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■アンリ オーギュスト ディーノ
■アンリの日記「タロット」ベース
僕のタロットは、サン・ジェルマン家の物置で見つけた。
埃を被った木製の小さな箱に入ってた。
箱の底には、女性の名前が刻まれてる。
ルイーズ。サン・ジェルマン伯爵夫人。僕の遠い母。
彼女についての詳しい資料は、何故か残されていない。
伯爵の正確な生年は不明だが、17世紀と18世紀の狭間に生まれたとされる。
ならば彼女も、その時代を生きた人間だろうと推測はできる。
けれど、当時のルイーズという女性を調べてみても、どこの誰なのか確証が得られなかった。
そもそも、いつの時代か、なんて限定することは、あまり意味をなさないかもしれないし。
錬金術師だった伯爵について詳しそうな人間なら知っている。
錬金術のみならず、世界のあらゆる神秘について、人に教えられるだけの知識を保有している人。
そんな神秘学の権威が、かなり近くに――この教室の、教壇に居るのだけれど。
「そう言えば、17世紀には、こんな錬金術師が居るんだ。
諸君が日頃お世話になっている人と同じ名前のね」
教科書は、ただ手持ち無沙汰で持っているだけ。
資料に全く頼らずとも、授業を進めることができる教師。
「バトラーという名前なんだよ?」
そう言って、一人で微笑んでいる紳士。
聖アルフォンソ学院、神秘学担当教師、オーギュスト・ボージェ。
「錬金術師バトラーは、たくさんの病人を救った。
例えば、小さな石にちょっと浸した、スプーン1杯のアーモンド・ミルクを飲ませて、
瀕死の患者を治したり。彼も賢者を石を持っていたとされる錬金術師の一人だ」
穏やかで単調な語り口は眠気を誘うもの。
神秘学に興味のない者ならば、授業が始まってすぐにうとうと来るだろう。
だけど、僕の頭の中には、彼の言葉はすうっと沁み入る。乾いた黄土に降る雨水のように。
夕焼けが教室を染める頃、この授業は終わる。今日もまた決められた時刻に鐘は鳴った。
講師がパタリと教科書を閉じる。
「ではまた来週。ごきげんよう、諸君」
生徒達が静かに退室していく。これで今日の時間割は終わりだ。
僕は席を立たずに、黒板を消す背中を眺めてた。
チョークの痕を丁寧に拭き取った後、彼は僕を見た。
「おや、アンリ。何か質問かい?」
「うん」
そこで何故か、よくできました、とでも言いそうな顔をした。
僕と二人きりになると、どうしてこの講師はこういう優しい顔をするんだろう。
「勉強熱心だね、アンリは。では私の研究室で紅茶を飲みながら聞こうか?」
今日のはすぐに済む質問だ。
なのに、僕は少し迷った。彼が淹れる紅茶の味を思い出していた。
「ここでいい」
「それは残念」
何故、残念がるのか解らない。
「ボージェ教授、『ルイーズ』という名を持つ女性を挙げてみて」
謎の女性について、何か少しでも手がかりになることが掴めれば。
そう思って、伯爵の名は出さずに尋ねると、
講師は、僕の思惑を知ってか知らずか、楽しそうに応じてくれた。
「おや。歴史のクイズかい? それとも、もっとプライベートな質問なのかな?
心配しなくとも、今の私に懇意にしている女性が居ないことは、アンリも知っているだろう?」
「君のプライベートなんか知らないし、どうでもいい。歴史上の人物からだよ」
「地理的にはフランスに多い名前だね。時代は?」
「17世紀か、18世紀生まれ、かな」
「結構、最近だね。どうして、その時代なんだろう?」
「生徒の質問には、迅速に答えてくれる? ボージェ教授」
「はいはい。では先ず、17世紀から行こうか。ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール嬢。
おしとやかで、実に優雅に踊れる女性だった。
彼女は、フランス王ルイ14世の寵姫(ちょうき)、つまり愛人となるけれども、
放蕩家のルイ14世は、後に、他の女性に心奪われてしまう」
「知ってる」
「同じ時期に、ルイーズ・ケルアイユ嬢という、なかなか野心的な女性が居るね。
ご両親は、娘をルイ14世の寵姫にしようと画策していたんだ。
けれど、先程言った、ラ・ヴァリエール嬢、奇しくも、同じ名を持つ女性が既にルイ14世の寵姫だった。
そこでルイ14世は、弟の妃の侍女に、ケルアイユ嬢を据える。
それが縁で、彼女はイングランド王チャールズ2世の寵姫となるんだ」
「知ってる」
「スウェーデン王妃となった、ルイーズ・マウントバッテン嬢。
けれど、彼女は生まれが19世紀になってしまうから、対象外かな?」
「いや、対象外とも言えないな。全く別の時代かもしれない」
その後もボージェ教授は、まるで歴史の教科書を読んでいるかのように、何名ものルイーズを挙げてみせた。
僕が何日もかかって調べた名前が、何も見ていない彼の口からすらすら出てくる。
「ねえ。君って、神秘学の研究者だよね? 西洋史を専攻していた時期でもあるの?」
「おやおや。アンリに褒めて貰えるとは光栄だね。ありがとう」
むかつく。
「もういい。同じ名前ばかりで、飽きてきた」
やはり、伯爵に繋がりそうなルイーズは居なかった。
どうして、親族である僕にでさえ、解らないのだろう。何か訳があるのだろうか。
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないのかい、アンリ。
どうしてアンリは、どこかのルイーズ嬢を探しているんだい?」
「僕の勝手でしょ」
問い詰められる前に、違う話題を出す。
「そう言えば、僕、来週の神秘学、休むから。先に言っておくね」
「おや。風邪を引く予定なのかね?」
「商談に行くの」
「それはお疲れ様。では、来週知らせるつもりだった宿題を今伝えておこうかな?」
「宿題?」
「神秘の宿る場所をひとつ選んで、自由に思ったことをレポートにまとめて欲しいんだ。枚数は任せるよ」
「提出期限は?」
「今月末の講義で回収する予定だよ」
「あと二週間か。じゃあ面倒だから、商談の場所から手近な所にしようかな」
「またシチリアかい?」
「ううん。同じ国だけど、もう少し北」
「気を付けていっておいで。お友達のマフィア君と仲良くするんだよ?」
「友達じゃない」
商談を無事に終えた僕は、イタリアの首都ローマに来た。
隣を歩かせているのは、この国在住のマフィア。ディーノ・マンゾーニ。
今日の装いは、白のロングコートにハット。
首には母親からのプレゼントだと言うピンクのマフラーを巻いている。それから、
「ねえ、ディーノ」
「ああん?」
「そのサングラス」
「ああ。俺様に似合うだろ?」
「似合い過ぎて目立つから、今すぐ外して貰えない?」
「なんだ、また惚れ直したんなら、そう言えよ、え?」
ただでさえ善人顔ではないのに、サングラスのせいで余計怪しさを醸し出している。
自ら、極悪人です、と名乗っているようなものだ。
そのせいだろう。僕達二人の周りだけ人が近寄らず、変な空間があるのは。
おかげで、人混みの中でも悠々と歩けるのは有難いけれど。
観光客はマフィアを遠くから物珍しそうに見ているし、
中には、このマザコンに頭を下げてきた者も居た。
おそらく彼と同じ世界に住む人間か、マンゾーニ家の恩恵に肖っている者なのだろうが。
その度に、マフィアは僕を見てニヤつきながら、何かイタリア語を喋る。僕への誹謗中傷に違いない。
今日、僕達が訪れているのは、バチカン美術館。
歴代ローマ法王が集めたコレクションを見せびらかしている世界最大規模の美術館だ。
僕の頭上から、マフィアの声が降ってくる。
「宿題ねえ。学生さんはご苦労なこった。ここに来ることが宿題なのか?」
「そんなわけないでしょ。どこか神秘に関わる場所に行ってレポートを書けって、神秘学の課題なの。
丁度、ローマに来る用事があったから、僕はここに決めただけ。
バチカン美術館は行って損はない所だって聞いていたし」
「おいおい、神秘学って何だよ。図工の宿題じゃないのか? ここ美術館だぞ」
「『神秘』って言葉を付ければ何でもいいんだよ。イタリアルネッサンス期の神秘、毒薬カンタレラの神秘、とかね」
「テキトーだな。で、イタリアーノの俺様に観光ガイドを頼んだってわけか」
「君に頼んだのは、ボディガードと通訳」
美術館のガイド役まで期待したわけではなかったのだが、
彼はある場所においてのみ、ガイド以上の知識を持っていた。
「さあ。ここがお待ちかねの『ボルジアの間』だ」
ここには、ボルジア家の父、ロドリーゴ・ボルジアが愛した芸術が展示されている。
毒殺魔として知られるボルジア家は、芸術家達のパトロンでもあったのだ。
「1492年から1503年の間、ボルジア家のパパが、ここに住んでた。
お気に入りの芸術家ピントゥリッキオに壁画装飾させてな。ほら、アレ。
お前、そのちびっこい背で見えるか? なんなら肩車してやるぜ、リトル・プリンセス?」
「見えるから」
僕達は『ボルジアの間』に展示された芸術をゆっくりと見て回った。
マフィアは展示品や、ボルジア家の歴史について、ペラペラと解説した。
「この部屋では、ボルジア家による暗殺も行われたらしいし、
晩年はボルジア家の者にとって牢獄のような使われ方もした」
僕は文化祭でボルジア家の末弟アンジェロを演じたこともあり、
ボルジア家については一通り学んだつもりでいたのだが、
マフィアの口から語られる話には、初めて聞く情報もあった。
「そういや、チェーザレも『悪魔の子』って呼ばれてたんだぜ?」
「彼が?」
「ま、チェーザレだけじゃなくて、ロドリーゴの子供は全員、そう呼ばれてたんだけどな」
彼には多くの子供が居た。
ロドリーゴ・ボルジアとシャルロット・ダルブレの間に生まれた子供が、
チェーザレ、ホアン、ルクレツィア、ホフレ。他の女性二名に産ませた子供が五人。
それにアンジェロを加えれば、計十人。
「どうして、全員が『悪魔の子』なの?」
「パパのロドリーゴ・ボルジアがローマ法王だからに決まってんだろ。
聖職者は結婚できない決まりだったから、全員庶子扱い。悪魔の仕業でできた子供なのさ」
ディーノにとっては自国の歴史とは言え、ルネッサンス期のイタリア史について、
これほど知っているとは思わなかったので、僕は率直な感想を述べた。
「意外だな。君がボルジア家に詳しいなんて」
「何言ってんだ、お前。ボルジア家はイタリアが誇るヒーローだぜ?
イタリア犯罪史上、最強最悪の親子だかんなあ。
もしタイムマシンがあったら、俺はぜってえ15世紀行って、チェーザレと握手だなあ」
「ヒーロー、ね」
「チェーザレは、パパのロドリーゴと力を合わせて、イタリア統一を目指したんだ。
当時の科学では確実に足が付かない、毒薬カンタレラを使いこなした毒殺魔。
ボルジア家の完全犯罪は、美学の極みだ。ガキの頃は、パパにもよく言われたもんさ。
我々もボルジア家のような悪の華になろうってな」
「成程。犯罪組織の間では、ボルジア家は見習うべきお手本、というわけか」
「んでさ、シャルロット・ダルブレのような美人を見付けて、
ルイーズのような美人な孫を見せてくれとか言うんだぜ、俺のパパが。
うちのママ以上のイイ女が居るわけねーよなー」
「ディーノ、今何て言ったの」
「うちのママ以上のイイ女が居るわけねえ」
「違う」
「違わねえよ! うちのママはなあ!」
「そうじゃなくて、その前」
「ルイーズのような美人な孫を」
「誰なの、それ」
「だから、ルイーズ・ボルジアだよ。チェーザレの娘に決まってんだろ。
お前、アンジェロのカッコしときながら、そんなことも知らなかったのか?」
沈黙がマフィアの言葉を肯定する。得意げにマフィアは語った。
「ルイーズが、フランスの男爵と結婚したことで、チェーザレの血は今も受け継がれてるのさ。
美しき犯罪者の遺伝子は、時代を超えて、まだ息をしてんだぜ? そう考えるだけで血が騒ぐだろ?」
寮に戻ってから、僕はボルジア家の血の行方を調べてみた。
マフィアが言っていたことは正しかった。
ボルジア家の家系図を見て、僕は短く息を呑んだ。
目に飛び込んでくる、名前。
「だから、何だと言うの」
知らぬ間に自分の腕を抱いていた。血の流れがいつもより早い気さえする。
この身体に流れる血。疑惑がちらりと脳裏を掠める。
「ただの偶然だ」
まるで自分に言い聞かせるように声に出していた。
フランスでは珍しくない名前だと解っているけれど。
紛れもない史実として、その名前は載っていた。
チェーザレ唯一の嫡出子の名はルイーズ、
彼女と夫の間には、男の子が生まれていた。
アンリ、という名の。
fin
■アンリの日記「タロット」ベース
僕のタロットは、サン・ジェルマン家の物置で見つけた。
埃を被った木製の小さな箱に入ってた。
箱の底には、女性の名前が刻まれてる。
ルイーズ。サン・ジェルマン伯爵夫人。僕の遠い母。
彼女についての詳しい資料は、何故か残されていない。
伯爵の正確な生年は不明だが、17世紀と18世紀の狭間に生まれたとされる。
ならば彼女も、その時代を生きた人間だろうと推測はできる。
けれど、当時のルイーズという女性を調べてみても、どこの誰なのか確証が得られなかった。
そもそも、いつの時代か、なんて限定することは、あまり意味をなさないかもしれないし。
錬金術師だった伯爵について詳しそうな人間なら知っている。
錬金術のみならず、世界のあらゆる神秘について、人に教えられるだけの知識を保有している人。
そんな神秘学の権威が、かなり近くに――この教室の、教壇に居るのだけれど。
「そう言えば、17世紀には、こんな錬金術師が居るんだ。
諸君が日頃お世話になっている人と同じ名前のね」
教科書は、ただ手持ち無沙汰で持っているだけ。
資料に全く頼らずとも、授業を進めることができる教師。
「バトラーという名前なんだよ?」
そう言って、一人で微笑んでいる紳士。
聖アルフォンソ学院、神秘学担当教師、オーギュスト・ボージェ。
「錬金術師バトラーは、たくさんの病人を救った。
例えば、小さな石にちょっと浸した、スプーン1杯のアーモンド・ミルクを飲ませて、
瀕死の患者を治したり。彼も賢者を石を持っていたとされる錬金術師の一人だ」
穏やかで単調な語り口は眠気を誘うもの。
神秘学に興味のない者ならば、授業が始まってすぐにうとうと来るだろう。
だけど、僕の頭の中には、彼の言葉はすうっと沁み入る。乾いた黄土に降る雨水のように。
夕焼けが教室を染める頃、この授業は終わる。今日もまた決められた時刻に鐘は鳴った。
講師がパタリと教科書を閉じる。
「ではまた来週。ごきげんよう、諸君」
生徒達が静かに退室していく。これで今日の時間割は終わりだ。
僕は席を立たずに、黒板を消す背中を眺めてた。
チョークの痕を丁寧に拭き取った後、彼は僕を見た。
「おや、アンリ。何か質問かい?」
「うん」
そこで何故か、よくできました、とでも言いそうな顔をした。
僕と二人きりになると、どうしてこの講師はこういう優しい顔をするんだろう。
「勉強熱心だね、アンリは。では私の研究室で紅茶を飲みながら聞こうか?」
今日のはすぐに済む質問だ。
なのに、僕は少し迷った。彼が淹れる紅茶の味を思い出していた。
「ここでいい」
「それは残念」
何故、残念がるのか解らない。
「ボージェ教授、『ルイーズ』という名を持つ女性を挙げてみて」
謎の女性について、何か少しでも手がかりになることが掴めれば。
そう思って、伯爵の名は出さずに尋ねると、
講師は、僕の思惑を知ってか知らずか、楽しそうに応じてくれた。
「おや。歴史のクイズかい? それとも、もっとプライベートな質問なのかな?
心配しなくとも、今の私に懇意にしている女性が居ないことは、アンリも知っているだろう?」
「君のプライベートなんか知らないし、どうでもいい。歴史上の人物からだよ」
「地理的にはフランスに多い名前だね。時代は?」
「17世紀か、18世紀生まれ、かな」
「結構、最近だね。どうして、その時代なんだろう?」
「生徒の質問には、迅速に答えてくれる? ボージェ教授」
「はいはい。では先ず、17世紀から行こうか。ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール嬢。
おしとやかで、実に優雅に踊れる女性だった。
彼女は、フランス王ルイ14世の寵姫(ちょうき)、つまり愛人となるけれども、
放蕩家のルイ14世は、後に、他の女性に心奪われてしまう」
「知ってる」
「同じ時期に、ルイーズ・ケルアイユ嬢という、なかなか野心的な女性が居るね。
ご両親は、娘をルイ14世の寵姫にしようと画策していたんだ。
けれど、先程言った、ラ・ヴァリエール嬢、奇しくも、同じ名を持つ女性が既にルイ14世の寵姫だった。
そこでルイ14世は、弟の妃の侍女に、ケルアイユ嬢を据える。
それが縁で、彼女はイングランド王チャールズ2世の寵姫となるんだ」
「知ってる」
「スウェーデン王妃となった、ルイーズ・マウントバッテン嬢。
けれど、彼女は生まれが19世紀になってしまうから、対象外かな?」
「いや、対象外とも言えないな。全く別の時代かもしれない」
その後もボージェ教授は、まるで歴史の教科書を読んでいるかのように、何名ものルイーズを挙げてみせた。
僕が何日もかかって調べた名前が、何も見ていない彼の口からすらすら出てくる。
「ねえ。君って、神秘学の研究者だよね? 西洋史を専攻していた時期でもあるの?」
「おやおや。アンリに褒めて貰えるとは光栄だね。ありがとう」
むかつく。
「もういい。同じ名前ばかりで、飽きてきた」
やはり、伯爵に繋がりそうなルイーズは居なかった。
どうして、親族である僕にでさえ、解らないのだろう。何か訳があるのだろうか。
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないのかい、アンリ。
どうしてアンリは、どこかのルイーズ嬢を探しているんだい?」
「僕の勝手でしょ」
問い詰められる前に、違う話題を出す。
「そう言えば、僕、来週の神秘学、休むから。先に言っておくね」
「おや。風邪を引く予定なのかね?」
「商談に行くの」
「それはお疲れ様。では、来週知らせるつもりだった宿題を今伝えておこうかな?」
「宿題?」
「神秘の宿る場所をひとつ選んで、自由に思ったことをレポートにまとめて欲しいんだ。枚数は任せるよ」
「提出期限は?」
「今月末の講義で回収する予定だよ」
「あと二週間か。じゃあ面倒だから、商談の場所から手近な所にしようかな」
「またシチリアかい?」
「ううん。同じ国だけど、もう少し北」
「気を付けていっておいで。お友達のマフィア君と仲良くするんだよ?」
「友達じゃない」
商談を無事に終えた僕は、イタリアの首都ローマに来た。
隣を歩かせているのは、この国在住のマフィア。ディーノ・マンゾーニ。
今日の装いは、白のロングコートにハット。
首には母親からのプレゼントだと言うピンクのマフラーを巻いている。それから、
「ねえ、ディーノ」
「ああん?」
「そのサングラス」
「ああ。俺様に似合うだろ?」
「似合い過ぎて目立つから、今すぐ外して貰えない?」
「なんだ、また惚れ直したんなら、そう言えよ、え?」
ただでさえ善人顔ではないのに、サングラスのせいで余計怪しさを醸し出している。
自ら、極悪人です、と名乗っているようなものだ。
そのせいだろう。僕達二人の周りだけ人が近寄らず、変な空間があるのは。
おかげで、人混みの中でも悠々と歩けるのは有難いけれど。
観光客はマフィアを遠くから物珍しそうに見ているし、
中には、このマザコンに頭を下げてきた者も居た。
おそらく彼と同じ世界に住む人間か、マンゾーニ家の恩恵に肖っている者なのだろうが。
その度に、マフィアは僕を見てニヤつきながら、何かイタリア語を喋る。僕への誹謗中傷に違いない。
今日、僕達が訪れているのは、バチカン美術館。
歴代ローマ法王が集めたコレクションを見せびらかしている世界最大規模の美術館だ。
僕の頭上から、マフィアの声が降ってくる。
「宿題ねえ。学生さんはご苦労なこった。ここに来ることが宿題なのか?」
「そんなわけないでしょ。どこか神秘に関わる場所に行ってレポートを書けって、神秘学の課題なの。
丁度、ローマに来る用事があったから、僕はここに決めただけ。
バチカン美術館は行って損はない所だって聞いていたし」
「おいおい、神秘学って何だよ。図工の宿題じゃないのか? ここ美術館だぞ」
「『神秘』って言葉を付ければ何でもいいんだよ。イタリアルネッサンス期の神秘、毒薬カンタレラの神秘、とかね」
「テキトーだな。で、イタリアーノの俺様に観光ガイドを頼んだってわけか」
「君に頼んだのは、ボディガードと通訳」
美術館のガイド役まで期待したわけではなかったのだが、
彼はある場所においてのみ、ガイド以上の知識を持っていた。
「さあ。ここがお待ちかねの『ボルジアの間』だ」
ここには、ボルジア家の父、ロドリーゴ・ボルジアが愛した芸術が展示されている。
毒殺魔として知られるボルジア家は、芸術家達のパトロンでもあったのだ。
「1492年から1503年の間、ボルジア家のパパが、ここに住んでた。
お気に入りの芸術家ピントゥリッキオに壁画装飾させてな。ほら、アレ。
お前、そのちびっこい背で見えるか? なんなら肩車してやるぜ、リトル・プリンセス?」
「見えるから」
僕達は『ボルジアの間』に展示された芸術をゆっくりと見て回った。
マフィアは展示品や、ボルジア家の歴史について、ペラペラと解説した。
「この部屋では、ボルジア家による暗殺も行われたらしいし、
晩年はボルジア家の者にとって牢獄のような使われ方もした」
僕は文化祭でボルジア家の末弟アンジェロを演じたこともあり、
ボルジア家については一通り学んだつもりでいたのだが、
マフィアの口から語られる話には、初めて聞く情報もあった。
「そういや、チェーザレも『悪魔の子』って呼ばれてたんだぜ?」
「彼が?」
「ま、チェーザレだけじゃなくて、ロドリーゴの子供は全員、そう呼ばれてたんだけどな」
彼には多くの子供が居た。
ロドリーゴ・ボルジアとシャルロット・ダルブレの間に生まれた子供が、
チェーザレ、ホアン、ルクレツィア、ホフレ。他の女性二名に産ませた子供が五人。
それにアンジェロを加えれば、計十人。
「どうして、全員が『悪魔の子』なの?」
「パパのロドリーゴ・ボルジアがローマ法王だからに決まってんだろ。
聖職者は結婚できない決まりだったから、全員庶子扱い。悪魔の仕業でできた子供なのさ」
ディーノにとっては自国の歴史とは言え、ルネッサンス期のイタリア史について、
これほど知っているとは思わなかったので、僕は率直な感想を述べた。
「意外だな。君がボルジア家に詳しいなんて」
「何言ってんだ、お前。ボルジア家はイタリアが誇るヒーローだぜ?
イタリア犯罪史上、最強最悪の親子だかんなあ。
もしタイムマシンがあったら、俺はぜってえ15世紀行って、チェーザレと握手だなあ」
「ヒーロー、ね」
「チェーザレは、パパのロドリーゴと力を合わせて、イタリア統一を目指したんだ。
当時の科学では確実に足が付かない、毒薬カンタレラを使いこなした毒殺魔。
ボルジア家の完全犯罪は、美学の極みだ。ガキの頃は、パパにもよく言われたもんさ。
我々もボルジア家のような悪の華になろうってな」
「成程。犯罪組織の間では、ボルジア家は見習うべきお手本、というわけか」
「んでさ、シャルロット・ダルブレのような美人を見付けて、
ルイーズのような美人な孫を見せてくれとか言うんだぜ、俺のパパが。
うちのママ以上のイイ女が居るわけねーよなー」
「ディーノ、今何て言ったの」
「うちのママ以上のイイ女が居るわけねえ」
「違う」
「違わねえよ! うちのママはなあ!」
「そうじゃなくて、その前」
「ルイーズのような美人な孫を」
「誰なの、それ」
「だから、ルイーズ・ボルジアだよ。チェーザレの娘に決まってんだろ。
お前、アンジェロのカッコしときながら、そんなことも知らなかったのか?」
沈黙がマフィアの言葉を肯定する。得意げにマフィアは語った。
「ルイーズが、フランスの男爵と結婚したことで、チェーザレの血は今も受け継がれてるのさ。
美しき犯罪者の遺伝子は、時代を超えて、まだ息をしてんだぜ? そう考えるだけで血が騒ぐだろ?」
寮に戻ってから、僕はボルジア家の血の行方を調べてみた。
マフィアが言っていたことは正しかった。
ボルジア家の家系図を見て、僕は短く息を呑んだ。
目に飛び込んでくる、名前。
「だから、何だと言うの」
知らぬ間に自分の腕を抱いていた。血の流れがいつもより早い気さえする。
この身体に流れる血。疑惑がちらりと脳裏を掠める。
「ただの偶然だ」
まるで自分に言い聞かせるように声に出していた。
フランスでは珍しくない名前だと解っているけれど。
紛れもない史実として、その名前は載っていた。
チェーザレ唯一の嫡出子の名はルイーズ、
彼女と夫の間には、男の子が生まれていた。
アンリ、という名の。
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