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■オーギュスト×アンリ ユウタ ジョシュア
「ヘブライ語では『胎児』。呪術的な儀式を経て、土や粘土で作られた人形だね」
金曜日の第二化学室。
今日の神秘学では錬金術と縁が深いカバラ教について学んでいた。
講師は黒板に『ゴーレム』と綴る。
英語とヘブライ語で書いてくれたようだが、後者は丸っぽい記号にしか見えない。
生徒達の中では、おそらく誰も読めていない。あの特別講師はあらゆる言語に秀でている。
受講生の一人であるアンリは、敢えて読めない方をノートにメモした。
「人形にお札を貼ると動き出し、主人に忠誠を尽くすと言われている。そしてこれが」
講師は屈んで、教壇の下から土色の人形を取り出した。両手でそっと教壇に乗せる。
「見本があった方が良いかと思ってね。昨日、私が作ったものだよ。
自分では、なかなか可愛くできたと思うのだがね。どうかな?」
見た目は古墳から発掘される土偶のようだが、細かな彫刻などはない。
ごくシンプルな、手抜きの土偶だ。それを可愛いなどと思っているのは彼だけだろう。
「ゴーレムの形は特に決まりはないんだけれど、このようなイメージが一般的だと思うよ。
そして、ゴーレムに命を与える護符はこれだ」
一枚の白い長方形。手の平よりやや小さいくらいの大きさ。
何か文字が書いてあるようだが、小さくて読めない。札を土人形の足許に置く。
講師はチョークを持って、黒板に大きめにそのスペルを書く。
「emeth(エメト)と綴って、ゴーレムの額や胸に貼るんだ。
この単語は『真理』や『神』という意味がある」
チョークを指に挟めたまま黒板消しを持つ。
「ゴーレムを止めたい時は、頭文字のeを消す」
eの上に置いた黒板消しが下ろされる。
「これで、meth(メト)。『死』になる、というわけだ」
もう何も持っていない手で、コンコンと黒板を軽くノックした。
黒板に背を向けて、やや俯きがちに話を続ける。
「成程、意味的には覚えやすいかもしれない。だが、かつての術者の中には、
ゴーレムが暴走した為に、eを消すのに一苦労した者もいるけれどね」
そこで顔を上げ、札を手に取る。
「では試しに、この子にお札を貼ってみようか?」
しん、となった教室。元々、静かな教室ではあるが、物音ひとつしなくなった。
教壇の上にある土人形へ注目が集まる。冷静と好奇の入り混じった視線。
黄土色の額にお札が貼られる。生徒達が見守る中、土人形はぴくりとも動かない。
講師は黒板側からゴーレムを覗き込む。
「おや? みんなの前で緊張しているのかい? 少しで良いから歩いて見せてくれないかな?」
すると、ガタッと土人形が揺れた。カタカタと10センチほど前に進んだ。
教室に悲鳴こそ上がらないが、生徒達は多少なりとも驚かされた。
琥珀の視線が元凶を捉える。講師の片手が、ジャケットのポケットに入っている。
「ボージェ教授。その手に持っている物は?」
講師は軽く笑って答えた。
「気が付くのが早いね、アンリ」
あっさりと手を出す。握られていたのは小さな機械。
「これはゴーレムをラジオコントロールできるスイッチだよ」
髪の長い生徒が頬杖を突いた。他の生徒達も声には出さないものの、やや不満げだ。
「動いた方が面白いかと思って、ゴーレムのラジコンを作ってみたんだ。驚かせてすまなかったね」
機械のボタンを押すと、先程と同じカタカタという音がしてゴーレムが前進する。
ボタンを離すと、教壇から落ちる手前で停止した。
「こういうペテンを用いて、錬金術師だと偽った者も昔は多かったんだ。
トリックで黄金変成に見せ掛ける。ちょっとした知識とちょっとした遊び心があればできてしまうからね。
例えば、見物者には、これから銅を黄金に変える、と説明し、
本物の黄金に銅を塗りつけたものを、湯に入れてかき回す。
それを湯から取り出せば銅が落ちて黄金が現れる。ごく初歩的な手品だね。
けれど、そんな手品を用いた彼等を頭ごなしに批難することもできないんだ。
錬金術の実験には、莫大な時間と費用が必要だ。王や貴族など資産家の支援が欠かせない。
だから、見込みがある奴だと思わせる為に、ペテンの錬金術を用いた。
強力なパトロンを得て、今度は本当に、黄金変成を成功させる為に」
鐘の音が講義終了を告げた。
「では今日は此処までにしよう」
静かながらも、教室の緊張が解ける。
「ああ。アンリ、ちょっと残ってくれるかな?」
呼ばれた生徒が視線で問う。講師は微笑むだけだった。
「ごきげんよう、諸君。楽しい週末を」
他の生徒達が退室する。
残された生徒は、黒板を消す背中に問い掛けた。
「僕に何の用?」
黒板掃除を続けながら、講師は答える。
「アンリに楽しい週末のご提案だよ」
「…なに」
黒板に残っていた最後のthが消える。黒板消しを置く。
手に突いた粉を軽く払ってから、講師は振り向いた。
「アンリにね、化学準備室の大掃除を手伝って欲しいんだ」
生徒は握った手を耳の下に置く。教壇を見上げる瞳は冷たい。
琥珀の氷を見つめながら、講師は微笑んだ。
「遊園地や映画館を期待したのだったら謝るよ?」
「期待してない」
「準備室の備品が増えてきたので、そろそろ整理整頓が必要なんだ。
アンリのお友達を連れてきても良いよ? もちろん、私と二人きりでも良いけれどね?」
「僕にメリットのないことは、したくないな」
「欲しい備品があれば持っていって構わないよ。劇薬を除いてね。
それから、掃除の後に美味しいティータイムくらいなら用意できるかな」
「あまり魅力が感じられないね」
「どちらにしても、私は午後には準備室に居るから。気が向いたら来てくれると助かるよ」
土曜日の午後。
講師は準備室で片付けを始めていた。
ドアが開く。受講生と、その後ろに二人。
「おや。アンリ、お友達を連れてきてくれたんだね?」
「サロンで暇そうにしてたのをね」
デッドプリンスの三人は、ライブの秘密特訓だとかで街に出てしまっていた。
その為、寮に残っていた二人が自動的に対象となった。
化学室に一人で行ったら、何か言われそうだったからだ。
礼儀正しい二人が講師に挨拶する。
「こんにちは、ボージェ教授」
「お手伝いに来ましたー」
「こんにちは。生徒代表君とユウタが来てくれれば早く終わりそうだね。
手伝いに来てくれてありがとう」
「いえ。俺でお役に立てれば」
化学準備室の片付けが始まった。部屋は埃っぽかった。
閉め切っていた窓を開けると、新鮮な空気が流れ込んできた。
舞い上がった埃に日光が反射して、キラキラと光っていた。
働き者の生徒代表と新入生は「これはどこへ持って行きましょうか?」と進んで参加していた。
生徒の中で唯一の受講生は、講師に言われてやっと動く程度の働きだった。
「アンリ、哲学者の卵を第二化学室へ運んでくれるかい?」
「重い」
文句を言われた講師は微笑む。
「じゃ、そちらの試験管で良いよ」
面倒臭いな、というオーラを出しながらアンリが試験管が入ったケースを運んでいく。
ユウタとジョシュアは不思議そうに友達の背中を見送る。
その視線は講師に戻る。ユウタが質問した。
「あ、あの。ボージェ先生」
「なんだね?」
「哲学者の卵って? 何かの卵のことですか?」
「ああ。錬金術ではフラスコのことをそう呼ぶんだ」
「え、フラスコ? でも、どうして、卵って言うんですか?」
「錬金術師は卵というものに憧れていたからだよ。
丸い物体から、全く形の違うヒヨコが生まれてくる。
それが錬金術師には不思議でならなかったんだ」
平たい木の箱にフラスコが並んでいる。縦が3、横が4の計12個。
講師はその中からひとつ手に取った。
透明なガラス容器が午後の光に当たる。ユウタは眩しくて目を瞑った。
「卵とヒヨコのように、ある物から全く別の物を作り出すことが錬金術師の夢だった。
彼等は、このフラスコという卵から、あらゆるものを創出しようとしたんだよ」
講師は球形の容器を箱に戻す。コトリと木の板の音がした。
ユウタは困った笑顔を浮かべながら、頬を掻く。
「ええっと、じゃあ、これはどこに持って行きましょうか?」
「そうだね。とりあえずテーブルに置いてきてくれるかね。
後でまとめて片付けるから。あ、重いから気を付けて」
「分かりました」
フラスコの箱はかなり重たかった。ユウタは思わず日本語で「よいしょ」と言う。
「俺が持とうか?」とジョシュアに言われて「だいじょぶ」と答えた。
化学準備室と第二化学室は一枚のドアで繋がっている。
ジョシュアが開けてくれたドアを通って、隣の教室へ運ぶ。
そこで木の椅子に座っていた生徒を発見した。
「あ、先生! アンリがサボってます!」
その声を聞いて、講師と生徒代表もやってきた。
三人に見つめられた生徒は足を組んだまま言った。
「疲れたから、休憩しているだけでしょ」
今日この生徒は不貞腐れているように見えた。講師が声を掛ける。
「アンリ、何か面白くないことでもあったのかね?」
教え子は返事をしない。講師は肩を竦める。
「私達も少し休もうか。ユウタ、生徒代表君もおいで。お茶でも淹れるよ。
ああ、せっかく化学室に居るのだから、ビーカーで紅茶を飲んでみるかね?」
「ええっ?」とユウタ。
「大丈夫。綺麗に洗うから薬品が残っていたりはしないよ」
生徒達の前にビーカーが三つ置かれた。湯気と紅茶の香りが立ち昇る。
ユウタはおそるおそる口付けていた。
「どうかな、ユウタ。ビーカーで飲む紅茶は?」
「えっ、えっと、なんか変なかんじです。紅茶じゃないみたい」
「実に素直だね、ユウタは」
受講生の頬が少し膨れる。
「では普通のカップに入れたものも飲んでみようか」
「あるのなら、最初からそちらにしてくれないかな、ボージェ教授」
「教授に噛み付くなよ、アンリ」
今度はごく普通の白いカップに紅茶が注がれた。
生徒達の表情は先とは違い、安堵感がある。
「さて。では、ユウタ。カップに入れた紅茶は、どうかな?」
「こっちの方が良いです、やっぱり」
「生徒代表君とアンリも同じ意見かな?」
「ええ」
「当たり前でしょ」
「不思議だと思わないかね? 同じリーフで入れた紅茶なのに。
今回はビーカーという極端な例だったけれど。入れ物やラベルは、本質さえ左右する。
陶器のカップか、紙コップか、という違いでも価値判断は変わってくる。
銅も黄金で覆ってしまえば黄金に見えるし、黄金も銅で覆ってしまえば銅に見えてしまう」
昨日の神秘学で聞いた言葉。受講生が呟く。
「ペテンの錬金術?」
講師が頷く。
「そう言えるね」
神秘学を受けていないユウタは首を捻って、ジョシュアと顔を見合わせていた。
受講生はビーカーに入った紅色の液体を見つめている。
味は彼が言うように『黄金』に相当する。これは春摘みの一級品だ。
ビーカーの上を持って揺らす。綺麗な黄金色。ダージリンがふわりと香る。
「ペテンは、いつか剥がれると思うけれど?」
「そう。剥がれるまではペテンではない、ということだ」
アンリはクスリと笑う。
「詐欺師の常套句みたいだね」
返事がない。講師はビーカーの紅茶を眺めていた。少し遅れて微笑む。
「本当だね」
ゆっくりと席を立つ。三人の生徒が講師を見上げる。
「すまない。話が長くなってしまったね。大掃除を再開しようか」
はい、という返事が二つ聞こえた。
fin
「ヘブライ語では『胎児』。呪術的な儀式を経て、土や粘土で作られた人形だね」
金曜日の第二化学室。
今日の神秘学では錬金術と縁が深いカバラ教について学んでいた。
講師は黒板に『ゴーレム』と綴る。
英語とヘブライ語で書いてくれたようだが、後者は丸っぽい記号にしか見えない。
生徒達の中では、おそらく誰も読めていない。あの特別講師はあらゆる言語に秀でている。
受講生の一人であるアンリは、敢えて読めない方をノートにメモした。
「人形にお札を貼ると動き出し、主人に忠誠を尽くすと言われている。そしてこれが」
講師は屈んで、教壇の下から土色の人形を取り出した。両手でそっと教壇に乗せる。
「見本があった方が良いかと思ってね。昨日、私が作ったものだよ。
自分では、なかなか可愛くできたと思うのだがね。どうかな?」
見た目は古墳から発掘される土偶のようだが、細かな彫刻などはない。
ごくシンプルな、手抜きの土偶だ。それを可愛いなどと思っているのは彼だけだろう。
「ゴーレムの形は特に決まりはないんだけれど、このようなイメージが一般的だと思うよ。
そして、ゴーレムに命を与える護符はこれだ」
一枚の白い長方形。手の平よりやや小さいくらいの大きさ。
何か文字が書いてあるようだが、小さくて読めない。札を土人形の足許に置く。
講師はチョークを持って、黒板に大きめにそのスペルを書く。
「emeth(エメト)と綴って、ゴーレムの額や胸に貼るんだ。
この単語は『真理』や『神』という意味がある」
チョークを指に挟めたまま黒板消しを持つ。
「ゴーレムを止めたい時は、頭文字のeを消す」
eの上に置いた黒板消しが下ろされる。
「これで、meth(メト)。『死』になる、というわけだ」
もう何も持っていない手で、コンコンと黒板を軽くノックした。
黒板に背を向けて、やや俯きがちに話を続ける。
「成程、意味的には覚えやすいかもしれない。だが、かつての術者の中には、
ゴーレムが暴走した為に、eを消すのに一苦労した者もいるけれどね」
そこで顔を上げ、札を手に取る。
「では試しに、この子にお札を貼ってみようか?」
しん、となった教室。元々、静かな教室ではあるが、物音ひとつしなくなった。
教壇の上にある土人形へ注目が集まる。冷静と好奇の入り混じった視線。
黄土色の額にお札が貼られる。生徒達が見守る中、土人形はぴくりとも動かない。
講師は黒板側からゴーレムを覗き込む。
「おや? みんなの前で緊張しているのかい? 少しで良いから歩いて見せてくれないかな?」
すると、ガタッと土人形が揺れた。カタカタと10センチほど前に進んだ。
教室に悲鳴こそ上がらないが、生徒達は多少なりとも驚かされた。
琥珀の視線が元凶を捉える。講師の片手が、ジャケットのポケットに入っている。
「ボージェ教授。その手に持っている物は?」
講師は軽く笑って答えた。
「気が付くのが早いね、アンリ」
あっさりと手を出す。握られていたのは小さな機械。
「これはゴーレムをラジオコントロールできるスイッチだよ」
髪の長い生徒が頬杖を突いた。他の生徒達も声には出さないものの、やや不満げだ。
「動いた方が面白いかと思って、ゴーレムのラジコンを作ってみたんだ。驚かせてすまなかったね」
機械のボタンを押すと、先程と同じカタカタという音がしてゴーレムが前進する。
ボタンを離すと、教壇から落ちる手前で停止した。
「こういうペテンを用いて、錬金術師だと偽った者も昔は多かったんだ。
トリックで黄金変成に見せ掛ける。ちょっとした知識とちょっとした遊び心があればできてしまうからね。
例えば、見物者には、これから銅を黄金に変える、と説明し、
本物の黄金に銅を塗りつけたものを、湯に入れてかき回す。
それを湯から取り出せば銅が落ちて黄金が現れる。ごく初歩的な手品だね。
けれど、そんな手品を用いた彼等を頭ごなしに批難することもできないんだ。
錬金術の実験には、莫大な時間と費用が必要だ。王や貴族など資産家の支援が欠かせない。
だから、見込みがある奴だと思わせる為に、ペテンの錬金術を用いた。
強力なパトロンを得て、今度は本当に、黄金変成を成功させる為に」
鐘の音が講義終了を告げた。
「では今日は此処までにしよう」
静かながらも、教室の緊張が解ける。
「ああ。アンリ、ちょっと残ってくれるかな?」
呼ばれた生徒が視線で問う。講師は微笑むだけだった。
「ごきげんよう、諸君。楽しい週末を」
他の生徒達が退室する。
残された生徒は、黒板を消す背中に問い掛けた。
「僕に何の用?」
黒板掃除を続けながら、講師は答える。
「アンリに楽しい週末のご提案だよ」
「…なに」
黒板に残っていた最後のthが消える。黒板消しを置く。
手に突いた粉を軽く払ってから、講師は振り向いた。
「アンリにね、化学準備室の大掃除を手伝って欲しいんだ」
生徒は握った手を耳の下に置く。教壇を見上げる瞳は冷たい。
琥珀の氷を見つめながら、講師は微笑んだ。
「遊園地や映画館を期待したのだったら謝るよ?」
「期待してない」
「準備室の備品が増えてきたので、そろそろ整理整頓が必要なんだ。
アンリのお友達を連れてきても良いよ? もちろん、私と二人きりでも良いけれどね?」
「僕にメリットのないことは、したくないな」
「欲しい備品があれば持っていって構わないよ。劇薬を除いてね。
それから、掃除の後に美味しいティータイムくらいなら用意できるかな」
「あまり魅力が感じられないね」
「どちらにしても、私は午後には準備室に居るから。気が向いたら来てくれると助かるよ」
土曜日の午後。
講師は準備室で片付けを始めていた。
ドアが開く。受講生と、その後ろに二人。
「おや。アンリ、お友達を連れてきてくれたんだね?」
「サロンで暇そうにしてたのをね」
デッドプリンスの三人は、ライブの秘密特訓だとかで街に出てしまっていた。
その為、寮に残っていた二人が自動的に対象となった。
化学室に一人で行ったら、何か言われそうだったからだ。
礼儀正しい二人が講師に挨拶する。
「こんにちは、ボージェ教授」
「お手伝いに来ましたー」
「こんにちは。生徒代表君とユウタが来てくれれば早く終わりそうだね。
手伝いに来てくれてありがとう」
「いえ。俺でお役に立てれば」
化学準備室の片付けが始まった。部屋は埃っぽかった。
閉め切っていた窓を開けると、新鮮な空気が流れ込んできた。
舞い上がった埃に日光が反射して、キラキラと光っていた。
働き者の生徒代表と新入生は「これはどこへ持って行きましょうか?」と進んで参加していた。
生徒の中で唯一の受講生は、講師に言われてやっと動く程度の働きだった。
「アンリ、哲学者の卵を第二化学室へ運んでくれるかい?」
「重い」
文句を言われた講師は微笑む。
「じゃ、そちらの試験管で良いよ」
面倒臭いな、というオーラを出しながらアンリが試験管が入ったケースを運んでいく。
ユウタとジョシュアは不思議そうに友達の背中を見送る。
その視線は講師に戻る。ユウタが質問した。
「あ、あの。ボージェ先生」
「なんだね?」
「哲学者の卵って? 何かの卵のことですか?」
「ああ。錬金術ではフラスコのことをそう呼ぶんだ」
「え、フラスコ? でも、どうして、卵って言うんですか?」
「錬金術師は卵というものに憧れていたからだよ。
丸い物体から、全く形の違うヒヨコが生まれてくる。
それが錬金術師には不思議でならなかったんだ」
平たい木の箱にフラスコが並んでいる。縦が3、横が4の計12個。
講師はその中からひとつ手に取った。
透明なガラス容器が午後の光に当たる。ユウタは眩しくて目を瞑った。
「卵とヒヨコのように、ある物から全く別の物を作り出すことが錬金術師の夢だった。
彼等は、このフラスコという卵から、あらゆるものを創出しようとしたんだよ」
講師は球形の容器を箱に戻す。コトリと木の板の音がした。
ユウタは困った笑顔を浮かべながら、頬を掻く。
「ええっと、じゃあ、これはどこに持って行きましょうか?」
「そうだね。とりあえずテーブルに置いてきてくれるかね。
後でまとめて片付けるから。あ、重いから気を付けて」
「分かりました」
フラスコの箱はかなり重たかった。ユウタは思わず日本語で「よいしょ」と言う。
「俺が持とうか?」とジョシュアに言われて「だいじょぶ」と答えた。
化学準備室と第二化学室は一枚のドアで繋がっている。
ジョシュアが開けてくれたドアを通って、隣の教室へ運ぶ。
そこで木の椅子に座っていた生徒を発見した。
「あ、先生! アンリがサボってます!」
その声を聞いて、講師と生徒代表もやってきた。
三人に見つめられた生徒は足を組んだまま言った。
「疲れたから、休憩しているだけでしょ」
今日この生徒は不貞腐れているように見えた。講師が声を掛ける。
「アンリ、何か面白くないことでもあったのかね?」
教え子は返事をしない。講師は肩を竦める。
「私達も少し休もうか。ユウタ、生徒代表君もおいで。お茶でも淹れるよ。
ああ、せっかく化学室に居るのだから、ビーカーで紅茶を飲んでみるかね?」
「ええっ?」とユウタ。
「大丈夫。綺麗に洗うから薬品が残っていたりはしないよ」
生徒達の前にビーカーが三つ置かれた。湯気と紅茶の香りが立ち昇る。
ユウタはおそるおそる口付けていた。
「どうかな、ユウタ。ビーカーで飲む紅茶は?」
「えっ、えっと、なんか変なかんじです。紅茶じゃないみたい」
「実に素直だね、ユウタは」
受講生の頬が少し膨れる。
「では普通のカップに入れたものも飲んでみようか」
「あるのなら、最初からそちらにしてくれないかな、ボージェ教授」
「教授に噛み付くなよ、アンリ」
今度はごく普通の白いカップに紅茶が注がれた。
生徒達の表情は先とは違い、安堵感がある。
「さて。では、ユウタ。カップに入れた紅茶は、どうかな?」
「こっちの方が良いです、やっぱり」
「生徒代表君とアンリも同じ意見かな?」
「ええ」
「当たり前でしょ」
「不思議だと思わないかね? 同じリーフで入れた紅茶なのに。
今回はビーカーという極端な例だったけれど。入れ物やラベルは、本質さえ左右する。
陶器のカップか、紙コップか、という違いでも価値判断は変わってくる。
銅も黄金で覆ってしまえば黄金に見えるし、黄金も銅で覆ってしまえば銅に見えてしまう」
昨日の神秘学で聞いた言葉。受講生が呟く。
「ペテンの錬金術?」
講師が頷く。
「そう言えるね」
神秘学を受けていないユウタは首を捻って、ジョシュアと顔を見合わせていた。
受講生はビーカーに入った紅色の液体を見つめている。
味は彼が言うように『黄金』に相当する。これは春摘みの一級品だ。
ビーカーの上を持って揺らす。綺麗な黄金色。ダージリンがふわりと香る。
「ペテンは、いつか剥がれると思うけれど?」
「そう。剥がれるまではペテンではない、ということだ」
アンリはクスリと笑う。
「詐欺師の常套句みたいだね」
返事がない。講師はビーカーの紅茶を眺めていた。少し遅れて微笑む。
「本当だね」
ゆっくりと席を立つ。三人の生徒が講師を見上げる。
「すまない。話が長くなってしまったね。大掃除を再開しようか」
はい、という返事が二つ聞こえた。
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