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■アイヴィー ソクーロフ
コンコンコン。三回ノックしてドアを開けた。
「こんちはー。ソクちゃん、ベッド貸してー」
ある晴れた日。
聖アルフォンソ学院専属タクシードライバーは、いつものように保健室へ昼寝に来た。
昨夜は捕り物があって今猛烈に眠いのだ。
というのも、ドライバーを務める傍ら、島の警備も担当しているからだ。
保健室はシンとしていた。
この部屋にいつも居る筈の先生の姿が見えない。
「あれ? 居ないのか」
長時間ここを離れるわけはないから、少し席を外しているだけだろう。
「ベッド借りるよー」
無人の保健室に断りを入れて横になった。
保健室特有の匂いがする。
シーツの薬臭さが、今では睡眠薬の代わりになる。
すぐに落ちそうだ。
眠気で朦朧とした意識の中、なんとか携帯電話のアラームを30分後にセットする。
携帯電話から手を離す。重い瞼を閉じた。
白衣の男が戻ってきたのは、それから数分後のことだった。
手に書類を持っている。所用で学務課に呼ばれ、帰ってきたところだ。
簡易ベッドの上にブルーのワイシャツを来た背中。
シーツに散らされた長い髪は金色だった。
それにはチラと視線を投げただけで、白衣の男が驚く様子はなかった。
コーヒーメーカーから淹れたカップを自分の机に運び、資料作成を再開した。
この学院の保健室は一室ではなく、二階建ての建物全体を示す。
一階は診察室とカウンセリングルーム。二階はベッドルームだ。
保健教師の定位置は、ドアを開けて最初の部屋、診察室のデスクである。
窓から差し込む日差しが保健室全体を明るく照らしている。
今の時間、生徒達は授業中だ。
保健教師が書き物をしていると、外から生徒達の声が聞こえた。
スケッチブックを抱えた生徒達が保健室の前を通り過ぎていく。
絵画クラスのようだ。どこかでデッサンをするのだろう。
その光景を保健教師は凝視していた。
どの生徒が誰の隣に居るか、誰と話しているかを無意識に観察していた。
コンコン。二回ドアがノックされた。
「入りたまえ」
保健教師が声を掛けると、失礼します、という呻き声と共に扉が開いた。
眼鏡を掛けた生徒が顔を見せた。保健室の先生はにこやかに迎え入れる。
「やあ、ハルヤ。今日はどうしたのかな?」
「あの、ちょっとさっきからお腹が痛くて」
苦痛を堪える表情。猫背気味で腹に手をあてていた。
保健教師は席を立って、生徒に寄り添う。
「解った。すぐに診察をしよう」
「あれ?」
眼鏡の生徒は、白衣の向こう側に見えるものに気付いた。
制服姿ではない、長身の人間が簡易ベッドで横になっている。
金色の長髪。その後ろ姿だけで、名前を言い当てた。
「先生、あそこに寝てるの、アイヴィーじゃないですか?」
「ああ、そうだね」
「どこか具合が悪いんですか? まさかインフルエンザとか」
「いいや。単に勤務時間中にサボっている悪いおじさんだよ」
島の外では、世界的猛威を振るっている流行り病も、
この隔絶された島では、まだ確認されていなかった。
「今日は隣の部屋で診察をしよう」
白衣の男が移動するので、生徒もその後に続いた。
隣はカウンセリングルームと呼ばれる部屋だ。
診察室は白を基調としているが、こちらは茶系でまとめられている。
柔らかなタッチで描かれた絵画が飾られ、落ち着いた雰囲気の部屋だ。
生徒と向かい合った保健教師は問診を始めた。
他校では珍しいことだが、この保健教師は医師免許保持者でもあった。
「お腹が痛み出したのは授業中と言っていたね? 何の授業だったのかな?」
「建築学です」
「最後に食事をしたのは昼食かい?」
「はい」
「いつもより多く食べたのかな?」
「いえ、アボカドまぐろ丼を二杯しか食べないので、普通だと思いますけど」
「うん。君にしては普通だね」
医師は手元のノートに『アボカドまぐろ丼×2』とメモする。
「では朝食は?」
「今朝は多かったかな。カミーユが和食のメニューを用意してくれて、
たくさん召し上がって下さいね、って言われたし、秋刀魚が凄く美味しくて」
医師は表には出さないが、舌打ちをしたい気分だった。
カミーユ・ルブラン。この生徒が住む寮の専属シェフのことだ。
彼が真面目で仕事熱心な男であることは、医師も知っているのだが、
シェフは、日本出身のこの生徒を特に可愛がっているようで、
彼の寮では、日本の料理が食卓に並ぶ回数が増えているらしいのだ。
加えて、日本人には、人の親切に嫌と言えない性質がある。
おかげで、シェフがはりきるほど、この生徒が保健室に駆け込むことになる。
一度、保健室からキッチンへ指導を入れたほうが良いかもしれない。
「昨夜はどうかな? ディナーや、その後は?」
「晩ご飯は、栗ごはんが美味しかったです」
味について聞いているのではない。
「それは、どのくらい食べたのかな?」
「五杯くらい、だったと思います。あ、あと夜食に『二番目に安いスープ』を」
聞き取ったメニューを頭の中で軽くカロリー計算する。
一般の生徒ならば、とっくに標準値を超えている。
「いつもより、やや多めに食べたようだね」
「言われてみると、そうですね」
「では、少しお腹に触らせてくれるかな?」
問診の後は触診。患者の腹部に触れた他、風邪の症状がないかも調べた。
「喉の腫れや熱もないようだし、食べ過ぎによる腹痛のようだね。
いつもの薬を処方するよ。ここで飲んでいくといい」
錠剤と水を差し出す。ハルヤは何の疑いもなく、それを口にした。
飲み終わると、お腹に手を当てて、もう少し良くなった気がします、と笑っていた。
「せっかく来てくれたから、少しカウンセリングをしよう」
「あ、はい」
「最近、何か心配なことはあるかね?」
「うーん。いや、別に」
「それは何よりだね。ところで、昨日は夜食を食べたと言っていたけれど、
昨夜は眠るのが遅かったのかな?」
「え? ああ、最近はちょっと。えっと、みんなや他の先生には内緒にしててくれますか?」
内心の興奮を抑えて、カウンセラーは優しい顔を演じた。
「もちろん」
「実は、夜に、ちょっと森で練習してるんです」
みんなに見られるのが恥ずかしいので、
夜の森で時折、日舞の練習をしているのだそうだ。
この子の家は、皆、日本舞踊の踊り手。父が家元、祖父は人間国宝にまでなっている。
ハルヤ自身も幼少期から、兄とともに踊りを習い、舞台に立つこともあったという。
次に兄の前で踊る時、舞が下手になっていると言われないように、
最近は練習をしていると話した。
だが、ここ暫くブランクがあった為、なかなか以前のようには踊れないらしい。
食べ過ぎの原因はここかもしれない。直感的に医師はそう感じた。
練習不足に対する焦り、プレッシャーから来ているのかもしれない。
腹痛の原因は食べ過ぎ。食べ過ぎの原因は日舞に関するストレス。
ならば、腹痛の原因の原因はストレスとなる。
以前から、ハルヤは心配事があると食べ過ぎる傾向が見受けられた。
「ハルヤ、夜間に練習したいのなら、ウーティスの音楽サロンを勧めるよ。
あの部屋は、今はだれも使っていないんだろう?
近頃、気温が少し下がってきたから。外では身体を冷やしてしまう。
冷えが腹痛の一因になる場合もあるからね」
「あ、そっか。俺、踊ってると寒いとか暑いとか感じなくなってる時あるし」
「成程。集中しているんだね。なら、尚更、室内が良いね。
それから、せっかく練習しているのなら、その成果を友達に見て貰っては?」
「そんな。俺、まだ上手くないし」
「みんな、君のおかげで日本文化に興味を持っているから、君が踊るとなれば、きっと喜ぶよ。
本番の日を決めて、それに向かって練習すると効率も良い。
みんなの前で踊ったら自信が付くから、お兄さんの前でもきっと上手く踊れるよ」
ハルヤの顔には迷いが映し出される。カウンセラーは優しい声で言った。
「今すぐそうしなさい、という話じゃない。ただの提案だ。
今後もし、君がやってもいいと思ったら、やってごらん?」
「あ、解りました。ちょっと考えてみます」
「うん。さて、お腹の調子はどうかな? まだ痛むかい?」
「あっ、いえ。もう大丈夫です。すごい。
先生と話してるうちに、痛かったの忘れちゃったみたい」
「もし、腹痛が再発したら、またいつでもおいで。ん? どうしたのかな?」
ハルヤが急にそわそわし出したので尋ねた。
「あの、アイヴィーのことなんですけど。
確か今日はレッドとユウタが、アイヴィーのタクシーを予約してて」
「何時の予約か解るかい?」
「えっと、5時って言ってたと思います」
「解った。それまでに起きないようなら、私が起こすから」
「あ、そうじゃなくて。アイヴィーが疲れてるんなら、
今日は他のドライバーさんに変えてあげてって、レッドに伝えておきますけど、俺」
「昼寝は、疲れを取るのに有効な手段だが、30分以上眠ると体内リズムを乱してしまうんだ。
だから遠慮なく、彼をドライブに連れて行ってくれて良いんだよ」
「そう、ですか。解りました」
「度々、見受けられるが、ハルヤは思いやりがあるね。
いちドライバーの体調を気遣えるとは。素晴らしいことだよ」
眼鏡の生徒の頬にさっと赤みが差す。
「そんな……てゆうか、あの、アイヴィーは、
ドライバーさんの一人っていうより友達ですから。
あ、年上の人に友達なんて言っちゃ失礼だったかな……」
「我々にとっては光栄なことだよ、マージナルプリンスにそう思って貰えることは」
生徒が退室した後、カウンセラーは、今の診察内容を早速カルテに書き残す。
その横顔は真剣そのものだが、時々口許がニヤついていた。
電子音が流れた。ベッドのほうからだ。ブルーの背中がもぞもぞしている。
ドライバーの顔が保健教師に向けられた。
「あ、おはよー、ソクちゃん。勝手にベッド借りてました」
寝起きの少し擦れた声。
「見れば解る」
保健教師は席を立った。
ドライバーはゆっくりと身体を起こして、伸びをした。
「ねー、一生のお願いなんだけどさー、俺に」
サイドテーブルに白いカップを置かれた。
俺にコーヒーをご馳走してくんない、とお願いする前にそれが出てきた。ドライバーは笑う。
「うわー、心読まれたー」
カップを口に運ぶ。
「はぁ~。目覚めのホットコーヒーは最高だねえ。
にしても、俺の心が読めちゃうなんて、長年積み重ねてきたアイのチカラかな?」
「生徒達への愛さ。可愛い生徒達を安全運転で送迎して貰う為にな」
「あっ! そういや、予約入ってたっけ? って今何時!?」
掛け時計を見る。午後4時32分。
「まだ間に合う。それを飲み終わったら、さっさと仕事へ戻れ」
「は~い」
カップを口に運ぶ。
「オイシ。ソクちゃん、サンドイッチもー」
「ない」
「ちぇー」
fin
コンコンコン。三回ノックしてドアを開けた。
「こんちはー。ソクちゃん、ベッド貸してー」
ある晴れた日。
聖アルフォンソ学院専属タクシードライバーは、いつものように保健室へ昼寝に来た。
昨夜は捕り物があって今猛烈に眠いのだ。
というのも、ドライバーを務める傍ら、島の警備も担当しているからだ。
保健室はシンとしていた。
この部屋にいつも居る筈の先生の姿が見えない。
「あれ? 居ないのか」
長時間ここを離れるわけはないから、少し席を外しているだけだろう。
「ベッド借りるよー」
無人の保健室に断りを入れて横になった。
保健室特有の匂いがする。
シーツの薬臭さが、今では睡眠薬の代わりになる。
すぐに落ちそうだ。
眠気で朦朧とした意識の中、なんとか携帯電話のアラームを30分後にセットする。
携帯電話から手を離す。重い瞼を閉じた。
白衣の男が戻ってきたのは、それから数分後のことだった。
手に書類を持っている。所用で学務課に呼ばれ、帰ってきたところだ。
簡易ベッドの上にブルーのワイシャツを来た背中。
シーツに散らされた長い髪は金色だった。
それにはチラと視線を投げただけで、白衣の男が驚く様子はなかった。
コーヒーメーカーから淹れたカップを自分の机に運び、資料作成を再開した。
この学院の保健室は一室ではなく、二階建ての建物全体を示す。
一階は診察室とカウンセリングルーム。二階はベッドルームだ。
保健教師の定位置は、ドアを開けて最初の部屋、診察室のデスクである。
窓から差し込む日差しが保健室全体を明るく照らしている。
今の時間、生徒達は授業中だ。
保健教師が書き物をしていると、外から生徒達の声が聞こえた。
スケッチブックを抱えた生徒達が保健室の前を通り過ぎていく。
絵画クラスのようだ。どこかでデッサンをするのだろう。
その光景を保健教師は凝視していた。
どの生徒が誰の隣に居るか、誰と話しているかを無意識に観察していた。
コンコン。二回ドアがノックされた。
「入りたまえ」
保健教師が声を掛けると、失礼します、という呻き声と共に扉が開いた。
眼鏡を掛けた生徒が顔を見せた。保健室の先生はにこやかに迎え入れる。
「やあ、ハルヤ。今日はどうしたのかな?」
「あの、ちょっとさっきからお腹が痛くて」
苦痛を堪える表情。猫背気味で腹に手をあてていた。
保健教師は席を立って、生徒に寄り添う。
「解った。すぐに診察をしよう」
「あれ?」
眼鏡の生徒は、白衣の向こう側に見えるものに気付いた。
制服姿ではない、長身の人間が簡易ベッドで横になっている。
金色の長髪。その後ろ姿だけで、名前を言い当てた。
「先生、あそこに寝てるの、アイヴィーじゃないですか?」
「ああ、そうだね」
「どこか具合が悪いんですか? まさかインフルエンザとか」
「いいや。単に勤務時間中にサボっている悪いおじさんだよ」
島の外では、世界的猛威を振るっている流行り病も、
この隔絶された島では、まだ確認されていなかった。
「今日は隣の部屋で診察をしよう」
白衣の男が移動するので、生徒もその後に続いた。
隣はカウンセリングルームと呼ばれる部屋だ。
診察室は白を基調としているが、こちらは茶系でまとめられている。
柔らかなタッチで描かれた絵画が飾られ、落ち着いた雰囲気の部屋だ。
生徒と向かい合った保健教師は問診を始めた。
他校では珍しいことだが、この保健教師は医師免許保持者でもあった。
「お腹が痛み出したのは授業中と言っていたね? 何の授業だったのかな?」
「建築学です」
「最後に食事をしたのは昼食かい?」
「はい」
「いつもより多く食べたのかな?」
「いえ、アボカドまぐろ丼を二杯しか食べないので、普通だと思いますけど」
「うん。君にしては普通だね」
医師は手元のノートに『アボカドまぐろ丼×2』とメモする。
「では朝食は?」
「今朝は多かったかな。カミーユが和食のメニューを用意してくれて、
たくさん召し上がって下さいね、って言われたし、秋刀魚が凄く美味しくて」
医師は表には出さないが、舌打ちをしたい気分だった。
カミーユ・ルブラン。この生徒が住む寮の専属シェフのことだ。
彼が真面目で仕事熱心な男であることは、医師も知っているのだが、
シェフは、日本出身のこの生徒を特に可愛がっているようで、
彼の寮では、日本の料理が食卓に並ぶ回数が増えているらしいのだ。
加えて、日本人には、人の親切に嫌と言えない性質がある。
おかげで、シェフがはりきるほど、この生徒が保健室に駆け込むことになる。
一度、保健室からキッチンへ指導を入れたほうが良いかもしれない。
「昨夜はどうかな? ディナーや、その後は?」
「晩ご飯は、栗ごはんが美味しかったです」
味について聞いているのではない。
「それは、どのくらい食べたのかな?」
「五杯くらい、だったと思います。あ、あと夜食に『二番目に安いスープ』を」
聞き取ったメニューを頭の中で軽くカロリー計算する。
一般の生徒ならば、とっくに標準値を超えている。
「いつもより、やや多めに食べたようだね」
「言われてみると、そうですね」
「では、少しお腹に触らせてくれるかな?」
問診の後は触診。患者の腹部に触れた他、風邪の症状がないかも調べた。
「喉の腫れや熱もないようだし、食べ過ぎによる腹痛のようだね。
いつもの薬を処方するよ。ここで飲んでいくといい」
錠剤と水を差し出す。ハルヤは何の疑いもなく、それを口にした。
飲み終わると、お腹に手を当てて、もう少し良くなった気がします、と笑っていた。
「せっかく来てくれたから、少しカウンセリングをしよう」
「あ、はい」
「最近、何か心配なことはあるかね?」
「うーん。いや、別に」
「それは何よりだね。ところで、昨日は夜食を食べたと言っていたけれど、
昨夜は眠るのが遅かったのかな?」
「え? ああ、最近はちょっと。えっと、みんなや他の先生には内緒にしててくれますか?」
内心の興奮を抑えて、カウンセラーは優しい顔を演じた。
「もちろん」
「実は、夜に、ちょっと森で練習してるんです」
みんなに見られるのが恥ずかしいので、
夜の森で時折、日舞の練習をしているのだそうだ。
この子の家は、皆、日本舞踊の踊り手。父が家元、祖父は人間国宝にまでなっている。
ハルヤ自身も幼少期から、兄とともに踊りを習い、舞台に立つこともあったという。
次に兄の前で踊る時、舞が下手になっていると言われないように、
最近は練習をしていると話した。
だが、ここ暫くブランクがあった為、なかなか以前のようには踊れないらしい。
食べ過ぎの原因はここかもしれない。直感的に医師はそう感じた。
練習不足に対する焦り、プレッシャーから来ているのかもしれない。
腹痛の原因は食べ過ぎ。食べ過ぎの原因は日舞に関するストレス。
ならば、腹痛の原因の原因はストレスとなる。
以前から、ハルヤは心配事があると食べ過ぎる傾向が見受けられた。
「ハルヤ、夜間に練習したいのなら、ウーティスの音楽サロンを勧めるよ。
あの部屋は、今はだれも使っていないんだろう?
近頃、気温が少し下がってきたから。外では身体を冷やしてしまう。
冷えが腹痛の一因になる場合もあるからね」
「あ、そっか。俺、踊ってると寒いとか暑いとか感じなくなってる時あるし」
「成程。集中しているんだね。なら、尚更、室内が良いね。
それから、せっかく練習しているのなら、その成果を友達に見て貰っては?」
「そんな。俺、まだ上手くないし」
「みんな、君のおかげで日本文化に興味を持っているから、君が踊るとなれば、きっと喜ぶよ。
本番の日を決めて、それに向かって練習すると効率も良い。
みんなの前で踊ったら自信が付くから、お兄さんの前でもきっと上手く踊れるよ」
ハルヤの顔には迷いが映し出される。カウンセラーは優しい声で言った。
「今すぐそうしなさい、という話じゃない。ただの提案だ。
今後もし、君がやってもいいと思ったら、やってごらん?」
「あ、解りました。ちょっと考えてみます」
「うん。さて、お腹の調子はどうかな? まだ痛むかい?」
「あっ、いえ。もう大丈夫です。すごい。
先生と話してるうちに、痛かったの忘れちゃったみたい」
「もし、腹痛が再発したら、またいつでもおいで。ん? どうしたのかな?」
ハルヤが急にそわそわし出したので尋ねた。
「あの、アイヴィーのことなんですけど。
確か今日はレッドとユウタが、アイヴィーのタクシーを予約してて」
「何時の予約か解るかい?」
「えっと、5時って言ってたと思います」
「解った。それまでに起きないようなら、私が起こすから」
「あ、そうじゃなくて。アイヴィーが疲れてるんなら、
今日は他のドライバーさんに変えてあげてって、レッドに伝えておきますけど、俺」
「昼寝は、疲れを取るのに有効な手段だが、30分以上眠ると体内リズムを乱してしまうんだ。
だから遠慮なく、彼をドライブに連れて行ってくれて良いんだよ」
「そう、ですか。解りました」
「度々、見受けられるが、ハルヤは思いやりがあるね。
いちドライバーの体調を気遣えるとは。素晴らしいことだよ」
眼鏡の生徒の頬にさっと赤みが差す。
「そんな……てゆうか、あの、アイヴィーは、
ドライバーさんの一人っていうより友達ですから。
あ、年上の人に友達なんて言っちゃ失礼だったかな……」
「我々にとっては光栄なことだよ、マージナルプリンスにそう思って貰えることは」
生徒が退室した後、カウンセラーは、今の診察内容を早速カルテに書き残す。
その横顔は真剣そのものだが、時々口許がニヤついていた。
電子音が流れた。ベッドのほうからだ。ブルーの背中がもぞもぞしている。
ドライバーの顔が保健教師に向けられた。
「あ、おはよー、ソクちゃん。勝手にベッド借りてました」
寝起きの少し擦れた声。
「見れば解る」
保健教師は席を立った。
ドライバーはゆっくりと身体を起こして、伸びをした。
「ねー、一生のお願いなんだけどさー、俺に」
サイドテーブルに白いカップを置かれた。
俺にコーヒーをご馳走してくんない、とお願いする前にそれが出てきた。ドライバーは笑う。
「うわー、心読まれたー」
カップを口に運ぶ。
「はぁ~。目覚めのホットコーヒーは最高だねえ。
にしても、俺の心が読めちゃうなんて、長年積み重ねてきたアイのチカラかな?」
「生徒達への愛さ。可愛い生徒達を安全運転で送迎して貰う為にな」
「あっ! そういや、予約入ってたっけ? って今何時!?」
掛け時計を見る。午後4時32分。
「まだ間に合う。それを飲み終わったら、さっさと仕事へ戻れ」
「は~い」
カップを口に運ぶ。
「オイシ。ソクちゃん、サンドイッチもー」
「ない」
「ちぇー」
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