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■癒されないスパ2 続編
ソクーロフが木のドアを開ける。
ログハウス風のサウナで、左右の席に腰がかけられる。
二人ずつ向かい合って座ったら、ギリギリ四人入れそうだが、
ゆったり入るなら、定員は二人までだろう。
ソクーロフが左側に座ったので、アイヴィーは向かいの席に座った。
暑い。アイヴィーはすぐに出たくなったが、
顔を上げると、正面に居る人は慣れているせいか涼しい顔をしていた。
「ソクちゃんは暑くないのー?」
「入ったばかりで、もうギブアップか?」
「ま、まだ平気ー」
「ほう? ではゆっくりしていくか」
アイヴィーは強がってウソを吐いたことを後悔した。
俯いた時、ある物が視界に入った。
「……ソクちゃんさ」
「ん?」
「今更だけど、なんで水着、ビキニなの? てかブーメラン?」
「競泳用水着と言え。お前は水着をレンタルしたんだろうが、私のは自前だ」
「自前がキワド過ぎでしょ……」
真っ白な肢体に黒くて細過ぎる水着。
アイヴィーが目のやり場に困っていると、不敵に笑われた。
「な、何さ」
「こんな所で、そんなに物欲しそうな目で見るな」
「見てませんっ!」
「いつ誰が来るかもしれない、というシチュエーションが、
お前の好みだとしても、ここはサウナだからな。
身体への負担を考えると、余りに危険過ぎる行為だと思うぞ?」
「冷静に忠告すんなよっ!」
ソクーロフはサウナ内の掛け時計を見上げ、
「さて、そろそろ出るか。お前の頭が茹で上がりそうだからな」
「茹で上がらねーよっ!」
サウナの外に出ると涼しく感じた。サウナの横にはシャワーが2つあった。
ソクーロフがシャワーを浴びたので、アイヴィーもそれに倣う。
サウナで汗ばんだ肌を少し冷たいシャワーが洗い流してくれる。
爽快だ。肌がピシリと引き締まった気がした。
キュッと隣のシャワーが止まった音がする。
アイヴィーもシャワーを止めた。
ソクーロフは次にどこへ向かうのか。
その背中に付いて行くと、今度は館内のオープンカフェに着いた。
ここでは、水着のまま飲食できるらしい。
ファーストフードのように先払い式のようで、ソクーロフが店員に注文をした。
「私はアイスコーヒーを。お前は?」
「ええっとー、じゃあ俺も同じので」
「畏まりました。ではロッカーキーのナンバーをお見せ頂けますか?」
「ああ、はいはい」
アイヴィーがもたつきながら腕のナンバーを店員のほうに向ける中、
ソクーロフはサッとスマートにこなしていた。
「ありがとうございます。それではお席でお待ち下さいませ」
パラソルの下に白いビーチチェアが並んでいる席があった。
ソクーロフがそこに寝そべったので、アイヴィーも隣に席を取る。
この辺りは熱帯植物と思われる木や花に囲まれている。
ビーチチェアの席には他に客は居なかった。
テーブル席のほうには、老夫婦らしき二人の男女が居る。
二人の前には、グラスに花が飾られた、イエローのドリンクがあった。
アイヴィーがビーチチェアに座ると、海型プールが見えた。
男が一人、サーフィンをしている。
人工的に作られた波の上で、サーフボードを胸に付け、
沖のほうに向かって、大きく手を掻いている。
ここでは波乗り練習もできるらしい。
水に入っていた時はエメラルドグリーン色の海だったが、
ここから見ると、近くで見た時より色が青っぽい。
なんとなくだが、ハワイのビーチにでも遊びに来ているような気持ちになれる。
「お待たせ致しました」
アイスコーヒーが来た。サイドテーブルにグラスが置かれる。
「どうぞごゆっくり」
グラスには黒いストローが入っていた。
咥えて吸うと、深い苦味が喉を流れていった。
隣のソクーロフも数口続けて飲んでいたので、
コーヒーに煩い先生の口にも合っていたのだろう。
喉を潤したソクーロフは、再びビーチチェアに寝そべった。
アイヴィーもゴロンと寝そべってみた。
向こうから波の音が聞こえる。
とてもゆったりした気分になっていた。
のんびりできて良いところだな、とアイヴィーは思う。
だが、アイヴィーの家の前には、本物の海があるのを思い出した。
窓を開ければ、潮風が入ってくるほどだ。
本物の波を見ている時より、作られた波を見ているほうが、
リラックスできるなんて、なんだか可笑しな話だ。
海型プールで、さっきのサーファーが波の上で立った。
ふらついているが、結構、波に乗れているなあ、
と思ったら、身体が右に傾いて、ザバーンと海に落ちた。
屋内サーフィンも楽しそうだ。
サーフボードもレンタルできるなら、あとで自分も、やってみようか。
波の音が聞こえる。心地良いリズムだ。
作り物の海と、本物の海は、一体何が違うんだろう。
唐突に、オルゴールのような音楽が館内に流れ始めた。
すると、フッと照明が暗くなり始めた。
アイヴィーはビーチチェアから身体を起こす。
「えっ、何? 何か始まるの?」
ソクーロフは寝そべったまま、
「まあ見ていろ」
音楽に合わせて、照明の色が変化していく。
ゆっくりと夕闇色に変わっていくのだ。そしてもっと暗くなる。
早送りで空が夕方から夜へ変わっていくかのようだ。
オルゴールが終わった時には、照明は夜の色になっていた。
天井にはプラネタリウムのように星が出ている。
辺りには、ぽうっとランプが照らされている。
さっきまでの明るいハワイアンな雰囲気とは全然違う。
一曲の間に、ムーディーな大人の空間になっていた。
「うーわ。なんか、男が女の子口説くのに良さそうな雰囲気になっちゃって」
「私に口説いて欲しい、という催促か?」
「だ、ダレがアンタなんかにっ!」
「そうか? 私は、やっと、お前を口説き落としたい気分になったのだがな?」
「………え?」
「暗くなってきたし、お前の裸が目の前にある」
ソクーロフはゆっくりと身を起こす。
眼鏡を掛けていない目が、こちらを見つめていた。
「お前とこのような場所で会うとは思わなかったぞ?
ここは、胸の傷が不特定多数の目に晒される場所だからな」
ソクーロフの視線は一点に向けられていた。
アイヴィーの左胸にある、古い傷跡に。
「口説き落としたいって、ソッチかよ」
「他に何がある?」
ソクーロフは席を立ち、アイヴィーの左側に立った。
「やはり本当は、誰かに見つけて欲しいんだろう?
そして、こう聞いて欲しいんだ。『その傷はどうしたんだ』と」
「違うよ、俺は見られたくなんか」
「私に嘘が通用すると思うのか?」
次の瞬間には、ビーチチェアに押し倒されていた。
左肩を押さえつけられ、左胸がのけぞる。
ソクーロフの目の前に、古傷が晒されていた。
「ちょ、こんな所で診察ゴッコは」
「ゴッコではない。生憎だが、私は本気だ」
「バカ、他の人に見られ」
「誰が見ている? 他には誰も居ないのに」
「な、何言って」
「ここには、私とお前しか居ないさ」
「いや、居るだろ。ほら、あそこ、に……」
アイヴィーは周りを見回し、唖然とした。
テーブル席に居た筈の老夫婦の姿がない。
カフェの店員も居なくなっている。
波乗りをしていたサーファーの姿も見えない。
誰も居ない。
さっきまでみんなそこに居たのに。どうして。
ギリとアイヴィーの左肩に痛みが走る。
肩を強く押さえつけられ、ソクーロフの爪が肩に食い込んでいた。
「……やっと、この傷を診る日が来たか」
その声からも、抑えられない興奮が伝わるようだった。
白くて長い人差し指が、傷口に近付いてくる。
その指を掴んで止めなくてはいけないのに。
アイヴィーの身体は動かせなくなっていた。
脳と身体を繋ぐ神経が切り離されてしまったかのようだ。
自分の身体に意思が伝えられない。見ていることしかできない。
ソクーロフの人差し指は、ゆっくりと傷に触れた。
つつつ、と傷跡をなぞられ、胸の筋肉がビクリと震える。
「傷跡は時間をかけて薄くなってはいるが」
「……さわん、な」
「この傷が付いたのは、おそらく」
「や……さわんなって……」
「お前がここに来る数年前、か?」
「ちがう……」
「傷を付けた凶器は」
「や、だ……ソクッ――」
制止の言葉は続かなかった。
アイヴィーの唇に柔らかい物が当たっていて、ソクーロフの顔が目の前にあった。
そっと言葉を塞いだだけで、ゆっくりとソクーロフは離れた。
「アンタ、何して……」
「もういい」
「何が」
「もう、隠さなくていい」
ふっとアイヴィーの視界が暗くなる。
アイヴィーの両目はソクーロフの片手で覆われていた。
「話せ」
耳許で優しい声がした。
真っ暗な世界でソクーロフの声だけが聞こえる。
「本当は、聞いて欲しかったんだろう? 誰かに」
どうしてなのか、頭がぼうっとしてくる。
「私が聞いてやる」
アイヴィーの両目を覆っている手は意外にも仄かに温かかった。
「話せ。この傷は、いつ、誰に付けられた?」
人の温もりだ。心地好いと感じている自分が居た。
不思議と気分が落ち着いてくる。
「この傷は……」
「この傷は?」
この人になら、隠さなくて良いのか。
委ねて良いのか、全てを――
「この、傷は……」
見えたのは、うちの天井だった。
アイヴィーは自宅のロングソファで目を覚ました。
目を覚ましたということは、それまで寝ていたということだ。
時計を見ると、火曜日の明け方だった。
休日はまだ始まっていなかった。
そう言えば、月曜日の夜は疲れていて、
帰宅後ソファで眠ってしまったような気がする。
「なんで、あんな夢見てんだよ、俺は……」
アイヴィーは深く息を吐き出し、また目を閉じた。
夢で見た内容は、はっきりと頭の中に残っていた。
普段は、起きると同時に忘れてしまうのに。
覚えているのは、いつも嫌な夢ばかりだ。
手を額に当てると、汗をかいていた。
首許もじっとり濡れている。
部屋の中が少し暑い。風に当たりたい。
ソファから立ち上がると、足が一度ふらついた。
足に力を入れて、窓まで辿り着き、窓を開けた。
涼しい。外の空気が部屋に流れ込んでくる。
明け方の海が見える。淡いブルー。
日中になれば、もっと色の濃いブルーになるだろう。
アイヴィーは、そうか、と思う。
作り物の海と本物の海は何が違うのか。
潮風に吹かれていたら答えが解った。
スパでは、潮の香りがしなかった。
fin
ソクーロフが木のドアを開ける。
ログハウス風のサウナで、左右の席に腰がかけられる。
二人ずつ向かい合って座ったら、ギリギリ四人入れそうだが、
ゆったり入るなら、定員は二人までだろう。
ソクーロフが左側に座ったので、アイヴィーは向かいの席に座った。
暑い。アイヴィーはすぐに出たくなったが、
顔を上げると、正面に居る人は慣れているせいか涼しい顔をしていた。
「ソクちゃんは暑くないのー?」
「入ったばかりで、もうギブアップか?」
「ま、まだ平気ー」
「ほう? ではゆっくりしていくか」
アイヴィーは強がってウソを吐いたことを後悔した。
俯いた時、ある物が視界に入った。
「……ソクちゃんさ」
「ん?」
「今更だけど、なんで水着、ビキニなの? てかブーメラン?」
「競泳用水着と言え。お前は水着をレンタルしたんだろうが、私のは自前だ」
「自前がキワド過ぎでしょ……」
真っ白な肢体に黒くて細過ぎる水着。
アイヴィーが目のやり場に困っていると、不敵に笑われた。
「な、何さ」
「こんな所で、そんなに物欲しそうな目で見るな」
「見てませんっ!」
「いつ誰が来るかもしれない、というシチュエーションが、
お前の好みだとしても、ここはサウナだからな。
身体への負担を考えると、余りに危険過ぎる行為だと思うぞ?」
「冷静に忠告すんなよっ!」
ソクーロフはサウナ内の掛け時計を見上げ、
「さて、そろそろ出るか。お前の頭が茹で上がりそうだからな」
「茹で上がらねーよっ!」
サウナの外に出ると涼しく感じた。サウナの横にはシャワーが2つあった。
ソクーロフがシャワーを浴びたので、アイヴィーもそれに倣う。
サウナで汗ばんだ肌を少し冷たいシャワーが洗い流してくれる。
爽快だ。肌がピシリと引き締まった気がした。
キュッと隣のシャワーが止まった音がする。
アイヴィーもシャワーを止めた。
ソクーロフは次にどこへ向かうのか。
その背中に付いて行くと、今度は館内のオープンカフェに着いた。
ここでは、水着のまま飲食できるらしい。
ファーストフードのように先払い式のようで、ソクーロフが店員に注文をした。
「私はアイスコーヒーを。お前は?」
「ええっとー、じゃあ俺も同じので」
「畏まりました。ではロッカーキーのナンバーをお見せ頂けますか?」
「ああ、はいはい」
アイヴィーがもたつきながら腕のナンバーを店員のほうに向ける中、
ソクーロフはサッとスマートにこなしていた。
「ありがとうございます。それではお席でお待ち下さいませ」
パラソルの下に白いビーチチェアが並んでいる席があった。
ソクーロフがそこに寝そべったので、アイヴィーも隣に席を取る。
この辺りは熱帯植物と思われる木や花に囲まれている。
ビーチチェアの席には他に客は居なかった。
テーブル席のほうには、老夫婦らしき二人の男女が居る。
二人の前には、グラスに花が飾られた、イエローのドリンクがあった。
アイヴィーがビーチチェアに座ると、海型プールが見えた。
男が一人、サーフィンをしている。
人工的に作られた波の上で、サーフボードを胸に付け、
沖のほうに向かって、大きく手を掻いている。
ここでは波乗り練習もできるらしい。
水に入っていた時はエメラルドグリーン色の海だったが、
ここから見ると、近くで見た時より色が青っぽい。
なんとなくだが、ハワイのビーチにでも遊びに来ているような気持ちになれる。
「お待たせ致しました」
アイスコーヒーが来た。サイドテーブルにグラスが置かれる。
「どうぞごゆっくり」
グラスには黒いストローが入っていた。
咥えて吸うと、深い苦味が喉を流れていった。
隣のソクーロフも数口続けて飲んでいたので、
コーヒーに煩い先生の口にも合っていたのだろう。
喉を潤したソクーロフは、再びビーチチェアに寝そべった。
アイヴィーもゴロンと寝そべってみた。
向こうから波の音が聞こえる。
とてもゆったりした気分になっていた。
のんびりできて良いところだな、とアイヴィーは思う。
だが、アイヴィーの家の前には、本物の海があるのを思い出した。
窓を開ければ、潮風が入ってくるほどだ。
本物の波を見ている時より、作られた波を見ているほうが、
リラックスできるなんて、なんだか可笑しな話だ。
海型プールで、さっきのサーファーが波の上で立った。
ふらついているが、結構、波に乗れているなあ、
と思ったら、身体が右に傾いて、ザバーンと海に落ちた。
屋内サーフィンも楽しそうだ。
サーフボードもレンタルできるなら、あとで自分も、やってみようか。
波の音が聞こえる。心地良いリズムだ。
作り物の海と、本物の海は、一体何が違うんだろう。
唐突に、オルゴールのような音楽が館内に流れ始めた。
すると、フッと照明が暗くなり始めた。
アイヴィーはビーチチェアから身体を起こす。
「えっ、何? 何か始まるの?」
ソクーロフは寝そべったまま、
「まあ見ていろ」
音楽に合わせて、照明の色が変化していく。
ゆっくりと夕闇色に変わっていくのだ。そしてもっと暗くなる。
早送りで空が夕方から夜へ変わっていくかのようだ。
オルゴールが終わった時には、照明は夜の色になっていた。
天井にはプラネタリウムのように星が出ている。
辺りには、ぽうっとランプが照らされている。
さっきまでの明るいハワイアンな雰囲気とは全然違う。
一曲の間に、ムーディーな大人の空間になっていた。
「うーわ。なんか、男が女の子口説くのに良さそうな雰囲気になっちゃって」
「私に口説いて欲しい、という催促か?」
「だ、ダレがアンタなんかにっ!」
「そうか? 私は、やっと、お前を口説き落としたい気分になったのだがな?」
「………え?」
「暗くなってきたし、お前の裸が目の前にある」
ソクーロフはゆっくりと身を起こす。
眼鏡を掛けていない目が、こちらを見つめていた。
「お前とこのような場所で会うとは思わなかったぞ?
ここは、胸の傷が不特定多数の目に晒される場所だからな」
ソクーロフの視線は一点に向けられていた。
アイヴィーの左胸にある、古い傷跡に。
「口説き落としたいって、ソッチかよ」
「他に何がある?」
ソクーロフは席を立ち、アイヴィーの左側に立った。
「やはり本当は、誰かに見つけて欲しいんだろう?
そして、こう聞いて欲しいんだ。『その傷はどうしたんだ』と」
「違うよ、俺は見られたくなんか」
「私に嘘が通用すると思うのか?」
次の瞬間には、ビーチチェアに押し倒されていた。
左肩を押さえつけられ、左胸がのけぞる。
ソクーロフの目の前に、古傷が晒されていた。
「ちょ、こんな所で診察ゴッコは」
「ゴッコではない。生憎だが、私は本気だ」
「バカ、他の人に見られ」
「誰が見ている? 他には誰も居ないのに」
「な、何言って」
「ここには、私とお前しか居ないさ」
「いや、居るだろ。ほら、あそこ、に……」
アイヴィーは周りを見回し、唖然とした。
テーブル席に居た筈の老夫婦の姿がない。
カフェの店員も居なくなっている。
波乗りをしていたサーファーの姿も見えない。
誰も居ない。
さっきまでみんなそこに居たのに。どうして。
ギリとアイヴィーの左肩に痛みが走る。
肩を強く押さえつけられ、ソクーロフの爪が肩に食い込んでいた。
「……やっと、この傷を診る日が来たか」
その声からも、抑えられない興奮が伝わるようだった。
白くて長い人差し指が、傷口に近付いてくる。
その指を掴んで止めなくてはいけないのに。
アイヴィーの身体は動かせなくなっていた。
脳と身体を繋ぐ神経が切り離されてしまったかのようだ。
自分の身体に意思が伝えられない。見ていることしかできない。
ソクーロフの人差し指は、ゆっくりと傷に触れた。
つつつ、と傷跡をなぞられ、胸の筋肉がビクリと震える。
「傷跡は時間をかけて薄くなってはいるが」
「……さわん、な」
「この傷が付いたのは、おそらく」
「や……さわんなって……」
「お前がここに来る数年前、か?」
「ちがう……」
「傷を付けた凶器は」
「や、だ……ソクッ――」
制止の言葉は続かなかった。
アイヴィーの唇に柔らかい物が当たっていて、ソクーロフの顔が目の前にあった。
そっと言葉を塞いだだけで、ゆっくりとソクーロフは離れた。
「アンタ、何して……」
「もういい」
「何が」
「もう、隠さなくていい」
ふっとアイヴィーの視界が暗くなる。
アイヴィーの両目はソクーロフの片手で覆われていた。
「話せ」
耳許で優しい声がした。
真っ暗な世界でソクーロフの声だけが聞こえる。
「本当は、聞いて欲しかったんだろう? 誰かに」
どうしてなのか、頭がぼうっとしてくる。
「私が聞いてやる」
アイヴィーの両目を覆っている手は意外にも仄かに温かかった。
「話せ。この傷は、いつ、誰に付けられた?」
人の温もりだ。心地好いと感じている自分が居た。
不思議と気分が落ち着いてくる。
「この傷は……」
「この傷は?」
この人になら、隠さなくて良いのか。
委ねて良いのか、全てを――
「この、傷は……」
見えたのは、うちの天井だった。
アイヴィーは自宅のロングソファで目を覚ました。
目を覚ましたということは、それまで寝ていたということだ。
時計を見ると、火曜日の明け方だった。
休日はまだ始まっていなかった。
そう言えば、月曜日の夜は疲れていて、
帰宅後ソファで眠ってしまったような気がする。
「なんで、あんな夢見てんだよ、俺は……」
アイヴィーは深く息を吐き出し、また目を閉じた。
夢で見た内容は、はっきりと頭の中に残っていた。
普段は、起きると同時に忘れてしまうのに。
覚えているのは、いつも嫌な夢ばかりだ。
手を額に当てると、汗をかいていた。
首許もじっとり濡れている。
部屋の中が少し暑い。風に当たりたい。
ソファから立ち上がると、足が一度ふらついた。
足に力を入れて、窓まで辿り着き、窓を開けた。
涼しい。外の空気が部屋に流れ込んでくる。
明け方の海が見える。淡いブルー。
日中になれば、もっと色の濃いブルーになるだろう。
アイヴィーは、そうか、と思う。
作り物の海と本物の海は何が違うのか。
潮風に吹かれていたら答えが解った。
スパでは、潮の香りがしなかった。
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