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■ギャグ
■アンリの猫化話
休日。アンリは図書館で神秘学の本を読んでいただけだった。
勉強熱心だと褒められるならまだしも、悪いことなど何もしていない。
古びたページが読み難くて、指で辿っていた。
可笑しな文字列が綴られていたから、思わず読み上げていた。
それがいけないこととは思えない。
声の大きさは、他の誰にも聞こえない程度だった。
『世の中には科学で説明できないことがあるんだよ』
何処かの講師が言っていたことが脳裏に甦る。
それは解ってる。もう四年も学んできたことだもの。
けれど、どうして。
本を読んでいただけで、僕が気を失わなくてはならないの?
目が覚めたら、布の中に埋もれていた。
頭が重たいので手で引っ張って布の外へ出た。
目に入ったのは天井。
その色艶は見慣れたものに違いないけれど、位置が高過ぎる。
自分の正面には、本棚の最下部。
本のタイトルに見覚えがあった。一番下にあるので取り難いと思った本だ。
下を見ると、ブルーの布。これは僕の私服だ。
今日は休みだから、と寮で着たワイシャツだ。
布に伸ばした手は真っ白だった。肌の色ではなく、毛の色が白だった。
手を引っ繰り返してみる。
ねえ。何故、僕に肉球があるの。
これはネコ目(もく)の動物にしかないのに。
ネコ?
鏡を見なくては。僕は図書館から出た。
鏡を見るより先に、自分の姿が解った。
図書館の司書に姿を見られ「なんで猫が?」と言われた。
「なんで」はこちらの台詞だ。
外に出ると水溜りがあって、今の自分の姿を確認した。
瞳の色だけは変わっていないようだけど、
これは白猫だ。
果てしなく遠い道のりを越え、寮に辿り着く。
サロンには誰も居なかった。今日は休日なので仕方ない。
廊下に出ると、遠くの方から地震が近付いてきた。
「あれ?」
耳に馴染んだ声が遙か上から聞こえる。
巨人のように見えるが、これは長い付き合いの生徒代表殿だ。
僕の傍に来ると膝を付いた。ふんわりとした微笑。
「迷子かい、仔猫ちゃん?」
最初に彼に会えたことは幸運かもしれない。
彼は動物行動学の特別講義を取っているし、動物愛護者だ。
学院で一番の動物好き、とは言えないが(おそらくオウム使いのマハラジャが一番)
この寮の中では間違いなく、最も動物に慣れている。
猫になった僕を悪いようにはしないだろう。
「綺麗な白い毛だね。少し触っても良いかな?」
大きな手が、そっと頭に置かれる。
ゆっくりと頭を撫でられて、思わず目を閉じてしまう。
猫の身体にとって、彼の手付きは心地好いらしい。
それに彼の声。人間の時には感じ得ない安堵に包まれる。
彼になら飼われても良いと、猫の本能が感じている。
猫は穏やかな声が好みなのだろうか。動物好きが嬉しそうに笑う。
「可愛いな」
彼が動物にだけ見せる笑顔だ。アルセイデスに接する時もそうだが、
彼は動物を前にすると、普段以上に優しくて甘い声になる。
「気持ち良いかい? じゃあ、次はノドを」
そこを触られたら本当に彼の猫になってしまう気がした。
急いで彼の手から離れた。彼はきょとんとしている。
「あ。もしかして、おなかが空いているのかな?」
彼がキッチンに向かおうとしている。
置いていかれるわけにも行かないので彼の後に続いた。
付いてきた僕を見て、「やっぱりおなかが空いているんだね」と彼は笑った。
違うと言ってやりたかった。
彼は愛馬と意思疎通ができると豪語しているが、
やはり、それは彼の思い込みなのではないか。
人間に戻ったらそう指摘してやりたい。戻れたらの話だが。
彼はシェフに頼んでミルクを貰う。グラスではなく皿に入れていた。
自分の部屋に僕を連れて行く。僕の前にミルクの皿を置いた。
「はい、どうぞ」
皿を見下ろす。白い水面が美味しそうに見える。
図書館から寮まで来るのに大分走ったから喉は渇いている。
でも、皿からミルクを飲むなんて僕のプライドが許さない。
彼を見上げると、彼はまた優しく微笑んだ。
「これは君のだから、遠慮しなくて良いんだよ?」
どうして皿のミルクがこんなに美味しそうに見えるの。
抗えない本能に負けて、ぺろりと舐めてみる。
ミルクってこんなに美味しい飲み物だったの。
「美味しいかい? 全部あげるから、慌てなくて良いよ」
彼は猫がミルクを飲んでいる様子を愛おしげに見守っていた。
「可愛いな。アンリに見せてあげたら、喜ぶだろうな」
猫が顔を上げる。
「アンリは俺の友人だよ? 彼も動物が大好きなんだ。
もうすぐ図書館から帰ってくる頃だと思うし、
アンリが戻るまで、俺と一緒に遊んでいようか」
ジョシュアは猫の為におもちゃを作った。
作ったと言っても、ハンカチを巻いて棒状にしただけだ。
それを猫に見せて左右に振る。なんなの、その子供騙し、と猫は思った。
しかし、猫の手は勝手に動く物を捕まえようとする。
目は動くハンカチを追ってしまうし、捕まえたいという衝動が抑えられない。
ジョシュアがハンカチを右に動かせば、猫もその後を追って手を付く。
猫に捕まる前にジョシュアは左に動かし、猫も左に手を付く。その繰り返し。
それだけのことなのに、腕は『狩り遊び』に夢中だ。
猫は狩生活の動物だから身体が反応する理屈は解る。だけど、どうして。
どうして、こんなに面白いの。
かなり遊んだ後、ジョシュアは、はい、とハンカチを差し出した。
「遊んでくれてありがとう。これは君にあげるね」
すると、猫は不満げに、みゃあう、と鳴いた。ジョシュアは笑った。
「ごめん。もっと遊びたかったんだ?」
優しく抱き上げる。自分の膝の上に僕を寝かせる。
優しい笑顔に見つめられる。
「可愛いね、仔猫ちゃん」
「ジョシュア! 大変! 大変だよ!!」
ドアが開く。ユウタとハルヤが居た。
「どうしたんだい、ユウタ。そんなに慌てて」
「ねえ、ジョシュア。アンリ、知らない?」
「アンリ? さっき、図書館に行くのを見たけど」
「これ、図書館で落ちてたんだ、神秘学の棚の前に」
ハルヤが腕に抱えていた袋を見せる。
中にはブルーのワイシャツと黒のスラックス、など。ジョシュアは愕然と呟く。
「これ、さっき、アンリが着ていた…」
「やっぱり…なんか見たことある服だと思ったんだ」
ユウタがジョシュアの腕を掴む。
「アンリ、寮にも図書館にも居ないんだ。もしかして、悪い人に攫われて…」
「攫われてるだけなら、まだ良いんだけどね」
「どういうことだい、ハルヤ?」
「えっと、その、アンリ、今、何も着てないってことでしょ?」
「えっ…どどど、どうしよう、ジョシュア!」
「落ち着いて、ユウタ。このこと、レッドとシルヴァンには知らせたのかい?」
「ううん、ままま、まだ」
「じゃあ、二人にも知らせて学内を探してくれるように言ってくれるかな?
レッドにはスタジオから放送で呼びかけて貰おう。
俺は生徒代表室に行って、学外を探して貰えるように頼んでみるよ」
「う、うん。解った。ハルヤも手伝ってくれる?」
「うん。じゃあ、ユウタはレッドが行きそうな場所を探して。俺、シルヴァンを探してみるよ」
猫が鳴く。ジョシュアは腰を落として、猫を撫でる。
「ごめんね。俺の友人が行方不明になってしまったんだ。
俺、探しに行かなくちゃ。君は俺の部屋に居ても良いから」
猫は鳴き止まない。ジョシュアは猫のノドを撫でる。
猫の身体に信じられないほどの快感が走る。
頭からしっぽまで一気に力が抜けた。
気持ち良くて、ゴロゴロとノドが鳴ってしまう。彼の手が離れていく。
「アンリが見付かったらまた続きをするよ。良い子で待っていて、ね?」
三人は行ってしまった。開いたままのドア。
猫はジョシュアの部屋を出ることにした。
外を歩いていると、前方を何かが跳ねた。
カマキリだ。
目が合う。両の鎌を上げて強気に威嚇している。向こうは戦闘体勢だ。
虫を見て食欲を感じた自分にがっかりした。
無視を決め込んで横切る。カマキリは拍子抜けしたように鎌を下ろした。
暫く歩いていくと遠くに大人の人影が見えた。神秘学の講師。オーギュストだ。
猫は教授の元に駆け寄る。彼はカフェで紅茶を片手に本を読んでいた。
足許に座って鳴いてみる。こちらを向いた。
オーギュ、と呼んでいるつもりだが、
実際に発せられる声は、みゃあ、になってしまう。
猫を一目見て、教授は言った。
「アンリ?」
猫は驚き過ぎて、鳴くこともできなかった。
「おや? アンリではなかったかな?」
みゃあと返事する。彼はいつもと変わらない穏やかな笑顔を見せる。
「一体いつから猫に変身できるようになったんだい、アンリ?」
生徒の緊急事態に、神秘学の教授は慌てる素振りを全く見せない。
みゃあみゃあと鳴く。
「もしかして、あの本を読んでしまったのかな?
それなら人間の身体に戻してあげないとね」
猫は鳴き止む。
「とりあえず、私の部屋に行こうか?」
猫を持ち上げて腕に抱える。
小さな身体は、教授の腕の中にすっぽり収まってしまう。
「そうだ。アンリが猫で居るうちに猫の生態を勉強しようか?
身を持って勉強ができる、またとない機会だ。
例えば、猫は何処を撫でられると気持ちが良いのか、とか、ね?」
猫は爪を出す。教授はクスクスと笑った。
「冗談だよ。猫になっても気は短いんだね。とにかく私の部屋へ行こう?」
猫は爪を出したまま、彼の腕に突き刺す手前で彼を見上げる。
教授は余裕のある微笑を浮かべ、小首を傾げた。
「此処で、人間の身体に戻っても良いのかね?」
猫は人間を睨み付けながら、爪をしまう。
「お利口な猫だね」
自室へと歩いていくと、左腕に猫パンチが飛んでくる。
本気の反抗ではないが言葉にならない不満をぶつけているようだ。
ゆっくりとしたペースで、とん、とん、と殴られる。
「アンリ、残念だけどあまり痛くないよ。くすぐったいから止めてくれないかな?
それに暴れると落ちてしまうから、ちゃんと私の腕に捕まっていなさい?」
猫はパンチを止めない。
教授は猫の頭を押さえるように撫でた。優しい声で言う。
「突然、猫になってしまって不安だったのかね? もう大丈夫だから」
また、とん、とん、と小さな手がぶつかってきた。
講師は自室に戻るとドアに鍵を掛け、猫をベッドに置いた。
猫は講師を見上げている。しっぽが左右に動く。
ぱた、ぱたと不機嫌に揺れていた。
「アンリは猫になっても可愛いね」
ベッドに腰を下ろした講師は猫の頭を撫でる。
頭から頬へと手が下りてくる。
その小指を猫が、かぷっと銜えた。歯は立てていない。
「怒っているのかい? ごめんごめん」
猫が指を離す。講師は人差し指でノドをなぞった。
今までに感じたことのない快感。
猫の意思とは裏腹に、身体は悦楽に支配されていく。
安心感を覚えたしっぽが、徐々に真っ直ぐに立ち上がる。
ねだるように勝手にゴロゴロと鳴いてしまう。
「もっと、して欲しいんだね? 良いよ」
講師は微笑んで、猫の小さな唇に口付けた。
猫が草臥れた頃。やっとオーギュストは猫の耳許で呪文を唱える。
ぽむっ、と音がして一瞬のうちに人間の姿に変わった。
講師は、その白い肩に毛布を掛けた。
生まれたままの姿だった。アンリは両足を曲げて座り、毛布で身体を覆う。
「今更恥ずかしがらなくても良いじゃないか、アンリ?」
「…どうして僕がこんなめに遭わなくてはならないの」
「図書館で古い本を読んでいたんじゃないかね?」
「それが何だと言うの」
「どんな本を読んでいたんだね?」
「…呪術の」
「では呪文も唱えてしまった?」
「呪文? あ、そう言えば、可笑しな言葉が…」
「サン・ジェルマンの血は常人と少し違うからね。
特にアンリは伯爵の血を濃く受け継いでいるだろう?
伯爵もそうだったけれど、月の満ち欠けによっては力が弱くなる。
古い呪文を唱えると、身体が反応してしまうことがあるんだ、ごく稀にね」
「そんなこと、伯爵の日記には書いてなかった」
「恥ずかしくて書けなかったんだよ。きっと。
日記と言えども、日々の全てを書くわけじゃないだろう?」
「ちょっと待って。君、その話、何処で知ったの?」
「え? あ、さあ。何か古い文献だったと思うけれど。忘れてしまったな」
不満を残したまま、毛布をきゅっと握り直す。
オーギュストの毛布。彼の匂いがする。
「ねえ」
「ん?」
「どうして、猫だったのに僕だと解ったの?」
「愛の為せる業かな」
「僕は真面目に聞いているの」
講師は肩を竦める。
「声が聞こえた気がしてね、オーギュ、って」
「声?」
「私のことをオーギュと呼んでくれるのは君だけだ。
アンリかなと思って振り向いたら、可愛い猫が居て、他には誰も居なかった。
だから、私を呼んだのは、この子かなと思ったんだよ」
「猫になっているなんて…普通、思わないでしょう」
「そうだね、普通は。私は昔からよく変わっていると言われるから」
校内放送のチャイムが鳴った。声の主はハリウッド仕込みの発声量で叫ぶ。
「おい、アンリ! 何処行った!? 居るならすぐ出て来い!
居なくても寮に戻って来い! 見掛けた奴は教えてくれ! 行方不明なんだ!」
アンリは耳鳴りと頭痛がした。
「余計なことを…」
「お友達が探しているようだね?
アンリ、私の服を貸すから、それを着て寮まで戻ると良いよ」
「君の服なんか、サイズが合わない」
「そうだね。まるで私の部屋からの朝帰りだと言わんばかりだし」
「オーギュスト」
「私は構わないけれど」
「君、此処に居られなくなるよ?」
「それは、アンリが困るね」
「困るのは君でしょ? あっ。ハルヤが服を持っている。
彼が僕の服を図書館で見付けたんだ。彼から服を返して貰って来て」
「成程。『素肌のアンリを預かっているからその服を私に』と言って?」
憎らしい微笑を睨む。
「言葉を選んで」
「まあ、信じて貰えるかどうかは解らないけれど、
君が猫になってしまったと正直に伝えることが最良だと思うよ?
そうでなければ図書館に君の服が落ちていたことの説明が付かない。
さあ、証明問題だよ、アンリ。自分が猫だったこと、証明できるかな?」
「ハルヤ君、だね?」
「え? あ、神秘学の…」
キャンパス内を捜索中、ハルヤは珍しい人に声を掛けられた。
顔は知っているが、名前が出てこない。講師は優しく微笑む。
「こんにちは。オーギュスト・ボージェだよ」
「ど、どうも。あの、俺に何か?」
「うん。ちょっとアンリにおつかいを頼まれてね」
今、探している人の名前を出されて、ハルヤは驚いた。
「アンリ? アンリが何処に居るか知ってるんですか?」
「私の部屋に居るよ」
「えっ、な…」
絶句しつつ、頬が桃色に染まっていく。
「それで、アンリに聞いたのだけど、君がアンリの服を持っている?」
「あ、はい、持ってますけど…どうしてアンリが知ってるんですか?」
講師は教え子の回答を提示する。
「今日、君は可愛い白猫を見なかったかい?」
アンリの服は無事にハルヤからボージェ教授に渡った。
その服を着たアンリが寮に戻って来た為、アンリ行方不明事件は一件落着となった。
しかし、そのまま納得できるわけもなく、
さっきまで猫だった人は、サロンで囲まれていた。
ユウタは不思議そうにアンリの全身を眺める。
「じゃあさー、ホントに、あの白い猫がアンリだったってこと?」
「そうだ、って何回言わせれば気が済むの」
「だって信じられないじゃん」
「僕の方が信じられないよ、全く」
長い付き合いのジョシュアは可笑しそうに笑っていた。
「でも、可愛い猫だったよ、アンリ。また猫になった時は一緒に遊ぼうね?」
「二度と御免だミャ」
アンリは口を押さえる。寮生達は揃って叫んだ。
fin
■アンリの猫化話
休日。アンリは図書館で神秘学の本を読んでいただけだった。
勉強熱心だと褒められるならまだしも、悪いことなど何もしていない。
古びたページが読み難くて、指で辿っていた。
可笑しな文字列が綴られていたから、思わず読み上げていた。
それがいけないこととは思えない。
声の大きさは、他の誰にも聞こえない程度だった。
『世の中には科学で説明できないことがあるんだよ』
何処かの講師が言っていたことが脳裏に甦る。
それは解ってる。もう四年も学んできたことだもの。
けれど、どうして。
本を読んでいただけで、僕が気を失わなくてはならないの?
目が覚めたら、布の中に埋もれていた。
頭が重たいので手で引っ張って布の外へ出た。
目に入ったのは天井。
その色艶は見慣れたものに違いないけれど、位置が高過ぎる。
自分の正面には、本棚の最下部。
本のタイトルに見覚えがあった。一番下にあるので取り難いと思った本だ。
下を見ると、ブルーの布。これは僕の私服だ。
今日は休みだから、と寮で着たワイシャツだ。
布に伸ばした手は真っ白だった。肌の色ではなく、毛の色が白だった。
手を引っ繰り返してみる。
ねえ。何故、僕に肉球があるの。
これはネコ目(もく)の動物にしかないのに。
ネコ?
鏡を見なくては。僕は図書館から出た。
鏡を見るより先に、自分の姿が解った。
図書館の司書に姿を見られ「なんで猫が?」と言われた。
「なんで」はこちらの台詞だ。
外に出ると水溜りがあって、今の自分の姿を確認した。
瞳の色だけは変わっていないようだけど、
これは白猫だ。
果てしなく遠い道のりを越え、寮に辿り着く。
サロンには誰も居なかった。今日は休日なので仕方ない。
廊下に出ると、遠くの方から地震が近付いてきた。
「あれ?」
耳に馴染んだ声が遙か上から聞こえる。
巨人のように見えるが、これは長い付き合いの生徒代表殿だ。
僕の傍に来ると膝を付いた。ふんわりとした微笑。
「迷子かい、仔猫ちゃん?」
最初に彼に会えたことは幸運かもしれない。
彼は動物行動学の特別講義を取っているし、動物愛護者だ。
学院で一番の動物好き、とは言えないが(おそらくオウム使いのマハラジャが一番)
この寮の中では間違いなく、最も動物に慣れている。
猫になった僕を悪いようにはしないだろう。
「綺麗な白い毛だね。少し触っても良いかな?」
大きな手が、そっと頭に置かれる。
ゆっくりと頭を撫でられて、思わず目を閉じてしまう。
猫の身体にとって、彼の手付きは心地好いらしい。
それに彼の声。人間の時には感じ得ない安堵に包まれる。
彼になら飼われても良いと、猫の本能が感じている。
猫は穏やかな声が好みなのだろうか。動物好きが嬉しそうに笑う。
「可愛いな」
彼が動物にだけ見せる笑顔だ。アルセイデスに接する時もそうだが、
彼は動物を前にすると、普段以上に優しくて甘い声になる。
「気持ち良いかい? じゃあ、次はノドを」
そこを触られたら本当に彼の猫になってしまう気がした。
急いで彼の手から離れた。彼はきょとんとしている。
「あ。もしかして、おなかが空いているのかな?」
彼がキッチンに向かおうとしている。
置いていかれるわけにも行かないので彼の後に続いた。
付いてきた僕を見て、「やっぱりおなかが空いているんだね」と彼は笑った。
違うと言ってやりたかった。
彼は愛馬と意思疎通ができると豪語しているが、
やはり、それは彼の思い込みなのではないか。
人間に戻ったらそう指摘してやりたい。戻れたらの話だが。
彼はシェフに頼んでミルクを貰う。グラスではなく皿に入れていた。
自分の部屋に僕を連れて行く。僕の前にミルクの皿を置いた。
「はい、どうぞ」
皿を見下ろす。白い水面が美味しそうに見える。
図書館から寮まで来るのに大分走ったから喉は渇いている。
でも、皿からミルクを飲むなんて僕のプライドが許さない。
彼を見上げると、彼はまた優しく微笑んだ。
「これは君のだから、遠慮しなくて良いんだよ?」
どうして皿のミルクがこんなに美味しそうに見えるの。
抗えない本能に負けて、ぺろりと舐めてみる。
ミルクってこんなに美味しい飲み物だったの。
「美味しいかい? 全部あげるから、慌てなくて良いよ」
彼は猫がミルクを飲んでいる様子を愛おしげに見守っていた。
「可愛いな。アンリに見せてあげたら、喜ぶだろうな」
猫が顔を上げる。
「アンリは俺の友人だよ? 彼も動物が大好きなんだ。
もうすぐ図書館から帰ってくる頃だと思うし、
アンリが戻るまで、俺と一緒に遊んでいようか」
ジョシュアは猫の為におもちゃを作った。
作ったと言っても、ハンカチを巻いて棒状にしただけだ。
それを猫に見せて左右に振る。なんなの、その子供騙し、と猫は思った。
しかし、猫の手は勝手に動く物を捕まえようとする。
目は動くハンカチを追ってしまうし、捕まえたいという衝動が抑えられない。
ジョシュアがハンカチを右に動かせば、猫もその後を追って手を付く。
猫に捕まる前にジョシュアは左に動かし、猫も左に手を付く。その繰り返し。
それだけのことなのに、腕は『狩り遊び』に夢中だ。
猫は狩生活の動物だから身体が反応する理屈は解る。だけど、どうして。
どうして、こんなに面白いの。
かなり遊んだ後、ジョシュアは、はい、とハンカチを差し出した。
「遊んでくれてありがとう。これは君にあげるね」
すると、猫は不満げに、みゃあう、と鳴いた。ジョシュアは笑った。
「ごめん。もっと遊びたかったんだ?」
優しく抱き上げる。自分の膝の上に僕を寝かせる。
優しい笑顔に見つめられる。
「可愛いね、仔猫ちゃん」
「ジョシュア! 大変! 大変だよ!!」
ドアが開く。ユウタとハルヤが居た。
「どうしたんだい、ユウタ。そんなに慌てて」
「ねえ、ジョシュア。アンリ、知らない?」
「アンリ? さっき、図書館に行くのを見たけど」
「これ、図書館で落ちてたんだ、神秘学の棚の前に」
ハルヤが腕に抱えていた袋を見せる。
中にはブルーのワイシャツと黒のスラックス、など。ジョシュアは愕然と呟く。
「これ、さっき、アンリが着ていた…」
「やっぱり…なんか見たことある服だと思ったんだ」
ユウタがジョシュアの腕を掴む。
「アンリ、寮にも図書館にも居ないんだ。もしかして、悪い人に攫われて…」
「攫われてるだけなら、まだ良いんだけどね」
「どういうことだい、ハルヤ?」
「えっと、その、アンリ、今、何も着てないってことでしょ?」
「えっ…どどど、どうしよう、ジョシュア!」
「落ち着いて、ユウタ。このこと、レッドとシルヴァンには知らせたのかい?」
「ううん、ままま、まだ」
「じゃあ、二人にも知らせて学内を探してくれるように言ってくれるかな?
レッドにはスタジオから放送で呼びかけて貰おう。
俺は生徒代表室に行って、学外を探して貰えるように頼んでみるよ」
「う、うん。解った。ハルヤも手伝ってくれる?」
「うん。じゃあ、ユウタはレッドが行きそうな場所を探して。俺、シルヴァンを探してみるよ」
猫が鳴く。ジョシュアは腰を落として、猫を撫でる。
「ごめんね。俺の友人が行方不明になってしまったんだ。
俺、探しに行かなくちゃ。君は俺の部屋に居ても良いから」
猫は鳴き止まない。ジョシュアは猫のノドを撫でる。
猫の身体に信じられないほどの快感が走る。
頭からしっぽまで一気に力が抜けた。
気持ち良くて、ゴロゴロとノドが鳴ってしまう。彼の手が離れていく。
「アンリが見付かったらまた続きをするよ。良い子で待っていて、ね?」
三人は行ってしまった。開いたままのドア。
猫はジョシュアの部屋を出ることにした。
外を歩いていると、前方を何かが跳ねた。
カマキリだ。
目が合う。両の鎌を上げて強気に威嚇している。向こうは戦闘体勢だ。
虫を見て食欲を感じた自分にがっかりした。
無視を決め込んで横切る。カマキリは拍子抜けしたように鎌を下ろした。
暫く歩いていくと遠くに大人の人影が見えた。神秘学の講師。オーギュストだ。
猫は教授の元に駆け寄る。彼はカフェで紅茶を片手に本を読んでいた。
足許に座って鳴いてみる。こちらを向いた。
オーギュ、と呼んでいるつもりだが、
実際に発せられる声は、みゃあ、になってしまう。
猫を一目見て、教授は言った。
「アンリ?」
猫は驚き過ぎて、鳴くこともできなかった。
「おや? アンリではなかったかな?」
みゃあと返事する。彼はいつもと変わらない穏やかな笑顔を見せる。
「一体いつから猫に変身できるようになったんだい、アンリ?」
生徒の緊急事態に、神秘学の教授は慌てる素振りを全く見せない。
みゃあみゃあと鳴く。
「もしかして、あの本を読んでしまったのかな?
それなら人間の身体に戻してあげないとね」
猫は鳴き止む。
「とりあえず、私の部屋に行こうか?」
猫を持ち上げて腕に抱える。
小さな身体は、教授の腕の中にすっぽり収まってしまう。
「そうだ。アンリが猫で居るうちに猫の生態を勉強しようか?
身を持って勉強ができる、またとない機会だ。
例えば、猫は何処を撫でられると気持ちが良いのか、とか、ね?」
猫は爪を出す。教授はクスクスと笑った。
「冗談だよ。猫になっても気は短いんだね。とにかく私の部屋へ行こう?」
猫は爪を出したまま、彼の腕に突き刺す手前で彼を見上げる。
教授は余裕のある微笑を浮かべ、小首を傾げた。
「此処で、人間の身体に戻っても良いのかね?」
猫は人間を睨み付けながら、爪をしまう。
「お利口な猫だね」
自室へと歩いていくと、左腕に猫パンチが飛んでくる。
本気の反抗ではないが言葉にならない不満をぶつけているようだ。
ゆっくりとしたペースで、とん、とん、と殴られる。
「アンリ、残念だけどあまり痛くないよ。くすぐったいから止めてくれないかな?
それに暴れると落ちてしまうから、ちゃんと私の腕に捕まっていなさい?」
猫はパンチを止めない。
教授は猫の頭を押さえるように撫でた。優しい声で言う。
「突然、猫になってしまって不安だったのかね? もう大丈夫だから」
また、とん、とん、と小さな手がぶつかってきた。
講師は自室に戻るとドアに鍵を掛け、猫をベッドに置いた。
猫は講師を見上げている。しっぽが左右に動く。
ぱた、ぱたと不機嫌に揺れていた。
「アンリは猫になっても可愛いね」
ベッドに腰を下ろした講師は猫の頭を撫でる。
頭から頬へと手が下りてくる。
その小指を猫が、かぷっと銜えた。歯は立てていない。
「怒っているのかい? ごめんごめん」
猫が指を離す。講師は人差し指でノドをなぞった。
今までに感じたことのない快感。
猫の意思とは裏腹に、身体は悦楽に支配されていく。
安心感を覚えたしっぽが、徐々に真っ直ぐに立ち上がる。
ねだるように勝手にゴロゴロと鳴いてしまう。
「もっと、して欲しいんだね? 良いよ」
講師は微笑んで、猫の小さな唇に口付けた。
猫が草臥れた頃。やっとオーギュストは猫の耳許で呪文を唱える。
ぽむっ、と音がして一瞬のうちに人間の姿に変わった。
講師は、その白い肩に毛布を掛けた。
生まれたままの姿だった。アンリは両足を曲げて座り、毛布で身体を覆う。
「今更恥ずかしがらなくても良いじゃないか、アンリ?」
「…どうして僕がこんなめに遭わなくてはならないの」
「図書館で古い本を読んでいたんじゃないかね?」
「それが何だと言うの」
「どんな本を読んでいたんだね?」
「…呪術の」
「では呪文も唱えてしまった?」
「呪文? あ、そう言えば、可笑しな言葉が…」
「サン・ジェルマンの血は常人と少し違うからね。
特にアンリは伯爵の血を濃く受け継いでいるだろう?
伯爵もそうだったけれど、月の満ち欠けによっては力が弱くなる。
古い呪文を唱えると、身体が反応してしまうことがあるんだ、ごく稀にね」
「そんなこと、伯爵の日記には書いてなかった」
「恥ずかしくて書けなかったんだよ。きっと。
日記と言えども、日々の全てを書くわけじゃないだろう?」
「ちょっと待って。君、その話、何処で知ったの?」
「え? あ、さあ。何か古い文献だったと思うけれど。忘れてしまったな」
不満を残したまま、毛布をきゅっと握り直す。
オーギュストの毛布。彼の匂いがする。
「ねえ」
「ん?」
「どうして、猫だったのに僕だと解ったの?」
「愛の為せる業かな」
「僕は真面目に聞いているの」
講師は肩を竦める。
「声が聞こえた気がしてね、オーギュ、って」
「声?」
「私のことをオーギュと呼んでくれるのは君だけだ。
アンリかなと思って振り向いたら、可愛い猫が居て、他には誰も居なかった。
だから、私を呼んだのは、この子かなと思ったんだよ」
「猫になっているなんて…普通、思わないでしょう」
「そうだね、普通は。私は昔からよく変わっていると言われるから」
校内放送のチャイムが鳴った。声の主はハリウッド仕込みの発声量で叫ぶ。
「おい、アンリ! 何処行った!? 居るならすぐ出て来い!
居なくても寮に戻って来い! 見掛けた奴は教えてくれ! 行方不明なんだ!」
アンリは耳鳴りと頭痛がした。
「余計なことを…」
「お友達が探しているようだね?
アンリ、私の服を貸すから、それを着て寮まで戻ると良いよ」
「君の服なんか、サイズが合わない」
「そうだね。まるで私の部屋からの朝帰りだと言わんばかりだし」
「オーギュスト」
「私は構わないけれど」
「君、此処に居られなくなるよ?」
「それは、アンリが困るね」
「困るのは君でしょ? あっ。ハルヤが服を持っている。
彼が僕の服を図書館で見付けたんだ。彼から服を返して貰って来て」
「成程。『素肌のアンリを預かっているからその服を私に』と言って?」
憎らしい微笑を睨む。
「言葉を選んで」
「まあ、信じて貰えるかどうかは解らないけれど、
君が猫になってしまったと正直に伝えることが最良だと思うよ?
そうでなければ図書館に君の服が落ちていたことの説明が付かない。
さあ、証明問題だよ、アンリ。自分が猫だったこと、証明できるかな?」
「ハルヤ君、だね?」
「え? あ、神秘学の…」
キャンパス内を捜索中、ハルヤは珍しい人に声を掛けられた。
顔は知っているが、名前が出てこない。講師は優しく微笑む。
「こんにちは。オーギュスト・ボージェだよ」
「ど、どうも。あの、俺に何か?」
「うん。ちょっとアンリにおつかいを頼まれてね」
今、探している人の名前を出されて、ハルヤは驚いた。
「アンリ? アンリが何処に居るか知ってるんですか?」
「私の部屋に居るよ」
「えっ、な…」
絶句しつつ、頬が桃色に染まっていく。
「それで、アンリに聞いたのだけど、君がアンリの服を持っている?」
「あ、はい、持ってますけど…どうしてアンリが知ってるんですか?」
講師は教え子の回答を提示する。
「今日、君は可愛い白猫を見なかったかい?」
アンリの服は無事にハルヤからボージェ教授に渡った。
その服を着たアンリが寮に戻って来た為、アンリ行方不明事件は一件落着となった。
しかし、そのまま納得できるわけもなく、
さっきまで猫だった人は、サロンで囲まれていた。
ユウタは不思議そうにアンリの全身を眺める。
「じゃあさー、ホントに、あの白い猫がアンリだったってこと?」
「そうだ、って何回言わせれば気が済むの」
「だって信じられないじゃん」
「僕の方が信じられないよ、全く」
長い付き合いのジョシュアは可笑しそうに笑っていた。
「でも、可愛い猫だったよ、アンリ。また猫になった時は一緒に遊ぼうね?」
「二度と御免だミャ」
アンリは口を押さえる。寮生達は揃って叫んだ。
fin
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