■ロレートシナリオ
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■背景:黒
■人物:なし
【側近】
ロレート公国 建国記念式典。
憲法改正の発表と同時に、
ジョシュア様が次期国王に指名された。
■背景:記念式典の壇上に立つジョシュア(視点:舞台袖から)
【ジョシュア】
未熟者ですが、出来る限り、尽くしていきたいと思います。
ご静聴、ありがとうございました。
■背景:舞台袖
■人物:カーディス(微笑)
【カーディス】
謙虚で真面目な挨拶だったな。俺では真似もできん。
あの文章、お前が大分直したのか?
【側近】
いいえ。殿下には添削を頼まれましたが、
修正箇所など、私には一文字も見付けられませんでした。
【カーディス】
ほう。流石は聖アルフォンソ学院の生徒代表殿と言ったところだな。
兄貴も聖アルフォンソに入学していれば、選ばれたのかもしれないな。
【側近】
陛下は生徒代表ではなかったのですよね?
【カーディス】
自主休講の常習犯だった悪ガキが選ばれると思うか?
【側近】
いいえ。思いません。
【カーディス】
少しは主の肩を持てないのか?
【側近】
はい。主に嘘は吐けません。
■人物:カーディス(微笑)
【カーディス】
口の悪い臣下を持ったものだ。
【部下】
陛下、そろそろご挨拶のお時間です。
【側近】
いってらっしゃいませ、陛下。殿下のご挨拶に引けを取らぬよう。
【カーディス】
国政への誠実さでは敵わんからな、笑いの一つでも取って来るか。
■背景:舞台袖
■人物:なし
【側近】
ご冗談を。
■背景:舞台袖
■人物:舞台から帰ってきたジョシュアの肩に手を置くカーディス
【カーディス】
良かったぞ、ジョシュア。
【ジョシュア】
…ありがとうございます。
■背景:記念式典の壇上に向かうカーディスの背中(視点:舞台袖から)
■背景:舞台袖
■人物:ジョシュア
【側近】
ご立派でしたよ、殿下。
【ジョシュア】
…とても緊張しました。まだドキドキしています。
【側近】
そのようには見えませんでしたよ。
拍手も、陛下がご挨拶される時よりずっと大きなものでした。
【ジョシュア】
そう、でしたか? あ、カーディスの挨拶が始まりますね。
ちゃんと聞いておかないと。
【側近】
(本当に謙虚で真面目な御方だ)
■背景:黒
■人物:なし
【空欄】
翌日。
■背景:机上に多くの新聞、雑誌。全てにジョシュアの写真
■人物:なし
【空欄】
各メデイアは、記念式典の様子を一斉に報じた。
その多くがジョシュア王子の写真を一面に取り上げていた。
ご両親を幼い頃に既に失っている殿下への同情もあるのか、
痛烈な批判は殆どなく、歓迎、期待、といった文字が躍った。
街頭インタビューでは、「カッコイイ」「可愛い」など好意的な意見も多いらしく、
雑誌の中には何ページも『王子様特集』を組み、アイドル扱いされているようだ。
殿下に王位継承権を復帰させる為、憲法改正を強行した国への評価も高まった。
■背景:執務室
■人物:カーディス
【側近】
王室にも殿下への取材依頼が殺到しています。
最も多いリクエストは「王子様の乗馬姿を撮らせて欲しい」というものですね。
■人物:カーディス(微笑)
【カーディス】
成程。王子には馬か。では白い馬でも用意するか。
【側近】
取材を受けても良いのですか?
【カーディス】
俺に聞くな。ジョシュアのことだ。本人に決めさせろ。
【側近】
畏まりました。お伝え致します。
【カーディス】
メディアの願いを叶えることは、俺としては勧められんが、
あいつなら、快く受けてしまうだろうな。
それにしても、予想以上の人気だな。
【側近】
ええ。エドワード様のご子息である以上に、
国民にも殿下のお人柄が伝わったのでしょう。
【カーディス】
加えて、まだ若く、あの顔で、姫も決まっていないと来てる。
街を少しでも歩いたら、サイン責めに合うかもしれん。
ファンの年齢層も広そうだ。警備には気を付けろよ。
【側近】
陛下のファンが、殿下に奪われてしまうかもしれませんね?
【カーディス】
嬉しそうだな、ラルヴィス。
【側近】
ええ。嬉しいですよ。
【カーディス】
なんだ、お前も王子様ファンか?
【側近】
いいえ。貴方が選ぶ御方に間違いはなかったと敬服しているのです。
ジョシュア様を皇太子に指名されたのは陛下、全ては貴方のお力です。
【カーディス】
よくできた臣下だな。だが、選んだのは俺ではない。
あいつは王となるべく、生まれた者だ。
最初から選ばれていた。
【側近】
陛下と同じですね?
■人物:カーディス(微笑)
【カーディス】
面白いジョークだな。
fin
■人物:なし
【側近】
ロレート公国 建国記念式典。
憲法改正の発表と同時に、
ジョシュア様が次期国王に指名された。
■背景:記念式典の壇上に立つジョシュア(視点:舞台袖から)
【ジョシュア】
未熟者ですが、出来る限り、尽くしていきたいと思います。
ご静聴、ありがとうございました。
■背景:舞台袖
■人物:カーディス(微笑)
【カーディス】
謙虚で真面目な挨拶だったな。俺では真似もできん。
あの文章、お前が大分直したのか?
【側近】
いいえ。殿下には添削を頼まれましたが、
修正箇所など、私には一文字も見付けられませんでした。
【カーディス】
ほう。流石は聖アルフォンソ学院の生徒代表殿と言ったところだな。
兄貴も聖アルフォンソに入学していれば、選ばれたのかもしれないな。
【側近】
陛下は生徒代表ではなかったのですよね?
【カーディス】
自主休講の常習犯だった悪ガキが選ばれると思うか?
【側近】
いいえ。思いません。
【カーディス】
少しは主の肩を持てないのか?
【側近】
はい。主に嘘は吐けません。
■人物:カーディス(微笑)
【カーディス】
口の悪い臣下を持ったものだ。
【部下】
陛下、そろそろご挨拶のお時間です。
【側近】
いってらっしゃいませ、陛下。殿下のご挨拶に引けを取らぬよう。
【カーディス】
国政への誠実さでは敵わんからな、笑いの一つでも取って来るか。
■背景:舞台袖
■人物:なし
【側近】
ご冗談を。
■背景:舞台袖
■人物:舞台から帰ってきたジョシュアの肩に手を置くカーディス
【カーディス】
良かったぞ、ジョシュア。
【ジョシュア】
…ありがとうございます。
■背景:記念式典の壇上に向かうカーディスの背中(視点:舞台袖から)
■背景:舞台袖
■人物:ジョシュア
【側近】
ご立派でしたよ、殿下。
【ジョシュア】
…とても緊張しました。まだドキドキしています。
【側近】
そのようには見えませんでしたよ。
拍手も、陛下がご挨拶される時よりずっと大きなものでした。
【ジョシュア】
そう、でしたか? あ、カーディスの挨拶が始まりますね。
ちゃんと聞いておかないと。
【側近】
(本当に謙虚で真面目な御方だ)
■背景:黒
■人物:なし
【空欄】
翌日。
■背景:机上に多くの新聞、雑誌。全てにジョシュアの写真
■人物:なし
【空欄】
各メデイアは、記念式典の様子を一斉に報じた。
その多くがジョシュア王子の写真を一面に取り上げていた。
ご両親を幼い頃に既に失っている殿下への同情もあるのか、
痛烈な批判は殆どなく、歓迎、期待、といった文字が躍った。
街頭インタビューでは、「カッコイイ」「可愛い」など好意的な意見も多いらしく、
雑誌の中には何ページも『王子様特集』を組み、アイドル扱いされているようだ。
殿下に王位継承権を復帰させる為、憲法改正を強行した国への評価も高まった。
■背景:執務室
■人物:カーディス
【側近】
王室にも殿下への取材依頼が殺到しています。
最も多いリクエストは「王子様の乗馬姿を撮らせて欲しい」というものですね。
■人物:カーディス(微笑)
【カーディス】
成程。王子には馬か。では白い馬でも用意するか。
【側近】
取材を受けても良いのですか?
【カーディス】
俺に聞くな。ジョシュアのことだ。本人に決めさせろ。
【側近】
畏まりました。お伝え致します。
【カーディス】
メディアの願いを叶えることは、俺としては勧められんが、
あいつなら、快く受けてしまうだろうな。
それにしても、予想以上の人気だな。
【側近】
ええ。エドワード様のご子息である以上に、
国民にも殿下のお人柄が伝わったのでしょう。
【カーディス】
加えて、まだ若く、あの顔で、姫も決まっていないと来てる。
街を少しでも歩いたら、サイン責めに合うかもしれん。
ファンの年齢層も広そうだ。警備には気を付けろよ。
【側近】
陛下のファンが、殿下に奪われてしまうかもしれませんね?
【カーディス】
嬉しそうだな、ラルヴィス。
【側近】
ええ。嬉しいですよ。
【カーディス】
なんだ、お前も王子様ファンか?
【側近】
いいえ。貴方が選ぶ御方に間違いはなかったと敬服しているのです。
ジョシュア様を皇太子に指名されたのは陛下、全ては貴方のお力です。
【カーディス】
よくできた臣下だな。だが、選んだのは俺ではない。
あいつは王となるべく、生まれた者だ。
最初から選ばれていた。
【側近】
陛下と同じですね?
■人物:カーディス(微笑)
【カーディス】
面白いジョークだな。
fin
■ハルヤ×ドニ
■愛のアルフォンソ劇場 第五幕「会えなくなって」 続編
■愛のアルフォンソ劇場 第五幕「会えなくなって」 続編
ウーティス寮 ハルヤの部屋。
ハルヤはベッドで倒れていた。
枕に顔を押し付けて、動けないでいる。
でも、晩ご飯前の、この時間はとてもお腹が空く。
きゅっきゅっきゅー、とヘンなお腹の悲鳴が聞こえた。
「…『二番目に安いスープ』、食べたいなあ」
シュヌーシアのキッチンに行って何か食べさせて貰っていたのが、
遠い昔の出来事のように思える。最近は行けなくなってしまった。
ドニを困らせるし、カミーユには言えないことだ。
お腹が空いたらウーティスのキッチンに行けば良いことなのに。
カミーユは何でも作ってくれるって解ってるのに。
仰向けになる。窓の向こう、白い雲が綿菓子に見えた。
「ハルヤ様」とドアの向こうから声が聞こえた。
飛び起きて、ドアを開けた。
四角い顔に割れた顎。コック姿のカミーユ・ルブランだった。
「ハルヤ様、お腹は空いていませんかっ?」
「あ、うん。丁度、おなかすいたなって思ってたとこで…」
「良かったです。では早速キッチンへどうぞ」
「え、ちょっと、カミーユ?」
ウーティス寮キッチンはいつ来てもピッカピカだ。
綺麗好きで完璧主義のシェフが常日頃磨いているからである。
シェフはハルヤに籠を差し出した。
「一本目のワサビが採れたんです。アボカドマグロ丼をお召し上がりになりますか?」
籠の中にまだ少し泥が付いているワサビが一本乗っていた。
ゴツゴツした根から、大きな葉がいっぱい付いてる。草と泥の匂い。
カミーユが植物園で育ててくれた本ワサビ。春に見た花が実を結んだ。
一本目のワサビはハルヤ様のお好きなアボカドマグロ丼にしましょう、と言われていた。
「ハルヤ様、今日は丁度、超高級マグロがありますので。こちらで炙り漬けに」
「あ、いや、いつものでフツーに作って貰えれば良いから…」
「エコロジーですね、ハルヤ様。モッタイナイという日本文化の賜物ですな」
ハルヤは曖昧な微笑を浮かべる。
早くて安い味の方が嬉しいだけなんだけどな、と心の中で呟いた。
「だけど、すごいよね、カミーユ。本当にワサビ作っちゃってさ」
「ハルヤ様の為ですから」
練りワサビとか粉ワサビで良いよ、って言わなかったっけ俺。
カミーユが我が子を見るような目でワサビ見つめている。
「ハルヤ様に召し上がって頂けるなんて、光栄なことだ。
今までよく生き抜いてくれた。ありがとう、ダニエル」
シュヌーシア寮キッチンは酸味の香り。夕食の準備中だった。
シェフのドニ・ドームは小さな木の椅子に座って、頬杖を吐いていた。
黄色の腰巻エプロンとバンダナ。
明るい見た目とは裏腹に表情は暗い。
最近この椅子に座って、息を吐いていることが多くなっていた。
シェフは顔を上げた。
キッチンに足音が近付いて来る。外からだ。
シェフは思わず立って、黄色いエプロンの端を握っていた。ドアが開く。
「よっ。コックさん」
手を挙げていたのは金髪のタクシードライバー。
シェフは手の力が抜けた。
「…こ、こんにちは、アイヴィーさん。お久し振りです…」
「うん。ん? ドニ、元気ないじゃん」
「いえ。ちょっと、夏バテなのかもしれませんね」
「ああ、あちーからなー、ここんとこ」
常春のアルフォンソ島だが、ここ数日は気温が高かった。
おかげで「海まで乗せてくれ」というマージナルプリンスどもがわんさか。
王子様方の専属タクシードライバーは、幾度も海と学院を往復していた。
アイヴィーも遊ぼうと腕を引かれて、ビーチバレーに参加させられたりもした。
「俺、ちょっと日焼けしたかもなー。まっちろお肌だったのにー」
「何か冷たい飲み物でもお出しします。ちょっと待ってて下さいね」
「お、サンキュー」
シェフがくれたグラスには、薄い茶色の水が入っていた。
ブルーのストローを吸ってみる。
アイヴィーは、アイスティーかな、と思って飲んだが、なんか違った。
「コックさん。何ですか、コレ?」
「あ、これはムギチャです。日本のご家庭では、夏に良く飲まれるものなんですよ」
「ほー」
「あ、そうだ。アイヴィーさんのパン、この前、朝食で生徒さんに食べて頂きました」
「げっ。あのぐちゃぐちゃパンを?」
「はい。教えて頂いたレシピ通りに」
「王子サマ方のお口には合わなかっただろ? グルメな舌だろうからな」
「大好評でしたよ。また作ってねってリクエストされましたし」
「うっそ。何でもイイのか? マージナルプリンスどもめ」
「アイヴィーさんのパンが美味しいということですよ。
遅くなっちゃいましたけど、あの時のお礼に何か召し上がって行きませんか?」
「ああ。覚えてくれてた? 実はそれが目当てで来たんだ。
今日、まだ何も食ってなくてさー。晩メシは何なの? なんか匂いするけど」
「今日はテマキズシなんです。お好きなネタを選んで、召し上がって下さい」
「スシかー。イイ時に来たなー」
大皿には刺身の他、ツナマヨ、アボカドなどの様々な具材がずらりと並んでいる。
隣の寿司桶にはこんもり盛られた酢飯。甘い香りがする。
「へえ。お前さんもジャパニーズフードにかぶれてきたんだ?」
「えっ、いえ、そんな…テマキズシも家庭料理ですから」
「そういや、家庭料理がスキなんだもんな、ドニは」
「はい…」
皿の準備を始めたシェフは、あっ、と叫んだ。
「どうしよ…買い忘れちゃった」
「何を?」
「ソイソースが少ししかなくて…テマキズシには絶対必要なのに」
「そう落ち込むなよ。夏バテさんのせいだろ?」
ウーティス寮キッチン。
ハルヤはカミーユがアボカドマグロ丼を作るのを見ていた。
料理をしている人の背中を見ることは、なんとなく好きだった。
作り方はハルヤも大体知っていた。
マグロの赤身を5ミリ程度に切っていく。
醤油、酒、砂糖を鍋に入れ、少し温めて混ぜる。
冷めてから赤身を浸けるので、その間にアボカドを選ぶ。
皮が緑のものではなく、黒いもの。
黒いアボカドを、幾つか手で触れて感触を確かめていた。
厳選したひとつを持って、まな板の前に立つ。
皮の剥き方は、さすが一流シェフだけあって、綺麗だった。
くるくる巻かれた黒いリボンが伸びていく。
職人芸をこなしながら、シェフが話し掛ける。
「ハルヤ様は、日本に居らした時、よく召し上がっていたんですか?」
「うん。母が仕事に行く前とかに作ってくれて」
「そうですか。お母様の味には及ばずとも、私、精一杯お作りしますから」
レベルは超え過ぎちゃってるくらいなんだけどな、とハルヤは密かに思った。
薄切りにしたアボカドにレモン汁をかける。
これで変色しないのだとハルヤは知っていた。母親も同じようにしていた。
後はご飯の上にマグロとアボカド、
そして、おろし立ての本ワサビを盛り付け、醤油を掛ければ完成だった。
戸口が開き、やや高めの声が呟かれた。
「ハルヤ様…」
二人は見つめ合ったのも束の間、すぐに視線を逸らした。
本ワサビを下ろしていたカミーユが顔を上げる。
「ドニ。どうした?」
「あ、あの、夕食に使うソイソースが、足りなくって…」
「そうか。ではこれを一本持って行け。返すのは明日でも良いぞ」
「はい、ありがとうございます。すみません」
「構わんさ。シェフ同士、協力するのが当然じゃないか」
「カミーユさん…あ、ありがとうございます。じゃ、失礼しますっ」
醤油のボトルを抱え、後輩シェフは猛ダッシュで帰って行った。
「ん? 何を慌てているんだ、ドニのヤツ。――ああ、すみません、ハルヤ様。
お待たせして。あと少しで完成ですから」
「ごめん。それ、夕食の時に出して貰っても良いかな?」
「え? それは構いませんが」
「あの、明日までの宿題があるの忘れてたんだ。ご飯は夕食まで我慢するよ」
「さすがはハルヤ様。勉強熱心ですね。解りました。では夕食はたくさんご用意しましょう」
「う、うん。じゃあまた後で」
シュヌーシア寮キッチン。
アイヴィーは食べ物を前にして、『待て』をしていた。
食べ物に匂いが付いては悪いかと思い、煙草も吸わずに。
残り少ないムギチャをストローで吸っていた。
やっとシェフがソイソースを抱えて帰ってきた。
「おー。おかえりーって、ドニ?」
「アイヴィーさん…」
「なんだ? しょんぼりして。カミーユになんか怒られた?」
「いいえ、カミーユさんはボクにも優しくして下さるのに…ボクは」
「ボクは?」
「…いけないことばかり考えて」
「え。イケナイこと?」
「ボクのを食べて欲しいなんて」
「ちょ、ドニ、ダイタン…」
その時、二人以外の声が飛び込んで来た。
「俺もだよ、ドニ。カミーユのより、ドニのが食べたい」
キッチンの戸口にハルヤが居た。ドニが後ずさる。
「ハルヤ様? ア、アボカドマグロ丼を召し上がるんじゃ…」
「うん。夕食の時に食べることにしてきた」
「どうして…ハルヤ様、今がすごくお腹が空く時なのに…それに一番お好きな物じゃないですか」
「そうだけど、俺、本当はドニに『二番目に安いスープ』を作って欲しかったんだ」
「えっ」
「だけどドニを困らせるから、言えなくて。ごめんね、ドニ」
「ボクも、ハルヤ様に食べて欲しかったです。
美味しいよってまた言って欲しかったんです。でも、いけないことだから」
「いけなくても、やっぱり時々は食べさせて欲しいな。ドニの料理、好きだから」
アイヴィーは苦笑した。
「なんかよく解んねえけど、めでたしめでたし、か?」
「あれ? アイヴィー、居たの?」
「居ました居ましたー。ドニー、俺のテマキズシはまだですか?」
「あっ、すみません! 今ご用意しますっ」
「手巻き寿司? ね、ドニ。俺にも食べさせてくれる?」
言えなかった言葉が交差する。
「夕食前ですから、少しだけですよ?」
「うん」
シェフは、はにかんでこう申し出た。
「あの、ハルヤ様、ひとつ、ボクに作らせてくれますか?」
「うん。ありがと」
シェフは迷わず、手巻き寿司の具材を選んだ。
さいの目に切られた黄緑の果物。
手早く巻いて、ハルヤに小皿と一緒に差し出す。
ハルヤが、それをワサビ醤油にちょんと付けて口に運ぶ。
慣れ親しんだトロの味がした。
季節はすっかり夏だった。
聖アルフォンソ学院は一年を通して授業を受けられるが、
島の外の夏休みに合わせて、休暇を取る生徒も多い。
ハルヤももうすぐ夏休みに入る。
今年は寮のみんなと一緒に日本に遊びに行こうか、なんて話が出ていた。
寮を一歩出ると、眩しい太陽に出迎えられる。今日の夏空も真っ青だ。
「今日も暑いなー」
キャンパスを歩いて行く。ウーティスから少し離れた建物。
近くには最新の医療設備が整う保健室がある。
ハルヤはよくお世話になっているが、今日はそこまで行かない。
保健室の手前、ギリシャの海運王からの寄付で建てられたという立派な寮。
その裏口に回る。暫く通っていなかった小道には、夏の黄色い花が咲いていた。
近付くにつれ、甘い香りが流れてくる。もうすぐおやつの時間。
ハルヤは戸口からひょこっと顔を出した。
「ドニ、今日は何作ってるの?」
fin
ハルヤはベッドで倒れていた。
枕に顔を押し付けて、動けないでいる。
でも、晩ご飯前の、この時間はとてもお腹が空く。
きゅっきゅっきゅー、とヘンなお腹の悲鳴が聞こえた。
「…『二番目に安いスープ』、食べたいなあ」
シュヌーシアのキッチンに行って何か食べさせて貰っていたのが、
遠い昔の出来事のように思える。最近は行けなくなってしまった。
ドニを困らせるし、カミーユには言えないことだ。
お腹が空いたらウーティスのキッチンに行けば良いことなのに。
カミーユは何でも作ってくれるって解ってるのに。
仰向けになる。窓の向こう、白い雲が綿菓子に見えた。
「ハルヤ様」とドアの向こうから声が聞こえた。
飛び起きて、ドアを開けた。
四角い顔に割れた顎。コック姿のカミーユ・ルブランだった。
「ハルヤ様、お腹は空いていませんかっ?」
「あ、うん。丁度、おなかすいたなって思ってたとこで…」
「良かったです。では早速キッチンへどうぞ」
「え、ちょっと、カミーユ?」
ウーティス寮キッチンはいつ来てもピッカピカだ。
綺麗好きで完璧主義のシェフが常日頃磨いているからである。
シェフはハルヤに籠を差し出した。
「一本目のワサビが採れたんです。アボカドマグロ丼をお召し上がりになりますか?」
籠の中にまだ少し泥が付いているワサビが一本乗っていた。
ゴツゴツした根から、大きな葉がいっぱい付いてる。草と泥の匂い。
カミーユが植物園で育ててくれた本ワサビ。春に見た花が実を結んだ。
一本目のワサビはハルヤ様のお好きなアボカドマグロ丼にしましょう、と言われていた。
「ハルヤ様、今日は丁度、超高級マグロがありますので。こちらで炙り漬けに」
「あ、いや、いつものでフツーに作って貰えれば良いから…」
「エコロジーですね、ハルヤ様。モッタイナイという日本文化の賜物ですな」
ハルヤは曖昧な微笑を浮かべる。
早くて安い味の方が嬉しいだけなんだけどな、と心の中で呟いた。
「だけど、すごいよね、カミーユ。本当にワサビ作っちゃってさ」
「ハルヤ様の為ですから」
練りワサビとか粉ワサビで良いよ、って言わなかったっけ俺。
カミーユが我が子を見るような目でワサビ見つめている。
「ハルヤ様に召し上がって頂けるなんて、光栄なことだ。
今までよく生き抜いてくれた。ありがとう、ダニエル」
シュヌーシア寮キッチンは酸味の香り。夕食の準備中だった。
シェフのドニ・ドームは小さな木の椅子に座って、頬杖を吐いていた。
黄色の腰巻エプロンとバンダナ。
明るい見た目とは裏腹に表情は暗い。
最近この椅子に座って、息を吐いていることが多くなっていた。
シェフは顔を上げた。
キッチンに足音が近付いて来る。外からだ。
シェフは思わず立って、黄色いエプロンの端を握っていた。ドアが開く。
「よっ。コックさん」
手を挙げていたのは金髪のタクシードライバー。
シェフは手の力が抜けた。
「…こ、こんにちは、アイヴィーさん。お久し振りです…」
「うん。ん? ドニ、元気ないじゃん」
「いえ。ちょっと、夏バテなのかもしれませんね」
「ああ、あちーからなー、ここんとこ」
常春のアルフォンソ島だが、ここ数日は気温が高かった。
おかげで「海まで乗せてくれ」というマージナルプリンスどもがわんさか。
王子様方の専属タクシードライバーは、幾度も海と学院を往復していた。
アイヴィーも遊ぼうと腕を引かれて、ビーチバレーに参加させられたりもした。
「俺、ちょっと日焼けしたかもなー。まっちろお肌だったのにー」
「何か冷たい飲み物でもお出しします。ちょっと待ってて下さいね」
「お、サンキュー」
シェフがくれたグラスには、薄い茶色の水が入っていた。
ブルーのストローを吸ってみる。
アイヴィーは、アイスティーかな、と思って飲んだが、なんか違った。
「コックさん。何ですか、コレ?」
「あ、これはムギチャです。日本のご家庭では、夏に良く飲まれるものなんですよ」
「ほー」
「あ、そうだ。アイヴィーさんのパン、この前、朝食で生徒さんに食べて頂きました」
「げっ。あのぐちゃぐちゃパンを?」
「はい。教えて頂いたレシピ通りに」
「王子サマ方のお口には合わなかっただろ? グルメな舌だろうからな」
「大好評でしたよ。また作ってねってリクエストされましたし」
「うっそ。何でもイイのか? マージナルプリンスどもめ」
「アイヴィーさんのパンが美味しいということですよ。
遅くなっちゃいましたけど、あの時のお礼に何か召し上がって行きませんか?」
「ああ。覚えてくれてた? 実はそれが目当てで来たんだ。
今日、まだ何も食ってなくてさー。晩メシは何なの? なんか匂いするけど」
「今日はテマキズシなんです。お好きなネタを選んで、召し上がって下さい」
「スシかー。イイ時に来たなー」
大皿には刺身の他、ツナマヨ、アボカドなどの様々な具材がずらりと並んでいる。
隣の寿司桶にはこんもり盛られた酢飯。甘い香りがする。
「へえ。お前さんもジャパニーズフードにかぶれてきたんだ?」
「えっ、いえ、そんな…テマキズシも家庭料理ですから」
「そういや、家庭料理がスキなんだもんな、ドニは」
「はい…」
皿の準備を始めたシェフは、あっ、と叫んだ。
「どうしよ…買い忘れちゃった」
「何を?」
「ソイソースが少ししかなくて…テマキズシには絶対必要なのに」
「そう落ち込むなよ。夏バテさんのせいだろ?」
ウーティス寮キッチン。
ハルヤはカミーユがアボカドマグロ丼を作るのを見ていた。
料理をしている人の背中を見ることは、なんとなく好きだった。
作り方はハルヤも大体知っていた。
マグロの赤身を5ミリ程度に切っていく。
醤油、酒、砂糖を鍋に入れ、少し温めて混ぜる。
冷めてから赤身を浸けるので、その間にアボカドを選ぶ。
皮が緑のものではなく、黒いもの。
黒いアボカドを、幾つか手で触れて感触を確かめていた。
厳選したひとつを持って、まな板の前に立つ。
皮の剥き方は、さすが一流シェフだけあって、綺麗だった。
くるくる巻かれた黒いリボンが伸びていく。
職人芸をこなしながら、シェフが話し掛ける。
「ハルヤ様は、日本に居らした時、よく召し上がっていたんですか?」
「うん。母が仕事に行く前とかに作ってくれて」
「そうですか。お母様の味には及ばずとも、私、精一杯お作りしますから」
レベルは超え過ぎちゃってるくらいなんだけどな、とハルヤは密かに思った。
薄切りにしたアボカドにレモン汁をかける。
これで変色しないのだとハルヤは知っていた。母親も同じようにしていた。
後はご飯の上にマグロとアボカド、
そして、おろし立ての本ワサビを盛り付け、醤油を掛ければ完成だった。
戸口が開き、やや高めの声が呟かれた。
「ハルヤ様…」
二人は見つめ合ったのも束の間、すぐに視線を逸らした。
本ワサビを下ろしていたカミーユが顔を上げる。
「ドニ。どうした?」
「あ、あの、夕食に使うソイソースが、足りなくって…」
「そうか。ではこれを一本持って行け。返すのは明日でも良いぞ」
「はい、ありがとうございます。すみません」
「構わんさ。シェフ同士、協力するのが当然じゃないか」
「カミーユさん…あ、ありがとうございます。じゃ、失礼しますっ」
醤油のボトルを抱え、後輩シェフは猛ダッシュで帰って行った。
「ん? 何を慌てているんだ、ドニのヤツ。――ああ、すみません、ハルヤ様。
お待たせして。あと少しで完成ですから」
「ごめん。それ、夕食の時に出して貰っても良いかな?」
「え? それは構いませんが」
「あの、明日までの宿題があるの忘れてたんだ。ご飯は夕食まで我慢するよ」
「さすがはハルヤ様。勉強熱心ですね。解りました。では夕食はたくさんご用意しましょう」
「う、うん。じゃあまた後で」
シュヌーシア寮キッチン。
アイヴィーは食べ物を前にして、『待て』をしていた。
食べ物に匂いが付いては悪いかと思い、煙草も吸わずに。
残り少ないムギチャをストローで吸っていた。
やっとシェフがソイソースを抱えて帰ってきた。
「おー。おかえりーって、ドニ?」
「アイヴィーさん…」
「なんだ? しょんぼりして。カミーユになんか怒られた?」
「いいえ、カミーユさんはボクにも優しくして下さるのに…ボクは」
「ボクは?」
「…いけないことばかり考えて」
「え。イケナイこと?」
「ボクのを食べて欲しいなんて」
「ちょ、ドニ、ダイタン…」
その時、二人以外の声が飛び込んで来た。
「俺もだよ、ドニ。カミーユのより、ドニのが食べたい」
キッチンの戸口にハルヤが居た。ドニが後ずさる。
「ハルヤ様? ア、アボカドマグロ丼を召し上がるんじゃ…」
「うん。夕食の時に食べることにしてきた」
「どうして…ハルヤ様、今がすごくお腹が空く時なのに…それに一番お好きな物じゃないですか」
「そうだけど、俺、本当はドニに『二番目に安いスープ』を作って欲しかったんだ」
「えっ」
「だけどドニを困らせるから、言えなくて。ごめんね、ドニ」
「ボクも、ハルヤ様に食べて欲しかったです。
美味しいよってまた言って欲しかったんです。でも、いけないことだから」
「いけなくても、やっぱり時々は食べさせて欲しいな。ドニの料理、好きだから」
アイヴィーは苦笑した。
「なんかよく解んねえけど、めでたしめでたし、か?」
「あれ? アイヴィー、居たの?」
「居ました居ましたー。ドニー、俺のテマキズシはまだですか?」
「あっ、すみません! 今ご用意しますっ」
「手巻き寿司? ね、ドニ。俺にも食べさせてくれる?」
言えなかった言葉が交差する。
「夕食前ですから、少しだけですよ?」
「うん」
シェフは、はにかんでこう申し出た。
「あの、ハルヤ様、ひとつ、ボクに作らせてくれますか?」
「うん。ありがと」
シェフは迷わず、手巻き寿司の具材を選んだ。
さいの目に切られた黄緑の果物。
手早く巻いて、ハルヤに小皿と一緒に差し出す。
ハルヤが、それをワサビ醤油にちょんと付けて口に運ぶ。
慣れ親しんだトロの味がした。
季節はすっかり夏だった。
聖アルフォンソ学院は一年を通して授業を受けられるが、
島の外の夏休みに合わせて、休暇を取る生徒も多い。
ハルヤももうすぐ夏休みに入る。
今年は寮のみんなと一緒に日本に遊びに行こうか、なんて話が出ていた。
寮を一歩出ると、眩しい太陽に出迎えられる。今日の夏空も真っ青だ。
「今日も暑いなー」
キャンパスを歩いて行く。ウーティスから少し離れた建物。
近くには最新の医療設備が整う保健室がある。
ハルヤはよくお世話になっているが、今日はそこまで行かない。
保健室の手前、ギリシャの海運王からの寄付で建てられたという立派な寮。
その裏口に回る。暫く通っていなかった小道には、夏の黄色い花が咲いていた。
近付くにつれ、甘い香りが流れてくる。もうすぐおやつの時間。
ハルヤは戸口からひょこっと顔を出した。
「ドニ、今日は何作ってるの?」
fin
■カーディス
イギリスのパブリックスクールで毎年開かれる国際交流式典。
他国からわざわざやってくる高校生と一緒に世界の文化に触れる恒例行事。
一人の生徒が見知らぬ外国人にも優しい笑顔を惜しげなく晒している。
その写真の下には、<民族工芸と触れ合うエドワード王子>とあった。
新聞に掲載されたカラー写真をじっと眺めた後、
ポイッと朝食のテーブルに置いたのは実の弟。10歳。
パブリックスクールとはつまり、金を積めば入れる全寮制の学校。
特にここは王侯貴族ご用達のお坊ちゃん学校で、
やんちゃなことで有名なカーディス王子は、先ずそんな学校に行っても楽しくなさそうな気がした。
「俺もさー、13になったら、このガッコ行くわけ? ヤだなー」
「おや。どうしてだい? カーくん」
香りの良いコーヒーを飲んでいた父親が穏やかに尋ねる。
「小さい頃は何でも、エドくんと一緒がいいって言っていたのに」
お行儀悪くミルクを一気飲みした弟は、
唇の上にできた『白いヒゲ』を手の甲で拭う。
「オヤジ…それはガキの頃の話だろ。てか、いい加減、その呼び方」
「いいじゃないか、家族なんだから。それで、エドくんとケンカでもしたのかい?
お父さんが仲直りのお手伝いをしようか?」
「ちがうって。なんか息詰まりそーなガッコだし、兄貴とおんなじ場所に居たら、余計比べられるだけだろ?
『エドワード王子に比べてカーディス王子は活発ですわね。おほほほ』ってさ。
はいはい、どーせ不良ですよ。てゆうか、俺が王子様なのが未だにイミ解んない」
「カーくんが不良なんてお父さんは思わないけどなあ。
お父さんはこのままのカーくんが大好きだよ」
「オ、オヤジがどう思っても、世間の目ってのがあるだろ。
あー、俺、次男に生まれて良かった。素で王子様な兄貴と違って、
俺、カメラに向かって笑顔で手なんか振れないもん」
カゴに盛られた焼き立てのバターロールに手を伸ばし、むしゃむしゃほうばる。
零れ落ちるパンくずを見ても、ロレート公国の王様は咎めなかった。
今は家族だけの食卓なのだし、自由に育って欲しいという教育方針だった。
「そうか。では13歳になったら、カーくんは、
聖アルフォンソ学院に行ってみるかい?」
「あるほんほ?」
口いっぱいのバターロールを飲み込んで、弟は再び喋り出す。
「聞いたことない。どのへん?」
「地図には載っていない島にあるんだよ」
「何それっ!? そんなとこあんの!?」
「ああ。秘密の島だから、どんなメディアも近付けない」
「うわ、サイコーじゃん! 俺、そこがイイ! そこに決めたっ!」
それから26年。
やんちゃな王子様は、やんちゃな王様になっていた。
主が語った昔話を聞いて、側近は微笑んだ。
「素直で可愛らしいお子様だったのですね」
「ああ。今思うと可愛い悪ガキだったな。当時の俺は解っていなかったが、
要らぬ後継者争いを避ける目的で、俺は兄貴と離されたのだろう」
王は封筒を手にしていた。上質な紙。
その隅には、小枝を咥えた鳥がデザインされている。
「アルフォンソ学院には、他国の皇族が居た。
俺とは違い、祖国に帰れば本当に玉座が待っている者もな。
それに比べれば第二王子である俺など、気楽なものだと思えた。
学生時代は悪友どもと好き放題に遊んだものだ」
封筒には、綺麗な文字が綴られている。
差出人には、王の甥に当たる名前と姓。
夏休みに友人を連れてロレートに遊びに来ないかと誘った手紙への返事だ。
喜んで伺います、などと律儀な謝辞が書き連ねてある。
後継者と決まってから、叔父と甥は快い頻度で文通ができるようになった。
時代錯誤な手段ではあるいが、なかなか良いものだ。
「俺は生徒代表になど選ばれるわけもないと思っていたし、実際選ばれなかった。
それを日々こなしているジョシュアは、よくやっているものだと思う。
聖アルフォンソ学院の生徒代表に、王位が務まらない筈がない。
問題児だった俺でも成立しているのだからな」
便箋の最後にはこうあった。
『森の写真を送ります。貴方もこの森が好きでしたか?』
封筒から一枚の写真を取り出す。
同じ学院の卒業生は、ぼうっと眺めた。
「後に王に据えるには惜しいだろうか。
この写真、なかなかよく撮れている。王室の専属カメラマンにでもなれそうだ」
四角に切り取られた月桂樹の森。
自分がこの中に在りし日が思い出される。
「ここでよく、授業を休講にして、悪友と昼寝をしたものだ」
「素敵な思い出ですね」
「ああ。もう二度と叶わぬ」
枝葉の隙間から、燦々と輝く光。
今、目を閉じても、瞼にそのあたたかさが甦りそうだ。
側近は一息置いて、さて、と言った。
「陛下。郷愁の最中に申し訳ありませんが、そろそろお仕事にお戻り頂けますか?」
王の前には山積みの書類。
「執務に厳しい側近を持って、幸せなことだな」
「恐れ入ります。怠惰なカーくんのお傍に居るものですから」
「カーくんは止めてくれ」
「失礼致しました」
fin
他国からわざわざやってくる高校生と一緒に世界の文化に触れる恒例行事。
一人の生徒が見知らぬ外国人にも優しい笑顔を惜しげなく晒している。
その写真の下には、<民族工芸と触れ合うエドワード王子>とあった。
新聞に掲載されたカラー写真をじっと眺めた後、
ポイッと朝食のテーブルに置いたのは実の弟。10歳。
パブリックスクールとはつまり、金を積めば入れる全寮制の学校。
特にここは王侯貴族ご用達のお坊ちゃん学校で、
やんちゃなことで有名なカーディス王子は、先ずそんな学校に行っても楽しくなさそうな気がした。
「俺もさー、13になったら、このガッコ行くわけ? ヤだなー」
「おや。どうしてだい? カーくん」
香りの良いコーヒーを飲んでいた父親が穏やかに尋ねる。
「小さい頃は何でも、エドくんと一緒がいいって言っていたのに」
お行儀悪くミルクを一気飲みした弟は、
唇の上にできた『白いヒゲ』を手の甲で拭う。
「オヤジ…それはガキの頃の話だろ。てか、いい加減、その呼び方」
「いいじゃないか、家族なんだから。それで、エドくんとケンカでもしたのかい?
お父さんが仲直りのお手伝いをしようか?」
「ちがうって。なんか息詰まりそーなガッコだし、兄貴とおんなじ場所に居たら、余計比べられるだけだろ?
『エドワード王子に比べてカーディス王子は活発ですわね。おほほほ』ってさ。
はいはい、どーせ不良ですよ。てゆうか、俺が王子様なのが未だにイミ解んない」
「カーくんが不良なんてお父さんは思わないけどなあ。
お父さんはこのままのカーくんが大好きだよ」
「オ、オヤジがどう思っても、世間の目ってのがあるだろ。
あー、俺、次男に生まれて良かった。素で王子様な兄貴と違って、
俺、カメラに向かって笑顔で手なんか振れないもん」
カゴに盛られた焼き立てのバターロールに手を伸ばし、むしゃむしゃほうばる。
零れ落ちるパンくずを見ても、ロレート公国の王様は咎めなかった。
今は家族だけの食卓なのだし、自由に育って欲しいという教育方針だった。
「そうか。では13歳になったら、カーくんは、
聖アルフォンソ学院に行ってみるかい?」
「あるほんほ?」
口いっぱいのバターロールを飲み込んで、弟は再び喋り出す。
「聞いたことない。どのへん?」
「地図には載っていない島にあるんだよ」
「何それっ!? そんなとこあんの!?」
「ああ。秘密の島だから、どんなメディアも近付けない」
「うわ、サイコーじゃん! 俺、そこがイイ! そこに決めたっ!」
それから26年。
やんちゃな王子様は、やんちゃな王様になっていた。
主が語った昔話を聞いて、側近は微笑んだ。
「素直で可愛らしいお子様だったのですね」
「ああ。今思うと可愛い悪ガキだったな。当時の俺は解っていなかったが、
要らぬ後継者争いを避ける目的で、俺は兄貴と離されたのだろう」
王は封筒を手にしていた。上質な紙。
その隅には、小枝を咥えた鳥がデザインされている。
「アルフォンソ学院には、他国の皇族が居た。
俺とは違い、祖国に帰れば本当に玉座が待っている者もな。
それに比べれば第二王子である俺など、気楽なものだと思えた。
学生時代は悪友どもと好き放題に遊んだものだ」
封筒には、綺麗な文字が綴られている。
差出人には、王の甥に当たる名前と姓。
夏休みに友人を連れてロレートに遊びに来ないかと誘った手紙への返事だ。
喜んで伺います、などと律儀な謝辞が書き連ねてある。
後継者と決まってから、叔父と甥は快い頻度で文通ができるようになった。
時代錯誤な手段ではあるいが、なかなか良いものだ。
「俺は生徒代表になど選ばれるわけもないと思っていたし、実際選ばれなかった。
それを日々こなしているジョシュアは、よくやっているものだと思う。
聖アルフォンソ学院の生徒代表に、王位が務まらない筈がない。
問題児だった俺でも成立しているのだからな」
便箋の最後にはこうあった。
『森の写真を送ります。貴方もこの森が好きでしたか?』
封筒から一枚の写真を取り出す。
同じ学院の卒業生は、ぼうっと眺めた。
「後に王に据えるには惜しいだろうか。
この写真、なかなかよく撮れている。王室の専属カメラマンにでもなれそうだ」
四角に切り取られた月桂樹の森。
自分がこの中に在りし日が思い出される。
「ここでよく、授業を休講にして、悪友と昼寝をしたものだ」
「素敵な思い出ですね」
「ああ。もう二度と叶わぬ」
枝葉の隙間から、燦々と輝く光。
今、目を閉じても、瞼にそのあたたかさが甦りそうだ。
側近は一息置いて、さて、と言った。
「陛下。郷愁の最中に申し訳ありませんが、そろそろお仕事にお戻り頂けますか?」
王の前には山積みの書類。
「執務に厳しい側近を持って、幸せなことだな」
「恐れ入ります。怠惰なカーくんのお傍に居るものですから」
「カーくんは止めてくれ」
「失礼致しました」
fin
■王子、お誕生日おめでとうございます!
■ショート4本セット
■ショート4本セット
■ジョシュアの電話 ―シルヴァンと―
やあ、こんにちは。
元気…じゃないみたいだね? 何かあったのかい?
え? ああ、昨夜のシルヴァンのこと?
すまない。驚かせてしまったよね。
彼に悪気はないんだよ、アルコールのせいだし。
昨日は久し振りにアイヴィーと夜遊びして楽しかったみたいでね。
うん。みんなにキスしてた、レッドにもハルヤにも。
アンリは怒るからできなかったみたいだけど。
もちろんユウタもね。初めての時はビックリしてたけど、
最近はけっこう平気になったみたいだよ?
あ、ごめん。君の弟に可笑しな耐性を付けてしまったかな。
今までに? えっと、どのくらいだろう…
数えたことなかったから…年に何回か、かな。
もしかして、妬いてくれたの?
嬉しいな、君にそんなふうに思って貰えるなんて。
今度からはシルヴァンにもキスされないように気を付けるよ。
「俺は貴女だけのものだから」って。
そう言ったら、余計狙われてしまうかな?
■ジョシュアの電話 ―今日のディナー―
今日のディナー、日本の手巻き寿司だったんだ。
ウーティス寮のシェフが本ワサビを栽培していてね、
夏になって収穫できたからって。うん、美味しかったよ。
ホースラディッシュと違って、まろやかな辛さだね。
ユウタとハルヤとシルヴァンが、
俺達に手巻き寿司の作り方を教えてくれたんだ。
好きなものを選んで作れるんだね。
最後はロシアンルーレットをやることになって、
六個の手巻き寿司のうち、一個だけワサビをたくさん入れてね。
俺はセーフだったんだけど、誰が当たったと思う?
正解。良く解ったね。ちょっと涙目になってて、
可哀想だったけど、楽しいディナーだったよ。
いつか、君と一緒に手巻き寿司が食べられる日が来ると良いな。
■07.28のできごと
「ジョシュアのバースデーパーティー?」
7月下旬に入った頃。
アンリはユウタから話を持ちかけられた。
「7月28日の夜にパーティするから、アンリも協力してね?」
「なんで僕が」
アルフレッドがアンリの横腹を肘で小突く。
「なんでって、お前が一番ジョシュアに世話になってんだろーが」
「世話なんか僕は頼んでない」肘を払い除ける。「パーティは君達で勝手にやれば」
「バーカ。おめーも強制参加に決まってんだろ」
アンリの首に腕を回す。ハリウッドスターは珍しくシリアスな声で言った。
「祝ってやれって。これが最後なんだぞ。ジョシュア、もうすぐ卒業なんだぜ?」
アンリは腕の中で呟いた。
「そんなこと…」
天才役者は、はしゃいだ声に戻る。
「バースデープレゼントさ! おめーのカラダにリボン巻きつけるってのどーよ?」
「意味が解らない」
「だからー、こう全身にクルクルクルーっとさ、んで、胸元でちょうちょ結び」
「あっ、似合うかも!」
そう言ったユウタに、氷の眼差しが突き刺さる。ユウタが空笑いする。
「な、なーんて思ったりしてー」
ハルヤがユウタの腕を引く。こっそりと囁いた。
「ユウタ、こういう時は、会話に加わらない方が良いよ」
シルヴァンがパンと手を合わせる。
「じゃ、白雪姫ごっこはどうでしょう?」
アルフレッドが首を傾げる。
「何だよ、それ」
「誕生日の夜、ジョシュアが部屋に戻ると、
ベッドに白雪アンリが眠ってるんですよ、こうやって、目を閉じて」
シルヴァンは胸の前で両手を組んで、祈りのポーズをする。
「もちろん頭にはおっきなリボンを付けて。どうです、びっくりラブリーな演出でしょう?」
「君達は、ここが男子校だと知っている?」
「だからこそ、潤いを求めてるんじゃないですかー」
「僕に求めるな」
「ったく、わがままプリンセスだなー。なら、どこにリボン付けて欲しいんだよ?」
「リボンから離れて」
誕生日当夜。
バースデーケーキには、ジョシュアが好きなお菓子、
キングズ・フィンガー 特大バージョンが用意された。
もはや指というレベルではなく、大きいロールケーキになっていた。
ケーキを食べ終わると、各自、用意したプレゼントを渡した。
個性溢れる贈り物をジョシュアは全て嬉しそうに受け取っていた。
最後にアンリが残った。身体にリボンは巻いていない。
小さなプレゼントに緑のリボンが飾られていた。
隣のアルフレッドに、また横腹を突かれる。
「お前の番だぞ、アンリ」
「解ってる」
ジョシュアの前に進む。穏やかで優しい笑顔がアンリを見つめている。
もう四年も見ているのに、こう目の前に晒されると未だに慣れない。
無愛想に小箱を差し出した。
「Joyeux anniversaire(誕生日おめでとう)」
ぶっきらぼうなフランス語。
ジョシュアは微笑み、小箱を持つ手に自分の手を重ねた。
「Merci beaucoup(どうもありがとう)」
fin
■ジョシュアのメール ―07.28―
---------------------------
送信者:ジョシュア
日時:2008年07月28日 22:36
件名:ありがとう
---------------------------
電話でも伝えたけれど、今日は本当に、
バースデーコール、どうもありがとう。
寮のみんなには、バースデーパーティをしてくれたんだ。
愛する人と友人に誕生日を祝って貰えて、とても幸せな一日だった。
今日改めて感じたよ。
俺は君に会う為に生まれて来たんだなって。
愛してるよ、これからもずっと。
貴女の、
ジョシュア・グラント
---------------------------
やあ、こんにちは。
元気…じゃないみたいだね? 何かあったのかい?
え? ああ、昨夜のシルヴァンのこと?
すまない。驚かせてしまったよね。
彼に悪気はないんだよ、アルコールのせいだし。
昨日は久し振りにアイヴィーと夜遊びして楽しかったみたいでね。
うん。みんなにキスしてた、レッドにもハルヤにも。
アンリは怒るからできなかったみたいだけど。
もちろんユウタもね。初めての時はビックリしてたけど、
最近はけっこう平気になったみたいだよ?
あ、ごめん。君の弟に可笑しな耐性を付けてしまったかな。
今までに? えっと、どのくらいだろう…
数えたことなかったから…年に何回か、かな。
もしかして、妬いてくれたの?
嬉しいな、君にそんなふうに思って貰えるなんて。
今度からはシルヴァンにもキスされないように気を付けるよ。
「俺は貴女だけのものだから」って。
そう言ったら、余計狙われてしまうかな?
■ジョシュアの電話 ―今日のディナー―
今日のディナー、日本の手巻き寿司だったんだ。
ウーティス寮のシェフが本ワサビを栽培していてね、
夏になって収穫できたからって。うん、美味しかったよ。
ホースラディッシュと違って、まろやかな辛さだね。
ユウタとハルヤとシルヴァンが、
俺達に手巻き寿司の作り方を教えてくれたんだ。
好きなものを選んで作れるんだね。
最後はロシアンルーレットをやることになって、
六個の手巻き寿司のうち、一個だけワサビをたくさん入れてね。
俺はセーフだったんだけど、誰が当たったと思う?
正解。良く解ったね。ちょっと涙目になってて、
可哀想だったけど、楽しいディナーだったよ。
いつか、君と一緒に手巻き寿司が食べられる日が来ると良いな。
■07.28のできごと
「ジョシュアのバースデーパーティー?」
7月下旬に入った頃。
アンリはユウタから話を持ちかけられた。
「7月28日の夜にパーティするから、アンリも協力してね?」
「なんで僕が」
アルフレッドがアンリの横腹を肘で小突く。
「なんでって、お前が一番ジョシュアに世話になってんだろーが」
「世話なんか僕は頼んでない」肘を払い除ける。「パーティは君達で勝手にやれば」
「バーカ。おめーも強制参加に決まってんだろ」
アンリの首に腕を回す。ハリウッドスターは珍しくシリアスな声で言った。
「祝ってやれって。これが最後なんだぞ。ジョシュア、もうすぐ卒業なんだぜ?」
アンリは腕の中で呟いた。
「そんなこと…」
天才役者は、はしゃいだ声に戻る。
「バースデープレゼントさ! おめーのカラダにリボン巻きつけるってのどーよ?」
「意味が解らない」
「だからー、こう全身にクルクルクルーっとさ、んで、胸元でちょうちょ結び」
「あっ、似合うかも!」
そう言ったユウタに、氷の眼差しが突き刺さる。ユウタが空笑いする。
「な、なーんて思ったりしてー」
ハルヤがユウタの腕を引く。こっそりと囁いた。
「ユウタ、こういう時は、会話に加わらない方が良いよ」
シルヴァンがパンと手を合わせる。
「じゃ、白雪姫ごっこはどうでしょう?」
アルフレッドが首を傾げる。
「何だよ、それ」
「誕生日の夜、ジョシュアが部屋に戻ると、
ベッドに白雪アンリが眠ってるんですよ、こうやって、目を閉じて」
シルヴァンは胸の前で両手を組んで、祈りのポーズをする。
「もちろん頭にはおっきなリボンを付けて。どうです、びっくりラブリーな演出でしょう?」
「君達は、ここが男子校だと知っている?」
「だからこそ、潤いを求めてるんじゃないですかー」
「僕に求めるな」
「ったく、わがままプリンセスだなー。なら、どこにリボン付けて欲しいんだよ?」
「リボンから離れて」
誕生日当夜。
バースデーケーキには、ジョシュアが好きなお菓子、
キングズ・フィンガー 特大バージョンが用意された。
もはや指というレベルではなく、大きいロールケーキになっていた。
ケーキを食べ終わると、各自、用意したプレゼントを渡した。
個性溢れる贈り物をジョシュアは全て嬉しそうに受け取っていた。
最後にアンリが残った。身体にリボンは巻いていない。
小さなプレゼントに緑のリボンが飾られていた。
隣のアルフレッドに、また横腹を突かれる。
「お前の番だぞ、アンリ」
「解ってる」
ジョシュアの前に進む。穏やかで優しい笑顔がアンリを見つめている。
もう四年も見ているのに、こう目の前に晒されると未だに慣れない。
無愛想に小箱を差し出した。
「Joyeux anniversaire(誕生日おめでとう)」
ぶっきらぼうなフランス語。
ジョシュアは微笑み、小箱を持つ手に自分の手を重ねた。
「Merci beaucoup(どうもありがとう)」
fin
■ジョシュアのメール ―07.28―
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送信者:ジョシュア
日時:2008年07月28日 22:36
件名:ありがとう
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電話でも伝えたけれど、今日は本当に、
バースデーコール、どうもありがとう。
寮のみんなには、バースデーパーティをしてくれたんだ。
愛する人と友人に誕生日を祝って貰えて、とても幸せな一日だった。
今日改めて感じたよ。
俺は君に会う為に生まれて来たんだなって。
愛してるよ、これからもずっと。
貴女の、
ジョシュア・グラント
---------------------------
■ジョシュア×アンリ
「アンリ、起きて、アンリ」
頭が重い。眠たくて瞼が開かない。
朝から名前を連呼されて、いい気分になれる訳がない。
「起きて、早く」
優しく肩を揺すられた。
「やだ…ねむい…」
相手はそこでクスッと笑った。
「頭が重たいのは解るけど、起きた方が良いよ、アンリ」
妙な言い方だった。目を擦りながら、ぼんやり目覚める。
窓から朝陽が差し込んでいる。自然に光を背負った人。
彼は、おはよう、と笑った。
こんな時間から、爽やかな王子に少し腹が立つ。
「なんで、わざわざ起こしに来るの…」
彼は可笑しそうに笑った。
「アンリ、まだ気付かないのかい?」
嫌味なくらい優しいハニーボイス。
目の前にあるのは、深紅の瞳だった。
「長い夢でも見てたのかな、俺達」
「夢で片付けられること? 同時に同じ夢を何日も見る?」
「不思議な島だし、たまにはこういうこともあるのかもしれないよ?」
「君、神秘学を受講して、変人に感化された?」
「ほら、この前もハルヤが何か声が聞こえたって言っていたくらいだからね」
あっ、と二人同時に言う。
「ねえ。あの時、ハルヤは…」
「うん。確か『次は何して遊ぼっか?』って」
「…僕達、もしかして…遊ばれた?」
「そうかも、しれないね…」
「でも誰に」
「解らないね。まあ、もう戻れたんだから良いじゃないか」
「優等生だね、君は。僕は納得できないよ。
できることなら、損害賠償を請求したいところだよ。
訳も解らず入れ替わって、訳も解らず元に戻るなんて」
「俺は感謝してるけどな」
「感謝? 何を?」
「解ったから。たくさんのこと」
ジョシュアが僕の頬に触れる。
その手はもう冷たくなかった。
放課後のウーティス寮サロン。
シルヴァンから知らせを受けて、テオが飛び込んで来た。
「君達、元に戻ったんだって!?」
「はい。ご心配をお掛けしてすみませんでした」
「おお! そのホットなハニーボイスはまさしくジョシュア!」
感動したテオがジョシュアを抱き締める。
良かったね良かったね、とバシバシ背中を叩く。
ジョシュアは少し困り顔だったが、ありがとうございます、と言った。
『感動の再会』を満喫したテオがパッと離れて、顔を上げた。
「で、君達は一体どうやって元に戻ったんだい?」
「それが…解らないんです。今朝起きたら元に戻ってて」
「今朝? では昨夜辺り何か…ステキなことをしたのでは?」
「いいえ。特に何も」
僕は溜め息混じりに言う。
「意味が解らないよ。僕達は何もしてないのに」
「いやいや。効果があったんじゃないかい? ちょっとタイムラグがあっただけでね」
ウーティス寮生の多くが首を傾げる。
聖アルフォンソ学院の生徒代表は、びしっと人差し指を立てた。
「やはり、困った時は王子様のキスなのだよ!」
確かなことは何ひとつ解らないまま、ウーティス寮に日常が戻った。
他の寮生達も喜び、夕食時には乾杯までして、騒がしく一日が終わった。
就寝前、僕はジョシュアの部屋を訪ねた。
セイロンティー色の猫を連れて。
「この子、今夜から君が預かって」
突き出された猫を、ジョシュアは受け取れなかった。
「でも、アンリが今まで」
「この子の目に映っていたのは、ジョシュアの皮を被った僕だもの」
ほら、と急かされ、ジョシュアは仕方なく猫を抱く。
猫の視線が僕からジョシュアに移る。
見慣れた顔を見て安心したのか、大人しく抱かれていた。
僕は一歩後退り、呟いた。
「おやすみ、ルフナ」
猫の耳がピクと動く。ジョシュアの腕の中でもぞもぞした。
ジョシュアは「解ったよ」と言って床に下ろした。
猫は僕に駆け寄り、みゃあと鳴いた。
「ルフナ…君は目が悪いの? ジョシュアは彼でしょう?」
淡い紅茶色の猫は、きょとんとした目で見上げ、みゃあと鳴いた。
「俺がルフナの通訳をしようか?」
深紅の瞳が琥珀の瞳を見つめる。
「アンリと一緒に眠りたいな」
僕は膝を落とす。人差し指で猫の喉に触れた。
「セクシーなことを言うようになったね、ルフナ」
ジョシュアの額を盗み見る。
在るべき場所に、王冠は在った。
fin
頭が重い。眠たくて瞼が開かない。
朝から名前を連呼されて、いい気分になれる訳がない。
「起きて、早く」
優しく肩を揺すられた。
「やだ…ねむい…」
相手はそこでクスッと笑った。
「頭が重たいのは解るけど、起きた方が良いよ、アンリ」
妙な言い方だった。目を擦りながら、ぼんやり目覚める。
窓から朝陽が差し込んでいる。自然に光を背負った人。
彼は、おはよう、と笑った。
こんな時間から、爽やかな王子に少し腹が立つ。
「なんで、わざわざ起こしに来るの…」
彼は可笑しそうに笑った。
「アンリ、まだ気付かないのかい?」
嫌味なくらい優しいハニーボイス。
目の前にあるのは、深紅の瞳だった。
「長い夢でも見てたのかな、俺達」
「夢で片付けられること? 同時に同じ夢を何日も見る?」
「不思議な島だし、たまにはこういうこともあるのかもしれないよ?」
「君、神秘学を受講して、変人に感化された?」
「ほら、この前もハルヤが何か声が聞こえたって言っていたくらいだからね」
あっ、と二人同時に言う。
「ねえ。あの時、ハルヤは…」
「うん。確か『次は何して遊ぼっか?』って」
「…僕達、もしかして…遊ばれた?」
「そうかも、しれないね…」
「でも誰に」
「解らないね。まあ、もう戻れたんだから良いじゃないか」
「優等生だね、君は。僕は納得できないよ。
できることなら、損害賠償を請求したいところだよ。
訳も解らず入れ替わって、訳も解らず元に戻るなんて」
「俺は感謝してるけどな」
「感謝? 何を?」
「解ったから。たくさんのこと」
ジョシュアが僕の頬に触れる。
その手はもう冷たくなかった。
放課後のウーティス寮サロン。
シルヴァンから知らせを受けて、テオが飛び込んで来た。
「君達、元に戻ったんだって!?」
「はい。ご心配をお掛けしてすみませんでした」
「おお! そのホットなハニーボイスはまさしくジョシュア!」
感動したテオがジョシュアを抱き締める。
良かったね良かったね、とバシバシ背中を叩く。
ジョシュアは少し困り顔だったが、ありがとうございます、と言った。
『感動の再会』を満喫したテオがパッと離れて、顔を上げた。
「で、君達は一体どうやって元に戻ったんだい?」
「それが…解らないんです。今朝起きたら元に戻ってて」
「今朝? では昨夜辺り何か…ステキなことをしたのでは?」
「いいえ。特に何も」
僕は溜め息混じりに言う。
「意味が解らないよ。僕達は何もしてないのに」
「いやいや。効果があったんじゃないかい? ちょっとタイムラグがあっただけでね」
ウーティス寮生の多くが首を傾げる。
聖アルフォンソ学院の生徒代表は、びしっと人差し指を立てた。
「やはり、困った時は王子様のキスなのだよ!」
確かなことは何ひとつ解らないまま、ウーティス寮に日常が戻った。
他の寮生達も喜び、夕食時には乾杯までして、騒がしく一日が終わった。
就寝前、僕はジョシュアの部屋を訪ねた。
セイロンティー色の猫を連れて。
「この子、今夜から君が預かって」
突き出された猫を、ジョシュアは受け取れなかった。
「でも、アンリが今まで」
「この子の目に映っていたのは、ジョシュアの皮を被った僕だもの」
ほら、と急かされ、ジョシュアは仕方なく猫を抱く。
猫の視線が僕からジョシュアに移る。
見慣れた顔を見て安心したのか、大人しく抱かれていた。
僕は一歩後退り、呟いた。
「おやすみ、ルフナ」
猫の耳がピクと動く。ジョシュアの腕の中でもぞもぞした。
ジョシュアは「解ったよ」と言って床に下ろした。
猫は僕に駆け寄り、みゃあと鳴いた。
「ルフナ…君は目が悪いの? ジョシュアは彼でしょう?」
淡い紅茶色の猫は、きょとんとした目で見上げ、みゃあと鳴いた。
「俺がルフナの通訳をしようか?」
深紅の瞳が琥珀の瞳を見つめる。
「アンリと一緒に眠りたいな」
僕は膝を落とす。人差し指で猫の喉に触れた。
「セクシーなことを言うようになったね、ルフナ」
ジョシュアの額を盗み見る。
在るべき場所に、王冠は在った。
fin
■ジョシュア×アンリ
夜。ハルヤの部屋。
ハルヤはベッドの中で、ここ数日を振り返っていた。
同じ寮のジョシュアとアンリが入れ替わってしまった。
中身が本人じゃなかったと聞いて納得できる部分もあった。
なんだかジョシュアはそっけないし、アンリは変に優しいし。
シュヌーシアの生徒には、
「ジョシュア、機嫌悪いみたいだけど、なんかあったのか?」って聞かれたり、
あと「アンリにおはようって言われた」って喜んでた人も居たし。
だけど、ひとつ気になることがある。
二人が入れ替わったのは三日前だと言っていた。
ということは、バーベキューパーティの日、
自分と話してたジョシュアは、アンリだったことになる。
あの時、話題にしていたのはアンリのことだ。
アンリの歌を黙って聞いていたことを、本人の前で言ってしまった。
「怒った、かなあ…」
アンリだと知らなかったから言えたこともある。
テオに絡まれてる時とかにアンリが助けてくれて嬉しかったということ。
それに、俺はアンリに嫌われてるんじゃないかって言った時。
彼は言ったのだ。
――アンリは別に、君のこと嫌いじゃないと思うけど――
あの時の言葉は本音だったのだろうか。
それとも、ジョシュアのフリをしていただけだったのだろうか。
どっちなのか、本人に聞いてみる勇気は、ない。
「ジョシュア、少しお時間頂けますか?」
ジョシュアの部屋にシルヴァンが訪れた。
「なんだい、シルヴァン?」
「バーベキューの夜、貴方が言ったことについて、なんですけどね?」
ジョシュアは臆病な人だと思う、周囲の目ばかりを気にしている、
など今考えると自虐的な言葉を並べてしまった。
「あ、あれは…アンリのマネをしなくちゃいけないと思って…」
シルヴァンは優しい顔をして笑った。
「貴方は本当に嘘を吐くことに向いていませんね?
もう言っちゃったことなんですから、イイじゃないですか、隠さなくても」
ジョシュアは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「…ごめん。あんなこと聞かせてしまって。気にしないでいいから」
シルヴァンの顔から笑みが消える。
「いいえ。気にしますよ、とっても。
貴方から聞いた、初めての弱音なんですから」
「すまない。もう、言わないから。この話は…」
「おしまいになんて、しないで下さい」
シルヴァンはジョシュアを後ろからそっと抱き締めた。
「これからはもっと聞かせてくれませんか?
苦しいことも、悲しいことも、僕に分けて下さい」
かつて天文台だったと思われる遺跡。
日中は生徒達が散歩に来ることもあるが、深夜ともなれば風や虫が集うばかり。
時折、吹く風が春の艶やかな草原を撫でる。
白いストーンサークルは月光に照らされていた。
夜行性の虫達が、ひそひそと夜中のお喋りを楽しんでいた。
ふっとお喋りが止む。人間の足音を聞き取ったのだ。
優雅な靴音が、キャンパスから天文台に向かってゆっくり進んでいる。
草原に棲む者達は、石や草の陰に隠れて、彼の様子を伺っていた。
人間は聖アルフォンソ学院の制服を着ていない。
ダークブラウンのスーツに、同じ色で合わせたクロスタイ。
40歳前後に見える紳士だった。
天文台まで辿り着くと、ある石の前で立ち止まった。
石を見上げて言った。
「探したよ。此処に居たんだね。こんばんは」
――ねえ。もしかして話し掛けられているのって僕達かな?――
――人間に俺達が見えるわけねーじゃん。放っとこうぜ――
「見えるよ? 可愛い天使が二人、この石の上に腰掛けている」
――えっ、可愛いなんて…――
――照れるとこじゃねーだろっ――
「今宵は、ちょっとお願いがあって会いに来たんだ。
もし君達が、王の子と錬金術師の子に術を掛けたのなら、
元に戻してあげてくれないかね? ああ、怒るつもりはないよ?
あの子達の光に惹かれてしまったんだろう? 最近、光が増しているから」
――そ、そんなの知らないぜ?――
「おや。違ったかね? 『転換』なんて高度な術を使えるのは、
古くから学院を守ってくれている君達だけだと思ったのだがね」
――ま、俺達しかできないだろうなっ!――
――ちょっとっ――
――あっ、ヤベッ――
紳士は遺跡の上を見つめたまま、くすくすと笑う。
「相変わらず可愛らしいね、君達は」
――お、おじさん、何者なんだよっ!?――
「おじさんはこの学校の先生だよ、今はね」
――先生? でも普通の人間に俺達の姿が見える筈は――
――待って。あの人、昔会ったことない?――
「思い出してくれたかい? 忘れてしまうのも無理はないね。
アルフォンソが居た頃の話だから」
――あ、もしかして――
紳士は人差し指を唇に当てる。
「生徒達には内緒にしてくれるかね?」
To be continued(NEXT:Final)
ハルヤはベッドの中で、ここ数日を振り返っていた。
同じ寮のジョシュアとアンリが入れ替わってしまった。
中身が本人じゃなかったと聞いて納得できる部分もあった。
なんだかジョシュアはそっけないし、アンリは変に優しいし。
シュヌーシアの生徒には、
「ジョシュア、機嫌悪いみたいだけど、なんかあったのか?」って聞かれたり、
あと「アンリにおはようって言われた」って喜んでた人も居たし。
だけど、ひとつ気になることがある。
二人が入れ替わったのは三日前だと言っていた。
ということは、バーベキューパーティの日、
自分と話してたジョシュアは、アンリだったことになる。
あの時、話題にしていたのはアンリのことだ。
アンリの歌を黙って聞いていたことを、本人の前で言ってしまった。
「怒った、かなあ…」
アンリだと知らなかったから言えたこともある。
テオに絡まれてる時とかにアンリが助けてくれて嬉しかったということ。
それに、俺はアンリに嫌われてるんじゃないかって言った時。
彼は言ったのだ。
――アンリは別に、君のこと嫌いじゃないと思うけど――
あの時の言葉は本音だったのだろうか。
それとも、ジョシュアのフリをしていただけだったのだろうか。
どっちなのか、本人に聞いてみる勇気は、ない。
「ジョシュア、少しお時間頂けますか?」
ジョシュアの部屋にシルヴァンが訪れた。
「なんだい、シルヴァン?」
「バーベキューの夜、貴方が言ったことについて、なんですけどね?」
ジョシュアは臆病な人だと思う、周囲の目ばかりを気にしている、
など今考えると自虐的な言葉を並べてしまった。
「あ、あれは…アンリのマネをしなくちゃいけないと思って…」
シルヴァンは優しい顔をして笑った。
「貴方は本当に嘘を吐くことに向いていませんね?
もう言っちゃったことなんですから、イイじゃないですか、隠さなくても」
ジョシュアは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「…ごめん。あんなこと聞かせてしまって。気にしないでいいから」
シルヴァンの顔から笑みが消える。
「いいえ。気にしますよ、とっても。
貴方から聞いた、初めての弱音なんですから」
「すまない。もう、言わないから。この話は…」
「おしまいになんて、しないで下さい」
シルヴァンはジョシュアを後ろからそっと抱き締めた。
「これからはもっと聞かせてくれませんか?
苦しいことも、悲しいことも、僕に分けて下さい」
かつて天文台だったと思われる遺跡。
日中は生徒達が散歩に来ることもあるが、深夜ともなれば風や虫が集うばかり。
時折、吹く風が春の艶やかな草原を撫でる。
白いストーンサークルは月光に照らされていた。
夜行性の虫達が、ひそひそと夜中のお喋りを楽しんでいた。
ふっとお喋りが止む。人間の足音を聞き取ったのだ。
優雅な靴音が、キャンパスから天文台に向かってゆっくり進んでいる。
草原に棲む者達は、石や草の陰に隠れて、彼の様子を伺っていた。
人間は聖アルフォンソ学院の制服を着ていない。
ダークブラウンのスーツに、同じ色で合わせたクロスタイ。
40歳前後に見える紳士だった。
天文台まで辿り着くと、ある石の前で立ち止まった。
石を見上げて言った。
「探したよ。此処に居たんだね。こんばんは」
――ねえ。もしかして話し掛けられているのって僕達かな?――
――人間に俺達が見えるわけねーじゃん。放っとこうぜ――
「見えるよ? 可愛い天使が二人、この石の上に腰掛けている」
――えっ、可愛いなんて…――
――照れるとこじゃねーだろっ――
「今宵は、ちょっとお願いがあって会いに来たんだ。
もし君達が、王の子と錬金術師の子に術を掛けたのなら、
元に戻してあげてくれないかね? ああ、怒るつもりはないよ?
あの子達の光に惹かれてしまったんだろう? 最近、光が増しているから」
――そ、そんなの知らないぜ?――
「おや。違ったかね? 『転換』なんて高度な術を使えるのは、
古くから学院を守ってくれている君達だけだと思ったのだがね」
――ま、俺達しかできないだろうなっ!――
――ちょっとっ――
――あっ、ヤベッ――
紳士は遺跡の上を見つめたまま、くすくすと笑う。
「相変わらず可愛らしいね、君達は」
――お、おじさん、何者なんだよっ!?――
「おじさんはこの学校の先生だよ、今はね」
――先生? でも普通の人間に俺達の姿が見える筈は――
――待って。あの人、昔会ったことない?――
「思い出してくれたかい? 忘れてしまうのも無理はないね。
アルフォンソが居た頃の話だから」
――あ、もしかして――
紳士は人差し指を唇に当てる。
「生徒達には内緒にしてくれるかね?」
To be continued(NEXT:Final)
■ジョシュア×アンリ
翌日の放課後。
ウーティス寮生は全員、サロンに集合していた。
アルフレッドが手を挙げる。
「ジョシュアとアンリを元に戻すぜ大作戦、始めるぞっ!」
おー、とアンリ以外の腕が上がる。
「じゃ、手始めに!」
アルフレッドがジョシュアとアンリの肩に手を置く。
「お前等の頭をゴッツンコさせてみっか!」
「なんで」
「王道なんだから、試してみないとダメだろ!
コレ一発で元に戻るかもしんねーぜ?」
ゴッツンコ作戦が強行されることになった。
ジョシュアとアンリは少し離れた距離に立つ。
シルヴァンとハルヤはソファで見守っている。アルフレッドが仕切っていた。
「よーし。二人とも、俺の合図で一斉にぶつけろよ? いいか? レディ、ゴー!」
合図のタイミング通りに額をぶつけた。
ジョシュアは額を押さえながら目の前の顔を見る。
自分の顔。変わっていない。
「すまない、レッド。戻らなかったみたいだ」
ジョシュアはアンリの肩に手を置く。
「大丈夫かい、アンリ」
「いたい」
赤くなってしまったアンリの額にジョシュアが手を伸ばす。
「ごめんね」
「撫でるな」
ぱしっと手を避けた。
アルフレッドは後頭部で手を組む。
「じゃあ、今度は助走でも付けてみっか?」
「まだやるの?」
「今のじゃ、衝撃が足りなかったかもしんねーだろ?」
ジョシュアとアンリはサロンの両端にスタンバイする。
二人が走り出したと同時に、ドアが派手に開いた。
「東洋の黒い真珠! 今日はニッポンスイーツをお持ちしたよ!」
陽気な生徒代表が現れた。
走ってくるジョシュアと徒歩に近いアンリがぶつかった。
アルフレッドが「どうだっ?」と聞き、ジョシュアは首を振った。
テオが、どすどすサロンに入ってくる。
「ど、どうして、肌と肌のぶつかり合いをしているんだい、君達!
美しい額に傷が付いてしまうよ? 触れ合いたいのならばもっとソフトに」
ジョシュアがアンリに聞く。
「テオは生徒代表だ。知っていて貰った方が良いよね?」
「…仕方ないな」
「テオ、お話があります。驚かせてしまうと思いますが、実は俺達」
「おや。ついにゴールインするのかい! いやあ、めでたいめでたい!」
「いえ、違います。あの、俺達、身体と魂が入れ替わってしまって」
「おっと、それは失礼。まだ気が早かったようだね。
かねてから似合いの王子様とお姫様と思っていたものだから。
でも、めでたい日から来た暁には、何でも協力させておくれ?
あ! 私の船で良ければ式場に貸そう。潮風と海鳥に祝福されながら、
豪華客船で披露宴なんて、なかなか優雅じゃないか。
そのままハネムーンにも行けて便利だし。我ながらグッドアイディアだ。
だから、入れ替わったなどという些末時は気にせず…って、い、入れ替わったっ!?」
アンリが呟く。
「…単細胞しか居ないのかな、この学院」
ジョシュアから事情を聞いたテオは、うんうんと深く頷いていた。
「成程。さすがは聖アルフォンソ学院だ。
何が起こっても不思議はない場所だもの。いやはや、愛着が増したよ」
「お前、心広いなー、テオ」
そう言いながら、レッドが串団子を食べる。
皆もソファに座り、テオの持って来た和菓子を食べならがら、話を聞いていた。
日本の味を見事に再現した、みたらし団子だった。
各自、被り付いたり、フォークで差して食べていた。
テオは紅茶のカップを置く。
「頭をぶつけるという作戦ではダメだったのだね。
では、アレはもう試したかい?」
「アレって?」
「やはり、こういう場合は、口付けで元に戻るんじゃないかな?」
驚愕の視線を受け止めて、テオはゆったりと言った。
「定説だろう? 困った時の王子様のキスは。
しかも、ここにはプリンスがよりどりみどりじゃないか。
そしてお姫様役は聖アルフォンソ学院が誇る、プリンセス・アンリだ」
テオが颯爽と右手を差し出す。
「さあ、おいで、プリンセス。私の熱い口付けで元に戻してあげよう」
アルフレッドが立ちはだかる。
「なんでテオが王子役なんだよっ!」
「おや。私もマージナルプリンスの一人なのだから資格はあるだろう?
ああ、それに、ほら! 生徒代表としての強い責任感から…」
「後付けだろ、その理由」
「アルフレッド、役を譲って欲しいのかい?
ではコイントスで公平に順番を決めよう。
それとも、第一回『王子様オーディション』でも華々しく開催して」
「しなくていいから」
アンリが遮る。テオはむしろ嬉しそうだった。
「おやおや。氷のハニーボイスというのもまた魅惑的だねえ」
シルヴァンが手を挙げる。
「僕、『王子様オーディション』にエントリーします!」
ハルヤが頬を染めた。
「な、なんでシルヴァンがっ?」
「お二人のピンチですから。でも、キスとなると、どちらが良いのか迷いますね。
ジョシュアの唇を持っているのはアンリで、アンリの唇はジョシュアでしょう?」
「そうだねえ。これは究極の選択だ。
難しくもお買い得な二択だもの。シルヴァン、どちらにする? 私はねえ」
「ちょ、ちょっと待って!」
「おや。東洋の黒い真珠もエントリーかい?
けれど君の場合は、王子様というよりお姫様役の方が美しいと思うよ?
あ! もしかして、アンリに妬いてしまったの?
ああ、私としたことが。悲しい思いをさせてすまない。
案ずることはないよ、東洋の黒い真珠。私は喜んで君にも熱い」
「そ、そうじゃなくって。王子様役って、テオとかシルヴァンじゃダメじゃない?
もし、どうしてもっていうなら、当事者同士のジョシュアとアンリだと思うけど…
ジョシュアは、本当に王子様なんだし」
「成程。確かに、東洋の黒い真珠の言う通りだ。
我々の中では、ジョシュアが最も王子様役に適している」
ジョシュアがアンリを振り向く。
「アンリ」
「ちょっと。君まで、何、その気になってるの? これは童話なんかじゃ」
「でも、もしこれで元に戻れるなら」
「絶対に上手くいくという保証はない」
「絶対に失敗するという保証もないよ。
可能性がありそうなことは、とにかくやってみよう」
「今、僕達が好奇の目に晒されてるのが解らないの?」
外野はことの成り行きを熱く見守っていた。
悪びれない生徒代表が笑顔を見せる。
「ああ。私達がお邪魔だったかい?
失礼、失礼。そうだね、秘め事は二人きりでするべきだ。
私達はサロンで待っているから、君達は愛の巣に行っておいで?」
「解りました。アンリ、俺の部屋へ」
「本気なの、ジョシュア」
「ああ。本気だよ」
行こう、と腕を引いて、サロンから消えていった。
残された外野は顔を見合わせて、二人の後を追い駆けた。
ジョシュアの部屋まで忍び足で行き、ドアを薄く開けた。
二人は向かい合ってベッドに腰掛けていた。
見た目上では、アンリがジョシュアを見つめている。
逆にジョシュアは目を合わせず、右下に視線を落としていた。
外野は喰い付いて見たり、目を手で覆った隙間から覗き見ていた。
テオは、ほう、と息を吐いて「絵になる二人だねえ」と呟く。
デッドプリンスは揃って人差し指を立てた。
部屋の中では、アンリの声でジョシュアが優しく尋ねていた。
「アンリ、怖いかい?」
「別に。唇を重ねるだけでしょう」
「もし、どうしてもアンリが嫌なら、他の誰かに…」
「此処まで連れて来たのは君でしょう? …早く、すれば」
「うん。すまない。じゃ、目を閉じて」
深紅の瞳が閉じる。頬に手が添えられる。
二人の距離が近付いていく。
ジョシュアはアンリの耳に何か囁いた。
アンリが何か言おうとした時、ジョシュアが唇を重ねた。
二秒ほどで静かに離れた。見つめ合った二人は肩を落とした。
ハニーボイスが毒吐く。
「…こんなことで、戻れるわけないじゃない」
「時間が短かったのかな…」
「えっ?」
ジョシュアは微笑みながら言った。
「もう一度、してみる?」
アンリは傍にあった枕を投げ付ける。
枕を受け止めて、ジョシュアは笑った。
「すまない。サロンに戻ろうか」
観客は慌てて引き上げた。
ジョシュアとアンリがサロンに戻ってくる。
みんなはサロンでくつろいでいた風の演技で出迎える。
「ど、どーだった?」
ジョシュアが首を振る。
「ごめん。ダメだったよ」
知ってるけどね、と観客達は心の中で呟いた。
テオは肘掛け椅子に身を沈めながら、
「さてさて。これからどうしたものかな? けれど、先ずは」
「先ずは?」
「二人の愛が深まったお祝いに、ひとつ盛大なパーティーでも」
「しなくていいから」
「あはは。良いねえ、氷のハニーボイス。
アイスハニーティーが飲みたくなってきたよ」
どんなに冷たく言っても喜ばれる。
苦手な相手を無視して、ハニーボイスは相方にそっと毒吐いた。
「ねえ。あの人、楽しんでるだけじゃない?」
「いや、生徒代表自ら一生懸命協力してくれてるんじゃないか」
「そうは見えない」
その後も考えられる方法を尽くしてみたが、
全て空振りに終わった。
To be continued
ウーティス寮生は全員、サロンに集合していた。
アルフレッドが手を挙げる。
「ジョシュアとアンリを元に戻すぜ大作戦、始めるぞっ!」
おー、とアンリ以外の腕が上がる。
「じゃ、手始めに!」
アルフレッドがジョシュアとアンリの肩に手を置く。
「お前等の頭をゴッツンコさせてみっか!」
「なんで」
「王道なんだから、試してみないとダメだろ!
コレ一発で元に戻るかもしんねーぜ?」
ゴッツンコ作戦が強行されることになった。
ジョシュアとアンリは少し離れた距離に立つ。
シルヴァンとハルヤはソファで見守っている。アルフレッドが仕切っていた。
「よーし。二人とも、俺の合図で一斉にぶつけろよ? いいか? レディ、ゴー!」
合図のタイミング通りに額をぶつけた。
ジョシュアは額を押さえながら目の前の顔を見る。
自分の顔。変わっていない。
「すまない、レッド。戻らなかったみたいだ」
ジョシュアはアンリの肩に手を置く。
「大丈夫かい、アンリ」
「いたい」
赤くなってしまったアンリの額にジョシュアが手を伸ばす。
「ごめんね」
「撫でるな」
ぱしっと手を避けた。
アルフレッドは後頭部で手を組む。
「じゃあ、今度は助走でも付けてみっか?」
「まだやるの?」
「今のじゃ、衝撃が足りなかったかもしんねーだろ?」
ジョシュアとアンリはサロンの両端にスタンバイする。
二人が走り出したと同時に、ドアが派手に開いた。
「東洋の黒い真珠! 今日はニッポンスイーツをお持ちしたよ!」
陽気な生徒代表が現れた。
走ってくるジョシュアと徒歩に近いアンリがぶつかった。
アルフレッドが「どうだっ?」と聞き、ジョシュアは首を振った。
テオが、どすどすサロンに入ってくる。
「ど、どうして、肌と肌のぶつかり合いをしているんだい、君達!
美しい額に傷が付いてしまうよ? 触れ合いたいのならばもっとソフトに」
ジョシュアがアンリに聞く。
「テオは生徒代表だ。知っていて貰った方が良いよね?」
「…仕方ないな」
「テオ、お話があります。驚かせてしまうと思いますが、実は俺達」
「おや。ついにゴールインするのかい! いやあ、めでたいめでたい!」
「いえ、違います。あの、俺達、身体と魂が入れ替わってしまって」
「おっと、それは失礼。まだ気が早かったようだね。
かねてから似合いの王子様とお姫様と思っていたものだから。
でも、めでたい日から来た暁には、何でも協力させておくれ?
あ! 私の船で良ければ式場に貸そう。潮風と海鳥に祝福されながら、
豪華客船で披露宴なんて、なかなか優雅じゃないか。
そのままハネムーンにも行けて便利だし。我ながらグッドアイディアだ。
だから、入れ替わったなどという些末時は気にせず…って、い、入れ替わったっ!?」
アンリが呟く。
「…単細胞しか居ないのかな、この学院」
ジョシュアから事情を聞いたテオは、うんうんと深く頷いていた。
「成程。さすがは聖アルフォンソ学院だ。
何が起こっても不思議はない場所だもの。いやはや、愛着が増したよ」
「お前、心広いなー、テオ」
そう言いながら、レッドが串団子を食べる。
皆もソファに座り、テオの持って来た和菓子を食べならがら、話を聞いていた。
日本の味を見事に再現した、みたらし団子だった。
各自、被り付いたり、フォークで差して食べていた。
テオは紅茶のカップを置く。
「頭をぶつけるという作戦ではダメだったのだね。
では、アレはもう試したかい?」
「アレって?」
「やはり、こういう場合は、口付けで元に戻るんじゃないかな?」
驚愕の視線を受け止めて、テオはゆったりと言った。
「定説だろう? 困った時の王子様のキスは。
しかも、ここにはプリンスがよりどりみどりじゃないか。
そしてお姫様役は聖アルフォンソ学院が誇る、プリンセス・アンリだ」
テオが颯爽と右手を差し出す。
「さあ、おいで、プリンセス。私の熱い口付けで元に戻してあげよう」
アルフレッドが立ちはだかる。
「なんでテオが王子役なんだよっ!」
「おや。私もマージナルプリンスの一人なのだから資格はあるだろう?
ああ、それに、ほら! 生徒代表としての強い責任感から…」
「後付けだろ、その理由」
「アルフレッド、役を譲って欲しいのかい?
ではコイントスで公平に順番を決めよう。
それとも、第一回『王子様オーディション』でも華々しく開催して」
「しなくていいから」
アンリが遮る。テオはむしろ嬉しそうだった。
「おやおや。氷のハニーボイスというのもまた魅惑的だねえ」
シルヴァンが手を挙げる。
「僕、『王子様オーディション』にエントリーします!」
ハルヤが頬を染めた。
「な、なんでシルヴァンがっ?」
「お二人のピンチですから。でも、キスとなると、どちらが良いのか迷いますね。
ジョシュアの唇を持っているのはアンリで、アンリの唇はジョシュアでしょう?」
「そうだねえ。これは究極の選択だ。
難しくもお買い得な二択だもの。シルヴァン、どちらにする? 私はねえ」
「ちょ、ちょっと待って!」
「おや。東洋の黒い真珠もエントリーかい?
けれど君の場合は、王子様というよりお姫様役の方が美しいと思うよ?
あ! もしかして、アンリに妬いてしまったの?
ああ、私としたことが。悲しい思いをさせてすまない。
案ずることはないよ、東洋の黒い真珠。私は喜んで君にも熱い」
「そ、そうじゃなくって。王子様役って、テオとかシルヴァンじゃダメじゃない?
もし、どうしてもっていうなら、当事者同士のジョシュアとアンリだと思うけど…
ジョシュアは、本当に王子様なんだし」
「成程。確かに、東洋の黒い真珠の言う通りだ。
我々の中では、ジョシュアが最も王子様役に適している」
ジョシュアがアンリを振り向く。
「アンリ」
「ちょっと。君まで、何、その気になってるの? これは童話なんかじゃ」
「でも、もしこれで元に戻れるなら」
「絶対に上手くいくという保証はない」
「絶対に失敗するという保証もないよ。
可能性がありそうなことは、とにかくやってみよう」
「今、僕達が好奇の目に晒されてるのが解らないの?」
外野はことの成り行きを熱く見守っていた。
悪びれない生徒代表が笑顔を見せる。
「ああ。私達がお邪魔だったかい?
失礼、失礼。そうだね、秘め事は二人きりでするべきだ。
私達はサロンで待っているから、君達は愛の巣に行っておいで?」
「解りました。アンリ、俺の部屋へ」
「本気なの、ジョシュア」
「ああ。本気だよ」
行こう、と腕を引いて、サロンから消えていった。
残された外野は顔を見合わせて、二人の後を追い駆けた。
ジョシュアの部屋まで忍び足で行き、ドアを薄く開けた。
二人は向かい合ってベッドに腰掛けていた。
見た目上では、アンリがジョシュアを見つめている。
逆にジョシュアは目を合わせず、右下に視線を落としていた。
外野は喰い付いて見たり、目を手で覆った隙間から覗き見ていた。
テオは、ほう、と息を吐いて「絵になる二人だねえ」と呟く。
デッドプリンスは揃って人差し指を立てた。
部屋の中では、アンリの声でジョシュアが優しく尋ねていた。
「アンリ、怖いかい?」
「別に。唇を重ねるだけでしょう」
「もし、どうしてもアンリが嫌なら、他の誰かに…」
「此処まで連れて来たのは君でしょう? …早く、すれば」
「うん。すまない。じゃ、目を閉じて」
深紅の瞳が閉じる。頬に手が添えられる。
二人の距離が近付いていく。
ジョシュアはアンリの耳に何か囁いた。
アンリが何か言おうとした時、ジョシュアが唇を重ねた。
二秒ほどで静かに離れた。見つめ合った二人は肩を落とした。
ハニーボイスが毒吐く。
「…こんなことで、戻れるわけないじゃない」
「時間が短かったのかな…」
「えっ?」
ジョシュアは微笑みながら言った。
「もう一度、してみる?」
アンリは傍にあった枕を投げ付ける。
枕を受け止めて、ジョシュアは笑った。
「すまない。サロンに戻ろうか」
観客は慌てて引き上げた。
ジョシュアとアンリがサロンに戻ってくる。
みんなはサロンでくつろいでいた風の演技で出迎える。
「ど、どーだった?」
ジョシュアが首を振る。
「ごめん。ダメだったよ」
知ってるけどね、と観客達は心の中で呟いた。
テオは肘掛け椅子に身を沈めながら、
「さてさて。これからどうしたものかな? けれど、先ずは」
「先ずは?」
「二人の愛が深まったお祝いに、ひとつ盛大なパーティーでも」
「しなくていいから」
「あはは。良いねえ、氷のハニーボイス。
アイスハニーティーが飲みたくなってきたよ」
どんなに冷たく言っても喜ばれる。
苦手な相手を無視して、ハニーボイスは相方にそっと毒吐いた。
「ねえ。あの人、楽しんでるだけじゃない?」
「いや、生徒代表自ら一生懸命協力してくれてるんじゃないか」
「そうは見えない」
その後も考えられる方法を尽くしてみたが、
全て空振りに終わった。
To be continued
■ジョシュア×アンリ
入れ替わってから四日目の朝。
朝食前の時間に、ジョシュアはアンリに会いに来た。
アンリは既に起きていて、ドアを開けた時にはワイシャツ姿だった。
首元のボタンはまだ開いていて、くっきり浮かんだ鎖骨が覗いていた。
「アンリ、やっぱり正直に話そう、ウーティスのみんなには」
アンリはジョシュアに背を向けてボタンを閉める。
リボンタイを付けながら相手した。
「まだ言ってるの、そんなこと。僕達は当事者だから信じざるを得なかったけれど、
こんな馬鹿げた話、他人が信じると思う? 信じる方がどうかしてる」
「きっと解ってくれるよ」
「理解できない。どうしてそんなに、彼等に話したいの?」
深紅と琥珀の視線がぶつかる。どちらも強気だった。
ジョシュアは一息置いてから言った。
「アンリに、これ以上無理はさせられない。
俺、アンリにはアンリのままで居て欲しいんだ」
瞬き、視線を外したのは深紅の瞳だった。
「…何を言うかと思えば。筋金入りのお人好しだね、君は」
「夕食の時に俺からみんなに話すよ。良いね?」
やや投げ遣りではあったが、好きにすれば、と返事があった。
ウーティス寮ダイニングルーム。
夕食が終わる頃、ジョシュアは席を立って言った。
「みんな。話があるんだ」
「何だよアンリ。面白いギャンブルでも思い付いたのか?」
アルフレッドが冗談めかすのをシルヴァンが制した。
「レッド。真面目な話みたいですよ。どうしました、アンリ」
ジョシュアはアンリの傍に歩いていく。
「実は、俺達二人のことで、みんなに聞いて欲しいことがあるんだ」
アルフレッドがからかう。
「おいおい。まさか『僕達、結婚します』とか言い出すんじゃねーだろーな」
ハルヤとシルヴァンが驚く。
「ええっ?」
「そ、そうなんですか!?」
「あ、いや、違うよ。あの、俺達、身体と魂が入れ替わってしまったんだ」
デッドプリンスは揃って脱力した。
「なんだー、驚かせないで下さいよー」
「びっくりしたー。結婚しちゃうのかと思ったよー」
「ホントだぜ。ったく、入れ替わったくらいでガタガタ言うな…って」
「入れ替わったあああー!!?」と三人が声を合わせる。
シルヴァンがジョシュアの身体を見る。
「うそ…じゃ、ジョシュアがアンリで」
ハルヤがアンリの身体を見る。
「アンリがジョシュア?」
「そうだ、って言ってるでしょ」
ジョシュアの声で毒吐かれたことに、三人は改めて驚いた。
本人はこんな喋り方はしない。喋っているのは本当にアンリらしい。
「あの、それは、いつからですか?」
シルヴァンの問いに、ジョシュアがアンリの声で申し訳なさそうに答える。
「三日前の朝なんだ。みんなに隠していてすまない。
目が覚めたら入れ替わってて、原因が解らないんだ」
「三日前? あ、ではサッカーで、ジョシュアがシュートミスをしたのは、
実際はアンリだったから、ですね?」
ハルヤが続く。
「じゃあ、あの時は、アンリがジョシュアを介抱したんじゃなくて、
ジョシュアがアンリを介抱してたんだ?」
「うん。驚かせてすまない。信じられないことだと思うけど、本当なんだ」
シルヴァンは静かに席を立った。アンリの身体を持つ人の前に行く。
彼の手を包むように、自分の手を重ねた。
「信じますよ。僕が知っているジョシュアは、
嘘が上手く吐けないくらい、誠実な人なんです。
それに、アンリのバニラボイスは、もっとひんやり冷たい筈ですから」
ジョシュアは吐息交じりに小さく言った。
「…ありがとう、シルヴァン」
「ほら、そんなにあたたかい声ではバニラとは言いません。溶けてしまいますよ」
ハルヤは眼鏡を押し上げる。
「俺も信じるよ。三日も前からめんどくさい演技するとは思えないし。ね、レッド?」
「お前等、何、あっさり信じてんだよ。ファンタジームービーじゃないんだぜ?」
全員がアルフレッドに注目する。
「こいつらがグルになって、ひと芝居打ってんのかもしんねーだろ?
ハリウッドスターの俺様をダマそうったって、そーはいかないぜ?
こっちはプロなんだからな!」
アンリが冷笑する。
「単細胞にしては賢明な意見だね、レッド。
さすが、ハリウッドスターだけのことはある。
言ったでしょう、ジョシュア。こんなこと、信じる方がどうかしてる」
「今のでハッキリしたな」首に腕を回す。
「こっちの、セーカクがひん曲がってる方がアンリだ」
深紅の瞳は瞬き、そっぽを向く。
「…ひん曲がってて、悪かったね」
「アンリ。レッドに噛み付くなよ」
「おい、ジョシュア。アンリの声でそれを言うなよ」
みんなが笑う。アンリだけが笑わなかった。
「アルフレッド…信じてないんじゃ、なかったの?」
「演技に決まってんだろ、演技。
俺は五歳の時からお前を泣かしてた天才子役、
アルフレッド・ヴィスコンティ様だぜ?」
「あんな三流ドラマで僕が泣くわけないでしょ」
「かっわいくねー。こっちがアンリ! ぜってえアンリ!」
ジョシュアは寮生達に改めてお礼を言った。
「ありがとう、みんな。俺達のこと、信じてくれて」
「当たり前じゃないですか」
「隠してたなんて、水臭いよ」
「しっかし。元に戻る方法が解んないんじゃーなー。ホントに心当たりねーの?」
「うん…」
「映画やドラマでは、二人で一緒に何かすると入れ替わるってのはあるけどな。
入れ替わった時と全く同じ条件でそれをやると、元に戻るってやつ。
で、お前等は、二人で何もしてないわけ?」
二人は頷く。アルフレッドとハルヤは考え込む。
シルヴァンが手を合わせた。
「まあまあ、皆さん。今日はもう遅いですし。また明日から対策を考えましょう?」
寮生達は自室へ戻っていった。
二人は今夜から自分の部屋で眠ることにした。
もうアンリの部屋からジョシュアの身体が出てきても変に思われないからだ。
猫もアンリと一緒に移動した。
眠る前、ジョシュアは、アンリの部屋を訪ねてきた。
猫は籠のベッドで背中を丸めている。
アンリも既にベッドに入っていた。ジョシュアはベッドに腰掛けた。
「良かったね、みんなに言って」
深紅の瞳は天井を見上げて言う。
「何の解決にもならないけれどね」
「でも、これで明日からはお互いのフリをしなくて済む、だろう?」
「まあね」
天井を見たままの友人をそっと覗く。今夜は目を合わせてくれない。
「驚いているのかい? みんなが俺達を信じてくれたこと」
チク、タク、たっぷり二秒空いた。
「別に。単純な人間ばかりだなって、呆れてるだけだよ」
琥珀の瞳が細くなる。
「それじゃ、おやすみ、アンリ。またあした」
アンリが一人になると、猫の鳴き声がした。
籠のベッドで丸くなっていた猫が、こちらに顔を向けている。
「なんだ、起きてたの?」
くりくりの小さな瞳。
無垢でいて、何でも知っていそうな気がした。
「怪我が治ったら、早くこの寮を出て行った方が良いよ、ルフナ。
この寮に居るのは単細胞ばかりだから。君にまで馬鹿が移る」
話し掛けられた猫は、籠から降りた。
包帯を巻いた足でゆっくりと歩き、アンリが居るベッドの前まで来た。
みゃう、と鳴く。アンリは眉を顰める。
動物愛護者なら猫とも意思疎通ができるのかもしれないけれど。
怪我が痛いのか、空腹なのか、アンリには解らなかった。
猫はぴょんとベッドに飛び乗った。一瞬、猫の顔が歪む。
「その足でジャンプなんかするからでしょう?
君、自分が怪我してるって解らないの?」
人間の言葉は無視され、猫は毛布の上で丸くなった。
アンリのすぐ傍だ。
「随分、懐くのが早い猫だね」
アンリはそっと手を伸ばす。
一瞬、迷って、指は淡い茶色の毛に触れた。
頭を撫でる。嫌がる様子は全くない。
猫は目が細くなり、眠たそうな顔になる。
「猫に好かれるのもこの声と甘いマスクのせいか。
僕が悪魔に戻ったら、君との蜜月もおしまいだね」
人差し指で喉をくすぐる。
セイロンティー色の毛があたたかい。
「その時は、本物の王子様に君を預けるから、安心して?
このまま一緒に居たら、君の足、折ってしまうかもしれないから」
人差し指で足に巻かれた包帯をなぞる。
本物のジョシュア・グラントが巻いた布。
真っ白で汚れのない色。柔らかくて、ざらりとした。
「今は王子様の仮面を付けているけれど、
本当は悪魔の子なんだよ、ルフナ。解る? あくま」
猫は欠伸した。悪魔は微笑する。
「本当はね、僕もよく解らない」
猫の鼻先にキスをした。
「おやすみ、ルフナ」
To be continued
朝食前の時間に、ジョシュアはアンリに会いに来た。
アンリは既に起きていて、ドアを開けた時にはワイシャツ姿だった。
首元のボタンはまだ開いていて、くっきり浮かんだ鎖骨が覗いていた。
「アンリ、やっぱり正直に話そう、ウーティスのみんなには」
アンリはジョシュアに背を向けてボタンを閉める。
リボンタイを付けながら相手した。
「まだ言ってるの、そんなこと。僕達は当事者だから信じざるを得なかったけれど、
こんな馬鹿げた話、他人が信じると思う? 信じる方がどうかしてる」
「きっと解ってくれるよ」
「理解できない。どうしてそんなに、彼等に話したいの?」
深紅と琥珀の視線がぶつかる。どちらも強気だった。
ジョシュアは一息置いてから言った。
「アンリに、これ以上無理はさせられない。
俺、アンリにはアンリのままで居て欲しいんだ」
瞬き、視線を外したのは深紅の瞳だった。
「…何を言うかと思えば。筋金入りのお人好しだね、君は」
「夕食の時に俺からみんなに話すよ。良いね?」
やや投げ遣りではあったが、好きにすれば、と返事があった。
ウーティス寮ダイニングルーム。
夕食が終わる頃、ジョシュアは席を立って言った。
「みんな。話があるんだ」
「何だよアンリ。面白いギャンブルでも思い付いたのか?」
アルフレッドが冗談めかすのをシルヴァンが制した。
「レッド。真面目な話みたいですよ。どうしました、アンリ」
ジョシュアはアンリの傍に歩いていく。
「実は、俺達二人のことで、みんなに聞いて欲しいことがあるんだ」
アルフレッドがからかう。
「おいおい。まさか『僕達、結婚します』とか言い出すんじゃねーだろーな」
ハルヤとシルヴァンが驚く。
「ええっ?」
「そ、そうなんですか!?」
「あ、いや、違うよ。あの、俺達、身体と魂が入れ替わってしまったんだ」
デッドプリンスは揃って脱力した。
「なんだー、驚かせないで下さいよー」
「びっくりしたー。結婚しちゃうのかと思ったよー」
「ホントだぜ。ったく、入れ替わったくらいでガタガタ言うな…って」
「入れ替わったあああー!!?」と三人が声を合わせる。
シルヴァンがジョシュアの身体を見る。
「うそ…じゃ、ジョシュアがアンリで」
ハルヤがアンリの身体を見る。
「アンリがジョシュア?」
「そうだ、って言ってるでしょ」
ジョシュアの声で毒吐かれたことに、三人は改めて驚いた。
本人はこんな喋り方はしない。喋っているのは本当にアンリらしい。
「あの、それは、いつからですか?」
シルヴァンの問いに、ジョシュアがアンリの声で申し訳なさそうに答える。
「三日前の朝なんだ。みんなに隠していてすまない。
目が覚めたら入れ替わってて、原因が解らないんだ」
「三日前? あ、ではサッカーで、ジョシュアがシュートミスをしたのは、
実際はアンリだったから、ですね?」
ハルヤが続く。
「じゃあ、あの時は、アンリがジョシュアを介抱したんじゃなくて、
ジョシュアがアンリを介抱してたんだ?」
「うん。驚かせてすまない。信じられないことだと思うけど、本当なんだ」
シルヴァンは静かに席を立った。アンリの身体を持つ人の前に行く。
彼の手を包むように、自分の手を重ねた。
「信じますよ。僕が知っているジョシュアは、
嘘が上手く吐けないくらい、誠実な人なんです。
それに、アンリのバニラボイスは、もっとひんやり冷たい筈ですから」
ジョシュアは吐息交じりに小さく言った。
「…ありがとう、シルヴァン」
「ほら、そんなにあたたかい声ではバニラとは言いません。溶けてしまいますよ」
ハルヤは眼鏡を押し上げる。
「俺も信じるよ。三日も前からめんどくさい演技するとは思えないし。ね、レッド?」
「お前等、何、あっさり信じてんだよ。ファンタジームービーじゃないんだぜ?」
全員がアルフレッドに注目する。
「こいつらがグルになって、ひと芝居打ってんのかもしんねーだろ?
ハリウッドスターの俺様をダマそうったって、そーはいかないぜ?
こっちはプロなんだからな!」
アンリが冷笑する。
「単細胞にしては賢明な意見だね、レッド。
さすが、ハリウッドスターだけのことはある。
言ったでしょう、ジョシュア。こんなこと、信じる方がどうかしてる」
「今のでハッキリしたな」首に腕を回す。
「こっちの、セーカクがひん曲がってる方がアンリだ」
深紅の瞳は瞬き、そっぽを向く。
「…ひん曲がってて、悪かったね」
「アンリ。レッドに噛み付くなよ」
「おい、ジョシュア。アンリの声でそれを言うなよ」
みんなが笑う。アンリだけが笑わなかった。
「アルフレッド…信じてないんじゃ、なかったの?」
「演技に決まってんだろ、演技。
俺は五歳の時からお前を泣かしてた天才子役、
アルフレッド・ヴィスコンティ様だぜ?」
「あんな三流ドラマで僕が泣くわけないでしょ」
「かっわいくねー。こっちがアンリ! ぜってえアンリ!」
ジョシュアは寮生達に改めてお礼を言った。
「ありがとう、みんな。俺達のこと、信じてくれて」
「当たり前じゃないですか」
「隠してたなんて、水臭いよ」
「しっかし。元に戻る方法が解んないんじゃーなー。ホントに心当たりねーの?」
「うん…」
「映画やドラマでは、二人で一緒に何かすると入れ替わるってのはあるけどな。
入れ替わった時と全く同じ条件でそれをやると、元に戻るってやつ。
で、お前等は、二人で何もしてないわけ?」
二人は頷く。アルフレッドとハルヤは考え込む。
シルヴァンが手を合わせた。
「まあまあ、皆さん。今日はもう遅いですし。また明日から対策を考えましょう?」
寮生達は自室へ戻っていった。
二人は今夜から自分の部屋で眠ることにした。
もうアンリの部屋からジョシュアの身体が出てきても変に思われないからだ。
猫もアンリと一緒に移動した。
眠る前、ジョシュアは、アンリの部屋を訪ねてきた。
猫は籠のベッドで背中を丸めている。
アンリも既にベッドに入っていた。ジョシュアはベッドに腰掛けた。
「良かったね、みんなに言って」
深紅の瞳は天井を見上げて言う。
「何の解決にもならないけれどね」
「でも、これで明日からはお互いのフリをしなくて済む、だろう?」
「まあね」
天井を見たままの友人をそっと覗く。今夜は目を合わせてくれない。
「驚いているのかい? みんなが俺達を信じてくれたこと」
チク、タク、たっぷり二秒空いた。
「別に。単純な人間ばかりだなって、呆れてるだけだよ」
琥珀の瞳が細くなる。
「それじゃ、おやすみ、アンリ。またあした」
アンリが一人になると、猫の鳴き声がした。
籠のベッドで丸くなっていた猫が、こちらに顔を向けている。
「なんだ、起きてたの?」
くりくりの小さな瞳。
無垢でいて、何でも知っていそうな気がした。
「怪我が治ったら、早くこの寮を出て行った方が良いよ、ルフナ。
この寮に居るのは単細胞ばかりだから。君にまで馬鹿が移る」
話し掛けられた猫は、籠から降りた。
包帯を巻いた足でゆっくりと歩き、アンリが居るベッドの前まで来た。
みゃう、と鳴く。アンリは眉を顰める。
動物愛護者なら猫とも意思疎通ができるのかもしれないけれど。
怪我が痛いのか、空腹なのか、アンリには解らなかった。
猫はぴょんとベッドに飛び乗った。一瞬、猫の顔が歪む。
「その足でジャンプなんかするからでしょう?
君、自分が怪我してるって解らないの?」
人間の言葉は無視され、猫は毛布の上で丸くなった。
アンリのすぐ傍だ。
「随分、懐くのが早い猫だね」
アンリはそっと手を伸ばす。
一瞬、迷って、指は淡い茶色の毛に触れた。
頭を撫でる。嫌がる様子は全くない。
猫は目が細くなり、眠たそうな顔になる。
「猫に好かれるのもこの声と甘いマスクのせいか。
僕が悪魔に戻ったら、君との蜜月もおしまいだね」
人差し指で喉をくすぐる。
セイロンティー色の毛があたたかい。
「その時は、本物の王子様に君を預けるから、安心して?
このまま一緒に居たら、君の足、折ってしまうかもしれないから」
人差し指で足に巻かれた包帯をなぞる。
本物のジョシュア・グラントが巻いた布。
真っ白で汚れのない色。柔らかくて、ざらりとした。
「今は王子様の仮面を付けているけれど、
本当は悪魔の子なんだよ、ルフナ。解る? あくま」
猫は欠伸した。悪魔は微笑する。
「本当はね、僕もよく解らない」
猫の鼻先にキスをした。
「おやすみ、ルフナ」
To be continued
■ジョシュア×アンリ
「ジョシュア! 開けてくれるかい、ジョシュア!」
入れ替わってから三日目の放課後。
アンリが部屋で読書をしていると、陽気な生徒代表の声がした。
仕方なくドアを開けると、彼の後方にはシュヌーシアの中等部が一人居た。
顔は知っているが、話したことはもちろんない。
いかにも甘え方が上手そうな子。僕の嫌いなタイプだ。
テオはこちらを見て言った。
「ジョシュア。この子を助けてやっておくれ」
僕に利益がない頼まれごとは基本的に受け付けない。
だが、ジョシュアは損得勘定という概念を持っていないのだ。
仕方なく話は聞いてあげることにした。
「どうしたの?」
「ラビがね、怪我した子猫を見付けたんだ」
「…猫?」
中等部が腕の中に抱えていた小さい獣を僕に見せる。
淡いオレンジのような薄いブラウン。ルフナの色だなと思った。
スリランカ島の南部に位置するルフナはセイロンティーの原産地。
華やかな香りと淡い水色が特徴で、『セイロン紅茶のシャンパン』と呼ばれる。
その高貴な紅茶に似た毛色だった。
猫はぐったりした様子で、右の前足に変色した血の痕が見えた。
テオは沈痛な表情で言う。
「森の隅で、うずくまっていたのだって」
「森で?」
「うん。学院の子ではないと思うから迷子だろうね。
怪我の手当てをしてくれないだろうか?
動物を愛する君ならば、できるのではないかと思ったのだよ」
ジョシュアの動物好きは皆に知られている。
猫の手当てには自信がない、そう言うこともできる。けれど。
「解った。預かるよ」
それまで不安そうにしていたシュヌーシアの二人は、
キューを出された役者のように、全く同時に破顔した。
「ありがとう、ジョシュア!」
「ジョシュアって優しいんだね、テオが言った通りだ!」
アリガトウ。ヤサシイ。
言われ慣れてない台詞を浴びせられた。
中等部に差し出された猫を受け取る。思ったより重かった。
とりあえず、柔らかそうなベッドにそっと乗せた。
ジョシュアが救急箱を仕舞っている場所は知っている。
サッカーで怪我をした時に見たばかりだ。
茶色の戸棚を開けて一番上。そこに包帯はある。
テオ達が見ている。僕はジョシュア・グラント役を演じなくてはならない。
救急箱を取る。開けるとちゃんと包帯はあった。
だが、包帯の前に薬を塗るのでは――どれを?
「どうしたんだい、ジョシュア?」
邪魔だから寮に帰って、と伝えたい。
それを『ジョシュア語』に変換する。
「すみません。なんだか、見られていると思うと集中できなくて」
「ああ、すまない。ではラビ、ここはジョシュア先生にお任せしよう」
「うん」
二人が寮に帰っていくのを確認して、ベッドを振り返った。
紅茶色の小さい身体。
「君も本物の方が良いよね」
僕は部屋を出て、彼を呼びに行った。
「これで大丈夫」
ジョシュアは馴れた手付きで、動物の手当てをした。
仔猫の足に白い包帯が綺麗に巻かれている。
彼は猫の頭を撫で、「数日で良くなるからね」と囁いていた。
僕の顔が見たこともないような優しい顔をするのを、僕は呆然と見ていた。
彼は僕にできないことを易々とこなす。
僕の身体を持っても、彼は動物愛護者で、優等生で、嫌な奴だ。
彼が僕の視線に気付く。
「ん? アンリも抱きたいのかい? この子」
「ううん。ハズレだったなと思っただけ」
「ハズレ?」
「単細胞と入れ替わるよりは君の方が良かったと思っていたんだけど、
君もハズレだったな。怪我した動物を担ぎ込まれたり、面倒ごとに巻き込まれる」
彼がまた僕にできない顔をする。
「この子を放っておけなかったんだろう?」
違う。
「僕は君らしく振舞っただけだ」
彼に「今は君がジョシュアなんだから」と言われて、
今夜は、僕が猫と一夜を過ごすことになった。
猫のベッドは、大き目の籠にタオルをたっぷり敷いた臨時ベッド。
夕食後の猫は、包帯を巻いた足を引き摺りながら歩いたりして、痛々しかった。
今は流石に疲れたようで、良く眠っている。
薄い茶色の身体が小さく息をしている。綺麗な毛。ルフナのセイロン色。
「おやすみ、ルフナ」
白い包帯。この学院に彼が居て良かった。もう何匹も救っている。
もし、僕達が入れ替わっていなくて、僕が僕のままだったら。
僕が猫を部屋に入れて世話をしていたら、周囲は変な顔をするだろう。
アンリという人間ではできないことも、この身体なら、できる。
チク、タク。時計の針が進んでいる。
ジョシュアが部屋に来てから、互いに今日の出来事を報告した。
昨日よりはスムーズに日常が送れたらしい。
「僕達、いつ元に戻れるんだろうね?」
「うん…そう、だね」
「僕は物事を考える時の癖も君とは全く逆でね、最悪の可能性ばかり思い付くんだ。
まあ、僕の場合はそれが処世術だったから、君と違ってね」
僕は君とは違う。違い過ぎる。
「最悪、一生このまま元に戻れないのだとしたら。僕と君。どちらが有利か、君は考えた?」
「…有利?」
「そう。圧倒的に有利なのは、ジョシュア・グラントの身体を持っている僕だと言っているの」
「えっ?」
「呆れるほどにお人好しだね、君は。
どうして君は『僕が君のフリを本気で続けたらどうなるのか』と考えないの?
そうすれば、君はどんなに『自分がジョシュアだ』と主張しても、
錬金術師の末裔は、やっぱりホラ吹きだと指を差されて、終わりだ。
もしくは、僕の父に止めを刺されて、本当に終わってしまうかもしれない。
逆に僕は、グラント家の後継者の座を手に入れることができる。
サン・ジェルマン家の永遠のライバルである、グラント家に復讐の機会が与えられる」
「アンリ…」
「そう考えると、これはこれで面白いかもしれな…」
背中に腕を回され、引き寄せられた。
僕は彼の胸の中に居た。
「アンリはいつもそうだね」僕ではこんな声を出せない。
「不安な時ほど冷たいことを言っているよ? 鎧を纏うように」
猫にしたように髪を撫でた。
「お互いのフリをして無理をしているから、アンリは疲れているんだよ。
だから、悪い方へと考えてしまっているんだ」
「やだ…離して」
穏やかな声で、彼がきっぱりと言う。
「離さない」
「ジョシュア」
「大丈夫。きっと戻れるから」
何の根拠もないくせに。
真実味のない只の慰めだった。
To be continued
入れ替わってから三日目の放課後。
アンリが部屋で読書をしていると、陽気な生徒代表の声がした。
仕方なくドアを開けると、彼の後方にはシュヌーシアの中等部が一人居た。
顔は知っているが、話したことはもちろんない。
いかにも甘え方が上手そうな子。僕の嫌いなタイプだ。
テオはこちらを見て言った。
「ジョシュア。この子を助けてやっておくれ」
僕に利益がない頼まれごとは基本的に受け付けない。
だが、ジョシュアは損得勘定という概念を持っていないのだ。
仕方なく話は聞いてあげることにした。
「どうしたの?」
「ラビがね、怪我した子猫を見付けたんだ」
「…猫?」
中等部が腕の中に抱えていた小さい獣を僕に見せる。
淡いオレンジのような薄いブラウン。ルフナの色だなと思った。
スリランカ島の南部に位置するルフナはセイロンティーの原産地。
華やかな香りと淡い水色が特徴で、『セイロン紅茶のシャンパン』と呼ばれる。
その高貴な紅茶に似た毛色だった。
猫はぐったりした様子で、右の前足に変色した血の痕が見えた。
テオは沈痛な表情で言う。
「森の隅で、うずくまっていたのだって」
「森で?」
「うん。学院の子ではないと思うから迷子だろうね。
怪我の手当てをしてくれないだろうか?
動物を愛する君ならば、できるのではないかと思ったのだよ」
ジョシュアの動物好きは皆に知られている。
猫の手当てには自信がない、そう言うこともできる。けれど。
「解った。預かるよ」
それまで不安そうにしていたシュヌーシアの二人は、
キューを出された役者のように、全く同時に破顔した。
「ありがとう、ジョシュア!」
「ジョシュアって優しいんだね、テオが言った通りだ!」
アリガトウ。ヤサシイ。
言われ慣れてない台詞を浴びせられた。
中等部に差し出された猫を受け取る。思ったより重かった。
とりあえず、柔らかそうなベッドにそっと乗せた。
ジョシュアが救急箱を仕舞っている場所は知っている。
サッカーで怪我をした時に見たばかりだ。
茶色の戸棚を開けて一番上。そこに包帯はある。
テオ達が見ている。僕はジョシュア・グラント役を演じなくてはならない。
救急箱を取る。開けるとちゃんと包帯はあった。
だが、包帯の前に薬を塗るのでは――どれを?
「どうしたんだい、ジョシュア?」
邪魔だから寮に帰って、と伝えたい。
それを『ジョシュア語』に変換する。
「すみません。なんだか、見られていると思うと集中できなくて」
「ああ、すまない。ではラビ、ここはジョシュア先生にお任せしよう」
「うん」
二人が寮に帰っていくのを確認して、ベッドを振り返った。
紅茶色の小さい身体。
「君も本物の方が良いよね」
僕は部屋を出て、彼を呼びに行った。
「これで大丈夫」
ジョシュアは馴れた手付きで、動物の手当てをした。
仔猫の足に白い包帯が綺麗に巻かれている。
彼は猫の頭を撫で、「数日で良くなるからね」と囁いていた。
僕の顔が見たこともないような優しい顔をするのを、僕は呆然と見ていた。
彼は僕にできないことを易々とこなす。
僕の身体を持っても、彼は動物愛護者で、優等生で、嫌な奴だ。
彼が僕の視線に気付く。
「ん? アンリも抱きたいのかい? この子」
「ううん。ハズレだったなと思っただけ」
「ハズレ?」
「単細胞と入れ替わるよりは君の方が良かったと思っていたんだけど、
君もハズレだったな。怪我した動物を担ぎ込まれたり、面倒ごとに巻き込まれる」
彼がまた僕にできない顔をする。
「この子を放っておけなかったんだろう?」
違う。
「僕は君らしく振舞っただけだ」
彼に「今は君がジョシュアなんだから」と言われて、
今夜は、僕が猫と一夜を過ごすことになった。
猫のベッドは、大き目の籠にタオルをたっぷり敷いた臨時ベッド。
夕食後の猫は、包帯を巻いた足を引き摺りながら歩いたりして、痛々しかった。
今は流石に疲れたようで、良く眠っている。
薄い茶色の身体が小さく息をしている。綺麗な毛。ルフナのセイロン色。
「おやすみ、ルフナ」
白い包帯。この学院に彼が居て良かった。もう何匹も救っている。
もし、僕達が入れ替わっていなくて、僕が僕のままだったら。
僕が猫を部屋に入れて世話をしていたら、周囲は変な顔をするだろう。
アンリという人間ではできないことも、この身体なら、できる。
チク、タク。時計の針が進んでいる。
ジョシュアが部屋に来てから、互いに今日の出来事を報告した。
昨日よりはスムーズに日常が送れたらしい。
「僕達、いつ元に戻れるんだろうね?」
「うん…そう、だね」
「僕は物事を考える時の癖も君とは全く逆でね、最悪の可能性ばかり思い付くんだ。
まあ、僕の場合はそれが処世術だったから、君と違ってね」
僕は君とは違う。違い過ぎる。
「最悪、一生このまま元に戻れないのだとしたら。僕と君。どちらが有利か、君は考えた?」
「…有利?」
「そう。圧倒的に有利なのは、ジョシュア・グラントの身体を持っている僕だと言っているの」
「えっ?」
「呆れるほどにお人好しだね、君は。
どうして君は『僕が君のフリを本気で続けたらどうなるのか』と考えないの?
そうすれば、君はどんなに『自分がジョシュアだ』と主張しても、
錬金術師の末裔は、やっぱりホラ吹きだと指を差されて、終わりだ。
もしくは、僕の父に止めを刺されて、本当に終わってしまうかもしれない。
逆に僕は、グラント家の後継者の座を手に入れることができる。
サン・ジェルマン家の永遠のライバルである、グラント家に復讐の機会が与えられる」
「アンリ…」
「そう考えると、これはこれで面白いかもしれな…」
背中に腕を回され、引き寄せられた。
僕は彼の胸の中に居た。
「アンリはいつもそうだね」僕ではこんな声を出せない。
「不安な時ほど冷たいことを言っているよ? 鎧を纏うように」
猫にしたように髪を撫でた。
「お互いのフリをして無理をしているから、アンリは疲れているんだよ。
だから、悪い方へと考えてしまっているんだ」
「やだ…離して」
穏やかな声で、彼がきっぱりと言う。
「離さない」
「ジョシュア」
「大丈夫。きっと戻れるから」
何の根拠もないくせに。
真実味のない只の慰めだった。
To be continued
■ジョシュア×アンリ
夜は面倒なことにバーベキューパーティだった。
アンリはなるべく、寮生から離れた所に居るようにした。
「足、大丈夫? ジョシュア」
後方から声を掛けられた。眼鏡を掛けた東洋人。
僕にとっては空気のような存在。
彼から話し掛けられたことはあまりなかった。
ジョシュアになら話し掛け易いのだろう、僕よりはずっと。
黒い瞳は心配そうに僕を、いや、ジョシュアの顔を見上げている。
生徒代表曰く『東洋の黒い真珠』
日頃から大袈裟な賛辞を乱用する人だけれど、
この瞳に関しては、異論を唱えるつもりはない。
「ジョシュア、やっぱり、痛いの?」
「大したことはないよ。心配掛けてすまない」
するりと謝罪の言葉が出た。
ジョシュアのマネをしようと思ったわけではなかったのに。
「そっか。俺、昨日はビックリしちゃった。アンリがジョシュアの介抱するなんて」
全くだ。僕が一番驚いた。いや、呆れたという方が正確だ。
ハルヤは少しキョロキョロした。近くにアンリの姿がないか確認しているようだ。
僕の身体を持つ人は、向こうの方でシルヴァンとレッドに絡まれている。
ハルヤはひそひそ声で続けた。
「アンリってさ、いつもはツンツンしてるけど、
俺が入学したばっかの時とか、さりげなく声掛けてくれたんだよね。
おとといもさ、テオが俺に色々言ってくる時、アンリ、助けてくれたし」
それはあの陽気過ぎる声を黙らせたいだけだ、という言葉を飲み込む。
「でもアンリは、俺のこと、そんなに好きじゃないんだろうなあ」
嫌いだと言った事はない筈だ。大して話したこともないのだし。
「ハルヤ。どうして、そう思うの?」
「だって、ジョシュアと違って、そんな話し掛けて貰えるわけでもないし…」
話し掛ける量が好意と比例するとでも思っているのだろうか。
必ずしもそうとは言えないのに。
「あ、ごめん。なんかヘンなこと言ってるね、俺。
さっき、シルヴァンにダマされて、お酒飲まされちゃったからかも。
炭酸ジュースですよ、って言われて飲んだら、シャンパンでさ。
ごめんごめん。俺、もうちょっとバーベキュー食べてこよっかな、じゃね」
「アンリは」
「えっ?」
「君のこと、嫌いじゃないと思うけど、別に」
「そっかなあ?」
ハルヤは困ったような笑顔を見せた。
ジョシュアの性格から判断して、真実味を帯びない只の慰めに聞こえたようだ。
過度にお人好しだと言葉を信じて貰えない時があるらしい。自業自得だ。
「嫌いだったらそもそも話し掛けないよ。それに君は単細胞と違って静かで良い」
「た、単細胞?」
「…って、アンリなら言うんじゃないかな?」
「あ、あはは。そうかも」
長い付き合いだけあってモノマネ上手いね、と褒められた。
ジョシュアのフリは疲れる。
君のことが嫌いじゃないのは本当だけれど、今日はもうどっかへ行って欲しい。
「あ、そう言えばさ」
なんで、今日に限ってお喋りなのかな、君は。
ハルヤにシャンパンを飲ませたお調子者を軽く呪いたい。
大体何故、ハルヤを酔わせたのか。
「アンリって、歌、上手いよね」
「歌?」
君の前で歌ったことなどない。
「この前、サロンで歌ってるの聞こえちゃったんだ。
なんか、アンリっぽいなってかんじで、いい曲だった。
あ、俺が聞いてたってアンリには言わないでね?」
僕は王子様の微笑を浮かべてみる。
「うん。言わないよ、ハルヤ」
「ありがと」
「おい、アンリ、お前ゼンゼン食べてねーじゃん!」
アルフレッドは自分より背の低い同級生をからかう。
「好き嫌いするから、背がそこで止まったんだぞ?
ほれ、このピーマンも食え」
アルフレッドがアンリの持っている皿にピーマンを乗せる。
シルヴァンがそれを奪って、自分の皿に乗せた。
「レッド。それ、自分が嫌いなものを押し付けてるだけじゃないですか?
アンリ、お腹が一杯なら、お飲み物はいかがです?
僕、今日はシャンパンを持ってきたんですよ。お注ぎして良いですか?」
「…メルシー」
ジョシュアは、アンリなら何て言うだろうと生真面目に台詞を考えながら、
二人と会話していた。それに精一杯で、食は進んでいなかった。
アルフレッドはバーベキューの日は特に食欲旺盛で、
もう何本目かも解らない『王の剣』に被り付いていた。
香り付けに刺してあった月桂樹の葉が出てくると、串から抜く。
葉を火の中に放りながら、シルヴァンと話していた。
ジョシュアはアンリ役なので、話が自分に振られない時は、
なるべく無口で通そうとした。シャンパンを飲みながら二人の会話を聞く。
「なあ、シルヴァン。そのシャンパン、お前が買ってきたの?」
「いいえ? アイヴィーの家からちょっと頂いてきたんです、ナイショですけど」
「またかよ。怪盗にでもなれそーだな、おめーは」
「じゃ、今度は予告状でも出しときますかね。
『今夜0時に貴方のハートを頂きに参上します』なんてキスマーク入りで♪」
「…破られるぞ、ソレ」
「アイヴィーはそんなことしませんよー」
ジョシュアは、今、飲んでいるシャンパンが盗品だと知って、ショックを受けていた。
シルヴァンが常習的にそういうことをしているなら、
何か注意した方が良いんじゃないかとも思うけれど、今はアンリなので我慢するしかない。
心の中でアイヴィーに謝っていた。すみません、頂いてます。
「ねえ、アンリ」
「な、なに?」
「僕、前から聞いてみたかったことがあるんですけど、良いですか?」
「どんな、こと?」
「付き合いの長いアンリから見て、ジョシュアってどんな人なんですか?」
「…ジョシュア?」
「ええ。言えませんか?」
「いや、そう、だね…」
ジョシュアは考えた。
アンリは自分のことをどう思っているのだろうと。
忌憚のない表現で言えば良い。
そう思うと、この質問に答えるのは簡単かもしれない。
正直な自己評価を言えば良い。ぽろりと言葉が零れてきた。
「ジョシュアは…臆病な人だと思う」
「臆病? どこがだよ?」
「彼は…いつも周りの目を気にしている。
迷惑を掛けていないか、期待に応えられているか、そればかり。
そんなこと、僕からすれば、どうでもいいことだ」
言いながら、きっとそうだ、とジョシュアは思う。
アンリは俺のことをこんなふうに見ているだろう。
彼は自分の気持ちを正直に相手に伝えることができる。
人にどう思われようと関係なく。それはすごいことだと思う。
アンリは、俺にできないことを、思いのまま、自由にこなしている。
人を傷付けるまでの言葉を言いたいとは思わないけれど。
アンリみたいになれたら。
少しでも、アンリのように自分に正直になれたら。
そう思ったことは、一度や二度ではなかった。
「ジョシュアは自分がグラント家の出身だということを気にして、
聖アルフォンソ学院に居てはいけないんじゃないかと思っている。
自分の居場所が此処で良いのか不安なんだ。
学院の友達は、みんな好きなのに、どうしても気兼ねしてしまって。
完全に心を開けない自分が居て、なかなか距離を近付けられずにいる。
入学してからずっと。言いたいこともはっきり言えなくて、臆病者だ」
「お前なー! 付き合い長いからって、んなズケズケ言ってんじゃねーよ!」
「待って下さい、レッド」
シルヴァンは友人を止めた。
「きちんとジョシュアを見た上での意見だと思いますよ。
でも僕、ちょっと驚いちゃいました。
アンリがそんなにジョシュアのことを深く見ていたなんて」
「…長い付き合いだからね」
「アンリの目から見れば、ジョシュアは、
人に気を遣い過ぎるように見えるかもしれません。
だけど、それは彼の短所であり、同時に長所ですよね」
「…長所?」
「長所と短所というものは、同じものを逆の視点で表したものじゃないですか。
周囲を気にするということは、それだけ、相手を大切にできるということ、でしょう?
その能力は、聖アルフォンソ学院の中でもトップだと思いませんか?」
アルフレッドは食べ終わった串を振りながら、
「まーなー。だからみんな、ジョシュアのこと信頼できるヤツだって思ってんだし。
俺は、もうちょい気楽にやってもイイんじゃねーかと思うけどな、
テオなんかみたいにさ。いや、あそこまでお気楽者じゃジョシュアじゃねえかっ」
「テオに悪いですよ、レッド」
「だって、ジョシュアには『ああ、なんと美しい氷の微笑だろう』とか言って欲しくねえだろ?」
「レッド、似てます!」
「あ、マジで? 『東洋の黒い真珠! 今日も愛らしいね!』」
それを聞いて、ハルヤが驚いて振り向いた。
バーベキューが終わった後、満腹な顔をした寮生達はそれぞれの部屋に帰って行った。
その後で、僕は僕の部屋を訪ねた。
未だに入れ替わったままなので、今日も一日の報告会をする必要がある。
ジョシュアから神秘学での出来事を聞いて、呆れた。
「レオシュに借りを作ってきてくれるとは、極めて優秀だね、君は」
「アンリ、レオシュと親しかったんだね。知らなかったよ」
「逆だよ。疎まれてるんだ。僕が居るせいで、彼は神秘学の成績がいつも二位だから」
「そうか。良いライバルなんだね」
「どうして君は、そう前向きな言葉がポンポン出てくるのかな」
「違ったかい?」
「僕は何とも思ってないのに、勝手に目を付けられてるだけだよ」
レオシュとは仮装行列の時にもライバル扱いされたことがある。
僕にお姫様の格好をして喜ぶ連中には、
姫派、女王派などという、どうでもいい派閥争いがあるらしい。
「あ、そうだ。パラケルススって、どんな人なんだい?」
「なに、神秘学に興味でも持ったの? 酔狂だね」
「ボージェ教授にね、復習をしておくようにって言われたんだ。
また今度、質問されるかもしれないから、教えて貰えるかな?」
復習しろなんて、今まで言われたことはない。
質問に答えられないという状況がなかったせいだろうか。
「アンリ? アンリも知らないことなの?」
失敬な。
「15世紀頃に活躍した錬金術師。亜鉛元素の発見者でもある。出身はスイス。本名は、
フィリップス・アウレオルス・テオフラスツス・ボンバスツス・フォン・ホーエンハイム。
最も有名な逸話は、人工生命体を創り出したという話だね、手乗りサイズ」
このくらいの、と人差し指と親指で数センチを示す。
「本当なのかい?」
「さあ。人工生命体については、大分、胡散臭い話だよ。
パラケルススは錬金術師である前に医師だった。
彼は黄金変成などに興味はなかった。
どんな病をも治す万能薬を作る為、錬金術を研究していた。
病気の概念を考えたのも彼だ」
「病気の概念って?」
講師でもないのに、どうして僕が神秘学の講釈などしなくてはならないのだろう。
けれど、ある程度の知識をジョシュアに与えておかないと、
教授に怪しまれる可能性がある。
オカルトコレクターは、あれで頭が切れるのだ。講義を続ける。
「当時は、身体内部の不調によって発熱などの症状が発生する、と考えられていた。
パラケルススは、外部からの攻撃によって病気になる、と考えた。
正しい概念だけれど、医学にウイルスの概念が確立する300年も前のことだったし、
彼は神秘学的思想の持ち主だったから、迫害されて、放浪することになるんだけどね」
ジョシュアは僕の顔で沈痛な表情を見せる。同情しているらしい。
「そうか…ニューパラダイムの発見者は、
大衆に受け入れられないことがあるからね…アンリ? どうしたんだい?」
「いや、何でもない」
「そう? じゃあ、今日はもう寝ようか。おやすみ」
ジョシュアが出ていく。
僕は天井を見ながら、先程浮かんだことを検討した。
今まで僕達は、自分達が何か変わったことをしたのでは
と、内部的な要因しか考えてなかった。
僕達に原因がないのなら、他の何かを疑うべきだ。
入れ替わった原因が、外部からの攻撃、という可能性もある。
例えば、何らかのウイルス。あるいは、もっと別の――
人智を超えたもののせいに仕掛けて、止めた。
「…僕も、変人にだいぶ毒されてるな」
To be continued
アンリはなるべく、寮生から離れた所に居るようにした。
「足、大丈夫? ジョシュア」
後方から声を掛けられた。眼鏡を掛けた東洋人。
僕にとっては空気のような存在。
彼から話し掛けられたことはあまりなかった。
ジョシュアになら話し掛け易いのだろう、僕よりはずっと。
黒い瞳は心配そうに僕を、いや、ジョシュアの顔を見上げている。
生徒代表曰く『東洋の黒い真珠』
日頃から大袈裟な賛辞を乱用する人だけれど、
この瞳に関しては、異論を唱えるつもりはない。
「ジョシュア、やっぱり、痛いの?」
「大したことはないよ。心配掛けてすまない」
するりと謝罪の言葉が出た。
ジョシュアのマネをしようと思ったわけではなかったのに。
「そっか。俺、昨日はビックリしちゃった。アンリがジョシュアの介抱するなんて」
全くだ。僕が一番驚いた。いや、呆れたという方が正確だ。
ハルヤは少しキョロキョロした。近くにアンリの姿がないか確認しているようだ。
僕の身体を持つ人は、向こうの方でシルヴァンとレッドに絡まれている。
ハルヤはひそひそ声で続けた。
「アンリってさ、いつもはツンツンしてるけど、
俺が入学したばっかの時とか、さりげなく声掛けてくれたんだよね。
おとといもさ、テオが俺に色々言ってくる時、アンリ、助けてくれたし」
それはあの陽気過ぎる声を黙らせたいだけだ、という言葉を飲み込む。
「でもアンリは、俺のこと、そんなに好きじゃないんだろうなあ」
嫌いだと言った事はない筈だ。大して話したこともないのだし。
「ハルヤ。どうして、そう思うの?」
「だって、ジョシュアと違って、そんな話し掛けて貰えるわけでもないし…」
話し掛ける量が好意と比例するとでも思っているのだろうか。
必ずしもそうとは言えないのに。
「あ、ごめん。なんかヘンなこと言ってるね、俺。
さっき、シルヴァンにダマされて、お酒飲まされちゃったからかも。
炭酸ジュースですよ、って言われて飲んだら、シャンパンでさ。
ごめんごめん。俺、もうちょっとバーベキュー食べてこよっかな、じゃね」
「アンリは」
「えっ?」
「君のこと、嫌いじゃないと思うけど、別に」
「そっかなあ?」
ハルヤは困ったような笑顔を見せた。
ジョシュアの性格から判断して、真実味を帯びない只の慰めに聞こえたようだ。
過度にお人好しだと言葉を信じて貰えない時があるらしい。自業自得だ。
「嫌いだったらそもそも話し掛けないよ。それに君は単細胞と違って静かで良い」
「た、単細胞?」
「…って、アンリなら言うんじゃないかな?」
「あ、あはは。そうかも」
長い付き合いだけあってモノマネ上手いね、と褒められた。
ジョシュアのフリは疲れる。
君のことが嫌いじゃないのは本当だけれど、今日はもうどっかへ行って欲しい。
「あ、そう言えばさ」
なんで、今日に限ってお喋りなのかな、君は。
ハルヤにシャンパンを飲ませたお調子者を軽く呪いたい。
大体何故、ハルヤを酔わせたのか。
「アンリって、歌、上手いよね」
「歌?」
君の前で歌ったことなどない。
「この前、サロンで歌ってるの聞こえちゃったんだ。
なんか、アンリっぽいなってかんじで、いい曲だった。
あ、俺が聞いてたってアンリには言わないでね?」
僕は王子様の微笑を浮かべてみる。
「うん。言わないよ、ハルヤ」
「ありがと」
「おい、アンリ、お前ゼンゼン食べてねーじゃん!」
アルフレッドは自分より背の低い同級生をからかう。
「好き嫌いするから、背がそこで止まったんだぞ?
ほれ、このピーマンも食え」
アルフレッドがアンリの持っている皿にピーマンを乗せる。
シルヴァンがそれを奪って、自分の皿に乗せた。
「レッド。それ、自分が嫌いなものを押し付けてるだけじゃないですか?
アンリ、お腹が一杯なら、お飲み物はいかがです?
僕、今日はシャンパンを持ってきたんですよ。お注ぎして良いですか?」
「…メルシー」
ジョシュアは、アンリなら何て言うだろうと生真面目に台詞を考えながら、
二人と会話していた。それに精一杯で、食は進んでいなかった。
アルフレッドはバーベキューの日は特に食欲旺盛で、
もう何本目かも解らない『王の剣』に被り付いていた。
香り付けに刺してあった月桂樹の葉が出てくると、串から抜く。
葉を火の中に放りながら、シルヴァンと話していた。
ジョシュアはアンリ役なので、話が自分に振られない時は、
なるべく無口で通そうとした。シャンパンを飲みながら二人の会話を聞く。
「なあ、シルヴァン。そのシャンパン、お前が買ってきたの?」
「いいえ? アイヴィーの家からちょっと頂いてきたんです、ナイショですけど」
「またかよ。怪盗にでもなれそーだな、おめーは」
「じゃ、今度は予告状でも出しときますかね。
『今夜0時に貴方のハートを頂きに参上します』なんてキスマーク入りで♪」
「…破られるぞ、ソレ」
「アイヴィーはそんなことしませんよー」
ジョシュアは、今、飲んでいるシャンパンが盗品だと知って、ショックを受けていた。
シルヴァンが常習的にそういうことをしているなら、
何か注意した方が良いんじゃないかとも思うけれど、今はアンリなので我慢するしかない。
心の中でアイヴィーに謝っていた。すみません、頂いてます。
「ねえ、アンリ」
「な、なに?」
「僕、前から聞いてみたかったことがあるんですけど、良いですか?」
「どんな、こと?」
「付き合いの長いアンリから見て、ジョシュアってどんな人なんですか?」
「…ジョシュア?」
「ええ。言えませんか?」
「いや、そう、だね…」
ジョシュアは考えた。
アンリは自分のことをどう思っているのだろうと。
忌憚のない表現で言えば良い。
そう思うと、この質問に答えるのは簡単かもしれない。
正直な自己評価を言えば良い。ぽろりと言葉が零れてきた。
「ジョシュアは…臆病な人だと思う」
「臆病? どこがだよ?」
「彼は…いつも周りの目を気にしている。
迷惑を掛けていないか、期待に応えられているか、そればかり。
そんなこと、僕からすれば、どうでもいいことだ」
言いながら、きっとそうだ、とジョシュアは思う。
アンリは俺のことをこんなふうに見ているだろう。
彼は自分の気持ちを正直に相手に伝えることができる。
人にどう思われようと関係なく。それはすごいことだと思う。
アンリは、俺にできないことを、思いのまま、自由にこなしている。
人を傷付けるまでの言葉を言いたいとは思わないけれど。
アンリみたいになれたら。
少しでも、アンリのように自分に正直になれたら。
そう思ったことは、一度や二度ではなかった。
「ジョシュアは自分がグラント家の出身だということを気にして、
聖アルフォンソ学院に居てはいけないんじゃないかと思っている。
自分の居場所が此処で良いのか不安なんだ。
学院の友達は、みんな好きなのに、どうしても気兼ねしてしまって。
完全に心を開けない自分が居て、なかなか距離を近付けられずにいる。
入学してからずっと。言いたいこともはっきり言えなくて、臆病者だ」
「お前なー! 付き合い長いからって、んなズケズケ言ってんじゃねーよ!」
「待って下さい、レッド」
シルヴァンは友人を止めた。
「きちんとジョシュアを見た上での意見だと思いますよ。
でも僕、ちょっと驚いちゃいました。
アンリがそんなにジョシュアのことを深く見ていたなんて」
「…長い付き合いだからね」
「アンリの目から見れば、ジョシュアは、
人に気を遣い過ぎるように見えるかもしれません。
だけど、それは彼の短所であり、同時に長所ですよね」
「…長所?」
「長所と短所というものは、同じものを逆の視点で表したものじゃないですか。
周囲を気にするということは、それだけ、相手を大切にできるということ、でしょう?
その能力は、聖アルフォンソ学院の中でもトップだと思いませんか?」
アルフレッドは食べ終わった串を振りながら、
「まーなー。だからみんな、ジョシュアのこと信頼できるヤツだって思ってんだし。
俺は、もうちょい気楽にやってもイイんじゃねーかと思うけどな、
テオなんかみたいにさ。いや、あそこまでお気楽者じゃジョシュアじゃねえかっ」
「テオに悪いですよ、レッド」
「だって、ジョシュアには『ああ、なんと美しい氷の微笑だろう』とか言って欲しくねえだろ?」
「レッド、似てます!」
「あ、マジで? 『東洋の黒い真珠! 今日も愛らしいね!』」
それを聞いて、ハルヤが驚いて振り向いた。
バーベキューが終わった後、満腹な顔をした寮生達はそれぞれの部屋に帰って行った。
その後で、僕は僕の部屋を訪ねた。
未だに入れ替わったままなので、今日も一日の報告会をする必要がある。
ジョシュアから神秘学での出来事を聞いて、呆れた。
「レオシュに借りを作ってきてくれるとは、極めて優秀だね、君は」
「アンリ、レオシュと親しかったんだね。知らなかったよ」
「逆だよ。疎まれてるんだ。僕が居るせいで、彼は神秘学の成績がいつも二位だから」
「そうか。良いライバルなんだね」
「どうして君は、そう前向きな言葉がポンポン出てくるのかな」
「違ったかい?」
「僕は何とも思ってないのに、勝手に目を付けられてるだけだよ」
レオシュとは仮装行列の時にもライバル扱いされたことがある。
僕にお姫様の格好をして喜ぶ連中には、
姫派、女王派などという、どうでもいい派閥争いがあるらしい。
「あ、そうだ。パラケルススって、どんな人なんだい?」
「なに、神秘学に興味でも持ったの? 酔狂だね」
「ボージェ教授にね、復習をしておくようにって言われたんだ。
また今度、質問されるかもしれないから、教えて貰えるかな?」
復習しろなんて、今まで言われたことはない。
質問に答えられないという状況がなかったせいだろうか。
「アンリ? アンリも知らないことなの?」
失敬な。
「15世紀頃に活躍した錬金術師。亜鉛元素の発見者でもある。出身はスイス。本名は、
フィリップス・アウレオルス・テオフラスツス・ボンバスツス・フォン・ホーエンハイム。
最も有名な逸話は、人工生命体を創り出したという話だね、手乗りサイズ」
このくらいの、と人差し指と親指で数センチを示す。
「本当なのかい?」
「さあ。人工生命体については、大分、胡散臭い話だよ。
パラケルススは錬金術師である前に医師だった。
彼は黄金変成などに興味はなかった。
どんな病をも治す万能薬を作る為、錬金術を研究していた。
病気の概念を考えたのも彼だ」
「病気の概念って?」
講師でもないのに、どうして僕が神秘学の講釈などしなくてはならないのだろう。
けれど、ある程度の知識をジョシュアに与えておかないと、
教授に怪しまれる可能性がある。
オカルトコレクターは、あれで頭が切れるのだ。講義を続ける。
「当時は、身体内部の不調によって発熱などの症状が発生する、と考えられていた。
パラケルススは、外部からの攻撃によって病気になる、と考えた。
正しい概念だけれど、医学にウイルスの概念が確立する300年も前のことだったし、
彼は神秘学的思想の持ち主だったから、迫害されて、放浪することになるんだけどね」
ジョシュアは僕の顔で沈痛な表情を見せる。同情しているらしい。
「そうか…ニューパラダイムの発見者は、
大衆に受け入れられないことがあるからね…アンリ? どうしたんだい?」
「いや、何でもない」
「そう? じゃあ、今日はもう寝ようか。おやすみ」
ジョシュアが出ていく。
僕は天井を見ながら、先程浮かんだことを検討した。
今まで僕達は、自分達が何か変わったことをしたのでは
と、内部的な要因しか考えてなかった。
僕達に原因がないのなら、他の何かを疑うべきだ。
入れ替わった原因が、外部からの攻撃、という可能性もある。
例えば、何らかのウイルス。あるいは、もっと別の――
人智を超えたもののせいに仕掛けて、止めた。
「…僕も、変人にだいぶ毒されてるな」
To be continued
■ジョシュア×アンリ
入れ替わってから二日目の朝。ジョシュアが目を覚ました。
髪に触れると、するりと滑らかに通り抜けた。
覚えのある指通り。宵闇の髪。
「そうか。俺、アンリの身体に…」
少し掠れた寝起きの声も、彼のままだった。
昨日のことは全部夢で、朝起きたら元の姿に戻っているかも、
という幻想はあっけなく消え失せた。
とにかく朝は起きなくちゃと思い、身体を起こそうとする。
が、頭がぼうっとして、なんとなく重たい。
普段は早めに寝るようにしているのだが、昨夜は夜中まで眠れなかった。
夜の方が頭が冴えているような感覚さえあったのだ。
アンリはどちらかと言うと夜型で朝には酷く弱い。
朝は頭が回らない、と気だるげに呟く彼が思い出される。
「朝、いつも眠そうなのは、こういうことなんだ…」
なんとかベッドから起きて、鏡の前に立ってみる。
其処には、天使と呼ばれる顔があった。
琥珀の瞳。真っ白な肌。自分のものより好きな身体だけど。
「俺は、見ている方が良いな」
朝食後、二人はアンリの部屋で、今日の作戦会議をした。
「アンリ、俺達が入れ替わってること、今日もバレないように過ごすのかい?」
「当たり前でしょう」
ジョシュアは少し心苦しかった。昨日一日は何とか遣り通せたが、
どうしても、みんなに嘘を吐いている、という想いが拭い取れない。
「ねえ、アンリ」
「はい、これ。今日のテキスト」
教科書を渡される。そして彼の手は、自然にタロットに触れた。
優雅な手付きで机上に広げたカードをシャッフルしている。
右回りにカードを撫でながら話を続けた。
「今日の難所は神秘学かな」
「ボージェ教授の授業か。難しそうだね」
アンリが入学時から受けている講義。ハイレベルだと評判だ。
冷やかしで授業見学に行った生徒は、すごすごと退散することが多いらしい。
「授業中は発言しないことだね。ボロが出るから」
「解った。気を付けるよ」
「まあ、発言したくても、君にはできないと思うけれど。
授業中、何か質問されたら、聞いてなかったとか、度忘れしたことにすればいい。
講義が終わったら、教授に何を言われても、無視して戻って来て。
いい? 『無視』するの、簡単でしょ?」
「あ、う、うん。やってみるよ」
「…そんなに気負いすることじゃない」
彼はシャッフルを止める。一枚、タロットを捲った。
「やっぱり、このままで良いみたいだね。そんな気がしたんだ」
カードをこちらに向ける。
水辺に浮かぶ天使。
両手にひとつずつ壷を持っている。天使は壷から壷へ水を注いでいた。
「Temperance(節制) 無理に動くな、って」
第二化学室。ジョシュアは神秘学の授業に出席していた。
このクラスはアルファルドの生徒が多いせいか、とても静かだった。
ボージェ教授の低くて落ち着いた声だけ。
教授は終始、突拍子もない話を穏やかに論じている。
どれが伝説で、どれが史実なのか区別が付かない。
また、教授の話はしょっちゅう横道に反れるようで、
今、何の話題なのかもよく解らなかった。
「…つまり、錬金術師は科学者であり芸術家だったとも言える。
パラケルススも医師だったからね。
彼については、以前勉強したから、彼の業績は覚えているかな?」
生徒達はこくりと頷いていた。それを見て教授も頷いた。
「では、彼の名前が本名ではないのは知っていたかな?」
ここでも声は上がらない。頷いている生徒はまばらだった。教授は説明を始めた。
「パラケルススというのは、本人が名付けた愛称のようなものなんだ。
彼は、自分は古代ローマの高名な医者ケルススより優れていると思っていた。
だから、優れるという意味のパラを付けて、パラケルススと名乗った。
彼は著作のタイトルにもパラを付けたくらいだからね」
ところでパラケルススって何をした人ですか、と聞きたいが、できない。
アンリに持たされたテキストを捲ってもみたが、
教科書自体が難解で、一読ではよく解らない。
授業には全く付いていけなかったが、
つい普段の癖で教授の顔を見ながら講義を受けていたのが災いした。
教授と目が合ってしまった。
「アンリは、パラケルススの本名を知っているかな?」
今日初めて知った人物の本名なんて解る筈もない。
「すみません。ちょっと、今、思い出せなくて…」
それまで静かだった教室が俄かにざわざわする。
驚いて振り向いた生徒も何人も居たが、教授は変わらず穏やかだった。
「おや、アンリでも度忘れすることがあるんだね。では…」教室を見渡す。
「レオシュ、ピンチヒッターを頼めるかい?」
ジョシュアは胸を撫で下ろした。
神秘学の終了後。
ジョシュアの隣に一人の生徒が立っていた。アルファルド寮のレオシュ。
すらりと高い背。長いストレートの黒髪。
切れ長の瞳はやや高圧的だが、妖艶に見える。
同性でも見つめられると少しドキリとするタイプだ。
学院内でトップクラスの美人と名高い生徒。
アンリが姫と呼ばれるのに対し、レオシュは女王。
身長はレオシュの方が高いし、纏っている雰囲気の差もあるかもしれない。
女王は机に左手を突いて囁く。テオがセクシーボイスと絶賛する中性的な声だ。
「珍しいな? お前があんな質問に答えられないとは」
「すまない。さっきは助けて貰ったよね。ありがとう、レオシュ」
切れ長の瞳が少し見開く。ジョシュアは台詞を間違えたと気付いた。
アンリはあまり素直にお礼を言ったりしないのに、つい言ってしまった。
女王に不機嫌な瞳を向けられる。不審に思っているのかもしれない。
細い左手は机から離れ、長い髪に触れる。
「別に、お前を助けたつもりはない。私は教授の質問に答えただけだ」
アルファルドの女王は教室を出て行った。
どことなくウーティスの姫を彷彿とさせる人だ。
背中を眺めながら思わず少し笑ってしまった。
「レオシュも君が心配なようだね」
突然の声に驚く。気配さえ感じなかったが、隣に教授が立っていた。
「アンリ、もしかして、今日は具合が悪いのかい? 熱は?」
額に手を置かれる。優しい大人の手だと感じた。
小さい頃、父や母にこうされた時のことを思い出していた。
「熱はないようだね。保健室に行くのが嫌なら、私が介抱しようか?」
今朝、アンリと交わした約束を思い出す。
心苦しいが教授に何を言われても、寮に戻らなくてはいけない。
アンリが言いそうな言葉を必死で探す。
三年間の思い出の中から、頭の中で検索を掛ける。
ずっと傍に居るのだから知らない筈はない。
自分では初めて使う台詞だが、おそらく、これだ。
目上の教授に言うのは申し訳ないが、今は俺がアンリなんだと言い聞かせた。
アンリがよくするように、ちょっと睨んで言ってみる。
「お、お断りだね」
講師は苦笑した。
「相変わらず手厳しいね、アンリは」
この台詞で間違っていなかったようだと俺はほっとした。
後は寮に戻るだけだ。早くアンリの傍に帰りたい。
「じゃあ、失礼するよ、ボージェ教授」
「アンリ」
「…まだ、何か?」
「パラケルススについて、復習を忘れないようにね?」
「あ、はい…」
「では、またね、アンリ」
教室を出てドアを閉める。長い廊下を歩いていく。
ボージェ教授の目線がないところまで行きたかった。
校舎の外に出た。
夕焼けの綺麗なオレンジが見えた。
そこで、やっと肩の荷が降りた気がした。
小さく溜め息を漏らす。
アンリのマネは大変だな、と心から思った。
だけど、なんとなくスッキリしている気もする。
ずけずけ言うのもたまには良いのかもしれない。
「…いや、やっぱり俺は聞いている方が良いな」
とぼとぼとウーティス寮へ歩いていく姿。
その数十メートル上。
教室の窓から教授が見守っていた。
To be continued
髪に触れると、するりと滑らかに通り抜けた。
覚えのある指通り。宵闇の髪。
「そうか。俺、アンリの身体に…」
少し掠れた寝起きの声も、彼のままだった。
昨日のことは全部夢で、朝起きたら元の姿に戻っているかも、
という幻想はあっけなく消え失せた。
とにかく朝は起きなくちゃと思い、身体を起こそうとする。
が、頭がぼうっとして、なんとなく重たい。
普段は早めに寝るようにしているのだが、昨夜は夜中まで眠れなかった。
夜の方が頭が冴えているような感覚さえあったのだ。
アンリはどちらかと言うと夜型で朝には酷く弱い。
朝は頭が回らない、と気だるげに呟く彼が思い出される。
「朝、いつも眠そうなのは、こういうことなんだ…」
なんとかベッドから起きて、鏡の前に立ってみる。
其処には、天使と呼ばれる顔があった。
琥珀の瞳。真っ白な肌。自分のものより好きな身体だけど。
「俺は、見ている方が良いな」
朝食後、二人はアンリの部屋で、今日の作戦会議をした。
「アンリ、俺達が入れ替わってること、今日もバレないように過ごすのかい?」
「当たり前でしょう」
ジョシュアは少し心苦しかった。昨日一日は何とか遣り通せたが、
どうしても、みんなに嘘を吐いている、という想いが拭い取れない。
「ねえ、アンリ」
「はい、これ。今日のテキスト」
教科書を渡される。そして彼の手は、自然にタロットに触れた。
優雅な手付きで机上に広げたカードをシャッフルしている。
右回りにカードを撫でながら話を続けた。
「今日の難所は神秘学かな」
「ボージェ教授の授業か。難しそうだね」
アンリが入学時から受けている講義。ハイレベルだと評判だ。
冷やかしで授業見学に行った生徒は、すごすごと退散することが多いらしい。
「授業中は発言しないことだね。ボロが出るから」
「解った。気を付けるよ」
「まあ、発言したくても、君にはできないと思うけれど。
授業中、何か質問されたら、聞いてなかったとか、度忘れしたことにすればいい。
講義が終わったら、教授に何を言われても、無視して戻って来て。
いい? 『無視』するの、簡単でしょ?」
「あ、う、うん。やってみるよ」
「…そんなに気負いすることじゃない」
彼はシャッフルを止める。一枚、タロットを捲った。
「やっぱり、このままで良いみたいだね。そんな気がしたんだ」
カードをこちらに向ける。
水辺に浮かぶ天使。
両手にひとつずつ壷を持っている。天使は壷から壷へ水を注いでいた。
「Temperance(節制) 無理に動くな、って」
第二化学室。ジョシュアは神秘学の授業に出席していた。
このクラスはアルファルドの生徒が多いせいか、とても静かだった。
ボージェ教授の低くて落ち着いた声だけ。
教授は終始、突拍子もない話を穏やかに論じている。
どれが伝説で、どれが史実なのか区別が付かない。
また、教授の話はしょっちゅう横道に反れるようで、
今、何の話題なのかもよく解らなかった。
「…つまり、錬金術師は科学者であり芸術家だったとも言える。
パラケルススも医師だったからね。
彼については、以前勉強したから、彼の業績は覚えているかな?」
生徒達はこくりと頷いていた。それを見て教授も頷いた。
「では、彼の名前が本名ではないのは知っていたかな?」
ここでも声は上がらない。頷いている生徒はまばらだった。教授は説明を始めた。
「パラケルススというのは、本人が名付けた愛称のようなものなんだ。
彼は、自分は古代ローマの高名な医者ケルススより優れていると思っていた。
だから、優れるという意味のパラを付けて、パラケルススと名乗った。
彼は著作のタイトルにもパラを付けたくらいだからね」
ところでパラケルススって何をした人ですか、と聞きたいが、できない。
アンリに持たされたテキストを捲ってもみたが、
教科書自体が難解で、一読ではよく解らない。
授業には全く付いていけなかったが、
つい普段の癖で教授の顔を見ながら講義を受けていたのが災いした。
教授と目が合ってしまった。
「アンリは、パラケルススの本名を知っているかな?」
今日初めて知った人物の本名なんて解る筈もない。
「すみません。ちょっと、今、思い出せなくて…」
それまで静かだった教室が俄かにざわざわする。
驚いて振り向いた生徒も何人も居たが、教授は変わらず穏やかだった。
「おや、アンリでも度忘れすることがあるんだね。では…」教室を見渡す。
「レオシュ、ピンチヒッターを頼めるかい?」
ジョシュアは胸を撫で下ろした。
神秘学の終了後。
ジョシュアの隣に一人の生徒が立っていた。アルファルド寮のレオシュ。
すらりと高い背。長いストレートの黒髪。
切れ長の瞳はやや高圧的だが、妖艶に見える。
同性でも見つめられると少しドキリとするタイプだ。
学院内でトップクラスの美人と名高い生徒。
アンリが姫と呼ばれるのに対し、レオシュは女王。
身長はレオシュの方が高いし、纏っている雰囲気の差もあるかもしれない。
女王は机に左手を突いて囁く。テオがセクシーボイスと絶賛する中性的な声だ。
「珍しいな? お前があんな質問に答えられないとは」
「すまない。さっきは助けて貰ったよね。ありがとう、レオシュ」
切れ長の瞳が少し見開く。ジョシュアは台詞を間違えたと気付いた。
アンリはあまり素直にお礼を言ったりしないのに、つい言ってしまった。
女王に不機嫌な瞳を向けられる。不審に思っているのかもしれない。
細い左手は机から離れ、長い髪に触れる。
「別に、お前を助けたつもりはない。私は教授の質問に答えただけだ」
アルファルドの女王は教室を出て行った。
どことなくウーティスの姫を彷彿とさせる人だ。
背中を眺めながら思わず少し笑ってしまった。
「レオシュも君が心配なようだね」
突然の声に驚く。気配さえ感じなかったが、隣に教授が立っていた。
「アンリ、もしかして、今日は具合が悪いのかい? 熱は?」
額に手を置かれる。優しい大人の手だと感じた。
小さい頃、父や母にこうされた時のことを思い出していた。
「熱はないようだね。保健室に行くのが嫌なら、私が介抱しようか?」
今朝、アンリと交わした約束を思い出す。
心苦しいが教授に何を言われても、寮に戻らなくてはいけない。
アンリが言いそうな言葉を必死で探す。
三年間の思い出の中から、頭の中で検索を掛ける。
ずっと傍に居るのだから知らない筈はない。
自分では初めて使う台詞だが、おそらく、これだ。
目上の教授に言うのは申し訳ないが、今は俺がアンリなんだと言い聞かせた。
アンリがよくするように、ちょっと睨んで言ってみる。
「お、お断りだね」
講師は苦笑した。
「相変わらず手厳しいね、アンリは」
この台詞で間違っていなかったようだと俺はほっとした。
後は寮に戻るだけだ。早くアンリの傍に帰りたい。
「じゃあ、失礼するよ、ボージェ教授」
「アンリ」
「…まだ、何か?」
「パラケルススについて、復習を忘れないようにね?」
「あ、はい…」
「では、またね、アンリ」
教室を出てドアを閉める。長い廊下を歩いていく。
ボージェ教授の目線がないところまで行きたかった。
校舎の外に出た。
夕焼けの綺麗なオレンジが見えた。
そこで、やっと肩の荷が降りた気がした。
小さく溜め息を漏らす。
アンリのマネは大変だな、と心から思った。
だけど、なんとなくスッキリしている気もする。
ずけずけ言うのもたまには良いのかもしれない。
「…いや、やっぱり俺は聞いている方が良いな」
とぼとぼとウーティス寮へ歩いていく姿。
その数十メートル上。
教室の窓から教授が見守っていた。
To be continued
■ジョシュア×アンリ
午後の講義は体育。しかもサッカーだ。
僕だったら面倒な時は見学している。
ジョシュアはゲームで重宝がられるし、優等生なので見学など有り得ない。
参加せざるを得なかった。それに僕には勝算があった。
身体が入れ替わっているのだから、身体能力を受け継いでいても可笑しくはない。
サッカーの授業でシュートをする。それは今までやってみたことはない。
純粋な知的好奇心に突き動かされた。
「行けっ、ジョシュア!」
試合中、アルフレッドからパスが来た。良いコースだ。
蹴ればシュートが入るかもしれない。僕はボールに足を伸ばした。
爪先からボールが擦り抜ける。青い空が見えた。
「おいおい、派手にすっ転んだなあ、ジョシュア」
単細胞に見下ろされた。むかつく。
見学席に座らせておいた人が走ってきた。
周囲が驚いている。あのアンリが一目散にジョシュアの元へ来たのだから。
彼が僕の前でしゃがむ。
「平気かい? ごめん、膝を見るよ?」
お節介焼きが僕のズボンを捲る。白い膝は赤く滲んでいた。
彼はピッチに向かって声を上げた。
「レッド! 選手交代」
「あ、ああ」
アルフレッドはベンチに目を向け、ジョシュアの代わりになる生徒を選抜する。
「じゃあ、シルヴァン!」
「はーい。シルヴァン、行きまーす」
呼ばれた生徒は元気良く手を挙げてピッチに向かった。
「肩を貸すよ、立てるかい?」
僕は彼に支えられて静かに立つ。そっと足を前に踏み出す。
ビクと痛みが走って、膝がぐらつく。
「痛そうだね。ゆっくり行こう」
一歩ずつ進んで、フィールドの外に出た。
ピッチ内のハルヤは眼鏡を押し上げて二人の様子を眺めていた。
「へえ。アンリってジョシュアには優しいんだ。付き合い長いからかなあ?」
アルフレッドは舌打ちする。
「ちげーよ。介抱するフリして、テイ良く授業サボるつもりだろ? 上手いコト考えるぜ」
シルヴァンが腰を左右に回しながら、笑顔で歩いてくる。
「妬けますよねー、あんな光景を見せられると」
「妬いてなんかねーよ!」
シルヴァンは手首に巻いていたヘアゴムで髪を束ねる。
「さ、僕達は試合を続けましょう。僕、ハットトリック決めちゃいますから」
僕達がベンチに入ると、生徒達の視線を浴びた。
皆が僕を、いや、ジョシュアの身体を心配しているようだった。
「大丈夫?」「平気か?」という類の声を幾つも掛けられた。
慣れないものに晒されて、痛みを忘れるほど居心地が悪かった。
「傷口、洗おうか、ジョシュア」
彼は向こうの水飲み場を指差した。
「少し滲みるかもしれないけど。保健室には行かなくて済むよ?」
足を少し引き摺りながら、水飲み場に辿り着く。
もう周りに他の生徒は居ない。
彼は僕を木陰に座らせると、ハンカチを水に浸していた。
固く絞ってから、僕の傷口にそっと当てる。冷たい刺激に、膝が少し震えた。
「ごめん、アンリ。少し我慢して」
泥や血を丁寧に拭う。傷口が綺麗になるとハンカチを洗っていた。
「ねえ」
「ん?」
「どうして、走ってきたの」
「え? だって、アンリが怪我をしたと思ったから…」
「今は君がアンリ。僕は、君と違って過保護じゃないの。
他の連中が不思議がっていたでしょう?」
「ああ、そうか。ごめん。アンリのマネって難しいな」
鳥の彫刻が飾られた蛇口から雫が一滴落ちた。
「僕だって君のマネをしてあげてるんだから、ちゃんとやってくれない?」
「アンリだって、俺のマネ、できていないよ?」
「何が」
「怪我の手当てをして貰ったら、俺は『ありがとう』って言うと思うな」
さあ言ってみろという状況で素直に礼が言える性格ではなかった。
「…僕は、君じゃない」
彼は笑顔で立ち上がり、僕に手を差し出す。
「じゃ、おあいこだね?」
その顔で爽やかに笑わないで。
やっと長い一日が終わった。
夕食後、寮のチェスボードを持って僕の部屋を訪ねる。
他の連中と一緒に居る時は気が抜けなかったが、
彼と二人きりなると、なんだかほっとした。
「今日は疲れただろう、アンリ」
「ああ。キャンパスを歩いているだけで、やたら挨拶されるんだもの」
「ちゃんと挨拶を返してくれたのかい?」
「まあ、適当にね」
本当かな、というように彼は苦笑した。が、すぐに表情を曇らせた。
「アンリ、今日はすまない」
「何を謝っているの?」
彼は僕の膝に触れた。布越しのその場所には彼が巻いた包帯がある。
「俺のせいで、君に怪我をさせたから」
「怪我をしたのは僕のせいで、怪我をしたのは君の身体でしょ」
彼は首を横に振る。
「痛い思いをしたのはアンリだ。すまない。今も痛むかい?」
「別に。さっさと情報交換をしよう」
今日一日の出来事を報告し合う。
彼は金融工学が意外と面白かったと楽しそうに話していた。
僕は動物園に行ってリスの観察をしたと話したら、
良かったね、と言われて、ちょっとむかついた。
入れ替わった理由については、互いに考えてはみたが思い当たる節もなかった。
ファンタジーの入れ替わりモノで見るような『原因』は、やっていない。
頭をぶつけるどころか、額が触れ合うようなこともしていないし、
ここ暫く至って天気は良く、雷に打たれるわけもない。
結論の出ない議論は、やるだけ無駄だ。
僕は窓辺に寄り添って、少しカーテンを開ける。
窓の向こうには遠くまで広がる森。今は真っ暗だ。
窓を見たまま、僕は呟いた。
「ねえ。君は僕になっても、見えないの?」
「何がだい?」
僕はこちらの額を指差す。
「此処に、月桂樹の王冠」
入れ替わった朝、鏡を見た時に感じた違和感。
この額には、王冠がないのだ。
彼がこちらの額を見つめる。大きなリアクションはない。
いくらじっと見ても、発見できないようだった。
額を見られている間、少し落ち着かない気分になった。
そう言えば、そんなに見つめないでくれないか、と彼にはいつも言われる。
「すまない。俺には見えないみたいだ」
視線を外されて、少しほっとしている自分が居た。
「そう。本人にも見て貰えたら良かったんだけどね。君の王冠」
「アンリは? 今も見えるのかい?」
「ううん。自分の頭の上なんて見えないし、鏡にも映らないものだから。
もしくは、魂が僕だから、王冠自体が姿を消しているのかもしれないし」
「そう、だね」
王冠について話す時、君はいつも以上に自信のない顔をする。
「まだ納得してないんだ、王冠の話。君、僕のこと、ホラ吹きだと思ってる?」
「違うよ。アンリが嘘を言っているとは思ってない。
だけど、王冠なんて…俺に相応しいとは思えないから」
「馬鹿馬鹿しい。あるものはあるの。君が信じようと信じまいとね」
「うん。ありがとう」
「お礼を言われるようなことを言ったつもりはない。もう寝よう」
「そうだね。今日は本当にお疲れ様、アンリ」
彼が部屋を出て行こうとした。
「待って。君はココ。僕の部屋で寝るの」
「ああ、そうか」
「じゃ」
僕は部屋を出て行った。
ジョシュアの部屋は一階、右側の棟の一番奥。
意識しなくても足は自然と其処へ向かう。
インテリアは、ほぼ入学当初のまま。
机上には教科書の類が綺麗に並んでいる。
夢に堕ちるまで少し間があるので、明日の予習でもしようかと思った。
ジョシュアの授業とは言え、講義の内容がよく解らないのが不快だったからだ。
教科書を取ろうとしたら、他の本を床に落とした。
その時、本の隙間から何かがひらりと舞った。
四角に切り取られた記憶。
幼いジョシュアがご両親と共に映っている写真だった。
父親はプリンス・エドワード、母親はクリスティーナ・グラント。
幸福な親子の写真。彼にとって、これは過去。
懐かしいという感情だけではないのだろう。
このような写真を只の一枚も持っていない家と、どちらが不幸だろう。
写真を適当に本に挟んで本棚に戻す。読もうとした教科書を机に置いた。
電気を消して、ベッドに横たわる。
毛布を引き寄せた。
To be continued
僕だったら面倒な時は見学している。
ジョシュアはゲームで重宝がられるし、優等生なので見学など有り得ない。
参加せざるを得なかった。それに僕には勝算があった。
身体が入れ替わっているのだから、身体能力を受け継いでいても可笑しくはない。
サッカーの授業でシュートをする。それは今までやってみたことはない。
純粋な知的好奇心に突き動かされた。
「行けっ、ジョシュア!」
試合中、アルフレッドからパスが来た。良いコースだ。
蹴ればシュートが入るかもしれない。僕はボールに足を伸ばした。
爪先からボールが擦り抜ける。青い空が見えた。
「おいおい、派手にすっ転んだなあ、ジョシュア」
単細胞に見下ろされた。むかつく。
見学席に座らせておいた人が走ってきた。
周囲が驚いている。あのアンリが一目散にジョシュアの元へ来たのだから。
彼が僕の前でしゃがむ。
「平気かい? ごめん、膝を見るよ?」
お節介焼きが僕のズボンを捲る。白い膝は赤く滲んでいた。
彼はピッチに向かって声を上げた。
「レッド! 選手交代」
「あ、ああ」
アルフレッドはベンチに目を向け、ジョシュアの代わりになる生徒を選抜する。
「じゃあ、シルヴァン!」
「はーい。シルヴァン、行きまーす」
呼ばれた生徒は元気良く手を挙げてピッチに向かった。
「肩を貸すよ、立てるかい?」
僕は彼に支えられて静かに立つ。そっと足を前に踏み出す。
ビクと痛みが走って、膝がぐらつく。
「痛そうだね。ゆっくり行こう」
一歩ずつ進んで、フィールドの外に出た。
ピッチ内のハルヤは眼鏡を押し上げて二人の様子を眺めていた。
「へえ。アンリってジョシュアには優しいんだ。付き合い長いからかなあ?」
アルフレッドは舌打ちする。
「ちげーよ。介抱するフリして、テイ良く授業サボるつもりだろ? 上手いコト考えるぜ」
シルヴァンが腰を左右に回しながら、笑顔で歩いてくる。
「妬けますよねー、あんな光景を見せられると」
「妬いてなんかねーよ!」
シルヴァンは手首に巻いていたヘアゴムで髪を束ねる。
「さ、僕達は試合を続けましょう。僕、ハットトリック決めちゃいますから」
僕達がベンチに入ると、生徒達の視線を浴びた。
皆が僕を、いや、ジョシュアの身体を心配しているようだった。
「大丈夫?」「平気か?」という類の声を幾つも掛けられた。
慣れないものに晒されて、痛みを忘れるほど居心地が悪かった。
「傷口、洗おうか、ジョシュア」
彼は向こうの水飲み場を指差した。
「少し滲みるかもしれないけど。保健室には行かなくて済むよ?」
足を少し引き摺りながら、水飲み場に辿り着く。
もう周りに他の生徒は居ない。
彼は僕を木陰に座らせると、ハンカチを水に浸していた。
固く絞ってから、僕の傷口にそっと当てる。冷たい刺激に、膝が少し震えた。
「ごめん、アンリ。少し我慢して」
泥や血を丁寧に拭う。傷口が綺麗になるとハンカチを洗っていた。
「ねえ」
「ん?」
「どうして、走ってきたの」
「え? だって、アンリが怪我をしたと思ったから…」
「今は君がアンリ。僕は、君と違って過保護じゃないの。
他の連中が不思議がっていたでしょう?」
「ああ、そうか。ごめん。アンリのマネって難しいな」
鳥の彫刻が飾られた蛇口から雫が一滴落ちた。
「僕だって君のマネをしてあげてるんだから、ちゃんとやってくれない?」
「アンリだって、俺のマネ、できていないよ?」
「何が」
「怪我の手当てをして貰ったら、俺は『ありがとう』って言うと思うな」
さあ言ってみろという状況で素直に礼が言える性格ではなかった。
「…僕は、君じゃない」
彼は笑顔で立ち上がり、僕に手を差し出す。
「じゃ、おあいこだね?」
その顔で爽やかに笑わないで。
やっと長い一日が終わった。
夕食後、寮のチェスボードを持って僕の部屋を訪ねる。
他の連中と一緒に居る時は気が抜けなかったが、
彼と二人きりなると、なんだかほっとした。
「今日は疲れただろう、アンリ」
「ああ。キャンパスを歩いているだけで、やたら挨拶されるんだもの」
「ちゃんと挨拶を返してくれたのかい?」
「まあ、適当にね」
本当かな、というように彼は苦笑した。が、すぐに表情を曇らせた。
「アンリ、今日はすまない」
「何を謝っているの?」
彼は僕の膝に触れた。布越しのその場所には彼が巻いた包帯がある。
「俺のせいで、君に怪我をさせたから」
「怪我をしたのは僕のせいで、怪我をしたのは君の身体でしょ」
彼は首を横に振る。
「痛い思いをしたのはアンリだ。すまない。今も痛むかい?」
「別に。さっさと情報交換をしよう」
今日一日の出来事を報告し合う。
彼は金融工学が意外と面白かったと楽しそうに話していた。
僕は動物園に行ってリスの観察をしたと話したら、
良かったね、と言われて、ちょっとむかついた。
入れ替わった理由については、互いに考えてはみたが思い当たる節もなかった。
ファンタジーの入れ替わりモノで見るような『原因』は、やっていない。
頭をぶつけるどころか、額が触れ合うようなこともしていないし、
ここ暫く至って天気は良く、雷に打たれるわけもない。
結論の出ない議論は、やるだけ無駄だ。
僕は窓辺に寄り添って、少しカーテンを開ける。
窓の向こうには遠くまで広がる森。今は真っ暗だ。
窓を見たまま、僕は呟いた。
「ねえ。君は僕になっても、見えないの?」
「何がだい?」
僕はこちらの額を指差す。
「此処に、月桂樹の王冠」
入れ替わった朝、鏡を見た時に感じた違和感。
この額には、王冠がないのだ。
彼がこちらの額を見つめる。大きなリアクションはない。
いくらじっと見ても、発見できないようだった。
額を見られている間、少し落ち着かない気分になった。
そう言えば、そんなに見つめないでくれないか、と彼にはいつも言われる。
「すまない。俺には見えないみたいだ」
視線を外されて、少しほっとしている自分が居た。
「そう。本人にも見て貰えたら良かったんだけどね。君の王冠」
「アンリは? 今も見えるのかい?」
「ううん。自分の頭の上なんて見えないし、鏡にも映らないものだから。
もしくは、魂が僕だから、王冠自体が姿を消しているのかもしれないし」
「そう、だね」
王冠について話す時、君はいつも以上に自信のない顔をする。
「まだ納得してないんだ、王冠の話。君、僕のこと、ホラ吹きだと思ってる?」
「違うよ。アンリが嘘を言っているとは思ってない。
だけど、王冠なんて…俺に相応しいとは思えないから」
「馬鹿馬鹿しい。あるものはあるの。君が信じようと信じまいとね」
「うん。ありがとう」
「お礼を言われるようなことを言ったつもりはない。もう寝よう」
「そうだね。今日は本当にお疲れ様、アンリ」
彼が部屋を出て行こうとした。
「待って。君はココ。僕の部屋で寝るの」
「ああ、そうか」
「じゃ」
僕は部屋を出て行った。
ジョシュアの部屋は一階、右側の棟の一番奥。
意識しなくても足は自然と其処へ向かう。
インテリアは、ほぼ入学当初のまま。
机上には教科書の類が綺麗に並んでいる。
夢に堕ちるまで少し間があるので、明日の予習でもしようかと思った。
ジョシュアの授業とは言え、講義の内容がよく解らないのが不快だったからだ。
教科書を取ろうとしたら、他の本を床に落とした。
その時、本の隙間から何かがひらりと舞った。
四角に切り取られた記憶。
幼いジョシュアがご両親と共に映っている写真だった。
父親はプリンス・エドワード、母親はクリスティーナ・グラント。
幸福な親子の写真。彼にとって、これは過去。
懐かしいという感情だけではないのだろう。
このような写真を只の一枚も持っていない家と、どちらが不幸だろう。
写真を適当に本に挟んで本棚に戻す。読もうとした教科書を机に置いた。
電気を消して、ベッドに横たわる。
毛布を引き寄せた。
To be continued
■六年前
東京の六月は酷く蒸し暑い。今日も雨が降っている。
梅雨に入り、学校全体がジメジメしてた。
壁もしっとりと汗をかいている。
授業前の休み時間。
五年三組の一部はゲームの話題で盛り上がっていた。
クラスにはお金持ちの家の子が一人や二人は居る。
昨日発売されたばかりのゲームの自慢をしていた。
みんなは「お前の家に生まれたらよかったー」などと言っていた。
話題は次々と変わる。人気のRPGで、昨日はどこまで行ったとか、
あの中ボスが強過ぎんだよな、とわいわい話が進んでいた。
会話に加わっていない奴が一人。
通路を挟んで俺の左前に居る、小林春也。
去年、新学期でもない時期に、和歌山から来た転校生。
時々なまったアクセントで話す、ちょっと変わった奴。
転校してきた日、「好きな食べ物は?」って聞かれて、
「アボカドマグロ丼です」って答えてたし。アボカドってなんだ。
小林は女みたいな顔をしてるせいか、女子にはすぐに気に入られて、
他のクラスから、わざわざ見に来る女子まで居た。
小林は話を振られれば喋るけど、自分からはあんまり喋ってない。
金持ち野郎が小林に話し掛けていた。
「なあ、小林は何のゲーム持ってんの? 64派? プレステ派?」
「持ってないんだ」
「え? でもゲームボーイは持ってんだろ?」
「ううん」
「えー。めずらしーな、お前。家で何やってんの?」
「えっと…マンガ、読んだりとか」
「ジャンプ派? コロコロ派? ガンガン派?」
「あ、ジャンプ」
「ジャンプ派かー。じゃあさ、ジャンプのどれが好き?」
「先生、来たよー」
廊下を覗くのがシュミの奴が叫んだ。みんなバタバタと自分の席に戻った。
四時間目は総合学習。
なんか去年くらいから新しくできた科目で、
道徳っぽいこととか、社会っぽいこととかやる授業だ。
「今日は父の日なので、お父さんにお手紙を書きます。
うちに帰ったら、お父さんに渡してあげて下さいね」
えー、というブーイング。先生は気にせず紙を配る。
いつもの作文用紙ではない。本物の便箋だった。綺麗な水色。
「こういう時に、ちゃんと、ありがとうって言っておかないとね」
みんな嫌がっていたが、ざわざわしていた教室も、
次第に鉛筆の音だけになっていく。
クラス全員が書き終わった頃、先生は水色の封筒を見せた。
「書けましたか? ではこれから、この封筒を配ります。
封筒の表には、『お父さんへ』って書いて、プレゼントしてあげてね」
クラスに二人は居るバカが手を挙げた。
「せんせー、『オヤジへ』でもイイですかー?」
「良いですよ。いつもオヤジって呼んでるの?」
「いえ、お父様です」
みんなは笑っていた。
最前列の席から後ろへ封筒が回される。
小林は、封筒に便箋を入れると、
封筒の表には何も書かず、机の中に入れていた。
「ただいま」
春也が家に帰ると、母親は出掛ける準備をしていた。
母は料亭を営んでいる。この時間は仕事に行く前で慌ただしい。
「あの、母様。80円切手、あるかな?」
母親は手を止めて、春也を振り向く。
「あるわよ。手紙を出すの?」
「えっと、ジャンプの、懸賞なんだけど」
「そう。当たると良いわね。切手、1枚で良いの?」
「うん」
母親は切手を持ってきて、春也に渡した。
時計を見ると、もう仕事に行く時間が迫っていた。
「じゃ、行って来るわね。ごはん、台所に置いてあるから」
「ん。いってらっしゃい」
バタンと戸が閉まる。
春也は少し濡れたランドセルから水色の封筒を出した。
和歌山県から始まる住所と梅ヶ枝 近春様と書いた。
封筒を引っ繰り返す。
東京都から始まる住所と小林 春也と書いた。
ぺろっと舌を出して、切手を舐める。
切手の裏は、白いご飯のような味がした。
切手を封筒に貼り、剥がれないように縁を一周撫でた。
ぐう、と小さな音が聞こえた。鳴った場所をさする。
「ごはん食べてから、ポストに行こっかな」
台所に向かう。テーブルには丼が置いてあった。
白飯の上には鮮やかな赤と緑。
「あ、アボカドマグロ丼だ」
やった、と小さく言った。
fin
梅雨に入り、学校全体がジメジメしてた。
壁もしっとりと汗をかいている。
授業前の休み時間。
五年三組の一部はゲームの話題で盛り上がっていた。
クラスにはお金持ちの家の子が一人や二人は居る。
昨日発売されたばかりのゲームの自慢をしていた。
みんなは「お前の家に生まれたらよかったー」などと言っていた。
話題は次々と変わる。人気のRPGで、昨日はどこまで行ったとか、
あの中ボスが強過ぎんだよな、とわいわい話が進んでいた。
会話に加わっていない奴が一人。
通路を挟んで俺の左前に居る、小林春也。
去年、新学期でもない時期に、和歌山から来た転校生。
時々なまったアクセントで話す、ちょっと変わった奴。
転校してきた日、「好きな食べ物は?」って聞かれて、
「アボカドマグロ丼です」って答えてたし。アボカドってなんだ。
小林は女みたいな顔をしてるせいか、女子にはすぐに気に入られて、
他のクラスから、わざわざ見に来る女子まで居た。
小林は話を振られれば喋るけど、自分からはあんまり喋ってない。
金持ち野郎が小林に話し掛けていた。
「なあ、小林は何のゲーム持ってんの? 64派? プレステ派?」
「持ってないんだ」
「え? でもゲームボーイは持ってんだろ?」
「ううん」
「えー。めずらしーな、お前。家で何やってんの?」
「えっと…マンガ、読んだりとか」
「ジャンプ派? コロコロ派? ガンガン派?」
「あ、ジャンプ」
「ジャンプ派かー。じゃあさ、ジャンプのどれが好き?」
「先生、来たよー」
廊下を覗くのがシュミの奴が叫んだ。みんなバタバタと自分の席に戻った。
四時間目は総合学習。
なんか去年くらいから新しくできた科目で、
道徳っぽいこととか、社会っぽいこととかやる授業だ。
「今日は父の日なので、お父さんにお手紙を書きます。
うちに帰ったら、お父さんに渡してあげて下さいね」
えー、というブーイング。先生は気にせず紙を配る。
いつもの作文用紙ではない。本物の便箋だった。綺麗な水色。
「こういう時に、ちゃんと、ありがとうって言っておかないとね」
みんな嫌がっていたが、ざわざわしていた教室も、
次第に鉛筆の音だけになっていく。
クラス全員が書き終わった頃、先生は水色の封筒を見せた。
「書けましたか? ではこれから、この封筒を配ります。
封筒の表には、『お父さんへ』って書いて、プレゼントしてあげてね」
クラスに二人は居るバカが手を挙げた。
「せんせー、『オヤジへ』でもイイですかー?」
「良いですよ。いつもオヤジって呼んでるの?」
「いえ、お父様です」
みんなは笑っていた。
最前列の席から後ろへ封筒が回される。
小林は、封筒に便箋を入れると、
封筒の表には何も書かず、机の中に入れていた。
「ただいま」
春也が家に帰ると、母親は出掛ける準備をしていた。
母は料亭を営んでいる。この時間は仕事に行く前で慌ただしい。
「あの、母様。80円切手、あるかな?」
母親は手を止めて、春也を振り向く。
「あるわよ。手紙を出すの?」
「えっと、ジャンプの、懸賞なんだけど」
「そう。当たると良いわね。切手、1枚で良いの?」
「うん」
母親は切手を持ってきて、春也に渡した。
時計を見ると、もう仕事に行く時間が迫っていた。
「じゃ、行って来るわね。ごはん、台所に置いてあるから」
「ん。いってらっしゃい」
バタンと戸が閉まる。
春也は少し濡れたランドセルから水色の封筒を出した。
和歌山県から始まる住所と梅ヶ枝 近春様と書いた。
封筒を引っ繰り返す。
東京都から始まる住所と小林 春也と書いた。
ぺろっと舌を出して、切手を舐める。
切手の裏は、白いご飯のような味がした。
切手を封筒に貼り、剥がれないように縁を一周撫でた。
ぐう、と小さな音が聞こえた。鳴った場所をさする。
「ごはん食べてから、ポストに行こっかな」
台所に向かう。テーブルには丼が置いてあった。
白飯の上には鮮やかな赤と緑。
「あ、アボカドマグロ丼だ」
やった、と小さく言った。
fin
■ジョシュア×アンリ
僕はゆっくりベッドから立つ。頬に添えられた冷たい手が離れる。
壁に背を預ける。カーテンの隙間から眩しい朝陽が漏れている。
ジョシュアも起きたらアンリになっていたらしい。
二人とも昨日は特別変わったことなどしていない。
どうしてこんなことになってしまったのか、彼も僕も検討が付かなかった。
そのうちに朝食の時間が来る。打ち合わせ時間もそれほど長くはないようだ。
今日は平日。授業はある。
僕と彼の能力と性格を考慮し、今日一日を予測する。
この展開は僕には得になりそうだと試算が出た。
「不本意ではあるけれど、今日一日は、君は僕、僕は君として過ごすしかないよね?」
「えっ? でも…」
「いい? 君がアンリ。僕がジョシュア。
僕は君らしく振る舞ってあげるから、君も僕らしく振る舞ってね?」
「アンリらしく?」
「もう三年も同じ寮に居るんだから、模倣くらいはできるでしょう?
それから、夕食後には僕の部屋で今日の出来事を情報交換。
元に戻った時に情報が抜けていると怪しまれるからね。
――まあ、いつ戻れるかは解らないけれど」
「ねえ、アンリ。誰かに相談した方が良いんじゃないかな? あ、ソクーロフ博士とか」
「寝言を言わないで。あのサディストに、こんな状態の身体を差し出したら、
保健室から生きて帰って来れないよ」
「言い過ぎだよ、アンリ。どうして、そんなに博士のことを酷く言うんだ。
親切で信頼できるドクターじゃないか」
「僕の声で、あれを信頼できるとか言わないで。
ソクーロフについて議論している時間はない」
「寮のみんなにも秘密にするのかい?」
「彼等に言ったってどうにもならないし、僕達の身体がお調子者達に遊ばれるだけだよ。
では会議は終了だね。君は早く部屋に戻って。
この部屋から、寝巻姿で出て行くのを他の人に見られたくないし。その格好で朝食に行くつもり?」
「着替え? あ、アンリ」
「なに」
「俺、君の服、着て良いのかな?」
「いちいち聞かないで。身体に合うものを着るしかないでしょう」
ウーティス寮ダイニングルーム。
朝食はビュッフェスタイル。各自好きなものを自由に取っていく。
席に着くと、ウーティス寮の執事が傍に来た。
「おはようございます、ジョシュア様」
そう言ってコーヒーを置いた。
ジョシュアなら朝はブラックコーヒーを飲むと決まっているので、
何も言わずともそれを提供したのだろう。優秀な執事だ。
けれど僕は、よほどカフェインを必要とする時以外は飲まない。
だって、あの黒い液体は苦いもの。
ミルクティに換えて、と言いたいのを堪えて彼が毎朝言っている台詞を演じる。
「…おはよう、バトラー」
執事は一礼して、次の生徒の元へ行った。
「おはようございます、アンリ様」
彼には紅茶。ミルクピッチャーも差し出している。
「おはよう、バトラー」
条件反射のように彼は言った。
執事は一瞬、はて、という顔をした。当たり前だ。
おはよう、なんて僕は言わないし、朝からそんなに爽やかな笑顔はできない。
例え夜だって、君のような笑顔は持ち合わせていないのに。
ほら、他の連中も変な顔をしている。
彼に僕役だなんて、酷いミスキャストだ。
「ねえ、ジョシュア。今夜、お時間ありますか?」
髪の長いお調子者に話し掛けられた。
仮に時間があっても付き合いたくはないのだが、
なるべくジョシュアらしく応じてあげる。
「今夜、何かあるの? シルヴァン」
「はい。僕達、今日はライブのリハーサルをしますので見に来ませんか?
お客さんが居てくれると、僕達もやりがいがありますので」
「そうそう、先行試写会ってヤツ?
デッドプリンスライブの裏側に特別ご招待! どうだ、行きたいだろっ?」
単細胞のハリウッドスターは朝からテンションが高過ぎる。
僕はジョシュアを演じる為に、先ずは謝罪の言葉を述べてみた。
「すまない。今夜は先約があるから」
「おおっ? めずらしーな。夜に誰と約束してんだよ、ジョシュア」
「アンリと。ね、アンリ?」
彼は驚きながらも、僕に合わせて頷いた。
単細胞が、からかって口笛を吹く。
「アヤシーなー、お前等が夜に約束なんて。何すんだよ、二人で」
「チェスだよ。習いたいって頼んでいたんだ」
朝食後。僕達は互いの部屋に行って、今日の時間割を確認した。
僕は、動物行動学の教室へ向かった。
キャンパスを歩いていると、あちこちから朝の挨拶を掛けられた。
さすが人望が厚い優等生だ。いちいち挨拶を返さなくてはならないのが面倒臭い。
やっと教室に辿り着く。ジョシュアから聞いている彼の席に座る。
このクラスに居る者は例外なく動物に興味関心があるらしい。
成程、そんな面子が揃っている。だが、あれが居ない。学院一の動物狂が。
動物行動学という学問には興味がないのだろうか。
「みんな、おはよう」
教授が来た。眼鏡を掛けていて、いかにも動物が好きそうな善人顔。
アフリカで野生動物を研究することをフィールドワークにしている大学教授だ。
学院からの要請でこの講座を持つことになった。
まだ若い。三十前後に見える。アフリカの日差しで焼けたのか、褐色の肌をしていた。
教授は、今日は外で勉強しようと言い出した。
彼を先頭に生徒達が教室を出て行く。辿り着いたのは、あの場所だった。
一人の生徒がそこで待っていた。教授が生徒に手を向ける。
「今日の動物行動学は、ジャワハルワール全面協力の下、
彼の動物園を見学させて貰えることになったんだ。ご協力ありがとう」
「アリガトー!」
ジャワハルワールの肩でオウムが教授の口調を真似ている。
アルファルド寮のジャワハルワール。
入学時に動物園ごとやってきた。彼は祖国ミッタルの王となる者。
彼が連れてきた動物達の家が、動物園と呼ばれているのだ。
この動物狂が動物行動学を受講しているのは無理もないが、
授業にまで、オウムを連れてきているとは知らなかった。
邪魔にならないのだろうか、このクラスの生徒達には。
全員、そこまで動物愛護者なのか。
教授は微笑ましく鳥を見つめ、再び生徒達に向き直る。
「今日はこちらのコバタンオウム君も、
授業にご協力頂けるとのことだから、彼は特別講師だと思ってね?」
「トクベツコーシ!」
鳥の声が高過ぎる。
できることなら、今すぐあのクチバシを縛りたい。
「さあ、今日の授業は、実際に動物に触れて、生態を学ばせて貰おう」
観察記録を文章にして授業が終わるまでに提出するようにとのことだった。
ジャワハルワールの動物園は、個人の所有物とは思えない数の動物が居た。
何故これほど多くの動物を連れてくる必要があったのか理解できない。
何を観察しようか決め兼ねていると、オウムが飛んで来た。
僕の前に止まって、親しげに片翼を挙げた。
「ジョシュア! ウマ、ゲンキ?」
「え? ああ」
驚いた。このオウムはジョシュアの名前と顔が解るらしい。
しかも、馬を所有していることまで知っているのか。
「テンシ、ゲンキ?」
「…天使?」
「ジョシュア、スキ、テンシ! ヒミツダヨ! ヒミツダヨ!」
彼は鳥に何を教えているのか。
彼が「秘密だよ」と言った時の微笑が容易に想像できて嫌になる。
「…天使って誰のこと」
「コノ ハナシは コレで オシマイにシヨウ!」
バサバサと騒々しく飛び立って、次の話し相手を探しに行ったようだ。
選ばれたのは、黒い長髪の生徒。
僕は彼の顔を知っていた。彼も神秘学を受けているからだ。
「レオシュー!」
「煩いぞ、鳥」
「トクベツコーシ!」
「観察の邪魔だ、向こうへ行け」
慣れた様子でオウムと話している姿は意外に映った。
彼はいつも不機嫌そうで、
周囲に人を寄せ付けない雰囲気を持つ人だと思っていたが。
あの鳥とは親しいらしい。
「トクベツコーシ、カンサツ!」
「お前のことは見飽きている」
「トクベツコーシ、カンサツ! カンサツ!」
「おい、ジャワハルワール、鳥を何とかしろ」
ゾウと無言の対話中だったジャワハルワールは、
ゆっくりとレオシュとオウムを見やる。オウムが片翼を挙げる。
「ジョウオウは、キョウもゴキゲンナナメ!」
ジャワハルワールは、そうだね、とでも言うように無言で頷く。
再びゾウに向き直り愛おしげに長い鼻を撫でていた。
To be continued
壁に背を預ける。カーテンの隙間から眩しい朝陽が漏れている。
ジョシュアも起きたらアンリになっていたらしい。
二人とも昨日は特別変わったことなどしていない。
どうしてこんなことになってしまったのか、彼も僕も検討が付かなかった。
そのうちに朝食の時間が来る。打ち合わせ時間もそれほど長くはないようだ。
今日は平日。授業はある。
僕と彼の能力と性格を考慮し、今日一日を予測する。
この展開は僕には得になりそうだと試算が出た。
「不本意ではあるけれど、今日一日は、君は僕、僕は君として過ごすしかないよね?」
「えっ? でも…」
「いい? 君がアンリ。僕がジョシュア。
僕は君らしく振る舞ってあげるから、君も僕らしく振る舞ってね?」
「アンリらしく?」
「もう三年も同じ寮に居るんだから、模倣くらいはできるでしょう?
それから、夕食後には僕の部屋で今日の出来事を情報交換。
元に戻った時に情報が抜けていると怪しまれるからね。
――まあ、いつ戻れるかは解らないけれど」
「ねえ、アンリ。誰かに相談した方が良いんじゃないかな? あ、ソクーロフ博士とか」
「寝言を言わないで。あのサディストに、こんな状態の身体を差し出したら、
保健室から生きて帰って来れないよ」
「言い過ぎだよ、アンリ。どうして、そんなに博士のことを酷く言うんだ。
親切で信頼できるドクターじゃないか」
「僕の声で、あれを信頼できるとか言わないで。
ソクーロフについて議論している時間はない」
「寮のみんなにも秘密にするのかい?」
「彼等に言ったってどうにもならないし、僕達の身体がお調子者達に遊ばれるだけだよ。
では会議は終了だね。君は早く部屋に戻って。
この部屋から、寝巻姿で出て行くのを他の人に見られたくないし。その格好で朝食に行くつもり?」
「着替え? あ、アンリ」
「なに」
「俺、君の服、着て良いのかな?」
「いちいち聞かないで。身体に合うものを着るしかないでしょう」
ウーティス寮ダイニングルーム。
朝食はビュッフェスタイル。各自好きなものを自由に取っていく。
席に着くと、ウーティス寮の執事が傍に来た。
「おはようございます、ジョシュア様」
そう言ってコーヒーを置いた。
ジョシュアなら朝はブラックコーヒーを飲むと決まっているので、
何も言わずともそれを提供したのだろう。優秀な執事だ。
けれど僕は、よほどカフェインを必要とする時以外は飲まない。
だって、あの黒い液体は苦いもの。
ミルクティに換えて、と言いたいのを堪えて彼が毎朝言っている台詞を演じる。
「…おはよう、バトラー」
執事は一礼して、次の生徒の元へ行った。
「おはようございます、アンリ様」
彼には紅茶。ミルクピッチャーも差し出している。
「おはよう、バトラー」
条件反射のように彼は言った。
執事は一瞬、はて、という顔をした。当たり前だ。
おはよう、なんて僕は言わないし、朝からそんなに爽やかな笑顔はできない。
例え夜だって、君のような笑顔は持ち合わせていないのに。
ほら、他の連中も変な顔をしている。
彼に僕役だなんて、酷いミスキャストだ。
「ねえ、ジョシュア。今夜、お時間ありますか?」
髪の長いお調子者に話し掛けられた。
仮に時間があっても付き合いたくはないのだが、
なるべくジョシュアらしく応じてあげる。
「今夜、何かあるの? シルヴァン」
「はい。僕達、今日はライブのリハーサルをしますので見に来ませんか?
お客さんが居てくれると、僕達もやりがいがありますので」
「そうそう、先行試写会ってヤツ?
デッドプリンスライブの裏側に特別ご招待! どうだ、行きたいだろっ?」
単細胞のハリウッドスターは朝からテンションが高過ぎる。
僕はジョシュアを演じる為に、先ずは謝罪の言葉を述べてみた。
「すまない。今夜は先約があるから」
「おおっ? めずらしーな。夜に誰と約束してんだよ、ジョシュア」
「アンリと。ね、アンリ?」
彼は驚きながらも、僕に合わせて頷いた。
単細胞が、からかって口笛を吹く。
「アヤシーなー、お前等が夜に約束なんて。何すんだよ、二人で」
「チェスだよ。習いたいって頼んでいたんだ」
朝食後。僕達は互いの部屋に行って、今日の時間割を確認した。
僕は、動物行動学の教室へ向かった。
キャンパスを歩いていると、あちこちから朝の挨拶を掛けられた。
さすが人望が厚い優等生だ。いちいち挨拶を返さなくてはならないのが面倒臭い。
やっと教室に辿り着く。ジョシュアから聞いている彼の席に座る。
このクラスに居る者は例外なく動物に興味関心があるらしい。
成程、そんな面子が揃っている。だが、あれが居ない。学院一の動物狂が。
動物行動学という学問には興味がないのだろうか。
「みんな、おはよう」
教授が来た。眼鏡を掛けていて、いかにも動物が好きそうな善人顔。
アフリカで野生動物を研究することをフィールドワークにしている大学教授だ。
学院からの要請でこの講座を持つことになった。
まだ若い。三十前後に見える。アフリカの日差しで焼けたのか、褐色の肌をしていた。
教授は、今日は外で勉強しようと言い出した。
彼を先頭に生徒達が教室を出て行く。辿り着いたのは、あの場所だった。
一人の生徒がそこで待っていた。教授が生徒に手を向ける。
「今日の動物行動学は、ジャワハルワール全面協力の下、
彼の動物園を見学させて貰えることになったんだ。ご協力ありがとう」
「アリガトー!」
ジャワハルワールの肩でオウムが教授の口調を真似ている。
アルファルド寮のジャワハルワール。
入学時に動物園ごとやってきた。彼は祖国ミッタルの王となる者。
彼が連れてきた動物達の家が、動物園と呼ばれているのだ。
この動物狂が動物行動学を受講しているのは無理もないが、
授業にまで、オウムを連れてきているとは知らなかった。
邪魔にならないのだろうか、このクラスの生徒達には。
全員、そこまで動物愛護者なのか。
教授は微笑ましく鳥を見つめ、再び生徒達に向き直る。
「今日はこちらのコバタンオウム君も、
授業にご協力頂けるとのことだから、彼は特別講師だと思ってね?」
「トクベツコーシ!」
鳥の声が高過ぎる。
できることなら、今すぐあのクチバシを縛りたい。
「さあ、今日の授業は、実際に動物に触れて、生態を学ばせて貰おう」
観察記録を文章にして授業が終わるまでに提出するようにとのことだった。
ジャワハルワールの動物園は、個人の所有物とは思えない数の動物が居た。
何故これほど多くの動物を連れてくる必要があったのか理解できない。
何を観察しようか決め兼ねていると、オウムが飛んで来た。
僕の前に止まって、親しげに片翼を挙げた。
「ジョシュア! ウマ、ゲンキ?」
「え? ああ」
驚いた。このオウムはジョシュアの名前と顔が解るらしい。
しかも、馬を所有していることまで知っているのか。
「テンシ、ゲンキ?」
「…天使?」
「ジョシュア、スキ、テンシ! ヒミツダヨ! ヒミツダヨ!」
彼は鳥に何を教えているのか。
彼が「秘密だよ」と言った時の微笑が容易に想像できて嫌になる。
「…天使って誰のこと」
「コノ ハナシは コレで オシマイにシヨウ!」
バサバサと騒々しく飛び立って、次の話し相手を探しに行ったようだ。
選ばれたのは、黒い長髪の生徒。
僕は彼の顔を知っていた。彼も神秘学を受けているからだ。
「レオシュー!」
「煩いぞ、鳥」
「トクベツコーシ!」
「観察の邪魔だ、向こうへ行け」
慣れた様子でオウムと話している姿は意外に映った。
彼はいつも不機嫌そうで、
周囲に人を寄せ付けない雰囲気を持つ人だと思っていたが。
あの鳥とは親しいらしい。
「トクベツコーシ、カンサツ!」
「お前のことは見飽きている」
「トクベツコーシ、カンサツ! カンサツ!」
「おい、ジャワハルワール、鳥を何とかしろ」
ゾウと無言の対話中だったジャワハルワールは、
ゆっくりとレオシュとオウムを見やる。オウムが片翼を挙げる。
「ジョウオウは、キョウもゴキゲンナナメ!」
ジャワハルワールは、そうだね、とでも言うように無言で頷く。
再びゾウに向き直り愛おしげに長い鼻を撫でていた。
To be continued
■ジョシュア×アンリ
アンリの目が覚めた時、いつもと違うかんじがした。
普段はなかなか起きられないのだが、今日は爽やかに目覚めた。
部屋はぼんやりと明るい。朝のようだ。
身体を起こすと、部屋の様子が可笑しい。
此処はジョシュアの部屋だ。
身に付けている寝間着も彼の物だった。
これを着せられた記憶はない。
その前に。何故、彼のベッドで起きたのだろう。
昨夜のことが思い出せない。
彼の姿もない。
ベッドから出る。顔を洗って、ちゃんと頭を起こそうとした。
鏡の前に立つと信じられないものが映った。
瞬いているのは、深紅の瞳。
思わず鏡に一歩近付くと、鏡の中にいるジョシュアも一歩近付いた。
「嘘…」
発されたのは彼の声。
有り得ない。だが、鏡は無情にもジョシュアの顔を映し続けている。
ただ、本人の顔とは、何かが違う気がした。
コンコン、という小さな音にびくりとする。
ノックの音。こんな時に誰か来た。
「あの、誰か、居るかい?」
控えめに訊ねているのは僕の声だった。
僕は此処に居るのに、ドアの向こうから僕の声がする。
ドアを開ける。
襟元で切り揃えた髪、伯爵の血を受け継ぐ瞳。寝巻姿の僕だった。
僕の姿をしている人は、こちらを見て立ち尽くす。
琥珀の瞳をぱちくりさせて呟いた。
「俺の部屋に、俺が…」
思わず僕は少し笑ってしまった。
「何、当たり前のこと言っているの? まあ、この状況じゃ仕方ないけれど」
その冷笑を見て、琥珀の瞳が大きく瞬く。
「アンリ? アンリなんだね?」
「ああ。とても残念なことにね」
「良かった、アンリ…」
包み込むように僕を抱き留めた。
「ちょっと、いきなり何…」
「朝起きたら、俺がアンリになっていたから、君はどこへ行ったんだろうって俺…」
僕の声が本気で僕を心配している。
「君に何かあったらどうしようって…本当に、無事で良かった」
僕の身体にきつく抱き締められる。
今の僅かな遣り取りで呆れるほど解った。
とっても贅沢で、高慢ちきで嫌な奴を、僕は一人しか知らない。
僕の身体を持っている彼が、紛れも無くジョシュア・グラントらしい。
「混乱しているのは解るけれど少しは場所を考えられない? ドアを開けたままだよ?」
「ああ、すまない」
抱擁が解かれ、僕の声が即座に謝罪した。
素直な自分の声を聞かされて、なんだか、ちょっとむかつく。
「とにかく、中に入って」
彼は机の前の椅子に、僕はベッドに腰掛けた。それが、この部屋での定位置だった。
自然と見つめ合ってしまう。
自分の身体を、こんなにしげしげと眺めるのは互いに初めてだろう。
「君、さっき『無事で良かった』って言ったけれど。この状況のどこが無事なの?」
「そう、だね。すまない」
また僕の声がすぐ謝る。彼はそっと席を立って僕の傍に来る。
琥珀の瞳がまっすぐこちらに向けられる。
彼がこちらの頬に触れる。その手は冷たかった。
「俺達、身体と魂が入れ替わってしまったんだね」
To be continued
普段はなかなか起きられないのだが、今日は爽やかに目覚めた。
部屋はぼんやりと明るい。朝のようだ。
身体を起こすと、部屋の様子が可笑しい。
此処はジョシュアの部屋だ。
身に付けている寝間着も彼の物だった。
これを着せられた記憶はない。
その前に。何故、彼のベッドで起きたのだろう。
昨夜のことが思い出せない。
彼の姿もない。
ベッドから出る。顔を洗って、ちゃんと頭を起こそうとした。
鏡の前に立つと信じられないものが映った。
瞬いているのは、深紅の瞳。
思わず鏡に一歩近付くと、鏡の中にいるジョシュアも一歩近付いた。
「嘘…」
発されたのは彼の声。
有り得ない。だが、鏡は無情にもジョシュアの顔を映し続けている。
ただ、本人の顔とは、何かが違う気がした。
コンコン、という小さな音にびくりとする。
ノックの音。こんな時に誰か来た。
「あの、誰か、居るかい?」
控えめに訊ねているのは僕の声だった。
僕は此処に居るのに、ドアの向こうから僕の声がする。
ドアを開ける。
襟元で切り揃えた髪、伯爵の血を受け継ぐ瞳。寝巻姿の僕だった。
僕の姿をしている人は、こちらを見て立ち尽くす。
琥珀の瞳をぱちくりさせて呟いた。
「俺の部屋に、俺が…」
思わず僕は少し笑ってしまった。
「何、当たり前のこと言っているの? まあ、この状況じゃ仕方ないけれど」
その冷笑を見て、琥珀の瞳が大きく瞬く。
「アンリ? アンリなんだね?」
「ああ。とても残念なことにね」
「良かった、アンリ…」
包み込むように僕を抱き留めた。
「ちょっと、いきなり何…」
「朝起きたら、俺がアンリになっていたから、君はどこへ行ったんだろうって俺…」
僕の声が本気で僕を心配している。
「君に何かあったらどうしようって…本当に、無事で良かった」
僕の身体にきつく抱き締められる。
今の僅かな遣り取りで呆れるほど解った。
とっても贅沢で、高慢ちきで嫌な奴を、僕は一人しか知らない。
僕の身体を持っている彼が、紛れも無くジョシュア・グラントらしい。
「混乱しているのは解るけれど少しは場所を考えられない? ドアを開けたままだよ?」
「ああ、すまない」
抱擁が解かれ、僕の声が即座に謝罪した。
素直な自分の声を聞かされて、なんだか、ちょっとむかつく。
「とにかく、中に入って」
彼は机の前の椅子に、僕はベッドに腰掛けた。それが、この部屋での定位置だった。
自然と見つめ合ってしまう。
自分の身体を、こんなにしげしげと眺めるのは互いに初めてだろう。
「君、さっき『無事で良かった』って言ったけれど。この状況のどこが無事なの?」
「そう、だね。すまない」
また僕の声がすぐ謝る。彼はそっと席を立って僕の傍に来る。
琥珀の瞳がまっすぐこちらに向けられる。
彼がこちらの頬に触れる。その手は冷たかった。
「俺達、身体と魂が入れ替わってしまったんだね」
To be continued
■アイヴィー ジョシュア テオ ソクーロフ
生徒代表室でミーティング。
参加者は生徒代表と保健医と警備担当の俺。
今日は生徒代表室まで行けないので、俺はPCから参戦。
ネットミーティングができるベンリな時代で良かった。
ネットのない時代って、どうしてたんだろうと、ふと思う。
「こんちはー。アイヴィー、入りまーす」
PCから顔を出すと、カウンセラーさんの姿はまだなかった。
真面目な生徒代表はいつものように笑顔で挨拶してくれる。
「こんにちは、アイヴィー。今日もよろしくお願いします」
「こちらこそ、オネガイしまっす」
ジョシュアの傍に一冊のノートが置かれていた。
この荘厳な部屋には似つかわしくないような、ごく普通のノート。
「面白いらしいな、それ」
「はい。あの、アイヴィーは読んだことないんですか?」
「ああ。だって、それ、生徒代表専用のヒミツのラクガキ帳なんだろ?
テオがちょこっと中身を教えてくれたりはしたけどさ」
歴代の生徒代表が書き残したラクガキ。
一般の生徒はこのノートの存在すら知らないだろう。
生徒代表の机。その一番上の引き出しに毎年忍ばせてあるようで、
ある日、引き出しを開けた新しい生徒代表が、
「何だこれは」と思いながら、このノートを手にするらしい。
どうやら、理事会からの強制ではなく、
生徒代表側が自発的に始めたものだそうだ。
それが何十冊にも受け継がれ、全てこの部屋に納められている。
今後もノートが部屋の外に出ることはないのだろう。
卒業後、各国で活躍しているマージナルプリンスどもの
直筆サインがズラリと詰まった代物だ。
こんなもの、どこを探したって手に入らないだろう。
万が一、ノートが世に出れば、さぞ大変な価値に、
いや、大スキャンダルになること間違いなしだ。
パンドラの箱と言っても過言じゃない。
遊び心で恐ろしい物を残してくれたものだ。
ラクガキは人によって書くペースが全く違うそうだ。
自由気ままに絵などを描く者。
月に一度と決めて定期的に記録した者。
任務終了間際に一言だけ綴った者。
意味不明の数式を書き散らした者など、てんでバラバラ。
ただ、ほぼ共通して書かれたこともある。
次代の、また、もっと遠い未来の、生徒代表に向けたメッセージ。
それは殆どの生徒代表が綴っていた。
中には、読まれることはないと解っていながら、
自分より前の生徒代表へ、労いや感謝の言葉も贈られているそうだ。
ページの端々には、彼等のリアルな時間が刻まれている。
消しゴムで何度も消した痕や、水のようなもので濡れた痕、
派手にコーヒーを零したページ、ビリビリと破かれたページなどもあるそうだ。
このノートは、壁に飾られた生徒代表の肖像画と同様、もしくはそれ以上に、
この部屋が数多くの生徒によって受け継がれてきたことを証明するものだった。
前年度の生徒代表、テオ・メネシスは言っていた。
「どうして、この長い長い交換日記が続いているのか、解るような気がするよ」と。
その理由を尋ねると、陽気な男は「生徒代表室は孤独な部屋だから」そう答えた。
今、ジョシュアが手にしている表紙には、少し色褪せたラクガキ。
赤い文字で『トップ・シークレット』と書かれ、
大事そうにグルグルと丸で囲ってある。まるでテストにでも出そうだ。
「ジョシュア、お前さんもラクガキしてみた?」
「いいえ、まだです。何を書いて良いのか解らなくて」
「んな緊張しなくてもイイんじゃねえの?
テオはホントに絵とか、ただのラクガキを描いてるって言ってたぜ?」
「本人にとっては、さっと描いた素描なのかもしれませんが、上手ですよ、テオの絵。
楽しかった出来事の絵日記などもありますし、
この席から見える森や、壁の肖像画を模写したものもあって。
これを見るまで知りませんでした。テオ、こんなに絵の才能があったんですね。
でも、なんだか、テオらしい絵だなって思います。
大らかで華やかな絵なのに、どこか…あ、いえ…」
そう言ってジョシュアは押し黙った。
聞かなくても、続く言葉が何なのか、大体予想はついた。
俺はPC画面の時計を見る。
「ドクター、遅いなー。保健室で何やってんだか」
「あ、そうですね。急患じゃなければ良いんですが」
「ミラーボールでも回してんじゃないの?」
「まさか。博士はそんなことしませんよ。俺、ちょっと保健室に電話してみますね」
「失礼するよ」
ドアが開き、白衣の保健医が入ってきた。
「ドクター、ちこくだぞー」
「保健室に生徒が来たものでね」
「とか言ってー、俺達の話、立ち聞きしてたんじゃないのー?」
「私がそんな悪趣味なことをするとでも?」
いや、あんた悪趣味のカタマリだし。
と、言えない気弱な俺。
「ジョシュア、遅れてすまない、早速ミーティングを始めよう」
「はい、博士」
ジョシュアはノートを置いて、用意していた資料をドクターに手渡す。
俺にはメールに添付されていた資料だ。
ジョシュアが議題を読み上げ、ミーティングが始まった。
PC画面の隅にノートの表紙が映ってる。
楽しそうに書かれた『トップ・シークレット』の文字。
あれはテオが、笑いながら書き残したものだった。
fin
参加者は生徒代表と保健医と警備担当の俺。
今日は生徒代表室まで行けないので、俺はPCから参戦。
ネットミーティングができるベンリな時代で良かった。
ネットのない時代って、どうしてたんだろうと、ふと思う。
「こんちはー。アイヴィー、入りまーす」
PCから顔を出すと、カウンセラーさんの姿はまだなかった。
真面目な生徒代表はいつものように笑顔で挨拶してくれる。
「こんにちは、アイヴィー。今日もよろしくお願いします」
「こちらこそ、オネガイしまっす」
ジョシュアの傍に一冊のノートが置かれていた。
この荘厳な部屋には似つかわしくないような、ごく普通のノート。
「面白いらしいな、それ」
「はい。あの、アイヴィーは読んだことないんですか?」
「ああ。だって、それ、生徒代表専用のヒミツのラクガキ帳なんだろ?
テオがちょこっと中身を教えてくれたりはしたけどさ」
歴代の生徒代表が書き残したラクガキ。
一般の生徒はこのノートの存在すら知らないだろう。
生徒代表の机。その一番上の引き出しに毎年忍ばせてあるようで、
ある日、引き出しを開けた新しい生徒代表が、
「何だこれは」と思いながら、このノートを手にするらしい。
どうやら、理事会からの強制ではなく、
生徒代表側が自発的に始めたものだそうだ。
それが何十冊にも受け継がれ、全てこの部屋に納められている。
今後もノートが部屋の外に出ることはないのだろう。
卒業後、各国で活躍しているマージナルプリンスどもの
直筆サインがズラリと詰まった代物だ。
こんなもの、どこを探したって手に入らないだろう。
万が一、ノートが世に出れば、さぞ大変な価値に、
いや、大スキャンダルになること間違いなしだ。
パンドラの箱と言っても過言じゃない。
遊び心で恐ろしい物を残してくれたものだ。
ラクガキは人によって書くペースが全く違うそうだ。
自由気ままに絵などを描く者。
月に一度と決めて定期的に記録した者。
任務終了間際に一言だけ綴った者。
意味不明の数式を書き散らした者など、てんでバラバラ。
ただ、ほぼ共通して書かれたこともある。
次代の、また、もっと遠い未来の、生徒代表に向けたメッセージ。
それは殆どの生徒代表が綴っていた。
中には、読まれることはないと解っていながら、
自分より前の生徒代表へ、労いや感謝の言葉も贈られているそうだ。
ページの端々には、彼等のリアルな時間が刻まれている。
消しゴムで何度も消した痕や、水のようなもので濡れた痕、
派手にコーヒーを零したページ、ビリビリと破かれたページなどもあるそうだ。
このノートは、壁に飾られた生徒代表の肖像画と同様、もしくはそれ以上に、
この部屋が数多くの生徒によって受け継がれてきたことを証明するものだった。
前年度の生徒代表、テオ・メネシスは言っていた。
「どうして、この長い長い交換日記が続いているのか、解るような気がするよ」と。
その理由を尋ねると、陽気な男は「生徒代表室は孤独な部屋だから」そう答えた。
今、ジョシュアが手にしている表紙には、少し色褪せたラクガキ。
赤い文字で『トップ・シークレット』と書かれ、
大事そうにグルグルと丸で囲ってある。まるでテストにでも出そうだ。
「ジョシュア、お前さんもラクガキしてみた?」
「いいえ、まだです。何を書いて良いのか解らなくて」
「んな緊張しなくてもイイんじゃねえの?
テオはホントに絵とか、ただのラクガキを描いてるって言ってたぜ?」
「本人にとっては、さっと描いた素描なのかもしれませんが、上手ですよ、テオの絵。
楽しかった出来事の絵日記などもありますし、
この席から見える森や、壁の肖像画を模写したものもあって。
これを見るまで知りませんでした。テオ、こんなに絵の才能があったんですね。
でも、なんだか、テオらしい絵だなって思います。
大らかで華やかな絵なのに、どこか…あ、いえ…」
そう言ってジョシュアは押し黙った。
聞かなくても、続く言葉が何なのか、大体予想はついた。
俺はPC画面の時計を見る。
「ドクター、遅いなー。保健室で何やってんだか」
「あ、そうですね。急患じゃなければ良いんですが」
「ミラーボールでも回してんじゃないの?」
「まさか。博士はそんなことしませんよ。俺、ちょっと保健室に電話してみますね」
「失礼するよ」
ドアが開き、白衣の保健医が入ってきた。
「ドクター、ちこくだぞー」
「保健室に生徒が来たものでね」
「とか言ってー、俺達の話、立ち聞きしてたんじゃないのー?」
「私がそんな悪趣味なことをするとでも?」
いや、あんた悪趣味のカタマリだし。
と、言えない気弱な俺。
「ジョシュア、遅れてすまない、早速ミーティングを始めよう」
「はい、博士」
ジョシュアはノートを置いて、用意していた資料をドクターに手渡す。
俺にはメールに添付されていた資料だ。
ジョシュアが議題を読み上げ、ミーティングが始まった。
PC画面の隅にノートの表紙が映ってる。
楽しそうに書かれた『トップ・シークレット』の文字。
あれはテオが、笑いながら書き残したものだった。
fin
■ジョシュア×アンリ
■連載(全十話程度)
■連載(全十話程度)
放課後のウーティス寮サロン。
僕は隅の席で本を読みながら、春摘み紅茶ができるのを待っていた。
大きな窓からは午後の暖かい日差し。
庭では蝶々が舞い、春の花達が嬉しそうに太陽の光を浴びていた。
高等部二年のジョシュアは、テラスに出て外を眺めてる。
彼の周囲は、この世の美しいもの全てを背景にした絵のようだった。
彼の頭上にある透明の王冠も、いつもより綺麗な気がした。
出会った時から見えた月桂樹の王冠。
年を重ねるごとに輝きが増しているせいか、僕は気が付くとその光を見ている。
中断していた読書を再開する。
そう言えば、紅茶が遅い。「俺が淹れるよ」と言ったくせに、
春の景色に見惚れて紅茶のことを忘れてしまっているらしい。
僕はわざと音を立ててページを繰る。ペラッ。
ジョシュアは動かない。まだ春の庭に現を抜かしている。
適切な抽出時間を過ぎると雑味が入ってしまう。
「ねえ。君は、苦いファーストフラッシュが好みなの?」
「え? あっ、すまない」
素直に詫びた彼は、窓辺からティーセットの元に戻る。
紅茶用の小さな砂時計は、リーフの抽出が終わっていることを示していた。
白を基調としたポットやカップには、聖アルフォンソ学院の紋章。
王冠の上に止まっている一羽の鳥。月桂樹の小枝を銜えたナイチンゲール。
ティーポットを開けると、蒸気に迎えられる。
彼は他のカップに少し注いで毒味した。
大丈夫そうだと確認できたらしく、僕のカップに注ぐ。
「はい、アンリ。待たせてごめんね」
彼が僕の前にティーカップを置いた。
紅茶というよりは緑茶に近い水色。春摘みのダージリン特有の色だ。
「メルシー」
カップに口付ける。その様子を深紅の瞳が心配そうに見守る。
春を告げる瑞々しい香りがした。一口飲み終わってから、ぽつりと言った。
「苦味には、犯されていないようだね」
サロンのドアが開く。眼鏡を掛けた生徒が入ってきた。
高等部一年のハルヤ・コバヤシ。学院に来てから半年ほど。
東洋出身のせいか、どことなく言動に不可思議なところがある。
入学して間もなくお調子者達によってバンドに強制加入させられ、
やったこともないベースを担当することになった。
ウーティスの上級生は、入学してから一年目の生徒に優しく声を掛けていた。
「やあ、ハルヤ。君も一緒に紅茶を飲まないかい?」
「あ、うん。ありがとう、ジョシュア」
ハルヤは隅の席をちらりと見てから、中央のソファに座る。
テーブルに置かれていたクッキーを目にすると、すぐに手を伸ばした。
上級生からカップを受け取ると、ありがとう、と言っていた。
ジョシュアはハルヤに当たり障りのない話を振っていた。
ドンという派手な音と共にドアが開いた。
「やあやあ、失礼するよ、ウーティスの諸君!」
煩いのが来た。
笑顔を輝かせながら入ってきたのは今年度の生徒代表テオ・メネシス。
シュヌーシア寮の人間なのだが、気軽にウーティスに顔を出してくる。
「こんにちは、テオ」
ジョシュアが最初に挨拶を返す。テオは白い箱を携えていた。
空いている手を挙げて、いつものように賛辞を含んだ挨拶する。
「やあ、ジョシュア。今日も美しいね。
東洋の黒い真珠は居るかな? ああ、居た居た!」
「え、俺?」
テオは顔面に迫る勢いでハルヤに近付く。
「聞いたよ聞いたよ! おめでとう、東洋の黒い真珠!」
「な、なに?」
「君が先日、街の早食い大会で優勝したというから、
お祝いを言いにきたのだよ。君の圧勝だったそうだね!」
「あ、ども…」
「その身体のどこにピザ35人前が入ったんだい? 東洋の神秘だねえ!」
声が無駄に大きい。
「次回、出場する時は是非私にも教えておくれ? 全力で応援させて頂くよ!
ああ、なんて美しいオリエンタルスマイルなのだろう!」
テオの勢いに押されて、ハルヤが曖昧な微笑を浮かべている。
歩く性善説が話題の転換を試みた。
「テオ、その箱は何ですか?」
「そうだった、そうだった。チャンピオンにお祝いの品をと思ってね。
うちの寮のシェフに、ふわふわハニーシフォンを焼いて貰ったのだよ。
これはシュヌーシアでは大人気のおやつなんだ。
さあ、たんとお食べ、東洋の黒い真珠! ああ、もちろん、君達もね」
テオがテーブルの上で箱を開ける。焼きたての甘い香りが立ち昇る。
リング型の1ホールと、生クリームが入った小瓶も添えてあった。
「このシフォンはね、島特産の蜂蜜で作ったものなんだ。
甘さは少し控えて貰ったから、東洋の黒い真珠の口にも合うんじゃないかな?
あ、お好みで生クリームを付けてどうぞ、とのことだったよ。
アンリはたくさん付けておくれ。君は甘い方が好きだものね?」
甘党扱いされた僕は何も言わなかった。ジョシュアが代表して礼を述べる。
「ありがとうございます、テオ。ケーキ、切り分けますね。
俺達も紅茶を飲み始めたところだったんです。テオも一緒にいかがですか?」
「ありがとう。お願いするよ」
堂々とハルヤの隣に座る。
別に誘われなくても、最初からお茶に呼ばれるつもりだったのだろう。
ジョシュアが紅茶を淹れたり、シフォンを切ったりしている。
そのうち僕にもケーキが回ってきた。フォークで触れると、本当にふわふわした。
お菓子好きのシュヌーシアで人気があるだけあって、なかなか悪くない味だった。
陽気な生徒代表が、お気に入りの東洋人で遊んでいる。
あれは、そろそろセクシャル・ハラスメントに抵触しないのだろうか。
「さあ、東洋の黒い真珠。私が食べさせてあげる」
「ええっ、ちょっと…」
「口を開けて? はい。 美味しいかい、東洋の黒い真珠? 良かった!
ああ、できることなら、私が君を食べてしまいたい」
ハルヤは、えっ、と言って肩が跳ねる。テオはご満悦だった。
「あはは。東洋の黒い真珠は初々しい反応をしてくれるねえ」
「あ、いや、あのさ。今、声がしなかった? 子供っぽいかんじの」
「子供の? さあ、私は気付かなかったな。君達は聞こえた?」
「いいえ、俺には…」
「僕も、貴方の騒がしい声しか聞こえなかったな。ハルヤには何が聞こえたの?」
「えっと確か、『次は何して遊ぼっか?』って」
サロンが、しん、となる。
元気良く立った生徒代表によって、沈黙は、けたたましく破られる。
ハルヤの両手を取って、感動を言葉にしていた。
「なんてミステリアスな! 流石は東洋の神秘だ!」
「あの、でも、気のせいかも…」
「いやいや。聖アルフォンソ学院の建築はアンティークだからね、
昔から不思議な話の類には不自由しない場所だし」
「ええっ、そうなの?」
「おや? 知らなかったかい? でも、安心しておくれ。
怖いものばかりではないのだよ? 例えば、
『聖アルフォンソ島には天使が居て、マージナルプリンスを見守ってくれている』とか。
この島ならではの、実に優しくミステリアスなお話もあるんだ」
僕はページを捲りながら冷笑する。
「天使って言うと聞こえは良いけれどね。それ、実際は亡霊や悪魔なんじゃない?」
「あ、あくま?」
「アンリ、ハルヤで遊ぶなよ」ジョシュアは肩を竦める。
「気にしないで、ハルヤ。俺達、中等部から此処に居るけど、別に何ともないから」
「あ、うん。なら、いいんだけど」
そう言いながら、眼鏡の奥の瞳はやや不安げだった。テオは黒い瞳を愛でながら、
「すまない。私のせいで怖がらせてしまったかな?
そうだ! 責任を取って今宵は私が添い寝しよう。良ければ童話も読むよ?
大丈夫。こう見えても、私は本を読むのは上手いのだよ。
中等部の良い子達に読むこともあるからね。
あ、もちろん私の方が先に眠ったりはしないから安心しておくれ。
夜は君の寝顔を愛でるのに忙しいだろうからね」
「ねえ」
「アンリも入れて欲しいのかい? もちろん大歓迎だよ。天使の寝顔を見せておくれ?」
「彼も、僕も、ベッドに入れる相手を選ぶ権利はあると思うけれど?」
「おやおや。セクシーなことを言うようになったねえ、アンリ。
そう言えば、この頃の君は、ますます美しくなった気がするし。
流石は永遠の美を持つ家系だ。それとも、君の美を高めてくれる相手でも居るのかな?
今日はまた一段と美しい氷の微笑だね!」
ウーティス寮サロンのティータイムは今日も騒々しかった。
夜になると、生徒達は自室に戻り、サロンにも静寂が訪れた。
どの部屋もすっかり明かりを落とし、夜の帳に包まれていた。
聖アルフォンソ島は常春。この時刻ともなれば適度に寝易い気温となる。
しかし、寝苦しいわけでもないのに、先程からうなされている生徒が一人居た。
夢と現を行き来しながら、寝返りを打つ。
肩までの髪、透き通るような白い肌。整った鼻筋には眼鏡の痕があった。
――ねえ、見て。キラキラきれい――
――王様と伯爵の光だな――
ハルヤの瞼が微かに動き、薄っすらと目を開ける。
真っ暗な自分の部屋。音もしない。誰も居ない。当たり前だ。
では一体、今の声は。サロンで聞いた声に似ていたような気もするが。
「まいっか、めんどくさ…」
毛布を被ると、すうっと眠りに落ちていった。
闇夜の聖アルフォンソ学院に、子供の声が降りてくる。
――うん。今度はあの子達で遊ぼうよ――
To be continued
僕は隅の席で本を読みながら、春摘み紅茶ができるのを待っていた。
大きな窓からは午後の暖かい日差し。
庭では蝶々が舞い、春の花達が嬉しそうに太陽の光を浴びていた。
高等部二年のジョシュアは、テラスに出て外を眺めてる。
彼の周囲は、この世の美しいもの全てを背景にした絵のようだった。
彼の頭上にある透明の王冠も、いつもより綺麗な気がした。
出会った時から見えた月桂樹の王冠。
年を重ねるごとに輝きが増しているせいか、僕は気が付くとその光を見ている。
中断していた読書を再開する。
そう言えば、紅茶が遅い。「俺が淹れるよ」と言ったくせに、
春の景色に見惚れて紅茶のことを忘れてしまっているらしい。
僕はわざと音を立ててページを繰る。ペラッ。
ジョシュアは動かない。まだ春の庭に現を抜かしている。
適切な抽出時間を過ぎると雑味が入ってしまう。
「ねえ。君は、苦いファーストフラッシュが好みなの?」
「え? あっ、すまない」
素直に詫びた彼は、窓辺からティーセットの元に戻る。
紅茶用の小さな砂時計は、リーフの抽出が終わっていることを示していた。
白を基調としたポットやカップには、聖アルフォンソ学院の紋章。
王冠の上に止まっている一羽の鳥。月桂樹の小枝を銜えたナイチンゲール。
ティーポットを開けると、蒸気に迎えられる。
彼は他のカップに少し注いで毒味した。
大丈夫そうだと確認できたらしく、僕のカップに注ぐ。
「はい、アンリ。待たせてごめんね」
彼が僕の前にティーカップを置いた。
紅茶というよりは緑茶に近い水色。春摘みのダージリン特有の色だ。
「メルシー」
カップに口付ける。その様子を深紅の瞳が心配そうに見守る。
春を告げる瑞々しい香りがした。一口飲み終わってから、ぽつりと言った。
「苦味には、犯されていないようだね」
サロンのドアが開く。眼鏡を掛けた生徒が入ってきた。
高等部一年のハルヤ・コバヤシ。学院に来てから半年ほど。
東洋出身のせいか、どことなく言動に不可思議なところがある。
入学して間もなくお調子者達によってバンドに強制加入させられ、
やったこともないベースを担当することになった。
ウーティスの上級生は、入学してから一年目の生徒に優しく声を掛けていた。
「やあ、ハルヤ。君も一緒に紅茶を飲まないかい?」
「あ、うん。ありがとう、ジョシュア」
ハルヤは隅の席をちらりと見てから、中央のソファに座る。
テーブルに置かれていたクッキーを目にすると、すぐに手を伸ばした。
上級生からカップを受け取ると、ありがとう、と言っていた。
ジョシュアはハルヤに当たり障りのない話を振っていた。
ドンという派手な音と共にドアが開いた。
「やあやあ、失礼するよ、ウーティスの諸君!」
煩いのが来た。
笑顔を輝かせながら入ってきたのは今年度の生徒代表テオ・メネシス。
シュヌーシア寮の人間なのだが、気軽にウーティスに顔を出してくる。
「こんにちは、テオ」
ジョシュアが最初に挨拶を返す。テオは白い箱を携えていた。
空いている手を挙げて、いつものように賛辞を含んだ挨拶する。
「やあ、ジョシュア。今日も美しいね。
東洋の黒い真珠は居るかな? ああ、居た居た!」
「え、俺?」
テオは顔面に迫る勢いでハルヤに近付く。
「聞いたよ聞いたよ! おめでとう、東洋の黒い真珠!」
「な、なに?」
「君が先日、街の早食い大会で優勝したというから、
お祝いを言いにきたのだよ。君の圧勝だったそうだね!」
「あ、ども…」
「その身体のどこにピザ35人前が入ったんだい? 東洋の神秘だねえ!」
声が無駄に大きい。
「次回、出場する時は是非私にも教えておくれ? 全力で応援させて頂くよ!
ああ、なんて美しいオリエンタルスマイルなのだろう!」
テオの勢いに押されて、ハルヤが曖昧な微笑を浮かべている。
歩く性善説が話題の転換を試みた。
「テオ、その箱は何ですか?」
「そうだった、そうだった。チャンピオンにお祝いの品をと思ってね。
うちの寮のシェフに、ふわふわハニーシフォンを焼いて貰ったのだよ。
これはシュヌーシアでは大人気のおやつなんだ。
さあ、たんとお食べ、東洋の黒い真珠! ああ、もちろん、君達もね」
テオがテーブルの上で箱を開ける。焼きたての甘い香りが立ち昇る。
リング型の1ホールと、生クリームが入った小瓶も添えてあった。
「このシフォンはね、島特産の蜂蜜で作ったものなんだ。
甘さは少し控えて貰ったから、東洋の黒い真珠の口にも合うんじゃないかな?
あ、お好みで生クリームを付けてどうぞ、とのことだったよ。
アンリはたくさん付けておくれ。君は甘い方が好きだものね?」
甘党扱いされた僕は何も言わなかった。ジョシュアが代表して礼を述べる。
「ありがとうございます、テオ。ケーキ、切り分けますね。
俺達も紅茶を飲み始めたところだったんです。テオも一緒にいかがですか?」
「ありがとう。お願いするよ」
堂々とハルヤの隣に座る。
別に誘われなくても、最初からお茶に呼ばれるつもりだったのだろう。
ジョシュアが紅茶を淹れたり、シフォンを切ったりしている。
そのうち僕にもケーキが回ってきた。フォークで触れると、本当にふわふわした。
お菓子好きのシュヌーシアで人気があるだけあって、なかなか悪くない味だった。
陽気な生徒代表が、お気に入りの東洋人で遊んでいる。
あれは、そろそろセクシャル・ハラスメントに抵触しないのだろうか。
「さあ、東洋の黒い真珠。私が食べさせてあげる」
「ええっ、ちょっと…」
「口を開けて? はい。 美味しいかい、東洋の黒い真珠? 良かった!
ああ、できることなら、私が君を食べてしまいたい」
ハルヤは、えっ、と言って肩が跳ねる。テオはご満悦だった。
「あはは。東洋の黒い真珠は初々しい反応をしてくれるねえ」
「あ、いや、あのさ。今、声がしなかった? 子供っぽいかんじの」
「子供の? さあ、私は気付かなかったな。君達は聞こえた?」
「いいえ、俺には…」
「僕も、貴方の騒がしい声しか聞こえなかったな。ハルヤには何が聞こえたの?」
「えっと確か、『次は何して遊ぼっか?』って」
サロンが、しん、となる。
元気良く立った生徒代表によって、沈黙は、けたたましく破られる。
ハルヤの両手を取って、感動を言葉にしていた。
「なんてミステリアスな! 流石は東洋の神秘だ!」
「あの、でも、気のせいかも…」
「いやいや。聖アルフォンソ学院の建築はアンティークだからね、
昔から不思議な話の類には不自由しない場所だし」
「ええっ、そうなの?」
「おや? 知らなかったかい? でも、安心しておくれ。
怖いものばかりではないのだよ? 例えば、
『聖アルフォンソ島には天使が居て、マージナルプリンスを見守ってくれている』とか。
この島ならではの、実に優しくミステリアスなお話もあるんだ」
僕はページを捲りながら冷笑する。
「天使って言うと聞こえは良いけれどね。それ、実際は亡霊や悪魔なんじゃない?」
「あ、あくま?」
「アンリ、ハルヤで遊ぶなよ」ジョシュアは肩を竦める。
「気にしないで、ハルヤ。俺達、中等部から此処に居るけど、別に何ともないから」
「あ、うん。なら、いいんだけど」
そう言いながら、眼鏡の奥の瞳はやや不安げだった。テオは黒い瞳を愛でながら、
「すまない。私のせいで怖がらせてしまったかな?
そうだ! 責任を取って今宵は私が添い寝しよう。良ければ童話も読むよ?
大丈夫。こう見えても、私は本を読むのは上手いのだよ。
中等部の良い子達に読むこともあるからね。
あ、もちろん私の方が先に眠ったりはしないから安心しておくれ。
夜は君の寝顔を愛でるのに忙しいだろうからね」
「ねえ」
「アンリも入れて欲しいのかい? もちろん大歓迎だよ。天使の寝顔を見せておくれ?」
「彼も、僕も、ベッドに入れる相手を選ぶ権利はあると思うけれど?」
「おやおや。セクシーなことを言うようになったねえ、アンリ。
そう言えば、この頃の君は、ますます美しくなった気がするし。
流石は永遠の美を持つ家系だ。それとも、君の美を高めてくれる相手でも居るのかな?
今日はまた一段と美しい氷の微笑だね!」
ウーティス寮サロンのティータイムは今日も騒々しかった。
夜になると、生徒達は自室に戻り、サロンにも静寂が訪れた。
どの部屋もすっかり明かりを落とし、夜の帳に包まれていた。
聖アルフォンソ島は常春。この時刻ともなれば適度に寝易い気温となる。
しかし、寝苦しいわけでもないのに、先程からうなされている生徒が一人居た。
夢と現を行き来しながら、寝返りを打つ。
肩までの髪、透き通るような白い肌。整った鼻筋には眼鏡の痕があった。
――ねえ、見て。キラキラきれい――
――王様と伯爵の光だな――
ハルヤの瞼が微かに動き、薄っすらと目を開ける。
真っ暗な自分の部屋。音もしない。誰も居ない。当たり前だ。
では一体、今の声は。サロンで聞いた声に似ていたような気もするが。
「まいっか、めんどくさ…」
毛布を被ると、すうっと眠りに落ちていった。
闇夜の聖アルフォンソ学院に、子供の声が降りてくる。
――うん。今度はあの子達で遊ぼうよ――
To be continued
■オーギュスト×アンリ
「エメラルド・タブレットの文章って、随分もったいぶってるよね」
「アンリのお口には合わないだろうね。日頃から率直な言い方を愛しているから」
「それって、嫌味? ボージェ教授」
「失礼。嫌味に聞こえてしまったのなら謝るよ」
面白がってるくせに。
水曜日の午後。講義中の時間なので、学院内のカフェは客もまばらだった。
僕とオーギュは紅茶を飲みながら、錬金術について意見交換をしていた。
不運にも、中等部の講義が終わった講師と、法律学が終わった僕が鉢合わせた為だ。
この時間はお互いに講義がないのを知っている為、
そこでお茶でも、と誘われてしまったのだ。
僕の前にはオレンジハニーティー。
カップには輪切りのオレンジが浮かんでいる。オレンジは蜂蜜漬けにしたものだ。
柑橘系の爽やかな香りと蜂蜜の組み合わせは悪くない。
教授も同じものを飲んでいた。真似されたのだ。
「確かに、エメラルド碑文は謎に満ちている。けれど、それは」
「『受け継ぐべき者だけに伝わるように書かれたものだ』と言うのは解ってる」
腹いせに僕は彼の言葉を先取りしてやったのに、
彼は気を悪くした様子は全くない。
「では、アンリはエメラルドの謎が解けないことが悔しいのかな?」
「別に。謎は謎のままで一向に構わないよ。その方が」
「『自由に想像できて楽しいから』かね?」
仕返しされた。むかつく。
今日、お茶受け代わりになっている話題は、錬金術の聖書エメラルド・タブレット。
エメラルドの板には錬金術の奥義が刻まれていた。
作者は、賢者の石を手にしたとされる錬金術師の始祖ヘルメス。
3226年もこの世に居て、3万6525冊の著作を残したとも言われている。
エメラルド・タブレッドは、四世紀頃に書き残された物で、
ヘルメスのピラミッドの中から発見された。
書かれていたのは暗号を散りばめたような、意味不明の十数行。
僕は空で覚えていた。
「これは偽りなき真理であり、紛れもない真実。唯一の奇跡を叶えるには、
下なる物は上なる物のごとく、上なる物は下なる物のごとく。
万物が唯一の誓約によって、唯一の物から誕生したように、
万物は適合によって、唯一の物から誕生する。
その父は太陽、母は月。風はそれを胎内に宿し、その乳母は大地である。
それは全世界の父。その力が大地に向かうなら、完全無欠と化する。
汝、火から土を、野蛮から神秘を抽出せよ。
それは大地から天へと舞い上がり、再び天から大地へと舞い降りて、
上なる物の力と下なる物の力を授かるであろう。
さすれば、汝は、全ての光をその手にし、全ての闇は汝から消え失せるだろう。
それは最も強靭なる力。あらゆる神秘を凌駕し、全てを貫く。
かくして世界は創造された。それを手段に、驚異の適合が始まる。
よって私は、この世の三重の智恵を持つ者、ヘルメス・トリスメギストスと呼ばれる。
太陽の働きについて私が述べることは、以上で全てである」
僕が最後まで唱えると、教授は両手を合わせて、音を立てた。
「素晴らしい。全文を暗唱しているとは」
「何言っているの? 覚えさせたのはそっちでしょう?」
オレンジハニーティーの残りが少ない。
これは底に近付くにつれて甘くて美味しくなる。
「そうだったかね?」
「中等部一年の初めての試験で『エメラルド・タブレットの全文を記せ』って」
「ああ、思い出したよ。あれはアンリしか正解できなかった問題だね?」
「完全回答だったからでしょう? この手の長文は穴埋め問題が妥当だと思うよ、普通は。
この教授はよっぽど性格が悪いんだな、って解った印象的な思い出だよ」
「厳しいね、アンリは」
どちらが?
「それにしても、四年も前のことなのに、今も覚えているんだね。
もったいぶっている、と批評しながらも、嫌いではないのかな?」
いちいち癪に障ることを言う。
「詞としては面白いから、なんとなく覚えてるだけ」
錬金術師の創始者がエメラルドに残した奥義。
謎は読み解けないけれど、惹かれて。
一度覚えてしまってから忘れられないでいた。
「タブレットに刻まれた錬金術の奥義って具体的には何だと思う? ボージェ教授」
「さあ。何だろうね」
「神秘学の権威のくせに解らないの?」
「解らなくて、知りたい人のことを学者と言うんだよ、アンリ。
謎が解けていたら、錬金術師として名を馳せているだろうからね。
エメラルド・タブレットは昔の錬金術師を悩ませた秘密文書なのだし」
「でも、錬金術の聖書なんでしょう?
錬金術は黄金変成や不老不死が最終目標だ。それを叶えるのは賢者の石。
タブレットの最後には『太陽の働きについて』とある。
この『太陽』が石を意味しているんじゃないの?」
教授は両の指を絡める。癖なのか、親指同士の先を合わせる。いつもそうだ。
親指を付けたり、離したりしながら話していた。
「確かに、錬金術師にとっては、太陽のような石だったろうね」
「要するに、エメラルド・タブレットは、賢者の石のレシピ、でしょ?」
「レシピか。そう言うと可愛らしいね。甘いお菓子ができそうだ」
教授は上品に笑ったが、いや、と言って、苦笑に変えた。
「実際、石は魅惑的なお菓子だったのかもしれないね。
それが無くとも、人は生きていけるのに。舐めて、口に入れてみたくなる。
今よりきっと、豊かで幸福な気分になれるに違いない、と無邪気に信じて。
お菓子という存在を知った時、甘い誘惑に魅入られてしまったのだろうね」
空の方から鐘が鳴った。
僕は、ひとコマ分も教授の戯言に付き合ってあげたらしい。
「おや。アンリとの時間はあっという間だね。
有意義な午後をありがとう。では次の授業でね」
講師が席を立つ。椅子に置いていた革鞄を取ろうとして、地面に落とした。
「おっと」
彼は身を屈めて落とした物を拾い始める。
空いていたらしい鞄から幾つかの物が落ちている。
鞄からひょこっと顔を出しているのは、ワラ人形だった。
「…オーギュスト。それ…」
「ああ、先程は呪術の授業だったものでね」
「君、神秘学の権威でなかったら、不審者として捕まってる」
権威は笑っていた。
あの鞄には、『教材』という名目の妖しげな代物が入っているのだ。
もちろん本物ではなく、多くはレプリカだったり、彼のお手製だったりする。
それでも中等部の頃はそういうものを肉眼で見るのは珍しく、興味深かった。
が、高等部になり、変人との付き合いも四年になると、
何が出てきてもそれほど驚かなくなる。せいぜい呆れるぐらいだ。
オーパーツの授業では、水晶ドクロが出てきたこともあった。
当然イミテーションで、実物よりは大分小さい。
「このくらいの大きさだと、なかなか可愛いだろう?」と自慢された。
変人は地面に落とした大事なコレクション達を拾い、
砂をさっと払ってから鞄に戻していた。
彼は鞄を持って、メルキュール館へと向かう。
僕は残っていた紅茶に口付ける。
溶け残りの蜂蜜。嫌いじゃない。
僕も寮に帰ろうとした時。コン、と僕の靴に何か当たった。
座ったまま、足許を覗いてみる。
赤い光。直径三センチほどの水晶球だった。歪みはあるが球体に程近い。
彼の鞄から転がって、拾われなかった物かもしれない。
顔を上げると、オーギュストの背中はまだ見えた。
しゃがんで、赤い石を拾う。オーギュを呼び止めるつもりだった。
手に乗せた石。
綺麗だった。
表面は明るくて、奥は仄暗い。
これと似たものを、僕は知っている気がする。思い出せない。
石を持って立ち上がる。
どうせ、彼には授業で会う。返すのはその時でも遅くはないだろう。
講師の背中を見つめたまま、ポケットに石を入れた。
夕食後。僕はワイシャツ姿のままベッドに寝そべって、赤い石を見ていた。
どのくらい時間が経っているか解らない。
勉強も読書もする気にならず、
バイオリンも、タロットすら手にする気が起こらない。
赤い石。
ライトの当たり具合や、見る角度によって、様々な赤に変わって見えるのだ。
天井の光源に透かしたり、手の中で何度も回して弄んでいた。
表面はつるつると滑らかで、冷たい。
触れていると、何故か落ち着いた。
綺麗で、綺麗で。
舐めてみたい。
きっと、甘い。
まるで冷えて固まった赤いジャムのようだもの。
ストロベリーのような甘さだろうか。
フランボワーズのように少し酸味があるだろうか。
僕の手が口許に近付いていく。
舌で触れたい。
口に入れて、僕だけのものにしたい。
「ジョシュアだよ。入っても良いかな?」
ノックの音に驚いて、石を落とした。
僕の胸に当たる。床に転がりそうになるのを手で受け止めた。
ベッドに横たわったまま、「開いてるよ」と言った。
彼は借りていたミステリを返しに来たらしい。
適当に本棚に戻して、と頼んだ。
僕は彼が来たにも関わらず、また石を眺めた。
なんだか、目が離せない。
本を仕舞った彼は、ごく自然にベッドに座った。
僕の身体が少し沈む。彼が僕の手許を覗く。
「それ、綺麗だね」
この石が綺麗と言われるのは嫌じゃなかった。
「見たい?」
「うん。見たいな」
腕だけ伸ばして石を手渡す。人差し指が少し触れ合った。
ジョシュアは興味深く石を見てくれた。悪い気はしない。
「不思議な色だね。クリスタルかい?」
「解らない。拾った物だから」
彼には予想外だったようだ。石から視線を外し、僕を見つめた。
「学院内で拾ったの?」
「うん」
優等生の表情が曇る。
「じゃあ、落とした人が居るんじゃ…」
「ボージェ教授だよ。今度の授業で返す」
「そうか」
まだ何か言いたそうだったけれど、それ以上の小言は言わなかった。
彼は手の平に乗せた石を見ながら苦笑した。
「神秘学の先生が落とした石なんて、ちょっと怖いな」
「何が?」
「不思議な力を持つ石かもって思えて」
「ああ。じゃあ、呪われた石かも」
深紅の瞳が瞬く。彼は人の言葉を信じ過ぎる。
「冗談だよ。いわくがあったとしてもレプリカだと思うし」
僕は拾った状況を簡潔に説明する。
呪術道具が入っていた鞄から落ちた物だと。
それを聞いたジョシュアは、石を暫し見つめた後、
さりげなくベッドサイドのテーブルに置いていた。
「彼のこと、魔法使いとでも思っているの?
あれは、オカルト好きな、只の変人だよ?」
「先生に噛み付くなよ、アンリ」
「もしかしたら、賢者の石だったりしてね」
えっ、と彼は驚く。いちいち真面目に受け取る人だ。
「でも、賢者の石って、空想上の石なんだろう?」
「それを聞いたら錬金術師達が怒るよ?
黄金変成も、不老不死も叶える、万能の石。
彼等は全てを賭けて、それを作ろうとしてた。
石を求めるあまり、投獄、処刑された錬金術師も少なくない」
僕は久し振りに滔々と語っていた。時折、こういう夜が訪れる。
「賢者の石を実際に手にしたと言い張る者も居る。伯爵だってその一人だ。
彼は石を液化した霊薬を飲み、永遠の命を得たのだから」
少し気分が高揚している、と自分を俯瞰している自分が感じていた。
夜だからかもしれない。今宵は確か新月だったし。
月が消された夜の僕は少し可笑しくなると経験則で解っていた。
それはジョシュアも知っていることだ。彼は黙って僕の話を聞いてくれている。
「ねえ。賢者の石って、何色か知ってる?」
神秘学に興味がない彼が知る筈もないのに、訊ねている。
彼はやはり首を振った。教えてあげる。
「賢者の石はね、製作の過程で色を変えるんだ」
僕は腕を伸ばしてテーブルから石を取った。親指と人差し指で持つ。
ジョシュアが心配そうに僕を見ていた。
僕より可笑しい人間なんて履いて捨てるほど居るのに。
「最初はね、死の象徴である黒。次に復活の象徴、白になる。そして、完成形は完全を意味する…」
僕は石を掲げて、天井のライトに透かす。
良い色だ。澱のあるワインみたい。
「赤だよ」
上澄みは鮮やか。底は暗くて赤黒い。
後から聞いたことだけど、この時の僕は、虚ろな目をしたらしい。
傍にジョシュアが居ることも忘れたように、僕はぼうっと呟いた。
「きれい…」
「アンリ!」
大きな声。僕は少しビクッとした。
石を持つ手ごと握られている。
目の前に真剣な眼差し。僕を怒るような目だった。
「何? ジョシュア」
彼はばつが悪そうに、手を離した。
「…すまない。なんだか」歯切れ悪く続けた。
「アンリが…どこかに連れて行かれそうで」
「どこかに? 何言っているの?」
彼は照れ笑いなどもせず、僕を諭すように言った。
「やっぱり、先生に早く返した方が良いんじゃないかな?
先生も石を探してるかもしれないだろう?」
生真面目に言う彼を見ながら、僕はやっと気が付いた。
「そうか」
石を彼の顔の前に合わせる。
代々グラント家に受け継がれる、禍々しい美しさを持つ色。
グラントが流してきた他人の血液だと揶揄されることもある。
科学的には、メラニン色素の過剰欠乏により、血液が透けて見えるらしい。
これは非常に稀な例で、その持ち主は、世界人口の0.001%しか居ない。
「君の瞳の色に似ているね?」
別に同意して欲しかったわけじゃないけれど、同意は得られなかった。
彼は僕の手を覆った。手の中に指を入れて、僕から赤い石を奪った。
それは決して乱暴ではなく、むしろ優しく抜き取られただけだったのだが、
彼にしては、強引な行動だった。
何も持っていない手が、空虚に感じられる。
気分まで下降していた。
「なんで取るの? それは僕のだ」
「先生の、だろう」
彼は石をサイドテーブルに置く。
コトリ、と小さな音がした。
「お姫様はもう眠る時間だよ、アンリ」
僕が嫌いな台詞。
イヤだって言っているのに時々言われる。
「僕はお姫様じゃない」
睨んだのに、笑顔を向けられた。
「良かった。いつものアンリに戻ってくれて」
事あるごとに思うけれど、可笑しなことを言う人だ。
ではさっきまでの僕は、誰だったの?
「オーギュ、これ、拾ってあげたよ。君のでしょ?」
翌日。僕はわざわざ彼の研究室を訪ねてあげた。
赤い石を差し出すと、教授はきょとんとした顔を見せた。
「私のではないよ?」
信じられない。
「…君のじゃないの? 本当に?」
「うん」
彼の顔をじっと見る。が、嘘を吐いているようには見えなかった。
「アンリ、ちょっと、見せてくれるかね?」
渋々、石を渡す。
「どこで拾ったんだい、アンリ」
「カフェテーブルの下。この前、君と紅茶を飲んだ時」
「ああ。私が鞄を引っ繰り返したから、私のだと思ったんだね?」
彼は石を観察しながら、
「宝石のようにも見えるけれど、これは隕石の類かもしれないなあ」
「隕石? 地球の外から降ってきたと言うの?
広い土地ならまだしも、こんな小さな島に」
「在り得ないとは言えないだろう? これ、私が預かっても良いかな?
知り合いの研究者に調査を頼んでみるよ」
赤い石は、オーギュストに取られた。
その後、石は隕石学者に送ったらしい。
何か解ったら連絡する、と言われたそうだ。
隕石学者からの連絡は、いつまで経っても来なかった。
fin
「アンリのお口には合わないだろうね。日頃から率直な言い方を愛しているから」
「それって、嫌味? ボージェ教授」
「失礼。嫌味に聞こえてしまったのなら謝るよ」
面白がってるくせに。
水曜日の午後。講義中の時間なので、学院内のカフェは客もまばらだった。
僕とオーギュは紅茶を飲みながら、錬金術について意見交換をしていた。
不運にも、中等部の講義が終わった講師と、法律学が終わった僕が鉢合わせた為だ。
この時間はお互いに講義がないのを知っている為、
そこでお茶でも、と誘われてしまったのだ。
僕の前にはオレンジハニーティー。
カップには輪切りのオレンジが浮かんでいる。オレンジは蜂蜜漬けにしたものだ。
柑橘系の爽やかな香りと蜂蜜の組み合わせは悪くない。
教授も同じものを飲んでいた。真似されたのだ。
「確かに、エメラルド碑文は謎に満ちている。けれど、それは」
「『受け継ぐべき者だけに伝わるように書かれたものだ』と言うのは解ってる」
腹いせに僕は彼の言葉を先取りしてやったのに、
彼は気を悪くした様子は全くない。
「では、アンリはエメラルドの謎が解けないことが悔しいのかな?」
「別に。謎は謎のままで一向に構わないよ。その方が」
「『自由に想像できて楽しいから』かね?」
仕返しされた。むかつく。
今日、お茶受け代わりになっている話題は、錬金術の聖書エメラルド・タブレット。
エメラルドの板には錬金術の奥義が刻まれていた。
作者は、賢者の石を手にしたとされる錬金術師の始祖ヘルメス。
3226年もこの世に居て、3万6525冊の著作を残したとも言われている。
エメラルド・タブレッドは、四世紀頃に書き残された物で、
ヘルメスのピラミッドの中から発見された。
書かれていたのは暗号を散りばめたような、意味不明の十数行。
僕は空で覚えていた。
「これは偽りなき真理であり、紛れもない真実。唯一の奇跡を叶えるには、
下なる物は上なる物のごとく、上なる物は下なる物のごとく。
万物が唯一の誓約によって、唯一の物から誕生したように、
万物は適合によって、唯一の物から誕生する。
その父は太陽、母は月。風はそれを胎内に宿し、その乳母は大地である。
それは全世界の父。その力が大地に向かうなら、完全無欠と化する。
汝、火から土を、野蛮から神秘を抽出せよ。
それは大地から天へと舞い上がり、再び天から大地へと舞い降りて、
上なる物の力と下なる物の力を授かるであろう。
さすれば、汝は、全ての光をその手にし、全ての闇は汝から消え失せるだろう。
それは最も強靭なる力。あらゆる神秘を凌駕し、全てを貫く。
かくして世界は創造された。それを手段に、驚異の適合が始まる。
よって私は、この世の三重の智恵を持つ者、ヘルメス・トリスメギストスと呼ばれる。
太陽の働きについて私が述べることは、以上で全てである」
僕が最後まで唱えると、教授は両手を合わせて、音を立てた。
「素晴らしい。全文を暗唱しているとは」
「何言っているの? 覚えさせたのはそっちでしょう?」
オレンジハニーティーの残りが少ない。
これは底に近付くにつれて甘くて美味しくなる。
「そうだったかね?」
「中等部一年の初めての試験で『エメラルド・タブレットの全文を記せ』って」
「ああ、思い出したよ。あれはアンリしか正解できなかった問題だね?」
「完全回答だったからでしょう? この手の長文は穴埋め問題が妥当だと思うよ、普通は。
この教授はよっぽど性格が悪いんだな、って解った印象的な思い出だよ」
「厳しいね、アンリは」
どちらが?
「それにしても、四年も前のことなのに、今も覚えているんだね。
もったいぶっている、と批評しながらも、嫌いではないのかな?」
いちいち癪に障ることを言う。
「詞としては面白いから、なんとなく覚えてるだけ」
錬金術師の創始者がエメラルドに残した奥義。
謎は読み解けないけれど、惹かれて。
一度覚えてしまってから忘れられないでいた。
「タブレットに刻まれた錬金術の奥義って具体的には何だと思う? ボージェ教授」
「さあ。何だろうね」
「神秘学の権威のくせに解らないの?」
「解らなくて、知りたい人のことを学者と言うんだよ、アンリ。
謎が解けていたら、錬金術師として名を馳せているだろうからね。
エメラルド・タブレットは昔の錬金術師を悩ませた秘密文書なのだし」
「でも、錬金術の聖書なんでしょう?
錬金術は黄金変成や不老不死が最終目標だ。それを叶えるのは賢者の石。
タブレットの最後には『太陽の働きについて』とある。
この『太陽』が石を意味しているんじゃないの?」
教授は両の指を絡める。癖なのか、親指同士の先を合わせる。いつもそうだ。
親指を付けたり、離したりしながら話していた。
「確かに、錬金術師にとっては、太陽のような石だったろうね」
「要するに、エメラルド・タブレットは、賢者の石のレシピ、でしょ?」
「レシピか。そう言うと可愛らしいね。甘いお菓子ができそうだ」
教授は上品に笑ったが、いや、と言って、苦笑に変えた。
「実際、石は魅惑的なお菓子だったのかもしれないね。
それが無くとも、人は生きていけるのに。舐めて、口に入れてみたくなる。
今よりきっと、豊かで幸福な気分になれるに違いない、と無邪気に信じて。
お菓子という存在を知った時、甘い誘惑に魅入られてしまったのだろうね」
空の方から鐘が鳴った。
僕は、ひとコマ分も教授の戯言に付き合ってあげたらしい。
「おや。アンリとの時間はあっという間だね。
有意義な午後をありがとう。では次の授業でね」
講師が席を立つ。椅子に置いていた革鞄を取ろうとして、地面に落とした。
「おっと」
彼は身を屈めて落とした物を拾い始める。
空いていたらしい鞄から幾つかの物が落ちている。
鞄からひょこっと顔を出しているのは、ワラ人形だった。
「…オーギュスト。それ…」
「ああ、先程は呪術の授業だったものでね」
「君、神秘学の権威でなかったら、不審者として捕まってる」
権威は笑っていた。
あの鞄には、『教材』という名目の妖しげな代物が入っているのだ。
もちろん本物ではなく、多くはレプリカだったり、彼のお手製だったりする。
それでも中等部の頃はそういうものを肉眼で見るのは珍しく、興味深かった。
が、高等部になり、変人との付き合いも四年になると、
何が出てきてもそれほど驚かなくなる。せいぜい呆れるぐらいだ。
オーパーツの授業では、水晶ドクロが出てきたこともあった。
当然イミテーションで、実物よりは大分小さい。
「このくらいの大きさだと、なかなか可愛いだろう?」と自慢された。
変人は地面に落とした大事なコレクション達を拾い、
砂をさっと払ってから鞄に戻していた。
彼は鞄を持って、メルキュール館へと向かう。
僕は残っていた紅茶に口付ける。
溶け残りの蜂蜜。嫌いじゃない。
僕も寮に帰ろうとした時。コン、と僕の靴に何か当たった。
座ったまま、足許を覗いてみる。
赤い光。直径三センチほどの水晶球だった。歪みはあるが球体に程近い。
彼の鞄から転がって、拾われなかった物かもしれない。
顔を上げると、オーギュストの背中はまだ見えた。
しゃがんで、赤い石を拾う。オーギュを呼び止めるつもりだった。
手に乗せた石。
綺麗だった。
表面は明るくて、奥は仄暗い。
これと似たものを、僕は知っている気がする。思い出せない。
石を持って立ち上がる。
どうせ、彼には授業で会う。返すのはその時でも遅くはないだろう。
講師の背中を見つめたまま、ポケットに石を入れた。
夕食後。僕はワイシャツ姿のままベッドに寝そべって、赤い石を見ていた。
どのくらい時間が経っているか解らない。
勉強も読書もする気にならず、
バイオリンも、タロットすら手にする気が起こらない。
赤い石。
ライトの当たり具合や、見る角度によって、様々な赤に変わって見えるのだ。
天井の光源に透かしたり、手の中で何度も回して弄んでいた。
表面はつるつると滑らかで、冷たい。
触れていると、何故か落ち着いた。
綺麗で、綺麗で。
舐めてみたい。
きっと、甘い。
まるで冷えて固まった赤いジャムのようだもの。
ストロベリーのような甘さだろうか。
フランボワーズのように少し酸味があるだろうか。
僕の手が口許に近付いていく。
舌で触れたい。
口に入れて、僕だけのものにしたい。
「ジョシュアだよ。入っても良いかな?」
ノックの音に驚いて、石を落とした。
僕の胸に当たる。床に転がりそうになるのを手で受け止めた。
ベッドに横たわったまま、「開いてるよ」と言った。
彼は借りていたミステリを返しに来たらしい。
適当に本棚に戻して、と頼んだ。
僕は彼が来たにも関わらず、また石を眺めた。
なんだか、目が離せない。
本を仕舞った彼は、ごく自然にベッドに座った。
僕の身体が少し沈む。彼が僕の手許を覗く。
「それ、綺麗だね」
この石が綺麗と言われるのは嫌じゃなかった。
「見たい?」
「うん。見たいな」
腕だけ伸ばして石を手渡す。人差し指が少し触れ合った。
ジョシュアは興味深く石を見てくれた。悪い気はしない。
「不思議な色だね。クリスタルかい?」
「解らない。拾った物だから」
彼には予想外だったようだ。石から視線を外し、僕を見つめた。
「学院内で拾ったの?」
「うん」
優等生の表情が曇る。
「じゃあ、落とした人が居るんじゃ…」
「ボージェ教授だよ。今度の授業で返す」
「そうか」
まだ何か言いたそうだったけれど、それ以上の小言は言わなかった。
彼は手の平に乗せた石を見ながら苦笑した。
「神秘学の先生が落とした石なんて、ちょっと怖いな」
「何が?」
「不思議な力を持つ石かもって思えて」
「ああ。じゃあ、呪われた石かも」
深紅の瞳が瞬く。彼は人の言葉を信じ過ぎる。
「冗談だよ。いわくがあったとしてもレプリカだと思うし」
僕は拾った状況を簡潔に説明する。
呪術道具が入っていた鞄から落ちた物だと。
それを聞いたジョシュアは、石を暫し見つめた後、
さりげなくベッドサイドのテーブルに置いていた。
「彼のこと、魔法使いとでも思っているの?
あれは、オカルト好きな、只の変人だよ?」
「先生に噛み付くなよ、アンリ」
「もしかしたら、賢者の石だったりしてね」
えっ、と彼は驚く。いちいち真面目に受け取る人だ。
「でも、賢者の石って、空想上の石なんだろう?」
「それを聞いたら錬金術師達が怒るよ?
黄金変成も、不老不死も叶える、万能の石。
彼等は全てを賭けて、それを作ろうとしてた。
石を求めるあまり、投獄、処刑された錬金術師も少なくない」
僕は久し振りに滔々と語っていた。時折、こういう夜が訪れる。
「賢者の石を実際に手にしたと言い張る者も居る。伯爵だってその一人だ。
彼は石を液化した霊薬を飲み、永遠の命を得たのだから」
少し気分が高揚している、と自分を俯瞰している自分が感じていた。
夜だからかもしれない。今宵は確か新月だったし。
月が消された夜の僕は少し可笑しくなると経験則で解っていた。
それはジョシュアも知っていることだ。彼は黙って僕の話を聞いてくれている。
「ねえ。賢者の石って、何色か知ってる?」
神秘学に興味がない彼が知る筈もないのに、訊ねている。
彼はやはり首を振った。教えてあげる。
「賢者の石はね、製作の過程で色を変えるんだ」
僕は腕を伸ばしてテーブルから石を取った。親指と人差し指で持つ。
ジョシュアが心配そうに僕を見ていた。
僕より可笑しい人間なんて履いて捨てるほど居るのに。
「最初はね、死の象徴である黒。次に復活の象徴、白になる。そして、完成形は完全を意味する…」
僕は石を掲げて、天井のライトに透かす。
良い色だ。澱のあるワインみたい。
「赤だよ」
上澄みは鮮やか。底は暗くて赤黒い。
後から聞いたことだけど、この時の僕は、虚ろな目をしたらしい。
傍にジョシュアが居ることも忘れたように、僕はぼうっと呟いた。
「きれい…」
「アンリ!」
大きな声。僕は少しビクッとした。
石を持つ手ごと握られている。
目の前に真剣な眼差し。僕を怒るような目だった。
「何? ジョシュア」
彼はばつが悪そうに、手を離した。
「…すまない。なんだか」歯切れ悪く続けた。
「アンリが…どこかに連れて行かれそうで」
「どこかに? 何言っているの?」
彼は照れ笑いなどもせず、僕を諭すように言った。
「やっぱり、先生に早く返した方が良いんじゃないかな?
先生も石を探してるかもしれないだろう?」
生真面目に言う彼を見ながら、僕はやっと気が付いた。
「そうか」
石を彼の顔の前に合わせる。
代々グラント家に受け継がれる、禍々しい美しさを持つ色。
グラントが流してきた他人の血液だと揶揄されることもある。
科学的には、メラニン色素の過剰欠乏により、血液が透けて見えるらしい。
これは非常に稀な例で、その持ち主は、世界人口の0.001%しか居ない。
「君の瞳の色に似ているね?」
別に同意して欲しかったわけじゃないけれど、同意は得られなかった。
彼は僕の手を覆った。手の中に指を入れて、僕から赤い石を奪った。
それは決して乱暴ではなく、むしろ優しく抜き取られただけだったのだが、
彼にしては、強引な行動だった。
何も持っていない手が、空虚に感じられる。
気分まで下降していた。
「なんで取るの? それは僕のだ」
「先生の、だろう」
彼は石をサイドテーブルに置く。
コトリ、と小さな音がした。
「お姫様はもう眠る時間だよ、アンリ」
僕が嫌いな台詞。
イヤだって言っているのに時々言われる。
「僕はお姫様じゃない」
睨んだのに、笑顔を向けられた。
「良かった。いつものアンリに戻ってくれて」
事あるごとに思うけれど、可笑しなことを言う人だ。
ではさっきまでの僕は、誰だったの?
「オーギュ、これ、拾ってあげたよ。君のでしょ?」
翌日。僕はわざわざ彼の研究室を訪ねてあげた。
赤い石を差し出すと、教授はきょとんとした顔を見せた。
「私のではないよ?」
信じられない。
「…君のじゃないの? 本当に?」
「うん」
彼の顔をじっと見る。が、嘘を吐いているようには見えなかった。
「アンリ、ちょっと、見せてくれるかね?」
渋々、石を渡す。
「どこで拾ったんだい、アンリ」
「カフェテーブルの下。この前、君と紅茶を飲んだ時」
「ああ。私が鞄を引っ繰り返したから、私のだと思ったんだね?」
彼は石を観察しながら、
「宝石のようにも見えるけれど、これは隕石の類かもしれないなあ」
「隕石? 地球の外から降ってきたと言うの?
広い土地ならまだしも、こんな小さな島に」
「在り得ないとは言えないだろう? これ、私が預かっても良いかな?
知り合いの研究者に調査を頼んでみるよ」
赤い石は、オーギュストに取られた。
その後、石は隕石学者に送ったらしい。
何か解ったら連絡する、と言われたそうだ。
隕石学者からの連絡は、いつまで経っても来なかった。
fin
■王子達から姉貴へメール
---------------------------
送信者:エンジュ
日時:2008年07月xx日 xx:xx
件名:眠れない夜は
---------------------------
俺のことを考えるといい。
俺はお前のことを考えると眠れる。
エンジュ
---------------------------
送信者:エンジュ
日時:2008年07月xx日 xx:xx
件名:眠れない夜は
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俺のことを考えるといい。
俺はお前のことを考えると眠れる。
エンジュ
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■王子達から姉貴へメール
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送信者:アルフレッド
日時:2008年07月xx日 xx:xx
件名:コリン
---------------------------
コリン&ジミーの話ができて、
めちゃくちゃ楽しかった!
君が見てくれてるって知ってたら、
もっといい演技できたのにな!
あの作品って、やっぱ、
オヤジのコネで決まった作品だからさ。
正直、好きになれないトコも、
あったんだよな。
けど、君が見てくれてたって聞くと、
コリンをやっててよかったって、
ホント、素直に思えたんだ。
俺のこと、単細胞とか思ってない?
ま、そうかもしんねえ。
『君がスキ』って気持ちは、
フクザツなモンじゃないから。
曲がったり、迷ったりしてない。
まっすぐ、君に向かってる。
…なーんて、
昔やったドラマのセリフ!
ニッポンで放送してなかった?
レッド
---------------------------
送信者:アルフレッド
日時:2008年07月xx日 xx:xx
件名:コリン
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コリン&ジミーの話ができて、
めちゃくちゃ楽しかった!
君が見てくれてるって知ってたら、
もっといい演技できたのにな!
あの作品って、やっぱ、
オヤジのコネで決まった作品だからさ。
正直、好きになれないトコも、
あったんだよな。
けど、君が見てくれてたって聞くと、
コリンをやっててよかったって、
ホント、素直に思えたんだ。
俺のこと、単細胞とか思ってない?
ま、そうかもしんねえ。
『君がスキ』って気持ちは、
フクザツなモンじゃないから。
曲がったり、迷ったりしてない。
まっすぐ、君に向かってる。
…なーんて、
昔やったドラマのセリフ!
ニッポンで放送してなかった?
レッド
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■王子達から姉貴へメール
---------------------------
送信者:アンリ
日時:2008年07月xx日 xx:xx
件名:彼のこと、気にしないで
---------------------------
今日は変な邪魔が入って悪かったね。
話が長くてうんざりしたでしょ?
僕も彼には困ってるんだ。
僕の特別講師だからって、
保護者気取りで、いい迷惑だよ。
今度は二人きりで話そう。
Bonne nuit.
アンリ
---------------------------
送信者:アンリ
日時:2008年07月xx日 xx:xx
件名:彼のこと、気にしないで
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今日は変な邪魔が入って悪かったね。
話が長くてうんざりしたでしょ?
僕も彼には困ってるんだ。
僕の特別講師だからって、
保護者気取りで、いい迷惑だよ。
今度は二人きりで話そう。
Bonne nuit.
アンリ
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■王子達から姉貴へメール
---------------------------
送信者:ユウタ
日時:2008年07月xx日 xx:xx
件名:テスト
---------------------------
情報学のテスト、終わったよ。
てゆうか、ホントにオワッタかも…
一問目から意味分かんなかったし、
全然時間足りなくて、慌てて書いたから、
あちこちスペル間違えちゃったかも。
そのへんは大目に見てくれるかなあ?
もう今日は寝る!
おやすみっ!
ユウタ
---------------------------
送信者:ユウタ
日時:2008年07月xx日 xx:xx
件名:テスト
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情報学のテスト、終わったよ。
てゆうか、ホントにオワッタかも…
一問目から意味分かんなかったし、
全然時間足りなくて、慌てて書いたから、
あちこちスペル間違えちゃったかも。
そのへんは大目に見てくれるかなあ?
もう今日は寝る!
おやすみっ!
ユウタ
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■王子達から姉貴へメール
---------------------------
送信者:ハルヤ
日時:2008年07月xx日 xx:xx
件名:あの
---------------------------
さっきは、その、
ヘンなとこ見せちゃってごめんね。
シルヴァンは酔っちゃうと、
ああなるっていうか、
結局、みんなも、キスされてて…
だから、俺だけじゃないからね?
ユウタはビックリしてたけど、
レッドとかジョシュアは、
なんか、もう慣れちゃってて、
「はいはい」ってかんじなんだよね。
今日だけはさすがに、
君がここにいなくて良かったって思ったよ。
君も、酔ったシルヴァンには気をつけて…
ハルヤ
---------------------------
送信者:ハルヤ
日時:2008年07月xx日 xx:xx
件名:あの
---------------------------
さっきは、その、
ヘンなとこ見せちゃってごめんね。
シルヴァンは酔っちゃうと、
ああなるっていうか、
結局、みんなも、キスされてて…
だから、俺だけじゃないからね?
ユウタはビックリしてたけど、
レッドとかジョシュアは、
なんか、もう慣れちゃってて、
「はいはい」ってかんじなんだよね。
今日だけはさすがに、
君がここにいなくて良かったって思ったよ。
君も、酔ったシルヴァンには気をつけて…
ハルヤ
---------------------------
■王子達から姉貴へメール
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送信者:シルヴァン
日時:2008年07月xx日 xx:xx
件名:今夜は
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貴女とゆっくりお話しできて
楽しかったです。
それじゃ、おやすみなさい。
今夜は僕の夢を見て下さいね?
他の男は許しませんよ♪
貴女だけのシルヴァン
おやすみのキスと一緒に♪
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送信者:シルヴァン
日時:2008年07月xx日 xx:xx
件名:今夜は
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貴女とゆっくりお話しできて
楽しかったです。
それじゃ、おやすみなさい。
今夜は僕の夢を見て下さいね?
他の男は許しませんよ♪
貴女だけのシルヴァン
おやすみのキスと一緒に♪
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■王子達から姉貴へメール
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送信者:ジョシュア
日時:2008年06月xx日 xx:xx
件名:俺も
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もっと君と話していたかったけど、
お姫様はもうお休みの時間ですよね?
おやすみ。いいゆめを。
ジョシュア・グラント
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送信者:ジョシュア
日時:2008年06月xx日 xx:xx
件名:俺も
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もっと君と話していたかったけど、
お姫様はもうお休みの時間ですよね?
おやすみ。いいゆめを。
ジョシュア・グラント
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