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Marginal Prince Short Story
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■アンリ ジョシュア
まるで泣いているよう。
ピアノの音が、そんなふうに聞こえたのは初めてだった。


いつのまにか夏も終わり、僕、アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマンは中等部二年に進級していた。
風は少しずつ冷たくなり、落葉樹は染まり始めてる。
夏の余韻をまだ覚えているのに、カレンダーは10月の半ばまで来ていた。

日曜日、生徒はアクティヴィティの日。
各自が好きな活動をする為、殆どの生徒が寮から出掛けていた。
比較的、寮が静かになる日でもある。僕は前日に図書館から借りてきた本を自室で読んでいた。

そんな時、ピアノの音が聞こえた。ウーティス寮の音楽サロンにはピアノがある。
おそらく、そこで誰かが弾いているのだろう。
ウーティスの中でピアノが弾ける生徒は限られている。

一人目は、高等部二年のステファン。
作曲家の子息で、自身も時折、音楽サロンで新曲の発表会などもしている。
二人目は、中等部三年のジョシュア。
彼もピアノは弾けるらしいが、ステファンと違い、彼は殆どピアノに触れない。

音楽サロンの使用頻度が高いのはステファンだが、
自信家でヒステリックなところもある彼に、
これほど孤独で儚い音色が奏でられるだろうか。

僕は部屋を出て、音楽サロンへ向かうことにした。
誰がこんな弾き方をしているのか、確かめておかなくてはいけない気がして。

廊下に出て、音楽サロンへ近付いていくと、徐々に音がよく聞こえてきた。
誰とも擦れ違わずに、その場所まで着いた。
思った通り、ピアノは、この音楽サロンの中から聞こえてくる。
僕は、ドアを薄く開けて、中を覗いた。

やはり、彼か。

遠くから見ても、それはきらりと透明な輝きを放つ。
僕にしか見えない月桂樹の王冠を、頭上に持つ者。
ピアノの前に座っていたのは、ジョシュアだった。
今日の王冠が、いつもより少し暗く見えるのは気のせいだろうか。

淡々と物悲しい旋律を奏で続ける彼に、声をかける気にはならなかった。
でも、そのまま立ち去る気にもなれなくて。
そっと閉めた扉に、僕は背を預けた。

ドア越しに聞いているだけで、ジクジクと胸の奥が痛む。
まるで泣いているよう。
ピアノの音が、そんなふうに聞こえたのは初めてだった。

ジョシュアには声をかけないまま、僕は自分の部屋に戻った。
まだ少し聞こえる。ふと、僕のバイオリンケースが目に入った。
そう言えば、最近触ってない。なんとなく気が向いて、黒いケースに手を伸ばした。

暫く無心でバイオリンを弾いていたらしい。
コンコン、というノックの音で、僕は我に返った。
バイオリンを肩から下ろして、テーブルに置く。
ドアを開けると、そこに居たのはジョシュアだった。

「あの、アンリ、今」

彼の視線が、僕の後ろに向けられる。

「バイオリンを弾いてたの、アンリだったんだね」

「それが何か?」

「綺麗だった」

「え?」

「凄く繊細で、綺麗な音だった。
アンリ、こんなにバイオリンが上手だったんだね。知らなかったよ」

僕は面食らっていた。つい先程まで、あんなに悲しい旋律を奏でていた人が、
少し頬を紅潮させながら、嬉しそうに語るから。

「実は、俺もピアノを弾いていたところだったんだ、音楽サロンで」

知ってるよ、と僕は言わなかった。場が沈黙する。
彼が話さないので、「それで?」と先を促した。

「あ、えっと。もし、良かったらだけど」

いつもそうだけれど、彼は人見知りなのか、
人に何か提案する時でさえ、控えめで、自信なさそうに話す。

「アンリも音楽サロンに来てくれないかな? そのバイオリンを持って」

「バイオリンを持っていって、どうするの?」

「一緒に弾こう? 俺がピアノで伴奏するから」

「バイオリンとピアノでアンサンブルとしたい、という意味?」

「うん」

「僕、アンサンブルなんて、したことないけど」

「俺もそうだよ。でも、アンリとならできそうな気がするんだ」

行こう、と手を引かれて、僕は半ば強制的に音楽サロンに連れて行かれた。
僕のバイオリンに合わせて、ジョシュアがピアノを弾いた。
曲は、バイオリンとピアノの二重奏によるバイオリンソナタを幾つか。
大した会話もせずに僕達は楽器を奏でていた。

ビィンと鈍い音がして、僅かな痛みが僕の左頬を掠めた。
バイオリンから、弦が一本ぶらりと垂れ下がっている。一番線だ。
ろくに調弦もしていないのに、急に続けて弾いたから、切れてしまったのだろう。
こんな時に、と悔しく感じている自分に、僕は少し驚いた。

「アンリ? あ、ちょっと見せて」

ジョシュアはこちらに来て、僕の左頬を見た。
まるで、酷い怪我でも見るような顔をして。

「弦が当たってしまったんだね。痛そうだな」

「痛くないから、構わないで」

「駄目だよ。アンリ、自分では見えないかもしれないけど、
赤くなってて、血が滲んでるんだ。
保健室に行って、ちゃんと診て貰わなくちゃ」

「嫌。定期検診以外は保健室に行かないと決めているの」

「え、どうして?」

「嫌だから」

「でも……じゃあ、俺の部屋に来て。消毒くらいならできるから」

「君が?」

「うん。傷の手当ては必要だよ、アンリ」

きっぱりと彼は言った。

「保健室に行くのがどうしても嫌なら、せめて俺に診せて。ね、良いだろう?」

頑な態度。普段は大人しく、人の意見に合わせることも多い彼が。

「君って、変なところで自己主張するんだね」

音楽サロンの次は、彼の部屋に連れて行かれた。窓から夕陽が差し込んでいる。
白いベッドはオレンジ色に染め上げられていた。
インテリアは入学時から殆ど変更されていない。
机も床も、きちんと片付いている。随分、こざっぱりとした部屋だ。

「アンリ、ちょっと、そこに座って待ってて。今、準備するから」

示されたのがベッドだったので、浅く腰掛ける。
ジョシュアは救急箱を持ってきて、消毒液を箱から出した。
ピンセットの先に持った綿を消毒液で湿らせる。ツンとアルコールの香りがした。
ジョシュアは、ピンセットをこちらに向け、申し訳なさそうに言った。

「滲みると思うけど、少しの間、我慢して」

冷たい刺激が頬に触れる。

「ごめん。もうすぐ終わるから」

手当てが終わるまで、僕は彼の頭上にあるものを見ていた。
透明な、月桂樹の王冠。
彼が一人でピアノを弾いていた時は、いつもより暗い光だったのに。

「はい。もう良いよ」

傷の手当てが終わっていた。僕は小さく呟く。
聞こえなくてもいいと思って言ったのに。

「めるしい? ああ、フランス語、かな?」

彼はしっかり聞き取っていて、にこりと微笑んだ。

「ありがとうって言ってくれたんだよね? どういたしまして」

彼の王冠はきらきらと輝いていた。


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