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■ソクーロフ
夜遅く、ソクーロフは一人でバーの扉を開けた。
店内にはゆったりとした、女性ヴォーカルのジャズが流れている。
ここは聖アルフォンソ島の旧市街にある、ソクーロフが行きつけのバー。
客入りはまばらで、テーブル席に数組居る程度。
カウンターには誰も座っていなかった。
カウンターの内側には、顔馴染みのマスターが一人。
ソクーロフの顔を見たマスターは、
いつものように、優しい笑みで迎えてくれた。
「おや、ソクーロフ先生。いらっしゃい」
「こんばんは、マスター」
カウンターの右端に座ると、マスターもこちらに来てくれた。
ここのマスターは赤いチェックのベストにホワイトシャツ。
ロマンスグレイの髪と丸眼鏡は、マスターに良く似合っていた。
「少しお久し振りですね。今夜は何をお飲みになりますか」
「マッカランの12年をロックで」
「畏まりました」
マスターの背景には、世界各国のアルコールがずらりと並んでいる。
木製のカウンターテーブルはいつ来ても美しい艶があり、
鏡のようにソクーロフの顔を映す。常によく磨かれている証だ。
一杯目のグラスはすぐに提供された。
琥珀色のスコッチウイスキー。いつ見てもこの琥珀色は美しい。
添えられた白い小皿には、小さな四角いビターチョコレートが二枚。
グラスを持つと、モルトの香り。
口付けると、スモーキーかつ官能的な甘みが脳を刺激する。
喉を流れていったあとは、カカオのような香りが口内に残る。
求めていたものが喉に沁みていく快感に暫し酔った。
見えないものに導かれるように四角いビターチョコレートを齧り、
またウイスキーを口に含む。口の中でウイスキーとチョコレートが交わり合う。
その魔法のような一瞬をソクーロフは好んでいた。
「先生。宜しければ、こちらをお試し頂けますか」
マスターが出してくれたものは、
селёдка(セリョートカ)と言う、ニシンの塩漬けだった。
薄く切った魚とオニオンのマリネで、ピクルスとオリーブも添えられていた。
ロシアではポピュラーな料理だが、
この店でこれを出されたのは今夜が初めてだった。
メニュー表にも載っていなかったと思ったが。
「セリョートカですね。新しいメニューですか?」
「いえ。まだ試作品です。実は今度、先生がおいでになった時に、
つまんで頂けたらと思って、最近、味付けを色々と試していたんです。
試作品で恐縮ですが、味をみて頂けますか?」
このマスターは時々こういうことを言う。
以前、あの男と来た時も、メニューにない品の味見を頼まれた。
その時は、あの男が「旨い旨い」と騒いだので、
その後、正式にメニューに載ったりした。
ソクーロフは礼を言って、セリョートカを口に運んだ。
あの寒い国に特別な思い入れは持ち合わせていない筈なのに。
飾らない素朴な味が妙に懐かしい。
美味しいです、と伝えると、マスターは本当に嬉しそうに微笑んだ。
礼を兼ねて、二杯目はこの魚料理に合わせて、ロシアのウオッカを頼んだ。
英名はオールド・ウオッカ。ロシア語では『スタルカ』と言う。
ウオッカの水色は無色透明が多い中、これは琥珀色をしている。
リンゴ、梨の葉、ブランデー、ポートワインをブレンドした、
少し珍しいタイプのウオッカだ。辛口ながら芳醇なコクがある。
セリョートカをつまみながらスタルカを飲む。
辛口のアルコールは、酸味の強い料理と良く合った。
テーブル席に居た客が一組、席を立つ。マスターは客をドアまで見送りに行った。
笑顔の客達とマスターの無言劇を眺めながら、ソクーロフは足を組み替える。
内ポケットに手を入れ、煙草を取り出した。
この店に来る前まで、ソクーロフは一人で保健室に居た。
保健室の営業時間はとうに終わっているにも関わらず。
ある、ひとつのことについて考えていた。
気が付くと、窓の外は真っ暗で、夕食の時間も終わっていた。
シェフに頼めば何か作ってくれるだろうが、交渉する気は起きず、
そのまま一人で旧市街まで来て、ここのドアを開けた。
ゆるゆると昇る灰色の煙を見上げながら、
入店時より少し満たされた気持ちになっていることに気付いた。
この店に来たことで、気晴らしができたのだろう。
独りでグラスを傾ける時間は嫌いではない。
むしろ、自分には時折このような時間が必要だ。特に今は――
ソクーロフはグラスに口付ける。
カランと氷が傾く。そのまま、ウォッカを飲み干した。
空になったグラス。今夜はもう少し飲みたい、と感じた。
「グラスが空きましたか、先生」
見送りをしていたマスターが、いつの間にか戻ってきていた。
「お次は何に致しましょう?」
良いタイミングで聞いてくれる。
次は、少し甘味のあるカクテルが飲みたいと思った。
「そうですね。では、『ホワイト・レディ』を」
「はい。畏まりました」
マスターは背後に並んでいるボトルの中から、迷いなく三つ取り、
流れるような手つきで、シェイカーに酒を入れた。
店内にシェイカーの音が響く。
最初はゆっくり、徐々に早く、そしてまたゆっくりと終わった。
ソクーロフの前にカクテルグラスが置かれる。
シェイカーから白いカクテルが注がれた。
「お待たせ致しました。『ホワイト・レディ』でございます」
ホワイトキュラソーにレモンを加えた、ジンベースのショートカクテル。
甘酸っぱいレモンとハードなジンのバランスが絶妙だ。
マスターの作るカクテルは、どれも完璧だった。
「そう言えば、寂しがってましたよ、アイヴィーが」
いつのまにか店内の音楽はジャズから、
ピアノのクラシックに変わっていた。
ソクーロフは目からゆっくりと顔を上げる。
丸眼鏡のマスターは目尻に皺を寄せていた。
「『最近、ソクちゃんとタイミングが合わない』って」
ここのところ、飲みの誘いを二度程、断っている。
そう言えば、二度目の時、この店で現地集合という約束だったが、
ソクーロフはその直前にキャンセルした。
アイヴィーは、このカウンターで、キャンセルの連絡を受けたのかもしれない。
マスターはロックグラスを磨きながら、思い出し笑いをする。
「アイヴィーがね、『もしかして、俺、わざと放置されてんのかなー』なんて、
あんまりしょんぼり言うもんだから、私、思わず笑っちゃいましたよ」
マスターは可愛い孫の話をするように話していた。
実際、マスターにとっては、殆どの客が孫のようなものなのだろう。
「先生は、その日、お仕事がお忙しかっただけなんでしょう?」
「ええ。体調を崩していた生徒が居たので、断ったんですよ」
それは嘘ではなかった。一度目も二度目の時も、
シュヌーシア寮に風邪気味の生徒が居たので、
万一、症状が悪化した場合にすぐに駆け付けられるよう、
夜間も学院を空けたくなかった。
「あの男より、生徒のほうが大切ですからね」
「おや。またそんな意地悪を言って」
事実を述べただけですよ、とソクーロフは心の中で言う。
「それで、その後、元気になりましたか、マージナルプリンスは?」
「はい。翌日にはすっかり良くなっていました」
「それは良かった。マージナルプリンスが、
いつも元気でいられるのは先生のおかげですね」
ソクーロフは静かに微笑を返した。
再び『ホワイト・レディ』に口付ける。
仄かに甘いカクテル。
ふと、あるレディの顔が脳裏に浮かんだ。
fin
夜遅く、ソクーロフは一人でバーの扉を開けた。
店内にはゆったりとした、女性ヴォーカルのジャズが流れている。
ここは聖アルフォンソ島の旧市街にある、ソクーロフが行きつけのバー。
客入りはまばらで、テーブル席に数組居る程度。
カウンターには誰も座っていなかった。
カウンターの内側には、顔馴染みのマスターが一人。
ソクーロフの顔を見たマスターは、
いつものように、優しい笑みで迎えてくれた。
「おや、ソクーロフ先生。いらっしゃい」
「こんばんは、マスター」
カウンターの右端に座ると、マスターもこちらに来てくれた。
ここのマスターは赤いチェックのベストにホワイトシャツ。
ロマンスグレイの髪と丸眼鏡は、マスターに良く似合っていた。
「少しお久し振りですね。今夜は何をお飲みになりますか」
「マッカランの12年をロックで」
「畏まりました」
マスターの背景には、世界各国のアルコールがずらりと並んでいる。
木製のカウンターテーブルはいつ来ても美しい艶があり、
鏡のようにソクーロフの顔を映す。常によく磨かれている証だ。
一杯目のグラスはすぐに提供された。
琥珀色のスコッチウイスキー。いつ見てもこの琥珀色は美しい。
添えられた白い小皿には、小さな四角いビターチョコレートが二枚。
グラスを持つと、モルトの香り。
口付けると、スモーキーかつ官能的な甘みが脳を刺激する。
喉を流れていったあとは、カカオのような香りが口内に残る。
求めていたものが喉に沁みていく快感に暫し酔った。
見えないものに導かれるように四角いビターチョコレートを齧り、
またウイスキーを口に含む。口の中でウイスキーとチョコレートが交わり合う。
その魔法のような一瞬をソクーロフは好んでいた。
「先生。宜しければ、こちらをお試し頂けますか」
マスターが出してくれたものは、
селёдка(セリョートカ)と言う、ニシンの塩漬けだった。
薄く切った魚とオニオンのマリネで、ピクルスとオリーブも添えられていた。
ロシアではポピュラーな料理だが、
この店でこれを出されたのは今夜が初めてだった。
メニュー表にも載っていなかったと思ったが。
「セリョートカですね。新しいメニューですか?」
「いえ。まだ試作品です。実は今度、先生がおいでになった時に、
つまんで頂けたらと思って、最近、味付けを色々と試していたんです。
試作品で恐縮ですが、味をみて頂けますか?」
このマスターは時々こういうことを言う。
以前、あの男と来た時も、メニューにない品の味見を頼まれた。
その時は、あの男が「旨い旨い」と騒いだので、
その後、正式にメニューに載ったりした。
ソクーロフは礼を言って、セリョートカを口に運んだ。
あの寒い国に特別な思い入れは持ち合わせていない筈なのに。
飾らない素朴な味が妙に懐かしい。
美味しいです、と伝えると、マスターは本当に嬉しそうに微笑んだ。
礼を兼ねて、二杯目はこの魚料理に合わせて、ロシアのウオッカを頼んだ。
英名はオールド・ウオッカ。ロシア語では『スタルカ』と言う。
ウオッカの水色は無色透明が多い中、これは琥珀色をしている。
リンゴ、梨の葉、ブランデー、ポートワインをブレンドした、
少し珍しいタイプのウオッカだ。辛口ながら芳醇なコクがある。
セリョートカをつまみながらスタルカを飲む。
辛口のアルコールは、酸味の強い料理と良く合った。
テーブル席に居た客が一組、席を立つ。マスターは客をドアまで見送りに行った。
笑顔の客達とマスターの無言劇を眺めながら、ソクーロフは足を組み替える。
内ポケットに手を入れ、煙草を取り出した。
この店に来る前まで、ソクーロフは一人で保健室に居た。
保健室の営業時間はとうに終わっているにも関わらず。
ある、ひとつのことについて考えていた。
気が付くと、窓の外は真っ暗で、夕食の時間も終わっていた。
シェフに頼めば何か作ってくれるだろうが、交渉する気は起きず、
そのまま一人で旧市街まで来て、ここのドアを開けた。
ゆるゆると昇る灰色の煙を見上げながら、
入店時より少し満たされた気持ちになっていることに気付いた。
この店に来たことで、気晴らしができたのだろう。
独りでグラスを傾ける時間は嫌いではない。
むしろ、自分には時折このような時間が必要だ。特に今は――
ソクーロフはグラスに口付ける。
カランと氷が傾く。そのまま、ウォッカを飲み干した。
空になったグラス。今夜はもう少し飲みたい、と感じた。
「グラスが空きましたか、先生」
見送りをしていたマスターが、いつの間にか戻ってきていた。
「お次は何に致しましょう?」
良いタイミングで聞いてくれる。
次は、少し甘味のあるカクテルが飲みたいと思った。
「そうですね。では、『ホワイト・レディ』を」
「はい。畏まりました」
マスターは背後に並んでいるボトルの中から、迷いなく三つ取り、
流れるような手つきで、シェイカーに酒を入れた。
店内にシェイカーの音が響く。
最初はゆっくり、徐々に早く、そしてまたゆっくりと終わった。
ソクーロフの前にカクテルグラスが置かれる。
シェイカーから白いカクテルが注がれた。
「お待たせ致しました。『ホワイト・レディ』でございます」
ホワイトキュラソーにレモンを加えた、ジンベースのショートカクテル。
甘酸っぱいレモンとハードなジンのバランスが絶妙だ。
マスターの作るカクテルは、どれも完璧だった。
「そう言えば、寂しがってましたよ、アイヴィーが」
いつのまにか店内の音楽はジャズから、
ピアノのクラシックに変わっていた。
ソクーロフは目からゆっくりと顔を上げる。
丸眼鏡のマスターは目尻に皺を寄せていた。
「『最近、ソクちゃんとタイミングが合わない』って」
ここのところ、飲みの誘いを二度程、断っている。
そう言えば、二度目の時、この店で現地集合という約束だったが、
ソクーロフはその直前にキャンセルした。
アイヴィーは、このカウンターで、キャンセルの連絡を受けたのかもしれない。
マスターはロックグラスを磨きながら、思い出し笑いをする。
「アイヴィーがね、『もしかして、俺、わざと放置されてんのかなー』なんて、
あんまりしょんぼり言うもんだから、私、思わず笑っちゃいましたよ」
マスターは可愛い孫の話をするように話していた。
実際、マスターにとっては、殆どの客が孫のようなものなのだろう。
「先生は、その日、お仕事がお忙しかっただけなんでしょう?」
「ええ。体調を崩していた生徒が居たので、断ったんですよ」
それは嘘ではなかった。一度目も二度目の時も、
シュヌーシア寮に風邪気味の生徒が居たので、
万一、症状が悪化した場合にすぐに駆け付けられるよう、
夜間も学院を空けたくなかった。
「あの男より、生徒のほうが大切ですからね」
「おや。またそんな意地悪を言って」
事実を述べただけですよ、とソクーロフは心の中で言う。
「それで、その後、元気になりましたか、マージナルプリンスは?」
「はい。翌日にはすっかり良くなっていました」
「それは良かった。マージナルプリンスが、
いつも元気でいられるのは先生のおかげですね」
ソクーロフは静かに微笑を返した。
再び『ホワイト・レディ』に口付ける。
仄かに甘いカクテル。
ふと、あるレディの顔が脳裏に浮かんだ。
fin
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