「ハルヤ、僕とカケオチしません?」
シルヴァンは可笑しなアクセントながらも、日本語でそう言った。
ハルヤはクッションを抱いたまま、罪のない笑顔を見せる。
「シルヴァン、使い方が違うよ。それは好きな人に言うんだよ?」
ハルヤはプレイヤーから、DVDを取り出す。
ケースに仕舞うと、シルヴァンに差し出す。
「ありがと。面白かったね」
夜。ハルヤの部屋で、一緒にサムライムービーを見ていた。
DVDを持ってきたのはシルヴァン。
主人公が町娘とカケオチするところで、物語は終わる。
一度見たから知っていた。
『カケオチ』という言葉を和英辞典で調べて、
ちゃんと覚えた日本語で、ハルヤの前で言いたかった。
ハルヤのリアクションは予想通り過ぎて、苦笑せざるを得ない。
シルヴァンは一応、もう一言付け加える。
「好きな人に、ですか? 僕は好きですよ、ハルヤのこと」
「あ。そうじゃなくて、あの…今見たでしょ? えと…愛する人ってこと」
愛、という言葉を口にするにも、恥ずかしそうに頬を染める。
これ以上、話を進めるのは、彼に負担をかけるだけだ。
シルヴァンはDVDを手に立ち上がる。
時計を見ると、夜11時を回ったところだった。
「すみません。もう遅い時間になっちゃいましたね」
「あ、うん」
「ハルヤの分かり易い解説のおかげで、とても楽しく見れました。
ありがとうございます、ハルヤ」
「良いんだよ。俺も楽しかったから…」
「ではまた明日。おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
ハルヤの部屋を出る。
その顔には、先程まであった筈の笑みが消えている。
自分の部屋に戻ったシルヴァンは、銀色の携帯電話を手に取る。
慣れた手付きで、幾つかのボタンを押す。
耳にあてて、暫く待つ。相手はすぐに出た。
「よお。どうしたー?」
「こんばんは、アイヴィー。明日、遊んでくれません?」
翌日。島のバンド仲間が集まるバー。
アイヴィーはそこまでの運転手を頼まれた。
つまり「貴方は飲まないで」と言われているのと同義だ。
シルヴァンは元気良く手を挙げる。
「次は、テキーラ・サンセットをお願いします♪」
「お前、飛ばしてんなー」
アイヴィーは片手で肘を突き、頬を潰していた。
空いた手で明るいイエローのドリンクを呷る。
この島では「竜の涙」と呼ばれるレモンソーダだ。
「おい、シルヴァン」
「あ、アイヴィーも何か頼みますか?」
「いや。俺はいーんだけどさ。お前、何かあったの?」
「何もありませんよ?」
「言いたくねーんなら聞かねーけど」
「何もないことは、幸せで少し辛いですね」
「今、何て言った?」
「いえ、別に。今日は貴方とお酒が飲みたいなって思っただけですよ」
「お待たせ、シルヴァン」
顔見知りのボーイが、グラスを持ってくる。
白いワイシャツと裾が擦り切れたジーンズに、
黒のエプロンを身に付けている。
そのシンプルな服装は、明るく短い茶髪に似合っていた。
ボーイは、ピンクのフローズンカクテルを置く。
低いグラスには、小さく砕かれた氷が敷き詰められていた。
テキーラとレモンジュースが1:1で入っている。
『夕焼け』の名にふさわしい、赤みがかった桃色を演出しているのは、
ザクロジュースと砂糖で作られたグレナデン・シロップだ。
ワインよりもアルコール度数が高いカクテル。
意図しているか、今夜の不良王子は度数の高い酒ばかりをオーダーしていた。
シルヴァンは、バンド仲間でもあるボーイに礼を述べる。
「君が作るテキーラ・サンセットはとっても綺麗ですね」
「え。そっかな」ボーイが頬を掻く。
「ええ。お礼をしますね?」
シルヴァンは、彼の肩を強く引き寄せて、頬に口付ける。
「ごちそうさまです♪」
その様子を見掛けた周りの客達が、一斉に笑い出す。
皆バンド仲間で、シルヴァンが酔った時のクセをよく知っていた。
被害に合い易いボーイは「俺まで食べんなよ」と苦笑しながら、
手を振ってバーカウンターに戻っていった。
アイヴィーは相変わらず、片手で肘を突き、頬を潰していた。
聖アルフォンソ学院正門前。
車中の時計は、深夜0時を差している。
黄色いタクシーが停まる。
運転手は、ほろ酔いの助手席に声を掛ける。
「ほい、着いたぜー。シルヴァン」
「送って貰ってすみませんね、アイヴィー」
「思ってないくせに。…ってお前、これはオレのだろ」
タクシードライバーは助手席の口から、煙草を奪う。
悪びれることなく、シルヴァンは笑う。
「貴方の香りを補充しておいたんです」
アイヴィーは煙草を落としそうになる。
「お前なあ…そーゆーこと言われると、許しちゃうだろ…」
「今夜はありがとうございました、また大人の遊びに連れて行って下さいね?」
「ったく、夜遊びも程々にしろよ、不良王子」
シルヴァンは、くすくすと笑う。
「始終付き合ってくれた人の言うことですか?」
「ったく。ゴキゲンだなー、お前。気持ち良く酔いやがって…」
「あ、アイヴィー。タクシー代をお支払いしますね?」
運転手の頬で、チュッと音が鳴る。
「…唇で払うなよ、この酔っ払い…」
「それじゃ、おやすみなさい♪」
シルヴァンが車から出る。
運転手は、寮へ向かう背中を見ながら、頬に触れる。
「あいつ、酔うとキス魔になるからなー」
アイヴィーは煙草を咥える。
「あれ、酔いが覚めてないまま、寮に帰らせて良かったのか…?」
シルヴァンは上機嫌で夜遊びから帰って来た。
第一学生寮の扉を開けると、執事が居た。
「おかえりなさいませ、シルヴァン様」
「遅くなっちゃってすみません。これで許して下さいね♪」
シルヴァンはバトラーの頬にキスをした。
「おやすみなさい、バトラー♪」
「…おやすみなさいませ、シルヴァン様」
跳ねる長髪を見送りながら、バトラーは頬に触れた。
シルヴァンは景気良くサロンの扉を開けた。
「只今戻りましたー♪」
「遅いよ、シルヴァン。俺、心配してたんだからー」
ユウタが駆け寄ると、シルヴァンは身を屈める。
「僕のこと、心配してくれたんですか? 嬉しいです♪」
ユウタの頬にキスをする。
された方は、きょとんとした後、大声を出した。
「えええーー!!? き、き…キスされたあー!!?」
レッドは可笑しそうに笑う。
「面白いリアクションだなあ、ユウタ。そんなに驚くことかよ」
「驚くでしょ!?」
「でも、こいつ、酔うと割とこーだぜ?
てゆうか、たかがキスくらいで騒ぐなって」
シルヴァンは、レッドの頬にキスする。
「そーですよねー、ダーリン♪」
「ダーリンじゃねえ」
レッドに頭を叩かれたシルヴァンは、
生徒代表の元へ行く。
「ジョシュア♪」
頬にキスを受けたジョシュアは、柔らかく苦笑する。
「おかえり、シルヴァン」
「はい♪ 次はア…」
アンリは片手で頬を支えながら冷笑する。
「しても良いけど、末代まで呪うよ?」
爆笑しているのはレッドだけだ。
「お前が言うと、冗談に聞こえねー!」
「昔読んだ呪術書に、そういうの書いてあったんだよね。
いつか実験してみたいなって思ってたんだ」
ハルヤがシルヴァンを引きずる。
「シルヴァン。呪われちゃうから、もう部屋に行こ?
んじゃ俺、この人部屋に連れてくよ」
「頼むよ、ハルヤ」とジョシュア。
レッドは伸びをする。
「んじゃ、俺も寝るわ」
「俺もー。また明日ね。おやすみー」
「うん。おやすみ、レッド、ユウタ」
サロンには、ジョシュアとアンリが残る。
「アンリ、俺達も寝ようか?」
「ねえ。どうして平気でいられるの」
「シルヴァンのことかい? 酔った上での行為なら仕方ないじゃないか」
「酔っていたら、何でも許されるの?
君も避けられた筈なのに、何故シルヴァンに」
ジョシュアは微笑みながら、自分の頬を指差す。
「アンリも、してみたいのかな?」
冷たい視線が見上げてくる。
アンリは席を立つ。
「おやすみ」
不機嫌にドアが閉められる。
ジョシュアは、くすくすと笑った。
シルヴァンの部屋に着いたハルヤは、
笑顔の酔っ払いを、ベッドに乗せる。
「シルヴァン、ベッドに着いたよ。大丈夫?」
「はーい。大丈夫でーす♪」
「…ダメだな」
「ハルヤハルヤー。僕、今、とってもいい気分ですー♪」
「…良かったね。あれ。シルヴァン…アイヴィーと会ってたの?」
「そうでーす。よく解りましたね?」
「解るよ。アイヴィーの煙草の匂いだもん」
「あー。なるほどですー♪」
ハルヤは無意味に自分の髪に触る。
「あのさ。アイヴィーにも…その…キス、したの?」
「はい。タクシー代にして来ました♪」
「そう…」
「バトラーにもしましたよ♪」
「…見境なしに、そういうことしないでよ」
「ハルヤー! 妬いてくれてるんですね♪」
「妬いてなんかっ」
「照れ屋ですね、ハルヤは。そこが可愛いです♪」
飛び付いて来た友人と一緒にベッドに倒れ込む。
羽交い絞めにされたまま、見つめられて、
酔っていない人の方が、顔が赤くなる。
「ちょ、ちょっと…シルヴァン…」
「心配しないで、下さい」
「えっ」
「僕が、一番好き、なのは…」
シルヴァンは口の中で何か呟く。
やがて、それは寝息に変わった。
「シルヴァン、うそ…寝ちゃったの?」
規則的な呼吸が返って来る。
「てゆうか身動き取れないし…寝てんのに、なんでこんな力強いんだろ…」
腕ごと抱かれ、手さえ自由に動かない。
シルヴァンから、酒と煙草の香りを感じる。
アイヴィーの匂い。
自分の前に、たくさんの人と触れた唇がある。
ハルヤは息を吐く。
「一番好きなの、誰なんだよ…」
翌朝。
ユウタはシルヴァンの部屋に向かっていた。
「シルヴァン、二日酔いとか大丈夫かなー」
大きな独り言を呟きながら、部屋の前に来るとドアをノックした。
「シルヴァン。おはよー。朝ごはん、食べれそう?」
返事がない。
心配になったユウタは「入るよー?」と扉を開ける。
目に飛び込んで来た衝撃映像に、ユウタは硬直する。
ベッドに寝ている人が二人居た。
シルヴァンの腕の中に居る人が、ゆっくりと目を開ける。
「ユウ…タ…あれ…?」
ハルヤは身体が動かないことに気付く。
昨夜、抱き締められたまま眠ってしまったらしい。
ユウタは既に涙目だ。
「ハルヤ…なんで…シルヴァンと一緒に…」
ユウタはショックの余り、自分の言葉が、
日本語に切り替わっていることにも気付かない。
やっと状況を理解したハルヤも慌て始める。
シルヴァンの部屋で、動揺した日本語が飛び交う。
「ユウタ、これは、あの、そうじゃなくてっ」
「…ハルヤとシルヴァン、なんか仲良いなと思ってたけど、まさかこんなに…」
「そんなわけないじゃん! 本当に昨日は何も!」
「『昨日は』って何なの!?」
「えっと、だから…もうシルヴァン!
起きてよ! ねえ、シルヴァンからも何か言って!」
「ん…」
シルヴァンが目を開ける。
にこりと笑って、呟く。
「大好きです、ハルヤ…」
それだけ言うと、また安らかな眠りに戻った。
残された二人は慌てふためく。
「ば、ばかっ! ちょっと起きてよ、シルヴァン!」
ユウタは泣きながら、部屋から出て行く。
「ジョシュアー! ハルヤとシルヴァンがー!」
「ユウタ、待って!!」
大騒ぎするユウタの声を聞いて、
他の寮生達が、シルヴァンの部屋に集まって来た。
ユウタを先頭に、ジョシュア、アンリ、レッドが顔を覗かせる。
「どうしたんだい、ユウタ」
「朝から煩いな」
「なんだなんだー? おっ?」
ベッドの上で、未だシルヴァンの腕から、
抜け出せないでいるハルヤと、皆の目が合う。
「ハルヤ、シルヴァン…」
「へえ」
「おいおい、お前等いつのまに」
「やっ、違うんだってば!」
一人パニック状態のハルヤ。
シルヴァンはのんびりと身体を起こす。
「良いじゃないですか、ハルヤ」
「何が良いんだよ。シルヴァンはもう黙ってて、てゆうか離してっ」
「ハルヤ」
シルヴァンはハルヤの手を取る。
微笑みながら、優しく語り掛ける。
「僕は好きですよ。ハルヤのことが世界で一番大好きです」
ハルヤは目を丸くする。
頭の中で今聞いた音声が勝手にリピートされているのに、
言葉の意味が解らなくなるようだ。
視界の隅に、他の寮生達の姿が映る。
「…な、なに…言ってんだよ…みんなの前で」
「ハルヤは僕のこと、嫌いですか?」
「そんなわけっ」
「では僕のこと、好きですか?」
ハルヤは俯いてしまう。
顔がみるみる赤に染まっていく。
何度も視線が彷徨う。
突然投げかけられた質問に、ハルヤは困惑していた。
俺がシルヴァンを好きかどうかに、答える前に、
彼が俺を好きだと言っていることが信じられない。
だけど、この前もシルヴァンは言ってた。
カケオチの話をした時も、ハルヤのことが好きだと。
あの時、少し表情が悲しそうに見えたのは、
見間違いじゃなくて、本当だったの?
シルヴァンのことは、友達としてはもちろん好きだ。
一緒にバンドもやってるし、二人で居ることは楽しくて、面白い。
友達としての、好き。
いつからか解らないけど、その『好き』が膨らんでいくような気がしてた。
シルヴァンが他の人と話していると、苦しくなってる自分が居た。
昨夜も、シルヴァンは、他の皆にキスして回って、
俺だけには、何もしないまま眠った。
シルヴァンの腕の中に閉じ込められた時。
心臓がどきどきして、止まらなかった。
だけど、彼の身体からは、アイヴィーの匂いがして。
なんか。
すごく。
イヤだった。
夢に落ちるまで、ずっとシルヴァンのこと考えてた。
ううん、昨夜だけじゃない。
もっと前から、シルヴァンのこと。
本当は。
外野から「ハルヤ」という声援が届く。
ハルヤの手に重ねられた手が、もう片方増えた。
シルヴァンは、自分の両手をハルヤに預けている。
透き通るほど優しい笑顔で、もう一度尋ねられる。
「ハルヤは僕のこと、好きですか?」
重なった手は、とても温かい。
ハルヤは、シルヴァンの手を少し握る。
顔を真っ赤にしてハルヤは呟く。
「………すき」
fin
シルヴァンは可笑しなアクセントながらも、日本語でそう言った。
ハルヤはクッションを抱いたまま、罪のない笑顔を見せる。
「シルヴァン、使い方が違うよ。それは好きな人に言うんだよ?」
ハルヤはプレイヤーから、DVDを取り出す。
ケースに仕舞うと、シルヴァンに差し出す。
「ありがと。面白かったね」
夜。ハルヤの部屋で、一緒にサムライムービーを見ていた。
DVDを持ってきたのはシルヴァン。
主人公が町娘とカケオチするところで、物語は終わる。
一度見たから知っていた。
『カケオチ』という言葉を和英辞典で調べて、
ちゃんと覚えた日本語で、ハルヤの前で言いたかった。
ハルヤのリアクションは予想通り過ぎて、苦笑せざるを得ない。
シルヴァンは一応、もう一言付け加える。
「好きな人に、ですか? 僕は好きですよ、ハルヤのこと」
「あ。そうじゃなくて、あの…今見たでしょ? えと…愛する人ってこと」
愛、という言葉を口にするにも、恥ずかしそうに頬を染める。
これ以上、話を進めるのは、彼に負担をかけるだけだ。
シルヴァンはDVDを手に立ち上がる。
時計を見ると、夜11時を回ったところだった。
「すみません。もう遅い時間になっちゃいましたね」
「あ、うん」
「ハルヤの分かり易い解説のおかげで、とても楽しく見れました。
ありがとうございます、ハルヤ」
「良いんだよ。俺も楽しかったから…」
「ではまた明日。おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
ハルヤの部屋を出る。
その顔には、先程まであった筈の笑みが消えている。
自分の部屋に戻ったシルヴァンは、銀色の携帯電話を手に取る。
慣れた手付きで、幾つかのボタンを押す。
耳にあてて、暫く待つ。相手はすぐに出た。
「よお。どうしたー?」
「こんばんは、アイヴィー。明日、遊んでくれません?」
翌日。島のバンド仲間が集まるバー。
アイヴィーはそこまでの運転手を頼まれた。
つまり「貴方は飲まないで」と言われているのと同義だ。
シルヴァンは元気良く手を挙げる。
「次は、テキーラ・サンセットをお願いします♪」
「お前、飛ばしてんなー」
アイヴィーは片手で肘を突き、頬を潰していた。
空いた手で明るいイエローのドリンクを呷る。
この島では「竜の涙」と呼ばれるレモンソーダだ。
「おい、シルヴァン」
「あ、アイヴィーも何か頼みますか?」
「いや。俺はいーんだけどさ。お前、何かあったの?」
「何もありませんよ?」
「言いたくねーんなら聞かねーけど」
「何もないことは、幸せで少し辛いですね」
「今、何て言った?」
「いえ、別に。今日は貴方とお酒が飲みたいなって思っただけですよ」
「お待たせ、シルヴァン」
顔見知りのボーイが、グラスを持ってくる。
白いワイシャツと裾が擦り切れたジーンズに、
黒のエプロンを身に付けている。
そのシンプルな服装は、明るく短い茶髪に似合っていた。
ボーイは、ピンクのフローズンカクテルを置く。
低いグラスには、小さく砕かれた氷が敷き詰められていた。
テキーラとレモンジュースが1:1で入っている。
『夕焼け』の名にふさわしい、赤みがかった桃色を演出しているのは、
ザクロジュースと砂糖で作られたグレナデン・シロップだ。
ワインよりもアルコール度数が高いカクテル。
意図しているか、今夜の不良王子は度数の高い酒ばかりをオーダーしていた。
シルヴァンは、バンド仲間でもあるボーイに礼を述べる。
「君が作るテキーラ・サンセットはとっても綺麗ですね」
「え。そっかな」ボーイが頬を掻く。
「ええ。お礼をしますね?」
シルヴァンは、彼の肩を強く引き寄せて、頬に口付ける。
「ごちそうさまです♪」
その様子を見掛けた周りの客達が、一斉に笑い出す。
皆バンド仲間で、シルヴァンが酔った時のクセをよく知っていた。
被害に合い易いボーイは「俺まで食べんなよ」と苦笑しながら、
手を振ってバーカウンターに戻っていった。
アイヴィーは相変わらず、片手で肘を突き、頬を潰していた。
聖アルフォンソ学院正門前。
車中の時計は、深夜0時を差している。
黄色いタクシーが停まる。
運転手は、ほろ酔いの助手席に声を掛ける。
「ほい、着いたぜー。シルヴァン」
「送って貰ってすみませんね、アイヴィー」
「思ってないくせに。…ってお前、これはオレのだろ」
タクシードライバーは助手席の口から、煙草を奪う。
悪びれることなく、シルヴァンは笑う。
「貴方の香りを補充しておいたんです」
アイヴィーは煙草を落としそうになる。
「お前なあ…そーゆーこと言われると、許しちゃうだろ…」
「今夜はありがとうございました、また大人の遊びに連れて行って下さいね?」
「ったく、夜遊びも程々にしろよ、不良王子」
シルヴァンは、くすくすと笑う。
「始終付き合ってくれた人の言うことですか?」
「ったく。ゴキゲンだなー、お前。気持ち良く酔いやがって…」
「あ、アイヴィー。タクシー代をお支払いしますね?」
運転手の頬で、チュッと音が鳴る。
「…唇で払うなよ、この酔っ払い…」
「それじゃ、おやすみなさい♪」
シルヴァンが車から出る。
運転手は、寮へ向かう背中を見ながら、頬に触れる。
「あいつ、酔うとキス魔になるからなー」
アイヴィーは煙草を咥える。
「あれ、酔いが覚めてないまま、寮に帰らせて良かったのか…?」
シルヴァンは上機嫌で夜遊びから帰って来た。
第一学生寮の扉を開けると、執事が居た。
「おかえりなさいませ、シルヴァン様」
「遅くなっちゃってすみません。これで許して下さいね♪」
シルヴァンはバトラーの頬にキスをした。
「おやすみなさい、バトラー♪」
「…おやすみなさいませ、シルヴァン様」
跳ねる長髪を見送りながら、バトラーは頬に触れた。
シルヴァンは景気良くサロンの扉を開けた。
「只今戻りましたー♪」
「遅いよ、シルヴァン。俺、心配してたんだからー」
ユウタが駆け寄ると、シルヴァンは身を屈める。
「僕のこと、心配してくれたんですか? 嬉しいです♪」
ユウタの頬にキスをする。
された方は、きょとんとした後、大声を出した。
「えええーー!!? き、き…キスされたあー!!?」
レッドは可笑しそうに笑う。
「面白いリアクションだなあ、ユウタ。そんなに驚くことかよ」
「驚くでしょ!?」
「でも、こいつ、酔うと割とこーだぜ?
てゆうか、たかがキスくらいで騒ぐなって」
シルヴァンは、レッドの頬にキスする。
「そーですよねー、ダーリン♪」
「ダーリンじゃねえ」
レッドに頭を叩かれたシルヴァンは、
生徒代表の元へ行く。
「ジョシュア♪」
頬にキスを受けたジョシュアは、柔らかく苦笑する。
「おかえり、シルヴァン」
「はい♪ 次はア…」
アンリは片手で頬を支えながら冷笑する。
「しても良いけど、末代まで呪うよ?」
爆笑しているのはレッドだけだ。
「お前が言うと、冗談に聞こえねー!」
「昔読んだ呪術書に、そういうの書いてあったんだよね。
いつか実験してみたいなって思ってたんだ」
ハルヤがシルヴァンを引きずる。
「シルヴァン。呪われちゃうから、もう部屋に行こ?
んじゃ俺、この人部屋に連れてくよ」
「頼むよ、ハルヤ」とジョシュア。
レッドは伸びをする。
「んじゃ、俺も寝るわ」
「俺もー。また明日ね。おやすみー」
「うん。おやすみ、レッド、ユウタ」
サロンには、ジョシュアとアンリが残る。
「アンリ、俺達も寝ようか?」
「ねえ。どうして平気でいられるの」
「シルヴァンのことかい? 酔った上での行為なら仕方ないじゃないか」
「酔っていたら、何でも許されるの?
君も避けられた筈なのに、何故シルヴァンに」
ジョシュアは微笑みながら、自分の頬を指差す。
「アンリも、してみたいのかな?」
冷たい視線が見上げてくる。
アンリは席を立つ。
「おやすみ」
不機嫌にドアが閉められる。
ジョシュアは、くすくすと笑った。
シルヴァンの部屋に着いたハルヤは、
笑顔の酔っ払いを、ベッドに乗せる。
「シルヴァン、ベッドに着いたよ。大丈夫?」
「はーい。大丈夫でーす♪」
「…ダメだな」
「ハルヤハルヤー。僕、今、とってもいい気分ですー♪」
「…良かったね。あれ。シルヴァン…アイヴィーと会ってたの?」
「そうでーす。よく解りましたね?」
「解るよ。アイヴィーの煙草の匂いだもん」
「あー。なるほどですー♪」
ハルヤは無意味に自分の髪に触る。
「あのさ。アイヴィーにも…その…キス、したの?」
「はい。タクシー代にして来ました♪」
「そう…」
「バトラーにもしましたよ♪」
「…見境なしに、そういうことしないでよ」
「ハルヤー! 妬いてくれてるんですね♪」
「妬いてなんかっ」
「照れ屋ですね、ハルヤは。そこが可愛いです♪」
飛び付いて来た友人と一緒にベッドに倒れ込む。
羽交い絞めにされたまま、見つめられて、
酔っていない人の方が、顔が赤くなる。
「ちょ、ちょっと…シルヴァン…」
「心配しないで、下さい」
「えっ」
「僕が、一番好き、なのは…」
シルヴァンは口の中で何か呟く。
やがて、それは寝息に変わった。
「シルヴァン、うそ…寝ちゃったの?」
規則的な呼吸が返って来る。
「てゆうか身動き取れないし…寝てんのに、なんでこんな力強いんだろ…」
腕ごと抱かれ、手さえ自由に動かない。
シルヴァンから、酒と煙草の香りを感じる。
アイヴィーの匂い。
自分の前に、たくさんの人と触れた唇がある。
ハルヤは息を吐く。
「一番好きなの、誰なんだよ…」
翌朝。
ユウタはシルヴァンの部屋に向かっていた。
「シルヴァン、二日酔いとか大丈夫かなー」
大きな独り言を呟きながら、部屋の前に来るとドアをノックした。
「シルヴァン。おはよー。朝ごはん、食べれそう?」
返事がない。
心配になったユウタは「入るよー?」と扉を開ける。
目に飛び込んで来た衝撃映像に、ユウタは硬直する。
ベッドに寝ている人が二人居た。
シルヴァンの腕の中に居る人が、ゆっくりと目を開ける。
「ユウ…タ…あれ…?」
ハルヤは身体が動かないことに気付く。
昨夜、抱き締められたまま眠ってしまったらしい。
ユウタは既に涙目だ。
「ハルヤ…なんで…シルヴァンと一緒に…」
ユウタはショックの余り、自分の言葉が、
日本語に切り替わっていることにも気付かない。
やっと状況を理解したハルヤも慌て始める。
シルヴァンの部屋で、動揺した日本語が飛び交う。
「ユウタ、これは、あの、そうじゃなくてっ」
「…ハルヤとシルヴァン、なんか仲良いなと思ってたけど、まさかこんなに…」
「そんなわけないじゃん! 本当に昨日は何も!」
「『昨日は』って何なの!?」
「えっと、だから…もうシルヴァン!
起きてよ! ねえ、シルヴァンからも何か言って!」
「ん…」
シルヴァンが目を開ける。
にこりと笑って、呟く。
「大好きです、ハルヤ…」
それだけ言うと、また安らかな眠りに戻った。
残された二人は慌てふためく。
「ば、ばかっ! ちょっと起きてよ、シルヴァン!」
ユウタは泣きながら、部屋から出て行く。
「ジョシュアー! ハルヤとシルヴァンがー!」
「ユウタ、待って!!」
大騒ぎするユウタの声を聞いて、
他の寮生達が、シルヴァンの部屋に集まって来た。
ユウタを先頭に、ジョシュア、アンリ、レッドが顔を覗かせる。
「どうしたんだい、ユウタ」
「朝から煩いな」
「なんだなんだー? おっ?」
ベッドの上で、未だシルヴァンの腕から、
抜け出せないでいるハルヤと、皆の目が合う。
「ハルヤ、シルヴァン…」
「へえ」
「おいおい、お前等いつのまに」
「やっ、違うんだってば!」
一人パニック状態のハルヤ。
シルヴァンはのんびりと身体を起こす。
「良いじゃないですか、ハルヤ」
「何が良いんだよ。シルヴァンはもう黙ってて、てゆうか離してっ」
「ハルヤ」
シルヴァンはハルヤの手を取る。
微笑みながら、優しく語り掛ける。
「僕は好きですよ。ハルヤのことが世界で一番大好きです」
ハルヤは目を丸くする。
頭の中で今聞いた音声が勝手にリピートされているのに、
言葉の意味が解らなくなるようだ。
視界の隅に、他の寮生達の姿が映る。
「…な、なに…言ってんだよ…みんなの前で」
「ハルヤは僕のこと、嫌いですか?」
「そんなわけっ」
「では僕のこと、好きですか?」
ハルヤは俯いてしまう。
顔がみるみる赤に染まっていく。
何度も視線が彷徨う。
突然投げかけられた質問に、ハルヤは困惑していた。
俺がシルヴァンを好きかどうかに、答える前に、
彼が俺を好きだと言っていることが信じられない。
だけど、この前もシルヴァンは言ってた。
カケオチの話をした時も、ハルヤのことが好きだと。
あの時、少し表情が悲しそうに見えたのは、
見間違いじゃなくて、本当だったの?
シルヴァンのことは、友達としてはもちろん好きだ。
一緒にバンドもやってるし、二人で居ることは楽しくて、面白い。
友達としての、好き。
いつからか解らないけど、その『好き』が膨らんでいくような気がしてた。
シルヴァンが他の人と話していると、苦しくなってる自分が居た。
昨夜も、シルヴァンは、他の皆にキスして回って、
俺だけには、何もしないまま眠った。
シルヴァンの腕の中に閉じ込められた時。
心臓がどきどきして、止まらなかった。
だけど、彼の身体からは、アイヴィーの匂いがして。
なんか。
すごく。
イヤだった。
夢に落ちるまで、ずっとシルヴァンのこと考えてた。
ううん、昨夜だけじゃない。
もっと前から、シルヴァンのこと。
本当は。
外野から「ハルヤ」という声援が届く。
ハルヤの手に重ねられた手が、もう片方増えた。
シルヴァンは、自分の両手をハルヤに預けている。
透き通るほど優しい笑顔で、もう一度尋ねられる。
「ハルヤは僕のこと、好きですか?」
重なった手は、とても温かい。
ハルヤは、シルヴァンの手を少し握る。
顔を真っ赤にしてハルヤは呟く。
「………すき」
fin
■ウーティス寮とミハイル
-------------------------
-------------------------
「あの…みんな…」
4月下旬のウーティス寮サロン。
ユウタはダンボール箱を持って、げっそりしていた。
ジョシュアが、心配そうに声を掛ける。
「ユウタ? どうしたんだい…具合でも悪いの?」
「あの、ちょっと…姉貴から荷物が届いて…」
「ユウタの姉ちゃんからっ!?」
レッドが箱を開ける。
黒、赤、青の長い布が入っている。
レッドは青い布を広げてみる。
所々に金糸で刺繍されて、黒い水玉模様もある。
チャイナドレスのように見えた。スリットはないようだが。
「おおっ、派手なドレスじゃん! おいアンリ、着てみろよ!」
「…何で僕が?」
「じゃあ、ハルヤにも着て欲しいです♪」
「シルヴァン。それ、ドレスじゃないよ。こいのぼり。ね、ユウタ?」
「うん。そーなんだ。姉貴…こんなおっきいの送って。
何でもかんでも送れば良いと思ってんのかなあ」
「これがこいのぼりなんですかー!? 本物は初めて見ましたよー。
こんなに大きいものだったんですね!」
「シルヴァン、知ってたの?」
「はい。映画の中で、サムライの村で男の子が生まれた時に見ました!
こいのぼりって、江戸時代から今まで継がれているイベントなんですね」
「おい、こいのぼりってなんだ!」
「5月5日は、日本ではこどもの日なんだよ。
こいのぼりを飾って、滝登りをする鯉みたいに、
男の子が元気で大きくなりますように、って願いを込めたものなんだ」
「ふうん。んで、こいのぼりって、どうやって飾んだよ?」
「これは大きいから外だね」
「外!?」
「まあ。実際にやってみよっか」
ウーティス寮の庭。
黒の真鯉、赤の緋鯉、青の子鯉が楽しそうに泳いでいる。
「うわあ。他の寮の人達も集まってきちゃった…」
「珍しいだろうからね。てゆうか、目立つし」
「あっ、ミハイルだー」
「ユウタ…」
「ミハイル、寮のみんなと来てくれたんだ?」
「うん。シュヌーシアのみんながね、
『ウーティスが面白いことやってるから一緒に見に行こう』って誘ってくれたの。
ウーティスにはユウタが居るから会えるかもって思って…来ちゃった、ごめんね」
「謝ることなんてないよ、ミハイル。
ね。5月5日、ミハイルも一緒に柏餅食べよ?」
「かしわもち?」
「日本のお菓子だよ。甘くて柔らかいんだー」
「そう。ユウタと一緒に居られるなら、ぼくも食べたいな」
fin
4月下旬のウーティス寮サロン。
ユウタはダンボール箱を持って、げっそりしていた。
ジョシュアが、心配そうに声を掛ける。
「ユウタ? どうしたんだい…具合でも悪いの?」
「あの、ちょっと…姉貴から荷物が届いて…」
「ユウタの姉ちゃんからっ!?」
レッドが箱を開ける。
黒、赤、青の長い布が入っている。
レッドは青い布を広げてみる。
所々に金糸で刺繍されて、黒い水玉模様もある。
チャイナドレスのように見えた。スリットはないようだが。
「おおっ、派手なドレスじゃん! おいアンリ、着てみろよ!」
「…何で僕が?」
「じゃあ、ハルヤにも着て欲しいです♪」
「シルヴァン。それ、ドレスじゃないよ。こいのぼり。ね、ユウタ?」
「うん。そーなんだ。姉貴…こんなおっきいの送って。
何でもかんでも送れば良いと思ってんのかなあ」
「これがこいのぼりなんですかー!? 本物は初めて見ましたよー。
こんなに大きいものだったんですね!」
「シルヴァン、知ってたの?」
「はい。映画の中で、サムライの村で男の子が生まれた時に見ました!
こいのぼりって、江戸時代から今まで継がれているイベントなんですね」
「おい、こいのぼりってなんだ!」
「5月5日は、日本ではこどもの日なんだよ。
こいのぼりを飾って、滝登りをする鯉みたいに、
男の子が元気で大きくなりますように、って願いを込めたものなんだ」
「ふうん。んで、こいのぼりって、どうやって飾んだよ?」
「これは大きいから外だね」
「外!?」
「まあ。実際にやってみよっか」
ウーティス寮の庭。
黒の真鯉、赤の緋鯉、青の子鯉が楽しそうに泳いでいる。
「うわあ。他の寮の人達も集まってきちゃった…」
「珍しいだろうからね。てゆうか、目立つし」
「あっ、ミハイルだー」
「ユウタ…」
「ミハイル、寮のみんなと来てくれたんだ?」
「うん。シュヌーシアのみんながね、
『ウーティスが面白いことやってるから一緒に見に行こう』って誘ってくれたの。
ウーティスにはユウタが居るから会えるかもって思って…来ちゃった、ごめんね」
「謝ることなんてないよ、ミハイル。
ね。5月5日、ミハイルも一緒に柏餅食べよ?」
「かしわもち?」
「日本のお菓子だよ。甘くて柔らかいんだー」
「そう。ユウタと一緒に居られるなら、ぼくも食べたいな」
fin
■ジョシュア×アンリ
--------------------
--------------------
アンリが入学してから、ひと月経った頃。
同じ寮のジョシュア・グラントが、部屋に訪れた。
差し出された紙に、アンリは首を傾げる。
「ミュージカルのチケット?」
「うん。教授から頂いたんだ。一緒にどうかな?」
ジョシュアが手に持っているのは、二枚のチケット。
島の中心街にある、劇場で行われるようだ。
「教授、急に用事ができたそうでね。アンリ、ミュージカルは好き?」
ジョシュアの腕が掴まれる。
冷たい手に触れられて、少し驚く。
アンリは真剣にジョシュアを見つめて、言った。
「行っては駄目」
琥珀の瞳が、いつもより光って見えた。
「…アンリ…?」
「あ、ごめん…」
手を離し、視線を逸らした。
「どうしたの、アンリ?」
「わからない…でも…」
アンリが困惑した表情を見せる。
あっ、と小さく呟き、ポケットからタロットを取り出す。
22枚のカードを、テーブルの上に散らす。
「ジョシュア。一枚、引いて」
「…あ、うん」
言われるまま、カードを取る。
そこに描かれた絵は、落雷で崩壊する塔。
アンリは「良くないね…」と眉を顰める。
「どういうカードなんだい?」
「『塔』だよ。災いを意味するカードだ」
「えっ」
「通常、タロットは正位置と逆位置では正反対の意味を持つのだけど、
このカードの場合は、どちらも悪い意味を示す」
「そう…」
「急にこんなこと言われても、信じられない、よね。
どうするかは、君の好きにすればいい」
「信じるよ、アンリ。今日は行かないことにする」
アンリは、ほっとした表情を見せる。
「うん。その方が、良いと思うよ」
翌朝。テレビで交通事故のニュースが流れる。
ジョシュアは、その事故現場を見て、背筋が凍るようだった。
潰れた車の背景に映っていたのは、劇場の建物だ。
アンリの部屋に向かう。
彼も同じニュースを見ていた。
アンリは冷笑する。
「気味が悪いでしょ? こんな人間」
「アンリ…」
「僕、子供の時からこうだから。君も、僕に近付かない方が良い」
「そんなわけないだろう。ありがとう、アンリ。俺のこと助けてくれて」
「…気味が悪くないの?」
「まさか。君のような子を見て、誰がそんなことを言うんだい?」
「父」
「え?」
「もうずっと前だけどね。彼が『塔』のカードを引いた時も、
似たようなことがあって…彼は僕を罵ったから」
「アンリ。君が居なければ、俺はきっと今、此処に居なかったね。
感謝してる。君が居てくれて良かった」
「…君も。生きていて、良かった」
fin
同じ寮のジョシュア・グラントが、部屋に訪れた。
差し出された紙に、アンリは首を傾げる。
「ミュージカルのチケット?」
「うん。教授から頂いたんだ。一緒にどうかな?」
ジョシュアが手に持っているのは、二枚のチケット。
島の中心街にある、劇場で行われるようだ。
「教授、急に用事ができたそうでね。アンリ、ミュージカルは好き?」
ジョシュアの腕が掴まれる。
冷たい手に触れられて、少し驚く。
アンリは真剣にジョシュアを見つめて、言った。
「行っては駄目」
琥珀の瞳が、いつもより光って見えた。
「…アンリ…?」
「あ、ごめん…」
手を離し、視線を逸らした。
「どうしたの、アンリ?」
「わからない…でも…」
アンリが困惑した表情を見せる。
あっ、と小さく呟き、ポケットからタロットを取り出す。
22枚のカードを、テーブルの上に散らす。
「ジョシュア。一枚、引いて」
「…あ、うん」
言われるまま、カードを取る。
そこに描かれた絵は、落雷で崩壊する塔。
アンリは「良くないね…」と眉を顰める。
「どういうカードなんだい?」
「『塔』だよ。災いを意味するカードだ」
「えっ」
「通常、タロットは正位置と逆位置では正反対の意味を持つのだけど、
このカードの場合は、どちらも悪い意味を示す」
「そう…」
「急にこんなこと言われても、信じられない、よね。
どうするかは、君の好きにすればいい」
「信じるよ、アンリ。今日は行かないことにする」
アンリは、ほっとした表情を見せる。
「うん。その方が、良いと思うよ」
翌朝。テレビで交通事故のニュースが流れる。
ジョシュアは、その事故現場を見て、背筋が凍るようだった。
潰れた車の背景に映っていたのは、劇場の建物だ。
アンリの部屋に向かう。
彼も同じニュースを見ていた。
アンリは冷笑する。
「気味が悪いでしょ? こんな人間」
「アンリ…」
「僕、子供の時からこうだから。君も、僕に近付かない方が良い」
「そんなわけないだろう。ありがとう、アンリ。俺のこと助けてくれて」
「…気味が悪くないの?」
「まさか。君のような子を見て、誰がそんなことを言うんだい?」
「父」
「え?」
「もうずっと前だけどね。彼が『塔』のカードを引いた時も、
似たようなことがあって…彼は僕を罵ったから」
「アンリ。君が居なければ、俺はきっと今、此処に居なかったね。
感謝してる。君が居てくれて良かった」
「…君も。生きていて、良かった」
fin
■ユウタ ジョシュア アンリ
-----------------------------
-----------------------------
「おっかしーなー。どこいったんだろ…」
ユウタはサロンのあちこちを探し回っている。
床に膝をついて、テーブルの上、ソファの下など覗いてみる。
見つからない。
「ユウタ。どうしたんだい?」
扉を開けたジョシュアが、跪いている寮生に尋ねる。
その後ろにはアンリが居た。
ユウタは、二人を見上げて言う。
「あっ、あのね、俺のクロックマンシャーペンが
なくなっちゃったんだ。見てないかな?」
「…クロックマン?」
「あの、うさぎのマスコットがついてるシャーペンなんだけど」
「ああ、シルヴァンが好きなうさぎだね。
ごめん、俺は見てないな。アンリは見掛けたかい?」
アンリが首を横に振ると、ユウタは肩を落とす。
「そっかあ。俺、もうちょっと探してみる」
アンリの隣からジョシュアが離れる。
ユウタの肩に手を置いた。
「ユウタ。俺も手伝うよ」
「ジョシュア…ありがと」
「なくなったのは、いつ?」
「昨日の夜。此処に、置いていっちゃったんだ」
ユウタがジョシュアに状況を説明する。
アンリは暖炉の傍に背を預け、二人の会話を聞いていた。
ユウタは、時間軸を行ったり来たりしながら、要領悪く説明している。
その混濁した話を、ジョシュアが適確に質問することで、話を整理していた。
要は、どう考えても此処にある筈であること、
他の寮生やバトラーに聞いても発見できなかった、という話らしい。
二人が手分けして、部屋の中を探し始める。
それまで黙っていたアンリが口を開く。
「ねえ」
二人の視線が集まる。
アンリは腕を組む。
「彼の仕業じゃない?」
ユウタは首を傾げる。
「彼って?」
「この学院に古くから…」
台詞が温かい手に覆われた。
ジョシュアが唇に指を当てている。
冷たい目が、何、と問う。
ユウタに聞こえないよう、小声で言う。
「ユウタの前で、それは言ってはいけないよ」
温かい手を静かに避ける。
「何故いけないの?」
ジョシュアは、アンリの耳許に唇を寄せる。
「ユウタはダメなんだ、幽霊の話」
「では、まだ言っていないの?」
「ああ。秘密にしている」
アルフォンソ学院の建物はどれも古い。
築100年でまだ新しい方だ。
当然、囁かれる怪談は後を絶たない。
悪戯好きの幽霊が住んでいるという噂があった。
所業は、新入生の持ち物を盗むだけ、という至って可愛らしいものだが、
毎年のように繰り返されるので、その存在は否定し難いものがあった。
上級生になると「今年も来たのか」と風物詩のように受け止めたり、
生徒のうちの一人として、むしろ愛着を感じている上級生も居た。
悪戯をされた新入生の中には、怖がって泣き出す生徒も10年に1度ほど居るらしい。
ジョシュアはこの学院に入学してから6年目になるが、
泣いた子にはまだ遭遇していなかった。
ユウタが声を上げる。
「急にどうしたの? 二人して」
「ああ、ユウタ。何でもないよ。気にしないで」
「う、うん」
アンリは壁から背を起こす。
「悪いけど、用事を思い出したから、部屋に戻るね。
Je pense qu'il n'est pas trouve.(見つからないと思うし)」
扉が閉まる。
ユウタは、ねえ、とジョシュアに尋ねる。
「今、アンリ、何て言ったの?」
「え。えっと…『見つかると良いね』かな?」
「へえ。そうなんだ。アンリ、意外と優しいんだね」
「そう、だね。じゃあ、ユウタ。もう少し探してみようか?」
fin
ユウタはサロンのあちこちを探し回っている。
床に膝をついて、テーブルの上、ソファの下など覗いてみる。
見つからない。
「ユウタ。どうしたんだい?」
扉を開けたジョシュアが、跪いている寮生に尋ねる。
その後ろにはアンリが居た。
ユウタは、二人を見上げて言う。
「あっ、あのね、俺のクロックマンシャーペンが
なくなっちゃったんだ。見てないかな?」
「…クロックマン?」
「あの、うさぎのマスコットがついてるシャーペンなんだけど」
「ああ、シルヴァンが好きなうさぎだね。
ごめん、俺は見てないな。アンリは見掛けたかい?」
アンリが首を横に振ると、ユウタは肩を落とす。
「そっかあ。俺、もうちょっと探してみる」
アンリの隣からジョシュアが離れる。
ユウタの肩に手を置いた。
「ユウタ。俺も手伝うよ」
「ジョシュア…ありがと」
「なくなったのは、いつ?」
「昨日の夜。此処に、置いていっちゃったんだ」
ユウタがジョシュアに状況を説明する。
アンリは暖炉の傍に背を預け、二人の会話を聞いていた。
ユウタは、時間軸を行ったり来たりしながら、要領悪く説明している。
その混濁した話を、ジョシュアが適確に質問することで、話を整理していた。
要は、どう考えても此処にある筈であること、
他の寮生やバトラーに聞いても発見できなかった、という話らしい。
二人が手分けして、部屋の中を探し始める。
それまで黙っていたアンリが口を開く。
「ねえ」
二人の視線が集まる。
アンリは腕を組む。
「彼の仕業じゃない?」
ユウタは首を傾げる。
「彼って?」
「この学院に古くから…」
台詞が温かい手に覆われた。
ジョシュアが唇に指を当てている。
冷たい目が、何、と問う。
ユウタに聞こえないよう、小声で言う。
「ユウタの前で、それは言ってはいけないよ」
温かい手を静かに避ける。
「何故いけないの?」
ジョシュアは、アンリの耳許に唇を寄せる。
「ユウタはダメなんだ、幽霊の話」
「では、まだ言っていないの?」
「ああ。秘密にしている」
アルフォンソ学院の建物はどれも古い。
築100年でまだ新しい方だ。
当然、囁かれる怪談は後を絶たない。
悪戯好きの幽霊が住んでいるという噂があった。
所業は、新入生の持ち物を盗むだけ、という至って可愛らしいものだが、
毎年のように繰り返されるので、その存在は否定し難いものがあった。
上級生になると「今年も来たのか」と風物詩のように受け止めたり、
生徒のうちの一人として、むしろ愛着を感じている上級生も居た。
悪戯をされた新入生の中には、怖がって泣き出す生徒も10年に1度ほど居るらしい。
ジョシュアはこの学院に入学してから6年目になるが、
泣いた子にはまだ遭遇していなかった。
ユウタが声を上げる。
「急にどうしたの? 二人して」
「ああ、ユウタ。何でもないよ。気にしないで」
「う、うん」
アンリは壁から背を起こす。
「悪いけど、用事を思い出したから、部屋に戻るね。
Je pense qu'il n'est pas trouve.(見つからないと思うし)」
扉が閉まる。
ユウタは、ねえ、とジョシュアに尋ねる。
「今、アンリ、何て言ったの?」
「え。えっと…『見つかると良いね』かな?」
「へえ。そうなんだ。アンリ、意外と優しいんだね」
「そう、だね。じゃあ、ユウタ。もう少し探してみようか?」
fin
■ソクーロフ×アイヴィー
--------------------------
--------------------------
「ソクーロフ、居るかー?」
アイヴィーが保健室のドアを開けると、
そこには、医師と生徒が向かい合って座っていた。
「あっ…」
金髪の少年に見上げられる。
ソクーロフは来客を一瞥する。
「今、カウンセリング中だ。終わるまで外で待ってろ」
「へいへい。邪魔してごめんな、マージナルプリンス?」
「いっ、いえ。ごめんなさい、ぼくのせいで…」
カウンセラーはクライアントの手を取る。
「ミハイル、君のせいではない。君は予約をして此処に来ているのだから。
用も無いのに押し掛けて来た方が悪い」
ミハイルは主治医に尋ねる。
「…タクシーのお兄さん?」
「ああ。年齢的にはタクシーのおじさんだがな」
「おいコラ! わざわざ言い直すな!」
「まだ居たのか。カウンセリングの邪魔だぞ、アイヴィー」
「そーですか。失礼しましたっ」
保健室の扉が閉まる。
カウンセラーはクライアントに詫びる。
「すまない、ミハイル。煩い邪魔が入って。
カウンセリングを続けよう」
ミハイルは、ぱちくりと目を瞬かせている。
それに気付いた医師は、彼の名を呼ぶ。
「どうしたのかな?」
「あ、あの、博士…」
「なんだい?」
「あっ、ごめんなさい、やっぱり、何でもない、です…」
アイヴィーは保健室の建物から出て、木に背を預けていた。
ポケットから煙草を出す。
木漏れ日が温かい。
足元を見渡すと、白や黄色の花達が咲いていた。
いつのまにか、すっかり春の陽気に包まれている。
深く息を吸う。
それだけで幸せだった。
保健室から金髪の生徒が出てくる。
大きな瞳に涙をいっぱいに溜め、頬を濡らしている。
生徒は、アイヴィーに気付いて、涙を拭く。
アイヴィーは、がしっと少年の肩を掴んだ。
「君! あいつに泣かされたのか? あのサディスト、こんな幼気な少年まで…」
「ち、ちがうの! ぼく、カウンセリングの後は、いつも涙が出るの」
「いつも!? いつも何やってんだ、あの鬼畜医師め…」
「アイヴィーさん、ぼくは大丈夫だから! 博士は悪くないから!」
必死の訴えに圧倒された大人は「…そ、そうか?」と鞘を収める。
「あれ、俺の名前よく知ってんね?」
「さっき、博士が貴方のこと、そう呼んでたから…」
「ああ。そうだな。えっと、君は…」
「はっ、はじめまして…。ぼくはミハイル。
ミハイル・リューリコヴィッチ・ネフスキーです」
深く頭を下げる少年につられて、
大人も深く頭を下げる。
「これはご丁寧にどうもっ。よろしくな、ミハイル」
「はい、よ、よろしく。…あっ、あの」
「ん?」
「ぼく…アイヴィーさんと、少しお話したいな。
もしよかったら、ぼくと、お話してくれませんか?」
「ああ。てゆうか、今、お話してると思うけど?」
「あっ、ご、ごめんなさい…」
「あははっ、かわいーんだな、ミハイルは」
「か、かわいい…?」
アイヴィーは草の上に胡坐をかいて座った。
足首を持って、小首を傾げる。
「で? 俺にお話ってなーに?」
ミハイルは、アイヴィーから少し離れた所で正座する。
緊張した面持ち。
透き通るような顔は、仄かに春色に染まっていた。
ミハイルは、手を膝の上で握り締める。
「あの…えっと…」
「うん」
「あ、アイヴィーさんは、博士のお友達、ですか?」
アイヴィーは苦笑する。
「どうかなー? お友達、とはちょっと違うかもな」
「えっ、お友達じゃないの? じゃあ、なんで博士は…」
「あいつが、どうかした?」
「あの。アイヴィーさんとお話してる時の博士、
楽しそうだったから、お友達なのかなって、思って」
「…楽しそーだった?」
「うん。博士の楽しそうな顔なんて、初めて見たから…
ぼく、ちょっとびっくりしちゃって…。
さっき、博士にも聞こうと思ったんだけど、聞けなくて…。
でも、ごめんなさい…ぼくの気のせい、だったのかな……うわっ」
突然、頭を撫でられたミハイルが声を上げた。
タクシーのお兄さんは上機嫌だ。
金髪を愛おしげに撫でる。
「お前、イイ奴だなー、ミハイルー♪」
「…え、えっ?」
「サンキュ。今の話、ソクーロフに自慢しとくわ」
「…って言う話を聞いちゃったわけ♪」
アイヴィーは自慢気に笑う。
保健室。
ミハイルと別れたアイヴィーは、
先程の出来事を医師に向かって、やや大袈裟に語った。
医師は相槌も打たず、その誇張された話を聞いていた。
アイヴィーは椅子の背凭れを前にして座っている。
そのままズルズルと医師に向かってくる。
「んじゃ、感想を聞こうか、ソクーロフ博士?」
ウキウキしている運転手とは逆に、
カウンセラーは真剣に呟く。
「驚いたな…ミハイルが初対面の人間とそれほど話せるとは…」
「…おーい。もしもーし」
「確かに以前に比べれば、笑顔を見せる頻度も多い。
自己開示の範囲が徐々に広くなっているな…」
「…おーい。帰って来ーい」
「積極性が増したのは、やはりユウタとの出会いがきっかけか…」
「…むー。」
「カウンセリングは、ひとつ段階を上げても良いかもしれないな」
席を立った医師は、綺麗に整理された棚からファイルを引き抜く。
パラパラとページを飛ばして、
ミハイルの写真が挟まれたカルテを手に取る。
それを眺めたまま、医師はぴたりと動かなくなる。
黙考の時間に入ってしまったらしい。
おそらく今、研究者の頭脳は恐ろしい速さで回転し、
その生徒にとって最適なカウンセリング療法を編み出しているのだろう。
専門分野の思考中は周りが見えなくなる。研究者の悪い癖だ。
アイヴィーは肩を竦める。
「はいはい、俺はオアズケねー。ったく、つれないオトコ」
傍にある簡易ベッドに寝転がる。
手を頭の下に敷き、足を組む。
目を閉じる。
保健室の窓から、心地良い春風が吹いてきた。
fin
アイヴィーが保健室のドアを開けると、
そこには、医師と生徒が向かい合って座っていた。
「あっ…」
金髪の少年に見上げられる。
ソクーロフは来客を一瞥する。
「今、カウンセリング中だ。終わるまで外で待ってろ」
「へいへい。邪魔してごめんな、マージナルプリンス?」
「いっ、いえ。ごめんなさい、ぼくのせいで…」
カウンセラーはクライアントの手を取る。
「ミハイル、君のせいではない。君は予約をして此処に来ているのだから。
用も無いのに押し掛けて来た方が悪い」
ミハイルは主治医に尋ねる。
「…タクシーのお兄さん?」
「ああ。年齢的にはタクシーのおじさんだがな」
「おいコラ! わざわざ言い直すな!」
「まだ居たのか。カウンセリングの邪魔だぞ、アイヴィー」
「そーですか。失礼しましたっ」
保健室の扉が閉まる。
カウンセラーはクライアントに詫びる。
「すまない、ミハイル。煩い邪魔が入って。
カウンセリングを続けよう」
ミハイルは、ぱちくりと目を瞬かせている。
それに気付いた医師は、彼の名を呼ぶ。
「どうしたのかな?」
「あ、あの、博士…」
「なんだい?」
「あっ、ごめんなさい、やっぱり、何でもない、です…」
アイヴィーは保健室の建物から出て、木に背を預けていた。
ポケットから煙草を出す。
木漏れ日が温かい。
足元を見渡すと、白や黄色の花達が咲いていた。
いつのまにか、すっかり春の陽気に包まれている。
深く息を吸う。
それだけで幸せだった。
保健室から金髪の生徒が出てくる。
大きな瞳に涙をいっぱいに溜め、頬を濡らしている。
生徒は、アイヴィーに気付いて、涙を拭く。
アイヴィーは、がしっと少年の肩を掴んだ。
「君! あいつに泣かされたのか? あのサディスト、こんな幼気な少年まで…」
「ち、ちがうの! ぼく、カウンセリングの後は、いつも涙が出るの」
「いつも!? いつも何やってんだ、あの鬼畜医師め…」
「アイヴィーさん、ぼくは大丈夫だから! 博士は悪くないから!」
必死の訴えに圧倒された大人は「…そ、そうか?」と鞘を収める。
「あれ、俺の名前よく知ってんね?」
「さっき、博士が貴方のこと、そう呼んでたから…」
「ああ。そうだな。えっと、君は…」
「はっ、はじめまして…。ぼくはミハイル。
ミハイル・リューリコヴィッチ・ネフスキーです」
深く頭を下げる少年につられて、
大人も深く頭を下げる。
「これはご丁寧にどうもっ。よろしくな、ミハイル」
「はい、よ、よろしく。…あっ、あの」
「ん?」
「ぼく…アイヴィーさんと、少しお話したいな。
もしよかったら、ぼくと、お話してくれませんか?」
「ああ。てゆうか、今、お話してると思うけど?」
「あっ、ご、ごめんなさい…」
「あははっ、かわいーんだな、ミハイルは」
「か、かわいい…?」
アイヴィーは草の上に胡坐をかいて座った。
足首を持って、小首を傾げる。
「で? 俺にお話ってなーに?」
ミハイルは、アイヴィーから少し離れた所で正座する。
緊張した面持ち。
透き通るような顔は、仄かに春色に染まっていた。
ミハイルは、手を膝の上で握り締める。
「あの…えっと…」
「うん」
「あ、アイヴィーさんは、博士のお友達、ですか?」
アイヴィーは苦笑する。
「どうかなー? お友達、とはちょっと違うかもな」
「えっ、お友達じゃないの? じゃあ、なんで博士は…」
「あいつが、どうかした?」
「あの。アイヴィーさんとお話してる時の博士、
楽しそうだったから、お友達なのかなって、思って」
「…楽しそーだった?」
「うん。博士の楽しそうな顔なんて、初めて見たから…
ぼく、ちょっとびっくりしちゃって…。
さっき、博士にも聞こうと思ったんだけど、聞けなくて…。
でも、ごめんなさい…ぼくの気のせい、だったのかな……うわっ」
突然、頭を撫でられたミハイルが声を上げた。
タクシーのお兄さんは上機嫌だ。
金髪を愛おしげに撫でる。
「お前、イイ奴だなー、ミハイルー♪」
「…え、えっ?」
「サンキュ。今の話、ソクーロフに自慢しとくわ」
「…って言う話を聞いちゃったわけ♪」
アイヴィーは自慢気に笑う。
保健室。
ミハイルと別れたアイヴィーは、
先程の出来事を医師に向かって、やや大袈裟に語った。
医師は相槌も打たず、その誇張された話を聞いていた。
アイヴィーは椅子の背凭れを前にして座っている。
そのままズルズルと医師に向かってくる。
「んじゃ、感想を聞こうか、ソクーロフ博士?」
ウキウキしている運転手とは逆に、
カウンセラーは真剣に呟く。
「驚いたな…ミハイルが初対面の人間とそれほど話せるとは…」
「…おーい。もしもーし」
「確かに以前に比べれば、笑顔を見せる頻度も多い。
自己開示の範囲が徐々に広くなっているな…」
「…おーい。帰って来ーい」
「積極性が増したのは、やはりユウタとの出会いがきっかけか…」
「…むー。」
「カウンセリングは、ひとつ段階を上げても良いかもしれないな」
席を立った医師は、綺麗に整理された棚からファイルを引き抜く。
パラパラとページを飛ばして、
ミハイルの写真が挟まれたカルテを手に取る。
それを眺めたまま、医師はぴたりと動かなくなる。
黙考の時間に入ってしまったらしい。
おそらく今、研究者の頭脳は恐ろしい速さで回転し、
その生徒にとって最適なカウンセリング療法を編み出しているのだろう。
専門分野の思考中は周りが見えなくなる。研究者の悪い癖だ。
アイヴィーは肩を竦める。
「はいはい、俺はオアズケねー。ったく、つれないオトコ」
傍にある簡易ベッドに寝転がる。
手を頭の下に敷き、足を組む。
目を閉じる。
保健室の窓から、心地良い春風が吹いてきた。
fin
シルヴァンは上機嫌で夜遊びから帰って来た。
第一学生寮の扉を開けると、執事が居た。
「おかえりなさいませ、シルヴァン様」
「遅くなっちゃってすみません。これで許して下さいね♪」
シルヴァンはバトラーの頬にキスをした。
「おやすみなさい、バトラー♪」
「…おやすみなさいませ、シルヴァン様」
跳ねる長髪を見送りながら、バトラーは頬に触れた。
シルヴァンは景気良くサロンの扉を開けた。
「只今戻りましたー♪」
「遅いよ、シルヴァン。俺、心配してたんだからー」
ユウタが駆け寄ると、シルヴァンは身を屈める。
「僕のこと、心配してくれたんですか? 嬉しいです♪」
ユウタの頬にキスをする。
された方は、きょとんとした後、大声を出した。
「えええーー!!? き、き…キスされたあー!!?」
レッドは可笑しそうに笑う。
「面白いリアクションだなあ、ユウタ。そんなに驚くことかよ」
「驚くでしょ!?」
「でも、こいつ、酔うと割とこーだぜ?
てゆうか、たかがキスくらいで騒ぐなって」
シルヴァンは、レッドの頬にキスする。
「そーですよねー、ダーリン♪」
「ダーリンじゃねえ」
レッドに頭を叩かれたシルヴァンは、
生徒代表の元へ行く。
「ジョシュア♪」
頬にキスを受けたジョシュアは、柔らかく苦笑する。
「おかえり、シルヴァン」
「はい♪ 次はア…」
アンリは片手で頬を支えながら冷笑する。
「しても良いけど、末代まで呪うよ?」
爆笑しているのはレッドだけだ。
「お前が言うと、冗談に聞こえねー!」
「昔読んだ呪術書に、そういうの書いてあったんだよね。
いつか実験してみたいなって思ってたんだ」
ハルヤがシルヴァンを引きずる。
「シルヴァン。呪われちゃうから、もう部屋に行こ?
んじゃ俺、この人部屋に連れてくよ」
「頼むよ、ハルヤ」とジョシュア。
レッドは伸びをする。
「んじゃ、俺も寝るわ」
「俺もー。また明日ね。おやすみー」
「うん。おやすみ、レッド、ユウタ」
サロンには、ジョシュアとアンリが残る。
「アンリ、俺達も寝ようか?」
「ねえ。どうして平気でいられるの」
「シルヴァンのことかい?
酔った上での行為なら仕方ないじゃないか」
「酔っていたら、何でも許されるの?
君も避けられた筈なのに、何故シルヴァンに」
ジョシュアは微笑みながら、自分の頬を指差す。
「アンリも、してみたいのかな?」
冷たい視線が見上げてくる。
アンリは席を立つ。
「おやすみ」
不機嫌にドアが閉められる。
ジョシュアは、くすくすと笑った。
シルヴァンの部屋に着いたハルヤは、
笑顔の酔っ払いを、ベッドに乗せる。
「シルヴァン、ベッドに着いたよ。大丈夫?」
「はーい。大丈夫でーす♪」
「…ダメだな」
「ハルヤハルヤー。僕、今、とってもいい気分ですー♪」
「…良かったね。あれ。シルヴァン…アイヴィーと会ってたの?」
「そうでーす。よく解りましたね?」
「解るよ。アイヴィーの煙草の匂いだもん」
「あー。なるほどですー♪」
「あのさ。アイヴィーにも…その…キス、したの?」
「はい。タクシー代にして来ました♪」
「そう…」
「バトラーにもしましたよ♪」
「…見境なしに、そういうことしないでよ」
「ハルヤー! 妬いてくれてるんですね♪」
「妬いてなんかっ」
「照れ屋ですね、ハルヤは。そこが可愛いです♪」
飛び付いて来た友人と一緒にベッドに倒れ込む。
羽交い絞めにされたまま、見つめられて、
酔っていない人の方が、顔が赤くなる。
「ちょ、ちょっと…シルヴァン…」
「心配しないで、下さい」
「えっ」
「僕が、一番好き、なのは…」
シルヴァンは口の中で何か呟く。
やがて、それは寝息に変わった。
「シルヴァン、うそ…寝ちゃったの?」
規則的な呼吸が返って来る。
「てゆうか身動き取れないし…寝てんのに、なんでこんな力強いんだろ…」
腕ごと抱かれ、手さえ自由に動かない。
シルヴァンから、酒と煙草の香りを感じる。
アイヴィーの匂い。
自分の前に、たくさんの人と触れた唇がある。
ハルヤは息を吐く。
「一番好きなの、誰なんだよ…」
翌朝。
ユウタはシルヴァンの部屋に向かっていた。
「シルヴァン、二日酔いとか大丈夫かなー」
大きな独り言を呟きながら、部屋の前に来るとドアをノックした。
「シルヴァン。おはよー。朝ごはん、食べれそう?」
返事がない。
心配になったユウタは「入るよー?」と扉を開ける。
目に飛び込んで来た衝撃映像に、ユウタは硬直する。
ベッドに寝ている人が二人居た。
シルヴァンの腕の中に居る人が、ゆっくりと目を開ける。
「ユウ…タ…あれ…?」
ハルヤは身体が動かないことに気付く。
昨夜、抱き締められたまま眠ってしまったらしい。
ユウタは既に涙目だ。
「ハルヤ…なんで…シルヴァンと一緒に…」
ユウタはショックの余り、自分の言葉が、
日本語に切り替わっていることにも気付かない。
やっと状況を理解したハルヤも慌て始める。
シルヴァンの部屋で、動揺した日本語が飛び交う。
「ユウタ、これは、あの、そうじゃなくてっ」
「…ハルヤとシルヴァン、なんか仲良いなと思ってたけど、まさかこんなに…」
「そんなわけないじゃん! 本当に昨日は何も!」
「『昨日は』って何なの!?」
「えっと、だから…もうシルヴァン!
起きてよ! ねえ、シルヴァンからも何か言って!」
「ん…」
シルヴァンが目を開ける。
にこりと笑って、呟く。
「大好きです、ハルヤ…」
それだけ言うと、また安らかな眠りに戻った。
残された二人は慌てふためく。
「ば、ばかっ! ちょっと起きてよ、シルヴァン!」
ユウタは泣きながら、部屋から出て行く。
「ジョシュアー! ハルヤとシルヴァンがー!」
「ユウタ、待って!!」
fin
第一学生寮の扉を開けると、執事が居た。
「おかえりなさいませ、シルヴァン様」
「遅くなっちゃってすみません。これで許して下さいね♪」
シルヴァンはバトラーの頬にキスをした。
「おやすみなさい、バトラー♪」
「…おやすみなさいませ、シルヴァン様」
跳ねる長髪を見送りながら、バトラーは頬に触れた。
シルヴァンは景気良くサロンの扉を開けた。
「只今戻りましたー♪」
「遅いよ、シルヴァン。俺、心配してたんだからー」
ユウタが駆け寄ると、シルヴァンは身を屈める。
「僕のこと、心配してくれたんですか? 嬉しいです♪」
ユウタの頬にキスをする。
された方は、きょとんとした後、大声を出した。
「えええーー!!? き、き…キスされたあー!!?」
レッドは可笑しそうに笑う。
「面白いリアクションだなあ、ユウタ。そんなに驚くことかよ」
「驚くでしょ!?」
「でも、こいつ、酔うと割とこーだぜ?
てゆうか、たかがキスくらいで騒ぐなって」
シルヴァンは、レッドの頬にキスする。
「そーですよねー、ダーリン♪」
「ダーリンじゃねえ」
レッドに頭を叩かれたシルヴァンは、
生徒代表の元へ行く。
「ジョシュア♪」
頬にキスを受けたジョシュアは、柔らかく苦笑する。
「おかえり、シルヴァン」
「はい♪ 次はア…」
アンリは片手で頬を支えながら冷笑する。
「しても良いけど、末代まで呪うよ?」
爆笑しているのはレッドだけだ。
「お前が言うと、冗談に聞こえねー!」
「昔読んだ呪術書に、そういうの書いてあったんだよね。
いつか実験してみたいなって思ってたんだ」
ハルヤがシルヴァンを引きずる。
「シルヴァン。呪われちゃうから、もう部屋に行こ?
んじゃ俺、この人部屋に連れてくよ」
「頼むよ、ハルヤ」とジョシュア。
レッドは伸びをする。
「んじゃ、俺も寝るわ」
「俺もー。また明日ね。おやすみー」
「うん。おやすみ、レッド、ユウタ」
サロンには、ジョシュアとアンリが残る。
「アンリ、俺達も寝ようか?」
「ねえ。どうして平気でいられるの」
「シルヴァンのことかい?
酔った上での行為なら仕方ないじゃないか」
「酔っていたら、何でも許されるの?
君も避けられた筈なのに、何故シルヴァンに」
ジョシュアは微笑みながら、自分の頬を指差す。
「アンリも、してみたいのかな?」
冷たい視線が見上げてくる。
アンリは席を立つ。
「おやすみ」
不機嫌にドアが閉められる。
ジョシュアは、くすくすと笑った。
シルヴァンの部屋に着いたハルヤは、
笑顔の酔っ払いを、ベッドに乗せる。
「シルヴァン、ベッドに着いたよ。大丈夫?」
「はーい。大丈夫でーす♪」
「…ダメだな」
「ハルヤハルヤー。僕、今、とってもいい気分ですー♪」
「…良かったね。あれ。シルヴァン…アイヴィーと会ってたの?」
「そうでーす。よく解りましたね?」
「解るよ。アイヴィーの煙草の匂いだもん」
「あー。なるほどですー♪」
「あのさ。アイヴィーにも…その…キス、したの?」
「はい。タクシー代にして来ました♪」
「そう…」
「バトラーにもしましたよ♪」
「…見境なしに、そういうことしないでよ」
「ハルヤー! 妬いてくれてるんですね♪」
「妬いてなんかっ」
「照れ屋ですね、ハルヤは。そこが可愛いです♪」
飛び付いて来た友人と一緒にベッドに倒れ込む。
羽交い絞めにされたまま、見つめられて、
酔っていない人の方が、顔が赤くなる。
「ちょ、ちょっと…シルヴァン…」
「心配しないで、下さい」
「えっ」
「僕が、一番好き、なのは…」
シルヴァンは口の中で何か呟く。
やがて、それは寝息に変わった。
「シルヴァン、うそ…寝ちゃったの?」
規則的な呼吸が返って来る。
「てゆうか身動き取れないし…寝てんのに、なんでこんな力強いんだろ…」
腕ごと抱かれ、手さえ自由に動かない。
シルヴァンから、酒と煙草の香りを感じる。
アイヴィーの匂い。
自分の前に、たくさんの人と触れた唇がある。
ハルヤは息を吐く。
「一番好きなの、誰なんだよ…」
翌朝。
ユウタはシルヴァンの部屋に向かっていた。
「シルヴァン、二日酔いとか大丈夫かなー」
大きな独り言を呟きながら、部屋の前に来るとドアをノックした。
「シルヴァン。おはよー。朝ごはん、食べれそう?」
返事がない。
心配になったユウタは「入るよー?」と扉を開ける。
目に飛び込んで来た衝撃映像に、ユウタは硬直する。
ベッドに寝ている人が二人居た。
シルヴァンの腕の中に居る人が、ゆっくりと目を開ける。
「ユウ…タ…あれ…?」
ハルヤは身体が動かないことに気付く。
昨夜、抱き締められたまま眠ってしまったらしい。
ユウタは既に涙目だ。
「ハルヤ…なんで…シルヴァンと一緒に…」
ユウタはショックの余り、自分の言葉が、
日本語に切り替わっていることにも気付かない。
やっと状況を理解したハルヤも慌て始める。
シルヴァンの部屋で、動揺した日本語が飛び交う。
「ユウタ、これは、あの、そうじゃなくてっ」
「…ハルヤとシルヴァン、なんか仲良いなと思ってたけど、まさかこんなに…」
「そんなわけないじゃん! 本当に昨日は何も!」
「『昨日は』って何なの!?」
「えっと、だから…もうシルヴァン!
起きてよ! ねえ、シルヴァンからも何か言って!」
「ん…」
シルヴァンが目を開ける。
にこりと笑って、呟く。
「大好きです、ハルヤ…」
それだけ言うと、また安らかな眠りに戻った。
残された二人は慌てふためく。
「ば、ばかっ! ちょっと起きてよ、シルヴァン!」
ユウタは泣きながら、部屋から出て行く。
「ジョシュアー! ハルヤとシルヴァンがー!」
「ユウタ、待って!!」
fin
■王子×王×側近
-------------------
-------------------
数日後。
王の寝室から、他の従者が下がり、
二人きりになった途端、主は側近を傍に呼んだ。
「ジョシュアは無事に学院に着いたか」
臣下は、王が座る椅子の後ろに立つ。
「ええ。先程、お電話がありました。陛下に伝言を預かっております」
「何と言っていた?」
「『叔父上に、ありがとうございました、と伝えて下さい』とのことです」
「叔父上、か」
その短い伝言の中で、甥は叔父との契りを守っていた。
叔父が言った「次に会った時は、叔父と甥として振舞えるか?」
それに応えるつもりなのだろう。素直で真面目な奴だ。
一夜だけの夢を見せる。
ジョシュアには残酷だった筈だ。
しかし、せめて一度でも、想いに応えたかった。
いや。それとも、あの熱い瞳に俺が魅入られていたのか。
「なあ、ラルヴィス」
「はい」
「ジョシュアとの二日間は、間違いだったと思うか」
臣下は主の問いに答える。
「殿下は『ありがとう』と仰っています。それが全てでしょう」
王は口元に手を当てながら、暫く黙っていた。
その間、臣下は静かに次のお言葉を待つ。
年代物の時計が、時を刻む音。
その数だけ、この王が過去を後悔しているように聞こえて。
臣下は目を閉じる。
主の声が、ジョシュアは、と呟く。
弱々しい声。
普段の凛々しさが欠片も含まれていない。
椅子に座っている王は、肩を落として言う。
「ジョシュアは、俺を恨まないと言っていた。
まるで、兄貴に許されたようだった」
臣下は主の背から、その御身を支える。
腕を王の胸元まで回す。
そうしなければ、私の主が崩れ落ちてしまいそうだった。
主に必要な言葉を差し出す。
「兄上だって、貴方を恨んでいませんよ」
主の肩が揺れる。無理に笑っている。
「兄貴は優しいからな。俺は自分で自分を断罪せねばなるまい」
主は、胸元に置かれた臣下の手を取り、自分の手を重ねる。
「兄貴の面影を追い求めていたのは、きっと俺の方だ」
頼り無い唇が、臣下の手に触れる。
まるで、幼い子供が母親に縋るようだった。
臣下は掛ける言葉が見つけられない。
やがて主は、すまない、と臣下の手を離した。
「甘えたな。今の話、決して他言するなよ。特に」
「心得ております。殿下にはお伝えできませんよ、これほど弱い御姿を」
「ああ。せめて甥の前では、強く誇れる叔父でなくてはな」
そう言って笑うと、
主の声は少し強さを取り戻した。
「ラルヴィス。ピアノを弾いてくれないか?」
「畏まりました」
王の寝室には、グランドピアノがあった。
しかし、王は自分では弾けない。
このピアノを弾くのは、今ではラルヴィスだけだった。
軍服を着た自分が、ピアノの前に座る。
似つかわしくない光景だ。
器楽隊ならば軍にもあるが、ピアノを弾く者は殆ど居ない。
だが、このピアノが私の運命を変えた。
あれはまだ、私が邸の掃除をしていた時だった。
当時の王は、カーディスのお父上で、
カーディスはまだ王子。「殿下」と呼ばれていた。
私がカーディスの寝室を開けると、そこにはグランドピアノがあった。
兄上であるエドワード殿下は弾けたが、
カーディス殿下がピアノを弾くという話は聞いたことがなかった。
私は、バケツとモップを床に置き、
引き寄せられたように、ピアノに近付いていた。
久し振りに見たピアノ。
どうしても弾きたくなって、鍵盤に触れた。
調律されている。
ピアノの音が部屋に響く。
時と場所も弁えず、私はピアノを弾いていた。
まだ若い私は、すぐ後ろに居る人の気配にも気が付かなかった。
「見事なものだな」
「カーディス殿下!? 申し訳ありません!」
「何故止める。続けろ」
「は、はい」
一曲弾き終わるまで、殿下は私のピアノを黙って聞いていた。
「…あの、以上です」
「綺麗な音色だな。心が洗われるようだった」と手放しで賞賛した。
「ありがとう、ございます、殿下…」
「お前はピアノが弾けるのか。軍で習ったのか?」
「いえ。母に…義母に教わりました。もう亡くなったのですが」
「そうか。ではお前の手は形見だな」
思わず、自分の手を見てしまった。
そう言われて初めて、この手が特別なものに感じられた。
「あの…殿下もピアノをお弾きになるのですか?」
「いいや。俺の周りは弾ける奴が居るのだがな。母や兄、あと悪友が弾ける」
「そうですか。では、このピアノは」
「兄貴の置土産だ」
「成程。やっと納得がいきました。貴方が弾く姿は想像できなかったので」
「面白いことを言う」
「…あ、申し訳ありません。殿下に失礼なことを…」
「気に入った。お前、俺の側近になれ」
「側近…ですか?」
「ああ。俺の傍を離れなければ良いだけだ。嫌か?」
「いえ…」
「それから、偶にで良い。俺の為にピアノを弾いてくれ」
カーディス殿下がそう仰ってから、もう数年お傍に居る。
ピアノを聞く時の御顔は、いつも寂しげだった。
過去の自分を深く悔いた人。
自分のせいで兄上を失ったと、自らを贖罪の檻に閉じ込めた。
一生、其処から出るつもりはないのだろう。
傷が治りかければ、何度でもかさぶたを引き剥がす。
それを兄上が亡くなってから、もう10年以上繰り返している。
この旋律が今、貴方の傷口を少しでも塞ぐことを願って止まない。
曲が終わる。
私が立ち上がって一礼すると、主は尋ねた。
「美しい曲だな。名は何と言う?」
「ショパンの『別れの曲』です」
「お前…まさか、聞いていたのか」
臣下は微笑する。
「『別れの口付け』のことですか?」
「…改めて言われると俺が恥ずかしいだろう。何故、後を追って来た」
「私の使命は『貴方から離れないこと』です。貴方が仰ったのですよ、陛下」
「口の減らない臣下を持ったものだな」
「では、不出来な臣下に調教でもされれば良い」
無礼な臣下は艶やかで温かい表情をしていた。
「芝居が下手だな、ラル。台詞と顔が合っていないぞ」
「それは貴方でしょう、カーディス様」
粗野な台詞も、冷たい行動も。
貴方のお優しい御心とは合っていない。
本当はジョシュア様のことが大切で仕方がないのに。
主の手が臣下の顎を持ち上げる。
「ラル。今宵は加減できないぞ」
「貴方に加減された覚えがありません」
「お前ほど、不出来で調教が必要な臣下は他に居ないな」
主は可笑しそうに苦笑する。
柔らかい笑みを湛えて言う。
「ラル」
「はい」
「死ぬまで、俺の傍に居てくれ」
fin
王の寝室から、他の従者が下がり、
二人きりになった途端、主は側近を傍に呼んだ。
「ジョシュアは無事に学院に着いたか」
臣下は、王が座る椅子の後ろに立つ。
「ええ。先程、お電話がありました。陛下に伝言を預かっております」
「何と言っていた?」
「『叔父上に、ありがとうございました、と伝えて下さい』とのことです」
「叔父上、か」
その短い伝言の中で、甥は叔父との契りを守っていた。
叔父が言った「次に会った時は、叔父と甥として振舞えるか?」
それに応えるつもりなのだろう。素直で真面目な奴だ。
一夜だけの夢を見せる。
ジョシュアには残酷だった筈だ。
しかし、せめて一度でも、想いに応えたかった。
いや。それとも、あの熱い瞳に俺が魅入られていたのか。
「なあ、ラルヴィス」
「はい」
「ジョシュアとの二日間は、間違いだったと思うか」
臣下は主の問いに答える。
「殿下は『ありがとう』と仰っています。それが全てでしょう」
王は口元に手を当てながら、暫く黙っていた。
その間、臣下は静かに次のお言葉を待つ。
年代物の時計が、時を刻む音。
その数だけ、この王が過去を後悔しているように聞こえて。
臣下は目を閉じる。
主の声が、ジョシュアは、と呟く。
弱々しい声。
普段の凛々しさが欠片も含まれていない。
椅子に座っている王は、肩を落として言う。
「ジョシュアは、俺を恨まないと言っていた。
まるで、兄貴に許されたようだった」
臣下は主の背から、その御身を支える。
腕を王の胸元まで回す。
そうしなければ、私の主が崩れ落ちてしまいそうだった。
主に必要な言葉を差し出す。
「兄上だって、貴方を恨んでいませんよ」
主の肩が揺れる。無理に笑っている。
「兄貴は優しいからな。俺は自分で自分を断罪せねばなるまい」
主は、胸元に置かれた臣下の手を取り、自分の手を重ねる。
「兄貴の面影を追い求めていたのは、きっと俺の方だ」
頼り無い唇が、臣下の手に触れる。
まるで、幼い子供が母親に縋るようだった。
臣下は掛ける言葉が見つけられない。
やがて主は、すまない、と臣下の手を離した。
「甘えたな。今の話、決して他言するなよ。特に」
「心得ております。殿下にはお伝えできませんよ、これほど弱い御姿を」
「ああ。せめて甥の前では、強く誇れる叔父でなくてはな」
そう言って笑うと、
主の声は少し強さを取り戻した。
「ラルヴィス。ピアノを弾いてくれないか?」
「畏まりました」
王の寝室には、グランドピアノがあった。
しかし、王は自分では弾けない。
このピアノを弾くのは、今ではラルヴィスだけだった。
軍服を着た自分が、ピアノの前に座る。
似つかわしくない光景だ。
器楽隊ならば軍にもあるが、ピアノを弾く者は殆ど居ない。
だが、このピアノが私の運命を変えた。
あれはまだ、私が邸の掃除をしていた時だった。
当時の王は、カーディスのお父上で、
カーディスはまだ王子。「殿下」と呼ばれていた。
私がカーディスの寝室を開けると、そこにはグランドピアノがあった。
兄上であるエドワード殿下は弾けたが、
カーディス殿下がピアノを弾くという話は聞いたことがなかった。
私は、バケツとモップを床に置き、
引き寄せられたように、ピアノに近付いていた。
久し振りに見たピアノ。
どうしても弾きたくなって、鍵盤に触れた。
調律されている。
ピアノの音が部屋に響く。
時と場所も弁えず、私はピアノを弾いていた。
まだ若い私は、すぐ後ろに居る人の気配にも気が付かなかった。
「見事なものだな」
「カーディス殿下!? 申し訳ありません!」
「何故止める。続けろ」
「は、はい」
一曲弾き終わるまで、殿下は私のピアノを黙って聞いていた。
「…あの、以上です」
「綺麗な音色だな。心が洗われるようだった」と手放しで賞賛した。
「ありがとう、ございます、殿下…」
「お前はピアノが弾けるのか。軍で習ったのか?」
「いえ。母に…義母に教わりました。もう亡くなったのですが」
「そうか。ではお前の手は形見だな」
思わず、自分の手を見てしまった。
そう言われて初めて、この手が特別なものに感じられた。
「あの…殿下もピアノをお弾きになるのですか?」
「いいや。俺の周りは弾ける奴が居るのだがな。母や兄、あと悪友が弾ける」
「そうですか。では、このピアノは」
「兄貴の置土産だ」
「成程。やっと納得がいきました。貴方が弾く姿は想像できなかったので」
「面白いことを言う」
「…あ、申し訳ありません。殿下に失礼なことを…」
「気に入った。お前、俺の側近になれ」
「側近…ですか?」
「ああ。俺の傍を離れなければ良いだけだ。嫌か?」
「いえ…」
「それから、偶にで良い。俺の為にピアノを弾いてくれ」
カーディス殿下がそう仰ってから、もう数年お傍に居る。
ピアノを聞く時の御顔は、いつも寂しげだった。
過去の自分を深く悔いた人。
自分のせいで兄上を失ったと、自らを贖罪の檻に閉じ込めた。
一生、其処から出るつもりはないのだろう。
傷が治りかければ、何度でもかさぶたを引き剥がす。
それを兄上が亡くなってから、もう10年以上繰り返している。
この旋律が今、貴方の傷口を少しでも塞ぐことを願って止まない。
曲が終わる。
私が立ち上がって一礼すると、主は尋ねた。
「美しい曲だな。名は何と言う?」
「ショパンの『別れの曲』です」
「お前…まさか、聞いていたのか」
臣下は微笑する。
「『別れの口付け』のことですか?」
「…改めて言われると俺が恥ずかしいだろう。何故、後を追って来た」
「私の使命は『貴方から離れないこと』です。貴方が仰ったのですよ、陛下」
「口の減らない臣下を持ったものだな」
「では、不出来な臣下に調教でもされれば良い」
無礼な臣下は艶やかで温かい表情をしていた。
「芝居が下手だな、ラル。台詞と顔が合っていないぞ」
「それは貴方でしょう、カーディス様」
粗野な台詞も、冷たい行動も。
貴方のお優しい御心とは合っていない。
本当はジョシュア様のことが大切で仕方がないのに。
主の手が臣下の顎を持ち上げる。
「ラル。今宵は加減できないぞ」
「貴方に加減された覚えがありません」
「お前ほど、不出来で調教が必要な臣下は他に居ないな」
主は可笑しそうに苦笑する。
柔らかい笑みを湛えて言う。
「ラル」
「はい」
「死ぬまで、俺の傍に居てくれ」
fin
■アイヴィー×ソクーロフ
--------------------------
--------------------------
「あちゃー、満員御礼じゃん」
今宵3件目のバーは、席が埋まっていた。
アルフォンソ島の中では比較的に大きなバーだが、空席が見当たらない。
アイヴィーは頭を押さえ、連れを振り向く。
「他の店にするか。ソクーロフ、後どっか、イイ店知ってる?」
「待て。すぐに席が空く」
店内を振り向くと、二人連れの客が席を立った。
アイヴィーは口笛を吹いて、連れを小突く。
「ラッキー♪」
店員が即座に席の準備をし、そこへ案内された。
席に着いた二人は、薄っぺらいメニューを眺める。
アイヴィーは色褪せた文字を指で辿る。
「んー。じゃあ、バーボンのハイボール」
「同じものをロックで」
人で溢れる店内には、気怠げな興奮で満ちている。
時折、店の奥から、けたたましい笑い声が飛ぶ。
酒の席で聞く大声は、何処か虚しい。
アイヴィーは眉を顰める。
「この店、ちょっと煩いかな?」
「構わないさ。どうせ、お前には私の声しか聞こえない」
「…あの。ど、どういう意味デスか?」
「カクテルパーティ効果と言うだろう」
「…カクテル?」
「1953年に心理学者が提唱した、人間の聴覚の特徴だ。
人は、カクテルパーティのような雑踏の中でも、隣の人間の声が聞こえる。
この現象は録音では実証されない。つまり、心理的に必要の無い雑音を遮断し、
聞きたい音、好きな音だけを耳に入れているんだ。
だからお前には、私の声しか聞こえない、というわけだ」
「そ、そうですか」
店員がアイヴィーの前に琥珀の酒を置く。
背の高いグラスから炭酸の泡が弾ける。
ソクーロフの前には、手の中に収まる程のロックグラス。
荒く削られた球形の氷が、自己を主張していた。
喉を潤したアイヴィーは饒舌に喋り始める。
「そういや。ソクーロフ、この席が空くってよく解ったな?
持つべき者はカウンセラーの友達だねー。優れた洞察力ですこと」
「そのくらいならば、カウンセラーになる前から解る。
私は生まれつき、他者の思考や感情を読み取る能力が発達しているからな」
「そりゃー、可哀想に」
アイヴィーはグラスを口許に運んだ。
カウンセラーは手の動きが止まる。
この話をして、哀れむ言葉など掛けられたことが無かった。
アイヴィーは、濡れたグラスの頬を指でなぞる。
「ヒトが口に出さないことは、知らない方がイイこと、だろ?」
「それは否定できないな」
「ねね。最初に見破った嘘って何?」
「親の嘘だ。物心付いてすぐに、この世にサンタクロースが居ないと分かった」
「へえ。サンタクロースか。意外とカワイーじゃん?」
「最初の嘘はな」
カウンセラーは、手の中のグラスを見つめている。
琥珀色の酒に、大きなアイスボールが浮かんでいる。
グラスから手を離し、話を戻す。
「ロシアではジェット・マロースが、サンタに相当する。
もみの木の下にプレゼントを置いたのが誰なのか、親の態度で知れた。
ジェット・マロースについて話す親の表情が、
通常より嫌に、にこやかなのが気になってな。
眼は泳いでいるし、言動の不一致も見受けられた。
脈を取ったら常より上昇していたしな」
「お前、その頃から脈取れたのかよ!?」
「脈ぐらい子供でも取れるだろう」
「子供は脈取ろうと思わねーから。てゆうか大人も」
「そうか」
「ソクちゃん、今まで大変だったんだねー」
「だから、その呼び方は止めろと」
「またまたー。ホントは嬉しいんじゃないのー?」
「ふさげるな」
アイヴィーは徐に医師の手首を掴む。
医師を見ながら、小首を傾げる。
「ほら。脈拍、上昇してるよ?」
「何を言う。お前、私の正常値など知らないだろう?」
「好きだよ、ソクちゃん」
医師が黙ると、
店の奥から手を叩いて笑う声が聞こえてきた。
アイヴィーは、ひひと笑う。
「あ。脈、ちょっと早くなった♪」
医師は憮然とした様子で、離せ、と手を振り払った。
「アイヴィー。お前、大分酔っているようだから、今日はこれで失礼する」
「悪かったってば。そんな怒るなよ、ソクーロフ」
「怒っているのではない」
「待ってよ。お詫びに、俺んちに泊めてやるからさ♪」
「どこがお詫びなんだ?」
「この前さ、軍のお偉方から、高そうなボトル貰っちゃったんだー。
これがキツイ酒でさー。一人じゃ飲み切れそうになくって。
酒豪さんに手伝って貰えると嬉しいなー」
「その酒、美味いんだろうな?」
「うん。じゃ、行こ行こ♪」
「腕を組むな」
fin
今宵3件目のバーは、席が埋まっていた。
アルフォンソ島の中では比較的に大きなバーだが、空席が見当たらない。
アイヴィーは頭を押さえ、連れを振り向く。
「他の店にするか。ソクーロフ、後どっか、イイ店知ってる?」
「待て。すぐに席が空く」
店内を振り向くと、二人連れの客が席を立った。
アイヴィーは口笛を吹いて、連れを小突く。
「ラッキー♪」
店員が即座に席の準備をし、そこへ案内された。
席に着いた二人は、薄っぺらいメニューを眺める。
アイヴィーは色褪せた文字を指で辿る。
「んー。じゃあ、バーボンのハイボール」
「同じものをロックで」
人で溢れる店内には、気怠げな興奮で満ちている。
時折、店の奥から、けたたましい笑い声が飛ぶ。
酒の席で聞く大声は、何処か虚しい。
アイヴィーは眉を顰める。
「この店、ちょっと煩いかな?」
「構わないさ。どうせ、お前には私の声しか聞こえない」
「…あの。ど、どういう意味デスか?」
「カクテルパーティ効果と言うだろう」
「…カクテル?」
「1953年に心理学者が提唱した、人間の聴覚の特徴だ。
人は、カクテルパーティのような雑踏の中でも、隣の人間の声が聞こえる。
この現象は録音では実証されない。つまり、心理的に必要の無い雑音を遮断し、
聞きたい音、好きな音だけを耳に入れているんだ。
だからお前には、私の声しか聞こえない、というわけだ」
「そ、そうですか」
店員がアイヴィーの前に琥珀の酒を置く。
背の高いグラスから炭酸の泡が弾ける。
ソクーロフの前には、手の中に収まる程のロックグラス。
荒く削られた球形の氷が、自己を主張していた。
喉を潤したアイヴィーは饒舌に喋り始める。
「そういや。ソクーロフ、この席が空くってよく解ったな?
持つべき者はカウンセラーの友達だねー。優れた洞察力ですこと」
「そのくらいならば、カウンセラーになる前から解る。
私は生まれつき、他者の思考や感情を読み取る能力が発達しているからな」
「そりゃー、可哀想に」
アイヴィーはグラスを口許に運んだ。
カウンセラーは手の動きが止まる。
この話をして、哀れむ言葉など掛けられたことが無かった。
アイヴィーは、濡れたグラスの頬を指でなぞる。
「ヒトが口に出さないことは、知らない方がイイこと、だろ?」
「それは否定できないな」
「ねね。最初に見破った嘘って何?」
「親の嘘だ。物心付いてすぐに、この世にサンタクロースが居ないと分かった」
「へえ。サンタクロースか。意外とカワイーじゃん?」
「最初の嘘はな」
カウンセラーは、手の中のグラスを見つめている。
琥珀色の酒に、大きなアイスボールが浮かんでいる。
グラスから手を離し、話を戻す。
「ロシアではジェット・マロースが、サンタに相当する。
もみの木の下にプレゼントを置いたのが誰なのか、親の態度で知れた。
ジェット・マロースについて話す親の表情が、
通常より嫌に、にこやかなのが気になってな。
眼は泳いでいるし、言動の不一致も見受けられた。
脈を取ったら常より上昇していたしな」
「お前、その頃から脈取れたのかよ!?」
「脈ぐらい子供でも取れるだろう」
「子供は脈取ろうと思わねーから。てゆうか大人も」
「そうか」
「ソクちゃん、今まで大変だったんだねー」
「だから、その呼び方は止めろと」
「またまたー。ホントは嬉しいんじゃないのー?」
「ふさげるな」
アイヴィーは徐に医師の手首を掴む。
医師を見ながら、小首を傾げる。
「ほら。脈拍、上昇してるよ?」
「何を言う。お前、私の正常値など知らないだろう?」
「好きだよ、ソクちゃん」
医師が黙ると、
店の奥から手を叩いて笑う声が聞こえてきた。
アイヴィーは、ひひと笑う。
「あ。脈、ちょっと早くなった♪」
医師は憮然とした様子で、離せ、と手を振り払った。
「アイヴィー。お前、大分酔っているようだから、今日はこれで失礼する」
「悪かったってば。そんな怒るなよ、ソクーロフ」
「怒っているのではない」
「待ってよ。お詫びに、俺んちに泊めてやるからさ♪」
「どこがお詫びなんだ?」
「この前さ、軍のお偉方から、高そうなボトル貰っちゃったんだー。
これがキツイ酒でさー。一人じゃ飲み切れそうになくって。
酒豪さんに手伝って貰えると嬉しいなー」
「その酒、美味いんだろうな?」
「うん。じゃ、行こ行こ♪」
「腕を組むな」
fin
■王子×王×側近
------------------
------------------
翌朝。
王の寝室に従者が現れた。
「陛下、失礼致します」
主は既に起きていて、窓から見える我が国を見ていた。
「おはよう、ラルヴィス。良い天気だな」
従者は、王のベッドで未だ眠っている人を一瞥する。
白い肩を覗かせているのは、ジョシュア・グラントだ。
「陛下。何を考えておいでです」
「声が大きい。まだ眠っているのだから、起こすなよ」
主に従い、臣下は声を潜めて、言う。
「殿下というご身分でなければ、この場で息の根を止めていますよ」
「物騒なジョークだな。らしくないぞ、ラルヴィス」
「貴方のせいでしょう。私を困らせるのは執務中だけでたくさんです」
「お前がそれほど嫉妬してくれるのは初めてだな」
「嫉妬などではありません。この方は…ご自分の甥でしょう?」
「ああ。解っている」
「では何故」
「償いだ、父を早くに失ったことへの」
「償い…」
「それから」
臣下の腰に、主の腕が回される。
目の前に主の顔があって、唇が塞がれていた。
従者は、主の胸を押し、すぐに離れる。
「陛下。眠る殿下の前で何を」
「鉄は、溶かす楽しみがあると言っただろう? 妬いたお前が見たかった」
そう宣う御顔には微笑が浮かんでいて、本心か冗談か判断できない。
どちらにしても、こんなことで動揺してはいけない。
この御方のお言葉をいちいち気に留めていては、
心臓が幾らあっても足りないのに。
臣下は主を直視できず、視線を外す。
「…そのご冗談、朝には相応しくありませんよ、陛下。
お仕度下さい、朝食の準備はできております」
臣下は一礼し、逃げるように王の寝室を後にした。
ジョシュアが目覚めた時、部屋には誰も居なかった。
最初に見慣れない天井が視界に入り、
此処がウーティス寮でないことに気付く。
起き上がると、広い部屋の大きなベッドの上に居た。
自分が居る場所を把握する。
王の寝室だ。
隣は空だった。
ドアがノックされる。
「カーディス?」
側近の従者が、一礼する。
「おはようございます、ジョシュア殿下」
「あっ…」と言ったきり、ジョシュアは言葉が出ない。
今、自分が此処に居ることを、どう説明すれば良いのだろう。
今更ながら、昨夜の許されない行為を思い悩む。
従者は酷く冷静な声で言う。
「陛下は、既に朝食を召し上がっておられます」
「そう、ですか」
「殿下の朝食もすぐにご用意致します、お着替えをお手伝い致しましょうか」
ジョシュアは目を伏せる。
「いえ…一人で平気です」
「畏まりました。お召し物はそちらの衣装でお願い致します」
「はい、解りました」
「では失礼致します」
国王のベッドで目を覚ましたジョシュアに対し、
従者は何も言わなかった。
無表情な臣下の顔を貼り付けて。
無機質な声で、必要な連絡事項を伝えただけだった。
その夜。ロレートの国王とその臣下は、夕食会に出席していた。
近隣諸国の王族が勢揃いする大きな行事だ。
吹き抜けのホールで、立食式のパーティが行われていた。
今年度の会場国はロレート公国。
我が国では、最も格式の高いコンサートホールを提供している。
高い天井には豪華なシャンデリアが輝いている。
その下には王族とその臣下しか居ない。
君主の装束、姫君のドレス、軍服の臣下が蠢いている様子は、
世俗とは懸け離れていて、異様な光景だった。
側近は、我が国の主を見て、音なく苦笑する。
『王族らしい』方々に囲まれると、
我が主がいかに『王族らしくない』かがよく解る。
貴族の形式ばった社交辞令を面倒そうに受け流し、美酒を煽るだけ。
その顔には「下らない」としか書かれていない。
例えそう思っていたとしても、これほど公の場で、
堂々と不満げな態度を取っているのは、
この錚錚たる顔触れの中でも、我が主だけだった。
それに、多くの王が、傍らに女性を連れている。
先も、むせ返るような香水と擦れ違った。
目の前の大きなテーブルには、彩り鮮やかな食事が並んでいる。
このホールにある物も人も、全てが空々しい程、光り輝いていた。
それらに目もくれない主は、グラスを空にしていた。
ラルヴィスは近くにあったワインボトルを持つ。
主のグラスに注ぎ、そっと囁く。
「陛下だけですね、姫君を連れていないのは」
上物の白ワインが底を着く。
今宵の王は、酒ばかりを煽っている。
「主に嫌味か、ラルヴィス中将」
主はワインを水のように流し込む。
もうグラスの半分も飲まれている。
「いえ。助かります。女性の香りは苦手ですから」
主は、口許に向けていたグラスを離し、くくと笑う。
「お前も后選びは当分できないようだな」
「ええ。私には貴方のおもりをする時間しかありませんから」
「言ってくれる。俺も、お前が傍に居る間は、后を迎える必要は無いな」
機嫌良くそう仰ると、残りのワインを飲み干す。
「またそのようなお戯れを。私は貴方の妻ではありませんよ」
「戯れではないさ」
ワイングラスを勧めるボーイが王の前に現れる。
王はまだ飲みたりない筈だ。
当然貰い受けるだろうと思っていたが、王は断った。
「陛下。ワイン以外のものをご用意しますか?」
「いや。少し席を外す。理由は適当に言っておけ」
「いけません。まだ皆さん、列席されているのに」
「外の空気を吸ってくるだけだ。此処は暑い」
「しかし、閉会式では陛下のご挨拶もありますし」
「今日は立食式だ。皆、酔いも回った頃だし、
一人くらい居なくなったって分からんさ」
「何度も申し上げて恐縮ですが、
貴方お一人居なくなることは、我が国を揺るがす大問題です」
「10分だ。それで戻らなければ探しに来い」
王が席を離れる。
その後に続こうとする臣下達を止める。
「待て、お一人で良い」
「宜しいのですか、閣下」
「聞いただろう。10分後、すぐに探し出せ」
ラルヴィスは、広い会場を見渡す。
王が席を離れるのに合わせ、動く影がひとつだけあった。
我が主の後を追う影は、宝石のような髪を揺らしていた。
「殿下…」
カーディスはパーティ会場から外に出る。
森が見えるテラス。
木々は黒にしか見えない。
遠くから王族達の声が聞こえる。
周りに誰も居ないことを確認し、後ろを付いて来た者に声を掛けた。
「約束を違えるつもりか、ジョシュア」
「カーディス…俺…」
「パーティの間、ずっと俺を見ていたな。
お前は昨夜で、俺を忘れると誓った筈だが?」
「…はい。そのつもりでした。ですが…」
「困った甥だな。しかし、手の掛かる子供もまた可愛いというものだ」
「えっ…」
「名を呼び捨てられたのは久方振りだった。
この国の者は、俺などを敬称で呼んでくれるからな。
カーディスと呼ばれて、学院に居る頃を思い出したよ」
話し掛けているというよりは独り言のように聞こえて、甥は返答につまる。
叔父は言葉を続けた。
「お前は明朝、学院に戻るのだったな?」
「はい。そうですが…」
「俺は明日、すぐに出国するから、会えない。
今回は、此処でお前とはお別れだ」
「解りました。あの、この度は」
「こちらから呼んだのに、土産のひとつも渡していなかったな」
カーディスはジョシュアを引き寄せた。
ジョシュアは目を丸くする。
「別れの口付けだ」
カーディスの長い髪が揺れた。
薄い唇が、自分の唇と重なっている。
遠くの方から王族達の華やかなパーティの音が聞こえる。
触れるだけの優しくて、切ない口付け。
此処だけ時が止まったように感じられた。
カーディスは唇を離すと、ジョシュアの肩に顔を埋めた。
「俺は昨夜、お前と共に過ごしたことを後悔していない。
だが、俺とお前は、傍には居られない。解るな?」
父に似た優しい声が、振動となって肩から胸へと響く。
この人は俺の想いを真摯に受け止めた上で「傍には居られない」と言っている。
正論だ。もちろん解る。俺のことを考えてくれていることも。
だが、突き放さずも、受け入れない曖昧な優しさは、
貴方への想いを更に強めていく。
想いを握り潰すように、拳を固く結ぶ。
「ジョシュア。次に会った時は、叔父と甥として振舞えるか?」
「…はい」
カーディスは、ジョシュアからゆっくり離れる。
「よし。此処までにしよう。すぐに臣下達が俺を探しに来る」
「カーディス…」
「10分で俺が戻らなければ、探しに来るよう命じてある。
お前も俺も、これ以上深入りしてはならないからな」
複数の足音と「陛下」と呼ぶ声が近付いてきた。
王は肩を竦める。
「時間切れだ。また、いつでも来い、ジョシュア。此処はお前の国だ」
ロレートの王は身を翻し、会場へと戻っていった。
一人残されたジョシュアは額を押さえる。
目からは雫が溢れ始める。
叔父の前で零さないよう、くい止めるのが限界だった。
甥はしゃがみ込む。
膝の中に顔を隠した。
闇夜には、月も出ていない。
fin
王の寝室に従者が現れた。
「陛下、失礼致します」
主は既に起きていて、窓から見える我が国を見ていた。
「おはよう、ラルヴィス。良い天気だな」
従者は、王のベッドで未だ眠っている人を一瞥する。
白い肩を覗かせているのは、ジョシュア・グラントだ。
「陛下。何を考えておいでです」
「声が大きい。まだ眠っているのだから、起こすなよ」
主に従い、臣下は声を潜めて、言う。
「殿下というご身分でなければ、この場で息の根を止めていますよ」
「物騒なジョークだな。らしくないぞ、ラルヴィス」
「貴方のせいでしょう。私を困らせるのは執務中だけでたくさんです」
「お前がそれほど嫉妬してくれるのは初めてだな」
「嫉妬などではありません。この方は…ご自分の甥でしょう?」
「ああ。解っている」
「では何故」
「償いだ、父を早くに失ったことへの」
「償い…」
「それから」
臣下の腰に、主の腕が回される。
目の前に主の顔があって、唇が塞がれていた。
従者は、主の胸を押し、すぐに離れる。
「陛下。眠る殿下の前で何を」
「鉄は、溶かす楽しみがあると言っただろう? 妬いたお前が見たかった」
そう宣う御顔には微笑が浮かんでいて、本心か冗談か判断できない。
どちらにしても、こんなことで動揺してはいけない。
この御方のお言葉をいちいち気に留めていては、
心臓が幾らあっても足りないのに。
臣下は主を直視できず、視線を外す。
「…そのご冗談、朝には相応しくありませんよ、陛下。
お仕度下さい、朝食の準備はできております」
臣下は一礼し、逃げるように王の寝室を後にした。
ジョシュアが目覚めた時、部屋には誰も居なかった。
最初に見慣れない天井が視界に入り、
此処がウーティス寮でないことに気付く。
起き上がると、広い部屋の大きなベッドの上に居た。
自分が居る場所を把握する。
王の寝室だ。
隣は空だった。
ドアがノックされる。
「カーディス?」
側近の従者が、一礼する。
「おはようございます、ジョシュア殿下」
「あっ…」と言ったきり、ジョシュアは言葉が出ない。
今、自分が此処に居ることを、どう説明すれば良いのだろう。
今更ながら、昨夜の許されない行為を思い悩む。
従者は酷く冷静な声で言う。
「陛下は、既に朝食を召し上がっておられます」
「そう、ですか」
「殿下の朝食もすぐにご用意致します、お着替えをお手伝い致しましょうか」
ジョシュアは目を伏せる。
「いえ…一人で平気です」
「畏まりました。お召し物はそちらの衣装でお願い致します」
「はい、解りました」
「では失礼致します」
国王のベッドで目を覚ましたジョシュアに対し、
従者は何も言わなかった。
無表情な臣下の顔を貼り付けて。
無機質な声で、必要な連絡事項を伝えただけだった。
その夜。ロレートの国王とその臣下は、夕食会に出席していた。
近隣諸国の王族が勢揃いする大きな行事だ。
吹き抜けのホールで、立食式のパーティが行われていた。
今年度の会場国はロレート公国。
我が国では、最も格式の高いコンサートホールを提供している。
高い天井には豪華なシャンデリアが輝いている。
その下には王族とその臣下しか居ない。
君主の装束、姫君のドレス、軍服の臣下が蠢いている様子は、
世俗とは懸け離れていて、異様な光景だった。
側近は、我が国の主を見て、音なく苦笑する。
『王族らしい』方々に囲まれると、
我が主がいかに『王族らしくない』かがよく解る。
貴族の形式ばった社交辞令を面倒そうに受け流し、美酒を煽るだけ。
その顔には「下らない」としか書かれていない。
例えそう思っていたとしても、これほど公の場で、
堂々と不満げな態度を取っているのは、
この錚錚たる顔触れの中でも、我が主だけだった。
それに、多くの王が、傍らに女性を連れている。
先も、むせ返るような香水と擦れ違った。
目の前の大きなテーブルには、彩り鮮やかな食事が並んでいる。
このホールにある物も人も、全てが空々しい程、光り輝いていた。
それらに目もくれない主は、グラスを空にしていた。
ラルヴィスは近くにあったワインボトルを持つ。
主のグラスに注ぎ、そっと囁く。
「陛下だけですね、姫君を連れていないのは」
上物の白ワインが底を着く。
今宵の王は、酒ばかりを煽っている。
「主に嫌味か、ラルヴィス中将」
主はワインを水のように流し込む。
もうグラスの半分も飲まれている。
「いえ。助かります。女性の香りは苦手ですから」
主は、口許に向けていたグラスを離し、くくと笑う。
「お前も后選びは当分できないようだな」
「ええ。私には貴方のおもりをする時間しかありませんから」
「言ってくれる。俺も、お前が傍に居る間は、后を迎える必要は無いな」
機嫌良くそう仰ると、残りのワインを飲み干す。
「またそのようなお戯れを。私は貴方の妻ではありませんよ」
「戯れではないさ」
ワイングラスを勧めるボーイが王の前に現れる。
王はまだ飲みたりない筈だ。
当然貰い受けるだろうと思っていたが、王は断った。
「陛下。ワイン以外のものをご用意しますか?」
「いや。少し席を外す。理由は適当に言っておけ」
「いけません。まだ皆さん、列席されているのに」
「外の空気を吸ってくるだけだ。此処は暑い」
「しかし、閉会式では陛下のご挨拶もありますし」
「今日は立食式だ。皆、酔いも回った頃だし、
一人くらい居なくなったって分からんさ」
「何度も申し上げて恐縮ですが、
貴方お一人居なくなることは、我が国を揺るがす大問題です」
「10分だ。それで戻らなければ探しに来い」
王が席を離れる。
その後に続こうとする臣下達を止める。
「待て、お一人で良い」
「宜しいのですか、閣下」
「聞いただろう。10分後、すぐに探し出せ」
ラルヴィスは、広い会場を見渡す。
王が席を離れるのに合わせ、動く影がひとつだけあった。
我が主の後を追う影は、宝石のような髪を揺らしていた。
「殿下…」
カーディスはパーティ会場から外に出る。
森が見えるテラス。
木々は黒にしか見えない。
遠くから王族達の声が聞こえる。
周りに誰も居ないことを確認し、後ろを付いて来た者に声を掛けた。
「約束を違えるつもりか、ジョシュア」
「カーディス…俺…」
「パーティの間、ずっと俺を見ていたな。
お前は昨夜で、俺を忘れると誓った筈だが?」
「…はい。そのつもりでした。ですが…」
「困った甥だな。しかし、手の掛かる子供もまた可愛いというものだ」
「えっ…」
「名を呼び捨てられたのは久方振りだった。
この国の者は、俺などを敬称で呼んでくれるからな。
カーディスと呼ばれて、学院に居る頃を思い出したよ」
話し掛けているというよりは独り言のように聞こえて、甥は返答につまる。
叔父は言葉を続けた。
「お前は明朝、学院に戻るのだったな?」
「はい。そうですが…」
「俺は明日、すぐに出国するから、会えない。
今回は、此処でお前とはお別れだ」
「解りました。あの、この度は」
「こちらから呼んだのに、土産のひとつも渡していなかったな」
カーディスはジョシュアを引き寄せた。
ジョシュアは目を丸くする。
「別れの口付けだ」
カーディスの長い髪が揺れた。
薄い唇が、自分の唇と重なっている。
遠くの方から王族達の華やかなパーティの音が聞こえる。
触れるだけの優しくて、切ない口付け。
此処だけ時が止まったように感じられた。
カーディスは唇を離すと、ジョシュアの肩に顔を埋めた。
「俺は昨夜、お前と共に過ごしたことを後悔していない。
だが、俺とお前は、傍には居られない。解るな?」
父に似た優しい声が、振動となって肩から胸へと響く。
この人は俺の想いを真摯に受け止めた上で「傍には居られない」と言っている。
正論だ。もちろん解る。俺のことを考えてくれていることも。
だが、突き放さずも、受け入れない曖昧な優しさは、
貴方への想いを更に強めていく。
想いを握り潰すように、拳を固く結ぶ。
「ジョシュア。次に会った時は、叔父と甥として振舞えるか?」
「…はい」
カーディスは、ジョシュアからゆっくり離れる。
「よし。此処までにしよう。すぐに臣下達が俺を探しに来る」
「カーディス…」
「10分で俺が戻らなければ、探しに来るよう命じてある。
お前も俺も、これ以上深入りしてはならないからな」
複数の足音と「陛下」と呼ぶ声が近付いてきた。
王は肩を竦める。
「時間切れだ。また、いつでも来い、ジョシュア。此処はお前の国だ」
ロレートの王は身を翻し、会場へと戻っていった。
一人残されたジョシュアは額を押さえる。
目からは雫が溢れ始める。
叔父の前で零さないよう、くい止めるのが限界だった。
甥はしゃがみ込む。
膝の中に顔を隠した。
闇夜には、月も出ていない。
fin
■ソクーロフ×アイヴィー
-------------------------
-------------------------
アルフォンソ島の小さなバー。
保健医とタクシードライバーが居た。
マスターにそれぞれ注文する。アイヴィーは片手を挙げる。
「俺、ジントニック」
「私はいつものを頼む」
ロマンスグレイのマスターは滑らかな動作で酒を作り始める。
アイヴィーはバーカウンターに頬杖を付く。
「ソクーロフ。例の男、どーなった?」
「ああ、お前が連れて来た暗殺者か。何の収穫もなかったぞ」
「やっぱねー。下っ端ぽかったもんなー。弱っちかったし」
「お前の前では、大抵の者が弱いだろう」
「あら。褒めてくれてんの?」
「事実を言ったまでだ」
「可愛くないねー」
「アイヴィー、煙草を持っているか?」
「ああ」アイヴィーは煙草の箱を取り出してみせる。
「1本くれ」
「あいよ」
アイヴィーは箱の上部をトンと叩いてから、ソクーロフに差し出す。
白い指が引き抜くのを待って、黒いジッポを出す。
煙草の先が橙に染まると、慣れた手つきで蓋を閉めた。
黒いジッポは、アイヴィーが昔から使っているものだ。
その裏には大きなひっかき傷。
黒塗りの箱に、白く歪んだ線が入っていた。
数年前。黒いジッポに傷が付いた時。
そのジッポは捨てて新しいのを買った方が良い、とソクーロフは言った。
しかしアイヴィーは頑なに拒んだ。
「捨てたら、いつか忘れちまうだろ?」そう笑って見せて。
ソクーロフは、隣をちらと盗み見る。
煙草を銜えて、自分で火を点けている。
あれから何度も季節は変わったのに。
今も、傷付いたジッポは彼の手の中にある。
ソクーロフは黒の傷から視線を剥がす。
薄暗いバーカウンターには、静かな時間と2本の紫煙が流れる。
マスターは二人の前にグラスを差し出す。
どちらも透明な酒が入っている。
アイヴィーはグラスを持つと、隣のグラスに寄せる。
「んじゃ、カンパイ」
グラスの氷が音を立てて回る。
「あ、ソクちゃんさあ」
「その呼び方止めろ」
「お前、この前も同じの飲んでたな。それ、ウオッカ?」
「ああ」
「美味いの?」
「飲んでみるか?」
「え。間接チュウのお誘い?」
「なんだそれは」
「いや。イイのイイの。いただきまーす」
アイヴィーが透き通った酒を呷る。
舌に電気が走り、喉に鋭い熱が駆け巡った。
その痛みに激しく咳き込む。
涙目で医師を睨み付ける。
「なんだコレ!? ノド燃えたぞ!?」
医師は眼鏡を押し上げる。
「スピリタス。70回蒸留した世界最高純度のウオッカだ。
アルコール度数96度。別名『世界最強の酒』と言う」
「96度!?」
「ああ。酒とは名ばかりの精製アルコールだ」
「なんじゃそりゃ…」
サディストから渡されたものを、一気に飲んだ自分を悔やむ。
俺がバカだった。
「ソクーロフ…こんなの今までフツーに飲んでたのかよ」
「消毒用エタノールのアルコール度数は80度だ。それと大して変わるまい」
「お前が保健室で飲んでる水、エタノールだったのかよっ!?」
「他に飲む物が無いからな、保健室は」
「いや、それ飲み物じゃねーから」
「ちなみにスピリタスを希釈すれば、消毒用エタノールになる」
「いや、そんな知識必要ねーから」
アイヴィーの頭はぐるぐると回り始め、直ぐにカウンターに突っ伏してしまう。
急激に瞼が重みを増し、身体が動かなくなってくる。
「そのまま眠れ、アイヴィー」
目だけをサディストに向ける。
「お前、俺をぐでんぐでんにして、どーするつもりだ…」
「聞きたいか」
「いや…どうしよう…」
「言っても良いが、明日には記憶が無いだろう。安心して眠れ」
「くそ…もう眼が…開かねえ…」
保健医は、完全に夢に落ちたタクシードライバーを肩に背負う。
「マスター。空き部屋を貸りるぞ、明日までな」
fin
保健医とタクシードライバーが居た。
マスターにそれぞれ注文する。アイヴィーは片手を挙げる。
「俺、ジントニック」
「私はいつものを頼む」
ロマンスグレイのマスターは滑らかな動作で酒を作り始める。
アイヴィーはバーカウンターに頬杖を付く。
「ソクーロフ。例の男、どーなった?」
「ああ、お前が連れて来た暗殺者か。何の収穫もなかったぞ」
「やっぱねー。下っ端ぽかったもんなー。弱っちかったし」
「お前の前では、大抵の者が弱いだろう」
「あら。褒めてくれてんの?」
「事実を言ったまでだ」
「可愛くないねー」
「アイヴィー、煙草を持っているか?」
「ああ」アイヴィーは煙草の箱を取り出してみせる。
「1本くれ」
「あいよ」
アイヴィーは箱の上部をトンと叩いてから、ソクーロフに差し出す。
白い指が引き抜くのを待って、黒いジッポを出す。
煙草の先が橙に染まると、慣れた手つきで蓋を閉めた。
黒いジッポは、アイヴィーが昔から使っているものだ。
その裏には大きなひっかき傷。
黒塗りの箱に、白く歪んだ線が入っていた。
数年前。黒いジッポに傷が付いた時。
そのジッポは捨てて新しいのを買った方が良い、とソクーロフは言った。
しかしアイヴィーは頑なに拒んだ。
「捨てたら、いつか忘れちまうだろ?」そう笑って見せて。
ソクーロフは、隣をちらと盗み見る。
煙草を銜えて、自分で火を点けている。
あれから何度も季節は変わったのに。
今も、傷付いたジッポは彼の手の中にある。
ソクーロフは黒の傷から視線を剥がす。
薄暗いバーカウンターには、静かな時間と2本の紫煙が流れる。
マスターは二人の前にグラスを差し出す。
どちらも透明な酒が入っている。
アイヴィーはグラスを持つと、隣のグラスに寄せる。
「んじゃ、カンパイ」
グラスの氷が音を立てて回る。
「あ、ソクちゃんさあ」
「その呼び方止めろ」
「お前、この前も同じの飲んでたな。それ、ウオッカ?」
「ああ」
「美味いの?」
「飲んでみるか?」
「え。間接チュウのお誘い?」
「なんだそれは」
「いや。イイのイイの。いただきまーす」
アイヴィーが透き通った酒を呷る。
舌に電気が走り、喉に鋭い熱が駆け巡った。
その痛みに激しく咳き込む。
涙目で医師を睨み付ける。
「なんだコレ!? ノド燃えたぞ!?」
医師は眼鏡を押し上げる。
「スピリタス。70回蒸留した世界最高純度のウオッカだ。
アルコール度数96度。別名『世界最強の酒』と言う」
「96度!?」
「ああ。酒とは名ばかりの精製アルコールだ」
「なんじゃそりゃ…」
サディストから渡されたものを、一気に飲んだ自分を悔やむ。
俺がバカだった。
「ソクーロフ…こんなの今までフツーに飲んでたのかよ」
「消毒用エタノールのアルコール度数は80度だ。それと大して変わるまい」
「お前が保健室で飲んでる水、エタノールだったのかよっ!?」
「他に飲む物が無いからな、保健室は」
「いや、それ飲み物じゃねーから」
「ちなみにスピリタスを希釈すれば、消毒用エタノールになる」
「いや、そんな知識必要ねーから」
アイヴィーの頭はぐるぐると回り始め、直ぐにカウンターに突っ伏してしまう。
急激に瞼が重みを増し、身体が動かなくなってくる。
「そのまま眠れ、アイヴィー」
目だけをサディストに向ける。
「お前、俺をぐでんぐでんにして、どーするつもりだ…」
「聞きたいか」
「いや…どうしよう…」
「言っても良いが、明日には記憶が無いだろう。安心して眠れ」
「くそ…もう眼が…開かねえ…」
保健医は、完全に夢に落ちたタクシードライバーを肩に背負う。
「マスター。空き部屋を貸りるぞ、明日までな」
fin
■王子×王×側近
--------------------
--------------------
王の寝室。
国王カーディス1世は、ベッドに腰掛けている。
少し離れた所に、ジョシュアは俯いて立っていた。
今日の昼食会の時、ジョシュアに付いていた従者から小さな紙を受け取った。
このように大勢の人間が参列している会合時に、
口に出せない連絡がある場合に、使用される紙だ。
何事かと思い、綴られた文字を見る。
――相談したいことがあります。何時になっても構いません。お時間を頂けませんか?
カーディスは紙に一行付け加える。
『0時で良ければ、俺の寝室に来い』と記し、その従者に持たせた。
叔父は、立ち尽くしている甥を見やる。
淡いグリーンのワイシャツを着ている。
正装というにはラフ過ぎるが、寝巻というには堅苦しい姿だった。
この部屋に入ってから、目を合わせようとしていない。
叔父の方から、声を掛ける。
「悪いな、こんな時間になって」
甥は顔を上げず、固い礼を述べる。
「いいえ。お休み前なのに、お時間を取って頂き、ありがとうございます」
「早速、話を聞こうか。煩い臣下に、お前の睡眠を妨害するなと言われているしな」
ジョシュアは落としていた首を、意を決して上げる。
「俺、大切に想っている人がいるんです」
叔父は、ほう、と驚いたように言った。
「お前に姫が居たとは。めでたい話じゃないか。
男子校に居ながら、どうやって出会った?
見掛けに拠らず、器用な奴だな」
「いえ、すみません…違うんです」
「違う?」
「俺が好きなのは、カーディス、貴方です」
「何だと…」
「好きになってはいけないと思う程、貴方への想いが強くなる。
どうしても止められなくて…俺、どうすれば良いか解らないんです」
「それが相談、か」
「はい」
カーディスは、ベッドから出て、扉を開ける。
其処に控えていた従者に告げる。
「人払いを頼む。お前も含めてだ、ラルヴィス中将」
「陛下」
「下がれ」
臣下は何か言葉を飲み込んで、頭を下げる。
「御意」
重厚な扉が閉まった。
寝室に戻って来た叔父は、再びベッドに腰掛ける。
ジョシュアを真摯に見つめて言う。
「お前は俺に、亡き父の幻影を見ているのだと思う。
俺は弟だからな、似ているのだろう」
「そんな、俺は貴方を」
「違うと言い切れるのか。でなければ、お前が俺に焦がれる理由もあるまい」
「…確かに貴方が父に似ている部分があるのは認めます。
貴方が初めて俺の名を呼んだ時、父の声かと錯覚する程でした」
「だろうな。親でさえ時折間違える程、俺達の声は似ているからな」
「ですが、俺は真剣に貴方のことを」
甥が言い終わる前に叔父は遮った。
「これから言うことは、お前にとって残酷な話だ。聞けるか、ジョシュア?」
「はい。お聞きします」
「俺はお前のことを大切な甥だと思っているが、
お前に特別な感情は、抱いていない」
「はい…」
「しかし、今宵限りの夢で構わないなら、父代わりに腕枕くらいしてやろう」
「…えっ?」
「今まで、俺に何も望んで来なかったお前だ。
余程の決意で言ったのだろう。それを無碍に切り捨てられるか。
但し、これで最初で最後にする。
お前は、俺などのことを考えていてはいけない人間だ。
今宵、俺への想いを断ち切ると誓えるか」
「カーディス…」
「それで良いのならば、来い。ジョシュア」
叔父は、ベッドに腰掛けている。
その隣に恐る恐る甥が座ると、叔父は甥の前で頭を下げた。
「すまない、ジョシュア」
「何を謝っているのです?」
「全てだ。お前には謝り切れない。
お前が父を失い、俺への想いを抱かせたのも俺の責任だ」
「…責任?」
「お前の父エドワードは、クリスティーナに出会い、王位を捨てた。
俺は全く予想もしていなかった形で、玉座に就くことになった。
元々、兄が王となる予定だったし、
俺に王など到底向いていないと思っていたからな。
即位当時、俺は今まで以上に荒れていた。
その未熟な俺を見て、兄をもう一度王位に戻そうという動きが起こった。
そして、兄貴は…殺された。
俺を王位に留め、私腹を肥やそうとした愚か者共によって暗殺された。
お前が父を失ったのは、俺の責任だ。
奴等は処分したが、しかし、結果、奴等の願いが叶った形で、
今も俺が玉座に就いているのだからな」
「いい加減、自分を責めるのは止めてくれませんか。
暗殺計画のこと、貴方は何も知らなかったのでしょう?
俺は貴方を尊敬こそすれ、露ほども恨みません」
甥の強い口調に圧倒されたのか、叔父は暫く黙っていた。
やがて、吐き捨てるように掠れた声を放つ。
「尊敬などと言うな。お前にとって、罵るべき相手だぞ」
「いいえ。断じて違う」
ジョシュアの怒気のこもった声。
カーディスは言葉を失う。
初めて聞く筈なのに。
これはまるで。
ジョシュアはカーディスを強い眼差しで見上げる。
「貴方は、父を暗殺した人間を世間に公表しなかった。
『自分への罰』だと、長い間、兄殺しの汚名を甘んじて受けてきたのでしょう。
それでも貴方の人柄と功績が、ロレート全体を貴方に惹き付けている。
貴方は弁明するより、民の為になることに心血を注いできたからだ。
そんな貴方を、どうして罵ることができますか?
俺は、貴方が叔父であることを誇りに思います」
カーディスは息を吐いた。
「本当に兄貴の子なのだな、ジョシュア。
馬鹿が付く程、真面目なところが似ている。
まるで兄貴に叱られているようだ」
「叱ってなどいません、俺はっ」
「冗談が通じないのも遺伝だな」
「…すみません」
「ジョシュア。お前の髪に触れても良いか?」
「え、あ、はい」
緩やかな波のある髪に、叔父の指が入っていく。
一度、また一度と触れられる毎に、
ジョシュアは、ずっと抑えて来た感情が溢れそうになる。
髪に触れられただけで、肩が張り詰め、息が止まりそうだった。
叔父は甥の頭を撫でながら、しみじみと呟く。
「美しい髪だ。髪は、クリスティーナに似ているのだな」
次の瞬間、ジョシュアの目には、叔父の胸元が映った。
叔父は唇で、俺の髪に触れていた。
声が出ない程、鼓動が早く打っている。
頬に叔父の大きな手が添えられる。
上を向かされ、目が合う。
新聞では見たことのない、温かい眼差し。
叔父が、自分を見つめている。
「瞳も、母と同じ色か」
瞼に、叔父の口髭が当たっていた。
確かめるように、目許に口付けを落とされる。
「顔と気質は、兄貴にそっくりだな」
手が添えられていない方の頬に、柔らかい感触を感じた。
長い髪が俺の肩をさらさらと流れる。
薄いシャツ越しに伝わる僅かな刺激が、最後の留め金を外した。
弾かれたように、甥の身体が動く。
叔父の背が、柔らかなベッドに深く沈んだ。
叔父の瞳には、三つの紅い月が映る。
大きな月は夜空で重く光っている。
残る二つは潤むほど熱く、自分を見下ろしていた。
fin
国王カーディス1世は、ベッドに腰掛けている。
少し離れた所に、ジョシュアは俯いて立っていた。
今日の昼食会の時、ジョシュアに付いていた従者から小さな紙を受け取った。
このように大勢の人間が参列している会合時に、
口に出せない連絡がある場合に、使用される紙だ。
何事かと思い、綴られた文字を見る。
――相談したいことがあります。何時になっても構いません。お時間を頂けませんか?
カーディスは紙に一行付け加える。
『0時で良ければ、俺の寝室に来い』と記し、その従者に持たせた。
叔父は、立ち尽くしている甥を見やる。
淡いグリーンのワイシャツを着ている。
正装というにはラフ過ぎるが、寝巻というには堅苦しい姿だった。
この部屋に入ってから、目を合わせようとしていない。
叔父の方から、声を掛ける。
「悪いな、こんな時間になって」
甥は顔を上げず、固い礼を述べる。
「いいえ。お休み前なのに、お時間を取って頂き、ありがとうございます」
「早速、話を聞こうか。煩い臣下に、お前の睡眠を妨害するなと言われているしな」
ジョシュアは落としていた首を、意を決して上げる。
「俺、大切に想っている人がいるんです」
叔父は、ほう、と驚いたように言った。
「お前に姫が居たとは。めでたい話じゃないか。
男子校に居ながら、どうやって出会った?
見掛けに拠らず、器用な奴だな」
「いえ、すみません…違うんです」
「違う?」
「俺が好きなのは、カーディス、貴方です」
「何だと…」
「好きになってはいけないと思う程、貴方への想いが強くなる。
どうしても止められなくて…俺、どうすれば良いか解らないんです」
「それが相談、か」
「はい」
カーディスは、ベッドから出て、扉を開ける。
其処に控えていた従者に告げる。
「人払いを頼む。お前も含めてだ、ラルヴィス中将」
「陛下」
「下がれ」
臣下は何か言葉を飲み込んで、頭を下げる。
「御意」
重厚な扉が閉まった。
寝室に戻って来た叔父は、再びベッドに腰掛ける。
ジョシュアを真摯に見つめて言う。
「お前は俺に、亡き父の幻影を見ているのだと思う。
俺は弟だからな、似ているのだろう」
「そんな、俺は貴方を」
「違うと言い切れるのか。でなければ、お前が俺に焦がれる理由もあるまい」
「…確かに貴方が父に似ている部分があるのは認めます。
貴方が初めて俺の名を呼んだ時、父の声かと錯覚する程でした」
「だろうな。親でさえ時折間違える程、俺達の声は似ているからな」
「ですが、俺は真剣に貴方のことを」
甥が言い終わる前に叔父は遮った。
「これから言うことは、お前にとって残酷な話だ。聞けるか、ジョシュア?」
「はい。お聞きします」
「俺はお前のことを大切な甥だと思っているが、
お前に特別な感情は、抱いていない」
「はい…」
「しかし、今宵限りの夢で構わないなら、父代わりに腕枕くらいしてやろう」
「…えっ?」
「今まで、俺に何も望んで来なかったお前だ。
余程の決意で言ったのだろう。それを無碍に切り捨てられるか。
但し、これで最初で最後にする。
お前は、俺などのことを考えていてはいけない人間だ。
今宵、俺への想いを断ち切ると誓えるか」
「カーディス…」
「それで良いのならば、来い。ジョシュア」
叔父は、ベッドに腰掛けている。
その隣に恐る恐る甥が座ると、叔父は甥の前で頭を下げた。
「すまない、ジョシュア」
「何を謝っているのです?」
「全てだ。お前には謝り切れない。
お前が父を失い、俺への想いを抱かせたのも俺の責任だ」
「…責任?」
「お前の父エドワードは、クリスティーナに出会い、王位を捨てた。
俺は全く予想もしていなかった形で、玉座に就くことになった。
元々、兄が王となる予定だったし、
俺に王など到底向いていないと思っていたからな。
即位当時、俺は今まで以上に荒れていた。
その未熟な俺を見て、兄をもう一度王位に戻そうという動きが起こった。
そして、兄貴は…殺された。
俺を王位に留め、私腹を肥やそうとした愚か者共によって暗殺された。
お前が父を失ったのは、俺の責任だ。
奴等は処分したが、しかし、結果、奴等の願いが叶った形で、
今も俺が玉座に就いているのだからな」
「いい加減、自分を責めるのは止めてくれませんか。
暗殺計画のこと、貴方は何も知らなかったのでしょう?
俺は貴方を尊敬こそすれ、露ほども恨みません」
甥の強い口調に圧倒されたのか、叔父は暫く黙っていた。
やがて、吐き捨てるように掠れた声を放つ。
「尊敬などと言うな。お前にとって、罵るべき相手だぞ」
「いいえ。断じて違う」
ジョシュアの怒気のこもった声。
カーディスは言葉を失う。
初めて聞く筈なのに。
これはまるで。
ジョシュアはカーディスを強い眼差しで見上げる。
「貴方は、父を暗殺した人間を世間に公表しなかった。
『自分への罰』だと、長い間、兄殺しの汚名を甘んじて受けてきたのでしょう。
それでも貴方の人柄と功績が、ロレート全体を貴方に惹き付けている。
貴方は弁明するより、民の為になることに心血を注いできたからだ。
そんな貴方を、どうして罵ることができますか?
俺は、貴方が叔父であることを誇りに思います」
カーディスは息を吐いた。
「本当に兄貴の子なのだな、ジョシュア。
馬鹿が付く程、真面目なところが似ている。
まるで兄貴に叱られているようだ」
「叱ってなどいません、俺はっ」
「冗談が通じないのも遺伝だな」
「…すみません」
「ジョシュア。お前の髪に触れても良いか?」
「え、あ、はい」
緩やかな波のある髪に、叔父の指が入っていく。
一度、また一度と触れられる毎に、
ジョシュアは、ずっと抑えて来た感情が溢れそうになる。
髪に触れられただけで、肩が張り詰め、息が止まりそうだった。
叔父は甥の頭を撫でながら、しみじみと呟く。
「美しい髪だ。髪は、クリスティーナに似ているのだな」
次の瞬間、ジョシュアの目には、叔父の胸元が映った。
叔父は唇で、俺の髪に触れていた。
声が出ない程、鼓動が早く打っている。
頬に叔父の大きな手が添えられる。
上を向かされ、目が合う。
新聞では見たことのない、温かい眼差し。
叔父が、自分を見つめている。
「瞳も、母と同じ色か」
瞼に、叔父の口髭が当たっていた。
確かめるように、目許に口付けを落とされる。
「顔と気質は、兄貴にそっくりだな」
手が添えられていない方の頬に、柔らかい感触を感じた。
長い髪が俺の肩をさらさらと流れる。
薄いシャツ越しに伝わる僅かな刺激が、最後の留め金を外した。
弾かれたように、甥の身体が動く。
叔父の背が、柔らかなベッドに深く沈んだ。
叔父の瞳には、三つの紅い月が映る。
大きな月は夜空で重く光っている。
残る二つは潤むほど熱く、自分を見下ろしていた。
fin
■王子×王×側近
■ジョシュア、染谷クリア者向け
--------------------------------
■ジョシュア、染谷クリア者向け
--------------------------------
窓の外には、紅い月が妖しく輝いていた。
満月というには少し欠けている。
「では陛下、明日のご予定をお伝えします」
ロレート公国。王の寝室。
部屋の中で目立つのは、無駄に大きなベッドと、グランドピアノくらいで、
王の部屋というには似つかわしくないものだった。
広過ぎる部屋に、従者の低いバリトンの声が反響する。
国王カーディス1世は既に寝着に身を包み、ベッドに腰を掛けている。
その傍で軍服に身を包み、手帳を持った側近が一人立っていた。
名はラルヴィスと言う。
緑青の瞳は、エメラルドと呼ぶには錆付いていて。
美しい金髪も何処か色が澱んでいた。
首を覆い隠すように立てられた深紅の襟。
襟には金の徽章が留められている。
刻まれた三本のラインは、この若い男を中将だと示している。
王のお傍に居ることを許された証だ。
グレイを基調とした軍服は、首と手首だけが血の色だった。
この場所が自らの血に染まる日は、いつ来ても良い。
その時、主がご存命ならば。
私が死ぬのは、主が崩御される時だ。
主を失えばきっと。
誰に止められても、私は後を追ってしまう。
その想いは顔に微塵も表れていない。
従者の無機質な声が、ロレートの紋章が付いた手帳を読み上げる。
手帳に綴られた分刻みのスケジュールを、淡々と告げていた。
「17時より会談及び夕食会。
17時20分、陛下からご挨拶をお願い致します。20時より…」
ラルヴィスはちらと主を盗み見ると、
主は、可笑しなものを見つめていた。
「…陛下、聞いていらっしゃいませんね」
「聞いていない。お前の美しい髪を見ていた」
「ご冗談はお止め下さい、陛下。まだ執務中です」
「冗談ではないさ。俺は好きだぞ、お前の髪も、その美声もな」
眉も動かさず、つまらなそうに謝辞を述べる。
「勿体無いお言葉、恐れ入ります。
ならば、私の声を素直に最後まで聞いて下さい。
明日のご予定をお伝えして、本日は終わりなのですから」
「聞かずとも、お前に任せておけば万事問題無く済むだろう。
その若さで異例の昇進を遂げた、有能なラルヴィス中将?」
「臣下に信頼を寄せて頂き、有り余る光栄ですね。
おかげで、私の仕事は増える一方です」
臣下にしては無礼極まりない暴言の数々。
他の王室であれば、即座に首を刎ねられるだろうが、
この国王は、むしろ嬉しそうに笑っていた。
「一日の終わりにこうしてお前と言葉を交わすことが、
俺にとっての日々の褒美だな」
「可笑しな御方だ。四六時中、傍に仕えている者の顔など、
就寝前まで見たくないものでしょう?
私をさっさと下がらせた方が、早くお休みになれますが?」
本当は一刻も早く、睡眠を取って頂きたかった。
そろそろ日付も変わる時刻だ。
この国王は、最低限の公式行事にしか出席しない。
外遊も行わず、隣国へ愛想を振り撒くことも忌み嫌う。
それでも、一国の主のスケジュールは年中、休みらしい休みもない。
国民にも笑顔を見せることは少なかった。
理由はある。兄殺しの噂が常に付き纏うからだ。
カーディスの兄エドワードは温かな微笑が似合う、王室の鏡だった。
弟はまるで正反対の性格で、言葉遣いは粗野で、学生時代から素行は粗かった。
以前、久し振りに会ったご学友と酒を酌み交わし、
翌日の王室行事に、二日酔いで現れた。
堅苦しい主従の言葉遣いよりも、この御方は無礼な言葉の方が好まれる。
おかげで、私の口も日々悪くなっていった。
私が側近の座に就いた時も、主が最初に仰ったことは、
「決して俺に心酔するな」という主らしかぬ言葉だった。
その逆ならばまだ解る。
しかし、カーディス1世は真剣な目で言ったのだ。
「俺が全て正しい筈がない。間違いだと思った時は必ず俺を正せ」と。
この異常な方針を持つ王に仕えてからというもの、
「間違い」だと思う場面に多々遭遇してきた。
他国の王室から、来訪の誘いを悉く断り続けることもそうだ。
しかし、金ばかり掛けた、無意味なパーティーを欠席することが、
果たして本当に「間違い」なのかと疑問に思うこともある。
カーディス1世は今年36になられた。
とうに皇后を迎えても良い年齢だが、未だお独り。
王室では良い顔をされない、その口髭も、長い髪も。
『規格外』の王という異名まであるが、側近の目から見ても全くその通りだ。
それでも偶に国民の前に姿を現せば、歓声で迎えられる。
つい先日、警備の間を潜り抜けて、王の傍に飛び出して来た少年が居た。
「おうさま、ありがと! あのね、これお礼です!」
その小さな手は、王に一輪の黄色い花を差し出した。
「ぼく、これくらいしか渡せるものがなくて…ごめんなさい…」
警備の者が慌てて少年を摘み出そうとすると、
カーディス1世は、警備隊の前で「良い」と片手を挙げた。
王は膝を突き、少年と同じ目線になると、ぽんと少年の頭を叩いた。
「何を謝る? 俺が貰っても良いのか、この綺麗な花を?」
「うんっ!」
「礼を言う。親父共から貰う社交辞令や紙切れより、ずっと嬉しい。ありがとう」
「おうさま、しゃこーじれーってなあに?」
「大人の下らん芝居のことさ」
「…大人はお芝居をするの?」
「ああ。社交辞令に限らず、朝から晩までな」
王は黄色い花を、コートの胸ポケットに差す。
明らかに不釣合いな姿だったが、
「似合うか?」と笑う顔は目の前の小さな顔以上に、少年のようだった。
花を渡した少年は、児童福祉施設で暮らしていた。
身寄りの無い子供達が集まる場所、王の案で増設されたものだった。
王が珍しく笑顔を見せたこの場面は、国中の新聞が報道した。
元々、王室に批判的なメディアは、
「下手なパフォーマンス」「それこそ芝居」と記すものもあったが、
王は以前から「好きに書かせておけ」と放っておく主義だった。
王は邸に戻った後も、花が枯れるまで部屋に飾っていた。
それを知るのが、邸の中でも極限られたものだったが、
彼の粗悪ながら優しい人柄は、民には伝わっていた。
王を批判した先の記事には、国の殆どが見向きもしなかったそうだ。
代わりに、王の笑顔を捉えたメディアはよく売れたらしい。
笑顔の写真など、今まで手に入らなかったからだろう。
『規格外』の王は、民の前では見せない顔で言う。
「お前の前では、俺はまるで子供のようだな。
どちらが王か解らぬ。いっそ、お前が王になれば良いものを」
「恐れ多いことを。私には不可能ですよ、王なんて七面倒なこと。
私には、王を手の上で転がすことしかできません」
「そうだな。お前は口が悪過ぎる」
「陛下に言われては御終いですね、私も」
「それはこちらの台詞だぞ、ラルヴィス中将」
「お言葉ですが、私がこのように話せるのは、貴方の前だけです、陛下」
「ほう。新しいジョークだな。何処で覚えて来た?」
「主に、嘘を吐く臣下が居ますか」
「可愛いことを言う。証明できるか?」
従者は開いていた手帳を閉じる。
「貴方の為に出来ぬことなど在りません…カーディス様」
名で呼んでやると、国主は嬉しそうに笑みを浮かべる。
「俺を挑発できるのはお前だけだ、ラル」
いつしか、互いの名を呼ぶことが合図になっていた。
それが、一日の執務の終わりを示すものだと。
今宵、夢を見るまで連れ従うことを、暗に許すものだと。
主に強く腕を引かれ、ベッドに座らされる。
そっと顎を掴まれる。
従者は、生意気な程真っ直ぐに主を見上げている。
王の口髭の形が歪む。
「お前の、その強気な表情も好きだぞ、ラル」
「普段は鉄面皮と仰るくせに」
「だから良いのさ。鉄を溶かす楽しみがあるからな」
荒く、唇を奪われる。
貪る様に激しく、従者は思わず眉を顰める。
徐々に息が苦しくなる中でも、
また軍服に折り目がついてしまうと妙に冷静な自分も居た。
最初は、貴族の戯れなのだと思っていた。
しかしいつまで経っても后を取らない様子を見ていると、
自分のせいかもしれない、という幻想が浮かび、
罪悪感と優越感に苛まれる。
私の知らないところで、他の従者に触れているのかもしれないのに。
主は一度離れ、臣下に問う。
「俺が欲しいか」
「はい…」
「名を呼んでくれ、ラル」
「カーディス、さま…」
王は更に自分に喰らい付く。
締められた襟が、強引に開かれた。
王が私の首筋に手を滑らせる。
その時、軍人の身は、遠くから人の気配を感じとった。
まだ繋がっていた理性を掻き戻す。
従者は王の手に触れ、呼び名を敬称に改める。
「…お待ち下さい、陛下」
「ラル?」
「部屋の前に、誰か居ます」
間も無く、ノックする音が聞こえた。
従者はベッドから離れ、扉へ向かう。
歩きながら、開かれた襟を正す。
濡れた口許を手で拭い、息を吐く。
この時間に此処に近付ける者など居ない筈だ。
人払いを命じてあるのに。
余程の連絡で無ければ許さない。
万一に備えて、短刀の柄に触れる。
重々しい扉を開け、厳しい声を放つ。
「何の用だ」
「あっ…すみません」
「…ジョシュア様…」
其処に居たのは王位継承第一位、ジョシュア・グラント。
現国王に何かあれば、次の王となるその人だった。
グラント姓を持つが、血筋ではカーディスの甥。
后が居ない王に、跡継ぎが居ない現在。
この御方が、紛れも無くロレート公国の第一王子だ。
従者は頭を下げ、非礼を詫びる。
「申し訳ありません、殿下。大変失礼致しました」
「そんなっ、頭を上げて下さい」
身分上、叱り付けても可笑しくない王子は、
驚き慌てたように、許容の言葉を口にした。
王子は現在、孤島の学院に在籍している。
ご卒業後はロレート国王の跡継ぎとして、正式に認定される御方だ。
今まで、カーディスとジョシュアは出会ったこともなかったが、
数ヶ月前、二人は初めて言葉を交わした。
「お前を次代の王にしたい」というカーディスの申し入れをジョシュアは了承した。
それからは、ジョシュアは何度か、このロレートに顔を見せるようになった。
学院の休暇中である今、ロレート公国に滞在していた。
呼び寄せたのは、カーディスだ。
「休暇なら、ロレートに気兼ね無く遊びに来い」と宜われた。
この人のことだ。他意はないのだろう。
後に、自分が治めることになる国に訪れて頂くのは、尤もなことだ。
王子が、気兼ね無く過ごせるよう、報道陣をシャットアウトし、
全くの非公式で、王子を此処にお連れすることが
どれほど苦労したとしても、それも臣下の務めのうちだ。
王子の言葉に従い、従者は控えめに頭を上げる。
「広い邸で迷われましたか? 殿下のお部屋は別棟の筈ですが」
「いえ、あの…」
「俺が呼んだんだ。入ってくれ、ジョシュア」
王の声に、従者は驚き、振り向いた。
それならば、先程のことは何だったのか。
王子が訪れると解っていながら。
やはり戯れだったのだろうか。
腹の中で、突如湧き上がる黒い渦。
それは一瞬で飼い馴らすも、口調は冷たくなる。
「陛下、いつお約束されたのです。私は伺っていませんよ」
「甥と叔父が話をするだけだ、わざわざその大層な手帳に書く必要もあるまい」
只の甥と叔父ならば最初から何も言うまいが、
王子と王だ。しかも、ジョシュアの父、エドワードは、
弟であるカーディスによって暗殺されたという噂まである。
この甥と叔父は会うだけで、本来であれば世界中に知れ渡る筈だ。
自分の立場を充分承知していながら、側近である自分にすら伝えないのであれば、
幾ら小言を言おうとも、全く意味の無いことだ。
従者は、表面上は従順な態度を見せる。
「…左様ですか。何かお飲み物でもご用意致しましょうか?」
「必要か、ジョシュア?」
「いいえ。お気遣い、ありがとうございます」
「私に礼など良いのですよ、殿下。
ジョシュア様は、お優しいですね。陛下とは大違いです」
「え…そうですか?」
「誤解を招くようなことを言うな、ラルヴィス。
俺をこき使っているのはお前だろう」
「貴方を使うなどとんでもない。仕えているのは私なのですから。
では陛下、積もるお話も結構ですが、成長期である殿下の睡眠時間を削らぬよう」
「何の心配をしている」
「何も。失礼致します」
従者は扉を閉める。
先刻「主に嘘を吐く臣下は居ない」と申し上げたが、
この短い時間に嘘をひとつ吐いた。
心配だったのは王子の睡眠時間などではない。
王子の瞳が、少し違って見えた。
あの赤は、あれほど暗い色をしていたか。
fin
満月というには少し欠けている。
「では陛下、明日のご予定をお伝えします」
ロレート公国。王の寝室。
部屋の中で目立つのは、無駄に大きなベッドと、グランドピアノくらいで、
王の部屋というには似つかわしくないものだった。
広過ぎる部屋に、従者の低いバリトンの声が反響する。
国王カーディス1世は既に寝着に身を包み、ベッドに腰を掛けている。
その傍で軍服に身を包み、手帳を持った側近が一人立っていた。
名はラルヴィスと言う。
緑青の瞳は、エメラルドと呼ぶには錆付いていて。
美しい金髪も何処か色が澱んでいた。
首を覆い隠すように立てられた深紅の襟。
襟には金の徽章が留められている。
刻まれた三本のラインは、この若い男を中将だと示している。
王のお傍に居ることを許された証だ。
グレイを基調とした軍服は、首と手首だけが血の色だった。
この場所が自らの血に染まる日は、いつ来ても良い。
その時、主がご存命ならば。
私が死ぬのは、主が崩御される時だ。
主を失えばきっと。
誰に止められても、私は後を追ってしまう。
その想いは顔に微塵も表れていない。
従者の無機質な声が、ロレートの紋章が付いた手帳を読み上げる。
手帳に綴られた分刻みのスケジュールを、淡々と告げていた。
「17時より会談及び夕食会。
17時20分、陛下からご挨拶をお願い致します。20時より…」
ラルヴィスはちらと主を盗み見ると、
主は、可笑しなものを見つめていた。
「…陛下、聞いていらっしゃいませんね」
「聞いていない。お前の美しい髪を見ていた」
「ご冗談はお止め下さい、陛下。まだ執務中です」
「冗談ではないさ。俺は好きだぞ、お前の髪も、その美声もな」
眉も動かさず、つまらなそうに謝辞を述べる。
「勿体無いお言葉、恐れ入ります。
ならば、私の声を素直に最後まで聞いて下さい。
明日のご予定をお伝えして、本日は終わりなのですから」
「聞かずとも、お前に任せておけば万事問題無く済むだろう。
その若さで異例の昇進を遂げた、有能なラルヴィス中将?」
「臣下に信頼を寄せて頂き、有り余る光栄ですね。
おかげで、私の仕事は増える一方です」
臣下にしては無礼極まりない暴言の数々。
他の王室であれば、即座に首を刎ねられるだろうが、
この国王は、むしろ嬉しそうに笑っていた。
「一日の終わりにこうしてお前と言葉を交わすことが、
俺にとっての日々の褒美だな」
「可笑しな御方だ。四六時中、傍に仕えている者の顔など、
就寝前まで見たくないものでしょう?
私をさっさと下がらせた方が、早くお休みになれますが?」
本当は一刻も早く、睡眠を取って頂きたかった。
そろそろ日付も変わる時刻だ。
この国王は、最低限の公式行事にしか出席しない。
外遊も行わず、隣国へ愛想を振り撒くことも忌み嫌う。
それでも、一国の主のスケジュールは年中、休みらしい休みもない。
国民にも笑顔を見せることは少なかった。
理由はある。兄殺しの噂が常に付き纏うからだ。
カーディスの兄エドワードは温かな微笑が似合う、王室の鏡だった。
弟はまるで正反対の性格で、言葉遣いは粗野で、学生時代から素行は粗かった。
以前、久し振りに会ったご学友と酒を酌み交わし、
翌日の王室行事に、二日酔いで現れた。
堅苦しい主従の言葉遣いよりも、この御方は無礼な言葉の方が好まれる。
おかげで、私の口も日々悪くなっていった。
私が側近の座に就いた時も、主が最初に仰ったことは、
「決して俺に心酔するな」という主らしかぬ言葉だった。
その逆ならばまだ解る。
しかし、カーディス1世は真剣な目で言ったのだ。
「俺が全て正しい筈がない。間違いだと思った時は必ず俺を正せ」と。
この異常な方針を持つ王に仕えてからというもの、
「間違い」だと思う場面に多々遭遇してきた。
他国の王室から、来訪の誘いを悉く断り続けることもそうだ。
しかし、金ばかり掛けた、無意味なパーティーを欠席することが、
果たして本当に「間違い」なのかと疑問に思うこともある。
カーディス1世は今年36になられた。
とうに皇后を迎えても良い年齢だが、未だお独り。
王室では良い顔をされない、その口髭も、長い髪も。
『規格外』の王という異名まであるが、側近の目から見ても全くその通りだ。
それでも偶に国民の前に姿を現せば、歓声で迎えられる。
つい先日、警備の間を潜り抜けて、王の傍に飛び出して来た少年が居た。
「おうさま、ありがと! あのね、これお礼です!」
その小さな手は、王に一輪の黄色い花を差し出した。
「ぼく、これくらいしか渡せるものがなくて…ごめんなさい…」
警備の者が慌てて少年を摘み出そうとすると、
カーディス1世は、警備隊の前で「良い」と片手を挙げた。
王は膝を突き、少年と同じ目線になると、ぽんと少年の頭を叩いた。
「何を謝る? 俺が貰っても良いのか、この綺麗な花を?」
「うんっ!」
「礼を言う。親父共から貰う社交辞令や紙切れより、ずっと嬉しい。ありがとう」
「おうさま、しゃこーじれーってなあに?」
「大人の下らん芝居のことさ」
「…大人はお芝居をするの?」
「ああ。社交辞令に限らず、朝から晩までな」
王は黄色い花を、コートの胸ポケットに差す。
明らかに不釣合いな姿だったが、
「似合うか?」と笑う顔は目の前の小さな顔以上に、少年のようだった。
花を渡した少年は、児童福祉施設で暮らしていた。
身寄りの無い子供達が集まる場所、王の案で増設されたものだった。
王が珍しく笑顔を見せたこの場面は、国中の新聞が報道した。
元々、王室に批判的なメディアは、
「下手なパフォーマンス」「それこそ芝居」と記すものもあったが、
王は以前から「好きに書かせておけ」と放っておく主義だった。
王は邸に戻った後も、花が枯れるまで部屋に飾っていた。
それを知るのが、邸の中でも極限られたものだったが、
彼の粗悪ながら優しい人柄は、民には伝わっていた。
王を批判した先の記事には、国の殆どが見向きもしなかったそうだ。
代わりに、王の笑顔を捉えたメディアはよく売れたらしい。
笑顔の写真など、今まで手に入らなかったからだろう。
『規格外』の王は、民の前では見せない顔で言う。
「お前の前では、俺はまるで子供のようだな。
どちらが王か解らぬ。いっそ、お前が王になれば良いものを」
「恐れ多いことを。私には不可能ですよ、王なんて七面倒なこと。
私には、王を手の上で転がすことしかできません」
「そうだな。お前は口が悪過ぎる」
「陛下に言われては御終いですね、私も」
「それはこちらの台詞だぞ、ラルヴィス中将」
「お言葉ですが、私がこのように話せるのは、貴方の前だけです、陛下」
「ほう。新しいジョークだな。何処で覚えて来た?」
「主に、嘘を吐く臣下が居ますか」
「可愛いことを言う。証明できるか?」
従者は開いていた手帳を閉じる。
「貴方の為に出来ぬことなど在りません…カーディス様」
名で呼んでやると、国主は嬉しそうに笑みを浮かべる。
「俺を挑発できるのはお前だけだ、ラル」
いつしか、互いの名を呼ぶことが合図になっていた。
それが、一日の執務の終わりを示すものだと。
今宵、夢を見るまで連れ従うことを、暗に許すものだと。
主に強く腕を引かれ、ベッドに座らされる。
そっと顎を掴まれる。
従者は、生意気な程真っ直ぐに主を見上げている。
王の口髭の形が歪む。
「お前の、その強気な表情も好きだぞ、ラル」
「普段は鉄面皮と仰るくせに」
「だから良いのさ。鉄を溶かす楽しみがあるからな」
荒く、唇を奪われる。
貪る様に激しく、従者は思わず眉を顰める。
徐々に息が苦しくなる中でも、
また軍服に折り目がついてしまうと妙に冷静な自分も居た。
最初は、貴族の戯れなのだと思っていた。
しかしいつまで経っても后を取らない様子を見ていると、
自分のせいかもしれない、という幻想が浮かび、
罪悪感と優越感に苛まれる。
私の知らないところで、他の従者に触れているのかもしれないのに。
主は一度離れ、臣下に問う。
「俺が欲しいか」
「はい…」
「名を呼んでくれ、ラル」
「カーディス、さま…」
王は更に自分に喰らい付く。
締められた襟が、強引に開かれた。
王が私の首筋に手を滑らせる。
その時、軍人の身は、遠くから人の気配を感じとった。
まだ繋がっていた理性を掻き戻す。
従者は王の手に触れ、呼び名を敬称に改める。
「…お待ち下さい、陛下」
「ラル?」
「部屋の前に、誰か居ます」
間も無く、ノックする音が聞こえた。
従者はベッドから離れ、扉へ向かう。
歩きながら、開かれた襟を正す。
濡れた口許を手で拭い、息を吐く。
この時間に此処に近付ける者など居ない筈だ。
人払いを命じてあるのに。
余程の連絡で無ければ許さない。
万一に備えて、短刀の柄に触れる。
重々しい扉を開け、厳しい声を放つ。
「何の用だ」
「あっ…すみません」
「…ジョシュア様…」
其処に居たのは王位継承第一位、ジョシュア・グラント。
現国王に何かあれば、次の王となるその人だった。
グラント姓を持つが、血筋ではカーディスの甥。
后が居ない王に、跡継ぎが居ない現在。
この御方が、紛れも無くロレート公国の第一王子だ。
従者は頭を下げ、非礼を詫びる。
「申し訳ありません、殿下。大変失礼致しました」
「そんなっ、頭を上げて下さい」
身分上、叱り付けても可笑しくない王子は、
驚き慌てたように、許容の言葉を口にした。
王子は現在、孤島の学院に在籍している。
ご卒業後はロレート国王の跡継ぎとして、正式に認定される御方だ。
今まで、カーディスとジョシュアは出会ったこともなかったが、
数ヶ月前、二人は初めて言葉を交わした。
「お前を次代の王にしたい」というカーディスの申し入れをジョシュアは了承した。
それからは、ジョシュアは何度か、このロレートに顔を見せるようになった。
学院の休暇中である今、ロレート公国に滞在していた。
呼び寄せたのは、カーディスだ。
「休暇なら、ロレートに気兼ね無く遊びに来い」と宜われた。
この人のことだ。他意はないのだろう。
後に、自分が治めることになる国に訪れて頂くのは、尤もなことだ。
王子が、気兼ね無く過ごせるよう、報道陣をシャットアウトし、
全くの非公式で、王子を此処にお連れすることが
どれほど苦労したとしても、それも臣下の務めのうちだ。
王子の言葉に従い、従者は控えめに頭を上げる。
「広い邸で迷われましたか? 殿下のお部屋は別棟の筈ですが」
「いえ、あの…」
「俺が呼んだんだ。入ってくれ、ジョシュア」
王の声に、従者は驚き、振り向いた。
それならば、先程のことは何だったのか。
王子が訪れると解っていながら。
やはり戯れだったのだろうか。
腹の中で、突如湧き上がる黒い渦。
それは一瞬で飼い馴らすも、口調は冷たくなる。
「陛下、いつお約束されたのです。私は伺っていませんよ」
「甥と叔父が話をするだけだ、わざわざその大層な手帳に書く必要もあるまい」
只の甥と叔父ならば最初から何も言うまいが、
王子と王だ。しかも、ジョシュアの父、エドワードは、
弟であるカーディスによって暗殺されたという噂まである。
この甥と叔父は会うだけで、本来であれば世界中に知れ渡る筈だ。
自分の立場を充分承知していながら、側近である自分にすら伝えないのであれば、
幾ら小言を言おうとも、全く意味の無いことだ。
従者は、表面上は従順な態度を見せる。
「…左様ですか。何かお飲み物でもご用意致しましょうか?」
「必要か、ジョシュア?」
「いいえ。お気遣い、ありがとうございます」
「私に礼など良いのですよ、殿下。
ジョシュア様は、お優しいですね。陛下とは大違いです」
「え…そうですか?」
「誤解を招くようなことを言うな、ラルヴィス。
俺をこき使っているのはお前だろう」
「貴方を使うなどとんでもない。仕えているのは私なのですから。
では陛下、積もるお話も結構ですが、成長期である殿下の睡眠時間を削らぬよう」
「何の心配をしている」
「何も。失礼致します」
従者は扉を閉める。
先刻「主に嘘を吐く臣下は居ない」と申し上げたが、
この短い時間に嘘をひとつ吐いた。
心配だったのは王子の睡眠時間などではない。
王子の瞳が、少し違って見えた。
あの赤は、あれほど暗い色をしていたか。
fin
■ジョシュア×カーディス
■ジョシュアシナリオクリア者向け
-------------------------
■ジョシュアシナリオクリア者向け
-------------------------
■シルヴァン×アイヴィー
-------------------------
-------------------------
聖アルフォンソ学院正門前。
車中の時計は、深夜0時を差している。
黄色いタクシーが停まる。
運転手は、ほろ酔いの助手席に声を掛ける。
「ほい、着いたぜー。シルヴァン」
「送って貰ってすみませんね、アイヴィー」
「思ってないくせに。…ってお前、これはオレのだろ」
タクシードライバーは助手席の口から、煙草を奪う。
悪びれることなく、シルヴァンは笑う。
「貴方の香りを補充しておいたんです」
アイヴィーは煙草を落としそうになる。
「お前なあ…そーゆーこと言われると、許しちゃうだろ…」
「今夜はありがとうございました、また大人の遊びに連れて行って下さいね?」
「ったく、夜遊びも程々にしろよ、不良王子」
シルヴァンは、くすくすと笑う。
「始終付き合ってくれた人の言うことですか?」
「ったく。ゴキゲンだなー、お前。気持ち良く酔いやがって…」
「あ、アイヴィー。タクシー代をお支払いしますね?」
運転手の頬で、チュッと音が鳴る。
「…唇で払うなよ、この酔っ払い…」
「それじゃ、おやすみなさい♪」
シルヴァンが車から出る。
運転手は、寮へ向かう背中を見ながら、頬に触れる。
「あいつ、酔うとキス魔になるからなー」
アイヴィーは煙草を咥える。
「あれ、酔いが覚めてないまま、寮に帰らせて良かったのか…?」
fin
車中の時計は、深夜0時を差している。
黄色いタクシーが停まる。
運転手は、ほろ酔いの助手席に声を掛ける。
「ほい、着いたぜー。シルヴァン」
「送って貰ってすみませんね、アイヴィー」
「思ってないくせに。…ってお前、これはオレのだろ」
タクシードライバーは助手席の口から、煙草を奪う。
悪びれることなく、シルヴァンは笑う。
「貴方の香りを補充しておいたんです」
アイヴィーは煙草を落としそうになる。
「お前なあ…そーゆーこと言われると、許しちゃうだろ…」
「今夜はありがとうございました、また大人の遊びに連れて行って下さいね?」
「ったく、夜遊びも程々にしろよ、不良王子」
シルヴァンは、くすくすと笑う。
「始終付き合ってくれた人の言うことですか?」
「ったく。ゴキゲンだなー、お前。気持ち良く酔いやがって…」
「あ、アイヴィー。タクシー代をお支払いしますね?」
運転手の頬で、チュッと音が鳴る。
「…唇で払うなよ、この酔っ払い…」
「それじゃ、おやすみなさい♪」
シルヴァンが車から出る。
運転手は、寮へ向かう背中を見ながら、頬に触れる。
「あいつ、酔うとキス魔になるからなー」
アイヴィーは煙草を咥える。
「あれ、酔いが覚めてないまま、寮に帰らせて良かったのか…?」
fin
■ユウタ×姉貴
----------------
----------------
ユウタの部屋。
手の平の小さな箱。
ディスプレイの隅にある時計は深夜0時を差している。
ユウタは、姉にメールを打っていた。
母国と一瞬で繋がる携帯電話。
これがある時代で良かったと、心から思う。
手は器用に素早く文字を打っていた。
-------------------------------------------------
姉貴、もうすぐ此処に来てから半年になるよ。
俺、此処に来れて本当に良かったと思ってる。
今日の夕食ね、オムライスだったんだ。
うちのシェフが作るのはね、
なんかピカピカしちゃっててキレーなんだ。
姉貴のぐちゃぐちゃなオムライスとは全然違うんだよ。
でも、久し振りに、食べたくなっちゃったな。
姉貴のオムライス。
-------------------------------------------------
そこまで書いて、ユウタは手を止める。
手先が器用じゃない姉ちゃんは、
うさぎ怪獣のマスコットを作った時も、網目がぐちゃぐちゃだった。
だけど、留学を最後まで反対していた姉ちゃんが、
俺が好きなクロックマンでお守りを持たせてくれた時は、
ちょっと感動しちゃったし。
姉ちゃんのオムライスは、卵の部分がスクランブルエッグみたいで、
あちこち焦げちゃってて見た目サイアクだけど、味はすげー美味しくて。
此処のシェフが作ってくれるオムライスはキレイだから。
姉ちゃんの下手くそなのとは、
ホントに「月とすっぽん」ってかんじなんだけど。
庶民の俺には、ぐちゃぐちゃなくらいが合ってるよ。
メールの送信ボタン。
それを押そうとする指が止まる。
「やっぱ、送ってやんない」
メニューボタンを押し、削除を選ぶ。
ディスプレイには「メールを削除しました」の文字。
携帯の電源も消す。
真っ暗になった画面を閉じる。
携帯を枕元に置いて、ベッドに入った。
fin
手の平の小さな箱。
ディスプレイの隅にある時計は深夜0時を差している。
ユウタは、姉にメールを打っていた。
母国と一瞬で繋がる携帯電話。
これがある時代で良かったと、心から思う。
手は器用に素早く文字を打っていた。
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姉貴、もうすぐ此処に来てから半年になるよ。
俺、此処に来れて本当に良かったと思ってる。
今日の夕食ね、オムライスだったんだ。
うちのシェフが作るのはね、
なんかピカピカしちゃっててキレーなんだ。
姉貴のぐちゃぐちゃなオムライスとは全然違うんだよ。
でも、久し振りに、食べたくなっちゃったな。
姉貴のオムライス。
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そこまで書いて、ユウタは手を止める。
手先が器用じゃない姉ちゃんは、
うさぎ怪獣のマスコットを作った時も、網目がぐちゃぐちゃだった。
だけど、留学を最後まで反対していた姉ちゃんが、
俺が好きなクロックマンでお守りを持たせてくれた時は、
ちょっと感動しちゃったし。
姉ちゃんのオムライスは、卵の部分がスクランブルエッグみたいで、
あちこち焦げちゃってて見た目サイアクだけど、味はすげー美味しくて。
此処のシェフが作ってくれるオムライスはキレイだから。
姉ちゃんの下手くそなのとは、
ホントに「月とすっぽん」ってかんじなんだけど。
庶民の俺には、ぐちゃぐちゃなくらいが合ってるよ。
メールの送信ボタン。
それを押そうとする指が止まる。
「やっぱ、送ってやんない」
メニューボタンを押し、削除を選ぶ。
ディスプレイには「メールを削除しました」の文字。
携帯の電源も消す。
真っ暗になった画面を閉じる。
携帯を枕元に置いて、ベッドに入った。
fin
■レッド
-----------------
-----------------
レッドの部屋。
時計は深夜0時を差している。
レッドは昔の台本を見ていた。
パラパラとめくってみる。
舞台は夏の別荘地。
少年の淡い恋物語だ。
甘い台詞が並んでいる。
少年が背伸びして、抑えられない想いを伝える。
天才子役アルフレッド・ヴィスコンティが、銀幕の中で言った台詞。
台本なんか見なくても覚えてる。
俺の台詞。
相手役は、カメラの前では完璧な恋人役だったが、
カメラを離れると、高飛車で我侭で、可愛げなんて全然無かった。
なんでこんな奴に、俺が一目惚れする役なんか、
やんなきゃいけないんだろうって思ってた。
役者と役を混合しちゃいけないって、
妙に大人になれたのもこの時だったっけ。
収録の最終日、スタッフに見下した態度を取っていた。
許せなくて、ひっぱたいたこともあったけど。
あんな奴にすら、愛を囁くことができたのに。
台詞なら言えるのに。
今。
言えない。
あいつに。
気が付くと、台本を握り締めていて、
紙の束は潰れていた。
舌打ちする。
「あー! やめやめっ! もう寝る!」
fin
時計は深夜0時を差している。
レッドは昔の台本を見ていた。
パラパラとめくってみる。
舞台は夏の別荘地。
少年の淡い恋物語だ。
甘い台詞が並んでいる。
少年が背伸びして、抑えられない想いを伝える。
天才子役アルフレッド・ヴィスコンティが、銀幕の中で言った台詞。
台本なんか見なくても覚えてる。
俺の台詞。
相手役は、カメラの前では完璧な恋人役だったが、
カメラを離れると、高飛車で我侭で、可愛げなんて全然無かった。
なんでこんな奴に、俺が一目惚れする役なんか、
やんなきゃいけないんだろうって思ってた。
役者と役を混合しちゃいけないって、
妙に大人になれたのもこの時だったっけ。
収録の最終日、スタッフに見下した態度を取っていた。
許せなくて、ひっぱたいたこともあったけど。
あんな奴にすら、愛を囁くことができたのに。
台詞なら言えるのに。
今。
言えない。
あいつに。
気が付くと、台本を握り締めていて、
紙の束は潰れていた。
舌打ちする。
「あー! やめやめっ! もう寝る!」
fin
■春也×春臣
-------------
-------------
■アンリ
-----------
-----------
アンリの部屋。
時計は深夜0時を差している。
アンリは机に向かい、事業で使う書類に目を通していた。
明日から1週間、事業の打ち合わせで、島の外へ行く。
書類を読む気になれなくて、横に除けた。
引き出しの奥から、日記を取り出す。
万年筆で今日も生きていたという記録を残す。
――また此処に帰って来れるだろうか。
日記を閉じる。引き出しの奥に仕舞う。
机の上に並ぶ本。その影から写真立てを出す。
美しい人。慈愛に満ちた、母の微笑。
覚えていないのに、懐かしい気持ちになる。
1週間後、貴女に『ただいま』が言えるだろうか。
書類を鞄に入れる。写真立てを本の影に戻す。
「Bonne nuit, maman.(おやすみ、母さん)」
電気を消す。
真っ暗な部屋の中。
ベッドに足を入れる。
冷たいシーツ。
今夜はきっと、嫌な夢を見る。
毛布に包まって、
目を閉じた。
fin
時計は深夜0時を差している。
アンリは机に向かい、事業で使う書類に目を通していた。
明日から1週間、事業の打ち合わせで、島の外へ行く。
書類を読む気になれなくて、横に除けた。
引き出しの奥から、日記を取り出す。
万年筆で今日も生きていたという記録を残す。
――また此処に帰って来れるだろうか。
日記を閉じる。引き出しの奥に仕舞う。
机の上に並ぶ本。その影から写真立てを出す。
美しい人。慈愛に満ちた、母の微笑。
覚えていないのに、懐かしい気持ちになる。
1週間後、貴女に『ただいま』が言えるだろうか。
書類を鞄に入れる。写真立てを本の影に戻す。
「Bonne nuit, maman.(おやすみ、母さん)」
電気を消す。
真っ暗な部屋の中。
ベッドに足を入れる。
冷たいシーツ。
今夜はきっと、嫌な夢を見る。
毛布に包まって、
目を閉じた。
fin
■ハルヤ ユウタ ハルオミ
---------------------------
---------------------------
「ハルヤは、いつから英語で話せるようになったの?」
ユウタは、ハルヤの部屋に遊びに来ていた。
二人きりの時は、こうやって日本語で話したりする。
ハルヤは、もう一年も此処に居るから、英語の方に慣れてるみたいで、
頭の中で英語を和訳するのに時間が掛かる時もあるくらいだった。
普段使ってないと、日本語を忘れていくみたい。
俺はそんなことまだ全然ないけど。
そういう時「えっと…ごめん、待ってね…」って言いながら、
困った笑顔で日本語を探し始めるハルヤは、ちょっと格好良い。
俺も、いつかは日本語が解んなくて、探せるくらいになるのかな。
「んー。いつかなあ。ちゃんと話せるようになったのは此処に来てからだけど。
覚え始めたのは小学生の頃くらい、かなあ」
「小学生の頃から?」
「うん。俺がね、英語を習いたいなって言ったんだ。
それで、兄様と一緒に英語教室に通ってたんだよ。
日舞も海外公演があるから、英語は覚えた方が良いって、じいさまも勧めてくれてさ。
あ。その時から、俺達をこの学院に入れたかったのかもしれないね」
「ハルヤは、どうして英語を習いたかったの?」
「…俺ね、『ありがとう』も言えなかったんだよ」
「サンキューって?」
「うん。だいぶ、昔の話になるけどね。季節は丁度今頃かな。
俺が小さい頃、兄様と京都の桜を見に行ったことがあるんだよ」
「京都の?」
「あ、うん。俺の母様、祇園で芸妓してたから。
京都は一年のうちで、春が一番の観光シーズンで大勢の人が集まってた。
日本各地の方言が飛び交ってたし、海外から来てる人も多くてね」
「あ。そうだよねー。俺も旅行で行った時、すごい外国人多かった」
「俺達は、川沿いの桜を見てた。擦れ違う人達の中で、
桜色のソフトクリームを持ってる人が居てね、
桜のソフトクリームに、八つ橋っていうお煎餅がスプーンみたいに刺さってるんだ」
「うわあ。美味しそー!」
「そうなんだ。きっと俺が、それをずっと見てたんだろうね。
兄様が『買ってくるから、此処で待ってろ』って人混みの中に消えて行って。
俺は、広い河原で一人で座って待ってた。
風が吹く度に、桜吹雪が見られたし、最初はちゃんと待ってたんだけど、
なかなか兄様が帰って来なくてね。俺、段々心配になってきちゃったんだ」
「そうだよね…俺も姉貴に置いてかれてたら、ちょっと困る」
「うん。もしかして、兄様に捨てられちゃったんじゃないかとか、
兄様が悪い人に攫われちゃったかも、とか。
俺、膝抱えて、結構泣きそうだったんだよね」
「…解るかも」
「その時、隣に誰かが座ったんだ。
兄様が戻って来たと思ったら、全然知らない外国人の男の子で。
男の子は、その時、何か言ってくれたんだけど、
俺には何語かも解らなくて、戸惑ってた。
そしたら彼は、自分の胸ポケットに差してた、桜の小枝を俺に差し出したんだ。
綺麗に咲いた桜の花が二つ付いててね。
俺が受け取ると、彼は笑顔でまた何か言ってくれた」
「へえー。ハルヤに『泣かないで』みたいなこと言ってたのかな?」
「そうだと思う。そのうちに俺を呼ぶ声が聞こえて、兄様が戻って来た。
手には二つ、桜色のソフトクリームを持ってた。
俺が立ち上がると、男の子にも、俺が兄様を待ってたことが解ったみたいで、
何か言葉を掛けてくれた。多分『よかったね』って言ってたんだと思う」
「うん。きっとそうだね」
「その男の子も友達を待ってたみたいでね、
後ろから、たこ焼を二つ持ってる男の子とお父さんみたいな人が来たんだ。
男の子は俺に手を振って、彼等の所へ行った。
俺は手を振り返すのが精一杯で、結局一言も話せなかったんだ。
初めて『外国人』に話し掛けられて、すっごいドキドキしちゃって。
子供の時だって、サンキューくらいは知ってた筈なのにね」
「それでハルヤは、英語を習いたくなったんだ?」
「うん。もし今度会えたら、ちゃんと英語で『ありがとう』って言いたくって。
俺、あの男の子が居なかったら、きっと泣き出してたと思うから。
それに、英語も早くから覚えられたし。
…男の子には、もう会えないと思うけど。
英語が話せたら今度は俺が、誰かを助けられるかもって思って」
「そっかあ。会えたら良いのにね」
「うん…会いたいな。桜の時期になるとね、思うんだ。
今なら、ありがとうって言えるのにって。
俺、あの時も、すごくもどかしかった。
男の子はたくさん話してくれたのに、俺に聞き取れた英語は、名前だけだったから」
「え? 桜をくれた男の子の名前?」
「ううん。たこ焼を持ってた友達の名前。
最後に男の子が、友達のことそう呼んでたから」
「何て名前だったの?」
「確かブライアンって聞こえたんだよね」
fin
ユウタは、ハルヤの部屋に遊びに来ていた。
二人きりの時は、こうやって日本語で話したりする。
ハルヤは、もう一年も此処に居るから、英語の方に慣れてるみたいで、
頭の中で英語を和訳するのに時間が掛かる時もあるくらいだった。
普段使ってないと、日本語を忘れていくみたい。
俺はそんなことまだ全然ないけど。
そういう時「えっと…ごめん、待ってね…」って言いながら、
困った笑顔で日本語を探し始めるハルヤは、ちょっと格好良い。
俺も、いつかは日本語が解んなくて、探せるくらいになるのかな。
「んー。いつかなあ。ちゃんと話せるようになったのは此処に来てからだけど。
覚え始めたのは小学生の頃くらい、かなあ」
「小学生の頃から?」
「うん。俺がね、英語を習いたいなって言ったんだ。
それで、兄様と一緒に英語教室に通ってたんだよ。
日舞も海外公演があるから、英語は覚えた方が良いって、じいさまも勧めてくれてさ。
あ。その時から、俺達をこの学院に入れたかったのかもしれないね」
「ハルヤは、どうして英語を習いたかったの?」
「…俺ね、『ありがとう』も言えなかったんだよ」
「サンキューって?」
「うん。だいぶ、昔の話になるけどね。季節は丁度今頃かな。
俺が小さい頃、兄様と京都の桜を見に行ったことがあるんだよ」
「京都の?」
「あ、うん。俺の母様、祇園で芸妓してたから。
京都は一年のうちで、春が一番の観光シーズンで大勢の人が集まってた。
日本各地の方言が飛び交ってたし、海外から来てる人も多くてね」
「あ。そうだよねー。俺も旅行で行った時、すごい外国人多かった」
「俺達は、川沿いの桜を見てた。擦れ違う人達の中で、
桜色のソフトクリームを持ってる人が居てね、
桜のソフトクリームに、八つ橋っていうお煎餅がスプーンみたいに刺さってるんだ」
「うわあ。美味しそー!」
「そうなんだ。きっと俺が、それをずっと見てたんだろうね。
兄様が『買ってくるから、此処で待ってろ』って人混みの中に消えて行って。
俺は、広い河原で一人で座って待ってた。
風が吹く度に、桜吹雪が見られたし、最初はちゃんと待ってたんだけど、
なかなか兄様が帰って来なくてね。俺、段々心配になってきちゃったんだ」
「そうだよね…俺も姉貴に置いてかれてたら、ちょっと困る」
「うん。もしかして、兄様に捨てられちゃったんじゃないかとか、
兄様が悪い人に攫われちゃったかも、とか。
俺、膝抱えて、結構泣きそうだったんだよね」
「…解るかも」
「その時、隣に誰かが座ったんだ。
兄様が戻って来たと思ったら、全然知らない外国人の男の子で。
男の子は、その時、何か言ってくれたんだけど、
俺には何語かも解らなくて、戸惑ってた。
そしたら彼は、自分の胸ポケットに差してた、桜の小枝を俺に差し出したんだ。
綺麗に咲いた桜の花が二つ付いててね。
俺が受け取ると、彼は笑顔でまた何か言ってくれた」
「へえー。ハルヤに『泣かないで』みたいなこと言ってたのかな?」
「そうだと思う。そのうちに俺を呼ぶ声が聞こえて、兄様が戻って来た。
手には二つ、桜色のソフトクリームを持ってた。
俺が立ち上がると、男の子にも、俺が兄様を待ってたことが解ったみたいで、
何か言葉を掛けてくれた。多分『よかったね』って言ってたんだと思う」
「うん。きっとそうだね」
「その男の子も友達を待ってたみたいでね、
後ろから、たこ焼を二つ持ってる男の子とお父さんみたいな人が来たんだ。
男の子は俺に手を振って、彼等の所へ行った。
俺は手を振り返すのが精一杯で、結局一言も話せなかったんだ。
初めて『外国人』に話し掛けられて、すっごいドキドキしちゃって。
子供の時だって、サンキューくらいは知ってた筈なのにね」
「それでハルヤは、英語を習いたくなったんだ?」
「うん。もし今度会えたら、ちゃんと英語で『ありがとう』って言いたくって。
俺、あの男の子が居なかったら、きっと泣き出してたと思うから。
それに、英語も早くから覚えられたし。
…男の子には、もう会えないと思うけど。
英語が話せたら今度は俺が、誰かを助けられるかもって思って」
「そっかあ。会えたら良いのにね」
「うん…会いたいな。桜の時期になるとね、思うんだ。
今なら、ありがとうって言えるのにって。
俺、あの時も、すごくもどかしかった。
男の子はたくさん話してくれたのに、俺に聞き取れた英語は、名前だけだったから」
「え? 桜をくれた男の子の名前?」
「ううん。たこ焼を持ってた友達の名前。
最後に男の子が、友達のことそう呼んでたから」
「何て名前だったの?」
「確かブライアンって聞こえたんだよね」
fin
■レッド アンリ シルヴァン ハルヤ ソクーロフ
----------------------------------------------
----------------------------------------------
聖アルフォンソ学院。グラウンド。
レッドは体育の授業を受けていた。
プロ仕様のサッカーグラウンドは広くて、
フィールドに立っているだけでわくわくする。
今日は紅白戦。本格的なゲームが行われている。
レッドは赤組のオフェンス。
試合は2対0で赤組が圧倒している。
2点ともレッドが入れていた。
赤組のディフェンスではシルヴァンが好セーブを見せていた為、
白組はなかなか点が入れられない。
ボールが白組に飛んで行ったところで、レッドはベンチに行く。
スポーツドリンクで喉を潤した後、
一人涼しい顔をしている体育見学者に声を掛けた。
「おい、アンリ。体調不良っていう割には、普通に本読んでんじゃん」
「若い君達とスポーツなんかしたら、怪我するよ」
「…若いって、同い年だろうが!」
「僕は頭脳労働派なの。本より重い物は持てない」
「どこのお姫様だ、お前は! ったく。俺の勇姿、目に焼き付けておけよっ!」
「…ボールが来たよ。早く試合に戻れば?」
「おっしゃ! んじゃまた1点決めてやるかなっ!」
砂埃を巻き上げながら、駆けて行ったレッドは、
宣言通りシュートを決めた。本人はまだまだ元気そうだが、
白組は体力、気力共に、気の毒なほど疲弊していた。
チーム編成が悪過ぎる、とアンリは思った。
レッドとシルヴァンを同じチームにするから、こうなるんだ。
レッドの運動神経は突出しているし、スポーツは大好きだ。
どんなスポーツも楽しそうに全力でプレーしている。
曲者はシルヴァンだ。彼の能力も非常に高い。
彼が体育の時間で、息を切らしたり、汗を拭う姿を見たことが無い。
力を抑えているというのだろうか。
あれだけの活躍を見せながら、へらへら笑えるなんて。
またレッドが1点入れた。これで4対0だ。
「面白くない試合…」
本を読もうと視線を落とした所で、ホイッスルが聞こえた。
試合が止まっている。
生徒達の輪の中で、うずくまっている生徒が一人。
レッドのよく通る声が聞こえてくる。
「大丈夫か、ハルヤ! 膝、血だらけじゃん!」
うずくまっているのはハルヤだった。
左膝が赤く染まっている。
「ハルヤを蹴ったのはお前か!?」
「止めてよ、レッド。俺がよそ見してて、ぶつかったんだ。
ごめんね、大丈夫だった?」
ハルヤに怪我をさせた生徒は、
腕にかすり傷を負った程度で、出血はしていなかった。
シルヴァンは、ハルヤの傷を見る。
それほど深くはないが、また赤い雫が砂に落ちる。
「ハルヤ…立てそうですか?」
「うん。たぶん……いてっ」
「僕が保健室へ連れて行きます。皆さんは試合を続けて…」
「シルヴァンはダメに決まってんだろ!」
「えー。どうしてダメなんですかー」
「お前は試合に使えるからダメ! あそこに使えないのが居んだろ。
おい、アンリ! 保健室まで付いてってやれ」
「…なんで僕が」
「大丈夫だよ、レッド。俺一人で…うっ」
「どこが大丈夫なの」
アンリは、ハルヤの腕を、自分の首に回す。
「…ごめんね、アンリ」
「全くだ」
ハルヤに肩を貸してやりながら、保健室まで連れて行く。
足を引きずりながら、やっと辿り着いた。
ソクーロフ博士が出迎える。
「おや。ハルヤ…今日は腹痛ではないようだね?」
「はい。体育で転んじゃって」
「そうか。おいで、手当てしよう。アンリ、付き添いありがとう。
君もゆっくりしていきたまえ」
「僕は此処に用はない。失礼するよ」
「あ、アンリ! あの、ありがと」
「どういたしまして」
ソクーロフ博士は、ハルヤの傷を洗いながら、くすりと笑いを漏らした。
「少し変わったかな、アンリは」
「…変わりましたか?」
「アンリが保健室に顔を見せるなんて、まず無いからね」
「あ、そうですね。アンリ、保健室嫌いだから…。
どうしてだろう。俺は保健室って好きだけどなあ」
「怖いんだよ」
「…保健室が?」
ソクーロフ博士は一瞬、美しい笑みを見せる。
「ハルヤ。先日、面白い薬…いや、よく効く薬が手に入ってね?」
「新しい薬ですか?」
「そう。君なら…必ず効くよ、ハルヤ」
ベンチに戻って来たアンリを見つけて、レッドが走ってくる。
「ハルヤの怪我の具合、どうだった?」
「知らない。引き渡してきただけだから。今頃、サディストの餌食になってるんじゃない?」
「博士をオオカミみたいに言ってんじゃねーよ!」
保健室では、怪我人が白衣の医師を見上げていた。
「あっ、あのっ、博士…」
「ん? 薬が効いてきたかい、ハルヤ?」
「はい。傷の痛みは引いてきました…でも…」
「でも、何かな?」
「なんか身体が熱く、なってきてる気が、するんですけど…」
「大丈夫。そういう薬だよ。ちょっとした副作用だ」
「そう、なんですか…」
ハルヤの呼吸に変化が現れる。
徐々に息が荒くなっていく。
「…はあ…んっ…博士…身体が、熱い、です…」
「息が上がっているね。ブレザーを脱いでも良いよ?」
「はい…」
「まだ、暑いかな?」
「はい…博士…なんか俺…頭が重くなって…」
「流石、ハルヤだ。よく効いているようだね。可愛いよ、ハルヤ」
「ソクーロフ、博士…あっ、あのっ…」
「なんだい? 私に、何かして欲しいことがあるのかな?」
ウーティス寮サロンにハルヤが戻ったのは、それから2時間後。
放課後になってからだった。
「ただいま…」
「ハルヤ、遅かったじゃないですか。
今、保健室へお迎えに行こうと思っていたところですよ」
「…ごめん、シルヴァン。俺、保健室で眠っちゃったみたいなんだ」
「どうしてです? 怪我を診て貰いに行ったのでしょう?」
「解んない。なんか、よく覚えてなくて…」
「…覚えてない?」
「ソクーロフ博士には『急激な運動の後だったから、
疲れて眠ったんだろう』って言われたんだ」
「でも…ハルヤ、サッカーの時、それほど動いてませんよね?」
「あ、うん。そうだよね…」
「やはり僕がお連れするべきでした。
今度保健室に行く時は、必ず僕をご指名して下さいね?」
「…指名って、ホストじゃないんだから…」
「保健室に、護衛は必要だと思うよ?」
「あ、アンリ…」
「あの鬼畜医師は、記憶を操作できるらしいからね?」
「記憶を? まっさか」
「いえ。その噂は僕も聞いたことがあります。アンリ、その情報は確かですか?」
「確かだよ。それより、ハルヤにサディストの爪痕が、
残っていないか調べた方が良いんじゃない?」
「そうですね。ハルヤ、ちょっと失礼します」
「うわあっ! ばかばか! 脱がせるなっ!」
fin
レッドは体育の授業を受けていた。
プロ仕様のサッカーグラウンドは広くて、
フィールドに立っているだけでわくわくする。
今日は紅白戦。本格的なゲームが行われている。
レッドは赤組のオフェンス。
試合は2対0で赤組が圧倒している。
2点ともレッドが入れていた。
赤組のディフェンスではシルヴァンが好セーブを見せていた為、
白組はなかなか点が入れられない。
ボールが白組に飛んで行ったところで、レッドはベンチに行く。
スポーツドリンクで喉を潤した後、
一人涼しい顔をしている体育見学者に声を掛けた。
「おい、アンリ。体調不良っていう割には、普通に本読んでんじゃん」
「若い君達とスポーツなんかしたら、怪我するよ」
「…若いって、同い年だろうが!」
「僕は頭脳労働派なの。本より重い物は持てない」
「どこのお姫様だ、お前は! ったく。俺の勇姿、目に焼き付けておけよっ!」
「…ボールが来たよ。早く試合に戻れば?」
「おっしゃ! んじゃまた1点決めてやるかなっ!」
砂埃を巻き上げながら、駆けて行ったレッドは、
宣言通りシュートを決めた。本人はまだまだ元気そうだが、
白組は体力、気力共に、気の毒なほど疲弊していた。
チーム編成が悪過ぎる、とアンリは思った。
レッドとシルヴァンを同じチームにするから、こうなるんだ。
レッドの運動神経は突出しているし、スポーツは大好きだ。
どんなスポーツも楽しそうに全力でプレーしている。
曲者はシルヴァンだ。彼の能力も非常に高い。
彼が体育の時間で、息を切らしたり、汗を拭う姿を見たことが無い。
力を抑えているというのだろうか。
あれだけの活躍を見せながら、へらへら笑えるなんて。
またレッドが1点入れた。これで4対0だ。
「面白くない試合…」
本を読もうと視線を落とした所で、ホイッスルが聞こえた。
試合が止まっている。
生徒達の輪の中で、うずくまっている生徒が一人。
レッドのよく通る声が聞こえてくる。
「大丈夫か、ハルヤ! 膝、血だらけじゃん!」
うずくまっているのはハルヤだった。
左膝が赤く染まっている。
「ハルヤを蹴ったのはお前か!?」
「止めてよ、レッド。俺がよそ見してて、ぶつかったんだ。
ごめんね、大丈夫だった?」
ハルヤに怪我をさせた生徒は、
腕にかすり傷を負った程度で、出血はしていなかった。
シルヴァンは、ハルヤの傷を見る。
それほど深くはないが、また赤い雫が砂に落ちる。
「ハルヤ…立てそうですか?」
「うん。たぶん……いてっ」
「僕が保健室へ連れて行きます。皆さんは試合を続けて…」
「シルヴァンはダメに決まってんだろ!」
「えー。どうしてダメなんですかー」
「お前は試合に使えるからダメ! あそこに使えないのが居んだろ。
おい、アンリ! 保健室まで付いてってやれ」
「…なんで僕が」
「大丈夫だよ、レッド。俺一人で…うっ」
「どこが大丈夫なの」
アンリは、ハルヤの腕を、自分の首に回す。
「…ごめんね、アンリ」
「全くだ」
ハルヤに肩を貸してやりながら、保健室まで連れて行く。
足を引きずりながら、やっと辿り着いた。
ソクーロフ博士が出迎える。
「おや。ハルヤ…今日は腹痛ではないようだね?」
「はい。体育で転んじゃって」
「そうか。おいで、手当てしよう。アンリ、付き添いありがとう。
君もゆっくりしていきたまえ」
「僕は此処に用はない。失礼するよ」
「あ、アンリ! あの、ありがと」
「どういたしまして」
ソクーロフ博士は、ハルヤの傷を洗いながら、くすりと笑いを漏らした。
「少し変わったかな、アンリは」
「…変わりましたか?」
「アンリが保健室に顔を見せるなんて、まず無いからね」
「あ、そうですね。アンリ、保健室嫌いだから…。
どうしてだろう。俺は保健室って好きだけどなあ」
「怖いんだよ」
「…保健室が?」
ソクーロフ博士は一瞬、美しい笑みを見せる。
「ハルヤ。先日、面白い薬…いや、よく効く薬が手に入ってね?」
「新しい薬ですか?」
「そう。君なら…必ず効くよ、ハルヤ」
ベンチに戻って来たアンリを見つけて、レッドが走ってくる。
「ハルヤの怪我の具合、どうだった?」
「知らない。引き渡してきただけだから。今頃、サディストの餌食になってるんじゃない?」
「博士をオオカミみたいに言ってんじゃねーよ!」
保健室では、怪我人が白衣の医師を見上げていた。
「あっ、あのっ、博士…」
「ん? 薬が効いてきたかい、ハルヤ?」
「はい。傷の痛みは引いてきました…でも…」
「でも、何かな?」
「なんか身体が熱く、なってきてる気が、するんですけど…」
「大丈夫。そういう薬だよ。ちょっとした副作用だ」
「そう、なんですか…」
ハルヤの呼吸に変化が現れる。
徐々に息が荒くなっていく。
「…はあ…んっ…博士…身体が、熱い、です…」
「息が上がっているね。ブレザーを脱いでも良いよ?」
「はい…」
「まだ、暑いかな?」
「はい…博士…なんか俺…頭が重くなって…」
「流石、ハルヤだ。よく効いているようだね。可愛いよ、ハルヤ」
「ソクーロフ、博士…あっ、あのっ…」
「なんだい? 私に、何かして欲しいことがあるのかな?」
ウーティス寮サロンにハルヤが戻ったのは、それから2時間後。
放課後になってからだった。
「ただいま…」
「ハルヤ、遅かったじゃないですか。
今、保健室へお迎えに行こうと思っていたところですよ」
「…ごめん、シルヴァン。俺、保健室で眠っちゃったみたいなんだ」
「どうしてです? 怪我を診て貰いに行ったのでしょう?」
「解んない。なんか、よく覚えてなくて…」
「…覚えてない?」
「ソクーロフ博士には『急激な運動の後だったから、
疲れて眠ったんだろう』って言われたんだ」
「でも…ハルヤ、サッカーの時、それほど動いてませんよね?」
「あ、うん。そうだよね…」
「やはり僕がお連れするべきでした。
今度保健室に行く時は、必ず僕をご指名して下さいね?」
「…指名って、ホストじゃないんだから…」
「保健室に、護衛は必要だと思うよ?」
「あ、アンリ…」
「あの鬼畜医師は、記憶を操作できるらしいからね?」
「記憶を? まっさか」
「いえ。その噂は僕も聞いたことがあります。アンリ、その情報は確かですか?」
「確かだよ。それより、ハルヤにサディストの爪痕が、
残っていないか調べた方が良いんじゃない?」
「そうですね。ハルヤ、ちょっと失礼します」
「うわあっ! ばかばか! 脱がせるなっ!」
fin
ジョシュアの部屋に訪れると、彼は薄くて大きな本を読んでいた。
「ジョシュア? 絵本を読んでいるの?」
「ああ、偶然ライブラリで見つけてね、懐かしくて借りて来たんだ。
アンリは読んだことがあるかい?」
ジョシュアが見せた本には猫の絵が描かれていた。
もちろん、知らないタイトルだ。
「ないよ。僕、絵本って殆ど知らないから」
「え? 子供の時は何を読んでいたんだい?」
「まあ、神秘学関連の本かな。
サン・ジェルマンの家には、そういう古い本が山程あるからね。
本を開けたら、おかしなものが飛び出してくることもあったし」
「…おかしなもの?」
アンリは、ふふと笑う。
「ジョシュアは、これが好きだったの? この猫の絵本が」
「ああ、好きだよ。そうだ。アンリ、俺が読んであげようか?」
「僕は17歳だ。一人で読めるよ」
アンリは絵本を奪う。
表紙に書かれていた作者名は、日本人のものだった。
何度も生き返る猫の話だった。
色々な人間に飼われ、愛されるが、
猫は自分が一番好きだった。
死んでも死んでも何度も生き返るのが自慢だった。
ある日、一匹の白猫と出会う。
白猫の前で宙返りを見せても、白猫は振り向かない。
猫は自慢することをやめ、白猫の傍に居ることだけを望む。
一緒に暮らし、やがて、たくさんの子供が産まれた。
猫は、自分より、子供達と白猫の方が好きになっていた。
ある朝、白猫が動かなくなる。
猫は初めて泣く。何度も何度も泣く。
泣き止んだ時、猫は動かなくなっていた。
そして猫は、ニ度と生き返らなかった。
アンリは、絵本を閉じる。
「これ、子供には向かない話ではないの?」
「絵本の中では珍しい話かもしれないね」
「どうして死んだの? 何度でも生き返る猫なのに、
白猫を失っただけで、どうして生き返らなくなるの?」
「不思議かい、アンリ?」
「…ジョシュアは不思議ではないの?」
「うん」
「そう…僕がおかしいのか。欠陥品だからね、僕は」
「アンリ。この絵本の解釈はね、人によって様々なんだ。
答えはひとつじゃない。不思議に思うのはおかしなことではないよ」
「ねえ…ジョシュアは? 君はどんな感想を持つの?」
「そうだね。もし、自分に何度でも生き返る力があったら、
何があったら、生き返らなくなるだろう、と考えてしまうな」
「生き返らなくなる、理由?」
「うん。アンリは、どう思う?」
「…この前の休暇」
「え?」
「あの時なら、僕は生き返らなかったかもしれない」
「どうして?」
「退屈だったから」
この前の休暇は、アンリ以外全員が寮を空けていた。
ユウタとレッドはシチリア、ハルヤとシルヴァンは京都、
ジョシュアは、ロレートに呼ばれて、内々の食事会に出席していた。
「アンリ…俺達が居なくて、寂しかったのかい?」
「違う」
「本当かな?」
「君が居なくて、つまらなかっただけだ」
「…えっ?」
「休暇の最終日に近付くにつれて、皆がぽつりぽつりと戻って来たけれど、
あの時は、君が最後まで戻ってこなかった」
「…そう、だったね。飛行機が遅れてしまって」
「君が居ないのは、退屈でつまらない」
「アンリ…」
ジョシュアは突然僕を抱き締めた。
いつもはそっと触れるのに、今日は苦しいくらいだった。
「…ジョシュア? どうしたの、急に?」
「嬉しいんだ…アンリがそんなこと言ってくれるの初めてだから…」
「…嬉しい? 僕、君を喜ばせるようなことを言った?」
「うん…もう少し、このままで居ても良いかい?」
「君の好きにすれば」
「ありがとう」
アンリは絵本が目に入った。
表紙に大きく描かれた猫。
その緑色の瞳と目が合う。
何度も死んで何度も生き返った猫は、
白猫を失って初めて、本当に死んだ。
何人もの人間の飼い主に愛された猫は、
たった一匹の白猫が死んだことで、
二度と生き返らなくなった。
『生き返る』という特殊な力を捨てたのだろうか。
かつて、自らの『王位継承権』を放棄したプリンスのように。
何ものにも変えがたく。
もしそれを失ったら死んでも良いと、思える存在。
「…ねえ。ジョシュア」
「うん」
「聞きたいことがある」
「なんだい?」
「君は、どうして、この猫が死んだと思う?」
「そうだね。白猫を愛していたからだと思うよ」
「ジョシュア。もうひとつ聞いても良い?」
「うん」
「僕の白猫は、君なの?」
fin
「ジョシュア? 絵本を読んでいるの?」
「ああ、偶然ライブラリで見つけてね、懐かしくて借りて来たんだ。
アンリは読んだことがあるかい?」
ジョシュアが見せた本には猫の絵が描かれていた。
もちろん、知らないタイトルだ。
「ないよ。僕、絵本って殆ど知らないから」
「え? 子供の時は何を読んでいたんだい?」
「まあ、神秘学関連の本かな。
サン・ジェルマンの家には、そういう古い本が山程あるからね。
本を開けたら、おかしなものが飛び出してくることもあったし」
「…おかしなもの?」
アンリは、ふふと笑う。
「ジョシュアは、これが好きだったの? この猫の絵本が」
「ああ、好きだよ。そうだ。アンリ、俺が読んであげようか?」
「僕は17歳だ。一人で読めるよ」
アンリは絵本を奪う。
表紙に書かれていた作者名は、日本人のものだった。
何度も生き返る猫の話だった。
色々な人間に飼われ、愛されるが、
猫は自分が一番好きだった。
死んでも死んでも何度も生き返るのが自慢だった。
ある日、一匹の白猫と出会う。
白猫の前で宙返りを見せても、白猫は振り向かない。
猫は自慢することをやめ、白猫の傍に居ることだけを望む。
一緒に暮らし、やがて、たくさんの子供が産まれた。
猫は、自分より、子供達と白猫の方が好きになっていた。
ある朝、白猫が動かなくなる。
猫は初めて泣く。何度も何度も泣く。
泣き止んだ時、猫は動かなくなっていた。
そして猫は、ニ度と生き返らなかった。
アンリは、絵本を閉じる。
「これ、子供には向かない話ではないの?」
「絵本の中では珍しい話かもしれないね」
「どうして死んだの? 何度でも生き返る猫なのに、
白猫を失っただけで、どうして生き返らなくなるの?」
「不思議かい、アンリ?」
「…ジョシュアは不思議ではないの?」
「うん」
「そう…僕がおかしいのか。欠陥品だからね、僕は」
「アンリ。この絵本の解釈はね、人によって様々なんだ。
答えはひとつじゃない。不思議に思うのはおかしなことではないよ」
「ねえ…ジョシュアは? 君はどんな感想を持つの?」
「そうだね。もし、自分に何度でも生き返る力があったら、
何があったら、生き返らなくなるだろう、と考えてしまうな」
「生き返らなくなる、理由?」
「うん。アンリは、どう思う?」
「…この前の休暇」
「え?」
「あの時なら、僕は生き返らなかったかもしれない」
「どうして?」
「退屈だったから」
この前の休暇は、アンリ以外全員が寮を空けていた。
ユウタとレッドはシチリア、ハルヤとシルヴァンは京都、
ジョシュアは、ロレートに呼ばれて、内々の食事会に出席していた。
「アンリ…俺達が居なくて、寂しかったのかい?」
「違う」
「本当かな?」
「君が居なくて、つまらなかっただけだ」
「…えっ?」
「休暇の最終日に近付くにつれて、皆がぽつりぽつりと戻って来たけれど、
あの時は、君が最後まで戻ってこなかった」
「…そう、だったね。飛行機が遅れてしまって」
「君が居ないのは、退屈でつまらない」
「アンリ…」
ジョシュアは突然僕を抱き締めた。
いつもはそっと触れるのに、今日は苦しいくらいだった。
「…ジョシュア? どうしたの、急に?」
「嬉しいんだ…アンリがそんなこと言ってくれるの初めてだから…」
「…嬉しい? 僕、君を喜ばせるようなことを言った?」
「うん…もう少し、このままで居ても良いかい?」
「君の好きにすれば」
「ありがとう」
アンリは絵本が目に入った。
表紙に大きく描かれた猫。
その緑色の瞳と目が合う。
何度も死んで何度も生き返った猫は、
白猫を失って初めて、本当に死んだ。
何人もの人間の飼い主に愛された猫は、
たった一匹の白猫が死んだことで、
二度と生き返らなくなった。
『生き返る』という特殊な力を捨てたのだろうか。
かつて、自らの『王位継承権』を放棄したプリンスのように。
何ものにも変えがたく。
もしそれを失ったら死んでも良いと、思える存在。
「…ねえ。ジョシュア」
「うん」
「聞きたいことがある」
「なんだい?」
「君は、どうして、この猫が死んだと思う?」
「そうだね。白猫を愛していたからだと思うよ」
「ジョシュア。もうひとつ聞いても良い?」
「うん」
「僕の白猫は、君なの?」
fin
夜が深まった頃。
アンリの部屋には、月光だけが差していた。
「アンリ…」
少し掠れたジョシュアの声は、
昼間の優等生の声とは違う。
夜の声は、熱を帯びていた。
深紅の瞳に見下ろされている。
夜に見るこの赤は、とても綺麗だ。
もう何度目か解らない魔法の呪文を囁かれる。
「愛してる……愛してる…」
練れた声で呟きながら、僕の首許に口付けを落とす。
彼の髪に頬を撫でられて、くすぐったい。
「良いよ、そんなに何度も言わなくて。狂った玩具みたいだよ?」
「…すまない。でも何度言っても足りないんだ」
「君のそういうところは親譲り、かな?」
「そうかもしれないね」
ジョシュアの父、プリンス・エドワードは、
ロレート公国の王子だったが、王位を捨ててまで愛を取った。
それは『王位を賭けた恋』と呼ばれ、世界中に伝わった。
アンリには、彼の行動が理解できなかった。
彼が失ったものは計り知れない。
プリンス・エドワードは、どんな想いで決断したのか。
「僕はまだ解らないよ、愛してるってどういうことなのか」
「アンリ…」
「前にも伝えたけれどね。僕は、君のことも…愛しているのかは解らない」
「アンリは、俺と話をすることが嫌かい?」
「いいや」
「では、これは…?」
頬に手を添えられて。
目を閉じたジョシュアが近付いてくる。
深く、甘い口付け。
どうして、泣きたくなるんだろう。
頬に添えられていた手が、ゆっくり離れる。
「嫌かな、アンリ?」
「…嫌じゃ、ない」
「それなら良いよ。いつか解る時が来る。もし、その相手が俺だったら嬉しいな」
「君は…おかしいよ…」
「仕方ないよ。俺は、君にあの台詞を言われてからずっと…」
「あの台詞?」
「俺達が初めて会った時、君は言ったよね?
俺の頭上に『月桂樹の冠が見える』って」
「ああ」
見えている。
4年前、初めて会った時から。ジョシュアは栄光の証を持っていた。
幼い頃から、この目は様々な物を映して来たが、初めて見る厳かな輝きだった。
それは時に、光を弱め、色を変えることもあった。
だが今もその輝きを、失うことはない。
ジョシュアは優しく微笑む。
「今思うと、それが魔法の呪文だったんだね」
「呪文?」
「そうだよ。今も、とけていないんだ。
俺は、あの時からずっと、アンリの魔法にかけられてる」
fin
アンリの部屋には、月光だけが差していた。
「アンリ…」
少し掠れたジョシュアの声は、
昼間の優等生の声とは違う。
夜の声は、熱を帯びていた。
深紅の瞳に見下ろされている。
夜に見るこの赤は、とても綺麗だ。
もう何度目か解らない魔法の呪文を囁かれる。
「愛してる……愛してる…」
練れた声で呟きながら、僕の首許に口付けを落とす。
彼の髪に頬を撫でられて、くすぐったい。
「良いよ、そんなに何度も言わなくて。狂った玩具みたいだよ?」
「…すまない。でも何度言っても足りないんだ」
「君のそういうところは親譲り、かな?」
「そうかもしれないね」
ジョシュアの父、プリンス・エドワードは、
ロレート公国の王子だったが、王位を捨ててまで愛を取った。
それは『王位を賭けた恋』と呼ばれ、世界中に伝わった。
アンリには、彼の行動が理解できなかった。
彼が失ったものは計り知れない。
プリンス・エドワードは、どんな想いで決断したのか。
「僕はまだ解らないよ、愛してるってどういうことなのか」
「アンリ…」
「前にも伝えたけれどね。僕は、君のことも…愛しているのかは解らない」
「アンリは、俺と話をすることが嫌かい?」
「いいや」
「では、これは…?」
頬に手を添えられて。
目を閉じたジョシュアが近付いてくる。
深く、甘い口付け。
どうして、泣きたくなるんだろう。
頬に添えられていた手が、ゆっくり離れる。
「嫌かな、アンリ?」
「…嫌じゃ、ない」
「それなら良いよ。いつか解る時が来る。もし、その相手が俺だったら嬉しいな」
「君は…おかしいよ…」
「仕方ないよ。俺は、君にあの台詞を言われてからずっと…」
「あの台詞?」
「俺達が初めて会った時、君は言ったよね?
俺の頭上に『月桂樹の冠が見える』って」
「ああ」
見えている。
4年前、初めて会った時から。ジョシュアは栄光の証を持っていた。
幼い頃から、この目は様々な物を映して来たが、初めて見る厳かな輝きだった。
それは時に、光を弱め、色を変えることもあった。
だが今もその輝きを、失うことはない。
ジョシュアは優しく微笑む。
「今思うと、それが魔法の呪文だったんだね」
「呪文?」
「そうだよ。今も、とけていないんだ。
俺は、あの時からずっと、アンリの魔法にかけられてる」
fin
■ジョシュア×アンリ
----------------------
----------------------
「バトラー。今夜の食事は要らないから。明日の朝もだ」
「アンリ様…それではお身体を」
「僕の言うことが聞けないの、バトラー」
「…失礼致しました」
「いい? 彼等の電話は、二度と、僕に繋がないで」
「はい、申し訳ありません、アンリ様」
「彼等の声は虫酸が走るよ。身の程を知らない奴等だね。
あんな誘導に引っ掛かるくらいでは、僕と取引などできるわけがない。
Il faut tourner sa langue sept fois dans sa bouche avant de parler.」
ウーティス寮の廊下から、不機嫌な声が通り過ぎた。
いつも以上にきつい口調。
サロンで午後のティータイムを楽しんでいた三人をも凍らせる程だった。
ユウタは、自分が言われたわけではないのにビビリ気味だ。
「い、今のアンリだよね? なんかめちゃくちゃ怒ってなかった?
途中からフランス語になっちゃってるし…何て言ってたんだろ?」
ジョシュアがコーヒーカップを置く。
「すまない、ユウタ。気にしないで。今のはちょっと…悪態、だから」
「ジョシュアは解ったんだ? アンリ、何て言ってたの?」
「そうだね…意味としては『話す前によく考えろ』かな」
「ふうん。アンリ、何かあったのかなあ?」
「うん。最近、彼の事業が上手くいっていなくてね。気が立っているんだよ。
今のも事業に関係のある電話だったんだろうね。
バトラーには俺から謝っておかなくちゃ…」
「てゆうか、只の八つ当たりじゃん。ったく、あいつもガキだよなー」
可笑しそうなレッドに対して、ユウタは心配そうだ。
「大丈夫かなあ、アンリ。部屋で物壊したりとかしてないかなあ」
「それはないだろ。あいつ、毒吐く以外のことできねーから」
「そう言えばアンリ、最近、俺達とあんまり話してないね」
「バトラーに当たってるくらいだから、末期かもな。
あいつ、あれで自分の中に感情を押し込めるとこあるんだよなー」
「レッド…」
「どうした、ジョシュア」
「いや、少し驚いてしまった。アンリのこと、よく見ているんだね」
「人間観察は役者の基本さ。毎日同じ寮に居るんだぜ?
嫌でも解るさ、あいつがバカだってことはな」
「すごーい! レッド、カッコイイー!」
「へへーん♪」
ジョシュアが席を立つ。
レッドが見上げる。
「ジョシュア?」
「ちょっと心配だから、宥めてくるよ」
「あのアンリを? できるの、ジョシュア?」
不思議そうなユウタに、ジョシュアは微笑む。
「どうかな。上手くいくと良いね」
サロンに二人を残して、ジョシュアが退室する。
レッドはソファに仰け反った。
「ったく。ジョシュアの奴、アンリにばっか甘くしやがって。
やってらんねーぜ! あんな毒使い、放っておけば良いのによ!」
「レッド…?」
「ジョシュアが甘やかすから、あいつの毒が増えんだろーが!
毒を浴びる方の身にもなれってんだよ! だー! 腹立つー!」
「レッドは、ジョシュアに怒ってんの? アンリに怒ってんの?」
「どっちもだよ! どっちも!!」
アンリの部屋がノックされた。
部屋の主は返事せず、拒否反応を見せる。
「俺だよ、アンリ。入っても良いかい?」
「駄目。一人にして」
ドアが開く。
「ジョシュア…駄目だと言ったでしょ。君まで僕を怒らせないで」
「荒れているね。みんなも心配していたよ?」
「煩いな。ねえ、もう出て行って」
「アンリは、グラントが魔法使いの家だと知っていたかい?」
「…何を言い出すの」
「グラントにはね、代々伝わる魔法があるんだよ」
ヨーロッパ屈指の名門であるグラント家は、ジョシュアの母方の家だ。
母、クリスティーナ・グラントは高貴な令嬢ではあったが、
決して魔女などではない。
「俺が、アンリに気持ちが静まる魔法をかけてあげるよ」
「悪いけど、君のつまらない冗談には付き合えなっ…」
アンリの視界は深緑に染まっていた。
制服の色だ。
ジョシュアに、正面から抱き留められている。
「では、魔法をかけるね?」
耳元でジョシュアの声がする。
息がかかるくらい、すぐ傍で。
「俺がこれから10数えるよ。それまで目を閉じていて。いいかい? 1…」
ジョシュアの優しい声は、ゆっくりと数を数えていった。
数がひとつ増える度に、身体から棘が抜けていく。
ざあざあ、と波打っていた感情が引いていく。
まるで眠りに落ちる前のような感覚だ。
10で終わってしまうのを惜しく思っている自分が居た。
「…10。目を開けて良いよ」
ジョシュアはアンリを解放する。
「少しは落ち着いたかい?」
アンリは言葉を返せない。
先までの苛立ちが嘘のように消えている。
「どうやら魔法にかかったみたいだね、アンリ?」
「…これは、催眠術の一種なの?」
「言っただろう? 魔法、だよ」
「…なんで…こんなことで…」
「さあね。理由は俺もよく解らないけれど。
幼い頃、母がよくこうしてくれたんだ。俺が怖い夢を見た時とか、悲しい時にね」
「ジョシュアの……」
「腕の中で、優しい声を聞いているうちに、
気持ちが安らいでくる。不思議だよね。
子供の頃は、母は魔法使いなんだと信じていた時もあったな」
「君もその魔法を受け継いだというわけか」
「うん。嬉しいよ、アンリ。俺の魔法にかかってくれて」
「嬉しい?」
「この魔法は、使える相手が限られてる。
魔法をかける者とかけられる者が、
近しい存在でなければ、成功しない魔法だからね」
「だろうね。初対面の人に使ったら、蹴られるよ」
「そうかもしれないね。だから嬉しいんだ」
ジョシュアは、温かい笑顔を見せる。
「俺がこの魔法を使ったのは、君が初めてだよ、アンリ」
「光栄だね、実験台にして貰えて」
「いつものアンリに戻ったみたいだね。良かった。
そうだ。さっき、バトラーに食事は要らないと言っていたね?
いけないよ。暫くまともに食事をしていないだろう?」
「そう、だね…」
「今夜はみんなと一緒に食べよう?」
「…解った」
「ありがとう」
「…ねえ、ジョシュア。バトラーに」
「解ってる。アンリが反省していたと伝えておくよ」
「…話す前に考えていないのは僕の方だったね」
「良い子だね、アンリ。俺が考えた魔法もあったのだけど。もう必要無いかな?」
「君が考えた?」
「うん。今は使えないけれどね。月の光が必要だから」
「月の光?」
「そう。これは夜にしか使えない魔法なんだ。…今夜、試してみるかい?」
fin
「アンリ様…それではお身体を」
「僕の言うことが聞けないの、バトラー」
「…失礼致しました」
「いい? 彼等の電話は、二度と、僕に繋がないで」
「はい、申し訳ありません、アンリ様」
「彼等の声は虫酸が走るよ。身の程を知らない奴等だね。
あんな誘導に引っ掛かるくらいでは、僕と取引などできるわけがない。
Il faut tourner sa langue sept fois dans sa bouche avant de parler.」
ウーティス寮の廊下から、不機嫌な声が通り過ぎた。
いつも以上にきつい口調。
サロンで午後のティータイムを楽しんでいた三人をも凍らせる程だった。
ユウタは、自分が言われたわけではないのにビビリ気味だ。
「い、今のアンリだよね? なんかめちゃくちゃ怒ってなかった?
途中からフランス語になっちゃってるし…何て言ってたんだろ?」
ジョシュアがコーヒーカップを置く。
「すまない、ユウタ。気にしないで。今のはちょっと…悪態、だから」
「ジョシュアは解ったんだ? アンリ、何て言ってたの?」
「そうだね…意味としては『話す前によく考えろ』かな」
「ふうん。アンリ、何かあったのかなあ?」
「うん。最近、彼の事業が上手くいっていなくてね。気が立っているんだよ。
今のも事業に関係のある電話だったんだろうね。
バトラーには俺から謝っておかなくちゃ…」
「てゆうか、只の八つ当たりじゃん。ったく、あいつもガキだよなー」
可笑しそうなレッドに対して、ユウタは心配そうだ。
「大丈夫かなあ、アンリ。部屋で物壊したりとかしてないかなあ」
「それはないだろ。あいつ、毒吐く以外のことできねーから」
「そう言えばアンリ、最近、俺達とあんまり話してないね」
「バトラーに当たってるくらいだから、末期かもな。
あいつ、あれで自分の中に感情を押し込めるとこあるんだよなー」
「レッド…」
「どうした、ジョシュア」
「いや、少し驚いてしまった。アンリのこと、よく見ているんだね」
「人間観察は役者の基本さ。毎日同じ寮に居るんだぜ?
嫌でも解るさ、あいつがバカだってことはな」
「すごーい! レッド、カッコイイー!」
「へへーん♪」
ジョシュアが席を立つ。
レッドが見上げる。
「ジョシュア?」
「ちょっと心配だから、宥めてくるよ」
「あのアンリを? できるの、ジョシュア?」
不思議そうなユウタに、ジョシュアは微笑む。
「どうかな。上手くいくと良いね」
サロンに二人を残して、ジョシュアが退室する。
レッドはソファに仰け反った。
「ったく。ジョシュアの奴、アンリにばっか甘くしやがって。
やってらんねーぜ! あんな毒使い、放っておけば良いのによ!」
「レッド…?」
「ジョシュアが甘やかすから、あいつの毒が増えんだろーが!
毒を浴びる方の身にもなれってんだよ! だー! 腹立つー!」
「レッドは、ジョシュアに怒ってんの? アンリに怒ってんの?」
「どっちもだよ! どっちも!!」
アンリの部屋がノックされた。
部屋の主は返事せず、拒否反応を見せる。
「俺だよ、アンリ。入っても良いかい?」
「駄目。一人にして」
ドアが開く。
「ジョシュア…駄目だと言ったでしょ。君まで僕を怒らせないで」
「荒れているね。みんなも心配していたよ?」
「煩いな。ねえ、もう出て行って」
「アンリは、グラントが魔法使いの家だと知っていたかい?」
「…何を言い出すの」
「グラントにはね、代々伝わる魔法があるんだよ」
ヨーロッパ屈指の名門であるグラント家は、ジョシュアの母方の家だ。
母、クリスティーナ・グラントは高貴な令嬢ではあったが、
決して魔女などではない。
「俺が、アンリに気持ちが静まる魔法をかけてあげるよ」
「悪いけど、君のつまらない冗談には付き合えなっ…」
アンリの視界は深緑に染まっていた。
制服の色だ。
ジョシュアに、正面から抱き留められている。
「では、魔法をかけるね?」
耳元でジョシュアの声がする。
息がかかるくらい、すぐ傍で。
「俺がこれから10数えるよ。それまで目を閉じていて。いいかい? 1…」
ジョシュアの優しい声は、ゆっくりと数を数えていった。
数がひとつ増える度に、身体から棘が抜けていく。
ざあざあ、と波打っていた感情が引いていく。
まるで眠りに落ちる前のような感覚だ。
10で終わってしまうのを惜しく思っている自分が居た。
「…10。目を開けて良いよ」
ジョシュアはアンリを解放する。
「少しは落ち着いたかい?」
アンリは言葉を返せない。
先までの苛立ちが嘘のように消えている。
「どうやら魔法にかかったみたいだね、アンリ?」
「…これは、催眠術の一種なの?」
「言っただろう? 魔法、だよ」
「…なんで…こんなことで…」
「さあね。理由は俺もよく解らないけれど。
幼い頃、母がよくこうしてくれたんだ。俺が怖い夢を見た時とか、悲しい時にね」
「ジョシュアの……」
「腕の中で、優しい声を聞いているうちに、
気持ちが安らいでくる。不思議だよね。
子供の頃は、母は魔法使いなんだと信じていた時もあったな」
「君もその魔法を受け継いだというわけか」
「うん。嬉しいよ、アンリ。俺の魔法にかかってくれて」
「嬉しい?」
「この魔法は、使える相手が限られてる。
魔法をかける者とかけられる者が、
近しい存在でなければ、成功しない魔法だからね」
「だろうね。初対面の人に使ったら、蹴られるよ」
「そうかもしれないね。だから嬉しいんだ」
ジョシュアは、温かい笑顔を見せる。
「俺がこの魔法を使ったのは、君が初めてだよ、アンリ」
「光栄だね、実験台にして貰えて」
「いつものアンリに戻ったみたいだね。良かった。
そうだ。さっき、バトラーに食事は要らないと言っていたね?
いけないよ。暫くまともに食事をしていないだろう?」
「そう、だね…」
「今夜はみんなと一緒に食べよう?」
「…解った」
「ありがとう」
「…ねえ、ジョシュア。バトラーに」
「解ってる。アンリが反省していたと伝えておくよ」
「…話す前に考えていないのは僕の方だったね」
「良い子だね、アンリ。俺が考えた魔法もあったのだけど。もう必要無いかな?」
「君が考えた?」
「うん。今は使えないけれどね。月の光が必要だから」
「月の光?」
「そう。これは夜にしか使えない魔法なんだ。…今夜、試してみるかい?」
fin
■アンリ×ハルヤ
-----------------
-----------------
ウーティス寮のサロン。
ハルヤはテラスに出て、ぼんやりと雲を見ていた。
サロンには、アンリが居るけど、
本を読んでいるので、話し掛けられない。
大きな雲がゆっくり泳いでいる。
丸みを帯びた雲に、飛行機雲が通った。
その細い線は、長い鼻に見える。
象みたい。
頭の中に童謡が流れてきた。
『ぞうさん』だ。
そう言えば、昨夜もこの曲を思い出した気がする。
どうしてだったかなあ。
今日の雲はのんびりだ。
遅い動きを見ていたら、なんだか眠くなってきた。
本を閉じた音が聞こえた。
ハルヤは思考を中断して、アンリに話し掛けた。
「アンリさ。昨夜、何かテレビ見た?」
アンリは細い足を組む。
「何かは見たと思うけれど?」
「俺、アンリがどの番組を見たか、当てられると思う」
「へえ?」
アンリは冷笑を浮かべる。
「…な、なに?」
「ハルヤ、覗きの趣味が出来たの? そんなに僕のことが気になる?」
「ち、違うよ」
「なんだ、つまらない」
「つまらないって何だよ…。アンリ、俺に部屋覗いて欲しいの?」
「冗談でしょ。寮から追い出すよ」
「…先に冗談言ったの、どっちだよ…」
アンリは機嫌の良い冷笑のまま「話、進めて?」と言った。
「あ、あのね? 昨日は、アンリの嫌いな番組しかやってなかったから、
消去法で大体解りそうだなって思ったんだ」
アンリとテレビの話を繰り返すうちに、彼の趣向が解ってきた。
彼が「下らない」と一蹴するのは、主にバラエティ番組だ。
ハルヤが面白いのに、と思うものも大抵好きじゃない。
人を馬鹿にして笑うようなものが嫌いらしい。
体育の見学が多いアンリは、スポーツ番組も見ない。
ニュースは見るけれど、嫌いなコメンテイターが出ているものは見ていない。
政治のニュースより、アンリの事業に関係する経済や金融の方に興味がある。
「面白いこと言うね、ハルヤ。じゃ、当ててみれば?」
「スラム街のドキュメントでしょ?」
アンリは少し黙る。
「…見たよ、全部ではないけれどね」
「やっぱり。当たったね?」
ハルヤが笑うと、アンリは不服そうだった。
「ハルヤ、あれも僕の嫌いな類のひとつだよ?
視聴者より低所得者の人間を扱った類のものは、得てして視聴率が稼げるからね。
作り手の下心が露出している番組は好きではないよ」
「でもさ、昨日のは見たんでしょ? 番組の作り方、すごく真面目っていうか、
下心なんか全然感じなかった」
「…まあ、そうだね」
貧民街に暮らす親子を撮ったものだった。
父はいない。母がまだ幼い男の子と寄り添って生活していた。
二人は、血が繋がっていないのだという。
スラム街で捨てられていた子を、彼女が拾った。
一人で暮らしていた彼女にとっては、宝物だと話していた。
住む場所は治安の悪い街にある、半壊状態の家。
コンクリートの中からは、錆びた鉄骨が剥き出した。
もちろん、その家は彼等の所有物ではない。
いつ壊れるかも解らない廃屋が、彼等の住まい。
親子の身には、ぼろきれを巻きつけただけで、
布の穴からは無数の小さな傷が覗いていた。
食べるものは、ごみ捨て場から探してくる。
衣食住の全てが、酷く貧しいものだった。
ハルヤは、今自分が着ている服を見る。
アルフォンソ学院の制服。
燕尾服にも似たそれは、デザイン、質と共に、
他のどの学校より劣らないものだろう。
住む場所はウーティス寮。
身の回りの世話は寮専属のバトラーがしてくれる。
一人部屋もあって、寮生達も皆いい人達ばかりだ。
食事は、栄養があって、美味しい。
シェフにお願いすれば日本食だって作ってくれる。
自分はどれだけ恵まれた環境に居るのだと気付かされる。
ハルヤは、自らの腕を抱いていた。
手に触れたのは、上質の布。
「…可哀想、だったよね」
「可哀想?」
「あの親子は、俺達が当たり前に持ってるもの、持ってなくて…。
俺、居た堪れないっていうか…申し訳ない気持ちになった」
「可哀想なんて言葉は、安易に口にしない方が良い」
アンリの声は、冷たさを持っていなかった。
自分の意見を言っているだけだ。怒っているのではない。
彼の落ち着いた声は、ハルヤの中に、すとんと降りてくる。
「幸か不幸かは当人にしか解らないことだよ。
僕達に比べれば、生活は不便だろうけどね、
彼等の笑顔は、少しも不幸に思えなかった」
ハルヤは、昨日見た映像を思い出す。
親子は確かに、カメラの前で笑顔を見せていた。
年端も行かぬ男の子が、血の繋がらない母の為に食べ物を探し、
仲良く分け合って食べる姿は、
貧しくはあっても、不幸ではなかったのだろう。
それを、可哀想という言葉で、ひと括りにするのは、
適切ではなかったかもしれない。
アンリは自嘲的に笑ってみせる。
「富裕層の人間が言っても、説得力に欠ける話だけれどね」
「そんなことないよ。俺、納得したし…てゆうか、アンリの話はいつもだけど」
「納得か。人の言葉を、鵜呑みにするのは感心できないね」
「だってアンリは、ちゃんと自分の意見持ってて、
それをはっきり言えるから。レッドは毒舌だって言うけどさ。
俺には、できないことっていうか、自己主張とか苦手だし」
アンリは視線を本に落とす。
「…僕は彼が少し羨ましかっただけだよ。
あの子は、僕が持ってないものを、ちゃんと持っていた」
「え。何?」
「…いや。話を戻そう」
アンリの表情が少し曇る。
彼が何を持っていないと言うのだろう。
あの子どころか、この学院の誰よりも持っているくらいだ。
サン・ジェルマン伯爵家は、初代が築いた財が今も続いているというのに。
「アンリ?」
「自分の意見を言うことが、良いとは限らないよ」
「…良いことじゃないの?」
「波風立てず、何事も飄々とこなす方が、僕にはできないことだ」
「それ、誰のこと?」
アンリは少し笑った。
いつもの冷笑より、ずっと柔らかい。
それは一瞬だったけれど、花が舞ったように見えた。
「ハルヤと話していると退屈しないね。楽しめたよ」
「…そ、そっかな?」
「ねえ、ハルヤ」
「うん?」
「さっき、テラスで歌っていたのは、君が作った曲?」
「…俺、なんか歌ってた?」
「うん。こういう曲」
アンリがメロディを一節だけ歌う。
「ああ…それか。『ぞうさん』っていう日本の童謡だよ」
「もう一度歌って?」
「えっ? な、なんで?」
「ゆったりしていて、良い曲だったから。僕には作れない曲だ」
「でも…俺、恥ずかしいよ」
「ライブでは歌うのだから、此処でも良いでしょ?」
否と言わせない強い視線に当てられて、
ハルヤは肩を落とす。
「はい…」
ハルヤは小さな声で『ぞうさん』の一番を歌う。
あまりにも短く、アンリに怒られそうなので二番も続けて歌う。
「あっ…」
最後の歌詞の前で止まってしまった。
歌詞を忘れたわけではない。
――あのね かあさんがすきなのよ
解らなかったことが繋がる。
昨夜、この歌を思い出した理由も。
あの子が持っていて、アンリが持っていないものも。
解った。
「ハルヤ?」
「あっ、な、なに?」
「その歌、そこで終わりなの?」
「あ、あの…ごめん。続き、忘れちゃったみたい」
「あっそう。でも良いメロディだね」
「うん…あ、あのさっ、そろそろ講義だよね?」
「ん? ああ、そうだね」
「アンリ、次は何?」
「神秘学の特別講義だけど?」
「ほんと? 俺も教室に入れるかな? 一回聴いてみたかったんだ」
「神秘学に興味があるの? 変わった趣味してるね?」
「あの…駄目、かな?」
「構わないよ、別に。僕の隣に居れば、オーギュも何も言わないから」
「オーギュって…オーギュスト・ボージェ教授?
アンリ、先生のことそんな呼び方してるの?」
「彼は、僕の下僕だからね」
「…え。下僕?」
「神秘学の特別講師ってことだよ」
「…ええっと…?」
ハルヤは意味が解らなくなる。
どうして「下僕 イコール 神秘学の特別講師」なんだろう?
アンリが冗談を言っているようには見えないから、
自分が、どれか英単語を聞き間違えたのかもしれない。
「ハルヤ、行くなら早くして。講義が始まる」
「あ、うんっ」
fin
ハルヤはテラスに出て、ぼんやりと雲を見ていた。
サロンには、アンリが居るけど、
本を読んでいるので、話し掛けられない。
大きな雲がゆっくり泳いでいる。
丸みを帯びた雲に、飛行機雲が通った。
その細い線は、長い鼻に見える。
象みたい。
頭の中に童謡が流れてきた。
『ぞうさん』だ。
そう言えば、昨夜もこの曲を思い出した気がする。
どうしてだったかなあ。
今日の雲はのんびりだ。
遅い動きを見ていたら、なんだか眠くなってきた。
本を閉じた音が聞こえた。
ハルヤは思考を中断して、アンリに話し掛けた。
「アンリさ。昨夜、何かテレビ見た?」
アンリは細い足を組む。
「何かは見たと思うけれど?」
「俺、アンリがどの番組を見たか、当てられると思う」
「へえ?」
アンリは冷笑を浮かべる。
「…な、なに?」
「ハルヤ、覗きの趣味が出来たの? そんなに僕のことが気になる?」
「ち、違うよ」
「なんだ、つまらない」
「つまらないって何だよ…。アンリ、俺に部屋覗いて欲しいの?」
「冗談でしょ。寮から追い出すよ」
「…先に冗談言ったの、どっちだよ…」
アンリは機嫌の良い冷笑のまま「話、進めて?」と言った。
「あ、あのね? 昨日は、アンリの嫌いな番組しかやってなかったから、
消去法で大体解りそうだなって思ったんだ」
アンリとテレビの話を繰り返すうちに、彼の趣向が解ってきた。
彼が「下らない」と一蹴するのは、主にバラエティ番組だ。
ハルヤが面白いのに、と思うものも大抵好きじゃない。
人を馬鹿にして笑うようなものが嫌いらしい。
体育の見学が多いアンリは、スポーツ番組も見ない。
ニュースは見るけれど、嫌いなコメンテイターが出ているものは見ていない。
政治のニュースより、アンリの事業に関係する経済や金融の方に興味がある。
「面白いこと言うね、ハルヤ。じゃ、当ててみれば?」
「スラム街のドキュメントでしょ?」
アンリは少し黙る。
「…見たよ、全部ではないけれどね」
「やっぱり。当たったね?」
ハルヤが笑うと、アンリは不服そうだった。
「ハルヤ、あれも僕の嫌いな類のひとつだよ?
視聴者より低所得者の人間を扱った類のものは、得てして視聴率が稼げるからね。
作り手の下心が露出している番組は好きではないよ」
「でもさ、昨日のは見たんでしょ? 番組の作り方、すごく真面目っていうか、
下心なんか全然感じなかった」
「…まあ、そうだね」
貧民街に暮らす親子を撮ったものだった。
父はいない。母がまだ幼い男の子と寄り添って生活していた。
二人は、血が繋がっていないのだという。
スラム街で捨てられていた子を、彼女が拾った。
一人で暮らしていた彼女にとっては、宝物だと話していた。
住む場所は治安の悪い街にある、半壊状態の家。
コンクリートの中からは、錆びた鉄骨が剥き出した。
もちろん、その家は彼等の所有物ではない。
いつ壊れるかも解らない廃屋が、彼等の住まい。
親子の身には、ぼろきれを巻きつけただけで、
布の穴からは無数の小さな傷が覗いていた。
食べるものは、ごみ捨て場から探してくる。
衣食住の全てが、酷く貧しいものだった。
ハルヤは、今自分が着ている服を見る。
アルフォンソ学院の制服。
燕尾服にも似たそれは、デザイン、質と共に、
他のどの学校より劣らないものだろう。
住む場所はウーティス寮。
身の回りの世話は寮専属のバトラーがしてくれる。
一人部屋もあって、寮生達も皆いい人達ばかりだ。
食事は、栄養があって、美味しい。
シェフにお願いすれば日本食だって作ってくれる。
自分はどれだけ恵まれた環境に居るのだと気付かされる。
ハルヤは、自らの腕を抱いていた。
手に触れたのは、上質の布。
「…可哀想、だったよね」
「可哀想?」
「あの親子は、俺達が当たり前に持ってるもの、持ってなくて…。
俺、居た堪れないっていうか…申し訳ない気持ちになった」
「可哀想なんて言葉は、安易に口にしない方が良い」
アンリの声は、冷たさを持っていなかった。
自分の意見を言っているだけだ。怒っているのではない。
彼の落ち着いた声は、ハルヤの中に、すとんと降りてくる。
「幸か不幸かは当人にしか解らないことだよ。
僕達に比べれば、生活は不便だろうけどね、
彼等の笑顔は、少しも不幸に思えなかった」
ハルヤは、昨日見た映像を思い出す。
親子は確かに、カメラの前で笑顔を見せていた。
年端も行かぬ男の子が、血の繋がらない母の為に食べ物を探し、
仲良く分け合って食べる姿は、
貧しくはあっても、不幸ではなかったのだろう。
それを、可哀想という言葉で、ひと括りにするのは、
適切ではなかったかもしれない。
アンリは自嘲的に笑ってみせる。
「富裕層の人間が言っても、説得力に欠ける話だけれどね」
「そんなことないよ。俺、納得したし…てゆうか、アンリの話はいつもだけど」
「納得か。人の言葉を、鵜呑みにするのは感心できないね」
「だってアンリは、ちゃんと自分の意見持ってて、
それをはっきり言えるから。レッドは毒舌だって言うけどさ。
俺には、できないことっていうか、自己主張とか苦手だし」
アンリは視線を本に落とす。
「…僕は彼が少し羨ましかっただけだよ。
あの子は、僕が持ってないものを、ちゃんと持っていた」
「え。何?」
「…いや。話を戻そう」
アンリの表情が少し曇る。
彼が何を持っていないと言うのだろう。
あの子どころか、この学院の誰よりも持っているくらいだ。
サン・ジェルマン伯爵家は、初代が築いた財が今も続いているというのに。
「アンリ?」
「自分の意見を言うことが、良いとは限らないよ」
「…良いことじゃないの?」
「波風立てず、何事も飄々とこなす方が、僕にはできないことだ」
「それ、誰のこと?」
アンリは少し笑った。
いつもの冷笑より、ずっと柔らかい。
それは一瞬だったけれど、花が舞ったように見えた。
「ハルヤと話していると退屈しないね。楽しめたよ」
「…そ、そっかな?」
「ねえ、ハルヤ」
「うん?」
「さっき、テラスで歌っていたのは、君が作った曲?」
「…俺、なんか歌ってた?」
「うん。こういう曲」
アンリがメロディを一節だけ歌う。
「ああ…それか。『ぞうさん』っていう日本の童謡だよ」
「もう一度歌って?」
「えっ? な、なんで?」
「ゆったりしていて、良い曲だったから。僕には作れない曲だ」
「でも…俺、恥ずかしいよ」
「ライブでは歌うのだから、此処でも良いでしょ?」
否と言わせない強い視線に当てられて、
ハルヤは肩を落とす。
「はい…」
ハルヤは小さな声で『ぞうさん』の一番を歌う。
あまりにも短く、アンリに怒られそうなので二番も続けて歌う。
「あっ…」
最後の歌詞の前で止まってしまった。
歌詞を忘れたわけではない。
――あのね かあさんがすきなのよ
解らなかったことが繋がる。
昨夜、この歌を思い出した理由も。
あの子が持っていて、アンリが持っていないものも。
解った。
「ハルヤ?」
「あっ、な、なに?」
「その歌、そこで終わりなの?」
「あ、あの…ごめん。続き、忘れちゃったみたい」
「あっそう。でも良いメロディだね」
「うん…あ、あのさっ、そろそろ講義だよね?」
「ん? ああ、そうだね」
「アンリ、次は何?」
「神秘学の特別講義だけど?」
「ほんと? 俺も教室に入れるかな? 一回聴いてみたかったんだ」
「神秘学に興味があるの? 変わった趣味してるね?」
「あの…駄目、かな?」
「構わないよ、別に。僕の隣に居れば、オーギュも何も言わないから」
「オーギュって…オーギュスト・ボージェ教授?
アンリ、先生のことそんな呼び方してるの?」
「彼は、僕の下僕だからね」
「…え。下僕?」
「神秘学の特別講師ってことだよ」
「…ええっと…?」
ハルヤは意味が解らなくなる。
どうして「下僕 イコール 神秘学の特別講師」なんだろう?
アンリが冗談を言っているようには見えないから、
自分が、どれか英単語を聞き間違えたのかもしれない。
「ハルヤ、行くなら早くして。講義が始まる」
「あ、うんっ」
fin
■アンリ×ハルヤ
■重いダーク
-----------------
■重いダーク
-----------------
ある晴れた夕暮れ。
アンリは、天文台に向かっていた。
手には文庫本を持っている。
半分くらい読んでいた。
後1時間程で、読み終えるだろう。
この本の終の棲家に辿り着いた。
「あ。アンリ?」
遺跡の影からハルヤが顔を出した。
「ハルヤも居たのか」
「うん。俺はぼーっとしてただけだけどね。
今は…遺跡を作った人のこと考えてたのかな」
「…作った人?」
「俺、そーゆーの考えるの好きなんだ。
これはどんなことを考えながら作ったんだろう、とか。
作った人は、アルフォンソ学院の生徒が使うことになるなんて、
想像もしてなかっただろうなあ、とかさ」
「確かにね」
かつて天文台だったと思われる遺跡。
広大な草原に、白い石が環状に並んでいる。
イギリスのストーンヘンジ同様、これもストーンサークルと呼べる。
アルフォンソ王が実在したのなら、彼に仕えていた占星術師か何かが、
この天文台で、星や太陽の動きを見ていたのだろう。
遙か昔に、この場所で。
ハルヤは、慈しむように遺跡に手を置く。
「形のある物ってさ、こうやって何年も何百年も残るんだよね。
作った人の手を離れても、その人が死んでも、作品は残る。
作り手が想像もしなかった使い方されたりして。
時代を超えて、誰かの手に触れるんだ。それってさ、なんか凄いよね」
「この天文台の製作者も、君にこんな風に思われるとは想像もしなかっただろうね」
「あ。ごめん…なんか俺ばっかり喋ってるし…
変なこと言って…アンリには退屈、だったよね」
「いいや。昨日ニュースで聞いた、
コメンテイターの下らない戯言よりは、数倍興味深かったよ」
「…そ、そう? アンリが怒ってないのなら良いんだけど」
「ひとつだけ、批判したいところがあったけれどね」
「…ごめん。どこ?」
「形ある物が、何百年も残るってところさ」
「え? 間違ってる?」
「ああ。それは有形物に限らない。無形物だって同じだよ」
「無形物も…?」
「そう。伝統芸能は無形なのに、何百年も残るものでしょう?」
「アンリ…」
「だから、伝統、というのではないの?」
「…ん」
「喋り過ぎて疲れたな。僕、此処には、本を読みに来ただけだし」
「あっ、そうだよね、ごめん。俺、もう邪魔しないから」
崩れた遺跡に腰掛け、本を読み始めると、
ハルヤは空気になる。
僕の意識から消えて、彼の存在は無色透明になった。
一番星が灯り、風が出てきた頃。
僕は本を閉じた。
これも下らない内容だった。
「ハルヤ。僕は戻るけれど、君はいつまで此処に居るつもり?」
返事が無い。
彼は眼鏡を掛けたまま。
遺跡に凭れて、目を閉じていた。
「無防備に晒してくれる」
雪のように美しい顔に、薔薇のように赤い唇。
花の香りに誘われる蜂は、こんな気持ちなのだろうか。
静かに眼鏡を外す。
そこで起きたら、止めてあげようかと思ったのに。
目は閉じられたまま。
ハルヤは僕から逃げない。
彼の前で膝を落とす。
地面に片手を付く。
「今は触れるだけにしてあげるよ」
鳥のように。
そっと触れて。
僕はハルヤから離れる。
「続きがして欲しかったら、僕の部屋においで」
眼鏡をハンカチに包み、僕のポケットに仕舞う。
彼を一人残し、僕は天文台を後にした。
夕食時。食堂には眼鏡を掛けていないハルヤが現れた。
他の寮生達は、不思議そうに「眼鏡は?」と尋ねていた。
本人は「部屋に忘れてきただけ」と返し、僕を見ることは一度も無かった。
皆が各自の部屋に戻った頃。
ハルヤが僕の部屋を訪ねて来た。
朧気な視界の中、僕を求めて此処まで来たのだと思うと、
仄暗い感情が疼く。
「やあ、ハルヤ」
「あの、俺の眼鏡、知らない? 起きたら無くなってて…」
「ああ。預かっているよ、ほら」
「良かった。ありがと、アンリ」
「礼など必要ないよ。僕が奪ったのは眼鏡だけではないのだし」
「…何の、こと」
「それとも、君が此処に来る口実を作ってあげたことへの礼なのかな?
まあ、どうでもいいけれどね。それじゃ約束通り、続きをしてあげる」
「約束なんか…」
「とぼける気? 君はあの時、起きていたでしょ?」
彼は僕にとって、空気のような存在だった。
彼には憤りも、嫉みも、煩わしさも、不快な感情は感じたことが無くて。
毒舌と評される言葉を吐いたことも少なかった。
かといって、好意的な感情も抱いたことも無い。
傍に居ても嫌ではない。
無色透明の不思議な存在だった。
これからもずっと。
彼は空気なのだろうと思っていた。
この手に触れることのない存在。
これ以上近付くことも無く、離れることも無く。
卒業するまでこのままだと思っていた。
その距離が狂い出したのは。
彼が突然あのようなことを言い出したからだ。
それは、ひと月前。
「アンリさ。なんで自分のこと、悪魔の子だなんて言うの?」
ハルヤは僕の部屋に、本を返しに来ていた。
以前、本棚に並んでいる背表紙を見て、興味が湧いたのか、
神秘学の文献を借りて行った。
本を返しに来たついでに、
昨日見たテレビの話について幾つか意見を交換した後。
ハルヤは何の脈絡なく、ぽつりと零した。
僕は冷笑で返す。
「珍しいね、ハルヤ? 人に干渉することもされることも避けてきた君が、
他人に土足で踏み込むようなこと言うなんて」
「ごめん…あの、アンリが嫌なら…」
「君がどうしてそんなことを聞く気になったのか、ということには興味があるね」
「だってアンリは人の子でしょ。サン・ジェルマン家の」
「僕はね、父にそう呼ばれていたから。お前は悪魔の子だと」
「…お父さんに? どうして?」
「僕がサン・ジェルマンの血を濃く受け継いでいて、気味が悪かったんでしょ。
彼は僕のことを、自分の子だなんて思っていないよ。悪魔の子、なんだ」
「お父さんだって、同じ血が流れてるのに…」
「彼には疎むべき血でしかなかったんだよ。
それに、僕が生まれたせいで、母が死んだから」
「…お母さんが?」
「そう。元々体の弱い母の身体は、悪魔を産み落とすのに耐え切れなかった。
僕が生まれてこなければ、命を奪われることも無かったのにね」
「そんなこと、言っちゃ駄目だよ、アンリ…」
「彼は母を愛していた。それだけが彼と僕との共通点かな。
父にとって、彼女が唯一の人だった。
だから僕のことが、彼女を殺した悪魔にしか映らなかったんだろうね。
僕が彼女を殺した。僕は生まれてこなければ良かった子供なんだよ」
「そんなこと言わないで…」
「だって、父に言われたんだもの、何度もね」
長い沈黙。
思考が混沌してくる。
澱んだ時間だ。
僕は息を吐き捨てる。
「つまらない話だったね。この話は終わりにしよう」
「俺、も…」
「え?」
「俺も、生まれてこなければ良かったと思ったこと、ある」
「何故、ハル…」
言葉が止まる。
ハルヤの目には涙が溜まっていた。
今まで抑えていた感情と一緒に。
それはぽろぽろと零れ始めた。
「俺の父様は優しいけど、でも俺は父様の子じゃないんだ。
母は籍入れてないからさ。俺の戸籍、父親のとこ空欄なんだよ」
父親の姓はウメガエ、母親がコバヤシだとは聞いていた。
つまり、正妻は別にいる。それがハルヤの兄の母。
ハルヤは非嫡出子として生まれてきた。
日本の法は、婚外子である彼を父親の子だと認めていない。
「俺が生まれたから、みんなに、迷惑いっぱいかけてる」
「…迷惑?」
「俺が生まれたから、父様と母様はだんだん会えなくなったんだ。
じい様が死んだ後、母様は、父様の姓を名乗れないまま、
東京に行くことになっちゃったし」
「それは君のせいじゃない」
「俺が生まれなければ、梅香流の跡継ぎを決めるのに、
あんなにたくさんの人が揉めることもなかった」
「君は悪くないと言って…」
「正妻の子である兄様一人に、梅香流は継承される筈だったのに」
「もう黙って、ハルヤ」
「俺が悪いんだよ。兄様にも迷惑掛けて…俺が、俺が生まれなければっ…」
僕は彼の唇を塞いでいた。
黙らせる方法は他に幾らでもあった筈なのに。
今まで感じたことのない感情が渦巻いて、
気が付いた時には、僕の唇は彼と重なっていた。
彼から離れると、彼は驚いた表情で僕を見ていた。
沈黙の後、僕の口から言葉が零れる。
「父の子だと認めらなかったのは、僕も同じだ」
「アンリ…」
「…僕達は、生まれてはいけなかった子供なのかな?」
その後のことはよく覚えていない。
彼が僕の首に腕を回したのと、
僕が彼の頭を掻き抱いたのと、
どちらが先だったのか。
それすら解らない程、僕達はどうかしていた。
ただ、彼の腕の温かさは、
僕は「生まれて良かった存在だ」と必死に伝えているようで。
その温もりは心地好くて、優しかった。
ハルヤは僕と違って、家族に愛されて育った子供だ。
ずっとそう思っていた。
実際、それは事実だろう。
けれど彼は、父の姓を、父の子だと、名乗れない。
彼が吐き出した言葉は僕に突き刺さった。
今まで僕の中にあった言葉を、初めて、他の口から聞いた。
「自分は生まれなければ良かった子供だ」と。
彼も、僕と同じだったのかもしれない。
そう思った時。
僕は空気に触れていた。
これまで、ハルヤは空気のような存在だった。
この手に触れることのない存在だと思っていたのに。
僕は触れてはいけないものに触れて、
汚してしまった。
隣からは寝息が聞こえる。
僕は2時間くらい眠ったらしい。
部屋はまだ薄暗い。
重い身体を起こす。
深夜という時間は嫌いじゃない。
僕は大抵、夜中まで起きている。
今みたいに、明け方まで眠っていないこともある。
寮の内外から音がしないこの時間はとても落ち着く。
時間が永遠のように感じる。
朝なんて来ないのではないか、という錯覚。
朝が来ないこと。
それは叶わない夢であり、倦むべき悪夢でもある。
徐々に、カーテンに光が集まっていく。
鳥達が朝の挨拶を交わし始める。
太陽にまた会った瞬間。
僕は、夜が終わったことを残念に思いながら、
どこか安堵している。
暗い場所は嫌いじゃないのに。
けれども時々、怖くなるのは。
幼い頃、森で一晩彷徨ったからだろうか。
部屋に光が差してくる。
僕は朝が来ることを確認しているのかもしれない。
ハルヤは身じろぎして、ゆっくりと目を開けた。
「……アンリ…?」
「おはよう。僕のベッドでよく眠れた?」
今自分が居る場所と、昨夜の出来事。
それらを一遍に把握したハルヤは、耳まで赤く染めた。
「…聞かないでよ、そんなこと」
「君はすぐに眠ってしまったものね。今度は加減するよ。保証はできないけれどね」
「今度なんて…」
「僕を一夜の男にするつもり? 薄情なんだね」
「何だよ、その言い方…」
「できるものなら、やってごらん。僕を覚えたその身体で、いつまで持つか。
ほら、君の身体には残っているよ? 君は僕のものだという証がね」
ハルヤは毛布を引き寄せて、自分の身体を覆う。
何か言い返されるかと思っていたが、
彼は僕の予想と全く違うことを口にした。
「アンリは…」
「ん?」
「アンリは、俺のことが好きなの? それとも…嫌い、なの?」
「好きだと言って欲しいなら、言ってあげても良いけれど」
「…俺、アンリのこと、よく解らない…」
「正しい感想だね。相手のことが解るなんて思わない方が良い」
「…好きじゃないなら、どうしてこんな…」
「君のことは嫌いじゃないよ? 相性も悪くない。それは君も昨夜解ったよね?」
「…そんなこと、解んないよ」
「そう。では太陽が昇り切るまで、もう一度教えてあげる」
「え、ちょっ……ん」
彼の白い身体は、確実に汚されていた。
少し触れただけで、昨夜の残滓がまた熱を持ち始める。
「ほら。君の身体は僕を欲しがってる。忘れられるのかな? 僕を」
「いっ、や……アンッ、リ…」
「嫌? 良いよ、止めてあげても」
「…あ、アンリ……ごめ、ん…」
「何を謝っているの?」
ハルヤは熱い吐息を飲み込んで、
僕に縋り付く。
「…止め、ないでっ」
fin
アンリは、天文台に向かっていた。
手には文庫本を持っている。
半分くらい読んでいた。
後1時間程で、読み終えるだろう。
この本の終の棲家に辿り着いた。
「あ。アンリ?」
遺跡の影からハルヤが顔を出した。
「ハルヤも居たのか」
「うん。俺はぼーっとしてただけだけどね。
今は…遺跡を作った人のこと考えてたのかな」
「…作った人?」
「俺、そーゆーの考えるの好きなんだ。
これはどんなことを考えながら作ったんだろう、とか。
作った人は、アルフォンソ学院の生徒が使うことになるなんて、
想像もしてなかっただろうなあ、とかさ」
「確かにね」
かつて天文台だったと思われる遺跡。
広大な草原に、白い石が環状に並んでいる。
イギリスのストーンヘンジ同様、これもストーンサークルと呼べる。
アルフォンソ王が実在したのなら、彼に仕えていた占星術師か何かが、
この天文台で、星や太陽の動きを見ていたのだろう。
遙か昔に、この場所で。
ハルヤは、慈しむように遺跡に手を置く。
「形のある物ってさ、こうやって何年も何百年も残るんだよね。
作った人の手を離れても、その人が死んでも、作品は残る。
作り手が想像もしなかった使い方されたりして。
時代を超えて、誰かの手に触れるんだ。それってさ、なんか凄いよね」
「この天文台の製作者も、君にこんな風に思われるとは想像もしなかっただろうね」
「あ。ごめん…なんか俺ばっかり喋ってるし…
変なこと言って…アンリには退屈、だったよね」
「いいや。昨日ニュースで聞いた、
コメンテイターの下らない戯言よりは、数倍興味深かったよ」
「…そ、そう? アンリが怒ってないのなら良いんだけど」
「ひとつだけ、批判したいところがあったけれどね」
「…ごめん。どこ?」
「形ある物が、何百年も残るってところさ」
「え? 間違ってる?」
「ああ。それは有形物に限らない。無形物だって同じだよ」
「無形物も…?」
「そう。伝統芸能は無形なのに、何百年も残るものでしょう?」
「アンリ…」
「だから、伝統、というのではないの?」
「…ん」
「喋り過ぎて疲れたな。僕、此処には、本を読みに来ただけだし」
「あっ、そうだよね、ごめん。俺、もう邪魔しないから」
崩れた遺跡に腰掛け、本を読み始めると、
ハルヤは空気になる。
僕の意識から消えて、彼の存在は無色透明になった。
一番星が灯り、風が出てきた頃。
僕は本を閉じた。
これも下らない内容だった。
「ハルヤ。僕は戻るけれど、君はいつまで此処に居るつもり?」
返事が無い。
彼は眼鏡を掛けたまま。
遺跡に凭れて、目を閉じていた。
「無防備に晒してくれる」
雪のように美しい顔に、薔薇のように赤い唇。
花の香りに誘われる蜂は、こんな気持ちなのだろうか。
静かに眼鏡を外す。
そこで起きたら、止めてあげようかと思ったのに。
目は閉じられたまま。
ハルヤは僕から逃げない。
彼の前で膝を落とす。
地面に片手を付く。
「今は触れるだけにしてあげるよ」
鳥のように。
そっと触れて。
僕はハルヤから離れる。
「続きがして欲しかったら、僕の部屋においで」
眼鏡をハンカチに包み、僕のポケットに仕舞う。
彼を一人残し、僕は天文台を後にした。
夕食時。食堂には眼鏡を掛けていないハルヤが現れた。
他の寮生達は、不思議そうに「眼鏡は?」と尋ねていた。
本人は「部屋に忘れてきただけ」と返し、僕を見ることは一度も無かった。
皆が各自の部屋に戻った頃。
ハルヤが僕の部屋を訪ねて来た。
朧気な視界の中、僕を求めて此処まで来たのだと思うと、
仄暗い感情が疼く。
「やあ、ハルヤ」
「あの、俺の眼鏡、知らない? 起きたら無くなってて…」
「ああ。預かっているよ、ほら」
「良かった。ありがと、アンリ」
「礼など必要ないよ。僕が奪ったのは眼鏡だけではないのだし」
「…何の、こと」
「それとも、君が此処に来る口実を作ってあげたことへの礼なのかな?
まあ、どうでもいいけれどね。それじゃ約束通り、続きをしてあげる」
「約束なんか…」
「とぼける気? 君はあの時、起きていたでしょ?」
彼は僕にとって、空気のような存在だった。
彼には憤りも、嫉みも、煩わしさも、不快な感情は感じたことが無くて。
毒舌と評される言葉を吐いたことも少なかった。
かといって、好意的な感情も抱いたことも無い。
傍に居ても嫌ではない。
無色透明の不思議な存在だった。
これからもずっと。
彼は空気なのだろうと思っていた。
この手に触れることのない存在。
これ以上近付くことも無く、離れることも無く。
卒業するまでこのままだと思っていた。
その距離が狂い出したのは。
彼が突然あのようなことを言い出したからだ。
それは、ひと月前。
「アンリさ。なんで自分のこと、悪魔の子だなんて言うの?」
ハルヤは僕の部屋に、本を返しに来ていた。
以前、本棚に並んでいる背表紙を見て、興味が湧いたのか、
神秘学の文献を借りて行った。
本を返しに来たついでに、
昨日見たテレビの話について幾つか意見を交換した後。
ハルヤは何の脈絡なく、ぽつりと零した。
僕は冷笑で返す。
「珍しいね、ハルヤ? 人に干渉することもされることも避けてきた君が、
他人に土足で踏み込むようなこと言うなんて」
「ごめん…あの、アンリが嫌なら…」
「君がどうしてそんなことを聞く気になったのか、ということには興味があるね」
「だってアンリは人の子でしょ。サン・ジェルマン家の」
「僕はね、父にそう呼ばれていたから。お前は悪魔の子だと」
「…お父さんに? どうして?」
「僕がサン・ジェルマンの血を濃く受け継いでいて、気味が悪かったんでしょ。
彼は僕のことを、自分の子だなんて思っていないよ。悪魔の子、なんだ」
「お父さんだって、同じ血が流れてるのに…」
「彼には疎むべき血でしかなかったんだよ。
それに、僕が生まれたせいで、母が死んだから」
「…お母さんが?」
「そう。元々体の弱い母の身体は、悪魔を産み落とすのに耐え切れなかった。
僕が生まれてこなければ、命を奪われることも無かったのにね」
「そんなこと、言っちゃ駄目だよ、アンリ…」
「彼は母を愛していた。それだけが彼と僕との共通点かな。
父にとって、彼女が唯一の人だった。
だから僕のことが、彼女を殺した悪魔にしか映らなかったんだろうね。
僕が彼女を殺した。僕は生まれてこなければ良かった子供なんだよ」
「そんなこと言わないで…」
「だって、父に言われたんだもの、何度もね」
長い沈黙。
思考が混沌してくる。
澱んだ時間だ。
僕は息を吐き捨てる。
「つまらない話だったね。この話は終わりにしよう」
「俺、も…」
「え?」
「俺も、生まれてこなければ良かったと思ったこと、ある」
「何故、ハル…」
言葉が止まる。
ハルヤの目には涙が溜まっていた。
今まで抑えていた感情と一緒に。
それはぽろぽろと零れ始めた。
「俺の父様は優しいけど、でも俺は父様の子じゃないんだ。
母は籍入れてないからさ。俺の戸籍、父親のとこ空欄なんだよ」
父親の姓はウメガエ、母親がコバヤシだとは聞いていた。
つまり、正妻は別にいる。それがハルヤの兄の母。
ハルヤは非嫡出子として生まれてきた。
日本の法は、婚外子である彼を父親の子だと認めていない。
「俺が生まれたから、みんなに、迷惑いっぱいかけてる」
「…迷惑?」
「俺が生まれたから、父様と母様はだんだん会えなくなったんだ。
じい様が死んだ後、母様は、父様の姓を名乗れないまま、
東京に行くことになっちゃったし」
「それは君のせいじゃない」
「俺が生まれなければ、梅香流の跡継ぎを決めるのに、
あんなにたくさんの人が揉めることもなかった」
「君は悪くないと言って…」
「正妻の子である兄様一人に、梅香流は継承される筈だったのに」
「もう黙って、ハルヤ」
「俺が悪いんだよ。兄様にも迷惑掛けて…俺が、俺が生まれなければっ…」
僕は彼の唇を塞いでいた。
黙らせる方法は他に幾らでもあった筈なのに。
今まで感じたことのない感情が渦巻いて、
気が付いた時には、僕の唇は彼と重なっていた。
彼から離れると、彼は驚いた表情で僕を見ていた。
沈黙の後、僕の口から言葉が零れる。
「父の子だと認めらなかったのは、僕も同じだ」
「アンリ…」
「…僕達は、生まれてはいけなかった子供なのかな?」
その後のことはよく覚えていない。
彼が僕の首に腕を回したのと、
僕が彼の頭を掻き抱いたのと、
どちらが先だったのか。
それすら解らない程、僕達はどうかしていた。
ただ、彼の腕の温かさは、
僕は「生まれて良かった存在だ」と必死に伝えているようで。
その温もりは心地好くて、優しかった。
ハルヤは僕と違って、家族に愛されて育った子供だ。
ずっとそう思っていた。
実際、それは事実だろう。
けれど彼は、父の姓を、父の子だと、名乗れない。
彼が吐き出した言葉は僕に突き刺さった。
今まで僕の中にあった言葉を、初めて、他の口から聞いた。
「自分は生まれなければ良かった子供だ」と。
彼も、僕と同じだったのかもしれない。
そう思った時。
僕は空気に触れていた。
これまで、ハルヤは空気のような存在だった。
この手に触れることのない存在だと思っていたのに。
僕は触れてはいけないものに触れて、
汚してしまった。
隣からは寝息が聞こえる。
僕は2時間くらい眠ったらしい。
部屋はまだ薄暗い。
重い身体を起こす。
深夜という時間は嫌いじゃない。
僕は大抵、夜中まで起きている。
今みたいに、明け方まで眠っていないこともある。
寮の内外から音がしないこの時間はとても落ち着く。
時間が永遠のように感じる。
朝なんて来ないのではないか、という錯覚。
朝が来ないこと。
それは叶わない夢であり、倦むべき悪夢でもある。
徐々に、カーテンに光が集まっていく。
鳥達が朝の挨拶を交わし始める。
太陽にまた会った瞬間。
僕は、夜が終わったことを残念に思いながら、
どこか安堵している。
暗い場所は嫌いじゃないのに。
けれども時々、怖くなるのは。
幼い頃、森で一晩彷徨ったからだろうか。
部屋に光が差してくる。
僕は朝が来ることを確認しているのかもしれない。
ハルヤは身じろぎして、ゆっくりと目を開けた。
「……アンリ…?」
「おはよう。僕のベッドでよく眠れた?」
今自分が居る場所と、昨夜の出来事。
それらを一遍に把握したハルヤは、耳まで赤く染めた。
「…聞かないでよ、そんなこと」
「君はすぐに眠ってしまったものね。今度は加減するよ。保証はできないけれどね」
「今度なんて…」
「僕を一夜の男にするつもり? 薄情なんだね」
「何だよ、その言い方…」
「できるものなら、やってごらん。僕を覚えたその身体で、いつまで持つか。
ほら、君の身体には残っているよ? 君は僕のものだという証がね」
ハルヤは毛布を引き寄せて、自分の身体を覆う。
何か言い返されるかと思っていたが、
彼は僕の予想と全く違うことを口にした。
「アンリは…」
「ん?」
「アンリは、俺のことが好きなの? それとも…嫌い、なの?」
「好きだと言って欲しいなら、言ってあげても良いけれど」
「…俺、アンリのこと、よく解らない…」
「正しい感想だね。相手のことが解るなんて思わない方が良い」
「…好きじゃないなら、どうしてこんな…」
「君のことは嫌いじゃないよ? 相性も悪くない。それは君も昨夜解ったよね?」
「…そんなこと、解んないよ」
「そう。では太陽が昇り切るまで、もう一度教えてあげる」
「え、ちょっ……ん」
彼の白い身体は、確実に汚されていた。
少し触れただけで、昨夜の残滓がまた熱を持ち始める。
「ほら。君の身体は僕を欲しがってる。忘れられるのかな? 僕を」
「いっ、や……アンッ、リ…」
「嫌? 良いよ、止めてあげても」
「…あ、アンリ……ごめ、ん…」
「何を謝っているの?」
ハルヤは熱い吐息を飲み込んで、
僕に縋り付く。
「…止め、ないでっ」
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