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■何でもない日(6) 続編
警備本部、モニタールーム。
ここにはたくさんのモニターが並んでいる。島内にある監視カメラの映像だ。
映し出されているのは、長閑な午後の様子である。
今日は侵入者の影もなく、監視員達はいつものように、島民の日常を見守っていた。
「平和だなー」
「そりゃあ、侵入者も捕まえたばっかだし」
「連続で来ることはめったにないしな」
「早く上がって、ビール飲みたいよ」
「同感」
警備強化期間はピリピリした緊張感があり、監視員の人数も増やしていたが、
強化期間が解除された現在は、人数も平時に戻している。
「お疲れさまです」
突然、副司令官のクロイツが入ってきた。
「今日の島の様子はどうですか?」
椅子に凭れていた監視員が座り直す。
「ぜ、全エリア異常ありません」
「了解しました。引き続き、気を抜かずに、お願いしますね」
副司令官がモニタールームから自分の席に帰ってくると、
「退屈そうだな、クロイツ」
隣の席の司令官に声をかけられた。
「ヒマだなーって顔に書いてあるぜ?」
「つい先日まで、忙しい日々でしたからね」
「俺はヒマなほうがスキだよ? 仕事はラクなほうがイイじゃん?」
「そうですね。我々のような職務の従事者は、廃業しているほうが世界は平和です」
「廃業しちゃったら、俺達はご飯食べれなくなっちゃうけどね」
司令官は笑ったが、副司令官は笑わなかった。
「元を辿れば、私達が食べているのは、人の悪意なのかもしれません」
司令官は副司令官の表情を伺う。無表情な顔をして、彼は言った。
「人は時に、恨み、憎み、奪い、争います。
人に負の感情があり、負の行動を取る者が居るから、
我々の仕事は世に必要とされ、その対価に報酬を得て、食べていくことができる」
「だから、俺達が食べてるのは負の感情と言えるってわけか。
へえ。クロイツってそんなこと考えてたんだ?」
「すみません。つまらない話をお聞かせして」
「でもさ、人間っぽいと思わない? 恨んだり、憎んだりするのって」
「そうでしょうか?」
「世界中のみんながみんな、他人の幸福を願うような心のキレイな人だったら、
ソッチのほうが気持ち悪いと思うけど? 好意も悪意もあるのがヒトでしょ?
警備組織があるってことはセキュリティシステムが用意されてるってことだし。
警備が必要な世界ってのも、それはそれでイイんじゃないかなあ、人間クサくって。
ウマく言えないけど、そのほうがリアルっていうか、
ヒトらしいっていうか、なんか『生きてる』ってかんじがする」
そう言ったあとで司令官は笑った。
「なーんちゃって。俺もつまんない話聞かせちゃったな」
「退屈だと、人はロクでもないことを考えてしまうようですね。
ああ、この機会に、業務改善提案書などお書きになってみては?」
「え。それ、自由提出じゃん」
「お暇、なんでしょう?」
「そ、そだ! 俺、洗車でもしてこよっかな、天気も良いし。
車をキレーにするのもダイジだよね、商売道具だし!」
泣き腫らして赤くなっていたラビの目許も、元の真っ白な肌になった。
シュヌーシア寮にも平穏な日々が戻ろうとしていた。
一日の授業を終えて、レオンとラビは一緒にシュヌーシア寮に帰ってきた。
「ねえ、レオン。おやつ食べたら、今日出た宿題、一緒にやろ?」
「いや、俺、今日は外に行くから」
「おでかけするの? じゃあ僕も一緒に行っていい?」
「いや、今日は一人で行くから」
「えっ。レオン、どこ行くの?」
「どこって……お前には関係ないだろ」
「ご、ごめん」
レオンはサロンを出て行った。
「どうした、ラビ。しょんぼり、って顔に書いてあるぞ?」
サロンに顔を出したシルフェが、ラビの顔を見て、そう尋ねた。
「ううん、何でも、ないの」
「その顔で言われてもなあ。なんか困ってるなら言ってみな?」
「でも……」
「俺じゃ言えない?」
「そ、そんなことっ」
「なに?」
「あの……あの、レオンがね」
ラビは先程の出来事をつっかえながら話した。
出かけてくると言ったレオンが、行き先を教えてくれなかったことと、
自分を連れていってくれなかったことだ。
端から見れば些細なことだが、ラビには相当ショックだったようで。
「やっぱり、僕のこと嫌になっちゃったのかな。
僕、この前、いっぱい迷惑かけたからだよね……」
涙目になってしまった。
「どうしよ、レオンに嫌われちゃったら、僕……」
シルフェは自分の頭を掻く。
「お前は……」
ひょいと屈んでラビと目線を合わせる。シルフェは明るく言った。
「心配するなよ、ラビ。今日は一人で出かけたい気分だったんだろ、きっと」
「でも、お前には関係ない、って怒られちゃったし」
「それはさ。お前には言えない用事があったのかも、だろ?」
「僕に言えないことって?」
「例えば、ほら、エッチな本を買いに行ってる、とか?」
「えっ? ええっ?」
「はははっ。例えばの話だよ。ほっぺた赤くしちゃってカワイイなー、ラビは」
「もう、シルフェ……」
「悪い、悪い。まあ、俺が言いたいのは、そんなに気にすんなってことだよ」
ソクーロフの前には、ビールを瓶のまま煽っている男。
既に二本目が空こうとしている。
「お前、今日はペースが早いな」
緑の瓶から唇が離される。
「あ、そう? まあイイじゃん。久し振りの飲み会なんだし」
夜、ソクーロフはアイヴィーに誘われて、旧市街にあるバー『ネモフィラ』に訪れていた。
アイヴィーが飲んでいるのはオランダのビール、ソクーロフはポーランドのウオッカだ。
どちらもカラに近かった。
「あ、空きそうなグラスみーっけ!」
二人の前を顔馴染みのボーイが通りかかった。
すすすと近寄って来て、テーブルの傍でしゃがむ。
テーブルから顔を出すように二人を見上げた。
「お次は何飲む?」
ボーイは人懐っこい笑顔でソクーロフを見た。
「セーンセ! 今日はアイヴィーのオゴリなんだから、
ジャンジャン飲んじゃってね!」
アイヴィーはビールを吹き出しそうになる。手の甲で口許を拭いながら、
「な、なんで俺のオゴリなんだよっ!?」
「だってー、アイヴィーはこの前、ソクーロフ先生とうちの店で飲む約束してたのに、
大遅刻しちゃって、約束すっぽかしたじゃん?」
「で、でもあれは仕事だったから仕方ないって、
もう許して貰ってるから。そ、そうだよね、ソクちゃん?」
「成程。言われてみれば確かに、制裁が必要だねえ」
「ええっ!? あ、あの、実は俺、給料日前で……」
「アイヴィー? この前、何時間遅刻したんだっけー?」
「さ、三時間……」
「では、この店で一番高いウイスキーを貰えるかね? 彼のオゴリで」
「ちょ!?」
「はい、センセ! 畏まりましたー!」
ボーイは行ってしまった。
アイヴィーはテーブルに伏せる。
腕の中に顔を埋めて、ソクーロフをジトと見上げる。
「もー。ソクちゃんのイジワルー」
「仲が良いんだね、君達は」
テーブルの横に一人の紳士が立っていた。
「あれ?」
「貴方もいらしたんですか、ボージェ教授」
「こんばんは、アイヴィー、ソクーロフ博士。
似ている声が後ろの席から聞こえるなあと思っていたんだ」
微笑している紳士は、神秘学担当教師オーギュスト・ボージェ教授だった。
後日。
空が綺麗なオレンジに染まる頃。授業終了の鐘が鳴った。
「では、今日はここまで」
第二化学室では、神秘学の授業が終わったところだ。
受講生のシルフェは、レオシュの席へ駆け寄った。
「レオシュ、このあと予定ある?」
「……別にないが」
「じゃあさ、旧市街のほうに行こうぜ?」
「旧市街?」
「イイ店見つけたんだ。お前が好きそうな渋い店」
行こう行こうと追い立てられ、仕方なくといった様子でレオシュは席を立ったが、
去年の彼と比べると、それほど嫌そうに見えなかった。
黒板を消し終わった教授が、教室を振り向くと、生徒が一人だけ残っていた。
琥珀の瞳が教師に向けられる。机には本が置かれていた。
「これ、返す」
二人で教室を出た。廊下の窓からは夕陽が差し込む。
肩を並べてオレンジ色に染まった廊下を歩く。教師はふいに生徒に尋ねた。
「シュヌーシアの子を助けてあげたんだって? 良いことをしたね、アンリ」
「そんな覚えはないけれど」
「やはり君は優しい子だ。あ、そう言えば、逃げ出したウサギ、見つかったんだね?」
教師が指を差す。ブックバンドにウサギのマスコットが付いていた。
「どこにあったんだい?」
「廊下に転がっていたそうだよ。紐が切れて、落ちたみたい」
「親切な子に拾われて幸いだったね。大切な物だったんだろう? 良かったね」
「ねえ。さっきの、どこから聞いたの? 僕がシュヌーシアの子を助けたって話」
「ん? 風の噂でね」
「風に唇なんてあったかな? 僕、今回は自分の名前を出していないつもりだったんだけど」
教師は微笑むだけだった。
彼がこういう笑顔を見せる時は、それ以上答える気がない時だ。
アンリが校舎を出たところで、二人組の生徒に出くわした。
目が合ったので、アンリは「ごきげんよう」とだけ言った。
すると、少し背が低いほうの子が「ご、ごきげんよう……」と返した。
「ウーティスのお姫様、僕達に挨拶してくれたね! 今日はご機嫌だったのかな?」
アンリに話しかけられたラビは、擦れ違った後で、うれしそうにしていた。
隣のレオンは逆に少し機嫌を悪くしている。
「てゆうか、お姫様はお前に借りがあるんだから、挨拶くらいはするだろ」
「借りって……何?」
「ウサギだよ、ウサギのマスコット。
わざわざウーティスまで届けにいってやったじゃん」
「ああ。でも、借りなんかじゃないよ。落とし物だもん。
誰のだか解ったし、ちゃんと落とした人に返さなくっちゃ」
以前、レオンとラビが二人でウーティス寮のアンリを訪ねたことがあった。
廊下に落ちていたウサギ。それを拾ったのがラビだった。
このウサギが誰の落とし物か知っていたラビは、所有者へ届けに行ったのである。
「でも、ラビ、よく知ってたよな。あのウサギが、お姫様のだって」
「うん。だってブックバンドに付けるの見たことあるもん。ゆらゆら揺れて可愛いの。
お姫様もウサギさん好きなんだなって。嬉しかったから」
「お前、ホントに好きなんだな、ウサギ」
「うん。あの時は、ウーティス寮まで付いてきてくれてありがとね、レオン。
一人でお姫様に会いに行くの、ちょっとコワかったから。
お姫様はキレイだけど、怒るとすごくコワイっていうし」
「ああ。そんなことは別にいいんだけどさ」
「ん?」
「ちょっと俺の部屋来い」
自分の部屋に連れてきて、レオンは押し付けるように手を突き出した。
「これ、お前にやる」
ラビの手に乗せられたのは、小さなウサギのぬいぐるみが付いたストラップだった。
動物の白ウサギをモデルにしたデザイン。首の後ろに白い紐が付いている。
ラビは、手の上のウサギとレオンを交互に見る。
「え? レオン、僕にくれるの? 僕、今日お誕生日じゃないよ?」
レオンは口を少し尖らせながら、ぶつぶつ言った。
「この前、ゲーセン行ったらウサギのが取れたんだよ、たまたま。
俺はイヌの奴を狙ってたんだけど、ウサギが落ちてきたから……」
顔を上げて、手の平を見せる。
「いらないなら、返せよ!」
「え、いるっ!」
ウサギを抱えて、レオンに背を向けた。
ラビは改めて、手の中のウサギを見た。綿のような素材で作られている。
生きているウサギにするように、ぬいぐるみの背中をそっと撫でてみる。
柔らかくて気持ちの良い手触りだった。ラビは自然と笑顔になる。
「モコモコしてて可愛いなあ」
嬉しそうな横顔をレオンがそっと確認していた。
「あ、そうだ! このウサギさん、僕のブックバンドに付けてもいいかなあ?」
ラビがそう言うと、レオンは渋々と言った様子で了承した。
「いいけど、誰かさんみたいに、なくすなよ?」
「うんっ。絶対なくさないよ。ねえ、今、付けてみてもいいかなあ?」
「好きにしろよ、もうお前のなんだから」
「やった。僕もね、こういうの欲しかったんだ」
ラビのテキストをまとめているブックバンドにストラップを結ぶ。
ぶらさがったウサギが、ゆらゆら揺れた。
「かわいいなあ。ありがと、レオン」
眩しい程の笑顔からレオンは視線を逸らして「ああ」と言った。
「今度は僕がプレゼントするね、お誕生日じゃない日に。ねえ、レオンは何が好き?」
「俺の好きなもの?」
「うん。レオンは僕の好きな物くれたから。レオンの好きな物、何でも言って?」
部屋の外で廊下を駆けていく足音が聞こえる。レオンは少しの沈黙のあと、答えた。
「ウサギ、かな」
ラビは花が咲いたような笑顔になる。
「レオンもウサギさんが好きになってくれたの? 嬉しいな。探しておくね!」
「あ、ああ」
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警備本部、モニタールーム。
ここにはたくさんのモニターが並んでいる。島内にある監視カメラの映像だ。
映し出されているのは、長閑な午後の様子である。
今日は侵入者の影もなく、監視員達はいつものように、島民の日常を見守っていた。
「平和だなー」
「そりゃあ、侵入者も捕まえたばっかだし」
「連続で来ることはめったにないしな」
「早く上がって、ビール飲みたいよ」
「同感」
警備強化期間はピリピリした緊張感があり、監視員の人数も増やしていたが、
強化期間が解除された現在は、人数も平時に戻している。
「お疲れさまです」
突然、副司令官のクロイツが入ってきた。
「今日の島の様子はどうですか?」
椅子に凭れていた監視員が座り直す。
「ぜ、全エリア異常ありません」
「了解しました。引き続き、気を抜かずに、お願いしますね」
副司令官がモニタールームから自分の席に帰ってくると、
「退屈そうだな、クロイツ」
隣の席の司令官に声をかけられた。
「ヒマだなーって顔に書いてあるぜ?」
「つい先日まで、忙しい日々でしたからね」
「俺はヒマなほうがスキだよ? 仕事はラクなほうがイイじゃん?」
「そうですね。我々のような職務の従事者は、廃業しているほうが世界は平和です」
「廃業しちゃったら、俺達はご飯食べれなくなっちゃうけどね」
司令官は笑ったが、副司令官は笑わなかった。
「元を辿れば、私達が食べているのは、人の悪意なのかもしれません」
司令官は副司令官の表情を伺う。無表情な顔をして、彼は言った。
「人は時に、恨み、憎み、奪い、争います。
人に負の感情があり、負の行動を取る者が居るから、
我々の仕事は世に必要とされ、その対価に報酬を得て、食べていくことができる」
「だから、俺達が食べてるのは負の感情と言えるってわけか。
へえ。クロイツってそんなこと考えてたんだ?」
「すみません。つまらない話をお聞かせして」
「でもさ、人間っぽいと思わない? 恨んだり、憎んだりするのって」
「そうでしょうか?」
「世界中のみんながみんな、他人の幸福を願うような心のキレイな人だったら、
ソッチのほうが気持ち悪いと思うけど? 好意も悪意もあるのがヒトでしょ?
警備組織があるってことはセキュリティシステムが用意されてるってことだし。
警備が必要な世界ってのも、それはそれでイイんじゃないかなあ、人間クサくって。
ウマく言えないけど、そのほうがリアルっていうか、
ヒトらしいっていうか、なんか『生きてる』ってかんじがする」
そう言ったあとで司令官は笑った。
「なーんちゃって。俺もつまんない話聞かせちゃったな」
「退屈だと、人はロクでもないことを考えてしまうようですね。
ああ、この機会に、業務改善提案書などお書きになってみては?」
「え。それ、自由提出じゃん」
「お暇、なんでしょう?」
「そ、そだ! 俺、洗車でもしてこよっかな、天気も良いし。
車をキレーにするのもダイジだよね、商売道具だし!」
泣き腫らして赤くなっていたラビの目許も、元の真っ白な肌になった。
シュヌーシア寮にも平穏な日々が戻ろうとしていた。
一日の授業を終えて、レオンとラビは一緒にシュヌーシア寮に帰ってきた。
「ねえ、レオン。おやつ食べたら、今日出た宿題、一緒にやろ?」
「いや、俺、今日は外に行くから」
「おでかけするの? じゃあ僕も一緒に行っていい?」
「いや、今日は一人で行くから」
「えっ。レオン、どこ行くの?」
「どこって……お前には関係ないだろ」
「ご、ごめん」
レオンはサロンを出て行った。
「どうした、ラビ。しょんぼり、って顔に書いてあるぞ?」
サロンに顔を出したシルフェが、ラビの顔を見て、そう尋ねた。
「ううん、何でも、ないの」
「その顔で言われてもなあ。なんか困ってるなら言ってみな?」
「でも……」
「俺じゃ言えない?」
「そ、そんなことっ」
「なに?」
「あの……あの、レオンがね」
ラビは先程の出来事をつっかえながら話した。
出かけてくると言ったレオンが、行き先を教えてくれなかったことと、
自分を連れていってくれなかったことだ。
端から見れば些細なことだが、ラビには相当ショックだったようで。
「やっぱり、僕のこと嫌になっちゃったのかな。
僕、この前、いっぱい迷惑かけたからだよね……」
涙目になってしまった。
「どうしよ、レオンに嫌われちゃったら、僕……」
シルフェは自分の頭を掻く。
「お前は……」
ひょいと屈んでラビと目線を合わせる。シルフェは明るく言った。
「心配するなよ、ラビ。今日は一人で出かけたい気分だったんだろ、きっと」
「でも、お前には関係ない、って怒られちゃったし」
「それはさ。お前には言えない用事があったのかも、だろ?」
「僕に言えないことって?」
「例えば、ほら、エッチな本を買いに行ってる、とか?」
「えっ? ええっ?」
「はははっ。例えばの話だよ。ほっぺた赤くしちゃってカワイイなー、ラビは」
「もう、シルフェ……」
「悪い、悪い。まあ、俺が言いたいのは、そんなに気にすんなってことだよ」
ソクーロフの前には、ビールを瓶のまま煽っている男。
既に二本目が空こうとしている。
「お前、今日はペースが早いな」
緑の瓶から唇が離される。
「あ、そう? まあイイじゃん。久し振りの飲み会なんだし」
夜、ソクーロフはアイヴィーに誘われて、旧市街にあるバー『ネモフィラ』に訪れていた。
アイヴィーが飲んでいるのはオランダのビール、ソクーロフはポーランドのウオッカだ。
どちらもカラに近かった。
「あ、空きそうなグラスみーっけ!」
二人の前を顔馴染みのボーイが通りかかった。
すすすと近寄って来て、テーブルの傍でしゃがむ。
テーブルから顔を出すように二人を見上げた。
「お次は何飲む?」
ボーイは人懐っこい笑顔でソクーロフを見た。
「セーンセ! 今日はアイヴィーのオゴリなんだから、
ジャンジャン飲んじゃってね!」
アイヴィーはビールを吹き出しそうになる。手の甲で口許を拭いながら、
「な、なんで俺のオゴリなんだよっ!?」
「だってー、アイヴィーはこの前、ソクーロフ先生とうちの店で飲む約束してたのに、
大遅刻しちゃって、約束すっぽかしたじゃん?」
「で、でもあれは仕事だったから仕方ないって、
もう許して貰ってるから。そ、そうだよね、ソクちゃん?」
「成程。言われてみれば確かに、制裁が必要だねえ」
「ええっ!? あ、あの、実は俺、給料日前で……」
「アイヴィー? この前、何時間遅刻したんだっけー?」
「さ、三時間……」
「では、この店で一番高いウイスキーを貰えるかね? 彼のオゴリで」
「ちょ!?」
「はい、センセ! 畏まりましたー!」
ボーイは行ってしまった。
アイヴィーはテーブルに伏せる。
腕の中に顔を埋めて、ソクーロフをジトと見上げる。
「もー。ソクちゃんのイジワルー」
「仲が良いんだね、君達は」
テーブルの横に一人の紳士が立っていた。
「あれ?」
「貴方もいらしたんですか、ボージェ教授」
「こんばんは、アイヴィー、ソクーロフ博士。
似ている声が後ろの席から聞こえるなあと思っていたんだ」
微笑している紳士は、神秘学担当教師オーギュスト・ボージェ教授だった。
後日。
空が綺麗なオレンジに染まる頃。授業終了の鐘が鳴った。
「では、今日はここまで」
第二化学室では、神秘学の授業が終わったところだ。
受講生のシルフェは、レオシュの席へ駆け寄った。
「レオシュ、このあと予定ある?」
「……別にないが」
「じゃあさ、旧市街のほうに行こうぜ?」
「旧市街?」
「イイ店見つけたんだ。お前が好きそうな渋い店」
行こう行こうと追い立てられ、仕方なくといった様子でレオシュは席を立ったが、
去年の彼と比べると、それほど嫌そうに見えなかった。
黒板を消し終わった教授が、教室を振り向くと、生徒が一人だけ残っていた。
琥珀の瞳が教師に向けられる。机には本が置かれていた。
「これ、返す」
二人で教室を出た。廊下の窓からは夕陽が差し込む。
肩を並べてオレンジ色に染まった廊下を歩く。教師はふいに生徒に尋ねた。
「シュヌーシアの子を助けてあげたんだって? 良いことをしたね、アンリ」
「そんな覚えはないけれど」
「やはり君は優しい子だ。あ、そう言えば、逃げ出したウサギ、見つかったんだね?」
教師が指を差す。ブックバンドにウサギのマスコットが付いていた。
「どこにあったんだい?」
「廊下に転がっていたそうだよ。紐が切れて、落ちたみたい」
「親切な子に拾われて幸いだったね。大切な物だったんだろう? 良かったね」
「ねえ。さっきの、どこから聞いたの? 僕がシュヌーシアの子を助けたって話」
「ん? 風の噂でね」
「風に唇なんてあったかな? 僕、今回は自分の名前を出していないつもりだったんだけど」
教師は微笑むだけだった。
彼がこういう笑顔を見せる時は、それ以上答える気がない時だ。
アンリが校舎を出たところで、二人組の生徒に出くわした。
目が合ったので、アンリは「ごきげんよう」とだけ言った。
すると、少し背が低いほうの子が「ご、ごきげんよう……」と返した。
「ウーティスのお姫様、僕達に挨拶してくれたね! 今日はご機嫌だったのかな?」
アンリに話しかけられたラビは、擦れ違った後で、うれしそうにしていた。
隣のレオンは逆に少し機嫌を悪くしている。
「てゆうか、お姫様はお前に借りがあるんだから、挨拶くらいはするだろ」
「借りって……何?」
「ウサギだよ、ウサギのマスコット。
わざわざウーティスまで届けにいってやったじゃん」
「ああ。でも、借りなんかじゃないよ。落とし物だもん。
誰のだか解ったし、ちゃんと落とした人に返さなくっちゃ」
以前、レオンとラビが二人でウーティス寮のアンリを訪ねたことがあった。
廊下に落ちていたウサギ。それを拾ったのがラビだった。
このウサギが誰の落とし物か知っていたラビは、所有者へ届けに行ったのである。
「でも、ラビ、よく知ってたよな。あのウサギが、お姫様のだって」
「うん。だってブックバンドに付けるの見たことあるもん。ゆらゆら揺れて可愛いの。
お姫様もウサギさん好きなんだなって。嬉しかったから」
「お前、ホントに好きなんだな、ウサギ」
「うん。あの時は、ウーティス寮まで付いてきてくれてありがとね、レオン。
一人でお姫様に会いに行くの、ちょっとコワかったから。
お姫様はキレイだけど、怒るとすごくコワイっていうし」
「ああ。そんなことは別にいいんだけどさ」
「ん?」
「ちょっと俺の部屋来い」
自分の部屋に連れてきて、レオンは押し付けるように手を突き出した。
「これ、お前にやる」
ラビの手に乗せられたのは、小さなウサギのぬいぐるみが付いたストラップだった。
動物の白ウサギをモデルにしたデザイン。首の後ろに白い紐が付いている。
ラビは、手の上のウサギとレオンを交互に見る。
「え? レオン、僕にくれるの? 僕、今日お誕生日じゃないよ?」
レオンは口を少し尖らせながら、ぶつぶつ言った。
「この前、ゲーセン行ったらウサギのが取れたんだよ、たまたま。
俺はイヌの奴を狙ってたんだけど、ウサギが落ちてきたから……」
顔を上げて、手の平を見せる。
「いらないなら、返せよ!」
「え、いるっ!」
ウサギを抱えて、レオンに背を向けた。
ラビは改めて、手の中のウサギを見た。綿のような素材で作られている。
生きているウサギにするように、ぬいぐるみの背中をそっと撫でてみる。
柔らかくて気持ちの良い手触りだった。ラビは自然と笑顔になる。
「モコモコしてて可愛いなあ」
嬉しそうな横顔をレオンがそっと確認していた。
「あ、そうだ! このウサギさん、僕のブックバンドに付けてもいいかなあ?」
ラビがそう言うと、レオンは渋々と言った様子で了承した。
「いいけど、誰かさんみたいに、なくすなよ?」
「うんっ。絶対なくさないよ。ねえ、今、付けてみてもいいかなあ?」
「好きにしろよ、もうお前のなんだから」
「やった。僕もね、こういうの欲しかったんだ」
ラビのテキストをまとめているブックバンドにストラップを結ぶ。
ぶらさがったウサギが、ゆらゆら揺れた。
「かわいいなあ。ありがと、レオン」
眩しい程の笑顔からレオンは視線を逸らして「ああ」と言った。
「今度は僕がプレゼントするね、お誕生日じゃない日に。ねえ、レオンは何が好き?」
「俺の好きなもの?」
「うん。レオンは僕の好きな物くれたから。レオンの好きな物、何でも言って?」
部屋の外で廊下を駆けていく足音が聞こえる。レオンは少しの沈黙のあと、答えた。
「ウサギ、かな」
ラビは花が咲いたような笑顔になる。
「レオンもウサギさんが好きになってくれたの? 嬉しいな。探しておくね!」
「あ、ああ」
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