■ユウタ
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11月2日。一年中温暖な聖アルフォンソ島も、この頃の朝晩は冷えてきた。
学院内の草木も夏と比べると元気がないように見える。
寮の食事も最近あったかいメニューに変わってきた。
日本ではそろそろ、お鍋の季節なのかもしれない。
今朝は特に風が強く、体感温度が低い。
保健室から寮への帰り道。ユウタはポケットに手を入れた。
寒くて、手をぎゅっと握る。
「今日のソクーロフ博士、嬉しそうだったなあ…」
ポケットの手には返して貰ったばかりの携帯電話。
博士の誕生日をアルフレッドから聞いたユウタは、
姉にも博士の誕生日を教えてあげた。
当日になると、姉はやはり電話を掛けてきて、
「博士と変わって」とユウタに言ってきたのだ。
弟は姉に頼まれた通り、寮から少し遠い保健室まで出向いた。
携帯を返してくれた博士はいつもと、ちょっと違ってた。
姉貴はウーティス寮の皆の誕生日にも電話を掛けてくる。
携帯を返す時の顔は、皆いつもと違う。
俺もその時「お誕生日おめでとう」って言う。
皆は「ありがとう、ユウタ」って言う。何に対してのありがとうなんだろう。
月桂樹の森とウーティス寮が見えてくる。
常緑高木はこの時期でも色を変えず、深い緑の葉を付けていた。
寮へ戻る前にもう少し歩いていたい。森を少し散歩したくなった。
さわさわと木が揺れる。風がちょっと冷たい。
朝食の時、誰かが「今日は寒くなりそう」と言っていた。
この森はいつも土と葉の匂いがする。
最近はナイチンゲールの声があまりしない。
あたたかい日は楽しげに歌っていたけど、
寒いと鳥も歌う気分にはなれないのかもしれない。
首許に風が吹き付ける。マフラーも家から持ってきた筈だが、
一体何処に仕舞ったのか思い出せない。
まだちゃんと開いていないダンボールの底とかにありそうだ。
そう言えば、マフラーは2つ持ってきた気がする。
ひとつは、去年の誕生日に姉貴から貰った手編みのマフラーだ。
ところどころ、網目がぼこぼこしてて、
いかにも姉貴が作った、ってかんじがする、へたっぴな物だった。
2つめは、同じ日、母さんからプレゼントされたマフラーだ。
母さんのは手作りではなく、ちょっと大人っぽいのを買ってくれた。
二人とも「あら。息がぴったり」とか言って笑ってたけど。
プレゼント選ぶ前に相談くらいすればいいのに。
姉貴は段々、母さんに似てきた気がする。
学校には母さんに貰ったマフラーをして行ったと思う。
夜は姉貴が作ったへたっぴケーキを家族で囲んで、ロウソクを消した。
普通に家族で過ごした誕生日だった。
来年はもう高校生だし、次の誕生日は家族と一緒じゃなくて、
友達の家とかで祝って貰えたらいいななんて思ってた。
今年は思いがけず、それが叶う。今年の誕生日は家族が傍に居ない。
姉貴に祝って貰えない、初めての誕生日だ。
メールとか電話くらいはくれるかもしれないけど。
でも、もしかしたら。
姉貴は「クリスマスにはジョシュアさんに電話しよう」とか考えてばっかりで、
俺のことなんか忘れちゃってるかもしれない。
博士の誕生日まで、祝ってたくせに。
森を歩きながら、ユウタは一人、大きな溜め息を漏らす。
「来月は誰の誕生日か、忘れてないかな、姉貴…」
月桂樹が揺れて、青い香りが深くなる。
今日はやっぱりちょっと寒い。
泉が見える前に、寮へ引き返す。
部屋に戻ったらマフラーを探してみようと思った。
―― でも、どっちのマフラーを巻こう。格好良いのは母さんの方だけど ――
一羽、ナイチンゲールが飛んだ。
何処かもう少し暖かいねぐらに行ったのかもしれない。
冷たい風に頬を撫でられた。
ユウタも歩幅を大きくして寮へと急ぐ。
「やっぱり、姉貴のマフラーはしないでおこう」
これは姉貴が作ったって言ったら誰かに取られちゃいそうだし。
姉貴が皆にマフラーを送ってきたりするのも嫌だから。
fin
学院内の草木も夏と比べると元気がないように見える。
寮の食事も最近あったかいメニューに変わってきた。
日本ではそろそろ、お鍋の季節なのかもしれない。
今朝は特に風が強く、体感温度が低い。
保健室から寮への帰り道。ユウタはポケットに手を入れた。
寒くて、手をぎゅっと握る。
「今日のソクーロフ博士、嬉しそうだったなあ…」
ポケットの手には返して貰ったばかりの携帯電話。
博士の誕生日をアルフレッドから聞いたユウタは、
姉にも博士の誕生日を教えてあげた。
当日になると、姉はやはり電話を掛けてきて、
「博士と変わって」とユウタに言ってきたのだ。
弟は姉に頼まれた通り、寮から少し遠い保健室まで出向いた。
携帯を返してくれた博士はいつもと、ちょっと違ってた。
姉貴はウーティス寮の皆の誕生日にも電話を掛けてくる。
携帯を返す時の顔は、皆いつもと違う。
俺もその時「お誕生日おめでとう」って言う。
皆は「ありがとう、ユウタ」って言う。何に対してのありがとうなんだろう。
月桂樹の森とウーティス寮が見えてくる。
常緑高木はこの時期でも色を変えず、深い緑の葉を付けていた。
寮へ戻る前にもう少し歩いていたい。森を少し散歩したくなった。
さわさわと木が揺れる。風がちょっと冷たい。
朝食の時、誰かが「今日は寒くなりそう」と言っていた。
この森はいつも土と葉の匂いがする。
最近はナイチンゲールの声があまりしない。
あたたかい日は楽しげに歌っていたけど、
寒いと鳥も歌う気分にはなれないのかもしれない。
首許に風が吹き付ける。マフラーも家から持ってきた筈だが、
一体何処に仕舞ったのか思い出せない。
まだちゃんと開いていないダンボールの底とかにありそうだ。
そう言えば、マフラーは2つ持ってきた気がする。
ひとつは、去年の誕生日に姉貴から貰った手編みのマフラーだ。
ところどころ、網目がぼこぼこしてて、
いかにも姉貴が作った、ってかんじがする、へたっぴな物だった。
2つめは、同じ日、母さんからプレゼントされたマフラーだ。
母さんのは手作りではなく、ちょっと大人っぽいのを買ってくれた。
二人とも「あら。息がぴったり」とか言って笑ってたけど。
プレゼント選ぶ前に相談くらいすればいいのに。
姉貴は段々、母さんに似てきた気がする。
学校には母さんに貰ったマフラーをして行ったと思う。
夜は姉貴が作ったへたっぴケーキを家族で囲んで、ロウソクを消した。
普通に家族で過ごした誕生日だった。
来年はもう高校生だし、次の誕生日は家族と一緒じゃなくて、
友達の家とかで祝って貰えたらいいななんて思ってた。
今年は思いがけず、それが叶う。今年の誕生日は家族が傍に居ない。
姉貴に祝って貰えない、初めての誕生日だ。
メールとか電話くらいはくれるかもしれないけど。
でも、もしかしたら。
姉貴は「クリスマスにはジョシュアさんに電話しよう」とか考えてばっかりで、
俺のことなんか忘れちゃってるかもしれない。
博士の誕生日まで、祝ってたくせに。
森を歩きながら、ユウタは一人、大きな溜め息を漏らす。
「来月は誰の誕生日か、忘れてないかな、姉貴…」
月桂樹が揺れて、青い香りが深くなる。
今日はやっぱりちょっと寒い。
泉が見える前に、寮へ引き返す。
部屋に戻ったらマフラーを探してみようと思った。
―― でも、どっちのマフラーを巻こう。格好良いのは母さんの方だけど ――
一羽、ナイチンゲールが飛んだ。
何処かもう少し暖かいねぐらに行ったのかもしれない。
冷たい風に頬を撫でられた。
ユウタも歩幅を大きくして寮へと急ぐ。
「やっぱり、姉貴のマフラーはしないでおこう」
これは姉貴が作ったって言ったら誰かに取られちゃいそうだし。
姉貴が皆にマフラーを送ってきたりするのも嫌だから。
fin
■アンリのHWイベント オーギュスト添え
■衣装と決め台詞はオフィシャルと同じです
■衣装と決め台詞はオフィシャルと同じです
ハロウィン当日。
ユウタとアンリは暗闇のキャンパスを移動中だった。
これから学院の内外へお菓子集めへ行く。
新入生のユウタは、ひとつ上の先輩にぴたっと寄り添って歩いていた。
ユウタの衣装は虎模様のちゃんちゃんこ。頭に目玉のお父さん。
履き物は下駄と、頭から足まで緻密にコーディネートされている。
「わあっ! い、今、なんか可笑しな音しなかったっ!?」
「…風で木が揺れただけでしょう」
校舎はどれも古い洋館。ユウタにはお化け屋敷に見えて仕方ないらしい。
アンリは後輩に掴まれた腕を一瞥したが、振り解かなかった。
もう何度も払っているのだが、何度でもひっついて来るからだ。
「ねえアンリ、もう少し早く歩けない? 夜の学校なんて通るのコワイよ…」
「文句なら衣装係に言ってくれる? 僕だって、こんな靴初めてなんだから」
アンリが歩くと、足許から、ちゃらちゃらと音が鳴る。
ユウタはその隣をカランコロンと歩く。二人とも和装だった。
「アンリ、それは靴じゃなくて、雪駄(せった)って言うんだよ?」
「知らないよ、そんなの」
裏面に皮を張ることで防水機能を持った下駄。
千利休が考案者という説もあるらしく、ユウタは、へええ、と思ったのだが、
アンリはいつも以上にツンツンしてた。
今年のハロウィンは、例年以上にアンリの機嫌が良くなかった。
アンリは、うっとうしい長い髪を耳に掛ける。地毛でない。
「せっかく、今年の文化祭ではしないで済んだのに」
アンリが着ているのは氷色の着物。帯は紫、赤い帯締め。女性物だ。
衣装・演出担当はシルヴァン。かなり前から、はりきって準備していた。
打ち合わせ期間には幾つかの衣装を着せられた。衣装係曰く、
「年に一度はアンリの女装を見ないと年が越せない!というリクエストが多かったので♪」
などと、周囲の期待に応えたことを強調していたのだが。
普段から『バニラボイス』だとか中傷してくれているから、雪女を思い付いたのだろうし、
日本のテイストが多分に含まれているのは、単にニッポンマニアの趣味だろう。
もちろん、リクエストを出した者は、
事業に出資するようにと交換条件を出しておいた。
できることなら、いっそ凍らせてやりたかったが、
こちらのコストはゼロで法外な出資額が集まるのだからと自分の憤りを抑えた。
衣装を着せたのはシルヴァンに頼まれたハルヤだ。
アンリに睨まれながらも、淡々と姫のお着替えを手伝った。
自分で着せておきながら「うわ…アンリ、綺麗だねえ」と言ったかと思うと、
「あっ、ごめん…」と顔を赤らめる。彼の言動は未だにミステリアスだ。
アルフレッドとジョシュアには、やいやい言われて散々だった。
お化け嫌いのユウタはイベント自体に拒否反応を示していた。
一人ではとても行動できないと、一日中誰かの傍にくっついていた。
今も校舎と校舎の間を通るだけなのに、びくついている。
「アンリ…此処暗いから早く行こうよー」
「待って、ユウタ。お菓子が居た」
雪女は人影に近付いていく。生徒にお菓子を与えている講師の姿が見えた。
礼を言って歩き出した他の受講生に片手を挙げている。
雪女は講師の背中へ歩いていった。
「トリック・オア・トリート」
振り向いた講師に、雪女はバッと左腕を掲げた。
「…お菓子をくれなきゃ…くらえブリザード攻撃っ!」
講師は一瞬、唖然とした後、クスクスと微笑した。
この子にしては珍しい。貴重な教え子が見られた。
アンリは、一気にクールダウンして、髪を耳に掛ける。
「言っておくけど、好きでやってるんじゃないからね? シルヴァンの演出なんだ」
「それは素晴らしい。雪女がこれほど美しい妖怪だったとはね」
「知っているの? これ」
「妖怪図鑑には必ず載っているからね?」
「ヨウカイって神秘学の範囲? 君の趣味?」
「神秘には違いないよ。その美貌で人を幻惑し、身も心も凍らせる…
とてもよく似合うよ、アンリ」
「それ、嫌味?」
「まさか。ああ、お菓子をあげなくてはね。はい、アンリ」
黒猫を意図したらしいチョコレート。
講師はもう一人の生徒の前に行く。
「それからユウタにも。ハッピーハロウィン。君も可愛いらしいね」
「あ、ありがとうございます、ボージェ先生」
「どういたしまして」
ユウタは雪女の袖を引っ張る。
「アンリ…もう少し明るい場所に行こうよ…」
「良いよ。明るい場所にはお化け達がいっぱい居るものね?」
「ううっ…それもやだあ…」
「ではね、オーギュ」
「うん。楽しい夜を」
雪女は雪駄を鳴らしながら歩き出す。
「アンリ~! 置いてかないで~!」
ユウタが歩くと、地面に白い物がコロンと転がった。
「ひいっ! な、なに、なにっ!?」
いちいち挙動不審な連れに、雪女は冷たい息を吐く。
「それ、君の頭に付けてる物でしょ?」
あっ、とユウタは慌てて拾い上げる。
白いマスコットに向かって言った。
「すみません、父さん!」
fin
ユウタとアンリは暗闇のキャンパスを移動中だった。
これから学院の内外へお菓子集めへ行く。
新入生のユウタは、ひとつ上の先輩にぴたっと寄り添って歩いていた。
ユウタの衣装は虎模様のちゃんちゃんこ。頭に目玉のお父さん。
履き物は下駄と、頭から足まで緻密にコーディネートされている。
「わあっ! い、今、なんか可笑しな音しなかったっ!?」
「…風で木が揺れただけでしょう」
校舎はどれも古い洋館。ユウタにはお化け屋敷に見えて仕方ないらしい。
アンリは後輩に掴まれた腕を一瞥したが、振り解かなかった。
もう何度も払っているのだが、何度でもひっついて来るからだ。
「ねえアンリ、もう少し早く歩けない? 夜の学校なんて通るのコワイよ…」
「文句なら衣装係に言ってくれる? 僕だって、こんな靴初めてなんだから」
アンリが歩くと、足許から、ちゃらちゃらと音が鳴る。
ユウタはその隣をカランコロンと歩く。二人とも和装だった。
「アンリ、それは靴じゃなくて、雪駄(せった)って言うんだよ?」
「知らないよ、そんなの」
裏面に皮を張ることで防水機能を持った下駄。
千利休が考案者という説もあるらしく、ユウタは、へええ、と思ったのだが、
アンリはいつも以上にツンツンしてた。
今年のハロウィンは、例年以上にアンリの機嫌が良くなかった。
アンリは、うっとうしい長い髪を耳に掛ける。地毛でない。
「せっかく、今年の文化祭ではしないで済んだのに」
アンリが着ているのは氷色の着物。帯は紫、赤い帯締め。女性物だ。
衣装・演出担当はシルヴァン。かなり前から、はりきって準備していた。
打ち合わせ期間には幾つかの衣装を着せられた。衣装係曰く、
「年に一度はアンリの女装を見ないと年が越せない!というリクエストが多かったので♪」
などと、周囲の期待に応えたことを強調していたのだが。
普段から『バニラボイス』だとか中傷してくれているから、雪女を思い付いたのだろうし、
日本のテイストが多分に含まれているのは、単にニッポンマニアの趣味だろう。
もちろん、リクエストを出した者は、
事業に出資するようにと交換条件を出しておいた。
できることなら、いっそ凍らせてやりたかったが、
こちらのコストはゼロで法外な出資額が集まるのだからと自分の憤りを抑えた。
衣装を着せたのはシルヴァンに頼まれたハルヤだ。
アンリに睨まれながらも、淡々と姫のお着替えを手伝った。
自分で着せておきながら「うわ…アンリ、綺麗だねえ」と言ったかと思うと、
「あっ、ごめん…」と顔を赤らめる。彼の言動は未だにミステリアスだ。
アルフレッドとジョシュアには、やいやい言われて散々だった。
お化け嫌いのユウタはイベント自体に拒否反応を示していた。
一人ではとても行動できないと、一日中誰かの傍にくっついていた。
今も校舎と校舎の間を通るだけなのに、びくついている。
「アンリ…此処暗いから早く行こうよー」
「待って、ユウタ。お菓子が居た」
雪女は人影に近付いていく。生徒にお菓子を与えている講師の姿が見えた。
礼を言って歩き出した他の受講生に片手を挙げている。
雪女は講師の背中へ歩いていった。
「トリック・オア・トリート」
振り向いた講師に、雪女はバッと左腕を掲げた。
「…お菓子をくれなきゃ…くらえブリザード攻撃っ!」
講師は一瞬、唖然とした後、クスクスと微笑した。
この子にしては珍しい。貴重な教え子が見られた。
アンリは、一気にクールダウンして、髪を耳に掛ける。
「言っておくけど、好きでやってるんじゃないからね? シルヴァンの演出なんだ」
「それは素晴らしい。雪女がこれほど美しい妖怪だったとはね」
「知っているの? これ」
「妖怪図鑑には必ず載っているからね?」
「ヨウカイって神秘学の範囲? 君の趣味?」
「神秘には違いないよ。その美貌で人を幻惑し、身も心も凍らせる…
とてもよく似合うよ、アンリ」
「それ、嫌味?」
「まさか。ああ、お菓子をあげなくてはね。はい、アンリ」
黒猫を意図したらしいチョコレート。
講師はもう一人の生徒の前に行く。
「それからユウタにも。ハッピーハロウィン。君も可愛いらしいね」
「あ、ありがとうございます、ボージェ先生」
「どういたしまして」
ユウタは雪女の袖を引っ張る。
「アンリ…もう少し明るい場所に行こうよ…」
「良いよ。明るい場所にはお化け達がいっぱい居るものね?」
「ううっ…それもやだあ…」
「ではね、オーギュ」
「うん。楽しい夜を」
雪女は雪駄を鳴らしながら歩き出す。
「アンリ~! 置いてかないで~!」
ユウタが歩くと、地面に白い物がコロンと転がった。
「ひいっ! な、なに、なにっ!?」
いちいち挙動不審な連れに、雪女は冷たい息を吐く。
「それ、君の頭に付けてる物でしょ?」
あっ、とユウタは慌てて拾い上げる。
白いマスコットに向かって言った。
「すみません、父さん!」
fin
■警備責任者と生徒代表テオ
「海と共にある家だなんて! 素晴らしい家だね、アイヴィー!」
俺んちに着くなり、絶賛の嵐。なんか今年は物凄い褒められてる。
家主に断ることなく、生徒代表は豪快に窓を開けた。
「波音を子守唄に眠るのだね。ああ、毎日が船旅のようだ…」
右を見ても左を見ても、感動の溜め息を上げているのが今年度の総帥テオ。
ハイテンションなまま家中を全部見て回った。
この前「俺んち来てみる?」と誘ったところ「是非!」と即答。
近年稀に見る友好的な生徒代表だ。
最近なんとなく作れるようになったパスタを一口食べるとまた絶賛。
「アイヴィー! 君はパスタの店を開いた方が良いんじゃないかい!?」
「そこまで大袈裟なもんじゃねえって」
「店の名前はどうしようか。んー。そうだねえ…」
「店開く前提で話進めてるし」
「あっ! 『アイヴィーのマンマパスタ』はどうだろう!?」
「決めなくて良いって。てゆうか、俺、マンマじゃねえし」
「いやいや、これは母の愛というものだよ、アイヴィー。
ワイルドな中にも深い愛情を感じたよ。
ああ、今、私の胸はアイヴィーの愛で満たされている!」
パスタを食べ終わった後も、テオの感動は治まらず、はしゃいでいた。
テオの明るい笑顔を見れば見るほど、アイヴィーの心は曇った。
今日のテーブルには、アルコールは乗っていない。俺は今日の本題を切り出した。
「お前さんさ、最近元気なくない?」
「そう、見えるかい…」
「いや、なんつーか、やけにハイな時もあんだけどさ、
時々、生徒代表室でぼーっとしてっから。気になってたんだ」
それまで喋り通しだったテオが言葉を返さない。
俺は立ち上がって、デスクに向かう。
「でさ、お前宛の預かり物してるんだ。今日はそれを渡したかったんだよね」
「私、に?」
「ああ。一年前からな」
PCの傍に立て掛けていた封筒を手に取る。
テオの前に差し出した。
「ほい。誰からだと思う?」
シンプルな白い封筒。表には『テオへ』と書いてある。
自分の名前を見て、テオの声が微かに震えた。
「この、字は…」
「ありゃ。字見ただけで解っちゃった?」
「解るとも。これほど凛々しく、生真面目な文字を書くのは彼だけだ」
ぽたり、とカードに水滴が落ちた。
テオは目許を隠すように額を抑え、儚く笑った。
「すまない…私…」
堰き止められていた感情が、あっけなく崩れていく。
たった一枚のバースデーカードを引き金に。
中には直筆で『誕生日おめでとう テオ』とだけ綴られていた。
他の言葉は迷った挙句に書けなかったのかもしれない。
クラウスはそんなに器用じゃない。
ガミガミ煩い奴なのに、皆に慕われた存在だった。
中でもテオにとってクラウスは、自他共に認める一番の友人だった。
「テオ。お兄さんの胸で良ければ、空いてるぜ?」
誰よりも明るい生徒代表だと思っていたが。
俺のワイシャツを濡らしたのは、テオが初めてだった。
テオが泣き疲れて眠った後、俺は固定電話の前に座る。
受話器を取って、短縮ボタンを押した。
5年のお付き合いになる同僚に繋がる。
塞がっていない手でラジオのボリュームを少し下げた。
「寝てた? …だろうと思ったからご一報。
…ん…あんたの予想通り。泣かせちゃった…学院では我慢してたんだな」
クラウスの卒業によりテオが酷く落ち込んでいるらしい、
そうカウンセラーに聞かされ、一年前の預かり物を思い出した。
「俺は渡せないから」と不器用に渡されたカード。
それから一年経て、カードは涙で濡れた。
マージナルプリンスどもが学院で過ごせる時間には限りがある。
親しくなれば別れは辛い。当たり前のことだ。
椅子に凭れるとギイと鳴いた。
「…ああ。これで少しは元気になるといいけどな…解ってるって。
生徒代表のサポート全般が、俺達の役目だもんな?
じゃー、詳しいことはまた今度ゆっくり。おやすみ、ソクちゃん」
受話器を置く。ラジオの音量を上げる気になれなかった。
窓の外には暗い海原。何処までが海で、空なのか解らない。
テオが手放しで褒めたこの家は貰い物。
島を出て行った老人から譲り受けた、忘れ形見だ。
俺にも、島から離れる時が来るのだろうか。
テオのように、親しかった人を想って泣く日が来るのだろうか。
ポケットから箱を出して、煙草を咥える。手の中に点る弱い炎。
ライターの火は指を離すと消えちまう。
煙草を吹かす。ふわりと舞う紫煙。
椅子がまたギイと鳴った。
fin
俺んちに着くなり、絶賛の嵐。なんか今年は物凄い褒められてる。
家主に断ることなく、生徒代表は豪快に窓を開けた。
「波音を子守唄に眠るのだね。ああ、毎日が船旅のようだ…」
右を見ても左を見ても、感動の溜め息を上げているのが今年度の総帥テオ。
ハイテンションなまま家中を全部見て回った。
この前「俺んち来てみる?」と誘ったところ「是非!」と即答。
近年稀に見る友好的な生徒代表だ。
最近なんとなく作れるようになったパスタを一口食べるとまた絶賛。
「アイヴィー! 君はパスタの店を開いた方が良いんじゃないかい!?」
「そこまで大袈裟なもんじゃねえって」
「店の名前はどうしようか。んー。そうだねえ…」
「店開く前提で話進めてるし」
「あっ! 『アイヴィーのマンマパスタ』はどうだろう!?」
「決めなくて良いって。てゆうか、俺、マンマじゃねえし」
「いやいや、これは母の愛というものだよ、アイヴィー。
ワイルドな中にも深い愛情を感じたよ。
ああ、今、私の胸はアイヴィーの愛で満たされている!」
パスタを食べ終わった後も、テオの感動は治まらず、はしゃいでいた。
テオの明るい笑顔を見れば見るほど、アイヴィーの心は曇った。
今日のテーブルには、アルコールは乗っていない。俺は今日の本題を切り出した。
「お前さんさ、最近元気なくない?」
「そう、見えるかい…」
「いや、なんつーか、やけにハイな時もあんだけどさ、
時々、生徒代表室でぼーっとしてっから。気になってたんだ」
それまで喋り通しだったテオが言葉を返さない。
俺は立ち上がって、デスクに向かう。
「でさ、お前宛の預かり物してるんだ。今日はそれを渡したかったんだよね」
「私、に?」
「ああ。一年前からな」
PCの傍に立て掛けていた封筒を手に取る。
テオの前に差し出した。
「ほい。誰からだと思う?」
シンプルな白い封筒。表には『テオへ』と書いてある。
自分の名前を見て、テオの声が微かに震えた。
「この、字は…」
「ありゃ。字見ただけで解っちゃった?」
「解るとも。これほど凛々しく、生真面目な文字を書くのは彼だけだ」
ぽたり、とカードに水滴が落ちた。
テオは目許を隠すように額を抑え、儚く笑った。
「すまない…私…」
堰き止められていた感情が、あっけなく崩れていく。
たった一枚のバースデーカードを引き金に。
中には直筆で『誕生日おめでとう テオ』とだけ綴られていた。
他の言葉は迷った挙句に書けなかったのかもしれない。
クラウスはそんなに器用じゃない。
ガミガミ煩い奴なのに、皆に慕われた存在だった。
中でもテオにとってクラウスは、自他共に認める一番の友人だった。
「テオ。お兄さんの胸で良ければ、空いてるぜ?」
誰よりも明るい生徒代表だと思っていたが。
俺のワイシャツを濡らしたのは、テオが初めてだった。
テオが泣き疲れて眠った後、俺は固定電話の前に座る。
受話器を取って、短縮ボタンを押した。
5年のお付き合いになる同僚に繋がる。
塞がっていない手でラジオのボリュームを少し下げた。
「寝てた? …だろうと思ったからご一報。
…ん…あんたの予想通り。泣かせちゃった…学院では我慢してたんだな」
クラウスの卒業によりテオが酷く落ち込んでいるらしい、
そうカウンセラーに聞かされ、一年前の預かり物を思い出した。
「俺は渡せないから」と不器用に渡されたカード。
それから一年経て、カードは涙で濡れた。
マージナルプリンスどもが学院で過ごせる時間には限りがある。
親しくなれば別れは辛い。当たり前のことだ。
椅子に凭れるとギイと鳴いた。
「…ああ。これで少しは元気になるといいけどな…解ってるって。
生徒代表のサポート全般が、俺達の役目だもんな?
じゃー、詳しいことはまた今度ゆっくり。おやすみ、ソクちゃん」
受話器を置く。ラジオの音量を上げる気になれなかった。
窓の外には暗い海原。何処までが海で、空なのか解らない。
テオが手放しで褒めたこの家は貰い物。
島を出て行った老人から譲り受けた、忘れ形見だ。
俺にも、島から離れる時が来るのだろうか。
テオのように、親しかった人を想って泣く日が来るのだろうか。
ポケットから箱を出して、煙草を咥える。手の中に点る弱い炎。
ライターの火は指を離すと消えちまう。
煙草を吹かす。ふわりと舞う紫煙。
椅子がまたギイと鳴った。
fin
■警備責任者と生徒代表クラウス
「なんだ、この猥雑な街並みは」
夜の繁華街を歩きながら、生真面目な生徒代表は眉を顰めた。
周囲の騒音に負けないよう、アイヴィーは少し大きな声で話した。
「あー、お気に召さなかった? ま、これも社会勉強ってヤツだって♪」
クラウスの歩くペースは他の生徒より速かった。
周囲を歩く島民をもう何人も追い越している。
「アイヴィーはよく来るのか、こういうところに」
「ああ。フツーに飲みに来るけど?」
眉間の皺をひとつ増やしてしまった。
「あ。あれ? 俺の株、今、スゴイ下がった?」
「いや…アイヴィーは生徒ではないし、俺がどうこう言うことではないな」
クラウスとデートができたのは、次の生徒代表が噂され始めた頃。
今度一緒にお食事でも、とお誘いしたら嫌そうな顔はされたものの、
何度か口説いて、最終的には「待ち合わせには絶対に遅れるなよ」とOKしてくれた。
軍人のエリートコースが約束された子息。
入学した頃から何処か達観した目をしてた。
軍でもよく見掛けた。『いつ戦場で果てても悔いは無い』という目だ。
また、校則に対して非常に厳しい。
あってないような規則すらも馬鹿正直に守っている。
赤ん坊の頃から夜泣きもせず早寝早起きだったんだろうかと思うほどだ。
クラウスでも許せそうな落ち着いた店で食事しようかと思っていたのだが、
敢えて、俺がよく行くようなフツーの店に行った。
店員に陽気な声で迎えられる。クラウスは怪訝な顔をしていた。
出て来た料理は残さず綺麗に食べた。
クラウスが選んだのはシェパーズパイ。
円いグラタン皿には真っ白なマッシュポテト。飾りのパセリ。
ポテトの下は、トマトソースで煮込んだラム挽き肉。
パイ生地を使わないパイだ。甘くもない。
かつて羊飼いが食べていたから、この名が付いた。
そうクラウスは言っていた。家で食べたことがあるらしい。
完食後、大して汚れてもいない口許を拭う。
アイスコーヒーを少し飲んでから、俺に尋ねてきた。
「アイヴィーは毎年こうやって生徒代表と遊ぶのか?」
「遊んでくれる奴とはな」
「そう、か」
遊んでくれない奴も居た。
だが、ジブリールは、淡々と着実に任務をこなし、
ヤンと同等に学院の平和を守ろうとしていた。
俺のことも嫌いじゃないって言ってくれてたし。
「なあ、アイヴィー」
向こうの方で店員が他の客と話している。馴染み客らしい。
クラウスの声がちょっと聞き取り難い。
俺は少し顔を近付ける。
「どした?」
普段は真正面から人を見るくせに。
目を合わせないまま言った。
「ひとつ、頼めるか」
fin
夜の繁華街を歩きながら、生真面目な生徒代表は眉を顰めた。
周囲の騒音に負けないよう、アイヴィーは少し大きな声で話した。
「あー、お気に召さなかった? ま、これも社会勉強ってヤツだって♪」
クラウスの歩くペースは他の生徒より速かった。
周囲を歩く島民をもう何人も追い越している。
「アイヴィーはよく来るのか、こういうところに」
「ああ。フツーに飲みに来るけど?」
眉間の皺をひとつ増やしてしまった。
「あ。あれ? 俺の株、今、スゴイ下がった?」
「いや…アイヴィーは生徒ではないし、俺がどうこう言うことではないな」
クラウスとデートができたのは、次の生徒代表が噂され始めた頃。
今度一緒にお食事でも、とお誘いしたら嫌そうな顔はされたものの、
何度か口説いて、最終的には「待ち合わせには絶対に遅れるなよ」とOKしてくれた。
軍人のエリートコースが約束された子息。
入学した頃から何処か達観した目をしてた。
軍でもよく見掛けた。『いつ戦場で果てても悔いは無い』という目だ。
また、校則に対して非常に厳しい。
あってないような規則すらも馬鹿正直に守っている。
赤ん坊の頃から夜泣きもせず早寝早起きだったんだろうかと思うほどだ。
クラウスでも許せそうな落ち着いた店で食事しようかと思っていたのだが、
敢えて、俺がよく行くようなフツーの店に行った。
店員に陽気な声で迎えられる。クラウスは怪訝な顔をしていた。
出て来た料理は残さず綺麗に食べた。
クラウスが選んだのはシェパーズパイ。
円いグラタン皿には真っ白なマッシュポテト。飾りのパセリ。
ポテトの下は、トマトソースで煮込んだラム挽き肉。
パイ生地を使わないパイだ。甘くもない。
かつて羊飼いが食べていたから、この名が付いた。
そうクラウスは言っていた。家で食べたことがあるらしい。
完食後、大して汚れてもいない口許を拭う。
アイスコーヒーを少し飲んでから、俺に尋ねてきた。
「アイヴィーは毎年こうやって生徒代表と遊ぶのか?」
「遊んでくれる奴とはな」
「そう、か」
遊んでくれない奴も居た。
だが、ジブリールは、淡々と着実に任務をこなし、
ヤンと同等に学院の平和を守ろうとしていた。
俺のことも嫌いじゃないって言ってくれてたし。
「なあ、アイヴィー」
向こうの方で店員が他の客と話している。馴染み客らしい。
クラウスの声がちょっと聞き取り難い。
俺は少し顔を近付ける。
「どした?」
普段は真正面から人を見るくせに。
目を合わせないまま言った。
「ひとつ、頼めるか」
fin
■警備責任者と生徒代表ジブリール
「んじゃー、そんなかんじで。今日もサクサク終わったなー」
アイヴィーは生徒代表とネットミーティングをしていた。
生徒代表室のPCの前に居るのが、今年の総帥ジブリール。
砂漠の第三王子は、黒髪で目付きがちょっとコワイ。
アイヴィーは自宅のPC越しに生徒代表と話していた。
本当は生徒代表室まで出向く予定だったのだが、
ちょっと今日は朝寝坊した。だけどミーティングに支障はない。
便利な世の中になったもんだ、とこの頃よく感じる。
俺も年寄り染みたことを思う年代になったらしい。
ジブリールとの会議はいつもあっというまに終わる。
全くと言って良いほど無駄話に構ってくれない生徒代表だからだ。
ほら、もうモニターのスイッチ切ろうとしてる。
「じゃあな」
「あっ、あのさ! 今度、俺と夜の街に遊びに行かない?」
生徒代表は睨んでいるつもりはないのだろうが、
猛禽類の鋭い眼差しでこちらを見つめている。
警備責任者はコーヒーを一口すすって、台詞を変えてみる。
「あー、じゃ、昼の街でもイイんだけど? ダメ?」
「…必要性が感じられないが」
「ジブリールと遊んだことないからさ。お仕事じゃない話とかたまにはしたいじゃん?」
「何故、お前と任務以外の話をする必要が?」
「えっと…ジブリールって、俺のことキライだった?」
「そうは思っていない」
「じゃ、俺のことスキ?」
「そうは思っていない」
「だよね…」
スキって言われたらビックリするんだけどさ。
つっけんどんな遣り取りは今に始まったことではない。
出会った時から一貫してツンツンだった。
昨年度の生徒代表ヤンに、
「アルファルド寮の皆は人と仲良くするのちょっと苦手なんだよ。
でも相手が嫌いってわけじゃないし、悪気もないから」
と教えて貰っていたので、そういうもんなんだろうと思えた。
だけど、このままだとただ業務の話だけで一年終わってしまう。
もう少し食い下がってみた。
「ヤンも去年うちに来たんだ。お前さんも遊びに来ない?」
「あいつが…」
ヤンの名前を出した時、ジブリールの反応が今までと少し違った。
ヤンはシュヌーシア寮だったから、二人は別々の寮で暮らしていた。
仲良さそうな場面もあまり見たことがなかったが。
「あれ。お前さん、ヤンと仲良しだったの?」
生徒代表はPCの前から立ち上がる。
「仲の良い奴など居ない。そろそろ食事の時間だ。失礼する」
「あ、ちょ、ちょっと、ジブリール!」
「通信終了」
画面が消える。
スイッチを切られました。お話できません。
その後も何度か誘ってみましたが、結局ジブリールとはうちに連れ込むどころか、
二人でお食事もできませんでした。
ヤンは普通にうちまで来てくれたのに。
同じ肩書きでも二人のカラーは全然違う。理事会は何を基準に選出してるんだか。
生徒代表とのお付き合いは、一筋縄では行かないらしい。
消された画面を見ながら、コーヒーをもう一口飲む。
「来年はどんな男かなー」
インスタントコーヒーだが、俺には充分美味い。
これはこれで、味気無い味、ってもんがある。
「ツレナイ男も、嫌いじゃないんだよな」
PCの近くには固定電話。
カップを置いて、受話器に手を伸ばした。
fin
アイヴィーは生徒代表とネットミーティングをしていた。
生徒代表室のPCの前に居るのが、今年の総帥ジブリール。
砂漠の第三王子は、黒髪で目付きがちょっとコワイ。
アイヴィーは自宅のPC越しに生徒代表と話していた。
本当は生徒代表室まで出向く予定だったのだが、
ちょっと今日は朝寝坊した。だけどミーティングに支障はない。
便利な世の中になったもんだ、とこの頃よく感じる。
俺も年寄り染みたことを思う年代になったらしい。
ジブリールとの会議はいつもあっというまに終わる。
全くと言って良いほど無駄話に構ってくれない生徒代表だからだ。
ほら、もうモニターのスイッチ切ろうとしてる。
「じゃあな」
「あっ、あのさ! 今度、俺と夜の街に遊びに行かない?」
生徒代表は睨んでいるつもりはないのだろうが、
猛禽類の鋭い眼差しでこちらを見つめている。
警備責任者はコーヒーを一口すすって、台詞を変えてみる。
「あー、じゃ、昼の街でもイイんだけど? ダメ?」
「…必要性が感じられないが」
「ジブリールと遊んだことないからさ。お仕事じゃない話とかたまにはしたいじゃん?」
「何故、お前と任務以外の話をする必要が?」
「えっと…ジブリールって、俺のことキライだった?」
「そうは思っていない」
「じゃ、俺のことスキ?」
「そうは思っていない」
「だよね…」
スキって言われたらビックリするんだけどさ。
つっけんどんな遣り取りは今に始まったことではない。
出会った時から一貫してツンツンだった。
昨年度の生徒代表ヤンに、
「アルファルド寮の皆は人と仲良くするのちょっと苦手なんだよ。
でも相手が嫌いってわけじゃないし、悪気もないから」
と教えて貰っていたので、そういうもんなんだろうと思えた。
だけど、このままだとただ業務の話だけで一年終わってしまう。
もう少し食い下がってみた。
「ヤンも去年うちに来たんだ。お前さんも遊びに来ない?」
「あいつが…」
ヤンの名前を出した時、ジブリールの反応が今までと少し違った。
ヤンはシュヌーシア寮だったから、二人は別々の寮で暮らしていた。
仲良さそうな場面もあまり見たことがなかったが。
「あれ。お前さん、ヤンと仲良しだったの?」
生徒代表はPCの前から立ち上がる。
「仲の良い奴など居ない。そろそろ食事の時間だ。失礼する」
「あ、ちょ、ちょっと、ジブリール!」
「通信終了」
画面が消える。
スイッチを切られました。お話できません。
その後も何度か誘ってみましたが、結局ジブリールとはうちに連れ込むどころか、
二人でお食事もできませんでした。
ヤンは普通にうちまで来てくれたのに。
同じ肩書きでも二人のカラーは全然違う。理事会は何を基準に選出してるんだか。
生徒代表とのお付き合いは、一筋縄では行かないらしい。
消された画面を見ながら、コーヒーをもう一口飲む。
「来年はどんな男かなー」
インスタントコーヒーだが、俺には充分美味い。
これはこれで、味気無い味、ってもんがある。
「ツレナイ男も、嫌いじゃないんだよな」
PCの近くには固定電話。
カップを置いて、受話器に手を伸ばした。
fin
■警備責任者と生徒代表ヤン
■重め
■重め
「アイヴィーの家って、こんなとこにあったんだね」
俺んちに初めて来た生徒代表は眼鏡を直し、窓の傍に座る。
アルコールに慣れない頬は素直に紅潮していて微笑ましい。
ヤンは目の前に広がる景色に暫く見入っていた。
夜の海、砂浜、遠くには追憶の塔。
窓辺に腕を乗せ、その上に顎を置く。
「海の匂いがする…」
家主のアイヴィーは缶ビールに口付けながら、
その猫背と灰色の髪を眺めていた。
生徒代表と警備責任者として、一年ほど共に過ごして来た。
一回り以上年下の奴が、俺の上官、いや、この島のトップだった。
ヤン・ハシェク。聖アルフォンソ学院の最高学年。
18歳、という割りにはかなり老けて見える。言動も変わっていた。
数学に於ける知識は学者並、保健医が行った知能検査の成績もすば抜けていたそうだ。
制服のジャケットは重いから、
という理由で紺のカーディガンをだらしなく着こなしている。
保健医曰く、ぼうっとした見目だが、洞察力には目を見張るものがある、らしい。
かと思えば、どうもよく転ぶらしく、絆創膏を付けている姿も見掛けていた。
アイヴィーにとって、初めての生徒代表がヤンだった。
当時、学院について紙面上でしか知らなかった俺に、
ヤンは「僕が学院案内をします」と言い出した。
「この島の一年生に学院を案内するのは生徒代表の仕事だから」と。
たった半日、ヤンの華奢な背に付いて行っただけで、
それまで抱えていた疑問が大方解消した。
アイヴィーが尋ねる前に、ヤンは過不足無く説明した。
ヤンの卒業まで一週間を残すのみとなり、自宅に招いた。
その頃はまだ料理なんてできなかったから、
確かピザを一枚頼んで二人で食べたんだと思う。
「僕も飲んでみたいな」とねだられた缶ビールで乾杯し、
ささやかな卒業パーティとなった。
ヤンは少食なのか、2ピースで「おなかいっぱい」になったそうだ。
アルコールが入った生徒代表は、呂律があまり回らないらしく、
時々つっかえながら、ゆっくりと話していた。
話のネタは学院のあらゆる物の個数について、だったような気がする。
どうやら自分で数えたらしい。面白い奴だ。
ラジオは眠たげなBGMを提供している。
ヤンと仕事以外の話がのんびりできた。
家に呼んで良かったと俺は思った。明日、学院は休日だ。
今日はうちに泊めて、明日の朝ちょっと遅めに起きてから、
学院まで車で送っていこう、そんなことを考えていた時だった。
ヤンは海を見ながら、窓辺にぺたりと座っている。
何の脈絡無く、こう言い出した。
「ねえ。アイヴィーってさ」
「ん?」
「今年初めて島に来たんだよね?」
「ああ。そうだけど?」
「この島が、アイヴィーの傷も治してくれるよ、きっと」
テーブルには冷めちまったピザが残ってた。
食べたらきっと不味いだろう。
「傷って…」
「そういう目、してる。本当は僕、初めて見た時から思ってたんだ」
「何、言ってんだよ」
流れていたラジオがふっと止まった。
窓の外を見ていた生徒代表が、こちらを振り返る。
「だって、アイヴィーも、『訳あり』なんでしょう?」
DJの小慣れた声が再び聞こえてくる。
次の曲名紹介。そのバックから小さく曲が流れ始める。
静寂は一瞬だったのに、随分長く感じた。
運が悪ければ缶ビールを取り落としていたかもしれない。
俺の様子を見た生徒代表は申し訳なさそうに背を丸めた。
頬はほんのりと色付き、自分の言葉に驚いたようだった。
「ごめん…余計なこと言っちゃったね…僕、酔ってるのかな…」
「いや、お前がそんな顔することじゃねえよ」
口ではそう言いながら、目は合わせられなかったと思う。
だからヤンは、ごめんね、ともう一度謝って腰を上げたのだろう。
「僕、そろそろ寝るよ」
お客さんだから、とヤンには寝室のベッドを使わせた。
その理由は半分以上、嘘。一人で海を見る時間が必要だった。
意外と言うか当然と言うか。俺は過去に縛られているらしい。
あの傷はまだ癒えていないのだと、思い知らされた。
灰色の瞳。そのぼんやりした色とは裏腹に。保健医が認めるほどの洞察力を持つ。
俺より俺のことをヤンは察していたのだろうか。
ヤンには気まずい思いをさせちまった。
何を言われても笑い飛ばせるくらい、俺が大人だったら良かったんだけど。
孤島に流れ着いて一年目の俺には、そこまでの余裕がなかった。
この後、電話を一本入れようかと思っていたのだが、
明日にした方が良さそうだ。
窓の向こうから潮風が流れて来る。
海は真っ暗で、その時の気分には合っていた。
冷蔵庫からもう一缶、ビールを持ってくる。
虚しい音がして、蓋が開いた。
fin
俺んちに初めて来た生徒代表は眼鏡を直し、窓の傍に座る。
アルコールに慣れない頬は素直に紅潮していて微笑ましい。
ヤンは目の前に広がる景色に暫く見入っていた。
夜の海、砂浜、遠くには追憶の塔。
窓辺に腕を乗せ、その上に顎を置く。
「海の匂いがする…」
家主のアイヴィーは缶ビールに口付けながら、
その猫背と灰色の髪を眺めていた。
生徒代表と警備責任者として、一年ほど共に過ごして来た。
一回り以上年下の奴が、俺の上官、いや、この島のトップだった。
ヤン・ハシェク。聖アルフォンソ学院の最高学年。
18歳、という割りにはかなり老けて見える。言動も変わっていた。
数学に於ける知識は学者並、保健医が行った知能検査の成績もすば抜けていたそうだ。
制服のジャケットは重いから、
という理由で紺のカーディガンをだらしなく着こなしている。
保健医曰く、ぼうっとした見目だが、洞察力には目を見張るものがある、らしい。
かと思えば、どうもよく転ぶらしく、絆創膏を付けている姿も見掛けていた。
アイヴィーにとって、初めての生徒代表がヤンだった。
当時、学院について紙面上でしか知らなかった俺に、
ヤンは「僕が学院案内をします」と言い出した。
「この島の一年生に学院を案内するのは生徒代表の仕事だから」と。
たった半日、ヤンの華奢な背に付いて行っただけで、
それまで抱えていた疑問が大方解消した。
アイヴィーが尋ねる前に、ヤンは過不足無く説明した。
ヤンの卒業まで一週間を残すのみとなり、自宅に招いた。
その頃はまだ料理なんてできなかったから、
確かピザを一枚頼んで二人で食べたんだと思う。
「僕も飲んでみたいな」とねだられた缶ビールで乾杯し、
ささやかな卒業パーティとなった。
ヤンは少食なのか、2ピースで「おなかいっぱい」になったそうだ。
アルコールが入った生徒代表は、呂律があまり回らないらしく、
時々つっかえながら、ゆっくりと話していた。
話のネタは学院のあらゆる物の個数について、だったような気がする。
どうやら自分で数えたらしい。面白い奴だ。
ラジオは眠たげなBGMを提供している。
ヤンと仕事以外の話がのんびりできた。
家に呼んで良かったと俺は思った。明日、学院は休日だ。
今日はうちに泊めて、明日の朝ちょっと遅めに起きてから、
学院まで車で送っていこう、そんなことを考えていた時だった。
ヤンは海を見ながら、窓辺にぺたりと座っている。
何の脈絡無く、こう言い出した。
「ねえ。アイヴィーってさ」
「ん?」
「今年初めて島に来たんだよね?」
「ああ。そうだけど?」
「この島が、アイヴィーの傷も治してくれるよ、きっと」
テーブルには冷めちまったピザが残ってた。
食べたらきっと不味いだろう。
「傷って…」
「そういう目、してる。本当は僕、初めて見た時から思ってたんだ」
「何、言ってんだよ」
流れていたラジオがふっと止まった。
窓の外を見ていた生徒代表が、こちらを振り返る。
「だって、アイヴィーも、『訳あり』なんでしょう?」
DJの小慣れた声が再び聞こえてくる。
次の曲名紹介。そのバックから小さく曲が流れ始める。
静寂は一瞬だったのに、随分長く感じた。
運が悪ければ缶ビールを取り落としていたかもしれない。
俺の様子を見た生徒代表は申し訳なさそうに背を丸めた。
頬はほんのりと色付き、自分の言葉に驚いたようだった。
「ごめん…余計なこと言っちゃったね…僕、酔ってるのかな…」
「いや、お前がそんな顔することじゃねえよ」
口ではそう言いながら、目は合わせられなかったと思う。
だからヤンは、ごめんね、ともう一度謝って腰を上げたのだろう。
「僕、そろそろ寝るよ」
お客さんだから、とヤンには寝室のベッドを使わせた。
その理由は半分以上、嘘。一人で海を見る時間が必要だった。
意外と言うか当然と言うか。俺は過去に縛られているらしい。
あの傷はまだ癒えていないのだと、思い知らされた。
灰色の瞳。そのぼんやりした色とは裏腹に。保健医が認めるほどの洞察力を持つ。
俺より俺のことをヤンは察していたのだろうか。
ヤンには気まずい思いをさせちまった。
何を言われても笑い飛ばせるくらい、俺が大人だったら良かったんだけど。
孤島に流れ着いて一年目の俺には、そこまでの余裕がなかった。
この後、電話を一本入れようかと思っていたのだが、
明日にした方が良さそうだ。
窓の向こうから潮風が流れて来る。
海は真っ暗で、その時の気分には合っていた。
冷蔵庫からもう一缶、ビールを持ってくる。
虚しい音がして、蓋が開いた。
fin
■オーギュスト×アンリ
「教科書では42ページになるかな。今日から新しい章だね」
神秘学の講義が始まった。
受講生のアンリは万年筆を持ちながら、話し手を眺めている。
教壇に居るのはオーギュスト・ボージェ教授。神秘学の権威だ。
スーツとベストはダージリン色。
首許にはクロスタイ。中央のピンはグレイ。初めて見るものだ。
「第4章では呪術について勉強しよう。
『呪術』という言葉を聞いて、諸君は何を想像するだろう?」
チョークで『Magic』と綴る。
黒板の左端に立ち、生徒達に向き直った。
「魔女が大きな鍋にサソリやカエルを入れて掻き回す姿を思い出すかね?
魔法や呪い、宗教的儀式など、如何にもオカルティズムなイメージが強いかな」
アンリは自分の唇を万年筆で撫でていた。
頭の中では以前読んだことのある、黒ミサの方法や、魔法円などが展開していた。
特別講師は教壇から降りる。カタン、と靴が鳴る。
「だが、現代にも呪術は残っている。諸君のすぐ傍に潜んでいるよ」
話しながら、教室の窓際をゆっくり歩く。アンリは目で追うのを止めた。
彼の練れた声が教室の後方から聞こえてくる。
「言葉の定義としては、『何らかの目的を達する行為』だ。
場合によっては、超自然的な力を借りてね?
これから4回に渡って学んでいこう。 初回の今日は親しみ易い呪術から」
第二化学室に響くのは講師の声のみ。
彼が黙ると水を打ったように静まり返った。
「それは迷信やジンクスだ。世界的に有名なのは、
『13日の金曜日は縁起が悪い』かな。
科学的根拠はないが皆が信じていることも呪術の範疇なんだ。
不幸を避ける為、また、縁起を担ぐ為の行動だからね。
諸君には少々物足りない話だったかい?」
後ろから聞こえてくる声だけで、彼が微笑んだことが解った。
「けれども、国単位の人間を対象とした大規模な催眠術とも考えられないだろうか」
アンリの万年筆が頬に2、3度触れる。
オーギュストの声が前方に戻ってくる。
「『13日の金曜日は不幸である』という呪いに皆が掛かったままなんだ。
数百年の時を越え、科学が発達して尚、先人が残した言霊が現代人を束縛している。
これもまた神秘的で、恐ろしいことだと私などは思うのだがね」
窓側の中央で立ち止まった。彼の背景には空と雲。
午後の青は柔らかい。もうすぐ朱色が混ざるだろう。
「諸君の祖国では、どんな呪いが、人々の思考と行動を操っていたかな?」
アンリは、先月、商談で外出した際、ある人間に言われたことを思い出した。
不思議に思ったので後で調べてみようかと思ったまま、今まで忘れていた。
「何か思いついたかね? アンリ」
まるで心を読んだようなタイミングで名前を呼ばれた。
何故僕を当てるの、と視線で彼に問うと、穏やかな微笑を見せられた。
琥珀の瞳は少し不機嫌になる。
「祖国ではないけれど?」
「もちろん、構わないよ」
暑苦しい顔は記憶から除外し、台詞だけを再生する。
「イタリアに行った時、花の本数は必ず奇数だとか、
ベッドの上に帽子を置くなって言われたんだけど、これも迷信なの?」
「うん。イタリアでは、偶数の花は死者に手向けるものだからね」
講師はアンリが言った2つの迷信を、箇条書きで黒板にメモしつつ、
迷信の由来について解説した。
「ベッドの上に帽子、というのは、かつて、
カトリックの司祭が亡くなった患者へ祈りを捧げる時に、
帽子をベッドの上に置いていたから、という説があるね」
講師は他の生徒にも同じように尋ね、黒板に書き出していく。
同じようにノートに書き写す生徒も居たが、アンリは書かなかった。
黒板には世界の迷信が勢揃いした。
こうして並べてみると、どれも不幸を呼ぶというには根拠が薄弱なものばかりだ。
生徒が挙げた迷信の全てについて、講師は補足説明や由来解説をしていた。
次に、何故皆は信じ続けているのか、迷信の存在意義は何か、などの、
正答のない質問を生徒達に答えさせた。
名を呼ばれた生徒は全員、物静かながらも何かしらの意見を発表していた。
当てられて発言できない生徒は居なかった。
もしかしたら、講師が生徒ひとりひとりの僅かな仕草や表情を読み取って、
意見を持った生徒を的確に当てているのかもしれなかった。
講師は黒板いっぱいの迷信を眺めている。
「興味深い迷信が集まったね。紹介してくれた諸君、ありがとう。
世界各地、実に様々な迷信があるものだね。
これらも全て呪術なんだ。講義前よりは呪術を身近に感じてくれたかね?」
神秘学の教授は迷信を綴った板を上にスライドさせる。
「現代では他に心理的な呪術もある。例えば、偽薬効果」
下に降りたまっさらな板に『placebo』と綴る。
「その名の通り、偽物を薬だと信じ込ませることで目的を達することだ。
呪術者と信仰者の間に、ある程度の信頼関係があれば、
意外と上手くいくものだよ。やり方によっては、
人を元気をもたらし、また死に追いやることもできる」
講師は教壇から窓を眺める。
青と白だった四角は、朱に染ろうとしていた。
「時として、言葉は万能薬。また、毒薬にも為り得るからね」
淡い夕暮れ。
教室に夕陽が差し込む頃、この講義は終わる。
「次回の講義では、諸君の好きな呪術をひとつ選んで、皆に教えて貰えるかな?
黒魔術から現代の呪術と言えるものまで何でも構わないよ」
講義終了の鐘が鳴る。
時計を見ながら講義を進めているようには見えないのだが、
彼の講義は時間配分が悪くない。空の色で判断でもしているのだろうか。
「では今日はここまで。次回、楽しみにしているよ。
この頃、寒くなってきたから風邪など引かぬように」
生徒達が教室を出て行く。
アンリは使わなかった教科書を閉じて、ブックバンドを掛ける。
必要ないなら最初から今日は要らない、と言って欲しいものだ。
生徒の板書が終わったのを確認した後、彼はいつものように黒板を消し始めた。
アンリは今日の講義を思い返しながら講師の後ろ姿を見やる。
徐々に消えていくチョークの跡。
すっかり綺麗になるまでの十数秒。
今日はどうしようかと考えてしまう。
振り子時計の如く揺れるカフス。
教室からまた一人減っていく人影。
ダージリン色の背中。
君が振り向く前に、
席を立つか、立たないか。
いつも少し迷う。
fin
神秘学の講義が始まった。
受講生のアンリは万年筆を持ちながら、話し手を眺めている。
教壇に居るのはオーギュスト・ボージェ教授。神秘学の権威だ。
スーツとベストはダージリン色。
首許にはクロスタイ。中央のピンはグレイ。初めて見るものだ。
「第4章では呪術について勉強しよう。
『呪術』という言葉を聞いて、諸君は何を想像するだろう?」
チョークで『Magic』と綴る。
黒板の左端に立ち、生徒達に向き直った。
「魔女が大きな鍋にサソリやカエルを入れて掻き回す姿を思い出すかね?
魔法や呪い、宗教的儀式など、如何にもオカルティズムなイメージが強いかな」
アンリは自分の唇を万年筆で撫でていた。
頭の中では以前読んだことのある、黒ミサの方法や、魔法円などが展開していた。
特別講師は教壇から降りる。カタン、と靴が鳴る。
「だが、現代にも呪術は残っている。諸君のすぐ傍に潜んでいるよ」
話しながら、教室の窓際をゆっくり歩く。アンリは目で追うのを止めた。
彼の練れた声が教室の後方から聞こえてくる。
「言葉の定義としては、『何らかの目的を達する行為』だ。
場合によっては、超自然的な力を借りてね?
これから4回に渡って学んでいこう。 初回の今日は親しみ易い呪術から」
第二化学室に響くのは講師の声のみ。
彼が黙ると水を打ったように静まり返った。
「それは迷信やジンクスだ。世界的に有名なのは、
『13日の金曜日は縁起が悪い』かな。
科学的根拠はないが皆が信じていることも呪術の範疇なんだ。
不幸を避ける為、また、縁起を担ぐ為の行動だからね。
諸君には少々物足りない話だったかい?」
後ろから聞こえてくる声だけで、彼が微笑んだことが解った。
「けれども、国単位の人間を対象とした大規模な催眠術とも考えられないだろうか」
アンリの万年筆が頬に2、3度触れる。
オーギュストの声が前方に戻ってくる。
「『13日の金曜日は不幸である』という呪いに皆が掛かったままなんだ。
数百年の時を越え、科学が発達して尚、先人が残した言霊が現代人を束縛している。
これもまた神秘的で、恐ろしいことだと私などは思うのだがね」
窓側の中央で立ち止まった。彼の背景には空と雲。
午後の青は柔らかい。もうすぐ朱色が混ざるだろう。
「諸君の祖国では、どんな呪いが、人々の思考と行動を操っていたかな?」
アンリは、先月、商談で外出した際、ある人間に言われたことを思い出した。
不思議に思ったので後で調べてみようかと思ったまま、今まで忘れていた。
「何か思いついたかね? アンリ」
まるで心を読んだようなタイミングで名前を呼ばれた。
何故僕を当てるの、と視線で彼に問うと、穏やかな微笑を見せられた。
琥珀の瞳は少し不機嫌になる。
「祖国ではないけれど?」
「もちろん、構わないよ」
暑苦しい顔は記憶から除外し、台詞だけを再生する。
「イタリアに行った時、花の本数は必ず奇数だとか、
ベッドの上に帽子を置くなって言われたんだけど、これも迷信なの?」
「うん。イタリアでは、偶数の花は死者に手向けるものだからね」
講師はアンリが言った2つの迷信を、箇条書きで黒板にメモしつつ、
迷信の由来について解説した。
「ベッドの上に帽子、というのは、かつて、
カトリックの司祭が亡くなった患者へ祈りを捧げる時に、
帽子をベッドの上に置いていたから、という説があるね」
講師は他の生徒にも同じように尋ね、黒板に書き出していく。
同じようにノートに書き写す生徒も居たが、アンリは書かなかった。
黒板には世界の迷信が勢揃いした。
こうして並べてみると、どれも不幸を呼ぶというには根拠が薄弱なものばかりだ。
生徒が挙げた迷信の全てについて、講師は補足説明や由来解説をしていた。
次に、何故皆は信じ続けているのか、迷信の存在意義は何か、などの、
正答のない質問を生徒達に答えさせた。
名を呼ばれた生徒は全員、物静かながらも何かしらの意見を発表していた。
当てられて発言できない生徒は居なかった。
もしかしたら、講師が生徒ひとりひとりの僅かな仕草や表情を読み取って、
意見を持った生徒を的確に当てているのかもしれなかった。
講師は黒板いっぱいの迷信を眺めている。
「興味深い迷信が集まったね。紹介してくれた諸君、ありがとう。
世界各地、実に様々な迷信があるものだね。
これらも全て呪術なんだ。講義前よりは呪術を身近に感じてくれたかね?」
神秘学の教授は迷信を綴った板を上にスライドさせる。
「現代では他に心理的な呪術もある。例えば、偽薬効果」
下に降りたまっさらな板に『placebo』と綴る。
「その名の通り、偽物を薬だと信じ込ませることで目的を達することだ。
呪術者と信仰者の間に、ある程度の信頼関係があれば、
意外と上手くいくものだよ。やり方によっては、
人を元気をもたらし、また死に追いやることもできる」
講師は教壇から窓を眺める。
青と白だった四角は、朱に染ろうとしていた。
「時として、言葉は万能薬。また、毒薬にも為り得るからね」
淡い夕暮れ。
教室に夕陽が差し込む頃、この講義は終わる。
「次回の講義では、諸君の好きな呪術をひとつ選んで、皆に教えて貰えるかな?
黒魔術から現代の呪術と言えるものまで何でも構わないよ」
講義終了の鐘が鳴る。
時計を見ながら講義を進めているようには見えないのだが、
彼の講義は時間配分が悪くない。空の色で判断でもしているのだろうか。
「では今日はここまで。次回、楽しみにしているよ。
この頃、寒くなってきたから風邪など引かぬように」
生徒達が教室を出て行く。
アンリは使わなかった教科書を閉じて、ブックバンドを掛ける。
必要ないなら最初から今日は要らない、と言って欲しいものだ。
生徒の板書が終わったのを確認した後、彼はいつものように黒板を消し始めた。
アンリは今日の講義を思い返しながら講師の後ろ姿を見やる。
徐々に消えていくチョークの跡。
すっかり綺麗になるまでの十数秒。
今日はどうしようかと考えてしまう。
振り子時計の如く揺れるカフス。
教室からまた一人減っていく人影。
ダージリン色の背中。
君が振り向く前に、
席を立つか、立たないか。
いつも少し迷う。
fin
■博士×生徒代表テオ
「彼は『東洋の黒い真珠』です! これ以上の呼び方があるでしょうか!」
保健室では、テオが熱く演説していた。
アルフレッドの入学直後、新たに留学生が入った。
日本出身のハルヤ・コバヤシ。
ハルヤについて語るテオは、アルフレッドの時とは、
また別の感動を覚えているようだった。
保健医はカルテにテオが名付けたニックネームを書き留める。
「嬉しそうだね、テオ。ハルヤはそんなに気に入ったかい?」
「ええ。彼はミステリアスで美しい…まさに東洋の神秘ですよ」
「東洋の神秘?」
「私は初めて見ました、オリエンタルスマイルというものを。
ああ、あれほど儚くも魅惑的なものだったとは」
東洋人は話の途中で、意味不明に笑みを浮かべることがある。
可笑しい場所ではないのに、何故か笑うのだ。
それは西洋人には理解できないタイミングで行われるので、
気味悪がってしまうものだが、ギリシア出身のテオは感銘を受けたらしい。
「そう、あれはまるで、おぼろ月。薄絹を纏った仄かな光…」
テオは比喩表現を多用する癖が見受けられる子だった。
これを大袈裟と捉えたり、面白がって聞いている生徒も多いようだが。
本人はおそらく、美化しているつもりはないのだろう。
むしろ、自分の言葉では足りないと感じているくらいではないだろうか。
彼は感動の沸点がとても低い。
そんなことで、と周りが驚くような些細なことにも心を打たれる。
博士は「私もそのオリエンタルスマイルにお目に掛かりたいものだね」
と話を合わせたところ「博士にも是非にご覧頂きたい」と返って来た。
尚もハルヤを称える言葉が続く。
これほど手放しで他人を賞賛できるのは一種の才能だろう。
「ハルヤはアルフレッドとシルヴァンと一緒にバンドを組むことになりましたよ」
「その3人でバンドを?」
「ええ。彼等が揃って歌ってくれるなんて、夢のようだと思いませんか?
私は最前列で拝見したいですね。ライブには必ず呼んでくれるように頼みましたよ」
身振り手振りが大きく、少し紅潮した頬。
テオのお喋りは暫く止みそうになかった。
博士は、引き続き、聞き役に徹する。
興味深く聞いているよ、と表面上では演じながら、
カルテには必要なことを逃さず記述した。
ハルヤのカルテの下には、もうひとつのカルテが重なっている。
挟まれた写真には、入学当時の黄金の髪と小麦色の顔。
博士は手許と目の前の顔を見比べる。
シュヌーシア寮シェフの証言通りだ。
― テオ様は以前より食が細くなられたようで ―
やはり、頬が少し削れた。
時期は生徒代表に就任した前後から。
fin
保健室では、テオが熱く演説していた。
アルフレッドの入学直後、新たに留学生が入った。
日本出身のハルヤ・コバヤシ。
ハルヤについて語るテオは、アルフレッドの時とは、
また別の感動を覚えているようだった。
保健医はカルテにテオが名付けたニックネームを書き留める。
「嬉しそうだね、テオ。ハルヤはそんなに気に入ったかい?」
「ええ。彼はミステリアスで美しい…まさに東洋の神秘ですよ」
「東洋の神秘?」
「私は初めて見ました、オリエンタルスマイルというものを。
ああ、あれほど儚くも魅惑的なものだったとは」
東洋人は話の途中で、意味不明に笑みを浮かべることがある。
可笑しい場所ではないのに、何故か笑うのだ。
それは西洋人には理解できないタイミングで行われるので、
気味悪がってしまうものだが、ギリシア出身のテオは感銘を受けたらしい。
「そう、あれはまるで、おぼろ月。薄絹を纏った仄かな光…」
テオは比喩表現を多用する癖が見受けられる子だった。
これを大袈裟と捉えたり、面白がって聞いている生徒も多いようだが。
本人はおそらく、美化しているつもりはないのだろう。
むしろ、自分の言葉では足りないと感じているくらいではないだろうか。
彼は感動の沸点がとても低い。
そんなことで、と周りが驚くような些細なことにも心を打たれる。
博士は「私もそのオリエンタルスマイルにお目に掛かりたいものだね」
と話を合わせたところ「博士にも是非にご覧頂きたい」と返って来た。
尚もハルヤを称える言葉が続く。
これほど手放しで他人を賞賛できるのは一種の才能だろう。
「ハルヤはアルフレッドとシルヴァンと一緒にバンドを組むことになりましたよ」
「その3人でバンドを?」
「ええ。彼等が揃って歌ってくれるなんて、夢のようだと思いませんか?
私は最前列で拝見したいですね。ライブには必ず呼んでくれるように頼みましたよ」
身振り手振りが大きく、少し紅潮した頬。
テオのお喋りは暫く止みそうになかった。
博士は、引き続き、聞き役に徹する。
興味深く聞いているよ、と表面上では演じながら、
カルテには必要なことを逃さず記述した。
ハルヤのカルテの下には、もうひとつのカルテが重なっている。
挟まれた写真には、入学当時の黄金の髪と小麦色の顔。
博士は手許と目の前の顔を見比べる。
シュヌーシア寮シェフの証言通りだ。
― テオ様は以前より食が細くなられたようで ―
やはり、頬が少し削れた。
時期は生徒代表に就任した前後から。
fin
■博士×生徒代表テオ
「ハイビスカスのような男ですよ、アルフレッドは!」
今年度の生徒代表は太陽の笑顔を輝かせる。
二週間前に入学したばかりの生徒について、
まるで長年の友人のように自慢しているのがテオ・メネシス。
黄金の髪に小麦色の肌。保健室に響き渡っているのは主にテオの声。
博士は短く相槌を打つに止め、テオの喋るままに任せていた。
「私達、今度の休日、無人島に遊びに行くんです。
彼はサーフィンが趣味だと言うのでね、穴場を教えると約束しました」
「ほう。アルフレッドはサーフィンが趣味なんだね」
博士はカルテに視線を落とす。趣味の欄には『サーフィン』とある。
昨日のカウンセリングで本人もそう言っていた。テオは興奮気味に語る。
「ハリウッドスターの上に、海の男だったとは…実に素晴らしい。
彼とはこれから大いに楽しい遊びができそうですよ」
燦々と煌めく瞳を、博士は眼鏡の奥から伺っていた。
テオは海運王の家に生まれ、船は相棒だと言う。
この島に自前の船を三艘も持ってきた。そう警備責任者にも聞いている。
テオが自分と同じ海好きな男に巡り会えて、喜ぶのも無理はない。
「それは良かったね、テオ。学院案内で他に楽しかったことはあるかい?」
「ありますとも! 彼は島限定の番組を作ろうかと企画中です。
我々のスキャンダルをネタにするのも面白いだろう、と言って。
彼のエンターテナーなセンスには脱帽ですよ」
「ほう。スキャンダル、ね」
「私は必ずや、ヴィスコンティスタジオを彼の求めるものに改築しますよ!」
「君が改築するのかい?」
「もちろんです。私は生徒代表ですし、お安い御用ですよ」
生徒代表の任務は、生徒達の平和と安全を守ること、
ではあるが、出資までは範疇ではない。
アルフレッドはハリウッドスターであり、資金がない筈もないが。
それでもテオの資産力には敵わないのだろう。
ひとつのスタジオの改築など他愛無いと言える。
テオは大きな音を立てて、両手を合わせた。
「ああ、博士?」
「なんだい?」
「博士にも出演を依頼することになるかもしれませんよ?」
「先程の、番組のことかい?」
「ええ。アルフレッドは博士のことを、しきりに褒めていました。
タイトルの候補には『ソクーロフ博士の裸のカウンセリングルーム』
が上がっていますよ。なんて刺激的な男なのだろう、アルフレッドは!
やはり彼は天才ですよ。ね、博士、そう思うでしょう?」
fin
今年度の生徒代表は太陽の笑顔を輝かせる。
二週間前に入学したばかりの生徒について、
まるで長年の友人のように自慢しているのがテオ・メネシス。
黄金の髪に小麦色の肌。保健室に響き渡っているのは主にテオの声。
博士は短く相槌を打つに止め、テオの喋るままに任せていた。
「私達、今度の休日、無人島に遊びに行くんです。
彼はサーフィンが趣味だと言うのでね、穴場を教えると約束しました」
「ほう。アルフレッドはサーフィンが趣味なんだね」
博士はカルテに視線を落とす。趣味の欄には『サーフィン』とある。
昨日のカウンセリングで本人もそう言っていた。テオは興奮気味に語る。
「ハリウッドスターの上に、海の男だったとは…実に素晴らしい。
彼とはこれから大いに楽しい遊びができそうですよ」
燦々と煌めく瞳を、博士は眼鏡の奥から伺っていた。
テオは海運王の家に生まれ、船は相棒だと言う。
この島に自前の船を三艘も持ってきた。そう警備責任者にも聞いている。
テオが自分と同じ海好きな男に巡り会えて、喜ぶのも無理はない。
「それは良かったね、テオ。学院案内で他に楽しかったことはあるかい?」
「ありますとも! 彼は島限定の番組を作ろうかと企画中です。
我々のスキャンダルをネタにするのも面白いだろう、と言って。
彼のエンターテナーなセンスには脱帽ですよ」
「ほう。スキャンダル、ね」
「私は必ずや、ヴィスコンティスタジオを彼の求めるものに改築しますよ!」
「君が改築するのかい?」
「もちろんです。私は生徒代表ですし、お安い御用ですよ」
生徒代表の任務は、生徒達の平和と安全を守ること、
ではあるが、出資までは範疇ではない。
アルフレッドはハリウッドスターであり、資金がない筈もないが。
それでもテオの資産力には敵わないのだろう。
ひとつのスタジオの改築など他愛無いと言える。
テオは大きな音を立てて、両手を合わせた。
「ああ、博士?」
「なんだい?」
「博士にも出演を依頼することになるかもしれませんよ?」
「先程の、番組のことかい?」
「ええ。アルフレッドは博士のことを、しきりに褒めていました。
タイトルの候補には『ソクーロフ博士の裸のカウンセリングルーム』
が上がっていますよ。なんて刺激的な男なのだろう、アルフレッドは!
やはり彼は天才ですよ。ね、博士、そう思うでしょう?」
fin
■博士×生徒代表クラウス
「クラウス・フォン・モール、入ります」
軍人の家系に生まれた、少々神経質な生徒代表は、
約束の時間よりきっかり10分早く、保健室に訪れた。
鍛え抜かれた肢体はいつ見ても美しく、
きびきびとした歩き方は軍事訓練でも見ているかのようだ。
「やあ、クラウス。来てくれてありがとう」
「いえ。任務ですから」
保健医が謝辞を述べると、予測通りの生真面目な回答があった。
軍は完全なる縦社会。目上の者には服従する姿勢が刷り込まれているのだろう。
立場上は生徒代表であるクラウスの方が上なのだが、年上を重んじる律儀さも彼らしい。
こちらが席を勧めるまで起立したままだった。
「クラウス、其処へ掛けてくれるかい?」
「はい。失礼します」
椅子に座っても背筋が良い。
彼の膝には畏まった拳が置かれている。
まるでこれから集合写真でも撮るかのようだ。
「早速、新入生の印象を聞かせて貰おうかな」
「はい。学院案内の様子をレポートにまとめてきました」
ファイルを渡される。中のレポート用紙には几帳面な文字。
紙面で報告してきた生徒代表は初めてだったので、少々面食らう。
「…ありがとう、クラウス。用意が良いね」
「当然のことですから」
「今、読ませて貰っても構わないかな?」
「もちろんです」
博士はクラウスに背を向けた。レポートに素早く目を通す。
新入生の名は、シルヴァン・クラーク。17歳で高等部に編入。
学院案内の朝から翌日まで細かく記されていた。
初日から夜遊びした後、警備責任者の自宅に外泊したらしい。
レポートを読んだ後は鏡越しにクラウスの様子を伺っていた。
視線は上を向いている。何か考え事をしているらしい。
クラウスに向き直り、礼を述べる。
「素晴らしいレポートだね。これは私が頂いても良いかい?」
「はい」
「ありがとう。では次に、クラウスの率直な感想を聞こうか。
シルヴァンについて君はどんなことを思ったかな?」
「率直な…ですか」
はきはき喋る彼は急に歯切れが悪くなった。視線も泳いでいる。
「何から話して良いか解らないようだね?」
「ええ。レポートにも書きましたが、今度の新入りは、
その、縦横無尽というか、かなり奔放な奴で…」
規律的なクラウスとは真逆の性質だったと言いたいのだろう。
だが、必死に言葉を選んでいる。
後輩の評価を下げる発言は避けたいということか。
この子は後に、部下思いの良い上官になるだろう。
「すまない。私の聞き方が悪かったね。質問を変えよう。
クラウスは、シルヴァンのように振る舞えるかい?」
どんな感想を持ったか、という自由回答から、二択の質問へ変える。
回答はイエスかノーにすることで、答え易くなる。
クラウスは僅かに笑って、首を横に振った。
「いいえ。俺には不可能です」
「だろうね。どちらが良い悪いという話ではないよ。
これは個性というものだからね?」
「ええ。全く、この学院に来てから、
こんなにも人間は性格がバラバラなのかと、いつも驚かされます」
軍は個性を尊重しない。集団生活を送る、どの環境よりも特殊だと言える。
優先されるべきは統率。
皆が同じ目標を見据え、同じ行動を取らなくては、軍が動かないからだ。
彼の目には、学院の生徒達が天真爛漫に映って仕方がないのだろう。
「ではクラウスにとって、一番珍しい性格だったのは、シルヴァンかい?」
「シルヴァンにも振り回されましたが、一番、となると違いますね」
そこで、生徒代表はふっと微笑んだ。
たった数年前までは見せなかった表情だ。
「あいつは、俺だけではなく、シュヌーシアも…いえ、学院全体をも巻き込みますから」
随分柔らかく笑えるようになったものだ。
入学したばかりの頃は、喜怒哀楽を上手く表現できない子だった。
感情的な面が酷く抑圧され、機械的な受け答えしかできなかった。
ここでの寮生活が始まってから、少しずつ感情を表に出せるようになったのだろう。
困っている、という口振りでクラウスは肩を竦めた。
「シルヴァンとテオは気が合いそうで、この先が思いやられます」
fin
軍人の家系に生まれた、少々神経質な生徒代表は、
約束の時間よりきっかり10分早く、保健室に訪れた。
鍛え抜かれた肢体はいつ見ても美しく、
きびきびとした歩き方は軍事訓練でも見ているかのようだ。
「やあ、クラウス。来てくれてありがとう」
「いえ。任務ですから」
保健医が謝辞を述べると、予測通りの生真面目な回答があった。
軍は完全なる縦社会。目上の者には服従する姿勢が刷り込まれているのだろう。
立場上は生徒代表であるクラウスの方が上なのだが、年上を重んじる律儀さも彼らしい。
こちらが席を勧めるまで起立したままだった。
「クラウス、其処へ掛けてくれるかい?」
「はい。失礼します」
椅子に座っても背筋が良い。
彼の膝には畏まった拳が置かれている。
まるでこれから集合写真でも撮るかのようだ。
「早速、新入生の印象を聞かせて貰おうかな」
「はい。学院案内の様子をレポートにまとめてきました」
ファイルを渡される。中のレポート用紙には几帳面な文字。
紙面で報告してきた生徒代表は初めてだったので、少々面食らう。
「…ありがとう、クラウス。用意が良いね」
「当然のことですから」
「今、読ませて貰っても構わないかな?」
「もちろんです」
博士はクラウスに背を向けた。レポートに素早く目を通す。
新入生の名は、シルヴァン・クラーク。17歳で高等部に編入。
学院案内の朝から翌日まで細かく記されていた。
初日から夜遊びした後、警備責任者の自宅に外泊したらしい。
レポートを読んだ後は鏡越しにクラウスの様子を伺っていた。
視線は上を向いている。何か考え事をしているらしい。
クラウスに向き直り、礼を述べる。
「素晴らしいレポートだね。これは私が頂いても良いかい?」
「はい」
「ありがとう。では次に、クラウスの率直な感想を聞こうか。
シルヴァンについて君はどんなことを思ったかな?」
「率直な…ですか」
はきはき喋る彼は急に歯切れが悪くなった。視線も泳いでいる。
「何から話して良いか解らないようだね?」
「ええ。レポートにも書きましたが、今度の新入りは、
その、縦横無尽というか、かなり奔放な奴で…」
規律的なクラウスとは真逆の性質だったと言いたいのだろう。
だが、必死に言葉を選んでいる。
後輩の評価を下げる発言は避けたいということか。
この子は後に、部下思いの良い上官になるだろう。
「すまない。私の聞き方が悪かったね。質問を変えよう。
クラウスは、シルヴァンのように振る舞えるかい?」
どんな感想を持ったか、という自由回答から、二択の質問へ変える。
回答はイエスかノーにすることで、答え易くなる。
クラウスは僅かに笑って、首を横に振った。
「いいえ。俺には不可能です」
「だろうね。どちらが良い悪いという話ではないよ。
これは個性というものだからね?」
「ええ。全く、この学院に来てから、
こんなにも人間は性格がバラバラなのかと、いつも驚かされます」
軍は個性を尊重しない。集団生活を送る、どの環境よりも特殊だと言える。
優先されるべきは統率。
皆が同じ目標を見据え、同じ行動を取らなくては、軍が動かないからだ。
彼の目には、学院の生徒達が天真爛漫に映って仕方がないのだろう。
「ではクラウスにとって、一番珍しい性格だったのは、シルヴァンかい?」
「シルヴァンにも振り回されましたが、一番、となると違いますね」
そこで、生徒代表はふっと微笑んだ。
たった数年前までは見せなかった表情だ。
「あいつは、俺だけではなく、シュヌーシアも…いえ、学院全体をも巻き込みますから」
随分柔らかく笑えるようになったものだ。
入学したばかりの頃は、喜怒哀楽を上手く表現できない子だった。
感情的な面が酷く抑圧され、機械的な受け答えしかできなかった。
ここでの寮生活が始まってから、少しずつ感情を表に出せるようになったのだろう。
困っている、という口振りでクラウスは肩を竦めた。
「シルヴァンとテオは気が合いそうで、この先が思いやられます」
fin
■博士×生徒代表ジブリール
保健室までの廊下に孤独な足音が鳴り渡る。
生徒の背筋は良く、ポケットに両手を入れている。
闇夜に紛れる黒髪、精悍な顔立ち。
今年度の生徒代表ジブリールは、ただ歩いているだけで威圧的だった。
しかし、強暴性を秘めた瞳はこの日、やや俯きがちだった。
生徒代表の頭を占めているのは、2週間前に入学した生徒。
アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマン。
聖アルフォンソ学院に1世紀ぶりに入学したサン・ジェルマン伯爵家の末裔。
入学の際に保証人を必要としない、極めて稀な家柄。
学院全体から注目を浴び、ここ暫くどの寮もアンリの噂で持ち切りだ。
ジブリールはアルファルド寮だが、ウーティスやシュヌーシアの噂好きな連中から、
しつこくアンリのことを聞かれ、少々うんざりしていた。
ジブリールが彼等を無視した為に、噂は尾鰭を付けて泳ぎ始めた。
「今度の新入生は天使」だとか「小さなプリンセス」だとか言っているらしいが、
連中もあいつと一度話せばそれが幻想に過ぎないと解るだろう。
確かにアンリは今までのどの新入生とも違う人種だ。
見目以上に奴の言動は常軌を逸している。
他人を寄せ付けない雰囲気、というのはアルファルド寮では珍しくないが、
アンリの持つ刺々しさはなんだ。過去に何があったのか。
いつのまにか保健室の前まで来ていた。
ジブリールが他人のことをこれだけ考えるのも珍しいことだった。
保健室に来るのは余り好きではなかった。
この部屋に入ると、蟻地獄に足を踏み入れたような錯覚に陥る。
しかし、わざわざ訪れたのは、昨日、アンリの健康診断が終わったからだ。
ポケットから手を出す。ノックすると「入りたまえ」と声がした。
「やあ、ジブリール。よく来たね」
ソクーロフ博士。学院の保健医兼カウンセラー。
決まって優しく生徒を迎え入れる。この微笑が不得手だった。
「博士、少し聞きたいことが」
カウンセラーは妖艶に笑う。
「アンリのこと、だね?」
「…よく、解りましたね」
「顔にそう書いてあるからね」
解っているよ、という微笑。
ジブリールは保健医のこういう笑みが苦手だった。
「私もアンリについて生徒代表の話を聞きたかったところだ。
情報交換をしよう。其処に座ってくれるかい、ジブリール」
無言で指示された席に座る。
保健医は足を組み替え、カルテを眺めた。
「アンリのカウンセリングは昨日終わったよ。健康診断の際にね。
ああ、本人はカウンセリングをしていないと思っているから、言わないように」
嫌な含み笑い。自白・洗脳のスペシャリスト、
そう聞いていたが、生徒の記憶操作をしたと言うのか。
「それで、ジブリールは私に何を聞きたいのかな?」
「健康診断で、新入りに何か問題はなかったのか、
俺が知っておくべきことがあれば、聞いておきたいと」
「ほう。では生徒代表として、私に会いに来たと言うんだね?」
「はい」
「君の個人的興味も含まれているようだが?」
カウンセラーの微笑から、目を逸らす。
「そう、かもしれません」
「生徒代表に伝えるべきことか。そうだね、
既に君も気付いているかもしれないが、森を酷く怖がっているようだ。
もし、アンリを無理に森に誘うような生徒が居たら止めてあげるといい」
「やはり…そうですか」
「学院案内の時、森には?」
「入っていません。『森は嫌いだ』と言われたので」
「そうか。他に何か気付いたことはあるかい?」
「はい。あいつは誰かに『悪魔』と呼ばれていたようです。
誰のことだか聞こうとしたんですが、拒否されました」
その時、カウンセラーの変化を、ジブリールの獰猛な瞳は見逃さなかった。
確かに見た。
カウンセラーが口許を歪めたのを。
興奮を隠し切れない、嗜虐的な目で。
面白い玩具を見つけたかのように。
この男は笑ったんだ。
fin
生徒の背筋は良く、ポケットに両手を入れている。
闇夜に紛れる黒髪、精悍な顔立ち。
今年度の生徒代表ジブリールは、ただ歩いているだけで威圧的だった。
しかし、強暴性を秘めた瞳はこの日、やや俯きがちだった。
生徒代表の頭を占めているのは、2週間前に入学した生徒。
アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマン。
聖アルフォンソ学院に1世紀ぶりに入学したサン・ジェルマン伯爵家の末裔。
入学の際に保証人を必要としない、極めて稀な家柄。
学院全体から注目を浴び、ここ暫くどの寮もアンリの噂で持ち切りだ。
ジブリールはアルファルド寮だが、ウーティスやシュヌーシアの噂好きな連中から、
しつこくアンリのことを聞かれ、少々うんざりしていた。
ジブリールが彼等を無視した為に、噂は尾鰭を付けて泳ぎ始めた。
「今度の新入生は天使」だとか「小さなプリンセス」だとか言っているらしいが、
連中もあいつと一度話せばそれが幻想に過ぎないと解るだろう。
確かにアンリは今までのどの新入生とも違う人種だ。
見目以上に奴の言動は常軌を逸している。
他人を寄せ付けない雰囲気、というのはアルファルド寮では珍しくないが、
アンリの持つ刺々しさはなんだ。過去に何があったのか。
いつのまにか保健室の前まで来ていた。
ジブリールが他人のことをこれだけ考えるのも珍しいことだった。
保健室に来るのは余り好きではなかった。
この部屋に入ると、蟻地獄に足を踏み入れたような錯覚に陥る。
しかし、わざわざ訪れたのは、昨日、アンリの健康診断が終わったからだ。
ポケットから手を出す。ノックすると「入りたまえ」と声がした。
「やあ、ジブリール。よく来たね」
ソクーロフ博士。学院の保健医兼カウンセラー。
決まって優しく生徒を迎え入れる。この微笑が不得手だった。
「博士、少し聞きたいことが」
カウンセラーは妖艶に笑う。
「アンリのこと、だね?」
「…よく、解りましたね」
「顔にそう書いてあるからね」
解っているよ、という微笑。
ジブリールは保健医のこういう笑みが苦手だった。
「私もアンリについて生徒代表の話を聞きたかったところだ。
情報交換をしよう。其処に座ってくれるかい、ジブリール」
無言で指示された席に座る。
保健医は足を組み替え、カルテを眺めた。
「アンリのカウンセリングは昨日終わったよ。健康診断の際にね。
ああ、本人はカウンセリングをしていないと思っているから、言わないように」
嫌な含み笑い。自白・洗脳のスペシャリスト、
そう聞いていたが、生徒の記憶操作をしたと言うのか。
「それで、ジブリールは私に何を聞きたいのかな?」
「健康診断で、新入りに何か問題はなかったのか、
俺が知っておくべきことがあれば、聞いておきたいと」
「ほう。では生徒代表として、私に会いに来たと言うんだね?」
「はい」
「君の個人的興味も含まれているようだが?」
カウンセラーの微笑から、目を逸らす。
「そう、かもしれません」
「生徒代表に伝えるべきことか。そうだね、
既に君も気付いているかもしれないが、森を酷く怖がっているようだ。
もし、アンリを無理に森に誘うような生徒が居たら止めてあげるといい」
「やはり…そうですか」
「学院案内の時、森には?」
「入っていません。『森は嫌いだ』と言われたので」
「そうか。他に何か気付いたことはあるかい?」
「はい。あいつは誰かに『悪魔』と呼ばれていたようです。
誰のことだか聞こうとしたんですが、拒否されました」
その時、カウンセラーの変化を、ジブリールの獰猛な瞳は見逃さなかった。
確かに見た。
カウンセラーが口許を歪めたのを。
興奮を隠し切れない、嗜虐的な目で。
面白い玩具を見つけたかのように。
この男は笑ったんだ。
fin
■博士×生徒代表ヤン
■75 のサイドストーリー
■75 のサイドストーリー
ジョシュアの入学翌日。
ソクーロフは生徒代表のヤンに保健室に来るように頼んでいた。
新入生のカウンセリング前に、学院案内をした時の様子を教えて欲しいと。
しかし、約束の時間になっても、今年度の生徒代表は保健室に現れなかった。
ソクーロフにとっては特段驚くことではなかった。約束を忘れているのだろう。
ヤンの場合、頭が数学でいっぱいになると、他の雑事は記憶の外に放り出される。
彼に初めて会った時から、そんな傾向が見受けられたからだ。
ジョシュア・グラントについての報告はいち早く聞きたかった。
ソクーロフは数か所、見当を付けて、ヤンを探した。
シュヌーシア寮と、生徒代表室には居なかった。ヤンは月桂樹の森に居た。
彼の華奢な背を預けるには、細い幹で充分のようだ。
足は2本とも投げ出して、地面に直に座っている。
知性的な瞳が向いている方向は前方、やや上だが、
木洩れ陽に感動しているわけではないだろう。今日は曇りだ。
空はそのうちに降り出しそうな重たい灰色に覆われている。
ソクーロフが傍に立っていることに、ヤンは全く気付いていないらしい。
何事かぶつぶつと小さく口が動いていた。近付いてみると、数を唱えていた。
「48と75、140と195、1050と1925…」
「やあ、ヤン。森に居たんだね」
「…62744と75495、186615と206504…」
「ヤン? ヤン」
「え…」
ヤンの目に映ったのは、眼鏡、グレイの長い髪。
ふわりと白衣から漂う香り。
「くすり…あ。そくーろふ、せんせい…?」
先生、と呼ぶ子だった。
ヤンは『先生』という役職に憧れを抱いているらしかった。
博士は身を屈め、生徒代表の顎を持ち上げた。
「随分、眠そうだね、ヤン」
ぼんやりと向けられる視線。今にも閉じてしまいそうな瞼。
眼の下の窪みを親指でなぞる。
「昨夜は眠れなかったかい?」
「はい…ちょっと、婚約数を探していて…」
「婚約数? ああ、準友愛数のことだね?」
「せんせい、知ってるんですか…嬉しいな…あ、れ?
そうだ、僕、先生んとこに行く約束してましたか?」
「思い出したかい?」
「ジョシュアのこと、ですよね。えっと…あ。ナイチンゲールが…」
「ナイチンゲールが?」
「はい。彼が来てくれて…嬉しそうでした…ん…あふ…」
手で口許を隠して、ひとつ欠伸をした。
博士は微笑んだ。眼鏡の奥の瞳は後方を盗み見た。
「また明日に改めた方が良さそうだね…誰か来たようだ。失礼するよ」
腰を上げる。風で白衣の裾が翻る。
ヤンの頭がぐらりと揺れる。睡魔の誘惑に負ける直前まで来ていた。
「あーあー。これから雨だってのに、んなとこで寝るなよ、ヤン」
駆けて来たのは体格の良い生徒。付き合いの長い友人。
ウーティス寮のエドガーだ。短く切った金髪が、かろうじて見える。
「えど…」
夢と現を行き来しているヤンの肩に大きな手が置かれる。
「なあ。今の、ソクーロフ博士だよな? 珍しいな、博士が森なんか歩いてるなんて」
「ん…」
「博士と何話してたんだ?」
「ごめ…ねむ…い」
「おい、ヤ…」
瞼の重みに耐え切れず、灰色の瞳は閉じられた。エドガーは肩を落とす。
「だから、寝るなって」
すうすう、と気持ち良さそうな寝息が聞こえた。
fin
ソクーロフは生徒代表のヤンに保健室に来るように頼んでいた。
新入生のカウンセリング前に、学院案内をした時の様子を教えて欲しいと。
しかし、約束の時間になっても、今年度の生徒代表は保健室に現れなかった。
ソクーロフにとっては特段驚くことではなかった。約束を忘れているのだろう。
ヤンの場合、頭が数学でいっぱいになると、他の雑事は記憶の外に放り出される。
彼に初めて会った時から、そんな傾向が見受けられたからだ。
ジョシュア・グラントについての報告はいち早く聞きたかった。
ソクーロフは数か所、見当を付けて、ヤンを探した。
シュヌーシア寮と、生徒代表室には居なかった。ヤンは月桂樹の森に居た。
彼の華奢な背を預けるには、細い幹で充分のようだ。
足は2本とも投げ出して、地面に直に座っている。
知性的な瞳が向いている方向は前方、やや上だが、
木洩れ陽に感動しているわけではないだろう。今日は曇りだ。
空はそのうちに降り出しそうな重たい灰色に覆われている。
ソクーロフが傍に立っていることに、ヤンは全く気付いていないらしい。
何事かぶつぶつと小さく口が動いていた。近付いてみると、数を唱えていた。
「48と75、140と195、1050と1925…」
「やあ、ヤン。森に居たんだね」
「…62744と75495、186615と206504…」
「ヤン? ヤン」
「え…」
ヤンの目に映ったのは、眼鏡、グレイの長い髪。
ふわりと白衣から漂う香り。
「くすり…あ。そくーろふ、せんせい…?」
先生、と呼ぶ子だった。
ヤンは『先生』という役職に憧れを抱いているらしかった。
博士は身を屈め、生徒代表の顎を持ち上げた。
「随分、眠そうだね、ヤン」
ぼんやりと向けられる視線。今にも閉じてしまいそうな瞼。
眼の下の窪みを親指でなぞる。
「昨夜は眠れなかったかい?」
「はい…ちょっと、婚約数を探していて…」
「婚約数? ああ、準友愛数のことだね?」
「せんせい、知ってるんですか…嬉しいな…あ、れ?
そうだ、僕、先生んとこに行く約束してましたか?」
「思い出したかい?」
「ジョシュアのこと、ですよね。えっと…あ。ナイチンゲールが…」
「ナイチンゲールが?」
「はい。彼が来てくれて…嬉しそうでした…ん…あふ…」
手で口許を隠して、ひとつ欠伸をした。
博士は微笑んだ。眼鏡の奥の瞳は後方を盗み見た。
「また明日に改めた方が良さそうだね…誰か来たようだ。失礼するよ」
腰を上げる。風で白衣の裾が翻る。
ヤンの頭がぐらりと揺れる。睡魔の誘惑に負ける直前まで来ていた。
「あーあー。これから雨だってのに、んなとこで寝るなよ、ヤン」
駆けて来たのは体格の良い生徒。付き合いの長い友人。
ウーティス寮のエドガーだ。短く切った金髪が、かろうじて見える。
「えど…」
夢と現を行き来しているヤンの肩に大きな手が置かれる。
「なあ。今の、ソクーロフ博士だよな? 珍しいな、博士が森なんか歩いてるなんて」
「ん…」
「博士と何話してたんだ?」
「ごめ…ねむ…い」
「おい、ヤ…」
瞼の重みに耐え切れず、灰色の瞳は閉じられた。エドガーは肩を落とす。
「だから、寝るなって」
すうすう、と気持ち良さそうな寝息が聞こえた。
fin
■ジョシュアの電話ベース
■75 のサイドストーリー
■75 のサイドストーリー
ロレート公国、王の執務室。
側近は陛下を監視しながら、書類処理を手伝っていた。
デスクワークに全くもって不向きな陛下から、
本日二回目の休憩を命令され、仕方なく珈琲を淹れて差し上げた。
「お前は飲まないのか、ラルヴィス」
「私は結構です」
「では俺が注いでやろう」
「陛下、国主ともあろう御方が臣下にそんなことなさらないで下さい」
「関係ないだろう。珈琲の一杯や二杯」
「それだから、『規格外の王』などと揶揄されるのですよ?」
「言いたい奴には言わせておけばいい」
カップを渡されて、側近は「恐れ入ります」とやや慇懃無礼に受け取った。
口付けると、喉を通り抜ける苦味は心地好かった。
陛下は珈琲を美味しそうに飲まれている。
ふと、壁に掛けられた絵画をご覧になった。
カチャリとソーサーにカップが戻される。
「ラルヴィス中将、ひとつ頼みがある」
「何です。改まって」
「この絵を辺境の島に送ってくれないか」
「何を…陛下、お言葉ですが、こちらはクリスティーナ様が貴方にと」
王冠を持たぬ女王、クリスティーナ・グラント妃。陛下の兄嫁にあたる。
ロレート内外からご結婚を反対されたお二人は全てを捨てて、
互いに結ばれることを願った。結果、弟君のカーディス様が玉座に就かれた。
兄君の早過ぎる崩御(ほうぎょ)後、
クリスティーナ様は、この『アルフォンソ王の戴冠』をロレートに返還された。
これはエドワード様のお気に入りの品でご結婚の際に持ち出された物。
元々ロレートにあったものだから、とお返しになったのだ。
陛下は懐かしむように絵を見つめている。
「俺には相応しくない絵だ。当時もそう言ったのだがな。
これを目にするのは辛いと、正直なところを聞かされて、
俺は一時的に引き取っただけだ。
絵の継承者として相応しいのはジョシュアであるべきだ。
それには彼女も異論はないだろう」
「そうですね…畏まりました」
「ああ、俺からだとは言うなよ? 匿名で学院に寄贈しろ」
えっ、と側近は聞き返した。
「何故です?」
「あいつにとって俺は、父を殺したかもしれない人間だからな。
俺からだと聞いたら、絵の印象が変わるだろう」
父を殺した疑いのある人間から、父の好きだった絵を贈られる。
それは確かに恐ろしい皮肉だ。
しかし、事実ではないのだ。陛下は兄君を殺せるような人間ではない。
兄殺しの汚名を、この御方は自ら背負うことを決めている。
この件に関しては、周囲が何を言っても断固として譲らない。
贖罪だと言って世間に弁明もしないのだ。
黙りこくった側近を見て、陛下は軽く笑みを浮かべた。
俺は気にしていない、という意味なのだろう。
「深く考えるな、ラルヴィス。言うなればこれは、甥への入学祝いさ。
それなら別に普通だろう?
この絵を愛していた兄貴もジョシュアになら譲る筈だ。
俺ができるのはこれくらいしかないからな。
入学日までに届くよう手配できるか?」
側近は、はい、と頷く。
「必ず。陛下の仰せのままに」
叔父は甥に贈る絵を改めて眺める。
「兄貴のせがれは人前では気丈に振る舞えるようだが、
地図にも載らない孤島に一人で行かされるんだ。
流石に、入学初日は心細いだろうしな」
「陛下もそうだったのですか?」
「まさか」
笑って、カップに口付けた。
「お優しいですね、陛下」
密かながらも甥への想いを感じて、臣下は不覚にも心を打たれた。
心からそうお伝えしたのだが、陛下は可笑しそうに、口髭を歪めた。
「いや。このアルフォンソ王は兄貴に似ているからな。俺としても困るんだ」
「どういうことです?」
「この部屋にあると、どうも兄貴に見られているような気がしてな。
不都合が生じる場合があるだろう?」
「陛下、執務室でどのような不都合が…」
微笑した陛下は、側近の顎をくいと上げた。
王の人差し指に頬を撫でられる。
「やはり秘め事は二人きりでなくてはな?」
臣下はつまらなそうに見上げる。
鉄面皮を向けたまま、王の手を避けた。
「執務中です」
「成程。では執務を早急に片付けるとするか。夜までに終えなくては」
側近は額を押さえる。陛下がやる気を出して下さるのはありがたいが。
暗黙のうちに、執務が終われば良い、とご理解されたような気がする。
「どうした、ラルヴィス。早く次の書類を持って来い」
「…はい、只今」
臣下の務めが終わるのは夜遅くになりそうだった。
fin
側近は陛下を監視しながら、書類処理を手伝っていた。
デスクワークに全くもって不向きな陛下から、
本日二回目の休憩を命令され、仕方なく珈琲を淹れて差し上げた。
「お前は飲まないのか、ラルヴィス」
「私は結構です」
「では俺が注いでやろう」
「陛下、国主ともあろう御方が臣下にそんなことなさらないで下さい」
「関係ないだろう。珈琲の一杯や二杯」
「それだから、『規格外の王』などと揶揄されるのですよ?」
「言いたい奴には言わせておけばいい」
カップを渡されて、側近は「恐れ入ります」とやや慇懃無礼に受け取った。
口付けると、喉を通り抜ける苦味は心地好かった。
陛下は珈琲を美味しそうに飲まれている。
ふと、壁に掛けられた絵画をご覧になった。
カチャリとソーサーにカップが戻される。
「ラルヴィス中将、ひとつ頼みがある」
「何です。改まって」
「この絵を辺境の島に送ってくれないか」
「何を…陛下、お言葉ですが、こちらはクリスティーナ様が貴方にと」
王冠を持たぬ女王、クリスティーナ・グラント妃。陛下の兄嫁にあたる。
ロレート内外からご結婚を反対されたお二人は全てを捨てて、
互いに結ばれることを願った。結果、弟君のカーディス様が玉座に就かれた。
兄君の早過ぎる崩御(ほうぎょ)後、
クリスティーナ様は、この『アルフォンソ王の戴冠』をロレートに返還された。
これはエドワード様のお気に入りの品でご結婚の際に持ち出された物。
元々ロレートにあったものだから、とお返しになったのだ。
陛下は懐かしむように絵を見つめている。
「俺には相応しくない絵だ。当時もそう言ったのだがな。
これを目にするのは辛いと、正直なところを聞かされて、
俺は一時的に引き取っただけだ。
絵の継承者として相応しいのはジョシュアであるべきだ。
それには彼女も異論はないだろう」
「そうですね…畏まりました」
「ああ、俺からだとは言うなよ? 匿名で学院に寄贈しろ」
えっ、と側近は聞き返した。
「何故です?」
「あいつにとって俺は、父を殺したかもしれない人間だからな。
俺からだと聞いたら、絵の印象が変わるだろう」
父を殺した疑いのある人間から、父の好きだった絵を贈られる。
それは確かに恐ろしい皮肉だ。
しかし、事実ではないのだ。陛下は兄君を殺せるような人間ではない。
兄殺しの汚名を、この御方は自ら背負うことを決めている。
この件に関しては、周囲が何を言っても断固として譲らない。
贖罪だと言って世間に弁明もしないのだ。
黙りこくった側近を見て、陛下は軽く笑みを浮かべた。
俺は気にしていない、という意味なのだろう。
「深く考えるな、ラルヴィス。言うなればこれは、甥への入学祝いさ。
それなら別に普通だろう?
この絵を愛していた兄貴もジョシュアになら譲る筈だ。
俺ができるのはこれくらいしかないからな。
入学日までに届くよう手配できるか?」
側近は、はい、と頷く。
「必ず。陛下の仰せのままに」
叔父は甥に贈る絵を改めて眺める。
「兄貴のせがれは人前では気丈に振る舞えるようだが、
地図にも載らない孤島に一人で行かされるんだ。
流石に、入学初日は心細いだろうしな」
「陛下もそうだったのですか?」
「まさか」
笑って、カップに口付けた。
「お優しいですね、陛下」
密かながらも甥への想いを感じて、臣下は不覚にも心を打たれた。
心からそうお伝えしたのだが、陛下は可笑しそうに、口髭を歪めた。
「いや。このアルフォンソ王は兄貴に似ているからな。俺としても困るんだ」
「どういうことです?」
「この部屋にあると、どうも兄貴に見られているような気がしてな。
不都合が生じる場合があるだろう?」
「陛下、執務室でどのような不都合が…」
微笑した陛下は、側近の顎をくいと上げた。
王の人差し指に頬を撫でられる。
「やはり秘め事は二人きりでなくてはな?」
臣下はつまらなそうに見上げる。
鉄面皮を向けたまま、王の手を避けた。
「執務中です」
「成程。では執務を早急に片付けるとするか。夜までに終えなくては」
側近は額を押さえる。陛下がやる気を出して下さるのはありがたいが。
暗黙のうちに、執務が終われば良い、とご理解されたような気がする。
「どうした、ラルヴィス。早く次の書類を持って来い」
「…はい、只今」
臣下の務めが終わるのは夜遅くになりそうだった。
fin
■オーギュスト×アンリ
休日の午前中。今日は特に用事もない。
アンリは一人で図書館を歩いていた。
此処は大抵閑散として、生徒の姿は疎らだった。
先程、神秘学の受講生が席に着いているのを見かけた。
アルファルド寮の生徒。邪魔そうに長い髪を耳に掛けていた。
切れば良いのに。
そう思いながら彼の横を通り過ぎた。
昨日、神秘学で課題を出された。
好きな呪術を選んで、次回の講義で紹介して欲しい、と。
その参考資料を探しに来た。
情報処理室に行って、インターネットで調べる方法もあるが、
聖アルフォンソ学院の図書館には、此処にしかない本が多数ある。
世間に公開できない裏の歴史が、ひっそりと眠っている場合も少なくない。
オーギュストの研究室から文献を借りる方法もある。
あの部屋には面白そうな本がたくさんある。
しかし、今日は休日だ。彼は仕事で僕達生徒と接している。
彼は「いつでもおいで」と言うだろうけれど。
休日まで研究室を訪ねる気にはあまりならない。
そうでなくても、最近は彼に会ってはいけない気がしていた。
君は講師の一人で、僕も生徒の一人なのに。
僕は彼と必要以上に言葉を交わすようになった。
人に優しくされることは落ち着かない。
今の僕が壊れてしまいそうで、怖い。
相手が誰であっても、他人とはある程度の距離を保っておきたい。
近付いてはいけない。心を許してはいけない。
僕は誰とも。
カツカツと自分の靴音が響く。
神秘学の本棚に向かう。図書館の案内図を見る必要はない。
もう何度も足を運んでいる場所だ。
古い本の匂いがする。数世紀前の書物も此処にはあった。
ふと足が止まる。
本棚の高いところを見上げていた。
古めかしいハードカバーが並ぶ中、一冊に目を奪われる。
青い背表紙。
なんとなく惹かれた。
理由は解らないけれど読んでみたい気がする。
本に呼ばれている、そんなかんじがだ。
こういう予感がする本は経験的に興味深い本だ。
だが、手を伸ばしても届かない位置にある。
届かないことで余計に読みたい気持ちが強まる。近くに踏み台は、ない。
誰かに協力を要請するのも面倒だ。
先程、見掛けた長身の生徒ならば届くのだろうが。
そんなことで、人に借りを作るのは好きじゃなかった。
青い本。あれには何が書いてあるのだろう。
青地に紺で記された題名がよく見えない。
その本に誰かの手が伸びた。
袖口のカフスがきらりと光る。
僕の前に青い本が差し出された。
「これかね?」
僕の背後に居たのは神秘学の講師だった。
普段、教壇に居る彼が図書館に居ると少し不思議なかんじだ。
「アンリ? 違う本だったかな?」
「ううん。これでいい」
青い本を受け取る。教授は嬉しそうに本を見やる。
「お目が高いね、アンリ。それはなかなか面白い本だよ」
オーギュストも読んだことがあるらしい。
「別に、少し気になっただけ」
「休日の朝から勉強かい? 感心だね」
「課題を出したのは君でしょう」
「ああ、そうだったね」
僕の言葉にも君は穏やかに微笑む。
君は自分の顎に手を置いて、思い出すような表情を見せる。
「確か、それの参考になりそうな本が、
私の研究室にもあったと思うな。少し寄って行くかい?」
オーギュストの紅茶が飲みたくなる。彼は紅茶を淹れるのも上手かった。
僕は青い本を左手に持ち変える。ざらついた表紙だった。
「…行かない」
オーギュストは首を傾げた。
何故、残念そうな顔をするの。
「おや。この後は忙しいのかい?」
「…うん」
「そうか。ではまた時間のある時においで」
講師の傍から一歩後ずさる。
「ごきげんよう、ボージェ教授」
振り向かずに歩く。
胸の内が平静ではない。何処か波立っている。
如何して。自分の靴音さえ煩わしい。
真っ直ぐにカウンターへ向かう。
本を借り、すぐに図書館から離れた。
fin
アンリは一人で図書館を歩いていた。
此処は大抵閑散として、生徒の姿は疎らだった。
先程、神秘学の受講生が席に着いているのを見かけた。
アルファルド寮の生徒。邪魔そうに長い髪を耳に掛けていた。
切れば良いのに。
そう思いながら彼の横を通り過ぎた。
昨日、神秘学で課題を出された。
好きな呪術を選んで、次回の講義で紹介して欲しい、と。
その参考資料を探しに来た。
情報処理室に行って、インターネットで調べる方法もあるが、
聖アルフォンソ学院の図書館には、此処にしかない本が多数ある。
世間に公開できない裏の歴史が、ひっそりと眠っている場合も少なくない。
オーギュストの研究室から文献を借りる方法もある。
あの部屋には面白そうな本がたくさんある。
しかし、今日は休日だ。彼は仕事で僕達生徒と接している。
彼は「いつでもおいで」と言うだろうけれど。
休日まで研究室を訪ねる気にはあまりならない。
そうでなくても、最近は彼に会ってはいけない気がしていた。
君は講師の一人で、僕も生徒の一人なのに。
僕は彼と必要以上に言葉を交わすようになった。
人に優しくされることは落ち着かない。
今の僕が壊れてしまいそうで、怖い。
相手が誰であっても、他人とはある程度の距離を保っておきたい。
近付いてはいけない。心を許してはいけない。
僕は誰とも。
カツカツと自分の靴音が響く。
神秘学の本棚に向かう。図書館の案内図を見る必要はない。
もう何度も足を運んでいる場所だ。
古い本の匂いがする。数世紀前の書物も此処にはあった。
ふと足が止まる。
本棚の高いところを見上げていた。
古めかしいハードカバーが並ぶ中、一冊に目を奪われる。
青い背表紙。
なんとなく惹かれた。
理由は解らないけれど読んでみたい気がする。
本に呼ばれている、そんなかんじがだ。
こういう予感がする本は経験的に興味深い本だ。
だが、手を伸ばしても届かない位置にある。
届かないことで余計に読みたい気持ちが強まる。近くに踏み台は、ない。
誰かに協力を要請するのも面倒だ。
先程、見掛けた長身の生徒ならば届くのだろうが。
そんなことで、人に借りを作るのは好きじゃなかった。
青い本。あれには何が書いてあるのだろう。
青地に紺で記された題名がよく見えない。
その本に誰かの手が伸びた。
袖口のカフスがきらりと光る。
僕の前に青い本が差し出された。
「これかね?」
僕の背後に居たのは神秘学の講師だった。
普段、教壇に居る彼が図書館に居ると少し不思議なかんじだ。
「アンリ? 違う本だったかな?」
「ううん。これでいい」
青い本を受け取る。教授は嬉しそうに本を見やる。
「お目が高いね、アンリ。それはなかなか面白い本だよ」
オーギュストも読んだことがあるらしい。
「別に、少し気になっただけ」
「休日の朝から勉強かい? 感心だね」
「課題を出したのは君でしょう」
「ああ、そうだったね」
僕の言葉にも君は穏やかに微笑む。
君は自分の顎に手を置いて、思い出すような表情を見せる。
「確か、それの参考になりそうな本が、
私の研究室にもあったと思うな。少し寄って行くかい?」
オーギュストの紅茶が飲みたくなる。彼は紅茶を淹れるのも上手かった。
僕は青い本を左手に持ち変える。ざらついた表紙だった。
「…行かない」
オーギュストは首を傾げた。
何故、残念そうな顔をするの。
「おや。この後は忙しいのかい?」
「…うん」
「そうか。ではまた時間のある時においで」
講師の傍から一歩後ずさる。
「ごきげんよう、ボージェ教授」
振り向かずに歩く。
胸の内が平静ではない。何処か波立っている。
如何して。自分の靴音さえ煩わしい。
真っ直ぐにカウンターへ向かう。
本を借り、すぐに図書館から離れた。
fin
■お茶目なオーギュスト
「ごきげんよう、諸君。最初に、裏庭でちょっとした実験を行いたいのだが良いかな?」
授業開始の鐘が鳴ると、神秘学教授は、そう切り出した。
教室は困惑に覆われる。しかし、声を発する者は居なかった。
神秘学の受講生は少なく、また物静かな生徒が揃っているためだ。
講師はドアを開け、生徒達を促す。
「ああ、筆記用具は特に必要ないから、手ぶらで構わないよ。
諸君の聡明な頭脳さえあれば充分だ。では行こうか」
講師が教室の外へ歩いていくので、生徒達は仕方なく席を立つ。
机と椅子の音が鳴り響いた。
講師を先頭に、少数の受講生が廊下を歩いている。
擦れ違った他の教授が、不審そうに見ていた。
アンリは少し早く歩いて、講師の隣に並んだ。
「珍しいことするんだね、ボージェ教授。一体、何を企んでいるの?」
「今日は天気が良いからね。偶には青空の下で講義というのも良いだろう?」
裏庭の地面には巨大な円陣が描かれていた。
円の中に星。何かの本で目にしたことのある図形だった。
「魔法陣…いや、これが五芳星なの?」
「正解だよ、アンリ。皆は呪術師のアベノセイメイを知っているかな?
彼はこのような図を描き、召喚魔を呼び出したと言われているんだ」
「ボージェ教授。この五芳星、此処が欠けていない?」
「うん。まだ完成していないんだ。私達が来る前に魔物が出てきたら困るだろう?」
「君はまた…そういうことを」
「召喚魔のことは刺激しないように。約束できるかね?」
反論を唱える者は居なかった。
「では試しに、切れた線を繋いでみようか。諸君、円の外側に居た方が良いよ」
ざわめきながらも生徒達は円陣から少し離れた場所に立った。
腕を組み、講師を見つめる。彼はしゃがみ、地面の線を書き足した。
彼も円から離れた。
すると、五芳星はぽうっと光った。
円の中央にキモノを着た何かが座っている。
髪が長い。女性のようだ。アンリは目を見開く。
「何、あれ…」
受講生の一人が怪訝そうに尋ねる。
「何って、何だ?」
「見えないの? 君達には」
琥珀の瞳が揺らいている。一芝居打っているようには見えない。
動揺したアンリを初めて見た生徒達に動揺が静かに感染する。
ただ一人、講師だけが落ち着いていた。
「アンリ、何が見えるのか、説明してくれるかね?」
「え…ニッポンの女性のような…キモノを着ている人…」
「うん。そうだね。ではお帰り頂こう。講義へのご協力、どうもありがとう」
講師が何事かを唱える。英語ではない。
着物の女性は一礼して、ゆらりと消えた。
アンリは息を吐いた。講師を睨み付ける。
講義中は彼を「教授」と普段は呼ぶのだが、思わず名前で呼んでしまう。
「オーギュスト、今の、何?」
「悪いものではないよ。女神のようなものだから。
では、諸君。教室に戻ろうか。今日は東洋の神秘について勉強しよう」
fin
授業開始の鐘が鳴ると、神秘学教授は、そう切り出した。
教室は困惑に覆われる。しかし、声を発する者は居なかった。
神秘学の受講生は少なく、また物静かな生徒が揃っているためだ。
講師はドアを開け、生徒達を促す。
「ああ、筆記用具は特に必要ないから、手ぶらで構わないよ。
諸君の聡明な頭脳さえあれば充分だ。では行こうか」
講師が教室の外へ歩いていくので、生徒達は仕方なく席を立つ。
机と椅子の音が鳴り響いた。
講師を先頭に、少数の受講生が廊下を歩いている。
擦れ違った他の教授が、不審そうに見ていた。
アンリは少し早く歩いて、講師の隣に並んだ。
「珍しいことするんだね、ボージェ教授。一体、何を企んでいるの?」
「今日は天気が良いからね。偶には青空の下で講義というのも良いだろう?」
裏庭の地面には巨大な円陣が描かれていた。
円の中に星。何かの本で目にしたことのある図形だった。
「魔法陣…いや、これが五芳星なの?」
「正解だよ、アンリ。皆は呪術師のアベノセイメイを知っているかな?
彼はこのような図を描き、召喚魔を呼び出したと言われているんだ」
「ボージェ教授。この五芳星、此処が欠けていない?」
「うん。まだ完成していないんだ。私達が来る前に魔物が出てきたら困るだろう?」
「君はまた…そういうことを」
「召喚魔のことは刺激しないように。約束できるかね?」
反論を唱える者は居なかった。
「では試しに、切れた線を繋いでみようか。諸君、円の外側に居た方が良いよ」
ざわめきながらも生徒達は円陣から少し離れた場所に立った。
腕を組み、講師を見つめる。彼はしゃがみ、地面の線を書き足した。
彼も円から離れた。
すると、五芳星はぽうっと光った。
円の中央にキモノを着た何かが座っている。
髪が長い。女性のようだ。アンリは目を見開く。
「何、あれ…」
受講生の一人が怪訝そうに尋ねる。
「何って、何だ?」
「見えないの? 君達には」
琥珀の瞳が揺らいている。一芝居打っているようには見えない。
動揺したアンリを初めて見た生徒達に動揺が静かに感染する。
ただ一人、講師だけが落ち着いていた。
「アンリ、何が見えるのか、説明してくれるかね?」
「え…ニッポンの女性のような…キモノを着ている人…」
「うん。そうだね。ではお帰り頂こう。講義へのご協力、どうもありがとう」
講師が何事かを唱える。英語ではない。
着物の女性は一礼して、ゆらりと消えた。
アンリは息を吐いた。講師を睨み付ける。
講義中は彼を「教授」と普段は呼ぶのだが、思わず名前で呼んでしまう。
「オーギュスト、今の、何?」
「悪いものではないよ。女神のようなものだから。
では、諸君。教室に戻ろうか。今日は東洋の神秘について勉強しよう」
fin
■ネタ帳です。
---
■教授のプライド
二人が何処かに出掛ける話。冬だと解る街の描写。
神秘学に関連した展覧会や博物館のような場所。
行き。駅にケーキ屋があるのをアンリが見ている。
その時、オーギュストは何も言わない。
会場で他者にけなされるオーギュスト(か神秘学)
アンリはカチンときて、他者に文句を言おうとするが、
オーギュストが止める。
帰り道。ぷんぷんアンリ。
「オーギュスト、どうして言い返さなかったの?
君にはプライドというものがないの?」
「私には守りたいものはひとつしかないからね」
講師は教え子の頭をぽんと撫でた。
「さあ、帰ろう、アンリ」
オーギュストは手を差し出す。
「何、その手」
「冷たそうだから。繋いで帰ろうかと」
「子供扱いしないで」
「あ、そうだ。駅でケーキでも買っていこうか?」
最後はツンツンアンリ。
---
■ディーノに電話
「お姫様から電話とはな。なんだ、そんなに俺の声が聞きたいか?」
「できれば聞きたくないよ。君にひとつビジネスをあげる。
僕が期待する結果が得られたら、成功報酬を用意するよ」
「なんだ、金の話かよ」
「君とはビジネス以外の話をするつもりはないよ」
「人使い荒いな。で、俺に何して欲しいんだ?」
「一人、調べて欲しいんだ…彼の全てを」
「ほう。どんな奴だ?」
「シルヴァン・クラーク。19歳。聖アルフォンソ学院 高等部3年」
「お前のダチか?」
「同じ寮に居るだけだよ。写真や資料はメールで送ってあげる。
だけど、虚偽情報も混ざってるかもしれないから、慎重に」
「なんだそりゃ?」
「僕が少し調べた限りでは、見付けられなかったんだよ。彼の過去が。
シルヴァン・クラークって人間が、本当にこの世に存在するのか、調べて」
fin
---
■脅迫
ディーノ×オーギュスト
「へえ。インテリって、いけ好かねえ奴ばっかりかと思っていたんだが、
あんたは、なかなか面白い男だな。神秘学のセンセ?」
「それはどうも」
「あんたの授業なら一回くらい聞いてみたいもんだぜ」
「君が第二化学室に居たら、生徒達が落ち着いて授業ができないから、
今度また二人きりの時で良ければゆっくり教えるよ?」
「個人授業ってか?」
「ああ。そうだよ。私も君とお近付きになれて光栄なんだ。
ずっと君と話がしたかったから。会ってみて改めて解ったよ。
流石はマンゾーニ家の男だね。残虐かつ聡い」
「口説くなよ」
「アンリの方から君達に声を掛けたようだね?」
「ああ。かつて、うちと伯爵サマの間に交流があったから、ってな」
研究室がノックされた。講師が何か言う前にドアは開いた。
「オーギュ、紅茶を淹れ、て…」
「お前は学校のセンセまでこき使うのか。とんでもねえ、お姫様だな」
「ディーノ…何故、君が此処に」
「センセとオトナの話がしたくてな」
「オーギュスト、どうしてこんな男と一緒に居るの」
「お前の悪口を言ってただけだよ。な、センセ?」
「君には聞いていない。オーギュスト、説明して」
「心配してくれているのかね? 大丈夫、ただお茶を飲んでいただけだから」
「ディーノ。この部屋に二度と来ないで。彼は関係ない」
「俺は招かれて来ただけだぜ?」
「招いた? オーギュ、この男が誰だか解っているの?」
「ああ。君のお友達だから、一度話してみたかったんだ」
「どうかしている…ねえ、オーギュ。本当に、脅されていないの?」
「うん。彼と私の利害関係は一致している。それを確認しただけだ」
「利害関係?」
頭を手を置かれる。大きな、大人の手。
「君の命を守ること。それだけだ」
マフィアは薄汚い笑みを浮かべた。講師は席を立つ。
「ごめん、アンリ。これからマンゾーニと少し出掛けて来るよ」
「何処へ行くの」
「んなこと聞くなよ。オトナが二人で出掛けるって言ってんだからさ」
「オーギュ」
「すぐに戻るから。心配することはないよ、アンリ」
「なあ、センセ? ひとつ聞いてもいいか」
「なんだね?」
「あんた、あいつとどういう関係?」
「教師と生徒だよ、神秘学のね」
「それにしちゃ、構い過ぎだろ? サン・ジェルマン伯爵が、
神秘学の有名人だからってのは関係なさそうだし?」
「教師は教え子を可愛がってはいけないかね?」
「マフィアを舐めるな。俺達は壊れた人間模様を星の数ほど見てきた。
時にその修復を助け、時に、関係を抹消してきたんだからな」
「確かにね」
「人が特定の子供に対し、異常に目を掛けている時、その理由は2つしかねえ。
1つ、行き過ぎた好意を抱いている。2つ、血が繋がっている」
「成程」
「あんたはどっちだ? オーギュスト・ボージェ教授」
「どちらでもないよ」
「0点だぜ、センセ? あんたの場合は、両方さ。
そうだろう? 初代サン・ジェルマン伯爵?」
「面白いことを言うね、マンゾーニ」
「だろう? もうひとつ面白いことがあるぜ?
ボージェ教授はガキの頃、名前違った?
ガキだった頃のオーギュスト君が見付からねえんだよ」
「調べたのかね?」
「ああ。かなり広く調べたぜ」
「名前については諸事情があって言えないな。伯爵の方は物証がないね」
「確かに、伯爵かどうかは難しいな。
だが、父親かどうかの物証ならあるぜ、此処に。
あんたとアンリのDNAを見ればいいだけだからな。そして、これがアンリの髪だ」
「聡いね、マンゾーニ」
「まあな」
「センセ? アンリには言ってないんだろう? 俺が言ってやろうか?
あいつが信じるかどうかは別にして、興味深い話だと思うぜ、あいつにとってもな」
「それで、私に何か要求するつもりかね?」
「そうだな。先ずはまたデートしてくれることを約束して貰おうか?」
「私と?」
「もちろん。俺はあんたを気に入った」
「私ではなく、財産を、だろう?」
「馬鹿だな。金には興味ないね。あんたと仲良くなりたいだけだよ」
---
■代償
誰も僕を愛してくれない。
だって僕は悪魔の子だもの。
誰も僕には近付かない。僕が近付けばきっと傷付けてしまう。
僕は誰も愛してはいけないんだ。
それなのに。
君は僕に近付いた。僕を愛しいと言った。
君は父のように優秀で。父と同年代の男性だった。
こんなの間違っていると解っているのに。
君を拒むことなんて、できなかった。
君が僕に与えるものは、幼い頃から欲していたものだった。
興味のある学問、優しい手、アンリと呼ぶ声。
あの人は、僕の名前すら呼んではくれなかった。
「僕は、君のことを、父の代替物として、見ているのかもしれない」
「それでも構わないよ、私は」
「オーギュ…本気で言っているの?」
「君が生きている。それだけでも充分素晴らしいことだ。
更に今は君の傍に居られる。他に望みなんてないよ」
「僕、君に嫌われたら、もう、耐えられないかもしれない」
「嫌いになんてならないよ」
「だけど、君が本当の僕を知ったら、きっと嫌いになる」
「本当の? では、今私の前に居るアンリは偽物なのかい?
人間はね、アンリ。常に同じではないのだよ。
ロボットではないのだから、常に揺れ動くのが当たり前だ。
ウーティス寮に居る君も、フランスに居た君も、此処に居る君も。
皆、アンリだよ。本物、偽物という区別なんてできないんだ。
君は君のままでいいんだよ、アンリ」
「可笑しな人だね」
君みたいな大人は今まで一人も居なかった。
僕はどうかしている。
本当に愛されたかったのは、この人ではないのに。
この人は、父ではないのに。
「オーギュ、もっと…」
僕を愛して。
fin
■教授のプライド
二人が何処かに出掛ける話。冬だと解る街の描写。
神秘学に関連した展覧会や博物館のような場所。
行き。駅にケーキ屋があるのをアンリが見ている。
その時、オーギュストは何も言わない。
会場で他者にけなされるオーギュスト(か神秘学)
アンリはカチンときて、他者に文句を言おうとするが、
オーギュストが止める。
帰り道。ぷんぷんアンリ。
「オーギュスト、どうして言い返さなかったの?
君にはプライドというものがないの?」
「私には守りたいものはひとつしかないからね」
講師は教え子の頭をぽんと撫でた。
「さあ、帰ろう、アンリ」
オーギュストは手を差し出す。
「何、その手」
「冷たそうだから。繋いで帰ろうかと」
「子供扱いしないで」
「あ、そうだ。駅でケーキでも買っていこうか?」
最後はツンツンアンリ。
---
■ディーノに電話
「お姫様から電話とはな。なんだ、そんなに俺の声が聞きたいか?」
「できれば聞きたくないよ。君にひとつビジネスをあげる。
僕が期待する結果が得られたら、成功報酬を用意するよ」
「なんだ、金の話かよ」
「君とはビジネス以外の話をするつもりはないよ」
「人使い荒いな。で、俺に何して欲しいんだ?」
「一人、調べて欲しいんだ…彼の全てを」
「ほう。どんな奴だ?」
「シルヴァン・クラーク。19歳。聖アルフォンソ学院 高等部3年」
「お前のダチか?」
「同じ寮に居るだけだよ。写真や資料はメールで送ってあげる。
だけど、虚偽情報も混ざってるかもしれないから、慎重に」
「なんだそりゃ?」
「僕が少し調べた限りでは、見付けられなかったんだよ。彼の過去が。
シルヴァン・クラークって人間が、本当にこの世に存在するのか、調べて」
fin
---
■脅迫
ディーノ×オーギュスト
「へえ。インテリって、いけ好かねえ奴ばっかりかと思っていたんだが、
あんたは、なかなか面白い男だな。神秘学のセンセ?」
「それはどうも」
「あんたの授業なら一回くらい聞いてみたいもんだぜ」
「君が第二化学室に居たら、生徒達が落ち着いて授業ができないから、
今度また二人きりの時で良ければゆっくり教えるよ?」
「個人授業ってか?」
「ああ。そうだよ。私も君とお近付きになれて光栄なんだ。
ずっと君と話がしたかったから。会ってみて改めて解ったよ。
流石はマンゾーニ家の男だね。残虐かつ聡い」
「口説くなよ」
「アンリの方から君達に声を掛けたようだね?」
「ああ。かつて、うちと伯爵サマの間に交流があったから、ってな」
研究室がノックされた。講師が何か言う前にドアは開いた。
「オーギュ、紅茶を淹れ、て…」
「お前は学校のセンセまでこき使うのか。とんでもねえ、お姫様だな」
「ディーノ…何故、君が此処に」
「センセとオトナの話がしたくてな」
「オーギュスト、どうしてこんな男と一緒に居るの」
「お前の悪口を言ってただけだよ。な、センセ?」
「君には聞いていない。オーギュスト、説明して」
「心配してくれているのかね? 大丈夫、ただお茶を飲んでいただけだから」
「ディーノ。この部屋に二度と来ないで。彼は関係ない」
「俺は招かれて来ただけだぜ?」
「招いた? オーギュ、この男が誰だか解っているの?」
「ああ。君のお友達だから、一度話してみたかったんだ」
「どうかしている…ねえ、オーギュ。本当に、脅されていないの?」
「うん。彼と私の利害関係は一致している。それを確認しただけだ」
「利害関係?」
頭を手を置かれる。大きな、大人の手。
「君の命を守ること。それだけだ」
マフィアは薄汚い笑みを浮かべた。講師は席を立つ。
「ごめん、アンリ。これからマンゾーニと少し出掛けて来るよ」
「何処へ行くの」
「んなこと聞くなよ。オトナが二人で出掛けるって言ってんだからさ」
「オーギュ」
「すぐに戻るから。心配することはないよ、アンリ」
「なあ、センセ? ひとつ聞いてもいいか」
「なんだね?」
「あんた、あいつとどういう関係?」
「教師と生徒だよ、神秘学のね」
「それにしちゃ、構い過ぎだろ? サン・ジェルマン伯爵が、
神秘学の有名人だからってのは関係なさそうだし?」
「教師は教え子を可愛がってはいけないかね?」
「マフィアを舐めるな。俺達は壊れた人間模様を星の数ほど見てきた。
時にその修復を助け、時に、関係を抹消してきたんだからな」
「確かにね」
「人が特定の子供に対し、異常に目を掛けている時、その理由は2つしかねえ。
1つ、行き過ぎた好意を抱いている。2つ、血が繋がっている」
「成程」
「あんたはどっちだ? オーギュスト・ボージェ教授」
「どちらでもないよ」
「0点だぜ、センセ? あんたの場合は、両方さ。
そうだろう? 初代サン・ジェルマン伯爵?」
「面白いことを言うね、マンゾーニ」
「だろう? もうひとつ面白いことがあるぜ?
ボージェ教授はガキの頃、名前違った?
ガキだった頃のオーギュスト君が見付からねえんだよ」
「調べたのかね?」
「ああ。かなり広く調べたぜ」
「名前については諸事情があって言えないな。伯爵の方は物証がないね」
「確かに、伯爵かどうかは難しいな。
だが、父親かどうかの物証ならあるぜ、此処に。
あんたとアンリのDNAを見ればいいだけだからな。そして、これがアンリの髪だ」
「聡いね、マンゾーニ」
「まあな」
「センセ? アンリには言ってないんだろう? 俺が言ってやろうか?
あいつが信じるかどうかは別にして、興味深い話だと思うぜ、あいつにとってもな」
「それで、私に何か要求するつもりかね?」
「そうだな。先ずはまたデートしてくれることを約束して貰おうか?」
「私と?」
「もちろん。俺はあんたを気に入った」
「私ではなく、財産を、だろう?」
「馬鹿だな。金には興味ないね。あんたと仲良くなりたいだけだよ」
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■代償
誰も僕を愛してくれない。
だって僕は悪魔の子だもの。
誰も僕には近付かない。僕が近付けばきっと傷付けてしまう。
僕は誰も愛してはいけないんだ。
それなのに。
君は僕に近付いた。僕を愛しいと言った。
君は父のように優秀で。父と同年代の男性だった。
こんなの間違っていると解っているのに。
君を拒むことなんて、できなかった。
君が僕に与えるものは、幼い頃から欲していたものだった。
興味のある学問、優しい手、アンリと呼ぶ声。
あの人は、僕の名前すら呼んではくれなかった。
「僕は、君のことを、父の代替物として、見ているのかもしれない」
「それでも構わないよ、私は」
「オーギュ…本気で言っているの?」
「君が生きている。それだけでも充分素晴らしいことだ。
更に今は君の傍に居られる。他に望みなんてないよ」
「僕、君に嫌われたら、もう、耐えられないかもしれない」
「嫌いになんてならないよ」
「だけど、君が本当の僕を知ったら、きっと嫌いになる」
「本当の? では、今私の前に居るアンリは偽物なのかい?
人間はね、アンリ。常に同じではないのだよ。
ロボットではないのだから、常に揺れ動くのが当たり前だ。
ウーティス寮に居る君も、フランスに居た君も、此処に居る君も。
皆、アンリだよ。本物、偽物という区別なんてできないんだ。
君は君のままでいいんだよ、アンリ」
「可笑しな人だね」
君みたいな大人は今まで一人も居なかった。
僕はどうかしている。
本当に愛されたかったのは、この人ではないのに。
この人は、父ではないのに。
「オーギュ、もっと…」
僕を愛して。
fin
■オーギュスト×アンリ
ウーティス寮の内外から音は聞こえない。
まだ夜は深く、鳥も眠っている時間だった。
アンリの部屋も照明は落ちている。
通常は綺麗に片付いているのだが、この時は昨夜の痕が残っていた。
譜面立てには立て掛けたままのショパン。
その足許に閉じていないバイオリンケース。
ベッドの上ではアンリが眠っている。上等な毛布の中にはもうひとり。
神秘学の講師は起きていた。
横たわったまま、頬を片手で支えている。視線の先には教え子の寝顔。
彼の眼差しは我が子へのそれに似ていた。
琥珀の瞳が薄く開く。オーギュストの顔が映る。
暫くぼうっと見ていた。視線が絡むと、生徒は目を逸らした。
毛布を少し引き寄せて背を向ける。
講師の声は低く、教室で聞くよりずっと小さい。
「寒いのかな?」
「眠いだけ」
そう言うと生徒は壁を見詰めていた。意識も身体もまだ重い。
講師は華奢な背から視線を天井に移す。
チクタクと秒針が夜を奏でている。
「オーギュ」
「ん。何だね」
教え子の髪に触れる。上からゆっくりと撫でた。
生徒は息を吸い、僅かに口を開く。
その時、カチリと分針が傾いた。
口内の隙間は鎖された。白い手は毛布を軽く握っている。
背を向けたまま呟く。
「何でもない。僕、眠るから」
「うん。解ったよ」
講師は髪から手を離す。
琥珀の瞳は開いたまま。毛布に視線を落としていた。
講師も生徒に背を向ける。
部屋の中は仄暗いが、其処に何があるのかは解る。
机の上には占いの形で残っているタロットカード。昨夜のままだ。
そのうちの一枚が目に入る。刻まれたローマ数字は18。
「La Lune. 月は満ち欠けるもの」
大人の声に、琥珀の瞳が僅かに揺れた。
毛布を掴んでいた力が緩くなる。
細い指で自分の唇をなぞる。ひやりと冷たい。
指に口付けたまま、瞳を閉じた。
fin
まだ夜は深く、鳥も眠っている時間だった。
アンリの部屋も照明は落ちている。
通常は綺麗に片付いているのだが、この時は昨夜の痕が残っていた。
譜面立てには立て掛けたままのショパン。
その足許に閉じていないバイオリンケース。
ベッドの上ではアンリが眠っている。上等な毛布の中にはもうひとり。
神秘学の講師は起きていた。
横たわったまま、頬を片手で支えている。視線の先には教え子の寝顔。
彼の眼差しは我が子へのそれに似ていた。
琥珀の瞳が薄く開く。オーギュストの顔が映る。
暫くぼうっと見ていた。視線が絡むと、生徒は目を逸らした。
毛布を少し引き寄せて背を向ける。
講師の声は低く、教室で聞くよりずっと小さい。
「寒いのかな?」
「眠いだけ」
そう言うと生徒は壁を見詰めていた。意識も身体もまだ重い。
講師は華奢な背から視線を天井に移す。
チクタクと秒針が夜を奏でている。
「オーギュ」
「ん。何だね」
教え子の髪に触れる。上からゆっくりと撫でた。
生徒は息を吸い、僅かに口を開く。
その時、カチリと分針が傾いた。
口内の隙間は鎖された。白い手は毛布を軽く握っている。
背を向けたまま呟く。
「何でもない。僕、眠るから」
「うん。解ったよ」
講師は髪から手を離す。
琥珀の瞳は開いたまま。毛布に視線を落としていた。
講師も生徒に背を向ける。
部屋の中は仄暗いが、其処に何があるのかは解る。
机の上には占いの形で残っているタロットカード。昨夜のままだ。
そのうちの一枚が目に入る。刻まれたローマ数字は18。
「La Lune. 月は満ち欠けるもの」
大人の声に、琥珀の瞳が僅かに揺れた。
毛布を掴んでいた力が緩くなる。
細い指で自分の唇をなぞる。ひやりと冷たい。
指に口付けたまま、瞳を閉じた。
fin
■ハルヤの食いしん坊万歳
危険な水死体(ハバネロソース入り水餃子)より
危険な水死体(ハバネロソース入り水餃子)より
■危険な水死体 ジョシュア×ハルヤ編■
「ハルヤ、それはかなり辛いよ?」
「そうなの? ん、でも俺、食べたことないから、
ちょっとだけ食べてみてもいいかな?」
「あ、うん。それはもちろん」
「んん…ごほっ、けほっ」
「ハルヤ! 大丈夫かい? ほら、水だよ」
「ありがとう、ジョシュア…」
「どういたしまして」
■危険な水死体 アンリ×ハルヤ編■
「『水死体』って、食べ物に付ける名前?」
「…確かに、どうかしてるよね」
「ハルヤは、これ、食べたことあるの?」
「ううん。ないけど」
「そうなんだ。では食べてごらん、ぜひ」
「いただきます…んんっ、ごほ…アンリ、これ、辛い…」
「甘いなんて一言も言ってないよ、僕は」
「いじわる…お、お水…」
「人の苦しんでる顔って、悪くないね」
「…アンリ…ああ、舌がヒリヒリする…」
「じゃ、僕が撫でてあげようか?」
■危険な水死体 テオ×ハルヤ編■
「ごほ、けほっ、ごめんっ…俺、食べられないっ…」
「真珠が! 真珠が濡れている!…そんなに私を惑わせないでおくれ!」
「えっ? あ、あの、ちょっと…」
「美しいよ、濡れた黒い真珠…もっと近くで見てもいいかい?」
「あ、ああの、近っ…んっ…」
「ハバネロの味だねえ、ハルヤは」
「な、なななっ…」
「スパイシーかつスウィートな危険だね。あっはっは」
■危険な水死体 カミーユのキッチン編
ウーティス寮シェフとハルヤとユウタ■
「あ、あの…ハルヤ様、ユウタ様。本当に宜しいのでしょうか?」
「うん。俺、いつもお世話になってるし。たまには、カミーユのお手伝いもさせてよ」
「そうそう。今日は餃子だから、俺達も手伝えそうかなって。ねー、ハルヤ♪」
「うん。ユウタってさ、なんか慣れてるね、餃子作るの」
「俺、姉貴と一緒によく作ってたから。そんなに上手くはないけどね」
「ユウタのお姉さんと…そうなんだ」
「あのね、俺達が作ると、ぐしゃぐしゃなの混ざってるんだあ。
それで、これはユウタが作ったのでしょー、とか言われてさー。
絶対姉貴が作ったのなのにー!」
「ほんと仲良いね、ユウタとお姉さん。羨ましいよ」
■危険な水死体 アイヴィーんち編
アイヴィーとデッドプリンスの皆さん■
「なんつーか、なんで俺まで仲良くギョウザ作りしてんだ?」
「今夜はー、僕達デッドプリンスが泊まってあげるんですから、
お手伝いくらいして下さいよ、アイヴィー♪」
「泊めてあげてんのは俺だと思ってたわ」
「あー、俺、なんかもう飽きてきたー」
「何言ってるんですか、レッド。まだ3つしか作ってないのに。
ほら、ハルヤを見て下さい! スゴイ綺麗にたくさん作って!
やっぱり、エプロンハルヤは可愛いですね!」
「すごくないよ…俺は母様の手伝いしてただけだから…」
「お前等の中で嫁にするなら、ハルヤだなー、断トツで」
「だなー。俺も貰ってやってもイイぜ、ハルヤ」
「ちょっと! ハルヤは僕がお嫁さんにするんです!」
「あ、あのさ、早く作って食べようよ…おなかすいたよ、俺」
***
「できたね、水餃子。じゃあ、いただきます」
「ちょおーっと待ったー!」
「どうしたの、レッド?」
「聞いて驚け! このアルビンテイラー様が、
1コだけ『危険な水死体』を混ぜておいた!心して食えよ、野郎どもっ!!」
「サボって何かコソコソやってると思ったら、そんなことしてたのか」
「わお! ロシアンルーレットですか? 楽しそうですねっ!」
「やだ…俺、当たったらどうしよう…あんまり辛いのはちょっと…」
「じゃあ、じゃんけんして負けた奴から右回りで一個ずつ食べていこうぜ」
「じゃんけんぽん!」
***
「俺からか…んーっと、これ、にしようかな…」
「ハルヤー! フリルがキュートですー!」
「それ、何の声援だよ、シルヴァン」
「いただきます…ううっ…ごほっ」
「いきなりビンゴかよっ!?」
「けほっ、ごめんっ…俺、食べられないっ…」
「きゃいーん! ハルヤ、食べちゃいたいくらい可愛いですー!!」
「可愛いとか言うの止めてよっ、けほっ、けほっ」
「だきつきこうげきー!」
「や、シルヴァ……!?」
fin
「ハルヤ、それはかなり辛いよ?」
「そうなの? ん、でも俺、食べたことないから、
ちょっとだけ食べてみてもいいかな?」
「あ、うん。それはもちろん」
「んん…ごほっ、けほっ」
「ハルヤ! 大丈夫かい? ほら、水だよ」
「ありがとう、ジョシュア…」
「どういたしまして」
■危険な水死体 アンリ×ハルヤ編■
「『水死体』って、食べ物に付ける名前?」
「…確かに、どうかしてるよね」
「ハルヤは、これ、食べたことあるの?」
「ううん。ないけど」
「そうなんだ。では食べてごらん、ぜひ」
「いただきます…んんっ、ごほ…アンリ、これ、辛い…」
「甘いなんて一言も言ってないよ、僕は」
「いじわる…お、お水…」
「人の苦しんでる顔って、悪くないね」
「…アンリ…ああ、舌がヒリヒリする…」
「じゃ、僕が撫でてあげようか?」
■危険な水死体 テオ×ハルヤ編■
「ごほ、けほっ、ごめんっ…俺、食べられないっ…」
「真珠が! 真珠が濡れている!…そんなに私を惑わせないでおくれ!」
「えっ? あ、あの、ちょっと…」
「美しいよ、濡れた黒い真珠…もっと近くで見てもいいかい?」
「あ、ああの、近っ…んっ…」
「ハバネロの味だねえ、ハルヤは」
「な、なななっ…」
「スパイシーかつスウィートな危険だね。あっはっは」
■危険な水死体 カミーユのキッチン編
ウーティス寮シェフとハルヤとユウタ■
「あ、あの…ハルヤ様、ユウタ様。本当に宜しいのでしょうか?」
「うん。俺、いつもお世話になってるし。たまには、カミーユのお手伝いもさせてよ」
「そうそう。今日は餃子だから、俺達も手伝えそうかなって。ねー、ハルヤ♪」
「うん。ユウタってさ、なんか慣れてるね、餃子作るの」
「俺、姉貴と一緒によく作ってたから。そんなに上手くはないけどね」
「ユウタのお姉さんと…そうなんだ」
「あのね、俺達が作ると、ぐしゃぐしゃなの混ざってるんだあ。
それで、これはユウタが作ったのでしょー、とか言われてさー。
絶対姉貴が作ったのなのにー!」
「ほんと仲良いね、ユウタとお姉さん。羨ましいよ」
■危険な水死体 アイヴィーんち編
アイヴィーとデッドプリンスの皆さん■
「なんつーか、なんで俺まで仲良くギョウザ作りしてんだ?」
「今夜はー、僕達デッドプリンスが泊まってあげるんですから、
お手伝いくらいして下さいよ、アイヴィー♪」
「泊めてあげてんのは俺だと思ってたわ」
「あー、俺、なんかもう飽きてきたー」
「何言ってるんですか、レッド。まだ3つしか作ってないのに。
ほら、ハルヤを見て下さい! スゴイ綺麗にたくさん作って!
やっぱり、エプロンハルヤは可愛いですね!」
「すごくないよ…俺は母様の手伝いしてただけだから…」
「お前等の中で嫁にするなら、ハルヤだなー、断トツで」
「だなー。俺も貰ってやってもイイぜ、ハルヤ」
「ちょっと! ハルヤは僕がお嫁さんにするんです!」
「あ、あのさ、早く作って食べようよ…おなかすいたよ、俺」
***
「できたね、水餃子。じゃあ、いただきます」
「ちょおーっと待ったー!」
「どうしたの、レッド?」
「聞いて驚け! このアルビンテイラー様が、
1コだけ『危険な水死体』を混ぜておいた!心して食えよ、野郎どもっ!!」
「サボって何かコソコソやってると思ったら、そんなことしてたのか」
「わお! ロシアンルーレットですか? 楽しそうですねっ!」
「やだ…俺、当たったらどうしよう…あんまり辛いのはちょっと…」
「じゃあ、じゃんけんして負けた奴から右回りで一個ずつ食べていこうぜ」
「じゃんけんぽん!」
***
「俺からか…んーっと、これ、にしようかな…」
「ハルヤー! フリルがキュートですー!」
「それ、何の声援だよ、シルヴァン」
「いただきます…ううっ…ごほっ」
「いきなりビンゴかよっ!?」
「けほっ、ごめんっ…俺、食べられないっ…」
「きゃいーん! ハルヤ、食べちゃいたいくらい可愛いですー!!」
「可愛いとか言うの止めてよっ、けほっ、けほっ」
「だきつきこうげきー!」
「や、シルヴァ……!?」
fin
■オーギュスト×アンリ
■エンジュ、アンリシナリオベース
■エンジュ、アンリシナリオベース
聖アルフォンソ島 植物園。
その一画を神秘学の講師と受講生が散歩していた。
ふいに講師が立ち止まる。ある花の前で身を屈めた。
「美しいものには毒があると言うけれど。この花しかり、人間しかりだね」
彼が愛でていたのは紫の花。猛毒トリカブト。
隣に立つ教え子は、講師を軽く睨み付ける。
「それ、誰かへの悪口?」
「一般論だよ、一般論」
穏やかに微笑み、また歩き出す。
生徒は不満を露わにしながらも、講師の後に続いた。
日曜の午後、アンリはオーギュストに誘われて植物園まで足を運んでいた。
「他に何か用事があるかね?」と聞かれ、「別にないけど」と返したからだ。
今日、ウーティスの寮生達は皆、出払っていた。
一人で図書館にでも行こうかと学院内を歩いているところで、講師と遭遇したのである。
日曜の植物園には、ちらほらと人が居る。
緑豊かな島の中でも、とりわけ新鮮な酸素と草木の香りで満ちている場所だった。
アンリは此処で考え事をしながら歩くことがあった。
緑に囲まれていると、脳がすっきりと澄んでいく。
気のせいというだけではないのだろう。
今月はトリカブトの花が見頃だった。
教授が言ったようにこの紫は美しく、かつ、人の命を奪うほどの毒を内包する。
ここ一帯は『アンジェロのハーブ園』と呼ばれる。
聖アルフォンソ島内では、『美しき毒遣い』と名高いアンジェロ・ボルジア。
ボルジア家は美貌と非道を併せ持つ。
この一家に嫌われた者は、皆、原因不明の死を遂げた。
歴史から葬られた末弟アンジェロは聖アルフォンソ学院の卒業生だ。
この植物園に残された記録によると、在学当時は此処でハーブを育てていたらしい。
そして、アンジェロの実兄チェーザレの遺体から、
此処で栽培されていた植物に酷似したものが発見されたという研究もある。
また、ボルジア家が衰退するきっかけは、父ロゴリード・ボルジアの急死。
原因としてはマラリア説が主流だが、毒殺を唱える説もある。
チェーザレとロドリーゴが、政敵に飲ませる筈の毒を、
手違いで煽ってしまった、というものだ。
並べる杯を誤った者、が居るらしい。
あるいは、関与していたのは花園の主だったのかもしれない。
アンリは花を鑑賞しながら、そんなことを思い出していた。
アンジェロの園に住む花達には全て何らかの毒性があった。
トリカブトの前方に咲いているのはパッシフローラだ。
花弁は中央から外側に向けて、紫、白、青の斑模様。なんとも美しく異様な彩りだ。
花の前面には迫り出した3本の雄蕊。
その高揚した紫が、花を更にグロテスクに見せている。
やがて実るのは色濃い赤に覆われた果物。中は派手な黄色だ。
果実は無毒だが、葉には幻覚を見せるハルマラ等が含まれている。
アンリは足許のパッシフローラを見下ろす。
「この葉が有毒だったなんて、此処で初めて知ったよ。
果実のパッションフルーツは美味しいのにね」
「これはアルカイド系の毒物だからね、神経系の沈静作用を持つために、
神経症不眠症、痙攣などの薬草だった歴史もあるんだよ」
博識な横顔を見上げる。
「何でも知ってるんだね、君は」
「そう聞いたことがあるだけだよ、昔ね」
知識の泉。そう形容しても過言ではない。
何の分野に於いても、オーギュストとは圧倒的な知識の差がある。
年齢の差というよりは、知力の差だろう。もはや、敗北感も感じない。
「ねえ、ボージェ教授?」 講師の少し前を歩く。
「君は、チェーザレがアンジェロに毒殺された、という説も知っているのかな?」
「聞いたことはあるよ。アンリは、植物園の研究資料を読んだのかね?」
「うん。アンジェロの研究者が書いたものをね」
「主な歴史書には、チェーザレは戦死した、と記述されているからね。
書物というものは人間が書いた物だから、全てが真実とは限らない。
専門家と呼ばれる者が、思い込みと不十分なデータを用いて、
机上で捏造した歴史もこの世にはあるからね」
神秘学の講義中にも聞いたことがある台詞だった。
教科書を鵜呑みにしてはいけないよ、とこの教師は言うのだ。
彼は講義で、一つの物事に対して、今ある説を幾つも並べ立てる。
その種類は実に様々だ。如何にも尤もらしい説から、
先ず在り得ないような説まで、同列に淡々と紹介する。
どれが正しいのか彼は明言せず、生徒達に委ねる。
そのまま講義は終わってしまうものだから、
初めて彼の講義を聞く者は大抵、首を傾けて教室を出て行く。
次回の講義まで残っている生徒の方が稀だ。
あの先生は可笑しなことばかり言っていて、
結局どれが答えか解らない、とでも思うのだろう。
皆には、彼の話は変人の戯言にしか聞こえないらしい。
おかげで、変わった講師の講義には変わった人種しか集まらない。
アンリにとっても、彼は変わった人ではあるけれど、退屈はしない。
正解がないものは自分の好きなように考える事ができる。
アルフォンソ王と同じだ。彼も謎に包まれている。
次に見えてきた花は、ジキタリス。白い釣鐘状の花は愛らしい。
英名には、見目に相応しい『狐の手袋』、『妖精の帽子』など、
メルヘンチックな名が並んでいるが、これも毒草であり、
心臓麻痺、視覚障害などの中毒症状を引き起こす。
花の内側にある赤ワインにも似た泡沫模様が血飛沫に見えないこともない。
「チェーザレか…懐かしい人だね」
教授はぽつりと言った。教室でも時折見せる、何処か遠くを眺める横顔。
彼の講義は、生徒に聞かせるものというよりは、
ただの独白のように聞こえる時がある。
視線は花に向いているが、焦点は合っていないようだった。
「オーギュスト。懐かしい、ってどういうこと?」
「ルネッサンス期の話だからね。チェーザレ・ボルジア。彼は有能な人だった」
講義と同じように滔々と語り始めた。
「参謀にもルネッサンスの名高い人物が揃っている。
建築に手を貸したのはレオナルド・ダ・ヴィンチだ。
チェーザレは父母に溺愛されたせいか、少々癇癪持ちではあったけれどね」
「そうなの?」
「うん。例えば、彼は妹を愛していた、彼女の夫を殺めるほどにね。
思う通りにならないなら、残虐非道な手段をも使い、自己の理想へと突き進む。
君主としては確かに、カリスマ性の高い人と言えるね。
敵も多かった。彼は自分を狙う者を笑顔で食事に誘う。
大勢で楽しい晩餐会を開催するんだ」
それがどんな絵だったか、アンリには容易に想像できた。
テーブルにはさぞ豪華な料理が並んでいたことだろう。
帰宅後、やがて苦しみ出すとは知らずに。
華やかな衣装を纏い、招待客は談笑していたんだ、毒殺魔と一緒に。
「成程。彼は絵の具を使わずに描くことができたんだね、『最後の晩餐』を」
ボルジア家の者は、毒の調合により、息が止まるまでの時間を自在に操れたという。
当時の医学では検出できない毒物だった為に、そう簡単には足が付かない。
彼等の思うまま、邪魔者が一人、また一人と倒れていく。
客人が皆帰った後、チェーザレは、妖艶に嗤っていたことだろう。
時には目の前で悶え苦しむ形相を肴に、美酒でも呷っていたのかもしれない。
アンリは冷たい笑みを浮かべる。それは自嘲を示すものだった。
「僕は、毒で殺されることはないだろうね」
「どうして、そう思うんだい?」
「だって、毒殺というのは、相手を信じることが前提だもの。
敵に出された料理を食べる。食べても大丈夫だと信じた、ということでしょう?」
そこまで言うと笑みは消えた。氷の表情だけが残る。
「だから、僕は平気。信じない。僕には信じるという機能が欠けているから」
俯く生徒を教授は見守っていた。『信じない』と言った時の声。
その言葉は本音の裏返しなのではないか、と講師は感じた。
信じるだけ無駄だと学んでしまった。
どんなに信じても、得られなかったものがあるからだ。
美しい花。その奥に毒を抱えている。
幼い頃に植え付けられた毒が未だにこの子を蝕んでいる。
けれど、アンリは花とは違う。花にないものを身に付けている。
講師は生徒に必要な言葉を掛ける。
「君は、殺されることはないよ、アンリ」
「不確定なことだ。断定なんかできないよ」
講師は教え子の頭に手を置く。
この美しい髪や傲慢さはチェーザレに少し似ているかもしれない。
繊細で傷付き易い内面はアンジェロ似か。
末弟は父や兄が実行してきた暗殺計画の一翼を担いながらも、苦しんでいた。
唯一の家族から毒薬の調合を強いられること、
それは、当時の彼にとって、避けられないことだった。
チェーザレの没後、アンジェロはイタリアから聖アルフォンソ島に戻ってきた。
そして、此処で、立ち尽くしていたのだ。
かつて此処にいた自分が慈しみ、育てていたハーブ園。
花の美しさに微笑みながらも、瞳からは涙が零れていた。
声にならない声で「ごめんなさい」と何度も呟きながら。
可憐に咲く花の前で、今まで犯してきた過ちを懺悔していた。
アンジェロの涙は、どの歴史書にも残っていない。
講師の胸にだけ刻まれている、遠い日の記憶だった。
当時の自分の名前は何だっただろう。彼には「先生」と呼ばれていた筈だが。
講師は現在の教え子の髪を撫でる。かつての教え子アンジェロにもそうしたように。
「アンリには聡明な頭脳がある。それにマフィアのお友達も居るんだろう?」
生徒の目付きが変わる。嫌そうな表情を露見させ、容赦なく切り捨てた。
「お友達じゃないよ、あんな暑苦しいイタリアーノ」
「そう言えば、君の寮にもイタリア出身の子が居たね?」
「ああ。僕はことごとく、イタリアーノとはそりが合わない定めらしいね」
友人の話を持ち掛けるとアンリは肩を竦めつつも、表情が僅かに変わる。
この子に植えられた毒は、聖アルフォンソ島に来てから確実に癒されている。
フランスに居る頃よりずっと、アンリは自由に振舞えるようになった。
今、君は『解毒剤』となるものに囲まれている。
講師にとっても、それは喜ばしいことだった。
本人が自覚しているのかは解らないけれど。
アンリは、気分を害した、と言わんばかりに花園から歩き出した。
「彼等を思い出しただけで疲れたな。君のせいだ。責任取って」
教授は苦笑というよりはむしろ、微笑ましく生徒の背を見つめていた。
「ではニッポンコーナーの茶室で休んでいくかい?」
「カフェの方がいい。茶室には紅茶がないもの」
「はいはい」
咲き誇るハーブ達の間を講師と生徒が歩いていく。
傾いた日差しがあたたかい。そろそろお茶の時間だった。
fin
その一画を神秘学の講師と受講生が散歩していた。
ふいに講師が立ち止まる。ある花の前で身を屈めた。
「美しいものには毒があると言うけれど。この花しかり、人間しかりだね」
彼が愛でていたのは紫の花。猛毒トリカブト。
隣に立つ教え子は、講師を軽く睨み付ける。
「それ、誰かへの悪口?」
「一般論だよ、一般論」
穏やかに微笑み、また歩き出す。
生徒は不満を露わにしながらも、講師の後に続いた。
日曜の午後、アンリはオーギュストに誘われて植物園まで足を運んでいた。
「他に何か用事があるかね?」と聞かれ、「別にないけど」と返したからだ。
今日、ウーティスの寮生達は皆、出払っていた。
一人で図書館にでも行こうかと学院内を歩いているところで、講師と遭遇したのである。
日曜の植物園には、ちらほらと人が居る。
緑豊かな島の中でも、とりわけ新鮮な酸素と草木の香りで満ちている場所だった。
アンリは此処で考え事をしながら歩くことがあった。
緑に囲まれていると、脳がすっきりと澄んでいく。
気のせいというだけではないのだろう。
今月はトリカブトの花が見頃だった。
教授が言ったようにこの紫は美しく、かつ、人の命を奪うほどの毒を内包する。
ここ一帯は『アンジェロのハーブ園』と呼ばれる。
聖アルフォンソ島内では、『美しき毒遣い』と名高いアンジェロ・ボルジア。
ボルジア家は美貌と非道を併せ持つ。
この一家に嫌われた者は、皆、原因不明の死を遂げた。
歴史から葬られた末弟アンジェロは聖アルフォンソ学院の卒業生だ。
この植物園に残された記録によると、在学当時は此処でハーブを育てていたらしい。
そして、アンジェロの実兄チェーザレの遺体から、
此処で栽培されていた植物に酷似したものが発見されたという研究もある。
また、ボルジア家が衰退するきっかけは、父ロゴリード・ボルジアの急死。
原因としてはマラリア説が主流だが、毒殺を唱える説もある。
チェーザレとロドリーゴが、政敵に飲ませる筈の毒を、
手違いで煽ってしまった、というものだ。
並べる杯を誤った者、が居るらしい。
あるいは、関与していたのは花園の主だったのかもしれない。
アンリは花を鑑賞しながら、そんなことを思い出していた。
アンジェロの園に住む花達には全て何らかの毒性があった。
トリカブトの前方に咲いているのはパッシフローラだ。
花弁は中央から外側に向けて、紫、白、青の斑模様。なんとも美しく異様な彩りだ。
花の前面には迫り出した3本の雄蕊。
その高揚した紫が、花を更にグロテスクに見せている。
やがて実るのは色濃い赤に覆われた果物。中は派手な黄色だ。
果実は無毒だが、葉には幻覚を見せるハルマラ等が含まれている。
アンリは足許のパッシフローラを見下ろす。
「この葉が有毒だったなんて、此処で初めて知ったよ。
果実のパッションフルーツは美味しいのにね」
「これはアルカイド系の毒物だからね、神経系の沈静作用を持つために、
神経症不眠症、痙攣などの薬草だった歴史もあるんだよ」
博識な横顔を見上げる。
「何でも知ってるんだね、君は」
「そう聞いたことがあるだけだよ、昔ね」
知識の泉。そう形容しても過言ではない。
何の分野に於いても、オーギュストとは圧倒的な知識の差がある。
年齢の差というよりは、知力の差だろう。もはや、敗北感も感じない。
「ねえ、ボージェ教授?」 講師の少し前を歩く。
「君は、チェーザレがアンジェロに毒殺された、という説も知っているのかな?」
「聞いたことはあるよ。アンリは、植物園の研究資料を読んだのかね?」
「うん。アンジェロの研究者が書いたものをね」
「主な歴史書には、チェーザレは戦死した、と記述されているからね。
書物というものは人間が書いた物だから、全てが真実とは限らない。
専門家と呼ばれる者が、思い込みと不十分なデータを用いて、
机上で捏造した歴史もこの世にはあるからね」
神秘学の講義中にも聞いたことがある台詞だった。
教科書を鵜呑みにしてはいけないよ、とこの教師は言うのだ。
彼は講義で、一つの物事に対して、今ある説を幾つも並べ立てる。
その種類は実に様々だ。如何にも尤もらしい説から、
先ず在り得ないような説まで、同列に淡々と紹介する。
どれが正しいのか彼は明言せず、生徒達に委ねる。
そのまま講義は終わってしまうものだから、
初めて彼の講義を聞く者は大抵、首を傾けて教室を出て行く。
次回の講義まで残っている生徒の方が稀だ。
あの先生は可笑しなことばかり言っていて、
結局どれが答えか解らない、とでも思うのだろう。
皆には、彼の話は変人の戯言にしか聞こえないらしい。
おかげで、変わった講師の講義には変わった人種しか集まらない。
アンリにとっても、彼は変わった人ではあるけれど、退屈はしない。
正解がないものは自分の好きなように考える事ができる。
アルフォンソ王と同じだ。彼も謎に包まれている。
次に見えてきた花は、ジキタリス。白い釣鐘状の花は愛らしい。
英名には、見目に相応しい『狐の手袋』、『妖精の帽子』など、
メルヘンチックな名が並んでいるが、これも毒草であり、
心臓麻痺、視覚障害などの中毒症状を引き起こす。
花の内側にある赤ワインにも似た泡沫模様が血飛沫に見えないこともない。
「チェーザレか…懐かしい人だね」
教授はぽつりと言った。教室でも時折見せる、何処か遠くを眺める横顔。
彼の講義は、生徒に聞かせるものというよりは、
ただの独白のように聞こえる時がある。
視線は花に向いているが、焦点は合っていないようだった。
「オーギュスト。懐かしい、ってどういうこと?」
「ルネッサンス期の話だからね。チェーザレ・ボルジア。彼は有能な人だった」
講義と同じように滔々と語り始めた。
「参謀にもルネッサンスの名高い人物が揃っている。
建築に手を貸したのはレオナルド・ダ・ヴィンチだ。
チェーザレは父母に溺愛されたせいか、少々癇癪持ちではあったけれどね」
「そうなの?」
「うん。例えば、彼は妹を愛していた、彼女の夫を殺めるほどにね。
思う通りにならないなら、残虐非道な手段をも使い、自己の理想へと突き進む。
君主としては確かに、カリスマ性の高い人と言えるね。
敵も多かった。彼は自分を狙う者を笑顔で食事に誘う。
大勢で楽しい晩餐会を開催するんだ」
それがどんな絵だったか、アンリには容易に想像できた。
テーブルにはさぞ豪華な料理が並んでいたことだろう。
帰宅後、やがて苦しみ出すとは知らずに。
華やかな衣装を纏い、招待客は談笑していたんだ、毒殺魔と一緒に。
「成程。彼は絵の具を使わずに描くことができたんだね、『最後の晩餐』を」
ボルジア家の者は、毒の調合により、息が止まるまでの時間を自在に操れたという。
当時の医学では検出できない毒物だった為に、そう簡単には足が付かない。
彼等の思うまま、邪魔者が一人、また一人と倒れていく。
客人が皆帰った後、チェーザレは、妖艶に嗤っていたことだろう。
時には目の前で悶え苦しむ形相を肴に、美酒でも呷っていたのかもしれない。
アンリは冷たい笑みを浮かべる。それは自嘲を示すものだった。
「僕は、毒で殺されることはないだろうね」
「どうして、そう思うんだい?」
「だって、毒殺というのは、相手を信じることが前提だもの。
敵に出された料理を食べる。食べても大丈夫だと信じた、ということでしょう?」
そこまで言うと笑みは消えた。氷の表情だけが残る。
「だから、僕は平気。信じない。僕には信じるという機能が欠けているから」
俯く生徒を教授は見守っていた。『信じない』と言った時の声。
その言葉は本音の裏返しなのではないか、と講師は感じた。
信じるだけ無駄だと学んでしまった。
どんなに信じても、得られなかったものがあるからだ。
美しい花。その奥に毒を抱えている。
幼い頃に植え付けられた毒が未だにこの子を蝕んでいる。
けれど、アンリは花とは違う。花にないものを身に付けている。
講師は生徒に必要な言葉を掛ける。
「君は、殺されることはないよ、アンリ」
「不確定なことだ。断定なんかできないよ」
講師は教え子の頭に手を置く。
この美しい髪や傲慢さはチェーザレに少し似ているかもしれない。
繊細で傷付き易い内面はアンジェロ似か。
末弟は父や兄が実行してきた暗殺計画の一翼を担いながらも、苦しんでいた。
唯一の家族から毒薬の調合を強いられること、
それは、当時の彼にとって、避けられないことだった。
チェーザレの没後、アンジェロはイタリアから聖アルフォンソ島に戻ってきた。
そして、此処で、立ち尽くしていたのだ。
かつて此処にいた自分が慈しみ、育てていたハーブ園。
花の美しさに微笑みながらも、瞳からは涙が零れていた。
声にならない声で「ごめんなさい」と何度も呟きながら。
可憐に咲く花の前で、今まで犯してきた過ちを懺悔していた。
アンジェロの涙は、どの歴史書にも残っていない。
講師の胸にだけ刻まれている、遠い日の記憶だった。
当時の自分の名前は何だっただろう。彼には「先生」と呼ばれていた筈だが。
講師は現在の教え子の髪を撫でる。かつての教え子アンジェロにもそうしたように。
「アンリには聡明な頭脳がある。それにマフィアのお友達も居るんだろう?」
生徒の目付きが変わる。嫌そうな表情を露見させ、容赦なく切り捨てた。
「お友達じゃないよ、あんな暑苦しいイタリアーノ」
「そう言えば、君の寮にもイタリア出身の子が居たね?」
「ああ。僕はことごとく、イタリアーノとはそりが合わない定めらしいね」
友人の話を持ち掛けるとアンリは肩を竦めつつも、表情が僅かに変わる。
この子に植えられた毒は、聖アルフォンソ島に来てから確実に癒されている。
フランスに居る頃よりずっと、アンリは自由に振舞えるようになった。
今、君は『解毒剤』となるものに囲まれている。
講師にとっても、それは喜ばしいことだった。
本人が自覚しているのかは解らないけれど。
アンリは、気分を害した、と言わんばかりに花園から歩き出した。
「彼等を思い出しただけで疲れたな。君のせいだ。責任取って」
教授は苦笑というよりはむしろ、微笑ましく生徒の背を見つめていた。
「ではニッポンコーナーの茶室で休んでいくかい?」
「カフェの方がいい。茶室には紅茶がないもの」
「はいはい」
咲き誇るハーブ達の間を講師と生徒が歩いていく。
傾いた日差しがあたたかい。そろそろお茶の時間だった。
fin
■ジョシュアの電話ベース
■時間軸:小説のショシュア編 続編
■時間軸:小説のショシュア編 続編
聖アルフォンソ学院入学初日。
新入生のジョシュアは生徒代表に連れられて、学院を案内して貰った。
想像以上に広い敷地で、施設から施設までの移動にも時間がかかった。
その道すがら、生徒代表のヤン・ハシェクは、新入生の緊張を解く目的で、
適当な話題を持ち掛ける様子は見受けられなかった。
それでも、ジョシュアが疑問や不安を覚えた時には、
まるで心を見透かしているかのように、ぽつぽつと言葉が掛けられる。
彼の紺色のカーディガンや大きめのワイシャツは、あまり上品な装いではなかった。
線が細いせいで、ひょろ長く見える。外見は健康的とはちょっと言い難い。
彼は最高学年と言っていたから、年齢は18歳前後の筈だ。
ジョシュアより5歳上というだけなのに、
まるで教師のような風貌で、なかなか生徒には見えなかった。
不思議な人だなあ、というのがジョシュアの正直な感想だった。
ヤンはずり落ちてきた眼鏡を直しながら呟く。
「えっと…これで大体回ったかなあ?」
なんとなく問い掛けにも聞こえるが、独り言なのだろうか。
彼は普段から声が大きくないようで区別が難しい。
彼の横顔は生徒と言うよりは、やはり大人に見える。
しかし、話し方は子供っぽい。少々小さな声で、ぼそぼそと話している。
子供と大人の両面を持ち合わせるアンバランスさがある。ヤンはこちらを向いた。
「13歳で此処に来て、色々不安もあると思うけど、
困ったこととかあったら、いつでも聞きに来ていいからね?
僕、シュヌーシア寮の端っこに居るからさ」
「はい」
「まあ、君はウーティスだから、同じ寮のエドの方が近いかな。
エドはね、僕なんかより頼りになる人だから。彼にも何でも聞いてね?」
エド、というのはウーティス寮の最高学年。エドガー・ラッセル。
さっき、寮に行った時、彼に会った。金色の短髪で活発そうな人だった。
彼等の遣り取りを聞いていると、どうやら仲が良いようだ、となんとなく解った。
さらに言えば、生徒代表のヤンの方が、立場が下のように聞こえた。
「それじゃ、君の寮まで送るよ」
学院案内はこれで終わりのようだ。
ジョシュアはお礼を言わなくては、とヤンに向き直る。
今日は日曜日。生徒は休日だ。
生徒代表の任務とは言え、自分の為に時間を割いてくれた。
彼の学院案内は解り易くて、丁寧なものだった。
ちゃんと今日のお礼を言いたい。ジョシュアが口を開きかけたところで、
生徒代表から「あっ」という小さな声が上がった。
「ごめん、ジョシュア」
「はい?」
「僕、忘れてた、大事なこと。今日、一番大事なことだったのに」
ジョシュアが首を傾げていると、ヤンは珍しく微笑んだ。
笑った顔は、風貌よりずっと幼く見えた。
「君に見せたいものがあったんだ。もう少し付き合って貰ってもいいかな?」
前屈み気味に歩く彼の後に続いていくと、其処は講堂のようだった。
ジョシュアが建物を眺めながら歩く。ヤンは後ろを振り返らずに話す。
「此処はね、築200年くらいなんだ。結構新しい建物だよねっ、よいしょっと」
ヤンはあまり腕力がないらしく、両手でドアを押していた。
厳かな音がして、木製の扉が開く。
「さあ、入って。ジョシュア。君におっきなプレゼントが届いてるよ」
広い場所だった。二人の靴音だけが響く。
視界の右側に何か映った。その色彩には覚えがあって。
まさか、という想いで見上げた。
あの絵。
ジョシュアは深紅の瞳を見開いたまま、声を失った。
洪水のように過去の記憶が押し寄せる。
両親と一緒に居た頃、いつも眺めていた。
父も母も大好きだったあの絵。
暫くの間、生徒代表は黙っていた。
やがて、ゆっくりと靴音を響かせて隣に立つ。
「良い絵だね、『アルフォンソ王の戴冠』って」
「あ、あの…」
「そう。君のご実家にあった絵だよ」
「でも、どうして、此処に…」
父の死後、何処かに消えてしまった絵だった。
おそらく母が、目に映らない所へ隠したのだろう。
幸福だった過去を思い出さないように。
生徒代表は絵画を見上げている。
オレンジ色の日差しを浴びて、彼には長い影が出来ていた。
「一応、匿名で学院に寄贈されたものなんだ、君の入学日に合わせてね。
寄贈品だから、形式上は学院の物ってことになるけど。
君が卒業する時には持って帰ってもいいんじゃないかな。
だって、君の家にあったものだもんね?」
ヤンの眼鏡レンズには夕陽が反射している。
「贈り主さんはきっと、君が学院に居る間、
寂しくないようにって思ったのかな。素敵なサンタさんだね」
「これは、グラントの伯父さんが送ってくれたんですか?」
「ごめん。名前はね、言っちゃダメって言われてるから、僕は言えないけど。
君の保証人さんなんだよ。君は誰が保証人なのか、知らされてないらしいね?」
「ええ」
「大丈夫だよ。時が来れば自然と解るよ、誰なのか。全部解る日が来るから」
ジョシュアの頭の中には、血族の顔が数名浮かぶ。
母方のグラント姓の人ではないのだろうか?
だが、父方の血族は既に縁を切られているも同然だ。
では血族以外の誰かだろうか。胸の中は感謝でいっぱいだった。
その人にお礼も言うことができないなんて。
「ねえ。君は『婚約数』って数を聞いたことあるかな?」
「え? いいえ…」
唐突に尋ねられた。婚約数。ジョシュアは初めて聞く単語だった。
数、ということは数学の話なのだろうか。
ヤンの声が僅かに明るくなったような気がする。
「婚約数っていうのはね? 見た目は全然違う2つの数が、
見えない糸で結ばれていることを言うんだ。
1と自分を除いた約数の和が、お互いの数になる組があるんだよ」
ジョシュアは決して数学が苦手というわけではなかったが、訳が解らなくなる。
ヤンがこれから何を話そうとしているのか全く掴めず、戸惑いを隠せなかった。
眼鏡の生徒代表は、深紅の瞳を見つめ、緩やかな口振りで話し始めた。
「1番小さい婚約数の二人はね、48と75」
ヤンは其処に透明な黒板があるかのように、宙に数字を書いていく。
「48はね、1と48を除いた約数が、2、3、4、6、8、12、16、24だから、和は75でしょ?」
ジョシュアにはそれが正答なのかさえ判断できない。
彼は口にするのと同じ速度で暗算しているのか、元々答えを記憶しているのだろうか。
ジョシュアは目の前に居る上級生に、尊敬の念を抱き始めていた。
ヤンの指は魔法の杖のように、軽やかに動く。
「それで、75は、1と75を除いた約数が、3、5、15、25で、和は48なんだ。
ほら、ね? 48のパートナーは75で、75のパートナーは48。ね。なんかすごいよね?」
「すごいですね…」
ふわふわとした口調で、数学教師の如く話しているヤンに対して、
「すごい」とジョシュアは言ったのだが、本人にはそこまで伝わらなかったようだ。
こくんと頷いて、楽しそうにしている。
「うん。すごいよねえ、婚約数って。
見つけた人は、きっと、飛び上がるほど嬉しかったと思うなあ」
ヤンはスローテンポながらも、生き生きと話しているように見えた。
だが、ジョシュアは混乱してきた。一体何の話をしていて数学の話になったんだろう。
「例えば、君が『48さん』だとするでしょ?」
ヤンはジョシュアの胸の前で『48』と宙に描いた。
思わず、ジョシュアは自分の胸を見てしまう。
其処に透明な数字が浮かんでいるように感じた。
次に、彼は大きな絵画に向かって『75』と刻んだ。
「君にこの絵をくれたのは『75さん』だと思うんだあ、僕。
二人は一見、全然違う人なのに、不思議な糸で結ばれているんだよ」
天井の高い講堂では、物静かな声もひとつひとつ拾われる。
「今はまだ、繋がりが見えないかもしれない。
だけどね、結ばれてるんだよ、48と75は。
婚約数の糸は永遠に切れることがない。透明で見えないけど、強い強い糸なんだ」
ヤンはジョシュアを振り返って、微笑する。
「君の『75さん』はね、君のこと、とっても大切に想ってるよ」
眼鏡の奥の灰色の瞳が、とても穏やかな色に見えた。
「ああ、ごめんね。こういう話すると、またエドに怒られちゃうなあ。
『新入りにいきなり言うことじゃないだろ』って。
でも僕、他にどう言っていいか解らないんだ。ごめんね?」
「いえ、あの…ありがとうございます」
「さてとっ」
ヤンは講堂の扉に身体を向ける。
「おなか空いてきたね。そろそろ帰ろっか?
エドに『帰って来るの遅い』って怒られちゃいそうだし」
「はい、解りました」
相変わらず遅い歩みでヤンは前に進んでいく。
外は淡い菫色。空気が綺麗なせいか、高く見えた。
「今日のばんごはん、なにかなあ」
生徒代表はのんびりと独り言を呟いていた。
ウーティス寮まで送ってくれた。サロンのベランダではエドガーが待っていた。
二人の姿を見ると、身軽に走って、こちらにやってきた。
その勢いのまま、エドガーはヤンの頭を小突く。
案の定、ヤンはエドガーに「遅い」と怒られていた。
怒られた生徒代表は灰色の頭を掻きながら「ごめん」と謝っていた。
新入生が生徒代表から寮の最高学年へと引き渡される。
これで今日の生徒代表の仕事はおしまいだ。
エドガーとジョシュアが、ヤンの猫背を見送っていると、
彼の足取りが、よろよろと、ふらつき始めた。
真っ直ぐに歩いていたのが、大きく右側に反れている。
急に酔っ払ったかのようだ。彼に何が起こったんだろう。
ジョシュアは心配になって駆け出そうとした。
その時、隣のエドガーが笑った。
「まーた、なんか数えてやがるな」
「…数える?」
「そ。あいつのクセ。新入り案内が終わったから、気ぃ抜いてんだろ」
エドガーは大きく息を吸って、笑顔のまま叫んだ。
「バカ! 前見て歩け! 転ぶぞ!」
2秒程の時差を経て、ヤンはこちらを向こうとした。
振り向きざま、何かに視線の注意を奪われ、身体が傾いた。
やたらとスローモーションな動きで、ぱたりと転んだ。
ジョシュアは、呆然と生徒代表を見つめていた。
ヤンは上体を起こすと、汚れた衣服を気にする様子はなく、地面の上で正座した。
ズレた眼鏡だけを押し戻し、地面に顔を近付けていた。
すると、ほっとしたような表情に変わる。
次の瞬間には手を着いて、地面に向かって何か話し掛けていた。
「あーありゃ、数えてたのはアリだな」
ジョシュアはエドガーを見上げる。こちらの最高学年は、体育会系の身体付きだった。
「…アリ、ですか? ヤンは昆虫に興味が?」
「いんや、虫じゃなくて。あいつの場合は、数えられれば何でもいいんだわ。
動物でも静止物でもな。目にしたもんは何でも数えたがるんだよ。
あれは、そーゆー習性を持った生き物だから。気にしなくていいぜ?」
それは趣味の類なのだろうか、とジョシュアは不思議に思う。
エドガーはよく伸びる声で叫んだ。
「ヤーン! 大丈夫かー?」
彼は地面に座り込んだまま、軽く手を上げた。
大丈夫、という意味らしい。きっと怪我はなかったのだろう、とジョシュアは思った。
エドガーは新入りに向かって笑い掛けた。
「違うぜ、ジョシュア」
「え? 何がです?」
「あれは『アリは踏まなかったから大丈夫』ってイミさ。バカだろ?」
そう言う笑顔は、愛玩動物でも見ているかのようだった。
バカ、と言ってのけた。
どちらかと言うと、彼が持つ独特の空気は、
天才の部類なのではないかと思っていたのだけど。
今の光景を見た後では、ちょっと解らなくなってきていた。
ヤンは一人で立ち上がって、シュヌーシアに帰っていく。
「俺達も帰るぞ、腹減ったし」
エドガーに連れられて、これから自分の家となるウーティス寮に向かう。
風変わりではあるけれど、美しい建築物だ。玄関には多くの絵。
ヤンはこれらを在校生や卒業生の作品だと説明していた。
「なあ、ジョシュア。さっきから気になってんだけどさ」
「何ですか?」
「それ、なんで胸に差してんの?」
胸ポケットには月桂樹の小枝があった。
森を案内された時、ヤンは何気なく枝を手折り、此処に入れたのだ。
彼に貰いました、と伝えるとエドガーは首を捻った。
ジョシュアにもヤンの行動の意図は解らなかったが、
少し変わった雰囲気の人だし、彼なりの歓迎の印なのだろうと思っていた。
きっと、新入生には皆、こうやって月桂樹をプレゼントしているのだろうと。
「えっと、ヤンはいつも新入生にこうしているんじゃ…」
「いや、初めて。俺が知る限りだけどな」
「そうですか…」
「ま、いいか。メシにしようぜ。お前のこと、皆に紹介するからさ」
他の生徒達に会う。そう思うと、少し緊張が増した。
皆に会う前に、ひとつ聞いておきたいことがあった。
「すみません、エドガー。あの、ヤンは数学が好きなんですか?」
「あっ、また初日から新入りに数学の話したのかよ!
ったく、数学バカが。悪いなー、後でちょっとシメとくわ」
「い、いえ、そんな…」
「あいつ、言いたいこと、言葉じゃ説明できないからって、
数字で言おうとするんだけど、聞かされてる方は余計解らないっつの。なあ?」
エドガーの意見に同意はできるが、ヤンのことも少し解るような気がしていた。
彼は本当に数学が好きなんだと思う。
好きな数字を使って、俺に何かを言おうとしていた。
数学の話をしている彼は、今日見た中で、一番楽しそうに見えた。
―― 君の『75さん』はね、君のこと、とっても大切に想ってるよ ――
見えないけれど、強い絆で結ばれている2つの数のように。
俺にも、誰か、俺を見守ってくれている人が、この世界の何処かに居る。
ヤンはそう伝えたかったのではないだろうか。
あの絵。
懐かしかった。
父が亡くなって以来だから、もう8年になる。
やっぱり自分はあの絵が好きなんだ。
傍にヤンが居なかったら、もしかしたら涙が流れていたかもしれない。
かつての幸福な時間は幻ではなかったと思った。
今はもう取り戻せない時間だけど、確かにあったんだ。
二度と見ることはないと思っていた絵。
これからはいつでも見られるんだ。
明日また見に行こう。
そう思うと、此処での学院生活が少し楽しみになってきた。
エドガーの快活な声がウーティスの廊下に響き渡る。
「ジョシュアー、来いよー。皆、待ってるぜ」
「あ、はいっ」
俺の家族が好きだった絵を、俺に贈ってくれた人。
一人きりの入学初日に、これ以上嬉しい贈り物はない。
俺に、こんなに親切にしてくれる人は誰なんだろう。
いつか、会えるだろうか。俺の『75』に。
fin
新入生のジョシュアは生徒代表に連れられて、学院を案内して貰った。
想像以上に広い敷地で、施設から施設までの移動にも時間がかかった。
その道すがら、生徒代表のヤン・ハシェクは、新入生の緊張を解く目的で、
適当な話題を持ち掛ける様子は見受けられなかった。
それでも、ジョシュアが疑問や不安を覚えた時には、
まるで心を見透かしているかのように、ぽつぽつと言葉が掛けられる。
彼の紺色のカーディガンや大きめのワイシャツは、あまり上品な装いではなかった。
線が細いせいで、ひょろ長く見える。外見は健康的とはちょっと言い難い。
彼は最高学年と言っていたから、年齢は18歳前後の筈だ。
ジョシュアより5歳上というだけなのに、
まるで教師のような風貌で、なかなか生徒には見えなかった。
不思議な人だなあ、というのがジョシュアの正直な感想だった。
ヤンはずり落ちてきた眼鏡を直しながら呟く。
「えっと…これで大体回ったかなあ?」
なんとなく問い掛けにも聞こえるが、独り言なのだろうか。
彼は普段から声が大きくないようで区別が難しい。
彼の横顔は生徒と言うよりは、やはり大人に見える。
しかし、話し方は子供っぽい。少々小さな声で、ぼそぼそと話している。
子供と大人の両面を持ち合わせるアンバランスさがある。ヤンはこちらを向いた。
「13歳で此処に来て、色々不安もあると思うけど、
困ったこととかあったら、いつでも聞きに来ていいからね?
僕、シュヌーシア寮の端っこに居るからさ」
「はい」
「まあ、君はウーティスだから、同じ寮のエドの方が近いかな。
エドはね、僕なんかより頼りになる人だから。彼にも何でも聞いてね?」
エド、というのはウーティス寮の最高学年。エドガー・ラッセル。
さっき、寮に行った時、彼に会った。金色の短髪で活発そうな人だった。
彼等の遣り取りを聞いていると、どうやら仲が良いようだ、となんとなく解った。
さらに言えば、生徒代表のヤンの方が、立場が下のように聞こえた。
「それじゃ、君の寮まで送るよ」
学院案内はこれで終わりのようだ。
ジョシュアはお礼を言わなくては、とヤンに向き直る。
今日は日曜日。生徒は休日だ。
生徒代表の任務とは言え、自分の為に時間を割いてくれた。
彼の学院案内は解り易くて、丁寧なものだった。
ちゃんと今日のお礼を言いたい。ジョシュアが口を開きかけたところで、
生徒代表から「あっ」という小さな声が上がった。
「ごめん、ジョシュア」
「はい?」
「僕、忘れてた、大事なこと。今日、一番大事なことだったのに」
ジョシュアが首を傾げていると、ヤンは珍しく微笑んだ。
笑った顔は、風貌よりずっと幼く見えた。
「君に見せたいものがあったんだ。もう少し付き合って貰ってもいいかな?」
前屈み気味に歩く彼の後に続いていくと、其処は講堂のようだった。
ジョシュアが建物を眺めながら歩く。ヤンは後ろを振り返らずに話す。
「此処はね、築200年くらいなんだ。結構新しい建物だよねっ、よいしょっと」
ヤンはあまり腕力がないらしく、両手でドアを押していた。
厳かな音がして、木製の扉が開く。
「さあ、入って。ジョシュア。君におっきなプレゼントが届いてるよ」
広い場所だった。二人の靴音だけが響く。
視界の右側に何か映った。その色彩には覚えがあって。
まさか、という想いで見上げた。
あの絵。
ジョシュアは深紅の瞳を見開いたまま、声を失った。
洪水のように過去の記憶が押し寄せる。
両親と一緒に居た頃、いつも眺めていた。
父も母も大好きだったあの絵。
暫くの間、生徒代表は黙っていた。
やがて、ゆっくりと靴音を響かせて隣に立つ。
「良い絵だね、『アルフォンソ王の戴冠』って」
「あ、あの…」
「そう。君のご実家にあった絵だよ」
「でも、どうして、此処に…」
父の死後、何処かに消えてしまった絵だった。
おそらく母が、目に映らない所へ隠したのだろう。
幸福だった過去を思い出さないように。
生徒代表は絵画を見上げている。
オレンジ色の日差しを浴びて、彼には長い影が出来ていた。
「一応、匿名で学院に寄贈されたものなんだ、君の入学日に合わせてね。
寄贈品だから、形式上は学院の物ってことになるけど。
君が卒業する時には持って帰ってもいいんじゃないかな。
だって、君の家にあったものだもんね?」
ヤンの眼鏡レンズには夕陽が反射している。
「贈り主さんはきっと、君が学院に居る間、
寂しくないようにって思ったのかな。素敵なサンタさんだね」
「これは、グラントの伯父さんが送ってくれたんですか?」
「ごめん。名前はね、言っちゃダメって言われてるから、僕は言えないけど。
君の保証人さんなんだよ。君は誰が保証人なのか、知らされてないらしいね?」
「ええ」
「大丈夫だよ。時が来れば自然と解るよ、誰なのか。全部解る日が来るから」
ジョシュアの頭の中には、血族の顔が数名浮かぶ。
母方のグラント姓の人ではないのだろうか?
だが、父方の血族は既に縁を切られているも同然だ。
では血族以外の誰かだろうか。胸の中は感謝でいっぱいだった。
その人にお礼も言うことができないなんて。
「ねえ。君は『婚約数』って数を聞いたことあるかな?」
「え? いいえ…」
唐突に尋ねられた。婚約数。ジョシュアは初めて聞く単語だった。
数、ということは数学の話なのだろうか。
ヤンの声が僅かに明るくなったような気がする。
「婚約数っていうのはね? 見た目は全然違う2つの数が、
見えない糸で結ばれていることを言うんだ。
1と自分を除いた約数の和が、お互いの数になる組があるんだよ」
ジョシュアは決して数学が苦手というわけではなかったが、訳が解らなくなる。
ヤンがこれから何を話そうとしているのか全く掴めず、戸惑いを隠せなかった。
眼鏡の生徒代表は、深紅の瞳を見つめ、緩やかな口振りで話し始めた。
「1番小さい婚約数の二人はね、48と75」
ヤンは其処に透明な黒板があるかのように、宙に数字を書いていく。
「48はね、1と48を除いた約数が、2、3、4、6、8、12、16、24だから、和は75でしょ?」
ジョシュアにはそれが正答なのかさえ判断できない。
彼は口にするのと同じ速度で暗算しているのか、元々答えを記憶しているのだろうか。
ジョシュアは目の前に居る上級生に、尊敬の念を抱き始めていた。
ヤンの指は魔法の杖のように、軽やかに動く。
「それで、75は、1と75を除いた約数が、3、5、15、25で、和は48なんだ。
ほら、ね? 48のパートナーは75で、75のパートナーは48。ね。なんかすごいよね?」
「すごいですね…」
ふわふわとした口調で、数学教師の如く話しているヤンに対して、
「すごい」とジョシュアは言ったのだが、本人にはそこまで伝わらなかったようだ。
こくんと頷いて、楽しそうにしている。
「うん。すごいよねえ、婚約数って。
見つけた人は、きっと、飛び上がるほど嬉しかったと思うなあ」
ヤンはスローテンポながらも、生き生きと話しているように見えた。
だが、ジョシュアは混乱してきた。一体何の話をしていて数学の話になったんだろう。
「例えば、君が『48さん』だとするでしょ?」
ヤンはジョシュアの胸の前で『48』と宙に描いた。
思わず、ジョシュアは自分の胸を見てしまう。
其処に透明な数字が浮かんでいるように感じた。
次に、彼は大きな絵画に向かって『75』と刻んだ。
「君にこの絵をくれたのは『75さん』だと思うんだあ、僕。
二人は一見、全然違う人なのに、不思議な糸で結ばれているんだよ」
天井の高い講堂では、物静かな声もひとつひとつ拾われる。
「今はまだ、繋がりが見えないかもしれない。
だけどね、結ばれてるんだよ、48と75は。
婚約数の糸は永遠に切れることがない。透明で見えないけど、強い強い糸なんだ」
ヤンはジョシュアを振り返って、微笑する。
「君の『75さん』はね、君のこと、とっても大切に想ってるよ」
眼鏡の奥の灰色の瞳が、とても穏やかな色に見えた。
「ああ、ごめんね。こういう話すると、またエドに怒られちゃうなあ。
『新入りにいきなり言うことじゃないだろ』って。
でも僕、他にどう言っていいか解らないんだ。ごめんね?」
「いえ、あの…ありがとうございます」
「さてとっ」
ヤンは講堂の扉に身体を向ける。
「おなか空いてきたね。そろそろ帰ろっか?
エドに『帰って来るの遅い』って怒られちゃいそうだし」
「はい、解りました」
相変わらず遅い歩みでヤンは前に進んでいく。
外は淡い菫色。空気が綺麗なせいか、高く見えた。
「今日のばんごはん、なにかなあ」
生徒代表はのんびりと独り言を呟いていた。
ウーティス寮まで送ってくれた。サロンのベランダではエドガーが待っていた。
二人の姿を見ると、身軽に走って、こちらにやってきた。
その勢いのまま、エドガーはヤンの頭を小突く。
案の定、ヤンはエドガーに「遅い」と怒られていた。
怒られた生徒代表は灰色の頭を掻きながら「ごめん」と謝っていた。
新入生が生徒代表から寮の最高学年へと引き渡される。
これで今日の生徒代表の仕事はおしまいだ。
エドガーとジョシュアが、ヤンの猫背を見送っていると、
彼の足取りが、よろよろと、ふらつき始めた。
真っ直ぐに歩いていたのが、大きく右側に反れている。
急に酔っ払ったかのようだ。彼に何が起こったんだろう。
ジョシュアは心配になって駆け出そうとした。
その時、隣のエドガーが笑った。
「まーた、なんか数えてやがるな」
「…数える?」
「そ。あいつのクセ。新入り案内が終わったから、気ぃ抜いてんだろ」
エドガーは大きく息を吸って、笑顔のまま叫んだ。
「バカ! 前見て歩け! 転ぶぞ!」
2秒程の時差を経て、ヤンはこちらを向こうとした。
振り向きざま、何かに視線の注意を奪われ、身体が傾いた。
やたらとスローモーションな動きで、ぱたりと転んだ。
ジョシュアは、呆然と生徒代表を見つめていた。
ヤンは上体を起こすと、汚れた衣服を気にする様子はなく、地面の上で正座した。
ズレた眼鏡だけを押し戻し、地面に顔を近付けていた。
すると、ほっとしたような表情に変わる。
次の瞬間には手を着いて、地面に向かって何か話し掛けていた。
「あーありゃ、数えてたのはアリだな」
ジョシュアはエドガーを見上げる。こちらの最高学年は、体育会系の身体付きだった。
「…アリ、ですか? ヤンは昆虫に興味が?」
「いんや、虫じゃなくて。あいつの場合は、数えられれば何でもいいんだわ。
動物でも静止物でもな。目にしたもんは何でも数えたがるんだよ。
あれは、そーゆー習性を持った生き物だから。気にしなくていいぜ?」
それは趣味の類なのだろうか、とジョシュアは不思議に思う。
エドガーはよく伸びる声で叫んだ。
「ヤーン! 大丈夫かー?」
彼は地面に座り込んだまま、軽く手を上げた。
大丈夫、という意味らしい。きっと怪我はなかったのだろう、とジョシュアは思った。
エドガーは新入りに向かって笑い掛けた。
「違うぜ、ジョシュア」
「え? 何がです?」
「あれは『アリは踏まなかったから大丈夫』ってイミさ。バカだろ?」
そう言う笑顔は、愛玩動物でも見ているかのようだった。
バカ、と言ってのけた。
どちらかと言うと、彼が持つ独特の空気は、
天才の部類なのではないかと思っていたのだけど。
今の光景を見た後では、ちょっと解らなくなってきていた。
ヤンは一人で立ち上がって、シュヌーシアに帰っていく。
「俺達も帰るぞ、腹減ったし」
エドガーに連れられて、これから自分の家となるウーティス寮に向かう。
風変わりではあるけれど、美しい建築物だ。玄関には多くの絵。
ヤンはこれらを在校生や卒業生の作品だと説明していた。
「なあ、ジョシュア。さっきから気になってんだけどさ」
「何ですか?」
「それ、なんで胸に差してんの?」
胸ポケットには月桂樹の小枝があった。
森を案内された時、ヤンは何気なく枝を手折り、此処に入れたのだ。
彼に貰いました、と伝えるとエドガーは首を捻った。
ジョシュアにもヤンの行動の意図は解らなかったが、
少し変わった雰囲気の人だし、彼なりの歓迎の印なのだろうと思っていた。
きっと、新入生には皆、こうやって月桂樹をプレゼントしているのだろうと。
「えっと、ヤンはいつも新入生にこうしているんじゃ…」
「いや、初めて。俺が知る限りだけどな」
「そうですか…」
「ま、いいか。メシにしようぜ。お前のこと、皆に紹介するからさ」
他の生徒達に会う。そう思うと、少し緊張が増した。
皆に会う前に、ひとつ聞いておきたいことがあった。
「すみません、エドガー。あの、ヤンは数学が好きなんですか?」
「あっ、また初日から新入りに数学の話したのかよ!
ったく、数学バカが。悪いなー、後でちょっとシメとくわ」
「い、いえ、そんな…」
「あいつ、言いたいこと、言葉じゃ説明できないからって、
数字で言おうとするんだけど、聞かされてる方は余計解らないっつの。なあ?」
エドガーの意見に同意はできるが、ヤンのことも少し解るような気がしていた。
彼は本当に数学が好きなんだと思う。
好きな数字を使って、俺に何かを言おうとしていた。
数学の話をしている彼は、今日見た中で、一番楽しそうに見えた。
―― 君の『75さん』はね、君のこと、とっても大切に想ってるよ ――
見えないけれど、強い絆で結ばれている2つの数のように。
俺にも、誰か、俺を見守ってくれている人が、この世界の何処かに居る。
ヤンはそう伝えたかったのではないだろうか。
あの絵。
懐かしかった。
父が亡くなって以来だから、もう8年になる。
やっぱり自分はあの絵が好きなんだ。
傍にヤンが居なかったら、もしかしたら涙が流れていたかもしれない。
かつての幸福な時間は幻ではなかったと思った。
今はもう取り戻せない時間だけど、確かにあったんだ。
二度と見ることはないと思っていた絵。
これからはいつでも見られるんだ。
明日また見に行こう。
そう思うと、此処での学院生活が少し楽しみになってきた。
エドガーの快活な声がウーティスの廊下に響き渡る。
「ジョシュアー、来いよー。皆、待ってるぜ」
「あ、はいっ」
俺の家族が好きだった絵を、俺に贈ってくれた人。
一人きりの入学初日に、これ以上嬉しい贈り物はない。
俺に、こんなに親切にしてくれる人は誰なんだろう。
いつか、会えるだろうか。俺の『75』に。
fin
■レッド×アンリ ユウタ×アンリ
■子供の頃、何度も見た夢 続編
■子供の頃、何度も見た夢 続編
部屋に太陽が差し込む。カーテンを開けると、眩い光に当てられた。
窓硝子に付いた水滴は朝陽を浴びて、きらきらと輝いている。
その先には朝の森。夜とはまるで雰囲気が違う。
光と霧に包まれて、神秘的な姿に変わっていた。
僕の背後に講師が立つ。
「外の雨も上がったようだね」そっと後ろから抱き留められる。
「目許は腫れてないから、皆に会っても大丈夫だよ」
親切で言っているのか、からかっているのか解らない。
「煩いな」
廊下を歩く足音が聞こえた。寮生達の騒がしい声が通り過ぎる。
講師は僕の髪に軽く口付ける。
「そろそろ朝食の時間だね。いっておいで」
オーギュストに送り出されて、食堂に向かう。
朝食が終わって、部屋に戻れば、オーギュストの姿は消えているだろう。
寮生が食堂に集まっている間に、彼はメルキュール館に戻るから。
僕は食堂の扉を開ける。朝の挨拶を掛けられながら、席に着く。
黙っていても僕の前には、あたたかい紅茶が差し出される。
眼鏡の日本人は最近グリーンティを飲んでいる。
この前、彼は頬を染めながら話していた。
日本に住む兄が送ってくれた、と嬉しそうに。
生徒代表の前に置かれているのは珈琲。
もう一人の最高学年には「今日のお飲み物は?」とバトラーが尋ねている。
彼には拘りというものがなく、毎日気紛れにオーダーを変えるのが好きだからだ。
賑やかな食卓が今日も始まった。
話題に上っていたのは、今夜のお菓子の家作り。
買い出しにはアルフレッドとユウタが代表で行くことになったらしい。
一日の講義が終わり、また夜がやってくる。
もしかしたら、今夜も、あの夢を見るかもしれない。
夕食後、僕は部屋で日記を書いていた。
子供の頃、何度も見た夢を、最近また見るようになった。
暗い森で迷う僕に、手をさしのべる彼は、一体誰だろう。
ノックの音がする。
日記帳を閉じて、引き出しの奥に仕舞う。
席を立って、ドアを開けた。
其処に居たのは、今年の新入生。少し僕より背が低い。
「あのね、今から皆でお菓子の家を作るんだ。アンリも一緒に作ろ?」
「お菓子の家…」
「うん。昨日、描いてたアレ。材料は俺達で買ってきたからさ?
作り終わったら、皆で食べよう。
あっ、その前にケータイで写真撮らせて欲しいな。姉貴に送りたいし」
笑顔。言葉。彼は無遠慮に僕に踏み込んでくる。
僕のことを何も知らないくせに。彼の言動は僕の琴線に触れる。
どうして、わざわざ僕に声に掛けてくるんだろう。
僕のことなんか放って措けばいいのに。
「ね。行こう、アンリ」
部屋から廊下に出された。
新入生は先に歩き出した。後ろで手を組んでいる。
「お菓子ね、いっぱい買って来ちゃったんだー。今日使い切れないぐらいっ」
くるっと振り向いて、子供みたいな笑顔を向けられる。
僕を見たまま、後ろ向きに歩く。
「アンリが好きそうなお菓子も買って来たよ?」
「僕が好きそう、って?」
「あまーいの!」
「君は僕が甘党だと思っているの?」
「だって、アンリ、『天使の顎』とか好きじゃん。
あれ、ハルヤは甘過ぎて、食べられないって言ってたよ?」
サロンの前に着く。中から複数の笑い声。
ユウタは勢い良く扉を開ける。
「アンリ、連れて来たよー!」
サロンは甘いお菓子の香りがした。
歓声の中、ユウタが描いたお菓子の家が徐々に形になっていく。
生クリームのような時間だった。
柔らかくて、甘ったるくて。
まるでウーティス寮という空間が、お菓子で出来ているかのようだ。
その夜、僕の夢に暗い森は現れなかった。
翌日、僕はライブラリへ向かっていた。
普段は行かないコーナーへ歩を進める。今まで無意識に避けて来た気がする。
どれも薄い本が並ぶ場所。ドイツのグリム兄弟が収集した童話集。その15番目。
背表紙に刻まれた題名。
子供の頃はこの文字を目にすることさえ耐えられず、捨てた。
あれ以来ずっと触ることができなかった、ただの一冊の絵本。
きつく結ばれていた手を開く。
背表紙の上に人差し指を伸ばす。ゆっくりと近付く距離。
僕の指が絵本に触れる。
手前に引いた。
腕に絵本を乗せる。表紙に指を這わせる。滑らかな紙。
表紙には兄妹と魔女。その背景にお菓子の家と深い森。
10年余り恐れていた本は思ったよりずっと、軽かった。
席に着いて絵本を読んだ。
静かな図書館で僕がページを繰る音だけが響く。
童話の研究者が書いた専門書も読んだ。
飢饉による口減らし。当時、子捨ては実際に遭ったことらしい。
初版で記されていた残酷な場面は、子供向けに何度も改変された。
子捨てを提案したのは継母ではなく実母であったとか、
魔女を倒した妹が魔法を継承するとか。
また、兄妹が帰ってくると母親は亡くなっているのだが、
それは実父が手に掛けたからだと描いている版もあるようだ。
「あっ。アンリだー。アンリー!」
ユウタの声。彼の隣にはハリウッドスターが居る。
彼等は僕の傍までやってきた。
「なに読んでんのー?」
勝手に手元を覗かれた。ユウタの表情に花が咲く。
「これっ、ヘンゼルとグレーテルだ!」
「マジで!?」
アルフレッドに笑われた。むかつく。
「なんだお前、楽しかったのかよ、昨日」
「別に…久し振りに、読んでもいいかなって思っただけだ」
白い歯を見せて、僕の首に腕を回す。
「要するに楽しかったんだろ?
散々、『壁が歪んでる』とか文句ばっか言ってたくせに。
ったく、素直じゃねーなー、おめーは」
心からほっとしたように、ユウタも笑顔になる。
「良かったあ。じゃあ、また作ろうね、お菓子の家」
「その前に! 今夜は森でバーベキューしようぜ!」
「また?」
「良いだろ、楽しいんだからさ」
『王の剣』という、串に月桂樹の葉を挟むバーベキュー。
彼等はそれが好きらしく、よく月桂樹の森でパーティを開催する。
もう何度もやっているのに、飽きることはないらしい。
夜の森で行うバーベキューパーティ。
入学当時は、誘われても行かなかった。
その頃はまだ、森に入ることができなかったから。
「おい、アンリ、今日はお前が買い出し行けよ?」
「なんで僕が」
「昨日、お前はスーパー、行かなかったから」
「アンリ、俺、荷物持つの手伝うよ。一緒に行こ?」
今夜も彼等に付き合わされるようだ。
森という場所。
騒がしい彼等と共に居る時は、怖いと思う暇もない。
fin
窓硝子に付いた水滴は朝陽を浴びて、きらきらと輝いている。
その先には朝の森。夜とはまるで雰囲気が違う。
光と霧に包まれて、神秘的な姿に変わっていた。
僕の背後に講師が立つ。
「外の雨も上がったようだね」そっと後ろから抱き留められる。
「目許は腫れてないから、皆に会っても大丈夫だよ」
親切で言っているのか、からかっているのか解らない。
「煩いな」
廊下を歩く足音が聞こえた。寮生達の騒がしい声が通り過ぎる。
講師は僕の髪に軽く口付ける。
「そろそろ朝食の時間だね。いっておいで」
オーギュストに送り出されて、食堂に向かう。
朝食が終わって、部屋に戻れば、オーギュストの姿は消えているだろう。
寮生が食堂に集まっている間に、彼はメルキュール館に戻るから。
僕は食堂の扉を開ける。朝の挨拶を掛けられながら、席に着く。
黙っていても僕の前には、あたたかい紅茶が差し出される。
眼鏡の日本人は最近グリーンティを飲んでいる。
この前、彼は頬を染めながら話していた。
日本に住む兄が送ってくれた、と嬉しそうに。
生徒代表の前に置かれているのは珈琲。
もう一人の最高学年には「今日のお飲み物は?」とバトラーが尋ねている。
彼には拘りというものがなく、毎日気紛れにオーダーを変えるのが好きだからだ。
賑やかな食卓が今日も始まった。
話題に上っていたのは、今夜のお菓子の家作り。
買い出しにはアルフレッドとユウタが代表で行くことになったらしい。
一日の講義が終わり、また夜がやってくる。
もしかしたら、今夜も、あの夢を見るかもしれない。
夕食後、僕は部屋で日記を書いていた。
子供の頃、何度も見た夢を、最近また見るようになった。
暗い森で迷う僕に、手をさしのべる彼は、一体誰だろう。
ノックの音がする。
日記帳を閉じて、引き出しの奥に仕舞う。
席を立って、ドアを開けた。
其処に居たのは、今年の新入生。少し僕より背が低い。
「あのね、今から皆でお菓子の家を作るんだ。アンリも一緒に作ろ?」
「お菓子の家…」
「うん。昨日、描いてたアレ。材料は俺達で買ってきたからさ?
作り終わったら、皆で食べよう。
あっ、その前にケータイで写真撮らせて欲しいな。姉貴に送りたいし」
笑顔。言葉。彼は無遠慮に僕に踏み込んでくる。
僕のことを何も知らないくせに。彼の言動は僕の琴線に触れる。
どうして、わざわざ僕に声に掛けてくるんだろう。
僕のことなんか放って措けばいいのに。
「ね。行こう、アンリ」
部屋から廊下に出された。
新入生は先に歩き出した。後ろで手を組んでいる。
「お菓子ね、いっぱい買って来ちゃったんだー。今日使い切れないぐらいっ」
くるっと振り向いて、子供みたいな笑顔を向けられる。
僕を見たまま、後ろ向きに歩く。
「アンリが好きそうなお菓子も買って来たよ?」
「僕が好きそう、って?」
「あまーいの!」
「君は僕が甘党だと思っているの?」
「だって、アンリ、『天使の顎』とか好きじゃん。
あれ、ハルヤは甘過ぎて、食べられないって言ってたよ?」
サロンの前に着く。中から複数の笑い声。
ユウタは勢い良く扉を開ける。
「アンリ、連れて来たよー!」
サロンは甘いお菓子の香りがした。
歓声の中、ユウタが描いたお菓子の家が徐々に形になっていく。
生クリームのような時間だった。
柔らかくて、甘ったるくて。
まるでウーティス寮という空間が、お菓子で出来ているかのようだ。
その夜、僕の夢に暗い森は現れなかった。
翌日、僕はライブラリへ向かっていた。
普段は行かないコーナーへ歩を進める。今まで無意識に避けて来た気がする。
どれも薄い本が並ぶ場所。ドイツのグリム兄弟が収集した童話集。その15番目。
背表紙に刻まれた題名。
子供の頃はこの文字を目にすることさえ耐えられず、捨てた。
あれ以来ずっと触ることができなかった、ただの一冊の絵本。
きつく結ばれていた手を開く。
背表紙の上に人差し指を伸ばす。ゆっくりと近付く距離。
僕の指が絵本に触れる。
手前に引いた。
腕に絵本を乗せる。表紙に指を這わせる。滑らかな紙。
表紙には兄妹と魔女。その背景にお菓子の家と深い森。
10年余り恐れていた本は思ったよりずっと、軽かった。
席に着いて絵本を読んだ。
静かな図書館で僕がページを繰る音だけが響く。
童話の研究者が書いた専門書も読んだ。
飢饉による口減らし。当時、子捨ては実際に遭ったことらしい。
初版で記されていた残酷な場面は、子供向けに何度も改変された。
子捨てを提案したのは継母ではなく実母であったとか、
魔女を倒した妹が魔法を継承するとか。
また、兄妹が帰ってくると母親は亡くなっているのだが、
それは実父が手に掛けたからだと描いている版もあるようだ。
「あっ。アンリだー。アンリー!」
ユウタの声。彼の隣にはハリウッドスターが居る。
彼等は僕の傍までやってきた。
「なに読んでんのー?」
勝手に手元を覗かれた。ユウタの表情に花が咲く。
「これっ、ヘンゼルとグレーテルだ!」
「マジで!?」
アルフレッドに笑われた。むかつく。
「なんだお前、楽しかったのかよ、昨日」
「別に…久し振りに、読んでもいいかなって思っただけだ」
白い歯を見せて、僕の首に腕を回す。
「要するに楽しかったんだろ?
散々、『壁が歪んでる』とか文句ばっか言ってたくせに。
ったく、素直じゃねーなー、おめーは」
心からほっとしたように、ユウタも笑顔になる。
「良かったあ。じゃあ、また作ろうね、お菓子の家」
「その前に! 今夜は森でバーベキューしようぜ!」
「また?」
「良いだろ、楽しいんだからさ」
『王の剣』という、串に月桂樹の葉を挟むバーベキュー。
彼等はそれが好きらしく、よく月桂樹の森でパーティを開催する。
もう何度もやっているのに、飽きることはないらしい。
夜の森で行うバーベキューパーティ。
入学当時は、誘われても行かなかった。
その頃はまだ、森に入ることができなかったから。
「おい、アンリ、今日はお前が買い出し行けよ?」
「なんで僕が」
「昨日、お前はスーパー、行かなかったから」
「アンリ、俺、荷物持つの手伝うよ。一緒に行こ?」
今夜も彼等に付き合わされるようだ。
森という場所。
騒がしい彼等と共に居る時は、怖いと思う暇もない。
fin
■オーギュスト×アンリ
■アンリの日記ベース
■アンリの日記ベース
見慣れた天井。
それを見て、夢だったのかと理解する。
僕は今、聖アルフォンソ学院に居るのだと。
手の甲で額を覆う。しっとりと濡れていた。
子供の頃、何度も見た夢を、最近また見るようになった。
引き金になったのは、とても些細なこと。
それは夕食後のことだった。
僕は本を読もうと、ウーティス寮サロンに向かっていた。
今夜は雨が降っていて、なんとなく部屋に居る気がしなかったから。
サロンに近付くと、廊下までバカ騒ぎしている声が溢れていた。
扉を開けると、他の寮生達が生徒代表殿を除いて、全員居た。
サロンは楽しげな空気に包まれていた。今年は特にこういう夜が多い。
ひとつのテーブルを囲んで、何か話し合っていたようだ。
「あっ、アンリが来た!」
輪の中心に居た今年の新入生は、僕の姿を認めると素早く席を立った。
「ねえ、アンリも一緒に考えよ?」
新入生は僕の腕を取って、テーブルの方へ歩いて行く。
僕よりひとつ下の高等部一年。日本からの転校生だ。
この学院では珍しいタイプの人間で、他人の領域に平気で土足で踏み込む。
笑ったかと思えば、その黒目に涙を溜めていたりと忙しい。
今は人懐っこい笑顔を向けられている。屈託のない明るさ。
ユウタは、どうしてそんな顔を人に向けられるのだろう。
「随分楽しそうだけど、一体どうしたって言うの?」
「じゃーん! コレね、シェフのカミーユさんに作って貰おうかと思ってるんだ!」
テーブルの上にはユウタのスケッチブックが乗っていた。
大きな白画用紙に鉛筆で描かれた絵。
一目で何のデッサンか判った。文字での説明が要らないくらいだ。
ウエハースの屋根、チョコレートの窓、ビスケットの壁。
ユウタは無邪気に笑う。
「今ね、皆でアイディア出してたとこなんだ。アンリの意見も聞かせてよ」
アルフレッドがユウタの首に腕を掛ける。
「なあ! カミーユに任せんじゃなくてさ、俺達で作らねえ?」
「そっかあ! 皆で作った方が楽しそうだね!」
ユウタの同意を得て、アルフレッドの笑顔が更に輝く。
最年長のお調子者も両手を合わせて笑顔を見せた。
「面白そうですねー♪ じゃ、明日、皆でスーパーに行って、お菓子買って来ちゃいます?」
「ええ? それって、6人でぞろぞろスーパー歩くの? あの、恥ずかしくない?」
シャイな日本人の意見は、周囲の歓声に掻き消された。
「よしっ、決まりな! んじゃ、デザイン早く決めちまおうぜ!」
ますます賑やかになるサロン。華やかで、あたたかくて。
頭痛を覚える。耳鳴りがする。
僕はこの場に居られなかった。
踵を返し、ドアへと向かう。新入生が僕の動きに気付いた。
「ちょ、ちょっと、アンリ? 行っちゃうの? 一緒に考えようよー」
「用事を思い出したから、失礼するよ」
サロンの扉を開ける。誰かの胸にぶつかった。
「あっ、すまない。大丈夫かい?」
簡単に謝る最高学年。一瞬、僕の顔を覗かれた。
お節介な生徒代表殿の表情が曇る。
「アンリ? どうしたの?」
返事をせず、彼の横を通り抜ける。
後方で彼が皆に何か聞いている声が聞こえた。
僕は自分の部屋に戻った。ドアを閉め、鍵を掛けた。
まだカーテンが開いていた。
憂鬱に降り注ぐ窓硝子越しの雨と、その先に広がる森。
この風景は子供の頃と似ている。
いつのまにか握り絞めていたカーテンで、窓硝子を覆った。
ベッドへと歩いて行く。制服のまま、横たわる。
柔らかいベッドが僕を受け止める。
此処はこの世で最も落ち着く空間だった。サン・ジェルマン邸よりも。
4年間見て来た天井。
僕がフランスから、あの人から逃れて、もう4年になる。
フランスから遠く離れた孤島。こんなところまでやってきたのに。
此処から一歩出れば、彼の手先が待ち構えている。
あの人から逃れる術なんてあるんだろうか。
目を閉じる。先程、目にした絵が浮かんでくる。
お菓子の、家。
僕だって昔は嫌いではなかった。絵本に描かれる、その家は魅力的だった。
辺りは甘い香りに包まれ、いつでも好きなときに好きなだけお菓子が食べられる。
夢のような場所に辿り着いた、小さな兄妹は夢中で家にかぶりつく。
そのページを見て、羨ましいと思う子供が殆どだろう。
僕だって、昔はそうだった。けれど、絵本は捨ててしまった。
『捨てて』と頼んだのは、僕。
「寮の子と喧嘩でもしたのかね?」
大人の声。壁に凭れて居たのは僕の講師。
身体を起こし、こちらにやってきた。
神出鬼没にもほどがある。僕は身体を横たえたまま、
「…オーギュスト」
彼はどうかしている。
時折こうして、勝手に僕の部屋に訪れ、ベッドにまで入ってくる。
講師は、僕のベッドに腰を掛ける。君の重みを受けて、僕の身体も少し沈む。
僕を見下ろして、髪を手で梳いた。
君の指が、僕の耳に触れる。すうっと撫でられた。
***
オーギュスト・ボージェ。神秘学の特別講師。
彼に初めて会ったのは、おそらく教室だろう。
第一回目の講義が終わった後、黒板を消す背中を眺めていた。
チョークの跡が綺麗になると、講師はこちらを向いた。
教室でただ一人残っていた僕を。
「どうしたのかね? 何か質問かな、サン・ジェルマン君」
「アンリ」
「そう呼んでも良いのかね?」
「此処ではファーストネームで呼び合う習慣だから」
「ほう、面白い習慣だね。では私もオーギュストと…いや、オーギュでも良いよ?」
「オーギュ…」
「よろしく、アンリ」
神秘学の講義は僕の知的好奇心を刺激するものだった。
サン・ジェルマンの邸の地下書庫で隠れて読んでいた学問。
暗い場所で埃を被っていた本。あの人に見付からないように読んでいた。
そんな僕を、誰もが気味悪がって、後ろ指を差していた。
あの人に取り上げられて、燃やされた本もあった。
伯爵が書いた本もあったのに。
かつてはタロットの話をするだけで煙たがられていた。
神秘学の講師は今までの大人達とは違った。
僕のタロットを見て、嬉しそうに言ったんだ。
「おや、良いものを持っているんだね?」と。
フランス語で記された大アルカナ22枚、小アルカナ56枚。
彼は、78枚全て言えるどころか、タロットに纏わる言い伝えまで話せた。
講義中にどんな意地悪な質問をしても、彼は適確な答えを返してくる。
彼の造詣が深いのは神秘学だけじゃない。
話せない言語はないように見えるし、地理や歴史に関しては見て来たように知っている。
今までの他の講師は、やろうと思えば打ち負かすことができたのに。
講義の後、二人になった時、講師は言った。
「とても良い質問だったよ、今日のは。私の回答では不十分ではなかったかい?」
そうは思えなかった。君はいつだって完璧で、僕では歯が立たないのに。
僕が質問した点について、文献を読んでみるかい、と尋ねられた。
初めて来た、君の研究室。
古い書物に囲まれた空間。神秘で満たされた聖域だった。
君の長い指は、本棚から一冊の本を引き抜く。
渡されて。読んだ本は必ず、僕の知的好奇心を満たすものだった。
返しに行くと、次も読んでみるかい、と。
研究室で君が淹れてくれる紅茶は美味しくて。
リーフの香りに包まれながら、錬金術について意見交換をしたり。
放課後、君と二人きりの個人授業は退屈しない時間だった。
今まで禁じられた学問が、僕の中に蓄積されていく。
この大人は、神秘学の知識を教えてくれる。
あの人が与えてくれなかったものを、この大人は僕に与えてくれる。
初めて唇を重ねたのは、多分、講義が終わった、第二化学室。
夕陽が教室の窓から差し込んでいた。
「オーギュ、何、してるの?」
「これはね、キスだよ。愛しい、と伝える手段のひとつだ」
「愛しい、って…何?」
「解らないかい?」
「愛されたことなんてないもの。解るわけないよ」
「解らないことは私が教えるよ。君が知りたいことなら、何でもね」
夕陽から夜に移ろう時刻だった。校舎内は静かで、廊下から足音はしなかった。
教室の時計が、夜へ時を進めている。
「教えて、欲しいかね?」
ずっと年上の男性。親子ほども離れている。
最初は講師と生徒というだけだったのに。
放課後の教室で。君の肩越しには夕刻の空。
美しい朱色が紫と溶け合っていた。
***
「誰と喧嘩したのか、当ててみようか?」
生徒のベッドに腰を掛けて、講師は今宵も丁寧な戯れを始める。
僕の耳たぶの柔らかさを精査するように。
弄ばれて、熱を、帯びてしまう。
「新入生の子。違うかね?」
「別に、喧嘩なんかしてない…ねえ」
「ん?」
講師は僕の首許に手を伸ばす。リボンタイがするりと抜けた。
「まだ、サロンにいっぱい居るんだけど? もし誰か来たら、どうするの?」
「生徒手帳には、講師は生徒を愛してはいけないとあったかな?」
ボタンが外れていく。遠くで騒いでいる寮生の声がする。
「そんなこと書いてある生徒手帳が何処にあるの」
講師は微笑んで身を屈める。一瞬、視線が絡む。
触れるだけの口付け。
その後で君は僕の瞳を確かめる。続けていいかと無言のうちに尋ねている。
思えば、初めて君と唇を重ねた時から、君は同じ方針だった。
一度キスをした後で僕にお伺いを立てる。
そこで僕が「嫌」と言えば終わるのに。僕は黙って目を合わせる。
君は穏やかな顔で、もう一度唇を重ねる。
二度、三度と触れて、ゆっくりと。
丁寧なのか、意地が悪いのか区別し難い。
どうして彼と、こんなことをしているんだろう。
彼にされるままでいる僕もどうかしている。
僕達は同じ性で、講師と生徒なのに。
この夜を境に、懐かしい夢を見ることになった。
夜の森で迷う夢。
それは夢というだけではない。
僕がまだサン・ジェルマン邸に居た頃、実際にあったことだ。
邸からそう遠くない森で、僕は迷子になった。当時の記憶はあまりない。
ただ、断片的に覚えているのは、夜の森と、
泣きじゃくりながらあの人を呼んでいる自分。
目を開けたら、僕は邸の自分のベッドに寝かされていた。
メイドが言うには、僕は突然居なくなって、一晩、帰ってこなかったらしい。
翌日、邸の前で倒れているのをメイドに発見された。
衣服はところどころ擦り切れていて、土や葉が付着していた。
うわ言で「夜の森に居た」「いろんなものが居て怖かった」などと呟いていたそうだ。
まるで何かに呪われたかのように高熱に侵され、何日か寝込んだ。
僕の世話をするメイド達から、無事の帰宅を喜ぶ言葉を幾つか浴びた。
その大半が立場上、演じられた『台詞』だと解った。
僕は当時から大人の心が読めたから。
やっとベッドから出られるようになって、僕は森にもう一度行こうか迷った。
森に居たいろんなものが何なのか知りたい、という気持ちがあった。
夜ではなく、昼間なら大丈夫かもしれない。
病み上がりの身体でベッドから起きる。
メイドの目を盗んで、邸から出た。
大きな扉を開けると雨が降っていた。
行くのを止めようかという考えが浮かんだが、傘を差して森へ向かった。
まだ午前中なのに、辺りは暗く、森へ続く道は薄気味悪かった。
森に足を踏み入れる前、足が動かなくなった。
理由が解らないが、近付いてはいけない、と頭の中で警笛が鳴っている。
その時、強い風が吹いて。思わず目を瞑る。
傘が煽られて、手を放してしまった。灰色の空に傘が舞い上がる。
横髪を手で押さえて、ゆっくりと目を開ける。
黒いものが、木々の間を横切った。
人間の動きではない。動物でもない。今、僕の目に映ったものは何だ。
傘を拾いに行く余裕などなかった。僕は走って、邸へ引き返した。
上等な靴に泥水が跳ねる。
雨でぬかる道に足を取られながら、必死で走った。
振り向いたら、何処かへ連れ去られそうな気がしていた。
やっと見えてきたサン・ジェルマン邸。
門を走り抜けて、扉を閉めた。
雨を全身に浴びて、服はびっしょりと濡れていた。
息は切れて、身体は汗ばんでいた。また熱が出てきたのかもしれない。
大理石の床に、髪から流れた雨粒が落ちる。
広い吹き抜けの玄関ホール。目の前には、二階へと続く大階段がある。
階段の上、其処へあの人が現れた。二階から僕を見下ろしている。
広い邸では、互いに居ても顔も見ないこともあった。
数日振りに見た父親。森で迷子になってからは初めて会った。
あの人の顔を見た時、僕はどんなにほっとしたか。
ただ、恐怖しか与えてくれない貴方を、森の中で何度呼んだことか。
そうして、数日振りに僕の顔を見たあの人は、言ったんだ。
「帰って来なければ、良かったのに」
冗談でも、からかうでもなく。
ただ、本当に、ぽつりと。
虚実めいた響きは、何処にもなかった。
それが、貴方の素直な感想だったんだろうと思う。
貴方を見上げたまま、動けなくなった僕に、
続いて投げかけられた言葉。
「無事に帰ってこれるとは、やはり悪魔だな」
遠くなる、貴方の足音。
耳の奥で鳴り止まない、貴方の言葉。
壊れた機械のように、何度も、何度も。
カエッテ コナケレバ
真っ暗な森。
自分の足音さえ、恐ろしくて。
おうちに帰りたくて。
泣きながら呼んだのに。
また貴方に、会えたのに。
どうして帰ってきてはいけないの? 僕の家は此処しかないのに。
森から帰ってこなければ、僕は死んでしまうかもしれないのに。
貴方にとって僕は、死んでもいい子供なの?
ああ、そうか。
なんだ、解った。そうなんだ。
本当は知っていたのに。
僕は信じたくなかっただけだ。
もし、森で小さな亡骸を見付けていたら、
貴方がどんな顔をするのも、僕には解っていたんだ。
だって、大人の心は、僕には読めるもの。
ヘンゼルとグレーテルだって理解していた。
親が子供のことをどう思っているのかを。
僕はただ、気付かない振りをしていただけだ。
だけど、もう、聞いてしまった。
貴方の口から。
カエッテ コナケレバ ヨカッタノニ
僕は、立っていられなくて。
足許から崩れるように、その場に倒れた。
また暫くベッドから出られなくなって。
メイドには「病み上がりで無理をされたからです」
と言われたが、違うだろう。
それからだ。
森で迷う夢を繰り返し見るようになったのは。
森という場所に拒否反応を示し、
さらに『ヘンゼルとグレーテル』が読めなくなった。
本棚に並ぶ背表紙。その題名を見るだけで怖かった。
森で子供が迷う話。
親に捨てられる子供の話。
童話に出てきた親のように。
僕の親も望んでいたんだ。
森の中から子供が帰ってこないことを。
絵本はメイドに捨ててくれるよう頼んだ。
訳を察したメイドは、僕の言うことを聞いてくれた。
僕の部屋から絵本がなくなっても。
夜の森は僕から付かず離れず。
忘れた頃、嘲笑うかのように、僕の夢に現れた。
夢の中、僕は、夜の森で彷徨っている。
決まって、僕の姿は幼い。
僕は歩き疲れた足でふらふら歩いている。
鬱蒼と生い茂る森。木は化け物のように見えて。
フクロウの鳴き声に耳を塞いで。
夜は寒くて、子供の細腕は震えてた。
お腹は空いて、元気なんてこれっぽっちも残ってなかった。
枝に引っ掛けた袖は擦り切れてしまった。
前も後ろも見えない、夜の森。
やがて、一歩も進めなくなって、膝を抱えて泣きじゃくる。
震える声で、呼んでいる。
助けに来ないと解っている、あの人のことを。
何度も呟いて、止まらない涙を自分の手で拭っている。
―― もう大丈夫だよ、アンリ ――
何処からか聞こえてくる声。
小さな僕の手が包まれる。
紳士の手。不思議なほど、安堵を感じる。
あの人ではないと直感的に解る。
懐かしい、あたたかさ。
昔会ったことでもあるのだろうか。
彼はどうして、僕の名前を知っているんだろう。
暗くて、紳士の顔が見えない。
―― おいで。おうちまで案内しよう ――
「おじさま…だあれ?」
紳士が微笑む気配。
夢はいつも其処でブラックアウトする。
見慣れた天井。
それを見て、夢だったのかと理解する。
僕は今、聖アルフォンソ学院に居るのだと。
今日もまた見てしまったんだ、森で迷う夢を。
何度も同じ夢を見ているのに解らない。
あの紳士は誰なんだろう? 僕が創り出した幻なのか。
それとも、僕が家に辿り着いたのは、本当に彼のおかげなのだろうか。
解らない。夢の内容も何処までが事実なのか解らない。
事実として覚えているのは、夜の森と、
泣きじゃくりながらあの人を呼んでいる、幼い僕。
夢を見た後はどうしても、あの人を思い出してしまうのが嫌だった。
脳では夢の残像が、耳の奥では台詞が勝手に再生される。
手の甲で額を覆う。しっとりと濡れていた。
「おや。起きたのかい? 早いね」
僕のベッドなのに隣から声がした。僕の講師。
開かれたワイシャツから、素肌が覗いている。
僕達は同じ毛布の中に居た。
まだあまり覚醒していない頭が、昨夜の記憶をおぼろげに思い出す。
そう言えば、昨夜は君が来ていたんだ。
夕食の後、サロンでお菓子の家を見せられて。
部屋に戻ったら君が居て。リボンタイを取られて――
夜、森で迷う夢を見た。
そして今、覚めたところだ。過去に囚われた時間から。
「おはよう、アンリ」
練れた大人の声。
夢を見た後に聞く声は、いつも以上に安心する。
君の声は聞いていると、何故かとても落ち着く。
講義で聞く声も。真夜中に囁かれる声も。
どうして、こんなに…
「アンリ? どうしたんだね?」
「…夢を、見ていた」
「怖い夢かい?」
「嫌いな夢」
「そうか」
ゆっくりと僕の髪を撫でる。
長い大人の指。僕が子供の頃の、あの人と同じくらいの年齢。
この大人に愛されることで、僕は何を補完しているのだろう。
「もう大丈夫だよ、アンリ。怖い夢から覚めたのだから」
夢で聞いたのと同じ台詞。
森で泣いている僕に、手を差し伸べてくれた人。
「もう大丈夫だよ、アンリ」と言ってくれた人。
彼はオーギュストなのだろうか。
紳士であるという類似点には合致するが。
思い出そうとすると、夢の記憶は霧のように薄れていく。
「オーギュ。少し可笑しなことを聞くけれど」
「なんだね?」
「君、僕の名前を呼んだ? 僕が眠っている時に」
「いいや」
「そう…」
部屋はまだ薄暗かった。
耳を澄ますと、微かにガラスを打つ音が聞こえた。
「雨、まだ止んでいないんだね」
「うん。夜中は一度止んでいたけれど。先程私が起きた時にはまた降っていた」
時計を見やると夜とも朝とも言えない時間帯だった。
光の差さないカーテンの向こうには、灰色の空と黒の森。
夢に現れる森も、必ず闇に包まれている。夜はまだ明けない。
けれど、こんな憂鬱な旋律を聞きながら、再び瞳を閉じる気にはなれなかった。
視界が暗黒に染まれば、また同じ夢を見るだろう。
耳の奥にあの台詞が甦る。
カエッテ コナケレバ
時計に向けられた視線にオーギュストが気付く。
僕の髪を撫でていた手が止まる。
「もう少し眠るかね?」
「ううん。ねえ、オーギュ…」
カエッテ コナケレバ ヨカッタノニ
この耳鳴りを止めて。
あの人を忘れさせて。
「キス、して」
オーギュストは少し驚いたようだった。
だけど、何も聞かずに、僕の頬に手を添えた。
君の甘い舌が欲しかったのに。薄い唇は僕の目許に触れた。
「何処に、してるの」
問うのと同時に、理由が解る。
静かな空間で、僕の声は僅かに震えていた。
添えられた手は離れ、反対の頬を拭う。君の手は濡れていた。
また零れた雫に、口付けが落とされた。
fin
それを見て、夢だったのかと理解する。
僕は今、聖アルフォンソ学院に居るのだと。
手の甲で額を覆う。しっとりと濡れていた。
子供の頃、何度も見た夢を、最近また見るようになった。
引き金になったのは、とても些細なこと。
それは夕食後のことだった。
僕は本を読もうと、ウーティス寮サロンに向かっていた。
今夜は雨が降っていて、なんとなく部屋に居る気がしなかったから。
サロンに近付くと、廊下までバカ騒ぎしている声が溢れていた。
扉を開けると、他の寮生達が生徒代表殿を除いて、全員居た。
サロンは楽しげな空気に包まれていた。今年は特にこういう夜が多い。
ひとつのテーブルを囲んで、何か話し合っていたようだ。
「あっ、アンリが来た!」
輪の中心に居た今年の新入生は、僕の姿を認めると素早く席を立った。
「ねえ、アンリも一緒に考えよ?」
新入生は僕の腕を取って、テーブルの方へ歩いて行く。
僕よりひとつ下の高等部一年。日本からの転校生だ。
この学院では珍しいタイプの人間で、他人の領域に平気で土足で踏み込む。
笑ったかと思えば、その黒目に涙を溜めていたりと忙しい。
今は人懐っこい笑顔を向けられている。屈託のない明るさ。
ユウタは、どうしてそんな顔を人に向けられるのだろう。
「随分楽しそうだけど、一体どうしたって言うの?」
「じゃーん! コレね、シェフのカミーユさんに作って貰おうかと思ってるんだ!」
テーブルの上にはユウタのスケッチブックが乗っていた。
大きな白画用紙に鉛筆で描かれた絵。
一目で何のデッサンか判った。文字での説明が要らないくらいだ。
ウエハースの屋根、チョコレートの窓、ビスケットの壁。
ユウタは無邪気に笑う。
「今ね、皆でアイディア出してたとこなんだ。アンリの意見も聞かせてよ」
アルフレッドがユウタの首に腕を掛ける。
「なあ! カミーユに任せんじゃなくてさ、俺達で作らねえ?」
「そっかあ! 皆で作った方が楽しそうだね!」
ユウタの同意を得て、アルフレッドの笑顔が更に輝く。
最年長のお調子者も両手を合わせて笑顔を見せた。
「面白そうですねー♪ じゃ、明日、皆でスーパーに行って、お菓子買って来ちゃいます?」
「ええ? それって、6人でぞろぞろスーパー歩くの? あの、恥ずかしくない?」
シャイな日本人の意見は、周囲の歓声に掻き消された。
「よしっ、決まりな! んじゃ、デザイン早く決めちまおうぜ!」
ますます賑やかになるサロン。華やかで、あたたかくて。
頭痛を覚える。耳鳴りがする。
僕はこの場に居られなかった。
踵を返し、ドアへと向かう。新入生が僕の動きに気付いた。
「ちょ、ちょっと、アンリ? 行っちゃうの? 一緒に考えようよー」
「用事を思い出したから、失礼するよ」
サロンの扉を開ける。誰かの胸にぶつかった。
「あっ、すまない。大丈夫かい?」
簡単に謝る最高学年。一瞬、僕の顔を覗かれた。
お節介な生徒代表殿の表情が曇る。
「アンリ? どうしたの?」
返事をせず、彼の横を通り抜ける。
後方で彼が皆に何か聞いている声が聞こえた。
僕は自分の部屋に戻った。ドアを閉め、鍵を掛けた。
まだカーテンが開いていた。
憂鬱に降り注ぐ窓硝子越しの雨と、その先に広がる森。
この風景は子供の頃と似ている。
いつのまにか握り絞めていたカーテンで、窓硝子を覆った。
ベッドへと歩いて行く。制服のまま、横たわる。
柔らかいベッドが僕を受け止める。
此処はこの世で最も落ち着く空間だった。サン・ジェルマン邸よりも。
4年間見て来た天井。
僕がフランスから、あの人から逃れて、もう4年になる。
フランスから遠く離れた孤島。こんなところまでやってきたのに。
此処から一歩出れば、彼の手先が待ち構えている。
あの人から逃れる術なんてあるんだろうか。
目を閉じる。先程、目にした絵が浮かんでくる。
お菓子の、家。
僕だって昔は嫌いではなかった。絵本に描かれる、その家は魅力的だった。
辺りは甘い香りに包まれ、いつでも好きなときに好きなだけお菓子が食べられる。
夢のような場所に辿り着いた、小さな兄妹は夢中で家にかぶりつく。
そのページを見て、羨ましいと思う子供が殆どだろう。
僕だって、昔はそうだった。けれど、絵本は捨ててしまった。
『捨てて』と頼んだのは、僕。
「寮の子と喧嘩でもしたのかね?」
大人の声。壁に凭れて居たのは僕の講師。
身体を起こし、こちらにやってきた。
神出鬼没にもほどがある。僕は身体を横たえたまま、
「…オーギュスト」
彼はどうかしている。
時折こうして、勝手に僕の部屋に訪れ、ベッドにまで入ってくる。
講師は、僕のベッドに腰を掛ける。君の重みを受けて、僕の身体も少し沈む。
僕を見下ろして、髪を手で梳いた。
君の指が、僕の耳に触れる。すうっと撫でられた。
***
オーギュスト・ボージェ。神秘学の特別講師。
彼に初めて会ったのは、おそらく教室だろう。
第一回目の講義が終わった後、黒板を消す背中を眺めていた。
チョークの跡が綺麗になると、講師はこちらを向いた。
教室でただ一人残っていた僕を。
「どうしたのかね? 何か質問かな、サン・ジェルマン君」
「アンリ」
「そう呼んでも良いのかね?」
「此処ではファーストネームで呼び合う習慣だから」
「ほう、面白い習慣だね。では私もオーギュストと…いや、オーギュでも良いよ?」
「オーギュ…」
「よろしく、アンリ」
神秘学の講義は僕の知的好奇心を刺激するものだった。
サン・ジェルマンの邸の地下書庫で隠れて読んでいた学問。
暗い場所で埃を被っていた本。あの人に見付からないように読んでいた。
そんな僕を、誰もが気味悪がって、後ろ指を差していた。
あの人に取り上げられて、燃やされた本もあった。
伯爵が書いた本もあったのに。
かつてはタロットの話をするだけで煙たがられていた。
神秘学の講師は今までの大人達とは違った。
僕のタロットを見て、嬉しそうに言ったんだ。
「おや、良いものを持っているんだね?」と。
フランス語で記された大アルカナ22枚、小アルカナ56枚。
彼は、78枚全て言えるどころか、タロットに纏わる言い伝えまで話せた。
講義中にどんな意地悪な質問をしても、彼は適確な答えを返してくる。
彼の造詣が深いのは神秘学だけじゃない。
話せない言語はないように見えるし、地理や歴史に関しては見て来たように知っている。
今までの他の講師は、やろうと思えば打ち負かすことができたのに。
講義の後、二人になった時、講師は言った。
「とても良い質問だったよ、今日のは。私の回答では不十分ではなかったかい?」
そうは思えなかった。君はいつだって完璧で、僕では歯が立たないのに。
僕が質問した点について、文献を読んでみるかい、と尋ねられた。
初めて来た、君の研究室。
古い書物に囲まれた空間。神秘で満たされた聖域だった。
君の長い指は、本棚から一冊の本を引き抜く。
渡されて。読んだ本は必ず、僕の知的好奇心を満たすものだった。
返しに行くと、次も読んでみるかい、と。
研究室で君が淹れてくれる紅茶は美味しくて。
リーフの香りに包まれながら、錬金術について意見交換をしたり。
放課後、君と二人きりの個人授業は退屈しない時間だった。
今まで禁じられた学問が、僕の中に蓄積されていく。
この大人は、神秘学の知識を教えてくれる。
あの人が与えてくれなかったものを、この大人は僕に与えてくれる。
初めて唇を重ねたのは、多分、講義が終わった、第二化学室。
夕陽が教室の窓から差し込んでいた。
「オーギュ、何、してるの?」
「これはね、キスだよ。愛しい、と伝える手段のひとつだ」
「愛しい、って…何?」
「解らないかい?」
「愛されたことなんてないもの。解るわけないよ」
「解らないことは私が教えるよ。君が知りたいことなら、何でもね」
夕陽から夜に移ろう時刻だった。校舎内は静かで、廊下から足音はしなかった。
教室の時計が、夜へ時を進めている。
「教えて、欲しいかね?」
ずっと年上の男性。親子ほども離れている。
最初は講師と生徒というだけだったのに。
放課後の教室で。君の肩越しには夕刻の空。
美しい朱色が紫と溶け合っていた。
***
「誰と喧嘩したのか、当ててみようか?」
生徒のベッドに腰を掛けて、講師は今宵も丁寧な戯れを始める。
僕の耳たぶの柔らかさを精査するように。
弄ばれて、熱を、帯びてしまう。
「新入生の子。違うかね?」
「別に、喧嘩なんかしてない…ねえ」
「ん?」
講師は僕の首許に手を伸ばす。リボンタイがするりと抜けた。
「まだ、サロンにいっぱい居るんだけど? もし誰か来たら、どうするの?」
「生徒手帳には、講師は生徒を愛してはいけないとあったかな?」
ボタンが外れていく。遠くで騒いでいる寮生の声がする。
「そんなこと書いてある生徒手帳が何処にあるの」
講師は微笑んで身を屈める。一瞬、視線が絡む。
触れるだけの口付け。
その後で君は僕の瞳を確かめる。続けていいかと無言のうちに尋ねている。
思えば、初めて君と唇を重ねた時から、君は同じ方針だった。
一度キスをした後で僕にお伺いを立てる。
そこで僕が「嫌」と言えば終わるのに。僕は黙って目を合わせる。
君は穏やかな顔で、もう一度唇を重ねる。
二度、三度と触れて、ゆっくりと。
丁寧なのか、意地が悪いのか区別し難い。
どうして彼と、こんなことをしているんだろう。
彼にされるままでいる僕もどうかしている。
僕達は同じ性で、講師と生徒なのに。
この夜を境に、懐かしい夢を見ることになった。
夜の森で迷う夢。
それは夢というだけではない。
僕がまだサン・ジェルマン邸に居た頃、実際にあったことだ。
邸からそう遠くない森で、僕は迷子になった。当時の記憶はあまりない。
ただ、断片的に覚えているのは、夜の森と、
泣きじゃくりながらあの人を呼んでいる自分。
目を開けたら、僕は邸の自分のベッドに寝かされていた。
メイドが言うには、僕は突然居なくなって、一晩、帰ってこなかったらしい。
翌日、邸の前で倒れているのをメイドに発見された。
衣服はところどころ擦り切れていて、土や葉が付着していた。
うわ言で「夜の森に居た」「いろんなものが居て怖かった」などと呟いていたそうだ。
まるで何かに呪われたかのように高熱に侵され、何日か寝込んだ。
僕の世話をするメイド達から、無事の帰宅を喜ぶ言葉を幾つか浴びた。
その大半が立場上、演じられた『台詞』だと解った。
僕は当時から大人の心が読めたから。
やっとベッドから出られるようになって、僕は森にもう一度行こうか迷った。
森に居たいろんなものが何なのか知りたい、という気持ちがあった。
夜ではなく、昼間なら大丈夫かもしれない。
病み上がりの身体でベッドから起きる。
メイドの目を盗んで、邸から出た。
大きな扉を開けると雨が降っていた。
行くのを止めようかという考えが浮かんだが、傘を差して森へ向かった。
まだ午前中なのに、辺りは暗く、森へ続く道は薄気味悪かった。
森に足を踏み入れる前、足が動かなくなった。
理由が解らないが、近付いてはいけない、と頭の中で警笛が鳴っている。
その時、強い風が吹いて。思わず目を瞑る。
傘が煽られて、手を放してしまった。灰色の空に傘が舞い上がる。
横髪を手で押さえて、ゆっくりと目を開ける。
黒いものが、木々の間を横切った。
人間の動きではない。動物でもない。今、僕の目に映ったものは何だ。
傘を拾いに行く余裕などなかった。僕は走って、邸へ引き返した。
上等な靴に泥水が跳ねる。
雨でぬかる道に足を取られながら、必死で走った。
振り向いたら、何処かへ連れ去られそうな気がしていた。
やっと見えてきたサン・ジェルマン邸。
門を走り抜けて、扉を閉めた。
雨を全身に浴びて、服はびっしょりと濡れていた。
息は切れて、身体は汗ばんでいた。また熱が出てきたのかもしれない。
大理石の床に、髪から流れた雨粒が落ちる。
広い吹き抜けの玄関ホール。目の前には、二階へと続く大階段がある。
階段の上、其処へあの人が現れた。二階から僕を見下ろしている。
広い邸では、互いに居ても顔も見ないこともあった。
数日振りに見た父親。森で迷子になってからは初めて会った。
あの人の顔を見た時、僕はどんなにほっとしたか。
ただ、恐怖しか与えてくれない貴方を、森の中で何度呼んだことか。
そうして、数日振りに僕の顔を見たあの人は、言ったんだ。
「帰って来なければ、良かったのに」
冗談でも、からかうでもなく。
ただ、本当に、ぽつりと。
虚実めいた響きは、何処にもなかった。
それが、貴方の素直な感想だったんだろうと思う。
貴方を見上げたまま、動けなくなった僕に、
続いて投げかけられた言葉。
「無事に帰ってこれるとは、やはり悪魔だな」
遠くなる、貴方の足音。
耳の奥で鳴り止まない、貴方の言葉。
壊れた機械のように、何度も、何度も。
カエッテ コナケレバ
真っ暗な森。
自分の足音さえ、恐ろしくて。
おうちに帰りたくて。
泣きながら呼んだのに。
また貴方に、会えたのに。
どうして帰ってきてはいけないの? 僕の家は此処しかないのに。
森から帰ってこなければ、僕は死んでしまうかもしれないのに。
貴方にとって僕は、死んでもいい子供なの?
ああ、そうか。
なんだ、解った。そうなんだ。
本当は知っていたのに。
僕は信じたくなかっただけだ。
もし、森で小さな亡骸を見付けていたら、
貴方がどんな顔をするのも、僕には解っていたんだ。
だって、大人の心は、僕には読めるもの。
ヘンゼルとグレーテルだって理解していた。
親が子供のことをどう思っているのかを。
僕はただ、気付かない振りをしていただけだ。
だけど、もう、聞いてしまった。
貴方の口から。
カエッテ コナケレバ ヨカッタノニ
僕は、立っていられなくて。
足許から崩れるように、その場に倒れた。
また暫くベッドから出られなくなって。
メイドには「病み上がりで無理をされたからです」
と言われたが、違うだろう。
それからだ。
森で迷う夢を繰り返し見るようになったのは。
森という場所に拒否反応を示し、
さらに『ヘンゼルとグレーテル』が読めなくなった。
本棚に並ぶ背表紙。その題名を見るだけで怖かった。
森で子供が迷う話。
親に捨てられる子供の話。
童話に出てきた親のように。
僕の親も望んでいたんだ。
森の中から子供が帰ってこないことを。
絵本はメイドに捨ててくれるよう頼んだ。
訳を察したメイドは、僕の言うことを聞いてくれた。
僕の部屋から絵本がなくなっても。
夜の森は僕から付かず離れず。
忘れた頃、嘲笑うかのように、僕の夢に現れた。
夢の中、僕は、夜の森で彷徨っている。
決まって、僕の姿は幼い。
僕は歩き疲れた足でふらふら歩いている。
鬱蒼と生い茂る森。木は化け物のように見えて。
フクロウの鳴き声に耳を塞いで。
夜は寒くて、子供の細腕は震えてた。
お腹は空いて、元気なんてこれっぽっちも残ってなかった。
枝に引っ掛けた袖は擦り切れてしまった。
前も後ろも見えない、夜の森。
やがて、一歩も進めなくなって、膝を抱えて泣きじゃくる。
震える声で、呼んでいる。
助けに来ないと解っている、あの人のことを。
何度も呟いて、止まらない涙を自分の手で拭っている。
―― もう大丈夫だよ、アンリ ――
何処からか聞こえてくる声。
小さな僕の手が包まれる。
紳士の手。不思議なほど、安堵を感じる。
あの人ではないと直感的に解る。
懐かしい、あたたかさ。
昔会ったことでもあるのだろうか。
彼はどうして、僕の名前を知っているんだろう。
暗くて、紳士の顔が見えない。
―― おいで。おうちまで案内しよう ――
「おじさま…だあれ?」
紳士が微笑む気配。
夢はいつも其処でブラックアウトする。
見慣れた天井。
それを見て、夢だったのかと理解する。
僕は今、聖アルフォンソ学院に居るのだと。
今日もまた見てしまったんだ、森で迷う夢を。
何度も同じ夢を見ているのに解らない。
あの紳士は誰なんだろう? 僕が創り出した幻なのか。
それとも、僕が家に辿り着いたのは、本当に彼のおかげなのだろうか。
解らない。夢の内容も何処までが事実なのか解らない。
事実として覚えているのは、夜の森と、
泣きじゃくりながらあの人を呼んでいる、幼い僕。
夢を見た後はどうしても、あの人を思い出してしまうのが嫌だった。
脳では夢の残像が、耳の奥では台詞が勝手に再生される。
手の甲で額を覆う。しっとりと濡れていた。
「おや。起きたのかい? 早いね」
僕のベッドなのに隣から声がした。僕の講師。
開かれたワイシャツから、素肌が覗いている。
僕達は同じ毛布の中に居た。
まだあまり覚醒していない頭が、昨夜の記憶をおぼろげに思い出す。
そう言えば、昨夜は君が来ていたんだ。
夕食の後、サロンでお菓子の家を見せられて。
部屋に戻ったら君が居て。リボンタイを取られて――
夜、森で迷う夢を見た。
そして今、覚めたところだ。過去に囚われた時間から。
「おはよう、アンリ」
練れた大人の声。
夢を見た後に聞く声は、いつも以上に安心する。
君の声は聞いていると、何故かとても落ち着く。
講義で聞く声も。真夜中に囁かれる声も。
どうして、こんなに…
「アンリ? どうしたんだね?」
「…夢を、見ていた」
「怖い夢かい?」
「嫌いな夢」
「そうか」
ゆっくりと僕の髪を撫でる。
長い大人の指。僕が子供の頃の、あの人と同じくらいの年齢。
この大人に愛されることで、僕は何を補完しているのだろう。
「もう大丈夫だよ、アンリ。怖い夢から覚めたのだから」
夢で聞いたのと同じ台詞。
森で泣いている僕に、手を差し伸べてくれた人。
「もう大丈夫だよ、アンリ」と言ってくれた人。
彼はオーギュストなのだろうか。
紳士であるという類似点には合致するが。
思い出そうとすると、夢の記憶は霧のように薄れていく。
「オーギュ。少し可笑しなことを聞くけれど」
「なんだね?」
「君、僕の名前を呼んだ? 僕が眠っている時に」
「いいや」
「そう…」
部屋はまだ薄暗かった。
耳を澄ますと、微かにガラスを打つ音が聞こえた。
「雨、まだ止んでいないんだね」
「うん。夜中は一度止んでいたけれど。先程私が起きた時にはまた降っていた」
時計を見やると夜とも朝とも言えない時間帯だった。
光の差さないカーテンの向こうには、灰色の空と黒の森。
夢に現れる森も、必ず闇に包まれている。夜はまだ明けない。
けれど、こんな憂鬱な旋律を聞きながら、再び瞳を閉じる気にはなれなかった。
視界が暗黒に染まれば、また同じ夢を見るだろう。
耳の奥にあの台詞が甦る。
カエッテ コナケレバ
時計に向けられた視線にオーギュストが気付く。
僕の髪を撫でていた手が止まる。
「もう少し眠るかね?」
「ううん。ねえ、オーギュ…」
カエッテ コナケレバ ヨカッタノニ
この耳鳴りを止めて。
あの人を忘れさせて。
「キス、して」
オーギュストは少し驚いたようだった。
だけど、何も聞かずに、僕の頬に手を添えた。
君の甘い舌が欲しかったのに。薄い唇は僕の目許に触れた。
「何処に、してるの」
問うのと同時に、理由が解る。
静かな空間で、僕の声は僅かに震えていた。
添えられた手は離れ、反対の頬を拭う。君の手は濡れていた。
また零れた雫に、口付けが落とされた。
fin
■シハル×アイヴィー
アイヴィーは自宅で遅い昼食を取っていた。
お手軽カンタンなサンドイッチだ。
今日になってからは一食目なので朝食と言ってもいいのだが今は午後2時。
時間的には朝食とは言えなかった。
月の綺麗な深夜。呼び出されて、お仕事をしていた。
招かれざるお客さんが、島に上陸した為だ。
今年はこんな風に、海辺で開かれる深夜のダンスパーティに誘われることが多い。
片が付いたのは明け方。街が動き出す時間に家に帰ることができた。
習慣的にメールチェックをして、
他に仕事が―今のところ―入っていないことを確かめる。
窓には眩しい朝陽が差し込む。
「お肌に悪い生活してんなあ、俺」
太陽におやすみを言って、遮光カーテンを引く。
ベッドに入ったら、すぐに夢に落ちた。
3時間程眠ったら自然と目が覚めた。身体を起こすと、右手に痛みを感じた。
手の甲に赤いラインが入っていた。
「ああ。そういや、ちょっと切られたんだっけ」
警備の任務で傷を負うことは珍しい。
ほんのちょこっと油断した。
不法侵入のお客さんが吐いた言葉。
思い出したくない過去がフラッシュバックして。
短剣を避けるのが一瞬遅れた。
手を広げて天井に向けてみる。深くはないが明らかに刃物で切られた痕だ。
マージナルプリンスどもや保健室のセンセに見付かると何かとマズイ。
傷は隠して、転んで擦り剥いたことにでもしておこう。
絆創膏をぺとっと貼る。
食後の一服。今日の煙草はちょっと苦い。
ゆらゆら上る煙を、ぼうっと見ていた。
「アイヴィー、遊びに来ましたよー♪」
華やかな声がした。またしてもアポなし。
誰の声かは解る。デッドプリンスのドラマーだ。
続いてベーシストのハルヤが上がってくる。
早食い王子はアイヴィーの前にある空っぽの皿を見た。
「あ、ご飯食べ終わったとこ? 何食べてたの?」
アイヴィーは煙草を指に預ける。
「BLTだけど」
「びーえるティー? なんか紅茶の名前みたいだけど…なんなの?」
笑いながら灰皿に灰を落とす。
「ベーコン、レタス、トマトのサンドイッチ。頭文字がBLTだろ?
この前、カフェで食べてウマかったから、適当に作ってみただけ」
「美味しそうですね。僕、食べたいです!」
「俺も食べたいな」
「んじゃ勝手に作って来いよ。まだ材料あっから」
「アイヴィーが作って下さいよー」
「俺もアイヴィーに作って欲しいな」
「ったく。マージナルプリンスどもめ」
煙草を灰皿に置いて、キッチンへ向かった。
手際良く、調理は進んでいく。作り方には無駄がなかった。
まずは長いフランスパンを適当に切って、オーブンに焼かせておく。
冷蔵庫から取り出した四角いベーコンの塊を薄めに切る。
オリーブオイルを敷いたフライパンにベーコンを乗せる。
途端に美味しそうな音が跳ねる。これは焦げる直前くらいが美味しい。
タイミングを見計らって、引っ繰り返す。
焼き上がったフランスパンには縦に切り込みを入れる。
パリッと香ばしい音と共に、硬いパンの欠片が少し飛び散った。
パンに新鮮なレタスを挟む。
緑のベッドに、トマトとカリカリベーコンを寝かせる。
二人の上にマヨネーズを掛ける。これで完成だ。
熱々のBLTを、マージナルプリンスどもの前に置く。
「ほい、おまたせ」
色彩鮮やかなサンドイッチ。腹ペコ達がかぶりつく。
「できたては最高ですねー」
「うん。パン、あったかくて美味しい」
「おや。ハルヤ、マヨネーズがほっぺに。僕、舐めてもイイですか?」
「いっ、イイわけないでしょ…」
「てゆうか、ついてないだろ、何にも」
「そうですね、マヨネーズなんか付けなくても、ハルヤは美味しそうですし」
「ハルヤを食べようとするな」
ぺしっとシルヴァンの頭を叩く。その手の甲に絆創膏があった。
まだ少し赤い顔で、ハルヤが尋ねる。
「手、どうしたの? 大丈夫?」
シルヴァンが顔を上げる。一瞬浮かんだ表情。原因を察したようだ。
アイヴィーが警備責任者だとは知らないハルヤと、
知っているシルヴァンに、ひらひらと手を振ってみせる。
「あー、平気ヘイキ。ちょっと擦り剥いただけだから」
「そう?」
「気を付けて下さいね、アイヴィー。
貴方の手は僕達にご飯を作る大事な手なんですから」
「へいへい。ご心配どうも」
二人の王子は存分にくつろぎ、あっと言う間に夕食の時間になった。
「送って下さい」とのご命令により、
学院の正門前までタクシーに乗せることになった。
寮へ向かう二人の背中を見ながら、まっすぐおうちに帰るか、
何処かに道草しようか考えていた。
すると、シルヴァンが一人で戻って来た。ハルヤの背中は寮に向かっている。
先に寮に戻るように言ったのだろう。
アイヴィーの前で立ち止まる。走った割には微塵も息が切れていない。
「あの…」
「どした?」
シルヴァンは俺の右手を取った。
手の甲には絆創膏。そっと自分の手を重ねた。
「お仕事…お疲れ様です、アイヴィー」
この怪我が気になっていたらしい。神妙な顔をしてやがる。
やはり、警備の任務で負った傷だと解ったのだろう。
左手で頭をぽんと叩いてやった。
「そんな顔することかよ」
「だって、貴方が怪我をするなんて、珍しいじゃないですか…」
「ちょこっと切っただけだって。大したことねえよ、全然動くし」
「はい。大事に至らなくて良かったです、今回は」
軍人の家系に生まれたシルヴァンは、アイヴィーの仕事が、
いつ命を失っても可笑しくないものであると十分に理解していた。
温かかった手がまた外気に晒される。
「じゃ、また遊びに行きますね」
笑顔を見せて、シルヴァンは寮へと戻っていった。
一人になったアイヴィーは、手の甲を眺めた。
絆創膏を撫でてみる。すべすべして、内側は柔らかい。
傷を覆ってくれるもの。
大した傷じゃない。
時が経てばそのうち治る。
この孤島に来てから、徐々に過去が薄れていく。
昨日は思い出しちまったけど。たまたまだ。
普段は忘れている。それが何故か。
そこまでシルヴァンは解っているのだろうか。
絆創膏の役割をしてくれてんのは誰か、ってことを。
タクシードライバーは愛車に背を預ける。
バカみたいにデカイ月桂樹の館を眺めた。
「ま。聞かれても教えてやんないけどな」
fin
お手軽カンタンなサンドイッチだ。
今日になってからは一食目なので朝食と言ってもいいのだが今は午後2時。
時間的には朝食とは言えなかった。
月の綺麗な深夜。呼び出されて、お仕事をしていた。
招かれざるお客さんが、島に上陸した為だ。
今年はこんな風に、海辺で開かれる深夜のダンスパーティに誘われることが多い。
片が付いたのは明け方。街が動き出す時間に家に帰ることができた。
習慣的にメールチェックをして、
他に仕事が―今のところ―入っていないことを確かめる。
窓には眩しい朝陽が差し込む。
「お肌に悪い生活してんなあ、俺」
太陽におやすみを言って、遮光カーテンを引く。
ベッドに入ったら、すぐに夢に落ちた。
3時間程眠ったら自然と目が覚めた。身体を起こすと、右手に痛みを感じた。
手の甲に赤いラインが入っていた。
「ああ。そういや、ちょっと切られたんだっけ」
警備の任務で傷を負うことは珍しい。
ほんのちょこっと油断した。
不法侵入のお客さんが吐いた言葉。
思い出したくない過去がフラッシュバックして。
短剣を避けるのが一瞬遅れた。
手を広げて天井に向けてみる。深くはないが明らかに刃物で切られた痕だ。
マージナルプリンスどもや保健室のセンセに見付かると何かとマズイ。
傷は隠して、転んで擦り剥いたことにでもしておこう。
絆創膏をぺとっと貼る。
食後の一服。今日の煙草はちょっと苦い。
ゆらゆら上る煙を、ぼうっと見ていた。
「アイヴィー、遊びに来ましたよー♪」
華やかな声がした。またしてもアポなし。
誰の声かは解る。デッドプリンスのドラマーだ。
続いてベーシストのハルヤが上がってくる。
早食い王子はアイヴィーの前にある空っぽの皿を見た。
「あ、ご飯食べ終わったとこ? 何食べてたの?」
アイヴィーは煙草を指に預ける。
「BLTだけど」
「びーえるティー? なんか紅茶の名前みたいだけど…なんなの?」
笑いながら灰皿に灰を落とす。
「ベーコン、レタス、トマトのサンドイッチ。頭文字がBLTだろ?
この前、カフェで食べてウマかったから、適当に作ってみただけ」
「美味しそうですね。僕、食べたいです!」
「俺も食べたいな」
「んじゃ勝手に作って来いよ。まだ材料あっから」
「アイヴィーが作って下さいよー」
「俺もアイヴィーに作って欲しいな」
「ったく。マージナルプリンスどもめ」
煙草を灰皿に置いて、キッチンへ向かった。
手際良く、調理は進んでいく。作り方には無駄がなかった。
まずは長いフランスパンを適当に切って、オーブンに焼かせておく。
冷蔵庫から取り出した四角いベーコンの塊を薄めに切る。
オリーブオイルを敷いたフライパンにベーコンを乗せる。
途端に美味しそうな音が跳ねる。これは焦げる直前くらいが美味しい。
タイミングを見計らって、引っ繰り返す。
焼き上がったフランスパンには縦に切り込みを入れる。
パリッと香ばしい音と共に、硬いパンの欠片が少し飛び散った。
パンに新鮮なレタスを挟む。
緑のベッドに、トマトとカリカリベーコンを寝かせる。
二人の上にマヨネーズを掛ける。これで完成だ。
熱々のBLTを、マージナルプリンスどもの前に置く。
「ほい、おまたせ」
色彩鮮やかなサンドイッチ。腹ペコ達がかぶりつく。
「できたては最高ですねー」
「うん。パン、あったかくて美味しい」
「おや。ハルヤ、マヨネーズがほっぺに。僕、舐めてもイイですか?」
「いっ、イイわけないでしょ…」
「てゆうか、ついてないだろ、何にも」
「そうですね、マヨネーズなんか付けなくても、ハルヤは美味しそうですし」
「ハルヤを食べようとするな」
ぺしっとシルヴァンの頭を叩く。その手の甲に絆創膏があった。
まだ少し赤い顔で、ハルヤが尋ねる。
「手、どうしたの? 大丈夫?」
シルヴァンが顔を上げる。一瞬浮かんだ表情。原因を察したようだ。
アイヴィーが警備責任者だとは知らないハルヤと、
知っているシルヴァンに、ひらひらと手を振ってみせる。
「あー、平気ヘイキ。ちょっと擦り剥いただけだから」
「そう?」
「気を付けて下さいね、アイヴィー。
貴方の手は僕達にご飯を作る大事な手なんですから」
「へいへい。ご心配どうも」
二人の王子は存分にくつろぎ、あっと言う間に夕食の時間になった。
「送って下さい」とのご命令により、
学院の正門前までタクシーに乗せることになった。
寮へ向かう二人の背中を見ながら、まっすぐおうちに帰るか、
何処かに道草しようか考えていた。
すると、シルヴァンが一人で戻って来た。ハルヤの背中は寮に向かっている。
先に寮に戻るように言ったのだろう。
アイヴィーの前で立ち止まる。走った割には微塵も息が切れていない。
「あの…」
「どした?」
シルヴァンは俺の右手を取った。
手の甲には絆創膏。そっと自分の手を重ねた。
「お仕事…お疲れ様です、アイヴィー」
この怪我が気になっていたらしい。神妙な顔をしてやがる。
やはり、警備の任務で負った傷だと解ったのだろう。
左手で頭をぽんと叩いてやった。
「そんな顔することかよ」
「だって、貴方が怪我をするなんて、珍しいじゃないですか…」
「ちょこっと切っただけだって。大したことねえよ、全然動くし」
「はい。大事に至らなくて良かったです、今回は」
軍人の家系に生まれたシルヴァンは、アイヴィーの仕事が、
いつ命を失っても可笑しくないものであると十分に理解していた。
温かかった手がまた外気に晒される。
「じゃ、また遊びに行きますね」
笑顔を見せて、シルヴァンは寮へと戻っていった。
一人になったアイヴィーは、手の甲を眺めた。
絆創膏を撫でてみる。すべすべして、内側は柔らかい。
傷を覆ってくれるもの。
大した傷じゃない。
時が経てばそのうち治る。
この孤島に来てから、徐々に過去が薄れていく。
昨日は思い出しちまったけど。たまたまだ。
普段は忘れている。それが何故か。
そこまでシルヴァンは解っているのだろうか。
絆創膏の役割をしてくれてんのは誰か、ってことを。
タクシードライバーは愛車に背を預ける。
バカみたいにデカイ月桂樹の館を眺めた。
「ま。聞かれても教えてやんないけどな」
fin
■バカンス続編
「アンリが怒っている理由はミハイル、じゃないだろう?」
「何それ。どういう…」
背中からアンリを抱き留める。
細いラインを折れないように、そっと包んだ。
肩に自分の首を埋める。
「俺も、だよ。アンリ」
「何…」
「俺も残念だよ。今回の休暇はユウタが居るからできないね?」
「話が、見えない」
ジョシュアは白い耳に囁く。
「休暇中のサロンで、アンリの声、聞くの楽しみにしていたのにな」
「離して」
「こうしていると、思い出してしまうから?」
ジョシュアの手が服の上からアンリの身体を辿る。
頬からゆっくりと下へ降りてくる。
「いやっ…こんなに明るいうちから…」
「ごめん。もう夜まで待てないんだ」
指がアンリの弱いところで止まる。極めて弱い愛撫。
「でも、サロンには、彼等が」
「そうだね。じゃ…声を抑えて」
fin
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「何それ。どういう…」
背中からアンリを抱き留める。
細いラインを折れないように、そっと包んだ。
肩に自分の首を埋める。
「俺も、だよ。アンリ」
「何…」
「俺も残念だよ。今回の休暇はユウタが居るからできないね?」
「話が、見えない」
ジョシュアは白い耳に囁く。
「休暇中のサロンで、アンリの声、聞くの楽しみにしていたのにな」
「離して」
「こうしていると、思い出してしまうから?」
ジョシュアの手が服の上からアンリの身体を辿る。
頬からゆっくりと下へ降りてくる。
「いやっ…こんなに明るいうちから…」
「ごめん。もう夜まで待てないんだ」
指がアンリの弱いところで止まる。極めて弱い愛撫。
「でも、サロンには、彼等が」
「そうだね。じゃ…声を抑えて」
fin
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