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■クラウスの場合
■黄金の髪の続編
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聖アルフォンソ学院 ジム。
放課後、生徒代表のクラウス・フォン・モールは、
日課のトレーニングを終えたところだった。
火照った身体には少し冷たいシャワーが気持ち良い。
ジム併設のシャワールームで汗を流しながら、
翌日のミーティングについて考えていた。
資料は既に準備済みだが、不備がないか再度確認しておこう、と。
明日は生徒代表室にアイヴィーを呼び、警備について話し合われる日だった。
シャワーを止める。短髪から雫が落ちる。
傍に掛けてあったタオルで身体を拭く。
この学院のタオルは柔らか過ぎる。ふわふわしたものは苦手だった。
乱雑に髪の雫を吸い取る。
ノースリーブのシャツに身を通し、肩に細いタオルを巻いたまま、ジムを後にした。
夏は夜が近くなっても充分薄着で居られる。日もまだ落ちていない。
強い風に剥き出しの肩を撫でられても肌寒く感じることはなかった。
きびきびと歩を進め、シュヌーシア寮に戻るまでの間も、
明日の会議について考えていた。
資料の内容をもう少し膨らませた方が良いのではないか、
夕食後、ライブラリに行って、使えそうな文献を探して来ようか、と。
少しでも間が空くと、脳内が仕事に囚われている自分が居た。
自分の任期が終わるまで残り92日。
だからかもしれない。何処か気が急いている。
自分でも少々神経質だとは思うが、
こればかりは気質なのでどうにもならないことだった。
考え事をしたまま歩き、自室の前に着いていた。
ドアを開けると、俺以外の奴が居た。
悠々とベッドに腰掛けて、本を読んでいる。しかも俺の本だ。
同じ寮に住む生徒。おそらく最も親しい友人ではあるが、逸脱した行動だと思う。
ブロンズの肌に、黄金の髪。好きなものは海と太陽。
如何にも夏の似合う見目をした生徒は、膝の上の本を閉じた。
腕時計を見て、ふふと笑った。
「おかえり、クラウス。時間ぴったりだね?
どうしたら、それほど規則正しい生活が送れるのだろう?」
まるで自分の部屋のようにリラックスした雰囲気で、
こちらが部屋を間違えたかと思うくらいだった。
部屋の主として当然の苦情を申し立てる。
「テオ。何故、お前が此処に居る」
「この時間、クラウスに会うには此処で待つのが最善だろう?
毎日同じ時間にジムに行って、この時間に戻ってくるのだからね」
ゆったりと腰を上げて、持っていた本を本棚に仕舞う。
何事も動作が早いクラウスからすると、テオの動きは緩慢で優雅だった。
ウェーブのある金髪を揺らして、こちらを振り向いた。
「では行こうか、クラウス?」
さも当然のように言われたが、何の約束もしていない。
「行くってこれからか? 何処に?」
焦って一度に質問を重ねてしまう。
テオはどちらの質問にも答えず、クローゼットを勝手に開けて、
俺の薄手の黒いパーカーを腕に掛けた。
「おい、テオ。お前何してるんだ?」
「ん? その格好も似合うのだけれど、これからは少し気温が下がるからね。
それで、貴方には黒が似合うから、これを」
「…話が見えないのだが」
テオはクラウスの首からタオルをするすると取った。
首に摺れる布がくすぐったい。
テオはタオルを椅子の背に掛けると、
黒いパーカーの肩を持ち、クラウスに着るように促した。
クラウスは腕を通さない。
「俺達はこれから夕食の時間だろうが」
「大丈夫。私と貴方の分はキャンセルしてあるよ」
何故、俺の食事は他の奴にキャンセルされることが多々あるのだろう。
また何処かに強引に連れ出されようとしている。
しかし、今夜は明日の会議の為に、ライブラリへ文献を探しに行く予定だ。
来週分の講義の予習もまだ不完全なので、外出は遠慮したい。
それを手短に説明すると、テオは気にしない様子で微笑んだ。
「クラウス。それは、どうしても、しなくてはいけないことかい?」
そう言われると威勢が無くなる。
資料は既に完成している。内容にも自信はあった。
来週分の予習については、まだ時間があると言えばある。
「…どうしても、というわけではないが」
「だろうね。この世にどうしても必要なことって、案外少ないものだから」
テオは自分なりの哲学を持っている奴だった。
普段は人に過剰な賛辞を浴びせるのが常だが、
時折、この唇から紡がれる言葉は、頭の中で反響する。
ふと寝る前に思い出して、あれはどういう意味だったのだろう、
と反芻することもあったが、結局よく解らないまま、
テオにも問い質せずに終わることが多かった。
既にある規則を遵守することに長けているクラウスにとっては、
自由で享楽的なテオの言葉はどれも新鮮に感じるものだった。
テオはパーカーを持ったまま、気長に構えている。
「ねえ。クラウス、私の用事はね?
どうしても、今日、この時間でなくてはならないんだ。
だから、余程のことがない限り、私に付き合って欲しいな」
呑気な口調だが、頑として譲らない態度。
仕方なくクラウスはパーカーに腕を通した。
「ありがとう。クラウス」
「それで、何処に行くんだ?」
「決まっているだろう。愉しい処だよ?」
「愉しい処」と言われて、これまでも様々な場所に連れて行かれた。
それは月桂樹の森や城壁など学院内の時もあれば、
島の中心街フィンシャルだったこともあるし、
「少し遠いよ」と言われてヘリに乗せられ、海外旅行に誘拐されたこともあった。
「テオ、さっきも言ったが、俺は明日会議がある」
「うん。明日までには帰れるから心配要らないよ」
「学院の外へ行くなら外出届を。それから寮の誰かにも伝えなければ」
「大丈夫。両方、私が済ませておいた。クラウスは本当に真面目だね?
私、外出届なんて久し振りに書いたよ」
クラウスの眉がぴくりと動く。
「…久し振りだと? お前、確かこの前も外へ」
「ああ、いや、言葉の綾だよ、クラウス。
いつもちゃんと書いているから。さあ出掛けよう」
背中を押されて、部屋を後にした。
可笑しい。
この時間、ライブラリに居る筈だったのに。
クラウスは豪華クルーザーの船上に立っていた。
聖アルフォンソ島からかなり沖に出て、無人島の方まで来てしまった。
船はスピードを落とし、今は静かに夕暮れの海を遊覧中だ。
この豪華客船の持ち主はデッキに腕を掛けながら、
金髪を潮風の好きなように撫でさせている。
オレンジに輝く海と落ちゆく太陽。
それを見つめるテオの眼差しは、
『海と太陽を愛している』という言葉が偽りでないことを何より物語った。
ただ好きだと言うよりは、魅了され目を離せないといった雰囲気だ。
クラウスは隣に居る陽気な友人が、いつもと違って少し大人に見えた。
クラウスは先程から気になっていたことを尋ねる。
「なあ、テオ」
「ん?」
「お前のクルーザーってこんなに大きかったんだな。
もう少し小型だった気がしたが」
「ああ、うん。この船、とても気に入ってしまってね。
良い機会だったし、ちょっと衝動買いしてしまったんだ」
テオは、硬直しているクラウスに気付かず、るんるんと愉しそうに船内に向かう。
「お腹が空いてきたね。ディナーにしようか、クラウス」
何処か気疲れした夕陽鑑賞の後は、
窓から海を見ながら、豪華なダイニングで夕食を食べている自分が居た。
広い船内にはスタッフ以外には俺達しか居ないらしい。
二人で貸し切るには広過ぎる船内だ。
窓際にはキャンドルが焚かれていた。
ゆらゆらと燃える小さな炎の背景に紫の海原が広がっている。
食事も早いクラウスは、テオより早く食事が終わり、コーヒーを飲んでいた。
テオはマイペースでデザートを食べている。
マンゴーのタルト。ヨーグルトクリームの上に黄金の果実が映えている。
クラウスには給仕されなかった。
それは甘いものが食べられない為で、クラウスにはありがたい配慮だった。
美味しそうに口に運ぶテオを見ているだけで、充分甘さが伝わってくるようだった。
目が合うと、テオはフォークに黄金の果実を刺して、こちらに差し出した。
「クラウス。一口食べてみない?」
「結構だ」
小さな溜め息に、テオはフォークを置いて、俺の顔を覗き込む。
「おや。クラウス、ディナーは口に合わなかったかい?」
「そうではない。料理はうまかったよ」
素材は旬の一級品を使用しているようだが、豪勢な盛り付けなどはされていない。
気兼ねなく食べられるようにしたのか、素朴で家庭的に仕上げられていた。
特に飾らず、素材の在りの侭を見せる料理はクラウスの好みだった。
溜め息が漏れたのは、料理に不満があるのではなく、
この光景が信じられないだけだ。
俺は今頃、一人で黙々と、資料作成に取り組んでいる予定だったのだから。
「俺は夢でも見ているのかと思っただけだ」
テオの表情がぱっと明るくなる。
「夢のような時間だと言ってくれるのかい? 嬉しいよ、クラウス」
現実味がない、という意味の感想は、
勝手に褒め言葉と受け取られたらしいが、違うぞ、と言うのは止めにした。
太陽の笑顔を無碍に沈ませる必要はないと感じられたからだ。
俺の思惑を知らず、テオはわくわくと話し出す。
今日のテオはいつも以上に機嫌が良かった。
「でもね、クラウス。今宵はまだ始まったばかりなのだよ?」
「まだ何かあるのか? お前、夕焼けの海を見たかったんじゃないのか?」
「夕陽も素晴らしかったね。今宵は天気だけが心配だったんだ。
だけど、ほら。雲ひとつない。普段の私の行いが良いからかな」
「お前の奇行の数々は善行なのか? 果たして」
「でも空は晴れているよ? 私の願い通りにね。
波も風も明日まで良い天気だと言っているし」
「波と風?」
「うん。この海域の彼等とも親しくなってきたからね、私に教えてくれるんだ。
海の天気は陸とは違うから。風と波に聞くのが一番確実なんだよ」
まるで、波や風が口を寄せて囁いたかのような口振りだ。
テオの言っていることは擬人法なのだろうが、
揺らぎのない、おっとりした口調で言われると、
テオだけは波の囁きが聞き取れるのかもしれない、
と夢見がちなことを信じてしまいそうになる。
テオは鮮やかな黄色の果実を口に運び、紅茶を飲んでいた。
緻密なデザインが施されたティーカップをソーサーに戻すと、
窓から見える紺碧の海を眺めていた。
「陽も沈んで、美しい闇夜になったね」
「ん? ああ」
「さて。そろそろプレリュードの時間かな」
言いながら腕時計をちらと見る。テオは珍しく腕時計をしていた。
普段は俺の腕をたまに覗くくらいで、時間に囚われない奴だが、
夕食の間に3回も見ていた。この後、何か予定があるのだろうか。
それならば二人だけの海上ディナーなど開催しなければ良いものを。
テオは口許を白いナプキンで吹き、悠長に席を立った。
デザートの皿は空になっていた。
「クラウス、甲板に行こう」
外に出ると、一気に潮の香りを浴びた。
船は無人島が見える位置で停まっていた。
クラウスが羽織っている黒いパーカーの裾が翻る。
海上のせいもあるだろうが、夜の風は冷たく感じられた。
テオが持ち出したこのパーカーは必要だったようだ。
最上の3階への螺旋階段を上っていく。
先にテオが進んで、その後を歩幅を合わせて付いて行った。
何気なく眼下を見やる。もし高所恐怖症であれば立ち竦む高さだろう。
その時、黒い海の中で、ぽわっと青い光が見えた。
「テオ。今、何か光ったぞ」
ゆるりと振り返ってテオも海を眺める。
「ああ、あれはマツカサウオだよ。発光魚の一種でね。
夜行性で、下顎に青緑の発光器があって…ほら、優しい光だろう?
海に落ちたターコイズ、と私は呼んでいるんだ」
また小さく青い光が灯る。確かに青緑の宝石と同じ色だ。
「彼等はなかなかの洒落者でね? 身体は琥珀色、
鱗の境は黒で縁取られている。琥珀の鎧を纏ったような姿なんだ。
見目の麗しさから魔除けとして崇める地域もあるんだよ」
テオの言葉通りに魚の姿を想像してみる。
なんだか毒々しい色だな、と思ったがクラウスは言わなかった。
海好きの友人は、愛おしげに『海に落ちたターコイズ』を見つめる。
「だが、その美しさとは裏腹に4本もの棘を持つ。まるで薔薇のような魚だね」
テオは愉しそうに、そう解説した。
一匹の魚をよく宝石や花に見立てられるものだ。
クラウスはまるでお伽話でも聞かされた気分だった。
最上階の舳先にはVIP席が用意されていた。
座り心地が良さそうなビーチチェアが二脚並んでいる。
枠組みは木製だが、身体が触れる部分には白いクッション材が施されている。
アジアンテイストのサイドテーブルには、
華やかなトロピカルジュースが添えられていた。
テオはその長椅子に足を伸ばして寝そべる。深く身を沈め、夜空を仰いだ。
「クラウスもこちらへ。天然のプラネタリウムが見られるよ?」
自分の腹を晒す姿勢に少し抵抗を感じた。
その無防備な格好を取ることは、クラウスにとって落ち着かないことだった。
此処は訓練施設でも戦場でもないのだから、と軍人の身体を納得させ、
テオと同じように寝そべった。隣からは、ああ、という感嘆が聞こえた。
「素晴らしいね。夜空に砂金を散らしたようだ」
こいつは人でも物でも、簡単に賞賛や感謝の言葉を口にする。
褒めるということは、相手への負けを認める行為だと感じていた。
人より上へ先へと教育されてきた自分は、
常に人に勝つことが周囲の期待、また自らの意志だと思ってきた。
俺がひたすら前を向いて奔走する間、
テオは立ち止まり、太陽や海を眺めていたのだろう。
時に引き返し、砂浜に落ちていた綺麗な貝殻を拾うことも、
このお気楽者にはできたのかもしれない。
振り返らずに駆けて来た俺は、一体どれだけの事物を見逃してきたのだろう。
クラウスは、首をぐいと仰向ける。
真上には降りそうな数の星が瞬いていた。
建物などの障害物が一切無い空。
海の上には見渡す限り、空だけが広がっている。
星はこんなに綺麗だったのか。
そう言えば、星を見たこと自体、久しいかもしれない。
最後にいつ見たのかさえ思い出せなかった。
「クラウス、見えるかい? あれが射手座だよ。
その上半身と弓を繋いだのが、南斗六星(なんとろくせい)」
テオは天空に指を伸ばして、6つの明るい星を線で辿った。
クラウスはその星の名前を知らなかった。
「南斗六星? 北斗七星の偽物みたいな名前だな」
「中国の神話ではね、北斗七星が死を、南斗六星は生を司る神なのだよ。
人が生を授かる時には、彼等二人の協議により寿命が決まる、
そういう言い伝えがあるんだ。北斗は冷酷な性格で人の死期を早めようとする。
南斗は温厚で、北斗を宥め賺(すか)しながら、長命にしようと持ちかける。
二人の意見の間を取って、一生の時間を決めているんだ」
クラウスは直感的に、北斗という神に敵意を抱く。
南斗の方は、テオに似ていそうだな、と思った。
改めて、6つの星を眺める。
「へえ。そんな神話があったのか」
「オリエンタルで、なかなか良い話だろう?
この相克の神々はね、仲が良くて、二人でよく碁を打つのだって。
ああ、碁というのは、東洋のオセロに似たゲームだよ」
「お前が、これほど天文に詳しかったとは知らなかったな」
「天文? まあ学問的にはそうなるかな。私は太陽が好きだから。
好きなものについては自然と雑学が集まるだけだよ。
けれど知っていると言っても、ほんの些細なことだけなんだ」
哀切な物言いは、まるで舞台役者のようだった。
テオはただ其処に居るだけで、強い存在感を持つ。
華やかな見目以上に、何か人を惹き付けるものがある。
それは、王族染みた仕草に起因するのか、
感動をそのまま表現する唇のせいかなのか、クラウスには判断できなかった。
テオが多くの生徒に囲まれている様子を見ていると、
花の香りに誘われて、蜂や蝶が集っているイメージが浮かんだ。
テオは星空に対し、崇敬する眼差しを向けている。
緩やかな口調のまま、詞を朗読するように言葉を続けた。
「太陽はね、あの星達が輝く銀河系の周りを、
毎秒約210キロもの速度で、2億年を掛けて一周するんだ。
私達人間は、銀河という広大な海に浮かぶ、
地球という名の孤島で息をしている。
この小さな私は、彼等について一体幾つ知っているのだろう?」
クラウスは急に自分の身体が小さく縮んだような錯覚に陥る。
今、広大な海の上に居ることに畏怖を感じた。
荒波ひとつ起これば、自分など容易く飲み込まれてしまうだろうと。
空が、どん、と鳴った。
視界の隅に赤い光も映った。
クラウスは反射的に飛び起きる。
椅子を降りて、デッキから身を乗り出した。
「なんだ、今の音は。大砲か?」
後方から笑い声が起こる。テオは全く慌てずに、身を起こした。
「そんな物騒なものではないよ。海岸の方を見て」
砂浜の方に目を凝らすと、其処に何かあるようだった。
次の瞬間、浜辺から一筋の光が、空に向かって上昇した。
破裂音と共に、夜空に円形の閃光が走った。
「花火…」
その大きさに圧倒される。
これほど近くで花火を見たことはなかった。
すごい、と口にしそうになって、いや待て、と思う。
「おい。あそこは無人島の筈だろう。何故、花火が上がるんだ?」
「ああ、今宵は規模が大きいから、あそこに本場の花火師をお呼びしたんだよ」
「…何だと? では、あれはお前が用意したものなのか?」
「うん。シルヴァンに花火の話を聞いたんだ。
それで私もこの眼で一度見たいなと思ってね」
クラウスは軽く頭痛がするようだった。
この一夜で一体どれだけの金が飛んだのだろう。想像したくもない。
また花火が打ち上がった。
「…お前という奴は、とんでもない道楽者だな」
世界的パトロンと呼ばれるメネシス一族の金銭感覚には全くついていけない。
クラウスは物欲に乏しく、必要最低限のものがあれば構わない人間だ。
ましてや娯楽に金を注ぎ込むことのないクラウスには考えられないことだった。
海運業で成功したメネシスは、ギリシア国内でも有数の資産家だ。
彼等の悩みは湯水のように溢れる金の『楽しい使い道を考えること』が専らだろう。
テオの口調からすると、メネシスにとっては、
この花火も玩具を買った程度の金額なのだろうか。
資産家の道楽息子は花火を見つめながら、トロピカルジュースを飲んでいた。
「花火を見るなら、私の好きな場所で見たくてね。それで此処に呼んだんだ」
「理解に苦しむ。幾ら海が好きだからと言って、こんな…」
「おや、クラウス。誤解があるようだね?」
「誤解? 何がだ?」
「別に、海に拘ったわけではないのだよ? 場所など本当は何処でも良いんだ。
私の好きな場所は、クラウスの隣なのだから」
テオは好意の表現も相当行き過ぎていた。
友人間には似つかわしくないような過剰表現を投げて来るものだから、
それを聞いて戸惑う者や呆ける者、頬を赤らめる者まで居た。
「お前な…そういうことを言うなといつも」
「だって、クラウスが傍に居れば私は愉しいのだよ。いつでも、何処でもね?」
口笛のような音がして、夜空が鮮やかに光る。
緑と白の小さな花火が幾つか続けて上がった。
花火に目を奪われている横顔を、テオは満足そうに伺っていた。
テオはサイドテーブルにトロピカルジュースを置く。
グラスの淵には、装飾用の一輪の白い花。花弁の中央だけ薄紫に色付いていた。
テオは花を手に取ってハンカチで包む。そっとポケットに仕舞った。
この花は、今日の日記のページに挟んでおこう、とテオは思った。
椅子から降りて、静かにクラウスの隣に立った。
「あれはニッポン製の花火だよ」
いつのまにか隣に来て居たテオに、クラウスは少し驚いた。
「ニッポンの? ニッポンの花火は円いのか?」
「うん。英語ではロケットとか、ファイアーワークスと言うけれどね。
あちらの言葉では『花の火』と書くのだって。実際に見ると頷けるね。
東洋で一番美しい花はサクラだと思っていたけど、
こんなに壮大な花があったのだね。きっと世界で一番大きな花だ」
世界最大の花はタイタンアルムだがな、という生真面目な正答を抑える。
夢見がちな台詞を多用するテオの前では、
正答であっても意味をなさないと思えた。
こいつと話していると、今まで俺が信じてきたものが、
取るに足らない些末事だったように感じることが何度かあった。
次はピンクと白の小さな花火が連続で昇った。
テオは光る夜空を見つめながら話し始めた。
「花火というのは、フェスティバルが始まる合図とか、
小道具のひとつとして扱うことが多いけれど、
ニッポンでは花火大会と言って、花火が主役になるんだ。
毎年、ニッポンの各地で行われる伝統的な夏祭りだそうだよ?」
「花火を見るだけの祭りなのか、それは。随分大人しい祭りだな」
「ああ、そうなのだよ。祭りというのに騒ぐでもなくね。
夏の夜、皆が座って花火を愛でる。
その美しさ、儚さに、ただ、ただ感嘆するんだ。
なんて神秘的でオリエンタルなお祭りなのだろう。さすがニッポンだね」
テオは陶酔するように説明していた。
こいつは何にでも興味を抱く奴だが、最近は東洋文化が気に入りのようだった。
というのも、今年入学して来た騒がしい日本マニアに影響された為らしい。
この二人は単独でも充分に喧しいのに、
二人揃って「オリエンタルが」「ニッポンが」と語り出すと、五月蝿くて敵わない。
つい先日も「一緒にカブキを見に行こう」と盛り上がっていた。
そのカブキツアーとやらに何故か俺まで誘われているのだが、
こいつらと一緒に旅行など考えただけで疲れる。
現地の人間に奇異の目で見られることは必至だ。なるべくなら行きたくなかった。
「おや、クラウス。俯いてないで、花火を見ておくれ?
貴方と私だけなのだよ、この花火大会の観客は」
それから俺達は、暫く黙って闇夜に描かれる芸術を鑑賞した。
夜空が彩られる様も圧巻だが、何より驚くのは音だ。
震源の海岸からはこの船まで距離はあるのに、
空気の振動は俺の胸まで響いた。
先まで海を支配していた穏やかな波音も、
空が打ち震える音の前では、もはや掻き消されて聞こえなかった。
柵に腕と顎を乗せ、『花の火』に魅入られていた。
その間、俺には、何も考えない、という時間が与えられた。
唐突に、俺の頬に柔らかい物が当たった。
そちらを向くと、テオが微笑んでいた。
何かが触れた場所にクラウスは手を置く。
「お前…今、何を…」
本当は聞かずとも解る。
だが、これは友人間で行うことではない。
テオは何ら悪意のない笑顔を見せる。
「クラウスがあんまり花火に見惚れているものだから」
「…何を馬鹿な。お前が花火を見ろと言ったのだろう?」
このテオの戯れは、これまでにも何度か受けていた。
在り得ない事態に対し、俺は拒否はしていなかったが、
同じ行為をテオに与えたことは一度もなかった。
いつも触れてくるのはテオの方で、クラウスは形ばかりに注意するくらいだった。
「クラウス、機嫌を損ねている場合ではないよ?
花火もそろそろフィナーレだ。最後は特別美しいのが揃っているからね」
派手な炸裂音が鳴り響いた。
フィナーレの名に相応しく、盛大に花火が咲き乱れる。
徐々に打ち上げる速度が速まり、鼓動まで高鳴るようだった。
最後は一番大きな黄金の花火が上がった。
散り際、最後の瞬間まで気高く輝き、ふっと消えた。
灰色の硝煙を残し、花火は全て止んだ。
華やかだった夜空が一気に静まり返る。
祭りの後の物悲しさが、夜を支配した。
テオはフェンスに背を預けて、空から視線を外す。
艶のある革靴を暫し見つめ、俯き加減に、こちらを見上げた。
「クラウス。愉しんで、貰えたかな?」
ああ、と素直に頷いた。
「美しいものだな、夜空に咲く花というのも」
思わず零れた言葉。まるでテオのような恥ずかしい言葉を口にしていた。
テオに笑われてはいないかと顔を見ると、嘲笑とはまるで違う笑顔だった。
「良かった。昨年から色々と思案した甲斐があったというものだよ」
「昨年?」
テオは愉しそうに肩を竦める。フェンスから身を起こし、真っ直ぐに立った。
俺を正面から捉え、ゆっくりと噛み締めるように言った。
「ハッピーバースデー、クラウス。18歳おめでとう」
「…俺、の?」
今日の日付を思い出す。
何日か認識しているのに、それが自分の生まれ日だと気が付かなかった。
テオが穏やかに笑う。こいつの笑い方は誰より上品だった。
「毎年毎年、よくそんなに忘れられるものだね。
私が言うまで、いつも覚えていないのだから。
毎回、貴方の驚く顔が見られて、私は愉しいよ?」
自分が間抜けのように思えてきて、言い訳を口にする。
「最近は…生徒代表の仕事が忙しくて」
「今年はね。でも昨年は生徒代表ではなかったでしょう?」
反論できない。
テオは毎年俺の誕生日を何らかの形で祝っていた。
年を重ねるごとに盛大になってきた気がする。
誕生日と言っても平日と変わらない日なのに。
本人がそう思っているのだから、本人以外は更にどうでもいい日の筈だ。
テオはふと空を仰いだ。
今はもう花火は上がっていないのに。
「クラウスが生まれた時、彼等の協議に私も混ぜて欲しかったな」
「何の話だ?」
「さっきの、生死を司る神々の話だよ。
南斗六星が、クラウスの生を少しでも長く、
導いてくれていたら良いなと思ってね」
「人の寿命の心配するなら、自分の心配をしろよ、テオ」
「クラウスは自分のことを軽視しているよ。こんなに、大切な人なのに」
軽視している、と以前もテオに言われた。
風邪で病み上がりのまま、仕事をしていて、発熱し寝込むことになった時。
テオにとても心配された。
ソクーロフ博士にも「安静にしていれば治る」と言われているのに、
俺の部屋に日に何度も訪ねて来ては、
お見舞いだと言って、尋常じゃない大きさの花束を持ってきたり。
咽返るほど花の香りを感じたのはあれで最初で最後だろう。
「クラウスは過労で倒れるタイプだ」テオがそう言ったのを未だに覚えている。
俺は妙に納得して「きっと、そうだろうな」と同意したら、また色々言われた。
「少しは私を見習いたまえ」という言葉には賛同し兼ねたが。
テオは黄金の髪を揺らして、背を向ける。
漆黒の海を見つめながら呟いた。
「ねえ、クラウス」
呼び掛けているのに俺を見ない。
声も何処か寂しそうに聞こえて、どうした、と声を掛けた。
「これからは、私が傍に居なくとも、きちんと誕生日を祝うのだよ?
誕生日はとても大切な日だ。貴方にとっても、私にとってもね」
不自然な沈黙が降りた。
テオは深呼吸して、こちらを振り返る。
一歩一歩近付いて目の前まで来ると、
そっと俺の手を取って、自分の胸に置いた。
テオの心音が俺の手に伝わる。
祈るように目を瞑り、テオは厳かに言葉を紡いだ。
「貴方がこの世に生を授かった奇跡を心から祝福するよ。
そして、貴方と出会うことができた、我が人生、至上の幸運にも感謝を」
言い終わると、名残惜しそうに俺の手を離した。
そうか、とクラウスは思う。
毎年テオが開催してきた常軌を逸したバースデーパーティも、
今回が最後なのだと気付いた。
テオが居なくなるのではない。後に卒業する俺が、テオの前から消えるのだ。
テオは微笑んで、踵を返す。
「今宵も私の戯れに付き合ってくれてありがとう、クラウス。
愉しかったよ。それでは船を島へ戻そうか。明日は会議、だものね?
さあ、船内へ入ろう。潮風で身体を冷やしてしまうといけないし」
「テオ!」
振り向く前に、背中から抱き留めた。
テオが身を硬くしたのが解った。
「…クラ、ウス?」
「悪い。まだ礼も言っていなかったな」
俺より小柄な奴だとは思っていたが、
身体を鍛えることを知らない、やわな身体だ。
もっと力を入れたら骨を折ってしまう。腕に込めた力を後少しだけ加える。
「感謝する。ありがとう、テオ」
「…嬉しい」
本当に嬉しいのだと解る声だった。
夕陽より、星空より、花火よりも感銘を受けた声だった。
テオは衝動を形にしたような奴で、
何かあれば人に触れて、喜びを表現することもよくあった。
しかしクラウスが、自ら人に触れたのは救助活動以外では初めてだった。
勝手に身体が動いていた。自分でも解らない。
この身体は衝動的に動くこともあるのか。
「クラウスから抱き締めてくれるなんて、初めてではない?」
「言うな、馬鹿。俺が恥ずかしいだろ」
腕を解こうとすると、テオの手に止められた。
「待って。もう少しの間、私を離さないで」
穏やかな波音が聞こえた。
薄絹越しにテオの体温を感じる。
あたたかい。首筋から少し甘い匂いがした。
僅かにテオの肩が揺れた。腕の中から苦笑交じりの声が聞こえてくる。
「ああ、どうしたらいいのだろう。私は不安になって来たよ」
「何がだ?」
「今日より幸福な日が、この先訪れるとは、到底思えない」
波はまだ静かに揺れている。
遙か上空では南斗六星が夜を照らしていた。朝もまだ来ない。
時が過ぎる度に離せなくなるようだった。
強く抱き締めたら、俺の身体がお前に溶けてしまえば良いのに。
そんな馬鹿げたことを、半ば切に願っていた。
fin
■黄金の髪の続編
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聖アルフォンソ学院 ジム。
放課後、生徒代表のクラウス・フォン・モールは、
日課のトレーニングを終えたところだった。
火照った身体には少し冷たいシャワーが気持ち良い。
ジム併設のシャワールームで汗を流しながら、
翌日のミーティングについて考えていた。
資料は既に準備済みだが、不備がないか再度確認しておこう、と。
明日は生徒代表室にアイヴィーを呼び、警備について話し合われる日だった。
シャワーを止める。短髪から雫が落ちる。
傍に掛けてあったタオルで身体を拭く。
この学院のタオルは柔らか過ぎる。ふわふわしたものは苦手だった。
乱雑に髪の雫を吸い取る。
ノースリーブのシャツに身を通し、肩に細いタオルを巻いたまま、ジムを後にした。
夏は夜が近くなっても充分薄着で居られる。日もまだ落ちていない。
強い風に剥き出しの肩を撫でられても肌寒く感じることはなかった。
きびきびと歩を進め、シュヌーシア寮に戻るまでの間も、
明日の会議について考えていた。
資料の内容をもう少し膨らませた方が良いのではないか、
夕食後、ライブラリに行って、使えそうな文献を探して来ようか、と。
少しでも間が空くと、脳内が仕事に囚われている自分が居た。
自分の任期が終わるまで残り92日。
だからかもしれない。何処か気が急いている。
自分でも少々神経質だとは思うが、
こればかりは気質なのでどうにもならないことだった。
考え事をしたまま歩き、自室の前に着いていた。
ドアを開けると、俺以外の奴が居た。
悠々とベッドに腰掛けて、本を読んでいる。しかも俺の本だ。
同じ寮に住む生徒。おそらく最も親しい友人ではあるが、逸脱した行動だと思う。
ブロンズの肌に、黄金の髪。好きなものは海と太陽。
如何にも夏の似合う見目をした生徒は、膝の上の本を閉じた。
腕時計を見て、ふふと笑った。
「おかえり、クラウス。時間ぴったりだね?
どうしたら、それほど規則正しい生活が送れるのだろう?」
まるで自分の部屋のようにリラックスした雰囲気で、
こちらが部屋を間違えたかと思うくらいだった。
部屋の主として当然の苦情を申し立てる。
「テオ。何故、お前が此処に居る」
「この時間、クラウスに会うには此処で待つのが最善だろう?
毎日同じ時間にジムに行って、この時間に戻ってくるのだからね」
ゆったりと腰を上げて、持っていた本を本棚に仕舞う。
何事も動作が早いクラウスからすると、テオの動きは緩慢で優雅だった。
ウェーブのある金髪を揺らして、こちらを振り向いた。
「では行こうか、クラウス?」
さも当然のように言われたが、何の約束もしていない。
「行くってこれからか? 何処に?」
焦って一度に質問を重ねてしまう。
テオはどちらの質問にも答えず、クローゼットを勝手に開けて、
俺の薄手の黒いパーカーを腕に掛けた。
「おい、テオ。お前何してるんだ?」
「ん? その格好も似合うのだけれど、これからは少し気温が下がるからね。
それで、貴方には黒が似合うから、これを」
「…話が見えないのだが」
テオはクラウスの首からタオルをするすると取った。
首に摺れる布がくすぐったい。
テオはタオルを椅子の背に掛けると、
黒いパーカーの肩を持ち、クラウスに着るように促した。
クラウスは腕を通さない。
「俺達はこれから夕食の時間だろうが」
「大丈夫。私と貴方の分はキャンセルしてあるよ」
何故、俺の食事は他の奴にキャンセルされることが多々あるのだろう。
また何処かに強引に連れ出されようとしている。
しかし、今夜は明日の会議の為に、ライブラリへ文献を探しに行く予定だ。
来週分の講義の予習もまだ不完全なので、外出は遠慮したい。
それを手短に説明すると、テオは気にしない様子で微笑んだ。
「クラウス。それは、どうしても、しなくてはいけないことかい?」
そう言われると威勢が無くなる。
資料は既に完成している。内容にも自信はあった。
来週分の予習については、まだ時間があると言えばある。
「…どうしても、というわけではないが」
「だろうね。この世にどうしても必要なことって、案外少ないものだから」
テオは自分なりの哲学を持っている奴だった。
普段は人に過剰な賛辞を浴びせるのが常だが、
時折、この唇から紡がれる言葉は、頭の中で反響する。
ふと寝る前に思い出して、あれはどういう意味だったのだろう、
と反芻することもあったが、結局よく解らないまま、
テオにも問い質せずに終わることが多かった。
既にある規則を遵守することに長けているクラウスにとっては、
自由で享楽的なテオの言葉はどれも新鮮に感じるものだった。
テオはパーカーを持ったまま、気長に構えている。
「ねえ。クラウス、私の用事はね?
どうしても、今日、この時間でなくてはならないんだ。
だから、余程のことがない限り、私に付き合って欲しいな」
呑気な口調だが、頑として譲らない態度。
仕方なくクラウスはパーカーに腕を通した。
「ありがとう。クラウス」
「それで、何処に行くんだ?」
「決まっているだろう。愉しい処だよ?」
「愉しい処」と言われて、これまでも様々な場所に連れて行かれた。
それは月桂樹の森や城壁など学院内の時もあれば、
島の中心街フィンシャルだったこともあるし、
「少し遠いよ」と言われてヘリに乗せられ、海外旅行に誘拐されたこともあった。
「テオ、さっきも言ったが、俺は明日会議がある」
「うん。明日までには帰れるから心配要らないよ」
「学院の外へ行くなら外出届を。それから寮の誰かにも伝えなければ」
「大丈夫。両方、私が済ませておいた。クラウスは本当に真面目だね?
私、外出届なんて久し振りに書いたよ」
クラウスの眉がぴくりと動く。
「…久し振りだと? お前、確かこの前も外へ」
「ああ、いや、言葉の綾だよ、クラウス。
いつもちゃんと書いているから。さあ出掛けよう」
背中を押されて、部屋を後にした。
可笑しい。
この時間、ライブラリに居る筈だったのに。
クラウスは豪華クルーザーの船上に立っていた。
聖アルフォンソ島からかなり沖に出て、無人島の方まで来てしまった。
船はスピードを落とし、今は静かに夕暮れの海を遊覧中だ。
この豪華客船の持ち主はデッキに腕を掛けながら、
金髪を潮風の好きなように撫でさせている。
オレンジに輝く海と落ちゆく太陽。
それを見つめるテオの眼差しは、
『海と太陽を愛している』という言葉が偽りでないことを何より物語った。
ただ好きだと言うよりは、魅了され目を離せないといった雰囲気だ。
クラウスは隣に居る陽気な友人が、いつもと違って少し大人に見えた。
クラウスは先程から気になっていたことを尋ねる。
「なあ、テオ」
「ん?」
「お前のクルーザーってこんなに大きかったんだな。
もう少し小型だった気がしたが」
「ああ、うん。この船、とても気に入ってしまってね。
良い機会だったし、ちょっと衝動買いしてしまったんだ」
テオは、硬直しているクラウスに気付かず、るんるんと愉しそうに船内に向かう。
「お腹が空いてきたね。ディナーにしようか、クラウス」
何処か気疲れした夕陽鑑賞の後は、
窓から海を見ながら、豪華なダイニングで夕食を食べている自分が居た。
広い船内にはスタッフ以外には俺達しか居ないらしい。
二人で貸し切るには広過ぎる船内だ。
窓際にはキャンドルが焚かれていた。
ゆらゆらと燃える小さな炎の背景に紫の海原が広がっている。
食事も早いクラウスは、テオより早く食事が終わり、コーヒーを飲んでいた。
テオはマイペースでデザートを食べている。
マンゴーのタルト。ヨーグルトクリームの上に黄金の果実が映えている。
クラウスには給仕されなかった。
それは甘いものが食べられない為で、クラウスにはありがたい配慮だった。
美味しそうに口に運ぶテオを見ているだけで、充分甘さが伝わってくるようだった。
目が合うと、テオはフォークに黄金の果実を刺して、こちらに差し出した。
「クラウス。一口食べてみない?」
「結構だ」
小さな溜め息に、テオはフォークを置いて、俺の顔を覗き込む。
「おや。クラウス、ディナーは口に合わなかったかい?」
「そうではない。料理はうまかったよ」
素材は旬の一級品を使用しているようだが、豪勢な盛り付けなどはされていない。
気兼ねなく食べられるようにしたのか、素朴で家庭的に仕上げられていた。
特に飾らず、素材の在りの侭を見せる料理はクラウスの好みだった。
溜め息が漏れたのは、料理に不満があるのではなく、
この光景が信じられないだけだ。
俺は今頃、一人で黙々と、資料作成に取り組んでいる予定だったのだから。
「俺は夢でも見ているのかと思っただけだ」
テオの表情がぱっと明るくなる。
「夢のような時間だと言ってくれるのかい? 嬉しいよ、クラウス」
現実味がない、という意味の感想は、
勝手に褒め言葉と受け取られたらしいが、違うぞ、と言うのは止めにした。
太陽の笑顔を無碍に沈ませる必要はないと感じられたからだ。
俺の思惑を知らず、テオはわくわくと話し出す。
今日のテオはいつも以上に機嫌が良かった。
「でもね、クラウス。今宵はまだ始まったばかりなのだよ?」
「まだ何かあるのか? お前、夕焼けの海を見たかったんじゃないのか?」
「夕陽も素晴らしかったね。今宵は天気だけが心配だったんだ。
だけど、ほら。雲ひとつない。普段の私の行いが良いからかな」
「お前の奇行の数々は善行なのか? 果たして」
「でも空は晴れているよ? 私の願い通りにね。
波も風も明日まで良い天気だと言っているし」
「波と風?」
「うん。この海域の彼等とも親しくなってきたからね、私に教えてくれるんだ。
海の天気は陸とは違うから。風と波に聞くのが一番確実なんだよ」
まるで、波や風が口を寄せて囁いたかのような口振りだ。
テオの言っていることは擬人法なのだろうが、
揺らぎのない、おっとりした口調で言われると、
テオだけは波の囁きが聞き取れるのかもしれない、
と夢見がちなことを信じてしまいそうになる。
テオは鮮やかな黄色の果実を口に運び、紅茶を飲んでいた。
緻密なデザインが施されたティーカップをソーサーに戻すと、
窓から見える紺碧の海を眺めていた。
「陽も沈んで、美しい闇夜になったね」
「ん? ああ」
「さて。そろそろプレリュードの時間かな」
言いながら腕時計をちらと見る。テオは珍しく腕時計をしていた。
普段は俺の腕をたまに覗くくらいで、時間に囚われない奴だが、
夕食の間に3回も見ていた。この後、何か予定があるのだろうか。
それならば二人だけの海上ディナーなど開催しなければ良いものを。
テオは口許を白いナプキンで吹き、悠長に席を立った。
デザートの皿は空になっていた。
「クラウス、甲板に行こう」
外に出ると、一気に潮の香りを浴びた。
船は無人島が見える位置で停まっていた。
クラウスが羽織っている黒いパーカーの裾が翻る。
海上のせいもあるだろうが、夜の風は冷たく感じられた。
テオが持ち出したこのパーカーは必要だったようだ。
最上の3階への螺旋階段を上っていく。
先にテオが進んで、その後を歩幅を合わせて付いて行った。
何気なく眼下を見やる。もし高所恐怖症であれば立ち竦む高さだろう。
その時、黒い海の中で、ぽわっと青い光が見えた。
「テオ。今、何か光ったぞ」
ゆるりと振り返ってテオも海を眺める。
「ああ、あれはマツカサウオだよ。発光魚の一種でね。
夜行性で、下顎に青緑の発光器があって…ほら、優しい光だろう?
海に落ちたターコイズ、と私は呼んでいるんだ」
また小さく青い光が灯る。確かに青緑の宝石と同じ色だ。
「彼等はなかなかの洒落者でね? 身体は琥珀色、
鱗の境は黒で縁取られている。琥珀の鎧を纏ったような姿なんだ。
見目の麗しさから魔除けとして崇める地域もあるんだよ」
テオの言葉通りに魚の姿を想像してみる。
なんだか毒々しい色だな、と思ったがクラウスは言わなかった。
海好きの友人は、愛おしげに『海に落ちたターコイズ』を見つめる。
「だが、その美しさとは裏腹に4本もの棘を持つ。まるで薔薇のような魚だね」
テオは愉しそうに、そう解説した。
一匹の魚をよく宝石や花に見立てられるものだ。
クラウスはまるでお伽話でも聞かされた気分だった。
最上階の舳先にはVIP席が用意されていた。
座り心地が良さそうなビーチチェアが二脚並んでいる。
枠組みは木製だが、身体が触れる部分には白いクッション材が施されている。
アジアンテイストのサイドテーブルには、
華やかなトロピカルジュースが添えられていた。
テオはその長椅子に足を伸ばして寝そべる。深く身を沈め、夜空を仰いだ。
「クラウスもこちらへ。天然のプラネタリウムが見られるよ?」
自分の腹を晒す姿勢に少し抵抗を感じた。
その無防備な格好を取ることは、クラウスにとって落ち着かないことだった。
此処は訓練施設でも戦場でもないのだから、と軍人の身体を納得させ、
テオと同じように寝そべった。隣からは、ああ、という感嘆が聞こえた。
「素晴らしいね。夜空に砂金を散らしたようだ」
こいつは人でも物でも、簡単に賞賛や感謝の言葉を口にする。
褒めるということは、相手への負けを認める行為だと感じていた。
人より上へ先へと教育されてきた自分は、
常に人に勝つことが周囲の期待、また自らの意志だと思ってきた。
俺がひたすら前を向いて奔走する間、
テオは立ち止まり、太陽や海を眺めていたのだろう。
時に引き返し、砂浜に落ちていた綺麗な貝殻を拾うことも、
このお気楽者にはできたのかもしれない。
振り返らずに駆けて来た俺は、一体どれだけの事物を見逃してきたのだろう。
クラウスは、首をぐいと仰向ける。
真上には降りそうな数の星が瞬いていた。
建物などの障害物が一切無い空。
海の上には見渡す限り、空だけが広がっている。
星はこんなに綺麗だったのか。
そう言えば、星を見たこと自体、久しいかもしれない。
最後にいつ見たのかさえ思い出せなかった。
「クラウス、見えるかい? あれが射手座だよ。
その上半身と弓を繋いだのが、南斗六星(なんとろくせい)」
テオは天空に指を伸ばして、6つの明るい星を線で辿った。
クラウスはその星の名前を知らなかった。
「南斗六星? 北斗七星の偽物みたいな名前だな」
「中国の神話ではね、北斗七星が死を、南斗六星は生を司る神なのだよ。
人が生を授かる時には、彼等二人の協議により寿命が決まる、
そういう言い伝えがあるんだ。北斗は冷酷な性格で人の死期を早めようとする。
南斗は温厚で、北斗を宥め賺(すか)しながら、長命にしようと持ちかける。
二人の意見の間を取って、一生の時間を決めているんだ」
クラウスは直感的に、北斗という神に敵意を抱く。
南斗の方は、テオに似ていそうだな、と思った。
改めて、6つの星を眺める。
「へえ。そんな神話があったのか」
「オリエンタルで、なかなか良い話だろう?
この相克の神々はね、仲が良くて、二人でよく碁を打つのだって。
ああ、碁というのは、東洋のオセロに似たゲームだよ」
「お前が、これほど天文に詳しかったとは知らなかったな」
「天文? まあ学問的にはそうなるかな。私は太陽が好きだから。
好きなものについては自然と雑学が集まるだけだよ。
けれど知っていると言っても、ほんの些細なことだけなんだ」
哀切な物言いは、まるで舞台役者のようだった。
テオはただ其処に居るだけで、強い存在感を持つ。
華やかな見目以上に、何か人を惹き付けるものがある。
それは、王族染みた仕草に起因するのか、
感動をそのまま表現する唇のせいかなのか、クラウスには判断できなかった。
テオが多くの生徒に囲まれている様子を見ていると、
花の香りに誘われて、蜂や蝶が集っているイメージが浮かんだ。
テオは星空に対し、崇敬する眼差しを向けている。
緩やかな口調のまま、詞を朗読するように言葉を続けた。
「太陽はね、あの星達が輝く銀河系の周りを、
毎秒約210キロもの速度で、2億年を掛けて一周するんだ。
私達人間は、銀河という広大な海に浮かぶ、
地球という名の孤島で息をしている。
この小さな私は、彼等について一体幾つ知っているのだろう?」
クラウスは急に自分の身体が小さく縮んだような錯覚に陥る。
今、広大な海の上に居ることに畏怖を感じた。
荒波ひとつ起これば、自分など容易く飲み込まれてしまうだろうと。
空が、どん、と鳴った。
視界の隅に赤い光も映った。
クラウスは反射的に飛び起きる。
椅子を降りて、デッキから身を乗り出した。
「なんだ、今の音は。大砲か?」
後方から笑い声が起こる。テオは全く慌てずに、身を起こした。
「そんな物騒なものではないよ。海岸の方を見て」
砂浜の方に目を凝らすと、其処に何かあるようだった。
次の瞬間、浜辺から一筋の光が、空に向かって上昇した。
破裂音と共に、夜空に円形の閃光が走った。
「花火…」
その大きさに圧倒される。
これほど近くで花火を見たことはなかった。
すごい、と口にしそうになって、いや待て、と思う。
「おい。あそこは無人島の筈だろう。何故、花火が上がるんだ?」
「ああ、今宵は規模が大きいから、あそこに本場の花火師をお呼びしたんだよ」
「…何だと? では、あれはお前が用意したものなのか?」
「うん。シルヴァンに花火の話を聞いたんだ。
それで私もこの眼で一度見たいなと思ってね」
クラウスは軽く頭痛がするようだった。
この一夜で一体どれだけの金が飛んだのだろう。想像したくもない。
また花火が打ち上がった。
「…お前という奴は、とんでもない道楽者だな」
世界的パトロンと呼ばれるメネシス一族の金銭感覚には全くついていけない。
クラウスは物欲に乏しく、必要最低限のものがあれば構わない人間だ。
ましてや娯楽に金を注ぎ込むことのないクラウスには考えられないことだった。
海運業で成功したメネシスは、ギリシア国内でも有数の資産家だ。
彼等の悩みは湯水のように溢れる金の『楽しい使い道を考えること』が専らだろう。
テオの口調からすると、メネシスにとっては、
この花火も玩具を買った程度の金額なのだろうか。
資産家の道楽息子は花火を見つめながら、トロピカルジュースを飲んでいた。
「花火を見るなら、私の好きな場所で見たくてね。それで此処に呼んだんだ」
「理解に苦しむ。幾ら海が好きだからと言って、こんな…」
「おや、クラウス。誤解があるようだね?」
「誤解? 何がだ?」
「別に、海に拘ったわけではないのだよ? 場所など本当は何処でも良いんだ。
私の好きな場所は、クラウスの隣なのだから」
テオは好意の表現も相当行き過ぎていた。
友人間には似つかわしくないような過剰表現を投げて来るものだから、
それを聞いて戸惑う者や呆ける者、頬を赤らめる者まで居た。
「お前な…そういうことを言うなといつも」
「だって、クラウスが傍に居れば私は愉しいのだよ。いつでも、何処でもね?」
口笛のような音がして、夜空が鮮やかに光る。
緑と白の小さな花火が幾つか続けて上がった。
花火に目を奪われている横顔を、テオは満足そうに伺っていた。
テオはサイドテーブルにトロピカルジュースを置く。
グラスの淵には、装飾用の一輪の白い花。花弁の中央だけ薄紫に色付いていた。
テオは花を手に取ってハンカチで包む。そっとポケットに仕舞った。
この花は、今日の日記のページに挟んでおこう、とテオは思った。
椅子から降りて、静かにクラウスの隣に立った。
「あれはニッポン製の花火だよ」
いつのまにか隣に来て居たテオに、クラウスは少し驚いた。
「ニッポンの? ニッポンの花火は円いのか?」
「うん。英語ではロケットとか、ファイアーワークスと言うけれどね。
あちらの言葉では『花の火』と書くのだって。実際に見ると頷けるね。
東洋で一番美しい花はサクラだと思っていたけど、
こんなに壮大な花があったのだね。きっと世界で一番大きな花だ」
世界最大の花はタイタンアルムだがな、という生真面目な正答を抑える。
夢見がちな台詞を多用するテオの前では、
正答であっても意味をなさないと思えた。
こいつと話していると、今まで俺が信じてきたものが、
取るに足らない些末事だったように感じることが何度かあった。
次はピンクと白の小さな花火が連続で昇った。
テオは光る夜空を見つめながら話し始めた。
「花火というのは、フェスティバルが始まる合図とか、
小道具のひとつとして扱うことが多いけれど、
ニッポンでは花火大会と言って、花火が主役になるんだ。
毎年、ニッポンの各地で行われる伝統的な夏祭りだそうだよ?」
「花火を見るだけの祭りなのか、それは。随分大人しい祭りだな」
「ああ、そうなのだよ。祭りというのに騒ぐでもなくね。
夏の夜、皆が座って花火を愛でる。
その美しさ、儚さに、ただ、ただ感嘆するんだ。
なんて神秘的でオリエンタルなお祭りなのだろう。さすがニッポンだね」
テオは陶酔するように説明していた。
こいつは何にでも興味を抱く奴だが、最近は東洋文化が気に入りのようだった。
というのも、今年入学して来た騒がしい日本マニアに影響された為らしい。
この二人は単独でも充分に喧しいのに、
二人揃って「オリエンタルが」「ニッポンが」と語り出すと、五月蝿くて敵わない。
つい先日も「一緒にカブキを見に行こう」と盛り上がっていた。
そのカブキツアーとやらに何故か俺まで誘われているのだが、
こいつらと一緒に旅行など考えただけで疲れる。
現地の人間に奇異の目で見られることは必至だ。なるべくなら行きたくなかった。
「おや、クラウス。俯いてないで、花火を見ておくれ?
貴方と私だけなのだよ、この花火大会の観客は」
それから俺達は、暫く黙って闇夜に描かれる芸術を鑑賞した。
夜空が彩られる様も圧巻だが、何より驚くのは音だ。
震源の海岸からはこの船まで距離はあるのに、
空気の振動は俺の胸まで響いた。
先まで海を支配していた穏やかな波音も、
空が打ち震える音の前では、もはや掻き消されて聞こえなかった。
柵に腕と顎を乗せ、『花の火』に魅入られていた。
その間、俺には、何も考えない、という時間が与えられた。
唐突に、俺の頬に柔らかい物が当たった。
そちらを向くと、テオが微笑んでいた。
何かが触れた場所にクラウスは手を置く。
「お前…今、何を…」
本当は聞かずとも解る。
だが、これは友人間で行うことではない。
テオは何ら悪意のない笑顔を見せる。
「クラウスがあんまり花火に見惚れているものだから」
「…何を馬鹿な。お前が花火を見ろと言ったのだろう?」
このテオの戯れは、これまでにも何度か受けていた。
在り得ない事態に対し、俺は拒否はしていなかったが、
同じ行為をテオに与えたことは一度もなかった。
いつも触れてくるのはテオの方で、クラウスは形ばかりに注意するくらいだった。
「クラウス、機嫌を損ねている場合ではないよ?
花火もそろそろフィナーレだ。最後は特別美しいのが揃っているからね」
派手な炸裂音が鳴り響いた。
フィナーレの名に相応しく、盛大に花火が咲き乱れる。
徐々に打ち上げる速度が速まり、鼓動まで高鳴るようだった。
最後は一番大きな黄金の花火が上がった。
散り際、最後の瞬間まで気高く輝き、ふっと消えた。
灰色の硝煙を残し、花火は全て止んだ。
華やかだった夜空が一気に静まり返る。
祭りの後の物悲しさが、夜を支配した。
テオはフェンスに背を預けて、空から視線を外す。
艶のある革靴を暫し見つめ、俯き加減に、こちらを見上げた。
「クラウス。愉しんで、貰えたかな?」
ああ、と素直に頷いた。
「美しいものだな、夜空に咲く花というのも」
思わず零れた言葉。まるでテオのような恥ずかしい言葉を口にしていた。
テオに笑われてはいないかと顔を見ると、嘲笑とはまるで違う笑顔だった。
「良かった。昨年から色々と思案した甲斐があったというものだよ」
「昨年?」
テオは愉しそうに肩を竦める。フェンスから身を起こし、真っ直ぐに立った。
俺を正面から捉え、ゆっくりと噛み締めるように言った。
「ハッピーバースデー、クラウス。18歳おめでとう」
「…俺、の?」
今日の日付を思い出す。
何日か認識しているのに、それが自分の生まれ日だと気が付かなかった。
テオが穏やかに笑う。こいつの笑い方は誰より上品だった。
「毎年毎年、よくそんなに忘れられるものだね。
私が言うまで、いつも覚えていないのだから。
毎回、貴方の驚く顔が見られて、私は愉しいよ?」
自分が間抜けのように思えてきて、言い訳を口にする。
「最近は…生徒代表の仕事が忙しくて」
「今年はね。でも昨年は生徒代表ではなかったでしょう?」
反論できない。
テオは毎年俺の誕生日を何らかの形で祝っていた。
年を重ねるごとに盛大になってきた気がする。
誕生日と言っても平日と変わらない日なのに。
本人がそう思っているのだから、本人以外は更にどうでもいい日の筈だ。
テオはふと空を仰いだ。
今はもう花火は上がっていないのに。
「クラウスが生まれた時、彼等の協議に私も混ぜて欲しかったな」
「何の話だ?」
「さっきの、生死を司る神々の話だよ。
南斗六星が、クラウスの生を少しでも長く、
導いてくれていたら良いなと思ってね」
「人の寿命の心配するなら、自分の心配をしろよ、テオ」
「クラウスは自分のことを軽視しているよ。こんなに、大切な人なのに」
軽視している、と以前もテオに言われた。
風邪で病み上がりのまま、仕事をしていて、発熱し寝込むことになった時。
テオにとても心配された。
ソクーロフ博士にも「安静にしていれば治る」と言われているのに、
俺の部屋に日に何度も訪ねて来ては、
お見舞いだと言って、尋常じゃない大きさの花束を持ってきたり。
咽返るほど花の香りを感じたのはあれで最初で最後だろう。
「クラウスは過労で倒れるタイプだ」テオがそう言ったのを未だに覚えている。
俺は妙に納得して「きっと、そうだろうな」と同意したら、また色々言われた。
「少しは私を見習いたまえ」という言葉には賛同し兼ねたが。
テオは黄金の髪を揺らして、背を向ける。
漆黒の海を見つめながら呟いた。
「ねえ、クラウス」
呼び掛けているのに俺を見ない。
声も何処か寂しそうに聞こえて、どうした、と声を掛けた。
「これからは、私が傍に居なくとも、きちんと誕生日を祝うのだよ?
誕生日はとても大切な日だ。貴方にとっても、私にとってもね」
不自然な沈黙が降りた。
テオは深呼吸して、こちらを振り返る。
一歩一歩近付いて目の前まで来ると、
そっと俺の手を取って、自分の胸に置いた。
テオの心音が俺の手に伝わる。
祈るように目を瞑り、テオは厳かに言葉を紡いだ。
「貴方がこの世に生を授かった奇跡を心から祝福するよ。
そして、貴方と出会うことができた、我が人生、至上の幸運にも感謝を」
言い終わると、名残惜しそうに俺の手を離した。
そうか、とクラウスは思う。
毎年テオが開催してきた常軌を逸したバースデーパーティも、
今回が最後なのだと気付いた。
テオが居なくなるのではない。後に卒業する俺が、テオの前から消えるのだ。
テオは微笑んで、踵を返す。
「今宵も私の戯れに付き合ってくれてありがとう、クラウス。
愉しかったよ。それでは船を島へ戻そうか。明日は会議、だものね?
さあ、船内へ入ろう。潮風で身体を冷やしてしまうといけないし」
「テオ!」
振り向く前に、背中から抱き留めた。
テオが身を硬くしたのが解った。
「…クラ、ウス?」
「悪い。まだ礼も言っていなかったな」
俺より小柄な奴だとは思っていたが、
身体を鍛えることを知らない、やわな身体だ。
もっと力を入れたら骨を折ってしまう。腕に込めた力を後少しだけ加える。
「感謝する。ありがとう、テオ」
「…嬉しい」
本当に嬉しいのだと解る声だった。
夕陽より、星空より、花火よりも感銘を受けた声だった。
テオは衝動を形にしたような奴で、
何かあれば人に触れて、喜びを表現することもよくあった。
しかしクラウスが、自ら人に触れたのは救助活動以外では初めてだった。
勝手に身体が動いていた。自分でも解らない。
この身体は衝動的に動くこともあるのか。
「クラウスから抱き締めてくれるなんて、初めてではない?」
「言うな、馬鹿。俺が恥ずかしいだろ」
腕を解こうとすると、テオの手に止められた。
「待って。もう少しの間、私を離さないで」
穏やかな波音が聞こえた。
薄絹越しにテオの体温を感じる。
あたたかい。首筋から少し甘い匂いがした。
僅かにテオの肩が揺れた。腕の中から苦笑交じりの声が聞こえてくる。
「ああ、どうしたらいいのだろう。私は不安になって来たよ」
「何がだ?」
「今日より幸福な日が、この先訪れるとは、到底思えない」
波はまだ静かに揺れている。
遙か上空では南斗六星が夜を照らしていた。朝もまだ来ない。
時が過ぎる度に離せなくなるようだった。
強く抱き締めたら、俺の身体がお前に溶けてしまえば良いのに。
そんな馬鹿げたことを、半ば切に願っていた。
fin
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