■ヒトリの夜2 続編
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シェイクは、徐々に緩やかなリズムになり、終わった。
マスターは自分の前に二つのグラスを置く。
逆三角形のショートグラスに注がれたのは、
琥珀色のカクテルだった。
すっと私達の前にグラスを差し出す仕草さえ、美しい。
マスターの所作は、全てが洗練されたものだった。
「お待たせ致しました。サイドカーでございます」
「サイドカー。これが司令の『いつもの』ですか」
「ああ。女殺しの飲み物さ」
「女殺し?」
司令はサイドカーに口付けている。
「クロイツさんは、車のサイドカーをご存知ですか?」
私に答えてくれたのは、少し困った顔をしたマスターだった。
「本体の車の脇に、屋根のない、
小さな車が付いた二輪車のことなのですが」
とマスターが付け加える。おかげで映像が思い浮かんだ。
「ああ。昔あったバイクの一種ですよね? 側車付きの」
「お若いのによくご存知ですね。そうです。
サイドカーは、運転手が男性で、同乗者には女性、
つまり、小さな側車には、女性を乗せることが多い車でした。
仮にサイドカーが事故を起こした場合、
本体より側車のほうが衝突するケースが多く、
男性より女性の死亡率が高い為、
サイドカーは女殺しの車、と呼ばれることもあったそうです。
そして、このカクテルですが」
マスターは、そっと手で私のグラスを示す。
「こちらはブランデー、ホワイトキュラソー、
レモンジュースで作られるカクテルでございます。
ベースはアルコールの強いブランデーですが、
柑橘系の爽やかな香りと、程好い甘味があり、
女性にも飲み易い為、つい飲み過ぎて、女性が潰れてしまう。
そのことから、女殺しのカクテル、
サイドカーと名付けられた。そういった説があるのです」
「女殺しのカクテルですか」
思いの外、物騒で残酷な由来。
ならば何故、と私の中にひとつの疑問が浮かんだ時、
司令は笑みを浮かべながらこう言った。
「だからと言って、今夜お前を酔い潰そう、
と思っているわけじゃないからな?」
「当たり前です。私は女性ではありませんよ」
そう返しながら、私は先の疑問を口にすることができなくなる。
ならば何故、貴方はこれを飲み続けているのですか、と。
「お二方、お食事はお済みでしたか?」
「いいや。ここで食わせて貰おうと思って来たからな」
「ありがとうございます。何かご希望はございますか」
「何でも良い。任せる。適当に出してくれ」
「畏まりました。クロイツさん、
何かお嫌いな食べ物はございますか」
「いいえ、特にありません」
「良いことですね。ゲーテさんは、
野菜や牛乳がダメだと仰るんですよ。子供みたいでしょう?」
「おい、マスター。何故それをこいつに言う」
「おや。内緒のお話でしたか?
こちらは内緒だとは言われてなかったと思いますが」
「言う必要がないだろう」
「それは失礼致しました」
マスターは上品に笑っている。
「クロイツさん? 今のお話、
他の方には内緒にしてあげて下さいね?」
「あ、はい」
私はびっくりした。
こんなふうに誰かにからかわれている司令を、
今まで見たことがなかったのだ。
左隣を覗き見ると、司令は不貞腐れた子供のような顔をしていた。
本当に今日はどうしたというのだろう。
初めて見る司令ばかりだ。
司令がこの島に居るのは、あと二日しかないというのに。
マスターが作ってくれた美味しいパスタとチキンを食べながら、
司令とマスターと私は、三人で他愛のない話をした。
それは、とるに足らない話ばかりだったけれど、
今、私は、とても特別な時間を過ごしていて、
それが、刻一刻と、終わりに近付いていることを感じていた。
もうひとつ、私には気がかりなことがあった。
この夜、司令はご自分が二日後に退任することについて、
まだ一言も口にしていなかったのだ。
マスターには既に話してあるのだろうかとも思ったが、
それにしては、マスターがそんな素振りを全く見せない。
マスターは本当にまだ知らないのではないだろうか。
司令は、マスターに何も告げずに、
この島を去るおつもりなのだろうか。
もしそれが、司令のご意思なら、尊重すべきで、
部外者の私に、とやかく言う権利はない。
けれど、今までお世話になってきた、このマスターには、
きちんと別れの挨拶をしたほうが良いのではないだろうか。
司令とマスターが笑い合う度に、
私の頭の隅では、そんなことが散らついていた。
「ゲーテさんのグラスが空きそうですね。
次は何をお飲みになりますか。それとも、
今夜はそろそろ、止めておいたほうが良いでしょうかね」
「そうだな、じゃあ、次で最後にしよう。
最後のカクテルはマスターに任せる。
あんたが作りたいものを飲ませてくれ」
「畏まりました。何をお作りしましょうかねえ」
そう言いながら、マスターが私を見る。
まだ半分程残っているグラスを見て、
「クロイツさんは、どうなさいます?」
今夜は飲み過ぎている、と感じていた。
こんなに酒を飲んだのは久し振りだ。
これ以上グラスを重ねたら、
司令の前で醜態を晒してしまうかもしれない。
「結構です。私はまだありますので」
「畏まりました。では冷たいお水はいかがでしょう?」
有難い心遣いに、私はほっとした。
「頂きます」
「なんだ、若いくせに弱いんだな、クロイツは」
「ゲーテさんが飲ませ過ぎなんですよ。
今夜はどうしたんです? いつもより、
ペースが早いんじゃありませんか?」
「ん? そうか?」
「はい」
「なら、そうかもしれんなあ」
もう氷水に近いであろうカクテルを、
司令が煽り、手元に置いた。
私はそっと司令の横顔を伺う。
その時、私は見てしまったのだ。
司令の老いた右手が、もう空になったロックグラスに、
ほんの少し、力を込めたのを。
「マスター。そう言えば、まだ言っていなかったがな」
司令はロックグラスを見ながら、言った。
「俺はこの島を発つ。二日後だ」
私はマスターを見上げる。
マスターは絶句していたが、やがて、こう呟いた。
「どうして……そんな大事なことを、今まで黙っていたんです?」
「いつ言うかくらい、俺の自由だろう」
マスターは微かに笑う。
「勝手な人ですね。では次が、
本当に最後のカクテルじゃないですか」
「ああ。そうなるな」
「そんなこと、急に言われたら、
最後に何をお作りして良いのか、解りません」
「それは、あんたの腕の見せ所だろう?
一番旨い酒を飲ませてくれよ」
マスターは肩を落としてみせる。
「解りました。一番美味しいカクテルをお作りしますよ」
そう言って、マスターは冷蔵庫を開けた。
マスターの背に隠れて、私達からは見えないが、
何かのボトルを手にし、シェイカーに注いだ音がした。
「楽しみだな」
それは司令の独り言だったのかもしれない。
けれど私は、そうですね、と相槌を打った。
「そう言えば、あの夜も」
私のカクテルグラスを見ながら、しみじみとマスターは言った。
マスターの脳裏にも、三年前の夜が甦ってきたらしい。
「ゲーテさんに連れられて、いらしたんですから、
一杯目はサイドカー、でしたよね?」
「はい。では最後の一杯も覚えていますか?
マスターがあの方に、最後に作ったカクテルを」
マスターは苦笑するように言った。
「クロイツさんも、意地悪なことを仰いますね。
あれはカクテルなんて呼べない、
ただのお水だったじゃありませんか」
あの夜、マスターが最後に作ったものは、
氷を入れてシェイクした、ただの冷たい水だった。
「今思うと、少しお恥ずかしいですね」
「いいえ。あの日、かなりお酒を飲まれていた司令には、
『ウォーター』という名のカクテルが、最上の一杯だったと思います。
司令も『参った参った』と仰っていたじゃないですか」
あんなに笑っている司令も、それまで見たことがなかった。
「マスターには敵わんな」そう言って、手の甲で目許を拭っていた。
あれは本当に、笑い過ぎて流れた雫だったのだろうか。
「ねえ、マスター。司令は、よくここに通ってらしたんですか?」
「ええ。ポツポツと。二日続けていらしたと思ったら、
二か月、お顔を見せて下さらなかったり」
「司令は、いつもお一人で?」
「の、ほうが多かったですね。
同僚と飲むのは嫌いなんだ、なんて仰ってましたけど。
ああ、クロイツさんの前で言うことではありませんでしたね」
「構いませんよ。あの方は職場でも、孤高の存在でしたから」
「孤高。そうですね、そういう御方でした」
それから、少しの酒と料理を頂いて、私は帰ることにした。
また近いうちにいらして下さいね、マスターは私にそう言ってくれた。
店の外に出て、歩き出した時。
今まで忘れていた言葉が、ふと降りてきた。
あの夜。帰り際、店の前で司令はこう呟いたのだ。
――なんだ。案外、面白いものだな――
何がです、と私は聞いた。
――いや。帰るぞ――
私には貴方の背を追うことしかできなかった。
あれから三年経って、私は同じ店の前に立っている。
私は一人で店を見上げる。
旧市街に佇む、一軒の静かなバー。
私は一度だけ、貴方とここで飲んだ。
fin
マスターは自分の前に二つのグラスを置く。
逆三角形のショートグラスに注がれたのは、
琥珀色のカクテルだった。
すっと私達の前にグラスを差し出す仕草さえ、美しい。
マスターの所作は、全てが洗練されたものだった。
「お待たせ致しました。サイドカーでございます」
「サイドカー。これが司令の『いつもの』ですか」
「ああ。女殺しの飲み物さ」
「女殺し?」
司令はサイドカーに口付けている。
「クロイツさんは、車のサイドカーをご存知ですか?」
私に答えてくれたのは、少し困った顔をしたマスターだった。
「本体の車の脇に、屋根のない、
小さな車が付いた二輪車のことなのですが」
とマスターが付け加える。おかげで映像が思い浮かんだ。
「ああ。昔あったバイクの一種ですよね? 側車付きの」
「お若いのによくご存知ですね。そうです。
サイドカーは、運転手が男性で、同乗者には女性、
つまり、小さな側車には、女性を乗せることが多い車でした。
仮にサイドカーが事故を起こした場合、
本体より側車のほうが衝突するケースが多く、
男性より女性の死亡率が高い為、
サイドカーは女殺しの車、と呼ばれることもあったそうです。
そして、このカクテルですが」
マスターは、そっと手で私のグラスを示す。
「こちらはブランデー、ホワイトキュラソー、
レモンジュースで作られるカクテルでございます。
ベースはアルコールの強いブランデーですが、
柑橘系の爽やかな香りと、程好い甘味があり、
女性にも飲み易い為、つい飲み過ぎて、女性が潰れてしまう。
そのことから、女殺しのカクテル、
サイドカーと名付けられた。そういった説があるのです」
「女殺しのカクテルですか」
思いの外、物騒で残酷な由来。
ならば何故、と私の中にひとつの疑問が浮かんだ時、
司令は笑みを浮かべながらこう言った。
「だからと言って、今夜お前を酔い潰そう、
と思っているわけじゃないからな?」
「当たり前です。私は女性ではありませんよ」
そう返しながら、私は先の疑問を口にすることができなくなる。
ならば何故、貴方はこれを飲み続けているのですか、と。
「お二方、お食事はお済みでしたか?」
「いいや。ここで食わせて貰おうと思って来たからな」
「ありがとうございます。何かご希望はございますか」
「何でも良い。任せる。適当に出してくれ」
「畏まりました。クロイツさん、
何かお嫌いな食べ物はございますか」
「いいえ、特にありません」
「良いことですね。ゲーテさんは、
野菜や牛乳がダメだと仰るんですよ。子供みたいでしょう?」
「おい、マスター。何故それをこいつに言う」
「おや。内緒のお話でしたか?
こちらは内緒だとは言われてなかったと思いますが」
「言う必要がないだろう」
「それは失礼致しました」
マスターは上品に笑っている。
「クロイツさん? 今のお話、
他の方には内緒にしてあげて下さいね?」
「あ、はい」
私はびっくりした。
こんなふうに誰かにからかわれている司令を、
今まで見たことがなかったのだ。
左隣を覗き見ると、司令は不貞腐れた子供のような顔をしていた。
本当に今日はどうしたというのだろう。
初めて見る司令ばかりだ。
司令がこの島に居るのは、あと二日しかないというのに。
マスターが作ってくれた美味しいパスタとチキンを食べながら、
司令とマスターと私は、三人で他愛のない話をした。
それは、とるに足らない話ばかりだったけれど、
今、私は、とても特別な時間を過ごしていて、
それが、刻一刻と、終わりに近付いていることを感じていた。
もうひとつ、私には気がかりなことがあった。
この夜、司令はご自分が二日後に退任することについて、
まだ一言も口にしていなかったのだ。
マスターには既に話してあるのだろうかとも思ったが、
それにしては、マスターがそんな素振りを全く見せない。
マスターは本当にまだ知らないのではないだろうか。
司令は、マスターに何も告げずに、
この島を去るおつもりなのだろうか。
もしそれが、司令のご意思なら、尊重すべきで、
部外者の私に、とやかく言う権利はない。
けれど、今までお世話になってきた、このマスターには、
きちんと別れの挨拶をしたほうが良いのではないだろうか。
司令とマスターが笑い合う度に、
私の頭の隅では、そんなことが散らついていた。
「ゲーテさんのグラスが空きそうですね。
次は何をお飲みになりますか。それとも、
今夜はそろそろ、止めておいたほうが良いでしょうかね」
「そうだな、じゃあ、次で最後にしよう。
最後のカクテルはマスターに任せる。
あんたが作りたいものを飲ませてくれ」
「畏まりました。何をお作りしましょうかねえ」
そう言いながら、マスターが私を見る。
まだ半分程残っているグラスを見て、
「クロイツさんは、どうなさいます?」
今夜は飲み過ぎている、と感じていた。
こんなに酒を飲んだのは久し振りだ。
これ以上グラスを重ねたら、
司令の前で醜態を晒してしまうかもしれない。
「結構です。私はまだありますので」
「畏まりました。では冷たいお水はいかがでしょう?」
有難い心遣いに、私はほっとした。
「頂きます」
「なんだ、若いくせに弱いんだな、クロイツは」
「ゲーテさんが飲ませ過ぎなんですよ。
今夜はどうしたんです? いつもより、
ペースが早いんじゃありませんか?」
「ん? そうか?」
「はい」
「なら、そうかもしれんなあ」
もう氷水に近いであろうカクテルを、
司令が煽り、手元に置いた。
私はそっと司令の横顔を伺う。
その時、私は見てしまったのだ。
司令の老いた右手が、もう空になったロックグラスに、
ほんの少し、力を込めたのを。
「マスター。そう言えば、まだ言っていなかったがな」
司令はロックグラスを見ながら、言った。
「俺はこの島を発つ。二日後だ」
私はマスターを見上げる。
マスターは絶句していたが、やがて、こう呟いた。
「どうして……そんな大事なことを、今まで黙っていたんです?」
「いつ言うかくらい、俺の自由だろう」
マスターは微かに笑う。
「勝手な人ですね。では次が、
本当に最後のカクテルじゃないですか」
「ああ。そうなるな」
「そんなこと、急に言われたら、
最後に何をお作りして良いのか、解りません」
「それは、あんたの腕の見せ所だろう?
一番旨い酒を飲ませてくれよ」
マスターは肩を落としてみせる。
「解りました。一番美味しいカクテルをお作りしますよ」
そう言って、マスターは冷蔵庫を開けた。
マスターの背に隠れて、私達からは見えないが、
何かのボトルを手にし、シェイカーに注いだ音がした。
「楽しみだな」
それは司令の独り言だったのかもしれない。
けれど私は、そうですね、と相槌を打った。
「そう言えば、あの夜も」
私のカクテルグラスを見ながら、しみじみとマスターは言った。
マスターの脳裏にも、三年前の夜が甦ってきたらしい。
「ゲーテさんに連れられて、いらしたんですから、
一杯目はサイドカー、でしたよね?」
「はい。では最後の一杯も覚えていますか?
マスターがあの方に、最後に作ったカクテルを」
マスターは苦笑するように言った。
「クロイツさんも、意地悪なことを仰いますね。
あれはカクテルなんて呼べない、
ただのお水だったじゃありませんか」
あの夜、マスターが最後に作ったものは、
氷を入れてシェイクした、ただの冷たい水だった。
「今思うと、少しお恥ずかしいですね」
「いいえ。あの日、かなりお酒を飲まれていた司令には、
『ウォーター』という名のカクテルが、最上の一杯だったと思います。
司令も『参った参った』と仰っていたじゃないですか」
あんなに笑っている司令も、それまで見たことがなかった。
「マスターには敵わんな」そう言って、手の甲で目許を拭っていた。
あれは本当に、笑い過ぎて流れた雫だったのだろうか。
「ねえ、マスター。司令は、よくここに通ってらしたんですか?」
「ええ。ポツポツと。二日続けていらしたと思ったら、
二か月、お顔を見せて下さらなかったり」
「司令は、いつもお一人で?」
「の、ほうが多かったですね。
同僚と飲むのは嫌いなんだ、なんて仰ってましたけど。
ああ、クロイツさんの前で言うことではありませんでしたね」
「構いませんよ。あの方は職場でも、孤高の存在でしたから」
「孤高。そうですね、そういう御方でした」
それから、少しの酒と料理を頂いて、私は帰ることにした。
また近いうちにいらして下さいね、マスターは私にそう言ってくれた。
店の外に出て、歩き出した時。
今まで忘れていた言葉が、ふと降りてきた。
あの夜。帰り際、店の前で司令はこう呟いたのだ。
――なんだ。案外、面白いものだな――
何がです、と私は聞いた。
――いや。帰るぞ――
私には貴方の背を追うことしかできなかった。
あれから三年経って、私は同じ店の前に立っている。
私は一人で店を見上げる。
旧市街に佇む、一軒の静かなバー。
私は一度だけ、貴方とここで飲んだ。
fin
■ヒトリの夜1 続編
新しい司令官が来てから一週間、予定通りに引継ぎは行われた。
このまま何も問題がなければ、二日後、退役した者達と共に、
ゲーテ司令はこの島を去ることになっていた。
アイヴィーという男は、年齢や見た目に見合わず、
高い戦闘能力を持ち、要領は極めて良く、
仕事の飲み込みはとても早かった。
その日も会議室にて、ゲーテ司令、新しい司令官、副司令の私、
以上の三名で、ミーティングが行われた。
若い司令官は、まるで音楽でも聞いているかのような軽い頷き方で、
ゲーテ司令直々に語られる重要な機密事項を聞いていた。
私は「貴方は本当に話を聞いているのか」と問い質したい気持ちだったが、
私の思いに反して、ミーティングはスムーズに進んでいった。
「説明は以上だ。何か質問は?」
「いえ。大体、解りましたー」
どこか気だるい話し方は、更に私を苛々させた。
だが、ゲーテ司令は何故か、新しい司令官に満足しているらしく、
このところずっと、ご機嫌の良い様子だった。
「なら、今日はこれで終わりだ。
君はもう上がって良い。下でピコを待たせている」
「あ、はい。じゃあ、お先に失礼しまーす」
青いファイルを脇に抱えて、新しい司令官が立ち去る。
会議室はゲーテ司令と私だけになった。
本当にこれからあの男の下で働くことになるのかと思うと、
私は溜め息を吐きたい気持ちだった。
無論この時は、ゲーテ司令の前だったので控えたが。
すると、軽い笑い声が聞こえた。
振り返ると、司令は一人で笑っていた。
「司令? 何が可笑しいのです?」
「お前、に決まっているだろう。俺とお前しか居ないのに」
「私が今、何か面白いことをしましたか?」
司令は窓辺に凭れ、また少し笑った。
「気に入らんか? 新しい上官は」
見抜かれてる。
「私は、そのようなことを述べる立場にありません」
「存外、若い男だったことが腑に落ちないんだろう?
だが、それは、去年お前がここに来た時と同じだ」
新しい司令官程ではないが、
確かに私も、副司令というにはまだ若い年齢だった。
「俺もいい加減、年だからな。交代は免れないと思っていたが。
想像以上に、理事会は我々の若返りをお望みらしい。
いや、警備だけの話ではないかもしれんな。
もうすぐ、何か、全てが新しく変わる時が来るのかもしれん」
「どういうことです?」
「いや、何でもない。気にするな」
気にはなるが、上官の命令は絶対だ。
「では、私も失礼致します」
「待て、クロイツ」
窓の向こうには、夕陽色に染まった海が広がっている。
「何でしょうか」
「お前、今夜、空いているか」
「え?」
私がここに着任してから一年。
司令にそんなことを聞かれたのは初めてだった。
途惑いながら、私は「ええ」と答えた。
「よし。では俺に付き合え」
ゲーテ司令に連れて来られたのは旧市街。
暗く明るい街を歩きながら、私は少し緊張していた。
これまで仕事以外で、司令と二人で外出したことはなかった。
司令も私も仕事帰りに同僚と連れ立って、
飲みに行くようなことはしない主義だったのだ。
司令が島を離れるのは二日後。
これが最初で最後の夜になることは明白だった。
「ここだ」
司令が足を止めたのは、一軒家風の店の前だった。
暗くて、全貌が良く見えないが、
木製のコテージのような雰囲気だ。
「ここはレストラン、ですか?」
「バーさ」
司令がドアを開ける。私はその背中に続いた。
「いらっしゃいませ。おや、ゲーテさん」
丸い眼鏡をかけたロマンスグレイのマスターは、
司令の顔を見ると、にこりと笑った。
「こんばんは、マスター」
その短いやり取りで、二人は親しい間柄らしいと知れた。
司令は度々この店に来ていたのだろうか。
司令は迷わず、カウンターに向かい、
左端の椅子を引いたので、私はその隣に座った。
「どうぞ」
マスターが私達に水とメニューを差し出す。
彼は、ホワイトシャツに赤いチェックのベスト。
襟元には黒い蝶ネクタイという装いだった。
「ゲーテさんにお連れの方がいらっしゃるとはお珍しいですね。
そちらは、ご同僚の方ですか?」
「ああ。去年着任した副司令のクロイツと言う。覚えておいてくれ」
躊躇わず、司令は私のことをそう紹介した。
「ああ、こちらが」
マスターは嬉しそうに私を見た。
「お目にかかれて光栄です、クロイツさん。
改めまして、ようこそ、いらっしゃいませ」
表向き、我々の立場は、あくまで学院専属のドライバー。
必要な時を除き、一般の生徒や島民に対して、
自分が警備の人間であることは明かさないのが原則だ。
なのに、こちらから素性を明かすとは、
一体どういうことなのか。
「司令、何故――」
思わず、役職名のままで呼んでしまった。
私の考えを見抜いたらしい司令は頬杖を吐きながら、こう言った。
「ここで身分を隠しても、何の得もないからさ。
前の司令官も、マスターには世話になっていたようだしな」
そのようなことがあるのか。
二代に渡って、司令官が通う店があるなんて。
私は、はたと思い至った。
「もしや、我々の関係者の方なのですか?」
すると、二人から笑われた。
「いえいえ、私はただのバー店員ですよ。
お二方のお勤め先からは日々恩恵を受けるばかりです。
私達島民が、こうして毎日無事に生きていられるのは、
皆様のおかげですから。本当にいつもありがとうございます」
「いえ……」
島の警備に従事してから、誰かに礼を言われたのは、
この時が初めてで、私は曖昧な返事しかできなかった。
「相変わらず口が上手いな、マスターは」
そう言って司令は水を煽る。
「相変わらず意地悪ですね、ゲーテさんは。
私は本当にそう思っているのに」
司令が誰かと親しげに話すのを、私は初めて見た気がした。
追憶の塔に居る時の司令は、常に孤高の存在で、
誰かと冗談を言い合ったりするような場面は見たことがない。
普段、私達に命令を飛ばしている時とは、
明らかに違う司令が、ここに居る。
こんなに穏やかな表情をした司令を、私は知らない。
マスターと言葉を交わしている司令は、
軍のトップに立つ存在ではなく、ごく普通の紳士に見えた。
「ところで、マスター。まだ酒を貰ってないんだが?」
「すみません。ゲーテさんはいつもの、ですか?」
「ああ」
「クロイツさんは、何をお飲みになりますか?」
メニュー表に手を伸ばそうと思った時、
スルリとメニュー表を取られた。
「こいつも俺と同じので良いさ」
そう言って、司令はメニュー表を立てかけてしまった。
「もう」マスターは苦笑しながら「クロイツさん、宜しいですか?」
「ええ」
何が出てくるか解らなかったが「同じものをお願いします」と答えた。
「畏まりました。少々お待ち下さいませ」
マスターは、背後に並ぶたくさんのボトルの中から、
迷わず三つ、手に取った。
ボトルの外見だけでは何が入っているか、私には解らない。
司令の「いつもの」は、何と言う名前の酒なのだろう。
そう話しかけてみようかと、司令を見た時、私は息を呑んだ。
憂いを帯びた横顔。マスターを見つめる司令の眼差しは、
余りにも真剣だった。こうして、マスターのシェイクを見るのも、
今夜が最後だと、そう思っていらっしゃるのかもしれない。
司令に倣い、私もマスターを拝見することにした。
全てのドリンクを入れた銀色のシェイカーがキュッと閉まる。
マスターがシェイカーを掲げた途端、
まるで映画か芝居を見ているような気持ちになった。
カタン、カタン、と刻まれる音。
オレンジ色のライトを浴びた、彼の立ち姿は美しく、
その瞬間、カウンターの向こうは、舞台だった。
カクテルができるまでの間、
司令は一言も発さずに、マスターをただ見ていた。
→
このまま何も問題がなければ、二日後、退役した者達と共に、
ゲーテ司令はこの島を去ることになっていた。
アイヴィーという男は、年齢や見た目に見合わず、
高い戦闘能力を持ち、要領は極めて良く、
仕事の飲み込みはとても早かった。
その日も会議室にて、ゲーテ司令、新しい司令官、副司令の私、
以上の三名で、ミーティングが行われた。
若い司令官は、まるで音楽でも聞いているかのような軽い頷き方で、
ゲーテ司令直々に語られる重要な機密事項を聞いていた。
私は「貴方は本当に話を聞いているのか」と問い質したい気持ちだったが、
私の思いに反して、ミーティングはスムーズに進んでいった。
「説明は以上だ。何か質問は?」
「いえ。大体、解りましたー」
どこか気だるい話し方は、更に私を苛々させた。
だが、ゲーテ司令は何故か、新しい司令官に満足しているらしく、
このところずっと、ご機嫌の良い様子だった。
「なら、今日はこれで終わりだ。
君はもう上がって良い。下でピコを待たせている」
「あ、はい。じゃあ、お先に失礼しまーす」
青いファイルを脇に抱えて、新しい司令官が立ち去る。
会議室はゲーテ司令と私だけになった。
本当にこれからあの男の下で働くことになるのかと思うと、
私は溜め息を吐きたい気持ちだった。
無論この時は、ゲーテ司令の前だったので控えたが。
すると、軽い笑い声が聞こえた。
振り返ると、司令は一人で笑っていた。
「司令? 何が可笑しいのです?」
「お前、に決まっているだろう。俺とお前しか居ないのに」
「私が今、何か面白いことをしましたか?」
司令は窓辺に凭れ、また少し笑った。
「気に入らんか? 新しい上官は」
見抜かれてる。
「私は、そのようなことを述べる立場にありません」
「存外、若い男だったことが腑に落ちないんだろう?
だが、それは、去年お前がここに来た時と同じだ」
新しい司令官程ではないが、
確かに私も、副司令というにはまだ若い年齢だった。
「俺もいい加減、年だからな。交代は免れないと思っていたが。
想像以上に、理事会は我々の若返りをお望みらしい。
いや、警備だけの話ではないかもしれんな。
もうすぐ、何か、全てが新しく変わる時が来るのかもしれん」
「どういうことです?」
「いや、何でもない。気にするな」
気にはなるが、上官の命令は絶対だ。
「では、私も失礼致します」
「待て、クロイツ」
窓の向こうには、夕陽色に染まった海が広がっている。
「何でしょうか」
「お前、今夜、空いているか」
「え?」
私がここに着任してから一年。
司令にそんなことを聞かれたのは初めてだった。
途惑いながら、私は「ええ」と答えた。
「よし。では俺に付き合え」
ゲーテ司令に連れて来られたのは旧市街。
暗く明るい街を歩きながら、私は少し緊張していた。
これまで仕事以外で、司令と二人で外出したことはなかった。
司令も私も仕事帰りに同僚と連れ立って、
飲みに行くようなことはしない主義だったのだ。
司令が島を離れるのは二日後。
これが最初で最後の夜になることは明白だった。
「ここだ」
司令が足を止めたのは、一軒家風の店の前だった。
暗くて、全貌が良く見えないが、
木製のコテージのような雰囲気だ。
「ここはレストラン、ですか?」
「バーさ」
司令がドアを開ける。私はその背中に続いた。
「いらっしゃいませ。おや、ゲーテさん」
丸い眼鏡をかけたロマンスグレイのマスターは、
司令の顔を見ると、にこりと笑った。
「こんばんは、マスター」
その短いやり取りで、二人は親しい間柄らしいと知れた。
司令は度々この店に来ていたのだろうか。
司令は迷わず、カウンターに向かい、
左端の椅子を引いたので、私はその隣に座った。
「どうぞ」
マスターが私達に水とメニューを差し出す。
彼は、ホワイトシャツに赤いチェックのベスト。
襟元には黒い蝶ネクタイという装いだった。
「ゲーテさんにお連れの方がいらっしゃるとはお珍しいですね。
そちらは、ご同僚の方ですか?」
「ああ。去年着任した副司令のクロイツと言う。覚えておいてくれ」
躊躇わず、司令は私のことをそう紹介した。
「ああ、こちらが」
マスターは嬉しそうに私を見た。
「お目にかかれて光栄です、クロイツさん。
改めまして、ようこそ、いらっしゃいませ」
表向き、我々の立場は、あくまで学院専属のドライバー。
必要な時を除き、一般の生徒や島民に対して、
自分が警備の人間であることは明かさないのが原則だ。
なのに、こちらから素性を明かすとは、
一体どういうことなのか。
「司令、何故――」
思わず、役職名のままで呼んでしまった。
私の考えを見抜いたらしい司令は頬杖を吐きながら、こう言った。
「ここで身分を隠しても、何の得もないからさ。
前の司令官も、マスターには世話になっていたようだしな」
そのようなことがあるのか。
二代に渡って、司令官が通う店があるなんて。
私は、はたと思い至った。
「もしや、我々の関係者の方なのですか?」
すると、二人から笑われた。
「いえいえ、私はただのバー店員ですよ。
お二方のお勤め先からは日々恩恵を受けるばかりです。
私達島民が、こうして毎日無事に生きていられるのは、
皆様のおかげですから。本当にいつもありがとうございます」
「いえ……」
島の警備に従事してから、誰かに礼を言われたのは、
この時が初めてで、私は曖昧な返事しかできなかった。
「相変わらず口が上手いな、マスターは」
そう言って司令は水を煽る。
「相変わらず意地悪ですね、ゲーテさんは。
私は本当にそう思っているのに」
司令が誰かと親しげに話すのを、私は初めて見た気がした。
追憶の塔に居る時の司令は、常に孤高の存在で、
誰かと冗談を言い合ったりするような場面は見たことがない。
普段、私達に命令を飛ばしている時とは、
明らかに違う司令が、ここに居る。
こんなに穏やかな表情をした司令を、私は知らない。
マスターと言葉を交わしている司令は、
軍のトップに立つ存在ではなく、ごく普通の紳士に見えた。
「ところで、マスター。まだ酒を貰ってないんだが?」
「すみません。ゲーテさんはいつもの、ですか?」
「ああ」
「クロイツさんは、何をお飲みになりますか?」
メニュー表に手を伸ばそうと思った時、
スルリとメニュー表を取られた。
「こいつも俺と同じので良いさ」
そう言って、司令はメニュー表を立てかけてしまった。
「もう」マスターは苦笑しながら「クロイツさん、宜しいですか?」
「ええ」
何が出てくるか解らなかったが「同じものをお願いします」と答えた。
「畏まりました。少々お待ち下さいませ」
マスターは、背後に並ぶたくさんのボトルの中から、
迷わず三つ、手に取った。
ボトルの外見だけでは何が入っているか、私には解らない。
司令の「いつもの」は、何と言う名前の酒なのだろう。
そう話しかけてみようかと、司令を見た時、私は息を呑んだ。
憂いを帯びた横顔。マスターを見つめる司令の眼差しは、
余りにも真剣だった。こうして、マスターのシェイクを見るのも、
今夜が最後だと、そう思っていらっしゃるのかもしれない。
司令に倣い、私もマスターを拝見することにした。
全てのドリンクを入れた銀色のシェイカーがキュッと閉まる。
マスターがシェイカーを掲げた途端、
まるで映画か芝居を見ているような気持ちになった。
カタン、カタン、と刻まれる音。
オレンジ色のライトを浴びた、彼の立ち姿は美しく、
その瞬間、カウンターの向こうは、舞台だった。
カクテルができるまでの間、
司令は一言も発さずに、マスターをただ見ていた。
→
■警備組織副司令官
「そーだねー。その辺は一回クラウスに相談してからかなー。
キビシイからね、今年の生徒代表は」
聖アルフォンソ島、警備司令本部。
定時の退勤間際、我が組織の若き司令官は仕事の電話をしていた。
相手は、学院の保健教師であり、
我々の協力者でもある、ドクター・ソクーロフだ。
司令の周りには私、副司令のラインハルト・クロイツを含め、
数名の部下がデスクでそれぞれの仕事をしていた。
このところ、島は平穏そのものな為、
取り立てて急ぎの仕事はない。緩急の差が激しい業務だ。
「あ、ねえ、ソクちゃん。ところでさー、晩メシもう食べたー?」
司令の電話が業務連絡から逸脱し始めた。
組織の電話を私的に利用することは禁止されているというのに。
最近の司令は、こうして度々、規律を破る。
「じゃあさ、これからご一緒しない?
うん。コッチももうすぐ帰れそうだから、
終わったらソッチ迎えに行ってイイ?」
部下の一人が肘で隣に居る仲間を小突く。
突かれたほうの男は笑って、司令を見上げた。
「じゃあ、行くね。ハーイ。んじゃ、あとでー」
そう言って司令は受話器を置いた。
同年代の部下達が、ニヤニヤしながら言う。
「良いですね。アイヴィーさんは仕事帰りにデートですか」
「エエッ!? 何言ってんのー?
今の聞こえてたでしょ? 相手、ソクちゃんだよ?」
「ほら、やっぱりデートじゃないですか」
「ち、違うよ、もー!」
慌てて否定する司令を見て、部下達が笑う。
からかわれてるいるのだ。司令は耳を少し赤くしている。
「えと、じゃあ俺、そろそろ帰るからね」
部下達は「お疲れ様でーす」と笑顔で見送っていた。
司令の姿が見えなくなると、部下達はこんなことを話していた。
「最近、ホンット多いよな、博士と飲むの」
「多い多い。俺達のことは全然誘ってくんないのに」
「あと、新しいマージナルプリンスが、司令の家に通ってんだろ?」
「良いよなー。俺達なんか誰も行ったことねえのに」
「俺も一回、アイヴィーさんと飲んでみたいよ」
「俺も俺も。けど、司令が相手じゃコッチからは誘いづらいし」
「酔ったアイヴィーさんってのを、一度見てみたいんだけどなー」
「そりゃやっぱ、素面の時よりカワイイことになってんじゃねーの?」
「バカ。相手は司令官だぞ」
「お前も笑ってんじゃん」
「なんだ、やっぱみんなカワイイって思ってたのか」
「そりゃ、前の司令がアレだったしな」
「ああ、あん時は、ずっとピリピリしてたからなー、ここも」
「司令一人変わるだけで、こんなに良くなるなんてなー」
「ゲーテ司令とは、普通に話したりなんてできなかったし」
「俺もゲーテ司令には、挨拶と『はい』しか言ってない気がする」
先代の司令官、ジークフリート・フォン・ゲーテ。
私と同じドイツ出身の元軍人。
職務にとても厳しい方で、部下の中には、
「いつも威張り散らす、嫌なドイツ人」などと囁く者もあったが。
あの方こそ、司令官の名に相応しい御方だった。
「アイヴィーさんに代わって、大分やりやすくなったよ」
「年も近いしな」
「でもさ、実力じゃ誰もアイヴィーさんに敵わねえんだよな」
「そこはやっぱ司令官の格ってやつ?」
「普段とのギャップあり過ぎだろ。いつもはあんなカワイイのに」
「だから、オトコ相手にそう何度もカワイイって言うなっての」
「いやー、俺、アイヴィーさんが相手なら」
「貴方達」
私が声を発すると、彼等の肩は一斉に飛び上がった。
「私語が過ぎますよ。仕事が足りませんか?」
「い、いえっ」
「失礼しました!」
本来ここは、どこよりも、上下関係が厳しく、完全なる縦社会である筈。
三年前まではそうだった。若き司令官が来るまでは。
以来、職場の雰囲気は明らかに変わった。
若き司令官は何故か、部下達とフランクな関係を築き、保っている。
威厳の欠片もない。
非番の夜、私は旧市街に足を運んでいた。
珍しく今夜は飲みたい気分で、
久し振りにバーに行くかという気になった。
どの店が良いだろうかと思いながら、
夜の街を歩いていると、見覚えのある店が目に入った。
それは一度だけ来たことのにある、あのバーだった。
あの夜以来、この店に来たことはない。
今日だって意図してこの店へ向かっていたわけではないのに。
私は吸い寄せられるように、そのドアを開けていた。
「いらっしゃいませ」
丸い眼鏡をかけた、ロマンスグレイのマスターは、
カウンターの中でグラスを磨いているところだった。
ホワイトシャツに赤いチェックのベスト。
襟元には黒い蝶ネクタイ。マスターの出で立ちは、
前に来た時のまま、何ひとつ変わっていないように見えた。
「お好きな席へどうぞ」
店内に私以外の客は居なかった。一人で来ているので、
カウンター席に向かう。左端の椅子を引いた。
本棚のように、目の前に広がるボトルの数々。
オレンジ色の暗い明かりを浴びて、仄かに輝いている。
「どうぞ」
マスターが私の前に水とメニューを差し出す。
「お決まりになりましたら、お申し付け下さい」
ゆったりと落ち着いた良い声だ。
ありふれた台詞の中にも、優しさが滲み出ている。
ブランデーのカクテルを頼んだ。
オーダーを終えると、癖のようにスマートフォンを取り出し、
何か緊急の連絡は入っていないか、
世界のニュースの中で、我々に関係のある出来事が、
報道されていないか等のチェックをしていた。
それらが全て済んだあとで、
そう言えば今日は休日だったな、と気付いた。
カクテルをシェイクする音が聞こえてきた。
私はスマートフォンを脇に寄せる。
小気味の良いリズムに耳を傾けながら、そっとマスターを眺めた。
すっと伸びた背筋は、彼の老いを感じさせない。
振る度に、銀色のシェイカーが、キラ、キラと光る。
そこだけ映画のワンシーンのようだ。
ここは変わっていない。マスターの穏やかな横顔も。
それでも皺の一つくらいは増えたのだろうか。
私は水が入ったグラスに手を伸ばした。透明で薄い上等なガラス。
シェイクの音がゆるやかに止まるのを聞きながら喉を潤す。
ただの水でさえ、美味しいと感じさせる店だ。
「お待たせ致しました。サイドカーでございます」
琥珀色のショートカクテルが差し出された。
「ありがとうございます」
グラスに顔を近づける。ふわりとオレンジの香り。
一口飲むと、熱いブランデーが心地好く喉を焦がす。
ああ、至高の時間だな、と感じた。
「あの、失礼ですが」
マスターに声をかけられた。
そっと私の顔を覗き込むにようして、こう言った。
「クロイツさん、ではありませんか?」
驚きの余り、私は言葉を返すのが随分遅れたと思う。
ここには一度来たことがあるだけ。それも三年も前のことだ。
誰か、他のクロイツと間違えているのではないかと一瞬考えたが、
私の顔を見た上で、その名を当てたのだから、
他の人間と間違えている可能性は極めて低い。
「ゲーテさんと一緒においでになった、クロイツさんではありませんか?」
誰と来たかまで当てられた。マスターは本当に覚えているのだ。
やっと私が「はい、クロイツです」と返事をすると、
マスターは目尻に皺を寄せた。
「ああ、やはり、そうでしたか。
お久し振りですね。お元気でしたか?」
「ええ。私のことなど、良く覚えておいででしたね」
「これがね?」
マスターは少し自慢げな顔をして、
人差し指でロマンスグレイの頭を指す。
「大切なお客様のことは、
忘れないようにできているみたいなんですよ」
大切なお客様、とマスターは言った。
たった一度しか来たことのない客のことを。
マスターは嬉しそうな顔をして、こう続けた。
「クロイツさんがうちに来て下さるなんて、もう何年振りでしょうか。
最後にいらしたのは、ゲーテさんがまだ島にいらした頃ですから」
「三年前です」
「ああ、もう三年も経ちましたか。早いですね」
「ええ」
三年前。次の司令官として、この島に来たのは、
まだ二十そこそこという髪の長い男だった。
→
キビシイからね、今年の生徒代表は」
聖アルフォンソ島、警備司令本部。
定時の退勤間際、我が組織の若き司令官は仕事の電話をしていた。
相手は、学院の保健教師であり、
我々の協力者でもある、ドクター・ソクーロフだ。
司令の周りには私、副司令のラインハルト・クロイツを含め、
数名の部下がデスクでそれぞれの仕事をしていた。
このところ、島は平穏そのものな為、
取り立てて急ぎの仕事はない。緩急の差が激しい業務だ。
「あ、ねえ、ソクちゃん。ところでさー、晩メシもう食べたー?」
司令の電話が業務連絡から逸脱し始めた。
組織の電話を私的に利用することは禁止されているというのに。
最近の司令は、こうして度々、規律を破る。
「じゃあさ、これからご一緒しない?
うん。コッチももうすぐ帰れそうだから、
終わったらソッチ迎えに行ってイイ?」
部下の一人が肘で隣に居る仲間を小突く。
突かれたほうの男は笑って、司令を見上げた。
「じゃあ、行くね。ハーイ。んじゃ、あとでー」
そう言って司令は受話器を置いた。
同年代の部下達が、ニヤニヤしながら言う。
「良いですね。アイヴィーさんは仕事帰りにデートですか」
「エエッ!? 何言ってんのー?
今の聞こえてたでしょ? 相手、ソクちゃんだよ?」
「ほら、やっぱりデートじゃないですか」
「ち、違うよ、もー!」
慌てて否定する司令を見て、部下達が笑う。
からかわれてるいるのだ。司令は耳を少し赤くしている。
「えと、じゃあ俺、そろそろ帰るからね」
部下達は「お疲れ様でーす」と笑顔で見送っていた。
司令の姿が見えなくなると、部下達はこんなことを話していた。
「最近、ホンット多いよな、博士と飲むの」
「多い多い。俺達のことは全然誘ってくんないのに」
「あと、新しいマージナルプリンスが、司令の家に通ってんだろ?」
「良いよなー。俺達なんか誰も行ったことねえのに」
「俺も一回、アイヴィーさんと飲んでみたいよ」
「俺も俺も。けど、司令が相手じゃコッチからは誘いづらいし」
「酔ったアイヴィーさんってのを、一度見てみたいんだけどなー」
「そりゃやっぱ、素面の時よりカワイイことになってんじゃねーの?」
「バカ。相手は司令官だぞ」
「お前も笑ってんじゃん」
「なんだ、やっぱみんなカワイイって思ってたのか」
「そりゃ、前の司令がアレだったしな」
「ああ、あん時は、ずっとピリピリしてたからなー、ここも」
「司令一人変わるだけで、こんなに良くなるなんてなー」
「ゲーテ司令とは、普通に話したりなんてできなかったし」
「俺もゲーテ司令には、挨拶と『はい』しか言ってない気がする」
先代の司令官、ジークフリート・フォン・ゲーテ。
私と同じドイツ出身の元軍人。
職務にとても厳しい方で、部下の中には、
「いつも威張り散らす、嫌なドイツ人」などと囁く者もあったが。
あの方こそ、司令官の名に相応しい御方だった。
「アイヴィーさんに代わって、大分やりやすくなったよ」
「年も近いしな」
「でもさ、実力じゃ誰もアイヴィーさんに敵わねえんだよな」
「そこはやっぱ司令官の格ってやつ?」
「普段とのギャップあり過ぎだろ。いつもはあんなカワイイのに」
「だから、オトコ相手にそう何度もカワイイって言うなっての」
「いやー、俺、アイヴィーさんが相手なら」
「貴方達」
私が声を発すると、彼等の肩は一斉に飛び上がった。
「私語が過ぎますよ。仕事が足りませんか?」
「い、いえっ」
「失礼しました!」
本来ここは、どこよりも、上下関係が厳しく、完全なる縦社会である筈。
三年前まではそうだった。若き司令官が来るまでは。
以来、職場の雰囲気は明らかに変わった。
若き司令官は何故か、部下達とフランクな関係を築き、保っている。
威厳の欠片もない。
非番の夜、私は旧市街に足を運んでいた。
珍しく今夜は飲みたい気分で、
久し振りにバーに行くかという気になった。
どの店が良いだろうかと思いながら、
夜の街を歩いていると、見覚えのある店が目に入った。
それは一度だけ来たことのにある、あのバーだった。
あの夜以来、この店に来たことはない。
今日だって意図してこの店へ向かっていたわけではないのに。
私は吸い寄せられるように、そのドアを開けていた。
「いらっしゃいませ」
丸い眼鏡をかけた、ロマンスグレイのマスターは、
カウンターの中でグラスを磨いているところだった。
ホワイトシャツに赤いチェックのベスト。
襟元には黒い蝶ネクタイ。マスターの出で立ちは、
前に来た時のまま、何ひとつ変わっていないように見えた。
「お好きな席へどうぞ」
店内に私以外の客は居なかった。一人で来ているので、
カウンター席に向かう。左端の椅子を引いた。
本棚のように、目の前に広がるボトルの数々。
オレンジ色の暗い明かりを浴びて、仄かに輝いている。
「どうぞ」
マスターが私の前に水とメニューを差し出す。
「お決まりになりましたら、お申し付け下さい」
ゆったりと落ち着いた良い声だ。
ありふれた台詞の中にも、優しさが滲み出ている。
ブランデーのカクテルを頼んだ。
オーダーを終えると、癖のようにスマートフォンを取り出し、
何か緊急の連絡は入っていないか、
世界のニュースの中で、我々に関係のある出来事が、
報道されていないか等のチェックをしていた。
それらが全て済んだあとで、
そう言えば今日は休日だったな、と気付いた。
カクテルをシェイクする音が聞こえてきた。
私はスマートフォンを脇に寄せる。
小気味の良いリズムに耳を傾けながら、そっとマスターを眺めた。
すっと伸びた背筋は、彼の老いを感じさせない。
振る度に、銀色のシェイカーが、キラ、キラと光る。
そこだけ映画のワンシーンのようだ。
ここは変わっていない。マスターの穏やかな横顔も。
それでも皺の一つくらいは増えたのだろうか。
私は水が入ったグラスに手を伸ばした。透明で薄い上等なガラス。
シェイクの音がゆるやかに止まるのを聞きながら喉を潤す。
ただの水でさえ、美味しいと感じさせる店だ。
「お待たせ致しました。サイドカーでございます」
琥珀色のショートカクテルが差し出された。
「ありがとうございます」
グラスに顔を近づける。ふわりとオレンジの香り。
一口飲むと、熱いブランデーが心地好く喉を焦がす。
ああ、至高の時間だな、と感じた。
「あの、失礼ですが」
マスターに声をかけられた。
そっと私の顔を覗き込むにようして、こう言った。
「クロイツさん、ではありませんか?」
驚きの余り、私は言葉を返すのが随分遅れたと思う。
ここには一度来たことがあるだけ。それも三年も前のことだ。
誰か、他のクロイツと間違えているのではないかと一瞬考えたが、
私の顔を見た上で、その名を当てたのだから、
他の人間と間違えている可能性は極めて低い。
「ゲーテさんと一緒においでになった、クロイツさんではありませんか?」
誰と来たかまで当てられた。マスターは本当に覚えているのだ。
やっと私が「はい、クロイツです」と返事をすると、
マスターは目尻に皺を寄せた。
「ああ、やはり、そうでしたか。
お久し振りですね。お元気でしたか?」
「ええ。私のことなど、良く覚えておいででしたね」
「これがね?」
マスターは少し自慢げな顔をして、
人差し指でロマンスグレイの頭を指す。
「大切なお客様のことは、
忘れないようにできているみたいなんですよ」
大切なお客様、とマスターは言った。
たった一度しか来たことのない客のことを。
マスターは嬉しそうな顔をして、こう続けた。
「クロイツさんがうちに来て下さるなんて、もう何年振りでしょうか。
最後にいらしたのは、ゲーテさんがまだ島にいらした頃ですから」
「三年前です」
「ああ、もう三年も経ちましたか。早いですね」
「ええ」
三年前。次の司令官として、この島に来たのは、
まだ二十そこそこという髪の長い男だった。
→
■ストリートバスケ5 続編
シュヌーシアでのディナーが終わり、
シルヴァンは自分が住むウーティス寮へと戻ってきた。
自室に入ると、そのままベッドに横になった。
何もない天井を見ながら、自然と笑顔になってしまう。
右手で自分の頬に触れながら、
笑い過ぎたせいでしょうかね、とシルヴァンは思う。
あんなに、いっぱい喋って、いっぱい笑ったのは久し振りだ。
もう話し疲れた程だが、これは心地好い疲労だ。
運動をした後みたいに、胸のところが、あったかい。
コンコンとドアがノックされた。
ベッドから上半身を起こして、「はい」と返事した。
「お休み前のお時間に失礼致します」
ドアを開けたのは初老の紳士。ウーティス寮に仕える執事だ。
この学院には三つの寮があり、それぞれに専属の執事が居るという。
「シルヴァン様にお電話でございます」
「電話? そうですか。解りました」
つい先日まで野良犬同然の暮らしをしていた人間に、
立派な執事が付くようになるなんて、未だに信じられない。
「シルヴァン?」
電話がある通信室へ向かう途中、
寮の廊下で同学年のジョシュアと会った。
「もしかして、今、シュヌーシアから、
戻ってきたのかい? 随分遅かったね」
「ええ、まあ。さっき帰ってきたところです。
すっかり長居してしまいました。話が盛り上がっちゃって」
「そう。シルヴァンが楽しめたんなら良かったよ」
それじゃおやすみ、と爽やかに言って、
ジョシュアは去って行った。
その後ろ姿を見送りながら、シルヴァンは思う。
ロレート公国大公家の一人息子。
正真正銘の王子様と、同じ寮に居るなんて。
人生とは、本当に不思議なものだ。
受話器を取ると、聞こえてきたのは、
子供の頃から知っている声だった。
「シュミット大佐でしたか。こんばんは。
こちらはそろそろ、おやすみの時間ですよ?」
「そのくらいの時間でなくては、
お前は捕まらないだろうと思ってな」
「おや。さすが、僕のこと、よく解っておいでですね。
それで、今日はどんなご用事ですか?」
「そちらの司令官殿から聞いたぞ?
お前が外泊ばかりしているとな」
「ほんの数回ですよ」
「少なくとも、私の在学中には、入学間もない生徒が、
数回も外泊したことはなかったと記憶しているがな」
「そういう時代だったんですね、昔は」
壁に凭れて、前髪を掻き上げる。
「僕のこと、アイヴィーが貴方に告げ口したんですか?」
「私から彼に連絡を取ったんだ。
『うちの不良息子』が迷惑をかけていないか、とね」
親代わりの存在とは言え、
大佐に『息子』と呼ばれるとドキリとする。
「お前に学院での寮生活ができるだろうかと心配してはいたが。
予想以上に『大人しく』してくれているようだな?」
「ええ。今夜もこうして、ちゃあんと学院に居ますからね」
「今夜も、ではなく、今夜は、だろう?」
受話器越しに溜め息が聞こえる。
「――シルヴァン」
ああ、お説教かな、とシルヴァンは思った。
しかし、大佐が次に言った言葉は、全く別のものだった。
「つらいか? そこでの暮らしは」
「え?」
「もし、本当に、我慢ができないくらいなら」
「待って下さい!」
自分でも驚くくらい大きな声を出していた。
「ああ、すみません。ちょっとビックリしちゃって」
大佐は何も言わない。
「あの僕、そこまで、つらいなんて思ってませんから。
そりゃ、最初は慣れませんでしたけど。
段々、ここも悪くないかなって、
思えるようになってきたところなんです。だから、その」
笑い声が聞こえた。
「なら、もう暫くそこに居ると良い。
嫌になったら言ってくれ。
いつでも陸軍学校に転校させてやるからな」
「なっ、大佐っ!?」
「じゃ、元気でな」
電話は切られてしまった。受話器を置く。
「もう。イジワルですね、シュミットおじさんは」
明日の予習、筋トレ、そしてシャワー。
夜の日課を終え、クラウスの一日もやっと終わろうとしていた。
クラウスは自分のベッドの前に立つ。
普段は綺麗にメイキングされている筈のシーツとブランケットだが、
先程までテオがここに居たので、今日はくちゃくちゃだ。
テオの大らかさと、自分の几帳面さに、
胸の内で溜め息を吐きながら、
テオが乱していったブランケットを整えた。
何事もきちんとしていないと気が済まない。
周りからは「カタブツ過ぎ」だとか、
「バカが付く程マジメ」だと揶揄される程だし、
自分でも潔癖さが、少々過剰なのは解っている。
しかし、それは昔からの性分なので、
これから先も簡単には変えられそうにない。
部屋の電気を消し、ベッドに入る。
ブランケットは肩まできっちりかけた。
目が部屋の暗さに慣れて、天井が白く浮かぶ。
今日は疲れた、と思う。原因はもちろん、あの二人。
自分とは違い過ぎて、俺は振り回されてばかりだ。
あいつらはビデオ観賞会とやらの約束をしていたから、
明日もまたシルヴァンがシュヌーシアに来て、
騒がしいことになるかもしれない。
確かに、生徒同士が親睦を深めることは大切だ。
そうしていくことで、あいつの脱走癖も治っていくだろう。
生徒代表としても、それは喜ばしいことだ。
そうなのだが、しかし。あまりにも先が思いやられる。
「今日はもう寝よう……」
クラウスは半ば強制的に目を閉じる。
今日はすぐに眠れそうだ。
fin
シルヴァンは自分が住むウーティス寮へと戻ってきた。
自室に入ると、そのままベッドに横になった。
何もない天井を見ながら、自然と笑顔になってしまう。
右手で自分の頬に触れながら、
笑い過ぎたせいでしょうかね、とシルヴァンは思う。
あんなに、いっぱい喋って、いっぱい笑ったのは久し振りだ。
もう話し疲れた程だが、これは心地好い疲労だ。
運動をした後みたいに、胸のところが、あったかい。
コンコンとドアがノックされた。
ベッドから上半身を起こして、「はい」と返事した。
「お休み前のお時間に失礼致します」
ドアを開けたのは初老の紳士。ウーティス寮に仕える執事だ。
この学院には三つの寮があり、それぞれに専属の執事が居るという。
「シルヴァン様にお電話でございます」
「電話? そうですか。解りました」
つい先日まで野良犬同然の暮らしをしていた人間に、
立派な執事が付くようになるなんて、未だに信じられない。
「シルヴァン?」
電話がある通信室へ向かう途中、
寮の廊下で同学年のジョシュアと会った。
「もしかして、今、シュヌーシアから、
戻ってきたのかい? 随分遅かったね」
「ええ、まあ。さっき帰ってきたところです。
すっかり長居してしまいました。話が盛り上がっちゃって」
「そう。シルヴァンが楽しめたんなら良かったよ」
それじゃおやすみ、と爽やかに言って、
ジョシュアは去って行った。
その後ろ姿を見送りながら、シルヴァンは思う。
ロレート公国大公家の一人息子。
正真正銘の王子様と、同じ寮に居るなんて。
人生とは、本当に不思議なものだ。
受話器を取ると、聞こえてきたのは、
子供の頃から知っている声だった。
「シュミット大佐でしたか。こんばんは。
こちらはそろそろ、おやすみの時間ですよ?」
「そのくらいの時間でなくては、
お前は捕まらないだろうと思ってな」
「おや。さすが、僕のこと、よく解っておいでですね。
それで、今日はどんなご用事ですか?」
「そちらの司令官殿から聞いたぞ?
お前が外泊ばかりしているとな」
「ほんの数回ですよ」
「少なくとも、私の在学中には、入学間もない生徒が、
数回も外泊したことはなかったと記憶しているがな」
「そういう時代だったんですね、昔は」
壁に凭れて、前髪を掻き上げる。
「僕のこと、アイヴィーが貴方に告げ口したんですか?」
「私から彼に連絡を取ったんだ。
『うちの不良息子』が迷惑をかけていないか、とね」
親代わりの存在とは言え、
大佐に『息子』と呼ばれるとドキリとする。
「お前に学院での寮生活ができるだろうかと心配してはいたが。
予想以上に『大人しく』してくれているようだな?」
「ええ。今夜もこうして、ちゃあんと学院に居ますからね」
「今夜も、ではなく、今夜は、だろう?」
受話器越しに溜め息が聞こえる。
「――シルヴァン」
ああ、お説教かな、とシルヴァンは思った。
しかし、大佐が次に言った言葉は、全く別のものだった。
「つらいか? そこでの暮らしは」
「え?」
「もし、本当に、我慢ができないくらいなら」
「待って下さい!」
自分でも驚くくらい大きな声を出していた。
「ああ、すみません。ちょっとビックリしちゃって」
大佐は何も言わない。
「あの僕、そこまで、つらいなんて思ってませんから。
そりゃ、最初は慣れませんでしたけど。
段々、ここも悪くないかなって、
思えるようになってきたところなんです。だから、その」
笑い声が聞こえた。
「なら、もう暫くそこに居ると良い。
嫌になったら言ってくれ。
いつでも陸軍学校に転校させてやるからな」
「なっ、大佐っ!?」
「じゃ、元気でな」
電話は切られてしまった。受話器を置く。
「もう。イジワルですね、シュミットおじさんは」
明日の予習、筋トレ、そしてシャワー。
夜の日課を終え、クラウスの一日もやっと終わろうとしていた。
クラウスは自分のベッドの前に立つ。
普段は綺麗にメイキングされている筈のシーツとブランケットだが、
先程までテオがここに居たので、今日はくちゃくちゃだ。
テオの大らかさと、自分の几帳面さに、
胸の内で溜め息を吐きながら、
テオが乱していったブランケットを整えた。
何事もきちんとしていないと気が済まない。
周りからは「カタブツ過ぎ」だとか、
「バカが付く程マジメ」だと揶揄される程だし、
自分でも潔癖さが、少々過剰なのは解っている。
しかし、それは昔からの性分なので、
これから先も簡単には変えられそうにない。
部屋の電気を消し、ベッドに入る。
ブランケットは肩まできっちりかけた。
目が部屋の暗さに慣れて、天井が白く浮かぶ。
今日は疲れた、と思う。原因はもちろん、あの二人。
自分とは違い過ぎて、俺は振り回されてばかりだ。
あいつらはビデオ観賞会とやらの約束をしていたから、
明日もまたシルヴァンがシュヌーシアに来て、
騒がしいことになるかもしれない。
確かに、生徒同士が親睦を深めることは大切だ。
そうしていくことで、あいつの脱走癖も治っていくだろう。
生徒代表としても、それは喜ばしいことだ。
そうなのだが、しかし。あまりにも先が思いやられる。
「今日はもう寝よう……」
クラウスは半ば強制的に目を閉じる。
今日はすぐに眠れそうだ。
fin
■ストリートバスケ4 続編
シュヌーシア寮に帰ってきたテオは、すぐにキッチンへ向かった。
ドアを開けると、銀色の広いキッチンテーブルには、
スティック状にカットされた野菜や生の魚。
緑、赤、白など、色とりどりな食材が並んでいる。
あの黄色いのは、卵を焼いたものだろうか。
「おお、これは美しい。まるでお花畑のようだ」
「あれっ? テオ様?」
成人男性にしてはやや高めの声。
部屋の奥から、小柄なシェフがやってきた。
今日の装いは、レモンイエローの腰巻きエプロン。
頭にも同色のバンダナを巻いていた。
彼が両手で持っている皿には、焼肉が載っている。
「あ、もしかして、もうディナーの時間でしたかっ?」
シェフは慌てて掛時計を見た。
「いや、ディナーにはまだ少しあるよ。
今日はね、ドニに折り入ってお願いがあって来たんだ」
「お願い? 僕にですか?」
「うん。実はね、今日のディナーに、
シルヴァンを招待したいのだよ。
直前の時間にすまないけれど、どうだろう、頼めるかな?」
「ああ、そういうことでしたら。はい。大丈夫ですよ。
今夜は丁度、テマキズシなので」
ウーティス寮ダイニングルーム。
ディナータイムより、少し遅れてやってきたのは、アンリだった。
自室で神秘学の本を読んでいて、時間に気が付くのが遅れたのだ。
集中して読みたいから、部屋で読んでいるのに、
途中、何やらサロンや廊下のほうが、やかましくて、気が散った。
こういう時、寮生活は嫌だと思う。
アンリがダイニングルームの席に着くと、隅に控えていたバトラーが、
アンリのワイングラスに恭しく水を注いだ。
「少々お待ち下さいませ」と言って、一度退室した。
シェフにアンリが来たことを伝えに行ったのだろう。
アンリがチラリとダイニングルーム内を見回すと、
自分以外の生徒は皆、席に着いていて食事中。
いや、一人足りない。
入学初日から外泊し、真面目な生徒代表を困らせている新入生、
シルヴァン・クラークの姿がなかった。
アンリは冷笑を浮かべながら、
「何? また脱走してるの、あの新入り」
「いや、今日は違うよ」
向かいの席に座っていたジョシュアが言う。
「シルヴァンは今、シュヌーシア寮に居るんだ」
それは全く予想していなかった回答だったので、
アンリは思わずそのまま言葉を返した。
「シュヌーシアに?」
「うん。今日はシュヌーシアのディナーに招待されたんだって。
さっき、テオがサロンまでシルヴァンを迎えに来てたんだよ」
ああ、それでサロンが騒がしかったのか、とアンリは胸の内で納得する。
しかし何故、あの問題児が他の寮の夕食などに招待されたのだろう。
一瞬、そんな疑問が浮かんだが、
僕には関係ないことか、と思い直し、ワイングラスに口付けた。
無味な冷たい水が喉を潤してくれる。
「テオが言っていたんだけど」
控えめな口調でジョシュアが言う。
「シルヴァンは今日、クラウスとバスケットボールをしたんだって、公園で。
凄く白熱した良い試合で、感動したって言ってたよ。
それで、シュヌーシアに招待したいって」
人の顔を伺ってばかりの優等生が、
アンリの疑問に適確な答えをくれた。
「あー! 今日は本当に楽しい一日だった!」
シュヌーシア寮、クラウスの部屋。
テオは人の部屋で、今日の思い出を噛み締めていた。
クラウスのベッドに座り、シャチのぬいぐるみを抱き締めている。
これは以前、テオからクラウスにプレゼントした物だ。
「ね! クラウス?」
机に向かっていたクラウスは、テオに顔を向ける。
「お前なあ。それ、何回言ったら気が済むんだ?」
「え? 私、そんなに言っていたかい?」
クラウスは、がっくりと肩を落とし、額に手を当てた。
「ああ。バスケの後から、そればかり言っているぞ」
「おや。私の唇ったら、本当に正直者だねえ」
賑やかなディナーが終わり、
そろそろ就寝時間という時に、テオがここにやってきたのだ。
今日のテオは、本当に笑顔が絶えない。
自分が試合で勝ったわけでもないのに可笑しな奴だ、とクラウスは思う。
「シルヴァンをディナーにお招きして本当に良かったなあ!
おかげで、彼も東洋の文化に興味があることも解ったし。
彼とのビデオ鑑賞会が楽しみだよ」
夕食の席で話をしているうちに、
共通の趣味が見つかったテオとシルヴァンは、
ますます意気投合してしまい、
今度ぜひお互いのお勧めビデオの鑑賞会をやろう、
と大いに盛り上がっていた。
今後の身の回りが、余計に騒がしくなりそうだ。
「早く、気に入ってくれると良いね」
唐突にテオがそう言った。
「何の話だ?」
「シルヴァンの話だよ。シルヴァンにもこの学院を、
この島での暮らしを気に入って貰えたら良いね」
クラウスは愕然とした。テオは続ける。
「でも大丈夫。シルヴァンもきっと好きになる。
だって聖アルフォンソ島は、地上の楽園だもの」
「テオ、お前まさか、シルヴァンをバスケや夕食に誘ったのも、
あいつを学院に馴染ませる為だったのか?」
学院を気に入れば、無闇に余所で泊まることも無くなる、
そう考えた上での行動だったのではないか。
「すまん。俺はてっきり、単にお前が楽しみたいからそう提案したのかと」
「いや、もちろん、そうだよ? シルヴァンの為というより、
私の為、というほうが大きかったんじゃないかなあ?」
ふふふ、とテオは柔らかく笑う。
その笑顔を見て、クラウスは自分の友人の凄さを思い知らされる。
自分の楽しみの為にやったこと。
その言葉は謙遜でなく、事実なのかもしれない。
だが、それでも、シルヴァンが学院を好きになることに、
おそらく、テオは一役買ったのだ。
「あ、そうだ! 今度はバスケだけではなく、
他のスポーツ大会も開催してみるかい?
クラウスVSシルヴァンのスポーツ三番勝負ー! なんてどうかなっ?」
重い息を吐きながら、クラウスは呟いた。
「いや、それは遠慮させてくれ」
→
ドアを開けると、銀色の広いキッチンテーブルには、
スティック状にカットされた野菜や生の魚。
緑、赤、白など、色とりどりな食材が並んでいる。
あの黄色いのは、卵を焼いたものだろうか。
「おお、これは美しい。まるでお花畑のようだ」
「あれっ? テオ様?」
成人男性にしてはやや高めの声。
部屋の奥から、小柄なシェフがやってきた。
今日の装いは、レモンイエローの腰巻きエプロン。
頭にも同色のバンダナを巻いていた。
彼が両手で持っている皿には、焼肉が載っている。
「あ、もしかして、もうディナーの時間でしたかっ?」
シェフは慌てて掛時計を見た。
「いや、ディナーにはまだ少しあるよ。
今日はね、ドニに折り入ってお願いがあって来たんだ」
「お願い? 僕にですか?」
「うん。実はね、今日のディナーに、
シルヴァンを招待したいのだよ。
直前の時間にすまないけれど、どうだろう、頼めるかな?」
「ああ、そういうことでしたら。はい。大丈夫ですよ。
今夜は丁度、テマキズシなので」
ウーティス寮ダイニングルーム。
ディナータイムより、少し遅れてやってきたのは、アンリだった。
自室で神秘学の本を読んでいて、時間に気が付くのが遅れたのだ。
集中して読みたいから、部屋で読んでいるのに、
途中、何やらサロンや廊下のほうが、やかましくて、気が散った。
こういう時、寮生活は嫌だと思う。
アンリがダイニングルームの席に着くと、隅に控えていたバトラーが、
アンリのワイングラスに恭しく水を注いだ。
「少々お待ち下さいませ」と言って、一度退室した。
シェフにアンリが来たことを伝えに行ったのだろう。
アンリがチラリとダイニングルーム内を見回すと、
自分以外の生徒は皆、席に着いていて食事中。
いや、一人足りない。
入学初日から外泊し、真面目な生徒代表を困らせている新入生、
シルヴァン・クラークの姿がなかった。
アンリは冷笑を浮かべながら、
「何? また脱走してるの、あの新入り」
「いや、今日は違うよ」
向かいの席に座っていたジョシュアが言う。
「シルヴァンは今、シュヌーシア寮に居るんだ」
それは全く予想していなかった回答だったので、
アンリは思わずそのまま言葉を返した。
「シュヌーシアに?」
「うん。今日はシュヌーシアのディナーに招待されたんだって。
さっき、テオがサロンまでシルヴァンを迎えに来てたんだよ」
ああ、それでサロンが騒がしかったのか、とアンリは胸の内で納得する。
しかし何故、あの問題児が他の寮の夕食などに招待されたのだろう。
一瞬、そんな疑問が浮かんだが、
僕には関係ないことか、と思い直し、ワイングラスに口付けた。
無味な冷たい水が喉を潤してくれる。
「テオが言っていたんだけど」
控えめな口調でジョシュアが言う。
「シルヴァンは今日、クラウスとバスケットボールをしたんだって、公園で。
凄く白熱した良い試合で、感動したって言ってたよ。
それで、シュヌーシアに招待したいって」
人の顔を伺ってばかりの優等生が、
アンリの疑問に適確な答えをくれた。
「あー! 今日は本当に楽しい一日だった!」
シュヌーシア寮、クラウスの部屋。
テオは人の部屋で、今日の思い出を噛み締めていた。
クラウスのベッドに座り、シャチのぬいぐるみを抱き締めている。
これは以前、テオからクラウスにプレゼントした物だ。
「ね! クラウス?」
机に向かっていたクラウスは、テオに顔を向ける。
「お前なあ。それ、何回言ったら気が済むんだ?」
「え? 私、そんなに言っていたかい?」
クラウスは、がっくりと肩を落とし、額に手を当てた。
「ああ。バスケの後から、そればかり言っているぞ」
「おや。私の唇ったら、本当に正直者だねえ」
賑やかなディナーが終わり、
そろそろ就寝時間という時に、テオがここにやってきたのだ。
今日のテオは、本当に笑顔が絶えない。
自分が試合で勝ったわけでもないのに可笑しな奴だ、とクラウスは思う。
「シルヴァンをディナーにお招きして本当に良かったなあ!
おかげで、彼も東洋の文化に興味があることも解ったし。
彼とのビデオ鑑賞会が楽しみだよ」
夕食の席で話をしているうちに、
共通の趣味が見つかったテオとシルヴァンは、
ますます意気投合してしまい、
今度ぜひお互いのお勧めビデオの鑑賞会をやろう、
と大いに盛り上がっていた。
今後の身の回りが、余計に騒がしくなりそうだ。
「早く、気に入ってくれると良いね」
唐突にテオがそう言った。
「何の話だ?」
「シルヴァンの話だよ。シルヴァンにもこの学院を、
この島での暮らしを気に入って貰えたら良いね」
クラウスは愕然とした。テオは続ける。
「でも大丈夫。シルヴァンもきっと好きになる。
だって聖アルフォンソ島は、地上の楽園だもの」
「テオ、お前まさか、シルヴァンをバスケや夕食に誘ったのも、
あいつを学院に馴染ませる為だったのか?」
学院を気に入れば、無闇に余所で泊まることも無くなる、
そう考えた上での行動だったのではないか。
「すまん。俺はてっきり、単にお前が楽しみたいからそう提案したのかと」
「いや、もちろん、そうだよ? シルヴァンの為というより、
私の為、というほうが大きかったんじゃないかなあ?」
ふふふ、とテオは柔らかく笑う。
その笑顔を見て、クラウスは自分の友人の凄さを思い知らされる。
自分の楽しみの為にやったこと。
その言葉は謙遜でなく、事実なのかもしれない。
だが、それでも、シルヴァンが学院を好きになることに、
おそらく、テオは一役買ったのだ。
「あ、そうだ! 今度はバスケだけではなく、
他のスポーツ大会も開催してみるかい?
クラウスVSシルヴァンのスポーツ三番勝負ー! なんてどうかなっ?」
重い息を吐きながら、クラウスは呟いた。
「いや、それは遠慮させてくれ」
→
■ストリートバスケ3 続編
「わ、入ったー!」
立って応援していたテオが、
ベンチで座っているアイヴィーを振り向く。
「クラウスの勝ちだよね!? クラウスが勝ったのだよね?!」
「ん? ああ」
「やったあ! クラウスー!」
テオはコート内へ駆け出し、
そのままの勢いでクラウスを抱き締めた。
「おめでとうクラウス! おめでとう!
貴方がこの激戦の勝者なのだよ!
ああ、なんて格好良い男なんだろう、貴方という人は!」
「わ、解ったから、離せっ! 抱き着くなっ」
「おや。身体が勝手に」
パッとクラウスから離れたかと思うと、
今度はシルヴァンの両手を覆うように握り締め、ブンブンと縦に振った。
「それから、シルヴァンも! 素晴らしい試合をありがとう!
聖アルフォンソ学院の中でもトップクラスのスポーツマン相手に、
あれほど感動的な試合ができるとは!
君も相当な運動神経の持ち主なのだね!」
「シルヴァン」
クラウスは、真っ直ぐに相手の目を見て言った。
「俺の勝ちだ。約束は守って貰うぞ。ーーアイヴィー」
突然クラウスに呼ばれたアイヴィーは、
ビクリと肩を跳ねさせながら、返事をする。
「は、ハイッ?」
「お前が責任を持って、こいつを連れ帰ってくれ。
いいか? 帰る場所はお前の家じゃない。学、院、だからな」
「イエッサー」
アイヴィーは肩をすくめて見せながら、
「悪ィなあ、シルヴァン。
生徒代表直々に言われたんじゃあ、俺、逆らえないわ」
「はい。勝負に負けたのは僕ですからね。
今日は大人しく寮に帰りますよ。
でも、僕が負けてしまったせいで、
今夜は一人で寂しい思いをさせてしまって、
すみませんね、アイヴィー」
「サビシクなんかねーよっ」
敗者は清々しい笑顔を見せた。
「ああ、そうだ!」
指を鳴らしたのは、テオだった。
「私、とても良いことを思いついたよ!
ねえ、シルヴァン! 今宵のディナー、
是非、シュヌーシア寮に来てくれないかな!?」
「シュヌーシア? えっと、お二人が居る寮、でしたっけ?」
「そう! 今宵のスペシャルゲストとして、
君をシュヌーシアのディナーにお招きしたいのだよ!」
「お前はまた、何を言い出しているんだ、テオ」とクラウス。
「だって、今日のディナーでは、
二人の勇姿を、皆に語り尽くさなきゃならないだろう?
それには、主役の二人が必要不可欠じゃないか!」
「いや、何故語り尽くす必要が」
「ところでシルヴァン、今宵は別の用事があったかい?」
「いえ、特には。今夜はアイヴィーの家に泊まる予定も、
なくなっちゃいましたし、暇にしてますよ」
「良かった! では決まりだね!
ディナーの時間になったら、私が君の寮まで迎えに行くから、
シルヴァンは、ウーティスで待っていておくれ。
さあ、そうと決まれば、早く寮に帰って、
ドニにゲストが一人増えることを伝えなくては!
ああ、ドニというのはね? うちのシェフのことなんだ。
シュヌーシア寮専属シェフ、ドニ・ドーム。
世界の家庭料理を愛する、とても腕の良いシェフなんだよ。
得意料理だけでなく、何でも作れるプロフェッショナルなのだが、
中でもドニの作るお菓子が、また絶品でねえ。この前も」
クラウスとシルヴァンを褒めたかと思えば、
今度は自分の寮のシェフを褒め称え始めた。
次から次へと話し続けるテオを見て、
シルヴァンは目をぱちくりさせていた。
それに気付いたらしいクラウスが、
まるで目覚まし時計を止めるかのように、テオの頭に手を置いた。
「テオ。お前は、口から生まれて来たのか?」
「え?」
「お前は喋り過ぎだ。早く寮に帰るんじゃなかったのか?」
「ああ、いけない! そうだった! 帰ろう帰ろう!」
「じゃあ、皆さん」
シルヴァンは子供達に声をかける。
「僕達、今日はもう帰りますね。
今日は、お騒がせしちゃって、すみませんでした。
あの、僕、またここに遊びに来ても良いですか?」
「ああ。今度はクラウスに負けないように特訓しなきゃな!」
「テオとクラウスも、また遊びに来てね!」
「私達も良いのかい? ありがとう! では今度来る時は、
うちのシェフ特製の絶品クッキーをお土産に持って来るよ!」
「安請け合いするなよ、テオ。もう行くぞ」
一歩踏み出したクラウスは、
何を思ったか、踵を返し、子供達に向き直った。
彼等は揃ってきょとんとした顔をしている。クラウスが口を開いた。
「今日は君達が先にここで遊んでいたのに、
邪魔をして、すまなかったな。
今更だが、コートを貸してくれてありがとう。
うちのシルヴァンが世話になっていることにも礼を言う。
迷惑でなければ、これからも仲良くしてやってくれ」
子供達は顔を見合って、くすぐったそうに笑う。
「ああ、それから」
クラウスはこう続けた。
「もうすぐ暗くなる。君達も遅くなる前に家に帰るように。解ったな?」
シルヴァンが吹き出して笑った。
目の端の涙を拭きながら、
「あははっ。クラウスって本当、お父さんみたいっ」
「てゆうか、あれは先生みたいだろ、先生」
「厳しくてコワーイ先生な!」
子供達もそう言って笑っていた。
「おい。なんでそんなに笑うんだ」
不服そうな本人に、テオが微笑む。
「皆にとっても、貴方は愛おしいお父さんだということだよ?」
「意味が解らん」
「良いよ、貴方は解らなくても。
貴方の愛おしさは、私が一番解っているから。
さあさあ、帰ろう。私達のおうちに」
テオに肩を押されて、クラウスが歩き出す。
アイヴィーは携帯灰皿にタバコを入れ、ベンチから立ち上がった。
歩きながら、シルヴァンとテオは何度も子供達に手を振っていた。
→
立って応援していたテオが、
ベンチで座っているアイヴィーを振り向く。
「クラウスの勝ちだよね!? クラウスが勝ったのだよね?!」
「ん? ああ」
「やったあ! クラウスー!」
テオはコート内へ駆け出し、
そのままの勢いでクラウスを抱き締めた。
「おめでとうクラウス! おめでとう!
貴方がこの激戦の勝者なのだよ!
ああ、なんて格好良い男なんだろう、貴方という人は!」
「わ、解ったから、離せっ! 抱き着くなっ」
「おや。身体が勝手に」
パッとクラウスから離れたかと思うと、
今度はシルヴァンの両手を覆うように握り締め、ブンブンと縦に振った。
「それから、シルヴァンも! 素晴らしい試合をありがとう!
聖アルフォンソ学院の中でもトップクラスのスポーツマン相手に、
あれほど感動的な試合ができるとは!
君も相当な運動神経の持ち主なのだね!」
「シルヴァン」
クラウスは、真っ直ぐに相手の目を見て言った。
「俺の勝ちだ。約束は守って貰うぞ。ーーアイヴィー」
突然クラウスに呼ばれたアイヴィーは、
ビクリと肩を跳ねさせながら、返事をする。
「は、ハイッ?」
「お前が責任を持って、こいつを連れ帰ってくれ。
いいか? 帰る場所はお前の家じゃない。学、院、だからな」
「イエッサー」
アイヴィーは肩をすくめて見せながら、
「悪ィなあ、シルヴァン。
生徒代表直々に言われたんじゃあ、俺、逆らえないわ」
「はい。勝負に負けたのは僕ですからね。
今日は大人しく寮に帰りますよ。
でも、僕が負けてしまったせいで、
今夜は一人で寂しい思いをさせてしまって、
すみませんね、アイヴィー」
「サビシクなんかねーよっ」
敗者は清々しい笑顔を見せた。
「ああ、そうだ!」
指を鳴らしたのは、テオだった。
「私、とても良いことを思いついたよ!
ねえ、シルヴァン! 今宵のディナー、
是非、シュヌーシア寮に来てくれないかな!?」
「シュヌーシア? えっと、お二人が居る寮、でしたっけ?」
「そう! 今宵のスペシャルゲストとして、
君をシュヌーシアのディナーにお招きしたいのだよ!」
「お前はまた、何を言い出しているんだ、テオ」とクラウス。
「だって、今日のディナーでは、
二人の勇姿を、皆に語り尽くさなきゃならないだろう?
それには、主役の二人が必要不可欠じゃないか!」
「いや、何故語り尽くす必要が」
「ところでシルヴァン、今宵は別の用事があったかい?」
「いえ、特には。今夜はアイヴィーの家に泊まる予定も、
なくなっちゃいましたし、暇にしてますよ」
「良かった! では決まりだね!
ディナーの時間になったら、私が君の寮まで迎えに行くから、
シルヴァンは、ウーティスで待っていておくれ。
さあ、そうと決まれば、早く寮に帰って、
ドニにゲストが一人増えることを伝えなくては!
ああ、ドニというのはね? うちのシェフのことなんだ。
シュヌーシア寮専属シェフ、ドニ・ドーム。
世界の家庭料理を愛する、とても腕の良いシェフなんだよ。
得意料理だけでなく、何でも作れるプロフェッショナルなのだが、
中でもドニの作るお菓子が、また絶品でねえ。この前も」
クラウスとシルヴァンを褒めたかと思えば、
今度は自分の寮のシェフを褒め称え始めた。
次から次へと話し続けるテオを見て、
シルヴァンは目をぱちくりさせていた。
それに気付いたらしいクラウスが、
まるで目覚まし時計を止めるかのように、テオの頭に手を置いた。
「テオ。お前は、口から生まれて来たのか?」
「え?」
「お前は喋り過ぎだ。早く寮に帰るんじゃなかったのか?」
「ああ、いけない! そうだった! 帰ろう帰ろう!」
「じゃあ、皆さん」
シルヴァンは子供達に声をかける。
「僕達、今日はもう帰りますね。
今日は、お騒がせしちゃって、すみませんでした。
あの、僕、またここに遊びに来ても良いですか?」
「ああ。今度はクラウスに負けないように特訓しなきゃな!」
「テオとクラウスも、また遊びに来てね!」
「私達も良いのかい? ありがとう! では今度来る時は、
うちのシェフ特製の絶品クッキーをお土産に持って来るよ!」
「安請け合いするなよ、テオ。もう行くぞ」
一歩踏み出したクラウスは、
何を思ったか、踵を返し、子供達に向き直った。
彼等は揃ってきょとんとした顔をしている。クラウスが口を開いた。
「今日は君達が先にここで遊んでいたのに、
邪魔をして、すまなかったな。
今更だが、コートを貸してくれてありがとう。
うちのシルヴァンが世話になっていることにも礼を言う。
迷惑でなければ、これからも仲良くしてやってくれ」
子供達は顔を見合って、くすぐったそうに笑う。
「ああ、それから」
クラウスはこう続けた。
「もうすぐ暗くなる。君達も遅くなる前に家に帰るように。解ったな?」
シルヴァンが吹き出して笑った。
目の端の涙を拭きながら、
「あははっ。クラウスって本当、お父さんみたいっ」
「てゆうか、あれは先生みたいだろ、先生」
「厳しくてコワーイ先生な!」
子供達もそう言って笑っていた。
「おい。なんでそんなに笑うんだ」
不服そうな本人に、テオが微笑む。
「皆にとっても、貴方は愛おしいお父さんだということだよ?」
「意味が解らん」
「良いよ、貴方は解らなくても。
貴方の愛おしさは、私が一番解っているから。
さあさあ、帰ろう。私達のおうちに」
テオに肩を押されて、クラウスが歩き出す。
アイヴィーは携帯灰皿にタバコを入れ、ベンチから立ち上がった。
歩きながら、シルヴァンとテオは何度も子供達に手を振っていた。
→
■ストリートバスケ2 続編
8対8ですか。イイ試合ですね。
額を袖口で拭いながら、シルヴァンは素直にそう思う。
それほど手を抜いているつもりはないのに、
自分と拮抗した試合ができるなんて。
住所不定でフラフラしていた頃、同じような人種に、
ストリートバスケを挑まれて試合をした時は、
口ばかりで弱い男が本当に多かった。
僕が勝ったら、喧嘩を吹っかけられたりして。
喧嘩でも僕が勝ってしまうと、今度は頭数の多さで攻められ、
袋叩きに遭った時もあったっけ。
あの時の彼等と違い、クラウスは実力が伴っている。
やはり、立派な身体をしているだけあって、
クラウスは身体能力が高いらしい。
久し振りに楽しい試合ができていると感じる。
こんなに小さな島で、珍しい人に会えたものだ。
「おい! 何をボーッとしている。早く始めろ!」
クラウスから声が飛んでくる。次は僕が攻める番だ。
コートの中央に立って、クラウスにボールを投げる。
クラウスから返って来たボールは全て、
手の平に軽く痛みが走る程、強く、真っ直ぐなものだった。
こんなパス、あの頃には一度も受けたことがない。
ゆっくりとドリブルをしながら、ゴールへ向かっていった。
「シルヴァーン! 負けないでー!」
「絶対勝てー!」
先週ここで初めて会った子供達が、
全力で僕を応援してくれる。
同じ学校のテオは二人とも応援してくれているようだが、
やはり、どちらかと言うとクラウス寄りのようだ。
アイヴィーは、と視線を向けると、
彼は紫煙を吹かしていて、声は特に発していなかった。
目が合うと、フラッグ代わりなのか、
やる気なさげに、タバコを左右に振ってくれた。
「よそ見をするなっ!」
ボールがない。一瞬の隙を付かれ、
クラウスにドリブルがカットされていた。
攻守が交代することになり、クラウスがオフェンスとなった。
ゴールに向かって、真っ直ぐに進んでくる。
それに応戦しつつも、シルヴァンは気が散っていた。
今の、この状況が不思議でならないのだ。
シルヴァンがこの試合に勝てば、
自分の希望通り、今夜はアイヴィーの家に外泊することができる。
クラウスが勝てば、シルヴァンの希望を阻止し、
きちんとウーティス寮で眠るよう命じることができる。
そんな下らない勝負なのに、何故この人は、
こんなにも真剣に向かってくるのだろう。
不良の生徒一人くらい、放っておけば良いのに。
けれど、この人は、初めて会った時から、
僕のことを放っておいてはくれなかった。
入学初日、アイヴィーの家に泊まった際も、
「初日から外泊とは何事だ」と大いに怒られ、
翌朝、帰ると約束した時間には、校門前で待ち伏せされていた。
その後、また無断外泊した時も怒られた。
何故だか、彼に怒られることは、ちっとも嫌な気がしない。
むしろ、僕はクラウスに怒って欲しくて、
無断外泊を重ねているんじゃないかと思うくらいに。
どうしてこの人は、僕を怒るんだろう。
どうしてこの人は、僕を放っておかないんだろう。
本当に、可笑しな人ですね、貴方は。
そう思った時、スッとクラウスが視界から消えた。
その直後、背後でボールが布の紐の間を通った音がした。
スポッ、とイイ音が。
→
額を袖口で拭いながら、シルヴァンは素直にそう思う。
それほど手を抜いているつもりはないのに、
自分と拮抗した試合ができるなんて。
住所不定でフラフラしていた頃、同じような人種に、
ストリートバスケを挑まれて試合をした時は、
口ばかりで弱い男が本当に多かった。
僕が勝ったら、喧嘩を吹っかけられたりして。
喧嘩でも僕が勝ってしまうと、今度は頭数の多さで攻められ、
袋叩きに遭った時もあったっけ。
あの時の彼等と違い、クラウスは実力が伴っている。
やはり、立派な身体をしているだけあって、
クラウスは身体能力が高いらしい。
久し振りに楽しい試合ができていると感じる。
こんなに小さな島で、珍しい人に会えたものだ。
「おい! 何をボーッとしている。早く始めろ!」
クラウスから声が飛んでくる。次は僕が攻める番だ。
コートの中央に立って、クラウスにボールを投げる。
クラウスから返って来たボールは全て、
手の平に軽く痛みが走る程、強く、真っ直ぐなものだった。
こんなパス、あの頃には一度も受けたことがない。
ゆっくりとドリブルをしながら、ゴールへ向かっていった。
「シルヴァーン! 負けないでー!」
「絶対勝てー!」
先週ここで初めて会った子供達が、
全力で僕を応援してくれる。
同じ学校のテオは二人とも応援してくれているようだが、
やはり、どちらかと言うとクラウス寄りのようだ。
アイヴィーは、と視線を向けると、
彼は紫煙を吹かしていて、声は特に発していなかった。
目が合うと、フラッグ代わりなのか、
やる気なさげに、タバコを左右に振ってくれた。
「よそ見をするなっ!」
ボールがない。一瞬の隙を付かれ、
クラウスにドリブルがカットされていた。
攻守が交代することになり、クラウスがオフェンスとなった。
ゴールに向かって、真っ直ぐに進んでくる。
それに応戦しつつも、シルヴァンは気が散っていた。
今の、この状況が不思議でならないのだ。
シルヴァンがこの試合に勝てば、
自分の希望通り、今夜はアイヴィーの家に外泊することができる。
クラウスが勝てば、シルヴァンの希望を阻止し、
きちんとウーティス寮で眠るよう命じることができる。
そんな下らない勝負なのに、何故この人は、
こんなにも真剣に向かってくるのだろう。
不良の生徒一人くらい、放っておけば良いのに。
けれど、この人は、初めて会った時から、
僕のことを放っておいてはくれなかった。
入学初日、アイヴィーの家に泊まった際も、
「初日から外泊とは何事だ」と大いに怒られ、
翌朝、帰ると約束した時間には、校門前で待ち伏せされていた。
その後、また無断外泊した時も怒られた。
何故だか、彼に怒られることは、ちっとも嫌な気がしない。
むしろ、僕はクラウスに怒って欲しくて、
無断外泊を重ねているんじゃないかと思うくらいに。
どうしてこの人は、僕を怒るんだろう。
どうしてこの人は、僕を放っておかないんだろう。
本当に、可笑しな人ですね、貴方は。
そう思った時、スッとクラウスが視界から消えた。
その直後、背後でボールが布の紐の間を通った音がした。
スポッ、とイイ音が。
→
■ストリートバスケ 続編
クラウスは片手を翳しながら、空へ飛んだコインの行方を追う。
空に吸い込まれるように、高く飛んだコインは、
クルクルと身を翻しながら、またシルヴァンの元に落ちてくる。
パシンと良い音を立てて、シルヴァンは帰って来たコインを受け止めた。
今、コインはシルヴァンの両手に挟まれている。
クラウスが表、シルヴァンが裏に賭けていた。
「それじゃー、オープーン!」
そうっと手を開く。シルヴァンはニッコリと笑った。
「裏でしたー! 僕の先攻ですね!」
長髪の毛先を跳ねさせながら、シルヴァンはコートの中央へ立つ。
後攻となったクラウスはハーフコートの内側へ移動する。
「フン。試合では負けん」
シルヴァンに指を差し、高らかに宣言した。
「この試合、必ず勝って、お前を寮へ連れ戻す!」
「カッコイイよー! クラウスー!
まるで囚われの姫を取り返しに来たヒーローみたいだー!」
歓声を上げたのは、ギャラリーのテオだ。
「う、煩い! お前は静かに見てろ!
おい、シルヴァン、始めるぞ!」
「フフフッ。はーい。じゃー、どなたか審判をお願いできますかー?」
「よし! 審判なら俺がやってるよ!」
浅黒い肌の子供が手を挙げる。その他の子達は点数係を買ってでた。
皆、クラウスとテオが来るまで、
ここでシルヴァンと遊んでいた子供達だ。
「ルールは10点先取したほうが勝ちのワン・オン・ワンな」
ワン・オン・ワンは、ハーフコートで行われる。
試合開始時、オフェンス側はコートの中央、ハーフコートで言えば端に立って、
コート内側のディフェンス側に一度ボールをパスする。
ディフェンスはオフェンスにボールを返す。
戻ってきたボールで試合が始まるのだ。
「じゃー、先攻シルヴァン! 負けんなよ!」
審判から、ところどころ色の剥げたバスケットボールを渡される。
「はいっ! 絶対勝って、今夜はアイヴィーのおうちでお泊まりしまーす!
アイヴィー! 僕を応援して下さいねー!」
「い、いやー、俺はドッチでもイイんですけど……」
「始めっ!」
コート脇に居る子供達は、揃ってシルヴァンを応援している。
フェンス傍に立っているテオは、全力で二人を応援していた。
その近くのベンチでは、アイヴィーがタバコ片手にボールを目で追っていた。
普段、スポーツ観戦している時のクセか、
つい、「ビールでも飲みながら見てえなあ」などと思いながら。
シルヴァン対クラウスのワン・オン・ワンは、なかなか良い試合だった。
先攻のシルヴァンは、長い手足と高い瞬発力が生きるのか、
素早いドリブルで、あっという間にゴール下まで辿り着いた。
クラウスが両手を広げて立ちはだかる。
188cmのシルヴァンには少々負けるものの、
同級生達と比べれば、クラウスも高身長だ。
真剣な眼差しでクラウスに見つめられたシルヴァンは、
ニコリと笑ったかと思うと、すっとシュートの構えを見せた。
反射的にクラウスがジャンプする。
すると、シルヴァンはサッと手を降ろし、
クラウスの腕の下をくぐり抜けて、シュートを決めた。
ギャラリーから大きな歓声が上がる。
シルヴァンのフェイクに、まんまと騙され、
あっけなく先制点を奪われたクラウスは、
奥歯を噛み締め、本当に悔しそうにしていた。
それを見て、思わずアイヴィーは笑みが零れた。
シルヴァンは手を叩いて喜んでいた。
「わお! 入っちゃいましたー! 最初は僕の勝ちですね!」
「次は負けん!」
その言葉通りに、次はクラウスがシュートを決めた。
その後も試合は一進一退で、ギャラリーは大いに盛り上がっていた。
アイヴィーが見るに、二人の戦い方は実に対照的だった。
臨機応変にテクニックを織り交ぜ、
相手を翻弄するタイプのシルヴァンに対し、
クラウスは、ただひたすらに力とスピードで勝負している。
フェイクなど一度も使っていない。
ちょっと不器用なんじゃないかと思う程、相手に真っ直ぐぶつかっていた。
アイヴィーは今の点数を確認する。
スコアボードなどない古い公園なので、
二人の子供達が、手で点数を表示している。
今、8対8。どちらかが、あと一回シュートを決めれば、決まる。
さて、この勝負、どっちが勝つか。
→
空に吸い込まれるように、高く飛んだコインは、
クルクルと身を翻しながら、またシルヴァンの元に落ちてくる。
パシンと良い音を立てて、シルヴァンは帰って来たコインを受け止めた。
今、コインはシルヴァンの両手に挟まれている。
クラウスが表、シルヴァンが裏に賭けていた。
「それじゃー、オープーン!」
そうっと手を開く。シルヴァンはニッコリと笑った。
「裏でしたー! 僕の先攻ですね!」
長髪の毛先を跳ねさせながら、シルヴァンはコートの中央へ立つ。
後攻となったクラウスはハーフコートの内側へ移動する。
「フン。試合では負けん」
シルヴァンに指を差し、高らかに宣言した。
「この試合、必ず勝って、お前を寮へ連れ戻す!」
「カッコイイよー! クラウスー!
まるで囚われの姫を取り返しに来たヒーローみたいだー!」
歓声を上げたのは、ギャラリーのテオだ。
「う、煩い! お前は静かに見てろ!
おい、シルヴァン、始めるぞ!」
「フフフッ。はーい。じゃー、どなたか審判をお願いできますかー?」
「よし! 審判なら俺がやってるよ!」
浅黒い肌の子供が手を挙げる。その他の子達は点数係を買ってでた。
皆、クラウスとテオが来るまで、
ここでシルヴァンと遊んでいた子供達だ。
「ルールは10点先取したほうが勝ちのワン・オン・ワンな」
ワン・オン・ワンは、ハーフコートで行われる。
試合開始時、オフェンス側はコートの中央、ハーフコートで言えば端に立って、
コート内側のディフェンス側に一度ボールをパスする。
ディフェンスはオフェンスにボールを返す。
戻ってきたボールで試合が始まるのだ。
「じゃー、先攻シルヴァン! 負けんなよ!」
審判から、ところどころ色の剥げたバスケットボールを渡される。
「はいっ! 絶対勝って、今夜はアイヴィーのおうちでお泊まりしまーす!
アイヴィー! 僕を応援して下さいねー!」
「い、いやー、俺はドッチでもイイんですけど……」
「始めっ!」
コート脇に居る子供達は、揃ってシルヴァンを応援している。
フェンス傍に立っているテオは、全力で二人を応援していた。
その近くのベンチでは、アイヴィーがタバコ片手にボールを目で追っていた。
普段、スポーツ観戦している時のクセか、
つい、「ビールでも飲みながら見てえなあ」などと思いながら。
シルヴァン対クラウスのワン・オン・ワンは、なかなか良い試合だった。
先攻のシルヴァンは、長い手足と高い瞬発力が生きるのか、
素早いドリブルで、あっという間にゴール下まで辿り着いた。
クラウスが両手を広げて立ちはだかる。
188cmのシルヴァンには少々負けるものの、
同級生達と比べれば、クラウスも高身長だ。
真剣な眼差しでクラウスに見つめられたシルヴァンは、
ニコリと笑ったかと思うと、すっとシュートの構えを見せた。
反射的にクラウスがジャンプする。
すると、シルヴァンはサッと手を降ろし、
クラウスの腕の下をくぐり抜けて、シュートを決めた。
ギャラリーから大きな歓声が上がる。
シルヴァンのフェイクに、まんまと騙され、
あっけなく先制点を奪われたクラウスは、
奥歯を噛み締め、本当に悔しそうにしていた。
それを見て、思わずアイヴィーは笑みが零れた。
シルヴァンは手を叩いて喜んでいた。
「わお! 入っちゃいましたー! 最初は僕の勝ちですね!」
「次は負けん!」
その言葉通りに、次はクラウスがシュートを決めた。
その後も試合は一進一退で、ギャラリーは大いに盛り上がっていた。
アイヴィーが見るに、二人の戦い方は実に対照的だった。
臨機応変にテクニックを織り交ぜ、
相手を翻弄するタイプのシルヴァンに対し、
クラウスは、ただひたすらに力とスピードで勝負している。
フェイクなど一度も使っていない。
ちょっと不器用なんじゃないかと思う程、相手に真っ直ぐぶつかっていた。
アイヴィーは今の点数を確認する。
スコアボードなどない古い公園なので、
二人の子供達が、手で点数を表示している。
今、8対8。どちらかが、あと一回シュートを決めれば、決まる。
さて、この勝負、どっちが勝つか。
→
■オーギュスト×アンリ
「アンリ。このあと、何か予定はあるのかな?」
神秘学の授業が終わったあと。
さっきまで教壇に居た人が、真っ直ぐ僕の席まで来た。
僕はテキストとノートにバンドをかけながら、
「特に、予定はないけれど?」
神秘学の教授は穏やかな笑顔を見せた。
「では、一緒に来てくれるかい? 私の研究室でお茶にしよう?」
「何か面白い資料でも手に入ったの?」
「ううん。丁度、良いリーフが手に入ってね。
私の好きな紅茶なんだけれど」
「君が好きな紅茶?」
「うん。とても神秘的な紅茶だからね。
アンリにも気に入って貰えるかは解らないけれど、
一緒に飲みたいなと思ってね。試してみないかね?」
授業には関係がないことなのに、
生徒の一人を、ただ、ティータイムに誘う。
そんなのおかしい。
でも、それは仕方のないことなのかもしれない。
だって彼は、神秘学なんて、おかしな学問の権威と呼ばれる、
オーギュスト・ボージェ教授なのだから。
「良いよ。試してあげても」
「ありがとう、アンリ。では早速行こうか」
教室を出て、彼の背中に付いて行く。
今日のスーツは、チョコレートブラウニーのような色をしてた。
廊下の窓からは、薄暗い空が見える。夜には雨が降るかもしれない。
校舎から外に出ると、冷たい風が吹いていた。
教授は重たい曇り空を見ながら、
「この前まで夏だったのに、もうすっかり秋も深まってきたねえ」
年寄りみたいなことを言う。
「急に秋になったわけじゃない。
徐々に気温は下がっていったよ。毎日少しずつね」
「そうだったかい? やはり、アンリはまだ若いんだね」
「どういう意味?」
「大人になると、そういった日々の変化に疎くなる。
その点、子ども達は敏感だからね」
「それって、僕のこと、まだ子どもだと言っている?」
「いやいや。若いということは素晴らしいね、と言ったつもりなんだが、
いくつになっても、言葉とは難しいものだね」
聖アルフォンソ学院の教授陣には、住まいとは別に、
研究室を与えられている。授業外の時間、教授は大抵ここに居るので、
質問等のある生徒はここに来れば良い。
ボージェ教授の部屋は、研究室棟三階の隅に割り当てられている。
ドアの横に『オーギュスト・ボージェ』と書かれたプレート。
この部屋に、他の生徒が、どの程度来ているのか、僕は知らない。
僕以外の生徒が招かれることもあるんだろうか。
「どうぞ、アンリ」
教授が開けたドアの向こうへ入っていった。
部屋の中央には、グレイのソファと、硝子のローテーブルがある。
部屋の奥に大きな窓があり、その前に教授の机。
そして、まるで壁のように本棚に囲まれた、学問の空間。
常に整頓されていて、小ざっぱりとした部屋だけど、
本棚に並んでいるのは、一般人には理解不能な書物ばかりなのだろう。
僕は部屋の中央にある、グレイのソファに座る。
教授は隅の小さなキッチンに立って、紅茶の準備を始めた。
「ねえ。それ、何と言う名前?」
「ラプサン・スーチョンと言う紅茶だよ」
「変わった名前」
「これは現地の、広東語での発音が、
ヨーロッパ人に、そう聞こえたところから来ているんだ。現地の言葉では」
教授はホワイトボードに『正山小種』と書いた。
「こう書いて、ラプサン・スーチョン。
北京ではチェンシャン・シャオチョンと読むんだけれどね」
何か国語もマスターしている教授は、
ネイティブに近いと思われる発音で説明していた。
「さあ、どうぞ」
オーギュストが僕の前にカップを置いた。
僕は思わず顔をしかめた。
「……何、この香り」
紅茶とは思えない香りがした。
酷くスモーキーで、苦い薬のようでもある。
オーギュストの穏やかな微笑は、確信犯的だ。
「これはね、燻した松の葉で着香しているんだ」
だから、燻製のような香りがするのか。
「着香しているということは、これもフレーバーティの一種、
ということ? アールグレイのように」
「うん。丁度、良いリーフを挙げてくれたけれど、
アールグレイが生まれるきっかけを作ったのが、ラプサン・スーチョンなんだ。
これはまさに東洋の神秘だと、この香りに魅了されたグレイ伯爵が、
何とかあの紅茶を再現したいと思い、
作り出したのが、ベルガモットで着香したアールグレイだからね」
「全く違うものができてくれて良かったよ」
「ああ、講義の時間が長過ぎたかな。冷めないうちに召し上がれ?」
僕は一口飲んでみた。
「ねえ、オーギュスト」
「ん?」
「君、本当にこれが好きなの?」
「うん。とても」
「君に目を付けられただけあって、変わった紅茶だね」
「この紅茶は人を選ぶ。一口飲んだ途端にやみつきになるか、
それとも、二度と口にしないか。そのくらいはっきり好みが別れてしまう。
アンリは後者のほうだったかな?」
「やみつきにはなっていないね」
すると、オーギュストはこう言って笑ったんだ。
「そうか。アンリには、まだ早かったかな?
この美味しさが解って貰えるのは、
アンリがもう少し大人になってから、かな?」
「バトラー」
ウーティス寮のサロンに戻った僕が、執事の名を口にすると、
サロンに居た寮生達は、揃って不思議そうに僕を見た。
ジョシュアはコーヒーカップを持ったまま、
「アンリ。バトラーを探してるのかい?」
「そう聞こえなかった?」
「すまない。ええと、バトラーなら、もうすぐ来ると思うよ?
今、ユウタとハルヤのお茶を煎れに行ったから」
「そう」
都合が良い場所に居るようなので、僕は会いに行くことにした。
バトラーは『バトラーのキッチン』に居た。
ここは主にバトラーがお茶の用意をする為の部屋で、
紅茶を始めとした、リーフがたくさんある。
一般的には、簡易キッチンとか、パントリーと言う。
シェフのキッチンと区別する為に、
ここではバトラーのキッチンと呼ばれてる。
バトラーは日本のティーポットを手にしていた。
グリーンティを淹れているらしい。
「バトラー」
「おや。アンリ様」
「ねえ。ここに、ラプサンスーチョンという名前の紅茶はある?」
「ラプサンスーチョンでございますか? 申し訳ございません。
ラプサンスーチョンは、ここ暫くご用意がなく……」
「では手に入ったら、それから暫く、
僕の紅茶は、ラプサンスーチョンにして」
fin
神秘学の授業が終わったあと。
さっきまで教壇に居た人が、真っ直ぐ僕の席まで来た。
僕はテキストとノートにバンドをかけながら、
「特に、予定はないけれど?」
神秘学の教授は穏やかな笑顔を見せた。
「では、一緒に来てくれるかい? 私の研究室でお茶にしよう?」
「何か面白い資料でも手に入ったの?」
「ううん。丁度、良いリーフが手に入ってね。
私の好きな紅茶なんだけれど」
「君が好きな紅茶?」
「うん。とても神秘的な紅茶だからね。
アンリにも気に入って貰えるかは解らないけれど、
一緒に飲みたいなと思ってね。試してみないかね?」
授業には関係がないことなのに、
生徒の一人を、ただ、ティータイムに誘う。
そんなのおかしい。
でも、それは仕方のないことなのかもしれない。
だって彼は、神秘学なんて、おかしな学問の権威と呼ばれる、
オーギュスト・ボージェ教授なのだから。
「良いよ。試してあげても」
「ありがとう、アンリ。では早速行こうか」
教室を出て、彼の背中に付いて行く。
今日のスーツは、チョコレートブラウニーのような色をしてた。
廊下の窓からは、薄暗い空が見える。夜には雨が降るかもしれない。
校舎から外に出ると、冷たい風が吹いていた。
教授は重たい曇り空を見ながら、
「この前まで夏だったのに、もうすっかり秋も深まってきたねえ」
年寄りみたいなことを言う。
「急に秋になったわけじゃない。
徐々に気温は下がっていったよ。毎日少しずつね」
「そうだったかい? やはり、アンリはまだ若いんだね」
「どういう意味?」
「大人になると、そういった日々の変化に疎くなる。
その点、子ども達は敏感だからね」
「それって、僕のこと、まだ子どもだと言っている?」
「いやいや。若いということは素晴らしいね、と言ったつもりなんだが、
いくつになっても、言葉とは難しいものだね」
聖アルフォンソ学院の教授陣には、住まいとは別に、
研究室を与えられている。授業外の時間、教授は大抵ここに居るので、
質問等のある生徒はここに来れば良い。
ボージェ教授の部屋は、研究室棟三階の隅に割り当てられている。
ドアの横に『オーギュスト・ボージェ』と書かれたプレート。
この部屋に、他の生徒が、どの程度来ているのか、僕は知らない。
僕以外の生徒が招かれることもあるんだろうか。
「どうぞ、アンリ」
教授が開けたドアの向こうへ入っていった。
部屋の中央には、グレイのソファと、硝子のローテーブルがある。
部屋の奥に大きな窓があり、その前に教授の机。
そして、まるで壁のように本棚に囲まれた、学問の空間。
常に整頓されていて、小ざっぱりとした部屋だけど、
本棚に並んでいるのは、一般人には理解不能な書物ばかりなのだろう。
僕は部屋の中央にある、グレイのソファに座る。
教授は隅の小さなキッチンに立って、紅茶の準備を始めた。
「ねえ。それ、何と言う名前?」
「ラプサン・スーチョンと言う紅茶だよ」
「変わった名前」
「これは現地の、広東語での発音が、
ヨーロッパ人に、そう聞こえたところから来ているんだ。現地の言葉では」
教授はホワイトボードに『正山小種』と書いた。
「こう書いて、ラプサン・スーチョン。
北京ではチェンシャン・シャオチョンと読むんだけれどね」
何か国語もマスターしている教授は、
ネイティブに近いと思われる発音で説明していた。
「さあ、どうぞ」
オーギュストが僕の前にカップを置いた。
僕は思わず顔をしかめた。
「……何、この香り」
紅茶とは思えない香りがした。
酷くスモーキーで、苦い薬のようでもある。
オーギュストの穏やかな微笑は、確信犯的だ。
「これはね、燻した松の葉で着香しているんだ」
だから、燻製のような香りがするのか。
「着香しているということは、これもフレーバーティの一種、
ということ? アールグレイのように」
「うん。丁度、良いリーフを挙げてくれたけれど、
アールグレイが生まれるきっかけを作ったのが、ラプサン・スーチョンなんだ。
これはまさに東洋の神秘だと、この香りに魅了されたグレイ伯爵が、
何とかあの紅茶を再現したいと思い、
作り出したのが、ベルガモットで着香したアールグレイだからね」
「全く違うものができてくれて良かったよ」
「ああ、講義の時間が長過ぎたかな。冷めないうちに召し上がれ?」
僕は一口飲んでみた。
「ねえ、オーギュスト」
「ん?」
「君、本当にこれが好きなの?」
「うん。とても」
「君に目を付けられただけあって、変わった紅茶だね」
「この紅茶は人を選ぶ。一口飲んだ途端にやみつきになるか、
それとも、二度と口にしないか。そのくらいはっきり好みが別れてしまう。
アンリは後者のほうだったかな?」
「やみつきにはなっていないね」
すると、オーギュストはこう言って笑ったんだ。
「そうか。アンリには、まだ早かったかな?
この美味しさが解って貰えるのは、
アンリがもう少し大人になってから、かな?」
「バトラー」
ウーティス寮のサロンに戻った僕が、執事の名を口にすると、
サロンに居た寮生達は、揃って不思議そうに僕を見た。
ジョシュアはコーヒーカップを持ったまま、
「アンリ。バトラーを探してるのかい?」
「そう聞こえなかった?」
「すまない。ええと、バトラーなら、もうすぐ来ると思うよ?
今、ユウタとハルヤのお茶を煎れに行ったから」
「そう」
都合が良い場所に居るようなので、僕は会いに行くことにした。
バトラーは『バトラーのキッチン』に居た。
ここは主にバトラーがお茶の用意をする為の部屋で、
紅茶を始めとした、リーフがたくさんある。
一般的には、簡易キッチンとか、パントリーと言う。
シェフのキッチンと区別する為に、
ここではバトラーのキッチンと呼ばれてる。
バトラーは日本のティーポットを手にしていた。
グリーンティを淹れているらしい。
「バトラー」
「おや。アンリ様」
「ねえ。ここに、ラプサンスーチョンという名前の紅茶はある?」
「ラプサンスーチョンでございますか? 申し訳ございません。
ラプサンスーチョンは、ここ暫くご用意がなく……」
「では手に入ったら、それから暫く、
僕の紅茶は、ラプサンスーチョンにして」
fin
■シュヌーシア
放課後。高等部二年のテオと中等部三年のシルフェが、
校舎からシュヌーシア寮へ帰る途中のこと。
テオが何かを見つけて、感動の溜め息を漏らした。
「――ああ。ごらん、シルフェ。美しい花が二輪も咲いているよ?」
シルフェは「二輪の美しい花」を探したが見当たらない。
「ん? どこ?」
テオは微笑みながら「ほら、あの木の下だよ」
改めてテオの視線を追うと、ここから少し離れたところに、
ウーティス寮のジョシュアとアンリの姿が見えた。
それは月桂樹の森の傍で、確かに木の下に居る。
「二輪の美しい花」は、あの二人のことか、とシルフェは察する。
テオは前にもウーティス寮に遊びに行ってきたことを、
「ウーティスの花達を愛でてきた」と表現したことがあったからだ。
シルフェは二輪の花を観察してみる。
アンリは立っていたが、ジョシュアは片膝を着き、地面のほうを見ていた。
何を見ているのかと思えば、ジョシュアの傍には一匹のウサギが居た。
毛色は薄茶色で両耳は垂れ下がっている。月桂樹の森に棲んでいるウサギだ。
寮に帰る途中、ジョシュアがウサギを見つけて足を止めたので、
アンリは仕方なく、それに付き合わされているような光景に見えた。
機嫌が悪そうなアンリが、ジョシュアに何か言っている。
テオはうっとりと言った。
「いやはや。美しいねえ」
「片方には棘がありそうだけど?」
「棘がある花もまた、美しいものだよ」
ジョシュアは近くにあった草花をウサギに差し出していた。
ウサギはジョシュアを見上げている。ジョシュアは笑顔で、
何か言葉をかけながら、草花をウサギの傍にそっと置いた。
「おお! すごい! プレゼントされたお花を食べているよ!
さすがジョシュア。動物を愛し、愛される者は違うねえ」
テオは本当に花を愛でるような目をして、ジョシュア達を見ていた。
「ところで、テオ。声かけなくて良いの?」
いつものテオなら「おおーい!」と花達に駆け寄って、
スコールのように賞賛の言葉を浴びせるのにとシルフェは思ったのだ。
「いやいや。私が今、出て行ったら、
花達をビックリさせてしまいそうだからね。
遠くから拝見しているだけで、私は充分なのだよ。おや?」
いつのまにか、ウサギはジョシュアの腕の中に居た。
抱き抱えられ、優しく頭を撫でられている。
ウサギも気持ちが良いのか大人しく、双方共に幸せそうだった。
「ああ! 今すぐ腕の良い絵描きさんを呼びたいくらいだ!」
すると、アンリはジョシュアとウサギを置いて、
一人でウーティス寮に向かってしまった。
ジョシュアは苦笑しつつ、ウサギを地面に置く。
ウサギの頭にぽんと触れながら、何か言葉をかけている。
そして立ち上がったジョシュアは、アンリを追いかけた。
「さて。私達も我が家に帰ろうか」
シュヌーシア寮に戻ったテオとシルフェは、
テキストを置く為、それぞれの自室に向かった。
テオはその後、いつものように寮のサロンに行った。
「あっ! テオ帰ってきた! テオー」
テオがシュヌーシア寮サロンに入ると、
中等部一年のラビがテオに飛びついてきた。
テオはそれを嬉しく受け止めた。
「どうしたんだい、ラビ?」
「あのね。急に、明日、数学の小テストって言われてね」
「おや。それは大変だ」
「テスト範囲の中にある問題で、
ぼくもレオンも解んないのがあって」
ラビの視線を追って、テーブル席を見ると、
シャープペンシルを手の中で回しているレオンと目が合った。
「それでね、テオに教えて欲しいの。良いかなあ?」
見上げてくるラビを見つめて、テオはにっこりと笑った。
「うん。もちろんだとも」
「ありがとう! じゃあこっち来てー」
テオは小さな手に引かれ、テーブルのほうへ連れて行かれた。
次にシルフェがサロンにやってきて、ソファに座った。
テーブル席でテオがラビとレオンに挟まれているのを見て、
また勉強を教えてるんだな、と思った。
「シルフェ様」
シュヌーシア寮のバトラーが側に来た。
「お疲れ様でございました。お紅茶をどうぞ」
「サンキュ。今日は何?」
「今日のリーフは、ムーンストーンでございます」
「あ、俺、ソレ好き」
シルフェに紅茶をサーブしたバトラーは、
次に、新聞を読んでいる生徒に視線を移した。
「クラウス様は、コーヒーで宜しいでしょうか」
「ああ。すまんな」
「畏まりました」
バトラーがカップにコーヒーを注ぐ。
コポコポと心地の良い音と共に、コーヒーの良い香りが流れてきた。
「できたー!」
問題の解き方が理解できたラビは笑顔になっていた。
「ありがと、テオ!」
「どういたしまして。ラビもレオンもお疲れ様」
「テオもお疲れ様。テオってほんと天才だよね。
ぼく達が解んない問題、いつも解るもん」
「いやー、そうかい?」
「照れるな。テオがラビ達の問題ができるのは当たり前だろう」
そう言ったのは高等部三年のクラウスだった。
「高二が中一の問題を解けなくてどうする」
シルフェがニヤリと笑いながら、
「とか言って、クラウスが解けなかったら面白いよな?」
クラウスはムッとした。
「俺ができないわけないだろう」
「じゃー、試してみる? ――おい、レオン。
お前達が解んなかったヤツ、クラウスにやらせてみな?」
レオンがテキストを取って、これ、と指で差した。
「誰かクラウスに紙とペン貸してやってー」
そうシルフェが言うと、
「いや、なくて良い」
クラウスは人差し指でテキストの上に、
透明な文字をサラサラと書き、あっという間に問題を解いた。
「できたぞ。答えは12だ」
ラビは自分のノートを見る。そこに書いてある答えも12だった。
「すごい。正解だよ」
テオは力いっぱい拍手した。
「おおー! さすがはクラウス!」
シルフェは、やるきのない拍手をしながら、
「なーんだ。クラウス、つまんなーい」
「……つまらないとは何事だ」
コンコン、とサロンのドアがノックされた。
「失礼しまーす。今日のお菓子をお持ちしましたー」
オレンジ色の腰巻エプロン姿をした小柄なシェフ。
シュヌーシア寮専属シェフのドニ・ドームが、
サロンに今日のおやつを運んできた。
「待ってましたー!」
「今日はなあにー?」
駆け寄った生徒達がシェフをわっと取り囲む。
子供好きなシェフは嬉しそうだった。
「今日はいちごのショートケーキです。
中にもいちごが入っていますよ。皆様、おひとつずつどうぞ」
一人分の大きさの丸いケーキには、いちごがちょこんとひとつ乗っていた。
可愛いケーキがたくさん並んでいる光景を見て、テオは目を輝かせた。
「宝石箱のようだね! いちごがルビーに見えるよ!」
テオがシェフを褒めちぎっているのを眺めながら、
毎日毎日、よく褒め言葉が見つかるものだな、とクラウスは思った。
「なあ、クラウス!」
レオンがニコニコしながら、目の前に来ていた。
「クラウスは甘いの苦手だから、このケーキ、食べないよなっ?」
「ん? ああ」
「じゃあ、クラウスのケーキ争奪じゃんけん大会やろうぜ!」
「俺もやるー!」
「俺も入れてー!」
クラウスのケーキを奪ったレオンの周りに寮生達が集まる。
そちらに行かなかったラビは、テオのブレザーを少し引っ張った。
「ねえ、テオ」
じゃんけん大会の行方を見ていたテオが、ラビに向き直る。
「ん? なんだい、ラビ」
ラビは自分のケーキに乗っているいちごをフォークで差し、
それをテオの前に差し出した。
「ぼくのいちごあげる」
テオは両手を挙げて驚いた。
「ええっ!? どうしてだい?」
「お礼だよ。テオはいつもぼくに勉強教えてくれるから」
「そんな! 貰えないよ。それはラビのいちごじゃないか」
「でも、テオにあげたいの」
「……良いのかい?」
「うん。じゃあ、おくち開けて?」
「うん」
「はいっ。いつもありがと、テオ」
テオの口の中にラビのいちごが入った。
「美味しい? テオ」
「うん。とっても甘かったよ。何よりラビの優しさがね」
ラビはふふふと笑った。
「テオにお礼できて良かった」
「じゃあ、次は私がラビにお礼をする番だね?」
「え?」
テオは自分のいちごをフォークに刺して、ラビに差し出した。
「ラビが私にいちごをくれたお礼がしたいんだ。
受け取ってくれるかい、ラビ?」
「でも……」
「ああ、どうしてもラビにお礼がしたいなあ!
とってもとっても嬉しかったから」
「……ぼく、貰っていいの?」
「もちろん。はいっ」
テオのいちごがラビの口に入る。
「美味しいかい、ラビ?」
「うんっ。テオありがと。テオだいすきっ」
「私も大好きだよ、ラビ」
テオはぎゅーっとラビを抱き締めた。
シルフェはクラウスに視線を送りながら、
「シュヌーシア家は今日も平和だねー。ね、おとーさん?」
クラウスは憮然としながら、
「だから、俺にその呼び方はおかしいだろ。
大体、その『シュヌーシア家』って何だ?」
「え? 何を今更。ウチに住んでるみんなのことデショ?
おとーさんがアンタで、おかーさんがテオ。あとは可愛い子ども達。
だから、アンタもここでは、クラウス・シュヌーシアで、
俺もシルフェ・シュヌーシア。知らなかった?」
「知らん。一体いつから」
「ねえ、ねえ。じゃあ、ぼくもラビット・シュヌーシア?」
「もちろん」
「やった!」
「では、私もテオ・シュヌーシアなのだね。
テオ・シュヌーシア。ああ、なんと素晴らしい響きなのだろう!」
「いや、明らかに語感がおかしいだろう」
「何を言っているんだい、クラウス!
ウィーアー ファミリー! ウィーアー シュヌーシアだよ!」
その日のディナータイム。
珍しくテオの隣にレオンが座った。
今日のメインディッシュはステーキで、
テオはナイフとフォークを持ったところだった。
「テオ。これ、やる」
レオンがテオの前に一切れのステーキを突き出した。
唐突な申し出に、テオは首を傾げた。
「私に? レオン、ステーキ、嫌いになったのかい?」
「ちがっ。好きだよ!」
「では、どうして私に?」
「……そんなの、決まってんだろ」
「え? ええと?」
「……今日、勉強教えて貰ったお礼」
「おお! レオンまで私にごちそうしてくれるのかい?
そんなにお礼をして貰えるようなことはしていないのだけどねえ」
「ラビのいちごは食ったのに、俺のは食わないのかっ!?」
「いや。ありがたく頂くよ。では食べさせてくれるかい、レオン」
「……おう。じゃ、口開けろよ」
「うん!」
大きく開いた口に一切れのステーキを入れた。
「とっても美味しかったよ、レオン。ありがとう!」
「……そーかよ」
「あれー? レオン、ステーキ要らないのー?
じゃー、俺が貰っちゃおーっと」
「ああーっ!? シルフェ! てめっ、何食ってるんだよ! 返せっ!」
「もう飲んじゃいましたー。あー、美味しかったー」
「お前なあ……じゃあ、シルフェのステーキも貰うからなっ!」
「なっ、勝手に人の食いモン取るなよー」
「それはお前だろっ!?」
見かねたクラウスが、眉間に皺を寄せながら注意した。
「おい、お前達。料理を取り合うな。見苦しい」
ラビはまた自分の分をテオに差し出していた。
「ねえ、テオ。ぼくのステーキも、いっこあげるー」
「おや。じゃあ、私のステーキもひとつあげるよ」
「そこも! 何度も食べさせ合うな!
料理は、自分の分を、自分で食べろ!」
ドッと笑いが起き、食卓が笑いに包まれる。
今日もシュヌーシアの夜は楽しく更けていった。
fin
校舎からシュヌーシア寮へ帰る途中のこと。
テオが何かを見つけて、感動の溜め息を漏らした。
「――ああ。ごらん、シルフェ。美しい花が二輪も咲いているよ?」
シルフェは「二輪の美しい花」を探したが見当たらない。
「ん? どこ?」
テオは微笑みながら「ほら、あの木の下だよ」
改めてテオの視線を追うと、ここから少し離れたところに、
ウーティス寮のジョシュアとアンリの姿が見えた。
それは月桂樹の森の傍で、確かに木の下に居る。
「二輪の美しい花」は、あの二人のことか、とシルフェは察する。
テオは前にもウーティス寮に遊びに行ってきたことを、
「ウーティスの花達を愛でてきた」と表現したことがあったからだ。
シルフェは二輪の花を観察してみる。
アンリは立っていたが、ジョシュアは片膝を着き、地面のほうを見ていた。
何を見ているのかと思えば、ジョシュアの傍には一匹のウサギが居た。
毛色は薄茶色で両耳は垂れ下がっている。月桂樹の森に棲んでいるウサギだ。
寮に帰る途中、ジョシュアがウサギを見つけて足を止めたので、
アンリは仕方なく、それに付き合わされているような光景に見えた。
機嫌が悪そうなアンリが、ジョシュアに何か言っている。
テオはうっとりと言った。
「いやはや。美しいねえ」
「片方には棘がありそうだけど?」
「棘がある花もまた、美しいものだよ」
ジョシュアは近くにあった草花をウサギに差し出していた。
ウサギはジョシュアを見上げている。ジョシュアは笑顔で、
何か言葉をかけながら、草花をウサギの傍にそっと置いた。
「おお! すごい! プレゼントされたお花を食べているよ!
さすがジョシュア。動物を愛し、愛される者は違うねえ」
テオは本当に花を愛でるような目をして、ジョシュア達を見ていた。
「ところで、テオ。声かけなくて良いの?」
いつものテオなら「おおーい!」と花達に駆け寄って、
スコールのように賞賛の言葉を浴びせるのにとシルフェは思ったのだ。
「いやいや。私が今、出て行ったら、
花達をビックリさせてしまいそうだからね。
遠くから拝見しているだけで、私は充分なのだよ。おや?」
いつのまにか、ウサギはジョシュアの腕の中に居た。
抱き抱えられ、優しく頭を撫でられている。
ウサギも気持ちが良いのか大人しく、双方共に幸せそうだった。
「ああ! 今すぐ腕の良い絵描きさんを呼びたいくらいだ!」
すると、アンリはジョシュアとウサギを置いて、
一人でウーティス寮に向かってしまった。
ジョシュアは苦笑しつつ、ウサギを地面に置く。
ウサギの頭にぽんと触れながら、何か言葉をかけている。
そして立ち上がったジョシュアは、アンリを追いかけた。
「さて。私達も我が家に帰ろうか」
シュヌーシア寮に戻ったテオとシルフェは、
テキストを置く為、それぞれの自室に向かった。
テオはその後、いつものように寮のサロンに行った。
「あっ! テオ帰ってきた! テオー」
テオがシュヌーシア寮サロンに入ると、
中等部一年のラビがテオに飛びついてきた。
テオはそれを嬉しく受け止めた。
「どうしたんだい、ラビ?」
「あのね。急に、明日、数学の小テストって言われてね」
「おや。それは大変だ」
「テスト範囲の中にある問題で、
ぼくもレオンも解んないのがあって」
ラビの視線を追って、テーブル席を見ると、
シャープペンシルを手の中で回しているレオンと目が合った。
「それでね、テオに教えて欲しいの。良いかなあ?」
見上げてくるラビを見つめて、テオはにっこりと笑った。
「うん。もちろんだとも」
「ありがとう! じゃあこっち来てー」
テオは小さな手に引かれ、テーブルのほうへ連れて行かれた。
次にシルフェがサロンにやってきて、ソファに座った。
テーブル席でテオがラビとレオンに挟まれているのを見て、
また勉強を教えてるんだな、と思った。
「シルフェ様」
シュヌーシア寮のバトラーが側に来た。
「お疲れ様でございました。お紅茶をどうぞ」
「サンキュ。今日は何?」
「今日のリーフは、ムーンストーンでございます」
「あ、俺、ソレ好き」
シルフェに紅茶をサーブしたバトラーは、
次に、新聞を読んでいる生徒に視線を移した。
「クラウス様は、コーヒーで宜しいでしょうか」
「ああ。すまんな」
「畏まりました」
バトラーがカップにコーヒーを注ぐ。
コポコポと心地の良い音と共に、コーヒーの良い香りが流れてきた。
「できたー!」
問題の解き方が理解できたラビは笑顔になっていた。
「ありがと、テオ!」
「どういたしまして。ラビもレオンもお疲れ様」
「テオもお疲れ様。テオってほんと天才だよね。
ぼく達が解んない問題、いつも解るもん」
「いやー、そうかい?」
「照れるな。テオがラビ達の問題ができるのは当たり前だろう」
そう言ったのは高等部三年のクラウスだった。
「高二が中一の問題を解けなくてどうする」
シルフェがニヤリと笑いながら、
「とか言って、クラウスが解けなかったら面白いよな?」
クラウスはムッとした。
「俺ができないわけないだろう」
「じゃー、試してみる? ――おい、レオン。
お前達が解んなかったヤツ、クラウスにやらせてみな?」
レオンがテキストを取って、これ、と指で差した。
「誰かクラウスに紙とペン貸してやってー」
そうシルフェが言うと、
「いや、なくて良い」
クラウスは人差し指でテキストの上に、
透明な文字をサラサラと書き、あっという間に問題を解いた。
「できたぞ。答えは12だ」
ラビは自分のノートを見る。そこに書いてある答えも12だった。
「すごい。正解だよ」
テオは力いっぱい拍手した。
「おおー! さすがはクラウス!」
シルフェは、やるきのない拍手をしながら、
「なーんだ。クラウス、つまんなーい」
「……つまらないとは何事だ」
コンコン、とサロンのドアがノックされた。
「失礼しまーす。今日のお菓子をお持ちしましたー」
オレンジ色の腰巻エプロン姿をした小柄なシェフ。
シュヌーシア寮専属シェフのドニ・ドームが、
サロンに今日のおやつを運んできた。
「待ってましたー!」
「今日はなあにー?」
駆け寄った生徒達がシェフをわっと取り囲む。
子供好きなシェフは嬉しそうだった。
「今日はいちごのショートケーキです。
中にもいちごが入っていますよ。皆様、おひとつずつどうぞ」
一人分の大きさの丸いケーキには、いちごがちょこんとひとつ乗っていた。
可愛いケーキがたくさん並んでいる光景を見て、テオは目を輝かせた。
「宝石箱のようだね! いちごがルビーに見えるよ!」
テオがシェフを褒めちぎっているのを眺めながら、
毎日毎日、よく褒め言葉が見つかるものだな、とクラウスは思った。
「なあ、クラウス!」
レオンがニコニコしながら、目の前に来ていた。
「クラウスは甘いの苦手だから、このケーキ、食べないよなっ?」
「ん? ああ」
「じゃあ、クラウスのケーキ争奪じゃんけん大会やろうぜ!」
「俺もやるー!」
「俺も入れてー!」
クラウスのケーキを奪ったレオンの周りに寮生達が集まる。
そちらに行かなかったラビは、テオのブレザーを少し引っ張った。
「ねえ、テオ」
じゃんけん大会の行方を見ていたテオが、ラビに向き直る。
「ん? なんだい、ラビ」
ラビは自分のケーキに乗っているいちごをフォークで差し、
それをテオの前に差し出した。
「ぼくのいちごあげる」
テオは両手を挙げて驚いた。
「ええっ!? どうしてだい?」
「お礼だよ。テオはいつもぼくに勉強教えてくれるから」
「そんな! 貰えないよ。それはラビのいちごじゃないか」
「でも、テオにあげたいの」
「……良いのかい?」
「うん。じゃあ、おくち開けて?」
「うん」
「はいっ。いつもありがと、テオ」
テオの口の中にラビのいちごが入った。
「美味しい? テオ」
「うん。とっても甘かったよ。何よりラビの優しさがね」
ラビはふふふと笑った。
「テオにお礼できて良かった」
「じゃあ、次は私がラビにお礼をする番だね?」
「え?」
テオは自分のいちごをフォークに刺して、ラビに差し出した。
「ラビが私にいちごをくれたお礼がしたいんだ。
受け取ってくれるかい、ラビ?」
「でも……」
「ああ、どうしてもラビにお礼がしたいなあ!
とってもとっても嬉しかったから」
「……ぼく、貰っていいの?」
「もちろん。はいっ」
テオのいちごがラビの口に入る。
「美味しいかい、ラビ?」
「うんっ。テオありがと。テオだいすきっ」
「私も大好きだよ、ラビ」
テオはぎゅーっとラビを抱き締めた。
シルフェはクラウスに視線を送りながら、
「シュヌーシア家は今日も平和だねー。ね、おとーさん?」
クラウスは憮然としながら、
「だから、俺にその呼び方はおかしいだろ。
大体、その『シュヌーシア家』って何だ?」
「え? 何を今更。ウチに住んでるみんなのことデショ?
おとーさんがアンタで、おかーさんがテオ。あとは可愛い子ども達。
だから、アンタもここでは、クラウス・シュヌーシアで、
俺もシルフェ・シュヌーシア。知らなかった?」
「知らん。一体いつから」
「ねえ、ねえ。じゃあ、ぼくもラビット・シュヌーシア?」
「もちろん」
「やった!」
「では、私もテオ・シュヌーシアなのだね。
テオ・シュヌーシア。ああ、なんと素晴らしい響きなのだろう!」
「いや、明らかに語感がおかしいだろう」
「何を言っているんだい、クラウス!
ウィーアー ファミリー! ウィーアー シュヌーシアだよ!」
その日のディナータイム。
珍しくテオの隣にレオンが座った。
今日のメインディッシュはステーキで、
テオはナイフとフォークを持ったところだった。
「テオ。これ、やる」
レオンがテオの前に一切れのステーキを突き出した。
唐突な申し出に、テオは首を傾げた。
「私に? レオン、ステーキ、嫌いになったのかい?」
「ちがっ。好きだよ!」
「では、どうして私に?」
「……そんなの、決まってんだろ」
「え? ええと?」
「……今日、勉強教えて貰ったお礼」
「おお! レオンまで私にごちそうしてくれるのかい?
そんなにお礼をして貰えるようなことはしていないのだけどねえ」
「ラビのいちごは食ったのに、俺のは食わないのかっ!?」
「いや。ありがたく頂くよ。では食べさせてくれるかい、レオン」
「……おう。じゃ、口開けろよ」
「うん!」
大きく開いた口に一切れのステーキを入れた。
「とっても美味しかったよ、レオン。ありがとう!」
「……そーかよ」
「あれー? レオン、ステーキ要らないのー?
じゃー、俺が貰っちゃおーっと」
「ああーっ!? シルフェ! てめっ、何食ってるんだよ! 返せっ!」
「もう飲んじゃいましたー。あー、美味しかったー」
「お前なあ……じゃあ、シルフェのステーキも貰うからなっ!」
「なっ、勝手に人の食いモン取るなよー」
「それはお前だろっ!?」
見かねたクラウスが、眉間に皺を寄せながら注意した。
「おい、お前達。料理を取り合うな。見苦しい」
ラビはまた自分の分をテオに差し出していた。
「ねえ、テオ。ぼくのステーキも、いっこあげるー」
「おや。じゃあ、私のステーキもひとつあげるよ」
「そこも! 何度も食べさせ合うな!
料理は、自分の分を、自分で食べろ!」
ドッと笑いが起き、食卓が笑いに包まれる。
今日もシュヌーシアの夜は楽しく更けていった。
fin
■アイヴィー+ラルヴィス
聖アルフォンソ学院正門前。
タクシーに背を預けながら、アイヴィーは空を見ていた。
良く晴れた空に、ふわりふわりと雲が泳いでる。
青い空を見ていたら、ふと、ある人の顔を思い出した。
ズボラな自分とは違って、仕事に真面目な、金髪美人さん。
「……ラルちゃん、元気かなあ?」
ラルヴィス・レイナ。
通称ラルちゃんの肩書きは、ロレート公国国王の側近さんだ。
急にラルちゃんのことを思い出したのは、
さっきまで生徒代表室で、その関係者、というか、
ラルちゃんのお国の王子サマとミーティングしていたからかもしれない。
ラルちゃんと接する機会が増えたのは、
ジョシュアがロレートの第一王子になると決めたからだ。
以来、ロレートの遣いや護衛として、
ラルちゃんは国と島を何度か行き来している。
その間に、俺達は互いの連絡先を交換して、
島に来る前にはラルちゃんから律儀なメールが来るようになった。
島にラルちゃんが来た時は、俺も迎えに行って、
色々話したりするようになった。
それで解ったことは、ラルちゃんは、良い人だということだ。
ラルちゃんと俺のカンケイは、ちょっとフシギだ。
『同僚』というわけではないし、『お客様』というのも、ちょっと違う。
でも、ただの『知り合い』では、もう足りない気がする。
ラルちゃんに対して、コッチは勝手に仲間意識みたいなものを感じていた。
それは多分、種類は違うけど、似たようなことを、
生業としているからかもしれないし、
単に、ラルちゃんと時々会ったり話したりすることがスキなのかもしれない。
だから、ラルちゃんから業務連絡的なメールが来た時も、
つい、仕事に関係ない話までして、
メールの遣り取りを少し長引かせてしまう。
今、ラルちゃんは何してるんだろう、と思った。
「……電話、してみよっかな?」
マージナルプリンスどもの送迎まで、まだ時間はある。
用もないのに電話なんかしたら悪いかな、と思いながらも、
ラルちゃんの驚く声が聞きたいと思っている自分が居た。
同じ頃。ロレート公国大公家。
ラルヴィスは、執務中の陛下のお側に控えていた。
ロレート公国国王、カーディス一世は、
日頃から溜めていたデスクワークと格闘中。
今日は朝から晩まで、こうしている予定だ。
今夜までに最低でも、この書類の山の半分は片付けて頂かなければならない。
側近のラルヴィスは、陛下が執務室から逃げ出さないよう監督していた。
陛下は書類を読むスピードが落ちている。
先程、お食事をされたせいか、睡魔が襲ってきているようだった。
陛下はおもむろに天井に向かって両腕を伸ばした。
どうやら、もう飽きてしまわれたようだ。
「陛下。コーヒーをお持ち致しましょうか」
「いや、いい。少し庭を散歩してくる」
「いけません。本日は執務が終わるまで、
外出はお控え頂きたいと申し上げた筈ですよ」
「庭は外出に入らんだろう」
「入ります」
「この堅物め」
「お褒め頂き、恐れ入ります」
「褒めてなど」
その時だ。ラルヴィスの携帯電話が鳴ったのは。
「電話か。誰からだ?」
陛下に問われ、携帯電話に表示されている名前を確認する。
相手は思ってもみない人物だった。
「聖アルフォンソ島のアイヴィー様からお電話のようです」
「ほう。お前達が気軽に電話する仲になっていたとはな。
いつの間にそれほど親しくなったんだ?」
何を呑気に、とラルヴィスは思った。
アイヴィー様は表向きは学院専属ドライバーだが、
本職は警備組織の司令官なのだ。
警備のトップが直々に連絡を寄こすということは、
余程の緊急事態に違いない。
「ジョシュア殿下について、何か緊急のご連絡かもしれません。失礼致します」
陛下の御前だったが、ラルヴィスはその場で電話に出た。
「お待たせ致しました。ロレート公国のレイナでございます」
「アルフォンソ島のアイヴィーでーす。ラルちゃん、今、大丈夫ー?」
「はい。アイヴィー様、緊急のご連絡ですか。殿下の御身に何か」
「え? ああ、いや、ゴメンゴメン。今日はジョシュアの話じゃなくてー。
ラルちゃん元気かなー、と思ってちょっとお電話してみただけー」
「……わたくし、でございますか?」
「うん。元気ー?」
「……え、ええ」
「そ。ヨカッター」
「……アイヴィー様? 確認させて頂きたいのですが」
「んー?」
「殿下はご無事なのですね?」
「ああ、元気、元気。さっきミーティングで会ったばっかだし」
「……それならば良いのですが」
「あれっ? あいつら、もう来た」
「えっ?」
「ああ、ゴメン。マージナルプリンスどもが、
早く来ちゃったから、ちょっと街まで送ってくるね」
「左様でございましたか。では、どうぞお気を付けて」
「アリガト。あ、ラルちゃん!」
「はい」
「あのさ。また、今日みたいにお電話してもイイかなあ?」
「え? ええ」
「ホント? やった。じゃあ、またね、ラルちゃん」
一方的にかかってきた電話は、一方的に切られた。
ラルヴィスは、通話の終わった携帯電話を呆然と見つめていた。
「おい、アイヴィー。ケータイ見て、何ニヤニヤしてんだよ?」
開口一番、アルフレッドにそう言われた。
「楽しいお電話みたいでしたけど、どなたと話していたんですか?」
そう言うシルヴァンの横で、ハルヤも不思議そうに俺を見ていた。
俺はポケットに携帯電話を仕舞いながら、
「相手がダレかって? ナイショー」
「えー。なんでナイショなんですかー?」
「まさか、オンナか!?」
「バーカ。ちげーよ」
「じゃー、ダレなんだよー」
「まあー、俺のトモダチだよ、トモダチ。
つっても、向こうが俺のことトモダチだと思ってくれてるかは解んないけどな」
「何だよソレー。余計ワケ解んねえよー」
「さ、ライブハウス行くんだろ? 乗った乗ったー」
その時、俺は自分でも初めて解った気がした。
今までは、自分とラルちゃんのカンケイに名前が付いていなかったけれど。
自分はラルちゃんのことを『トモダチ』だと感じていたらしいことに。
だからかもしれない。
トモダチだと思っているから、元気かどうか気になって、
これからもずっと元気でいて欲しいと、
そう感じたのかもしれない。
運転席に乗り込み、ハンドルを握り締める。
空は澄み渡るように晴れていた。
fin
■ホワイト・レディ10 の続編
※蔦様、大変遅くなりましたが、お誕生日おめでとうございました!!
※蔦様、大変遅くなりましたが、お誕生日おめでとうございました!!
「ちなみに、Sは結局、謎の女には会いに行きませんでした。
あの女が、次にどれほど高飛車な発言をするかについては、
多少、興味はあっても、彼女の犬になりたいという気持ちは微塵もなく、
それなら彼女と会っても時間の無駄になってしまいますし。
それ以上に、あの女に近付いてはいけない、あの女は危険だ、
と脳が警告されたような気がしたそうです。
後日。幹部が一人 、組織を辞めたとの話をSはL博士から聞きました。
幹部がその後、どうなったか、Sは知りません。
けれどSは頭の隅でちらりとこう思ったそうです。
まさか、彼は彼女に飼われてしまったのではないかと」
話し終えたソクーロフは、カクテルグラスに手を伸ばした。
逆三角形の底に残っていた白いカクテルを飲み干す。
ホワイトキュラソーの甘味とレモンの酸味が、
すうっと身体に沁みていった。
最初、マスターはグラスを磨いていた筈だが、
いつのまにか、その手を止めて、話を聞くことに集中していた。
マスターは心配そうに尋ねる。
「あの、AさんとBさんは、そのあと、どうなったんですか?」
「Aが犯人だったこと、それを知りながらBが黙秘していたことについて、
SはL博士に全て報告しました。が、L博士はそれをC博士には伝えませんでした。
それからL博士は、AとBが二人きりで話し合える場を設けたそうです。
その後、データやラットが消失する事態は、ぴたりと止まり、
C博士のチームは、無事に論文を発表することができたそうです」
「論文が発表できたということは、その後、Aさんは当初の予定通り、
組織を辞めて、お付き合いされていた男性の方とご結婚を?」
「さあ。詳しいことは聞いていませんが。
その後もSは組織内で見かけたそうですよ?
AとBが並んで歩いているところを」
「ああ、そうでしたか。それは良かった」
マスターが胸を撫で下ろしたのを見て、ソクーロフは呟いた。
「そうでしょうか?」
「えっ?」
「Sは思い悩んだそうですよ。自分とL博士が行ったことは、
本当に、AとBの為になったことなのか、と」
マスターは口を開き、何か言おうとした。
その時、店のドアが開いた。マスターがドアのほうを見る。
「こんばんはーっと」
髪の長い男が入ってきて、カウンター席にやってくる。
男は、マスターの前に居る人物を見て、大きな声を出した。
「あー、ソクちゃんだー!」
それは聖アルフォンソ学院専属ドライバー兼、警備担当のアイヴィーだった。
「ソクちゃん、なんで居んのー?」
「……それはこちらのセリフだ」
「ここ来るんなら、俺も誘ってくれればヨカッタのにー!
あ、そうだ! 今日は偶然会えた記念に、
ソクちゃんのオゴリってコトにしない?
最近ドタキャン多かったお詫びにー」
「勝手なことを。お前は煩いから帰れ」
「ヤーダー! 今来たトコなんですー!」
「まあ、まあ、二人とも。アイヴィーはとにかく座ったらどうだい?」
「うん! んじゃね、俺、コロナー!」
「畏まりました。先生、おかわりは何にします?」
「いえ、今夜はもう帰ります」
「えー!? ソクちゃん、オゴってくんないのー!?」
「先生、もう一杯良いじゃないですか?
お話の続きも、お伺いしたいですし」
「えっ? 二人で何のハナシしてたの?」
「お前には関係ない。マスター、先程の話に続きはありませんよ」
「おや。そうなんですか?」
「ね、マスター。さっきの話ってなあに?」
「あ、いや。先生がお話にならないなら、私の口からは言えないなあ」
「えー。そんなー、気になるよー」
「マスター、お会計を」
マスターは肩をすくめた。
「――仕方ありませんね。畏まりました」
「ソクちゃん! なんで俺だけノケモノにすんのさっ」
「ごちそうさまでした、マスター」
「ありがとうございました。お気をつけて」
「マジで帰ろうとしてるし。もー!
マスター、ゴメン! また今度来るから!」
アイヴィーはカウンター席から降りて、ドアに向かう。
「ソクちゃーん! ねえ! オゴってってばー!」
fin
あの女が、次にどれほど高飛車な発言をするかについては、
多少、興味はあっても、彼女の犬になりたいという気持ちは微塵もなく、
それなら彼女と会っても時間の無駄になってしまいますし。
それ以上に、あの女に近付いてはいけない、あの女は危険だ、
と脳が警告されたような気がしたそうです。
後日。幹部が一人 、組織を辞めたとの話をSはL博士から聞きました。
幹部がその後、どうなったか、Sは知りません。
けれどSは頭の隅でちらりとこう思ったそうです。
まさか、彼は彼女に飼われてしまったのではないかと」
話し終えたソクーロフは、カクテルグラスに手を伸ばした。
逆三角形の底に残っていた白いカクテルを飲み干す。
ホワイトキュラソーの甘味とレモンの酸味が、
すうっと身体に沁みていった。
最初、マスターはグラスを磨いていた筈だが、
いつのまにか、その手を止めて、話を聞くことに集中していた。
マスターは心配そうに尋ねる。
「あの、AさんとBさんは、そのあと、どうなったんですか?」
「Aが犯人だったこと、それを知りながらBが黙秘していたことについて、
SはL博士に全て報告しました。が、L博士はそれをC博士には伝えませんでした。
それからL博士は、AとBが二人きりで話し合える場を設けたそうです。
その後、データやラットが消失する事態は、ぴたりと止まり、
C博士のチームは、無事に論文を発表することができたそうです」
「論文が発表できたということは、その後、Aさんは当初の予定通り、
組織を辞めて、お付き合いされていた男性の方とご結婚を?」
「さあ。詳しいことは聞いていませんが。
その後もSは組織内で見かけたそうですよ?
AとBが並んで歩いているところを」
「ああ、そうでしたか。それは良かった」
マスターが胸を撫で下ろしたのを見て、ソクーロフは呟いた。
「そうでしょうか?」
「えっ?」
「Sは思い悩んだそうですよ。自分とL博士が行ったことは、
本当に、AとBの為になったことなのか、と」
マスターは口を開き、何か言おうとした。
その時、店のドアが開いた。マスターがドアのほうを見る。
「こんばんはーっと」
髪の長い男が入ってきて、カウンター席にやってくる。
男は、マスターの前に居る人物を見て、大きな声を出した。
「あー、ソクちゃんだー!」
それは聖アルフォンソ学院専属ドライバー兼、警備担当のアイヴィーだった。
「ソクちゃん、なんで居んのー?」
「……それはこちらのセリフだ」
「ここ来るんなら、俺も誘ってくれればヨカッタのにー!
あ、そうだ! 今日は偶然会えた記念に、
ソクちゃんのオゴリってコトにしない?
最近ドタキャン多かったお詫びにー」
「勝手なことを。お前は煩いから帰れ」
「ヤーダー! 今来たトコなんですー!」
「まあ、まあ、二人とも。アイヴィーはとにかく座ったらどうだい?」
「うん! んじゃね、俺、コロナー!」
「畏まりました。先生、おかわりは何にします?」
「いえ、今夜はもう帰ります」
「えー!? ソクちゃん、オゴってくんないのー!?」
「先生、もう一杯良いじゃないですか?
お話の続きも、お伺いしたいですし」
「えっ? 二人で何のハナシしてたの?」
「お前には関係ない。マスター、先程の話に続きはありませんよ」
「おや。そうなんですか?」
「ね、マスター。さっきの話ってなあに?」
「あ、いや。先生がお話にならないなら、私の口からは言えないなあ」
「えー。そんなー、気になるよー」
「マスター、お会計を」
マスターは肩をすくめた。
「――仕方ありませんね。畏まりました」
「ソクちゃん! なんで俺だけノケモノにすんのさっ」
「ごちそうさまでした、マスター」
「ありがとうございました。お気をつけて」
「マジで帰ろうとしてるし。もー!
マスター、ゴメン! また今度来るから!」
アイヴィーはカウンター席から降りて、ドアに向かう。
「ソクちゃーん! ねえ! オゴってってばー!」
fin
■ホワイト・レディ9 の続編
短い間に、もう三度もこのバーに来ている。
この夜、Sは一人でバーのドアを開けた。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「いえ。ここで待ち合わせをしていて――ああ、居ました」
女性が一人、隅のテーブル席に居た。
その夜は、黒いワイシャツにジーンズ。
壁の角に向かって、紫煙を吹かしていた。
Sは彼女の横に立って、こう声をかけた。
「すまない。待たせてしまったかな?」
テーブルの上には残り少ないビールが載っていた。
「別に。私が早く着いただけだ」
彼女はぶっきらぼうに答えた。Sは彼女の向かいに座る。
今夜、Sがここで待ち合わせた相手はBだった。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか?」
ボーイが注文を取りに来た。Sはメニューを見ずに答える。
今夜の一杯はあらかじめ決めていた。
「私には『ホワイト・レディ』を。君は?」
「私もそれでいい」
「畏まりました。少々お待ち下さい」
ボーイが行ったあとで、Bは睨むようにSを見た。
「どうして、男のアンタが『ホワイト・レディ』なんか頼むんだ?」
「おや。レディと名の付いたものは、レディしか頼んではいけないのかい?
この前ここに来た時、Aさんがこれを頼んでいただろう?
どんな味がするのかと思っていたんだ」
「よく覚えてるな、そんなこと。それで、話って何?」
「カクテルが来てから話すよ。――私も煙草を吸って良いかな?」
Bは自分の前に置いていた灰皿を、テーブルの中央に移動させた。
「ありがとう」
それから、飲み物が来るまでの間、
BとSは互いに一言も発さず、ただ煙草を吸っていた。
それはとても緊張感のある時間で、Sは心地好かった。
カクテルが来ると、Bは乾杯もなしにさっさと口付けてしまった。
Sも同じようにカクテルを手に取った。レモンの香りがする。
強いアルコールと共に、柑橘系の甘味と酸味が喉を駆け抜けて行く。
ショートグラスを置いたBは、早速、好戦的な目を向けてきた。
「じゃあ、聞かせて貰おうか?」
「実は、先日、君達から聞いた、論文の妨害工作の件について、
進展があったから、君に話そうと思ってね」
「進展? 何か解ったのか?」
「うん。犯人がね」
「何だって。本当なのか?」
「本当だよ。だが、君は私より早く、
気付いていたんじゃないのかな? 誰が犯人なのか」
Bは何も言わない。
「やはり君は知っていたんだね? 妨害工作をしていたのはAだって」
「どうして、Aがそんなことしなきゃならないんだ」
「Aが論文の完成を妨害した理由についても、君は解っているんじゃないのかな。
犯人がAであることも、その犯行目的も、君は全て気付いていて、
いや、気付いていたからこそ、敢えて、何も知らないフリをしていた」
「私が何を」
「Aは論文を完成させたくなかったんだ。
何故なら、論文が完成したら、彼と結婚しなくてはならないから。
君と、離れなければならないから」
Sは続ける。
「Aは論文の完成が一日でも、遅くなれば良いと思っていた。
最初は、ほんの出来心から、データの一部を削除した。
それにより研究は少し遅れた。Aの願い通りに。
時間の経過とともに、Aが削除したデータは回復した。
もう少しだけ、とデータの削除を重ねていたら、
C博士のバックアップによって妨害されてしまった。
もうこの手は使えない。Aは焦った。
このままでは直に論文は完成してしまう。どうすればいい?
どうすれば論文の完成をもう少し遅らせることができる?
そうだ。あのラットが居なくなってしまえば」
「止めろ! そんなのデタラメだ!」
「残念だが、デタラメなどではない。聞いたからね、直接、彼女の心に」
「お前、まさか」
「そう。私はインタビューしたんだ。『貴方が犯人ですか?』とね。
そうしたら洗いざらい喋ってくれたよ、素直に全部」
「Aに、自白、させたのか」
「そうだよ。犯人を推理する必要などないからね、私は。
だが、Aを自白させるよう、私に指示したのは、L博士だよ?」
「じゃあ、L博士には、Aがやったって、解ってたっていうのかよ?」
「そのようだね。まあ、答えを聞けば、実に簡単な話だったよ。
パソコンに詳しいシステム部の知人に内密に依頼して、
論文データの削除履歴を調べて貰ったそうだ。
削除した人物のアカウントがAのものだった。
ついでに、削除されたデータも回復できたそうだよ?
でも君は、どうやって、犯人がAだと知ったのかな?」
Bは答えない。
「言いたくないかい? おそらく、犯行現場を目撃したか、
Aが犯人だという証拠を見つけたんだろうと予想しているけれど。
あるいは、君なら、直感で解ったのかもしれないね。犯人も犯行目的も。
だが、それでも君は黙っていた。Aを問い質すこともせず。どうして?」
「そこまで解ってるなら、私が言わなくても、お前にはもう解ってんだろ」
「Aを問い質せば、Aの犯行目的が君だと白状することになるから。
Aが君を好きだと言う大きなきっかけを与えてしまうから。
そうなればきっと、Aは彼との結婚を辞めてしまうから。
だから君は、何も知らないフリをしたんだね?」
Bはまだ黙っている。
「以前、君はこう言ったね? 人間は世界で一番劣悪な生き物だと。
それはどういう意味で言ったのかな?
君と離れたくなくない一心で稚拙な行動をとったAのことを指していたのかい?
もしくは、同性である君に好意を寄せていたAのことかな?
それとも、そんなAの全てを愛していた、君自身のことだったのかい?」
Bは暫くの間、黙っていた。
その沈黙を無意味だと感じたSは、待つのを止めて口を開いた。
「B」
「煩いよ……何もかも知ったような口聞いて。
アンタのそーゆー口の利き方が気に食わないんだよ、前から」
「それはすまない」
「それで、Sは私に何が言いたいんだ?
私の口からAに妨害工作を止めるように言え、とか、
そういうことを言いたいわけ?」
「いいや、別に?」
「じゃあ何、私を追い詰めて、ただの探偵気取り?」
「そんなつもりは」
「どうせバカだと思ってんだろ?
結婚して子供ができるわけでもない無生産な関係だって。
女が女を好きになったって、どうにもならないのに。
そんなのは私だって解ってんだよ」
堰を切ったようにBは話した。
「だけど、あいつは私に無いもの全部持ってて、
最初はそれがニガテだったけど、
あいつも私に対して同じように感じてたって聞いてからは、
普通に話せるようになって、
いつのまにか、あいつに懐かれるのが当たり前になってて、
あいつと話している時間は楽しくて、
気が付いた時には、あいつの隣がどんな場所より特別になってた」
Bは項垂れていて表情が見えない。
「女二人で食事した帰り、このまま帰したくないとか、
抱き締めて引き留めたいとか思ってる自分が居て、私が一番驚いたっつの。
そういうこと、アンタは今までに一度もないだろ?
同性の友人相手だってのに、小さなキッカケひとつで、
タガが外れちまうんじゃないかって恐怖を感じたことあんのかよ?」
「Aは君と同じような恐怖を感じていたよ?」
「……え?」
「約束していた結婚を躊躇し、できる限り引き延ばそうとしている自分に、
彼女は自分で驚き、最早、止められない想いに恐怖していた。
目的を遂げる為に、ラット1匹で足りないなら、
『次』も無感情にこなしてしまいそうな自分にもね。
Aは、早く君に止めて欲しいと願っていた。
けれど、君はひたすら沈黙を守ったままだった。
四度の事件について、L博士に話を聞いて貰おうと、A自ら提案したのも、
L博士なら気付いて、私達を助けてくれるかもしれない、
そう心のどこかで思っていたのかも、と言っていたよ、彼女の心がね」
「こいつらは揃って頭がおかしいって思ってるんだろ?
じゃあどうすれば良かったんだ?
最初から好きになんてならなければ良かったのかよ?
そんなコントロールができるなら、とっくにやってんだよ」
Sはその時、感じたままの言葉を口にした。
「美しいと思うよ」
「……急に……何、言ってんだ、S」
「女性が女性を好きになることも、それに苦悩し、恐怖する姿も。
ステンドグラスのようで、とても美しいと、私は思う」
「……バカ。気色の悪いこと言うな。美しくなんかない。私は醜い。
たったあれしきのことで、私はアンタにさえ妬いてたんだ」
「私に?」
「もみの木のリキュール。Aはアンタのグラスから飲んだだろ?
私はあれだけでも、その場から立ち去りたいくらいイヤだった。
あいつが警戒心皆無なのは前から解ってたけど。
ダレにでもそういうことすんのかよって」
「では君も以前?」
Bはカクテルグラスに手を伸ばす。
「『ホワイト・レディ』は元々、私が好きなカクテルだったんだ」
肩を落としながら呟いた。
「私が飲んでいたのを、いつだったか、Aが『少し下さい』って味見して。
一口飲んだ瞬間から気に入ったみたいでさ」
Bは、全てを押し殺そうとするように唇を噛みしめていた。
「『キツイのに甘いところが、Bさんと似てるから、好き』なんて、
バカみたいな殺し文句言いやがって……」
堪えきれない何かが、Bの声と握り締めた拳を、微かに震わせた。
「ホント……バカみたいだ――」
ホワイト・レディの頬に雫が伝った。
→
この夜、Sは一人でバーのドアを開けた。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「いえ。ここで待ち合わせをしていて――ああ、居ました」
女性が一人、隅のテーブル席に居た。
その夜は、黒いワイシャツにジーンズ。
壁の角に向かって、紫煙を吹かしていた。
Sは彼女の横に立って、こう声をかけた。
「すまない。待たせてしまったかな?」
テーブルの上には残り少ないビールが載っていた。
「別に。私が早く着いただけだ」
彼女はぶっきらぼうに答えた。Sは彼女の向かいに座る。
今夜、Sがここで待ち合わせた相手はBだった。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか?」
ボーイが注文を取りに来た。Sはメニューを見ずに答える。
今夜の一杯はあらかじめ決めていた。
「私には『ホワイト・レディ』を。君は?」
「私もそれでいい」
「畏まりました。少々お待ち下さい」
ボーイが行ったあとで、Bは睨むようにSを見た。
「どうして、男のアンタが『ホワイト・レディ』なんか頼むんだ?」
「おや。レディと名の付いたものは、レディしか頼んではいけないのかい?
この前ここに来た時、Aさんがこれを頼んでいただろう?
どんな味がするのかと思っていたんだ」
「よく覚えてるな、そんなこと。それで、話って何?」
「カクテルが来てから話すよ。――私も煙草を吸って良いかな?」
Bは自分の前に置いていた灰皿を、テーブルの中央に移動させた。
「ありがとう」
それから、飲み物が来るまでの間、
BとSは互いに一言も発さず、ただ煙草を吸っていた。
それはとても緊張感のある時間で、Sは心地好かった。
カクテルが来ると、Bは乾杯もなしにさっさと口付けてしまった。
Sも同じようにカクテルを手に取った。レモンの香りがする。
強いアルコールと共に、柑橘系の甘味と酸味が喉を駆け抜けて行く。
ショートグラスを置いたBは、早速、好戦的な目を向けてきた。
「じゃあ、聞かせて貰おうか?」
「実は、先日、君達から聞いた、論文の妨害工作の件について、
進展があったから、君に話そうと思ってね」
「進展? 何か解ったのか?」
「うん。犯人がね」
「何だって。本当なのか?」
「本当だよ。だが、君は私より早く、
気付いていたんじゃないのかな? 誰が犯人なのか」
Bは何も言わない。
「やはり君は知っていたんだね? 妨害工作をしていたのはAだって」
「どうして、Aがそんなことしなきゃならないんだ」
「Aが論文の完成を妨害した理由についても、君は解っているんじゃないのかな。
犯人がAであることも、その犯行目的も、君は全て気付いていて、
いや、気付いていたからこそ、敢えて、何も知らないフリをしていた」
「私が何を」
「Aは論文を完成させたくなかったんだ。
何故なら、論文が完成したら、彼と結婚しなくてはならないから。
君と、離れなければならないから」
Sは続ける。
「Aは論文の完成が一日でも、遅くなれば良いと思っていた。
最初は、ほんの出来心から、データの一部を削除した。
それにより研究は少し遅れた。Aの願い通りに。
時間の経過とともに、Aが削除したデータは回復した。
もう少しだけ、とデータの削除を重ねていたら、
C博士のバックアップによって妨害されてしまった。
もうこの手は使えない。Aは焦った。
このままでは直に論文は完成してしまう。どうすればいい?
どうすれば論文の完成をもう少し遅らせることができる?
そうだ。あのラットが居なくなってしまえば」
「止めろ! そんなのデタラメだ!」
「残念だが、デタラメなどではない。聞いたからね、直接、彼女の心に」
「お前、まさか」
「そう。私はインタビューしたんだ。『貴方が犯人ですか?』とね。
そうしたら洗いざらい喋ってくれたよ、素直に全部」
「Aに、自白、させたのか」
「そうだよ。犯人を推理する必要などないからね、私は。
だが、Aを自白させるよう、私に指示したのは、L博士だよ?」
「じゃあ、L博士には、Aがやったって、解ってたっていうのかよ?」
「そのようだね。まあ、答えを聞けば、実に簡単な話だったよ。
パソコンに詳しいシステム部の知人に内密に依頼して、
論文データの削除履歴を調べて貰ったそうだ。
削除した人物のアカウントがAのものだった。
ついでに、削除されたデータも回復できたそうだよ?
でも君は、どうやって、犯人がAだと知ったのかな?」
Bは答えない。
「言いたくないかい? おそらく、犯行現場を目撃したか、
Aが犯人だという証拠を見つけたんだろうと予想しているけれど。
あるいは、君なら、直感で解ったのかもしれないね。犯人も犯行目的も。
だが、それでも君は黙っていた。Aを問い質すこともせず。どうして?」
「そこまで解ってるなら、私が言わなくても、お前にはもう解ってんだろ」
「Aを問い質せば、Aの犯行目的が君だと白状することになるから。
Aが君を好きだと言う大きなきっかけを与えてしまうから。
そうなればきっと、Aは彼との結婚を辞めてしまうから。
だから君は、何も知らないフリをしたんだね?」
Bはまだ黙っている。
「以前、君はこう言ったね? 人間は世界で一番劣悪な生き物だと。
それはどういう意味で言ったのかな?
君と離れたくなくない一心で稚拙な行動をとったAのことを指していたのかい?
もしくは、同性である君に好意を寄せていたAのことかな?
それとも、そんなAの全てを愛していた、君自身のことだったのかい?」
Bは暫くの間、黙っていた。
その沈黙を無意味だと感じたSは、待つのを止めて口を開いた。
「B」
「煩いよ……何もかも知ったような口聞いて。
アンタのそーゆー口の利き方が気に食わないんだよ、前から」
「それはすまない」
「それで、Sは私に何が言いたいんだ?
私の口からAに妨害工作を止めるように言え、とか、
そういうことを言いたいわけ?」
「いいや、別に?」
「じゃあ何、私を追い詰めて、ただの探偵気取り?」
「そんなつもりは」
「どうせバカだと思ってんだろ?
結婚して子供ができるわけでもない無生産な関係だって。
女が女を好きになったって、どうにもならないのに。
そんなのは私だって解ってんだよ」
堰を切ったようにBは話した。
「だけど、あいつは私に無いもの全部持ってて、
最初はそれがニガテだったけど、
あいつも私に対して同じように感じてたって聞いてからは、
普通に話せるようになって、
いつのまにか、あいつに懐かれるのが当たり前になってて、
あいつと話している時間は楽しくて、
気が付いた時には、あいつの隣がどんな場所より特別になってた」
Bは項垂れていて表情が見えない。
「女二人で食事した帰り、このまま帰したくないとか、
抱き締めて引き留めたいとか思ってる自分が居て、私が一番驚いたっつの。
そういうこと、アンタは今までに一度もないだろ?
同性の友人相手だってのに、小さなキッカケひとつで、
タガが外れちまうんじゃないかって恐怖を感じたことあんのかよ?」
「Aは君と同じような恐怖を感じていたよ?」
「……え?」
「約束していた結婚を躊躇し、できる限り引き延ばそうとしている自分に、
彼女は自分で驚き、最早、止められない想いに恐怖していた。
目的を遂げる為に、ラット1匹で足りないなら、
『次』も無感情にこなしてしまいそうな自分にもね。
Aは、早く君に止めて欲しいと願っていた。
けれど、君はひたすら沈黙を守ったままだった。
四度の事件について、L博士に話を聞いて貰おうと、A自ら提案したのも、
L博士なら気付いて、私達を助けてくれるかもしれない、
そう心のどこかで思っていたのかも、と言っていたよ、彼女の心がね」
「こいつらは揃って頭がおかしいって思ってるんだろ?
じゃあどうすれば良かったんだ?
最初から好きになんてならなければ良かったのかよ?
そんなコントロールができるなら、とっくにやってんだよ」
Sはその時、感じたままの言葉を口にした。
「美しいと思うよ」
「……急に……何、言ってんだ、S」
「女性が女性を好きになることも、それに苦悩し、恐怖する姿も。
ステンドグラスのようで、とても美しいと、私は思う」
「……バカ。気色の悪いこと言うな。美しくなんかない。私は醜い。
たったあれしきのことで、私はアンタにさえ妬いてたんだ」
「私に?」
「もみの木のリキュール。Aはアンタのグラスから飲んだだろ?
私はあれだけでも、その場から立ち去りたいくらいイヤだった。
あいつが警戒心皆無なのは前から解ってたけど。
ダレにでもそういうことすんのかよって」
「では君も以前?」
Bはカクテルグラスに手を伸ばす。
「『ホワイト・レディ』は元々、私が好きなカクテルだったんだ」
肩を落としながら呟いた。
「私が飲んでいたのを、いつだったか、Aが『少し下さい』って味見して。
一口飲んだ瞬間から気に入ったみたいでさ」
Bは、全てを押し殺そうとするように唇を噛みしめていた。
「『キツイのに甘いところが、Bさんと似てるから、好き』なんて、
バカみたいな殺し文句言いやがって……」
堪えきれない何かが、Bの声と握り締めた拳を、微かに震わせた。
「ホント……バカみたいだ――」
ホワイト・レディの頬に雫が伝った。
→
■ホワイト・レディ8 の続編
後日。L博士の研究室に、C博士がやってきました。
登山土産だというナッツ入りチョコレートを小脇に抱えて。
C博士は持ってきたチョコレートをつまみながら、
L博士にコーヒーを淹れさせ、今後の作戦について話していきました。
コーヒー片手に、Sも入れて三人で打ち合わせしたわけです。
Sが、DとEから話を聞きたいと言っていた件について、
C博士が考えた作戦はこうでした。
ランチタイムに、C博士がDとEを連れて組織内にあるカフェに行く。
そこへ偶然を装って、L博士とSが来る。
C博士が「Lじゃないか。こっち空いてるぞ」と言う。
そして世間話的に話を聞き出す、というものでした。
どうだ。これなら、容疑者扱いにもならず、ごく自然に話せるだろう、
と、C博士は自慢気に話してくれました。
別に作戦という程のものではありませんでしたが、
悪くはなかったので、Sはその作戦に乗ることにしたんです。
早速、それは翌日に決行され、無事にDとEに会うことはできました。
ただ、「Lじゃないか。こっち空いてるぞ」
と言うC博士のセリフは、少々ワザとらしかったですが。
Sが間近でDとEを見た印象を、先に話しましょうか。
Dは、実に正義感の強い、真っ直ぐな目をした男でしたよ。
チームリーダーはC博士なのですが、
Dのほうが、しっかりしているというか、リーダー向きの男でしたね。
だからこそ、三度あった論文のデータ損失について、
三度ともDが第一発見者となったのかもしれません。
Eという男は、どうも引っ込み思案というか、
ランチタイムの間、始終、視線が俯きがちで、
居心地悪そうにしていましたね。
何か後ろめたいことでもあるのか、と疑いたくなるくらいに。
ただ、時々、L博士とSをチラチラと盗み見をするように見ていたので、
ただ単に、Eは人見知りをしていたのかもしれません。
長方形のテーブルに五人の男ーーC博士、D、Eと、L博士、Sーーが座り、
ランチを食べながら、話しました。
後にも先にも、その五人でランチを食べたのはこの時だけでしたがね。
「そう言えば、C君。先日、バーで聞いた盗難事件だけど。
その後、データやラット達は、大丈夫なのかい?」
口火を切ってくれたのはL博士でした。
「ああ、今のところはな」
と言って、C博士はハンバーグを口に放り込みました。
「C博士、あの件、L博士に話したんですか?」
そう言ったのはDでしたが、Eも少し驚いているようでした。
「ああ。この前偶然、LとSにバーで会った時にな」
必要な質問はL博士から聞いてくれるようでしたので、
Sはフォークを口に運びながら、DとEの様子を伺うことにしました。
「D君が第一発見者だったそうだね?
論文データのチェックは、いつも君がやっていたのかい?」とL博士。
「というより、論文の続きを書こうと思った時に、
ファイルの数が、ひとつ足りないのに気付いただけですよ。
いつも見ているフォルダですからね、そのくらい誰でも気付いたと思います。
でも、第一発見者だなんて、まるでミステリの登場人物にでもなったようですね」
「ラットが一匹、衰弱していることに気付いたのは、E君だそうだね?」
名前を呼ばれたEは、一瞬びくりと肩が跳ね上がりました。
「ラット達の管理は、君の仕事だったのかい?」
「え。ええと、違います……けど、僕は、いつも見てましたから」
C博士は笑って、代わりに説明しました。
「Eは動物好きなんだよ。ラットのエサ係にも自分から手を挙げたしな。
こいつは自分のペットみたいに、ラットを可愛がってんだ。
そういや、お前、家でも何か飼ってるのか?」
「……いえ、今は何も……」
Eの声は、とてもか細く、聞き取るのがやっとでした。
「ふうん? じゃあ昔は?」
「犬を……子供の時に」
「やっぱ、前は飼ってたのか」
「E君。そのラットを見つけた時の聞いても良いかな?」
「見つけた時のこと……」
ギュッと唇を噛み締め、Eは今にも泣いてしまいそうでした。
「……朝、僕が来て、いつもみたいに、ご飯、あげようとしたら、
皆の様子が、少し変で、どうしたんだろうって、思ったら、
端っこに、チェルシーが……倒れてて、
皆も心配そうにしてて、僕、どうしたらいいのか解らなくて、
そしたら、C博士が来て、チェルシーを診てくれたんですけど、
でも、どんどん、弱っていって、う、動かなく、なって……」
「ああ、ごめん、E君。辛いことを思い出させてしまって」
本当に悲しんでいるEを見て、
Dはますます犯人に対して憤慨しているようでした。
「Eが動物好きなのを知っていて、
こんなことをしているんだとしたら、犯人は人として最低な奴ですよ。
データを削除したり、ラットに手を出したり、手口が陰湿過ぎます。
第一、これがAの最後の仕事になるっていうのに。
こんな時に邪魔するなんて、許せない」
これはL博士も知らなかったようで、聞き直していました。
「最後の仕事? A君、組織を辞める予定なのかい?」
「ええ。論文の発表が終わったら、彼と結婚する約束だそうですよ」
「おや。A君はフィアンセが居たのか。もしかして組織内に居る人かい?」
「いいえ。銀行だかに勤めてる人で、大学時代の先輩だったかな。
本当はもっと前からプロポーズされてたみたいなんですけど、
Aは論文が終わるまでは、途中で投げ出したくないって」
C博士は頷いていました。
「あれで結構、研究に情熱持ってるほうだからな、Aは。
見た目はか弱く見えるけどさ、意外と努力家っていうか、
遅くまで残って仕事してたりとか」
「そうだったのか」
L博士が黙ってしまったので、次はSから質問しました。
「すみません。私もDさんとEさんにお聞きしたいんですが、
皆さんが今手がけている論文が完成すると、
困る人物に心当たりはありませんか? 些細な可能性でも構わないのですが」
Eは目に涙を溜めたまま、頼るように、Dを見ました。
Dは少し沈黙したあと、口を開きました。
「本当に些細な可能性ですが、
もしかしたら、Fかもしれません。隣のチームの」
「どうして?」
「Fは、Eの同期なんですが、どうもライバル視しているみたいで。
何かとこいつに突っかかってくるんですよ。な?」
話を振られたEは、慌ててブンブンと手を振りました。
「Fさんは、そんなこと、しません」
「そうか? お前、Fに何か嫌がらせとかされてないか?」
「そんな! 全然、されてません! 本当です!」
すると、唐突にEが席を立ちました。
「あの、僕、もう戻って良いですか? た、食べ終わったんで」
EはそうC博士に尋ねながらも、既にトレイを持っています。
「あ、ああ」
行かせて良いか、とL博士に目配せしているうちに、
Eは「失礼します」と呟いて、さっさと行ってしまいました。
そのうちに皆のランチも終わり、そのまま解散となりました。
SはL博士と一緒にカフェを出ました。
研究室へ戻る途中でL博士は、少し寄り道してから戻るよ、
と、一人でどこかに行ってしまいました。
Sが研究室に戻ろうと、エレベーターに乗った時、
そこには、白衣姿のBが居ました。
彼女の右手には、缶コーヒーが握られていたそうです。
それは黒い缶だったので、おそらくブラックコーヒーだったのだと思います。
Bは無視する気のようで黙っていましたが、
他には人も居なかったので、Sは少し話しかけることにしたんです。
事件に動きはないことは先程Dから聞いて知っていましたが、
Bにも同じ質問をしてみることにしました。
「あれから、何か変わったことは?」
「ない。もう終わったのかも」
「終わった? どうしてそう思う?」
「さあ。気が付いたんじゃない? 良いことじゃないって」
「それなら、最初から妨害工作なんてしなければ良かったのに」
「人間なんてそんなもんだろ。人間は世界で一番劣悪な生き物だ」
「どうして、君はそう思うんだい?」
「バカだからさ。非合理だと解っていながら自分をコントロールできない」
「成程。確かに、そういった場合もあるね、人間は」
エレベーターが止まり、Bは出て行ってしまいました。
「じゃあな」という別れの挨拶ひとつもせずに。
Sが研究室に戻り、仕事の続きに取り掛かりましたが、
L博士は、なかなか戻ってきませんでした。
暫くしてドアが開き、やっとL博士が帰ってきました。
「随分長い寄り道でしたね?」
すると、L博士は悲しそうな顔をして、ぽつりと言いました。
「S君」
「何です?」
「犯人が解ったみたいなんだ」
「え?」
「それが、本当に正しい答えか、確認しに行こうと思っている。
それには、S君の協力が必要だ。力を貸してくれるかい?」
→
登山土産だというナッツ入りチョコレートを小脇に抱えて。
C博士は持ってきたチョコレートをつまみながら、
L博士にコーヒーを淹れさせ、今後の作戦について話していきました。
コーヒー片手に、Sも入れて三人で打ち合わせしたわけです。
Sが、DとEから話を聞きたいと言っていた件について、
C博士が考えた作戦はこうでした。
ランチタイムに、C博士がDとEを連れて組織内にあるカフェに行く。
そこへ偶然を装って、L博士とSが来る。
C博士が「Lじゃないか。こっち空いてるぞ」と言う。
そして世間話的に話を聞き出す、というものでした。
どうだ。これなら、容疑者扱いにもならず、ごく自然に話せるだろう、
と、C博士は自慢気に話してくれました。
別に作戦という程のものではありませんでしたが、
悪くはなかったので、Sはその作戦に乗ることにしたんです。
早速、それは翌日に決行され、無事にDとEに会うことはできました。
ただ、「Lじゃないか。こっち空いてるぞ」
と言うC博士のセリフは、少々ワザとらしかったですが。
Sが間近でDとEを見た印象を、先に話しましょうか。
Dは、実に正義感の強い、真っ直ぐな目をした男でしたよ。
チームリーダーはC博士なのですが、
Dのほうが、しっかりしているというか、リーダー向きの男でしたね。
だからこそ、三度あった論文のデータ損失について、
三度ともDが第一発見者となったのかもしれません。
Eという男は、どうも引っ込み思案というか、
ランチタイムの間、始終、視線が俯きがちで、
居心地悪そうにしていましたね。
何か後ろめたいことでもあるのか、と疑いたくなるくらいに。
ただ、時々、L博士とSをチラチラと盗み見をするように見ていたので、
ただ単に、Eは人見知りをしていたのかもしれません。
長方形のテーブルに五人の男ーーC博士、D、Eと、L博士、Sーーが座り、
ランチを食べながら、話しました。
後にも先にも、その五人でランチを食べたのはこの時だけでしたがね。
「そう言えば、C君。先日、バーで聞いた盗難事件だけど。
その後、データやラット達は、大丈夫なのかい?」
口火を切ってくれたのはL博士でした。
「ああ、今のところはな」
と言って、C博士はハンバーグを口に放り込みました。
「C博士、あの件、L博士に話したんですか?」
そう言ったのはDでしたが、Eも少し驚いているようでした。
「ああ。この前偶然、LとSにバーで会った時にな」
必要な質問はL博士から聞いてくれるようでしたので、
Sはフォークを口に運びながら、DとEの様子を伺うことにしました。
「D君が第一発見者だったそうだね?
論文データのチェックは、いつも君がやっていたのかい?」とL博士。
「というより、論文の続きを書こうと思った時に、
ファイルの数が、ひとつ足りないのに気付いただけですよ。
いつも見ているフォルダですからね、そのくらい誰でも気付いたと思います。
でも、第一発見者だなんて、まるでミステリの登場人物にでもなったようですね」
「ラットが一匹、衰弱していることに気付いたのは、E君だそうだね?」
名前を呼ばれたEは、一瞬びくりと肩が跳ね上がりました。
「ラット達の管理は、君の仕事だったのかい?」
「え。ええと、違います……けど、僕は、いつも見てましたから」
C博士は笑って、代わりに説明しました。
「Eは動物好きなんだよ。ラットのエサ係にも自分から手を挙げたしな。
こいつは自分のペットみたいに、ラットを可愛がってんだ。
そういや、お前、家でも何か飼ってるのか?」
「……いえ、今は何も……」
Eの声は、とてもか細く、聞き取るのがやっとでした。
「ふうん? じゃあ昔は?」
「犬を……子供の時に」
「やっぱ、前は飼ってたのか」
「E君。そのラットを見つけた時の聞いても良いかな?」
「見つけた時のこと……」
ギュッと唇を噛み締め、Eは今にも泣いてしまいそうでした。
「……朝、僕が来て、いつもみたいに、ご飯、あげようとしたら、
皆の様子が、少し変で、どうしたんだろうって、思ったら、
端っこに、チェルシーが……倒れてて、
皆も心配そうにしてて、僕、どうしたらいいのか解らなくて、
そしたら、C博士が来て、チェルシーを診てくれたんですけど、
でも、どんどん、弱っていって、う、動かなく、なって……」
「ああ、ごめん、E君。辛いことを思い出させてしまって」
本当に悲しんでいるEを見て、
Dはますます犯人に対して憤慨しているようでした。
「Eが動物好きなのを知っていて、
こんなことをしているんだとしたら、犯人は人として最低な奴ですよ。
データを削除したり、ラットに手を出したり、手口が陰湿過ぎます。
第一、これがAの最後の仕事になるっていうのに。
こんな時に邪魔するなんて、許せない」
これはL博士も知らなかったようで、聞き直していました。
「最後の仕事? A君、組織を辞める予定なのかい?」
「ええ。論文の発表が終わったら、彼と結婚する約束だそうですよ」
「おや。A君はフィアンセが居たのか。もしかして組織内に居る人かい?」
「いいえ。銀行だかに勤めてる人で、大学時代の先輩だったかな。
本当はもっと前からプロポーズされてたみたいなんですけど、
Aは論文が終わるまでは、途中で投げ出したくないって」
C博士は頷いていました。
「あれで結構、研究に情熱持ってるほうだからな、Aは。
見た目はか弱く見えるけどさ、意外と努力家っていうか、
遅くまで残って仕事してたりとか」
「そうだったのか」
L博士が黙ってしまったので、次はSから質問しました。
「すみません。私もDさんとEさんにお聞きしたいんですが、
皆さんが今手がけている論文が完成すると、
困る人物に心当たりはありませんか? 些細な可能性でも構わないのですが」
Eは目に涙を溜めたまま、頼るように、Dを見ました。
Dは少し沈黙したあと、口を開きました。
「本当に些細な可能性ですが、
もしかしたら、Fかもしれません。隣のチームの」
「どうして?」
「Fは、Eの同期なんですが、どうもライバル視しているみたいで。
何かとこいつに突っかかってくるんですよ。な?」
話を振られたEは、慌ててブンブンと手を振りました。
「Fさんは、そんなこと、しません」
「そうか? お前、Fに何か嫌がらせとかされてないか?」
「そんな! 全然、されてません! 本当です!」
すると、唐突にEが席を立ちました。
「あの、僕、もう戻って良いですか? た、食べ終わったんで」
EはそうC博士に尋ねながらも、既にトレイを持っています。
「あ、ああ」
行かせて良いか、とL博士に目配せしているうちに、
Eは「失礼します」と呟いて、さっさと行ってしまいました。
そのうちに皆のランチも終わり、そのまま解散となりました。
SはL博士と一緒にカフェを出ました。
研究室へ戻る途中でL博士は、少し寄り道してから戻るよ、
と、一人でどこかに行ってしまいました。
Sが研究室に戻ろうと、エレベーターに乗った時、
そこには、白衣姿のBが居ました。
彼女の右手には、缶コーヒーが握られていたそうです。
それは黒い缶だったので、おそらくブラックコーヒーだったのだと思います。
Bは無視する気のようで黙っていましたが、
他には人も居なかったので、Sは少し話しかけることにしたんです。
事件に動きはないことは先程Dから聞いて知っていましたが、
Bにも同じ質問をしてみることにしました。
「あれから、何か変わったことは?」
「ない。もう終わったのかも」
「終わった? どうしてそう思う?」
「さあ。気が付いたんじゃない? 良いことじゃないって」
「それなら、最初から妨害工作なんてしなければ良かったのに」
「人間なんてそんなもんだろ。人間は世界で一番劣悪な生き物だ」
「どうして、君はそう思うんだい?」
「バカだからさ。非合理だと解っていながら自分をコントロールできない」
「成程。確かに、そういった場合もあるね、人間は」
エレベーターが止まり、Bは出て行ってしまいました。
「じゃあな」という別れの挨拶ひとつもせずに。
Sが研究室に戻り、仕事の続きに取り掛かりましたが、
L博士は、なかなか戻ってきませんでした。
暫くしてドアが開き、やっとL博士が帰ってきました。
「随分長い寄り道でしたね?」
すると、L博士は悲しそうな顔をして、ぽつりと言いました。
「S君」
「何です?」
「犯人が解ったみたいなんだ」
「え?」
「それが、本当に正しい答えか、確認しに行こうと思っている。
それには、S君の協力が必要だ。力を貸してくれるかい?」
→
■ホワイト・レディ7 の続編
Sも一人で飲みたい日があるようでしてね。
翌夜、Sは一人で昨日五人で飲んだバーに行きました。
バーボンを頼み、静かに飲んでいたんです。
自然と、というよりは必然的に、
五人で飲んだ時のことが頭の中に浮かんでいたそうです。
すると、ス……あ、いえ。Sのファーストネームが呼ばれて、
Sが振り向くと、後方にグラマラスな女性が立っていました。
どこかで見た顔だと思ったら、昨日五人で飲んだ時、
C博士が「イイものを見た」と言っていた女性でした。
今日もボディラインに合った服を着ていましたが、
色は黒で、白い胸元を過剰に演出するような服でした。
「こんばんは。今夜は一人なのね?」
彼女はにっこりと笑って、勝手にSの隣に座りました。
「良かった。今夜はゆっくり話せるわね?
私、貴方と話してみたかったのよ、二人きりで」
「君は、私のことを知っているのかい?」
「知っているわよ。私、知り合いが多くてね?
ある人から聞いたのよ、貴方のこと。
貴方にしかできない素晴らしい才能のこと」
「それで、私に何か?」
「私、貴方が欲しいの。貴方を迎えに来てあげたのよ?」
「よく解らないが、君は私に何かさせたいのかな?」
「貴方、私の犬にならない?」
「……犬?」
「そう。私のワンちゃんにしてあげる」
「君は奇抜なことを言うね」
「そうかしら?」
「一応聞くけれど、私を君の犬にして、君はどうしたいんだい?」
「私の為に『とってこい』をして欲しいの。
貴方の組織に居る、お偉方から、ある情報を貰ってきて?
上手に出来たら、ご褒美をあげる。私って優しい飼い主でしょう?」
「具体的に、君は何の情報が欲しいんだい?」
女はグッと近付いて、手をSの肩に置きました。
肉感的な身体を摺り寄せながら、厚い唇をSの耳許で囁いたんです。
「それはまだ言えないわ」
Sは女を押し返し、距離をとった。
「それでは話にならないね」
「ターゲットは、貴方が私の犬になると決めてから、
教えてあげる。それまではダメ。でも貴方になら、簡単なことよ?」
「何にせよ、君は私に組織を裏切れと言うんだろう?」
組織に居られなくなるどころか、この業界から追放されるかもしれない。
「あら。貴方こそ、いつまで籠の鳥で居るつもり?
その素晴らしい才能は、あの組織の中で、
飼い殺されるだけで満足なのかしら?」
「では聞くが、籠の鳥から君の犬になるメリットはあるのかい?」
「もちろんあるわよ、いっぱいね」
「具体的には?」
「あら。それは『とってこい』が上手にできてからよ」
「ターゲットもご褒美も知らされないのに、協力できるわけないだろう」
「ふうん。貴方ってけっこうワガママなタイプなのね」
「君が飼っている他の犬達は、さぞご主人様に従順なんだろうね」
「ええ。みんな良い子達よ。みんな私にメロメロだから」
「そう。では私は、君がいつか愛犬達に噛み殺されないよう祈っているよ」
「それはつまり、貴方は私のワンちゃんにはならない、ということ?」
「そうだよ」
「あら。貴方って意外と遠慮深いのね。
私に飼われることが、そんなに畏れ多い?」
「まあ……確かに、そうだね」
「じゃあ、覚悟が決まったら、また会いにいらっしゃい。
私、来週のこの時間も、このバーで飲む予定だから」
謎の女性は、恥ずかし気もなく、
Sに投げキッスをして、店を出て行きました。
→
翌夜、Sは一人で昨日五人で飲んだバーに行きました。
バーボンを頼み、静かに飲んでいたんです。
自然と、というよりは必然的に、
五人で飲んだ時のことが頭の中に浮かんでいたそうです。
すると、ス……あ、いえ。Sのファーストネームが呼ばれて、
Sが振り向くと、後方にグラマラスな女性が立っていました。
どこかで見た顔だと思ったら、昨日五人で飲んだ時、
C博士が「イイものを見た」と言っていた女性でした。
今日もボディラインに合った服を着ていましたが、
色は黒で、白い胸元を過剰に演出するような服でした。
「こんばんは。今夜は一人なのね?」
彼女はにっこりと笑って、勝手にSの隣に座りました。
「良かった。今夜はゆっくり話せるわね?
私、貴方と話してみたかったのよ、二人きりで」
「君は、私のことを知っているのかい?」
「知っているわよ。私、知り合いが多くてね?
ある人から聞いたのよ、貴方のこと。
貴方にしかできない素晴らしい才能のこと」
「それで、私に何か?」
「私、貴方が欲しいの。貴方を迎えに来てあげたのよ?」
「よく解らないが、君は私に何かさせたいのかな?」
「貴方、私の犬にならない?」
「……犬?」
「そう。私のワンちゃんにしてあげる」
「君は奇抜なことを言うね」
「そうかしら?」
「一応聞くけれど、私を君の犬にして、君はどうしたいんだい?」
「私の為に『とってこい』をして欲しいの。
貴方の組織に居る、お偉方から、ある情報を貰ってきて?
上手に出来たら、ご褒美をあげる。私って優しい飼い主でしょう?」
「具体的に、君は何の情報が欲しいんだい?」
女はグッと近付いて、手をSの肩に置きました。
肉感的な身体を摺り寄せながら、厚い唇をSの耳許で囁いたんです。
「それはまだ言えないわ」
Sは女を押し返し、距離をとった。
「それでは話にならないね」
「ターゲットは、貴方が私の犬になると決めてから、
教えてあげる。それまではダメ。でも貴方になら、簡単なことよ?」
「何にせよ、君は私に組織を裏切れと言うんだろう?」
組織に居られなくなるどころか、この業界から追放されるかもしれない。
「あら。貴方こそ、いつまで籠の鳥で居るつもり?
その素晴らしい才能は、あの組織の中で、
飼い殺されるだけで満足なのかしら?」
「では聞くが、籠の鳥から君の犬になるメリットはあるのかい?」
「もちろんあるわよ、いっぱいね」
「具体的には?」
「あら。それは『とってこい』が上手にできてからよ」
「ターゲットもご褒美も知らされないのに、協力できるわけないだろう」
「ふうん。貴方ってけっこうワガママなタイプなのね」
「君が飼っている他の犬達は、さぞご主人様に従順なんだろうね」
「ええ。みんな良い子達よ。みんな私にメロメロだから」
「そう。では私は、君がいつか愛犬達に噛み殺されないよう祈っているよ」
「それはつまり、貴方は私のワンちゃんにはならない、ということ?」
「そうだよ」
「あら。貴方って意外と遠慮深いのね。
私に飼われることが、そんなに畏れ多い?」
「まあ……確かに、そうだね」
「じゃあ、覚悟が決まったら、また会いにいらっしゃい。
私、来週のこの時間も、このバーで飲む予定だから」
謎の女性は、恥ずかし気もなく、
Sに投げキッスをして、店を出て行きました。
→
■ホワイト・レディ6 の続編
L博士は首を傾げました。
「B君。どうして、犯人のことをバカだと思うんだい?」
「どうして? なんでそう聞かれるのか解りませんけど?
研究データ消して、皆に迷惑かけて、
一体、何がしたいんだって思うでしょう、普通」
「うん。確かにチームの皆に余計な手間をかけさせてしまったよね。
ちなみに聞いてみたいんだけど、B君はどういう人物が犯人だと思う?」
「知りませんよ。リーダーに恨みでもあるんじゃないですか?」
「俺かよ!?」
「リーダーの面目を潰したくて、こんなことしてるんだとしたら、
部下の私達はホント、いい迷惑ですけどね」
「おや。C君は、誰から恨みを買っているんだい?」
「俺が恨まれてる前提かよ!?」
「違うの?」
「ち、違うと思う、が」
「先程、ライバル会社も居るということだったからね。
恨まれていないとは言い切れないか」
「マジか……」
「それで、C君。次の対策はどうするつもりなんだい?」
「んー。チーム内で話し合ったところでは、
監視カメラを置いてみるのはどうかって、意見も出てんだけどよ」
「監視カメラか。それも一理あるね。ねえ。S君はどう思う?」
「私ですか?」
「もちろん。C君達は、君の意見を聞きたいんだと思うよ?
私もぜひ聞きたいし。S君はこの事件、どう見たかな?」
「そうそう。Sのプロファイリングを聞かせてくれよ!」
「C博士。それは私の専門ではありませんよ」
「細かいこと気にしないで、お前の見解ってのを言ってみろよ」
「仕方ありませんね。個人的な感想として述べますが、
犯罪としては、非常に手ぬるいと感じます。
もし私が犯人で、論文の発表を完全に阻止したいと考えるなら、
最初から全てのラットか、全ての研究員を抹殺していたでしょうから」
C博士はヒューと口笛を吹きました。
「俺達の抹殺と来たか。おっそろしい奴だな」
「そうかな。私は、実に清々しい意見だと思うけれど」
C博士はニヤリと笑って、L博士を見ました。
「年取って大分落ち着いてきたと思ったが、そうでもねえのか、L?」
「C君。昔の話はもう良いじゃないか」
「悪かったよ。んで? Sには犯人がもう解ってたりするのか?」
「いえ。まだ。DさんとEさんのお話も聞いていないですし」
「ふうん。じゃ、今度そういう機会を作ってやるよ、さりげなくな」
「おや。C君が機会を設けてくれるのかい?」
「任せな。DとEも犯人ではないって証明する為だからな。
もちろん、Lにもしっかり協力して貰うぜ?
準備が整ったらお前にメールする。必ずSを連れて来いよ?」
「それで良いかい、S君?」
「ええ。ありがとうございます」
「よっしゃ。んじゃ、今日はもう帰るかっ」
そこで、L博士は腕時計を見ました。
「ああ、もうこんな時間か。すまない、S君。
君は早く帰りたいと言っていたのに、すっかり遅くなってしまったね」
「何を言っているんですか、今更」
「ごめんごめん」
「A、B、すっかり遅くなっちまって悪かったな。
二人ともタクシーで家まで送ってってやるよ」
「えっ? そんな悪いですよ。一人で帰れますから」
「いーや。これはリーダーからの命令だ、イヤでも従って貰うぜ?
俺達全員を抹殺したほうが早い、なんて聞いたあとで、
女を一人で帰せるわけねーだろーが。ほら、Bも行くぞ」
店を出たあと、A、B、Cが同じタクシーに乗って帰っていきました。
三人を見送ったSとL博士の前には、次のタクシーが停まりました。
「S君。今夜は私達も一緒に帰ろう?」
L博士に言われて、二人は同じタクシーの後部座席に乗り込みました。
窓からは小さな夜の繁華街。
煌びやかな飲食店が並び、時折酔った声が街の中に消えて行く。
暗いのに明るく、賑やかなのに寂しい光景でした。
「ねえ、S君」
まるで独り言のように、L博士は言いました。
「先程、話していた、推理小説の話なんだけれど」
タクシーの運転手に怪しまれないよう『小説の話』ということにして、
先程聞いた事件の話をしたいんだな、とSは察しました。
「ええ。あの本の話ですね。何ですか?」
「私には、こう思えるんだ。犯人は心の優しい人なんじゃないかって」
L博士がそう考えた理由は、Sにも解りました。
「ひとつひとつの犯行自体は、軽微なものだったから、ですか?」
「うん。なんだか、目に見えるような気がしてね。
犯人が涙を堪えながら、ラットに手をかけている様子が」
「――そうでしょうか?」
「え?」
「あ、いえ。何でもありません」
→
「B君。どうして、犯人のことをバカだと思うんだい?」
「どうして? なんでそう聞かれるのか解りませんけど?
研究データ消して、皆に迷惑かけて、
一体、何がしたいんだって思うでしょう、普通」
「うん。確かにチームの皆に余計な手間をかけさせてしまったよね。
ちなみに聞いてみたいんだけど、B君はどういう人物が犯人だと思う?」
「知りませんよ。リーダーに恨みでもあるんじゃないですか?」
「俺かよ!?」
「リーダーの面目を潰したくて、こんなことしてるんだとしたら、
部下の私達はホント、いい迷惑ですけどね」
「おや。C君は、誰から恨みを買っているんだい?」
「俺が恨まれてる前提かよ!?」
「違うの?」
「ち、違うと思う、が」
「先程、ライバル会社も居るということだったからね。
恨まれていないとは言い切れないか」
「マジか……」
「それで、C君。次の対策はどうするつもりなんだい?」
「んー。チーム内で話し合ったところでは、
監視カメラを置いてみるのはどうかって、意見も出てんだけどよ」
「監視カメラか。それも一理あるね。ねえ。S君はどう思う?」
「私ですか?」
「もちろん。C君達は、君の意見を聞きたいんだと思うよ?
私もぜひ聞きたいし。S君はこの事件、どう見たかな?」
「そうそう。Sのプロファイリングを聞かせてくれよ!」
「C博士。それは私の専門ではありませんよ」
「細かいこと気にしないで、お前の見解ってのを言ってみろよ」
「仕方ありませんね。個人的な感想として述べますが、
犯罪としては、非常に手ぬるいと感じます。
もし私が犯人で、論文の発表を完全に阻止したいと考えるなら、
最初から全てのラットか、全ての研究員を抹殺していたでしょうから」
C博士はヒューと口笛を吹きました。
「俺達の抹殺と来たか。おっそろしい奴だな」
「そうかな。私は、実に清々しい意見だと思うけれど」
C博士はニヤリと笑って、L博士を見ました。
「年取って大分落ち着いてきたと思ったが、そうでもねえのか、L?」
「C君。昔の話はもう良いじゃないか」
「悪かったよ。んで? Sには犯人がもう解ってたりするのか?」
「いえ。まだ。DさんとEさんのお話も聞いていないですし」
「ふうん。じゃ、今度そういう機会を作ってやるよ、さりげなくな」
「おや。C君が機会を設けてくれるのかい?」
「任せな。DとEも犯人ではないって証明する為だからな。
もちろん、Lにもしっかり協力して貰うぜ?
準備が整ったらお前にメールする。必ずSを連れて来いよ?」
「それで良いかい、S君?」
「ええ。ありがとうございます」
「よっしゃ。んじゃ、今日はもう帰るかっ」
そこで、L博士は腕時計を見ました。
「ああ、もうこんな時間か。すまない、S君。
君は早く帰りたいと言っていたのに、すっかり遅くなってしまったね」
「何を言っているんですか、今更」
「ごめんごめん」
「A、B、すっかり遅くなっちまって悪かったな。
二人ともタクシーで家まで送ってってやるよ」
「えっ? そんな悪いですよ。一人で帰れますから」
「いーや。これはリーダーからの命令だ、イヤでも従って貰うぜ?
俺達全員を抹殺したほうが早い、なんて聞いたあとで、
女を一人で帰せるわけねーだろーが。ほら、Bも行くぞ」
店を出たあと、A、B、Cが同じタクシーに乗って帰っていきました。
三人を見送ったSとL博士の前には、次のタクシーが停まりました。
「S君。今夜は私達も一緒に帰ろう?」
L博士に言われて、二人は同じタクシーの後部座席に乗り込みました。
窓からは小さな夜の繁華街。
煌びやかな飲食店が並び、時折酔った声が街の中に消えて行く。
暗いのに明るく、賑やかなのに寂しい光景でした。
「ねえ、S君」
まるで独り言のように、L博士は言いました。
「先程、話していた、推理小説の話なんだけれど」
タクシーの運転手に怪しまれないよう『小説の話』ということにして、
先程聞いた事件の話をしたいんだな、とSは察しました。
「ええ。あの本の話ですね。何ですか?」
「私には、こう思えるんだ。犯人は心の優しい人なんじゃないかって」
L博士がそう考えた理由は、Sにも解りました。
「ひとつひとつの犯行自体は、軽微なものだったから、ですか?」
「うん。なんだか、目に見えるような気がしてね。
犯人が涙を堪えながら、ラットに手をかけている様子が」
「――そうでしょうか?」
「え?」
「あ、いえ。何でもありません」
→
■ホワイト・レディ5 の続編
「ああそうだ、C君。確認しておきたいんだけど」
L博士が言いました。
「今、君のチームメンバーは、全部で何人なんだい?
ここに居るA君とB君の他には、D君とE君が居るんだったかな?」
「ああ、合ってるぜ。俺を入れて全部で五人だ」
DとEはどちらも男性で、Sにとっては殆ど面識がない人物です。
彼等とは話す機会がなかったので、顔と名前を知っている程度でした。
「C君、4度の事件を全て行うことができる人物は検討してみたかい?
犯行時刻で絞り込むことはできないのかな?」
「それがよお。一度目と二度目はいつやられたか正直解んねえんだ」
「ファイルがないと最初に気付いたのは?」
「一度目はうちのチームのDが仕事中にたまたま見つけた。
二度目もそんなかんじで、見つけたのはD。
三度目もDなんだが、この頃は朝イチに、
ファイルのチェックをしてたから、発見したのは朝さ。
四度目はその日最初に出勤したEだよ。
ちなみに四度目のラットに関しては、
前日まで元気だったことは俺とEが確認してる」
「成程。ファイルの削除に関しては、仕事中にだって可能だろうし、
ラットも皆が帰ったあとに、引き返せば良いだけか。
犯行時刻で絞り込むのは、難しいかな。
では、被害に遭ったパソコンについて聞きたいんだけれど」
「おう。何でも聞きな」
「ありがとう。ええと、組織内にあるパソコンは、
一人一人に発行されているアカウントと、
チームごとに設定されているパスワードがなければ、
アクセスできない筈だよね? そのパスワードも、
定期的に更新されている筈だと思ったけれど」
扱うデータ上、この組織はセキュリティが厳しく、
違うチームのパソコンは、開くことさえできないようになっていたんです。
L博士に言われて、C博士はぶっきらぼうに答えた。
「それはそうさ。パスワードを知らされてるのはチーム内の五人だよ。
けど、システム部や上層部だって、知ってることだろ!?」
「もちろん、そうだね。あるいは、ハッキングが可能な人間であれば、
外部の人間にだって、不可能ではないかもしれない」
「そう! そうだよな!」
「それから、被害に遭ったのは、また『ひとつ』だけだったんだね?」
「そうなんだ。1匹なら、こういうことがなくても、
何らかの要因で、死んじまう場合もあるから、
実験には影響のない範囲なんだけどよ」
「うん。これまでの規則に則るなら、
次もラットが1匹投薬されるね。その次が2匹、かな」
C博士は首を振りながら頭を抱えました。
「それ以上やられたら、マジでヤバイぞ」
「そうだね。突然ルールから外れて、全滅させられでもしたら、
君達の研究が、最初からやり直しになってしまう」
「おいおい。不吉なこと言うなよ。
んなことになったら、今年の学会に間に合わねえぞ!」
「そうか。C君達は今年発表するんだったね」
そこまで言うと、L博士は女性二人のほうに目を向けて、
「A君。君はどう思う? 四度の事件について」
Aは俯き、サパンのグラスに触れながら、こう答えました。
「どうして、こんなことするのかな、って思います。
今まで、皆で積み重ねてきた研究なのに。L博士が仰ったように、
もし全てのラットに投薬されてしまったら、と思うと」
Aはそこで言葉を切ったので、Sの頭の中には、
余り想像したくない場面が浮かびました。
「ちなみに、A君は、どうして犯人が、
こんなことを続けているんだと思う?
どういった理由が考えられるかな?」
Aは少し黙ったあと、こう答えました。
「解りません。でも、その犯人は私達の研究の邪魔をしたいと、
そう思っている人、ってことですよね?」
「そうだろうね。どうして邪魔をしたいのかな?」
またAは少し沈黙したあとに言いました。
「どうしてなんでしょう……あ、例えば、なんですけど」
「どうぞ?」
「私達の論文を学会で発表されたら困る人、とかなんでしょうか?」
「成程ね。そういう人物は思い当たるのかな?」
「あ、いいえ。すみません。私には……C博士はどうですか?」
「まあ、居ない、とは言い切れねえなあ。
ライバル会社みたいな奴等は居るわけだし」
「ライバル会社の人の中で、最近この建物の中に入った人は居るのかな?」
「うちのフロアには来てないけどな」
「上層部と会う機会があったりするのかな?」
「そいつは調べてみねえと解らんが、その線もあるかもな」
「ではB君は、どう思っているのかな? 一連の事件について」
Bは銜えていた煙草を唇から離し、
「バカだと思う」
トン、と灰皿に煙草の灰を落としました。
→
L博士が言いました。
「今、君のチームメンバーは、全部で何人なんだい?
ここに居るA君とB君の他には、D君とE君が居るんだったかな?」
「ああ、合ってるぜ。俺を入れて全部で五人だ」
DとEはどちらも男性で、Sにとっては殆ど面識がない人物です。
彼等とは話す機会がなかったので、顔と名前を知っている程度でした。
「C君、4度の事件を全て行うことができる人物は検討してみたかい?
犯行時刻で絞り込むことはできないのかな?」
「それがよお。一度目と二度目はいつやられたか正直解んねえんだ」
「ファイルがないと最初に気付いたのは?」
「一度目はうちのチームのDが仕事中にたまたま見つけた。
二度目もそんなかんじで、見つけたのはD。
三度目もDなんだが、この頃は朝イチに、
ファイルのチェックをしてたから、発見したのは朝さ。
四度目はその日最初に出勤したEだよ。
ちなみに四度目のラットに関しては、
前日まで元気だったことは俺とEが確認してる」
「成程。ファイルの削除に関しては、仕事中にだって可能だろうし、
ラットも皆が帰ったあとに、引き返せば良いだけか。
犯行時刻で絞り込むのは、難しいかな。
では、被害に遭ったパソコンについて聞きたいんだけれど」
「おう。何でも聞きな」
「ありがとう。ええと、組織内にあるパソコンは、
一人一人に発行されているアカウントと、
チームごとに設定されているパスワードがなければ、
アクセスできない筈だよね? そのパスワードも、
定期的に更新されている筈だと思ったけれど」
扱うデータ上、この組織はセキュリティが厳しく、
違うチームのパソコンは、開くことさえできないようになっていたんです。
L博士に言われて、C博士はぶっきらぼうに答えた。
「それはそうさ。パスワードを知らされてるのはチーム内の五人だよ。
けど、システム部や上層部だって、知ってることだろ!?」
「もちろん、そうだね。あるいは、ハッキングが可能な人間であれば、
外部の人間にだって、不可能ではないかもしれない」
「そう! そうだよな!」
「それから、被害に遭ったのは、また『ひとつ』だけだったんだね?」
「そうなんだ。1匹なら、こういうことがなくても、
何らかの要因で、死んじまう場合もあるから、
実験には影響のない範囲なんだけどよ」
「うん。これまでの規則に則るなら、
次もラットが1匹投薬されるね。その次が2匹、かな」
C博士は首を振りながら頭を抱えました。
「それ以上やられたら、マジでヤバイぞ」
「そうだね。突然ルールから外れて、全滅させられでもしたら、
君達の研究が、最初からやり直しになってしまう」
「おいおい。不吉なこと言うなよ。
んなことになったら、今年の学会に間に合わねえぞ!」
「そうか。C君達は今年発表するんだったね」
そこまで言うと、L博士は女性二人のほうに目を向けて、
「A君。君はどう思う? 四度の事件について」
Aは俯き、サパンのグラスに触れながら、こう答えました。
「どうして、こんなことするのかな、って思います。
今まで、皆で積み重ねてきた研究なのに。L博士が仰ったように、
もし全てのラットに投薬されてしまったら、と思うと」
Aはそこで言葉を切ったので、Sの頭の中には、
余り想像したくない場面が浮かびました。
「ちなみに、A君は、どうして犯人が、
こんなことを続けているんだと思う?
どういった理由が考えられるかな?」
Aは少し黙ったあと、こう答えました。
「解りません。でも、その犯人は私達の研究の邪魔をしたいと、
そう思っている人、ってことですよね?」
「そうだろうね。どうして邪魔をしたいのかな?」
またAは少し沈黙したあとに言いました。
「どうしてなんでしょう……あ、例えば、なんですけど」
「どうぞ?」
「私達の論文を学会で発表されたら困る人、とかなんでしょうか?」
「成程ね。そういう人物は思い当たるのかな?」
「あ、いいえ。すみません。私には……C博士はどうですか?」
「まあ、居ない、とは言い切れねえなあ。
ライバル会社みたいな奴等は居るわけだし」
「ライバル会社の人の中で、最近この建物の中に入った人は居るのかな?」
「うちのフロアには来てないけどな」
「上層部と会う機会があったりするのかな?」
「そいつは調べてみねえと解らんが、その線もあるかもな」
「ではB君は、どう思っているのかな? 一連の事件について」
Bは銜えていた煙草を唇から離し、
「バカだと思う」
トン、と灰皿に煙草の灰を落としました。
→
■ホワイト・レディ4 の続編
リキュール当てクイズで場が和んだあとは、C博士の山や海の話を始め、
互いの近況報告のような話をしていたと思います。
新鮮なメンバーが五人揃ったせいで、Sにはどの話も目新しいものでしたが、
予定外に帰りが遅くなっていることも気になっている頃でした。
「おっ、イイねえ~」
突然、ニヤニヤしながらC博士がそう言いました。
何が良いのかと、彼の視線を負うと、
C博士が見ていたのは、一人の女性でした。
モデルのような肉体を持つ女性が、
このテーブルの横を通り過ぎ、カウンター席に座ったんです。
紫のワンピースは、女性であることを見せ付けるかの如く、
ボディラインにピッタリと合い、
スカートの部分はかなり短く、白い太ももを覗かせていました。
「いやー、イイもん見たな~」
「止めて下さいよ、恥ずかしい」
喜んでいるC博士をたしなめたのは、Bでした。
「C博士って、ああいう明らさまなのが好みなんですね」
「何だ、B。妬いてんのか~?」
「失望してるんです。あんなのにフラフラ付いていったら、
大金だけ取られて泣かされるのがオチですよ」
「そりゃ~、偏見だろ。あのナイスバディが羨ましかったら、
お前も一度、ああいうムチムチの着てみろって。
お前、背だけは高いからな、案外似合うかもしれないぞ?」
「死んでもイヤです」
「あ、あの、C博士」
「んー? どうした、A」
先程から、もじもじとしていたAが、
何か、思い切ったように、こう言い出したのです。
「あの件、L博士とSさんに、ご相談してみるのは、どうでしょうか?」
Aがそう言うと、同じチームのBとC博士は三人で顔を見合わせました。
「おい、A。部外者には関係ない話だろ」
止めに入ったのはBで、彼女は反対のようでした。
「でも、お二人にご相談したら、
何か良いアドバイスが頂けるかもしれませんし」
C博士は腕を組みながら、そうだな、と言いました。
「俺達の間で煮詰まってるよりは、外部の意見を聞いたほうが良いかもな。
うちの組織内でも、最もクレバーでクレイジーなお二人さんだから」
L博士はたしなめるように、
「C君。全く、アルコールが入ると更に口が悪くなるね、君は。
それで、A君? あの件というのは、何か困っている事があるのかな?」
「はい。実は最近、私達のチーム内で、紛失というか、
資料の一部が無くなってしまうことが続いていて」
「えっ? それは、大変じゃないか。要は盗難だろう?」
「盗難と言うほど、重大な被害ではないんです。
無くなったと言っても、ほんの少しで、回復が可能なレベルでしたから」
Sは、大人ばかりの組織内で、そんな性質の悪い、
イタズラ染みたことがあるのか、と思いました。
面倒見が良いL博士は、親身に相談に乗るつもりのようで、
話を詳しく聞きたい様子でした。
「A君、それはいつから始まって、
今までに何回くらいあったのかな?」
「ええと、回数は四回くらいです。最初は……いつからでしたっけ?」
話を振られたBが気だるげに答えました。
「さあ。いつだったかな。結構前じゃない?」
「一度目は二か月前で、パソコンの中にあった論文データの削除」
そう答えたのはC博士でした。
「その時に無くなったのは、ファイルひとつ。と言っても、
中身は数ページ程度だったから、大したダメージじゃなかったのさ。
一度目だったし、誰かが操作ミスで消しちまったのかも、くらいで、
皆も別に気にしてなかったから、皆の記憶を頼りにもう一度書き直したよ」
「それで二度目は?」とL博士。
「二度目も同じさ。論文のデータファイルがひとつ無くなってた。
これも量的には数ページ。一度目よりは少し増えてたがな。
まさか、うちのデータが続けて無くなるとは、
誰も思っていなかったから、バックアップもとっていなかったんだ。
これも少し手間だったが、すぐに修復可能だったよ」
「成程。バックアップをとるようになったのはその時からかい?」
「ああ。よく解ったな。二度目の盗難が起こったあとから、
他の皆には内緒で、俺がバックアップをとることにしたんだ。
一日一回、帰る前に、論文データを全てUSBメモリに落とした。
そしたら案の定、三度目が起こったわけよ。
論文のファイルが、今度は二つ無くなってた」
「ではその時に、バックアップをとっていたことを皆に話したんだね?」
「まあ、そうなんだけどさ。俺が次に何を言うか解るからって、
俺の台詞を取るなよ、L。お前、そういうとこ昔から変わらないな」
「ああ、すまない、つい、ね。ではどうぞ。続けて?」
「でー、ええと、どこまで言ったっけ?」
「皆に話したんだろう? バックアップをとっていた、って」
「ああ、そうそう。三度目の盗難のあとな。
皆も流石に気味悪がってたしさ。
とりあえずデータは無事だぜ、って安心させてやりたかったんだ」
「自分の株を上げたかったから、ではないのかい?」
「L! そ、そういうこと言うなよ!」
「でも、あの時のC博士、格好良かったです」
フォローしたのはAだった。
「さすがチームリーダーだなって、Dさんも言ってたんですよ」
「そ、そうか」
ジッポが開く音がしてSが視線を配ると、Bが煙草に火を点けていました。
それに気付いたAは、自分の近くにあった灰皿をBの前へ置いたんです。
すると、Bの口が少し動きました。
Bと席が離れているSには聞こえませんでしたが。
「また話を中断させてしまったね、すまない。
では、四度目の盗難について聞かせてくれるかい?」
L博士に促され、C博士は苦い顔をしました。短い髪を掻きながら、
「こいつがやっかいでな。今度はデータじゃなかった。
うちで扱ってる研究材料のほうに手を出された」
「君のとこの研究材料というと、まさか、ラット達かい?」
「ああ。朝来たら、実験中の一匹が、酷く衰弱してた」
「何をされたんだい?」
「投薬だ。そいつは結局、死んじまった。
解剖してみたら、カフェインの過剰摂取だったよ」
L博士は、ううむ、と小さく呻きながら椅子に凭れました。
「カフェインの急性中毒か。
ラットのLD50は、192mg/kgだったね」
LD50とは半数致死量の略語です。
何かを動物に投与した時、その半数が死亡する量を意味します。
192mg/kgは、動物1kgに対して192mg与える、
ということですから、例えばラット1匹の体重を300gとした時、
100匹のラットに、63.9mgずつカフェインを投与すれば、
その半数である50匹が死亡する、という数値です。
C博士は呆れたと言わんばかりに、
「何も見ずに……よくLD50なんか覚えてるな。
相変わらずお前の記憶力はとんでもねえ」
「ラットのLD50は、あらかた全部覚えさせられたじゃないか?」
「何年前の話だよ、それ」
「まあ、それはさておき」
L博士は背を椅子から離し、座り直しました。
「パソコンの中にあるデータは、C君にバックアップをとられているから、
これ以上、どんなに消去しようとも、もう意味がない。
だから次は、実験に使用しているラットに目を向けたんだね。
実験中のラットなら、バックアップも修復も不可能だから」
「ああ、とんでもねえ奴だよ」
C博士は悔しそうでした。
「ねえ、C君。ラットに投与されていたカフェインだけれど、
それは、薬品庫の中にあるものだったのかな?」
「ああ。多分な」
「そうか。では、誰にも入手可能だね」
「そーゆーこと」
今度はC博士が椅子に凭れかかりました。
→
互いの近況報告のような話をしていたと思います。
新鮮なメンバーが五人揃ったせいで、Sにはどの話も目新しいものでしたが、
予定外に帰りが遅くなっていることも気になっている頃でした。
「おっ、イイねえ~」
突然、ニヤニヤしながらC博士がそう言いました。
何が良いのかと、彼の視線を負うと、
C博士が見ていたのは、一人の女性でした。
モデルのような肉体を持つ女性が、
このテーブルの横を通り過ぎ、カウンター席に座ったんです。
紫のワンピースは、女性であることを見せ付けるかの如く、
ボディラインにピッタリと合い、
スカートの部分はかなり短く、白い太ももを覗かせていました。
「いやー、イイもん見たな~」
「止めて下さいよ、恥ずかしい」
喜んでいるC博士をたしなめたのは、Bでした。
「C博士って、ああいう明らさまなのが好みなんですね」
「何だ、B。妬いてんのか~?」
「失望してるんです。あんなのにフラフラ付いていったら、
大金だけ取られて泣かされるのがオチですよ」
「そりゃ~、偏見だろ。あのナイスバディが羨ましかったら、
お前も一度、ああいうムチムチの着てみろって。
お前、背だけは高いからな、案外似合うかもしれないぞ?」
「死んでもイヤです」
「あ、あの、C博士」
「んー? どうした、A」
先程から、もじもじとしていたAが、
何か、思い切ったように、こう言い出したのです。
「あの件、L博士とSさんに、ご相談してみるのは、どうでしょうか?」
Aがそう言うと、同じチームのBとC博士は三人で顔を見合わせました。
「おい、A。部外者には関係ない話だろ」
止めに入ったのはBで、彼女は反対のようでした。
「でも、お二人にご相談したら、
何か良いアドバイスが頂けるかもしれませんし」
C博士は腕を組みながら、そうだな、と言いました。
「俺達の間で煮詰まってるよりは、外部の意見を聞いたほうが良いかもな。
うちの組織内でも、最もクレバーでクレイジーなお二人さんだから」
L博士はたしなめるように、
「C君。全く、アルコールが入ると更に口が悪くなるね、君は。
それで、A君? あの件というのは、何か困っている事があるのかな?」
「はい。実は最近、私達のチーム内で、紛失というか、
資料の一部が無くなってしまうことが続いていて」
「えっ? それは、大変じゃないか。要は盗難だろう?」
「盗難と言うほど、重大な被害ではないんです。
無くなったと言っても、ほんの少しで、回復が可能なレベルでしたから」
Sは、大人ばかりの組織内で、そんな性質の悪い、
イタズラ染みたことがあるのか、と思いました。
面倒見が良いL博士は、親身に相談に乗るつもりのようで、
話を詳しく聞きたい様子でした。
「A君、それはいつから始まって、
今までに何回くらいあったのかな?」
「ええと、回数は四回くらいです。最初は……いつからでしたっけ?」
話を振られたBが気だるげに答えました。
「さあ。いつだったかな。結構前じゃない?」
「一度目は二か月前で、パソコンの中にあった論文データの削除」
そう答えたのはC博士でした。
「その時に無くなったのは、ファイルひとつ。と言っても、
中身は数ページ程度だったから、大したダメージじゃなかったのさ。
一度目だったし、誰かが操作ミスで消しちまったのかも、くらいで、
皆も別に気にしてなかったから、皆の記憶を頼りにもう一度書き直したよ」
「それで二度目は?」とL博士。
「二度目も同じさ。論文のデータファイルがひとつ無くなってた。
これも量的には数ページ。一度目よりは少し増えてたがな。
まさか、うちのデータが続けて無くなるとは、
誰も思っていなかったから、バックアップもとっていなかったんだ。
これも少し手間だったが、すぐに修復可能だったよ」
「成程。バックアップをとるようになったのはその時からかい?」
「ああ。よく解ったな。二度目の盗難が起こったあとから、
他の皆には内緒で、俺がバックアップをとることにしたんだ。
一日一回、帰る前に、論文データを全てUSBメモリに落とした。
そしたら案の定、三度目が起こったわけよ。
論文のファイルが、今度は二つ無くなってた」
「ではその時に、バックアップをとっていたことを皆に話したんだね?」
「まあ、そうなんだけどさ。俺が次に何を言うか解るからって、
俺の台詞を取るなよ、L。お前、そういうとこ昔から変わらないな」
「ああ、すまない、つい、ね。ではどうぞ。続けて?」
「でー、ええと、どこまで言ったっけ?」
「皆に話したんだろう? バックアップをとっていた、って」
「ああ、そうそう。三度目の盗難のあとな。
皆も流石に気味悪がってたしさ。
とりあえずデータは無事だぜ、って安心させてやりたかったんだ」
「自分の株を上げたかったから、ではないのかい?」
「L! そ、そういうこと言うなよ!」
「でも、あの時のC博士、格好良かったです」
フォローしたのはAだった。
「さすがチームリーダーだなって、Dさんも言ってたんですよ」
「そ、そうか」
ジッポが開く音がしてSが視線を配ると、Bが煙草に火を点けていました。
それに気付いたAは、自分の近くにあった灰皿をBの前へ置いたんです。
すると、Bの口が少し動きました。
Bと席が離れているSには聞こえませんでしたが。
「また話を中断させてしまったね、すまない。
では、四度目の盗難について聞かせてくれるかい?」
L博士に促され、C博士は苦い顔をしました。短い髪を掻きながら、
「こいつがやっかいでな。今度はデータじゃなかった。
うちで扱ってる研究材料のほうに手を出された」
「君のとこの研究材料というと、まさか、ラット達かい?」
「ああ。朝来たら、実験中の一匹が、酷く衰弱してた」
「何をされたんだい?」
「投薬だ。そいつは結局、死んじまった。
解剖してみたら、カフェインの過剰摂取だったよ」
L博士は、ううむ、と小さく呻きながら椅子に凭れました。
「カフェインの急性中毒か。
ラットのLD50は、192mg/kgだったね」
LD50とは半数致死量の略語です。
何かを動物に投与した時、その半数が死亡する量を意味します。
192mg/kgは、動物1kgに対して192mg与える、
ということですから、例えばラット1匹の体重を300gとした時、
100匹のラットに、63.9mgずつカフェインを投与すれば、
その半数である50匹が死亡する、という数値です。
C博士は呆れたと言わんばかりに、
「何も見ずに……よくLD50なんか覚えてるな。
相変わらずお前の記憶力はとんでもねえ」
「ラットのLD50は、あらかた全部覚えさせられたじゃないか?」
「何年前の話だよ、それ」
「まあ、それはさておき」
L博士は背を椅子から離し、座り直しました。
「パソコンの中にあるデータは、C君にバックアップをとられているから、
これ以上、どんなに消去しようとも、もう意味がない。
だから次は、実験に使用しているラットに目を向けたんだね。
実験中のラットなら、バックアップも修復も不可能だから」
「ああ、とんでもねえ奴だよ」
C博士は悔しそうでした。
「ねえ、C君。ラットに投与されていたカフェインだけれど、
それは、薬品庫の中にあるものだったのかな?」
「ああ。多分な」
「そうか。では、誰にも入手可能だね」
「そーゆーこと」
今度はC博士が椅子に凭れかかりました。
→
■ホワイト・レディ3 の続編
「畏まりました。ではビールがお二つ、
サパンがお二つ、ホワイト・レディがお一つですね?」
皆が肯定し、ボーイはカウンターへ向かいました。
ボーイが消えると、Bは笑いながら、
Aに向かって「お前だけ仲間外れだな?」と言いました。
一人だけ誰とも一緒ではない飲み物を頼んだことを指して言ったのでしょう。
すると、Aは少しだけ怒っていましたが、AがBにからかわれている様子は、
まるで猫が二匹じゃれあっているようにも見えましたね。
それを微笑ましげに見守っていたC博士は、視線を隣に向けて、
「にしても、Lと飲むなんて、ホントに久し振りだよなー?」
「ビールは来ていないから、まだ飲んではいないけれどね」
「ハハッ。相変わらず細かい男だなー、Lは」
C博士はL博士の肩に腕を回して、再会を喜んでいました。
「C君も相変わらず、真っ黒に日焼けしているね。
今も休みの度に、山や海に行ってるのかい?」
「空いてる時はな。ああ、そうだ。
この前登った山の麓でさ、ウマイ土産をたくさん買ってきたんだ。
うちのフロアでは、余っているようだったから、
今度そっちに持っていこう。甘いものだが、Lは平気だったよな?」
「うん。ありがとう。S君も甘いものは平気だったよね?」
「ええ、はい」
「そう言えば、SはLのチームに居たんだったな。
LにSの手綱が取れるのか、少し心配してたんだが。どうだ、S?
Lはリーダーとして、ちゃんと君の役に立ってるかい?」
「え? ええ。いつもお世話になっています」
「本当か? もし不満があるなら、うちのチームに来な?
俺がLの代わりに、ビシビシ鍛えてやるからよ」
「おいおい、C君。勝手にS君を引き抜かないでくれ?」
「大丈夫です。そこまで不満はありませんので」
「ハハハッ。豪快にフラレちまった!」
まだアルコールも入っていないのにC博士は豪快に笑っていました。
そのうちに飲み物が来て、それぞれ飲み始めたわけですが。
Sの前には、サパンという名のリキュールが来ました。
「さあ、S君? 何のリキュールか、当ててごらん?」
L博士が楽しそうにそう言うので、Sはひと口飲んでみました。
最初に出た言葉は「えっ?」でした。全く想像しない味がしたからです。
そのリアクションを見て興味が沸いたのか、
AとC博士が「飲んでみたい」と言い出し、
それぞれ、隣にあったグラスを手に取ったんです。
AがSのグラスを、C博士がL博士のグラスを借りて、
ひと口飲み、やはりほぼ同じようなリアクションを見せました。
「Bも飲んでみな、ほら」
C博士がL博士のグラスをBに突き出したので、
Bは仕方なくそれを口にしました。
「な、なんだコレ。葉っぱの味がするんですけど」
「そう! 葉っぱを食っちまった時の味がする!
おい、L! これ、何なんだよ! マジで葉っぱなのか?」
皆が一様に驚きのリアクションを見せたので、
L博士はとても満足そうでした。
「そうだよ。『葉』というのは合ってる。
でも、何の葉か、というところまで当てないと100点ではないなあ」
「んなの、解るわけねーだろっ!」
「S君と、女性陣はどうかな?」
Sは首を振り、Bは肩をすくめて手の平を空に向けました。
Aはグラスを見つめながら、
「私も解りません。でも本当に葉っぱの味がして、不思議なかんじです。
あの、Sさん、もう一口だけ飲んでも良いですか?」
どうぞ、とSは答えました。
「ごめんなさい。飲んでみても何の葉か解りません」
C博士は頭を抱えていました。
「これは難し過ぎるぞ、L!」
「Sさん」
SはAに小声で呼ばれました。
「すみません、ごちそうさまでした」
いえ、と言ってSはグラスを受け取りました。
「L! 早く正解を教えてくれよ!」
「解ったよ。正解は、もみの木のリキュールでした」
「えー! あのクリマスツリーのリキュールなのかー!?」
「うん。リキュール・ド・サパン。原産国はフランスだよ。
サパンがフランス語でもみの木、という意味なんだ。
もみの木の新芽から作られているから、
苦味もなく、後味も爽やかだっただろう?」
「ちょっと、もう一回飲ませてくれよ!」
「フフッ。どうぞ?」
C博士は、再度サパンを飲み、「確かに爽やかだ」とか、
「これがもみの木の味かー」と感慨深げに呟いていました。
Sは自分のグラスに視線が向けられているのに気付きました。
C博士の様子とSのグラスを、ちらちらと交互に見ていたのは、
Aでした。Sはすぐに察します。おそらくAも、
『新芽の爽やかな後味』を確かめてみたいのだろうなと。
Sはテーブルの上で、サパンのグラスを横に滑らせました。
「君にあげるよ」
目の前にサパンを置かれたAは、驚いた顔でSを見ました。
「えっ? でも」
「飲みたいんだろう?」
「……はい。でもどうして? 私、まだ何も」
「解るよ、そのくらい」
「あの、でも、これはSさんの」
「いいよ。他のものを頼むから」
Sは近くに居たボーイを呼んで、ウイスキーを頼みました。
→
サパンがお二つ、ホワイト・レディがお一つですね?」
皆が肯定し、ボーイはカウンターへ向かいました。
ボーイが消えると、Bは笑いながら、
Aに向かって「お前だけ仲間外れだな?」と言いました。
一人だけ誰とも一緒ではない飲み物を頼んだことを指して言ったのでしょう。
すると、Aは少しだけ怒っていましたが、AがBにからかわれている様子は、
まるで猫が二匹じゃれあっているようにも見えましたね。
それを微笑ましげに見守っていたC博士は、視線を隣に向けて、
「にしても、Lと飲むなんて、ホントに久し振りだよなー?」
「ビールは来ていないから、まだ飲んではいないけれどね」
「ハハッ。相変わらず細かい男だなー、Lは」
C博士はL博士の肩に腕を回して、再会を喜んでいました。
「C君も相変わらず、真っ黒に日焼けしているね。
今も休みの度に、山や海に行ってるのかい?」
「空いてる時はな。ああ、そうだ。
この前登った山の麓でさ、ウマイ土産をたくさん買ってきたんだ。
うちのフロアでは、余っているようだったから、
今度そっちに持っていこう。甘いものだが、Lは平気だったよな?」
「うん。ありがとう。S君も甘いものは平気だったよね?」
「ええ、はい」
「そう言えば、SはLのチームに居たんだったな。
LにSの手綱が取れるのか、少し心配してたんだが。どうだ、S?
Lはリーダーとして、ちゃんと君の役に立ってるかい?」
「え? ええ。いつもお世話になっています」
「本当か? もし不満があるなら、うちのチームに来な?
俺がLの代わりに、ビシビシ鍛えてやるからよ」
「おいおい、C君。勝手にS君を引き抜かないでくれ?」
「大丈夫です。そこまで不満はありませんので」
「ハハハッ。豪快にフラレちまった!」
まだアルコールも入っていないのにC博士は豪快に笑っていました。
そのうちに飲み物が来て、それぞれ飲み始めたわけですが。
Sの前には、サパンという名のリキュールが来ました。
「さあ、S君? 何のリキュールか、当ててごらん?」
L博士が楽しそうにそう言うので、Sはひと口飲んでみました。
最初に出た言葉は「えっ?」でした。全く想像しない味がしたからです。
そのリアクションを見て興味が沸いたのか、
AとC博士が「飲んでみたい」と言い出し、
それぞれ、隣にあったグラスを手に取ったんです。
AがSのグラスを、C博士がL博士のグラスを借りて、
ひと口飲み、やはりほぼ同じようなリアクションを見せました。
「Bも飲んでみな、ほら」
C博士がL博士のグラスをBに突き出したので、
Bは仕方なくそれを口にしました。
「な、なんだコレ。葉っぱの味がするんですけど」
「そう! 葉っぱを食っちまった時の味がする!
おい、L! これ、何なんだよ! マジで葉っぱなのか?」
皆が一様に驚きのリアクションを見せたので、
L博士はとても満足そうでした。
「そうだよ。『葉』というのは合ってる。
でも、何の葉か、というところまで当てないと100点ではないなあ」
「んなの、解るわけねーだろっ!」
「S君と、女性陣はどうかな?」
Sは首を振り、Bは肩をすくめて手の平を空に向けました。
Aはグラスを見つめながら、
「私も解りません。でも本当に葉っぱの味がして、不思議なかんじです。
あの、Sさん、もう一口だけ飲んでも良いですか?」
どうぞ、とSは答えました。
「ごめんなさい。飲んでみても何の葉か解りません」
C博士は頭を抱えていました。
「これは難し過ぎるぞ、L!」
「Sさん」
SはAに小声で呼ばれました。
「すみません、ごちそうさまでした」
いえ、と言ってSはグラスを受け取りました。
「L! 早く正解を教えてくれよ!」
「解ったよ。正解は、もみの木のリキュールでした」
「えー! あのクリマスツリーのリキュールなのかー!?」
「うん。リキュール・ド・サパン。原産国はフランスだよ。
サパンがフランス語でもみの木、という意味なんだ。
もみの木の新芽から作られているから、
苦味もなく、後味も爽やかだっただろう?」
「ちょっと、もう一回飲ませてくれよ!」
「フフッ。どうぞ?」
C博士は、再度サパンを飲み、「確かに爽やかだ」とか、
「これがもみの木の味かー」と感慨深げに呟いていました。
Sは自分のグラスに視線が向けられているのに気付きました。
C博士の様子とSのグラスを、ちらちらと交互に見ていたのは、
Aでした。Sはすぐに察します。おそらくAも、
『新芽の爽やかな後味』を確かめてみたいのだろうなと。
Sはテーブルの上で、サパンのグラスを横に滑らせました。
「君にあげるよ」
目の前にサパンを置かれたAは、驚いた顔でSを見ました。
「えっ? でも」
「飲みたいんだろう?」
「……はい。でもどうして? 私、まだ何も」
「解るよ、そのくらい」
「あの、でも、これはSさんの」
「いいよ。他のものを頼むから」
Sは近くに居たボーイを呼んで、ウイスキーを頼みました。
→
■ホワイト・レディ2 の続編
声をかけてきた女性は、S達と同じ組織に勤めている研究員で、
そうですね、ここからは登場順に名付けて行きましょうか。
では彼女は仮にAということで。
Aはとても女性的な人でした。
ふわりとした長いブロンドの髪をしていて、
背も低いほうでしたし、身に付けているものもフェミニンでした。
その夜の装いは確か、真っ白なカーディガンで、
淵には淡いピンクのラインが縦に入っていたと思います。
胸元にはピンク色の石が付いたネックレス、
それと似たデザインの指輪を薬指に嵌めていました。
Aは今、入店したばかりで、空席を探しているところだったようです。
クリーム色のスカートをひらりと跳ねさせながら、
SとL博士のテーブルに近付いてきました。
「お久し振りです、L博士」
AはL博士に会えて嬉しそうな顔をしていました。
Aは以前、L博士のチームに居た研究員だったようで。
L博士も元部下との再会を喜んでいました。
「やあ。A君じゃないか。元気だったかい?」
「はい。L博士はSさんといらしてたんですね。
私はB先輩とC博士と一緒に来たところなんですよ、ね?」
「どーも」
疲れていて、更に機嫌が悪いといったように挨拶したのが、
Bという名前にしておきましょう。
BはAと同じチームに居る研究員で、Aの先輩にあたります。
Bは女性にしては背が高く、髪も短いせいか、ボーイッシュでした。
アクセサリーの類も一切身に付けず、
その夜は白いワイシャツに黒のパンツでしたか。
その日に限らず、パンツルックでいる彼女しか、
見たことがないような気がします。
見た目は正反対のAとBでしたが、仲は良いようで、
職場でも二人が一緒に居る場面は、Sも度々見かけていたようです。
傍目から見ると、身長差もあるでしょうが、姉妹のようでした。
Bがしっかり者の姉、Aは大好きな姉を追いかける妹、といったような。
AとBの直属の上司にあたるのがC博士。C博士がチームリーダーで、
AとBとCの三人は同じ研究チームに所属していました。
C博士は、L博士と同い年くらいの男性で、
二人がまだ若い頃は、同じチームに居たこともあったようです。
C博士は、アウトドアな趣味を持っているのか、
いつ見ても日焼けをしていて、研究所内では目立つ人物でした。
「おっ。奇遇だなあ! Lも飲みに来ていたなんて!」
C博士もL博士に会えて嬉しそうでした。
「同じ建物で働いてんのに、チームが離れてからは、
なかなか顔が見れなくなっちまったからさー」
「そうだね。広い施設だし」
何か思いついたらしいAは、音を立てずに両手を合わせました。
「良かったら、私達もL博士達とご一緒しても良いですか?
丁度、隣のテーブルも空いているようですし」
「おお、そうだな! そうしよう!」
L博士とSが了承する前に、C博士は隣のテーブルを寄せ始めたので、
SとL博士は自動的に、A、B、Cの三人と一緒に飲むことになったんです。
その時の席順は、絵で書くとこうですね。
■B
C■A
L■S
元々L博士とSが向かい合って座っていた二人用のテーブルに、
隣にあった四人用のテーブルを寄せ、
L博士の隣にC博士、Sの隣にA、その隣にBが座っていました。
C博士は、こんがりと焼けた右腕を挙げ、大きな声でボーイを呼びました。
その時、真っ黒な腕に反して、挙げた手の平だけが白くて。
Sは未だに、そのコントラストをはっきり覚えているとか。
やってきたボーイに最初に注文したのはC博士でした。
「俺はビール!」
「じゃあ、私も」と続いたのがBです。
Aはメニュー表を見ながら、何にするか悩んでいるようでした。
ボーイもそれに気付いたらしく、
SとL博士に「おかわりはいかがですか?」と聞きました。
すると、L博士はSにこう言ったんです。
「S君は、サパンを飲んだことはあるかい?」
「いいえ。初めて聞きました」
「サパンはね、珍しいものでできたリキュールなんだ。
あとで、何のリキュールか当てるゲームができるから、
良ければ君もサパンを頼んでくれるかい?」
「あ、はい」
「ありがとう。ではサパンを二つお願いします」
「畏まりました」
これで注文が終わっていないのは、Aだけになりました。
優柔不断な性格らしく、まだメニュー表とにらめっこをしています。
皆の視線がAに集まっていることに気付いたBは、Aの頭を軽く叩きながら、
「あとはお前だけだぞ」
急かされたAは「ごめんなさい」と言って、
メニュー表から目を離し、ボーイを見上げました。
「えっと、ホワイト・レディはありますか?」
「ええ。ございます」
「じゃあ、ホワイト・レディで」
→
そうですね、ここからは登場順に名付けて行きましょうか。
では彼女は仮にAということで。
Aはとても女性的な人でした。
ふわりとした長いブロンドの髪をしていて、
背も低いほうでしたし、身に付けているものもフェミニンでした。
その夜の装いは確か、真っ白なカーディガンで、
淵には淡いピンクのラインが縦に入っていたと思います。
胸元にはピンク色の石が付いたネックレス、
それと似たデザインの指輪を薬指に嵌めていました。
Aは今、入店したばかりで、空席を探しているところだったようです。
クリーム色のスカートをひらりと跳ねさせながら、
SとL博士のテーブルに近付いてきました。
「お久し振りです、L博士」
AはL博士に会えて嬉しそうな顔をしていました。
Aは以前、L博士のチームに居た研究員だったようで。
L博士も元部下との再会を喜んでいました。
「やあ。A君じゃないか。元気だったかい?」
「はい。L博士はSさんといらしてたんですね。
私はB先輩とC博士と一緒に来たところなんですよ、ね?」
「どーも」
疲れていて、更に機嫌が悪いといったように挨拶したのが、
Bという名前にしておきましょう。
BはAと同じチームに居る研究員で、Aの先輩にあたります。
Bは女性にしては背が高く、髪も短いせいか、ボーイッシュでした。
アクセサリーの類も一切身に付けず、
その夜は白いワイシャツに黒のパンツでしたか。
その日に限らず、パンツルックでいる彼女しか、
見たことがないような気がします。
見た目は正反対のAとBでしたが、仲は良いようで、
職場でも二人が一緒に居る場面は、Sも度々見かけていたようです。
傍目から見ると、身長差もあるでしょうが、姉妹のようでした。
Bがしっかり者の姉、Aは大好きな姉を追いかける妹、といったような。
AとBの直属の上司にあたるのがC博士。C博士がチームリーダーで、
AとBとCの三人は同じ研究チームに所属していました。
C博士は、L博士と同い年くらいの男性で、
二人がまだ若い頃は、同じチームに居たこともあったようです。
C博士は、アウトドアな趣味を持っているのか、
いつ見ても日焼けをしていて、研究所内では目立つ人物でした。
「おっ。奇遇だなあ! Lも飲みに来ていたなんて!」
C博士もL博士に会えて嬉しそうでした。
「同じ建物で働いてんのに、チームが離れてからは、
なかなか顔が見れなくなっちまったからさー」
「そうだね。広い施設だし」
何か思いついたらしいAは、音を立てずに両手を合わせました。
「良かったら、私達もL博士達とご一緒しても良いですか?
丁度、隣のテーブルも空いているようですし」
「おお、そうだな! そうしよう!」
L博士とSが了承する前に、C博士は隣のテーブルを寄せ始めたので、
SとL博士は自動的に、A、B、Cの三人と一緒に飲むことになったんです。
その時の席順は、絵で書くとこうですね。
■B
C■A
L■S
元々L博士とSが向かい合って座っていた二人用のテーブルに、
隣にあった四人用のテーブルを寄せ、
L博士の隣にC博士、Sの隣にA、その隣にBが座っていました。
C博士は、こんがりと焼けた右腕を挙げ、大きな声でボーイを呼びました。
その時、真っ黒な腕に反して、挙げた手の平だけが白くて。
Sは未だに、そのコントラストをはっきり覚えているとか。
やってきたボーイに最初に注文したのはC博士でした。
「俺はビール!」
「じゃあ、私も」と続いたのがBです。
Aはメニュー表を見ながら、何にするか悩んでいるようでした。
ボーイもそれに気付いたらしく、
SとL博士に「おかわりはいかがですか?」と聞きました。
すると、L博士はSにこう言ったんです。
「S君は、サパンを飲んだことはあるかい?」
「いいえ。初めて聞きました」
「サパンはね、珍しいものでできたリキュールなんだ。
あとで、何のリキュールか当てるゲームができるから、
良ければ君もサパンを頼んでくれるかい?」
「あ、はい」
「ありがとう。ではサパンを二つお願いします」
「畏まりました」
これで注文が終わっていないのは、Aだけになりました。
優柔不断な性格らしく、まだメニュー表とにらめっこをしています。
皆の視線がAに集まっていることに気付いたBは、Aの頭を軽く叩きながら、
「あとはお前だけだぞ」
急かされたAは「ごめんなさい」と言って、
メニュー表から目を離し、ボーイを見上げました。
「えっと、ホワイト・レディはありますか?」
「ええ。ございます」
「じゃあ、ホワイト・レディで」
→
■ホワイト・レディ1 の続編
Sの専攻は――私と同じで――心理学です。
大学院を出たあとは、ある組織の研究職に就き、
自白や洗脳について研究している男でした。
ある夜、上司の――では、L博士と呼ぶことにしましょうか。
上司のL博士に誘われて、バーへ行きました。
店内は照明はかなり暗めで、席が近くなければ、
同じ店の中に知り合いが居ても解らない程でした。
アルコールや軽食の種類も豊富でしたし、
職場から程近く、明け方まで開いているのも便利だったんでしょうね。
仕事帰りに夕食を取ったり、職場では話せないようなことを、
仲間内で話し合う場所としても使われていて、
あの組織の人間なら、一度は誰かに誘われていくような店でした。
その夜、L博士は最初、他愛のない話ばかりをしていて、
Sは少々退屈な思いをしていました。
L博士は、何かSに話があって、この店に誘った筈なのに、
いつまでたっても本題が出てこなかったので。
Sは相手の表情や言動からも、相手の考えを多少読み取ることができました。
――いえ。心理学を学ぶ前からです。
Sは幼い頃から、そういった能力を少し持っていたんですよ。
それが年を重ねるごとに、少しずつ成長していったんです。
つまらない話を繰り返す上司に業を煮やしたSは、
「それで、今日は何故、私を誘ったんですか?」と言いました。
すると、L博士は少し驚いた顔をしてSを見たあと、
「S君に隠し事はできないんだったね」と笑っていました。
「言いたいことがあるなら早く言って下さい。
今夜は早く帰って、論文に使う参考文献を読む予定だったんです」
すると、L博士は表情を曇らせました。
その時点でSには、何が本題なのか解りました。
「実は、その論文のことなんだがね?」
「何です?」
「進捗状況はどうだい?」
「順調ですよ。当初より大幅にボリュームが増えることになりましたから、
まだ時間はかかると思いますが。なるべく早く発表したいと思っています」
「完成はいつ頃になりそうなのかな?」
「残念ですが、今年の学会には間に合いませんね。でも来年には」
「そう。来年、か」
「来年では、何か不都合なことでも?」
「S君には敵わないね。今夜は正直に言うよ。
私はね。君が論文を発表するとしても、
タイミングを見計らってからのほうが良いと思っているんだ」
「タイミング?」
「君が今、したためているものは、現在の心理学に、
言わば、革命を起こすようなニューパラダイムだ」
「ええ。そうなるでしょうね。だからこそ早く」
「いや。だからこそ、早まってはいけないんだ」
「何故です」
「君はガリレオになりたいのかい?」
ガリレオ・ガリレイは、天動説が信じられていた時代に、
それとは逆の地動説を唱え、死ぬまで異端の者となった天文学者でした。
宗教裁判で有罪となり、二度と地動説を唱えないと誓約した際、
周囲には解らないようギリシャ語で、
「それでも地球は回っている」と呟いたとの逸話がある人物です。
ローマ教皇が裁判の誤りを認め、ガリレオに謝罪したのは1992年。
ガリレオの死去から350年も経ってからでした。
L博士はSを諭すように言いました。
「私もS君の才能と技術は素晴らしいと思っている。
だからこそ君に、発表のタイミングを見誤って欲しくはないんだ」
しかし、当時のSは、できるなら一刻も早く、
自分の論文を世に出したいと考えていたので、L博士の忠告は不満でした。
年配者の親切な忠告は素直に聞き入れたほうが身の為だ、
と彼が知るのは、それよりもう少し先のことですから。
「では、いつなら良いと言うんです?」
「それは」
「私の死から350年後ですか? それなら私は待てませんよ」
「あっ。L博士じゃないですか」
女性の声がして、二人の会話は中断しました。
→
大学院を出たあとは、ある組織の研究職に就き、
自白や洗脳について研究している男でした。
ある夜、上司の――では、L博士と呼ぶことにしましょうか。
上司のL博士に誘われて、バーへ行きました。
店内は照明はかなり暗めで、席が近くなければ、
同じ店の中に知り合いが居ても解らない程でした。
アルコールや軽食の種類も豊富でしたし、
職場から程近く、明け方まで開いているのも便利だったんでしょうね。
仕事帰りに夕食を取ったり、職場では話せないようなことを、
仲間内で話し合う場所としても使われていて、
あの組織の人間なら、一度は誰かに誘われていくような店でした。
その夜、L博士は最初、他愛のない話ばかりをしていて、
Sは少々退屈な思いをしていました。
L博士は、何かSに話があって、この店に誘った筈なのに、
いつまでたっても本題が出てこなかったので。
Sは相手の表情や言動からも、相手の考えを多少読み取ることができました。
――いえ。心理学を学ぶ前からです。
Sは幼い頃から、そういった能力を少し持っていたんですよ。
それが年を重ねるごとに、少しずつ成長していったんです。
つまらない話を繰り返す上司に業を煮やしたSは、
「それで、今日は何故、私を誘ったんですか?」と言いました。
すると、L博士は少し驚いた顔をしてSを見たあと、
「S君に隠し事はできないんだったね」と笑っていました。
「言いたいことがあるなら早く言って下さい。
今夜は早く帰って、論文に使う参考文献を読む予定だったんです」
すると、L博士は表情を曇らせました。
その時点でSには、何が本題なのか解りました。
「実は、その論文のことなんだがね?」
「何です?」
「進捗状況はどうだい?」
「順調ですよ。当初より大幅にボリュームが増えることになりましたから、
まだ時間はかかると思いますが。なるべく早く発表したいと思っています」
「完成はいつ頃になりそうなのかな?」
「残念ですが、今年の学会には間に合いませんね。でも来年には」
「そう。来年、か」
「来年では、何か不都合なことでも?」
「S君には敵わないね。今夜は正直に言うよ。
私はね。君が論文を発表するとしても、
タイミングを見計らってからのほうが良いと思っているんだ」
「タイミング?」
「君が今、したためているものは、現在の心理学に、
言わば、革命を起こすようなニューパラダイムだ」
「ええ。そうなるでしょうね。だからこそ早く」
「いや。だからこそ、早まってはいけないんだ」
「何故です」
「君はガリレオになりたいのかい?」
ガリレオ・ガリレイは、天動説が信じられていた時代に、
それとは逆の地動説を唱え、死ぬまで異端の者となった天文学者でした。
宗教裁判で有罪となり、二度と地動説を唱えないと誓約した際、
周囲には解らないようギリシャ語で、
「それでも地球は回っている」と呟いたとの逸話がある人物です。
ローマ教皇が裁判の誤りを認め、ガリレオに謝罪したのは1992年。
ガリレオの死去から350年も経ってからでした。
L博士はSを諭すように言いました。
「私もS君の才能と技術は素晴らしいと思っている。
だからこそ君に、発表のタイミングを見誤って欲しくはないんだ」
しかし、当時のSは、できるなら一刻も早く、
自分の論文を世に出したいと考えていたので、L博士の忠告は不満でした。
年配者の親切な忠告は素直に聞き入れたほうが身の為だ、
と彼が知るのは、それよりもう少し先のことですから。
「では、いつなら良いと言うんです?」
「それは」
「私の死から350年後ですか? それなら私は待てませんよ」
「あっ。L博士じゃないですか」
女性の声がして、二人の会話は中断しました。
→
■迷い の続編
ジン、ホワイト・キュラソー、レモンジュース。
その3つから成る白いショートカクテル。
さっぱりとした甘さと芯の強いジンが良くマッチしている。
後味は柑橘系の香りがして、どこか切ない気がするのは、誰のせいか。
「どうしたんです、先生?」
マスターはグラスを磨きながら、カクテルグラスとソクーロフを交互に見る。
「そんなにまじまじと『ホワイト・レディ』を見て」
そんな目をしていただろうか。
ソクーロフは一口飲み終わったあとに、こう答えた。
「どうして、このカクテルに、その名が付いたのかと思っていたのですが、
マスターならご存知ですか?」
マスターの視線が右上を向く。
「確か……生まれは1919年でしたか。親はロンドンの名バーテンダーです。
しかし当時は、ジンベースではなく、ペパーミントリキュールがベースでした。
ジンベースに変わったのは1925年とも言われていますが、諸説ありましてね。
このカクテルには謎が多く、名の由来も不明のようです」
「謎のカクテル、ですか?」
「ええ。でも、私はそれで良いと思うんです、この子は」
マスターの目は白いカクテルを我が子のように見つめていた。
「それに、謎の『白い貴婦人』なんてミステリアスで魅力的じゃないですか」
成程、そうですね、とソクーロフは相槌を打った。
キュ、キュッとグラス磨きの音がする。
「あと、私が知っていることと言えば、『ホワイト・レディ』のジンを、
ブランデーに変えると『サイドカー』に、ウォッカなら『バラライカ』、
ラムだと『X-Y-Z』というカクテルになることくらいです。
名の由来が知りたいというご期待に添えず、申し訳ありません」
「ああ、いえ。少し気になっただけですから」
「でも、珍しいですね。先生がそういったご質問をされるなんて。
もしや『ホワイト・レディ』には、何か思い出があるのですか?
それとも、ご友人から何か『ホワイト・レディ』に、
まつわるお話を聞いたことがあるとか?」
「……まあ、そうですね」
「もし宜しければ、お伺いしても宜しいですか?」
「話すとしても、かなり曖昧な物言いしかできませんよ?
登場人物の名前は全て、仮の名前になるでしょうし、
彼等の業務内容についてもある組織の機密に関わる為、
具体的な名称は全て伏せた表現になりますが、それでも構いませんか?」
「ええ。もちろん」
「ではお話ししましょう。私の友人——仮にSとしておきましょうか?」
マスターは優しく微笑んで頷いた。
「Sですか。良いですね、先生のご友人ですから」
ソクーロフは少し苦笑しつつ、
「これは、友人Sから聞いた話なのですが——」
ぽつりとぽつりと語り始めた。
→
その3つから成る白いショートカクテル。
さっぱりとした甘さと芯の強いジンが良くマッチしている。
後味は柑橘系の香りがして、どこか切ない気がするのは、誰のせいか。
「どうしたんです、先生?」
マスターはグラスを磨きながら、カクテルグラスとソクーロフを交互に見る。
「そんなにまじまじと『ホワイト・レディ』を見て」
そんな目をしていただろうか。
ソクーロフは一口飲み終わったあとに、こう答えた。
「どうして、このカクテルに、その名が付いたのかと思っていたのですが、
マスターならご存知ですか?」
マスターの視線が右上を向く。
「確か……生まれは1919年でしたか。親はロンドンの名バーテンダーです。
しかし当時は、ジンベースではなく、ペパーミントリキュールがベースでした。
ジンベースに変わったのは1925年とも言われていますが、諸説ありましてね。
このカクテルには謎が多く、名の由来も不明のようです」
「謎のカクテル、ですか?」
「ええ。でも、私はそれで良いと思うんです、この子は」
マスターの目は白いカクテルを我が子のように見つめていた。
「それに、謎の『白い貴婦人』なんてミステリアスで魅力的じゃないですか」
成程、そうですね、とソクーロフは相槌を打った。
キュ、キュッとグラス磨きの音がする。
「あと、私が知っていることと言えば、『ホワイト・レディ』のジンを、
ブランデーに変えると『サイドカー』に、ウォッカなら『バラライカ』、
ラムだと『X-Y-Z』というカクテルになることくらいです。
名の由来が知りたいというご期待に添えず、申し訳ありません」
「ああ、いえ。少し気になっただけですから」
「でも、珍しいですね。先生がそういったご質問をされるなんて。
もしや『ホワイト・レディ』には、何か思い出があるのですか?
それとも、ご友人から何か『ホワイト・レディ』に、
まつわるお話を聞いたことがあるとか?」
「……まあ、そうですね」
「もし宜しければ、お伺いしても宜しいですか?」
「話すとしても、かなり曖昧な物言いしかできませんよ?
登場人物の名前は全て、仮の名前になるでしょうし、
彼等の業務内容についてもある組織の機密に関わる為、
具体的な名称は全て伏せた表現になりますが、それでも構いませんか?」
「ええ。もちろん」
「ではお話ししましょう。私の友人——仮にSとしておきましょうか?」
マスターは優しく微笑んで頷いた。
「Sですか。良いですね、先生のご友人ですから」
ソクーロフは少し苦笑しつつ、
「これは、友人Sから聞いた話なのですが——」
ぽつりとぽつりと語り始めた。
→
■ソクーロフ
夜遅く、ソクーロフは一人でバーの扉を開けた。
店内にはゆったりとした、女性ヴォーカルのジャズが流れている。
ここは聖アルフォンソ島の旧市街にある、ソクーロフが行きつけのバー。
客入りはまばらで、テーブル席に数組居る程度。
カウンターには誰も座っていなかった。
カウンターの内側には、顔馴染みのマスターが一人。
ソクーロフの顔を見たマスターは、
いつものように、優しい笑みで迎えてくれた。
「おや、ソクーロフ先生。いらっしゃい」
「こんばんは、マスター」
カウンターの右端に座ると、マスターもこちらに来てくれた。
ここのマスターは赤いチェックのベストにホワイトシャツ。
ロマンスグレイの髪と丸眼鏡は、マスターに良く似合っていた。
「少しお久し振りですね。今夜は何をお飲みになりますか」
「マッカランの12年をロックで」
「畏まりました」
マスターの背景には、世界各国のアルコールがずらりと並んでいる。
木製のカウンターテーブルはいつ来ても美しい艶があり、
鏡のようにソクーロフの顔を映す。常によく磨かれている証だ。
一杯目のグラスはすぐに提供された。
琥珀色のスコッチウイスキー。いつ見てもこの琥珀色は美しい。
添えられた白い小皿には、小さな四角いビターチョコレートが二枚。
グラスを持つと、モルトの香り。
口付けると、スモーキーかつ官能的な甘みが脳を刺激する。
喉を流れていったあとは、カカオのような香りが口内に残る。
求めていたものが喉に沁みていく快感に暫し酔った。
見えないものに導かれるように四角いビターチョコレートを齧り、
またウイスキーを口に含む。口の中でウイスキーとチョコレートが交わり合う。
その魔法のような一瞬をソクーロフは好んでいた。
「先生。宜しければ、こちらをお試し頂けますか」
マスターが出してくれたものは、
селёдка(セリョートカ)と言う、ニシンの塩漬けだった。
薄く切った魚とオニオンのマリネで、ピクルスとオリーブも添えられていた。
ロシアではポピュラーな料理だが、
この店でこれを出されたのは今夜が初めてだった。
メニュー表にも載っていなかったと思ったが。
「セリョートカですね。新しいメニューですか?」
「いえ。まだ試作品です。実は今度、先生がおいでになった時に、
つまんで頂けたらと思って、最近、味付けを色々と試していたんです。
試作品で恐縮ですが、味をみて頂けますか?」
このマスターは時々こういうことを言う。
以前、あの男と来た時も、メニューにない品の味見を頼まれた。
その時は、あの男が「旨い旨い」と騒いだので、
その後、正式にメニューに載ったりした。
ソクーロフは礼を言って、セリョートカを口に運んだ。
あの寒い国に特別な思い入れは持ち合わせていない筈なのに。
飾らない素朴な味が妙に懐かしい。
美味しいです、と伝えると、マスターは本当に嬉しそうに微笑んだ。
礼を兼ねて、二杯目はこの魚料理に合わせて、ロシアのウオッカを頼んだ。
英名はオールド・ウオッカ。ロシア語では『スタルカ』と言う。
ウオッカの水色は無色透明が多い中、これは琥珀色をしている。
リンゴ、梨の葉、ブランデー、ポートワインをブレンドした、
少し珍しいタイプのウオッカだ。辛口ながら芳醇なコクがある。
セリョートカをつまみながらスタルカを飲む。
辛口のアルコールは、酸味の強い料理と良く合った。
テーブル席に居た客が一組、席を立つ。マスターは客をドアまで見送りに行った。
笑顔の客達とマスターの無言劇を眺めながら、ソクーロフは足を組み替える。
内ポケットに手を入れ、煙草を取り出した。
この店に来る前まで、ソクーロフは一人で保健室に居た。
保健室の営業時間はとうに終わっているにも関わらず。
ある、ひとつのことについて考えていた。
気が付くと、窓の外は真っ暗で、夕食の時間も終わっていた。
シェフに頼めば何か作ってくれるだろうが、交渉する気は起きず、
そのまま一人で旧市街まで来て、ここのドアを開けた。
ゆるゆると昇る灰色の煙を見上げながら、
入店時より少し満たされた気持ちになっていることに気付いた。
この店に来たことで、気晴らしができたのだろう。
独りでグラスを傾ける時間は嫌いではない。
むしろ、自分には時折このような時間が必要だ。特に今は――
ソクーロフはグラスに口付ける。
カランと氷が傾く。そのまま、ウォッカを飲み干した。
空になったグラス。今夜はもう少し飲みたい、と感じた。
「グラスが空きましたか、先生」
見送りをしていたマスターが、いつの間にか戻ってきていた。
「お次は何に致しましょう?」
良いタイミングで聞いてくれる。
次は、少し甘味のあるカクテルが飲みたいと思った。
「そうですね。では、『ホワイト・レディ』を」
「はい。畏まりました」
マスターは背後に並んでいるボトルの中から、迷いなく三つ取り、
流れるような手つきで、シェイカーに酒を入れた。
店内にシェイカーの音が響く。
最初はゆっくり、徐々に早く、そしてまたゆっくりと終わった。
ソクーロフの前にカクテルグラスが置かれる。
シェイカーから白いカクテルが注がれた。
「お待たせ致しました。『ホワイト・レディ』でございます」
ホワイトキュラソーにレモンを加えた、ジンベースのショートカクテル。
甘酸っぱいレモンとハードなジンのバランスが絶妙だ。
マスターの作るカクテルは、どれも完璧だった。
「そう言えば、寂しがってましたよ、アイヴィーが」
いつのまにか店内の音楽はジャズから、
ピアノのクラシックに変わっていた。
ソクーロフは目からゆっくりと顔を上げる。
丸眼鏡のマスターは目尻に皺を寄せていた。
「『最近、ソクちゃんとタイミングが合わない』って」
ここのところ、飲みの誘いを二度程、断っている。
そう言えば、二度目の時、この店で現地集合という約束だったが、
ソクーロフはその直前にキャンセルした。
アイヴィーは、このカウンターで、キャンセルの連絡を受けたのかもしれない。
マスターはロックグラスを磨きながら、思い出し笑いをする。
「アイヴィーがね、『もしかして、俺、わざと放置されてんのかなー』なんて、
あんまりしょんぼり言うもんだから、私、思わず笑っちゃいましたよ」
マスターは可愛い孫の話をするように話していた。
実際、マスターにとっては、殆どの客が孫のようなものなのだろう。
「先生は、その日、お仕事がお忙しかっただけなんでしょう?」
「ええ。体調を崩していた生徒が居たので、断ったんですよ」
それは嘘ではなかった。一度目も二度目の時も、
シュヌーシア寮に風邪気味の生徒が居たので、
万一、症状が悪化した場合にすぐに駆け付けられるよう、
夜間も学院を空けたくなかった。
「あの男より、生徒のほうが大切ですからね」
「おや。またそんな意地悪を言って」
事実を述べただけですよ、とソクーロフは心の中で言う。
「それで、その後、元気になりましたか、マージナルプリンスは?」
「はい。翌日にはすっかり良くなっていました」
「それは良かった。マージナルプリンスが、
いつも元気でいられるのは先生のおかげですね」
ソクーロフは静かに微笑を返した。
再び『ホワイト・レディ』に口付ける。
仄かに甘いカクテル。
ふと、あるレディの顔が脳裏に浮かんだ。
fin
店内にはゆったりとした、女性ヴォーカルのジャズが流れている。
ここは聖アルフォンソ島の旧市街にある、ソクーロフが行きつけのバー。
客入りはまばらで、テーブル席に数組居る程度。
カウンターには誰も座っていなかった。
カウンターの内側には、顔馴染みのマスターが一人。
ソクーロフの顔を見たマスターは、
いつものように、優しい笑みで迎えてくれた。
「おや、ソクーロフ先生。いらっしゃい」
「こんばんは、マスター」
カウンターの右端に座ると、マスターもこちらに来てくれた。
ここのマスターは赤いチェックのベストにホワイトシャツ。
ロマンスグレイの髪と丸眼鏡は、マスターに良く似合っていた。
「少しお久し振りですね。今夜は何をお飲みになりますか」
「マッカランの12年をロックで」
「畏まりました」
マスターの背景には、世界各国のアルコールがずらりと並んでいる。
木製のカウンターテーブルはいつ来ても美しい艶があり、
鏡のようにソクーロフの顔を映す。常によく磨かれている証だ。
一杯目のグラスはすぐに提供された。
琥珀色のスコッチウイスキー。いつ見てもこの琥珀色は美しい。
添えられた白い小皿には、小さな四角いビターチョコレートが二枚。
グラスを持つと、モルトの香り。
口付けると、スモーキーかつ官能的な甘みが脳を刺激する。
喉を流れていったあとは、カカオのような香りが口内に残る。
求めていたものが喉に沁みていく快感に暫し酔った。
見えないものに導かれるように四角いビターチョコレートを齧り、
またウイスキーを口に含む。口の中でウイスキーとチョコレートが交わり合う。
その魔法のような一瞬をソクーロフは好んでいた。
「先生。宜しければ、こちらをお試し頂けますか」
マスターが出してくれたものは、
селёдка(セリョートカ)と言う、ニシンの塩漬けだった。
薄く切った魚とオニオンのマリネで、ピクルスとオリーブも添えられていた。
ロシアではポピュラーな料理だが、
この店でこれを出されたのは今夜が初めてだった。
メニュー表にも載っていなかったと思ったが。
「セリョートカですね。新しいメニューですか?」
「いえ。まだ試作品です。実は今度、先生がおいでになった時に、
つまんで頂けたらと思って、最近、味付けを色々と試していたんです。
試作品で恐縮ですが、味をみて頂けますか?」
このマスターは時々こういうことを言う。
以前、あの男と来た時も、メニューにない品の味見を頼まれた。
その時は、あの男が「旨い旨い」と騒いだので、
その後、正式にメニューに載ったりした。
ソクーロフは礼を言って、セリョートカを口に運んだ。
あの寒い国に特別な思い入れは持ち合わせていない筈なのに。
飾らない素朴な味が妙に懐かしい。
美味しいです、と伝えると、マスターは本当に嬉しそうに微笑んだ。
礼を兼ねて、二杯目はこの魚料理に合わせて、ロシアのウオッカを頼んだ。
英名はオールド・ウオッカ。ロシア語では『スタルカ』と言う。
ウオッカの水色は無色透明が多い中、これは琥珀色をしている。
リンゴ、梨の葉、ブランデー、ポートワインをブレンドした、
少し珍しいタイプのウオッカだ。辛口ながら芳醇なコクがある。
セリョートカをつまみながらスタルカを飲む。
辛口のアルコールは、酸味の強い料理と良く合った。
テーブル席に居た客が一組、席を立つ。マスターは客をドアまで見送りに行った。
笑顔の客達とマスターの無言劇を眺めながら、ソクーロフは足を組み替える。
内ポケットに手を入れ、煙草を取り出した。
この店に来る前まで、ソクーロフは一人で保健室に居た。
保健室の営業時間はとうに終わっているにも関わらず。
ある、ひとつのことについて考えていた。
気が付くと、窓の外は真っ暗で、夕食の時間も終わっていた。
シェフに頼めば何か作ってくれるだろうが、交渉する気は起きず、
そのまま一人で旧市街まで来て、ここのドアを開けた。
ゆるゆると昇る灰色の煙を見上げながら、
入店時より少し満たされた気持ちになっていることに気付いた。
この店に来たことで、気晴らしができたのだろう。
独りでグラスを傾ける時間は嫌いではない。
むしろ、自分には時折このような時間が必要だ。特に今は――
ソクーロフはグラスに口付ける。
カランと氷が傾く。そのまま、ウォッカを飲み干した。
空になったグラス。今夜はもう少し飲みたい、と感じた。
「グラスが空きましたか、先生」
見送りをしていたマスターが、いつの間にか戻ってきていた。
「お次は何に致しましょう?」
良いタイミングで聞いてくれる。
次は、少し甘味のあるカクテルが飲みたいと思った。
「そうですね。では、『ホワイト・レディ』を」
「はい。畏まりました」
マスターは背後に並んでいるボトルの中から、迷いなく三つ取り、
流れるような手つきで、シェイカーに酒を入れた。
店内にシェイカーの音が響く。
最初はゆっくり、徐々に早く、そしてまたゆっくりと終わった。
ソクーロフの前にカクテルグラスが置かれる。
シェイカーから白いカクテルが注がれた。
「お待たせ致しました。『ホワイト・レディ』でございます」
ホワイトキュラソーにレモンを加えた、ジンベースのショートカクテル。
甘酸っぱいレモンとハードなジンのバランスが絶妙だ。
マスターの作るカクテルは、どれも完璧だった。
「そう言えば、寂しがってましたよ、アイヴィーが」
いつのまにか店内の音楽はジャズから、
ピアノのクラシックに変わっていた。
ソクーロフは目からゆっくりと顔を上げる。
丸眼鏡のマスターは目尻に皺を寄せていた。
「『最近、ソクちゃんとタイミングが合わない』って」
ここのところ、飲みの誘いを二度程、断っている。
そう言えば、二度目の時、この店で現地集合という約束だったが、
ソクーロフはその直前にキャンセルした。
アイヴィーは、このカウンターで、キャンセルの連絡を受けたのかもしれない。
マスターはロックグラスを磨きながら、思い出し笑いをする。
「アイヴィーがね、『もしかして、俺、わざと放置されてんのかなー』なんて、
あんまりしょんぼり言うもんだから、私、思わず笑っちゃいましたよ」
マスターは可愛い孫の話をするように話していた。
実際、マスターにとっては、殆どの客が孫のようなものなのだろう。
「先生は、その日、お仕事がお忙しかっただけなんでしょう?」
「ええ。体調を崩していた生徒が居たので、断ったんですよ」
それは嘘ではなかった。一度目も二度目の時も、
シュヌーシア寮に風邪気味の生徒が居たので、
万一、症状が悪化した場合にすぐに駆け付けられるよう、
夜間も学院を空けたくなかった。
「あの男より、生徒のほうが大切ですからね」
「おや。またそんな意地悪を言って」
事実を述べただけですよ、とソクーロフは心の中で言う。
「それで、その後、元気になりましたか、マージナルプリンスは?」
「はい。翌日にはすっかり良くなっていました」
「それは良かった。マージナルプリンスが、
いつも元気でいられるのは先生のおかげですね」
ソクーロフは静かに微笑を返した。
再び『ホワイト・レディ』に口付ける。
仄かに甘いカクテル。
ふと、あるレディの顔が脳裏に浮かんだ。
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