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■ヒトリの夜1 続編
新しい司令官が来てから一週間、予定通りに引継ぎは行われた。
このまま何も問題がなければ、二日後、退役した者達と共に、
ゲーテ司令はこの島を去ることになっていた。
アイヴィーという男は、年齢や見た目に見合わず、
高い戦闘能力を持ち、要領は極めて良く、
仕事の飲み込みはとても早かった。
その日も会議室にて、ゲーテ司令、新しい司令官、副司令の私、
以上の三名で、ミーティングが行われた。
若い司令官は、まるで音楽でも聞いているかのような軽い頷き方で、
ゲーテ司令直々に語られる重要な機密事項を聞いていた。
私は「貴方は本当に話を聞いているのか」と問い質したい気持ちだったが、
私の思いに反して、ミーティングはスムーズに進んでいった。
「説明は以上だ。何か質問は?」
「いえ。大体、解りましたー」
どこか気だるい話し方は、更に私を苛々させた。
だが、ゲーテ司令は何故か、新しい司令官に満足しているらしく、
このところずっと、ご機嫌の良い様子だった。
「なら、今日はこれで終わりだ。
君はもう上がって良い。下でピコを待たせている」
「あ、はい。じゃあ、お先に失礼しまーす」
青いファイルを脇に抱えて、新しい司令官が立ち去る。
会議室はゲーテ司令と私だけになった。
本当にこれからあの男の下で働くことになるのかと思うと、
私は溜め息を吐きたい気持ちだった。
無論この時は、ゲーテ司令の前だったので控えたが。
すると、軽い笑い声が聞こえた。
振り返ると、司令は一人で笑っていた。
「司令? 何が可笑しいのです?」
「お前、に決まっているだろう。俺とお前しか居ないのに」
「私が今、何か面白いことをしましたか?」
司令は窓辺に凭れ、また少し笑った。
「気に入らんか? 新しい上官は」
見抜かれてる。
「私は、そのようなことを述べる立場にありません」
「存外、若い男だったことが腑に落ちないんだろう?
だが、それは、去年お前がここに来た時と同じだ」
新しい司令官程ではないが、
確かに私も、副司令というにはまだ若い年齢だった。
「俺もいい加減、年だからな。交代は免れないと思っていたが。
想像以上に、理事会は我々の若返りをお望みらしい。
いや、警備だけの話ではないかもしれんな。
もうすぐ、何か、全てが新しく変わる時が来るのかもしれん」
「どういうことです?」
「いや、何でもない。気にするな」
気にはなるが、上官の命令は絶対だ。
「では、私も失礼致します」
「待て、クロイツ」
窓の向こうには、夕陽色に染まった海が広がっている。
「何でしょうか」
「お前、今夜、空いているか」
「え?」
私がここに着任してから一年。
司令にそんなことを聞かれたのは初めてだった。
途惑いながら、私は「ええ」と答えた。
「よし。では俺に付き合え」
ゲーテ司令に連れて来られたのは旧市街。
暗く明るい街を歩きながら、私は少し緊張していた。
これまで仕事以外で、司令と二人で外出したことはなかった。
司令も私も仕事帰りに同僚と連れ立って、
飲みに行くようなことはしない主義だったのだ。
司令が島を離れるのは二日後。
これが最初で最後の夜になることは明白だった。
「ここだ」
司令が足を止めたのは、一軒家風の店の前だった。
暗くて、全貌が良く見えないが、
木製のコテージのような雰囲気だ。
「ここはレストラン、ですか?」
「バーさ」
司令がドアを開ける。私はその背中に続いた。
「いらっしゃいませ。おや、ゲーテさん」
丸い眼鏡をかけたロマンスグレイのマスターは、
司令の顔を見ると、にこりと笑った。
「こんばんは、マスター」
その短いやり取りで、二人は親しい間柄らしいと知れた。
司令は度々この店に来ていたのだろうか。
司令は迷わず、カウンターに向かい、
左端の椅子を引いたので、私はその隣に座った。
「どうぞ」
マスターが私達に水とメニューを差し出す。
彼は、ホワイトシャツに赤いチェックのベスト。
襟元には黒い蝶ネクタイという装いだった。
「ゲーテさんにお連れの方がいらっしゃるとはお珍しいですね。
そちらは、ご同僚の方ですか?」
「ああ。去年着任した副司令のクロイツと言う。覚えておいてくれ」
躊躇わず、司令は私のことをそう紹介した。
「ああ、こちらが」
マスターは嬉しそうに私を見た。
「お目にかかれて光栄です、クロイツさん。
改めまして、ようこそ、いらっしゃいませ」
表向き、我々の立場は、あくまで学院専属のドライバー。
必要な時を除き、一般の生徒や島民に対して、
自分が警備の人間であることは明かさないのが原則だ。
なのに、こちらから素性を明かすとは、
一体どういうことなのか。
「司令、何故――」
思わず、役職名のままで呼んでしまった。
私の考えを見抜いたらしい司令は頬杖を吐きながら、こう言った。
「ここで身分を隠しても、何の得もないからさ。
前の司令官も、マスターには世話になっていたようだしな」
そのようなことがあるのか。
二代に渡って、司令官が通う店があるなんて。
私は、はたと思い至った。
「もしや、我々の関係者の方なのですか?」
すると、二人から笑われた。
「いえいえ、私はただのバー店員ですよ。
お二方のお勤め先からは日々恩恵を受けるばかりです。
私達島民が、こうして毎日無事に生きていられるのは、
皆様のおかげですから。本当にいつもありがとうございます」
「いえ……」
島の警備に従事してから、誰かに礼を言われたのは、
この時が初めてで、私は曖昧な返事しかできなかった。
「相変わらず口が上手いな、マスターは」
そう言って司令は水を煽る。
「相変わらず意地悪ですね、ゲーテさんは。
私は本当にそう思っているのに」
司令が誰かと親しげに話すのを、私は初めて見た気がした。
追憶の塔に居る時の司令は、常に孤高の存在で、
誰かと冗談を言い合ったりするような場面は見たことがない。
普段、私達に命令を飛ばしている時とは、
明らかに違う司令が、ここに居る。
こんなに穏やかな表情をした司令を、私は知らない。
マスターと言葉を交わしている司令は、
軍のトップに立つ存在ではなく、ごく普通の紳士に見えた。
「ところで、マスター。まだ酒を貰ってないんだが?」
「すみません。ゲーテさんはいつもの、ですか?」
「ああ」
「クロイツさんは、何をお飲みになりますか?」
メニュー表に手を伸ばそうと思った時、
スルリとメニュー表を取られた。
「こいつも俺と同じので良いさ」
そう言って、司令はメニュー表を立てかけてしまった。
「もう」マスターは苦笑しながら「クロイツさん、宜しいですか?」
「ええ」
何が出てくるか解らなかったが「同じものをお願いします」と答えた。
「畏まりました。少々お待ち下さいませ」
マスターは、背後に並ぶたくさんのボトルの中から、
迷わず三つ、手に取った。
ボトルの外見だけでは何が入っているか、私には解らない。
司令の「いつもの」は、何と言う名前の酒なのだろう。
そう話しかけてみようかと、司令を見た時、私は息を呑んだ。
憂いを帯びた横顔。マスターを見つめる司令の眼差しは、
余りにも真剣だった。こうして、マスターのシェイクを見るのも、
今夜が最後だと、そう思っていらっしゃるのかもしれない。
司令に倣い、私もマスターを拝見することにした。
全てのドリンクを入れた銀色のシェイカーがキュッと閉まる。
マスターがシェイカーを掲げた途端、
まるで映画か芝居を見ているような気持ちになった。
カタン、カタン、と刻まれる音。
オレンジ色のライトを浴びた、彼の立ち姿は美しく、
その瞬間、カウンターの向こうは、舞台だった。
カクテルができるまでの間、
司令は一言も発さずに、マスターをただ見ていた。
→
新しい司令官が来てから一週間、予定通りに引継ぎは行われた。
このまま何も問題がなければ、二日後、退役した者達と共に、
ゲーテ司令はこの島を去ることになっていた。
アイヴィーという男は、年齢や見た目に見合わず、
高い戦闘能力を持ち、要領は極めて良く、
仕事の飲み込みはとても早かった。
その日も会議室にて、ゲーテ司令、新しい司令官、副司令の私、
以上の三名で、ミーティングが行われた。
若い司令官は、まるで音楽でも聞いているかのような軽い頷き方で、
ゲーテ司令直々に語られる重要な機密事項を聞いていた。
私は「貴方は本当に話を聞いているのか」と問い質したい気持ちだったが、
私の思いに反して、ミーティングはスムーズに進んでいった。
「説明は以上だ。何か質問は?」
「いえ。大体、解りましたー」
どこか気だるい話し方は、更に私を苛々させた。
だが、ゲーテ司令は何故か、新しい司令官に満足しているらしく、
このところずっと、ご機嫌の良い様子だった。
「なら、今日はこれで終わりだ。
君はもう上がって良い。下でピコを待たせている」
「あ、はい。じゃあ、お先に失礼しまーす」
青いファイルを脇に抱えて、新しい司令官が立ち去る。
会議室はゲーテ司令と私だけになった。
本当にこれからあの男の下で働くことになるのかと思うと、
私は溜め息を吐きたい気持ちだった。
無論この時は、ゲーテ司令の前だったので控えたが。
すると、軽い笑い声が聞こえた。
振り返ると、司令は一人で笑っていた。
「司令? 何が可笑しいのです?」
「お前、に決まっているだろう。俺とお前しか居ないのに」
「私が今、何か面白いことをしましたか?」
司令は窓辺に凭れ、また少し笑った。
「気に入らんか? 新しい上官は」
見抜かれてる。
「私は、そのようなことを述べる立場にありません」
「存外、若い男だったことが腑に落ちないんだろう?
だが、それは、去年お前がここに来た時と同じだ」
新しい司令官程ではないが、
確かに私も、副司令というにはまだ若い年齢だった。
「俺もいい加減、年だからな。交代は免れないと思っていたが。
想像以上に、理事会は我々の若返りをお望みらしい。
いや、警備だけの話ではないかもしれんな。
もうすぐ、何か、全てが新しく変わる時が来るのかもしれん」
「どういうことです?」
「いや、何でもない。気にするな」
気にはなるが、上官の命令は絶対だ。
「では、私も失礼致します」
「待て、クロイツ」
窓の向こうには、夕陽色に染まった海が広がっている。
「何でしょうか」
「お前、今夜、空いているか」
「え?」
私がここに着任してから一年。
司令にそんなことを聞かれたのは初めてだった。
途惑いながら、私は「ええ」と答えた。
「よし。では俺に付き合え」
ゲーテ司令に連れて来られたのは旧市街。
暗く明るい街を歩きながら、私は少し緊張していた。
これまで仕事以外で、司令と二人で外出したことはなかった。
司令も私も仕事帰りに同僚と連れ立って、
飲みに行くようなことはしない主義だったのだ。
司令が島を離れるのは二日後。
これが最初で最後の夜になることは明白だった。
「ここだ」
司令が足を止めたのは、一軒家風の店の前だった。
暗くて、全貌が良く見えないが、
木製のコテージのような雰囲気だ。
「ここはレストラン、ですか?」
「バーさ」
司令がドアを開ける。私はその背中に続いた。
「いらっしゃいませ。おや、ゲーテさん」
丸い眼鏡をかけたロマンスグレイのマスターは、
司令の顔を見ると、にこりと笑った。
「こんばんは、マスター」
その短いやり取りで、二人は親しい間柄らしいと知れた。
司令は度々この店に来ていたのだろうか。
司令は迷わず、カウンターに向かい、
左端の椅子を引いたので、私はその隣に座った。
「どうぞ」
マスターが私達に水とメニューを差し出す。
彼は、ホワイトシャツに赤いチェックのベスト。
襟元には黒い蝶ネクタイという装いだった。
「ゲーテさんにお連れの方がいらっしゃるとはお珍しいですね。
そちらは、ご同僚の方ですか?」
「ああ。去年着任した副司令のクロイツと言う。覚えておいてくれ」
躊躇わず、司令は私のことをそう紹介した。
「ああ、こちらが」
マスターは嬉しそうに私を見た。
「お目にかかれて光栄です、クロイツさん。
改めまして、ようこそ、いらっしゃいませ」
表向き、我々の立場は、あくまで学院専属のドライバー。
必要な時を除き、一般の生徒や島民に対して、
自分が警備の人間であることは明かさないのが原則だ。
なのに、こちらから素性を明かすとは、
一体どういうことなのか。
「司令、何故――」
思わず、役職名のままで呼んでしまった。
私の考えを見抜いたらしい司令は頬杖を吐きながら、こう言った。
「ここで身分を隠しても、何の得もないからさ。
前の司令官も、マスターには世話になっていたようだしな」
そのようなことがあるのか。
二代に渡って、司令官が通う店があるなんて。
私は、はたと思い至った。
「もしや、我々の関係者の方なのですか?」
すると、二人から笑われた。
「いえいえ、私はただのバー店員ですよ。
お二方のお勤め先からは日々恩恵を受けるばかりです。
私達島民が、こうして毎日無事に生きていられるのは、
皆様のおかげですから。本当にいつもありがとうございます」
「いえ……」
島の警備に従事してから、誰かに礼を言われたのは、
この時が初めてで、私は曖昧な返事しかできなかった。
「相変わらず口が上手いな、マスターは」
そう言って司令は水を煽る。
「相変わらず意地悪ですね、ゲーテさんは。
私は本当にそう思っているのに」
司令が誰かと親しげに話すのを、私は初めて見た気がした。
追憶の塔に居る時の司令は、常に孤高の存在で、
誰かと冗談を言い合ったりするような場面は見たことがない。
普段、私達に命令を飛ばしている時とは、
明らかに違う司令が、ここに居る。
こんなに穏やかな表情をした司令を、私は知らない。
マスターと言葉を交わしている司令は、
軍のトップに立つ存在ではなく、ごく普通の紳士に見えた。
「ところで、マスター。まだ酒を貰ってないんだが?」
「すみません。ゲーテさんはいつもの、ですか?」
「ああ」
「クロイツさんは、何をお飲みになりますか?」
メニュー表に手を伸ばそうと思った時、
スルリとメニュー表を取られた。
「こいつも俺と同じので良いさ」
そう言って、司令はメニュー表を立てかけてしまった。
「もう」マスターは苦笑しながら「クロイツさん、宜しいですか?」
「ええ」
何が出てくるか解らなかったが「同じものをお願いします」と答えた。
「畏まりました。少々お待ち下さいませ」
マスターは、背後に並ぶたくさんのボトルの中から、
迷わず三つ、手に取った。
ボトルの外見だけでは何が入っているか、私には解らない。
司令の「いつもの」は、何と言う名前の酒なのだろう。
そう話しかけてみようかと、司令を見た時、私は息を呑んだ。
憂いを帯びた横顔。マスターを見つめる司令の眼差しは、
余りにも真剣だった。こうして、マスターのシェイクを見るのも、
今夜が最後だと、そう思っていらっしゃるのかもしれない。
司令に倣い、私もマスターを拝見することにした。
全てのドリンクを入れた銀色のシェイカーがキュッと閉まる。
マスターがシェイカーを掲げた途端、
まるで映画か芝居を見ているような気持ちになった。
カタン、カタン、と刻まれる音。
オレンジ色のライトを浴びた、彼の立ち姿は美しく、
その瞬間、カウンターの向こうは、舞台だった。
カクテルができるまでの間、
司令は一言も発さずに、マスターをただ見ていた。
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