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■ヒトリの夜2 続編
シェイクは、徐々に緩やかなリズムになり、終わった。
マスターは自分の前に二つのグラスを置く。
逆三角形のショートグラスに注がれたのは、
琥珀色のカクテルだった。
すっと私達の前にグラスを差し出す仕草さえ、美しい。
マスターの所作は、全てが洗練されたものだった。
「お待たせ致しました。サイドカーでございます」
「サイドカー。これが司令の『いつもの』ですか」
「ああ。女殺しの飲み物さ」
「女殺し?」
司令はサイドカーに口付けている。
「クロイツさんは、車のサイドカーをご存知ですか?」
私に答えてくれたのは、少し困った顔をしたマスターだった。
「本体の車の脇に、屋根のない、
小さな車が付いた二輪車のことなのですが」
とマスターが付け加える。おかげで映像が思い浮かんだ。
「ああ。昔あったバイクの一種ですよね? 側車付きの」
「お若いのによくご存知ですね。そうです。
サイドカーは、運転手が男性で、同乗者には女性、
つまり、小さな側車には、女性を乗せることが多い車でした。
仮にサイドカーが事故を起こした場合、
本体より側車のほうが衝突するケースが多く、
男性より女性の死亡率が高い為、
サイドカーは女殺しの車、と呼ばれることもあったそうです。
そして、このカクテルですが」
マスターは、そっと手で私のグラスを示す。
「こちらはブランデー、ホワイトキュラソー、
レモンジュースで作られるカクテルでございます。
ベースはアルコールの強いブランデーですが、
柑橘系の爽やかな香りと、程好い甘味があり、
女性にも飲み易い為、つい飲み過ぎて、女性が潰れてしまう。
そのことから、女殺しのカクテル、
サイドカーと名付けられた。そういった説があるのです」
「女殺しのカクテルですか」
思いの外、物騒で残酷な由来。
ならば何故、と私の中にひとつの疑問が浮かんだ時、
司令は笑みを浮かべながらこう言った。
「だからと言って、今夜お前を酔い潰そう、
と思っているわけじゃないからな?」
「当たり前です。私は女性ではありませんよ」
そう返しながら、私は先の疑問を口にすることができなくなる。
ならば何故、貴方はこれを飲み続けているのですか、と。
「お二方、お食事はお済みでしたか?」
「いいや。ここで食わせて貰おうと思って来たからな」
「ありがとうございます。何かご希望はございますか」
「何でも良い。任せる。適当に出してくれ」
「畏まりました。クロイツさん、
何かお嫌いな食べ物はございますか」
「いいえ、特にありません」
「良いことですね。ゲーテさんは、
野菜や牛乳がダメだと仰るんですよ。子供みたいでしょう?」
「おい、マスター。何故それをこいつに言う」
「おや。内緒のお話でしたか?
こちらは内緒だとは言われてなかったと思いますが」
「言う必要がないだろう」
「それは失礼致しました」
マスターは上品に笑っている。
「クロイツさん? 今のお話、
他の方には内緒にしてあげて下さいね?」
「あ、はい」
私はびっくりした。
こんなふうに誰かにからかわれている司令を、
今まで見たことがなかったのだ。
左隣を覗き見ると、司令は不貞腐れた子供のような顔をしていた。
本当に今日はどうしたというのだろう。
初めて見る司令ばかりだ。
司令がこの島に居るのは、あと二日しかないというのに。
マスターが作ってくれた美味しいパスタとチキンを食べながら、
司令とマスターと私は、三人で他愛のない話をした。
それは、とるに足らない話ばかりだったけれど、
今、私は、とても特別な時間を過ごしていて、
それが、刻一刻と、終わりに近付いていることを感じていた。
もうひとつ、私には気がかりなことがあった。
この夜、司令はご自分が二日後に退任することについて、
まだ一言も口にしていなかったのだ。
マスターには既に話してあるのだろうかとも思ったが、
それにしては、マスターがそんな素振りを全く見せない。
マスターは本当にまだ知らないのではないだろうか。
司令は、マスターに何も告げずに、
この島を去るおつもりなのだろうか。
もしそれが、司令のご意思なら、尊重すべきで、
部外者の私に、とやかく言う権利はない。
けれど、今までお世話になってきた、このマスターには、
きちんと別れの挨拶をしたほうが良いのではないだろうか。
司令とマスターが笑い合う度に、
私の頭の隅では、そんなことが散らついていた。
「ゲーテさんのグラスが空きそうですね。
次は何をお飲みになりますか。それとも、
今夜はそろそろ、止めておいたほうが良いでしょうかね」
「そうだな、じゃあ、次で最後にしよう。
最後のカクテルはマスターに任せる。
あんたが作りたいものを飲ませてくれ」
「畏まりました。何をお作りしましょうかねえ」
そう言いながら、マスターが私を見る。
まだ半分程残っているグラスを見て、
「クロイツさんは、どうなさいます?」
今夜は飲み過ぎている、と感じていた。
こんなに酒を飲んだのは久し振りだ。
これ以上グラスを重ねたら、
司令の前で醜態を晒してしまうかもしれない。
「結構です。私はまだありますので」
「畏まりました。では冷たいお水はいかがでしょう?」
有難い心遣いに、私はほっとした。
「頂きます」
「なんだ、若いくせに弱いんだな、クロイツは」
「ゲーテさんが飲ませ過ぎなんですよ。
今夜はどうしたんです? いつもより、
ペースが早いんじゃありませんか?」
「ん? そうか?」
「はい」
「なら、そうかもしれんなあ」
もう氷水に近いであろうカクテルを、
司令が煽り、手元に置いた。
私はそっと司令の横顔を伺う。
その時、私は見てしまったのだ。
司令の老いた右手が、もう空になったロックグラスに、
ほんの少し、力を込めたのを。
「マスター。そう言えば、まだ言っていなかったがな」
司令はロックグラスを見ながら、言った。
「俺はこの島を発つ。二日後だ」
私はマスターを見上げる。
マスターは絶句していたが、やがて、こう呟いた。
「どうして……そんな大事なことを、今まで黙っていたんです?」
「いつ言うかくらい、俺の自由だろう」
マスターは微かに笑う。
「勝手な人ですね。では次が、
本当に最後のカクテルじゃないですか」
「ああ。そうなるな」
「そんなこと、急に言われたら、
最後に何をお作りして良いのか、解りません」
「それは、あんたの腕の見せ所だろう?
一番旨い酒を飲ませてくれよ」
マスターは肩を落としてみせる。
「解りました。一番美味しいカクテルをお作りしますよ」
そう言って、マスターは冷蔵庫を開けた。
マスターの背に隠れて、私達からは見えないが、
何かのボトルを手にし、シェイカーに注いだ音がした。
「楽しみだな」
それは司令の独り言だったのかもしれない。
けれど私は、そうですね、と相槌を打った。
「そう言えば、あの夜も」
私のカクテルグラスを見ながら、しみじみとマスターは言った。
マスターの脳裏にも、三年前の夜が甦ってきたらしい。
「ゲーテさんに連れられて、いらしたんですから、
一杯目はサイドカー、でしたよね?」
「はい。では最後の一杯も覚えていますか?
マスターがあの方に、最後に作ったカクテルを」
マスターは苦笑するように言った。
「クロイツさんも、意地悪なことを仰いますね。
あれはカクテルなんて呼べない、
ただのお水だったじゃありませんか」
あの夜、マスターが最後に作ったものは、
氷を入れてシェイクした、ただの冷たい水だった。
「今思うと、少しお恥ずかしいですね」
「いいえ。あの日、かなりお酒を飲まれていた司令には、
『ウォーター』という名のカクテルが、最上の一杯だったと思います。
司令も『参った参った』と仰っていたじゃないですか」
あんなに笑っている司令も、それまで見たことがなかった。
「マスターには敵わんな」そう言って、手の甲で目許を拭っていた。
あれは本当に、笑い過ぎて流れた雫だったのだろうか。
「ねえ、マスター。司令は、よくここに通ってらしたんですか?」
「ええ。ポツポツと。二日続けていらしたと思ったら、
二か月、お顔を見せて下さらなかったり」
「司令は、いつもお一人で?」
「の、ほうが多かったですね。
同僚と飲むのは嫌いなんだ、なんて仰ってましたけど。
ああ、クロイツさんの前で言うことではありませんでしたね」
「構いませんよ。あの方は職場でも、孤高の存在でしたから」
「孤高。そうですね、そういう御方でした」
それから、少しの酒と料理を頂いて、私は帰ることにした。
また近いうちにいらして下さいね、マスターは私にそう言ってくれた。
店の外に出て、歩き出した時。
今まで忘れていた言葉が、ふと降りてきた。
あの夜。帰り際、店の前で司令はこう呟いたのだ。
――なんだ。案外、面白いものだな――
何がです、と私は聞いた。
――いや。帰るぞ――
私には貴方の背を追うことしかできなかった。
あれから三年経って、私は同じ店の前に立っている。
私は一人で店を見上げる。
旧市街に佇む、一軒の静かなバー。
私は一度だけ、貴方とここで飲んだ。
fin
シェイクは、徐々に緩やかなリズムになり、終わった。
マスターは自分の前に二つのグラスを置く。
逆三角形のショートグラスに注がれたのは、
琥珀色のカクテルだった。
すっと私達の前にグラスを差し出す仕草さえ、美しい。
マスターの所作は、全てが洗練されたものだった。
「お待たせ致しました。サイドカーでございます」
「サイドカー。これが司令の『いつもの』ですか」
「ああ。女殺しの飲み物さ」
「女殺し?」
司令はサイドカーに口付けている。
「クロイツさんは、車のサイドカーをご存知ですか?」
私に答えてくれたのは、少し困った顔をしたマスターだった。
「本体の車の脇に、屋根のない、
小さな車が付いた二輪車のことなのですが」
とマスターが付け加える。おかげで映像が思い浮かんだ。
「ああ。昔あったバイクの一種ですよね? 側車付きの」
「お若いのによくご存知ですね。そうです。
サイドカーは、運転手が男性で、同乗者には女性、
つまり、小さな側車には、女性を乗せることが多い車でした。
仮にサイドカーが事故を起こした場合、
本体より側車のほうが衝突するケースが多く、
男性より女性の死亡率が高い為、
サイドカーは女殺しの車、と呼ばれることもあったそうです。
そして、このカクテルですが」
マスターは、そっと手で私のグラスを示す。
「こちらはブランデー、ホワイトキュラソー、
レモンジュースで作られるカクテルでございます。
ベースはアルコールの強いブランデーですが、
柑橘系の爽やかな香りと、程好い甘味があり、
女性にも飲み易い為、つい飲み過ぎて、女性が潰れてしまう。
そのことから、女殺しのカクテル、
サイドカーと名付けられた。そういった説があるのです」
「女殺しのカクテルですか」
思いの外、物騒で残酷な由来。
ならば何故、と私の中にひとつの疑問が浮かんだ時、
司令は笑みを浮かべながらこう言った。
「だからと言って、今夜お前を酔い潰そう、
と思っているわけじゃないからな?」
「当たり前です。私は女性ではありませんよ」
そう返しながら、私は先の疑問を口にすることができなくなる。
ならば何故、貴方はこれを飲み続けているのですか、と。
「お二方、お食事はお済みでしたか?」
「いいや。ここで食わせて貰おうと思って来たからな」
「ありがとうございます。何かご希望はございますか」
「何でも良い。任せる。適当に出してくれ」
「畏まりました。クロイツさん、
何かお嫌いな食べ物はございますか」
「いいえ、特にありません」
「良いことですね。ゲーテさんは、
野菜や牛乳がダメだと仰るんですよ。子供みたいでしょう?」
「おい、マスター。何故それをこいつに言う」
「おや。内緒のお話でしたか?
こちらは内緒だとは言われてなかったと思いますが」
「言う必要がないだろう」
「それは失礼致しました」
マスターは上品に笑っている。
「クロイツさん? 今のお話、
他の方には内緒にしてあげて下さいね?」
「あ、はい」
私はびっくりした。
こんなふうに誰かにからかわれている司令を、
今まで見たことがなかったのだ。
左隣を覗き見ると、司令は不貞腐れた子供のような顔をしていた。
本当に今日はどうしたというのだろう。
初めて見る司令ばかりだ。
司令がこの島に居るのは、あと二日しかないというのに。
マスターが作ってくれた美味しいパスタとチキンを食べながら、
司令とマスターと私は、三人で他愛のない話をした。
それは、とるに足らない話ばかりだったけれど、
今、私は、とても特別な時間を過ごしていて、
それが、刻一刻と、終わりに近付いていることを感じていた。
もうひとつ、私には気がかりなことがあった。
この夜、司令はご自分が二日後に退任することについて、
まだ一言も口にしていなかったのだ。
マスターには既に話してあるのだろうかとも思ったが、
それにしては、マスターがそんな素振りを全く見せない。
マスターは本当にまだ知らないのではないだろうか。
司令は、マスターに何も告げずに、
この島を去るおつもりなのだろうか。
もしそれが、司令のご意思なら、尊重すべきで、
部外者の私に、とやかく言う権利はない。
けれど、今までお世話になってきた、このマスターには、
きちんと別れの挨拶をしたほうが良いのではないだろうか。
司令とマスターが笑い合う度に、
私の頭の隅では、そんなことが散らついていた。
「ゲーテさんのグラスが空きそうですね。
次は何をお飲みになりますか。それとも、
今夜はそろそろ、止めておいたほうが良いでしょうかね」
「そうだな、じゃあ、次で最後にしよう。
最後のカクテルはマスターに任せる。
あんたが作りたいものを飲ませてくれ」
「畏まりました。何をお作りしましょうかねえ」
そう言いながら、マスターが私を見る。
まだ半分程残っているグラスを見て、
「クロイツさんは、どうなさいます?」
今夜は飲み過ぎている、と感じていた。
こんなに酒を飲んだのは久し振りだ。
これ以上グラスを重ねたら、
司令の前で醜態を晒してしまうかもしれない。
「結構です。私はまだありますので」
「畏まりました。では冷たいお水はいかがでしょう?」
有難い心遣いに、私はほっとした。
「頂きます」
「なんだ、若いくせに弱いんだな、クロイツは」
「ゲーテさんが飲ませ過ぎなんですよ。
今夜はどうしたんです? いつもより、
ペースが早いんじゃありませんか?」
「ん? そうか?」
「はい」
「なら、そうかもしれんなあ」
もう氷水に近いであろうカクテルを、
司令が煽り、手元に置いた。
私はそっと司令の横顔を伺う。
その時、私は見てしまったのだ。
司令の老いた右手が、もう空になったロックグラスに、
ほんの少し、力を込めたのを。
「マスター。そう言えば、まだ言っていなかったがな」
司令はロックグラスを見ながら、言った。
「俺はこの島を発つ。二日後だ」
私はマスターを見上げる。
マスターは絶句していたが、やがて、こう呟いた。
「どうして……そんな大事なことを、今まで黙っていたんです?」
「いつ言うかくらい、俺の自由だろう」
マスターは微かに笑う。
「勝手な人ですね。では次が、
本当に最後のカクテルじゃないですか」
「ああ。そうなるな」
「そんなこと、急に言われたら、
最後に何をお作りして良いのか、解りません」
「それは、あんたの腕の見せ所だろう?
一番旨い酒を飲ませてくれよ」
マスターは肩を落としてみせる。
「解りました。一番美味しいカクテルをお作りしますよ」
そう言って、マスターは冷蔵庫を開けた。
マスターの背に隠れて、私達からは見えないが、
何かのボトルを手にし、シェイカーに注いだ音がした。
「楽しみだな」
それは司令の独り言だったのかもしれない。
けれど私は、そうですね、と相槌を打った。
「そう言えば、あの夜も」
私のカクテルグラスを見ながら、しみじみとマスターは言った。
マスターの脳裏にも、三年前の夜が甦ってきたらしい。
「ゲーテさんに連れられて、いらしたんですから、
一杯目はサイドカー、でしたよね?」
「はい。では最後の一杯も覚えていますか?
マスターがあの方に、最後に作ったカクテルを」
マスターは苦笑するように言った。
「クロイツさんも、意地悪なことを仰いますね。
あれはカクテルなんて呼べない、
ただのお水だったじゃありませんか」
あの夜、マスターが最後に作ったものは、
氷を入れてシェイクした、ただの冷たい水だった。
「今思うと、少しお恥ずかしいですね」
「いいえ。あの日、かなりお酒を飲まれていた司令には、
『ウォーター』という名のカクテルが、最上の一杯だったと思います。
司令も『参った参った』と仰っていたじゃないですか」
あんなに笑っている司令も、それまで見たことがなかった。
「マスターには敵わんな」そう言って、手の甲で目許を拭っていた。
あれは本当に、笑い過ぎて流れた雫だったのだろうか。
「ねえ、マスター。司令は、よくここに通ってらしたんですか?」
「ええ。ポツポツと。二日続けていらしたと思ったら、
二か月、お顔を見せて下さらなかったり」
「司令は、いつもお一人で?」
「の、ほうが多かったですね。
同僚と飲むのは嫌いなんだ、なんて仰ってましたけど。
ああ、クロイツさんの前で言うことではありませんでしたね」
「構いませんよ。あの方は職場でも、孤高の存在でしたから」
「孤高。そうですね、そういう御方でした」
それから、少しの酒と料理を頂いて、私は帰ることにした。
また近いうちにいらして下さいね、マスターは私にそう言ってくれた。
店の外に出て、歩き出した時。
今まで忘れていた言葉が、ふと降りてきた。
あの夜。帰り際、店の前で司令はこう呟いたのだ。
――なんだ。案外、面白いものだな――
何がです、と私は聞いた。
――いや。帰るぞ――
私には貴方の背を追うことしかできなかった。
あれから三年経って、私は同じ店の前に立っている。
私は一人で店を見上げる。
旧市街に佇む、一軒の静かなバー。
私は一度だけ、貴方とここで飲んだ。
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