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■ハルヤ四歳
ぽかぽかとよく晴れた三月。
和歌山にある梅ヶ枝邸の庭は甘い香りで満たされていた。
庭いっぱいの紅梅と白梅。既に盛りを過ぎていた。
地面には花弁が敷き詰められている。
薄い紅と、仄かに紅を持つ白。
遠目に見るそれは、薄桃のござを敷いたようだった。
この邸に住んでいる老人は、かつて『辺境の王子』と呼ばれた。
ある人に誘拐同然で異国の地に連れて行かれた。
当時、日本は戦乱の世。
あの孤島に避難していなければ、穏やかな老後もなかった。
今では可愛い孫が二人もおり、じいさまと呼ばれるようになった。
今日は小さい方の孫が邸に遊びに来ていた。
祖父は孫を連れて、自慢の庭に出た。
「わあ、きれー!」
孫の歓声に、祖父の目許に幾重もの皺が寄る。
祖父は海老茶色の和装。彼にとっては動き易い私服だった。
骨張った手が握る手は餅のように柔らかい。
四歳になったばかりの手には皺ひとつなかった。
孫も和装で、こちらは淡い萌黄色。
真新しい稽古着は艶々としている。
細い手足は母に似て真っ白だった。
梅ヶ枝に生まれた子には、名に春の字が授けられる。
戸籍上、この子は梅ヶ枝の人間ではないが、
春也という名が付けられた。
「じいさまのおにわ、とってもきれい。これが、うめでしょ?」
「ああ。今はな、零れ梅言うんや」
「こぼれうめ?」
「こうやって、枝から散り零れた梅のことや」
少し生暖かい風。
仄かな甘味と土の香りを乗せて、ふわと舞い上がる。
小さな花弁が、はらはらと落ちた。
「儂はな、枝に咲く梅も、零れ梅も、美しい思う。
何処に咲いても梅は梅。可愛いてしゃあない」
くりくりの瞳が祖父を見つめる。
祖父は梅を見つめていた。孫は祖父の視線を追う。
白梅の枝先に鳥が止まった。
孫は祖父の着物を引いて、指を差した。
「じいさま、みてっ。すずめさん!」
「はは。あれはスズメやのうてウグイス。春告鳥(はるつげどり)とも言うなあ」
「じゃあ、ぼくたちとおんなじ! はるっておなまえにつくの」
「おお、そうやなあ。気ぃ付かんかったわ」
「あれ? じいさま、はるのとりさん、げんきないのかな?
ぜんぜん、なかないよ?」
「わしらが黙っとったら鳴くかもしれんよ? 綺麗な声をお持ちでな、春になったことを教えてくれる」
「はるになったこと?」
「そや、鳴き声聞かして貰えるまで、しずかにしてみよ」
祖父が唇に指を当てる。孫も同じ仕草をする。
緑の鳥は首を左右に降ったり、枝から枝へ渡ったり。
暫くその動きを眺めていた。
やっと、くいと首を上げる時が来た。
孫は口を両手で押さえて黙る。
ホケキョホケキョと高い声。
「なあ? 『春が来ましたよ』言うてはるやろ?」
「じいさま、とりさんが何て言ってるのか解るの?」
「解る解る。ほんなら、おしゃべりしてみよか」
そう言うと折り曲げた小指を咥えた。
ホーホケキョ、と見事な口真似が聞こえた。
すると、本物のウグイスが同じように二回、鳴いた。
孫は目をぱちくりする。
「おへんじしたっ! じいさま、なんておしゃべりしたのっ?」
「ん? 春也のことや」
「えっ、ぼく?」
「来年も再来年も、ずっとずっと、春也のこと見守って下さいてな。
ええ、ええ、言わはったわ。良かったなあ」
年老いた手が孫の頭を撫でる。
少しごつごつした手。母親の滑らかな手とは違う。
ウグイスはもう一度鳴いて、空へ飛び立った。
祖父は眩しそうに見送る。
「また来年なあ」
「またねー」
ひゅるりと春の風が吹く。
枝から梅が零れ落ちた。
fin
ぽかぽかとよく晴れた三月。
和歌山にある梅ヶ枝邸の庭は甘い香りで満たされていた。
庭いっぱいの紅梅と白梅。既に盛りを過ぎていた。
地面には花弁が敷き詰められている。
薄い紅と、仄かに紅を持つ白。
遠目に見るそれは、薄桃のござを敷いたようだった。
この邸に住んでいる老人は、かつて『辺境の王子』と呼ばれた。
ある人に誘拐同然で異国の地に連れて行かれた。
当時、日本は戦乱の世。
あの孤島に避難していなければ、穏やかな老後もなかった。
今では可愛い孫が二人もおり、じいさまと呼ばれるようになった。
今日は小さい方の孫が邸に遊びに来ていた。
祖父は孫を連れて、自慢の庭に出た。
「わあ、きれー!」
孫の歓声に、祖父の目許に幾重もの皺が寄る。
祖父は海老茶色の和装。彼にとっては動き易い私服だった。
骨張った手が握る手は餅のように柔らかい。
四歳になったばかりの手には皺ひとつなかった。
孫も和装で、こちらは淡い萌黄色。
真新しい稽古着は艶々としている。
細い手足は母に似て真っ白だった。
梅ヶ枝に生まれた子には、名に春の字が授けられる。
戸籍上、この子は梅ヶ枝の人間ではないが、
春也という名が付けられた。
「じいさまのおにわ、とってもきれい。これが、うめでしょ?」
「ああ。今はな、零れ梅言うんや」
「こぼれうめ?」
「こうやって、枝から散り零れた梅のことや」
少し生暖かい風。
仄かな甘味と土の香りを乗せて、ふわと舞い上がる。
小さな花弁が、はらはらと落ちた。
「儂はな、枝に咲く梅も、零れ梅も、美しい思う。
何処に咲いても梅は梅。可愛いてしゃあない」
くりくりの瞳が祖父を見つめる。
祖父は梅を見つめていた。孫は祖父の視線を追う。
白梅の枝先に鳥が止まった。
孫は祖父の着物を引いて、指を差した。
「じいさま、みてっ。すずめさん!」
「はは。あれはスズメやのうてウグイス。春告鳥(はるつげどり)とも言うなあ」
「じゃあ、ぼくたちとおんなじ! はるっておなまえにつくの」
「おお、そうやなあ。気ぃ付かんかったわ」
「あれ? じいさま、はるのとりさん、げんきないのかな?
ぜんぜん、なかないよ?」
「わしらが黙っとったら鳴くかもしれんよ? 綺麗な声をお持ちでな、春になったことを教えてくれる」
「はるになったこと?」
「そや、鳴き声聞かして貰えるまで、しずかにしてみよ」
祖父が唇に指を当てる。孫も同じ仕草をする。
緑の鳥は首を左右に降ったり、枝から枝へ渡ったり。
暫くその動きを眺めていた。
やっと、くいと首を上げる時が来た。
孫は口を両手で押さえて黙る。
ホケキョホケキョと高い声。
「なあ? 『春が来ましたよ』言うてはるやろ?」
「じいさま、とりさんが何て言ってるのか解るの?」
「解る解る。ほんなら、おしゃべりしてみよか」
そう言うと折り曲げた小指を咥えた。
ホーホケキョ、と見事な口真似が聞こえた。
すると、本物のウグイスが同じように二回、鳴いた。
孫は目をぱちくりする。
「おへんじしたっ! じいさま、なんておしゃべりしたのっ?」
「ん? 春也のことや」
「えっ、ぼく?」
「来年も再来年も、ずっとずっと、春也のこと見守って下さいてな。
ええ、ええ、言わはったわ。良かったなあ」
年老いた手が孫の頭を撫でる。
少しごつごつした手。母親の滑らかな手とは違う。
ウグイスはもう一度鳴いて、空へ飛び立った。
祖父は眩しそうに見送る。
「また来年なあ」
「またねー」
ひゅるりと春の風が吹く。
枝から梅が零れ落ちた。
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