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Marginal Prince Short Story
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■ソクーロフ×アイヴィー
前方に見えるのは厳かな雰囲気と長い歴史を感じさせる建築物。
そこへ向かって、スーツ姿など正装に近い格好をした島民達が歩いている。

「ありゃー」

アイヴィーは落ち着かない様子で、キョロキョロと周囲を見渡していた。
現在の状況、奴の視線に性格を鑑みれば、
彼が今、何を考えているかを推察することはソクーロフには造作のないことだった。

「なんだ、鬱陶しい声を出して」

答え合わせをする為に聞いた。

「いやー、せめてスーツとか羽織ってくれば良かったかなーと思って」

ソクーロフが用意していた答えは正解だった。
アイヴィーの装いは、ブルーのワイシャツに緩く結ばれた黒いネクタイ。
しかも、ワイシャツには、くしゃくしゃと酷く皺が寄っている。
固いベッドの上に、そのままの格好で寝たりしたからだ。

「みんなも、もっと気楽なかんじで来るかと思ってたのに」

草臥れた格好をしていたアイヴィーは少々浮いていた。

「割とちゃんとした格好で来るんだねえ」

「クラシックのコンサートだからな。多少は身なりを整えてくるさ」

ソクーロフは黒の上下スーツ。こちらも仕事帰りそのままの格好だが、
アイヴィーとは違い、きちんとして見える。

「でもさ、クラシックコンサートって言っても、要はライブでしょ?
だから、こんな格好でも良いのかなーって」

クラシックに明るくない連れを無視して、ソクーロフはスーツの袖から腕時計を覗く。

「そろそろ開演時間だ。行くぞ」

コンサート会場となるホールに向かって歩き始めた。

「あ、ソクちゃん、置いてかないでよー」

バタバタとした靴音が付いてきた。


ソクーロフとアイヴィーが男二人で、クラシックコンサートに行くことになったのは、
ただの成り行きで、どちらにとっても今夜の予定にはないことだった。
コンサートのチケットを購入したのは、二人のうちのどちらでもない。
ある教授から、ソクーロフが今日、譲り受けた物だった。

保健室の外に出ないこともある保健教師が、
今日はたまたま用があって、校舎まで来ていた。

「ああ、ソクーロフ博士」

廊下を歩いている時、擦れ違った直後に呼び止められた。
足を止め、ソクーロフが振り返ると、こちらを見て、上品に微笑んでいたのは、
神秘学担当の特別講師、オーギュスト・ボージェ教授だった。

ソクーロフは決して表情には出さなかったが、
胸の内では反射的に相手を警戒した。この教授は得意な相手ではない。
彼は、今まで見てきた誰とも違う雰囲気を纏っている。
それは『不思議』、『ミステリアス』などという表現では足りない。
言葉を選ばずに言えば――そう、彼はどこか『不気味』だった。

ソクーロフにそう思われていることを知ってか知らずか、
神秘学の教授は穏やかに微笑みつつ、不可思議なことを言い始めた。

「時に、博士? クラシックはお好きですか?」

疑問形でありながら、YESという返事があることを、
半ば確信しているように聞こえた。
ソクーロフは警戒を強めたが、表向きは平静に言葉を返した。

「ええ。クラシックは普段から聞いていますが。私の音楽の趣味が何か?」

「実は今夜、フィンシャルでクラシックコンサートがありましてね」

そう言えば、とソクーロフは思い出した。
島で最も大きいコンサートホールに、ウィーンを代表するオーケストラが来る、
と先月どこかのポスターで見た。滅多にない機会だったので、行きたいと思ったが、
日付を見ると、既にチケットは完売しているだろうと思われる頃だったので、
空席を確かめることもなく、そのままポスターの前を通り過ぎたのだ。

「実は、誘っていた相手に今日になってキャンセルされてしまいましてね」

お恥ずかしい、といったふうに苦笑していたが、
教授の柔らかな苦笑は演技のように見えた。

「それで、チケット二枚を譲り受けて下さる方を探しているところなのです。
けれど、なかなか頷いてくれる方が居なくて」

ブラウンのスーツの内ポケットから、長方形の封筒を取り出す。

「開演は今夜20時、開場は19時です。ご都合が宜しければ、いかがですか? 博士」

目の前に差し出されたチケット。ソクーロフに断る理由はない。
しかし、それを受け取る前に、確かめたいことがあった。

「ボージェ教授」

「はい?」

「何故、私にチケットを?」

ソクーロフは相手の表情を注意深く観察する。

「丁度、今、お見かけしたので。それに博士は、
クラシックがお好きそうなお顔立ちですから」

「興味深いことを仰る。どんな顔をしている人物が、
クラシック好きなのでしょう? ぜひご教授頂きたい」

これまで、この教授の顔を間近で見たことは、余りなかったかもしれない。
濃いブルーの瞳が見えた。

「ただの勘です。神秘学以外に、私が博士にお教えできることなどありませんよ」

教授の瞳は、まるで海の底のように深く、暗い色をしていた。


「あ、始まるっ」

コンサートホールの照明が落とされた時、
ソクーロフの左隣の席で、アイヴィーはそう口走っていた。幼い子供のような独り言だ。
間もなく、開演を告げるベルが鳴り、会場のざわめきが、波のように消えていく。
左隣の奴が座り直した為に、席がキシと音を立てた。
ソクーロフは目を通していた、コンサートプログラムを膝に乗せる。

舞台の幕がゆっくりと上がっていく。
明るいライトに照らされた舞台には、上手から下手まで、様々な楽器が並んでいた。
楽器の傍らには、黒のタキシードや黒のドレスに身を包んだ奏者が揃っている。

その最前列中央に、白の燕尾服に白い蝶ネクタイを結んだ指揮者が立っていた。
彼は客席に深々と礼をしたあと、燕尾服の裾を優雅に翻しながら、
客席に背を向け、オーケストラに顔を向ける。
同時に、奏者が楽器を構えた。それは見事なまでに息の合った動きだった。

このコンサートは当たりだな、とソクーロフは直感する。
指揮者がふわりと両手を挙げた。バイオリンの音色が胸に響く。
ソクーロフは目を閉じて、聴き入った。


心地の好い時間だった。良い音楽は心を豊かにする。
少し曇っていた部分が、すっきりと澄み渡ったように思えた。
挨拶代わりに、続けて演奏された三曲が終わり、ソクーロフは閉じていた目を開けた。

ステージの明かりが少し眩しく感じられる。
会場は拍手に包まれる。ソクーロフもステージへ拍手を贈った。
司会者らしき人物が舞台袖から出て来た。
オーケストラの紹介と、先の三曲について過不足なく解説する。
司会者の話が終わった時、ソクーロフの左隣から、
すうすう、と場にそぐわない音がした。

ちらりと視線を投げると、連れは気持ち良さそうな寝顔を晒していた。
会場にまた拍手が起こる。次の曲が始まるのだ。
ソクーロフはステージに目を向けた。


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