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■オーギュスト×アンリ シルフェ×レオシュ
ここは聖アルフォンソ学院の第二化学室。
教壇には四十歳前後の男性が立っている。
授業開始の鐘が鳴り終わるのを待って、彼は口を開いた。
「ごきげんよう、諸君。一週間、元気だったかな?」
紳士面してる彼が、この神秘学を受け持つオーギュスト・ボージェ教授。
今日のスーツはダークブラウン。昨日食べたガトーショコラみたいな色だ。
僕は受講生の一人、アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマン。中等部三年。
この教室ではいつも後方の席を取っている。
神秘学は入学した時から受けているから、もう三年目だ。
この学院に入ったサン・ジェルマン家の者は、神秘学を修める伝統だとかで、
僕も、入学時の生徒代表に「神秘学を受けてみないか」と勧められたのだ。
入学の際に卒業生の保証人を必要とする聖アルフォンソ学院において、
保証人を必要としない場合が稀にある。
その例のひとつが、僕。
サン・ジェルマン家の者は、初代サン・ジェルマン伯爵を保証人とし、
本人に入学の意志があるだけで入学が許可される。
伯爵と学院が交わした契約のおかげで、
僕は13歳であの家を出て、ここ聖アルフォンソ島に来ることができた。
神秘学を修める習わしを作ったのも、きっと伯爵なのだろう。
彼は、黄金変成、不老不死を成し得たという稀代の錬金術師らしいし。
サン・ジェルマンの家には、錬金術を始めとする妖しげな古書がたくさんあった。
その類の本は、伯爵嫌いである曾祖父の代から、次第に目に付かない物置部屋に片付けられた。
僕は父に隠れて、あの物置部屋に入ってた。
日が差さない、埃っぽい部屋に忍び込んで、伯爵に関する本を手に取った。
父に見つかって、罵られたり、折檻されたこともあったけど。
僕は読まなきゃいけない気がしたから。サン・ジェルマン家の始祖のことを。
教授が片手に持ってる本をパラパラとめくる。
「今日は教科書で言うと、188ページだね」
今では誰に叱られることなく、授業のひとつとして、学ぶことができる。
窓からは色を変えようとしている青空。
授業が終わる頃には、オレンジ色の光が教室に差し込むだろう。
「では、東洋の錬金術について、勉強しよう」
今日の授業内容も大体のところは聞く前から解ってる。予習もしてきたし。
東洋の中国では、西洋で生まれた錬金術とは別に、独自の錬金術が存在していた。
丹薬(たんやく)の作成を目的とした術で、煉丹術(れんたんじゅつ)という。
煉丹術の丹薬は、錬金術の『賢者の石』に相当する。
丹薬とは、不老不死を得られる薬で、副次的に黄金変成の力を持つ薬。
卑金属を貴金属に変え、また不老不死の霊薬でもある『賢者の石』と同じ能力だ。
「今日は、丹薬の原料となった石を持ってきたんだ」
教授が革鞄からそれを取り出す。
透明なケースに入った赤い石を生徒達に見せた。
「これが原石。名前はシナバー。別名は『賢者の石』だ」
石の大きさは5cm程か。レンガのような赤褐色だ。
「産出国は中国と邪馬台国、いや、今は日本と言うんだったね。
日本の南では現在も産出する石だ。
シナバーを加熱し、冷却することで水銀になる。化学式は」
そこまで書かなくてもいいのに。
「硫化水銀 + 酸素 → 水銀 + 二酸化硫黄、だね」
黒板に書かれた化学式を、黒髪の生徒がご丁寧にノートに写し取る。
つられて他の生徒達も板書していた。
化学室の黒板としては、珍しく相応しい文字だ。変な呪文とか妖しいマークとかよりは。
教授はチョークを置いて、赤い石が入った四角いケースを持つ。
「ああ、ちなみに、クリアケースに入れてある理由は、素手で触ることはあまり勧められないからだよ、水銀だからね。
少しくらいなら直接触っても構わないが、念の為、あとで手を洗うように。では前から回すよ」
教授はシナバーの原石を、最前列の生徒に手渡す。
見せびらかしたいのか、彼は教室に持ってきた物を、生徒の手に触れさせるのが常だった。
最前列の生徒は、興味がなかったのか、ちょっと見ただけで、早々と後ろの席に回していた。
「シナバーを見て貰いながら、錬金術と煉丹術の違いについて説明しよう」
説明されなくても、僕は知っていた。両者の違いはその目標だ。
錬金術は黄金変成が最大目標であるのに対し、煉丹術は不老不死。
中国は古来から、不老長寿の仙人という存在を信じていたから、
不死の肉体を求める傾向が西洋よりも強かった。
教授もそのようなことを説明した。
「秦の始皇帝も例外ではなく、不老不死に焦がれていた。
特に、晩年は生への執着が強くてね。周囲の注意にも耳を傾けず、彼は丹薬を飲み続けた。
そして、どうなったと思う? 仙人になったと思うかい?」
問いかけながらも、独り言のように呟いた。
「亡くなったんだよ、水銀中毒で」
丹薬の原料が、硫化水銀であるシナバーなのだから当然だ。
水銀は神経毒。神経細胞を破壊し、手足の痙攣から歩行障害、
口許の痺れから言語障害などを引き起こす。
そう言えば、何かで聞いたことがある。水銀が原因となった、人類史上初の公害病。
工場から流れた水銀が魚の体内に入り、それを食べた近隣住民が1000人以上死亡したという。
プリンセス、と言う小声が聞こえた。
前の席の生徒が、赤い石が入ったクリアケースを差し出している。
教授が最前列から回してきた、シナバーの原石が僕のところに回ってきたのだ。
僕の前に座っていたのが、僕をお姫様扱いしている上級生の一人だった。
僕は彼を睨んで、赤い石を取る。
コワイコワイ、と笑って彼は正面に向き直った。
僕はケースを開けず、石を机の上に置いて観察した。
表面はレンガ色だが、裏面は普通の石のように灰や茶をしていた。
全体的に銀色の粒が混ざっている。鈍く妖しげな銀の光。
これが、東洋の錬金術師が不老不死の源だと信じた、賢者の石。
毒の塊だとも知らないで。
僕は石を次の席へ回し、教授の話に耳を傾けた。
「始皇帝の没後、翌年には『陳勝・呉広の乱』という史上初の農民反乱が起きて、
秦の時代は加速度的に滅亡への道を辿ることになる。
煉丹術の最盛期は唐の時代。当時は皇帝の多くが丹薬の常用による水銀中毒で寿命を縮めた」
不老不死の薬で死期を早める。哀れな話だ。
「それ以降、煉丹術は衰退していく。不老不死の薬ではなく、
実用的な薬の開発を目指す、現在の医学へと形を変えてね。
今の話を聞いて、煉丹術は未完成、丹薬は失敗作、と思うかい?」
誰も答えない。教授は続ける。
「確かに、始皇帝や唐代の皇帝が服用したものはそう言える。
だが、煉丹術師の中には、不老不死を得て仙人になった者も居るそうだよ。
それを伝説と見るか、真実と見るかは、諸君次第だ」
伝説があるだけで事実ではないと言えば良いのに。
どうして、敢えて煙に巻くような態度を取るのだろう。教師のくせに。
授業が終わった。
教室の中央に座っていた銀髪の生徒が、素早く立った。
シュヌーシア寮のシルフェ・ダフラティン。学年は僕と同じ中等部三年。たまに面白い質問をする生徒だ。
彼はそそくさと窓側の席に向かった。長い黒髪の生徒の前に立って、にこりと笑う。
「レオシュ、帰ろ?」
アルファルド寮のレオシュ。高等部一年。
レオシュはシルフェが目に入らないかのように無視している。いつものことだ。
僕は黒板のほうを見る。
教授は、授業が終わると、さっさと黒板を消すのだが、今日はまだ消えてなかった。
一冊の本を片手に教壇を下りた。僕のところに来るのかなと一瞬思ったが。
彼が足を止めたのは、長い黒髪の生徒の前だった。
「レオシュは、不老不死に興味があるのかい?」
呼ばれた生徒はエメラルドグリーンの瞳を大きくした。
「いえ、別に……どうして」
「先程、君は随分熱心にシナバーを観察していたようだから」
シルフェが横から口を出す。
「へえ、驚いた。センセは生徒のことよく見てるんだね。それで、レオシュに何の用なんです?」
教授は持っていた本をレオシュに差し出した。紅色のハードカバー。
「今日の授業に関する参考文献だ。良ければ、君に読んで貰いたいと思うのだが」
「良いんですか?」
「生徒の興味関心を伸ばすのが、私達教師の務めだからね。返すのはいつでも構わないよ」
差し出された本にレオシュは手を伸ばさない。教授は優しく言葉を重ねた。
「何かに興味を持つことは素晴らしいことだよ、レオシュ。
生徒の興味関心は、この学院で何より重要視されていることだ。
それが例え、どんなに荒唐無稽なことでもね」
俯いていたレオシュがそっと呟いた。
「お借りしても、いいですか」
「どうぞ」
レオシュは紅色の本を受け取った。
「ありがとうございます、ボージェ教授」
見守っていたシルフェが口を開く。
「へえ。面白そうじゃん? 読み終わったら、俺にも貸してよ、レオシュ」
途端にレオシュは普段通りの不機嫌な顔になる。
シルフェの言葉が、まるで耳に入らないかのように席を立った。
「待てよ、レオシュ。一緒に帰ろって言っただろ」
シルフェが後を追う。
嫌がられてるのは明白なのに、シルフェはレオシュにつきまとう。
授業中もチラチラ見てるし。まあ、どうでもいいけど。
彼等が教室を出て行くと、残ったのは僕と教授だけになっていた。
教授は教壇に戻り、黒板消しを持った。几帳面な性質で、彼はいつも隅々まで綺麗にする。
このまま寮に帰る気になれなくて、僕は席に着いたまま、呟いた。
「珍しいことするんだね、ボージェ教授」
僕の声が、二人きりの第二化学室に響く。彼は黒板消しを左右に振りながら、
「それは誤解だよ、アンリ」
「何が誤解なの?」
「私がレオシュに参考文献を貸してあげたことが、お気に召さなかったんだろう?」
「違う。珍しい、と言っただけだ」
彼の肩がククと震えた。むかつく。
黒板に残ってた最後の文字を拭き取ると、彼はゆっくり振り返った。
「あれは、彼に必要な本だったから、渡しただけなんだ」
「レオシュに? 何が書いてある本なの?」
「唐代を生きた六人の皇帝の話が詳しく載っている。不老不死を望んだ者の末路がね」
授業で少し触れた話か。
丹薬を飲んで死期を早めたという唐の皇帝達。
「それが、レオシュに必要な本だと言うの?
どういう意味? それに、どうして、そんなことが君に」
彼は教壇を下りた。靴音が、一歩、一歩、近付いてくる。今度は僕に向かって。
僕の目の前まで来て、にこりと微笑んだ。
「今日はね、アールグレイのシフォンケーキがあるんだ。私の研究室でお茶にしよう?」
彼に付いていったのは、シフォンケーキに釣られたからじゃない。
話が途中だったからだ。
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ここは聖アルフォンソ学院の第二化学室。
教壇には四十歳前後の男性が立っている。
授業開始の鐘が鳴り終わるのを待って、彼は口を開いた。
「ごきげんよう、諸君。一週間、元気だったかな?」
紳士面してる彼が、この神秘学を受け持つオーギュスト・ボージェ教授。
今日のスーツはダークブラウン。昨日食べたガトーショコラみたいな色だ。
僕は受講生の一人、アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマン。中等部三年。
この教室ではいつも後方の席を取っている。
神秘学は入学した時から受けているから、もう三年目だ。
この学院に入ったサン・ジェルマン家の者は、神秘学を修める伝統だとかで、
僕も、入学時の生徒代表に「神秘学を受けてみないか」と勧められたのだ。
入学の際に卒業生の保証人を必要とする聖アルフォンソ学院において、
保証人を必要としない場合が稀にある。
その例のひとつが、僕。
サン・ジェルマン家の者は、初代サン・ジェルマン伯爵を保証人とし、
本人に入学の意志があるだけで入学が許可される。
伯爵と学院が交わした契約のおかげで、
僕は13歳であの家を出て、ここ聖アルフォンソ島に来ることができた。
神秘学を修める習わしを作ったのも、きっと伯爵なのだろう。
彼は、黄金変成、不老不死を成し得たという稀代の錬金術師らしいし。
サン・ジェルマンの家には、錬金術を始めとする妖しげな古書がたくさんあった。
その類の本は、伯爵嫌いである曾祖父の代から、次第に目に付かない物置部屋に片付けられた。
僕は父に隠れて、あの物置部屋に入ってた。
日が差さない、埃っぽい部屋に忍び込んで、伯爵に関する本を手に取った。
父に見つかって、罵られたり、折檻されたこともあったけど。
僕は読まなきゃいけない気がしたから。サン・ジェルマン家の始祖のことを。
教授が片手に持ってる本をパラパラとめくる。
「今日は教科書で言うと、188ページだね」
今では誰に叱られることなく、授業のひとつとして、学ぶことができる。
窓からは色を変えようとしている青空。
授業が終わる頃には、オレンジ色の光が教室に差し込むだろう。
「では、東洋の錬金術について、勉強しよう」
今日の授業内容も大体のところは聞く前から解ってる。予習もしてきたし。
東洋の中国では、西洋で生まれた錬金術とは別に、独自の錬金術が存在していた。
丹薬(たんやく)の作成を目的とした術で、煉丹術(れんたんじゅつ)という。
煉丹術の丹薬は、錬金術の『賢者の石』に相当する。
丹薬とは、不老不死を得られる薬で、副次的に黄金変成の力を持つ薬。
卑金属を貴金属に変え、また不老不死の霊薬でもある『賢者の石』と同じ能力だ。
「今日は、丹薬の原料となった石を持ってきたんだ」
教授が革鞄からそれを取り出す。
透明なケースに入った赤い石を生徒達に見せた。
「これが原石。名前はシナバー。別名は『賢者の石』だ」
石の大きさは5cm程か。レンガのような赤褐色だ。
「産出国は中国と邪馬台国、いや、今は日本と言うんだったね。
日本の南では現在も産出する石だ。
シナバーを加熱し、冷却することで水銀になる。化学式は」
そこまで書かなくてもいいのに。
「硫化水銀 + 酸素 → 水銀 + 二酸化硫黄、だね」
黒板に書かれた化学式を、黒髪の生徒がご丁寧にノートに写し取る。
つられて他の生徒達も板書していた。
化学室の黒板としては、珍しく相応しい文字だ。変な呪文とか妖しいマークとかよりは。
教授はチョークを置いて、赤い石が入った四角いケースを持つ。
「ああ、ちなみに、クリアケースに入れてある理由は、素手で触ることはあまり勧められないからだよ、水銀だからね。
少しくらいなら直接触っても構わないが、念の為、あとで手を洗うように。では前から回すよ」
教授はシナバーの原石を、最前列の生徒に手渡す。
見せびらかしたいのか、彼は教室に持ってきた物を、生徒の手に触れさせるのが常だった。
最前列の生徒は、興味がなかったのか、ちょっと見ただけで、早々と後ろの席に回していた。
「シナバーを見て貰いながら、錬金術と煉丹術の違いについて説明しよう」
説明されなくても、僕は知っていた。両者の違いはその目標だ。
錬金術は黄金変成が最大目標であるのに対し、煉丹術は不老不死。
中国は古来から、不老長寿の仙人という存在を信じていたから、
不死の肉体を求める傾向が西洋よりも強かった。
教授もそのようなことを説明した。
「秦の始皇帝も例外ではなく、不老不死に焦がれていた。
特に、晩年は生への執着が強くてね。周囲の注意にも耳を傾けず、彼は丹薬を飲み続けた。
そして、どうなったと思う? 仙人になったと思うかい?」
問いかけながらも、独り言のように呟いた。
「亡くなったんだよ、水銀中毒で」
丹薬の原料が、硫化水銀であるシナバーなのだから当然だ。
水銀は神経毒。神経細胞を破壊し、手足の痙攣から歩行障害、
口許の痺れから言語障害などを引き起こす。
そう言えば、何かで聞いたことがある。水銀が原因となった、人類史上初の公害病。
工場から流れた水銀が魚の体内に入り、それを食べた近隣住民が1000人以上死亡したという。
プリンセス、と言う小声が聞こえた。
前の席の生徒が、赤い石が入ったクリアケースを差し出している。
教授が最前列から回してきた、シナバーの原石が僕のところに回ってきたのだ。
僕の前に座っていたのが、僕をお姫様扱いしている上級生の一人だった。
僕は彼を睨んで、赤い石を取る。
コワイコワイ、と笑って彼は正面に向き直った。
僕はケースを開けず、石を机の上に置いて観察した。
表面はレンガ色だが、裏面は普通の石のように灰や茶をしていた。
全体的に銀色の粒が混ざっている。鈍く妖しげな銀の光。
これが、東洋の錬金術師が不老不死の源だと信じた、賢者の石。
毒の塊だとも知らないで。
僕は石を次の席へ回し、教授の話に耳を傾けた。
「始皇帝の没後、翌年には『陳勝・呉広の乱』という史上初の農民反乱が起きて、
秦の時代は加速度的に滅亡への道を辿ることになる。
煉丹術の最盛期は唐の時代。当時は皇帝の多くが丹薬の常用による水銀中毒で寿命を縮めた」
不老不死の薬で死期を早める。哀れな話だ。
「それ以降、煉丹術は衰退していく。不老不死の薬ではなく、
実用的な薬の開発を目指す、現在の医学へと形を変えてね。
今の話を聞いて、煉丹術は未完成、丹薬は失敗作、と思うかい?」
誰も答えない。教授は続ける。
「確かに、始皇帝や唐代の皇帝が服用したものはそう言える。
だが、煉丹術師の中には、不老不死を得て仙人になった者も居るそうだよ。
それを伝説と見るか、真実と見るかは、諸君次第だ」
伝説があるだけで事実ではないと言えば良いのに。
どうして、敢えて煙に巻くような態度を取るのだろう。教師のくせに。
授業が終わった。
教室の中央に座っていた銀髪の生徒が、素早く立った。
シュヌーシア寮のシルフェ・ダフラティン。学年は僕と同じ中等部三年。たまに面白い質問をする生徒だ。
彼はそそくさと窓側の席に向かった。長い黒髪の生徒の前に立って、にこりと笑う。
「レオシュ、帰ろ?」
アルファルド寮のレオシュ。高等部一年。
レオシュはシルフェが目に入らないかのように無視している。いつものことだ。
僕は黒板のほうを見る。
教授は、授業が終わると、さっさと黒板を消すのだが、今日はまだ消えてなかった。
一冊の本を片手に教壇を下りた。僕のところに来るのかなと一瞬思ったが。
彼が足を止めたのは、長い黒髪の生徒の前だった。
「レオシュは、不老不死に興味があるのかい?」
呼ばれた生徒はエメラルドグリーンの瞳を大きくした。
「いえ、別に……どうして」
「先程、君は随分熱心にシナバーを観察していたようだから」
シルフェが横から口を出す。
「へえ、驚いた。センセは生徒のことよく見てるんだね。それで、レオシュに何の用なんです?」
教授は持っていた本をレオシュに差し出した。紅色のハードカバー。
「今日の授業に関する参考文献だ。良ければ、君に読んで貰いたいと思うのだが」
「良いんですか?」
「生徒の興味関心を伸ばすのが、私達教師の務めだからね。返すのはいつでも構わないよ」
差し出された本にレオシュは手を伸ばさない。教授は優しく言葉を重ねた。
「何かに興味を持つことは素晴らしいことだよ、レオシュ。
生徒の興味関心は、この学院で何より重要視されていることだ。
それが例え、どんなに荒唐無稽なことでもね」
俯いていたレオシュがそっと呟いた。
「お借りしても、いいですか」
「どうぞ」
レオシュは紅色の本を受け取った。
「ありがとうございます、ボージェ教授」
見守っていたシルフェが口を開く。
「へえ。面白そうじゃん? 読み終わったら、俺にも貸してよ、レオシュ」
途端にレオシュは普段通りの不機嫌な顔になる。
シルフェの言葉が、まるで耳に入らないかのように席を立った。
「待てよ、レオシュ。一緒に帰ろって言っただろ」
シルフェが後を追う。
嫌がられてるのは明白なのに、シルフェはレオシュにつきまとう。
授業中もチラチラ見てるし。まあ、どうでもいいけど。
彼等が教室を出て行くと、残ったのは僕と教授だけになっていた。
教授は教壇に戻り、黒板消しを持った。几帳面な性質で、彼はいつも隅々まで綺麗にする。
このまま寮に帰る気になれなくて、僕は席に着いたまま、呟いた。
「珍しいことするんだね、ボージェ教授」
僕の声が、二人きりの第二化学室に響く。彼は黒板消しを左右に振りながら、
「それは誤解だよ、アンリ」
「何が誤解なの?」
「私がレオシュに参考文献を貸してあげたことが、お気に召さなかったんだろう?」
「違う。珍しい、と言っただけだ」
彼の肩がククと震えた。むかつく。
黒板に残ってた最後の文字を拭き取ると、彼はゆっくり振り返った。
「あれは、彼に必要な本だったから、渡しただけなんだ」
「レオシュに? 何が書いてある本なの?」
「唐代を生きた六人の皇帝の話が詳しく載っている。不老不死を望んだ者の末路がね」
授業で少し触れた話か。
丹薬を飲んで死期を早めたという唐の皇帝達。
「それが、レオシュに必要な本だと言うの?
どういう意味? それに、どうして、そんなことが君に」
彼は教壇を下りた。靴音が、一歩、一歩、近付いてくる。今度は僕に向かって。
僕の目の前まで来て、にこりと微笑んだ。
「今日はね、アールグレイのシフォンケーキがあるんだ。私の研究室でお茶にしよう?」
彼に付いていったのは、シフォンケーキに釣られたからじゃない。
話が途中だったからだ。
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