■ハルヤとユウタ
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ウーティス寮。
ハルヤの部屋にユウタが遊びに来ていました。
二人きりなので、日本の話をしていたところでした。
ちゃぶ台に乗っているのは、ハルヤが淹れてくれたアイスグリンティーです。
ユウタがふと窓を見ると、あの凶暴オウムを見掛けました。
金髪の生徒の肩に乗って今日も元気に叫んでいるようでした。
エンジュと同じ寮の人です。名前は長いので忘れてしまいました。
オウムの方は確か『コバタンオウム』です。
そこでユウタは、ぽんっと手を打ちました。
「あっ! コバタンオウムって、ハルヤと一緒だね!」
ハルヤは首を傾げます。
何がどうなって、自分が鳥扱いされたのか解りません。
「えっと…なんで俺?」
ユウタは笑顔で、ハルヤを指差します。
「コバたん!」
笑顔の友人を見て、ハルヤは苦笑しました。
「それはもしかして…コバヤシの『コバ』をとって『たん』を付けたの?」
「うんっ。ねえねえ。これからハルヤのこと『コバたん』って呼んでも」
「…ハルヤで良いよ。恥ずかしいから」
「えー。でも、可愛いのにー」
「あのー、ほらっ。この学校、ファーストネームで呼ぶって決まりだからさ」
「あ、そっか。ザンネンだなあ」
ハルヤはほっと胸を撫で下ろしました。
良い習慣があって良かったなと改めて思いましたとさ。めでたしめでたし。
さて。『週刊アルフォンソ学院』の新コーナー『今週のハルヤの部屋』いかがでしたか?
リクエストしてくれた『ペンネーム うさぎ怪獣』さん、ありがとうございましたー。
これからも皆さんからのリクエスト、どしどしお待ちしていまーす。
以上、今日のレポーターは僕、シルヴァン・クラークがお送りしましたー。
「…って。何やってんのさ、シルヴァン」
おおっと、ハルヤに見付かっちゃいました。
スタジオのヴィスコンティさーん、お返ししまーす。
fin
ハルヤの部屋にユウタが遊びに来ていました。
二人きりなので、日本の話をしていたところでした。
ちゃぶ台に乗っているのは、ハルヤが淹れてくれたアイスグリンティーです。
ユウタがふと窓を見ると、あの凶暴オウムを見掛けました。
金髪の生徒の肩に乗って今日も元気に叫んでいるようでした。
エンジュと同じ寮の人です。名前は長いので忘れてしまいました。
オウムの方は確か『コバタンオウム』です。
そこでユウタは、ぽんっと手を打ちました。
「あっ! コバタンオウムって、ハルヤと一緒だね!」
ハルヤは首を傾げます。
何がどうなって、自分が鳥扱いされたのか解りません。
「えっと…なんで俺?」
ユウタは笑顔で、ハルヤを指差します。
「コバたん!」
笑顔の友人を見て、ハルヤは苦笑しました。
「それはもしかして…コバヤシの『コバ』をとって『たん』を付けたの?」
「うんっ。ねえねえ。これからハルヤのこと『コバたん』って呼んでも」
「…ハルヤで良いよ。恥ずかしいから」
「えー。でも、可愛いのにー」
「あのー、ほらっ。この学校、ファーストネームで呼ぶって決まりだからさ」
「あ、そっか。ザンネンだなあ」
ハルヤはほっと胸を撫で下ろしました。
良い習慣があって良かったなと改めて思いましたとさ。めでたしめでたし。
さて。『週刊アルフォンソ学院』の新コーナー『今週のハルヤの部屋』いかがでしたか?
リクエストしてくれた『ペンネーム うさぎ怪獣』さん、ありがとうございましたー。
これからも皆さんからのリクエスト、どしどしお待ちしていまーす。
以上、今日のレポーターは僕、シルヴァン・クラークがお送りしましたー。
「…って。何やってんのさ、シルヴァン」
おおっと、ハルヤに見付かっちゃいました。
スタジオのヴィスコンティさーん、お返ししまーす。
fin
■オウム×ジャワハルワール
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聖アルフォンソ学院 アルファルド寮。
この寮は朝から夜までいつもひっそりとしていた。
物静かな人種が集まっているからである。
廊下で擦れ違っても挨拶をしない方が普通だった。
互いに干渉しない為、揉め事も起こらない。
寮生達の仲は悪くないが、さして良くもない。
祖国での煩わしい干渉に疲れた彼等には、
アルファルドの静寂はありがたく、彼等なりの平和が保たれていた。
その均衡を微かに脅かしている生徒が居た。
波立つ黄金の髪に、小麦色の肌を持つ生徒。
その肩に乗っているのは一羽の白い鳥。
マレー語で「姉」の名を持つ鳥、オウムだった。
いつも騒がしいオウムに寮生達は迷惑していたのだが、
それを口に出して注意する生徒は居なかった。
アルファルド寮で最も喋る社交家はこのオウムかもしれなかった。
今日もオウムは甲高い声で叫んでいた。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
その名前は生徒のものだが、オウムはよくその台詞を喋っていた。
アルファルドの生徒は皆「ジャワハルワールのオウム」と呼んでいた。
誰もオウムの名前を知らなかった。
何故なら、ジャワハルワールがオウムを呼ぶ場面を見ていないからだ。
というより、彼が喋った所をまだ誰も見たことがなかった。
ジャワハルワールが飼っているのはコバタンオウム。オス。
動物名:コバタン 鳥類オウム目オウム科
体長 約35cm 寿命 平均40年。
オウムは人間並みに長命で、種類によっては100年生きる。
羽毛は白。冠羽(かんう)は黄色。瞳の色はオスが黒、メスが赤
チャームポイントは、冠羽とお揃いの黄色のほっぺ。
知能が高い為、人の言葉を真似ることができる。
趣味はおでかけと、きらきらするものコレクション。
白いオウムは概して人懐っこく、
人に構って貰えないことがストレスになる程の淋しがり。
人を噛むなど凶暴な面もあり、ペットに向かないオウム第一位。
朝。ジャワハルワールはオウムの鳴き声で目覚める。
隣室まで確実に届く盛大な音量が繰り返される。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
むくっと起きたジャワハルワールを確認すると、
オウムは鳴くのを止めた。利口な目覚まし時計である。
ジャワハルワールは欠伸もせずに、身支度を始める。
背筋が正しく、動作は機械的だった。
時計の針が朝食の時間を示すと、オウムが鳴いた。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
ジャワハルワールは食堂へ向かった。
寮生達が集まっている。皆、口数が少ないので、やはり静かだった。
ジャワハルワールが自分の席に着く。
彼のテーブルには、人間用と鳥用の食事が並んでいた。
どちらもアルファルド寮のシェフ、アラン・ウーが用意してくれたものだ。
おそらくアランは動物好きなのだろう、と寮生達は推測していた。
実際にアランに尋ねる生徒は居なかったので、真実かどうかは定かではない。
食事が終わったジャワハルワールは、鳥用の皿を持って、すっと席を立つ。
やはり一言も喋らずに、自分の部屋へと戻った。
自室のドアを開けると大歓迎の声に迎えられた。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
ジャワハルワールは鳥カゴを開ける。キイと音が鳴る。
鳥カゴは彼の背丈程もある大型だ。
同じ台詞を繰り返す鳥の前に、持ってきた皿を置く。
皿にはオウムの主食であるトウモロコシやヒマワリの種。
オウムは両の翼を広げた。
アラン特製のオウムモーニング。味も良く栄養バランスも良い。
羽根の艶が良いのも毎日朝食を摂っているからかもしれない。
ジャワハルワールが鳥カゴを閉めると、
オウムはクチバシを突き立てて、がつがつ食べ始めた。
食事中のオウムは何も喋らず、この時が一番静かだった。
ジャワハルワールは無表情なまま、暫しオウムを見守る。
余り感情を表に出さない人間ではあるが、見目は美しい。
声も美しいのだろうかと想像はできるが、無言の為にどんな声かも解らない。
やがて、ジャワハルワールは講義のテキストを持ち、教室へと向かった。
人間が居なくなった部屋。
朝食が終わったオウムは翼を器用に動かして、鳥カゴを開ける。
ばさばさばさと派手に羽ばたいて、部屋の窓から抜け出した。
羽が一枚舞って、静かに床に落ちた。
オウムは空高く上昇する。寮の屋根まで上がると水平に飛んだ。
前方には格調高い校舎。そちらの方へ生徒達が移動している。
思わずオウムは二度見した。あいつを発見した。
校舎の屋根に止まり、様子を見る。
オウムのコレクションをひとつ盗んだ泥棒だ。
あんな悪い奴がこの学院に居るなんて思わなかった。
人間の世界では他人の物を勝手に取っても良いのだろうか。
極悪人はがっくりと肩を落としている。
「どうしよう。学生課にも届いてなかった…」
後ろから生徒が走ってきて、罪人の背を叩いた。
「よっ! 背中曲げてどーした? じーさんみたいだぜ」
悪党は背中をさすりながら、
「昨日、どっかで腕時計を落としちゃったみたいで。でも見付からなくて」
「マジで? 俺のもなくなったんだよ」
「え。レッドも?」
「んじゃ、今度一緒に買いに行こうぜ。
あっ! どうせならペアウォッチとか! もちろん、お前がオンナもんな!」
「なっ、なんでだよ…」
校舎から鐘の音が聞こえた。他の生徒達が駆け足になる。
「ヤベッ。行くぞ、ユウタ!」
泥棒とその仲間は校舎の中に走って行った。
慌ただしい後ろ姿をオウムは見送る。人間達はあの鐘に怯えている。
鐘に操られているみたいに人間は動く。不思議だ。
オウムも校舎の屋根を飛び立った。
聖アルフォンソ学院 アルファルド寮。
午前の講義が終わって、ジャワハルワールが部屋に戻ってくる。
テキストを机に置く。鳥カゴを見ると、扉が開いていた。
床には羽根が一枚落ちていた。
ジャワハルワールは身を屈めて、それを取る。
一言も発さずに、真っ白な羽根を見つめている。
その表情からは何も読み取れない。
羽根を持って、机に向かう。鍵の付いた一番上の引き出しを開ける。
引き出しには黒い箱が入っていた。箱の蓋を開ける。
中には白い羽根が詰まっている。持っていた羽根を其処に入れて蓋をする。
箱を引き出しに仕舞い、鍵を掛ける。
もうすぐ昼食の時間だった。ジャワハルワールは食堂へと向かう。
オウムの黒い瞳には緑豊かな植物園が見えてくる。
少し休憩するつもりなのか、一本の木に止まった。
温かく、気持ちの良い日だった。オウムは両の翼を広げる。
強過ぎず、弱過ぎない風も吹いている。
機嫌良く羽の手入れをしていると、下界に一人の生徒が見えた。
植物園でよく見掛ける顔だった。
眼鏡がキラリと光るので、いつも眼鏡をつつきたい衝動に襲われた。
オウムはきらきら輝くものが好きだった。
巣には自慢のコレクションがずらりと並んでいる。
いつかあの眼鏡も巣に持ち帰り、コレクションに加えようと決めていた。
眼鏡を外すのを今か今かと注意深く見ているのだが、
何故かその瞬間は訪れず、今日もダメだったかと残念に思う。
けれども、野望は捨て切れず、今日も様子を伺うことにした。
生徒は此処に来ると、いつも大きな木を見上げていた。
その後の行動は日によって違う。
隣の建物に立ち寄って何か飲んだり、ぶらぶら歩いて他の植物を見たりする。
だが、大きな木を見なかったことは一度もなかった。
今日も生徒は木を見上げていた。
その時、太陽に反射して眼鏡のレンズが輝いた。
ドキッ。オウムのハートがときめく。思わず両翼を広げていた。
生徒はそんなことは露知らず、また何処かへ消えていった。
オウムはへなへなと翼を下ろす。つれない後ろ姿を見送りながら、
チキンなハートはまだドキドキと高鳴っていた。
聖アルフォンソ学院 アルファルド寮 食堂。
昼食が終わったジャワハルワールは鳥用の皿を持って、すっと席を立つ。
やはり一言も喋らずに、自分の部屋と戻った。
自室のドアを開けると大歓迎の声に迎えられた。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
ジャワハルワールは鳥カゴを開ける。キイと音が鳴る。
手に持っていたのは、スライスされたオレンジ。オウムは両の翼を広げた。
オウムはフルーツが好きだった。
特にオレンジがお気に入り。今日はイイコトありそな予感。
ジャワハルワールがオウムの前にオレンジを差し出す。
オウムはクチバシで受け取る。
ちゅーっと100%オレンジジュースを吸う。ウマイ。
後は片足でオレンジを持ちながら、ちびちびと甘酸っぱい蜜を楽しむ。
ジャワハルワールは無表情なまま、暫しオウムを見守る。
一羽と一人の間に長閑かな時間と柑橘類の香りが漂う。
オウムが食べ終わると、ジャワハルワールは柔らかなハンカチをポケットから出した。
オレンジで濡れたクチバシと足を綺麗に拭う。
ジャワハルワールはポーカーフェィスのまま、オウムを暫し見つめる。
鳥カゴから離れると、午後の講義のテキストを持ち、教室へと向かった。
人間が居なくなった部屋。
オウムは翼を器用に動かして、鳥カゴを開ける。
ばさばさばさと派手に羽ばたいて、部屋の窓から抜け出した。
羽が一枚舞って、静かに床に落ちた。
オウムは日光浴が好きだった。
今日のように天気の良い日は鳥カゴでじっとなんかしてられない。
窓から外へと脱出した。
広い草原が見えてくる。
厩舎の前で下界に降りた。木の柵で羽を休める。
この柵に沿って馬が走るのをオウムはよく見ていた。
此処で時々会える生徒の顔も知っていた。
以前、月桂樹の森で行方不明になったナイチンゲールが居た。
仲間達が必死に探したが見付からなかった。
数日後、学院の生徒に発見され、しかも看病してくれているらしいと噂が広まった。
そして怪我が治って森に戻ったナイチンゲールの証言により、
あの深紅の瞳を持つ生徒が恩人だと鳥達は知った。
島に住む鳥達の間では彼を知らない鳥は居ないくらいだ。
特にナイチンゲール達が、彼に熱を上げていて、
「今日の王子様はテニスをしていた」など、しきりに噂をしていた。
看病してくれた件に加え、本能的に惹かれるところがあるらしかった。
そんなことを森の鳥達がピーチクパーチク話しているのを、
オウムも耳にしていた。王子様はオウムにも優しくしてくれて、
「綺麗な翼だね」と言ってくれたこともあった。今日は会えるだろうか。
今年は何故か見掛ける回数が少ない気がする。どうしてだろう。
「あ。君はジャワハルワールの…」
ドキッ。オウムの小さな心臓は飛び出しそうだった。
勢い付けて首を半回転させる。
其処にはあの王子様が居た。今日も深紅の乗馬服がよく似合う。
「やあ。こんにちは。元気にしていたかい?」
王子様はいつもの優しい笑顔を見せた。
オウムは元気いっぱい両翼を広げて答える。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
王子様は口許に手を当てて上品に微笑む。
「元気そうだね。良かった」
オウムは王子様のような笑顔に見惚れる。
眼鏡のレンズのように光るわけではないのに、
この笑顔はきらきらと輝いて見える。
「君の翼、真っ白でとても綺麗だよね。…俺にも翼があれば良いのに」
王子様は、すうっと手を伸ばす。
「おいで」
吸い寄せられたようにオウムは羽ばたき、その腕に止まった。
王子様に頭を撫でられる。優しい手付き。
やっぱりこの人がナイチンゲールを救ってくれた人に間違いないんだろう。
優しい人間って居るもんだな、とオウムは思う。
王子様はオウムを乗せたまま、厩舎の裏側へと歩き出した。
其処には馬用の水飲み場があった。木製の箱に水が張られている。
オウムはぎゅんと首を曲げ、黒い瞳で王子様を見つめる。王子様は微笑む。
「君に貸してあげる。水浴びに使って?」
オウムは水浴びが好きだった。こんな温かい日は絶好の水浴び日和。
王子様の腕から降りて、箱の縁に止まる。
羽根を水に浸す。冷たくて気持ちいい。
鳥界の王子様にこんなに優しくして貰えて、
やっぱり今日はイイ日だ。
興奮の余り翼をバタつかせ、ばしゃばしゃと羽根を洗う。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
「喜んでくれたみたいだね?」
「オレのナマエはジャワハルワール!」
「どういたしまして」
すると厩舎の中から、ぶるるるんっと馬の唸り声が聞こえてくる。
苦笑した王子様は中へと入り、一頭の馬を連れて来た。
巨体な動物がオウムにガンを飛ばしている。弱小の心臓がカタカタ震え出す。
王子様は不機嫌なたてがみを優しく撫でた。
「怒るなよ、アルセイデス。君はもう水を飲んだだろう?
さあ、今日は山の方に行こう。ね。俺を乗せて?」
馬はツンとした表情でそっぽを向いた。
視線が合わなくなったオウムは、ほっと息を吐く。
困った笑顔の王子様は、しょうがないな、と言って馬の頬に手を添えた。
「俺は、君が一番大切だよ、アルセイデス」
オウムのハートは粉々に砕けた。
さっきまであんなに優しくしてくれたのに。
たてがみか? たてがみがそんなに良いのか?
オウムは水面に映る自分の姿を呆然と見つめる。
何故自分は馬に生まれなかったのだろう、とちょっと思ってしまう。
王子様はすっかり機嫌を直した馬と遠乗りに行ってしまった。
優しくて残酷な後ろ姿を見送る。オウムは、よよよと翼で顔を隠す。
濡れた翼から、水面にぽたりと雫が落ちた。
オウムは、優しい人間には気を付けよう、と思いつつ、また空へ飛び立つ。
そろそろ戻らなくちゃ。風の中を突き抜ける。
悲しみに濡れた羽根を乾かしながら、寮へ帰って来た。
我が家の窓から真っ直ぐに鳥カゴの中に入り、宿り木に止まる。
純白の翼を伸ばして、手馴れた様子で扉を閉めた。
聖アルフォンソ学院 アルファルド寮。
今日の講義が全て終わったジャワハルワールが寮に戻ってくる。
廊下で何名か傍を通過したが、互いに目に入らなかったように擦れ違った。
自室のドアを開けると、大歓迎の声に迎えられた。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
ジャワハルワールが鳥カゴを開ける。
オウムは羽ばたいて、ジャワハルワールの肩に止まった。
小麦色の顎に、オウムがすりすりと頬を寄せた。
ジャワハルワールはされるまま、オウムを暫し見つめる。
肩乗りオウムを連れて、部屋を出た。
廊下でアルファルド寮のバトラーに出会う。
「ジャワハルワール様、お電話でございます。
お時間がある時に、通信室へお向かい下さい」
一礼して、バトラーが去って行く。
ジャワハルワールとオウムは寮を出て、通信室へ向かった。
キャンパス内は放課後の伸びやかな雰囲気に包まれている。
夕食までの間を友人とカフェで過ごしたり、
ジムや図書館へ出向く生徒達が行き交っていた。
聖アルフォンソ学院 通信室。
生徒が電話をする時に使用する場所だ。
外部から掛けられた電話は全て交換台に繋がる。
交換台に呼ばれた生徒は指定されたブースに入り、電話をすることになっていた。
ジャワハルワールは交換手の前に立つ。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
片翼を上げ、愛想の良いオウムが叫んだ。
交換手は笑顔でナンバープレートが付いたカードキーを渡す。
「はい。ジャワハルワール様ですね。6番ブースへどうぞ」
ジャワハルワールがキーを受け取り、ブースへ入った。
電話中、オウムは喋らず、静かに待っていた。
オモチャを見つけたからだ。机に備え付けのメモ帳。
クチバシで一枚破る。紙を咥え、床に着地する。
オウムは紙を破いて遊ぶのが好きだった。
口と足を使って一枚を二枚に破る。
びりびりり。クチバシに伝わる振動にゾクゾクする。
後は思うがままに、紙を小さく小さく破いていく。
両翼でそれを一箇所に集める。
小さな山ができると、翼で風を起こす。
ふわっと紙が舞った。キレイ。オウムは両の翼を広げた。
必技 オウム紙吹雪。効果は特になし。
散らばった紙をまた両翼で一箇所に集める。
飽きずに5回程繰り返したところで、電話が終わった。
ジャワハルワールは床に散らばっているメモ帳の残骸を見下ろす。
はっと気付いたオウムが、黒い瞳で彼を見上げている。
一羽と一人の間を静寂が通り過ぎる。
ジャワハルワールは無表情のまま、片膝を着いた。
オウムが散らかした紙を綺麗に拾い集め、ゴミ箱へ入れた。
ジャワハルワールはオウムに腕を差し出す。
手首の近くにオウムが飛び乗る。
ジャワハルワールはすっと立ち、手を肩に添える。
オウムの足がひょこっと手から肩に渡る。
通信室を後にして、月桂樹の森へと向かった。
聖アルフォンソ学院 月桂樹の森。
キラキラする木漏れ陽の中、ジャワハルワールとお散歩。
肩乗りオウムは今日あった出来事を一方的に報告する。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
オイラ、今朝、あの赤いキラキラを盗んだ泥棒を見た。
あれ、キレイだから、お前にあげようと思ってたのに。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
植物園のキラキラは今日もゲットできなかった。
でもいつか絶対お前にプレゼントするから待ってろよ。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
午後は水浴びしてたんだ。ほら見て見て。
な。今日のオイラ、ピカピカ。オイラ、キレイ。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
でもさでもさ、聞いてくれよ!
オイラ、馬に睨まれて、王子様に弄ばれた!
「オレのナマエはジャワハルワール!」
でもこれって、ナイチンゲール達には黙っといた方が良いかな?
お前もあいつには騙されんなよ…って、なあなあ、ジャワ、聞いてんの?
ジャワハルワールは木陰で足を止めた。
腰を降ろして幹に凭れる。
手を肩に寄せる。オウムはひょこっと肩から手に移動する。
ジャワハルワールはオウムの黒い瞳を暫し見つめる。
白い翼に小麦色の指を通し、優しく撫でた。
オウムにとって人とのスキンシップは生死を左右する程に重要だ。
日に一時間以上、しっかり構って貰えないと、淋しくて自ら羽根を抜いてしまう。
孤独を感じたオウムが、翌朝、血だらけになって倒れていることもある。
人間と同様に長命で淋しがり屋のオウム。
長年、毎日構って付き合える忍耐がなければ飼い主にはなれない。
オウムの飼育が困難な理由は此処にある。
ジャワハルワールのオウムが自ら羽根を抜いたことは今までに一度もなかった。
この褐色の手は毎日優しく翼を撫でてくれた。
ぽかぽかの午後。ピカピカの木漏れ陽。
森の中でジャワハルワールと一緒。
オウムは、人間みたいにクチバシでジャワハルワールに触れてみたかった。
でも、クチバシで突いたら、ジャワハルワールを穴だらけにしてしまう。
人間側も鳥の病気の感染予防に、唇で鳥に触れることはできない。
人間と鳥では、翼に触れることが最大のスキンシップになる。
オウムは羽根に触って貰うことが好きだった。
小麦色の大きな手はあったかい。オウムは嬉しい。
ゴキゲンで歌でも歌おうかなとクチバシを開く。
「オレのナマッ…」
ちょっ、ジャワ、そこはダメだって。こんなトコで触るなんてダイタン過ぎ。
オイラが一曲聞かせてやろうと思ったのに、こ、これじゃ歌えない。
「オレのッ…」
此処が何処だか解ってる? 森だよ? ほら、ナイチンゲールもすげー見てるし。
どんだけ羞恥プレイだと思ってんだよ。オイラ、恥ずかしいっ。
「オレッ…」
ナイチンゲール達が高い声で鳴いている。
笑われた。ジャワのバカ。オイラ、明日から森で笑われ者になっちゃうだろ。
その時、遠くから足音が近付いて来た。
「ナイチンゲールはね、『恋の歌を歌う鳥』と呼ばれてるんだ」
隣の小道から聞き覚えのある柔らかな声。オウムがガン見した。
ウーティス寮の方から歩いてきたのは王子様と泥棒だった。
「へえー。恋の歌なんて、ロマンチックだね」
あ。ナイチンゲール達が王子様をうっとり見てる。
騙されるな! そいつ馬好きなんだぞ!
「耳を澄ましてごらん、ユウタ。なんだかそう聞こえてこない?」
いや、それ、さっきまでオイラをせせら笑ってただけ。
…って、うわあー! ナイチンゲールが急にラブソング歌い始めた!?
王子様の前だからって、調子良過ぎるぞ、ナイチンゲール!
「うん。ほんと、可愛い声だねっ」
何も知らない王子様と泥棒の平和な後ろ姿をオウムは見送る。
あれ? そう言えば、羽根を撫でる手が止まっている。
振り返ると、ジャワハルワールはオウムを抱いたまま、眠っていた。
オウムはそうっとジャワハルワールの腕から翼を引き抜く。
傍に落ちていた自分の羽根。それを一枚、ジャワハルワールの腹に乗せる。
そう言えば、そろそろキラキラの時間だ。
オウムは羽ばたいて、近くにある第二の我が家まで飛んでいった。
同じく月桂樹の森。
少し居眠りしていたジャワハルワールが目覚める。
オウムが居ない。ふと見ると、腹の上に白い羽根が乗っていた。
それを手に取って、胸ポケットに差す。
もうすぐ夕食の時間だった。ジャワハルワールは食堂へ向かった。
白い翼を畳み、オウムが降り立ったのは自分の巣。
月桂樹の枝で作ったものだ。
自分の羽毛の他に、自慢のコレクションが鎮座している。
ボタン、指輪、コイン、腕時計、タイピンなど。
夕暮れのおひさまに当たって、キラキラがもっとキラキラする。
白い尾っぽを左右に揺らす。
オウムは夕陽に反射するコレクションを眺めるのが好きだった。
「増えてるな」
オウムの頭上から人間の声がした。こんな高い木なのに上れる人間が居るのか。
ぐいっと見上げると、幹に背を預け、二つ上の枝で足を伸ばしている生徒が居た。
黒髪で、鷹のように鋭い瞳。こいつ知っている。
赤いキラキラを泥棒された時に一緒に居た奴だ。
オウムは其処まで飛んで、威嚇する。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
生徒は後頭部に手を回す。冷静な声で言う。
「俺は光り物に興味はない」
「オレのナマエはジャワハルワール!」
「落ち着け。これでも食うか?」
生徒は月桂樹の葉を差し出す。明るい色の新芽だ。
オウムは月桂樹が好きだった。
葉っぱは何でも好きだけど、この葉はオトナの味。
オウムは生徒が居る枝に止まる。クチバシで葉を受け取ってちょっと離れる。
生徒の様子をじっと観察しながら、むしゃむしゃ食べ始めた。
生徒はフッと笑った。
「お前の名前も、ジャワハルワールなのか?」
「オレのナマエはジャワハルワール!」
「お前、ヘンなオウムだな」
再び微笑むと、その位置から風を切って、地面に飛び降りた。
オウムは目を疑う。人間技とは思えない身のこなしだ。
あいつ、人間の格好してるけど、ほんとは猿の仲間?
でも月桂樹の葉は美味しい。オイラが葉っぱ好きなの知ってたのかな。
あいつ、ヘンだけど、ちょっとイイ奴かも。
月桂樹を食べながら、ヘンな奴の後ろ姿を見送る。
オウムは頭を捻る。泥棒の仲間なのに、月桂樹をくれた。
なんか人間って解らない。
夕陽が落ちていた。空に一番星が光る。お星様もきらきらキレイ。
カラスが鳴く。もう晩ご飯の時間だ。おうちに帰ろう。
聖アルフォンソ学院 アルファルド寮 食堂。
夕食が終わったジャワハルワールは鳥用の皿を持って、すっと席を立つ。
やはり一言も喋らずに、自分の部屋と戻った。
自室のドアを開けると大歓迎の声に迎えられた。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
ジャワハルワールは鳥カゴを開ける。キイと音が鳴る。
同じ台詞を繰り返す鳥の前に、持ってきた皿を置いた。
今日の晩ご飯はレタスだ。
鳥カゴを閉めると、オウムは両の翼を広げた。
オウムはレタスが好きだった。
足で上品にレタスを持って、一口ずつ食べる。
このレタスは島特産の新鮮なレタス。やっぱり瑞々しさが違う。
ジャワハルワールはベッドに座る。
足を伸ばして壁に背を預けながら、本を読み始めた。
部屋には、レタスを啄ばむ音と、ページを繰る音。
晩ご飯が終わったオウムは鳥カゴを開けて、ベッドに飛んで行く。
オウムがジャワハルワールの手に頭突きする。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
ジャワハルワールは片手でページを捲り、もう片方の手でオウムの頭を撫でる。
小麦色の指は優しく冠羽から頬へ、翼へと降りてくる。
あったかい手に撫でて貰ってオウムは満足した。
今度はオウム用の毛布に包まって遊び始めた。
毛布の中から首を出したり、引っ込めたりを繰り返す。
ジャワハルワールは本を読んでいる。
オウムは毛布から首を出したり、引っ込めたり。
毛布を被ったまま、ベッドの上を歩いてみたりする。
ジャワハルワールは本を読んでいる。
ちょっと飽きてきたオウムは、ジャワハルワールの膝に乗り、足の方へ歩き始めた。
先まで行くと膝まで戻ってくる。10回程繰り返したところで、
パタンと本が閉じられた。
オウムは翼を広げて、ぴとっとジャワハルワールの胸にくっつく。
触って触って、という要求にジャワハルワールは応じる。
羽根一枚一枚に触れるように、時間を掛けて丁寧に翼を撫でた。
オウムは安心する。だんだん眠たくなってくる。
オウムの前にジャワハルワールの腕が差し出される。
オウムが乗ると、ジャワハルワールは立ち上がって、鳥カゴの中にオウムを戻した。
ジャワハルワールが扉を閉める。おやすみの時間みたいだ。
今日もお腹いっぱい食べて、いっぱい遊んだ。いいゆめ見れそう。
オウムの黒い瞳はジャワハルワールの背中を見つめていた。
金色の髪。キレイ。ジャワの髪が一番キラキラだ。
ジャワハルワールは部屋の電気を消す。
ベッドに向かう前、もう一度、鳥カゴの前に立った。
ジャワハルワールは鳥カゴの隙間から指を伸ばして、
オウムの黄色い頬を撫でた。
「愛してる」
オウムは両の翼を広げた。
「アイシテル! アイシテル!」
オウムはジャワハルワールが一番好きだった。
fin
この寮は朝から夜までいつもひっそりとしていた。
物静かな人種が集まっているからである。
廊下で擦れ違っても挨拶をしない方が普通だった。
互いに干渉しない為、揉め事も起こらない。
寮生達の仲は悪くないが、さして良くもない。
祖国での煩わしい干渉に疲れた彼等には、
アルファルドの静寂はありがたく、彼等なりの平和が保たれていた。
その均衡を微かに脅かしている生徒が居た。
波立つ黄金の髪に、小麦色の肌を持つ生徒。
その肩に乗っているのは一羽の白い鳥。
マレー語で「姉」の名を持つ鳥、オウムだった。
いつも騒がしいオウムに寮生達は迷惑していたのだが、
それを口に出して注意する生徒は居なかった。
アルファルド寮で最も喋る社交家はこのオウムかもしれなかった。
今日もオウムは甲高い声で叫んでいた。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
その名前は生徒のものだが、オウムはよくその台詞を喋っていた。
アルファルドの生徒は皆「ジャワハルワールのオウム」と呼んでいた。
誰もオウムの名前を知らなかった。
何故なら、ジャワハルワールがオウムを呼ぶ場面を見ていないからだ。
というより、彼が喋った所をまだ誰も見たことがなかった。
ジャワハルワールが飼っているのはコバタンオウム。オス。
動物名:コバタン 鳥類オウム目オウム科
体長 約35cm 寿命 平均40年。
オウムは人間並みに長命で、種類によっては100年生きる。
羽毛は白。冠羽(かんう)は黄色。瞳の色はオスが黒、メスが赤
チャームポイントは、冠羽とお揃いの黄色のほっぺ。
知能が高い為、人の言葉を真似ることができる。
趣味はおでかけと、きらきらするものコレクション。
白いオウムは概して人懐っこく、
人に構って貰えないことがストレスになる程の淋しがり。
人を噛むなど凶暴な面もあり、ペットに向かないオウム第一位。
朝。ジャワハルワールはオウムの鳴き声で目覚める。
隣室まで確実に届く盛大な音量が繰り返される。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
むくっと起きたジャワハルワールを確認すると、
オウムは鳴くのを止めた。利口な目覚まし時計である。
ジャワハルワールは欠伸もせずに、身支度を始める。
背筋が正しく、動作は機械的だった。
時計の針が朝食の時間を示すと、オウムが鳴いた。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
ジャワハルワールは食堂へ向かった。
寮生達が集まっている。皆、口数が少ないので、やはり静かだった。
ジャワハルワールが自分の席に着く。
彼のテーブルには、人間用と鳥用の食事が並んでいた。
どちらもアルファルド寮のシェフ、アラン・ウーが用意してくれたものだ。
おそらくアランは動物好きなのだろう、と寮生達は推測していた。
実際にアランに尋ねる生徒は居なかったので、真実かどうかは定かではない。
食事が終わったジャワハルワールは、鳥用の皿を持って、すっと席を立つ。
やはり一言も喋らずに、自分の部屋へと戻った。
自室のドアを開けると大歓迎の声に迎えられた。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
ジャワハルワールは鳥カゴを開ける。キイと音が鳴る。
鳥カゴは彼の背丈程もある大型だ。
同じ台詞を繰り返す鳥の前に、持ってきた皿を置く。
皿にはオウムの主食であるトウモロコシやヒマワリの種。
オウムは両の翼を広げた。
アラン特製のオウムモーニング。味も良く栄養バランスも良い。
羽根の艶が良いのも毎日朝食を摂っているからかもしれない。
ジャワハルワールが鳥カゴを閉めると、
オウムはクチバシを突き立てて、がつがつ食べ始めた。
食事中のオウムは何も喋らず、この時が一番静かだった。
ジャワハルワールは無表情なまま、暫しオウムを見守る。
余り感情を表に出さない人間ではあるが、見目は美しい。
声も美しいのだろうかと想像はできるが、無言の為にどんな声かも解らない。
やがて、ジャワハルワールは講義のテキストを持ち、教室へと向かった。
人間が居なくなった部屋。
朝食が終わったオウムは翼を器用に動かして、鳥カゴを開ける。
ばさばさばさと派手に羽ばたいて、部屋の窓から抜け出した。
羽が一枚舞って、静かに床に落ちた。
オウムは空高く上昇する。寮の屋根まで上がると水平に飛んだ。
前方には格調高い校舎。そちらの方へ生徒達が移動している。
思わずオウムは二度見した。あいつを発見した。
校舎の屋根に止まり、様子を見る。
オウムのコレクションをひとつ盗んだ泥棒だ。
あんな悪い奴がこの学院に居るなんて思わなかった。
人間の世界では他人の物を勝手に取っても良いのだろうか。
極悪人はがっくりと肩を落としている。
「どうしよう。学生課にも届いてなかった…」
後ろから生徒が走ってきて、罪人の背を叩いた。
「よっ! 背中曲げてどーした? じーさんみたいだぜ」
悪党は背中をさすりながら、
「昨日、どっかで腕時計を落としちゃったみたいで。でも見付からなくて」
「マジで? 俺のもなくなったんだよ」
「え。レッドも?」
「んじゃ、今度一緒に買いに行こうぜ。
あっ! どうせならペアウォッチとか! もちろん、お前がオンナもんな!」
「なっ、なんでだよ…」
校舎から鐘の音が聞こえた。他の生徒達が駆け足になる。
「ヤベッ。行くぞ、ユウタ!」
泥棒とその仲間は校舎の中に走って行った。
慌ただしい後ろ姿をオウムは見送る。人間達はあの鐘に怯えている。
鐘に操られているみたいに人間は動く。不思議だ。
オウムも校舎の屋根を飛び立った。
聖アルフォンソ学院 アルファルド寮。
午前の講義が終わって、ジャワハルワールが部屋に戻ってくる。
テキストを机に置く。鳥カゴを見ると、扉が開いていた。
床には羽根が一枚落ちていた。
ジャワハルワールは身を屈めて、それを取る。
一言も発さずに、真っ白な羽根を見つめている。
その表情からは何も読み取れない。
羽根を持って、机に向かう。鍵の付いた一番上の引き出しを開ける。
引き出しには黒い箱が入っていた。箱の蓋を開ける。
中には白い羽根が詰まっている。持っていた羽根を其処に入れて蓋をする。
箱を引き出しに仕舞い、鍵を掛ける。
もうすぐ昼食の時間だった。ジャワハルワールは食堂へと向かう。
オウムの黒い瞳には緑豊かな植物園が見えてくる。
少し休憩するつもりなのか、一本の木に止まった。
温かく、気持ちの良い日だった。オウムは両の翼を広げる。
強過ぎず、弱過ぎない風も吹いている。
機嫌良く羽の手入れをしていると、下界に一人の生徒が見えた。
植物園でよく見掛ける顔だった。
眼鏡がキラリと光るので、いつも眼鏡をつつきたい衝動に襲われた。
オウムはきらきら輝くものが好きだった。
巣には自慢のコレクションがずらりと並んでいる。
いつかあの眼鏡も巣に持ち帰り、コレクションに加えようと決めていた。
眼鏡を外すのを今か今かと注意深く見ているのだが、
何故かその瞬間は訪れず、今日もダメだったかと残念に思う。
けれども、野望は捨て切れず、今日も様子を伺うことにした。
生徒は此処に来ると、いつも大きな木を見上げていた。
その後の行動は日によって違う。
隣の建物に立ち寄って何か飲んだり、ぶらぶら歩いて他の植物を見たりする。
だが、大きな木を見なかったことは一度もなかった。
今日も生徒は木を見上げていた。
その時、太陽に反射して眼鏡のレンズが輝いた。
ドキッ。オウムのハートがときめく。思わず両翼を広げていた。
生徒はそんなことは露知らず、また何処かへ消えていった。
オウムはへなへなと翼を下ろす。つれない後ろ姿を見送りながら、
チキンなハートはまだドキドキと高鳴っていた。
聖アルフォンソ学院 アルファルド寮 食堂。
昼食が終わったジャワハルワールは鳥用の皿を持って、すっと席を立つ。
やはり一言も喋らずに、自分の部屋と戻った。
自室のドアを開けると大歓迎の声に迎えられた。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
ジャワハルワールは鳥カゴを開ける。キイと音が鳴る。
手に持っていたのは、スライスされたオレンジ。オウムは両の翼を広げた。
オウムはフルーツが好きだった。
特にオレンジがお気に入り。今日はイイコトありそな予感。
ジャワハルワールがオウムの前にオレンジを差し出す。
オウムはクチバシで受け取る。
ちゅーっと100%オレンジジュースを吸う。ウマイ。
後は片足でオレンジを持ちながら、ちびちびと甘酸っぱい蜜を楽しむ。
ジャワハルワールは無表情なまま、暫しオウムを見守る。
一羽と一人の間に長閑かな時間と柑橘類の香りが漂う。
オウムが食べ終わると、ジャワハルワールは柔らかなハンカチをポケットから出した。
オレンジで濡れたクチバシと足を綺麗に拭う。
ジャワハルワールはポーカーフェィスのまま、オウムを暫し見つめる。
鳥カゴから離れると、午後の講義のテキストを持ち、教室へと向かった。
人間が居なくなった部屋。
オウムは翼を器用に動かして、鳥カゴを開ける。
ばさばさばさと派手に羽ばたいて、部屋の窓から抜け出した。
羽が一枚舞って、静かに床に落ちた。
オウムは日光浴が好きだった。
今日のように天気の良い日は鳥カゴでじっとなんかしてられない。
窓から外へと脱出した。
広い草原が見えてくる。
厩舎の前で下界に降りた。木の柵で羽を休める。
この柵に沿って馬が走るのをオウムはよく見ていた。
此処で時々会える生徒の顔も知っていた。
以前、月桂樹の森で行方不明になったナイチンゲールが居た。
仲間達が必死に探したが見付からなかった。
数日後、学院の生徒に発見され、しかも看病してくれているらしいと噂が広まった。
そして怪我が治って森に戻ったナイチンゲールの証言により、
あの深紅の瞳を持つ生徒が恩人だと鳥達は知った。
島に住む鳥達の間では彼を知らない鳥は居ないくらいだ。
特にナイチンゲール達が、彼に熱を上げていて、
「今日の王子様はテニスをしていた」など、しきりに噂をしていた。
看病してくれた件に加え、本能的に惹かれるところがあるらしかった。
そんなことを森の鳥達がピーチクパーチク話しているのを、
オウムも耳にしていた。王子様はオウムにも優しくしてくれて、
「綺麗な翼だね」と言ってくれたこともあった。今日は会えるだろうか。
今年は何故か見掛ける回数が少ない気がする。どうしてだろう。
「あ。君はジャワハルワールの…」
ドキッ。オウムの小さな心臓は飛び出しそうだった。
勢い付けて首を半回転させる。
其処にはあの王子様が居た。今日も深紅の乗馬服がよく似合う。
「やあ。こんにちは。元気にしていたかい?」
王子様はいつもの優しい笑顔を見せた。
オウムは元気いっぱい両翼を広げて答える。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
王子様は口許に手を当てて上品に微笑む。
「元気そうだね。良かった」
オウムは王子様のような笑顔に見惚れる。
眼鏡のレンズのように光るわけではないのに、
この笑顔はきらきらと輝いて見える。
「君の翼、真っ白でとても綺麗だよね。…俺にも翼があれば良いのに」
王子様は、すうっと手を伸ばす。
「おいで」
吸い寄せられたようにオウムは羽ばたき、その腕に止まった。
王子様に頭を撫でられる。優しい手付き。
やっぱりこの人がナイチンゲールを救ってくれた人に間違いないんだろう。
優しい人間って居るもんだな、とオウムは思う。
王子様はオウムを乗せたまま、厩舎の裏側へと歩き出した。
其処には馬用の水飲み場があった。木製の箱に水が張られている。
オウムはぎゅんと首を曲げ、黒い瞳で王子様を見つめる。王子様は微笑む。
「君に貸してあげる。水浴びに使って?」
オウムは水浴びが好きだった。こんな温かい日は絶好の水浴び日和。
王子様の腕から降りて、箱の縁に止まる。
羽根を水に浸す。冷たくて気持ちいい。
鳥界の王子様にこんなに優しくして貰えて、
やっぱり今日はイイ日だ。
興奮の余り翼をバタつかせ、ばしゃばしゃと羽根を洗う。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
「喜んでくれたみたいだね?」
「オレのナマエはジャワハルワール!」
「どういたしまして」
すると厩舎の中から、ぶるるるんっと馬の唸り声が聞こえてくる。
苦笑した王子様は中へと入り、一頭の馬を連れて来た。
巨体な動物がオウムにガンを飛ばしている。弱小の心臓がカタカタ震え出す。
王子様は不機嫌なたてがみを優しく撫でた。
「怒るなよ、アルセイデス。君はもう水を飲んだだろう?
さあ、今日は山の方に行こう。ね。俺を乗せて?」
馬はツンとした表情でそっぽを向いた。
視線が合わなくなったオウムは、ほっと息を吐く。
困った笑顔の王子様は、しょうがないな、と言って馬の頬に手を添えた。
「俺は、君が一番大切だよ、アルセイデス」
オウムのハートは粉々に砕けた。
さっきまであんなに優しくしてくれたのに。
たてがみか? たてがみがそんなに良いのか?
オウムは水面に映る自分の姿を呆然と見つめる。
何故自分は馬に生まれなかったのだろう、とちょっと思ってしまう。
王子様はすっかり機嫌を直した馬と遠乗りに行ってしまった。
優しくて残酷な後ろ姿を見送る。オウムは、よよよと翼で顔を隠す。
濡れた翼から、水面にぽたりと雫が落ちた。
オウムは、優しい人間には気を付けよう、と思いつつ、また空へ飛び立つ。
そろそろ戻らなくちゃ。風の中を突き抜ける。
悲しみに濡れた羽根を乾かしながら、寮へ帰って来た。
我が家の窓から真っ直ぐに鳥カゴの中に入り、宿り木に止まる。
純白の翼を伸ばして、手馴れた様子で扉を閉めた。
聖アルフォンソ学院 アルファルド寮。
今日の講義が全て終わったジャワハルワールが寮に戻ってくる。
廊下で何名か傍を通過したが、互いに目に入らなかったように擦れ違った。
自室のドアを開けると、大歓迎の声に迎えられた。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
ジャワハルワールが鳥カゴを開ける。
オウムは羽ばたいて、ジャワハルワールの肩に止まった。
小麦色の顎に、オウムがすりすりと頬を寄せた。
ジャワハルワールはされるまま、オウムを暫し見つめる。
肩乗りオウムを連れて、部屋を出た。
廊下でアルファルド寮のバトラーに出会う。
「ジャワハルワール様、お電話でございます。
お時間がある時に、通信室へお向かい下さい」
一礼して、バトラーが去って行く。
ジャワハルワールとオウムは寮を出て、通信室へ向かった。
キャンパス内は放課後の伸びやかな雰囲気に包まれている。
夕食までの間を友人とカフェで過ごしたり、
ジムや図書館へ出向く生徒達が行き交っていた。
聖アルフォンソ学院 通信室。
生徒が電話をする時に使用する場所だ。
外部から掛けられた電話は全て交換台に繋がる。
交換台に呼ばれた生徒は指定されたブースに入り、電話をすることになっていた。
ジャワハルワールは交換手の前に立つ。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
片翼を上げ、愛想の良いオウムが叫んだ。
交換手は笑顔でナンバープレートが付いたカードキーを渡す。
「はい。ジャワハルワール様ですね。6番ブースへどうぞ」
ジャワハルワールがキーを受け取り、ブースへ入った。
電話中、オウムは喋らず、静かに待っていた。
オモチャを見つけたからだ。机に備え付けのメモ帳。
クチバシで一枚破る。紙を咥え、床に着地する。
オウムは紙を破いて遊ぶのが好きだった。
口と足を使って一枚を二枚に破る。
びりびりり。クチバシに伝わる振動にゾクゾクする。
後は思うがままに、紙を小さく小さく破いていく。
両翼でそれを一箇所に集める。
小さな山ができると、翼で風を起こす。
ふわっと紙が舞った。キレイ。オウムは両の翼を広げた。
必技 オウム紙吹雪。効果は特になし。
散らばった紙をまた両翼で一箇所に集める。
飽きずに5回程繰り返したところで、電話が終わった。
ジャワハルワールは床に散らばっているメモ帳の残骸を見下ろす。
はっと気付いたオウムが、黒い瞳で彼を見上げている。
一羽と一人の間を静寂が通り過ぎる。
ジャワハルワールは無表情のまま、片膝を着いた。
オウムが散らかした紙を綺麗に拾い集め、ゴミ箱へ入れた。
ジャワハルワールはオウムに腕を差し出す。
手首の近くにオウムが飛び乗る。
ジャワハルワールはすっと立ち、手を肩に添える。
オウムの足がひょこっと手から肩に渡る。
通信室を後にして、月桂樹の森へと向かった。
聖アルフォンソ学院 月桂樹の森。
キラキラする木漏れ陽の中、ジャワハルワールとお散歩。
肩乗りオウムは今日あった出来事を一方的に報告する。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
オイラ、今朝、あの赤いキラキラを盗んだ泥棒を見た。
あれ、キレイだから、お前にあげようと思ってたのに。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
植物園のキラキラは今日もゲットできなかった。
でもいつか絶対お前にプレゼントするから待ってろよ。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
午後は水浴びしてたんだ。ほら見て見て。
な。今日のオイラ、ピカピカ。オイラ、キレイ。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
でもさでもさ、聞いてくれよ!
オイラ、馬に睨まれて、王子様に弄ばれた!
「オレのナマエはジャワハルワール!」
でもこれって、ナイチンゲール達には黙っといた方が良いかな?
お前もあいつには騙されんなよ…って、なあなあ、ジャワ、聞いてんの?
ジャワハルワールは木陰で足を止めた。
腰を降ろして幹に凭れる。
手を肩に寄せる。オウムはひょこっと肩から手に移動する。
ジャワハルワールはオウムの黒い瞳を暫し見つめる。
白い翼に小麦色の指を通し、優しく撫でた。
オウムにとって人とのスキンシップは生死を左右する程に重要だ。
日に一時間以上、しっかり構って貰えないと、淋しくて自ら羽根を抜いてしまう。
孤独を感じたオウムが、翌朝、血だらけになって倒れていることもある。
人間と同様に長命で淋しがり屋のオウム。
長年、毎日構って付き合える忍耐がなければ飼い主にはなれない。
オウムの飼育が困難な理由は此処にある。
ジャワハルワールのオウムが自ら羽根を抜いたことは今までに一度もなかった。
この褐色の手は毎日優しく翼を撫でてくれた。
ぽかぽかの午後。ピカピカの木漏れ陽。
森の中でジャワハルワールと一緒。
オウムは、人間みたいにクチバシでジャワハルワールに触れてみたかった。
でも、クチバシで突いたら、ジャワハルワールを穴だらけにしてしまう。
人間側も鳥の病気の感染予防に、唇で鳥に触れることはできない。
人間と鳥では、翼に触れることが最大のスキンシップになる。
オウムは羽根に触って貰うことが好きだった。
小麦色の大きな手はあったかい。オウムは嬉しい。
ゴキゲンで歌でも歌おうかなとクチバシを開く。
「オレのナマッ…」
ちょっ、ジャワ、そこはダメだって。こんなトコで触るなんてダイタン過ぎ。
オイラが一曲聞かせてやろうと思ったのに、こ、これじゃ歌えない。
「オレのッ…」
此処が何処だか解ってる? 森だよ? ほら、ナイチンゲールもすげー見てるし。
どんだけ羞恥プレイだと思ってんだよ。オイラ、恥ずかしいっ。
「オレッ…」
ナイチンゲール達が高い声で鳴いている。
笑われた。ジャワのバカ。オイラ、明日から森で笑われ者になっちゃうだろ。
その時、遠くから足音が近付いて来た。
「ナイチンゲールはね、『恋の歌を歌う鳥』と呼ばれてるんだ」
隣の小道から聞き覚えのある柔らかな声。オウムがガン見した。
ウーティス寮の方から歩いてきたのは王子様と泥棒だった。
「へえー。恋の歌なんて、ロマンチックだね」
あ。ナイチンゲール達が王子様をうっとり見てる。
騙されるな! そいつ馬好きなんだぞ!
「耳を澄ましてごらん、ユウタ。なんだかそう聞こえてこない?」
いや、それ、さっきまでオイラをせせら笑ってただけ。
…って、うわあー! ナイチンゲールが急にラブソング歌い始めた!?
王子様の前だからって、調子良過ぎるぞ、ナイチンゲール!
「うん。ほんと、可愛い声だねっ」
何も知らない王子様と泥棒の平和な後ろ姿をオウムは見送る。
あれ? そう言えば、羽根を撫でる手が止まっている。
振り返ると、ジャワハルワールはオウムを抱いたまま、眠っていた。
オウムはそうっとジャワハルワールの腕から翼を引き抜く。
傍に落ちていた自分の羽根。それを一枚、ジャワハルワールの腹に乗せる。
そう言えば、そろそろキラキラの時間だ。
オウムは羽ばたいて、近くにある第二の我が家まで飛んでいった。
同じく月桂樹の森。
少し居眠りしていたジャワハルワールが目覚める。
オウムが居ない。ふと見ると、腹の上に白い羽根が乗っていた。
それを手に取って、胸ポケットに差す。
もうすぐ夕食の時間だった。ジャワハルワールは食堂へ向かった。
白い翼を畳み、オウムが降り立ったのは自分の巣。
月桂樹の枝で作ったものだ。
自分の羽毛の他に、自慢のコレクションが鎮座している。
ボタン、指輪、コイン、腕時計、タイピンなど。
夕暮れのおひさまに当たって、キラキラがもっとキラキラする。
白い尾っぽを左右に揺らす。
オウムは夕陽に反射するコレクションを眺めるのが好きだった。
「増えてるな」
オウムの頭上から人間の声がした。こんな高い木なのに上れる人間が居るのか。
ぐいっと見上げると、幹に背を預け、二つ上の枝で足を伸ばしている生徒が居た。
黒髪で、鷹のように鋭い瞳。こいつ知っている。
赤いキラキラを泥棒された時に一緒に居た奴だ。
オウムは其処まで飛んで、威嚇する。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
生徒は後頭部に手を回す。冷静な声で言う。
「俺は光り物に興味はない」
「オレのナマエはジャワハルワール!」
「落ち着け。これでも食うか?」
生徒は月桂樹の葉を差し出す。明るい色の新芽だ。
オウムは月桂樹が好きだった。
葉っぱは何でも好きだけど、この葉はオトナの味。
オウムは生徒が居る枝に止まる。クチバシで葉を受け取ってちょっと離れる。
生徒の様子をじっと観察しながら、むしゃむしゃ食べ始めた。
生徒はフッと笑った。
「お前の名前も、ジャワハルワールなのか?」
「オレのナマエはジャワハルワール!」
「お前、ヘンなオウムだな」
再び微笑むと、その位置から風を切って、地面に飛び降りた。
オウムは目を疑う。人間技とは思えない身のこなしだ。
あいつ、人間の格好してるけど、ほんとは猿の仲間?
でも月桂樹の葉は美味しい。オイラが葉っぱ好きなの知ってたのかな。
あいつ、ヘンだけど、ちょっとイイ奴かも。
月桂樹を食べながら、ヘンな奴の後ろ姿を見送る。
オウムは頭を捻る。泥棒の仲間なのに、月桂樹をくれた。
なんか人間って解らない。
夕陽が落ちていた。空に一番星が光る。お星様もきらきらキレイ。
カラスが鳴く。もう晩ご飯の時間だ。おうちに帰ろう。
聖アルフォンソ学院 アルファルド寮 食堂。
夕食が終わったジャワハルワールは鳥用の皿を持って、すっと席を立つ。
やはり一言も喋らずに、自分の部屋と戻った。
自室のドアを開けると大歓迎の声に迎えられた。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
ジャワハルワールは鳥カゴを開ける。キイと音が鳴る。
同じ台詞を繰り返す鳥の前に、持ってきた皿を置いた。
今日の晩ご飯はレタスだ。
鳥カゴを閉めると、オウムは両の翼を広げた。
オウムはレタスが好きだった。
足で上品にレタスを持って、一口ずつ食べる。
このレタスは島特産の新鮮なレタス。やっぱり瑞々しさが違う。
ジャワハルワールはベッドに座る。
足を伸ばして壁に背を預けながら、本を読み始めた。
部屋には、レタスを啄ばむ音と、ページを繰る音。
晩ご飯が終わったオウムは鳥カゴを開けて、ベッドに飛んで行く。
オウムがジャワハルワールの手に頭突きする。
「オレのナマエはジャワハルワール!」
ジャワハルワールは片手でページを捲り、もう片方の手でオウムの頭を撫でる。
小麦色の指は優しく冠羽から頬へ、翼へと降りてくる。
あったかい手に撫でて貰ってオウムは満足した。
今度はオウム用の毛布に包まって遊び始めた。
毛布の中から首を出したり、引っ込めたりを繰り返す。
ジャワハルワールは本を読んでいる。
オウムは毛布から首を出したり、引っ込めたり。
毛布を被ったまま、ベッドの上を歩いてみたりする。
ジャワハルワールは本を読んでいる。
ちょっと飽きてきたオウムは、ジャワハルワールの膝に乗り、足の方へ歩き始めた。
先まで行くと膝まで戻ってくる。10回程繰り返したところで、
パタンと本が閉じられた。
オウムは翼を広げて、ぴとっとジャワハルワールの胸にくっつく。
触って触って、という要求にジャワハルワールは応じる。
羽根一枚一枚に触れるように、時間を掛けて丁寧に翼を撫でた。
オウムは安心する。だんだん眠たくなってくる。
オウムの前にジャワハルワールの腕が差し出される。
オウムが乗ると、ジャワハルワールは立ち上がって、鳥カゴの中にオウムを戻した。
ジャワハルワールが扉を閉める。おやすみの時間みたいだ。
今日もお腹いっぱい食べて、いっぱい遊んだ。いいゆめ見れそう。
オウムの黒い瞳はジャワハルワールの背中を見つめていた。
金色の髪。キレイ。ジャワの髪が一番キラキラだ。
ジャワハルワールは部屋の電気を消す。
ベッドに向かう前、もう一度、鳥カゴの前に立った。
ジャワハルワールは鳥カゴの隙間から指を伸ばして、
オウムの黄色い頬を撫でた。
「愛してる」
オウムは両の翼を広げた。
「アイシテル! アイシテル!」
オウムはジャワハルワールが一番好きだった。
fin
■テオ×クラウス
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シュヌーシア寮サロン。
ある日の午後。テオは寮の皆の為にお茶の準備をしていた。
歴史の講義が休講になった為、島の中心街フィンシャルまで出掛けて、
皆が好きそうなケーキをたくさん買って来た。
「一人では持てないから」と荷物係に連れ出されたのは、生徒代表だった。
荷物係を務めたクラウスは甘味が苦手で食べられない。
味も駄目だが、見目も身体が受け付けない。
特に、天使の顎は、鮮やかな黄色が眩し過ぎる。
テオがサロンのテーブルに並べるケーキ。
クラウスはコーヒーを飲みながら、嫌そうに見ていた。
「天使の顎、キングズ・フィンガーに、誘惑の代償か。
どれもお前が名付けたような名前だな」
「そうかい? 私にもこれほど秀逸な名前が付けられたら良いねえ」
「秀逸? グロテスクにも程が在るだろう。
顎に指に代償だぞ。菓子の名前がこんなサディスティックで良いのか?」
テオは可笑しそうに笑う。
「お菓子の立場からすると、マゾヒスティックな名前だね」
言いながら、アップルパイを自分の方に寄せる。
今日はこれを食べようとナイフを入れた。ふと思い付いたことを口にする。
「ねえ。もし、代償を払う誘惑があったら、クラウスは誘惑に乗る?」
クラウスは、誘惑の代償と呼ばれるアップルパイを見やる。
これは旧約聖書から命名されたらしかった。
エデンという楽園に暮らしていたアダムとイブ。
神が食べるなと言った木の実。
イブは蛇に唆され、果実を口にした。
神の怒りに触れた彼等は、エデンを追放される。
聖書には木の実の種類までは記されていない。
だが、リンゴだという俗説が広まったことに理解はできる。
赤という強い色。それは誘惑の象徴に相応しい。
食べてはいけない、誘惑の果実。
エデンを追放されるという代償を払ってまで。
クラウスには、イブの気が知れなかった。
「俺は、リスクのある誘惑など御免だな。第一、誘惑という言葉は好かない」
「クラウスらしいね」
ナイフを入れたパイから、飴色のリンゴが顔を覗かせる。
艶めいた黄金色だ。見るからに甘そうで、クラウスは視線を移した。
「お前ならどうするんだ、テオ」
「私? 私は楽しそうな誘惑には、自ら身を投じてしまうと思うな。
抗い難い誘惑に、私はとても弱いからね」
「だろうな」
クラウスは心から同意した。この享楽主義なら、喜んで誘惑に溺れるだろう。
自分だけではなく、周囲まで巻き込み、溺れさせる。
もしかしたらテオ自体が誘惑なのかもしれない。
本人にそう言ってやろうと思い、そちらを見ると、
自分用に取ったアップルパイを見つめながら、何か考え込むような顔をしていた。
「どうした、テオ?」
ふっと笑った顔は何処か自嘲的だった。
「ああ、うん。私は本当に誘惑に弱い人間だなと思ってね。
例えば、私の前に柔らかくて甘そうなお菓子があるとするだろう?」
テーブルの上に視線を落とす。
並んでいるのはまさに、柔らかくて甘そうなケーキだ。
「私はお菓子に手を伸ばして、どんな香りがするか、どんなに甘いのか、
舐めてみたくなってしまう。これでも、我慢はしている方なのだけどね。
きっと、もっと欲しくなってしまう。いつまで我慢できるか解らないな」
クラウスは憮然として、頬杖を着く。
「我慢している? 人に持たせる程、買っておいてか?」
テオは穏やかに笑う。
「そうだね。今日も貴方を連れ出してしまったけれど。
私はね、足りないのだと思う。誘惑というのは恐ろしいものだね。
最初は少しでも満足できたのに」
享楽主義は、自分の誘惑の代償を見て、言った。
「いつか、私はイブのように、禁じられた果実に触れてしまうと思う。
例え、誘惑の先に、どんな代償が待とうとも」
銀のフォークを手にして、テオはそっとリンゴを突き刺す。
優雅な手付きで口に運び、ゆっくりと咀嚼していた。
サロンのドアが乱雑に開く。現れたのは中等部一年の二人組。
一人は病弱で時折、発作を起こすラビだ。
空気の良いこの島では大分その回数が減っていた。
定期的に保健室に通わせているが、他の生徒と同じ生活を送っていた。
雪のように透き通る肌に、サラサラとした栗毛。
テーブルの上に並ぶケーキを見て、嬉しそうにテオに近付いた。
「テオが用意してくれたの? 僕、天使の顎が食べたいな」
「じゃあ俺、キングズ・フィンガー!」
快活な声で叫ぶのはレオン。ラビよりやや明るい栗毛で、
天然の緩いパーマがかかっている。
縦横無尽に跳ねた毛先はレオンの性格そのものと言える。
ラビと同じ中等部一年で仲が良い。
同い年だが、元気溢れるレオンの方が兄で、ラビが弟のようだった。
講義も幾つか同じものを取っているようで、
シュヌーシア寮サロンでも一緒に宿題をしていた。
勉強はラビの方ができるらしく、その時ばかりはレオンの方が弟に見えた。
二人で解決できない問題に遭遇すると、
「うーん」と唸りながら、折れそうな程に首を捻る。
見兼ねた上級生は苦笑しながら「どうした」と助け船を出す。
声を掛けられるのを待っていたかのように「あのねあのね」と飛び付いて来る。
上級生は、甘いかなと思いつつも、この一年生コンビに手を貸していた。
テオはそんな甘い上級生の筆頭だった。
「レオン、ラビ、紅茶を淹れようか?」
「欲しい欲しい! 俺、ミルクティな! ミルクと砂糖たっぷりで!」
「あ、僕もレオンとおんなじの」
二人もテオによく懐いていた。ある意味、相思相愛の状態なのかもしれない。
クラウスにとっては、テオは中等部を甘やかし過ぎだと感じていた。
以前、テオと二人で居る時にクラウスはこう言われたことがある。
「ああ、中等部の子達はなんて愛らしいのだろう。ね、クラウス?」
「俺に同意を求めるな。子供は苦手だ。5年も離れてると、もはや住む次元が違う」
「おや。でもクラウスは、皆を大人として同じように接しているだろう?」
「お前みたいに、あいつらを甘えさせることが俺にはできないだけだ」
「私は、貴方みたいに凛々しく接することができないな。
可愛くて可愛くて、何でも許してしまうから」
その言葉通りに、テオは中等部の生徒を可愛がり、慈しんでいた。
中等部一年の二人組は仲良くソファに着いた。
ラビはうきうきとケーキを眺めている。
「僕、天使の顎、好き。あっ、でも一番好きなのはママが作ったのだけど」
イタリア出身のラビの口からは、家族の話題がよく上っていた。
テオは紅茶を注ぎながら、相槌を打つ。
「へえ。ラビのお母様はケーキもお得意なの?」
「うん! テオにも食べさせてあげたいなあ」
レオンがからかうように言う。
「おい、ラビ。子供じゃないんだから、パパとかママとか言うなよ。
俺達もう13なんだぜ? はー、やだやだ。年は取りたくないねー」
聞いていたクラウスは、眉を顰めていた。
レオンは大きな口を開けて、キングズ・フィンガーを食べる。
二本目を口に入れ、もぐもぐさせながら、
コーヒーを飲むクラウスを不躾な程じっと凝視していた。
視線を感じたクラウスが顔を上げ、下級生を睨む。
「人のことをじろじろ見るな。失礼だ」
切れ長の鋭い瞳。他の生徒ならば思わず目を瞑るところだろう。
しかしレオンは、威厳のある低音の声にも物怖じせず、話題を転換した。
「クラウスってさ、コーヒーばっか飲んでんね? それブラックだろ?」
「悪いか」
「俺はー、コーヒーなんか苦くて飲めないー。あっ! クラウスさ、
コーヒーばっか飲んでるから、いっつもニガーイ顔してんじゃないの?」
クラウスは仏頂面を更に苦くする。
ラビは堪え切れず、忍び笑いをしている。テオも可笑しそうに笑みを零した。
「クラウス、コーヒーを控えてみるかい? レオンの言う通りかもしれないよ?」
「んなわけあるか」
寮生達が続々とサロンにやってくる。
わいわい言いながら、テオが買って来たケーキを囲んでいる。
食事をしながら、人とどうでもいい話をする。
クラウスが、そういう場面に遭遇したのは此処での寮生活が始まってからだ。
食事の印象が変わった。
クラウスは味に拘るグルメではなかったし、身体を維持する為に、
それなりの栄養価が取れていればいいと思っていた。
食事というよりは栄養のある薬の感覚に近かった。
そもそも、食事をしながら家族と会話を楽しむような家ではなかった。
軍のお偉方とのパーティに出席することはあったが、
其処に在るのは、出世を目論み、自分の親に媚びる邪な感情と、空虚な笑い。
下手な言葉は口に出せず、水面下では張り詰めた緊張感に覆われた食卓。
それを楽しめる程の精神力は当時まだ持っていなかった。
クラウスは今、目の前にある光景をぼうっと見ていた。
寮生達が話をしながら、ケーキを食べている。
あれを買おうと言ったのは、テオだった。
その日の夜。
生徒代表室から寮に戻ったクラウスは、廊下で夜着のテオに会った。
クラウスは制服姿で腕に書類を抱えていた。
「クラウス。今までずっと生徒代表室に居たの?」
「ああ」
「最近、毎日じゃないか。無理も程々にしないと身体を壊すよ?」
「別に無理はしていないさ」
「でも、その書類、これから読むつもりなのだろう?」
「そうだが?」
「仕事好きにも困ったものだね。
そんなに生徒代表の仕事は楽しいものなのかい?」
テオは肩を竦めて、仕事好きの手首を取る。
「何するんだ、テオ」
「せめて、私の美味しいコーヒーでも飲ませてあげようかと思ってね?」
「自分で美味しいと言うか? 普通」
しかし、コーヒーと聞いて飲みたくなったクラウスは、
自分に苦笑しつつ、テオに付いて行った。
サロンにはまだ数名の生徒が居た。
それぞれ本を読んだり、話をしたり思い思いに夜を過ごしていた。
クラウスがいつも座る席は空いていた。
其処に腰を下ろし、書類に目を通す。それほどの機密事項は載っていない。
警備組織に送らせた参考資料だ。紙の端に一言、自分への悪口が書いてあった。
「…暇なのか、アイヴィーの奴」
テオが愛用のコーヒーミルに豆を入れる。
クラシックな木製の手回し式で、毎回豆からコーヒーを淹れていた。
本当に気の長い奴だ。クラウスにとっては感心半分、呆れ半分だった。
クラウスはコーヒー1杯に時間と労力を掛けるのが嫌で、
自分では豆を挽いたことがない。
生徒代表室で自分が作るのは、インスタントコーヒーだ。
先程も仕事をしながら、それを飲んでいた。
その茶色の湯と、テオのコーヒーでは香りもコクも雲泥の差だった。
テオがミルを回している。薫り高いテオのコーヒーが待ち遠しくなる音だった。
『パブロフの犬』という言葉をクラウスは思い出した。
何かの講義で雑談として教授が話していたものだ。
ロシアの生物学者、イワン・パブロフが行った実験で、
犬にエサを与える際にベルを鳴らす、それを繰り返した結果、
犬はベルの音を聞いただけで、唾液を分泌するようになった。
つまり『ベルの音=食事の時間』だと、犬に認知させることができたのである。
この発見は人でも応用可能であり、後に心理学界で大きな影響をもたらした。
クラウスは友人の後ろ姿をそっと見やる。
豆を挽く音。もうすぐ湯を注ぐ音がして、コーヒーの香りがする筈だ。
欲しい。
クラウスの身体は、テオのコーヒーを欲していた。
パブロフの犬という実験は確からしい。
廊下から声が聞こえて来た。まだ幼さの残る13歳の声が喚いている。
サロンに入って来たのは怒り気味のレオンと目許を赤くしたラビだった。
サロンに居た皆が、ざわざわする。
テオはコーヒーを淹れていた手を止めて駆け寄った。
「ラビ、どうしたんだい?」
本人が言う前にレオンが苛々と答えた。
「ラビがコワイ夢見たんだってさ。
俺の部屋来て、めそめそするから、サロンに連れて来たー」
ラビは赤い目のまま、異論を唱える。
「僕、めそめそなんかしてないっ」
「してたー」
「しっ、してない…」
「ほらー。また泣きそうじゃん。泣き虫ラビ、泣き虫ラビー!」
テオはラビの手が小さく震えているのに気付く。
膝を突いて、ラビの頭を胸の中に仕舞った。
その隣でレオンは、むっとした表情になる。
テオは、とんとん、と背を撫でながら、できる限り優しく言った。
「大丈夫だよ、ラビ。もう怖くないからね」
「テオ…うん」
ラビを解放すると、テオは安心させるように笑顔で言った。
「ラビ、怖い夢はね、誰かに話してしまうと良いのだよ?
そうしたら怖いのが消えるから。ね、どんな夢を見たのか私に教えて?」
ラビは涙を目に溜めながら、少しの間迷っているようだった。
何も言わないラビをレオンがイライラしながら見ている。
ラビは拳をきゅっと握り締めて、やっと口を開いた。
「…シュヌーシア寮が、燃えちゃう、夢」
レオンは、はあ、と大袈裟に溜め息を吐いた。
「縁起悪い夢見てんじゃねーよ。正夢にでもなったら、どーすんだよ!」
「だって…」
「あー。もー、また泣くー」
テオは手を伸ばして、ラビの涙を拭った。
「心配要らないよ、ラビ。シュヌーシアは燃えないから」
レオンが首を傾げる。
「テオ、自信満々じゃん? なんでそんなこと言えるわけ?」
「メネシスが誇る建築物だからね、我がシュヌーシア寮は」
一年生コンビは揃って瞳を大きくした。
今まで住んでいた場所の新情報に、とても驚いた様子だった。
レオンは改めて確認するように尋ねる。
「ええっと、あのー、メネシスって、テオんち、だよね?」
「そうだよ。私の家の寄付によって出来たんだ、此処は。だからとても頑丈だよ。
燃えない素材を使っているし、デザインも美しいだろう?」
「信じらんない。あんたって船持ってるどころじゃなかったんだね」
「僕も知らなかった…テオのおうち、すごいんだね」
ラビも呆然とテオを見つめている。
今まで黙って見守っていたクラウスが、そこでフッと笑う。
この寮を作った者が、同じ寮生の中に居る。それは誰でも驚くことだろう。
毎年、同じような場面を見てきたが、何度見ても飽きなかった。
「そういうことだ、ラビ。シュヌーシアは、
メネシスがたっぷり金を掛けて作った建物だ。これで安心したか?」
「あ、うん…」
「よし。そろそろ消灯時間だ。お前達も部屋に戻れ」
クラウスの掛け声と共に、皆が腰を上げて、散り散りに解散していく。
ラビの前で膝を付いていたテオも腰を上げようとした。
「あの、テオ…」
小さく囁かれた声に身体の動きが止まる。
「なあに、ラビ?」
「あっ、あの…今夜だけ、テオと一緒に、寝ても良い、かな?」
花が咲いたようにテオが笑顔になる。
「ああ。もちろん。では私の部屋に行こうか」
「ありがと…テオ」
テオが差し出した手を、ラビは縋り付くように取った。
手を繋いでサロンを出て行く二人を、レオンがじっと見ていた。
「レオン。お前は俺の部屋に来い」
クラウスの声に、レオンは大きな声を出した。
「はあっ!? ラビと一緒にすんな! 俺は一人で眠れるぞ!」
「解っている。お前に少し話があるだけだ」
「へえー。生徒代表直々に? なんの話さ?」
クラウスは答えず背を向ける。「来い」とだけ言って、先にサロンを出て行く。
首を傾げながらもレオンは、その後を追い駆けた。
クラウスの部屋に入ると、レオンは大きな瞳をキョロキョロと動かした。
「へええー。あんたの部屋って、バッカみたいにキレイだな」
「バカは余計だ」
ポケットに手を入れたまま、部屋の主が奥へと進む。
「いや、これはバカだろ。俺は落ち着いて住めないね、こんな部屋」
レオンは物珍しそうに、じいーっと部屋を見回していた。
先ず驚いたのは、趣味や娯楽を感じさせる品が見付からないことだ。
他の生徒の部屋には、ポスターがでかでかと貼ってあったり、
使い込まれたギターやバイオリンが置かれてたり、
マンガが今にも崩れそうなくらい積み重ねてたりするのに。
レオンの散らかった部屋と比べると、
この部屋は新しいモデルルームのように整然とした生活感のない部屋だった。
最高学年で一番長く暮らしている筈なのに、家具も入学当時のままのようだ。
本棚にはギッシリ本が並んでいるけど、分厚くて難しそうだ。
「ねえ。あんたさ、いつも此処で何してんの?」
「勉強か仕事」
「…あんた、それ、教室か生徒代表室でやりなよ」
漸く嗜好品らしき物が見付かった。黒い小型のダンベルだ。
「あ。あんた筋トレしてんじゃん。良かったー。ちょっと人間らしいとこあって」
「…俺は人間らしくないのか?」
レオンは片手を下ろして、ダンベルを持ち上げてみようとする。動かない。
床にくっつけてあるのだろうか、と思う程ぴくりとも動かせなかった。
クラウスは一人掛けのソファに座る。
その向かいにも一人掛けのソファがあった。
「座れ、レオン」
レオンはとりあえずダンベルを諦める。
クラウスの向かいに座ることを避け、離れたベッドに腰を掛けた。
両手を着いて、小生意気に言う。
「座ったー」
クラウスはフッと笑い、足を組んだ。
いちいち細かく逆らうレオンのことが、クラウスは嫌いではなかった。
逆らうには知恵が必要だ。なかなか利口な少年だとさえ思う。
それに壊れ物のような少年よりは、よっぽど扱い易い。
クラウスの怒号にも物怖じしない様子はむしろ好ましく映っていた。
13歳なら反抗期の真っ只中である方が自然だ。
生意気盛りの中等部を受け止めるのも高等部の義務なのだろうと感じていた。
「レオン。今日はラビに泣き付かれて災難だったな」
「ほんっとだよ。あの泣き虫」
「まあな。だが、今夜のことは、ラビを許してやって欲しい」
ラビを擁護する発言に、レオンは気を悪くした。
「クラウスまでラビの味方すんのかよ。
テオも一緒に寝たりして…皆、ラビに甘いんじゃねーのか!?」
声を張り上げた最年少に対し、最年長は暫し黙っていた。
まだ迷っていたのかもしれない。
けれど、生徒代表として決断できるのは自分一人だ。
「レオン、これから真面目な話をする。よく聞いてくれ」
怒声にはびくともしないレオンが、その重たい口調に若干恐れを感じた。
そんな自分に腹が立って、目だけはきっと見上げていた。
「何さっ」
クラウスは、この決断が間違っていないことをレオンに託し、静かに告げた。
「ラビは、火事で両親を失っている」
時が止まった。レオンは、数秒の間、思考が停止していた。
そして、そんな筈がない、という思いが沸きあがって来る。
「ウソだろ。だって、あいつ、パパとかママの話してんじゃん」
「ああ。あれは両親が生きていた頃の話をしているのさ」
最年長は、俯いている最年少を静かに見ていた。
自分の決断が間違っていなかったと確信し、言葉を続けた。
「俺は、生徒代表の任務上、全生徒の資料を持っている。
本来であれば、それについて他の生徒に話すことは禁止だ。
俺は今、独断でラビの話をお前に伝えている。
その意味するところが解るか、レオン」
「…俺が、ラビのこと、泣き虫っていつも言うからだろ」
ラビをからかう自分を注意しているのだろう、とレオンは思った。
しかし、クラウスは首を横に振った。
「違う」
「何が違うんだよ」
「ラビにとって、最も信用する人物がお前だからだ」
レオンはハッと笑って、吐き捨てるように言った。
「何言ってんの? だって、あいつ今テオと一緒に」
「ラビが悪夢を見て、最初に助けを求めたのはお前だ。
どうでもいいと思ってる奴の部屋に行くわけないだろう」
レオンは俯いたまま口を開かなかった。
窓がカタンと鳴った。外で強い風が吹いたらしい。
「話は以上だ。今日の所はテオにラビを任せて、お前は部屋に戻れ。
間もなく消灯時間だ。もう寝ろ。明日の講義に障る」
その言葉に従わず、レオンはベッドから動かない。
膝の上を見たままで、表情が読み取れない。
クラウスは腕を組んで、まだ未成熟な身体を見ていた。
言うつもりのなかった言葉が、すとんと零れ落ちた。
「お前達は中等部一年だ。ラビとはこれから何度でも言葉を交わせるんだぞ」
口に出した後で、クラウスは自分の言葉に戸惑った。
まだ数年この寮に居られる一年生が羨ましいと、
心の何処かで思っていたのかもしれない。
レオンはこれからも背が伸びるだろう。声も低くなる。
内面もずっと逞しく成長する。レオンはまだまだ未知数だ。
クラウスは、今年の定期検診で成長期が終わったようだと知らされていた。
一年生の未発達な肢体から視線を外し、呟くように言った。
「レオン。部屋に戻って良いと言っているのが聞こえないのか」
ゆっくりとレオンが顔を上げた。
クラウスを凝視したまま、何も言わない。
人のことをじろじろ見るな、と以前から注意しているのに聞きやしない。
最年長を見つめて、最年少は少し笑った。
「あんたって、コワイのか優しいのか、わかんない」
全く予想しない台詞に最年長が首を傾げる。
「…なんだ、それは?」
尋ねれば答えない。レオンはベッドからひょいっと降りる。
後頭部に両手を回して、ドアへ向かいながら、言う。
「この部屋さ、やっぱもう少し散らかした方が良いよ、住み難いもん」
「住むのは俺だ」
レオンは明るく笑った。
おやすみっ、と言って小さな背中はドアの向こうに消えた。
テオの部屋は、もう照明は落ちていた。
暗闇にならない程度に、ベッドの周りだけがぽっと照らされている。
ぼんやりとしたオレンジ色の光にも、テオの黄金の髪は綺麗に輝いていた。
ふわふわのベッドの中で、ラビは隣を向く。
「…テオ…お願いが、あるの」
「なあに?」
「あの…僕が眠るまで、手、繋いでてくれる?」
「良いよ。今日のラビはとても可愛いね」
ラビの右手を取る。まだ小さな手は小刻みに震えていた。
軽く握ってやると、ラビは少し安心しようだった。
「ごめんね、テオ…僕、子供みたいで可笑しいよね…」
「怖い夢を見たのだから、不安になったって仕方がないよ」
「でも…レオンに、また『泣き虫ラビ』って言われちゃうな、きっと」
「ラビは本当にレオンが大切なのだね」
「えっ?」
「違ったかい? レオンが一番の友達だろう?」
ラビは少し視線を泳がせた後、うん、と頷いた。
「あのね…前ね、レオンが拾ってくれたの。パパのペンダント」
ラビは首許から服の中に手を入れ、身に付けていたものを取り出した。
銀の鎖の先に、小さな銀の十字架が付いている。
「なんて素敵な首飾りなのだろう。私、触ってみても良い?」
「うん。いいよ」
テオは十字架を手に取る。
左側は綺麗なシルバーだが、右側の先端が少し欠けている。
其処だけ銀が剥がれていた。テオは礼を言って、ラビに返した。
「美しい十字架だね。お父様から頂いたんだ?」
「そう。パパの」
「ラビはお父様のことが大好きなのだね」
にこっとラビが笑う。
「うん。大好き」
テオは繋いでいない方の手で栗色のさらさらとした髪を撫でた。
「テオ、テオー、何かお話して? なんか眠れそうなお話」
「そうだねえ…では私が作ったお話でも良い?」
「テオの? うわあ、聞きたい聞きたい!」
「今日のお茶の時間にね、思い付いた物語なんだ。
むかしむかし、あるところに、リンゴの王国がありました」
ラビは微笑んで楽しそうな顔になる。
「じゃあ、アップルパイを見て、思い付いたお話なんだね?」
「そう。その王国にはね、あちこちにリンゴの木があって、
開花期には一斉に、雪のような花が咲くのだよ」
ラビは頭の中で、自然溢れる広い王国を描く。
空の上から王国を見下ろすと、そこここに白く色付いた木がある。
「収穫期になると様々な色のリンゴが実を付けます。
あちらの木は赤、こちらの木には橙、他にも、黄、緑、青、藍、紫とね」
ラビは言われた色を思い描いていて、あっ、と声を上げる。
「皆合わせたら虹色だね!」
「うん。リンゴの国には、7色のリンゴが植えられていました。
リンゴの色によって、それぞれ不思議な力が宿っています。
赤いリンゴを食べると元気になれる、緑のリンゴは優しくなれる、
藍色のリンゴは傷を治す、というようにね?」
「えっ。すごーい。僕も欲しいなあ」
「リンゴの王国には、それはそれは美しい王子様が居ました。
ある日のことです。お城にとんでもない情報が飛び込んできました。
海の向こうの島で、黒いリンゴが見付かったというのです。
リンゴの王国にも植えられていないリンゴでした。
黒いリンゴには、良くない噂があったからです」
「噂?」
「うん。黒いリンゴはこの世で一番美味しいリンゴなのだけれど、
食べたら最後、黒の呪いがかかってしまうの。
その美味しさがやみつきになって、それしか食べられなくなる。
でも、黒いリンゴは年に1個しか実を付けない。
黒いリンゴを食べてしまった人は、やがて死んでしまうという噂がね」
ラビは真っ黒のリンゴを想像する。
焦げたアップルパイみたいで美味しくなさそうな色だ。
自分なら絶対に食べないなあと思う。
「リンゴの王国の王子様は、黒いリンゴの木を切り倒さなくてはと思いました。
もし噂が本当で、誰かが死んでしまったら悲しいからね。
でも国民は、王子様を止めようとした。
黒いリンゴには強い魔力があって、一目見ると食べたくなってしまうと。
王子様は自分は大丈夫だから、と旅に出ると言い張った」
ラビは嫌な予感がして、表情が曇り始める。
「王子様を止められなかった国民は、王子様にリンゴを持たせることにしました。
黒いリンゴが食べたくなったら、こちらのリンゴを食べて下さいとね。
王子様は赤、緑、藍のリンゴをひとつずつ持って、旅に出ました」
ラビは3つのリンゴが持つ、不思議な力を思い出す。
赤は元気になる、緑は優しくなれる、藍は傷を治すリンゴだ。
「王子様は船に乗り、遠くに地図に載っていない島を見付けます。
黒いリンゴは其処にあると言われていました。
王子様は必ず黒いリンゴの木を切り倒す、と心に決め、上陸しました。
しかし、なかなか黒いリンゴの木が見付かりません。
島民に訪ねて歩くことにしました。その途中、泣いている男の子に出会いました。
大切な物を失くしてしまったそうです。
王子様は、元気になる赤いリンゴを持っていることを思い出します。
他にもリンゴはあるので、赤いリンゴは男の子にあげました。
男の子は途端に元気になり、スキップして歩いて行きました。
次に王子様は、斧を持って喧嘩をしている二人組に出会います。
このままではどちらかが大怪我をしてしまいます。
緑のリンゴを食べれば優しくなれる筈です。
王子様は緑のリンゴを半分にして、二人に食べさせました。
すると、二人は同時に斧を捨て、肩を組んで仲直りしました。
王子様は斧を見て、黒いリンゴの木を切るのに丁度良いと思いました。
『この斧を貰って良いか』と尋ねると『もう要らないから』と快くくれました。
次に王子様は、怪我をしている鳥に出会います。
羽根を酷く痛めていて、もう虫の息でした。迷っている時間はありません。
王子様は最後の藍色のリンゴを差し出しました。
羽根の傷はみるみる塞がり、鳥は空へ戻ることができました。
王子様の手許にはもうリンゴはありません。
それでも黒いリンゴには負けないと王子様は先に進みました。
海が見える小高い丘に、一本の木がありました。
王子様が駆け寄ると、それは黒いリンゴの木でした。
1個だけ黒い実がなっています。リンゴを見つめた、その時。
王子様は、黒いリンゴの魔力に心を奪われてしまいました。
急に眩暈に襲われて、足が震え出しました。
王子様は木の下に座り込み、黒いリンゴを見上げました。
食べたくて食べたくて、仕方がありません。
震える手で、黒いリンゴに手を伸ばそうとすると、
『触れてはいけない』と声が聞こえてきました。
王子様は、はっと手を引っ込めます。
声は何処から聞こえたのかと辺りを見回すと、それは頭の上。
黒いリンゴから聞こえてきました。
『お前が喋っているのか』と王子様が尋ねると、
黒いリンゴは『そうだ』と答えました。
『決して僕を食べてはいけない。食べたら貴方は死んでしまう』
そう言いながら、黒いリンゴは泣いていました。
『誰も僕を好きになってくれない』と。
木の下には、ぽたり、ぽたりとリンゴの涙が落ちて来ました。
すっかり大きな水溜りが出来た頃。
王子様は黒いリンゴが可哀相になってきました。
黒いリンゴは皆から嫌われて、ひとりぼっちだったのかもしれません。
せめて、自分が食べてあげなくては、と手を伸ばしました。
すると目の前に鳥が飛んで来ました。先程、藍色のリンゴをあげた鳥です。
鳥に導かれて、赤いリンゴをあけた男の子もやってきました。
男の子は叫びます。『騙されないで。黒いリンゴは魔力を持っているんだ』
王子様は足許を見て、はっと驚きました。
黒いリンゴの涙が作った筈の水溜りがありません。
其処には緑色の落ち葉の山があるだけでした。
魔力で幻を見せられていたのです。王子様は斧を取り出しました。
力いっぱい斧を振って、木を切り倒しました。
黒いリンゴはコロンと転がって、海の中に沈んでいきました。おしまい」
ラビはとろんとした目で微笑んだ。
「良かったあ。めでたしめでたしだね」
「そうだね。最後まで聞いてくれてありがとう。眠くなってきたかな?」
「うん。今日はありがとう、テオ。じゃ、おやすみなさい」
「ん。おやすみ、ラビ」
テオは薄明かりを消す。
ラビと手を繋いだまま、テオは黙って天井を見ていた。
5分と経たない内に、隣から聞こえてきた寝息。
天使のような寝顔に思わず顔が綻ぶ。小さな胸がゆっくりと上下していた。
今、自分が語った物語を思い返す。アップルパイを見て思い付いた話。
それは本当だけれど、ラビの為に話しながら明るめに創り変えた。
特にエンディングは眠る前に聞かせるような話ではなかった。
――王子様は木を切り倒しました。黒いリンゴはコロンと転がって行きます。
腕を伸ばした王子様は、黒いリンゴと一緒に海に沈んでしまいました。――
テオは瞼を閉じる。この物語に題名を付けるのなら何だろう。
『黒いリンゴ』、『禁断の果実』、それともやはり『誘惑の代償』だろうか。
「眠るまで繋いでて」と言われた手。
もう離しても良いのにテオは温かい手をそっと握った。
まるで、小さな手に縋るように。
翌日。お茶の時間になったシュヌーシア寮サロンからは、
甘い焼菓子の香りが漂っていた。今日のお菓子はビスコッティ。
シュヌーシアのシェフ、ドニ・ドームお手製だ。
イタリア語で『2度焼く』というそのままの意味を持つ硬いビスケットで、
ワインやカプチーノに浸して食べる。
イタリア中部にあるトスカーナ地方の伝統的なお菓子だった。
朝食の後、テオがドニと何か話しているのを、クラウスは見掛けていた。
おそらくいつものように「今日の朝食も美味しかった」と
賛辞を浴びせているのだろうと思っていたが。
この焼菓子を作るよう依頼していたのかもしれない。
クラウスの前に見慣れたコーヒーカップが置かれる。
いい香りだ。もう、香りだけでテオのコーヒーだと解るかもしれない。
クラウスはカップに手を伸ばす。静かに流し込む。
ああ、この味だと思う。喉を通る温かさも丁度良い。
背筋が僅かに緩む。これを飲むと肩に入っていた力が少し抜ける。
たったコーヒー1杯で幸福を覚えているこの身体が可笑しかった。
もう一度カップに口付ける。
――俺は、あと何回、このコーヒーが飲めるのだろう。
コーヒーの酸味がするりと喉を駆け抜けた。
隣にテオが座る。テオもカップを持っていた。
一口飲んで、自画自賛の声が上がる。
「ああ、私のコーヒーはなんて美味しいのだろう」
クラウスはフッと笑う。
「自分で美味しいと言うか、普通」
テオは木洩れ陽のように笑っていた。
カップを置いて、クラウスは昨日の謝辞を述べる。
「昨夜は世話を掛けてすまなかったな、テオ。お前が居て助かった」
「こちらこそありがとう。私は役得だったからね」
「あの後、ラビは?」
「大丈夫。すぐに眠ったよ。とても可愛い寝顔だった」
「そうか」
低い声に僅かながらも安堵が滲む。カップを取る横顔をテオが伺う。
「クラウスの方が眠れていないんじゃないかな?
あの子達のことが心配で。貴方は神経質というか心配性だからね。
私の部屋に様子を見に来れば良かったのに」
「行けるか」
「私達ね、手を繋いだまま眠ったのだよ?」
クラウスが、ぶっきらぼうに呟く。
「楽しそうで何よりだったな」
「ラビが余りに可愛いから、こっそり額に口付けてしまった」
「なっ…」
声を失った人を見て、テオは口許に手を置き、クスクスと笑い出す。
「冗談だよ。本当だと思ったかい?」
ばつの悪い顔をして、クラウスはそっぽを向く。
「…紛らわしい冗談は止めてくれ。お前の場合、真偽の区別が付かん」
テオはカップの中を見つめる。黒い水面。縁だけが琥珀色だ。
「誘惑はされたのだけどね。昨夜は我慢できたんだ」
「…あのなあ」
廊下からばたばたと足音が近付いてくる。
バンッと勢い良く扉を開けたのはレオン。
「俺の勝ちー! お前、足遅いな、ラビ」
その後から顔を出したラビは、少し息を切らしている。
「勝てるわけないよ…レオンが急に『よーいドン』とか言うんだもん」
笑顔のレオンはへたくそな音楽を付けながら、テーブルの傍まで来る。
「今日のおやつはなんだろなっ」
「わあ、ビスコッティだ。僕、これ好きっ!」
全くいつも通りに登場した二人に、クラウスは少々呆気に取られていた。
レオンが突然ラビを疎遠にするかもしれない、などと、
色々心配していた自分が馬鹿みたいに思えて来る。
「あいつら、何もなかったような顔しやがって…」
苦い顔をしたクラウスにテオは笑う。
「何よりじゃないか。ああ、今日もなんて愛らしいのだろう」
レオンは初めて見た焼菓子を口に放る。噛み切れない。
「何これ、カタッ! 歯が折れたかも、3本くらい」
大袈裟な文句にラビは、ふふと笑う。
「レオン。これはね、ココアとか飲み物に浸してから食べるんだよ?」
「えー。美味しいのか、それ?」
「美味しいよー。ママが作ったビスコッティも美味しいんだー」
レオンが一瞬止まる。
「ラビ。パパとかママって言うの止めろって言ってんだろ。
赤ちゃんラビって呼ぶぞ。良いのか?」
「えっ、やだよ、赤ちゃんなんて」
「じゃあ、もう言わないって約束しろ。今、此処でだ」
レオンの大きな瞳がラビをじっと見つめる。
有無を言わせない眼差しに、ラビは、こくんと頷いた。
「解った…もう言わないようにする」
ほっとしたようにレオンが笑顔になる。
「よく言った。男だな、ラビ。じゃあ俺も、もう泣き虫ラビって言わない」
「…ほんと?」
「ホント」
「良かったあ」
微笑ましく見守っていたテオが立ち上がり、二人に声を掛ける。
「レオンとラビはココアで良いかな?」
「うん。飲むー」
手を挙げたラビに対し、レオンは違うオーダーをした。
「テオ、テオー。俺、今日はコーヒーが良い」
「コーヒー? レオン、昨日は苦くて飲めないと言ってなかった?」
「今日はー、コーヒーのキブン」
そう言ってレオンはちらりとクラウスを見た。
テオは、おや、と思う。
昨日までレオンはクラウスにも反抗的だった筈だ。
テオは穏やかに笑って、人気者を見やる。
「全く、貴方という人は隅に置けないね、クラウス。
いつのまにレオンの心まで奪ったの?」
「奪ってない!」
二方向から同時に反論が飛んでくる。
ぴったりと揃った声に、テオは声を立てて笑っていた。
ラビもレオンも笑ったが、クラウスは苦い表情のままだった。
レオンはテオに向かって、手を挙げる。
「あっ、俺のコーヒーには、ミルクと砂糖たくさんで!」
ラビが隣を振り向いて、
「じゃあ、僕もレオンと同じのにしてみようかな」
「なんだよ、ラビ。俺のマネしたいの?」
「レオンだって、クラウスのマネじゃないの?」
「違いますー。俺のはブラックじゃないから、マネじゃないのー」
「マネしてるよー」
「してないー」
テオはコーヒーにたっぷりミルクを注ぐ。
スプーンを入れると、茶と白がリボンのようにくるくる回った。
fin
ある日の午後。テオは寮の皆の為にお茶の準備をしていた。
歴史の講義が休講になった為、島の中心街フィンシャルまで出掛けて、
皆が好きそうなケーキをたくさん買って来た。
「一人では持てないから」と荷物係に連れ出されたのは、生徒代表だった。
荷物係を務めたクラウスは甘味が苦手で食べられない。
味も駄目だが、見目も身体が受け付けない。
特に、天使の顎は、鮮やかな黄色が眩し過ぎる。
テオがサロンのテーブルに並べるケーキ。
クラウスはコーヒーを飲みながら、嫌そうに見ていた。
「天使の顎、キングズ・フィンガーに、誘惑の代償か。
どれもお前が名付けたような名前だな」
「そうかい? 私にもこれほど秀逸な名前が付けられたら良いねえ」
「秀逸? グロテスクにも程が在るだろう。
顎に指に代償だぞ。菓子の名前がこんなサディスティックで良いのか?」
テオは可笑しそうに笑う。
「お菓子の立場からすると、マゾヒスティックな名前だね」
言いながら、アップルパイを自分の方に寄せる。
今日はこれを食べようとナイフを入れた。ふと思い付いたことを口にする。
「ねえ。もし、代償を払う誘惑があったら、クラウスは誘惑に乗る?」
クラウスは、誘惑の代償と呼ばれるアップルパイを見やる。
これは旧約聖書から命名されたらしかった。
エデンという楽園に暮らしていたアダムとイブ。
神が食べるなと言った木の実。
イブは蛇に唆され、果実を口にした。
神の怒りに触れた彼等は、エデンを追放される。
聖書には木の実の種類までは記されていない。
だが、リンゴだという俗説が広まったことに理解はできる。
赤という強い色。それは誘惑の象徴に相応しい。
食べてはいけない、誘惑の果実。
エデンを追放されるという代償を払ってまで。
クラウスには、イブの気が知れなかった。
「俺は、リスクのある誘惑など御免だな。第一、誘惑という言葉は好かない」
「クラウスらしいね」
ナイフを入れたパイから、飴色のリンゴが顔を覗かせる。
艶めいた黄金色だ。見るからに甘そうで、クラウスは視線を移した。
「お前ならどうするんだ、テオ」
「私? 私は楽しそうな誘惑には、自ら身を投じてしまうと思うな。
抗い難い誘惑に、私はとても弱いからね」
「だろうな」
クラウスは心から同意した。この享楽主義なら、喜んで誘惑に溺れるだろう。
自分だけではなく、周囲まで巻き込み、溺れさせる。
もしかしたらテオ自体が誘惑なのかもしれない。
本人にそう言ってやろうと思い、そちらを見ると、
自分用に取ったアップルパイを見つめながら、何か考え込むような顔をしていた。
「どうした、テオ?」
ふっと笑った顔は何処か自嘲的だった。
「ああ、うん。私は本当に誘惑に弱い人間だなと思ってね。
例えば、私の前に柔らかくて甘そうなお菓子があるとするだろう?」
テーブルの上に視線を落とす。
並んでいるのはまさに、柔らかくて甘そうなケーキだ。
「私はお菓子に手を伸ばして、どんな香りがするか、どんなに甘いのか、
舐めてみたくなってしまう。これでも、我慢はしている方なのだけどね。
きっと、もっと欲しくなってしまう。いつまで我慢できるか解らないな」
クラウスは憮然として、頬杖を着く。
「我慢している? 人に持たせる程、買っておいてか?」
テオは穏やかに笑う。
「そうだね。今日も貴方を連れ出してしまったけれど。
私はね、足りないのだと思う。誘惑というのは恐ろしいものだね。
最初は少しでも満足できたのに」
享楽主義は、自分の誘惑の代償を見て、言った。
「いつか、私はイブのように、禁じられた果実に触れてしまうと思う。
例え、誘惑の先に、どんな代償が待とうとも」
銀のフォークを手にして、テオはそっとリンゴを突き刺す。
優雅な手付きで口に運び、ゆっくりと咀嚼していた。
サロンのドアが乱雑に開く。現れたのは中等部一年の二人組。
一人は病弱で時折、発作を起こすラビだ。
空気の良いこの島では大分その回数が減っていた。
定期的に保健室に通わせているが、他の生徒と同じ生活を送っていた。
雪のように透き通る肌に、サラサラとした栗毛。
テーブルの上に並ぶケーキを見て、嬉しそうにテオに近付いた。
「テオが用意してくれたの? 僕、天使の顎が食べたいな」
「じゃあ俺、キングズ・フィンガー!」
快活な声で叫ぶのはレオン。ラビよりやや明るい栗毛で、
天然の緩いパーマがかかっている。
縦横無尽に跳ねた毛先はレオンの性格そのものと言える。
ラビと同じ中等部一年で仲が良い。
同い年だが、元気溢れるレオンの方が兄で、ラビが弟のようだった。
講義も幾つか同じものを取っているようで、
シュヌーシア寮サロンでも一緒に宿題をしていた。
勉強はラビの方ができるらしく、その時ばかりはレオンの方が弟に見えた。
二人で解決できない問題に遭遇すると、
「うーん」と唸りながら、折れそうな程に首を捻る。
見兼ねた上級生は苦笑しながら「どうした」と助け船を出す。
声を掛けられるのを待っていたかのように「あのねあのね」と飛び付いて来る。
上級生は、甘いかなと思いつつも、この一年生コンビに手を貸していた。
テオはそんな甘い上級生の筆頭だった。
「レオン、ラビ、紅茶を淹れようか?」
「欲しい欲しい! 俺、ミルクティな! ミルクと砂糖たっぷりで!」
「あ、僕もレオンとおんなじの」
二人もテオによく懐いていた。ある意味、相思相愛の状態なのかもしれない。
クラウスにとっては、テオは中等部を甘やかし過ぎだと感じていた。
以前、テオと二人で居る時にクラウスはこう言われたことがある。
「ああ、中等部の子達はなんて愛らしいのだろう。ね、クラウス?」
「俺に同意を求めるな。子供は苦手だ。5年も離れてると、もはや住む次元が違う」
「おや。でもクラウスは、皆を大人として同じように接しているだろう?」
「お前みたいに、あいつらを甘えさせることが俺にはできないだけだ」
「私は、貴方みたいに凛々しく接することができないな。
可愛くて可愛くて、何でも許してしまうから」
その言葉通りに、テオは中等部の生徒を可愛がり、慈しんでいた。
中等部一年の二人組は仲良くソファに着いた。
ラビはうきうきとケーキを眺めている。
「僕、天使の顎、好き。あっ、でも一番好きなのはママが作ったのだけど」
イタリア出身のラビの口からは、家族の話題がよく上っていた。
テオは紅茶を注ぎながら、相槌を打つ。
「へえ。ラビのお母様はケーキもお得意なの?」
「うん! テオにも食べさせてあげたいなあ」
レオンがからかうように言う。
「おい、ラビ。子供じゃないんだから、パパとかママとか言うなよ。
俺達もう13なんだぜ? はー、やだやだ。年は取りたくないねー」
聞いていたクラウスは、眉を顰めていた。
レオンは大きな口を開けて、キングズ・フィンガーを食べる。
二本目を口に入れ、もぐもぐさせながら、
コーヒーを飲むクラウスを不躾な程じっと凝視していた。
視線を感じたクラウスが顔を上げ、下級生を睨む。
「人のことをじろじろ見るな。失礼だ」
切れ長の鋭い瞳。他の生徒ならば思わず目を瞑るところだろう。
しかしレオンは、威厳のある低音の声にも物怖じせず、話題を転換した。
「クラウスってさ、コーヒーばっか飲んでんね? それブラックだろ?」
「悪いか」
「俺はー、コーヒーなんか苦くて飲めないー。あっ! クラウスさ、
コーヒーばっか飲んでるから、いっつもニガーイ顔してんじゃないの?」
クラウスは仏頂面を更に苦くする。
ラビは堪え切れず、忍び笑いをしている。テオも可笑しそうに笑みを零した。
「クラウス、コーヒーを控えてみるかい? レオンの言う通りかもしれないよ?」
「んなわけあるか」
寮生達が続々とサロンにやってくる。
わいわい言いながら、テオが買って来たケーキを囲んでいる。
食事をしながら、人とどうでもいい話をする。
クラウスが、そういう場面に遭遇したのは此処での寮生活が始まってからだ。
食事の印象が変わった。
クラウスは味に拘るグルメではなかったし、身体を維持する為に、
それなりの栄養価が取れていればいいと思っていた。
食事というよりは栄養のある薬の感覚に近かった。
そもそも、食事をしながら家族と会話を楽しむような家ではなかった。
軍のお偉方とのパーティに出席することはあったが、
其処に在るのは、出世を目論み、自分の親に媚びる邪な感情と、空虚な笑い。
下手な言葉は口に出せず、水面下では張り詰めた緊張感に覆われた食卓。
それを楽しめる程の精神力は当時まだ持っていなかった。
クラウスは今、目の前にある光景をぼうっと見ていた。
寮生達が話をしながら、ケーキを食べている。
あれを買おうと言ったのは、テオだった。
その日の夜。
生徒代表室から寮に戻ったクラウスは、廊下で夜着のテオに会った。
クラウスは制服姿で腕に書類を抱えていた。
「クラウス。今までずっと生徒代表室に居たの?」
「ああ」
「最近、毎日じゃないか。無理も程々にしないと身体を壊すよ?」
「別に無理はしていないさ」
「でも、その書類、これから読むつもりなのだろう?」
「そうだが?」
「仕事好きにも困ったものだね。
そんなに生徒代表の仕事は楽しいものなのかい?」
テオは肩を竦めて、仕事好きの手首を取る。
「何するんだ、テオ」
「せめて、私の美味しいコーヒーでも飲ませてあげようかと思ってね?」
「自分で美味しいと言うか? 普通」
しかし、コーヒーと聞いて飲みたくなったクラウスは、
自分に苦笑しつつ、テオに付いて行った。
サロンにはまだ数名の生徒が居た。
それぞれ本を読んだり、話をしたり思い思いに夜を過ごしていた。
クラウスがいつも座る席は空いていた。
其処に腰を下ろし、書類に目を通す。それほどの機密事項は載っていない。
警備組織に送らせた参考資料だ。紙の端に一言、自分への悪口が書いてあった。
「…暇なのか、アイヴィーの奴」
テオが愛用のコーヒーミルに豆を入れる。
クラシックな木製の手回し式で、毎回豆からコーヒーを淹れていた。
本当に気の長い奴だ。クラウスにとっては感心半分、呆れ半分だった。
クラウスはコーヒー1杯に時間と労力を掛けるのが嫌で、
自分では豆を挽いたことがない。
生徒代表室で自分が作るのは、インスタントコーヒーだ。
先程も仕事をしながら、それを飲んでいた。
その茶色の湯と、テオのコーヒーでは香りもコクも雲泥の差だった。
テオがミルを回している。薫り高いテオのコーヒーが待ち遠しくなる音だった。
『パブロフの犬』という言葉をクラウスは思い出した。
何かの講義で雑談として教授が話していたものだ。
ロシアの生物学者、イワン・パブロフが行った実験で、
犬にエサを与える際にベルを鳴らす、それを繰り返した結果、
犬はベルの音を聞いただけで、唾液を分泌するようになった。
つまり『ベルの音=食事の時間』だと、犬に認知させることができたのである。
この発見は人でも応用可能であり、後に心理学界で大きな影響をもたらした。
クラウスは友人の後ろ姿をそっと見やる。
豆を挽く音。もうすぐ湯を注ぐ音がして、コーヒーの香りがする筈だ。
欲しい。
クラウスの身体は、テオのコーヒーを欲していた。
パブロフの犬という実験は確からしい。
廊下から声が聞こえて来た。まだ幼さの残る13歳の声が喚いている。
サロンに入って来たのは怒り気味のレオンと目許を赤くしたラビだった。
サロンに居た皆が、ざわざわする。
テオはコーヒーを淹れていた手を止めて駆け寄った。
「ラビ、どうしたんだい?」
本人が言う前にレオンが苛々と答えた。
「ラビがコワイ夢見たんだってさ。
俺の部屋来て、めそめそするから、サロンに連れて来たー」
ラビは赤い目のまま、異論を唱える。
「僕、めそめそなんかしてないっ」
「してたー」
「しっ、してない…」
「ほらー。また泣きそうじゃん。泣き虫ラビ、泣き虫ラビー!」
テオはラビの手が小さく震えているのに気付く。
膝を突いて、ラビの頭を胸の中に仕舞った。
その隣でレオンは、むっとした表情になる。
テオは、とんとん、と背を撫でながら、できる限り優しく言った。
「大丈夫だよ、ラビ。もう怖くないからね」
「テオ…うん」
ラビを解放すると、テオは安心させるように笑顔で言った。
「ラビ、怖い夢はね、誰かに話してしまうと良いのだよ?
そうしたら怖いのが消えるから。ね、どんな夢を見たのか私に教えて?」
ラビは涙を目に溜めながら、少しの間迷っているようだった。
何も言わないラビをレオンがイライラしながら見ている。
ラビは拳をきゅっと握り締めて、やっと口を開いた。
「…シュヌーシア寮が、燃えちゃう、夢」
レオンは、はあ、と大袈裟に溜め息を吐いた。
「縁起悪い夢見てんじゃねーよ。正夢にでもなったら、どーすんだよ!」
「だって…」
「あー。もー、また泣くー」
テオは手を伸ばして、ラビの涙を拭った。
「心配要らないよ、ラビ。シュヌーシアは燃えないから」
レオンが首を傾げる。
「テオ、自信満々じゃん? なんでそんなこと言えるわけ?」
「メネシスが誇る建築物だからね、我がシュヌーシア寮は」
一年生コンビは揃って瞳を大きくした。
今まで住んでいた場所の新情報に、とても驚いた様子だった。
レオンは改めて確認するように尋ねる。
「ええっと、あのー、メネシスって、テオんち、だよね?」
「そうだよ。私の家の寄付によって出来たんだ、此処は。だからとても頑丈だよ。
燃えない素材を使っているし、デザインも美しいだろう?」
「信じらんない。あんたって船持ってるどころじゃなかったんだね」
「僕も知らなかった…テオのおうち、すごいんだね」
ラビも呆然とテオを見つめている。
今まで黙って見守っていたクラウスが、そこでフッと笑う。
この寮を作った者が、同じ寮生の中に居る。それは誰でも驚くことだろう。
毎年、同じような場面を見てきたが、何度見ても飽きなかった。
「そういうことだ、ラビ。シュヌーシアは、
メネシスがたっぷり金を掛けて作った建物だ。これで安心したか?」
「あ、うん…」
「よし。そろそろ消灯時間だ。お前達も部屋に戻れ」
クラウスの掛け声と共に、皆が腰を上げて、散り散りに解散していく。
ラビの前で膝を付いていたテオも腰を上げようとした。
「あの、テオ…」
小さく囁かれた声に身体の動きが止まる。
「なあに、ラビ?」
「あっ、あの…今夜だけ、テオと一緒に、寝ても良い、かな?」
花が咲いたようにテオが笑顔になる。
「ああ。もちろん。では私の部屋に行こうか」
「ありがと…テオ」
テオが差し出した手を、ラビは縋り付くように取った。
手を繋いでサロンを出て行く二人を、レオンがじっと見ていた。
「レオン。お前は俺の部屋に来い」
クラウスの声に、レオンは大きな声を出した。
「はあっ!? ラビと一緒にすんな! 俺は一人で眠れるぞ!」
「解っている。お前に少し話があるだけだ」
「へえー。生徒代表直々に? なんの話さ?」
クラウスは答えず背を向ける。「来い」とだけ言って、先にサロンを出て行く。
首を傾げながらもレオンは、その後を追い駆けた。
クラウスの部屋に入ると、レオンは大きな瞳をキョロキョロと動かした。
「へええー。あんたの部屋って、バッカみたいにキレイだな」
「バカは余計だ」
ポケットに手を入れたまま、部屋の主が奥へと進む。
「いや、これはバカだろ。俺は落ち着いて住めないね、こんな部屋」
レオンは物珍しそうに、じいーっと部屋を見回していた。
先ず驚いたのは、趣味や娯楽を感じさせる品が見付からないことだ。
他の生徒の部屋には、ポスターがでかでかと貼ってあったり、
使い込まれたギターやバイオリンが置かれてたり、
マンガが今にも崩れそうなくらい積み重ねてたりするのに。
レオンの散らかった部屋と比べると、
この部屋は新しいモデルルームのように整然とした生活感のない部屋だった。
最高学年で一番長く暮らしている筈なのに、家具も入学当時のままのようだ。
本棚にはギッシリ本が並んでいるけど、分厚くて難しそうだ。
「ねえ。あんたさ、いつも此処で何してんの?」
「勉強か仕事」
「…あんた、それ、教室か生徒代表室でやりなよ」
漸く嗜好品らしき物が見付かった。黒い小型のダンベルだ。
「あ。あんた筋トレしてんじゃん。良かったー。ちょっと人間らしいとこあって」
「…俺は人間らしくないのか?」
レオンは片手を下ろして、ダンベルを持ち上げてみようとする。動かない。
床にくっつけてあるのだろうか、と思う程ぴくりとも動かせなかった。
クラウスは一人掛けのソファに座る。
その向かいにも一人掛けのソファがあった。
「座れ、レオン」
レオンはとりあえずダンベルを諦める。
クラウスの向かいに座ることを避け、離れたベッドに腰を掛けた。
両手を着いて、小生意気に言う。
「座ったー」
クラウスはフッと笑い、足を組んだ。
いちいち細かく逆らうレオンのことが、クラウスは嫌いではなかった。
逆らうには知恵が必要だ。なかなか利口な少年だとさえ思う。
それに壊れ物のような少年よりは、よっぽど扱い易い。
クラウスの怒号にも物怖じしない様子はむしろ好ましく映っていた。
13歳なら反抗期の真っ只中である方が自然だ。
生意気盛りの中等部を受け止めるのも高等部の義務なのだろうと感じていた。
「レオン。今日はラビに泣き付かれて災難だったな」
「ほんっとだよ。あの泣き虫」
「まあな。だが、今夜のことは、ラビを許してやって欲しい」
ラビを擁護する発言に、レオンは気を悪くした。
「クラウスまでラビの味方すんのかよ。
テオも一緒に寝たりして…皆、ラビに甘いんじゃねーのか!?」
声を張り上げた最年少に対し、最年長は暫し黙っていた。
まだ迷っていたのかもしれない。
けれど、生徒代表として決断できるのは自分一人だ。
「レオン、これから真面目な話をする。よく聞いてくれ」
怒声にはびくともしないレオンが、その重たい口調に若干恐れを感じた。
そんな自分に腹が立って、目だけはきっと見上げていた。
「何さっ」
クラウスは、この決断が間違っていないことをレオンに託し、静かに告げた。
「ラビは、火事で両親を失っている」
時が止まった。レオンは、数秒の間、思考が停止していた。
そして、そんな筈がない、という思いが沸きあがって来る。
「ウソだろ。だって、あいつ、パパとかママの話してんじゃん」
「ああ。あれは両親が生きていた頃の話をしているのさ」
最年長は、俯いている最年少を静かに見ていた。
自分の決断が間違っていなかったと確信し、言葉を続けた。
「俺は、生徒代表の任務上、全生徒の資料を持っている。
本来であれば、それについて他の生徒に話すことは禁止だ。
俺は今、独断でラビの話をお前に伝えている。
その意味するところが解るか、レオン」
「…俺が、ラビのこと、泣き虫っていつも言うからだろ」
ラビをからかう自分を注意しているのだろう、とレオンは思った。
しかし、クラウスは首を横に振った。
「違う」
「何が違うんだよ」
「ラビにとって、最も信用する人物がお前だからだ」
レオンはハッと笑って、吐き捨てるように言った。
「何言ってんの? だって、あいつ今テオと一緒に」
「ラビが悪夢を見て、最初に助けを求めたのはお前だ。
どうでもいいと思ってる奴の部屋に行くわけないだろう」
レオンは俯いたまま口を開かなかった。
窓がカタンと鳴った。外で強い風が吹いたらしい。
「話は以上だ。今日の所はテオにラビを任せて、お前は部屋に戻れ。
間もなく消灯時間だ。もう寝ろ。明日の講義に障る」
その言葉に従わず、レオンはベッドから動かない。
膝の上を見たままで、表情が読み取れない。
クラウスは腕を組んで、まだ未成熟な身体を見ていた。
言うつもりのなかった言葉が、すとんと零れ落ちた。
「お前達は中等部一年だ。ラビとはこれから何度でも言葉を交わせるんだぞ」
口に出した後で、クラウスは自分の言葉に戸惑った。
まだ数年この寮に居られる一年生が羨ましいと、
心の何処かで思っていたのかもしれない。
レオンはこれからも背が伸びるだろう。声も低くなる。
内面もずっと逞しく成長する。レオンはまだまだ未知数だ。
クラウスは、今年の定期検診で成長期が終わったようだと知らされていた。
一年生の未発達な肢体から視線を外し、呟くように言った。
「レオン。部屋に戻って良いと言っているのが聞こえないのか」
ゆっくりとレオンが顔を上げた。
クラウスを凝視したまま、何も言わない。
人のことをじろじろ見るな、と以前から注意しているのに聞きやしない。
最年長を見つめて、最年少は少し笑った。
「あんたって、コワイのか優しいのか、わかんない」
全く予想しない台詞に最年長が首を傾げる。
「…なんだ、それは?」
尋ねれば答えない。レオンはベッドからひょいっと降りる。
後頭部に両手を回して、ドアへ向かいながら、言う。
「この部屋さ、やっぱもう少し散らかした方が良いよ、住み難いもん」
「住むのは俺だ」
レオンは明るく笑った。
おやすみっ、と言って小さな背中はドアの向こうに消えた。
テオの部屋は、もう照明は落ちていた。
暗闇にならない程度に、ベッドの周りだけがぽっと照らされている。
ぼんやりとしたオレンジ色の光にも、テオの黄金の髪は綺麗に輝いていた。
ふわふわのベッドの中で、ラビは隣を向く。
「…テオ…お願いが、あるの」
「なあに?」
「あの…僕が眠るまで、手、繋いでてくれる?」
「良いよ。今日のラビはとても可愛いね」
ラビの右手を取る。まだ小さな手は小刻みに震えていた。
軽く握ってやると、ラビは少し安心しようだった。
「ごめんね、テオ…僕、子供みたいで可笑しいよね…」
「怖い夢を見たのだから、不安になったって仕方がないよ」
「でも…レオンに、また『泣き虫ラビ』って言われちゃうな、きっと」
「ラビは本当にレオンが大切なのだね」
「えっ?」
「違ったかい? レオンが一番の友達だろう?」
ラビは少し視線を泳がせた後、うん、と頷いた。
「あのね…前ね、レオンが拾ってくれたの。パパのペンダント」
ラビは首許から服の中に手を入れ、身に付けていたものを取り出した。
銀の鎖の先に、小さな銀の十字架が付いている。
「なんて素敵な首飾りなのだろう。私、触ってみても良い?」
「うん。いいよ」
テオは十字架を手に取る。
左側は綺麗なシルバーだが、右側の先端が少し欠けている。
其処だけ銀が剥がれていた。テオは礼を言って、ラビに返した。
「美しい十字架だね。お父様から頂いたんだ?」
「そう。パパの」
「ラビはお父様のことが大好きなのだね」
にこっとラビが笑う。
「うん。大好き」
テオは繋いでいない方の手で栗色のさらさらとした髪を撫でた。
「テオ、テオー、何かお話して? なんか眠れそうなお話」
「そうだねえ…では私が作ったお話でも良い?」
「テオの? うわあ、聞きたい聞きたい!」
「今日のお茶の時間にね、思い付いた物語なんだ。
むかしむかし、あるところに、リンゴの王国がありました」
ラビは微笑んで楽しそうな顔になる。
「じゃあ、アップルパイを見て、思い付いたお話なんだね?」
「そう。その王国にはね、あちこちにリンゴの木があって、
開花期には一斉に、雪のような花が咲くのだよ」
ラビは頭の中で、自然溢れる広い王国を描く。
空の上から王国を見下ろすと、そこここに白く色付いた木がある。
「収穫期になると様々な色のリンゴが実を付けます。
あちらの木は赤、こちらの木には橙、他にも、黄、緑、青、藍、紫とね」
ラビは言われた色を思い描いていて、あっ、と声を上げる。
「皆合わせたら虹色だね!」
「うん。リンゴの国には、7色のリンゴが植えられていました。
リンゴの色によって、それぞれ不思議な力が宿っています。
赤いリンゴを食べると元気になれる、緑のリンゴは優しくなれる、
藍色のリンゴは傷を治す、というようにね?」
「えっ。すごーい。僕も欲しいなあ」
「リンゴの王国には、それはそれは美しい王子様が居ました。
ある日のことです。お城にとんでもない情報が飛び込んできました。
海の向こうの島で、黒いリンゴが見付かったというのです。
リンゴの王国にも植えられていないリンゴでした。
黒いリンゴには、良くない噂があったからです」
「噂?」
「うん。黒いリンゴはこの世で一番美味しいリンゴなのだけれど、
食べたら最後、黒の呪いがかかってしまうの。
その美味しさがやみつきになって、それしか食べられなくなる。
でも、黒いリンゴは年に1個しか実を付けない。
黒いリンゴを食べてしまった人は、やがて死んでしまうという噂がね」
ラビは真っ黒のリンゴを想像する。
焦げたアップルパイみたいで美味しくなさそうな色だ。
自分なら絶対に食べないなあと思う。
「リンゴの王国の王子様は、黒いリンゴの木を切り倒さなくてはと思いました。
もし噂が本当で、誰かが死んでしまったら悲しいからね。
でも国民は、王子様を止めようとした。
黒いリンゴには強い魔力があって、一目見ると食べたくなってしまうと。
王子様は自分は大丈夫だから、と旅に出ると言い張った」
ラビは嫌な予感がして、表情が曇り始める。
「王子様を止められなかった国民は、王子様にリンゴを持たせることにしました。
黒いリンゴが食べたくなったら、こちらのリンゴを食べて下さいとね。
王子様は赤、緑、藍のリンゴをひとつずつ持って、旅に出ました」
ラビは3つのリンゴが持つ、不思議な力を思い出す。
赤は元気になる、緑は優しくなれる、藍は傷を治すリンゴだ。
「王子様は船に乗り、遠くに地図に載っていない島を見付けます。
黒いリンゴは其処にあると言われていました。
王子様は必ず黒いリンゴの木を切り倒す、と心に決め、上陸しました。
しかし、なかなか黒いリンゴの木が見付かりません。
島民に訪ねて歩くことにしました。その途中、泣いている男の子に出会いました。
大切な物を失くしてしまったそうです。
王子様は、元気になる赤いリンゴを持っていることを思い出します。
他にもリンゴはあるので、赤いリンゴは男の子にあげました。
男の子は途端に元気になり、スキップして歩いて行きました。
次に王子様は、斧を持って喧嘩をしている二人組に出会います。
このままではどちらかが大怪我をしてしまいます。
緑のリンゴを食べれば優しくなれる筈です。
王子様は緑のリンゴを半分にして、二人に食べさせました。
すると、二人は同時に斧を捨て、肩を組んで仲直りしました。
王子様は斧を見て、黒いリンゴの木を切るのに丁度良いと思いました。
『この斧を貰って良いか』と尋ねると『もう要らないから』と快くくれました。
次に王子様は、怪我をしている鳥に出会います。
羽根を酷く痛めていて、もう虫の息でした。迷っている時間はありません。
王子様は最後の藍色のリンゴを差し出しました。
羽根の傷はみるみる塞がり、鳥は空へ戻ることができました。
王子様の手許にはもうリンゴはありません。
それでも黒いリンゴには負けないと王子様は先に進みました。
海が見える小高い丘に、一本の木がありました。
王子様が駆け寄ると、それは黒いリンゴの木でした。
1個だけ黒い実がなっています。リンゴを見つめた、その時。
王子様は、黒いリンゴの魔力に心を奪われてしまいました。
急に眩暈に襲われて、足が震え出しました。
王子様は木の下に座り込み、黒いリンゴを見上げました。
食べたくて食べたくて、仕方がありません。
震える手で、黒いリンゴに手を伸ばそうとすると、
『触れてはいけない』と声が聞こえてきました。
王子様は、はっと手を引っ込めます。
声は何処から聞こえたのかと辺りを見回すと、それは頭の上。
黒いリンゴから聞こえてきました。
『お前が喋っているのか』と王子様が尋ねると、
黒いリンゴは『そうだ』と答えました。
『決して僕を食べてはいけない。食べたら貴方は死んでしまう』
そう言いながら、黒いリンゴは泣いていました。
『誰も僕を好きになってくれない』と。
木の下には、ぽたり、ぽたりとリンゴの涙が落ちて来ました。
すっかり大きな水溜りが出来た頃。
王子様は黒いリンゴが可哀相になってきました。
黒いリンゴは皆から嫌われて、ひとりぼっちだったのかもしれません。
せめて、自分が食べてあげなくては、と手を伸ばしました。
すると目の前に鳥が飛んで来ました。先程、藍色のリンゴをあげた鳥です。
鳥に導かれて、赤いリンゴをあけた男の子もやってきました。
男の子は叫びます。『騙されないで。黒いリンゴは魔力を持っているんだ』
王子様は足許を見て、はっと驚きました。
黒いリンゴの涙が作った筈の水溜りがありません。
其処には緑色の落ち葉の山があるだけでした。
魔力で幻を見せられていたのです。王子様は斧を取り出しました。
力いっぱい斧を振って、木を切り倒しました。
黒いリンゴはコロンと転がって、海の中に沈んでいきました。おしまい」
ラビはとろんとした目で微笑んだ。
「良かったあ。めでたしめでたしだね」
「そうだね。最後まで聞いてくれてありがとう。眠くなってきたかな?」
「うん。今日はありがとう、テオ。じゃ、おやすみなさい」
「ん。おやすみ、ラビ」
テオは薄明かりを消す。
ラビと手を繋いだまま、テオは黙って天井を見ていた。
5分と経たない内に、隣から聞こえてきた寝息。
天使のような寝顔に思わず顔が綻ぶ。小さな胸がゆっくりと上下していた。
今、自分が語った物語を思い返す。アップルパイを見て思い付いた話。
それは本当だけれど、ラビの為に話しながら明るめに創り変えた。
特にエンディングは眠る前に聞かせるような話ではなかった。
――王子様は木を切り倒しました。黒いリンゴはコロンと転がって行きます。
腕を伸ばした王子様は、黒いリンゴと一緒に海に沈んでしまいました。――
テオは瞼を閉じる。この物語に題名を付けるのなら何だろう。
『黒いリンゴ』、『禁断の果実』、それともやはり『誘惑の代償』だろうか。
「眠るまで繋いでて」と言われた手。
もう離しても良いのにテオは温かい手をそっと握った。
まるで、小さな手に縋るように。
翌日。お茶の時間になったシュヌーシア寮サロンからは、
甘い焼菓子の香りが漂っていた。今日のお菓子はビスコッティ。
シュヌーシアのシェフ、ドニ・ドームお手製だ。
イタリア語で『2度焼く』というそのままの意味を持つ硬いビスケットで、
ワインやカプチーノに浸して食べる。
イタリア中部にあるトスカーナ地方の伝統的なお菓子だった。
朝食の後、テオがドニと何か話しているのを、クラウスは見掛けていた。
おそらくいつものように「今日の朝食も美味しかった」と
賛辞を浴びせているのだろうと思っていたが。
この焼菓子を作るよう依頼していたのかもしれない。
クラウスの前に見慣れたコーヒーカップが置かれる。
いい香りだ。もう、香りだけでテオのコーヒーだと解るかもしれない。
クラウスはカップに手を伸ばす。静かに流し込む。
ああ、この味だと思う。喉を通る温かさも丁度良い。
背筋が僅かに緩む。これを飲むと肩に入っていた力が少し抜ける。
たったコーヒー1杯で幸福を覚えているこの身体が可笑しかった。
もう一度カップに口付ける。
――俺は、あと何回、このコーヒーが飲めるのだろう。
コーヒーの酸味がするりと喉を駆け抜けた。
隣にテオが座る。テオもカップを持っていた。
一口飲んで、自画自賛の声が上がる。
「ああ、私のコーヒーはなんて美味しいのだろう」
クラウスはフッと笑う。
「自分で美味しいと言うか、普通」
テオは木洩れ陽のように笑っていた。
カップを置いて、クラウスは昨日の謝辞を述べる。
「昨夜は世話を掛けてすまなかったな、テオ。お前が居て助かった」
「こちらこそありがとう。私は役得だったからね」
「あの後、ラビは?」
「大丈夫。すぐに眠ったよ。とても可愛い寝顔だった」
「そうか」
低い声に僅かながらも安堵が滲む。カップを取る横顔をテオが伺う。
「クラウスの方が眠れていないんじゃないかな?
あの子達のことが心配で。貴方は神経質というか心配性だからね。
私の部屋に様子を見に来れば良かったのに」
「行けるか」
「私達ね、手を繋いだまま眠ったのだよ?」
クラウスが、ぶっきらぼうに呟く。
「楽しそうで何よりだったな」
「ラビが余りに可愛いから、こっそり額に口付けてしまった」
「なっ…」
声を失った人を見て、テオは口許に手を置き、クスクスと笑い出す。
「冗談だよ。本当だと思ったかい?」
ばつの悪い顔をして、クラウスはそっぽを向く。
「…紛らわしい冗談は止めてくれ。お前の場合、真偽の区別が付かん」
テオはカップの中を見つめる。黒い水面。縁だけが琥珀色だ。
「誘惑はされたのだけどね。昨夜は我慢できたんだ」
「…あのなあ」
廊下からばたばたと足音が近付いてくる。
バンッと勢い良く扉を開けたのはレオン。
「俺の勝ちー! お前、足遅いな、ラビ」
その後から顔を出したラビは、少し息を切らしている。
「勝てるわけないよ…レオンが急に『よーいドン』とか言うんだもん」
笑顔のレオンはへたくそな音楽を付けながら、テーブルの傍まで来る。
「今日のおやつはなんだろなっ」
「わあ、ビスコッティだ。僕、これ好きっ!」
全くいつも通りに登場した二人に、クラウスは少々呆気に取られていた。
レオンが突然ラビを疎遠にするかもしれない、などと、
色々心配していた自分が馬鹿みたいに思えて来る。
「あいつら、何もなかったような顔しやがって…」
苦い顔をしたクラウスにテオは笑う。
「何よりじゃないか。ああ、今日もなんて愛らしいのだろう」
レオンは初めて見た焼菓子を口に放る。噛み切れない。
「何これ、カタッ! 歯が折れたかも、3本くらい」
大袈裟な文句にラビは、ふふと笑う。
「レオン。これはね、ココアとか飲み物に浸してから食べるんだよ?」
「えー。美味しいのか、それ?」
「美味しいよー。ママが作ったビスコッティも美味しいんだー」
レオンが一瞬止まる。
「ラビ。パパとかママって言うの止めろって言ってんだろ。
赤ちゃんラビって呼ぶぞ。良いのか?」
「えっ、やだよ、赤ちゃんなんて」
「じゃあ、もう言わないって約束しろ。今、此処でだ」
レオンの大きな瞳がラビをじっと見つめる。
有無を言わせない眼差しに、ラビは、こくんと頷いた。
「解った…もう言わないようにする」
ほっとしたようにレオンが笑顔になる。
「よく言った。男だな、ラビ。じゃあ俺も、もう泣き虫ラビって言わない」
「…ほんと?」
「ホント」
「良かったあ」
微笑ましく見守っていたテオが立ち上がり、二人に声を掛ける。
「レオンとラビはココアで良いかな?」
「うん。飲むー」
手を挙げたラビに対し、レオンは違うオーダーをした。
「テオ、テオー。俺、今日はコーヒーが良い」
「コーヒー? レオン、昨日は苦くて飲めないと言ってなかった?」
「今日はー、コーヒーのキブン」
そう言ってレオンはちらりとクラウスを見た。
テオは、おや、と思う。
昨日までレオンはクラウスにも反抗的だった筈だ。
テオは穏やかに笑って、人気者を見やる。
「全く、貴方という人は隅に置けないね、クラウス。
いつのまにレオンの心まで奪ったの?」
「奪ってない!」
二方向から同時に反論が飛んでくる。
ぴったりと揃った声に、テオは声を立てて笑っていた。
ラビもレオンも笑ったが、クラウスは苦い表情のままだった。
レオンはテオに向かって、手を挙げる。
「あっ、俺のコーヒーには、ミルクと砂糖たくさんで!」
ラビが隣を振り向いて、
「じゃあ、僕もレオンと同じのにしてみようかな」
「なんだよ、ラビ。俺のマネしたいの?」
「レオンだって、クラウスのマネじゃないの?」
「違いますー。俺のはブラックじゃないから、マネじゃないのー」
「マネしてるよー」
「してないー」
テオはコーヒーにたっぷりミルクを注ぐ。
スプーンを入れると、茶と白がリボンのようにくるくる回った。
fin
■ソクーロフ×アイヴィー
------------------------
------------------------
「聖アルフォンソ島の南側、んで、ちょっと西の方。
広い広い海の傍に、小粋なコテージがありました。
住んでいるのは、長い金髪の男前でした。
昼は人気のタクシーのお兄さん、夜はイジメられっ子、
しかしその実体は、辺境の島に降り立った、
正義のヒーローだったのです!…なんちて」
グラスの氷だけが、空しくカランと反応してくれました。
早速の放置プレイですか。そーですか、そーですか。
夏なのに涼しい顔して、酒飲むだけですか。
またカランと氷だけが鳴り響く。
ちょっと気まずい俺。てゆうか可哀想な俺。
せっかく、ほろ酔いの俺が、イイ気分で喋ってんのに。
これだから、あんたは真性のドSなんだよ。
イジメられっ子は、負けじとタンブラーグラスをテーブルに置いて、
文句を言ってみました。…一応ね。言うこと言っとかないと。
「ソクーロフ、無視すんな! お前ツッコめよ!
てゆーか、何でもイイから喋って下さい」
ソクーロフ博士、いや、変態鬼畜ドS博士は、
窓から見える海を見ながら、全然違うことを言い出しました。
「無人島の方で、火の手が上がっているようだが。良いのか、警備責任者」
俺んちの窓から、小さく花火が見えました。なんだか絶景です。
酒の肴になりそうなくらい綺麗で、見惚れてしまいました。
あれ? でも花火って上がっててイイの?
酔った頭で、ちょっと考えた後。
あ、そういや聞いてたわ、と警備組織のエライ俺は思い出しました。
「あー、今日ね、クラウスの誕生日なんだって。クラウス、おめでとー」
手近なグラスにカンパイしてみました。
相手は嫌そうにするどころか、また放置プレイでした。
花火を見ながら何事もなかったようにグラスを手に取って、
「生徒代表のクラウス・フォン・モールか? それと花火に何の関係が?」
「あのー、ほらっ、お船持ってる、テオちゃんのシワザ。
クラウスのお誕生日会で、花火上げたいって、
うちにも火薬使用許可の申請来てっから。あの花火は問題ナシ」
「テオ・メネシスが? …ほう。それは良いことを聞いた」
えっ? 今、笑うとこ? 俺、なんか面白いこと言った?
「成程。あの二人はどちらもシュヌーシアだったな」
「あ、あのー、センセ? 何で急にメモとペン取り出してんの?」
「覚え書きだ。テオのカウンセリング用にな」
あー、テオちゃん、ゴメン。次のカウンセリング、気を付けた方がイイかも。
てゆうか、保健室に呼ばれても行かないで。仮病でも使って。
あ、仮病使ったら、余計保健室に連れてかれるか。
じゃあ、どうしたらいいんだ。使えない保健室め。
鬼畜保健医は花火から視線を落とすと、
手許のロックグラスを見て、またなんか笑ってた。
「ラムバリオンな夜だな」
「らむばりおん?」
「死んだ英語で、ラムの語源だ。興奮、騒動の意味がある。
ラムを飲んだ者は乱痴気騒ぎをすると言われていたからな。
テオはラムなしに騒いでいるようだがな」
ソクーロフはロックグラスに口付けた。
今宵の酒はラム酒。
ラムの中でも、熟成されたダークラムで、色は濃い琥珀色。
酒豪さんはロックで飲んでる。俺は水割り。
「ダークラムはストレートかロックだろう」ってバカにされたけど。
飲める方が可笑しいから気にしないもんね。
酒豪さんはダークラムを見ながら、静かに言った。
「お前は、ラムが何で出来ているか知っているか?」
「そんくらい知ってるぞ。サトウキビだろ。その糖蜜で作った蒸留酒」
「ラムはヒトで出来ている」
「ヒト?」
「17世紀の話だがな。奴隷が糖蜜に、糖蜜がラムになる三角貿易が行われていた。
船はアフリカで黒人奴隷を乗せた。
西インド諸島では奴隷を降ろし、ラムの原料となる糖蜜を乗せる。
アメリカでは糖蜜を降ろし、ラム酒を乗せる。
そして船はアフリカに戻ってくる。
船に乗っているラム酒を売って、金にする為に」
俺は琥珀のダークラムを手に取る。
「ラムの値段が、ヒトの値段か」
「彼等はイギリス産業革命の一翼を担う。奴隷貿易がイギリスを発展させた。
歴史には必ず、光と影が存在するものだ。国の歴史でも、人の歴史でも」
「光と影、ね。光だけの人生は送れないもんね」
「影だけの人生も送れない、ということだ」
「じゃあ、ソクーロフ、今はどっち? この聖アルフォンソ島に居る間は」
「影だろう」
「なんで?」
「この島にはお前が居る。今もこうして、酒の相手をさせられているからな」
「じゃあ俺も影だな。サディストさんにイジワルされてるから」
「お前から呼んだのだろう?」
「だって、あんた、俺が呼ばないと来ないじゃん。
その割りに、呼んだらそれなりに来てくれるよね?
忙しいってのはホントなわけ?」
「私は学院専属のカウンセラーとして、
学院専属のドライバーのカウンセリングをしてやっているだけだ」
「今、俺、カウンセリング中なの? 酒飲みながら?
あんたとフツーに酒飲んでるだけかと思ってた。
それとも、お医者さんごっこの新種? カウンセリングプレイ?」
「私は欲望を映し出す鏡。それが私のカウンセリング手法だ。
カウンセリング中に、お前が見る私の姿はお前の欲望だ、アイヴィー」
俺は言葉を返せずに、ソクーロフを見てた。
その時、自分がどんなカオしてたのか、わかんないけど。
相手は満足したみたいに、笑ってた。
こういう時のあんたはゾクッとするほどキレイで、イジワルだ。
「お前は、私を必要としているクライアントの一人だ」
ソクーロフはロックグラスをテーブルに置いた。
ダークラムの濃厚な香りがする。
ソクーロフのグラスには氷だけ残ってる。
冷たい氷。あんたみたいだ。
人に対しては、奥底まで手を伸ばして抉るくせに。
あんたは自分に氷を張り巡らしてる。冷たくって、奥まで触れやしない。
今夜は暑いから、氷はそのうち溶ける。
夏だし、酒飲んでるし。あんたのせいで、今夜は余計に暑い。
氷はゆっくり溶けて、水になる。
水になって、蒸発して、いつか、消えてなくなる。
消えちゃえば良いのにな、氷みたいに。
あんたが持ってる暗い影も、俺が持ってる赤い影も。
さっき、光と影って言ってた。
今、光ってるのは眼鏡のレンズ。あんたはいつも眼鏡を外さない。
外したらお前の間抜け面が見えないから、ってそれホント?
まあ、嘘しか吐けないよね。あんたも、俺も。もう大人だから。
嘘でも、優しいことなんか言ってくれない。
でも「影だけの人生も送れない」ってのは慰めてるつもりだったのかな?
あんたが考えてること、よくわかんないよ。
頭良くって、何でも知ってる先生で。いちいち言葉が難しくって。
難解な言葉で、自分を武装してる? 知られたくないことがあんの?
何を守ろうとしてる? 聞いても教えてくれないかな。
ソクちゃんってば、イジワルだからね。
俺のグラスには、まだラムが残ってる。
暗い糖蜜色。早く飲まないと、氷が溶けて薄まっちゃうよ。
ラムバリオン。ラムの語源。興奮、騒動の意味。
昔から、ラムは人を狂わせた。
そうやって何でも酒のせいにする。大人の悪いクセ。
何百年も前から受け継がれてきたんだ。なら、仕方ないよね。
今夜もお酒のせいにしておこう。
「酔ってたから、覚えてない」って言い訳して。
記憶が飛んだフリをしよう。
きっと昔の大人もそうしてきた。
嘘を吐かないと、生きてけないから。相手にも、自分にも。
「なあ…ソクーロフ…あんた、今までに何回、嘘吐いた?」
「何だ、唐突に。酔っているのか?」
「うん。だって、このラム、キツイから。
ね…俺のインタビューには答えてくんないの?」
「嘘の数など数えてられるか。…おい、何を笑っている?」
「へえ。あんた、今日は酔ってんじゃん?」
「何だと?」
「今、嘘吐かなかった」
カウンセラーのセンセイは、ちょっとビックリしたみたいだった。
眼鏡の奥で視線が揺らいでた。
それを隠すように眼鏡を押し上げて。
「お前という奴は……」
口の中で何か言った。小さくて聞こえない。
俺が何だよ。そこまで言って、教えてくれないわけ?
質問するヒマも与えてくれないわけ?
ホントは、そういうのが聞きたいのに。ケチ。
濃厚な糖蜜。ダークラムの香りに、保健室の匂いが混じる。
頭が可笑しくなるクスリの匂い。
その長い髪に染み付いた香りが、酒より俺を狂わせる。
子供みたいにあんたの服を握り締めて。
グラスの底で溶けてく氷を見てた。
fin
広い広い海の傍に、小粋なコテージがありました。
住んでいるのは、長い金髪の男前でした。
昼は人気のタクシーのお兄さん、夜はイジメられっ子、
しかしその実体は、辺境の島に降り立った、
正義のヒーローだったのです!…なんちて」
グラスの氷だけが、空しくカランと反応してくれました。
早速の放置プレイですか。そーですか、そーですか。
夏なのに涼しい顔して、酒飲むだけですか。
またカランと氷だけが鳴り響く。
ちょっと気まずい俺。てゆうか可哀想な俺。
せっかく、ほろ酔いの俺が、イイ気分で喋ってんのに。
これだから、あんたは真性のドSなんだよ。
イジメられっ子は、負けじとタンブラーグラスをテーブルに置いて、
文句を言ってみました。…一応ね。言うこと言っとかないと。
「ソクーロフ、無視すんな! お前ツッコめよ!
てゆーか、何でもイイから喋って下さい」
ソクーロフ博士、いや、変態鬼畜ドS博士は、
窓から見える海を見ながら、全然違うことを言い出しました。
「無人島の方で、火の手が上がっているようだが。良いのか、警備責任者」
俺んちの窓から、小さく花火が見えました。なんだか絶景です。
酒の肴になりそうなくらい綺麗で、見惚れてしまいました。
あれ? でも花火って上がっててイイの?
酔った頭で、ちょっと考えた後。
あ、そういや聞いてたわ、と警備組織のエライ俺は思い出しました。
「あー、今日ね、クラウスの誕生日なんだって。クラウス、おめでとー」
手近なグラスにカンパイしてみました。
相手は嫌そうにするどころか、また放置プレイでした。
花火を見ながら何事もなかったようにグラスを手に取って、
「生徒代表のクラウス・フォン・モールか? それと花火に何の関係が?」
「あのー、ほらっ、お船持ってる、テオちゃんのシワザ。
クラウスのお誕生日会で、花火上げたいって、
うちにも火薬使用許可の申請来てっから。あの花火は問題ナシ」
「テオ・メネシスが? …ほう。それは良いことを聞いた」
えっ? 今、笑うとこ? 俺、なんか面白いこと言った?
「成程。あの二人はどちらもシュヌーシアだったな」
「あ、あのー、センセ? 何で急にメモとペン取り出してんの?」
「覚え書きだ。テオのカウンセリング用にな」
あー、テオちゃん、ゴメン。次のカウンセリング、気を付けた方がイイかも。
てゆうか、保健室に呼ばれても行かないで。仮病でも使って。
あ、仮病使ったら、余計保健室に連れてかれるか。
じゃあ、どうしたらいいんだ。使えない保健室め。
鬼畜保健医は花火から視線を落とすと、
手許のロックグラスを見て、またなんか笑ってた。
「ラムバリオンな夜だな」
「らむばりおん?」
「死んだ英語で、ラムの語源だ。興奮、騒動の意味がある。
ラムを飲んだ者は乱痴気騒ぎをすると言われていたからな。
テオはラムなしに騒いでいるようだがな」
ソクーロフはロックグラスに口付けた。
今宵の酒はラム酒。
ラムの中でも、熟成されたダークラムで、色は濃い琥珀色。
酒豪さんはロックで飲んでる。俺は水割り。
「ダークラムはストレートかロックだろう」ってバカにされたけど。
飲める方が可笑しいから気にしないもんね。
酒豪さんはダークラムを見ながら、静かに言った。
「お前は、ラムが何で出来ているか知っているか?」
「そんくらい知ってるぞ。サトウキビだろ。その糖蜜で作った蒸留酒」
「ラムはヒトで出来ている」
「ヒト?」
「17世紀の話だがな。奴隷が糖蜜に、糖蜜がラムになる三角貿易が行われていた。
船はアフリカで黒人奴隷を乗せた。
西インド諸島では奴隷を降ろし、ラムの原料となる糖蜜を乗せる。
アメリカでは糖蜜を降ろし、ラム酒を乗せる。
そして船はアフリカに戻ってくる。
船に乗っているラム酒を売って、金にする為に」
俺は琥珀のダークラムを手に取る。
「ラムの値段が、ヒトの値段か」
「彼等はイギリス産業革命の一翼を担う。奴隷貿易がイギリスを発展させた。
歴史には必ず、光と影が存在するものだ。国の歴史でも、人の歴史でも」
「光と影、ね。光だけの人生は送れないもんね」
「影だけの人生も送れない、ということだ」
「じゃあ、ソクーロフ、今はどっち? この聖アルフォンソ島に居る間は」
「影だろう」
「なんで?」
「この島にはお前が居る。今もこうして、酒の相手をさせられているからな」
「じゃあ俺も影だな。サディストさんにイジワルされてるから」
「お前から呼んだのだろう?」
「だって、あんた、俺が呼ばないと来ないじゃん。
その割りに、呼んだらそれなりに来てくれるよね?
忙しいってのはホントなわけ?」
「私は学院専属のカウンセラーとして、
学院専属のドライバーのカウンセリングをしてやっているだけだ」
「今、俺、カウンセリング中なの? 酒飲みながら?
あんたとフツーに酒飲んでるだけかと思ってた。
それとも、お医者さんごっこの新種? カウンセリングプレイ?」
「私は欲望を映し出す鏡。それが私のカウンセリング手法だ。
カウンセリング中に、お前が見る私の姿はお前の欲望だ、アイヴィー」
俺は言葉を返せずに、ソクーロフを見てた。
その時、自分がどんなカオしてたのか、わかんないけど。
相手は満足したみたいに、笑ってた。
こういう時のあんたはゾクッとするほどキレイで、イジワルだ。
「お前は、私を必要としているクライアントの一人だ」
ソクーロフはロックグラスをテーブルに置いた。
ダークラムの濃厚な香りがする。
ソクーロフのグラスには氷だけ残ってる。
冷たい氷。あんたみたいだ。
人に対しては、奥底まで手を伸ばして抉るくせに。
あんたは自分に氷を張り巡らしてる。冷たくって、奥まで触れやしない。
今夜は暑いから、氷はそのうち溶ける。
夏だし、酒飲んでるし。あんたのせいで、今夜は余計に暑い。
氷はゆっくり溶けて、水になる。
水になって、蒸発して、いつか、消えてなくなる。
消えちゃえば良いのにな、氷みたいに。
あんたが持ってる暗い影も、俺が持ってる赤い影も。
さっき、光と影って言ってた。
今、光ってるのは眼鏡のレンズ。あんたはいつも眼鏡を外さない。
外したらお前の間抜け面が見えないから、ってそれホント?
まあ、嘘しか吐けないよね。あんたも、俺も。もう大人だから。
嘘でも、優しいことなんか言ってくれない。
でも「影だけの人生も送れない」ってのは慰めてるつもりだったのかな?
あんたが考えてること、よくわかんないよ。
頭良くって、何でも知ってる先生で。いちいち言葉が難しくって。
難解な言葉で、自分を武装してる? 知られたくないことがあんの?
何を守ろうとしてる? 聞いても教えてくれないかな。
ソクちゃんってば、イジワルだからね。
俺のグラスには、まだラムが残ってる。
暗い糖蜜色。早く飲まないと、氷が溶けて薄まっちゃうよ。
ラムバリオン。ラムの語源。興奮、騒動の意味。
昔から、ラムは人を狂わせた。
そうやって何でも酒のせいにする。大人の悪いクセ。
何百年も前から受け継がれてきたんだ。なら、仕方ないよね。
今夜もお酒のせいにしておこう。
「酔ってたから、覚えてない」って言い訳して。
記憶が飛んだフリをしよう。
きっと昔の大人もそうしてきた。
嘘を吐かないと、生きてけないから。相手にも、自分にも。
「なあ…ソクーロフ…あんた、今までに何回、嘘吐いた?」
「何だ、唐突に。酔っているのか?」
「うん。だって、このラム、キツイから。
ね…俺のインタビューには答えてくんないの?」
「嘘の数など数えてられるか。…おい、何を笑っている?」
「へえ。あんた、今日は酔ってんじゃん?」
「何だと?」
「今、嘘吐かなかった」
カウンセラーのセンセイは、ちょっとビックリしたみたいだった。
眼鏡の奥で視線が揺らいでた。
それを隠すように眼鏡を押し上げて。
「お前という奴は……」
口の中で何か言った。小さくて聞こえない。
俺が何だよ。そこまで言って、教えてくれないわけ?
質問するヒマも与えてくれないわけ?
ホントは、そういうのが聞きたいのに。ケチ。
濃厚な糖蜜。ダークラムの香りに、保健室の匂いが混じる。
頭が可笑しくなるクスリの匂い。
その長い髪に染み付いた香りが、酒より俺を狂わせる。
子供みたいにあんたの服を握り締めて。
グラスの底で溶けてく氷を見てた。
fin
新しい生徒代表が決まる朝。
テオが部屋に戻ると、ドアに白い封筒が挟まっていた。
書かれていたのは、生徒代表室への呼び出し。
それはすなわち、テオがその部屋の主となることを示していた。
以前から次はテオではないか、と噂されていたし、驚くことではなかった。
自分が生徒代表になることより、気に掛けている大きなことが他に在った。
シュヌーシア寮の生徒達は、そわそわしながらサロンに集まっていた。
二人の生徒を除いて、下級生も上級生も皆揃っている。
今年度の生徒代表はシュヌーシアのクラウス。
次代の最有力候補も同じ寮のテオだったからだ。
年下の子や身体の弱い子達をソファに座らせ、
年上の生徒は当然のように、壁に凭れて静かにしていた。
下級生は「テオだといいよねっ」とはしゃいでいた。
例年、病弱の生徒が居るシュヌーシアでは、先輩は自然と面倒見が良くなり、
後輩が先輩に頼ったり、甘えたりする環境があった。
他の寮に比べて、シュヌーシアに居る中等部の生徒に、
幼い言動が目立つのも、そのせいかもしれなかった。
逆にアルファルド寮の生徒は、年齢に関係なく、個人主義者が多い。
サロンに入っても誰も居なかったりするので、
同じ寮であっても言葉を交わさない人も居るようだ。
寮によって、独自のカラーがなんとなく決まっていたが、
特に、ここ数年のシュヌーシアは、
テオのおかげで寮生達の仲が良くなったと言っても過言ではない。
楽しいことが大好きなテオが、
しょっちゅう面白いイベントを企画し、皆や自分を楽しいことに巻き込んでいた。
そして、クラウスの存在も大きい。
怒りっぽいクラウスと穏やかなテオ。
二人の漫才のような遣り取りは、 サロンをいつも明るく笑わせていた。
シュヌーシアの生徒は皆、二人を慕っており、憧れの先輩、自慢の友人だった。
元々、クラウスとテオは仲が良かったし、
生徒代表の大役が、クラウスからテオに受け継がれることは、
シュヌーシアの生徒達にとって、誇りであり、とても嬉しいことだった。
テオが生徒代表になったら、学院生活は今よりもっと楽しいものになりそうだ、
という漠然とした、それでいて現実的な期待が、誰の胸にもあった。
「やあ、皆、朝早くからお揃いだね」
サロンにテオが顔を出した。ざわめきが止まる。
逸る気持ちを抑えられない下級生の一人が「テオ、どうだった?」と訊ねる。
テオは一通の封筒を取り出して見せた。
「私のようだよ、次の生徒代表は」
サロンは一気に華やかな空気に包まれる。
「おめでとう!」など祝福や激励の言葉が寄せられた。
微笑みながらテオは「ありがとう」と返していた。
その微笑は優しいけれど、いつもより少し元気がなかった。
下級生の目には意外に映った。何でも楽しめるテオなら、
生徒代表に選ばれたら、もっと喜ぶような気がしていたからだ。
不思議に思った、中等部の小柄な生徒が、テオに駆け寄る。
「テオ。どうしたの? なんか楽しそうじゃあないね?」
無邪気な下級生の質問に、テオは静かな微笑みを見せた。
「いや、少し驚いているだけだよ。本当に私になるとは思わなかったからね」
その言葉を額面通りに受け取った下級生は、全力でテオを励ました。
「大丈夫だよ、テオ! テオならクラウスみたいに、
カッコイイ生徒代表に絶対なれるって! 僕、応援するよ!」
他の下級生が、えー、と嫌そうな顔をする。
「俺は、テオがクラウスみたいになったら、いやだなー。
テオは『お前達、何時だと思ってるんだ! 早く寝ろ!』とか言わないもん」
クラウスの物真似がよく似ていたので、下級生達は賑やかに笑った。
祝福ムード一色の下級生を、上級生達は複雑な気持ちで見守っていた。
確かにめでたいことではあるが、それだけではないのだ。
生徒代表の任務は楽しいばかりではない。悪く言えば生け贄なのかもしれない。
全生徒のプロフィールや学院の機密事項を知らされ、
それを生涯の秘密として守り続けなくてはならない。
加えて、テオの元気がない理由を察している上級生達は、
テオの前で手放しで喜ぶことはできず、騒ぐ下級生を止めることもできなかった。
テオはそんな皆の気持ちを理解していた。
そして、もう一度皆に向かって、謝辞を述べた。
「ありがとう、皆。就任祝いのパーティをしたら、来てくれる?」
行くー、と次々に手が上がる。テオは下級生達に笑顔を見せる。
「では、パーティで何をしたら楽しいか、皆で考えておいて?」
「うん」「解ったー」と元気の良い返事が返って来る。
早速、テーブルを囲んで会議が始まり、「何しようかー」とわいわい話していた。
テオは、素直な下級生達を慈しむように見つめる。
皆の楽しみの為に、私にできることがあれば何でもしようと思った。
テオは、後方で見守ってくれていた上級生達を振り返る。
皆は心配そうに、テオを見つめていた。
なかなか生徒代表室に向かおうとしないテオに、
それを指摘するべきか迷っていた。
テオは生徒代表になりたくないのか、今何を考えているのか。
聞きたくても、聞けない。テオと同じ学年の生徒が、堪え切れずに口を開く。
「テオ」
「ああ。解っている」
テオにしては珍しく、相手の言葉を遮った。生徒はテオの低い声に驚く。
しかし、次に聞いたのは、いつもの明るい声だった。
「そろそろ生徒代表室に行かなくてはね。
あんまり待たせると、また怒らせてしまうし」
怒る人の顔が浮かんだ下級生が笑う。
上級生は一人も笑わなかった。
この任命式が彼等にとって、一番親しい友人との別れの儀式だと理解していた。
下級生の「いってらっしゃい、テオ」という声を聞きながら、
テオはサロンを後にした。
生徒代表室では、苛立った靴音がカツカツ鳴っていた。
「遅い…サロンで遊んでるのか、テオの奴…」
昨夜は遅くまで眠れなかったのに、普段以上に早く起きて寝不足だった。
今朝の任命式の為、かなり前から準備していた。
特にこの任務の準備は万全にしておきたかったからだ。
その間、ふと作業の手を止めて、自分が昨年、
生徒代表室の扉を開けた時のことを思い返した時もあった。
そして今、次の王と成る者が、この扉を開けるのを待っているのだが。
待てど暮らせど、テオが来ない。
あいつのことだ。すぐには来ないだろう。
時間に縛られない、日常的な遅刻魔だ。それは解っている。
だが、遅い。
俺が早くから待っていると知りながら、
敢えて待たせているのだろうか。いい加減にしろよ、全く。
胸の内でぶつくさ言いながらも、心の何処かでは、
このまま扉が開かなければいい、と祈るような気持ちがあった。
「やあ。すまない」明るい声が扉を開けた。
「待たせてしまったかな、クラウス」
同じ寮に住む、最も親しい友人の声だ。
クラウスは新たな生徒代表に対し、第一声は厳粛な言葉で迎えよう、
と予てから考えていたのだが、ついつい、いつもの調子で叱り飛ばしてしまった。
「遅いぞ、テオ! 真っ直ぐ来いよ! 何やってた!?」
「寮の皆に報告してたんだ。皆、心配していてくれたからね」
「そういうのは後でやればいいだろう。俺を待たせるな」
「おや。少しくらい待った方が、会った時の感動もひとしおだろう?」
「今更、感動しないだろう。毎日顔を会わせているのに」
テオから冗談めいた笑みが霧散する。
落ち着いた声で、テオは言った。
「うん。毎日会えたからね、今までは」
生徒代表室の古時計、その秒針の音が聞こえた。
クラウスは壁一面に飾られた歴代の肖像画を見上げる。
昔の生徒代表達は、この任命式をどんな想いで行ってきたのだろう。
中には俺達のように、同じ寮の生徒同士で引継ぎをした時もあった筈だ。
この学院の寮は全部で3つ。
第一学生寮ウーティス、第二学生寮アルファルド、
そして、我が第三学生寮シュヌーシア。
寮が3つだから、新旧の生徒代表の組合せは6通り。
そのうち同じ寮生同士になる場合は3通り、
俺達と全く同じように、シュヌーシア寮の生徒が対面するのは1通りだ。
16.6%の確率で同じ状況が繰り返されていることになる。
そこまで考えて、クラウスは現実逃避染みた自分に苦笑した。
そんな計算をして何になる。
咳払いをして、今この瞬間の責務を全うしようと決める。
生徒代表として、これが最後の任務だ。
友人を見る目から、次代の後継者への鋭い眼差しに変わる。
重たい口調で、此処で代々受け継がれてきた台詞を口にした。
「テオ・メネシス。運営組織は、お前を次代の生徒代表に任命する。
任務で知り得た情報の一切を、生涯口外しないと誓えるか」
二人の間に沈黙が降りる。テオが返事をしない。
どうしたのか、と表情を見ると、
テオは瞳を大きくし、ああ、と感嘆を洩らした。
「クラウス…なんて凛々しいのだろう。今日は一段と男前だよ。
ねえ、今の台詞、もう一度聞かせてくれるかい?」
クラウスは急激に緊張感を失って、嘆息する。
「…誓えよ、馬鹿。最後くらい真面目にやってくれ」
「ああ、すまない。余りにクラウスが格好良いものだから。
もちろん、誓うよ。生涯、クラウス以外には口外しないと」
「俺、以外?」
「クラウスと同じ秘密を共有するのだろう?
いつかまた会った時には、懐かしい思い出と共に、
その秘密について、クラウスとは語り合えるということだ」
クラウスはそんな応用編を考えたこともなかったが、
生徒代表同士であれば、学院の秘密について話しても害はないと言える。
「ね。良いだろう? クラウス」
「まあ、そうだな」
「これで楽しみがひとつ増えたよ。
その時を心待ちにしながら、生徒代表の任務を行うことができる。
いつか必ず実現させると、約束しておくれ、クラウス。
その時は美酒でも片手に昔話に花を咲かせよう?」
卒業後、再び会う。
そのささやかな願いが叶う可能性は、決して高くはなかった。
互いに祖国に戻れば、状況が一変するのは解っていた。
テオは家の海運業を継ぐだろう。当然、世継ぎの問題が絡んでくる。
彼の背後には、既に嫁の候補がずらりと並んでいるらしい。
テオとはパーティぐらいでしか面識のない、資産家の令嬢方なのだろう。
クラウスは後に軍の幹部に在籍する可能性があった。
そうなれば、明日の命も保証されない日々が其処には在る。
生まれながらにして背負わされている定めだ。覚悟は、とうの昔に出来ていた。
クラウスは薄く笑う。
「ああ、解ったよ、テオ。いつか、また会おう」
まるで軽いジョークのように、クラウスは言った。
テオは途端に不安になる。この生真面目な男は冗談など口にしないのに。
こんなふざけたジョークは聞きたくなかった。
「クラウス、きっとだよ」
念を押したテオに、クラウスは答えなかった。
黙ったまま、窓の外を見やる。テオも同じ方を向いた。
月桂樹の森が、さわさわと揺れている。
この場所から見る森は、なんて深いのだろう。
クラウスは砕けた口調を改め、学院の総帥として口を開く。
「ではテオ・メネシス。聖アルフォンソ学院の運営組織について説明する」
その時、クラウスの説明を、テオは非現実的な想いで聞いていた。
複雑な話の内容よりも、この任命式が終われば、
クラウスはこの島から居なくなるということが、夢のように思えてならなかった。
生徒代表室。クラウスの領域だった部屋が、これから私のものになる。
歴代の肖像画。既にクラウスの絵が飾られていた。
それは希望であり、絶望のようにも感じられた。
こんな寂しい場所に一人で居たら、きっと貴方のことばかり考えてしまう。
クラウスの声が、頭の中を素通りして行くようだ。
これが最後の時間だ、一言一句聞かなくては、と思うのに、
集中力は徐々に途切れていく。
ただ、今までの楽しかった光景が思い出されるだけだ。
今聞きたいこと、話したいことは他にもっとあると思う。
けれども、多過ぎて口に出せない。
いつもは饒舌に語るこの口は、どうしても開かず、
揮発する集中力を必死に繋ぎ止め、クラウスの言葉を聞いていた。
古い時計が、刻々と時を刻んでいる。
クラウスが学院に居られる、残り僅かな時間。
その多くが、今、自分に与えられていることを、
幸福だと想うことしかテオにはできなかった。
→
テオが部屋に戻ると、ドアに白い封筒が挟まっていた。
書かれていたのは、生徒代表室への呼び出し。
それはすなわち、テオがその部屋の主となることを示していた。
以前から次はテオではないか、と噂されていたし、驚くことではなかった。
自分が生徒代表になることより、気に掛けている大きなことが他に在った。
シュヌーシア寮の生徒達は、そわそわしながらサロンに集まっていた。
二人の生徒を除いて、下級生も上級生も皆揃っている。
今年度の生徒代表はシュヌーシアのクラウス。
次代の最有力候補も同じ寮のテオだったからだ。
年下の子や身体の弱い子達をソファに座らせ、
年上の生徒は当然のように、壁に凭れて静かにしていた。
下級生は「テオだといいよねっ」とはしゃいでいた。
例年、病弱の生徒が居るシュヌーシアでは、先輩は自然と面倒見が良くなり、
後輩が先輩に頼ったり、甘えたりする環境があった。
他の寮に比べて、シュヌーシアに居る中等部の生徒に、
幼い言動が目立つのも、そのせいかもしれなかった。
逆にアルファルド寮の生徒は、年齢に関係なく、個人主義者が多い。
サロンに入っても誰も居なかったりするので、
同じ寮であっても言葉を交わさない人も居るようだ。
寮によって、独自のカラーがなんとなく決まっていたが、
特に、ここ数年のシュヌーシアは、
テオのおかげで寮生達の仲が良くなったと言っても過言ではない。
楽しいことが大好きなテオが、
しょっちゅう面白いイベントを企画し、皆や自分を楽しいことに巻き込んでいた。
そして、クラウスの存在も大きい。
怒りっぽいクラウスと穏やかなテオ。
二人の漫才のような遣り取りは、 サロンをいつも明るく笑わせていた。
シュヌーシアの生徒は皆、二人を慕っており、憧れの先輩、自慢の友人だった。
元々、クラウスとテオは仲が良かったし、
生徒代表の大役が、クラウスからテオに受け継がれることは、
シュヌーシアの生徒達にとって、誇りであり、とても嬉しいことだった。
テオが生徒代表になったら、学院生活は今よりもっと楽しいものになりそうだ、
という漠然とした、それでいて現実的な期待が、誰の胸にもあった。
「やあ、皆、朝早くからお揃いだね」
サロンにテオが顔を出した。ざわめきが止まる。
逸る気持ちを抑えられない下級生の一人が「テオ、どうだった?」と訊ねる。
テオは一通の封筒を取り出して見せた。
「私のようだよ、次の生徒代表は」
サロンは一気に華やかな空気に包まれる。
「おめでとう!」など祝福や激励の言葉が寄せられた。
微笑みながらテオは「ありがとう」と返していた。
その微笑は優しいけれど、いつもより少し元気がなかった。
下級生の目には意外に映った。何でも楽しめるテオなら、
生徒代表に選ばれたら、もっと喜ぶような気がしていたからだ。
不思議に思った、中等部の小柄な生徒が、テオに駆け寄る。
「テオ。どうしたの? なんか楽しそうじゃあないね?」
無邪気な下級生の質問に、テオは静かな微笑みを見せた。
「いや、少し驚いているだけだよ。本当に私になるとは思わなかったからね」
その言葉を額面通りに受け取った下級生は、全力でテオを励ました。
「大丈夫だよ、テオ! テオならクラウスみたいに、
カッコイイ生徒代表に絶対なれるって! 僕、応援するよ!」
他の下級生が、えー、と嫌そうな顔をする。
「俺は、テオがクラウスみたいになったら、いやだなー。
テオは『お前達、何時だと思ってるんだ! 早く寝ろ!』とか言わないもん」
クラウスの物真似がよく似ていたので、下級生達は賑やかに笑った。
祝福ムード一色の下級生を、上級生達は複雑な気持ちで見守っていた。
確かにめでたいことではあるが、それだけではないのだ。
生徒代表の任務は楽しいばかりではない。悪く言えば生け贄なのかもしれない。
全生徒のプロフィールや学院の機密事項を知らされ、
それを生涯の秘密として守り続けなくてはならない。
加えて、テオの元気がない理由を察している上級生達は、
テオの前で手放しで喜ぶことはできず、騒ぐ下級生を止めることもできなかった。
テオはそんな皆の気持ちを理解していた。
そして、もう一度皆に向かって、謝辞を述べた。
「ありがとう、皆。就任祝いのパーティをしたら、来てくれる?」
行くー、と次々に手が上がる。テオは下級生達に笑顔を見せる。
「では、パーティで何をしたら楽しいか、皆で考えておいて?」
「うん」「解ったー」と元気の良い返事が返って来る。
早速、テーブルを囲んで会議が始まり、「何しようかー」とわいわい話していた。
テオは、素直な下級生達を慈しむように見つめる。
皆の楽しみの為に、私にできることがあれば何でもしようと思った。
テオは、後方で見守ってくれていた上級生達を振り返る。
皆は心配そうに、テオを見つめていた。
なかなか生徒代表室に向かおうとしないテオに、
それを指摘するべきか迷っていた。
テオは生徒代表になりたくないのか、今何を考えているのか。
聞きたくても、聞けない。テオと同じ学年の生徒が、堪え切れずに口を開く。
「テオ」
「ああ。解っている」
テオにしては珍しく、相手の言葉を遮った。生徒はテオの低い声に驚く。
しかし、次に聞いたのは、いつもの明るい声だった。
「そろそろ生徒代表室に行かなくてはね。
あんまり待たせると、また怒らせてしまうし」
怒る人の顔が浮かんだ下級生が笑う。
上級生は一人も笑わなかった。
この任命式が彼等にとって、一番親しい友人との別れの儀式だと理解していた。
下級生の「いってらっしゃい、テオ」という声を聞きながら、
テオはサロンを後にした。
生徒代表室では、苛立った靴音がカツカツ鳴っていた。
「遅い…サロンで遊んでるのか、テオの奴…」
昨夜は遅くまで眠れなかったのに、普段以上に早く起きて寝不足だった。
今朝の任命式の為、かなり前から準備していた。
特にこの任務の準備は万全にしておきたかったからだ。
その間、ふと作業の手を止めて、自分が昨年、
生徒代表室の扉を開けた時のことを思い返した時もあった。
そして今、次の王と成る者が、この扉を開けるのを待っているのだが。
待てど暮らせど、テオが来ない。
あいつのことだ。すぐには来ないだろう。
時間に縛られない、日常的な遅刻魔だ。それは解っている。
だが、遅い。
俺が早くから待っていると知りながら、
敢えて待たせているのだろうか。いい加減にしろよ、全く。
胸の内でぶつくさ言いながらも、心の何処かでは、
このまま扉が開かなければいい、と祈るような気持ちがあった。
「やあ。すまない」明るい声が扉を開けた。
「待たせてしまったかな、クラウス」
同じ寮に住む、最も親しい友人の声だ。
クラウスは新たな生徒代表に対し、第一声は厳粛な言葉で迎えよう、
と予てから考えていたのだが、ついつい、いつもの調子で叱り飛ばしてしまった。
「遅いぞ、テオ! 真っ直ぐ来いよ! 何やってた!?」
「寮の皆に報告してたんだ。皆、心配していてくれたからね」
「そういうのは後でやればいいだろう。俺を待たせるな」
「おや。少しくらい待った方が、会った時の感動もひとしおだろう?」
「今更、感動しないだろう。毎日顔を会わせているのに」
テオから冗談めいた笑みが霧散する。
落ち着いた声で、テオは言った。
「うん。毎日会えたからね、今までは」
生徒代表室の古時計、その秒針の音が聞こえた。
クラウスは壁一面に飾られた歴代の肖像画を見上げる。
昔の生徒代表達は、この任命式をどんな想いで行ってきたのだろう。
中には俺達のように、同じ寮の生徒同士で引継ぎをした時もあった筈だ。
この学院の寮は全部で3つ。
第一学生寮ウーティス、第二学生寮アルファルド、
そして、我が第三学生寮シュヌーシア。
寮が3つだから、新旧の生徒代表の組合せは6通り。
そのうち同じ寮生同士になる場合は3通り、
俺達と全く同じように、シュヌーシア寮の生徒が対面するのは1通りだ。
16.6%の確率で同じ状況が繰り返されていることになる。
そこまで考えて、クラウスは現実逃避染みた自分に苦笑した。
そんな計算をして何になる。
咳払いをして、今この瞬間の責務を全うしようと決める。
生徒代表として、これが最後の任務だ。
友人を見る目から、次代の後継者への鋭い眼差しに変わる。
重たい口調で、此処で代々受け継がれてきた台詞を口にした。
「テオ・メネシス。運営組織は、お前を次代の生徒代表に任命する。
任務で知り得た情報の一切を、生涯口外しないと誓えるか」
二人の間に沈黙が降りる。テオが返事をしない。
どうしたのか、と表情を見ると、
テオは瞳を大きくし、ああ、と感嘆を洩らした。
「クラウス…なんて凛々しいのだろう。今日は一段と男前だよ。
ねえ、今の台詞、もう一度聞かせてくれるかい?」
クラウスは急激に緊張感を失って、嘆息する。
「…誓えよ、馬鹿。最後くらい真面目にやってくれ」
「ああ、すまない。余りにクラウスが格好良いものだから。
もちろん、誓うよ。生涯、クラウス以外には口外しないと」
「俺、以外?」
「クラウスと同じ秘密を共有するのだろう?
いつかまた会った時には、懐かしい思い出と共に、
その秘密について、クラウスとは語り合えるということだ」
クラウスはそんな応用編を考えたこともなかったが、
生徒代表同士であれば、学院の秘密について話しても害はないと言える。
「ね。良いだろう? クラウス」
「まあ、そうだな」
「これで楽しみがひとつ増えたよ。
その時を心待ちにしながら、生徒代表の任務を行うことができる。
いつか必ず実現させると、約束しておくれ、クラウス。
その時は美酒でも片手に昔話に花を咲かせよう?」
卒業後、再び会う。
そのささやかな願いが叶う可能性は、決して高くはなかった。
互いに祖国に戻れば、状況が一変するのは解っていた。
テオは家の海運業を継ぐだろう。当然、世継ぎの問題が絡んでくる。
彼の背後には、既に嫁の候補がずらりと並んでいるらしい。
テオとはパーティぐらいでしか面識のない、資産家の令嬢方なのだろう。
クラウスは後に軍の幹部に在籍する可能性があった。
そうなれば、明日の命も保証されない日々が其処には在る。
生まれながらにして背負わされている定めだ。覚悟は、とうの昔に出来ていた。
クラウスは薄く笑う。
「ああ、解ったよ、テオ。いつか、また会おう」
まるで軽いジョークのように、クラウスは言った。
テオは途端に不安になる。この生真面目な男は冗談など口にしないのに。
こんなふざけたジョークは聞きたくなかった。
「クラウス、きっとだよ」
念を押したテオに、クラウスは答えなかった。
黙ったまま、窓の外を見やる。テオも同じ方を向いた。
月桂樹の森が、さわさわと揺れている。
この場所から見る森は、なんて深いのだろう。
クラウスは砕けた口調を改め、学院の総帥として口を開く。
「ではテオ・メネシス。聖アルフォンソ学院の運営組織について説明する」
その時、クラウスの説明を、テオは非現実的な想いで聞いていた。
複雑な話の内容よりも、この任命式が終われば、
クラウスはこの島から居なくなるということが、夢のように思えてならなかった。
生徒代表室。クラウスの領域だった部屋が、これから私のものになる。
歴代の肖像画。既にクラウスの絵が飾られていた。
それは希望であり、絶望のようにも感じられた。
こんな寂しい場所に一人で居たら、きっと貴方のことばかり考えてしまう。
クラウスの声が、頭の中を素通りして行くようだ。
これが最後の時間だ、一言一句聞かなくては、と思うのに、
集中力は徐々に途切れていく。
ただ、今までの楽しかった光景が思い出されるだけだ。
今聞きたいこと、話したいことは他にもっとあると思う。
けれども、多過ぎて口に出せない。
いつもは饒舌に語るこの口は、どうしても開かず、
揮発する集中力を必死に繋ぎ止め、クラウスの言葉を聞いていた。
古い時計が、刻々と時を刻んでいる。
クラウスが学院に居られる、残り僅かな時間。
その多くが、今、自分に与えられていることを、
幸福だと想うことしかテオにはできなかった。
→
■テオ×クラウス
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休日の午後。今日は講義がないので、
クラウスはジムに行こうと思っていた。
昼食の後、ジムに行く準備をしていたら、テオが俺の部屋にやってきた。
その瞬間から、今日の予定がまた狂わされる、
と、なんとなく諦めが付いていた。
テオはサンセット・クルーズに誘いに来たらしい。
「もう何度も見ただろう」と一度は断ったのだが、
「夏の海は何度見ても美しいものだよ」などと、
享楽主義に手を引かれて、聖アルフォンソ島の海岸に到着した。
此処は学院のプライベートビーチ。他には誰も居ない。
サン・セットにはまだ数時間ある。
夏の砂浜に、潮の香りが満ちている。
この香りを嗅ぐと、海に来たことを実感する。
船上ではもっと海の匂いがする筈だ。
クラウスは日々の雑事を暫し忘れて、開放的な気分に陥りそうだった。
しかし、テオの方が青い景色を見つめ、憂鬱な表情になっていた。
「すまない、クラウス。サンセット・クルーズはまた今度にしよう」
クラウスが振り返る。拍子抜けだ。
こちらはやっと船に乗る気になったのに。
「どうしたんだ、急に。無理に此処まで連れて来ておいて」
「風が騒いでる。芳醇な潮の香りがするだろう?」
テオは海水に手を浸す。
人の頬に触れるように極めて優しい手付きだった。
「波も少し荒れている。これからひと雨くるかもしれない」
「雨だと? しかし天気予報では」
クラウスは空を見上げる。頭上は晴れていた。
しかし、遠くに灰色の雲があった。
「海は気分屋だからね、天気をすぐに変えてしまうんだよ」
テオは濡れた手を水面から出すと、人差し指を立てて、空に向けた。
風の強さを測っているのだろうか。
テオは手を下ろすと、残念そうに肩を竦めた。
「寮のサロンに戻って、遅めのアフタヌーン・ティにしようか」
クラウスの手を取って海とは逆側に歩き出す。
砂の音が付いて来た。クラウスを見つめるテオはもう笑顔に変わっていた。
「そうだ、クラウス。素晴らしいお茶が手に入ったのだよ。
私が淹れるね。飲んでくれるだろう? きっと君も気に入るよ」
手を引かれるまま、テオの後に続く。
黄金の髪が視界に入る。この後ろ姿を俺はよく見ているな、と思う。
生徒代表としては、学院の外へ出掛けることはあるのだが、
ただ遊ぶ為だけに外出しようとは考えない。
もしテオが居なければ。
この海に来る機会は一度もなかったのかしれない。
二人は車に乗り、我が家と戻った。
シュヌーシア寮サロンに着くと、テオは意気揚々とお茶の用意に取り掛かった。
その間、クラウスはソファに座り、新聞を広げていた。
天気予報の欄には『今日は一日晴れ』とあった。
サロンには他の生徒も数名居て、テオは全員にお茶を振舞った。
一口飲んだ者から、美味しい、と声が上がる。
テオは皆に向かって、礼を述べた。
「ありがとう。これはね、チャイというインドのミルクティだよ」
クラウスは新聞を畳んで、テーブルに置く。
「インド…またオリエンタルか」
「おや。クラウス。私がオリエンタルを好むことが嫌なの?
心配しなくとも良いのに」
「…心配って、何のだ?」
「私は、オリエンタルよりクラウスの方が、
愛しいと思っているよ。だから気を落とさ」
「誰が気を落とすか! 愛しいとか、お前は言い方が過剰なんだよ」
「過剰に聞こえるかい? でもね、私は本当に愛しいのだよ?
もちろん、クラウスだけではなく、皆のこともね?」
テオが中等部の一人に寄り添い、頭を優しく撫でた。
下級生は、気恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうだった。
テオは誰からも人気があったが、特に下級生には憧れの的だった。
テオは高等部二年。海運王と呼ばれる家柄の子息だ。
愛用のクルーザー2艘とヨット1隻は彼の私物だ。
そのことからも、彼が恐ろしい資産家だということは解るのだが、
鼻に掛ける様子は微塵も感じられなかった。
またテオは「皆が愛しい」など、
空気を吸うように皆を慈しみ、褒め讃えていた。
テオの好意は伝染するかのように、皆もテオが好きになっていた。
一方、クラウスは、シュヌーシア寮の最高学年であり、生徒代表。
友人想いで根は優しい男だと皆も解ってはいるのだが、
規律に厳しい面が災いして、下級生には少々近寄りがたい存在だった。
お坊ちゃん育ちの生徒には、今まで厳しい人など居なかった為だろう。
実際、シュヌーシア寮の生徒で、
クラウスに注意されたことのない生徒は一人も居ないくらいだ。
彼は代々軍人の家系であり、大変に厳しく育てられた。
クラウスにとっては規則を守ることが当然なのだが、
他の生徒の家では、そもそも規則などなく、自由に暮らしていた。
注意されること自体に驚いて、クラウスと親しくなるのに、
それなりの時間が掛かってしまう。
上級生に「クラウスはあれでなかなかイイ奴なんだぜ」と言われて、
そうなのかなあ、とゆっくりクラウスとの距離が縮まっていった。
下級生達は、シュヌーシアの中でも特別目立つこの二人と、
親しくなりたかったし、色々話もしてみたいのだが、
クラウスに言うと怒られるのではないか、という心配が先に立った。
逆にテオはいつもにこやかで、テオの方から話し掛けてくれる。
下級生にとって、最初に仲良くなれるのは、明らかにテオの方だった。
テオは空いていたクラウスの隣に腰掛ける。
クラウスのカップは空になっていた。
「クラウス、チャイを気に入ってくれたの?」
「まあ。悪くはないな」
「そう、良かった。ではおかわりを入れても良い?」
「ああ」
テオがティーポットを持って、カップに注ぐ。
クラウスは短く礼を言って、カップを取り、
新聞を読みながら、チャイを飲んだ。
一連の遣り取りを見ていた下級生から、ぽつりと率直な感想が漏れる。
「クラウスとテオって、おとーさんと、おかーさんみたい」
皆は一斉に吹き出した。該当者の二人は全く逆の反応を見せる。
おとーさんはグシャと新聞を潰した。
「な、何を言ってるんだ、お前は!」
おかーさんは穏やかに笑って、おどけた調子で高めの声を使う。
「まあまあ、あなた、落ち着いて?」
「テオ! あなたって言うな!」
サロンに笑い声が咲く。
上級生の一人が「また痴話喧嘩が始まったー」と言った。
クラウスが苦々しく注意する。
「表現を間違えるな」
上級生の一人が頭の後ろに手を回して、クラウスを茶化す。
「だってさー、クラウスって如何にも、
『頑固オヤジ』ってかんじじゃん。
テオはー、この前のプリンセス姿も結構イケてたし。なー?」
他の生徒達は頷いた。下級生はテオの周りに集まって、
「ほんと、綺麗だったよ、テオ」などと懸命に褒めている。
テオは機嫌良く「ありがとう」と笑顔で返す。
「今度は君も着てごらん。きっと君の方が可愛いらしいよ?」
クラウスは肩を落とす。
「…テオ。女装を人に勧めるな。シュヌーシアを可笑しな集団にするつもりか」
「ほう。それはまた楽しいことを言ってくれるね、クラウス」
きらりとテオの瞳が輝いた。
クラウスは嫌な予感がした。こういう時のテオはろくな事を言わない。
「ねえ、皆。今年の文化祭、シュヌーシアは全員女装というのはどう?」
クラウスが立ち上がる。
「絶対、許さんっ!」
fin
クラウスはジムに行こうと思っていた。
昼食の後、ジムに行く準備をしていたら、テオが俺の部屋にやってきた。
その瞬間から、今日の予定がまた狂わされる、
と、なんとなく諦めが付いていた。
テオはサンセット・クルーズに誘いに来たらしい。
「もう何度も見ただろう」と一度は断ったのだが、
「夏の海は何度見ても美しいものだよ」などと、
享楽主義に手を引かれて、聖アルフォンソ島の海岸に到着した。
此処は学院のプライベートビーチ。他には誰も居ない。
サン・セットにはまだ数時間ある。
夏の砂浜に、潮の香りが満ちている。
この香りを嗅ぐと、海に来たことを実感する。
船上ではもっと海の匂いがする筈だ。
クラウスは日々の雑事を暫し忘れて、開放的な気分に陥りそうだった。
しかし、テオの方が青い景色を見つめ、憂鬱な表情になっていた。
「すまない、クラウス。サンセット・クルーズはまた今度にしよう」
クラウスが振り返る。拍子抜けだ。
こちらはやっと船に乗る気になったのに。
「どうしたんだ、急に。無理に此処まで連れて来ておいて」
「風が騒いでる。芳醇な潮の香りがするだろう?」
テオは海水に手を浸す。
人の頬に触れるように極めて優しい手付きだった。
「波も少し荒れている。これからひと雨くるかもしれない」
「雨だと? しかし天気予報では」
クラウスは空を見上げる。頭上は晴れていた。
しかし、遠くに灰色の雲があった。
「海は気分屋だからね、天気をすぐに変えてしまうんだよ」
テオは濡れた手を水面から出すと、人差し指を立てて、空に向けた。
風の強さを測っているのだろうか。
テオは手を下ろすと、残念そうに肩を竦めた。
「寮のサロンに戻って、遅めのアフタヌーン・ティにしようか」
クラウスの手を取って海とは逆側に歩き出す。
砂の音が付いて来た。クラウスを見つめるテオはもう笑顔に変わっていた。
「そうだ、クラウス。素晴らしいお茶が手に入ったのだよ。
私が淹れるね。飲んでくれるだろう? きっと君も気に入るよ」
手を引かれるまま、テオの後に続く。
黄金の髪が視界に入る。この後ろ姿を俺はよく見ているな、と思う。
生徒代表としては、学院の外へ出掛けることはあるのだが、
ただ遊ぶ為だけに外出しようとは考えない。
もしテオが居なければ。
この海に来る機会は一度もなかったのかしれない。
二人は車に乗り、我が家と戻った。
シュヌーシア寮サロンに着くと、テオは意気揚々とお茶の用意に取り掛かった。
その間、クラウスはソファに座り、新聞を広げていた。
天気予報の欄には『今日は一日晴れ』とあった。
サロンには他の生徒も数名居て、テオは全員にお茶を振舞った。
一口飲んだ者から、美味しい、と声が上がる。
テオは皆に向かって、礼を述べた。
「ありがとう。これはね、チャイというインドのミルクティだよ」
クラウスは新聞を畳んで、テーブルに置く。
「インド…またオリエンタルか」
「おや。クラウス。私がオリエンタルを好むことが嫌なの?
心配しなくとも良いのに」
「…心配って、何のだ?」
「私は、オリエンタルよりクラウスの方が、
愛しいと思っているよ。だから気を落とさ」
「誰が気を落とすか! 愛しいとか、お前は言い方が過剰なんだよ」
「過剰に聞こえるかい? でもね、私は本当に愛しいのだよ?
もちろん、クラウスだけではなく、皆のこともね?」
テオが中等部の一人に寄り添い、頭を優しく撫でた。
下級生は、気恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうだった。
テオは誰からも人気があったが、特に下級生には憧れの的だった。
テオは高等部二年。海運王と呼ばれる家柄の子息だ。
愛用のクルーザー2艘とヨット1隻は彼の私物だ。
そのことからも、彼が恐ろしい資産家だということは解るのだが、
鼻に掛ける様子は微塵も感じられなかった。
またテオは「皆が愛しい」など、
空気を吸うように皆を慈しみ、褒め讃えていた。
テオの好意は伝染するかのように、皆もテオが好きになっていた。
一方、クラウスは、シュヌーシア寮の最高学年であり、生徒代表。
友人想いで根は優しい男だと皆も解ってはいるのだが、
規律に厳しい面が災いして、下級生には少々近寄りがたい存在だった。
お坊ちゃん育ちの生徒には、今まで厳しい人など居なかった為だろう。
実際、シュヌーシア寮の生徒で、
クラウスに注意されたことのない生徒は一人も居ないくらいだ。
彼は代々軍人の家系であり、大変に厳しく育てられた。
クラウスにとっては規則を守ることが当然なのだが、
他の生徒の家では、そもそも規則などなく、自由に暮らしていた。
注意されること自体に驚いて、クラウスと親しくなるのに、
それなりの時間が掛かってしまう。
上級生に「クラウスはあれでなかなかイイ奴なんだぜ」と言われて、
そうなのかなあ、とゆっくりクラウスとの距離が縮まっていった。
下級生達は、シュヌーシアの中でも特別目立つこの二人と、
親しくなりたかったし、色々話もしてみたいのだが、
クラウスに言うと怒られるのではないか、という心配が先に立った。
逆にテオはいつもにこやかで、テオの方から話し掛けてくれる。
下級生にとって、最初に仲良くなれるのは、明らかにテオの方だった。
テオは空いていたクラウスの隣に腰掛ける。
クラウスのカップは空になっていた。
「クラウス、チャイを気に入ってくれたの?」
「まあ。悪くはないな」
「そう、良かった。ではおかわりを入れても良い?」
「ああ」
テオがティーポットを持って、カップに注ぐ。
クラウスは短く礼を言って、カップを取り、
新聞を読みながら、チャイを飲んだ。
一連の遣り取りを見ていた下級生から、ぽつりと率直な感想が漏れる。
「クラウスとテオって、おとーさんと、おかーさんみたい」
皆は一斉に吹き出した。該当者の二人は全く逆の反応を見せる。
おとーさんはグシャと新聞を潰した。
「な、何を言ってるんだ、お前は!」
おかーさんは穏やかに笑って、おどけた調子で高めの声を使う。
「まあまあ、あなた、落ち着いて?」
「テオ! あなたって言うな!」
サロンに笑い声が咲く。
上級生の一人が「また痴話喧嘩が始まったー」と言った。
クラウスが苦々しく注意する。
「表現を間違えるな」
上級生の一人が頭の後ろに手を回して、クラウスを茶化す。
「だってさー、クラウスって如何にも、
『頑固オヤジ』ってかんじじゃん。
テオはー、この前のプリンセス姿も結構イケてたし。なー?」
他の生徒達は頷いた。下級生はテオの周りに集まって、
「ほんと、綺麗だったよ、テオ」などと懸命に褒めている。
テオは機嫌良く「ありがとう」と笑顔で返す。
「今度は君も着てごらん。きっと君の方が可愛いらしいよ?」
クラウスは肩を落とす。
「…テオ。女装を人に勧めるな。シュヌーシアを可笑しな集団にするつもりか」
「ほう。それはまた楽しいことを言ってくれるね、クラウス」
きらりとテオの瞳が輝いた。
クラウスは嫌な予感がした。こういう時のテオはろくな事を言わない。
「ねえ、皆。今年の文化祭、シュヌーシアは全員女装というのはどう?」
クラウスが立ち上がる。
「絶対、許さんっ!」
fin
■テオ×ミハイル
-----------------
-----------------
ミハイルはソクーロフ博士のカウンセリングを終えて、
森の泉で時間を過ごし、涙を乾かした。
その後、シュヌーシア寮の自分の部屋に行こうとすると、
廊下で甘い匂いを感じた。
とってもいい匂いで美味しそう。サロンの方からだ。
そうっとサロンのドアの隙間から覗いてみる。
人が居た。
キラキラ輝く髪をした、この学院の生徒代表テオだ。
フォークをゆっくりと口に運んでいるところだった。
ミハイルは暫くその様子に見惚れていた。
生徒代表には入学して数日後に学院案内をして貰った。
普通は入学日に学院の各所を見て回るそうだけど、
身体の弱いミハイルは、島までの長旅ですっかり体調を崩し、
入学早々、保健室で寝込むことになった。
生徒代表の予定を狂わせたことを保健医から聞いたミハイルは、
見舞いに来た彼に、ごめんなさい、と謝った。
怒られるかもしれないと覚悟していたのだが、
生徒代表は微笑んで、花束を差し出した。
「学院案内なんて、いつでもできるから気にしなくて良いのだよ。
君と私は同じ寮だ。これから何度だって話す機会はある。
今は、その身体を休めることだけを考えて?」
その優雅な振る舞いと大らかさにミハイルはびっくりした。
なんだか王様みたいな人だなあ、と心の中で呟いた。
サロンに居た生徒代表はふいに視線を上げた。
目が合ってしまった。どうしよう、とミハイルは思う。
生徒代表は優しく微笑んだ。
「やあ。ミハイル。この香りに誘惑されたの?」
「…ゆーわく?」
「良かったら一緒にどうかな?」
誘われて断れず、テオと午後のお茶の時間を過ごすことになった。
テオは高等部の最高学年で、ミハイルは中等部三年だ。
人と話すことが苦手で、寮生とも余り話さない。
年の離れた、それも学院のトップとお茶を飲むこと自体、
ミハイルにとっては緊張することだった。
テオは自分が食べていたお菓子を紹介する。
艶々と輝く、黄金色のパイ。
「これはね、誘惑の代償と言うのだよ」
「誘惑の、代償?」
「うん。この島でアップルパイはそう呼ばれているんだ」
テオはアップルパイを切り分けて、ひとつミハイルに差し出した。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
ミハイルは誘惑の代償を口に運ぶ。シナモンのいい匂いがした。
食べてみると、まだほんのり温かかった。
「…美味しいんだね、誘惑の代償って」
「良かった」
テオは優しく笑って、静かにティーカップを置く。
「そうだ。ミハイル。昨日、此処に居る時に、天使の歌声を聞いたのだよ」
「天使の…歌声?」
「うん。我がシュヌーシア寮に天使が住んでいるようなんだ。
とても癒される歌だった。私は聞き惚れてしまったよ」
サロンのドアがノックされた。
失礼します、と声が聞こえ、シュヌーシア寮のバトラーが一礼した。
「テオ様、理事会からお電話でございます」
「ありがとう、バトラー。今行くよ」
生徒代表は席を立ち、ミハイルに詫びる。
「すまない、ミハイル。お先に失礼するよ。
ああ、誘惑の代償はゆっくり食べておくれ」
「あ、うん」
「もし天使に会ったら伝えてくれるかな?
私は貴方の歌が大好きです、ぜひまたその美声を聞かせて下さい、とね?」
黄金の髪を見送って、ミハイルはサロンで一人になる。
テオの言葉が、じわじわとミハイルの胸をあたためていく。
「大好き、だって…」
誘惑の代償を口に運ぶ。
柔らかいリンゴがとても甘くて美味しい。
黄金色のパイを見つめる。
また歌ってみようかな、とそっと思った。
fin
森の泉で時間を過ごし、涙を乾かした。
その後、シュヌーシア寮の自分の部屋に行こうとすると、
廊下で甘い匂いを感じた。
とってもいい匂いで美味しそう。サロンの方からだ。
そうっとサロンのドアの隙間から覗いてみる。
人が居た。
キラキラ輝く髪をした、この学院の生徒代表テオだ。
フォークをゆっくりと口に運んでいるところだった。
ミハイルは暫くその様子に見惚れていた。
生徒代表には入学して数日後に学院案内をして貰った。
普通は入学日に学院の各所を見て回るそうだけど、
身体の弱いミハイルは、島までの長旅ですっかり体調を崩し、
入学早々、保健室で寝込むことになった。
生徒代表の予定を狂わせたことを保健医から聞いたミハイルは、
見舞いに来た彼に、ごめんなさい、と謝った。
怒られるかもしれないと覚悟していたのだが、
生徒代表は微笑んで、花束を差し出した。
「学院案内なんて、いつでもできるから気にしなくて良いのだよ。
君と私は同じ寮だ。これから何度だって話す機会はある。
今は、その身体を休めることだけを考えて?」
その優雅な振る舞いと大らかさにミハイルはびっくりした。
なんだか王様みたいな人だなあ、と心の中で呟いた。
サロンに居た生徒代表はふいに視線を上げた。
目が合ってしまった。どうしよう、とミハイルは思う。
生徒代表は優しく微笑んだ。
「やあ。ミハイル。この香りに誘惑されたの?」
「…ゆーわく?」
「良かったら一緒にどうかな?」
誘われて断れず、テオと午後のお茶の時間を過ごすことになった。
テオは高等部の最高学年で、ミハイルは中等部三年だ。
人と話すことが苦手で、寮生とも余り話さない。
年の離れた、それも学院のトップとお茶を飲むこと自体、
ミハイルにとっては緊張することだった。
テオは自分が食べていたお菓子を紹介する。
艶々と輝く、黄金色のパイ。
「これはね、誘惑の代償と言うのだよ」
「誘惑の、代償?」
「うん。この島でアップルパイはそう呼ばれているんだ」
テオはアップルパイを切り分けて、ひとつミハイルに差し出した。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
ミハイルは誘惑の代償を口に運ぶ。シナモンのいい匂いがした。
食べてみると、まだほんのり温かかった。
「…美味しいんだね、誘惑の代償って」
「良かった」
テオは優しく笑って、静かにティーカップを置く。
「そうだ。ミハイル。昨日、此処に居る時に、天使の歌声を聞いたのだよ」
「天使の…歌声?」
「うん。我がシュヌーシア寮に天使が住んでいるようなんだ。
とても癒される歌だった。私は聞き惚れてしまったよ」
サロンのドアがノックされた。
失礼します、と声が聞こえ、シュヌーシア寮のバトラーが一礼した。
「テオ様、理事会からお電話でございます」
「ありがとう、バトラー。今行くよ」
生徒代表は席を立ち、ミハイルに詫びる。
「すまない、ミハイル。お先に失礼するよ。
ああ、誘惑の代償はゆっくり食べておくれ」
「あ、うん」
「もし天使に会ったら伝えてくれるかな?
私は貴方の歌が大好きです、ぜひまたその美声を聞かせて下さい、とね?」
黄金の髪を見送って、ミハイルはサロンで一人になる。
テオの言葉が、じわじわとミハイルの胸をあたためていく。
「大好き、だって…」
誘惑の代償を口に運ぶ。
柔らかいリンゴがとても甘くて美味しい。
黄金色のパイを見つめる。
また歌ってみようかな、とそっと思った。
fin
■テオ×クラウス
-----------------
-----------------
クラウスは生徒代表室からシュヌーシア寮に戻って来た。
聖アルフォンソ祭まで約1か月と迫り、仕事量が増えていた。
色々と調べ物をしていたら、夜遅くなってしまった。
そろそろ眠らなくては、明日に支障をきたす。
真っ直ぐ部屋に戻ろうとすると、サロンから賑やかな声が聞こえて来た。
消灯時間も近いというのに、何を騒いでいるのか。
寮生達が親睦を深めるのは構わないが、今夜はやけに歓声が飛び交っている。
保健室に最も近いシュヌーシア寮には例年病弱な生徒が集まり易い。
今年度も何人か身体の弱い生徒が入っている。
彼等が寝ていたら、この騒ぎで起こしてしまうかもしれない。
一言注意しておかなくてはという義務感に駆られ、サロンへと向かう。
「おい、お前達。もう少し静かにしろ。こんな時間まで何を騒いでいる」
サロンに入ると、寮生達に囲まれている一人の人物。
テオかと思い、輪の中心を覗くと其処には、魅力的な女性が居た。
淡いピンクのふわっとしたドレス。
肩より長い金の巻き髪は、貴族の令嬢を思わせる。
頭には、花が飾られた大きな帽子。
まるで昔のフランス映画から抜け出してきた姫のようだ。
帽子の唾に隠れて表情がよく見えないが、薄く口紅が引かれている。
ピンクの唇が仄かに笑ったのがちらと見えた。
その高貴な微笑にクラウスはどきりとしながらも、
頭の中では、学院の来客スケジュールを思い返していた。
此処は全寮制男子校。女性ということは部外者ということだ。
ここ最近、来客の予定はなかった筈。
生徒代表に知らされない客人は、招かれざる客だ。
しかし、寮生達は警戒心などまるでなく、
女性と俺を交互に見て、にやにやしている。
ワンピースの女性も帽子の下で、穏やかに微笑した。
クラウスは生徒代表として、彼女の素性を明らかにしなくては思う。
誰かの姉か妹なのかもしれないが、寮に訪れるなら許可が必要だ。
「失礼ですが、貴女は…」
一斉に寮生達が笑う。
女性はゆっくりと歩み寄った。
「おやおや。気付かないものだね。私だよ、クラウス」
穏やかな口調に、クラウスは愕然とする。
よく知っている声だった。
「テオ、なのか?」
女性が帽子を取る。
現れたのは化粧はしているものの紛れもなくテオの顔だった。
「声を聞くまで解らないとはね。それほど私は美女に見えたかい?」
「ああ。…あっ、いや…」
同意してしまってから、口を押さえたがもう遅い。
寮生達は爆笑だ。テオも嬉しそうに笑っている。
「ありがとう。クラウス。光栄だよ」
気まずいクラウスは小言を放つ。
「喜ぶな、馬鹿。大体、何故このような格好を…」
「ああ、皆がね、着せてくれたの。
聖アルフォンソ祭の仮装はこれにしたらどうかって」
クラウスの頭で火花が散る。
「…貴様等! テオにふざけた真似を…テオもこいつらの口車に乗るな!」
猛犬のような怒号に、寮生達がテオの後方に後ずさる。
一人動じていないテオは皆を振り向いた。
クラウスは、寮生達の反応を見て、自分が仕事で居ない隙を狙って、
この犯罪が実行されたようだと思う。
俺が居れば止めさせるのは自他共に明白だ。
テオはクラウスに向き直り、事情を説明した。
「あのね。今年の聖アルフォンソ祭ではウーティスの姫君に対抗して、
我がシュヌーシアからも姫を出したいのだって」
「ウーティスの? …ああ、あいつか」
クラウスの苦手な人物だ。
妖しげな伯爵家の後継者で、本人にもオカルトめいた能力があるらしい。
あいつに女装の趣味があるとは思えないのだが、
入学以来ずっと上級生のリクエストに応えて、
プリンセス姿で仮装行列に参加している。
他人に対してあれほど刺々しい奴なのに、何故その時だけ異常に寛大なのか。
クラウスにとっては謎で仕方がなかった。
テオはスカートの部分を持って、少し歩いてみせる。
テオのおっとりとした歩き方はとても優雅で、
この姿で黙ってさえいれば女性以上に女性的だった。
シュヌーシアの姫は、皆の前を歩きながら、
「私はね、姫にはクラウスの方が適任ではないかと言ったのだけど」
「誰が姫になどっ!?」
「と、クラウスは言うだろうからって。
私が着てみることになったのだよ?」
自分のせいでテオが犠牲になった気がして、
律儀なクラウスは、理不尽ながらも罪悪感に見舞われる。
テオの周りでは、皆が口々に褒め称えている。
誰かのリクエストでテオがくるりと回った。
ドレスの裾がひらひらと広がる。
寮生達から大きな歓声と拍手が起こった。
テオはスカートの裾を持って、片足を折り、プリンセスの礼をした。
サロンに絶賛の嵐が巻き起こる。クラウスは額を押さえて、溜め息を吐く。
「テオ、遊ぶんじゃない。お前等も盛り上げるな。テオが調子に乗るだろうが」
楽しいこと、楽しませることが大好きなテオだ。
只でさえ、サービス精神が豊富な奴に、
賞賛を浴びせれば、大抵のことは仕出かすに違いない。
おそらく「絶対に似合うから」と頼まれて、
テオはそれは面白そうだと感じ、喜んで手に取ったのだろう。
「何故怒るの、クラウス? 楽しいのに。ねえ、皆?」
寮生達がテオに賛同する。
この場にクラウスの味方は一人も居ないようだ。
「…お前な、女装して楽しいとか言うな」
「ドレスでは気に入らなかった? チャイナ服の方が好きかい?」
「そういう問題ではなくてだな」
テオは一歩近付いて、クラウスを見上げる。
口紅だけではなく、顔全体にナチュラルメイクをしていたし、
胸元まで女性的になっていた。何故、そこまでするのか。
衣装やメイクを施したのは全面的に寮生達なのだろうが、
それを許可するテオもテオだ。
楽しげな姫は、クラウスの目の前まで来て、上目遣いに尋ねる。
「ねえ。クラウスはどんな服が好みなの?」
「…その顔で、こっちを見るな」
明らかに照れた様子に、寮生達がまた騒ぎ出す。
「似合うぜ、お二人さん」と野次が飛んだ。
テオは、ふふと笑う。
「似合うって、私達。このまま教会に行って挙式でもあげようか?」
「馬鹿を言うな! お前はいい加減、着替えろ!」
えー、とサロン全体から大きなブーイングが起こる。
テオは微笑んで、皆を宥めた。
「皆、クラウスが言うのだから仕方がないよ。
では着替えるのを手伝って、クラウス」
「手伝う?」
「この服、一人では脱げないのだよ。背中にファスナーがあるんだ。
だから降ろしてくれる?」
テオは背中を向けて、長い髪を肩に寄せる。
クラウスの眼前には広く開いた首許。
見ていられなくて、目を背けた。
「なっ、何故俺がしなくてはならないんだ」
「そう? では他の人にして貰わなくては」
他の誰かにやらせる、と考えると何処か許せない気もするが、
だからと言って自分が行うのも可笑しい、というジレンマに陥る。
寮生達は、テオの手伝い権をめぐって揉め始めた。
その中をクラウスが注意に割って入る。
テオはその様子を楽しそうに見守っていた。
今日もシュヌーシア寮サロンでは、
消灯時間ギリギリまで賑やかな声が飛び交っていた。
fin
聖アルフォンソ祭まで約1か月と迫り、仕事量が増えていた。
色々と調べ物をしていたら、夜遅くなってしまった。
そろそろ眠らなくては、明日に支障をきたす。
真っ直ぐ部屋に戻ろうとすると、サロンから賑やかな声が聞こえて来た。
消灯時間も近いというのに、何を騒いでいるのか。
寮生達が親睦を深めるのは構わないが、今夜はやけに歓声が飛び交っている。
保健室に最も近いシュヌーシア寮には例年病弱な生徒が集まり易い。
今年度も何人か身体の弱い生徒が入っている。
彼等が寝ていたら、この騒ぎで起こしてしまうかもしれない。
一言注意しておかなくてはという義務感に駆られ、サロンへと向かう。
「おい、お前達。もう少し静かにしろ。こんな時間まで何を騒いでいる」
サロンに入ると、寮生達に囲まれている一人の人物。
テオかと思い、輪の中心を覗くと其処には、魅力的な女性が居た。
淡いピンクのふわっとしたドレス。
肩より長い金の巻き髪は、貴族の令嬢を思わせる。
頭には、花が飾られた大きな帽子。
まるで昔のフランス映画から抜け出してきた姫のようだ。
帽子の唾に隠れて表情がよく見えないが、薄く口紅が引かれている。
ピンクの唇が仄かに笑ったのがちらと見えた。
その高貴な微笑にクラウスはどきりとしながらも、
頭の中では、学院の来客スケジュールを思い返していた。
此処は全寮制男子校。女性ということは部外者ということだ。
ここ最近、来客の予定はなかった筈。
生徒代表に知らされない客人は、招かれざる客だ。
しかし、寮生達は警戒心などまるでなく、
女性と俺を交互に見て、にやにやしている。
ワンピースの女性も帽子の下で、穏やかに微笑した。
クラウスは生徒代表として、彼女の素性を明らかにしなくては思う。
誰かの姉か妹なのかもしれないが、寮に訪れるなら許可が必要だ。
「失礼ですが、貴女は…」
一斉に寮生達が笑う。
女性はゆっくりと歩み寄った。
「おやおや。気付かないものだね。私だよ、クラウス」
穏やかな口調に、クラウスは愕然とする。
よく知っている声だった。
「テオ、なのか?」
女性が帽子を取る。
現れたのは化粧はしているものの紛れもなくテオの顔だった。
「声を聞くまで解らないとはね。それほど私は美女に見えたかい?」
「ああ。…あっ、いや…」
同意してしまってから、口を押さえたがもう遅い。
寮生達は爆笑だ。テオも嬉しそうに笑っている。
「ありがとう。クラウス。光栄だよ」
気まずいクラウスは小言を放つ。
「喜ぶな、馬鹿。大体、何故このような格好を…」
「ああ、皆がね、着せてくれたの。
聖アルフォンソ祭の仮装はこれにしたらどうかって」
クラウスの頭で火花が散る。
「…貴様等! テオにふざけた真似を…テオもこいつらの口車に乗るな!」
猛犬のような怒号に、寮生達がテオの後方に後ずさる。
一人動じていないテオは皆を振り向いた。
クラウスは、寮生達の反応を見て、自分が仕事で居ない隙を狙って、
この犯罪が実行されたようだと思う。
俺が居れば止めさせるのは自他共に明白だ。
テオはクラウスに向き直り、事情を説明した。
「あのね。今年の聖アルフォンソ祭ではウーティスの姫君に対抗して、
我がシュヌーシアからも姫を出したいのだって」
「ウーティスの? …ああ、あいつか」
クラウスの苦手な人物だ。
妖しげな伯爵家の後継者で、本人にもオカルトめいた能力があるらしい。
あいつに女装の趣味があるとは思えないのだが、
入学以来ずっと上級生のリクエストに応えて、
プリンセス姿で仮装行列に参加している。
他人に対してあれほど刺々しい奴なのに、何故その時だけ異常に寛大なのか。
クラウスにとっては謎で仕方がなかった。
テオはスカートの部分を持って、少し歩いてみせる。
テオのおっとりとした歩き方はとても優雅で、
この姿で黙ってさえいれば女性以上に女性的だった。
シュヌーシアの姫は、皆の前を歩きながら、
「私はね、姫にはクラウスの方が適任ではないかと言ったのだけど」
「誰が姫になどっ!?」
「と、クラウスは言うだろうからって。
私が着てみることになったのだよ?」
自分のせいでテオが犠牲になった気がして、
律儀なクラウスは、理不尽ながらも罪悪感に見舞われる。
テオの周りでは、皆が口々に褒め称えている。
誰かのリクエストでテオがくるりと回った。
ドレスの裾がひらひらと広がる。
寮生達から大きな歓声と拍手が起こった。
テオはスカートの裾を持って、片足を折り、プリンセスの礼をした。
サロンに絶賛の嵐が巻き起こる。クラウスは額を押さえて、溜め息を吐く。
「テオ、遊ぶんじゃない。お前等も盛り上げるな。テオが調子に乗るだろうが」
楽しいこと、楽しませることが大好きなテオだ。
只でさえ、サービス精神が豊富な奴に、
賞賛を浴びせれば、大抵のことは仕出かすに違いない。
おそらく「絶対に似合うから」と頼まれて、
テオはそれは面白そうだと感じ、喜んで手に取ったのだろう。
「何故怒るの、クラウス? 楽しいのに。ねえ、皆?」
寮生達がテオに賛同する。
この場にクラウスの味方は一人も居ないようだ。
「…お前な、女装して楽しいとか言うな」
「ドレスでは気に入らなかった? チャイナ服の方が好きかい?」
「そういう問題ではなくてだな」
テオは一歩近付いて、クラウスを見上げる。
口紅だけではなく、顔全体にナチュラルメイクをしていたし、
胸元まで女性的になっていた。何故、そこまでするのか。
衣装やメイクを施したのは全面的に寮生達なのだろうが、
それを許可するテオもテオだ。
楽しげな姫は、クラウスの目の前まで来て、上目遣いに尋ねる。
「ねえ。クラウスはどんな服が好みなの?」
「…その顔で、こっちを見るな」
明らかに照れた様子に、寮生達がまた騒ぎ出す。
「似合うぜ、お二人さん」と野次が飛んだ。
テオは、ふふと笑う。
「似合うって、私達。このまま教会に行って挙式でもあげようか?」
「馬鹿を言うな! お前はいい加減、着替えろ!」
えー、とサロン全体から大きなブーイングが起こる。
テオは微笑んで、皆を宥めた。
「皆、クラウスが言うのだから仕方がないよ。
では着替えるのを手伝って、クラウス」
「手伝う?」
「この服、一人では脱げないのだよ。背中にファスナーがあるんだ。
だから降ろしてくれる?」
テオは背中を向けて、長い髪を肩に寄せる。
クラウスの眼前には広く開いた首許。
見ていられなくて、目を背けた。
「なっ、何故俺がしなくてはならないんだ」
「そう? では他の人にして貰わなくては」
他の誰かにやらせる、と考えると何処か許せない気もするが、
だからと言って自分が行うのも可笑しい、というジレンマに陥る。
寮生達は、テオの手伝い権をめぐって揉め始めた。
その中をクラウスが注意に割って入る。
テオはその様子を楽しそうに見守っていた。
今日もシュヌーシア寮サロンでは、
消灯時間ギリギリまで賑やかな声が飛び交っていた。
fin
聖アルフォンソ学院 ジム。
放課後、生徒代表のクラウス・フォン・モールは、
日課のトレーニングを終えたところだった。
火照った身体には少し冷たいシャワーが気持ち良い。
ジム併設のシャワールームで汗を流しながら、
翌日のミーティングについて考えていた。
資料は既に準備済みだが、不備がないか再度確認しておこう、と。
明日は生徒代表室にアイヴィーを呼び、警備について話し合われる日だった。
シャワーを止める。短髪から雫が落ちる。
傍に掛けてあったタオルで身体を拭く。
この学院のタオルは柔らか過ぎる。ふわふわしたものは苦手だった。
乱雑に髪の雫を吸い取る。
ノースリーブのシャツに身を通し、肩に細いタオルを巻いたまま、ジムを後にした。
夏は夜が近くなっても充分薄着で居られる。日もまだ落ちていない。
強い風に剥き出しの肩を撫でられても肌寒く感じることはなかった。
きびきびと歩を進め、シュヌーシア寮に戻るまでの間も、
明日の会議について考えていた。
資料の内容をもう少し膨らませた方が良いのではないか、
夕食後、ライブラリに行って、使えそうな文献を探して来ようか、と。
少しでも間が空くと、脳内が仕事に囚われている自分が居た。
自分の任期が終わるまで残り92日。
だからかもしれない。何処か気が急いている。
自分でも少々神経質だとは思うが、
こればかりは気質なのでどうにもならないことだった。
考え事をしたまま歩き、自室の前に着いていた。
ドアを開けると、俺以外の奴が居た。
悠々とベッドに腰掛けて、本を読んでいる。しかも俺の本だ。
同じ寮に住む生徒。おそらく最も親しい友人ではあるが、逸脱した行動だと思う。
ブロンズの肌に、黄金の髪。好きなものは海と太陽。
如何にも夏の似合う見目をした生徒は、膝の上の本を閉じた。
腕時計を見て、ふふと笑った。
「おかえり、クラウス。時間ぴったりだね?
どうしたら、それほど規則正しい生活が送れるのだろう?」
まるで自分の部屋のようにリラックスした雰囲気で、
こちらが部屋を間違えたかと思うくらいだった。
部屋の主として当然の苦情を申し立てる。
「テオ。何故、お前が此処に居る」
「この時間、クラウスに会うには此処で待つのが最善だろう?
毎日同じ時間にジムに行って、この時間に戻ってくるのだからね」
ゆったりと腰を上げて、持っていた本を本棚に仕舞う。
何事も動作が早いクラウスからすると、テオの動きは緩慢で優雅だった。
ウェーブのある金髪を揺らして、こちらを振り向いた。
「では行こうか、クラウス?」
さも当然のように言われたが、何の約束もしていない。
「行くってこれからか? 何処に?」
焦って一度に質問を重ねてしまう。
テオはどちらの質問にも答えず、クローゼットを勝手に開けて、
俺の薄手の黒いパーカーを腕に掛けた。
「おい、テオ。お前何してるんだ?」
「ん? その格好も似合うのだけれど、これからは少し気温が下がるからね。
それで、貴方には黒が似合うから、これを」
「…話が見えないのだが」
テオはクラウスの首からタオルをするすると取った。
首に摺れる布がくすぐったい。
テオはタオルを椅子の背に掛けると、
黒いパーカーの肩を持ち、クラウスに着るように促した。
クラウスは腕を通さない。
「俺達はこれから夕食の時間だろうが」
「大丈夫。私と貴方の分はキャンセルしてあるよ」
何故、俺の食事は他の奴にキャンセルされることが多々あるのだろう。
また何処かに強引に連れ出されようとしている。
しかし、今夜は明日の会議の為に、ライブラリへ文献を探しに行く予定だ。
来週分の講義の予習もまだ不完全なので、外出は遠慮したい。
それを手短に説明すると、テオは気にしない様子で微笑んだ。
「クラウス。それは、どうしても、しなくてはいけないことかい?」
そう言われると威勢が無くなる。
資料は既に完成している。内容にも自信はあった。
来週分の予習については、まだ時間があると言えばある。
「…どうしても、というわけではないが」
「だろうね。この世にどうしても必要なことって、案外少ないものだから」
テオは自分なりの哲学を持っている奴だった。
普段は人に過剰な賛辞を浴びせるのが常だが、
時折、この唇から紡がれる言葉は、頭の中で反響する。
ふと寝る前に思い出して、あれはどういう意味だったのだろう、
と反芻することもあったが、結局よく解らないまま、
テオにも問い質せずに終わることが多かった。
既にある規則を遵守することに長けているクラウスにとっては、
自由で享楽的なテオの言葉はどれも新鮮に感じるものだった。
テオはパーカーを持ったまま、気長に構えている。
「ねえ。クラウス、私の用事はね?
どうしても、今日、この時間でなくてはならないんだ。
だから、余程のことがない限り、私に付き合って欲しいな」
呑気な口調だが、頑として譲らない態度。
仕方なくクラウスはパーカーに腕を通した。
「ありがとう。クラウス」
「それで、何処に行くんだ?」
「決まっているだろう。愉しい処だよ?」
「愉しい処」と言われて、これまでも様々な場所に連れて行かれた。
それは月桂樹の森や城壁など学院内の時もあれば、
島の中心街フィンシャルだったこともあるし、
「少し遠いよ」と言われてヘリに乗せられ、海外旅行に誘拐されたこともあった。
「テオ、さっきも言ったが、俺は明日会議がある」
「うん。明日までには帰れるから心配要らないよ」
「学院の外へ行くなら外出届を。それから寮の誰かにも伝えなければ」
「大丈夫。両方、私が済ませておいた。クラウスは本当に真面目だね?
私、外出届なんて久し振りに書いたよ」
クラウスの眉がぴくりと動く。
「…久し振りだと? お前、確かこの前も外へ」
「ああ、いや、言葉の綾だよ、クラウス。
いつもちゃんと書いているから。さあ出掛けよう」
背中を押されて、部屋を後にした。
可笑しい。
この時間、ライブラリに居る筈だったのに。
クラウスは豪華クルーザーの船上に立っていた。
聖アルフォンソ島からかなり沖に出て、無人島の方まで来てしまった。
船はスピードを落とし、今は静かに夕暮れの海を遊覧中だ。
この豪華客船の持ち主はデッキに腕を掛けながら、
金髪を潮風の好きなように撫でさせている。
オレンジに輝く海と落ちゆく太陽。
それを見つめるテオの眼差しは、
『海と太陽を愛している』という言葉が偽りでないことを何より物語った。
ただ好きだと言うよりは、魅了され目を離せないといった雰囲気だ。
クラウスは隣に居る陽気な友人が、いつもと違って少し大人に見えた。
クラウスは先程から気になっていたことを尋ねる。
「なあ、テオ」
「ん?」
「お前のクルーザーってこんなに大きかったんだな。
もう少し小型だった気がしたが」
「ああ、うん。この船、とても気に入ってしまってね。
良い機会だったし、ちょっと衝動買いしてしまったんだ」
テオは、硬直しているクラウスに気付かず、るんるんと愉しそうに船内に向かう。
「お腹が空いてきたね。ディナーにしようか、クラウス」
何処か気疲れした夕陽鑑賞の後は、
窓から海を見ながら、豪華なダイニングで夕食を食べている自分が居た。
広い船内にはスタッフ以外には俺達しか居ないらしい。
二人で貸し切るには広過ぎる船内だ。
窓際にはキャンドルが焚かれていた。
ゆらゆらと燃える小さな炎の背景に紫の海原が広がっている。
食事も早いクラウスは、テオより早く食事が終わり、コーヒーを飲んでいた。
テオはマイペースでデザートを食べている。
マンゴーのタルト。ヨーグルトクリームの上に黄金の果実が映えている。
クラウスには給仕されなかった。
それは甘いものが食べられない為で、クラウスにはありがたい配慮だった。
美味しそうに口に運ぶテオを見ているだけで、充分甘さが伝わってくるようだった。
目が合うと、テオはフォークに黄金の果実を刺して、こちらに差し出した。
「クラウス。一口食べてみない?」
「結構だ」
小さな溜め息に、テオはフォークを置いて、俺の顔を覗き込む。
「おや。クラウス、ディナーは口に合わなかったかい?」
「そうではない。料理はうまかったよ」
素材は旬の一級品を使用しているようだが、豪勢な盛り付けなどはされていない。
気兼ねなく食べられるようにしたのか、素朴で家庭的に仕上げられていた。
特に飾らず、素材の在りの侭を見せる料理はクラウスの好みだった。
溜め息が漏れたのは、料理に不満があるのではなく、
この光景が信じられないだけだ。
俺は今頃、一人で黙々と、資料作成に取り組んでいる予定だったのだから。
「俺は夢でも見ているのかと思っただけだ」
テオの表情がぱっと明るくなる。
「夢のような時間だと言ってくれるのかい? 嬉しいよ、クラウス」
現実味がない、という意味の感想は、
勝手に褒め言葉と受け取られたらしいが、違うぞ、と言うのは止めにした。
太陽の笑顔を無碍に沈ませる必要はないと感じられたからだ。
俺の思惑を知らず、テオはわくわくと話し出す。
今日のテオはいつも以上に機嫌が良かった。
「でもね、クラウス。今宵はまだ始まったばかりなのだよ?」
「まだ何かあるのか? お前、夕焼けの海を見たかったんじゃないのか?」
「夕陽も素晴らしかったね。今宵は天気だけが心配だったんだ。
だけど、ほら。雲ひとつない。普段の私の行いが良いからかな」
「お前の奇行の数々は善行なのか? 果たして」
「でも空は晴れているよ? 私の願い通りにね。
波も風も明日まで良い天気だと言っているし」
「波と風?」
「うん。この海域の彼等とも親しくなってきたからね、私に教えてくれるんだ。
海の天気は陸とは違うから。風と波に聞くのが一番確実なんだよ」
まるで、波や風が口を寄せて囁いたかのような口振りだ。
テオの言っていることは擬人法なのだろうが、
揺らぎのない、おっとりした口調で言われると、
テオだけは波の囁きが聞き取れるのかもしれない、
と夢見がちなことを信じてしまいそうになる。
テオは鮮やかな黄色の果実を口に運び、紅茶を飲んでいた。
緻密なデザインが施されたティーカップをソーサーに戻すと、
窓から見える紺碧の海を眺めていた。
「陽も沈んで、美しい闇夜になったね」
「ん? ああ」
「さて。そろそろプレリュードの時間かな」
言いながら腕時計をちらと見る。テオは珍しく腕時計をしていた。
普段は俺の腕をたまに覗くくらいで、時間に囚われない奴だが、
夕食の間に3回も見ていた。この後、何か予定があるのだろうか。
それならば二人だけの海上ディナーなど開催しなければ良いものを。
テオは口許を白いナプキンで吹き、悠長に席を立った。
デザートの皿は空になっていた。
「クラウス、甲板に行こう」
外に出ると、一気に潮の香りを浴びた。
船は無人島が見える位置で停まっていた。
クラウスが羽織っている黒いパーカーの裾が翻る。
海上のせいもあるだろうが、夜の風は冷たく感じられた。
テオが持ち出したこのパーカーは必要だったようだ。
最上の3階への螺旋階段を上っていく。
先にテオが進んで、その後を歩幅を合わせて付いて行った。
何気なく眼下を見やる。もし高所恐怖症であれば立ち竦む高さだろう。
その時、黒い海の中で、ぽわっと青い光が見えた。
「テオ。今、何か光ったぞ」
ゆるりと振り返ってテオも海を眺める。
「ああ、あれはマツカサウオだよ。発光魚の一種でね。
夜行性で、下顎に青緑の発光器があって…ほら、優しい光だろう?
海に落ちたターコイズ、と私は呼んでいるんだ」
また小さく青い光が灯る。確かに青緑の宝石と同じ色だ。
「彼等はなかなかの洒落者でね? 身体は琥珀色、
鱗の境は黒で縁取られている。琥珀の鎧を纏ったような姿なんだ。
見目の麗しさから魔除けとして崇める地域もあるんだよ」
テオの言葉通りに魚の姿を想像してみる。
なんだか毒々しい色だな、と思ったがクラウスは言わなかった。
海好きの友人は、愛おしげに『海に落ちたターコイズ』を見つめる。
「だが、その美しさとは裏腹に4本もの棘を持つ。まるで薔薇のような魚だね」
テオは愉しそうに、そう解説した。
一匹の魚をよく宝石や花に見立てられるものだ。
クラウスはまるでお伽話でも聞かされた気分だった。
最上階の舳先にはVIP席が用意されていた。
座り心地が良さそうなビーチチェアが二脚並んでいる。
枠組みは木製だが、身体が触れる部分には白いクッション材が施されている。
アジアンテイストのサイドテーブルには、
華やかなトロピカルジュースが添えられていた。
テオはその長椅子に足を伸ばして寝そべる。深く身を沈め、夜空を仰いだ。
「クラウスもこちらへ。天然のプラネタリウムが見られるよ?」
自分の腹を晒す姿勢に少し抵抗を感じた。
その無防備な格好を取ることは、クラウスにとって落ち着かないことだった。
此処は訓練施設でも戦場でもないのだから、と軍人の身体を納得させ、
テオと同じように寝そべった。隣からは、ああ、という感嘆が聞こえた。
「素晴らしいね。夜空に砂金を散らしたようだ」
こいつは人でも物でも、簡単に賞賛や感謝の言葉を口にする。
褒めるということは、相手への負けを認める行為だと感じていた。
人より上へ先へと教育されてきた自分は、
常に人に勝つことが周囲の期待、また自らの意志だと思ってきた。
俺がひたすら前を向いて奔走する間、
テオは立ち止まり、太陽や海を眺めていたのだろう。
時に引き返し、砂浜に落ちていた綺麗な貝殻を拾うことも、
このお気楽者にはできたのかもしれない。
振り返らずに駆けて来た俺は、一体どれだけの事物を見逃してきたのだろう。
クラウスは、首をぐいと仰向ける。
真上には降りそうな数の星が瞬いていた。
建物などの障害物が一切無い空。
海の上には見渡す限り、空だけが広がっている。
星はこんなに綺麗だったのか。
そう言えば、星を見たこと自体、久しいかもしれない。
最後にいつ見たのかさえ思い出せなかった。
「クラウス、見えるかい? あれが射手座だよ。
その上半身と弓を繋いだのが、南斗六星(なんとろくせい)」
テオは天空に指を伸ばして、6つの明るい星を線で辿った。
クラウスはその星の名前を知らなかった。
「南斗六星? 北斗七星の偽物みたいな名前だな」
「中国の神話ではね、北斗七星が死を、南斗六星は生を司る神なのだよ。
人が生を授かる時には、彼等二人の協議により寿命が決まる、
そういう言い伝えがあるんだ。北斗は冷酷な性格で人の死期を早めようとする。
南斗は温厚で、北斗を宥め賺(すか)しながら、長命にしようと持ちかける。
二人の意見の間を取って、一生の時間を決めているんだ」
クラウスは直感的に、北斗という神に敵意を抱く。
南斗の方は、テオに似ていそうだな、と思った。
改めて、6つの星を眺める。
「へえ。そんな神話があったのか」
「オリエンタルで、なかなか良い話だろう?
この相克の神々はね、仲が良くて、二人でよく碁を打つのだって。
ああ、碁というのは、東洋のオセロに似たゲームだよ」
「お前が、これほど天文に詳しかったとは知らなかったな」
「天文? まあ学問的にはそうなるかな。私は太陽が好きだから。
好きなものについては自然と雑学が集まるだけだよ。
けれど知っていると言っても、ほんの些細なことだけなんだ」
哀切な物言いは、まるで舞台役者のようだった。
テオはただ其処に居るだけで、強い存在感を持つ。
華やかな見目以上に、何か人を惹き付けるものがある。
それは、王族染みた仕草に起因するのか、
感動をそのまま表現する唇のせいかなのか、クラウスには判断できなかった。
テオが多くの生徒に囲まれている様子を見ていると、
花の香りに誘われて、蜂や蝶が集っているイメージが浮かんだ。
テオは星空に対し、崇敬する眼差しを向けている。
緩やかな口調のまま、詞を朗読するように言葉を続けた。
「太陽はね、あの星達が輝く銀河系の周りを、
毎秒約210キロもの速度で、2億年を掛けて一周するんだ。
私達人間は、銀河という広大な海に浮かぶ、
地球という名の孤島で息をしている。
この小さな私は、彼等について一体幾つ知っているのだろう?」
クラウスは急に自分の身体が小さく縮んだような錯覚に陥る。
今、広大な海の上に居ることに畏怖を感じた。
荒波ひとつ起これば、自分など容易く飲み込まれてしまうだろうと。
空が、どん、と鳴った。
視界の隅に赤い光も映った。
クラウスは反射的に飛び起きる。
椅子を降りて、デッキから身を乗り出した。
「なんだ、今の音は。大砲か?」
後方から笑い声が起こる。テオは全く慌てずに、身を起こした。
「そんな物騒なものではないよ。海岸の方を見て」
砂浜の方に目を凝らすと、其処に何かあるようだった。
次の瞬間、浜辺から一筋の光が、空に向かって上昇した。
破裂音と共に、夜空に円形の閃光が走った。
「花火…」
その大きさに圧倒される。
これほど近くで花火を見たことはなかった。
すごい、と口にしそうになって、いや待て、と思う。
「おい。あそこは無人島の筈だろう。何故、花火が上がるんだ?」
「ああ、今宵は規模が大きいから、あそこに本場の花火師をお呼びしたんだよ」
「…何だと? では、あれはお前が用意したものなのか?」
「うん。シルヴァンに花火の話を聞いたんだ。
それで私もこの眼で一度見たいなと思ってね」
クラウスは軽く頭痛がするようだった。
この一夜で一体どれだけの金が飛んだのだろう。想像したくもない。
また花火が打ち上がった。
「…お前という奴は、とんでもない道楽者だな」
世界的パトロンと呼ばれるメネシス一族の金銭感覚には全くついていけない。
クラウスは物欲に乏しく、必要最低限のものがあれば構わない人間だ。
ましてや娯楽に金を注ぎ込むことのないクラウスには考えられないことだった。
海運業で成功したメネシスは、ギリシア国内でも有数の資産家だ。
彼等の悩みは湯水のように溢れる金の『楽しい使い道を考えること』が専らだろう。
テオの口調からすると、メネシスにとっては、
この花火も玩具を買った程度の金額なのだろうか。
資産家の道楽息子は花火を見つめながら、トロピカルジュースを飲んでいた。
「花火を見るなら、私の好きな場所で見たくてね。それで此処に呼んだんだ」
「理解に苦しむ。幾ら海が好きだからと言って、こんな…」
「おや、クラウス。誤解があるようだね?」
「誤解? 何がだ?」
「別に、海に拘ったわけではないのだよ? 場所など本当は何処でも良いんだ。
私の好きな場所は、クラウスの隣なのだから」
テオは好意の表現も相当行き過ぎていた。
友人間には似つかわしくないような過剰表現を投げて来るものだから、
それを聞いて戸惑う者や呆ける者、頬を赤らめる者まで居た。
「お前な…そういうことを言うなといつも」
「だって、クラウスが傍に居れば私は愉しいのだよ。いつでも、何処でもね?」
口笛のような音がして、夜空が鮮やかに光る。
緑と白の小さな花火が幾つか続けて上がった。
花火に目を奪われている横顔を、テオは満足そうに伺っていた。
テオはサイドテーブルにトロピカルジュースを置く。
グラスの淵には、装飾用の一輪の白い花。花弁の中央だけ薄紫に色付いていた。
テオは花を手に取ってハンカチで包む。そっとポケットに仕舞った。
この花は、今日の日記のページに挟んでおこう、とテオは思った。
椅子から降りて、静かにクラウスの隣に立った。
「あれはニッポン製の花火だよ」
いつのまにか隣に来て居たテオに、クラウスは少し驚いた。
「ニッポンの? ニッポンの花火は円いのか?」
「うん。英語ではロケットとか、ファイアーワークスと言うけれどね。
あちらの言葉では『花の火』と書くのだって。実際に見ると頷けるね。
東洋で一番美しい花はサクラだと思っていたけど、
こんなに壮大な花があったのだね。きっと世界で一番大きな花だ」
世界最大の花はタイタンアルムだがな、という生真面目な正答を抑える。
夢見がちな台詞を多用するテオの前では、
正答であっても意味をなさないと思えた。
こいつと話していると、今まで俺が信じてきたものが、
取るに足らない些末事だったように感じることが何度かあった。
次はピンクと白の小さな花火が連続で昇った。
テオは光る夜空を見つめながら話し始めた。
「花火というのは、フェスティバルが始まる合図とか、
小道具のひとつとして扱うことが多いけれど、
ニッポンでは花火大会と言って、花火が主役になるんだ。
毎年、ニッポンの各地で行われる伝統的な夏祭りだそうだよ?」
「花火を見るだけの祭りなのか、それは。随分大人しい祭りだな」
「ああ、そうなのだよ。祭りというのに騒ぐでもなくね。
夏の夜、皆が座って花火を愛でる。
その美しさ、儚さに、ただ、ただ感嘆するんだ。
なんて神秘的でオリエンタルなお祭りなのだろう。さすがニッポンだね」
テオは陶酔するように説明していた。
こいつは何にでも興味を抱く奴だが、最近は東洋文化が気に入りのようだった。
というのも、今年入学して来た騒がしい日本マニアに影響された為らしい。
この二人は単独でも充分に喧しいのに、
二人揃って「オリエンタルが」「ニッポンが」と語り出すと、五月蝿くて敵わない。
つい先日も「一緒にカブキを見に行こう」と盛り上がっていた。
そのカブキツアーとやらに何故か俺まで誘われているのだが、
こいつらと一緒に旅行など考えただけで疲れる。
現地の人間に奇異の目で見られることは必至だ。なるべくなら行きたくなかった。
「おや、クラウス。俯いてないで、花火を見ておくれ?
貴方と私だけなのだよ、この花火大会の観客は」
それから俺達は、暫く黙って闇夜に描かれる芸術を鑑賞した。
夜空が彩られる様も圧巻だが、何より驚くのは音だ。
震源の海岸からはこの船まで距離はあるのに、
空気の振動は俺の胸まで響いた。
先まで海を支配していた穏やかな波音も、
空が打ち震える音の前では、もはや掻き消されて聞こえなかった。
柵に腕と顎を乗せ、『花の火』に魅入られていた。
その間、俺には、何も考えない、という時間が与えられた。
唐突に、俺の頬に柔らかい物が当たった。
そちらを向くと、テオが微笑んでいた。
何かが触れた場所にクラウスは手を置く。
「お前…今、何を…」
本当は聞かずとも解る。
だが、これは友人間で行うことではない。
テオは何ら悪意のない笑顔を見せる。
「クラウスがあんまり花火に見惚れているものだから」
「…何を馬鹿な。お前が花火を見ろと言ったのだろう?」
このテオの戯れは、これまでにも何度か受けていた。
在り得ない事態に対し、俺は拒否はしていなかったが、
同じ行為をテオに与えたことは一度もなかった。
いつも触れてくるのはテオの方で、クラウスは形ばかりに注意するくらいだった。
「クラウス、機嫌を損ねている場合ではないよ?
花火もそろそろフィナーレだ。最後は特別美しいのが揃っているからね」
派手な炸裂音が鳴り響いた。
フィナーレの名に相応しく、盛大に花火が咲き乱れる。
徐々に打ち上げる速度が速まり、鼓動まで高鳴るようだった。
最後は一番大きな黄金の花火が上がった。
散り際、最後の瞬間まで気高く輝き、ふっと消えた。
灰色の硝煙を残し、花火は全て止んだ。
華やかだった夜空が一気に静まり返る。
祭りの後の物悲しさが、夜を支配した。
テオはフェンスに背を預けて、空から視線を外す。
艶のある革靴を暫し見つめ、俯き加減に、こちらを見上げた。
「クラウス。愉しんで、貰えたかな?」
ああ、と素直に頷いた。
「美しいものだな、夜空に咲く花というのも」
思わず零れた言葉。まるでテオのような恥ずかしい言葉を口にしていた。
テオに笑われてはいないかと顔を見ると、嘲笑とはまるで違う笑顔だった。
「良かった。昨年から色々と思案した甲斐があったというものだよ」
「昨年?」
テオは愉しそうに肩を竦める。フェンスから身を起こし、真っ直ぐに立った。
俺を正面から捉え、ゆっくりと噛み締めるように言った。
「ハッピーバースデー、クラウス。18歳おめでとう」
「…俺、の?」
今日の日付を思い出す。
何日か認識しているのに、それが自分の生まれ日だと気が付かなかった。
テオが穏やかに笑う。こいつの笑い方は誰より上品だった。
「毎年毎年、よくそんなに忘れられるものだね。
私が言うまで、いつも覚えていないのだから。
毎回、貴方の驚く顔が見られて、私は愉しいよ?」
自分が間抜けのように思えてきて、言い訳を口にする。
「最近は…生徒代表の仕事が忙しくて」
「今年はね。でも昨年は生徒代表ではなかったでしょう?」
反論できない。
テオは毎年俺の誕生日を何らかの形で祝っていた。
年を重ねるごとに盛大になってきた気がする。
誕生日と言っても平日と変わらない日なのに。
本人がそう思っているのだから、本人以外は更にどうでもいい日の筈だ。
テオはふと空を仰いだ。
今はもう花火は上がっていないのに。
「クラウスが生まれた時、彼等の協議に私も混ぜて欲しかったな」
「何の話だ?」
「さっきの、生死を司る神々の話だよ。
南斗六星が、クラウスの生を少しでも長く、
導いてくれていたら良いなと思ってね」
「人の寿命の心配するなら、自分の心配をしろよ、テオ」
「クラウスは自分のことを軽視しているよ。こんなに、大切な人なのに」
軽視している、と以前もテオに言われた。
風邪で病み上がりのまま、仕事をしていて、発熱し寝込むことになった時。
テオにとても心配された。
ソクーロフ博士にも「安静にしていれば治る」と言われているのに、
俺の部屋に日に何度も訪ねて来ては、
お見舞いだと言って、尋常じゃない大きさの花束を持ってきたり。
咽返るほど花の香りを感じたのはあれで最初で最後だろう。
「クラウスは過労で倒れるタイプだ」テオがそう言ったのを未だに覚えている。
俺は妙に納得して「きっと、そうだろうな」と同意したら、また色々言われた。
「少しは私を見習いたまえ」という言葉には賛同し兼ねたが。
テオは黄金の髪を揺らして、背を向ける。
漆黒の海を見つめながら呟いた。
「ねえ、クラウス」
呼び掛けているのに俺を見ない。
声も何処か寂しそうに聞こえて、どうした、と声を掛けた。
「これからは、私が傍に居なくとも、きちんと誕生日を祝うのだよ?
誕生日はとても大切な日だ。貴方にとっても、私にとってもね」
不自然な沈黙が降りた。
テオは深呼吸して、こちらを振り返る。
一歩一歩近付いて目の前まで来ると、
そっと俺の手を取って、自分の胸に置いた。
テオの心音が俺の手に伝わる。
祈るように目を瞑り、テオは厳かに言葉を紡いだ。
「貴方がこの世に生を授かった奇跡を心から祝福するよ。
そして、貴方と出会うことができた、我が人生、至上の幸運にも感謝を」
言い終わると、名残惜しそうに俺の手を離した。
そうか、とクラウスは思う。
毎年テオが開催してきた常軌を逸したバースデーパーティも、
今回が最後なのだと気付いた。
テオが居なくなるのではない。後に卒業する俺が、テオの前から消えるのだ。
テオは微笑んで、踵を返す。
「今宵も私の戯れに付き合ってくれてありがとう、クラウス。
愉しかったよ。それでは船を島へ戻そうか。明日は会議、だものね?
さあ、船内へ入ろう。潮風で身体を冷やしてしまうといけないし」
「テオ!」
振り向く前に、背中から抱き留めた。
テオが身を硬くしたのが解った。
「…クラ、ウス?」
「悪い。まだ礼も言っていなかったな」
俺より小柄な奴だとは思っていたが、
身体を鍛えることを知らない、やわな身体だ。
もっと力を入れたら骨を折ってしまう。腕に込めた力を後少しだけ加える。
「感謝する。ありがとう、テオ」
「…嬉しい」
本当に嬉しいのだと解る声だった。
夕陽より、星空より、花火よりも感銘を受けた声だった。
テオは衝動を形にしたような奴で、
何かあれば人に触れて、喜びを表現することもよくあった。
しかしクラウスが、自ら人に触れたのは救助活動以外では初めてだった。
勝手に身体が動いていた。自分でも解らない。
この身体は衝動的に動くこともあるのか。
「クラウスから抱き締めてくれるなんて、初めてではない?」
「言うな、馬鹿。俺が恥ずかしいだろ」
腕を解こうとすると、テオの手に止められた。
「待って。もう少しの間、私を離さないで」
穏やかな波音が聞こえた。
薄絹越しにテオの体温を感じる。
あたたかい。首筋から少し甘い匂いがした。
僅かにテオの肩が揺れた。腕の中から苦笑交じりの声が聞こえてくる。
「ああ、どうしたらいいのだろう。私は不安になって来たよ」
「何がだ?」
「今日より幸福な日が、この先訪れるとは、到底思えない」
波はまだ静かに揺れている。
遙か上空では南斗六星が夜を照らしていた。朝もまだ来ない。
時が過ぎる度に離せなくなるようだった。
強く抱き締めたら、俺の身体がお前に溶けてしまえば良いのに。
そんな馬鹿げたことを、半ば切に願っていた。
fin
放課後、生徒代表のクラウス・フォン・モールは、
日課のトレーニングを終えたところだった。
火照った身体には少し冷たいシャワーが気持ち良い。
ジム併設のシャワールームで汗を流しながら、
翌日のミーティングについて考えていた。
資料は既に準備済みだが、不備がないか再度確認しておこう、と。
明日は生徒代表室にアイヴィーを呼び、警備について話し合われる日だった。
シャワーを止める。短髪から雫が落ちる。
傍に掛けてあったタオルで身体を拭く。
この学院のタオルは柔らか過ぎる。ふわふわしたものは苦手だった。
乱雑に髪の雫を吸い取る。
ノースリーブのシャツに身を通し、肩に細いタオルを巻いたまま、ジムを後にした。
夏は夜が近くなっても充分薄着で居られる。日もまだ落ちていない。
強い風に剥き出しの肩を撫でられても肌寒く感じることはなかった。
きびきびと歩を進め、シュヌーシア寮に戻るまでの間も、
明日の会議について考えていた。
資料の内容をもう少し膨らませた方が良いのではないか、
夕食後、ライブラリに行って、使えそうな文献を探して来ようか、と。
少しでも間が空くと、脳内が仕事に囚われている自分が居た。
自分の任期が終わるまで残り92日。
だからかもしれない。何処か気が急いている。
自分でも少々神経質だとは思うが、
こればかりは気質なのでどうにもならないことだった。
考え事をしたまま歩き、自室の前に着いていた。
ドアを開けると、俺以外の奴が居た。
悠々とベッドに腰掛けて、本を読んでいる。しかも俺の本だ。
同じ寮に住む生徒。おそらく最も親しい友人ではあるが、逸脱した行動だと思う。
ブロンズの肌に、黄金の髪。好きなものは海と太陽。
如何にも夏の似合う見目をした生徒は、膝の上の本を閉じた。
腕時計を見て、ふふと笑った。
「おかえり、クラウス。時間ぴったりだね?
どうしたら、それほど規則正しい生活が送れるのだろう?」
まるで自分の部屋のようにリラックスした雰囲気で、
こちらが部屋を間違えたかと思うくらいだった。
部屋の主として当然の苦情を申し立てる。
「テオ。何故、お前が此処に居る」
「この時間、クラウスに会うには此処で待つのが最善だろう?
毎日同じ時間にジムに行って、この時間に戻ってくるのだからね」
ゆったりと腰を上げて、持っていた本を本棚に仕舞う。
何事も動作が早いクラウスからすると、テオの動きは緩慢で優雅だった。
ウェーブのある金髪を揺らして、こちらを振り向いた。
「では行こうか、クラウス?」
さも当然のように言われたが、何の約束もしていない。
「行くってこれからか? 何処に?」
焦って一度に質問を重ねてしまう。
テオはどちらの質問にも答えず、クローゼットを勝手に開けて、
俺の薄手の黒いパーカーを腕に掛けた。
「おい、テオ。お前何してるんだ?」
「ん? その格好も似合うのだけれど、これからは少し気温が下がるからね。
それで、貴方には黒が似合うから、これを」
「…話が見えないのだが」
テオはクラウスの首からタオルをするすると取った。
首に摺れる布がくすぐったい。
テオはタオルを椅子の背に掛けると、
黒いパーカーの肩を持ち、クラウスに着るように促した。
クラウスは腕を通さない。
「俺達はこれから夕食の時間だろうが」
「大丈夫。私と貴方の分はキャンセルしてあるよ」
何故、俺の食事は他の奴にキャンセルされることが多々あるのだろう。
また何処かに強引に連れ出されようとしている。
しかし、今夜は明日の会議の為に、ライブラリへ文献を探しに行く予定だ。
来週分の講義の予習もまだ不完全なので、外出は遠慮したい。
それを手短に説明すると、テオは気にしない様子で微笑んだ。
「クラウス。それは、どうしても、しなくてはいけないことかい?」
そう言われると威勢が無くなる。
資料は既に完成している。内容にも自信はあった。
来週分の予習については、まだ時間があると言えばある。
「…どうしても、というわけではないが」
「だろうね。この世にどうしても必要なことって、案外少ないものだから」
テオは自分なりの哲学を持っている奴だった。
普段は人に過剰な賛辞を浴びせるのが常だが、
時折、この唇から紡がれる言葉は、頭の中で反響する。
ふと寝る前に思い出して、あれはどういう意味だったのだろう、
と反芻することもあったが、結局よく解らないまま、
テオにも問い質せずに終わることが多かった。
既にある規則を遵守することに長けているクラウスにとっては、
自由で享楽的なテオの言葉はどれも新鮮に感じるものだった。
テオはパーカーを持ったまま、気長に構えている。
「ねえ。クラウス、私の用事はね?
どうしても、今日、この時間でなくてはならないんだ。
だから、余程のことがない限り、私に付き合って欲しいな」
呑気な口調だが、頑として譲らない態度。
仕方なくクラウスはパーカーに腕を通した。
「ありがとう。クラウス」
「それで、何処に行くんだ?」
「決まっているだろう。愉しい処だよ?」
「愉しい処」と言われて、これまでも様々な場所に連れて行かれた。
それは月桂樹の森や城壁など学院内の時もあれば、
島の中心街フィンシャルだったこともあるし、
「少し遠いよ」と言われてヘリに乗せられ、海外旅行に誘拐されたこともあった。
「テオ、さっきも言ったが、俺は明日会議がある」
「うん。明日までには帰れるから心配要らないよ」
「学院の外へ行くなら外出届を。それから寮の誰かにも伝えなければ」
「大丈夫。両方、私が済ませておいた。クラウスは本当に真面目だね?
私、外出届なんて久し振りに書いたよ」
クラウスの眉がぴくりと動く。
「…久し振りだと? お前、確かこの前も外へ」
「ああ、いや、言葉の綾だよ、クラウス。
いつもちゃんと書いているから。さあ出掛けよう」
背中を押されて、部屋を後にした。
可笑しい。
この時間、ライブラリに居る筈だったのに。
クラウスは豪華クルーザーの船上に立っていた。
聖アルフォンソ島からかなり沖に出て、無人島の方まで来てしまった。
船はスピードを落とし、今は静かに夕暮れの海を遊覧中だ。
この豪華客船の持ち主はデッキに腕を掛けながら、
金髪を潮風の好きなように撫でさせている。
オレンジに輝く海と落ちゆく太陽。
それを見つめるテオの眼差しは、
『海と太陽を愛している』という言葉が偽りでないことを何より物語った。
ただ好きだと言うよりは、魅了され目を離せないといった雰囲気だ。
クラウスは隣に居る陽気な友人が、いつもと違って少し大人に見えた。
クラウスは先程から気になっていたことを尋ねる。
「なあ、テオ」
「ん?」
「お前のクルーザーってこんなに大きかったんだな。
もう少し小型だった気がしたが」
「ああ、うん。この船、とても気に入ってしまってね。
良い機会だったし、ちょっと衝動買いしてしまったんだ」
テオは、硬直しているクラウスに気付かず、るんるんと愉しそうに船内に向かう。
「お腹が空いてきたね。ディナーにしようか、クラウス」
何処か気疲れした夕陽鑑賞の後は、
窓から海を見ながら、豪華なダイニングで夕食を食べている自分が居た。
広い船内にはスタッフ以外には俺達しか居ないらしい。
二人で貸し切るには広過ぎる船内だ。
窓際にはキャンドルが焚かれていた。
ゆらゆらと燃える小さな炎の背景に紫の海原が広がっている。
食事も早いクラウスは、テオより早く食事が終わり、コーヒーを飲んでいた。
テオはマイペースでデザートを食べている。
マンゴーのタルト。ヨーグルトクリームの上に黄金の果実が映えている。
クラウスには給仕されなかった。
それは甘いものが食べられない為で、クラウスにはありがたい配慮だった。
美味しそうに口に運ぶテオを見ているだけで、充分甘さが伝わってくるようだった。
目が合うと、テオはフォークに黄金の果実を刺して、こちらに差し出した。
「クラウス。一口食べてみない?」
「結構だ」
小さな溜め息に、テオはフォークを置いて、俺の顔を覗き込む。
「おや。クラウス、ディナーは口に合わなかったかい?」
「そうではない。料理はうまかったよ」
素材は旬の一級品を使用しているようだが、豪勢な盛り付けなどはされていない。
気兼ねなく食べられるようにしたのか、素朴で家庭的に仕上げられていた。
特に飾らず、素材の在りの侭を見せる料理はクラウスの好みだった。
溜め息が漏れたのは、料理に不満があるのではなく、
この光景が信じられないだけだ。
俺は今頃、一人で黙々と、資料作成に取り組んでいる予定だったのだから。
「俺は夢でも見ているのかと思っただけだ」
テオの表情がぱっと明るくなる。
「夢のような時間だと言ってくれるのかい? 嬉しいよ、クラウス」
現実味がない、という意味の感想は、
勝手に褒め言葉と受け取られたらしいが、違うぞ、と言うのは止めにした。
太陽の笑顔を無碍に沈ませる必要はないと感じられたからだ。
俺の思惑を知らず、テオはわくわくと話し出す。
今日のテオはいつも以上に機嫌が良かった。
「でもね、クラウス。今宵はまだ始まったばかりなのだよ?」
「まだ何かあるのか? お前、夕焼けの海を見たかったんじゃないのか?」
「夕陽も素晴らしかったね。今宵は天気だけが心配だったんだ。
だけど、ほら。雲ひとつない。普段の私の行いが良いからかな」
「お前の奇行の数々は善行なのか? 果たして」
「でも空は晴れているよ? 私の願い通りにね。
波も風も明日まで良い天気だと言っているし」
「波と風?」
「うん。この海域の彼等とも親しくなってきたからね、私に教えてくれるんだ。
海の天気は陸とは違うから。風と波に聞くのが一番確実なんだよ」
まるで、波や風が口を寄せて囁いたかのような口振りだ。
テオの言っていることは擬人法なのだろうが、
揺らぎのない、おっとりした口調で言われると、
テオだけは波の囁きが聞き取れるのかもしれない、
と夢見がちなことを信じてしまいそうになる。
テオは鮮やかな黄色の果実を口に運び、紅茶を飲んでいた。
緻密なデザインが施されたティーカップをソーサーに戻すと、
窓から見える紺碧の海を眺めていた。
「陽も沈んで、美しい闇夜になったね」
「ん? ああ」
「さて。そろそろプレリュードの時間かな」
言いながら腕時計をちらと見る。テオは珍しく腕時計をしていた。
普段は俺の腕をたまに覗くくらいで、時間に囚われない奴だが、
夕食の間に3回も見ていた。この後、何か予定があるのだろうか。
それならば二人だけの海上ディナーなど開催しなければ良いものを。
テオは口許を白いナプキンで吹き、悠長に席を立った。
デザートの皿は空になっていた。
「クラウス、甲板に行こう」
外に出ると、一気に潮の香りを浴びた。
船は無人島が見える位置で停まっていた。
クラウスが羽織っている黒いパーカーの裾が翻る。
海上のせいもあるだろうが、夜の風は冷たく感じられた。
テオが持ち出したこのパーカーは必要だったようだ。
最上の3階への螺旋階段を上っていく。
先にテオが進んで、その後を歩幅を合わせて付いて行った。
何気なく眼下を見やる。もし高所恐怖症であれば立ち竦む高さだろう。
その時、黒い海の中で、ぽわっと青い光が見えた。
「テオ。今、何か光ったぞ」
ゆるりと振り返ってテオも海を眺める。
「ああ、あれはマツカサウオだよ。発光魚の一種でね。
夜行性で、下顎に青緑の発光器があって…ほら、優しい光だろう?
海に落ちたターコイズ、と私は呼んでいるんだ」
また小さく青い光が灯る。確かに青緑の宝石と同じ色だ。
「彼等はなかなかの洒落者でね? 身体は琥珀色、
鱗の境は黒で縁取られている。琥珀の鎧を纏ったような姿なんだ。
見目の麗しさから魔除けとして崇める地域もあるんだよ」
テオの言葉通りに魚の姿を想像してみる。
なんだか毒々しい色だな、と思ったがクラウスは言わなかった。
海好きの友人は、愛おしげに『海に落ちたターコイズ』を見つめる。
「だが、その美しさとは裏腹に4本もの棘を持つ。まるで薔薇のような魚だね」
テオは愉しそうに、そう解説した。
一匹の魚をよく宝石や花に見立てられるものだ。
クラウスはまるでお伽話でも聞かされた気分だった。
最上階の舳先にはVIP席が用意されていた。
座り心地が良さそうなビーチチェアが二脚並んでいる。
枠組みは木製だが、身体が触れる部分には白いクッション材が施されている。
アジアンテイストのサイドテーブルには、
華やかなトロピカルジュースが添えられていた。
テオはその長椅子に足を伸ばして寝そべる。深く身を沈め、夜空を仰いだ。
「クラウスもこちらへ。天然のプラネタリウムが見られるよ?」
自分の腹を晒す姿勢に少し抵抗を感じた。
その無防備な格好を取ることは、クラウスにとって落ち着かないことだった。
此処は訓練施設でも戦場でもないのだから、と軍人の身体を納得させ、
テオと同じように寝そべった。隣からは、ああ、という感嘆が聞こえた。
「素晴らしいね。夜空に砂金を散らしたようだ」
こいつは人でも物でも、簡単に賞賛や感謝の言葉を口にする。
褒めるということは、相手への負けを認める行為だと感じていた。
人より上へ先へと教育されてきた自分は、
常に人に勝つことが周囲の期待、また自らの意志だと思ってきた。
俺がひたすら前を向いて奔走する間、
テオは立ち止まり、太陽や海を眺めていたのだろう。
時に引き返し、砂浜に落ちていた綺麗な貝殻を拾うことも、
このお気楽者にはできたのかもしれない。
振り返らずに駆けて来た俺は、一体どれだけの事物を見逃してきたのだろう。
クラウスは、首をぐいと仰向ける。
真上には降りそうな数の星が瞬いていた。
建物などの障害物が一切無い空。
海の上には見渡す限り、空だけが広がっている。
星はこんなに綺麗だったのか。
そう言えば、星を見たこと自体、久しいかもしれない。
最後にいつ見たのかさえ思い出せなかった。
「クラウス、見えるかい? あれが射手座だよ。
その上半身と弓を繋いだのが、南斗六星(なんとろくせい)」
テオは天空に指を伸ばして、6つの明るい星を線で辿った。
クラウスはその星の名前を知らなかった。
「南斗六星? 北斗七星の偽物みたいな名前だな」
「中国の神話ではね、北斗七星が死を、南斗六星は生を司る神なのだよ。
人が生を授かる時には、彼等二人の協議により寿命が決まる、
そういう言い伝えがあるんだ。北斗は冷酷な性格で人の死期を早めようとする。
南斗は温厚で、北斗を宥め賺(すか)しながら、長命にしようと持ちかける。
二人の意見の間を取って、一生の時間を決めているんだ」
クラウスは直感的に、北斗という神に敵意を抱く。
南斗の方は、テオに似ていそうだな、と思った。
改めて、6つの星を眺める。
「へえ。そんな神話があったのか」
「オリエンタルで、なかなか良い話だろう?
この相克の神々はね、仲が良くて、二人でよく碁を打つのだって。
ああ、碁というのは、東洋のオセロに似たゲームだよ」
「お前が、これほど天文に詳しかったとは知らなかったな」
「天文? まあ学問的にはそうなるかな。私は太陽が好きだから。
好きなものについては自然と雑学が集まるだけだよ。
けれど知っていると言っても、ほんの些細なことだけなんだ」
哀切な物言いは、まるで舞台役者のようだった。
テオはただ其処に居るだけで、強い存在感を持つ。
華やかな見目以上に、何か人を惹き付けるものがある。
それは、王族染みた仕草に起因するのか、
感動をそのまま表現する唇のせいかなのか、クラウスには判断できなかった。
テオが多くの生徒に囲まれている様子を見ていると、
花の香りに誘われて、蜂や蝶が集っているイメージが浮かんだ。
テオは星空に対し、崇敬する眼差しを向けている。
緩やかな口調のまま、詞を朗読するように言葉を続けた。
「太陽はね、あの星達が輝く銀河系の周りを、
毎秒約210キロもの速度で、2億年を掛けて一周するんだ。
私達人間は、銀河という広大な海に浮かぶ、
地球という名の孤島で息をしている。
この小さな私は、彼等について一体幾つ知っているのだろう?」
クラウスは急に自分の身体が小さく縮んだような錯覚に陥る。
今、広大な海の上に居ることに畏怖を感じた。
荒波ひとつ起これば、自分など容易く飲み込まれてしまうだろうと。
空が、どん、と鳴った。
視界の隅に赤い光も映った。
クラウスは反射的に飛び起きる。
椅子を降りて、デッキから身を乗り出した。
「なんだ、今の音は。大砲か?」
後方から笑い声が起こる。テオは全く慌てずに、身を起こした。
「そんな物騒なものではないよ。海岸の方を見て」
砂浜の方に目を凝らすと、其処に何かあるようだった。
次の瞬間、浜辺から一筋の光が、空に向かって上昇した。
破裂音と共に、夜空に円形の閃光が走った。
「花火…」
その大きさに圧倒される。
これほど近くで花火を見たことはなかった。
すごい、と口にしそうになって、いや待て、と思う。
「おい。あそこは無人島の筈だろう。何故、花火が上がるんだ?」
「ああ、今宵は規模が大きいから、あそこに本場の花火師をお呼びしたんだよ」
「…何だと? では、あれはお前が用意したものなのか?」
「うん。シルヴァンに花火の話を聞いたんだ。
それで私もこの眼で一度見たいなと思ってね」
クラウスは軽く頭痛がするようだった。
この一夜で一体どれだけの金が飛んだのだろう。想像したくもない。
また花火が打ち上がった。
「…お前という奴は、とんでもない道楽者だな」
世界的パトロンと呼ばれるメネシス一族の金銭感覚には全くついていけない。
クラウスは物欲に乏しく、必要最低限のものがあれば構わない人間だ。
ましてや娯楽に金を注ぎ込むことのないクラウスには考えられないことだった。
海運業で成功したメネシスは、ギリシア国内でも有数の資産家だ。
彼等の悩みは湯水のように溢れる金の『楽しい使い道を考えること』が専らだろう。
テオの口調からすると、メネシスにとっては、
この花火も玩具を買った程度の金額なのだろうか。
資産家の道楽息子は花火を見つめながら、トロピカルジュースを飲んでいた。
「花火を見るなら、私の好きな場所で見たくてね。それで此処に呼んだんだ」
「理解に苦しむ。幾ら海が好きだからと言って、こんな…」
「おや、クラウス。誤解があるようだね?」
「誤解? 何がだ?」
「別に、海に拘ったわけではないのだよ? 場所など本当は何処でも良いんだ。
私の好きな場所は、クラウスの隣なのだから」
テオは好意の表現も相当行き過ぎていた。
友人間には似つかわしくないような過剰表現を投げて来るものだから、
それを聞いて戸惑う者や呆ける者、頬を赤らめる者まで居た。
「お前な…そういうことを言うなといつも」
「だって、クラウスが傍に居れば私は愉しいのだよ。いつでも、何処でもね?」
口笛のような音がして、夜空が鮮やかに光る。
緑と白の小さな花火が幾つか続けて上がった。
花火に目を奪われている横顔を、テオは満足そうに伺っていた。
テオはサイドテーブルにトロピカルジュースを置く。
グラスの淵には、装飾用の一輪の白い花。花弁の中央だけ薄紫に色付いていた。
テオは花を手に取ってハンカチで包む。そっとポケットに仕舞った。
この花は、今日の日記のページに挟んでおこう、とテオは思った。
椅子から降りて、静かにクラウスの隣に立った。
「あれはニッポン製の花火だよ」
いつのまにか隣に来て居たテオに、クラウスは少し驚いた。
「ニッポンの? ニッポンの花火は円いのか?」
「うん。英語ではロケットとか、ファイアーワークスと言うけれどね。
あちらの言葉では『花の火』と書くのだって。実際に見ると頷けるね。
東洋で一番美しい花はサクラだと思っていたけど、
こんなに壮大な花があったのだね。きっと世界で一番大きな花だ」
世界最大の花はタイタンアルムだがな、という生真面目な正答を抑える。
夢見がちな台詞を多用するテオの前では、
正答であっても意味をなさないと思えた。
こいつと話していると、今まで俺が信じてきたものが、
取るに足らない些末事だったように感じることが何度かあった。
次はピンクと白の小さな花火が連続で昇った。
テオは光る夜空を見つめながら話し始めた。
「花火というのは、フェスティバルが始まる合図とか、
小道具のひとつとして扱うことが多いけれど、
ニッポンでは花火大会と言って、花火が主役になるんだ。
毎年、ニッポンの各地で行われる伝統的な夏祭りだそうだよ?」
「花火を見るだけの祭りなのか、それは。随分大人しい祭りだな」
「ああ、そうなのだよ。祭りというのに騒ぐでもなくね。
夏の夜、皆が座って花火を愛でる。
その美しさ、儚さに、ただ、ただ感嘆するんだ。
なんて神秘的でオリエンタルなお祭りなのだろう。さすがニッポンだね」
テオは陶酔するように説明していた。
こいつは何にでも興味を抱く奴だが、最近は東洋文化が気に入りのようだった。
というのも、今年入学して来た騒がしい日本マニアに影響された為らしい。
この二人は単独でも充分に喧しいのに、
二人揃って「オリエンタルが」「ニッポンが」と語り出すと、五月蝿くて敵わない。
つい先日も「一緒にカブキを見に行こう」と盛り上がっていた。
そのカブキツアーとやらに何故か俺まで誘われているのだが、
こいつらと一緒に旅行など考えただけで疲れる。
現地の人間に奇異の目で見られることは必至だ。なるべくなら行きたくなかった。
「おや、クラウス。俯いてないで、花火を見ておくれ?
貴方と私だけなのだよ、この花火大会の観客は」
それから俺達は、暫く黙って闇夜に描かれる芸術を鑑賞した。
夜空が彩られる様も圧巻だが、何より驚くのは音だ。
震源の海岸からはこの船まで距離はあるのに、
空気の振動は俺の胸まで響いた。
先まで海を支配していた穏やかな波音も、
空が打ち震える音の前では、もはや掻き消されて聞こえなかった。
柵に腕と顎を乗せ、『花の火』に魅入られていた。
その間、俺には、何も考えない、という時間が与えられた。
唐突に、俺の頬に柔らかい物が当たった。
そちらを向くと、テオが微笑んでいた。
何かが触れた場所にクラウスは手を置く。
「お前…今、何を…」
本当は聞かずとも解る。
だが、これは友人間で行うことではない。
テオは何ら悪意のない笑顔を見せる。
「クラウスがあんまり花火に見惚れているものだから」
「…何を馬鹿な。お前が花火を見ろと言ったのだろう?」
このテオの戯れは、これまでにも何度か受けていた。
在り得ない事態に対し、俺は拒否はしていなかったが、
同じ行為をテオに与えたことは一度もなかった。
いつも触れてくるのはテオの方で、クラウスは形ばかりに注意するくらいだった。
「クラウス、機嫌を損ねている場合ではないよ?
花火もそろそろフィナーレだ。最後は特別美しいのが揃っているからね」
派手な炸裂音が鳴り響いた。
フィナーレの名に相応しく、盛大に花火が咲き乱れる。
徐々に打ち上げる速度が速まり、鼓動まで高鳴るようだった。
最後は一番大きな黄金の花火が上がった。
散り際、最後の瞬間まで気高く輝き、ふっと消えた。
灰色の硝煙を残し、花火は全て止んだ。
華やかだった夜空が一気に静まり返る。
祭りの後の物悲しさが、夜を支配した。
テオはフェンスに背を預けて、空から視線を外す。
艶のある革靴を暫し見つめ、俯き加減に、こちらを見上げた。
「クラウス。愉しんで、貰えたかな?」
ああ、と素直に頷いた。
「美しいものだな、夜空に咲く花というのも」
思わず零れた言葉。まるでテオのような恥ずかしい言葉を口にしていた。
テオに笑われてはいないかと顔を見ると、嘲笑とはまるで違う笑顔だった。
「良かった。昨年から色々と思案した甲斐があったというものだよ」
「昨年?」
テオは愉しそうに肩を竦める。フェンスから身を起こし、真っ直ぐに立った。
俺を正面から捉え、ゆっくりと噛み締めるように言った。
「ハッピーバースデー、クラウス。18歳おめでとう」
「…俺、の?」
今日の日付を思い出す。
何日か認識しているのに、それが自分の生まれ日だと気が付かなかった。
テオが穏やかに笑う。こいつの笑い方は誰より上品だった。
「毎年毎年、よくそんなに忘れられるものだね。
私が言うまで、いつも覚えていないのだから。
毎回、貴方の驚く顔が見られて、私は愉しいよ?」
自分が間抜けのように思えてきて、言い訳を口にする。
「最近は…生徒代表の仕事が忙しくて」
「今年はね。でも昨年は生徒代表ではなかったでしょう?」
反論できない。
テオは毎年俺の誕生日を何らかの形で祝っていた。
年を重ねるごとに盛大になってきた気がする。
誕生日と言っても平日と変わらない日なのに。
本人がそう思っているのだから、本人以外は更にどうでもいい日の筈だ。
テオはふと空を仰いだ。
今はもう花火は上がっていないのに。
「クラウスが生まれた時、彼等の協議に私も混ぜて欲しかったな」
「何の話だ?」
「さっきの、生死を司る神々の話だよ。
南斗六星が、クラウスの生を少しでも長く、
導いてくれていたら良いなと思ってね」
「人の寿命の心配するなら、自分の心配をしろよ、テオ」
「クラウスは自分のことを軽視しているよ。こんなに、大切な人なのに」
軽視している、と以前もテオに言われた。
風邪で病み上がりのまま、仕事をしていて、発熱し寝込むことになった時。
テオにとても心配された。
ソクーロフ博士にも「安静にしていれば治る」と言われているのに、
俺の部屋に日に何度も訪ねて来ては、
お見舞いだと言って、尋常じゃない大きさの花束を持ってきたり。
咽返るほど花の香りを感じたのはあれで最初で最後だろう。
「クラウスは過労で倒れるタイプだ」テオがそう言ったのを未だに覚えている。
俺は妙に納得して「きっと、そうだろうな」と同意したら、また色々言われた。
「少しは私を見習いたまえ」という言葉には賛同し兼ねたが。
テオは黄金の髪を揺らして、背を向ける。
漆黒の海を見つめながら呟いた。
「ねえ、クラウス」
呼び掛けているのに俺を見ない。
声も何処か寂しそうに聞こえて、どうした、と声を掛けた。
「これからは、私が傍に居なくとも、きちんと誕生日を祝うのだよ?
誕生日はとても大切な日だ。貴方にとっても、私にとってもね」
不自然な沈黙が降りた。
テオは深呼吸して、こちらを振り返る。
一歩一歩近付いて目の前まで来ると、
そっと俺の手を取って、自分の胸に置いた。
テオの心音が俺の手に伝わる。
祈るように目を瞑り、テオは厳かに言葉を紡いだ。
「貴方がこの世に生を授かった奇跡を心から祝福するよ。
そして、貴方と出会うことができた、我が人生、至上の幸運にも感謝を」
言い終わると、名残惜しそうに俺の手を離した。
そうか、とクラウスは思う。
毎年テオが開催してきた常軌を逸したバースデーパーティも、
今回が最後なのだと気付いた。
テオが居なくなるのではない。後に卒業する俺が、テオの前から消えるのだ。
テオは微笑んで、踵を返す。
「今宵も私の戯れに付き合ってくれてありがとう、クラウス。
愉しかったよ。それでは船を島へ戻そうか。明日は会議、だものね?
さあ、船内へ入ろう。潮風で身体を冷やしてしまうといけないし」
「テオ!」
振り向く前に、背中から抱き留めた。
テオが身を硬くしたのが解った。
「…クラ、ウス?」
「悪い。まだ礼も言っていなかったな」
俺より小柄な奴だとは思っていたが、
身体を鍛えることを知らない、やわな身体だ。
もっと力を入れたら骨を折ってしまう。腕に込めた力を後少しだけ加える。
「感謝する。ありがとう、テオ」
「…嬉しい」
本当に嬉しいのだと解る声だった。
夕陽より、星空より、花火よりも感銘を受けた声だった。
テオは衝動を形にしたような奴で、
何かあれば人に触れて、喜びを表現することもよくあった。
しかしクラウスが、自ら人に触れたのは救助活動以外では初めてだった。
勝手に身体が動いていた。自分でも解らない。
この身体は衝動的に動くこともあるのか。
「クラウスから抱き締めてくれるなんて、初めてではない?」
「言うな、馬鹿。俺が恥ずかしいだろ」
腕を解こうとすると、テオの手に止められた。
「待って。もう少しの間、私を離さないで」
穏やかな波音が聞こえた。
薄絹越しにテオの体温を感じる。
あたたかい。首筋から少し甘い匂いがした。
僅かにテオの肩が揺れた。腕の中から苦笑交じりの声が聞こえてくる。
「ああ、どうしたらいいのだろう。私は不安になって来たよ」
「何がだ?」
「今日より幸福な日が、この先訪れるとは、到底思えない」
波はまだ静かに揺れている。
遙か上空では南斗六星が夜を照らしていた。朝もまだ来ない。
時が過ぎる度に離せなくなるようだった。
強く抱き締めたら、俺の身体がお前に溶けてしまえば良いのに。
そんな馬鹿げたことを、半ば切に願っていた。
fin
■ユウタの場合
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---------------
ウーティス寮サロン ユウタの部屋。
ユウタはぼんやりしながら、ベッドに転がっていた。
今日は7月7日。
シルヴァンの提案で今日は寮の皆で七夕パーティ。もうすぐ始まる時間だ。
「七夕」という言葉を久し振りに聞いた。
幼稚園や小学校の頃には、短冊に願い事を書いて、星にお祈りしてた。
自分が何を書いたのか覚えてないけど、
姉貴の短冊には、俺の悪口が書いてあったような気がする。
「ユウタがもう少し、男っぽくなりますように」とか。
それに対抗して、俺も姉貴のこと書いたんだったかな。
「姉ちゃんがもう少し、優しくなりますように」とか。うん、きっとそうだ。
10年位前のことなのに意外と覚えてるもんだなあ。
姉貴にメールしてみようかな。
「寮の皆で七夕パーティするんだよ。昔、短冊に何て書いたか覚えてる?」って。
姉貴は覚えてるかもしれない。
俺が赤ちゃんの時のこととかよく覚えてるからな、姉貴。
「ユウタは赤ちゃんの頃から泣き虫で」とか言わなくて良いことを、
近所の友達に言ったりするから困る。友達にも納得されるのも困った。
やっぱりパーティが始まる前に姉貴にメールしておこう。
身体を起こしたところで、今は携帯を持っていないことに気が付いた。
さっき、携帯を貸してと言われて、渡してしまった。
またベッドに倒れる。
「…どんな話、してんのかな」
知りたいけど、知りたくない。
なんだか、急にひとりぼっちのような気持ちになる。
姉ちゃんが同い年の友達とばっかり遊ぶようになった時とおんなじ気持ちだ。
今までは俺も入れて一緒に遊んでくれたのに、
ある日突然、仲間外れにされた時があった。
姉ちゃんにくっつき過ぎてたから、だったのかな。
姉ちゃんが中学生になって、初めて制服姿を見せられた時とか、
初めてお化粧して、いつもより綺麗な顔を見た時とか。
なんか、姉ちゃんが一人で大人になっちゃうみたいで、ちょっとイヤだった。
だけど俺も、今は姉ちゃんから離れて、皆と暮らしてる。
博士にアドバイスされて、姉ちゃんのこと「姉貴」って呼べるようになったし、
自分のこと「俺」って言うようになったし。俺、少しはオトコになったかな?
――ユウタがもう少し、男っぽくなりますように――
昔、姉ちゃんが短冊に書いてくれたからかもしれないね。
ユウタは、こっそり笑う。
「姉貴は、ちっとも優しくなってないけどねー」
ドアがノックされた。
はい、と返事すると、レッドが入ってきた。
「ユウタ、何してんだよ。タナバタ、始めるぜ!」
「うんっ」
レッドの後ろに付いて行く。その行為をレッドは許してくれてる。
アルフレッド・ヴィスコンティのシャッターチャンスを狙う人や、
世界中のファンの人達がしたくてもできないことを、
俺は当たり前のように許して貰ってる。
いつもは忘れそうになってることを時々思い出してドキドキする。
『あの』わんぱくコリンと同じ学校に居て、これから一緒にパーティをする。
何度も繰り返し見たドラマの主人公と。
レッドの背中は大きくて、俺よりずっと背が高い。
誰かの背中を見るのは、ユウタにとって安心することだった。
こういう光景は昔と似てる。姉貴の背中を追い駆けてた時と一緒。
だから今、姉貴が傍に居なくても平気なのかもしれない。
…姉貴のこと、思い出しちゃうことはあるんだけどね。
少し早く歩いて、レッドの隣に付く。
「ねえねえ、レッド」
廊下を歩きながら、レッドが振り向く。
背の高い人を見上げるのもなんか好きだった。
「俺、レッドの歌、聞きたいな。パーティで歌って?」
レッドはユウタの首に腕を回した。
その力強さにユウタは、けほっ、と咳をする。
「おーっし! んじゃ、今夜はユウタの為に歌ってやっか!」
fin
ユウタはぼんやりしながら、ベッドに転がっていた。
今日は7月7日。
シルヴァンの提案で今日は寮の皆で七夕パーティ。もうすぐ始まる時間だ。
「七夕」という言葉を久し振りに聞いた。
幼稚園や小学校の頃には、短冊に願い事を書いて、星にお祈りしてた。
自分が何を書いたのか覚えてないけど、
姉貴の短冊には、俺の悪口が書いてあったような気がする。
「ユウタがもう少し、男っぽくなりますように」とか。
それに対抗して、俺も姉貴のこと書いたんだったかな。
「姉ちゃんがもう少し、優しくなりますように」とか。うん、きっとそうだ。
10年位前のことなのに意外と覚えてるもんだなあ。
姉貴にメールしてみようかな。
「寮の皆で七夕パーティするんだよ。昔、短冊に何て書いたか覚えてる?」って。
姉貴は覚えてるかもしれない。
俺が赤ちゃんの時のこととかよく覚えてるからな、姉貴。
「ユウタは赤ちゃんの頃から泣き虫で」とか言わなくて良いことを、
近所の友達に言ったりするから困る。友達にも納得されるのも困った。
やっぱりパーティが始まる前に姉貴にメールしておこう。
身体を起こしたところで、今は携帯を持っていないことに気が付いた。
さっき、携帯を貸してと言われて、渡してしまった。
またベッドに倒れる。
「…どんな話、してんのかな」
知りたいけど、知りたくない。
なんだか、急にひとりぼっちのような気持ちになる。
姉ちゃんが同い年の友達とばっかり遊ぶようになった時とおんなじ気持ちだ。
今までは俺も入れて一緒に遊んでくれたのに、
ある日突然、仲間外れにされた時があった。
姉ちゃんにくっつき過ぎてたから、だったのかな。
姉ちゃんが中学生になって、初めて制服姿を見せられた時とか、
初めてお化粧して、いつもより綺麗な顔を見た時とか。
なんか、姉ちゃんが一人で大人になっちゃうみたいで、ちょっとイヤだった。
だけど俺も、今は姉ちゃんから離れて、皆と暮らしてる。
博士にアドバイスされて、姉ちゃんのこと「姉貴」って呼べるようになったし、
自分のこと「俺」って言うようになったし。俺、少しはオトコになったかな?
――ユウタがもう少し、男っぽくなりますように――
昔、姉ちゃんが短冊に書いてくれたからかもしれないね。
ユウタは、こっそり笑う。
「姉貴は、ちっとも優しくなってないけどねー」
ドアがノックされた。
はい、と返事すると、レッドが入ってきた。
「ユウタ、何してんだよ。タナバタ、始めるぜ!」
「うんっ」
レッドの後ろに付いて行く。その行為をレッドは許してくれてる。
アルフレッド・ヴィスコンティのシャッターチャンスを狙う人や、
世界中のファンの人達がしたくてもできないことを、
俺は当たり前のように許して貰ってる。
いつもは忘れそうになってることを時々思い出してドキドキする。
『あの』わんぱくコリンと同じ学校に居て、これから一緒にパーティをする。
何度も繰り返し見たドラマの主人公と。
レッドの背中は大きくて、俺よりずっと背が高い。
誰かの背中を見るのは、ユウタにとって安心することだった。
こういう光景は昔と似てる。姉貴の背中を追い駆けてた時と一緒。
だから今、姉貴が傍に居なくても平気なのかもしれない。
…姉貴のこと、思い出しちゃうことはあるんだけどね。
少し早く歩いて、レッドの隣に付く。
「ねえねえ、レッド」
廊下を歩きながら、レッドが振り向く。
背の高い人を見上げるのもなんか好きだった。
「俺、レッドの歌、聞きたいな。パーティで歌って?」
レッドはユウタの首に腕を回した。
その力強さにユウタは、けほっ、と咳をする。
「おーっし! んじゃ、今夜はユウタの為に歌ってやっか!」
fin
■シルヴァンの場合
■シルヴァンシナリオクリア者向け
---------------------------------
■シルヴァンシナリオクリア者向け
---------------------------------
ウーティス寮 レッドの部屋。
今日の講義が終わった、夕食までのひととき。
部屋の主はベッドに寝そべりながら、雑誌を読んでいた。
手にしているのは定期購読の映画雑誌。
最近話題作に出演した自分の母親への過剰な賛辞が並んでいた。
うちじゃ、ただのヒステリックなおばさんなのに。
『高慢で高飛車な役を見事に演じきった知性溢れる実力派女優』って、
別に演技しなくても高飛車なんだっつの。
大きなグラビアで、『実力派女優』は『カメラ用』の微笑を見せていた。
「得な人だよなあ、ったく」
コンコン、と軽快にドアがノックされ、レッドは雑誌からひょいと顔を出した。
開いたドアからは長い髪が覗き、笑顔のシルヴァンが現れた。
「レッドー。カラス号、貸してくれません?」
雑誌をばさっとベッドに置く。
薄いページが折れて、母親の顔に皺が入った。ちょっといい気味。
身軽にベッドから上体を起こす。
「シルヴァン、俺のバイクにヘンな名前付けるなって言ってんだろ」
「可愛い名前だと思いますけどねえ」
「どこがだっ」
ベッドから起き出して、バイクのキーを取りに行く。
ジャケットのポケットからごそごそと出す。
手に馴染んだキーを持って、シルヴァンの前に立った時、
相手の笑顔がいつもと違うことに気付いた。
「いつもお借りしてすみませんね」
シルヴァンは手の平を上にして待っている。
その上にキーを乗せて、手ごと掴んだ。
予想しない行動に、シルヴァンは少し瞳を大きくした。
「どう、したんです?」
「平気か、お前。何かヘンだぞ」
珍しく神妙な声で言った。シルヴァンはふんわりと笑った。
「別に何もありませんけど?」
手を離さないまま、レッドは更に尋ねる。
「アイヴィーんちに行くのか?」
「…よく、解りましたね」
笑顔が少し苦い色に変わる。レッドは、やっと手を離した。
「なら、良い」
「そうですか? じゃ、いってきますね」
シルヴァンはキーを握って反対の手でドアを閉めた。
閉められたドアの内側で、レッドは舌打ちした。
何か秘密にされている。
前から感じてたことだった。
この月桂樹の館に来る者は自分のことについて語りたがらない。それは解ってる。
だけど、同じ寮で、一緒にバンドもやってて、ブライアンの幼馴染。
レッドにとって、シルヴァンは特別な友人だった。
会うべくしてあった奴だと思っている。
なのに俺をさしおいて、一人でアイヴィーを訪ねることが何度かあった。
そういう時、良くない笑顔をしてる場合がある。
貼り付けただけの、嘘っぱちの笑顔だ。
俺は役者なんだぞ。役者に見破れないとでも思ってるのか。
アイヴィーのことは好きだけど、自分ではなくアイヴィーを頼るのが悔しかった。
キーがない手を握り締める。
「…俺じゃ話せないのかよ」
シルヴァンはバイクに乗って、海沿いの広い道路を走行していた。
海に夕陽が落ちるのをバイクから見下ろす。潮風に長い髪が揺れていた。
何も考えなくても、慣れた最短順路を辿り、海のコテージに到着した。
バイクを止めて、キーを取る。メットを脱ぐと、涼しい外気に撫でられた。
1階のガレージから階段を上がっていく。
タン、タンタンと弾むようなリズムだった。
「アーイヴィー、遊びましょー」
期待していた嫌そうな声が返って来ない。
もう一度彼の名前を呼ぶが、顔を出さない。
全部の部屋を開けてみても誰も居なかった。
突然来た方が悪いのは明白だが、置き去りにされたような感覚に陥る。
シルヴァンは広いリビングで、ぺたんと座った。
アイヴィーが帰宅したのはそれから数時間後。
不法侵入者へのインタビューを見学してたら、夜遅くになってた。
ガレージに愛車を停める。
脇にレッドのバイクがあった。
「俺んちにも不法侵入者が居るみたいだな」
指に引っ掛けたキーを回しながら、階段を昇る。
メシは食べてきたし、後は眠るだけだった。
リビングに入ると、床に横たわった足が二本見えた。
ゆっくりと近付いてみる。足は長い肢体に繋がっていた。
長髪も無造作に散らしている。
テーブルの上には缶ビールが数本と秘蔵の高級ワイン。
どれも空になって転がっていた。
なんかイイコトあった日に飲もうと思ってたヤツなのに。
寝顔の前でしゃがむ。ほっぺを人差し指で突く。
「なーにしてくれてんだ、お前は」
声に反応したように菫色の目が開いた。
少し目をこすって、アイヴィーを認識すると、綺麗に笑った。
「あ、おかえりなさい、アイヴィー。貴方を待ってたんですよ?」
「酔い潰れて寝てたくせに」
シルヴァンはのろのろと起き上がる。
ぺたりと床に座ったまま、アイヴィーを見上げる。
「アイヴィーが遅いからですよ。何してたんです? こんな時間まで」
「オシゴト」
「綺麗な方と一緒だったんじゃないですか?」
「ちげーよ。それよりお前は何しに来たんだよ?」
シルヴァンは何か言おうとして、口を噤んだ。
空っぽの酒瓶を見ながら、にこやかに笑ってみせる。
「んー。忘れちゃいました。お酒のせいですかね?」
アイヴィーは暫くその笑顔を見つめていた。
菫色の瞳は何も気付かないフリをして、こちらを見つめ返した。
嘘吐きの頭に手を置いて、アイヴィーは立ち上がった。
「そーかよ。んじゃ、兎に角、其処の空き缶片付けろよ、エルリック」
アイヴィーはキッチンへと向かう。冷蔵庫を開けて、缶ビールを取り出す。
栓を開けるとプシュッとイイ音がした。
リビングでは座り込んでいるシルヴァンが、俯いたまま立ち上がった。
長い髪で隠れた横顔はこの日初めて、本当に笑う。
エルリックと呼ばれた男は小さな声で、返事をした。
「…はい」
fin
今日の講義が終わった、夕食までのひととき。
部屋の主はベッドに寝そべりながら、雑誌を読んでいた。
手にしているのは定期購読の映画雑誌。
最近話題作に出演した自分の母親への過剰な賛辞が並んでいた。
うちじゃ、ただのヒステリックなおばさんなのに。
『高慢で高飛車な役を見事に演じきった知性溢れる実力派女優』って、
別に演技しなくても高飛車なんだっつの。
大きなグラビアで、『実力派女優』は『カメラ用』の微笑を見せていた。
「得な人だよなあ、ったく」
コンコン、と軽快にドアがノックされ、レッドは雑誌からひょいと顔を出した。
開いたドアからは長い髪が覗き、笑顔のシルヴァンが現れた。
「レッドー。カラス号、貸してくれません?」
雑誌をばさっとベッドに置く。
薄いページが折れて、母親の顔に皺が入った。ちょっといい気味。
身軽にベッドから上体を起こす。
「シルヴァン、俺のバイクにヘンな名前付けるなって言ってんだろ」
「可愛い名前だと思いますけどねえ」
「どこがだっ」
ベッドから起き出して、バイクのキーを取りに行く。
ジャケットのポケットからごそごそと出す。
手に馴染んだキーを持って、シルヴァンの前に立った時、
相手の笑顔がいつもと違うことに気付いた。
「いつもお借りしてすみませんね」
シルヴァンは手の平を上にして待っている。
その上にキーを乗せて、手ごと掴んだ。
予想しない行動に、シルヴァンは少し瞳を大きくした。
「どう、したんです?」
「平気か、お前。何かヘンだぞ」
珍しく神妙な声で言った。シルヴァンはふんわりと笑った。
「別に何もありませんけど?」
手を離さないまま、レッドは更に尋ねる。
「アイヴィーんちに行くのか?」
「…よく、解りましたね」
笑顔が少し苦い色に変わる。レッドは、やっと手を離した。
「なら、良い」
「そうですか? じゃ、いってきますね」
シルヴァンはキーを握って反対の手でドアを閉めた。
閉められたドアの内側で、レッドは舌打ちした。
何か秘密にされている。
前から感じてたことだった。
この月桂樹の館に来る者は自分のことについて語りたがらない。それは解ってる。
だけど、同じ寮で、一緒にバンドもやってて、ブライアンの幼馴染。
レッドにとって、シルヴァンは特別な友人だった。
会うべくしてあった奴だと思っている。
なのに俺をさしおいて、一人でアイヴィーを訪ねることが何度かあった。
そういう時、良くない笑顔をしてる場合がある。
貼り付けただけの、嘘っぱちの笑顔だ。
俺は役者なんだぞ。役者に見破れないとでも思ってるのか。
アイヴィーのことは好きだけど、自分ではなくアイヴィーを頼るのが悔しかった。
キーがない手を握り締める。
「…俺じゃ話せないのかよ」
シルヴァンはバイクに乗って、海沿いの広い道路を走行していた。
海に夕陽が落ちるのをバイクから見下ろす。潮風に長い髪が揺れていた。
何も考えなくても、慣れた最短順路を辿り、海のコテージに到着した。
バイクを止めて、キーを取る。メットを脱ぐと、涼しい外気に撫でられた。
1階のガレージから階段を上がっていく。
タン、タンタンと弾むようなリズムだった。
「アーイヴィー、遊びましょー」
期待していた嫌そうな声が返って来ない。
もう一度彼の名前を呼ぶが、顔を出さない。
全部の部屋を開けてみても誰も居なかった。
突然来た方が悪いのは明白だが、置き去りにされたような感覚に陥る。
シルヴァンは広いリビングで、ぺたんと座った。
アイヴィーが帰宅したのはそれから数時間後。
不法侵入者へのインタビューを見学してたら、夜遅くになってた。
ガレージに愛車を停める。
脇にレッドのバイクがあった。
「俺んちにも不法侵入者が居るみたいだな」
指に引っ掛けたキーを回しながら、階段を昇る。
メシは食べてきたし、後は眠るだけだった。
リビングに入ると、床に横たわった足が二本見えた。
ゆっくりと近付いてみる。足は長い肢体に繋がっていた。
長髪も無造作に散らしている。
テーブルの上には缶ビールが数本と秘蔵の高級ワイン。
どれも空になって転がっていた。
なんかイイコトあった日に飲もうと思ってたヤツなのに。
寝顔の前でしゃがむ。ほっぺを人差し指で突く。
「なーにしてくれてんだ、お前は」
声に反応したように菫色の目が開いた。
少し目をこすって、アイヴィーを認識すると、綺麗に笑った。
「あ、おかえりなさい、アイヴィー。貴方を待ってたんですよ?」
「酔い潰れて寝てたくせに」
シルヴァンはのろのろと起き上がる。
ぺたりと床に座ったまま、アイヴィーを見上げる。
「アイヴィーが遅いからですよ。何してたんです? こんな時間まで」
「オシゴト」
「綺麗な方と一緒だったんじゃないですか?」
「ちげーよ。それよりお前は何しに来たんだよ?」
シルヴァンは何か言おうとして、口を噤んだ。
空っぽの酒瓶を見ながら、にこやかに笑ってみせる。
「んー。忘れちゃいました。お酒のせいですかね?」
アイヴィーは暫くその笑顔を見つめていた。
菫色の瞳は何も気付かないフリをして、こちらを見つめ返した。
嘘吐きの頭に手を置いて、アイヴィーは立ち上がった。
「そーかよ。んじゃ、兎に角、其処の空き缶片付けろよ、エルリック」
アイヴィーはキッチンへと向かう。冷蔵庫を開けて、缶ビールを取り出す。
栓を開けるとプシュッとイイ音がした。
リビングでは座り込んでいるシルヴァンが、俯いたまま立ち上がった。
長い髪で隠れた横顔はこの日初めて、本当に笑う。
エルリックと呼ばれた男は小さな声で、返事をした。
「…はい」
fin
■エンジュの場合
----------------
----------------
聖アルフォンソ島 植物園。
茶室から植物園を見ている生徒が居た。
眼鏡を掛けた、大人しそうな奴。
あいつと同じウーティスの一人。
眼鏡はよくこの植物園でぼうっとしている。
何か緑色のヘンなものを飲みながら、ぼうっとしている。
黒い瞳は木を捉えているようだが、映っていないようだった。
妹も植物が好きだった。
俺は銃器の名前は多く知っていたが、草木などの名は知らなかった。
妹は、これはね、あれはね、と花の名を説明できた。
そんなものの名を知ってどうする、と俺は尋ねた。
何の役にも立たないだろうと。
妹は言った。
「知っていたら幸せでしょう? 武器の名前よりずっと」
俺は何も言わなかった。
妹の言っている意味が解らなかった。
時々、俺には理解できないことを口走る奴だった。
あの時、問い質していれば何か変わったのだろうか。
俺は、妹をもっと知ろう、という気が余りなかった。
すぐに失うとは思わなかったからだ。
おい、と声を掛けると、眼鏡はワンテンポ遅れて振り向いた。
その表情はとても驚いていた。
「エンジュ…こんちは」
「お前、いつも此処に居るな」
「え、いつも、かな?」
「お前はいつも此処で何を見ている?」
「何って、花とか木とか…」
「違う」
眼鏡は少し困ったような顔をする。
「えっと…違う、かな?」
エンジュは答えない。
この沈黙をどう解釈して良いのか眼鏡には解らなかった。
自分で考えろ、ということなのだろうか。
眼鏡は眼鏡なりの意見を述べた。
「今、エンジュを見てたんだ。だから、エンジュが来てびっくりしたよ」
今度はエンジュが驚く番だった。
その驚きは顔には出ていないが、全く意味不明な台詞だった。
ハルヤは、ほら、と木を指差した。
「日本ではエンジュっていう名前なんだよ、あの木」
エンジュは自分と同じ名前を持つ木を眺める。
卵形の葉が生い茂る大きな樹木。
白い花が咲いている。丸みを帯びた花弁は蝶の形に見えた。
風が吹くと、花は一斉に揺れた。蝶が羽ばたいたようだった。
「日本で七月頃に咲く、夏の花なんだ。
君の名前を聞いた時ね、すぐにエンジュの木を思い出したんだよ?」
眼鏡もエンジュの木を見ていたが、
やはりこいつの目には映っていない、とエンジュには感じられた。
「お前、名前は?」
以前、聞いたのかもしれないが、エンジュは眼鏡の名前を覚えていなかった。
眼鏡は怒るどころか、嬉しそうに名前を教えた。
「ハルヤ・コバヤシだよ。よろしくね、エンジュ」
「ハルヤか。お前もあいつと同じウーティスだったな?」
「うん」
「ウーティスは変な奴ばかりだ」
「そっかな」
「…何故、笑う?」
「あ、なんでかな。ちょっと嬉しかったのかも」
「やっぱりお前、変」
ハルヤはまた笑った。
笑顔を見せられると何かよく知らない感情に囚われる。
妹もよく笑っていた、昔は。
「そだ。エンジュは抹茶って知ってる?」
「何だそれは」
「じゃあさ、一緒に飲もうよ。ね?」
ハルヤに勧められるまま、緑の飲み物を目の前に置かれた。
見るからに、飲み物の色をしていない。
しかし、ハルヤは美味しそうに飲んだ。
こんな色でも美味いのか、と茶碗に口付けた。
エンジュは口を押さえた。
「お前、俺に何の恨みがある?」
fin
茶室から植物園を見ている生徒が居た。
眼鏡を掛けた、大人しそうな奴。
あいつと同じウーティスの一人。
眼鏡はよくこの植物園でぼうっとしている。
何か緑色のヘンなものを飲みながら、ぼうっとしている。
黒い瞳は木を捉えているようだが、映っていないようだった。
妹も植物が好きだった。
俺は銃器の名前は多く知っていたが、草木などの名は知らなかった。
妹は、これはね、あれはね、と花の名を説明できた。
そんなものの名を知ってどうする、と俺は尋ねた。
何の役にも立たないだろうと。
妹は言った。
「知っていたら幸せでしょう? 武器の名前よりずっと」
俺は何も言わなかった。
妹の言っている意味が解らなかった。
時々、俺には理解できないことを口走る奴だった。
あの時、問い質していれば何か変わったのだろうか。
俺は、妹をもっと知ろう、という気が余りなかった。
すぐに失うとは思わなかったからだ。
おい、と声を掛けると、眼鏡はワンテンポ遅れて振り向いた。
その表情はとても驚いていた。
「エンジュ…こんちは」
「お前、いつも此処に居るな」
「え、いつも、かな?」
「お前はいつも此処で何を見ている?」
「何って、花とか木とか…」
「違う」
眼鏡は少し困ったような顔をする。
「えっと…違う、かな?」
エンジュは答えない。
この沈黙をどう解釈して良いのか眼鏡には解らなかった。
自分で考えろ、ということなのだろうか。
眼鏡は眼鏡なりの意見を述べた。
「今、エンジュを見てたんだ。だから、エンジュが来てびっくりしたよ」
今度はエンジュが驚く番だった。
その驚きは顔には出ていないが、全く意味不明な台詞だった。
ハルヤは、ほら、と木を指差した。
「日本ではエンジュっていう名前なんだよ、あの木」
エンジュは自分と同じ名前を持つ木を眺める。
卵形の葉が生い茂る大きな樹木。
白い花が咲いている。丸みを帯びた花弁は蝶の形に見えた。
風が吹くと、花は一斉に揺れた。蝶が羽ばたいたようだった。
「日本で七月頃に咲く、夏の花なんだ。
君の名前を聞いた時ね、すぐにエンジュの木を思い出したんだよ?」
眼鏡もエンジュの木を見ていたが、
やはりこいつの目には映っていない、とエンジュには感じられた。
「お前、名前は?」
以前、聞いたのかもしれないが、エンジュは眼鏡の名前を覚えていなかった。
眼鏡は怒るどころか、嬉しそうに名前を教えた。
「ハルヤ・コバヤシだよ。よろしくね、エンジュ」
「ハルヤか。お前もあいつと同じウーティスだったな?」
「うん」
「ウーティスは変な奴ばかりだ」
「そっかな」
「…何故、笑う?」
「あ、なんでかな。ちょっと嬉しかったのかも」
「やっぱりお前、変」
ハルヤはまた笑った。
笑顔を見せられると何かよく知らない感情に囚われる。
妹もよく笑っていた、昔は。
「そだ。エンジュは抹茶って知ってる?」
「何だそれは」
「じゃあさ、一緒に飲もうよ。ね?」
ハルヤに勧められるまま、緑の飲み物を目の前に置かれた。
見るからに、飲み物の色をしていない。
しかし、ハルヤは美味しそうに飲んだ。
こんな色でも美味いのか、と茶碗に口付けた。
エンジュは口を押さえた。
「お前、俺に何の恨みがある?」
fin
■ハルヤの場合
---------------
---------------
「ありがとう、ございましたっ」
春臣と春也は揃って深く頭を下げる。
日舞の稽古が終わる時には礼をする決まりだった。
じいさまが言うには『今日も踊れること』への礼なのだそうだ。
それは例えば、稽古場だったり、扇だったり、親や友達だったりする。
春也にはまだよく解らなかったが、いつもちゃんと礼はしていた。
稽古が終わった後。兄弟は近くのスーパーにアイスを買いに行った。
せがんだのは弟。アイスが特別好きなわけではない。
兄ともう少し一緒に居たかっただけだ。
稽古が終われば兄とは別の家へ帰ることになる。
まだ帰りたくなくて、何か理由を付けては傍に居たがった。
兄は弟に手を引かれて、スーパーへと向かった。
さして大きくないスーパーの入り口に、
何故これほどと思うくらい立派な笹があった。
そう言えば七夕は数日後だった。
既に黄色やオレンジなどのカラフルな短冊が飾られている。
笹の近くには、背の低いテーブルの上で短冊を書いている子供達が数名居た。
自由に願い事を書いて、飾ることが出来るようだ。
手を繋いでいる弟は、その光景をぼうっと見ていた。
「春也、書きたいのか?」
「うん。兄様も一緒に書こっ」
俺はいいよ、と言う前に手を引っ張られて、短冊まで渡された。
弟は幼いながらも鉛筆を握り締めて、何か綴っている。
兄は短冊を目の前にして、何を書けば良いのかとても迷っていた。
願い事。俺の願いは何だろうと。
小さな弟は、字を間違えたらしく、消しゴムで消していた。
すると、薄い紙の端がびりっと破れた。
「あっ、どうしよう…」
縁起が悪いとでも思ったのか、泣きそうな顔をする。
兄は弟の頭に手を置いて、もう一枚短冊を差し出した。
「ありがと、兄様」
一瞬で泣き顔から笑顔に変わる。
弟は新しい短冊へ慎重に慎重に願いを書いていた。
自分の願いごとが見つかった兄も、短冊に向かった。
和歌山の夏は夕方でも蒸し暑い。
素足の間を生暖かい風が通っていく。
だが、願い事を書いている間は暑さも気にならなかった。
「できたっ」
弟は間違えずに書けた短冊を自慢げに見せる。
「ぼくの短冊飾って。兄様のお隣にっ」
17歳になった弟が目を覚ます。知っている天井。
ウーティス寮の自室に居た。
カーテンには眩しい朝陽が集まっていた。
気持ち良く伸びをする。
夢で兄様に会えた朝は、いつもすっきり目覚めることができた。
あの短冊に俺は何て書いたんだろう。
兄様は何を願ったんだろう。
思い出せない。
胸にあたたかさを残して、夢の記憶がおぼろげに霧散していった。
ベッドから足を出す。
眼鏡を掛けていないので、視界はぼんやりとしていた。
足は自然と卓上カレンダーの傍に向かっていた。
『7』という数字に指を重ねる。
「もうすぐ七夕か」
fin
春臣と春也は揃って深く頭を下げる。
日舞の稽古が終わる時には礼をする決まりだった。
じいさまが言うには『今日も踊れること』への礼なのだそうだ。
それは例えば、稽古場だったり、扇だったり、親や友達だったりする。
春也にはまだよく解らなかったが、いつもちゃんと礼はしていた。
稽古が終わった後。兄弟は近くのスーパーにアイスを買いに行った。
せがんだのは弟。アイスが特別好きなわけではない。
兄ともう少し一緒に居たかっただけだ。
稽古が終われば兄とは別の家へ帰ることになる。
まだ帰りたくなくて、何か理由を付けては傍に居たがった。
兄は弟に手を引かれて、スーパーへと向かった。
さして大きくないスーパーの入り口に、
何故これほどと思うくらい立派な笹があった。
そう言えば七夕は数日後だった。
既に黄色やオレンジなどのカラフルな短冊が飾られている。
笹の近くには、背の低いテーブルの上で短冊を書いている子供達が数名居た。
自由に願い事を書いて、飾ることが出来るようだ。
手を繋いでいる弟は、その光景をぼうっと見ていた。
「春也、書きたいのか?」
「うん。兄様も一緒に書こっ」
俺はいいよ、と言う前に手を引っ張られて、短冊まで渡された。
弟は幼いながらも鉛筆を握り締めて、何か綴っている。
兄は短冊を目の前にして、何を書けば良いのかとても迷っていた。
願い事。俺の願いは何だろうと。
小さな弟は、字を間違えたらしく、消しゴムで消していた。
すると、薄い紙の端がびりっと破れた。
「あっ、どうしよう…」
縁起が悪いとでも思ったのか、泣きそうな顔をする。
兄は弟の頭に手を置いて、もう一枚短冊を差し出した。
「ありがと、兄様」
一瞬で泣き顔から笑顔に変わる。
弟は新しい短冊へ慎重に慎重に願いを書いていた。
自分の願いごとが見つかった兄も、短冊に向かった。
和歌山の夏は夕方でも蒸し暑い。
素足の間を生暖かい風が通っていく。
だが、願い事を書いている間は暑さも気にならなかった。
「できたっ」
弟は間違えずに書けた短冊を自慢げに見せる。
「ぼくの短冊飾って。兄様のお隣にっ」
17歳になった弟が目を覚ます。知っている天井。
ウーティス寮の自室に居た。
カーテンには眩しい朝陽が集まっていた。
気持ち良く伸びをする。
夢で兄様に会えた朝は、いつもすっきり目覚めることができた。
あの短冊に俺は何て書いたんだろう。
兄様は何を願ったんだろう。
思い出せない。
胸にあたたかさを残して、夢の記憶がおぼろげに霧散していった。
ベッドから足を出す。
眼鏡を掛けていないので、視界はぼんやりとしていた。
足は自然と卓上カレンダーの傍に向かっていた。
『7』という数字に指を重ねる。
「もうすぐ七夕か」
fin
■ジョシュアの場合
■ジョシュア×姉貴
-----------------
■ジョシュア×姉貴
-----------------
聖アルフォンソ学院 生徒代表室。
この島の中枢部と言っても過言ではない。
事実上、此処が聖アルフォンソ島の王室だった。
「こんにちは。ジョシュアだよ。今、話せるかな?」
王はレトロな受話器を手に持ち、ゆったりと座っている。
この部屋に備え付けの電話。
通信室の交換手を介さずに外部と繋がる唯一の電話だった。
友人の携帯電話を借りる方法もあるが、相手から掛かって来るのを待つだけは、
もう、足りなくなっていた。
「すまない、また電話をして。君の声が聞きたくて、此処に来てしまった。
・・・うん。生徒代表室から掛けているんだ、いけないのにね」
仕事の電話ではない為に、原則禁じられた行為だった。
王は禁止事項だと認識した上で、何度目かの電話を掛けていた。
その細微な罪を気に止めず、使用していた先代達の方が多いことを、
今年度の真面目な王は知る由もなかった。
相手はジョシュアを責めず、礼を述べた。
優しい声に少し救われた王は、この人の弟の話を持ちかけた。
「日本ではもうすぐ七夕だそうだね? 昨日ユウタから聞いたんだ」
だから余計に、この人の声が聞きたくなった。
七夕の伝説はジョシュアの胸に響くものだった。
『年に一度、七月七日にしか会えないんだ、可哀相だよね』
ユウタはそう話していた。ジョシュアは呟くように、海の先に居る人へ伝える。
「俺、羨ましかったんだ。織姫と彦星が」
遠くに居る優しい声は俺の耳許で、どうして、と尋ねる。
受話器を持つ手に、力が入ってしまう。
「だって、会えるんだよ? 一年に一度でも」
ジョシュアは椅子に背を預ける。
椅子は冷たく、ぬくもりなどなかった。
いつも、一番傍に居て欲しい人は、遠く離れた場所に居た。
想いを掛けるほど、自分から離れていく。
やがて、本当に会えなくなる。
幼い間にそれを二度経験し、以来、俺はひとりぼっちだ。
現在は俺には勿体無いような友人達に囲まれている。
だけど、何処かで一線を引いている罪悪感があった。
失った時を恐れて、事前に予防線を張っているのかもしれない。
友人の相談には喜んで応じるけれど、その逆は殆どなかった。
自分の全てを晒せる人、そんな大切な人ができて、
もし、失ってしまったら。
「誰かを大切に想う程、その人に会えなくなる気がして、怖いんだ」
そう思うと、自分についての発言は消極的になっていった。
特にマイナスな感情は、吐露しようとは思わなかった。
口に出しても、自己満足するだけで、相手には負担かもしれない。
自分のせいで、相手を傷付けることは一番許せないことだった。
七夕の話を聞いて、思ったこと。
それを貴女に伝えることで、貴女を困らせないだろうか。
昨日からずっとそればかり考えて、気が付けば受話器を耳に当てていた。
我侭だ。
こんなこと口に出したって、相手を困らせるだけだ。
母が家を出て、ボランティア活動をすると言われた時だって言わなかった。
子供心にも何かせずに居られない母が痛々しく、黙って見送った。
あんなに小さな頃でさえ、母が居ない邸で一人我慢できた言葉なのに。
俺はいつのまにか鎧を纏っていたのかもしれない。
周囲を傷付けないようにと自分に言い訳しながら、
大切な人を『また失うこと』に恐怖していた。
受話器の向こうから、心配するように自分の名前を呼ばれた。
ずうっと聞いていたい声。
まだ会ったこともないのに。
この声は俺の鎧を少しずつ溶かしてくれる。
誰にも言えなかった本音が零れて来る。不思議な人だ。
貴女がもう一度、俺の名前を呼ぶ。
その柔らかな声に、俺の口はゆっくりと動いた。
「会いたいよ。一年に一度でも良い。貴女に会いたい」
fin
この島の中枢部と言っても過言ではない。
事実上、此処が聖アルフォンソ島の王室だった。
「こんにちは。ジョシュアだよ。今、話せるかな?」
王はレトロな受話器を手に持ち、ゆったりと座っている。
この部屋に備え付けの電話。
通信室の交換手を介さずに外部と繋がる唯一の電話だった。
友人の携帯電話を借りる方法もあるが、相手から掛かって来るのを待つだけは、
もう、足りなくなっていた。
「すまない、また電話をして。君の声が聞きたくて、此処に来てしまった。
・・・うん。生徒代表室から掛けているんだ、いけないのにね」
仕事の電話ではない為に、原則禁じられた行為だった。
王は禁止事項だと認識した上で、何度目かの電話を掛けていた。
その細微な罪を気に止めず、使用していた先代達の方が多いことを、
今年度の真面目な王は知る由もなかった。
相手はジョシュアを責めず、礼を述べた。
優しい声に少し救われた王は、この人の弟の話を持ちかけた。
「日本ではもうすぐ七夕だそうだね? 昨日ユウタから聞いたんだ」
だから余計に、この人の声が聞きたくなった。
七夕の伝説はジョシュアの胸に響くものだった。
『年に一度、七月七日にしか会えないんだ、可哀相だよね』
ユウタはそう話していた。ジョシュアは呟くように、海の先に居る人へ伝える。
「俺、羨ましかったんだ。織姫と彦星が」
遠くに居る優しい声は俺の耳許で、どうして、と尋ねる。
受話器を持つ手に、力が入ってしまう。
「だって、会えるんだよ? 一年に一度でも」
ジョシュアは椅子に背を預ける。
椅子は冷たく、ぬくもりなどなかった。
いつも、一番傍に居て欲しい人は、遠く離れた場所に居た。
想いを掛けるほど、自分から離れていく。
やがて、本当に会えなくなる。
幼い間にそれを二度経験し、以来、俺はひとりぼっちだ。
現在は俺には勿体無いような友人達に囲まれている。
だけど、何処かで一線を引いている罪悪感があった。
失った時を恐れて、事前に予防線を張っているのかもしれない。
友人の相談には喜んで応じるけれど、その逆は殆どなかった。
自分の全てを晒せる人、そんな大切な人ができて、
もし、失ってしまったら。
「誰かを大切に想う程、その人に会えなくなる気がして、怖いんだ」
そう思うと、自分についての発言は消極的になっていった。
特にマイナスな感情は、吐露しようとは思わなかった。
口に出しても、自己満足するだけで、相手には負担かもしれない。
自分のせいで、相手を傷付けることは一番許せないことだった。
七夕の話を聞いて、思ったこと。
それを貴女に伝えることで、貴女を困らせないだろうか。
昨日からずっとそればかり考えて、気が付けば受話器を耳に当てていた。
我侭だ。
こんなこと口に出したって、相手を困らせるだけだ。
母が家を出て、ボランティア活動をすると言われた時だって言わなかった。
子供心にも何かせずに居られない母が痛々しく、黙って見送った。
あんなに小さな頃でさえ、母が居ない邸で一人我慢できた言葉なのに。
俺はいつのまにか鎧を纏っていたのかもしれない。
周囲を傷付けないようにと自分に言い訳しながら、
大切な人を『また失うこと』に恐怖していた。
受話器の向こうから、心配するように自分の名前を呼ばれた。
ずうっと聞いていたい声。
まだ会ったこともないのに。
この声は俺の鎧を少しずつ溶かしてくれる。
誰にも言えなかった本音が零れて来る。不思議な人だ。
貴女がもう一度、俺の名前を呼ぶ。
その柔らかな声に、俺の口はゆっくりと動いた。
「会いたいよ。一年に一度でも良い。貴女に会いたい」
fin
■ソクーロフの場合
-------------------
-------------------
聖アルフォンソ島 南西部。
まだ早朝と言える時間帯だった。
海岸沿いを一人歩いている男が居た。
名はスタニスラフ・ニコライエヴィッチ・ソクーロフと言う。
ロシア特有の名付けにより、当人の名前、父称、名字の順に並んでいる。
自らの名前を名乗る時、必ず父親の名前を呼ぶことになる。
それに抵抗を感じていたのはいつまでだったか。
今となっては、どうでも良いことと思えるが。
ああ、私は一生あの人間の子供なのだと思い知らされる瞬間でもあった。
ソクーロフは海の向こうにそびえる追憶の塔を見ていた。
アルフォンソ王が祖国に想いを馳せたと言われる場所。
海岸からあの塔を見ることは好きだった。
私には焦がれる祖国などないのだが。
幼い頃から、私は相手の思考を読み取る能力に長けていた。
そうして知ったことは山程あった。
医者である父と、自分が貴族出身であることだけが誇りの母。
彼等は己のことにしか興味のない人間だった。
私に対する興味が酷く薄いと、幼い私は知ってしまった。
彼等に好かれよう、彼等の望む息子であろう、と努めた時期もあった。
しかし、彼等は余りに自分しか見えていなかった。
私に何も望んでいなかった。それでは私の能力も使いようがない。
独り立ちできるようになった私は、
彼等から逃げるように、他国の大学院へと進んだ。
一人になった時の、充足感と虚無感は説明し難いものだった。
彼等にとって、自分は所有物のひとつ。
その上、もう興味のないモノでしかなかった。
それでも父と同じ医師の道へ進んだのは、
少しでも父を理解しようとした結果だったのかもしれない。
他人のことは解るくせに、自分のこととなると、
途端に靄(もや)が掛かったようで、視界が不鮮明になる。
自分の心理状態について考えようという気は起こらなかった。
常に興味のベクトルは、自分へではなく他人に向いていた。
まるで、彼等の仕打ちに反発でもしているかのように。
本当に私が知りたかったのは他人の心理だったのだろうか。
背後を取られた。
そう思った瞬間に、誰かの手に視界を遮られた。
身構えた瞬間、間抜けな声が聞こえてきた。
「だ~~れだっ?」
しかも大人の声だ。
呆れるほど実に楽しそうな口調だった。
「…何をしている、アイヴィー」
目隠しを解かれる。
大人は全開の笑顔で、口の端には煙草を銜えていた。
「あったり~。さっすがソクーロフ博士」
「貴様ほど幼稚な大人は、この島に一人しか居ないからな」
「幼稚じゃないぞ! 俺、煙草吸えるもん」
「関係ない。お前のような奴からは没収だ」
幼稚な口から煙草を抜き取り、自分の口に銜えた。
盗られた方は抗議するどころか、ただ驚くばかりだった。
「ソ、ソク…」
「間抜け面だぞ、いつも以上に」
ゆらゆらと白い煙が昇る。
「こんなイケメン捕まえて、何言ってんだよ!」
「自分で言うところが間が抜けていると言うんだ」
「にゃーにをー!? せっかく朝メシ作ったのにあげないぞっ!」
「また焦げたフレンチトーストだろう、どうせ」
「…す、少しくらい焦げてた方が美味しいもん…」
「素直に『失敗しました』と言え」
「これがウマイって言ってくれる奴も居るんだぞ!」
「お前に気を遣っているのではないのか」
「あいつらはウソ吐かないっ!」
アイヴィーの腕時計が光る。
複数の赤いランプが不法侵入者を捕捉していた。
出動要請だ。
紫煙を燻らす博士は、他人事とばかりに言い放つ。
「さっさと行け。仮にも責任者だろう、貴様は」
反論の余地がない正論だが、そのまま引き下がれるほど大人じゃなかった。
ソクーロフにびしっと指を差す。
「煙草、後で返せよ! 煙草ドロボー!」
「たかが1本で意地汚い奴だな。どうやって返して欲しいんだ?」
「ど、どうって…フツーでイイんですけど…」
「では考えておこう。ほら、早く行け」
尚も何かきゃんきゃん言いながら遠ざかっていく。
あれに辺境の島の平和が委ねられているのかと思うと時折心配になる。
それに年月を重ねるごとに言動が幼くなっている。
悪い傾向とは思えない、寧ろ。
ソクーロフはコテージへと踵を返す。
潮風に煽られた、長い髪を押さえる。
「さて。私は焦げた朝食にするか」
fin
まだ早朝と言える時間帯だった。
海岸沿いを一人歩いている男が居た。
名はスタニスラフ・ニコライエヴィッチ・ソクーロフと言う。
ロシア特有の名付けにより、当人の名前、父称、名字の順に並んでいる。
自らの名前を名乗る時、必ず父親の名前を呼ぶことになる。
それに抵抗を感じていたのはいつまでだったか。
今となっては、どうでも良いことと思えるが。
ああ、私は一生あの人間の子供なのだと思い知らされる瞬間でもあった。
ソクーロフは海の向こうにそびえる追憶の塔を見ていた。
アルフォンソ王が祖国に想いを馳せたと言われる場所。
海岸からあの塔を見ることは好きだった。
私には焦がれる祖国などないのだが。
幼い頃から、私は相手の思考を読み取る能力に長けていた。
そうして知ったことは山程あった。
医者である父と、自分が貴族出身であることだけが誇りの母。
彼等は己のことにしか興味のない人間だった。
私に対する興味が酷く薄いと、幼い私は知ってしまった。
彼等に好かれよう、彼等の望む息子であろう、と努めた時期もあった。
しかし、彼等は余りに自分しか見えていなかった。
私に何も望んでいなかった。それでは私の能力も使いようがない。
独り立ちできるようになった私は、
彼等から逃げるように、他国の大学院へと進んだ。
一人になった時の、充足感と虚無感は説明し難いものだった。
彼等にとって、自分は所有物のひとつ。
その上、もう興味のないモノでしかなかった。
それでも父と同じ医師の道へ進んだのは、
少しでも父を理解しようとした結果だったのかもしれない。
他人のことは解るくせに、自分のこととなると、
途端に靄(もや)が掛かったようで、視界が不鮮明になる。
自分の心理状態について考えようという気は起こらなかった。
常に興味のベクトルは、自分へではなく他人に向いていた。
まるで、彼等の仕打ちに反発でもしているかのように。
本当に私が知りたかったのは他人の心理だったのだろうか。
背後を取られた。
そう思った瞬間に、誰かの手に視界を遮られた。
身構えた瞬間、間抜けな声が聞こえてきた。
「だ~~れだっ?」
しかも大人の声だ。
呆れるほど実に楽しそうな口調だった。
「…何をしている、アイヴィー」
目隠しを解かれる。
大人は全開の笑顔で、口の端には煙草を銜えていた。
「あったり~。さっすがソクーロフ博士」
「貴様ほど幼稚な大人は、この島に一人しか居ないからな」
「幼稚じゃないぞ! 俺、煙草吸えるもん」
「関係ない。お前のような奴からは没収だ」
幼稚な口から煙草を抜き取り、自分の口に銜えた。
盗られた方は抗議するどころか、ただ驚くばかりだった。
「ソ、ソク…」
「間抜け面だぞ、いつも以上に」
ゆらゆらと白い煙が昇る。
「こんなイケメン捕まえて、何言ってんだよ!」
「自分で言うところが間が抜けていると言うんだ」
「にゃーにをー!? せっかく朝メシ作ったのにあげないぞっ!」
「また焦げたフレンチトーストだろう、どうせ」
「…す、少しくらい焦げてた方が美味しいもん…」
「素直に『失敗しました』と言え」
「これがウマイって言ってくれる奴も居るんだぞ!」
「お前に気を遣っているのではないのか」
「あいつらはウソ吐かないっ!」
アイヴィーの腕時計が光る。
複数の赤いランプが不法侵入者を捕捉していた。
出動要請だ。
紫煙を燻らす博士は、他人事とばかりに言い放つ。
「さっさと行け。仮にも責任者だろう、貴様は」
反論の余地がない正論だが、そのまま引き下がれるほど大人じゃなかった。
ソクーロフにびしっと指を差す。
「煙草、後で返せよ! 煙草ドロボー!」
「たかが1本で意地汚い奴だな。どうやって返して欲しいんだ?」
「ど、どうって…フツーでイイんですけど…」
「では考えておこう。ほら、早く行け」
尚も何かきゃんきゃん言いながら遠ざかっていく。
あれに辺境の島の平和が委ねられているのかと思うと時折心配になる。
それに年月を重ねるごとに言動が幼くなっている。
悪い傾向とは思えない、寧ろ。
ソクーロフはコテージへと踵を返す。
潮風に煽られた、長い髪を押さえる。
「さて。私は焦げた朝食にするか」
fin
■ミハイルの場合
■ゲームベース
-----------------
■ゲームベース
-----------------
聖アルフォンソ学院 情報処理室。
生徒達がインターネットを利用する場所。
13番目の個室では、PC画面にチェスボードが映っていた。
平面な市松模様に、白と黒の立体的な駒が配置されている。
モノクロな世界を見つめているのは金髪の小柄な生徒だった。
彼はネットチェスのゲーム中だった。
表情は真剣そのもので、寮生達には普段見せないような顔つきをしていた。
少年は酷く自分に自信のない子供だった。
冷たい家庭に育ち、幼い頃から自分の価値を見失っていた。
二人の兄は、父の前妻の子供だった。
上の兄は恐ろしく、下の兄からは「ミーシカ」と見下した卑称で呼ばれていた。
普通の家族であれば「ミーシャ」という愛称で呼ばれる筈だが、
何度も何度も卑称で呼ばれるうちに、
自分の名前は「ミーシカ」なのだと思えてきた。
ある日、近所に住むおじさんがチェスを教えてくれた。
ルールすら知らなかった子供はあっという間に強くなった。
少年がゲームで勝つと、おじさんは「すごいな、ミーシャ」と頭を撫でてくれた。
少しごつごつした、温かい手は、とても優しかった。
そんなふうに褒められたり、優しくして貰ったのは初めてで、
世の中にこんなに優しい人が居るんだ、と思った。
少年はおじさんに褒めて貰えるのが嬉しくて、どんどん強くなっていった。
そして少年は、たったひとつだけ、自信が持てるものを手に入れた。
自分はチェスだけは得意だと認識できるようになった。
13番目の個室では時折マウスをクリックする音しか聞こえなかった。
静かに、熱いゲームが進んでいく。
やがてマウスを持つ細い指が、自信に満ちた左クリックを放つ。
相手のキングが宙に浮かぶ。
画面には『CHECKMATE YOU WIN』と表示された。
画面下のチャットスペースに対戦相手からのメッセージが映る。
Blue Rose:参ったよ。流石だね、ローズバッド君。
金髪の少年は素早くキーを打つ。
Rose Bud:ううん。貴方も強かった。お相手ありがとうございました。
Blue Rose:どういたしまして。また僕と遊んでくれる?
Rose Bud:ほんと? 嬉しいな。
Blue Rose:では、来週のこの時間、また待っているね?
Rose Bud:うん。必ず来るよ。またね、ブルーローズさん。
金髪の少年は胸が温かくなるのを感じた。
とても強い人と知り会えたこと、また来週も会えること。
この世界の何処かに居る人と、秘密の約束をしたような気持ちになる。
少年はPCの電源を切って、嬉しそうに情報処理室を後にした。
その少し後に情報処理室から出て来た生徒が居た。
青い薔薇のような髪に、琥珀の瞳を持つ生徒だった。
ポケットに手を入れて、金髪の後姿を見つめている。
金髪の少年は擦れ違った他の生徒とぶつかった。
前方を見ていなかった相手が明らかに悪いのに、
金髪の少年はすぐに謝った。
その光景を見ている生徒は冷笑する。
あれが自分を打ち負かした最強最悪の対戦相手なのか。未だに信じ難い。
ポケットに手を入れたまま、ブルーローズは寮へと歩き出す。
「チェスボードの上では大胆に振舞えるのにね、ローズバッド君?」
fin
生徒達がインターネットを利用する場所。
13番目の個室では、PC画面にチェスボードが映っていた。
平面な市松模様に、白と黒の立体的な駒が配置されている。
モノクロな世界を見つめているのは金髪の小柄な生徒だった。
彼はネットチェスのゲーム中だった。
表情は真剣そのもので、寮生達には普段見せないような顔つきをしていた。
少年は酷く自分に自信のない子供だった。
冷たい家庭に育ち、幼い頃から自分の価値を見失っていた。
二人の兄は、父の前妻の子供だった。
上の兄は恐ろしく、下の兄からは「ミーシカ」と見下した卑称で呼ばれていた。
普通の家族であれば「ミーシャ」という愛称で呼ばれる筈だが、
何度も何度も卑称で呼ばれるうちに、
自分の名前は「ミーシカ」なのだと思えてきた。
ある日、近所に住むおじさんがチェスを教えてくれた。
ルールすら知らなかった子供はあっという間に強くなった。
少年がゲームで勝つと、おじさんは「すごいな、ミーシャ」と頭を撫でてくれた。
少しごつごつした、温かい手は、とても優しかった。
そんなふうに褒められたり、優しくして貰ったのは初めてで、
世の中にこんなに優しい人が居るんだ、と思った。
少年はおじさんに褒めて貰えるのが嬉しくて、どんどん強くなっていった。
そして少年は、たったひとつだけ、自信が持てるものを手に入れた。
自分はチェスだけは得意だと認識できるようになった。
13番目の個室では時折マウスをクリックする音しか聞こえなかった。
静かに、熱いゲームが進んでいく。
やがてマウスを持つ細い指が、自信に満ちた左クリックを放つ。
相手のキングが宙に浮かぶ。
画面には『CHECKMATE YOU WIN』と表示された。
画面下のチャットスペースに対戦相手からのメッセージが映る。
Blue Rose:参ったよ。流石だね、ローズバッド君。
金髪の少年は素早くキーを打つ。
Rose Bud:ううん。貴方も強かった。お相手ありがとうございました。
Blue Rose:どういたしまして。また僕と遊んでくれる?
Rose Bud:ほんと? 嬉しいな。
Blue Rose:では、来週のこの時間、また待っているね?
Rose Bud:うん。必ず来るよ。またね、ブルーローズさん。
金髪の少年は胸が温かくなるのを感じた。
とても強い人と知り会えたこと、また来週も会えること。
この世界の何処かに居る人と、秘密の約束をしたような気持ちになる。
少年はPCの電源を切って、嬉しそうに情報処理室を後にした。
その少し後に情報処理室から出て来た生徒が居た。
青い薔薇のような髪に、琥珀の瞳を持つ生徒だった。
ポケットに手を入れて、金髪の後姿を見つめている。
金髪の少年は擦れ違った他の生徒とぶつかった。
前方を見ていなかった相手が明らかに悪いのに、
金髪の少年はすぐに謝った。
その光景を見ている生徒は冷笑する。
あれが自分を打ち負かした最強最悪の対戦相手なのか。未だに信じ難い。
ポケットに手を入れたまま、ブルーローズは寮へと歩き出す。
「チェスボードの上では大胆に振舞えるのにね、ローズバッド君?」
fin
■アイヴィーの場合
■小説ベース
-------------------
■小説ベース
-------------------
聖アルフォンソ島 南西部。
太陽はもうじき沈もうとしていた。
海は端の方からその身をオレンジ色に変えていく。
海岸に程近い崖には海を見守るようにコテージが佇んでいた。
現在の家主は長い金髪の男。
島民は皆、彼をアイヴィーと呼んだ。
他の呼び方をする者は居なかった。
コテージの中ではラジオの音楽番組が流れている。
金髪の男は書斎に居た。
PCの前で自分の腕を枕にして眠っていた。
昨夜遅くに仕事で呼び出された為に睡眠不足だった。
片が付いたのは昼頃。家に戻り、うとうとしながら、
メールチェックをしていたら、そのまま眠ってしまった。
PC画面には『極秘』と書かれたメールが映っていた。
家主が午睡する書斎には西日が差し込み、
ラジオからは黒人男性の歌うブルースが流れていた。
死に別れた想い人への鎮魂歌。
失意に暮れて、後を追った哀れな男の歌だった。
切ないギターの弾き語りに混じって、
書斎から短い叫び声が上がった。
金髪の男は目を見開いて、荒い呼吸を繰り返した。
脳裡には悪夢の残像がちらつく。
今までに何度も見てきた、赤い夢。
それは幻想ではなく、実際にこの目に映ったもの。
現実とは思い難い、血塗られた地獄絵図。
――地獄を見てきた顔、だな。――
島に初めて来た時、迎えに来た運転手はこの顔をそう評した。
金髪の男は両手を広げてみる。
べったりとした赤い液体の感触も、生暖かいその温度も。
未だに、いつでも思い出すことができた。
辺境の島に来て六年にもなるというのに。
地獄絵図の先頭に居た頃、軍の方針に矛盾を感じていた。
人を守る為に人を殺める。
人を殺めたら人を守ったと言えるのだろうかと。
たったひとつ、守りたかったもの。
それさえ俺には守れなかった。
軍から出て、この孤島を守ることで償おうとしているのかもしれない。
この手が犯した、数え切れない程の罪を。
開いていた両の手は力なく縮まった。
空虚な手は灰皿から吸殻を取る。
こんな時の煙草は不味いと知っているのに。
もう片方の手はライターを掴んだ。
ラジオは明るいラテン音楽を流し始めた。
聞きたくない曲調だったが、ラジオは止めなかった。
その僅かな動作さえ億劫だった。
西日が顔に当たる。眩しい。
夕暮れの海を綺麗だと感じることもできなかった。
1階のガレージから物音。
螺旋階段を複数の足音が上がって来た。
家主の断りもなしに、この家に入って来るのは三人だけだった。
声変わりは終えているが、何処か幼さの残る声が飛んで来る。
「あちー、喉渇いたー! 俺、オレンジジュース!」
「僕にはレモンソーダをお願いしますね♪」
「あれ? アイヴィー、居ないの?」
金髪の男はPCの電源を落とし、いとも簡単にラジオを消した。
灰皿に煙草を押し付ける。
柔らかい灰は脆く崩れ、白と黒の粉になる。
書斎のドアを開けて、リビングへと出て行く。
「るせーな。俺んちはカフェじゃねーんだよ」
その口の端には笑みが浮かんでいた。
書斎に残された紫煙は、ゆっくりと消えていく。
ドア一枚挟んだリビングから、賑やかな声が飛び交う。
誰も居なくなった書斎にも、西日は温かく照らされた。
fin
太陽はもうじき沈もうとしていた。
海は端の方からその身をオレンジ色に変えていく。
海岸に程近い崖には海を見守るようにコテージが佇んでいた。
現在の家主は長い金髪の男。
島民は皆、彼をアイヴィーと呼んだ。
他の呼び方をする者は居なかった。
コテージの中ではラジオの音楽番組が流れている。
金髪の男は書斎に居た。
PCの前で自分の腕を枕にして眠っていた。
昨夜遅くに仕事で呼び出された為に睡眠不足だった。
片が付いたのは昼頃。家に戻り、うとうとしながら、
メールチェックをしていたら、そのまま眠ってしまった。
PC画面には『極秘』と書かれたメールが映っていた。
家主が午睡する書斎には西日が差し込み、
ラジオからは黒人男性の歌うブルースが流れていた。
死に別れた想い人への鎮魂歌。
失意に暮れて、後を追った哀れな男の歌だった。
切ないギターの弾き語りに混じって、
書斎から短い叫び声が上がった。
金髪の男は目を見開いて、荒い呼吸を繰り返した。
脳裡には悪夢の残像がちらつく。
今までに何度も見てきた、赤い夢。
それは幻想ではなく、実際にこの目に映ったもの。
現実とは思い難い、血塗られた地獄絵図。
――地獄を見てきた顔、だな。――
島に初めて来た時、迎えに来た運転手はこの顔をそう評した。
金髪の男は両手を広げてみる。
べったりとした赤い液体の感触も、生暖かいその温度も。
未だに、いつでも思い出すことができた。
辺境の島に来て六年にもなるというのに。
地獄絵図の先頭に居た頃、軍の方針に矛盾を感じていた。
人を守る為に人を殺める。
人を殺めたら人を守ったと言えるのだろうかと。
たったひとつ、守りたかったもの。
それさえ俺には守れなかった。
軍から出て、この孤島を守ることで償おうとしているのかもしれない。
この手が犯した、数え切れない程の罪を。
開いていた両の手は力なく縮まった。
空虚な手は灰皿から吸殻を取る。
こんな時の煙草は不味いと知っているのに。
もう片方の手はライターを掴んだ。
ラジオは明るいラテン音楽を流し始めた。
聞きたくない曲調だったが、ラジオは止めなかった。
その僅かな動作さえ億劫だった。
西日が顔に当たる。眩しい。
夕暮れの海を綺麗だと感じることもできなかった。
1階のガレージから物音。
螺旋階段を複数の足音が上がって来た。
家主の断りもなしに、この家に入って来るのは三人だけだった。
声変わりは終えているが、何処か幼さの残る声が飛んで来る。
「あちー、喉渇いたー! 俺、オレンジジュース!」
「僕にはレモンソーダをお願いしますね♪」
「あれ? アイヴィー、居ないの?」
金髪の男はPCの電源を落とし、いとも簡単にラジオを消した。
灰皿に煙草を押し付ける。
柔らかい灰は脆く崩れ、白と黒の粉になる。
書斎のドアを開けて、リビングへと出て行く。
「るせーな。俺んちはカフェじゃねーんだよ」
その口の端には笑みが浮かんでいた。
書斎に残された紫煙は、ゆっくりと消えていく。
ドア一枚挟んだリビングから、賑やかな声が飛び交う。
誰も居なくなった書斎にも、西日は温かく照らされた。
fin
■ディーノ×アンリ
■アンリの日記より
-------------------
■アンリの日記より
-------------------
アンリは商談でシチリアにある取引先の会社に居た。
会議室に通される前、心の内では青い炎が灯っていた。
今日の交渉ひとつで億単位の金が動く。慎重に進めなくてはならない。
僕が優位になるように。
どんなことがあっても相手を頷かせる。
その為に今まで手を尽くしてきたんだ。
そして望んだ本番。今まさに会議中、の筈なのだが。
「この前の休日に、母が最高のパスタが作ってくれましてね?」
目の前に居る取引相手は、四十過ぎの男だ。
濃紺のスーツは年相応で趣味は悪くない。
頭も良い人物だと、思うのだけれど。
「パスタソースは、うちの畑にある採れたての熟したトマトで」
母親自慢は、かれこれ20分も続いていた。
会議が始まった途端にこれで、まだ本題に微塵も入っていない。
相手に見えないテーブルの下では、膝の上で指をこつこつ鳴らしていた。
イタリアーノには何を措いても家族が第一、
仕事は二の次だという暢気な考え方が蔓延している。
本来であれば稼ぎ時の休日に店が休みを取っていることがある。
家族が大切だと思っていたい人間は勝手に思っていればいい。
だが、仕事と私事は弁えるべきだ、せめて会議の時は。
「ぜひ貴方にも我が家のマンマパスタを味わって貰いたいですよ」
いい加減にして貰いたい。
僕はパスタ講義を聞くために学院を休んで、
イタリアの離島に足を運んでいるのではない。
会議の時間も大分押している。会議が白熱するならまだしも、
ビジネスとは何の関係もない話で時間を取られるのはうんざりだ。
そろそろ終わらせないと後の予定が狂う。
しかし相手は重要な取引先だ。機嫌を損ねるわけにはいかない。
アンリは腕時計を見やる。
丁重に時間がないことを伝え、本題の話を始めた。
気疲れした会議を終えて、会社の外へ出る。
夏のイタリアは異常に暑い。
室内から一歩出ただけでうだる様な熱気に晒される。
僕の前に一台の派手な車が止まっている。
ボディーガードを任せているマンゾーニの車だ。
幾つも車を持っているくせに、真っ赤な車で来るなんて、
僕への嫌がらせとしか思えない。
運転手は下っ端のマフィア、後部座席には次期ボスが居た。
ディーノ・マンゾーニ。ウェーブのある長い黒髪に暑苦しい顎鬚。
白い半袖のポロシャツ、襟には金糸で刺繍されている。
イタリア製の高級車から、次期ボスが出て来た。
僕の為に業とらしく後部座席のドアを開ける。
夏の太陽を受けて、黒いサングラスが光った。
「おかえり、お姫様?」
僕は仕方なく後部座席に座った。その後を追うようにディーノが乗る。
車内は冷房が利いていて涼しかった。
だが、僕の首に、暑く、重い片腕が回された。
馴れ馴れしくて不快だが、注意すると余計面倒なことになるので放っておいた。
「ん? どうした、機嫌が悪いな?」
「ねえ。イタリアーノって何故皆、家族の話ばかりするの?」
「当たり前だろうが、そのくらい」
「だけど会議中だよ? 20分も母親が作ったパスタの話を聞かされたんだ」
「俺なら1時間は話せるぜ?」
「…何を競っているの」
息を吐いたアンリに、マフィアは空いている腕を肘掛に付く。
「だが、今日の交渉、成立したんだろう?」
「まあね。これで上手くいかなかったら、君に彼を殴って貰うよ」
マフィアが笑う。そして、僕を馬鹿にしたように言った。
「そいつが家族の話をした時点で成立することは決まってたのさ」
「出鱈目を言わないで。そんなこと解るわけないでしょう」
「解ってないな、お姫様は。余程、親しみを感じていなければ、
いくらイタリアーノだって、会議中に家族の話はしないものだぜ?」
「…それ、本当?」
「ああ。今度は家に来いとか誘われなかったか?」
確かに誘われた。今度会う時は我が家においで下さい、
君にもマンマのパスタを食べて欲しい、と。
だが、それはビジネス上の刹那の遊びに過ぎない。
「そんなもの、社交辞令でしょう」
「んな社交辞令は言わねーよ、イタリアーノは」
「イタリアの男は嘘を吐くのが上手いと聞くけれど?」
「ファミリーだと信用している奴には吐かないさ」
「どうだか」
マフィアは可笑しそうに口許を歪めて、サングラスを外した。
「まあ、うちのマンマパスタには敵わないだろうがな。なんたって」
「ディーノ。君まで話さなくていいよ」
「イタリアーノと仲良くなりたいんなら、お前が慣れろよ」
「君なんかと仲良くなりたくない」
「良い目だ。そそるぜ?」
マフィアの口内に赤い舌先が見えた。
「俺達のビジネスだってお前の方から誘って来たんだろうが…今みたいに」
fin
会議室に通される前、心の内では青い炎が灯っていた。
今日の交渉ひとつで億単位の金が動く。慎重に進めなくてはならない。
僕が優位になるように。
どんなことがあっても相手を頷かせる。
その為に今まで手を尽くしてきたんだ。
そして望んだ本番。今まさに会議中、の筈なのだが。
「この前の休日に、母が最高のパスタが作ってくれましてね?」
目の前に居る取引相手は、四十過ぎの男だ。
濃紺のスーツは年相応で趣味は悪くない。
頭も良い人物だと、思うのだけれど。
「パスタソースは、うちの畑にある採れたての熟したトマトで」
母親自慢は、かれこれ20分も続いていた。
会議が始まった途端にこれで、まだ本題に微塵も入っていない。
相手に見えないテーブルの下では、膝の上で指をこつこつ鳴らしていた。
イタリアーノには何を措いても家族が第一、
仕事は二の次だという暢気な考え方が蔓延している。
本来であれば稼ぎ時の休日に店が休みを取っていることがある。
家族が大切だと思っていたい人間は勝手に思っていればいい。
だが、仕事と私事は弁えるべきだ、せめて会議の時は。
「ぜひ貴方にも我が家のマンマパスタを味わって貰いたいですよ」
いい加減にして貰いたい。
僕はパスタ講義を聞くために学院を休んで、
イタリアの離島に足を運んでいるのではない。
会議の時間も大分押している。会議が白熱するならまだしも、
ビジネスとは何の関係もない話で時間を取られるのはうんざりだ。
そろそろ終わらせないと後の予定が狂う。
しかし相手は重要な取引先だ。機嫌を損ねるわけにはいかない。
アンリは腕時計を見やる。
丁重に時間がないことを伝え、本題の話を始めた。
気疲れした会議を終えて、会社の外へ出る。
夏のイタリアは異常に暑い。
室内から一歩出ただけでうだる様な熱気に晒される。
僕の前に一台の派手な車が止まっている。
ボディーガードを任せているマンゾーニの車だ。
幾つも車を持っているくせに、真っ赤な車で来るなんて、
僕への嫌がらせとしか思えない。
運転手は下っ端のマフィア、後部座席には次期ボスが居た。
ディーノ・マンゾーニ。ウェーブのある長い黒髪に暑苦しい顎鬚。
白い半袖のポロシャツ、襟には金糸で刺繍されている。
イタリア製の高級車から、次期ボスが出て来た。
僕の為に業とらしく後部座席のドアを開ける。
夏の太陽を受けて、黒いサングラスが光った。
「おかえり、お姫様?」
僕は仕方なく後部座席に座った。その後を追うようにディーノが乗る。
車内は冷房が利いていて涼しかった。
だが、僕の首に、暑く、重い片腕が回された。
馴れ馴れしくて不快だが、注意すると余計面倒なことになるので放っておいた。
「ん? どうした、機嫌が悪いな?」
「ねえ。イタリアーノって何故皆、家族の話ばかりするの?」
「当たり前だろうが、そのくらい」
「だけど会議中だよ? 20分も母親が作ったパスタの話を聞かされたんだ」
「俺なら1時間は話せるぜ?」
「…何を競っているの」
息を吐いたアンリに、マフィアは空いている腕を肘掛に付く。
「だが、今日の交渉、成立したんだろう?」
「まあね。これで上手くいかなかったら、君に彼を殴って貰うよ」
マフィアが笑う。そして、僕を馬鹿にしたように言った。
「そいつが家族の話をした時点で成立することは決まってたのさ」
「出鱈目を言わないで。そんなこと解るわけないでしょう」
「解ってないな、お姫様は。余程、親しみを感じていなければ、
いくらイタリアーノだって、会議中に家族の話はしないものだぜ?」
「…それ、本当?」
「ああ。今度は家に来いとか誘われなかったか?」
確かに誘われた。今度会う時は我が家においで下さい、
君にもマンマのパスタを食べて欲しい、と。
だが、それはビジネス上の刹那の遊びに過ぎない。
「そんなもの、社交辞令でしょう」
「んな社交辞令は言わねーよ、イタリアーノは」
「イタリアの男は嘘を吐くのが上手いと聞くけれど?」
「ファミリーだと信用している奴には吐かないさ」
「どうだか」
マフィアは可笑しそうに口許を歪めて、サングラスを外した。
「まあ、うちのマンマパスタには敵わないだろうがな。なんたって」
「ディーノ。君まで話さなくていいよ」
「イタリアーノと仲良くなりたいんなら、お前が慣れろよ」
「君なんかと仲良くなりたくない」
「良い目だ。そそるぜ?」
マフィアの口内に赤い舌先が見えた。
「俺達のビジネスだってお前の方から誘って来たんだろうが…今みたいに」
fin
■レッドの場合
■小説、ゲームベース
---------------------
■小説、ゲームベース
---------------------
聖アルフォンソ学院 ヴィスコンティ・スタジオ。
レッドの祖父で映画監督の巨匠ヴィットーリオ・ヴィスコンティが、
在学中に映画の勉強をした場所。映画に必要なものは何でも揃っている。
レッドは一人で編集ブースに居た。
ミキサー卓やテレビモニター、PCなどの機材に囲まれた部屋だ。
此処で番組の編集作業をしていた。
レッドは大きなモニターを見つめている。
画面に映っているのは、この前あったテオの卒業パーティ。
この様子をアルフォンソ島限定で生放送した。
評判は最高に良かった。
特に島民の皆から「放送してくれてありがとう」と言われた。
何よりテオにも喜んで貰えて、俺も嬉しかった。
番組を編集したものをDVDに焼いて、テオに送ってやろうと思った。
人気者の最後の勇姿だから、他にも欲しがる奴は居るだろうし。
テレビモニターには、テオの姿。
皆に向けたスピーチの後、俺がテオを小突いている。
テオの言葉がちょっとカッコ良過ぎて、
ぼうっとしてしまった俺が照れ臭かったからだ。
続いて、俺達デッド・プリンスのライブの様子が流れた。
テオに聞かせる最後の歌だから、俺は全力で歌った。
カメラの中に居る自分。
ドラマや映画の撮影をしている時も、
よくこうしてモニターチェックをしていた。
役者を休業して、こんな孤島に来ても、俺はこんなことをしてる。
ローカル放送番組を企画制作し、ライブハウスでは熱唱する。
自分が楽しみ、人を楽しませるエンターテイメントな世界。
世界中に注目されるハリウッドでも、
世界から隔絶する聖アルフォンソ島でも。
俺のやっていることは変わらない。
初出演、初主役の子役時代からずっと。
子役の枠から抜け出せなくて、行き詰ってた時もバンドをやっていた。
その時に知り合った兄貴の友人が相談に乗ってくれた。
ブライアン・シュミット。
――やってみろよ、レッド。俺が保証する。
お前ならサイコーの海賊になれるって――
あいつが居たから、俺は『キャプテン・ライアン』の海賊役もできたんだ。
一緒に映画を撮る約束もしていた。
なのに、ブライアンは。
人はこんなにあっけなく死ぬのか。
あんな感情を味わったのは生まれて初めてだった。
初めての撮影現場に母親が連れ添ってくれなかった時も、
役の台詞が上手く言えなくて父親に泣かされた時も、
必ずクリアする、俺は次に進めると言い聞かせてきた。
だけど。俺がどんなに足掻いても。
お前に会うことは、もう二度と出来ない。
それまではどんな逆境に遭っても、俺に出来ることはあったのに。
俺はお前の為に何も出来なかった。
どんなことをしても、どうにもならないことが、あった。
喪失感、無力感というものを俺は初めて知った。
それから暫く何もできない日が続いた。
好きなサーフィンにも行けないし、歌うこともできない。
俺の心まで死んじまったみたいだった。
俺をドン底から引き揚げたのは、映画『アルフォンソ王』だった。
あいつの代わりに、俺が何か作らなくちゃいけない。
そして思い出したのが、
ブライアンと一緒に見たこの作品だった。
じーさんが撮った幻の作品。フィルムは焼失し、15分しか残っていない。
俺がアルフォンソ王をやる。
そう、じーさんに打ち明けたら、聖アルフォンソ学院で学んで来いと言われた。
だから今、俺は此処に居る。
面白い奴等ばっかりで学院生活は楽しい。
だけど、お前を失ったことには変わりない。
番組の編集作業をしてた筈なのに。
またブライアンのことを考えてる。
天才だ逸材だと賞賛されて、俺はスゴイ人間なのだと驕っていた時もあった。
だけど、こんなにも弱い自分が居た。
何年経っても、お前を失ったことは悔しくて、つらい。
どうして俺を置いていった。
お前が監督、俺が主演。
最高の作品にするんじゃなかったのかよ。
映画スタジオには、お前と一緒に居る筈だった。
台本とカメラとにらめっこしながら、
監督と主演として、大喧嘩することもできない。
「ばかやろう…」
情けない。
声が震えてやがる。
広過ぎるテーブルに、一滴の水が落ちた。
fin
レッドの祖父で映画監督の巨匠ヴィットーリオ・ヴィスコンティが、
在学中に映画の勉強をした場所。映画に必要なものは何でも揃っている。
レッドは一人で編集ブースに居た。
ミキサー卓やテレビモニター、PCなどの機材に囲まれた部屋だ。
此処で番組の編集作業をしていた。
レッドは大きなモニターを見つめている。
画面に映っているのは、この前あったテオの卒業パーティ。
この様子をアルフォンソ島限定で生放送した。
評判は最高に良かった。
特に島民の皆から「放送してくれてありがとう」と言われた。
何よりテオにも喜んで貰えて、俺も嬉しかった。
番組を編集したものをDVDに焼いて、テオに送ってやろうと思った。
人気者の最後の勇姿だから、他にも欲しがる奴は居るだろうし。
テレビモニターには、テオの姿。
皆に向けたスピーチの後、俺がテオを小突いている。
テオの言葉がちょっとカッコ良過ぎて、
ぼうっとしてしまった俺が照れ臭かったからだ。
続いて、俺達デッド・プリンスのライブの様子が流れた。
テオに聞かせる最後の歌だから、俺は全力で歌った。
カメラの中に居る自分。
ドラマや映画の撮影をしている時も、
よくこうしてモニターチェックをしていた。
役者を休業して、こんな孤島に来ても、俺はこんなことをしてる。
ローカル放送番組を企画制作し、ライブハウスでは熱唱する。
自分が楽しみ、人を楽しませるエンターテイメントな世界。
世界中に注目されるハリウッドでも、
世界から隔絶する聖アルフォンソ島でも。
俺のやっていることは変わらない。
初出演、初主役の子役時代からずっと。
子役の枠から抜け出せなくて、行き詰ってた時もバンドをやっていた。
その時に知り合った兄貴の友人が相談に乗ってくれた。
ブライアン・シュミット。
――やってみろよ、レッド。俺が保証する。
お前ならサイコーの海賊になれるって――
あいつが居たから、俺は『キャプテン・ライアン』の海賊役もできたんだ。
一緒に映画を撮る約束もしていた。
なのに、ブライアンは。
人はこんなにあっけなく死ぬのか。
あんな感情を味わったのは生まれて初めてだった。
初めての撮影現場に母親が連れ添ってくれなかった時も、
役の台詞が上手く言えなくて父親に泣かされた時も、
必ずクリアする、俺は次に進めると言い聞かせてきた。
だけど。俺がどんなに足掻いても。
お前に会うことは、もう二度と出来ない。
それまではどんな逆境に遭っても、俺に出来ることはあったのに。
俺はお前の為に何も出来なかった。
どんなことをしても、どうにもならないことが、あった。
喪失感、無力感というものを俺は初めて知った。
それから暫く何もできない日が続いた。
好きなサーフィンにも行けないし、歌うこともできない。
俺の心まで死んじまったみたいだった。
俺をドン底から引き揚げたのは、映画『アルフォンソ王』だった。
あいつの代わりに、俺が何か作らなくちゃいけない。
そして思い出したのが、
ブライアンと一緒に見たこの作品だった。
じーさんが撮った幻の作品。フィルムは焼失し、15分しか残っていない。
俺がアルフォンソ王をやる。
そう、じーさんに打ち明けたら、聖アルフォンソ学院で学んで来いと言われた。
だから今、俺は此処に居る。
面白い奴等ばっかりで学院生活は楽しい。
だけど、お前を失ったことには変わりない。
番組の編集作業をしてた筈なのに。
またブライアンのことを考えてる。
天才だ逸材だと賞賛されて、俺はスゴイ人間なのだと驕っていた時もあった。
だけど、こんなにも弱い自分が居た。
何年経っても、お前を失ったことは悔しくて、つらい。
どうして俺を置いていった。
お前が監督、俺が主演。
最高の作品にするんじゃなかったのかよ。
映画スタジオには、お前と一緒に居る筈だった。
台本とカメラとにらめっこしながら、
監督と主演として、大喧嘩することもできない。
「ばかやろう…」
情けない。
声が震えてやがる。
広過ぎるテーブルに、一滴の水が落ちた。
fin
■アンリの場合
---------------
---------------
聖アルフォンソ学院 図書館。
アンリは席に着いて、一冊の古書を読んでいた。
学院が秘蔵していた、サン・ジェルマン伯爵が直筆したという書物だ。
200年程前のもので、紙は色褪せ、かなり痛んでいる。
しかし、伯爵が書いた文字はちゃんと残っていた。
優雅な文字。
字体に人柄が現れているような気がする。
伯爵の文字を、そうっと指でなぞる。
伯爵が書いた本。
貴方が生きていた証。
それに実際に触れることは、タロットを眺めるのと同じ、
もしくは、それ以上に心を落ち着かせるものだった。
アンリは自分の瞼に触れる。
この瞳。
常人のそれには映らないものを映す。
まがまがしいと父には蔑まれたけれど。
これは伯爵と同じ瞳。
伯爵が書いた本。
貴方が生きていた証は、
僕の存在を肯定してくれる気がした。
図書館に一人の生徒が入ってきた。
遠くて、顔立ちまでは見えないが、誰だか知れた。
やっぱり、見える。
僕は伯爵の瞳を持っている。
この瞳のおかげで、初めて会った時も、君が、君だと解った。
僕に気付いた彼は、微笑んでこちらに歩を進めた。
聖アルフォンソ学院の生徒代表殿だ。
「やあ。アンリも来ていたのか」
「うん」
ジョシュアはアンリの視線が自分の額に向いていることに気付く。
アンリの琥珀の瞳だけに映る月桂樹の王冠を見ているのだろう。
普通に話していても、時々この場所をちらと確認している時がある。
その程度ならジョシュアも何も言わないのだが、
こんなふうに、まじまじと見られると、こちらは少し居た堪れない。
「アンリ、そんなに見つめないでくれないか」
「どうしていけないの?」
アンリは意に介さず、額を見つめたままだ。
「そんなに額を凝視されると、なんだか照れてしまうし」
「僕は、額を見ているわけじゃない」
これほど輝かしい王冠なのに、何故本人にも見えないのだろう。
アンリにとっては王冠の存在を感じていないジョシュアの方が不思議だった。
尤もジョシュアが自分のことで見えていないのは、王冠だけではないが。
きらきらと輝く透明な光。
誰のものでもない、君だけの光だ。
ずっと其処にあるのに、
埃を被ることも、錆び付くこともない。
段々輝きが増している。
見ていると、浄化されてしまいそうなほど。
尊く、透き通っている。
手で触れることはできないけれど。
確かに、在る。
僕の傍に。
誰にも証明することのできない。
僕だけに見える、僕だけの光。
それも、悪くはない。
「どうしたんだい、アンリ?」
急に微笑したアンリに、ジョシュアは不思議そうに尋ねた。
アンリは掴めないと解っているのに、王冠に手を伸ばす。
手は王冠を擦り抜けて、彼の前髪に触れた。
「…アンリ?」
「今日も綺麗だね、君の王冠」
fin
アンリは席に着いて、一冊の古書を読んでいた。
学院が秘蔵していた、サン・ジェルマン伯爵が直筆したという書物だ。
200年程前のもので、紙は色褪せ、かなり痛んでいる。
しかし、伯爵が書いた文字はちゃんと残っていた。
優雅な文字。
字体に人柄が現れているような気がする。
伯爵の文字を、そうっと指でなぞる。
伯爵が書いた本。
貴方が生きていた証。
それに実際に触れることは、タロットを眺めるのと同じ、
もしくは、それ以上に心を落ち着かせるものだった。
アンリは自分の瞼に触れる。
この瞳。
常人のそれには映らないものを映す。
まがまがしいと父には蔑まれたけれど。
これは伯爵と同じ瞳。
伯爵が書いた本。
貴方が生きていた証は、
僕の存在を肯定してくれる気がした。
図書館に一人の生徒が入ってきた。
遠くて、顔立ちまでは見えないが、誰だか知れた。
やっぱり、見える。
僕は伯爵の瞳を持っている。
この瞳のおかげで、初めて会った時も、君が、君だと解った。
僕に気付いた彼は、微笑んでこちらに歩を進めた。
聖アルフォンソ学院の生徒代表殿だ。
「やあ。アンリも来ていたのか」
「うん」
ジョシュアはアンリの視線が自分の額に向いていることに気付く。
アンリの琥珀の瞳だけに映る月桂樹の王冠を見ているのだろう。
普通に話していても、時々この場所をちらと確認している時がある。
その程度ならジョシュアも何も言わないのだが、
こんなふうに、まじまじと見られると、こちらは少し居た堪れない。
「アンリ、そんなに見つめないでくれないか」
「どうしていけないの?」
アンリは意に介さず、額を見つめたままだ。
「そんなに額を凝視されると、なんだか照れてしまうし」
「僕は、額を見ているわけじゃない」
これほど輝かしい王冠なのに、何故本人にも見えないのだろう。
アンリにとっては王冠の存在を感じていないジョシュアの方が不思議だった。
尤もジョシュアが自分のことで見えていないのは、王冠だけではないが。
きらきらと輝く透明な光。
誰のものでもない、君だけの光だ。
ずっと其処にあるのに、
埃を被ることも、錆び付くこともない。
段々輝きが増している。
見ていると、浄化されてしまいそうなほど。
尊く、透き通っている。
手で触れることはできないけれど。
確かに、在る。
僕の傍に。
誰にも証明することのできない。
僕だけに見える、僕だけの光。
それも、悪くはない。
「どうしたんだい、アンリ?」
急に微笑したアンリに、ジョシュアは不思議そうに尋ねた。
アンリは掴めないと解っているのに、王冠に手を伸ばす。
手は王冠を擦り抜けて、彼の前髪に触れた。
「…アンリ?」
「今日も綺麗だね、君の王冠」
fin
アイヴィーの家。早朝の寝室。
眼鏡を掛けていないハルヤが静かな寝息を立てている。
シルヴァンがその寝顔に忍び寄る。
もう暫くこのまま見ていたいが、もう起きて貰わないと、
最後のイベントが失敗に終わってしまう。
タイムキーパーとしての任務を果たすべく、ハルヤの肩を揺する。
部屋の反対側でまだ眠っている、
レッドとユウタを起こさぬように、ハルヤの耳元で囁いた。
「…ハルヤ、ハルヤ、起きて下さい?」
「ううん…」
「ハルヤ? 起きないと、おはようのキ」
「…おはよう。シルヴァン」
「なんで起きちゃうんですかー」
「そりゃ起きるよ…」
「んー。じゃ、時間もありませんし、キッチンに行きましょうか?」
ウーティス寮。
アンリは名を呼ばれて、ベッドの中で目を覚ました。
部屋の明るさから朝らしいと解る。
まだ重い瞼を開けると、朝にも関わらず爽やかな笑顔が見えた。
身支度が終わり、制服まで着ている生徒代表だった。
ベッドの傍で身を屈めている。
「アンリ。朝だよ?」
「ん…」
「おはよう。アンリ」
「起こさなくて、いいのに…」
身動ぎして、髪がアンリの顔にぱさりと掛かる。
それすらも払おうとしない。
反応の鈍いアンリを見て、生徒代表の笑顔は更に優しくなる。
「相変わらず寝起きが悪いね、アンリは」
「当たり前、でしょう…」
まだ擦れている声で、小さく呟かれた。
「二人で朝食にしよう?」
「要らない…」
「駄目だよ、アンリ。起きて?」
肩に置かれた手を払うように、アンリは背を向けた。
「嫌…眠い…」
「…困ったな」
あたたかくそう言うと、ジョシュアはベッドに腰を下ろした。
アイヴィーの家 寝室。
ユウタが目を覚ます。お腹にレッドの足がある。
「んー。レッドー。おもいよー」
どんっと降ろすとレッドが起きた。
「イテッ!」
「レッドの足、俺のお腹に乗ってたよ」
「あ? マジで? 悪ぃ悪ぃ」
「レッドのせいかな…あんなヘンな夢見たの…」
「ヘンな夢?」
「うん。たぶん夢、だと思うんだけど…昨日の夜ね、ア、アイヴィーと…」
ドアが開いた。長い髪を一つに結わえたシルヴァンだ。
「あ。もう起きてたんですね。おはようございます、レッド、ユウタ」
レッドが「おっす」と片手を挙げる。
昨夜はユウタとレッドが先に寝室に引き上げた。
シルヴァン達はリビングに残った。
睡眠時間はこちらの方が長い筈だが、シルヴァンは既に着替えを済ませている。
「シルヴァン、早いな、起きんの。もしかして寝てないのか?」
「いえ。大丈夫ですよ。2時間は寝てますから」
「2時間? お前、何やってたの?」
「ああ、いえ。別に…」
空笑いしたシルヴァンは、ふとユウタを見る。
自分が現れてから、ユウタは目も合わせていない。
二人の会話にも入らずに、顔を上げない。
レッドに無理強いされて酒を飲まされたから、具合が悪いのかもしれない。
そう思ったシルヴァンが、声を掛ける。
「おや。ユウタ? 頭でも痛いんですか?」
「あっ、ううん。ななな、何でもない…よ、シルヴァン」
思い切り挙動不審で、シルヴァンは首を傾げる。
「…そうですか? あ、今日の朝ごはん、ハルヤが作ってくれたんですよ」
「えっ。ハルヤが?」
「行こうぜ、ユウタ!」
「う、うん…」
ユウタはシルヴァンを避けるように、レッドの後ろに付いていった。
リビングに到着すると、ユウタは懐かしい朝食の匂いを感じた。
テーブルには、純和風の朝食が並んでいる。
焼魚、卵焼き、漬物、ご飯にお味噌汁。
「すっごい! これ、ハルヤが作ったの!?」
「あ、うん。美味しいかどうかわかんないけど」
「でも…こんなに日本の食べ物、どうしたの? 昨日は買ってないよね?」
昨日アイヴィーの家に乗り込む前、スーパーで食材を買ったが、
パスタやサラダなど洋食に使うものしか買っていなかった筈だ。
ましてやお米なんか買っていない。
ハルヤは微笑みながら、今回の打ち明け話をした。
「お米とお味噌は、俺の非常食みたいなもんで、
アイヴィーんちに置かせて貰ってるんだ。
漬物は、昨日ユウタが寝た後で俺とシルヴァンが作った浅漬けだよ。
ユウタに喜んで貰えるかなと思って。こっそり用意してたんだ」
ユウタを先に眠らせよう、と事前に計画されていた。
てっとり早くアルコールで、という話になり、
お酒はアイヴィーのを使うことにした。
「ユウタ、入学から一か月だし、最近元気なかったからさ。少しは元気出たかな?」
少し涙目になったユウタが、ハルヤに飛び付く。
「ありがとっ、ハルヤ!」
「良かった。でもね、ユウタ。これは俺のアイディアじゃないんだよ?」
ハルヤの胸で、ユウタが顔を上げる。
一年先輩のハルヤは、同じ日本国出身の後輩を心配していた。
和食が懐かしくなるのはよく解る。去年の自分がそうだった。
だから、この急なお泊まり会計画を聞かされた時も、
ちょっとめんどくさいけど協力しなきゃなと思った。
ユウタ以外は全員共犯者。
皆も元気のないユウタが気になっていたようで、ユウタの為ならと快諾した。
ハルヤは後輩の背を撫でながら、今回の首謀者を見やる。
「生魚以外にしろよ、って言われてね? だから朝ご飯は焼魚」
fin
眼鏡を掛けていないハルヤが静かな寝息を立てている。
シルヴァンがその寝顔に忍び寄る。
もう暫くこのまま見ていたいが、もう起きて貰わないと、
最後のイベントが失敗に終わってしまう。
タイムキーパーとしての任務を果たすべく、ハルヤの肩を揺する。
部屋の反対側でまだ眠っている、
レッドとユウタを起こさぬように、ハルヤの耳元で囁いた。
「…ハルヤ、ハルヤ、起きて下さい?」
「ううん…」
「ハルヤ? 起きないと、おはようのキ」
「…おはよう。シルヴァン」
「なんで起きちゃうんですかー」
「そりゃ起きるよ…」
「んー。じゃ、時間もありませんし、キッチンに行きましょうか?」
ウーティス寮。
アンリは名を呼ばれて、ベッドの中で目を覚ました。
部屋の明るさから朝らしいと解る。
まだ重い瞼を開けると、朝にも関わらず爽やかな笑顔が見えた。
身支度が終わり、制服まで着ている生徒代表だった。
ベッドの傍で身を屈めている。
「アンリ。朝だよ?」
「ん…」
「おはよう。アンリ」
「起こさなくて、いいのに…」
身動ぎして、髪がアンリの顔にぱさりと掛かる。
それすらも払おうとしない。
反応の鈍いアンリを見て、生徒代表の笑顔は更に優しくなる。
「相変わらず寝起きが悪いね、アンリは」
「当たり前、でしょう…」
まだ擦れている声で、小さく呟かれた。
「二人で朝食にしよう?」
「要らない…」
「駄目だよ、アンリ。起きて?」
肩に置かれた手を払うように、アンリは背を向けた。
「嫌…眠い…」
「…困ったな」
あたたかくそう言うと、ジョシュアはベッドに腰を下ろした。
アイヴィーの家 寝室。
ユウタが目を覚ます。お腹にレッドの足がある。
「んー。レッドー。おもいよー」
どんっと降ろすとレッドが起きた。
「イテッ!」
「レッドの足、俺のお腹に乗ってたよ」
「あ? マジで? 悪ぃ悪ぃ」
「レッドのせいかな…あんなヘンな夢見たの…」
「ヘンな夢?」
「うん。たぶん夢、だと思うんだけど…昨日の夜ね、ア、アイヴィーと…」
ドアが開いた。長い髪を一つに結わえたシルヴァンだ。
「あ。もう起きてたんですね。おはようございます、レッド、ユウタ」
レッドが「おっす」と片手を挙げる。
昨夜はユウタとレッドが先に寝室に引き上げた。
シルヴァン達はリビングに残った。
睡眠時間はこちらの方が長い筈だが、シルヴァンは既に着替えを済ませている。
「シルヴァン、早いな、起きんの。もしかして寝てないのか?」
「いえ。大丈夫ですよ。2時間は寝てますから」
「2時間? お前、何やってたの?」
「ああ、いえ。別に…」
空笑いしたシルヴァンは、ふとユウタを見る。
自分が現れてから、ユウタは目も合わせていない。
二人の会話にも入らずに、顔を上げない。
レッドに無理強いされて酒を飲まされたから、具合が悪いのかもしれない。
そう思ったシルヴァンが、声を掛ける。
「おや。ユウタ? 頭でも痛いんですか?」
「あっ、ううん。ななな、何でもない…よ、シルヴァン」
思い切り挙動不審で、シルヴァンは首を傾げる。
「…そうですか? あ、今日の朝ごはん、ハルヤが作ってくれたんですよ」
「えっ。ハルヤが?」
「行こうぜ、ユウタ!」
「う、うん…」
ユウタはシルヴァンを避けるように、レッドの後ろに付いていった。
リビングに到着すると、ユウタは懐かしい朝食の匂いを感じた。
テーブルには、純和風の朝食が並んでいる。
焼魚、卵焼き、漬物、ご飯にお味噌汁。
「すっごい! これ、ハルヤが作ったの!?」
「あ、うん。美味しいかどうかわかんないけど」
「でも…こんなに日本の食べ物、どうしたの? 昨日は買ってないよね?」
昨日アイヴィーの家に乗り込む前、スーパーで食材を買ったが、
パスタやサラダなど洋食に使うものしか買っていなかった筈だ。
ましてやお米なんか買っていない。
ハルヤは微笑みながら、今回の打ち明け話をした。
「お米とお味噌は、俺の非常食みたいなもんで、
アイヴィーんちに置かせて貰ってるんだ。
漬物は、昨日ユウタが寝た後で俺とシルヴァンが作った浅漬けだよ。
ユウタに喜んで貰えるかなと思って。こっそり用意してたんだ」
ユウタを先に眠らせよう、と事前に計画されていた。
てっとり早くアルコールで、という話になり、
お酒はアイヴィーのを使うことにした。
「ユウタ、入学から一か月だし、最近元気なかったからさ。少しは元気出たかな?」
少し涙目になったユウタが、ハルヤに飛び付く。
「ありがとっ、ハルヤ!」
「良かった。でもね、ユウタ。これは俺のアイディアじゃないんだよ?」
ハルヤの胸で、ユウタが顔を上げる。
一年先輩のハルヤは、同じ日本国出身の後輩を心配していた。
和食が懐かしくなるのはよく解る。去年の自分がそうだった。
だから、この急なお泊まり会計画を聞かされた時も、
ちょっとめんどくさいけど協力しなきゃなと思った。
ユウタ以外は全員共犯者。
皆も元気のないユウタが気になっていたようで、ユウタの為ならと快諾した。
ハルヤは後輩の背を撫でながら、今回の首謀者を見やる。
「生魚以外にしろよ、って言われてね? だから朝ご飯は焼魚」
fin
■ウーティス寮とアイヴィー
--------------------------
--------------------------
聖アルフォンソ島 南西の海岸。
アイヴィーの自宅に、元気いっぱいの王子達が到着した。
「アイヴィー! 泊まりに来てやったぜ!」
「お土産も持って来ましたー!」
レッドとシルヴァンを、苦笑しながら家主が出迎えた。
「はいはい、ようこそマージナルプリンスども。まーた突然来やがって」
「今回はちゃんとアポ取ったじゃないですか」
「さっきだろ。当日に『今から泊まりに行く』とか電話掛けてくるかよフツー」
ハルヤは楽しそうに笑う。
「いいじゃん。ねえ、アイヴィー。今日はね、新しい友達連れて来たんだよ?」
ハルヤの後ろから、小柄な少年が顔を出す。
ユウタはアイヴィーと目が合うと、ぴょこんと頭を下げた。
「こ、こんにちは…」
一か月前に聖アルフォンソ学院に送り届けた新入生だ。
学院の専属ドライバーはいつもと変わらず気さくに応じた。
「おっ。今日は新しいプリンスも来たのか。ガッコには慣れたかい、ユウタ?」
「うん。俺の名前、覚えててくれたんだ。ありがとう、アイヴィーさん」
レッドがユウタの首に腕を回す。
「『さん』なんか付けなくてイイって。なっ、アイヴィー?」
「お前が言うことかよ。俺の台詞だろ?」
ハルヤが、アイヴィーのワイシャツを引っ張る。
「ね。アイヴィー、おなかすいた」
「ハルヤ。着いた早々かよ」
「すぐに作れるように色々持ってきたんだ。これで作って?」
スーパーの紙袋を見せられる。
空腹に任せてたくさんの食材を買って来たようだ。
「ったく。用意周到な計画犯どもが」
口は悪態を吐きながらも、頭はこれで何が作れるかを考え始めていた。
ウーティス寮サロン。
出張先から帰ってきたアンリが、サロンに顔を出すと、
其処に居たのはジョシュアだけだった。
明日到着予定のアンリの顔を見て、
長年の友人はコーヒーカップを持ったまま、驚いた様子だった。
「アンリ、おかえり。早かったね」
「ああ。商談がスムーズに終わったから」
ジョシュアは、学院から一歩出るとその身に危険が降り掛かる友人を案じる。
「怪我は、ないかい?」
「見ての通りだよ」
「良かった」
そう言う笑顔は心からの安堵を示していて。
直視できずに、アンリは鞄とスーツのジャケットをソファに置く。
一人掛けの自分の席ではなく、ジョシュアの傍に座った。
寮に戻った時から感じていた違和感を、口に出す。
「今日は静かだね、この寮」
「皆なら今夜はアイヴィーの家に泊まるって。さっき四人で出掛けたんだ」
「君を置いて?」
「俺は明日早くに、生徒代表の仕事があるから、遠慮したんだよ」
「ふうん。今夜は僕と君だけなんだ」
「遊び相手が居なくてつまらない?」
「言ってないでしょ、そんなこと」
「そんな顔をしているよ?」
「ソクーロフみたいなこと言わないで」
機嫌を損ねた友人を見て、ジョシュアはカップを置いた。
「俺では務まらないかな? 遊び相手」
アンリは冷笑して、頬杖を突いた。
「何をして遊ぶつもり?」
ジョシュアも同じポーズを取る。
「さあ。どうしようか?」
「相手してあげても良いけどね、別に。僕を退屈させなければ」
微笑んだジョシュアは、すっと席を立った。
「じゃあ、俺の部屋に行こうか?」
「それって、此処ではできない遊びなの?」
「此処でも良いけれど、オモチャが俺の部屋にあるからね?」
アイヴィーの自宅。
リビングには賑やかな声が響き渡る。
ロングソファに座っているのはレッドとユウタだ。
レッドにほっぺたを両手で潰されているユウタが、かろうじて声を出す。
「れっどー。にゃにするんだおー」
噴き出したレッドは膝を叩いていた。
「ユウターお前、サイコー!」
「俺はサイコーじゃないよ、もー」
膨れた頬をレッドは片方掴んで横に伸ばす。
「はははっ! ユウタのほっぺたって、スゲー伸びるっ!」
「俺もお返ししちゃうよっ! ユウタダイビーング!」
ユウタがレッドの上に飛び掛かる。
キッチンではアイヴィーが苦笑混じりにパスタを茹でていた。
「ソファ、壊れそうだな…あいつら、いつもあんなに仲良いわけ?」
隣に居るシルヴァンもクスクスと笑っている。
「ええ。子犬みたいですよね、二人とも」
その隣に居るハルヤが、包丁を置く。
まな板の上には、正確に裁断されたきゅうりとトマトが整列していた。
「アイヴィー、サラダの野菜、切れたよ?」
「サンキュ。じゃあ、適当に盛り付けて、出して来てくれるか?」
「うん」
シルヴァンは手を合わせて、まな板の上を覗き込む。
「綺麗な切り方ですね! 今日もハルヤの包丁捌き、お見事でした!」
「別に大したことじゃないよ」
「おい、シルヴァン。お前見てるだけかよ。ココに居るなら、なんか手伝え」
「僕はハルヤを見るのに忙しいんです」
ウーティス寮。ジョシュアの部屋。
ジョシュアとアンリは二人で遊んでいた。
深紅の瞳は、すぐ傍にある琥珀の瞳を見つめている。
余りに穏やかで、受け止められない。
「僕の顔見て、そんなに面白いの?」
「いや。こうして、二人で夜を過ごすのは、久し振りだなと思って」
「それが?」
「良いね。たまには二人だけの夜も」
「そう」
「アンリは良いと思わない?」
吐息交じりに苦情を訴えた。
「余計なお喋りは良いから…早く…してよ」
「気が短いね、アンリは」
「早く抜いて」
「もう少し待って、アンリ」
「僕を焦らさないで」
「ん。解った。じゃ、いくよ?」
ジョシュアの指が、そうっと動く。
引き抜くと、アンリは眉を顰め、目を閉じた。
がらがらとタワーが倒れた。
二人の前に立っている積み木の塔。
ジョシュアが引き抜いた途端に、大きな音を立てて崩れた。
ブロックタワーから一本ずつ交代に抜いて、一番上に積み上げる。
倒してしまった人が負け、というイギリス発祥のゲーム。
三連勝したアンリは、くすりと笑う。
「また僕の勝ちだね?」
「うん。強いなあ、アンリは」
「君が弱いんだよ。ねえ、この遊び、そろそろ止めない?」
「うん。次は何がいい?」
「決まっているでしょ? 僕が勝ったのだから」
「え?」
「僕の言うことを聞いて貰うよ?」
アイヴィーの自宅。
大皿で山程作った料理は、四人の男子生徒に拠って次々に空になっていった。
夕食後、レッドに無理に酒を飲まされたユウタは、すぐに顔を真っ赤にした。
騒いでいたレッドも酔いが回って眠ってしまった。
シルヴァンは寝室を覗く。
家主のベッドはまだ空いている。
その下に雑魚寝している友人達が三人。
テーブルの上には綺麗に畳まれた眼鏡。
ハルヤは部屋の隅で毛布に包まって、静かに眠っている。
部屋の中央には堂々と足を広げて、眠っているレッド。
その足は、ユウタのお腹の上に乗っかっていた。
ユウタの寝顔は若干苦しそうだ。
シルヴァンは声を立てないように笑って、静かにドアを閉めた。
リビングに戻って来ると、ソファに居るアイヴィーの隣に座る。
「皆さん、よく眠っていました」
「あっそ」
「アイヴィーも見てきます? 可愛い寝顔でしたよ?」
「見ねえよ。わざわざ見なくても、大体解るし」
「おや。問題発言ですね? ご説明願えます?」
「ばーか」
アイヴィーが息を吐くと、ゆるりと紫煙が昇る。
灰皿の上で、煙草を振る。
白い灰が落ちた。
「アイヴィー。僕にも一本くれませんか?」
胸ポケットから箱とライターを出して、手渡す。
「ありがとうございます」
シルヴァンは流れるような手付きで、火を付けた。
俺のキツイ煙草を、美味そうに吸っていた。
暫く二人は黙って、煙草を楽しんでいた。
その静寂は苦ではなく、心地の良いものだった。
なんだか、眠くなってきた。
腹がいっぱいだからかもしれないが、今日の場合は少し違うような気がした。
「お前さんは寝なくて良いのか?」
「ええ。僕、ダメなんですよ、こういう楽しい夜は」
「ダメって?」
「眠れなくなっちゃうんです。眠ってしまうのが勿体無くって」
シルヴァンも俺と同じ気持ちらしい。
こいつは、楽しい、とプラスの感情をストレートに表現できる奴だ。
年を取る度に、なかなかできなくなることだ。
「アイヴィーは眠らなくて良いんですか?」
「寝ようかと思ったけど。お前にもう少し付き合ってやるよ」
「…ねえ。アイヴィー。今度は、僕、一人で来ても良いですか?」
「んなこと聞くなよ。ダメだって言ったって来るんだろーが」
「ハイ。じゃ、今日は素直に寝ることにします。
あ、僕達の寝込み、襲わないで下さいね?」
「誰が襲うか」
突然、アイヴィーの頭が引き寄せられて、ほっぺで「ちゅっ」と音がした。
シルヴァンはイタズラが成功した子供の笑顔になる。
「楽しい夜をありがとうございました。今のはお礼です」
「お礼になるかよ。てゆうか、襲ってんのお前じゃん」
「すみません、つい♪ おやすみなさい、アイヴィー」
長い髪を跳ねさせて、寝室へと引き上げて行った。
リビングに残った大人は、独りごちた。
「マージナルプリンスどもめ」
今日の煙草は美味い。
紫煙は揺らめきながら、溶けていった。
fin
アイヴィーの自宅に、元気いっぱいの王子達が到着した。
「アイヴィー! 泊まりに来てやったぜ!」
「お土産も持って来ましたー!」
レッドとシルヴァンを、苦笑しながら家主が出迎えた。
「はいはい、ようこそマージナルプリンスども。まーた突然来やがって」
「今回はちゃんとアポ取ったじゃないですか」
「さっきだろ。当日に『今から泊まりに行く』とか電話掛けてくるかよフツー」
ハルヤは楽しそうに笑う。
「いいじゃん。ねえ、アイヴィー。今日はね、新しい友達連れて来たんだよ?」
ハルヤの後ろから、小柄な少年が顔を出す。
ユウタはアイヴィーと目が合うと、ぴょこんと頭を下げた。
「こ、こんにちは…」
一か月前に聖アルフォンソ学院に送り届けた新入生だ。
学院の専属ドライバーはいつもと変わらず気さくに応じた。
「おっ。今日は新しいプリンスも来たのか。ガッコには慣れたかい、ユウタ?」
「うん。俺の名前、覚えててくれたんだ。ありがとう、アイヴィーさん」
レッドがユウタの首に腕を回す。
「『さん』なんか付けなくてイイって。なっ、アイヴィー?」
「お前が言うことかよ。俺の台詞だろ?」
ハルヤが、アイヴィーのワイシャツを引っ張る。
「ね。アイヴィー、おなかすいた」
「ハルヤ。着いた早々かよ」
「すぐに作れるように色々持ってきたんだ。これで作って?」
スーパーの紙袋を見せられる。
空腹に任せてたくさんの食材を買って来たようだ。
「ったく。用意周到な計画犯どもが」
口は悪態を吐きながらも、頭はこれで何が作れるかを考え始めていた。
ウーティス寮サロン。
出張先から帰ってきたアンリが、サロンに顔を出すと、
其処に居たのはジョシュアだけだった。
明日到着予定のアンリの顔を見て、
長年の友人はコーヒーカップを持ったまま、驚いた様子だった。
「アンリ、おかえり。早かったね」
「ああ。商談がスムーズに終わったから」
ジョシュアは、学院から一歩出るとその身に危険が降り掛かる友人を案じる。
「怪我は、ないかい?」
「見ての通りだよ」
「良かった」
そう言う笑顔は心からの安堵を示していて。
直視できずに、アンリは鞄とスーツのジャケットをソファに置く。
一人掛けの自分の席ではなく、ジョシュアの傍に座った。
寮に戻った時から感じていた違和感を、口に出す。
「今日は静かだね、この寮」
「皆なら今夜はアイヴィーの家に泊まるって。さっき四人で出掛けたんだ」
「君を置いて?」
「俺は明日早くに、生徒代表の仕事があるから、遠慮したんだよ」
「ふうん。今夜は僕と君だけなんだ」
「遊び相手が居なくてつまらない?」
「言ってないでしょ、そんなこと」
「そんな顔をしているよ?」
「ソクーロフみたいなこと言わないで」
機嫌を損ねた友人を見て、ジョシュアはカップを置いた。
「俺では務まらないかな? 遊び相手」
アンリは冷笑して、頬杖を突いた。
「何をして遊ぶつもり?」
ジョシュアも同じポーズを取る。
「さあ。どうしようか?」
「相手してあげても良いけどね、別に。僕を退屈させなければ」
微笑んだジョシュアは、すっと席を立った。
「じゃあ、俺の部屋に行こうか?」
「それって、此処ではできない遊びなの?」
「此処でも良いけれど、オモチャが俺の部屋にあるからね?」
アイヴィーの自宅。
リビングには賑やかな声が響き渡る。
ロングソファに座っているのはレッドとユウタだ。
レッドにほっぺたを両手で潰されているユウタが、かろうじて声を出す。
「れっどー。にゃにするんだおー」
噴き出したレッドは膝を叩いていた。
「ユウターお前、サイコー!」
「俺はサイコーじゃないよ、もー」
膨れた頬をレッドは片方掴んで横に伸ばす。
「はははっ! ユウタのほっぺたって、スゲー伸びるっ!」
「俺もお返ししちゃうよっ! ユウタダイビーング!」
ユウタがレッドの上に飛び掛かる。
キッチンではアイヴィーが苦笑混じりにパスタを茹でていた。
「ソファ、壊れそうだな…あいつら、いつもあんなに仲良いわけ?」
隣に居るシルヴァンもクスクスと笑っている。
「ええ。子犬みたいですよね、二人とも」
その隣に居るハルヤが、包丁を置く。
まな板の上には、正確に裁断されたきゅうりとトマトが整列していた。
「アイヴィー、サラダの野菜、切れたよ?」
「サンキュ。じゃあ、適当に盛り付けて、出して来てくれるか?」
「うん」
シルヴァンは手を合わせて、まな板の上を覗き込む。
「綺麗な切り方ですね! 今日もハルヤの包丁捌き、お見事でした!」
「別に大したことじゃないよ」
「おい、シルヴァン。お前見てるだけかよ。ココに居るなら、なんか手伝え」
「僕はハルヤを見るのに忙しいんです」
ウーティス寮。ジョシュアの部屋。
ジョシュアとアンリは二人で遊んでいた。
深紅の瞳は、すぐ傍にある琥珀の瞳を見つめている。
余りに穏やかで、受け止められない。
「僕の顔見て、そんなに面白いの?」
「いや。こうして、二人で夜を過ごすのは、久し振りだなと思って」
「それが?」
「良いね。たまには二人だけの夜も」
「そう」
「アンリは良いと思わない?」
吐息交じりに苦情を訴えた。
「余計なお喋りは良いから…早く…してよ」
「気が短いね、アンリは」
「早く抜いて」
「もう少し待って、アンリ」
「僕を焦らさないで」
「ん。解った。じゃ、いくよ?」
ジョシュアの指が、そうっと動く。
引き抜くと、アンリは眉を顰め、目を閉じた。
がらがらとタワーが倒れた。
二人の前に立っている積み木の塔。
ジョシュアが引き抜いた途端に、大きな音を立てて崩れた。
ブロックタワーから一本ずつ交代に抜いて、一番上に積み上げる。
倒してしまった人が負け、というイギリス発祥のゲーム。
三連勝したアンリは、くすりと笑う。
「また僕の勝ちだね?」
「うん。強いなあ、アンリは」
「君が弱いんだよ。ねえ、この遊び、そろそろ止めない?」
「うん。次は何がいい?」
「決まっているでしょ? 僕が勝ったのだから」
「え?」
「僕の言うことを聞いて貰うよ?」
アイヴィーの自宅。
大皿で山程作った料理は、四人の男子生徒に拠って次々に空になっていった。
夕食後、レッドに無理に酒を飲まされたユウタは、すぐに顔を真っ赤にした。
騒いでいたレッドも酔いが回って眠ってしまった。
シルヴァンは寝室を覗く。
家主のベッドはまだ空いている。
その下に雑魚寝している友人達が三人。
テーブルの上には綺麗に畳まれた眼鏡。
ハルヤは部屋の隅で毛布に包まって、静かに眠っている。
部屋の中央には堂々と足を広げて、眠っているレッド。
その足は、ユウタのお腹の上に乗っかっていた。
ユウタの寝顔は若干苦しそうだ。
シルヴァンは声を立てないように笑って、静かにドアを閉めた。
リビングに戻って来ると、ソファに居るアイヴィーの隣に座る。
「皆さん、よく眠っていました」
「あっそ」
「アイヴィーも見てきます? 可愛い寝顔でしたよ?」
「見ねえよ。わざわざ見なくても、大体解るし」
「おや。問題発言ですね? ご説明願えます?」
「ばーか」
アイヴィーが息を吐くと、ゆるりと紫煙が昇る。
灰皿の上で、煙草を振る。
白い灰が落ちた。
「アイヴィー。僕にも一本くれませんか?」
胸ポケットから箱とライターを出して、手渡す。
「ありがとうございます」
シルヴァンは流れるような手付きで、火を付けた。
俺のキツイ煙草を、美味そうに吸っていた。
暫く二人は黙って、煙草を楽しんでいた。
その静寂は苦ではなく、心地の良いものだった。
なんだか、眠くなってきた。
腹がいっぱいだからかもしれないが、今日の場合は少し違うような気がした。
「お前さんは寝なくて良いのか?」
「ええ。僕、ダメなんですよ、こういう楽しい夜は」
「ダメって?」
「眠れなくなっちゃうんです。眠ってしまうのが勿体無くって」
シルヴァンも俺と同じ気持ちらしい。
こいつは、楽しい、とプラスの感情をストレートに表現できる奴だ。
年を取る度に、なかなかできなくなることだ。
「アイヴィーは眠らなくて良いんですか?」
「寝ようかと思ったけど。お前にもう少し付き合ってやるよ」
「…ねえ。アイヴィー。今度は、僕、一人で来ても良いですか?」
「んなこと聞くなよ。ダメだって言ったって来るんだろーが」
「ハイ。じゃ、今日は素直に寝ることにします。
あ、僕達の寝込み、襲わないで下さいね?」
「誰が襲うか」
突然、アイヴィーの頭が引き寄せられて、ほっぺで「ちゅっ」と音がした。
シルヴァンはイタズラが成功した子供の笑顔になる。
「楽しい夜をありがとうございました。今のはお礼です」
「お礼になるかよ。てゆうか、襲ってんのお前じゃん」
「すみません、つい♪ おやすみなさい、アイヴィー」
長い髪を跳ねさせて、寝室へと引き上げて行った。
リビングに残った大人は、独りごちた。
「マージナルプリンスどもめ」
今日の煙草は美味い。
紫煙は揺らめきながら、溶けていった。
fin
■ジョシュア×アルセイデス
----------------------------
----------------------------
ウーティス寮サロン。
アンリが読書していると、騒がしい靴音が聞こえてきた。
アルフレッド・ヴィスコンティだ。
明るい短髪で、きょろきょろと辺りを見渡す。
「あれ。ジョシュアは?」
僕は次のページを捲る。薄い紙がペラッと音を立てた。
わざわざ僕が答える義理もない。
少し暇潰しになりそうだったから。
答えてあげることにした。
「彼女とデートに行ったけど」
「なーんだ、そうか……って、えー!?」
「煩いな」
レッドはバタバタと近付いて来た。
「マジでっ!? どんな子か知ってんのかよ!?」
僕はアイスティーに口付ける。
今日のリーフはレモングラスだ。
爽やかな柑橘系の苦味。悪くない。
「知っているよ。とても血筋の良い女性だね」
「美人なのか!?」
「ジョシュアに言わせるとね。まあ、目が大きくて、髪が綺麗なのは認めるけれど」
「マジかよー!」
「髪はジョシュアが梳いているからね」
「はああ!? てゆうか、なんでお前知ってんだよ!?」
「見たから」
「何見せ付けてんだよ、あいつ! お前、災難だったなー、アンリ」
とんっと肩に手を置かれる。僕に気安く触る人は少ない。
次のページを捲る。
「どうも」
興味津々の笑顔が、目の前に来る。
「なあ! 性格もいい子なのか?」
「ジョシュアには従順らしいけど。僕は彼女に嫌われている」
「なんで!?」
「知らないよ」
「どーせ、お前が彼女に冷たくしたんだろう?」
「してないよ、別に」
「なあなあっ! 彼女、何て名前?」
「アルセイデスだよ。ギリシア神話に登場する『森の精霊達』という意味だって」
「へえ。アルセイデスちゃんって言うのかー。名前も可愛いなっ!」
サロンの扉が開いて、噂していた男が現れた。
「うわっ! ジョシュア!?」
騒がしい大声に迎えられたジョシュアは、瞳を大きくしていた。
「…どうしたんだい、レッド?」
「い、いや…」
僕はジョシュアを見上げる。
「おかえり。彼女とのデート楽しかった?」
「ああ。気持ち良かったよ。今日は天気も良かったし」
レッドが怪訝そうな表情になる。
「…気持ち良かった?」
「うん。最高に。そうだ。今度、レッドも彼女に乗ってみるかい?」
「はああー!? お前、な、何勧めてんだよ!?」
「…いけなかった、かな?」
レッドはジョシュアの両肩を掴む。
正面切って、怒声を浴びせる。
「もっと彼女のこと大切にしろよ、ジョシュア!」
「レッドは乗らなくて良いのかい?」
「…お前がそんな奴だったなんて、見損なったぜっ!」
ジョシュアは困惑を隠せない。
「…レッド? どうして…」
「その胸に手を当てて聞いてみろ! ジョシュアの、ジョシュアのばかやろー!」
芝居染みた捨て台詞で、サロンから走り去って行った。
僕は次のページを捲る。
「…暑苦しいな。夏だと言うのに」
ジョシュアは困惑したまま、僕の傍に来た。
「アンリ…俺、何がいけなかったんだろう?」
「胸に手を当てて聞いてみれば?」
彼は言われた通りの動作をした。
目を閉じて、真剣に考え込んでいる。
「…全く。素直にやらないでよ」
「えっ?」
「まだ解らないの? あの単細胞は君の愛馬のこと、人間だと思い込んでるんだよ」
「…ああ、なんだ。そうだったのか。教えてくれてありがとう、アンリ。
俺、レッドに説明してくるよ。それじゃ」
ジョシュアがサロンを出て行った。
なんで僕がお礼を言われなくてはならないの。
叱り付ければいいのに。
「バカな人達」
僕は本を閉じる。
レモングラスのアイスティーを飲む。
冷たくて美味しい。
「退屈、しないな」
fin
アンリが読書していると、騒がしい靴音が聞こえてきた。
アルフレッド・ヴィスコンティだ。
明るい短髪で、きょろきょろと辺りを見渡す。
「あれ。ジョシュアは?」
僕は次のページを捲る。薄い紙がペラッと音を立てた。
わざわざ僕が答える義理もない。
少し暇潰しになりそうだったから。
答えてあげることにした。
「彼女とデートに行ったけど」
「なーんだ、そうか……って、えー!?」
「煩いな」
レッドはバタバタと近付いて来た。
「マジでっ!? どんな子か知ってんのかよ!?」
僕はアイスティーに口付ける。
今日のリーフはレモングラスだ。
爽やかな柑橘系の苦味。悪くない。
「知っているよ。とても血筋の良い女性だね」
「美人なのか!?」
「ジョシュアに言わせるとね。まあ、目が大きくて、髪が綺麗なのは認めるけれど」
「マジかよー!」
「髪はジョシュアが梳いているからね」
「はああ!? てゆうか、なんでお前知ってんだよ!?」
「見たから」
「何見せ付けてんだよ、あいつ! お前、災難だったなー、アンリ」
とんっと肩に手を置かれる。僕に気安く触る人は少ない。
次のページを捲る。
「どうも」
興味津々の笑顔が、目の前に来る。
「なあ! 性格もいい子なのか?」
「ジョシュアには従順らしいけど。僕は彼女に嫌われている」
「なんで!?」
「知らないよ」
「どーせ、お前が彼女に冷たくしたんだろう?」
「してないよ、別に」
「なあなあっ! 彼女、何て名前?」
「アルセイデスだよ。ギリシア神話に登場する『森の精霊達』という意味だって」
「へえ。アルセイデスちゃんって言うのかー。名前も可愛いなっ!」
サロンの扉が開いて、噂していた男が現れた。
「うわっ! ジョシュア!?」
騒がしい大声に迎えられたジョシュアは、瞳を大きくしていた。
「…どうしたんだい、レッド?」
「い、いや…」
僕はジョシュアを見上げる。
「おかえり。彼女とのデート楽しかった?」
「ああ。気持ち良かったよ。今日は天気も良かったし」
レッドが怪訝そうな表情になる。
「…気持ち良かった?」
「うん。最高に。そうだ。今度、レッドも彼女に乗ってみるかい?」
「はああー!? お前、な、何勧めてんだよ!?」
「…いけなかった、かな?」
レッドはジョシュアの両肩を掴む。
正面切って、怒声を浴びせる。
「もっと彼女のこと大切にしろよ、ジョシュア!」
「レッドは乗らなくて良いのかい?」
「…お前がそんな奴だったなんて、見損なったぜっ!」
ジョシュアは困惑を隠せない。
「…レッド? どうして…」
「その胸に手を当てて聞いてみろ! ジョシュアの、ジョシュアのばかやろー!」
芝居染みた捨て台詞で、サロンから走り去って行った。
僕は次のページを捲る。
「…暑苦しいな。夏だと言うのに」
ジョシュアは困惑したまま、僕の傍に来た。
「アンリ…俺、何がいけなかったんだろう?」
「胸に手を当てて聞いてみれば?」
彼は言われた通りの動作をした。
目を閉じて、真剣に考え込んでいる。
「…全く。素直にやらないでよ」
「えっ?」
「まだ解らないの? あの単細胞は君の愛馬のこと、人間だと思い込んでるんだよ」
「…ああ、なんだ。そうだったのか。教えてくれてありがとう、アンリ。
俺、レッドに説明してくるよ。それじゃ」
ジョシュアがサロンを出て行った。
なんで僕がお礼を言われなくてはならないの。
叱り付ければいいのに。
「バカな人達」
僕は本を閉じる。
レモングラスのアイスティーを飲む。
冷たくて美味しい。
「退屈、しないな」
fin
■シルヴァン×ハルヤ、ソクーロフ×アイヴィー前提
■06月17日のチャットログ小説版
■シルヴァン:シハル姉さん アイヴィー:呉羽
-------------------------------------------------
■06月17日のチャットログ小説版
■シルヴァン:シハル姉さん アイヴィー:呉羽
-------------------------------------------------
アイヴィーは自宅の窓辺に居た。
見えるのは闇色の海。
大きく開いた窓から、遠くで細波が聞こえる。
今はラジオを切っていた。
片手には受話器、もう片方には大分軽くなった缶ビール。
一口飲んだところで、囁かれた言葉に喉をを詰まらせる。
「バカッ・・・電話越しにそういうこと言うなって・・・」
相手は満足気に笑っている。その声でさえ身体に響く。
玄関から物音がした。時計を見ると、そろそろ日付も変わる時刻だった。
こんな時間に、堂々と訪れるものは限られていた。受話器の向こうに伝える。
「あ、悪ぃ。誰か来たみたいだ・・・ホントだってば。
あんたにはウソ吐けないんだからさ? じゃ、切るぜ?・・・ん。また」
受話器を固定電話に戻す。
駆けて来る足音は一人分しかしなかった。
リビングに顔を覗かせたのは、長身に長髪のシルヴァンだった。
「こんばんは、アイヴィー。遊びに来ちゃいました」
ゆったりとした黒のシャツにジーンズ。
部屋からそのまま、何も羽織らずに来たようなラフな格好だった。
こいつは最高学年で付き合いも長くて深い。
今年度の、いや、近年の間で最も親しいマージナルプリンスだ。
勝手に上がり込んで来るのはいつものことだが。
「よお。夜遊びプリンス。今日は一人で来たのか?」
「はい。レッドと・・・ハルヤはもう寝てしまいました」
「あいつ等、寝静まってからわざわざ俺んちに?」
「えぇ。ちょっと・・・話したいことがあって」
目が合うと、何処となく固い笑顔を見せた。
「アイヴィー。僕、喉が渇いちゃいました。何か、ないですか?お酒とか」
酒がなければ話せないことなのだろうか、と思いながらも普通に返す。
「ったく不良だなあ。何が飲みたいんだ?」
「何か、強いやつをお願いします♪」
「強いの、ねえ・・・」
この遊び慣れた不良王子は酒に強い。
ビールじゃ別に強くねえし、と辺りを見渡す。
戸棚に仕舞っていたボトルが目に入る。
「んじゃ、ウイスキーでいいか?」
「はい♪」
丸みがかったリンゴ型のボトルを戸棚から取る。
アルコール度数は40度と高いが、香りは甘い。
キッチンに行って、バーテンダーの真似事をする。
背の低いロックグラスに氷を縁まで入れる。
瓶から流れる琥珀の酒。
水やソーダで薄めない、オン・ザ・ロックス。強い酒をそのまま味わう飲み方だ。
普通のグラスにも氷を入れて、ミネラルウォーターを注ぐ。
こっちは強い酒のお口直し用。チェイサーと呼ばれる、ただの水だ。
琥珀と透明、二つのグラスを置く。
「ほれ。ちょっとキツめにしといたぜ」
「ありがとうございます♪」
「どーいたしまして」
シルヴァンが飲んでいる間に、PCの傍にあるラジオを軽く付ける。
沈黙が気にならないように、というオトナの配慮。
・・・って前、オトナの人が言ってたから。
流れて来たのは緩やかなボサノヴァ。
リラックスできそうな曲調でありがたかった。
俺はまだ途中の缶ビールを飲むことにした。度数は6%と圧倒的に低い。
話したいことがある、と言われて、こちらが潰れるわけにはいかない。
こいつは、マージナルプリンスどもの中でも相当特殊な身分だ。
ゆっくり話すには美味い酒と肴があれば上出来だ。
そう言えばと、冷蔵庫から生チョコを持ってくる。
これは貰い物。ウイスキーに合うって言われてたやつ。
自分では絶対手を出さないような大層な箱に、四角いチョコが綺麗に整列している。
柔らかく溶けるような触感がする高級品。
後は俺の食べ残しのナッツとチーズをテーブルに置く。
ビールのつまみは、ネズミの好物と同じだった。
ロングソファに居るシルヴァンの隣に着く。
「んで、話って?」
普段、陽気なシルヴァンがグラスを両手で支える。
琥珀の液体を見ながら、神妙な声で話し始めた。
「・・・アイヴィーは、誰かを好きになったこと、ありますか?」
俺は缶とキスをする前に止まった。
切り出された言葉にも驚いたが、ハイになるとマシンガンのように喋る奴にしては、
随分と遠回しな話し方だった。俺の恋物語が本題ではない筈だ。
「まあ。お前さんよりは長く生きてるからな」
二倍近く生きてる。
俺なんかがよく生き長らえたものだ。
「そうなんですか?ちょっと意外です・・・」
「意外で悪かったな」
俺は皿からクルミを取る。蝶々型のナッツはウマイ。
シルヴァンは生チョコを食べていた。表情を見る限り、そっちもウマイようだ。
「どんな方を好きになったんですか?」
先程囁かれた言葉まで思い出してしまった。
さっきまで電話をしていた相手だ。
「どんなって・・・ま、まあ、髪の長い人、かな」
「髪の長い人・・・。アイヴィーが好きになるくらいですから
美人な方なんでしょうね♪」
相手の顔を思い浮かべる。美人と言えばそうかもしれない。
長髪ですらりとした肢体、眼鏡と白衣が似合う人。
「まあ・・・美人っちゃあ美人、かな」
「アイヴィーの好きになった方、見てみたいです♪写真とかないんですか?」
写真に残す必要はないからな、と心の中だけで言う。
会おうと思えばいつでも会える。
車で行けば、メルキュール館なんてすぐそこだ。
もし会えなくなったら写真が必要になるだろうか、
・・・なんてことは今考えることではない。
「写真はねーな」
「そうなんですか。残念です。
・・・今も、その人のこと好きだったりするんですか?」
「って俺の話はいいんだよ。お前さんの話だろ?」
シルヴァンは次の生チョコに手を伸ばそうとして、止めた。
「・・・・・・僕の話は、やっぱりいいです」
「おいおい。余計気になんだろーが」
ラジオからボサノヴァが響いて聞こえる。
女性ボーカルのけだるげなアルト。
それ以上は急かさない。喋り始めるまで待つことにする。
俺はピスタチオに手を伸ばす。
クリーム色の殻を割ると、小気味の良い音がした。
お目見えした黄緑のナッツを食べる。
三個目のピスタチオを割った時、やっと口が開いた。
「・・・・・・・・・気に、なるんです。」
「気になるって・・・」
「一緒に居ても居なくても、気になってしまうんです」
重い口調だった。
まるで禁じられた罪を吐露するように。
「・・・好きなんです。あの人のことが」
あの人、で声の調子が変わった。
相手を余程大切に想っていると解る。優しい想いの他に、何か雑じっている。
もっと嬉しそうに報告すりゃあいいのに。なんでこんな複雑な顔してるんだ。
「ほう。そいつはめでたいことなんじゃねーのか?」
「でも!」
「な、何だよ。大声で・・・」
「僕のことなんて友達としか思ってないんですよ」
ちょっと拗ねたような言い方は、
19歳より子供染みていて、少し可笑しい。
「ふうん。じゃあ、今そいつとはお友達なんだ?」
「・・・えぇ」
「島に居るコなわけ?」
「・・・・・・それは、その・・・どうしても答えないとダメですか?」
「いんや。イヤなら、いいけど?」
シルヴァンは、ほっと息を吐く。
酒のせいで幾らか緊張が解けたらしい。落ち着いて素直に話した。
「最初は、友達でもいいと思っていたんです。
なのに、一緒に居れば居るほど、好きになってしまうんです・・・」
常より小さな声になっていた。19になるプリンスが、
少女のように、はにかむ様子は微笑ましいものだった。
俺はアーモンドを食べる。指先をぺろっと舐めた。
「へえ。お前さん、そのコに大分参ってんなー」
「・・・・・・・・はい」
シルヴァンは顔を真っ赤にしていた。珍しいことだ。
「今日は、いつもの威勢の良いお前さんらしくなくて面白いな。
顔赤くしちゃってさ、まるでハルヤみたいだぜ?」
「へ!?」
「ほんと、ハルヤみたい。今日のお前さん」
シャイなプリンスを見ているようだった。
日本のお国柄なのか知らないが、あの眼鏡の王子は恥ずかしがり屋だ。
友人のようだと言われて、シルヴァンは異常に照れている。
「そ、そんなことないです。ハルヤみたいだなんて・・・・」
「そういや、ハルヤには相談してないのか、このこと。お前等、仲良いのに」
「は、ハルヤの話題はやめませんか・・・?」
「え? あ、ああ」
「そ、そういえばアイヴィーの好きな人は誰なんですか?
今も近くに居たりするんですか?」
「俺の話に戻んのかよ・・・ま、まあ。近くには居る、かな・・・」
「この島の人ですか?」
わくわくと俺の返事を待っている。先までのシャイな様子が欠片もない。
嬉々としたシルヴァンが俺に詰め寄る。
「そうだけど・・・」
「実は学院の関係者だったりとか♪」
「・・・関係者っていうかなんていうか・・・」
いつも其処に居るっていうか、
敷地内の宿舎に住んじゃってるっていうか。
「当たりですか!?わあ~♪片想いですか?それとも両想いですか?」
答えるには苦笑が必要だった。
「それは・・・わかんねえな。俺、遊ばれてるだけかもしんねえし」
「アイヴィーが遊ばれる・・・」
シルヴァンは少し首を傾けた後、俺の手を強く握った。
「大丈夫です!僕、応援しますね♪」
手の平は温かく、酔いが回ってきたようだった。
「そりゃ、どーも」
「僕、応援しますから・・・アイヴィーも、応援・・・してくれますか?」
「ああ」
嬉しそうな笑顔を見せて、再びグラスに口付ける。
オン・ザ・ロックスは氷が溶けて、味が薄まって来た筈だ。
味の変化に気付いているのか、こちらからは判断できない。
グラスを置くと、自嘲的に少し笑った。
「・・・怖くて、告白もできないんですけどね」
「意外だねー。お前さんは、ガンガン押してくタイプだと思ってたけど・・・」
「・・・・・・やっぱり、怖いですよ」
「怖い、ね」
おそらく、想いを告げることで相手を失う危険性を案じているのだろう。
自分がどんなに好意を寄せていても、向こうもそうとは限らない。
こいつなら有無を言わさずに連れ去りそうな気もするが。
弱気な一面を見せられて、なんだか不思議だった。
「アイヴィーは怖くなったりしないんですか?」
「怖いっつーか・・・怖いヒトだからな、あいつ・・・」
今までどれだけコワイ想いをさせられて来たか。
考えただけで身震いする。
「怖いヒト・・・」
シルヴァンは唇に指を当てて、視線を泳がせる。
その動きが、はたと止まった。
「僕、ちょっと予想ついちゃいました・・・」
一瞬、俺の反応が遅れる。
「え・・・」
「・・・学院の人・・・ですよね」
「い、いや・・・学院の人っつーか・・・」
「彼・・・ですよね。僕らもお世話になっている・・・」
「ちょ、ちょっと名前は出さないで、お前の胸に閉まっておけ!
お、俺、怒られそうだから・・・」
「はい♪わかりました♪ なんだか、可愛いですね、アイヴィーってば」
「く、くそ・・・なんでいつのまに俺の話になってんだ・・・」
「ふふ。アイヴィー、話してくれた御礼です♪」
ちゅっ、と頬で音が鳴った。
「だあっ! この酔っ払いがあっ!」
悪びれる様子なく、クスクスと笑っている。
俺は額を手で押さえる。
「ったく・・・忘れてたぜ・・・こいつ酔ったらこーなるんだった・・・」
酒に強く、泥酔することは滅多にないのだが、
アルコールが入ると、キス魔になることが度々あった。
寮の奴等も被害に合ったと聞いた気がする。
上機嫌な酔っ払いが身を寄せて来た。
「ふふふ♪アイヴィーってば本当に可愛いです♪」
「大人に可愛いとか言ってんじゃねえよ・・・」
酔っ払いを押し戻して、缶ビールに口付けた。
もう何も出て来なかった。
酔っ払いから擦り抜けて、冷蔵庫に向かう。
リビングからはゴキゲンな声が飛んで来る。
「じゃあ何て言うんですー?」
「い、言わなくていーから・・・」
冷蔵庫には明るい金色の瓶があった。
瓶は透明で、中の金色のビールが透けて見える。
ラベルの中央に王冠が記されているメキシコのビールだ。
行き付けのバーでは、8分の1に切ったライムを瓶の口に差して出てくる。
ライムを搾って飲むとウマイからだ。野菜室を開けてみたがライムはなかった。
「アイヴィーの可愛らしさを他の言葉で・・・う~ん、
あ、じゃあ・・・Il est beau. フランス語で言ってみました♪」
栓抜きで蓋を開ける。軽快な音がして、炭酸が弾けた。
瓶を持って、シルヴァンの隣へ戻る。
「イレ・ボウって何よ?」
「フランス語で可愛い、という意味です♪」
「へえ。フランス語ではイレ・ボウって言うのか・・・って、イミ同じじゃん!」
「あは♪いいじゃないですかー」
「ったく。ゴキゲンだなあ、この酔っ払いは・・・」
「アイヴィーがいろいろ話してくれたからですよー♪」
「お前が話があるってうちに来たのに、なんで俺がいろいろ話してんだか・・・」
「いいじゃないですか♪僕の話より、アイヴィーのお話の方が楽しいですし♪」
「俺は楽しくねーよ。お前、絶対言うなよ!」
「言いませんよー♪」
「俺の死活問題だからな・・・」
小刻みに震え出した両肘を抱える。
もし、あいつにバレたら。
笑顔だけは恐ろしく美しいまま・・・何をされるか解らない。
「あは♪本当に可愛いですね、アイヴィーは♪僕、好きですよ。可愛い人って♪」
「・・・ふうん。可愛い人が好きなんだ?」
「え!?」
シルヴァンは大きな声を出した後、俺を見て、言葉を繋いだ。
「アイヴィーのことは好きですよ♪」
「・・・俺に好きとか言わなくて良いんだよ・・・」
「なんでですかー?好きですよ♪アイヴィー」
「俺じゃないやつに言いたい言葉なんだろ?」
シルヴァンはソファの上で、体育座りをする。
膝に腕を乗せる。長い肢体は随分とコンパクトに見えた。
「・・・・・・本当は、言いたいです」
アイヴィーにだったら、こんなに簡単に言えるんですけどね」
腕に顔を乗せていた。黒いシャツの上に、白い肌。
華やかな顔立ちも、今は元気がない。
「アイヴィーを好きになれば良かったのかもしれませんね」
「ちょ、お前、なに言い出してんだよ・・・びっくりさせるな」
「びっくりさせちゃいましたー?あは♪すみません♪」
ぱっと明るくなる。表情がコロコロ変わる奴だ。
俺は大人のフリをしている子供だが、
こいつは子供のフリをしている大人なんだと思う。
普段はハイなバカだが、腕にはとんでもない枷を嵌められている。
こいつの秘密を聞かされた時は驚いた。それは寮生達にも言えないこと。
シルヴァンが俺を慕っているのは、
秘密を隠さずに済む存在だからかもしれなかった。
以前、一人でうちに遊びに来たシルヴァンが、
立てないくらい泥酔した時が一度だけあった。
入学して三ヶ月程経った頃だったと思う。
抱き着くわ、キスするわで、とても寮には戻せなかった。
酩酊したこいつは言った。とろんとした目で微笑みながら。
「家族の居場所も教えてくれないんですよ? イジワルですよね」
重い重い愚痴だった。
それは初めて零した愚痴だったんだろう。
それを聞かされてからかもしれない。
シルヴァンを可愛い弟のように思い始めたのは。
好きな人が居るけど怖くて好きだと言えない、その悩みも可愛いと思ってしまう。
俺の手は自然とシルヴァンの頭を軽く撫でていた。
「いつか言えるといいな、そのコに」
「そう、ですね。いつか・・・言えたらいいですね」
シルヴァンは腕に顔を乗せたまま、俺を見上げて笑った。
「僕、こうやって、あなたに頭を撫でてもらうのも好きですよ」
「俺を口説くな・・・」
「いいじゃないですかー♪」
明るい声は少しトーンが落ちた。
「本当に好きな人には、何も言えないんですから・・・」
ぺしっと頭を軽く叩く。
「・・・お前の方が可愛いっつの」
「ありがとうございます♪でも、僕の好きな人は、
僕よりももっとずっと可愛い人ですよ?」
「へえ。そいつは見てみたいもんだね。そんな可愛いコなら」
ラジオの曲が変わる。次はトルコ音楽。
遊牧民の民謡で、陽気でゆったりとした曲だった。
「見て、ますよ」
「え? 今、何か言った?」
「いえ、何にも♪」
「・・・ん? そーか?」
シルヴァンは自分の前にある二つのグラスを見つめていた。
ウイスキーか水か。
少し迷った後、その手は水を取った。
白い喉がこくこくと動く。
半分を一気に飲んで、グラスを置いた。
「・・・・・・・・・いえ、やっぱりフェアじゃないですよね。僕も話します」
「お?」
長い指は透明なグラスに触れている。
「・・・僕の好きな人にはアイヴィーも会ってますよ」
「え。マジで・・・」
「・・・はい」
「俺が会ってて、可愛いコ?」
「・・・えぇ」
「可愛いコって・・・保健室に割と世話になってたりする?」
「・・・・・・・・・」
「・・・金髪の?」
「金髪?」
「よく泣いてるコ・・・じゃない?」
「あ、もしかしてミハイルですか?あは♪確かに可愛いコですよね♪」
「ミハイル・・・じゃないのか。他の可愛いコ・・・」
「さあ、どうでしょう♪」
「お前の友達で、可愛いコで、保健室に来るコだろ・・・それって・・・」
ある眼鏡っ子の顔が思い浮かぶ。
「俺、もしかして、すげー知ってるやつじゃねーのか?」
シルヴァンと親しく、恥ずかしがりや。
食べ過ぎで、よく腹痛を起こして保健室に来る。
最もシャイなデッド・プリンス。
この家に勝手に上がれる三人のうちの一人。
他に思い付かない。
「俺んち来たり・・・してる・・・?」
シルヴァンは真っ赤に頬を染めていた。
友人のようだと言われて、異常に照れていた理由がやっと繋がる。
「カワイーな。お前」
「・・・・・・あ、アイヴィーの方が可愛いですよ」
「いや、お前の方がカワイーって♪」
「・・・・・・・・僕の、好きな人・・・わかったのなら、
言い出せない気持ちもわかりますよね?」
「ん・・・まあ、な。言っちゃってもイイんじゃねーかとも思うけどな」
「ダメです!」
突然の大声に俺が気圧される。
「・・・ダ、ダメなのか?」
「怖いんです・・・。ハルヤに嫌われるのが・・・」
「嫌われる、ねえ」
「はい・・・」
「あいつも、お前のこと、けっこースキだと思うけどなー」
「え・・・? で、でも、それは友達としての好き、なんじゃないですか?」
「俺がシルヴァンと夜遊びしたら、あいつ、なんか困ったかんじの顔するし・・・」
ハルヤが一人でうちに来た時があった。
俺が作ったメシを大量に平らげて。
グリーンティで一服していた時、ハルヤは言っていた。
「あのさ。この前、シルヴァンとお酒飲みに行ったんだって?」
「ん? ああ」
「シルヴァン、自慢してた。アイヴィーに・・・き、キスしてきたって・・・」
「そうそう。参ったぜ」
「あの・・・シルヴァン、いつも・・・するの?」
「酔った時はなー。あれ? お前、されたことないの?」
「あ、あるわけないよ。そんなこと」
あの時も顔を真っ赤にしてたけど。
もしかして、あいつ、俺に妬いてたのかも。
「ハルヤが・・・?本当ですか・・・?それ・・・・・・」
「ほんと」
「僕、期待してしまってもいいんでしょうか・・・?」
「ん。イイと思うぜ、俺は」
「僕、帰って告白してきます!!」
「はやっ!!!」
「・・・酔った勢いで、どうにかなると思うので♪」
「酔った勢いって・・お前」
「さすがにシラフでは僕も言えませんよ」
「よしっ! いってこい!」
「はい!ありがとうございます、アイヴィー♪」
ちゅっ、と柔らかいものが頬に押し付けられた。
俺は頬に手で触れる。
「・・・ったく・・・お前はまた・・」
陽気な笑顔で、軽く敬礼する。
「じゃ、行ってきます!相談に乗ってくれてありがとうございました♪」
バタバタと部屋を出て行った。
シルヴァンが居なくなったリビングには、がらんと広くなった。
ラジオで流れていたトルコ音楽は、丁度止まった。
次はジャズだ。クラシックギターが気持ちよく響いている。
俺は煙草に火を付けた。
ポッとオレンジの光が灯る。深く吸う。
「大丈夫かなあ・・・ハルヤが」
酔った勢いのシルヴァンに、体当たりされてそうだ。
まあ、上手く行かないってことはないだろう。
今夜はあいつ等にとって、記念すべき日になるかもしれない。
瓶ビールを取って、残りをラッパ飲みする。
「お先に祝杯、上げておいたぜ?」
時計を見ると、もう1時を回っていた。
そろそろ寝た方が良いかもしれない。
PCの傍にある固定電話が目に入る。
俺はラジオを止めた。
怒られるかな。
そう思いながらも手を伸ばしていた。
相手がすぐに出た。俺の声は明るくなった。
「よっ。・・・ああ、今帰ったとこ。シルヴァンだった」
皿からカシューナッツを取る。
白い三日月型の木の実。
人差し指と親指で摘んで、空に掲げてみる。
夜空にあるのと同じ形をしてた。
「・・・ん。お酒飲みながらオシャベリ・・・それはナイショ」
俺は窓辺に立つ。
夜の海も、朝の海も。
みんな好きだ。
受話器の向こうに伝える。
「あ、あのさ。今なら、いいよ?」
シルヴァンを見ていたら、すっかり当てられちまって。
この低い声が聞きたくなっていた。
耳に残る声は、とぼけやがった。
「・・・何って、さっきあんたが言ったんだろ」
耳にサディスティックな声が届く。
ダメだ。
やっぱり、この声には敵わない。
「・・・今から、行ってもイイ?」
fin
見えるのは闇色の海。
大きく開いた窓から、遠くで細波が聞こえる。
今はラジオを切っていた。
片手には受話器、もう片方には大分軽くなった缶ビール。
一口飲んだところで、囁かれた言葉に喉をを詰まらせる。
「バカッ・・・電話越しにそういうこと言うなって・・・」
相手は満足気に笑っている。その声でさえ身体に響く。
玄関から物音がした。時計を見ると、そろそろ日付も変わる時刻だった。
こんな時間に、堂々と訪れるものは限られていた。受話器の向こうに伝える。
「あ、悪ぃ。誰か来たみたいだ・・・ホントだってば。
あんたにはウソ吐けないんだからさ? じゃ、切るぜ?・・・ん。また」
受話器を固定電話に戻す。
駆けて来る足音は一人分しかしなかった。
リビングに顔を覗かせたのは、長身に長髪のシルヴァンだった。
「こんばんは、アイヴィー。遊びに来ちゃいました」
ゆったりとした黒のシャツにジーンズ。
部屋からそのまま、何も羽織らずに来たようなラフな格好だった。
こいつは最高学年で付き合いも長くて深い。
今年度の、いや、近年の間で最も親しいマージナルプリンスだ。
勝手に上がり込んで来るのはいつものことだが。
「よお。夜遊びプリンス。今日は一人で来たのか?」
「はい。レッドと・・・ハルヤはもう寝てしまいました」
「あいつ等、寝静まってからわざわざ俺んちに?」
「えぇ。ちょっと・・・話したいことがあって」
目が合うと、何処となく固い笑顔を見せた。
「アイヴィー。僕、喉が渇いちゃいました。何か、ないですか?お酒とか」
酒がなければ話せないことなのだろうか、と思いながらも普通に返す。
「ったく不良だなあ。何が飲みたいんだ?」
「何か、強いやつをお願いします♪」
「強いの、ねえ・・・」
この遊び慣れた不良王子は酒に強い。
ビールじゃ別に強くねえし、と辺りを見渡す。
戸棚に仕舞っていたボトルが目に入る。
「んじゃ、ウイスキーでいいか?」
「はい♪」
丸みがかったリンゴ型のボトルを戸棚から取る。
アルコール度数は40度と高いが、香りは甘い。
キッチンに行って、バーテンダーの真似事をする。
背の低いロックグラスに氷を縁まで入れる。
瓶から流れる琥珀の酒。
水やソーダで薄めない、オン・ザ・ロックス。強い酒をそのまま味わう飲み方だ。
普通のグラスにも氷を入れて、ミネラルウォーターを注ぐ。
こっちは強い酒のお口直し用。チェイサーと呼ばれる、ただの水だ。
琥珀と透明、二つのグラスを置く。
「ほれ。ちょっとキツめにしといたぜ」
「ありがとうございます♪」
「どーいたしまして」
シルヴァンが飲んでいる間に、PCの傍にあるラジオを軽く付ける。
沈黙が気にならないように、というオトナの配慮。
・・・って前、オトナの人が言ってたから。
流れて来たのは緩やかなボサノヴァ。
リラックスできそうな曲調でありがたかった。
俺はまだ途中の缶ビールを飲むことにした。度数は6%と圧倒的に低い。
話したいことがある、と言われて、こちらが潰れるわけにはいかない。
こいつは、マージナルプリンスどもの中でも相当特殊な身分だ。
ゆっくり話すには美味い酒と肴があれば上出来だ。
そう言えばと、冷蔵庫から生チョコを持ってくる。
これは貰い物。ウイスキーに合うって言われてたやつ。
自分では絶対手を出さないような大層な箱に、四角いチョコが綺麗に整列している。
柔らかく溶けるような触感がする高級品。
後は俺の食べ残しのナッツとチーズをテーブルに置く。
ビールのつまみは、ネズミの好物と同じだった。
ロングソファに居るシルヴァンの隣に着く。
「んで、話って?」
普段、陽気なシルヴァンがグラスを両手で支える。
琥珀の液体を見ながら、神妙な声で話し始めた。
「・・・アイヴィーは、誰かを好きになったこと、ありますか?」
俺は缶とキスをする前に止まった。
切り出された言葉にも驚いたが、ハイになるとマシンガンのように喋る奴にしては、
随分と遠回しな話し方だった。俺の恋物語が本題ではない筈だ。
「まあ。お前さんよりは長く生きてるからな」
二倍近く生きてる。
俺なんかがよく生き長らえたものだ。
「そうなんですか?ちょっと意外です・・・」
「意外で悪かったな」
俺は皿からクルミを取る。蝶々型のナッツはウマイ。
シルヴァンは生チョコを食べていた。表情を見る限り、そっちもウマイようだ。
「どんな方を好きになったんですか?」
先程囁かれた言葉まで思い出してしまった。
さっきまで電話をしていた相手だ。
「どんなって・・・ま、まあ、髪の長い人、かな」
「髪の長い人・・・。アイヴィーが好きになるくらいですから
美人な方なんでしょうね♪」
相手の顔を思い浮かべる。美人と言えばそうかもしれない。
長髪ですらりとした肢体、眼鏡と白衣が似合う人。
「まあ・・・美人っちゃあ美人、かな」
「アイヴィーの好きになった方、見てみたいです♪写真とかないんですか?」
写真に残す必要はないからな、と心の中だけで言う。
会おうと思えばいつでも会える。
車で行けば、メルキュール館なんてすぐそこだ。
もし会えなくなったら写真が必要になるだろうか、
・・・なんてことは今考えることではない。
「写真はねーな」
「そうなんですか。残念です。
・・・今も、その人のこと好きだったりするんですか?」
「って俺の話はいいんだよ。お前さんの話だろ?」
シルヴァンは次の生チョコに手を伸ばそうとして、止めた。
「・・・・・・僕の話は、やっぱりいいです」
「おいおい。余計気になんだろーが」
ラジオからボサノヴァが響いて聞こえる。
女性ボーカルのけだるげなアルト。
それ以上は急かさない。喋り始めるまで待つことにする。
俺はピスタチオに手を伸ばす。
クリーム色の殻を割ると、小気味の良い音がした。
お目見えした黄緑のナッツを食べる。
三個目のピスタチオを割った時、やっと口が開いた。
「・・・・・・・・・気に、なるんです。」
「気になるって・・・」
「一緒に居ても居なくても、気になってしまうんです」
重い口調だった。
まるで禁じられた罪を吐露するように。
「・・・好きなんです。あの人のことが」
あの人、で声の調子が変わった。
相手を余程大切に想っていると解る。優しい想いの他に、何か雑じっている。
もっと嬉しそうに報告すりゃあいいのに。なんでこんな複雑な顔してるんだ。
「ほう。そいつはめでたいことなんじゃねーのか?」
「でも!」
「な、何だよ。大声で・・・」
「僕のことなんて友達としか思ってないんですよ」
ちょっと拗ねたような言い方は、
19歳より子供染みていて、少し可笑しい。
「ふうん。じゃあ、今そいつとはお友達なんだ?」
「・・・えぇ」
「島に居るコなわけ?」
「・・・・・・それは、その・・・どうしても答えないとダメですか?」
「いんや。イヤなら、いいけど?」
シルヴァンは、ほっと息を吐く。
酒のせいで幾らか緊張が解けたらしい。落ち着いて素直に話した。
「最初は、友達でもいいと思っていたんです。
なのに、一緒に居れば居るほど、好きになってしまうんです・・・」
常より小さな声になっていた。19になるプリンスが、
少女のように、はにかむ様子は微笑ましいものだった。
俺はアーモンドを食べる。指先をぺろっと舐めた。
「へえ。お前さん、そのコに大分参ってんなー」
「・・・・・・・・はい」
シルヴァンは顔を真っ赤にしていた。珍しいことだ。
「今日は、いつもの威勢の良いお前さんらしくなくて面白いな。
顔赤くしちゃってさ、まるでハルヤみたいだぜ?」
「へ!?」
「ほんと、ハルヤみたい。今日のお前さん」
シャイなプリンスを見ているようだった。
日本のお国柄なのか知らないが、あの眼鏡の王子は恥ずかしがり屋だ。
友人のようだと言われて、シルヴァンは異常に照れている。
「そ、そんなことないです。ハルヤみたいだなんて・・・・」
「そういや、ハルヤには相談してないのか、このこと。お前等、仲良いのに」
「は、ハルヤの話題はやめませんか・・・?」
「え? あ、ああ」
「そ、そういえばアイヴィーの好きな人は誰なんですか?
今も近くに居たりするんですか?」
「俺の話に戻んのかよ・・・ま、まあ。近くには居る、かな・・・」
「この島の人ですか?」
わくわくと俺の返事を待っている。先までのシャイな様子が欠片もない。
嬉々としたシルヴァンが俺に詰め寄る。
「そうだけど・・・」
「実は学院の関係者だったりとか♪」
「・・・関係者っていうかなんていうか・・・」
いつも其処に居るっていうか、
敷地内の宿舎に住んじゃってるっていうか。
「当たりですか!?わあ~♪片想いですか?それとも両想いですか?」
答えるには苦笑が必要だった。
「それは・・・わかんねえな。俺、遊ばれてるだけかもしんねえし」
「アイヴィーが遊ばれる・・・」
シルヴァンは少し首を傾けた後、俺の手を強く握った。
「大丈夫です!僕、応援しますね♪」
手の平は温かく、酔いが回ってきたようだった。
「そりゃ、どーも」
「僕、応援しますから・・・アイヴィーも、応援・・・してくれますか?」
「ああ」
嬉しそうな笑顔を見せて、再びグラスに口付ける。
オン・ザ・ロックスは氷が溶けて、味が薄まって来た筈だ。
味の変化に気付いているのか、こちらからは判断できない。
グラスを置くと、自嘲的に少し笑った。
「・・・怖くて、告白もできないんですけどね」
「意外だねー。お前さんは、ガンガン押してくタイプだと思ってたけど・・・」
「・・・・・・やっぱり、怖いですよ」
「怖い、ね」
おそらく、想いを告げることで相手を失う危険性を案じているのだろう。
自分がどんなに好意を寄せていても、向こうもそうとは限らない。
こいつなら有無を言わさずに連れ去りそうな気もするが。
弱気な一面を見せられて、なんだか不思議だった。
「アイヴィーは怖くなったりしないんですか?」
「怖いっつーか・・・怖いヒトだからな、あいつ・・・」
今までどれだけコワイ想いをさせられて来たか。
考えただけで身震いする。
「怖いヒト・・・」
シルヴァンは唇に指を当てて、視線を泳がせる。
その動きが、はたと止まった。
「僕、ちょっと予想ついちゃいました・・・」
一瞬、俺の反応が遅れる。
「え・・・」
「・・・学院の人・・・ですよね」
「い、いや・・・学院の人っつーか・・・」
「彼・・・ですよね。僕らもお世話になっている・・・」
「ちょ、ちょっと名前は出さないで、お前の胸に閉まっておけ!
お、俺、怒られそうだから・・・」
「はい♪わかりました♪ なんだか、可愛いですね、アイヴィーってば」
「く、くそ・・・なんでいつのまに俺の話になってんだ・・・」
「ふふ。アイヴィー、話してくれた御礼です♪」
ちゅっ、と頬で音が鳴った。
「だあっ! この酔っ払いがあっ!」
悪びれる様子なく、クスクスと笑っている。
俺は額を手で押さえる。
「ったく・・・忘れてたぜ・・・こいつ酔ったらこーなるんだった・・・」
酒に強く、泥酔することは滅多にないのだが、
アルコールが入ると、キス魔になることが度々あった。
寮の奴等も被害に合ったと聞いた気がする。
上機嫌な酔っ払いが身を寄せて来た。
「ふふふ♪アイヴィーってば本当に可愛いです♪」
「大人に可愛いとか言ってんじゃねえよ・・・」
酔っ払いを押し戻して、缶ビールに口付けた。
もう何も出て来なかった。
酔っ払いから擦り抜けて、冷蔵庫に向かう。
リビングからはゴキゲンな声が飛んで来る。
「じゃあ何て言うんですー?」
「い、言わなくていーから・・・」
冷蔵庫には明るい金色の瓶があった。
瓶は透明で、中の金色のビールが透けて見える。
ラベルの中央に王冠が記されているメキシコのビールだ。
行き付けのバーでは、8分の1に切ったライムを瓶の口に差して出てくる。
ライムを搾って飲むとウマイからだ。野菜室を開けてみたがライムはなかった。
「アイヴィーの可愛らしさを他の言葉で・・・う~ん、
あ、じゃあ・・・Il est beau. フランス語で言ってみました♪」
栓抜きで蓋を開ける。軽快な音がして、炭酸が弾けた。
瓶を持って、シルヴァンの隣へ戻る。
「イレ・ボウって何よ?」
「フランス語で可愛い、という意味です♪」
「へえ。フランス語ではイレ・ボウって言うのか・・・って、イミ同じじゃん!」
「あは♪いいじゃないですかー」
「ったく。ゴキゲンだなあ、この酔っ払いは・・・」
「アイヴィーがいろいろ話してくれたからですよー♪」
「お前が話があるってうちに来たのに、なんで俺がいろいろ話してんだか・・・」
「いいじゃないですか♪僕の話より、アイヴィーのお話の方が楽しいですし♪」
「俺は楽しくねーよ。お前、絶対言うなよ!」
「言いませんよー♪」
「俺の死活問題だからな・・・」
小刻みに震え出した両肘を抱える。
もし、あいつにバレたら。
笑顔だけは恐ろしく美しいまま・・・何をされるか解らない。
「あは♪本当に可愛いですね、アイヴィーは♪僕、好きですよ。可愛い人って♪」
「・・・ふうん。可愛い人が好きなんだ?」
「え!?」
シルヴァンは大きな声を出した後、俺を見て、言葉を繋いだ。
「アイヴィーのことは好きですよ♪」
「・・・俺に好きとか言わなくて良いんだよ・・・」
「なんでですかー?好きですよ♪アイヴィー」
「俺じゃないやつに言いたい言葉なんだろ?」
シルヴァンはソファの上で、体育座りをする。
膝に腕を乗せる。長い肢体は随分とコンパクトに見えた。
「・・・・・・本当は、言いたいです」
アイヴィーにだったら、こんなに簡単に言えるんですけどね」
腕に顔を乗せていた。黒いシャツの上に、白い肌。
華やかな顔立ちも、今は元気がない。
「アイヴィーを好きになれば良かったのかもしれませんね」
「ちょ、お前、なに言い出してんだよ・・・びっくりさせるな」
「びっくりさせちゃいましたー?あは♪すみません♪」
ぱっと明るくなる。表情がコロコロ変わる奴だ。
俺は大人のフリをしている子供だが、
こいつは子供のフリをしている大人なんだと思う。
普段はハイなバカだが、腕にはとんでもない枷を嵌められている。
こいつの秘密を聞かされた時は驚いた。それは寮生達にも言えないこと。
シルヴァンが俺を慕っているのは、
秘密を隠さずに済む存在だからかもしれなかった。
以前、一人でうちに遊びに来たシルヴァンが、
立てないくらい泥酔した時が一度だけあった。
入学して三ヶ月程経った頃だったと思う。
抱き着くわ、キスするわで、とても寮には戻せなかった。
酩酊したこいつは言った。とろんとした目で微笑みながら。
「家族の居場所も教えてくれないんですよ? イジワルですよね」
重い重い愚痴だった。
それは初めて零した愚痴だったんだろう。
それを聞かされてからかもしれない。
シルヴァンを可愛い弟のように思い始めたのは。
好きな人が居るけど怖くて好きだと言えない、その悩みも可愛いと思ってしまう。
俺の手は自然とシルヴァンの頭を軽く撫でていた。
「いつか言えるといいな、そのコに」
「そう、ですね。いつか・・・言えたらいいですね」
シルヴァンは腕に顔を乗せたまま、俺を見上げて笑った。
「僕、こうやって、あなたに頭を撫でてもらうのも好きですよ」
「俺を口説くな・・・」
「いいじゃないですかー♪」
明るい声は少しトーンが落ちた。
「本当に好きな人には、何も言えないんですから・・・」
ぺしっと頭を軽く叩く。
「・・・お前の方が可愛いっつの」
「ありがとうございます♪でも、僕の好きな人は、
僕よりももっとずっと可愛い人ですよ?」
「へえ。そいつは見てみたいもんだね。そんな可愛いコなら」
ラジオの曲が変わる。次はトルコ音楽。
遊牧民の民謡で、陽気でゆったりとした曲だった。
「見て、ますよ」
「え? 今、何か言った?」
「いえ、何にも♪」
「・・・ん? そーか?」
シルヴァンは自分の前にある二つのグラスを見つめていた。
ウイスキーか水か。
少し迷った後、その手は水を取った。
白い喉がこくこくと動く。
半分を一気に飲んで、グラスを置いた。
「・・・・・・・・・いえ、やっぱりフェアじゃないですよね。僕も話します」
「お?」
長い指は透明なグラスに触れている。
「・・・僕の好きな人にはアイヴィーも会ってますよ」
「え。マジで・・・」
「・・・はい」
「俺が会ってて、可愛いコ?」
「・・・えぇ」
「可愛いコって・・・保健室に割と世話になってたりする?」
「・・・・・・・・・」
「・・・金髪の?」
「金髪?」
「よく泣いてるコ・・・じゃない?」
「あ、もしかしてミハイルですか?あは♪確かに可愛いコですよね♪」
「ミハイル・・・じゃないのか。他の可愛いコ・・・」
「さあ、どうでしょう♪」
「お前の友達で、可愛いコで、保健室に来るコだろ・・・それって・・・」
ある眼鏡っ子の顔が思い浮かぶ。
「俺、もしかして、すげー知ってるやつじゃねーのか?」
シルヴァンと親しく、恥ずかしがりや。
食べ過ぎで、よく腹痛を起こして保健室に来る。
最もシャイなデッド・プリンス。
この家に勝手に上がれる三人のうちの一人。
他に思い付かない。
「俺んち来たり・・・してる・・・?」
シルヴァンは真っ赤に頬を染めていた。
友人のようだと言われて、異常に照れていた理由がやっと繋がる。
「カワイーな。お前」
「・・・・・・あ、アイヴィーの方が可愛いですよ」
「いや、お前の方がカワイーって♪」
「・・・・・・・・僕の、好きな人・・・わかったのなら、
言い出せない気持ちもわかりますよね?」
「ん・・・まあ、な。言っちゃってもイイんじゃねーかとも思うけどな」
「ダメです!」
突然の大声に俺が気圧される。
「・・・ダ、ダメなのか?」
「怖いんです・・・。ハルヤに嫌われるのが・・・」
「嫌われる、ねえ」
「はい・・・」
「あいつも、お前のこと、けっこースキだと思うけどなー」
「え・・・? で、でも、それは友達としての好き、なんじゃないですか?」
「俺がシルヴァンと夜遊びしたら、あいつ、なんか困ったかんじの顔するし・・・」
ハルヤが一人でうちに来た時があった。
俺が作ったメシを大量に平らげて。
グリーンティで一服していた時、ハルヤは言っていた。
「あのさ。この前、シルヴァンとお酒飲みに行ったんだって?」
「ん? ああ」
「シルヴァン、自慢してた。アイヴィーに・・・き、キスしてきたって・・・」
「そうそう。参ったぜ」
「あの・・・シルヴァン、いつも・・・するの?」
「酔った時はなー。あれ? お前、されたことないの?」
「あ、あるわけないよ。そんなこと」
あの時も顔を真っ赤にしてたけど。
もしかして、あいつ、俺に妬いてたのかも。
「ハルヤが・・・?本当ですか・・・?それ・・・・・・」
「ほんと」
「僕、期待してしまってもいいんでしょうか・・・?」
「ん。イイと思うぜ、俺は」
「僕、帰って告白してきます!!」
「はやっ!!!」
「・・・酔った勢いで、どうにかなると思うので♪」
「酔った勢いって・・お前」
「さすがにシラフでは僕も言えませんよ」
「よしっ! いってこい!」
「はい!ありがとうございます、アイヴィー♪」
ちゅっ、と柔らかいものが頬に押し付けられた。
俺は頬に手で触れる。
「・・・ったく・・・お前はまた・・」
陽気な笑顔で、軽く敬礼する。
「じゃ、行ってきます!相談に乗ってくれてありがとうございました♪」
バタバタと部屋を出て行った。
シルヴァンが居なくなったリビングには、がらんと広くなった。
ラジオで流れていたトルコ音楽は、丁度止まった。
次はジャズだ。クラシックギターが気持ちよく響いている。
俺は煙草に火を付けた。
ポッとオレンジの光が灯る。深く吸う。
「大丈夫かなあ・・・ハルヤが」
酔った勢いのシルヴァンに、体当たりされてそうだ。
まあ、上手く行かないってことはないだろう。
今夜はあいつ等にとって、記念すべき日になるかもしれない。
瓶ビールを取って、残りをラッパ飲みする。
「お先に祝杯、上げておいたぜ?」
時計を見ると、もう1時を回っていた。
そろそろ寝た方が良いかもしれない。
PCの傍にある固定電話が目に入る。
俺はラジオを止めた。
怒られるかな。
そう思いながらも手を伸ばしていた。
相手がすぐに出た。俺の声は明るくなった。
「よっ。・・・ああ、今帰ったとこ。シルヴァンだった」
皿からカシューナッツを取る。
白い三日月型の木の実。
人差し指と親指で摘んで、空に掲げてみる。
夜空にあるのと同じ形をしてた。
「・・・ん。お酒飲みながらオシャベリ・・・それはナイショ」
俺は窓辺に立つ。
夜の海も、朝の海も。
みんな好きだ。
受話器の向こうに伝える。
「あ、あのさ。今なら、いいよ?」
シルヴァンを見ていたら、すっかり当てられちまって。
この低い声が聞きたくなっていた。
耳に残る声は、とぼけやがった。
「・・・何って、さっきあんたが言ったんだろ」
耳にサディスティックな声が届く。
ダメだ。
やっぱり、この声には敵わない。
「・・・今から、行ってもイイ?」
fin
「俺も知らない間に、ソクーロフに自白させられてたりしてー」
今日、私が罪人を自白させた後。
軽い調子でアイヴィーは言った。私も軽く返した。
「貴様などに聞きたいことはない」
「ホントかなあ?」
それは本当ではなかった。
アイヴィーに聞きたいことは、あった。
その類の質問は、奴が素面でも、そうでなくても全て避けられた。
「アイヴィー。お前は何故、人を守ることを生業としている?」
私がそう尋ねた時も。
この男は笑うだけだった。
「やめよっか、この話。面白くなかったね」
「私に振っておいて、自分に振られたら避けるのか。卑怯だな?」
「俺、オトナだもーん」
この男は自分の過去について語らない。
聖アルフォンソ島に来るまでは軍に在籍していたと、
彼のプロフィールは語っているが、其処で何があったのかは記述されていない。
その若さで軍人としてはトップクラスの鬼才だったことは、
彼の肉体や身体能力から想像に難くないが。
おそらくはこの男も『訳あり』の人間なのだろう。
でなければ、この辺境の島へは辿り着かない。
この男は、私が罪人に自白を試みる場面に、何度も立ち会っていた。
「ハカセのお手並み、拝見しても良い?」と。
追憶の塔の最高責任者ならば立ち合いを特別断る理由もない。
私が許可すると、この男はいつも後方から見ていた。
一度だけ、鏡を通して、後方に居る彼の顔を見たことがある。
其処には、不真面目な司令官も、生徒達の兄も居なかった。
罪を吐露する人間を見る目には、羨望の色が混じっていた。
この男と仕事をするようになってから。
話せば話す程、傍に居れば居る程。
掴み所のない男だと感じた。
性格や趣向については、知り尽くしている。
こちらが何と言えば、どう返されるか。
向こうが何と言えば、どう返せば良いのかも。
だが、何かをずっと隠されている。
私の自白の手法を用いれば、無理矢理吐かせることも可能だ。しかし――
「ソクーロフ? どしたの?」
隣に居る男は、寝返りを打って私の方を見た。
長い金髪は枕の上に広がり、
床には脱ぎ捨てられたブルーのワイシャツが転がっている。
「…いや」
「こういう時まで考え事するなんて、イジワルだね…俺、妬いちゃうよ?」
いい年をして、子供っぽく振舞う。
生徒達とも同年代かのように言葉を交わす。
だが、心の奥には鋼鉄の扉がある。
誰も其処へは入らせない。
何を隠している。
「アイヴィー」
「んー?」
「私の自白剤を、飲ませてやろうか?」
「ヤだ、ハカセってば。お仕事道具、オモチャにするつもり?」
「ふざけるな。…お前、懺悔したいことがあるだろう?」
「そりゃ、長く生きてるからね。1個や2個は誰にでもあるんじゃない?」
「自白という手段を用いてでも、懺悔したいことがあるのではないのか?」
アイヴィーは曖昧な微笑を見せた。
「サンキュ。でも…悪いな。言えないんだわ、どーしても」
「何故だ」
一瞬で奴の雰囲気が変わる。
呟かれた声は、とても小さかった。
「知ったら…みんな俺のこと嫌いになっちゃうよ」
「…嫌いに?」
ふっと息を吐くと、いつもの笑顔で私を真っ直ぐに見た。
誘うように、私の髪に指を通してくる。
「ね。それより…続き、してくんない? あんた焦らし過ぎ」
「駄目だ。まだ話が」
「俺にガマンばっかりさせて、ほんっとサディストなんだから」
「アイヴィー」
「イジワルなサディストさんに、今夜は俺がお仕置きしちゃおっかな?」
「待てっ…」
私の言葉は塞がれて、話ができなくなった。
それ以来、聞いていない。
自白させようと思えば可能なのに。
時が経つ程、その気が失せる。
知りたいと思う一方で、
知ってはいけないと警鈴が鳴る。
こんなことは初めてで、私の予測を超える男だった。
アイヴィーは、一度、私を解放した。
口調は軽く、いつもと変わらない。
「好きだよ、ソクーロフ。俺ほんと、あんたにメロメロ」
「…私が聞きたいのは、そんなことではない」
「あれ。『愛してる』の方が良かった? ごめんねー、イロケなくって」
ひひ、と少年のように笑う。
その後に一瞬見せた顔は、子供ではなかった。
「…ホント、ごめんな。ソクーロフ」
fin
今日、私が罪人を自白させた後。
軽い調子でアイヴィーは言った。私も軽く返した。
「貴様などに聞きたいことはない」
「ホントかなあ?」
それは本当ではなかった。
アイヴィーに聞きたいことは、あった。
その類の質問は、奴が素面でも、そうでなくても全て避けられた。
「アイヴィー。お前は何故、人を守ることを生業としている?」
私がそう尋ねた時も。
この男は笑うだけだった。
「やめよっか、この話。面白くなかったね」
「私に振っておいて、自分に振られたら避けるのか。卑怯だな?」
「俺、オトナだもーん」
この男は自分の過去について語らない。
聖アルフォンソ島に来るまでは軍に在籍していたと、
彼のプロフィールは語っているが、其処で何があったのかは記述されていない。
その若さで軍人としてはトップクラスの鬼才だったことは、
彼の肉体や身体能力から想像に難くないが。
おそらくはこの男も『訳あり』の人間なのだろう。
でなければ、この辺境の島へは辿り着かない。
この男は、私が罪人に自白を試みる場面に、何度も立ち会っていた。
「ハカセのお手並み、拝見しても良い?」と。
追憶の塔の最高責任者ならば立ち合いを特別断る理由もない。
私が許可すると、この男はいつも後方から見ていた。
一度だけ、鏡を通して、後方に居る彼の顔を見たことがある。
其処には、不真面目な司令官も、生徒達の兄も居なかった。
罪を吐露する人間を見る目には、羨望の色が混じっていた。
この男と仕事をするようになってから。
話せば話す程、傍に居れば居る程。
掴み所のない男だと感じた。
性格や趣向については、知り尽くしている。
こちらが何と言えば、どう返されるか。
向こうが何と言えば、どう返せば良いのかも。
だが、何かをずっと隠されている。
私の自白の手法を用いれば、無理矢理吐かせることも可能だ。しかし――
「ソクーロフ? どしたの?」
隣に居る男は、寝返りを打って私の方を見た。
長い金髪は枕の上に広がり、
床には脱ぎ捨てられたブルーのワイシャツが転がっている。
「…いや」
「こういう時まで考え事するなんて、イジワルだね…俺、妬いちゃうよ?」
いい年をして、子供っぽく振舞う。
生徒達とも同年代かのように言葉を交わす。
だが、心の奥には鋼鉄の扉がある。
誰も其処へは入らせない。
何を隠している。
「アイヴィー」
「んー?」
「私の自白剤を、飲ませてやろうか?」
「ヤだ、ハカセってば。お仕事道具、オモチャにするつもり?」
「ふざけるな。…お前、懺悔したいことがあるだろう?」
「そりゃ、長く生きてるからね。1個や2個は誰にでもあるんじゃない?」
「自白という手段を用いてでも、懺悔したいことがあるのではないのか?」
アイヴィーは曖昧な微笑を見せた。
「サンキュ。でも…悪いな。言えないんだわ、どーしても」
「何故だ」
一瞬で奴の雰囲気が変わる。
呟かれた声は、とても小さかった。
「知ったら…みんな俺のこと嫌いになっちゃうよ」
「…嫌いに?」
ふっと息を吐くと、いつもの笑顔で私を真っ直ぐに見た。
誘うように、私の髪に指を通してくる。
「ね。それより…続き、してくんない? あんた焦らし過ぎ」
「駄目だ。まだ話が」
「俺にガマンばっかりさせて、ほんっとサディストなんだから」
「アイヴィー」
「イジワルなサディストさんに、今夜は俺がお仕置きしちゃおっかな?」
「待てっ…」
私の言葉は塞がれて、話ができなくなった。
それ以来、聞いていない。
自白させようと思えば可能なのに。
時が経つ程、その気が失せる。
知りたいと思う一方で、
知ってはいけないと警鈴が鳴る。
こんなことは初めてで、私の予測を超える男だった。
アイヴィーは、一度、私を解放した。
口調は軽く、いつもと変わらない。
「好きだよ、ソクーロフ。俺ほんと、あんたにメロメロ」
「…私が聞きたいのは、そんなことではない」
「あれ。『愛してる』の方が良かった? ごめんねー、イロケなくって」
ひひ、と少年のように笑う。
その後に一瞬見せた顔は、子供ではなかった。
「…ホント、ごめんな。ソクーロフ」
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