■シュヌーシア寮
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十二月、最初の日曜日。
聖アルフォンソ島にもクリスマスの季節がやってきた。
島の中心街フィンシャルも、赤や緑のクリスマスカラーで綺麗にデコレーションされていた。
広場の中央には、巨大なクリスマスツリー。
周辺にはオープンカフェやFMラジオ局の公開ブースがあった。
ガラスの向こうでは男性のDJが生放送を行っている。
外にも取り付けられているスピーカーから、彼の流暢な声が聞こえる。
ラジオから流れる音楽とお喋りに耳を傾けながら、
オープンカフェでクリスマス仕様のコーヒーカップを口に運んでいる人も居た。
今日は日曜日なので、クリスマスツリーの根元では、誰かと待ち合わせている人も多かった。
そんな中、毛糸の帽子を被った少年は、真下からツリーを見上げて目を輝かせていた。
「大きいー。こんなに大きいの、僕、初めて」
彼はラビット・マルセロ。聖アルフォンソ学院の中等部一年。
毛糸の帽子も手袋も、中学生にしては少し子供っぽいデザインだが、童顔のラビには似合っていた。
「ね、レオン、寮のみんなが言ってたツリーってこれかなあ?」
「そーじゃねーの?」
防寒具はマフラーだけの少年が面倒臭そうに答えた。
名前はレオン・ライト。ラビと同じ一年生で、二人は第三学生寮のシュヌーシアに住んでいた。
一年生の彼等にとっては、今年が聖アルフォンソ島で迎える初めてのクリスマスだ。
今日はラビが「街でお買い物をしたいんだけど、一人じゃ行けないから、一緒に来て」
と女々しいことを言うので、レオンも街まで付いてきたのである。
「きっと、夜になったら、もっとキレイだよね。今度は夜に見に来たいなあ」
十二月になると毎年フィンシャルに大きなツリーが登場するんだよ。
今年ももう飾られてるだろうな。
寮での夕食時に、先輩達がそんな話をしていた。
その話を聞いていたラビは、密かに今日街に行ったら見れるかもしれないという期待をしていた。
クリスマスの雰囲気が大好きなラビは、期待以上に大きなツリーが見られて、幸せな気持ちだった。
オーナメントを見ながら、小さい頃にサンタさんがくれたプレゼントを思い出したりしていた。
「いつまで見てんだよ、ラビ。そんなずっと見上げてて、首、疲れないのか?」
かくん、と首が正面に戻る。レオンは急かすように言った。
「買いもん、終わったんだろ? もう寮に帰ろうぜ。腹減った」
「あ、うん。あの、レオン。お腹が空いたなら、そこのカフェで何か」
「寮のサロンでいいじゃん。おやつならドニが作ってくれるし。
今日は寒いしさー。お前、また風邪引きたいのか?」
「ううん」
「だろ? あ!」
道路の向かい側に、停車している黄色い車が見えた。
丁度、誰かが降りるところだった。レオンの知っている顔だ。
男なのに「女王」と呼ばれている学院の生徒だ。
「あれ、うちのガッコのタクシーだ! ラッキー! あれに乗って帰るぞ」
レオンが走り出す。
「おーい! そのタクシー、乗せてー!」
「ちょっと、待ってよ、レオン!」
名残惜しそうにツリーを見上げ、ラビはレオンの背中を追い駆けた。
シュヌーシア寮のサロンにも大きなもみの木があった。先月から、みんなで飾り付けしたツリーだ。
テレビではクリスマスソング特集番組がやっていた。寮生達は就寝前のひとときを過ごしていた。
「なんか今日は寒いねー」
「そーかー? 風邪引いたんじゃねーの?」
「バトラー、ホットチョコレートおかわりー!」
「あ、僕も飲みたい!」
畏まりました、と執事が退室する。中等部一年のレオンが立ち上がった。
「俺、もう寝るわ」
テレビを見ていた高等部二年のテオが振り向く。
「おや。今日は早いんだね、レオン。おやすみ」
ラビが慌てて立ち上がる。
「あ、待って、レオン。僕も寝るっ」
レオンと行動を共にしたがるラビは可愛らしいなあ、とテオは思った。
「おやすみなさい」とラビが言うと、
上級生達は「おやすみー」「腹出して寝るなよー」などと声を掛けていた。
二人と入れ違いに、生徒代表が入ってきた。テオのテンションが上がる。
「あ、クラウス! おかえり! 遅くまでミーティングお疲れ様!」
クラウスは、ちらりと後方を振り返ってから、テオの隣に座った。
何か考え事をしているような表情だ。テオは小さな声で尋ねてみる。
「物想いな表情だね。ミーティングで何かあったのかい?
もし、私で力になれることなら、何でも言っ……」
しかし、テオの声は聞こえていないようだった。
珍しいことにクラウスがテレビに釘付けになっている。
彼の視線を独り占めしているのはアメリカの歌姫。
もうすぐ40歳だとは思えない美しい女性だ。今日もセクシーな白のロングドレスがよく似合っている。
豊かなブロンドの毛先が、大きく開いた胸元でちらちらと揺れるのが、何とも艶めかしい。
「お目が高いねえ。クラウスは彼女のような女性が好みだったのか」
「だ、誰がそんなことを言った!?」
テオにからかわれて、クラウスは耳を赤くしていた。
「彼女を一心に見つめていただろう?」
「馬鹿。俺は彼女の歌が気になっただけだ」
「アリシア・キャリーのCDなら、私も持っているよ。貸してあげようか?」
自分の部屋に戻ったレオンは、ベッドに腰掛けていた。ドアの前にはラビが立っている。
部屋の前で「またあした」を言おうとしたら、「ちょっと入ってもいい?」と言われたのである。
だが、ラビはもじもじしているだけで、何も話さない。
「なんだよ、ラビ。俺になんか話があったんじゃないのか?」
「あのね、あの……」
「うん」
「僕が悪いんだよね? 僕がレオンを怒らせちゃったんだよね? ごめんね、僕、謝るから」
「別に、怒ってねえけど」
「でも、今、サロンに居た時も、なんかレオン、怒ってたみたいだし。
今日、フィンシャルに出掛けた時からずっと、レオン、なんだかイライラしてるみたいだし」
レオンは頭を少し掻く。
苛立ちを表に出したつもりはなかったのに、ラビに見破られことが意外だったのだ。
レオンの沈黙を、ラビは肯定と受け止めた。
「やっぱり、僕が悪かったんだ……ごめんね、レオン、ごめん」
「ちげーよ。お前のせいじゃねーから」
「じゃあ、なんで……」
ぼそりとレオンは呟いた。
「俺はこの季節が嫌いなだけだ」
どうして、と、もう一歩踏み込む勇気はラビにはなかった。
何も言えないでいるラビを見て、レオンはバツが悪い顔をする。
「気にすんなってば。お前のせいじゃないって言ってんだから。もう寝ようぜ。おやすみ」
「……うん。おやすみ、レオン」
レオンがドアを閉める。
部屋から追い出されたラビには、自分の部屋に帰ることしかできなかった。
翌日。生徒代表室にて定例の警備ミーティングが終わった。
警備組織のお気楽な司令官は席を立ったが、生徒代表には部屋を出る様子が見られなかった。
「クラウス、寮に帰んないのー?」
「ああ。俺はまだ仕事が残っている。アイヴィーは通常業務に戻ってくれ。寄り道せず、速やかにな」
「へーい。じゃあ、お先~」
頭の後ろに組んだ手を回して、ドアへ向かう。
生徒代表の椅子にクラウスが座る。
「クラウスー」
閉じかけのドアからアイヴィーが顔を出している。
「ん? なんだ、アイヴィー」
生徒代表より約二倍年上の司令官は、そっと言い残した。
「なーんかお悩みのようだけど、あんま深く考え過ぎんなよ? キリがねえからさ」
じゃあお疲れー、と片手を挙げて言ってドアを閉めた。
生徒代表室で一人きりになったクラウスは、引き出しにしまっていたCDを取り出した。
テオから借りてきた物だ。パソコンにCDをセットして、再生ボタンを押す。
生徒代表室に女性の歌声が流れる。曲のタイトルは『貴方の居ないクリスマス』だ。
曲を聴きながら、机上に、ある生徒の資料を広げた。
レオン・ライト。出身国はアメリカ。保証人は血族でなく、母親の知人となっている。
母親のごく近しい友人に聖アルフォンソ学院の卒業生が居たらしい。
クラウスはレオンの両親に会ったことがある。レオンが入学する前のことだ。
***
クラウスとアイヴィーの前で、父親と母親は頭を下げた。
新入生の入学前に、その両親が直々に学院に出向き、挨拶に来ることは極めて稀だった。
しかも、そのことは新入生本人には内密にとのこと。
警備組織の副司令官が両親を先導して、退室して行った。
最後にもう一度、息子のことをどうぞよろしくお願いします、と言い残して。
警備組織の応接室に残ったのは、生徒代表のクラウスと警備組織司令官のアイヴィーだけになる。
大きな溜め息を吐いたのは、アイヴィーのほうだった。
「はぁー、緊張したー。俺のこと褒めて欲しいくらいだぜ」
クラウスの眉間に皺が寄る。
「何をだ?」
「俺が『サイン下さい』って言わなかったことに決まってんだろ?
あー、でも言っとけば良かったかなー? 俺の意気地なしー!」
***
あの時に会った女性がアリシア・キャリー。
アリシア・キャリーという名前の女性シンガーの曲は、
流行りの音楽に疎いクラウスでさえ聞いたことがあった。
『女神の歌声』と讃えられるアメリカの歌姫だ。
アイヴィーから聞いたところによると彼女は二十歳で歌手になった。
デビュー直後は売れなかったそうだが、
二年後、クリスマスソングが世界中で大ヒットし、一躍有名になった。
CDを三枚出した後、突然の活動休止。その理由が明確に発表されなかった為、
結婚説、妊娠説、病気説などが様々な憶測を呼んだ。
空白の二年を経て、活動再開。その後もヒット曲に恵まれ、もはや不動の地位を確立している。
クリスマスの頃には、今も世界中で彼女の曲が流されている。
彼女がレオンの母親。活動休止の理由は産休だったのだ。
レオンの存在は世間に公表されていない。つまり、隠し子である。
父親は一般人。ごく普通の会社員ジョン・ライト。彼はアリシア・キャリーのファンだった。
ファンとの間に子供が居ることは、
イメージを損なうと事務所で判断され、レオンの存在は隠されることとなった。
そのおかげかどうかはクラウスには解らないが、
彼女は今も人気を維持したまま、歌手活動を続けている。
レオンが幼少の頃、母親は病気で死んだと父親から教えられたそうだ。
父親の言葉を疑わずに育ってきたが、この学院への入学が決まった頃、
初めて真実を告げられたらしい。
『私を忘れて』と歌う彼女の声が生徒代表室に響いている。
この曲の歌詞は、遠距離恋愛をしている男女を歌ったものに見える。
しかし、事情を知っているクラウスには、この曲を含め、
彼女の曲の殆どが、あいつに向けて歌われたように聞こえる。
サビの歌詞にある『私を忘れて』というフレーズは、曲のラストで繰り返されながら消えていく。
そのリフレインは、言葉の意味を反転させているように聞こえるのだ。
本当は忘れて欲しくはないと思っているのに、
その気持ちを抑えて、『忘れて』と言っているのではないか。
彼女が綴った歌詞にクラウスは耳を澄ませた。
――綺麗なツリーを一人で眺めてる 貴方の居ないクリスマス―
――運命を恨んだりしないわ 貴方に出会えたことが私の全て――
――お願い 私を忘れて 私を忘れて 私を忘れて――
fin
聖アルフォンソ島にもクリスマスの季節がやってきた。
島の中心街フィンシャルも、赤や緑のクリスマスカラーで綺麗にデコレーションされていた。
広場の中央には、巨大なクリスマスツリー。
周辺にはオープンカフェやFMラジオ局の公開ブースがあった。
ガラスの向こうでは男性のDJが生放送を行っている。
外にも取り付けられているスピーカーから、彼の流暢な声が聞こえる。
ラジオから流れる音楽とお喋りに耳を傾けながら、
オープンカフェでクリスマス仕様のコーヒーカップを口に運んでいる人も居た。
今日は日曜日なので、クリスマスツリーの根元では、誰かと待ち合わせている人も多かった。
そんな中、毛糸の帽子を被った少年は、真下からツリーを見上げて目を輝かせていた。
「大きいー。こんなに大きいの、僕、初めて」
彼はラビット・マルセロ。聖アルフォンソ学院の中等部一年。
毛糸の帽子も手袋も、中学生にしては少し子供っぽいデザインだが、童顔のラビには似合っていた。
「ね、レオン、寮のみんなが言ってたツリーってこれかなあ?」
「そーじゃねーの?」
防寒具はマフラーだけの少年が面倒臭そうに答えた。
名前はレオン・ライト。ラビと同じ一年生で、二人は第三学生寮のシュヌーシアに住んでいた。
一年生の彼等にとっては、今年が聖アルフォンソ島で迎える初めてのクリスマスだ。
今日はラビが「街でお買い物をしたいんだけど、一人じゃ行けないから、一緒に来て」
と女々しいことを言うので、レオンも街まで付いてきたのである。
「きっと、夜になったら、もっとキレイだよね。今度は夜に見に来たいなあ」
十二月になると毎年フィンシャルに大きなツリーが登場するんだよ。
今年ももう飾られてるだろうな。
寮での夕食時に、先輩達がそんな話をしていた。
その話を聞いていたラビは、密かに今日街に行ったら見れるかもしれないという期待をしていた。
クリスマスの雰囲気が大好きなラビは、期待以上に大きなツリーが見られて、幸せな気持ちだった。
オーナメントを見ながら、小さい頃にサンタさんがくれたプレゼントを思い出したりしていた。
「いつまで見てんだよ、ラビ。そんなずっと見上げてて、首、疲れないのか?」
かくん、と首が正面に戻る。レオンは急かすように言った。
「買いもん、終わったんだろ? もう寮に帰ろうぜ。腹減った」
「あ、うん。あの、レオン。お腹が空いたなら、そこのカフェで何か」
「寮のサロンでいいじゃん。おやつならドニが作ってくれるし。
今日は寒いしさー。お前、また風邪引きたいのか?」
「ううん」
「だろ? あ!」
道路の向かい側に、停車している黄色い車が見えた。
丁度、誰かが降りるところだった。レオンの知っている顔だ。
男なのに「女王」と呼ばれている学院の生徒だ。
「あれ、うちのガッコのタクシーだ! ラッキー! あれに乗って帰るぞ」
レオンが走り出す。
「おーい! そのタクシー、乗せてー!」
「ちょっと、待ってよ、レオン!」
名残惜しそうにツリーを見上げ、ラビはレオンの背中を追い駆けた。
シュヌーシア寮のサロンにも大きなもみの木があった。先月から、みんなで飾り付けしたツリーだ。
テレビではクリスマスソング特集番組がやっていた。寮生達は就寝前のひとときを過ごしていた。
「なんか今日は寒いねー」
「そーかー? 風邪引いたんじゃねーの?」
「バトラー、ホットチョコレートおかわりー!」
「あ、僕も飲みたい!」
畏まりました、と執事が退室する。中等部一年のレオンが立ち上がった。
「俺、もう寝るわ」
テレビを見ていた高等部二年のテオが振り向く。
「おや。今日は早いんだね、レオン。おやすみ」
ラビが慌てて立ち上がる。
「あ、待って、レオン。僕も寝るっ」
レオンと行動を共にしたがるラビは可愛らしいなあ、とテオは思った。
「おやすみなさい」とラビが言うと、
上級生達は「おやすみー」「腹出して寝るなよー」などと声を掛けていた。
二人と入れ違いに、生徒代表が入ってきた。テオのテンションが上がる。
「あ、クラウス! おかえり! 遅くまでミーティングお疲れ様!」
クラウスは、ちらりと後方を振り返ってから、テオの隣に座った。
何か考え事をしているような表情だ。テオは小さな声で尋ねてみる。
「物想いな表情だね。ミーティングで何かあったのかい?
もし、私で力になれることなら、何でも言っ……」
しかし、テオの声は聞こえていないようだった。
珍しいことにクラウスがテレビに釘付けになっている。
彼の視線を独り占めしているのはアメリカの歌姫。
もうすぐ40歳だとは思えない美しい女性だ。今日もセクシーな白のロングドレスがよく似合っている。
豊かなブロンドの毛先が、大きく開いた胸元でちらちらと揺れるのが、何とも艶めかしい。
「お目が高いねえ。クラウスは彼女のような女性が好みだったのか」
「だ、誰がそんなことを言った!?」
テオにからかわれて、クラウスは耳を赤くしていた。
「彼女を一心に見つめていただろう?」
「馬鹿。俺は彼女の歌が気になっただけだ」
「アリシア・キャリーのCDなら、私も持っているよ。貸してあげようか?」
自分の部屋に戻ったレオンは、ベッドに腰掛けていた。ドアの前にはラビが立っている。
部屋の前で「またあした」を言おうとしたら、「ちょっと入ってもいい?」と言われたのである。
だが、ラビはもじもじしているだけで、何も話さない。
「なんだよ、ラビ。俺になんか話があったんじゃないのか?」
「あのね、あの……」
「うん」
「僕が悪いんだよね? 僕がレオンを怒らせちゃったんだよね? ごめんね、僕、謝るから」
「別に、怒ってねえけど」
「でも、今、サロンに居た時も、なんかレオン、怒ってたみたいだし。
今日、フィンシャルに出掛けた時からずっと、レオン、なんだかイライラしてるみたいだし」
レオンは頭を少し掻く。
苛立ちを表に出したつもりはなかったのに、ラビに見破られことが意外だったのだ。
レオンの沈黙を、ラビは肯定と受け止めた。
「やっぱり、僕が悪かったんだ……ごめんね、レオン、ごめん」
「ちげーよ。お前のせいじゃねーから」
「じゃあ、なんで……」
ぼそりとレオンは呟いた。
「俺はこの季節が嫌いなだけだ」
どうして、と、もう一歩踏み込む勇気はラビにはなかった。
何も言えないでいるラビを見て、レオンはバツが悪い顔をする。
「気にすんなってば。お前のせいじゃないって言ってんだから。もう寝ようぜ。おやすみ」
「……うん。おやすみ、レオン」
レオンがドアを閉める。
部屋から追い出されたラビには、自分の部屋に帰ることしかできなかった。
翌日。生徒代表室にて定例の警備ミーティングが終わった。
警備組織のお気楽な司令官は席を立ったが、生徒代表には部屋を出る様子が見られなかった。
「クラウス、寮に帰んないのー?」
「ああ。俺はまだ仕事が残っている。アイヴィーは通常業務に戻ってくれ。寄り道せず、速やかにな」
「へーい。じゃあ、お先~」
頭の後ろに組んだ手を回して、ドアへ向かう。
生徒代表の椅子にクラウスが座る。
「クラウスー」
閉じかけのドアからアイヴィーが顔を出している。
「ん? なんだ、アイヴィー」
生徒代表より約二倍年上の司令官は、そっと言い残した。
「なーんかお悩みのようだけど、あんま深く考え過ぎんなよ? キリがねえからさ」
じゃあお疲れー、と片手を挙げて言ってドアを閉めた。
生徒代表室で一人きりになったクラウスは、引き出しにしまっていたCDを取り出した。
テオから借りてきた物だ。パソコンにCDをセットして、再生ボタンを押す。
生徒代表室に女性の歌声が流れる。曲のタイトルは『貴方の居ないクリスマス』だ。
曲を聴きながら、机上に、ある生徒の資料を広げた。
レオン・ライト。出身国はアメリカ。保証人は血族でなく、母親の知人となっている。
母親のごく近しい友人に聖アルフォンソ学院の卒業生が居たらしい。
クラウスはレオンの両親に会ったことがある。レオンが入学する前のことだ。
***
クラウスとアイヴィーの前で、父親と母親は頭を下げた。
新入生の入学前に、その両親が直々に学院に出向き、挨拶に来ることは極めて稀だった。
しかも、そのことは新入生本人には内密にとのこと。
警備組織の副司令官が両親を先導して、退室して行った。
最後にもう一度、息子のことをどうぞよろしくお願いします、と言い残して。
警備組織の応接室に残ったのは、生徒代表のクラウスと警備組織司令官のアイヴィーだけになる。
大きな溜め息を吐いたのは、アイヴィーのほうだった。
「はぁー、緊張したー。俺のこと褒めて欲しいくらいだぜ」
クラウスの眉間に皺が寄る。
「何をだ?」
「俺が『サイン下さい』って言わなかったことに決まってんだろ?
あー、でも言っとけば良かったかなー? 俺の意気地なしー!」
***
あの時に会った女性がアリシア・キャリー。
アリシア・キャリーという名前の女性シンガーの曲は、
流行りの音楽に疎いクラウスでさえ聞いたことがあった。
『女神の歌声』と讃えられるアメリカの歌姫だ。
アイヴィーから聞いたところによると彼女は二十歳で歌手になった。
デビュー直後は売れなかったそうだが、
二年後、クリスマスソングが世界中で大ヒットし、一躍有名になった。
CDを三枚出した後、突然の活動休止。その理由が明確に発表されなかった為、
結婚説、妊娠説、病気説などが様々な憶測を呼んだ。
空白の二年を経て、活動再開。その後もヒット曲に恵まれ、もはや不動の地位を確立している。
クリスマスの頃には、今も世界中で彼女の曲が流されている。
彼女がレオンの母親。活動休止の理由は産休だったのだ。
レオンの存在は世間に公表されていない。つまり、隠し子である。
父親は一般人。ごく普通の会社員ジョン・ライト。彼はアリシア・キャリーのファンだった。
ファンとの間に子供が居ることは、
イメージを損なうと事務所で判断され、レオンの存在は隠されることとなった。
そのおかげかどうかはクラウスには解らないが、
彼女は今も人気を維持したまま、歌手活動を続けている。
レオンが幼少の頃、母親は病気で死んだと父親から教えられたそうだ。
父親の言葉を疑わずに育ってきたが、この学院への入学が決まった頃、
初めて真実を告げられたらしい。
『私を忘れて』と歌う彼女の声が生徒代表室に響いている。
この曲の歌詞は、遠距離恋愛をしている男女を歌ったものに見える。
しかし、事情を知っているクラウスには、この曲を含め、
彼女の曲の殆どが、あいつに向けて歌われたように聞こえる。
サビの歌詞にある『私を忘れて』というフレーズは、曲のラストで繰り返されながら消えていく。
そのリフレインは、言葉の意味を反転させているように聞こえるのだ。
本当は忘れて欲しくはないと思っているのに、
その気持ちを抑えて、『忘れて』と言っているのではないか。
彼女が綴った歌詞にクラウスは耳を澄ませた。
――綺麗なツリーを一人で眺めてる 貴方の居ないクリスマス―
――運命を恨んだりしないわ 貴方に出会えたことが私の全て――
――お願い 私を忘れて 私を忘れて 私を忘れて――
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■シュヌーシア寮
学生課の隣にある待合室。そこに一人の少年が心細そうに座っている。
本日、聖アルフォンソ学院に入学する新入生だ。
肌は雪のように白く、髪はサラサラとした栗色。
背が低く、幼い顔立ちの為、一見少女のようにも見える。
高い天井を見上げたり、キョロキョロしたり、初めての場所に落ち着かない様子だった。
「新入生のラビット・マルセロだな」
「は、はいっ」
突然名前を呼ばれて、あからさまに肩が跳ねた。
少年の背後に、背の高い青年が立っていた。緑色の燕尾服を全く着崩さずに身に付けている。
にこりともしないので、なんだか怖そうな人だなという第一印象を与えてしまう。
真面目な表情のまま、彼はこう名乗った。
「俺は高等部三年のクラウス・フォン・モールだ。
生徒代表として、今日一日、学院案内を務める。よろしく」
はきはきと話す最高学年に対し、新入生は消え入りそうな声だった。
「よ、よろしく、お願いします、えっと、クラウスさん。
あ、じゃなくて、モールさん? それともフォン・モールさんなのかな……」
語尾は殆ど聞こえないくらいだった。
軍人の家系出身のクラウスは「もっとでかい声は出せないのか」と叱り飛ばしたい気持ちを抑え、
学院案内の上で重要な伝達事項のひとつ目を伝えた。
「この学院は、学年に関係なく、生徒達は全員ファーストネームで呼び合う習慣がある。
だから、俺のこともクラウスと呼んでいい。俺も君のことをラビットと呼ばせて貰う」
「そうなんだ……あ、じゃあ、あの、僕、ラビって呼んで欲しいんだけど、ダメですか?
パパにもママにもそう呼ばれてたから」
「解った、ラビ」
「ありがとう、クラウス」
ラビット・マルセロ。13歳、中等部一年。出身国はイタリア。
父親はマルセロ家ボス。つまり、シチリアマフィアである。
しかし、その父親、そして母親も既に他界。死因は焼死。
無差別放火事件に巻き込まれたと資料にはあった。
聖アルフォンソ学院は訳ありの子息達が送られてくる場所。
クラウスは生徒代表の任務上、全生徒の詳細なプロフィールを把握しているが、
この少年もまた相当の身の上である。
病歴の欄には、幼い頃から喘息持ちであることが記されていた。
シュヌーシア寮は三つある寮の中で最も保健室に近い。
その為、持病やハンディのある生徒は、シュヌーシアへ入寮することが多かった。
今年度の生徒代表クラウスもシュヌーシア寮だが、
彼自身はトライアスロンを趣味とする程、屈強な心身の持ち主である。
体育会系で歩幅も広いクラウスからすると、少年は歩くのが遅かった。
新入りは革鞄を両手で引きずるように持っている。それで余計に遅いのだ。
耐え兼ねて、クラウスは右手を差し出した。
「持ってやる」
「えっ?」
「重いんだろう、その鞄。貸せ」
「あ、ありがとう」
持ってみると、やはり大して重くはなかった。持ち手を握って、軽々と肩に乗せる。
「では、最初に寮に向かう。お前はシュヌーシア寮。俺も同じ寮だ」
生徒代表はちらりと腕時計を見た。事前に組んだタイムスケジュール通りの出発時刻だ。
「ここがお前の部屋だ」
シュヌーシア寮一階の部屋が割り当てられた。体力のなさを考慮されて一階になったのだろう。
クラウスに言わせれば、だからこそ二階にするべきではと思うのだが、
病弱な生徒が二階の部屋になることは殆どなかった。ラビは部屋の中を見回している。
クラウスは「ここに置くぞ」と言って、革鞄をベッドの脇に下ろす。
机の上に既に置かれている教科書をチェックしながら、部屋の内装は変更が可能であることを説明した。
「次はサロンに案内する」
返事がない。何をしているのか。少年は窓の向こうを見ていた。
「おい、ラビ」
名前を呼ぶと、やっと振り向いた。その顔を見て、クラウスは自分の目を疑った。
少年の瞳が少し潤んでいたのである。クラウスは気付かなかったフリをして、ドアに向かう。
「次の場所に行く。付いて来い」
「はいっ」
小さな足音を聞きながら、廊下を歩いていく。慰めるような言葉を掛けなかった自分を省みた。
クラウスは入学時16歳だった。13歳でこの孤島に送られることは心細いのかもしれない。
しかし、だからと言って、慰めの言葉が必要だろうか。
第一、どんな言葉が適切なのか、クラウスには解らなかった。
無言のまま、目的の部屋に到着していた。
「ここがサロンだ」
扉を開けると、中に人が居た。緩やかな波のある金髪。
丁度、紅茶を飲んでいた彼は、クラウスとラビを見て、目を大きくした。
「おや、クラウス。街でテディベアを買ってきたのかい?」
金髪の生徒は、少年の前に来て、膝を着く。
間近で顔をみて、ああ、と今気付いたように言った。
「失礼、新入生だね。抱きしめてしまいたい程、可愛らしいから、
くまさんのぬいぐるみかと思ってしまったよ」
優雅に笑う生徒に、クラウスは頭を抱えた。
「テオ。こいつは今日入ったばかりなんだぞ。少し加減できないのか、その口は」
「すまない、私の唇は生まれつき正直なものだから」
「ったく」
クラウスはラビに詫びる。
「悪かったな。今のは気にしないでくれ。サロンは後回しにして、次に行こう」
「ちょ、ちょっとクラウス! 私は可愛い新入生にいち早く会いたくて、
ここで待っていたのだよ? 自己紹介くらいは、させてくれないかな?」
クラウスは腕時計を確認する。
「30秒だ」
「ありがとう!」
にこりと微笑んで、新入生に挨拶した。
「ようこそ、シュヌーシア寮へ。私はテオ・メネシス。高等部二年だよ。
君のように可愛らしい子が、我がシュヌーシアに入ってくれて嬉しいな。
今日は本当に入学おめでとう、えっと、お名前を伺ってもいいかな?」
「ラビット。ラビって呼んで欲しいの」
「おやおや。こんなにラブリーな名前は聞いたことがない。
失礼、くまさんではなく、うさぎさんだったのだね。ラビ、か。ああ、なんて愛らしい。
あ、そうだ。どうだい? ここで一緒に紅茶でも」
「30秒。そこまでだ」
「おや。まだ10秒くらいかと思ったよ」
「お前と居ると、寮を案内しただけで日が暮れる。これから同じ寮で暮らすんだから、紅茶は明日以降にしてくれ」
「では学院案内に、付いていっていいかい? 私も一緒に学院を見てまわりたいな」
「駄目だ。学院案内は生徒代表の仕事なんだからな。ラビ、来い」
「あ、はい」
そう返事をしながらもラビはテオを見た。すると、テオは微笑んで、
「名残惜しいけれど、暫しのお別れだね、ラビ。
では今日は一日、クラウスとのランデブーを楽しんでおいで?」
「らんでぶー?」
「テオの言うことは気にするな。行くぞ」
手を振るテオに見送られながら、クラウスとラビは次の場所へと向かった。
スローペースで歩きながら、クラウスは思う。
テオの言葉は相変わらず大袈裟過ぎる。
だが、「君の入学を歓迎している」という意味は、ラビにも伝わっただろう。
新入りを歓迎する言葉など、自分は一言も発さなかったが、
テオは出会った瞬間に、浴びせる程、与えたのだ。
クラウスには思い付きもしない、優しくあたたかい言葉を。
テオの過剰表現を真似ることはできないが、「入学おめでとう」くらいなら自分にも言えるだろう。
次回への反省点として覚えておこう、とクラウスは思った。
「ここは電話だけのお部屋?」
「ああ」
ラビは物珍しそうに見ていた。
クラウスがラビを連れてきたのは、通信室と呼ばれる部屋だ。
15のブースが並んでいる。受付の職員はクラウスとラビの顔を見て、にこやかに会釈した。
生徒代表は会釈を返し、新入生にこの施設の説明を始めた。
「電話を掛けたい時はここの受付に来てくれ。ノーマルブースか完全防音のプライベートブースで話すことができる。
島の外から電話が掛かってきた場合は、生徒に呼び出しが掛かる。それから、ここに来て電話する決まりになっている。
通信室の回線もセキュリティーシステムは万全だから盗聴などの心配は無用だ」
説明の間、ラビはブースのほうをぼうっと見ていた。
電話の使い方について説明したら、もうここには用はない。
「質問がなければ次に行くぞ」
「あの、寮に電話はないの?」
「ああ。島の外部と話せる電話はない。
保健室などと連絡を取り合う為の内線電話はあるがな。お前は電話を頻繁に使うのか?」
「ううん。そんなに掛かってこないと思う」
そう言って首を振った横顔は、少し寂しそうに見えた。
「あれ? 見掛けない顔だ」
後方から声がした。プライベートブースから出て来たところらしい。
クセのある銀色の髪。クラウスと同じ寮の生徒、シルフェ・ダフラティンだった。
出身国はオーストリア。かつては軍人だった家柄だ。
「クラウスが連れているということは、新入りかな?」
「ああ。俺達と同じシュヌーシアに入る」
茶系の瞳は興味深そうに、新入りの顔を覗き込んだ。
「へえ。なかなかカワイイ顔してんじゃん。でも、俺好みの美人になるには、あと五年、いや、六年かなあ」
シルフェ、とクラウスが窘める。
「怒りっぽいなあ、クラウスは」と笑いながら、新入生に手を差し出す。
「よ、新入り君。俺はシルフェ、中三。お前は?」
慌ててラビも手を差し出し、そっと握る。
「ラビットです。中等部一年です。ラビって呼んで下さい」
「So,Cute! オオカミに食われないようにしろよ、子ウサギちゃん?」
ラビは握手している手をパッと離した。
「お、オオカミ? コワイ人が居るの?」
「シルフェ、新入りをからかうな。ラビ、こいつの言うことも気にしなくていい。
それから、この島にオオカミは居ないし、怖い人間も居ないから安心してくれ」
通信室の後も学院案内は続く。
クラウスが考えたルートには全く無駄がなかった。
「わあ、今度は本がこんなにたくさん」
クラウスはラビを連れてライブラリに来ていた。
確かにここは学校の図書室というには大き過ぎる。蔵書冊数は都会の図書館レベルだ。
しかし、この学院に最早慣れてしまった最高学年は、新入生の素直なリアクションを新鮮に感じた。
自分もここに来た時は同じように、バカでかい施設に驚いてた筈だが。良くも悪くも人間の適応能力は便利である。
「ライブラリにない本は取り寄せることができる。ここまで運ぶのに一週間かかるがな」
返ってきたのは生返事だった。
ラビの視線を追うと、カフェのほうを見ていた。本よりそちらが気になるらしい。
「あそこは、ライブラリ併設のカフェだ。メニューでも見ていくか?」
「あの、えっと」
「言いたいことがあるなら、はっきり言え」
「あ、あの、ちょっとカフェで休んで行っちゃダメですか?」
「なに?」
「あ、すみません。ダメだよね、ごめんなさい」
まだ学院案内の前半だというのに貧弱な体力だな、とクラウスは感じたが、
相手は自分より五つ学年が下であること、今日は長旅の後であることを思い出した。
「カウンターに行って、好きなものを頼んで来い」
「いいの?」
「ああ」
「うんっ」
駆け足でカウンターに向かった。
走れるならもっと早く歩けよ。クラウスは溜め息を吐きたい気持ちだった。
「えっと、えっと……甘いジュースみたいなのありますか?」
「では、トロピカルジュースはいかがでしょう? 夏のフルーツで作ったものです」
「じゃあ、それにしよっかな。あの、それでお願いします」
スローな遣り取りを聞いた後、クラウスも飲み物を注文した。
「アイスコーヒー。ブラックで」
二人は窓際のテーブルに座り、それぞれのグラスに口付けていた。
クラウスはちらと腕時計を覗く。既にタイムスケジュールから大幅に遅れている。
この分では予定の半分も回れないのは確実だ。
幸いなことに新入生とは同じ寮なので、明日からも傍で面倒はみれる。
今日回れなかった分は、今後案内していくことにしよう。
それにしても、ジュースを飲むスピードも遅い。
クラウスは半ばやけ気味に、自分の茶色い液体を飲み下す。
ここのアイスコーヒーが文句なく美味いことだけが救いだった。
カフェで休んでいると他の生徒がやってきた。襟元で揃えた髪、華奢な背中。錬金術師の末裔だ。
もたもたしているせいで苦手な奴が来てしまった。ラビのグラスを見る。やっと飲み終えたようだ。
もう行くぞ、とラビに号令を掛け、ライブラリを後にした。
ライブラリで予想外の時間を食った為、今日行く予定だったルートを大幅に短縮する羽目になった。
寮への帰り道。学院案内の最後に、ラビを保健室に連れていった。
シュヌーシア寮の新入生は、必ずここへ案内することになっていた。
例年、入学初日に体調を崩す生徒も少なくないからである。
保健室のドアをクラウスがノックする。
「入りたまえ」
低い声を聞いてから、「失礼します」と言ってドアを開けた。
白衣を着た眼鏡の男性は、机に向かっていた。
クラウス達が入ってくると、そちらを向いて優しい顔で迎えた。
「こちらが保健教師兼カウンセラーのソクーロフ博士だ」
クラウスは新入生に白衣の教師を紹介する。
「博士は医師免許をお持ちで、俺達生徒の主治医でもある。これから卒業までお世話になる先生だ。ラビ、挨拶」
「は、初めまして。ラビット・マルセロです」
「初めまして、会えて嬉しいよ、ラビット。私は保健教師のソクーロフだ。
丁度、君の資料を見ていたところなんだ。君は喘息持ちだそうだね?」
「あ、はい。すみません」
「どうして、謝るんだい?」
「だって、僕、きっと、いっぱい迷惑掛けちゃうから」
「病を持っていることを負い目に感じる必要はないよ。なろうと思ってなったのではないし。
シュヌーシア寮は、保健室に一番近い寮だから、例年、病を抱えている生徒の多くが入寮する。
皆、病もひとつの個性だと理解している子ばかりだよ。
喘息持ちだからと言って、君を責める生徒は一人も居ない。そうだろう、クラウス?」
「はい。当たり前です」
そう即座に答えられた自分に、クラウスは少し驚いていた。
シュヌーシア寮に入っていなければ、そうは言えなかったかもしれない。
「ラビット。今日の体調はどうかな? ここまで来るのに時間がかかって疲れたんじゃないかな?」
「うん。ちょっと。でも、発作はなかったし、クラウスがさっきライブラリのカフェで休ませてくれたから」
「そうか。苦しくなったら、我慢せず、すぐ誰かに言うんだよ? 保健室には喘息の薬もちゃんとあるからね?
ここまで来た鞄の中にも、薬を入れて来たのかな?」
「うん。急に発作が起きるかもしれないから、持っていきなさいっておじさんに言われて」
「その薬、ひとつでいい。あとで私に見せてくれるかい? 同じのを作ってあげるから」
「ほんと? お願いします」
「ではクラウスに預けてくれるかい? クラウス、すまないが、あとで会う時に私に渡して貰えるかな?」
「解りました」
夕食の席で、シュヌーシア寮生全員にラビを紹介した。
皆、新しい仲間を歓迎してくれた。新しい刺激物には皆が興味を持つものだ。
安全な島、悪く言えば刺激の少ない島で暮らしている在校生にとって、新入生の入学は一大イベントなのである。
「じゃー、ラビの好きなマンガはー?」
寮生達から新入生に次々と質問が飛んでいる。
しかし、プライベートに踏む込むような不躾な質問はひとつもなかった。
ラビに質問しなかったのはクラウスくらいである。クラウスは静かに食事を終え、席を立った。
テオが不思議そうに見上げる。
「おや、クラウス。もう終わったのかい? 食後のコーヒーは?」
「今日はいい。まだ仕事が残ってる」
寮生達にこう声を掛けた。
「お前達、ラビと話すのもいいが、今日は早めに休ませてやれ。
ラビ、俺は少し寮を空ける。何か解らないことがあれば、他の奴等に聞いてくれ。皆、教えてくれる」
「でも、どこに行くの? お外、真っ暗だよ?」
「生徒代表室だ。ミーティングがあるんでな」
生徒代表室。
クラウスが扉を開けると、既に出席者が揃っていた。
長髪の大人が二人。男性なのに髪を長く伸ばしている。
短髪のクラウスは違和感を感じる髪型だ。そんなに長くて邪魔じゃないんだろうか。
金髪のほうの男はコーヒーカップを少し掲げて、
「よっ。早く着いちゃったから、勝手にインスタントコーヒー頂いてたぜ?」
彼のネクタイはいつもだらりと緩んでいる。几帳面なクラウスは苦い顔をした。
年上でなければ、きちっと首許まで締めてやりたいくらいだ。
三十歳程度の若さで警備組織の最高責任者の地位にあるのだから、並以上の実力者なのだろうが。
司令官だというのに、もう少し身なりを正せないものだろうか。
「アイヴィー。今日はネットミーティングでの出席じゃなかったのか?」
「ま、近くまで来てたからさ」
アイヴィーの隣には白衣を纏った大人が居た。保健教師のソクーロフ博士だ。
クラウスが来るまでの間、この大人同士は何か話をしていたのだろう。
「では、ミーティングを始めましょう」
クラウスがそう言うと、二人の大人は席に着いた。
立場上、この大人達を従えているのがクラウス。
聖アルフォンソ学院の生徒代表が、この島の全てを統括する王だった。
「本日は、無事にラビット・マルセロの学院案内を終えました。今のところ彼に疑わしい点はありません。
夕食時にシュヌーシア寮生全員と顔合わせを行いましたが、寮内には敵対関係者は居ないように見受けられました」
ソクーロフが頷く。
「私も少し会わせて貰ったが、特に問題はないようだね」
「うん。俺もそう思う。ちっちゃい、かわいこちゃんだったな」
空港から学院までタクシーでラビを運んできたアイヴィーも同じ意見のようだ。
新入生のチェックは生徒代表、警備にとって重要な任務だった。
新入生と言えども、在校生達に害を為す人間だと見なされれば、即時退学となる場合もあるからだ。
入学前にも生徒の調査は行われるが、学院の長い歴史を紐解けば、
入学初日に退学となったケースも実際にあったらしい。
よって、人の出入りがある時は、学院も警備側も厳戒態勢で望んでいるのだ。
「ではクラウス。新入生の定期検診とカウンセリングは予定通り二週間後でいいかな?」
「はい、お願いします、博士」
「あ、そうだ。クラウスー。まだメール見てないと思うから、先に伝えとくけどさー」
「なんだ?」
「また入るみたいよー、新入生」
「またか!?」
「今年はちょっと多いよな。学院は商売繁盛で何より。
ま、その分、俺達やクラウスの仕事は増えるけど。クラウスのヒキが強いんじゃないのー?」
「俺のせいにするな」
「ところで、クラウス。ラビの常備薬は持ってきてくれたかな?」
「はい、預かってきました。でも、本当にこれですか?」
ラビから受け取ったのは、粉薬や錠剤などではなく、円形のケースのような物だった。
とても薬には見えない。この中に入っているのかもしれないが、
どうやって投薬するのかクラウスには解らなかった。それを受け取った医師は、少し眺めて、
「吸入薬だね。喘息の薬には、こういった物もあるんだよ。
クラウス、喘息持ちの人間と接するのは初めてかい?」
「ええ」
「では、帰りに保健室に寄って貰おうかな?
君にも薬の使い方を説明しておこう。喘息患者の注意事項も話しておきたいから」
シュヌーシア寮サロン。
就寝時間までの自由時間、寮生達はテレビを見たり、カードゲームをして、くつろいでいた。
そこへミーティングを終えたクラウスが戻ってきた。新入生の姿が見えない。
クラウスはソファに座り、傍に居たテオに聞く。
「ラビは?」
「部屋だよ。おねむのようだったから、先に休んで貰ったんだ。もう夢の中かもしれないね」
「そうか」
「夢と言えばさあ、子ウサギちゃんも見るのかな?」とシルフェ。
「どうだろうな。保証人は叔父さんって言ってたっけ?」
「じゃあ、夢の訪問者は、その叔父さんかな?」
寮生達が夢の話で盛り上がる。聖アルフォンソ学院の新入生が入学初日に見る夢には、
学院に縁のある誰かの夢を見るという噂があった。
新入生が入ると、必ずと言っていい程、この話題になるのだった。
クラウスは重要事項を思い出し、皆に声を掛けた。
「お前達に聞いて貰いたいことがある。新入りの持病についてだ」
寮生はすぐに静かになって、耳を傾けてくれた。
「ラビは喘息持ちだ。あいつの前で埃を立てて騒ぐようなことは止めてくれ、発作を起こす可能性がある。それから」
続く言葉をシルフェが奪う。
「具合が悪そうな時は保健室に、だろ? 言われなくても解ってるよ。
シュヌーシア歴なら俺のほうが長いんだから」
高等部一年で入学したクラウスより、中等部一年で入学したシルフェのほうが入寮期間が長かった。
「なら、いいさ」
「そうだ!」
テオが勢い良く立ち上がる。
「ラビの入学を祝って、パーティをしなくては! 明日の夜はどうかな!?」
「明日ぁ? んな急で間に合うのかよ?」
「おや、シルフェ。私に開けないパーティがあると思うのかい?」
「おっ。さっすがテオ! 言うことが違うねえ! じゃあ、いっちょ派手に頼むぜ!」
「任せておくれ!」
寮生達はパーティの話で騒ぎ始める。
その様子を眺めながら、クラウスはカップに口付けた。
ひと仕事終えた後のコーヒーは、いつもより美味しい気がした。
fin
本日、聖アルフォンソ学院に入学する新入生だ。
肌は雪のように白く、髪はサラサラとした栗色。
背が低く、幼い顔立ちの為、一見少女のようにも見える。
高い天井を見上げたり、キョロキョロしたり、初めての場所に落ち着かない様子だった。
「新入生のラビット・マルセロだな」
「は、はいっ」
突然名前を呼ばれて、あからさまに肩が跳ねた。
少年の背後に、背の高い青年が立っていた。緑色の燕尾服を全く着崩さずに身に付けている。
にこりともしないので、なんだか怖そうな人だなという第一印象を与えてしまう。
真面目な表情のまま、彼はこう名乗った。
「俺は高等部三年のクラウス・フォン・モールだ。
生徒代表として、今日一日、学院案内を務める。よろしく」
はきはきと話す最高学年に対し、新入生は消え入りそうな声だった。
「よ、よろしく、お願いします、えっと、クラウスさん。
あ、じゃなくて、モールさん? それともフォン・モールさんなのかな……」
語尾は殆ど聞こえないくらいだった。
軍人の家系出身のクラウスは「もっとでかい声は出せないのか」と叱り飛ばしたい気持ちを抑え、
学院案内の上で重要な伝達事項のひとつ目を伝えた。
「この学院は、学年に関係なく、生徒達は全員ファーストネームで呼び合う習慣がある。
だから、俺のこともクラウスと呼んでいい。俺も君のことをラビットと呼ばせて貰う」
「そうなんだ……あ、じゃあ、あの、僕、ラビって呼んで欲しいんだけど、ダメですか?
パパにもママにもそう呼ばれてたから」
「解った、ラビ」
「ありがとう、クラウス」
ラビット・マルセロ。13歳、中等部一年。出身国はイタリア。
父親はマルセロ家ボス。つまり、シチリアマフィアである。
しかし、その父親、そして母親も既に他界。死因は焼死。
無差別放火事件に巻き込まれたと資料にはあった。
聖アルフォンソ学院は訳ありの子息達が送られてくる場所。
クラウスは生徒代表の任務上、全生徒の詳細なプロフィールを把握しているが、
この少年もまた相当の身の上である。
病歴の欄には、幼い頃から喘息持ちであることが記されていた。
シュヌーシア寮は三つある寮の中で最も保健室に近い。
その為、持病やハンディのある生徒は、シュヌーシアへ入寮することが多かった。
今年度の生徒代表クラウスもシュヌーシア寮だが、
彼自身はトライアスロンを趣味とする程、屈強な心身の持ち主である。
体育会系で歩幅も広いクラウスからすると、少年は歩くのが遅かった。
新入りは革鞄を両手で引きずるように持っている。それで余計に遅いのだ。
耐え兼ねて、クラウスは右手を差し出した。
「持ってやる」
「えっ?」
「重いんだろう、その鞄。貸せ」
「あ、ありがとう」
持ってみると、やはり大して重くはなかった。持ち手を握って、軽々と肩に乗せる。
「では、最初に寮に向かう。お前はシュヌーシア寮。俺も同じ寮だ」
生徒代表はちらりと腕時計を見た。事前に組んだタイムスケジュール通りの出発時刻だ。
「ここがお前の部屋だ」
シュヌーシア寮一階の部屋が割り当てられた。体力のなさを考慮されて一階になったのだろう。
クラウスに言わせれば、だからこそ二階にするべきではと思うのだが、
病弱な生徒が二階の部屋になることは殆どなかった。ラビは部屋の中を見回している。
クラウスは「ここに置くぞ」と言って、革鞄をベッドの脇に下ろす。
机の上に既に置かれている教科書をチェックしながら、部屋の内装は変更が可能であることを説明した。
「次はサロンに案内する」
返事がない。何をしているのか。少年は窓の向こうを見ていた。
「おい、ラビ」
名前を呼ぶと、やっと振り向いた。その顔を見て、クラウスは自分の目を疑った。
少年の瞳が少し潤んでいたのである。クラウスは気付かなかったフリをして、ドアに向かう。
「次の場所に行く。付いて来い」
「はいっ」
小さな足音を聞きながら、廊下を歩いていく。慰めるような言葉を掛けなかった自分を省みた。
クラウスは入学時16歳だった。13歳でこの孤島に送られることは心細いのかもしれない。
しかし、だからと言って、慰めの言葉が必要だろうか。
第一、どんな言葉が適切なのか、クラウスには解らなかった。
無言のまま、目的の部屋に到着していた。
「ここがサロンだ」
扉を開けると、中に人が居た。緩やかな波のある金髪。
丁度、紅茶を飲んでいた彼は、クラウスとラビを見て、目を大きくした。
「おや、クラウス。街でテディベアを買ってきたのかい?」
金髪の生徒は、少年の前に来て、膝を着く。
間近で顔をみて、ああ、と今気付いたように言った。
「失礼、新入生だね。抱きしめてしまいたい程、可愛らしいから、
くまさんのぬいぐるみかと思ってしまったよ」
優雅に笑う生徒に、クラウスは頭を抱えた。
「テオ。こいつは今日入ったばかりなんだぞ。少し加減できないのか、その口は」
「すまない、私の唇は生まれつき正直なものだから」
「ったく」
クラウスはラビに詫びる。
「悪かったな。今のは気にしないでくれ。サロンは後回しにして、次に行こう」
「ちょ、ちょっとクラウス! 私は可愛い新入生にいち早く会いたくて、
ここで待っていたのだよ? 自己紹介くらいは、させてくれないかな?」
クラウスは腕時計を確認する。
「30秒だ」
「ありがとう!」
にこりと微笑んで、新入生に挨拶した。
「ようこそ、シュヌーシア寮へ。私はテオ・メネシス。高等部二年だよ。
君のように可愛らしい子が、我がシュヌーシアに入ってくれて嬉しいな。
今日は本当に入学おめでとう、えっと、お名前を伺ってもいいかな?」
「ラビット。ラビって呼んで欲しいの」
「おやおや。こんなにラブリーな名前は聞いたことがない。
失礼、くまさんではなく、うさぎさんだったのだね。ラビ、か。ああ、なんて愛らしい。
あ、そうだ。どうだい? ここで一緒に紅茶でも」
「30秒。そこまでだ」
「おや。まだ10秒くらいかと思ったよ」
「お前と居ると、寮を案内しただけで日が暮れる。これから同じ寮で暮らすんだから、紅茶は明日以降にしてくれ」
「では学院案内に、付いていっていいかい? 私も一緒に学院を見てまわりたいな」
「駄目だ。学院案内は生徒代表の仕事なんだからな。ラビ、来い」
「あ、はい」
そう返事をしながらもラビはテオを見た。すると、テオは微笑んで、
「名残惜しいけれど、暫しのお別れだね、ラビ。
では今日は一日、クラウスとのランデブーを楽しんでおいで?」
「らんでぶー?」
「テオの言うことは気にするな。行くぞ」
手を振るテオに見送られながら、クラウスとラビは次の場所へと向かった。
スローペースで歩きながら、クラウスは思う。
テオの言葉は相変わらず大袈裟過ぎる。
だが、「君の入学を歓迎している」という意味は、ラビにも伝わっただろう。
新入りを歓迎する言葉など、自分は一言も発さなかったが、
テオは出会った瞬間に、浴びせる程、与えたのだ。
クラウスには思い付きもしない、優しくあたたかい言葉を。
テオの過剰表現を真似ることはできないが、「入学おめでとう」くらいなら自分にも言えるだろう。
次回への反省点として覚えておこう、とクラウスは思った。
「ここは電話だけのお部屋?」
「ああ」
ラビは物珍しそうに見ていた。
クラウスがラビを連れてきたのは、通信室と呼ばれる部屋だ。
15のブースが並んでいる。受付の職員はクラウスとラビの顔を見て、にこやかに会釈した。
生徒代表は会釈を返し、新入生にこの施設の説明を始めた。
「電話を掛けたい時はここの受付に来てくれ。ノーマルブースか完全防音のプライベートブースで話すことができる。
島の外から電話が掛かってきた場合は、生徒に呼び出しが掛かる。それから、ここに来て電話する決まりになっている。
通信室の回線もセキュリティーシステムは万全だから盗聴などの心配は無用だ」
説明の間、ラビはブースのほうをぼうっと見ていた。
電話の使い方について説明したら、もうここには用はない。
「質問がなければ次に行くぞ」
「あの、寮に電話はないの?」
「ああ。島の外部と話せる電話はない。
保健室などと連絡を取り合う為の内線電話はあるがな。お前は電話を頻繁に使うのか?」
「ううん。そんなに掛かってこないと思う」
そう言って首を振った横顔は、少し寂しそうに見えた。
「あれ? 見掛けない顔だ」
後方から声がした。プライベートブースから出て来たところらしい。
クセのある銀色の髪。クラウスと同じ寮の生徒、シルフェ・ダフラティンだった。
出身国はオーストリア。かつては軍人だった家柄だ。
「クラウスが連れているということは、新入りかな?」
「ああ。俺達と同じシュヌーシアに入る」
茶系の瞳は興味深そうに、新入りの顔を覗き込んだ。
「へえ。なかなかカワイイ顔してんじゃん。でも、俺好みの美人になるには、あと五年、いや、六年かなあ」
シルフェ、とクラウスが窘める。
「怒りっぽいなあ、クラウスは」と笑いながら、新入生に手を差し出す。
「よ、新入り君。俺はシルフェ、中三。お前は?」
慌ててラビも手を差し出し、そっと握る。
「ラビットです。中等部一年です。ラビって呼んで下さい」
「So,Cute! オオカミに食われないようにしろよ、子ウサギちゃん?」
ラビは握手している手をパッと離した。
「お、オオカミ? コワイ人が居るの?」
「シルフェ、新入りをからかうな。ラビ、こいつの言うことも気にしなくていい。
それから、この島にオオカミは居ないし、怖い人間も居ないから安心してくれ」
通信室の後も学院案内は続く。
クラウスが考えたルートには全く無駄がなかった。
「わあ、今度は本がこんなにたくさん」
クラウスはラビを連れてライブラリに来ていた。
確かにここは学校の図書室というには大き過ぎる。蔵書冊数は都会の図書館レベルだ。
しかし、この学院に最早慣れてしまった最高学年は、新入生の素直なリアクションを新鮮に感じた。
自分もここに来た時は同じように、バカでかい施設に驚いてた筈だが。良くも悪くも人間の適応能力は便利である。
「ライブラリにない本は取り寄せることができる。ここまで運ぶのに一週間かかるがな」
返ってきたのは生返事だった。
ラビの視線を追うと、カフェのほうを見ていた。本よりそちらが気になるらしい。
「あそこは、ライブラリ併設のカフェだ。メニューでも見ていくか?」
「あの、えっと」
「言いたいことがあるなら、はっきり言え」
「あ、あの、ちょっとカフェで休んで行っちゃダメですか?」
「なに?」
「あ、すみません。ダメだよね、ごめんなさい」
まだ学院案内の前半だというのに貧弱な体力だな、とクラウスは感じたが、
相手は自分より五つ学年が下であること、今日は長旅の後であることを思い出した。
「カウンターに行って、好きなものを頼んで来い」
「いいの?」
「ああ」
「うんっ」
駆け足でカウンターに向かった。
走れるならもっと早く歩けよ。クラウスは溜め息を吐きたい気持ちだった。
「えっと、えっと……甘いジュースみたいなのありますか?」
「では、トロピカルジュースはいかがでしょう? 夏のフルーツで作ったものです」
「じゃあ、それにしよっかな。あの、それでお願いします」
スローな遣り取りを聞いた後、クラウスも飲み物を注文した。
「アイスコーヒー。ブラックで」
二人は窓際のテーブルに座り、それぞれのグラスに口付けていた。
クラウスはちらと腕時計を覗く。既にタイムスケジュールから大幅に遅れている。
この分では予定の半分も回れないのは確実だ。
幸いなことに新入生とは同じ寮なので、明日からも傍で面倒はみれる。
今日回れなかった分は、今後案内していくことにしよう。
それにしても、ジュースを飲むスピードも遅い。
クラウスは半ばやけ気味に、自分の茶色い液体を飲み下す。
ここのアイスコーヒーが文句なく美味いことだけが救いだった。
カフェで休んでいると他の生徒がやってきた。襟元で揃えた髪、華奢な背中。錬金術師の末裔だ。
もたもたしているせいで苦手な奴が来てしまった。ラビのグラスを見る。やっと飲み終えたようだ。
もう行くぞ、とラビに号令を掛け、ライブラリを後にした。
ライブラリで予想外の時間を食った為、今日行く予定だったルートを大幅に短縮する羽目になった。
寮への帰り道。学院案内の最後に、ラビを保健室に連れていった。
シュヌーシア寮の新入生は、必ずここへ案内することになっていた。
例年、入学初日に体調を崩す生徒も少なくないからである。
保健室のドアをクラウスがノックする。
「入りたまえ」
低い声を聞いてから、「失礼します」と言ってドアを開けた。
白衣を着た眼鏡の男性は、机に向かっていた。
クラウス達が入ってくると、そちらを向いて優しい顔で迎えた。
「こちらが保健教師兼カウンセラーのソクーロフ博士だ」
クラウスは新入生に白衣の教師を紹介する。
「博士は医師免許をお持ちで、俺達生徒の主治医でもある。これから卒業までお世話になる先生だ。ラビ、挨拶」
「は、初めまして。ラビット・マルセロです」
「初めまして、会えて嬉しいよ、ラビット。私は保健教師のソクーロフだ。
丁度、君の資料を見ていたところなんだ。君は喘息持ちだそうだね?」
「あ、はい。すみません」
「どうして、謝るんだい?」
「だって、僕、きっと、いっぱい迷惑掛けちゃうから」
「病を持っていることを負い目に感じる必要はないよ。なろうと思ってなったのではないし。
シュヌーシア寮は、保健室に一番近い寮だから、例年、病を抱えている生徒の多くが入寮する。
皆、病もひとつの個性だと理解している子ばかりだよ。
喘息持ちだからと言って、君を責める生徒は一人も居ない。そうだろう、クラウス?」
「はい。当たり前です」
そう即座に答えられた自分に、クラウスは少し驚いていた。
シュヌーシア寮に入っていなければ、そうは言えなかったかもしれない。
「ラビット。今日の体調はどうかな? ここまで来るのに時間がかかって疲れたんじゃないかな?」
「うん。ちょっと。でも、発作はなかったし、クラウスがさっきライブラリのカフェで休ませてくれたから」
「そうか。苦しくなったら、我慢せず、すぐ誰かに言うんだよ? 保健室には喘息の薬もちゃんとあるからね?
ここまで来た鞄の中にも、薬を入れて来たのかな?」
「うん。急に発作が起きるかもしれないから、持っていきなさいっておじさんに言われて」
「その薬、ひとつでいい。あとで私に見せてくれるかい? 同じのを作ってあげるから」
「ほんと? お願いします」
「ではクラウスに預けてくれるかい? クラウス、すまないが、あとで会う時に私に渡して貰えるかな?」
「解りました」
夕食の席で、シュヌーシア寮生全員にラビを紹介した。
皆、新しい仲間を歓迎してくれた。新しい刺激物には皆が興味を持つものだ。
安全な島、悪く言えば刺激の少ない島で暮らしている在校生にとって、新入生の入学は一大イベントなのである。
「じゃー、ラビの好きなマンガはー?」
寮生達から新入生に次々と質問が飛んでいる。
しかし、プライベートに踏む込むような不躾な質問はひとつもなかった。
ラビに質問しなかったのはクラウスくらいである。クラウスは静かに食事を終え、席を立った。
テオが不思議そうに見上げる。
「おや、クラウス。もう終わったのかい? 食後のコーヒーは?」
「今日はいい。まだ仕事が残ってる」
寮生達にこう声を掛けた。
「お前達、ラビと話すのもいいが、今日は早めに休ませてやれ。
ラビ、俺は少し寮を空ける。何か解らないことがあれば、他の奴等に聞いてくれ。皆、教えてくれる」
「でも、どこに行くの? お外、真っ暗だよ?」
「生徒代表室だ。ミーティングがあるんでな」
生徒代表室。
クラウスが扉を開けると、既に出席者が揃っていた。
長髪の大人が二人。男性なのに髪を長く伸ばしている。
短髪のクラウスは違和感を感じる髪型だ。そんなに長くて邪魔じゃないんだろうか。
金髪のほうの男はコーヒーカップを少し掲げて、
「よっ。早く着いちゃったから、勝手にインスタントコーヒー頂いてたぜ?」
彼のネクタイはいつもだらりと緩んでいる。几帳面なクラウスは苦い顔をした。
年上でなければ、きちっと首許まで締めてやりたいくらいだ。
三十歳程度の若さで警備組織の最高責任者の地位にあるのだから、並以上の実力者なのだろうが。
司令官だというのに、もう少し身なりを正せないものだろうか。
「アイヴィー。今日はネットミーティングでの出席じゃなかったのか?」
「ま、近くまで来てたからさ」
アイヴィーの隣には白衣を纏った大人が居た。保健教師のソクーロフ博士だ。
クラウスが来るまでの間、この大人同士は何か話をしていたのだろう。
「では、ミーティングを始めましょう」
クラウスがそう言うと、二人の大人は席に着いた。
立場上、この大人達を従えているのがクラウス。
聖アルフォンソ学院の生徒代表が、この島の全てを統括する王だった。
「本日は、無事にラビット・マルセロの学院案内を終えました。今のところ彼に疑わしい点はありません。
夕食時にシュヌーシア寮生全員と顔合わせを行いましたが、寮内には敵対関係者は居ないように見受けられました」
ソクーロフが頷く。
「私も少し会わせて貰ったが、特に問題はないようだね」
「うん。俺もそう思う。ちっちゃい、かわいこちゃんだったな」
空港から学院までタクシーでラビを運んできたアイヴィーも同じ意見のようだ。
新入生のチェックは生徒代表、警備にとって重要な任務だった。
新入生と言えども、在校生達に害を為す人間だと見なされれば、即時退学となる場合もあるからだ。
入学前にも生徒の調査は行われるが、学院の長い歴史を紐解けば、
入学初日に退学となったケースも実際にあったらしい。
よって、人の出入りがある時は、学院も警備側も厳戒態勢で望んでいるのだ。
「ではクラウス。新入生の定期検診とカウンセリングは予定通り二週間後でいいかな?」
「はい、お願いします、博士」
「あ、そうだ。クラウスー。まだメール見てないと思うから、先に伝えとくけどさー」
「なんだ?」
「また入るみたいよー、新入生」
「またか!?」
「今年はちょっと多いよな。学院は商売繁盛で何より。
ま、その分、俺達やクラウスの仕事は増えるけど。クラウスのヒキが強いんじゃないのー?」
「俺のせいにするな」
「ところで、クラウス。ラビの常備薬は持ってきてくれたかな?」
「はい、預かってきました。でも、本当にこれですか?」
ラビから受け取ったのは、粉薬や錠剤などではなく、円形のケースのような物だった。
とても薬には見えない。この中に入っているのかもしれないが、
どうやって投薬するのかクラウスには解らなかった。それを受け取った医師は、少し眺めて、
「吸入薬だね。喘息の薬には、こういった物もあるんだよ。
クラウス、喘息持ちの人間と接するのは初めてかい?」
「ええ」
「では、帰りに保健室に寄って貰おうかな?
君にも薬の使い方を説明しておこう。喘息患者の注意事項も話しておきたいから」
シュヌーシア寮サロン。
就寝時間までの自由時間、寮生達はテレビを見たり、カードゲームをして、くつろいでいた。
そこへミーティングを終えたクラウスが戻ってきた。新入生の姿が見えない。
クラウスはソファに座り、傍に居たテオに聞く。
「ラビは?」
「部屋だよ。おねむのようだったから、先に休んで貰ったんだ。もう夢の中かもしれないね」
「そうか」
「夢と言えばさあ、子ウサギちゃんも見るのかな?」とシルフェ。
「どうだろうな。保証人は叔父さんって言ってたっけ?」
「じゃあ、夢の訪問者は、その叔父さんかな?」
寮生達が夢の話で盛り上がる。聖アルフォンソ学院の新入生が入学初日に見る夢には、
学院に縁のある誰かの夢を見るという噂があった。
新入生が入ると、必ずと言っていい程、この話題になるのだった。
クラウスは重要事項を思い出し、皆に声を掛けた。
「お前達に聞いて貰いたいことがある。新入りの持病についてだ」
寮生はすぐに静かになって、耳を傾けてくれた。
「ラビは喘息持ちだ。あいつの前で埃を立てて騒ぐようなことは止めてくれ、発作を起こす可能性がある。それから」
続く言葉をシルフェが奪う。
「具合が悪そうな時は保健室に、だろ? 言われなくても解ってるよ。
シュヌーシア歴なら俺のほうが長いんだから」
高等部一年で入学したクラウスより、中等部一年で入学したシルフェのほうが入寮期間が長かった。
「なら、いいさ」
「そうだ!」
テオが勢い良く立ち上がる。
「ラビの入学を祝って、パーティをしなくては! 明日の夜はどうかな!?」
「明日ぁ? んな急で間に合うのかよ?」
「おや、シルフェ。私に開けないパーティがあると思うのかい?」
「おっ。さっすがテオ! 言うことが違うねえ! じゃあ、いっちょ派手に頼むぜ!」
「任せておくれ!」
寮生達はパーティの話で騒ぎ始める。
その様子を眺めながら、クラウスはカップに口付けた。
ひと仕事終えた後のコーヒーは、いつもより美味しい気がした。
fin
■テオ×クラウス
■共にある奇蹟(6) 続編
■共にある奇蹟(6) 続編
任命式から一週間が過ぎようとしていた。
シュヌーシア寮主催、生徒代表就任パーティは、テオの全快を待って、土曜日の午後に行われた。
会場は、安全を期して月桂樹の森。
料理は寮専属シェフ指導の下、寮生達が自ら作ったクッキー。
シュヌーシア寮生らしい、あたたかく和やかな雰囲気に包まれたティパーティとなった。
その夜、レオンは一人でテオの自室を訪れた。
今日の出来事を綴っていたテオは、日記帳を閉じて、レオンに微笑みかける。
「おや、レオン。どうしたんだい? 授業で解らないことでもあったかな?」
レオンはベッドに腰かけた。
「テオさ、今日のパーティ、つまんなそうだったな?」
直球の言葉を受け、テオは少し悲しそうな顔になる。
「そう見えたかい? すまない。私は素晴らしいパーティを開いて貰って嬉しかったのだけどね」
「それに、あんた、明日のことも何も言ってこねえし」
「明日?」
「日曜日だから、アクティヴィティの日だろ?」
「ああ、そうだったね」
「やっぱ、忘れてた」
「すまない。今週は……色々とバタバタしていたからね。すっかり忘れていたよ」
「あんた、アクティヴィティの時は、あれやろうこれやろうって俺達を振り回してきたくせに。
言わないでおこうと思ったけど、俺はもう限界だ。この一週間、テオはテオじゃなかった」
レオンはテオの両肩を掴む。
「いい加減、元に戻ってくれよ、テオ! 俺達にできることなら、何でもしてやるから!
今のあんた見てると、こっちが泣きそうなんだよ」
「レオン……」
「なあ、なんか楽しいことしようぜ! 前は楽しいこといっぱい考えてくれたじゃん!」
ああ、そうだった、とテオは思い出した。
貴方から貰った言葉なのに、私が守っていなかったなんて。
「はーい。チキン&チップス、お待たせー」
顔馴染みの店員から、アイヴィーが皿を受け取る。
ソクーロフが他の皿を避け、テーブルを開ける。そこにアイヴィーが皿を置いた。
今、到着したのは、鳥の唐揚げとフライドポテトの盛り合わせだ。
アイヴィーは早速、唐揚げを口に入れる。揚げたてでウマイ。煙草をくわえているソクーロフは手を付けなかった。
ここは島の旧市街にあるアイリッシュパブ。
アイヴィーとソクーロフは遅い夕食をとりながら、くだらない話や仕事の話をしていた。
他にテーブルの上に乗っているのは、五種類の焼きソーセージ、
ギネスビールで柔らかく煮込んだ牛肉、野菜スティック、細長いガーリックトーストなどだ。
いつも、頼んだ料理の三分の二を平らげるのはアイヴィーで、ソクーロフは残りをつまむ程度だった。
ポテトも二つ食べ終わり、店員の姿が見えなくなったところで、アイヴィーは話を再開した。
「今は元気になったみたいで良かったよ。
テオが倒れたから今日のミーティングは中止、って聞いた時は驚いたけど」
ソクーロフは唇から煙草を離し、灰皿に置いた。
「驚いたか?」
「そりゃ驚くでしょ? いつも元気いっぱい、太陽スマイルのテオだぜ?
あいつはソクちゃんに世話になったこと殆どないでしょ?」
「ああ。だが、今回のことは、事前に予測できたことだ」
「え? テオが倒れるって解ってたってこと?」
「あの子の心身に何らかの影響が出るとは思っていた。しかし、正直、今回のことは私の予想以上だった。
これほど即座に、かつ顕著な症状が、表に現れるとは」
アイヴィーはカウンセラーの表情を伺う。目が合った。が、ソクーロフは視線を外した。珍しい。
「なに? どーしたのさ、ソクちゃん。ヘンな顔して」
「いや」
グラスを傾ける。思い出したように、ソクーロフは料理に手を付けた。
アイヴィーも鳥の唐揚げをフォークに刺す。オレンジ色のソースを付けて、口に入れた。衣がサクサクと音を立てた。
「酒の肴に、ひとつ、興味深い話をしてやろうか?」
そう言って、ソクーロフは語り出した。
アフリカのある村では『若者は野生の鶏肉を食べてはいけない』と決まりがあった。
その村に住む若者が、ある日、他国で知人の家に泊まった。
朝食に肉料理が出たので『これは野生の鶏肉か?」と尋ねた。
「違う肉だ」と知人が答えたので、若者は安心してたくさん食べた。
それから何年も過ぎた後、二人は再会した。
その時には既に、アフリカの男は、若者ではく、大人と呼べる年齢になっていた。
村の決まりは『若者は野生の鶏肉を食べてはいけない』だった為、知人はこう誘った。
「君はもう大人だから、大丈夫だね。食べていくかい?」
しかし、アフリカの男はこう言った。
「あれから、村に魔術師が現れて、大人も鶏肉を食べてはいけないことになった」と。
知人は途端に笑い出した。
「可笑しな村だ。肉くらい、何を食べても平気だよ。
いつか、君に食べさせた肉も、本当は野生の鶏肉だったのだから」
途端に、アフリカの男は全身が震え出した。
それから二十四時間と経たずに、彼の心臓は止まった。
話を聞かされたアイヴィーは目を覆っていた。
「お医者さん、お医者さん。酒の肴にしては話がコワ過ぎるよ。
つーか、まだ鳥の唐揚げが残ってるのに、そんなコワイ話しちゃう?」
「ちなみに、この話はフィクションではなく、1682年、アフリカのコンゴで起こった実話だ」
「出たー。ある意味、本当にあったコワイ話ー」
「この場合、死因は何になると思う?」
「し、死因?」
「原因不明の突然死だろうか、不慮の事故死だろうか。
肉を食べさせた人間に罪があると考え、殺人事件に仕立てることもできるかもしれない。
医師なら死亡診断書に、急性心不全と書くだろう。だが、それも要は『急に心臓の動きがおかしくなった』という意味で、
厳密な死因が医師にも解らない時に使われる便利な用語だ」
「え、そうなの!?」
「ああ。他にもこんな事例がある」
ソクーロフは感情を表に出さず、続ける。
「妹が車に轢かれる瞬間を見て、心臓が止まった十一歳の姉。
軍隊から離れる希望を却下され、その日のうちに死んでしまった兵隊。
手術台に乗っただけで麻酔を掛ける前に亡くなる患者。
無害なヘビであっても、ヘビに噛まれた恐怖で死んだ男。
サンタクロースを目撃したショックで死亡した四歳の女の子も居る」
「そんなことで!?」
「そうだ。そんなことで、と思われる状況で、彼等は亡くなった」
「でもさ、それって、元々、心臓が弱かった人とかなんじゃないの?」
「いいや。いずれのケースも、それまでは、死を招くような身体的問題はなかった人間だ。
精神的ショック。それが直接、人を死に至らしめたとしか考えられない」
「そんなことって」
「世界中にある事実だ。実際にあった症例をあと幾つ話せば信じる?」
「も、もういいよ。夜に一人でトイレ行けなくなっちゃうだろ!」
「興味があれば、後日にでも、良い参考文献を教えてやる。
物理学者であり心理学者でもある精神治療医が書いた、500以上の心因性死をまとめた本だ」
「ごひゃっ……いや、あんた、お医者さんだからって、そんな本まで読んでるのかよ……」
「真っ当な業務資料だろう」
「いやー、うーん」
「つまり、心が受けた傷だけで、心臓が止まる場合が実際にあるということだ」
医師は灰皿の上でトンと灰を落とす。
「悲しみは、人をも殺す」
黒い皿に横たわった灰。
アイヴィーには、それが煙草の死骸のように見えた。ソクーロフはぽつりと言う。
「だから、驚くほどではないんだ。テオが突然、高熱を出したことは」
「えっ?」
「熱だけで済んで良かった、今回はな。お前もこの一年間は、特に注意して欲しい。
あの子と接していて、異常に気が付いたら、すぐに私に報告しろ」
後日、生徒代表室。
アイヴィーはミーティングを行う為、ここに来ていた。
「テオ。理事会からのメール見たか? 入学希望者が居るってヤツ」
「ああ、見たよ見たよ! アルフレッド・ヴィスコンティがこの学院に来るなんて!」
雑談を振ると、テオは勢い良く食い付いてきた。
「あ、やっぱ知ってんだ?」
「知ってるなんてもんじゃないよ! 彼は映画『キャプテン・ライアンと最後の海賊たち』で、
イーグルアイのジェイミーを演じた、アルフレッド・ヴィスコンティだよ!?
あの作品は実に素晴らしかった。私は少なくとも五回は見ているよ」
「あー、お前さん、海とか大好きだもんなー。自分でお船も持ってるし」
「アルフレッド・ヴィスコンティの学院案内も、私が務めて良いのだよね!?」
「そりゃ、お前さんが生徒代表だからな」
「ああ、神様! 幸運を授けて下さって、ありがとうございます!」
「大袈裟だねー」
「早速、アルフレッドの為に、色々準備しなくては!
あ、そうだ! ねえ、アイヴィー、学院案内の時に、私の船を使っても良いかい?」
「ああ、まあ。ダメって話は聞いたことないからイイんじゃね?」
「良かった! では私、アルフレッドを連れて、クルーズしてくるよ!
聖アルフォンソ島の素晴らしさを語る上で、海は欠かせないものね!
ああ、あのイーグルアイ・ジェイミーと二人きりで航海ができるなんて、夢のようだ!
生徒代表の学院案内とは、なんて素晴らしい特権なのだろう!」
両手を掲げて喜んでいる。
テオの笑顔は、見ているほうも自然と同じような顔にさせた。
「楽しそうだな、テオ」
「もちろん!」
テオらしいキラキラとした顔。
「私から『楽しむこと』を取ったら、他に何が残るんだい?」
テオは少し上を向く。視線の先には肖像画があった。
この前、生徒代表室に来た時、テオは気付いたのだ。
歴代の生徒代表が描かれた肖像画は、就任順に並んでいることに。
「ねえ、アイヴィー。一年間、生徒代表を務めれば、私の絵も描いて貰えるよね?」
「ん? ああ」
「最後まで務めるよ。私も飾って貰えるように」
一年、任務を全うすれば、自分の肖像画をクラウスの隣に置いて貰える。
貴方と共に居られるんだ。
此処で、永遠に。
fin
シュヌーシア寮主催、生徒代表就任パーティは、テオの全快を待って、土曜日の午後に行われた。
会場は、安全を期して月桂樹の森。
料理は寮専属シェフ指導の下、寮生達が自ら作ったクッキー。
シュヌーシア寮生らしい、あたたかく和やかな雰囲気に包まれたティパーティとなった。
その夜、レオンは一人でテオの自室を訪れた。
今日の出来事を綴っていたテオは、日記帳を閉じて、レオンに微笑みかける。
「おや、レオン。どうしたんだい? 授業で解らないことでもあったかな?」
レオンはベッドに腰かけた。
「テオさ、今日のパーティ、つまんなそうだったな?」
直球の言葉を受け、テオは少し悲しそうな顔になる。
「そう見えたかい? すまない。私は素晴らしいパーティを開いて貰って嬉しかったのだけどね」
「それに、あんた、明日のことも何も言ってこねえし」
「明日?」
「日曜日だから、アクティヴィティの日だろ?」
「ああ、そうだったね」
「やっぱ、忘れてた」
「すまない。今週は……色々とバタバタしていたからね。すっかり忘れていたよ」
「あんた、アクティヴィティの時は、あれやろうこれやろうって俺達を振り回してきたくせに。
言わないでおこうと思ったけど、俺はもう限界だ。この一週間、テオはテオじゃなかった」
レオンはテオの両肩を掴む。
「いい加減、元に戻ってくれよ、テオ! 俺達にできることなら、何でもしてやるから!
今のあんた見てると、こっちが泣きそうなんだよ」
「レオン……」
「なあ、なんか楽しいことしようぜ! 前は楽しいこといっぱい考えてくれたじゃん!」
ああ、そうだった、とテオは思い出した。
貴方から貰った言葉なのに、私が守っていなかったなんて。
「はーい。チキン&チップス、お待たせー」
顔馴染みの店員から、アイヴィーが皿を受け取る。
ソクーロフが他の皿を避け、テーブルを開ける。そこにアイヴィーが皿を置いた。
今、到着したのは、鳥の唐揚げとフライドポテトの盛り合わせだ。
アイヴィーは早速、唐揚げを口に入れる。揚げたてでウマイ。煙草をくわえているソクーロフは手を付けなかった。
ここは島の旧市街にあるアイリッシュパブ。
アイヴィーとソクーロフは遅い夕食をとりながら、くだらない話や仕事の話をしていた。
他にテーブルの上に乗っているのは、五種類の焼きソーセージ、
ギネスビールで柔らかく煮込んだ牛肉、野菜スティック、細長いガーリックトーストなどだ。
いつも、頼んだ料理の三分の二を平らげるのはアイヴィーで、ソクーロフは残りをつまむ程度だった。
ポテトも二つ食べ終わり、店員の姿が見えなくなったところで、アイヴィーは話を再開した。
「今は元気になったみたいで良かったよ。
テオが倒れたから今日のミーティングは中止、って聞いた時は驚いたけど」
ソクーロフは唇から煙草を離し、灰皿に置いた。
「驚いたか?」
「そりゃ驚くでしょ? いつも元気いっぱい、太陽スマイルのテオだぜ?
あいつはソクちゃんに世話になったこと殆どないでしょ?」
「ああ。だが、今回のことは、事前に予測できたことだ」
「え? テオが倒れるって解ってたってこと?」
「あの子の心身に何らかの影響が出るとは思っていた。しかし、正直、今回のことは私の予想以上だった。
これほど即座に、かつ顕著な症状が、表に現れるとは」
アイヴィーはカウンセラーの表情を伺う。目が合った。が、ソクーロフは視線を外した。珍しい。
「なに? どーしたのさ、ソクちゃん。ヘンな顔して」
「いや」
グラスを傾ける。思い出したように、ソクーロフは料理に手を付けた。
アイヴィーも鳥の唐揚げをフォークに刺す。オレンジ色のソースを付けて、口に入れた。衣がサクサクと音を立てた。
「酒の肴に、ひとつ、興味深い話をしてやろうか?」
そう言って、ソクーロフは語り出した。
アフリカのある村では『若者は野生の鶏肉を食べてはいけない』と決まりがあった。
その村に住む若者が、ある日、他国で知人の家に泊まった。
朝食に肉料理が出たので『これは野生の鶏肉か?」と尋ねた。
「違う肉だ」と知人が答えたので、若者は安心してたくさん食べた。
それから何年も過ぎた後、二人は再会した。
その時には既に、アフリカの男は、若者ではく、大人と呼べる年齢になっていた。
村の決まりは『若者は野生の鶏肉を食べてはいけない』だった為、知人はこう誘った。
「君はもう大人だから、大丈夫だね。食べていくかい?」
しかし、アフリカの男はこう言った。
「あれから、村に魔術師が現れて、大人も鶏肉を食べてはいけないことになった」と。
知人は途端に笑い出した。
「可笑しな村だ。肉くらい、何を食べても平気だよ。
いつか、君に食べさせた肉も、本当は野生の鶏肉だったのだから」
途端に、アフリカの男は全身が震え出した。
それから二十四時間と経たずに、彼の心臓は止まった。
話を聞かされたアイヴィーは目を覆っていた。
「お医者さん、お医者さん。酒の肴にしては話がコワ過ぎるよ。
つーか、まだ鳥の唐揚げが残ってるのに、そんなコワイ話しちゃう?」
「ちなみに、この話はフィクションではなく、1682年、アフリカのコンゴで起こった実話だ」
「出たー。ある意味、本当にあったコワイ話ー」
「この場合、死因は何になると思う?」
「し、死因?」
「原因不明の突然死だろうか、不慮の事故死だろうか。
肉を食べさせた人間に罪があると考え、殺人事件に仕立てることもできるかもしれない。
医師なら死亡診断書に、急性心不全と書くだろう。だが、それも要は『急に心臓の動きがおかしくなった』という意味で、
厳密な死因が医師にも解らない時に使われる便利な用語だ」
「え、そうなの!?」
「ああ。他にもこんな事例がある」
ソクーロフは感情を表に出さず、続ける。
「妹が車に轢かれる瞬間を見て、心臓が止まった十一歳の姉。
軍隊から離れる希望を却下され、その日のうちに死んでしまった兵隊。
手術台に乗っただけで麻酔を掛ける前に亡くなる患者。
無害なヘビであっても、ヘビに噛まれた恐怖で死んだ男。
サンタクロースを目撃したショックで死亡した四歳の女の子も居る」
「そんなことで!?」
「そうだ。そんなことで、と思われる状況で、彼等は亡くなった」
「でもさ、それって、元々、心臓が弱かった人とかなんじゃないの?」
「いいや。いずれのケースも、それまでは、死を招くような身体的問題はなかった人間だ。
精神的ショック。それが直接、人を死に至らしめたとしか考えられない」
「そんなことって」
「世界中にある事実だ。実際にあった症例をあと幾つ話せば信じる?」
「も、もういいよ。夜に一人でトイレ行けなくなっちゃうだろ!」
「興味があれば、後日にでも、良い参考文献を教えてやる。
物理学者であり心理学者でもある精神治療医が書いた、500以上の心因性死をまとめた本だ」
「ごひゃっ……いや、あんた、お医者さんだからって、そんな本まで読んでるのかよ……」
「真っ当な業務資料だろう」
「いやー、うーん」
「つまり、心が受けた傷だけで、心臓が止まる場合が実際にあるということだ」
医師は灰皿の上でトンと灰を落とす。
「悲しみは、人をも殺す」
黒い皿に横たわった灰。
アイヴィーには、それが煙草の死骸のように見えた。ソクーロフはぽつりと言う。
「だから、驚くほどではないんだ。テオが突然、高熱を出したことは」
「えっ?」
「熱だけで済んで良かった、今回はな。お前もこの一年間は、特に注意して欲しい。
あの子と接していて、異常に気が付いたら、すぐに私に報告しろ」
後日、生徒代表室。
アイヴィーはミーティングを行う為、ここに来ていた。
「テオ。理事会からのメール見たか? 入学希望者が居るってヤツ」
「ああ、見たよ見たよ! アルフレッド・ヴィスコンティがこの学院に来るなんて!」
雑談を振ると、テオは勢い良く食い付いてきた。
「あ、やっぱ知ってんだ?」
「知ってるなんてもんじゃないよ! 彼は映画『キャプテン・ライアンと最後の海賊たち』で、
イーグルアイのジェイミーを演じた、アルフレッド・ヴィスコンティだよ!?
あの作品は実に素晴らしかった。私は少なくとも五回は見ているよ」
「あー、お前さん、海とか大好きだもんなー。自分でお船も持ってるし」
「アルフレッド・ヴィスコンティの学院案内も、私が務めて良いのだよね!?」
「そりゃ、お前さんが生徒代表だからな」
「ああ、神様! 幸運を授けて下さって、ありがとうございます!」
「大袈裟だねー」
「早速、アルフレッドの為に、色々準備しなくては!
あ、そうだ! ねえ、アイヴィー、学院案内の時に、私の船を使っても良いかい?」
「ああ、まあ。ダメって話は聞いたことないからイイんじゃね?」
「良かった! では私、アルフレッドを連れて、クルーズしてくるよ!
聖アルフォンソ島の素晴らしさを語る上で、海は欠かせないものね!
ああ、あのイーグルアイ・ジェイミーと二人きりで航海ができるなんて、夢のようだ!
生徒代表の学院案内とは、なんて素晴らしい特権なのだろう!」
両手を掲げて喜んでいる。
テオの笑顔は、見ているほうも自然と同じような顔にさせた。
「楽しそうだな、テオ」
「もちろん!」
テオらしいキラキラとした顔。
「私から『楽しむこと』を取ったら、他に何が残るんだい?」
テオは少し上を向く。視線の先には肖像画があった。
この前、生徒代表室に来た時、テオは気付いたのだ。
歴代の生徒代表が描かれた肖像画は、就任順に並んでいることに。
「ねえ、アイヴィー。一年間、生徒代表を務めれば、私の絵も描いて貰えるよね?」
「ん? ああ」
「最後まで務めるよ。私も飾って貰えるように」
一年、任務を全うすれば、自分の肖像画をクラウスの隣に置いて貰える。
貴方と共に居られるんだ。
此処で、永遠に。
fin
■テオ×クラウス
■共にある奇蹟(5) 続編
■共にある奇蹟(5) 続編
「ソクローフ先生」
放課後の保健室。
ソクーロフがカルテを書いていると、シュヌーシアの生徒達、ほぼ全員が、
ぞろぞろと連れ立ってやってきた。保健室の先生は優しい声で応対する。
「おや。お揃いだね」
「あの、先生、テオは大丈夫ですか?」
「皆、テオのことが心配で来てくれたのかい?」
生徒達は一様に頷いた。
「テオ、熱はどのくらいあったんですか?」
「先程、計ったら、38度2分だったよ」
「そんなに……風邪なんですか?」
「風邪、というよりは、疲れが溜まったまま回復することなく悪化したといった状態だね。
大丈夫。身体的には悪いところはなかったよ。ただ」
「ただ?」
「身体に支障はない程度だが、血糖値が低かったのが気になったね。
最近、テオはきちんと食事を取っていたのかな?」
同じ寮で寝食を共にしている生徒達は、昨日の食卓風景を思い出す。
「晩ご飯食べに来てなかったんじゃない? 昨日は」
「あ、そうだよね。でも、昨日は、一人にしておいてあげようってことになって」
「昨日は朝ご飯の時もすぐ居なくなっちゃったよね」
「そう言えば、テオって最近ご飯残したりしてなかった? いつだったかな、
テオってターキーとか好きなのに、他の人にあげたりしてさ。結構前から具合悪かったのかも」
「そーかー? いつもと同じくらいじゃねえの?
前はいっぱい食べてたけど、最近はずっとあんなかんじだったろ」
生徒達のお喋りを医師は軽くメモを取って聞いていた。
赤いボールペンを白衣の胸ポケットにしまう。
「ありがとう、貴重な証言を聞かせてくれて」
「僕達、テオのお見舞いがしたくて来たんですけど、会っちゃダメですか?
ダメなら、これ、テオに渡しておいて貰いたいんですけど」
「会って構わないよ、感染性ではなかったし」
ソクーロフは生徒達の顔を見る。
「どんな抗生物質より、薬になるかもしれないね、君達が」
医師は席を立つ。
「テオのベッドへ案内するよ。付いておいで」
保健室二階、ベッドルーム。
一番窓側のベッドに金髪の生徒が横たわっていた。窓の向こうを見ている。
中等部の生徒がそっと声を掛けた。
「テオ、起きてる?」
金髪の生徒はすぐに振り向いた。
「みんな……」
「あのね。これ、お見舞い。さっきね、みんなで選んできたんだ」
「まず、お花ー!」
テオに大きな花束が押し付けられる。生徒達は次々にプレゼントを渡していく。
「これは俺の好きなマンガ。絶対笑えるぜ!」
「あと、絵本もあるよ。テオ、童話とか昔話好きでしょ?」
「それから、太陽とか星の写真集みたいなヤツもあったから買ってきたぜ!」
「俺からは、ジャーン! ボトルシップー! カッコイイだろー!?」
ドサドサと尋常じゃない数のプレゼントがベッドに置かれていく。
テオは目をぱちくりさせた。
「こんなに、たくさん……」
「これでも本当は全然足りないくらいだよ。
テオ、誰かが保健室に居る時、いつもお見舞いに来てくれたから」
「だよな。僕も、この三倍は貰ってるかも」
「でも、テオは今まで殆ど保健室に運ばれてないから、俺達はお返しができなかったじゃん?」
「だから今日は、ドーンとウルトラスペシャルデラックス・バージョン!
とにかくテオが好きそうなもの、いっぱい選んできたってわけ! 受け取ってくれるよな?」
テオは寮生達を見る。抱えた花束がくしゃりと鳴る。
「ありがとう、みんな」
「テオ、テオー。『早く元気になって、また君の可愛いらしい笑顔を見せておくれ?』
……なーんちゃって。テオのマネー!」
周りの生徒達が笑った。
「はははっ。似てるー!」
「テオ、それ、よく言うよね!」
「あ、そうだ。あのね。テオの生徒代表就任パーティのことなんだけど。
テオには元気になるまで休んでて欲しいから、企画とか準備とか、僕達がやっておいても良いかな?」
「任せてしまっていいのかい?」
「もちろん、就任挨拶はテオにやって貰うぜ! あとのことはドーンと俺達に任せとけ!」
「テオが元気になったら、パーティやっても良いですよね、ソクーロフ先生?」
ベッドルームのドアに凭れて、全員の一挙一動を観察していた医師が、にこやかに頷く。
「ああ。構わないとも」
「じゃあ決まりだな、テオ、カッコイイ挨拶、考えておけよ?」
「それは元気になってからでいいよ。今はゆっくり休んで。早く元気になってね、テオ」
「うん。早くみんなのところに帰りたいな。博士、私はいつ寮に戻れますか?」
「そうだね、君がそう望むのなら、回復は早いと思うよ。調子が良ければ、明日でもね」
生徒達は「やったあ!」と声を上げた。
シュヌーシアの生徒が帰った後。
ウーティスの生徒、そして、アルファルドの生徒までが、テオのお見舞いに訪れた。
「テオ、タオレタンダッテ!? テオ、タイヨウとウミをアイするオトコ!
オレのナマエは、ジャワハルワール!」
お喋りなオウムを肩に乗せている生徒は、見舞いに果物をひとつ持ってきた。
今日のオウムは、随分悲痛そうに鳴いている。
「オレンジ、オミマイ! オレ、オレンジ、スキ! ダイスキ! テオにアゲル!」
オウムの小さな黒目は果物に釘付けだ。必死の「待て」である。
ジャワハルワールからテオに果物が手渡される。オウムは絶叫した。
「ギャー! オレのオヤツー!」
テオはジャワハルワールを見上げながら、
「ほ、本当に私が貰っても良いのかい? オレンジはオウム君の大好物だろう?」
「テオにアゲル! オレンジ、ビタミンCダカラー!」
泣き叫ぶオウムの頭を、飼い主は優しく撫でた。
ジャワハルワールは博士に軽く一礼して、無言のまま退室した。
ベッドの上で、テオは手の中に視線を落とす。
果物を顔を近付けると、爽やかな柑橘の香りがした。
「オウム君……ありがとう」
医師は手を差し出す。
「テオ。それは保健室の冷蔵庫で預かろう」
「あ、はい。ありがとうございます、博士」
「元気になったら、市場へ行って、あのオウムにお返しするオレンジを選んではどうだい? テオ」
「そうですね、そうします」
→
放課後の保健室。
ソクーロフがカルテを書いていると、シュヌーシアの生徒達、ほぼ全員が、
ぞろぞろと連れ立ってやってきた。保健室の先生は優しい声で応対する。
「おや。お揃いだね」
「あの、先生、テオは大丈夫ですか?」
「皆、テオのことが心配で来てくれたのかい?」
生徒達は一様に頷いた。
「テオ、熱はどのくらいあったんですか?」
「先程、計ったら、38度2分だったよ」
「そんなに……風邪なんですか?」
「風邪、というよりは、疲れが溜まったまま回復することなく悪化したといった状態だね。
大丈夫。身体的には悪いところはなかったよ。ただ」
「ただ?」
「身体に支障はない程度だが、血糖値が低かったのが気になったね。
最近、テオはきちんと食事を取っていたのかな?」
同じ寮で寝食を共にしている生徒達は、昨日の食卓風景を思い出す。
「晩ご飯食べに来てなかったんじゃない? 昨日は」
「あ、そうだよね。でも、昨日は、一人にしておいてあげようってことになって」
「昨日は朝ご飯の時もすぐ居なくなっちゃったよね」
「そう言えば、テオって最近ご飯残したりしてなかった? いつだったかな、
テオってターキーとか好きなのに、他の人にあげたりしてさ。結構前から具合悪かったのかも」
「そーかー? いつもと同じくらいじゃねえの?
前はいっぱい食べてたけど、最近はずっとあんなかんじだったろ」
生徒達のお喋りを医師は軽くメモを取って聞いていた。
赤いボールペンを白衣の胸ポケットにしまう。
「ありがとう、貴重な証言を聞かせてくれて」
「僕達、テオのお見舞いがしたくて来たんですけど、会っちゃダメですか?
ダメなら、これ、テオに渡しておいて貰いたいんですけど」
「会って構わないよ、感染性ではなかったし」
ソクーロフは生徒達の顔を見る。
「どんな抗生物質より、薬になるかもしれないね、君達が」
医師は席を立つ。
「テオのベッドへ案内するよ。付いておいで」
保健室二階、ベッドルーム。
一番窓側のベッドに金髪の生徒が横たわっていた。窓の向こうを見ている。
中等部の生徒がそっと声を掛けた。
「テオ、起きてる?」
金髪の生徒はすぐに振り向いた。
「みんな……」
「あのね。これ、お見舞い。さっきね、みんなで選んできたんだ」
「まず、お花ー!」
テオに大きな花束が押し付けられる。生徒達は次々にプレゼントを渡していく。
「これは俺の好きなマンガ。絶対笑えるぜ!」
「あと、絵本もあるよ。テオ、童話とか昔話好きでしょ?」
「それから、太陽とか星の写真集みたいなヤツもあったから買ってきたぜ!」
「俺からは、ジャーン! ボトルシップー! カッコイイだろー!?」
ドサドサと尋常じゃない数のプレゼントがベッドに置かれていく。
テオは目をぱちくりさせた。
「こんなに、たくさん……」
「これでも本当は全然足りないくらいだよ。
テオ、誰かが保健室に居る時、いつもお見舞いに来てくれたから」
「だよな。僕も、この三倍は貰ってるかも」
「でも、テオは今まで殆ど保健室に運ばれてないから、俺達はお返しができなかったじゃん?」
「だから今日は、ドーンとウルトラスペシャルデラックス・バージョン!
とにかくテオが好きそうなもの、いっぱい選んできたってわけ! 受け取ってくれるよな?」
テオは寮生達を見る。抱えた花束がくしゃりと鳴る。
「ありがとう、みんな」
「テオ、テオー。『早く元気になって、また君の可愛いらしい笑顔を見せておくれ?』
……なーんちゃって。テオのマネー!」
周りの生徒達が笑った。
「はははっ。似てるー!」
「テオ、それ、よく言うよね!」
「あ、そうだ。あのね。テオの生徒代表就任パーティのことなんだけど。
テオには元気になるまで休んでて欲しいから、企画とか準備とか、僕達がやっておいても良いかな?」
「任せてしまっていいのかい?」
「もちろん、就任挨拶はテオにやって貰うぜ! あとのことはドーンと俺達に任せとけ!」
「テオが元気になったら、パーティやっても良いですよね、ソクーロフ先生?」
ベッドルームのドアに凭れて、全員の一挙一動を観察していた医師が、にこやかに頷く。
「ああ。構わないとも」
「じゃあ決まりだな、テオ、カッコイイ挨拶、考えておけよ?」
「それは元気になってからでいいよ。今はゆっくり休んで。早く元気になってね、テオ」
「うん。早くみんなのところに帰りたいな。博士、私はいつ寮に戻れますか?」
「そうだね、君がそう望むのなら、回復は早いと思うよ。調子が良ければ、明日でもね」
生徒達は「やったあ!」と声を上げた。
シュヌーシアの生徒が帰った後。
ウーティスの生徒、そして、アルファルドの生徒までが、テオのお見舞いに訪れた。
「テオ、タオレタンダッテ!? テオ、タイヨウとウミをアイするオトコ!
オレのナマエは、ジャワハルワール!」
お喋りなオウムを肩に乗せている生徒は、見舞いに果物をひとつ持ってきた。
今日のオウムは、随分悲痛そうに鳴いている。
「オレンジ、オミマイ! オレ、オレンジ、スキ! ダイスキ! テオにアゲル!」
オウムの小さな黒目は果物に釘付けだ。必死の「待て」である。
ジャワハルワールからテオに果物が手渡される。オウムは絶叫した。
「ギャー! オレのオヤツー!」
テオはジャワハルワールを見上げながら、
「ほ、本当に私が貰っても良いのかい? オレンジはオウム君の大好物だろう?」
「テオにアゲル! オレンジ、ビタミンCダカラー!」
泣き叫ぶオウムの頭を、飼い主は優しく撫でた。
ジャワハルワールは博士に軽く一礼して、無言のまま退室した。
ベッドの上で、テオは手の中に視線を落とす。
果物を顔を近付けると、爽やかな柑橘の香りがした。
「オウム君……ありがとう」
医師は手を差し出す。
「テオ。それは保健室の冷蔵庫で預かろう」
「あ、はい。ありがとうございます、博士」
「元気になったら、市場へ行って、あのオウムにお返しするオレンジを選んではどうだい? テオ」
「そうですね、そうします」
→
■テオ×クラウス
■共にある奇蹟(4) 続編
■共にある奇蹟(4) 続編
翌朝。シュヌーシア寮ダイニングルーム。
聖アルフォンソ学院の朝食はどの寮もブッフェ式だ。
壁際には、寮の専属シェフが用意した、様々なメニューが並んでいる。
生徒達は自分の体調に合わせ、好きな料理を取り、テーブルに着く。
焼きたてのパン、薫り高いコーヒーのいい匂いがする。
朝食の時間は、制服の着用は義務付けられていない。シュヌーシアではパジャマ姿の生徒が目立った。朝食を食べながら生徒達が話している。
「テオ来ないねー」
「まだ寝てんじゃねー?」
「生徒代表就任パーティの打ち合わせとかしたいのになー」
テオがまだダイニングルームに顔を出さない。
そろそろ来ないと、朝食抜きで授業の時間になってしまう。丁度、食べ終わったラビが席を立つ。
「じゃあ僕、起こしてくるよ。この前テオに起こして貰ったし」
レオンは目だけでラビを見送り、トーストをかじった。
上級生達の話し声がレオンの耳に入ってくる。
テーブルの角で、食後のコーヒーを飲みながら、ぼそぼそと囁き合っていた。
「生徒代表二日目で寝坊かよ。大丈夫なのかね、テオで」
「何言ってんだよ。テオが一番、合ってるだろ?」
「そりゃ解ってるけどさ」
「あ、お前、実は自分が選ばれるって思ってた?」
「まさか」
「じゃあ、何が不満なわけ?」
「不満だなんて一言も言ってないだろ。テオには荷が重いんじゃないかって話」
「どこが? テオなら楽しい楽しいって言って、何でもできそうじゃん?」
「おとといまでのテオならな」
「おととい?」
「昨日のテオを見なかったのか、お前は。あいつ、一日中、ぼうっとした顔しやがって。ったく、見てらんねえぜ。
あんなんで一年間も務まるのかよ、生徒代表が。代われるもんなら、代わってやりてえよ」
ドアが開く。ダイニングルームにラビが飛び込んできた。
「どうしよう、テオが居ない! テオの部屋、誰も居なかった!」
「トイレかシャワーだろ?」
「ううん。いちお呼んでみたけど、居なかった」
皆がざわつく。
「じゃあ、どこ行ったんだ、テオ」
「まさか脱走?」
「バカ。テオがするかよ」
「つーか、脱走なんてできねえだろ、この学院で。警備が見張ってんのに」
「ウーティスの新入りはしてたじゃん、初日から」
「あれとテオを一緒にすんな」
「じゃあ、その辺を散歩してるのかな? ジョギングとか」
「テオはジョギングなんてしないって。クラウスじゃあるまいし」
レオンは昨夜見た光景を思い出す。夜中、テオは一人で、ドアの前に立っていた。あの部屋は、テオの部屋じゃない。
「まさか、あいつ、まだあそこに」
「どうしたの、レオン?」
「俺、テオの居場所、知ってるかもしんねえ!」
そう言ってダイニングルームを飛び出して行く。皆はレオンの後を追い駆けた。
レオンは廊下を走った。頭の中に口煩い先輩の声が聞こえてくる。
――緊急時以外、廊下は走るな――
レオンは立ち止まらない。今はマジで緊急事態なんだっつの。
「テオ! 居るのか!?」
ドアを開け放つ。テオはそこに居た。
べッドを枕にするように、床に膝を突いて。ベッドに凭れて眠っているようだった。
「お前……マジであれからずっと、ここに居たのかよ?」
レオンを追い掛けてきた生徒達が、続々と部屋に到着する。
「テオ、こんなとこに居たー」
「寝ぼけて、部屋間違えちゃったのかなあ?」
生徒がテオの肩を揺する。
「テーオ、朝だよ。てゆうか、ここテオの部屋じゃないよ。テオ、起きてってば」
「おい、なんか、様子が可笑しくないか?」
「テオ、苦しそうじゃない?」
「もしかして、熱が」
レオンはテオの額に触る。寮生達に振り向いて、叫んだ。
「おい! 誰か博士に連絡!」
「わ、解った!」
テオが目覚めた時、最初に見たのは、真っ白な天井だった。
ここは自分の部屋ではない。周りを見渡す。
「保健室……どうして?」
「目が覚めたんだね」
真後ろから声がした。優しい顔をした白衣の男。保健教師のソクーロフ博士だ。
「おはよう、テオ」
「……おはようございます、博士。あの、私は何故、保健室に?」
「君は今朝、シュヌーシアの空き部屋で倒れていたところを発見されたんだよ」
「空き部屋?」
「以前は、クラウスが使っていた部屋だそうだね」
えっ、とテオは小さく呟いた。
「彼の部屋に入ったことは覚えているのかな?」
テオは目を伏せる。
「……いいえ。自分の部屋に帰ったつもりでした」
「そうか。高熱で意識が朦朧としていたのかもしれないね」
「熱?」
「ああ、発見当時38度7分だったんだよ、君は。今はどうかな。もう一度、検温してみよう」
はい、と答える前に、耳許でピッと電子音が聞こえた。
耳式体温計だったようだ。ものの1秒で検温が終わる。
博士は表示された数値を確認後、テオにも見せた。38度2分。
「まだ高いね。今日は授業に出なくていいから、ここで静養していなさい」
博士は体温計を片付けながら、
「今日は第一回目の警備ミーティングもあったね。メンバーは三人だけだし、中止にしよう」
「えっ?」
「警備担当者には私から連絡しておくから」
「それは駄目です! ミーティングなら出れます!」
「無理だよ。体温計を見せただろう?」
「生徒代表の仕事は、休みたくありません。少しくらい熱が高くたって」
「例え、学院の総帥でも、保健室に居る間は私の患者だ。
患者には私の言うことを聞いて貰うよ」
「でも、生徒代表の任務だけは」
医師の手が上がる。その手はテオの髪を撫でた。
「憔悴した身体では生徒代表の任務も務まらない。テオ、今の君には安静が必要だ」
→
聖アルフォンソ学院の朝食はどの寮もブッフェ式だ。
壁際には、寮の専属シェフが用意した、様々なメニューが並んでいる。
生徒達は自分の体調に合わせ、好きな料理を取り、テーブルに着く。
焼きたてのパン、薫り高いコーヒーのいい匂いがする。
朝食の時間は、制服の着用は義務付けられていない。シュヌーシアではパジャマ姿の生徒が目立った。朝食を食べながら生徒達が話している。
「テオ来ないねー」
「まだ寝てんじゃねー?」
「生徒代表就任パーティの打ち合わせとかしたいのになー」
テオがまだダイニングルームに顔を出さない。
そろそろ来ないと、朝食抜きで授業の時間になってしまう。丁度、食べ終わったラビが席を立つ。
「じゃあ僕、起こしてくるよ。この前テオに起こして貰ったし」
レオンは目だけでラビを見送り、トーストをかじった。
上級生達の話し声がレオンの耳に入ってくる。
テーブルの角で、食後のコーヒーを飲みながら、ぼそぼそと囁き合っていた。
「生徒代表二日目で寝坊かよ。大丈夫なのかね、テオで」
「何言ってんだよ。テオが一番、合ってるだろ?」
「そりゃ解ってるけどさ」
「あ、お前、実は自分が選ばれるって思ってた?」
「まさか」
「じゃあ、何が不満なわけ?」
「不満だなんて一言も言ってないだろ。テオには荷が重いんじゃないかって話」
「どこが? テオなら楽しい楽しいって言って、何でもできそうじゃん?」
「おとといまでのテオならな」
「おととい?」
「昨日のテオを見なかったのか、お前は。あいつ、一日中、ぼうっとした顔しやがって。ったく、見てらんねえぜ。
あんなんで一年間も務まるのかよ、生徒代表が。代われるもんなら、代わってやりてえよ」
ドアが開く。ダイニングルームにラビが飛び込んできた。
「どうしよう、テオが居ない! テオの部屋、誰も居なかった!」
「トイレかシャワーだろ?」
「ううん。いちお呼んでみたけど、居なかった」
皆がざわつく。
「じゃあ、どこ行ったんだ、テオ」
「まさか脱走?」
「バカ。テオがするかよ」
「つーか、脱走なんてできねえだろ、この学院で。警備が見張ってんのに」
「ウーティスの新入りはしてたじゃん、初日から」
「あれとテオを一緒にすんな」
「じゃあ、その辺を散歩してるのかな? ジョギングとか」
「テオはジョギングなんてしないって。クラウスじゃあるまいし」
レオンは昨夜見た光景を思い出す。夜中、テオは一人で、ドアの前に立っていた。あの部屋は、テオの部屋じゃない。
「まさか、あいつ、まだあそこに」
「どうしたの、レオン?」
「俺、テオの居場所、知ってるかもしんねえ!」
そう言ってダイニングルームを飛び出して行く。皆はレオンの後を追い駆けた。
レオンは廊下を走った。頭の中に口煩い先輩の声が聞こえてくる。
――緊急時以外、廊下は走るな――
レオンは立ち止まらない。今はマジで緊急事態なんだっつの。
「テオ! 居るのか!?」
ドアを開け放つ。テオはそこに居た。
べッドを枕にするように、床に膝を突いて。ベッドに凭れて眠っているようだった。
「お前……マジであれからずっと、ここに居たのかよ?」
レオンを追い掛けてきた生徒達が、続々と部屋に到着する。
「テオ、こんなとこに居たー」
「寝ぼけて、部屋間違えちゃったのかなあ?」
生徒がテオの肩を揺する。
「テーオ、朝だよ。てゆうか、ここテオの部屋じゃないよ。テオ、起きてってば」
「おい、なんか、様子が可笑しくないか?」
「テオ、苦しそうじゃない?」
「もしかして、熱が」
レオンはテオの額に触る。寮生達に振り向いて、叫んだ。
「おい! 誰か博士に連絡!」
「わ、解った!」
テオが目覚めた時、最初に見たのは、真っ白な天井だった。
ここは自分の部屋ではない。周りを見渡す。
「保健室……どうして?」
「目が覚めたんだね」
真後ろから声がした。優しい顔をした白衣の男。保健教師のソクーロフ博士だ。
「おはよう、テオ」
「……おはようございます、博士。あの、私は何故、保健室に?」
「君は今朝、シュヌーシアの空き部屋で倒れていたところを発見されたんだよ」
「空き部屋?」
「以前は、クラウスが使っていた部屋だそうだね」
えっ、とテオは小さく呟いた。
「彼の部屋に入ったことは覚えているのかな?」
テオは目を伏せる。
「……いいえ。自分の部屋に帰ったつもりでした」
「そうか。高熱で意識が朦朧としていたのかもしれないね」
「熱?」
「ああ、発見当時38度7分だったんだよ、君は。今はどうかな。もう一度、検温してみよう」
はい、と答える前に、耳許でピッと電子音が聞こえた。
耳式体温計だったようだ。ものの1秒で検温が終わる。
博士は表示された数値を確認後、テオにも見せた。38度2分。
「まだ高いね。今日は授業に出なくていいから、ここで静養していなさい」
博士は体温計を片付けながら、
「今日は第一回目の警備ミーティングもあったね。メンバーは三人だけだし、中止にしよう」
「えっ?」
「警備担当者には私から連絡しておくから」
「それは駄目です! ミーティングなら出れます!」
「無理だよ。体温計を見せただろう?」
「生徒代表の仕事は、休みたくありません。少しくらい熱が高くたって」
「例え、学院の総帥でも、保健室に居る間は私の患者だ。
患者には私の言うことを聞いて貰うよ」
「でも、生徒代表の任務だけは」
医師の手が上がる。その手はテオの髪を撫でた。
「憔悴した身体では生徒代表の任務も務まらない。テオ、今の君には安静が必要だ」
→
■テオ×クラウス
■共にある奇蹟(3) 続編
■共にある奇蹟(3) 続編
翌日。テオは目を覚ました。
部屋に光が差し込んでいる。太陽が昇っているのだ、いつもと同じように。
明けない夜はない、必ず朝は来る。いつの時代も希望の象徴として謳われる朝。
この学院から生徒が一人居なくなっても、朝は来る。
大好きな朝陽が、こんなにも無情に感じられた日はない。
昨日、生徒代表室で行った任命式が思い浮かぶ。一夜明けても信じられない。
あれが全て夢だったらいいのに。そうだ。悪い夢だったのではないのか。
一縷の望みを秘めて、ダイニングルームに向かった。
「あ、テオやっと起きたー」
「おはよー、テオ」
ダイニングルームの椅子は、昨日より一脚減っていた。
今日のテオは、いつも以上に声を掛けられた。
寮から校舎へ向かう途中も、教室から教室へ移動する時も。
「おはよう、生徒代表!」
「生徒代表就任おめでとう!」
「期待してるぜ、生徒代表!」
テオは「ああ、ありがとう」と応じる。
友人が多いテオは、生徒と擦れ違う度に祝福、激励の言葉が掛けられた。
肩乗りオウムにも声を掛けられた。
「テオー! セイトダイヒョウ!」
「オウム君も祝ってくれるのかい? ありがとう」
「セイトダイヒョウ、クラウス!」
「オウム君……」
「テオ、クラウス、イツモイッショ! クラウス、イナイ! クラウス、ドコ?」
ジャワハルワールはオウムの頬に触れる。テオは呟く。
「クラウスは卒業してしまったのだよ。だから、私が代わりに就任したんだ」
「ソツギョー?」
「オウム君には少し難しいかな。私もまだよく解らないんだ。
クラウスがもうこの学院に居ないなんて、信じられない」
オウムの飼い主がテオの頭に手を置いた。テオは不思議そうに見上げる。
「ジャワハルワール?」
何も言わずに、テオを見つめている。表情からは何も読み取れない。
浅黒い手はテオの左肩にポンと触れ、去っていった。
授業中もテオの生徒代表就任祝いは続いた。各先生方からも励まし、労いの言葉を頂いた。
クラウスからテオへの交代劇は教授陣も関心を惹いたらしい。
帝王学の講義では、教授が彼の名を呼んだ。
「ではクラウス、解りますか?」
返事がない。それで教授は気付いた。
「ああ、クラウスは卒業したのでしたね。すみません。
彼はとても優秀な生徒でしたから、授業をする側としても頼りになる存在だったのですが」
残念です、と教授は言った。彼が授業以外の話をするのは珍しいことだった。
「実は、教師陣の間でも彼は有名人でした。クラウスが居る講義では、
いつも以上に入念な授業準備をしてしまうと。
私も彼が居た間は、毎週身の引き締まる想いで教壇に立っていましたから」
クラウスがいつも座っていた席。テオの隣だ。
今は空席になっている、その場所を教授は見ていた。あっ、と言って顔を上げる。
「クラウスが卒業したからといって、授業の質は下がりませんので安心して下さいね。
そんなことをしたら、クラウスに怒られてしまいます」
視線を隣の席に移した教授は、テオを見て微笑んだ。
テオはビックリする。教授は優しい声でこう話し掛けた。
「クラウスから生徒代表を受け継いだのは、テオだそうですね?」
「あ、はい」
「毎年驚かされるのですが、学院の運営組織は、よくこれほどまでに、
的確な指名ができるものだと思いますよ」
「そうでしょうか?」
「ご自身はまだ実感がないようですね。
でも私も新しい生徒代表には君が最も適任だと思います。
皆さんも納得の結果ではないでしょうか?
テオが生徒代表に選ばれて納得した方は、挙手をお願いできますか?」
帝王学の受講生達が手を挙げていく。
「ほら。見て下さい、テオ。君以外、全員の手が上がっていますよ。
自信を持って、一年間、任務を全うして下さい。
今年は君が聖アルフォンソ島の帝王なのです。帝王学で学んできた知識が、
君のお役に立てるよう願っています。もちろん、テオだけでなく、
のちに帝王となる皆さんもお役立て下さい。
帝王学の知識は、貴方の良き側近となり、貴方を生涯支え続けてくれますよ」
鐘が鳴る。授業終了の合図だ。教授が照れ笑いする。
「すみません。話が横道に逸れたまま終わってしまいました。
こんなことでは、早速クラウスに怒られてしまいますね。
来週からは、また気を引き締めて授業をします。皆さんも協力して下さいね」
授業後、テオは一人で森に来た。
月桂樹の幹に凭れて座っている。目の前には泉がある。
水面に映る雲を、ただ、ぼんやり見つめていた。
どれくらい、そうしていただろう。ふと気が付いた時、辺りは真っ暗だった。
腕時計を身に付けない主義なので、今何時なのかも解らない。
こんなところで何をしているんだろう、私は。
どうして森に来たのだろう。
いくら森に居たって、もう誰も迎えに来ないのに。
遠くに寮の灯りが見える。いい加減、帰らなくては。私の帰る場所はあそこしかないのだから。
テオはゆっくりと立ち上がった。
足元がふらつく。近くの幹に手を付いて、身体を支えた。
→
部屋に光が差し込んでいる。太陽が昇っているのだ、いつもと同じように。
明けない夜はない、必ず朝は来る。いつの時代も希望の象徴として謳われる朝。
この学院から生徒が一人居なくなっても、朝は来る。
大好きな朝陽が、こんなにも無情に感じられた日はない。
昨日、生徒代表室で行った任命式が思い浮かぶ。一夜明けても信じられない。
あれが全て夢だったらいいのに。そうだ。悪い夢だったのではないのか。
一縷の望みを秘めて、ダイニングルームに向かった。
「あ、テオやっと起きたー」
「おはよー、テオ」
ダイニングルームの椅子は、昨日より一脚減っていた。
今日のテオは、いつも以上に声を掛けられた。
寮から校舎へ向かう途中も、教室から教室へ移動する時も。
「おはよう、生徒代表!」
「生徒代表就任おめでとう!」
「期待してるぜ、生徒代表!」
テオは「ああ、ありがとう」と応じる。
友人が多いテオは、生徒と擦れ違う度に祝福、激励の言葉が掛けられた。
肩乗りオウムにも声を掛けられた。
「テオー! セイトダイヒョウ!」
「オウム君も祝ってくれるのかい? ありがとう」
「セイトダイヒョウ、クラウス!」
「オウム君……」
「テオ、クラウス、イツモイッショ! クラウス、イナイ! クラウス、ドコ?」
ジャワハルワールはオウムの頬に触れる。テオは呟く。
「クラウスは卒業してしまったのだよ。だから、私が代わりに就任したんだ」
「ソツギョー?」
「オウム君には少し難しいかな。私もまだよく解らないんだ。
クラウスがもうこの学院に居ないなんて、信じられない」
オウムの飼い主がテオの頭に手を置いた。テオは不思議そうに見上げる。
「ジャワハルワール?」
何も言わずに、テオを見つめている。表情からは何も読み取れない。
浅黒い手はテオの左肩にポンと触れ、去っていった。
授業中もテオの生徒代表就任祝いは続いた。各先生方からも励まし、労いの言葉を頂いた。
クラウスからテオへの交代劇は教授陣も関心を惹いたらしい。
帝王学の講義では、教授が彼の名を呼んだ。
「ではクラウス、解りますか?」
返事がない。それで教授は気付いた。
「ああ、クラウスは卒業したのでしたね。すみません。
彼はとても優秀な生徒でしたから、授業をする側としても頼りになる存在だったのですが」
残念です、と教授は言った。彼が授業以外の話をするのは珍しいことだった。
「実は、教師陣の間でも彼は有名人でした。クラウスが居る講義では、
いつも以上に入念な授業準備をしてしまうと。
私も彼が居た間は、毎週身の引き締まる想いで教壇に立っていましたから」
クラウスがいつも座っていた席。テオの隣だ。
今は空席になっている、その場所を教授は見ていた。あっ、と言って顔を上げる。
「クラウスが卒業したからといって、授業の質は下がりませんので安心して下さいね。
そんなことをしたら、クラウスに怒られてしまいます」
視線を隣の席に移した教授は、テオを見て微笑んだ。
テオはビックリする。教授は優しい声でこう話し掛けた。
「クラウスから生徒代表を受け継いだのは、テオだそうですね?」
「あ、はい」
「毎年驚かされるのですが、学院の運営組織は、よくこれほどまでに、
的確な指名ができるものだと思いますよ」
「そうでしょうか?」
「ご自身はまだ実感がないようですね。
でも私も新しい生徒代表には君が最も適任だと思います。
皆さんも納得の結果ではないでしょうか?
テオが生徒代表に選ばれて納得した方は、挙手をお願いできますか?」
帝王学の受講生達が手を挙げていく。
「ほら。見て下さい、テオ。君以外、全員の手が上がっていますよ。
自信を持って、一年間、任務を全うして下さい。
今年は君が聖アルフォンソ島の帝王なのです。帝王学で学んできた知識が、
君のお役に立てるよう願っています。もちろん、テオだけでなく、
のちに帝王となる皆さんもお役立て下さい。
帝王学の知識は、貴方の良き側近となり、貴方を生涯支え続けてくれますよ」
鐘が鳴る。授業終了の合図だ。教授が照れ笑いする。
「すみません。話が横道に逸れたまま終わってしまいました。
こんなことでは、早速クラウスに怒られてしまいますね。
来週からは、また気を引き締めて授業をします。皆さんも協力して下さいね」
授業後、テオは一人で森に来た。
月桂樹の幹に凭れて座っている。目の前には泉がある。
水面に映る雲を、ただ、ぼんやり見つめていた。
どれくらい、そうしていただろう。ふと気が付いた時、辺りは真っ暗だった。
腕時計を身に付けない主義なので、今何時なのかも解らない。
こんなところで何をしているんだろう、私は。
どうして森に来たのだろう。
いくら森に居たって、もう誰も迎えに来ないのに。
遠くに寮の灯りが見える。いい加減、帰らなくては。私の帰る場所はあそこしかないのだから。
テオはゆっくりと立ち上がった。
足元がふらつく。近くの幹に手を付いて、身体を支えた。
→
■テオ×クラウス
■共にある奇蹟(2) 続編
■共にある奇蹟(2) 続編
シュヌーシア寮サロン。
テオ特注の鳩時計が鳴る。サロンで遊んでいた寮生達が時計を見上げた。
鳩代わりのナイチンゲールが深夜を告げている。
クラウスが居なくなってから、初めての就寝時間が訪れた。
「あ、もう、寝る時間だね」
「だな」
「えー。今、いいとこじゃん。ね、もうちょっとだけ」
「止めとけ止めとけ。そんなことしてたら、クラウスがドイツから飛んできちまう」
「俺達を怒る為だけにー?」
「やりかねないな、クラウスなら」
「だろ? 『コラー! お前達ー!』とか言って!」
皆が笑う。笑いが治まるとサロンは、シンとなった。
「んじゃ、今日は寝てやりますかっ」
「寝てやろう寝てやろう」
「うん。そうだよね」
「おやすみー」
ラビの部屋では、レオンが我が物顔でベッドに寝そべり、マンガを読んでいた。
うつ伏せで、時々、足を振っている。
レオンは度々、ラビが持っているシリーズ物のマンガを読んでいく。
ラビは「全部貸してあげるから、部屋に持っていって良いよ」と前から言っているのだが、
レオンは「借りたら返すのが面倒」らしく、ラビの部屋に居座って読むようになったのだ。
ラビはベッドの前に立って、声を掛けた。
「ねえ、レオン。もう寝なきゃいけない時間だよ?」
すると、レオンはマンガを読みながら、壁際に身体を寄せた。
ラビが眠れるだけのスペースが空く。
「ほい」
「そうじゃなくて。ここは僕のベッド」
レオンは顔を上げず、ページをめくる。
「だから、場所、空けてやっただろ? 寝れば?」
「もー。じゃあ、僕は寝るからね?」
ラビはレオンの隣に入る。ブランケットを引き寄せ、仰向けに寝た。
レオンは相変わらず、うつ伏せのまま読書中だ。
二人は会話しなかった。ページをめくる音だけがする。
一分間ほどの沈黙の後、ラビは天井を見ながら呟いた。
「クラウス、もうドイツに着いたかな?」
「着いただろ」
「クラウス、寂しくないかな? 僕達と離れて」
「寂しくないだろ」
「クラウ」
「だー!」
レオンはマンガを閉じる。
「クラウスクラウス言うな! 卒業しちまったもんはしょーがねーだろ!」
「だって、やっぱり、クラウスが居ないと、寂し……」
「また泣くー! お前、昼間、散々泣いてたじゃん!」
普段から泣き虫なラビは、今日クラウスを見送った後も、ずっとめそめそしていた。
今も目は真っ赤である。明日になったら目元は腫れてしまうだろう。
ラビはブランケットで涙を拭いながら、
「なんでレオンは、一回も泣かないの? 悲しくないの?」
「泣いたら、クラウスが帰ってくんのかよ」
ラビはもう一度涙を拭う。
レオンはマンガをサイドテーブルに置いた。頭の後ろで手を組んで、仰向けになる。
ブランケットからラビが顔を出す。
「テオは大丈夫なのかな? テオが一番、クラウスと仲良かったから」
「大丈夫だろ、テオだし」
「でも、僕がテオだったら、大丈夫じゃないよ。
だって、レオンが僕より先に卒業しちゃうってことでしょ?」
ラビの目から見ても、テオが一番大切にしてる友達はクラウスだった。
テオの親友がクラウスだったように、ラビの親友はレオンなのだ。
「僕、レオンが先に卒業しちゃったら、困る」
「俺達は同じ学年なんだから、あいつらみたいにはならないだろ」
「うん。ねえ、僕達、同じ日に卒業できないかな?」
「同じ日?」
「そしたら、どっちかが先になったりしないでしょ? ね、そうしよ?」
「解んねえよ、そんな先のこと。あと五年も先の話だぜ?」
「五年……あと五年しか、ここに居られないんだ……」
「充分だろ。入学から卒業まで六年間もあるんだぜ?」
「僕はもっとレオンと一緒に」
「俺達は六年だけど、あいつらは三年だったんだ」
テオは中等部一年から学院に入ったが、クラウスが入学したのは高等部一年。
二人が共に過ごした時間は三年間。レオンは呟く。
「六年は充分、長いんだよ」
泣き腫らしたラビの目にまた涙が溜まっていく。
「僕、卒業なんてしたくない。ずっとシュヌーシアに居たい」
レオンは天井を見上げたまま、静かに言った。
「無理だろ」
→
テオ特注の鳩時計が鳴る。サロンで遊んでいた寮生達が時計を見上げた。
鳩代わりのナイチンゲールが深夜を告げている。
クラウスが居なくなってから、初めての就寝時間が訪れた。
「あ、もう、寝る時間だね」
「だな」
「えー。今、いいとこじゃん。ね、もうちょっとだけ」
「止めとけ止めとけ。そんなことしてたら、クラウスがドイツから飛んできちまう」
「俺達を怒る為だけにー?」
「やりかねないな、クラウスなら」
「だろ? 『コラー! お前達ー!』とか言って!」
皆が笑う。笑いが治まるとサロンは、シンとなった。
「んじゃ、今日は寝てやりますかっ」
「寝てやろう寝てやろう」
「うん。そうだよね」
「おやすみー」
ラビの部屋では、レオンが我が物顔でベッドに寝そべり、マンガを読んでいた。
うつ伏せで、時々、足を振っている。
レオンは度々、ラビが持っているシリーズ物のマンガを読んでいく。
ラビは「全部貸してあげるから、部屋に持っていって良いよ」と前から言っているのだが、
レオンは「借りたら返すのが面倒」らしく、ラビの部屋に居座って読むようになったのだ。
ラビはベッドの前に立って、声を掛けた。
「ねえ、レオン。もう寝なきゃいけない時間だよ?」
すると、レオンはマンガを読みながら、壁際に身体を寄せた。
ラビが眠れるだけのスペースが空く。
「ほい」
「そうじゃなくて。ここは僕のベッド」
レオンは顔を上げず、ページをめくる。
「だから、場所、空けてやっただろ? 寝れば?」
「もー。じゃあ、僕は寝るからね?」
ラビはレオンの隣に入る。ブランケットを引き寄せ、仰向けに寝た。
レオンは相変わらず、うつ伏せのまま読書中だ。
二人は会話しなかった。ページをめくる音だけがする。
一分間ほどの沈黙の後、ラビは天井を見ながら呟いた。
「クラウス、もうドイツに着いたかな?」
「着いただろ」
「クラウス、寂しくないかな? 僕達と離れて」
「寂しくないだろ」
「クラウ」
「だー!」
レオンはマンガを閉じる。
「クラウスクラウス言うな! 卒業しちまったもんはしょーがねーだろ!」
「だって、やっぱり、クラウスが居ないと、寂し……」
「また泣くー! お前、昼間、散々泣いてたじゃん!」
普段から泣き虫なラビは、今日クラウスを見送った後も、ずっとめそめそしていた。
今も目は真っ赤である。明日になったら目元は腫れてしまうだろう。
ラビはブランケットで涙を拭いながら、
「なんでレオンは、一回も泣かないの? 悲しくないの?」
「泣いたら、クラウスが帰ってくんのかよ」
ラビはもう一度涙を拭う。
レオンはマンガをサイドテーブルに置いた。頭の後ろで手を組んで、仰向けになる。
ブランケットからラビが顔を出す。
「テオは大丈夫なのかな? テオが一番、クラウスと仲良かったから」
「大丈夫だろ、テオだし」
「でも、僕がテオだったら、大丈夫じゃないよ。
だって、レオンが僕より先に卒業しちゃうってことでしょ?」
ラビの目から見ても、テオが一番大切にしてる友達はクラウスだった。
テオの親友がクラウスだったように、ラビの親友はレオンなのだ。
「僕、レオンが先に卒業しちゃったら、困る」
「俺達は同じ学年なんだから、あいつらみたいにはならないだろ」
「うん。ねえ、僕達、同じ日に卒業できないかな?」
「同じ日?」
「そしたら、どっちかが先になったりしないでしょ? ね、そうしよ?」
「解んねえよ、そんな先のこと。あと五年も先の話だぜ?」
「五年……あと五年しか、ここに居られないんだ……」
「充分だろ。入学から卒業まで六年間もあるんだぜ?」
「僕はもっとレオンと一緒に」
「俺達は六年だけど、あいつらは三年だったんだ」
テオは中等部一年から学院に入ったが、クラウスが入学したのは高等部一年。
二人が共に過ごした時間は三年間。レオンは呟く。
「六年は充分、長いんだよ」
泣き腫らしたラビの目にまた涙が溜まっていく。
「僕、卒業なんてしたくない。ずっとシュヌーシアに居たい」
レオンは天井を見上げたまま、静かに言った。
「無理だろ」
→
■テオ×クラウス
■共にある奇蹟(1) 続編
■共にある奇蹟(1) 続編
空港に向かって、黒のリムジンが海沿いを走っている。
今日の運転手は、学院の専属ドライバーであり警備組織司令官のアイヴィー。
クラウスとは、生徒代表と警備責任者として、一年間、苦労を共にしてきた。
生徒代表の旅立ちの日には司令官自ら運転手を務める、という規則はないのだが、組織内ではそれが自然と慣例になっていた。
今日は快晴。車の窓からも、青い空と海がはっきりと見える。
そう言えば、三年前、クラウスがこの島に降り立った日も、よく晴れた気持ちの良い日曜日だった気がする。
今日も晴れにしてくれてサンキュ、と誰かに感謝したい気分だ。
「あ、そだ。クラウスー。そこら辺にリモコンあるだろ?
この車、テレビも見れるし、脇の冷蔵庫にはシャンパンも入ってるぜ?」
「要らん。すぐ着くだろう」
運転手がルームミラーを見上げると、後部座席のクラウスは腕を組んで、眉間に皺を寄せていた。
「なんで、こんな長い車で来たんだ。俺一人を乗せるだけなのに」
「ありゃ? お気に召さなかった?」
八人乗りのシートに、乗客はクラウスだけだった。
今日、アイヴィーが乗ってきたのは、自分が所有している車ではなかった。
1959年型キャデラックリムジン・ブラック。
キャデラックと言えば、大統領専用車両にも選ばれる、アメリカの高級メーカー。
これが聖アルフォンソ学院の車庫に何気なく置かれているのを発見した時は驚いたものだ。
しかも、この車には翼がある。ボディの後部に、軍事航空機のような尾翼があるのだ。
これは1950年代から60年代に大流行した、テールフィンというデザインだ。
中でも最も美しいテールフィンだと讃えられるのがこの1959年型。
「最後くらいは、いっちゃんカッコイイのに乗せてやりたいと思って、
車庫の奥から引っ張り出して、わざわざ借りてきたんだぜ?」
「最後だから、いつもの、お前の車に乗りたいと思うだろう、俺としては」
「あー。あははっ。そこまで気が回らなかったわ。最後までぐだくだで、悪いねー」
「次の生徒代表は聞いているな?」
「……ああ。テオだってな」
クラウスとテオは同じ寮。そしておそらく自他共に認める親友同士。それはアイヴィーにも見て取れた。
二人が共に居る光景はよく見掛けていたし、二人を乗せてドライブしたことも何度だってある。
新しい代表の名前を聞かされた時、今年は辛い任命式になるだろうなとアイヴィーでさえ思ったのだ。
今、後部座席に居るクラウスは、その任命式を終えて、そこに座っているのだ。
「いいか? テオが書いた重要書類は、必ずアイヴィーもチェックしてくれよ。
特に外部に送る手紙やメールは、誤字がないか、英語として可笑しな表現がないか気をつけて見てくれ。
あいつは正確性に欠ける上に、自己点検を怠るところがある。
あと、会議中、あいつがぼーっとしている時は、
間違いなく話を聞いていないから、アイヴィーが注意しろよ。
授業中も教授の話を聞かずに、全く関係ないことを夢想しているような奴だからな。それから」
そこでアイヴィーは笑った。
「何が可笑しい?」
「大丈夫だって。テオのことは、俺が責任持ってフォローするし、守るから」
「しかし、お前もルーズなところがあるからな。大丈夫なのか、次年度は」
「ご期待に応えられるように精進しまーす」
「語尾を伸ばすな」
「ははっ。クラウスのダメ出しも今日で最後だと思うと、『もっと言ってー』ってかんじ」
「マゾヒスティックな発言は止せ」
高級リムジンが空港に着く。
クラウス一人を乗せる為だけに来た、特別チャーター機。王のみに仕える鉄の鳥だ。
運転手は車を停め、先に車から降りた。従者みたいに恭しくドアを開けてやる。
「ご乗車お疲れ様でした。空港に到着致しました、クラウス・フォン・モール様」
「止めろ、似合わん」
そう怒られて、アイヴィーは笑った。
従者っぽく振る舞った自分が可笑しかった。そんなの、この学校ではしたことないのに。
クラウスに怒られたくてわざとやったのだろうか、と思うと、また笑えた。
「ほんじゃ、元気でな、クラウス。多分、向こうでも忙しいことになるんだろうけど、
あんま肩肘張らずに……って、お前さんには難しいかもだけど。
ま、時々でいいから、テイク・イット・イージーって言葉を思い出すようにな?」
「なるべくな」
「あー、全然やる気ないだろ? 『手を抜けるところは抜く』これ、俺のモットー」
「お前の、だろ? 俺には無理だ」
クラウスはこう言葉を続けた。
「だが、まあ、お前のモットーも、年に一度くらいは思い出すようにする」
「ん。それでもクラウスにしては上出来だな」
入学当時は、天然記念物レベルのドイツ軍人タイプだった。
聖アルフォンソ島で暮らした三年間が、
ガチガチだった頭に柔軟性を与えてくれたのだろうとアイヴィーは思った。
ドイツ軍人の名家に生まれたクラウス。
祖国に帰れば、軍人のエリートコースに乗るのだろう。
アイヴィーは島に来るまでは某軍に居た。
クラウスとはこの先、どこかで会うかもしれない。敵対関係でないことを願う。
「じゃー、気を付けて」
軽い調子でアイヴィーは片手を挙げた。
「アイヴィー」
「んー?」
クラウスがアイヴィーを少し見上げる。
「世話になった」
「えっ?」
「アイヴィーのおかげで生徒代表の任務もスムーズにこなせた。
それから、警備組織による日々の働きによって、
俺達生徒は今年も一年間、安全に暮らせた。生徒を代表して、改めて礼を言わせてくれ」
足を揃え、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
軍人の家柄らしい、何よりクラウスらしい誠意ある礼だった。
アイヴィーは思わず笑ってしまう。
「どーいたしまして。お前さん、いい上官になるわ」
→
今日の運転手は、学院の専属ドライバーであり警備組織司令官のアイヴィー。
クラウスとは、生徒代表と警備責任者として、一年間、苦労を共にしてきた。
生徒代表の旅立ちの日には司令官自ら運転手を務める、という規則はないのだが、組織内ではそれが自然と慣例になっていた。
今日は快晴。車の窓からも、青い空と海がはっきりと見える。
そう言えば、三年前、クラウスがこの島に降り立った日も、よく晴れた気持ちの良い日曜日だった気がする。
今日も晴れにしてくれてサンキュ、と誰かに感謝したい気分だ。
「あ、そだ。クラウスー。そこら辺にリモコンあるだろ?
この車、テレビも見れるし、脇の冷蔵庫にはシャンパンも入ってるぜ?」
「要らん。すぐ着くだろう」
運転手がルームミラーを見上げると、後部座席のクラウスは腕を組んで、眉間に皺を寄せていた。
「なんで、こんな長い車で来たんだ。俺一人を乗せるだけなのに」
「ありゃ? お気に召さなかった?」
八人乗りのシートに、乗客はクラウスだけだった。
今日、アイヴィーが乗ってきたのは、自分が所有している車ではなかった。
1959年型キャデラックリムジン・ブラック。
キャデラックと言えば、大統領専用車両にも選ばれる、アメリカの高級メーカー。
これが聖アルフォンソ学院の車庫に何気なく置かれているのを発見した時は驚いたものだ。
しかも、この車には翼がある。ボディの後部に、軍事航空機のような尾翼があるのだ。
これは1950年代から60年代に大流行した、テールフィンというデザインだ。
中でも最も美しいテールフィンだと讃えられるのがこの1959年型。
「最後くらいは、いっちゃんカッコイイのに乗せてやりたいと思って、
車庫の奥から引っ張り出して、わざわざ借りてきたんだぜ?」
「最後だから、いつもの、お前の車に乗りたいと思うだろう、俺としては」
「あー。あははっ。そこまで気が回らなかったわ。最後までぐだくだで、悪いねー」
「次の生徒代表は聞いているな?」
「……ああ。テオだってな」
クラウスとテオは同じ寮。そしておそらく自他共に認める親友同士。それはアイヴィーにも見て取れた。
二人が共に居る光景はよく見掛けていたし、二人を乗せてドライブしたことも何度だってある。
新しい代表の名前を聞かされた時、今年は辛い任命式になるだろうなとアイヴィーでさえ思ったのだ。
今、後部座席に居るクラウスは、その任命式を終えて、そこに座っているのだ。
「いいか? テオが書いた重要書類は、必ずアイヴィーもチェックしてくれよ。
特に外部に送る手紙やメールは、誤字がないか、英語として可笑しな表現がないか気をつけて見てくれ。
あいつは正確性に欠ける上に、自己点検を怠るところがある。
あと、会議中、あいつがぼーっとしている時は、
間違いなく話を聞いていないから、アイヴィーが注意しろよ。
授業中も教授の話を聞かずに、全く関係ないことを夢想しているような奴だからな。それから」
そこでアイヴィーは笑った。
「何が可笑しい?」
「大丈夫だって。テオのことは、俺が責任持ってフォローするし、守るから」
「しかし、お前もルーズなところがあるからな。大丈夫なのか、次年度は」
「ご期待に応えられるように精進しまーす」
「語尾を伸ばすな」
「ははっ。クラウスのダメ出しも今日で最後だと思うと、『もっと言ってー』ってかんじ」
「マゾヒスティックな発言は止せ」
高級リムジンが空港に着く。
クラウス一人を乗せる為だけに来た、特別チャーター機。王のみに仕える鉄の鳥だ。
運転手は車を停め、先に車から降りた。従者みたいに恭しくドアを開けてやる。
「ご乗車お疲れ様でした。空港に到着致しました、クラウス・フォン・モール様」
「止めろ、似合わん」
そう怒られて、アイヴィーは笑った。
従者っぽく振る舞った自分が可笑しかった。そんなの、この学校ではしたことないのに。
クラウスに怒られたくてわざとやったのだろうか、と思うと、また笑えた。
「ほんじゃ、元気でな、クラウス。多分、向こうでも忙しいことになるんだろうけど、
あんま肩肘張らずに……って、お前さんには難しいかもだけど。
ま、時々でいいから、テイク・イット・イージーって言葉を思い出すようにな?」
「なるべくな」
「あー、全然やる気ないだろ? 『手を抜けるところは抜く』これ、俺のモットー」
「お前の、だろ? 俺には無理だ」
クラウスはこう言葉を続けた。
「だが、まあ、お前のモットーも、年に一度くらいは思い出すようにする」
「ん。それでもクラウスにしては上出来だな」
入学当時は、天然記念物レベルのドイツ軍人タイプだった。
聖アルフォンソ島で暮らした三年間が、
ガチガチだった頭に柔軟性を与えてくれたのだろうとアイヴィーは思った。
ドイツ軍人の名家に生まれたクラウス。
祖国に帰れば、軍人のエリートコースに乗るのだろう。
アイヴィーは島に来るまでは某軍に居た。
クラウスとはこの先、どこかで会うかもしれない。敵対関係でないことを願う。
「じゃー、気を付けて」
軽い調子でアイヴィーは片手を挙げた。
「アイヴィー」
「んー?」
クラウスがアイヴィーを少し見上げる。
「世話になった」
「えっ?」
「アイヴィーのおかげで生徒代表の任務もスムーズにこなせた。
それから、警備組織による日々の働きによって、
俺達生徒は今年も一年間、安全に暮らせた。生徒を代表して、改めて礼を言わせてくれ」
足を揃え、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
軍人の家柄らしい、何よりクラウスらしい誠意ある礼だった。
アイヴィーは思わず笑ってしまう。
「どーいたしまして。お前さん、いい上官になるわ」
→
古時計の秒針は刻々と時を刻んでいる。
生徒代表室では、生徒代表の任命式が執り行われていた。
クラウスからテオへ、生徒代表という役目が、ひとつひとつ引き継がれているのだ。
生徒代表とは何か、から始まり、任務の詳細や理事会についてなど、
学院の機密事項とも言える情報が、クラウスの口から語られていく。
説明は、クラウスが一人で作成した冊子を元に行われている。
生徒代表マニュアルとして、この部屋に寄贈できるほどの完成度。
これさえあれば、口頭説明も必要ないくらい、
丁寧かつ正確に、生徒代表の全てが記されている。
明らかに、一昼夜で作成できるような物ではなかった。
クラウスとテオは机を挟んで、向かい合って座っている。
これ以上ないほど完璧な段取りで業務説明は進む。
手製のマニュアルを片手に、クラウスは機械的に語っていた。
テオは机上のマニュアルを目で追っていた。
序盤は相槌を打ちながら聞いていたのだが、
それも徐々になくなり、後半になると一言も発さなくなっていた。
それでもクラウスの話すスピードは一定に保たれたまま、最終ページへ辿り着いた。
「説明は以上だ。質問はあるか?」
うん、と頷く。
「言ってみろ」
「明日になったら」
テオは俯いたまま、小さな声で呟いた。
「クラウスは、本当に、シュヌーシアに居ないのかい?」
生徒代表についての不明点を尋ねているのに。
関係のないことを聞くな。いつものクラウスなら、間違いなくそう言っただろう。
だが、その時は言わなかった。テオの声は微かに震えていた。
クラウスはテオの言葉に短く応じる。
「ああ。他に質問は?」
「私は生徒代表を辞退してはいけないの?」
「何?」
「私に貴方の後が継げる筈がないよ。貴方は最高の生徒代表だったもの」
「俺と比べる必要はない。任命された時点で、お前は次代の生徒代表に相応しい生徒だと認められている」
テオは首を横に振った。
クラウスは右の拳を握り締める。重い一息を吐いてから言った。
「生徒代表は指名制だ。余程の理由がない限り、断ることはできない。
お前に辞退できる理由があるのか?」
「新しい生徒代表が居なければ、貴方がこのまま」
「例え、お前が辞退できたとしても、俺は本日をもって生徒代表の任を解かれ、
任命式が終了次第、この学院を去ることは変えられない」
「でも私は」
「俺の後を継がせてやるって言ってるんだぞ! 他の奴に任せてもいいのか!?」
「……やだ」
「帝王学で学んできたことを無駄にするな。習っただろう?
王たるもの、国を守る為には時に自己犠牲も必要だ。自分を律し、皆を導く。
これからはお前が、この島の王になるんだぞ。一時の感情に流されるな」
クラウスの背景に彼の肖像画が見えた。高い位置にある。手を伸ばしても届かない。
自分がどう足掻いても、あの絵を外すことはできないのだと言われているようだった。
「クラウス……」
「いいか? 与えられた責務は最後まで果たせ。絶対に途中で投げ出すな。
お前にはできる。学院の運営組織も、お前が持つ、王の資質を認めたんだ」
「クラウスは? 貴方も私ならできると思ってくれたのかい?」
「新代表の最終決定には、現代表の承認が必要だ」
テオは何も言わなかった。クラウスは冷静な声で言った。
「質問がないなら、生徒代表の任命式はこれで終わりだ」
はっとテオは顔を上げる。クラウスが席を立つ。
「新しい生徒代表の健闘を祈っている」
テオに背を向けて歩き出す。
すると、後ろからクラウスの左手首が掴まれた。振り払おうと思えば、振り払えるほど弱い力。
「離せ、馬鹿」
「解らないよ」
クラウスを掴む力が少しだけ強くなる。
「明日から貴方が居ないなんて。私はどうすればいいのか解らない」
クラウスはそこで軽く笑った。
「それなら簡単だ」
「えっ?」
「今までお前が散々やってきたことだろう?」
クラウスはテオを見つめて、言った。
「楽しいことをしろ。お前から『楽しむこと』を取ったら、他に何が残る?」
正門前には、黒のリムジンが待っていた。クラウスを空港まで運ぶ車だ。
ドライバーは高級車に凭れて、煙草を吸っている。見送り待ちだ。異例である。
クラウスとの別れを惜しむように、シュヌーシアの生徒達が正門前まで見送りに来ていた。
「クラウス。あのね、これ、みんなで書いたの」
寄せ書きのフォトフレームが渡された。立派な額の中央にシュヌーシア寮生の集合写真。
周りの余白部分には、寮生全員からの寄せ書き。
一番上には題字として「シュヌーシアのお父さん、クラウスへ」と書かれていた。
「何かコソコソ用意していると思ったら、これだったのか。こんな大きな物を最後にくれるとはな」
「とか言ってー。ホントは嬉しくて泣きそうなくせにー?」
「誰が」
中等部一年のラビは手で涙を拭きながら、
「行っちゃやだよ、クラウス、僕達のお父さんなのに」
「泣くな。今生の別れでもあるまいし」
「ドイツに行っても、僕達のこと忘れないでね。元気でね、クラウス」
「それはお前だ、ラビ。喘息も大分良くなってきたんだから、
これからも身の回りは綺麗に。部屋の片付けを忘れるなよ」
「うん」
「あ、ラビだけズルイ。僕にも何か言って」
「お前は、試験勉強に対して、もう少し真面目に取り組め。
本気でやれば高得点が狙えるんだから、わざと手を抜くのを止めろ」
「俺にも言ってー!」
「俺も聞いてやってもいいぜ、クラウス」
突然のリクエストだったが、クラウスは全く迷う様子なく、全員にひとつずつ小言を言い残した。
そのどれもが的確な指摘だったことに、寮生達は改めて驚かされた。
「これで全員言ったか」
「最後にテオが残ってるぞ」
テオとクラウスの目が合う。クラウスは視線を逸らした。
「テオはいい。伝えるべきことは、任命式で全て伝えてある」
クラウスは腕時計を見る。
「もう時間だ」
生徒達を見守っていたドライバーが煙草を灰皿に押し付ける。
車へ向かう前に、クラウスは言い忘れていたことを思い出した。
「お前達に最後に言っておきたいことがある」
「なに?」
「消灯時間は守れ。翌日の講義に障る。解ったな?」
最後は笑って、お別れとなった。
ドライバーが後部座席のドアを開ける。
リムジンが出発した。黒い車は徐々に小さくなり、道の向こうに消えていった。
「泣かなかったね、クラウス。最後くらいは初めて泣いた顔が見れるかもって思ったけど」
下級生がそう言うと、上級生が笑った。
「泣くわけねーだろ、あいつが。ラビはもう泣くな。おい、レオン、慰めてやれ」
「なんで、俺が」
「いつまでも悲しんでたって仕方ないよ」
「俺達にはまだテオが居るしな?」
「そうだよ。新しい生徒代表だし! ね、テオ!」
寮生達がテオに注目する。湿った空気を払拭する一言を望んでいた。
テオならできる。皆を元気にしてくれる。
しかし、その期待はテオの顔を見た途端、間違いだったと気付いた。
「ごめん」
それだけ言って、テオは寮へ駆け出した。
「テオッ!」
追い駆けようとしたラビの腕をレオンが捕らえた。
「行くな、ラビ」
「でも、テオ、今泣いて」
「だからだろ。一人にしてやれ」
→
生徒代表室では、生徒代表の任命式が執り行われていた。
クラウスからテオへ、生徒代表という役目が、ひとつひとつ引き継がれているのだ。
生徒代表とは何か、から始まり、任務の詳細や理事会についてなど、
学院の機密事項とも言える情報が、クラウスの口から語られていく。
説明は、クラウスが一人で作成した冊子を元に行われている。
生徒代表マニュアルとして、この部屋に寄贈できるほどの完成度。
これさえあれば、口頭説明も必要ないくらい、
丁寧かつ正確に、生徒代表の全てが記されている。
明らかに、一昼夜で作成できるような物ではなかった。
クラウスとテオは机を挟んで、向かい合って座っている。
これ以上ないほど完璧な段取りで業務説明は進む。
手製のマニュアルを片手に、クラウスは機械的に語っていた。
テオは机上のマニュアルを目で追っていた。
序盤は相槌を打ちながら聞いていたのだが、
それも徐々になくなり、後半になると一言も発さなくなっていた。
それでもクラウスの話すスピードは一定に保たれたまま、最終ページへ辿り着いた。
「説明は以上だ。質問はあるか?」
うん、と頷く。
「言ってみろ」
「明日になったら」
テオは俯いたまま、小さな声で呟いた。
「クラウスは、本当に、シュヌーシアに居ないのかい?」
生徒代表についての不明点を尋ねているのに。
関係のないことを聞くな。いつものクラウスなら、間違いなくそう言っただろう。
だが、その時は言わなかった。テオの声は微かに震えていた。
クラウスはテオの言葉に短く応じる。
「ああ。他に質問は?」
「私は生徒代表を辞退してはいけないの?」
「何?」
「私に貴方の後が継げる筈がないよ。貴方は最高の生徒代表だったもの」
「俺と比べる必要はない。任命された時点で、お前は次代の生徒代表に相応しい生徒だと認められている」
テオは首を横に振った。
クラウスは右の拳を握り締める。重い一息を吐いてから言った。
「生徒代表は指名制だ。余程の理由がない限り、断ることはできない。
お前に辞退できる理由があるのか?」
「新しい生徒代表が居なければ、貴方がこのまま」
「例え、お前が辞退できたとしても、俺は本日をもって生徒代表の任を解かれ、
任命式が終了次第、この学院を去ることは変えられない」
「でも私は」
「俺の後を継がせてやるって言ってるんだぞ! 他の奴に任せてもいいのか!?」
「……やだ」
「帝王学で学んできたことを無駄にするな。習っただろう?
王たるもの、国を守る為には時に自己犠牲も必要だ。自分を律し、皆を導く。
これからはお前が、この島の王になるんだぞ。一時の感情に流されるな」
クラウスの背景に彼の肖像画が見えた。高い位置にある。手を伸ばしても届かない。
自分がどう足掻いても、あの絵を外すことはできないのだと言われているようだった。
「クラウス……」
「いいか? 与えられた責務は最後まで果たせ。絶対に途中で投げ出すな。
お前にはできる。学院の運営組織も、お前が持つ、王の資質を認めたんだ」
「クラウスは? 貴方も私ならできると思ってくれたのかい?」
「新代表の最終決定には、現代表の承認が必要だ」
テオは何も言わなかった。クラウスは冷静な声で言った。
「質問がないなら、生徒代表の任命式はこれで終わりだ」
はっとテオは顔を上げる。クラウスが席を立つ。
「新しい生徒代表の健闘を祈っている」
テオに背を向けて歩き出す。
すると、後ろからクラウスの左手首が掴まれた。振り払おうと思えば、振り払えるほど弱い力。
「離せ、馬鹿」
「解らないよ」
クラウスを掴む力が少しだけ強くなる。
「明日から貴方が居ないなんて。私はどうすればいいのか解らない」
クラウスはそこで軽く笑った。
「それなら簡単だ」
「えっ?」
「今までお前が散々やってきたことだろう?」
クラウスはテオを見つめて、言った。
「楽しいことをしろ。お前から『楽しむこと』を取ったら、他に何が残る?」
正門前には、黒のリムジンが待っていた。クラウスを空港まで運ぶ車だ。
ドライバーは高級車に凭れて、煙草を吸っている。見送り待ちだ。異例である。
クラウスとの別れを惜しむように、シュヌーシアの生徒達が正門前まで見送りに来ていた。
「クラウス。あのね、これ、みんなで書いたの」
寄せ書きのフォトフレームが渡された。立派な額の中央にシュヌーシア寮生の集合写真。
周りの余白部分には、寮生全員からの寄せ書き。
一番上には題字として「シュヌーシアのお父さん、クラウスへ」と書かれていた。
「何かコソコソ用意していると思ったら、これだったのか。こんな大きな物を最後にくれるとはな」
「とか言ってー。ホントは嬉しくて泣きそうなくせにー?」
「誰が」
中等部一年のラビは手で涙を拭きながら、
「行っちゃやだよ、クラウス、僕達のお父さんなのに」
「泣くな。今生の別れでもあるまいし」
「ドイツに行っても、僕達のこと忘れないでね。元気でね、クラウス」
「それはお前だ、ラビ。喘息も大分良くなってきたんだから、
これからも身の回りは綺麗に。部屋の片付けを忘れるなよ」
「うん」
「あ、ラビだけズルイ。僕にも何か言って」
「お前は、試験勉強に対して、もう少し真面目に取り組め。
本気でやれば高得点が狙えるんだから、わざと手を抜くのを止めろ」
「俺にも言ってー!」
「俺も聞いてやってもいいぜ、クラウス」
突然のリクエストだったが、クラウスは全く迷う様子なく、全員にひとつずつ小言を言い残した。
そのどれもが的確な指摘だったことに、寮生達は改めて驚かされた。
「これで全員言ったか」
「最後にテオが残ってるぞ」
テオとクラウスの目が合う。クラウスは視線を逸らした。
「テオはいい。伝えるべきことは、任命式で全て伝えてある」
クラウスは腕時計を見る。
「もう時間だ」
生徒達を見守っていたドライバーが煙草を灰皿に押し付ける。
車へ向かう前に、クラウスは言い忘れていたことを思い出した。
「お前達に最後に言っておきたいことがある」
「なに?」
「消灯時間は守れ。翌日の講義に障る。解ったな?」
最後は笑って、お別れとなった。
ドライバーが後部座席のドアを開ける。
リムジンが出発した。黒い車は徐々に小さくなり、道の向こうに消えていった。
「泣かなかったね、クラウス。最後くらいは初めて泣いた顔が見れるかもって思ったけど」
下級生がそう言うと、上級生が笑った。
「泣くわけねーだろ、あいつが。ラビはもう泣くな。おい、レオン、慰めてやれ」
「なんで、俺が」
「いつまでも悲しんでたって仕方ないよ」
「俺達にはまだテオが居るしな?」
「そうだよ。新しい生徒代表だし! ね、テオ!」
寮生達がテオに注目する。湿った空気を払拭する一言を望んでいた。
テオならできる。皆を元気にしてくれる。
しかし、その期待はテオの顔を見た途端、間違いだったと気付いた。
「ごめん」
それだけ言って、テオは寮へ駆け出した。
「テオッ!」
追い駆けようとしたラビの腕をレオンが捕らえた。
「行くな、ラビ」
「でも、テオ、今泣いて」
「だからだろ。一人にしてやれ」
→
「今日はニッコロ・マキャベリについて勉強していきましょう」
帝王学の教室に、教授の声が響いている。
誰より真剣な眼差しで板書している生徒が、今年度の生徒代表だった。
高等部三年のクラウス・フォン・モール。
ドイツ軍人の家系に生まれ、規律に厳しい生真面目な男に育った。
授業態度は極めて良く、試験の点数もトップクラスである。
「もし手に入れば高得点間違いなし」と噂される黄金のノートが作成されつつあった。
隣の席に居る金髪の生徒は、テオ・メネシス。高等部二年。
クラウスと同じシュヌーシア寮だ。
テオは、教授の声を写し取る様子は見られない。手は頬の下で固定されたままだ。
ぼうっとした表情で、窓の外を眺めていた。
「彼は、イタリア・ルネッサンス期の政治思想家、代表作は君主論です」
この講義を担当しているのは、フランスから来た大学教授。眼鏡が似合う四十代前半の紳士。
帝王学を専攻しているとは思えないほど、柔らかな雰囲気を纏っている。
今日も優しい声で授業をしていた。
「俗に、目的の為なら手段を選ばないといった思想を何と言うでしょう?」
教室を見渡し、目の合った生徒の名を呼んだ。
「クラウス、解りますか?」
テオの視線が窓から隣の席へ移る。クラウスは教授の目を見て答えた。
「マキャベリズムです」
「はい、正解です」
「教授、マキャベリズムについて質問をしても宜しいでしょうか?」
「どうぞ」
「教授が仰った意味は、実際は誤解であり、
マキャベリの思想とは異なっていると唱える説がありますよね?」
生徒達の視線が教壇に向けられる。眼鏡の教授は微笑んだ。
「ええ。今週もしっかり予習してきていますね、クラウス」
「その相違点について、詳しく伺えますか?」
解りました、と言って、教授は解説を始めた。
「一般的にマキャベリズムという言葉は、単に『目的』の為なら手段を選ばないという意味で使われていますが、
マキャベリの思想は、『国の利益』になるなら冷酷非道な手段も厭わない、という考え方です。
国の為、この部分が重要なのです。マキャベリにそう思わせたのは、イタリアに咲いた悪の華、
イタリア統一の為に冷酷非道な暗殺を重ねた、チェーザレ・ボルジアだと言われています」
クラウスは教授の目を見ながら話を聞いている。その熱心な横顔をテオが見守っている。
「当時のイタリアは数多くの小国に分裂していた為、全てを統べる王を求めていたマキャベリにとって、
チェーザレはまさに理想の君主でした。マキャベリはチェーザレを評して、
『彼は広大な目的を達成する為に、自らの行動を制御していた。
新たに君主となる者は彼を見習うべき』という言葉を残しています」
クラウスはノートにメモを取り、赤ペンで素早くラインを引いた。
「チェーザレは毒殺のイメージが強く、自己犠牲のイメージがないかもしれませんが、
彼は父の期待に応え、日夜良く働きました。数々の作戦を成功させ、謀反する部下は容赦なく葬りました。
一時の感情に流されない、彼の非情なまでの冷酷さが、新たな秩序と忠誠を生みだしたのは事実です」
テオは再び空を眺める。雲がゆっくりと泳いでいた。
授業終了の鐘が鳴る。教授は教科書を閉じた。
「今日学んだマキャベリの君主論は、よく復習しておくように。
来週はジャンティエの反マキャベリ論を紐解いていきましょう」
ありがとうございました、クラウスがいつものように折り目正しく礼をした。
帝王学の教室を出た。テオとクラウスは肩を並べて廊下を歩いている。
今日の授業はこれで終わり。帰る先は、二人ともシュヌーシア寮だ。
「テオ、今日の授業、ちゃんと聞いていたか?」
「え? うん。マキャベリズム、だろう? 今日も褒められていたね、クラウス」
「今日のテーマはマキャベリだ。マキャベリズムの部分しか聞いていなかったんじゃないのか?」
テオが笑顔を見せると、クラウスは苦い顔をした。
「クラウス」
誰かに呼ばれた。クラウスとテオは、声のしたほうに振り向く。
そこに居たのはウーティス寮の二人。高等部一年のジョシュアと中等部三年のアンリだった。
声から判断して、クラウスを呼んだのは、バニラボイスと讃えられるほう。
華奢で少女のような顔をしている、クラウスの苦手な相手だ。少し怪訝な様子で尋ねる。
「何だ、アンリ」
アンリが背の高いクラウスを少し見上げる。鼻筋でさえツンと美しく整っている。
「返事、まだ聞いてないんだけど?」
「え? ああ、すまん。忙しくて忘れていた」
「来るよね?」
「行ってもいいんだが、何故お前が俺を誘う?」
「だって、貴方が来ないと、つまらない」
おや、とテオが口を挟む。
「これはまた、いつの間に。デートの約束かい?」
クラウスは呆れている。
「誰がこいつとデートなんかするか。チェスパーティに招待されたんだ」
「それはそれは。素晴らしいパーティだね、アンリ。
私はまだ呼ばれていないようだけど、招待状はこれから届くのかな?」
「届かないよ。貴方は弱いでしょう、チェス。ギャラリーに居ても煩さそうだし」
それまで黙っていたジョシュアが、アンリ、と窘めた。それをアンリは無視して、
「じゃ、必ず来てね、クラウス」
ジョシュアは先輩二人に会釈してから友人の背中を追い駆けた。
校舎を出たところで、また他の生徒に声を掛けられた。
「あっ! お父さーん!」
長い髪を跳ねさせながら、長身の生徒が駆けてくる。
ウーティス寮の高等部一年、シルヴァン・クラークだ。
シルヴァンがこの学院に入学したのは約一年前。入学初日から外泊したワイルドボーイとして一躍有名になった生徒だ。
それ以降も懲りずに、何度も無断外泊、無断外出を重ねた、言わば問題児。
その度に生徒代表のクラウスは手を焼かされてきた。シルヴァンの顔を見ると、条件反射的にしかめっ面になるのも無理はない。
「今日は何だ、シルヴァン」
「卒業パーティの日、決まりましたか?」
「ああ、そのことか。まだ日程の調整ができなくてな。予定より少し早くなりそうだ」
テオの肩が小さく跳ねた。クラウスは生徒手帳に書いたスケジュールを見ながら、
「おそらく、八月の上旬になるだろうな」
「上旬? もう残りひと月じゃないですか!」
「俺が居なくなったからと言って、夜遊びばかりするなよ? 学生は勉強が本分なんだからな」
「そうですね。そんなにしないと思いますよ、夜遊びは」
「本当だろうな?」
「はい。だって、貴方が居なくなったら、夜遊びする意味がなくなっちゃうじゃないですか」
「……どういう意味だ、それは」
「まあまあ。えっとー、八月の上旬に卒業パーティがあるなら、
僕は、夏休みを中旬くらいから取ればオッケーですね」
「別に、無理をして、出席しなくても良いんだぞ?
年に一度の夏期休暇だ。島でじっとしていられないだろう、お前は」
「いいえ。クラウスの卒業パーティには絶対に行きますよ。
僕、貴方には、入学初日からお世話になってますからね」
「ああ……あの頃のお前は酷かったからな」
「もー、酷いだなんてー。僕のおかげでスリリングな日々だったじゃないですか」
「馬鹿。散々人に迷惑を掛けておいて。
しかし、入学当時に比べると、まあ、お前も随分落ち着いたな」
「きゃはっ。お父さんに褒められちゃいました!」
「お父さんって言うな!」
怒られて、シルヴァンは笑っていた。
話が終わると、彼は手を振りながらウーティス寮へ帰っていった。
クラウスとテオは再びシュヌーシア寮へ向かって歩き始める。
テオは俯いたまま言った。
「モテモテだね、クラウス。よくお声が掛かる」
クラウスは苦い顔をする。
「変な言い方をするな。俺の卒業が近いからだろ?
どいつもこいつも、こんな時期になってから、ドタバタと予定を詰め込みやがって。
こっちは卒業準備で忙しいっていうのに」
「さっきの話は本当なのかい? 八月の上旬だなんて。中旬か下旬になるって話だったのに」
「ああ。帰国後は色々と出向くところもあるし、当初の予定より忙しくなりそうだから、
早めに帰って事前に準備しておきたいんだ」
そう、とテオは言った。
「クラウス! クラウス! オイ! クラウス!」
随分と甲高い声で呼ばれた。人間の声ではない。
クラウス達の後方に居たのは、浅黒い肌の生徒。髪は長く、緩やかな波のある金色。
アルファルド寮のジャワハルワールだ。その左肩には白いオウムが乗っていた。
その鳥と親しいテオが笑顔で挨拶する。
「おや。こんにちは、オウム君、ジャワハルワール」
オウムもフランクな様子で片翼を挙げる。
「テオ! タイヨウとウミをアイするオトコ! クラウス、セイトダイヒョウ!」
「相変わらず素晴らしい記憶力だね。流石はジャワハルワールのオウム君」
「テオ、クラウス、イツモイッショ! シュヌーシアのオトーサンとオカーサン!」
「おや。嬉しいことを言ってくれるねえ、オウム君」
「……誰だ、余計なことを教えた奴は」
クラウスはオウムとジャワハルワールを見比べて、人間のほうに尋ねた。
「それで、俺に用か、ジャワハルワール」
答えたのはオウムだった。
「クラウス、パーティのヒ、キマッター?」
ジャワハルワールはクラウスを見つめてはいるが無言だった。オウムは言葉を繰り返す。
「キマッター? キマッター?」
「……いや、まだだが」
クラウスは鳥との会話がやりにくそうだった。
テオは気にならない様子で、鳥に向かって話し掛ける。
「オウム君。パーティは八月の上旬になるそうだよ?」
「ハチガツ、ジョウジュン!」
「オウム君とジャワハルワールもクラウスのパーティに行くのかい?」
「クラウスのパーティ、イクー!」
「では、卒業パーティの日時が決まったら、
アルファルドにも連絡を回さなくてはね、クラウス?」
「本当にお前も来る予定なのか、ジャワハルワール」
クラウスが人間のほうに確認をとると、彼は静かに頷いた。鳥が喋る。
「クラウス、タスケテクレター! クラウス、ツヨイ!」
「おや。クラウス、オウム君を助けたことがあったのかい?」
「いや、まあ、猫を追っ払ったことはあるが」
「猫?」
「もう随分昔のことだが、森で、この鳥が、
猫と一触即発の現場に出くわしたことがあったんだ。
無用な殺生は避けるべきだろう、動物も人間も」
「アリガトー! クラウス、イイヤツ!」
「隅に置けない人だね、オウム君まで虜にするとは」
「だから、お前は可笑しな言い方をするな」
「クラウス! ソツギョウしたら、ジャワハルワールのクニに、アソビにキテネー!
ジャワハルワール、コクオウ! ジャワハルワールにバンザイ!」
ジャワハルワールが踵を返す。向かう方向はアルファルド寮だ。
鳥と人間の後ろ姿を見ながら、クラウスが独りごちる。
「少し見ない間に、またお喋りになったな、あの鳥は」
テオが手を振る。
「オウムくーん、またねー、愛してるよー!」
すると、オウムが反応した。
「マタネー、アイシテルヨー!」
クラウスが肩を落とす。
「テオ。鳥にまでヘンな言葉を教えるんじゃない」
「妬いてくれたのかい、クラウス?」
「違う」
「心配しなくとも、私が誰を一番愛しているかは知っているだろう?」
「……帰るぞ」
「そうだね。私達の家に帰って、ブレイクタイムにしよう。
今日は私もエスプレッソにしようかな。クラウスも飲むだろう?」
ああ、と頷いた後で「いや、やっぱり、いい」
「え?」
「部屋の片付けがある。昨日は生徒代表の仕事があって作業が進まなかったからな」
クラウスが自室で、荷物の整理をしていると、寮生がやってきた。
「おっ。引っ越し準備、進んでるねー」
クセのある茶髪は、彼の性格を示すように縦横無尽に跳ねている。
中等部一年のレオン。生意気な最年少だ。
壁に貼られていた紙を見て、一年生は「うわ」と言った。
「ちょ、クラウス。これ何だよ」
クラウスは本をダンボールに詰めながら、
「何って。見れば解るだろ。卒業準備の計画表だ」
七月から八月まで片付けや手続きのスケジュールが事細かに記されていた。
生真面目で几帳面なクラウスは、何事も事前に計画を立て、その予定通りに事を運びたい性格だった。
試験期間中も、同様の計画表を必ず作るタイプだった。
レオンは綿密なスケジュール表を見て、げっそりしている。
「あんたって、こういうトコまできっちりしてるよな、気持ち悪いくらい」
「人のこと気持ち悪いって言うな。なんだ、レオン。邪魔しに来たのか?」
「どっちかって言うと、俺、あんたの手伝いに来たんだけど?」
「お前が?」
「うん」
そう言って、レオンは右手を差し出した。
「ちょーだい?」
「何を?」
「何でも良いから、あんたの持ち物、いっこくれよ。
引っ越し荷物は少ないほうが良いだろ? 俺がいっこ減らしてやるよ」
レオンは人差し指にひっかけたキーホルダーを振り回しながら、サロンに入った。
錆びた金色の渋い光。放課後のサロンでくつろいでいた生徒達の目に留まる。
レオンと仲が良く、同じ中等部一年のラビが尋ねる。
「あれ? レオン、それ、どうしたの? そんなの持ってたっけ?」
レオンはフフンと笑って「クラウスに貰ったー」
クラウスの部屋。
引き続き片付けをしている最中、ドドドと床が揺れた。
「な、なんだ。地震か?」
シュヌーシアの寮生達が雪崩れ込むように部屋に入ってきた。
「クラウスー! 僕にもなんかちょーだーい!」
「俺も俺もー!」
「なっ!? お前達、全員か!?」
生徒達は元気良く頷いた。
「レオンにはあげたんだろー! 俺にはくれないのかよー! ケチー!」
「いや、しかし、そんな大勢で来られてもだな……その前に言っておきたいことがある!」
「何?」
「廊下は緊急時以外走るな!」
「緊急事態だよね?」
「うん。クラウスの物が貰えるんだもんな」
「きんきゅーじたい、きんきゅーじたい!」
「クラウス、これ、なあにー?」
「おい、何を勝手に開けてるんだ、お前は!」
「俺、これにしよーっと!」
「僕は、これにするー!」
「待て! せめて俺に一度見せてからにしろ!」
「俺は本にしよっかなー。なんかどれも難しそ。ねー、マンガないのー?」
「あるわけないだろう」
「あ! 僕、クラウスのノート欲しい!」
「うわ、俺もそれがいい! 数学のノートくれよ! これで来年の数学は100点だぜ!」
「僕も数学が良かったー! じゃあ、歴史にしようかな。クラウス、歴史取ってる?」
「ノートは絶対にダメだ!」
「えー」
「勉強は自分でしろ。先輩のノートに頼るなど言語道断だ。
大体、今年と来年では内容が変わるから、俺のノートを持っていたところで意味はないぞ」
「ちぇー」
「使ってないペンとかない? クラウスのペンでテスト受けたら、点数上がりそう」
「それイイな!」
「だから、点数は自分で勉強して上げろ」
「お父さん、おんぶー」
「何故、俺の背中に乗る!?」
「俺も乗っちゃおー」
「わーい! 僕もー!」
「……お前ら、俺を押し潰して、そんなに楽しいか」
「たのしー!」
「今すぐ降りろー!」
サロンに戻ってきた生徒達は、クラウスの部屋でゲットしてきた戦利品を見せ合っていた。
「お前、何貰ったのー?」
「消しゴムー」
「うわ、どシンプルなデザインの消しゴムだな。イマドキそんなのないだろ」
「俺はTシャツだぜ!」
「えー! それ、カッコイイ!」
シュヌーシアの生徒達が出ていったクラウスの部屋は、惨状だった。
綺麗に整理整頓してダンボールに入れた荷物まで、順番がめちゃくちゃになった。
シリーズ物の本は、一巻から十巻まで正しく並べたいのに。
箱の外も散らかし放題である。何故、出した物が元の場所に戻せない?
これでは、引っ越し作業の前に大掃除が必要だ。頭が痛い。もう叱る気力さえなかった。
「クー、ラー、ウー、スー!」
叫び声が物凄いスピードで近付いてくる。勢い良くドアが開いた。
ウーティス寮のシルヴァン・クラークだ。
「今ならもれなく、クラウスの使用済みグッズが貰えると聞いたのですが!」
その夜。
クラウスの部屋は、やっと今日の放課後前の状態に戻った。もう消灯時間である。
「疲れた……」
壁に貼ったスケジュール表の前に立つ。今日の日付にバツ印を付けた。クラウスは頭垂れた。
「今日も予定通りに進まなかった」
クラウスの持ち物が貰えるという話が広がり、大勢の生徒が来て、部屋を引っ掻き回していった為、
派手に散らかされた部屋の片付けをしただけで一日終わってしまったのだ。
「只でさえ、作業が遅れているというのに、あいつらめ」
寮生達が居るから、何かと邪魔されて進まないのだ。あいつらが居なければ、スムーズに終わるだろう。
しかし、ここを卒業すれば、そんなこともなくなる。
部屋を荒らされたり、無駄話をしたり、突然おんぶをせがまれるようなことも。
あいつらの誰とも会えなくなるのだから。
「明日こそ、遅れを取り戻さなくてはな」
クラウスは思考を停止させた。
夜中に余計なことを考えて睡眠時間が削れ、明日の講義で眠たくなることほど、無駄なことはない。
そういう時は寝るに限るのだ。今日は早く寝よう。そう思った。
カーテンさえ閉めていなかったことに今更気が付く。
窓辺に立つと、寮を出ていく人影が見えた。
クラウスの部屋は二階。人影の後ろ姿が見える。
特例を除き、夜間に寮の外に出ることは校則で禁じられている。例え学院の敷地内であってもだ。
「誰だ、こんな時間に」
クラウスの視力は1.5を維持しているが、流石に夜では、はっきりとは見えない。
目を凝らす。月光が一瞬見せた髪は金色に見えた。
クラウスは窓を全開にする。部屋に夏の生温い夜風が吹き込んだ。
窓枠に手を掛け、着地点を確認する。二階だが、この高さなら、いける。
月桂樹の青い香りがする。
テオは幹に凭れて、一人で月を見上げていた。木と木の間から、薄雲を纏った月がぼんやり見える。
時折何かの鳴き声が聞こえた。森に棲む夜行性の動物だろう。幾つかの光る目が遠くからテオを見守っていた。
テオは何をするでもなく、ただ月を見ている。白いワイシャツ姿、リボンタイはしていない。
寝間着に着替える前に、ここに来たのだ。
今日もきっと眠るまでに時間がかかるだろうから。
一羽のナイチンゲールが地面に下りてきた。それにテオが気付く。鳥と人間の目が合った。
小鳥は逃げずに、首を左右に傾げている。テオは静かに言った。
「ごめんね、ナイチンゲール君。君達の時間に森に来て。邪魔はしないから、もう少しここに居させておくれ」
小鳥はちょんちょんと歩き、辺りに落ちている葉を啄み始めた。
それを見てテオは、ありがとう、と呟いてまた夜空を仰いだ。
森の上には星空が広がっている。テオの位置からは、その全景は見られない。
木々の隙間から、ほんの少し見えるだけだった。
生暖かい風が、テオの横をゆっくりと通り過ぎていく。
闇夜の中に居ると、このまま朝は来ないんじゃないか、という考えが浮かび、消えていった。
食事中の小鳥が急に木の上に飛び立った。どうしたんだろう、と思った時、声が聞こえた。
「夜間に出歩いてる奴、出て来い! おい! 居るんだろう! 隠れても無駄だぞ!」
駆けてくる足音と共に、叱る声が近付いてくる。
彼はテオの前に姿を現した。眉間に皺を寄せた、いつもの顔をして。
「やっぱりお前か、テオ」
「クラウス……どうして、ここに」
「お前が寮を出ていくのを見たんだ。夜間の外出は校則違反だろうが!」
「あ、うん。でも、クラウスだって、ここに居るじゃないか?」
「俺は……お前を連れ戻しに来たんだ! お前は何やってたんだ、こんな時間に」
「別に何も。今宵は眠れなくてね」
「具合が悪いのか? なら、行く場所は森ではなく保健室だろう」
「ううん。身体は何ともないから」
「そうなのか? じゃあ、寮に戻るぞ」
「うん」
暗い森を歩く。月明かりだけが森を仄かに照らしている。
少し遠くに見えるウーティス寮の明かりが、森の出口を示す目印だ。
日中は快く聞こえる鳥の鳴き声も、夜中では不気味にさえ聞こえた。
草を踏む二人の足音がやけに大きく響いた。
歩幅が大きいクラウスが、テオより先に進んでいく。
少し離れれば、その背中は闇に紛れて、見えなくなりそうだった。
今なら、追い駆ければ彼に手が届く。名を呼べば貴方は止まってくれる。
だけど、1か月後には。
「遅いぞ、テオ。何、立ち止まってる」
腰に手を置いている。
「夜間に出歩くことは禁止事項なんだぞ? 誰かに見られたら示しがつかん。早く歩け」
「うん」
テオは重い足を踏み出した。
→
帝王学の教室に、教授の声が響いている。
誰より真剣な眼差しで板書している生徒が、今年度の生徒代表だった。
高等部三年のクラウス・フォン・モール。
ドイツ軍人の家系に生まれ、規律に厳しい生真面目な男に育った。
授業態度は極めて良く、試験の点数もトップクラスである。
「もし手に入れば高得点間違いなし」と噂される黄金のノートが作成されつつあった。
隣の席に居る金髪の生徒は、テオ・メネシス。高等部二年。
クラウスと同じシュヌーシア寮だ。
テオは、教授の声を写し取る様子は見られない。手は頬の下で固定されたままだ。
ぼうっとした表情で、窓の外を眺めていた。
「彼は、イタリア・ルネッサンス期の政治思想家、代表作は君主論です」
この講義を担当しているのは、フランスから来た大学教授。眼鏡が似合う四十代前半の紳士。
帝王学を専攻しているとは思えないほど、柔らかな雰囲気を纏っている。
今日も優しい声で授業をしていた。
「俗に、目的の為なら手段を選ばないといった思想を何と言うでしょう?」
教室を見渡し、目の合った生徒の名を呼んだ。
「クラウス、解りますか?」
テオの視線が窓から隣の席へ移る。クラウスは教授の目を見て答えた。
「マキャベリズムです」
「はい、正解です」
「教授、マキャベリズムについて質問をしても宜しいでしょうか?」
「どうぞ」
「教授が仰った意味は、実際は誤解であり、
マキャベリの思想とは異なっていると唱える説がありますよね?」
生徒達の視線が教壇に向けられる。眼鏡の教授は微笑んだ。
「ええ。今週もしっかり予習してきていますね、クラウス」
「その相違点について、詳しく伺えますか?」
解りました、と言って、教授は解説を始めた。
「一般的にマキャベリズムという言葉は、単に『目的』の為なら手段を選ばないという意味で使われていますが、
マキャベリの思想は、『国の利益』になるなら冷酷非道な手段も厭わない、という考え方です。
国の為、この部分が重要なのです。マキャベリにそう思わせたのは、イタリアに咲いた悪の華、
イタリア統一の為に冷酷非道な暗殺を重ねた、チェーザレ・ボルジアだと言われています」
クラウスは教授の目を見ながら話を聞いている。その熱心な横顔をテオが見守っている。
「当時のイタリアは数多くの小国に分裂していた為、全てを統べる王を求めていたマキャベリにとって、
チェーザレはまさに理想の君主でした。マキャベリはチェーザレを評して、
『彼は広大な目的を達成する為に、自らの行動を制御していた。
新たに君主となる者は彼を見習うべき』という言葉を残しています」
クラウスはノートにメモを取り、赤ペンで素早くラインを引いた。
「チェーザレは毒殺のイメージが強く、自己犠牲のイメージがないかもしれませんが、
彼は父の期待に応え、日夜良く働きました。数々の作戦を成功させ、謀反する部下は容赦なく葬りました。
一時の感情に流されない、彼の非情なまでの冷酷さが、新たな秩序と忠誠を生みだしたのは事実です」
テオは再び空を眺める。雲がゆっくりと泳いでいた。
授業終了の鐘が鳴る。教授は教科書を閉じた。
「今日学んだマキャベリの君主論は、よく復習しておくように。
来週はジャンティエの反マキャベリ論を紐解いていきましょう」
ありがとうございました、クラウスがいつものように折り目正しく礼をした。
帝王学の教室を出た。テオとクラウスは肩を並べて廊下を歩いている。
今日の授業はこれで終わり。帰る先は、二人ともシュヌーシア寮だ。
「テオ、今日の授業、ちゃんと聞いていたか?」
「え? うん。マキャベリズム、だろう? 今日も褒められていたね、クラウス」
「今日のテーマはマキャベリだ。マキャベリズムの部分しか聞いていなかったんじゃないのか?」
テオが笑顔を見せると、クラウスは苦い顔をした。
「クラウス」
誰かに呼ばれた。クラウスとテオは、声のしたほうに振り向く。
そこに居たのはウーティス寮の二人。高等部一年のジョシュアと中等部三年のアンリだった。
声から判断して、クラウスを呼んだのは、バニラボイスと讃えられるほう。
華奢で少女のような顔をしている、クラウスの苦手な相手だ。少し怪訝な様子で尋ねる。
「何だ、アンリ」
アンリが背の高いクラウスを少し見上げる。鼻筋でさえツンと美しく整っている。
「返事、まだ聞いてないんだけど?」
「え? ああ、すまん。忙しくて忘れていた」
「来るよね?」
「行ってもいいんだが、何故お前が俺を誘う?」
「だって、貴方が来ないと、つまらない」
おや、とテオが口を挟む。
「これはまた、いつの間に。デートの約束かい?」
クラウスは呆れている。
「誰がこいつとデートなんかするか。チェスパーティに招待されたんだ」
「それはそれは。素晴らしいパーティだね、アンリ。
私はまだ呼ばれていないようだけど、招待状はこれから届くのかな?」
「届かないよ。貴方は弱いでしょう、チェス。ギャラリーに居ても煩さそうだし」
それまで黙っていたジョシュアが、アンリ、と窘めた。それをアンリは無視して、
「じゃ、必ず来てね、クラウス」
ジョシュアは先輩二人に会釈してから友人の背中を追い駆けた。
校舎を出たところで、また他の生徒に声を掛けられた。
「あっ! お父さーん!」
長い髪を跳ねさせながら、長身の生徒が駆けてくる。
ウーティス寮の高等部一年、シルヴァン・クラークだ。
シルヴァンがこの学院に入学したのは約一年前。入学初日から外泊したワイルドボーイとして一躍有名になった生徒だ。
それ以降も懲りずに、何度も無断外泊、無断外出を重ねた、言わば問題児。
その度に生徒代表のクラウスは手を焼かされてきた。シルヴァンの顔を見ると、条件反射的にしかめっ面になるのも無理はない。
「今日は何だ、シルヴァン」
「卒業パーティの日、決まりましたか?」
「ああ、そのことか。まだ日程の調整ができなくてな。予定より少し早くなりそうだ」
テオの肩が小さく跳ねた。クラウスは生徒手帳に書いたスケジュールを見ながら、
「おそらく、八月の上旬になるだろうな」
「上旬? もう残りひと月じゃないですか!」
「俺が居なくなったからと言って、夜遊びばかりするなよ? 学生は勉強が本分なんだからな」
「そうですね。そんなにしないと思いますよ、夜遊びは」
「本当だろうな?」
「はい。だって、貴方が居なくなったら、夜遊びする意味がなくなっちゃうじゃないですか」
「……どういう意味だ、それは」
「まあまあ。えっとー、八月の上旬に卒業パーティがあるなら、
僕は、夏休みを中旬くらいから取ればオッケーですね」
「別に、無理をして、出席しなくても良いんだぞ?
年に一度の夏期休暇だ。島でじっとしていられないだろう、お前は」
「いいえ。クラウスの卒業パーティには絶対に行きますよ。
僕、貴方には、入学初日からお世話になってますからね」
「ああ……あの頃のお前は酷かったからな」
「もー、酷いだなんてー。僕のおかげでスリリングな日々だったじゃないですか」
「馬鹿。散々人に迷惑を掛けておいて。
しかし、入学当時に比べると、まあ、お前も随分落ち着いたな」
「きゃはっ。お父さんに褒められちゃいました!」
「お父さんって言うな!」
怒られて、シルヴァンは笑っていた。
話が終わると、彼は手を振りながらウーティス寮へ帰っていった。
クラウスとテオは再びシュヌーシア寮へ向かって歩き始める。
テオは俯いたまま言った。
「モテモテだね、クラウス。よくお声が掛かる」
クラウスは苦い顔をする。
「変な言い方をするな。俺の卒業が近いからだろ?
どいつもこいつも、こんな時期になってから、ドタバタと予定を詰め込みやがって。
こっちは卒業準備で忙しいっていうのに」
「さっきの話は本当なのかい? 八月の上旬だなんて。中旬か下旬になるって話だったのに」
「ああ。帰国後は色々と出向くところもあるし、当初の予定より忙しくなりそうだから、
早めに帰って事前に準備しておきたいんだ」
そう、とテオは言った。
「クラウス! クラウス! オイ! クラウス!」
随分と甲高い声で呼ばれた。人間の声ではない。
クラウス達の後方に居たのは、浅黒い肌の生徒。髪は長く、緩やかな波のある金色。
アルファルド寮のジャワハルワールだ。その左肩には白いオウムが乗っていた。
その鳥と親しいテオが笑顔で挨拶する。
「おや。こんにちは、オウム君、ジャワハルワール」
オウムもフランクな様子で片翼を挙げる。
「テオ! タイヨウとウミをアイするオトコ! クラウス、セイトダイヒョウ!」
「相変わらず素晴らしい記憶力だね。流石はジャワハルワールのオウム君」
「テオ、クラウス、イツモイッショ! シュヌーシアのオトーサンとオカーサン!」
「おや。嬉しいことを言ってくれるねえ、オウム君」
「……誰だ、余計なことを教えた奴は」
クラウスはオウムとジャワハルワールを見比べて、人間のほうに尋ねた。
「それで、俺に用か、ジャワハルワール」
答えたのはオウムだった。
「クラウス、パーティのヒ、キマッター?」
ジャワハルワールはクラウスを見つめてはいるが無言だった。オウムは言葉を繰り返す。
「キマッター? キマッター?」
「……いや、まだだが」
クラウスは鳥との会話がやりにくそうだった。
テオは気にならない様子で、鳥に向かって話し掛ける。
「オウム君。パーティは八月の上旬になるそうだよ?」
「ハチガツ、ジョウジュン!」
「オウム君とジャワハルワールもクラウスのパーティに行くのかい?」
「クラウスのパーティ、イクー!」
「では、卒業パーティの日時が決まったら、
アルファルドにも連絡を回さなくてはね、クラウス?」
「本当にお前も来る予定なのか、ジャワハルワール」
クラウスが人間のほうに確認をとると、彼は静かに頷いた。鳥が喋る。
「クラウス、タスケテクレター! クラウス、ツヨイ!」
「おや。クラウス、オウム君を助けたことがあったのかい?」
「いや、まあ、猫を追っ払ったことはあるが」
「猫?」
「もう随分昔のことだが、森で、この鳥が、
猫と一触即発の現場に出くわしたことがあったんだ。
無用な殺生は避けるべきだろう、動物も人間も」
「アリガトー! クラウス、イイヤツ!」
「隅に置けない人だね、オウム君まで虜にするとは」
「だから、お前は可笑しな言い方をするな」
「クラウス! ソツギョウしたら、ジャワハルワールのクニに、アソビにキテネー!
ジャワハルワール、コクオウ! ジャワハルワールにバンザイ!」
ジャワハルワールが踵を返す。向かう方向はアルファルド寮だ。
鳥と人間の後ろ姿を見ながら、クラウスが独りごちる。
「少し見ない間に、またお喋りになったな、あの鳥は」
テオが手を振る。
「オウムくーん、またねー、愛してるよー!」
すると、オウムが反応した。
「マタネー、アイシテルヨー!」
クラウスが肩を落とす。
「テオ。鳥にまでヘンな言葉を教えるんじゃない」
「妬いてくれたのかい、クラウス?」
「違う」
「心配しなくとも、私が誰を一番愛しているかは知っているだろう?」
「……帰るぞ」
「そうだね。私達の家に帰って、ブレイクタイムにしよう。
今日は私もエスプレッソにしようかな。クラウスも飲むだろう?」
ああ、と頷いた後で「いや、やっぱり、いい」
「え?」
「部屋の片付けがある。昨日は生徒代表の仕事があって作業が進まなかったからな」
クラウスが自室で、荷物の整理をしていると、寮生がやってきた。
「おっ。引っ越し準備、進んでるねー」
クセのある茶髪は、彼の性格を示すように縦横無尽に跳ねている。
中等部一年のレオン。生意気な最年少だ。
壁に貼られていた紙を見て、一年生は「うわ」と言った。
「ちょ、クラウス。これ何だよ」
クラウスは本をダンボールに詰めながら、
「何って。見れば解るだろ。卒業準備の計画表だ」
七月から八月まで片付けや手続きのスケジュールが事細かに記されていた。
生真面目で几帳面なクラウスは、何事も事前に計画を立て、その予定通りに事を運びたい性格だった。
試験期間中も、同様の計画表を必ず作るタイプだった。
レオンは綿密なスケジュール表を見て、げっそりしている。
「あんたって、こういうトコまできっちりしてるよな、気持ち悪いくらい」
「人のこと気持ち悪いって言うな。なんだ、レオン。邪魔しに来たのか?」
「どっちかって言うと、俺、あんたの手伝いに来たんだけど?」
「お前が?」
「うん」
そう言って、レオンは右手を差し出した。
「ちょーだい?」
「何を?」
「何でも良いから、あんたの持ち物、いっこくれよ。
引っ越し荷物は少ないほうが良いだろ? 俺がいっこ減らしてやるよ」
レオンは人差し指にひっかけたキーホルダーを振り回しながら、サロンに入った。
錆びた金色の渋い光。放課後のサロンでくつろいでいた生徒達の目に留まる。
レオンと仲が良く、同じ中等部一年のラビが尋ねる。
「あれ? レオン、それ、どうしたの? そんなの持ってたっけ?」
レオンはフフンと笑って「クラウスに貰ったー」
クラウスの部屋。
引き続き片付けをしている最中、ドドドと床が揺れた。
「な、なんだ。地震か?」
シュヌーシアの寮生達が雪崩れ込むように部屋に入ってきた。
「クラウスー! 僕にもなんかちょーだーい!」
「俺も俺もー!」
「なっ!? お前達、全員か!?」
生徒達は元気良く頷いた。
「レオンにはあげたんだろー! 俺にはくれないのかよー! ケチー!」
「いや、しかし、そんな大勢で来られてもだな……その前に言っておきたいことがある!」
「何?」
「廊下は緊急時以外走るな!」
「緊急事態だよね?」
「うん。クラウスの物が貰えるんだもんな」
「きんきゅーじたい、きんきゅーじたい!」
「クラウス、これ、なあにー?」
「おい、何を勝手に開けてるんだ、お前は!」
「俺、これにしよーっと!」
「僕は、これにするー!」
「待て! せめて俺に一度見せてからにしろ!」
「俺は本にしよっかなー。なんかどれも難しそ。ねー、マンガないのー?」
「あるわけないだろう」
「あ! 僕、クラウスのノート欲しい!」
「うわ、俺もそれがいい! 数学のノートくれよ! これで来年の数学は100点だぜ!」
「僕も数学が良かったー! じゃあ、歴史にしようかな。クラウス、歴史取ってる?」
「ノートは絶対にダメだ!」
「えー」
「勉強は自分でしろ。先輩のノートに頼るなど言語道断だ。
大体、今年と来年では内容が変わるから、俺のノートを持っていたところで意味はないぞ」
「ちぇー」
「使ってないペンとかない? クラウスのペンでテスト受けたら、点数上がりそう」
「それイイな!」
「だから、点数は自分で勉強して上げろ」
「お父さん、おんぶー」
「何故、俺の背中に乗る!?」
「俺も乗っちゃおー」
「わーい! 僕もー!」
「……お前ら、俺を押し潰して、そんなに楽しいか」
「たのしー!」
「今すぐ降りろー!」
サロンに戻ってきた生徒達は、クラウスの部屋でゲットしてきた戦利品を見せ合っていた。
「お前、何貰ったのー?」
「消しゴムー」
「うわ、どシンプルなデザインの消しゴムだな。イマドキそんなのないだろ」
「俺はTシャツだぜ!」
「えー! それ、カッコイイ!」
シュヌーシアの生徒達が出ていったクラウスの部屋は、惨状だった。
綺麗に整理整頓してダンボールに入れた荷物まで、順番がめちゃくちゃになった。
シリーズ物の本は、一巻から十巻まで正しく並べたいのに。
箱の外も散らかし放題である。何故、出した物が元の場所に戻せない?
これでは、引っ越し作業の前に大掃除が必要だ。頭が痛い。もう叱る気力さえなかった。
「クー、ラー、ウー、スー!」
叫び声が物凄いスピードで近付いてくる。勢い良くドアが開いた。
ウーティス寮のシルヴァン・クラークだ。
「今ならもれなく、クラウスの使用済みグッズが貰えると聞いたのですが!」
その夜。
クラウスの部屋は、やっと今日の放課後前の状態に戻った。もう消灯時間である。
「疲れた……」
壁に貼ったスケジュール表の前に立つ。今日の日付にバツ印を付けた。クラウスは頭垂れた。
「今日も予定通りに進まなかった」
クラウスの持ち物が貰えるという話が広がり、大勢の生徒が来て、部屋を引っ掻き回していった為、
派手に散らかされた部屋の片付けをしただけで一日終わってしまったのだ。
「只でさえ、作業が遅れているというのに、あいつらめ」
寮生達が居るから、何かと邪魔されて進まないのだ。あいつらが居なければ、スムーズに終わるだろう。
しかし、ここを卒業すれば、そんなこともなくなる。
部屋を荒らされたり、無駄話をしたり、突然おんぶをせがまれるようなことも。
あいつらの誰とも会えなくなるのだから。
「明日こそ、遅れを取り戻さなくてはな」
クラウスは思考を停止させた。
夜中に余計なことを考えて睡眠時間が削れ、明日の講義で眠たくなることほど、無駄なことはない。
そういう時は寝るに限るのだ。今日は早く寝よう。そう思った。
カーテンさえ閉めていなかったことに今更気が付く。
窓辺に立つと、寮を出ていく人影が見えた。
クラウスの部屋は二階。人影の後ろ姿が見える。
特例を除き、夜間に寮の外に出ることは校則で禁じられている。例え学院の敷地内であってもだ。
「誰だ、こんな時間に」
クラウスの視力は1.5を維持しているが、流石に夜では、はっきりとは見えない。
目を凝らす。月光が一瞬見せた髪は金色に見えた。
クラウスは窓を全開にする。部屋に夏の生温い夜風が吹き込んだ。
窓枠に手を掛け、着地点を確認する。二階だが、この高さなら、いける。
月桂樹の青い香りがする。
テオは幹に凭れて、一人で月を見上げていた。木と木の間から、薄雲を纏った月がぼんやり見える。
時折何かの鳴き声が聞こえた。森に棲む夜行性の動物だろう。幾つかの光る目が遠くからテオを見守っていた。
テオは何をするでもなく、ただ月を見ている。白いワイシャツ姿、リボンタイはしていない。
寝間着に着替える前に、ここに来たのだ。
今日もきっと眠るまでに時間がかかるだろうから。
一羽のナイチンゲールが地面に下りてきた。それにテオが気付く。鳥と人間の目が合った。
小鳥は逃げずに、首を左右に傾げている。テオは静かに言った。
「ごめんね、ナイチンゲール君。君達の時間に森に来て。邪魔はしないから、もう少しここに居させておくれ」
小鳥はちょんちょんと歩き、辺りに落ちている葉を啄み始めた。
それを見てテオは、ありがとう、と呟いてまた夜空を仰いだ。
森の上には星空が広がっている。テオの位置からは、その全景は見られない。
木々の隙間から、ほんの少し見えるだけだった。
生暖かい風が、テオの横をゆっくりと通り過ぎていく。
闇夜の中に居ると、このまま朝は来ないんじゃないか、という考えが浮かび、消えていった。
食事中の小鳥が急に木の上に飛び立った。どうしたんだろう、と思った時、声が聞こえた。
「夜間に出歩いてる奴、出て来い! おい! 居るんだろう! 隠れても無駄だぞ!」
駆けてくる足音と共に、叱る声が近付いてくる。
彼はテオの前に姿を現した。眉間に皺を寄せた、いつもの顔をして。
「やっぱりお前か、テオ」
「クラウス……どうして、ここに」
「お前が寮を出ていくのを見たんだ。夜間の外出は校則違反だろうが!」
「あ、うん。でも、クラウスだって、ここに居るじゃないか?」
「俺は……お前を連れ戻しに来たんだ! お前は何やってたんだ、こんな時間に」
「別に何も。今宵は眠れなくてね」
「具合が悪いのか? なら、行く場所は森ではなく保健室だろう」
「ううん。身体は何ともないから」
「そうなのか? じゃあ、寮に戻るぞ」
「うん」
暗い森を歩く。月明かりだけが森を仄かに照らしている。
少し遠くに見えるウーティス寮の明かりが、森の出口を示す目印だ。
日中は快く聞こえる鳥の鳴き声も、夜中では不気味にさえ聞こえた。
草を踏む二人の足音がやけに大きく響いた。
歩幅が大きいクラウスが、テオより先に進んでいく。
少し離れれば、その背中は闇に紛れて、見えなくなりそうだった。
今なら、追い駆ければ彼に手が届く。名を呼べば貴方は止まってくれる。
だけど、1か月後には。
「遅いぞ、テオ。何、立ち止まってる」
腰に手を置いている。
「夜間に出歩くことは禁止事項なんだぞ? 誰かに見られたら示しがつかん。早く歩け」
「うん」
テオは重い足を踏み出した。
→
■テオ×クラウス
■過去の拍手お礼
■過去の拍手お礼
聖アルフォンソ学院に鐘の音が鳴り響く。今日の講義が全て終了した。
生徒達は教室から出て、それぞれの寮に戻って行く。
「ああ。今日のクラウスも、とても凛々しかった」
帝王学の教室では、テオが満足の笑顔を見せている。
隣の席のクラウスは、呆れの溜め息を吐く。
「お前なあ。授業中に、俺に注目するなといつも」
「発言している時くらいは良いじゃないか」
「お前の視線は、痛いほど感じるんだよ」
「だって、貴方のことが、いと」
愛おしいのだもの、と続く前に唇を右手で抑えた。全く、こいつの友情表現は大袈裟過ぎて困る。
無言のまま、テオを目で注意すると、ちっとも悪びれない笑顔を見せられた。
急激にどうでもよくなり、「帰るぞ」と手を離した。
校舎を出て、寮まで肩を並べて歩いていく。クラウスは一日が終わった疲れを感じながらも、
寮に戻ったら、あれとこれの予習復習をして、などと頭の中は忙しく動いていた。
それにつられたのか、歩調が早くなっていた。
自分の歩幅が他人と比べて大きく、足が早い自覚はあった。
テオの歩みが自分よりずっと遅いことも知っている。
誰かと一緒に歩く時は意識して速度をセーブして歩かなくてはならない。
遅く歩こうとしたら、テオが立ち止まった。
「どうした?」
「今日も綺麗な夕焼けだね。なんて美しいのだろう」
クラウスは顔を上げる。空はすっかり橙色になっていた。
太陽と海を愛していると言って憚らない友人が、赤い太陽に見惚れている。
クラウスは友人の横顔を見ながら、少し疑問を感じていた。
この時刻になれば、空の色は変わる。毎日繰り返される、当たり前の現象なのに。
それにいちいち感動できるテオのことが、クラクスには不思議で、少しだけ羨ましくも感じていた。
学問や運動神経においては自信がある。もちろんテオよりも。
けれど、性格や感性は、あちこちに欠陥があるのだと、この学院に入ってから気付かされた。
こと感受性についてはテオより明らかに劣っている。
テオに言われなければきっと、夕陽も見ずに、寮に入っただろう。
ただ前を向いて歩いている自分には、感動以前に、
足を止めて空を見上げてみることさえできないのだから。
それが生きる上で必要なことなのか、と聞かれれば答えに詰まる。
だが、自分に足りない部分があること、負けていることが、悔しいのだ。
「ねえ、クラウス」
夕陽を愛でながら、ゆったりとテオは言った。
「どうして、夕焼けは美しいか、解るかい?」
「ああ」
なんだ、そんなこと、と思った。
「レイリー散乱によるものだろう?」
イギリスの物理学者、レイリー卿が発見した現象。空が青く、夕焼けが赤い理由だ。
夕方は、昼間と比べて、太陽と地上までの距離が長い。
波長の短い青色光は途中で散乱して届かず、波長の長い赤色光だけが届くことによる。
物理学の試験でも、そう回答して正解している。
しかし、何故かテオに笑われた。
「何が可笑しい? 間違っているとでも言うのか?」
「いや。真面目だねえ、クラウスは。
もちろん、貴方の答えも正解なのだろうけれど、私が用意していた正解とは違うな」
他の答えは存在しない筈。クラウスは不満だった。
「じゃあ、なんだ?」
「夕焼けが美しいのはね?」
テオは空を見つめる。
「地球上の全てを癒す為なのだよ? 皆の今日の疲れ、悲しみ、傷を慰める為に」
だから美しいの、とテオは笑った。
ああ、まただとクラウスは思う。こいつと話していると、時々こういう瞬間が訪れる。
何かと理詰めで物事を考えるくせがある自分と、
全く正反対の、空想的で壮大な発想を持っている友人。
テオの言葉は、1ミリも科学的でないのに。
それでもどこか、的を突いているようにも思えるのだ。
「誰が決めたんだ、そんなこと」
悔し紛れに呟くと、笑顔が返ってきた。
「私の姉上」
「あの人か」
テオの家へ招かれた時に会ったことがある。弟と良く似た、美しい女性。
「姉上が言うのだから間違いないよ。ね、クラウスもそう思うだろう?」
問われて、夕空を仰ぐ。黄、橙、赤と溶け合った青。
どんな絵の具を使っても、あの色は出せない気がする。
「メネシス家らしい正解だとは思う」
テオの言葉を否定することはできなかった。
さっきまで感じていた一日の疲れは、どこに消えたのだろう?
クラウスは顔を空に向ける。ゆっくりと橙色の雲が流れていく。
そんな可能性があっても良いのかもしれない、1ミリくらいは。
「……俺も大分、毒されているな、お前に」
「え? ごめん、聞こえなかったよ、クラウス。なんだい?」
「いいや。早く帰るぞ」
クラウスが歩き出すと、「そうだね」とテオが付いて来る。
「うちに着いたら、エスプレッソにする? それとも」
「エスプレッソ」
二人の長い影が夕陽に照らされていた。
fin
生徒達は教室から出て、それぞれの寮に戻って行く。
「ああ。今日のクラウスも、とても凛々しかった」
帝王学の教室では、テオが満足の笑顔を見せている。
隣の席のクラウスは、呆れの溜め息を吐く。
「お前なあ。授業中に、俺に注目するなといつも」
「発言している時くらいは良いじゃないか」
「お前の視線は、痛いほど感じるんだよ」
「だって、貴方のことが、いと」
愛おしいのだもの、と続く前に唇を右手で抑えた。全く、こいつの友情表現は大袈裟過ぎて困る。
無言のまま、テオを目で注意すると、ちっとも悪びれない笑顔を見せられた。
急激にどうでもよくなり、「帰るぞ」と手を離した。
校舎を出て、寮まで肩を並べて歩いていく。クラウスは一日が終わった疲れを感じながらも、
寮に戻ったら、あれとこれの予習復習をして、などと頭の中は忙しく動いていた。
それにつられたのか、歩調が早くなっていた。
自分の歩幅が他人と比べて大きく、足が早い自覚はあった。
テオの歩みが自分よりずっと遅いことも知っている。
誰かと一緒に歩く時は意識して速度をセーブして歩かなくてはならない。
遅く歩こうとしたら、テオが立ち止まった。
「どうした?」
「今日も綺麗な夕焼けだね。なんて美しいのだろう」
クラウスは顔を上げる。空はすっかり橙色になっていた。
太陽と海を愛していると言って憚らない友人が、赤い太陽に見惚れている。
クラウスは友人の横顔を見ながら、少し疑問を感じていた。
この時刻になれば、空の色は変わる。毎日繰り返される、当たり前の現象なのに。
それにいちいち感動できるテオのことが、クラクスには不思議で、少しだけ羨ましくも感じていた。
学問や運動神経においては自信がある。もちろんテオよりも。
けれど、性格や感性は、あちこちに欠陥があるのだと、この学院に入ってから気付かされた。
こと感受性についてはテオより明らかに劣っている。
テオに言われなければきっと、夕陽も見ずに、寮に入っただろう。
ただ前を向いて歩いている自分には、感動以前に、
足を止めて空を見上げてみることさえできないのだから。
それが生きる上で必要なことなのか、と聞かれれば答えに詰まる。
だが、自分に足りない部分があること、負けていることが、悔しいのだ。
「ねえ、クラウス」
夕陽を愛でながら、ゆったりとテオは言った。
「どうして、夕焼けは美しいか、解るかい?」
「ああ」
なんだ、そんなこと、と思った。
「レイリー散乱によるものだろう?」
イギリスの物理学者、レイリー卿が発見した現象。空が青く、夕焼けが赤い理由だ。
夕方は、昼間と比べて、太陽と地上までの距離が長い。
波長の短い青色光は途中で散乱して届かず、波長の長い赤色光だけが届くことによる。
物理学の試験でも、そう回答して正解している。
しかし、何故かテオに笑われた。
「何が可笑しい? 間違っているとでも言うのか?」
「いや。真面目だねえ、クラウスは。
もちろん、貴方の答えも正解なのだろうけれど、私が用意していた正解とは違うな」
他の答えは存在しない筈。クラウスは不満だった。
「じゃあ、なんだ?」
「夕焼けが美しいのはね?」
テオは空を見つめる。
「地球上の全てを癒す為なのだよ? 皆の今日の疲れ、悲しみ、傷を慰める為に」
だから美しいの、とテオは笑った。
ああ、まただとクラウスは思う。こいつと話していると、時々こういう瞬間が訪れる。
何かと理詰めで物事を考えるくせがある自分と、
全く正反対の、空想的で壮大な発想を持っている友人。
テオの言葉は、1ミリも科学的でないのに。
それでもどこか、的を突いているようにも思えるのだ。
「誰が決めたんだ、そんなこと」
悔し紛れに呟くと、笑顔が返ってきた。
「私の姉上」
「あの人か」
テオの家へ招かれた時に会ったことがある。弟と良く似た、美しい女性。
「姉上が言うのだから間違いないよ。ね、クラウスもそう思うだろう?」
問われて、夕空を仰ぐ。黄、橙、赤と溶け合った青。
どんな絵の具を使っても、あの色は出せない気がする。
「メネシス家らしい正解だとは思う」
テオの言葉を否定することはできなかった。
さっきまで感じていた一日の疲れは、どこに消えたのだろう?
クラウスは顔を空に向ける。ゆっくりと橙色の雲が流れていく。
そんな可能性があっても良いのかもしれない、1ミリくらいは。
「……俺も大分、毒されているな、お前に」
「え? ごめん、聞こえなかったよ、クラウス。なんだい?」
「いいや。早く帰るぞ」
クラウスが歩き出すと、「そうだね」とテオが付いて来る。
「うちに着いたら、エスプレッソにする? それとも」
「エスプレッソ」
二人の長い影が夕陽に照らされていた。
fin
■テオ×クラウス
■過去の拍手お礼
■過去の拍手お礼
今日のウーティス寮サロンには、シュヌーシア寮のクラウスとテオが来ていた。
ウーティスに遊びに行きたくなったテオが、強引にクラウスを引っ張ってきたのである。
全校の中でも人気のある二人組の登場に、放課後のサロンは俄かに賑やかになる。
生徒代表のクラウスは、高等部一年のシルヴァンに掴まっていた。
嫌そうな顔をしながらも、クラウスは後輩の相手をしている。
「それで、また外出届を提出せずに、遊びに行ったのか、お前は。
何故、そんな簡単な規則が守れない」
「だって、面倒じゃないですか」
「面倒などという問題ではないだろう」
小言を言われる度シルヴァンは楽しそうに笑っている。
「クラウスってば本当にお父さんみたいですよねっ! もっと叱って下さい、お父さん」
「あのなあ」
「そこの人達。もう少し静かにしてくれない?」
隅の席から冷たい毒舌が飛んでくる。
「すみません、アンリ」
シルヴァンが謝る。クラウスは声を潜めた。
「相変わらずだな、あいつは」
「ご機嫌なアンリの方が怖いですよ。想像できます?」
クラウスは機嫌の良いアンリを想像して身震いした。
「……いや」
「でしょう? やっぱりバニラボイスは、ひんやり冷たくないと」
「バニラ?」
「ほら、テオも楽しそうですよ?」
テオはアンリの前で、いつものように感動を言葉にしていた。
「ああ、なんと美しい氷の微笑なのだろう。氷の国のお姫様のようだ」
テオは以前から、この美しい中等部三年生を可愛がっていた。
ミステリアスな家柄、永遠と言われる美貌、小生意気な性格、その全てに心惹かれていた。
アンリは、そんなテオのことが得意ではなかった。
「もう少し離れてくれないかな、テオ。僕、本を読んでるの」
「ああ、その氷、私の手で溶かしてあげたい」
「クラウス。この人、シュヌーシアに連れて帰って」
「アンリ、先輩に噛み付くなよ。すみません、クラウス、テオ」
高等部一年のジョシュアが、友人の代わりに頭を下げる。
「構わないのだよ、ジョシュア。私はこの氷も含めて愛おしいのだから」
ドアがノックされる。頭を下げて現れたのはバトラーだった。
「ご歓談中、失礼致します。もうすぐディナーのお時間ですが、
クラウス様、テオ様は、どうなさいますか?」
生徒代表は掛け時計を見上げる。
「もうそんな時間か。すまない、バトラー、俺達のことは構わなくていい」
「そうだね。私達はお暇するよ、姫君のご機嫌を損ねないうちに」
「充分過ぎる程、損ねたと思うが」
クラウスのマジツッコミが、他の生徒達の笑いを誘っている。
「クラウス! 今日はウーティスで食べていって下さいよ!」
シルヴァンが引き止める。しかし、生徒代表は断った。
「突然ではシェフも困るだろう。また今度な」
「今夜、シュヌーシアはハンバーグ、だものね?」
テオの笑顔からクラウスが目を背ける。
「……関係ない」
生徒達が一斉に笑い出す。
生徒代表は顔をしかめながら、耳を赤くしていた。
皆が一頻り笑ったところで、テオが腰を上げた。
「ではね、みんな。楽しい午後をありがとう。また遊びに来るよ」
「ええ。また来て下さいね、クラウス、テオ」
ジョシュアは先輩達を見送る。シルヴァンは手を振っている。
「お父さーん、いってらっしゃーい。早く帰って来て下さいねー!」
「俺のことをお父さんって言うなっ!」
「今度ウーティスがハンバーグの時にご招待しますからー!」
「呼ばんでいいっ! お、お前ら、笑うなっ!」
「あー、楽しかったっ!」
シュヌーシアへの帰り道。
少々ぐったりしているクラウスの隣で、テオはキラキラと笑っている。
「ウーティス寮も素晴らしいよね! なんと個性的なのだろう!」
「個性的……お前が言うか。個性の塊のくせに。それに、ウーティスは問題児ばかりで疲れる」
「おや。クラウス? 何を怒っているの?」
「怒ってなどいない」
「嬉しいな」
「何が」
「いいや。気にしないでおくれ」
クラウスとテオがシュヌーシアに戻ると、中等部が集まってきた。
小学校を出たばかりの幼い肢体。変声期もまだ迎えていない。
背の低い少年達は、クラウスの傍を通り過ぎて、テオを取り囲んだ。
「テオー。どこ行ってたんだよー!」
中等部が可愛くて仕方がない高等部二年は、自然と優しい笑顔になる。
「すまない。ウーティスの花達を愛でてきたのだよ」
少年達は首を傾げ、顔を見合わせる。
「花? 咲いてたっけ?」
「裏庭の方じゃない?」
「それよりテオ、ご飯食べたら、昨日の続きしよ!」
「ああ、そうだね」
中等部が最高学年の手を取る。
「ね、クラウスも一緒にあそぼ?」
小さい手に握られ、生徒代表は少し戸惑いながら尋ねる。
「遊びって、何をするんだ? お前達」
中等部達は笑顔で声を揃える。
「おままごとー!」
クラウスは頭痛がした。
「……年を考えろ、中学生にもなって。特に、そこの17歳!」
「何を言ってるんだい、クラウス。これも演劇の授業の一環なのだよ?」
「そ、そうなのか?」
「あなた、おかえりなさい。ごはんにする? それとも」
「俺をお父さん役にするなあ!」
fin
ウーティスに遊びに行きたくなったテオが、強引にクラウスを引っ張ってきたのである。
全校の中でも人気のある二人組の登場に、放課後のサロンは俄かに賑やかになる。
生徒代表のクラウスは、高等部一年のシルヴァンに掴まっていた。
嫌そうな顔をしながらも、クラウスは後輩の相手をしている。
「それで、また外出届を提出せずに、遊びに行ったのか、お前は。
何故、そんな簡単な規則が守れない」
「だって、面倒じゃないですか」
「面倒などという問題ではないだろう」
小言を言われる度シルヴァンは楽しそうに笑っている。
「クラウスってば本当にお父さんみたいですよねっ! もっと叱って下さい、お父さん」
「あのなあ」
「そこの人達。もう少し静かにしてくれない?」
隅の席から冷たい毒舌が飛んでくる。
「すみません、アンリ」
シルヴァンが謝る。クラウスは声を潜めた。
「相変わらずだな、あいつは」
「ご機嫌なアンリの方が怖いですよ。想像できます?」
クラウスは機嫌の良いアンリを想像して身震いした。
「……いや」
「でしょう? やっぱりバニラボイスは、ひんやり冷たくないと」
「バニラ?」
「ほら、テオも楽しそうですよ?」
テオはアンリの前で、いつものように感動を言葉にしていた。
「ああ、なんと美しい氷の微笑なのだろう。氷の国のお姫様のようだ」
テオは以前から、この美しい中等部三年生を可愛がっていた。
ミステリアスな家柄、永遠と言われる美貌、小生意気な性格、その全てに心惹かれていた。
アンリは、そんなテオのことが得意ではなかった。
「もう少し離れてくれないかな、テオ。僕、本を読んでるの」
「ああ、その氷、私の手で溶かしてあげたい」
「クラウス。この人、シュヌーシアに連れて帰って」
「アンリ、先輩に噛み付くなよ。すみません、クラウス、テオ」
高等部一年のジョシュアが、友人の代わりに頭を下げる。
「構わないのだよ、ジョシュア。私はこの氷も含めて愛おしいのだから」
ドアがノックされる。頭を下げて現れたのはバトラーだった。
「ご歓談中、失礼致します。もうすぐディナーのお時間ですが、
クラウス様、テオ様は、どうなさいますか?」
生徒代表は掛け時計を見上げる。
「もうそんな時間か。すまない、バトラー、俺達のことは構わなくていい」
「そうだね。私達はお暇するよ、姫君のご機嫌を損ねないうちに」
「充分過ぎる程、損ねたと思うが」
クラウスのマジツッコミが、他の生徒達の笑いを誘っている。
「クラウス! 今日はウーティスで食べていって下さいよ!」
シルヴァンが引き止める。しかし、生徒代表は断った。
「突然ではシェフも困るだろう。また今度な」
「今夜、シュヌーシアはハンバーグ、だものね?」
テオの笑顔からクラウスが目を背ける。
「……関係ない」
生徒達が一斉に笑い出す。
生徒代表は顔をしかめながら、耳を赤くしていた。
皆が一頻り笑ったところで、テオが腰を上げた。
「ではね、みんな。楽しい午後をありがとう。また遊びに来るよ」
「ええ。また来て下さいね、クラウス、テオ」
ジョシュアは先輩達を見送る。シルヴァンは手を振っている。
「お父さーん、いってらっしゃーい。早く帰って来て下さいねー!」
「俺のことをお父さんって言うなっ!」
「今度ウーティスがハンバーグの時にご招待しますからー!」
「呼ばんでいいっ! お、お前ら、笑うなっ!」
「あー、楽しかったっ!」
シュヌーシアへの帰り道。
少々ぐったりしているクラウスの隣で、テオはキラキラと笑っている。
「ウーティス寮も素晴らしいよね! なんと個性的なのだろう!」
「個性的……お前が言うか。個性の塊のくせに。それに、ウーティスは問題児ばかりで疲れる」
「おや。クラウス? 何を怒っているの?」
「怒ってなどいない」
「嬉しいな」
「何が」
「いいや。気にしないでおくれ」
クラウスとテオがシュヌーシアに戻ると、中等部が集まってきた。
小学校を出たばかりの幼い肢体。変声期もまだ迎えていない。
背の低い少年達は、クラウスの傍を通り過ぎて、テオを取り囲んだ。
「テオー。どこ行ってたんだよー!」
中等部が可愛くて仕方がない高等部二年は、自然と優しい笑顔になる。
「すまない。ウーティスの花達を愛でてきたのだよ」
少年達は首を傾げ、顔を見合わせる。
「花? 咲いてたっけ?」
「裏庭の方じゃない?」
「それよりテオ、ご飯食べたら、昨日の続きしよ!」
「ああ、そうだね」
中等部が最高学年の手を取る。
「ね、クラウスも一緒にあそぼ?」
小さい手に握られ、生徒代表は少し戸惑いながら尋ねる。
「遊びって、何をするんだ? お前達」
中等部達は笑顔で声を揃える。
「おままごとー!」
クラウスは頭痛がした。
「……年を考えろ、中学生にもなって。特に、そこの17歳!」
「何を言ってるんだい、クラウス。これも演劇の授業の一環なのだよ?」
「そ、そうなのか?」
「あなた、おかえりなさい。ごはんにする? それとも」
「俺をお父さん役にするなあ!」
fin
■アイヴィー ソクーロフ
コンコンコン。三回ノックしてドアを開けた。
「こんちはー。ソクちゃん、ベッド貸してー」
ある晴れた日。
聖アルフォンソ学院専属タクシードライバーは、いつものように保健室へ昼寝に来た。
昨夜は捕り物があって今猛烈に眠いのだ。
というのも、ドライバーを務める傍ら、島の警備も担当しているからだ。
保健室はシンとしていた。
この部屋にいつも居る筈の先生の姿が見えない。
「あれ? 居ないのか」
長時間ここを離れるわけはないから、少し席を外しているだけだろう。
「ベッド借りるよー」
無人の保健室に断りを入れて横になった。
保健室特有の匂いがする。
シーツの薬臭さが、今では睡眠薬の代わりになる。
すぐに落ちそうだ。
眠気で朦朧とした意識の中、なんとか携帯電話のアラームを30分後にセットする。
携帯電話から手を離す。重い瞼を閉じた。
白衣の男が戻ってきたのは、それから数分後のことだった。
手に書類を持っている。所用で学務課に呼ばれ、帰ってきたところだ。
簡易ベッドの上にブルーのワイシャツを来た背中。
シーツに散らされた長い髪は金色だった。
それにはチラと視線を投げただけで、白衣の男が驚く様子はなかった。
コーヒーメーカーから淹れたカップを自分の机に運び、資料作成を再開した。
この学院の保健室は一室ではなく、二階建ての建物全体を示す。
一階は診察室とカウンセリングルーム。二階はベッドルームだ。
保健教師の定位置は、ドアを開けて最初の部屋、診察室のデスクである。
窓から差し込む日差しが保健室全体を明るく照らしている。
今の時間、生徒達は授業中だ。
保健教師が書き物をしていると、外から生徒達の声が聞こえた。
スケッチブックを抱えた生徒達が保健室の前を通り過ぎていく。
絵画クラスのようだ。どこかでデッサンをするのだろう。
その光景を保健教師は凝視していた。
どの生徒が誰の隣に居るか、誰と話しているかを無意識に観察していた。
コンコン。二回ドアがノックされた。
「入りたまえ」
保健教師が声を掛けると、失礼します、という呻き声と共に扉が開いた。
眼鏡を掛けた生徒が顔を見せた。保健室の先生はにこやかに迎え入れる。
「やあ、ハルヤ。今日はどうしたのかな?」
「あの、ちょっとさっきからお腹が痛くて」
苦痛を堪える表情。猫背気味で腹に手をあてていた。
保健教師は席を立って、生徒に寄り添う。
「解った。すぐに診察をしよう」
「あれ?」
眼鏡の生徒は、白衣の向こう側に見えるものに気付いた。
制服姿ではない、長身の人間が簡易ベッドで横になっている。
金色の長髪。その後ろ姿だけで、名前を言い当てた。
「先生、あそこに寝てるの、アイヴィーじゃないですか?」
「ああ、そうだね」
「どこか具合が悪いんですか? まさかインフルエンザとか」
「いいや。単に勤務時間中にサボっている悪いおじさんだよ」
島の外では、世界的猛威を振るっている流行り病も、
この隔絶された島では、まだ確認されていなかった。
「今日は隣の部屋で診察をしよう」
白衣の男が移動するので、生徒もその後に続いた。
隣はカウンセリングルームと呼ばれる部屋だ。
診察室は白を基調としているが、こちらは茶系でまとめられている。
柔らかなタッチで描かれた絵画が飾られ、落ち着いた雰囲気の部屋だ。
生徒と向かい合った保健教師は問診を始めた。
他校では珍しいことだが、この保健教師は医師免許保持者でもあった。
「お腹が痛み出したのは授業中と言っていたね? 何の授業だったのかな?」
「建築学です」
「最後に食事をしたのは昼食かい?」
「はい」
「いつもより多く食べたのかな?」
「いえ、アボカドまぐろ丼を二杯しか食べないので、普通だと思いますけど」
「うん。君にしては普通だね」
医師は手元のノートに『アボカドまぐろ丼×2』とメモする。
「では朝食は?」
「今朝は多かったかな。カミーユが和食のメニューを用意してくれて、
たくさん召し上がって下さいね、って言われたし、秋刀魚が凄く美味しくて」
医師は表には出さないが、舌打ちをしたい気分だった。
カミーユ・ルブラン。この生徒が住む寮の専属シェフのことだ。
彼が真面目で仕事熱心な男であることは、医師も知っているのだが、
シェフは、日本出身のこの生徒を特に可愛がっているようで、
彼の寮では、日本の料理が食卓に並ぶ回数が増えているらしいのだ。
加えて、日本人には、人の親切に嫌と言えない性質がある。
おかげで、シェフがはりきるほど、この生徒が保健室に駆け込むことになる。
一度、保健室からキッチンへ指導を入れたほうが良いかもしれない。
「昨夜はどうかな? ディナーや、その後は?」
「晩ご飯は、栗ごはんが美味しかったです」
味について聞いているのではない。
「それは、どのくらい食べたのかな?」
「五杯くらい、だったと思います。あ、あと夜食に『二番目に安いスープ』を」
聞き取ったメニューを頭の中で軽くカロリー計算する。
一般の生徒ならば、とっくに標準値を超えている。
「いつもより、やや多めに食べたようだね」
「言われてみると、そうですね」
「では、少しお腹に触らせてくれるかな?」
問診の後は触診。患者の腹部に触れた他、風邪の症状がないかも調べた。
「喉の腫れや熱もないようだし、食べ過ぎによる腹痛のようだね。
いつもの薬を処方するよ。ここで飲んでいくといい」
錠剤と水を差し出す。ハルヤは何の疑いもなく、それを口にした。
飲み終わると、お腹に手を当てて、もう少し良くなった気がします、と笑っていた。
「せっかく来てくれたから、少しカウンセリングをしよう」
「あ、はい」
「最近、何か心配なことはあるかね?」
「うーん。いや、別に」
「それは何よりだね。ところで、昨日は夜食を食べたと言っていたけれど、
昨夜は眠るのが遅かったのかな?」
「え? ああ、最近はちょっと。えっと、みんなや他の先生には内緒にしててくれますか?」
内心の興奮を抑えて、カウンセラーは優しい顔を演じた。
「もちろん」
「実は、夜に、ちょっと森で練習してるんです」
みんなに見られるのが恥ずかしいので、
夜の森で時折、日舞の練習をしているのだそうだ。
この子の家は、皆、日本舞踊の踊り手。父が家元、祖父は人間国宝にまでなっている。
ハルヤ自身も幼少期から、兄とともに踊りを習い、舞台に立つこともあったという。
次に兄の前で踊る時、舞が下手になっていると言われないように、
最近は練習をしていると話した。
だが、ここ暫くブランクがあった為、なかなか以前のようには踊れないらしい。
食べ過ぎの原因はここかもしれない。直感的に医師はそう感じた。
練習不足に対する焦り、プレッシャーから来ているのかもしれない。
腹痛の原因は食べ過ぎ。食べ過ぎの原因は日舞に関するストレス。
ならば、腹痛の原因の原因はストレスとなる。
以前から、ハルヤは心配事があると食べ過ぎる傾向が見受けられた。
「ハルヤ、夜間に練習したいのなら、ウーティスの音楽サロンを勧めるよ。
あの部屋は、今はだれも使っていないんだろう?
近頃、気温が少し下がってきたから。外では身体を冷やしてしまう。
冷えが腹痛の一因になる場合もあるからね」
「あ、そっか。俺、踊ってると寒いとか暑いとか感じなくなってる時あるし」
「成程。集中しているんだね。なら、尚更、室内が良いね。
それから、せっかく練習しているのなら、その成果を友達に見て貰っては?」
「そんな。俺、まだ上手くないし」
「みんな、君のおかげで日本文化に興味を持っているから、君が踊るとなれば、きっと喜ぶよ。
本番の日を決めて、それに向かって練習すると効率も良い。
みんなの前で踊ったら自信が付くから、お兄さんの前でもきっと上手く踊れるよ」
ハルヤの顔には迷いが映し出される。カウンセラーは優しい声で言った。
「今すぐそうしなさい、という話じゃない。ただの提案だ。
今後もし、君がやってもいいと思ったら、やってごらん?」
「あ、解りました。ちょっと考えてみます」
「うん。さて、お腹の調子はどうかな? まだ痛むかい?」
「あっ、いえ。もう大丈夫です。すごい。
先生と話してるうちに、痛かったの忘れちゃったみたい」
「もし、腹痛が再発したら、またいつでもおいで。ん? どうしたのかな?」
ハルヤが急にそわそわし出したので尋ねた。
「あの、アイヴィーのことなんですけど。
確か今日はレッドとユウタが、アイヴィーのタクシーを予約してて」
「何時の予約か解るかい?」
「えっと、5時って言ってたと思います」
「解った。それまでに起きないようなら、私が起こすから」
「あ、そうじゃなくて。アイヴィーが疲れてるんなら、
今日は他のドライバーさんに変えてあげてって、レッドに伝えておきますけど、俺」
「昼寝は、疲れを取るのに有効な手段だが、30分以上眠ると体内リズムを乱してしまうんだ。
だから遠慮なく、彼をドライブに連れて行ってくれて良いんだよ」
「そう、ですか。解りました」
「度々、見受けられるが、ハルヤは思いやりがあるね。
いちドライバーの体調を気遣えるとは。素晴らしいことだよ」
眼鏡の生徒の頬にさっと赤みが差す。
「そんな……てゆうか、あの、アイヴィーは、
ドライバーさんの一人っていうより友達ですから。
あ、年上の人に友達なんて言っちゃ失礼だったかな……」
「我々にとっては光栄なことだよ、マージナルプリンスにそう思って貰えることは」
生徒が退室した後、カウンセラーは、今の診察内容を早速カルテに書き残す。
その横顔は真剣そのものだが、時々口許がニヤついていた。
電子音が流れた。ベッドのほうからだ。ブルーの背中がもぞもぞしている。
ドライバーの顔が保健教師に向けられた。
「あ、おはよー、ソクちゃん。勝手にベッド借りてました」
寝起きの少し擦れた声。
「見れば解る」
保健教師は席を立った。
ドライバーはゆっくりと身体を起こして、伸びをした。
「ねー、一生のお願いなんだけどさー、俺に」
サイドテーブルに白いカップを置かれた。
俺にコーヒーをご馳走してくんない、とお願いする前にそれが出てきた。ドライバーは笑う。
「うわー、心読まれたー」
カップを口に運ぶ。
「はぁ~。目覚めのホットコーヒーは最高だねえ。
にしても、俺の心が読めちゃうなんて、長年積み重ねてきたアイのチカラかな?」
「生徒達への愛さ。可愛い生徒達を安全運転で送迎して貰う為にな」
「あっ! そういや、予約入ってたっけ? って今何時!?」
掛け時計を見る。午後4時32分。
「まだ間に合う。それを飲み終わったら、さっさと仕事へ戻れ」
「は~い」
カップを口に運ぶ。
「オイシ。ソクちゃん、サンドイッチもー」
「ない」
「ちぇー」
fin
「こんちはー。ソクちゃん、ベッド貸してー」
ある晴れた日。
聖アルフォンソ学院専属タクシードライバーは、いつものように保健室へ昼寝に来た。
昨夜は捕り物があって今猛烈に眠いのだ。
というのも、ドライバーを務める傍ら、島の警備も担当しているからだ。
保健室はシンとしていた。
この部屋にいつも居る筈の先生の姿が見えない。
「あれ? 居ないのか」
長時間ここを離れるわけはないから、少し席を外しているだけだろう。
「ベッド借りるよー」
無人の保健室に断りを入れて横になった。
保健室特有の匂いがする。
シーツの薬臭さが、今では睡眠薬の代わりになる。
すぐに落ちそうだ。
眠気で朦朧とした意識の中、なんとか携帯電話のアラームを30分後にセットする。
携帯電話から手を離す。重い瞼を閉じた。
白衣の男が戻ってきたのは、それから数分後のことだった。
手に書類を持っている。所用で学務課に呼ばれ、帰ってきたところだ。
簡易ベッドの上にブルーのワイシャツを来た背中。
シーツに散らされた長い髪は金色だった。
それにはチラと視線を投げただけで、白衣の男が驚く様子はなかった。
コーヒーメーカーから淹れたカップを自分の机に運び、資料作成を再開した。
この学院の保健室は一室ではなく、二階建ての建物全体を示す。
一階は診察室とカウンセリングルーム。二階はベッドルームだ。
保健教師の定位置は、ドアを開けて最初の部屋、診察室のデスクである。
窓から差し込む日差しが保健室全体を明るく照らしている。
今の時間、生徒達は授業中だ。
保健教師が書き物をしていると、外から生徒達の声が聞こえた。
スケッチブックを抱えた生徒達が保健室の前を通り過ぎていく。
絵画クラスのようだ。どこかでデッサンをするのだろう。
その光景を保健教師は凝視していた。
どの生徒が誰の隣に居るか、誰と話しているかを無意識に観察していた。
コンコン。二回ドアがノックされた。
「入りたまえ」
保健教師が声を掛けると、失礼します、という呻き声と共に扉が開いた。
眼鏡を掛けた生徒が顔を見せた。保健室の先生はにこやかに迎え入れる。
「やあ、ハルヤ。今日はどうしたのかな?」
「あの、ちょっとさっきからお腹が痛くて」
苦痛を堪える表情。猫背気味で腹に手をあてていた。
保健教師は席を立って、生徒に寄り添う。
「解った。すぐに診察をしよう」
「あれ?」
眼鏡の生徒は、白衣の向こう側に見えるものに気付いた。
制服姿ではない、長身の人間が簡易ベッドで横になっている。
金色の長髪。その後ろ姿だけで、名前を言い当てた。
「先生、あそこに寝てるの、アイヴィーじゃないですか?」
「ああ、そうだね」
「どこか具合が悪いんですか? まさかインフルエンザとか」
「いいや。単に勤務時間中にサボっている悪いおじさんだよ」
島の外では、世界的猛威を振るっている流行り病も、
この隔絶された島では、まだ確認されていなかった。
「今日は隣の部屋で診察をしよう」
白衣の男が移動するので、生徒もその後に続いた。
隣はカウンセリングルームと呼ばれる部屋だ。
診察室は白を基調としているが、こちらは茶系でまとめられている。
柔らかなタッチで描かれた絵画が飾られ、落ち着いた雰囲気の部屋だ。
生徒と向かい合った保健教師は問診を始めた。
他校では珍しいことだが、この保健教師は医師免許保持者でもあった。
「お腹が痛み出したのは授業中と言っていたね? 何の授業だったのかな?」
「建築学です」
「最後に食事をしたのは昼食かい?」
「はい」
「いつもより多く食べたのかな?」
「いえ、アボカドまぐろ丼を二杯しか食べないので、普通だと思いますけど」
「うん。君にしては普通だね」
医師は手元のノートに『アボカドまぐろ丼×2』とメモする。
「では朝食は?」
「今朝は多かったかな。カミーユが和食のメニューを用意してくれて、
たくさん召し上がって下さいね、って言われたし、秋刀魚が凄く美味しくて」
医師は表には出さないが、舌打ちをしたい気分だった。
カミーユ・ルブラン。この生徒が住む寮の専属シェフのことだ。
彼が真面目で仕事熱心な男であることは、医師も知っているのだが、
シェフは、日本出身のこの生徒を特に可愛がっているようで、
彼の寮では、日本の料理が食卓に並ぶ回数が増えているらしいのだ。
加えて、日本人には、人の親切に嫌と言えない性質がある。
おかげで、シェフがはりきるほど、この生徒が保健室に駆け込むことになる。
一度、保健室からキッチンへ指導を入れたほうが良いかもしれない。
「昨夜はどうかな? ディナーや、その後は?」
「晩ご飯は、栗ごはんが美味しかったです」
味について聞いているのではない。
「それは、どのくらい食べたのかな?」
「五杯くらい、だったと思います。あ、あと夜食に『二番目に安いスープ』を」
聞き取ったメニューを頭の中で軽くカロリー計算する。
一般の生徒ならば、とっくに標準値を超えている。
「いつもより、やや多めに食べたようだね」
「言われてみると、そうですね」
「では、少しお腹に触らせてくれるかな?」
問診の後は触診。患者の腹部に触れた他、風邪の症状がないかも調べた。
「喉の腫れや熱もないようだし、食べ過ぎによる腹痛のようだね。
いつもの薬を処方するよ。ここで飲んでいくといい」
錠剤と水を差し出す。ハルヤは何の疑いもなく、それを口にした。
飲み終わると、お腹に手を当てて、もう少し良くなった気がします、と笑っていた。
「せっかく来てくれたから、少しカウンセリングをしよう」
「あ、はい」
「最近、何か心配なことはあるかね?」
「うーん。いや、別に」
「それは何よりだね。ところで、昨日は夜食を食べたと言っていたけれど、
昨夜は眠るのが遅かったのかな?」
「え? ああ、最近はちょっと。えっと、みんなや他の先生には内緒にしててくれますか?」
内心の興奮を抑えて、カウンセラーは優しい顔を演じた。
「もちろん」
「実は、夜に、ちょっと森で練習してるんです」
みんなに見られるのが恥ずかしいので、
夜の森で時折、日舞の練習をしているのだそうだ。
この子の家は、皆、日本舞踊の踊り手。父が家元、祖父は人間国宝にまでなっている。
ハルヤ自身も幼少期から、兄とともに踊りを習い、舞台に立つこともあったという。
次に兄の前で踊る時、舞が下手になっていると言われないように、
最近は練習をしていると話した。
だが、ここ暫くブランクがあった為、なかなか以前のようには踊れないらしい。
食べ過ぎの原因はここかもしれない。直感的に医師はそう感じた。
練習不足に対する焦り、プレッシャーから来ているのかもしれない。
腹痛の原因は食べ過ぎ。食べ過ぎの原因は日舞に関するストレス。
ならば、腹痛の原因の原因はストレスとなる。
以前から、ハルヤは心配事があると食べ過ぎる傾向が見受けられた。
「ハルヤ、夜間に練習したいのなら、ウーティスの音楽サロンを勧めるよ。
あの部屋は、今はだれも使っていないんだろう?
近頃、気温が少し下がってきたから。外では身体を冷やしてしまう。
冷えが腹痛の一因になる場合もあるからね」
「あ、そっか。俺、踊ってると寒いとか暑いとか感じなくなってる時あるし」
「成程。集中しているんだね。なら、尚更、室内が良いね。
それから、せっかく練習しているのなら、その成果を友達に見て貰っては?」
「そんな。俺、まだ上手くないし」
「みんな、君のおかげで日本文化に興味を持っているから、君が踊るとなれば、きっと喜ぶよ。
本番の日を決めて、それに向かって練習すると効率も良い。
みんなの前で踊ったら自信が付くから、お兄さんの前でもきっと上手く踊れるよ」
ハルヤの顔には迷いが映し出される。カウンセラーは優しい声で言った。
「今すぐそうしなさい、という話じゃない。ただの提案だ。
今後もし、君がやってもいいと思ったら、やってごらん?」
「あ、解りました。ちょっと考えてみます」
「うん。さて、お腹の調子はどうかな? まだ痛むかい?」
「あっ、いえ。もう大丈夫です。すごい。
先生と話してるうちに、痛かったの忘れちゃったみたい」
「もし、腹痛が再発したら、またいつでもおいで。ん? どうしたのかな?」
ハルヤが急にそわそわし出したので尋ねた。
「あの、アイヴィーのことなんですけど。
確か今日はレッドとユウタが、アイヴィーのタクシーを予約してて」
「何時の予約か解るかい?」
「えっと、5時って言ってたと思います」
「解った。それまでに起きないようなら、私が起こすから」
「あ、そうじゃなくて。アイヴィーが疲れてるんなら、
今日は他のドライバーさんに変えてあげてって、レッドに伝えておきますけど、俺」
「昼寝は、疲れを取るのに有効な手段だが、30分以上眠ると体内リズムを乱してしまうんだ。
だから遠慮なく、彼をドライブに連れて行ってくれて良いんだよ」
「そう、ですか。解りました」
「度々、見受けられるが、ハルヤは思いやりがあるね。
いちドライバーの体調を気遣えるとは。素晴らしいことだよ」
眼鏡の生徒の頬にさっと赤みが差す。
「そんな……てゆうか、あの、アイヴィーは、
ドライバーさんの一人っていうより友達ですから。
あ、年上の人に友達なんて言っちゃ失礼だったかな……」
「我々にとっては光栄なことだよ、マージナルプリンスにそう思って貰えることは」
生徒が退室した後、カウンセラーは、今の診察内容を早速カルテに書き残す。
その横顔は真剣そのものだが、時々口許がニヤついていた。
電子音が流れた。ベッドのほうからだ。ブルーの背中がもぞもぞしている。
ドライバーの顔が保健教師に向けられた。
「あ、おはよー、ソクちゃん。勝手にベッド借りてました」
寝起きの少し擦れた声。
「見れば解る」
保健教師は席を立った。
ドライバーはゆっくりと身体を起こして、伸びをした。
「ねー、一生のお願いなんだけどさー、俺に」
サイドテーブルに白いカップを置かれた。
俺にコーヒーをご馳走してくんない、とお願いする前にそれが出てきた。ドライバーは笑う。
「うわー、心読まれたー」
カップを口に運ぶ。
「はぁ~。目覚めのホットコーヒーは最高だねえ。
にしても、俺の心が読めちゃうなんて、長年積み重ねてきたアイのチカラかな?」
「生徒達への愛さ。可愛い生徒達を安全運転で送迎して貰う為にな」
「あっ! そういや、予約入ってたっけ? って今何時!?」
掛け時計を見る。午後4時32分。
「まだ間に合う。それを飲み終わったら、さっさと仕事へ戻れ」
「は~い」
カップを口に運ぶ。
「オイシ。ソクちゃん、サンドイッチもー」
「ない」
「ちぇー」
fin
■テオ×クラウス
「今日のおやつは、真夏の海をイメージして作ってみました」
放課後のシュヌーシア寮サロン。
寮の専属シェフ、ドニ・ドームが、小さなパフェグラスを生徒達に配っている。
最後に、短髪の生徒の前に来た。
「あの、クラウス様用に、甘さをかなり控えて作ってみたんです。よろしければお試し頂けますか?」
「……ああ。すまない」
下級生の一人が、自分のパフェを指差した。、
「うわ、このパフェ、なんか青い! ドニ、これ何で出来てんの?」
小柄なシェフが振り向く。
頭のバンダナと首のコックチーフの色も、今日はマリンブルーだった。
「ブルーハワイのシロップで色を付けたゼリーです。青い海ということで。その上のバニラアイスは白い雲、と思って頂ければ」
「ねえ、ねえ。このオレンジの星はー?」
「クッキー用の型で、赤肉のメロンを星の形にしたものです。いちお、ヒトデのつもりで」
「メロンなんだー。ドニのおやつ、いつも面白いね」
ぴょこんと頭を下げて「ありがとうございます」
「じゃあ、この赤いチェリーはエビかなあ?」
「カニじゃね?」
「ばーか。サンゴだろ? なっ、ドニ?」
子供好きのシェフが幸せそうに笑う。
「どれも赤ですから、皆さん正解ですよ」
「あれ? 俺のは星、入ってないみたいなんだけど。四角いメロンばっかだぜ?」
「はい。星のメロンは入っているグラスと、入っていないグラスがあります」
「マジでっ!?」
「僕の入ってたー」
「俺もアタリー!」
「おや。私のも星だ」
「え。入ってないの俺だけか?」
「俺も入ってない」
「落ち込まないで、クラウス。私のをあげるから。はい、あーん」
「い、要らんっ! 自分のは自分で食べろ」
いつものように賑やかなおやつの時間。大きな窓からは眩しい日が差している。
もうすぐ楽しい夏休み。
シュヌーシアの生徒達は、おやつを食べながら、今年の夏休みの予定について話し合っていた。
「やっぱ旅行かなー、今年も」
「だねー。あ、おい、アイス落とすなよ」
「どこ行くか、もう決めた?」
「いんや、まだ。あちこち行き過ぎて、残ってんのは中東くらいかなー」
「夏休みの旅行先にしてはスリリング過ぎだな」
「いいなあ、旅行できて」
身体の弱い生徒がぽつりと零した。
保健室に一番近いこの寮には、毎年、心身に病やハンディのある生徒が入る。
身体に負担が掛かる長期旅行は、彼等には難しいのだ。
「帰って来たら、旅行の楽しいお話、聞かせてね」
「解ってるっつの。おみやげ、期待してろよな!」
「僕、美味しいお菓子がいい」
「おっし、任せろ!」
「うん。任せたっ」
「あっ、そうだ!」
金髪の生徒が指を鳴らす。
「夏だからクリスマスパーティをしよう!」
髪の色同様、輝いた笑顔を見せているのは、中等部三年のテオ。
「みんなが夏休みに入る前に、海辺でパーティ! ね、どうかな、クラウス!」
隣に座っていた高等部一年のクラウスは溜め息を吐いた。
「何故、夏なのにクリスマスをやる必要があるんだ」
「だって、ブラジルでは夏にクリスマスをやるのだろう? アルベルトが言っていたから間違いないよ?」
アルベルトは、ウーティス寮の高等部一年。ブラジルの大富豪の末っ子だ。
テオの家はギリシャの海運王、姉が一人居る。
似た境遇に生まれ育ったせいか、アルベルトとテオは気質が似ていて、仲が良かった。
「ブラジルはサマークリスマス! 水着を来たサンタさんがプレゼントをくれるのだよ!」
クラウスはテオの肩に手を置く。
「落ち着け、テオ。南半球は北半球と季節が逆になるから、ブラジルの12月25日頃は季節的には真夏なんだ。解るか?」
「うん」
「だからな? 例え南半球でも、『夏だから』クリスマスをやっているのではなく、『12月だから』クリスマスなのであって、
お前が先程言った『夏だからクリスマスパーティをしよう』という発言は、英語として正確ではな……」
「うん。解ってるよ? でも、一年に二回クリスマスを楽しんでもいいんじゃないかなあ。神様だってきっと喜んで下さると思うし」
「あのなあ」
長髪の上級生が、クラウスの頭にポンと手を置いた。
「クラウスは頭が堅いんだよ。パーティの口実になれば、何でもイイじゃん?」
別の上級生が加勢する。
「そう、そう。テオとチューしたくせにおカタイぞ、クラウス」
「……それは、今、関係ないでしょう」
クラウスの視線が厳しくなる。
それでも、睨むまでには至らないのは、上下関係を遵守する軍人の家に生まれた故だろう。
「何度も言うようですが、あれは、人、工、呼、吸、です」
一年前、クラウスがこの島に降り立った日の話だ。
浜辺で寮のみんなと遊んでいたテオは、あるトラブルから海で溺れ、呼吸停止状態となった。
その時、浜辺を通り掛かったクラウスが、マウス・トゥ・マウスでテオを救った。
ディナーの時間に、紹介された新入生がクラウスだった。
そうして、テオを生き返らせたヒーローと再会したのだった。
それ以来、クラウスは何かとテオとセット扱いされるようになる。
当時、現場に居た生徒達にとっては特に、一年経った今でも色褪せない思い出なのだ。
「いやー、あれはまさに、21世紀版、白雪姫だったよなー」
「でも、俺達の可愛いテオの唇が、こんな馬鹿マジメ野郎に奪われるなんてなー」
「二人とも、そのくらいにしてあげなよ?」
穏やかな性質の最高学年が、やんわりと注意する。
「ごめんね、クラウス。あの時のことは、みんな、ほんとに感謝してるんだ。
僕達が大好きなテオを助けてくれたんだから」
「はあ……」
「あ、話を元に戻すけど。サマークリスマスは、僕も面白そうだと思うよ?
この学院では、パーティは好きな時に好きなものをやっていいことになってるから。
ねえ、テオ。僕もパーティに呼んでくれるかな?」
「もちろん!」
「テオ、テオ、パーティするなら、僕も入れて」
「俺も俺も!」
「じゃあ、サマークリスマスに何をするか、みんなで決めよう」
テオの掛け声で寮生達が一気に盛り上がる。
クラウスは苦い表情をしながら、パフェを口に運んでいた。
流石は寮専属シェフである。
甘いものが苦手なクラウスの口にも合う味になっていた。
もう残り少ない。グラスの底にスプーンを入れる。
生クリームの下から、オレンジ色の星が顔を出した。
fin
放課後のシュヌーシア寮サロン。
寮の専属シェフ、ドニ・ドームが、小さなパフェグラスを生徒達に配っている。
最後に、短髪の生徒の前に来た。
「あの、クラウス様用に、甘さをかなり控えて作ってみたんです。よろしければお試し頂けますか?」
「……ああ。すまない」
下級生の一人が、自分のパフェを指差した。、
「うわ、このパフェ、なんか青い! ドニ、これ何で出来てんの?」
小柄なシェフが振り向く。
頭のバンダナと首のコックチーフの色も、今日はマリンブルーだった。
「ブルーハワイのシロップで色を付けたゼリーです。青い海ということで。その上のバニラアイスは白い雲、と思って頂ければ」
「ねえ、ねえ。このオレンジの星はー?」
「クッキー用の型で、赤肉のメロンを星の形にしたものです。いちお、ヒトデのつもりで」
「メロンなんだー。ドニのおやつ、いつも面白いね」
ぴょこんと頭を下げて「ありがとうございます」
「じゃあ、この赤いチェリーはエビかなあ?」
「カニじゃね?」
「ばーか。サンゴだろ? なっ、ドニ?」
子供好きのシェフが幸せそうに笑う。
「どれも赤ですから、皆さん正解ですよ」
「あれ? 俺のは星、入ってないみたいなんだけど。四角いメロンばっかだぜ?」
「はい。星のメロンは入っているグラスと、入っていないグラスがあります」
「マジでっ!?」
「僕の入ってたー」
「俺もアタリー!」
「おや。私のも星だ」
「え。入ってないの俺だけか?」
「俺も入ってない」
「落ち込まないで、クラウス。私のをあげるから。はい、あーん」
「い、要らんっ! 自分のは自分で食べろ」
いつものように賑やかなおやつの時間。大きな窓からは眩しい日が差している。
もうすぐ楽しい夏休み。
シュヌーシアの生徒達は、おやつを食べながら、今年の夏休みの予定について話し合っていた。
「やっぱ旅行かなー、今年も」
「だねー。あ、おい、アイス落とすなよ」
「どこ行くか、もう決めた?」
「いんや、まだ。あちこち行き過ぎて、残ってんのは中東くらいかなー」
「夏休みの旅行先にしてはスリリング過ぎだな」
「いいなあ、旅行できて」
身体の弱い生徒がぽつりと零した。
保健室に一番近いこの寮には、毎年、心身に病やハンディのある生徒が入る。
身体に負担が掛かる長期旅行は、彼等には難しいのだ。
「帰って来たら、旅行の楽しいお話、聞かせてね」
「解ってるっつの。おみやげ、期待してろよな!」
「僕、美味しいお菓子がいい」
「おっし、任せろ!」
「うん。任せたっ」
「あっ、そうだ!」
金髪の生徒が指を鳴らす。
「夏だからクリスマスパーティをしよう!」
髪の色同様、輝いた笑顔を見せているのは、中等部三年のテオ。
「みんなが夏休みに入る前に、海辺でパーティ! ね、どうかな、クラウス!」
隣に座っていた高等部一年のクラウスは溜め息を吐いた。
「何故、夏なのにクリスマスをやる必要があるんだ」
「だって、ブラジルでは夏にクリスマスをやるのだろう? アルベルトが言っていたから間違いないよ?」
アルベルトは、ウーティス寮の高等部一年。ブラジルの大富豪の末っ子だ。
テオの家はギリシャの海運王、姉が一人居る。
似た境遇に生まれ育ったせいか、アルベルトとテオは気質が似ていて、仲が良かった。
「ブラジルはサマークリスマス! 水着を来たサンタさんがプレゼントをくれるのだよ!」
クラウスはテオの肩に手を置く。
「落ち着け、テオ。南半球は北半球と季節が逆になるから、ブラジルの12月25日頃は季節的には真夏なんだ。解るか?」
「うん」
「だからな? 例え南半球でも、『夏だから』クリスマスをやっているのではなく、『12月だから』クリスマスなのであって、
お前が先程言った『夏だからクリスマスパーティをしよう』という発言は、英語として正確ではな……」
「うん。解ってるよ? でも、一年に二回クリスマスを楽しんでもいいんじゃないかなあ。神様だってきっと喜んで下さると思うし」
「あのなあ」
長髪の上級生が、クラウスの頭にポンと手を置いた。
「クラウスは頭が堅いんだよ。パーティの口実になれば、何でもイイじゃん?」
別の上級生が加勢する。
「そう、そう。テオとチューしたくせにおカタイぞ、クラウス」
「……それは、今、関係ないでしょう」
クラウスの視線が厳しくなる。
それでも、睨むまでには至らないのは、上下関係を遵守する軍人の家に生まれた故だろう。
「何度も言うようですが、あれは、人、工、呼、吸、です」
一年前、クラウスがこの島に降り立った日の話だ。
浜辺で寮のみんなと遊んでいたテオは、あるトラブルから海で溺れ、呼吸停止状態となった。
その時、浜辺を通り掛かったクラウスが、マウス・トゥ・マウスでテオを救った。
ディナーの時間に、紹介された新入生がクラウスだった。
そうして、テオを生き返らせたヒーローと再会したのだった。
それ以来、クラウスは何かとテオとセット扱いされるようになる。
当時、現場に居た生徒達にとっては特に、一年経った今でも色褪せない思い出なのだ。
「いやー、あれはまさに、21世紀版、白雪姫だったよなー」
「でも、俺達の可愛いテオの唇が、こんな馬鹿マジメ野郎に奪われるなんてなー」
「二人とも、そのくらいにしてあげなよ?」
穏やかな性質の最高学年が、やんわりと注意する。
「ごめんね、クラウス。あの時のことは、みんな、ほんとに感謝してるんだ。
僕達が大好きなテオを助けてくれたんだから」
「はあ……」
「あ、話を元に戻すけど。サマークリスマスは、僕も面白そうだと思うよ?
この学院では、パーティは好きな時に好きなものをやっていいことになってるから。
ねえ、テオ。僕もパーティに呼んでくれるかな?」
「もちろん!」
「テオ、テオ、パーティするなら、僕も入れて」
「俺も俺も!」
「じゃあ、サマークリスマスに何をするか、みんなで決めよう」
テオの掛け声で寮生達が一気に盛り上がる。
クラウスは苦い表情をしながら、パフェを口に運んでいた。
流石は寮専属シェフである。
甘いものが苦手なクラウスの口にも合う味になっていた。
もう残り少ない。グラスの底にスプーンを入れる。
生クリームの下から、オレンジ色の星が顔を出した。
fin
■カーディス 側近
ロレート公国。
当代の国王、カーディス1世は現在、自主休憩中。
邸の裏庭でシエスタをしようと目を閉じたところだった。
7月も終わりに近付き、連日、日差しは強い。
邸内ではここ、月桂樹の木陰が比較的涼しいと王は子供の頃から知っていた。
多くの子息を、聖アルフォンソ学院に送り出してきたロレート大公家。
その裏庭に月桂樹の小さな森ができたのは、必然だったのだろう。
島にしかない亜種の月桂樹。それと同じ木ではないけれど、香りは限りなく近い。
月桂樹の青い香りは、常にロレート大公を優しく癒やしてくれた。
人の足音が駆け足で近付いてくる。
自分を呼び戻しに来た側近だろうと思い、王は目を開けずにいた。
「申し訳ありません、陛下」
予想外の台詞を投げ掛けられ、カーディスは目を開けた。
頭を下げていたのは、やはり側近のラルヴィス・レイナだった。夏でも着崩さず、今日も生真面目に軍服を身に付けている。
王は木陰で寝そべったまま尋ねた。
「どうした、ラルヴィス」
「あの、殿下のご生誕日が7月28日なのだそうで」
「ジョシュアの? 来週なのか」
「ええ。先程、アイヴィー様との業務連絡の時に、何気なく『そう言えば、ロレートでは誕生日に何かするの?』と聞かれまして」
「こちらでは別に何もしないだろう」
「お言葉ですが、陛下、それで本当に宜しいのでしょうか?
昨年までは確かに、ロレートでは何もできない状況でしたが、
先日の建国記念式典以降、ジョシュア様は正式な王位継承者です。
第一王子のご生誕日に国が何もしなくて良いのでしょうか?」
「聖アルフォンソ島で過ごせる最後の誕生日に、ジョシュアをロレートまで呼び出すつもりか?
友人達がサプライズパーティでも目論んでいたらどうする」
「あっ、そう、ですね」
「ロレートで祝うなら、来年からでいいだろう。今年は、そうだな。
誕生日の翌日にでも、俺から一言、冷やかしの電話でもしてやるか」
「お祝いのお電話にして下さい」
「それで、ジョシュアは幾つになるんだ?」
「御年、18になられます」
「若いな。俺の半分か」
「そうですね。陛下の半分のお年でも、陛下の倍はしっかりされてますし」
「悪かったな、規格外のポンコツで」
「ご自覚があるのなら、執務室にお戻り下さい、陛下」
「今宵は街のビアガーデンに行きたい。今年も、もう始まっているんだろう?」
「仕方ありませんね。7月分の執務が全て終わったら、特別にお連れします」
王は寝返りを打って、背を向けた。
「では無理だ」
「陛下、諦めるのが早過ぎます」
fin
当代の国王、カーディス1世は現在、自主休憩中。
邸の裏庭でシエスタをしようと目を閉じたところだった。
7月も終わりに近付き、連日、日差しは強い。
邸内ではここ、月桂樹の木陰が比較的涼しいと王は子供の頃から知っていた。
多くの子息を、聖アルフォンソ学院に送り出してきたロレート大公家。
その裏庭に月桂樹の小さな森ができたのは、必然だったのだろう。
島にしかない亜種の月桂樹。それと同じ木ではないけれど、香りは限りなく近い。
月桂樹の青い香りは、常にロレート大公を優しく癒やしてくれた。
人の足音が駆け足で近付いてくる。
自分を呼び戻しに来た側近だろうと思い、王は目を開けずにいた。
「申し訳ありません、陛下」
予想外の台詞を投げ掛けられ、カーディスは目を開けた。
頭を下げていたのは、やはり側近のラルヴィス・レイナだった。夏でも着崩さず、今日も生真面目に軍服を身に付けている。
王は木陰で寝そべったまま尋ねた。
「どうした、ラルヴィス」
「あの、殿下のご生誕日が7月28日なのだそうで」
「ジョシュアの? 来週なのか」
「ええ。先程、アイヴィー様との業務連絡の時に、何気なく『そう言えば、ロレートでは誕生日に何かするの?』と聞かれまして」
「こちらでは別に何もしないだろう」
「お言葉ですが、陛下、それで本当に宜しいのでしょうか?
昨年までは確かに、ロレートでは何もできない状況でしたが、
先日の建国記念式典以降、ジョシュア様は正式な王位継承者です。
第一王子のご生誕日に国が何もしなくて良いのでしょうか?」
「聖アルフォンソ島で過ごせる最後の誕生日に、ジョシュアをロレートまで呼び出すつもりか?
友人達がサプライズパーティでも目論んでいたらどうする」
「あっ、そう、ですね」
「ロレートで祝うなら、来年からでいいだろう。今年は、そうだな。
誕生日の翌日にでも、俺から一言、冷やかしの電話でもしてやるか」
「お祝いのお電話にして下さい」
「それで、ジョシュアは幾つになるんだ?」
「御年、18になられます」
「若いな。俺の半分か」
「そうですね。陛下の半分のお年でも、陛下の倍はしっかりされてますし」
「悪かったな、規格外のポンコツで」
「ご自覚があるのなら、執務室にお戻り下さい、陛下」
「今宵は街のビアガーデンに行きたい。今年も、もう始まっているんだろう?」
「仕方ありませんね。7月分の執務が全て終わったら、特別にお連れします」
王は寝返りを打って、背を向けた。
「では無理だ」
「陛下、諦めるのが早過ぎます」
fin
■ソクーロフ×アイヴィー
コロナが空になった。
「じゃあ次は、ソレでハイボールにしよっかな」
透明なビール瓶を脇に除けて、ソクーロフの前にある茶色いボトルに手を伸ばす。
この人が俺んちにボトルキープしてるスコッチウイスキー、マッカランだ。
煙草を肴に飲んでるドクターは、マイボトルを横目に見送って、また煙草を銜えた。
俺は背の高いグラスに、琥珀の液体とソーダを注いだ。
今夜は聖アルフォンソ学院の保健室の先生がうちに来てる。と言っても、俺が重病患者なわけじゃない。
単に、お仕事帰りに外でメシ食って、俺んちで飲む、いつものパターン。
学院専属ドライバーで警備担当者の俺、アイヴィーと、
保健室のソクーロフ先生は、同じ職場に居る同僚。早いもんで、もう六年の付き合いだ。
7月も下旬に入ったが、ここ、海を見下ろすコテージは、寝苦しい程じゃない。
窓を全開にすればヘーキ。少し火照った頬に当たる夜風が気持ちいい。
向かいに居るドクターは、相変わらず、ちっとも顔が赤くならない。
この人と飲むようになってから、もう六年も経つのに、まだ一度も、へべれけになった姿を見たことがなかった。
マッカランもロックで飲んでる。オトナだ。ソーダ割りしてる俺がコドモみたい。
シェリーに近い甘味が泡と一緒に喉を駆け抜けた。
「そういや、もうすぐジョシュアの誕生日なんだってね?」
このウイスキーの後味はチョコレートに似てる。
「よく知っているな?」
「ウーティスの連中がコソコソ企んでるらしいから」
「この島で迎える、最後の誕生日だからな」
世間的には、そろそろ夏休みの時期だった。が、今年は休暇の時期を遅らせている生徒が多かった。去年と同様に。
ジョシュアと同じ寮の生徒達が、当人には内緒で、バースデーパーティを企画している。
そうデッドなプリンス達に聞いた。何かと目立つあいつらが企画者なら、既にジョシュアにバレバレなんじゃないかと心配だ。
まあ、ジョシュアなら、ドタバタしてる奴等を目撃しても、見て見ぬフリくらいはしてくれるだろう。
「んでさ、ジョシュアのバースデーパーティに『お前も来い』ってアルフレッド達に言われたんだけど」
「断ったのか?」
「うん。生徒達の中で、大人が一人紛れ込んでちゃオカシイでしょ、やっぱ」
カウンセラーも務める先生は紫煙を吐きながら、
「お前は、大人に思われてないんだろう」
「ちょ、軽くキズ付くんですけど?」
「光栄に思え。私は招待されていない。おそらく、他の大人も呼ばれていないのだろう」
先生が喋るとメンソールの匂いがする。俺の煙草とは違うミントフレーバー。
「誕生日を終えたら、直に、あの子も卒業だな」
「うわー。ついにジョシュアも卒業かー」
俺はロングソファに思い切り凭れた。
「これで、賑やかだった『当たり年』も終わりだ。嬉しいだろう? 司令官?」
「何イジワルな質問してんの。来年度だって、なんだかんだで忙しいんだからさ、どーせ」
「新しい生徒代表の発表も、もう間も無くだな」
「夏だもんねー」
夏休みが終われば、ガッコは新年度。最高学年の多くが卒業し、在校生は学年がひとつ上がる。
それに伴い、生徒代表の任も後輩へ引き継がれる。去年、テオからジョシュアへバトンが渡されたのも、夏だった。
「たまには賭けてみない? 次は誰がなるか。ね。ソクちゃんは誰だと思う?」
ソクーロフはロックグラスを傾けた後、口を開いた。
「まず、シルヴァンの可能性はないな」
「ナイねー。あいつがなったら、月イチでコスプレパーティが開催されて、警備の制服がサムライ・スタイルになっちゃう」
「何を言っている? シルヴァンの可能性がないのは、あの子も卒業してしまうからだぞ?」
「ああ、そっちの理由で?」
そっか。あいつも卒業するんだ。
「お前は随分寂しくなるだろうな、シルヴァンが居なくなると」
「べ、別にー」
俺は自分のキャメルを取る。箱を人差し指でトントンした。出てこない。箱を逆さまにする。出てこない。
「空っぽかよっ」
左手でクシャと握り潰す。
「ソクちゃんの、一本ちょーだい?」
テーブルの上をスケートして、煙草が箱ごとやってきた。
「サンキュ」
一本抜いて、自分で火を点けた。
吸ってから思い出した。このヒト、メンソール派なんだった。口の中がミントでいっぱいになる。
ハイボールを流し込んだら、余計にスースーした。
「私、個人としては、あの子の生徒代表姿も見てみたかった」ソクーロフは灰を落としながら「半世紀に一人の逸材が居なければ、シルヴァンが指名されていたかもしれない」
「え、なんで?」
「司令官のお前や島民とも親しい関係を築ける彼だ。さぞ、警備レベルが上がり、生徒と島民の距離が縮まったことだろう」
でも、俺達警備の武器が刀になるのは困っちゃう。
「生徒代表に選出されるのは、現在、高等部二年生の子達だから、シルヴァンの可能性がないのは実に残念だが、
そうだな。ウーティスで言えば、ハルヤが生徒代表に選ばれる可能性もある」
「いきなり大穴いっちゃう? 週イチで早食い大会、みたいな? てか、ハルヤが選ばれたら、『えっ? お、俺?』って本人が一番キョドるんじゃない?」
「生徒代表の素質は充分ある。ハルヤがなれば、一年後には化けているさ。ジョシュアのようにな」
「ま、確かに」
ジョシュアも化けた。13歳の時とは全然違う。
入学当時は大人しいお坊ちゃんだったが、徐々に、いや、やっぱり生徒代表になってから、ぐんと立派になった気がする。
ハルヤは普段「めんどくさっ」と言うことは多い奴だが、デッド・プリンスの中では緩衝材的な役割を果たしている。
自己主張の塊である二人を宥め、見事な中立案を提案する力がある。
ハルヤが居なくては、デッド・プリンスはうまくいかなかったかもしれない。そう考えると『影のリーダー』っぽい一面は今まで数々見てきた。
ソクーロフは次の候補者を挙げた。
「または、アンリが生徒代表に選ばれる可能性もある」
「えー。学院案内の時、新入りがビビりまくったらどーすんのー。初日で自主退学しちゃうかも」
「非公認のアンリファンクラブのメンバーが増えるだけだろう」
「どこにあんの、そんなクラブ!?」
「または、アルフレッドが生徒代表に選ばれる可能性もある」
「あー、学院案内はめちゃくちゃウマそうだけど、俺がイロイロ振り回されそうだなー。
って、あんた。可能性可能性って言ったら、誰でも言えんじゃん」
「ああ。誰もが王になれる。王の資質を持っている」
「そんじゃー、賭けになんないね。俺、シャワー浴びてこよーっと」
ソファから立った時に足がふらついた。ハズかしい。思わず、舌打ちしそうになる。しないけど。
ソクーロフは小馬鹿にしたように「大丈夫か?」
「ん。もう年なのかなー、俺」
「30過ぎているからな。今夜はかなり飲んでいるし、シャワーは止めておけ」
先生がソファからゆっくりと立ち上がる。
「え、でも」
ふわりと風が来る。潮風じゃない。ミントとモルトの香りがした。
fin
「じゃあ次は、ソレでハイボールにしよっかな」
透明なビール瓶を脇に除けて、ソクーロフの前にある茶色いボトルに手を伸ばす。
この人が俺んちにボトルキープしてるスコッチウイスキー、マッカランだ。
煙草を肴に飲んでるドクターは、マイボトルを横目に見送って、また煙草を銜えた。
俺は背の高いグラスに、琥珀の液体とソーダを注いだ。
今夜は聖アルフォンソ学院の保健室の先生がうちに来てる。と言っても、俺が重病患者なわけじゃない。
単に、お仕事帰りに外でメシ食って、俺んちで飲む、いつものパターン。
学院専属ドライバーで警備担当者の俺、アイヴィーと、
保健室のソクーロフ先生は、同じ職場に居る同僚。早いもんで、もう六年の付き合いだ。
7月も下旬に入ったが、ここ、海を見下ろすコテージは、寝苦しい程じゃない。
窓を全開にすればヘーキ。少し火照った頬に当たる夜風が気持ちいい。
向かいに居るドクターは、相変わらず、ちっとも顔が赤くならない。
この人と飲むようになってから、もう六年も経つのに、まだ一度も、へべれけになった姿を見たことがなかった。
マッカランもロックで飲んでる。オトナだ。ソーダ割りしてる俺がコドモみたい。
シェリーに近い甘味が泡と一緒に喉を駆け抜けた。
「そういや、もうすぐジョシュアの誕生日なんだってね?」
このウイスキーの後味はチョコレートに似てる。
「よく知っているな?」
「ウーティスの連中がコソコソ企んでるらしいから」
「この島で迎える、最後の誕生日だからな」
世間的には、そろそろ夏休みの時期だった。が、今年は休暇の時期を遅らせている生徒が多かった。去年と同様に。
ジョシュアと同じ寮の生徒達が、当人には内緒で、バースデーパーティを企画している。
そうデッドなプリンス達に聞いた。何かと目立つあいつらが企画者なら、既にジョシュアにバレバレなんじゃないかと心配だ。
まあ、ジョシュアなら、ドタバタしてる奴等を目撃しても、見て見ぬフリくらいはしてくれるだろう。
「んでさ、ジョシュアのバースデーパーティに『お前も来い』ってアルフレッド達に言われたんだけど」
「断ったのか?」
「うん。生徒達の中で、大人が一人紛れ込んでちゃオカシイでしょ、やっぱ」
カウンセラーも務める先生は紫煙を吐きながら、
「お前は、大人に思われてないんだろう」
「ちょ、軽くキズ付くんですけど?」
「光栄に思え。私は招待されていない。おそらく、他の大人も呼ばれていないのだろう」
先生が喋るとメンソールの匂いがする。俺の煙草とは違うミントフレーバー。
「誕生日を終えたら、直に、あの子も卒業だな」
「うわー。ついにジョシュアも卒業かー」
俺はロングソファに思い切り凭れた。
「これで、賑やかだった『当たり年』も終わりだ。嬉しいだろう? 司令官?」
「何イジワルな質問してんの。来年度だって、なんだかんだで忙しいんだからさ、どーせ」
「新しい生徒代表の発表も、もう間も無くだな」
「夏だもんねー」
夏休みが終われば、ガッコは新年度。最高学年の多くが卒業し、在校生は学年がひとつ上がる。
それに伴い、生徒代表の任も後輩へ引き継がれる。去年、テオからジョシュアへバトンが渡されたのも、夏だった。
「たまには賭けてみない? 次は誰がなるか。ね。ソクちゃんは誰だと思う?」
ソクーロフはロックグラスを傾けた後、口を開いた。
「まず、シルヴァンの可能性はないな」
「ナイねー。あいつがなったら、月イチでコスプレパーティが開催されて、警備の制服がサムライ・スタイルになっちゃう」
「何を言っている? シルヴァンの可能性がないのは、あの子も卒業してしまうからだぞ?」
「ああ、そっちの理由で?」
そっか。あいつも卒業するんだ。
「お前は随分寂しくなるだろうな、シルヴァンが居なくなると」
「べ、別にー」
俺は自分のキャメルを取る。箱を人差し指でトントンした。出てこない。箱を逆さまにする。出てこない。
「空っぽかよっ」
左手でクシャと握り潰す。
「ソクちゃんの、一本ちょーだい?」
テーブルの上をスケートして、煙草が箱ごとやってきた。
「サンキュ」
一本抜いて、自分で火を点けた。
吸ってから思い出した。このヒト、メンソール派なんだった。口の中がミントでいっぱいになる。
ハイボールを流し込んだら、余計にスースーした。
「私、個人としては、あの子の生徒代表姿も見てみたかった」ソクーロフは灰を落としながら「半世紀に一人の逸材が居なければ、シルヴァンが指名されていたかもしれない」
「え、なんで?」
「司令官のお前や島民とも親しい関係を築ける彼だ。さぞ、警備レベルが上がり、生徒と島民の距離が縮まったことだろう」
でも、俺達警備の武器が刀になるのは困っちゃう。
「生徒代表に選出されるのは、現在、高等部二年生の子達だから、シルヴァンの可能性がないのは実に残念だが、
そうだな。ウーティスで言えば、ハルヤが生徒代表に選ばれる可能性もある」
「いきなり大穴いっちゃう? 週イチで早食い大会、みたいな? てか、ハルヤが選ばれたら、『えっ? お、俺?』って本人が一番キョドるんじゃない?」
「生徒代表の素質は充分ある。ハルヤがなれば、一年後には化けているさ。ジョシュアのようにな」
「ま、確かに」
ジョシュアも化けた。13歳の時とは全然違う。
入学当時は大人しいお坊ちゃんだったが、徐々に、いや、やっぱり生徒代表になってから、ぐんと立派になった気がする。
ハルヤは普段「めんどくさっ」と言うことは多い奴だが、デッド・プリンスの中では緩衝材的な役割を果たしている。
自己主張の塊である二人を宥め、見事な中立案を提案する力がある。
ハルヤが居なくては、デッド・プリンスはうまくいかなかったかもしれない。そう考えると『影のリーダー』っぽい一面は今まで数々見てきた。
ソクーロフは次の候補者を挙げた。
「または、アンリが生徒代表に選ばれる可能性もある」
「えー。学院案内の時、新入りがビビりまくったらどーすんのー。初日で自主退学しちゃうかも」
「非公認のアンリファンクラブのメンバーが増えるだけだろう」
「どこにあんの、そんなクラブ!?」
「または、アルフレッドが生徒代表に選ばれる可能性もある」
「あー、学院案内はめちゃくちゃウマそうだけど、俺がイロイロ振り回されそうだなー。
って、あんた。可能性可能性って言ったら、誰でも言えんじゃん」
「ああ。誰もが王になれる。王の資質を持っている」
「そんじゃー、賭けになんないね。俺、シャワー浴びてこよーっと」
ソファから立った時に足がふらついた。ハズかしい。思わず、舌打ちしそうになる。しないけど。
ソクーロフは小馬鹿にしたように「大丈夫か?」
「ん。もう年なのかなー、俺」
「30過ぎているからな。今夜はかなり飲んでいるし、シャワーは止めておけ」
先生がソファからゆっくりと立ち上がる。
「え、でも」
ふわりと風が来る。潮風じゃない。ミントとモルトの香りがした。
fin
■シルヴァン ハルヤ
「ハルヤー! やっぱり、ここに居たんですねー」
よく通る声は二階まで吹き抜けになっている図書館に響き渡る。
静寂を愛する司書に軽く睨まれて、すぐに頭を下げた。
長い髪を揺らして入ってきたのはシルヴァン・クラーク。この聖アルフォンソ学院の高等部二年だ。
シルヴァンは椅子に掛けていた友人の元に急ぐ。
ライブラリ付属のカフェ。大きな窓から夏の日射しが差し込んでいる。
四人掛けのテーブルが多い中、眼鏡を掛けた日本人は、三人掛けの丸テーブルに一人で座っていた。
先月、シルヴァンと同じ寮に入ったハルヤ・コバヤシ。高等部一年。
彼は、捲っていた分厚い漫画雑誌から目を離して、シルヴァンを見上げた。
「遅かったじゃん。今回の、面白いよ?」
シルヴァンは机に両手を突く。
「もー。ライブラリに行くなら、僕にも声掛けて下さいよー。なんでひとりで行っちゃうんですかー」
「え? シルヴァンなら、黙っててもここに来ると思って。ダメだった?」
菫色の瞳がぱちりと瞬いた。
「ダメじゃ、ないです」
「座ったら?」とハルヤに言われて、隣の椅子を引いた。
二人で読むのは日本で毎週発売されている漫画雑誌。
ハルヤが入学初日から取り寄せているものだ。
表示されている発売日は一週間前。これは先週号。
孤島に居る限り、その程度の遅れは気にならなかった。
最初はハルヤ一人で読んでいたのだが、
日本好きのシルヴァンに見付かって以来、毎週一緒に読んでいた。
読み終わった後は、カフェのドリンクで一息入れる。
漫画の話で盛り上がった後、シルヴァンは『竜の涙』から唇を離した。
「あっ、そうだ。僕、ハルヤに聞きたいことがあったんです!」
ハルヤはアイスグリーンティをストローで飲んでいた。
「なに?」
「夏になると、日本ではヌードルが旅に出るって聞いたんですけど、本当ですか?」
ある先輩から『東洋の黒い真珠』と謳われる瞳が困惑する。
ハルヤは一応、頭の中で友人の台詞を反復する。けれど、理解できなかった。
「いや、旅には出ないよ? てゆうか、ごめん。全然意味がわかんないんだけど」
「えっ? ハルヤ、前に言ってたじゃないですか」
「なんて? 俺、そんなこと言った?」
「僕の好きな、あのマンガ、あるじゃないですか。
主人公が、昔、ヒトキリバットウサイと呼ばれたサムライの」
「ああ。うん」
二人が愛読するこの雑誌にも、かつて連載されていた。
正統派の侍モノで、シルヴァンの好みにどストライクの漫画だ。
「で、それがどうしたの?」
「彼はあちこち旅をしてきた、『ナガシのサムライ』なんですよね?」
「そうだね」
「じゃあ、やっぱり『旅するヌードル』じゃないですかー」
「えっと、どうして、そうなっちゃうのか、やっぱりわかんないんだけど」
シルヴァンの話をよくよく聞いた後、
ハルヤは、やっと理解した。お腹を押さえて、ちょっぴり涙を流しながら。
「シルヴァンってほんと面白いよね。『流しそうめん』のこと、『旅するヌードル』だなんて」
思わず、童話かさこじぞうの如く、かさを被った麺を想像してしまい、余計に可笑しい。
シルヴァンは腕を組んで、感慨深げに言う。
「成程。『ナガシソーメン』のナガシと、『ナガシのサムライ』のナガシでは、意味が違うんですね。
日本語は、同じ言葉なのに意味が違うパターンがあるので、とっても難しいです」
「そう? 英語だって、あるじゃん。rightとlightとか。noとknowとか」
「数が違いますよー。英語と日本語とは比べ物になりません。
だって、たくさんたくさんあるじゃないですかー。例えばアメとアメとか、あとは、えーっと」
「クモとクモ。ハシとハシ。キシャのキシャはキシャでキシャした、とかね?」
「ほらー。もう、さっぱり解らないですー」
両の手の平を空に向ける。
いかにも外国人らしいジェスチャーを見て、ハルヤはちょっと笑ってしまった。
「あ! 僕、イイコト思い付きました!」
シルヴァンが両手を合わせた。パン、と良い音がした。
「今度、ナガシソーメン・パーティをしてみませんか!? 僕達がホストで!」
「あ、それ、みんなにはウケるかもね。たぶん、初めて見る物だろうし」
「やりましょう、やりましょう!」
「でも、待って。流しそうめんって、色々めんどくさくないかな?
結構大掛かりじゃん? 竹を用意して、割って、中の節を取ったりしなきゃいけないし」
「あ! パーティのBGMも決めなきゃですね!」
「あ、あの。聞いてる?」
「やっぱりニッポンの音楽にしたいですから、『ジーンセイ、ラク、アリャ』が良いですかね!?」
ハルヤは自然と日本人的微笑みをしていた。
「うーん。合うかなあ?」
シルヴァンが席を立つ。
「早速、パーティの準備に取り掛かりましょう! ハルヤ、行きますよ!」
「あ、ちょっと、これ返してこないとっ」
雑誌を抱えて、ハルヤが立ち上がる。
丸テーブルの上で、二つのグラスが夏の太陽を浴びていた。
fin
よく通る声は二階まで吹き抜けになっている図書館に響き渡る。
静寂を愛する司書に軽く睨まれて、すぐに頭を下げた。
長い髪を揺らして入ってきたのはシルヴァン・クラーク。この聖アルフォンソ学院の高等部二年だ。
シルヴァンは椅子に掛けていた友人の元に急ぐ。
ライブラリ付属のカフェ。大きな窓から夏の日射しが差し込んでいる。
四人掛けのテーブルが多い中、眼鏡を掛けた日本人は、三人掛けの丸テーブルに一人で座っていた。
先月、シルヴァンと同じ寮に入ったハルヤ・コバヤシ。高等部一年。
彼は、捲っていた分厚い漫画雑誌から目を離して、シルヴァンを見上げた。
「遅かったじゃん。今回の、面白いよ?」
シルヴァンは机に両手を突く。
「もー。ライブラリに行くなら、僕にも声掛けて下さいよー。なんでひとりで行っちゃうんですかー」
「え? シルヴァンなら、黙っててもここに来ると思って。ダメだった?」
菫色の瞳がぱちりと瞬いた。
「ダメじゃ、ないです」
「座ったら?」とハルヤに言われて、隣の椅子を引いた。
二人で読むのは日本で毎週発売されている漫画雑誌。
ハルヤが入学初日から取り寄せているものだ。
表示されている発売日は一週間前。これは先週号。
孤島に居る限り、その程度の遅れは気にならなかった。
最初はハルヤ一人で読んでいたのだが、
日本好きのシルヴァンに見付かって以来、毎週一緒に読んでいた。
読み終わった後は、カフェのドリンクで一息入れる。
漫画の話で盛り上がった後、シルヴァンは『竜の涙』から唇を離した。
「あっ、そうだ。僕、ハルヤに聞きたいことがあったんです!」
ハルヤはアイスグリーンティをストローで飲んでいた。
「なに?」
「夏になると、日本ではヌードルが旅に出るって聞いたんですけど、本当ですか?」
ある先輩から『東洋の黒い真珠』と謳われる瞳が困惑する。
ハルヤは一応、頭の中で友人の台詞を反復する。けれど、理解できなかった。
「いや、旅には出ないよ? てゆうか、ごめん。全然意味がわかんないんだけど」
「えっ? ハルヤ、前に言ってたじゃないですか」
「なんて? 俺、そんなこと言った?」
「僕の好きな、あのマンガ、あるじゃないですか。
主人公が、昔、ヒトキリバットウサイと呼ばれたサムライの」
「ああ。うん」
二人が愛読するこの雑誌にも、かつて連載されていた。
正統派の侍モノで、シルヴァンの好みにどストライクの漫画だ。
「で、それがどうしたの?」
「彼はあちこち旅をしてきた、『ナガシのサムライ』なんですよね?」
「そうだね」
「じゃあ、やっぱり『旅するヌードル』じゃないですかー」
「えっと、どうして、そうなっちゃうのか、やっぱりわかんないんだけど」
シルヴァンの話をよくよく聞いた後、
ハルヤは、やっと理解した。お腹を押さえて、ちょっぴり涙を流しながら。
「シルヴァンってほんと面白いよね。『流しそうめん』のこと、『旅するヌードル』だなんて」
思わず、童話かさこじぞうの如く、かさを被った麺を想像してしまい、余計に可笑しい。
シルヴァンは腕を組んで、感慨深げに言う。
「成程。『ナガシソーメン』のナガシと、『ナガシのサムライ』のナガシでは、意味が違うんですね。
日本語は、同じ言葉なのに意味が違うパターンがあるので、とっても難しいです」
「そう? 英語だって、あるじゃん。rightとlightとか。noとknowとか」
「数が違いますよー。英語と日本語とは比べ物になりません。
だって、たくさんたくさんあるじゃないですかー。例えばアメとアメとか、あとは、えーっと」
「クモとクモ。ハシとハシ。キシャのキシャはキシャでキシャした、とかね?」
「ほらー。もう、さっぱり解らないですー」
両の手の平を空に向ける。
いかにも外国人らしいジェスチャーを見て、ハルヤはちょっと笑ってしまった。
「あ! 僕、イイコト思い付きました!」
シルヴァンが両手を合わせた。パン、と良い音がした。
「今度、ナガシソーメン・パーティをしてみませんか!? 僕達がホストで!」
「あ、それ、みんなにはウケるかもね。たぶん、初めて見る物だろうし」
「やりましょう、やりましょう!」
「でも、待って。流しそうめんって、色々めんどくさくないかな?
結構大掛かりじゃん? 竹を用意して、割って、中の節を取ったりしなきゃいけないし」
「あ! パーティのBGMも決めなきゃですね!」
「あ、あの。聞いてる?」
「やっぱりニッポンの音楽にしたいですから、『ジーンセイ、ラク、アリャ』が良いですかね!?」
ハルヤは自然と日本人的微笑みをしていた。
「うーん。合うかなあ?」
シルヴァンが席を立つ。
「早速、パーティの準備に取り掛かりましょう! ハルヤ、行きますよ!」
「あ、ちょっと、これ返してこないとっ」
雑誌を抱えて、ハルヤが立ち上がる。
丸テーブルの上で、二つのグラスが夏の太陽を浴びていた。
fin
■アイヴィー ソクーロフ ディーノ
「夏はヒマだなー」
警備組織のモニタールーム。
どの画面も、代わり映えしない長閑な日常が映し出されているので、眠たくなってくる。
タクシードライバー兼、警備組織の司令官であるアイヴィーは、正直、退屈していた。
今は夏。聖アルフォンソ学院の生徒達も、その多くが夏季休暇に入っている。
小さな島を抜け出して、外国へ遊びに行っているのだ。
だが、ここは訳アリの島。自前のボディーガードを持つアンリを始め、
外に出たくない事情を持つ生徒達が、少なからず島に残っている。
おかげで、警備組織も稼働中。けれど、平日に比べて任務はかなり減っている為、
ごくごく短い休暇を順番に取ることはできた。今日はいつもより少し少ない人数だった。
司令官は勤務日で、現在、監視のお仕事中。
Mブロックの画面には、アンリが所有する小型クルザーが映っている。
今日は午前中から海上画面のあちこちを行き来している。
その船にイヤな思い出があるアイヴィーは苦い顔になる。
生徒の私物に、警備のチェックは入らない。
以前、この船にマフィアが乗っていたのだが、スルーしてしまったことがある。
まさか生徒が共謀して、マフィアを上陸させるとは思わなかったのである。
しかし、今日は流石に違う。お留守番組のアンリとユウタが、周辺の無人島巡りをするそうだ。
昨日、タクシーに乗ったユウタの口からも、そう聞いている。
「どんな魚が居るかなー」と楽しみにしているようだった。
アイヴィーは、他の画面に視線を移す。
どの監視モニタにも、平和な夏の午後しか映らない。
夏休み中の、それも日中に、侵入者が来る確率は極めて低いのである。
デスクの上に乗せた両腕を顎枕にして、そっとグチった。
「ほんとヒマだなー。残ってる生徒が少ねえんだから、お客さんが来るわけないしー」
「ご不満ですか? それではまるで、侵入者に来て欲しいように聞こえますよ、司令」
いつのまにか、副司令官が隣に立っていた。
ゆるゆるネクタイの司令官とは違い、夏でもネクタイをきっちり結んでいる。
「我々の仕事は、暇なほうが幸いでしょう?」
「んー。仕事がラクになるのはウレシイけど、ヒマ過ぎんのもツマンナイじゃん?」
「我が儘で贅沢です」
ぴしゃりと言った。
「司令、随分眠そうに見えますが、きちんとモニタを監視していましたか?」
「うん。み、見てたよ?」
副司令官は首を傾げる。
「私と代わって下さい。ご退屈されている司令には他の仕事をお願いします」
「えっ。なに?」
ドン、とファイルを置かれる。
「月末までの報告書、未提出ですね?
時間がある今のうちに、お書きになってはいかがです?」
「えー。いまー?」
「子供ですか、貴方は」
司令官はそっと席を立つ。一歩ずつ、ドアに向かう。
「俺、ちょっとおさんぽ、じゃなくて、パトロールに行ってこよっかなー」
「司令。また私に押し付けるおつもりですか?」
「締切までにはちゃんと出すよっ。じゃ、行ってきまーす!」
司令官は走り去っていった。
それから三十分後。
アイヴィーは程良く冷房が効いた室内に居た。
「でね。保健室のパトロールに来たってわけ」
てへへっ、とアイヴィーが笑う。
「保健室にアヤシイ人は居ませんかー? あ、目の前に居たっ! ひひひっ」
目の前に居る白衣の男は、ノーリアクションだった。
彼の名はスタニスラフ・ニコライエヴィッチ・ソクーロフ。
学院の保健教師兼カウンセラーを務めている。また、警備組織への協力者でもある。
自白・洗脳の研究者だった経歴を見込まれ、捕らえた侵入者への自白・洗脳を頼まれているのだ。
その為、警備組織の司令官であるアイヴィーとは、同僚と言える関係だった。
今はアイヴィーには背を向け、パソコンに向かっている。
放置されたアイヴィーは、椅子の背凭れを前にして座っていた。
そのまま足を動かして、ソクーロフのほうへ前進する。キコキコと椅子のキャスターが鳴る。
「ねー、ねー。ソクーロフ先生はさ、お仕事ヒマな時、いつも何してんのー?
ソクーロフもヒマでしょ、夏休みは生徒居なくて」
「お前と違って、私は暇を持て余すことはない」
白衣の男がやっと返事をした。
アイヴィーはキコキコともう少し近付く。
「またまたー。てゆーか、今、超ヒマじゃーん」
「時間のある時は、考えている」
「何を?」
「決まっているだろう? 可愛い生徒達のことだ」
「うわ、うわっ、ウソくさっ! 余りのウソくささに全米が泣いたっ!」」
「失礼な。私は保健教師だぞ? 彼等にどんなカウンセリングを行えば効果的か、常に研究している」
「ヘエー、ソーデスカー」
はあー、とアイヴィーは息を吐く。背凭れの上で器用に、腕に顎を乗せる。
「こういう時に、ディーノでも来ればなー」
その小さな呟きをカウンセラーは聞き逃さなかった。
ディーノ・マンゾーニは、シチリアンマフィアの次期ボス。
アンリがボディーガードに選んだのが、この男なのだ。
打ち合わせの為なのか、マフィアは度々無許可で島に上陸し、アンリと密会しているらしい。
つまり、司令官が直々に敷いた警備網を毎回パスしているということだ、おそらくはアンリと共謀して。
シチリア仕込みの縄抜けテクニックを見せ付けられる度に、司令官は悔しい思いをさせられるのだが、
マフィアに警備の穴を指摘されるおかげで、聖アルフォンソ島のセキュリティレベルが、
少しずつ高品質になっていくのは否定できない事実だった。
ソクーロフは両者のいたちごっこを興味深く見守っていた。
そして、今、マフィアの名を呟いた司令官に、インタビューせずにはいられなかった。
「会いたいのか? 宿敵のマンゾーニに」
「ち、違いマスよ!? 誰があんなヤツなんかに! 顔も見たくないねっ!」
「では、どういう意味で『こういう時に、ディーノでも来ればなー』なんだ?」
「それは、えと、どうせ来るならヒマな時に来れば良いのに、と思っただけで……」
「自分は完璧だと思っている警備網を度々破られるうち、それが快感に感じられるようになったか?
全く、お前はどうしようもないマゾヒストだな。やれやれ。一体、誰に躾られたのやら」
「ちょい! 勝手に人をド変態にするのは止めて貰えませんか!」
その時、二階から階段を下りてくる足音が聞こえた。
「あれ? ソクーロフ、二階で寝てるヤツ居たの?」
「ああ、一人な」
「言ってよー。俺が煩いから起こしちゃったのかな?」
「それはない。保健室の壁は厚くできているからな」
何の為に、とアイヴィーは思ったがコワくて聞けなかった。
「でー、誰が具合悪いの? ミハイル?」
ソクーロフは答えなかった。
足音が部屋の前で止まる。ゆっくりとドアが開く。
寝乱れた長い黒髪に、濃い顎髭。明らかに生徒ではない、長身の男が入ってきた。
「スタちゃん、喉渇いたー、水ー」
ここに居る筈のない人物を目にして、アイヴィーは驚愕のあまり、声も出ない。
ソクーロフは自分の腕時計に触れてから、腰を上げる。
それまで、アイヴィーには冷たく接していた人物は、
突然、人が変わったように、にこやかに言った。
「起きたんだね。おはよう、ディーノ」
その声は『対ミハイル用』もしくはそれ以上に優しかった。
マフィアは子供のように目をゴシゴシしながら、頷いた。
「ん。おはよう、スタちゃん」
保健室の先生は冷蔵庫に向かいながら、
「一時間ほどお昼寝していたね。よく眠れたかな?」
「うん」
寝起きの男とアイヴィーの目が合った。
呆気に取られていたアイヴィーが、やっと声を出す。
「ディ、ディーノ!? ちょ、なんで居んだよ!? どっから湧いて出た!?」
ソクーロフがアイヴィーに見せた顔は、いつもの、上から目線な微笑だった。
「夏季休暇だからと言って、どこかの司令官が仕事をサボっているから、こうなるんじゃないか?」
「グフッ」
司令官のハートに痛恨の一撃。保健室の先生はマフィアにグラスを差し出す。
「はい、ディーノ、お水だよ」
「ありがと、スタちゃん」
「どういたしまして」
「ねえ! うっかりツッコミ忘れてたけど、お二人さん、なんで今日は名前で呼び合ってんの?
この前まで名字で呼んでなかった? いつのまに、そんなカンケイになったわけ?
てか、何すか、その最狂コンビ? 幾らなんでもムテキ過ぎんだろ?
ディーノがアンリと組んだけで敵わないのに、
ソクーロフと組まれたら、俺、もう勝てる気が全くしないんですけど!?」
マフィアが白衣を引っ張る。
「スタちゃん、スタちゃん。俺、おなか空いたー」
「では一緒に何か食べに行くかい?」
「行くー」
アイヴィーが叫ぶ。
「挙句に無視!?」
「ディーノは何が食べたいのかな?」
「うーん」
「だから! 俺を無視して仲良くすんな!
てか、ソクーロフ! どーゆーことか、ちゃんと説明してくれませんか!?」
ドクターは、面倒だな、と言った口調で、
「一時間前、街でディーノを見掛けたんだ。時差ぼけで眠そうにしていたから」
ディーノが続く。
「保健室にベッドがあるからおいでって、スタちゃんが」
「ソクーロフ! あんた、学院側の人間のくせに、なにマフィアご招待してんの!?
つーか、ディーノも! 誘われたからって、ホイホイ行っちゃダメでしょ!?
アブナイおじさんに付いてっちゃいけないって、パパに習わなかったのか!?」
「おい、お前。スタちゃんを悪く言うな。スタちゃんは優しくていいひとなんだぞ」
「誰がいいひとだってー!?」
「スタちゃん。こいつ、なんかヘンなことばっかり言うね」
「ほんとだね」
「いやいや、ヘンなのはディーノだろ!?
今日は異常にコドモっぽいっつーか、ソクーロフに対して素直過ぎるし」
アイヴィーは、はたと気付く。
「あれ? ちょっと待てよ、この幼いかんじは……ま、まさか」
アイヴィーはマフィアの肩を揺する。
「ディーノ! ソクーロフにナニされた!? おい、目を覚ませ、ディーノ!」
手を振り解く。腕力は大人そのものだったが、話し方は子供だった。
「さっきから、うっさいなー。お兄ちゃん、ダレなの?」
「ダレって。俺だよ、俺!」
マフィアは途惑いの表情を見せた。不安そうに白衣の後ろに立つ。
「スタちゃん。このお兄ちゃん、ダレ?」
「このお兄ちゃんのことは気にしなくていいんだよ、どうでもいいから。
さあ、私達は美味しいご飯を食べに行こう」
「うん。あ、俺、オムライスでもいーい?」
「いいよ」
「あのね、ママが作るオムライスにはね、ケチャップで『ディーノ』って書いてくれるんだよ?」
「待て待てーい!」
保健室を出て行こうとする二人を、アイヴィーが追い駆ける。
「俺も行くぞ! むしろディーノのほうが心配になってきた!」
二人+オマケは新市街のショッピングモールにやってきた。
ファミリーレストランで、オムライスを食べていたマフィアは、
スプーンを握ったまま、うつらうつらし始めた。
ソクーロフは腕時計を覗いてから、マフィアの肩に手を置いた。
「ディーノ? いっぱい食べて、眠たくなってきたのかな?」
「うん……」
「そのまま眠っていいよ。おやすみ、ディーノ」
カラン、とスプーンが手から離れ、テーブルに転がった。
カウンセラーに『おやすみ』を言われたマフィアは、
まるで糸が切れた操り人形のように眠りに落ちた。
カウンセラーは腕時計のボタンを押し、時間を確認した。
「いい子だね、マンゾーニ」
アイヴィーの目の前には、信じられない光景があった。
マフィアがソクーロフの膝の上で、すやすや眠っている。
カウンセラーは、ケチャップだらけの口髭を紙ナプキンで綺麗に拭き取っている。
「可愛い寝顔だ」
「そんなヒゲ面のどこがカワイイの!? あんた、ヒゲフェチ!?」
「静かにしろ、アイヴィー。マンゾーニが起きてしまう」
「いい加減、説明してくれるよね? ソクーロフ博士」
アイヴィーは頬を膨らませ、カウンセラーを睨んだ。
「ディーノに催眠を掛けたんだよね? なんで?」
「前から、一度、眠らせてみたかった」
波のある黒髪を撫でながら、
「親からたっぷりと愛情を注がれて、根が素直に育った人間は、深い催眠に落ち易い傾向にある。
だから、マンゾーニは催眠に掛かり易いタイプだろうと思っていたが、これ程とはな」
アイヴィーは頭を抱える。
「なんってこったい。ディーノもあんたに敵わないなんて」
「今日はやけにマンゾーニの肩を持つな?」
「泣く子も黙るマフィアが、こんなオコチャマにされてたら、誰でも可哀想になってくんだろが!
これ、ちゃんと元に戻るんだろーね? いつ戻んのよ!?」
「そうだな、この分だと夜中まで持ちそうだ。朝起きた頃には、元の彼に戻っているだろう」
「じゃあ、今夜はどこに寝かせるつもり?」
「後に覚醒するマフィアを学院の敷地内に入れるつもりか? 寝床はお前の家に決まっているだろう?」
「俺んちかよ! だって、夜中には催眠が切れるんだろ?
もし、そん時、起きちゃったらどうすんの? 俺の身の安全は誰が保証してくれんのさ!?」
「司令官が自分の身も守れなくてどうする?」
「ディーノは別! 俺、自信ない!」
「では、このままにしておくか?」
「このままって?」
「半永久的に続く、強い催眠を掛け、マンゾーニを子供のままにして、イタリアに返すか?
子供化したマンゾーニは、お前のこともまだ知らない状態だ。当然、お前とのいたちごっこも忘れている。
更に、この島に関する全ての記憶を除去しても良い」
「ディーノの記憶を……」
「この島にとって、危険人物には違いないのだからな。度々、お前の業務妨害もしているわけだし」
「でも、記憶を消しちゃったら、俺達のことも全部、忘れたまんまになっちまうってことだろ?」
「そうだ。つまり、警備網を破って上陸してくることも、なくなる。
良い考えだろう? さあ、どうする、司令官?」
カウンセラーは司令官の表情を観察している。
アイヴィーは少し黙った後、答えた。
「だ、ダメだよ。そんなの、やっぱダメ!」
「何故?」
「だって、ディーノは」
俯く顔をカウンセラーは注意深く覗き込む。
「ディーノは?」
「ディーノは、次こそ、俺の警備網に引っ掛けてやんだから!
それまでは、ディーノはディーノで居て貰わなきゃ、俺が困んの!」
翌日。保健室のドアをユウタがノックした。
「失礼しまーす。ソクーロフ博士、居ますかー?」
白衣の男はパソコンに向かっていた。
変幻自在の保健室の先生は、『対ユウタ用』の仮面を装着して、振り向いた。
「おや、ユウタ。よく来たね。どうしたのかな?」
「昨日、無人島で遊んでたら蚊に刺されたみたいで」
右腕に赤い腫れがあった。引っ掻いた傷もある。
「寝ているうちにやっちゃったみたいで」
「では虫刺されの薬を塗ろうか。少し滲みてしまうと思うけれど」
「あの、博士。その薬、ちょっと借りて行っても良いですか? 俺、あとで返しに来ますから」
「それは構わないが」
ここで塗っていけば良いだけの話だ。薬をどこかに持って行く理由がない。
昨日の出来事を思い出した医師は、その理由が思い当たった。
「アンリも、刺されてしまったのかな?」
「そうなんです。すごいなあ、博士は。何でも解っちゃうんですね」
「大したことではないよ。君が昨日、アンリと一緒に無人島巡りをしていたのは、
私もアイヴィーから聞いていたからね」
「そうだったんですか」
塗り薬をユウタに手渡す。
「それはウーティスのサロンにあげるよ。これからも必要になるかもしれないから」
「解りました。ありがとうございます」
「昨日は、楽しかったかい?」
「はい。おっきなヒトデ見付けたんです。あっ、携帯で写真撮ったんで、見ますか?」
携帯画面を見せてくれた。赤い星型の海の生き物がドアップで映っていた。
「随分大きいんだね」
「はい、俺もビックリしちゃいました」
「他にも写真を撮ったのかな?」
そう尋ねると、ユウタは喜々として、楽しい夏の思い出と共に、たくさんの写真を見せてくれた。
小さな写真の中には、医師が見たこともない、貴重なアンリの表情を捉えているものもあった。
「そう言えば、昨日は、アンリと一緒にウーティスを出て、一緒に帰ってきたのかな?」
「いいえ。帰りは一緒でしたけど、行きは違いました。
船の準備があるから、君は後から来てって言われて。
あ、帰りは、ケーキを買って帰りました、ミハイルの分も一緒に」
「三人で食べたのかい? 楽しい一日になったようだね」
「はい」
ユウタとの無人島巡りは、やはりフェイクだったのか、と医師は思った。
ユウタが来るより先に、船に乗ったマフィアを、島へ上陸させたのだろう。
アンリは密会の後でマフィアと別れ、船に戻り、ユウタと遊んだのだ。
街で一人になったディーノにソクーロフが遭遇したというわけだ。
数日前から、ユウタは「今度アンリの船に乗せて貰う」と周囲に言い触らしていた。
アンリがそう依頼したのではなく、ただ嬉しくて自発的に。
その話を、タクシーの車内で、アイヴィーもユウタから聞かされていた。
そうしておけば、翌日、監視モニタにアンリのクルーザーが何度映っても、
アンリがユウタと遊んでいるだけだ、としか思われない。
以前も同じ船で、マフィアを上陸させているが、
二度もその手を使ってくる筈がない、という裏を掻いたのだろう。
「博士?」
「ああ、なんだい?」
ユウタがパソコン画面に興味を示している。
「それ、何を書いてたんですか? なんだか、難しそう」
「これかい? 夏だから、私も自由研究をしようかと思ってね、趣味の範囲だが」
「博士が?」
「日本の小学校ではそれが毎年宿題になる、と君のお姉さんから聞いたものだから」
「姉貴ってば、博士にそんなことも話してるんですか」
「うん。最近は、彼女と過去の話もしているからね」
「ふうん。でも、博士が宿題するなんて、なんか不思議だな。どんな自由研究なんですか?」
「これはちょっとした、心理学の研究論文なんだ。テーマは」
研究者の眼鏡がキラリと光る。
「敵対する対人関係に関する考察」
fin
警備組織のモニタールーム。
どの画面も、代わり映えしない長閑な日常が映し出されているので、眠たくなってくる。
タクシードライバー兼、警備組織の司令官であるアイヴィーは、正直、退屈していた。
今は夏。聖アルフォンソ学院の生徒達も、その多くが夏季休暇に入っている。
小さな島を抜け出して、外国へ遊びに行っているのだ。
だが、ここは訳アリの島。自前のボディーガードを持つアンリを始め、
外に出たくない事情を持つ生徒達が、少なからず島に残っている。
おかげで、警備組織も稼働中。けれど、平日に比べて任務はかなり減っている為、
ごくごく短い休暇を順番に取ることはできた。今日はいつもより少し少ない人数だった。
司令官は勤務日で、現在、監視のお仕事中。
Mブロックの画面には、アンリが所有する小型クルザーが映っている。
今日は午前中から海上画面のあちこちを行き来している。
その船にイヤな思い出があるアイヴィーは苦い顔になる。
生徒の私物に、警備のチェックは入らない。
以前、この船にマフィアが乗っていたのだが、スルーしてしまったことがある。
まさか生徒が共謀して、マフィアを上陸させるとは思わなかったのである。
しかし、今日は流石に違う。お留守番組のアンリとユウタが、周辺の無人島巡りをするそうだ。
昨日、タクシーに乗ったユウタの口からも、そう聞いている。
「どんな魚が居るかなー」と楽しみにしているようだった。
アイヴィーは、他の画面に視線を移す。
どの監視モニタにも、平和な夏の午後しか映らない。
夏休み中の、それも日中に、侵入者が来る確率は極めて低いのである。
デスクの上に乗せた両腕を顎枕にして、そっとグチった。
「ほんとヒマだなー。残ってる生徒が少ねえんだから、お客さんが来るわけないしー」
「ご不満ですか? それではまるで、侵入者に来て欲しいように聞こえますよ、司令」
いつのまにか、副司令官が隣に立っていた。
ゆるゆるネクタイの司令官とは違い、夏でもネクタイをきっちり結んでいる。
「我々の仕事は、暇なほうが幸いでしょう?」
「んー。仕事がラクになるのはウレシイけど、ヒマ過ぎんのもツマンナイじゃん?」
「我が儘で贅沢です」
ぴしゃりと言った。
「司令、随分眠そうに見えますが、きちんとモニタを監視していましたか?」
「うん。み、見てたよ?」
副司令官は首を傾げる。
「私と代わって下さい。ご退屈されている司令には他の仕事をお願いします」
「えっ。なに?」
ドン、とファイルを置かれる。
「月末までの報告書、未提出ですね?
時間がある今のうちに、お書きになってはいかがです?」
「えー。いまー?」
「子供ですか、貴方は」
司令官はそっと席を立つ。一歩ずつ、ドアに向かう。
「俺、ちょっとおさんぽ、じゃなくて、パトロールに行ってこよっかなー」
「司令。また私に押し付けるおつもりですか?」
「締切までにはちゃんと出すよっ。じゃ、行ってきまーす!」
司令官は走り去っていった。
それから三十分後。
アイヴィーは程良く冷房が効いた室内に居た。
「でね。保健室のパトロールに来たってわけ」
てへへっ、とアイヴィーが笑う。
「保健室にアヤシイ人は居ませんかー? あ、目の前に居たっ! ひひひっ」
目の前に居る白衣の男は、ノーリアクションだった。
彼の名はスタニスラフ・ニコライエヴィッチ・ソクーロフ。
学院の保健教師兼カウンセラーを務めている。また、警備組織への協力者でもある。
自白・洗脳の研究者だった経歴を見込まれ、捕らえた侵入者への自白・洗脳を頼まれているのだ。
その為、警備組織の司令官であるアイヴィーとは、同僚と言える関係だった。
今はアイヴィーには背を向け、パソコンに向かっている。
放置されたアイヴィーは、椅子の背凭れを前にして座っていた。
そのまま足を動かして、ソクーロフのほうへ前進する。キコキコと椅子のキャスターが鳴る。
「ねー、ねー。ソクーロフ先生はさ、お仕事ヒマな時、いつも何してんのー?
ソクーロフもヒマでしょ、夏休みは生徒居なくて」
「お前と違って、私は暇を持て余すことはない」
白衣の男がやっと返事をした。
アイヴィーはキコキコともう少し近付く。
「またまたー。てゆーか、今、超ヒマじゃーん」
「時間のある時は、考えている」
「何を?」
「決まっているだろう? 可愛い生徒達のことだ」
「うわ、うわっ、ウソくさっ! 余りのウソくささに全米が泣いたっ!」」
「失礼な。私は保健教師だぞ? 彼等にどんなカウンセリングを行えば効果的か、常に研究している」
「ヘエー、ソーデスカー」
はあー、とアイヴィーは息を吐く。背凭れの上で器用に、腕に顎を乗せる。
「こういう時に、ディーノでも来ればなー」
その小さな呟きをカウンセラーは聞き逃さなかった。
ディーノ・マンゾーニは、シチリアンマフィアの次期ボス。
アンリがボディーガードに選んだのが、この男なのだ。
打ち合わせの為なのか、マフィアは度々無許可で島に上陸し、アンリと密会しているらしい。
つまり、司令官が直々に敷いた警備網を毎回パスしているということだ、おそらくはアンリと共謀して。
シチリア仕込みの縄抜けテクニックを見せ付けられる度に、司令官は悔しい思いをさせられるのだが、
マフィアに警備の穴を指摘されるおかげで、聖アルフォンソ島のセキュリティレベルが、
少しずつ高品質になっていくのは否定できない事実だった。
ソクーロフは両者のいたちごっこを興味深く見守っていた。
そして、今、マフィアの名を呟いた司令官に、インタビューせずにはいられなかった。
「会いたいのか? 宿敵のマンゾーニに」
「ち、違いマスよ!? 誰があんなヤツなんかに! 顔も見たくないねっ!」
「では、どういう意味で『こういう時に、ディーノでも来ればなー』なんだ?」
「それは、えと、どうせ来るならヒマな時に来れば良いのに、と思っただけで……」
「自分は完璧だと思っている警備網を度々破られるうち、それが快感に感じられるようになったか?
全く、お前はどうしようもないマゾヒストだな。やれやれ。一体、誰に躾られたのやら」
「ちょい! 勝手に人をド変態にするのは止めて貰えませんか!」
その時、二階から階段を下りてくる足音が聞こえた。
「あれ? ソクーロフ、二階で寝てるヤツ居たの?」
「ああ、一人な」
「言ってよー。俺が煩いから起こしちゃったのかな?」
「それはない。保健室の壁は厚くできているからな」
何の為に、とアイヴィーは思ったがコワくて聞けなかった。
「でー、誰が具合悪いの? ミハイル?」
ソクーロフは答えなかった。
足音が部屋の前で止まる。ゆっくりとドアが開く。
寝乱れた長い黒髪に、濃い顎髭。明らかに生徒ではない、長身の男が入ってきた。
「スタちゃん、喉渇いたー、水ー」
ここに居る筈のない人物を目にして、アイヴィーは驚愕のあまり、声も出ない。
ソクーロフは自分の腕時計に触れてから、腰を上げる。
それまで、アイヴィーには冷たく接していた人物は、
突然、人が変わったように、にこやかに言った。
「起きたんだね。おはよう、ディーノ」
その声は『対ミハイル用』もしくはそれ以上に優しかった。
マフィアは子供のように目をゴシゴシしながら、頷いた。
「ん。おはよう、スタちゃん」
保健室の先生は冷蔵庫に向かいながら、
「一時間ほどお昼寝していたね。よく眠れたかな?」
「うん」
寝起きの男とアイヴィーの目が合った。
呆気に取られていたアイヴィーが、やっと声を出す。
「ディ、ディーノ!? ちょ、なんで居んだよ!? どっから湧いて出た!?」
ソクーロフがアイヴィーに見せた顔は、いつもの、上から目線な微笑だった。
「夏季休暇だからと言って、どこかの司令官が仕事をサボっているから、こうなるんじゃないか?」
「グフッ」
司令官のハートに痛恨の一撃。保健室の先生はマフィアにグラスを差し出す。
「はい、ディーノ、お水だよ」
「ありがと、スタちゃん」
「どういたしまして」
「ねえ! うっかりツッコミ忘れてたけど、お二人さん、なんで今日は名前で呼び合ってんの?
この前まで名字で呼んでなかった? いつのまに、そんなカンケイになったわけ?
てか、何すか、その最狂コンビ? 幾らなんでもムテキ過ぎんだろ?
ディーノがアンリと組んだけで敵わないのに、
ソクーロフと組まれたら、俺、もう勝てる気が全くしないんですけど!?」
マフィアが白衣を引っ張る。
「スタちゃん、スタちゃん。俺、おなか空いたー」
「では一緒に何か食べに行くかい?」
「行くー」
アイヴィーが叫ぶ。
「挙句に無視!?」
「ディーノは何が食べたいのかな?」
「うーん」
「だから! 俺を無視して仲良くすんな!
てか、ソクーロフ! どーゆーことか、ちゃんと説明してくれませんか!?」
ドクターは、面倒だな、と言った口調で、
「一時間前、街でディーノを見掛けたんだ。時差ぼけで眠そうにしていたから」
ディーノが続く。
「保健室にベッドがあるからおいでって、スタちゃんが」
「ソクーロフ! あんた、学院側の人間のくせに、なにマフィアご招待してんの!?
つーか、ディーノも! 誘われたからって、ホイホイ行っちゃダメでしょ!?
アブナイおじさんに付いてっちゃいけないって、パパに習わなかったのか!?」
「おい、お前。スタちゃんを悪く言うな。スタちゃんは優しくていいひとなんだぞ」
「誰がいいひとだってー!?」
「スタちゃん。こいつ、なんかヘンなことばっかり言うね」
「ほんとだね」
「いやいや、ヘンなのはディーノだろ!?
今日は異常にコドモっぽいっつーか、ソクーロフに対して素直過ぎるし」
アイヴィーは、はたと気付く。
「あれ? ちょっと待てよ、この幼いかんじは……ま、まさか」
アイヴィーはマフィアの肩を揺する。
「ディーノ! ソクーロフにナニされた!? おい、目を覚ませ、ディーノ!」
手を振り解く。腕力は大人そのものだったが、話し方は子供だった。
「さっきから、うっさいなー。お兄ちゃん、ダレなの?」
「ダレって。俺だよ、俺!」
マフィアは途惑いの表情を見せた。不安そうに白衣の後ろに立つ。
「スタちゃん。このお兄ちゃん、ダレ?」
「このお兄ちゃんのことは気にしなくていいんだよ、どうでもいいから。
さあ、私達は美味しいご飯を食べに行こう」
「うん。あ、俺、オムライスでもいーい?」
「いいよ」
「あのね、ママが作るオムライスにはね、ケチャップで『ディーノ』って書いてくれるんだよ?」
「待て待てーい!」
保健室を出て行こうとする二人を、アイヴィーが追い駆ける。
「俺も行くぞ! むしろディーノのほうが心配になってきた!」
二人+オマケは新市街のショッピングモールにやってきた。
ファミリーレストランで、オムライスを食べていたマフィアは、
スプーンを握ったまま、うつらうつらし始めた。
ソクーロフは腕時計を覗いてから、マフィアの肩に手を置いた。
「ディーノ? いっぱい食べて、眠たくなってきたのかな?」
「うん……」
「そのまま眠っていいよ。おやすみ、ディーノ」
カラン、とスプーンが手から離れ、テーブルに転がった。
カウンセラーに『おやすみ』を言われたマフィアは、
まるで糸が切れた操り人形のように眠りに落ちた。
カウンセラーは腕時計のボタンを押し、時間を確認した。
「いい子だね、マンゾーニ」
アイヴィーの目の前には、信じられない光景があった。
マフィアがソクーロフの膝の上で、すやすや眠っている。
カウンセラーは、ケチャップだらけの口髭を紙ナプキンで綺麗に拭き取っている。
「可愛い寝顔だ」
「そんなヒゲ面のどこがカワイイの!? あんた、ヒゲフェチ!?」
「静かにしろ、アイヴィー。マンゾーニが起きてしまう」
「いい加減、説明してくれるよね? ソクーロフ博士」
アイヴィーは頬を膨らませ、カウンセラーを睨んだ。
「ディーノに催眠を掛けたんだよね? なんで?」
「前から、一度、眠らせてみたかった」
波のある黒髪を撫でながら、
「親からたっぷりと愛情を注がれて、根が素直に育った人間は、深い催眠に落ち易い傾向にある。
だから、マンゾーニは催眠に掛かり易いタイプだろうと思っていたが、これ程とはな」
アイヴィーは頭を抱える。
「なんってこったい。ディーノもあんたに敵わないなんて」
「今日はやけにマンゾーニの肩を持つな?」
「泣く子も黙るマフィアが、こんなオコチャマにされてたら、誰でも可哀想になってくんだろが!
これ、ちゃんと元に戻るんだろーね? いつ戻んのよ!?」
「そうだな、この分だと夜中まで持ちそうだ。朝起きた頃には、元の彼に戻っているだろう」
「じゃあ、今夜はどこに寝かせるつもり?」
「後に覚醒するマフィアを学院の敷地内に入れるつもりか? 寝床はお前の家に決まっているだろう?」
「俺んちかよ! だって、夜中には催眠が切れるんだろ?
もし、そん時、起きちゃったらどうすんの? 俺の身の安全は誰が保証してくれんのさ!?」
「司令官が自分の身も守れなくてどうする?」
「ディーノは別! 俺、自信ない!」
「では、このままにしておくか?」
「このままって?」
「半永久的に続く、強い催眠を掛け、マンゾーニを子供のままにして、イタリアに返すか?
子供化したマンゾーニは、お前のこともまだ知らない状態だ。当然、お前とのいたちごっこも忘れている。
更に、この島に関する全ての記憶を除去しても良い」
「ディーノの記憶を……」
「この島にとって、危険人物には違いないのだからな。度々、お前の業務妨害もしているわけだし」
「でも、記憶を消しちゃったら、俺達のことも全部、忘れたまんまになっちまうってことだろ?」
「そうだ。つまり、警備網を破って上陸してくることも、なくなる。
良い考えだろう? さあ、どうする、司令官?」
カウンセラーは司令官の表情を観察している。
アイヴィーは少し黙った後、答えた。
「だ、ダメだよ。そんなの、やっぱダメ!」
「何故?」
「だって、ディーノは」
俯く顔をカウンセラーは注意深く覗き込む。
「ディーノは?」
「ディーノは、次こそ、俺の警備網に引っ掛けてやんだから!
それまでは、ディーノはディーノで居て貰わなきゃ、俺が困んの!」
翌日。保健室のドアをユウタがノックした。
「失礼しまーす。ソクーロフ博士、居ますかー?」
白衣の男はパソコンに向かっていた。
変幻自在の保健室の先生は、『対ユウタ用』の仮面を装着して、振り向いた。
「おや、ユウタ。よく来たね。どうしたのかな?」
「昨日、無人島で遊んでたら蚊に刺されたみたいで」
右腕に赤い腫れがあった。引っ掻いた傷もある。
「寝ているうちにやっちゃったみたいで」
「では虫刺されの薬を塗ろうか。少し滲みてしまうと思うけれど」
「あの、博士。その薬、ちょっと借りて行っても良いですか? 俺、あとで返しに来ますから」
「それは構わないが」
ここで塗っていけば良いだけの話だ。薬をどこかに持って行く理由がない。
昨日の出来事を思い出した医師は、その理由が思い当たった。
「アンリも、刺されてしまったのかな?」
「そうなんです。すごいなあ、博士は。何でも解っちゃうんですね」
「大したことではないよ。君が昨日、アンリと一緒に無人島巡りをしていたのは、
私もアイヴィーから聞いていたからね」
「そうだったんですか」
塗り薬をユウタに手渡す。
「それはウーティスのサロンにあげるよ。これからも必要になるかもしれないから」
「解りました。ありがとうございます」
「昨日は、楽しかったかい?」
「はい。おっきなヒトデ見付けたんです。あっ、携帯で写真撮ったんで、見ますか?」
携帯画面を見せてくれた。赤い星型の海の生き物がドアップで映っていた。
「随分大きいんだね」
「はい、俺もビックリしちゃいました」
「他にも写真を撮ったのかな?」
そう尋ねると、ユウタは喜々として、楽しい夏の思い出と共に、たくさんの写真を見せてくれた。
小さな写真の中には、医師が見たこともない、貴重なアンリの表情を捉えているものもあった。
「そう言えば、昨日は、アンリと一緒にウーティスを出て、一緒に帰ってきたのかな?」
「いいえ。帰りは一緒でしたけど、行きは違いました。
船の準備があるから、君は後から来てって言われて。
あ、帰りは、ケーキを買って帰りました、ミハイルの分も一緒に」
「三人で食べたのかい? 楽しい一日になったようだね」
「はい」
ユウタとの無人島巡りは、やはりフェイクだったのか、と医師は思った。
ユウタが来るより先に、船に乗ったマフィアを、島へ上陸させたのだろう。
アンリは密会の後でマフィアと別れ、船に戻り、ユウタと遊んだのだ。
街で一人になったディーノにソクーロフが遭遇したというわけだ。
数日前から、ユウタは「今度アンリの船に乗せて貰う」と周囲に言い触らしていた。
アンリがそう依頼したのではなく、ただ嬉しくて自発的に。
その話を、タクシーの車内で、アイヴィーもユウタから聞かされていた。
そうしておけば、翌日、監視モニタにアンリのクルーザーが何度映っても、
アンリがユウタと遊んでいるだけだ、としか思われない。
以前も同じ船で、マフィアを上陸させているが、
二度もその手を使ってくる筈がない、という裏を掻いたのだろう。
「博士?」
「ああ、なんだい?」
ユウタがパソコン画面に興味を示している。
「それ、何を書いてたんですか? なんだか、難しそう」
「これかい? 夏だから、私も自由研究をしようかと思ってね、趣味の範囲だが」
「博士が?」
「日本の小学校ではそれが毎年宿題になる、と君のお姉さんから聞いたものだから」
「姉貴ってば、博士にそんなことも話してるんですか」
「うん。最近は、彼女と過去の話もしているからね」
「ふうん。でも、博士が宿題するなんて、なんか不思議だな。どんな自由研究なんですか?」
「これはちょっとした、心理学の研究論文なんだ。テーマは」
研究者の眼鏡がキラリと光る。
「敵対する対人関係に関する考察」
fin
■アンリ
シチリア州東部メッシーナ。
ジャム専門店から一歩外に出ると、うだるような暑さに出迎えられた。
「これで、おつかい完了ってか」
イタリアーノ特有の濃い顔に、暑苦しい顎髭を蓄えた男。
シチリアンマフィアの中でも血塗られた歴史を持つマンゾーニ家。
その次期ボスとなる男が、僕のボディーガード、ディーノ・マンゾーニ。
ディーノが傍に居ると余計に暑く感じるのは、気のせいではないと思う。
「ま、俺様が案内してやったから、やっとできたってかんじだな」
頬を指差す。
「お姫様、道案内のお代は?」
無視して、僕は彼の前を通り過ぎる。後ろからマフィアの戯言が聞こえる。
「ちっ。ベッドまでオアズケかよ」
暑くて、言い返す気にもならない。
店の前に停めた車に戻る。ディーノが気に入っている赤いフェラーリだ。
僕達の姿を見て、運転手を務める若い男が車を降りた。僕達が乗る時にドアを開ける為だろう。
車の前でディーノが突然立ち止まった。深刻な顔をしている。
僕は少し不安になった。周囲の様子を確認して、
「ディーノ、どうしたの」
「そのジャム、ウマイのか?」
「何?」
「ウマイのかって聞いてんだよ」
「美味しいって言ってる人は居たけれど」
「そっか。そのジャム、マンマに買っていったら喜んで貰えるかな」
まるで良い子の呟きだ。
溺愛し合っているマンゾーニ家の親子は、家族について話す時、
言動が少年時代に戻ってしまう。僕が呆然としていると、ディーノは若い運転手にこう言った。
「おい、フィオ。俺も買ってくるから、ちょっと待っとけ」
「へい」運転手は笑って「じゃ、姫さんはお先に車へどうぞ」
僕の為に、後部座席のドアを開けた。
車内は外とは別世界の如く涼しかった。
僕以外に二人の男が乗っている。どちらもマンゾーニ家の舎弟だ。
運転席に居るのはフィオラノ。
マフィアにしておくには惜しい気さえする、眼鏡を掛けた優男だ。
助手席には短い黒髪の無口な男。彼の名前はまだ解らない。
運転手のフィオラノが僕に話し掛けてきた。
「先生へのお土産は買えましたかい? 足りなければどこへでもお連れしやすよ、姫さん」
「その呼び方、止めてくれない?」
「すいやせん。ディーノの兄貴がお姫様って呼んでるもんですから、
つい移っちまいまして。では『姐さん』とお呼びしやすね」
「そんなに、僕が女性に見える?」
「割と」
「何だって?」
「ああ、すいやせん、すいやせん。じゃあ今後は『アンリの兄貴』と」
「それも嫌」
「ははっ、ワガママですねえ、姫さんは」
人当たりが柔らかく、イタリアーノにしては顔立ちも、かなり爽やかだ。
イタリア訛りはあるものの、彼は英語も話せるし、馬鹿にも見えない。
秘密結社の構成員より小学校の先生向きの男に見える。兼ねてからの疑問がつい口をついた。
「君ってマフィアっぽくないよね。どうして君みたいな人が、マフィアやってるの?」
「姫さんが自分に興味を持ってくれるのなんて初めてですね」
笑顔を見せた後、フィオラノはこう答えた。
「自分はディーノの兄貴に拾って頂いたんです。それだけです」
嘘ではない。それが僕には不思議だった。
マンゾーニ家のボスはカルロ・マンゾーニ。息子のディーノはアンダーボス。つまり、No.2だ。
これまでも構成員達の言動から、ディーノのカリスマ性は見て取れた。悔しいくらいに。
ルームミラーの中の運転手が、僕に笑い掛ける。
「自分じゃ頼りなく見えるかもしれませんが、心配しなくても、
兄貴が姫さんを可愛がってる限り、姫さんのことは、自分達が命を掛けてお守り致しやすよ」
民間の警備会社より、マフィアのほうが優れているのは、その圧倒的な結束力だ。
守ってと頼んだのは僕だけど、未だに信じられない。
マフィアは、ボスが友人と認めた僕のことを、守ってくれる。例え、自分が死ぬことになっても。
「待たせたな」
ディーノが帰ってきて、僕の隣に座った。
赤いフェラーリが動き出す。
アンダーボスは買ってきた物を僕に見せびらかしてきた。
「ほれ、1個買ったら、もう2個オマケしてくれたぜ。イイだろう?」
もはやオマケのほうが多い。
「君が脅したんじゃないの?」
「脅してねえよ。俺は、このジャムひとつ、って言っただけだぞ」
「本人にその気がないだけか」
「人を悪モン扱いしてんじゃねえぞ、コラ」
「マフィアのくせに」
ディーノは薄く笑った。
「調子乗ってんじゃねえぞ、バンビーノ」
地雷を踏んだ、と思った時には既に抵抗する暇さえなかった。
「てめえは、クソガキのくせに生意気なんだよ」
一瞬のうちに胸倉を掴まれ、シートに押し倒されていた。
僕を見下ろして、マフィアが勝ち誇った笑みを浮かべる。
「今ここで、お前の息が止まるまで、首を押さえ付けてやってもイイんだぜ?
俺に手も足も出せねえくせに。自分が無力なガキだと思い知れ。
島に居るうちは、王子だか伯爵だか言われて、
ちやほやされてっかもしれねえがな、外に出たら通用しねえぞ?」
どうして僕が、マフィアに説教されなきゃいけないの。
「あのガッコじゃ、口の利き方を教わんねえんだろ?
俺様が直々にキョーイクしてやろうか? 唇と舌の使い方ってヤツをな?」
顎を持ち上げられた。
「クソ生意気なバンビーノには、オトナがしっかりお仕置きしてやんねえとな」
濃い顔が近付いてくる。逃げ場はない。
反撃を覚悟した上で、彼の手首を掴もうと考えた、その時。
「兄貴、お楽しみ中のところ、すいやせん」
運転手の声。興を削がれたのか、ディーノの手が離れた。
その隙に身体を起こすことができた。
「ンだよ、フィオ。今いっちばんイイトコだろ? 妬くんじゃねえって」
妬いてません、と笑った後、フィオラノは言った。
「姫さん、後ろ振り向かないで下さいね? 3台後ろの白い車、付いて来てるみたいです」
僕はドアミラーで後方を確認した。1、2、3台目。確かに白いボディの車が走ってる。
「次の信号で右に曲がってみますので、見ていて下さいね?」
僕達の車が曲がると白い車も後を追ってきた。
ディーノは、フン、とめんどくさそうに言った。
「いつからだ?」
「五分程前からです」
「フクメンか、それとも」
「ポリ公にしてはお上品な運転ですね」
「ま、一番に考えられんのはお姫様の追っかけか。ったく、お前とのデートは退屈しねーなー」
嫌味を言われたのに、言い返せなかった。
「撒きますか」と運転手。
「ココでカーチェイスすんのは目立つだろ。並ばれない限りは撃ってくることもねえだろうしな。
暫く様子見だ。スリリングなドライブを楽しもうぜ」
「了解」
ディーノが真面目な顔をして、僕を見る。
「いいか? 弾は真っ直ぐにしか飛ばねえ。俺が合図したら、すぐに伏せろ」
「うん」
僕の顔を見て、ディーノは笑った。
「なんだ? 今からビビってんのか、お姫様?」
「別に」
「俺が居んだぞ? お前の指一本だってくれてやるかよ」
むかつく。
マザコンのくせになまいきだ。
fin
ジャム専門店から一歩外に出ると、うだるような暑さに出迎えられた。
「これで、おつかい完了ってか」
イタリアーノ特有の濃い顔に、暑苦しい顎髭を蓄えた男。
シチリアンマフィアの中でも血塗られた歴史を持つマンゾーニ家。
その次期ボスとなる男が、僕のボディーガード、ディーノ・マンゾーニ。
ディーノが傍に居ると余計に暑く感じるのは、気のせいではないと思う。
「ま、俺様が案内してやったから、やっとできたってかんじだな」
頬を指差す。
「お姫様、道案内のお代は?」
無視して、僕は彼の前を通り過ぎる。後ろからマフィアの戯言が聞こえる。
「ちっ。ベッドまでオアズケかよ」
暑くて、言い返す気にもならない。
店の前に停めた車に戻る。ディーノが気に入っている赤いフェラーリだ。
僕達の姿を見て、運転手を務める若い男が車を降りた。僕達が乗る時にドアを開ける為だろう。
車の前でディーノが突然立ち止まった。深刻な顔をしている。
僕は少し不安になった。周囲の様子を確認して、
「ディーノ、どうしたの」
「そのジャム、ウマイのか?」
「何?」
「ウマイのかって聞いてんだよ」
「美味しいって言ってる人は居たけれど」
「そっか。そのジャム、マンマに買っていったら喜んで貰えるかな」
まるで良い子の呟きだ。
溺愛し合っているマンゾーニ家の親子は、家族について話す時、
言動が少年時代に戻ってしまう。僕が呆然としていると、ディーノは若い運転手にこう言った。
「おい、フィオ。俺も買ってくるから、ちょっと待っとけ」
「へい」運転手は笑って「じゃ、姫さんはお先に車へどうぞ」
僕の為に、後部座席のドアを開けた。
車内は外とは別世界の如く涼しかった。
僕以外に二人の男が乗っている。どちらもマンゾーニ家の舎弟だ。
運転席に居るのはフィオラノ。
マフィアにしておくには惜しい気さえする、眼鏡を掛けた優男だ。
助手席には短い黒髪の無口な男。彼の名前はまだ解らない。
運転手のフィオラノが僕に話し掛けてきた。
「先生へのお土産は買えましたかい? 足りなければどこへでもお連れしやすよ、姫さん」
「その呼び方、止めてくれない?」
「すいやせん。ディーノの兄貴がお姫様って呼んでるもんですから、
つい移っちまいまして。では『姐さん』とお呼びしやすね」
「そんなに、僕が女性に見える?」
「割と」
「何だって?」
「ああ、すいやせん、すいやせん。じゃあ今後は『アンリの兄貴』と」
「それも嫌」
「ははっ、ワガママですねえ、姫さんは」
人当たりが柔らかく、イタリアーノにしては顔立ちも、かなり爽やかだ。
イタリア訛りはあるものの、彼は英語も話せるし、馬鹿にも見えない。
秘密結社の構成員より小学校の先生向きの男に見える。兼ねてからの疑問がつい口をついた。
「君ってマフィアっぽくないよね。どうして君みたいな人が、マフィアやってるの?」
「姫さんが自分に興味を持ってくれるのなんて初めてですね」
笑顔を見せた後、フィオラノはこう答えた。
「自分はディーノの兄貴に拾って頂いたんです。それだけです」
嘘ではない。それが僕には不思議だった。
マンゾーニ家のボスはカルロ・マンゾーニ。息子のディーノはアンダーボス。つまり、No.2だ。
これまでも構成員達の言動から、ディーノのカリスマ性は見て取れた。悔しいくらいに。
ルームミラーの中の運転手が、僕に笑い掛ける。
「自分じゃ頼りなく見えるかもしれませんが、心配しなくても、
兄貴が姫さんを可愛がってる限り、姫さんのことは、自分達が命を掛けてお守り致しやすよ」
民間の警備会社より、マフィアのほうが優れているのは、その圧倒的な結束力だ。
守ってと頼んだのは僕だけど、未だに信じられない。
マフィアは、ボスが友人と認めた僕のことを、守ってくれる。例え、自分が死ぬことになっても。
「待たせたな」
ディーノが帰ってきて、僕の隣に座った。
赤いフェラーリが動き出す。
アンダーボスは買ってきた物を僕に見せびらかしてきた。
「ほれ、1個買ったら、もう2個オマケしてくれたぜ。イイだろう?」
もはやオマケのほうが多い。
「君が脅したんじゃないの?」
「脅してねえよ。俺は、このジャムひとつ、って言っただけだぞ」
「本人にその気がないだけか」
「人を悪モン扱いしてんじゃねえぞ、コラ」
「マフィアのくせに」
ディーノは薄く笑った。
「調子乗ってんじゃねえぞ、バンビーノ」
地雷を踏んだ、と思った時には既に抵抗する暇さえなかった。
「てめえは、クソガキのくせに生意気なんだよ」
一瞬のうちに胸倉を掴まれ、シートに押し倒されていた。
僕を見下ろして、マフィアが勝ち誇った笑みを浮かべる。
「今ここで、お前の息が止まるまで、首を押さえ付けてやってもイイんだぜ?
俺に手も足も出せねえくせに。自分が無力なガキだと思い知れ。
島に居るうちは、王子だか伯爵だか言われて、
ちやほやされてっかもしれねえがな、外に出たら通用しねえぞ?」
どうして僕が、マフィアに説教されなきゃいけないの。
「あのガッコじゃ、口の利き方を教わんねえんだろ?
俺様が直々にキョーイクしてやろうか? 唇と舌の使い方ってヤツをな?」
顎を持ち上げられた。
「クソ生意気なバンビーノには、オトナがしっかりお仕置きしてやんねえとな」
濃い顔が近付いてくる。逃げ場はない。
反撃を覚悟した上で、彼の手首を掴もうと考えた、その時。
「兄貴、お楽しみ中のところ、すいやせん」
運転手の声。興を削がれたのか、ディーノの手が離れた。
その隙に身体を起こすことができた。
「ンだよ、フィオ。今いっちばんイイトコだろ? 妬くんじゃねえって」
妬いてません、と笑った後、フィオラノは言った。
「姫さん、後ろ振り向かないで下さいね? 3台後ろの白い車、付いて来てるみたいです」
僕はドアミラーで後方を確認した。1、2、3台目。確かに白いボディの車が走ってる。
「次の信号で右に曲がってみますので、見ていて下さいね?」
僕達の車が曲がると白い車も後を追ってきた。
ディーノは、フン、とめんどくさそうに言った。
「いつからだ?」
「五分程前からです」
「フクメンか、それとも」
「ポリ公にしてはお上品な運転ですね」
「ま、一番に考えられんのはお姫様の追っかけか。ったく、お前とのデートは退屈しねーなー」
嫌味を言われたのに、言い返せなかった。
「撒きますか」と運転手。
「ココでカーチェイスすんのは目立つだろ。並ばれない限りは撃ってくることもねえだろうしな。
暫く様子見だ。スリリングなドライブを楽しもうぜ」
「了解」
ディーノが真面目な顔をして、僕を見る。
「いいか? 弾は真っ直ぐにしか飛ばねえ。俺が合図したら、すぐに伏せろ」
「うん」
僕の顔を見て、ディーノは笑った。
「なんだ? 今からビビってんのか、お姫様?」
「別に」
「俺が居んだぞ? お前の指一本だってくれてやるかよ」
むかつく。
マザコンのくせになまいきだ。
fin
■アンリ
仕事でシチリアに行くことになった。
その日、僕の運勢は最悪で、正門前に呼んだタクシーが、
単細胞達と仲の良いドライバーに当たってしまった。
だらしないネクタイが目立つ、金髪の男。
名前はアイヴィー。もしくは司令官、と呼ばれる人物だ。
「よっ、アーンリ。久し振りだな?」
その気さくさが、他の生徒からは人気があるらしいけれど、
僕にとっては、ただ煩いだけで、彼の良さが全く解らない。
学院から空港まで運んでくれるなら、誰でも良い。
車が走り出したら、運転に集中していればいいのに。
なんで、彼はいつも無駄口を叩くのだろう。
「あ、そーだ、アンリ。お前さんに、ひとつ、言っときたいことがあんだよ」
「僕はないけれど」
「俺はあんの。頼むから、これだけ聞いて欲しいんだけどさ」
めんどくさいな。
「何」
「お前さんさ、島にマフィアを密輸入すんの止めてくんない? マジで」
「それ、僕が悪いの?」
「悪いだろ!」
彼が言っているマフィアというのは、おそらく僕のボディガードのことだろう。
ディーノ・マンゾーニ。シチリアの中でも残忍だと言われるマフィアの次期ボス。
護衛や打ち合わせの為に、ディーノを島に出入りさせていたら、
ディーノとドライバーはいつのまにか知り合いになっていた。
だけど、あの暑苦しいイタリアーノを、僕のゲストとして、学院に届け出るつもりなんかない。
もし、僕がマフィアとビジネスをしていると理事会に知られたら、まず良い顔はされないだろうし、
下手すれば、知り合いだというだけでも、退学理由になるかもしれないし。
あんな男と親しいと勘違いされるだけでも、腹が立つ。
「理由があって、ディーノを島に呼びたいんならさ、ちゃんとゲスト登録してだな」
「責任転嫁は止めてくれない? 密輸入を阻止できなかった、そっちが悪いんでしょ?」
「グッ」
言葉に詰まった運転手は、次の瞬間、途端に笑い出した。
どの辺りに嵌ったのか、全く理解できない。
「……壊れた?」
「いやー、はははっ」
涙を指で拭いてる。
「理由が解らずに笑われるのって、とても不快なんだけれど」
「悪かったって。お前さん、ほんと喋るようになったなーと思ったら、可笑しくてさ」
「何が可笑しいの? 君の頭かな?」
また爆笑された。この人は本当に壊れたのかもしれない。
ヒーヒー、言いながら、やっと笑い終わった後、ドライバーは言った。
「入学した頃はマジ無口で、フランス人形みたいなのが来たなーって思ってたから」
「その人形、女性用のドレスでイメージしてない?」
「あっ、あはははっ」と今度は空笑い。
「いいこと教えてあげようか? 僕ね、女の子扱いされることが大嫌いなの」
「あ、あー、そうだったんだー。いやー、ワリィ、ワリィ」
次は思い出し笑いなのか、また笑ってる。
「ねえ。何がそんなに面白いの? そろそろ本気で怒るよ?」
「何がって? そりゃあ、決まってんだろ?
お前さんと、こんなに話せるようになったことさ」
タクシーが空港に到着する。もう何度も見た景色。
僕が予約したチャーター機は向こうに見えた。
「じゃあ」
僕が車を降りると、何故かドライバーも降りてきて、僕の前に立ち塞がった。
なんのつもりかと思っていたら、彼は身を少し屈めて、
「んじゃ、アンリ。気をつけて行ってこい」
ぽんぽんと頭を触られた。
むかつく。
ドライバーのくせになまいきだ。
fin
その日、僕の運勢は最悪で、正門前に呼んだタクシーが、
単細胞達と仲の良いドライバーに当たってしまった。
だらしないネクタイが目立つ、金髪の男。
名前はアイヴィー。もしくは司令官、と呼ばれる人物だ。
「よっ、アーンリ。久し振りだな?」
その気さくさが、他の生徒からは人気があるらしいけれど、
僕にとっては、ただ煩いだけで、彼の良さが全く解らない。
学院から空港まで運んでくれるなら、誰でも良い。
車が走り出したら、運転に集中していればいいのに。
なんで、彼はいつも無駄口を叩くのだろう。
「あ、そーだ、アンリ。お前さんに、ひとつ、言っときたいことがあんだよ」
「僕はないけれど」
「俺はあんの。頼むから、これだけ聞いて欲しいんだけどさ」
めんどくさいな。
「何」
「お前さんさ、島にマフィアを密輸入すんの止めてくんない? マジで」
「それ、僕が悪いの?」
「悪いだろ!」
彼が言っているマフィアというのは、おそらく僕のボディガードのことだろう。
ディーノ・マンゾーニ。シチリアの中でも残忍だと言われるマフィアの次期ボス。
護衛や打ち合わせの為に、ディーノを島に出入りさせていたら、
ディーノとドライバーはいつのまにか知り合いになっていた。
だけど、あの暑苦しいイタリアーノを、僕のゲストとして、学院に届け出るつもりなんかない。
もし、僕がマフィアとビジネスをしていると理事会に知られたら、まず良い顔はされないだろうし、
下手すれば、知り合いだというだけでも、退学理由になるかもしれないし。
あんな男と親しいと勘違いされるだけでも、腹が立つ。
「理由があって、ディーノを島に呼びたいんならさ、ちゃんとゲスト登録してだな」
「責任転嫁は止めてくれない? 密輸入を阻止できなかった、そっちが悪いんでしょ?」
「グッ」
言葉に詰まった運転手は、次の瞬間、途端に笑い出した。
どの辺りに嵌ったのか、全く理解できない。
「……壊れた?」
「いやー、はははっ」
涙を指で拭いてる。
「理由が解らずに笑われるのって、とても不快なんだけれど」
「悪かったって。お前さん、ほんと喋るようになったなーと思ったら、可笑しくてさ」
「何が可笑しいの? 君の頭かな?」
また爆笑された。この人は本当に壊れたのかもしれない。
ヒーヒー、言いながら、やっと笑い終わった後、ドライバーは言った。
「入学した頃はマジ無口で、フランス人形みたいなのが来たなーって思ってたから」
「その人形、女性用のドレスでイメージしてない?」
「あっ、あはははっ」と今度は空笑い。
「いいこと教えてあげようか? 僕ね、女の子扱いされることが大嫌いなの」
「あ、あー、そうだったんだー。いやー、ワリィ、ワリィ」
次は思い出し笑いなのか、また笑ってる。
「ねえ。何がそんなに面白いの? そろそろ本気で怒るよ?」
「何がって? そりゃあ、決まってんだろ?
お前さんと、こんなに話せるようになったことさ」
タクシーが空港に到着する。もう何度も見た景色。
僕が予約したチャーター機は向こうに見えた。
「じゃあ」
僕が車を降りると、何故かドライバーも降りてきて、僕の前に立ち塞がった。
なんのつもりかと思っていたら、彼は身を少し屈めて、
「んじゃ、アンリ。気をつけて行ってこい」
ぽんぽんと頭を触られた。
むかつく。
ドライバーのくせになまいきだ。
fin
■アンリ
僕が自室で出張準備をしていた時のことだ。
「おや。旅行の予定があるのかね?」
背後に神秘学の講師が立っていた。
「……オーギュスト。勝手に部屋の中に入ってこないでって言っているでしょう。それから、旅行じゃなくて仕事だから」
「それはお疲れ様。今度はどこに行くのかな?」
「メッシーナ」
今回はシチリア東部で投資先との会談。
結構大きな額が動くので、僕が出向きたかった。
「おや、この時期にシチリアかい? 暑そうだね」
「解ってるよ。長居したくないし、すぐに帰ってくる」
シチリアの夏は、馬鹿かと思うほど暑い。
よくあんなところで暮らせるものだと思う。
「用がないなら出て行ってくれないかな、ボージェ教授」
彼は手帳に何か書いて、そのページを差し出した。
それを僕は受け取らずに、文字だけ読んだ。
書かれていたのは、どこかの店の住所と商品名。
「『ブラッドオレンジジャム 2瓶』? 何これ?」
「お買い物メモだよ。ブラッドオレンジジャムはメッシーナの名産品でね。
紅茶に入れると美味しいんだ。ウーティス寮の分と私の分で2つ、ね?」
「僕に買ってこいって言ってるの?」
彼は柔らかく微笑んだ。
「アンリは、おつかいできるかな?」
むかつく。
教師のくせになまいきだ。
fin
「おや。旅行の予定があるのかね?」
背後に神秘学の講師が立っていた。
「……オーギュスト。勝手に部屋の中に入ってこないでって言っているでしょう。それから、旅行じゃなくて仕事だから」
「それはお疲れ様。今度はどこに行くのかな?」
「メッシーナ」
今回はシチリア東部で投資先との会談。
結構大きな額が動くので、僕が出向きたかった。
「おや、この時期にシチリアかい? 暑そうだね」
「解ってるよ。長居したくないし、すぐに帰ってくる」
シチリアの夏は、馬鹿かと思うほど暑い。
よくあんなところで暮らせるものだと思う。
「用がないなら出て行ってくれないかな、ボージェ教授」
彼は手帳に何か書いて、そのページを差し出した。
それを僕は受け取らずに、文字だけ読んだ。
書かれていたのは、どこかの店の住所と商品名。
「『ブラッドオレンジジャム 2瓶』? 何これ?」
「お買い物メモだよ。ブラッドオレンジジャムはメッシーナの名産品でね。
紅茶に入れると美味しいんだ。ウーティス寮の分と私の分で2つ、ね?」
「僕に買ってこいって言ってるの?」
彼は柔らかく微笑んだ。
「アンリは、おつかいできるかな?」
むかつく。
教師のくせになまいきだ。
fin
■アンリ
ミハイルに用事があって、シュヌーシアに訪れた帰り。
どこからか、微かな声が聞こえた。しかも、女性の。
ソプラノ歌手の歌声のようにも、遠くから聞こえる叫び声のようにも感じる。
でも、聖アルフォンソ学院は男子校。教職員を含めても、女性は一人も居ない筈。
まだ聞こえる。本当に小さな声だ。
気になって、声のするほうに向かってみると、保健室に着いてしまった。
窓から見えたのは白衣の背中、一つに束ねた長い髪。
僕の大嫌いな保健教師だ。
スタニスラフ・ニコライエヴィッチ・ソクーロフ。
後ろ姿を見るだけで寒気がする。
しかし、あれは何をしているんだろう。
何もない宙で両手を動かしている。不気味だ。
観察しているうちに、あの手の動きに合わせて、女性の声がするのが解った。
指揮者ごっこ?
彼は生徒によって、カウンセリング手法を変えると聞く。
誰か用のカウンセリングの準備でもしてるのだろうか。僕は彼と最低限しか話さないから、よく知らないけれど。
彼の奥に、箱みたいな物が見えた。
それでやっと解った。
あの箱は電子楽器。名前は、何だったかな。
確か、目には見えない電子の弦を弾いて音を出す、テルミンだ。
彼に、あんな繊細な楽器が弾けるなんて。
不思議な音色。バイオリンやピアノとは違う。
早くここから離れなくちゃいけないのに。足が動かない。
物悲しい旋律が、滲みてくる。
むかつく。
サディストのくせになまいきだ。
fin
どこからか、微かな声が聞こえた。しかも、女性の。
ソプラノ歌手の歌声のようにも、遠くから聞こえる叫び声のようにも感じる。
でも、聖アルフォンソ学院は男子校。教職員を含めても、女性は一人も居ない筈。
まだ聞こえる。本当に小さな声だ。
気になって、声のするほうに向かってみると、保健室に着いてしまった。
窓から見えたのは白衣の背中、一つに束ねた長い髪。
僕の大嫌いな保健教師だ。
スタニスラフ・ニコライエヴィッチ・ソクーロフ。
後ろ姿を見るだけで寒気がする。
しかし、あれは何をしているんだろう。
何もない宙で両手を動かしている。不気味だ。
観察しているうちに、あの手の動きに合わせて、女性の声がするのが解った。
指揮者ごっこ?
彼は生徒によって、カウンセリング手法を変えると聞く。
誰か用のカウンセリングの準備でもしてるのだろうか。僕は彼と最低限しか話さないから、よく知らないけれど。
彼の奥に、箱みたいな物が見えた。
それでやっと解った。
あの箱は電子楽器。名前は、何だったかな。
確か、目には見えない電子の弦を弾いて音を出す、テルミンだ。
彼に、あんな繊細な楽器が弾けるなんて。
不思議な音色。バイオリンやピアノとは違う。
早くここから離れなくちゃいけないのに。足が動かない。
物悲しい旋律が、滲みてくる。
むかつく。
サディストのくせになまいきだ。
fin
■アンリ
僕がサロンで寛いでいると、ユウタに付き添われてミハイルが入ってきた。
ジョシュア達が次々に声を掛ける。
「やあ、ミハイル。こんにちは」
「こ、こんにちは、ジョシュア」
「よく来たなあ、ミハイル! 俺様の映画について聞きに来たのか?」
「えっ? えっと……」
ユウタが代わりに答えた。
「ブブー。今日はレッドじゃないよ。さ、ミハイル、こっちこっちー」
ユウタはミハイルの背中を押して、僕の前にやってきた。
ほらミハイル、と囁かれて、彼はおそるおそる一歩前に出た。
「あ、あのっ、アンリ」
なんでミハイルは、僕に話し掛ける時、いつも怯えているんだろう。
「ぼ、ぼくと、一緒に遊んでくれませんかっ」
たったそれだけのことを言うのに、
持てる勇気を振り絞ったみたいな態度は止めて貰いたい。
けれど、彼が僕を誘う遊びと言えば。
「チェス?」
「あっ、ち、違うの。チェスじゃなくてごめんね、ぼくのせいで」
「いちいち謝らなくていいから、さっさと言って」
「えっとね、あのね、ぼくと、せっ」
「せ?」
「せ、戦争ごっこ、してほしいのっ」
ユウタは、よく言えたね、とでもいうようにミハイルに笑顔を見せている。
そんなに賞賛されるべき言動には思えないけれど。
「戦争ごっこ、というと、前に君がやっていたアクティヴィティのことだよね?」
「う、うん」
彼が、かわいこぶって『戦争ごっこ』と呼んでいるゲームは、
実際には、エアソフト、サバイバルゲーム、ペイントボールと言う名の競技だ。
ルールや遊び方には様々なバリエーションがあるが、
ごく単純に言えば、敵味方に分かれ、より多く生き残った方が勝ちとなる。
前回、僕は参加していない。あとから調べてみた限りでは、
アメリカ発祥のペイントボールに近いルールだったようだ。
フィールドは学院内の月桂樹の森。
個人戦のバトルロワイアルではなく、二チームに分かれる殲滅(せんめつ)戦。
司令官指揮の下、兵隊達が撃ち合い、敵全員を殲滅させれば勝ち。
兵隊の装備は、ツナギの迷彩服、プロテクターの他、
失明を防止する為に着用が義務付けられているゴーグル、
チームメンバーと連絡を取る為の無線機など、本格的な物を揃えていた。
使用する武器は、17mmペイント弾に、マーカーと呼ばれる専用の遊戯銃。
ペイント弾なので、命中しても迷彩服が派手に汚れるだけで痛みはないが、
弾に当たった兵隊は“死亡”する。“死体”が生き返る方法はなく、
そのままセイフティーゾーンという名の死体置場に直行となる。
ゲーム終了後、赤いインク塗れの死体達が次々に森から出てくる光景は、
なかなかクレイジーな見物だった。
あの時、司令官役になったのは、ミハイルと彼の兄イワン。勝者はミハイルだった。
「あの時ね、とっても面白かったから、第二回目をしたくて、それで」
「僕に、敵役の司令官をやって欲しい、というわけ?」
ミハイルは必死に頷く。
「そうなの。アンリはチェス、とっても強いから、
戦争ごっこもきっと強いと思ったの。だ、だめ、かな?」
「ねえ、ミハイル。僕を誘う前に、よく考えてみた?
君と違って僕は初めてプレイするゲームなの。
それでも、対等に戦えというの? 僕が圧倒的に不利だと思わない?」
「あっ、そ、そっか。ごめんね、やっぱり、だめだよねっ」
空色の瞳がみるみる水溜まりと化して行く。ユウタが前に出た。
「ちょ、ちょっと! アンリ! ミハイルが遊ぼうって言ってるんだから、そんな言い方!」
「君、ミハイルの何なの? 彼を甘やかすことしかできないなら黙っててくれない?」
涙目の分際で、彼はユウタを庇った。
「あ、アンリ、ユウタに冷たいこと言わないでっ。ぼくが悪いの、全部ぼくが」
今にも泣きそうだ。しょっちゅう泣いていて、よく枯れないものだ。
大体、人前でそんな顔を晒すなんて。目の前で見せられても本当に信じられない。
「君は、落ち着いて、僕の話を最後まで聞いて。誰が『遊ばない』って言った?」
「え、えっ?」
「初心者の僕と、上級者の君では、勝負にならない。そう指摘しただけでしょう?
面白いゲームにする為には、それ相応のハンディが必要。
そういう話がしたいんだけど。ここまでは理解できた?」
「う、うんっ」
「では、ハンディとして、僕に一か月、頂戴?」
「いっかげつ?」
「そう。戦争ごっこの訓練をする為に、それなりの時間が欲しい。
だから本番は来月。今から丁度一か月後のアクティヴィティの日でどう?」
溜まっていた涙が、一筋零れる。これじゃあ、まるで僕が泣かせたみたいだ。
けれど、ミハイルは泣き顔ではなくて、今まで見たことのないような笑顔だった。
「ありがと。やっぱり、アンリ、だいすきっ」
一瞬、何が起こったのか解らなかった。なんで、僕、抱き着かれてるの?
「一か月でも、二か月でも、ぼく待つよ。うれしいなっ、ぼく、とってもうれしいっ」
むかつく。
泣き虫のくせになまいきだ。
fin
ジョシュア達が次々に声を掛ける。
「やあ、ミハイル。こんにちは」
「こ、こんにちは、ジョシュア」
「よく来たなあ、ミハイル! 俺様の映画について聞きに来たのか?」
「えっ? えっと……」
ユウタが代わりに答えた。
「ブブー。今日はレッドじゃないよ。さ、ミハイル、こっちこっちー」
ユウタはミハイルの背中を押して、僕の前にやってきた。
ほらミハイル、と囁かれて、彼はおそるおそる一歩前に出た。
「あ、あのっ、アンリ」
なんでミハイルは、僕に話し掛ける時、いつも怯えているんだろう。
「ぼ、ぼくと、一緒に遊んでくれませんかっ」
たったそれだけのことを言うのに、
持てる勇気を振り絞ったみたいな態度は止めて貰いたい。
けれど、彼が僕を誘う遊びと言えば。
「チェス?」
「あっ、ち、違うの。チェスじゃなくてごめんね、ぼくのせいで」
「いちいち謝らなくていいから、さっさと言って」
「えっとね、あのね、ぼくと、せっ」
「せ?」
「せ、戦争ごっこ、してほしいのっ」
ユウタは、よく言えたね、とでもいうようにミハイルに笑顔を見せている。
そんなに賞賛されるべき言動には思えないけれど。
「戦争ごっこ、というと、前に君がやっていたアクティヴィティのことだよね?」
「う、うん」
彼が、かわいこぶって『戦争ごっこ』と呼んでいるゲームは、
実際には、エアソフト、サバイバルゲーム、ペイントボールと言う名の競技だ。
ルールや遊び方には様々なバリエーションがあるが、
ごく単純に言えば、敵味方に分かれ、より多く生き残った方が勝ちとなる。
前回、僕は参加していない。あとから調べてみた限りでは、
アメリカ発祥のペイントボールに近いルールだったようだ。
フィールドは学院内の月桂樹の森。
個人戦のバトルロワイアルではなく、二チームに分かれる殲滅(せんめつ)戦。
司令官指揮の下、兵隊達が撃ち合い、敵全員を殲滅させれば勝ち。
兵隊の装備は、ツナギの迷彩服、プロテクターの他、
失明を防止する為に着用が義務付けられているゴーグル、
チームメンバーと連絡を取る為の無線機など、本格的な物を揃えていた。
使用する武器は、17mmペイント弾に、マーカーと呼ばれる専用の遊戯銃。
ペイント弾なので、命中しても迷彩服が派手に汚れるだけで痛みはないが、
弾に当たった兵隊は“死亡”する。“死体”が生き返る方法はなく、
そのままセイフティーゾーンという名の死体置場に直行となる。
ゲーム終了後、赤いインク塗れの死体達が次々に森から出てくる光景は、
なかなかクレイジーな見物だった。
あの時、司令官役になったのは、ミハイルと彼の兄イワン。勝者はミハイルだった。
「あの時ね、とっても面白かったから、第二回目をしたくて、それで」
「僕に、敵役の司令官をやって欲しい、というわけ?」
ミハイルは必死に頷く。
「そうなの。アンリはチェス、とっても強いから、
戦争ごっこもきっと強いと思ったの。だ、だめ、かな?」
「ねえ、ミハイル。僕を誘う前に、よく考えてみた?
君と違って僕は初めてプレイするゲームなの。
それでも、対等に戦えというの? 僕が圧倒的に不利だと思わない?」
「あっ、そ、そっか。ごめんね、やっぱり、だめだよねっ」
空色の瞳がみるみる水溜まりと化して行く。ユウタが前に出た。
「ちょ、ちょっと! アンリ! ミハイルが遊ぼうって言ってるんだから、そんな言い方!」
「君、ミハイルの何なの? 彼を甘やかすことしかできないなら黙っててくれない?」
涙目の分際で、彼はユウタを庇った。
「あ、アンリ、ユウタに冷たいこと言わないでっ。ぼくが悪いの、全部ぼくが」
今にも泣きそうだ。しょっちゅう泣いていて、よく枯れないものだ。
大体、人前でそんな顔を晒すなんて。目の前で見せられても本当に信じられない。
「君は、落ち着いて、僕の話を最後まで聞いて。誰が『遊ばない』って言った?」
「え、えっ?」
「初心者の僕と、上級者の君では、勝負にならない。そう指摘しただけでしょう?
面白いゲームにする為には、それ相応のハンディが必要。
そういう話がしたいんだけど。ここまでは理解できた?」
「う、うんっ」
「では、ハンディとして、僕に一か月、頂戴?」
「いっかげつ?」
「そう。戦争ごっこの訓練をする為に、それなりの時間が欲しい。
だから本番は来月。今から丁度一か月後のアクティヴィティの日でどう?」
溜まっていた涙が、一筋零れる。これじゃあ、まるで僕が泣かせたみたいだ。
けれど、ミハイルは泣き顔ではなくて、今まで見たことのないような笑顔だった。
「ありがと。やっぱり、アンリ、だいすきっ」
一瞬、何が起こったのか解らなかった。なんで、僕、抱き着かれてるの?
「一か月でも、二か月でも、ぼく待つよ。うれしいなっ、ぼく、とってもうれしいっ」
むかつく。
泣き虫のくせになまいきだ。
fin
■アンリ
体育の時間が終わった後、
ウーティスの寮生が連れだって、グランドから寮へ向かっていた。
仲良しごっこをしてるわけではなく、単に向かう場所が同じだからだ。
授業中、あれだけ走り回っていた単細胞と日本オタクは今も元気で、
ユウタを追い駆け回して遊んでいる。犬みたい。
眼鏡の日本人は、呆れた様子で彼等の後ろを歩いてた。ああ、ほら、ユウタが息切れしてる。
今日はバスケットボールだったから無理もない。どうして体育が必須科目なんだろう。疲れる。
「アイスティが飲みたい」
そう僕が零すと、隣を歩いているジョシュアが笑顔を見せながら、
「アンリはすぐ紅茶切れになるね?」
「サロンに戻ったら、すぐに淹れて。リーフは」
「マスカット?」
信じられない。
「どうして、解ったの?」
「付き合いが長いから、かな」
だからと言って、数あるリーフの中から、今僕が飲みたいものなんて、言い当てられる筈がない。
手品を見せられたような気分だ。彼は急にクスリと笑った。
「ごめん。そんなに驚かせてしまうとは思わなくて。
先週だったかな? マスカットのフレーバーティ、アンリ、気に入っていただろう?
その時、バトラーが『これはアイスティにしても美味しいですよ』って言っていたから」
聞き慣れた音楽が流れた。ユウタが慌ててポケットに手を入れた。
周りに居る連中も、それが誰から掛かってきた電話なのかまで解ったようで、
ふざけるのをピタッと止めて、音楽の元に集まる。ジョシュアでさえ、そちらに視線を送っていた。
ユウタは携帯電話を耳に当てた。
「もしもし、姉貴? どうしたの? うわあ、ちょっと、みんな~」
群がってる。
「こんにちは! ごきげんいかがですか?」
「ハロー! 元気にしてたかい?」
「ちょ、ちょっと待ってよ、姉貴はまだ俺と話してっ」
「俺に掛けてきてくれたんだろ?」
「僕ですよね? ……え? お姉さん、今なんて?」
あの二人に用があったんじゃないらしい。
そうだろうとは思ったけれど。
彼女が求めてるのは、この僕に決まってる。
「きょ、今日はユウタに用事なんですか!?」
むかつく。
弟のくせになまいきだ。
fin
ウーティスの寮生が連れだって、グランドから寮へ向かっていた。
仲良しごっこをしてるわけではなく、単に向かう場所が同じだからだ。
授業中、あれだけ走り回っていた単細胞と日本オタクは今も元気で、
ユウタを追い駆け回して遊んでいる。犬みたい。
眼鏡の日本人は、呆れた様子で彼等の後ろを歩いてた。ああ、ほら、ユウタが息切れしてる。
今日はバスケットボールだったから無理もない。どうして体育が必須科目なんだろう。疲れる。
「アイスティが飲みたい」
そう僕が零すと、隣を歩いているジョシュアが笑顔を見せながら、
「アンリはすぐ紅茶切れになるね?」
「サロンに戻ったら、すぐに淹れて。リーフは」
「マスカット?」
信じられない。
「どうして、解ったの?」
「付き合いが長いから、かな」
だからと言って、数あるリーフの中から、今僕が飲みたいものなんて、言い当てられる筈がない。
手品を見せられたような気分だ。彼は急にクスリと笑った。
「ごめん。そんなに驚かせてしまうとは思わなくて。
先週だったかな? マスカットのフレーバーティ、アンリ、気に入っていただろう?
その時、バトラーが『これはアイスティにしても美味しいですよ』って言っていたから」
聞き慣れた音楽が流れた。ユウタが慌ててポケットに手を入れた。
周りに居る連中も、それが誰から掛かってきた電話なのかまで解ったようで、
ふざけるのをピタッと止めて、音楽の元に集まる。ジョシュアでさえ、そちらに視線を送っていた。
ユウタは携帯電話を耳に当てた。
「もしもし、姉貴? どうしたの? うわあ、ちょっと、みんな~」
群がってる。
「こんにちは! ごきげんいかがですか?」
「ハロー! 元気にしてたかい?」
「ちょ、ちょっと待ってよ、姉貴はまだ俺と話してっ」
「俺に掛けてきてくれたんだろ?」
「僕ですよね? ……え? お姉さん、今なんて?」
あの二人に用があったんじゃないらしい。
そうだろうとは思ったけれど。
彼女が求めてるのは、この僕に決まってる。
「きょ、今日はユウタに用事なんですか!?」
むかつく。
弟のくせになまいきだ。
fin
■アンリ
「だんだん、暑くなってきたね」
たまたま、ハルヤと二人でサロンに居た時のこと。
僕はふいに話し掛けられた。本を読んでいたのに。
「夏が近付いてくるとさ、なんかテオを思い出しちゃうよね」
しかも、意味が解らない。
「僕は思い出さないけれど? これっぽっちも」
苦笑いされる。
「あのー、テオってさ、海とか船とか、好きだったじゃん?
『夏は私の季節なのだよ』って豪語してたし」
「それで? 何が言いたいの? 結論を最後までとっておく、
もたもたした話し方は、日本では良いとされている習慣なのかな?」
「えっ? 俺、もたもたしてた?」
「君だけでなく、ユウタもね」
「そ、そうだったんだ。ごめん。俺、そんなつもりなかったんだけど」
もし、そんなつもりで喋ってるんなら、とっくに、存在を脳内消去している。
「で、あの人がどうかした?」
「ああ、いや、ちょっとテオのこと思い出して、
元気かなあって思っただけだから、結論って言うほどの結論はなくて……」
テオはハルヤのことを、東洋の黒い真珠と呼び、偉く可愛がっていた。
卒業後も思い出して貰えて、あの人も本望だろう。
「どうでもいい話に付き合わせてくれてありがとう」
「あっ」
「何?」
「今日も美しい氷の微笑だね。なんちゃって」
むかつく。
真珠のくせになまいきだ。
fin
たまたま、ハルヤと二人でサロンに居た時のこと。
僕はふいに話し掛けられた。本を読んでいたのに。
「夏が近付いてくるとさ、なんかテオを思い出しちゃうよね」
しかも、意味が解らない。
「僕は思い出さないけれど? これっぽっちも」
苦笑いされる。
「あのー、テオってさ、海とか船とか、好きだったじゃん?
『夏は私の季節なのだよ』って豪語してたし」
「それで? 何が言いたいの? 結論を最後までとっておく、
もたもたした話し方は、日本では良いとされている習慣なのかな?」
「えっ? 俺、もたもたしてた?」
「君だけでなく、ユウタもね」
「そ、そうだったんだ。ごめん。俺、そんなつもりなかったんだけど」
もし、そんなつもりで喋ってるんなら、とっくに、存在を脳内消去している。
「で、あの人がどうかした?」
「ああ、いや、ちょっとテオのこと思い出して、
元気かなあって思っただけだから、結論って言うほどの結論はなくて……」
テオはハルヤのことを、東洋の黒い真珠と呼び、偉く可愛がっていた。
卒業後も思い出して貰えて、あの人も本望だろう。
「どうでもいい話に付き合わせてくれてありがとう」
「あっ」
「何?」
「今日も美しい氷の微笑だね。なんちゃって」
むかつく。
真珠のくせになまいきだ。
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