■オーギュスト×アンリ
■原案提供:蔦様
■原案提供:蔦様
晴れた初夏の午後。
聖アルフォンソ学院 研究室棟。その片隅に神秘学の研究室があった。
今日はプライベート・レッスンではなく、
ささやかなプライベート・パーティが開かれていた。
参加者は二人だけ。紅茶を片手に教え子を見ているのが、
神秘学の特別講師、オーギュスト・ボ-ジェ教授。
その隣にはパーティの主役となる生徒、
アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマン。
テーブルには講師が用意したケーキが一人分。
紅茶のティラミス。上部のココアパウダーには、
フランボワーズが3つ、宝石のように添えられている。
通常はエスプレッソを使うイタリアンスウィーツだが、
それをアールグレイに変えたらしい。アンリがフォークを入れる。
柔らかい茶と白の層がくっついてきた。
口に運ぶと、クリーミーなマスカルポーネチーズが広がり、
紅茶に着香されたシトラスの芳香がふわっと残る。
「オーギュ」
「ん?」
「これ、何処で手に入れたの?」
「ウー・シェフに頼んだんだ。紅茶でティラミスを作って貰えないだろうかとね」
アルファルド寮のシェフのことを指しているのだろう。確か名前はアラン・ウー。
エスニックとイタリアンが得意らしいと聞いたことがある。
紅茶を飲んでいたオーギュストがカップを置く。
席を立ち、机の引き出しから何か取り出して、再び席に着いた。
「17歳おめでとう、アンリ」
オーギュストが差し出した小箱に、教え子は軽く肩を竦めた。
「毎年飽きないね、君も」
小箱に掛けられたブルーのリボンを引き、綺麗なラッピングを解く。
ガラスケースに入っていたのは懐中時計。アンリの瞳にも似た金色だ。
閉じられた蓋には幾何学的な彫刻が丁寧に彫られていた。
手に持つと、金のチェーンがシャラと揺れた。
「へえ。なかなか良い趣味してるじゃない?」
蓋を開く。中にはレトロな黒のローマ数字。
文字盤はスケルトンタイプで、透明な硝子板越しに中の機械が透けて見える。
カチリカチリと時を刻む様子は、眺めているだけでも面白い。
蓋の内側には、今日の日付と文字。
――2007.6.6 親愛なる アンリへ――
アンリは仄かに笑った。講師は教え子の表情を伺う。
「気に入って貰えたかね?」
「悪くはない、かな」
琥珀の瞳は、透けて見えるムーブメントの動きを追っている。
「僕、嫌いじゃないよ、こういうクラシックな物って」
「うん。アンリにはよく似合うよ」
アンリは黄金の蓋を静かに閉じる。
ガラスケースに懐中時計を仕舞い、テーブルに置く。
「Merci. メルシー(ありがとう)。使わせて貰うよ」
良かったね、と言ってオーギュストは空を仰いだ。
研究室の外からは初夏の空が見える。
四角に切り取られた青空の中で、雲は悠々と泳ぐ。
神秘学の研究室には、長閑で幸福な時間が流れていた。
誕生日の生徒はティラミスの上にある赤い実をフォークに刺す。
濃厚な甘さに慣れた舌に、甘酸っぱい果汁が快い。
「ところで、ボージェ教授? 此処でのんびりしてて良いの?
僕は次、空講だけど。君は中等部の講義ではなかった?」
講師は反射的に卓上時計を見る。
「おっと。時が経つのは早いね」
「早く行けば? 講師のくせに生徒を待たせないで」
「そうだね。残念だが、今日はこれで失礼するよ。
今年も君の誕生日が祝えて良かった」
講師はゆっくりと腕を伸ばし、生徒の頭を抱え込んだ。
温かい腕の中、生徒は眉を顰めた。
「何、してるの、オーギュ…」
「Joyeux anniversaire Henri. ジュアヨウ・アンイベルセール アンリ
(誕生日おめでとう アンリ)」
大きな手はアンリの細い髪を優しく撫でた。
オーギュストの腕の中で、アンリは今年も戸惑っていた。
年に一度のこの日、オーギュストは必ず、こうしてアンリを静かに抱き締める。
こんなこと、親にもされたことがないのに。この講師は本当にどうかしてる。
講師が生徒の誕生日を祝うこと自体可笑しい。
けれど、アンリが戸惑っている一番の理由は、
どうして、こんなに気持ちが安らぐのか、ということだった。
か細い声で毒吐く。
「…講師が、生徒にすること?」
穏やかな瞳がアンリを捉えている。
大人の低く練れた声は囁いた。
「君は、私にとって只の生徒ではないよ」
宵闇の髪に口付けを落とす。
生徒は戸惑いを隠せないまま呟いた。
「…早く、教室に行けば?」
「うん。ではまた明日の講義で」
机上から薄い本を二冊取って、ドアへと向かう。
扉を閉める前に講師は、もう一言残した。
「君にとって、良い一年になることを祈っているよ」
研究室のドアが閉まる。その音を聞くと、アンリは息を吐いた。
「可笑しな人」
13歳で此処に入学してからというもの、この特別講師は6月6日になると、
教え子に誕生日プレゼントを渡していた。
教師と生徒なのだから、もう少し距離は離れている方が普通の筈だが。
神秘学を専攻する風変わりなボージェ教授に、
常識というものは通用しないらしい。彼は教え子の部屋に許可なく訪れる。
気配すら感じさせず、いつのまにか部屋で紅茶を飲んでいることもざらだった。
アンリはガラスケースをテーブルから取って、膝の上に置く。
再び開けてみる。黄金に輝く懐中時計。
そっと耳に当て、心地良いリズムに耳を澄ませた。
翌日。聖アルフォンソ学院 第二化学室では神秘学の講義中だった。
生徒はごく少数だ。この特別講義はハイレベルな為に、
付いて来られる生徒が限られてしまう。
教壇には今は講師の顔をしたオーギュストが居る。
身形は至って上品だ。礼服にも用いられる立襟のウイングカラーシャツ。
ダークブラウンのクロスタイ。その中央をパールピンで留めている。
神秘学の権威である彼が、この学院に呼ばれたのは、アンリが居るから。
サン・ジェルマン家の者が入学した場合、
神秘学を修めることが古くからの慣わしらしい。
それはアンリの先祖が、神秘学の本に必ず名が載る人物だからだ。
この日のページには、まさにサン・ジェルマン伯爵の名が載っていた。
錬金術師とも山師ともいわれる伝説的貴族。
ファーストネームは誰も知らない。
直系の子孫であるアンリでさえも知る術がなかった。
神秘学の権威であるボージェ教授にも解らないだろう。
第二化学室には、生徒が教科書を朗読する声が響く。
教科書に綴られていたのは、サン・ジェルマン家にとっての歴史的一場面。
時は1750年に遡る。
当代のフランス国王、ルイ15世は暇を持て余していた。
「何か面白いことはないものか」
そう言えば、と在オーストリア大使のベイアイル元帥は、
フランスに不思議な人物が訪れていることを告げた。
ルイ15世は、気だるげに話を聞いていた。
「サン・ジェルマン伯爵? 知らぬ名だな。一体どんな人物なのだ?」
「私もまだ会ったことがないので、噂でしか知らないのですが。
何でも、彼はあらゆる史実に詳しい博識で、その巧みな話術により、
パリのサロンで持てはやされているとか。
また何故か恐ろしい程の資産家だというのです。
それから、こちらは眉唾ですが…」
言い淀んだベイアイル元帥に、国王は頬杖を突く。
「何だ?」
「その、時間を自由に行き来できるなどと吹いているそうで」
突拍子もない話に、ルイ15世は小馬鹿にするように笑った。
「ほう。それが真ならば、是非にともその術を教えて貰いたいものだ。
しかし、まあ、退屈凌ぎにはなりそうだな。連れて参れ」
ベイアイル元帥は一人の紳士を連れて、国王の御前に参上した。
紳士は高貴なモノクロの礼服に身を包んでいる。
国王はしげしげと紳士を眺め見る。容貌は40歳前後か。
「そなたがサン・ジェルマン伯爵か。突然呼び立ててすまなかったな」
「いえ。陛下にお目に掛かれて光栄です。お招き頂き、ありがとうございます」
洗練された優雅な礼。
フランス一の美男と謳われるルイ15世の目から見ても、なかなかに見目の良い男だった。
歩き方も微笑も優雅なもので、貴族のそれと変わりない。
王の前でも緊張の類いは感じさせない。宮廷のような場所にも慣れているのだろうか。
上品な振る舞いの中にも堂々とした気風がある。
しかし、麗しい紳士だという他には特段変わった様子は見受けられなかった。
「聞けば、陛下はご退屈されているとか?」
「ああ。それで、そなたを呼んだのだ。面白い話を聞かせてくれるのだろう?」
「私のささやかな旅の話です。ご期待に添えますかどうか」
すると、サン・ジェルマン伯爵は唐突にポケットに手を入れた。
「心ばかりですが、陛下に贈り物をご用意致しました。
よろしければお受け取り下さい」
ポケットから取り出したものを、深紅のテーブルに散らす。
眩く輝いているのは、幾つもの透明な宝石。
フランス国王は自らの目を疑った。
「なんと美しい…これはダイヤモンドではないのか?」
「はい。お気に召されたのならば、またお作り致しましょう」
「何だと? そなたが作ったと申すのか?」
「ええ」フランス王の前でサン・ジェルマン伯爵は跪く。
「この手で作ったものでございます」
それが伯爵の名がフランス中のサロンに知れ渡った逸話。
ルイ15世は手の平を返したようにサン・ジェルマン伯爵を優遇させた。
シャンボール城の一室を与え、「錬金術の実験室として自由に使って良い」
「王の部屋にも気兼ねなく来い」と国王は言った。
これは当時、逼迫していたフランス財政を、
錬金術を利用して回復させようと計画だったとの説がある。
サン・ジェルマン伯爵について、神秘学の教科書はそのように説明していた。
生徒は引き続き、淡々と教科書を朗読している。
「彼は観察眼も鋭く、人から尋ねられる前に、相手の心情を見抜く力があった。
自分が必要とされている時には、それを感じ取ることができた。
遙か遠い国にも駆け付け、その手腕を発揮する。時と場所に応じて彼は名を変えた。
1762年ロシアではヴェルダン将軍、1777年ドイツではラコッツィ侯爵と名乗っていた。
1784年没後も彼を見たという報告は尽きない。
今も尚、生きていると信じる説もあり、歴史上、最も謎めいた人物である」
「うん。ありがとう、パスカル」
講師の声で、生徒は教科書を読むのを止めた。
教壇に居る講師は片手に教科書を持ってはいるが、見ていなかった。
生徒達を眺めながら、補足説明をする。
「サン・ジェルマン伯爵は、歴史のあらゆる場面でその影をちらつかせている。
ルイ15世の孫、ルイ・オーギュストがルイ16世としてフランス王に即位するが、
その時代、既に埋葬された筈のサン・ジェルマン伯爵から、
王妃マリー・アントワネットに『国民の怒りを受け入れなさい』と手紙が届く。
警告を無視した王妃の斬首刑を伯爵が見ていたという証言がある。
他にもナポレオンやキリストとも知り合いだったという説までね。
それら全てが正しいとすると、御年4000歳以上だ。
もちろん、信じるかどうかは諸君に任せるよ」
生徒達の中には、興味深く聞いている者や、
薄笑い、無表情、視線を宙に浮かべたりと、それぞれに思案している様子だった。
講師は生徒達の表情を確かめた後、一枚の封筒を見せる。
「これは、先程、教科書に登場した場面の破片だよ。
ベイアイル元帥からサン・ジェルマン伯に届いた、宮廷への招待状と言われている。
残念ながら、本物かどうかは判らない。
彼の使用人が保管していたとか、いないとか。どうにも曖昧な代物でね」
教科書を読んだ生徒が手を挙げる。
「ボージェ教授、その入手先は何処です?」
生徒の質問に講師が答える。
「私の恩師である神秘学の研究者から譲り受けた品だよ。
彼にも真偽の判断はできなかったそうだ。
ではこれから回そう。諸君の慧眼で鑑定して欲しい。
何か発見があれば、ぜひ教えてくれたまえ。
鑑定が終わったら、後ろの席へ渡して貰えるかな?」
講師は最前列の生徒に古びた封筒を手渡す。
「それでは次章に進もうか」
其処にはもう伯爵のことは載っていない。
アンリは頬杖を突き、冷たい視線で講師を睨み付けた。
明らかに不機嫌な琥珀の瞳。それに気付いた講師は苦笑する。
「おや。何か言いたそうだね、アンリ?」
「別に」
不貞腐れた物言いを、講師は穏やかに受け止める。
「講義中の発言は歓迎だよ? 特に、この時間は」
「続けて、ボージェ教授」
講師は苦笑しつつ、アンリの言葉に従う。
「では次のページに行こうか。
『最後の錬金術師』と呼ばれた、アイザック・ニュートンについてだね」
教室を見渡し、目が合った生徒の名を呼んだ。
「レオシュ、頼んでも良いかな?」
指名された生徒は億劫そうに長い髪を掻き揚げる。
元々そういう声なのか、少々ご機嫌斜めな様子で、文字列を読み始めた。
アンリはもう興味をなくしていた。次章の内容は大体解ってる。
オーギュストの研究室にある文献をアンリは少しずつ読んでいた。
神秘学について知っている知識は大学院生レベルに近い。
それでもオーギュストの講義には毎回新鮮な情報が与えられるのだが。
今日はもういい。他の生徒が朗読する声をBGMに、窓の外を眺める。
アンリは、今日の講義に伯爵の名が登場するので、少しだけ期待していた。
オーギュストが伯爵について私見を語るかもしれないと。
けれど、僅かな期待は裏切られた。
生徒に教科書を読ませ、少し解説した程度ですぐに終わってしまった。
あの古い封筒は物珍しかったが、信憑性の判断は不可能だ。
文章自体は尤もらしく書かれていたが、昔の目立ちたがり屋が書いた可能性もある。
他のページなら、もっと詳しく説明する講師なのに。
だが、予想通りの結果に終わったとも言える。
何故かオーギュストは伯爵の話題を避ける。
アンリが個人的に尋ねてもそうだ。僕が子孫だからだろうか。
子孫が知ってはならないことを、彼が何か知っているのだとしたら?
それともやはり、彼は伯爵に対して否定的な見解を持っているのだろうか。
だから口を閉ざしているのか、僕に。
「では今日は此処までにしよう」
オーギュストが教科書を閉じる。講義終了の鐘が鳴った。
「ごきげんよう。諸君」
教授の挨拶を合図に生徒達は第二化学室を出て行く。
アンリは席を立たず、黒板を消す背中を眺めていた。
彼の筆記体を見るのは嫌いではなかった。
オーギュストが書くSは、先端が優美にくるりと巻かれる。
その微かなクセ字が、アンリの瞳を惹き付けていた。
伯爵の文字と似ていたから。
聖アルフォンソ学院にしかない秘蔵書。
伯爵が直筆したと言う本。あのセピア色の紙に刻まれているSと同じクセ。
そんな些末事を発見してからというもの、彼が黒板に書くSは、
琥珀の瞳に飛び込んで来るようになった。
今日の彼は焦茶のベスト。ジャケットは着ていない。
白いシャツの袖口にはパールのカフス。
黒板を消す手が左右に揺れる度にパールがきらりと光る。
クロスタイのパールピンと揃いのもの。
あれは以前、僕が見立てたものだ。
彼に付いて行った学会の帰り道。
紳士服売り場で「君のセンスで選んで欲しい」と、
ショーケースに並ぶカフスとピンを見せられた。
どれも高級なものだったが、アンリは中でも値が張るものを指差した。
イミテーションではない、本物の真珠。
それを選んでやったら、彼は値も見ずに購入を決めた。
帰路では「良い記念品になったよ」と礼を言われた。
黒板の前で揺れる真珠。
彼は、意識して身に付けているのだろうか。
講義でサン・ジェルマン伯爵が登場するこの日に合わせて。
黒板がすっかり綺麗になった頃。
他の生徒達は皆退室し、第二科学室教室に残ったのは、
機嫌の悪い生徒と講師だけだった。
講師は教壇で数冊の書物をまとめ、教室で一段高いその場所から降りる。
艶のある革靴がカタンと鳴った。教え子の方へ歩いてくる。
「アンリ、余り熱い視線を向けるのは遠慮して貰えないかね。
君のような美しい瞳に見つめられると、照れてしまうよ」
「講義中に生徒が講師を見て、何が悪いと言うの」
「ご立腹だね」
「ねえ。伯爵のページだけ講義が短いのは気のせいかな?」
「そう感じたかい? 申し訳ないね、講義の時間は限られているから」
「どうして君は、伯爵について語らないの? 伯爵のことが…嫌いなの?」
「まさか。君の始祖に感謝こそすれ、厭う理由が見付からないよ」
「感謝?」
「サン・ジェルマン伯が居なければ、この世に天使は生まれなかったのだから。
聡明な頭脳の成長をこんなに傍で見られる。この喜びを感謝しなくてはね」
天使と呼ばれた生徒はそっぽを向く。
「子ども扱いしないで。保護者気取りも大概にしてくれない?」
「可愛い教え子には違いないよ。mon ange. モン・アンジュ(私の天使)」
気難しい天使は振り向かない。
「僕は天使じゃないし、君のものでもない」
髪の隙間から見えた白い耳は、ほんのり赤かった。
講師は微笑んで、窓の外を見やる。
空は晴れている。透き通るスカイブルー。
「そうだ。アンリ。今度の土曜日は空いているかね?
隣の教授から、美味しいスウィーツの店というのを教えて頂いたのだが」
アンリは自分の机上に視線を落とす。
一瞬遅れて、神秘学の教科書をブックバンドで止めた。
「悪いけれど、お断りするよ」
「おや。甘いものが嫌いになったのかい?」
ブックバンドにはアンリには似つかわしくないマスコットが付いていた。
手作りらしい。その縫い目からは既製品にはない味があった。
「僕、フランスに帰るから」
「それはまたどうしてだね?」
アンリは席を立ち、本を腕に抱えた。
オーギュストには背を向けている。
「母の命日なんだ、丁度。だから、母に会いに。それじゃ」
教室のドアへと向かう。講師は空を見ていた。
澄み渡る青空は、初夏から本格的な夏へと変わりつつあった。
「私がお供しても構わないかね?」
「君が?」
アンリが振り向くと、講師は微笑んで、生徒を見つめる。
「可愛い教え子だからね、君は。母上にもご挨拶したいし。
家庭訪問という所かな? その後はフランスの案内を頼めるかね?」
生徒は肩を竦めてみせる。
「勝手だね。フランス旅行をしたいだけか」
「決して悪くない提案だと思うのだがね?」
ドアに手を置いて、アンリは微笑んだ。
「一泊しか、できないよ?」
「ありがとう。楽しみにしているよ」
マスコットを揺らしながら、アンリは第二化学室を後にした。
約束の土曜日。講師と生徒はフランスに降り立った。
最初に二人が向かったのはマルシェ。
フランスの朝市のことで「此処で買いたい物があるから」とアンリは言った。
広場には多くの店が立ち並んでいる。
華やかな色彩と露店商の賑やかな声に満ちた空間。
開催されていたのは花市。遅い春と早い夏の花が一斉に咲き乱れている。
其処にはこの世の全ての色が集っているかのようだった。
フランスでは花を手土産に、友人の家に訪れることも一般的で、
女性だけではなく、男性の姿もそこここで見掛ける。
酷い人込みの中、アンリは不快感を露にして歩いていた。
二人の前に父と子らしい親子連れが居た。
観光客らしく、父の手には地図と土産物。
少年の手には小遣いで買ったのか、三本だけの花束があった。
擦れ違いざま、大人にぶつかった子供は花束を地面に落とした。
彼の隣に居たオーギュストがさっと拾い、少年に差し出した。
少年は眩しい笑顔を見せる。
「Obrigado! オブリガード(ありがとう)」
そう言った後、自分の言葉が伝わらないと思ったのか、不安そうな顔になる。
慣れていないアクセントで「メ、メルシー?」とフランス語に言い直した。
オーギュストは微笑んで、フランス語ではない言葉で返した。
「De nada. ヂ ナーダ(どういたしまして)」
少年は笑顔になって、父親の元へ駆けて行った。
「オーギュスト、今の何処の言語?」
「ポルトガル語だよ。彼はアフリカに住んでいるようだね。
少しクセのある言い回しだったから」
神秘学の講義でも時折見られる光景だった。
この教授は、どの生徒の母国語にも対応できた。
講義中、つい国の言葉が口を衝いた生徒や、
該当する英語が解らなくなった生徒に対して、
オーギュストは、生徒の母国語で助け舟を出していた。
アンリが目にしただけでも、彼が話した言語数は片手を下らない。
いや、その倍に近かったかもしれない。
世界中から集まる生徒達の祖国について、彼は必ず何らかの知識を持っていた。
神秘学の権威のくせに、地理や歴史にも明るい。
アンリは自分も決して頭は悪くない方だと自負していたし、
大人にも負けない自信があった。
が、この博識な教授が相手ではその足許にも及ばない。
清々しい程の敗北を認めざるを得なかった。
「ねえ。君って、何か国語知っているの?」
「さあ幾つかな。聖アルフォンソ学院に来るまではあちこち回っていたから。
以前は旅行が趣味でね。だがやはり、フランス語が慣れているかな。
君の上品なフランス語を聞いていると落ち着くよ」
「あっそう」
緑溢れる墓地に到着した。
木陰のベンチには旅行者らしい家族連れが一休みしている。
大きな噴水の周りではその子供達がおいかけっこをして遊んでいた。
フランスの墓地が、まるで公園のように見えるのは、
明るく整備された環境と、墓石がそれぞれユニークであることに起因する。
広大な敷地には白い十字架の他、故人の胸像や女神などの彫刻も並び立つ。
特に歴史上の人物が埋葬されている墓地は立派な観光名所だ。
都会の喧騒から離れた此処には緩やかな時間が流れている。
死後100年も経つ作家や音楽家の墓碑は、
世界中から訪れたファンの花や手紙に囲まれていた。
この墓地もあちこちに人影が見える。
墓石を掃除したり、花を供えている者も居る。
並木道の隅ではグレイの野良猫が小さく欠伸していた。
猫とアンリの目が合った。灰色がかった青い瞳。
アンリの瞳は猫の歩みに目を奪われていた。
しっぽを揺らしながら、こちらに向かって歩いてくる。
猫はオーギュストの足首に擦り寄った。選ばれた勝者は猫の頭を撫でる。
「随分、人に懐いた猫だね。アンリも撫でてみるかい?」
「いいよ、僕は」
そっぽを向くと、猫はオーギュストの手から摺り抜けて、墓石の影に消えていった。
「アンリが猫好きだったとは知らなかったよ」
「別に、好きじゃない」
二人は石畳の道を進んでいく。
フランスではカトリックの教えに習い、遺体は焼くことなく土に還される。
近年では徐々に火葬も増えてきたが、土葬が主流だった。
一定の期間が経つと掘り返され、骨を納める慣わしだ。
アンリの母が納骨された場所。白い十字架には彼女の名前が刻まれている。
墓石の前でアンリは呆然と立ち尽くした。顔には困惑が滲んでいる。
「どうしたんだい、アンリ?」
アンリは歯切れ悪く答える。
「昨夜は雨が降った筈なんだ。だから汚れているだろうと思ったのだけど。
此処の人が磨いてくれたのかな」
雨の痕跡もなく、綺麗に拭かれていた。
墓石の前にはピンクの花が一輪置かれていた。
花弁は瑞々しく、つい先程摘まれたものらしかった。
「おや。アンリが持ってきた花と同じではないかね?」
アンリは花束を抱えていた。ピンク色のバラのような花。
花市でアンリが手に取ったのはこれだった。
遅咲きのチューリップで、名前はアメジストと言う。
花弁がオウムの巻き羽に似ていることから、
パーロット咲き、つまりオウム咲きと呼ばれている一種。
花弁の縁は女性のドレスのようにフリルがあり、ピンクをより華やかに見せている。
花を包んでいる透明なセロハンが音を立てた。
「アメジストは、母が好きだった花なんだ」
「ほう。では君の父上がいらしたのかな?」
「父が…」
「そう考えるのが自然ではないかね?」
アンリは言葉を返さない。風に流された横髪を耳に掛ける。
ピンクのフリルも風になびいている。
「父上とは一緒に此処には来ないのだね」
「今回の旅行は、邸には知らせていないから。
僕は、母さんにだけ会えれば良い。
あの人は、僕の顔なんて見たくないだろうし」
アンリは墓前に花束を置く。
「オーギュストが、父なら良かったかもしれないね」
父子で墓地に来る。数メール先では現実に其処にある光景だ。
そんな普通の光景が、サン・ジェルマン家の墓前では起こり得ない。
父と此処に来たことは一度もなかった。
「親子で会いに来れたら、母さんも喜んだかもしれないのに」
墓前で祈りを捧げていた父子、それは先程、花市で擦れ違った彼等だった。
オーギュストが拾い上げた三本だけの花束が墓石の上にある。
祈り終わったらしい子は、笑顔で父を見上げていた。
その極当たり前の光景からアンリは視線を引き剥がした。
「ごめん。つまらないこと言ったね。忘れて」
すると、明るい子供の声がした。
オーギュストの姿を見つけた先の子が、駆け寄って来たのだ。
異国の言葉で何かをオーギュストに伝えている。
講師は頷きながら、同じ言語で相鎚を打っているようだった。
そして笑顔で父の元へ帰っていった。
「君って、猫にも子供にも懐かれるんだね。彼に何て囁かれたの?」
オーギュストは少年の小さな背中を見ている。
「彼は此処へ、ご両親に会いに来たそうだ」
墓前の花が揺れ、縁にフリルのある花弁が一枚舞った。
青空にピンクの欠片がふわりと浮かぶ。
「あの子、両親を亡くしているの? では一緒に居たのは?」
「叔父さんだそうだよ。大好きな叔父さんと一緒だから寂しくはない、と」
ピンク色の花弁は風に流れて何処かに行ってしまった。
オーギュストは俯いている教え子を見守っていた。
「君も母上のことを覚えていないのだったね」
「僕を生んで間もなく亡くなったそうだから。
病弱だったみたいでね。だから、僕が殺したんだよ、母さんを」
「アンリ」
オーギュストは重たい口調で言った。講義中には一度も聞いた事のない声。
アンリが目を見開いていると、オーギュストは静かに諭した。
「いいかね? 二度とそのようなことを言ってはいけないよ。彼女が」
オーギュストは墓前を見やる。
「君の母上が悲しむ。母上は君が生まれたことを心から喜んでいるよ。
自分の子を愛さない親は居ない、という綺麗事を振り翳すつもりはないがね。
しかし、少なくとも、君の母上は君を愛していたと、私は断言できる」
「どうして」
「愛されていない子が、こうして遥々会いに来るだろうか?」
琥珀の瞳が揺らいでいる。
「僕を…」
「ん?」
「いや、何でもない」
アンリは膝を伸ばす。母の墓碑を見つめていた。
すると、遠くから明るい声がした。先程の男の子だ。もう帰るところらしい。
間違ったアクセントながらもフランス語で別れの挨拶をした。
「オールボワー! ムッシュー、マドモアゼル! (バイバイ、おじさん、お姉ちゃん)」
オーギュストは片手を挙げて少年に応える。隣からは厳しい評価が飛ぶ。
「C'est degoutant. セ・デグートン(最悪だね)」
流暢な悪態を吐くフランス人に、オーギュストは苦笑する。
「ほら、手を振り返さないと、マドモアゼル?」
「誰がマドモアゼルなの?」
「私ではないと思うがね」
「僕でもないよ。もう行こう」
少し墓石を見つめた後、歩き出した。
頭の中ではオーギュストの言葉が幾つか反響していた。
それを力尽くで抑え付ける。自分の感情が乱れるのは嫌だった。
連れが隣を付いて来ない。
「オーギュスト。何してるの」
講師は墓石を見据え、膝を付いていた。
「私は家庭訪問で此処に伺っているからね。
『少々愛想は欠けるが、聡明なお子さんですよ』とご報告を」
「余計なことまで、報告してくれてありがとう」
オーギュストは立ち上がり、アンリの隣に並ぶ。
「さて。これから何処に案内してくれるのかな?
観光ガイドのサン・ジェルマン君?」
「先ずは食事。後は決めてない」
そっけない観光ガイドにオーギュストは苦笑しつつ、その後に続いた。
夜。オーギュストとアンリはサン・ジェルマン邸には行かず、
フランスの高級ホテルに泊まった。
最上階の窓からはライトアップされた『パリの灯』が見えた。
フランス革命100周年に建設された高さ321mの鉄塔。
宿泊予約もしていないのに、アンリの顔を見たフロントスタッフは、
このスウィートルームのキーを渡してくれた。
仕事でフランスに出張する時も、アンリはよく此処に泊まっているのだという。
アンリは既に、セミダブルベッドの中で、寝息を立てていた。
「疲れたから先に休む」と言ってさっさと眠ってしまったのだ。
オーギュストはアンリの寝顔を眺めていた。
「天使の寝顔、だね」
クロスタイもまだ着けたままで、眠る様子は見られない。
教え子の寝顔を見つめる眼差しは親愛に満ちていた。
「生き写しだな。寝顔は特に」
額に掛かる髪を撫でる。雪のような額が覗く。
吸い寄せられたように、口付けを落とした。
突然、辺りの空気中の水蒸気が輝き始めた。
氷点下でしか起こらない筈のダイヤモンドダスト。
眠っているアンリの上で氷の粒が煌めいていた。
フランスの墓地に、一人の紳士が訪れていた。
雨に濡れた墓石を丁寧に掃除しているところだった。
太陽は明るく、気持ちの良い朝だった。
朝の散歩をしているらしい野良猫がのそのそと歩いていた。
雫を全て拭き取ると、紳士はフランス語で墓石に語り掛けた。
紳士の腕にはピンク色の花束。
中から一本だけ抜き取り、白い十字架の前に置いた。
墓碑に彫られている文字は『サン・ジェルマン』。
紳士は温かい眼差しで十字架を見つめていた。
「みゃあ」という鳴き声がした。
彼の足許に野良猫が擦り寄っている。
紳士は身を屈め、優しい手付きでグレイの毛並みを撫でた。
小さな青い瞳が紳士を見上げている。
「やあ。一年振りになるね。元気だったかね?」
喉を撫でられた猫が「みゃあ」と鳴いた。
紳士は腰を上げる。
「それでは、また」
ピンクの花弁に何かが落ちた。
キラキラと空間が輝き出す。
縁にフリルのある花弁が氷の粒に触れる。
猫は不思議そうに眩い光を見上げている。
十字架の前には猫しか居なかった。
フランス、パリ市内の病院。
その一室には、痩せ細った一人の淑女が居た。
枕には青空にも似た空色の髪。
肌は雪のように白い。
淑女には夫があったが、彼は仕事が忙しく、今日も見舞いには来ていなかった。
彼の祖父の代から起こした、ワイン醸造所やホテルの経営に心血を注いでいた。
「Le Soleil. ル・ソレイユ」
淑女が窓から部屋に視線を移すと、傍らに一人の紳士が立っていた。
ノックの音はしなかったが、淑女は気にも留めていない様子だった。
紳士は一枚のタロットカードを見せる。描かれているのは黄金の恒星。
「太陽は、全ての始まり。新たな命を示す良いカードですよ」
ベッドに横たわったまま、淑女は紳士に微笑み掛ける。
「こんにちは。今日もいらして下さったのですね」
「ええ。今日はアメジストをお持ちしました。お好きでしたよね?」
紳士は腕に抱えていたピンクの花束を手渡す。
「嬉しいですわ。ありがとうございます」
「こちらこそ。貴女の美しい笑顔は、私にとって何よりの幸福です。
本場オランダまで摘みに行った甲斐がありましたよ」
冗談めいた言葉を紳士は穏やかに話していた。淑女は、まあ、と驚く。
「オランダまで足を運んで下さったのですか?」
「ええ。アメジストが最も綺麗に咲いた日のオランダに。
一面のチューリップ畑は、それはそれは美しかったですよ。
しかし、貴女の前では色褪せて見えますね」
淑女は少女のように頬を染める。
「あっ、あの…17歳のプレゼントが決まりましたの。ほら、其処に」
テーブルには丁寧に包装された小さな箱があった。
傍らに立っていた紳士は箱を手に取る。彼はこの病室によく訪れていた。
淑女のベッドサイドにある青いバラも、この紳士が持って来た物だった。
「17歳は何になさったのです?」
「懐中時計です。蓋の内側に名前を入れて」
「名前を? では決まったのですか?」
「はい。アンリ、と名付けたいと思っています」
「素晴らしい。16世紀フランス王の名前ですね?
気位が高く、頭脳明晰、広く国民に愛された王だ」
「よくご存知ですね。あ、もしかして」
「ええ。私は以前お会いしたことがありますから。素敵な御方でしたよ」
紳士の言葉に、淑女は嬉しそうに微笑んだ。
彼女は酷く身体が弱かった。1か月後に出産を控えていたが、
その負担に身体が耐えられない可能性を医師から告げられていた。
そして彼女が取った行動は、前もって子供の誕生日プレゼントを決めることだった。
18歳になるまで、その年に必要になりそうな物を選び、
自分の代わりに誕生日プレゼントを渡してくれるよう、この紳士に頼んでいた。
彼の持つ箱に目をやる。中には金色の懐中時計が入っている。
「懐中時計なんて、古めかしかったでしょうか?
でも似合いそうな気がしましたの。気に入って貰えると良いのですが」
「きっと気に入ってくれますよ。ではお預かりしますよ」
紳士は箱を鞄に仕舞う。
「すみません。こんなお願い事をして」
「何、お安い御用ですよ。私にとってはね」
「ありがとうございます、伯爵」
「いえ。貴女のお役に立てて幸いです」
紳士は淑女の手を取り、静かに口付ける。
白い手は滑らかで、その時はまだ、温かかった。
6月6日、無事に男の子が生まれた。
母親となった淑女の身体は限界を迎えていた。
雪のようだった肌は、更に血の気が薄くなり、今では青白くさえあった。
残り数日だろうと医者に耳打ちされていた紳士は足繁く毎日通った。
その度に淑女が最も必要としている話を語って聞かせた。
紳士の話を聞いた淑女は静かに微笑んだ。
「私は幸せ者ですね。この子の成長する様子を、
こうして先にお聞きすることができるんですもの」
「貴女は私を詐欺師とは呼ばないのですね」
「ええ。だって、私、小さい頃にも貴方にお会いしていますから。
当時から貴方をお慕いしていました。
一年前、貴方に再びお会いした時に解りましたわ。
貴方は永遠にお年を召されない御方なのだと。
だって昔と同じお綺麗なままでしたから。
私のような薄命も辛いものですが。
貴方もさぞ、お辛い想いをしたのでしょう?」
「ええ。今この時が最も辛いです」
夏の空は晴れている。この美しい人を思い出す色だった。
「ごめんなさい。貴方を置いていって」
「いいえ。貴女が謝ることでは。それに私は一人ではありません。
貴女はこの子を、アンリを授けて下さいました。貴女と私の天使を」
淑女は傍で眠る赤ん坊を見つめる。
白く、小さな手に、自らの手を重ねる。
「ごめんなさい。幸せを願うことしかできなくて。
でも大丈夫よ。貴方が必要とした時、この御方が助けて下さるわ。
貴方は、きっと素晴らしい人になる。
誰より聡明で、美しく優雅な子になることでしょう」
母親は子供の頭を優しく優しく撫でた。
「傍に居なくても、私は貴方を愛しているわ、アンリ」
柔らかい手を淑女が力なく握る。
「この子が淋しい時、そう伝えて下さいますか、伯爵」
紳士は頷いた。
「ええ。お伝えしますよ、必ず」
「ありがとう」
穏やかに微笑み、静かに瞳を閉じた。
紳士は淑女の手を取る。
誰も、愛さないと決めていた。
どんなに想っても、いずれ自分が残されてしまう。
誰も、愛してはくれないと思っていた。
彼女は紳士の言葉を全て信じてくれた。
長い時空の中で彷徨う紳士に差し伸べられた手。
温かかった。
紳士の手の中で、その温もりが徐々に消えていく。
白く美しい手に紳士は静かに口付けた。
「Adieu mon ange.(さようなら、私の天使)」
fin
聖アルフォンソ学院 研究室棟。その片隅に神秘学の研究室があった。
今日はプライベート・レッスンではなく、
ささやかなプライベート・パーティが開かれていた。
参加者は二人だけ。紅茶を片手に教え子を見ているのが、
神秘学の特別講師、オーギュスト・ボ-ジェ教授。
その隣にはパーティの主役となる生徒、
アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマン。
テーブルには講師が用意したケーキが一人分。
紅茶のティラミス。上部のココアパウダーには、
フランボワーズが3つ、宝石のように添えられている。
通常はエスプレッソを使うイタリアンスウィーツだが、
それをアールグレイに変えたらしい。アンリがフォークを入れる。
柔らかい茶と白の層がくっついてきた。
口に運ぶと、クリーミーなマスカルポーネチーズが広がり、
紅茶に着香されたシトラスの芳香がふわっと残る。
「オーギュ」
「ん?」
「これ、何処で手に入れたの?」
「ウー・シェフに頼んだんだ。紅茶でティラミスを作って貰えないだろうかとね」
アルファルド寮のシェフのことを指しているのだろう。確か名前はアラン・ウー。
エスニックとイタリアンが得意らしいと聞いたことがある。
紅茶を飲んでいたオーギュストがカップを置く。
席を立ち、机の引き出しから何か取り出して、再び席に着いた。
「17歳おめでとう、アンリ」
オーギュストが差し出した小箱に、教え子は軽く肩を竦めた。
「毎年飽きないね、君も」
小箱に掛けられたブルーのリボンを引き、綺麗なラッピングを解く。
ガラスケースに入っていたのは懐中時計。アンリの瞳にも似た金色だ。
閉じられた蓋には幾何学的な彫刻が丁寧に彫られていた。
手に持つと、金のチェーンがシャラと揺れた。
「へえ。なかなか良い趣味してるじゃない?」
蓋を開く。中にはレトロな黒のローマ数字。
文字盤はスケルトンタイプで、透明な硝子板越しに中の機械が透けて見える。
カチリカチリと時を刻む様子は、眺めているだけでも面白い。
蓋の内側には、今日の日付と文字。
――2007.6.6 親愛なる アンリへ――
アンリは仄かに笑った。講師は教え子の表情を伺う。
「気に入って貰えたかね?」
「悪くはない、かな」
琥珀の瞳は、透けて見えるムーブメントの動きを追っている。
「僕、嫌いじゃないよ、こういうクラシックな物って」
「うん。アンリにはよく似合うよ」
アンリは黄金の蓋を静かに閉じる。
ガラスケースに懐中時計を仕舞い、テーブルに置く。
「Merci. メルシー(ありがとう)。使わせて貰うよ」
良かったね、と言ってオーギュストは空を仰いだ。
研究室の外からは初夏の空が見える。
四角に切り取られた青空の中で、雲は悠々と泳ぐ。
神秘学の研究室には、長閑で幸福な時間が流れていた。
誕生日の生徒はティラミスの上にある赤い実をフォークに刺す。
濃厚な甘さに慣れた舌に、甘酸っぱい果汁が快い。
「ところで、ボージェ教授? 此処でのんびりしてて良いの?
僕は次、空講だけど。君は中等部の講義ではなかった?」
講師は反射的に卓上時計を見る。
「おっと。時が経つのは早いね」
「早く行けば? 講師のくせに生徒を待たせないで」
「そうだね。残念だが、今日はこれで失礼するよ。
今年も君の誕生日が祝えて良かった」
講師はゆっくりと腕を伸ばし、生徒の頭を抱え込んだ。
温かい腕の中、生徒は眉を顰めた。
「何、してるの、オーギュ…」
「Joyeux anniversaire Henri. ジュアヨウ・アンイベルセール アンリ
(誕生日おめでとう アンリ)」
大きな手はアンリの細い髪を優しく撫でた。
オーギュストの腕の中で、アンリは今年も戸惑っていた。
年に一度のこの日、オーギュストは必ず、こうしてアンリを静かに抱き締める。
こんなこと、親にもされたことがないのに。この講師は本当にどうかしてる。
講師が生徒の誕生日を祝うこと自体可笑しい。
けれど、アンリが戸惑っている一番の理由は、
どうして、こんなに気持ちが安らぐのか、ということだった。
か細い声で毒吐く。
「…講師が、生徒にすること?」
穏やかな瞳がアンリを捉えている。
大人の低く練れた声は囁いた。
「君は、私にとって只の生徒ではないよ」
宵闇の髪に口付けを落とす。
生徒は戸惑いを隠せないまま呟いた。
「…早く、教室に行けば?」
「うん。ではまた明日の講義で」
机上から薄い本を二冊取って、ドアへと向かう。
扉を閉める前に講師は、もう一言残した。
「君にとって、良い一年になることを祈っているよ」
研究室のドアが閉まる。その音を聞くと、アンリは息を吐いた。
「可笑しな人」
13歳で此処に入学してからというもの、この特別講師は6月6日になると、
教え子に誕生日プレゼントを渡していた。
教師と生徒なのだから、もう少し距離は離れている方が普通の筈だが。
神秘学を専攻する風変わりなボージェ教授に、
常識というものは通用しないらしい。彼は教え子の部屋に許可なく訪れる。
気配すら感じさせず、いつのまにか部屋で紅茶を飲んでいることもざらだった。
アンリはガラスケースをテーブルから取って、膝の上に置く。
再び開けてみる。黄金に輝く懐中時計。
そっと耳に当て、心地良いリズムに耳を澄ませた。
翌日。聖アルフォンソ学院 第二化学室では神秘学の講義中だった。
生徒はごく少数だ。この特別講義はハイレベルな為に、
付いて来られる生徒が限られてしまう。
教壇には今は講師の顔をしたオーギュストが居る。
身形は至って上品だ。礼服にも用いられる立襟のウイングカラーシャツ。
ダークブラウンのクロスタイ。その中央をパールピンで留めている。
神秘学の権威である彼が、この学院に呼ばれたのは、アンリが居るから。
サン・ジェルマン家の者が入学した場合、
神秘学を修めることが古くからの慣わしらしい。
それはアンリの先祖が、神秘学の本に必ず名が載る人物だからだ。
この日のページには、まさにサン・ジェルマン伯爵の名が載っていた。
錬金術師とも山師ともいわれる伝説的貴族。
ファーストネームは誰も知らない。
直系の子孫であるアンリでさえも知る術がなかった。
神秘学の権威であるボージェ教授にも解らないだろう。
第二化学室には、生徒が教科書を朗読する声が響く。
教科書に綴られていたのは、サン・ジェルマン家にとっての歴史的一場面。
時は1750年に遡る。
当代のフランス国王、ルイ15世は暇を持て余していた。
「何か面白いことはないものか」
そう言えば、と在オーストリア大使のベイアイル元帥は、
フランスに不思議な人物が訪れていることを告げた。
ルイ15世は、気だるげに話を聞いていた。
「サン・ジェルマン伯爵? 知らぬ名だな。一体どんな人物なのだ?」
「私もまだ会ったことがないので、噂でしか知らないのですが。
何でも、彼はあらゆる史実に詳しい博識で、その巧みな話術により、
パリのサロンで持てはやされているとか。
また何故か恐ろしい程の資産家だというのです。
それから、こちらは眉唾ですが…」
言い淀んだベイアイル元帥に、国王は頬杖を突く。
「何だ?」
「その、時間を自由に行き来できるなどと吹いているそうで」
突拍子もない話に、ルイ15世は小馬鹿にするように笑った。
「ほう。それが真ならば、是非にともその術を教えて貰いたいものだ。
しかし、まあ、退屈凌ぎにはなりそうだな。連れて参れ」
ベイアイル元帥は一人の紳士を連れて、国王の御前に参上した。
紳士は高貴なモノクロの礼服に身を包んでいる。
国王はしげしげと紳士を眺め見る。容貌は40歳前後か。
「そなたがサン・ジェルマン伯爵か。突然呼び立ててすまなかったな」
「いえ。陛下にお目に掛かれて光栄です。お招き頂き、ありがとうございます」
洗練された優雅な礼。
フランス一の美男と謳われるルイ15世の目から見ても、なかなかに見目の良い男だった。
歩き方も微笑も優雅なもので、貴族のそれと変わりない。
王の前でも緊張の類いは感じさせない。宮廷のような場所にも慣れているのだろうか。
上品な振る舞いの中にも堂々とした気風がある。
しかし、麗しい紳士だという他には特段変わった様子は見受けられなかった。
「聞けば、陛下はご退屈されているとか?」
「ああ。それで、そなたを呼んだのだ。面白い話を聞かせてくれるのだろう?」
「私のささやかな旅の話です。ご期待に添えますかどうか」
すると、サン・ジェルマン伯爵は唐突にポケットに手を入れた。
「心ばかりですが、陛下に贈り物をご用意致しました。
よろしければお受け取り下さい」
ポケットから取り出したものを、深紅のテーブルに散らす。
眩く輝いているのは、幾つもの透明な宝石。
フランス国王は自らの目を疑った。
「なんと美しい…これはダイヤモンドではないのか?」
「はい。お気に召されたのならば、またお作り致しましょう」
「何だと? そなたが作ったと申すのか?」
「ええ」フランス王の前でサン・ジェルマン伯爵は跪く。
「この手で作ったものでございます」
それが伯爵の名がフランス中のサロンに知れ渡った逸話。
ルイ15世は手の平を返したようにサン・ジェルマン伯爵を優遇させた。
シャンボール城の一室を与え、「錬金術の実験室として自由に使って良い」
「王の部屋にも気兼ねなく来い」と国王は言った。
これは当時、逼迫していたフランス財政を、
錬金術を利用して回復させようと計画だったとの説がある。
サン・ジェルマン伯爵について、神秘学の教科書はそのように説明していた。
生徒は引き続き、淡々と教科書を朗読している。
「彼は観察眼も鋭く、人から尋ねられる前に、相手の心情を見抜く力があった。
自分が必要とされている時には、それを感じ取ることができた。
遙か遠い国にも駆け付け、その手腕を発揮する。時と場所に応じて彼は名を変えた。
1762年ロシアではヴェルダン将軍、1777年ドイツではラコッツィ侯爵と名乗っていた。
1784年没後も彼を見たという報告は尽きない。
今も尚、生きていると信じる説もあり、歴史上、最も謎めいた人物である」
「うん。ありがとう、パスカル」
講師の声で、生徒は教科書を読むのを止めた。
教壇に居る講師は片手に教科書を持ってはいるが、見ていなかった。
生徒達を眺めながら、補足説明をする。
「サン・ジェルマン伯爵は、歴史のあらゆる場面でその影をちらつかせている。
ルイ15世の孫、ルイ・オーギュストがルイ16世としてフランス王に即位するが、
その時代、既に埋葬された筈のサン・ジェルマン伯爵から、
王妃マリー・アントワネットに『国民の怒りを受け入れなさい』と手紙が届く。
警告を無視した王妃の斬首刑を伯爵が見ていたという証言がある。
他にもナポレオンやキリストとも知り合いだったという説までね。
それら全てが正しいとすると、御年4000歳以上だ。
もちろん、信じるかどうかは諸君に任せるよ」
生徒達の中には、興味深く聞いている者や、
薄笑い、無表情、視線を宙に浮かべたりと、それぞれに思案している様子だった。
講師は生徒達の表情を確かめた後、一枚の封筒を見せる。
「これは、先程、教科書に登場した場面の破片だよ。
ベイアイル元帥からサン・ジェルマン伯に届いた、宮廷への招待状と言われている。
残念ながら、本物かどうかは判らない。
彼の使用人が保管していたとか、いないとか。どうにも曖昧な代物でね」
教科書を読んだ生徒が手を挙げる。
「ボージェ教授、その入手先は何処です?」
生徒の質問に講師が答える。
「私の恩師である神秘学の研究者から譲り受けた品だよ。
彼にも真偽の判断はできなかったそうだ。
ではこれから回そう。諸君の慧眼で鑑定して欲しい。
何か発見があれば、ぜひ教えてくれたまえ。
鑑定が終わったら、後ろの席へ渡して貰えるかな?」
講師は最前列の生徒に古びた封筒を手渡す。
「それでは次章に進もうか」
其処にはもう伯爵のことは載っていない。
アンリは頬杖を突き、冷たい視線で講師を睨み付けた。
明らかに不機嫌な琥珀の瞳。それに気付いた講師は苦笑する。
「おや。何か言いたそうだね、アンリ?」
「別に」
不貞腐れた物言いを、講師は穏やかに受け止める。
「講義中の発言は歓迎だよ? 特に、この時間は」
「続けて、ボージェ教授」
講師は苦笑しつつ、アンリの言葉に従う。
「では次のページに行こうか。
『最後の錬金術師』と呼ばれた、アイザック・ニュートンについてだね」
教室を見渡し、目が合った生徒の名を呼んだ。
「レオシュ、頼んでも良いかな?」
指名された生徒は億劫そうに長い髪を掻き揚げる。
元々そういう声なのか、少々ご機嫌斜めな様子で、文字列を読み始めた。
アンリはもう興味をなくしていた。次章の内容は大体解ってる。
オーギュストの研究室にある文献をアンリは少しずつ読んでいた。
神秘学について知っている知識は大学院生レベルに近い。
それでもオーギュストの講義には毎回新鮮な情報が与えられるのだが。
今日はもういい。他の生徒が朗読する声をBGMに、窓の外を眺める。
アンリは、今日の講義に伯爵の名が登場するので、少しだけ期待していた。
オーギュストが伯爵について私見を語るかもしれないと。
けれど、僅かな期待は裏切られた。
生徒に教科書を読ませ、少し解説した程度ですぐに終わってしまった。
あの古い封筒は物珍しかったが、信憑性の判断は不可能だ。
文章自体は尤もらしく書かれていたが、昔の目立ちたがり屋が書いた可能性もある。
他のページなら、もっと詳しく説明する講師なのに。
だが、予想通りの結果に終わったとも言える。
何故かオーギュストは伯爵の話題を避ける。
アンリが個人的に尋ねてもそうだ。僕が子孫だからだろうか。
子孫が知ってはならないことを、彼が何か知っているのだとしたら?
それともやはり、彼は伯爵に対して否定的な見解を持っているのだろうか。
だから口を閉ざしているのか、僕に。
「では今日は此処までにしよう」
オーギュストが教科書を閉じる。講義終了の鐘が鳴った。
「ごきげんよう。諸君」
教授の挨拶を合図に生徒達は第二化学室を出て行く。
アンリは席を立たず、黒板を消す背中を眺めていた。
彼の筆記体を見るのは嫌いではなかった。
オーギュストが書くSは、先端が優美にくるりと巻かれる。
その微かなクセ字が、アンリの瞳を惹き付けていた。
伯爵の文字と似ていたから。
聖アルフォンソ学院にしかない秘蔵書。
伯爵が直筆したと言う本。あのセピア色の紙に刻まれているSと同じクセ。
そんな些末事を発見してからというもの、彼が黒板に書くSは、
琥珀の瞳に飛び込んで来るようになった。
今日の彼は焦茶のベスト。ジャケットは着ていない。
白いシャツの袖口にはパールのカフス。
黒板を消す手が左右に揺れる度にパールがきらりと光る。
クロスタイのパールピンと揃いのもの。
あれは以前、僕が見立てたものだ。
彼に付いて行った学会の帰り道。
紳士服売り場で「君のセンスで選んで欲しい」と、
ショーケースに並ぶカフスとピンを見せられた。
どれも高級なものだったが、アンリは中でも値が張るものを指差した。
イミテーションではない、本物の真珠。
それを選んでやったら、彼は値も見ずに購入を決めた。
帰路では「良い記念品になったよ」と礼を言われた。
黒板の前で揺れる真珠。
彼は、意識して身に付けているのだろうか。
講義でサン・ジェルマン伯爵が登場するこの日に合わせて。
黒板がすっかり綺麗になった頃。
他の生徒達は皆退室し、第二科学室教室に残ったのは、
機嫌の悪い生徒と講師だけだった。
講師は教壇で数冊の書物をまとめ、教室で一段高いその場所から降りる。
艶のある革靴がカタンと鳴った。教え子の方へ歩いてくる。
「アンリ、余り熱い視線を向けるのは遠慮して貰えないかね。
君のような美しい瞳に見つめられると、照れてしまうよ」
「講義中に生徒が講師を見て、何が悪いと言うの」
「ご立腹だね」
「ねえ。伯爵のページだけ講義が短いのは気のせいかな?」
「そう感じたかい? 申し訳ないね、講義の時間は限られているから」
「どうして君は、伯爵について語らないの? 伯爵のことが…嫌いなの?」
「まさか。君の始祖に感謝こそすれ、厭う理由が見付からないよ」
「感謝?」
「サン・ジェルマン伯が居なければ、この世に天使は生まれなかったのだから。
聡明な頭脳の成長をこんなに傍で見られる。この喜びを感謝しなくてはね」
天使と呼ばれた生徒はそっぽを向く。
「子ども扱いしないで。保護者気取りも大概にしてくれない?」
「可愛い教え子には違いないよ。mon ange. モン・アンジュ(私の天使)」
気難しい天使は振り向かない。
「僕は天使じゃないし、君のものでもない」
髪の隙間から見えた白い耳は、ほんのり赤かった。
講師は微笑んで、窓の外を見やる。
空は晴れている。透き通るスカイブルー。
「そうだ。アンリ。今度の土曜日は空いているかね?
隣の教授から、美味しいスウィーツの店というのを教えて頂いたのだが」
アンリは自分の机上に視線を落とす。
一瞬遅れて、神秘学の教科書をブックバンドで止めた。
「悪いけれど、お断りするよ」
「おや。甘いものが嫌いになったのかい?」
ブックバンドにはアンリには似つかわしくないマスコットが付いていた。
手作りらしい。その縫い目からは既製品にはない味があった。
「僕、フランスに帰るから」
「それはまたどうしてだね?」
アンリは席を立ち、本を腕に抱えた。
オーギュストには背を向けている。
「母の命日なんだ、丁度。だから、母に会いに。それじゃ」
教室のドアへと向かう。講師は空を見ていた。
澄み渡る青空は、初夏から本格的な夏へと変わりつつあった。
「私がお供しても構わないかね?」
「君が?」
アンリが振り向くと、講師は微笑んで、生徒を見つめる。
「可愛い教え子だからね、君は。母上にもご挨拶したいし。
家庭訪問という所かな? その後はフランスの案内を頼めるかね?」
生徒は肩を竦めてみせる。
「勝手だね。フランス旅行をしたいだけか」
「決して悪くない提案だと思うのだがね?」
ドアに手を置いて、アンリは微笑んだ。
「一泊しか、できないよ?」
「ありがとう。楽しみにしているよ」
マスコットを揺らしながら、アンリは第二化学室を後にした。
約束の土曜日。講師と生徒はフランスに降り立った。
最初に二人が向かったのはマルシェ。
フランスの朝市のことで「此処で買いたい物があるから」とアンリは言った。
広場には多くの店が立ち並んでいる。
華やかな色彩と露店商の賑やかな声に満ちた空間。
開催されていたのは花市。遅い春と早い夏の花が一斉に咲き乱れている。
其処にはこの世の全ての色が集っているかのようだった。
フランスでは花を手土産に、友人の家に訪れることも一般的で、
女性だけではなく、男性の姿もそこここで見掛ける。
酷い人込みの中、アンリは不快感を露にして歩いていた。
二人の前に父と子らしい親子連れが居た。
観光客らしく、父の手には地図と土産物。
少年の手には小遣いで買ったのか、三本だけの花束があった。
擦れ違いざま、大人にぶつかった子供は花束を地面に落とした。
彼の隣に居たオーギュストがさっと拾い、少年に差し出した。
少年は眩しい笑顔を見せる。
「Obrigado! オブリガード(ありがとう)」
そう言った後、自分の言葉が伝わらないと思ったのか、不安そうな顔になる。
慣れていないアクセントで「メ、メルシー?」とフランス語に言い直した。
オーギュストは微笑んで、フランス語ではない言葉で返した。
「De nada. ヂ ナーダ(どういたしまして)」
少年は笑顔になって、父親の元へ駆けて行った。
「オーギュスト、今の何処の言語?」
「ポルトガル語だよ。彼はアフリカに住んでいるようだね。
少しクセのある言い回しだったから」
神秘学の講義でも時折見られる光景だった。
この教授は、どの生徒の母国語にも対応できた。
講義中、つい国の言葉が口を衝いた生徒や、
該当する英語が解らなくなった生徒に対して、
オーギュストは、生徒の母国語で助け舟を出していた。
アンリが目にしただけでも、彼が話した言語数は片手を下らない。
いや、その倍に近かったかもしれない。
世界中から集まる生徒達の祖国について、彼は必ず何らかの知識を持っていた。
神秘学の権威のくせに、地理や歴史にも明るい。
アンリは自分も決して頭は悪くない方だと自負していたし、
大人にも負けない自信があった。
が、この博識な教授が相手ではその足許にも及ばない。
清々しい程の敗北を認めざるを得なかった。
「ねえ。君って、何か国語知っているの?」
「さあ幾つかな。聖アルフォンソ学院に来るまではあちこち回っていたから。
以前は旅行が趣味でね。だがやはり、フランス語が慣れているかな。
君の上品なフランス語を聞いていると落ち着くよ」
「あっそう」
緑溢れる墓地に到着した。
木陰のベンチには旅行者らしい家族連れが一休みしている。
大きな噴水の周りではその子供達がおいかけっこをして遊んでいた。
フランスの墓地が、まるで公園のように見えるのは、
明るく整備された環境と、墓石がそれぞれユニークであることに起因する。
広大な敷地には白い十字架の他、故人の胸像や女神などの彫刻も並び立つ。
特に歴史上の人物が埋葬されている墓地は立派な観光名所だ。
都会の喧騒から離れた此処には緩やかな時間が流れている。
死後100年も経つ作家や音楽家の墓碑は、
世界中から訪れたファンの花や手紙に囲まれていた。
この墓地もあちこちに人影が見える。
墓石を掃除したり、花を供えている者も居る。
並木道の隅ではグレイの野良猫が小さく欠伸していた。
猫とアンリの目が合った。灰色がかった青い瞳。
アンリの瞳は猫の歩みに目を奪われていた。
しっぽを揺らしながら、こちらに向かって歩いてくる。
猫はオーギュストの足首に擦り寄った。選ばれた勝者は猫の頭を撫でる。
「随分、人に懐いた猫だね。アンリも撫でてみるかい?」
「いいよ、僕は」
そっぽを向くと、猫はオーギュストの手から摺り抜けて、墓石の影に消えていった。
「アンリが猫好きだったとは知らなかったよ」
「別に、好きじゃない」
二人は石畳の道を進んでいく。
フランスではカトリックの教えに習い、遺体は焼くことなく土に還される。
近年では徐々に火葬も増えてきたが、土葬が主流だった。
一定の期間が経つと掘り返され、骨を納める慣わしだ。
アンリの母が納骨された場所。白い十字架には彼女の名前が刻まれている。
墓石の前でアンリは呆然と立ち尽くした。顔には困惑が滲んでいる。
「どうしたんだい、アンリ?」
アンリは歯切れ悪く答える。
「昨夜は雨が降った筈なんだ。だから汚れているだろうと思ったのだけど。
此処の人が磨いてくれたのかな」
雨の痕跡もなく、綺麗に拭かれていた。
墓石の前にはピンクの花が一輪置かれていた。
花弁は瑞々しく、つい先程摘まれたものらしかった。
「おや。アンリが持ってきた花と同じではないかね?」
アンリは花束を抱えていた。ピンク色のバラのような花。
花市でアンリが手に取ったのはこれだった。
遅咲きのチューリップで、名前はアメジストと言う。
花弁がオウムの巻き羽に似ていることから、
パーロット咲き、つまりオウム咲きと呼ばれている一種。
花弁の縁は女性のドレスのようにフリルがあり、ピンクをより華やかに見せている。
花を包んでいる透明なセロハンが音を立てた。
「アメジストは、母が好きだった花なんだ」
「ほう。では君の父上がいらしたのかな?」
「父が…」
「そう考えるのが自然ではないかね?」
アンリは言葉を返さない。風に流された横髪を耳に掛ける。
ピンクのフリルも風になびいている。
「父上とは一緒に此処には来ないのだね」
「今回の旅行は、邸には知らせていないから。
僕は、母さんにだけ会えれば良い。
あの人は、僕の顔なんて見たくないだろうし」
アンリは墓前に花束を置く。
「オーギュストが、父なら良かったかもしれないね」
父子で墓地に来る。数メール先では現実に其処にある光景だ。
そんな普通の光景が、サン・ジェルマン家の墓前では起こり得ない。
父と此処に来たことは一度もなかった。
「親子で会いに来れたら、母さんも喜んだかもしれないのに」
墓前で祈りを捧げていた父子、それは先程、花市で擦れ違った彼等だった。
オーギュストが拾い上げた三本だけの花束が墓石の上にある。
祈り終わったらしい子は、笑顔で父を見上げていた。
その極当たり前の光景からアンリは視線を引き剥がした。
「ごめん。つまらないこと言ったね。忘れて」
すると、明るい子供の声がした。
オーギュストの姿を見つけた先の子が、駆け寄って来たのだ。
異国の言葉で何かをオーギュストに伝えている。
講師は頷きながら、同じ言語で相鎚を打っているようだった。
そして笑顔で父の元へ帰っていった。
「君って、猫にも子供にも懐かれるんだね。彼に何て囁かれたの?」
オーギュストは少年の小さな背中を見ている。
「彼は此処へ、ご両親に会いに来たそうだ」
墓前の花が揺れ、縁にフリルのある花弁が一枚舞った。
青空にピンクの欠片がふわりと浮かぶ。
「あの子、両親を亡くしているの? では一緒に居たのは?」
「叔父さんだそうだよ。大好きな叔父さんと一緒だから寂しくはない、と」
ピンク色の花弁は風に流れて何処かに行ってしまった。
オーギュストは俯いている教え子を見守っていた。
「君も母上のことを覚えていないのだったね」
「僕を生んで間もなく亡くなったそうだから。
病弱だったみたいでね。だから、僕が殺したんだよ、母さんを」
「アンリ」
オーギュストは重たい口調で言った。講義中には一度も聞いた事のない声。
アンリが目を見開いていると、オーギュストは静かに諭した。
「いいかね? 二度とそのようなことを言ってはいけないよ。彼女が」
オーギュストは墓前を見やる。
「君の母上が悲しむ。母上は君が生まれたことを心から喜んでいるよ。
自分の子を愛さない親は居ない、という綺麗事を振り翳すつもりはないがね。
しかし、少なくとも、君の母上は君を愛していたと、私は断言できる」
「どうして」
「愛されていない子が、こうして遥々会いに来るだろうか?」
琥珀の瞳が揺らいでいる。
「僕を…」
「ん?」
「いや、何でもない」
アンリは膝を伸ばす。母の墓碑を見つめていた。
すると、遠くから明るい声がした。先程の男の子だ。もう帰るところらしい。
間違ったアクセントながらもフランス語で別れの挨拶をした。
「オールボワー! ムッシュー、マドモアゼル! (バイバイ、おじさん、お姉ちゃん)」
オーギュストは片手を挙げて少年に応える。隣からは厳しい評価が飛ぶ。
「C'est degoutant. セ・デグートン(最悪だね)」
流暢な悪態を吐くフランス人に、オーギュストは苦笑する。
「ほら、手を振り返さないと、マドモアゼル?」
「誰がマドモアゼルなの?」
「私ではないと思うがね」
「僕でもないよ。もう行こう」
少し墓石を見つめた後、歩き出した。
頭の中ではオーギュストの言葉が幾つか反響していた。
それを力尽くで抑え付ける。自分の感情が乱れるのは嫌だった。
連れが隣を付いて来ない。
「オーギュスト。何してるの」
講師は墓石を見据え、膝を付いていた。
「私は家庭訪問で此処に伺っているからね。
『少々愛想は欠けるが、聡明なお子さんですよ』とご報告を」
「余計なことまで、報告してくれてありがとう」
オーギュストは立ち上がり、アンリの隣に並ぶ。
「さて。これから何処に案内してくれるのかな?
観光ガイドのサン・ジェルマン君?」
「先ずは食事。後は決めてない」
そっけない観光ガイドにオーギュストは苦笑しつつ、その後に続いた。
夜。オーギュストとアンリはサン・ジェルマン邸には行かず、
フランスの高級ホテルに泊まった。
最上階の窓からはライトアップされた『パリの灯』が見えた。
フランス革命100周年に建設された高さ321mの鉄塔。
宿泊予約もしていないのに、アンリの顔を見たフロントスタッフは、
このスウィートルームのキーを渡してくれた。
仕事でフランスに出張する時も、アンリはよく此処に泊まっているのだという。
アンリは既に、セミダブルベッドの中で、寝息を立てていた。
「疲れたから先に休む」と言ってさっさと眠ってしまったのだ。
オーギュストはアンリの寝顔を眺めていた。
「天使の寝顔、だね」
クロスタイもまだ着けたままで、眠る様子は見られない。
教え子の寝顔を見つめる眼差しは親愛に満ちていた。
「生き写しだな。寝顔は特に」
額に掛かる髪を撫でる。雪のような額が覗く。
吸い寄せられたように、口付けを落とした。
突然、辺りの空気中の水蒸気が輝き始めた。
氷点下でしか起こらない筈のダイヤモンドダスト。
眠っているアンリの上で氷の粒が煌めいていた。
フランスの墓地に、一人の紳士が訪れていた。
雨に濡れた墓石を丁寧に掃除しているところだった。
太陽は明るく、気持ちの良い朝だった。
朝の散歩をしているらしい野良猫がのそのそと歩いていた。
雫を全て拭き取ると、紳士はフランス語で墓石に語り掛けた。
紳士の腕にはピンク色の花束。
中から一本だけ抜き取り、白い十字架の前に置いた。
墓碑に彫られている文字は『サン・ジェルマン』。
紳士は温かい眼差しで十字架を見つめていた。
「みゃあ」という鳴き声がした。
彼の足許に野良猫が擦り寄っている。
紳士は身を屈め、優しい手付きでグレイの毛並みを撫でた。
小さな青い瞳が紳士を見上げている。
「やあ。一年振りになるね。元気だったかね?」
喉を撫でられた猫が「みゃあ」と鳴いた。
紳士は腰を上げる。
「それでは、また」
ピンクの花弁に何かが落ちた。
キラキラと空間が輝き出す。
縁にフリルのある花弁が氷の粒に触れる。
猫は不思議そうに眩い光を見上げている。
十字架の前には猫しか居なかった。
フランス、パリ市内の病院。
その一室には、痩せ細った一人の淑女が居た。
枕には青空にも似た空色の髪。
肌は雪のように白い。
淑女には夫があったが、彼は仕事が忙しく、今日も見舞いには来ていなかった。
彼の祖父の代から起こした、ワイン醸造所やホテルの経営に心血を注いでいた。
「Le Soleil. ル・ソレイユ」
淑女が窓から部屋に視線を移すと、傍らに一人の紳士が立っていた。
ノックの音はしなかったが、淑女は気にも留めていない様子だった。
紳士は一枚のタロットカードを見せる。描かれているのは黄金の恒星。
「太陽は、全ての始まり。新たな命を示す良いカードですよ」
ベッドに横たわったまま、淑女は紳士に微笑み掛ける。
「こんにちは。今日もいらして下さったのですね」
「ええ。今日はアメジストをお持ちしました。お好きでしたよね?」
紳士は腕に抱えていたピンクの花束を手渡す。
「嬉しいですわ。ありがとうございます」
「こちらこそ。貴女の美しい笑顔は、私にとって何よりの幸福です。
本場オランダまで摘みに行った甲斐がありましたよ」
冗談めいた言葉を紳士は穏やかに話していた。淑女は、まあ、と驚く。
「オランダまで足を運んで下さったのですか?」
「ええ。アメジストが最も綺麗に咲いた日のオランダに。
一面のチューリップ畑は、それはそれは美しかったですよ。
しかし、貴女の前では色褪せて見えますね」
淑女は少女のように頬を染める。
「あっ、あの…17歳のプレゼントが決まりましたの。ほら、其処に」
テーブルには丁寧に包装された小さな箱があった。
傍らに立っていた紳士は箱を手に取る。彼はこの病室によく訪れていた。
淑女のベッドサイドにある青いバラも、この紳士が持って来た物だった。
「17歳は何になさったのです?」
「懐中時計です。蓋の内側に名前を入れて」
「名前を? では決まったのですか?」
「はい。アンリ、と名付けたいと思っています」
「素晴らしい。16世紀フランス王の名前ですね?
気位が高く、頭脳明晰、広く国民に愛された王だ」
「よくご存知ですね。あ、もしかして」
「ええ。私は以前お会いしたことがありますから。素敵な御方でしたよ」
紳士の言葉に、淑女は嬉しそうに微笑んだ。
彼女は酷く身体が弱かった。1か月後に出産を控えていたが、
その負担に身体が耐えられない可能性を医師から告げられていた。
そして彼女が取った行動は、前もって子供の誕生日プレゼントを決めることだった。
18歳になるまで、その年に必要になりそうな物を選び、
自分の代わりに誕生日プレゼントを渡してくれるよう、この紳士に頼んでいた。
彼の持つ箱に目をやる。中には金色の懐中時計が入っている。
「懐中時計なんて、古めかしかったでしょうか?
でも似合いそうな気がしましたの。気に入って貰えると良いのですが」
「きっと気に入ってくれますよ。ではお預かりしますよ」
紳士は箱を鞄に仕舞う。
「すみません。こんなお願い事をして」
「何、お安い御用ですよ。私にとってはね」
「ありがとうございます、伯爵」
「いえ。貴女のお役に立てて幸いです」
紳士は淑女の手を取り、静かに口付ける。
白い手は滑らかで、その時はまだ、温かかった。
6月6日、無事に男の子が生まれた。
母親となった淑女の身体は限界を迎えていた。
雪のようだった肌は、更に血の気が薄くなり、今では青白くさえあった。
残り数日だろうと医者に耳打ちされていた紳士は足繁く毎日通った。
その度に淑女が最も必要としている話を語って聞かせた。
紳士の話を聞いた淑女は静かに微笑んだ。
「私は幸せ者ですね。この子の成長する様子を、
こうして先にお聞きすることができるんですもの」
「貴女は私を詐欺師とは呼ばないのですね」
「ええ。だって、私、小さい頃にも貴方にお会いしていますから。
当時から貴方をお慕いしていました。
一年前、貴方に再びお会いした時に解りましたわ。
貴方は永遠にお年を召されない御方なのだと。
だって昔と同じお綺麗なままでしたから。
私のような薄命も辛いものですが。
貴方もさぞ、お辛い想いをしたのでしょう?」
「ええ。今この時が最も辛いです」
夏の空は晴れている。この美しい人を思い出す色だった。
「ごめんなさい。貴方を置いていって」
「いいえ。貴女が謝ることでは。それに私は一人ではありません。
貴女はこの子を、アンリを授けて下さいました。貴女と私の天使を」
淑女は傍で眠る赤ん坊を見つめる。
白く、小さな手に、自らの手を重ねる。
「ごめんなさい。幸せを願うことしかできなくて。
でも大丈夫よ。貴方が必要とした時、この御方が助けて下さるわ。
貴方は、きっと素晴らしい人になる。
誰より聡明で、美しく優雅な子になることでしょう」
母親は子供の頭を優しく優しく撫でた。
「傍に居なくても、私は貴方を愛しているわ、アンリ」
柔らかい手を淑女が力なく握る。
「この子が淋しい時、そう伝えて下さいますか、伯爵」
紳士は頷いた。
「ええ。お伝えしますよ、必ず」
「ありがとう」
穏やかに微笑み、静かに瞳を閉じた。
紳士は淑女の手を取る。
誰も、愛さないと決めていた。
どんなに想っても、いずれ自分が残されてしまう。
誰も、愛してはくれないと思っていた。
彼女は紳士の言葉を全て信じてくれた。
長い時空の中で彷徨う紳士に差し伸べられた手。
温かかった。
紳士の手の中で、その温もりが徐々に消えていく。
白く美しい手に紳士は静かに口付けた。
「Adieu mon ange.(さようなら、私の天使)」
fin
■エンジュシナリオ2-1ベース
■エドガー×ヤン
■エドガー×ヤン
ぽつん、とオウムの翼に雫が落ちた。
小さな瞳が空を見上げる。
濃い灰色の雲。透明な水滴がぽたぽたと振り、どしゃ降りになった。
「アメ! ザーザー!」
散歩中だったオウムは自分の家へ一目散に飛んで行った。
アルファルド寮サロンに入ると、濡れている生徒達が数名居た。
しかしサロンは静かなもので、彼等は騒ぐ様子もない。
青ざめた顔の生徒を見つけ、オウムだけが騒いでいる。
「パスカル、カオイロワルイナ! カゼヒクゾ!」
オウムの翼にタオルが触れた。
見上げると、羽根に付いた雫を拭っているのは小麦色の手。
「ジャワハルワール! タダイマー!」
外に居た生徒達が走っている。
持っていた本や鞄を頭に乗せて、建物の影に入る。
屋根の下から夏の大きな積乱雲を仰いでいた。
重そうな雨雲から、出し過ぎたシャワーが降り注ぐ。
熱帯地方のスコールのようだった。
シュヌーシア寮サロンは、雨に濡れた、と大騒ぎだ。
世話好きの上級生達が身体の弱い生徒を甲斐甲斐しく構っている。
バトラーは慣れた様子で寮生達にタオルを運んでいた。
ウーティス寮サロンの騒ぎ具合は、
アルファルドとシュヌーシアの中間くらいだった。
サロンにシュヌーシアの生徒が顔を出した。
生徒代表のヤン・ハシェクだ。
艶のない灰色の髪も今は雨できらきらと光っている。
紺のカーディガンも肩が酷く濡れている。眼鏡は雲って白っぽい。
「ごめん…ちょっと雨宿りさせて貰っても良いかな?」
サロンに居たエドガーが立ち上がる。
「あーあー。そんなびしょびしょで。大丈夫か、ヤン」
「うん。大丈夫だと思う。あ、良かった、濡れてない」
カーディガンの中から出したのは一冊の本。
我が身を盾にして、死守したようだ。
ヤンの髪からぽたと雫が落ちる。
珍しく俊敏な動作で、雫から本を避けた。
エドガーはヤンの灰色の頭をぺしっと叩く。
「バーカ。本のこと聞いてんじゃねーよ」
髪に触れたエドガーの手も濡れた。
「バトラー。こっちにもタオルひとつ頼む」
執事から柔らかいタオルを受け取り、
自分の手を拭いてから、ヤンの頭に被せる。
「お前なあ、他の奴は本を傘にして、走って来るんだぞ」
「え。でも、僕は濡れても何ともないけど、
本はさ、濡れちゃったら、乾いても痕が残っちゃうし」
ぼそぼそと言いながら、タオルで髪に付いた雫を大雑把に拭き取る。
眼鏡を外してハンカチで拭いた。
「何ともねえことねえだろ、バカが。
シャワー貸してやるから俺の部屋使え」
「ありがと、エド。だけど僕はいいや。それより傘借りてもいいかな?
シュヌーシアに戻んなきゃ。小さい子達のこととか心配だし…はっくしゅ」
くしゃみをしたヤンに、エドガーは盛大な溜め息を吐く。
「ったく、お前はお前の心配をしろ!」
タオルで灰色の髪をわしゃわしゃと拭いた。
fin
小さな瞳が空を見上げる。
濃い灰色の雲。透明な水滴がぽたぽたと振り、どしゃ降りになった。
「アメ! ザーザー!」
散歩中だったオウムは自分の家へ一目散に飛んで行った。
アルファルド寮サロンに入ると、濡れている生徒達が数名居た。
しかしサロンは静かなもので、彼等は騒ぐ様子もない。
青ざめた顔の生徒を見つけ、オウムだけが騒いでいる。
「パスカル、カオイロワルイナ! カゼヒクゾ!」
オウムの翼にタオルが触れた。
見上げると、羽根に付いた雫を拭っているのは小麦色の手。
「ジャワハルワール! タダイマー!」
外に居た生徒達が走っている。
持っていた本や鞄を頭に乗せて、建物の影に入る。
屋根の下から夏の大きな積乱雲を仰いでいた。
重そうな雨雲から、出し過ぎたシャワーが降り注ぐ。
熱帯地方のスコールのようだった。
シュヌーシア寮サロンは、雨に濡れた、と大騒ぎだ。
世話好きの上級生達が身体の弱い生徒を甲斐甲斐しく構っている。
バトラーは慣れた様子で寮生達にタオルを運んでいた。
ウーティス寮サロンの騒ぎ具合は、
アルファルドとシュヌーシアの中間くらいだった。
サロンにシュヌーシアの生徒が顔を出した。
生徒代表のヤン・ハシェクだ。
艶のない灰色の髪も今は雨できらきらと光っている。
紺のカーディガンも肩が酷く濡れている。眼鏡は雲って白っぽい。
「ごめん…ちょっと雨宿りさせて貰っても良いかな?」
サロンに居たエドガーが立ち上がる。
「あーあー。そんなびしょびしょで。大丈夫か、ヤン」
「うん。大丈夫だと思う。あ、良かった、濡れてない」
カーディガンの中から出したのは一冊の本。
我が身を盾にして、死守したようだ。
ヤンの髪からぽたと雫が落ちる。
珍しく俊敏な動作で、雫から本を避けた。
エドガーはヤンの灰色の頭をぺしっと叩く。
「バーカ。本のこと聞いてんじゃねーよ」
髪に触れたエドガーの手も濡れた。
「バトラー。こっちにもタオルひとつ頼む」
執事から柔らかいタオルを受け取り、
自分の手を拭いてから、ヤンの頭に被せる。
「お前なあ、他の奴は本を傘にして、走って来るんだぞ」
「え。でも、僕は濡れても何ともないけど、
本はさ、濡れちゃったら、乾いても痕が残っちゃうし」
ぼそぼそと言いながら、タオルで髪に付いた雫を大雑把に拭き取る。
眼鏡を外してハンカチで拭いた。
「何ともねえことねえだろ、バカが。
シャワー貸してやるから俺の部屋使え」
「ありがと、エド。だけど僕はいいや。それより傘借りてもいいかな?
シュヌーシアに戻んなきゃ。小さい子達のこととか心配だし…はっくしゅ」
くしゃみをしたヤンに、エドガーは盛大な溜め息を吐く。
「ったく、お前はお前の心配をしろ!」
タオルで灰色の髪をわしゃわしゃと拭いた。
fin
■エドガー×ヤン
シュヌーシア寮サロンにエドガーが遊びに来ていた。
サロンにはたくさんの生徒が居た。
就寝前までのひとときを、生徒達は自由に過ごしている。
エドガーはウーティス寮だが、こちらにもよく顔を出すので、
中等部の生徒にもいつのまにか懐かれていた。
シュヌーシアの中等部は大きく分けて、
極端に人懐っこいのと、極端に人見知りな奴に二分されるようだった。
ウーティスの後輩達と比べると、なんとなく幼くて微笑ましい。
エドガーの膝の上にはシュヌーシアの中等部が一人乗っていた。
勝手に椅子にされてしまい、エドガーは動けなくなっていた。重い。
二人の前には薄い教科書がでんと開かれている。
最高学年のエドガーは唸っていた。
「てゆうか、これ何語?」
後輩は可笑しそうに笑って、先輩を振り返る。
「中等部の数学だよ? エド、解んないの?」
エドガーはこの学院に来て以来、数学の類とは縁を切っていた。
好きな科目を履修できるので、わざわざ苦手科目を取る必要がなかったからだ。
「んなもん俺が知るか」
「エド、一番年上なのにー」
「あのなあ。最高学年だからって何でも知ってるわけじゃないんだよ」
「えー。ヤンは何でも知ってるよー」
ヤン・ハシェク。シュヌーシア寮の最高学年で生徒代表。
ぼーっとした見た目とは裏腹に、数学においては、
優秀な頭脳が集まるこの学院の中でも右に出るものはいない。
ただ神は二物を与えないようで、
数学以外の知識や常識はあちこち怪しかったが。
「ヤンと俺を一緒にするな。あいつは天才だろうが」
「えっ? エドもヤンのこと天才だと思ってたの?
エド、ヤンのこといつもバカバカ言うじゃん」
「バカと天才は同じイミなんだよ」
「なんでさ? 対義語じゃないの?」
「大人になったら解るよ」
「エドだって大人じゃないじゃん」
「お前よりは大人だよー」
他の生徒が声を上げた。
「あっ、ヤン帰って来た!」
生徒代表室帰りらしいヤンがサロンに顔を出した。
サロンのあちこちから「おかえりー」「おつかれー」と声が掛かる。
ヤンはのんびりとした声で「あ、うん。ただいま」と返していた。
エドガーの膝が突然軽くなる。
膝に乗っていた後輩は、ヤンに向かって駆け出していた。
そのままヤンの腹めがけて、ぶつかる。
「ヤンー。勉強教えて。エドに聞いても解らないの」
エドガーはぷいと顔を背ける。
「悪かったな、役立たずな先輩で」
ヤンは苦笑しつつ、中等部の隣に座る。
「んと。どこが解らないの?」
「全部。もう僕、どこが解らないのか解らない」
「そっか。じゃ、最初からゆっくり解いていこうか」
「うんっ!」
のんびりとしたヤンの性格は物を教えることに長けていた。
イライラすることなく、中等部に付き合える。
子供に昔話でも聞かせるように、ひとつひとつ丁寧に説明していた。
エドガーはそんな先輩後輩を眺めながら、クッキーをつまんでいた。
「あっ。そっか!」
歓声が上がる。後輩は笑顔で先輩を見上げた。
「僕、解った!」
「うん。よくできたね。お疲れさま」
「ヤン、すごい。ヤンの説明、先生より解り易かった」
「そんなことないよ。先生に聞いてもおんなじ説明すると思うし」
「だって、あの先生には聞けないもん。顔、コワイし」
ヤンは苦笑する。
「本当は優しい先生なんだよ? あの先生も」
教科書を片付けながら、後輩は急に申し訳なさそうに言った。
「ヤン、いっつも聞いてごめんね。
ヤンにはつまんないことばっかりだよね…」
「ううん。いいんだよ、そんなこと気にしなくて。
僕はこんな方程式もあったなって懐かしいし。
それに僕も、先輩にこうやって、教えて貰ってたんだよ?
だから君も先輩になったら、後輩の子に教えてあげて?
シュヌーシアは伝統的にそういうとこだしさ。
これって、いい伝統だと思わない?」
「うん。でも僕、別にそんなに得意科目もないし…」
「そんなことないよ。君はたくさん国の名前知ってるでしょ?
この前は86か国も言えてたし」
「え。僕、そんなに言ってた?」
「うん。すごいよね、世界の国の半分も覚えてるなんて」
以前サロンで、この生徒は国の名前を暗唱して遊んでいた。
それはエドガーも見掛けていた。
隣でヤンが数えていたので、またこいつは、と思った記憶があった。
「それじゃ、僕、もう寝るね。おやすみ、ヤン」
「うん。おやすみ」
他の中等部も数名、つられたように退室していった。
エドガーはクッキーを一枚取って、ヤンの隣に座る。
「ヤン、口開けてみ?」
「え、うん」
開いた口にクッキーを押し込む。
「ほい、お疲れ。子守りのごほーび」
fin
サロンにはたくさんの生徒が居た。
就寝前までのひとときを、生徒達は自由に過ごしている。
エドガーはウーティス寮だが、こちらにもよく顔を出すので、
中等部の生徒にもいつのまにか懐かれていた。
シュヌーシアの中等部は大きく分けて、
極端に人懐っこいのと、極端に人見知りな奴に二分されるようだった。
ウーティスの後輩達と比べると、なんとなく幼くて微笑ましい。
エドガーの膝の上にはシュヌーシアの中等部が一人乗っていた。
勝手に椅子にされてしまい、エドガーは動けなくなっていた。重い。
二人の前には薄い教科書がでんと開かれている。
最高学年のエドガーは唸っていた。
「てゆうか、これ何語?」
後輩は可笑しそうに笑って、先輩を振り返る。
「中等部の数学だよ? エド、解んないの?」
エドガーはこの学院に来て以来、数学の類とは縁を切っていた。
好きな科目を履修できるので、わざわざ苦手科目を取る必要がなかったからだ。
「んなもん俺が知るか」
「エド、一番年上なのにー」
「あのなあ。最高学年だからって何でも知ってるわけじゃないんだよ」
「えー。ヤンは何でも知ってるよー」
ヤン・ハシェク。シュヌーシア寮の最高学年で生徒代表。
ぼーっとした見た目とは裏腹に、数学においては、
優秀な頭脳が集まるこの学院の中でも右に出るものはいない。
ただ神は二物を与えないようで、
数学以外の知識や常識はあちこち怪しかったが。
「ヤンと俺を一緒にするな。あいつは天才だろうが」
「えっ? エドもヤンのこと天才だと思ってたの?
エド、ヤンのこといつもバカバカ言うじゃん」
「バカと天才は同じイミなんだよ」
「なんでさ? 対義語じゃないの?」
「大人になったら解るよ」
「エドだって大人じゃないじゃん」
「お前よりは大人だよー」
他の生徒が声を上げた。
「あっ、ヤン帰って来た!」
生徒代表室帰りらしいヤンがサロンに顔を出した。
サロンのあちこちから「おかえりー」「おつかれー」と声が掛かる。
ヤンはのんびりとした声で「あ、うん。ただいま」と返していた。
エドガーの膝が突然軽くなる。
膝に乗っていた後輩は、ヤンに向かって駆け出していた。
そのままヤンの腹めがけて、ぶつかる。
「ヤンー。勉強教えて。エドに聞いても解らないの」
エドガーはぷいと顔を背ける。
「悪かったな、役立たずな先輩で」
ヤンは苦笑しつつ、中等部の隣に座る。
「んと。どこが解らないの?」
「全部。もう僕、どこが解らないのか解らない」
「そっか。じゃ、最初からゆっくり解いていこうか」
「うんっ!」
のんびりとしたヤンの性格は物を教えることに長けていた。
イライラすることなく、中等部に付き合える。
子供に昔話でも聞かせるように、ひとつひとつ丁寧に説明していた。
エドガーはそんな先輩後輩を眺めながら、クッキーをつまんでいた。
「あっ。そっか!」
歓声が上がる。後輩は笑顔で先輩を見上げた。
「僕、解った!」
「うん。よくできたね。お疲れさま」
「ヤン、すごい。ヤンの説明、先生より解り易かった」
「そんなことないよ。先生に聞いてもおんなじ説明すると思うし」
「だって、あの先生には聞けないもん。顔、コワイし」
ヤンは苦笑する。
「本当は優しい先生なんだよ? あの先生も」
教科書を片付けながら、後輩は急に申し訳なさそうに言った。
「ヤン、いっつも聞いてごめんね。
ヤンにはつまんないことばっかりだよね…」
「ううん。いいんだよ、そんなこと気にしなくて。
僕はこんな方程式もあったなって懐かしいし。
それに僕も、先輩にこうやって、教えて貰ってたんだよ?
だから君も先輩になったら、後輩の子に教えてあげて?
シュヌーシアは伝統的にそういうとこだしさ。
これって、いい伝統だと思わない?」
「うん。でも僕、別にそんなに得意科目もないし…」
「そんなことないよ。君はたくさん国の名前知ってるでしょ?
この前は86か国も言えてたし」
「え。僕、そんなに言ってた?」
「うん。すごいよね、世界の国の半分も覚えてるなんて」
以前サロンで、この生徒は国の名前を暗唱して遊んでいた。
それはエドガーも見掛けていた。
隣でヤンが数えていたので、またこいつは、と思った記憶があった。
「それじゃ、僕、もう寝るね。おやすみ、ヤン」
「うん。おやすみ」
他の中等部も数名、つられたように退室していった。
エドガーはクッキーを一枚取って、ヤンの隣に座る。
「ヤン、口開けてみ?」
「え、うん」
開いた口にクッキーを押し込む。
「ほい、お疲れ。子守りのごほーび」
fin
■ソクーロフ×ヤン
聖アルフォンソ学院 保健室。
最新鋭の設備とサディスティックな保健医の居る部屋。
保健医は電話中だった。
「誰か来たようだ。続きは今夜」
相手に有無を言わさず、素早く電話を切る。
間もなく保健室のドアは軽快にノックされた。
「入りたまえ」
「失礼しまーす」
「こんにちは、ソクーロフ先生」
先に入って来たのはウーティス寮の最高学年、エドガー・ラッセル。
立派な若い肉体と金色の短髪。
その後ろから、顔を出したのは今年度の生徒代表、ヤン・ハシェク。
よく怪我をする子で保健室の常連だ。
サイズが合っていない紺色のカーディガン。
散髪に行き遅れている灰色の髪はいつもの通りだが。
この日のヤンは眼鏡をしていなかった。
右頬に赤い線が引かれている。何か鋭利な物が通った痕だ。
「おや、ヤン…その傷はどうしたんだね?」
「聞いてくれよ、博士! このバカ、また眼鏡割ったんだ」
エドガーは簡易ベッドにどかっと座る。こちらは付き添いらしい。
医師は立ち尽くしている患者に席を勧める。
おずおずと申し訳なさそうに医師の前に座った。
「眼鏡を割った? では何か数えていたのかね?」
「そーなんだよ! もうこいつ頭の中、数字ばっかなんだ!」
エドガーは立腹しているようだ。元々感情豊かな子ではあるが、
今回は目立つ場所に傷を作ったヤンに腹を立てているのか、
いや、それを防げなかった自分が許せない、と言った方が正確なようだ。
保健医は患者の頬に手を添える。
「ではこの傷はレンズで切ったものなのだね?」
「はい。すみません、先生」
「謝ることはない。また数学のことを考えていたのだろう?
興味を深めることは良いことだ。
君は数学のこととなると、周りが見えなくなってしまうが、
恐るべき集中力だとも言える。怪我の治療は私に任せなさい。
君が好きなことを止める必要はないよ、ヤン」
患者はほっとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます、先生」
「では消毒をしよう。少し、滲みるよ?」
「はい」
保健医は消毒液にガーゼを湿らせる。
それをピンセットで持ち、ヤンの頬に付けた。
傍で見ていたエドガーが顔を歪ませる。
ヤン本人は少し遅れて眉を顰めた。
保健医は絆創膏を貼る。
「よく我慢できたね、ヤン。そうだ。暫くカウンセリングをしていなかったね。
これから少し時間を貰えるかな?」
「あ、はい」
「エドガー。すまないが、ヤンを少し借りるよ」
「どーぞどーぞ。カウンセリングついでに、
こいつのバカをちょっとでも治しといてくれると嬉しいです」
からかう友人に、ヤンは慣れた様子で笑う。
「いじわるだなあ、エドは」
エドガーは明るい笑顔で、ドアへと向かった。
「じゃ、俺は寮に帰るから。またな、ヤン」
「ん。ありがと、エド。また明日ね」
短い金髪はドアの向こうに消えた。
「さて、と」
立ち上がったカウンセラーは窓のカーテンを引いた。
保健室が薄暗い空間となる。暗闇に戸惑った生徒が口を開く。
「せんせ? あの、どうして…」
机のライトを灯す。小さなオレンジの光。
「カウンセリングの手法のひとつだよ。
人間は、暗闇に恐怖すると同時に、
安心をも覚える生き物だと言われている。
ヤン、ゆっくりと息を吸ってごらん?
そうだ、ゆっくり吐いて。ではもう一度」
生徒は言われるがままに、深い呼吸を繰り返す。
「よし。次はこのペンライトを見てごらん?」
ヤンの瞳は素直にオレンジの光を追う。
振り子のように揺れる光。
いち、に、さん……
小さく開いた口が、数を数えている。
灰色の瞳は徐々に虚ろになっていった。
「ヤン。生徒代表の仕事には慣れてきたかい?」
「はい、ぼちぼち、です」
ぼうっとした声でヤンは質問に答える。
カウンセラーはクライアントの様子を観察しながら、質問を深める。
「先月、知能検査をしただろう? 結果が出たよ」
「そう、ですか」
「どんな検査をしたか覚えているかな?」
「たくさん、計算しました」
「楽しかったかい?」
「はい。僕、またやりたいなあ」
「素晴らしい成績だったよ。まさに数学の天才だね」
「そんな…僕、数字を見るのが好きなだけですから」
「卒業後は数学の勉強を続けるのかな?」
「はい。そうだといいなって思ってます」
「君の父上は、数学の研究者だったね? どんな人なのかな?」
「いつも変なカーディガン着てて、数学のことばっかり考えてる人でした。
何かぶつぶつ言いながら、家の中とか庭とか歩いてて。
『お父さん、何してるの?』って聞いたら、怒られるんです。
『花の数を数えてたのに、どこまで数えたか忘れてしまった』って。
目に入ったもののを数えるクセがあったんです。
だから僕、お父さんに遊んで貰ったこと、あんまりなくて。
でも時々、数学の話、してくれた時がありました。
その時のお父さんは子供みたいな顔してて、楽しそうでした。
でも僕は、その時まだ数学が嫌いでした。
僕、やきもち、妬いてたのかな、数学に」
「ほう。では何故、君は数学が好きになったのかな?」
「お父さんが亡くなった後、遺品の整理してたんです。
お父さんの数学の本がでてきて。僕、ちょっと読んでみました。
それで、数字を見ていたら、僕、泣いちゃったんです。
お父さんから、もっと数学の話聞いておけば良かったなって思って」
「君はいつから数を数えることが癖になったんだい?」
「えっ…分かりません。気が付いたら数えてるんです、いつも」
「父上が亡くなった後からかい?」
「はい…そうだと思います」
ソクーロフは窓を眺め、ぽつりと独りごちた。
「成程。君もまた、父の残像を追った息子というわけか。
父と同じ道を辿った先には、一体何が見えるのだろうね」
空には4つ、雲があった。
「せんせ?」
「今日のカウンセリングは此処までにしよう。忘れなさい、ヤン」
指を鳴らす。
ヤンの灰色の瞳がまたたく。
虚ろだった瞳が元に戻る。きょろきょろと辺りを見た。
「あ、れ…僕…」
保健医は生徒の頬に手を置いて、穏やかに言った。
「ヤン。頬の傷はこれでもう良いよ」
ヤンは頬を触る。
「絆創膏…あ、そうか。僕、眼鏡壊しちゃって、
エドに怒られて…あれ? エドは?」
「エドガーなら先に寮に帰ったよ。そろそろ夕食の時間だね。君も戻りなさい」
「あ、はい、先生。ありがとうございました」
「どういたしまして。またおいで、ヤン」
保健室のドアが閉まる。
カウンセラーは眼鏡を押し上げる。
眼鏡の奥の瞳にはもう穏やかさは映っていない。
整頓された棚からヤンのカルテを引き抜く。
白衣の胸ポケットからボールペンを取る。カチリと音を鳴らす。
冷徹な瞳でカルテに今日の記録を書き残す。
保健室にボールペンと紙が擦れる音が響く。
其処に記されている文字列。
―― 異常なまでに数を数える習癖あり ――
その隣に『亡父と同じ』と記して、丸で囲んだ。
カルテを閉じる。パタンと無機質な音がした。
カウンセラーは椅子の背に凭れる。
「数学の天才、か」
白衣の胸ポケットにボールペンを差した。
fin
最新鋭の設備とサディスティックな保健医の居る部屋。
保健医は電話中だった。
「誰か来たようだ。続きは今夜」
相手に有無を言わさず、素早く電話を切る。
間もなく保健室のドアは軽快にノックされた。
「入りたまえ」
「失礼しまーす」
「こんにちは、ソクーロフ先生」
先に入って来たのはウーティス寮の最高学年、エドガー・ラッセル。
立派な若い肉体と金色の短髪。
その後ろから、顔を出したのは今年度の生徒代表、ヤン・ハシェク。
よく怪我をする子で保健室の常連だ。
サイズが合っていない紺色のカーディガン。
散髪に行き遅れている灰色の髪はいつもの通りだが。
この日のヤンは眼鏡をしていなかった。
右頬に赤い線が引かれている。何か鋭利な物が通った痕だ。
「おや、ヤン…その傷はどうしたんだね?」
「聞いてくれよ、博士! このバカ、また眼鏡割ったんだ」
エドガーは簡易ベッドにどかっと座る。こちらは付き添いらしい。
医師は立ち尽くしている患者に席を勧める。
おずおずと申し訳なさそうに医師の前に座った。
「眼鏡を割った? では何か数えていたのかね?」
「そーなんだよ! もうこいつ頭の中、数字ばっかなんだ!」
エドガーは立腹しているようだ。元々感情豊かな子ではあるが、
今回は目立つ場所に傷を作ったヤンに腹を立てているのか、
いや、それを防げなかった自分が許せない、と言った方が正確なようだ。
保健医は患者の頬に手を添える。
「ではこの傷はレンズで切ったものなのだね?」
「はい。すみません、先生」
「謝ることはない。また数学のことを考えていたのだろう?
興味を深めることは良いことだ。
君は数学のこととなると、周りが見えなくなってしまうが、
恐るべき集中力だとも言える。怪我の治療は私に任せなさい。
君が好きなことを止める必要はないよ、ヤン」
患者はほっとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます、先生」
「では消毒をしよう。少し、滲みるよ?」
「はい」
保健医は消毒液にガーゼを湿らせる。
それをピンセットで持ち、ヤンの頬に付けた。
傍で見ていたエドガーが顔を歪ませる。
ヤン本人は少し遅れて眉を顰めた。
保健医は絆創膏を貼る。
「よく我慢できたね、ヤン。そうだ。暫くカウンセリングをしていなかったね。
これから少し時間を貰えるかな?」
「あ、はい」
「エドガー。すまないが、ヤンを少し借りるよ」
「どーぞどーぞ。カウンセリングついでに、
こいつのバカをちょっとでも治しといてくれると嬉しいです」
からかう友人に、ヤンは慣れた様子で笑う。
「いじわるだなあ、エドは」
エドガーは明るい笑顔で、ドアへと向かった。
「じゃ、俺は寮に帰るから。またな、ヤン」
「ん。ありがと、エド。また明日ね」
短い金髪はドアの向こうに消えた。
「さて、と」
立ち上がったカウンセラーは窓のカーテンを引いた。
保健室が薄暗い空間となる。暗闇に戸惑った生徒が口を開く。
「せんせ? あの、どうして…」
机のライトを灯す。小さなオレンジの光。
「カウンセリングの手法のひとつだよ。
人間は、暗闇に恐怖すると同時に、
安心をも覚える生き物だと言われている。
ヤン、ゆっくりと息を吸ってごらん?
そうだ、ゆっくり吐いて。ではもう一度」
生徒は言われるがままに、深い呼吸を繰り返す。
「よし。次はこのペンライトを見てごらん?」
ヤンの瞳は素直にオレンジの光を追う。
振り子のように揺れる光。
いち、に、さん……
小さく開いた口が、数を数えている。
灰色の瞳は徐々に虚ろになっていった。
「ヤン。生徒代表の仕事には慣れてきたかい?」
「はい、ぼちぼち、です」
ぼうっとした声でヤンは質問に答える。
カウンセラーはクライアントの様子を観察しながら、質問を深める。
「先月、知能検査をしただろう? 結果が出たよ」
「そう、ですか」
「どんな検査をしたか覚えているかな?」
「たくさん、計算しました」
「楽しかったかい?」
「はい。僕、またやりたいなあ」
「素晴らしい成績だったよ。まさに数学の天才だね」
「そんな…僕、数字を見るのが好きなだけですから」
「卒業後は数学の勉強を続けるのかな?」
「はい。そうだといいなって思ってます」
「君の父上は、数学の研究者だったね? どんな人なのかな?」
「いつも変なカーディガン着てて、数学のことばっかり考えてる人でした。
何かぶつぶつ言いながら、家の中とか庭とか歩いてて。
『お父さん、何してるの?』って聞いたら、怒られるんです。
『花の数を数えてたのに、どこまで数えたか忘れてしまった』って。
目に入ったもののを数えるクセがあったんです。
だから僕、お父さんに遊んで貰ったこと、あんまりなくて。
でも時々、数学の話、してくれた時がありました。
その時のお父さんは子供みたいな顔してて、楽しそうでした。
でも僕は、その時まだ数学が嫌いでした。
僕、やきもち、妬いてたのかな、数学に」
「ほう。では何故、君は数学が好きになったのかな?」
「お父さんが亡くなった後、遺品の整理してたんです。
お父さんの数学の本がでてきて。僕、ちょっと読んでみました。
それで、数字を見ていたら、僕、泣いちゃったんです。
お父さんから、もっと数学の話聞いておけば良かったなって思って」
「君はいつから数を数えることが癖になったんだい?」
「えっ…分かりません。気が付いたら数えてるんです、いつも」
「父上が亡くなった後からかい?」
「はい…そうだと思います」
ソクーロフは窓を眺め、ぽつりと独りごちた。
「成程。君もまた、父の残像を追った息子というわけか。
父と同じ道を辿った先には、一体何が見えるのだろうね」
空には4つ、雲があった。
「せんせ?」
「今日のカウンセリングは此処までにしよう。忘れなさい、ヤン」
指を鳴らす。
ヤンの灰色の瞳がまたたく。
虚ろだった瞳が元に戻る。きょろきょろと辺りを見た。
「あ、れ…僕…」
保健医は生徒の頬に手を置いて、穏やかに言った。
「ヤン。頬の傷はこれでもう良いよ」
ヤンは頬を触る。
「絆創膏…あ、そうか。僕、眼鏡壊しちゃって、
エドに怒られて…あれ? エドは?」
「エドガーなら先に寮に帰ったよ。そろそろ夕食の時間だね。君も戻りなさい」
「あ、はい、先生。ありがとうございました」
「どういたしまして。またおいで、ヤン」
保健室のドアが閉まる。
カウンセラーは眼鏡を押し上げる。
眼鏡の奥の瞳にはもう穏やかさは映っていない。
整頓された棚からヤンのカルテを引き抜く。
白衣の胸ポケットからボールペンを取る。カチリと音を鳴らす。
冷徹な瞳でカルテに今日の記録を書き残す。
保健室にボールペンと紙が擦れる音が響く。
其処に記されている文字列。
―― 異常なまでに数を数える習癖あり ――
その隣に『亡父と同じ』と記して、丸で囲んだ。
カルテを閉じる。パタンと無機質な音がした。
カウンセラーは椅子の背に凭れる。
「数学の天才、か」
白衣の胸ポケットにボールペンを差した。
fin
■ジブリール×ヤン
■ヤンの紙飛行機 続編
■ヤンの紙飛行機 続編
新しい生徒代表が決まる朝。
ジブリールが朝食から部屋に戻ると、ドアに一通の封筒が挟まっていた。
上質な便箋には生徒代表室に来るようにと書いてあった。
無表情なまま、その文章を読み、アルファルド寮を後にした。
サロンを通ると、珍しく寮生達の顔があった。
ジブリールに対し、声を掛ける生徒は居なかった。
その方がありがたい。祝辞や激励など掛けられた方が対応に困る。
無言の見送りを背中で感じながら、寮を出て、その場所へと向かった。
生徒代表室の扉を開けると、壁に凭れて窓の外を眺めている生徒が一人居た。
今年度の生徒代表だった、ヤン・ハシェクだ。
眼鏡を通した灰色の瞳は穏やかに後継者を見つめた。
「いらっしゃい。やっぱり君だったね、ジブリール」
壁からゆっくりと身を起こし、静かな靴音を響かせながら、
ヤンはジブリールの前に立った。
「ジブリール・アブル・アルファマード。運営組織は貴方を生徒代表に任命します。
任務で知り得た全ての情報を、運営組織以外には話さないと誓いますか?」
「ああ」
後継者の返事に、ヤンは頷いて、再び口を開く。
「あ、えっと…」
「どうした?」
「あれ。なんだったかな? 続きの台詞」
「俺に聞かれても困る」
「そうだよねえ…あ、ちょっと待って」
ヤンはこそこそとメモを取り出して覗き見た。
「んっと『この学院の平和と秩序を守る為に、全力を尽くすと誓いますか?』だね」
「お前…数字は覚えられるのに、そんな短い台詞も覚えられないのか」
「ごめんね、僕、ほんとダメだよね」
「話を前に進めよう。学院の為に全力を尽くすことを誓う」
「ありがとう。ジブリール。今日から生徒代表だよ。おめでとう。
君なら、僕なんかよりしっかりしてるから、きっといい生徒代表になれるよ」
「そうか」
「うん。じゃあ、運営組織について説明するね。
僕、説明するのも上手くないから、わかんないとこあったら聞いてね?」
「ああ」
「最初は生徒代表室について話そうかな。あ、この部屋のことなんだけどね。
ええっと…あ、あの電話は、仕事以外では使っちゃダメなんだって。
でも、僕、何回か普通に使っちゃったけど。別に何も言われなかったよ」
「聞きたいことがある」
「えっ。もうわかんないとこあった? ごめん。僕、説明下手だよね…」
「お前、いつ、島を発つんだ?」
「僕? 僕はこの任命式が終わったら、すぐだよ?」
「そうか」
「どうしたの、ジブリール?」
「空港まで、見送りに行っても構わないか?」
「ほんと? 嬉しいな」
聖アルフォンソ島の空港。
ヤン一人を乗せるだけに来た単独チャーター機。
搭乗口まで来てしまったジブリールは無造作に紙を差し出した。
「これ」
「なあに?」
「『月桂樹の森』だ」
「森?」
「歌詞とタイトルを考えろと言ったのはお前だぞ、ヤン」
以前、ヤンが草笛で奏でた曲。
曲しか作っていないので、後はジブリールに決めて欲しいと言われていた。
ヤンは紙に書かれたジブリールの繊細な文字を眺める。
「覚えててくれたんだ。ありがとう。これで曲が完成するね」
洗練された歌詞が綴られている。しかしタイトルは変わっていなかった。
「あれ? ジブリール、タイトルは決めてくれなかったの?」
「そのタイトルが一番良いと思った」
「ほんと? なんだか照れちゃうな」
「ヤン。元気で」
「うん。ジブリールも。見送りまでしてくれてありがとう」
ヤンは搭乗口の向こうに消えて行った。
生徒代表としての日常にも慣れてきた頃。
天気の良い日曜日に、ジブリールは新入生の学院案内をしていた。
今日入学した生徒は背筋が良く、見るからに真面目そうな奴だった。
均整の取れた肢体から、相当運動神経が良さそうだということが伺えた。
二人は月桂樹の森に入った。
木々の間に注がれる木洩れ陽と鳥の歌声。
ジブリールは、この時初めて常との違いに気が付いた。
「そういう、ことか」
「どうしたんです? ジブリール」
森の中を柔らかな風が通り抜ける。
「俺の前の生徒代表がこう言っていたんだ。
新入生の中に一人だけ特別な生徒が居た。
彼が森に来るとナイチンゲールの歌声が大きくなったと」
「ナイチンゲールの声、ですか?」
「丁度、今のようにな」
手折った月桂樹の枝を新入生の胸に差す。
「さあ、寮に戻ろう」
「あ、はい」
新入生をシュヌーシア寮まで送り届ける。
扉の向こうに消える背中を見ながら、ジブリールは呟いた。
「クラウス・フォン・モール、か」
新入生と別れた後。
自分が住むアルファルド寮には戻らず、生徒代表室へ向かった。
思い出したことがあった。
生徒代表室の扉を開け、自分の席に座る。机の上で手を組み、顔を上げる。
猛禽類のような鋭い瞳は壁一面に飾られた肖像画を一枚一枚眺めている。
組んでいた手が解かれる。
その手をポケットに入れて、ジブリールは夕暮れの城壁へと向かった。
古びた壁の上に上る。海に落ちる夕陽が見えた。
眼下にはオレンジの水面が輝いている。
オレンジの光を浴びながら、ジブリールは一枚の紙を折っていた。
やがて出来たのは紙飛行機。
「お前の分も入れておいたぞ、ヤン」
手に持った紙飛行機。
真っ直ぐと海に向けて、手を離した。
「クイズの回答だ」
紙飛行機は風に乗り、オレンジの海へと飛んで行く。
その翼には三桁の数字が刻まれていた。
fin
ジブリールが朝食から部屋に戻ると、ドアに一通の封筒が挟まっていた。
上質な便箋には生徒代表室に来るようにと書いてあった。
無表情なまま、その文章を読み、アルファルド寮を後にした。
サロンを通ると、珍しく寮生達の顔があった。
ジブリールに対し、声を掛ける生徒は居なかった。
その方がありがたい。祝辞や激励など掛けられた方が対応に困る。
無言の見送りを背中で感じながら、寮を出て、その場所へと向かった。
生徒代表室の扉を開けると、壁に凭れて窓の外を眺めている生徒が一人居た。
今年度の生徒代表だった、ヤン・ハシェクだ。
眼鏡を通した灰色の瞳は穏やかに後継者を見つめた。
「いらっしゃい。やっぱり君だったね、ジブリール」
壁からゆっくりと身を起こし、静かな靴音を響かせながら、
ヤンはジブリールの前に立った。
「ジブリール・アブル・アルファマード。運営組織は貴方を生徒代表に任命します。
任務で知り得た全ての情報を、運営組織以外には話さないと誓いますか?」
「ああ」
後継者の返事に、ヤンは頷いて、再び口を開く。
「あ、えっと…」
「どうした?」
「あれ。なんだったかな? 続きの台詞」
「俺に聞かれても困る」
「そうだよねえ…あ、ちょっと待って」
ヤンはこそこそとメモを取り出して覗き見た。
「んっと『この学院の平和と秩序を守る為に、全力を尽くすと誓いますか?』だね」
「お前…数字は覚えられるのに、そんな短い台詞も覚えられないのか」
「ごめんね、僕、ほんとダメだよね」
「話を前に進めよう。学院の為に全力を尽くすことを誓う」
「ありがとう。ジブリール。今日から生徒代表だよ。おめでとう。
君なら、僕なんかよりしっかりしてるから、きっといい生徒代表になれるよ」
「そうか」
「うん。じゃあ、運営組織について説明するね。
僕、説明するのも上手くないから、わかんないとこあったら聞いてね?」
「ああ」
「最初は生徒代表室について話そうかな。あ、この部屋のことなんだけどね。
ええっと…あ、あの電話は、仕事以外では使っちゃダメなんだって。
でも、僕、何回か普通に使っちゃったけど。別に何も言われなかったよ」
「聞きたいことがある」
「えっ。もうわかんないとこあった? ごめん。僕、説明下手だよね…」
「お前、いつ、島を発つんだ?」
「僕? 僕はこの任命式が終わったら、すぐだよ?」
「そうか」
「どうしたの、ジブリール?」
「空港まで、見送りに行っても構わないか?」
「ほんと? 嬉しいな」
聖アルフォンソ島の空港。
ヤン一人を乗せるだけに来た単独チャーター機。
搭乗口まで来てしまったジブリールは無造作に紙を差し出した。
「これ」
「なあに?」
「『月桂樹の森』だ」
「森?」
「歌詞とタイトルを考えろと言ったのはお前だぞ、ヤン」
以前、ヤンが草笛で奏でた曲。
曲しか作っていないので、後はジブリールに決めて欲しいと言われていた。
ヤンは紙に書かれたジブリールの繊細な文字を眺める。
「覚えててくれたんだ。ありがとう。これで曲が完成するね」
洗練された歌詞が綴られている。しかしタイトルは変わっていなかった。
「あれ? ジブリール、タイトルは決めてくれなかったの?」
「そのタイトルが一番良いと思った」
「ほんと? なんだか照れちゃうな」
「ヤン。元気で」
「うん。ジブリールも。見送りまでしてくれてありがとう」
ヤンは搭乗口の向こうに消えて行った。
生徒代表としての日常にも慣れてきた頃。
天気の良い日曜日に、ジブリールは新入生の学院案内をしていた。
今日入学した生徒は背筋が良く、見るからに真面目そうな奴だった。
均整の取れた肢体から、相当運動神経が良さそうだということが伺えた。
二人は月桂樹の森に入った。
木々の間に注がれる木洩れ陽と鳥の歌声。
ジブリールは、この時初めて常との違いに気が付いた。
「そういう、ことか」
「どうしたんです? ジブリール」
森の中を柔らかな風が通り抜ける。
「俺の前の生徒代表がこう言っていたんだ。
新入生の中に一人だけ特別な生徒が居た。
彼が森に来るとナイチンゲールの歌声が大きくなったと」
「ナイチンゲールの声、ですか?」
「丁度、今のようにな」
手折った月桂樹の枝を新入生の胸に差す。
「さあ、寮に戻ろう」
「あ、はい」
新入生をシュヌーシア寮まで送り届ける。
扉の向こうに消える背中を見ながら、ジブリールは呟いた。
「クラウス・フォン・モール、か」
新入生と別れた後。
自分が住むアルファルド寮には戻らず、生徒代表室へ向かった。
思い出したことがあった。
生徒代表室の扉を開け、自分の席に座る。机の上で手を組み、顔を上げる。
猛禽類のような鋭い瞳は壁一面に飾られた肖像画を一枚一枚眺めている。
組んでいた手が解かれる。
その手をポケットに入れて、ジブリールは夕暮れの城壁へと向かった。
古びた壁の上に上る。海に落ちる夕陽が見えた。
眼下にはオレンジの水面が輝いている。
オレンジの光を浴びながら、ジブリールは一枚の紙を折っていた。
やがて出来たのは紙飛行機。
「お前の分も入れておいたぞ、ヤン」
手に持った紙飛行機。
真っ直ぐと海に向けて、手を離した。
「クイズの回答だ」
紙飛行機は風に乗り、オレンジの海へと飛んで行く。
その翼には三桁の数字が刻まれていた。
fin
■ジブリール×ヤン
■ヤンと森で 続編
■ヤンと森で 続編
「あっ、なあ、ジブリール!」
今日の講義が終わったジブリールはアルファルド寮へ戻るところだった。
擦れ違い様に呼び止めたのはエドガー・ラッセル。
ジブリールより一学年上の高等部3年。
彼をエドと呼ぶ者もいるが、ジブリールはエドガーと呼んでいた。
ウーティス寮に住むエドガーとは元々交流がなかったし、
親しみも感じていなかった。
黒髪に鋭い目付きを持つジブリールは他の生徒達には近寄り難い存在らしいが、
エドガーには気にならないのか、ジブリールにも普通に接していた。
「あのさ。ヤン、見てないか?」
ヤンというのはおそらく今年度の生徒代表だ。ヤン・ハシェク。高等部3年。
元は悪くないのに、不恰好な服装と眼鏡のせいで教授のように見える生徒。
偶に見掛けると、大抵ぼうっとして表情で歩いている。
今日はその間抜け面には会っていない。
「見ていないが」
「そっかー。サンキュ」
駆け出そうとしたエドガーを呼び止める。
「居ないのか? あいつ」
「ああ。カフェで昼一緒に食べようって言われてたんだけどさ。
来なかったんだよな、結局。あいつバカだからさー。
どっかで大怪我とかしてんじゃねえかって心配なんだよな」
教授陣にも『数学の天才』と呼ばれるヤンを、
エドガーは平気でバカ扱いしていた。
「大怪我など、どうやってするんだ?」
「あ、知らない? あいつの身体、割とあちこちに傷あるんだぜ?
前科があんだよ、色々と。あ、去年の夏なんか、一番参ったんだけどさ。
ウーティスとシュヌーシアで海に行ったんだよな。
お前達、アルファルドは参加してくんなかったけど。
で、夜は皆で星見てたりとかしてたわけ。
なんかヤン居ねえなーと思ったら、崖から落ちてて、
足くじいて動けなくなってたりとか? 星数えて、足許全然見てなかったんだと。
昨日もさー、なんか歩きながら暗算してたみたいで、柱にぶつっかてたし。
それで眼鏡割って、顔に傷作ってんだぜ、バカだろマジで」
流石にジブリールも閉口した。エドガーは短い金髪を掻く。
「だからさー、あいつ今、眼鏡掛けてないんだよなー。
見えないんだから、今日はじっとしてろって言ったのに。
何処行ったんだ、あのバカ」
エドガーはジブリールの両肩に手を置く。
「つーわけで、バカ見掛けたら回収してくれると助かるっ。んじゃな」
ぽんっと肩を叩いて駆けて行った。
ヤンが暮らすシュヌーシアの連中と手分けして、ヤンを探しに行くようだった。
エドガーはウーティス寮だが、在籍年数が長いことと、
気さくな性格から友人が多いようだった。
ウーティスとシュヌーシアの間では、情報も寮生も行き交う。
合同でバーベキューパーティやチェス大会を開催することもある。
アルファルドにもその連絡は来るのだが、誰も参加しない。
悪意はない。ただ親睦を深めることにあまり価値を置いていないだけだ。
シュヌーシアの生徒達とエドガーが学院内に散っていく。
ジブリールには次の講義があった。
俺には関係のないことだ。そう思い、次の教室へ向かった。
講義中、ジブリールは空を眺めていた。
青い四角を鳥が横切っていく。
三羽目だ。
ジブリールの猛禽類のような瞳は小さく瞬いた。
無意識のうちに鳥の数を数えていたらしい。
何気なく空を見ていただけなのに。
これではまるで――
眼鏡を掛けた穏やかな顔が浮かぶ。
同時に草笛の曲が勝手に流れた。
ヤンが吹いた草笛が、気が付くと頭の中に流れている。
講義が終わった後、寮に足が向かわなかった。
シュヌーシアの生徒達をキャンパス内で見掛けた。
首を横に振っている。
まだ見付からないのだろうか。
ジブリールは腕時計を覗く。16時。
昼から行方不明なら、4時間も姿を消していることになる。
シュヌーシアの連中が何人も探してるのに。
たった一人の生徒が見付からない。
学院内には居ないということだろうか。
ジブリールは一度寮に戻る。バトラーに車を呼ぶように頼んだ。
「今日のマージナルプリンスはジブリールか。珍しいな。お買い物?」
馴れ馴れしい金髪の運転手。
あまり得意な人種ではなかったが、こいつしか居なかったので仕方がない。
無言のまま、黄色いタクシーに乗り込む。
「さて。どちらまで行きましょうか?」
「海へ行ってくれ。海沿いを走って、学院に戻って欲しい」
運転手はミラーを覗く。
「へえ。お前さんも海? 今日は海で何かあんの?」
浜辺に到着する。聖アルフォンソ学院のプライベートビーチ。
広い砂浜にひとつだけ人影があった。
色も長さも中途半端な灰色の髪。
エドガーの言っていた通り、眼鏡を掛けていなかった。
いつもより幼く見えて、一瞬誰だか解らなかった。
腕より長いシャツの袖口と紺のカーディガン。
そのだらしない着こなしで、誰だか判断した。
ヤン・ハシェク。今、皆が探している奴だ。
片頬には絆創膏が貼られていた。それも幼く見える原因のようだ。
何故か首からストップウオッチをぶらさげている。
ジブリールは砂を踏み締めて近付いていく。
聖アルフォンソ学院の生徒代表は、何故か砂浜で走っていた。
とても遅い。運動神経というものには無縁らしい。
「わっ」
靴を砂に取られて転んだ。膝に白い砂が付く。
「ヤン…」
「いてて…あれ。今のジブリールの声、かな?」
目を細めたヤンが、ジブリールに近付いて来る。
かなり近くまでやってきて、笑顔になった。
「あっ。やっぱりジブリールだ。こんにちは。どうしたの、こんなところで?」
「お前こそ、何をしているんだ、こんなところで」
「僕? 紙飛行機」
青い紙細工を掲げた。
「何だ、それは?」
「中国発祥の遊びなんだって。紙で作った飛行機を飛ばすんだよ。
今日、数学の先生に教えて貰ったんだ。先生の紙飛行機、すっごい飛ぶんだよ」
ヤンの周りには紙で作ったらしい物が散らばっている。
これが紙飛行機という物なのだろうか。
ざっと見て30機以上はある。少しずつ形が違う。
カラフルな真四角の紙の束が置いてある。これで作ったようだ。
砂の上には木の棒が転がっている。
傍には数字の羅列と意味が読み取れない計算式。
ジブリールが問う前にヤンは質問に答えた。
「これはね、飛行時間と飛行距離の計算してたんだよ。
僕もね、よく飛ぶ紙飛行機を作りたくって。
広い場所が良いかなあと思って、海に来ちゃった」
「それを作ってどうするんだ?」
「え? 飛ばすだけだよ?」
砂の上に散らばっている紙飛行機の中から、ひとつを手に取る。
「今のとこね、これが一番良く飛ぶんだ。見ててね? それっ」
紙飛行機から手を離すと同時に、
ヤンは首から下げていたストップウオッチを押す。
紙飛行機の後を追い駆けながら、着地点まで一緒に走っている。
地面に落ちると、ストップウオッチの時間を確かめ、木の棒で砂にメモを取る。
ポケットからメジャーを出して飛行距離を測った。
ヤンはひょこっと顔を上げた。
「あっ、スゴイ。最高新記録だ」
再び木の棒を持って、何かの計算式をさらさらと書き始めた。
その間、ジブリールは黙ってヤンを見ていた。
ひとつ年上の男とは思えない程の子供っぽさ。
ヤンの灰色の瞳は少年のそれのように輝いている。
遊んでいるんだ、と感じた。
ジブリールには読むことも出来ない計算式を使って。
解を求め終わったらしいヤンは、木の棒でその数字を丸でくくった。
「ありがとう。ジブリール。君のおかげだね」
「何が」
「ジブリールが見ててくれたから、長く飛んだんだよ」
「関係ないだろう、そんなこと」
「ううん。ジブリールが居なかった時は、こんなに飛ばせなかったもん。
大天使の名前を持つ人はやっぱり違うな」
「俺はこの名前が嫌いだ」
「えっそうなの? 僕はいい名前だと思うよ?
カブリエルのアラビア語でしょ、ジブリールって。
砂漠の国の王子様にはぴったりっていうか。
イスラム教ではガブリエルが最高位の天使だし。
ネーミングセンスあるよね、予言者みたい」
「予言だと?」
「うん。君は最高位に相応しい人だから」
ヤンは折り紙を見せる。
「そうだ。ジブリールも一緒にする? 紙飛行機」
「いや、いい」
「作り方なら教えてあげるよ。簡単だからさ。ね?」
空に一番星が見えた頃。
砂浜の上に大きな叫びが飛んで来た。
「居たっ! おいっ、そこのバカ!」
バカという単語にヤンが反応する。
頭を上げて、きょろきょろする。
「あれ。エドの声?」
沿道から浜辺に降りて来たのはエドガーだった。
後方には黄色いタクシーが止まっている。
ヤンの目の前まで来て、腰に手を置いた。
「なんで海に居るんだよ、お前は」
「あ、あの…広いトコで紙飛行機したくて」
エドガーは傍に居た人物に驚いた。
「ジブリール…お前まで何やってんだ。回収してくれって言ったろ?」
「すまない…」
「えっ? 回収って?」
「お前のことだよ、お前の。皆で探してたんだぜ?
シュヌーシアの奴等もまだお前を探してる」
「えっ…僕を? どうして?」
「ったく。お前が昼メシ一緒に食おうとか言ったくせに来ないからだろうが!」
「あ…ごめん。僕、すっかり…」
「そんなことだろうと思ったけどさ」エドガーはヤンの頭に手を置く。
「ヤン、今日はどこも怪我してないのか?」
「あ、うん。大丈夫」
「そーかよ。さっさと帰るぞ、もう晩メシの時間なんだからな」
「そう言えば、僕、おなかすいたな」
「当たり前だろうが。お前は昼、食ってないんだから。行くぞ」
「あっ、ちょっと待って。紙飛行機持って帰んなきゃ」
砂浜に散乱した紙飛行機を拾い集める。
ヤンが解いた計算式を浜辺に残し、
三人は、エドガーが乗ってきたタクシーに乗り込んだ。
助手席の窓からジブリールは海を見ていた。
何故、俺は今こんなところに居るのだろう。
講義が終わって、寮に戻っている筈だ。
海なんかへ行くつもりじゃなかったのに。
後部座席ではヤンがエドガーに叱られていた。
シュヌーシア寮に到着すると、待っていた寮生達が駆け寄って来た。
「ヤン! もう何処行ってたんだよー」
「あ、えっと、海に」
「海かー。俺、天文台までは行ったんだけどな。岩とか数えてんのかなって」
「俺は聖堂。まーたガラスでも数えてんじゃないかと思って」
「身体の弱い連中もサロンで待機して、皆心配してたんだぜ?」
「ったく。世話の掛かる生徒代表だなあ」
「ごめん…」
下級生達に囲まれて、最高学年の生徒代表は身を小さくしていた。
シュヌーシアの寮生達は総出でヤンを探していたようだ。
やっと見付かってほっとしたのか皆笑顔だった。
「てゆうかさ、ヤン、手に持ってんの何?」
「これ? 紙飛行機っていう遊びでね。あ、皆もやる?」
エドガーが灰色の髪を叩く。
「ダーメだ。今日はさっさと寮に帰れ。腹減ってんだろ?」
「あっ、そうだった」
「んじゃな」
エドガーはウーティスに駆けて行く。
シュヌーシアの連中もヤンを囲んで寮に戻ろうとしていた。
「あっ、ジブリール」
ヤンの声。振り返ると、灰色の穏やかな瞳と目が合う。
「今日はありがとう。今度はもっと大きな紙飛行機作ろうね」
返事をせずに背を向ける。
ジブリールの足はアルファルド寮へと向かった。
fin
今日の講義が終わったジブリールはアルファルド寮へ戻るところだった。
擦れ違い様に呼び止めたのはエドガー・ラッセル。
ジブリールより一学年上の高等部3年。
彼をエドと呼ぶ者もいるが、ジブリールはエドガーと呼んでいた。
ウーティス寮に住むエドガーとは元々交流がなかったし、
親しみも感じていなかった。
黒髪に鋭い目付きを持つジブリールは他の生徒達には近寄り難い存在らしいが、
エドガーには気にならないのか、ジブリールにも普通に接していた。
「あのさ。ヤン、見てないか?」
ヤンというのはおそらく今年度の生徒代表だ。ヤン・ハシェク。高等部3年。
元は悪くないのに、不恰好な服装と眼鏡のせいで教授のように見える生徒。
偶に見掛けると、大抵ぼうっとして表情で歩いている。
今日はその間抜け面には会っていない。
「見ていないが」
「そっかー。サンキュ」
駆け出そうとしたエドガーを呼び止める。
「居ないのか? あいつ」
「ああ。カフェで昼一緒に食べようって言われてたんだけどさ。
来なかったんだよな、結局。あいつバカだからさー。
どっかで大怪我とかしてんじゃねえかって心配なんだよな」
教授陣にも『数学の天才』と呼ばれるヤンを、
エドガーは平気でバカ扱いしていた。
「大怪我など、どうやってするんだ?」
「あ、知らない? あいつの身体、割とあちこちに傷あるんだぜ?
前科があんだよ、色々と。あ、去年の夏なんか、一番参ったんだけどさ。
ウーティスとシュヌーシアで海に行ったんだよな。
お前達、アルファルドは参加してくんなかったけど。
で、夜は皆で星見てたりとかしてたわけ。
なんかヤン居ねえなーと思ったら、崖から落ちてて、
足くじいて動けなくなってたりとか? 星数えて、足許全然見てなかったんだと。
昨日もさー、なんか歩きながら暗算してたみたいで、柱にぶつっかてたし。
それで眼鏡割って、顔に傷作ってんだぜ、バカだろマジで」
流石にジブリールも閉口した。エドガーは短い金髪を掻く。
「だからさー、あいつ今、眼鏡掛けてないんだよなー。
見えないんだから、今日はじっとしてろって言ったのに。
何処行ったんだ、あのバカ」
エドガーはジブリールの両肩に手を置く。
「つーわけで、バカ見掛けたら回収してくれると助かるっ。んじゃな」
ぽんっと肩を叩いて駆けて行った。
ヤンが暮らすシュヌーシアの連中と手分けして、ヤンを探しに行くようだった。
エドガーはウーティス寮だが、在籍年数が長いことと、
気さくな性格から友人が多いようだった。
ウーティスとシュヌーシアの間では、情報も寮生も行き交う。
合同でバーベキューパーティやチェス大会を開催することもある。
アルファルドにもその連絡は来るのだが、誰も参加しない。
悪意はない。ただ親睦を深めることにあまり価値を置いていないだけだ。
シュヌーシアの生徒達とエドガーが学院内に散っていく。
ジブリールには次の講義があった。
俺には関係のないことだ。そう思い、次の教室へ向かった。
講義中、ジブリールは空を眺めていた。
青い四角を鳥が横切っていく。
三羽目だ。
ジブリールの猛禽類のような瞳は小さく瞬いた。
無意識のうちに鳥の数を数えていたらしい。
何気なく空を見ていただけなのに。
これではまるで――
眼鏡を掛けた穏やかな顔が浮かぶ。
同時に草笛の曲が勝手に流れた。
ヤンが吹いた草笛が、気が付くと頭の中に流れている。
講義が終わった後、寮に足が向かわなかった。
シュヌーシアの生徒達をキャンパス内で見掛けた。
首を横に振っている。
まだ見付からないのだろうか。
ジブリールは腕時計を覗く。16時。
昼から行方不明なら、4時間も姿を消していることになる。
シュヌーシアの連中が何人も探してるのに。
たった一人の生徒が見付からない。
学院内には居ないということだろうか。
ジブリールは一度寮に戻る。バトラーに車を呼ぶように頼んだ。
「今日のマージナルプリンスはジブリールか。珍しいな。お買い物?」
馴れ馴れしい金髪の運転手。
あまり得意な人種ではなかったが、こいつしか居なかったので仕方がない。
無言のまま、黄色いタクシーに乗り込む。
「さて。どちらまで行きましょうか?」
「海へ行ってくれ。海沿いを走って、学院に戻って欲しい」
運転手はミラーを覗く。
「へえ。お前さんも海? 今日は海で何かあんの?」
浜辺に到着する。聖アルフォンソ学院のプライベートビーチ。
広い砂浜にひとつだけ人影があった。
色も長さも中途半端な灰色の髪。
エドガーの言っていた通り、眼鏡を掛けていなかった。
いつもより幼く見えて、一瞬誰だか解らなかった。
腕より長いシャツの袖口と紺のカーディガン。
そのだらしない着こなしで、誰だか判断した。
ヤン・ハシェク。今、皆が探している奴だ。
片頬には絆創膏が貼られていた。それも幼く見える原因のようだ。
何故か首からストップウオッチをぶらさげている。
ジブリールは砂を踏み締めて近付いていく。
聖アルフォンソ学院の生徒代表は、何故か砂浜で走っていた。
とても遅い。運動神経というものには無縁らしい。
「わっ」
靴を砂に取られて転んだ。膝に白い砂が付く。
「ヤン…」
「いてて…あれ。今のジブリールの声、かな?」
目を細めたヤンが、ジブリールに近付いて来る。
かなり近くまでやってきて、笑顔になった。
「あっ。やっぱりジブリールだ。こんにちは。どうしたの、こんなところで?」
「お前こそ、何をしているんだ、こんなところで」
「僕? 紙飛行機」
青い紙細工を掲げた。
「何だ、それは?」
「中国発祥の遊びなんだって。紙で作った飛行機を飛ばすんだよ。
今日、数学の先生に教えて貰ったんだ。先生の紙飛行機、すっごい飛ぶんだよ」
ヤンの周りには紙で作ったらしい物が散らばっている。
これが紙飛行機という物なのだろうか。
ざっと見て30機以上はある。少しずつ形が違う。
カラフルな真四角の紙の束が置いてある。これで作ったようだ。
砂の上には木の棒が転がっている。
傍には数字の羅列と意味が読み取れない計算式。
ジブリールが問う前にヤンは質問に答えた。
「これはね、飛行時間と飛行距離の計算してたんだよ。
僕もね、よく飛ぶ紙飛行機を作りたくって。
広い場所が良いかなあと思って、海に来ちゃった」
「それを作ってどうするんだ?」
「え? 飛ばすだけだよ?」
砂の上に散らばっている紙飛行機の中から、ひとつを手に取る。
「今のとこね、これが一番良く飛ぶんだ。見ててね? それっ」
紙飛行機から手を離すと同時に、
ヤンは首から下げていたストップウオッチを押す。
紙飛行機の後を追い駆けながら、着地点まで一緒に走っている。
地面に落ちると、ストップウオッチの時間を確かめ、木の棒で砂にメモを取る。
ポケットからメジャーを出して飛行距離を測った。
ヤンはひょこっと顔を上げた。
「あっ、スゴイ。最高新記録だ」
再び木の棒を持って、何かの計算式をさらさらと書き始めた。
その間、ジブリールは黙ってヤンを見ていた。
ひとつ年上の男とは思えない程の子供っぽさ。
ヤンの灰色の瞳は少年のそれのように輝いている。
遊んでいるんだ、と感じた。
ジブリールには読むことも出来ない計算式を使って。
解を求め終わったらしいヤンは、木の棒でその数字を丸でくくった。
「ありがとう。ジブリール。君のおかげだね」
「何が」
「ジブリールが見ててくれたから、長く飛んだんだよ」
「関係ないだろう、そんなこと」
「ううん。ジブリールが居なかった時は、こんなに飛ばせなかったもん。
大天使の名前を持つ人はやっぱり違うな」
「俺はこの名前が嫌いだ」
「えっそうなの? 僕はいい名前だと思うよ?
カブリエルのアラビア語でしょ、ジブリールって。
砂漠の国の王子様にはぴったりっていうか。
イスラム教ではガブリエルが最高位の天使だし。
ネーミングセンスあるよね、予言者みたい」
「予言だと?」
「うん。君は最高位に相応しい人だから」
ヤンは折り紙を見せる。
「そうだ。ジブリールも一緒にする? 紙飛行機」
「いや、いい」
「作り方なら教えてあげるよ。簡単だからさ。ね?」
空に一番星が見えた頃。
砂浜の上に大きな叫びが飛んで来た。
「居たっ! おいっ、そこのバカ!」
バカという単語にヤンが反応する。
頭を上げて、きょろきょろする。
「あれ。エドの声?」
沿道から浜辺に降りて来たのはエドガーだった。
後方には黄色いタクシーが止まっている。
ヤンの目の前まで来て、腰に手を置いた。
「なんで海に居るんだよ、お前は」
「あ、あの…広いトコで紙飛行機したくて」
エドガーは傍に居た人物に驚いた。
「ジブリール…お前まで何やってんだ。回収してくれって言ったろ?」
「すまない…」
「えっ? 回収って?」
「お前のことだよ、お前の。皆で探してたんだぜ?
シュヌーシアの奴等もまだお前を探してる」
「えっ…僕を? どうして?」
「ったく。お前が昼メシ一緒に食おうとか言ったくせに来ないからだろうが!」
「あ…ごめん。僕、すっかり…」
「そんなことだろうと思ったけどさ」エドガーはヤンの頭に手を置く。
「ヤン、今日はどこも怪我してないのか?」
「あ、うん。大丈夫」
「そーかよ。さっさと帰るぞ、もう晩メシの時間なんだからな」
「そう言えば、僕、おなかすいたな」
「当たり前だろうが。お前は昼、食ってないんだから。行くぞ」
「あっ、ちょっと待って。紙飛行機持って帰んなきゃ」
砂浜に散乱した紙飛行機を拾い集める。
ヤンが解いた計算式を浜辺に残し、
三人は、エドガーが乗ってきたタクシーに乗り込んだ。
助手席の窓からジブリールは海を見ていた。
何故、俺は今こんなところに居るのだろう。
講義が終わって、寮に戻っている筈だ。
海なんかへ行くつもりじゃなかったのに。
後部座席ではヤンがエドガーに叱られていた。
シュヌーシア寮に到着すると、待っていた寮生達が駆け寄って来た。
「ヤン! もう何処行ってたんだよー」
「あ、えっと、海に」
「海かー。俺、天文台までは行ったんだけどな。岩とか数えてんのかなって」
「俺は聖堂。まーたガラスでも数えてんじゃないかと思って」
「身体の弱い連中もサロンで待機して、皆心配してたんだぜ?」
「ったく。世話の掛かる生徒代表だなあ」
「ごめん…」
下級生達に囲まれて、最高学年の生徒代表は身を小さくしていた。
シュヌーシアの寮生達は総出でヤンを探していたようだ。
やっと見付かってほっとしたのか皆笑顔だった。
「てゆうかさ、ヤン、手に持ってんの何?」
「これ? 紙飛行機っていう遊びでね。あ、皆もやる?」
エドガーが灰色の髪を叩く。
「ダーメだ。今日はさっさと寮に帰れ。腹減ってんだろ?」
「あっ、そうだった」
「んじゃな」
エドガーはウーティスに駆けて行く。
シュヌーシアの連中もヤンを囲んで寮に戻ろうとしていた。
「あっ、ジブリール」
ヤンの声。振り返ると、灰色の穏やかな瞳と目が合う。
「今日はありがとう。今度はもっと大きな紙飛行機作ろうね」
返事をせずに背を向ける。
ジブリールの足はアルファルド寮へと向かった。
fin
WARNING!
■エンジュシナリオ2-1、19-2ベース
■エンジュシナリオ2-1、19-2ベース
「生徒の呼び出しをする」
空が夕陽色に染まった放課後。
聖アルフォンソ学院に、風変わりな校内放送が流れた。
声の主は今年度の生徒代表、クラウス・フォン・モールだった。
「ウーティス寮のジョシュアとアンリ。
アルファルド寮のジャワハルワールとレオシュ。
話がある。すまないが生徒代表室に来て貰いたい。繰り返す。
ジョシュア、アンリ、ジャワハルワール、レオシュ。
以上の4名は生徒代表室へ。以上だ」
校内放送が終わる。
学院全体にぽかんとした沈黙が降りた。
ウーティス寮サロン。
呼ばれた生徒の一人が放送スピーカーに毒付いていた。
「何、その面子」
アンリの隣でジョシュアが同じ場所を見上げていた。
「今の…クラウスの声だよね。生徒代表が話って一体何だろう?」
アンリは机上に並べていたタロットカードを1枚手にする。
絵柄を見て、ふうと息を吐く。旅人と犬の絵。
番号は振られていない。0番のカードだ。
「Le Mat(愚か者) 成程、ね」
「アンリ? どうしたんだい?」
「確かに、あの生真面目な人が突然こんな放送を掛ける筈がないよね。
影で糸を引いている…愚か者が居るんだ」
ジョシュアは席を立つ。
「兎に角、呼ばれているから早く行こう、アンリ」
「嫌。僕は行かない。君だけで行って来て」
「そういうわけにはいかないよ、生徒代表の呼び出しだ。
何か重大な話かもしれないだろう?」
冷たい溜め息と共に、アンリは仕方なく立ち上がる。
「下らない話だと思うけど」
アルファルド寮。ジャワハルワールの部屋。
放送を聞いたオウムは真っ白な翼をはばたかせる。
「ジャワハルワール! レオシュ! ナンデ!?」
ジャワハルワールは無言のまま、首を傾けた。
オウムは肩に飛び乗る。
「セイトダイヒョウシツ!」
オウムを肩に乗せたまま、部屋を出た。
廊下を歩いていると、他のドアから一人の生徒が出て来た。
美しいストレートの長髪。
華奢ですらりと高い背に、切れ長の不機嫌な瞳。
オウムは片翼を上げる。
「レオシュ! ジョウオウはキョウもゴキゲンナナメ!」
鋭い瞳でオウム睨む。
「煩い、鳥」
吐息交じりで吐き捨てた。ハスキーなアルト。
長い髪を気だるげに掻き上げた。オウムの飼い主に尋ねる。
「おい、ジャワハルワール。私達が呼ばれる理由が解るか?」
ジャワハルワールは首を傾ける。
オウムは白い尾を左右に振っている。
「セイトダイヒョウシツ! オレンジ デルカナ?」
生徒代表室。
部屋の主は溜め息を吐いた。
「ったく。もう二度と御免だからな?」
「うん。ありがとう、クラウス」
満面の笑みを浮かべているのはシュヌーシア寮のテオだった。
10分後、生徒代表室に異色のメンバーが揃った。
第一学生寮ウーティスからはジョシュア、アンリ。
第二学生寮アルファルドからはジャワハルワール、レオシュ。
そして放送では名前が出ていなかったが、
第三学生寮シュヌーシアからはテオとクラウス。
計6人が長方形のテーブルを囲んでいる。
同じ寮の生徒同士はそれなりに親しい間柄ではあるが、
違う寮の生徒となると、ろくに会話もしたことがないようなメンバーだ。
更に言えば、クラウスにとってアンリは天敵と言えるし、
またアンリにとってはテオが天敵だ。
アルファルド寮の二人に至っては交流自体が殆どない。
アンリはテオの顔を見て、ぽつりと呟いた。
「Le Mat(愚か者)」
「どうしたの、アンリ?」
「いいや。やっぱり貴方かと思ってね。
で、この6人で何をしようと言うわけ?」
テオは机上に肘を付いて、両手を組む。
「実はね、とても楽しいイベントを思い付いたのだよ。
それで、ぜひ美しい君達に協力して貰おうと思ってね?」
「…美しい?」
「題して!『第1回 アルフォンソ・プリンセス決定戦!』」
ガタガタと椅子の音がする。アンリとレオシュが席を立った。
「Adieu(さようなら)」
「私も失礼する」
「待っておくれ! 優勝候補の君達に帰られては困るよ!」
ジョシュアは先輩の顔を立てて友人を取り成す。
「アンリ、テオの話、最後まで聞こう?」
「レオシュ、アルファルドのジョウオウ! キレイ! ビジン!」
テオは面白そうに笑って、
「おや。オウム君はよく解っているね?」
「ワカッテイルネ!」
楽しそうなのはテオとオウムだけで、生徒代表室の気温は下がっているようだった。
ジョシュアに諭されたアンリが嫌々ながらも席に戻る。
レオシュもオウムを睨みながらその隣に戻った。
機嫌の悪い毒舌家が冷たい笑みを浮かべる。
「話だけ聞いてあげるから、早く言って貰える?」
「ありがとう。アンリ。つまりね、寮から一名ずつ姫候補を選出して、
アルフォンソのプリンセスを目指して争って貰うのだよ。
ああ、ドレスはリクエストがあれば好きなものを用意するからね。
どうだい。面白そうだろう? 私は天才かと思ってしまったよ」
「テンサイ! テンサイ!」
「いやあ、ありがとう、オウム君。君とは気が合いそうだね」
「アイソウダネ!」
毒舌家はメンバーを見渡す。
「一名ずつ? ではジョシュアとジャワハルワールは何故呼ばれたの?」
「ああ、ジョシュアはこの場に居て貰った方が、
会議が前に進み易いかなと思ったんだ。
ジャワハルワールは、君の友人達に協力をお願いできないかと思ってね。
プリンセスの優勝パレードや記念撮影に動物達に参加して欲しいのだよ。
プリンセスが、より愛らしく映るだろうからね。どうだろう? 良い?」
「イイ!」
オウムが返事する。ジャワハルワールは無言だった。
アンリは頬杖を突く。
「ちなみに。シュヌーシアからは誰が出るつもりなの?」
「もちろん、クラウスだよ」
「何っ!? お前じゃないのか、テオ!?」
「私よりクラウスの方が美しいに決まっているじゃないか」
「だっ、誰が、プリンセスなんかに!」
「もしクラウスが優勝したら、貴方が欲しがっていた、
ジムの最新マシンを取り寄せる予定だよ?」
「なっ…」
ウーティスの姫候補が微笑む。優雅に足を組み変えた。
「へえ。ご褒美があるの? テオは企画者兼スポンサーというわけ?」
「もちろんだよ、アンリ。私のワガママだからね。
君も優勝した暁には何でも言っておくれ?」
「ふうん。そう言えば、貴方は海運王メネシスの子息だったね。
メネシスのポケットマネーには少し興味あるよ、僕」
アンリの琥珀の瞳がきらりと輝いた。
隣に居るジョシュアが驚いている。
「アンリ? もしかして乗り気になったのかい?」
「それはテオ次第だね」
「さて。レオシュ、君も優勝商品を考えておいておくれ」
「私は別に欲しい物などない」
オウムが元気いっぱい翼を挙げる。
「ホシイモノ! オレンジ! オレンジ!」
「ほう。オウム君はオレンジが好きなのかい?
良いよ。ではレオシュが勝ったら、
アルファルドの庭にオレンジの木をたくさん植えようか」
「オレンジ!」
「私は出場しないぞ」
オウムはジャワハルワールの肩からレオシュの前に飛んで行く。
黒い小さな瞳がレオシュを見上げている。
「レオシュ、オレンジ」
「私はオレンジなど欲しくはない」
オウムはもう一歩近付く。
「レオシュ、オレンジ!」
「だから、私はオレンジなど…」
ウルウルした黒目がレオシュを見つめている。
「…クッ…仕方、あるまい」
オウムが両翼を広げた。
「ジョウオウ! チョーキレイ! チョービジン!」
喜んでいるオウムを見て、レオシュはもう反論するのを止めたようだった。
テオは太陽の笑顔を輝かせる。
「皆、参加してくれるのだね。ありがとう。 来週、また此処で打ち合わせしよう。 ではね、美しい姫君達」
fin
空が夕陽色に染まった放課後。
聖アルフォンソ学院に、風変わりな校内放送が流れた。
声の主は今年度の生徒代表、クラウス・フォン・モールだった。
「ウーティス寮のジョシュアとアンリ。
アルファルド寮のジャワハルワールとレオシュ。
話がある。すまないが生徒代表室に来て貰いたい。繰り返す。
ジョシュア、アンリ、ジャワハルワール、レオシュ。
以上の4名は生徒代表室へ。以上だ」
校内放送が終わる。
学院全体にぽかんとした沈黙が降りた。
ウーティス寮サロン。
呼ばれた生徒の一人が放送スピーカーに毒付いていた。
「何、その面子」
アンリの隣でジョシュアが同じ場所を見上げていた。
「今の…クラウスの声だよね。生徒代表が話って一体何だろう?」
アンリは机上に並べていたタロットカードを1枚手にする。
絵柄を見て、ふうと息を吐く。旅人と犬の絵。
番号は振られていない。0番のカードだ。
「Le Mat(愚か者) 成程、ね」
「アンリ? どうしたんだい?」
「確かに、あの生真面目な人が突然こんな放送を掛ける筈がないよね。
影で糸を引いている…愚か者が居るんだ」
ジョシュアは席を立つ。
「兎に角、呼ばれているから早く行こう、アンリ」
「嫌。僕は行かない。君だけで行って来て」
「そういうわけにはいかないよ、生徒代表の呼び出しだ。
何か重大な話かもしれないだろう?」
冷たい溜め息と共に、アンリは仕方なく立ち上がる。
「下らない話だと思うけど」
アルファルド寮。ジャワハルワールの部屋。
放送を聞いたオウムは真っ白な翼をはばたかせる。
「ジャワハルワール! レオシュ! ナンデ!?」
ジャワハルワールは無言のまま、首を傾けた。
オウムは肩に飛び乗る。
「セイトダイヒョウシツ!」
オウムを肩に乗せたまま、部屋を出た。
廊下を歩いていると、他のドアから一人の生徒が出て来た。
美しいストレートの長髪。
華奢ですらりと高い背に、切れ長の不機嫌な瞳。
オウムは片翼を上げる。
「レオシュ! ジョウオウはキョウもゴキゲンナナメ!」
鋭い瞳でオウム睨む。
「煩い、鳥」
吐息交じりで吐き捨てた。ハスキーなアルト。
長い髪を気だるげに掻き上げた。オウムの飼い主に尋ねる。
「おい、ジャワハルワール。私達が呼ばれる理由が解るか?」
ジャワハルワールは首を傾ける。
オウムは白い尾を左右に振っている。
「セイトダイヒョウシツ! オレンジ デルカナ?」
生徒代表室。
部屋の主は溜め息を吐いた。
「ったく。もう二度と御免だからな?」
「うん。ありがとう、クラウス」
満面の笑みを浮かべているのはシュヌーシア寮のテオだった。
10分後、生徒代表室に異色のメンバーが揃った。
第一学生寮ウーティスからはジョシュア、アンリ。
第二学生寮アルファルドからはジャワハルワール、レオシュ。
そして放送では名前が出ていなかったが、
第三学生寮シュヌーシアからはテオとクラウス。
計6人が長方形のテーブルを囲んでいる。
同じ寮の生徒同士はそれなりに親しい間柄ではあるが、
違う寮の生徒となると、ろくに会話もしたことがないようなメンバーだ。
更に言えば、クラウスにとってアンリは天敵と言えるし、
またアンリにとってはテオが天敵だ。
アルファルド寮の二人に至っては交流自体が殆どない。
アンリはテオの顔を見て、ぽつりと呟いた。
「Le Mat(愚か者)」
「どうしたの、アンリ?」
「いいや。やっぱり貴方かと思ってね。
で、この6人で何をしようと言うわけ?」
テオは机上に肘を付いて、両手を組む。
「実はね、とても楽しいイベントを思い付いたのだよ。
それで、ぜひ美しい君達に協力して貰おうと思ってね?」
「…美しい?」
「題して!『第1回 アルフォンソ・プリンセス決定戦!』」
ガタガタと椅子の音がする。アンリとレオシュが席を立った。
「Adieu(さようなら)」
「私も失礼する」
「待っておくれ! 優勝候補の君達に帰られては困るよ!」
ジョシュアは先輩の顔を立てて友人を取り成す。
「アンリ、テオの話、最後まで聞こう?」
「レオシュ、アルファルドのジョウオウ! キレイ! ビジン!」
テオは面白そうに笑って、
「おや。オウム君はよく解っているね?」
「ワカッテイルネ!」
楽しそうなのはテオとオウムだけで、生徒代表室の気温は下がっているようだった。
ジョシュアに諭されたアンリが嫌々ながらも席に戻る。
レオシュもオウムを睨みながらその隣に戻った。
機嫌の悪い毒舌家が冷たい笑みを浮かべる。
「話だけ聞いてあげるから、早く言って貰える?」
「ありがとう。アンリ。つまりね、寮から一名ずつ姫候補を選出して、
アルフォンソのプリンセスを目指して争って貰うのだよ。
ああ、ドレスはリクエストがあれば好きなものを用意するからね。
どうだい。面白そうだろう? 私は天才かと思ってしまったよ」
「テンサイ! テンサイ!」
「いやあ、ありがとう、オウム君。君とは気が合いそうだね」
「アイソウダネ!」
毒舌家はメンバーを見渡す。
「一名ずつ? ではジョシュアとジャワハルワールは何故呼ばれたの?」
「ああ、ジョシュアはこの場に居て貰った方が、
会議が前に進み易いかなと思ったんだ。
ジャワハルワールは、君の友人達に協力をお願いできないかと思ってね。
プリンセスの優勝パレードや記念撮影に動物達に参加して欲しいのだよ。
プリンセスが、より愛らしく映るだろうからね。どうだろう? 良い?」
「イイ!」
オウムが返事する。ジャワハルワールは無言だった。
アンリは頬杖を突く。
「ちなみに。シュヌーシアからは誰が出るつもりなの?」
「もちろん、クラウスだよ」
「何っ!? お前じゃないのか、テオ!?」
「私よりクラウスの方が美しいに決まっているじゃないか」
「だっ、誰が、プリンセスなんかに!」
「もしクラウスが優勝したら、貴方が欲しがっていた、
ジムの最新マシンを取り寄せる予定だよ?」
「なっ…」
ウーティスの姫候補が微笑む。優雅に足を組み変えた。
「へえ。ご褒美があるの? テオは企画者兼スポンサーというわけ?」
「もちろんだよ、アンリ。私のワガママだからね。
君も優勝した暁には何でも言っておくれ?」
「ふうん。そう言えば、貴方は海運王メネシスの子息だったね。
メネシスのポケットマネーには少し興味あるよ、僕」
アンリの琥珀の瞳がきらりと輝いた。
隣に居るジョシュアが驚いている。
「アンリ? もしかして乗り気になったのかい?」
「それはテオ次第だね」
「さて。レオシュ、君も優勝商品を考えておいておくれ」
「私は別に欲しい物などない」
オウムが元気いっぱい翼を挙げる。
「ホシイモノ! オレンジ! オレンジ!」
「ほう。オウム君はオレンジが好きなのかい?
良いよ。ではレオシュが勝ったら、
アルファルドの庭にオレンジの木をたくさん植えようか」
「オレンジ!」
「私は出場しないぞ」
オウムはジャワハルワールの肩からレオシュの前に飛んで行く。
黒い小さな瞳がレオシュを見上げている。
「レオシュ、オレンジ」
「私はオレンジなど欲しくはない」
オウムはもう一歩近付く。
「レオシュ、オレンジ!」
「だから、私はオレンジなど…」
ウルウルした黒目がレオシュを見つめている。
「…クッ…仕方、あるまい」
オウムが両翼を広げた。
「ジョウオウ! チョーキレイ! チョービジン!」
喜んでいるオウムを見て、レオシュはもう反論するのを止めたようだった。
テオは太陽の笑顔を輝かせる。
「皆、参加してくれるのだね。ありがとう。 来週、また此処で打ち合わせしよう。 ではね、美しい姫君達」
fin
■テオ×クラウス
8月12日夜。シュヌーシア寮は海の上にあった。
テオが寮ごと誘拐してきた寮生達は、
テオ所有のクルザーで、わいわいと船上の立食ディナーを楽しんでいた。
「テオ、テオー。これ、めちゃくちゃウマイ!」
「良かった。どんどん食べておくれ」
「テオ、このハンバーグみたいの何?」
「気に入ったかい? 葡萄の葉で作ったドルマだよ」
肉や野菜を葉で包んだギリシア料理。
他にもテオの故郷の料理がテーブルいっぱいに並んでいる。
テオのリクエストにより、シュヌーシア寮のシェフ、
ドニ・ドームが3日前から下準備した料理。
潮風の中で食べるそれは、より一層美味しいものだった。
口許を汚しながら貪る中等部の頭を小突く高等部。
病弱な生徒に上着を羽織らせる生徒、料理を取り合う生徒など。
海上でも変わらず、シュヌーシアのいつもの光景が見られた。
楽しそうな面々を見て、テオは満足していた。
舳先で溜め息を吐いている人を見付けたテオは、
シャンパングラスを二つ持って、舳先に向かった。
「クラウス。船酔いしてるのかい?」
「遣り残してきた予習が気になるだけだ」
舳先で憮然として海を眺めていたのは、高等部2年のクラウス。
どうにも生真面目な性格で、いつも何かに追われているような人だった。
大らかな性格で、家族も似たような性質だったテオにとっては、
クラウスはとても凛々しく、新鮮な存在だった。
テオが微笑んでシャンパンを差し出す。
「私は明日できることは今日しない主義だよ?」
「俺は今日できることは明日に残したくない主義だ」
クラウスは渋々グラスを受け取った。淡い金色のジュースに口付ける。
「それで? なんなんだ、今日は。また急に大勢連れ出して」
「おや。熱烈なことを」
「熱烈?」
「解ったよ、クラウス。今度連れ出すのは貴方だけにする」
「…そういう意味では」
きらきらしい笑顔の隣は苦々しい。
「今日はね、ペルセウス座流星群が最も美しく見られる夜なのだよ」
「流星群? 流れ星のことか?」
「そう。たくさんの星が降るから、こちらもたくさんで愛でようと思ってね」
愛情に満ちた眼差しで星空を見上げていた。
テオが言うには、一年のうちで最高の流星群が今日だと言う。
三大流星群と呼ばれるものがあるようだ。
1月のしぶんぎ座流星群、8月のペルセウス座流星群、12月のふたご座流星群。
このうち夏に見られるペルセウス座流星群がテオは一番好きだと言う。
夏の海で見る流星群はそれはそれは豪華で壮麗、らしい。
「皆、22時頃になったら一緒に流れ星探しをしよう。
今日は極大日だから、10分に1つは見られると思うよ」
テオの言葉通り、今夜は信じられないほど星が流れた。
流星群を見るのが初めてという生徒が多かった。
「あっ!」「ドコッ!?」ひとつ流星を発見する度に歓声が上がる。
そうかと思えば、星よりデザートと、口に運んでいる生徒も居る。
ミロピタというギリシャのアップルパイ。手掴みで、ぱくついていた。
それぞれに年に一度の、天体芸術の夜を楽しんでいるようだった。
クラウスにとっても流星群は物珍しく、最初は嫌々付いて来たものの、
まるで飛行機雲のように、星が長く尾を引く様子には目を見張った。
片手には食後に用意されたギリシャスタイルのグリークコーヒー。
細かく挽いたコーヒー豆を直火で煮出したもの。
カップの底には粉砕された豆が沈殿しているので、上澄みだけを飲むコーヒーだ。
味は濃く酸味も強い為に、砂糖を多く入れて飲むのが一般的だそうだ。
ブラック党のクラウスは控えめに入れたくらいで丁度良かった。
「なかなか難しいな。今宵なら成功するかと思ったのだけど」
主催者のテオが浮かない顔だ。
暫くの間、皆と一緒に流星探しをしていたのだが、
徐々に太陽の笑顔には曇が懸かっていた。
どうせ他愛の無いことで困っているのだろうが。
クラウスは二杯目のグリークコーヒーを持って、肩に手を置いた。
「どうした、テオ」
「ああ、クラウス。実はね、私、ニッポンの伝説を聞いたんだ」
クラウスは肩を竦める。テオはオリエンタル愛好者だ。
最近もキョウゲンという伝統芸能のDVDを見せられたのだが、
クラウスには理解し難いものだった。
テオは適確に返事をしながらも、目は星空から離していない。
「伝説では、流れ星が消える前に3回願いを唱えると叶うのだって」
随分前向きな伝説だ。マッチを売っていた少女は、
流れ星を見て、「誰かが天に召された」と思うのに。
「…それはメルヘンチックというか、如何にもお前が好きそうな伝説だな」
「私、何度も挑戦しているのだけど、3回どころか1回も言えないのだよ」
「願い事が長過ぎるんじゃないのか?」
「そうだね。もっと短くすれば良いのかな。もっと早口で言うとか…」
真剣にそう言っているらしい友人を見て、クラウスは少し笑ってしまった。
流星が見える時間は、せいぜい1秒。3回など言える筈がない。
しかし、生真面目にそう言ってしまっては、テオの楽しみが終わってしまう。
「ところで、お前の願いって何なんだ、テオ」
「それはもちろん」
言い掛けてテオは慌てて口を押さえた。
「テオ?」
「危ないところだった。すまない、クラウス。
星に掛ける願い事はね、人に言ってはいけないんだ。
口に出してしまうと、叶わないのだって」
「ふうん。変わったルールのある伝説だな。まあ、お前にとっては、
そこがミステリアスで良いとか言うんだろう?」
「うん。私、もう少し挑戦してみるよ」
他の生徒達は流星を幾つ見付けたとか、
あれは何座だとか楽しそうに星空を眺めていた。
テオ一人が不安な表情で星を見上げている。
それに気付いているのはクラウスだけのようだ。
数十分後、テオはがっくりと肩を落として、
すごすごとクラウスの元へ帰って来た。
クラウスは苦笑しつつ、友人を見やる。
「駄目だったのか、3回の願い事は」
「うん。全然駄目だったよ。私の願いは叶わないのだろうか。
…ああ、一体私はどうしたら」
「そんなことで、落ち込むなよ、テオ」
「あっ」
「どうした?」
「いや、あのね、クラウス」
「ん?」
黄金の髪が潮風になびく。
「また来年の夏も、一緒にペルセウス流星群を見てくれるかい?」
「なら、お前が攫いに来い」
クラウスは、黄金の髪を、ぽんと叩いた。
「似合わないぞ、テオ。嫌だと言っても誘拐するくせに」
腕を組んで、星空を見上げる。
「来年は俺も最高学年か。早いものだな」
静かな波音。夜の海が静かに揺れている。
テオは微笑みながら呟いた。
「なんだ…最初からこうすれば良かったのだね」
「何のことだ?」
「私の願いを叶えてくれるのは、いつもクラウスだなと思ってね。
これからも私の願いを叶えておくれ? クラウス」
隙間の無い星空に、またひとつ星が流れた。
fin
テオが寮ごと誘拐してきた寮生達は、
テオ所有のクルザーで、わいわいと船上の立食ディナーを楽しんでいた。
「テオ、テオー。これ、めちゃくちゃウマイ!」
「良かった。どんどん食べておくれ」
「テオ、このハンバーグみたいの何?」
「気に入ったかい? 葡萄の葉で作ったドルマだよ」
肉や野菜を葉で包んだギリシア料理。
他にもテオの故郷の料理がテーブルいっぱいに並んでいる。
テオのリクエストにより、シュヌーシア寮のシェフ、
ドニ・ドームが3日前から下準備した料理。
潮風の中で食べるそれは、より一層美味しいものだった。
口許を汚しながら貪る中等部の頭を小突く高等部。
病弱な生徒に上着を羽織らせる生徒、料理を取り合う生徒など。
海上でも変わらず、シュヌーシアのいつもの光景が見られた。
楽しそうな面々を見て、テオは満足していた。
舳先で溜め息を吐いている人を見付けたテオは、
シャンパングラスを二つ持って、舳先に向かった。
「クラウス。船酔いしてるのかい?」
「遣り残してきた予習が気になるだけだ」
舳先で憮然として海を眺めていたのは、高等部2年のクラウス。
どうにも生真面目な性格で、いつも何かに追われているような人だった。
大らかな性格で、家族も似たような性質だったテオにとっては、
クラウスはとても凛々しく、新鮮な存在だった。
テオが微笑んでシャンパンを差し出す。
「私は明日できることは今日しない主義だよ?」
「俺は今日できることは明日に残したくない主義だ」
クラウスは渋々グラスを受け取った。淡い金色のジュースに口付ける。
「それで? なんなんだ、今日は。また急に大勢連れ出して」
「おや。熱烈なことを」
「熱烈?」
「解ったよ、クラウス。今度連れ出すのは貴方だけにする」
「…そういう意味では」
きらきらしい笑顔の隣は苦々しい。
「今日はね、ペルセウス座流星群が最も美しく見られる夜なのだよ」
「流星群? 流れ星のことか?」
「そう。たくさんの星が降るから、こちらもたくさんで愛でようと思ってね」
愛情に満ちた眼差しで星空を見上げていた。
テオが言うには、一年のうちで最高の流星群が今日だと言う。
三大流星群と呼ばれるものがあるようだ。
1月のしぶんぎ座流星群、8月のペルセウス座流星群、12月のふたご座流星群。
このうち夏に見られるペルセウス座流星群がテオは一番好きだと言う。
夏の海で見る流星群はそれはそれは豪華で壮麗、らしい。
「皆、22時頃になったら一緒に流れ星探しをしよう。
今日は極大日だから、10分に1つは見られると思うよ」
テオの言葉通り、今夜は信じられないほど星が流れた。
流星群を見るのが初めてという生徒が多かった。
「あっ!」「ドコッ!?」ひとつ流星を発見する度に歓声が上がる。
そうかと思えば、星よりデザートと、口に運んでいる生徒も居る。
ミロピタというギリシャのアップルパイ。手掴みで、ぱくついていた。
それぞれに年に一度の、天体芸術の夜を楽しんでいるようだった。
クラウスにとっても流星群は物珍しく、最初は嫌々付いて来たものの、
まるで飛行機雲のように、星が長く尾を引く様子には目を見張った。
片手には食後に用意されたギリシャスタイルのグリークコーヒー。
細かく挽いたコーヒー豆を直火で煮出したもの。
カップの底には粉砕された豆が沈殿しているので、上澄みだけを飲むコーヒーだ。
味は濃く酸味も強い為に、砂糖を多く入れて飲むのが一般的だそうだ。
ブラック党のクラウスは控えめに入れたくらいで丁度良かった。
「なかなか難しいな。今宵なら成功するかと思ったのだけど」
主催者のテオが浮かない顔だ。
暫くの間、皆と一緒に流星探しをしていたのだが、
徐々に太陽の笑顔には曇が懸かっていた。
どうせ他愛の無いことで困っているのだろうが。
クラウスは二杯目のグリークコーヒーを持って、肩に手を置いた。
「どうした、テオ」
「ああ、クラウス。実はね、私、ニッポンの伝説を聞いたんだ」
クラウスは肩を竦める。テオはオリエンタル愛好者だ。
最近もキョウゲンという伝統芸能のDVDを見せられたのだが、
クラウスには理解し難いものだった。
テオは適確に返事をしながらも、目は星空から離していない。
「伝説では、流れ星が消える前に3回願いを唱えると叶うのだって」
随分前向きな伝説だ。マッチを売っていた少女は、
流れ星を見て、「誰かが天に召された」と思うのに。
「…それはメルヘンチックというか、如何にもお前が好きそうな伝説だな」
「私、何度も挑戦しているのだけど、3回どころか1回も言えないのだよ」
「願い事が長過ぎるんじゃないのか?」
「そうだね。もっと短くすれば良いのかな。もっと早口で言うとか…」
真剣にそう言っているらしい友人を見て、クラウスは少し笑ってしまった。
流星が見える時間は、せいぜい1秒。3回など言える筈がない。
しかし、生真面目にそう言ってしまっては、テオの楽しみが終わってしまう。
「ところで、お前の願いって何なんだ、テオ」
「それはもちろん」
言い掛けてテオは慌てて口を押さえた。
「テオ?」
「危ないところだった。すまない、クラウス。
星に掛ける願い事はね、人に言ってはいけないんだ。
口に出してしまうと、叶わないのだって」
「ふうん。変わったルールのある伝説だな。まあ、お前にとっては、
そこがミステリアスで良いとか言うんだろう?」
「うん。私、もう少し挑戦してみるよ」
他の生徒達は流星を幾つ見付けたとか、
あれは何座だとか楽しそうに星空を眺めていた。
テオ一人が不安な表情で星を見上げている。
それに気付いているのはクラウスだけのようだ。
数十分後、テオはがっくりと肩を落として、
すごすごとクラウスの元へ帰って来た。
クラウスは苦笑しつつ、友人を見やる。
「駄目だったのか、3回の願い事は」
「うん。全然駄目だったよ。私の願いは叶わないのだろうか。
…ああ、一体私はどうしたら」
「そんなことで、落ち込むなよ、テオ」
「あっ」
「どうした?」
「いや、あのね、クラウス」
「ん?」
黄金の髪が潮風になびく。
「また来年の夏も、一緒にペルセウス流星群を見てくれるかい?」
「なら、お前が攫いに来い」
クラウスは、黄金の髪を、ぽんと叩いた。
「似合わないぞ、テオ。嫌だと言っても誘拐するくせに」
腕を組んで、星空を見上げる。
「来年は俺も最高学年か。早いものだな」
静かな波音。夜の海が静かに揺れている。
テオは微笑みながら呟いた。
「なんだ…最初からこうすれば良かったのだね」
「何のことだ?」
「私の願いを叶えてくれるのは、いつもクラウスだなと思ってね。
これからも私の願いを叶えておくれ? クラウス」
隙間の無い星空に、またひとつ星が流れた。
fin
WARNING!
■エンジュシナリオ5-1ベース
■エンジュシナリオ5-1ベース
聖アルフォンソ島 植物園。
アンジェロのハーブ園でアンリは一人佇んでいた。
彼が作った秘密の園。此処には毒草も植えられている。
猛毒トリカブトも美しい紫の花を付けた。
そろそろ見頃だろうと思い、アンリは一人で見に来ていた。
ローマ教皇アレクサンデル6世とその愛人の子、チェーザレ・ボルジア。
歴史から名を隠されたチェーザレの弟。アンジェロ・ボルジア。
彼は実兄を毒殺したと言われている。
ここでハーブを育てていたアンジェロは、
何を想いながら毒草に水を与えていたのだろう。
アンジェロの心情を理解することはできる。
血の繋がりがあるからと言って、殺意に結びつかないなんてことはないもの。
寧ろ、血が繋がっているからこそ、憎しみあったのだろう。
トリカブトに含まれるアコニチンの致死量は2~5グラム。
嘔吐や呼吸困難の中毒症状から、やがて死に至る。
アンジェロはどうやって兄に毒を盛ったのだろう。
即効性のある猛毒を飲ませたのか、それとも毎日少量の毒を料理に混ぜたか。
毒殺一家の兄が実の弟に毒殺される。それも宿命だったのかもしれない。
トリカブトは毒々しい紫の花を咲かせている。
アンジェロは学院では医学を学んでいたそうだから、
彼にとってこのトリカブトは薬草だったのかもしれない。
トリカブトは、修治という減毒処理を行えば鎮痛作用のある漢方薬に変わる。
毒と薬は表と裏の関係。トリカブトが毒草と化すのは、
殺意ある誰かに摘まれた時だけだ。
何もしなければ、綺麗な紫の花。
アンジェロもトリカブトだったのだろうか。
政変を目論んだ兄の陰謀によって毒薬遣いと化した弟。
兄が居なければ医者にでもなって、人の命を救っていたのかもしれない。
紫の花に蜂が止まった。
トリカブトはどんなに多くの殺意を見てきたのだろう。
君達が殺人心理に明るいのなら、教えて欲しいことがある。
――あの人は何故、僕を愛してくれなかったの?――
fin
アンジェロのハーブ園でアンリは一人佇んでいた。
彼が作った秘密の園。此処には毒草も植えられている。
猛毒トリカブトも美しい紫の花を付けた。
そろそろ見頃だろうと思い、アンリは一人で見に来ていた。
ローマ教皇アレクサンデル6世とその愛人の子、チェーザレ・ボルジア。
歴史から名を隠されたチェーザレの弟。アンジェロ・ボルジア。
彼は実兄を毒殺したと言われている。
ここでハーブを育てていたアンジェロは、
何を想いながら毒草に水を与えていたのだろう。
アンジェロの心情を理解することはできる。
血の繋がりがあるからと言って、殺意に結びつかないなんてことはないもの。
寧ろ、血が繋がっているからこそ、憎しみあったのだろう。
トリカブトに含まれるアコニチンの致死量は2~5グラム。
嘔吐や呼吸困難の中毒症状から、やがて死に至る。
アンジェロはどうやって兄に毒を盛ったのだろう。
即効性のある猛毒を飲ませたのか、それとも毎日少量の毒を料理に混ぜたか。
毒殺一家の兄が実の弟に毒殺される。それも宿命だったのかもしれない。
トリカブトは毒々しい紫の花を咲かせている。
アンジェロは学院では医学を学んでいたそうだから、
彼にとってこのトリカブトは薬草だったのかもしれない。
トリカブトは、修治という減毒処理を行えば鎮痛作用のある漢方薬に変わる。
毒と薬は表と裏の関係。トリカブトが毒草と化すのは、
殺意ある誰かに摘まれた時だけだ。
何もしなければ、綺麗な紫の花。
アンジェロもトリカブトだったのだろうか。
政変を目論んだ兄の陰謀によって毒薬遣いと化した弟。
兄が居なければ医者にでもなって、人の命を救っていたのかもしれない。
紫の花に蜂が止まった。
トリカブトはどんなに多くの殺意を見てきたのだろう。
君達が殺人心理に明るいのなら、教えて欲しいことがある。
――あの人は何故、僕を愛してくれなかったの?――
fin
■テオ×クラウス
「私ね、講義の間、ずっと考えていたのだけど」
それはクラウスが高等部2年の頃。
次代の生徒代表候補が噂され始めた時のことだった。
クラウスとテオが一緒に取っている講義の帰り。
長い廊下を歩きながら、高等部1年のテオは講義中に思案していた最終結論を発表した。
「クラウスが生徒代表になったら楽しいと思うのだよ」
最近、有力な候補者として名が挙がっているクラウスは、廊下の真ん中で溜め息を吐いた。
「…講義中に何を考えているんだ、お前は」
「貴方に学院案内をして貰いたかったなと思ってね。
もしそうなら、入学した瞬間から薔薇色の学院生活が始まったのに」
クラウスは首を横に折る。
「…薔薇?」
「貴方に案内して貰える新入生はなんて幸せ者なのだろう!
ああ、でも、そうなると一年しか傍に居られないのか。
運命的な出逢いというのも難しいものだね」
テオの言葉が意味不明になってきた。
「一人で盛り上がっているところ悪いが、俺がなるとは決まっていないんだぞ?」
テオは大きな音で手を打った。
「あっ、そうか! 別に今からでも遅くはないのだね!」
クラウスの両手は鷲掴みされ、輝く瞳で見上げられた。
「これから私を学院案内に連れて行っておくれ、クラウス!」
テオの口から飛び出す言葉は、いつも突拍子がなかったが、今日もまたとんでもない。
「…お前はまた…何を言い出すんだ、突然」
「えっ! 駄目なのかい、クラウス?」
真夏だった表情が一気に翳る。
理不尽な罪悪感にクラウスは苦々しく呟く。
「案内してどうする? お前は充分学院のことを知っているだろう?」
「良いのだよ。私は貴方と歩けるだけで楽しいから。ね、連れて行って」
「おいっ、テオ!」
案内される側に手を引かれ、二人は月桂樹の森にやってきた。
木洩れ陽の中、テオは太陽にも負けない眩しい笑顔で台詞を言う。
「うわあ。綺麗な森ですね、これは何の木なのですか?」
すっかり新入生になりきっている友人を見て、クラウスは感心しつつも呆れた。
「テオ…演技までする必要があるのか?」
「当たり前じゃないか。私は新入生役なのだよ? そしてクラウスが生徒代表役」
「だから、俺がなるとは…」
テオはミュージカル気取りなのか、頭上に向けて両手を広げる。
「ああ、なんと美しい歌声なのでしょう! あの鳥の名前は?」
「…ナイチンゲールだ」
質問と回答には激しい温度差があった。早速ダメ出しが飛んで来る。
「クラウス! そんな、そっけない! 此処で生徒代表は、森の伝説を話さなくては!
この森は私達マージナルプリンスにとって、大切な場所だろう?」
貴族出身者も確かに生徒の中には居る。
クラウスも「フォン」という貴族姓を持つのだが、
プリンスと呼ばれることにどうも抵抗があった。
だが、テオはその名称が大層気に入っているらしく、
街でマージナルプリンスと呼ばれる度に笑顔で応えていた。
「なあ、テオ。まだやるのか?」
「まだ始まったばかりだよ、クラウス。
新入生の学院案内は、生徒代表の重要な任務なのだろう? さあ、次は寮に行こう」
シュヌーシア寮に到着すると、テオは感激したように声を上げる。
「わあ。これは素晴らしい建築物ですね。一体誰が建てたのでしょう!」
「…自画自賛するな、テオ。此処はお前の家が建てたんだろうが」
「私は新入生役だと言ったじゃないか。クラウス、何故そんなに気落ちしているの?」
「お前のテンションが高過ぎるんだ」
「あっ、テオだー」
寮の庭で遊んでいた中等部が駆け寄って来る。
人気者のテオはあっという間に囲まれた。
「テオ、テオー。何やってんのー?」
「君達も一緒に来るかい? 今ね、クラウスが生徒代表になった時の為に、
学院案内の予行練習をしているのだよ」
「マジでー! 面白そうじゃん! 俺も行くー!」
「僕も僕も! 生徒代表ごっこしたい!」
「良いとも。じゃあ、皆で行こう」
集まって来た中等部が、ぞろぞろとクラウスの後ろに並ぶ。
「早く行こーぜ。生徒代表!」
「行こ行こー!」
ハイテンションな子供達に背中を押され、クラウスは額を押さえる。
「…俺は保育士か」
疲れ切っているクラウスを先頭とした、シュヌーシアの行列が学院内のあちこちを移動している。
その様子を、他の寮の生徒達は不審な表情で伺っていた。
「シュヌーシアで、アヒルの真似事が流行っているとは知らなかったね」
中でも冷たい視線を送っているのはウーティス寮中等部2年のアンリだ。
隣に居る中等部3年のジョシュアも不思議そうに見守っている。
「前の方に居るのはクラウスとテオみたいだね。新しい遊び…なのかな?」
「シュヌーシアって子供っぽいのが集まってると思ってたけど。
あれじゃ小等部みたいだよ。
此処には13歳以上しか入れない筈じゃなかった?」
「でも、なんだか皆楽しそうだよ?」
「先頭はそうでもなさそうだけどね」
ジムに辿り着いたシュヌーシア御一行は器具に乗って遊び始めた。
「そういや俺、ジム来たの初めてー!」
「あっ、これ新しい機械だ!」
自由な新入生役達を生徒代表役が叱り付ける。
「こらっ! お前達! 勝手に動くなっ! ほら、次の場所に行くぞ!」
テオはクスクスと笑う。
「流石だね。凛々しいよ、クラウス。今すぐにでも生徒代表になれそうだ」
「誰が。こんな面倒なことを」
「無理に統制を図るより、好奇心を伸ばす方が
楽しいのではないかな? 新入生も生徒代表もね?」
はしゃいでいる中等部をテオは愛おしく見つめている。
「辺境の島に居る間は、マージナルプリンスとして自由に暮らせる。
皆の好きなように過ごせば良いのだよ。それが許される稀少な空間なのだから」
先まで先頭切って騒いでいたテオが、しんみりとそう言った。
いつか、思い出す時が来るかもしれない。
そんなことを思わせる言葉だった。
テオの言葉は時折、すうっとクラウスの身体に入る。
まるで海水が砂浜に滲みるように。
それはとても自然なことに感じた。
「テオ」
「ん?」
「もし、俺が生徒代表に指名されたらの話だが…俺に務まると思うか?」
「もちろんだよ、クラウス。私は貴方が最も相応しい人だと思っている」
ジムの器具で遊んでいた中等部がばたばたとやってくる。
「俺もクラウスがいいな、生徒代表」
「っぽいもんね! クラウスって」
「うん。クラウスってさ、お父さんっぽいし」
「だよなー。口煩いとことか、うちのオヤジにソックリだよ!」
中等部の生徒達が賑やかに笑い出した。
後輩達に小言を言いながら、クラウスには新しい想いが生まれ始めていた。
――もし、自分が生徒代表になったら――
クラウスが、そう考え始めたのは、この『学院案内の予行練習』からだった。
ひと月後。クラウスの元に封筒が届いた時。
既にしっかりと心の準備ができていた。
俺が後輩と友人を守る。
その覚悟が決まっていたのは――
「おめでとう、クラウス。今宵は盛大な就任パーティをしよう!」
この、楽しいことが大好きな友人のおかげなのだろう。
fin
それはクラウスが高等部2年の頃。
次代の生徒代表候補が噂され始めた時のことだった。
クラウスとテオが一緒に取っている講義の帰り。
長い廊下を歩きながら、高等部1年のテオは講義中に思案していた最終結論を発表した。
「クラウスが生徒代表になったら楽しいと思うのだよ」
最近、有力な候補者として名が挙がっているクラウスは、廊下の真ん中で溜め息を吐いた。
「…講義中に何を考えているんだ、お前は」
「貴方に学院案内をして貰いたかったなと思ってね。
もしそうなら、入学した瞬間から薔薇色の学院生活が始まったのに」
クラウスは首を横に折る。
「…薔薇?」
「貴方に案内して貰える新入生はなんて幸せ者なのだろう!
ああ、でも、そうなると一年しか傍に居られないのか。
運命的な出逢いというのも難しいものだね」
テオの言葉が意味不明になってきた。
「一人で盛り上がっているところ悪いが、俺がなるとは決まっていないんだぞ?」
テオは大きな音で手を打った。
「あっ、そうか! 別に今からでも遅くはないのだね!」
クラウスの両手は鷲掴みされ、輝く瞳で見上げられた。
「これから私を学院案内に連れて行っておくれ、クラウス!」
テオの口から飛び出す言葉は、いつも突拍子がなかったが、今日もまたとんでもない。
「…お前はまた…何を言い出すんだ、突然」
「えっ! 駄目なのかい、クラウス?」
真夏だった表情が一気に翳る。
理不尽な罪悪感にクラウスは苦々しく呟く。
「案内してどうする? お前は充分学院のことを知っているだろう?」
「良いのだよ。私は貴方と歩けるだけで楽しいから。ね、連れて行って」
「おいっ、テオ!」
案内される側に手を引かれ、二人は月桂樹の森にやってきた。
木洩れ陽の中、テオは太陽にも負けない眩しい笑顔で台詞を言う。
「うわあ。綺麗な森ですね、これは何の木なのですか?」
すっかり新入生になりきっている友人を見て、クラウスは感心しつつも呆れた。
「テオ…演技までする必要があるのか?」
「当たり前じゃないか。私は新入生役なのだよ? そしてクラウスが生徒代表役」
「だから、俺がなるとは…」
テオはミュージカル気取りなのか、頭上に向けて両手を広げる。
「ああ、なんと美しい歌声なのでしょう! あの鳥の名前は?」
「…ナイチンゲールだ」
質問と回答には激しい温度差があった。早速ダメ出しが飛んで来る。
「クラウス! そんな、そっけない! 此処で生徒代表は、森の伝説を話さなくては!
この森は私達マージナルプリンスにとって、大切な場所だろう?」
貴族出身者も確かに生徒の中には居る。
クラウスも「フォン」という貴族姓を持つのだが、
プリンスと呼ばれることにどうも抵抗があった。
だが、テオはその名称が大層気に入っているらしく、
街でマージナルプリンスと呼ばれる度に笑顔で応えていた。
「なあ、テオ。まだやるのか?」
「まだ始まったばかりだよ、クラウス。
新入生の学院案内は、生徒代表の重要な任務なのだろう? さあ、次は寮に行こう」
シュヌーシア寮に到着すると、テオは感激したように声を上げる。
「わあ。これは素晴らしい建築物ですね。一体誰が建てたのでしょう!」
「…自画自賛するな、テオ。此処はお前の家が建てたんだろうが」
「私は新入生役だと言ったじゃないか。クラウス、何故そんなに気落ちしているの?」
「お前のテンションが高過ぎるんだ」
「あっ、テオだー」
寮の庭で遊んでいた中等部が駆け寄って来る。
人気者のテオはあっという間に囲まれた。
「テオ、テオー。何やってんのー?」
「君達も一緒に来るかい? 今ね、クラウスが生徒代表になった時の為に、
学院案内の予行練習をしているのだよ」
「マジでー! 面白そうじゃん! 俺も行くー!」
「僕も僕も! 生徒代表ごっこしたい!」
「良いとも。じゃあ、皆で行こう」
集まって来た中等部が、ぞろぞろとクラウスの後ろに並ぶ。
「早く行こーぜ。生徒代表!」
「行こ行こー!」
ハイテンションな子供達に背中を押され、クラウスは額を押さえる。
「…俺は保育士か」
疲れ切っているクラウスを先頭とした、シュヌーシアの行列が学院内のあちこちを移動している。
その様子を、他の寮の生徒達は不審な表情で伺っていた。
「シュヌーシアで、アヒルの真似事が流行っているとは知らなかったね」
中でも冷たい視線を送っているのはウーティス寮中等部2年のアンリだ。
隣に居る中等部3年のジョシュアも不思議そうに見守っている。
「前の方に居るのはクラウスとテオみたいだね。新しい遊び…なのかな?」
「シュヌーシアって子供っぽいのが集まってると思ってたけど。
あれじゃ小等部みたいだよ。
此処には13歳以上しか入れない筈じゃなかった?」
「でも、なんだか皆楽しそうだよ?」
「先頭はそうでもなさそうだけどね」
ジムに辿り着いたシュヌーシア御一行は器具に乗って遊び始めた。
「そういや俺、ジム来たの初めてー!」
「あっ、これ新しい機械だ!」
自由な新入生役達を生徒代表役が叱り付ける。
「こらっ! お前達! 勝手に動くなっ! ほら、次の場所に行くぞ!」
テオはクスクスと笑う。
「流石だね。凛々しいよ、クラウス。今すぐにでも生徒代表になれそうだ」
「誰が。こんな面倒なことを」
「無理に統制を図るより、好奇心を伸ばす方が
楽しいのではないかな? 新入生も生徒代表もね?」
はしゃいでいる中等部をテオは愛おしく見つめている。
「辺境の島に居る間は、マージナルプリンスとして自由に暮らせる。
皆の好きなように過ごせば良いのだよ。それが許される稀少な空間なのだから」
先まで先頭切って騒いでいたテオが、しんみりとそう言った。
いつか、思い出す時が来るかもしれない。
そんなことを思わせる言葉だった。
テオの言葉は時折、すうっとクラウスの身体に入る。
まるで海水が砂浜に滲みるように。
それはとても自然なことに感じた。
「テオ」
「ん?」
「もし、俺が生徒代表に指名されたらの話だが…俺に務まると思うか?」
「もちろんだよ、クラウス。私は貴方が最も相応しい人だと思っている」
ジムの器具で遊んでいた中等部がばたばたとやってくる。
「俺もクラウスがいいな、生徒代表」
「っぽいもんね! クラウスって」
「うん。クラウスってさ、お父さんっぽいし」
「だよなー。口煩いとことか、うちのオヤジにソックリだよ!」
中等部の生徒達が賑やかに笑い出した。
後輩達に小言を言いながら、クラウスには新しい想いが生まれ始めていた。
――もし、自分が生徒代表になったら――
クラウスが、そう考え始めたのは、この『学院案内の予行練習』からだった。
ひと月後。クラウスの元に封筒が届いた時。
既にしっかりと心の準備ができていた。
俺が後輩と友人を守る。
その覚悟が決まっていたのは――
「おめでとう、クラウス。今宵は盛大な就任パーティをしよう!」
この、楽しいことが大好きな友人のおかげなのだろう。
fin
■オウム
---------
---------
■オウムとミハイルとエンジュ オウム視点
-----------------------
-----------------------
■エンジュ×オウム×ミハイル
----------------------------
----------------------------
ある日。
ミハイルが月桂樹の森を散歩していた。
すると、木の実を踏んでしまった。
「ごめんね、ぼくのせいで」
「ゴメンネ!」
「えっ」
白いオウムが近くの木に止まっていた。クチバシを大きく開けて叫ぶ。
「ゴメンネ、ボクノセイデ!」
「君、喋れるんだ…あ、じゃあ、君が? アルファルド寮には、
オウムが居るって聞いてたけど、君のことなんだね」
「アルファルド! コドクナ モノ!」
「すごい。僕はねシュヌーシア寮なんだ。知ってる?」
「シュヌーシア、トモニアル キセキ!」
「よく知ってるんだね。誰に教えて貰ったんだろう?」
「ダレニ オシエテ モラッタンダロウ?」
翌日。
ミハイルが森に行くと、オウムが飛んで来た。
「ゴメンネ! ゴメンネ!」
「オウムさん。僕のこと、覚えててくれたんだ。嬉しいな」
「ゴメンネ!」
「あ、あの。僕はね、ミハイルだよ、ミハイル」
「ミハイル」
「そう。ミハイル」
「ミハイル!」
「オウムさん、すごいな」
「オウムサン、スゴイナ!」
次の日。
ミハイルが森に行くと、またオウムが飛んで来た。
「ゴメンネ!」
「あれ? 名前、覚えて貰えなかったみたいだね」
「ゴメンネ! ゴメンネ!」
「今日はね、お菓子持ってきたんだ。食べる?」
ポケットの中から取り出したものを見せる。紙に包んで持ってきたお菓子。
ビスケット、チョコレート、スポンジケーキなどの小さく切ったものだ。
オウムが翼を広げてミハイルに向かって来る。
次の瞬間、何かがキラリと光ってオウムの前を横切った。
コインがクルクルと回って倒れる。
その輝きにオウムが一直線に向かう。
コインを踏んで、嬉しそうに鳴きわめいている。
一人の生徒が空から降って来た。
黒髪に切れ長の瞳。アルファルド寮のエンジュだ。
エンジュはミハイルの手からチョコレートを取って、自分の口に入れた。
ミハイルは呆然とエンジュを見ている。
チョコレートを飲み込んだエンジュは言った。
「これは与えるな。オウムはチョコレートを食べると死ぬ」
「ええっ? うそ…」
「本当だ。アルファルドの奴は全員知っている」
「ごめんね、僕、知らなくて…」
「他の菓子も鳥には良くない」
「ごめんね、ぼく、オウムさんに酷いこと…」
涙が溢れたミハイルに、オウムがヨチヨチ近付いてきた。
小さな黒い瞳がミハイルを見上げている。
「ゴメンネ?」
「オウムさん…慰めてくれるの?」
「ゴメンネ、ゴメンネ」
「ううん。悪いのは僕。ごめんね、僕のせいで」
「オウムにはこれで良い」
エンジュが月桂樹の葉を放る。地面に落ちた葉をオウムは食べた。
立ち去ろうとするエンジュにミハイルが声を掛ける。
「あ、あの、ありがとう」
「お前に礼を言われる筋合はない」
「えっ、でも」
「そいつが居なければ、アルファルドは静か過ぎる」
葉を食べ終わったオウムは思い出したように翼を挙げる。
「エンジュ、オカエリ!」
「それは寮に帰ってから言え」
fin
ミハイルが月桂樹の森を散歩していた。
すると、木の実を踏んでしまった。
「ごめんね、ぼくのせいで」
「ゴメンネ!」
「えっ」
白いオウムが近くの木に止まっていた。クチバシを大きく開けて叫ぶ。
「ゴメンネ、ボクノセイデ!」
「君、喋れるんだ…あ、じゃあ、君が? アルファルド寮には、
オウムが居るって聞いてたけど、君のことなんだね」
「アルファルド! コドクナ モノ!」
「すごい。僕はねシュヌーシア寮なんだ。知ってる?」
「シュヌーシア、トモニアル キセキ!」
「よく知ってるんだね。誰に教えて貰ったんだろう?」
「ダレニ オシエテ モラッタンダロウ?」
翌日。
ミハイルが森に行くと、オウムが飛んで来た。
「ゴメンネ! ゴメンネ!」
「オウムさん。僕のこと、覚えててくれたんだ。嬉しいな」
「ゴメンネ!」
「あ、あの。僕はね、ミハイルだよ、ミハイル」
「ミハイル」
「そう。ミハイル」
「ミハイル!」
「オウムさん、すごいな」
「オウムサン、スゴイナ!」
次の日。
ミハイルが森に行くと、またオウムが飛んで来た。
「ゴメンネ!」
「あれ? 名前、覚えて貰えなかったみたいだね」
「ゴメンネ! ゴメンネ!」
「今日はね、お菓子持ってきたんだ。食べる?」
ポケットの中から取り出したものを見せる。紙に包んで持ってきたお菓子。
ビスケット、チョコレート、スポンジケーキなどの小さく切ったものだ。
オウムが翼を広げてミハイルに向かって来る。
次の瞬間、何かがキラリと光ってオウムの前を横切った。
コインがクルクルと回って倒れる。
その輝きにオウムが一直線に向かう。
コインを踏んで、嬉しそうに鳴きわめいている。
一人の生徒が空から降って来た。
黒髪に切れ長の瞳。アルファルド寮のエンジュだ。
エンジュはミハイルの手からチョコレートを取って、自分の口に入れた。
ミハイルは呆然とエンジュを見ている。
チョコレートを飲み込んだエンジュは言った。
「これは与えるな。オウムはチョコレートを食べると死ぬ」
「ええっ? うそ…」
「本当だ。アルファルドの奴は全員知っている」
「ごめんね、僕、知らなくて…」
「他の菓子も鳥には良くない」
「ごめんね、ぼく、オウムさんに酷いこと…」
涙が溢れたミハイルに、オウムがヨチヨチ近付いてきた。
小さな黒い瞳がミハイルを見上げている。
「ゴメンネ?」
「オウムさん…慰めてくれるの?」
「ゴメンネ、ゴメンネ」
「ううん。悪いのは僕。ごめんね、僕のせいで」
「オウムにはこれで良い」
エンジュが月桂樹の葉を放る。地面に落ちた葉をオウムは食べた。
立ち去ろうとするエンジュにミハイルが声を掛ける。
「あ、あの、ありがとう」
「お前に礼を言われる筋合はない」
「えっ、でも」
「そいつが居なければ、アルファルドは静か過ぎる」
葉を食べ終わったオウムは思い出したように翼を挙げる。
「エンジュ、オカエリ!」
「それは寮に帰ってから言え」
fin
■オウム×レッド×アンリ
-------------------------
-------------------------
「騒がしいな、何してるの、君達」
アンリがサロンの扉を開けると、一斉に寮生達が固まった。
彼等は、ベランダに留まっている鳥の傍に居た。
白いオウム。アルファルド寮のジャワハルワールが飼っている鳥だ。
ユウタはジョシュアの背中から、オウムを見ているようだった。
ジョシュアは「や、やあ、アンリ」と引き攣った笑顔を見せる。
「ジャワハルワールのオウムが遊びに来たんだよ。
それで、ちょっと…話をしてたんだ」
「鳥と?」
オウムはアンリの顔を見ると、元気良く片翼を上げた。
「プリンセス、プリンセス!」
アンリは絶対零度の微笑みを見せる。
「へえ。チキンの割りには、なかなかいい度胸じゃない?
君をコンガリ焼いてあげようか?」
ジョシュアが息を吐く。
「アンリ、オウムに噛み付くなよ」
アンリはドアへ逃げようとしている背中を見付ける。
「鳥にふざけた言葉を教えたの、誰か知ってる? レッド」
名指しされた肩が跳ねる。乾いた笑い声をあげながら、
「ジャ、ジャワハルワールじゃねーのか? 飼い主だしさ」
「仮にそうだとして。背中に隠したもの、見せてくれる?」
「これはー、お前が見ても、退屈なだけだと思うぜ?」
「退屈かどうかは僕が決めることだ」
強引に腕を引く。
ぱらぱらと落ちる写真。
青ざめるレッドを横目に、一枚の写真をアンリが拾う。
「これを鳥に見せて、言葉を教えたんだ?」
映っているのは仮装行列で純白に身を包んだプリンセス。
15歳のアンリが映っていた。
「どうして君が持っているの? 君、入学してないよね、この時」
「シ、シルヴァンに、譲って貰ったんだよ」
「ふうん。そう…」
冷笑したアンリは写真を縦に裂いた。
「うわあああ! それ、すげー高かったのに!!
おいユウタ、セロハンテープ!」
fin
アンリがサロンの扉を開けると、一斉に寮生達が固まった。
彼等は、ベランダに留まっている鳥の傍に居た。
白いオウム。アルファルド寮のジャワハルワールが飼っている鳥だ。
ユウタはジョシュアの背中から、オウムを見ているようだった。
ジョシュアは「や、やあ、アンリ」と引き攣った笑顔を見せる。
「ジャワハルワールのオウムが遊びに来たんだよ。
それで、ちょっと…話をしてたんだ」
「鳥と?」
オウムはアンリの顔を見ると、元気良く片翼を上げた。
「プリンセス、プリンセス!」
アンリは絶対零度の微笑みを見せる。
「へえ。チキンの割りには、なかなかいい度胸じゃない?
君をコンガリ焼いてあげようか?」
ジョシュアが息を吐く。
「アンリ、オウムに噛み付くなよ」
アンリはドアへ逃げようとしている背中を見付ける。
「鳥にふざけた言葉を教えたの、誰か知ってる? レッド」
名指しされた肩が跳ねる。乾いた笑い声をあげながら、
「ジャ、ジャワハルワールじゃねーのか? 飼い主だしさ」
「仮にそうだとして。背中に隠したもの、見せてくれる?」
「これはー、お前が見ても、退屈なだけだと思うぜ?」
「退屈かどうかは僕が決めることだ」
強引に腕を引く。
ぱらぱらと落ちる写真。
青ざめるレッドを横目に、一枚の写真をアンリが拾う。
「これを鳥に見せて、言葉を教えたんだ?」
映っているのは仮装行列で純白に身を包んだプリンセス。
15歳のアンリが映っていた。
「どうして君が持っているの? 君、入学してないよね、この時」
「シ、シルヴァンに、譲って貰ったんだよ」
「ふうん。そう…」
冷笑したアンリは写真を縦に裂いた。
「うわあああ! それ、すげー高かったのに!!
おいユウタ、セロハンテープ!」
fin
屋上のドアが開いた。その音でエドガーが起きた。
寝そべったまま身体ごと大欠伸をする。
ドアノブを持ち、こちらを呆然と見ていたのは、
ジブリール・アブル・アルファマード。
高等部第二学年。砂漠の国の第三王子だ。
闇色の髪に狂暴さを秘めた瞳。彼の周囲には近付けない雰囲気を醸し出していた。
それに気付かないのか、エドガーは気さくに手を挙げる。
髪の色は金色で、ジブリールとは見た目も中身も対照的だ。
「よう。ジブリール。此処、使いたかった?
ごめんなー、まだ寝てる奴居てさ」
エドガーの傍で眠っていたのはヤン。この学院の総帥だ。
ジブリールは生徒代表の寝姿をちらと見る。それにエドガーが気付いた。
「あ。これ、起こした方が良い?」
「いや。此処にもう用はない」
戻ろうとする後ろ姿に、エドガーは慌てて身を起こす。
「え? お前、何しに来たんだよ」
ぴたりと足は止まり、ジブリールは振り向かずに答えた。
「屋上で誰かが倒れていたから、来ただけだ」
「へえ? お前、そんなコワイ顔して、意外と可愛いトコあんじゃん。
心配してくれてサンキュ。ジブリール」
「心配などしていない」
ジブリールは生徒代表をもう一度盗み見る。
眼鏡を掛けていないヤンを初めて見た。
目許には消え掛かっている眼鏡の痕。睫毛は思ったより長い。
眼鏡がないだけで、普段とかなり印象が異なる。
(眼鏡のせいで、老けて見えるのか)
胸の内でジブリールはそう思った。
王子という身分の為に見目にも当然のように気を遣う。
ジブリールからすると、ヤンのルックスは在り得ない。
ワイシャツは袖口が長く、明らかに身体に合っていない。
髪の長さは中途半端だ。
伸ばすつもりもなければ、切るつもりもない。
よくその状態で居られるものだ。
品位のない紺のカーディガンの上には、緑のブレザーが掛けられている。
隣に居るエドガーはブレザーを身に着けていなかった。
「そういや、お前、こいつの跡継ぎになりそうじゃん?」
フェンスに凭れ、エドガーは夕陽を見ていた。
「まだ噂に過ぎない」
ジブリールは立ったまま、同じ方向を見やる。
ヤンの任期は、もうすぐ終わる。
『次の生徒代表はジブリールではないか』そんな噂が流れ始めていた。
エドガーは寝顔の頬を指でつっつく。
「この数学バカでも一応成り立ってんだからさ、お前にできないわけないって」
「んっ…」
灰色の瞳がのんびりと瞬く。
「あれ。なんか見えない…ここ、どこ?」
「屋上だよ。ほい、眼鏡」
エドガーが眼鏡を掛けてやると、やっと焦点があったようで表情が安心感に満ちる。
身体を起こす。ずるりと落ちたブレザーが目に入る。
「あ。これエドの…ありがとう」
「どーいたしまして」
ひょいと自分をブレザーを掴んで、颯爽と着る。
ヤンは立ち尽くしている後輩にやっと気付いた。
「あ、おはよう。ジブリール」
「おはようという時間ではない。もう夕方だ」
只でさえキツイ目付きに気付かないのか、ヤンは笑顔で受け流す。
「僕、ジブリールに話があったんだ。少し、時間貰っても良いかな?」
エドガーが立ち上がる。
「んじゃ俺、先帰るわ」
「あ、良いよ。エド。僕達、森に行くから」
よいしょっ、と立ち上がる。数学の本を大事そうに抱えた。
ヤンに連れられて、ジブリールは森へ入った。此処に来るのは久し振りだ。
先頭にしては歩みの遅いヤンに、ジブリールが尋ねる。
「話があるなら、早く言って欲しいのだが」
呼び掛けに答えず、ヤンは俯いたまま先へと進む。
月桂樹の幹に向かって直進していた。
「ヤン? おい!」
怒声レベルでやっとヤンが反応する。
「えっ…何?」
「何をぼうっとしている。後、数歩で木にぶつかっていたぞ」
目の前には硬そうな幹があった。片手を上げて、頭を掻く。
「あ、ごめん。新しい花が咲いてたから、つい数を数えてて。
ほら、あの白いの」
月桂樹の根元に小さな花があった。雑草のようで所々に生えていた。
「花びらが5枚で、花はこれで17個目。花びらは全部で79枚」
「5×17は85じゃないのか?」
「うん。6枚ね、落ちてたから。花びら」
「ヤン…そんなものを数えて何になる?」
「僕が数学の何処が好きか解るかい、ジブリール」
「知るか」
ヤンは、ふんわりと微笑んだ。
「イミのないところが好きなんだあ、僕」
少し開けた場所に来ると、ヤンは首を仰向けた。
空には一番星が光っている。
夕方になるとナイチンゲールはその美声を惜しみなく披露する。
夜から明け方まで鳴く鳥だ。木々の間を羽ばたきと鳴き声が飛び交っている。
「やっぱりなあ」
のんびりとした口調でヤンは言った。目線はナイチンゲールに向いている。
「僕、一応、生徒代表ってことになってるから、
新入生の子達を連れて学院案内するんだけど。最後にね、此処に来るんだよ。
今年も、もう何人も連れてきたんだけど、一人だけ特別な子が居たんだよね。
彼が此処に来た時ね、ナイチンゲールの鳴き声が違ってた」
ヤンは今も頭上で歌っている鳥達を仰ぐ。
「いつもより歌う個体数が多かったんだ。丁度ね、今みたいに」
そう言われても、森に訪れることの少ないジブリールにはピンとこない。
特別だという生徒が居た時と、今と、どんな共通点があると言うんだ。
「偶然じゃないのか。鳥の数なんて、いつもバラバラだろう」
「僕、ナイチンゲールは、知っているのかもしれないな、って思ったんだよね」
ヤンは月桂樹の枝を手折る。細い枝には葉が数枚付いている。
生で食べられる薄めの葉。
それを見つめたまま、ヤンは、ぼそりと言った。
「あのね、ジブリール。あんまり、気にしなくて良いと思うよ」
「何の話だ?」
ヤンは小枝を親指と人差し指で持ち、くるくると回している。
「手紙が来なければ、そのまんまなんだし。
来れば、なるしかないんだし。それでも、ま、なんとかなるからさ」
ぼそぼそと呟かれる言葉は、生徒代表の最有力候補に向けられたものらしかった。
「ヤン」
「ん?」
「お前は、生徒代表になって良かったと思うのか?」
「うーん。あ、歴代の生徒代表の人数を知ることができたのは、良かったかな」
「歴代の?」
「うん。生徒代表室、って部屋があってね、其処の壁一面に先輩方の肖像画があるんだ」
「何枚あったんだ?」
「それは…」眼鏡の奥で灰色の瞳は柔らかに細くなった。
「ヒミツにしとこうかな。僕、好きなものは最後までとっておく主義なんだよね」
先程、手折った月桂樹の小枝から、ヤンは一枚葉を取った。
「だから、ね。僕からのクイズ。楽しみにとっておいてよ」
残った枝葉をジブリールの胸ポケットに入れる。
「もし本当に、生徒代表室に来ることになったら、ジブリールも数えてごらん?
結構ね、たくさん居るんだなって数だよ?」
勝手に入れられた月桂樹の小枝。
何をする、と言おうとして相手を見ると、
ヤンは持っていた葉の表面をペロッと舐めた。
突然の奇行にジブリールが呆気に取られていると、ヤンは葉を見たまま言う。
「こうするとね、上手く鳴ってくれるんだ」
葉を唇に当てる。
すると、柔らかな音楽が流れ始めた。
見事な音階で草笛を奏でている。長閑な曲だ。牧歌的だが壮大にも感じる。
何年も前に聞いたような懐かしいメロディ。
鳥の鳴き声が先と違うことにジブリールは気付く。
ナイチンゲールの個体数が減ったように感じた。
曲が終わる。ヤンは唇から葉を離した。
「これね、『月桂樹の森』って言う曲。…ネーミングセンスないよね、僕」
照れたように頭を掻く。
「歌詞もないんだ、まだ。僕、文章考えるのって苦手なんだよね。
あ、そうだ。ジブリール。なんかさ、良い歌詞とタイトル思い付いたら、
今度僕に教えてくれないかな?」
「歌詞、だと?」
「君の言葉って繊細だからさ。
好きなんだよね。楽しみにしてるよ。じゃ」
ヤンは自分の寮、シュヌーシアへと歩いていった。
少し猫背の後ろ姿。格好が良いとは到底言えない。
風変わりな生徒代表を見ながら、ジブリールは息を吐く。
「…訳が解らん」
ジブリールは自分の住む場所、アルファルド寮へと歩き出す。
そう言えば、ヤンとこんなに話したのは初めてかもしれない。
結局、ヤンは俺に何が言いたかったのだろう。
色々なことを言われて、情報が混濁している。
今、はっきりと覚えている台詞は、
――こうするとね、上手く鳴ってくれるんだ――
何故こんなことが真っ先に浮かぶ? 一番どうでも良いことだ。
けれど、砂漠の王子は草笛の吹き方など知らなかった。
葉は此処にある。胸ポケットに差された月桂樹。
今、これを自分の唇に当てても、ヤンのようには吹けない気がした。
しかし、枝を俺に与えてどうしろと言うのだ。
要らなくなったものを俺のポケットに入れただけか? それとも何か意味が――
月桂樹の枝に手を重ねる。柔らかい葉。
木々が揺れ、葉の香りに頬を撫でられる。
穏やかな草笛の音色は、風の中に消えていった。
fin
寝そべったまま身体ごと大欠伸をする。
ドアノブを持ち、こちらを呆然と見ていたのは、
ジブリール・アブル・アルファマード。
高等部第二学年。砂漠の国の第三王子だ。
闇色の髪に狂暴さを秘めた瞳。彼の周囲には近付けない雰囲気を醸し出していた。
それに気付かないのか、エドガーは気さくに手を挙げる。
髪の色は金色で、ジブリールとは見た目も中身も対照的だ。
「よう。ジブリール。此処、使いたかった?
ごめんなー、まだ寝てる奴居てさ」
エドガーの傍で眠っていたのはヤン。この学院の総帥だ。
ジブリールは生徒代表の寝姿をちらと見る。それにエドガーが気付いた。
「あ。これ、起こした方が良い?」
「いや。此処にもう用はない」
戻ろうとする後ろ姿に、エドガーは慌てて身を起こす。
「え? お前、何しに来たんだよ」
ぴたりと足は止まり、ジブリールは振り向かずに答えた。
「屋上で誰かが倒れていたから、来ただけだ」
「へえ? お前、そんなコワイ顔して、意外と可愛いトコあんじゃん。
心配してくれてサンキュ。ジブリール」
「心配などしていない」
ジブリールは生徒代表をもう一度盗み見る。
眼鏡を掛けていないヤンを初めて見た。
目許には消え掛かっている眼鏡の痕。睫毛は思ったより長い。
眼鏡がないだけで、普段とかなり印象が異なる。
(眼鏡のせいで、老けて見えるのか)
胸の内でジブリールはそう思った。
王子という身分の為に見目にも当然のように気を遣う。
ジブリールからすると、ヤンのルックスは在り得ない。
ワイシャツは袖口が長く、明らかに身体に合っていない。
髪の長さは中途半端だ。
伸ばすつもりもなければ、切るつもりもない。
よくその状態で居られるものだ。
品位のない紺のカーディガンの上には、緑のブレザーが掛けられている。
隣に居るエドガーはブレザーを身に着けていなかった。
「そういや、お前、こいつの跡継ぎになりそうじゃん?」
フェンスに凭れ、エドガーは夕陽を見ていた。
「まだ噂に過ぎない」
ジブリールは立ったまま、同じ方向を見やる。
ヤンの任期は、もうすぐ終わる。
『次の生徒代表はジブリールではないか』そんな噂が流れ始めていた。
エドガーは寝顔の頬を指でつっつく。
「この数学バカでも一応成り立ってんだからさ、お前にできないわけないって」
「んっ…」
灰色の瞳がのんびりと瞬く。
「あれ。なんか見えない…ここ、どこ?」
「屋上だよ。ほい、眼鏡」
エドガーが眼鏡を掛けてやると、やっと焦点があったようで表情が安心感に満ちる。
身体を起こす。ずるりと落ちたブレザーが目に入る。
「あ。これエドの…ありがとう」
「どーいたしまして」
ひょいと自分をブレザーを掴んで、颯爽と着る。
ヤンは立ち尽くしている後輩にやっと気付いた。
「あ、おはよう。ジブリール」
「おはようという時間ではない。もう夕方だ」
只でさえキツイ目付きに気付かないのか、ヤンは笑顔で受け流す。
「僕、ジブリールに話があったんだ。少し、時間貰っても良いかな?」
エドガーが立ち上がる。
「んじゃ俺、先帰るわ」
「あ、良いよ。エド。僕達、森に行くから」
よいしょっ、と立ち上がる。数学の本を大事そうに抱えた。
ヤンに連れられて、ジブリールは森へ入った。此処に来るのは久し振りだ。
先頭にしては歩みの遅いヤンに、ジブリールが尋ねる。
「話があるなら、早く言って欲しいのだが」
呼び掛けに答えず、ヤンは俯いたまま先へと進む。
月桂樹の幹に向かって直進していた。
「ヤン? おい!」
怒声レベルでやっとヤンが反応する。
「えっ…何?」
「何をぼうっとしている。後、数歩で木にぶつかっていたぞ」
目の前には硬そうな幹があった。片手を上げて、頭を掻く。
「あ、ごめん。新しい花が咲いてたから、つい数を数えてて。
ほら、あの白いの」
月桂樹の根元に小さな花があった。雑草のようで所々に生えていた。
「花びらが5枚で、花はこれで17個目。花びらは全部で79枚」
「5×17は85じゃないのか?」
「うん。6枚ね、落ちてたから。花びら」
「ヤン…そんなものを数えて何になる?」
「僕が数学の何処が好きか解るかい、ジブリール」
「知るか」
ヤンは、ふんわりと微笑んだ。
「イミのないところが好きなんだあ、僕」
少し開けた場所に来ると、ヤンは首を仰向けた。
空には一番星が光っている。
夕方になるとナイチンゲールはその美声を惜しみなく披露する。
夜から明け方まで鳴く鳥だ。木々の間を羽ばたきと鳴き声が飛び交っている。
「やっぱりなあ」
のんびりとした口調でヤンは言った。目線はナイチンゲールに向いている。
「僕、一応、生徒代表ってことになってるから、
新入生の子達を連れて学院案内するんだけど。最後にね、此処に来るんだよ。
今年も、もう何人も連れてきたんだけど、一人だけ特別な子が居たんだよね。
彼が此処に来た時ね、ナイチンゲールの鳴き声が違ってた」
ヤンは今も頭上で歌っている鳥達を仰ぐ。
「いつもより歌う個体数が多かったんだ。丁度ね、今みたいに」
そう言われても、森に訪れることの少ないジブリールにはピンとこない。
特別だという生徒が居た時と、今と、どんな共通点があると言うんだ。
「偶然じゃないのか。鳥の数なんて、いつもバラバラだろう」
「僕、ナイチンゲールは、知っているのかもしれないな、って思ったんだよね」
ヤンは月桂樹の枝を手折る。細い枝には葉が数枚付いている。
生で食べられる薄めの葉。
それを見つめたまま、ヤンは、ぼそりと言った。
「あのね、ジブリール。あんまり、気にしなくて良いと思うよ」
「何の話だ?」
ヤンは小枝を親指と人差し指で持ち、くるくると回している。
「手紙が来なければ、そのまんまなんだし。
来れば、なるしかないんだし。それでも、ま、なんとかなるからさ」
ぼそぼそと呟かれる言葉は、生徒代表の最有力候補に向けられたものらしかった。
「ヤン」
「ん?」
「お前は、生徒代表になって良かったと思うのか?」
「うーん。あ、歴代の生徒代表の人数を知ることができたのは、良かったかな」
「歴代の?」
「うん。生徒代表室、って部屋があってね、其処の壁一面に先輩方の肖像画があるんだ」
「何枚あったんだ?」
「それは…」眼鏡の奥で灰色の瞳は柔らかに細くなった。
「ヒミツにしとこうかな。僕、好きなものは最後までとっておく主義なんだよね」
先程、手折った月桂樹の小枝から、ヤンは一枚葉を取った。
「だから、ね。僕からのクイズ。楽しみにとっておいてよ」
残った枝葉をジブリールの胸ポケットに入れる。
「もし本当に、生徒代表室に来ることになったら、ジブリールも数えてごらん?
結構ね、たくさん居るんだなって数だよ?」
勝手に入れられた月桂樹の小枝。
何をする、と言おうとして相手を見ると、
ヤンは持っていた葉の表面をペロッと舐めた。
突然の奇行にジブリールが呆気に取られていると、ヤンは葉を見たまま言う。
「こうするとね、上手く鳴ってくれるんだ」
葉を唇に当てる。
すると、柔らかな音楽が流れ始めた。
見事な音階で草笛を奏でている。長閑な曲だ。牧歌的だが壮大にも感じる。
何年も前に聞いたような懐かしいメロディ。
鳥の鳴き声が先と違うことにジブリールは気付く。
ナイチンゲールの個体数が減ったように感じた。
曲が終わる。ヤンは唇から葉を離した。
「これね、『月桂樹の森』って言う曲。…ネーミングセンスないよね、僕」
照れたように頭を掻く。
「歌詞もないんだ、まだ。僕、文章考えるのって苦手なんだよね。
あ、そうだ。ジブリール。なんかさ、良い歌詞とタイトル思い付いたら、
今度僕に教えてくれないかな?」
「歌詞、だと?」
「君の言葉って繊細だからさ。
好きなんだよね。楽しみにしてるよ。じゃ」
ヤンは自分の寮、シュヌーシアへと歩いていった。
少し猫背の後ろ姿。格好が良いとは到底言えない。
風変わりな生徒代表を見ながら、ジブリールは息を吐く。
「…訳が解らん」
ジブリールは自分の住む場所、アルファルド寮へと歩き出す。
そう言えば、ヤンとこんなに話したのは初めてかもしれない。
結局、ヤンは俺に何が言いたかったのだろう。
色々なことを言われて、情報が混濁している。
今、はっきりと覚えている台詞は、
――こうするとね、上手く鳴ってくれるんだ――
何故こんなことが真っ先に浮かぶ? 一番どうでも良いことだ。
けれど、砂漠の王子は草笛の吹き方など知らなかった。
葉は此処にある。胸ポケットに差された月桂樹。
今、これを自分の唇に当てても、ヤンのようには吹けない気がした。
しかし、枝を俺に与えてどうしろと言うのだ。
要らなくなったものを俺のポケットに入れただけか? それとも何か意味が――
月桂樹の枝に手を重ねる。柔らかい葉。
木々が揺れ、葉の香りに頬を撫でられる。
穏やかな草笛の音色は、風の中に消えていった。
fin
■エドガー×ヤン
■小説ベース
-----------------
■小説ベース
-----------------
聖アルフォンソ学院 第2校舎 屋上。
一人の生徒が仰向けに寝転がっていた。
艶のない灰色の髪は直接コンクリートに敷かれている。
やや長い前髪は、時折、眼鏡に掛かって邪魔そうに見える。
意図して伸ばしているというよりは、切りに行くのが面倒なだけだろう。
制服のジャケットではなく、紺のカーディガンを羽織っている。
紺の袖口から、白いシャツがだらしなく、はみ出していた。
後に背が高くなることを予定して、当時、合理的に選んだ大き目のワイシャツ。
だが、本人の希望的観測に、身長は到達しなかったのだろう。
成長期が終わる年齢になっても、今の身体に合った服は購入しなかったようだ。
ルーズな見掛け通り、身だしなみ一切に興味がない男だった。
高等部の最高学年だが、教師だと言われれば誰もが信じる風貌。
髪と同じ灰色の瞳は、空に向けられていた。
天気は良く、白い雲は悠々と流れて行く。
生徒の腹の上には一冊の本が乗っていた。
自分の身は汚れても、本は砂埃に晒すつもりはないらしい。
この男がヤン・ハシェク。今年度の生徒代表だった。
「だめだ…ぜんぜん頭が回らないや」
もそっと呟かれた独り言に明るい返事があった。
「まーた数学やってんのか、ヤン」
ヤンの視界に上下逆さまの笑顔が覆い被さる。
エドガー・ラッセル。ヤンが望んでいた理想の身長を持つ男。
短い金髪とサファイア色の瞳は快活に輝いている。
制服の上着は身に着けているが、リボンタイはない。
首許は広く開かれ、健康的な肌が覗いていた。
シュヌーシア寮のヤンとは別のウーティス寮に住むが、
同じ学年の為、付き合いは長かった。
ヤンは口許を隠しつつ大きな欠伸をする。気だるげに目をこすりながら、
「ん。数学の先生にね、面白いよってクイズの本、貸して貰ったんだ」
「ふうん。で、『数学の天才』にも解けないってわけ?」
「僕は数字見るのが好きなだけ。天才だったら、
おんなじ問題を何日も考えてないよ」
エドガーはヤンの腹に置かれた本を手に取る。ヤンの隣で胡坐を掻くと、
ぱらぱらとページを捲ってみた。数字が羅列しているのかと思いきや、
xやyなど文字ばかりだった。寧ろ読めない文字の方が多い。
「…これは地球の言語なのか? 俺には宇宙語にしか見えないが」
微笑んだヤンは、ゆっくり首をエドガーの方に傾ける。
そう言えば、二週間程前、彼が暮らすウーティス寮に新入生が入った。
13歳の生徒。聖アルフォンソ学院には中等部と高等部があるのだが、
多くの生徒は高等部以上の年齢で入学する。中等部一年から、
この孤島にやってくる生徒は、余程特殊な環境に生まれた子供と言える。
新入生の名は、ジョシュア・グラント。
ロレート公国の第一王子であり、闇の家系と呼ばれるグラント家の血を引く者。
あの少年のことを考えると、ヤンは不思議な気持ちになった。
生徒代表として、新入生を心配しているのとは少し違う。
数学のように、はっきりとした答えが出ない。
だけど、もう答えは出ているような、そんな気もする。
具体的にはまだ解らないけれど。あの子には、やはり特別なものを感じる。
きっと何か変わる。彼も、彼の周りも、月桂樹の館も。
その頃に、自分が此処に居ないのは残念だ。
「エド。あの新入生、ウーティスで元気にしてるかな?」
「ジョシュアか。特に問題はないぜ。
ただ、大人しいっていうか、控えめっていうか。
気ぃ遣いなんだよな、なんか。あいつがバカ笑いしてんの、まだ見たことねえし」
「彼はエドみたいに下品には笑わないと思うけどなあ」
「下品で悪かったな」
ヤンは空をぼんやりと眺めている。青空は高く、雲は遠い。
「ジョシュアのこと、頼むね、エド」
「任せろって。俺も中等部一年で此処に来てるからな」
面倒看が良く、頼り甲斐のあるエドガーと、
同じ寮に居れば、まあ大丈夫かな、とヤンは思った。
明確な根拠はないが、不明確な自信があった。
自分より彼の方が、生徒代表に向いていそうなのになあ。
それはヤンの素直な感想だった。
生徒代表の仕事があると、数学で遊ぶ時間が減るし。
今は自由時間だけど、眠いし、お腹も空いてるし、集中できない。
ヤンは再び、空に視線を向ける。
「あっ、そうだ。甘いもの食べたら、頭が回るかも」
「はあ?」
「脳が食べられるのはブドウ糖だけだからね。
ねえ、エド。何かお菓子持ってる? チョコとかキャンディとか」
「んなもん俺が持ってるわけねーだろ。カフェにでも行って来いよ」
「僕、お腹が空いて動けないんだ。そう言えば昨日から何も食べてないのかなあ?」
「よく食事を忘れられるな」
「クイズの本と遊んでたから。つい忘れちゃったんだよ」
「わーったよ。甘ければ何でも良いんだな?」
エドガーは屋上から出ると階段の手摺りに身を乗せて、一気に階下まで滑り降りた。
此処から一番近いのは噴水の近くにあるカフェだ。
メニューの中で一番甘そうなものを注文する。
「ホットチョコレートひとつ。テイクアウトで」
生徒達にも人気のある飲み物。一応これにも名前が付いていて、
『天使も惑う悪魔の誘惑』というのだが、その名を呼べる生徒は少なかった。
甘いホットドリンクを片手に、景気良く大股で階段を上っていく。
屋上のドアを開けると、気持ちの良い風を浴びた。
さっきと同じ姿勢の友人の傍に歩いていく。
「ヤン。ホットチョコレートでイイだろ……って、おい」
ヤンの瞳は閉じられていた。
自分の腕を枕にして、すやすやと寝息を立てている。
罪のない寝顔で、エドガーは腹が立つより先に苦笑してしまった。
どうせ、数学クイズを明け方までやっていたのだろう。よくあることだ。
エドガーには数学の何処がそんなに面白いのか皆目見当も付かないが。
ヤンは何時間でも飽きずに計算問題ができる。
こいつが受講している数学の特別授業は大学レベルを超えているらしい。
エドガーには読めない公式も、ヤンにとっては玩具のひとつなのだろう。
「ったく。数学バカが」
自分の上着を脱いで、乱雑にヤンの上に放る。
数学については天才らしいが、他一切はてんで駄目だ。
若さを感じさせる要素がない。歩くのも遅いし、腕が細くて体力もない。
いつも、ぼうっとしていて何も考えてないように見える。
話し掛けても聞こえていない。
そういう時は大抵、数学の問題を暗算しているか、何かの数を数えている。
ヤンを電卓代わりに使っている生徒も居るくらいだ。
6ケタくらいなら適当な数字を言っても、暗算で正確な答えを弾き出せる。
また、学院のあらゆる数字を知っていた。
無駄に広いキャンパスで迷子になる新入生も居るのに、
校舎や施設が全部幾つだとか、そのうち教室は幾つだとか。
終いには階段の数まで数えていた。本人曰くそれは趣味のようなもの、らしい。
しかし、暗算していて、水溜りで靴を濡らしたり、
聖堂のステンドグラスが何枚のガラスで出来ているか数えていて、
オルガンに足をぶつけて、怪我をしたこともある。
他人の目からは無駄としか思えないようなことに興味を示す。
こんな数学バカなのに、いや、だからかもしれないが、
観察眼が鋭く、人の変化にすぐ気付く一面があった。
身体の弱い生徒が毎年居るシュヌーシア寮では、ヤンの能力が大いに役立つらしい。
生徒の様子が常と違うことを誰より先に発見する。
言わば風邪の早期発見器。ヤンのおかげで大事に至らなかった例が実際多かった。
相手に関してはそれほど繊細に察することができるのだから、
もう少し自分の身なりに気を遣っても良いのではないだろうか。
先ず、短髪のエドガーからすると、ヤンの髪は伸び過ぎだ。
それに、眠っているのに、掛けたままの眼鏡。
「人に世話焼かせてばっかだなー、お前は」
そっと眼鏡を外し、傍に置く。眼鏡を掛けていない方が幾らか若く見える。
ヤンの隣に腰を下ろす。わざわざ買って来てやったホットチョコレート。
こいつが起きた頃にはとっくに冷めてしまうだろう。
ホットドリンクに口付ける。甘い。
口内に広がる濃厚なカカオ。舌で唇をぺろりと舐めた。
傍で眠る友人は一向に起きる気配はない。同じ間隔で繰り返される寝息。
その単調なリズムを聞いているうちに、
糖分で満たされたエドガーも眠たくなってきた。
「俺も、寝るかなー」
両腕をぎゅーっと伸ばして、ヤンの傍で寝転がる。
エドガーの青い瞳に、青い空が映る。大きな欠伸をひとつして、瞳を閉じた。
広い屋上で、ぽつんと並んでいる二人の生徒。
その影が長くなるまで、彼等は其処に居た。
fin
一人の生徒が仰向けに寝転がっていた。
艶のない灰色の髪は直接コンクリートに敷かれている。
やや長い前髪は、時折、眼鏡に掛かって邪魔そうに見える。
意図して伸ばしているというよりは、切りに行くのが面倒なだけだろう。
制服のジャケットではなく、紺のカーディガンを羽織っている。
紺の袖口から、白いシャツがだらしなく、はみ出していた。
後に背が高くなることを予定して、当時、合理的に選んだ大き目のワイシャツ。
だが、本人の希望的観測に、身長は到達しなかったのだろう。
成長期が終わる年齢になっても、今の身体に合った服は購入しなかったようだ。
ルーズな見掛け通り、身だしなみ一切に興味がない男だった。
高等部の最高学年だが、教師だと言われれば誰もが信じる風貌。
髪と同じ灰色の瞳は、空に向けられていた。
天気は良く、白い雲は悠々と流れて行く。
生徒の腹の上には一冊の本が乗っていた。
自分の身は汚れても、本は砂埃に晒すつもりはないらしい。
この男がヤン・ハシェク。今年度の生徒代表だった。
「だめだ…ぜんぜん頭が回らないや」
もそっと呟かれた独り言に明るい返事があった。
「まーた数学やってんのか、ヤン」
ヤンの視界に上下逆さまの笑顔が覆い被さる。
エドガー・ラッセル。ヤンが望んでいた理想の身長を持つ男。
短い金髪とサファイア色の瞳は快活に輝いている。
制服の上着は身に着けているが、リボンタイはない。
首許は広く開かれ、健康的な肌が覗いていた。
シュヌーシア寮のヤンとは別のウーティス寮に住むが、
同じ学年の為、付き合いは長かった。
ヤンは口許を隠しつつ大きな欠伸をする。気だるげに目をこすりながら、
「ん。数学の先生にね、面白いよってクイズの本、貸して貰ったんだ」
「ふうん。で、『数学の天才』にも解けないってわけ?」
「僕は数字見るのが好きなだけ。天才だったら、
おんなじ問題を何日も考えてないよ」
エドガーはヤンの腹に置かれた本を手に取る。ヤンの隣で胡坐を掻くと、
ぱらぱらとページを捲ってみた。数字が羅列しているのかと思いきや、
xやyなど文字ばかりだった。寧ろ読めない文字の方が多い。
「…これは地球の言語なのか? 俺には宇宙語にしか見えないが」
微笑んだヤンは、ゆっくり首をエドガーの方に傾ける。
そう言えば、二週間程前、彼が暮らすウーティス寮に新入生が入った。
13歳の生徒。聖アルフォンソ学院には中等部と高等部があるのだが、
多くの生徒は高等部以上の年齢で入学する。中等部一年から、
この孤島にやってくる生徒は、余程特殊な環境に生まれた子供と言える。
新入生の名は、ジョシュア・グラント。
ロレート公国の第一王子であり、闇の家系と呼ばれるグラント家の血を引く者。
あの少年のことを考えると、ヤンは不思議な気持ちになった。
生徒代表として、新入生を心配しているのとは少し違う。
数学のように、はっきりとした答えが出ない。
だけど、もう答えは出ているような、そんな気もする。
具体的にはまだ解らないけれど。あの子には、やはり特別なものを感じる。
きっと何か変わる。彼も、彼の周りも、月桂樹の館も。
その頃に、自分が此処に居ないのは残念だ。
「エド。あの新入生、ウーティスで元気にしてるかな?」
「ジョシュアか。特に問題はないぜ。
ただ、大人しいっていうか、控えめっていうか。
気ぃ遣いなんだよな、なんか。あいつがバカ笑いしてんの、まだ見たことねえし」
「彼はエドみたいに下品には笑わないと思うけどなあ」
「下品で悪かったな」
ヤンは空をぼんやりと眺めている。青空は高く、雲は遠い。
「ジョシュアのこと、頼むね、エド」
「任せろって。俺も中等部一年で此処に来てるからな」
面倒看が良く、頼り甲斐のあるエドガーと、
同じ寮に居れば、まあ大丈夫かな、とヤンは思った。
明確な根拠はないが、不明確な自信があった。
自分より彼の方が、生徒代表に向いていそうなのになあ。
それはヤンの素直な感想だった。
生徒代表の仕事があると、数学で遊ぶ時間が減るし。
今は自由時間だけど、眠いし、お腹も空いてるし、集中できない。
ヤンは再び、空に視線を向ける。
「あっ、そうだ。甘いもの食べたら、頭が回るかも」
「はあ?」
「脳が食べられるのはブドウ糖だけだからね。
ねえ、エド。何かお菓子持ってる? チョコとかキャンディとか」
「んなもん俺が持ってるわけねーだろ。カフェにでも行って来いよ」
「僕、お腹が空いて動けないんだ。そう言えば昨日から何も食べてないのかなあ?」
「よく食事を忘れられるな」
「クイズの本と遊んでたから。つい忘れちゃったんだよ」
「わーったよ。甘ければ何でも良いんだな?」
エドガーは屋上から出ると階段の手摺りに身を乗せて、一気に階下まで滑り降りた。
此処から一番近いのは噴水の近くにあるカフェだ。
メニューの中で一番甘そうなものを注文する。
「ホットチョコレートひとつ。テイクアウトで」
生徒達にも人気のある飲み物。一応これにも名前が付いていて、
『天使も惑う悪魔の誘惑』というのだが、その名を呼べる生徒は少なかった。
甘いホットドリンクを片手に、景気良く大股で階段を上っていく。
屋上のドアを開けると、気持ちの良い風を浴びた。
さっきと同じ姿勢の友人の傍に歩いていく。
「ヤン。ホットチョコレートでイイだろ……って、おい」
ヤンの瞳は閉じられていた。
自分の腕を枕にして、すやすやと寝息を立てている。
罪のない寝顔で、エドガーは腹が立つより先に苦笑してしまった。
どうせ、数学クイズを明け方までやっていたのだろう。よくあることだ。
エドガーには数学の何処がそんなに面白いのか皆目見当も付かないが。
ヤンは何時間でも飽きずに計算問題ができる。
こいつが受講している数学の特別授業は大学レベルを超えているらしい。
エドガーには読めない公式も、ヤンにとっては玩具のひとつなのだろう。
「ったく。数学バカが」
自分の上着を脱いで、乱雑にヤンの上に放る。
数学については天才らしいが、他一切はてんで駄目だ。
若さを感じさせる要素がない。歩くのも遅いし、腕が細くて体力もない。
いつも、ぼうっとしていて何も考えてないように見える。
話し掛けても聞こえていない。
そういう時は大抵、数学の問題を暗算しているか、何かの数を数えている。
ヤンを電卓代わりに使っている生徒も居るくらいだ。
6ケタくらいなら適当な数字を言っても、暗算で正確な答えを弾き出せる。
また、学院のあらゆる数字を知っていた。
無駄に広いキャンパスで迷子になる新入生も居るのに、
校舎や施設が全部幾つだとか、そのうち教室は幾つだとか。
終いには階段の数まで数えていた。本人曰くそれは趣味のようなもの、らしい。
しかし、暗算していて、水溜りで靴を濡らしたり、
聖堂のステンドグラスが何枚のガラスで出来ているか数えていて、
オルガンに足をぶつけて、怪我をしたこともある。
他人の目からは無駄としか思えないようなことに興味を示す。
こんな数学バカなのに、いや、だからかもしれないが、
観察眼が鋭く、人の変化にすぐ気付く一面があった。
身体の弱い生徒が毎年居るシュヌーシア寮では、ヤンの能力が大いに役立つらしい。
生徒の様子が常と違うことを誰より先に発見する。
言わば風邪の早期発見器。ヤンのおかげで大事に至らなかった例が実際多かった。
相手に関してはそれほど繊細に察することができるのだから、
もう少し自分の身なりに気を遣っても良いのではないだろうか。
先ず、短髪のエドガーからすると、ヤンの髪は伸び過ぎだ。
それに、眠っているのに、掛けたままの眼鏡。
「人に世話焼かせてばっかだなー、お前は」
そっと眼鏡を外し、傍に置く。眼鏡を掛けていない方が幾らか若く見える。
ヤンの隣に腰を下ろす。わざわざ買って来てやったホットチョコレート。
こいつが起きた頃にはとっくに冷めてしまうだろう。
ホットドリンクに口付ける。甘い。
口内に広がる濃厚なカカオ。舌で唇をぺろりと舐めた。
傍で眠る友人は一向に起きる気配はない。同じ間隔で繰り返される寝息。
その単調なリズムを聞いているうちに、
糖分で満たされたエドガーも眠たくなってきた。
「俺も、寝るかなー」
両腕をぎゅーっと伸ばして、ヤンの傍で寝転がる。
エドガーの青い瞳に、青い空が映る。大きな欠伸をひとつして、瞳を閉じた。
広い屋上で、ぽつんと並んでいる二人の生徒。
その影が長くなるまで、彼等は其処に居た。
fin
■シルヴァンとハルヤ
--------------------
--------------------
■アンリ
--------
--------
■アンリ
---------
---------
■ジョシュア、アンリのシナリオクリア者向け
-------------------------------------------
-------------------------------------------
ロレートの紋章。
ジョシュアは一通の封筒を見ていた。まだ封は開けていない。
白の封筒に深紅の蝋は良く映えて、嫌でも目に入る。
赤い蝋を溶かして、真鍮製の刻印を押した封蝋。
貴方の国から来た手紙だとすぐに解る。
赤は好きな色なのに、この赤はどうしても好きになれない。
上質な手触りも肌に吸い付くようで、怖かった。
中に何が書いて在るのか。すぐには封を切れず、開けるのを躊躇ってしまう。
「ねえ、開けてくれる?」
ドアの向こうから耳に馴染む声がした。もう4年も同じ寮で生活している友人だ。
しかし、開けて、という要求は珍しい。ノックの音もしなかった。
自分ではドアを開けられないのだろうか? 何か持っていて手が塞がっている?
手にしていた封筒を、机の引き出しに仕舞う。
一時的にでも手放すことに安堵しながら、ドアへと向かった。
扉の向こうに居たのはやはり親しい友人の顔だった。
「やあ。アンリ」
友人は手の平に乗せているものを差し出した。
「これ」
華奢な手には小鳥が乗っていた。
瞳は閉じられて、身体は動いていない。
この島では特別な意味を持つ小鳥。
「ナイチンゲール…。一体どうしたんだい?」
「さっき、森で見付けた。君、動物の世話、得意なんだから何とかして」
アンリが手を突き出すので、ジョシュアは手の平を上にする。
小さな身体がそっと渡される。
手の平に伝わる温かさにジョシュアは少し安心した。
鳥の体温は約40度。ちゃんとその高い体温を感じた。まだ生きている。
冷静さを取り戻し、落ち着いて状態を観察する。
外見は少し羽根が汚れているだけで、怪我をした様子はない。
翼を少し広げて見る。付け根に傷があった。
それほど深くはない。治療すれば回復するだろう。
診察している間、黙っていたアンリがぽつりと呟く。
「助かるの?」
「うん。大丈夫。翼に怪我をして飛べなかったみたいだね。
でも傷は深くないから、暫く安静にしていれば森に帰れるよ」
アンリは愁眉を開く。
「そう」
僅かながらも、常の冷たさより和らいだ声だった。
毒舌家と称される彼だが、時折こんなに優しい表情を見せる。
皆にももっと見せてあげたら良いのにな、とジョシュアはそっと思う。
きっと本人に言ったら、それこそ毒舌が返って来るだけだ。
優しい毒舌家は踵を返した。
「それじゃ。後は任せるよ」
「アンリ」
無言で振り返る。もういつもの冷静な表情に戻っていた。
心優しい行動とそぐわない表情にジョシュアは思わず微笑んだ。
「ありがとう。助けてくれて」
「礼を言われる覚えはないけれど?」
「この子の代わりに、言っておきたくてね」
友人は肩を竦めて冷笑する。
「鳴いてもいないのに、鳥の声が聞こえるんだね、君は」
ドアが閉まった。ジョシュアは早速、怪我の治療を始めることにする。
常備している救急箱があった。主に動物達に処方するものだ。
止血剤、消毒薬、傷用の塗り薬など。人間にも使用できるし、
動物が万一舐めても害のない薬を幾つか所有していた。
ジョシュアには愛馬が居て、動物行動学の特別講義を取っている。
月桂樹の森に行くと、ナイチンゲールは彼に聞かせるように歌う。
自他共に認める動物好きの元に怪我をした森の動物達が運び込まれることがあった。
慣れた手付きで小鳥の傷に薬を塗り、包帯を巻く。
「さあ。これで大丈夫だよ。ゆっくりおやすみ」
静かに鳥かごの中へ横たえる。扉を閉めると、少し肩の力が抜けた。
それで初めて肩に力が入っていたのだと気付く。
鳥かごの周りに置いていた包帯や鋏を救急箱に片付けていく。
すっかり綺麗になった後、ふと机が目に入ってしまった。
深紅の封蝋。引き出しに入れたものが勝手に思い出される。足が机に向かわない。
――せめて夕食の後にしよう。
ジョシュアは部屋を後にし、食堂へと向かった。
怪我をした小鳥は檻の中でまだ一声も発していない。
動かない翼を静かに横たえている。
「アルフォンソ王の前に、月桂樹の小枝を銜えたナイチンゲールが現れた。
王が枝を植えると、其処はたちまち森となった――
確かに、挿し枝でも年月を掛ければ森になるかもしれないけれどね。
メルヘンチックな伝説に組み込まれた君達はどんな気分なのかな?」
アンリは鳥かごを覗きながら、機嫌良く話していた。
彼がナイチンゲールを連れ帰ってから数日後。
ジョシュアは、アンリを部屋に招いた。
そろそろ鳥の様子を見に来たい頃だろうと思ったからだ。
鳥が心配でも、アンリは自分からは訪ねて来ないから。
彼がそういう可愛い所があることを、付き合いの長いジョシュアは心得ていた。
素直ではないというか、意地っ張りというか。
彼のように振る舞うことは、ジョシュアには不可能なことだった。
一種の憧れにも似た気持ちがあったのかもしれない。
彼は何でもずけずけと辛辣な言葉を口にする。ある特定の感情を除いては。
アンリは鳥かごが置いてある棚に凭れて、友人を見やる。
「僕は、ナイチンゲールが銜えていた月桂樹って、比喩だったのかなとも思うんだ」
「どういうことだい?」
「実際の『枝』ではなくて、国を作る為に必要な『モノ』さ。
資材、資金、情報、そして民とかね? だって、森だけでは国にならないもの」
ドライな口調でアンリはビジネスに必要な要素を並べ立てた。
自分の事業を持つ彼らしい発想と言える。
「成程ね。今まで考えたこともなかったな」
琥珀の瞳が机上を捉える。封が開いた白い封筒。
シーリングワックスに描かれた紋章はジョシュアの父方の祖国を示すものだ。
現在は弟君のカーディス1世が国王を務めている。
「それ、ロレート国王からだね。君に何て言って来たの?」
ジョシュアは机上に置きっぱなしだった手紙を見つめる。
友人に発見されたことに後悔し、続けて安堵を感じた。
「俺に、会いたいって」
純白の便箋に綴られていたのは、それだけではなかった。
「カーディス1世は、正式な王位継承者として、俺を迎えたいらしい。
今度の休暇、ロレートに来てくれないかって。そう、書いてあった」
アンリの表情は特段変わらなかった。
来るべき時が来ただけだ。アンリにとっては驚くことではなかった。
そっとジョシュアの額を盗み見る。運命は最初から、其処で輝いている。
「それで、君は行くの?」
「迷ってる。ロレートに行くのも、彼に会うのも初めてだし。
でも、断るわけにもいかないと思う」
この真面目な王位継承者は、ロレートに出向くことを義務と感じているらしい。
其処でどんな話が待っているのかは自ずと解る。
アンリ個人にとっては好都合だ。今はグラント姓を持つ彼。
もしグラントに残れば、家同士が敵対関係にあるアンリは、
後に、彼と争わなくてはならない。そうなれば自分は彼に勝つだろう。
彼の思考も、行動パターンもほぼ把握している。
かつて、毒薬遣いと呼ばれたアンジェロ・ボルジアが、
アルフォンソを殺す為、彼に付き従い、毒杯を差し出したように。
友人の顔をして、彼を騙すことは蟻を踏み殺すより容易い。
僕がジョシュアに対して残虐になれれば、
この真面目な人間を捻り潰すくらい造作もないことだ。
ジョシュア・グラント。
初めて会った時から、いや、生まれながらに、王冠を持つ人。
一体どんな人物なのか興味はあった。
後のことを考えると、彼について知っておきたい。
彼は間違いなく僕のことを友人だと思っているだろう。けれど僕は?
僕は彼のこと、何だと思っているのだろう?
――君が何て言おうと、俺はアンリの友達だよ!――
あの、お目出度い新入生のように。
何ひとつ疑うことなく『友達』なんて言葉、僕には口にできなかった。
鳥かごの中のナイチンゲールは自由にならない翼を小さく震わせている。
「行くとしたら、グラントにも行くの?」
「そうなるね。ロレートまでの中継地点だし、先ずはロンドンに行って、かな」
ロレートに加え、母方の実家に帰ることもジョシュアには気の重いことだった。
ヨーロッパ有数の財閥、グラント家。
ロンドンにあるその家はランベール館と呼ばれている。
ジョシュアの伯父と伯母が居て、表面上は優しく気遣ってくれるのだが、
代々、男系の子供を跡取りにするグラント家にとっては、
ジョシュアは母クリスティーナが連れ帰った厄介者でしかなかった。
自分がランベール館に行くと久し振りに帰ったから、
と親戚一同を集めたパーティを催してくれるのだが、
その形式ばった歓迎の仕方は、実のない寒々しさを感じざるを得なかった。
大勢の人に囲まれながら、あんなに孤独感のあるパーティは居たたまれなく、
正直、あまり行きたくなかった。
アンリは小鳥の僅かな動きを見守りながら、
「ねえ。彼を連れて行けば?」
「彼って?」
「変わった人種が入ったでしょう、今年は。
グラントのパーティで、君の防波堤にはなってくれるんじゃない?」
ジョシュアは今年入った天真爛漫な笑顔が思い浮かぶ。
良案だ。ユウタはウーティス寮を明るくしてくれた。
聖アルフォンソ学院では、特殊な環境に育った生徒達が多い。
その為、他の生徒に干渉しないことが多い中、ユウタは大いに干渉する。
元気で素直な良い子だ。この学院で彼は確かに希少な存在と言える。
グラントの冷たいパーティでも彼なら場を和ませてくれるに違いない。
ユウタとの旅行は初めてだし、少し楽しみになってきた。
「ありがとう、アンリ。彼のこと誘ってみるよ」
「行ってらっしゃい」
気だるげに言い放つ友人を見て、ジョシュアは微笑んだ。
「…なんだか嬉しいな」
アンリは不思議そうにこちらを見る。
「何が?」
「アンリ、ユウタのこと買っているんだね?」
途端に視線を外された。
「勘違いしないで」
機嫌を損ねた素直じゃない人。ジョシュアはまた笑みを零す。
「アンリは今度の休暇も残るのかな?」
「ああ。いつものようにね」
ジョシュアもそうだが、アンリも休暇中は家に戻らない。
正確には、戻りたい場所がないからだ。
「じゃ、アンリにナイチンゲールのこと、頼んでも良いかな?」
「…僕が?」
「皆も寮を空けてしまうそうだから。君にしか頼めないんだよ」
「でも、僕、鳥の世話なんて…」
「大丈夫。それは俺が責任を持って教えるよ」
休暇初日の朝。ウーティス寮の玄関が俄かに騒々しくなる。
旅行用のバッグを持った面々を、アンリとバトラーが見送る破目になった。
わくわくしている一年生を見守っているのは最高学年の生徒代表殿。
「じゃ、行って来るねー。アンリ!」
「ナイチンゲールのことよろしくね」
ジョシュアとユウタはロンドンとロレートへ。
残るデッドプリンスはニッポンへ旅行に行くらしいが、
何故かギターを背負っている。
わざわざ旅行先でストリートライブでもするつもりなのか。
「アンリ、また休み明けにね」
「イイ子でお留守番してろよっ!」
「ニッポンのお土産たくさん買って来ますね!」
アンリは憮然としたまま、息を吐く。
「…要らないから。早く行けば?」
皆がドアの向こうに消えた。
途端に、その場が静まり返る。
「ああ、煩かった。バトラー、僕の部屋に紅茶を」
「畏まりました、アンリ様」
部屋に戻る前、ちらとサロンに目をやる。
煩い人達が居ない。
休暇中のサロンは、音がしない。
『水はこまめに変えてあげて。できれば1日2回ね』
アンリは自室で紅茶を飲みながら、ジョシュアに渡されたメモ書きに目を通す。
ジョシュア手書きの飼育解説書だ。
餌の与え方や鳥かごの掃除の仕方などが丁寧に記されている。
最後には余計な一言も付してある。
――後は愛情だよ、アンリ――
端麗で微笑しているような筆記体を睨み付ける。
とりあえず水は取り替えてみた。けれど、鳥は水に見向きもしない。
餌箱が既に鳥かごの中に配置されているが、食べる様子もない。
解説書の指示通りにしているのに、何故上手くいかない。
「役に立たないマニュアルだな」
午後、アンリは月桂樹の森に向かった。
森はあまり好きではないが、休暇中のせいか普段と違うことがしたくなる。
いつもは生徒が行き交うこの場所も今は静かなものだ。
鳥達のさえずりだけが森に響き渡る。
彼等は変わらない日々を過ごしているようだ。
いつのまにか泉の方まで来てしまっていた。
ほとりに金髪の少年が居た。
シュヌーシアのミハイル・リューリコヴィッチ・ネフスキーだ。
彼は病弱な為に休暇中も寮を離れない。
同じく居残り組のアンリは彼のことを知っていた。
棕櫚(シュロ)の木の傍で、ミハイルはしゃがんでいた。
笑顔で2羽の鳥を眺めている。ナイチンゲールだ。
地面に落ちている何かを一心に食べている。
よく見えなくて、アンリは一歩、彼等に近付く。
「ねえ」
「うわあっ! ご、ごめんねっ、ぼくのせいでっ!」
大きな声に驚いて鳥は一斉に飛び立ってしまった。
アンリは木々の隙間から空を眺める。もう何処まで行ったのか解らない。
「理由もないのに、無闇に謝るの止めてくれる?」
「ごっ、ごめんね…あっ…」
呆れてアンリは嘆息した。これ以上責めても堂々巡りなので、話題を変える。
「君、此処で何してたの? 今のナイチンゲールだよね?」
「うん。あのね、この木の実、好きなんだって。だからあげてたの」
ミハイルの傍には小枝に生った小さな赤い実。
アンリは身を屈めて枝を拾う。
「これ、何て言う実?」
「ごめん…ぼくも知らないの…ほら、あの木にあるんだけど…」
恐る恐る指差す先には、落葉低木らしき木があった。
丸みのある葉の間。鮮やかな赤が鈴生りに実っている。
「あっ、いけないっ」
ミハイルは腕時計を見ていた。
「もうカウンセリングの時間だ。あの、ごめんね、またね、アンリ」
遅い速度で走り去っていく。
アンリは来た道を引き返して、ウーティスに戻った。
小鳥と過ごす休暇。一羽と一人の距離はなかなか縮まらなかった。
小鳥は、世話する人間がジョシュアからアンリに変わったことが解るらしく、
最初は明らかに警戒していた。手の平に餌を乗せてみても、寄り付かない。
アンリが怪我した小鳥を発見したことまでは、小鳥には解らなかったらしい。
きっとジョシュアのことを恩人だと認識しているのだろう。
全く懐かない様子に、アンリは義務的に水を換え、淡々と鳥の世話をした。
日を重ねるうちに、目に見えて、小鳥もアンリも相手に慣れて行った。
ある夕暮れ時。アンリは物憂げにバイオリンを弾いていた。
沈みゆく太陽を眺めていて、自然とケースに手が伸び、
左肩にバイオリンを乗せていた。弓の動くままに弦を奏でる。
誰の曲なのか知らなかったので、今、この右手が創っている曲なのかもしれない。
愁いに覆われた音色に、異質な音が混ざった。
『恋の歌を歌う鳥』その尊称通り、美しい声。
小鳥はその時、初めてアンリの前で鳴いた。
「この僕とアンサンブルするつもり?」
アンリは冷笑を浮かべながらも、手を止めなかった。
観客の居ないコンサート。バイオリンは夕陽色のスポットライトを浴びていた。
アンリは日に一度、月桂樹の森に行くようになった。
ポケットに手を入れて、泉まで行き、帰ってくる。
昼寝をするでもなく、森の動物達と触れ合うでもなく。
あまり長時間、森に居ると、余計な過去を思い出すからかもしれなかった。
その後、鳥かごの中には赤い木の実が置いてあった。
翌朝には赤い実は無くなっている。そんな日々がただ静かに繰り返された。
一人で夕食を食べた後、アンリは部屋から鳥かごを持って、サロンに来ていた。
当然、誰も居ない。
平日ならば、喧しい寮生達がバカ騒ぎをしている時間だ。
いつも彼等が居る場所。広めのテーブルに鳥かごを乗せる。
アンリは部屋の隅にある自分の席に座って、本を開く。
サロンにはページを繰る音だけが響く。
憂鬱な時間。休暇中はどうしてこんなに気分が優れないのだろう。
ページをまた一枚重ねる度に具合が悪くなるようだ。
今回はこの子が居るからまだ良いが。それでも時々、鈍く頭が痛む。
(もし、翼を折ったら、ずっと僕の傍に居てくれるのだろうか?)
自分の中に鬱積している澱。暗い液体に飲み込まれそうになる。
(このまま鳥かごの中に閉じ込めたら、僕だけの為に鳴いてくれる?)
淀んだ感情ごと息を吐き出す。
小さく息を吸うと、重苦しい想いが音律となって唇から紡がれた。
とても健康的とは言えない、束縛的なバラードだった。
拍手の音に振り返ると、一人の紳士が手を合わせていた。
オーギュスト・ボージェ教授。
生徒達には「さっぱり解らない」と評判の神秘学の特別講師だ。
スーツの上着は身に付けていないので講義中よりは幾分ラフだが、
ぴしりとアイロンの掛かったウイングカラーシャツ。
前折れ式の立襟に、トレードマークとも言えるクロスタイ。
袖口にはシックなカフスと、普段通りの出で立ちだ。
「君は伯爵から音楽の才も受け継いでいたのか」
「オーギュスト…驚かせないで」
「いや、失礼。とても素晴らしい歌を聞かせて貰ったのだから、当然の拍手だよ」
「僕は君に聞かせるつもりはなかったのだけど?」
「幸運だったね、君を訪ねて来て良かったよ」
教授は楽しそうに、口の悪い教え子と渡り合う。生徒は不満げだ。
「何故、君が学院に残っているの? 学会は?」
「今回は無いんだ。今、私は論文の執筆中でね、
思うように筆が進まないものだから、
君の紅茶をご馳走して貰おうかと思ってね?」
「ふうん。つまり息抜きに来たんだ? 僕に迷惑を掛けてまで」
「今、バトラーに渡してきたが。手土産にケーキをお持ちしたよ。
さあ、後はアンリと、君が淹れてくれた紅茶があれば、
幸福なナイトキャップティーの時間が創出される。
私のささやかな論文完成の為に、ご協力願えないかな?」
「随分勝手だね。僕の特別講師は」
就寝前の紅茶の時間。アンリの前にベイクドチーズケーキが置かれた。
表面は薄いブラウンの焼き色。周囲はクリームイエローだ。
銀のフォークで小さく切り取る。
ケーキはとても柔らかく、すうっとフォークを受け入れた。
オーギュストの前にはケーキはなく、教え子が淹れた紅茶を堪能している。
「今回の休暇は生徒代表君も居ないのか。広い寮に一人きりで淋しくないのかね?」
「淋しくない」
ケーキを口に入れた途端、舌の上でしゅわっと音がして、溶けた。
甘くて濃厚なチーズの香りだけが口内に残った。
「私の部屋に泊まっても良いよ?」
チーズケーキが淡々とアンリの口に運び込まれる。
「では植物園にでも散歩に行こうか?」
「論文を書けば? ボージェ教授」
ノックの音。一礼して現れたのはこの寮の執事。
アンリ一人の為に、彼は毎回休暇中も寮に残っていた。
「お話し中、失礼致します。アンリ様、お電話でございます」
アンリはフォークを置いて、立ち上がる。
「そう。仕事の電話かな。失礼するよ、オーギュ。
もう研究室に帰ってくれても構わないけれど?」
「君を待っている間、この小鳥に相手をして貰うよ」
帰るつもりのない台詞に、アンリは肩を竦めて、サロンを後にした。
オーギュストは紅茶のカップを置くと、鳥かごの前に進んだ。
翼には丁寧に真新しい包帯が巻かれていた。
「あの子にして貰ったのかい?」
小鳥はきょとんとした黒目を向けている。
「君だけに見せた顔が幾つもあったのだろうね。羨ましいものだな」
アンリがサロンに帰って来た。
ドアの傍に立ったまま、中に入ろうとしない。
搾り出すような声で、アンリは詫びた。
「オーギュ。ごめん。僕、もう休むから」
普段あれほど冷静な子が動揺を隠し切れていない。
逃げ去ろうとする細腕を掴む。
「どうしたんだね?」
アンリの手には走り書き。其処にはフランスにある大病院の名前。
「父が…」
オーギュストは腕から手を離す。
サン・ジェルマン家の母親はアンリが幼い時に亡くなっている。
この家の父親と子息の仲は恐ろしく悪いと、オーギュストは知っていた。
「君の父上が?」
アンリは腕を抱く。
「危篤、だって」
「今回は本当にありがとう、ユウタ。俺に付いて来てくれて」
イギリス上空で、今回の旅についてジョシュアは礼を述べた。
航空機はロンドンの空港から上昇して、今は水平に飛んでいる。
隣の席に居る旅のパートナーは明るい笑顔を見せた。
「お礼を言うのはこっちだよ。俺、ジョシュアと一緒に旅行できて楽しかった」
ユウタの明るさに随分助けられた、とジョシュアは思った。
彼が居なかったら、グラントの食卓はもっと気詰まりしただろう。
頼もしいパートナーが一緒に来てくれたことを心から感謝していた。
「ねえ。ジョシュア」
「なんだい?」
「ジョシュアはさ、ロンドンとロレート、来て良かった?」
心配そうに尋ねる彼に、ジョシュアは自信を持って頷く。
「うん。行く前はね、正直あまり行きたくなかったんだけど、
今になって思うと本当に来て良かったと思うよ」
「そっか。良かった」
ユウタはまた笑顔になる。窓の外に何かを見つけ、身体を乗り出す。
「あっ、イギリスの形、世界地図とおんなじだ」
その地形が徐々に小さくなるにつれて、
ジョシュアはいつもの自分に戻っていくような気がしていた。
海を越えて、早く帰りたいという気持ちが強かった。
地図には載らない、辺境の島。
今の自分が胸を張って故郷と呼べる場所。
ウーティス寮。一番、心の休まる家。
やはり、自分の故郷はイギリスではないらしい。
そんなことを考えながら、海の向こうに消えて行くイギリスを見ていた。
「どうしてオーギュストまで行くの」
「アンリ一人では心配だからね」
アンリは部屋でオーギュストと明日のスケジュールの打ち合わせをしていた。
保護者代わりの特別講師が付き添うと言い張ったからだ。
航空機のチケットは二枚取れた。
翌朝、ジョシュアとユウタが帰って来る。
彼等を此処まで乗せたタクシーで、アンリは空港へ向かうことにした。
運転手には連絡が取れた。二人を降ろした後、正門前で待っているようにと伝えた。
サン・ジェルマンの邸。随分と久し振りの帰宅になる。
が、アンリを待っている血族は――本当に――居ないかもしれない。
あの人は、明日まで生きているのだろうか。
もし、生きていたら。
もし、生きていなかったら。
こんな時でも、両事象の利益、損益が思い浮かぶ。
僕はやはり、頭が可笑しいのだろうか。あの人が言ったように。僕は――
「オーギュ」
「ん?」
教え子は担当教師に質問する。
「もし彼が亡くなれば、僕の身の安全は保証される。
僕の命を狙っていた人が、居なくなるのだからね。
僕の言っていること、間違っている? ボージェ教授」
不謹慎で倫理感に外れる質問。
この子は、それを承知の上で尋ねているのだろう、とオーギュストは感じた。
口に出して、確認せずにはいられなかったのだろう。
正解か不正解の二択ならば、答えは決まっている。
教師は教え子が欲している正答を与えた。
「間違ってはいないね。紛れもない事実だ」
アンリは、こくんと頷いた。
この夜、アンリは頻りに横髪に触れていたが、
オーギュストは敢えて指摘しなかった。
「ねえ。オーギュ。明日以降の僕が、どんな陰口を叩かれるか解る?」
形ばかりの冷笑を浮かべ、アンリは他人事のように呟いた。
「僕が父を殺したって言われるんだろうね」
ジョシュアとユウタは無事に聖アルフォンソ島に到着した。
空港から学院までの車中。
ユウタはタクシー運転手にロレートの土産話を聞かせていた。
「それでね、ロレートの西側に古くてこじんまりした美術館があって、
優しい絵がたくさん展示されてさ、俺、なんか感動しちゃった!」
「随分楽しい休暇になったみたいだな、マージナルプリンス?」
「うんっ」
ジョシュアがカーディス1世と面会している間、ユウタはロレートを観光していた。
ジョシュアのことが気になって、街の人達に、王様のことを尋ねてみたりもした。
本当に信じてるわけではなかったけど、『兄殺し』の汚名があるからだ。
「観光案内所の人達も皆、ジョシュアの叔父さんのこと、好きだったよ。
『カーディス陛下を悪く言う国民なんか居ないのよ』って言ってた」
その国の人達は、誰もが王の潔白を知っていた。マスコミに悪い憶測を書かれても、
こんなに国民に信じて貰える王様は幸せ者だなあとユウタは感動するくらいだった。
運転手は鏡を見ないで相槌を打つ。
「へえー。モテモテだなあ、王様。モテる血筋なのかねえ。な、ジョシュア?」
「そんな、俺は全然」
「えー。俺達も、ジョシュアのこと大好きだよ! 皆も絶対そう思ってるって!」
運転手は鏡を見る気になれなかった。楽しい旅の帰り道は学院に着くまでだ。
こいつらは寮に着くなり、知ることになる。
正門前でタクシーから降りると、二人は揃って我が家に戻った。
ジョシュアは門から寮までの長い道のりをもどかしく感じられた。
久し振りの自分の部屋。
その見慣れた光景に思わず息が漏れた。ほっとする。
気遣いに覆われたグラントの実家より、やはり此処の方が落ち着く。
「ジョシュア。ドアを開けて」
久しい声。この友人の声を聞いて、更に帰郷感に満たされた。
今回の旅行は本当に行って良かった。伝えたいことがいっぱいある。
それから、ロレートのこと。
カーディスに会って、初めて知ったことが幾つもある。
何から話せば良いだろう。順序立てて説明できそうにない。
そうだ。先ずはアンリにお礼を言わなくては。
君の言う通り、ユウタを連れて行ってとても助けられた。
些か興奮気味のジョシュアは感じ取れなかった。
友人の僅かな声色の差異に気付かないまま、ドアを開けた。
スーツ姿のアンリは、鳥かごを手にしていた。
「おかえり、ジョシュア。さっきの表情を見ると、
ロレート旅行はそれなりに楽しめたみたいだね?」
「あ、ああ…」
肯定の返事に、アンリは、そう、と言った。
「じゃ、早速で悪いけど、この子を返すよ」
許可も得ずに鳥かごを近くの棚に置く。
「一体どうしたんだい、アンリ?」
背中を向けたままアンリは呟いた。
「父が倒れたから、帰る」
「アンリのお父さんが?」
「うん。それじゃ、もう行くから」
寮の外でアンリを待っていたのは、
神秘学の特別講師だった。彼も一緒に行くらしい。
言葉少なにアンリは姿を消した。
最低限しか口にしなかったが、彼の父親が深刻な状態だと知れた。
休暇中も必ず寮に残るアンリが家に帰るなんて只事ではない。
ジョシュアの手にはアンリが世話をしていたナイチンゲールが残った。
その夜は雨が降った。
温暖な気候の聖アルフォンソ島にしては、珍しい豪雨。
窓を打ち付ける雨音で、夜中に目が覚めてしまった。
少し空いていたカーテンの隙間から稲光が見える。
起き出して、カーテンを少し開く。
空が泣いている。
涙が止まらないといった様子で、幾度も幾度も雫が落ちてくる。
冷えた窓の頬はもう隙間もないくらい、雨に濡れている。
遠い海の向こうに居る友人の顔が浮かんだ。
君も今泣いているのだろうか。そうでなければ良いけれど。
雨のせいだろうか、悪い方にしか考えられない。
彼は既に母親を失くしている。
もし、万が一のことがあれば彼も俺と同じように二人も親を失ってしまう。
彼は父親との間に軋轢があるが、
本当に居なくなってしまえば良いとは思っていない筈だ。
カーテンの端を持ったまま、闇の空を仰ぐ。
「アンリ…」
部屋の中から物音がする。鳥かごからだ。
ナイチンゲールが小さく鳴いた。
『恋の歌を歌う鳥』のさえずりも痛切で物悲しく感じた。
この小鳥もアンリのことを心配してくれているように聞こえる。
アンリが返した鳥かごは綺麗に掃除されていた。容態も回復に向かっている。
ナイチンゲールの羽にも艶がある。きちんと水分と栄養を与えられた証拠だ。
自分が居ない間、毎日きちんと世話をしていたのだろう。
今、ナイチンゲールが呼んでいるのは、アンリなのかもしれない。
ざあざあというノイズが鳴り止まない。
それから暫く雨音を聞きながら、夢と現を行き来していた。
ほんの僅かに眠ったらしい。
ジョシュアの祈りも虚しく、翌朝のニュースは、
『サン・ジェルマン家の当主が亡くなった』と報じた。
当惑しているだろう友人の名が各メディアに記されている。
彼が父親の事業を継ぐことに、社内は反対しているらしい。
悲しみに暮れる間も与えずに、彼の周囲は後継者問題を騒ぎ立てていた。
アンリがウーティス寮に帰って来たのは数日後。
サロンに顔は見せたものの、その表情には疲労の色が滲んでいた。
心配していた寮生達に、威勢の無い毒を吐いた後は、
自分の部屋に戻り、すぐに眠りに付いた。
翌日には、いつものアンリに戻っていた。
寮の皆もアンリに対して、いつも通りに接してくれた。
ウーティス寮は徐々に『日常』を取り戻しつつあった。
アンリの毒舌にレッドが絡み、ジョシュアが止める。
賑やかで平和な日々が戻って来た。
そして、ナイチンゲールの怪我が完治した。
包帯も外れ、翼は自由に動く。もう飛べる。
お別れだ。森に返すのは、少し淋しいけれど。
この子だって早く我が家に帰りたい筈だ。
ロンドンからの帰り道、ウーティス寮が恋しかった自分のように。
明日、森に戻そう。
自分が居ない間、世話をしてくれたアンリにも一緒に来て貰おう。
そう思って、彼を誘ったのだが「君に任せる」と断られた。
アンリは何も言わなかったけれど、俺以上に小鳥と別れるのが辛いのかもしれない。
元々、彼が見付けて救った小鳥だ。
最初から情が移っていたのだろう。
たった一羽で、家族も仲間も傍に居なかった、この小さな鳥に。
天気の良い夜。ジョシュアは鳥かごを持って、月桂樹の森へ入った。
自分の後を、ナイチンゲールの鳴き声が付いてくるようだった。
鳥かごの中に仲間が居ると解るのだろう。
彼等に見守られながら、ジョシュアは鳥かごを開ける。
「さあ。君の家へお帰り」
小鳥は羽ばたいて、森の中に消えた。
その様子を、アンリは自室から見ていた。
ジョシュアに任せて良かった。
あの場に自分は居られない。翼を折ってしまうかもしれない。
その可能性がゼロだとはどうしても思えなかった。
以前、鳥かごを置いていた場所。
何もない。
空疎に感じる方が可笑しいのに。
最初から其処には何もなかった。
たった数日、其処に居ただけなのに。
ナイチンゲールの透き通った声は、今も耳に残っていた。
小鳥がウーティスから消えた翌朝。
アンリは重い身体を起こす。朝に気分良く目覚めた方が少ない。
しかし、起きなければ、煩い寮生達が叩き起こしに来る。
日光を浴びて、無理矢理、身体に朝だと認識させる。
カーテンを開けると、窓の外に何か見えた。
窓枠に赤いものが置いてある。
赤い木の実だ。
窓を開けて、実の付いた枝を手に取る。
やはりミハイルに教えられたものと同じに見えるが。
風で飛ばされたのだろうか。だが、この実は森の奥にしかない。
此処まで飛んで来る可能性は、低い。
一瞬、脳裡に浮かんだメルヘン。
アンリは赤い実を眺めながら、冷たく笑った。
「まさかね」
同じの日の放課後。ジョシュアは月桂樹の森を散歩していた。
あのナイチンゲールに会えないかなという僅かな期待があった。
「この中に居るのかな、君も」
ジョシュアの上空で鳥達がさえずっていた。
目の前にある木。その枝に一羽の小鳥が止まった。
口に何か銜え、ジョシュアを見ているようだ。
「君なのかい?」
小鳥はすぐに飛び立った。
ジョシュアの足許に何かが落ちた。
細い枝に金色の新芽が付いている。月桂樹の小枝。
新芽はナイチンゲールの好物だ。
食べようとしていたのを、誤って落としてしまったのだろうか。
「王はナイチンゲールが銜えてきた枝で森を作った――伝説の通りだね?」
冷たくて甘い声。アンリがウーティス寮の方から歩いて来た。
「アンリ」
「それ、植えてみたら? 森になるかもしれないよ? まあ、数十年後くらいにはね」
シニカルに笑って、眩しそうに鳥達を仰ぎ見る。
「ナイチンゲールにも見えるのかな?」
サン・ジェルマン伯爵の子孫が見えると言い張るもの。
それをジョシュアは見ることはできない。
この額に在る。友人は真面目な顔をして言う。
嘘にも冗談にも聞こえないけれど。否、と考えてしまう。
ジョシュアは、カーディスのことを思い出した。自分の叔父で、現ロレート国王。
先日の旅行で、初めて彼に会って。父に似た声で、カーディスは言った。
――お前を正式な王位継承者として迎えたい。俺はその為に王になった――
ジョシュアは友人の背中から視線を落とす。
草の間で蟻が列を為して歩んでいる。自然とその先頭を目で追っていた。
ひっそりと名を呼ぶ。友人は無言で立ち止まった。
「…見えるのかい? 今も」
何を今更、という表情で、アンリは王冠の位置を指差す。
「ああ。ずっと此処に」
アンリの瞳にのみ映る、透明な光。
それは初めて会った時からずっと、ジョシュアの頭上にある。
「きっと君が生まれた時から此処にあったんだ。
そして、これから先も。どうして気付かないの? これほどの輝きに」
「ありがとう」
「礼を言われる覚えはない。僕は本当のことを言っただけだ」
アンリはくるりと背を向けて、歩き出す。
「ねえ。そろそろお茶にしてくれない? 生徒代表殿」
微笑んで、ジョシュアは友人の背を追い駆ける。
「そうだね」
「僕、今日はアイスティーが飲みたいな」
「了解」
木漏れ陽の小道を二人で歩いていく。
森を抜ければウーティス寮。自分達の家だ。
二人の上ではナイチンゲールが楽しげに歌っていた。
「あ。明日、レッド達のライブがあるそうだよ? アンリも一緒に」
「行かない」
fin
ジョシュアは一通の封筒を見ていた。まだ封は開けていない。
白の封筒に深紅の蝋は良く映えて、嫌でも目に入る。
赤い蝋を溶かして、真鍮製の刻印を押した封蝋。
貴方の国から来た手紙だとすぐに解る。
赤は好きな色なのに、この赤はどうしても好きになれない。
上質な手触りも肌に吸い付くようで、怖かった。
中に何が書いて在るのか。すぐには封を切れず、開けるのを躊躇ってしまう。
「ねえ、開けてくれる?」
ドアの向こうから耳に馴染む声がした。もう4年も同じ寮で生活している友人だ。
しかし、開けて、という要求は珍しい。ノックの音もしなかった。
自分ではドアを開けられないのだろうか? 何か持っていて手が塞がっている?
手にしていた封筒を、机の引き出しに仕舞う。
一時的にでも手放すことに安堵しながら、ドアへと向かった。
扉の向こうに居たのはやはり親しい友人の顔だった。
「やあ。アンリ」
友人は手の平に乗せているものを差し出した。
「これ」
華奢な手には小鳥が乗っていた。
瞳は閉じられて、身体は動いていない。
この島では特別な意味を持つ小鳥。
「ナイチンゲール…。一体どうしたんだい?」
「さっき、森で見付けた。君、動物の世話、得意なんだから何とかして」
アンリが手を突き出すので、ジョシュアは手の平を上にする。
小さな身体がそっと渡される。
手の平に伝わる温かさにジョシュアは少し安心した。
鳥の体温は約40度。ちゃんとその高い体温を感じた。まだ生きている。
冷静さを取り戻し、落ち着いて状態を観察する。
外見は少し羽根が汚れているだけで、怪我をした様子はない。
翼を少し広げて見る。付け根に傷があった。
それほど深くはない。治療すれば回復するだろう。
診察している間、黙っていたアンリがぽつりと呟く。
「助かるの?」
「うん。大丈夫。翼に怪我をして飛べなかったみたいだね。
でも傷は深くないから、暫く安静にしていれば森に帰れるよ」
アンリは愁眉を開く。
「そう」
僅かながらも、常の冷たさより和らいだ声だった。
毒舌家と称される彼だが、時折こんなに優しい表情を見せる。
皆にももっと見せてあげたら良いのにな、とジョシュアはそっと思う。
きっと本人に言ったら、それこそ毒舌が返って来るだけだ。
優しい毒舌家は踵を返した。
「それじゃ。後は任せるよ」
「アンリ」
無言で振り返る。もういつもの冷静な表情に戻っていた。
心優しい行動とそぐわない表情にジョシュアは思わず微笑んだ。
「ありがとう。助けてくれて」
「礼を言われる覚えはないけれど?」
「この子の代わりに、言っておきたくてね」
友人は肩を竦めて冷笑する。
「鳴いてもいないのに、鳥の声が聞こえるんだね、君は」
ドアが閉まった。ジョシュアは早速、怪我の治療を始めることにする。
常備している救急箱があった。主に動物達に処方するものだ。
止血剤、消毒薬、傷用の塗り薬など。人間にも使用できるし、
動物が万一舐めても害のない薬を幾つか所有していた。
ジョシュアには愛馬が居て、動物行動学の特別講義を取っている。
月桂樹の森に行くと、ナイチンゲールは彼に聞かせるように歌う。
自他共に認める動物好きの元に怪我をした森の動物達が運び込まれることがあった。
慣れた手付きで小鳥の傷に薬を塗り、包帯を巻く。
「さあ。これで大丈夫だよ。ゆっくりおやすみ」
静かに鳥かごの中へ横たえる。扉を閉めると、少し肩の力が抜けた。
それで初めて肩に力が入っていたのだと気付く。
鳥かごの周りに置いていた包帯や鋏を救急箱に片付けていく。
すっかり綺麗になった後、ふと机が目に入ってしまった。
深紅の封蝋。引き出しに入れたものが勝手に思い出される。足が机に向かわない。
――せめて夕食の後にしよう。
ジョシュアは部屋を後にし、食堂へと向かった。
怪我をした小鳥は檻の中でまだ一声も発していない。
動かない翼を静かに横たえている。
「アルフォンソ王の前に、月桂樹の小枝を銜えたナイチンゲールが現れた。
王が枝を植えると、其処はたちまち森となった――
確かに、挿し枝でも年月を掛ければ森になるかもしれないけれどね。
メルヘンチックな伝説に組み込まれた君達はどんな気分なのかな?」
アンリは鳥かごを覗きながら、機嫌良く話していた。
彼がナイチンゲールを連れ帰ってから数日後。
ジョシュアは、アンリを部屋に招いた。
そろそろ鳥の様子を見に来たい頃だろうと思ったからだ。
鳥が心配でも、アンリは自分からは訪ねて来ないから。
彼がそういう可愛い所があることを、付き合いの長いジョシュアは心得ていた。
素直ではないというか、意地っ張りというか。
彼のように振る舞うことは、ジョシュアには不可能なことだった。
一種の憧れにも似た気持ちがあったのかもしれない。
彼は何でもずけずけと辛辣な言葉を口にする。ある特定の感情を除いては。
アンリは鳥かごが置いてある棚に凭れて、友人を見やる。
「僕は、ナイチンゲールが銜えていた月桂樹って、比喩だったのかなとも思うんだ」
「どういうことだい?」
「実際の『枝』ではなくて、国を作る為に必要な『モノ』さ。
資材、資金、情報、そして民とかね? だって、森だけでは国にならないもの」
ドライな口調でアンリはビジネスに必要な要素を並べ立てた。
自分の事業を持つ彼らしい発想と言える。
「成程ね。今まで考えたこともなかったな」
琥珀の瞳が机上を捉える。封が開いた白い封筒。
シーリングワックスに描かれた紋章はジョシュアの父方の祖国を示すものだ。
現在は弟君のカーディス1世が国王を務めている。
「それ、ロレート国王からだね。君に何て言って来たの?」
ジョシュアは机上に置きっぱなしだった手紙を見つめる。
友人に発見されたことに後悔し、続けて安堵を感じた。
「俺に、会いたいって」
純白の便箋に綴られていたのは、それだけではなかった。
「カーディス1世は、正式な王位継承者として、俺を迎えたいらしい。
今度の休暇、ロレートに来てくれないかって。そう、書いてあった」
アンリの表情は特段変わらなかった。
来るべき時が来ただけだ。アンリにとっては驚くことではなかった。
そっとジョシュアの額を盗み見る。運命は最初から、其処で輝いている。
「それで、君は行くの?」
「迷ってる。ロレートに行くのも、彼に会うのも初めてだし。
でも、断るわけにもいかないと思う」
この真面目な王位継承者は、ロレートに出向くことを義務と感じているらしい。
其処でどんな話が待っているのかは自ずと解る。
アンリ個人にとっては好都合だ。今はグラント姓を持つ彼。
もしグラントに残れば、家同士が敵対関係にあるアンリは、
後に、彼と争わなくてはならない。そうなれば自分は彼に勝つだろう。
彼の思考も、行動パターンもほぼ把握している。
かつて、毒薬遣いと呼ばれたアンジェロ・ボルジアが、
アルフォンソを殺す為、彼に付き従い、毒杯を差し出したように。
友人の顔をして、彼を騙すことは蟻を踏み殺すより容易い。
僕がジョシュアに対して残虐になれれば、
この真面目な人間を捻り潰すくらい造作もないことだ。
ジョシュア・グラント。
初めて会った時から、いや、生まれながらに、王冠を持つ人。
一体どんな人物なのか興味はあった。
後のことを考えると、彼について知っておきたい。
彼は間違いなく僕のことを友人だと思っているだろう。けれど僕は?
僕は彼のこと、何だと思っているのだろう?
――君が何て言おうと、俺はアンリの友達だよ!――
あの、お目出度い新入生のように。
何ひとつ疑うことなく『友達』なんて言葉、僕には口にできなかった。
鳥かごの中のナイチンゲールは自由にならない翼を小さく震わせている。
「行くとしたら、グラントにも行くの?」
「そうなるね。ロレートまでの中継地点だし、先ずはロンドンに行って、かな」
ロレートに加え、母方の実家に帰ることもジョシュアには気の重いことだった。
ヨーロッパ有数の財閥、グラント家。
ロンドンにあるその家はランベール館と呼ばれている。
ジョシュアの伯父と伯母が居て、表面上は優しく気遣ってくれるのだが、
代々、男系の子供を跡取りにするグラント家にとっては、
ジョシュアは母クリスティーナが連れ帰った厄介者でしかなかった。
自分がランベール館に行くと久し振りに帰ったから、
と親戚一同を集めたパーティを催してくれるのだが、
その形式ばった歓迎の仕方は、実のない寒々しさを感じざるを得なかった。
大勢の人に囲まれながら、あんなに孤独感のあるパーティは居たたまれなく、
正直、あまり行きたくなかった。
アンリは小鳥の僅かな動きを見守りながら、
「ねえ。彼を連れて行けば?」
「彼って?」
「変わった人種が入ったでしょう、今年は。
グラントのパーティで、君の防波堤にはなってくれるんじゃない?」
ジョシュアは今年入った天真爛漫な笑顔が思い浮かぶ。
良案だ。ユウタはウーティス寮を明るくしてくれた。
聖アルフォンソ学院では、特殊な環境に育った生徒達が多い。
その為、他の生徒に干渉しないことが多い中、ユウタは大いに干渉する。
元気で素直な良い子だ。この学院で彼は確かに希少な存在と言える。
グラントの冷たいパーティでも彼なら場を和ませてくれるに違いない。
ユウタとの旅行は初めてだし、少し楽しみになってきた。
「ありがとう、アンリ。彼のこと誘ってみるよ」
「行ってらっしゃい」
気だるげに言い放つ友人を見て、ジョシュアは微笑んだ。
「…なんだか嬉しいな」
アンリは不思議そうにこちらを見る。
「何が?」
「アンリ、ユウタのこと買っているんだね?」
途端に視線を外された。
「勘違いしないで」
機嫌を損ねた素直じゃない人。ジョシュアはまた笑みを零す。
「アンリは今度の休暇も残るのかな?」
「ああ。いつものようにね」
ジョシュアもそうだが、アンリも休暇中は家に戻らない。
正確には、戻りたい場所がないからだ。
「じゃ、アンリにナイチンゲールのこと、頼んでも良いかな?」
「…僕が?」
「皆も寮を空けてしまうそうだから。君にしか頼めないんだよ」
「でも、僕、鳥の世話なんて…」
「大丈夫。それは俺が責任を持って教えるよ」
休暇初日の朝。ウーティス寮の玄関が俄かに騒々しくなる。
旅行用のバッグを持った面々を、アンリとバトラーが見送る破目になった。
わくわくしている一年生を見守っているのは最高学年の生徒代表殿。
「じゃ、行って来るねー。アンリ!」
「ナイチンゲールのことよろしくね」
ジョシュアとユウタはロンドンとロレートへ。
残るデッドプリンスはニッポンへ旅行に行くらしいが、
何故かギターを背負っている。
わざわざ旅行先でストリートライブでもするつもりなのか。
「アンリ、また休み明けにね」
「イイ子でお留守番してろよっ!」
「ニッポンのお土産たくさん買って来ますね!」
アンリは憮然としたまま、息を吐く。
「…要らないから。早く行けば?」
皆がドアの向こうに消えた。
途端に、その場が静まり返る。
「ああ、煩かった。バトラー、僕の部屋に紅茶を」
「畏まりました、アンリ様」
部屋に戻る前、ちらとサロンに目をやる。
煩い人達が居ない。
休暇中のサロンは、音がしない。
『水はこまめに変えてあげて。できれば1日2回ね』
アンリは自室で紅茶を飲みながら、ジョシュアに渡されたメモ書きに目を通す。
ジョシュア手書きの飼育解説書だ。
餌の与え方や鳥かごの掃除の仕方などが丁寧に記されている。
最後には余計な一言も付してある。
――後は愛情だよ、アンリ――
端麗で微笑しているような筆記体を睨み付ける。
とりあえず水は取り替えてみた。けれど、鳥は水に見向きもしない。
餌箱が既に鳥かごの中に配置されているが、食べる様子もない。
解説書の指示通りにしているのに、何故上手くいかない。
「役に立たないマニュアルだな」
午後、アンリは月桂樹の森に向かった。
森はあまり好きではないが、休暇中のせいか普段と違うことがしたくなる。
いつもは生徒が行き交うこの場所も今は静かなものだ。
鳥達のさえずりだけが森に響き渡る。
彼等は変わらない日々を過ごしているようだ。
いつのまにか泉の方まで来てしまっていた。
ほとりに金髪の少年が居た。
シュヌーシアのミハイル・リューリコヴィッチ・ネフスキーだ。
彼は病弱な為に休暇中も寮を離れない。
同じく居残り組のアンリは彼のことを知っていた。
棕櫚(シュロ)の木の傍で、ミハイルはしゃがんでいた。
笑顔で2羽の鳥を眺めている。ナイチンゲールだ。
地面に落ちている何かを一心に食べている。
よく見えなくて、アンリは一歩、彼等に近付く。
「ねえ」
「うわあっ! ご、ごめんねっ、ぼくのせいでっ!」
大きな声に驚いて鳥は一斉に飛び立ってしまった。
アンリは木々の隙間から空を眺める。もう何処まで行ったのか解らない。
「理由もないのに、無闇に謝るの止めてくれる?」
「ごっ、ごめんね…あっ…」
呆れてアンリは嘆息した。これ以上責めても堂々巡りなので、話題を変える。
「君、此処で何してたの? 今のナイチンゲールだよね?」
「うん。あのね、この木の実、好きなんだって。だからあげてたの」
ミハイルの傍には小枝に生った小さな赤い実。
アンリは身を屈めて枝を拾う。
「これ、何て言う実?」
「ごめん…ぼくも知らないの…ほら、あの木にあるんだけど…」
恐る恐る指差す先には、落葉低木らしき木があった。
丸みのある葉の間。鮮やかな赤が鈴生りに実っている。
「あっ、いけないっ」
ミハイルは腕時計を見ていた。
「もうカウンセリングの時間だ。あの、ごめんね、またね、アンリ」
遅い速度で走り去っていく。
アンリは来た道を引き返して、ウーティスに戻った。
小鳥と過ごす休暇。一羽と一人の距離はなかなか縮まらなかった。
小鳥は、世話する人間がジョシュアからアンリに変わったことが解るらしく、
最初は明らかに警戒していた。手の平に餌を乗せてみても、寄り付かない。
アンリが怪我した小鳥を発見したことまでは、小鳥には解らなかったらしい。
きっとジョシュアのことを恩人だと認識しているのだろう。
全く懐かない様子に、アンリは義務的に水を換え、淡々と鳥の世話をした。
日を重ねるうちに、目に見えて、小鳥もアンリも相手に慣れて行った。
ある夕暮れ時。アンリは物憂げにバイオリンを弾いていた。
沈みゆく太陽を眺めていて、自然とケースに手が伸び、
左肩にバイオリンを乗せていた。弓の動くままに弦を奏でる。
誰の曲なのか知らなかったので、今、この右手が創っている曲なのかもしれない。
愁いに覆われた音色に、異質な音が混ざった。
『恋の歌を歌う鳥』その尊称通り、美しい声。
小鳥はその時、初めてアンリの前で鳴いた。
「この僕とアンサンブルするつもり?」
アンリは冷笑を浮かべながらも、手を止めなかった。
観客の居ないコンサート。バイオリンは夕陽色のスポットライトを浴びていた。
アンリは日に一度、月桂樹の森に行くようになった。
ポケットに手を入れて、泉まで行き、帰ってくる。
昼寝をするでもなく、森の動物達と触れ合うでもなく。
あまり長時間、森に居ると、余計な過去を思い出すからかもしれなかった。
その後、鳥かごの中には赤い木の実が置いてあった。
翌朝には赤い実は無くなっている。そんな日々がただ静かに繰り返された。
一人で夕食を食べた後、アンリは部屋から鳥かごを持って、サロンに来ていた。
当然、誰も居ない。
平日ならば、喧しい寮生達がバカ騒ぎをしている時間だ。
いつも彼等が居る場所。広めのテーブルに鳥かごを乗せる。
アンリは部屋の隅にある自分の席に座って、本を開く。
サロンにはページを繰る音だけが響く。
憂鬱な時間。休暇中はどうしてこんなに気分が優れないのだろう。
ページをまた一枚重ねる度に具合が悪くなるようだ。
今回はこの子が居るからまだ良いが。それでも時々、鈍く頭が痛む。
(もし、翼を折ったら、ずっと僕の傍に居てくれるのだろうか?)
自分の中に鬱積している澱。暗い液体に飲み込まれそうになる。
(このまま鳥かごの中に閉じ込めたら、僕だけの為に鳴いてくれる?)
淀んだ感情ごと息を吐き出す。
小さく息を吸うと、重苦しい想いが音律となって唇から紡がれた。
とても健康的とは言えない、束縛的なバラードだった。
拍手の音に振り返ると、一人の紳士が手を合わせていた。
オーギュスト・ボージェ教授。
生徒達には「さっぱり解らない」と評判の神秘学の特別講師だ。
スーツの上着は身に付けていないので講義中よりは幾分ラフだが、
ぴしりとアイロンの掛かったウイングカラーシャツ。
前折れ式の立襟に、トレードマークとも言えるクロスタイ。
袖口にはシックなカフスと、普段通りの出で立ちだ。
「君は伯爵から音楽の才も受け継いでいたのか」
「オーギュスト…驚かせないで」
「いや、失礼。とても素晴らしい歌を聞かせて貰ったのだから、当然の拍手だよ」
「僕は君に聞かせるつもりはなかったのだけど?」
「幸運だったね、君を訪ねて来て良かったよ」
教授は楽しそうに、口の悪い教え子と渡り合う。生徒は不満げだ。
「何故、君が学院に残っているの? 学会は?」
「今回は無いんだ。今、私は論文の執筆中でね、
思うように筆が進まないものだから、
君の紅茶をご馳走して貰おうかと思ってね?」
「ふうん。つまり息抜きに来たんだ? 僕に迷惑を掛けてまで」
「今、バトラーに渡してきたが。手土産にケーキをお持ちしたよ。
さあ、後はアンリと、君が淹れてくれた紅茶があれば、
幸福なナイトキャップティーの時間が創出される。
私のささやかな論文完成の為に、ご協力願えないかな?」
「随分勝手だね。僕の特別講師は」
就寝前の紅茶の時間。アンリの前にベイクドチーズケーキが置かれた。
表面は薄いブラウンの焼き色。周囲はクリームイエローだ。
銀のフォークで小さく切り取る。
ケーキはとても柔らかく、すうっとフォークを受け入れた。
オーギュストの前にはケーキはなく、教え子が淹れた紅茶を堪能している。
「今回の休暇は生徒代表君も居ないのか。広い寮に一人きりで淋しくないのかね?」
「淋しくない」
ケーキを口に入れた途端、舌の上でしゅわっと音がして、溶けた。
甘くて濃厚なチーズの香りだけが口内に残った。
「私の部屋に泊まっても良いよ?」
チーズケーキが淡々とアンリの口に運び込まれる。
「では植物園にでも散歩に行こうか?」
「論文を書けば? ボージェ教授」
ノックの音。一礼して現れたのはこの寮の執事。
アンリ一人の為に、彼は毎回休暇中も寮に残っていた。
「お話し中、失礼致します。アンリ様、お電話でございます」
アンリはフォークを置いて、立ち上がる。
「そう。仕事の電話かな。失礼するよ、オーギュ。
もう研究室に帰ってくれても構わないけれど?」
「君を待っている間、この小鳥に相手をして貰うよ」
帰るつもりのない台詞に、アンリは肩を竦めて、サロンを後にした。
オーギュストは紅茶のカップを置くと、鳥かごの前に進んだ。
翼には丁寧に真新しい包帯が巻かれていた。
「あの子にして貰ったのかい?」
小鳥はきょとんとした黒目を向けている。
「君だけに見せた顔が幾つもあったのだろうね。羨ましいものだな」
アンリがサロンに帰って来た。
ドアの傍に立ったまま、中に入ろうとしない。
搾り出すような声で、アンリは詫びた。
「オーギュ。ごめん。僕、もう休むから」
普段あれほど冷静な子が動揺を隠し切れていない。
逃げ去ろうとする細腕を掴む。
「どうしたんだね?」
アンリの手には走り書き。其処にはフランスにある大病院の名前。
「父が…」
オーギュストは腕から手を離す。
サン・ジェルマン家の母親はアンリが幼い時に亡くなっている。
この家の父親と子息の仲は恐ろしく悪いと、オーギュストは知っていた。
「君の父上が?」
アンリは腕を抱く。
「危篤、だって」
「今回は本当にありがとう、ユウタ。俺に付いて来てくれて」
イギリス上空で、今回の旅についてジョシュアは礼を述べた。
航空機はロンドンの空港から上昇して、今は水平に飛んでいる。
隣の席に居る旅のパートナーは明るい笑顔を見せた。
「お礼を言うのはこっちだよ。俺、ジョシュアと一緒に旅行できて楽しかった」
ユウタの明るさに随分助けられた、とジョシュアは思った。
彼が居なかったら、グラントの食卓はもっと気詰まりしただろう。
頼もしいパートナーが一緒に来てくれたことを心から感謝していた。
「ねえ。ジョシュア」
「なんだい?」
「ジョシュアはさ、ロンドンとロレート、来て良かった?」
心配そうに尋ねる彼に、ジョシュアは自信を持って頷く。
「うん。行く前はね、正直あまり行きたくなかったんだけど、
今になって思うと本当に来て良かったと思うよ」
「そっか。良かった」
ユウタはまた笑顔になる。窓の外に何かを見つけ、身体を乗り出す。
「あっ、イギリスの形、世界地図とおんなじだ」
その地形が徐々に小さくなるにつれて、
ジョシュアはいつもの自分に戻っていくような気がしていた。
海を越えて、早く帰りたいという気持ちが強かった。
地図には載らない、辺境の島。
今の自分が胸を張って故郷と呼べる場所。
ウーティス寮。一番、心の休まる家。
やはり、自分の故郷はイギリスではないらしい。
そんなことを考えながら、海の向こうに消えて行くイギリスを見ていた。
「どうしてオーギュストまで行くの」
「アンリ一人では心配だからね」
アンリは部屋でオーギュストと明日のスケジュールの打ち合わせをしていた。
保護者代わりの特別講師が付き添うと言い張ったからだ。
航空機のチケットは二枚取れた。
翌朝、ジョシュアとユウタが帰って来る。
彼等を此処まで乗せたタクシーで、アンリは空港へ向かうことにした。
運転手には連絡が取れた。二人を降ろした後、正門前で待っているようにと伝えた。
サン・ジェルマンの邸。随分と久し振りの帰宅になる。
が、アンリを待っている血族は――本当に――居ないかもしれない。
あの人は、明日まで生きているのだろうか。
もし、生きていたら。
もし、生きていなかったら。
こんな時でも、両事象の利益、損益が思い浮かぶ。
僕はやはり、頭が可笑しいのだろうか。あの人が言ったように。僕は――
「オーギュ」
「ん?」
教え子は担当教師に質問する。
「もし彼が亡くなれば、僕の身の安全は保証される。
僕の命を狙っていた人が、居なくなるのだからね。
僕の言っていること、間違っている? ボージェ教授」
不謹慎で倫理感に外れる質問。
この子は、それを承知の上で尋ねているのだろう、とオーギュストは感じた。
口に出して、確認せずにはいられなかったのだろう。
正解か不正解の二択ならば、答えは決まっている。
教師は教え子が欲している正答を与えた。
「間違ってはいないね。紛れもない事実だ」
アンリは、こくんと頷いた。
この夜、アンリは頻りに横髪に触れていたが、
オーギュストは敢えて指摘しなかった。
「ねえ。オーギュ。明日以降の僕が、どんな陰口を叩かれるか解る?」
形ばかりの冷笑を浮かべ、アンリは他人事のように呟いた。
「僕が父を殺したって言われるんだろうね」
ジョシュアとユウタは無事に聖アルフォンソ島に到着した。
空港から学院までの車中。
ユウタはタクシー運転手にロレートの土産話を聞かせていた。
「それでね、ロレートの西側に古くてこじんまりした美術館があって、
優しい絵がたくさん展示されてさ、俺、なんか感動しちゃった!」
「随分楽しい休暇になったみたいだな、マージナルプリンス?」
「うんっ」
ジョシュアがカーディス1世と面会している間、ユウタはロレートを観光していた。
ジョシュアのことが気になって、街の人達に、王様のことを尋ねてみたりもした。
本当に信じてるわけではなかったけど、『兄殺し』の汚名があるからだ。
「観光案内所の人達も皆、ジョシュアの叔父さんのこと、好きだったよ。
『カーディス陛下を悪く言う国民なんか居ないのよ』って言ってた」
その国の人達は、誰もが王の潔白を知っていた。マスコミに悪い憶測を書かれても、
こんなに国民に信じて貰える王様は幸せ者だなあとユウタは感動するくらいだった。
運転手は鏡を見ないで相槌を打つ。
「へえー。モテモテだなあ、王様。モテる血筋なのかねえ。な、ジョシュア?」
「そんな、俺は全然」
「えー。俺達も、ジョシュアのこと大好きだよ! 皆も絶対そう思ってるって!」
運転手は鏡を見る気になれなかった。楽しい旅の帰り道は学院に着くまでだ。
こいつらは寮に着くなり、知ることになる。
正門前でタクシーから降りると、二人は揃って我が家に戻った。
ジョシュアは門から寮までの長い道のりをもどかしく感じられた。
久し振りの自分の部屋。
その見慣れた光景に思わず息が漏れた。ほっとする。
気遣いに覆われたグラントの実家より、やはり此処の方が落ち着く。
「ジョシュア。ドアを開けて」
久しい声。この友人の声を聞いて、更に帰郷感に満たされた。
今回の旅行は本当に行って良かった。伝えたいことがいっぱいある。
それから、ロレートのこと。
カーディスに会って、初めて知ったことが幾つもある。
何から話せば良いだろう。順序立てて説明できそうにない。
そうだ。先ずはアンリにお礼を言わなくては。
君の言う通り、ユウタを連れて行ってとても助けられた。
些か興奮気味のジョシュアは感じ取れなかった。
友人の僅かな声色の差異に気付かないまま、ドアを開けた。
スーツ姿のアンリは、鳥かごを手にしていた。
「おかえり、ジョシュア。さっきの表情を見ると、
ロレート旅行はそれなりに楽しめたみたいだね?」
「あ、ああ…」
肯定の返事に、アンリは、そう、と言った。
「じゃ、早速で悪いけど、この子を返すよ」
許可も得ずに鳥かごを近くの棚に置く。
「一体どうしたんだい、アンリ?」
背中を向けたままアンリは呟いた。
「父が倒れたから、帰る」
「アンリのお父さんが?」
「うん。それじゃ、もう行くから」
寮の外でアンリを待っていたのは、
神秘学の特別講師だった。彼も一緒に行くらしい。
言葉少なにアンリは姿を消した。
最低限しか口にしなかったが、彼の父親が深刻な状態だと知れた。
休暇中も必ず寮に残るアンリが家に帰るなんて只事ではない。
ジョシュアの手にはアンリが世話をしていたナイチンゲールが残った。
その夜は雨が降った。
温暖な気候の聖アルフォンソ島にしては、珍しい豪雨。
窓を打ち付ける雨音で、夜中に目が覚めてしまった。
少し空いていたカーテンの隙間から稲光が見える。
起き出して、カーテンを少し開く。
空が泣いている。
涙が止まらないといった様子で、幾度も幾度も雫が落ちてくる。
冷えた窓の頬はもう隙間もないくらい、雨に濡れている。
遠い海の向こうに居る友人の顔が浮かんだ。
君も今泣いているのだろうか。そうでなければ良いけれど。
雨のせいだろうか、悪い方にしか考えられない。
彼は既に母親を失くしている。
もし、万が一のことがあれば彼も俺と同じように二人も親を失ってしまう。
彼は父親との間に軋轢があるが、
本当に居なくなってしまえば良いとは思っていない筈だ。
カーテンの端を持ったまま、闇の空を仰ぐ。
「アンリ…」
部屋の中から物音がする。鳥かごからだ。
ナイチンゲールが小さく鳴いた。
『恋の歌を歌う鳥』のさえずりも痛切で物悲しく感じた。
この小鳥もアンリのことを心配してくれているように聞こえる。
アンリが返した鳥かごは綺麗に掃除されていた。容態も回復に向かっている。
ナイチンゲールの羽にも艶がある。きちんと水分と栄養を与えられた証拠だ。
自分が居ない間、毎日きちんと世話をしていたのだろう。
今、ナイチンゲールが呼んでいるのは、アンリなのかもしれない。
ざあざあというノイズが鳴り止まない。
それから暫く雨音を聞きながら、夢と現を行き来していた。
ほんの僅かに眠ったらしい。
ジョシュアの祈りも虚しく、翌朝のニュースは、
『サン・ジェルマン家の当主が亡くなった』と報じた。
当惑しているだろう友人の名が各メディアに記されている。
彼が父親の事業を継ぐことに、社内は反対しているらしい。
悲しみに暮れる間も与えずに、彼の周囲は後継者問題を騒ぎ立てていた。
アンリがウーティス寮に帰って来たのは数日後。
サロンに顔は見せたものの、その表情には疲労の色が滲んでいた。
心配していた寮生達に、威勢の無い毒を吐いた後は、
自分の部屋に戻り、すぐに眠りに付いた。
翌日には、いつものアンリに戻っていた。
寮の皆もアンリに対して、いつも通りに接してくれた。
ウーティス寮は徐々に『日常』を取り戻しつつあった。
アンリの毒舌にレッドが絡み、ジョシュアが止める。
賑やかで平和な日々が戻って来た。
そして、ナイチンゲールの怪我が完治した。
包帯も外れ、翼は自由に動く。もう飛べる。
お別れだ。森に返すのは、少し淋しいけれど。
この子だって早く我が家に帰りたい筈だ。
ロンドンからの帰り道、ウーティス寮が恋しかった自分のように。
明日、森に戻そう。
自分が居ない間、世話をしてくれたアンリにも一緒に来て貰おう。
そう思って、彼を誘ったのだが「君に任せる」と断られた。
アンリは何も言わなかったけれど、俺以上に小鳥と別れるのが辛いのかもしれない。
元々、彼が見付けて救った小鳥だ。
最初から情が移っていたのだろう。
たった一羽で、家族も仲間も傍に居なかった、この小さな鳥に。
天気の良い夜。ジョシュアは鳥かごを持って、月桂樹の森へ入った。
自分の後を、ナイチンゲールの鳴き声が付いてくるようだった。
鳥かごの中に仲間が居ると解るのだろう。
彼等に見守られながら、ジョシュアは鳥かごを開ける。
「さあ。君の家へお帰り」
小鳥は羽ばたいて、森の中に消えた。
その様子を、アンリは自室から見ていた。
ジョシュアに任せて良かった。
あの場に自分は居られない。翼を折ってしまうかもしれない。
その可能性がゼロだとはどうしても思えなかった。
以前、鳥かごを置いていた場所。
何もない。
空疎に感じる方が可笑しいのに。
最初から其処には何もなかった。
たった数日、其処に居ただけなのに。
ナイチンゲールの透き通った声は、今も耳に残っていた。
小鳥がウーティスから消えた翌朝。
アンリは重い身体を起こす。朝に気分良く目覚めた方が少ない。
しかし、起きなければ、煩い寮生達が叩き起こしに来る。
日光を浴びて、無理矢理、身体に朝だと認識させる。
カーテンを開けると、窓の外に何か見えた。
窓枠に赤いものが置いてある。
赤い木の実だ。
窓を開けて、実の付いた枝を手に取る。
やはりミハイルに教えられたものと同じに見えるが。
風で飛ばされたのだろうか。だが、この実は森の奥にしかない。
此処まで飛んで来る可能性は、低い。
一瞬、脳裡に浮かんだメルヘン。
アンリは赤い実を眺めながら、冷たく笑った。
「まさかね」
同じの日の放課後。ジョシュアは月桂樹の森を散歩していた。
あのナイチンゲールに会えないかなという僅かな期待があった。
「この中に居るのかな、君も」
ジョシュアの上空で鳥達がさえずっていた。
目の前にある木。その枝に一羽の小鳥が止まった。
口に何か銜え、ジョシュアを見ているようだ。
「君なのかい?」
小鳥はすぐに飛び立った。
ジョシュアの足許に何かが落ちた。
細い枝に金色の新芽が付いている。月桂樹の小枝。
新芽はナイチンゲールの好物だ。
食べようとしていたのを、誤って落としてしまったのだろうか。
「王はナイチンゲールが銜えてきた枝で森を作った――伝説の通りだね?」
冷たくて甘い声。アンリがウーティス寮の方から歩いて来た。
「アンリ」
「それ、植えてみたら? 森になるかもしれないよ? まあ、数十年後くらいにはね」
シニカルに笑って、眩しそうに鳥達を仰ぎ見る。
「ナイチンゲールにも見えるのかな?」
サン・ジェルマン伯爵の子孫が見えると言い張るもの。
それをジョシュアは見ることはできない。
この額に在る。友人は真面目な顔をして言う。
嘘にも冗談にも聞こえないけれど。否、と考えてしまう。
ジョシュアは、カーディスのことを思い出した。自分の叔父で、現ロレート国王。
先日の旅行で、初めて彼に会って。父に似た声で、カーディスは言った。
――お前を正式な王位継承者として迎えたい。俺はその為に王になった――
ジョシュアは友人の背中から視線を落とす。
草の間で蟻が列を為して歩んでいる。自然とその先頭を目で追っていた。
ひっそりと名を呼ぶ。友人は無言で立ち止まった。
「…見えるのかい? 今も」
何を今更、という表情で、アンリは王冠の位置を指差す。
「ああ。ずっと此処に」
アンリの瞳にのみ映る、透明な光。
それは初めて会った時からずっと、ジョシュアの頭上にある。
「きっと君が生まれた時から此処にあったんだ。
そして、これから先も。どうして気付かないの? これほどの輝きに」
「ありがとう」
「礼を言われる覚えはない。僕は本当のことを言っただけだ」
アンリはくるりと背を向けて、歩き出す。
「ねえ。そろそろお茶にしてくれない? 生徒代表殿」
微笑んで、ジョシュアは友人の背を追い駆ける。
「そうだね」
「僕、今日はアイスティーが飲みたいな」
「了解」
木漏れ陽の小道を二人で歩いていく。
森を抜ければウーティス寮。自分達の家だ。
二人の上ではナイチンゲールが楽しげに歌っていた。
「あ。明日、レッド達のライブがあるそうだよ? アンリも一緒に」
「行かない」
fin
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