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■オーギュスト×アンリ
■蔦様、リクエストありがとうございました!
「では、今日の授業はここまでにしよう」
教授が片手にしていたテキストを閉じる。
生徒達は席を立ち、教室の外へ出て行く。
教授は黒板に向かい、黒板掃除を始めた。
彼は神秘学の特別講師、オーギュスト・ボージェ教授。
ここは聖アルフォンソ学院の第二化学室。
金曜日のこの時間は、神秘学の教室として使われている。
神秘学の受講生達が続々と退室して行く中、
一人だけ、席を立つ様子がない生徒が居た。
後ろのほうに座っている無表情な生徒。
両手で頬杖をつきながら、ぼうっと黒板のほうを見ている。
その瞳は美しい琥珀色をしていた。
几帳面な黒板掃除を終えた教授がやっと振り返る。
一人だけ残っている生徒を見て、教授は優しい笑顔を見せた。
「おや、アンリ」
「君の黒板掃除は、いつも遅いね」
いきなり文句を言われた教授は、微笑みながら、
「待たせてすまない。何か、質問があるのかな?」
「質問じゃない」
「なんだい?」
「来週、冬期講習をして? 水曜日の3講目だけ」
「1回だけで良いのかい? 私は何回でも良いけれど」
「金融工学の教授が、勝手に冬休みを取るんだよ。
だから、その空き時間、君で暇潰ししようかと思って」
生意気な物言いに対して、教授はむしろ嬉しそうな顔をしていた。
「成程。そういうことなら、喜んで承るよ。
講義のテーマはどうしようか? もし、リクエストがあれば」
「マスターについて」
教授を言葉を切って、生徒はキッパリと言った。
「神秘学でマスターと言うと、ブラヴァツキー女史が、
交信を行っていたマスター達のことかな?」
マスターという言葉には様々な意味がある中、教授は事も無げに一発で当てた。
生徒は思う。この教授はやはり変人だ、と。
「そう。そのマスター達について学びたい」
どこか挑戦的に見上げてくる琥珀の瞳を受け止めて、
教授は少しばかり苦笑したように見えた。
「解ったよ。ではテーマは『マスター』にしよう。水曜日までに準備しておくよ」
よし、と言うようにアンリが小さく頷いた。
「教室はどうしようか? 私の研究室に来るかい?」
アンリは頑なに首を横に振る。
「ここで良い」
「では、ここで。来週の水曜日、待っているね?」
次の水曜日。
アンリが第二化学室のドアを開けると、
ボージェ教授は、先週の言葉通り、そこで待っていた。
窓際に立ち、一人で冬の寒空を見上げているところだった。
教授はゆっくりと振り向くと、「ごきげんよう。好きな席に座って良いよ?
今日はアンリの貸し切りだからね」と言った。
アンリは迷わず、いつも座っている、後ろのほうの席を選んだ。
教授はそれを見て微笑する。
二人だけの教室で、教師と生徒の距離は大分離れていた。
「では、冬期講習を始めようか。今日のテーマは『マスター』について」
教授は黒板に白いチョークで『Master』と綴った。
Mの始まりは優美にくるりと巻かれている。
彼が書く文字の先端は、リボンのように巻かれることが多い。
アンリは彼のクセ字を見るのが嫌いではなかった。
この学院の閉架書庫に保管されている、サン・ジェルマン伯爵直筆の本。
それに刻まれている伯爵の文字も、ところどころ先端がくるりと巻かれているのだ。
そのささやかな一致をアンリは密かに気に入っていた。
伯爵と同じクセ字を持つ者が、神秘学の教授であることは、悪くない偶然だ、と。
アンリは左手で頬杖をつきながら、黒板を眺めていた。
「さて。最初は、何から話そうかなあ」
教授の呑気な発言に、アンリの左手が少しカクッとなる。
「オーギュ。考えてこなかったの?
先週、『準備しておく』って言ってなかった?」
「いや、もちろん、考えてきているのだけどね」
「なら、早く話して」
「はいはい」
教授が微笑むと、アンリは何かボソリと呟いていた。
「ではマスターについて話す前に、
神智学を創唱し、マスター達と交信を行っていた、
ブラヴァツキー女史について、少し話しておこうか」
ボージェ教授はブラヴァツキーについて語り始めたが、
それについて、アンリは興味がなかった。
「フルネームは、エレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー。
お父上はドイツの軍人、お母上はロシアの小説家で、出身はロシアだ。
幼少の頃から精霊などの霊的なものに興味がある子だった。
非常に使命感の強い女性で、晩年まで精力的に活動していたんだよ」
彼女の年譜や人となり。それが必要以上の詳しさだった為、
アンリが教壇を見つめる目は、徐々に睨むような目つきになっていた。
マスターの話を聞きたいアンリにとって、
ブラヴァツキーの気性は荒いほうだったとか、
ヘビースモーカーだったなんてことは、どうでもいいことだった。
「彼女は、イギリスで高名な霊媒師の助手となり、霊媒について学ぶ」
アンリが適当に聞き流している中、
教授はいつものように、滔々と語っていた。
「そして1875年のニューヨークにて、彼女は仲間達と共に、
神智学協会を創設する。当時はなかなかの人気でね。多くの人に影響を与えた。
神智学協会を支持していた人物の中には、
アインシュタインやエジソン、コナン・ドイルも居るね。
神智学協会の目的はこうだ。
1.人種や性別、肌の色などの違いに関わらず、人類の普遍的同胞愛の中核となること。
2.世界各国の宗教、哲学、科学の研究促進。
3.未解明の自然法則と人間の潜在能力の調査研究。
ちなみに、協会の紋章には、自らの尾を咥える蛇も描かれているんだよ?」
「それって」
気になることがあり、アンリは軽く右手を挙げて発言した。
尾を咥える蛇は、錬金術の象徴、かつサン・ジェルマン家の紋章でもあるからだ。
「錬金術を象徴する『ウロボロス』と同じ蛇なの?」
「絵は同じなんだけれどね。微妙に意味合いが違うんだ」
神秘学の権威はこう解説した。
「蛇に対してのイメージは、錬金術では『不老不死』だが、
神智学では『知恵』という意味が強いんだ。
蛇は脱皮を繰り返すことから『死と再生』の象徴とも言われる。
その為、錬金術で描かれる蛇は『不老不死』としてのイメージが色濃く、
ウロボロスが、賢者の石のシンボルにもなっているんだ。
一方、神智学で描かれる蛇は『知恵』の象徴。
蛇は賢い生き物だからね。蛇のように利口であれ、いう意味が強い」
アンリは声に出さずに、ふうん、と思った。
「紋章には、蛇以外の記号も書かれていて」
「待って、ボージェ教授」
「おや。もうひとつ質問があったかな?」
「彼女や神智学協会の話はもういいから」
ブラヴァツキーについて少し話す、というから聞いてあげていたのに、
気が付けば、ここまでに講義前半以上の時間を費やしていた。
「いい加減、マスターの話に入ってくれない? ボージェ教授」
「ああ、すまない。そうだったね。
ではここで、マスターとは何かという話に移ろう」
本題に入るのが遅過ぎる、とアンリは唇を尖らせていた。
「女史が言うには、『人類の魂を高める為、密かに動いている人物』のことで、
マスター、あるいは、マハトマとも呼ばれていた。
例を挙げれば、まず、有能な宗教指導者もマスターだとされているね。
儒教の開祖である孔子、仏教の開祖である釈迦、道教の創案者老子、
つまり、中国三大宗教の始祖がマスターということになる。
その他、古代イスラエルの最盛期を築いたソロモン王や、
キリスト教神学者であり哲学者のフランシス・ベーコンも入っているね。
また、マスターの姿は、限られた者にしか見えないとも言われている」
アンリは身を入れて、教授の話を聞いていた。
「このマスターは世界の中に144人居て、彼等はひとつの組織を形成している。
それが『グレート・ホワイト・ブラザーフッド』と呼ばれる団体だ。
一団の本拠地はチベット仏教の理想郷シャンバラヤで、
そこに居る世界の王が一団のリーダー。リーダーの祖先は愛と美の女神ヴィーナス。
マスター達との交信を行っていた、ブラヴァツキー女史もその一団に属している」
ついにヴィーナスまで出てきた。
やはり今日は、1対1のプライベートレッスンで良かった、とアンリは思う。
この手の話に興味のない普通の人間なら、そろそろ眠たくなってくる頃だ。
「次に、ブラヴァツキー女史はどうやって、
マスター達と交信を行っていたのか、という話をしようか。
女史によると、最初はテレパシーによる交信だったそうだ。
つまり、彼女には聞こえた、ということだね。
神智学協会が南インドに移ってからは、マスターから手紙が届くようになった。
突然、頭上から手紙が降ってきたり、神殿という名の戸棚に手紙が現れたり。
これまではテレパシーで伝えられてきたことが、具現化されるようになったんだね。
ところが、この手紙がブラヴァツキー女史を窮地に追い込んでしまう」
そこで、ボージェ教授は一瞬悲しそうな顔をした。
「マスターからの手紙の出現は、トリックによるものだと、
ブラヴァツキー女史の家政婦をしていた、エマ・クーロンが暴露するんだ。
秘密のすべり戸から、女史が手紙を出現させているんだ、とね。
エマの暴露を受け、イギリスの心霊現象研究協会が調査した結果、
神智学協会は詐欺団体で、ブラヴァツキーはペテン師だとする、
ホゾシン報告が発表された。それが1884年。
同年、ブラヴァツキー女史はインドを追われ、イギリスへ移る。
彼女は常に批判に晒されていたが、ホゾシン報告によって、
元々、彼女や神智学協会に懐疑的だった論者から、更に攻撃されたんだ。
彼女の死から約100年後になって、心霊現象研究協会はホゾシン報告を撤回し、
亡き女史に謝罪することになるのだがね」
「どうして撤回したの?」
「ブラヴァツキー女史は、マスターからの手紙を、
自作自演で出現させるような人物ではない、ということだよ」
「では、他の誰かがやったということ?」
「告発したエマ・クーロンによる自作自演だったという説がある。
ブラヴァツキー女史と揉めて解雇された腹いせにね」
気性の荒さが災いしたのだろうか、とアンリは思う。
「ホゾシン報告から7年後、女史が60歳で病に倒れるまでに、
彼女は『シークレット・ドクトリン』など3冊の著書を遺している。
病で生死をさ迷う中、著書を遺すように、と導いてくれたマスターが居たそうだよ。
死んで自由になるか、生きて『シークレット・ドクトリン』を完成させるか、
どちらにするか、とね」
教授は灰色の冬空を見つめていた。
「彼女は最初から、皆の役に立つように、
マスターから告げられた大切な話を、皆に伝えただけだった。
ただ、聞こえたものを聞こえたと言っただけなんだ」
教授の目はどこか遠いところを見ているようだった。
鐘の音がした。教授が天井を見上げて、おや、と言う。
「では今日の授業はここまで、かな」
生徒は両手で頬杖をつきながら、吐息混じりに言った。
「ボージェ教授は、本当に期待を裏切らないね」
「それは、今回の冬期講習にご満足頂けた、ということかな?」
逆だよ、と気だるげに生徒は言った。
「ねえ? 触れるべきマスターを、一人忘れてない?」
「おや。勉強したいマスターが入っていなかったかね?」
生徒の頬が不満げに少し膨らむ。
「伯爵も、マスターと呼ばれるうちの一人だと思ったけれど?
ブラヴァツキーは、インドに居た頃、伯爵と会って話したとも言われている筈だ」
「伯爵……ああ。君の家の、サン・ジェルマン伯のことかね?
すまない。彼のことをうっかり忘れてたよ。マスターは144人も居るから」
「Qui vole un oeuf vole un boeuf(嘘吐きは泥棒の始まりだよ)」
「Pardon pardon(ごめん、ごめん)」
教授は穏やかな笑顔を見せて、軽く謝るだけだった。
fin
■蔦様、リクエストありがとうございました!
「では、今日の授業はここまでにしよう」
教授が片手にしていたテキストを閉じる。
生徒達は席を立ち、教室の外へ出て行く。
教授は黒板に向かい、黒板掃除を始めた。
彼は神秘学の特別講師、オーギュスト・ボージェ教授。
ここは聖アルフォンソ学院の第二化学室。
金曜日のこの時間は、神秘学の教室として使われている。
神秘学の受講生達が続々と退室して行く中、
一人だけ、席を立つ様子がない生徒が居た。
後ろのほうに座っている無表情な生徒。
両手で頬杖をつきながら、ぼうっと黒板のほうを見ている。
その瞳は美しい琥珀色をしていた。
几帳面な黒板掃除を終えた教授がやっと振り返る。
一人だけ残っている生徒を見て、教授は優しい笑顔を見せた。
「おや、アンリ」
「君の黒板掃除は、いつも遅いね」
いきなり文句を言われた教授は、微笑みながら、
「待たせてすまない。何か、質問があるのかな?」
「質問じゃない」
「なんだい?」
「来週、冬期講習をして? 水曜日の3講目だけ」
「1回だけで良いのかい? 私は何回でも良いけれど」
「金融工学の教授が、勝手に冬休みを取るんだよ。
だから、その空き時間、君で暇潰ししようかと思って」
生意気な物言いに対して、教授はむしろ嬉しそうな顔をしていた。
「成程。そういうことなら、喜んで承るよ。
講義のテーマはどうしようか? もし、リクエストがあれば」
「マスターについて」
教授を言葉を切って、生徒はキッパリと言った。
「神秘学でマスターと言うと、ブラヴァツキー女史が、
交信を行っていたマスター達のことかな?」
マスターという言葉には様々な意味がある中、教授は事も無げに一発で当てた。
生徒は思う。この教授はやはり変人だ、と。
「そう。そのマスター達について学びたい」
どこか挑戦的に見上げてくる琥珀の瞳を受け止めて、
教授は少しばかり苦笑したように見えた。
「解ったよ。ではテーマは『マスター』にしよう。水曜日までに準備しておくよ」
よし、と言うようにアンリが小さく頷いた。
「教室はどうしようか? 私の研究室に来るかい?」
アンリは頑なに首を横に振る。
「ここで良い」
「では、ここで。来週の水曜日、待っているね?」
次の水曜日。
アンリが第二化学室のドアを開けると、
ボージェ教授は、先週の言葉通り、そこで待っていた。
窓際に立ち、一人で冬の寒空を見上げているところだった。
教授はゆっくりと振り向くと、「ごきげんよう。好きな席に座って良いよ?
今日はアンリの貸し切りだからね」と言った。
アンリは迷わず、いつも座っている、後ろのほうの席を選んだ。
教授はそれを見て微笑する。
二人だけの教室で、教師と生徒の距離は大分離れていた。
「では、冬期講習を始めようか。今日のテーマは『マスター』について」
教授は黒板に白いチョークで『Master』と綴った。
Mの始まりは優美にくるりと巻かれている。
彼が書く文字の先端は、リボンのように巻かれることが多い。
アンリは彼のクセ字を見るのが嫌いではなかった。
この学院の閉架書庫に保管されている、サン・ジェルマン伯爵直筆の本。
それに刻まれている伯爵の文字も、ところどころ先端がくるりと巻かれているのだ。
そのささやかな一致をアンリは密かに気に入っていた。
伯爵と同じクセ字を持つ者が、神秘学の教授であることは、悪くない偶然だ、と。
アンリは左手で頬杖をつきながら、黒板を眺めていた。
「さて。最初は、何から話そうかなあ」
教授の呑気な発言に、アンリの左手が少しカクッとなる。
「オーギュ。考えてこなかったの?
先週、『準備しておく』って言ってなかった?」
「いや、もちろん、考えてきているのだけどね」
「なら、早く話して」
「はいはい」
教授が微笑むと、アンリは何かボソリと呟いていた。
「ではマスターについて話す前に、
神智学を創唱し、マスター達と交信を行っていた、
ブラヴァツキー女史について、少し話しておこうか」
ボージェ教授はブラヴァツキーについて語り始めたが、
それについて、アンリは興味がなかった。
「フルネームは、エレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー。
お父上はドイツの軍人、お母上はロシアの小説家で、出身はロシアだ。
幼少の頃から精霊などの霊的なものに興味がある子だった。
非常に使命感の強い女性で、晩年まで精力的に活動していたんだよ」
彼女の年譜や人となり。それが必要以上の詳しさだった為、
アンリが教壇を見つめる目は、徐々に睨むような目つきになっていた。
マスターの話を聞きたいアンリにとって、
ブラヴァツキーの気性は荒いほうだったとか、
ヘビースモーカーだったなんてことは、どうでもいいことだった。
「彼女は、イギリスで高名な霊媒師の助手となり、霊媒について学ぶ」
アンリが適当に聞き流している中、
教授はいつものように、滔々と語っていた。
「そして1875年のニューヨークにて、彼女は仲間達と共に、
神智学協会を創設する。当時はなかなかの人気でね。多くの人に影響を与えた。
神智学協会を支持していた人物の中には、
アインシュタインやエジソン、コナン・ドイルも居るね。
神智学協会の目的はこうだ。
1.人種や性別、肌の色などの違いに関わらず、人類の普遍的同胞愛の中核となること。
2.世界各国の宗教、哲学、科学の研究促進。
3.未解明の自然法則と人間の潜在能力の調査研究。
ちなみに、協会の紋章には、自らの尾を咥える蛇も描かれているんだよ?」
「それって」
気になることがあり、アンリは軽く右手を挙げて発言した。
尾を咥える蛇は、錬金術の象徴、かつサン・ジェルマン家の紋章でもあるからだ。
「錬金術を象徴する『ウロボロス』と同じ蛇なの?」
「絵は同じなんだけれどね。微妙に意味合いが違うんだ」
神秘学の権威はこう解説した。
「蛇に対してのイメージは、錬金術では『不老不死』だが、
神智学では『知恵』という意味が強いんだ。
蛇は脱皮を繰り返すことから『死と再生』の象徴とも言われる。
その為、錬金術で描かれる蛇は『不老不死』としてのイメージが色濃く、
ウロボロスが、賢者の石のシンボルにもなっているんだ。
一方、神智学で描かれる蛇は『知恵』の象徴。
蛇は賢い生き物だからね。蛇のように利口であれ、いう意味が強い」
アンリは声に出さずに、ふうん、と思った。
「紋章には、蛇以外の記号も書かれていて」
「待って、ボージェ教授」
「おや。もうひとつ質問があったかな?」
「彼女や神智学協会の話はもういいから」
ブラヴァツキーについて少し話す、というから聞いてあげていたのに、
気が付けば、ここまでに講義前半以上の時間を費やしていた。
「いい加減、マスターの話に入ってくれない? ボージェ教授」
「ああ、すまない。そうだったね。
ではここで、マスターとは何かという話に移ろう」
本題に入るのが遅過ぎる、とアンリは唇を尖らせていた。
「女史が言うには、『人類の魂を高める為、密かに動いている人物』のことで、
マスター、あるいは、マハトマとも呼ばれていた。
例を挙げれば、まず、有能な宗教指導者もマスターだとされているね。
儒教の開祖である孔子、仏教の開祖である釈迦、道教の創案者老子、
つまり、中国三大宗教の始祖がマスターということになる。
その他、古代イスラエルの最盛期を築いたソロモン王や、
キリスト教神学者であり哲学者のフランシス・ベーコンも入っているね。
また、マスターの姿は、限られた者にしか見えないとも言われている」
アンリは身を入れて、教授の話を聞いていた。
「このマスターは世界の中に144人居て、彼等はひとつの組織を形成している。
それが『グレート・ホワイト・ブラザーフッド』と呼ばれる団体だ。
一団の本拠地はチベット仏教の理想郷シャンバラヤで、
そこに居る世界の王が一団のリーダー。リーダーの祖先は愛と美の女神ヴィーナス。
マスター達との交信を行っていた、ブラヴァツキー女史もその一団に属している」
ついにヴィーナスまで出てきた。
やはり今日は、1対1のプライベートレッスンで良かった、とアンリは思う。
この手の話に興味のない普通の人間なら、そろそろ眠たくなってくる頃だ。
「次に、ブラヴァツキー女史はどうやって、
マスター達と交信を行っていたのか、という話をしようか。
女史によると、最初はテレパシーによる交信だったそうだ。
つまり、彼女には聞こえた、ということだね。
神智学協会が南インドに移ってからは、マスターから手紙が届くようになった。
突然、頭上から手紙が降ってきたり、神殿という名の戸棚に手紙が現れたり。
これまではテレパシーで伝えられてきたことが、具現化されるようになったんだね。
ところが、この手紙がブラヴァツキー女史を窮地に追い込んでしまう」
そこで、ボージェ教授は一瞬悲しそうな顔をした。
「マスターからの手紙の出現は、トリックによるものだと、
ブラヴァツキー女史の家政婦をしていた、エマ・クーロンが暴露するんだ。
秘密のすべり戸から、女史が手紙を出現させているんだ、とね。
エマの暴露を受け、イギリスの心霊現象研究協会が調査した結果、
神智学協会は詐欺団体で、ブラヴァツキーはペテン師だとする、
ホゾシン報告が発表された。それが1884年。
同年、ブラヴァツキー女史はインドを追われ、イギリスへ移る。
彼女は常に批判に晒されていたが、ホゾシン報告によって、
元々、彼女や神智学協会に懐疑的だった論者から、更に攻撃されたんだ。
彼女の死から約100年後になって、心霊現象研究協会はホゾシン報告を撤回し、
亡き女史に謝罪することになるのだがね」
「どうして撤回したの?」
「ブラヴァツキー女史は、マスターからの手紙を、
自作自演で出現させるような人物ではない、ということだよ」
「では、他の誰かがやったということ?」
「告発したエマ・クーロンによる自作自演だったという説がある。
ブラヴァツキー女史と揉めて解雇された腹いせにね」
気性の荒さが災いしたのだろうか、とアンリは思う。
「ホゾシン報告から7年後、女史が60歳で病に倒れるまでに、
彼女は『シークレット・ドクトリン』など3冊の著書を遺している。
病で生死をさ迷う中、著書を遺すように、と導いてくれたマスターが居たそうだよ。
死んで自由になるか、生きて『シークレット・ドクトリン』を完成させるか、
どちらにするか、とね」
教授は灰色の冬空を見つめていた。
「彼女は最初から、皆の役に立つように、
マスターから告げられた大切な話を、皆に伝えただけだった。
ただ、聞こえたものを聞こえたと言っただけなんだ」
教授の目はどこか遠いところを見ているようだった。
鐘の音がした。教授が天井を見上げて、おや、と言う。
「では今日の授業はここまで、かな」
生徒は両手で頬杖をつきながら、吐息混じりに言った。
「ボージェ教授は、本当に期待を裏切らないね」
「それは、今回の冬期講習にご満足頂けた、ということかな?」
逆だよ、と気だるげに生徒は言った。
「ねえ? 触れるべきマスターを、一人忘れてない?」
「おや。勉強したいマスターが入っていなかったかね?」
生徒の頬が不満げに少し膨らむ。
「伯爵も、マスターと呼ばれるうちの一人だと思ったけれど?
ブラヴァツキーは、インドに居た頃、伯爵と会って話したとも言われている筈だ」
「伯爵……ああ。君の家の、サン・ジェルマン伯のことかね?
すまない。彼のことをうっかり忘れてたよ。マスターは144人も居るから」
「Qui vole un oeuf vole un boeuf(嘘吐きは泥棒の始まりだよ)」
「Pardon pardon(ごめん、ごめん)」
教授は穏やかな笑顔を見せて、軽く謝るだけだった。
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