■オーギュスト×アンリ
■ブラックテイスト
■ブラックテイスト
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「フランスに於いては、15世紀にリボンが生まれたという説がある。
最盛期は19世紀。裕福な貴婦人方にとってシルクのリボンは、
なくてはならないアクセサリーだったんだ」
別に質問もしていないのに、講師はリボンについて講釈していた。
アンリは髪を枕に散らして可笑しな講師を見上げていた。
オーギュストはベッドの上に座っている。
暗い部屋に講師のワイシャツが青白く浮かぶ。
彼のボタンは上部だけが開いている。
ジャケットは向こうの椅子に寄り掛かっていた。
明日には皺になっているだろう。生徒は、ふっと笑みを零した。
「神秘学もそうだけれど。君の趣味ってどうかしている」
講師の手には細身の赤いリボン。
「アンリをより可愛くしたいだけだよ、私は。
クリスマスが近いからね。季節感を演出してみようかと思って」
生徒の後頭部を静かに持ち上げて、首の下にリボンを通す。
もう一度、枕に戻る髪。一連の動作は酷く丁寧だった。
講師の長い指が生徒の白い喉にリボンを結び始める。
首より下の肌には既に、紐と似た色の花。
幾度となく受けている夜の特別授業。
今宵の一時間目が終わった後。
首にリボンを巻いてるアンリが見たいなと言われた。
紳士的に振舞えるくせに、彼の講義はアブノーマルで困る。
首許を眺めながら、生徒は冷笑する。
「僕を絞殺でもするつもり? 化けて出るよ? 毎晩ね」
生徒の冗談に講師が微笑む。
「君の方から私のベッドに来てくれるのかい? それも良いね」
オーギュストは蝶の形になったリボンを眺める。
しかし、すぐに先端を引いた。
「ねえ。何故、ほどいたの?」
「綺麗に結ぶのはなかなか難しくてね。ほら、また長さが揃わない」
両端を揃え直そうと、講師は手にしている片方を引く。
後ろの首筋をリボンが擦れる。
「くすぐったい…」
「ごめん」
その器用過ぎる指先なら、リボンくらい容易く結べる筈なのに。
わざとなのか、何度かやり直していた。
リボンの先に鎖骨をちろちろとなぞられて、思わず眉を顰める。
「…オーギュ」
「ごめんね。次は上手く作るから」
また片方をリングにする。
遅過ぎる手作業の上につまらないお喋りを続ける。
「リボンという物は、実に神秘的な物だと思わないかね?」
「思わない」
リングの中心をもう一方の紐で巻く。
「私などはリボンを見ると、解きたくなるんだ。
結んでいるのに、すぐに解けるようにできているからね、リボンは」
「絡まったリボンだってあるよ。鋏で切るしかない程に」
きゅ、と左右のリングが結ばれる。
「ゆっくりと時間を掛けさえすれば、いつかはほどけるよ。
私はそれまで待てる。気は長い方だからね」
左右の形を整える。先端の長さまで綺麗に合わせていた。
「ん。できたよ」

蝶と首との間は少し余裕を持って作られたのだが、
苦しくはないかね? と聞かれた。生徒は何も言わなかった。
講師はリボン姿を眺め、小さな子供を褒めるように髪を撫でた。
「可愛いよ。とても可愛い」
彼の手を避けることはなかったが、唇は反抗していた。
「僕にリボンなんか掛けて、何処かに贈るつもり?」
「まさか。私だけのものだよ、アンリは」
生徒は教諭を見上げ、冷静な声で言う。
「僕は僕のものだ」
冷たい苦言さえ愛おしむように、講師は微笑していた。
白い首許に下がる赤い紐。
それを手に乗せ、ゆっくり顔を寄せる。
「可愛いよ、アンリ」
手の甲へするように、恭しくリボンに口付けた。
昔のフランス貴族のような動作。
この紳士がすると違和感がないのが不思議だった。
薄い唇が自分の身体に落とされるより、胸がとく、と鳴ってしまった。
講師は、リボンの端をゆっくりと引く。
「やはり、ほどきたくなるね」
艶々した赤い布が肌を滑る。その僅かな振動が喉に伝わる。
「せっかくだから、これで手首でも縛るかい? アンリ」
「嫌」
2つのリングが小さくなる。今結んだばかりのリボンが解けていく。
講師は穏やかな笑顔を見せた。
「アンリ、以前はお気に入りだったじゃないか」
fin
最盛期は19世紀。裕福な貴婦人方にとってシルクのリボンは、
なくてはならないアクセサリーだったんだ」
別に質問もしていないのに、講師はリボンについて講釈していた。
アンリは髪を枕に散らして可笑しな講師を見上げていた。
オーギュストはベッドの上に座っている。
暗い部屋に講師のワイシャツが青白く浮かぶ。
彼のボタンは上部だけが開いている。
ジャケットは向こうの椅子に寄り掛かっていた。
明日には皺になっているだろう。生徒は、ふっと笑みを零した。
「神秘学もそうだけれど。君の趣味ってどうかしている」
講師の手には細身の赤いリボン。
「アンリをより可愛くしたいだけだよ、私は。
クリスマスが近いからね。季節感を演出してみようかと思って」
生徒の後頭部を静かに持ち上げて、首の下にリボンを通す。
もう一度、枕に戻る髪。一連の動作は酷く丁寧だった。
講師の長い指が生徒の白い喉にリボンを結び始める。
首より下の肌には既に、紐と似た色の花。
幾度となく受けている夜の特別授業。
今宵の一時間目が終わった後。
首にリボンを巻いてるアンリが見たいなと言われた。
紳士的に振舞えるくせに、彼の講義はアブノーマルで困る。
首許を眺めながら、生徒は冷笑する。
「僕を絞殺でもするつもり? 化けて出るよ? 毎晩ね」
生徒の冗談に講師が微笑む。
「君の方から私のベッドに来てくれるのかい? それも良いね」
オーギュストは蝶の形になったリボンを眺める。
しかし、すぐに先端を引いた。
「ねえ。何故、ほどいたの?」
「綺麗に結ぶのはなかなか難しくてね。ほら、また長さが揃わない」
両端を揃え直そうと、講師は手にしている片方を引く。
後ろの首筋をリボンが擦れる。
「くすぐったい…」
「ごめん」
その器用過ぎる指先なら、リボンくらい容易く結べる筈なのに。
わざとなのか、何度かやり直していた。
リボンの先に鎖骨をちろちろとなぞられて、思わず眉を顰める。
「…オーギュ」
「ごめんね。次は上手く作るから」
また片方をリングにする。
遅過ぎる手作業の上につまらないお喋りを続ける。
「リボンという物は、実に神秘的な物だと思わないかね?」
「思わない」
リングの中心をもう一方の紐で巻く。
「私などはリボンを見ると、解きたくなるんだ。
結んでいるのに、すぐに解けるようにできているからね、リボンは」
「絡まったリボンだってあるよ。鋏で切るしかない程に」
きゅ、と左右のリングが結ばれる。
「ゆっくりと時間を掛けさえすれば、いつかはほどけるよ。
私はそれまで待てる。気は長い方だからね」
左右の形を整える。先端の長さまで綺麗に合わせていた。
「ん。できたよ」
蝶と首との間は少し余裕を持って作られたのだが、
苦しくはないかね? と聞かれた。生徒は何も言わなかった。
講師はリボン姿を眺め、小さな子供を褒めるように髪を撫でた。
「可愛いよ。とても可愛い」
彼の手を避けることはなかったが、唇は反抗していた。
「僕にリボンなんか掛けて、何処かに贈るつもり?」
「まさか。私だけのものだよ、アンリは」
生徒は教諭を見上げ、冷静な声で言う。
「僕は僕のものだ」
冷たい苦言さえ愛おしむように、講師は微笑していた。
白い首許に下がる赤い紐。
それを手に乗せ、ゆっくり顔を寄せる。
「可愛いよ、アンリ」
手の甲へするように、恭しくリボンに口付けた。
昔のフランス貴族のような動作。
この紳士がすると違和感がないのが不思議だった。
薄い唇が自分の身体に落とされるより、胸がとく、と鳴ってしまった。
講師は、リボンの端をゆっくりと引く。
「やはり、ほどきたくなるね」
艶々した赤い布が肌を滑る。その僅かな振動が喉に伝わる。
「せっかくだから、これで手首でも縛るかい? アンリ」
「嫌」
2つのリングが小さくなる。今結んだばかりのリボンが解けていく。
講師は穏やかな笑顔を見せた。
「アンリ、以前はお気に入りだったじゃないか」
fin
■デッドプリンス
歴史学の講義中。
教授はアルフォンソ王の伝説を語りながら、黒板に向かっている。
陰謀から一時的に逃れて来た王。彼の伝説は数えきれない程あった。
ハルヤは板書をしていたのだが、小さな寝息が聞こえて来た。
周りを見ると、音源は2つ隣の席。
アルフレッドが机を枕に目を閉じていた。
彼の前には開いたままのノートとシャーペンが転がっている。
ハルヤは隣のシルヴァンに小声で話す。
「レッドがこの授業で寝るなんて珍しいね」
ええ、と微笑して頷く。寝顔を見ながら答える。
「昨夜は遅くまで映画を見ていたようで」
「ふうん。そうなんだ」
ハルヤを少し乗り出して、友達の寝顔をもう一度眺める。
ゆっくりと上下する肩。口が少し開いてる。
ハルヤは再び黒板に視線を戻し、続きをノートに書き留めた。
チョークが黒板にぶつかる音、単調な先生の声。
2つ隣からは規則的な呼吸。
実はハルヤも昨夜は寝るのが遅く、睡眠が足りていない。
時刻は14時25分。昼食後の眠気が今まさに来ている。
今日のお昼はアボカドマグロ丼をたくさん食べた。
ハルヤの耳には、先生の声より、
レッドの気持ち良さそうな寝息が聞こえて。
黒板の文字がぼうっと霞む。口許を手で隠す。
「は…ぁ…ふ」
手の中で小さく欠伸してしまった。
眠気を移されてしまったようだ。
シルヴァンの笑顔と目が合って、ハルヤは照れ笑いした。
fin
■ユウタ シルヴァン ハルヤ
夕食後。シルヴァンはサロンに顔を出した。
日本のマンガのことでハルヤに質問があった。
だが、サロンに彼の姿がなかったので、彼の部屋をノックした。
「ハルヤー。お邪魔しに来ましたー、開けますね?」
「え。シルヴァン? ちょっと待っ」
最後まで待たずにドアを開ける。
ハルヤは机に向っていた。彼の傍へ歩く。
「おや。お勉強中でしたか?」
「ううん。えっと、年賀状、書いてたとこ」
「年賀状ですか?」
肩越しに彼の手元を覗く。
手にしているハガキにはHaruomiという文字が書かれていた。
「これはお兄様宛ですね?」
「あ、うん…」
ちょっと俯きがち答えた。
ハガキにはねずみらしい絵があった。
「年賀状にはねずみを書く決まりがあるんですか?」
「決まりじゃないんだけどね。来年はねずみ年なんだよ」
「ねずみ年?」
「あー、説明するのめんどくさいからちょっと省くけど、
12種類の動物が一年ごと一匹ずつ決まってるんだ。
今年は猪で来年はねずみなんだよ」
「日本は来年、ねずみの年、なんですか。
なるほど。面白いですね、ニッポンは」
シルヴァンの頭の中でピカッと電球が光る。
「ハルヤ、僕も書いてみたいです、年賀状!」
「シルヴァンが? 誰に書くの?」
「決まってるじゃないですか♪」
シルヴァンとハルヤはユウタの部屋をノックした。
「ユウター。シルヴァンです、開けて貰えますか?」
すぐに、はーい、という返事と足音が聞こえる。
ユウタがドアを開けると、其処には笑顔のシルヴァンと、
やあ、と軽く手を挙げているハルヤが居た。
「二人して、どうしたの?」
「ユウタユウタッ、コレかぶってみて下さいっ♪」
手にしているのは、ニッポンのアニメのキャラクタ帽子。
今や世界中で大人気の黄色い電気ネズミだ。
「えっ? なんでっ?」
有無を言わさず頭に帽子を被せられる。
シルヴァンは嬉しそうに手を合わせた。
「可愛いですー! ほら、ユウタも見て下さい?」
ユウタの肩を押して、鏡の前に立たせる。
「やっぱり似合いますねっ、ユウタ!」
そう言われてもユウタは事情が解らないし、ちょっと恥ずかしい。
苦笑していたハルヤが成り行きを説明した。
「シルヴァン、ユウタのお姉さんに年賀状送りたいんだって」
「年賀状? 姉貴に?」
「はい。ニッポンのネズミと言えばやっぱりコレだと思いまして♪
その姿でちょっと写真を撮らせて貰えませんか?
ユウタの写真で年賀状を作りたいんです♪」
「ええ? 俺じゃなくて、シルヴァンの写真にすれば良いじゃん」
「これはユウタの方が似合いますよー。それに、お姉さんだって、
弟の写真だったらきっと喜びますよ?」
ユウタは人差し指で頬を掻く。
「そ、そう、かな…?」
「もちろんですよ。じゃー、笑って下さいね、撮りますよー」
fin
■2日前 続編
■ユウタと愉快な仲間達
■ユウタと愉快な仲間達
「姉貴のばか…11月は博士の誕生日にまで電話かけてきたのに」
12月15日午後。
ユウタはしょぼんとベッドに座っていた。
シーツの上には、鳴らない携帯電話。
「やっぱり忘れてるんだ、俺のことなんか」
不在着信もないし、新着メールを何度チェックしても何もない。
寮の皆からも何も言われていない。
それどころか、今日は皆、何処かへ行ってしまった。
朝起きたら誰も居なくて朝食は一人で食べた。
自然と去年のことを思い出した。家族に祝って貰った誕生日。
母さんも姉ちゃんもプレゼントはどっちもマフラーで、
姉ちゃんが作ったへたっぴケーキのろうそくを消した。
すっごい平凡な誕生日だとその時は思ったけど。
今年はそんなお祝いもして貰えないんだ。
「クリスマスにジョシュアに代わってって言われても絶対代わってやんないぞ!」
叫んでも携帯電話は光らない。
「ユウタ、喜んでくれるかな」
泉の傍には、一本だけ棕櫚の木がある。
幹に背を預けてミハイルは体育座りをしていた。
膝の上にはプレゼントの袋を抱えている。
タクシードライバーのアイヴィーさんと買いに行ったもの。
お店には色んなものが売っていて、なかなか決められなかった。
すごく時間がかかっちゃったのにアイヴィーさんは全然怒らなくて。
最後まで僕と一緒に居てくれたし、なんか細長いお菓子も食べさせてくれた。
シナモンのいい香りがして、甘くて美味しかった。
学校の前まで送って貰って、さよならする時は、
「楽しみだな、明日」ってぼくの頭を撫でてくれて。
アイヴィーさん、すごく優しくて、楽しい日になった。
「ユウタに喜んで貰えるといいな」
もうすぐ、プレゼントを渡しに行く時間。
その前に心を落ち着ける為、此処に来ていた。
ウーティス寮の皆が今日のパーティに誘ってくれた。
他の寮の人にこんなに仲良くして貰えるなんて。
みんな、ユウタのおかげだ。
昨日の夜はどきどきしてあんまり眠れなかった。
「ゴメンネ! ゴメンネー!」
空から甲高い声が降りてくる。
白い翼をばたつかせながら大型の鳥が降り立った。
ミハイルが此処でよく会う友達だ。
「あっ、こ、こんにちは、オウムさん」
「ゴメンネ、コンニチハ!」
片方の翼を挙げて、いつもの挨拶。
ミハイルの傍に寄って来る。動物が大好きなミハイルにとって、
動物の方から来てくれることはとても嬉しいことだった。
くりくりの黒目で見上げられる。
「ゴメンネ、キョウもナミダ?」
「ううん。今日はね、涙は出てないよ。今日は素敵な日だから。
ごめんね、ぼくのせいで。オウムさんにはいつも心配して貰って」
膝の上にあるプレゼントを見せる。
「あ、あのね、これ、あげるんだ。ユウタに」
「ユウタ? ユウタにはナイショ?」
内緒という言葉は、以前オウムと会った時に、ミハイルが言ったもの。
ユウタへ誕生日プレゼントを贈ろうと考えていることは内緒だよと。
自分の言葉を覚えていてくれたことが嬉しかった。
「そう、内緒。でも、もう内緒にしなくてもいいんだ、今日、だから」
「キョウ、ダカラ?」
「うん。今日なんだ、12月15日。ユウタのお誕生日。
オウムさんは今日までユウタには内緒にしててくれたんだね。ありがと」
オウムは胸を張って翼を挙げる。
「ユウタにはナイショ! ユウタにはナイショ!」
「オウムさんって、ほんと頭良いんだね。すごいなあ」
「スゴイナー!」
楽しげな一羽と一人の背後に、もう一人の人間が現れた。
「おい」
低い声。ミハイルが振り向く。
其処に立っていたのは一人の生徒。
すらりと高い背。黒髪に緑翠の瞳。
「あっ、この前、うさぎさんを助けてくれた…」
「それ、今日、ユウタに渡すのか?」
「あ、う、うん。ユウタ、誕生日だから…」
「そうか。なら、ついでにこれも渡してくれ」
突き出された、ギフト用の袋。
ラッピングは可愛らしく、リボンで結ばれている。
おそるおそるミハイルは袋を受け取る。
「あ、あの…これ…」
「クッキーだ。では、頼んだぞ」
空っぽになった手をポケットに入れて、森の出口へと向かう。
黒髪に当たる木洩れ陽はキラキラして綺麗だった。
「大体、姉貴はいつも勝手なんだよ」
ユウタの部屋では、姉への恨み言が続いていた。
携帯電話を握ったまままベッドに転がる。
「ちょっと年上だからって、弟に何でも命令するし。
機嫌が悪い時は、俺に当たり散らすし。
俺が楽しみにしてたアイス、勝手に食べたこともあるし」
思い出してみると、姉にされた悪事が次から次へと浮かんできた。
「なのに、ジョシュア達には人気あってさ。あんな姉貴のどこが良いんだろっ」
寮の皆は姉貴の嫌なところを知らない。
姉貴のことよく知らないのに。
俺からこの携帯電話を、俺から姉貴を取ろうとする。
「みんなの誕生日には電話してきたのに…どうして僕には」
手の中でミシリと携帯電話が音を立てる。
「…姉ちゃんのばか…姉ちゃんのっ」
コンコン、とドアがノックされた。
目を擦ってから、ドアを開けに行く。
立っていたのはバトラーだった。両手で箱を持っている。
老紳士は優しく微笑した。
「ユウタ様にお荷物が届いています」
ちょっと重い箱を受け取る。
バトラーは一礼して、部屋から下がった。
ユウタは箱をテーブルの上に置く。
差出人の欄に書かれていたのは、見慣れた住所。
箱を開けたユウタは、中を見て目を丸くした。
うさぎ怪獣型のバースデーケーキ…の残骸と言った方が良いかもしれない。
郵送の過程で揺れたのか、ぐっしゃぐしゃだ。
ただでさえコワイ顔なのに、チョコペンの線が歪んで、
クチがすごい裂けちゃってるし、
箱のあちこちに淡いピンクのクリームがベタベタ付いてる。
添えられたカードには日本語で、
『誕生日おめでとう みんなで食べてね』と書いてあった。
ユウタは携帯電話を掴んだ。ミシと音が鳴る。
携帯を開いても、電話のボタンは押せなかった。
今、電話なんかできない。
上手く動いてくれない指でメールを打った。
姉貴、前にもクッキー送ってきたことあったけどさ、
なんでケーキなんか送って来るんだよ!
てゆうか、箱がクリームまみれだったし!
お菓子とか上手くないくせに、こんなの作って…
こんな、めちゃくちゃなケーキ、みんなに食べさせられないよ!
コンコン、とまたドアがノックされた。
慌てて携帯をポケットに仕舞う。
「開けるよ」
優しい声がして、扉が開く。
ユウタが見上げると、其処にはジョシュアの笑顔があった。
「お姉さんから無事に届いたみたいだね。良かったね、ユウタ」
「え…どうして、姉貴からだって知って…」
「聞いていたからね。今年は去年よりは上手く作れたと思うって」
ユウタから視線を外し、後方へ向かって言う。
「バトラー。ケーキのことを頼むよ」
「はい。ジョシュア様」
控えていた執事が現れ、「お預かりします」とケーキを運んだ。
ユウタは呆然と見つめていた。ジョシュアはユウタへ向き直る。
「じゃ、行こうか。みんな、ユウタのこと待っているよ?」
右手を差し出し、ふんわりと微笑する。
「お姉さんからのプレゼントには敵わないと思うけど。
俺達のバースデイプレゼントも受け取ってくれるかい?」
fin
12月15日午後。
ユウタはしょぼんとベッドに座っていた。
シーツの上には、鳴らない携帯電話。
「やっぱり忘れてるんだ、俺のことなんか」
不在着信もないし、新着メールを何度チェックしても何もない。
寮の皆からも何も言われていない。
それどころか、今日は皆、何処かへ行ってしまった。
朝起きたら誰も居なくて朝食は一人で食べた。
自然と去年のことを思い出した。家族に祝って貰った誕生日。
母さんも姉ちゃんもプレゼントはどっちもマフラーで、
姉ちゃんが作ったへたっぴケーキのろうそくを消した。
すっごい平凡な誕生日だとその時は思ったけど。
今年はそんなお祝いもして貰えないんだ。
「クリスマスにジョシュアに代わってって言われても絶対代わってやんないぞ!」
叫んでも携帯電話は光らない。
「ユウタ、喜んでくれるかな」
泉の傍には、一本だけ棕櫚の木がある。
幹に背を預けてミハイルは体育座りをしていた。
膝の上にはプレゼントの袋を抱えている。
タクシードライバーのアイヴィーさんと買いに行ったもの。
お店には色んなものが売っていて、なかなか決められなかった。
すごく時間がかかっちゃったのにアイヴィーさんは全然怒らなくて。
最後まで僕と一緒に居てくれたし、なんか細長いお菓子も食べさせてくれた。
シナモンのいい香りがして、甘くて美味しかった。
学校の前まで送って貰って、さよならする時は、
「楽しみだな、明日」ってぼくの頭を撫でてくれて。
アイヴィーさん、すごく優しくて、楽しい日になった。
「ユウタに喜んで貰えるといいな」
もうすぐ、プレゼントを渡しに行く時間。
その前に心を落ち着ける為、此処に来ていた。
ウーティス寮の皆が今日のパーティに誘ってくれた。
他の寮の人にこんなに仲良くして貰えるなんて。
みんな、ユウタのおかげだ。
昨日の夜はどきどきしてあんまり眠れなかった。
「ゴメンネ! ゴメンネー!」
空から甲高い声が降りてくる。
白い翼をばたつかせながら大型の鳥が降り立った。
ミハイルが此処でよく会う友達だ。
「あっ、こ、こんにちは、オウムさん」
「ゴメンネ、コンニチハ!」
片方の翼を挙げて、いつもの挨拶。
ミハイルの傍に寄って来る。動物が大好きなミハイルにとって、
動物の方から来てくれることはとても嬉しいことだった。
くりくりの黒目で見上げられる。
「ゴメンネ、キョウもナミダ?」
「ううん。今日はね、涙は出てないよ。今日は素敵な日だから。
ごめんね、ぼくのせいで。オウムさんにはいつも心配して貰って」
膝の上にあるプレゼントを見せる。
「あ、あのね、これ、あげるんだ。ユウタに」
「ユウタ? ユウタにはナイショ?」
内緒という言葉は、以前オウムと会った時に、ミハイルが言ったもの。
ユウタへ誕生日プレゼントを贈ろうと考えていることは内緒だよと。
自分の言葉を覚えていてくれたことが嬉しかった。
「そう、内緒。でも、もう内緒にしなくてもいいんだ、今日、だから」
「キョウ、ダカラ?」
「うん。今日なんだ、12月15日。ユウタのお誕生日。
オウムさんは今日までユウタには内緒にしててくれたんだね。ありがと」
オウムは胸を張って翼を挙げる。
「ユウタにはナイショ! ユウタにはナイショ!」
「オウムさんって、ほんと頭良いんだね。すごいなあ」
「スゴイナー!」
楽しげな一羽と一人の背後に、もう一人の人間が現れた。
「おい」
低い声。ミハイルが振り向く。
其処に立っていたのは一人の生徒。
すらりと高い背。黒髪に緑翠の瞳。
「あっ、この前、うさぎさんを助けてくれた…」
「それ、今日、ユウタに渡すのか?」
「あ、う、うん。ユウタ、誕生日だから…」
「そうか。なら、ついでにこれも渡してくれ」
突き出された、ギフト用の袋。
ラッピングは可愛らしく、リボンで結ばれている。
おそるおそるミハイルは袋を受け取る。
「あ、あの…これ…」
「クッキーだ。では、頼んだぞ」
空っぽになった手をポケットに入れて、森の出口へと向かう。
黒髪に当たる木洩れ陽はキラキラして綺麗だった。
「大体、姉貴はいつも勝手なんだよ」
ユウタの部屋では、姉への恨み言が続いていた。
携帯電話を握ったまままベッドに転がる。
「ちょっと年上だからって、弟に何でも命令するし。
機嫌が悪い時は、俺に当たり散らすし。
俺が楽しみにしてたアイス、勝手に食べたこともあるし」
思い出してみると、姉にされた悪事が次から次へと浮かんできた。
「なのに、ジョシュア達には人気あってさ。あんな姉貴のどこが良いんだろっ」
寮の皆は姉貴の嫌なところを知らない。
姉貴のことよく知らないのに。
俺からこの携帯電話を、俺から姉貴を取ろうとする。
「みんなの誕生日には電話してきたのに…どうして僕には」
手の中でミシリと携帯電話が音を立てる。
「…姉ちゃんのばか…姉ちゃんのっ」
コンコン、とドアがノックされた。
目を擦ってから、ドアを開けに行く。
立っていたのはバトラーだった。両手で箱を持っている。
老紳士は優しく微笑した。
「ユウタ様にお荷物が届いています」
ちょっと重い箱を受け取る。
バトラーは一礼して、部屋から下がった。
ユウタは箱をテーブルの上に置く。
差出人の欄に書かれていたのは、見慣れた住所。
箱を開けたユウタは、中を見て目を丸くした。
うさぎ怪獣型のバースデーケーキ…の残骸と言った方が良いかもしれない。
郵送の過程で揺れたのか、ぐっしゃぐしゃだ。
ただでさえコワイ顔なのに、チョコペンの線が歪んで、
クチがすごい裂けちゃってるし、
箱のあちこちに淡いピンクのクリームがベタベタ付いてる。
添えられたカードには日本語で、
『誕生日おめでとう みんなで食べてね』と書いてあった。
ユウタは携帯電話を掴んだ。ミシと音が鳴る。
携帯を開いても、電話のボタンは押せなかった。
今、電話なんかできない。
上手く動いてくれない指でメールを打った。
姉貴、前にもクッキー送ってきたことあったけどさ、
なんでケーキなんか送って来るんだよ!
てゆうか、箱がクリームまみれだったし!
お菓子とか上手くないくせに、こんなの作って…
こんな、めちゃくちゃなケーキ、みんなに食べさせられないよ!
コンコン、とまたドアがノックされた。
慌てて携帯をポケットに仕舞う。
「開けるよ」
優しい声がして、扉が開く。
ユウタが見上げると、其処にはジョシュアの笑顔があった。
「お姉さんから無事に届いたみたいだね。良かったね、ユウタ」
「え…どうして、姉貴からだって知って…」
「聞いていたからね。今年は去年よりは上手く作れたと思うって」
ユウタから視線を外し、後方へ向かって言う。
「バトラー。ケーキのことを頼むよ」
「はい。ジョシュア様」
控えていた執事が現れ、「お預かりします」とケーキを運んだ。
ユウタは呆然と見つめていた。ジョシュアはユウタへ向き直る。
「じゃ、行こうか。みんな、ユウタのこと待っているよ?」
右手を差し出し、ふんわりと微笑する。
「お姉さんからのプレゼントには敵わないと思うけど。
俺達のバースデイプレゼントも受け取ってくれるかい?」
fin
■ウーティス寮の愉快な仲間達
■今日は皆でスパに来てみました 続編
■今日は皆でスパに来てみました 続編
皆で温泉に来たウーティス寮生達。
ジョシュアはビーチチェアの傍に立つ。
横たわっているのは長い付き合いの友人。
少しのぼせてしまった為にビーチチェアで休憩中だ。
ジョシュアの手にはミネラルウォーターとカップ。
蓋を開け、とくとくと透明な液体を注ぐ。
「アンリ、水を持ってきたよ。飲めるかい?」
無言で受け取って口付ける。
飲み終わると、はあ、と息を吐いた。
濡れた唇に、薄桃に色付いた肌。
アンリは自分に向けられた視線に気付く。
「ねえ、何が可笑しいの?」
「テオが君のこと『氷の微笑』って言ってたのを思い出して」
前年度の陽気な生徒代表が、アンリのことをよくそう呼んでいた。
アンリは彼のような人種は苦手だったので、あまり相手にしていなかったが。
「それがどうしたと言うの」
「氷だから、スパに負けてしまったのかなと思ってね」
身を屈め、耳許に口を寄せる。
「冷たい君も良いけど、火照ったアンリも可愛いね」
シルヴァンはハルヤの後方で首を傾げていた。
「あのー、ハルヤ? それは卵…ですよね?」
「うん。卵」
ネットに入れた12個の卵。
腕を伸ばして、そうっと源泉に浮かべる。
ぷかぷかと卵達が温泉に浸かった。
「これでいっかな」
遠巻きに眺めていたアンリとジョシュアは、
ハルヤの行動を理解できずにいた。
「不思議な人だと思っていたけれど、何してるの、彼」
「さあ…なんだろうね」
「これだから日本人は」
傍にアルフレッドが来る。
その後ろに居たユウタはハルヤの元へ駆け出した。
「あー。ハルヤ、温泉卵作ってるのー?」
同郷の友人の声にハルヤが振り向く。
「うん。みんなで食べようと思って。ユウタは温泉卵、好き?」
「好きー。楽しみだなー。これ、全部でいくつあるの?」
「12個」
「じゃあ、みんなで2個ずつだね?」
「ううん。みんなは1個で俺が7個」
卵はゆらゆらと温泉に浮かんでいる。
「あ、ユウタ、2個食べたかった? いいよ?」
「あー、ううん。ハルヤが7個でいいや」
「そう?」
「いただきまーす」
温泉から上がって、皆で食べた。
ユウタは笑顔でできたての温泉卵を口に入れる。
「うわー。すごいちゃんと温泉卵になってるー」
半熟卵と違い、黄身より白身が柔らかい。
初めて食べたジョシュアは少し驚いた顔をしている。
「面白いね、卵じゃないみたいだ」
「そう言えば、温泉卵ってこの島にないですよね?」
「うん。そうみたいなんだ」
「じゃあさ、名前決めようぜ、俺達で!」
えっ、というハルヤの声は周囲の盛り上がりに掻き消される。
「良いですね! ウーティス寮の皆で決めちゃいましょう♪」
「わー。面白そうだねー。何にしようかー」
「では『たまご怪獣』なんてどうでしょう♪」
シルヴァンらしい名前に、ユウタが笑う。
「もー、シルヴァン、それ『怪獣』って付けたいだけじゃん。
そだ!『天使のほっぺ』はどうかなあ?」
「天使と名付いたメニューは既出だよ」
「あー、『天使の顔した毒舌使い』とかな」
笑顔のハリウッドスターをアンリが睨み付ける。
「そんなメニューはないでしょ」
「じゃ『危険な水死体 エピソード2』はどーよ!」
「単細胞だね。それじゃ、映画のタイトルみたいだよ」
「ニッポンのメニューですから、サムライっぽい名前にしましょうよ!」
「サムライ? どういうの?」
「『ハラキリ卵』はどうでしょう!」
「シルヴァン…それはちょっとグロテスクじゃないか?」
名前決めで盛り上がる友達を見ながら、ハルヤは一人で困っていた。
ユウタのお姉さんに、名前を考えてみて、と先程言ったばかりなのだ。
(どうしよ…お姉さんのメール、待ってるのに…)
fin
ジョシュアはビーチチェアの傍に立つ。
横たわっているのは長い付き合いの友人。
少しのぼせてしまった為にビーチチェアで休憩中だ。
ジョシュアの手にはミネラルウォーターとカップ。
蓋を開け、とくとくと透明な液体を注ぐ。
「アンリ、水を持ってきたよ。飲めるかい?」
無言で受け取って口付ける。
飲み終わると、はあ、と息を吐いた。
濡れた唇に、薄桃に色付いた肌。
アンリは自分に向けられた視線に気付く。
「ねえ、何が可笑しいの?」
「テオが君のこと『氷の微笑』って言ってたのを思い出して」
前年度の陽気な生徒代表が、アンリのことをよくそう呼んでいた。
アンリは彼のような人種は苦手だったので、あまり相手にしていなかったが。
「それがどうしたと言うの」
「氷だから、スパに負けてしまったのかなと思ってね」
身を屈め、耳許に口を寄せる。
「冷たい君も良いけど、火照ったアンリも可愛いね」
シルヴァンはハルヤの後方で首を傾げていた。
「あのー、ハルヤ? それは卵…ですよね?」
「うん。卵」
ネットに入れた12個の卵。
腕を伸ばして、そうっと源泉に浮かべる。
ぷかぷかと卵達が温泉に浸かった。
「これでいっかな」
遠巻きに眺めていたアンリとジョシュアは、
ハルヤの行動を理解できずにいた。
「不思議な人だと思っていたけれど、何してるの、彼」
「さあ…なんだろうね」
「これだから日本人は」
傍にアルフレッドが来る。
その後ろに居たユウタはハルヤの元へ駆け出した。
「あー。ハルヤ、温泉卵作ってるのー?」
同郷の友人の声にハルヤが振り向く。
「うん。みんなで食べようと思って。ユウタは温泉卵、好き?」
「好きー。楽しみだなー。これ、全部でいくつあるの?」
「12個」
「じゃあ、みんなで2個ずつだね?」
「ううん。みんなは1個で俺が7個」
卵はゆらゆらと温泉に浮かんでいる。
「あ、ユウタ、2個食べたかった? いいよ?」
「あー、ううん。ハルヤが7個でいいや」
「そう?」
「いただきまーす」
温泉から上がって、皆で食べた。
ユウタは笑顔でできたての温泉卵を口に入れる。
「うわー。すごいちゃんと温泉卵になってるー」
半熟卵と違い、黄身より白身が柔らかい。
初めて食べたジョシュアは少し驚いた顔をしている。
「面白いね、卵じゃないみたいだ」
「そう言えば、温泉卵ってこの島にないですよね?」
「うん。そうみたいなんだ」
「じゃあさ、名前決めようぜ、俺達で!」
えっ、というハルヤの声は周囲の盛り上がりに掻き消される。
「良いですね! ウーティス寮の皆で決めちゃいましょう♪」
「わー。面白そうだねー。何にしようかー」
「では『たまご怪獣』なんてどうでしょう♪」
シルヴァンらしい名前に、ユウタが笑う。
「もー、シルヴァン、それ『怪獣』って付けたいだけじゃん。
そだ!『天使のほっぺ』はどうかなあ?」
「天使と名付いたメニューは既出だよ」
「あー、『天使の顔した毒舌使い』とかな」
笑顔のハリウッドスターをアンリが睨み付ける。
「そんなメニューはないでしょ」
「じゃ『危険な水死体 エピソード2』はどーよ!」
「単細胞だね。それじゃ、映画のタイトルみたいだよ」
「ニッポンのメニューですから、サムライっぽい名前にしましょうよ!」
「サムライ? どういうの?」
「『ハラキリ卵』はどうでしょう!」
「シルヴァン…それはちょっとグロテスクじゃないか?」
名前決めで盛り上がる友達を見ながら、ハルヤは一人で困っていた。
ユウタのお姉さんに、名前を考えてみて、と先程言ったばかりなのだ。
(どうしよ…お姉さんのメール、待ってるのに…)
fin
■3日前 続編
■ユウタと愉快な仲間達
■ユウタと愉快な仲間達
「あ、レッド達、これからバンドの練習?」
ギターを抱えているアルフレッド、その後ろにはシルヴァンとハルヤ。
デッドプリンスのメンバーが揃って、寮から出ようとしているところだった。
ユウタの顔を見た三人は、ちょっと様子が可笑しかった。
「よ、よう、ユウタ」
「ねえ、俺もバンドの練習に付いて行っても良い?」
「あー、悪ぃ。今日は俺達だけでみっちり練習したいんだ。な?」
「すみません。僕達、ライブが近いんですよ。ね?」
「う、うん。ごめんね、ユウタ。じゃあ」
そそくさと行ってしまった。
ユウタが肩を落として、廊下を歩いていると、
「今日もやるの?」
「嫌かい?」
サロンからジョシュアとアンリの声が聞こえた。
ユウタも中に入ろうとしたのだが、漏れ聞こえる会話内容に足が止まる。
ドアに耳を当て、思いがけず立ち聞きになってしまった。
「最近、ずっとでしょ。僕、もう疲れたよ」
「でもアンリだって、始まったら気持ち良さそうな顔してるよ?」
「変なこと言わないで欲しいな」
「怒るなよ」
その言い方から微笑んでいるのだと解る。
アンリはきっと不機嫌な顔をしているのだろうと想像できた。
「俺は好きだよ、アンリの声。だから、今日も聞かせて欲しいな」
「勝手だね」
「ね。一緒にいこう、アンリ」
かああ、とユウタの顔が赤くなる。
マズイところに出くわしちゃったのかな。
さ、サロンで何が起きているんだろう。
一人でどきどきしている人の後方でバトラーは首を傾げた。
「ユウタ様? どうなさいました?」
「わああ!」
驚いて、ドアを押してしまった。
サロンの床にびたんっと手を着く。
正座状態のユウタとジョシュア達の目が合う。
アンリは侵入者を一瞥すると席を立った。
「僕は失礼するよ」
続けてフランス語で何か呟いた。
ユウタには意味が理解できなかったが、自分への悪口っぽいかんじがした。
ジョシュアも席を立つ。
「あ、ジョシュアも行っちゃうの?」
「うん。これからちょっと…生徒代表室に行ってくるよ」
「そ、そっか」
どうしよう。ジョシュアまで様子が何か変だ。
「そうだ。ユウタ」
「な、なに?」
「悪いけど、携帯を貸して貰えないかな?
お姉さんが一度生徒代表室を見てみたいって言っていたから」
「あ、うん」
携帯を渡して、ジョシュアを見送ることしかできなかった。
ユウタは部屋に戻る。
誰も居ない放課後。最近みんなとゆっくり話せない。
勉強する気にもなれなくて、ベッドに倒れ込む。
携帯電話まで取られてしまった。
傍に携帯がないと思うと、余計、声が聞きたくなる。
「ばか…」
毛布を被った。
聖アルフォンソ島、最大の街フィンシャル。
黒髪の青年が歩いていた。制服ではなく、私服の黒いワイシャツ。
首許にはクロスのペンダントが見える。
街はクリスマスカラーに彩られていた。
特に用事はなく、散歩に来ているだけだった。
雑貨店や玩具屋の通りを歩いていると、
店の中に子供達へのプレゼントになりそうな物が並んでいるのが見えた。
妹が好きそうなものばかりだな、と兄は思う。
妹のことを思い出すと、あいつのことも思い出してしまう。
今年入ったばかりの変な奴。ウーティスの高等部一年。
ショーウインドウを眺めながら、
あいつに似合いそうか、と考えている自分が居た。
ポケットに手を入れて店を通り過ぎる。
最近、自分は変だ。オウムに変なことを聞かされてから。
祝う義理もないのに、何故、落ち着かないのだろう。
赤と緑に染まる街並み。神の誕生日などはどうでもいい。
だが、12月15日が近い。
「すまない、急に電話を掛けて。今、大丈夫かな?」
ユウタの姉の元へ弟の携帯から電話が来た。
出てみると、テレビ電話に映ったのは王子様の微笑。
聖アルフォンソ学院の生徒代表ジョシュアだった。
背景はウーティス寮サロンではなかった。
「今日は、ライブハウスの練習スタジオに来てるんだ。みんな居るよ、ほら」
出たがりのアルフレッドとシルヴァンがアップで映る。
その背景に困り顔のハルヤと呆れ顔のアンリも居た。
ユウタだけがこの場に居ないようだ。携帯がジョシュアに戻る。
「今日はね、ユウタの誕生日のことで、貴女に伝えたいことがあるんだ。
彼へのプレゼントが、やっと決まったんだ。大分時間がかかってしまったけれどね」
以前、ジョシュアが生徒代表室から電話を掛けてきた時、
どうやって誕生日を祝うか皆で考え中だと話していた。
その内容が決まったようだ。
ユウタの姉は「ああ…この前の」と言おうとして、言葉を飲み込む。
生徒代表室から私用の電話をすることは禁じられている。
寮生達にも内緒で貴女に電話を掛けているんだと彼は言っていた。
ジョシュアは軽く目配せをした。ありがとう、という意味だろう。
「俺達、ユウタに歌を作ったんだよ。歌詞は皆で考えたんだ」
携帯の画面が揺れ、アルフレッドが大きく映った。
突き出した親指を自分に向けている。
「んで! 作曲は俺達デッドプリンス!」
「ユウタのイメージでポップで可愛らしい曲になったんですよ♪」
画面にシルヴァンの笑顔が横入りする。
彼一人が映ったまま、隣から音声だけが聞こえる。
先の二人より落ち着いた、ハルヤの声だ。
「そう言えば俺達、今までこういう曲って作ったことなかったよね?」
「ええ。ユウタのおかげで新境地開拓ですね」
今度はシルヴァンとハルヤの中央に携帯が移動され、二人が並んで映った。
ハルヤは画面を見ながら、俯きがちに言う。
「あの、それでね、まだそんなに上手くないから恥ずかしいんだけど…」
途中で遮られ、画面は再びアルフレッドのドアップになる。
キラリと輝く笑顔と歯が眩しい。
「本番前のリハーサルってことで聞いて欲しいんだ、君に!」
えっ、と姉が驚いていると今度はアンリが映る。
小首を傾げバニラボイスで囁いた。
「僕達の歌、聞きたくないの?」
横からアルフレッドが突っ掛かって来る。
画面には床が映り、ゆさゆさと画面が揺れる。
「携帯取んなよ、アンリ!」
「君が喋り過ぎなんだよ」
落ち着いて、という声が後方から聞こえる。
画面にはレッドとアンリの姿が小さく映る。
ジョシュアはテーブルの上に携帯を置いたようだ。
「さあ、みんな、聞いて貰おう? 俺達の歌を」
おう、と声が上がる。
携帯画面に5人のマージナルプリンスが揃う。
携帯越しのシークレットライブが始まった。
fin
ギターを抱えているアルフレッド、その後ろにはシルヴァンとハルヤ。
デッドプリンスのメンバーが揃って、寮から出ようとしているところだった。
ユウタの顔を見た三人は、ちょっと様子が可笑しかった。
「よ、よう、ユウタ」
「ねえ、俺もバンドの練習に付いて行っても良い?」
「あー、悪ぃ。今日は俺達だけでみっちり練習したいんだ。な?」
「すみません。僕達、ライブが近いんですよ。ね?」
「う、うん。ごめんね、ユウタ。じゃあ」
そそくさと行ってしまった。
ユウタが肩を落として、廊下を歩いていると、
「今日もやるの?」
「嫌かい?」
サロンからジョシュアとアンリの声が聞こえた。
ユウタも中に入ろうとしたのだが、漏れ聞こえる会話内容に足が止まる。
ドアに耳を当て、思いがけず立ち聞きになってしまった。
「最近、ずっとでしょ。僕、もう疲れたよ」
「でもアンリだって、始まったら気持ち良さそうな顔してるよ?」
「変なこと言わないで欲しいな」
「怒るなよ」
その言い方から微笑んでいるのだと解る。
アンリはきっと不機嫌な顔をしているのだろうと想像できた。
「俺は好きだよ、アンリの声。だから、今日も聞かせて欲しいな」
「勝手だね」
「ね。一緒にいこう、アンリ」
かああ、とユウタの顔が赤くなる。
マズイところに出くわしちゃったのかな。
さ、サロンで何が起きているんだろう。
一人でどきどきしている人の後方でバトラーは首を傾げた。
「ユウタ様? どうなさいました?」
「わああ!」
驚いて、ドアを押してしまった。
サロンの床にびたんっと手を着く。
正座状態のユウタとジョシュア達の目が合う。
アンリは侵入者を一瞥すると席を立った。
「僕は失礼するよ」
続けてフランス語で何か呟いた。
ユウタには意味が理解できなかったが、自分への悪口っぽいかんじがした。
ジョシュアも席を立つ。
「あ、ジョシュアも行っちゃうの?」
「うん。これからちょっと…生徒代表室に行ってくるよ」
「そ、そっか」
どうしよう。ジョシュアまで様子が何か変だ。
「そうだ。ユウタ」
「な、なに?」
「悪いけど、携帯を貸して貰えないかな?
お姉さんが一度生徒代表室を見てみたいって言っていたから」
「あ、うん」
携帯を渡して、ジョシュアを見送ることしかできなかった。
ユウタは部屋に戻る。
誰も居ない放課後。最近みんなとゆっくり話せない。
勉強する気にもなれなくて、ベッドに倒れ込む。
携帯電話まで取られてしまった。
傍に携帯がないと思うと、余計、声が聞きたくなる。
「ばか…」
毛布を被った。
聖アルフォンソ島、最大の街フィンシャル。
黒髪の青年が歩いていた。制服ではなく、私服の黒いワイシャツ。
首許にはクロスのペンダントが見える。
街はクリスマスカラーに彩られていた。
特に用事はなく、散歩に来ているだけだった。
雑貨店や玩具屋の通りを歩いていると、
店の中に子供達へのプレゼントになりそうな物が並んでいるのが見えた。
妹が好きそうなものばかりだな、と兄は思う。
妹のことを思い出すと、あいつのことも思い出してしまう。
今年入ったばかりの変な奴。ウーティスの高等部一年。
ショーウインドウを眺めながら、
あいつに似合いそうか、と考えている自分が居た。
ポケットに手を入れて店を通り過ぎる。
最近、自分は変だ。オウムに変なことを聞かされてから。
祝う義理もないのに、何故、落ち着かないのだろう。
赤と緑に染まる街並み。神の誕生日などはどうでもいい。
だが、12月15日が近い。
「すまない、急に電話を掛けて。今、大丈夫かな?」
ユウタの姉の元へ弟の携帯から電話が来た。
出てみると、テレビ電話に映ったのは王子様の微笑。
聖アルフォンソ学院の生徒代表ジョシュアだった。
背景はウーティス寮サロンではなかった。
「今日は、ライブハウスの練習スタジオに来てるんだ。みんな居るよ、ほら」
出たがりのアルフレッドとシルヴァンがアップで映る。
その背景に困り顔のハルヤと呆れ顔のアンリも居た。
ユウタだけがこの場に居ないようだ。携帯がジョシュアに戻る。
「今日はね、ユウタの誕生日のことで、貴女に伝えたいことがあるんだ。
彼へのプレゼントが、やっと決まったんだ。大分時間がかかってしまったけれどね」
以前、ジョシュアが生徒代表室から電話を掛けてきた時、
どうやって誕生日を祝うか皆で考え中だと話していた。
その内容が決まったようだ。
ユウタの姉は「ああ…この前の」と言おうとして、言葉を飲み込む。
生徒代表室から私用の電話をすることは禁じられている。
寮生達にも内緒で貴女に電話を掛けているんだと彼は言っていた。
ジョシュアは軽く目配せをした。ありがとう、という意味だろう。
「俺達、ユウタに歌を作ったんだよ。歌詞は皆で考えたんだ」
携帯の画面が揺れ、アルフレッドが大きく映った。
突き出した親指を自分に向けている。
「んで! 作曲は俺達デッドプリンス!」
「ユウタのイメージでポップで可愛らしい曲になったんですよ♪」
画面にシルヴァンの笑顔が横入りする。
彼一人が映ったまま、隣から音声だけが聞こえる。
先の二人より落ち着いた、ハルヤの声だ。
「そう言えば俺達、今までこういう曲って作ったことなかったよね?」
「ええ。ユウタのおかげで新境地開拓ですね」
今度はシルヴァンとハルヤの中央に携帯が移動され、二人が並んで映った。
ハルヤは画面を見ながら、俯きがちに言う。
「あの、それでね、まだそんなに上手くないから恥ずかしいんだけど…」
途中で遮られ、画面は再びアルフレッドのドアップになる。
キラリと輝く笑顔と歯が眩しい。
「本番前のリハーサルってことで聞いて欲しいんだ、君に!」
えっ、と姉が驚いていると今度はアンリが映る。
小首を傾げバニラボイスで囁いた。
「僕達の歌、聞きたくないの?」
横からアルフレッドが突っ掛かって来る。
画面には床が映り、ゆさゆさと画面が揺れる。
「携帯取んなよ、アンリ!」
「君が喋り過ぎなんだよ」
落ち着いて、という声が後方から聞こえる。
画面にはレッドとアンリの姿が小さく映る。
ジョシュアはテーブルの上に携帯を置いたようだ。
「さあ、みんな、聞いて貰おう? 俺達の歌を」
おう、と声が上がる。
携帯画面に5人のマージナルプリンスが揃う。
携帯越しのシークレットライブが始まった。
fin
■4日前 続編
■ジョシュア×姉貴 シェフトリオ+アイヴィー
■ジョシュア×姉貴 シェフトリオ+アイヴィー
「大丈夫。きっと喜ぶよ、ユウタ」
聖アルフォンソ学院 生徒代表の執務室。
部屋の主は受話器を持っていた。台詞と声は至って優しい。
「だって、大好きなお姉さんからのプレゼントなんだから」
壁一面には肖像画。歴代の先輩方から監視される部屋。
一番新しい絵には金髪の生徒。自分は彼の隣に置かれる。
自分が知っているのは、この中でたった5人だけだ。
最初の頃は彼等の視線が気になっていた。
本当はいけないことだから。この部屋で、貴女に電話をすることは。
「そんな心配要らないよ。俺がユウタだったら、本当に嬉しいと思う」
今年度の生徒代表はジョシュア・グラント。
両親は幼い頃に亡くしている。
兄弟もなく、もうこの世に家族と呼べる人は居ない。
一人っ子であることについて、今までは嬉しいとも悲しいとも思っていなかった。
今、電話で話しているのは、友人の姉。
姉という存在。
自分にも姉が居たら、弟はこんなふうに想って貰えるのだろうか。
海を越え、どんなに離れた場所に居ても。
あたたかい声で名前を呼んでくれるのだろうか。
「最近、俺が貴女の弟だったら、ってよく思うんだ」
弟の誕生日が近付くにつれて。
貴女は、ますます弟の話ばかりするから。
悪気がないのは解っているけど。
貴女の声で他の男の名前を聞くと、どうしても胸が苦しくなる。
ユウタは貴女の弟なのに。
ドアがノックされた。受話器の向こうに詫びる。
「すまない、誰か来たみたいだ」
この電話は私用では使えないことになっている。
禁じられた行為だと知っている。
規則を破っても、貴女の声が聞きたかった。
扉越しに練れた声がする。ドクターだ。
生徒代表はドアを見つめながら、受話器の向こうへもう一度詫びる。
「うん。ごめんね。それじゃまた」
お月さまが綺麗な夜。
今日はいい日だった。なんか美味しい物を食べてから帰りたい気分。
アイヴィーは面白かったお仕事を思い返しながら旧市街に来た。
晩ご飯を食べに、行き付けの店に入ったのだが、
ちょっと今夜はいっぱいいっぱいのようだ。
近くのテーブルから、やや高い声が聞こえた。
「あははっ! それ面白過ぎですよー、アランさん」
ちっちゃいシェフの声だ。行ってみると、やっぱり3人居た。
聖アルフォンソ学院のキッチンチームだ。
「よっ。コックさん達、お揃いで」
「アイヴィーさん! こんばんはー」
笑顔で挨拶してるのがドニ・ドーム。シュヌーシア寮シェフ。
甘い物好きの前にはアイスみたいなのがあった。
「今日もデザート食べてんのか、ドニ。もう食事終わったとこ?」
「いえ。まだ来たばかりですよ? これはとりあえず最初に頼んだデザートです。
すっごい美味しいですよ、このライチのシャーベット。レシピ、後で教えて貰いたいなー」
スプーンで掬って、俺の前に出す。薄雲のような色だ。
「アイヴィーさん、食べさせてあげますー。はい、あーんして下さい?」
「俺はいーよ。お前さんが好きなんだろ、そういうのは。
それよりさ、俺もこのテーブルに入れて貰っていい? 他、空いてないからさ」
シェフトリオのリアクションは、歓迎1名、渋々1名、無視1名といつも通り。
ダメって人は居ないみたいなので、椅子を引く。
「んじゃ、おジャマしまーす」
今日、こいつらが注文したのはアジアっぽいメニューばかりだった。
チキンを揚げたのにトロってしてるのがかかってるやつがウマイ。
ドニには緑色のビール瓶を持たされた。中国のビールだ。これもウマイ。
「あ、そだ、カミーユ。お前さんトコのユウタが、もうすぐ誕生日って知ってた?」
「ああ。もちろん。ハルヤ様、シルヴァン様ご指示の下、
当日のメニューも既に決定している。下準備も順調だ」
ウーティス寮シェフ、カミーユ・ルブラン。
高級ビールを置き、割れた顎を撫でる。
「へえー。あいつらと打ち合わせまでしてんのか。何作んの?」
四角い顔のシェフが嫌そうに見つめる。
「お前、またつまみ食いに来るつもりか?」
「あ、バレた?」
「なら、教えん。お前の分などない」
「もー。けちけちカミーユ♪」
人差し指で顎の割れてるトコをツンッてしてやる。
「顎を突くな」
手を除けられた。
俺達を見て、ドニはちょっと高めの声で笑ってる。
三人の中で唯一、陽気で温和なシェフだ。
「そのメニューなら、ボク、知ってまーす♪」
得意げに手を挙げた。小柄なので、伸ばしている腕もちょっと短い。
「え。なんでドニが知ってんの?」
「ボクもちょっとお手伝いさせて頂いたんです。
日本の家庭料理をご希望とのことで」
このシェフは世界各国の家庭料理が得意分野だった。
ユウタの国も守備範囲らしい。
「へー。カミーユとドニのコラボってわけ?」
「お買い物にはアランさんも付き合ってくれましたよ。ね、アランさん?」
無口なシェフはドニに視線を向けられても無視して黒ビールを煽っている。
さっきから、ひとっことも喋ってないのがアラン・ウー。
こいつがもし生徒として学院に来ていても間違いなくアルファルド寮だろう。
「アランさんが、お米を持つと言って下さって。助かっちゃいました」
「コメ?」
「はい。今回のメインはライスボールなんです」
「あー、あの、コメの中に酸っぱいの入れる、ロシアンルーレットみたいなやつか」
「まあ、ちょっと誤解があるみたいですけど、それです。
しかも、ウーティスの皆さんが作るんですよー。
事前に一度、練習もしたんです。皆さん、初めてなのにお上手でしたー。
なんだか、ボク、懐かしい気持ちになっちゃいました」
「懐かしい?」
「はい。以前はテオ様が生徒の皆さんを集めて、お菓子を作ったりされてたので」
「テオかー。あいつ、やることなすことユカイな奴だったからな」
「ええ。テオ様の血はシュヌーシアにちゃんと受け継がれているんですよ?」
「どゆこと?」
「テオ様の後輩方が『テオごっこ』と仰って遊ばれているんです。
『とにかく楽しいことをする』遊びなのだそうで。
ボクも何度か入れて頂きました。ハンバーグを作ってみようの回とか」
「うっわ。テオが子ども残してったみたいじゃん」
「ですね。あ、そう言えば、ウーティスの生徒さんは大人びてるというか、
シュヌーシアの皆さんとは大分違うんだなって思いましたー」
寮によって独特のカラーがある。
もし例えるなら、アルファルドは無彩色、シュヌーシアはパステル、
ウーティスは玉虫色、といったところだろうか。
ビールが空になる。すぐに気付いたドニが新しいビールを頼んでくれた。
「そう言えばアイヴィーさん、よくご存知でしたね? ライスボールなんて」
「ああ、前にハルヤがうち来て、作ったことあっから」
酒のせいか、つい口を滑らせてしまった。
ウーティス寮シェフが目の色を変える。
「何だと? 何故、ハルヤ様がお前の家でライスボールを…コメはどうしたんだ?」
アイヴィーは、かなり挙動不審な様子でなんとか答える。
「あー、どうしたんだっけなー。あ! なんかハルヤんちから送ってきたんだったかな?」
「コメをか?」
「えー、うん。ええっとー」
次の言い訳を必死に考え始めたのだが、どうやらその必要もないらしい。
カミーユが珍しく項垂れている。物凄いショックを与えてしまったようだ。
「ハルヤ様、私に言って下されば良いのに…どうして、お前などに…」
「カミーユはさ、いつも忙しそうにしてるから気を遣ったんだろ、きっと」
このプライドの高いシェフには間違っても言えない。
ハルヤの非常食として、アイヴィーの家には常備米があるなんて。
カミーユの高級料理に飽き始めているデッドプリンスどもが、
アイヴィーの料理を食べに来ること自体、カミーユには知らせていないのだ。
ドニは一人で楽しそうに笑っている。
「ライスボールで楽しいお誕生日パーティになりそうですねー。ね、カミーユさん?」
「え、あ、ああ…」
「…ちょ、元気だせよ、カミーユ」
「顎を突くな」
fin
聖アルフォンソ学院 生徒代表の執務室。
部屋の主は受話器を持っていた。台詞と声は至って優しい。
「だって、大好きなお姉さんからのプレゼントなんだから」
壁一面には肖像画。歴代の先輩方から監視される部屋。
一番新しい絵には金髪の生徒。自分は彼の隣に置かれる。
自分が知っているのは、この中でたった5人だけだ。
最初の頃は彼等の視線が気になっていた。
本当はいけないことだから。この部屋で、貴女に電話をすることは。
「そんな心配要らないよ。俺がユウタだったら、本当に嬉しいと思う」
今年度の生徒代表はジョシュア・グラント。
両親は幼い頃に亡くしている。
兄弟もなく、もうこの世に家族と呼べる人は居ない。
一人っ子であることについて、今までは嬉しいとも悲しいとも思っていなかった。
今、電話で話しているのは、友人の姉。
姉という存在。
自分にも姉が居たら、弟はこんなふうに想って貰えるのだろうか。
海を越え、どんなに離れた場所に居ても。
あたたかい声で名前を呼んでくれるのだろうか。
「最近、俺が貴女の弟だったら、ってよく思うんだ」
弟の誕生日が近付くにつれて。
貴女は、ますます弟の話ばかりするから。
悪気がないのは解っているけど。
貴女の声で他の男の名前を聞くと、どうしても胸が苦しくなる。
ユウタは貴女の弟なのに。
ドアがノックされた。受話器の向こうに詫びる。
「すまない、誰か来たみたいだ」
この電話は私用では使えないことになっている。
禁じられた行為だと知っている。
規則を破っても、貴女の声が聞きたかった。
扉越しに練れた声がする。ドクターだ。
生徒代表はドアを見つめながら、受話器の向こうへもう一度詫びる。
「うん。ごめんね。それじゃまた」
お月さまが綺麗な夜。
今日はいい日だった。なんか美味しい物を食べてから帰りたい気分。
アイヴィーは面白かったお仕事を思い返しながら旧市街に来た。
晩ご飯を食べに、行き付けの店に入ったのだが、
ちょっと今夜はいっぱいいっぱいのようだ。
近くのテーブルから、やや高い声が聞こえた。
「あははっ! それ面白過ぎですよー、アランさん」
ちっちゃいシェフの声だ。行ってみると、やっぱり3人居た。
聖アルフォンソ学院のキッチンチームだ。
「よっ。コックさん達、お揃いで」
「アイヴィーさん! こんばんはー」
笑顔で挨拶してるのがドニ・ドーム。シュヌーシア寮シェフ。
甘い物好きの前にはアイスみたいなのがあった。
「今日もデザート食べてんのか、ドニ。もう食事終わったとこ?」
「いえ。まだ来たばかりですよ? これはとりあえず最初に頼んだデザートです。
すっごい美味しいですよ、このライチのシャーベット。レシピ、後で教えて貰いたいなー」
スプーンで掬って、俺の前に出す。薄雲のような色だ。
「アイヴィーさん、食べさせてあげますー。はい、あーんして下さい?」
「俺はいーよ。お前さんが好きなんだろ、そういうのは。
それよりさ、俺もこのテーブルに入れて貰っていい? 他、空いてないからさ」
シェフトリオのリアクションは、歓迎1名、渋々1名、無視1名といつも通り。
ダメって人は居ないみたいなので、椅子を引く。
「んじゃ、おジャマしまーす」
今日、こいつらが注文したのはアジアっぽいメニューばかりだった。
チキンを揚げたのにトロってしてるのがかかってるやつがウマイ。
ドニには緑色のビール瓶を持たされた。中国のビールだ。これもウマイ。
「あ、そだ、カミーユ。お前さんトコのユウタが、もうすぐ誕生日って知ってた?」
「ああ。もちろん。ハルヤ様、シルヴァン様ご指示の下、
当日のメニューも既に決定している。下準備も順調だ」
ウーティス寮シェフ、カミーユ・ルブラン。
高級ビールを置き、割れた顎を撫でる。
「へえー。あいつらと打ち合わせまでしてんのか。何作んの?」
四角い顔のシェフが嫌そうに見つめる。
「お前、またつまみ食いに来るつもりか?」
「あ、バレた?」
「なら、教えん。お前の分などない」
「もー。けちけちカミーユ♪」
人差し指で顎の割れてるトコをツンッてしてやる。
「顎を突くな」
手を除けられた。
俺達を見て、ドニはちょっと高めの声で笑ってる。
三人の中で唯一、陽気で温和なシェフだ。
「そのメニューなら、ボク、知ってまーす♪」
得意げに手を挙げた。小柄なので、伸ばしている腕もちょっと短い。
「え。なんでドニが知ってんの?」
「ボクもちょっとお手伝いさせて頂いたんです。
日本の家庭料理をご希望とのことで」
このシェフは世界各国の家庭料理が得意分野だった。
ユウタの国も守備範囲らしい。
「へー。カミーユとドニのコラボってわけ?」
「お買い物にはアランさんも付き合ってくれましたよ。ね、アランさん?」
無口なシェフはドニに視線を向けられても無視して黒ビールを煽っている。
さっきから、ひとっことも喋ってないのがアラン・ウー。
こいつがもし生徒として学院に来ていても間違いなくアルファルド寮だろう。
「アランさんが、お米を持つと言って下さって。助かっちゃいました」
「コメ?」
「はい。今回のメインはライスボールなんです」
「あー、あの、コメの中に酸っぱいの入れる、ロシアンルーレットみたいなやつか」
「まあ、ちょっと誤解があるみたいですけど、それです。
しかも、ウーティスの皆さんが作るんですよー。
事前に一度、練習もしたんです。皆さん、初めてなのにお上手でしたー。
なんだか、ボク、懐かしい気持ちになっちゃいました」
「懐かしい?」
「はい。以前はテオ様が生徒の皆さんを集めて、お菓子を作ったりされてたので」
「テオかー。あいつ、やることなすことユカイな奴だったからな」
「ええ。テオ様の血はシュヌーシアにちゃんと受け継がれているんですよ?」
「どゆこと?」
「テオ様の後輩方が『テオごっこ』と仰って遊ばれているんです。
『とにかく楽しいことをする』遊びなのだそうで。
ボクも何度か入れて頂きました。ハンバーグを作ってみようの回とか」
「うっわ。テオが子ども残してったみたいじゃん」
「ですね。あ、そう言えば、ウーティスの生徒さんは大人びてるというか、
シュヌーシアの皆さんとは大分違うんだなって思いましたー」
寮によって独特のカラーがある。
もし例えるなら、アルファルドは無彩色、シュヌーシアはパステル、
ウーティスは玉虫色、といったところだろうか。
ビールが空になる。すぐに気付いたドニが新しいビールを頼んでくれた。
「そう言えばアイヴィーさん、よくご存知でしたね? ライスボールなんて」
「ああ、前にハルヤがうち来て、作ったことあっから」
酒のせいか、つい口を滑らせてしまった。
ウーティス寮シェフが目の色を変える。
「何だと? 何故、ハルヤ様がお前の家でライスボールを…コメはどうしたんだ?」
アイヴィーは、かなり挙動不審な様子でなんとか答える。
「あー、どうしたんだっけなー。あ! なんかハルヤんちから送ってきたんだったかな?」
「コメをか?」
「えー、うん。ええっとー」
次の言い訳を必死に考え始めたのだが、どうやらその必要もないらしい。
カミーユが珍しく項垂れている。物凄いショックを与えてしまったようだ。
「ハルヤ様、私に言って下されば良いのに…どうして、お前などに…」
「カミーユはさ、いつも忙しそうにしてるから気を遣ったんだろ、きっと」
このプライドの高いシェフには間違っても言えない。
ハルヤの非常食として、アイヴィーの家には常備米があるなんて。
カミーユの高級料理に飽き始めているデッドプリンスどもが、
アイヴィーの料理を食べに来ること自体、カミーユには知らせていないのだ。
ドニは一人で楽しそうに笑っている。
「ライスボールで楽しいお誕生日パーティになりそうですねー。ね、カミーユさん?」
「え、あ、ああ…」
「…ちょ、元気だせよ、カミーユ」
「顎を突くな」
fin
■16日前 続編
■アイヴィー×ソクーロフ
■アイヴィー×ソクーロフ
夜。アイヴィーはオトナの溜まり場に居た。
ライブハウスの地下。此処はバーになっていている。
小さなステージには、馴染みのバンド。
スウィンギーなジングルベルを演奏してくれてる。
俺は細身のビール瓶から唇を離す。
「んー。オイシ」
この瓶は俺の髪と同じ色。
ラベルに付いてる王冠マークがなんとなくこの島っぽくて気に入っていた。
瓶の中には輪切りの青い果実。
こんな風にライムを入れてラッパ飲みするビールだ。
「機嫌が良いようだな、アイヴィー」
「まね。此処であんたと飲むのも久し振りだしさ?」
隣の男はこの島のお医者サマ。すごーく頭のイイ人なんだけど、
時と場合によっては、ちょっとアブナイ人。
だってメスとか普通に所持してるし。『歩くメス』だ。
いや、『笑うメス』の方が正確かも。こんなアブナイの歩かせて良いのか?
何やってるんだ、この島の警備組織は!
笑うメスがグラスを置く。こっちは赤ワインだ。
「そうだな、此処で会えて丁度良かった」
「ん? ソクちゃん、もしかして、俺と飲みたかった?」
俺がひひと笑いながら言うと、向こうは吐息を漏らした。
「私も、お前に会いたいと思っていたところだ」
ワイングラスに触れる唇。こくりと動く喉を見詰めてしまった。
「…ほ、ほんと?」
お医者サマは長い横髪に指を通す。
綺麗な銀糸がするすると流れた。
「ああ。電話をする手間が省けた。明日16時にミハイルを迎えに来い」
どっと疲れて空笑いする。
「な、なんだ。そういう話ね…てか、ミハイル?」
「ああ。フィンシャルまで買い物に行きたいそうだ。私からも外出許可を出してある」
「へえ。滅多に出歩かないミハイルがおでかけ? 珍しいじゃん?」
「ああ、本当にな」
木のテーブルは年季がある。あちこち傷だらけだ。
新市街を作る時に伐採された木材だって前に聞いた。
古いテーブルに乗ってるおつまみは、ムースみたいなチーズとクラッカー。
ふわふわのチーズには島で採れた蜂蜜がかけてある。
塩気の強いクラッカーですくって食べる。ウマイ。
「んで、ミハイル、何欲しいの?」
「誕生日プレゼントを買いに行きたいそうだ。ユウタのな」
「ユウタの誕生日? あ、そういや、俺もどっかで聞いたなあ。
12月の…えっと、真ん中くらいなんだっけ?」
自分の人差し指が光ってた。蜂蜜だ。ペロリと舐める。
あれ。今、お医者さんの眼鏡も光った?
「お前、それを誰から聞いた?」
「シルヴァンとハルヤ。俺んちに遊びに来た時、そんなこと言ってたぜ?」
「何と言っていた?」
「んと…」
薄暗い天井を見ながら何日か前のこと思い出そうとする。
視界には赤っぽいランプ。外側が埃で汚れてる。ピッカピカよりはそのくらいが良い。
「なんか、ウーティスの連中で揃って何かお祝いするとかなんとか。
でも、何するかは決まってない、って話だったかな?」
「ほう。それは興味深い。全く、面白い子だな、ユウタは」
「…ソクちゃんってさ、笑いのツボがちょっと普通と違うよねえ」
そんなに面白いこと言ってないのに、お医者さんがすごい楽しそうに笑ってる。
笑かそうと思ってないところで、そんな笑顔見せられるとちょっとコワイ。
よくあることなんだけど。
博士は煙草を出す。吸って構わないか、と尋ねたりはしない。
「お前にはミハイルの送迎と付き添いを頼みたい。荷物持ちというところだな」
言いながら火を灯す。眼鏡のレンズにもオレンジの光が反射する。
「ふーん。んじゃ俺、明日はフィンシャルでミハイルとデートか。面白そ♪」
キツイ香りがテーブルの上に立ち昇る。
「デート?」
「だってさ、別にミハイルと手繋ぎながらチュロス食べても良いんだろ?」
「お前、酔うのが早くなったんじゃないか?」
「あっ、ソクちゃん、妬いた?」
あんたに睨まれても今夜はなんだか可笑しくて仕方がない。
お医者サマが言う通り、酔うのが早くなったのかもしれない。
ステージからサックスとドラムが鳴り響く。
サンタさんがやってくる歌だ。やたらポップなアレンジでつい笑ってしまう。
「はー。俺にも来ないかなー。サンタさん♪」
サックスに合わせて、口笛を吹いてみた。
fin
ライブハウスの地下。此処はバーになっていている。
小さなステージには、馴染みのバンド。
スウィンギーなジングルベルを演奏してくれてる。
俺は細身のビール瓶から唇を離す。
「んー。オイシ」
この瓶は俺の髪と同じ色。
ラベルに付いてる王冠マークがなんとなくこの島っぽくて気に入っていた。
瓶の中には輪切りの青い果実。
こんな風にライムを入れてラッパ飲みするビールだ。
「機嫌が良いようだな、アイヴィー」
「まね。此処であんたと飲むのも久し振りだしさ?」
隣の男はこの島のお医者サマ。すごーく頭のイイ人なんだけど、
時と場合によっては、ちょっとアブナイ人。
だってメスとか普通に所持してるし。『歩くメス』だ。
いや、『笑うメス』の方が正確かも。こんなアブナイの歩かせて良いのか?
何やってるんだ、この島の警備組織は!
笑うメスがグラスを置く。こっちは赤ワインだ。
「そうだな、此処で会えて丁度良かった」
「ん? ソクちゃん、もしかして、俺と飲みたかった?」
俺がひひと笑いながら言うと、向こうは吐息を漏らした。
「私も、お前に会いたいと思っていたところだ」
ワイングラスに触れる唇。こくりと動く喉を見詰めてしまった。
「…ほ、ほんと?」
お医者サマは長い横髪に指を通す。
綺麗な銀糸がするすると流れた。
「ああ。電話をする手間が省けた。明日16時にミハイルを迎えに来い」
どっと疲れて空笑いする。
「な、なんだ。そういう話ね…てか、ミハイル?」
「ああ。フィンシャルまで買い物に行きたいそうだ。私からも外出許可を出してある」
「へえ。滅多に出歩かないミハイルがおでかけ? 珍しいじゃん?」
「ああ、本当にな」
木のテーブルは年季がある。あちこち傷だらけだ。
新市街を作る時に伐採された木材だって前に聞いた。
古いテーブルに乗ってるおつまみは、ムースみたいなチーズとクラッカー。
ふわふわのチーズには島で採れた蜂蜜がかけてある。
塩気の強いクラッカーですくって食べる。ウマイ。
「んで、ミハイル、何欲しいの?」
「誕生日プレゼントを買いに行きたいそうだ。ユウタのな」
「ユウタの誕生日? あ、そういや、俺もどっかで聞いたなあ。
12月の…えっと、真ん中くらいなんだっけ?」
自分の人差し指が光ってた。蜂蜜だ。ペロリと舐める。
あれ。今、お医者さんの眼鏡も光った?
「お前、それを誰から聞いた?」
「シルヴァンとハルヤ。俺んちに遊びに来た時、そんなこと言ってたぜ?」
「何と言っていた?」
「んと…」
薄暗い天井を見ながら何日か前のこと思い出そうとする。
視界には赤っぽいランプ。外側が埃で汚れてる。ピッカピカよりはそのくらいが良い。
「なんか、ウーティスの連中で揃って何かお祝いするとかなんとか。
でも、何するかは決まってない、って話だったかな?」
「ほう。それは興味深い。全く、面白い子だな、ユウタは」
「…ソクちゃんってさ、笑いのツボがちょっと普通と違うよねえ」
そんなに面白いこと言ってないのに、お医者さんがすごい楽しそうに笑ってる。
笑かそうと思ってないところで、そんな笑顔見せられるとちょっとコワイ。
よくあることなんだけど。
博士は煙草を出す。吸って構わないか、と尋ねたりはしない。
「お前にはミハイルの送迎と付き添いを頼みたい。荷物持ちというところだな」
言いながら火を灯す。眼鏡のレンズにもオレンジの光が反射する。
「ふーん。んじゃ俺、明日はフィンシャルでミハイルとデートか。面白そ♪」
キツイ香りがテーブルの上に立ち昇る。
「デート?」
「だってさ、別にミハイルと手繋ぎながらチュロス食べても良いんだろ?」
「お前、酔うのが早くなったんじゃないか?」
「あっ、ソクちゃん、妬いた?」
あんたに睨まれても今夜はなんだか可笑しくて仕方がない。
お医者サマが言う通り、酔うのが早くなったのかもしれない。
ステージからサックスとドラムが鳴り響く。
サンタさんがやってくる歌だ。やたらポップなアレンジでつい笑ってしまう。
「はー。俺にも来ないかなー。サンタさん♪」
サックスに合わせて、口笛を吹いてみた。
fin
■テオ×クラウス
シュヌーシア寮サロン。
コーヒーミルの心地好い音がする。
クラウスは新聞から視線を上げ、友人の後ろ姿を盗み見る。
テオは電動式ではなく、わざわざ手動式のミルを購入した。
回す動作も遅い。あまり急いで回すといけないそうだ。
時間を掛けて、俺と自分だけの為に珈琲を淹れている。
湯が注がれ、珈琲の良い香りが漂う。
テオからカップを渡され、クラウスは短く礼を言う。
挽き立ての香り。あたたかい珈琲が身体中に沁みていく。
そう言えば、と先程耳にした噂を尋ねた。
「お前、明日からギリシャに帰るのか?」
「ああ、そうなのだよ。メネシスパーティがあってね」
テオも同じものを持って隣のソファに座る。
「なんだ、それは?」
「メネシスの親戚一同が集まる日、まあ、儀式のようなものだね。
姉上に久し振りに会えるのが唯一の楽しみかな」
カップに口付ける横顔。黒い水面に注がれる視線。一瞬、曇ったように見えた。
恒例行事のような言い方だが、クラウスが知る限り、これまでは参加していなかった筈だ。
「何かあったのか?」
テオはにこりと笑う。もう一口、珈琲に口付けてから話した。
「ううん。あまり面白いパーティではないから行きたくないだけだよ。
だって、パーティで豪勢な料理を食べるより、
こうして、クラウスと珈琲を飲む時間の方が私は幸せだからね?」
「そんなに面白くないパーティなのか?」
「おや。貴方との時間が至上だと思ってはくれないのかい?」
「また…お前は」
テオは芝居がかった言い回しでクラウスの手を取る。
「三日程、留守にするけれど、私は必ず貴方の元に帰って来るからね。
泣かないで、私のことを待っているのだよ、クラウス」
「誰が、泣くか!」
翌朝、テオは「お土産を期待してておくれー」と言い残し、寮を出て行った。
今日は休日。講義はない。自主活動の日だ。
テオを玄関まで見送った生徒達は、ぞろぞろとサロンへ入る。
なんとなく皆、覇気がない。
小生意気な中等部一年生のレオンは、だらりとソファに凭れた。
「今日はテオ居ないのかー。つまんないのー」
同い年で性格が真逆のラビットが傍に座る。
「ね、レオン。アクティヴィティ、何する?」
「思い付かないー。ラビは?」
ふるると首を横に振る。柔らかい栗毛がさらさら揺れた。
「僕もだめ…最近のアクティヴィティはテオスペシャルだったもんね」
先週のアクティヴィティは『家庭科の実習』という名目でのクッキー作り。
単にテオが皆でお菓子を作ってみたかっただけで、
学問で分類するとそれが家庭科だっただけだ。
うちの寮のシェフを特別講師にシュヌーシア全員で作って食べた。
テオが毎回名付ける正式名称は無駄に長い。
その時は『ドニ先生の初めてのドキドキクッキー教室デラックス』だった。
先々週は『海洋学の実習』という名目のスキューバダイビングだった。
それも海と太陽を愛する男がシュヌーシア全体を巻き込んだものだ。
こちらの正式名称は、『テオプレゼンツ! 真夏の太陽と海に包まれて、
私達もお魚になろうスペシャル!』だっただろうか。
テオが居ない日、クラウスは極めて自分らしい休日を過ごした。
午前中はジムに行き、午後は勉強。
講義の予習復習はかなり進んだ。溜まっていた本も読み終わった。
充実した休日だったと言える。言える筈だが。
本を閉じる。傍には読み終えた本が積み重なっていた。
これほど勉強が捗ったのも久しい。
次の本に手が伸びない。
ずっと勉強していたから疲れたようだ。
「少し、休むか」
サロンに行き、バトラーに珈琲を頼んだ。
いつもはテオが申し出て、目の前で豆から淹れてくれる。
手挽きのミルはサロンの片隅にある。テオのお茶セット一式だ。
道具は其処にあるが、使う者が今日は居ない。
この部屋はいつも大抵誰かが居て、何かと騒がしいのだが、
今日は皆、自室か外に行っているようで、静かなものだった。
クラウスが新聞を捲る音が侘しく響く。
バトラーはサロンから一度下がり、カップを持ってきた。
彼が淹れる珈琲も美味い。
けれど、鼻腔を抜ける香りも、喉を流れる苦味も。
欲しているのはこれではない。
身体はそう言っていた。
「テオ、まだかなー」
「もう着いても良いのにね」
テオが帰宅する日。
寮生達はそわそわとサロンで待ち伏せていた。
その様子を見ていて、クラウスは何故か苛々してくる。
「お前達、少しは落ち着け」
「クラウスも待ってんじゃん」
最年長をからかったのは最年少のレオンだ。
「俺はサロンで新聞を読んでいるだけだ」
「年取ると頑固になっちゃうのかねー。あ、クラウスは生まれつきか」
「レオン、俺に喧嘩を売っているのか」
「ほんとのこと言っただけだもーん」
「こいつ…」
険悪な空気を感じたラビットは弱々しく声を上げた。
「ちょ、ちょっと、レオンもクラウスも止めてよ…」
「ラビ! お前、俺の味方じゃないのかよー」
最年長が大人げなくクスリと笑う。
「どうやら、ラビにも見限られたようだな」
「違うよな、ラビ!」
「え、あ、あの…」
(テオ、早く帰って来てっ)というラビの願いが届いたのか、
サロンのドアは派手に開いた。
テオはたくさんのお土産を抱えて帰って来た。
タクシーの運転手にも運ぶのを手伝って貰った程の量だった。
サロンに皆を集めて、寮生一人ずつに何らかの物を配っていた。
特産品からよく解らないおもちゃまで様々だ。
落ち着いたところで、ギリシャの名産だという蜂蜜を、
ホットミルクに入れて皆で飲んだ。
「私、家でもこれを飲んだのだけど、サロンで飲むと、やはり格別だね」
テオは心底嬉しそうに言った。そこでテオはこちらを向いた。
「クラウスに蜂蜜は甘かったかな。貴方には珈琲を淹れても良い?」
「それはありがたいが。お前、帰って来たばかりなのによく動くな?」
「良いのだよ。家では私の珈琲を飲んでくれる人は居ないんだ。
私が淹れる珈琲はこんなに美味しいのにね」
海運王の跡取り息子が微笑む。
サロンの片隅に向かう。愛用のコーヒーミルに触れる。
豆を挽く音。寮生達の騒ぐ声。
ここ三日間、聞こえなかった音がサロンに戻っていた。
fin
コーヒーミルの心地好い音がする。
クラウスは新聞から視線を上げ、友人の後ろ姿を盗み見る。
テオは電動式ではなく、わざわざ手動式のミルを購入した。
回す動作も遅い。あまり急いで回すといけないそうだ。
時間を掛けて、俺と自分だけの為に珈琲を淹れている。
湯が注がれ、珈琲の良い香りが漂う。
テオからカップを渡され、クラウスは短く礼を言う。
挽き立ての香り。あたたかい珈琲が身体中に沁みていく。
そう言えば、と先程耳にした噂を尋ねた。
「お前、明日からギリシャに帰るのか?」
「ああ、そうなのだよ。メネシスパーティがあってね」
テオも同じものを持って隣のソファに座る。
「なんだ、それは?」
「メネシスの親戚一同が集まる日、まあ、儀式のようなものだね。
姉上に久し振りに会えるのが唯一の楽しみかな」
カップに口付ける横顔。黒い水面に注がれる視線。一瞬、曇ったように見えた。
恒例行事のような言い方だが、クラウスが知る限り、これまでは参加していなかった筈だ。
「何かあったのか?」
テオはにこりと笑う。もう一口、珈琲に口付けてから話した。
「ううん。あまり面白いパーティではないから行きたくないだけだよ。
だって、パーティで豪勢な料理を食べるより、
こうして、クラウスと珈琲を飲む時間の方が私は幸せだからね?」
「そんなに面白くないパーティなのか?」
「おや。貴方との時間が至上だと思ってはくれないのかい?」
「また…お前は」
テオは芝居がかった言い回しでクラウスの手を取る。
「三日程、留守にするけれど、私は必ず貴方の元に帰って来るからね。
泣かないで、私のことを待っているのだよ、クラウス」
「誰が、泣くか!」
翌朝、テオは「お土産を期待してておくれー」と言い残し、寮を出て行った。
今日は休日。講義はない。自主活動の日だ。
テオを玄関まで見送った生徒達は、ぞろぞろとサロンへ入る。
なんとなく皆、覇気がない。
小生意気な中等部一年生のレオンは、だらりとソファに凭れた。
「今日はテオ居ないのかー。つまんないのー」
同い年で性格が真逆のラビットが傍に座る。
「ね、レオン。アクティヴィティ、何する?」
「思い付かないー。ラビは?」
ふるると首を横に振る。柔らかい栗毛がさらさら揺れた。
「僕もだめ…最近のアクティヴィティはテオスペシャルだったもんね」
先週のアクティヴィティは『家庭科の実習』という名目でのクッキー作り。
単にテオが皆でお菓子を作ってみたかっただけで、
学問で分類するとそれが家庭科だっただけだ。
うちの寮のシェフを特別講師にシュヌーシア全員で作って食べた。
テオが毎回名付ける正式名称は無駄に長い。
その時は『ドニ先生の初めてのドキドキクッキー教室デラックス』だった。
先々週は『海洋学の実習』という名目のスキューバダイビングだった。
それも海と太陽を愛する男がシュヌーシア全体を巻き込んだものだ。
こちらの正式名称は、『テオプレゼンツ! 真夏の太陽と海に包まれて、
私達もお魚になろうスペシャル!』だっただろうか。
テオが居ない日、クラウスは極めて自分らしい休日を過ごした。
午前中はジムに行き、午後は勉強。
講義の予習復習はかなり進んだ。溜まっていた本も読み終わった。
充実した休日だったと言える。言える筈だが。
本を閉じる。傍には読み終えた本が積み重なっていた。
これほど勉強が捗ったのも久しい。
次の本に手が伸びない。
ずっと勉強していたから疲れたようだ。
「少し、休むか」
サロンに行き、バトラーに珈琲を頼んだ。
いつもはテオが申し出て、目の前で豆から淹れてくれる。
手挽きのミルはサロンの片隅にある。テオのお茶セット一式だ。
道具は其処にあるが、使う者が今日は居ない。
この部屋はいつも大抵誰かが居て、何かと騒がしいのだが、
今日は皆、自室か外に行っているようで、静かなものだった。
クラウスが新聞を捲る音が侘しく響く。
バトラーはサロンから一度下がり、カップを持ってきた。
彼が淹れる珈琲も美味い。
けれど、鼻腔を抜ける香りも、喉を流れる苦味も。
欲しているのはこれではない。
身体はそう言っていた。
「テオ、まだかなー」
「もう着いても良いのにね」
テオが帰宅する日。
寮生達はそわそわとサロンで待ち伏せていた。
その様子を見ていて、クラウスは何故か苛々してくる。
「お前達、少しは落ち着け」
「クラウスも待ってんじゃん」
最年長をからかったのは最年少のレオンだ。
「俺はサロンで新聞を読んでいるだけだ」
「年取ると頑固になっちゃうのかねー。あ、クラウスは生まれつきか」
「レオン、俺に喧嘩を売っているのか」
「ほんとのこと言っただけだもーん」
「こいつ…」
険悪な空気を感じたラビットは弱々しく声を上げた。
「ちょ、ちょっと、レオンもクラウスも止めてよ…」
「ラビ! お前、俺の味方じゃないのかよー」
最年長が大人げなくクスリと笑う。
「どうやら、ラビにも見限られたようだな」
「違うよな、ラビ!」
「え、あ、あの…」
(テオ、早く帰って来てっ)というラビの願いが届いたのか、
サロンのドアは派手に開いた。
テオはたくさんのお土産を抱えて帰って来た。
タクシーの運転手にも運ぶのを手伝って貰った程の量だった。
サロンに皆を集めて、寮生一人ずつに何らかの物を配っていた。
特産品からよく解らないおもちゃまで様々だ。
落ち着いたところで、ギリシャの名産だという蜂蜜を、
ホットミルクに入れて皆で飲んだ。
「私、家でもこれを飲んだのだけど、サロンで飲むと、やはり格別だね」
テオは心底嬉しそうに言った。そこでテオはこちらを向いた。
「クラウスに蜂蜜は甘かったかな。貴方には珈琲を淹れても良い?」
「それはありがたいが。お前、帰って来たばかりなのによく動くな?」
「良いのだよ。家では私の珈琲を飲んでくれる人は居ないんだ。
私が淹れる珈琲はこんなに美味しいのにね」
海運王の跡取り息子が微笑む。
サロンの片隅に向かう。愛用のコーヒーミルに触れる。
豆を挽く音。寮生達の騒ぐ声。
ここ三日間、聞こえなかった音がサロンに戻っていた。
fin
■ウーティス寮の愉快な仲間達
■シルヴァンの聖アルンフォンソ島探訪より
■シルヴァンの聖アルンフォンソ島探訪より
今日、ウーティス寮生は揃って温泉施設に来ていた。
学院からは離れたところにある、聖アルフォンソ島の秘湯。
シルヴァンとハルヤはジャグジー風呂に居た。
背中にはジェット式の泡が当たっている。
シルヴァンは頭にタオルを乗せて、ご機嫌だ。
「いーい湯だなー♪」
「…シルヴァン、よく知ってるね、そんな歌」
「ビデオで見たことあるんですー。日本の温泉では皆さん歌うんですよね♪」
「いや、普通はそんな合唱しないんだよ?」
「そうなんですか? あ、ハルヤ、僕、ハルヤのお背中、流してあげますね」
「や、いいよ、そんなことしなくって」
「だって、仲良しの友達同士がすることだってビデオで見ましたよ?
ハルヤ、僕は仲良しの友達ではないんですか?」
「あの、それは友達なんだけど…」
眼鏡を掛けていないのに、掛け直す仕草をした。
アルフレッドとユウタは露天風呂で泳いでいた。クロールだ。
広い風呂の端から端まで泳ぎ、ターンして戻ってくる。
「俺の勝ちー!」
アルフレッド、余裕の勝利となった。
遅れて到着したユウタが、ぷはっと湯から顔を上げた。
「あー、負けちゃったー」
「ユウタ、約束通り、後でオレンジジュース、俺におごれよ?」
「解ってるよー。それにしても、広いよねえ、ここの温泉。プールみたい」
「だろっ? 聖アルフォンソ島の隠れた海なんだ、此処は」
「そう言えばさ、レッド。なんで、お風呂にボールみたいなの持ってきてるの?」
端に置いておいた赤い小さなボール。スパには必ず持ってくるのだそうだ。
「これか? これはな、海に沈む財宝さ!」
ばばーんとボールを掲げる。ユウタはキョトンだ。
「じゃー、宝探しを始めるとするか。よーし、ユウタ、取って来ーい!」
ボールを放り投げる。ぽちゃんと湯の中に沈んでいった。
「…暑いのに、暑苦しいな」
硝子越しにレッド達を眺めながら、アンリは檜風呂に入っていた。
隣ではジョシュアが苦笑している。
色白のアンリは肌が仄かにピンク色だった。
「僕はもう失礼するからね」
「じゃあ、俺も上がろうかな」
湯から出て、アンリが一歩踏み出した時、ふらりと身体が傾いた。
「アンリッ!」
素早くジョシュアに抱き留められ、足を滑らさずに済んだ。
「平気かい? アンリ」
「…少し、眩暈がしただけだ。離して」
それを見ていたシルヴァンが興奮気味にハルヤに訴える。
「アレ! 僕達もアレやりたいです! ハルヤ、ふらついて下さい!」
「いや、そんなこと言われても…」
「演劇の授業だと思って! 僕がジョシュア役やりますから!
ハルヤはもう少し可愛いアンリ役でお願いしますね!」
fin
学院からは離れたところにある、聖アルフォンソ島の秘湯。
シルヴァンとハルヤはジャグジー風呂に居た。
背中にはジェット式の泡が当たっている。
シルヴァンは頭にタオルを乗せて、ご機嫌だ。
「いーい湯だなー♪」
「…シルヴァン、よく知ってるね、そんな歌」
「ビデオで見たことあるんですー。日本の温泉では皆さん歌うんですよね♪」
「いや、普通はそんな合唱しないんだよ?」
「そうなんですか? あ、ハルヤ、僕、ハルヤのお背中、流してあげますね」
「や、いいよ、そんなことしなくって」
「だって、仲良しの友達同士がすることだってビデオで見ましたよ?
ハルヤ、僕は仲良しの友達ではないんですか?」
「あの、それは友達なんだけど…」
眼鏡を掛けていないのに、掛け直す仕草をした。
アルフレッドとユウタは露天風呂で泳いでいた。クロールだ。
広い風呂の端から端まで泳ぎ、ターンして戻ってくる。
「俺の勝ちー!」
アルフレッド、余裕の勝利となった。
遅れて到着したユウタが、ぷはっと湯から顔を上げた。
「あー、負けちゃったー」
「ユウタ、約束通り、後でオレンジジュース、俺におごれよ?」
「解ってるよー。それにしても、広いよねえ、ここの温泉。プールみたい」
「だろっ? 聖アルフォンソ島の隠れた海なんだ、此処は」
「そう言えばさ、レッド。なんで、お風呂にボールみたいなの持ってきてるの?」
端に置いておいた赤い小さなボール。スパには必ず持ってくるのだそうだ。
「これか? これはな、海に沈む財宝さ!」
ばばーんとボールを掲げる。ユウタはキョトンだ。
「じゃー、宝探しを始めるとするか。よーし、ユウタ、取って来ーい!」
ボールを放り投げる。ぽちゃんと湯の中に沈んでいった。
「…暑いのに、暑苦しいな」
硝子越しにレッド達を眺めながら、アンリは檜風呂に入っていた。
隣ではジョシュアが苦笑している。
色白のアンリは肌が仄かにピンク色だった。
「僕はもう失礼するからね」
「じゃあ、俺も上がろうかな」
湯から出て、アンリが一歩踏み出した時、ふらりと身体が傾いた。
「アンリッ!」
素早くジョシュアに抱き留められ、足を滑らさずに済んだ。
「平気かい? アンリ」
「…少し、眩暈がしただけだ。離して」
それを見ていたシルヴァンが興奮気味にハルヤに訴える。
「アレ! 僕達もアレやりたいです! ハルヤ、ふらついて下さい!」
「いや、そんなこと言われても…」
「演劇の授業だと思って! 僕がジョシュア役やりますから!
ハルヤはもう少し可愛いアンリ役でお願いしますね!」
fin
■テオ×クラウス
「クラウスー、お邪魔するよ。今度の休日なのだけど、ね…」
跳ねる声を出迎えたのは真っ暗な部屋だった。
期待していた「ノックくらいしろと言った筈だが?」
という声どころか、何の音もしなかった。
このシュヌーシア寮の一室に自分の声だけが、ぽつりと響く。
「おや、居ないようだねえ」
ドアを閉めて、部屋の明かりを付けた。やはり誰も居ない。
広く綺麗な部屋が、がらんとして寂しく見えた。
此処に住んでいるのはクラウス・フォン・モール。軍人の家系出身。
今年度の生徒代表だ。その部屋にノックもなく訪れたのは、
同じ寮に住むテオ・メネシス。高等部第二学年。
実家はギリシアにあり、海運王と呼ばれる資産家の子息。
『人生は年中無休』なクラウスと『人生は年中休暇』なテオだが、
何故か仲が良い、というよりテオが一方的に親睦を深めようとしていた。
今日は、次の休日のお誘いにやってきた。『自主活動』の名の下に、
無人島へスキューバダイビングに行こう、という話を持ち掛けに。
海に関する資格は実用と趣味を兼ねてほぼ取得済みのテオは、
スキューバのインストラクター資格も持っているので、
シュヌーシア寮の皆を連れて、深海鑑賞会をしようと考えた。
もちろん安全を期してプロの指導者も呼んでいるし、警備組織にも連絡済みだ。
そんな、ささやかな午後を共に過ごさないか、
とクラウスを誘いに来たのだが部屋には居ないようだ。
大きくシンプルな掛け時計は現在23時だと告げていた。
この時間、生徒達は大抵サロンや各自の部屋に居る筈。
クラウスは夜遊びに行くような人間ではないので、何処に居るのかは予想が付いた。
机上には教科書とノートが置いたままになっている。
つい先程まで此処で勉強していた。
「今宵も生徒代表室に行ってしまったのかなあ」
テオには生徒代表が具体的に何をやっているのかよく解らなかったが、
どうやら最近は、外部との交渉のような仕事に追われているようだった。
「まあ、そのうち来るね。クラウスのベッドは此処にあるのだもの」
誰かを待つ時間は苦ではなかった。
いつ来るかと心待ちにするのも楽しいというものだ。
それも確実に此処に戻ってくると解っているのだから。
テオは本棚の上から話し相手を手に取る。
娯楽要素のない部屋で唯一、異色を放つ白と黒の物体。
シャチのぬいぐるみだ。それほど大きくはなく、手頃なサイズ。
以前、テオプレゼンツ小旅行にクラウスが仕事で行けなかった時に、
テオがお土産としてプレゼントしたものだ。
クラウスにぬいぐるみを集めるような趣味がないのは、
テオも承知していたが、ついこれを選んでしまった。
お店でこのシャチと目が合った時、その見目が醸し出す利発さと、
シャープなボディーライン、白か黒というはっきりした色合いに、
真っ直ぐな眼差しがクラウスにそっくりだと思ったからだ。
渡した時、かなり憮然とはしていたが「これは要らない」とは言われなかった。
実はテオも同じ物を所有しているのだが、クラウスには秘密にしていた。
テオが恥ずかしいからではなく、クラウスが恥ずかしがるといけないからだ。
お揃いだと言ったら、きっとこんな風に部屋には飾ってくれないだろう。
シャチには『エオル』と名が付いている。名付けたのはテオで、
クラウスClausとテオTheoの名前からアルファベッドを取って混ぜた。
エオルは専らクラウス不在時のテオの話し相手として使われている。
クラウスがどのようにエオルと接しているのかテオは知らなかった。
「久しいね、エオル。クラウスに仲良くして貰っていたかい?」
テオはベッドに腰掛け、ぬいぐるみを膝に乗せた。
「最近、クラウスは、ちゃんと睡眠を取っていたのかな?」
丸い黒目は真っ直ぐテオを見上げている。
そのきりりとした眼差しは、この子の主人を彷彿とさせる。
「エオルは良いねえ」
シャチを持ったまま、ベッドに背を預ける。
テオのベッドと比べると、クラウスのは少し固い。
高い高いをするようにシャチを天井に向けて飛ばす。
手を離した位置から少し上がってすぐに戻ってくる。
「私も君くらいに可愛い大きさだったら良かったな」
テオは無意味にその動作を繰り返していた。
シャチは天井とテオの間をスローペースで行ったり来たりする。
「クラウスが卒業しても、ずっと傍に置いて貰えるのだもの」
ぽーん、ぽーん、と軽いシャチは宙を舞っていた。
学生課棟の最奥にある生徒代表室。
クラウスは、警備責任者とのネットミーティング中だった。
定例ではなく理事会からの緊急招集だ。
本日深夜、島への侵入者が上陸するという情報が入った。
信頼性は不確定なのだが、今夜は警備組織が一斉配備される。
モニタ越しの警備責任者は、追憶の塔から通信していた。
クラウスより一回り年上の男。
最高責任者というには若い風貌。長過ぎる髪も緩過ぎるネクタイも、
厳格な人間の下で育ったクラウスにとっては、あまり感心できないことだった。
この男の口調は、警備のトップというには軽過ぎる。
「ん。じゃ今日のミーティングはおしまいってことで」
「そうだな。遅くにすまなかった」
「また俺の声が聞きたくなった時はいつでもどうぞ?」
「誰が。今日は理事会の要請があっただけだ」
重い話をする時も、アイヴィーの口調は軽い。
何かと重く真剣に受け止めるクラウスとは真逆だ。
そのくせ仕事の要領は極めて良く、組んで仕事をするには申し分ない。
生徒達はアイヴィーのことをタクシードライバーだとしか思っていないだろうが。
「クラウスー。どしたの?」
「いや、お前は呑気だなと思ってな。緊急招集だと言うのに」
アイヴィーもこの会議終了後、警備に回る。
「心配すんなって。夜のお散歩してくるだけだよ。後はこっちに任せな?」
「ああ。頼む」
「夜遅いから勉強ばっかしてないで早く寝ろよ?」
「アイヴィー」
「んー?」
生徒代表はモニタを正面から捉える。
「次回のミーティングは、来週月曜20時開始だ。
遅刻せずに必ず来いよ。以上だ」
ブチと切られた通信。
歴代の生徒代表の中で最もガミガミ煩い男は神経質で心配性だ。
アイヴィーは、ひひと笑う。黒い画面にそっと誓った。
「りょーかい」
「君の主人はなかなか帰ってこないねえ、エオル」
クラウスの部屋。テオはベッドに寝そべり、シャチの黒い背を撫でていた。
本物の背は滑らかだが、この子はふさふさと毛並みが良い。
時刻は23時半。時計を眺めた時、シャチが置かれていた本棚が目に入った。
「そうだ。本でも読んでいようかな」
シャチのぬいぐるみをベッドに置いて、本棚へと向かう。
生真面目な男は高い身体能力に加え、努力家で成績も優秀だ。
持っている本の量も半端ではない。棚は隙間無く埋まっている。
「彼はこれを全部読んだのかな」
歴史学に関するものが多い。戦国史の特別講義を受講している。
テオはそれまで戦国史にそれほど興味を持っていなかったので、
何故、その講義を受けようと思ったのか、彼に聞いてみたことがある。
軍人の家柄だからそういうものに心惹かれるものなのかな、
というテオの予想は外れる。クラウスは、少し黙った後、答えてくれた。
彼曰く「紛争の最中に置かれた人間が、何故剣を取ったのか知りたい」と。
後に軍の上層部に就くであろう彼が、真面目な顔をしてそう言ったのだ。
人と人が争うこと、それ自体に疑問を感じているようだった。
彼の家では、こんな疑問を口に出すことがタブーだったことだろう。
「これにしようかな」
厚みのある本を取り出す。手にどさっと重さが乗っかった。
両手で持って部屋を見渡しながら、何処で読もうかと思う。
塵のひとつも落ちていないような部屋なので、何処へ腰を下ろしても平気なのだが。
こちらを真っ直ぐに見詰めているシャチのぬいぐるみと目が合う。
「ベッドで読むことにしようか」
最初のうちは、ちゃんと読んでいたものの、だんだん斜め読みになり、
文字を目で追うのも億劫になってきた。文字がただの記号に見えてくる。
「早く帰って来てくれないと睡魔の誘惑に負けてしまうな…」
ベッドの中で本を読んでいたのと、本の内容が非常に難しかったので、
瞼が重くなってきた。クラウスが興味あるものはテオも知りたいとは思うのだが、
余りにも専門的で、かつ、テオの興味範囲と違い過ぎる。
唯一読めたのは船を使った戦術の部分だけだ。
ぱたん、と本を閉じる。暗くなる視界。意識がだんだん沈んでいく。
毛布を引き寄せると良い匂いがした。花やお菓子などの甘い香りとは違う。
とても心が落ち着く匂いに包まれて、テオは夢の中へ沈んでいった。
仕事を終えたクラウスはシュヌーシア寮に戻って来た。
部屋に戻る前にサロンに顔を出して、まだ騒いでいる生徒に小言を言う。
それは日課に近かった。普段、生徒達の中心に居る奴が今日は居なかった。
自室の前まで来て、眉間に皺が寄る。
ドアの下から光が漏れている。部屋を出た時は、電気を消した筈だ。
扉を開ける。電気が付いた部屋。
誰の姿も見えないが、人の気配はする。
奥へ進むと、ベッドが何故か膨らんでいた。
黄金の髪に小麦の肌。
どうやら、俺のベッドに不法侵入しているのは、テオ・メネシスらしい。
瞳は閉じられていた。穏やかな寝息も聞こえる。熟睡しているようだ。
傍らには分厚い本。読みながら眠ったようだが。
こいつは一体何の用で俺の部屋へ来たのだろう。
ただ遊びに来ただけということも大いに在り得るが。
来るまでならまだ解るが、何故俺のベッドで眠っているんだか。
しかも、ベッドの中央を陣取っている。俺は何処で寝れば良い。
嫌がらせか? そんなことをする奴ではない筈だが。
シャチのぬいぐるみが頬の下で潰されている。
なんとなく苦しそうな目が真っ直ぐクラウスに向けられている。
シャチの名に自分の名前が含まれているせいか、居た堪れない気になる。
テオは起きる気配は一向にない。良い夢でも見ているのか。
毛布を抱き締め、気持ち良さそうな寝顔を晒している。
先程まで張り詰めていた糸が弛緩する。
「ったく、こいつは何なんだ…」
ベッドの前で胡坐を掻いた。
暫くの間、クラウスは半ば呆れつつ、友人の寝顔を眺めていた。
今、この瞬間を含めて、こいつの言動は意味が解らない。
俺のテリトリーに不法侵入し、勝手に居座る。
そして奇天烈なこと言い出すのだ。
気が付けば傍に居て、振り回されている。
今日も何か突拍子もないことを言いに来たのかもしれない。
またろくでもないこと、いや、本人曰く『楽しいこと』を思い付いたのだろう。
こいつは、太陽のように輝くのは髪だけではない。
存在そのものがこの寮を、学院を、明るく照らしているかのようだ。
俺のように融通が利かず、堅苦しい人間より、
テオの方が生徒代表に相応しいのではないかと何度思ったことか。
もし、本当にそれが実現したのなら、今以上に奔放に動くだろう。
時計を見ると、そろそろ眠らなくてはならない時刻だった。
こいつをどうしようか迷う。叩き起こして部屋に戻すべきか。
しかし、今夜はこのまま傍に置いた方が良いかもしれない。
遭ってはならないことだが、もし、侵入者が警備の網を免れ、此処まで辿り着いたら。
アイヴィーには敵わないが自分だって軍人の訓練は積んでいる。
俺にもテオ一人くらいなら守れるだろう。
学院全体が守れなくとも、せめて、こいつだけは――
はたと気付く。俺は今、何を考えていたのだろう。
生徒代表は全生徒が守るべき対象なのに。
誰を措いても、こいつを守りたいと、俺が思ったというのか。
クラウスは音も無くすっと腰を上げる。
ベッドが取られている以上、他の場所で眠らなくてはならない。
今夜は床の上で寝ることにしようと決める。
その時、クラウスの足に何かがぶつかった。
シャチのぬいぐるみ。
先程まで頬の下で窮屈にしていた筈だが、テオの拘束から抜け出したか。
テオはこちらに背を向けていた。単に身動ぎして、頬の下から外れただけだ。
何処かの土産でテオから貰ったものだ。なぜ、シャチなのか。
これを貰った時の声が、すぐさま耳に甦る。
――ほら、見てご覧。クラウスにそっくりだろう?――
時として人はどうでもいいことを憶えているものだ。
クラウスは腕を伸ばし、足にぶつかっているシャチを手に取る。
今、手の中にある、白と黒。テオと自分の名を持つぬいぐるみ。
静かにテオの傍へ戻した。
fin
跳ねる声を出迎えたのは真っ暗な部屋だった。
期待していた「ノックくらいしろと言った筈だが?」
という声どころか、何の音もしなかった。
このシュヌーシア寮の一室に自分の声だけが、ぽつりと響く。
「おや、居ないようだねえ」
ドアを閉めて、部屋の明かりを付けた。やはり誰も居ない。
広く綺麗な部屋が、がらんとして寂しく見えた。
此処に住んでいるのはクラウス・フォン・モール。軍人の家系出身。
今年度の生徒代表だ。その部屋にノックもなく訪れたのは、
同じ寮に住むテオ・メネシス。高等部第二学年。
実家はギリシアにあり、海運王と呼ばれる資産家の子息。
『人生は年中無休』なクラウスと『人生は年中休暇』なテオだが、
何故か仲が良い、というよりテオが一方的に親睦を深めようとしていた。
今日は、次の休日のお誘いにやってきた。『自主活動』の名の下に、
無人島へスキューバダイビングに行こう、という話を持ち掛けに。
海に関する資格は実用と趣味を兼ねてほぼ取得済みのテオは、
スキューバのインストラクター資格も持っているので、
シュヌーシア寮の皆を連れて、深海鑑賞会をしようと考えた。
もちろん安全を期してプロの指導者も呼んでいるし、警備組織にも連絡済みだ。
そんな、ささやかな午後を共に過ごさないか、
とクラウスを誘いに来たのだが部屋には居ないようだ。
大きくシンプルな掛け時計は現在23時だと告げていた。
この時間、生徒達は大抵サロンや各自の部屋に居る筈。
クラウスは夜遊びに行くような人間ではないので、何処に居るのかは予想が付いた。
机上には教科書とノートが置いたままになっている。
つい先程まで此処で勉強していた。
「今宵も生徒代表室に行ってしまったのかなあ」
テオには生徒代表が具体的に何をやっているのかよく解らなかったが、
どうやら最近は、外部との交渉のような仕事に追われているようだった。
「まあ、そのうち来るね。クラウスのベッドは此処にあるのだもの」
誰かを待つ時間は苦ではなかった。
いつ来るかと心待ちにするのも楽しいというものだ。
それも確実に此処に戻ってくると解っているのだから。
テオは本棚の上から話し相手を手に取る。
娯楽要素のない部屋で唯一、異色を放つ白と黒の物体。
シャチのぬいぐるみだ。それほど大きくはなく、手頃なサイズ。
以前、テオプレゼンツ小旅行にクラウスが仕事で行けなかった時に、
テオがお土産としてプレゼントしたものだ。
クラウスにぬいぐるみを集めるような趣味がないのは、
テオも承知していたが、ついこれを選んでしまった。
お店でこのシャチと目が合った時、その見目が醸し出す利発さと、
シャープなボディーライン、白か黒というはっきりした色合いに、
真っ直ぐな眼差しがクラウスにそっくりだと思ったからだ。
渡した時、かなり憮然とはしていたが「これは要らない」とは言われなかった。
実はテオも同じ物を所有しているのだが、クラウスには秘密にしていた。
テオが恥ずかしいからではなく、クラウスが恥ずかしがるといけないからだ。
お揃いだと言ったら、きっとこんな風に部屋には飾ってくれないだろう。
シャチには『エオル』と名が付いている。名付けたのはテオで、
クラウスClausとテオTheoの名前からアルファベッドを取って混ぜた。
エオルは専らクラウス不在時のテオの話し相手として使われている。
クラウスがどのようにエオルと接しているのかテオは知らなかった。
「久しいね、エオル。クラウスに仲良くして貰っていたかい?」
テオはベッドに腰掛け、ぬいぐるみを膝に乗せた。
「最近、クラウスは、ちゃんと睡眠を取っていたのかな?」
丸い黒目は真っ直ぐテオを見上げている。
そのきりりとした眼差しは、この子の主人を彷彿とさせる。
「エオルは良いねえ」
シャチを持ったまま、ベッドに背を預ける。
テオのベッドと比べると、クラウスのは少し固い。
高い高いをするようにシャチを天井に向けて飛ばす。
手を離した位置から少し上がってすぐに戻ってくる。
「私も君くらいに可愛い大きさだったら良かったな」
テオは無意味にその動作を繰り返していた。
シャチは天井とテオの間をスローペースで行ったり来たりする。
「クラウスが卒業しても、ずっと傍に置いて貰えるのだもの」
ぽーん、ぽーん、と軽いシャチは宙を舞っていた。
学生課棟の最奥にある生徒代表室。
クラウスは、警備責任者とのネットミーティング中だった。
定例ではなく理事会からの緊急招集だ。
本日深夜、島への侵入者が上陸するという情報が入った。
信頼性は不確定なのだが、今夜は警備組織が一斉配備される。
モニタ越しの警備責任者は、追憶の塔から通信していた。
クラウスより一回り年上の男。
最高責任者というには若い風貌。長過ぎる髪も緩過ぎるネクタイも、
厳格な人間の下で育ったクラウスにとっては、あまり感心できないことだった。
この男の口調は、警備のトップというには軽過ぎる。
「ん。じゃ今日のミーティングはおしまいってことで」
「そうだな。遅くにすまなかった」
「また俺の声が聞きたくなった時はいつでもどうぞ?」
「誰が。今日は理事会の要請があっただけだ」
重い話をする時も、アイヴィーの口調は軽い。
何かと重く真剣に受け止めるクラウスとは真逆だ。
そのくせ仕事の要領は極めて良く、組んで仕事をするには申し分ない。
生徒達はアイヴィーのことをタクシードライバーだとしか思っていないだろうが。
「クラウスー。どしたの?」
「いや、お前は呑気だなと思ってな。緊急招集だと言うのに」
アイヴィーもこの会議終了後、警備に回る。
「心配すんなって。夜のお散歩してくるだけだよ。後はこっちに任せな?」
「ああ。頼む」
「夜遅いから勉強ばっかしてないで早く寝ろよ?」
「アイヴィー」
「んー?」
生徒代表はモニタを正面から捉える。
「次回のミーティングは、来週月曜20時開始だ。
遅刻せずに必ず来いよ。以上だ」
ブチと切られた通信。
歴代の生徒代表の中で最もガミガミ煩い男は神経質で心配性だ。
アイヴィーは、ひひと笑う。黒い画面にそっと誓った。
「りょーかい」
「君の主人はなかなか帰ってこないねえ、エオル」
クラウスの部屋。テオはベッドに寝そべり、シャチの黒い背を撫でていた。
本物の背は滑らかだが、この子はふさふさと毛並みが良い。
時刻は23時半。時計を眺めた時、シャチが置かれていた本棚が目に入った。
「そうだ。本でも読んでいようかな」
シャチのぬいぐるみをベッドに置いて、本棚へと向かう。
生真面目な男は高い身体能力に加え、努力家で成績も優秀だ。
持っている本の量も半端ではない。棚は隙間無く埋まっている。
「彼はこれを全部読んだのかな」
歴史学に関するものが多い。戦国史の特別講義を受講している。
テオはそれまで戦国史にそれほど興味を持っていなかったので、
何故、その講義を受けようと思ったのか、彼に聞いてみたことがある。
軍人の家柄だからそういうものに心惹かれるものなのかな、
というテオの予想は外れる。クラウスは、少し黙った後、答えてくれた。
彼曰く「紛争の最中に置かれた人間が、何故剣を取ったのか知りたい」と。
後に軍の上層部に就くであろう彼が、真面目な顔をしてそう言ったのだ。
人と人が争うこと、それ自体に疑問を感じているようだった。
彼の家では、こんな疑問を口に出すことがタブーだったことだろう。
「これにしようかな」
厚みのある本を取り出す。手にどさっと重さが乗っかった。
両手で持って部屋を見渡しながら、何処で読もうかと思う。
塵のひとつも落ちていないような部屋なので、何処へ腰を下ろしても平気なのだが。
こちらを真っ直ぐに見詰めているシャチのぬいぐるみと目が合う。
「ベッドで読むことにしようか」
最初のうちは、ちゃんと読んでいたものの、だんだん斜め読みになり、
文字を目で追うのも億劫になってきた。文字がただの記号に見えてくる。
「早く帰って来てくれないと睡魔の誘惑に負けてしまうな…」
ベッドの中で本を読んでいたのと、本の内容が非常に難しかったので、
瞼が重くなってきた。クラウスが興味あるものはテオも知りたいとは思うのだが、
余りにも専門的で、かつ、テオの興味範囲と違い過ぎる。
唯一読めたのは船を使った戦術の部分だけだ。
ぱたん、と本を閉じる。暗くなる視界。意識がだんだん沈んでいく。
毛布を引き寄せると良い匂いがした。花やお菓子などの甘い香りとは違う。
とても心が落ち着く匂いに包まれて、テオは夢の中へ沈んでいった。
仕事を終えたクラウスはシュヌーシア寮に戻って来た。
部屋に戻る前にサロンに顔を出して、まだ騒いでいる生徒に小言を言う。
それは日課に近かった。普段、生徒達の中心に居る奴が今日は居なかった。
自室の前まで来て、眉間に皺が寄る。
ドアの下から光が漏れている。部屋を出た時は、電気を消した筈だ。
扉を開ける。電気が付いた部屋。
誰の姿も見えないが、人の気配はする。
奥へ進むと、ベッドが何故か膨らんでいた。
黄金の髪に小麦の肌。
どうやら、俺のベッドに不法侵入しているのは、テオ・メネシスらしい。
瞳は閉じられていた。穏やかな寝息も聞こえる。熟睡しているようだ。
傍らには分厚い本。読みながら眠ったようだが。
こいつは一体何の用で俺の部屋へ来たのだろう。
ただ遊びに来ただけということも大いに在り得るが。
来るまでならまだ解るが、何故俺のベッドで眠っているんだか。
しかも、ベッドの中央を陣取っている。俺は何処で寝れば良い。
嫌がらせか? そんなことをする奴ではない筈だが。
シャチのぬいぐるみが頬の下で潰されている。
なんとなく苦しそうな目が真っ直ぐクラウスに向けられている。
シャチの名に自分の名前が含まれているせいか、居た堪れない気になる。
テオは起きる気配は一向にない。良い夢でも見ているのか。
毛布を抱き締め、気持ち良さそうな寝顔を晒している。
先程まで張り詰めていた糸が弛緩する。
「ったく、こいつは何なんだ…」
ベッドの前で胡坐を掻いた。
暫くの間、クラウスは半ば呆れつつ、友人の寝顔を眺めていた。
今、この瞬間を含めて、こいつの言動は意味が解らない。
俺のテリトリーに不法侵入し、勝手に居座る。
そして奇天烈なこと言い出すのだ。
気が付けば傍に居て、振り回されている。
今日も何か突拍子もないことを言いに来たのかもしれない。
またろくでもないこと、いや、本人曰く『楽しいこと』を思い付いたのだろう。
こいつは、太陽のように輝くのは髪だけではない。
存在そのものがこの寮を、学院を、明るく照らしているかのようだ。
俺のように融通が利かず、堅苦しい人間より、
テオの方が生徒代表に相応しいのではないかと何度思ったことか。
もし、本当にそれが実現したのなら、今以上に奔放に動くだろう。
時計を見ると、そろそろ眠らなくてはならない時刻だった。
こいつをどうしようか迷う。叩き起こして部屋に戻すべきか。
しかし、今夜はこのまま傍に置いた方が良いかもしれない。
遭ってはならないことだが、もし、侵入者が警備の網を免れ、此処まで辿り着いたら。
アイヴィーには敵わないが自分だって軍人の訓練は積んでいる。
俺にもテオ一人くらいなら守れるだろう。
学院全体が守れなくとも、せめて、こいつだけは――
はたと気付く。俺は今、何を考えていたのだろう。
生徒代表は全生徒が守るべき対象なのに。
誰を措いても、こいつを守りたいと、俺が思ったというのか。
クラウスは音も無くすっと腰を上げる。
ベッドが取られている以上、他の場所で眠らなくてはならない。
今夜は床の上で寝ることにしようと決める。
その時、クラウスの足に何かがぶつかった。
シャチのぬいぐるみ。
先程まで頬の下で窮屈にしていた筈だが、テオの拘束から抜け出したか。
テオはこちらに背を向けていた。単に身動ぎして、頬の下から外れただけだ。
何処かの土産でテオから貰ったものだ。なぜ、シャチなのか。
これを貰った時の声が、すぐさま耳に甦る。
――ほら、見てご覧。クラウスにそっくりだろう?――
時として人はどうでもいいことを憶えているものだ。
クラウスは腕を伸ばし、足にぶつかっているシャチを手に取る。
今、手の中にある、白と黒。テオと自分の名を持つぬいぐるみ。
静かにテオの傍へ戻した。
fin
■テオとデッドプリンス
■蔦様のメールベース
■蔦様のメールベース
「此処がデッドプリンス愛用のライブハウスなのだね!
あっ、声が響いたよ! あー、あー!」
そう広くないスタジオなので声が反響する。
初めての場所にテオは興奮しているようだった。
今日はデッドプリンスのバンド練習に、テオが特別招待された。
つい一時間前、テオはウーティス寮に遊びに来た。
サロンで皆とお茶を飲みながら楽しく話していた。
そのうちにアルフレッド、シルヴァン、ハルヤが、
「練習スタジオに行く時間だから」と腰を上げた。
テオが何気なく「練習風景も見てみたいものだねえ」と言ったので、
「じゃあ、来てみるか?」とアルフレッドが気軽に招待した。
「お客さんに、練習してるとこ見られるの、ちょっと恥ずかしいな」という
ハルヤの意見はテオの「見てみたい」気持ちを増幅する効果しかなく、
四人はタクシーに乗り込み、学院を出発した。
テオはデッドプリンス結成の場に立ち会っている。
記念すべき瞬間は、ハルヤの入学初日、学院案内の最中だったからだ。
生徒代表のテオに連れられて、ウーティスに来た際に結成されたのだった。
それ以降、テオは用事がない限りライブには足を運び、
来る度に賛辞やら差し入れやら花束やらをくれる。
ライブの翌日は必ずウーティス寮サロンまで来て、
「昨日のライブ、素晴らしかったよ」と褒めちぎる。
それは少なからず三人にとって次への原動力となっていた。
アルフレッドは子役時代からファンを大切にしていたので、
今日は丁度良い機会だと思い、大切なファンを招いての公開練習となった。
このライブハウスは、デッドプリンスに限らず、様々なバンドが利用する。
4階は録音スタジオ、3階は練習スタジオ、2階は楽器店。
1階にはガラス張りのラジオスタジオがあり、
此処から島限定の音楽番組などを放送している。
夜になると地下のBARから歌声が響く。
そう広くはない店内だが、音響も照明も設備は整っている。
バンドはそのステージに立ち、3階で練習した成果を披露する。
客はドリンクと音楽に酔いしれながら、今日の疲れを癒す。
BARでの演奏曲はラジオでも放送される。
島の音楽好きが集まって運営維持している場所だった。
練習スタジオに着くと、軽い音慣らしの後、
デッドプリンスは早速テオに一曲披露することにした。
アルフレッドは壁に立て掛けてあった四角い台を床に置く。
これに乗った方が気分が出ると、彼が愛用している『ステージ』だ。
せいぜい高さ20センチ程の台なのだが、
アルフレッドがトンと靴を鳴らして飛び乗ると其処は特設ステージになる。
曲は彼が最近作ったばかりというロック。
デッドプリンスは最近この曲を練習中らしく、
上手くできるようになったら、ライブでのお披露目予定だそうだ。
アルフレッドは、ドラムとベースを従えて軽快に歌い切った。
ライブでは未発表の曲だったので、テオはいたく感激した。
賞賛を浴びたレッドは機嫌良く言った。
「あ、そういや、テオが歌ってるとこって、まだ見たことねえな?」
「そうですね。僕、聞いてみたいです!」
シルヴァンが手を合わせると、テオは、おやおや、と笑う。
「今日、私は見学に来たのだよ? ファンがプロの前で歌うなんて」
「俺達はプロじゃねえよ、好きでやってるだけだって」
役者としてはプロのアルフレッド・ヴィスコンティが言ってのける。
まだCDこそ出してはいないが、彼の人気と歌唱力では、
世界中でたちまちヒットするだろうと、テオは確信していた。
シルヴァンは有力な同意を得ようと隣に尋ねる。
「ハルヤも聞きたいですよね? テオの歌」
「え? う、うん」
同意というよりはただの相槌に近い頷きだったのだが、
テオの心はグラリと揺さぶられたようで。
「東洋の黒い真珠に頼まれては、嫌とは言えないな、私は」
「よっし。じゃあ、俺がギターで伴奏してやるよ。
テオ、何歌いたい? なんか有名なやつで、好きな歌あるか?」
「ん。そうだねえ、では」
テオが挙げた曲名は、何年か前に流行った映画の主題歌だった。
世界中が涙した名作であり、映画の最後にこの曲が流れると、
観客席からは必ずすすり泣きが聞こえるとまで言われた。
一大スペクタルではない。今や当たり前に使用される高技術のCGもない。
爆破シーンもなしに世界で売れた映画は珍しいという批評もあった。
平凡な日常の中から生まれる小さな小さなドラマ。
派手な作品がこれでもかと溢れていた当時、
ささやかなこの作品は多くの人の心を掴んだ。
もちろん、アルフレッドも知っている作品だ。兄貴とブライアンと観た。
良い曲だったので当時のバンドで演奏したこともある。
「へえ。意外と大人しい曲が好きなんだな。
オーケー。それなら弾けそうだ。あ、その曲なら、
エレキよりアコギの方が良いな。ちょっと下行って借りて来るわ」
身軽に階下へと向かう。2階の楽器店から借りてくるようだ。
そこには売り物用とは別に店主の私物も揃っている。
彼ともすっかり顔なじみのアルフレッドには快く貸してくれるだろう。
レッドを待つ間、ハルヤも不思議そうな顔をして、感想を述べた。
「俺もテオはもっと派手なの選ぶのかと思ってたなあ」
「でも、テオの声なら合うかもしれませんね。音域が広いので難しい曲ですが」
「うん。私の姉上が好きだった曲なのだよ」
「テオって、お姉さん居たんだ?」
「おや。まだ言ってなかったかな」
ハルヤがテオと話している時は、一方的に賛辞の言葉などを受けることが多い。
そう言えば、自分はテオのことをあんまり知らないなとハルヤは思う。
宝石、花、お菓子などに比喩を用いた過剰な褒め言葉に対応するのが精一杯で、今まで気付かなかったけど。
テオが他の生徒について褒める姿はよく見るけど、自分のことはそれほど話さない。
此処に居る生徒の特徴。テオも例外ではなかった。
シルヴァンはテオの姉について、ある程度知っていた。
「僕はテレビでなら、お姉さんのお顔を拝見したことがありますよ」
「ああ、姉上が結婚した時に少し出ていたものね」
シルヴァンは数年前にテレビで目にした映像を思い出した。
当時、メディアに踊った題字は『大富豪結婚!石油王の子息と海運王の令嬢』だっただろうか。
両家が手を結べば躍進は約束される、明らかな政略結婚だった。
大勢の関係者を招いた結婚式は、その法外な額も話題になっていた。
シルヴァンは、それについてはハルヤに説明しなかった。
「とっても綺麗な方なんですよ。今思うと、テオ、似てますよね、お姉さんに」
「そうかい? ありがとう。姉上の美貌には敵わないけれどね」
階段を上がってくる音と共に、アルフレッドが戻って来た。
手にはアコースティックギターを持っている。
早速パイプ椅子に座り、足を組む。
膝にギターを乗せ、曲が弾けるか軽く弾き始めた。
エレキに慣れた耳には、電気を介さない音は儚く聞こえる。
「まあ、なんとか覚えてそうだな、指が。
たぶんあちこち間違えるけど、気にせず歌ってくれよ?」
「うん。私も自信がないな。けれど、アルフレッドの伴奏で、
歌えるなんて滅多にない機会だし。心を込めて歌うよ、東洋の黒い真珠」
「あ、うん。ちゃんと聞いてる、ね」
「テオ、テオ。せっかくなんだからさ、ステージで歌ってくれよ」
シルヴァンとハルヤはパイプ椅子を並べて、台の前に座る。
ステージには椅子に座るアルフレッドと中央に立つテオ。
ギターの掛け声にあわせ、テオは息を吸う。小さなライブが幕を開けた。
普段はパワフルな歌声が響くスタジオが、まるで異空間になる。
アルフレッドやシルヴァンは情熱的な歌を得意とするのだが、
テオが歌ったのはバラード。
歌詞には、今は会えない貴方へ向けた手紙が綴られていた。
――私の骨が海に沈んでも、この先何度生まれ変わっても
貴方と共に過ごした時間を想い、涙するでしょう――
決して感情的な声ではない。それが却って胸を打った。
起伏なく歌う方が切なく聞こえる歌だった。
程好く力の抜けた、伸びやかな歌声。
テオの声質と曲がよく合っていて、原曲をも超えていたかもしれない。
本当に誰かへ語り掛けているように、最後までしっとりと歌い上げた。
ギターの音が止まると、スタジオは、しん、となった。
それまでずっと魅せられていたのだとハルヤは気付く。
口から言葉が出てこない。
歌い手は一礼して微笑んだ。
「聞いてくれてありがとう。おや、東洋の黒い真珠?」
ステージを降りてハルヤの前に進む。
レンズ越しの黒い瞳は潤んでいた。
「やはり感受性が高いのだね、君は」
「え、あ、あの」
「ああ、深海で出会った黒真珠より美しい」
テオの手がハルヤの顎を持ち上げる。
やっとアルフレッドとシルヴァンが動き出した。
fin
あっ、声が響いたよ! あー、あー!」
そう広くないスタジオなので声が反響する。
初めての場所にテオは興奮しているようだった。
今日はデッドプリンスのバンド練習に、テオが特別招待された。
つい一時間前、テオはウーティス寮に遊びに来た。
サロンで皆とお茶を飲みながら楽しく話していた。
そのうちにアルフレッド、シルヴァン、ハルヤが、
「練習スタジオに行く時間だから」と腰を上げた。
テオが何気なく「練習風景も見てみたいものだねえ」と言ったので、
「じゃあ、来てみるか?」とアルフレッドが気軽に招待した。
「お客さんに、練習してるとこ見られるの、ちょっと恥ずかしいな」という
ハルヤの意見はテオの「見てみたい」気持ちを増幅する効果しかなく、
四人はタクシーに乗り込み、学院を出発した。
テオはデッドプリンス結成の場に立ち会っている。
記念すべき瞬間は、ハルヤの入学初日、学院案内の最中だったからだ。
生徒代表のテオに連れられて、ウーティスに来た際に結成されたのだった。
それ以降、テオは用事がない限りライブには足を運び、
来る度に賛辞やら差し入れやら花束やらをくれる。
ライブの翌日は必ずウーティス寮サロンまで来て、
「昨日のライブ、素晴らしかったよ」と褒めちぎる。
それは少なからず三人にとって次への原動力となっていた。
アルフレッドは子役時代からファンを大切にしていたので、
今日は丁度良い機会だと思い、大切なファンを招いての公開練習となった。
このライブハウスは、デッドプリンスに限らず、様々なバンドが利用する。
4階は録音スタジオ、3階は練習スタジオ、2階は楽器店。
1階にはガラス張りのラジオスタジオがあり、
此処から島限定の音楽番組などを放送している。
夜になると地下のBARから歌声が響く。
そう広くはない店内だが、音響も照明も設備は整っている。
バンドはそのステージに立ち、3階で練習した成果を披露する。
客はドリンクと音楽に酔いしれながら、今日の疲れを癒す。
BARでの演奏曲はラジオでも放送される。
島の音楽好きが集まって運営維持している場所だった。
練習スタジオに着くと、軽い音慣らしの後、
デッドプリンスは早速テオに一曲披露することにした。
アルフレッドは壁に立て掛けてあった四角い台を床に置く。
これに乗った方が気分が出ると、彼が愛用している『ステージ』だ。
せいぜい高さ20センチ程の台なのだが、
アルフレッドがトンと靴を鳴らして飛び乗ると其処は特設ステージになる。
曲は彼が最近作ったばかりというロック。
デッドプリンスは最近この曲を練習中らしく、
上手くできるようになったら、ライブでのお披露目予定だそうだ。
アルフレッドは、ドラムとベースを従えて軽快に歌い切った。
ライブでは未発表の曲だったので、テオはいたく感激した。
賞賛を浴びたレッドは機嫌良く言った。
「あ、そういや、テオが歌ってるとこって、まだ見たことねえな?」
「そうですね。僕、聞いてみたいです!」
シルヴァンが手を合わせると、テオは、おやおや、と笑う。
「今日、私は見学に来たのだよ? ファンがプロの前で歌うなんて」
「俺達はプロじゃねえよ、好きでやってるだけだって」
役者としてはプロのアルフレッド・ヴィスコンティが言ってのける。
まだCDこそ出してはいないが、彼の人気と歌唱力では、
世界中でたちまちヒットするだろうと、テオは確信していた。
シルヴァンは有力な同意を得ようと隣に尋ねる。
「ハルヤも聞きたいですよね? テオの歌」
「え? う、うん」
同意というよりはただの相槌に近い頷きだったのだが、
テオの心はグラリと揺さぶられたようで。
「東洋の黒い真珠に頼まれては、嫌とは言えないな、私は」
「よっし。じゃあ、俺がギターで伴奏してやるよ。
テオ、何歌いたい? なんか有名なやつで、好きな歌あるか?」
「ん。そうだねえ、では」
テオが挙げた曲名は、何年か前に流行った映画の主題歌だった。
世界中が涙した名作であり、映画の最後にこの曲が流れると、
観客席からは必ずすすり泣きが聞こえるとまで言われた。
一大スペクタルではない。今や当たり前に使用される高技術のCGもない。
爆破シーンもなしに世界で売れた映画は珍しいという批評もあった。
平凡な日常の中から生まれる小さな小さなドラマ。
派手な作品がこれでもかと溢れていた当時、
ささやかなこの作品は多くの人の心を掴んだ。
もちろん、アルフレッドも知っている作品だ。兄貴とブライアンと観た。
良い曲だったので当時のバンドで演奏したこともある。
「へえ。意外と大人しい曲が好きなんだな。
オーケー。それなら弾けそうだ。あ、その曲なら、
エレキよりアコギの方が良いな。ちょっと下行って借りて来るわ」
身軽に階下へと向かう。2階の楽器店から借りてくるようだ。
そこには売り物用とは別に店主の私物も揃っている。
彼ともすっかり顔なじみのアルフレッドには快く貸してくれるだろう。
レッドを待つ間、ハルヤも不思議そうな顔をして、感想を述べた。
「俺もテオはもっと派手なの選ぶのかと思ってたなあ」
「でも、テオの声なら合うかもしれませんね。音域が広いので難しい曲ですが」
「うん。私の姉上が好きだった曲なのだよ」
「テオって、お姉さん居たんだ?」
「おや。まだ言ってなかったかな」
ハルヤがテオと話している時は、一方的に賛辞の言葉などを受けることが多い。
そう言えば、自分はテオのことをあんまり知らないなとハルヤは思う。
宝石、花、お菓子などに比喩を用いた過剰な褒め言葉に対応するのが精一杯で、今まで気付かなかったけど。
テオが他の生徒について褒める姿はよく見るけど、自分のことはそれほど話さない。
此処に居る生徒の特徴。テオも例外ではなかった。
シルヴァンはテオの姉について、ある程度知っていた。
「僕はテレビでなら、お姉さんのお顔を拝見したことがありますよ」
「ああ、姉上が結婚した時に少し出ていたものね」
シルヴァンは数年前にテレビで目にした映像を思い出した。
当時、メディアに踊った題字は『大富豪結婚!石油王の子息と海運王の令嬢』だっただろうか。
両家が手を結べば躍進は約束される、明らかな政略結婚だった。
大勢の関係者を招いた結婚式は、その法外な額も話題になっていた。
シルヴァンは、それについてはハルヤに説明しなかった。
「とっても綺麗な方なんですよ。今思うと、テオ、似てますよね、お姉さんに」
「そうかい? ありがとう。姉上の美貌には敵わないけれどね」
階段を上がってくる音と共に、アルフレッドが戻って来た。
手にはアコースティックギターを持っている。
早速パイプ椅子に座り、足を組む。
膝にギターを乗せ、曲が弾けるか軽く弾き始めた。
エレキに慣れた耳には、電気を介さない音は儚く聞こえる。
「まあ、なんとか覚えてそうだな、指が。
たぶんあちこち間違えるけど、気にせず歌ってくれよ?」
「うん。私も自信がないな。けれど、アルフレッドの伴奏で、
歌えるなんて滅多にない機会だし。心を込めて歌うよ、東洋の黒い真珠」
「あ、うん。ちゃんと聞いてる、ね」
「テオ、テオ。せっかくなんだからさ、ステージで歌ってくれよ」
シルヴァンとハルヤはパイプ椅子を並べて、台の前に座る。
ステージには椅子に座るアルフレッドと中央に立つテオ。
ギターの掛け声にあわせ、テオは息を吸う。小さなライブが幕を開けた。
普段はパワフルな歌声が響くスタジオが、まるで異空間になる。
アルフレッドやシルヴァンは情熱的な歌を得意とするのだが、
テオが歌ったのはバラード。
歌詞には、今は会えない貴方へ向けた手紙が綴られていた。
――私の骨が海に沈んでも、この先何度生まれ変わっても
貴方と共に過ごした時間を想い、涙するでしょう――
決して感情的な声ではない。それが却って胸を打った。
起伏なく歌う方が切なく聞こえる歌だった。
程好く力の抜けた、伸びやかな歌声。
テオの声質と曲がよく合っていて、原曲をも超えていたかもしれない。
本当に誰かへ語り掛けているように、最後までしっとりと歌い上げた。
ギターの音が止まると、スタジオは、しん、となった。
それまでずっと魅せられていたのだとハルヤは気付く。
口から言葉が出てこない。
歌い手は一礼して微笑んだ。
「聞いてくれてありがとう。おや、東洋の黒い真珠?」
ステージを降りてハルヤの前に進む。
レンズ越しの黒い瞳は潤んでいた。
「やはり感受性が高いのだね、君は」
「え、あ、あの」
「ああ、深海で出会った黒真珠より美しい」
テオの手がハルヤの顎を持ち上げる。
やっとアルフレッドとシルヴァンが動き出した。
fin
■26日前 続編
■ユウタの愉快な仲間達
■ユウタの愉快な仲間達
「へえ。ユウタが誕生日ねえ」
アイヴィーは食後の一服中。
「ん。そうなんだ。12月15日」
ハルヤの前にはグリーンティ。
アイヴィーの家にハルヤとシルヴァンが遊びに来ていた。
この時間、二人は講義がないようで、よく一緒に休憩しに来る。
年取っても俺の半分くらいか、とアイヴィーは思う。
が、この島に6年も居ると「お前達は若くて良いな」という言葉は出てこなかった。
年齢など関係なく、辺境の王子達は重責を負わされている。
それに、自分が子供の時、大人に子供扱いされて腹立だしかった記憶もある。
王子達より幾らか年上のお兄さんにできることは、
彼等と出来得る限り『普通に』接することだ。
「んで、その第一回目の会議で決まったのか?」
「ううん。決まんなかった。まだ、どうしようかなあ、って思ってるとこ。
今日もね、この後、みんなで会議するんだ。ね?」
「ええ。僕はコスプレパーティーが良いって言ったんですけど。
コスプレはハロウィンでやったばかりだと却下されてしまいました」
「そいつは残念だったな、シルヴァン」
アイヴィーは苦笑する。素っ頓狂な意見ばかり出て、
前に進まなかった会議の様子がなんとなく想像できた。
「あ。アイヴィーんちでパーティするのも良いかも」
「さすがはハルヤ! 良いアイディアですね!」
「そん時はアイヴィーに料理作って貰いたいな」
「お前さんが食べたいだけじゃないのか? ハルヤ」
「あはは。そうかも。俺、毎日アイヴィーの料理で良いし」
「口説くなって」
「でも、ほんとだよ? 全然、お世辞とかじゃなくって」
「俺も毎日お前さんの和食で良いぜ?」
「え…でも俺、アイヴィーみたいに上手くないよ?」
「上手いだろう。サシミとかできんじゃん」
「あ、まあ、それは」
「それじゃー、もう二人で暮らすかっ」
「ま、待って下さい! どうしてそうなっちゃうんですかっ!?」
シルヴァンはハルヤの腕を取る。
「もう、そろそろ寮に戻りましょう。会議が始まってしまいます」
「え、でもまだちょっと早っ…」
「アイヴィー、車出して下さい、車!」
同じ頃、神秘学の教室では講義が終わったところだった。
他の生徒が皆、居なくなると、アンリは席に座ったまま、教壇を見上げる。
「ねえ? 今日の講義、いつもより準備不足だと思ったのは僕だけかな?」
「手厳しいね、アンリ」
教授は生徒にダメ出しをされていた。
少しでも手を抜くとすぐに見抜かれてしまう。
「いや、確かにアンリの言う通りなんだ。
色々と間に合わなくてね。来週、補強するよ」
「お詫びに紅茶を淹れて欲しいところだけれどね。この後、会議なんだ」
「会議? 島の外へ行くのかね?」
「いいや。ウーティスの会議。全然、決まらないんだよね」
「おや。何か揉めているのかい?」
「大揉めだよ」嫌そうに横髪を梳く。
「たった1人の寮生の為に、何度も会議するなんて。
僕はもう4年もウーティスに居るけれど、こんなことは初めてだ。
とんだトリックスターだね、彼は。これまでの秩序を乱してくれる」
そう悪態を吐く顔には微笑が浮かんでいる。
言うほど嫌ではないようだ。生徒は席を立つ。
「ではね、オーギュ。君の紅茶が飲めなくて残念だよ」
ドアの向こうに消える生徒の背中を見ながら、
言動の一致しない子だな、と教授は思った。
同じ頃、生徒代表室では、主が受話器を耳に当てていた。
講義がないこの時間は、ゆっくり話すことができた。
幸福な時間は無情にも早く過ぎ行く。
生徒代表は時計を見上げた。もう今日の講義が全て終わる。
皆が寮に戻ってくる時間だ。
「ごめん。もっと話していたいけど、もうすぐ会議だから」
聞こえてくる相手の声。心地好い。
「あっ、違うんだ。生徒代表としてではなく、ウーティスの一員として、ね」
生徒代表室から森を眺める。自分の部屋とは葉の青さが違って見えた。
「実は俺達、ユウタの誕生日のお祝いがしたくて、
どんなことをしたらユウタが喜んでくれるかなっていう会議を重ねてるんだ。
でも、意見が多過ぎて、なかなか決まらないんだけどね」
受話器の向こうから「うちの弟が皆さんに迷惑を掛けて」と恐縮した声がする。
露ほどもそう思っていない生徒代表は自分の想いを説明した。
「迷惑だなんて思っているわけないよ。俺達はお礼が言いたいくらいなんだ。
ユウタの為に皆で集まって、話している時間、とても楽しいんだ。
なんだか、わくわくしてしまって。きっと、皆もそう思ってるんじゃないかな」
今まで、自分の感情を人に伝える、ということは余りしてこなかった。
相手の顔が見えない、電話、という手段を用いているからだろうか。
ユウタに会ってから、色々なことが変わっていく。自分も、寮の皆も。
「最近改めて感じるんだ。ユウタがウーティス寮に入ってくれて良かったって」
「お前ってさあ、姉ちゃんに似てるよなー」
同じ頃、ウーティス寮サロン。
アルフレッドはユウタの両頬を手で押し潰す。
力の加減はしてくれているのか、痛くはないが。
頬に押されて、唇がクチバシのように突き出される。
とても喋り難い状況なので、短い言葉しか選べない。
「そお?」
「だって顔も似てるし、性格おんなじじゃん?」
弟としては姉と同じというのは心外だ。
自分はあんなにおっちょこちょいじゃないし、お節介でもない。
そんな意見が顔に書かれたのを見て、アルフレッドは笑った。
「おんなじだって」
人差し指でつんと突かれる。続いて片頬を伸ばされる。
アルフレッドはユウタのほっぺはよく伸びるのが面白いようで、
時々こうして、びよーんと伸ばされたり、潰されたりする。
「姉ちゃんのほっぺもお前みたいに伸びんのかなー」
「し、知らないよっ!」
「じゃあ今度会った時、やってみるかな」
「だっ、ダメだよっ!」
「何慌ててんだよ。ほっぺ伸ばすくらいイイだろ、別に」
「あ、俺、そろそろ行かないと」
「行くって何処に?」
「ミハイルんとこ」
「またか。仲良いんだな、お前達」
「うん。ミハイルがね、一緒にドラマ見ようって。レッドのだよ?」
「へえ。ミハイルはすっかり俺のファンだなあ」
ミハイルにユウタを誘うよう頼んだのはアルフレッドだった。
ハリウッドスターは自然な演技を続ける。
「ファンは大切にしないとな。ユウタ、俺のファンには優しくしてくれよ?」
途端にユウタは頬を膨らませた。
「ミハイルは、俺の友達だよ。それに」
「なんだよ?」
「何でもない。じゃあ、俺、シュヌーシア寮に行くから」
寮へ出たユウタは、ミハイルが待つシュヌーシア寮へ向かう。
保健室に程近いシュヌーシアまでは少し遠い。
頭の中ではアルフレッドに言われた言葉が勝手に甦ってくる。
ポケットに手を入れて、ぽつんと呟いた。
「レッドのばか」
口に出したことで、余計に憤りが増幅される。
最近のアルフレッドは、ミハイル、ミハイル、って言うことが多い。
「俺だって、レッドのファンなのに。ミハイルよりずっとずっと前から、
アルフレッド・ヴィスコンティが出てる作品、好きだったのに」
ポケットの中で手が固く結ばれる。
上空を白い鳥が通った。ユウタの嫌いなオウムだった。
何か叫びながら飛んでいる。
「ユウタにはナイショ! ユウタにはナイショ!」
オウムは行ってしまった。ユウタは暫く空を呆然と見つめていた。
今、自分の名前だったように聞こえたが。
「き、聞き間違い、かな?」
ナイショという部分も気にかかる。何がナイショなんだろうと思い、
ふと、最近のウーティス寮での出来事が思い当たる。
なんとなく、皆の様子が可笑しいのだ。
ユウタがサロンに顔を出すと、皆が途端に静かになったりする。
この前、ハルヤの部屋に行った時、レッドとシルヴァンが居て。
楽しそうにしてたから、「何の話をしてたの?」って聞いたら、
「ライブの打ち合わせですよ」って言われたんだけど。
楽器も楽譜もなかったし、なんか三人とも変なかんじだったし。
ジョシュアの部屋に本を返しに行った時は、
部屋の中から「勝手だね」って声が聞こえて。
ノックしたら、ジョシュアが開けてくれたんだけど、中にはアンリが居た。
ユウタの顔を見ると、アンリはすぐに出て行ってしまったし。
ジョシュアに「何かあったの?」って聞いても、
「何でもないんだよ」ってごまかされてしまった。
今思い返してみると、皆どこか不自然だった気がする。
なんか変だ。本当にナイショにされているのかもしれない。
ユウタの足が止まる。
「俺、もしかして、仲間外れにされてんのかな…」
fin
アイヴィーは食後の一服中。
「ん。そうなんだ。12月15日」
ハルヤの前にはグリーンティ。
アイヴィーの家にハルヤとシルヴァンが遊びに来ていた。
この時間、二人は講義がないようで、よく一緒に休憩しに来る。
年取っても俺の半分くらいか、とアイヴィーは思う。
が、この島に6年も居ると「お前達は若くて良いな」という言葉は出てこなかった。
年齢など関係なく、辺境の王子達は重責を負わされている。
それに、自分が子供の時、大人に子供扱いされて腹立だしかった記憶もある。
王子達より幾らか年上のお兄さんにできることは、
彼等と出来得る限り『普通に』接することだ。
「んで、その第一回目の会議で決まったのか?」
「ううん。決まんなかった。まだ、どうしようかなあ、って思ってるとこ。
今日もね、この後、みんなで会議するんだ。ね?」
「ええ。僕はコスプレパーティーが良いって言ったんですけど。
コスプレはハロウィンでやったばかりだと却下されてしまいました」
「そいつは残念だったな、シルヴァン」
アイヴィーは苦笑する。素っ頓狂な意見ばかり出て、
前に進まなかった会議の様子がなんとなく想像できた。
「あ。アイヴィーんちでパーティするのも良いかも」
「さすがはハルヤ! 良いアイディアですね!」
「そん時はアイヴィーに料理作って貰いたいな」
「お前さんが食べたいだけじゃないのか? ハルヤ」
「あはは。そうかも。俺、毎日アイヴィーの料理で良いし」
「口説くなって」
「でも、ほんとだよ? 全然、お世辞とかじゃなくって」
「俺も毎日お前さんの和食で良いぜ?」
「え…でも俺、アイヴィーみたいに上手くないよ?」
「上手いだろう。サシミとかできんじゃん」
「あ、まあ、それは」
「それじゃー、もう二人で暮らすかっ」
「ま、待って下さい! どうしてそうなっちゃうんですかっ!?」
シルヴァンはハルヤの腕を取る。
「もう、そろそろ寮に戻りましょう。会議が始まってしまいます」
「え、でもまだちょっと早っ…」
「アイヴィー、車出して下さい、車!」
同じ頃、神秘学の教室では講義が終わったところだった。
他の生徒が皆、居なくなると、アンリは席に座ったまま、教壇を見上げる。
「ねえ? 今日の講義、いつもより準備不足だと思ったのは僕だけかな?」
「手厳しいね、アンリ」
教授は生徒にダメ出しをされていた。
少しでも手を抜くとすぐに見抜かれてしまう。
「いや、確かにアンリの言う通りなんだ。
色々と間に合わなくてね。来週、補強するよ」
「お詫びに紅茶を淹れて欲しいところだけれどね。この後、会議なんだ」
「会議? 島の外へ行くのかね?」
「いいや。ウーティスの会議。全然、決まらないんだよね」
「おや。何か揉めているのかい?」
「大揉めだよ」嫌そうに横髪を梳く。
「たった1人の寮生の為に、何度も会議するなんて。
僕はもう4年もウーティスに居るけれど、こんなことは初めてだ。
とんだトリックスターだね、彼は。これまでの秩序を乱してくれる」
そう悪態を吐く顔には微笑が浮かんでいる。
言うほど嫌ではないようだ。生徒は席を立つ。
「ではね、オーギュ。君の紅茶が飲めなくて残念だよ」
ドアの向こうに消える生徒の背中を見ながら、
言動の一致しない子だな、と教授は思った。
同じ頃、生徒代表室では、主が受話器を耳に当てていた。
講義がないこの時間は、ゆっくり話すことができた。
幸福な時間は無情にも早く過ぎ行く。
生徒代表は時計を見上げた。もう今日の講義が全て終わる。
皆が寮に戻ってくる時間だ。
「ごめん。もっと話していたいけど、もうすぐ会議だから」
聞こえてくる相手の声。心地好い。
「あっ、違うんだ。生徒代表としてではなく、ウーティスの一員として、ね」
生徒代表室から森を眺める。自分の部屋とは葉の青さが違って見えた。
「実は俺達、ユウタの誕生日のお祝いがしたくて、
どんなことをしたらユウタが喜んでくれるかなっていう会議を重ねてるんだ。
でも、意見が多過ぎて、なかなか決まらないんだけどね」
受話器の向こうから「うちの弟が皆さんに迷惑を掛けて」と恐縮した声がする。
露ほどもそう思っていない生徒代表は自分の想いを説明した。
「迷惑だなんて思っているわけないよ。俺達はお礼が言いたいくらいなんだ。
ユウタの為に皆で集まって、話している時間、とても楽しいんだ。
なんだか、わくわくしてしまって。きっと、皆もそう思ってるんじゃないかな」
今まで、自分の感情を人に伝える、ということは余りしてこなかった。
相手の顔が見えない、電話、という手段を用いているからだろうか。
ユウタに会ってから、色々なことが変わっていく。自分も、寮の皆も。
「最近改めて感じるんだ。ユウタがウーティス寮に入ってくれて良かったって」
「お前ってさあ、姉ちゃんに似てるよなー」
同じ頃、ウーティス寮サロン。
アルフレッドはユウタの両頬を手で押し潰す。
力の加減はしてくれているのか、痛くはないが。
頬に押されて、唇がクチバシのように突き出される。
とても喋り難い状況なので、短い言葉しか選べない。
「そお?」
「だって顔も似てるし、性格おんなじじゃん?」
弟としては姉と同じというのは心外だ。
自分はあんなにおっちょこちょいじゃないし、お節介でもない。
そんな意見が顔に書かれたのを見て、アルフレッドは笑った。
「おんなじだって」
人差し指でつんと突かれる。続いて片頬を伸ばされる。
アルフレッドはユウタのほっぺはよく伸びるのが面白いようで、
時々こうして、びよーんと伸ばされたり、潰されたりする。
「姉ちゃんのほっぺもお前みたいに伸びんのかなー」
「し、知らないよっ!」
「じゃあ今度会った時、やってみるかな」
「だっ、ダメだよっ!」
「何慌ててんだよ。ほっぺ伸ばすくらいイイだろ、別に」
「あ、俺、そろそろ行かないと」
「行くって何処に?」
「ミハイルんとこ」
「またか。仲良いんだな、お前達」
「うん。ミハイルがね、一緒にドラマ見ようって。レッドのだよ?」
「へえ。ミハイルはすっかり俺のファンだなあ」
ミハイルにユウタを誘うよう頼んだのはアルフレッドだった。
ハリウッドスターは自然な演技を続ける。
「ファンは大切にしないとな。ユウタ、俺のファンには優しくしてくれよ?」
途端にユウタは頬を膨らませた。
「ミハイルは、俺の友達だよ。それに」
「なんだよ?」
「何でもない。じゃあ、俺、シュヌーシア寮に行くから」
寮へ出たユウタは、ミハイルが待つシュヌーシア寮へ向かう。
保健室に程近いシュヌーシアまでは少し遠い。
頭の中ではアルフレッドに言われた言葉が勝手に甦ってくる。
ポケットに手を入れて、ぽつんと呟いた。
「レッドのばか」
口に出したことで、余計に憤りが増幅される。
最近のアルフレッドは、ミハイル、ミハイル、って言うことが多い。
「俺だって、レッドのファンなのに。ミハイルよりずっとずっと前から、
アルフレッド・ヴィスコンティが出てる作品、好きだったのに」
ポケットの中で手が固く結ばれる。
上空を白い鳥が通った。ユウタの嫌いなオウムだった。
何か叫びながら飛んでいる。
「ユウタにはナイショ! ユウタにはナイショ!」
オウムは行ってしまった。ユウタは暫く空を呆然と見つめていた。
今、自分の名前だったように聞こえたが。
「き、聞き間違い、かな?」
ナイショという部分も気にかかる。何がナイショなんだろうと思い、
ふと、最近のウーティス寮での出来事が思い当たる。
なんとなく、皆の様子が可笑しいのだ。
ユウタがサロンに顔を出すと、皆が途端に静かになったりする。
この前、ハルヤの部屋に行った時、レッドとシルヴァンが居て。
楽しそうにしてたから、「何の話をしてたの?」って聞いたら、
「ライブの打ち合わせですよ」って言われたんだけど。
楽器も楽譜もなかったし、なんか三人とも変なかんじだったし。
ジョシュアの部屋に本を返しに行った時は、
部屋の中から「勝手だね」って声が聞こえて。
ノックしたら、ジョシュアが開けてくれたんだけど、中にはアンリが居た。
ユウタの顔を見ると、アンリはすぐに出て行ってしまったし。
ジョシュアに「何かあったの?」って聞いても、
「何でもないんだよ」ってごまかされてしまった。
今思い返してみると、皆どこか不自然だった気がする。
なんか変だ。本当にナイショにされているのかもしれない。
ユウタの足が止まる。
「俺、もしかして、仲間外れにされてんのかな…」
fin
■アラン・ウー
アルファルド寮キッチンは静かだ。
先ず、此処に生徒は来ない。
空腹だからといってシェフに直接交渉する生徒は居ない。
食事の時間まで待てば良いだけの話だ。
シェフは淡々と料理を作り、生徒は淡々と口にする。
ただ、その繰り返し。
両者の間では賛辞も不満も交わされない。
食事が終わった後、キッチンに返って来る空の皿。
彼等の間では、それが唯一のコミュニケーションなのかもしれない。
アルファルド寮シェフ、アラン・ウーは、
執事が下げてきた昼食の皿を受け取ったところだった。
他の寮では、ランチはカフェなどに行く生徒も多いのだが、
アルファルドの生徒達は、寮で食べる率が高かった。
執事に渡した皿は料理が乗っていたが、今はどれも綺麗に無くなっていた。
シェフの表情には何も映し出されていない。
独り言も呟かず、黒無地のエプロンを身に付け、片付けを始めた。
エプロンの下の服装はTシャツにジーンズとラフなものだった。
晒された浅黒い腕はジムに通っていることを物語っていた。
広いキッチンには皿を洗う音だけが続く。
シェフは手許しか見ていないが、窓からは青空が見えた。
今日も天気は良く、白い雲は悠々と青い海を泳いでいる。
外からは生徒達の声が微かに聞こえ始めた。
アランの耳には聞こえていないのか、見向きもしなかった。
シェフが皿を洗う頃、生徒達は昼休みの時間。
午後の講義が始まるまで、友人達と遊んでいるのだろう。
彼等はアルファルドではなく、他の寮に違いなかった。
『孤独な者』は、静かで穏やかな昼下がりを過ごす。
何者にも邪魔されない時間。それは彼等にとっては祖国では味わえないものだ。
やがてキッチンでは、蛇口がキュッと締められ、水音が止まった。
食器の片付けも終わると、シェフは背に腕を回し、エプロンを解く。
外したエプロンを椅子に掛けると、キッチンを出て行った。
椅子に凭れた黒無地のエプロン。その裏側に白い何かが見えた。
隅には小さな手製のワッペンが付いている。
これはシュヌーシア寮シェフから、何かの記念にプレゼントされたものだった。
製作者は「これなら、アランさんのだって解るでしょう?」と笑っていた。
かなりディフォルメされているが、なんとなく何を意図したのかは解る。
白い顔に黄色のほっぺにクチバシ。右の翼を挙げた鳥のワッペンだった。
アランが向かった先は、学院の敷地内にある動物園だった。
学院が生徒達に提供した憩いの場ではない。
アルファルド寮の生徒の一人が所有する動物達の家だ。
入学の際に国から持ってきた。種類は様々で大型動物までいる。
彼等の食事もアランが用意していたので、生徒と動物の食事は、
形状さえ異なるものの食材は同じ、という場合もあった。
アランが動物園に顔を見せると、放し飼いの動物達が寄って来る。
彼が移動すると、その後ろはちょっとした動物パレードになった。
此処へ来る前にかなり上手く躾けられていたのか、
ジャワハルワールの動物達は皆、大人しい。
アランは此処でも言葉を口にしなかった。
最低限しか喋らずとも仕事になる。誰に咎められることもない。
彼は、聖アルフォンソ島に来るまではそうではなかった。
ゾウにリンゴを差し出す。
長い鼻が近付いて、手から直接受け取った。
何か聞こえたのか、アランは空を見やる。
青空に浮かぶ白。雲ではない、鳥だ。
甲高く叫びながら一直線に向かってくる。
「アラン! アラーン!」
適確に人間の名前を呼んだのは白いオウムだった。
ふわりと舞い降りて、ゾウの前にある柵に止まった。
「オナカ スイタ! オヤツ! オヤツ!」
しかし、オウムは既に昼食を食べている筈だった。
ジャワハルワールの皿の隣には鳥用の食事も置かれる。
彼はそれを持って、部屋に戻り、オウムに与えている。
だが、動物園に居る仲間達に食事が与えられている様子を見ると、
オウムは自分にもくれ、とせがむのだった。
アランは鳥に背を向けた。
気を引く為に、知っている言葉をランダムで並べ立てる。
それはどれも『アラン』という単語が入っているので、
オウム的にはアランに纏わるものを選んでいるらしかった。
「アランは アアイウ ヤツ ダカラナ!」
「アランサンって キミノコト スキデスヨネ!」
オウムは言葉を覚えることはできるが、文章を作り出すことはできない。
よって、オウム返しにしているだけだ。何処かで覚えてきた言葉が更に続く。
「エスニックと イタリアンでは、アランにはカナワナイ!」
「ソノ オレンジ、アランサンに モラッタンデスカ!」
「アランには イエナイ ガナ!」
鳥は持てる言語力を精一杯披露したのだが、人間は振り向かない。
オウムは飛び立ち、再びアランの目の前に降りる。
アランから覚えた言葉で、黒い小さな瞳は一心に頼んだ。
「オマエ、クイスギダゾ?」
やっとアランがこちらを向く。
無表情だったシェフは柔らかい低音で言った。
「食い過ぎはお前だ」
オウムに差し出されたオレンジは、既にカットされていた。
fin
先ず、此処に生徒は来ない。
空腹だからといってシェフに直接交渉する生徒は居ない。
食事の時間まで待てば良いだけの話だ。
シェフは淡々と料理を作り、生徒は淡々と口にする。
ただ、その繰り返し。
両者の間では賛辞も不満も交わされない。
食事が終わった後、キッチンに返って来る空の皿。
彼等の間では、それが唯一のコミュニケーションなのかもしれない。
アルファルド寮シェフ、アラン・ウーは、
執事が下げてきた昼食の皿を受け取ったところだった。
他の寮では、ランチはカフェなどに行く生徒も多いのだが、
アルファルドの生徒達は、寮で食べる率が高かった。
執事に渡した皿は料理が乗っていたが、今はどれも綺麗に無くなっていた。
シェフの表情には何も映し出されていない。
独り言も呟かず、黒無地のエプロンを身に付け、片付けを始めた。
エプロンの下の服装はTシャツにジーンズとラフなものだった。
晒された浅黒い腕はジムに通っていることを物語っていた。
広いキッチンには皿を洗う音だけが続く。
シェフは手許しか見ていないが、窓からは青空が見えた。
今日も天気は良く、白い雲は悠々と青い海を泳いでいる。
外からは生徒達の声が微かに聞こえ始めた。
アランの耳には聞こえていないのか、見向きもしなかった。
シェフが皿を洗う頃、生徒達は昼休みの時間。
午後の講義が始まるまで、友人達と遊んでいるのだろう。
彼等はアルファルドではなく、他の寮に違いなかった。
『孤独な者』は、静かで穏やかな昼下がりを過ごす。
何者にも邪魔されない時間。それは彼等にとっては祖国では味わえないものだ。
やがてキッチンでは、蛇口がキュッと締められ、水音が止まった。
食器の片付けも終わると、シェフは背に腕を回し、エプロンを解く。
外したエプロンを椅子に掛けると、キッチンを出て行った。
椅子に凭れた黒無地のエプロン。その裏側に白い何かが見えた。
隅には小さな手製のワッペンが付いている。
これはシュヌーシア寮シェフから、何かの記念にプレゼントされたものだった。
製作者は「これなら、アランさんのだって解るでしょう?」と笑っていた。
かなりディフォルメされているが、なんとなく何を意図したのかは解る。
白い顔に黄色のほっぺにクチバシ。右の翼を挙げた鳥のワッペンだった。
アランが向かった先は、学院の敷地内にある動物園だった。
学院が生徒達に提供した憩いの場ではない。
アルファルド寮の生徒の一人が所有する動物達の家だ。
入学の際に国から持ってきた。種類は様々で大型動物までいる。
彼等の食事もアランが用意していたので、生徒と動物の食事は、
形状さえ異なるものの食材は同じ、という場合もあった。
アランが動物園に顔を見せると、放し飼いの動物達が寄って来る。
彼が移動すると、その後ろはちょっとした動物パレードになった。
此処へ来る前にかなり上手く躾けられていたのか、
ジャワハルワールの動物達は皆、大人しい。
アランは此処でも言葉を口にしなかった。
最低限しか喋らずとも仕事になる。誰に咎められることもない。
彼は、聖アルフォンソ島に来るまではそうではなかった。
ゾウにリンゴを差し出す。
長い鼻が近付いて、手から直接受け取った。
何か聞こえたのか、アランは空を見やる。
青空に浮かぶ白。雲ではない、鳥だ。
甲高く叫びながら一直線に向かってくる。
「アラン! アラーン!」
適確に人間の名前を呼んだのは白いオウムだった。
ふわりと舞い降りて、ゾウの前にある柵に止まった。
「オナカ スイタ! オヤツ! オヤツ!」
しかし、オウムは既に昼食を食べている筈だった。
ジャワハルワールの皿の隣には鳥用の食事も置かれる。
彼はそれを持って、部屋に戻り、オウムに与えている。
だが、動物園に居る仲間達に食事が与えられている様子を見ると、
オウムは自分にもくれ、とせがむのだった。
アランは鳥に背を向けた。
気を引く為に、知っている言葉をランダムで並べ立てる。
それはどれも『アラン』という単語が入っているので、
オウム的にはアランに纏わるものを選んでいるらしかった。
「アランは アアイウ ヤツ ダカラナ!」
「アランサンって キミノコト スキデスヨネ!」
オウムは言葉を覚えることはできるが、文章を作り出すことはできない。
よって、オウム返しにしているだけだ。何処かで覚えてきた言葉が更に続く。
「エスニックと イタリアンでは、アランにはカナワナイ!」
「ソノ オレンジ、アランサンに モラッタンデスカ!」
「アランには イエナイ ガナ!」
鳥は持てる言語力を精一杯披露したのだが、人間は振り向かない。
オウムは飛び立ち、再びアランの目の前に降りる。
アランから覚えた言葉で、黒い小さな瞳は一心に頼んだ。
「オマエ、クイスギダゾ?」
やっとアランがこちらを向く。
無表情だったシェフは柔らかい低音で言った。
「食い過ぎはお前だ」
オウムに差し出されたオレンジは、既にカットされていた。
fin
■ドニ・ドーム
「ドニー。おなかすいたー」
「今日のおやつまだー?」
ばたばたとキッチンにやってきたのは中等部一年生の二人。
新入生でもシュヌーシア寮のキッチンには気軽に生徒達が訪れる。
というのも、新入生を連れて寮を探検した上級生が、
キッチンのシェフと仲が良く、此処を自慢げに紹介したからだ。
シェフがまた子供好きで、ウェルカムスイーツなどを用意しているものだから、
あっと言う間に新入生とシェフは互いの顔と名前を覚えていた。
シェフの名は、ドニ・ドーム。小柄だが、さすがに中等部の方が小さい。
おなかを空かせた子供達を前に、シェフは顔を綻ばせる。
「お菓子を迎えに来てくれてありがとうございます。レオン様、ラビット様」
「ドニ、ドニ、今日はなあに?」
「木の実のタルトです」
腰を屈めて、タルトを乗せた皿を生徒に見せる。
うわあ、という子供達の歓声にシェフはますます嬉しくなった。
使用した木の実は9種類。アーモンド、カシューナッツ、ピスタチオ、クルミ、
マカデミアナッツ、ヘーゼルナッツ、松の実、クコの実、かぼちゃの種。
それをキャラメルでコーティングした。一緒にラム酒を混ぜても美味しいのだが、
シュヌーシア寮では大人の味はあまり好まれないので、甘めに仕上がっている。
タルト生地は切り口が樹木の年輪に見えるように、
チョコレートをマーブル状に混ぜてある。
以前、植物園にあった図鑑を何気なくパラパラを捲っていて、作ろうと思ったものだ。
落ち葉に埋もれたどんぐりの写真をを見て、この雰囲気をタルトにしてみようかなと。
料理の写真でなくても、これは料理に使えそうだなと思ってしまうことがあった。
だんだんカミーユさんに似てきたのかも、と感じた。
それは超一流シェフ『カミーユ・ルブラン』に
憧れを抱いているドニにとって、嬉しいことだった。
一年生のラビットは大きな瞳をシェフに向けた。
「ドニドニ、このケーキの名前は?」
「あ、まだ考えてませんでした」
この島の食べ物は風変わりな名前が多い。
シュヌーシアの生徒達にはそれが面白いらしく、
新しいメニューを見ると名前を知りたがる。
また、ドニが作ったものには、
シュヌーシア限定のメニュー名が付いたりする。
それは大抵メルヘンな名前になりやすかった。
とっさに名前を思い付かなかったシェフは笑顔を見せる。
「宜しければ、お二人が考えて頂けますか?」
「えっ、僕達が決めていいの?」
「もちろんです。お二人に名付け親になって頂けたら、この子も嬉しいと思います」
「俺、料理の名前決めるの初めてだ」
「僕も」
「イイの考えるぞ、ラビ。あっ、味みてから決めるか」
「そうだね、食べてから決めた方が良いよね」
「なあ、ドニ、これサロンに持って行って良い?」
「あっ、ちょっと重いので…」
万が一にでもタルトを引っ繰り返してしまったら、
と言い淀んでいると、シュヌーシア寮の執事が現れた。
とても穏やかな紳士で、年はドニの倍に近い。
彼の怒った顔をドニは見たことがない。
生徒に優しいのはもちろん、ドニにも親切にしてくれる人だった。
食事の給仕は彼が手伝ってくれる。執事は胸に片手を置く。
「レオン様、私がお運びしますよ」
「サンキュ」
シェフはほっとして、お願いします、とタルトを渡す。
執事の後を二人の生徒が追い駆けて行く。
その背中を満足げに見つめ、シェフはキッチンの後片付けを始めた。
おやつの時間が終わると、一人の生徒がキッチンに現れた。
「今日のタルトもとても美味しかったよ」
「テオ様…ありがとうございます」
高等部二年のテオ・メネシス。彼がこの寮で最もシェフと仲の良い生徒だった。
ふらりと顔を出しては、シェフの作る料理を手放しで褒めていく。
他の寮のシェフにも聞いてみたが、こんなに料理を褒めてくれる生徒は居ないそうだ。
それを聞いて、ドニは、テオ様の居る寮で良かった、と思うと同時に、
テオ様がご卒業されたら淋しいな、と思っていた。
この日もテオは笑顔で一頻り絶賛してくれた。
「レオンもラビも美味しかったと言っていた。今はサロンで唸っているけれどね?」
「え? 食べ過ぎてしまいましたか?」
「いや、ドニに任されたと、タルトの名前を懸命に話し合っているのだよ。
私も混ぜて欲しかったのだけど、二人で決めたいのだって。
ああ、なんて、愛らしいのだろう。あの子達は」
「そうですね」
ドニも心から同意した。
シュヌーシアのキッチンには、あたたかい匂いに包まれていた。
今、鍋で作っているのは、今夜の食卓に並ぶ『愚者の石のスープ』だ。
テオはシェフの立ち姿を眺める。
今日のバンダナと首許のコックチーフは黄色だった。
「それにしても、ドニはそのバンダナとコックチーフが似合うねえ」
「そ、そうですか? どうも」
「うん。とても可愛らしくて、好きだよ。
ああ、すまない。ドニの方が年上なのに『可愛い』なんて失礼だったかな?」
「あ、いえ」
一回り年下の生徒の方が少し背が高い。
シェフはとうに成人しているのだが、この独特の風格のある生徒と並ぶと、
落ち着いた雰囲気を持っているのはテオの方だった。
ふっと笑みを零して、テオは胸に浮かんだ言葉を口にする。
「けれど、その童顔では、やはり可愛いとしか言いようがないな」
感情を言葉に乗せて相手に伝えること、その反応を見ることは、
テオにとって、とても楽しいことだった。
「そのカラフルな装いと小さく丸みを帯びた顔からして、
ドニは…そう、マカロンのようだね」
「フランスのお菓子の、ですか?」
「そうだよ。コロコロとして、柔らかく、甘い。
今日は黄色のバンダナをしているからレモンのマカロンだね?」
「マカロンなんて、ボク…似合いませんよ。あっ」
テオは自然に腕を上げ、ドニの頬に手を添えた。
「そうやって恥らう頬はピーチのマカロンのようだよ、ドニ」
「テオ、さま…」
あたたかい手と、近距離にある甘い笑顔。どき、としてしまった。
ドアの方から、普段以上に苦々しい声が飛んできた。
「お前は…誰彼構わず…」
腕を組んでいたのは、今年度の生徒代表クラウス・フォン・モール。
実は暫く其処に居て、二人の会話を聞いていた。
生徒代表はややキツイ眼差しで言った。
「シェフ、鍋が吹き零れそうだが?」
「えっ!? わわっ」
反射的にシェフは、テオから身を翻して、鍋の火を止めた。
シュウという音と共に、煮立ったスープが沈んでいく。
ドニは、ほっと胸を撫で下ろした。
テオが来た時に火を止めるべきだったと反省した。
タルトを褒められて、つい鍋のことを忘れてしまった。
厨房を守る者として明らかに自分の過失であり、
こんなことではシェフ失格だな、としゅんとする。
「すみません…」
テオは穏やかな口調でシェフを慰めた。
「そう落ち込むものではないよ、ドニ。私も同罪だ。気が付かなくてすまない。
ところで、クラウス。どうしたんだい? 貴方が此処に来るなんて珍しい」
「お前に珈琲を頼もうかと思ったのだが、用事を思い出したから失礼する」
キッチンを出て行く人を追い駆ける。
「あっ、クラウス、待っておくれ!」
一人になったシェフは鍋の前へ行く。『愚者の石のスープ』、愚か者は自分だ。
気をつけなきゃ、と思いながらも、やっぱり自分はダメだなあと溜め息が漏れた。
「ドーニー!」
大きな声が廊下を駆けて来る。
キッチンに飛び込んで来たのは中等部の二人組だ。
ひまわりのような笑顔でこちらを見ている。
「ドニ、決まったよ! タルトの名前!」
「これから発表しまーす!」
レオンの唇によるドラムロールが鳴り始める。
良い子達は顔を見合わせ、同時に息を吸った。
fin
「今日のおやつまだー?」
ばたばたとキッチンにやってきたのは中等部一年生の二人。
新入生でもシュヌーシア寮のキッチンには気軽に生徒達が訪れる。
というのも、新入生を連れて寮を探検した上級生が、
キッチンのシェフと仲が良く、此処を自慢げに紹介したからだ。
シェフがまた子供好きで、ウェルカムスイーツなどを用意しているものだから、
あっと言う間に新入生とシェフは互いの顔と名前を覚えていた。
シェフの名は、ドニ・ドーム。小柄だが、さすがに中等部の方が小さい。
おなかを空かせた子供達を前に、シェフは顔を綻ばせる。
「お菓子を迎えに来てくれてありがとうございます。レオン様、ラビット様」
「ドニ、ドニ、今日はなあに?」
「木の実のタルトです」
腰を屈めて、タルトを乗せた皿を生徒に見せる。
うわあ、という子供達の歓声にシェフはますます嬉しくなった。
使用した木の実は9種類。アーモンド、カシューナッツ、ピスタチオ、クルミ、
マカデミアナッツ、ヘーゼルナッツ、松の実、クコの実、かぼちゃの種。
それをキャラメルでコーティングした。一緒にラム酒を混ぜても美味しいのだが、
シュヌーシア寮では大人の味はあまり好まれないので、甘めに仕上がっている。
タルト生地は切り口が樹木の年輪に見えるように、
チョコレートをマーブル状に混ぜてある。
以前、植物園にあった図鑑を何気なくパラパラを捲っていて、作ろうと思ったものだ。
落ち葉に埋もれたどんぐりの写真をを見て、この雰囲気をタルトにしてみようかなと。
料理の写真でなくても、これは料理に使えそうだなと思ってしまうことがあった。
だんだんカミーユさんに似てきたのかも、と感じた。
それは超一流シェフ『カミーユ・ルブラン』に
憧れを抱いているドニにとって、嬉しいことだった。
一年生のラビットは大きな瞳をシェフに向けた。
「ドニドニ、このケーキの名前は?」
「あ、まだ考えてませんでした」
この島の食べ物は風変わりな名前が多い。
シュヌーシアの生徒達にはそれが面白いらしく、
新しいメニューを見ると名前を知りたがる。
また、ドニが作ったものには、
シュヌーシア限定のメニュー名が付いたりする。
それは大抵メルヘンな名前になりやすかった。
とっさに名前を思い付かなかったシェフは笑顔を見せる。
「宜しければ、お二人が考えて頂けますか?」
「えっ、僕達が決めていいの?」
「もちろんです。お二人に名付け親になって頂けたら、この子も嬉しいと思います」
「俺、料理の名前決めるの初めてだ」
「僕も」
「イイの考えるぞ、ラビ。あっ、味みてから決めるか」
「そうだね、食べてから決めた方が良いよね」
「なあ、ドニ、これサロンに持って行って良い?」
「あっ、ちょっと重いので…」
万が一にでもタルトを引っ繰り返してしまったら、
と言い淀んでいると、シュヌーシア寮の執事が現れた。
とても穏やかな紳士で、年はドニの倍に近い。
彼の怒った顔をドニは見たことがない。
生徒に優しいのはもちろん、ドニにも親切にしてくれる人だった。
食事の給仕は彼が手伝ってくれる。執事は胸に片手を置く。
「レオン様、私がお運びしますよ」
「サンキュ」
シェフはほっとして、お願いします、とタルトを渡す。
執事の後を二人の生徒が追い駆けて行く。
その背中を満足げに見つめ、シェフはキッチンの後片付けを始めた。
おやつの時間が終わると、一人の生徒がキッチンに現れた。
「今日のタルトもとても美味しかったよ」
「テオ様…ありがとうございます」
高等部二年のテオ・メネシス。彼がこの寮で最もシェフと仲の良い生徒だった。
ふらりと顔を出しては、シェフの作る料理を手放しで褒めていく。
他の寮のシェフにも聞いてみたが、こんなに料理を褒めてくれる生徒は居ないそうだ。
それを聞いて、ドニは、テオ様の居る寮で良かった、と思うと同時に、
テオ様がご卒業されたら淋しいな、と思っていた。
この日もテオは笑顔で一頻り絶賛してくれた。
「レオンもラビも美味しかったと言っていた。今はサロンで唸っているけれどね?」
「え? 食べ過ぎてしまいましたか?」
「いや、ドニに任されたと、タルトの名前を懸命に話し合っているのだよ。
私も混ぜて欲しかったのだけど、二人で決めたいのだって。
ああ、なんて、愛らしいのだろう。あの子達は」
「そうですね」
ドニも心から同意した。
シュヌーシアのキッチンには、あたたかい匂いに包まれていた。
今、鍋で作っているのは、今夜の食卓に並ぶ『愚者の石のスープ』だ。
テオはシェフの立ち姿を眺める。
今日のバンダナと首許のコックチーフは黄色だった。
「それにしても、ドニはそのバンダナとコックチーフが似合うねえ」
「そ、そうですか? どうも」
「うん。とても可愛らしくて、好きだよ。
ああ、すまない。ドニの方が年上なのに『可愛い』なんて失礼だったかな?」
「あ、いえ」
一回り年下の生徒の方が少し背が高い。
シェフはとうに成人しているのだが、この独特の風格のある生徒と並ぶと、
落ち着いた雰囲気を持っているのはテオの方だった。
ふっと笑みを零して、テオは胸に浮かんだ言葉を口にする。
「けれど、その童顔では、やはり可愛いとしか言いようがないな」
感情を言葉に乗せて相手に伝えること、その反応を見ることは、
テオにとって、とても楽しいことだった。
「そのカラフルな装いと小さく丸みを帯びた顔からして、
ドニは…そう、マカロンのようだね」
「フランスのお菓子の、ですか?」
「そうだよ。コロコロとして、柔らかく、甘い。
今日は黄色のバンダナをしているからレモンのマカロンだね?」
「マカロンなんて、ボク…似合いませんよ。あっ」
テオは自然に腕を上げ、ドニの頬に手を添えた。
「そうやって恥らう頬はピーチのマカロンのようだよ、ドニ」
「テオ、さま…」
あたたかい手と、近距離にある甘い笑顔。どき、としてしまった。
ドアの方から、普段以上に苦々しい声が飛んできた。
「お前は…誰彼構わず…」
腕を組んでいたのは、今年度の生徒代表クラウス・フォン・モール。
実は暫く其処に居て、二人の会話を聞いていた。
生徒代表はややキツイ眼差しで言った。
「シェフ、鍋が吹き零れそうだが?」
「えっ!? わわっ」
反射的にシェフは、テオから身を翻して、鍋の火を止めた。
シュウという音と共に、煮立ったスープが沈んでいく。
ドニは、ほっと胸を撫で下ろした。
テオが来た時に火を止めるべきだったと反省した。
タルトを褒められて、つい鍋のことを忘れてしまった。
厨房を守る者として明らかに自分の過失であり、
こんなことではシェフ失格だな、としゅんとする。
「すみません…」
テオは穏やかな口調でシェフを慰めた。
「そう落ち込むものではないよ、ドニ。私も同罪だ。気が付かなくてすまない。
ところで、クラウス。どうしたんだい? 貴方が此処に来るなんて珍しい」
「お前に珈琲を頼もうかと思ったのだが、用事を思い出したから失礼する」
キッチンを出て行く人を追い駆ける。
「あっ、クラウス、待っておくれ!」
一人になったシェフは鍋の前へ行く。『愚者の石のスープ』、愚か者は自分だ。
気をつけなきゃ、と思いながらも、やっぱり自分はダメだなあと溜め息が漏れた。
「ドーニー!」
大きな声が廊下を駆けて来る。
キッチンに飛び込んで来たのは中等部の二人組だ。
ひまわりのような笑顔でこちらを見ている。
「ドニ、決まったよ! タルトの名前!」
「これから発表しまーす!」
レオンの唇によるドラムロールが鳴り始める。
良い子達は顔を見合わせ、同時に息を吸った。
fin
■カミーユ・ルブラン
■キャラクタ設定協力:シハル姉さん、蔦様
■キャラクタ設定協力:シハル姉さん、蔦様
ウーティス寮キッチンは常にピカピカだった。
一日の終わりには必ず綺麗好きが掃除するからだ。
部屋の主はカミーユ・ルブラン。この寮の食事一切を任されている。
性格をそのまま現したかのような四角い顔。
その割れた顎と渋い二枚目顔は、アルフレッドに言わせると、
『クセのある刑事役が似合う実力派ベテラン俳優』だそうだ。
夕食まで二時間ばかり。カミーユはビーフシチューの味見をしていた。
これは今日作ったものではなく、ここ数日じっくりことこと煮込んだものだ。
シェフは味の出来映えに満足して顎を撫でる。
自分の舌を満足させられるのは、もはや自分しかいないのでは、とさえ思う味だった。
「カミーユ、居る?」
キッチンに寮の生徒がひょこっと顔を出した。眼鏡を掛けた日本人。
カミーユは、寮生全員と親しいわけではない。
昨年入ったばかりのこの生徒が、一番親しい間柄かもしれない。
シェフは一応、鍋の火を止めて入り口のある隣の部屋へ向かう。
聖アルフォンソ学院はキッチンも広く、二部屋続きになっていた。
「はい、ハルヤ様」
生徒と目が合うと、ほっとしたように微笑まれた。
「良かった。カミーユ、居てくれて。あの、今忙しいかな?」
「いえ。今はビーフシチューを煮込むだけですから」
「あのさ、ごめん。俺、おなかすいちゃって…」
夕食まで後二時間。おなかが空く時間帯だ。
あまり食べると夕食に支障を来たすが、この生徒は例外だ。
「畏まりました。アボカドマグロ丼が宜しいですか?」
「ん。お願い」
「ではサロンでお待ち下さい。すぐにご用意します」
急な申し出にも対応できるよう、このキッチンでは常にアボカドマグロ丼の素材があった。
巨大な冷蔵庫からマグロの切り身を取り出す。これは最高級のものではない。
カミーユとしては不本意な品質なのだが、主人であるハルヤ様のご要望なので致し方がない。
「あ、ねえ。俺、此処で見てても良いかな?」
「ええ。それは構いませんが?」
「ありがと」
力のない笑顔を見て、早く作らなくてはとシェフは思う。
背中で視線を感じながら、野菜室からアボカドを選ぶ。
緑のものはまだ早い。熟して黒みがかった物を手に取る。
色と手に伝わる固さで食べ頃かどうかは解った。
本来であればメキシコ産の最高級品を買うのだが、これは違う。
ハルヤ様には言っていないのだが、
11月から2月頃までは和歌山産のアボカドを使っていた。
選び出したひとつを持って、まな板の前に立つ。
黒い皮を剥くと、淡い緑色の果実が顔を見せる。
ごつごつとした外見に比べて、美しいエメラルドだ。
マグロとアボカドを同じさいの目状に切っていく。
後ろを見やると眼鏡の生徒は壁に凭れて言った。
「やっぱりいい音だね」
しみじみとした声。生徒は目を閉じていた。
「ハルヤ様?」
「まな板の音、好きなんだ。トントントンって」
fin
一日の終わりには必ず綺麗好きが掃除するからだ。
部屋の主はカミーユ・ルブラン。この寮の食事一切を任されている。
性格をそのまま現したかのような四角い顔。
その割れた顎と渋い二枚目顔は、アルフレッドに言わせると、
『クセのある刑事役が似合う実力派ベテラン俳優』だそうだ。
夕食まで二時間ばかり。カミーユはビーフシチューの味見をしていた。
これは今日作ったものではなく、ここ数日じっくりことこと煮込んだものだ。
シェフは味の出来映えに満足して顎を撫でる。
自分の舌を満足させられるのは、もはや自分しかいないのでは、とさえ思う味だった。
「カミーユ、居る?」
キッチンに寮の生徒がひょこっと顔を出した。眼鏡を掛けた日本人。
カミーユは、寮生全員と親しいわけではない。
昨年入ったばかりのこの生徒が、一番親しい間柄かもしれない。
シェフは一応、鍋の火を止めて入り口のある隣の部屋へ向かう。
聖アルフォンソ学院はキッチンも広く、二部屋続きになっていた。
「はい、ハルヤ様」
生徒と目が合うと、ほっとしたように微笑まれた。
「良かった。カミーユ、居てくれて。あの、今忙しいかな?」
「いえ。今はビーフシチューを煮込むだけですから」
「あのさ、ごめん。俺、おなかすいちゃって…」
夕食まで後二時間。おなかが空く時間帯だ。
あまり食べると夕食に支障を来たすが、この生徒は例外だ。
「畏まりました。アボカドマグロ丼が宜しいですか?」
「ん。お願い」
「ではサロンでお待ち下さい。すぐにご用意します」
急な申し出にも対応できるよう、このキッチンでは常にアボカドマグロ丼の素材があった。
巨大な冷蔵庫からマグロの切り身を取り出す。これは最高級のものではない。
カミーユとしては不本意な品質なのだが、主人であるハルヤ様のご要望なので致し方がない。
「あ、ねえ。俺、此処で見てても良いかな?」
「ええ。それは構いませんが?」
「ありがと」
力のない笑顔を見て、早く作らなくてはとシェフは思う。
背中で視線を感じながら、野菜室からアボカドを選ぶ。
緑のものはまだ早い。熟して黒みがかった物を手に取る。
色と手に伝わる固さで食べ頃かどうかは解った。
本来であればメキシコ産の最高級品を買うのだが、これは違う。
ハルヤ様には言っていないのだが、
11月から2月頃までは和歌山産のアボカドを使っていた。
選び出したひとつを持って、まな板の前に立つ。
黒い皮を剥くと、淡い緑色の果実が顔を見せる。
ごつごつとした外見に比べて、美しいエメラルドだ。
マグロとアボカドを同じさいの目状に切っていく。
後ろを見やると眼鏡の生徒は壁に凭れて言った。
「やっぱりいい音だね」
しみじみとした声。生徒は目を閉じていた。
「ハルヤ様?」
「まな板の音、好きなんだ。トントントンって」
fin
■シェフトリオ+アイヴィー
アイヴィーは旧市街に足を運んでいた。
日はとっぷりと暮れている。良い子は眠る時間だ。
何処かで遅い夕食にしようと思っていた。
適度に猥雑な街明かりの中を歩いていく。
一昔前のネオン看板。行き付けの店のうちのひとつに入った。
店内にはオレンジの灯が所々に、ぽっと燈る。
かろうじて人の顔が判別できる程度だ。
少し離れたテーブルに知り合いが座っていた。
保健医と同様に、聖アルフォンソ学院の健康を支える三人。
「あ、ボクはチョコレート入れちゃってますけど」
「冗談か、それは」
「あ、いえ。コクが出て美味しいんですよ、カレーにチョコって」
「お前はまた…発想が奇抜だな」
「そうですか? ボク、普通かと思ってました。
アランさんも入れたことあります?」
今日もまた料理の話をしているらしい。
酒場や市場で三人が並んでいるのをよく見掛けていた。
彼等はアイヴィーと同世代であり、話し易い酒飲み仲間だった。
アイヴィーは片手を挙げ、シェフ達のテーブルに歩いていった。
「よっ。なかよしコックさん」
声を掛けると、三人のうち一人だけが、
席まで立って手を振り返してくれた。
「あっ、アイヴィーさんです。アイヴィーさーん♪」
店内に響き渡る自分の名前。
ピンクに染まった頬で、陽気に手を振っているのがドニ。
シェフトリオの中では一番年若い。
後輩のおでこをノックするようにコツンと小突いたのはアラン。
担当するアルファルドの生徒達と同じく、顔に感情が出ない。
叩かれたドニは、おでこをさする。
「いてっ。アランさん、何するんですかー」
代わりに口を開いたのは美食追求家カミーユ。
「騒ぐな、ドニ。アランの言う通りだぞ。他のテーブルに迷惑だ」
「アランさん、何も言ってないじゃないですかー。ね、アイヴィーさん?」
「あ、ああ」
「ドニ、アイヴィーにまで絡むな」
カミーユは咳払いする。しかめっ面で後輩に注意する。
「お前、今夜は飲み過ぎじゃないのか? さして飲めないくせに」
「だって今日は久し振りに三人揃ってご飯じゃないですか。ボク、嬉しくって」
とろんとした瞳でドニが見上げる。かなりゴキゲンなようだ。
「最近はお誘いしても、お忙しいと断られていたんですけど、
今日はやっとOKしてくれたんです」
「そういや、此処でシェフトリオに会うの久し振りだな?」
「ですよね。アイヴィーさん、これからご飯ですか?」
「ああ。さっき、お仕事終わったばかりでな」
「お疲れサマです。ココ、座って下さい、ボクの隣♪」
四人掛けのテーブルで、空いている椅子を勧めた。
「俺、おジャマしてイイの?」
向かいに座る二人にお伺いすると、
「構わないが」という言葉と無言の許可が返って来た。
今日の夕食は思いのほか賑やかなものになった。
俺の左隣でさっきから笑ってるのがドニ・ドーム。シュヌーシア寮シェフ。
各国の家庭料理を愛するコックさんだ。
お菓子も素朴なものを好んで作り、生徒達に喜ばれることが生き甲斐だと言う。
アランに嫌な顔をされる程、甘いものが大好き。
外食時は必ずデザートを二つ以上注文する。
料理中のユニホームは、頭にはバンダナ、首のコックチーフに、腰巻きエプロンと、
まるでカフェのボーイのようなラフなスタイル。ドニにはよく似合っていたが、
これは本人の趣味というよりは、結果的にこうするしかなかった。
本当は正統派のコック服に憧れていたのだが、
ジュニアサイズでなければ合う物がなかった。
その小柄な肢体で寮のサロンに入ると、生徒と混ざって服装以外では見分けが付かない。
私服で学院内を歩いていると、新しい中等部かと間違われ、
他の寮の生徒に「迷子か?」と声を掛けられたのは一度ではない。
頭がコック帽に埋もれてしまう為、バンダナを巻いているのだが、
それが却って『はじめてのおりょうり』に見えるとは気付かないらしい。
温和な友好的人種。かなりの子供好き。寮生達とも最も仲が良いシェフ。
特に前年度の友好的生徒代表とは気が合っていた。
卒業時に彼からお礼としてプレゼントされた、
『100色のバンダナ&チーフセット』を愛用中。
かなりカラフルな毎日を送っている。
ドニの声は男にしては高い方だ。
声変わりがまだ終わっていないのか、という声で今宵も楽しく話している。
「カミーユさんってば、夜遅くまで料理の仕込みしてて、
そのうち倒れちゃうんじゃないかって、心配なくらいなんですよ。
いつも料理のことばっかり考えてて、ほんと寝ても覚めてもってかんじで…
あ! ひょっとして、夢の中でも料理作ってるんじゃないですか?」
「偶にはな」
別に普通だろう、と言うようにグラスに口付ける。
アランは黒のベルギービール。無表情で二人を交互に見ていた。
アイヴィーと目が合うと、そっぽを向かれた。
ドニは明るい笑顔でカミーユに絡んでいた。
「もー。この前もビーフシチューを何日も前から煮込んでましたよね?」
「お前も美味しいと言ったじゃないか」
「そうですけどー」
アイヴィーはグラスを唇から離す。このビールは上手い。
「へえ。カミーユのビーフシチューか。そいつは美味そうだな」
学院に顔を出した帰り、ひょいとキッチンを覗く時がある。
その時間帯は大抵、夕食前なので通りすがれない匂いがするのだ。
ドニは進んで、カミーユは渋々、何か食べさせてくれる。アランは別として。
ハムの切れ端や生クリーム、完成後のホテルディナーまで色々味見させて貰ったが、
マズイと感じたことはなかった。アイヴィー個人としては、
カミーユよりドニの味の方が好みではあるのだが。
自分が作ったカレーとカミーユのカレーではこんなに味が違うのかと驚いた記憶もある。
「アイヴィーさんにも食べて欲しかったです。ビーフがとろとろで!」
「んじゃ、カミーユ、今度作った時は俺の分も残しといて。晩メシにするからさ?」
「生徒の分が減る」
「ケチー」
俺の前の席、涼しい顔してちょこっと楽しそうなのがカミーユ・ルブラン。
ウーティス寮シェフ。元は有名な正統派フレンチシェフで、
カミーユの名は、アランもドニも此処で出会う前から知っていたらしい。
本物志向。世界中から取り寄せた超高級食材で腕を振るう。
料理時の衣装は、ザ・シェフ。白いコック帽が世界一似合う男。
人当たりは悪くないが、こと料理に関しては頑固極まりない。
昨年、ハルヤにアボカドマグロ丼を作って以来、目下、和食を勉強中。
その際、使用した本ワサビを気に入り、植物園で契約栽培している。
アボカドマグロ丼の味を決める際、ハルヤに高級食材をことごとく却下された。
それはカミーユにとって衝撃だった。
一級品へのこだわりは、自身が貧困層の出身であることに起因する。
ある日、初めて一級品を口にした時、感激の余り、涙が流れた。
料理を食べて泣いた日から本物志向が確定された。
カミーユとは真逆に、素朴な味を好むドニとは当初そりが合わなかったらしい。
が、ハルヤに低品質のアボカドマグロ丼を求められ、
それがとても喜ばれたことは小さくない転機となった。
以前はドニの料理を「邪道だ」と一蹴する場面も度々見掛けたが、
最近では自省しているようで、その回数はかなり減った。
そもそも、アボカドマグロ丼を作ろうとした切欠は、
ハルヤの食欲が落ちていることを感じ取ったからだそうだ。
入学直後は「ハルヤ様の胃はブラックホールなのだろうか」と真面目に思う程、
おかわりを要求されたのだが、他の生徒と同じくらいまでに減った日があった。
『食欲』という観点から、生徒の健康状態をいち早く掴み取れるのは各寮のシェフだった。
異常を察知した場合は、生徒本人へ体調を尋ねたり、保健室へ連絡を入れる。
ハルヤの場合は体調を崩しているのではないと解っていた。
おかわりの頻度から、味付けの薄いものや、
さっぱりしたものを好む傾向にあると感じていたので、
きっと『食のホームシック』なのだろうと思い、
それとなくハルヤに話し掛けたところ、こういうのを作ってと頼まれた。
マージナルプリンスどもは、表面上では「故郷が恋しい」などとは滅多に口にしないが、
シェフに言わせると、身体は素直に『故郷の味』を欲しているのだそうだ。
寮で同じ料理を提供するにしても、各生徒の皿によって味付けが違う時もあるらしい。
もちろん、好きな物ばかりを差し出すわけにはいかない。
聖アルフォンソ学院の食事は、各シェフによって、
栄養バランスやカロリーは常に最適な状態で組まれている。
その上で、オールジャンルのメニューを日々創り出すのだから大変なものだ。
特に完璧主義のカミーユは、自身のメニューに誇りを持っているのだが。
――俺、アイヴィーの料理、大好きだよ。カミーユの料理は俺には高級過ぎて、ね――
とハルヤ本人に言われている俺としてはちょっと心苦しい。
あの眼鏡っ子はあんな顔して罪深い男だ。
「ビール、お注ぎしても良いですか?」
「ああ。サンキュ、ドニ」
俺の空いたグラスが、またホップの香りで満たされる。
瓶を持ったドニはカミーユのグラスを見る。まだ入っていた。
次にアランのグラス、は空いていた。
「アランさんは、そろそろアレにしますか?」
いや、と言われなかったドニは「すいませーん」と店員を呼んで、
アランの好きなドリンクをオーダーする。
カミーユの隣、俺の左前に居るのがアラン・ウー。
アルファルド寮シェフ。エスニックとイタリアンを得意とする。
機嫌は悪くないが仏頂面。甘味が苦手なせいか、大人の味付けになりやすい。
アランが話しているところはあまり見たことがない。
料理中の服装には、大してこだわりがないらしく、日によって違う。
コックさんの格好をしている時もあれば、普通にTシャツで料理している時もある。
浅黒い肌でかなり背が高く、スポーツ選手のような見目だ。
顔に似合わず、動物好きという一面があるらしい。
ジャワハルワールの動物園でも栄養管理を担当。
オウムには日々の食事を用意する他、好物のオレンジも与えているらしい。
ドニは時々、アランが月桂樹の森に棲む動物達に、
食事を与えている姿を見掛けるようで、
一緒にうさぎに葉を差し出したこともあるそうだ。
これは俺の推測だが、人の干渉を厭うアランが、
気ぃ遣いのドニに身辺を構われても嫌な顔ひとつしないのは、
身体の小さいドニが小動物に近い生き物だからではないだろうか。
アランのドリンクが来た。
店員から受け取ったドニがアランへ手渡す。
最年少のドニが、性格上では唯一の常識人と言っても過言ではない。
トリオの中で最も空気を読めるタイプがドニだった。
気難しい性格の先輩二人を尊敬し、個性豊かな生徒達にも自然に気を使うことができる。
家庭料理を好むドニ自身の家庭環境は恐ろしく冷たいものだった。
親に折檻された痕は未だに首に残っている。
まだ幼かった弟を亡くして絶望の淵に居る時、
知り合いからこの学院を紹介され、現在はこうして明るい笑顔を取り戻した。
カミーユはかつて高級レストランに勤めていたが、
潔癖な迄の本物志向が災いし、オーナーに追い出された。
本人曰く「私は本物の味を、お客様に提供したかっただけ」なのだが、
彼の主張を通そうとするとレストラン経営が破綻し兼ねない。
莫大な運営資金を誇る聖アルフォンソ学院では、生徒の食事にも重きを措かる為、
キッチンの予算はシェフの自由裁量。カミーユにとって此処はまさに至上の楽園だった。
歴代のシェフの中で最も経費が嵩む、と理事会の偉い人はちょっと泣いてたけど。
アランも腕前は一流なのだが、低過ぎる社交性の為に店の先々でトラブルを引き起こしていた。
エスニックとイタリアンという異種の料理を身に付けたのも、あちこちを転々としたからだ。
不当な濡れ衣を着せられても真犯人を名指しすることなく、黙っていたこともあった。
何を考えているか分からないと気味悪がられることも多かったようだが、
此処に来て、アルファルド寮シェフとなってからは、何のトラブルなく過ごしている。
また、カミーユやドニには、アランの考えが無言のままに伝わるようだった。
辺境の島に流された訳ありのシェフ達。
メインストリームから外された彼等もまた、集うべくして集った辺境の王子なのだろう。
尤も、王子という年ではないので、マージナルシェフとでも言ったところか。
「アイヴィーさん? どうしちゃったんですか、ぼーっとして?」
「ああ、何でもねえよ」
「眠たいのなら、ボクの膝、お貸ししましょうか?」
「今日は随分ゴキゲンだな、ドニ」
「はい。大好きなお二人とアイヴィーさんと一緒ですから」
その夜、ドニは周囲の注意も聞かず、テーブルで腕枕をするまで杯を重ねた。
彼の前には空いたグラスとデザート皿がゴロゴロしている。
アイヴィーがピンクのほっぺをツンツンしても起きない。
「なんかすげー気持ち良さそうに眠ってますけど。これどーすんの、お二人さん?」
背の高いアランが席を立ち、ドニの前で膝を着いた。
それを見たカミーユは「悪いな、アラン」と言って、
アランの背にドニを背負わせるのを手伝った。
だらりと力の抜けた腕を首許に回す。
軽々とドニをおんぶして、アランは立ち上がった。
食事の支払いはカミーユが済ませ、四人は店を出た。
年中温暖な聖アルフォンソ島でも、この頃になると夜風は少し冷たい。
旧市街の店構えは敢えて昔のまま残された。
新しい文化は新市街へ、古き良き文化は此処に保存されている。
シェフ達が帰る方向は学院。彼等の家は教職員の宿舎メルキュール館だ。
一人、家が違うアイヴィーは別れ道で立ち止まった。
「んじゃー、俺はこのへんで。おやすみ、コックさん」
ドニはアランの背で寝息を立てている。カミーユだけが返事をした。
「ああ。おやすみ、アイヴィー。今夜は、ドニが迷惑を掛けてすまなかった」
「迷惑なんて思ってねえって。こいつ煩いのいつものことだし。
ま。今日はいつもより絡まれた気もしたけど」
アイヴィーは笑顔でそう言ったのだが、カミーユは押し黙った。
「ん? お二人さん、なんか心当たりあんの?」
前方の店看板から、古びたネオンがパチパチ鳴る。
そんな僅かな音が聞こえる程だった。
どうやら聞いてはいけないことだったらしい。
そのまま帰ろうと、アイヴィーは片手を挙げようとした。
カミーユは低い声で呟いた。
「今日は、ドニの弟が死んだ日だ」
旧市街の夜道に、カミーユとアランの足音だけがコツコツと繰り返される。
アイヴィーと別れたシェフ達は、タクシー乗り場までとぼとぼ歩いていた。
アランとカミーユは話もせずに帰路を進む。
彼等にとって沈黙は不快ではなかった。
今日のことは、年に一度の儀式のようなものだった。
この夜だけはドニを一人にしておけなかった。
初めてドニが来た年の命日は酷かった。
たまたま、調味料が切れたアランが、ドニのキッチンを訪ねたところ、
夕食の準備中である筈の其処からは何の香りもしなかった。
ドアを開けてみると、ドニはキッチンの隅で一人、うずくまって泣いていた。
アランが訪ねていなければ、夕食の時間になるまで誰も気付かなかったかもしれない。
その日は、少しずつ分け合ったカミーユとアランの料理が、シュヌーシアの食卓に上った。
ドニを問い質した結果、ドニの弟は深夜に亡くなったらしい。
昼食までは堪えたものの、その時間が近付くにつれ、キッチンでしゃがみこんでしまった。
以来、カミーユとアランは暗黙のうちに、この夜だけはドニの傍に居るようになった。
それまで他人のことなど見向きもしなかった二人が、少なからず変わった夜だった。
繁華街の通りを一本出ると、ネオンのけばけばしい光はない。
住宅街も近いので、辺りはさすがに寝静まっていた。
カミーユの右側で年季のある街灯が点滅している。
電球が切れたのだろうか。あれは誰が変えているのだろう。
目の前では、おんぶなどされているドニの小さな背中。
見目はともかく、年齢上はドニもいい大人なのだが、
身長差のある二人だと余り違和感がないのが不思議だった。
ドニを背負っているアランの足取りは、いつもより少し遅い。
それに合わせて、カミーユは後方を歩いていた。
「平気か、アラン」
「ああ。こいつは軽い。お前では無理だがな」
部外者のアイヴィーが居なくなったせいかアランの口数が増える。
シェフ三人だけで居る時は、それなりに喋る奴だった。
アランはカミーユに対しては、食って掛かる時があった。
この二人は互いに自己中心的で譲らない性質の為、言い合いになってしまう。
カミーユはいつもの調子で言い返した。
「それで結構だ。私はお前に背負って欲しいとも思わないからな」
「可愛くない奴」
「私はドニではない」
「頑固者」
「悪かったな。お前こそ」
いつもなら、まあまあ、と笑顔の仲裁役が入ってくるところだが、今夜は出てこない。
「…いや、今夜は止めておこう。起こしてしまう」
カミーユは途中で自ら言葉を切った。
小さな背中を見やると、細い腕が微かに動いた。
「…ごめん、なさい」
アランの足が止まる。
小さな声だが寝言ではないと知れた。
肩に顔を埋め、首許にしがみついていた。
「いつも、お二人に迷惑…」
アランは同僚を背負い直した。
fin
日はとっぷりと暮れている。良い子は眠る時間だ。
何処かで遅い夕食にしようと思っていた。
適度に猥雑な街明かりの中を歩いていく。
一昔前のネオン看板。行き付けの店のうちのひとつに入った。
店内にはオレンジの灯が所々に、ぽっと燈る。
かろうじて人の顔が判別できる程度だ。
少し離れたテーブルに知り合いが座っていた。
保健医と同様に、聖アルフォンソ学院の健康を支える三人。
「あ、ボクはチョコレート入れちゃってますけど」
「冗談か、それは」
「あ、いえ。コクが出て美味しいんですよ、カレーにチョコって」
「お前はまた…発想が奇抜だな」
「そうですか? ボク、普通かと思ってました。
アランさんも入れたことあります?」
今日もまた料理の話をしているらしい。
酒場や市場で三人が並んでいるのをよく見掛けていた。
彼等はアイヴィーと同世代であり、話し易い酒飲み仲間だった。
アイヴィーは片手を挙げ、シェフ達のテーブルに歩いていった。
「よっ。なかよしコックさん」
声を掛けると、三人のうち一人だけが、
席まで立って手を振り返してくれた。
「あっ、アイヴィーさんです。アイヴィーさーん♪」
店内に響き渡る自分の名前。
ピンクに染まった頬で、陽気に手を振っているのがドニ。
シェフトリオの中では一番年若い。
後輩のおでこをノックするようにコツンと小突いたのはアラン。
担当するアルファルドの生徒達と同じく、顔に感情が出ない。
叩かれたドニは、おでこをさする。
「いてっ。アランさん、何するんですかー」
代わりに口を開いたのは美食追求家カミーユ。
「騒ぐな、ドニ。アランの言う通りだぞ。他のテーブルに迷惑だ」
「アランさん、何も言ってないじゃないですかー。ね、アイヴィーさん?」
「あ、ああ」
「ドニ、アイヴィーにまで絡むな」
カミーユは咳払いする。しかめっ面で後輩に注意する。
「お前、今夜は飲み過ぎじゃないのか? さして飲めないくせに」
「だって今日は久し振りに三人揃ってご飯じゃないですか。ボク、嬉しくって」
とろんとした瞳でドニが見上げる。かなりゴキゲンなようだ。
「最近はお誘いしても、お忙しいと断られていたんですけど、
今日はやっとOKしてくれたんです」
「そういや、此処でシェフトリオに会うの久し振りだな?」
「ですよね。アイヴィーさん、これからご飯ですか?」
「ああ。さっき、お仕事終わったばかりでな」
「お疲れサマです。ココ、座って下さい、ボクの隣♪」
四人掛けのテーブルで、空いている椅子を勧めた。
「俺、おジャマしてイイの?」
向かいに座る二人にお伺いすると、
「構わないが」という言葉と無言の許可が返って来た。
今日の夕食は思いのほか賑やかなものになった。
俺の左隣でさっきから笑ってるのがドニ・ドーム。シュヌーシア寮シェフ。
各国の家庭料理を愛するコックさんだ。
お菓子も素朴なものを好んで作り、生徒達に喜ばれることが生き甲斐だと言う。
アランに嫌な顔をされる程、甘いものが大好き。
外食時は必ずデザートを二つ以上注文する。
料理中のユニホームは、頭にはバンダナ、首のコックチーフに、腰巻きエプロンと、
まるでカフェのボーイのようなラフなスタイル。ドニにはよく似合っていたが、
これは本人の趣味というよりは、結果的にこうするしかなかった。
本当は正統派のコック服に憧れていたのだが、
ジュニアサイズでなければ合う物がなかった。
その小柄な肢体で寮のサロンに入ると、生徒と混ざって服装以外では見分けが付かない。
私服で学院内を歩いていると、新しい中等部かと間違われ、
他の寮の生徒に「迷子か?」と声を掛けられたのは一度ではない。
頭がコック帽に埋もれてしまう為、バンダナを巻いているのだが、
それが却って『はじめてのおりょうり』に見えるとは気付かないらしい。
温和な友好的人種。かなりの子供好き。寮生達とも最も仲が良いシェフ。
特に前年度の友好的生徒代表とは気が合っていた。
卒業時に彼からお礼としてプレゼントされた、
『100色のバンダナ&チーフセット』を愛用中。
かなりカラフルな毎日を送っている。
ドニの声は男にしては高い方だ。
声変わりがまだ終わっていないのか、という声で今宵も楽しく話している。
「カミーユさんってば、夜遅くまで料理の仕込みしてて、
そのうち倒れちゃうんじゃないかって、心配なくらいなんですよ。
いつも料理のことばっかり考えてて、ほんと寝ても覚めてもってかんじで…
あ! ひょっとして、夢の中でも料理作ってるんじゃないですか?」
「偶にはな」
別に普通だろう、と言うようにグラスに口付ける。
アランは黒のベルギービール。無表情で二人を交互に見ていた。
アイヴィーと目が合うと、そっぽを向かれた。
ドニは明るい笑顔でカミーユに絡んでいた。
「もー。この前もビーフシチューを何日も前から煮込んでましたよね?」
「お前も美味しいと言ったじゃないか」
「そうですけどー」
アイヴィーはグラスを唇から離す。このビールは上手い。
「へえ。カミーユのビーフシチューか。そいつは美味そうだな」
学院に顔を出した帰り、ひょいとキッチンを覗く時がある。
その時間帯は大抵、夕食前なので通りすがれない匂いがするのだ。
ドニは進んで、カミーユは渋々、何か食べさせてくれる。アランは別として。
ハムの切れ端や生クリーム、完成後のホテルディナーまで色々味見させて貰ったが、
マズイと感じたことはなかった。アイヴィー個人としては、
カミーユよりドニの味の方が好みではあるのだが。
自分が作ったカレーとカミーユのカレーではこんなに味が違うのかと驚いた記憶もある。
「アイヴィーさんにも食べて欲しかったです。ビーフがとろとろで!」
「んじゃ、カミーユ、今度作った時は俺の分も残しといて。晩メシにするからさ?」
「生徒の分が減る」
「ケチー」
俺の前の席、涼しい顔してちょこっと楽しそうなのがカミーユ・ルブラン。
ウーティス寮シェフ。元は有名な正統派フレンチシェフで、
カミーユの名は、アランもドニも此処で出会う前から知っていたらしい。
本物志向。世界中から取り寄せた超高級食材で腕を振るう。
料理時の衣装は、ザ・シェフ。白いコック帽が世界一似合う男。
人当たりは悪くないが、こと料理に関しては頑固極まりない。
昨年、ハルヤにアボカドマグロ丼を作って以来、目下、和食を勉強中。
その際、使用した本ワサビを気に入り、植物園で契約栽培している。
アボカドマグロ丼の味を決める際、ハルヤに高級食材をことごとく却下された。
それはカミーユにとって衝撃だった。
一級品へのこだわりは、自身が貧困層の出身であることに起因する。
ある日、初めて一級品を口にした時、感激の余り、涙が流れた。
料理を食べて泣いた日から本物志向が確定された。
カミーユとは真逆に、素朴な味を好むドニとは当初そりが合わなかったらしい。
が、ハルヤに低品質のアボカドマグロ丼を求められ、
それがとても喜ばれたことは小さくない転機となった。
以前はドニの料理を「邪道だ」と一蹴する場面も度々見掛けたが、
最近では自省しているようで、その回数はかなり減った。
そもそも、アボカドマグロ丼を作ろうとした切欠は、
ハルヤの食欲が落ちていることを感じ取ったからだそうだ。
入学直後は「ハルヤ様の胃はブラックホールなのだろうか」と真面目に思う程、
おかわりを要求されたのだが、他の生徒と同じくらいまでに減った日があった。
『食欲』という観点から、生徒の健康状態をいち早く掴み取れるのは各寮のシェフだった。
異常を察知した場合は、生徒本人へ体調を尋ねたり、保健室へ連絡を入れる。
ハルヤの場合は体調を崩しているのではないと解っていた。
おかわりの頻度から、味付けの薄いものや、
さっぱりしたものを好む傾向にあると感じていたので、
きっと『食のホームシック』なのだろうと思い、
それとなくハルヤに話し掛けたところ、こういうのを作ってと頼まれた。
マージナルプリンスどもは、表面上では「故郷が恋しい」などとは滅多に口にしないが、
シェフに言わせると、身体は素直に『故郷の味』を欲しているのだそうだ。
寮で同じ料理を提供するにしても、各生徒の皿によって味付けが違う時もあるらしい。
もちろん、好きな物ばかりを差し出すわけにはいかない。
聖アルフォンソ学院の食事は、各シェフによって、
栄養バランスやカロリーは常に最適な状態で組まれている。
その上で、オールジャンルのメニューを日々創り出すのだから大変なものだ。
特に完璧主義のカミーユは、自身のメニューに誇りを持っているのだが。
――俺、アイヴィーの料理、大好きだよ。カミーユの料理は俺には高級過ぎて、ね――
とハルヤ本人に言われている俺としてはちょっと心苦しい。
あの眼鏡っ子はあんな顔して罪深い男だ。
「ビール、お注ぎしても良いですか?」
「ああ。サンキュ、ドニ」
俺の空いたグラスが、またホップの香りで満たされる。
瓶を持ったドニはカミーユのグラスを見る。まだ入っていた。
次にアランのグラス、は空いていた。
「アランさんは、そろそろアレにしますか?」
いや、と言われなかったドニは「すいませーん」と店員を呼んで、
アランの好きなドリンクをオーダーする。
カミーユの隣、俺の左前に居るのがアラン・ウー。
アルファルド寮シェフ。エスニックとイタリアンを得意とする。
機嫌は悪くないが仏頂面。甘味が苦手なせいか、大人の味付けになりやすい。
アランが話しているところはあまり見たことがない。
料理中の服装には、大してこだわりがないらしく、日によって違う。
コックさんの格好をしている時もあれば、普通にTシャツで料理している時もある。
浅黒い肌でかなり背が高く、スポーツ選手のような見目だ。
顔に似合わず、動物好きという一面があるらしい。
ジャワハルワールの動物園でも栄養管理を担当。
オウムには日々の食事を用意する他、好物のオレンジも与えているらしい。
ドニは時々、アランが月桂樹の森に棲む動物達に、
食事を与えている姿を見掛けるようで、
一緒にうさぎに葉を差し出したこともあるそうだ。
これは俺の推測だが、人の干渉を厭うアランが、
気ぃ遣いのドニに身辺を構われても嫌な顔ひとつしないのは、
身体の小さいドニが小動物に近い生き物だからではないだろうか。
アランのドリンクが来た。
店員から受け取ったドニがアランへ手渡す。
最年少のドニが、性格上では唯一の常識人と言っても過言ではない。
トリオの中で最も空気を読めるタイプがドニだった。
気難しい性格の先輩二人を尊敬し、個性豊かな生徒達にも自然に気を使うことができる。
家庭料理を好むドニ自身の家庭環境は恐ろしく冷たいものだった。
親に折檻された痕は未だに首に残っている。
まだ幼かった弟を亡くして絶望の淵に居る時、
知り合いからこの学院を紹介され、現在はこうして明るい笑顔を取り戻した。
カミーユはかつて高級レストランに勤めていたが、
潔癖な迄の本物志向が災いし、オーナーに追い出された。
本人曰く「私は本物の味を、お客様に提供したかっただけ」なのだが、
彼の主張を通そうとするとレストラン経営が破綻し兼ねない。
莫大な運営資金を誇る聖アルフォンソ学院では、生徒の食事にも重きを措かる為、
キッチンの予算はシェフの自由裁量。カミーユにとって此処はまさに至上の楽園だった。
歴代のシェフの中で最も経費が嵩む、と理事会の偉い人はちょっと泣いてたけど。
アランも腕前は一流なのだが、低過ぎる社交性の為に店の先々でトラブルを引き起こしていた。
エスニックとイタリアンという異種の料理を身に付けたのも、あちこちを転々としたからだ。
不当な濡れ衣を着せられても真犯人を名指しすることなく、黙っていたこともあった。
何を考えているか分からないと気味悪がられることも多かったようだが、
此処に来て、アルファルド寮シェフとなってからは、何のトラブルなく過ごしている。
また、カミーユやドニには、アランの考えが無言のままに伝わるようだった。
辺境の島に流された訳ありのシェフ達。
メインストリームから外された彼等もまた、集うべくして集った辺境の王子なのだろう。
尤も、王子という年ではないので、マージナルシェフとでも言ったところか。
「アイヴィーさん? どうしちゃったんですか、ぼーっとして?」
「ああ、何でもねえよ」
「眠たいのなら、ボクの膝、お貸ししましょうか?」
「今日は随分ゴキゲンだな、ドニ」
「はい。大好きなお二人とアイヴィーさんと一緒ですから」
その夜、ドニは周囲の注意も聞かず、テーブルで腕枕をするまで杯を重ねた。
彼の前には空いたグラスとデザート皿がゴロゴロしている。
アイヴィーがピンクのほっぺをツンツンしても起きない。
「なんかすげー気持ち良さそうに眠ってますけど。これどーすんの、お二人さん?」
背の高いアランが席を立ち、ドニの前で膝を着いた。
それを見たカミーユは「悪いな、アラン」と言って、
アランの背にドニを背負わせるのを手伝った。
だらりと力の抜けた腕を首許に回す。
軽々とドニをおんぶして、アランは立ち上がった。
食事の支払いはカミーユが済ませ、四人は店を出た。
年中温暖な聖アルフォンソ島でも、この頃になると夜風は少し冷たい。
旧市街の店構えは敢えて昔のまま残された。
新しい文化は新市街へ、古き良き文化は此処に保存されている。
シェフ達が帰る方向は学院。彼等の家は教職員の宿舎メルキュール館だ。
一人、家が違うアイヴィーは別れ道で立ち止まった。
「んじゃー、俺はこのへんで。おやすみ、コックさん」
ドニはアランの背で寝息を立てている。カミーユだけが返事をした。
「ああ。おやすみ、アイヴィー。今夜は、ドニが迷惑を掛けてすまなかった」
「迷惑なんて思ってねえって。こいつ煩いのいつものことだし。
ま。今日はいつもより絡まれた気もしたけど」
アイヴィーは笑顔でそう言ったのだが、カミーユは押し黙った。
「ん? お二人さん、なんか心当たりあんの?」
前方の店看板から、古びたネオンがパチパチ鳴る。
そんな僅かな音が聞こえる程だった。
どうやら聞いてはいけないことだったらしい。
そのまま帰ろうと、アイヴィーは片手を挙げようとした。
カミーユは低い声で呟いた。
「今日は、ドニの弟が死んだ日だ」
旧市街の夜道に、カミーユとアランの足音だけがコツコツと繰り返される。
アイヴィーと別れたシェフ達は、タクシー乗り場までとぼとぼ歩いていた。
アランとカミーユは話もせずに帰路を進む。
彼等にとって沈黙は不快ではなかった。
今日のことは、年に一度の儀式のようなものだった。
この夜だけはドニを一人にしておけなかった。
初めてドニが来た年の命日は酷かった。
たまたま、調味料が切れたアランが、ドニのキッチンを訪ねたところ、
夕食の準備中である筈の其処からは何の香りもしなかった。
ドアを開けてみると、ドニはキッチンの隅で一人、うずくまって泣いていた。
アランが訪ねていなければ、夕食の時間になるまで誰も気付かなかったかもしれない。
その日は、少しずつ分け合ったカミーユとアランの料理が、シュヌーシアの食卓に上った。
ドニを問い質した結果、ドニの弟は深夜に亡くなったらしい。
昼食までは堪えたものの、その時間が近付くにつれ、キッチンでしゃがみこんでしまった。
以来、カミーユとアランは暗黙のうちに、この夜だけはドニの傍に居るようになった。
それまで他人のことなど見向きもしなかった二人が、少なからず変わった夜だった。
繁華街の通りを一本出ると、ネオンのけばけばしい光はない。
住宅街も近いので、辺りはさすがに寝静まっていた。
カミーユの右側で年季のある街灯が点滅している。
電球が切れたのだろうか。あれは誰が変えているのだろう。
目の前では、おんぶなどされているドニの小さな背中。
見目はともかく、年齢上はドニもいい大人なのだが、
身長差のある二人だと余り違和感がないのが不思議だった。
ドニを背負っているアランの足取りは、いつもより少し遅い。
それに合わせて、カミーユは後方を歩いていた。
「平気か、アラン」
「ああ。こいつは軽い。お前では無理だがな」
部外者のアイヴィーが居なくなったせいかアランの口数が増える。
シェフ三人だけで居る時は、それなりに喋る奴だった。
アランはカミーユに対しては、食って掛かる時があった。
この二人は互いに自己中心的で譲らない性質の為、言い合いになってしまう。
カミーユはいつもの調子で言い返した。
「それで結構だ。私はお前に背負って欲しいとも思わないからな」
「可愛くない奴」
「私はドニではない」
「頑固者」
「悪かったな。お前こそ」
いつもなら、まあまあ、と笑顔の仲裁役が入ってくるところだが、今夜は出てこない。
「…いや、今夜は止めておこう。起こしてしまう」
カミーユは途中で自ら言葉を切った。
小さな背中を見やると、細い腕が微かに動いた。
「…ごめん、なさい」
アランの足が止まる。
小さな声だが寝言ではないと知れた。
肩に顔を埋め、首許にしがみついていた。
「いつも、お二人に迷惑…」
アランは同僚を背負い直した。
fin
■アンジェロ
■背景:ハーブに囲まれた君は、遠い国に想いを馳せて
■背景:ハーブに囲まれた君は、遠い国に想いを馳せて
21世紀初め、此処は立派な植物園になっていた。
学院から少し離れたこの場所は、
今や生徒や島民にとって欠かせない癒しの園であった。
常連も少なくない。近年では眼鏡の日本人が折に触れてやってくる。
彼は日本コーナーに佇む一本の木を見上げていた。
時には、隣接する茶室でお抹茶を飲み、ほうと息と吐きながら。
春は花を、夏は実を、秋は葉を、冬には枝を眺めていた。
アンジェロのハーブ園、と名付いた一角にはフランス人がよく訪れていた。
其処にあるのは毒草のみ。
約500年前、一人の生徒がハーブを育てた庭。
この植物園の起源となった場所だ。
現代に居るフランス出身の生徒は、先日の文化祭にて、
アンジェロ・ボルジアの衣装を纏い、劇で彼を演じた。
自分で選出したのではなく、「お前にピッタリ」などと言われて、
調子の良いハリウッドスターに宛がわれた役だったのだが。
それに前後して、アンジェロの資料を改めて読み出したのかもしれない。
この植物園の園長は、アンジェロの数少ない研究者だ。
どうやら、園長の先祖がマージナルプリンスで、
当時、アンジェロと交流があったらしい。
先祖が残した日記に、アンジェロとのささやかな日常が綴られているページがある。
現存する貴重な資料として、園内の小さな資料館にも展示されていた。
それを見る限りでは、アンジェロは毒殺魔をしての顔を持っていないのだ。
日記に残されていたのは、取るに足らない日々の記録に過ぎないのだが、
後に、イタリアで華の様に散ったボルジア家を想うと、
学院で過ごしたこの時期が一番幸福だったのでは、と思えてならない。
彼にとって此処は、薬草用の庭だった。
人を殺める為に、花達を育てていたのではないようだ。
この紫の花。
猛毒トリカブトでさえも、アンジェロの瞳には、
人を救うハーブに映っていたのかもしれない。
少なくとも、聖アルフォンソ学院に居た頃は。
「絵になるね、アンリ。紫の花がよく似合う」
耳に馴染んだ声がした。軽く微笑みを称えた紳士。
神秘学の講師だ。今日は紺のスーツ。
同じく紺のクロスタイにパールピンが白く留まっている。
「…オーギュスト。何故、君まで居るの」
「散歩だよ。アンリもかい? 奇遇だね」
生徒は憮然とした表情だが、講師は微笑を保ったままだ。
「アンリはトリカブトがお気に入りなのかね?」
「別に好きという程でもないよ。ただ、此処に居ると気分が落ち着くだけ。
僕がどうかしているのかな、これらは毒草なのにね」
ポケットに手を入れて、紫の花を見下ろす生徒。
講師の瞳には、かつて此処に居た生徒が重なってみえるようだった。
――私は此処に居ると落ち着くんです――
アンリはトリカブトを眺めたまま、常のように淡々と話した。
「イタリアに咲いた毒の華、ボルジア家。
思うままに敵を殺め、短い生涯を終えた毒殺一家。
けれど、聖アルフォンソ島に居たアンジェロからは陰惨な香りがしない。
冷徹なだけの毒殺魔が作ったにしては、この花園は美し過ぎるからね」
「そうだね。アンジェロは、心の優しい子だったから」
生徒は隣を見上げる。講師は青い空を眺めていた。
どんなに時が過ぎても空の青さは変わらない。
それは皆より長く生きてきた講師の素直な感想だった。
あの日も澄み渡る青空だった。
16世紀初頭、外界が戦乱の世であっても、
辺境の島では生徒達の安全が保証され、
訳ありの子息達が束の間の学生生活を送っていた。
講義が終わった学院内から長閑な空気が流れる。
珍しく慌てた様子の生徒が、月桂樹の森から出て来た。
聖アルフォンソ学院の制服を正しく身に付けている。
肌は雪の如く、この時は動揺により仄かに赤みが差していた。
滑らかな髪は兄に似せたのか、肩より上で揃えていた。
手に乗せた物を見ていた為に誰かの胸にぶつかった。
生徒が顔を上げると相手は制服ではなかった。
年の頃、40歳前後の紳士。この学院の特別講師だ。
「あ、ごめんなさい、先生」
「おや、アンジェロ。手にしているのは…」
細い手には、眼を閉じた白い小鳥。
「ナイチンゲールです。先程、森で…木の下で見付けました」
「怪我をしているのかい?」
「ええ。それで、これから私の庭に行こうと…止血剤になる薬草があるんです」
「そうか。急ぎなら馬に乗せてあげよう。おいで」
四輪駆動車など無い時代。
アンジェロが此処で過ごしたのは、15世紀と16世紀の狭間。
まだイタリアが分裂していた、ルネサンス期の頃だ。
ボルジア家の父、ローマ教皇アレクサンデル6世は、
聖職の立場ながら欲望の赴くまま女を愛した。
愛人ヴァノッツァ・カタネイとの間には母の美貌を受け継いだ子供達が生まれた。
長兄チェーザレは荒れ狂うイタリアに咲いた毒の華。
イタリア統一の野望を叶える為には手段を選ばず、邪魔者を葬った。
次男ホアンは派手な享楽家。父に取り入り、教会軍総司令官の座を勝ち取るも、
何者かに暗殺され、無残な遺体となって河に浮かんだ最期を迎える。
愛する息子を失った父が、犯人の捜査を途中で打ち切ったのは、
犯人が邪魔な弟を妬んだ兄チェーザレだったからではないか。
その説が広まったのにも無理がないほど、チェーザレの暗殺は続いた。
長女ルクレツィアは、兄弟の中で最も美しかった。
父と兄二人との四角関係が囁かれる程、溺愛された。
彼等の為に三度も政略結婚する数奇な運命を辿る。
その夫達は用済みとなると抹消され、
二番目の夫であるナポリ王子アルフォンソも何者かに惨殺された。
三男ホーフレは妻を兄二人に寝取られる。歴史書にはそこまでしか記されていない。
末弟アンジェロの名は聖アルフォンソ島にしか残っていなかった。
末弟は混乱を極めるイタリアから逃れ、
13歳、中等部の一年生から聖アルフォンソ学院で過ごした。
入学当時こそ、家名と美貌により、奇異と好奇の眼差しを向けられたものだが、
性格は至って大人しく、悪名高きボルジアの者とは思えない子だった。
卒業まで修めた学問は、医術が中心だった。
薬理学、植物学の特別講義を受けており、熱心に薬草を育てていた。
シュヌーシア寮の病弱な生徒が酷く体調を崩したことがあった。
彼はアンジェロの後輩で、数少ない友人だった。
友人の病状に心を痛めたアンジェロは「これを」と当時育てていたハーブを差し出した。
アンジェロを信じ、生徒は薬草を口にした。結果、病状は回復に向かった。
この生徒は、アンジェロの卒業後もハーブの庭を守り続けた。
ハーブの噂は、口伝いに学院内を駆け巡り、島の人へも伝わった。
「体調が悪い時はアンジェロに」という話が流れて、一時期彼は戸惑った。
薬理効果があると実証されている薬草ならば渡すことはできるが、
薬草は薬であると同時に毒にもなる。使い方を間違えるわけにはいかない。
最悪の場合、生徒達の命を奪うことになってしまう。
慎重を期したアンジェロは、効能を自分の身体で確かめていない薬草の場合は、
「すみませんが、これは人様に処方できません」と丁重に断った。
先ず自分の身体を実験台に薬草の効果を研究していたからだ。
しかし、彼の元には「自分を治験体に使って良い」という声が多く寄せられた。
それはアンジェロのハーブで助かった家の者やその友人であったり、
彼の人柄や時折見せるはにかんだ微笑に魅せられたからかもしれなかった。
どちらかと言うと口下手な彼は、自分から話すより人の話を聞いている方が好きだった。
アンジェロに話を聞いて貰った者は、それだけでも心が落ち着き、
「ありがとう、アンジェロ」と礼を言う。
この島のボルジアは皆に愛された存在、生を司る天使だった。
ナイチンゲールに薬草を与えたアンジェロは、傷めた羽根に包帯を巻いていた。
細く白い人差し指で鳥を撫でる。
「これで良くなりますよ。後はゆっくりお眠り」
葉で作った小さなベッドに寝かせる。天使は小鳥を慈しむように眺めていた。
その後はいつものようにハーブの世話を始めた。
それから暫くの間。
この庭では、アンジェロが小鳥とハーブを世話する姿が見られた。
小鳥は、自分の部屋に置いているのだが、
庭に行く時も葉を幾重にも敷いた手提げ籠に乗せて連れて行った。
アンジェロは放課後になると此処まで来て庭の手入れをしていた。
此処は澄んだ空気に満ちた場所だった。
ある日、同行した講師は生徒に尋ねる。長い人生の中でも印象深い場面だ。
「どうだね、小鳥の具合は?」
「怪我はすっかり良くなりました。そろそろ飛べる頃でしょう」
手提げ籠の中に居る鳥は既に包帯が取れていた。
時折、ぱさぱさと翼を震わせ、準備運動をしているようにも見える。
小さな頭を撫でながら、アンジェロは微笑する。
「この子が再び空に戻れることを願って、薬草を煎じたのに。
今は淋しいのです、私の手から離れていってしまうことが。可笑しいですよね」
鳥には薬草を与え、庭には水をやり、雑草などを丁寧に抜き取る。
間引きする葉にも「ごめんね」と詫び、必ず土に還すような子だった。
「可笑しくはないよ、アンジェロ。愛おしく想うことは大切な感情だ」
「先生…ありがとうございます」
「君はこのハーブ達のことも愛おしいんだろう?」
「はい。私は此処に居ると落ち着くんです」
緑に囲まれた生徒は、愛情に満ちた瞳で、ハーブを見つめていた。
「彼等は人の目を楽しませてくれるだけではなく、時に命さえ救うことができます。
例えば、このパッシフローラも」
花弁は中央から外側に向けて、紫、白、青の斑模様の花。
前面には毒々しい三本の雄蕊が突き出している。
「葉には幻覚作用がありますが、同時に不眠症や痙攣などの沈静作用があるんです」
「ほう」
続いてトリカブトの葉に手を添えた。根には神経毒のアコニチンが含まれる。
たった2~5グラムで嘔吐や呼吸困難の中毒症状から、やがて死に至る毒物だ。
「こちらのトリカブトは毒物のイメージが強いかもしれませんが、
きちんと弱毒処理を行えば、強心作用を持つ立派な漢方薬になります」
自分から人に話をすることが稀な子が、細い声ながらも真摯に語っていた。
「我々人間が知らないだけなんです。彼等に薬という側面があることを」
悲しげに曇った表情から、はっと目を伏せて申し訳なさそうに呟く。
「あっ、すみません…私ばかり話してしまって」
「構わないよ。君は医術の特別講義を中心に取っているんだったね?」
「はい。薬理学が特に興味深いです。このハーブで薬を作る実習もあるんですよ」
幸福に満ちた笑顔。
講師には、ただ黙っていることしか出来なかった。
君が今育てている葉。
それが数年後、兄上の遺体から発見される葉だと、
どうして、その時言えただろう。
アンジェロは突然立ち上がり、小鳥に駆け寄った。
「今、今のは、君が鳴いたの?」
手提げ籠の中で、小さな鳥は首を左右に傾げた。
生徒は講師を振り返って尋ねる。
「あの、先生、先生も聞こえました? この子の声」
「いや、すまない。私には…」
講師の視界に白が映った。
籠の中に小鳥の姿がない。
ハーブの庭に、さえずりが響いた。『恋の歌』と呼ばれる美しい歌声。
白い羽が一枚ふわりと雪のように降りてくる。
アンジェロは地に落ちた羽を拾い、自分の胸に当てた。
「元気になったんですね、良かった…良かったです」
fin
学院から少し離れたこの場所は、
今や生徒や島民にとって欠かせない癒しの園であった。
常連も少なくない。近年では眼鏡の日本人が折に触れてやってくる。
彼は日本コーナーに佇む一本の木を見上げていた。
時には、隣接する茶室でお抹茶を飲み、ほうと息と吐きながら。
春は花を、夏は実を、秋は葉を、冬には枝を眺めていた。
アンジェロのハーブ園、と名付いた一角にはフランス人がよく訪れていた。
其処にあるのは毒草のみ。
約500年前、一人の生徒がハーブを育てた庭。
この植物園の起源となった場所だ。
現代に居るフランス出身の生徒は、先日の文化祭にて、
アンジェロ・ボルジアの衣装を纏い、劇で彼を演じた。
自分で選出したのではなく、「お前にピッタリ」などと言われて、
調子の良いハリウッドスターに宛がわれた役だったのだが。
それに前後して、アンジェロの資料を改めて読み出したのかもしれない。
この植物園の園長は、アンジェロの数少ない研究者だ。
どうやら、園長の先祖がマージナルプリンスで、
当時、アンジェロと交流があったらしい。
先祖が残した日記に、アンジェロとのささやかな日常が綴られているページがある。
現存する貴重な資料として、園内の小さな資料館にも展示されていた。
それを見る限りでは、アンジェロは毒殺魔をしての顔を持っていないのだ。
日記に残されていたのは、取るに足らない日々の記録に過ぎないのだが、
後に、イタリアで華の様に散ったボルジア家を想うと、
学院で過ごしたこの時期が一番幸福だったのでは、と思えてならない。
彼にとって此処は、薬草用の庭だった。
人を殺める為に、花達を育てていたのではないようだ。
この紫の花。
猛毒トリカブトでさえも、アンジェロの瞳には、
人を救うハーブに映っていたのかもしれない。
少なくとも、聖アルフォンソ学院に居た頃は。
「絵になるね、アンリ。紫の花がよく似合う」
耳に馴染んだ声がした。軽く微笑みを称えた紳士。
神秘学の講師だ。今日は紺のスーツ。
同じく紺のクロスタイにパールピンが白く留まっている。
「…オーギュスト。何故、君まで居るの」
「散歩だよ。アンリもかい? 奇遇だね」
生徒は憮然とした表情だが、講師は微笑を保ったままだ。
「アンリはトリカブトがお気に入りなのかね?」
「別に好きという程でもないよ。ただ、此処に居ると気分が落ち着くだけ。
僕がどうかしているのかな、これらは毒草なのにね」
ポケットに手を入れて、紫の花を見下ろす生徒。
講師の瞳には、かつて此処に居た生徒が重なってみえるようだった。
――私は此処に居ると落ち着くんです――
アンリはトリカブトを眺めたまま、常のように淡々と話した。
「イタリアに咲いた毒の華、ボルジア家。
思うままに敵を殺め、短い生涯を終えた毒殺一家。
けれど、聖アルフォンソ島に居たアンジェロからは陰惨な香りがしない。
冷徹なだけの毒殺魔が作ったにしては、この花園は美し過ぎるからね」
「そうだね。アンジェロは、心の優しい子だったから」
生徒は隣を見上げる。講師は青い空を眺めていた。
どんなに時が過ぎても空の青さは変わらない。
それは皆より長く生きてきた講師の素直な感想だった。
あの日も澄み渡る青空だった。
16世紀初頭、外界が戦乱の世であっても、
辺境の島では生徒達の安全が保証され、
訳ありの子息達が束の間の学生生活を送っていた。
講義が終わった学院内から長閑な空気が流れる。
珍しく慌てた様子の生徒が、月桂樹の森から出て来た。
聖アルフォンソ学院の制服を正しく身に付けている。
肌は雪の如く、この時は動揺により仄かに赤みが差していた。
滑らかな髪は兄に似せたのか、肩より上で揃えていた。
手に乗せた物を見ていた為に誰かの胸にぶつかった。
生徒が顔を上げると相手は制服ではなかった。
年の頃、40歳前後の紳士。この学院の特別講師だ。
「あ、ごめんなさい、先生」
「おや、アンジェロ。手にしているのは…」
細い手には、眼を閉じた白い小鳥。
「ナイチンゲールです。先程、森で…木の下で見付けました」
「怪我をしているのかい?」
「ええ。それで、これから私の庭に行こうと…止血剤になる薬草があるんです」
「そうか。急ぎなら馬に乗せてあげよう。おいで」
四輪駆動車など無い時代。
アンジェロが此処で過ごしたのは、15世紀と16世紀の狭間。
まだイタリアが分裂していた、ルネサンス期の頃だ。
ボルジア家の父、ローマ教皇アレクサンデル6世は、
聖職の立場ながら欲望の赴くまま女を愛した。
愛人ヴァノッツァ・カタネイとの間には母の美貌を受け継いだ子供達が生まれた。
長兄チェーザレは荒れ狂うイタリアに咲いた毒の華。
イタリア統一の野望を叶える為には手段を選ばず、邪魔者を葬った。
次男ホアンは派手な享楽家。父に取り入り、教会軍総司令官の座を勝ち取るも、
何者かに暗殺され、無残な遺体となって河に浮かんだ最期を迎える。
愛する息子を失った父が、犯人の捜査を途中で打ち切ったのは、
犯人が邪魔な弟を妬んだ兄チェーザレだったからではないか。
その説が広まったのにも無理がないほど、チェーザレの暗殺は続いた。
長女ルクレツィアは、兄弟の中で最も美しかった。
父と兄二人との四角関係が囁かれる程、溺愛された。
彼等の為に三度も政略結婚する数奇な運命を辿る。
その夫達は用済みとなると抹消され、
二番目の夫であるナポリ王子アルフォンソも何者かに惨殺された。
三男ホーフレは妻を兄二人に寝取られる。歴史書にはそこまでしか記されていない。
末弟アンジェロの名は聖アルフォンソ島にしか残っていなかった。
末弟は混乱を極めるイタリアから逃れ、
13歳、中等部の一年生から聖アルフォンソ学院で過ごした。
入学当時こそ、家名と美貌により、奇異と好奇の眼差しを向けられたものだが、
性格は至って大人しく、悪名高きボルジアの者とは思えない子だった。
卒業まで修めた学問は、医術が中心だった。
薬理学、植物学の特別講義を受けており、熱心に薬草を育てていた。
シュヌーシア寮の病弱な生徒が酷く体調を崩したことがあった。
彼はアンジェロの後輩で、数少ない友人だった。
友人の病状に心を痛めたアンジェロは「これを」と当時育てていたハーブを差し出した。
アンジェロを信じ、生徒は薬草を口にした。結果、病状は回復に向かった。
この生徒は、アンジェロの卒業後もハーブの庭を守り続けた。
ハーブの噂は、口伝いに学院内を駆け巡り、島の人へも伝わった。
「体調が悪い時はアンジェロに」という話が流れて、一時期彼は戸惑った。
薬理効果があると実証されている薬草ならば渡すことはできるが、
薬草は薬であると同時に毒にもなる。使い方を間違えるわけにはいかない。
最悪の場合、生徒達の命を奪うことになってしまう。
慎重を期したアンジェロは、効能を自分の身体で確かめていない薬草の場合は、
「すみませんが、これは人様に処方できません」と丁重に断った。
先ず自分の身体を実験台に薬草の効果を研究していたからだ。
しかし、彼の元には「自分を治験体に使って良い」という声が多く寄せられた。
それはアンジェロのハーブで助かった家の者やその友人であったり、
彼の人柄や時折見せるはにかんだ微笑に魅せられたからかもしれなかった。
どちらかと言うと口下手な彼は、自分から話すより人の話を聞いている方が好きだった。
アンジェロに話を聞いて貰った者は、それだけでも心が落ち着き、
「ありがとう、アンジェロ」と礼を言う。
この島のボルジアは皆に愛された存在、生を司る天使だった。
ナイチンゲールに薬草を与えたアンジェロは、傷めた羽根に包帯を巻いていた。
細く白い人差し指で鳥を撫でる。
「これで良くなりますよ。後はゆっくりお眠り」
葉で作った小さなベッドに寝かせる。天使は小鳥を慈しむように眺めていた。
その後はいつものようにハーブの世話を始めた。
それから暫くの間。
この庭では、アンジェロが小鳥とハーブを世話する姿が見られた。
小鳥は、自分の部屋に置いているのだが、
庭に行く時も葉を幾重にも敷いた手提げ籠に乗せて連れて行った。
アンジェロは放課後になると此処まで来て庭の手入れをしていた。
此処は澄んだ空気に満ちた場所だった。
ある日、同行した講師は生徒に尋ねる。長い人生の中でも印象深い場面だ。
「どうだね、小鳥の具合は?」
「怪我はすっかり良くなりました。そろそろ飛べる頃でしょう」
手提げ籠の中に居る鳥は既に包帯が取れていた。
時折、ぱさぱさと翼を震わせ、準備運動をしているようにも見える。
小さな頭を撫でながら、アンジェロは微笑する。
「この子が再び空に戻れることを願って、薬草を煎じたのに。
今は淋しいのです、私の手から離れていってしまうことが。可笑しいですよね」
鳥には薬草を与え、庭には水をやり、雑草などを丁寧に抜き取る。
間引きする葉にも「ごめんね」と詫び、必ず土に還すような子だった。
「可笑しくはないよ、アンジェロ。愛おしく想うことは大切な感情だ」
「先生…ありがとうございます」
「君はこのハーブ達のことも愛おしいんだろう?」
「はい。私は此処に居ると落ち着くんです」
緑に囲まれた生徒は、愛情に満ちた瞳で、ハーブを見つめていた。
「彼等は人の目を楽しませてくれるだけではなく、時に命さえ救うことができます。
例えば、このパッシフローラも」
花弁は中央から外側に向けて、紫、白、青の斑模様の花。
前面には毒々しい三本の雄蕊が突き出している。
「葉には幻覚作用がありますが、同時に不眠症や痙攣などの沈静作用があるんです」
「ほう」
続いてトリカブトの葉に手を添えた。根には神経毒のアコニチンが含まれる。
たった2~5グラムで嘔吐や呼吸困難の中毒症状から、やがて死に至る毒物だ。
「こちらのトリカブトは毒物のイメージが強いかもしれませんが、
きちんと弱毒処理を行えば、強心作用を持つ立派な漢方薬になります」
自分から人に話をすることが稀な子が、細い声ながらも真摯に語っていた。
「我々人間が知らないだけなんです。彼等に薬という側面があることを」
悲しげに曇った表情から、はっと目を伏せて申し訳なさそうに呟く。
「あっ、すみません…私ばかり話してしまって」
「構わないよ。君は医術の特別講義を中心に取っているんだったね?」
「はい。薬理学が特に興味深いです。このハーブで薬を作る実習もあるんですよ」
幸福に満ちた笑顔。
講師には、ただ黙っていることしか出来なかった。
君が今育てている葉。
それが数年後、兄上の遺体から発見される葉だと、
どうして、その時言えただろう。
アンジェロは突然立ち上がり、小鳥に駆け寄った。
「今、今のは、君が鳴いたの?」
手提げ籠の中で、小さな鳥は首を左右に傾げた。
生徒は講師を振り返って尋ねる。
「あの、先生、先生も聞こえました? この子の声」
「いや、すまない。私には…」
講師の視界に白が映った。
籠の中に小鳥の姿がない。
ハーブの庭に、さえずりが響いた。『恋の歌』と呼ばれる美しい歌声。
白い羽が一枚ふわりと雪のように降りてくる。
アンジェロは地に落ちた羽を拾い、自分の胸に当てた。
「元気になったんですね、良かった…良かったです」
fin
■約1か月前 続編
■ユウタの愉快な仲間達
■ユウタの愉快な仲間達
「じゃあ、ユウタの誕生日には、ぱぁーっと肝試し大会でもやるかっ!」
「ハロウィンでやったばっかじゃん。また衣装着るのめんどくさいよ。
てゆうか、最後の方、ユウタちょっと泣いてたし」
「可愛かったですよね、ユウタ! 僕、また見たいですー♪」
「ではもう一度泣かせる?」
「アンリ。それじゃ、ユウタのお祝いにならないよ」
ウーティス寮サロン。ユウタを除いて、全員が集まっていた。
シュヌーシア寮に住むミハイルの協力の下、来たる12月15日に向けて、
ウーティスでは秘密裏に第一回目の会議が行われていた。
現在ユウタはミハイルの部屋で映画鑑賞中。あと一時間は戻って来ない。
今年の新入生の誕生日をどう祝おうか、わいわい話し合っていた。
意見は活発に交わされるのだが、個性がバラバラでまとまりがつかない。
「はいはーい! 僕、コスプレパーティが良いと思いまーす♪
日本ではよく行われるイベントなので、ユウタにも喜んで貰える筈です!」
「え。本当かい?」
驚くジョシュアに日本人のハルヤが待ったをかける。
「いや、あの、本当だけど違うっていうか…」
「僕はうさぎ怪獣のきぐるみを着たいので、皆さんは他のでお願いしますね♪」
「お前しか着ねえよ。やっぱさ! パーティと言ったら森でバーベ」
「単細胞だね。それはもう飽きたよ」
「なら、お前は何やりたいんだよ!」
「趣向を変えて、降霊会というのは?」
「アンリ。それじゃ、ユウタのお祝いにならないよ」
ジョシュアは溜め息を漏らす。
制限時間内に何らかの終着点に辿り着くのか心配になってきた。
聖アルフォンソ学院 保健室。
カウンセラーは興味深くミハイルの話を聞いていた。
「ほう。ではそれで悩んでいるんだね?」
「…はい。僕、友達の誕生日プレゼントを考えるなんて、初めてで…」
ユウタを引き止める、という大役を見事に果たした日。
ミハイルはカウンセリングで、今日のことを話した。
そして『最近、悩んでいること』として、『ユウタのプレゼント選び』を挙げた。
「僕、ユウタと会えて、この学院に入って良かったなって思うんです。
だから、ユウタのお誕生日、お祝いしたいんですけど、
でも、何を選んで良いのか分からなくって…」
「そうか。なかなか決められなくて困ってしまうんだね?」
「はい。そうなんです…」
「その時、頭の中にはどんなことが浮かんでいるのかな?」
「えっと…ユウタのこと、いっぱい考えて…」
「うん」
「ユウタに喜んで貰えたらいいなあって」
「どんな気持ちになるんだい?」
「あの、あったかくなります、しあわせな気持ちです」
「なるほど」
カウンセラーは左手で眼鏡に触れる。
そしてボールペンでカルテに何かさらさらと記述した。
「それで、ユウタの誕生日はいつなのかな?」
「来月です。12月15日だって、ウーティスの皆が、教えてくれました」
「ではまだ時間はある。ゆっくり考えるといい。
気付いているかい? 今日のミハイルはとても楽しそうだよ?」
カウンセリングが終わった後。
ミハイルはいつものように泉に向かった。
1本だけの棕櫚の木。日当たりが良く、ぽかぽかと暖かい場所。
此処で涙を乾かしてから、寮に向かう。今日もやっぱり涙が流れた。
博士に「今日はユウタのことを考えながら歌ってごらん」と言われた。
そうすると、いつもとはちょっと違う歌が保健室に響いた。
博士は「とても素晴らしかったよ」と褒めてくれた。
歌い終った時、ミハイルの胸は、ちょっとあたたかくなっていた。
「プレゼント…何がいいのかなあ…好きなものがいいかな…」
泉を見ながら、ミハイルはそっと呟いた。
水面には金髪の少年。自分の姿が、ゆらゆらと揺れている。
「ユウタの好きなものって何だろう?」
大型の鳥が泉に飛んで来た。ナイチンゲールではない。
真っ白な翼を派手にはためかせ、着地する。
黄色の羽冠と黄色のほっぺ。
時々此処で会う。ミハイルの知っている鳥だった。
「あっ、オウムさん。こ、こんにちは…」
呼ばれた鳥は、ぎゅるんと首を半回転させる。
びしっと翼で指差し、甲高い声で叫んだ。
「ゴメンネ! コンニチハ!」
オウムは知能が高く、人の名前と顔を一致させて覚えることができる。
アルファルド寮の生徒は完璧だ。その顔を見れば名前を叫ぶ。
しかし、ミハイルの名前は、誤って『ゴメンネ』と覚えてしまったようで、
会う度にそう呼ばれていた。
ミハイルとしては顔を覚えて貰ったことが嬉しかったので、
名前が間違っていることは、それほど気にならなかった。
オウムはよちよちと寄って来る。
顔見知りのミハイルに対しては警戒心がないらしかった。
小さな黒目と目が合う。
「ゴメンネ、キョウもナミダ?」
「ん。でも大丈夫だよ。今日はね、楽しいこと考えてたから。
プレゼント、考えてたんだ、ユウタの。お誕生日なんだって」
「タンジョウビ?」
「うん。12月15日にね。博士もゆっくり考えればいいって言ってくれたし。
僕、ユウタが喜んでくれる顔、見たいなあ」
あっ、オウムさん、ユウタには内緒にしてね?」
「ユウタにはナイショ?」
「うん。内緒」
「ユウタにはナイショ!」
その夜。
オウムはアルファルド寮のサロンで、いつも通り騒いでいた。
今日覚えた言葉を通りすがりの生徒達に叫ぶのが日課だった。
無口な人種が勢揃いしているこの寮では、
オウムの行動が一種の掲示板の役割を果たしている。
生徒同士が会話をしなくとも、互いの状況が分かる。
何か知りたい時は、黙ってサロンに座っていればいい。
誰がどんな理由で寮を空けているとか、
今日は誰が風邪を引いて寝込んでいるかとか。
アルファルドいちの情報通が、
ぎゃーぎゃー騒いでいるのを聞けば大抵のことは解った。
サロンに黒髪の生徒が現れる。
制服ではないラフな服装。ジムの帰りだった。
寮の生徒を見付けた鳥はびしっと翼で指差し、甲高い声で叫んだ。
「エンジュー、オカエリー! オマエ、ヘンなオウムダナ!」
黒髪の生徒の足が止まる。
切れ長の瞳に睨まれても、オウムは臆することはない。
今日も楽しく、ホットな情報をお送りしていた。
「ユウタにはナイショ! ユウタにはナイショ!」
オウムは今日ミハイルから聞いた単語をオウム返しする。
白い翼を挙げて、元気いっぱい叫んだ。
「ユウタ! オタンジョウビ! 12ガツ15ニチ!」
サロンにもう一人生徒が現れる。
黄金の髪に小麦の肌、オウムの飼い主だ。
その姿を見付けた鳥は、喜び勇んで飛んで行く。
「ジャワハルワール! オカエリー! サミシカッタヨー!」
肩に乗ったオウムを飼い主は優しく撫でる。
一人と一羽は、彼等の部屋へと戻って行った。
サロンにはまだ黒髪の生徒が居た。
fin
「ハロウィンでやったばっかじゃん。また衣装着るのめんどくさいよ。
てゆうか、最後の方、ユウタちょっと泣いてたし」
「可愛かったですよね、ユウタ! 僕、また見たいですー♪」
「ではもう一度泣かせる?」
「アンリ。それじゃ、ユウタのお祝いにならないよ」
ウーティス寮サロン。ユウタを除いて、全員が集まっていた。
シュヌーシア寮に住むミハイルの協力の下、来たる12月15日に向けて、
ウーティスでは秘密裏に第一回目の会議が行われていた。
現在ユウタはミハイルの部屋で映画鑑賞中。あと一時間は戻って来ない。
今年の新入生の誕生日をどう祝おうか、わいわい話し合っていた。
意見は活発に交わされるのだが、個性がバラバラでまとまりがつかない。
「はいはーい! 僕、コスプレパーティが良いと思いまーす♪
日本ではよく行われるイベントなので、ユウタにも喜んで貰える筈です!」
「え。本当かい?」
驚くジョシュアに日本人のハルヤが待ったをかける。
「いや、あの、本当だけど違うっていうか…」
「僕はうさぎ怪獣のきぐるみを着たいので、皆さんは他のでお願いしますね♪」
「お前しか着ねえよ。やっぱさ! パーティと言ったら森でバーベ」
「単細胞だね。それはもう飽きたよ」
「なら、お前は何やりたいんだよ!」
「趣向を変えて、降霊会というのは?」
「アンリ。それじゃ、ユウタのお祝いにならないよ」
ジョシュアは溜め息を漏らす。
制限時間内に何らかの終着点に辿り着くのか心配になってきた。
聖アルフォンソ学院 保健室。
カウンセラーは興味深くミハイルの話を聞いていた。
「ほう。ではそれで悩んでいるんだね?」
「…はい。僕、友達の誕生日プレゼントを考えるなんて、初めてで…」
ユウタを引き止める、という大役を見事に果たした日。
ミハイルはカウンセリングで、今日のことを話した。
そして『最近、悩んでいること』として、『ユウタのプレゼント選び』を挙げた。
「僕、ユウタと会えて、この学院に入って良かったなって思うんです。
だから、ユウタのお誕生日、お祝いしたいんですけど、
でも、何を選んで良いのか分からなくって…」
「そうか。なかなか決められなくて困ってしまうんだね?」
「はい。そうなんです…」
「その時、頭の中にはどんなことが浮かんでいるのかな?」
「えっと…ユウタのこと、いっぱい考えて…」
「うん」
「ユウタに喜んで貰えたらいいなあって」
「どんな気持ちになるんだい?」
「あの、あったかくなります、しあわせな気持ちです」
「なるほど」
カウンセラーは左手で眼鏡に触れる。
そしてボールペンでカルテに何かさらさらと記述した。
「それで、ユウタの誕生日はいつなのかな?」
「来月です。12月15日だって、ウーティスの皆が、教えてくれました」
「ではまだ時間はある。ゆっくり考えるといい。
気付いているかい? 今日のミハイルはとても楽しそうだよ?」
カウンセリングが終わった後。
ミハイルはいつものように泉に向かった。
1本だけの棕櫚の木。日当たりが良く、ぽかぽかと暖かい場所。
此処で涙を乾かしてから、寮に向かう。今日もやっぱり涙が流れた。
博士に「今日はユウタのことを考えながら歌ってごらん」と言われた。
そうすると、いつもとはちょっと違う歌が保健室に響いた。
博士は「とても素晴らしかったよ」と褒めてくれた。
歌い終った時、ミハイルの胸は、ちょっとあたたかくなっていた。
「プレゼント…何がいいのかなあ…好きなものがいいかな…」
泉を見ながら、ミハイルはそっと呟いた。
水面には金髪の少年。自分の姿が、ゆらゆらと揺れている。
「ユウタの好きなものって何だろう?」
大型の鳥が泉に飛んで来た。ナイチンゲールではない。
真っ白な翼を派手にはためかせ、着地する。
黄色の羽冠と黄色のほっぺ。
時々此処で会う。ミハイルの知っている鳥だった。
「あっ、オウムさん。こ、こんにちは…」
呼ばれた鳥は、ぎゅるんと首を半回転させる。
びしっと翼で指差し、甲高い声で叫んだ。
「ゴメンネ! コンニチハ!」
オウムは知能が高く、人の名前と顔を一致させて覚えることができる。
アルファルド寮の生徒は完璧だ。その顔を見れば名前を叫ぶ。
しかし、ミハイルの名前は、誤って『ゴメンネ』と覚えてしまったようで、
会う度にそう呼ばれていた。
ミハイルとしては顔を覚えて貰ったことが嬉しかったので、
名前が間違っていることは、それほど気にならなかった。
オウムはよちよちと寄って来る。
顔見知りのミハイルに対しては警戒心がないらしかった。
小さな黒目と目が合う。
「ゴメンネ、キョウもナミダ?」
「ん。でも大丈夫だよ。今日はね、楽しいこと考えてたから。
プレゼント、考えてたんだ、ユウタの。お誕生日なんだって」
「タンジョウビ?」
「うん。12月15日にね。博士もゆっくり考えればいいって言ってくれたし。
僕、ユウタが喜んでくれる顔、見たいなあ」
あっ、オウムさん、ユウタには内緒にしてね?」
「ユウタにはナイショ?」
「うん。内緒」
「ユウタにはナイショ!」
その夜。
オウムはアルファルド寮のサロンで、いつも通り騒いでいた。
今日覚えた言葉を通りすがりの生徒達に叫ぶのが日課だった。
無口な人種が勢揃いしているこの寮では、
オウムの行動が一種の掲示板の役割を果たしている。
生徒同士が会話をしなくとも、互いの状況が分かる。
何か知りたい時は、黙ってサロンに座っていればいい。
誰がどんな理由で寮を空けているとか、
今日は誰が風邪を引いて寝込んでいるかとか。
アルファルドいちの情報通が、
ぎゃーぎゃー騒いでいるのを聞けば大抵のことは解った。
サロンに黒髪の生徒が現れる。
制服ではないラフな服装。ジムの帰りだった。
寮の生徒を見付けた鳥はびしっと翼で指差し、甲高い声で叫んだ。
「エンジュー、オカエリー! オマエ、ヘンなオウムダナ!」
黒髪の生徒の足が止まる。
切れ長の瞳に睨まれても、オウムは臆することはない。
今日も楽しく、ホットな情報をお送りしていた。
「ユウタにはナイショ! ユウタにはナイショ!」
オウムは今日ミハイルから聞いた単語をオウム返しする。
白い翼を挙げて、元気いっぱい叫んだ。
「ユウタ! オタンジョウビ! 12ガツ15ニチ!」
サロンにもう一人生徒が現れる。
黄金の髪に小麦の肌、オウムの飼い主だ。
その姿を見付けた鳥は、喜び勇んで飛んで行く。
「ジャワハルワール! オカエリー! サミシカッタヨー!」
肩に乗ったオウムを飼い主は優しく撫でる。
一人と一羽は、彼等の部屋へと戻って行った。
サロンにはまだ黒髪の生徒が居た。
fin
■ジョシュアの電話ベース
■博士とウーティスの愉快な仲間達
■博士とウーティスの愉快な仲間達
ハロウィン当夜。
ウーティス寮では恒例の肝試し大会が始まろうとしていた。
開始時間が予定より少々遅れたのは、お化けが苦手な生徒が一人居たからだ。
今宵、生徒達は全員お化けの衣装を纏っている。
昨年の衣装は正統派だったので、今年はユニークなものが揃った。
ジョシュアは学ランに木刀を持っている。
それが果たしてお化けに分類されるのかは生徒代表も少々疑問ではあったが、
せっかく友人に勧めて貰った衣装なので腕を通した。
着てみると、衣装のせいか少し気持ちが大きくなったような気がする。
雪女に扮しているのはアンリ。今は衣装とは別のことで機嫌が悪かった。
視線の先には、アルフレッドと楽しげに談笑している白衣の男。
あの空々しい白を目にするだけで、悪寒が走るようだ。
寮の最高学年に、アンリは心からの疑問をぶつける。
「ねえ、生徒代表殿。なんで此処に、サディストが居るの?」
「アンリ、博士はサディストじゃないよ」
ジョシュアには、というより自分以外の生徒に、
あれはサディストに見えないらしい。
何故だ。何故、騙されていると気付かない。
白衣がサディストかどうかを、
今、この優等生と議論することは、余りにも時間の無駄だった。
どうして彼がイベントに参加しているのかという疑問に戻す。
「今夜はウーティスの肝試し大会でしょ? 彼は必要ない筈だよね」
「博士は引率の先生だよ。ハロウィンは夜のイベントだし、
生徒だけでは何かあった時に心配だからと俺達のことを案じて…」
「あの男が居る方がよっぽど危険だと解らないの?」
不快感を隠さずに苛々と話す。
どうしてアンリがそこまで博士に苦手意識を持っているのか、
ジョシュアには理解できなかった。
確かにちょっと不思議なところもあるけれど、
俺達生徒の身体と心の健康を守ってくれる、信頼できるドクターだ。
「おーいアンリ! 何やってんだ、早く来いよ! ジョシュアも!」
アルフレッドのよく通る声。
アンリは彼と一緒に新入生を驚かせる役だった。
雪女は森の中へと歩き始める。
「煩いのが呼んでいるから、もう行くよ」
「うん。気を付けて。何かあったら、俺達や博士を呼ぶんだよ?」
「サディストを呼ぶくらいなら、君を呼ぶよ」
冷色の着物が森の中に消えて行く。
ジョシュアもそろそろ持ち場に付こうと思った、その時。
「…あれ?」
博士がユウタに何か囁いたのが見えた。
すると、今まで半泣きだったユウタが、急に笑顔を取り戻した。
「オーバケなんて怖くないー、怖くないったら怖くないー♪」
両腕を雄々しく振りながら、替え歌まで歌い始めた。
その変わり様に、ジョシュアは自分の目を疑った。
ユウタの入学初日から、オバケが大の苦手であることを聞いていたため、
ジョシュアとしては、今年は肝試し大会を止めた方が良いのでは、
とさえ思っていたのだが、既に友人達は楽しそうに衣装の準備を始めていた。
せめてユウタだけは見学者に、という意見も言ってはみたものの、
「大丈夫、大丈夫」とアルフレッドやシルヴァンに押され、当日を迎えた。
ジョシュアは別人と化しているユウタを呆然と見ていた。熱唱中だ。
「ユウタは一体どうしたんだろう、そう思っているね?」
背後から大人の声がした。
月光を浴びた白衣が闇夜の中で仄かに浮かぶ。
片手の影から、眼鏡が妖しく光った。
「ソ、ソクーロフ博士…」
「素直な子は助かる。彼は実に可愛いよ」
ドクターは歌うユウタを眺め、笑っていた。
この人はお化けの衣装ではないのに、何故今ゾクリとしたのだろう。
眼鏡を掛け直した博士は、生徒代表に優しく微笑む。
「軽く暗示を掛けておいたから、一時間はこのままだ。
これでユウタも、楽しく肝試し大会が過ごせるだろう」
だからさっき…とジョシュアは納得が行った。
ユウタに囁いた時に暗示を掛けていたのだろう。
しかし、凄い人だ。
生徒代表に就任してから、博士の仕事振りを度々目にしてきたが、
博士が俺達の味方に付いていてくれて、本当に良かったといつも思う。
「ありがとうございます、博士。ユウタの為に」
「可愛い生徒達のお役に立てて光栄だったよ」
それから約一時間後。
楽しい肝試し大会もクライマックスだ。
「オバケなんてなーいさっ、オバケなんてウーソさ♪」
ユウタは一人、意気揚々と月桂樹の森を歩いていた。
お化けがたくさん待機している森の奥まで歩き、
宝物を取って戻ってくるというゲーム。
「ねーぼけーたひーとが、みまちがーえたーのさ♪」
つい一時間ほど前まで、涙目で「俺もやらなきゃダメ?」と
皆にお願いしていたのと同じ人間だとは思えないほど、笑顔全開。
幼稚園児の如く、元気いっぱいに歌っていたのだが。
「だけど、ちょっと、だけ、ど…ちょ…っと」
急激にメロディが遅くなっていく。
縦に思い切り振っていた腕が、徐々に止まる。
「…ぼーくだって……こ…あ、あれ?」
1時間きっかりで暗示が解けた。
『オバケなんてこわくない』と囁かれた呪文。
魔法が解けたユウタは、何故自分が森に一人で居るのか解らない。
辺りをキョロキョロと見回す。真っ暗でよく見えない。
寮の明かりが遠い。森のかなり奥まで来ているようだ。
バサバサ、とナイチンゲールが飛んだ。
「ひっ! …ううっ、み、みんなー、どこに居るの?」
ユウタの後方には、お化けに扮するアルフレッドとアンリが待ち構えていた。
突然、挙動不審になったユウタを見て、おや、と思ったのはアンリだけだった。
興奮を抑え切れない笑顔で、アルフレッドは雪女の肩に手を置く。
「来た来た♪ 行くぞっ、アンリ」
数秒後。
森にユウタの叫び声が木霊した。
ハロウィンパーティ兼、肝試し大会が終わった夜。
生徒達と大人達は、ウーティス寮のサロンで、
あたたかいホットチョコレートを片手に談笑していた。
今年、シルヴァンは大好きなジャパニメーションの衣装を、
大好きな日本人に施して大満足だった。
「ハルヤの衣装、とっても可愛いでチュー♪」
「…やだ…シルヴァンってヘンな日本語ばっかり覚えてくるね…」
今年、ハルヤの衣装は、ねずみ男だったので、
シルヴァンは日本のねずみ周りのアニメをちゃんと勉強していた。
その結果、語尾に鳴き声である「チュウ」を付ける、という日本語を習得した。
覚えたての言葉は、やたら使ってみたくなる。
シルヴァンは、ハルヤの両肩に手を置いて、もう一度言ってみた。
「ハルヤ、可愛いでチュ♪」
「もういいってば…」
まっかっかになり始めるハルヤを見て、思わず抱き締めたい衝動に駆られた時。
ドン、とシルヴァンの肩が横に押された。
「これ、どうやって脱ぐの?」
ハルヤの前に雪女扮するアンリが現れた。
着物だったので、着付け師を担当したのはハルヤだった。
長髪のウイッグは既に取っているが、元々セミロングなので、
今のままでも、雪女の衣装に違和感はないなあ、とハルヤは心の中だけで呟く。
返事をしないハルヤに、アンリは、ねえ、と言葉を重ねた。
「聞いている? この服、重たいんだけど」
「あ、えと、脱ぐのは簡単だよ。紐と帯を解くだけだから」
「そう。では一人でいいね」
部屋に戻ろうとした雪女をシルヴァンが大声で引き止めた。
「あっ! アンリアンリ! 僕にお手伝いさせて下さい!
ハルヤ、今まさに『あ~れ~』のチャンスですよねっ!?」
「まあ、それはそうだけど…」
「君達何の話してるの?」
「キモノには正しい脱ぎ方というものがあるんですよ、アンリ!」
「正しい?」
「はいっ♪ これからお教えしますから僕の言う通りにして下さいね?」
部屋の中央では、新入生をジョシュアとレッドが囲んでいた。
お化け嫌いの生徒はまだうっすらと涙目だ。
「ユウタ、大丈夫かい? 少しは落ち着いたかな?」
心配そうに尋ねているのが生徒代表。
この新入生の為、既に着替えは終わっている。
「ん…だいじょぶ…ごめんね、俺、昔から怖がりで…」
「ううん。良いんだよ。俺たちの方こそ、すまない。
ユウタ、楽しそうだったから、最後まで大丈夫かと思ったんだけど」
「あ、うん。よく解んないけど、俺も途中までは怖くなかったんだよねー」
「泣き虫なお前も割とヨカッタぜ、ユウタ」
アルフレッドがユウタの首に腕を回す。
何処からか棒読みの『あーれー』が聞こえてくる。
ユウタはレッドから目を逸らし、頬を少し膨らませた。
「俺、泣き虫なんかじゃないよ…」
「んじゃー、ひとつ、俺様がコワーイ話でもしてやろっか!?」
「れっ、レッドー!」
博士と通りすがりで参加したアイヴィーもサロンでくつろいでいた。
アルフレッドとユウタの様子を見て、アイヴィーが笑う。
「楽しそうで何よりだねー。マージナルプリンスどもは」
大人達の傍に執事が立つ。空いたカップを見て尋ねた。
「ソクーロフ様、アイヴィー様、何か他の物をお飲みになりますか?」
「えっ、んじゃ『とりあえずビール♪』とか言ったら出てくんの?」
「はい。ございます」
「マジで。じゃあ…」
アイヴィーは頼もうとした。が、隣に居る人を見て、止めた。
「あー、いや、やっぱ俺達は止めとくわ。マジプリどもの前だし、な?」
「そうだな。私達はそろそろ失礼しよう。行くぞ、アイヴィー」
「行くってドコに?」
博士は耳打ちする。聞かされた方は複雑な表情になった。
大人達が腰を上げたのを見て、アルフレッドとジョシュアが駆け寄る。
今夜の礼と挨拶を受けて、大人達はサロンから退室した。
その様子をアンリは遠巻きに見ていた。
部屋の隅にある一人席に座るのはいつものことだが、
何故かソクーロフ博士を毛嫌いしているから、近くにも寄りたくないのだろう。
きっと何か誤解があるんだろうとジョシュアは思っていた。
ジョシュアは博士を見送った後、友人の傍へ戻ってきた。
自分にとって二人は、信頼できるドクター、長い付き合いの友人だ。
誤解を解くきっかけになるかもしれないと思い、ユウタの一件をアンリに伝えた。
ところが、返って来た感想は期待とは全く逆のものだった。
「それは犯罪ではないの? むしろ存在そのものが」
「え? 生徒想いのドクターじゃないか。博士はユウタが楽しく過ごせるように」
「何処までお人好しなの、君は」肩を竦め、冷笑する。
「そこまで行くと大物だよね。まあ、知っていたけれど?」
ジョシュアの額を盗み見る。
何かを確かめた後、深紅の瞳を見上げた。
「いい? 肝試しの終盤、つまり一番怖い時に暗示が解けたんだよ?」
「だけどそれは、始まるのが少し遅くなったせいで…」
「では仮に、暗示を掛けなければどうなっていた?
ユウタが夜の森へ、ましてや一人で、行こうとしたかな?」
「そ、れは…」
「お化けが待つ夜中の森に一人で行く。
ユウタにとって最も恐ろしい状況を創り出したんだよ、あのサディストは」
「そんな…考え過ぎじゃないか、アンリ」
「他の考えがあるなら提示して」
ひとつ年下の鋭い目。
ジョシュアは次の言葉が出てこなかった。
fin
ウーティス寮では恒例の肝試し大会が始まろうとしていた。
開始時間が予定より少々遅れたのは、お化けが苦手な生徒が一人居たからだ。
今宵、生徒達は全員お化けの衣装を纏っている。
昨年の衣装は正統派だったので、今年はユニークなものが揃った。
ジョシュアは学ランに木刀を持っている。
それが果たしてお化けに分類されるのかは生徒代表も少々疑問ではあったが、
せっかく友人に勧めて貰った衣装なので腕を通した。
着てみると、衣装のせいか少し気持ちが大きくなったような気がする。
雪女に扮しているのはアンリ。今は衣装とは別のことで機嫌が悪かった。
視線の先には、アルフレッドと楽しげに談笑している白衣の男。
あの空々しい白を目にするだけで、悪寒が走るようだ。
寮の最高学年に、アンリは心からの疑問をぶつける。
「ねえ、生徒代表殿。なんで此処に、サディストが居るの?」
「アンリ、博士はサディストじゃないよ」
ジョシュアには、というより自分以外の生徒に、
あれはサディストに見えないらしい。
何故だ。何故、騙されていると気付かない。
白衣がサディストかどうかを、
今、この優等生と議論することは、余りにも時間の無駄だった。
どうして彼がイベントに参加しているのかという疑問に戻す。
「今夜はウーティスの肝試し大会でしょ? 彼は必要ない筈だよね」
「博士は引率の先生だよ。ハロウィンは夜のイベントだし、
生徒だけでは何かあった時に心配だからと俺達のことを案じて…」
「あの男が居る方がよっぽど危険だと解らないの?」
不快感を隠さずに苛々と話す。
どうしてアンリがそこまで博士に苦手意識を持っているのか、
ジョシュアには理解できなかった。
確かにちょっと不思議なところもあるけれど、
俺達生徒の身体と心の健康を守ってくれる、信頼できるドクターだ。
「おーいアンリ! 何やってんだ、早く来いよ! ジョシュアも!」
アルフレッドのよく通る声。
アンリは彼と一緒に新入生を驚かせる役だった。
雪女は森の中へと歩き始める。
「煩いのが呼んでいるから、もう行くよ」
「うん。気を付けて。何かあったら、俺達や博士を呼ぶんだよ?」
「サディストを呼ぶくらいなら、君を呼ぶよ」
冷色の着物が森の中に消えて行く。
ジョシュアもそろそろ持ち場に付こうと思った、その時。
「…あれ?」
博士がユウタに何か囁いたのが見えた。
すると、今まで半泣きだったユウタが、急に笑顔を取り戻した。
「オーバケなんて怖くないー、怖くないったら怖くないー♪」
両腕を雄々しく振りながら、替え歌まで歌い始めた。
その変わり様に、ジョシュアは自分の目を疑った。
ユウタの入学初日から、オバケが大の苦手であることを聞いていたため、
ジョシュアとしては、今年は肝試し大会を止めた方が良いのでは、
とさえ思っていたのだが、既に友人達は楽しそうに衣装の準備を始めていた。
せめてユウタだけは見学者に、という意見も言ってはみたものの、
「大丈夫、大丈夫」とアルフレッドやシルヴァンに押され、当日を迎えた。
ジョシュアは別人と化しているユウタを呆然と見ていた。熱唱中だ。
「ユウタは一体どうしたんだろう、そう思っているね?」
背後から大人の声がした。
月光を浴びた白衣が闇夜の中で仄かに浮かぶ。
片手の影から、眼鏡が妖しく光った。
「ソ、ソクーロフ博士…」
「素直な子は助かる。彼は実に可愛いよ」
ドクターは歌うユウタを眺め、笑っていた。
この人はお化けの衣装ではないのに、何故今ゾクリとしたのだろう。
眼鏡を掛け直した博士は、生徒代表に優しく微笑む。
「軽く暗示を掛けておいたから、一時間はこのままだ。
これでユウタも、楽しく肝試し大会が過ごせるだろう」
だからさっき…とジョシュアは納得が行った。
ユウタに囁いた時に暗示を掛けていたのだろう。
しかし、凄い人だ。
生徒代表に就任してから、博士の仕事振りを度々目にしてきたが、
博士が俺達の味方に付いていてくれて、本当に良かったといつも思う。
「ありがとうございます、博士。ユウタの為に」
「可愛い生徒達のお役に立てて光栄だったよ」
それから約一時間後。
楽しい肝試し大会もクライマックスだ。
「オバケなんてなーいさっ、オバケなんてウーソさ♪」
ユウタは一人、意気揚々と月桂樹の森を歩いていた。
お化けがたくさん待機している森の奥まで歩き、
宝物を取って戻ってくるというゲーム。
「ねーぼけーたひーとが、みまちがーえたーのさ♪」
つい一時間ほど前まで、涙目で「俺もやらなきゃダメ?」と
皆にお願いしていたのと同じ人間だとは思えないほど、笑顔全開。
幼稚園児の如く、元気いっぱいに歌っていたのだが。
「だけど、ちょっと、だけ、ど…ちょ…っと」
急激にメロディが遅くなっていく。
縦に思い切り振っていた腕が、徐々に止まる。
「…ぼーくだって……こ…あ、あれ?」
1時間きっかりで暗示が解けた。
『オバケなんてこわくない』と囁かれた呪文。
魔法が解けたユウタは、何故自分が森に一人で居るのか解らない。
辺りをキョロキョロと見回す。真っ暗でよく見えない。
寮の明かりが遠い。森のかなり奥まで来ているようだ。
バサバサ、とナイチンゲールが飛んだ。
「ひっ! …ううっ、み、みんなー、どこに居るの?」
ユウタの後方には、お化けに扮するアルフレッドとアンリが待ち構えていた。
突然、挙動不審になったユウタを見て、おや、と思ったのはアンリだけだった。
興奮を抑え切れない笑顔で、アルフレッドは雪女の肩に手を置く。
「来た来た♪ 行くぞっ、アンリ」
数秒後。
森にユウタの叫び声が木霊した。
ハロウィンパーティ兼、肝試し大会が終わった夜。
生徒達と大人達は、ウーティス寮のサロンで、
あたたかいホットチョコレートを片手に談笑していた。
今年、シルヴァンは大好きなジャパニメーションの衣装を、
大好きな日本人に施して大満足だった。
「ハルヤの衣装、とっても可愛いでチュー♪」
「…やだ…シルヴァンってヘンな日本語ばっかり覚えてくるね…」
今年、ハルヤの衣装は、ねずみ男だったので、
シルヴァンは日本のねずみ周りのアニメをちゃんと勉強していた。
その結果、語尾に鳴き声である「チュウ」を付ける、という日本語を習得した。
覚えたての言葉は、やたら使ってみたくなる。
シルヴァンは、ハルヤの両肩に手を置いて、もう一度言ってみた。
「ハルヤ、可愛いでチュ♪」
「もういいってば…」
まっかっかになり始めるハルヤを見て、思わず抱き締めたい衝動に駆られた時。
ドン、とシルヴァンの肩が横に押された。
「これ、どうやって脱ぐの?」
ハルヤの前に雪女扮するアンリが現れた。
着物だったので、着付け師を担当したのはハルヤだった。
長髪のウイッグは既に取っているが、元々セミロングなので、
今のままでも、雪女の衣装に違和感はないなあ、とハルヤは心の中だけで呟く。
返事をしないハルヤに、アンリは、ねえ、と言葉を重ねた。
「聞いている? この服、重たいんだけど」
「あ、えと、脱ぐのは簡単だよ。紐と帯を解くだけだから」
「そう。では一人でいいね」
部屋に戻ろうとした雪女をシルヴァンが大声で引き止めた。
「あっ! アンリアンリ! 僕にお手伝いさせて下さい!
ハルヤ、今まさに『あ~れ~』のチャンスですよねっ!?」
「まあ、それはそうだけど…」
「君達何の話してるの?」
「キモノには正しい脱ぎ方というものがあるんですよ、アンリ!」
「正しい?」
「はいっ♪ これからお教えしますから僕の言う通りにして下さいね?」
部屋の中央では、新入生をジョシュアとレッドが囲んでいた。
お化け嫌いの生徒はまだうっすらと涙目だ。
「ユウタ、大丈夫かい? 少しは落ち着いたかな?」
心配そうに尋ねているのが生徒代表。
この新入生の為、既に着替えは終わっている。
「ん…だいじょぶ…ごめんね、俺、昔から怖がりで…」
「ううん。良いんだよ。俺たちの方こそ、すまない。
ユウタ、楽しそうだったから、最後まで大丈夫かと思ったんだけど」
「あ、うん。よく解んないけど、俺も途中までは怖くなかったんだよねー」
「泣き虫なお前も割とヨカッタぜ、ユウタ」
アルフレッドがユウタの首に腕を回す。
何処からか棒読みの『あーれー』が聞こえてくる。
ユウタはレッドから目を逸らし、頬を少し膨らませた。
「俺、泣き虫なんかじゃないよ…」
「んじゃー、ひとつ、俺様がコワーイ話でもしてやろっか!?」
「れっ、レッドー!」
博士と通りすがりで参加したアイヴィーもサロンでくつろいでいた。
アルフレッドとユウタの様子を見て、アイヴィーが笑う。
「楽しそうで何よりだねー。マージナルプリンスどもは」
大人達の傍に執事が立つ。空いたカップを見て尋ねた。
「ソクーロフ様、アイヴィー様、何か他の物をお飲みになりますか?」
「えっ、んじゃ『とりあえずビール♪』とか言ったら出てくんの?」
「はい。ございます」
「マジで。じゃあ…」
アイヴィーは頼もうとした。が、隣に居る人を見て、止めた。
「あー、いや、やっぱ俺達は止めとくわ。マジプリどもの前だし、な?」
「そうだな。私達はそろそろ失礼しよう。行くぞ、アイヴィー」
「行くってドコに?」
博士は耳打ちする。聞かされた方は複雑な表情になった。
大人達が腰を上げたのを見て、アルフレッドとジョシュアが駆け寄る。
今夜の礼と挨拶を受けて、大人達はサロンから退室した。
その様子をアンリは遠巻きに見ていた。
部屋の隅にある一人席に座るのはいつものことだが、
何故かソクーロフ博士を毛嫌いしているから、近くにも寄りたくないのだろう。
きっと何か誤解があるんだろうとジョシュアは思っていた。
ジョシュアは博士を見送った後、友人の傍へ戻ってきた。
自分にとって二人は、信頼できるドクター、長い付き合いの友人だ。
誤解を解くきっかけになるかもしれないと思い、ユウタの一件をアンリに伝えた。
ところが、返って来た感想は期待とは全く逆のものだった。
「それは犯罪ではないの? むしろ存在そのものが」
「え? 生徒想いのドクターじゃないか。博士はユウタが楽しく過ごせるように」
「何処までお人好しなの、君は」肩を竦め、冷笑する。
「そこまで行くと大物だよね。まあ、知っていたけれど?」
ジョシュアの額を盗み見る。
何かを確かめた後、深紅の瞳を見上げた。
「いい? 肝試しの終盤、つまり一番怖い時に暗示が解けたんだよ?」
「だけどそれは、始まるのが少し遅くなったせいで…」
「では仮に、暗示を掛けなければどうなっていた?
ユウタが夜の森へ、ましてや一人で、行こうとしたかな?」
「そ、れは…」
「お化けが待つ夜中の森に一人で行く。
ユウタにとって最も恐ろしい状況を創り出したんだよ、あのサディストは」
「そんな…考え過ぎじゃないか、アンリ」
「他の考えがあるなら提示して」
ひとつ年下の鋭い目。
ジョシュアは次の言葉が出てこなかった。
fin
■切ないアンリ(シハル姉さんのリクエスト)
ある初夏の日。
午前の講義が終わり、アンリは部屋に戻ってきた。
教科書を机に置いた時、ノックの音がした。
「アンリ様にお荷物でございます」
バトラーが抱えていたのは細長い箱。
その形状で何が入っているのか知れた。
自分の名を伏せ、一般の消費者として手に入れた物だった。
伝票を見るとやはりアンリが自ら取り寄せた品。
銘柄として刻まれているのは、女性の名前だった。
「悪いけれど、箱を開けて、中の物を冷やしておいて。後で飲むから」
優秀な執事は感情を表に出さず、主人の命に従う。
「畏まりました。いつお持ちしますか?」
「夕食の後、僕の部屋に。グラスはひとつで良い」
その夜は、あまり食が進まなかった。食事中、いつも騒がしい人達から、
「サロンでカードゲームをしよう」と言われたが「もう眠るから」と辞退した。
今夜、彼等の相手をする気にはなれなかったし、部屋にも来て欲しくなかった。
部屋に戻り、執事から青いボトルとワイングラスを受け取った。
「お注ぎ致しましょうか」という申し出は断り、自分で栓を開け、グラスに注いだ。
机の上に、ひとつだけのワイングラス。
水色は淡い淡い琥珀。瑞々しい果実の芳香。
毎年この時期、初夏に売り出される。
名産である赤い果実で作ったスパークリングワイン。
「おや。リンゴの香りだね。シードルかい?」
振り向くと、神秘学の講師の姿があった。
神出鬼没にも程がある。気配すらしなかったのに。
「…オーギュスト、いつから居たの」
「君達の夕食中にね」壁から背を起こして、こちらへ近付く。
「ところでアンリ、それはお酒じゃないのかね?」
生徒は俯いたが、口では冷静な反論を返した。
「叱られる覚えは無いよ。フランスでは16歳から飲酒可能だ」
「うん。知っているよ。ただ…ちょっと見てもいいかね?」
「オーギュ」
教え子の制止を逃れ、講師はボトルを手に取った。
琥珀の瞳が後ろ暗く滲む。その様子で予想が確信に変わる。
ボトルに刻まれた名を、講師は見つめてしまった。
そして、ボトルをくるりと回し、裏のラベルを確かめる。
原産地は大西洋に面するフランス北西部。
「サン・ジェルマンのご当主は、
ワイナリーをお持ちだったね、ブルターニュに」
アンリの曾祖父の代から、サン・ジェルマン家は、
ワイン醸造所やホテル経営など堅実な事業を起こしている。
ボトルラベルにはリング状のブランドマーク。
ウロボロス、永劫回帰の蛇をモチーフにしたらしい。
当主の子息が顔を上げる。言葉は強気で、冷たかった。
「だから何だというの。言いたいことがあるなら言えば?」
「大いにあるね」
「では早く言って」
教え子に睨まれた講師は、テーブルにボトルを静かに置く。
コトンと重い瓶が音を立てた。
講師は小首を傾げる。優しい声だった。
「1人でボトル1本は、多いんじゃないのかね?」
琥珀の瞳が瞬く。講師は穏やかに続ける。
「それにカマンベールも無しとは頂けないな。少し待っていなさい。
ルブラン・シェフに頼んでくるよ。あと、グラスを2つね」
「どうして、2つなの?」
「3人で乾杯するからだよ」
教え子の頭をポンポンと撫でる。
講師の背はドアの向こうに消えて行った。
机上のグラスからは、フルーティーな香り。
グラス越しに佇む写真立て。
淡い琥珀の中には泡沫と母の微笑が浮かんでいた。
fin
午前の講義が終わり、アンリは部屋に戻ってきた。
教科書を机に置いた時、ノックの音がした。
「アンリ様にお荷物でございます」
バトラーが抱えていたのは細長い箱。
その形状で何が入っているのか知れた。
自分の名を伏せ、一般の消費者として手に入れた物だった。
伝票を見るとやはりアンリが自ら取り寄せた品。
銘柄として刻まれているのは、女性の名前だった。
「悪いけれど、箱を開けて、中の物を冷やしておいて。後で飲むから」
優秀な執事は感情を表に出さず、主人の命に従う。
「畏まりました。いつお持ちしますか?」
「夕食の後、僕の部屋に。グラスはひとつで良い」
その夜は、あまり食が進まなかった。食事中、いつも騒がしい人達から、
「サロンでカードゲームをしよう」と言われたが「もう眠るから」と辞退した。
今夜、彼等の相手をする気にはなれなかったし、部屋にも来て欲しくなかった。
部屋に戻り、執事から青いボトルとワイングラスを受け取った。
「お注ぎ致しましょうか」という申し出は断り、自分で栓を開け、グラスに注いだ。
机の上に、ひとつだけのワイングラス。
水色は淡い淡い琥珀。瑞々しい果実の芳香。
毎年この時期、初夏に売り出される。
名産である赤い果実で作ったスパークリングワイン。
「おや。リンゴの香りだね。シードルかい?」
振り向くと、神秘学の講師の姿があった。
神出鬼没にも程がある。気配すらしなかったのに。
「…オーギュスト、いつから居たの」
「君達の夕食中にね」壁から背を起こして、こちらへ近付く。
「ところでアンリ、それはお酒じゃないのかね?」
生徒は俯いたが、口では冷静な反論を返した。
「叱られる覚えは無いよ。フランスでは16歳から飲酒可能だ」
「うん。知っているよ。ただ…ちょっと見てもいいかね?」
「オーギュ」
教え子の制止を逃れ、講師はボトルを手に取った。
琥珀の瞳が後ろ暗く滲む。その様子で予想が確信に変わる。
ボトルに刻まれた名を、講師は見つめてしまった。
そして、ボトルをくるりと回し、裏のラベルを確かめる。
原産地は大西洋に面するフランス北西部。
「サン・ジェルマンのご当主は、
ワイナリーをお持ちだったね、ブルターニュに」
アンリの曾祖父の代から、サン・ジェルマン家は、
ワイン醸造所やホテル経営など堅実な事業を起こしている。
ボトルラベルにはリング状のブランドマーク。
ウロボロス、永劫回帰の蛇をモチーフにしたらしい。
当主の子息が顔を上げる。言葉は強気で、冷たかった。
「だから何だというの。言いたいことがあるなら言えば?」
「大いにあるね」
「では早く言って」
教え子に睨まれた講師は、テーブルにボトルを静かに置く。
コトンと重い瓶が音を立てた。
講師は小首を傾げる。優しい声だった。
「1人でボトル1本は、多いんじゃないのかね?」
琥珀の瞳が瞬く。講師は穏やかに続ける。
「それにカマンベールも無しとは頂けないな。少し待っていなさい。
ルブラン・シェフに頼んでくるよ。あと、グラスを2つね」
「どうして、2つなの?」
「3人で乾杯するからだよ」
教え子の頭をポンポンと撫でる。
講師の背はドアの向こうに消えて行った。
机上のグラスからは、フルーティーな香り。
グラス越しに佇む写真立て。
淡い琥珀の中には泡沫と母の微笑が浮かんでいた。
fin
■テオ×クラウス
11月、ある日の放課後。
今日の講義が終了した生徒が寮に戻って来た。
鍛え抜かれた身体を持つ、クラウス・フォン・モール。
シュヌーシア寮の最高学年だ。
サロンの方から騒がしい声が聞こえたので、扉を開けてみた。
何故、部屋の中央に木が立っているのか。
昨日まではなかった。
どう見ても本物の木が、室内にある。
形状から、もみの木だということは解る。
だが、それは来月のイベントだ。
まだ1か月も先なのに早いのではないか。
さらに、天井まで届きそうなほどの大きさだ。
いくらなんでも、でか過ぎる。
木の周りには、たくさんの生徒達が集まっていた。
皆、オーナメントなどを持ち、木の飾り付けをしていたようだ。
中等部は、何やらキラキラしたものを手に持って走り回っている。
何処から注意していいのか解らない。
クラウスの姿を見付けた生徒が笑顔を輝かせた。
「ああ、クラウス! クラウスも一緒にやろう。楽しいよ」
「犯人はお前か…テオ」
「もちろんだとも!」
シュヌーシア寮サロンには早くもクリスマスツリーが設置されていた。
立派な樹木に豪華なオーナメント。飾り付けが終わると点灯式を行った。
ピカピカと光るツリーを見ながら、皆でホットチョコレートを飲んだ。
一通り今の幸福感を表明したテオは、来たる当日の話を始めた。
「さて。今年のクリスマスはどうしようか?」
甘いカカオの匂いが立ち込めている。クラウスのカップだけが珈琲だった。
「そう言えば、昨年はサンタクロースごっこをしたんだったな、お前が」
テオに懐いている中等部達が突進してくる。
皆、口々に去年のお礼やら思い出を語った。
「去年のクリスマス、ありがとね、テオ」
「びっくりしたよなー。朝起きたらフツーにプレゼントあってさ」
「そーそー。俺、親にもして貰ったことねえよ、んなこと」
「ま、誰からのプレゼントだか、すぐ解ったけどな」
「うん。僕もテオがくれたんだって思ったー」
皆の視線を受けて、テオは、ふふと笑う。
「おやおや、みんな。彼は私ではなく、サンタさんなのだよ?」
昨年のクリスマスイブ。
真夜中、ご丁寧にわざわざサンタクロースの格好をしたテオは、
寮生達の部屋を訪れ、一人一人の枕許にプレゼントを置いて回った。
大半の生徒達は、翌日に驚くことになったのだが、
軍人の身体をしているクラウスには、見付かってしまった。
不審な侵入者を敏感に察知したクラウスは、
無駄に大きな白い袋を抱え、赤い服を着たテオと鉢合わせた。
クラウスはその時、初めてサンタクロースというものに出会ったのだが、
口から出た言葉は至極、無感動なものだった。
「…何やってるんだ、テオ。就寝時間だぞ」
サンタの方は白ひげを撫でながら楽しそうに笑う。
照明を消した薄暗い部屋でも、テオの笑顔が眩しく見えるようだった。
「ほっほっほ! 見付かってしまったねえ。メーリークリスマース!」
「お前…クリスマスパーティは明日やるんだろう?」
「サンタさんは、シュヌーシアの良い子達にプレゼントを渡しに来たのだよ」
「良い子達…って、まさか、全員か?」
「我がシュヌーシアは良い子達ばかりだからねえ」
「この道楽者は…」
「クラウス君へのプレゼントはこれだよ」
白い袋から出て来たのは大きな赤い箱。
中身はクラウスが以前ちらりと欲しいと言った事があるものだった。
テオサンタは白い袋を畳む。もう何も入っていない。
他の部屋には全て回っている。クラウスの部屋が最後だった。
「それから、クラウス君にはもうひとつプレゼントを。
クラウス君は良い子過ぎるくらい良い子だからねえ」
赤い服のポケットから白いリボンを取り出した。
既に結ばれた形のリボンを胸にぺたと貼った。
裏にシールでも付いているらしい。
ベッドの上でクラウスは眉間に皺を寄せた。
「それは何の真似だ?」
「私をあげる。貰ってくれるかい、クラウス」
サンタはベッドに腰を降ろす。
その重みを受けて、ベッドが少し沈む。
テオはいつもと変わらない穏やかさに加え、
情熱を込めた真摯な眼差しを向けた。
「貴方になら私の全てをあげる。愛しているよ、クラウス」
クラウスは友人を直視できなくなる。
こういう言葉を投げ掛けられると、どう対処していいのか解らなくなる。
「お前はまた…そういうことを…」
「聖なる夜にも愛を語ってはいけないのかい?
私はきっと、クラウスに会うため、聖アルフォンソ学院に――
いや、この世に、生を授かったのだよ」
真正面に向けられた瞳。
いつだって思うまま行動し、テオは自由に言葉を発してきた。
テオの言動は眩むほど派手だが、その本質には常に嘘偽りはない。
だが、テオは友人だ。
友人の枠から越えてはならない相手だ。
誤りだ。俺に愛など注いでも何にもならない。
何故、俺なんだ。何故、俺でなくてはならなかった。
「止めろ、テオ…相手を間違えている」
「ううん。他に誰が居ると言うんだい。貴方こそ、私の全てだ。
私は貴方を愛したことを後悔しないよ」
後悔しない、それは本当なのだろうか。
肩に添えられた手。ゆっくりと赤い衣装が倒れ込んで来る。
クラウスの背がベッドに戻った。
こんな体勢を戦場で取ったら、自ら降伏しているようなものだ。
沈黙の後、テオの瞳に困惑した俺が映っていた。
「貴方と共にある奇跡に感謝するよ。愛しい…愛しいよ、クラウス…」
その後のことまで思い出してしまって、クラウスの耳が仄かに紅潮する。
昨年の出来具合に大満足だったテオは美しい思い出に陶酔していた。
「昨年のクリスマスは素晴らしかったね。おや? どうしたんだい、クラウス」
「…今年のサンタクロースごっこは禁止だ」
寮生達から「えー!?」と叫び声が上がる。テオも慌てて詰め寄った。
「クラウス! 私は今年もやろうと思っていたのだよ?」
「いや、しかし…」
煌めくクリスマスツリーの下で、生徒達の賑やかな声が飛び交う。
結果、クラウスは寮生全員からの大反対に合い、多数決に惨敗する。
その年、シュヌーシアの枕許には、2人のサンタクロースが訪れた。
fin
今日の講義が終了した生徒が寮に戻って来た。
鍛え抜かれた身体を持つ、クラウス・フォン・モール。
シュヌーシア寮の最高学年だ。
サロンの方から騒がしい声が聞こえたので、扉を開けてみた。
何故、部屋の中央に木が立っているのか。
昨日まではなかった。
どう見ても本物の木が、室内にある。
形状から、もみの木だということは解る。
だが、それは来月のイベントだ。
まだ1か月も先なのに早いのではないか。
さらに、天井まで届きそうなほどの大きさだ。
いくらなんでも、でか過ぎる。
木の周りには、たくさんの生徒達が集まっていた。
皆、オーナメントなどを持ち、木の飾り付けをしていたようだ。
中等部は、何やらキラキラしたものを手に持って走り回っている。
何処から注意していいのか解らない。
クラウスの姿を見付けた生徒が笑顔を輝かせた。
「ああ、クラウス! クラウスも一緒にやろう。楽しいよ」
「犯人はお前か…テオ」
「もちろんだとも!」
シュヌーシア寮サロンには早くもクリスマスツリーが設置されていた。
立派な樹木に豪華なオーナメント。飾り付けが終わると点灯式を行った。
ピカピカと光るツリーを見ながら、皆でホットチョコレートを飲んだ。
一通り今の幸福感を表明したテオは、来たる当日の話を始めた。
「さて。今年のクリスマスはどうしようか?」
甘いカカオの匂いが立ち込めている。クラウスのカップだけが珈琲だった。
「そう言えば、昨年はサンタクロースごっこをしたんだったな、お前が」
テオに懐いている中等部達が突進してくる。
皆、口々に去年のお礼やら思い出を語った。
「去年のクリスマス、ありがとね、テオ」
「びっくりしたよなー。朝起きたらフツーにプレゼントあってさ」
「そーそー。俺、親にもして貰ったことねえよ、んなこと」
「ま、誰からのプレゼントだか、すぐ解ったけどな」
「うん。僕もテオがくれたんだって思ったー」
皆の視線を受けて、テオは、ふふと笑う。
「おやおや、みんな。彼は私ではなく、サンタさんなのだよ?」
昨年のクリスマスイブ。
真夜中、ご丁寧にわざわざサンタクロースの格好をしたテオは、
寮生達の部屋を訪れ、一人一人の枕許にプレゼントを置いて回った。
大半の生徒達は、翌日に驚くことになったのだが、
軍人の身体をしているクラウスには、見付かってしまった。
不審な侵入者を敏感に察知したクラウスは、
無駄に大きな白い袋を抱え、赤い服を着たテオと鉢合わせた。
クラウスはその時、初めてサンタクロースというものに出会ったのだが、
口から出た言葉は至極、無感動なものだった。
「…何やってるんだ、テオ。就寝時間だぞ」
サンタの方は白ひげを撫でながら楽しそうに笑う。
照明を消した薄暗い部屋でも、テオの笑顔が眩しく見えるようだった。
「ほっほっほ! 見付かってしまったねえ。メーリークリスマース!」
「お前…クリスマスパーティは明日やるんだろう?」
「サンタさんは、シュヌーシアの良い子達にプレゼントを渡しに来たのだよ」
「良い子達…って、まさか、全員か?」
「我がシュヌーシアは良い子達ばかりだからねえ」
「この道楽者は…」
「クラウス君へのプレゼントはこれだよ」
白い袋から出て来たのは大きな赤い箱。
中身はクラウスが以前ちらりと欲しいと言った事があるものだった。
テオサンタは白い袋を畳む。もう何も入っていない。
他の部屋には全て回っている。クラウスの部屋が最後だった。
「それから、クラウス君にはもうひとつプレゼントを。
クラウス君は良い子過ぎるくらい良い子だからねえ」
赤い服のポケットから白いリボンを取り出した。
既に結ばれた形のリボンを胸にぺたと貼った。
裏にシールでも付いているらしい。
ベッドの上でクラウスは眉間に皺を寄せた。
「それは何の真似だ?」
「私をあげる。貰ってくれるかい、クラウス」
サンタはベッドに腰を降ろす。
その重みを受けて、ベッドが少し沈む。
テオはいつもと変わらない穏やかさに加え、
情熱を込めた真摯な眼差しを向けた。
「貴方になら私の全てをあげる。愛しているよ、クラウス」
クラウスは友人を直視できなくなる。
こういう言葉を投げ掛けられると、どう対処していいのか解らなくなる。
「お前はまた…そういうことを…」
「聖なる夜にも愛を語ってはいけないのかい?
私はきっと、クラウスに会うため、聖アルフォンソ学院に――
いや、この世に、生を授かったのだよ」
真正面に向けられた瞳。
いつだって思うまま行動し、テオは自由に言葉を発してきた。
テオの言動は眩むほど派手だが、その本質には常に嘘偽りはない。
だが、テオは友人だ。
友人の枠から越えてはならない相手だ。
誤りだ。俺に愛など注いでも何にもならない。
何故、俺なんだ。何故、俺でなくてはならなかった。
「止めろ、テオ…相手を間違えている」
「ううん。他に誰が居ると言うんだい。貴方こそ、私の全てだ。
私は貴方を愛したことを後悔しないよ」
後悔しない、それは本当なのだろうか。
肩に添えられた手。ゆっくりと赤い衣装が倒れ込んで来る。
クラウスの背がベッドに戻った。
こんな体勢を戦場で取ったら、自ら降伏しているようなものだ。
沈黙の後、テオの瞳に困惑した俺が映っていた。
「貴方と共にある奇跡に感謝するよ。愛しい…愛しいよ、クラウス…」
その後のことまで思い出してしまって、クラウスの耳が仄かに紅潮する。
昨年の出来具合に大満足だったテオは美しい思い出に陶酔していた。
「昨年のクリスマスは素晴らしかったね。おや? どうしたんだい、クラウス」
「…今年のサンタクロースごっこは禁止だ」
寮生達から「えー!?」と叫び声が上がる。テオも慌てて詰め寄った。
「クラウス! 私は今年もやろうと思っていたのだよ?」
「いや、しかし…」
煌めくクリスマスツリーの下で、生徒達の賑やかな声が飛び交う。
結果、クラウスは寮生全員からの大反対に合い、多数決に惨敗する。
その年、シュヌーシアの枕許には、2人のサンタクロースが訪れた。
fin
■重たいです
■テオ×クラウス
■テオ×クラウス
放課後のシュヌーシア寮。
テオは寮の皆と一緒にお茶の時間を楽しんでいた。
受講している授業数が皆より少ないテオは、
早くからお茶の用意をして、皆を待っているのが好きだった。
今日のおやつはシェフのドニ・ドームと共同開発した秋色スイーツ。
メイプルシロップのケーキに秋のフルーツを豪華に盛り合わせている。
中等部の良い子達が美味しそうに貪る姿を、テオは愛おしげに眺めていた。
「また甘い物を食ってるのか、お前達…」
クラウスがサロンに現れた。珍しいことだ。
この所、何かに付けて生徒代表室に行ってしまうのに。
「おや、クラウス。今日は生徒代表室で会議ではなかった?」
「その予定だったんだがな。関係者が一人、風邪で倒れたために中止だ。
全く体調管理がなってない。あいつは遅刻も多いし…」
クラウスは自分の席となっている場所へ腰掛ける。
それはテオの隣だった。
「街の皆にも風邪が流行っているようだからね。大丈夫なのかい? その人は」
「博士が看るそうだから問題ないだろう」
「それなら安心だね。ではクラウスも今宵はゆっくり過ごせるね。
そうだ。久し振りに一緒に珈琲を飲んでくれる?」
「ああ。俺もお前に聞きたいことがあるんだ」
「おやおや。珍しいね、クラウス。何だい?」
「いや、大した話ではないから、珈琲を淹れた後で良いのだが」
「そんなに私の珈琲が待ち遠しいのだね。私、心を込めて淹れるよ」
「お前は恐ろしくポジティブだな」
「そうかい? どちらかというと私は悲観的な方だと思うけれど」
「どこがだ」
クラウスの言葉に合わせて、中等部の生徒達が笑う。
テオも微笑み、手挽きのミルを回した。
サロンの片隅にはテオ専用の珈琲セット一式がある。
珈琲だけでなく、紅茶などもある程度揃っていた。
淹れたての珈琲の香りが、クラウスに渡される。
テオはクラウスの隣に戻って来た。
「それで。私に話と言うのは?」
「ああ、そうだったな。今日の講義で聞いたのだが」
他の皆もそれとなく静かになり、クラウスの話を聞いていた。
「画家のゴッホにはテオという弟が居て、
テオの支援によって、傑作が世に残ったと聞いたんだ。
ただ、それだけの話なのだが…お前は知っていたか?」
「クラウス! 講義中に私を思い出してくれたのだね、嬉しいよ」
「…お前は知っていたか、と聞いているのだが」
「もちろんだよ。自分の名と同じだからね、以前調べたことがあるよ」
他の生徒達から「俺は知らなーい」という声が上がる。
皆はゴッホに弟が居たことを初めて聞いたようだ。
「テオドール・ファン・ゴッホ。彼は兄からテオと呼ばれていたんだ」
テオは皆にゴッホの弟の話を聞かせた。
弟テオドールは兄を経済的にも精神的にも支え続けた。
ゴッホの絵は、彼の生前、一枚しか売れなかった。
唯一の理解者である弟が居なければ、
ゴッホの名画は生まれなかっただろうと言われている。
彼のように、誰かを支えられる人でありたいと思う。
テオドールと私は、名前だけでなく、考え方も似ているんだ。
メネシスも芸術家を支援するのが好きだから、彼に少なからず親近感を感じる。
私の両親も彼についてそう評していたことがあるよ、とテオは語った。
テオの話に時折登場する両親。
海運王メネシスの当主、テオをテオに育てた張本人。
話を聞く度に、こいつは愛された子供なのだろうとクラウスは感じた。
テオに『人生は夢』だと教えた親。
クラウスは彼等には会ったことはないが、
きっとテオによく似ているのだろうという確信と共に、
大らかで、悟りや儚さをも兼ね備えた人物像を持っていた。
「けれども、名前負けだね。私は自分が楽しんでばかりだから」
そう微笑むテオに、クラウスは「いや」と言った。
「お前はそれで良いんだろう。
お前が楽しいと思うことは、皆の楽しみにも直接繋がっている。
現在のシュヌーシアは、極めて良好な環境だ。
これほど寮生の親睦が深まっているのは、お前のおかげだと、俺は思う」
クラウスの言葉に、サロンは一瞬、静まり返った。
普段、規則に厳しく、寮生達を叱り飛ばすクラウスが、
寮に対して『極めて良好』という見解を持っていた。
その事実に驚いたのは主に中等部の生徒達だった。
いつも怒られる人に突然、最上級に褒められて、思わず感動すら覚えた。
また、クラウスがテオに向けて、しかも皆の前で、
これほどストレートに謝意を示したのも初めて見た。
二人の仲が良いのは見て取れたけれど、
普段はテオが一方的に言い寄っているか、
痴話喧嘩のような場面しか見たことがなかった。
クラウスとの付き合いが長い上級生達は、
顔を見合わせて、僅かに笑みを浮かべていた。
この生真面目な男が、誰よりシュヌーシアに誇りを持っていること、
クラウスとテオが互いに親友と呼べる存在であることを知っていた。
「クラウス…いつも迷惑そうな顔をしているのに…」
一人、とても驚いている上級生が居た。
感激に打ち震えているのは、渦中のテオだった。
「本当は私のこと、そんなふうに思っていたのかい!?」
「毎度毎度、賑やかな催しを行うのはお前くらいだからな」
「解ったよ、クラウス!」
「な、なんだ?」
「実は前からクラウスと行きたいところがあったのだよ。
少し遠いけれど良いよね? そうだ、明日行こうか! 休みだものね!」
翌日、クラウスは海外旅行にヘリで誘拐された。
こうしてテオは、ゴッホ兄弟の結末を語ることはなかった。
彼等の最期は、悲劇としか言いようがない。
彼等は長い間、文通を繰り返した。
誰が見ても彼等は仲睦まじい兄弟だった。
兄は描いた絵を「ぼくらの作品」と呼んでいた。
けれども、兄は思い悩む。
絵画について、弟に迷惑を掛け通しの自己について。
37歳で自らを猟銃で撃つ。
それはテオドールが結婚し、子供が生まれた頃だった。
兄を失ったテオドールは、
半年後、後を追うように天に召される。まだ33歳。
彼の家には妻と兄の名を付けた幼子が残った。
fin
テオは寮の皆と一緒にお茶の時間を楽しんでいた。
受講している授業数が皆より少ないテオは、
早くからお茶の用意をして、皆を待っているのが好きだった。
今日のおやつはシェフのドニ・ドームと共同開発した秋色スイーツ。
メイプルシロップのケーキに秋のフルーツを豪華に盛り合わせている。
中等部の良い子達が美味しそうに貪る姿を、テオは愛おしげに眺めていた。
「また甘い物を食ってるのか、お前達…」
クラウスがサロンに現れた。珍しいことだ。
この所、何かに付けて生徒代表室に行ってしまうのに。
「おや、クラウス。今日は生徒代表室で会議ではなかった?」
「その予定だったんだがな。関係者が一人、風邪で倒れたために中止だ。
全く体調管理がなってない。あいつは遅刻も多いし…」
クラウスは自分の席となっている場所へ腰掛ける。
それはテオの隣だった。
「街の皆にも風邪が流行っているようだからね。大丈夫なのかい? その人は」
「博士が看るそうだから問題ないだろう」
「それなら安心だね。ではクラウスも今宵はゆっくり過ごせるね。
そうだ。久し振りに一緒に珈琲を飲んでくれる?」
「ああ。俺もお前に聞きたいことがあるんだ」
「おやおや。珍しいね、クラウス。何だい?」
「いや、大した話ではないから、珈琲を淹れた後で良いのだが」
「そんなに私の珈琲が待ち遠しいのだね。私、心を込めて淹れるよ」
「お前は恐ろしくポジティブだな」
「そうかい? どちらかというと私は悲観的な方だと思うけれど」
「どこがだ」
クラウスの言葉に合わせて、中等部の生徒達が笑う。
テオも微笑み、手挽きのミルを回した。
サロンの片隅にはテオ専用の珈琲セット一式がある。
珈琲だけでなく、紅茶などもある程度揃っていた。
淹れたての珈琲の香りが、クラウスに渡される。
テオはクラウスの隣に戻って来た。
「それで。私に話と言うのは?」
「ああ、そうだったな。今日の講義で聞いたのだが」
他の皆もそれとなく静かになり、クラウスの話を聞いていた。
「画家のゴッホにはテオという弟が居て、
テオの支援によって、傑作が世に残ったと聞いたんだ。
ただ、それだけの話なのだが…お前は知っていたか?」
「クラウス! 講義中に私を思い出してくれたのだね、嬉しいよ」
「…お前は知っていたか、と聞いているのだが」
「もちろんだよ。自分の名と同じだからね、以前調べたことがあるよ」
他の生徒達から「俺は知らなーい」という声が上がる。
皆はゴッホに弟が居たことを初めて聞いたようだ。
「テオドール・ファン・ゴッホ。彼は兄からテオと呼ばれていたんだ」
テオは皆にゴッホの弟の話を聞かせた。
弟テオドールは兄を経済的にも精神的にも支え続けた。
ゴッホの絵は、彼の生前、一枚しか売れなかった。
唯一の理解者である弟が居なければ、
ゴッホの名画は生まれなかっただろうと言われている。
彼のように、誰かを支えられる人でありたいと思う。
テオドールと私は、名前だけでなく、考え方も似ているんだ。
メネシスも芸術家を支援するのが好きだから、彼に少なからず親近感を感じる。
私の両親も彼についてそう評していたことがあるよ、とテオは語った。
テオの話に時折登場する両親。
海運王メネシスの当主、テオをテオに育てた張本人。
話を聞く度に、こいつは愛された子供なのだろうとクラウスは感じた。
テオに『人生は夢』だと教えた親。
クラウスは彼等には会ったことはないが、
きっとテオによく似ているのだろうという確信と共に、
大らかで、悟りや儚さをも兼ね備えた人物像を持っていた。
「けれども、名前負けだね。私は自分が楽しんでばかりだから」
そう微笑むテオに、クラウスは「いや」と言った。
「お前はそれで良いんだろう。
お前が楽しいと思うことは、皆の楽しみにも直接繋がっている。
現在のシュヌーシアは、極めて良好な環境だ。
これほど寮生の親睦が深まっているのは、お前のおかげだと、俺は思う」
クラウスの言葉に、サロンは一瞬、静まり返った。
普段、規則に厳しく、寮生達を叱り飛ばすクラウスが、
寮に対して『極めて良好』という見解を持っていた。
その事実に驚いたのは主に中等部の生徒達だった。
いつも怒られる人に突然、最上級に褒められて、思わず感動すら覚えた。
また、クラウスがテオに向けて、しかも皆の前で、
これほどストレートに謝意を示したのも初めて見た。
二人の仲が良いのは見て取れたけれど、
普段はテオが一方的に言い寄っているか、
痴話喧嘩のような場面しか見たことがなかった。
クラウスとの付き合いが長い上級生達は、
顔を見合わせて、僅かに笑みを浮かべていた。
この生真面目な男が、誰よりシュヌーシアに誇りを持っていること、
クラウスとテオが互いに親友と呼べる存在であることを知っていた。
「クラウス…いつも迷惑そうな顔をしているのに…」
一人、とても驚いている上級生が居た。
感激に打ち震えているのは、渦中のテオだった。
「本当は私のこと、そんなふうに思っていたのかい!?」
「毎度毎度、賑やかな催しを行うのはお前くらいだからな」
「解ったよ、クラウス!」
「な、なんだ?」
「実は前からクラウスと行きたいところがあったのだよ。
少し遠いけれど良いよね? そうだ、明日行こうか! 休みだものね!」
翌日、クラウスは海外旅行にヘリで誘拐された。
こうしてテオは、ゴッホ兄弟の結末を語ることはなかった。
彼等の最期は、悲劇としか言いようがない。
彼等は長い間、文通を繰り返した。
誰が見ても彼等は仲睦まじい兄弟だった。
兄は描いた絵を「ぼくらの作品」と呼んでいた。
けれども、兄は思い悩む。
絵画について、弟に迷惑を掛け通しの自己について。
37歳で自らを猟銃で撃つ。
それはテオドールが結婚し、子供が生まれた頃だった。
兄を失ったテオドールは、
半年後、後を追うように天に召される。まだ33歳。
彼の家には妻と兄の名を付けた幼子が残った。
fin
■アンリ
ウーティス寮の一室。
この部屋は入学時の状態とは大分異なる。
落ち着いた色合いのインテリアが揃い、
現在の主の好みに合わせ、全面的に改装されていた。
隅には畳まれた譜面台とバイオリンケース。
机上には整然と書物が並ぶ。傍には写真立て。
本の影に隠すように置かれたそれには女性の姿。
手には桃色の花が一輪。彼女が此処に住む生徒の母だった。
母と子が一緒に映っている写真はない。
写真立ての傍にタロットカードが寄り添う。
講義終了の鐘が鳴った。
暫くして、部屋の主が戻って来た。
右手には教科書が数冊。ブックバンドにはウサギがぶら下がっている。
それを机に片付け、机にあった本を手に取る。
紫のハードカバー。表紙には綻びなどまるで無く、新刊らしい。
全9章で300ページほどだ。一読目は斜め読みし、ざっと読み終えている。
今は二読目だった。第7章に入った辺りで、執事が現れた。
「アンリ様、お茶をお持ちしました」
「Merci.テーブルに置いてくれる?」
先程廊下で擦れ違った時に「紅茶と何かお菓子」と頼んでおいたものだ。
ティーポットとカップには校章のナイチンゲール。
同じデザインの皿にはコーヒー色の細いロールケーキ。
執事はカップに一杯目を注ぐ。湯気と香りが立ち昇る。
「本日のリーフは、ディンブラのセイロンでございます」
胸に手を置いて一礼すると、部屋から下がった。
執事の姿が消えると、アンリはカップを手に取った。
『インド洋の真珠』と謳われるスリランカ。
緑に溢れ、国土は雫の形をしている。
世界最大の紅茶輸出量を誇る。旧国名セイロン。
高地のディンブラは、セイロン最古の紅茶産地のため、
『セイロン紅茶の女王』とも呼ばれる高級茶だ。
薔薇にも似た高貴な香り。
琥珀の水色を二口飲んでから、ケーキを引き寄せた。
島の伝統的なお菓子だ。
オレンジピールの甘味と酸味をふわっとしたスポンジケーキが包む。
コーヒー色に染まったそれは仄かな苦味を持つ。
これも悪くはないのだけれど、やはり『天使の顎』の方が好みだなと思う。
ケーキを食べ終えると、空になったカップに紅茶を注いだ。
セイロンは嫌いではないが、今の旬ではない。これは夏摘みのものだろう。
カップを持って机に戻る。紅茶を傍に置いて、読書を続けた。
琥珀の瞳は上から下へと動く。幾度も幾度も繰り返された。
時々、紅茶に手を伸ばしていたが、段々とその回数は減っていった。
髪に触ったりしながら、半分ほど読んだところだった。
ノックをしてから、執事が現れた。
「失礼致します。お電話です、アンリ様」
電話をしてくる人間は限られている。
十中八九、ビジネスに関する相手だろう。
実家、という選択肢は先ずないと言っていい。
あの人は自分に用などないからだ。生徒は席を立つ。
紅茶をもう一口飲み、部屋から出る。バトラーがドアを閉めた。
通信室から戻ったアンリは大層機嫌が悪かった。
耳に纏わり付くしゃがれ声。あの薄汚い笑い声は好きになれない。
マフィアと組んだのは失敗だっただろうか。
しかし、伯爵から信用を得ていた家の者だし、
何故か、どうしても彼等でなくてはならない、という勘が働いたのだ。
理屈ではない直感が正しい選択だったと後で解る。
そんな経験知がアンリには数えきれないほどあった。
誰かに耳打ちされるような感覚。
僕を導いてくれているのは、伯爵なのではないか。
科学的ではないけれど、そう考えるのが適切なように思えた。
『拠り所』としても許される人は、伯爵しか居なかった。
母は亡くなってしまったし、あの人は僕の命を狙ってる。
周囲の大人も子供も、気味悪がって、僕には寄り付かない。
幼い僕を守ってくれる人は誰も居なかった。
僕を傷付けない人、僕を裏切らない人は、伯爵だけだ。
貴方は何処かで、まだ息をしているのではないか。
貴方は何処かで、僕のことを見守ってくれているのではないか。
幼い僕は、そう考えることで自分を支えていた。
その幻想を今も少し引き摺っているのかもしれない。
机からは空だったケーキの皿が片付けられていた。
紫の本と共にベッドに移動して、読書を再開する。
部屋には音楽もかかっていない。
薄い紙が擦れる音。横髪を梳く音など、
ささやかな物音だけが繰り返されていた。
琥珀の瞳が瞬く。
数ページ引き返し、先程見た文面を辿る。
ベッドから降り、本棚へ向かう。
上から二番目の棚から分厚い本を引き抜く。
背表紙には『辞典』という単語が記されていた。
少しの間、立ち読みして棚に戻す。
再びベッドに戻り、次のページへと進んだ。
廊下から足音が近付いてきた。ドアの前で止まる。
「アンリー。ごはんの時間だよー」
本を閉じる。時計を見ると、もう食事の時間だった。
ドアを開ける。今年の新入生が居た。アンリは扉を閉めて、廊下に出る。
「わざわざ呼びに来なくてもいいのに」
「だってー。アンリ、来ないんだもん」
並ばれて、食堂へと向かう。
「あ、今日はフランス料理だって。良かったね。アンリ」
「別に何でも良いよ」
翌日。教室の窓は薄紅と紫を合わせたようだった。
秋が深まるにつれ、空の色が早く変わっていく。
「では続きは次回にしよう。ごきげんよう、諸君」
神秘学の講義終了後。生徒達は静かに退室して行く。
ボージェ教授は黒板消しを持った。
この日、アンリは講師が黒板を消し終わるまで待ってあげていた。
先端が優美にくるりと巻かれるS。
伯爵と同じクセ字が消えゆくのを眺めていた。
取るに足らない、ささやかな偶然。
そのクセを持つのが、神秘学の教授であることは、
悪くない組み合わせだと思えた。
綺麗になった黒板。チョークの粉が黒板消しに移された。
講師が教壇を降りる。目が合ったが、生徒は自分からは動かない。
相手が自分の傍まで来てから、本に手を伸ばす。
不格好なうさぎが付いたブックバンド。
数冊の中から紫の本を引き抜く。
無言で差し出されたそれを、講師は微笑んで、受け取った。
「お口に合ったかい、アンリ」
授業後の君は表情が柔らかく見える。一仕事終わったせいだろうか。
「合わないよ。好みじゃない」
「そうだろうと思った。高圧的な論調が気に食わなかったんだろう?」
口許に手をやり、優雅に微笑む。
その手には僅かに白い粉が付着している。
「解ってて読ませたの? 良い性格してるね」
「けれど、読み応えはあっただろう? 最新の研究成果がよくまとまっている」
「まあ、評価できるのは、そこだけだね」
「では口直しを選ぼうか、今度はアンリが好きそうな本をね」
講師が背中を見せる。アンリは彼の後には続かず、席も立たなかった。
近頃、こうして彼の部屋に付いていくことが多くなった。
特定の人間と親しくなるのは嫌だった。第一、彼は講師だ。
講義以外の場で君と言葉を交わすこと自体どうかしている。
「アンリ? 研究室まで寄ってくれるかい? お詫びに紅茶でも淹れるよ」
勝率の高い賭けを思い付いた。
僕が勝ったら行かない。君が勝ったら行ってあげる。
胸の内でそう決めて、講師を見上げた。
「秋摘みのダージリンなら、付き合ってあげても良いよ?」
北インドで一年の最後に摘まれる茶葉。
夏の日差しとモンスーンに恵まれた葉は重厚で味わい深い。
講師が振り向く。秋の夕暮れを思わせる、穏やかな微笑。
「あるよ、もちろん。ダージリンは今が旬だからね」
fin
この部屋は入学時の状態とは大分異なる。
落ち着いた色合いのインテリアが揃い、
現在の主の好みに合わせ、全面的に改装されていた。
隅には畳まれた譜面台とバイオリンケース。
机上には整然と書物が並ぶ。傍には写真立て。
本の影に隠すように置かれたそれには女性の姿。
手には桃色の花が一輪。彼女が此処に住む生徒の母だった。
母と子が一緒に映っている写真はない。
写真立ての傍にタロットカードが寄り添う。
講義終了の鐘が鳴った。
暫くして、部屋の主が戻って来た。
右手には教科書が数冊。ブックバンドにはウサギがぶら下がっている。
それを机に片付け、机にあった本を手に取る。
紫のハードカバー。表紙には綻びなどまるで無く、新刊らしい。
全9章で300ページほどだ。一読目は斜め読みし、ざっと読み終えている。
今は二読目だった。第7章に入った辺りで、執事が現れた。
「アンリ様、お茶をお持ちしました」
「Merci.テーブルに置いてくれる?」
先程廊下で擦れ違った時に「紅茶と何かお菓子」と頼んでおいたものだ。
ティーポットとカップには校章のナイチンゲール。
同じデザインの皿にはコーヒー色の細いロールケーキ。
執事はカップに一杯目を注ぐ。湯気と香りが立ち昇る。
「本日のリーフは、ディンブラのセイロンでございます」
胸に手を置いて一礼すると、部屋から下がった。
執事の姿が消えると、アンリはカップを手に取った。
『インド洋の真珠』と謳われるスリランカ。
緑に溢れ、国土は雫の形をしている。
世界最大の紅茶輸出量を誇る。旧国名セイロン。
高地のディンブラは、セイロン最古の紅茶産地のため、
『セイロン紅茶の女王』とも呼ばれる高級茶だ。
薔薇にも似た高貴な香り。
琥珀の水色を二口飲んでから、ケーキを引き寄せた。
島の伝統的なお菓子だ。
オレンジピールの甘味と酸味をふわっとしたスポンジケーキが包む。
コーヒー色に染まったそれは仄かな苦味を持つ。
これも悪くはないのだけれど、やはり『天使の顎』の方が好みだなと思う。
ケーキを食べ終えると、空になったカップに紅茶を注いだ。
セイロンは嫌いではないが、今の旬ではない。これは夏摘みのものだろう。
カップを持って机に戻る。紅茶を傍に置いて、読書を続けた。
琥珀の瞳は上から下へと動く。幾度も幾度も繰り返された。
時々、紅茶に手を伸ばしていたが、段々とその回数は減っていった。
髪に触ったりしながら、半分ほど読んだところだった。
ノックをしてから、執事が現れた。
「失礼致します。お電話です、アンリ様」
電話をしてくる人間は限られている。
十中八九、ビジネスに関する相手だろう。
実家、という選択肢は先ずないと言っていい。
あの人は自分に用などないからだ。生徒は席を立つ。
紅茶をもう一口飲み、部屋から出る。バトラーがドアを閉めた。
通信室から戻ったアンリは大層機嫌が悪かった。
耳に纏わり付くしゃがれ声。あの薄汚い笑い声は好きになれない。
マフィアと組んだのは失敗だっただろうか。
しかし、伯爵から信用を得ていた家の者だし、
何故か、どうしても彼等でなくてはならない、という勘が働いたのだ。
理屈ではない直感が正しい選択だったと後で解る。
そんな経験知がアンリには数えきれないほどあった。
誰かに耳打ちされるような感覚。
僕を導いてくれているのは、伯爵なのではないか。
科学的ではないけれど、そう考えるのが適切なように思えた。
『拠り所』としても許される人は、伯爵しか居なかった。
母は亡くなってしまったし、あの人は僕の命を狙ってる。
周囲の大人も子供も、気味悪がって、僕には寄り付かない。
幼い僕を守ってくれる人は誰も居なかった。
僕を傷付けない人、僕を裏切らない人は、伯爵だけだ。
貴方は何処かで、まだ息をしているのではないか。
貴方は何処かで、僕のことを見守ってくれているのではないか。
幼い僕は、そう考えることで自分を支えていた。
その幻想を今も少し引き摺っているのかもしれない。
机からは空だったケーキの皿が片付けられていた。
紫の本と共にベッドに移動して、読書を再開する。
部屋には音楽もかかっていない。
薄い紙が擦れる音。横髪を梳く音など、
ささやかな物音だけが繰り返されていた。
琥珀の瞳が瞬く。
数ページ引き返し、先程見た文面を辿る。
ベッドから降り、本棚へ向かう。
上から二番目の棚から分厚い本を引き抜く。
背表紙には『辞典』という単語が記されていた。
少しの間、立ち読みして棚に戻す。
再びベッドに戻り、次のページへと進んだ。
廊下から足音が近付いてきた。ドアの前で止まる。
「アンリー。ごはんの時間だよー」
本を閉じる。時計を見ると、もう食事の時間だった。
ドアを開ける。今年の新入生が居た。アンリは扉を閉めて、廊下に出る。
「わざわざ呼びに来なくてもいいのに」
「だってー。アンリ、来ないんだもん」
並ばれて、食堂へと向かう。
「あ、今日はフランス料理だって。良かったね。アンリ」
「別に何でも良いよ」
翌日。教室の窓は薄紅と紫を合わせたようだった。
秋が深まるにつれ、空の色が早く変わっていく。
「では続きは次回にしよう。ごきげんよう、諸君」
神秘学の講義終了後。生徒達は静かに退室して行く。
ボージェ教授は黒板消しを持った。
この日、アンリは講師が黒板を消し終わるまで待ってあげていた。
先端が優美にくるりと巻かれるS。
伯爵と同じクセ字が消えゆくのを眺めていた。
取るに足らない、ささやかな偶然。
そのクセを持つのが、神秘学の教授であることは、
悪くない組み合わせだと思えた。
綺麗になった黒板。チョークの粉が黒板消しに移された。
講師が教壇を降りる。目が合ったが、生徒は自分からは動かない。
相手が自分の傍まで来てから、本に手を伸ばす。
不格好なうさぎが付いたブックバンド。
数冊の中から紫の本を引き抜く。
無言で差し出されたそれを、講師は微笑んで、受け取った。
「お口に合ったかい、アンリ」
授業後の君は表情が柔らかく見える。一仕事終わったせいだろうか。
「合わないよ。好みじゃない」
「そうだろうと思った。高圧的な論調が気に食わなかったんだろう?」
口許に手をやり、優雅に微笑む。
その手には僅かに白い粉が付着している。
「解ってて読ませたの? 良い性格してるね」
「けれど、読み応えはあっただろう? 最新の研究成果がよくまとまっている」
「まあ、評価できるのは、そこだけだね」
「では口直しを選ぼうか、今度はアンリが好きそうな本をね」
講師が背中を見せる。アンリは彼の後には続かず、席も立たなかった。
近頃、こうして彼の部屋に付いていくことが多くなった。
特定の人間と親しくなるのは嫌だった。第一、彼は講師だ。
講義以外の場で君と言葉を交わすこと自体どうかしている。
「アンリ? 研究室まで寄ってくれるかい? お詫びに紅茶でも淹れるよ」
勝率の高い賭けを思い付いた。
僕が勝ったら行かない。君が勝ったら行ってあげる。
胸の内でそう決めて、講師を見上げた。
「秋摘みのダージリンなら、付き合ってあげても良いよ?」
北インドで一年の最後に摘まれる茶葉。
夏の日差しとモンスーンに恵まれた葉は重厚で味わい深い。
講師が振り向く。秋の夕暮れを思わせる、穏やかな微笑。
「あるよ、もちろん。ダージリンは今が旬だからね」
fin
■テオとアンリとオーギュスト
第二化学室でアンリは午後の青空を眺めていた。
あと数分で神秘学の講義が始まる。
頭では最近始めた事業のことを考えている。
リスクとリターン。幾つもの数の羅列。
どうすれば、相手より僕の利益になるか。
その追求は嫌いじゃない。
「ああ…やはり傍で見ると、より愛しいね、アンリは」
思考が中断された。誰彼構わず賛辞を浴びせる大らかな声。
僕の隣に勝手に座っていたのは今年度の生徒代表。
テオ・メネシス。海運王のご子息だ。溢れる資産で代々遊ぶ家系。
慈善事業の如く、資金を赤の他人に投資することもざらだ。
メネシス一族には損得勘定というものがないのだろうか。
彼等には更に増やそうという欲はないらしい。
テオが住むシュヌーシア寮もメネシスの寄付だそうだ。
テオ個人も多額の資金を用い、イベントなどを開催する。
アンリが冗談で言った賞品―実際には褒賞金だが―も易々と用意してくれる。
彼が生徒代表になってからは明らかにイベント回数が増えた。職権乱用も甚だしい。
ウーティスが巻き込まれることもしばしばあり、迷惑していた。
仲良くしておいて損はない相手だが、傍に居ると疲れる、という害が大いにある人だ。
アンリは机に吐いていた肘を離し、僅かながらもテオと距離を取る。
「どうして貴方が居るの? 此処は神秘学の教室だよ?」
言外に、邪魔なんだけど、と伝えているつもりなのだが、
彼にそのメッセージは届かない。テオはいつでも楽しそうに喋る。
「この時間、私が受けている講義が休講になってしまってね?
それで、どうしようかと思っていたら、アンリの姿が見えたものだから」
「僕を見たからと行って、何故追いかけて来たのか解らない」
「それはね、誘惑というものだよ、アンリ」
「誘惑? 僕が貴方を誘惑したと言いたいの?」
「そうだよ。可憐な花に誘われて蝶がふらふらと舞い降りる。
花の美しさ、芳しさに吸い寄せられてしまったのだよ。当然のことだろう?」
「前から思っていたけれど、貴方の思考回路は理解に苦しむよ」
「そういうわけで、アンリ。私にも教科書を見せてくれるかい?」
「今日は教科書は使わないんじゃないかな」
「それは残念だね。君に寄り添いたかったのに」
講師が教室に入ってきた。
「ごきげんよう、諸君。一週間元気だったかな」
教室を見渡し、生徒達の表情を確かめる。
一人、此処では見慣れぬ顔があった。黄金の髪にブロンズの肌。
生徒の好奇心を尊重するこの学院では、
時間割にない授業でも、好きなように見学することができる。
ボージェ教授も普段なら誰が入ってきても気にせず授業を始めるのだが。
見学者らしい生徒が座っているのは、アンリの隣。
小麦色の生徒と並ぶと、余計アンリの白さが目立つ。
講師は思わず声を掛けた。
「おや。君は生徒代表の…」
呼ばれた生徒は立って挨拶した。
無口な教室に、威勢の良い声が響き渡る。
「テオ・メネシスです。こんにちは、ボージェ教授。
今日は海洋学が休講になってしまったので、
教授の授業を見学させて頂きたいのですが宜しいでしょうか?」
「それはもちろん…」
講師はテオの隣から飛んでくる無言の圧力に苦笑した。
アンリの目は明らかに『駄目だと言って』と訴えている。
オーギュストは聖アルフォンソ学院の講師として正しい回答をする。
「もちろん構わないよ、メネシス君。講義の見学は自由だからね」
「ありがとうございます、教授。兼ねてより神秘学に興味はあったのですよ。
何といっても、このアンリが好んで受けている授業ですし。
私も神秘的なものは大好きですから」
まだ立ったままのテオから、輝いた顔を向けられる。
その笑顔は眩しい、無駄に。
教壇を睨み付け、講師に八つ当たりする。
「ボージェ教授、そろそろ講義を始めてくれないかな?」
他の生徒からは文句のひとつも上がっていなかった。
物静かな受講生達は常と変わらない。
多くが無表情な中、ごく一部が不機嫌、ご機嫌だった。
講師は口許を隠しながら、穏やかに笑う。
「それでは授業を始めようか。メネシス君、席に着いて良いよ」
はい、と元気良く着席した。
fin
あと数分で神秘学の講義が始まる。
頭では最近始めた事業のことを考えている。
リスクとリターン。幾つもの数の羅列。
どうすれば、相手より僕の利益になるか。
その追求は嫌いじゃない。
「ああ…やはり傍で見ると、より愛しいね、アンリは」
思考が中断された。誰彼構わず賛辞を浴びせる大らかな声。
僕の隣に勝手に座っていたのは今年度の生徒代表。
テオ・メネシス。海運王のご子息だ。溢れる資産で代々遊ぶ家系。
慈善事業の如く、資金を赤の他人に投資することもざらだ。
メネシス一族には損得勘定というものがないのだろうか。
彼等には更に増やそうという欲はないらしい。
テオが住むシュヌーシア寮もメネシスの寄付だそうだ。
テオ個人も多額の資金を用い、イベントなどを開催する。
アンリが冗談で言った賞品―実際には褒賞金だが―も易々と用意してくれる。
彼が生徒代表になってからは明らかにイベント回数が増えた。職権乱用も甚だしい。
ウーティスが巻き込まれることもしばしばあり、迷惑していた。
仲良くしておいて損はない相手だが、傍に居ると疲れる、という害が大いにある人だ。
アンリは机に吐いていた肘を離し、僅かながらもテオと距離を取る。
「どうして貴方が居るの? 此処は神秘学の教室だよ?」
言外に、邪魔なんだけど、と伝えているつもりなのだが、
彼にそのメッセージは届かない。テオはいつでも楽しそうに喋る。
「この時間、私が受けている講義が休講になってしまってね?
それで、どうしようかと思っていたら、アンリの姿が見えたものだから」
「僕を見たからと行って、何故追いかけて来たのか解らない」
「それはね、誘惑というものだよ、アンリ」
「誘惑? 僕が貴方を誘惑したと言いたいの?」
「そうだよ。可憐な花に誘われて蝶がふらふらと舞い降りる。
花の美しさ、芳しさに吸い寄せられてしまったのだよ。当然のことだろう?」
「前から思っていたけれど、貴方の思考回路は理解に苦しむよ」
「そういうわけで、アンリ。私にも教科書を見せてくれるかい?」
「今日は教科書は使わないんじゃないかな」
「それは残念だね。君に寄り添いたかったのに」
講師が教室に入ってきた。
「ごきげんよう、諸君。一週間元気だったかな」
教室を見渡し、生徒達の表情を確かめる。
一人、此処では見慣れぬ顔があった。黄金の髪にブロンズの肌。
生徒の好奇心を尊重するこの学院では、
時間割にない授業でも、好きなように見学することができる。
ボージェ教授も普段なら誰が入ってきても気にせず授業を始めるのだが。
見学者らしい生徒が座っているのは、アンリの隣。
小麦色の生徒と並ぶと、余計アンリの白さが目立つ。
講師は思わず声を掛けた。
「おや。君は生徒代表の…」
呼ばれた生徒は立って挨拶した。
無口な教室に、威勢の良い声が響き渡る。
「テオ・メネシスです。こんにちは、ボージェ教授。
今日は海洋学が休講になってしまったので、
教授の授業を見学させて頂きたいのですが宜しいでしょうか?」
「それはもちろん…」
講師はテオの隣から飛んでくる無言の圧力に苦笑した。
アンリの目は明らかに『駄目だと言って』と訴えている。
オーギュストは聖アルフォンソ学院の講師として正しい回答をする。
「もちろん構わないよ、メネシス君。講義の見学は自由だからね」
「ありがとうございます、教授。兼ねてより神秘学に興味はあったのですよ。
何といっても、このアンリが好んで受けている授業ですし。
私も神秘的なものは大好きですから」
まだ立ったままのテオから、輝いた顔を向けられる。
その笑顔は眩しい、無駄に。
教壇を睨み付け、講師に八つ当たりする。
「ボージェ教授、そろそろ講義を始めてくれないかな?」
他の生徒からは文句のひとつも上がっていなかった。
物静かな受講生達は常と変わらない。
多くが無表情な中、ごく一部が不機嫌、ご機嫌だった。
講師は口許を隠しながら、穏やかに笑う。
「それでは授業を始めようか。メネシス君、席に着いて良いよ」
はい、と元気良く着席した。
fin
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