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■テオ×クラウス
■時間軸:本作→或る処 -Claus-→共にある奇蹟
「今日はニッコロ・マキャベリについて勉強していきましょう」
帝王学の教室に、教授の声が響いている。
誰より真剣な眼差しで板書している生徒が、今年度の生徒代表だった。
高等部三年のクラウス・フォン・モール。
ドイツ軍人の家系に生まれ、規律に厳しい生真面目な男に育った。
授業態度は極めて良く、試験の点数もトップクラスである。
「もし手に入れば高得点間違いなし」と噂される黄金のノートが作成されつつあった。
隣の席に居る金髪の生徒は、テオ・メネシス。高等部二年。
クラウスと同じシュヌーシア寮だ。
テオは、教授の声を写し取る様子は見られない。手は頬の下で固定されたままだ。
ぼうっとした表情で、窓の外を眺めていた。
「彼は、イタリア・ルネッサンス期の政治思想家、代表作は君主論です」
この講義を担当しているのは、フランスから来た大学教授。眼鏡が似合う四十代前半の紳士。
帝王学を専攻しているとは思えないほど、柔らかな雰囲気を纏っている。
今日も優しい声で授業をしていた。
「俗に、目的の為なら手段を選ばないといった思想を何と言うでしょう?」
教室を見渡し、目の合った生徒の名を呼んだ。
「クラウス、解りますか?」
テオの視線が窓から隣の席へ移る。クラウスは教授の目を見て答えた。
「マキャベリズムです」
「はい、正解です」
「教授、マキャベリズムについて質問をしても宜しいでしょうか?」
「どうぞ」
「教授が仰った意味は、実際は誤解であり、
マキャベリの思想とは異なっていると唱える説がありますよね?」
生徒達の視線が教壇に向けられる。眼鏡の教授は微笑んだ。
「ええ。今週もしっかり予習してきていますね、クラウス」
「その相違点について、詳しく伺えますか?」
解りました、と言って、教授は解説を始めた。
「一般的にマキャベリズムという言葉は、単に『目的』の為なら手段を選ばないという意味で使われていますが、
マキャベリの思想は、『国の利益』になるなら冷酷非道な手段も厭わない、という考え方です。
国の為、この部分が重要なのです。マキャベリにそう思わせたのは、イタリアに咲いた悪の華、
イタリア統一の為に冷酷非道な暗殺を重ねた、チェーザレ・ボルジアだと言われています」
クラウスは教授の目を見ながら話を聞いている。その熱心な横顔をテオが見守っている。
「当時のイタリアは数多くの小国に分裂していた為、全てを統べる王を求めていたマキャベリにとって、
チェーザレはまさに理想の君主でした。マキャベリはチェーザレを評して、
『彼は広大な目的を達成する為に、自らの行動を制御していた。
新たに君主となる者は彼を見習うべき』という言葉を残しています」
クラウスはノートにメモを取り、赤ペンで素早くラインを引いた。
「チェーザレは毒殺のイメージが強く、自己犠牲のイメージがないかもしれませんが、
彼は父の期待に応え、日夜良く働きました。数々の作戦を成功させ、謀反する部下は容赦なく葬りました。
一時の感情に流されない、彼の非情なまでの冷酷さが、新たな秩序と忠誠を生みだしたのは事実です」
テオは再び空を眺める。雲がゆっくりと泳いでいた。
授業終了の鐘が鳴る。教授は教科書を閉じた。
「今日学んだマキャベリの君主論は、よく復習しておくように。
来週はジャンティエの反マキャベリ論を紐解いていきましょう」
ありがとうございました、クラウスがいつものように折り目正しく礼をした。
帝王学の教室を出た。テオとクラウスは肩を並べて廊下を歩いている。
今日の授業はこれで終わり。帰る先は、二人ともシュヌーシア寮だ。
「テオ、今日の授業、ちゃんと聞いていたか?」
「え? うん。マキャベリズム、だろう? 今日も褒められていたね、クラウス」
「今日のテーマはマキャベリだ。マキャベリズムの部分しか聞いていなかったんじゃないのか?」
テオが笑顔を見せると、クラウスは苦い顔をした。
「クラウス」
誰かに呼ばれた。クラウスとテオは、声のしたほうに振り向く。
そこに居たのはウーティス寮の二人。高等部一年のジョシュアと中等部三年のアンリだった。
声から判断して、クラウスを呼んだのは、バニラボイスと讃えられるほう。
華奢で少女のような顔をしている、クラウスの苦手な相手だ。少し怪訝な様子で尋ねる。
「何だ、アンリ」
アンリが背の高いクラウスを少し見上げる。鼻筋でさえツンと美しく整っている。
「返事、まだ聞いてないんだけど?」
「え? ああ、すまん。忙しくて忘れていた」
「来るよね?」
「行ってもいいんだが、何故お前が俺を誘う?」
「だって、貴方が来ないと、つまらない」
おや、とテオが口を挟む。
「これはまた、いつの間に。デートの約束かい?」
クラウスは呆れている。
「誰がこいつとデートなんかするか。チェスパーティに招待されたんだ」
「それはそれは。素晴らしいパーティだね、アンリ。
私はまだ呼ばれていないようだけど、招待状はこれから届くのかな?」
「届かないよ。貴方は弱いでしょう、チェス。ギャラリーに居ても煩さそうだし」
それまで黙っていたジョシュアが、アンリ、と窘めた。それをアンリは無視して、
「じゃ、必ず来てね、クラウス」
ジョシュアは先輩二人に会釈してから友人の背中を追い駆けた。
校舎を出たところで、また他の生徒に声を掛けられた。
「あっ! お父さーん!」
長い髪を跳ねさせながら、長身の生徒が駆けてくる。
ウーティス寮の高等部一年、シルヴァン・クラークだ。
シルヴァンがこの学院に入学したのは約一年前。入学初日から外泊したワイルドボーイとして一躍有名になった生徒だ。
それ以降も懲りずに、何度も無断外泊、無断外出を重ねた、言わば問題児。
その度に生徒代表のクラウスは手を焼かされてきた。シルヴァンの顔を見ると、条件反射的にしかめっ面になるのも無理はない。
「今日は何だ、シルヴァン」
「卒業パーティの日、決まりましたか?」
「ああ、そのことか。まだ日程の調整ができなくてな。予定より少し早くなりそうだ」
テオの肩が小さく跳ねた。クラウスは生徒手帳に書いたスケジュールを見ながら、
「おそらく、八月の上旬になるだろうな」
「上旬? もう残りひと月じゃないですか!」
「俺が居なくなったからと言って、夜遊びばかりするなよ? 学生は勉強が本分なんだからな」
「そうですね。そんなにしないと思いますよ、夜遊びは」
「本当だろうな?」
「はい。だって、貴方が居なくなったら、夜遊びする意味がなくなっちゃうじゃないですか」
「……どういう意味だ、それは」
「まあまあ。えっとー、八月の上旬に卒業パーティがあるなら、
僕は、夏休みを中旬くらいから取ればオッケーですね」
「別に、無理をして、出席しなくても良いんだぞ?
年に一度の夏期休暇だ。島でじっとしていられないだろう、お前は」
「いいえ。クラウスの卒業パーティには絶対に行きますよ。
僕、貴方には、入学初日からお世話になってますからね」
「ああ……あの頃のお前は酷かったからな」
「もー、酷いだなんてー。僕のおかげでスリリングな日々だったじゃないですか」
「馬鹿。散々人に迷惑を掛けておいて。
しかし、入学当時に比べると、まあ、お前も随分落ち着いたな」
「きゃはっ。お父さんに褒められちゃいました!」
「お父さんって言うな!」
怒られて、シルヴァンは笑っていた。
話が終わると、彼は手を振りながらウーティス寮へ帰っていった。
クラウスとテオは再びシュヌーシア寮へ向かって歩き始める。
テオは俯いたまま言った。
「モテモテだね、クラウス。よくお声が掛かる」
クラウスは苦い顔をする。
「変な言い方をするな。俺の卒業が近いからだろ?
どいつもこいつも、こんな時期になってから、ドタバタと予定を詰め込みやがって。
こっちは卒業準備で忙しいっていうのに」
「さっきの話は本当なのかい? 八月の上旬だなんて。中旬か下旬になるって話だったのに」
「ああ。帰国後は色々と出向くところもあるし、当初の予定より忙しくなりそうだから、
早めに帰って事前に準備しておきたいんだ」
そう、とテオは言った。
「クラウス! クラウス! オイ! クラウス!」
随分と甲高い声で呼ばれた。人間の声ではない。
クラウス達の後方に居たのは、浅黒い肌の生徒。髪は長く、緩やかな波のある金色。
アルファルド寮のジャワハルワールだ。その左肩には白いオウムが乗っていた。
その鳥と親しいテオが笑顔で挨拶する。
「おや。こんにちは、オウム君、ジャワハルワール」
オウムもフランクな様子で片翼を挙げる。
「テオ! タイヨウとウミをアイするオトコ! クラウス、セイトダイヒョウ!」
「相変わらず素晴らしい記憶力だね。流石はジャワハルワールのオウム君」
「テオ、クラウス、イツモイッショ! シュヌーシアのオトーサンとオカーサン!」
「おや。嬉しいことを言ってくれるねえ、オウム君」
「……誰だ、余計なことを教えた奴は」
クラウスはオウムとジャワハルワールを見比べて、人間のほうに尋ねた。
「それで、俺に用か、ジャワハルワール」
答えたのはオウムだった。
「クラウス、パーティのヒ、キマッター?」
ジャワハルワールはクラウスを見つめてはいるが無言だった。オウムは言葉を繰り返す。
「キマッター? キマッター?」
「……いや、まだだが」
クラウスは鳥との会話がやりにくそうだった。
テオは気にならない様子で、鳥に向かって話し掛ける。
「オウム君。パーティは八月の上旬になるそうだよ?」
「ハチガツ、ジョウジュン!」
「オウム君とジャワハルワールもクラウスのパーティに行くのかい?」
「クラウスのパーティ、イクー!」
「では、卒業パーティの日時が決まったら、
アルファルドにも連絡を回さなくてはね、クラウス?」
「本当にお前も来る予定なのか、ジャワハルワール」
クラウスが人間のほうに確認をとると、彼は静かに頷いた。鳥が喋る。
「クラウス、タスケテクレター! クラウス、ツヨイ!」
「おや。クラウス、オウム君を助けたことがあったのかい?」
「いや、まあ、猫を追っ払ったことはあるが」
「猫?」
「もう随分昔のことだが、森で、この鳥が、
猫と一触即発の現場に出くわしたことがあったんだ。
無用な殺生は避けるべきだろう、動物も人間も」
「アリガトー! クラウス、イイヤツ!」
「隅に置けない人だね、オウム君まで虜にするとは」
「だから、お前は可笑しな言い方をするな」
「クラウス! ソツギョウしたら、ジャワハルワールのクニに、アソビにキテネー!
ジャワハルワール、コクオウ! ジャワハルワールにバンザイ!」
ジャワハルワールが踵を返す。向かう方向はアルファルド寮だ。
鳥と人間の後ろ姿を見ながら、クラウスが独りごちる。
「少し見ない間に、またお喋りになったな、あの鳥は」
テオが手を振る。
「オウムくーん、またねー、愛してるよー!」
すると、オウムが反応した。
「マタネー、アイシテルヨー!」
クラウスが肩を落とす。
「テオ。鳥にまでヘンな言葉を教えるんじゃない」
「妬いてくれたのかい、クラウス?」
「違う」
「心配しなくとも、私が誰を一番愛しているかは知っているだろう?」
「……帰るぞ」
「そうだね。私達の家に帰って、ブレイクタイムにしよう。
今日は私もエスプレッソにしようかな。クラウスも飲むだろう?」
ああ、と頷いた後で「いや、やっぱり、いい」
「え?」
「部屋の片付けがある。昨日は生徒代表の仕事があって作業が進まなかったからな」
クラウスが自室で、荷物の整理をしていると、寮生がやってきた。
「おっ。引っ越し準備、進んでるねー」
クセのある茶髪は、彼の性格を示すように縦横無尽に跳ねている。
中等部一年のレオン。生意気な最年少だ。
壁に貼られていた紙を見て、一年生は「うわ」と言った。
「ちょ、クラウス。これ何だよ」
クラウスは本をダンボールに詰めながら、
「何って。見れば解るだろ。卒業準備の計画表だ」
七月から八月まで片付けや手続きのスケジュールが事細かに記されていた。
生真面目で几帳面なクラウスは、何事も事前に計画を立て、その予定通りに事を運びたい性格だった。
試験期間中も、同様の計画表を必ず作るタイプだった。
レオンは綿密なスケジュール表を見て、げっそりしている。
「あんたって、こういうトコまできっちりしてるよな、気持ち悪いくらい」
「人のこと気持ち悪いって言うな。なんだ、レオン。邪魔しに来たのか?」
「どっちかって言うと、俺、あんたの手伝いに来たんだけど?」
「お前が?」
「うん」
そう言って、レオンは右手を差し出した。
「ちょーだい?」
「何を?」
「何でも良いから、あんたの持ち物、いっこくれよ。
引っ越し荷物は少ないほうが良いだろ? 俺がいっこ減らしてやるよ」
レオンは人差し指にひっかけたキーホルダーを振り回しながら、サロンに入った。
錆びた金色の渋い光。放課後のサロンでくつろいでいた生徒達の目に留まる。
レオンと仲が良く、同じ中等部一年のラビが尋ねる。
「あれ? レオン、それ、どうしたの? そんなの持ってたっけ?」
レオンはフフンと笑って「クラウスに貰ったー」
クラウスの部屋。
引き続き片付けをしている最中、ドドドと床が揺れた。
「な、なんだ。地震か?」
シュヌーシアの寮生達が雪崩れ込むように部屋に入ってきた。
「クラウスー! 僕にもなんかちょーだーい!」
「俺も俺もー!」
「なっ!? お前達、全員か!?」
生徒達は元気良く頷いた。
「レオンにはあげたんだろー! 俺にはくれないのかよー! ケチー!」
「いや、しかし、そんな大勢で来られてもだな……その前に言っておきたいことがある!」
「何?」
「廊下は緊急時以外走るな!」
「緊急事態だよね?」
「うん。クラウスの物が貰えるんだもんな」
「きんきゅーじたい、きんきゅーじたい!」
「クラウス、これ、なあにー?」
「おい、何を勝手に開けてるんだ、お前は!」
「俺、これにしよーっと!」
「僕は、これにするー!」
「待て! せめて俺に一度見せてからにしろ!」
「俺は本にしよっかなー。なんかどれも難しそ。ねー、マンガないのー?」
「あるわけないだろう」
「あ! 僕、クラウスのノート欲しい!」
「うわ、俺もそれがいい! 数学のノートくれよ! これで来年の数学は100点だぜ!」
「僕も数学が良かったー! じゃあ、歴史にしようかな。クラウス、歴史取ってる?」
「ノートは絶対にダメだ!」
「えー」
「勉強は自分でしろ。先輩のノートに頼るなど言語道断だ。
大体、今年と来年では内容が変わるから、俺のノートを持っていたところで意味はないぞ」
「ちぇー」
「使ってないペンとかない? クラウスのペンでテスト受けたら、点数上がりそう」
「それイイな!」
「だから、点数は自分で勉強して上げろ」
「お父さん、おんぶー」
「何故、俺の背中に乗る!?」
「俺も乗っちゃおー」
「わーい! 僕もー!」
「……お前ら、俺を押し潰して、そんなに楽しいか」
「たのしー!」
「今すぐ降りろー!」
サロンに戻ってきた生徒達は、クラウスの部屋でゲットしてきた戦利品を見せ合っていた。
「お前、何貰ったのー?」
「消しゴムー」
「うわ、どシンプルなデザインの消しゴムだな。イマドキそんなのないだろ」
「俺はTシャツだぜ!」
「えー! それ、カッコイイ!」
シュヌーシアの生徒達が出ていったクラウスの部屋は、惨状だった。
綺麗に整理整頓してダンボールに入れた荷物まで、順番がめちゃくちゃになった。
シリーズ物の本は、一巻から十巻まで正しく並べたいのに。
箱の外も散らかし放題である。何故、出した物が元の場所に戻せない?
これでは、引っ越し作業の前に大掃除が必要だ。頭が痛い。もう叱る気力さえなかった。
「クー、ラー、ウー、スー!」
叫び声が物凄いスピードで近付いてくる。勢い良くドアが開いた。
ウーティス寮のシルヴァン・クラークだ。
「今ならもれなく、クラウスの使用済みグッズが貰えると聞いたのですが!」
その夜。
クラウスの部屋は、やっと今日の放課後前の状態に戻った。もう消灯時間である。
「疲れた……」
壁に貼ったスケジュール表の前に立つ。今日の日付にバツ印を付けた。クラウスは頭垂れた。
「今日も予定通りに進まなかった」
クラウスの持ち物が貰えるという話が広がり、大勢の生徒が来て、部屋を引っ掻き回していった為、
派手に散らかされた部屋の片付けをしただけで一日終わってしまったのだ。
「只でさえ、作業が遅れているというのに、あいつらめ」
寮生達が居るから、何かと邪魔されて進まないのだ。あいつらが居なければ、スムーズに終わるだろう。
しかし、ここを卒業すれば、そんなこともなくなる。
部屋を荒らされたり、無駄話をしたり、突然おんぶをせがまれるようなことも。
あいつらの誰とも会えなくなるのだから。
「明日こそ、遅れを取り戻さなくてはな」
クラウスは思考を停止させた。
夜中に余計なことを考えて睡眠時間が削れ、明日の講義で眠たくなることほど、無駄なことはない。
そういう時は寝るに限るのだ。今日は早く寝よう。そう思った。
カーテンさえ閉めていなかったことに今更気が付く。
窓辺に立つと、寮を出ていく人影が見えた。
クラウスの部屋は二階。人影の後ろ姿が見える。
特例を除き、夜間に寮の外に出ることは校則で禁じられている。例え学院の敷地内であってもだ。
「誰だ、こんな時間に」
クラウスの視力は1.5を維持しているが、流石に夜では、はっきりとは見えない。
目を凝らす。月光が一瞬見せた髪は金色に見えた。
クラウスは窓を全開にする。部屋に夏の生温い夜風が吹き込んだ。
窓枠に手を掛け、着地点を確認する。二階だが、この高さなら、いける。
月桂樹の青い香りがする。
テオは幹に凭れて、一人で月を見上げていた。木と木の間から、薄雲を纏った月がぼんやり見える。
時折何かの鳴き声が聞こえた。森に棲む夜行性の動物だろう。幾つかの光る目が遠くからテオを見守っていた。
テオは何をするでもなく、ただ月を見ている。白いワイシャツ姿、リボンタイはしていない。
寝間着に着替える前に、ここに来たのだ。
今日もきっと眠るまでに時間がかかるだろうから。
一羽のナイチンゲールが地面に下りてきた。それにテオが気付く。鳥と人間の目が合った。
小鳥は逃げずに、首を左右に傾げている。テオは静かに言った。
「ごめんね、ナイチンゲール君。君達の時間に森に来て。邪魔はしないから、もう少しここに居させておくれ」
小鳥はちょんちょんと歩き、辺りに落ちている葉を啄み始めた。
それを見てテオは、ありがとう、と呟いてまた夜空を仰いだ。
森の上には星空が広がっている。テオの位置からは、その全景は見られない。
木々の隙間から、ほんの少し見えるだけだった。
生暖かい風が、テオの横をゆっくりと通り過ぎていく。
闇夜の中に居ると、このまま朝は来ないんじゃないか、という考えが浮かび、消えていった。
食事中の小鳥が急に木の上に飛び立った。どうしたんだろう、と思った時、声が聞こえた。
「夜間に出歩いてる奴、出て来い! おい! 居るんだろう! 隠れても無駄だぞ!」
駆けてくる足音と共に、叱る声が近付いてくる。
彼はテオの前に姿を現した。眉間に皺を寄せた、いつもの顔をして。
「やっぱりお前か、テオ」
「クラウス……どうして、ここに」
「お前が寮を出ていくのを見たんだ。夜間の外出は校則違反だろうが!」
「あ、うん。でも、クラウスだって、ここに居るじゃないか?」
「俺は……お前を連れ戻しに来たんだ! お前は何やってたんだ、こんな時間に」
「別に何も。今宵は眠れなくてね」
「具合が悪いのか? なら、行く場所は森ではなく保健室だろう」
「ううん。身体は何ともないから」
「そうなのか? じゃあ、寮に戻るぞ」
「うん」
暗い森を歩く。月明かりだけが森を仄かに照らしている。
少し遠くに見えるウーティス寮の明かりが、森の出口を示す目印だ。
日中は快く聞こえる鳥の鳴き声も、夜中では不気味にさえ聞こえた。
草を踏む二人の足音がやけに大きく響いた。
歩幅が大きいクラウスが、テオより先に進んでいく。
少し離れれば、その背中は闇に紛れて、見えなくなりそうだった。
今なら、追い駆ければ彼に手が届く。名を呼べば貴方は止まってくれる。
だけど、1か月後には。
「遅いぞ、テオ。何、立ち止まってる」
腰に手を置いている。
「夜間に出歩くことは禁止事項なんだぞ? 誰かに見られたら示しがつかん。早く歩け」
「うん」
テオは重い足を踏み出した。
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■時間軸:本作→或る処 -Claus-→共にある奇蹟
「今日はニッコロ・マキャベリについて勉強していきましょう」
帝王学の教室に、教授の声が響いている。
誰より真剣な眼差しで板書している生徒が、今年度の生徒代表だった。
高等部三年のクラウス・フォン・モール。
ドイツ軍人の家系に生まれ、規律に厳しい生真面目な男に育った。
授業態度は極めて良く、試験の点数もトップクラスである。
「もし手に入れば高得点間違いなし」と噂される黄金のノートが作成されつつあった。
隣の席に居る金髪の生徒は、テオ・メネシス。高等部二年。
クラウスと同じシュヌーシア寮だ。
テオは、教授の声を写し取る様子は見られない。手は頬の下で固定されたままだ。
ぼうっとした表情で、窓の外を眺めていた。
「彼は、イタリア・ルネッサンス期の政治思想家、代表作は君主論です」
この講義を担当しているのは、フランスから来た大学教授。眼鏡が似合う四十代前半の紳士。
帝王学を専攻しているとは思えないほど、柔らかな雰囲気を纏っている。
今日も優しい声で授業をしていた。
「俗に、目的の為なら手段を選ばないといった思想を何と言うでしょう?」
教室を見渡し、目の合った生徒の名を呼んだ。
「クラウス、解りますか?」
テオの視線が窓から隣の席へ移る。クラウスは教授の目を見て答えた。
「マキャベリズムです」
「はい、正解です」
「教授、マキャベリズムについて質問をしても宜しいでしょうか?」
「どうぞ」
「教授が仰った意味は、実際は誤解であり、
マキャベリの思想とは異なっていると唱える説がありますよね?」
生徒達の視線が教壇に向けられる。眼鏡の教授は微笑んだ。
「ええ。今週もしっかり予習してきていますね、クラウス」
「その相違点について、詳しく伺えますか?」
解りました、と言って、教授は解説を始めた。
「一般的にマキャベリズムという言葉は、単に『目的』の為なら手段を選ばないという意味で使われていますが、
マキャベリの思想は、『国の利益』になるなら冷酷非道な手段も厭わない、という考え方です。
国の為、この部分が重要なのです。マキャベリにそう思わせたのは、イタリアに咲いた悪の華、
イタリア統一の為に冷酷非道な暗殺を重ねた、チェーザレ・ボルジアだと言われています」
クラウスは教授の目を見ながら話を聞いている。その熱心な横顔をテオが見守っている。
「当時のイタリアは数多くの小国に分裂していた為、全てを統べる王を求めていたマキャベリにとって、
チェーザレはまさに理想の君主でした。マキャベリはチェーザレを評して、
『彼は広大な目的を達成する為に、自らの行動を制御していた。
新たに君主となる者は彼を見習うべき』という言葉を残しています」
クラウスはノートにメモを取り、赤ペンで素早くラインを引いた。
「チェーザレは毒殺のイメージが強く、自己犠牲のイメージがないかもしれませんが、
彼は父の期待に応え、日夜良く働きました。数々の作戦を成功させ、謀反する部下は容赦なく葬りました。
一時の感情に流されない、彼の非情なまでの冷酷さが、新たな秩序と忠誠を生みだしたのは事実です」
テオは再び空を眺める。雲がゆっくりと泳いでいた。
授業終了の鐘が鳴る。教授は教科書を閉じた。
「今日学んだマキャベリの君主論は、よく復習しておくように。
来週はジャンティエの反マキャベリ論を紐解いていきましょう」
ありがとうございました、クラウスがいつものように折り目正しく礼をした。
帝王学の教室を出た。テオとクラウスは肩を並べて廊下を歩いている。
今日の授業はこれで終わり。帰る先は、二人ともシュヌーシア寮だ。
「テオ、今日の授業、ちゃんと聞いていたか?」
「え? うん。マキャベリズム、だろう? 今日も褒められていたね、クラウス」
「今日のテーマはマキャベリだ。マキャベリズムの部分しか聞いていなかったんじゃないのか?」
テオが笑顔を見せると、クラウスは苦い顔をした。
「クラウス」
誰かに呼ばれた。クラウスとテオは、声のしたほうに振り向く。
そこに居たのはウーティス寮の二人。高等部一年のジョシュアと中等部三年のアンリだった。
声から判断して、クラウスを呼んだのは、バニラボイスと讃えられるほう。
華奢で少女のような顔をしている、クラウスの苦手な相手だ。少し怪訝な様子で尋ねる。
「何だ、アンリ」
アンリが背の高いクラウスを少し見上げる。鼻筋でさえツンと美しく整っている。
「返事、まだ聞いてないんだけど?」
「え? ああ、すまん。忙しくて忘れていた」
「来るよね?」
「行ってもいいんだが、何故お前が俺を誘う?」
「だって、貴方が来ないと、つまらない」
おや、とテオが口を挟む。
「これはまた、いつの間に。デートの約束かい?」
クラウスは呆れている。
「誰がこいつとデートなんかするか。チェスパーティに招待されたんだ」
「それはそれは。素晴らしいパーティだね、アンリ。
私はまだ呼ばれていないようだけど、招待状はこれから届くのかな?」
「届かないよ。貴方は弱いでしょう、チェス。ギャラリーに居ても煩さそうだし」
それまで黙っていたジョシュアが、アンリ、と窘めた。それをアンリは無視して、
「じゃ、必ず来てね、クラウス」
ジョシュアは先輩二人に会釈してから友人の背中を追い駆けた。
校舎を出たところで、また他の生徒に声を掛けられた。
「あっ! お父さーん!」
長い髪を跳ねさせながら、長身の生徒が駆けてくる。
ウーティス寮の高等部一年、シルヴァン・クラークだ。
シルヴァンがこの学院に入学したのは約一年前。入学初日から外泊したワイルドボーイとして一躍有名になった生徒だ。
それ以降も懲りずに、何度も無断外泊、無断外出を重ねた、言わば問題児。
その度に生徒代表のクラウスは手を焼かされてきた。シルヴァンの顔を見ると、条件反射的にしかめっ面になるのも無理はない。
「今日は何だ、シルヴァン」
「卒業パーティの日、決まりましたか?」
「ああ、そのことか。まだ日程の調整ができなくてな。予定より少し早くなりそうだ」
テオの肩が小さく跳ねた。クラウスは生徒手帳に書いたスケジュールを見ながら、
「おそらく、八月の上旬になるだろうな」
「上旬? もう残りひと月じゃないですか!」
「俺が居なくなったからと言って、夜遊びばかりするなよ? 学生は勉強が本分なんだからな」
「そうですね。そんなにしないと思いますよ、夜遊びは」
「本当だろうな?」
「はい。だって、貴方が居なくなったら、夜遊びする意味がなくなっちゃうじゃないですか」
「……どういう意味だ、それは」
「まあまあ。えっとー、八月の上旬に卒業パーティがあるなら、
僕は、夏休みを中旬くらいから取ればオッケーですね」
「別に、無理をして、出席しなくても良いんだぞ?
年に一度の夏期休暇だ。島でじっとしていられないだろう、お前は」
「いいえ。クラウスの卒業パーティには絶対に行きますよ。
僕、貴方には、入学初日からお世話になってますからね」
「ああ……あの頃のお前は酷かったからな」
「もー、酷いだなんてー。僕のおかげでスリリングな日々だったじゃないですか」
「馬鹿。散々人に迷惑を掛けておいて。
しかし、入学当時に比べると、まあ、お前も随分落ち着いたな」
「きゃはっ。お父さんに褒められちゃいました!」
「お父さんって言うな!」
怒られて、シルヴァンは笑っていた。
話が終わると、彼は手を振りながらウーティス寮へ帰っていった。
クラウスとテオは再びシュヌーシア寮へ向かって歩き始める。
テオは俯いたまま言った。
「モテモテだね、クラウス。よくお声が掛かる」
クラウスは苦い顔をする。
「変な言い方をするな。俺の卒業が近いからだろ?
どいつもこいつも、こんな時期になってから、ドタバタと予定を詰め込みやがって。
こっちは卒業準備で忙しいっていうのに」
「さっきの話は本当なのかい? 八月の上旬だなんて。中旬か下旬になるって話だったのに」
「ああ。帰国後は色々と出向くところもあるし、当初の予定より忙しくなりそうだから、
早めに帰って事前に準備しておきたいんだ」
そう、とテオは言った。
「クラウス! クラウス! オイ! クラウス!」
随分と甲高い声で呼ばれた。人間の声ではない。
クラウス達の後方に居たのは、浅黒い肌の生徒。髪は長く、緩やかな波のある金色。
アルファルド寮のジャワハルワールだ。その左肩には白いオウムが乗っていた。
その鳥と親しいテオが笑顔で挨拶する。
「おや。こんにちは、オウム君、ジャワハルワール」
オウムもフランクな様子で片翼を挙げる。
「テオ! タイヨウとウミをアイするオトコ! クラウス、セイトダイヒョウ!」
「相変わらず素晴らしい記憶力だね。流石はジャワハルワールのオウム君」
「テオ、クラウス、イツモイッショ! シュヌーシアのオトーサンとオカーサン!」
「おや。嬉しいことを言ってくれるねえ、オウム君」
「……誰だ、余計なことを教えた奴は」
クラウスはオウムとジャワハルワールを見比べて、人間のほうに尋ねた。
「それで、俺に用か、ジャワハルワール」
答えたのはオウムだった。
「クラウス、パーティのヒ、キマッター?」
ジャワハルワールはクラウスを見つめてはいるが無言だった。オウムは言葉を繰り返す。
「キマッター? キマッター?」
「……いや、まだだが」
クラウスは鳥との会話がやりにくそうだった。
テオは気にならない様子で、鳥に向かって話し掛ける。
「オウム君。パーティは八月の上旬になるそうだよ?」
「ハチガツ、ジョウジュン!」
「オウム君とジャワハルワールもクラウスのパーティに行くのかい?」
「クラウスのパーティ、イクー!」
「では、卒業パーティの日時が決まったら、
アルファルドにも連絡を回さなくてはね、クラウス?」
「本当にお前も来る予定なのか、ジャワハルワール」
クラウスが人間のほうに確認をとると、彼は静かに頷いた。鳥が喋る。
「クラウス、タスケテクレター! クラウス、ツヨイ!」
「おや。クラウス、オウム君を助けたことがあったのかい?」
「いや、まあ、猫を追っ払ったことはあるが」
「猫?」
「もう随分昔のことだが、森で、この鳥が、
猫と一触即発の現場に出くわしたことがあったんだ。
無用な殺生は避けるべきだろう、動物も人間も」
「アリガトー! クラウス、イイヤツ!」
「隅に置けない人だね、オウム君まで虜にするとは」
「だから、お前は可笑しな言い方をするな」
「クラウス! ソツギョウしたら、ジャワハルワールのクニに、アソビにキテネー!
ジャワハルワール、コクオウ! ジャワハルワールにバンザイ!」
ジャワハルワールが踵を返す。向かう方向はアルファルド寮だ。
鳥と人間の後ろ姿を見ながら、クラウスが独りごちる。
「少し見ない間に、またお喋りになったな、あの鳥は」
テオが手を振る。
「オウムくーん、またねー、愛してるよー!」
すると、オウムが反応した。
「マタネー、アイシテルヨー!」
クラウスが肩を落とす。
「テオ。鳥にまでヘンな言葉を教えるんじゃない」
「妬いてくれたのかい、クラウス?」
「違う」
「心配しなくとも、私が誰を一番愛しているかは知っているだろう?」
「……帰るぞ」
「そうだね。私達の家に帰って、ブレイクタイムにしよう。
今日は私もエスプレッソにしようかな。クラウスも飲むだろう?」
ああ、と頷いた後で「いや、やっぱり、いい」
「え?」
「部屋の片付けがある。昨日は生徒代表の仕事があって作業が進まなかったからな」
クラウスが自室で、荷物の整理をしていると、寮生がやってきた。
「おっ。引っ越し準備、進んでるねー」
クセのある茶髪は、彼の性格を示すように縦横無尽に跳ねている。
中等部一年のレオン。生意気な最年少だ。
壁に貼られていた紙を見て、一年生は「うわ」と言った。
「ちょ、クラウス。これ何だよ」
クラウスは本をダンボールに詰めながら、
「何って。見れば解るだろ。卒業準備の計画表だ」
七月から八月まで片付けや手続きのスケジュールが事細かに記されていた。
生真面目で几帳面なクラウスは、何事も事前に計画を立て、その予定通りに事を運びたい性格だった。
試験期間中も、同様の計画表を必ず作るタイプだった。
レオンは綿密なスケジュール表を見て、げっそりしている。
「あんたって、こういうトコまできっちりしてるよな、気持ち悪いくらい」
「人のこと気持ち悪いって言うな。なんだ、レオン。邪魔しに来たのか?」
「どっちかって言うと、俺、あんたの手伝いに来たんだけど?」
「お前が?」
「うん」
そう言って、レオンは右手を差し出した。
「ちょーだい?」
「何を?」
「何でも良いから、あんたの持ち物、いっこくれよ。
引っ越し荷物は少ないほうが良いだろ? 俺がいっこ減らしてやるよ」
レオンは人差し指にひっかけたキーホルダーを振り回しながら、サロンに入った。
錆びた金色の渋い光。放課後のサロンでくつろいでいた生徒達の目に留まる。
レオンと仲が良く、同じ中等部一年のラビが尋ねる。
「あれ? レオン、それ、どうしたの? そんなの持ってたっけ?」
レオンはフフンと笑って「クラウスに貰ったー」
クラウスの部屋。
引き続き片付けをしている最中、ドドドと床が揺れた。
「な、なんだ。地震か?」
シュヌーシアの寮生達が雪崩れ込むように部屋に入ってきた。
「クラウスー! 僕にもなんかちょーだーい!」
「俺も俺もー!」
「なっ!? お前達、全員か!?」
生徒達は元気良く頷いた。
「レオンにはあげたんだろー! 俺にはくれないのかよー! ケチー!」
「いや、しかし、そんな大勢で来られてもだな……その前に言っておきたいことがある!」
「何?」
「廊下は緊急時以外走るな!」
「緊急事態だよね?」
「うん。クラウスの物が貰えるんだもんな」
「きんきゅーじたい、きんきゅーじたい!」
「クラウス、これ、なあにー?」
「おい、何を勝手に開けてるんだ、お前は!」
「俺、これにしよーっと!」
「僕は、これにするー!」
「待て! せめて俺に一度見せてからにしろ!」
「俺は本にしよっかなー。なんかどれも難しそ。ねー、マンガないのー?」
「あるわけないだろう」
「あ! 僕、クラウスのノート欲しい!」
「うわ、俺もそれがいい! 数学のノートくれよ! これで来年の数学は100点だぜ!」
「僕も数学が良かったー! じゃあ、歴史にしようかな。クラウス、歴史取ってる?」
「ノートは絶対にダメだ!」
「えー」
「勉強は自分でしろ。先輩のノートに頼るなど言語道断だ。
大体、今年と来年では内容が変わるから、俺のノートを持っていたところで意味はないぞ」
「ちぇー」
「使ってないペンとかない? クラウスのペンでテスト受けたら、点数上がりそう」
「それイイな!」
「だから、点数は自分で勉強して上げろ」
「お父さん、おんぶー」
「何故、俺の背中に乗る!?」
「俺も乗っちゃおー」
「わーい! 僕もー!」
「……お前ら、俺を押し潰して、そんなに楽しいか」
「たのしー!」
「今すぐ降りろー!」
サロンに戻ってきた生徒達は、クラウスの部屋でゲットしてきた戦利品を見せ合っていた。
「お前、何貰ったのー?」
「消しゴムー」
「うわ、どシンプルなデザインの消しゴムだな。イマドキそんなのないだろ」
「俺はTシャツだぜ!」
「えー! それ、カッコイイ!」
シュヌーシアの生徒達が出ていったクラウスの部屋は、惨状だった。
綺麗に整理整頓してダンボールに入れた荷物まで、順番がめちゃくちゃになった。
シリーズ物の本は、一巻から十巻まで正しく並べたいのに。
箱の外も散らかし放題である。何故、出した物が元の場所に戻せない?
これでは、引っ越し作業の前に大掃除が必要だ。頭が痛い。もう叱る気力さえなかった。
「クー、ラー、ウー、スー!」
叫び声が物凄いスピードで近付いてくる。勢い良くドアが開いた。
ウーティス寮のシルヴァン・クラークだ。
「今ならもれなく、クラウスの使用済みグッズが貰えると聞いたのですが!」
その夜。
クラウスの部屋は、やっと今日の放課後前の状態に戻った。もう消灯時間である。
「疲れた……」
壁に貼ったスケジュール表の前に立つ。今日の日付にバツ印を付けた。クラウスは頭垂れた。
「今日も予定通りに進まなかった」
クラウスの持ち物が貰えるという話が広がり、大勢の生徒が来て、部屋を引っ掻き回していった為、
派手に散らかされた部屋の片付けをしただけで一日終わってしまったのだ。
「只でさえ、作業が遅れているというのに、あいつらめ」
寮生達が居るから、何かと邪魔されて進まないのだ。あいつらが居なければ、スムーズに終わるだろう。
しかし、ここを卒業すれば、そんなこともなくなる。
部屋を荒らされたり、無駄話をしたり、突然おんぶをせがまれるようなことも。
あいつらの誰とも会えなくなるのだから。
「明日こそ、遅れを取り戻さなくてはな」
クラウスは思考を停止させた。
夜中に余計なことを考えて睡眠時間が削れ、明日の講義で眠たくなることほど、無駄なことはない。
そういう時は寝るに限るのだ。今日は早く寝よう。そう思った。
カーテンさえ閉めていなかったことに今更気が付く。
窓辺に立つと、寮を出ていく人影が見えた。
クラウスの部屋は二階。人影の後ろ姿が見える。
特例を除き、夜間に寮の外に出ることは校則で禁じられている。例え学院の敷地内であってもだ。
「誰だ、こんな時間に」
クラウスの視力は1.5を維持しているが、流石に夜では、はっきりとは見えない。
目を凝らす。月光が一瞬見せた髪は金色に見えた。
クラウスは窓を全開にする。部屋に夏の生温い夜風が吹き込んだ。
窓枠に手を掛け、着地点を確認する。二階だが、この高さなら、いける。
月桂樹の青い香りがする。
テオは幹に凭れて、一人で月を見上げていた。木と木の間から、薄雲を纏った月がぼんやり見える。
時折何かの鳴き声が聞こえた。森に棲む夜行性の動物だろう。幾つかの光る目が遠くからテオを見守っていた。
テオは何をするでもなく、ただ月を見ている。白いワイシャツ姿、リボンタイはしていない。
寝間着に着替える前に、ここに来たのだ。
今日もきっと眠るまでに時間がかかるだろうから。
一羽のナイチンゲールが地面に下りてきた。それにテオが気付く。鳥と人間の目が合った。
小鳥は逃げずに、首を左右に傾げている。テオは静かに言った。
「ごめんね、ナイチンゲール君。君達の時間に森に来て。邪魔はしないから、もう少しここに居させておくれ」
小鳥はちょんちょんと歩き、辺りに落ちている葉を啄み始めた。
それを見てテオは、ありがとう、と呟いてまた夜空を仰いだ。
森の上には星空が広がっている。テオの位置からは、その全景は見られない。
木々の隙間から、ほんの少し見えるだけだった。
生暖かい風が、テオの横をゆっくりと通り過ぎていく。
闇夜の中に居ると、このまま朝は来ないんじゃないか、という考えが浮かび、消えていった。
食事中の小鳥が急に木の上に飛び立った。どうしたんだろう、と思った時、声が聞こえた。
「夜間に出歩いてる奴、出て来い! おい! 居るんだろう! 隠れても無駄だぞ!」
駆けてくる足音と共に、叱る声が近付いてくる。
彼はテオの前に姿を現した。眉間に皺を寄せた、いつもの顔をして。
「やっぱりお前か、テオ」
「クラウス……どうして、ここに」
「お前が寮を出ていくのを見たんだ。夜間の外出は校則違反だろうが!」
「あ、うん。でも、クラウスだって、ここに居るじゃないか?」
「俺は……お前を連れ戻しに来たんだ! お前は何やってたんだ、こんな時間に」
「別に何も。今宵は眠れなくてね」
「具合が悪いのか? なら、行く場所は森ではなく保健室だろう」
「ううん。身体は何ともないから」
「そうなのか? じゃあ、寮に戻るぞ」
「うん」
暗い森を歩く。月明かりだけが森を仄かに照らしている。
少し遠くに見えるウーティス寮の明かりが、森の出口を示す目印だ。
日中は快く聞こえる鳥の鳴き声も、夜中では不気味にさえ聞こえた。
草を踏む二人の足音がやけに大きく響いた。
歩幅が大きいクラウスが、テオより先に進んでいく。
少し離れれば、その背中は闇に紛れて、見えなくなりそうだった。
今なら、追い駆ければ彼に手が届く。名を呼べば貴方は止まってくれる。
だけど、1か月後には。
「遅いぞ、テオ。何、立ち止まってる」
腰に手を置いている。
「夜間に出歩くことは禁止事項なんだぞ? 誰かに見られたら示しがつかん。早く歩け」
「うん」
テオは重い足を踏み出した。
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