嫌が悪く、目が合うと睨まれる。
何をしても僕は彼を怒らせた。怒られた理由はいつもよく解らない。
僕の存在自体が彼を不快にさせるから。
僕にできることは、彼とできるだけ会わないよう努めることぐらいだった。
おそらく、僕に罵声を浴びせる近所の子供達が、親に思い切り甘えている頃。
僕は父に怯えながら毎日を過ごしていた。
けれど、この日は。
猫に初めて会えた日は、猫のことを考えながら眠ることができた。
「何かお菓子ちょうだい? ビスケットみたいなのが、いいんだけど」
次の日。メイドに頼んでおやつにビスケットを貰った。
猫が食べられそうだと思ったからだ。
それを綺麗なハンカチに包んで、ポケットに入れた。
久し振りにわくわくとした気分だった。逸る気持ちで隠れ家に向かった。
猫は居た。
昨日と同じ部屋、ソファの上で丸くなっていた。
ポケットからビスケットを出す。
このままでは大きいかなと思い、半分に割ってから猫の傍に置いてみた。
僕は其処から少し離れた場所でしゃがむ。
猫はビスケットをちらりと見ただけで、近付かなかった。
今日は駄目かもしれないと僕は諦めて、
自分用に持ってきたビスケットを食べ始めた。
ブルーの瞳は僕を見上げていた。
やがて、自分の傍に置かれたビスケットに手を伸ばした。
警戒しているようで、ちょん、ちょん、と触る。
おもちゃを扱うようにビスケットを転がしたり、叩いたりしていた。
くんくんと何度か匂いを嗅いでやっと食べ始めた。
猫には名前を付けた。アン。自分の名前から取った。
女性の名前だが、この猫がメスなのかは解らなかった。
偶然、ノドを触った時、猫は気持ち良さそうな顔をした。
ゴロゴロゴロと音がして、びっくりしたことがあった。
そのうちに猫は僕に触れてくるようになった。
ソファに僕が座り、僕の膝に猫が座る。
一緒に同じお菓子を食べることもできるようになった。
僕が隠れ家に行くと、猫は其処に居てくれた。
偶に出かけている時もあったが、暫く待っていると、
カマキリなどを銜えて戻ってくる。猫の口から、はみ出した羽や足。
初めて見た時は、そのグロテスクさに、とてもショックを受けた。
お屋敷の荒れた庭には、猫のエサとなるものが多いようだった。
猫もこのお屋敷を気に入ったらしかった。
僕だけの隠れ家は、アンとアンリの隠れ家になっていた。
膝に乗せた猫にクッキーを差し出した時があった。
家で今日のおやつに貰ったもの。アンの為に残しておいたものだ。
もう手の平に乗せたままでも大丈夫になっていた。
くんくんと少し匂いを嗅いだだけで、すぐに食べ始める。
クッキーを全部食べてしまうと、僕の手の平に付いた欠片や粉まで舐めた。
猫は僕の身体に昇ってきて、口許を舐められた。
小さな舌は少しざらざらしていて、とてもくすぐったかった。
僕は猫を抱いたまま、ソファに倒れ込む。
「僕のおうちで一緒に暮らせたら良いのにね」
父やメイドに言えないことも、この子には打ち明けられた。
当時の僕が唯一、友達と呼べる存在は、この猫しか居なかった。
「でも、駄目なの。パパ、動物嫌いだから。パパは、みんな嫌いなんだ。
パパはママだけが好きだったの。だから、他の人はみんな、嫌いなの。
誰も僕のこと好きになってくれない。近所の子も、メイドのお姉さん達も、パパも。
パパは、僕のことが一番嫌いなの」
猫が僕の頬を舐める。小さな舌が涙の痕を拭った。
くすぐったくて笑うと、また涙が零れた。
「僕に優しくしてくれるのはアンだけ」
あの日。また隠れ家に行った。
猫と会った部屋に行くと、ソファの上に猫の姿はなかった。
「アン、今日は居ないのかな」
肩を落としていると、みー、みー、という声が聞こえた。
部屋の中からだが、消えてしまいそうな小さい声。
耳を澄まして、声のする方に歩いていく。
猫は本棚の影で横たわっていた。
「どうしたの、アン」
足に擦り傷があった。グレイの毛が血で滲んでいる。
その周りは木屑で汚れていた。
はっと本棚を見る。この板は古くなって、あちこち棘がある。
ささくれた板に触れてしまったのかもしれない。
本棚を見ると、グレイの毛が少し落ちていた。
猫は傷口を舐めているが、表情は辛そうだ。
もし、このまま死んでしまったら。
最悪の場面が浮かんで涙が溜まっていく。
弱々しい鳴き声を前にして、どうすることもできなかった。
この猫は僕と出会ったから、不幸にしてしまったのではないか。
近所の子が言っていたように、自分が呪いを掛けてしまったのではないか。
「その猫、怪我しているんだね?」
大人の声がした。
僕の隠れ家に知らない大人が入ってきた。
どんな顔をしていたか忘れてしまったけれど、
コート姿で、黒っぽい鞄を持った男の人。
「私が怪我の手当てをしてあげよう。その猫を少しお借りできるかね?」
優しそうな声。身なりも良い。だが、人間は誰も信用できない。
こんな廃屋に入ってくるなんて可笑しい。
僕は猫を抱え、相手を睨んだ。
「あなたは、だれ?」
出来る限り棘のある言い方をしたつもりだが、彼は穏やかに返してきた。
「私かい? 動物のお医者さんだよ」
「…お医者さん?」
「うん。先程、足を痛めている猫がこの屋敷に入っていくのを見掛けてね、
追い駆けてきてしまったんだ。傷付いた子を見ると放っておけなくてね。
包帯を巻いてあげたいだけなんだ。そうしないと、猫は傷口を舐めてしまうからね」
「舐めてはいけないの?」
「うん。君も自分の髪をブラシで梳くだろう?」
「え、うん」
「猫も同じでね。自分の毛を綺麗に梳くんだ、舌でね。
舌がブラシの役割をするんだよ。
この子が自分の毛を舐めているの、見たことはあるかい?」
「あ、ある」
「あれはね、お掃除をしているんだよ。毛の汚れを取って、綺麗に梳いている。
それで猫の舌はブラシのように、少しざらざらしているんだ。
ブラシのような舌で傷を舐めると、傷口が広がってしまう。
だから、傷口を舐めないようにしないとね。
ああ、すまない。今の君にはちょっと難しい話だったかな?」
「ううん、解った。猫が怪我したら、包帯をした方が良いんでしょ?」
「そう。小さい時から賢い子だね。では猫をお借りして良いかな?」
「うん」
彼は黒い鞄から包帯を取り出す。
猫の細い足に手際良く巻いていく。僕は彼と猫を交互に眺めていた。
「ちょっと足を上げるよ? もう少しで終わるからね?」
猫も大人しく彼の言うことを聞いていた。
グレイの足に真っ白な布がちょこんと巻かれている。
「これでおしまいだよ。良い子だったね」
大人の手が猫の頭を撫でると、猫は気持ち良さそうに目を閉じていた。
僕はその様子をぼうっと見つめていた。
それに気付いたお医者さんは、僕の傍へ来た。
膝を着いて、僕と視線の高さを合わせる。
「君も。怪我した子を心配してくれて、良い子だね」
猫にしたように僕の頭を撫でた。
僕は何も言えないまま、動けなかった。
彼は優しく笑って、膝を伸ばす。
「それじゃ、私は失礼するよ」
「えっ」
「ああ、三日ほど経って、もし君がこの子に会うことがあったら包帯を外してもいいし、
包帯は緩めに巻いたから、放っておいても自然に剥がれるから大丈夫だよ」
「あ、うん。わかった」
「では、ごきげんよう」
お医者さんは鞄を持って出て行く。
パタンと閉まるドアを、ぼんやり見つめていた。
彼が居なくなった部屋は、がらんとして見えた。
「メルシーって言うの忘れちゃった」
僕の声だけが部屋に響く。
唯一、心を許せる友達を助けて貰ったのにお礼も言わなかった。
猫の足に巻かれた綺麗な包帯。
僕は駆け出して、彼の後を追い駆けた。
玄関の重たいドアを開ける。雑草の庭に彼の姿はなかった。
もうお屋敷の外に行ってしまったのだろうか。
草の海を進み、屋敷を囲う塀まで行く。
灰色の煉瓦が幾つか抜けた場所。その小さな穴を通って外に出る。
広い通りに、人影はひとつもなかった。
もう行ってしまったようだ。
「また、会えるかな、お医者さん」
僕は隠れ家に戻ることにした。
もう一度、猫を見てから家に帰ろうと思った。
煉瓦の塀に開いた穴。子供しか通れない大きさ。
いつも通る出入り口を見た時、やっと気が付いた。
このお屋敷に大人は入れない筈だ。
門は開かないし、この穴しか中に入れる場所はない。
彼と会ったことは夢だったのかもしれないとも思ったが、
部屋に戻ると、猫の足にはちゃんと包帯が巻かれていた。
真っ白な布を見つめながら、ぽつりと呟く。
「あのお医者さん…もしかして、お化けだったのかな?」
猫は、みゃあ、と鳴いた。
fin
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