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■アンジェロ
■背景:ハーブに囲まれた君は、遠い国に想いを馳せて
21世紀初め、此処は立派な植物園になっていた。
学院から少し離れたこの場所は、
今や生徒や島民にとって欠かせない癒しの園であった。
常連も少なくない。近年では眼鏡の日本人が折に触れてやってくる。
彼は日本コーナーに佇む一本の木を見上げていた。
時には、隣接する茶室でお抹茶を飲み、ほうと息と吐きながら。
春は花を、夏は実を、秋は葉を、冬には枝を眺めていた。
アンジェロのハーブ園、と名付いた一角にはフランス人がよく訪れていた。
其処にあるのは毒草のみ。
約500年前、一人の生徒がハーブを育てた庭。
この植物園の起源となった場所だ。
現代に居るフランス出身の生徒は、先日の文化祭にて、
アンジェロ・ボルジアの衣装を纏い、劇で彼を演じた。
自分で選出したのではなく、「お前にピッタリ」などと言われて、
調子の良いハリウッドスターに宛がわれた役だったのだが。
それに前後して、アンジェロの資料を改めて読み出したのかもしれない。
この植物園の園長は、アンジェロの数少ない研究者だ。
どうやら、園長の先祖がマージナルプリンスで、
当時、アンジェロと交流があったらしい。
先祖が残した日記に、アンジェロとのささやかな日常が綴られているページがある。
現存する貴重な資料として、園内の小さな資料館にも展示されていた。
それを見る限りでは、アンジェロは毒殺魔をしての顔を持っていないのだ。
日記に残されていたのは、取るに足らない日々の記録に過ぎないのだが、
後に、イタリアで華の様に散ったボルジア家を想うと、
学院で過ごしたこの時期が一番幸福だったのでは、と思えてならない。
彼にとって此処は、薬草用の庭だった。
人を殺める為に、花達を育てていたのではないようだ。
この紫の花。
猛毒トリカブトでさえも、アンジェロの瞳には、
人を救うハーブに映っていたのかもしれない。
少なくとも、聖アルフォンソ学院に居た頃は。
「絵になるね、アンリ。紫の花がよく似合う」
耳に馴染んだ声がした。軽く微笑みを称えた紳士。
神秘学の講師だ。今日は紺のスーツ。
同じく紺のクロスタイにパールピンが白く留まっている。
「…オーギュスト。何故、君まで居るの」
「散歩だよ。アンリもかい? 奇遇だね」
生徒は憮然とした表情だが、講師は微笑を保ったままだ。
「アンリはトリカブトがお気に入りなのかね?」
「別に好きという程でもないよ。ただ、此処に居ると気分が落ち着くだけ。
僕がどうかしているのかな、これらは毒草なのにね」
ポケットに手を入れて、紫の花を見下ろす生徒。
講師の瞳には、かつて此処に居た生徒が重なってみえるようだった。
――私は此処に居ると落ち着くんです――
アンリはトリカブトを眺めたまま、常のように淡々と話した。
「イタリアに咲いた毒の華、ボルジア家。
思うままに敵を殺め、短い生涯を終えた毒殺一家。
けれど、聖アルフォンソ島に居たアンジェロからは陰惨な香りがしない。
冷徹なだけの毒殺魔が作ったにしては、この花園は美し過ぎるからね」
「そうだね。アンジェロは、心の優しい子だったから」
生徒は隣を見上げる。講師は青い空を眺めていた。
どんなに時が過ぎても空の青さは変わらない。
それは皆より長く生きてきた講師の素直な感想だった。
あの日も澄み渡る青空だった。
16世紀初頭、外界が戦乱の世であっても、
辺境の島では生徒達の安全が保証され、
訳ありの子息達が束の間の学生生活を送っていた。
講義が終わった学院内から長閑な空気が流れる。
珍しく慌てた様子の生徒が、月桂樹の森から出て来た。
聖アルフォンソ学院の制服を正しく身に付けている。
肌は雪の如く、この時は動揺により仄かに赤みが差していた。
滑らかな髪は兄に似せたのか、肩より上で揃えていた。
手に乗せた物を見ていた為に誰かの胸にぶつかった。
生徒が顔を上げると相手は制服ではなかった。
年の頃、40歳前後の紳士。この学院の特別講師だ。
「あ、ごめんなさい、先生」
「おや、アンジェロ。手にしているのは…」
細い手には、眼を閉じた白い小鳥。
「ナイチンゲールです。先程、森で…木の下で見付けました」
「怪我をしているのかい?」
「ええ。それで、これから私の庭に行こうと…止血剤になる薬草があるんです」
「そうか。急ぎなら馬に乗せてあげよう。おいで」
四輪駆動車など無い時代。
アンジェロが此処で過ごしたのは、15世紀と16世紀の狭間。
まだイタリアが分裂していた、ルネサンス期の頃だ。
ボルジア家の父、ローマ教皇アレクサンデル6世は、
聖職の立場ながら欲望の赴くまま女を愛した。
愛人ヴァノッツァ・カタネイとの間には母の美貌を受け継いだ子供達が生まれた。
長兄チェーザレは荒れ狂うイタリアに咲いた毒の華。
イタリア統一の野望を叶える為には手段を選ばず、邪魔者を葬った。
次男ホアンは派手な享楽家。父に取り入り、教会軍総司令官の座を勝ち取るも、
何者かに暗殺され、無残な遺体となって河に浮かんだ最期を迎える。
愛する息子を失った父が、犯人の捜査を途中で打ち切ったのは、
犯人が邪魔な弟を妬んだ兄チェーザレだったからではないか。
その説が広まったのにも無理がないほど、チェーザレの暗殺は続いた。
長女ルクレツィアは、兄弟の中で最も美しかった。
父と兄二人との四角関係が囁かれる程、溺愛された。
彼等の為に三度も政略結婚する数奇な運命を辿る。
その夫達は用済みとなると抹消され、
二番目の夫であるナポリ王子アルフォンソも何者かに惨殺された。
三男ホーフレは妻を兄二人に寝取られる。歴史書にはそこまでしか記されていない。
末弟アンジェロの名は聖アルフォンソ島にしか残っていなかった。
末弟は混乱を極めるイタリアから逃れ、
13歳、中等部の一年生から聖アルフォンソ学院で過ごした。
入学当時こそ、家名と美貌により、奇異と好奇の眼差しを向けられたものだが、
性格は至って大人しく、悪名高きボルジアの者とは思えない子だった。
卒業まで修めた学問は、医術が中心だった。
薬理学、植物学の特別講義を受けており、熱心に薬草を育てていた。
シュヌーシア寮の病弱な生徒が酷く体調を崩したことがあった。
彼はアンジェロの後輩で、数少ない友人だった。
友人の病状に心を痛めたアンジェロは「これを」と当時育てていたハーブを差し出した。
アンジェロを信じ、生徒は薬草を口にした。結果、病状は回復に向かった。
この生徒は、アンジェロの卒業後もハーブの庭を守り続けた。
ハーブの噂は、口伝いに学院内を駆け巡り、島の人へも伝わった。
「体調が悪い時はアンジェロに」という話が流れて、一時期彼は戸惑った。
薬理効果があると実証されている薬草ならば渡すことはできるが、
薬草は薬であると同時に毒にもなる。使い方を間違えるわけにはいかない。
最悪の場合、生徒達の命を奪うことになってしまう。
慎重を期したアンジェロは、効能を自分の身体で確かめていない薬草の場合は、
「すみませんが、これは人様に処方できません」と丁重に断った。
先ず自分の身体を実験台に薬草の効果を研究していたからだ。
しかし、彼の元には「自分を治験体に使って良い」という声が多く寄せられた。
それはアンジェロのハーブで助かった家の者やその友人であったり、
彼の人柄や時折見せるはにかんだ微笑に魅せられたからかもしれなかった。
どちらかと言うと口下手な彼は、自分から話すより人の話を聞いている方が好きだった。
アンジェロに話を聞いて貰った者は、それだけでも心が落ち着き、
「ありがとう、アンジェロ」と礼を言う。
この島のボルジアは皆に愛された存在、生を司る天使だった。
ナイチンゲールに薬草を与えたアンジェロは、傷めた羽根に包帯を巻いていた。
細く白い人差し指で鳥を撫でる。
「これで良くなりますよ。後はゆっくりお眠り」
葉で作った小さなベッドに寝かせる。天使は小鳥を慈しむように眺めていた。
その後はいつものようにハーブの世話を始めた。
それから暫くの間。
この庭では、アンジェロが小鳥とハーブを世話する姿が見られた。
小鳥は、自分の部屋に置いているのだが、
庭に行く時も葉を幾重にも敷いた手提げ籠に乗せて連れて行った。
アンジェロは放課後になると此処まで来て庭の手入れをしていた。
此処は澄んだ空気に満ちた場所だった。
ある日、同行した講師は生徒に尋ねる。長い人生の中でも印象深い場面だ。
「どうだね、小鳥の具合は?」
「怪我はすっかり良くなりました。そろそろ飛べる頃でしょう」
手提げ籠の中に居る鳥は既に包帯が取れていた。
時折、ぱさぱさと翼を震わせ、準備運動をしているようにも見える。
小さな頭を撫でながら、アンジェロは微笑する。
「この子が再び空に戻れることを願って、薬草を煎じたのに。
今は淋しいのです、私の手から離れていってしまうことが。可笑しいですよね」
鳥には薬草を与え、庭には水をやり、雑草などを丁寧に抜き取る。
間引きする葉にも「ごめんね」と詫び、必ず土に還すような子だった。
「可笑しくはないよ、アンジェロ。愛おしく想うことは大切な感情だ」
「先生…ありがとうございます」
「君はこのハーブ達のことも愛おしいんだろう?」
「はい。私は此処に居ると落ち着くんです」
緑に囲まれた生徒は、愛情に満ちた瞳で、ハーブを見つめていた。
「彼等は人の目を楽しませてくれるだけではなく、時に命さえ救うことができます。
例えば、このパッシフローラも」
花弁は中央から外側に向けて、紫、白、青の斑模様の花。
前面には毒々しい三本の雄蕊が突き出している。
「葉には幻覚作用がありますが、同時に不眠症や痙攣などの沈静作用があるんです」
「ほう」
続いてトリカブトの葉に手を添えた。根には神経毒のアコニチンが含まれる。
たった2~5グラムで嘔吐や呼吸困難の中毒症状から、やがて死に至る毒物だ。
「こちらのトリカブトは毒物のイメージが強いかもしれませんが、
きちんと弱毒処理を行えば、強心作用を持つ立派な漢方薬になります」
自分から人に話をすることが稀な子が、細い声ながらも真摯に語っていた。
「我々人間が知らないだけなんです。彼等に薬という側面があることを」
悲しげに曇った表情から、はっと目を伏せて申し訳なさそうに呟く。
「あっ、すみません…私ばかり話してしまって」
「構わないよ。君は医術の特別講義を中心に取っているんだったね?」
「はい。薬理学が特に興味深いです。このハーブで薬を作る実習もあるんですよ」
幸福に満ちた笑顔。
講師には、ただ黙っていることしか出来なかった。
君が今育てている葉。
それが数年後、兄上の遺体から発見される葉だと、
どうして、その時言えただろう。
アンジェロは突然立ち上がり、小鳥に駆け寄った。
「今、今のは、君が鳴いたの?」
手提げ籠の中で、小さな鳥は首を左右に傾げた。
生徒は講師を振り返って尋ねる。
「あの、先生、先生も聞こえました? この子の声」
「いや、すまない。私には…」
講師の視界に白が映った。
籠の中に小鳥の姿がない。
ハーブの庭に、さえずりが響いた。『恋の歌』と呼ばれる美しい歌声。
白い羽が一枚ふわりと雪のように降りてくる。
アンジェロは地に落ちた羽を拾い、自分の胸に当てた。
「元気になったんですね、良かった…良かったです」
fin
■背景:ハーブに囲まれた君は、遠い国に想いを馳せて
21世紀初め、此処は立派な植物園になっていた。
学院から少し離れたこの場所は、
今や生徒や島民にとって欠かせない癒しの園であった。
常連も少なくない。近年では眼鏡の日本人が折に触れてやってくる。
彼は日本コーナーに佇む一本の木を見上げていた。
時には、隣接する茶室でお抹茶を飲み、ほうと息と吐きながら。
春は花を、夏は実を、秋は葉を、冬には枝を眺めていた。
アンジェロのハーブ園、と名付いた一角にはフランス人がよく訪れていた。
其処にあるのは毒草のみ。
約500年前、一人の生徒がハーブを育てた庭。
この植物園の起源となった場所だ。
現代に居るフランス出身の生徒は、先日の文化祭にて、
アンジェロ・ボルジアの衣装を纏い、劇で彼を演じた。
自分で選出したのではなく、「お前にピッタリ」などと言われて、
調子の良いハリウッドスターに宛がわれた役だったのだが。
それに前後して、アンジェロの資料を改めて読み出したのかもしれない。
この植物園の園長は、アンジェロの数少ない研究者だ。
どうやら、園長の先祖がマージナルプリンスで、
当時、アンジェロと交流があったらしい。
先祖が残した日記に、アンジェロとのささやかな日常が綴られているページがある。
現存する貴重な資料として、園内の小さな資料館にも展示されていた。
それを見る限りでは、アンジェロは毒殺魔をしての顔を持っていないのだ。
日記に残されていたのは、取るに足らない日々の記録に過ぎないのだが、
後に、イタリアで華の様に散ったボルジア家を想うと、
学院で過ごしたこの時期が一番幸福だったのでは、と思えてならない。
彼にとって此処は、薬草用の庭だった。
人を殺める為に、花達を育てていたのではないようだ。
この紫の花。
猛毒トリカブトでさえも、アンジェロの瞳には、
人を救うハーブに映っていたのかもしれない。
少なくとも、聖アルフォンソ学院に居た頃は。
「絵になるね、アンリ。紫の花がよく似合う」
耳に馴染んだ声がした。軽く微笑みを称えた紳士。
神秘学の講師だ。今日は紺のスーツ。
同じく紺のクロスタイにパールピンが白く留まっている。
「…オーギュスト。何故、君まで居るの」
「散歩だよ。アンリもかい? 奇遇だね」
生徒は憮然とした表情だが、講師は微笑を保ったままだ。
「アンリはトリカブトがお気に入りなのかね?」
「別に好きという程でもないよ。ただ、此処に居ると気分が落ち着くだけ。
僕がどうかしているのかな、これらは毒草なのにね」
ポケットに手を入れて、紫の花を見下ろす生徒。
講師の瞳には、かつて此処に居た生徒が重なってみえるようだった。
――私は此処に居ると落ち着くんです――
アンリはトリカブトを眺めたまま、常のように淡々と話した。
「イタリアに咲いた毒の華、ボルジア家。
思うままに敵を殺め、短い生涯を終えた毒殺一家。
けれど、聖アルフォンソ島に居たアンジェロからは陰惨な香りがしない。
冷徹なだけの毒殺魔が作ったにしては、この花園は美し過ぎるからね」
「そうだね。アンジェロは、心の優しい子だったから」
生徒は隣を見上げる。講師は青い空を眺めていた。
どんなに時が過ぎても空の青さは変わらない。
それは皆より長く生きてきた講師の素直な感想だった。
あの日も澄み渡る青空だった。
16世紀初頭、外界が戦乱の世であっても、
辺境の島では生徒達の安全が保証され、
訳ありの子息達が束の間の学生生活を送っていた。
講義が終わった学院内から長閑な空気が流れる。
珍しく慌てた様子の生徒が、月桂樹の森から出て来た。
聖アルフォンソ学院の制服を正しく身に付けている。
肌は雪の如く、この時は動揺により仄かに赤みが差していた。
滑らかな髪は兄に似せたのか、肩より上で揃えていた。
手に乗せた物を見ていた為に誰かの胸にぶつかった。
生徒が顔を上げると相手は制服ではなかった。
年の頃、40歳前後の紳士。この学院の特別講師だ。
「あ、ごめんなさい、先生」
「おや、アンジェロ。手にしているのは…」
細い手には、眼を閉じた白い小鳥。
「ナイチンゲールです。先程、森で…木の下で見付けました」
「怪我をしているのかい?」
「ええ。それで、これから私の庭に行こうと…止血剤になる薬草があるんです」
「そうか。急ぎなら馬に乗せてあげよう。おいで」
四輪駆動車など無い時代。
アンジェロが此処で過ごしたのは、15世紀と16世紀の狭間。
まだイタリアが分裂していた、ルネサンス期の頃だ。
ボルジア家の父、ローマ教皇アレクサンデル6世は、
聖職の立場ながら欲望の赴くまま女を愛した。
愛人ヴァノッツァ・カタネイとの間には母の美貌を受け継いだ子供達が生まれた。
長兄チェーザレは荒れ狂うイタリアに咲いた毒の華。
イタリア統一の野望を叶える為には手段を選ばず、邪魔者を葬った。
次男ホアンは派手な享楽家。父に取り入り、教会軍総司令官の座を勝ち取るも、
何者かに暗殺され、無残な遺体となって河に浮かんだ最期を迎える。
愛する息子を失った父が、犯人の捜査を途中で打ち切ったのは、
犯人が邪魔な弟を妬んだ兄チェーザレだったからではないか。
その説が広まったのにも無理がないほど、チェーザレの暗殺は続いた。
長女ルクレツィアは、兄弟の中で最も美しかった。
父と兄二人との四角関係が囁かれる程、溺愛された。
彼等の為に三度も政略結婚する数奇な運命を辿る。
その夫達は用済みとなると抹消され、
二番目の夫であるナポリ王子アルフォンソも何者かに惨殺された。
三男ホーフレは妻を兄二人に寝取られる。歴史書にはそこまでしか記されていない。
末弟アンジェロの名は聖アルフォンソ島にしか残っていなかった。
末弟は混乱を極めるイタリアから逃れ、
13歳、中等部の一年生から聖アルフォンソ学院で過ごした。
入学当時こそ、家名と美貌により、奇異と好奇の眼差しを向けられたものだが、
性格は至って大人しく、悪名高きボルジアの者とは思えない子だった。
卒業まで修めた学問は、医術が中心だった。
薬理学、植物学の特別講義を受けており、熱心に薬草を育てていた。
シュヌーシア寮の病弱な生徒が酷く体調を崩したことがあった。
彼はアンジェロの後輩で、数少ない友人だった。
友人の病状に心を痛めたアンジェロは「これを」と当時育てていたハーブを差し出した。
アンジェロを信じ、生徒は薬草を口にした。結果、病状は回復に向かった。
この生徒は、アンジェロの卒業後もハーブの庭を守り続けた。
ハーブの噂は、口伝いに学院内を駆け巡り、島の人へも伝わった。
「体調が悪い時はアンジェロに」という話が流れて、一時期彼は戸惑った。
薬理効果があると実証されている薬草ならば渡すことはできるが、
薬草は薬であると同時に毒にもなる。使い方を間違えるわけにはいかない。
最悪の場合、生徒達の命を奪うことになってしまう。
慎重を期したアンジェロは、効能を自分の身体で確かめていない薬草の場合は、
「すみませんが、これは人様に処方できません」と丁重に断った。
先ず自分の身体を実験台に薬草の効果を研究していたからだ。
しかし、彼の元には「自分を治験体に使って良い」という声が多く寄せられた。
それはアンジェロのハーブで助かった家の者やその友人であったり、
彼の人柄や時折見せるはにかんだ微笑に魅せられたからかもしれなかった。
どちらかと言うと口下手な彼は、自分から話すより人の話を聞いている方が好きだった。
アンジェロに話を聞いて貰った者は、それだけでも心が落ち着き、
「ありがとう、アンジェロ」と礼を言う。
この島のボルジアは皆に愛された存在、生を司る天使だった。
ナイチンゲールに薬草を与えたアンジェロは、傷めた羽根に包帯を巻いていた。
細く白い人差し指で鳥を撫でる。
「これで良くなりますよ。後はゆっくりお眠り」
葉で作った小さなベッドに寝かせる。天使は小鳥を慈しむように眺めていた。
その後はいつものようにハーブの世話を始めた。
それから暫くの間。
この庭では、アンジェロが小鳥とハーブを世話する姿が見られた。
小鳥は、自分の部屋に置いているのだが、
庭に行く時も葉を幾重にも敷いた手提げ籠に乗せて連れて行った。
アンジェロは放課後になると此処まで来て庭の手入れをしていた。
此処は澄んだ空気に満ちた場所だった。
ある日、同行した講師は生徒に尋ねる。長い人生の中でも印象深い場面だ。
「どうだね、小鳥の具合は?」
「怪我はすっかり良くなりました。そろそろ飛べる頃でしょう」
手提げ籠の中に居る鳥は既に包帯が取れていた。
時折、ぱさぱさと翼を震わせ、準備運動をしているようにも見える。
小さな頭を撫でながら、アンジェロは微笑する。
「この子が再び空に戻れることを願って、薬草を煎じたのに。
今は淋しいのです、私の手から離れていってしまうことが。可笑しいですよね」
鳥には薬草を与え、庭には水をやり、雑草などを丁寧に抜き取る。
間引きする葉にも「ごめんね」と詫び、必ず土に還すような子だった。
「可笑しくはないよ、アンジェロ。愛おしく想うことは大切な感情だ」
「先生…ありがとうございます」
「君はこのハーブ達のことも愛おしいんだろう?」
「はい。私は此処に居ると落ち着くんです」
緑に囲まれた生徒は、愛情に満ちた瞳で、ハーブを見つめていた。
「彼等は人の目を楽しませてくれるだけではなく、時に命さえ救うことができます。
例えば、このパッシフローラも」
花弁は中央から外側に向けて、紫、白、青の斑模様の花。
前面には毒々しい三本の雄蕊が突き出している。
「葉には幻覚作用がありますが、同時に不眠症や痙攣などの沈静作用があるんです」
「ほう」
続いてトリカブトの葉に手を添えた。根には神経毒のアコニチンが含まれる。
たった2~5グラムで嘔吐や呼吸困難の中毒症状から、やがて死に至る毒物だ。
「こちらのトリカブトは毒物のイメージが強いかもしれませんが、
きちんと弱毒処理を行えば、強心作用を持つ立派な漢方薬になります」
自分から人に話をすることが稀な子が、細い声ながらも真摯に語っていた。
「我々人間が知らないだけなんです。彼等に薬という側面があることを」
悲しげに曇った表情から、はっと目を伏せて申し訳なさそうに呟く。
「あっ、すみません…私ばかり話してしまって」
「構わないよ。君は医術の特別講義を中心に取っているんだったね?」
「はい。薬理学が特に興味深いです。このハーブで薬を作る実習もあるんですよ」
幸福に満ちた笑顔。
講師には、ただ黙っていることしか出来なかった。
君が今育てている葉。
それが数年後、兄上の遺体から発見される葉だと、
どうして、その時言えただろう。
アンジェロは突然立ち上がり、小鳥に駆け寄った。
「今、今のは、君が鳴いたの?」
手提げ籠の中で、小さな鳥は首を左右に傾げた。
生徒は講師を振り返って尋ねる。
「あの、先生、先生も聞こえました? この子の声」
「いや、すまない。私には…」
講師の視界に白が映った。
籠の中に小鳥の姿がない。
ハーブの庭に、さえずりが響いた。『恋の歌』と呼ばれる美しい歌声。
白い羽が一枚ふわりと雪のように降りてくる。
アンジェロは地に落ちた羽を拾い、自分の胸に当てた。
「元気になったんですね、良かった…良かったです」
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