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■テオシナリオ 4日目:メネシス家 零れ話
ギリシャにあるお城のような家。
昼下がり、お子様のお部屋では、
水色の大きなイルカのぬいぐるみがゴロゴロゴロと床を回っていた。
もちろん、ひとりでに回っているのではない。
イルカより小さいお子様が抱き着いていて、一緒に転がっているのだ。
「…ちゅまんない。あねうえいないと、ちゅまんないー」
もうすぐ四歳になるご子息は暇を持て余していた。
くしゃりと天然のパーマがかかった金色の髪。
ぽちゃぽちゃとした小さな手足はお父様譲りの小麦色。
イルカのぬいぐるみは三歳のお誕生日にお姉様から頂いたものだった。
イルカを抱き締めたまま、顔だけこちらに向けている。
「ぜのー。あねうえ、まだガッコかな?」
ゼノと呼ばれたのは世話係の男。二十歳。
紺のベスト、グレイのネクタイをぴしりと身に付けている。
「もう少しでお帰りになりますよ、テオ様」
むう、とほっぺたが膨らむ。世話係に人差し指を向けた。
「ぜの、『もうすこし』ばっかり! めがね、ツンするよ!」
「…すみません」
眼鏡の世話係は苦笑する。口癖になっていたようだと反省した。
「まだかなー、まだかなー、あねうえ、まだかなー」
頭を右左に振りながら、その言葉を繰り返す。
言葉が自然と歌のようになり、暫くそのまま歌っていた。
ご機嫌が直ったようだと少しほっとした時、主人は急にクルとこちらを向いた。
「ぜのー。あねうえ、まだガッコかな?」
世話係は微笑んで、お暇潰しのご提案をした。
「では、お待ちになる間、お姉様のお絵かきをしてみましょうか?」
「おえかきー?」
「ええ。描いた絵をお姉様にお見せになっては? きっと喜ばれますよ」
「てお、おえかきする!」
「できたっ!」
オレンジのクレヨン一色で描かれた力強い絵だと言える。
真っ白な紙には、点と丸ぐらいしかなかった。
顔の輪郭に、目、鼻、口。
髪の毛もないが、おそらく顔を表したものなのだろう。
誰の顔なのか特定できるものではない。
「あねうえ、かわいーねー」
描いたご本人は絵に顔を近付けたり、手に持ってみたりして、
絵のお姉様に、持てる限りの賛辞を浴びせている。
「あねうえ、しゅてきっ、うちゅくちっ」
今からこんなことで、大きくなられたらどうなることやら。
「テオ、今日はお絵かきをしていたの?」
お部屋のドアが開き、美しい少女が現れる。
緩い波のあるブロンドは、いつも艶々と輝いている。
学校からご帰宅された、テオ様のお姉様だ。世話係は頭を下げる。
「おかえりなさいませ、ダフネ様」
「ただいま、ゼノ、テオ」
「あ、あねうえだっ! あねうえっ!」
慌て過ぎて転びそうになりながら突進する。
ぎゅっと抱き着いてから、顔を上げた。
「あねうえっ、おかえりっ」
「ただいま、テオ」
弟は自分のほっぺたに人差し指で触る。
「あねうえっ、ただいまのきしゅ、わすれてるよ?」
お姉様は屈んで、ほっぺたに優しくキスをする。
弟は、てへへへと笑い、今度は自分の唇を突き出した。
「おかえりのきしゅー」
ぶちゅー、と唇が押し付けられる。
お姉様はちっとも嫌がらず、むしろ嬉しそうに弟のキスを受けていた。
メネシスでは、ごく当たり前の光景。
世話係はいつもあたたかく見守っていた。
低いテーブルには忘れられている紙。世話係が手を伸ばす。
「ダフネ様、今日、テオ様は貴女の絵を描かれたんですよ」
世話係はテオ様に手渡す。弟は得意げに絵を姉に見せた。
「あねうえ、かわいー!」
姉は「上手に描けたね」「ありがとう」と言って弟の頭を撫でていた。
「あねうえっ、あそぼ、あそぼ!」
「じゃあ、今日は何して遊ぶ?」
「んっとねー、えっとー、かいぞくごっこ!」
ごっご遊びが大好きなお年頃だった。
メネシスの家には、映画撮影にも使えるような小道具や衣装があるので、
本格的なごっこ遊びになってしまう。
「海賊ごっこね。テオは何の役が良いの?」
「てお、きゃぷてん! あのね、うみのおとこのなの! ちゅよいの!」
「解ったわ。じゃあ、私も海賊かな」
「あねうえは、おひめさま! うちゅくちいの! でね、ぜのはー」
「え? 私も入るのですか?」
ご子息が満面の笑顔で世話係を指差す。
「ぜの、わに!」
「…ワニって」
世話係は思わず素の声で言ってしまった。
「わにがね、うちゅくちいおひめさまをみつけてね、すきになっちゃうのー!」
テオ様はくふふと笑う。その隣ではワニ役がお姫様役を盗み見ていた。
「わにはね、おくちがおおきくてね、ぱくってたべちゃうの。
それでね、きゃぷてんが、うんとこしょ、どっこいしょするの。
きゃぷてんは、ちゅよいから、だいじょぶだよ。たすけるからね、あねうえっ!」
世話係は眼鏡を押し上げる。
「なんだか色んな絵本が混ざったお話のようですね」
「ええ、面白そう。じゃ、海賊ごっこ、始めましょう」
一時間ほど海賊ごっこで大騒ぎしたご子息は、
遊び疲れたようで動きが遅くなってきた。
ご本人はもっと遊びたいようだが、まだ小さいので体力が付いていかない。
お姉様が「一緒にお昼寝しよう」と言って下さったのでやっと、うん、と頷いた。
ご姉弟はお部屋に戻り、ひとつのベッドに横たわった。
これも大きな上質のものだった。世話係はお二人に毛布を掛ける。
「あねうえ、あねうえ、おやすみのきしゅ」
「うん」
今日、何度目かの口付けをされて、弟は眠たげな笑顔になる。
隣のお姉様に少し近付いて、舌足らずの言葉で愛を囁いていた。
「あねうえっ、だいしゅき、あいちてるよ」
「私も大好きよ、テオ」
この頃のテオ様は日に日に、使える言葉が増えていた。
何処かで見聞きしたのであろう言葉を、驚くべきスピードで吸収する。
メネシスは、使用人もお客様も多い家だが、
一体何処で覚えてくるのか世話係にも解らない部分があった。
「おおきくなったら、ケッコンしよーね、あねうえ」
「うん」
「てお、おおきくなるまで、まっててね。すぐ、おおきく、なっちゃうから」
「うん。待ってるよ」
徐々にスローになっていく会話。
お姉様が髪を撫でていると、そのうちに寝息が聞こえてきた。
すー、すー、と単調でゆるやかなリズム。
世話係はついご子息の寝顔に見惚れてしまっていた。
お姉様はまだ起きている。自分が居ると邪魔で眠れないのかもしれない。
ダフネ様はまだ小さくても女性だ。世話係は男性。
テオ様ぐらいの時はお着替えして差し上げたが、今ではもう手伝えない。
「すみません。私は失礼しますね、おやすみなさいませ、ダフネ様」
腰を上げようとした時、待って、と呼び止められた。
「ゼノ、少し話したいことがあります。聞いてくれますか?」
「え? ええ」
座り直して、お嬢様を見る。
遊んでいた時と比べると、様子が少し可笑しかった。
「ダフネ様? 何かお困りごとですか?」
お嬢様は黙ったまま俯いていた。
世話係はなるべく優しく話し掛ける。
「どのようなことでも、私で良ければ伺いますよ?」
「もし、知っていたら教えて欲しいの」
「はい。何でしょう?」
「私は、私はどなたと結婚するのか、もう決まっているのでしょうか?」
全く予想していないお言葉だった。
世話係はとっさに主人に返事をすることもできなかった。
「ゼノ? 知っているの?」
「あ、いいえ。私は存じません」
「ほんとう?」
「はい。本当です。どうしたのです、急に」
「今日、学校でお友達が話していたんです、私が居ない所で。
『ダフネちゃんはメネシスに生まれて可哀相』
『何処かの知らないお金持ちに貰われていく』のだと噂していました」
何てことを、と世話係は胸の内で、その子供に毒吐いていた。
確かに、ダフネ様のご両親も政略結婚で結ばれている。
そのお嬢様も同じ道を辿る可能性は高い。
しかし、まだ先のことだ。
「ダフネ様、落ち着いて下さい。本当に、そのようなこと旦那様からはまだ」
言葉を間違えた、と思った時にはもう遅かった。
「いつかは、決まるということですね」
世話係は主人に掛ける言葉が見つけられなかった。
いつかは、決まる。
お嬢様の仰ったことが、ずしりと重く圧し掛かり、
自身も地に足が着いていないような眩暈に襲われていた。
「私は、いつまでも、この家に居たいです。ゼノとテオと一緒に」
眠る弟の前で、姉は静かに涙を流していた。
部屋には海賊ごっこで使った、おもちゃが幾つか転がっている。
立派な羽根付き帽子、剣のレプリカ、クローゼットにはお姫様のドレス。
何もかも揃っている家なのに。
どうしてこの家は、お嬢様の願いを叶えることだけができないのだろう。
「ん…んん。あ、あねうえ?」
目を覚ました弟が、お姉様の様子を見て、ぱっと飛び起きる。
「あねうえっ、ないてるの!? なんでっ…」
弟は呆然としている世話係の姿を見付けた。
「ぜのっ! あねうえを、なかちぇたなっ!?」
「え、いえ…私は」
「めっ! ぜの、あねうえにごめんねして! めがね、ツンするよ!」
「テオ、だめよ」
横たわっていた姉が起き上がる。手の甲で目許を拭っていた。
世話係はハンカチを持っていたのに、それを差し出すという選択肢さえ浮かばなかった。
姉は瞳を濡らしたまま、弟の間違いを諭していた。
「ゼノが悪いんじゃないのよ、テオ」
「え? ぜの、ちがうの?」
「うん。ゼノは何も悪くない」
弟は即座に頭を下げて、ごめんなさいをした。
「ぜの、ごめんね。てお、まちがい」
間違えた時はごめんなさいをするのよ、という姉からの教えを守っていた。
素直に謝られて、世話係は「あ、いいえ…」と応じる。
ごめんなさいが終わった弟はくるりと姉に向き直る。
「あねうえ、いたいの? てお、なでなでする? いたいのなおるよ?」
「そうね。痛いのかもしれない」
「どこ、いたいの? おひざ? おなか? あたま?」
「…頭、かな」
「わかった。てお、なでなでするから、あねうえ、ねんねして?」
姉はベッドに横たわる。小さな手が姉の頭を撫でる。
「ココ? いたいの、ココ?」
「うん」
「ておが、なおしてあげるからね、あねうえっ」
金色の髪を、褐色の小さな手がさする。
「だいじょーぶ、だいじょーぶだよ、あねうえ。いたくない、いたくない」
痛い場所を撫でながら唱えるおまじない。
弟が転んだ時などにお姉様が仰る言葉だった。
「あねうえ、いたいの、なおってきた?」
「うん。治ってきたみたい。もうちょっとかな」
「じゃあ、もういっかいする!」
お姉様が目を閉じる。
その様子を見ながら、世話係は拳を握りしめていた。
テオ様はお姉様の髪をもう一度撫でる。
「だいじょーぶ、だいじょーぶだよ、あねうえ」
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ギリシャにあるお城のような家。
昼下がり、お子様のお部屋では、
水色の大きなイルカのぬいぐるみがゴロゴロゴロと床を回っていた。
もちろん、ひとりでに回っているのではない。
イルカより小さいお子様が抱き着いていて、一緒に転がっているのだ。
「…ちゅまんない。あねうえいないと、ちゅまんないー」
もうすぐ四歳になるご子息は暇を持て余していた。
くしゃりと天然のパーマがかかった金色の髪。
ぽちゃぽちゃとした小さな手足はお父様譲りの小麦色。
イルカのぬいぐるみは三歳のお誕生日にお姉様から頂いたものだった。
イルカを抱き締めたまま、顔だけこちらに向けている。
「ぜのー。あねうえ、まだガッコかな?」
ゼノと呼ばれたのは世話係の男。二十歳。
紺のベスト、グレイのネクタイをぴしりと身に付けている。
「もう少しでお帰りになりますよ、テオ様」
むう、とほっぺたが膨らむ。世話係に人差し指を向けた。
「ぜの、『もうすこし』ばっかり! めがね、ツンするよ!」
「…すみません」
眼鏡の世話係は苦笑する。口癖になっていたようだと反省した。
「まだかなー、まだかなー、あねうえ、まだかなー」
頭を右左に振りながら、その言葉を繰り返す。
言葉が自然と歌のようになり、暫くそのまま歌っていた。
ご機嫌が直ったようだと少しほっとした時、主人は急にクルとこちらを向いた。
「ぜのー。あねうえ、まだガッコかな?」
世話係は微笑んで、お暇潰しのご提案をした。
「では、お待ちになる間、お姉様のお絵かきをしてみましょうか?」
「おえかきー?」
「ええ。描いた絵をお姉様にお見せになっては? きっと喜ばれますよ」
「てお、おえかきする!」
「できたっ!」
オレンジのクレヨン一色で描かれた力強い絵だと言える。
真っ白な紙には、点と丸ぐらいしかなかった。
顔の輪郭に、目、鼻、口。
髪の毛もないが、おそらく顔を表したものなのだろう。
誰の顔なのか特定できるものではない。
「あねうえ、かわいーねー」
描いたご本人は絵に顔を近付けたり、手に持ってみたりして、
絵のお姉様に、持てる限りの賛辞を浴びせている。
「あねうえ、しゅてきっ、うちゅくちっ」
今からこんなことで、大きくなられたらどうなることやら。
「テオ、今日はお絵かきをしていたの?」
お部屋のドアが開き、美しい少女が現れる。
緩い波のあるブロンドは、いつも艶々と輝いている。
学校からご帰宅された、テオ様のお姉様だ。世話係は頭を下げる。
「おかえりなさいませ、ダフネ様」
「ただいま、ゼノ、テオ」
「あ、あねうえだっ! あねうえっ!」
慌て過ぎて転びそうになりながら突進する。
ぎゅっと抱き着いてから、顔を上げた。
「あねうえっ、おかえりっ」
「ただいま、テオ」
弟は自分のほっぺたに人差し指で触る。
「あねうえっ、ただいまのきしゅ、わすれてるよ?」
お姉様は屈んで、ほっぺたに優しくキスをする。
弟は、てへへへと笑い、今度は自分の唇を突き出した。
「おかえりのきしゅー」
ぶちゅー、と唇が押し付けられる。
お姉様はちっとも嫌がらず、むしろ嬉しそうに弟のキスを受けていた。
メネシスでは、ごく当たり前の光景。
世話係はいつもあたたかく見守っていた。
低いテーブルには忘れられている紙。世話係が手を伸ばす。
「ダフネ様、今日、テオ様は貴女の絵を描かれたんですよ」
世話係はテオ様に手渡す。弟は得意げに絵を姉に見せた。
「あねうえ、かわいー!」
姉は「上手に描けたね」「ありがとう」と言って弟の頭を撫でていた。
「あねうえっ、あそぼ、あそぼ!」
「じゃあ、今日は何して遊ぶ?」
「んっとねー、えっとー、かいぞくごっこ!」
ごっご遊びが大好きなお年頃だった。
メネシスの家には、映画撮影にも使えるような小道具や衣装があるので、
本格的なごっこ遊びになってしまう。
「海賊ごっこね。テオは何の役が良いの?」
「てお、きゃぷてん! あのね、うみのおとこのなの! ちゅよいの!」
「解ったわ。じゃあ、私も海賊かな」
「あねうえは、おひめさま! うちゅくちいの! でね、ぜのはー」
「え? 私も入るのですか?」
ご子息が満面の笑顔で世話係を指差す。
「ぜの、わに!」
「…ワニって」
世話係は思わず素の声で言ってしまった。
「わにがね、うちゅくちいおひめさまをみつけてね、すきになっちゃうのー!」
テオ様はくふふと笑う。その隣ではワニ役がお姫様役を盗み見ていた。
「わにはね、おくちがおおきくてね、ぱくってたべちゃうの。
それでね、きゃぷてんが、うんとこしょ、どっこいしょするの。
きゃぷてんは、ちゅよいから、だいじょぶだよ。たすけるからね、あねうえっ!」
世話係は眼鏡を押し上げる。
「なんだか色んな絵本が混ざったお話のようですね」
「ええ、面白そう。じゃ、海賊ごっこ、始めましょう」
一時間ほど海賊ごっこで大騒ぎしたご子息は、
遊び疲れたようで動きが遅くなってきた。
ご本人はもっと遊びたいようだが、まだ小さいので体力が付いていかない。
お姉様が「一緒にお昼寝しよう」と言って下さったのでやっと、うん、と頷いた。
ご姉弟はお部屋に戻り、ひとつのベッドに横たわった。
これも大きな上質のものだった。世話係はお二人に毛布を掛ける。
「あねうえ、あねうえ、おやすみのきしゅ」
「うん」
今日、何度目かの口付けをされて、弟は眠たげな笑顔になる。
隣のお姉様に少し近付いて、舌足らずの言葉で愛を囁いていた。
「あねうえっ、だいしゅき、あいちてるよ」
「私も大好きよ、テオ」
この頃のテオ様は日に日に、使える言葉が増えていた。
何処かで見聞きしたのであろう言葉を、驚くべきスピードで吸収する。
メネシスは、使用人もお客様も多い家だが、
一体何処で覚えてくるのか世話係にも解らない部分があった。
「おおきくなったら、ケッコンしよーね、あねうえ」
「うん」
「てお、おおきくなるまで、まっててね。すぐ、おおきく、なっちゃうから」
「うん。待ってるよ」
徐々にスローになっていく会話。
お姉様が髪を撫でていると、そのうちに寝息が聞こえてきた。
すー、すー、と単調でゆるやかなリズム。
世話係はついご子息の寝顔に見惚れてしまっていた。
お姉様はまだ起きている。自分が居ると邪魔で眠れないのかもしれない。
ダフネ様はまだ小さくても女性だ。世話係は男性。
テオ様ぐらいの時はお着替えして差し上げたが、今ではもう手伝えない。
「すみません。私は失礼しますね、おやすみなさいませ、ダフネ様」
腰を上げようとした時、待って、と呼び止められた。
「ゼノ、少し話したいことがあります。聞いてくれますか?」
「え? ええ」
座り直して、お嬢様を見る。
遊んでいた時と比べると、様子が少し可笑しかった。
「ダフネ様? 何かお困りごとですか?」
お嬢様は黙ったまま俯いていた。
世話係はなるべく優しく話し掛ける。
「どのようなことでも、私で良ければ伺いますよ?」
「もし、知っていたら教えて欲しいの」
「はい。何でしょう?」
「私は、私はどなたと結婚するのか、もう決まっているのでしょうか?」
全く予想していないお言葉だった。
世話係はとっさに主人に返事をすることもできなかった。
「ゼノ? 知っているの?」
「あ、いいえ。私は存じません」
「ほんとう?」
「はい。本当です。どうしたのです、急に」
「今日、学校でお友達が話していたんです、私が居ない所で。
『ダフネちゃんはメネシスに生まれて可哀相』
『何処かの知らないお金持ちに貰われていく』のだと噂していました」
何てことを、と世話係は胸の内で、その子供に毒吐いていた。
確かに、ダフネ様のご両親も政略結婚で結ばれている。
そのお嬢様も同じ道を辿る可能性は高い。
しかし、まだ先のことだ。
「ダフネ様、落ち着いて下さい。本当に、そのようなこと旦那様からはまだ」
言葉を間違えた、と思った時にはもう遅かった。
「いつかは、決まるということですね」
世話係は主人に掛ける言葉が見つけられなかった。
いつかは、決まる。
お嬢様の仰ったことが、ずしりと重く圧し掛かり、
自身も地に足が着いていないような眩暈に襲われていた。
「私は、いつまでも、この家に居たいです。ゼノとテオと一緒に」
眠る弟の前で、姉は静かに涙を流していた。
部屋には海賊ごっこで使った、おもちゃが幾つか転がっている。
立派な羽根付き帽子、剣のレプリカ、クローゼットにはお姫様のドレス。
何もかも揃っている家なのに。
どうしてこの家は、お嬢様の願いを叶えることだけができないのだろう。
「ん…んん。あ、あねうえ?」
目を覚ました弟が、お姉様の様子を見て、ぱっと飛び起きる。
「あねうえっ、ないてるの!? なんでっ…」
弟は呆然としている世話係の姿を見付けた。
「ぜのっ! あねうえを、なかちぇたなっ!?」
「え、いえ…私は」
「めっ! ぜの、あねうえにごめんねして! めがね、ツンするよ!」
「テオ、だめよ」
横たわっていた姉が起き上がる。手の甲で目許を拭っていた。
世話係はハンカチを持っていたのに、それを差し出すという選択肢さえ浮かばなかった。
姉は瞳を濡らしたまま、弟の間違いを諭していた。
「ゼノが悪いんじゃないのよ、テオ」
「え? ぜの、ちがうの?」
「うん。ゼノは何も悪くない」
弟は即座に頭を下げて、ごめんなさいをした。
「ぜの、ごめんね。てお、まちがい」
間違えた時はごめんなさいをするのよ、という姉からの教えを守っていた。
素直に謝られて、世話係は「あ、いいえ…」と応じる。
ごめんなさいが終わった弟はくるりと姉に向き直る。
「あねうえ、いたいの? てお、なでなでする? いたいのなおるよ?」
「そうね。痛いのかもしれない」
「どこ、いたいの? おひざ? おなか? あたま?」
「…頭、かな」
「わかった。てお、なでなでするから、あねうえ、ねんねして?」
姉はベッドに横たわる。小さな手が姉の頭を撫でる。
「ココ? いたいの、ココ?」
「うん」
「ておが、なおしてあげるからね、あねうえっ」
金色の髪を、褐色の小さな手がさする。
「だいじょーぶ、だいじょーぶだよ、あねうえ。いたくない、いたくない」
痛い場所を撫でながら唱えるおまじない。
弟が転んだ時などにお姉様が仰る言葉だった。
「あねうえ、いたいの、なおってきた?」
「うん。治ってきたみたい。もうちょっとかな」
「じゃあ、もういっかいする!」
お姉様が目を閉じる。
その様子を見ながら、世話係は拳を握りしめていた。
テオ様はお姉様の髪をもう一度撫でる。
「だいじょーぶ、だいじょーぶだよ、あねうえ」
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