■アンリ
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棕櫚の木の前で、僕がオーギュを問い詰めていた時。
運の悪いことに近くでシルヴァンがシエスタをしていて、話を盗み聞きされた。
その人名を聞いた時、前から彼の大ファンだと言っていたシルヴァンは、
僕達の前に飛び出してきたのだ。「サイン下さい!」と言って。
シルヴァンが出てきた時、オーギュは確かに、笑ってた。
僕はオーギュに嵌められたんだと、その時になって気付いた。
今言わなくてはいけない台詞を、僕は甘んじて口にした。
「シルヴァン。今、君が聞いたこと、別に秘密じゃないから、誰に言い触らしても構わないよ」
「えっ?」
「その代わり、僕も、君の素性について言い触らしてあげるけれど?」
彼の素性には何か細工があるのだ。
17歳以前に、シルヴァン・クラークの名を持つ人間は、存在しない。
まるで、人間が17歳で誕生したかのように。彼の弱みを握っておいて正解だった。
「あのー。それって、脅迫じゃないですか?」
「君がこんな時に、昼寝してるのが悪いんでしょう?」
「えー? それ、僕のせいになるんですかー!?」
「僕に、文句があるの?」
「な、ない、です! ごめんなさい、僕がシエスタしてたのが悪かったですっ!」
「解ればいいよ」
オーギュストは「はいはい」と手を二回叩いた。
「いけないよ、アンリ。お友達とは仲良くしなさい?」
「あ、先生! 僕のことはいいんです。それより、お、お願いが!」
「私に?」
「僕、小さい頃から貴方の大ファンなんですっ!」
始まった。
「僕、『世界不思議人物列伝』でも貴方のページは何十回も読みました!
まさかこんなところで本物に会えるなんて感激です! それで、よかったら是非サインを!」
「そんなに錬金術に興味を持ってくれたのかい? ありがとう。今、生徒手帳は持っているかね?」
「は、はいっ!」
「オーギュ」
僕が止めるのも聞かずに、彼はサラサラとシルヴァンの生徒手帳にサインした。
「はい、どうぞ」
「うわあ、ありがとうございますっ! 宝物にしますね!
これでやっと、貴方の本名が解るんですね! 謹んで拝見しますっ!」
シルヴァンは手許に視線を落とし、「あれ?」と言った。
「あ、あの! これ、『オーギュスト・ボージェ』って書いてあるんですけど……」
「うん」
「あ、いえ、今のお名前ではなくて、本名のほうを」
「ごめんね。私の名前は、アンリにも知らせていないことだから」
「そんな……」
「けれど、その名前も珍しい物なのではないかな?
オーギュストという名は、この時代でしか使っていないし、間違いなく、私の直筆だからね?」
ぱあっと明るい笑顔になる。
「そうですねっ! ありがとうございます! 一生、大事にします!
あっ! あと! 厚かましくて、すみませんが、握手させて貰ってもいいですか!?」
「構わないよ。熱心なファンに出会えて、私も嬉しいな」
「光栄ですっ! きゃいーん! どうしましょう! もう手が洗えないですー!」
「こちらこそ、ありがとう。エルリック・フォン・リヒトホーフェン君?」
僕は初めて聞く名前。それまで頬をピンクにさせて大興奮していた顔色が、一瞬で変わった。
まるで、凍結の魔法でも掛けられたように、シルヴァンは固まってしまったのだ。
オーギュストは身を屈めて、地面に落ちた生徒手帳を拾う。
付着した土をハンカチーフで丁寧に拭き取ってから、
「はい、落としたよ?」
紳士の微笑を見せながら手渡した。知ってはいたけれど、彼は性格が悪過ぎる。
「さあ、これで、おあいこだ。仲良くなった記念に、皆で握手をしよう」
悪い大人が片手を前に出す。それにシルヴァンが手を重ねる。
オーギュストはいつもの優しい顔で僕を見つめる。
「アンリ?」
「脅かしてるのは、どっちなの」
二人の手の上に、僕の手を重ねた。
オーギュストの残りの手が全てを包み、強引に上下に振った。
「はい。これで私達三人は、秘密を共有する仲間だよ?
これからも互いを尊重し、仲良くしようね?」
すなわち、各自の秘密を絶対に漏らすな、という意味だ。
血を伴わないだけで、マフィアの入会儀式と何ら変わりない。
かつて、マンゾーニ家と親交があっただけのことはある。
シルヴァンは、僕に向かってウインクした。
「流石は、アンリのご先祖様ですね?」
「こんなのと一緒にしないで」
そう言ったら笑われた。
むかつく。
オカルトオタクのくせになまいきだ。
fin
運の悪いことに近くでシルヴァンがシエスタをしていて、話を盗み聞きされた。
その人名を聞いた時、前から彼の大ファンだと言っていたシルヴァンは、
僕達の前に飛び出してきたのだ。「サイン下さい!」と言って。
シルヴァンが出てきた時、オーギュは確かに、笑ってた。
僕はオーギュに嵌められたんだと、その時になって気付いた。
今言わなくてはいけない台詞を、僕は甘んじて口にした。
「シルヴァン。今、君が聞いたこと、別に秘密じゃないから、誰に言い触らしても構わないよ」
「えっ?」
「その代わり、僕も、君の素性について言い触らしてあげるけれど?」
彼の素性には何か細工があるのだ。
17歳以前に、シルヴァン・クラークの名を持つ人間は、存在しない。
まるで、人間が17歳で誕生したかのように。彼の弱みを握っておいて正解だった。
「あのー。それって、脅迫じゃないですか?」
「君がこんな時に、昼寝してるのが悪いんでしょう?」
「えー? それ、僕のせいになるんですかー!?」
「僕に、文句があるの?」
「な、ない、です! ごめんなさい、僕がシエスタしてたのが悪かったですっ!」
「解ればいいよ」
オーギュストは「はいはい」と手を二回叩いた。
「いけないよ、アンリ。お友達とは仲良くしなさい?」
「あ、先生! 僕のことはいいんです。それより、お、お願いが!」
「私に?」
「僕、小さい頃から貴方の大ファンなんですっ!」
始まった。
「僕、『世界不思議人物列伝』でも貴方のページは何十回も読みました!
まさかこんなところで本物に会えるなんて感激です! それで、よかったら是非サインを!」
「そんなに錬金術に興味を持ってくれたのかい? ありがとう。今、生徒手帳は持っているかね?」
「は、はいっ!」
「オーギュ」
僕が止めるのも聞かずに、彼はサラサラとシルヴァンの生徒手帳にサインした。
「はい、どうぞ」
「うわあ、ありがとうございますっ! 宝物にしますね!
これでやっと、貴方の本名が解るんですね! 謹んで拝見しますっ!」
シルヴァンは手許に視線を落とし、「あれ?」と言った。
「あ、あの! これ、『オーギュスト・ボージェ』って書いてあるんですけど……」
「うん」
「あ、いえ、今のお名前ではなくて、本名のほうを」
「ごめんね。私の名前は、アンリにも知らせていないことだから」
「そんな……」
「けれど、その名前も珍しい物なのではないかな?
オーギュストという名は、この時代でしか使っていないし、間違いなく、私の直筆だからね?」
ぱあっと明るい笑顔になる。
「そうですねっ! ありがとうございます! 一生、大事にします!
あっ! あと! 厚かましくて、すみませんが、握手させて貰ってもいいですか!?」
「構わないよ。熱心なファンに出会えて、私も嬉しいな」
「光栄ですっ! きゃいーん! どうしましょう! もう手が洗えないですー!」
「こちらこそ、ありがとう。エルリック・フォン・リヒトホーフェン君?」
僕は初めて聞く名前。それまで頬をピンクにさせて大興奮していた顔色が、一瞬で変わった。
まるで、凍結の魔法でも掛けられたように、シルヴァンは固まってしまったのだ。
オーギュストは身を屈めて、地面に落ちた生徒手帳を拾う。
付着した土をハンカチーフで丁寧に拭き取ってから、
「はい、落としたよ?」
紳士の微笑を見せながら手渡した。知ってはいたけれど、彼は性格が悪過ぎる。
「さあ、これで、おあいこだ。仲良くなった記念に、皆で握手をしよう」
悪い大人が片手を前に出す。それにシルヴァンが手を重ねる。
オーギュストはいつもの優しい顔で僕を見つめる。
「アンリ?」
「脅かしてるのは、どっちなの」
二人の手の上に、僕の手を重ねた。
オーギュストの残りの手が全てを包み、強引に上下に振った。
「はい。これで私達三人は、秘密を共有する仲間だよ?
これからも互いを尊重し、仲良くしようね?」
すなわち、各自の秘密を絶対に漏らすな、という意味だ。
血を伴わないだけで、マフィアの入会儀式と何ら変わりない。
かつて、マンゾーニ家と親交があっただけのことはある。
シルヴァンは、僕に向かってウインクした。
「流石は、アンリのご先祖様ですね?」
「こんなのと一緒にしないで」
そう言ったら笑われた。
むかつく。
オカルトオタクのくせになまいきだ。
fin
■アンリ
「おーい、アンリー!」
サロンで読書中、煩いのがやってきた。
「近くに居るんだから、もう少し小さな声で喋れない?」
「あのさ! 『週刊アルフォンソニュース!』の再現VTRにゲスト出演してくれねえ?」
「再現VTR? ああ、あのスキャンダルコーナーの?」
「そう、それ!」
『週刊アルフォンソニュース!』とは、
アルフレッド率いる生徒達が制作・出演・放送しているテレビ番組。
島内限定のローカル放送で、ご丁寧に録画プロテクトまで掛かっている。
その中に、僕達生徒のスキャンダルを暴露する、という意味不明の自虐コーナーがある。
本当に島の外に出せないネタが放送されるので人気はあるらしい。
確かに、この学院はニュースの宝庫だ。聖アルフォンソ学院の生徒達は、
存在自体がスキャンダルになる場合があるくらいだから、常にネタには困らない。
コーナー内では、本人出演の再現VTRまで用意している。
「王様の耳はロバの耳」と言うか、本人がそれでストレスの解消になるのならいいけれど。
僕には精神的露出狂の趣味はない。
「お断りだね。放送して欲しいネタなんかないよ」
「違うって。やるのは他の奴のスキャンダル。そのVで、どうしても女役が必要なんだよ」
ああ、そういうこと。
「やだ」
「早ぇよ! お前、文化祭では女装すんじゃん! Vではセリフもないし、
いつもみたいに、ぶすっとした顔で映ってりゃいいからさ?」
「それが僕にものを頼む態度?」
「めんどくせーオンナだなー、お前」
「やらない」
「あー、わりぃ、わりぃ。お願いしますー!」
「知っているでしょう? 僕におねだりする時は、どうすればいいか」
「前から気になってたんだけど、それ、キョーカツって言うんじゃねえの?」
「ビ、ジ、ネ、ス」
「キョーカツ!」
「そう。じゃあ、やーめ」
た、と言い終わる前に、アルフレッドが声を上げた。
「ちょ、ちょっと待った!」
他愛の無い。アルフレッドは人差し指を立てた。
「これでどーだ!?」
彼の手に僕の手を重ねた。
「アンリ! やってくれるんだな!」
中指と薬指を立ててあげた。
「…って、おい。3かよ」
「5にして欲しいの? いいよ?」
「わーったよ! 3な! その代わり俺好みのワンピース着させてやるっ!」
放送当日。
ウーティス寮では、サロンに全員集合して『週刊アルフォンソニュース!』を見ることになった。
僕は、主役の生徒の妹役で、5秒ほどの出演だった。番組が終わると、ユウタは拍手までしていた。
「めちゃくちゃ面白かったよ、レッド!」
ハルヤは苦笑している。
「なんてゆうか、今週の番組、物凄く力入ってたね」
「とってもキュートでしたよ、アンリ! 僕、萌えちゃいましたっ!」
「モエ? それはどういう意味なんだい?」
「あ、ジョシュアは知らなくていい言葉だよ。
シルヴァンが知ってる日本語って、偏りが激しいから、気にしないであげて」
「そう?」
シルヴァンは番組プロデューサーと握手している。
「レッド! グッジョブでした!」
「あったりまえだぜ!」
「でも、番組製作費が高かったんじゃないですか、今週は。
アンリを脱がせるのに、一体どのくらい使ったんです?」
ジョシュアが顔を顰める。
「アンリ、まさか出演料を取ったの?」
アルフレッドが片手を挙げる。
「ああ、いいんだよ、ジョシュア。俺のポケットマネーから出してっから」
「僕、まだ受け取ってないんだけど」
「解ってるって。番組見てから渡そうと思ってたんだよ」
ポケットから白い封筒を取り出した。
「これがアンリのギャラ。ゲスト出演、サンキュな!」
その軽さに嫌な予感がした。
封筒を引っ繰り返して、落ちてきたのは。コインが3枚。
「……3ドルって、どういうこと」
「だって、お前が3でいいって言ったんじゃん。それで天使の顎でも買ってくれよ」
「300に決まってるでしょう」
ひらりと身を交わして、ドアのところまで逃げた。
「じゃあ、残りの297ドルは」
アルフレッドが、瞬時にハリウッドスターの顔になる。
「綺麗だったぜ、アンリ」
自分の唇に指を当て、僕に投げた。何故か、ユウタが顔を赤くしている。
「じゃ!」
悪徳プロデューサーがサロンから走り去っていく。
逃げられた。ジョシュアとハルヤが笑い合っている。
お調子者が僕に笑い掛ける。
「良かったですね。ハリウッドスターからの投げキッスなんて、
297ドルでも買えないですよ。大サービスのギャランティを貰いましたね、アンリ?」
むかつく。
単細胞のくせになまいきだ。
fin
サロンで読書中、煩いのがやってきた。
「近くに居るんだから、もう少し小さな声で喋れない?」
「あのさ! 『週刊アルフォンソニュース!』の再現VTRにゲスト出演してくれねえ?」
「再現VTR? ああ、あのスキャンダルコーナーの?」
「そう、それ!」
『週刊アルフォンソニュース!』とは、
アルフレッド率いる生徒達が制作・出演・放送しているテレビ番組。
島内限定のローカル放送で、ご丁寧に録画プロテクトまで掛かっている。
その中に、僕達生徒のスキャンダルを暴露する、という意味不明の自虐コーナーがある。
本当に島の外に出せないネタが放送されるので人気はあるらしい。
確かに、この学院はニュースの宝庫だ。聖アルフォンソ学院の生徒達は、
存在自体がスキャンダルになる場合があるくらいだから、常にネタには困らない。
コーナー内では、本人出演の再現VTRまで用意している。
「王様の耳はロバの耳」と言うか、本人がそれでストレスの解消になるのならいいけれど。
僕には精神的露出狂の趣味はない。
「お断りだね。放送して欲しいネタなんかないよ」
「違うって。やるのは他の奴のスキャンダル。そのVで、どうしても女役が必要なんだよ」
ああ、そういうこと。
「やだ」
「早ぇよ! お前、文化祭では女装すんじゃん! Vではセリフもないし、
いつもみたいに、ぶすっとした顔で映ってりゃいいからさ?」
「それが僕にものを頼む態度?」
「めんどくせーオンナだなー、お前」
「やらない」
「あー、わりぃ、わりぃ。お願いしますー!」
「知っているでしょう? 僕におねだりする時は、どうすればいいか」
「前から気になってたんだけど、それ、キョーカツって言うんじゃねえの?」
「ビ、ジ、ネ、ス」
「キョーカツ!」
「そう。じゃあ、やーめ」
た、と言い終わる前に、アルフレッドが声を上げた。
「ちょ、ちょっと待った!」
他愛の無い。アルフレッドは人差し指を立てた。
「これでどーだ!?」
彼の手に僕の手を重ねた。
「アンリ! やってくれるんだな!」
中指と薬指を立ててあげた。
「…って、おい。3かよ」
「5にして欲しいの? いいよ?」
「わーったよ! 3な! その代わり俺好みのワンピース着させてやるっ!」
放送当日。
ウーティス寮では、サロンに全員集合して『週刊アルフォンソニュース!』を見ることになった。
僕は、主役の生徒の妹役で、5秒ほどの出演だった。番組が終わると、ユウタは拍手までしていた。
「めちゃくちゃ面白かったよ、レッド!」
ハルヤは苦笑している。
「なんてゆうか、今週の番組、物凄く力入ってたね」
「とってもキュートでしたよ、アンリ! 僕、萌えちゃいましたっ!」
「モエ? それはどういう意味なんだい?」
「あ、ジョシュアは知らなくていい言葉だよ。
シルヴァンが知ってる日本語って、偏りが激しいから、気にしないであげて」
「そう?」
シルヴァンは番組プロデューサーと握手している。
「レッド! グッジョブでした!」
「あったりまえだぜ!」
「でも、番組製作費が高かったんじゃないですか、今週は。
アンリを脱がせるのに、一体どのくらい使ったんです?」
ジョシュアが顔を顰める。
「アンリ、まさか出演料を取ったの?」
アルフレッドが片手を挙げる。
「ああ、いいんだよ、ジョシュア。俺のポケットマネーから出してっから」
「僕、まだ受け取ってないんだけど」
「解ってるって。番組見てから渡そうと思ってたんだよ」
ポケットから白い封筒を取り出した。
「これがアンリのギャラ。ゲスト出演、サンキュな!」
その軽さに嫌な予感がした。
封筒を引っ繰り返して、落ちてきたのは。コインが3枚。
「……3ドルって、どういうこと」
「だって、お前が3でいいって言ったんじゃん。それで天使の顎でも買ってくれよ」
「300に決まってるでしょう」
ひらりと身を交わして、ドアのところまで逃げた。
「じゃあ、残りの297ドルは」
アルフレッドが、瞬時にハリウッドスターの顔になる。
「綺麗だったぜ、アンリ」
自分の唇に指を当て、僕に投げた。何故か、ユウタが顔を赤くしている。
「じゃ!」
悪徳プロデューサーがサロンから走り去っていく。
逃げられた。ジョシュアとハルヤが笑い合っている。
お調子者が僕に笑い掛ける。
「良かったですね。ハリウッドスターからの投げキッスなんて、
297ドルでも買えないですよ。大サービスのギャランティを貰いましたね、アンリ?」
むかつく。
単細胞のくせになまいきだ。
fin
■アンリ
■オーギュスト×アンリ
■追加シナリオ後
■追加シナリオ後
「このように、錬金術の記号は様々なものがある」
黒板いっぱいに羅列された無数の記号。たまたま神秘学の教室を通り掛かった者が、
この黒板を廊下から見たら、どんなに薄気味悪く思うだろう。
そう言えば昔、黒魔術の授業時に、理系の教授が二人、
通りすがったことがあった。あの時の顔は今思い出しても笑える。
後日、彼等が「あれは子供達に教えて良い学問なのか」って影口を叩いているのを見掛けた。
聖アルフォンソ学院には『生徒が興味を持つことには全て、彼の成長を促す鍵がある』という教育方針があるから良い。
むかついたから、彼等にその都合の良い呪文を唱えてやったら、黙らせることができた。いい気味だ。
「賢者の石の製法を綴った文章は、錬金術を継ぐべき者だけが読み取れるように、
わざと記号化して、難解な錬金術マニュアルを残したんだ」
確かに、12星座のマークまでは素人でも解るとして、他は意味不明だろう。
三角が『火』だとか、四角が『食塩』だと読める人間のほうがどうかしてる。
神秘学の教授は暗号めいた黒板を上にスライドさせる。何も綴られていない黒板が下りてくる。
「それから、最も象徴的な記号」
今日の装いは、ダージリン色のスーツ。右の袖口が白い粉で少し汚れているのが気になる。
君はチョークを手にして、僕達生徒に背を向けた。
「これが表すものは」
まっさらな黒板の中央上部より、やや左でチョークを掲げる。
解説しながら、君はそれを描き始めた。
「始まりと終わりの一致、生と死の一致、輪廻転生」
大きな白い円になる。
ただ、書き始めの部分は繋がっていないので、壺のような絵にも見えた。
「復活、『一は全、全は一』、無限の時間」
一重円が二重円になっていく。上部はまだ塞がらない。
「語源は『尾を飲み込む者』という意味の古代ギリシャ語で」
空白だった、壺の口の部分がちょこちょこと書き足される。
絵心まで持ち合わせているらしい。ちゃんと、自分の尾を咥えた蛇の頭になった。
「錬金術に於いては、賢者の石の象徴。それが」
僕達のほうを向く。
「この、ウロボロス」
コンコン、と黒板をノックする。
君は時々そうする。試験に出るのかと思ってノートにメモする生徒も居るが、
彼にそのつもりはない。ただの嫌味な癖だ。
「数学で用いられる、この記号」
蛇の隣に『∞』と描く。無限大のマーク。
「このインフィニティも、ウロボロスがモデルだという説があるんだよ」
チョークを置き、手を少し払う。
「錬金術師は、言わば、無限の命、無限の財産を手に入れようと、
賢者の石を追い求めたと言える。諸君は無限を手にしたいと思うかい?」
生徒達の顔を見渡す。いつものように、発言する者は居ない。
君はにこやかに微笑んだ。
「聡明な諸君は、無限の愚かさを理解しているだろうね。
限りがあるから美しい、これは真理だと、私は思うよ」
鐘が鳴った。講義終了の合図だ。
君は天を見上げた。そこには何もないのに。
「おや、中途半端なところで終わってしまったね。すまない。
続きは次回にしよう。では、ごきげんよう、諸君」
その後は普段通り、黒板を消していた。
確かに君は、夕方まで教壇にいて、神秘学の特別講師として立っていた。
だけど今は、僕のベッドの中に居る。僕のすぐ隣で、透けるような鎖骨を晒してる。
「ねえ、オーギュ」
今夜は雨。しとしと、と耳に付く。長くて弱い雨音が一番嫌い。
さっきまでは気にならなかったけれど。
「ん? なんだね? アンリ」
「結局さ」
肩で夜気を感じる。素肌に夜気は冷たい。
「僕と君って、血族なわけでしょう? 始祖と末裔だから、近親とは言えないかもしれないけれど」
先日、学院に現れた、可笑しな三人組。異世界から来たと主張する彼等によって、
月桂樹の森に一本だけある棕櫚の木、そこが時空の歪みであると明かされた。
それに前後して僕は知る。神秘学の講師が、何故、執拗に僕に構うのかを。
僕が彼の末裔だったから。
あまりに馬鹿げた結末が、唯一、全ての辻褄を合わせる真実だった。
「それが、どうかしたかい?」
「僕に素性がバレたのに、まだこういうことして、良いと思ってる?」
教師と教え子、同性、それに加えて、血が繋がっているだなんて。
「私は既に、人として大きな禁忌を犯してる。
今更、ひとつ罪を重ねるくらい、大したことではないよ」
「悪い大人」
「そうだね。良い子は私のようになってはいけないよ」
始祖が末裔の髪を撫でる。
「もし僕が」
優しく触れられるのは、好きじゃない。
「賢者の石を飲んでみたい、と言ったら、どうする?」
「良い子は私のようになってはいけないと言っただろう?」
宥めるように僕の髪に口付けた。
「いつか、僕が死んだら、君はどうするの?」
「生き続けるよ、永遠に。それが大罪を犯した罰だから」
「僕を騙して、石を飲ませるチャンスは今まで幾らでもあった筈なのに、どうして」
僕の唇を親指でなぞりながら、
「可愛いお口に、悪いお薬は入れられないだろう?」
「じゃあ、何故、僕の前に現れたの」
そう言うと、君は笑顔を消して、厳かに言った。
「愛しているから」
苛々する。
「なら、僕に石を渡せばいいじゃない」
君はにこっと微笑んだ。
「ごめんね、アンリ。ありがとう」
「矛盾してる。君の言動は矛盾ばかりだ」
憂鬱な雨音がまだ止まない。
fin
黒板いっぱいに羅列された無数の記号。たまたま神秘学の教室を通り掛かった者が、
この黒板を廊下から見たら、どんなに薄気味悪く思うだろう。
そう言えば昔、黒魔術の授業時に、理系の教授が二人、
通りすがったことがあった。あの時の顔は今思い出しても笑える。
後日、彼等が「あれは子供達に教えて良い学問なのか」って影口を叩いているのを見掛けた。
聖アルフォンソ学院には『生徒が興味を持つことには全て、彼の成長を促す鍵がある』という教育方針があるから良い。
むかついたから、彼等にその都合の良い呪文を唱えてやったら、黙らせることができた。いい気味だ。
「賢者の石の製法を綴った文章は、錬金術を継ぐべき者だけが読み取れるように、
わざと記号化して、難解な錬金術マニュアルを残したんだ」
確かに、12星座のマークまでは素人でも解るとして、他は意味不明だろう。
三角が『火』だとか、四角が『食塩』だと読める人間のほうがどうかしてる。
神秘学の教授は暗号めいた黒板を上にスライドさせる。何も綴られていない黒板が下りてくる。
「それから、最も象徴的な記号」
今日の装いは、ダージリン色のスーツ。右の袖口が白い粉で少し汚れているのが気になる。
君はチョークを手にして、僕達生徒に背を向けた。
「これが表すものは」
まっさらな黒板の中央上部より、やや左でチョークを掲げる。
解説しながら、君はそれを描き始めた。
「始まりと終わりの一致、生と死の一致、輪廻転生」
大きな白い円になる。
ただ、書き始めの部分は繋がっていないので、壺のような絵にも見えた。
「復活、『一は全、全は一』、無限の時間」
一重円が二重円になっていく。上部はまだ塞がらない。
「語源は『尾を飲み込む者』という意味の古代ギリシャ語で」
空白だった、壺の口の部分がちょこちょこと書き足される。
絵心まで持ち合わせているらしい。ちゃんと、自分の尾を咥えた蛇の頭になった。
「錬金術に於いては、賢者の石の象徴。それが」
僕達のほうを向く。
「この、ウロボロス」
コンコン、と黒板をノックする。
君は時々そうする。試験に出るのかと思ってノートにメモする生徒も居るが、
彼にそのつもりはない。ただの嫌味な癖だ。
「数学で用いられる、この記号」
蛇の隣に『∞』と描く。無限大のマーク。
「このインフィニティも、ウロボロスがモデルだという説があるんだよ」
チョークを置き、手を少し払う。
「錬金術師は、言わば、無限の命、無限の財産を手に入れようと、
賢者の石を追い求めたと言える。諸君は無限を手にしたいと思うかい?」
生徒達の顔を見渡す。いつものように、発言する者は居ない。
君はにこやかに微笑んだ。
「聡明な諸君は、無限の愚かさを理解しているだろうね。
限りがあるから美しい、これは真理だと、私は思うよ」
鐘が鳴った。講義終了の合図だ。
君は天を見上げた。そこには何もないのに。
「おや、中途半端なところで終わってしまったね。すまない。
続きは次回にしよう。では、ごきげんよう、諸君」
その後は普段通り、黒板を消していた。
確かに君は、夕方まで教壇にいて、神秘学の特別講師として立っていた。
だけど今は、僕のベッドの中に居る。僕のすぐ隣で、透けるような鎖骨を晒してる。
「ねえ、オーギュ」
今夜は雨。しとしと、と耳に付く。長くて弱い雨音が一番嫌い。
さっきまでは気にならなかったけれど。
「ん? なんだね? アンリ」
「結局さ」
肩で夜気を感じる。素肌に夜気は冷たい。
「僕と君って、血族なわけでしょう? 始祖と末裔だから、近親とは言えないかもしれないけれど」
先日、学院に現れた、可笑しな三人組。異世界から来たと主張する彼等によって、
月桂樹の森に一本だけある棕櫚の木、そこが時空の歪みであると明かされた。
それに前後して僕は知る。神秘学の講師が、何故、執拗に僕に構うのかを。
僕が彼の末裔だったから。
あまりに馬鹿げた結末が、唯一、全ての辻褄を合わせる真実だった。
「それが、どうかしたかい?」
「僕に素性がバレたのに、まだこういうことして、良いと思ってる?」
教師と教え子、同性、それに加えて、血が繋がっているだなんて。
「私は既に、人として大きな禁忌を犯してる。
今更、ひとつ罪を重ねるくらい、大したことではないよ」
「悪い大人」
「そうだね。良い子は私のようになってはいけないよ」
始祖が末裔の髪を撫でる。
「もし僕が」
優しく触れられるのは、好きじゃない。
「賢者の石を飲んでみたい、と言ったら、どうする?」
「良い子は私のようになってはいけないと言っただろう?」
宥めるように僕の髪に口付けた。
「いつか、僕が死んだら、君はどうするの?」
「生き続けるよ、永遠に。それが大罪を犯した罰だから」
「僕を騙して、石を飲ませるチャンスは今まで幾らでもあった筈なのに、どうして」
僕の唇を親指でなぞりながら、
「可愛いお口に、悪いお薬は入れられないだろう?」
「じゃあ、何故、僕の前に現れたの」
そう言うと、君は笑顔を消して、厳かに言った。
「愛しているから」
苛々する。
「なら、僕に石を渡せばいいじゃない」
君はにこっと微笑んだ。
「ごめんね、アンリ。ありがとう」
「矛盾してる。君の言動は矛盾ばかりだ」
憂鬱な雨音がまだ止まない。
fin
■シルヴァン アルフレッド
■ラストシーン 3/4 続編
■ラストシーン 3/4 続編
「彼は『しょうがないなあ』と言いながら、メモ帳を1ページ破って、書いてくれました。
ブライアン・シュミットが想う、映画のレゾンデートルを」
そこまで話すと、シルヴァンは顔を上げ、アルフレッドを見つめた。
「その時のメモ帳を、僕は今も持っています」
「ここにあるのか? この部屋に」
「はい」
「じゃあ、あんたが俺に見せたい物があるって言ってたのは」
「ええ。君が入学したら、早く見せようと思ったのに。すみません、今まで黙っていて」
「いいんだ、俺に気ぃ遣ってくれたんだろ?」
シルヴァンは、首を横に振った。
「僕はただ、世界でたった一枚しか残らなかったブライアンのサインを、
僕だけの物にしたかっただけかもしれません」
ごめんなさいアルフレッド、と謝る奴に、責める言葉は掛けられなかった。
「アルフレッドが望むなら、今ここでお見せします。ブライアン本人以外から、
伝えられるのは不本意かもしれませんが。どうしますか? アルフレッド」
返事は決まっていた。
「見せてくれるか」
「ええ」
シルヴァンは机に向かった。一番上の引き出しを開けて、小箱を手に取った。
箱の中には、細々とした物が幾つか入っているようで、
アルフレッドがちらりと見た物には、まるで統一性が見られなかった。
サビついたバッジ、ペシャンコの白い絵の具のチューブ、折り畳まれた新聞の切り抜き。
シルヴァンは、箱の底のほうから一枚の紙切れを取り出した。
「これが、ブライアンが書いた、サイン色紙です」
無地の小さなメモ用紙。アルフレッドはひとつ息を吐いてから、それを見た。
真っ白な四角に、黒のボールペン。綺麗な筆跡だ。
細いけれど、しっかりした字で、こう書いてあった。
――映画は、楽しい明日へのチケット。 ブライアン・シュミット――
アルフレッドは、ハン、と笑った。青い瞳は潤んでいた。
「イミわかんね。どこまで詩人なんだよ」
「ブライアンはこんなことを言っていました。
辛くて悲しくて退屈な毎日でも、いい映画を見て、笑ったり泣いたりした後は、
気持ちがすっきりして、明日からもまたやっていこうって気分になるだろう?
楽しい明日を約束してくれる。だから、映画は必要で、廃れないんだ。
映画を見る前は、世の中に絶望していた人でも、
映画館を出る時には、自分の居る世界が、昨日より少し好きになってる。
僕もそういう作品を作りたいんだ、って」
「じゃあ、なんで作らなかったんだよ!」
アルフレッドの拳がテーブルを打ちつける。
「1シーンだって撮れなかったくせに、ばかやろう……」
語尾は擦れて、消えていくようだった。
アルフレッドの肩が小さく震えているのに、シルヴァンは気付いた。
項垂れた髪の隙間から、透明な雫が頬を伝うのが見えた時、
シルヴァンはアルフレッドを腕の中に包み込んだ。
「ほんと、大馬鹿野郎ですよ」
それから数日過ぎた放課後。
暦の上では秋だが、まだ夏のような日が続いていた。
日もまだ長く、ウーティス寮サロンの窓からは燦々と強い日差しが差し込んでいる。
夏の似合う男が、勢い良くドアを開けた。
「やあ、ウーティスの諸君! お邪魔するよ!」
今日も元気に登場したのはテオだった。
住んでいる寮はシュヌーシアだが、生徒代表だからか、彼はこの寮にもよく訪れる。
「みんな、今日も一日お疲れ様っ! おやっ?」
返事がない。メインテーブルの周りには誰も居なかった。
「なんだ、まだ誰も来ていないのか」
ペラ、と本のページが捲れる音が聞こえた。
そちらのほうを見やると、ソファに埋もれている生徒の頭の先が見えた。
テオは両手を広げながらニコニコと隅のテーブルに向かう。
「読書中だったんだね、プリンセス」
膝の上に視線を落としていたのは、テオが思った通りの人物だった。
ウーティス寮の高等部一年、アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマン。
テオは王子さながら、アンリの前で片膝を着いた。
「ああ、何度見ても美しい。今日の君はハバネロの花のようだ」
花に見立てられた男子生徒は、気だるげに頬杖を突いて、
「僕、君に、悪口を言われるようなことしたかな?」
「ハバネロの花を見たことがないのかい? 植物園にも咲いているから、次の夏は探してみるといい。
小さく真っ白で、それはそれは可愛らしい花なのだよ? まるで君のように」
静かにドアが開いた。テオと目が合ったのは、赤い瞳。
ウーティス寮に住むジョシュア・グラントである。一学年先輩のテオを見て、後輩はすぐに挨拶した。
「あっ、来ていたんですね。こんにちは、テオ」
「やあ、ジョシュア。お邪魔しているよ。今日の君は赤いスイートピーのようだね?」
テオの口から紡がれる華美な言葉。その真意などはジョシュアにもよく解らないのだが、
彼の言動に悪気がないのは解るし、きっと褒めてくれたのだろうと思ったので、一応お礼は言った。
「えっと、俺、紅茶でも淹れましょうか?」
「相変わらず優しいねえ、ジョシュアは。ありがとう」
僕も、と向こうのほうからバニラボイスが呟かれた。
ジョシュアは自分の分を含め、三人分の紅茶を淹れた。
その間、テオは一方的にアンリに話し掛け、盛り上がらない会話を楽しんでいた。
「お待たせしました。どうぞ、テオ」
ジョシュアは先輩の前にティーカップを置く。
続いてアンリの前へ「ダージリンのセカンドフラッシュだよ」
最後に自分のカップを取った。三人はほぼ同時に紅茶を口に運んだ。
夏摘み紅茶のマスカットのような香りを楽しんだ後、アンリは異物を見るような目をして、
「で、貴方はウーティスに何しに来たの? テオ」
邪魔だから早く出ていってくれない、と言わんばかりの口振りだ、
とジョシュアは感じたが、テオは全く気にならなかった様子で、
「ああ、そうそう。今日はアルフレッドに声を掛けに来たのだよ。
本格的な秋に入る前に、あと一回くらいはサーフィンができそうだよ、と知らせにね」
「アルフレッドに用事だったんですか?」ジョシュアは申し訳なさそうに、
「すみません。彼ならシルヴァンと街へ遊びに行ったんだと思います。
さっき、タクシーに乗るのを見掛けたので」
「シルヴァンと?」テオが聞き返す。
「ええ。最近は、毎日のように、二人で出掛けているみたいですよ」
「急に、つるむようになったよね、あの二人。おかげで食事が煩くなって、すごく迷惑。
片方、シュヌーシアに連れて行って欲しいくらいだよ」
「アンリ、噛み付くなよ。あの、連れて行かないで下さいね、テオ」
「ああ、もちろん。シルヴァンとアルフレッドが同じ寮になったのは、きっと運命だから」
そう言ってティーカップに口付けた。ジョシュアとアンリは顔を見合わせる。
疑問を浮かべた二人の顔を、テオは笑顔で受け止めるだけだった。
「さて。アルフレッドが海より楽しい場所を見つけられたのなら、
私の船に乗せる必要もなくなってしまったな。ああ、そうだ。
アンリ、私と夜明けのクルーズにでも出掛けるかい? 甘いケーキと紅茶も用意するよ?」
「ケーキで僕が釣れると思った?」
「今日はまた、一段と美しい、氷の微笑だね」
「失礼致します」
初老の紳士がドアを開けた。シュヌーシア寮のバトラーだ。
「テオ様、生徒代表室にお電話が。ミーティングのお時間のようです」
「えっ?」
生徒代表は掛け時計を見上げた。
「これは大変だ。すっかり忘れてしまっていた。あ、美味しい紅茶と楽しい時間をありがとう。
名残惜しいが失礼するよ。またね、美しいウーティスの花達」
生徒代表がドアの向こうに消える。しん、となったサロンで、アンリが呟いた。
「あの人には、ここがお花畑にでも見えるのかな」
聖アルフォンソ島南西部。
海の近くに小さなコテージがある。ここに住む男はPCの前でのんびりと煙草を吹かしていた。
海と同じ色のYシャツに、だらりとぶら下げたネクタイ。
開け放した窓。まだ少し夏の匂いが残る潮風に、長い金髪の先を時々弄ばれる。
デスクに置かれている小型ラジオは、待ちぼうけを食らっている彼をレゲエであやしていた。
PC画面に、生徒代表が映った。
「すまない、アイヴィー。待たせてしまったね。泣いてないかい?」
アイヴィーは吹き出しながら、「泣かねえよ」と煙草を灰皿に置き、ラジオを切った。
テオは画面の隅ある時計を見ながら、
「16時の待ち合わせだったのに、30分も遅れてしまったね、すまない」
「いんや。今日は急ぎの用事じゃねえし。こっちこそ、ちょくちょく呼んで悪い。
じゃ、サクッとミーティングしちまうか」
理事会のメールを元に、学院側、警備側の情報を交換する。
本番はまだ先だが、ミーティグ上では『文化祭』の文字が出てくるようになった。
今日のところは、まだ切羽詰まった状態ではなく、文化祭当日までのスケジュール確認が主な議題だった。
「まあ、こんなかんじで進んでいくから、よろしくな」
「うん」
「どした? 今日は元気ないじゃん?」
「いや。生徒代表という任務は、思ったより、大変ではないなあ、と思ってね。
就任時は、もっと毎日忙しくなるのだろうと覚悟していたのだけど、
難しいことはアイヴィーがサポートしてくれるし、
警備、理事会の皆さんや、学院の先生方、職員の方々が、私に協力してくれるから」
「お前さんは、去年のクラウスを見てたからなあ。
あいつはさ、ほら、そこまでやらんでも、ってトコまでやらないと気が済まないタイプだったろ?
余計な分まで、自分で仕事を増やすから、いつも忙しそうに見えただけさ」
「成程、そうだったのか」
階下のガレージから物音が聞こえてきた。
「わ、こんな時に」
「どうしたんだい? アイヴィー」
「悪ぃ、誰か来たみたいだ。ミーティングは一応終わってるよな。今日はこの辺でお開きでいいか?」
「うん、そうだね。ではまた」
「ん。お疲れさん」
一階から螺旋階段を上がってくる音が近付いてくる。
アイヴィーは手早くパソコンをシャットダウンさせ、耳を澄ます。今度は人の声。
「おい、シルヴァン。勝手に上がっていいのかよ?」
「大丈夫ですよ。二階はあちこち散らかってますが、寛いでって下さいね、レッド」
今までは一人分しか聞こえなかった声が、今日は二人分聞こえる。
アイヴィーは立ち上がって、頭を掻く。
「やれやれ。なんか増えてるな」
我が家のように部屋に入ってきたのは、すっかり見飽きたマージナルプリンス。
「こんにちは、アイヴィー。レッドが喉が乾いたというので、何か飲み物頂けます?」
後ろから、ひょこっと顔を出した新顔。
「あ、紹介しますね」とシルヴァンが手で指し示す。
「こちら、僕の新しい友達、アルフレッド・ヴィスコンティです!」
fin
ブライアン・シュミットが想う、映画のレゾンデートルを」
そこまで話すと、シルヴァンは顔を上げ、アルフレッドを見つめた。
「その時のメモ帳を、僕は今も持っています」
「ここにあるのか? この部屋に」
「はい」
「じゃあ、あんたが俺に見せたい物があるって言ってたのは」
「ええ。君が入学したら、早く見せようと思ったのに。すみません、今まで黙っていて」
「いいんだ、俺に気ぃ遣ってくれたんだろ?」
シルヴァンは、首を横に振った。
「僕はただ、世界でたった一枚しか残らなかったブライアンのサインを、
僕だけの物にしたかっただけかもしれません」
ごめんなさいアルフレッド、と謝る奴に、責める言葉は掛けられなかった。
「アルフレッドが望むなら、今ここでお見せします。ブライアン本人以外から、
伝えられるのは不本意かもしれませんが。どうしますか? アルフレッド」
返事は決まっていた。
「見せてくれるか」
「ええ」
シルヴァンは机に向かった。一番上の引き出しを開けて、小箱を手に取った。
箱の中には、細々とした物が幾つか入っているようで、
アルフレッドがちらりと見た物には、まるで統一性が見られなかった。
サビついたバッジ、ペシャンコの白い絵の具のチューブ、折り畳まれた新聞の切り抜き。
シルヴァンは、箱の底のほうから一枚の紙切れを取り出した。
「これが、ブライアンが書いた、サイン色紙です」
無地の小さなメモ用紙。アルフレッドはひとつ息を吐いてから、それを見た。
真っ白な四角に、黒のボールペン。綺麗な筆跡だ。
細いけれど、しっかりした字で、こう書いてあった。
――映画は、楽しい明日へのチケット。 ブライアン・シュミット――
アルフレッドは、ハン、と笑った。青い瞳は潤んでいた。
「イミわかんね。どこまで詩人なんだよ」
「ブライアンはこんなことを言っていました。
辛くて悲しくて退屈な毎日でも、いい映画を見て、笑ったり泣いたりした後は、
気持ちがすっきりして、明日からもまたやっていこうって気分になるだろう?
楽しい明日を約束してくれる。だから、映画は必要で、廃れないんだ。
映画を見る前は、世の中に絶望していた人でも、
映画館を出る時には、自分の居る世界が、昨日より少し好きになってる。
僕もそういう作品を作りたいんだ、って」
「じゃあ、なんで作らなかったんだよ!」
アルフレッドの拳がテーブルを打ちつける。
「1シーンだって撮れなかったくせに、ばかやろう……」
語尾は擦れて、消えていくようだった。
アルフレッドの肩が小さく震えているのに、シルヴァンは気付いた。
項垂れた髪の隙間から、透明な雫が頬を伝うのが見えた時、
シルヴァンはアルフレッドを腕の中に包み込んだ。
「ほんと、大馬鹿野郎ですよ」
それから数日過ぎた放課後。
暦の上では秋だが、まだ夏のような日が続いていた。
日もまだ長く、ウーティス寮サロンの窓からは燦々と強い日差しが差し込んでいる。
夏の似合う男が、勢い良くドアを開けた。
「やあ、ウーティスの諸君! お邪魔するよ!」
今日も元気に登場したのはテオだった。
住んでいる寮はシュヌーシアだが、生徒代表だからか、彼はこの寮にもよく訪れる。
「みんな、今日も一日お疲れ様っ! おやっ?」
返事がない。メインテーブルの周りには誰も居なかった。
「なんだ、まだ誰も来ていないのか」
ペラ、と本のページが捲れる音が聞こえた。
そちらのほうを見やると、ソファに埋もれている生徒の頭の先が見えた。
テオは両手を広げながらニコニコと隅のテーブルに向かう。
「読書中だったんだね、プリンセス」
膝の上に視線を落としていたのは、テオが思った通りの人物だった。
ウーティス寮の高等部一年、アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマン。
テオは王子さながら、アンリの前で片膝を着いた。
「ああ、何度見ても美しい。今日の君はハバネロの花のようだ」
花に見立てられた男子生徒は、気だるげに頬杖を突いて、
「僕、君に、悪口を言われるようなことしたかな?」
「ハバネロの花を見たことがないのかい? 植物園にも咲いているから、次の夏は探してみるといい。
小さく真っ白で、それはそれは可愛らしい花なのだよ? まるで君のように」
静かにドアが開いた。テオと目が合ったのは、赤い瞳。
ウーティス寮に住むジョシュア・グラントである。一学年先輩のテオを見て、後輩はすぐに挨拶した。
「あっ、来ていたんですね。こんにちは、テオ」
「やあ、ジョシュア。お邪魔しているよ。今日の君は赤いスイートピーのようだね?」
テオの口から紡がれる華美な言葉。その真意などはジョシュアにもよく解らないのだが、
彼の言動に悪気がないのは解るし、きっと褒めてくれたのだろうと思ったので、一応お礼は言った。
「えっと、俺、紅茶でも淹れましょうか?」
「相変わらず優しいねえ、ジョシュアは。ありがとう」
僕も、と向こうのほうからバニラボイスが呟かれた。
ジョシュアは自分の分を含め、三人分の紅茶を淹れた。
その間、テオは一方的にアンリに話し掛け、盛り上がらない会話を楽しんでいた。
「お待たせしました。どうぞ、テオ」
ジョシュアは先輩の前にティーカップを置く。
続いてアンリの前へ「ダージリンのセカンドフラッシュだよ」
最後に自分のカップを取った。三人はほぼ同時に紅茶を口に運んだ。
夏摘み紅茶のマスカットのような香りを楽しんだ後、アンリは異物を見るような目をして、
「で、貴方はウーティスに何しに来たの? テオ」
邪魔だから早く出ていってくれない、と言わんばかりの口振りだ、
とジョシュアは感じたが、テオは全く気にならなかった様子で、
「ああ、そうそう。今日はアルフレッドに声を掛けに来たのだよ。
本格的な秋に入る前に、あと一回くらいはサーフィンができそうだよ、と知らせにね」
「アルフレッドに用事だったんですか?」ジョシュアは申し訳なさそうに、
「すみません。彼ならシルヴァンと街へ遊びに行ったんだと思います。
さっき、タクシーに乗るのを見掛けたので」
「シルヴァンと?」テオが聞き返す。
「ええ。最近は、毎日のように、二人で出掛けているみたいですよ」
「急に、つるむようになったよね、あの二人。おかげで食事が煩くなって、すごく迷惑。
片方、シュヌーシアに連れて行って欲しいくらいだよ」
「アンリ、噛み付くなよ。あの、連れて行かないで下さいね、テオ」
「ああ、もちろん。シルヴァンとアルフレッドが同じ寮になったのは、きっと運命だから」
そう言ってティーカップに口付けた。ジョシュアとアンリは顔を見合わせる。
疑問を浮かべた二人の顔を、テオは笑顔で受け止めるだけだった。
「さて。アルフレッドが海より楽しい場所を見つけられたのなら、
私の船に乗せる必要もなくなってしまったな。ああ、そうだ。
アンリ、私と夜明けのクルーズにでも出掛けるかい? 甘いケーキと紅茶も用意するよ?」
「ケーキで僕が釣れると思った?」
「今日はまた、一段と美しい、氷の微笑だね」
「失礼致します」
初老の紳士がドアを開けた。シュヌーシア寮のバトラーだ。
「テオ様、生徒代表室にお電話が。ミーティングのお時間のようです」
「えっ?」
生徒代表は掛け時計を見上げた。
「これは大変だ。すっかり忘れてしまっていた。あ、美味しい紅茶と楽しい時間をありがとう。
名残惜しいが失礼するよ。またね、美しいウーティスの花達」
生徒代表がドアの向こうに消える。しん、となったサロンで、アンリが呟いた。
「あの人には、ここがお花畑にでも見えるのかな」
聖アルフォンソ島南西部。
海の近くに小さなコテージがある。ここに住む男はPCの前でのんびりと煙草を吹かしていた。
海と同じ色のYシャツに、だらりとぶら下げたネクタイ。
開け放した窓。まだ少し夏の匂いが残る潮風に、長い金髪の先を時々弄ばれる。
デスクに置かれている小型ラジオは、待ちぼうけを食らっている彼をレゲエであやしていた。
PC画面に、生徒代表が映った。
「すまない、アイヴィー。待たせてしまったね。泣いてないかい?」
アイヴィーは吹き出しながら、「泣かねえよ」と煙草を灰皿に置き、ラジオを切った。
テオは画面の隅ある時計を見ながら、
「16時の待ち合わせだったのに、30分も遅れてしまったね、すまない」
「いんや。今日は急ぎの用事じゃねえし。こっちこそ、ちょくちょく呼んで悪い。
じゃ、サクッとミーティングしちまうか」
理事会のメールを元に、学院側、警備側の情報を交換する。
本番はまだ先だが、ミーティグ上では『文化祭』の文字が出てくるようになった。
今日のところは、まだ切羽詰まった状態ではなく、文化祭当日までのスケジュール確認が主な議題だった。
「まあ、こんなかんじで進んでいくから、よろしくな」
「うん」
「どした? 今日は元気ないじゃん?」
「いや。生徒代表という任務は、思ったより、大変ではないなあ、と思ってね。
就任時は、もっと毎日忙しくなるのだろうと覚悟していたのだけど、
難しいことはアイヴィーがサポートしてくれるし、
警備、理事会の皆さんや、学院の先生方、職員の方々が、私に協力してくれるから」
「お前さんは、去年のクラウスを見てたからなあ。
あいつはさ、ほら、そこまでやらんでも、ってトコまでやらないと気が済まないタイプだったろ?
余計な分まで、自分で仕事を増やすから、いつも忙しそうに見えただけさ」
「成程、そうだったのか」
階下のガレージから物音が聞こえてきた。
「わ、こんな時に」
「どうしたんだい? アイヴィー」
「悪ぃ、誰か来たみたいだ。ミーティングは一応終わってるよな。今日はこの辺でお開きでいいか?」
「うん、そうだね。ではまた」
「ん。お疲れさん」
一階から螺旋階段を上がってくる音が近付いてくる。
アイヴィーは手早くパソコンをシャットダウンさせ、耳を澄ます。今度は人の声。
「おい、シルヴァン。勝手に上がっていいのかよ?」
「大丈夫ですよ。二階はあちこち散らかってますが、寛いでって下さいね、レッド」
今までは一人分しか聞こえなかった声が、今日は二人分聞こえる。
アイヴィーは立ち上がって、頭を掻く。
「やれやれ。なんか増えてるな」
我が家のように部屋に入ってきたのは、すっかり見飽きたマージナルプリンス。
「こんにちは、アイヴィー。レッドが喉が乾いたというので、何か飲み物頂けます?」
後ろから、ひょこっと顔を出した新顔。
「あ、紹介しますね」とシルヴァンが手で指し示す。
「こちら、僕の新しい友達、アルフレッド・ヴィスコンティです!」
fin
■シルヴァン
■ラストシーン 2/4 続編
■ラストシーン 2/4 続編
解りました、お話しします。
僕も君に見て欲しい物がありますし。
僕が最後に彼と会った時、彼はいつもよりとっても楽しそうでした。
君と映画を撮り始めたからでしょうね。
僕もごく普通に会っただけなんですよ。待ち合わせ場所も、いつものように映画館前でした。
僕、父親の仕事の都合で、転校が多かったんですが、
ブライアンと僕の親同士が同僚だったので、彼とはずっと付き合いが続いてたんです。
他の友達とは、いつか離れる時が来ても、ブライアンとだけは一緒に居られるって思ってましたから。
住む場所が変わっても、ブライアンと会う時は、その街、その街の映画館に行きました。
「ここのアイスティは前のとこより三倍美味しいね」なんてテキトーなこと言って。
彼に付き合って、僕も、たくさんの街で、たくさんの映画を見てきました。
あの日もいつも通り、開演の30分前に待ち合わせて。
彼、映画のチラシを集める趣味があるんですよね。
映画館にたくさん置いてるじゃないですか、今後公開予定の宣伝用に。
ああ、そうそう、フライヤーって言うんですよね。ブライアンは、それをごっそり集めてくるので、
最初はちょっと一緒に居るのが恥ずかしかったんですが、そのうちに僕のほうが慣れちゃいました。
「これ、オススメだよ」
僕にもチラシをくれるんですよね。これは誰が作った、どういうお話で、とか。
いつも色々教えてくれるんですけどね、マニアック過ぎて、僕にはよく解らないんですよ。
あ、アルフレッドもそうでしたか。映画の話をしてるブライアンは、本当に子供みたいで。
話の内容はよく解りませんでしたけど、僕は楽しそうな彼を見るのが楽しかったんです。
彼はパンフレットも必ず買っていましたね。
「映画を見る前に、パンフレットは絶対見ない」って自分ルールがあったりとか。
先に見たせいで、ネタバレしてしまったトラウマがあるそうです。
でも、たまに誘惑に負けてる時もありました。
僕がジュースを買いにいっている間に、パンフレットをうすーく開けて覗いていたことがあって。
「見ていたでしょう?」って聞くと、「見てない」って言い張るんですけどね。
映画のチケットさえ捨てずに、コレクションしてましたよ。
ええ、それです。アルフレッドも見ましたか、彼のムービーノート。
映画好きというより、映画狂ですよね、彼の場合。
丁寧に貼ったチケットと一緒に、映画の感想がびっしり書いてあるんですよね。
それから、いつもペンとメモ帳を持ち歩いて。彼はアイディアノートと呼んでましたけど。
良いと思った言葉や、作品に使えそうなエピソードを、記録する為のネタ帳で、
誰でしたかね、尊敬する監督を真似して、そうしているのだと言っていました。
あ、すみません、随分脱線してしまいましたね。
エンドマークまでしっかり映画を見た後は『感想の会』でした、近くのカフェで。
それもお決まりだったんですよ、他のテーブルからも感想が聞こえてくるのがいいって。
今見たばかりの映画の感想を言い合って、僕は聞いているほうが多いんですけど。
あの日はもちろん、君の話も出ましたよ?
レッドと映画を撮れることになったんだ、って、とっても嬉しそうでした、彼。
僕、あの子役スターと一緒だなんてスゴイじゃないですか、って言ったんです。
「彼はただの子役スターじゃないんだよ、アルフレッドは」
そう言った後、ずっとブライアンは君のことを褒めてました。
君がどんなに素晴らしい才能とセンスを持っているのか、僕に語ってくれたんです。
なんだか、少し妬けてしまうくらいに。
嘘なんかじゃありません。
アルフレッド・ヴィスコンティという役者に惚れ込んでる、そういうかんじでした。
君が五歳でデビューした時から目を付けていて、
いつか君と一緒に映画が撮れたら、と願っていたんです。
本当ですよ。信じられませんか?
じゃあ「ナイショだよ」と言われていたんですが、君に伝えますね。
これは本人にこそ、伝えるべきことだって思いますから。ブライアンは僕にこう言ったんです。
「君には白状するよ、リック」
えっ? ああ、すみません。『リック』って言うのは、その……アダナみたいなもので、昔の。
ゆ、由来ですか? 忘れちゃいましたっ。子供の頃に付けられたアダナでしたから。
呼び慣れてるからって、未だに昔のアダナで呼ぶんですよねー、困った人でー。あははっ。
えっとー、話を元に戻しますね?
「本格的にレッドと撮影を始める前に、聞いて貰いたいことがあったんだ。
幼なじみの君だけには隠しごとはできないから。聞いた後は、君の胸にしまっておいて欲しい」
彼は懺悔するように言いました。
「僕はね、今まで22年生きてきた中で、初めてズルイことを考えた。
僕はどうしても、アルフレッド・ヴィスコンティに会いたかった。
会って、彼に認めて貰える日が来たら、彼主演の映画を作らせて貰おうって考えてた。
だから今の大学に入ったんだよ。彼のお兄さん達が居る大学に。
レッドに会いたくて、お兄さんに近付いたんだ。
そうしたら彼に会うチャンスが巡ってくるかもしれないと思って。
ズルイだろう? まるで悪徳プロデューサーみたいだ。
こんなこと、レッドに知られたら、僕は嫌われるかもしれない。
彼は真っ直ぐだから。演じることに対して、あの若さで、彼ほどストイックな役者は居ないよ」
瞳を潤ませながら、あんなふうに語るブライアンは、僕も初めて見ましたよ。
フワフワと夢見心地で、昂る気持ちが自分でも抑えられないようでした。
「本当に素晴らしいんだよ、アルフレッド・ヴィスコンティは。彼は神様に特別に愛された役者なんだ。
彼とこれから、本当に、映画が撮れるんだと思うとね、僕は興奮して眠れないくらいなんだよ。
どうすれば、彼を最高に輝かせる映画になるか、そればっかり考えてる。
生まれてきて良かったって、初めて思ったよ。僕は今、最高に幸せなんだ、怖いくらいに。
この世に、こんなに幸せなことって他にあるのかな?
ねえ、リック。僕は夢を見ているんじゃないよね?」
頬をピンクにして、彼はそう言っていました。
君はそのくらい、あの映画狂に最高の幸せを与えられるくらいの役者なんですよ。
君は否定も謙遜もしないで下さいね、ブライアンが言ったことなんですから。
あと、僕も聞かれたんです。「映画のレゾンデートルって何だと思う?」って。
「これと同じこと、レッドにも聞いたんだ。やっぱりすぐには答えられないみたいだったから、
クランクアップまでの宿題にしてきたよ。ねえ、リックはどう思う? 君ならどう答えるかな?」
そうですねえ、やっぱり楽しむ為じゃないですか?
映画を見ている時間は、ドキドキ、ハラハラしてとっても楽しいですから。
「うん。いいね。君らしい答えで、すごくいい」
ブライアンの答えは何なんですか?
「え、僕? ここで言うのはちょっと恥ずかしいな、撮影現場でもないし」
僕には言わせたくせに何言ってるんですか。
あっ、じゃあ、書いて下さい! サイン色紙っぽいかんじでカッコ良く。
「か、書くの!?」
紙とペンは持っていますよね?
「それは持ってるけど」
サインを書く練習ですよ。ブライアンは近い将来、ビックな監督になるんですから。
有名になったら、いつでもどこでもサインを頼まれるようになるんですよ?
『映画のレゾンデートル』と名前、あと日付も入れて下さいね、プレミア度に関わりますから。
「サインだなんて、僕、まだ決まってな」
記念すべき一枚目のサイン色紙は、もちろん僕にくれますよね?
さあ、どうぞ。ブライアン・シュミット監督!
「もう、強引だなあ、リックは」
→
僕も君に見て欲しい物がありますし。
僕が最後に彼と会った時、彼はいつもよりとっても楽しそうでした。
君と映画を撮り始めたからでしょうね。
僕もごく普通に会っただけなんですよ。待ち合わせ場所も、いつものように映画館前でした。
僕、父親の仕事の都合で、転校が多かったんですが、
ブライアンと僕の親同士が同僚だったので、彼とはずっと付き合いが続いてたんです。
他の友達とは、いつか離れる時が来ても、ブライアンとだけは一緒に居られるって思ってましたから。
住む場所が変わっても、ブライアンと会う時は、その街、その街の映画館に行きました。
「ここのアイスティは前のとこより三倍美味しいね」なんてテキトーなこと言って。
彼に付き合って、僕も、たくさんの街で、たくさんの映画を見てきました。
あの日もいつも通り、開演の30分前に待ち合わせて。
彼、映画のチラシを集める趣味があるんですよね。
映画館にたくさん置いてるじゃないですか、今後公開予定の宣伝用に。
ああ、そうそう、フライヤーって言うんですよね。ブライアンは、それをごっそり集めてくるので、
最初はちょっと一緒に居るのが恥ずかしかったんですが、そのうちに僕のほうが慣れちゃいました。
「これ、オススメだよ」
僕にもチラシをくれるんですよね。これは誰が作った、どういうお話で、とか。
いつも色々教えてくれるんですけどね、マニアック過ぎて、僕にはよく解らないんですよ。
あ、アルフレッドもそうでしたか。映画の話をしてるブライアンは、本当に子供みたいで。
話の内容はよく解りませんでしたけど、僕は楽しそうな彼を見るのが楽しかったんです。
彼はパンフレットも必ず買っていましたね。
「映画を見る前に、パンフレットは絶対見ない」って自分ルールがあったりとか。
先に見たせいで、ネタバレしてしまったトラウマがあるそうです。
でも、たまに誘惑に負けてる時もありました。
僕がジュースを買いにいっている間に、パンフレットをうすーく開けて覗いていたことがあって。
「見ていたでしょう?」って聞くと、「見てない」って言い張るんですけどね。
映画のチケットさえ捨てずに、コレクションしてましたよ。
ええ、それです。アルフレッドも見ましたか、彼のムービーノート。
映画好きというより、映画狂ですよね、彼の場合。
丁寧に貼ったチケットと一緒に、映画の感想がびっしり書いてあるんですよね。
それから、いつもペンとメモ帳を持ち歩いて。彼はアイディアノートと呼んでましたけど。
良いと思った言葉や、作品に使えそうなエピソードを、記録する為のネタ帳で、
誰でしたかね、尊敬する監督を真似して、そうしているのだと言っていました。
あ、すみません、随分脱線してしまいましたね。
エンドマークまでしっかり映画を見た後は『感想の会』でした、近くのカフェで。
それもお決まりだったんですよ、他のテーブルからも感想が聞こえてくるのがいいって。
今見たばかりの映画の感想を言い合って、僕は聞いているほうが多いんですけど。
あの日はもちろん、君の話も出ましたよ?
レッドと映画を撮れることになったんだ、って、とっても嬉しそうでした、彼。
僕、あの子役スターと一緒だなんてスゴイじゃないですか、って言ったんです。
「彼はただの子役スターじゃないんだよ、アルフレッドは」
そう言った後、ずっとブライアンは君のことを褒めてました。
君がどんなに素晴らしい才能とセンスを持っているのか、僕に語ってくれたんです。
なんだか、少し妬けてしまうくらいに。
嘘なんかじゃありません。
アルフレッド・ヴィスコンティという役者に惚れ込んでる、そういうかんじでした。
君が五歳でデビューした時から目を付けていて、
いつか君と一緒に映画が撮れたら、と願っていたんです。
本当ですよ。信じられませんか?
じゃあ「ナイショだよ」と言われていたんですが、君に伝えますね。
これは本人にこそ、伝えるべきことだって思いますから。ブライアンは僕にこう言ったんです。
「君には白状するよ、リック」
えっ? ああ、すみません。『リック』って言うのは、その……アダナみたいなもので、昔の。
ゆ、由来ですか? 忘れちゃいましたっ。子供の頃に付けられたアダナでしたから。
呼び慣れてるからって、未だに昔のアダナで呼ぶんですよねー、困った人でー。あははっ。
えっとー、話を元に戻しますね?
「本格的にレッドと撮影を始める前に、聞いて貰いたいことがあったんだ。
幼なじみの君だけには隠しごとはできないから。聞いた後は、君の胸にしまっておいて欲しい」
彼は懺悔するように言いました。
「僕はね、今まで22年生きてきた中で、初めてズルイことを考えた。
僕はどうしても、アルフレッド・ヴィスコンティに会いたかった。
会って、彼に認めて貰える日が来たら、彼主演の映画を作らせて貰おうって考えてた。
だから今の大学に入ったんだよ。彼のお兄さん達が居る大学に。
レッドに会いたくて、お兄さんに近付いたんだ。
そうしたら彼に会うチャンスが巡ってくるかもしれないと思って。
ズルイだろう? まるで悪徳プロデューサーみたいだ。
こんなこと、レッドに知られたら、僕は嫌われるかもしれない。
彼は真っ直ぐだから。演じることに対して、あの若さで、彼ほどストイックな役者は居ないよ」
瞳を潤ませながら、あんなふうに語るブライアンは、僕も初めて見ましたよ。
フワフワと夢見心地で、昂る気持ちが自分でも抑えられないようでした。
「本当に素晴らしいんだよ、アルフレッド・ヴィスコンティは。彼は神様に特別に愛された役者なんだ。
彼とこれから、本当に、映画が撮れるんだと思うとね、僕は興奮して眠れないくらいなんだよ。
どうすれば、彼を最高に輝かせる映画になるか、そればっかり考えてる。
生まれてきて良かったって、初めて思ったよ。僕は今、最高に幸せなんだ、怖いくらいに。
この世に、こんなに幸せなことって他にあるのかな?
ねえ、リック。僕は夢を見ているんじゃないよね?」
頬をピンクにして、彼はそう言っていました。
君はそのくらい、あの映画狂に最高の幸せを与えられるくらいの役者なんですよ。
君は否定も謙遜もしないで下さいね、ブライアンが言ったことなんですから。
あと、僕も聞かれたんです。「映画のレゾンデートルって何だと思う?」って。
「これと同じこと、レッドにも聞いたんだ。やっぱりすぐには答えられないみたいだったから、
クランクアップまでの宿題にしてきたよ。ねえ、リックはどう思う? 君ならどう答えるかな?」
そうですねえ、やっぱり楽しむ為じゃないですか?
映画を見ている時間は、ドキドキ、ハラハラしてとっても楽しいですから。
「うん。いいね。君らしい答えで、すごくいい」
ブライアンの答えは何なんですか?
「え、僕? ここで言うのはちょっと恥ずかしいな、撮影現場でもないし」
僕には言わせたくせに何言ってるんですか。
あっ、じゃあ、書いて下さい! サイン色紙っぽいかんじでカッコ良く。
「か、書くの!?」
紙とペンは持っていますよね?
「それは持ってるけど」
サインを書く練習ですよ。ブライアンは近い将来、ビックな監督になるんですから。
有名になったら、いつでもどこでもサインを頼まれるようになるんですよ?
『映画のレゾンデートル』と名前、あと日付も入れて下さいね、プレミア度に関わりますから。
「サインだなんて、僕、まだ決まってな」
記念すべき一枚目のサイン色紙は、もちろん僕にくれますよね?
さあ、どうぞ。ブライアン・シュミット監督!
「もう、強引だなあ、リックは」
→
■アルフレッド
■ラストシーン 1/4 続編
■ラストシーン 1/4 続編
ああ、ビデオはこれで終わり。ちょっとしか映ってないって言ったろ?
今のが俺で、画面には映ってないけど、この時、カメラ回してたのがブライアンさ。
マジで短いフィルムだけど、見てみた感想ってあるか?
えっ? すげえな、シルヴァン!
そうなんだ、主人公が海を見ながら、過去を思い出してるシーンなんだよ。
コレが映画のラストになる筈だった。
一緒に映画撮ろうぜって誘ったのは俺なんだけど、ストーリーの内容なんて、そん時は考えてなかった。
あいつと映画作りたい、ってそれだけだったから。
俺が『キャプテン・ライアンと最後の海賊達』のパート2から外されてムシャクシャしてた時、
ブライアンも大学の卒業製作の時期だったから丁度イイじゃんとも思ってさ。
シナリオは撮りながら二人で決めていこうって話になって、
ただ、ラストシーンだけぼんやり決まってるって話したら、
ブライアンが「じゃあ、その場面からテスト撮影しよう」って。
それが今見て貰った、主人公が海岸を一人で歩いてるシーンなんだ。
ラストは、主人公から海にパンして、青い海をバックに白い文字でスタッフロールってかんじ。
けど、今思うと、俺って勢いしかなかったよなあ。
ブライアンの頭の中には大体のストーリーはあったかもしれないけど、
クランクインの時に台本がない映画に出演したことなんて、一度もなかった。
今まで俺がやってきたのは、誰かから与えられた役。
いや、周りの大人やファンが求めてる『天才子役アルフレッド・ヴィスコンティ』を演じてたような気がする。
カメラの前で笑ってる俺、芝居で泣いてる俺、雑誌のインタビューに答える俺。
そのどれもが『みんなが期待してるアルフレッド・ヴィスコンティ』っていう『役』に思えてきて。
どこまでが演技で、どこまでが素なのか、だんだん曖昧になってきてさ。
じゃあ、今ここに居る俺は誰なんだだろう、って訳解んないことまで考え始めちまってた。
そんな時に出会ったのがブライアンだった。
俺の兄貴達と同じ大学に居る、映画学科の同級生。
超スランプに入ってた俺は、兄貴達とブライアンのバンドに入れて貰った。
それから、ブライアンと映画の話するようになって。一緒に映画見たり、色々相談に乗って貰ったり、
っていうか、俺がグチグチ言うのを聞いてくれたんだ。
俺、家族とは仕事の話、しなかったから。なんつーか、変にライバル意識とかプライドとかあったから。
ブライアンは話聞くの上手い奴だったし。俺の兄貴より、全然、兄貴っぽかった。
あいつが年上だったからかな、俺も、その、なんつーか、甘えやすかったのかもしんねー。
そんで、あいつは、とにかく映画が好きな奴で、
ガキの頃から役者やってた俺より、いや、誰よりも映画が好きで好きで、
幼なじみのあんたも知ってるかもしんないけど、ホント、映画マニアっつーか、映画バカだろ?
あいつが趣味で作ったっていうショートフィルムとか見せて貰ったりしたんだけど、これが結構イケててさ。
すぐに、こいつの作品に出たいって思ったんだよ、この俺が。
んで、『キャプテン・ライアン』の続編に俺が出れなくなった時に……って、さっきも言ったっけ?
とにかく、そん時に「カネは出すから映画撮ろうぜ、俺が主演、お前が監督で」って誘ったんだ。
そしたら、ブライアンもOKしてくれてさ、話はトントン進んでった。
態度でかいプロデューサーも、口煩いスポンサーも居ない、ウルトラ自由な作品で、ブライアンと一緒に作れるなんてさ、
マジでサイコーな映画ができるって信じてた。
あの日、テスト撮影をした時も。
本格的な撮影開始は、次の休日からにすっか?
って話してたんだよ。そしたらブライアンの奴、
「あ、ごめん。その日はダメなんだ」とか言いやがる。
いきなり何だよって思うだろ? だから、
デートの約束でも入ったのか? 毎週毎週デートでスケジュールに穴空けられたら、
いつまで経ったって俺達の映画にエンドマークが付けらんないぜ?
ってからかったら、こう言われた。
「友達に会うんだよ。映画を本格的に撮り始める前に会っておきたいから。
それに、僕は映画が恋人だって知ってるだろ?」
詩人だよなー、ブライアンって。
「比喩じゃないよ。僕はずっと映画に恋してる。
映画が始まる前の5分間がどんなにワクワクするかとか、
映画が終わって、館内がふっと明るくなった時のあのかんじとか。
君には解らないだろうね、スクリーンの中で生まれ育ったアルフレッド・ヴィスコンティには」
ごめん、て笑顔で謝られたよ。
「レッドが悪いって言ってるわけじゃないんだ。
君は最初から映画の中に居た。天才的な才能とセンスを持って生まれた代わりに、
映画に恋焦がれる気持ちを知ることができなかった。
ひとつ得たら、ひとつ失う。人生にはそういうルールがあるんだと思ってる、僕はね」
あいつは、どっか悟ってるとこあるんだよな。
俺より色んなことを知ってた。映画の知識はハンパなかったし、他にも色々。大学生だからかもしんねーけどさ。
あの日もこんなこと言ってた。
「ねえ、レッド。映画のレゾンデートルって、考えたことはあるかい?」
れぞっ……なに?
「レゾンデートル。フランスの哲学用語で『存在理由』って意味さ」
んなもん知るかよ。
「つまりね? この世に映画が存在する意味はなんなのかってこと。そういうの、気にしたことある?」
あるわけねーだろ。
「じゃあ宿題。今度に撮影する時に、撮影が終わった頃が良いかな。うん。その時に聞かせて?」
映画の存在理由。
んなこと、長い役者人生の中で、一度も考えたことなかった。
「そんなに難しい顔しなくても大丈夫だよ、レッド。
答えは人それぞれ。きっと僕のとレッドのは違う。でも、それでいいんだ。
僕達の映画がクランクアップしたら、答え合わせしよ?
いい答えが聞けるのを楽しみにしてるよ、レッド」
で、またな、ってサヨナラしたんだよ、めちゃくちゃフツーにな。
それが、奴との最後になるなんて、誰が思うかよ。
あ、なんか俺ばっかりグダグダ喋っちまったな。ワリィ。
なあ、シルヴァン。次はあんたの話、聞かせてくんねえか?
あんたが、『本格的に撮影を始める前に、ブライアンが会っておきたかった友達』なんだろ?
あいつ、なんか言ってたか?
俺達の映画のこととか、俺のこと。
→
今のが俺で、画面には映ってないけど、この時、カメラ回してたのがブライアンさ。
マジで短いフィルムだけど、見てみた感想ってあるか?
えっ? すげえな、シルヴァン!
そうなんだ、主人公が海を見ながら、過去を思い出してるシーンなんだよ。
コレが映画のラストになる筈だった。
一緒に映画撮ろうぜって誘ったのは俺なんだけど、ストーリーの内容なんて、そん時は考えてなかった。
あいつと映画作りたい、ってそれだけだったから。
俺が『キャプテン・ライアンと最後の海賊達』のパート2から外されてムシャクシャしてた時、
ブライアンも大学の卒業製作の時期だったから丁度イイじゃんとも思ってさ。
シナリオは撮りながら二人で決めていこうって話になって、
ただ、ラストシーンだけぼんやり決まってるって話したら、
ブライアンが「じゃあ、その場面からテスト撮影しよう」って。
それが今見て貰った、主人公が海岸を一人で歩いてるシーンなんだ。
ラストは、主人公から海にパンして、青い海をバックに白い文字でスタッフロールってかんじ。
けど、今思うと、俺って勢いしかなかったよなあ。
ブライアンの頭の中には大体のストーリーはあったかもしれないけど、
クランクインの時に台本がない映画に出演したことなんて、一度もなかった。
今まで俺がやってきたのは、誰かから与えられた役。
いや、周りの大人やファンが求めてる『天才子役アルフレッド・ヴィスコンティ』を演じてたような気がする。
カメラの前で笑ってる俺、芝居で泣いてる俺、雑誌のインタビューに答える俺。
そのどれもが『みんなが期待してるアルフレッド・ヴィスコンティ』っていう『役』に思えてきて。
どこまでが演技で、どこまでが素なのか、だんだん曖昧になってきてさ。
じゃあ、今ここに居る俺は誰なんだだろう、って訳解んないことまで考え始めちまってた。
そんな時に出会ったのがブライアンだった。
俺の兄貴達と同じ大学に居る、映画学科の同級生。
超スランプに入ってた俺は、兄貴達とブライアンのバンドに入れて貰った。
それから、ブライアンと映画の話するようになって。一緒に映画見たり、色々相談に乗って貰ったり、
っていうか、俺がグチグチ言うのを聞いてくれたんだ。
俺、家族とは仕事の話、しなかったから。なんつーか、変にライバル意識とかプライドとかあったから。
ブライアンは話聞くの上手い奴だったし。俺の兄貴より、全然、兄貴っぽかった。
あいつが年上だったからかな、俺も、その、なんつーか、甘えやすかったのかもしんねー。
そんで、あいつは、とにかく映画が好きな奴で、
ガキの頃から役者やってた俺より、いや、誰よりも映画が好きで好きで、
幼なじみのあんたも知ってるかもしんないけど、ホント、映画マニアっつーか、映画バカだろ?
あいつが趣味で作ったっていうショートフィルムとか見せて貰ったりしたんだけど、これが結構イケててさ。
すぐに、こいつの作品に出たいって思ったんだよ、この俺が。
んで、『キャプテン・ライアン』の続編に俺が出れなくなった時に……って、さっきも言ったっけ?
とにかく、そん時に「カネは出すから映画撮ろうぜ、俺が主演、お前が監督で」って誘ったんだ。
そしたら、ブライアンもOKしてくれてさ、話はトントン進んでった。
態度でかいプロデューサーも、口煩いスポンサーも居ない、ウルトラ自由な作品で、ブライアンと一緒に作れるなんてさ、
マジでサイコーな映画ができるって信じてた。
あの日、テスト撮影をした時も。
本格的な撮影開始は、次の休日からにすっか?
って話してたんだよ。そしたらブライアンの奴、
「あ、ごめん。その日はダメなんだ」とか言いやがる。
いきなり何だよって思うだろ? だから、
デートの約束でも入ったのか? 毎週毎週デートでスケジュールに穴空けられたら、
いつまで経ったって俺達の映画にエンドマークが付けらんないぜ?
ってからかったら、こう言われた。
「友達に会うんだよ。映画を本格的に撮り始める前に会っておきたいから。
それに、僕は映画が恋人だって知ってるだろ?」
詩人だよなー、ブライアンって。
「比喩じゃないよ。僕はずっと映画に恋してる。
映画が始まる前の5分間がどんなにワクワクするかとか、
映画が終わって、館内がふっと明るくなった時のあのかんじとか。
君には解らないだろうね、スクリーンの中で生まれ育ったアルフレッド・ヴィスコンティには」
ごめん、て笑顔で謝られたよ。
「レッドが悪いって言ってるわけじゃないんだ。
君は最初から映画の中に居た。天才的な才能とセンスを持って生まれた代わりに、
映画に恋焦がれる気持ちを知ることができなかった。
ひとつ得たら、ひとつ失う。人生にはそういうルールがあるんだと思ってる、僕はね」
あいつは、どっか悟ってるとこあるんだよな。
俺より色んなことを知ってた。映画の知識はハンパなかったし、他にも色々。大学生だからかもしんねーけどさ。
あの日もこんなこと言ってた。
「ねえ、レッド。映画のレゾンデートルって、考えたことはあるかい?」
れぞっ……なに?
「レゾンデートル。フランスの哲学用語で『存在理由』って意味さ」
んなもん知るかよ。
「つまりね? この世に映画が存在する意味はなんなのかってこと。そういうの、気にしたことある?」
あるわけねーだろ。
「じゃあ宿題。今度に撮影する時に、撮影が終わった頃が良いかな。うん。その時に聞かせて?」
映画の存在理由。
んなこと、長い役者人生の中で、一度も考えたことなかった。
「そんなに難しい顔しなくても大丈夫だよ、レッド。
答えは人それぞれ。きっと僕のとレッドのは違う。でも、それでいいんだ。
僕達の映画がクランクアップしたら、答え合わせしよ?
いい答えが聞けるのを楽しみにしてるよ、レッド」
で、またな、ってサヨナラしたんだよ、めちゃくちゃフツーにな。
それが、奴との最後になるなんて、誰が思うかよ。
あ、なんか俺ばっかりグダグダ喋っちまったな。ワリィ。
なあ、シルヴァン。次はあんたの話、聞かせてくんねえか?
あんたが、『本格的に撮影を始める前に、ブライアンが会っておきたかった友達』なんだろ?
あいつ、なんか言ってたか?
俺達の映画のこととか、俺のこと。
→
■アルフレッド シルヴァン テオ
「いい風だっ! あんたの船、マジ、サイコーだぜ!」
自分でもお気に入りの船を褒められた生徒代表は、にこっと微笑んだ。
「ありがとう。気に入って貰えて嬉しいよ」
見晴らしの良い船先に、水着姿の男子生徒が二人居る。
小麦色の肌で金髪のほうがテオ・メネシス。最高学年で今年度の生徒代表だ。
今日の彼が、いつにもまして終始ご機嫌だったのは、
隣に連れているのが、15歳のハリウッドスターだから。
最近、聖アルフォンソ学院に入学したばかりのアルフレッド・ヴィスコンティだ。
何故、彼等が一緒に潮風を浴びているのかと言うと。
――アルフレッドはサーフィンが趣味なのかい? では今度、良い波が来る穴場を教えるよ――
入学初日に交わされた約束が、それから数日後に早速果たされたからである。
三つ所有している中で一番大きい、イタリア製最高級クルーザーに乗せて、無人島で波乗りと海水浴を楽しんできた帰りだった。
二人が現在暮らしている聖アルフォンソ島まで約一時間のクルーズ。
丁度、夕陽が海と空を染める時刻で、今はオレンジというより赤みがかったピンクに近い色をしていた。
太陽と海を愛する生徒代表は、すっかり見惚れている。
「今日も美しいね。できるなら、立派な額に入れて、私の寝室に飾っておきたい」
アルフレッドは吹き出す。
「さっきから、美しい美しいって、飽きないなあ。まるで夕焼けを口説いてるみたいだぜ?」
「そうだね。私は太陽と海を愛しているから。
いつも傍に居てくれるが、決して結ばれることはない存在、だけれどね」
「ロミオとジュリエットかよ。あんたって、そういうことヘーキで言うのな」
「そういうこと?」
「美しいとか、愛してるだとか? 俺はセリフでしか使ったことないぜ?」
「ああ、すまない。よく言われるよ、表現が大袈裟だってね。
誤解のないように言っておくと、私は正直に話しているだけなのだよ?」
「ま、そうなんだろうなー。嘘吐いてるようには見えねえし。
あんたってホント変わってるよ、ブライアンみたいだな」
語尾が小さくなったのは、その名前のせいなのだろうとテオは思った。
「ブライアン。君とシルヴァンの大切な友人だね」
アルフレッドが一緒に映画を撮ろうと誘った若き監督。
しかし、クランクイン直後に交通事故で亡くなったという。
テオは夕陽を見つめながら、そっと尋ねた。
「彼が愛していたのは、映画かい?」
「ああ」
生きていたら、きっと素晴らしい作品を作ったに違いない。テオも残念だった。
「そう言えば、あれから、シルヴァンと、ブライアンの話はできたかい?」
「いや、まだ。あいつも相当ショック受けてるみたいだし。なんか言い出し難くてさ」
「成程。シルヴァンも同じことを考えてるのかもしれないね」
夕食後、アルフレッドは自室のベッドに寝転がっていた。
映画雑誌をなんとなく捲ってはいるが、既に一度目を通しているので面白味はない。
カチ、カチと耳障りな音を立てながら、針が時を刻んでいた。
開いたページに嫌いな映画俳優が映った。人の良さそうな顔して、とんだタヌキオヤジだ。
両手で雑誌を閉じた。ガバッと起き上がり、ビデオテープを一本掴んで、部屋を出た。
寮の廊下を歩いていると、向こうから一人歩いて来た。
綺麗な顔をした生徒。同じ学年のアンリだ。アルフレッドは挨拶以外殆ど話したことはない。
普段なら「よっ」くらいは声を掛けるところだが、無視して通り過ぎた。
自分が少し緊張しているのだと感じながら、目的の場所へと向かった。
その部屋の前に着くと、テープを握りしめていた。
「ここまで来て怖じ気づいてんじゃねえよ」
そう小さく唱えて、空いている手でドアを二回叩く。
しょっちゅう外出してるって話だから居ないかもしれないと思ったが、ドアは開いた。
スラリと高い背に長い髪。シルヴァン・クラーク。
菫色の瞳はアルフレッドを見て、一瞬動揺した。
「アルフレッド……」
「あのさ、ちょっと時間貰えるか? あんたに見て貰いたい物があるんだ」
コレ、と持ってきたビデオテープを見せる。シルヴァンが少し息を呑む。
「何のビデオですか?」
「俺とブライアンが作ろうとした映画の残骸。ちょっとしか映ってないけど」
「良いんですか? 僕が見て」
「幼なじみだったんだろ? きっとあいつは、あんたにも見て欲しかったんだと思うから」
→
自分でもお気に入りの船を褒められた生徒代表は、にこっと微笑んだ。
「ありがとう。気に入って貰えて嬉しいよ」
見晴らしの良い船先に、水着姿の男子生徒が二人居る。
小麦色の肌で金髪のほうがテオ・メネシス。最高学年で今年度の生徒代表だ。
今日の彼が、いつにもまして終始ご機嫌だったのは、
隣に連れているのが、15歳のハリウッドスターだから。
最近、聖アルフォンソ学院に入学したばかりのアルフレッド・ヴィスコンティだ。
何故、彼等が一緒に潮風を浴びているのかと言うと。
――アルフレッドはサーフィンが趣味なのかい? では今度、良い波が来る穴場を教えるよ――
入学初日に交わされた約束が、それから数日後に早速果たされたからである。
三つ所有している中で一番大きい、イタリア製最高級クルーザーに乗せて、無人島で波乗りと海水浴を楽しんできた帰りだった。
二人が現在暮らしている聖アルフォンソ島まで約一時間のクルーズ。
丁度、夕陽が海と空を染める時刻で、今はオレンジというより赤みがかったピンクに近い色をしていた。
太陽と海を愛する生徒代表は、すっかり見惚れている。
「今日も美しいね。できるなら、立派な額に入れて、私の寝室に飾っておきたい」
アルフレッドは吹き出す。
「さっきから、美しい美しいって、飽きないなあ。まるで夕焼けを口説いてるみたいだぜ?」
「そうだね。私は太陽と海を愛しているから。
いつも傍に居てくれるが、決して結ばれることはない存在、だけれどね」
「ロミオとジュリエットかよ。あんたって、そういうことヘーキで言うのな」
「そういうこと?」
「美しいとか、愛してるだとか? 俺はセリフでしか使ったことないぜ?」
「ああ、すまない。よく言われるよ、表現が大袈裟だってね。
誤解のないように言っておくと、私は正直に話しているだけなのだよ?」
「ま、そうなんだろうなー。嘘吐いてるようには見えねえし。
あんたってホント変わってるよ、ブライアンみたいだな」
語尾が小さくなったのは、その名前のせいなのだろうとテオは思った。
「ブライアン。君とシルヴァンの大切な友人だね」
アルフレッドが一緒に映画を撮ろうと誘った若き監督。
しかし、クランクイン直後に交通事故で亡くなったという。
テオは夕陽を見つめながら、そっと尋ねた。
「彼が愛していたのは、映画かい?」
「ああ」
生きていたら、きっと素晴らしい作品を作ったに違いない。テオも残念だった。
「そう言えば、あれから、シルヴァンと、ブライアンの話はできたかい?」
「いや、まだ。あいつも相当ショック受けてるみたいだし。なんか言い出し難くてさ」
「成程。シルヴァンも同じことを考えてるのかもしれないね」
夕食後、アルフレッドは自室のベッドに寝転がっていた。
映画雑誌をなんとなく捲ってはいるが、既に一度目を通しているので面白味はない。
カチ、カチと耳障りな音を立てながら、針が時を刻んでいた。
開いたページに嫌いな映画俳優が映った。人の良さそうな顔して、とんだタヌキオヤジだ。
両手で雑誌を閉じた。ガバッと起き上がり、ビデオテープを一本掴んで、部屋を出た。
寮の廊下を歩いていると、向こうから一人歩いて来た。
綺麗な顔をした生徒。同じ学年のアンリだ。アルフレッドは挨拶以外殆ど話したことはない。
普段なら「よっ」くらいは声を掛けるところだが、無視して通り過ぎた。
自分が少し緊張しているのだと感じながら、目的の場所へと向かった。
その部屋の前に着くと、テープを握りしめていた。
「ここまで来て怖じ気づいてんじゃねえよ」
そう小さく唱えて、空いている手でドアを二回叩く。
しょっちゅう外出してるって話だから居ないかもしれないと思ったが、ドアは開いた。
スラリと高い背に長い髪。シルヴァン・クラーク。
菫色の瞳はアルフレッドを見て、一瞬動揺した。
「アルフレッド……」
「あのさ、ちょっと時間貰えるか? あんたに見て貰いたい物があるんだ」
コレ、と持ってきたビデオテープを見せる。シルヴァンが少し息を呑む。
「何のビデオですか?」
「俺とブライアンが作ろうとした映画の残骸。ちょっとしか映ってないけど」
「良いんですか? 僕が見て」
「幼なじみだったんだろ? きっとあいつは、あんたにも見て欲しかったんだと思うから」
→
■シルヴァン アイヴィー ジョシュア
■新入生は自由人5 続編
■新入生は自由人5 続編
アイヴィーは自宅のロングソファでくつろいでいる。
長電話しているシルヴァンを、煙草を片手に見守っていた。
アイヴィーの携帯電話が光る。さっき送ったメールの返事が来たようだ。
---------------------------------
>目標を捕獲。俺んちに居たわ。
了解。では司令は直帰ということで。
お疲れ様でした。
クロイツ
---------------------------------
サンキュ、とだけ打って返信した。今日のお仕事はこれでおしまい。
シルヴァンのほうは、と顔を上げる。
「朝七時ですか!? 早いですねえ……ああ、いえ! 七時ですね! 必ず帰ります!」
生徒代表のお説教もやっと終わりそうだ。
「今日は本当にすみませんでした。じゃあ、おやすみなさい、クラウス」
シルヴァンが受話器を置いて、アイヴィーに言う。
「またクラウスに怒られちゃいましたね」
「何、ニヤニヤしてんだよ」
「勝手に出歩くな、と怒ってくれる人なんて、この二年間は居なかったんだなーと思いまして」
アイヴィーは紫煙を吹かす。
「これからはお前さんがムチャする度に言われんぞ? イヤっちゅうほどな」
「ですね」
にこっと笑った。
「さて。お前さん、腹は減ってないんだよな?」
「ええ。レアさんがご馳走して下さったので。今夜はアタシのオゴリ、って」
「だよな……え? 俺のツケで飲み食いしてきたんじゃなくて?」
「レアさんがそう言ったんですか? アイヴィー、からかわれたんですよ」
「なんだ、そうだったのか。ガッツリぼったくられるのかと思ったぜ」
「素敵なバラードも歌って下さって。また来てね、って言ってくれました」
「オトコが大好物だからな、レアちゃんは」
アイヴィーは煙草を灰皿に押し付けて、立ち上がった。
「じゃあ俺はシャワー浴びてくるわ。お前さんは好きにしてな。寝ててもいいし、遊んでても。あ、家の中でな?」
「もうどこにも行きませんよ、今夜は」
アイヴィーがシャワーを終えて、髪の雫をタオルで拭きながら戻ってくると、
リビングには、FMラジオの音楽番組が流れていた。
ソファにシルヴァンの姿がない。見回すとベランダに居た。
ディレクターズ・チェアの上で膝を抱えていた。
真っ暗な海に視線を向け、背中を丸めている。
泣いているのかと思ったくらい、淋しそうな後ろ姿だった。
声を掛けようか迷っていると、長い髪が翻った。
「上がったんですね、アイヴィー。ラジオをお借りしています」
「あ、ああ」
「こんなにゆっくりラジオを聞いたのは久し振りです」
泣いていたんじゃないらしいと解って、喉の渇きを思い出した。
キッチンに入って、冷蔵庫を開ける。飲み物とチーズとサルサソースの瓶くらいしか入ってない。
緑色の缶ビールを取って、お客さんにも声を掛けた。
「お前さんもなんか飲むか? ハイネケンか水かインスタントコーヒーしかないが」
「貴方と同じもので、と言いたいところですが、今日はもう止めておきます。お水頂けますか」
透明のボトルを取って、冷蔵庫を閉めた。
ミネラルウォーターをグラスに注ぐ。トクトクと小気味の良いリズム。
「大分飲まされたのか?」
「ええ、大分」
「ふうん。そんな顔には見えねえけど?」
「今夜の僕が何かヘンなこと言っても忘れて下さいね?」
グラスと缶を持って、リビングへ行く。
「ほい」
「ありがとうございます」
シルヴァンは、ただの水を本当に美味しそうに飲んだ。
キツイ飲み方をした後の水がどれほどウマイかはアイヴィーも知っていた。
乾いた土に降る雨みたい、とでも言えばいいのか。文才なんかないから解らない。
アイヴィーはソファに腰掛け、リングプルを引いた。快感とも言える音がして、飲み口が現れる。
喉を駆け抜けていく炭酸。今日も一日お仕事が終わりました。
「あっ、これ『スタンド・バイ・ミー』ですよね?」
ラジオから流れてくる曲にシルヴァンが反応した。
ポップで憂いのあるベースライン。映画と同名の名曲である。
「四人の少年が死体を探す旅に出る、というお話なんですよね? この映画」
「古い映画知ってんだなあ。お前さんの年じゃまだ生まれてないだろ?」
「ええ。映画が大好きな友人が居たので、僕も少し詳しいんです」
「ブライアン・シュミットか? 大佐の息子の」
「大佐から聞いたんですか?」
「ちょこっとな。軍人の家に生まれながら映画学科に入った、役立たずな夢追い人だって」
シルヴァンは微笑んで、グラスを両手で包む。
「彼に付き合って、僕もたくさん映画を見ました。
彼と遊ぶ時は、映画館の前で待ち合わせることも多かったですし。
昔の作品も彼から聞かされて、大抵のあらすじなら知ってるんです、ラスト以外は」
「オチは知らないってことか?」
「ええ。映画を見ていない人に結末を話すのはルール違反だから、というのが彼の口癖でした。
だから僕、未だに『スタンド・バイ・ミー』の結末を知らないんです。
変ですよね。僕が知らないままでいても、ブライアンが結末を教えてくれることはないのに」
アイヴィーは次の言葉を見失う。
曲は「傍に居て」と繰り返していた。
「あっ、僕、アイヴィーに聞きたいことがあったんです!」
強引な話題変更。
何も聞かなかったように「ん?」応じることくらいしかアイヴィーにはできなかった。
「ウーティス寮に居るジョシュアって、あのジョシュア・グラントですよね?」
「ああ」
「驚きました。『世紀のカップル』の忘れ形見と、こんなところで会うなんて」
「だろうな。俺も最初は、貰った生徒資料を二度見しちまった」
「アイヴィーも驚きましたか。大きくなりましたよね、彼。
テレビでよく流れる映像では、彼、お父さんが亡くなったことを理解できなかった頃でしょう?」
――ねえ、ママ。パパ、どうして箱の中でお休みしてるの?――
父親の葬儀があった時、ジョシュアはまだ五歳だった。
その無垢な台詞は、関連ゴシップや暴露本が発表される度に流された。
「あの王子様と同じ教室で、授業を受ける日がくるとは思いませんでしたよ」
抱えた膝の上に顎を置き、溜め息混じりに呟いた。
「僕、仲良くなれますかねえ、王子様と」
「ああ?」
「今日、彼が受けている特別講義を見学させて貰ったんです、『動物行動学』なんて専門的な講義を」
「へえ」
「彼の隣に居たら、僕だけがすごく場違いな気がして」
「場違い?」
「品行方正な王子様に比べて僕は、二年も住所不定で、結構悪いこともやりましたし。
彼は由緒正しき血統書犬、僕は汚れた野良犬です。
なのに、急にプリンスなんて呼ばれて、自分でも笑っちゃいますよ。
僕の居場所には思えなくて、あの館は清潔過ぎて、息苦しいんです。
どうして僕、こんな所に居るんだろうって」
「んなもん、ここに居る奴は皆そう思ってるさ」
「えっ?」
「人と自分比べて、なんかイイコトあんのかよ?
それもジョシュアが相手じゃ、大抵の奴は見劣りする。んなこと気にするだけ時間の無駄なんだよ。
お前さんはお前さんでしかないんだから、あるがまま、好き勝手に生きりゃいいのさ。
その為に、新しい名前くれたんだろ? シュミット大佐は」
きっとそうだ、とアイヴィーは思う。
大佐はシルヴァンに、自由に生きろと望んでる。
ブライアンの分まで、役立たずな夢追い人であれと。
それから三日程過ぎた夜。
ウーティス寮ダイニングルームでは、いつものようにシェフがメニューを説明している。
「本日のディナーにはブラジル料理をご用意しました」
同国出身のアルベルトが「イェイ!」と拳を上げる。
生徒に喜んで貰えてシェフも嬉しそうだ。
「メインディッシュはこちらのシュラスコ、ブラジルのバーベキューでございます」
「あっ、僕、これ好きです!」
続いて歓声を上げたのはシルヴァンだった。
先日の一件で流石に反省したのか、あれからは毎日、寮のディナーに出席している。
今日も向かいの席にシルヴァンがちゃんと居てくれて、ジョシュアはほっとした。
シルヴァンが居ると、ディナーが賑やかになる。
やはりアルベルトと気が合うようで、ディナーの時間も二人はよく喋っている。
話題は今日の体育。サッカーの授業で、二人は息のあったコンビプレイを見せ、アルベルトがハットトリックを決めたのだ。
動物行動学では眠そうにしていた時とはまるで違い、体育の時間のシルヴァンは生き生きと走り回っていた。
夕食後。ジョシュアは自室で過ごしていた。
明日までの課題も終わっているし、今は読みかけの本もない。
少し時間ができると、無意識のうちに窓辺に立っている。
ジョシュアはこの窓から月桂樹の森を眺めるのが好きだった。
風に揺れる木々を見ていると心が落ち着いた。
ゆっくりと過ぎる夜の時間。
突然、空から人が降ってきた。
見事に着地した人物の背中には長い髪が下ろされている。
ジョシュアは急いで窓を開けた。
「シルヴァン!?」
振り向いた彼は一瞬驚きを見せ、苦笑しながら、
「おや、ジョシュア。ええっと、良い夜ですね」
その苦笑いを見て、彼はまた外出届を提出せずに、遊びに行くつもりなのだとジョシュアは察した。
ジョシュアの曇った表情を見て、未提出がバレたことをシルヴァンは察する。
この場をどう乗り切ろうかシルヴァンが考えていると、ジョシュアはこう言った。
「これから、出掛けるのかい?」
「あ、ええ」
「解った。朝になる前に帰ってきてね。君が居ないと皆も心配するから」
シルヴァンの表情が明るくなる。ジョシュアの元へ駆け寄って、
「心配? 皆さんが? ジョシュアも、ですか?」
「うん。当たり前だよ、この前も本当にみんな心配してた」
ジョシュアの手を握って、ぶんぶんと振りながら、
「ありがとうございますっ! ジョシュア!」
「えっ? ちょっ」
「朝までに絶対戻りますねっ! それじゃあ行ってきまーす!」
fin
長電話しているシルヴァンを、煙草を片手に見守っていた。
アイヴィーの携帯電話が光る。さっき送ったメールの返事が来たようだ。
---------------------------------
>目標を捕獲。俺んちに居たわ。
了解。では司令は直帰ということで。
お疲れ様でした。
クロイツ
---------------------------------
サンキュ、とだけ打って返信した。今日のお仕事はこれでおしまい。
シルヴァンのほうは、と顔を上げる。
「朝七時ですか!? 早いですねえ……ああ、いえ! 七時ですね! 必ず帰ります!」
生徒代表のお説教もやっと終わりそうだ。
「今日は本当にすみませんでした。じゃあ、おやすみなさい、クラウス」
シルヴァンが受話器を置いて、アイヴィーに言う。
「またクラウスに怒られちゃいましたね」
「何、ニヤニヤしてんだよ」
「勝手に出歩くな、と怒ってくれる人なんて、この二年間は居なかったんだなーと思いまして」
アイヴィーは紫煙を吹かす。
「これからはお前さんがムチャする度に言われんぞ? イヤっちゅうほどな」
「ですね」
にこっと笑った。
「さて。お前さん、腹は減ってないんだよな?」
「ええ。レアさんがご馳走して下さったので。今夜はアタシのオゴリ、って」
「だよな……え? 俺のツケで飲み食いしてきたんじゃなくて?」
「レアさんがそう言ったんですか? アイヴィー、からかわれたんですよ」
「なんだ、そうだったのか。ガッツリぼったくられるのかと思ったぜ」
「素敵なバラードも歌って下さって。また来てね、って言ってくれました」
「オトコが大好物だからな、レアちゃんは」
アイヴィーは煙草を灰皿に押し付けて、立ち上がった。
「じゃあ俺はシャワー浴びてくるわ。お前さんは好きにしてな。寝ててもいいし、遊んでても。あ、家の中でな?」
「もうどこにも行きませんよ、今夜は」
アイヴィーがシャワーを終えて、髪の雫をタオルで拭きながら戻ってくると、
リビングには、FMラジオの音楽番組が流れていた。
ソファにシルヴァンの姿がない。見回すとベランダに居た。
ディレクターズ・チェアの上で膝を抱えていた。
真っ暗な海に視線を向け、背中を丸めている。
泣いているのかと思ったくらい、淋しそうな後ろ姿だった。
声を掛けようか迷っていると、長い髪が翻った。
「上がったんですね、アイヴィー。ラジオをお借りしています」
「あ、ああ」
「こんなにゆっくりラジオを聞いたのは久し振りです」
泣いていたんじゃないらしいと解って、喉の渇きを思い出した。
キッチンに入って、冷蔵庫を開ける。飲み物とチーズとサルサソースの瓶くらいしか入ってない。
緑色の缶ビールを取って、お客さんにも声を掛けた。
「お前さんもなんか飲むか? ハイネケンか水かインスタントコーヒーしかないが」
「貴方と同じもので、と言いたいところですが、今日はもう止めておきます。お水頂けますか」
透明のボトルを取って、冷蔵庫を閉めた。
ミネラルウォーターをグラスに注ぐ。トクトクと小気味の良いリズム。
「大分飲まされたのか?」
「ええ、大分」
「ふうん。そんな顔には見えねえけど?」
「今夜の僕が何かヘンなこと言っても忘れて下さいね?」
グラスと缶を持って、リビングへ行く。
「ほい」
「ありがとうございます」
シルヴァンは、ただの水を本当に美味しそうに飲んだ。
キツイ飲み方をした後の水がどれほどウマイかはアイヴィーも知っていた。
乾いた土に降る雨みたい、とでも言えばいいのか。文才なんかないから解らない。
アイヴィーはソファに腰掛け、リングプルを引いた。快感とも言える音がして、飲み口が現れる。
喉を駆け抜けていく炭酸。今日も一日お仕事が終わりました。
「あっ、これ『スタンド・バイ・ミー』ですよね?」
ラジオから流れてくる曲にシルヴァンが反応した。
ポップで憂いのあるベースライン。映画と同名の名曲である。
「四人の少年が死体を探す旅に出る、というお話なんですよね? この映画」
「古い映画知ってんだなあ。お前さんの年じゃまだ生まれてないだろ?」
「ええ。映画が大好きな友人が居たので、僕も少し詳しいんです」
「ブライアン・シュミットか? 大佐の息子の」
「大佐から聞いたんですか?」
「ちょこっとな。軍人の家に生まれながら映画学科に入った、役立たずな夢追い人だって」
シルヴァンは微笑んで、グラスを両手で包む。
「彼に付き合って、僕もたくさん映画を見ました。
彼と遊ぶ時は、映画館の前で待ち合わせることも多かったですし。
昔の作品も彼から聞かされて、大抵のあらすじなら知ってるんです、ラスト以外は」
「オチは知らないってことか?」
「ええ。映画を見ていない人に結末を話すのはルール違反だから、というのが彼の口癖でした。
だから僕、未だに『スタンド・バイ・ミー』の結末を知らないんです。
変ですよね。僕が知らないままでいても、ブライアンが結末を教えてくれることはないのに」
アイヴィーは次の言葉を見失う。
曲は「傍に居て」と繰り返していた。
「あっ、僕、アイヴィーに聞きたいことがあったんです!」
強引な話題変更。
何も聞かなかったように「ん?」応じることくらいしかアイヴィーにはできなかった。
「ウーティス寮に居るジョシュアって、あのジョシュア・グラントですよね?」
「ああ」
「驚きました。『世紀のカップル』の忘れ形見と、こんなところで会うなんて」
「だろうな。俺も最初は、貰った生徒資料を二度見しちまった」
「アイヴィーも驚きましたか。大きくなりましたよね、彼。
テレビでよく流れる映像では、彼、お父さんが亡くなったことを理解できなかった頃でしょう?」
――ねえ、ママ。パパ、どうして箱の中でお休みしてるの?――
父親の葬儀があった時、ジョシュアはまだ五歳だった。
その無垢な台詞は、関連ゴシップや暴露本が発表される度に流された。
「あの王子様と同じ教室で、授業を受ける日がくるとは思いませんでしたよ」
抱えた膝の上に顎を置き、溜め息混じりに呟いた。
「僕、仲良くなれますかねえ、王子様と」
「ああ?」
「今日、彼が受けている特別講義を見学させて貰ったんです、『動物行動学』なんて専門的な講義を」
「へえ」
「彼の隣に居たら、僕だけがすごく場違いな気がして」
「場違い?」
「品行方正な王子様に比べて僕は、二年も住所不定で、結構悪いこともやりましたし。
彼は由緒正しき血統書犬、僕は汚れた野良犬です。
なのに、急にプリンスなんて呼ばれて、自分でも笑っちゃいますよ。
僕の居場所には思えなくて、あの館は清潔過ぎて、息苦しいんです。
どうして僕、こんな所に居るんだろうって」
「んなもん、ここに居る奴は皆そう思ってるさ」
「えっ?」
「人と自分比べて、なんかイイコトあんのかよ?
それもジョシュアが相手じゃ、大抵の奴は見劣りする。んなこと気にするだけ時間の無駄なんだよ。
お前さんはお前さんでしかないんだから、あるがまま、好き勝手に生きりゃいいのさ。
その為に、新しい名前くれたんだろ? シュミット大佐は」
きっとそうだ、とアイヴィーは思う。
大佐はシルヴァンに、自由に生きろと望んでる。
ブライアンの分まで、役立たずな夢追い人であれと。
それから三日程過ぎた夜。
ウーティス寮ダイニングルームでは、いつものようにシェフがメニューを説明している。
「本日のディナーにはブラジル料理をご用意しました」
同国出身のアルベルトが「イェイ!」と拳を上げる。
生徒に喜んで貰えてシェフも嬉しそうだ。
「メインディッシュはこちらのシュラスコ、ブラジルのバーベキューでございます」
「あっ、僕、これ好きです!」
続いて歓声を上げたのはシルヴァンだった。
先日の一件で流石に反省したのか、あれからは毎日、寮のディナーに出席している。
今日も向かいの席にシルヴァンがちゃんと居てくれて、ジョシュアはほっとした。
シルヴァンが居ると、ディナーが賑やかになる。
やはりアルベルトと気が合うようで、ディナーの時間も二人はよく喋っている。
話題は今日の体育。サッカーの授業で、二人は息のあったコンビプレイを見せ、アルベルトがハットトリックを決めたのだ。
動物行動学では眠そうにしていた時とはまるで違い、体育の時間のシルヴァンは生き生きと走り回っていた。
夕食後。ジョシュアは自室で過ごしていた。
明日までの課題も終わっているし、今は読みかけの本もない。
少し時間ができると、無意識のうちに窓辺に立っている。
ジョシュアはこの窓から月桂樹の森を眺めるのが好きだった。
風に揺れる木々を見ていると心が落ち着いた。
ゆっくりと過ぎる夜の時間。
突然、空から人が降ってきた。
見事に着地した人物の背中には長い髪が下ろされている。
ジョシュアは急いで窓を開けた。
「シルヴァン!?」
振り向いた彼は一瞬驚きを見せ、苦笑しながら、
「おや、ジョシュア。ええっと、良い夜ですね」
その苦笑いを見て、彼はまた外出届を提出せずに、遊びに行くつもりなのだとジョシュアは察した。
ジョシュアの曇った表情を見て、未提出がバレたことをシルヴァンは察する。
この場をどう乗り切ろうかシルヴァンが考えていると、ジョシュアはこう言った。
「これから、出掛けるのかい?」
「あ、ええ」
「解った。朝になる前に帰ってきてね。君が居ないと皆も心配するから」
シルヴァンの表情が明るくなる。ジョシュアの元へ駆け寄って、
「心配? 皆さんが? ジョシュアも、ですか?」
「うん。当たり前だよ、この前も本当にみんな心配してた」
ジョシュアの手を握って、ぶんぶんと振りながら、
「ありがとうございますっ! ジョシュア!」
「えっ? ちょっ」
「朝までに絶対戻りますねっ! それじゃあ行ってきまーす!」
fin
■シルヴァン アイヴィー ジョシュア クラウス
■新入生は自由人4 続編
■新入生は自由人4 続編
「ほれ、お前さんに代われってさ」
アイヴィーが受話器を差し出す。シルヴァンは両手を激しく振り、小声で言った。
「今、居ないって言って下さい! あ、シャワー中ということで!」
「コラ! 聞こえてるぞ! シルヴァン、早く出ろ!」
受話器の向こうからクラウスの怒声が飛んできた。
おそるおそるシルヴァンは手を伸ばし、受話器を耳に当てた。
アイヴィーはロングソファに座り、自分の胸ポケットに手を入れる。
生徒代表に叱られている新入生を眺めながら、煙草を咥えた。
同じ頃、ウーティス寮。今日のサロンは人口密度が高かった。
テレビではスポーツニュースがやっている。サッカー好きなアルベルトが毎週見ている番組だ。
今夜もアルベルトは、他の高等部の生徒達と話しながらテレビを見ていた。
アンリはテレビには見向きもせず、隅の席で読書中。
ジョシュアはアンリの向かいに座り、なんとなくテレビに目を向けていたが、頭に試合結果は入ってこなかった。
アルベルトとステファンが、生徒代表のクラウスにシルヴァンが行方不明だと伝えたのが三十分程前。
生徒代表はすぐに警備会社に連絡を取ってくれた。それから、ウーティス寮生にこう言った。
「あとは俺と警備に任せて、お前達は寮で大人しく待ってろ。
今日は侵入者の捕り物があったから、外に出るのは危険だ。いいか、お前達は絶対に探しに行くなよ」と。
生徒代表から直々に外出禁止令を申し渡され、逆らう者は居なかったが、皆、自室には戻らず、サロンに集まっていた。
ステファンは暖炉の傍。壁を背に立ち、しきりに横髪に触れている。
そんな先輩の様子を見てジョシュアも落ち着かない気分が増してくる。
シルヴァンを最後に見たのは自分なのだ。
その後、外に出て、事故や事件に巻き込まれていたらと思うと、悔やんでも悔やみきれない。
もしかしたら侵入者に襲われて監禁されているかもしれない。
時間が経つ度、考えがネガティブな方向に向うのを止められなくなる。
シルヴァンにシエスタに行くと言われた時、
「まだひとコマあるよ」とか「次の講義も一緒に受けよう?」と言っていれば、こんな事態にはならなかったかもしれない。そんな後悔が頭の中をぐるぐる回っている。
早くウーティス寮に帰ってきて欲しい。
何事もなかったような顔をして「皆さんお揃いでどうしたんですか?」と言って欲しい。
どうか無事でいて、と神に祈るような気持ちだった。
「少しは落ち着けよ、ステフ」
テレビがCMに入ったところで、アルベルトが声を掛けた。
「シルヴァンなら大丈夫だって。クラウスにも伝えたんだしさ。お前もこっち来て座れば?」
「別に新入りを心配しているんじゃない。前の編曲を考えていただけだ」
「へえ。ピアノもないのにか?」
「僕の頭の中にはある。だからいつだってピアノは弾ける。
君の頭の中にいつもサンバが流れているみたいにね」
「ボサノヴァの時だってあるぜ? おい。どこ行くんだよ」
「森」
「待てって」
アルベルトはソファから立って、ステファンに近付く。
「外に出るなって、生徒代表に言われたろ?」
「風に当たってくるだけ」
逃げようとする細い手首を捕らえた。
「お前がウソ吐いてるかどうかくらいは解んだよ」
コンコン、とノックの音。皆が視線が集まる。
ドアを開けたのは、ドイツ軍人の家系に生まれ、立派な体躯に恵まれた生徒。
今年度の生徒代表クラウス・フォン・モールだ。
「見つかったぞ」
「本当!? 無事なの?」
誰より早く反応したのはステファンだった。
「ああ。安心しろ。怪我ひとつしてない。明日の朝には戻る」
生徒達は顔を見合って笑った。数時間振りにサロンが賑やかになる。
ジョシュアも胸を撫で下ろした。
「良かったな、ステフ?」
アルベルトがステファンの肩に腕を回す。ステファンはそれを無視した。
「で、どこに居たんだー? うちのやんちゃ坊主は」
アルベルトが尋ねると、クラウスは不満げに答えた。
「アイヴィーの家だ。ガレージで寝てた」
ジョシュアは緋色の瞳をぱちくりする。
「信じられない! バカじゃないの!?」
ステファンは声が少し裏返るほど憤慨しているが、アルベルトは大きな口を開けて笑った。
「たくましいなあ、今度の新入りは」
クラウスが苦い顔をする。
「たくましいで片付けるなよ、アルベルト。皆に迷惑を掛けて」
皆がほっとして、わいわい騒いでいる中、本を閉じる音がした。
その小さな音にジョシュアだけが気付いた。アンリは本を抱え、サロンを出て行った。
アルベルトとクラウスは話を続けている。
「そう怒るなよ、クラウス。いいじゃないか、夜遊びくらい」
「外に出るのは構わん。俺が許せないのはなあ!」拳を震わせて「毎回、毎回、外出届を書かずに出て行くことだ! 何故、決められた規則が守れない!」
アルベルトは肩をすくめ、「やれやれ」のポーズを取った。それに気を悪くしたクラウスが腕を組む。
「ったく。俺はシュヌーシアに帰るぞ。お前達ももう気が済んだだろ。さっさと寝ろ。明日の講義に障る」
クラウスが出て行く。閉まったドアを見てから、生徒代表にお礼を言うのを忘れてしまったとジョシュアは思った。
夜中にも関わらず、ウーティス寮生の為に動いて、見つけ出してくれたのに。
明日会った時には必ずお礼の言葉を言おうと決めた。
クラウスがシュヌーシア寮に戻ると、サロンから明かりが漏れていた。
「おい! お前達!」
サロンには数人の生徒達が居た。中等部一年のレオンが振り向く。
「あ、クラウスー。どうだった、新入り。居たー?」
「ああ」
「そ。よかったー」
「お前達、もう寝ろと言っただろう。なんでまだサロンで遊んでるんだ。
特にラビ。お前は風邪が治ったばかりだろう」
「ご、ごめんなさい…」
最高学年の怒声に中等部一年のラビットが身を小さくする。
同級生のレオンがかばうように、大きな声で対抗した。
「だってウーティスの新入りが居なくなったんだろ?
俺達だって心配で寝れなかったんだよ、な、ラビ?」
周りの生徒達も、そうそう、と頷いた。
クラウスの拳がまた、わなわなと震え出す。
「じゃあ、お前達が手に持ってるのはなんだ?」
「ウノー!」
生徒達の手とテーブルの上には、カラフルなカード。
UNO(ウノ)という名前の世界中で有名なカードゲームだ。
最近シュヌーシア寮では一大ブームを巻き起こしていて、サロンでは連日のようにウノ大会が行われていた。
「ウノをやりながら、新入りの心配をしてたんだよ、なー?」
周りの生徒達も、うんうん、と頷く。
「クラウスも入れて欲しいー?」
「遊んでないで、さっさと部屋に戻れ!」
シュヌーシアの生徒達は楽しそうに「はーい」と返事した。
ご立腹の生徒代表は腕を組んで廊下を歩いている。
「全く、どいつもこいつも」
クラウスが自分の部屋に戻る。
ベッドの中に誰かが居た。緩い波のある金髪、ブロンズの肌。
シュヌーシアの高等部二年、テオ・メネシスである。
寝たままの姿勢でクイッと首だけ挙げる。
「あ、おかえり、クラウス」
「どいつもこいつも」
クラウスは今日の疲れを一気に感じた。
「俺のベッドに、なんでお前が居るんだ?」
テオは、にこっと微笑む。
「あたためておいたのだよ」
「生憎だが、ベッドは冷たいほうが好きだ」
「おや。それは失礼」
テオは笑っている。いつものように会話するクラウスを見て、こう言った。
「どうやら、ワイルドボーイは無事だったようだね? お疲れ様、クラウス」
生徒代表は憮然とした様子でベッドに腰掛ける。
「ちなみに、どこに居たんだい?」
「お前が言ったのが半分正解だった」
シルヴァンが居なくなったという知らせが、シュヌーシア寮サロンに来た時、
テオが「またアイヴィーと一緒なのでは?」と発言したので、
クラウスはアイヴィーが所属する警備組織に連絡を取ったのだ。
シルヴァンが発見された場所を聞いて、テオは楽しそうに笑った。
「ガレージか。さすがは入学初日から外泊したワイルドボーイだ。たくましいねえ」
「アルベルトと同じ感想を言うんじゃない」
ブラジルの大富豪と、ギリシャの海運王。
この二人の金銭感覚と大らかさは、クラウスには理解し難いものだった。
「ここ最近では居なかったタイプが入ってくれたよね。実にサバイバルな才能の持ち主だ」
「何でもかんでも褒めるなよ、テオ」
クラウスは頭の後ろで手を組み、ベッドに腰掛けたまま、背中を倒した。
テオの腹が腰枕になっている。押し潰されたテオは「うっ」と呻いた。
クラウスは天井を見上げ、独り言のように呟く。
「なんで寮を抜け出すんだ? そんなに気に入らないのか、この学院が」
「そんな心配要らないだろう? アイヴィーの家に居たのなら」
「どういうことだ」
「すぐに見つかる場所じゃないか。本気の脱走ではなく、ちょっとしたかくれんぼなのだよ。
下級生から遊ぼうと誘われたら、上級生は快く受けなくてはね?」
「夜中のかくれんぼは、常識がなさ過ぎる」
「いいなあ。貴方に探して貰えるのなら。私もたまには寮を脱走してみようかな?」
クラウスは腹筋を使って、少しだけ身体を起こしてから、背を倒した。
また押し潰されたテオは「ぐっ」と呻いた。
「痛いよ、クラウス。もっと優しくして」
クラウスは上半身を起こして、ドアを指差した。
「馬鹿言ってないで、お前は部屋に戻れ」
→
アイヴィーが受話器を差し出す。シルヴァンは両手を激しく振り、小声で言った。
「今、居ないって言って下さい! あ、シャワー中ということで!」
「コラ! 聞こえてるぞ! シルヴァン、早く出ろ!」
受話器の向こうからクラウスの怒声が飛んできた。
おそるおそるシルヴァンは手を伸ばし、受話器を耳に当てた。
アイヴィーはロングソファに座り、自分の胸ポケットに手を入れる。
生徒代表に叱られている新入生を眺めながら、煙草を咥えた。
同じ頃、ウーティス寮。今日のサロンは人口密度が高かった。
テレビではスポーツニュースがやっている。サッカー好きなアルベルトが毎週見ている番組だ。
今夜もアルベルトは、他の高等部の生徒達と話しながらテレビを見ていた。
アンリはテレビには見向きもせず、隅の席で読書中。
ジョシュアはアンリの向かいに座り、なんとなくテレビに目を向けていたが、頭に試合結果は入ってこなかった。
アルベルトとステファンが、生徒代表のクラウスにシルヴァンが行方不明だと伝えたのが三十分程前。
生徒代表はすぐに警備会社に連絡を取ってくれた。それから、ウーティス寮生にこう言った。
「あとは俺と警備に任せて、お前達は寮で大人しく待ってろ。
今日は侵入者の捕り物があったから、外に出るのは危険だ。いいか、お前達は絶対に探しに行くなよ」と。
生徒代表から直々に外出禁止令を申し渡され、逆らう者は居なかったが、皆、自室には戻らず、サロンに集まっていた。
ステファンは暖炉の傍。壁を背に立ち、しきりに横髪に触れている。
そんな先輩の様子を見てジョシュアも落ち着かない気分が増してくる。
シルヴァンを最後に見たのは自分なのだ。
その後、外に出て、事故や事件に巻き込まれていたらと思うと、悔やんでも悔やみきれない。
もしかしたら侵入者に襲われて監禁されているかもしれない。
時間が経つ度、考えがネガティブな方向に向うのを止められなくなる。
シルヴァンにシエスタに行くと言われた時、
「まだひとコマあるよ」とか「次の講義も一緒に受けよう?」と言っていれば、こんな事態にはならなかったかもしれない。そんな後悔が頭の中をぐるぐる回っている。
早くウーティス寮に帰ってきて欲しい。
何事もなかったような顔をして「皆さんお揃いでどうしたんですか?」と言って欲しい。
どうか無事でいて、と神に祈るような気持ちだった。
「少しは落ち着けよ、ステフ」
テレビがCMに入ったところで、アルベルトが声を掛けた。
「シルヴァンなら大丈夫だって。クラウスにも伝えたんだしさ。お前もこっち来て座れば?」
「別に新入りを心配しているんじゃない。前の編曲を考えていただけだ」
「へえ。ピアノもないのにか?」
「僕の頭の中にはある。だからいつだってピアノは弾ける。
君の頭の中にいつもサンバが流れているみたいにね」
「ボサノヴァの時だってあるぜ? おい。どこ行くんだよ」
「森」
「待てって」
アルベルトはソファから立って、ステファンに近付く。
「外に出るなって、生徒代表に言われたろ?」
「風に当たってくるだけ」
逃げようとする細い手首を捕らえた。
「お前がウソ吐いてるかどうかくらいは解んだよ」
コンコン、とノックの音。皆が視線が集まる。
ドアを開けたのは、ドイツ軍人の家系に生まれ、立派な体躯に恵まれた生徒。
今年度の生徒代表クラウス・フォン・モールだ。
「見つかったぞ」
「本当!? 無事なの?」
誰より早く反応したのはステファンだった。
「ああ。安心しろ。怪我ひとつしてない。明日の朝には戻る」
生徒達は顔を見合って笑った。数時間振りにサロンが賑やかになる。
ジョシュアも胸を撫で下ろした。
「良かったな、ステフ?」
アルベルトがステファンの肩に腕を回す。ステファンはそれを無視した。
「で、どこに居たんだー? うちのやんちゃ坊主は」
アルベルトが尋ねると、クラウスは不満げに答えた。
「アイヴィーの家だ。ガレージで寝てた」
ジョシュアは緋色の瞳をぱちくりする。
「信じられない! バカじゃないの!?」
ステファンは声が少し裏返るほど憤慨しているが、アルベルトは大きな口を開けて笑った。
「たくましいなあ、今度の新入りは」
クラウスが苦い顔をする。
「たくましいで片付けるなよ、アルベルト。皆に迷惑を掛けて」
皆がほっとして、わいわい騒いでいる中、本を閉じる音がした。
その小さな音にジョシュアだけが気付いた。アンリは本を抱え、サロンを出て行った。
アルベルトとクラウスは話を続けている。
「そう怒るなよ、クラウス。いいじゃないか、夜遊びくらい」
「外に出るのは構わん。俺が許せないのはなあ!」拳を震わせて「毎回、毎回、外出届を書かずに出て行くことだ! 何故、決められた規則が守れない!」
アルベルトは肩をすくめ、「やれやれ」のポーズを取った。それに気を悪くしたクラウスが腕を組む。
「ったく。俺はシュヌーシアに帰るぞ。お前達ももう気が済んだだろ。さっさと寝ろ。明日の講義に障る」
クラウスが出て行く。閉まったドアを見てから、生徒代表にお礼を言うのを忘れてしまったとジョシュアは思った。
夜中にも関わらず、ウーティス寮生の為に動いて、見つけ出してくれたのに。
明日会った時には必ずお礼の言葉を言おうと決めた。
クラウスがシュヌーシア寮に戻ると、サロンから明かりが漏れていた。
「おい! お前達!」
サロンには数人の生徒達が居た。中等部一年のレオンが振り向く。
「あ、クラウスー。どうだった、新入り。居たー?」
「ああ」
「そ。よかったー」
「お前達、もう寝ろと言っただろう。なんでまだサロンで遊んでるんだ。
特にラビ。お前は風邪が治ったばかりだろう」
「ご、ごめんなさい…」
最高学年の怒声に中等部一年のラビットが身を小さくする。
同級生のレオンがかばうように、大きな声で対抗した。
「だってウーティスの新入りが居なくなったんだろ?
俺達だって心配で寝れなかったんだよ、な、ラビ?」
周りの生徒達も、そうそう、と頷いた。
クラウスの拳がまた、わなわなと震え出す。
「じゃあ、お前達が手に持ってるのはなんだ?」
「ウノー!」
生徒達の手とテーブルの上には、カラフルなカード。
UNO(ウノ)という名前の世界中で有名なカードゲームだ。
最近シュヌーシア寮では一大ブームを巻き起こしていて、サロンでは連日のようにウノ大会が行われていた。
「ウノをやりながら、新入りの心配をしてたんだよ、なー?」
周りの生徒達も、うんうん、と頷く。
「クラウスも入れて欲しいー?」
「遊んでないで、さっさと部屋に戻れ!」
シュヌーシアの生徒達は楽しそうに「はーい」と返事した。
ご立腹の生徒代表は腕を組んで廊下を歩いている。
「全く、どいつもこいつも」
クラウスが自分の部屋に戻る。
ベッドの中に誰かが居た。緩い波のある金髪、ブロンズの肌。
シュヌーシアの高等部二年、テオ・メネシスである。
寝たままの姿勢でクイッと首だけ挙げる。
「あ、おかえり、クラウス」
「どいつもこいつも」
クラウスは今日の疲れを一気に感じた。
「俺のベッドに、なんでお前が居るんだ?」
テオは、にこっと微笑む。
「あたためておいたのだよ」
「生憎だが、ベッドは冷たいほうが好きだ」
「おや。それは失礼」
テオは笑っている。いつものように会話するクラウスを見て、こう言った。
「どうやら、ワイルドボーイは無事だったようだね? お疲れ様、クラウス」
生徒代表は憮然とした様子でベッドに腰掛ける。
「ちなみに、どこに居たんだい?」
「お前が言ったのが半分正解だった」
シルヴァンが居なくなったという知らせが、シュヌーシア寮サロンに来た時、
テオが「またアイヴィーと一緒なのでは?」と発言したので、
クラウスはアイヴィーが所属する警備組織に連絡を取ったのだ。
シルヴァンが発見された場所を聞いて、テオは楽しそうに笑った。
「ガレージか。さすがは入学初日から外泊したワイルドボーイだ。たくましいねえ」
「アルベルトと同じ感想を言うんじゃない」
ブラジルの大富豪と、ギリシャの海運王。
この二人の金銭感覚と大らかさは、クラウスには理解し難いものだった。
「ここ最近では居なかったタイプが入ってくれたよね。実にサバイバルな才能の持ち主だ」
「何でもかんでも褒めるなよ、テオ」
クラウスは頭の後ろで手を組み、ベッドに腰掛けたまま、背中を倒した。
テオの腹が腰枕になっている。押し潰されたテオは「うっ」と呻いた。
クラウスは天井を見上げ、独り言のように呟く。
「なんで寮を抜け出すんだ? そんなに気に入らないのか、この学院が」
「そんな心配要らないだろう? アイヴィーの家に居たのなら」
「どういうことだ」
「すぐに見つかる場所じゃないか。本気の脱走ではなく、ちょっとしたかくれんぼなのだよ。
下級生から遊ぼうと誘われたら、上級生は快く受けなくてはね?」
「夜中のかくれんぼは、常識がなさ過ぎる」
「いいなあ。貴方に探して貰えるのなら。私もたまには寮を脱走してみようかな?」
クラウスは腹筋を使って、少しだけ身体を起こしてから、背を倒した。
また押し潰されたテオは「ぐっ」と呻いた。
「痛いよ、クラウス。もっと優しくして」
クラウスは上半身を起こして、ドアを指差した。
「馬鹿言ってないで、お前は部屋に戻れ」
→
■シルヴァン アイヴィー
■新入生は自由人3 続編
■新入生は自由人3 続編
アイヴィーはベントレーのハンドルを握っている。
擦れ違う車は殆ど居ない。車内のデジタル時計を見ると、もうすぐ日付が変わる時刻だった。
島の東から海沿いに向かう先は南西。崖の上のコテージだ。
「俺んちかよ」
ピアノバーの店長さんによると、シルヴァンはアイヴィーの家に泊まると言って店を出たらしい。
だが、家のカギは掛けて出て来た筈だと家主は思う。
「窓割って入ったりしてねえだろうなあ」
何故だか、手頃な石でパリーンといっちゃってる顔が想像できた。
それか、笑顔でピッキング。「開いちゃいました」とか言って。
『鍵開け』くらいできるんじゃないか、と思ってしまうのは、
シルヴァンの父親がスパイだったと知らされているからだろう。
外界から遮断された孤島。
そこで暮らす生徒達は、それぞれ複雑な事情を抱えている。
アイヴィーはここに来て三年目。職業上、様々な生徒の事情を見てきた。
それでも、シルヴァンの事情は相当特殊なほうだと感じたのだ。
シルヴァン・クラークという名の人間は、17歳で生まれたのである。
生まれ持った名は、エルリック・フォン・リヒトホーフェン。
その姓を聞かされた時、アイヴィーは驚いた。
リヒトホーフェン家と言えば、元は男爵の家柄であり、代々有能な軍人を輩出してきた名門だ。
中でも、第一次大戦において80機撃墜の偉業を成し遂げた、ドイツ空軍のエースパイロットは、
レッド・バロン(赤い男爵)の異名を持つ英雄だ。
シルヴァンの父親も軍人で、優秀なスパイだった。
しかし、ある危険なミッションが彼と家族の運命を変える。
任務が成功したが故に、家族ごと敵に狙われることになったのだ。
身の安全を守る為、三年前、フェイクのニュースが流された。家族全員、不慮の事故で亡くなったと。
死んだことになった彼等は新しいIDを与えられ、別人として生きることになったのだ。
そんな機密事項をアイヴィーに説明してくれたのは、NATO軍幹部のシュミット大佐。シルヴァンの保証人だ。
彼はシルヴァンの父親の同僚で、昔から家族ぐるみの付き合いだった。
二年前、大佐の息子が交通事故死する。その葬式で、大佐とシルヴァンは再会する。
それを切欠に、大佐の母校である、聖アルフォンソ学院への入学を勧めたのだ。
大佐は言った。「もし、エルリックの素性が割れた場合、また命が狙われる危険性がある」と。
守ってやって欲しい、そう頼まれた。
その言葉がとても重く、真摯に聞こえたのは、息子を亡くした父親に言われたからかもしれない。
砂浜に面した崖が見えてくる。その上にある小さなコテージ。我が家だ。
明かりが付いていないように見える。
ここにシルヴァンは来ていないのだろうか、もう寝てるのか、俺んちの窓は無事なのか。
とりあえず、一階のガレージに車を進める。
今日も良い子でお留守番してた二台の車。
『ちょっと遊びに行く時用』のBMWと、『スカッとしたい時用』のアストンマーチン。
二台の隣へ、いつものようにバックで車庫入れしようと、後方を確認する。
ガレージの角に、なんか居た。バックライトに照らされたのは、目を閉じた人間だ。
長い脚を折り曲げ、壁に寄り添うように座っている。細身の長い髪の男。
「シルヴァン!」
アイヴィーは車を降りて駆け寄る。
無意識に、シルヴァンの全身をざっと見て、外傷がないか確認していた。周囲に血溜まりもない。
別に、侵入者に追われ、深手を負って逃げ込んだのではないらしいと解り、少しほっとした。
「起きろよ、おい、シルヴァン」
肩を揺すると、薄く菫色の瞳が見えた。
「ああ、アイヴィー。帰ってきたんですね……」
完全に寝起きの声で、一気に気が抜けた。
「なんでガレージなんかで寝てんだよ」
「二階の鍵が開いてなかったので一階のガレージに。外よりは屋根があったほうが雨風も凌げますし」
「じゃなくて、ガレージだぞ? 俺がうっかり轢いちまったらどうすんだよ!」
「轢かれないように、はしっこに居たんですよ。
貴方なら、絶対に愛車を壁にぶつけたりはしないし、車を停める時に見つけてくれると思いましたので」
その通りの展開を演じてしまったアイヴィーは何も言えなくなる。
シルヴァンは、あの、と見上げる。
「今晩泊めて貰えませんか? 僕、ここで、ガレージでいいんで!」
「何を好き好んでガレージに泊まろうとしてんだよ。
立派な寮に住んでんだろ? こんな冷たい壁、枕にしてないで、柔らかいベッドで寝ろよ」
シルヴァンは首を横に振って、呟いた。
「あの寮に居ると、閉じ込められているような気がして、落ち着かなくて、逃げて来たんです」
俯いたシルヴァンを見て、アイヴィーは頭を掻いた。
「ったく。ここなんかに泊められるかよ。ほら、さっさと立ちな」
アイヴィーは手をポケットに入れて、ベントレーのほうへ歩き出す。
シルヴァンは座ったまま、動かない。
「お願いです、朝には戻りますから」
ヒュンとシルヴァンの手元に何かが飛んでくる。
シルヴァンは反射的にそれをキャッチした。広げた手の中には家の鍵。
顔を上げると、アイヴィーは運転席の窓から顔を出して、
「先に上がってろ。ほら、早くそこどけよ。車が入れらんないだろ?」
→
擦れ違う車は殆ど居ない。車内のデジタル時計を見ると、もうすぐ日付が変わる時刻だった。
島の東から海沿いに向かう先は南西。崖の上のコテージだ。
「俺んちかよ」
ピアノバーの店長さんによると、シルヴァンはアイヴィーの家に泊まると言って店を出たらしい。
だが、家のカギは掛けて出て来た筈だと家主は思う。
「窓割って入ったりしてねえだろうなあ」
何故だか、手頃な石でパリーンといっちゃってる顔が想像できた。
それか、笑顔でピッキング。「開いちゃいました」とか言って。
『鍵開け』くらいできるんじゃないか、と思ってしまうのは、
シルヴァンの父親がスパイだったと知らされているからだろう。
外界から遮断された孤島。
そこで暮らす生徒達は、それぞれ複雑な事情を抱えている。
アイヴィーはここに来て三年目。職業上、様々な生徒の事情を見てきた。
それでも、シルヴァンの事情は相当特殊なほうだと感じたのだ。
シルヴァン・クラークという名の人間は、17歳で生まれたのである。
生まれ持った名は、エルリック・フォン・リヒトホーフェン。
その姓を聞かされた時、アイヴィーは驚いた。
リヒトホーフェン家と言えば、元は男爵の家柄であり、代々有能な軍人を輩出してきた名門だ。
中でも、第一次大戦において80機撃墜の偉業を成し遂げた、ドイツ空軍のエースパイロットは、
レッド・バロン(赤い男爵)の異名を持つ英雄だ。
シルヴァンの父親も軍人で、優秀なスパイだった。
しかし、ある危険なミッションが彼と家族の運命を変える。
任務が成功したが故に、家族ごと敵に狙われることになったのだ。
身の安全を守る為、三年前、フェイクのニュースが流された。家族全員、不慮の事故で亡くなったと。
死んだことになった彼等は新しいIDを与えられ、別人として生きることになったのだ。
そんな機密事項をアイヴィーに説明してくれたのは、NATO軍幹部のシュミット大佐。シルヴァンの保証人だ。
彼はシルヴァンの父親の同僚で、昔から家族ぐるみの付き合いだった。
二年前、大佐の息子が交通事故死する。その葬式で、大佐とシルヴァンは再会する。
それを切欠に、大佐の母校である、聖アルフォンソ学院への入学を勧めたのだ。
大佐は言った。「もし、エルリックの素性が割れた場合、また命が狙われる危険性がある」と。
守ってやって欲しい、そう頼まれた。
その言葉がとても重く、真摯に聞こえたのは、息子を亡くした父親に言われたからかもしれない。
砂浜に面した崖が見えてくる。その上にある小さなコテージ。我が家だ。
明かりが付いていないように見える。
ここにシルヴァンは来ていないのだろうか、もう寝てるのか、俺んちの窓は無事なのか。
とりあえず、一階のガレージに車を進める。
今日も良い子でお留守番してた二台の車。
『ちょっと遊びに行く時用』のBMWと、『スカッとしたい時用』のアストンマーチン。
二台の隣へ、いつものようにバックで車庫入れしようと、後方を確認する。
ガレージの角に、なんか居た。バックライトに照らされたのは、目を閉じた人間だ。
長い脚を折り曲げ、壁に寄り添うように座っている。細身の長い髪の男。
「シルヴァン!」
アイヴィーは車を降りて駆け寄る。
無意識に、シルヴァンの全身をざっと見て、外傷がないか確認していた。周囲に血溜まりもない。
別に、侵入者に追われ、深手を負って逃げ込んだのではないらしいと解り、少しほっとした。
「起きろよ、おい、シルヴァン」
肩を揺すると、薄く菫色の瞳が見えた。
「ああ、アイヴィー。帰ってきたんですね……」
完全に寝起きの声で、一気に気が抜けた。
「なんでガレージなんかで寝てんだよ」
「二階の鍵が開いてなかったので一階のガレージに。外よりは屋根があったほうが雨風も凌げますし」
「じゃなくて、ガレージだぞ? 俺がうっかり轢いちまったらどうすんだよ!」
「轢かれないように、はしっこに居たんですよ。
貴方なら、絶対に愛車を壁にぶつけたりはしないし、車を停める時に見つけてくれると思いましたので」
その通りの展開を演じてしまったアイヴィーは何も言えなくなる。
シルヴァンは、あの、と見上げる。
「今晩泊めて貰えませんか? 僕、ここで、ガレージでいいんで!」
「何を好き好んでガレージに泊まろうとしてんだよ。
立派な寮に住んでんだろ? こんな冷たい壁、枕にしてないで、柔らかいベッドで寝ろよ」
シルヴァンは首を横に振って、呟いた。
「あの寮に居ると、閉じ込められているような気がして、落ち着かなくて、逃げて来たんです」
俯いたシルヴァンを見て、アイヴィーは頭を掻いた。
「ったく。ここなんかに泊められるかよ。ほら、さっさと立ちな」
アイヴィーは手をポケットに入れて、ベントレーのほうへ歩き出す。
シルヴァンは座ったまま、動かない。
「お願いです、朝には戻りますから」
ヒュンとシルヴァンの手元に何かが飛んでくる。
シルヴァンは反射的にそれをキャッチした。広げた手の中には家の鍵。
顔を上げると、アイヴィーは運転席の窓から顔を出して、
「先に上がってろ。ほら、早くそこどけよ。車が入れらんないだろ?」
→
■シルヴァン アイヴィー
■新入生は自由人2 続編
■新入生は自由人2 続編
聖アルフォンソ島東部の浜辺。夜の波は穏やかだ。
アイヴィーは手に付いた砂をパンパンと払う。
「こんなもんかなー」
周りには伸された男が大勢転がっていた。
警備スタッフが車の無線機を掲げる。
「司令、本部から入電です。副司令から」
「はーい」無線機を受け取り「どしたー?」
「クロイツです。そちらの首尾はいかがですか?」
「全員捕まえたよー。二十人で来たって言ってるし」
「お疲れ様でした。では本題に入りますが、先程、生徒代表のクラウス様から、
貴方にお問い合わせのお電話がありました。私がご用件を伺ったのですが」
「うん。なんて?」
「14時頃からシルヴァン様が行方不明だそうです」
アイヴィーは額に手をやる。
「また脱走したのかよ、あいつ」
「それで、貴方と一緒に居るのではと、こちらに電話されたそうで」
「知らないぜ? 俺、オシゴトしてたし」
「ええ。クラウス様にもそう申し上げました。それから、後はこちらにお任せ頂き、
生徒の皆様は、決して外へ探しに行くことのないようにとお願い致しました」
「ありがと。これ以上、迷子が増えても困るしな。てか、シルヴァンなら、どっかで夜遊びしてるだけだろ?」
「ウーティスの皆様もそう思って、帰りを待っていたようです。
ですが、門限を過ぎても戻らないので、心配になってきたのでしょう。
ウーティスから生徒代表へ報告し、それがこちらに」
知らせを聞いたクラウスの苦りきった顔が思い浮かぶ。第一声は「あの馬鹿……」に1ドル。
「もちろん、万が一、ということもあります。
例えば、司令が捕り逃した輩がやけを起こして、シルヴァン様を人質に取ることも」
「な、何、脅かしてんの。全員捕まえたって言ってんじゃん」
「輩がそう申告しただけでしょう? 嘘ではないと言い切れますか?」
「ちょ、ちょっと待ってて!」
無線機を置いて、伸びてる侵入者達の元へ走る。
茶髪の男の前でアイヴィーがしゃがむ。
「お兄さん、お兄さん。さっきさ、二十人で来たって言ったよね?」
「え? は、はい」
「もしウソだったら、タイヘンなことになっちゃうよ?」
「タイヘンなことって」
「この島には、コワーイお医者さんが居てね? 白衣の裏にメス100本持ち歩いてるんだ!」
「コワッ!」
「それでね、ウソつく人にはイケナイお薬飲ませて、
ホントのこと言うまで、あーんなことや、こーんなことしちゃうんだよ!
お兄さんもそうなる前に、ホントのこと言ったほうがイイと思うよー?
ホントのホントに、二十人ピッタリで来たの?」
「ほ、ホントにホントですっ!」
「だよね! ありがとっ」
立ち上がって、車のところへに戻る。無線機を持つ。
「もしもし、クロちゃん? やっぱ二十人だって」
「そうですか」
「あ、信じてない」
「それで、シルヴァン様についてですが。どうします?」
「んー。とりあえず、門番と監視チームにこのこと」
「知らせました。シルヴァン様を発見次第、報告するように通知済みです」
「早いね」
「島全域に捜索隊を出しますか? 手始めに十人程で」
「んな大騒ぎするには早いでしょ。捜索隊は俺一人でいいよ。見付かったら連絡すっから」
「お一人で島中を探すおつもりですか?」
「心当たりを回るだけ。じゃあ、あとヨロシク」
アイヴィーは自分の車に戻って、運転席に座る。
自分の携帯電話を取り出した。アドレス帳のボタンを押し、『shop』グループを選んだ。
仕事上、この携帯には、島にある大抵の店舗の連絡先が入っていた。
「忙しい時間にゴメンネ。今日さ、新しく来たマージナルプリンス、行ってないかな?
この前紹介した、髪長くてー、背高くてー、よく喋る奴」
シルヴァンを連れて行ったことがある店へ電話を掛けた。
入学から一週間しか経っていないが、シルヴァンと街を歩いたのは、昨日で三度目だ。
回った店は合計で十数軒ほど。片っ端から掛けていくしかない。
ライブハウス、バーなどに連絡したが、「見ていない」と言われた。
五軒目で「来たわよ?」という返事を聞くことができた。
聖アルフォンソ島唯一のおカマさんの声である。
「カワイイ子ね、シルヴァンちゃんって。いっぱいご馳走になっちゃった、アイヴィーのツケで」
「ちょ、何してくれてんだ、あいつ。つーか止めてよ、レアちゃん!」
「あら。アタシが勧めたのよ? 二人でガールズトークに花咲かせちゃったわ~」
「……ガールズって、二人ともオト」
「ダレが」
「……レアちゃんはお綺麗なレディです」
「それで? シルヴァンちゃんがどうかした?」
「あ、そうそう。まだ寮に帰ってないらしくてさ。今、探してんだ。
今はそっちに居ないんだよね? 次にどの店に行くとか言ってなかった?」
「今日はもう帰ったんじゃないかしら? 今夜はダーリンの家にお泊まりするんですー、って言ってたから」
「ダレだよ、ダーリンって。え、ダーリン?」
→
アイヴィーは手に付いた砂をパンパンと払う。
「こんなもんかなー」
周りには伸された男が大勢転がっていた。
警備スタッフが車の無線機を掲げる。
「司令、本部から入電です。副司令から」
「はーい」無線機を受け取り「どしたー?」
「クロイツです。そちらの首尾はいかがですか?」
「全員捕まえたよー。二十人で来たって言ってるし」
「お疲れ様でした。では本題に入りますが、先程、生徒代表のクラウス様から、
貴方にお問い合わせのお電話がありました。私がご用件を伺ったのですが」
「うん。なんて?」
「14時頃からシルヴァン様が行方不明だそうです」
アイヴィーは額に手をやる。
「また脱走したのかよ、あいつ」
「それで、貴方と一緒に居るのではと、こちらに電話されたそうで」
「知らないぜ? 俺、オシゴトしてたし」
「ええ。クラウス様にもそう申し上げました。それから、後はこちらにお任せ頂き、
生徒の皆様は、決して外へ探しに行くことのないようにとお願い致しました」
「ありがと。これ以上、迷子が増えても困るしな。てか、シルヴァンなら、どっかで夜遊びしてるだけだろ?」
「ウーティスの皆様もそう思って、帰りを待っていたようです。
ですが、門限を過ぎても戻らないので、心配になってきたのでしょう。
ウーティスから生徒代表へ報告し、それがこちらに」
知らせを聞いたクラウスの苦りきった顔が思い浮かぶ。第一声は「あの馬鹿……」に1ドル。
「もちろん、万が一、ということもあります。
例えば、司令が捕り逃した輩がやけを起こして、シルヴァン様を人質に取ることも」
「な、何、脅かしてんの。全員捕まえたって言ってんじゃん」
「輩がそう申告しただけでしょう? 嘘ではないと言い切れますか?」
「ちょ、ちょっと待ってて!」
無線機を置いて、伸びてる侵入者達の元へ走る。
茶髪の男の前でアイヴィーがしゃがむ。
「お兄さん、お兄さん。さっきさ、二十人で来たって言ったよね?」
「え? は、はい」
「もしウソだったら、タイヘンなことになっちゃうよ?」
「タイヘンなことって」
「この島には、コワーイお医者さんが居てね? 白衣の裏にメス100本持ち歩いてるんだ!」
「コワッ!」
「それでね、ウソつく人にはイケナイお薬飲ませて、
ホントのこと言うまで、あーんなことや、こーんなことしちゃうんだよ!
お兄さんもそうなる前に、ホントのこと言ったほうがイイと思うよー?
ホントのホントに、二十人ピッタリで来たの?」
「ほ、ホントにホントですっ!」
「だよね! ありがとっ」
立ち上がって、車のところへに戻る。無線機を持つ。
「もしもし、クロちゃん? やっぱ二十人だって」
「そうですか」
「あ、信じてない」
「それで、シルヴァン様についてですが。どうします?」
「んー。とりあえず、門番と監視チームにこのこと」
「知らせました。シルヴァン様を発見次第、報告するように通知済みです」
「早いね」
「島全域に捜索隊を出しますか? 手始めに十人程で」
「んな大騒ぎするには早いでしょ。捜索隊は俺一人でいいよ。見付かったら連絡すっから」
「お一人で島中を探すおつもりですか?」
「心当たりを回るだけ。じゃあ、あとヨロシク」
アイヴィーは自分の車に戻って、運転席に座る。
自分の携帯電話を取り出した。アドレス帳のボタンを押し、『shop』グループを選んだ。
仕事上、この携帯には、島にある大抵の店舗の連絡先が入っていた。
「忙しい時間にゴメンネ。今日さ、新しく来たマージナルプリンス、行ってないかな?
この前紹介した、髪長くてー、背高くてー、よく喋る奴」
シルヴァンを連れて行ったことがある店へ電話を掛けた。
入学から一週間しか経っていないが、シルヴァンと街を歩いたのは、昨日で三度目だ。
回った店は合計で十数軒ほど。片っ端から掛けていくしかない。
ライブハウス、バーなどに連絡したが、「見ていない」と言われた。
五軒目で「来たわよ?」という返事を聞くことができた。
聖アルフォンソ島唯一のおカマさんの声である。
「カワイイ子ね、シルヴァンちゃんって。いっぱいご馳走になっちゃった、アイヴィーのツケで」
「ちょ、何してくれてんだ、あいつ。つーか止めてよ、レアちゃん!」
「あら。アタシが勧めたのよ? 二人でガールズトークに花咲かせちゃったわ~」
「……ガールズって、二人ともオト」
「ダレが」
「……レアちゃんはお綺麗なレディです」
「それで? シルヴァンちゃんがどうかした?」
「あ、そうそう。まだ寮に帰ってないらしくてさ。今、探してんだ。
今はそっちに居ないんだよね? 次にどの店に行くとか言ってなかった?」
「今日はもう帰ったんじゃないかしら? 今夜はダーリンの家にお泊まりするんですー、って言ってたから」
「ダレだよ、ダーリンって。え、ダーリン?」
→
■シルヴァン ジョシュア
■新入生は自由人 続編
■新入生は自由人 続編
「本日の前菜は『キングサーモンのラタトゥイユ ~アルフォンソの香り~』でございます」
ウーティス寮ダイニングルーム。
専属シェフは、今日も機嫌良く生徒達の前で今日のメニューを説明していた。
ジョシュアはシェフの目を見ながら、話を聞いている。
「鮭と夏野菜のトマト煮でございます。ハーブには島特産のローリエを使い、香り付け致しました。
南フランスはニースの伝統料理ですので、アンリ様は召し上がったことがおありかと」
話を振られた少年はかろうじて小さく頷いたが、「うん」とも声は出さなかった。
中等部三年のアンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマン。
フランス出身でフランス料理を得意するシェフと同郷である為、何かと話し掛けられ易い。
しかし、無口な少年は、迷惑だと言わんばかりに、
毎回、最低限のリアクション(機嫌が悪い時は無視)しかしないのだが、
料理一筋のあまり、鈍いところのあるシェフは、無言の拒否反応に気付かないようである。
ジョシュアには今のところ、見守るしか術がない。
「ラタトゥイユには白のワインがよく合いますので、ご希望の方にはお注ぎ致します」
最初に勢い良く挙げたのは、最高学年のアルベルトだった。
白ワインを注がれると、いつものように「オブリガード!」と母国語で礼を言っていた。
出身はブラジル。大富豪の末っ子故か大らかな性格で、年中笑っているイメージのある人だ。
逆に、いつもイライラしているのが隣に座っている痩せた男。彼はふらりと手を挙げた。
「僕も貰おうかな、今夜は」
「畏まりました、ステファン様」
シェフが彼の元へ向かう。淡い琥珀色の液体が、細いワイングラスに注がれていく。
アルベルトが悪気なくからかった。
「おっ! お前が飲むなんて珍しいなー、ステフ。作曲が上手く行ってないんだろー?」
「いつもながら、気が遣えない人だね、君は」
ステファン・ベルワルド。最高学年。
生粋のスウェーデン人で、シルバーグレイの髪と目を持つ。
ストレートの髪は肩よりやや長い。
肌は白く、その細腕は、血管が青白く透けて見えるほどだ。
気に入らないことがあると、横髪をいじる癖があった。
作曲家の子息で、ステファン自身も作曲、また合唱の英才教育を受けてきた。
音域は広く、地声も人よりやや高めである。
一度、創作期間に入ると、寮内の音楽サロンに鍵まで掛けて閉じ籠るので、
寮生でも暫く顔を見れない日が続く。作曲が終わると、やつれた顔で出てくるのだ。
その暁には発表会を行い、普段の彼とは似ても似つかない癒しの曲を披露する。
ジョシュアはステファンと話す機会はあまりないが、
彼の演奏は繊細で本当に素晴らしく、発表会の日は楽しみにしていた。
アルベルトは笑顔で隣を向く。
「なあ、今はどんな曲作ってんだ? 俺、前の奴、結構好きだったぜ!」
「それより、また新入りが居ないんじゃない?」
空いている席がひとつだけあった。ステファンは横髪をいじりながら、全員に尋ねる。
「新入りがどこに行ってるか、知っている者は、挙手」
皆は顔を見合わせるだけで、誰も発言しなかった。ジョシュアはおそるおそる手を挙げる。
「あの」
皆が一斉にジョシュアを見る。たくさんの視線を居心地悪く思いながら話した。
シルヴァンと一緒に特別講義を受けたこと、その後はシエスタをすると言って森に入るのを見たことだ。
「えっと、そこまでしか知らないんです」
アルベルトは少し笑った。
「オッケ。なら、良いだろう。俺達はディナーにしようぜ。腹減ったー」
ステファンが溜め息を吐く。
「待ってよ。放っといていいの?」
「いいに決まってんだろ。ガキじゃねえんだから放っといても勝手に戻ってくるさ」
「アル!」
ジョシュアが席を立つ。
「俺、森に行って、起こしてきましょうか?」
アルベルトは笑いながら首を横に振った。
「座れよ、ジョシュア。森に行ったってムダさ。
大方、ちょっと眠った後、夜の街に遊びにでも行ったんだろう」
ジョシュアが席に座るのと同時に、ステファンがヒステリックな声を上げる。
「また!? 信じられない! どこまで自由なの、あの新入り!」
「好奇心が旺盛なのは良いじゃないか。別に、何の心配も要らないだろ?
例え、迷子でワンワン泣いてたって、制服さえ着てりゃ、
入ったばっかの新入りでも、うちの生徒だって解るんだし」
「サンバな頭だね、いつもいつも!」
ステファンの声が怒りと共に高くなってくる。
「あの新入りだって、これからここで集団生活をするのだから、
ルールや秩序というものを、きっちり教えてやるのが、上級生の務めじゃないの?」
「何、クラウスみたいなこと言ってんだ? 俺達が新入りに首輪付けてどうするよ。
聖アルフォンソ島は楽園。若鳥は本能に従って好きに羽ばたけばいいのさ」
「クラウスに同情するよ。こんないい加減なのがウーティスの最上級生で申し訳ない」
「ははは。さあ、食おうぜ。せっかくの豪華ディナーが冷めちまう」
最上級生がそう言うので、皆も食べ始めた。皆が食べ始めたので、ジョシュアもフォークを持つ。
ガタンと席を立つ音がする。
アルベルトはワイングラスから唇を離し、のんびり尋ねた。
「どこ行くんだー? ステフ」
両手でテーブルを叩く。
「森に決まっているでしょう? まだ寝てたらどうするの?
新入りに風邪なんか引かせたら、上級生の責任でしょう!」
カツカツと遠ざかって行く靴音を聞きながら、アルベルトは豪快に笑った。
ジョシュアは正面をぼうっと見ていた。
自分の向かいにある空席。
シルヴァンは、いつもどんな所に行ってるんだろう?
どうして、外に行くんだろう?
→
ウーティス寮ダイニングルーム。
専属シェフは、今日も機嫌良く生徒達の前で今日のメニューを説明していた。
ジョシュアはシェフの目を見ながら、話を聞いている。
「鮭と夏野菜のトマト煮でございます。ハーブには島特産のローリエを使い、香り付け致しました。
南フランスはニースの伝統料理ですので、アンリ様は召し上がったことがおありかと」
話を振られた少年はかろうじて小さく頷いたが、「うん」とも声は出さなかった。
中等部三年のアンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマン。
フランス出身でフランス料理を得意するシェフと同郷である為、何かと話し掛けられ易い。
しかし、無口な少年は、迷惑だと言わんばかりに、
毎回、最低限のリアクション(機嫌が悪い時は無視)しかしないのだが、
料理一筋のあまり、鈍いところのあるシェフは、無言の拒否反応に気付かないようである。
ジョシュアには今のところ、見守るしか術がない。
「ラタトゥイユには白のワインがよく合いますので、ご希望の方にはお注ぎ致します」
最初に勢い良く挙げたのは、最高学年のアルベルトだった。
白ワインを注がれると、いつものように「オブリガード!」と母国語で礼を言っていた。
出身はブラジル。大富豪の末っ子故か大らかな性格で、年中笑っているイメージのある人だ。
逆に、いつもイライラしているのが隣に座っている痩せた男。彼はふらりと手を挙げた。
「僕も貰おうかな、今夜は」
「畏まりました、ステファン様」
シェフが彼の元へ向かう。淡い琥珀色の液体が、細いワイングラスに注がれていく。
アルベルトが悪気なくからかった。
「おっ! お前が飲むなんて珍しいなー、ステフ。作曲が上手く行ってないんだろー?」
「いつもながら、気が遣えない人だね、君は」
ステファン・ベルワルド。最高学年。
生粋のスウェーデン人で、シルバーグレイの髪と目を持つ。
ストレートの髪は肩よりやや長い。
肌は白く、その細腕は、血管が青白く透けて見えるほどだ。
気に入らないことがあると、横髪をいじる癖があった。
作曲家の子息で、ステファン自身も作曲、また合唱の英才教育を受けてきた。
音域は広く、地声も人よりやや高めである。
一度、創作期間に入ると、寮内の音楽サロンに鍵まで掛けて閉じ籠るので、
寮生でも暫く顔を見れない日が続く。作曲が終わると、やつれた顔で出てくるのだ。
その暁には発表会を行い、普段の彼とは似ても似つかない癒しの曲を披露する。
ジョシュアはステファンと話す機会はあまりないが、
彼の演奏は繊細で本当に素晴らしく、発表会の日は楽しみにしていた。
アルベルトは笑顔で隣を向く。
「なあ、今はどんな曲作ってんだ? 俺、前の奴、結構好きだったぜ!」
「それより、また新入りが居ないんじゃない?」
空いている席がひとつだけあった。ステファンは横髪をいじりながら、全員に尋ねる。
「新入りがどこに行ってるか、知っている者は、挙手」
皆は顔を見合わせるだけで、誰も発言しなかった。ジョシュアはおそるおそる手を挙げる。
「あの」
皆が一斉にジョシュアを見る。たくさんの視線を居心地悪く思いながら話した。
シルヴァンと一緒に特別講義を受けたこと、その後はシエスタをすると言って森に入るのを見たことだ。
「えっと、そこまでしか知らないんです」
アルベルトは少し笑った。
「オッケ。なら、良いだろう。俺達はディナーにしようぜ。腹減ったー」
ステファンが溜め息を吐く。
「待ってよ。放っといていいの?」
「いいに決まってんだろ。ガキじゃねえんだから放っといても勝手に戻ってくるさ」
「アル!」
ジョシュアが席を立つ。
「俺、森に行って、起こしてきましょうか?」
アルベルトは笑いながら首を横に振った。
「座れよ、ジョシュア。森に行ったってムダさ。
大方、ちょっと眠った後、夜の街に遊びにでも行ったんだろう」
ジョシュアが席に座るのと同時に、ステファンがヒステリックな声を上げる。
「また!? 信じられない! どこまで自由なの、あの新入り!」
「好奇心が旺盛なのは良いじゃないか。別に、何の心配も要らないだろ?
例え、迷子でワンワン泣いてたって、制服さえ着てりゃ、
入ったばっかの新入りでも、うちの生徒だって解るんだし」
「サンバな頭だね、いつもいつも!」
ステファンの声が怒りと共に高くなってくる。
「あの新入りだって、これからここで集団生活をするのだから、
ルールや秩序というものを、きっちり教えてやるのが、上級生の務めじゃないの?」
「何、クラウスみたいなこと言ってんだ? 俺達が新入りに首輪付けてどうするよ。
聖アルフォンソ島は楽園。若鳥は本能に従って好きに羽ばたけばいいのさ」
「クラウスに同情するよ。こんないい加減なのがウーティスの最上級生で申し訳ない」
「ははは。さあ、食おうぜ。せっかくの豪華ディナーが冷めちまう」
最上級生がそう言うので、皆も食べ始めた。皆が食べ始めたので、ジョシュアもフォークを持つ。
ガタンと席を立つ音がする。
アルベルトはワイングラスから唇を離し、のんびり尋ねた。
「どこ行くんだー? ステフ」
両手でテーブルを叩く。
「森に決まっているでしょう? まだ寝てたらどうするの?
新入りに風邪なんか引かせたら、上級生の責任でしょう!」
カツカツと遠ざかって行く靴音を聞きながら、アルベルトは豪快に笑った。
ジョシュアは正面をぼうっと見ていた。
自分の向かいにある空席。
シルヴァンは、いつもどんな所に行ってるんだろう?
どうして、外に行くんだろう?
→
■シルヴァン ジョシュア
講義終了後。ジョシュアはと新入生と一緒に教室を出た。
肩を並べて、廊下を歩いていく。ジョシュアは教科書を手にしていたが、隣は手ぶらだ。
ジョシュアは、新入生を見上げながら、
「授業中、眠たそうだったね。ごめん。動物行動学は興味がなかった?」
「いえ。僕のほうこそ、せっかく誘って頂いたのにすみません」
笑顔で謝ったのがシルヴァン・クラーク。
先週入学し、ジョシュアと同じウーティスに入寮した生徒だ。
今日は、シルヴァンが特別講義を決め兼ねているようだったので、
自分が受けている特別講義の見学を勧めたのである。
結果、睡眠時間を提供しただけに終わったが雰囲気は掴んで貰えた、と思いたい。
本来、新入生の世話を焼くのは、寮の最高学年の役目なのだが、
今年の最上級生は慣習に囚われない自由な性格のせいか、
直々に「同じ学年だし、ジョシュア、頼むな!」と肩を叩かれてしまった。
生徒代表もそれを見越していたのだろう。シルヴァンの入学初日にこう言われた。
「悪いが、ジョシュアも新入りの面倒をみてやってくれ」と。
最上級生二人に頼まれて、断れる人間ではなかったし、新入生への興味も人並みにはあった。
彼は、17歳の高等部一年生なのである。
自分よりひとつ年上の同級生。きっと何か事情があるのだろう。
新入生が口許を手で隠す。欠伸を噛み殺した後、目を擦った。
ジョシュアは心配になる。彼が眠そうなのは授業が始まった時からではない。朝食の時からだ。
入学以降、瞼を重そうにしているのが、ジョシュアは気になっていた。
できるだけ自然な質問に聞こえるように言葉を選んだ。
「昨日は、寝るのが遅かったのかい?」
シルヴァンは入学してからまだ一週間。
もしかしたら、夜に眠れないような悩み事があるのではないか、とジョシュアは密かに心配していた。
自分も新入生の時には、新しく特殊な環境に途惑い、なかなか寝つけない夜があったからだ。
しかし、返ってきたのは、屈託のない笑顔で。
「実は僕、昨夜は旧市街で遊んでいてあまり寝てないんです。寮に帰ってきたのは、3時頃でしたかね?」
「3時? 夜中の?」
ティータイムの3時の筈がないのに、思わずそう聞き返してしまった。
「ええ。あ、皆さんにはナイショにして下さいね?」
笑顔のまま唇の前で人差し指を立てる。
「うっかり、外出届書くの忘れちゃったんで」
深夜の外出は原則認められていない上に、届け出も提出していないとは。
さすがは、入学初日から夜遊び・外泊した人だなと感心してしまった。
『初日から生徒代表を激怒させた新入生』として、彼は学院内で一躍、時の人となったのだ。
「ところで、普段、ジョシュアはアンリとはどんな話をしてるんですか?」
脈絡無く、全く別の質問を振られた。
ああ、話題を変えられたのだ、とジョシュアは理解した。
昨夜どこで何をしていたのか話したくないのだろう。
「アンリとかい? 別に、普通だけど」
「伯爵の話とか! 錬金術の話はしてないんですか!?」
「えっ? いや、全然」
「えー!? ジョシュアもですか!? 困りましたねえ。
僕、アンリと朝まで語り明かしたいくらいなんですけど、なかなか口を利いて貰えないんですよねー」
「シルヴァンはサン・ジェルマン伯爵のこと知ってるんだ?」
「知ってるなんてもんじゃないですよ! 大ファンなんです! だって、彼は稀代の錬金術師で」
シルヴァンが熱く繰り広げるオカルト講座を、ジョシュアは相槌も打てず、黙って聞いていた。
が、耳にしたことがない専門用語らしい単語が多く、話の大半を理解できないまま、森の前まで来た。
ウーティス寮の前に森があるので、校舎から寮に帰ってくると、月桂樹の青い香りが濃くなる。
心が落ち着く、いい匂いだ。シルヴァンの足が止まった。
「どうしたの?」
「僕、まだ寝足りないので森でシエスタしてきます。ジョシュアは先に戻って下さい」
「え? でも、講義はまだ」
ひとコマあるよ、と言おうとしたのだが、シルヴァンは既に駈け出していて。
「今日は特別講義を見学させてくれて、ありがとうございましたー!」
おやすみなさーい、と手を振りながら森へ入って行く。
背にかかる長い髪を見ながら、ジョシュアはその場に立ち尽くしてしまった。
→
肩を並べて、廊下を歩いていく。ジョシュアは教科書を手にしていたが、隣は手ぶらだ。
ジョシュアは、新入生を見上げながら、
「授業中、眠たそうだったね。ごめん。動物行動学は興味がなかった?」
「いえ。僕のほうこそ、せっかく誘って頂いたのにすみません」
笑顔で謝ったのがシルヴァン・クラーク。
先週入学し、ジョシュアと同じウーティスに入寮した生徒だ。
今日は、シルヴァンが特別講義を決め兼ねているようだったので、
自分が受けている特別講義の見学を勧めたのである。
結果、睡眠時間を提供しただけに終わったが雰囲気は掴んで貰えた、と思いたい。
本来、新入生の世話を焼くのは、寮の最高学年の役目なのだが、
今年の最上級生は慣習に囚われない自由な性格のせいか、
直々に「同じ学年だし、ジョシュア、頼むな!」と肩を叩かれてしまった。
生徒代表もそれを見越していたのだろう。シルヴァンの入学初日にこう言われた。
「悪いが、ジョシュアも新入りの面倒をみてやってくれ」と。
最上級生二人に頼まれて、断れる人間ではなかったし、新入生への興味も人並みにはあった。
彼は、17歳の高等部一年生なのである。
自分よりひとつ年上の同級生。きっと何か事情があるのだろう。
新入生が口許を手で隠す。欠伸を噛み殺した後、目を擦った。
ジョシュアは心配になる。彼が眠そうなのは授業が始まった時からではない。朝食の時からだ。
入学以降、瞼を重そうにしているのが、ジョシュアは気になっていた。
できるだけ自然な質問に聞こえるように言葉を選んだ。
「昨日は、寝るのが遅かったのかい?」
シルヴァンは入学してからまだ一週間。
もしかしたら、夜に眠れないような悩み事があるのではないか、とジョシュアは密かに心配していた。
自分も新入生の時には、新しく特殊な環境に途惑い、なかなか寝つけない夜があったからだ。
しかし、返ってきたのは、屈託のない笑顔で。
「実は僕、昨夜は旧市街で遊んでいてあまり寝てないんです。寮に帰ってきたのは、3時頃でしたかね?」
「3時? 夜中の?」
ティータイムの3時の筈がないのに、思わずそう聞き返してしまった。
「ええ。あ、皆さんにはナイショにして下さいね?」
笑顔のまま唇の前で人差し指を立てる。
「うっかり、外出届書くの忘れちゃったんで」
深夜の外出は原則認められていない上に、届け出も提出していないとは。
さすがは、入学初日から夜遊び・外泊した人だなと感心してしまった。
『初日から生徒代表を激怒させた新入生』として、彼は学院内で一躍、時の人となったのだ。
「ところで、普段、ジョシュアはアンリとはどんな話をしてるんですか?」
脈絡無く、全く別の質問を振られた。
ああ、話題を変えられたのだ、とジョシュアは理解した。
昨夜どこで何をしていたのか話したくないのだろう。
「アンリとかい? 別に、普通だけど」
「伯爵の話とか! 錬金術の話はしてないんですか!?」
「えっ? いや、全然」
「えー!? ジョシュアもですか!? 困りましたねえ。
僕、アンリと朝まで語り明かしたいくらいなんですけど、なかなか口を利いて貰えないんですよねー」
「シルヴァンはサン・ジェルマン伯爵のこと知ってるんだ?」
「知ってるなんてもんじゃないですよ! 大ファンなんです! だって、彼は稀代の錬金術師で」
シルヴァンが熱く繰り広げるオカルト講座を、ジョシュアは相槌も打てず、黙って聞いていた。
が、耳にしたことがない専門用語らしい単語が多く、話の大半を理解できないまま、森の前まで来た。
ウーティス寮の前に森があるので、校舎から寮に帰ってくると、月桂樹の青い香りが濃くなる。
心が落ち着く、いい匂いだ。シルヴァンの足が止まった。
「どうしたの?」
「僕、まだ寝足りないので森でシエスタしてきます。ジョシュアは先に戻って下さい」
「え? でも、講義はまだ」
ひとコマあるよ、と言おうとしたのだが、シルヴァンは既に駈け出していて。
「今日は特別講義を見学させてくれて、ありがとうございましたー!」
おやすみなさーい、と手を振りながら森へ入って行く。
背にかかる長い髪を見ながら、ジョシュアはその場に立ち尽くしてしまった。
→
■エドガー カミーユ ジョシュア
「じゃー、次はキッチンに行くかっ」
ジョシュアが入学して、二日目の放課後。
新入生は最上級生に連れられて、寮を案内して貰っていた。
エドガー・ラッセル。このウーティス寮で最も長く暮らしている、高等部三年生。
「俺はウーティス歴六年目だから」と自信満々で案内役を務めている。
ここ聖アルフォンソ学院には原則13歳から18歳までの男子が在籍している。
高等部以降に編入してくる生徒のほうが多いんだ、と昨日、ジョシュアは生徒代表のヤンに聞いた。
ジョシュアやエドガーのように中等部の一年から入る例は少ないのだそうだ。
エドガーも入学当時は目立つ存在だった、とヤンは言っていた。
エドガーは背が高い。短く切った金髪に、引き締まった肉体。見るからに、スポーツが得意そうな人だ。
中等部一年のジョシュアが、先輩のブルーアイを見る為には、見上げる姿勢を取る必要があった。
「この学院には寮が三つあるってヤンに聞いたろ? で、それぞれに専属のシェフが居る。
こういうトコも変わってるよな。で、俺達の寮の担当はカミーユ・ルブラン。
元は、高級レストランで正統派フランス料理を作ってた。結構有名なシェフだったらしいぜ?」
聖アルフォンソ学院の教授陣は、高名な大学教授も在籍していると聞いたが、シェフも一流の人材を集めているらしい。
自分は、なんだかすごい所に来てしまったんだな、とジョシュアは思った。エドガーの足が止まる。
「ほい、ここがキッチン。いい匂いがするな、シェフにも挨拶してくか」
中に入って行くので、ジョシュアも続いた。
「カミーユー、ちょっと良いかー?」
「はい」
味見の手を止めたのは、真っ白なコック服に身を包んだ男。顔は四角に近く、割れ顎。
こういう顔のハリウッドスターを見たことがある、とジョシュアは思う。だが、名前までは知らなかった。
エドガーは、ジョシュアの頭に大きな手を乗せる。
「改めて紹介するよ、カミーユ。こいつ、昨日入った新入生。ジョシュア、挨拶」
与えられたタイミングで、一年生が頭を下げる。
「初めまして、ジョシュア・グラントです。よろしくお願いします」
シェフは、にこっと微笑んだ。
「これはこれは。ご丁寧にありがとうございます」
コック帽を取り、胸の前に置く。
「私は、ウーティス寮の厨房をお預かりしております、カミーユ・ルブランと申します。
どうぞお見知り置きを、ジョシュア様」
自分よりずっと年上の人に下手に出られ、少し居心地の悪さを感じる。
「昨日、今日のお食事は、お口に合いましたでしょうか?」
「あ、はい。とても美味しかったです」
「ありがとうございます。お褒め頂き、至上の喜びです」
ぎゅっとコック帽を握り締めた。
「ジョシュア様、ひとつだけ質問させて頂いてもよろしいでしょうか?」
「はい。何ですか?」
「お嫌いな食べ物や、苦手な味付けはございますか? 食物アレルギーはないと伺っておりますが」
「好き嫌いですか? ない、と思います」
「ホントかー? 遠慮しないで言っていいんだぜ?
まあ、ニンジンが嫌いって宣言しても、ケーキで出されて、
実はニンジンケーキでした、って後で知らされたりするんだけどな?」
「懐かしいですね。エドガー様がご入学された頃でしたでしょうか」
「だな。んで、だんだんニンジンの形が大きい料理になってって、
今じゃ、ニンジンのスティックも食べられるようになったんだからな。
入学前はハンバークの付け合わせで出てきても、ニンジンのソテーだけは絶対残してたのに。自分でも信じられないぜ」
「エドガー様はニンジンに苦手意識を持っておいででしたが、そのソテーの味付けがお口に合わなかっただけでした。
嫌いだと思っている食べ物でも、調理法が違えば、お召し上がりになれることもございます。
エドガー様も、この六年の間に見事ニンジンを克服されました。流石はエドガー様です」
「あんたの腕が良いからだろ? 何度、カミーユ・マジックにダマされて、知らずに食わされたことか」
シェフは笑って「申し訳ありません」
謝られたエドガーも笑った。
二人の様子を見て、ジョシュアは、エドガーも本当はシェフに感謝しているんだな、と理解した。
「で、ジョシュア。お前はニンジン、ヘーキなのか? あとピーマン食えない奴も居るし。
黙ってても、毎回皿に残したら、すぐバレちまうんだしさ。甘いのが嫌だとか、辛いのがダメとか、何でも良いんだぜ?」
「あっ、あんまり辛いのは……」
「畏まりました。ジョシュア様は特別お嫌いなものはないのですね。素晴らしいことです」
「マジで好き嫌いないのかよ? お前、スゲーな。尊敬するわ」
二人に褒められて、ジョシュアは俯いてしまう。
「ジョシュア様、お答え頂き、ありがとうございました。質問は以上です。
改めまして、ご入学おめでとうございます。
そして、ウーティス寮へのお越しを心より嬉しく思います。
今後、お食事についてご希望がございましたら、何なりとお申し付け下さい。
お好きな物からお嫌いな物まで、最高の料理をお作り致します」
「はい」
この人は、料理に対してすごく真面目な人なんだ、ということがジョシュアにも感じられた。
「よっし。じゃーな、カミーユ」
エドガーとジョシュアはキッチンを後にした。
廊下を歩きながら、エドガーは背の低い後輩を見やる。
「いいヤツだろ、カミーユって」
「はい。そう思います」
「腕は超一流、生徒には親切、なんだけどなあ」
「えっ?」
「あー、何でもない、何でもない。次の部屋行くぞー」
新入生は首を傾げつつ、先輩の背中を追いかけた。
fin
ジョシュアが入学して、二日目の放課後。
新入生は最上級生に連れられて、寮を案内して貰っていた。
エドガー・ラッセル。このウーティス寮で最も長く暮らしている、高等部三年生。
「俺はウーティス歴六年目だから」と自信満々で案内役を務めている。
ここ聖アルフォンソ学院には原則13歳から18歳までの男子が在籍している。
高等部以降に編入してくる生徒のほうが多いんだ、と昨日、ジョシュアは生徒代表のヤンに聞いた。
ジョシュアやエドガーのように中等部の一年から入る例は少ないのだそうだ。
エドガーも入学当時は目立つ存在だった、とヤンは言っていた。
エドガーは背が高い。短く切った金髪に、引き締まった肉体。見るからに、スポーツが得意そうな人だ。
中等部一年のジョシュアが、先輩のブルーアイを見る為には、見上げる姿勢を取る必要があった。
「この学院には寮が三つあるってヤンに聞いたろ? で、それぞれに専属のシェフが居る。
こういうトコも変わってるよな。で、俺達の寮の担当はカミーユ・ルブラン。
元は、高級レストランで正統派フランス料理を作ってた。結構有名なシェフだったらしいぜ?」
聖アルフォンソ学院の教授陣は、高名な大学教授も在籍していると聞いたが、シェフも一流の人材を集めているらしい。
自分は、なんだかすごい所に来てしまったんだな、とジョシュアは思った。エドガーの足が止まる。
「ほい、ここがキッチン。いい匂いがするな、シェフにも挨拶してくか」
中に入って行くので、ジョシュアも続いた。
「カミーユー、ちょっと良いかー?」
「はい」
味見の手を止めたのは、真っ白なコック服に身を包んだ男。顔は四角に近く、割れ顎。
こういう顔のハリウッドスターを見たことがある、とジョシュアは思う。だが、名前までは知らなかった。
エドガーは、ジョシュアの頭に大きな手を乗せる。
「改めて紹介するよ、カミーユ。こいつ、昨日入った新入生。ジョシュア、挨拶」
与えられたタイミングで、一年生が頭を下げる。
「初めまして、ジョシュア・グラントです。よろしくお願いします」
シェフは、にこっと微笑んだ。
「これはこれは。ご丁寧にありがとうございます」
コック帽を取り、胸の前に置く。
「私は、ウーティス寮の厨房をお預かりしております、カミーユ・ルブランと申します。
どうぞお見知り置きを、ジョシュア様」
自分よりずっと年上の人に下手に出られ、少し居心地の悪さを感じる。
「昨日、今日のお食事は、お口に合いましたでしょうか?」
「あ、はい。とても美味しかったです」
「ありがとうございます。お褒め頂き、至上の喜びです」
ぎゅっとコック帽を握り締めた。
「ジョシュア様、ひとつだけ質問させて頂いてもよろしいでしょうか?」
「はい。何ですか?」
「お嫌いな食べ物や、苦手な味付けはございますか? 食物アレルギーはないと伺っておりますが」
「好き嫌いですか? ない、と思います」
「ホントかー? 遠慮しないで言っていいんだぜ?
まあ、ニンジンが嫌いって宣言しても、ケーキで出されて、
実はニンジンケーキでした、って後で知らされたりするんだけどな?」
「懐かしいですね。エドガー様がご入学された頃でしたでしょうか」
「だな。んで、だんだんニンジンの形が大きい料理になってって、
今じゃ、ニンジンのスティックも食べられるようになったんだからな。
入学前はハンバークの付け合わせで出てきても、ニンジンのソテーだけは絶対残してたのに。自分でも信じられないぜ」
「エドガー様はニンジンに苦手意識を持っておいででしたが、そのソテーの味付けがお口に合わなかっただけでした。
嫌いだと思っている食べ物でも、調理法が違えば、お召し上がりになれることもございます。
エドガー様も、この六年の間に見事ニンジンを克服されました。流石はエドガー様です」
「あんたの腕が良いからだろ? 何度、カミーユ・マジックにダマされて、知らずに食わされたことか」
シェフは笑って「申し訳ありません」
謝られたエドガーも笑った。
二人の様子を見て、ジョシュアは、エドガーも本当はシェフに感謝しているんだな、と理解した。
「で、ジョシュア。お前はニンジン、ヘーキなのか? あとピーマン食えない奴も居るし。
黙ってても、毎回皿に残したら、すぐバレちまうんだしさ。甘いのが嫌だとか、辛いのがダメとか、何でも良いんだぜ?」
「あっ、あんまり辛いのは……」
「畏まりました。ジョシュア様は特別お嫌いなものはないのですね。素晴らしいことです」
「マジで好き嫌いないのかよ? お前、スゲーな。尊敬するわ」
二人に褒められて、ジョシュアは俯いてしまう。
「ジョシュア様、お答え頂き、ありがとうございました。質問は以上です。
改めまして、ご入学おめでとうございます。
そして、ウーティス寮へのお越しを心より嬉しく思います。
今後、お食事についてご希望がございましたら、何なりとお申し付け下さい。
お好きな物からお嫌いな物まで、最高の料理をお作り致します」
「はい」
この人は、料理に対してすごく真面目な人なんだ、ということがジョシュアにも感じられた。
「よっし。じゃーな、カミーユ」
エドガーとジョシュアはキッチンを後にした。
廊下を歩きながら、エドガーは背の低い後輩を見やる。
「いいヤツだろ、カミーユって」
「はい。そう思います」
「腕は超一流、生徒には親切、なんだけどなあ」
「えっ?」
「あー、何でもない、何でもない。次の部屋行くぞー」
新入生は首を傾げつつ、先輩の背中を追いかけた。
fin
■ソクーロフ アイヴィー
「楽しかったか? フィンシャル・バザーは」
学院のタクシードライバーはハンドルを握りながら、後部座席にそう尋ねた。
聖アルフォンソ島、最大の街フィンシャルでは、年に四回、広場でバザーが行われる。
島民も生徒も楽しみにしているイベントだ。
「楽しかったよ! 掘り出し物がたくさんあったんだ! 素晴らしいね、リサイクルは!」
今日の乗客はシュヌーシア寮の三人。元気良く答えたのは、高等部二年のテオ。
「で、なんか、イイモン買えたのか?」
ドライバーにそう聞かれ、テオは座席から乗り出した。
「そうなのだよ! 見ておくれ、アイヴィー! このデミタスカップ!」
運転中のドライバーは赤信号で止まってからチラッと視線を落とす。
白のシンプルなデザイン。エスプレッソ用の小さなカップが二つ。
「ペアのカップが欲しいなと思っていたところだったんだ」
「へえ。そいつは良かったな」
「うん!」
大事そうに抱えて、後部座席に凭れた。アイヴィーは他の二人に尋ねる。
「レオンとラビットも、お買い物したのか?」
「うん。あのね、優しいおじいさんが居てね」
中等部一年のラビットが、ぼそぼそ話し出したところで、同じく一年のレオンが、叫んだ。
「あー! ちょっと、車止めてー!」
「ど、どうした?」
「あそこ! アイスクリームの車が停まってる! 俺、あれ、食いたい!」
ピンク地に白の水玉模様の移動販売車。あたたかくなってくると見掛ける車だ。
ラビットとテオも釘付けになっている。
「アイス? 僕も食べたい!」
「私も! アイヴィー、向かってくれるかい?」
運転手は「わーったよ」とハンドルを切った。
月が月桂樹の森を照らしている。
生徒が歩いていない森では、あちこちで夜行性の動物達の目が光っていた。
森の中腹にある泉。その傍らに場違いな木が一本だけ佇んでいる。
冷たい夜風が葉を一枚落とした。真っ暗な水面が揺れ、満月がぼやける。
森から少し離れた建物には人工の光が灯っている。
保健室の窓にはまだ明かりが付いているのが見えた。
とっくに勤務時間が終わっているにも関わらず、保健医はここに居た。
スタニスラフ・ニコライエヴィッチ・ソクーロフ。
学院の保健教師兼、カウンセラーは、
気に入りのクラシック・セレクションを掛けながら、机に向かっている。
頬を拳で支えながら、途切れ途切れにペンを走らせる。
カチャ、と音がしてカセットテープが止まる。A面が終わったようだ。
それを聞いてカウンセラーはペンを置いた。
部屋の中が肌寒いのに気付いて、ゆっくりと窓辺に向かう。
室内室外温度計の数値を眺めた後、窓の外を見上げた。
今夜の月は位置が低い。畏怖を感じさせる、大きな満月。
アメリカのロマンチストな精神科医が唱えた、非科学的な理論が思い出される。
“月は人を狂わせる”
黒にくっきりと浮かぶ白。昨日雨が降ったせいか、夜空が澄んで見える。
音楽のない部屋で一人、保健医は呟いた。
「嫌な夜だ」
保健室のドアがノックされた。コン、コン、コン、と小気味良く三回。
入りたまえ、と言う気が失われる。黙っていても勝手に開くと解っているからだ。
「ソークーちゃん。あー、居た居たー」
ドアを開けた金髪の男は、ニコニコと入ってくる。
アイヴィーと名乗っている、学院の専属ドライバー兼、警備担当者だ。
「ねえ、ねえ。カレー、好きー?」
保健室に居たのは保健教師一人。白衣の男はつまらなさそうに、
「なんだ?」
「あのね、フィンシャルに新しいカレー屋さんができたんだって。今晩、味見に行かない?」
「新しい店か」
「カレーだけじゃなくて、焼きたてのナンもウマイって街で評判になってた。
コックさんは本場のインド人らしいよん。もうウマイの間違いなしってかんじ」
「客のフリをして新店舗の視察か、ご苦労なことだな」
「正式な視察は終わってるよ」
「ほう。二度行かなくてはいけない理由でも?」
「無い無い。俺がカレー食べたいだけ」
「なら、一人で行け」
「もー、んなイジワル言ってないでさー」
保健室の固定電話が鳴る。顔を見合わせた後、保健医は受話器を取った。
アイヴィーは静かに見守る。保健医はこれだけ言った。
「解った。すぐに行くよ。クラウス、部屋の窓を半分程開けておいてくれるかい? うん。頼むよ」
受話器を置くと、すぐに革鞄に必要な物を揃え始めた。
「シュヌーシアにお呼ばれしちゃった?」
金髪の男が尋ねると、保健医は背中を向けたまま、
「ああ。ラビットが発作を起こした。あの子は生まれつき、小児喘息を持っている」
手早く用意を終えた保健医が振り向く。
「カレー屋には行けないぞ」
「あ、うん。そだね。じゃあ俺は……」
「待て。誰が帰って良いと言った? お前も来い。手伝え」
「えっ? でも俺、医師免許持ってないし」
「お前はタクシー代わりだ。おそらくラビットを保健室に運ぶことになる。お前が背負え」
金髪の男はフッと笑う。
「ソクちゃんってば、いっつも俺のカラダ目的」
「他にお前の使い道があるか? 行くぞ」
第三学生寮シュヌーシア。保健室から一番近い寮だ。
ドアを開けたところで、クラウスが待っていた。
今年の生徒代表は、このシュヌーシア寮の最高学年だ。
場違いなタクシードライバーを見て、眉間に皺を寄せる。
「助手として連れてきたんだ。ラビットを保健室に運ぶ為にね」
ソクーロフ博士がそう言うと、一応、納得してくれたみたいで、
クラウスは「こちらです」とラビットの部屋まで案内してくれた。
歩きながら医師はクラウスに尋ねる。
「ラビットの発作に気付いたのは君かい?」
「いえ。レオンです。ベッドに入った時に、宿題があったことに気付いたようで、
ラビットに答えを写させて貰おうと、部屋を訪ねたんです」
生真面目な眉間に皺が寄る。
「おかげで発作の発見が早かったわけですが、
宿題の答えを写そうなどと考えた点については、後で俺から叱っておきます」
ラビットの部屋の前には、パジャマ姿の生徒達が居た。
廊下から、心配そうに部屋の中を伺っている。
そのうちの一人が、医師の到着に気付く。
「あっ! 先生が来たよ!」
生徒達は、ほっとした表情を見せた。
身体の弱い生徒が多いこの寮では特に、この医師は絶大な信頼を得ていた。
生徒の間を通って、クラウス、ソクーロフ、アイヴィーが部屋の中に入る。
寮では見慣れぬタクシードライバーの登場に、生徒達は一瞬「えっ?」という顔をするが、
そんなことより今は、と博士の一挙一動に視線が集まった。
部屋の中は肌寒かった。医師の言い付け通り、窓はきっちり半分開けられている。
おかげで室内は既に換気され、空気は澄んでいる。
ラビットはベッドの上で横になっていた。
雪のように透き通る肌に、サラサラとした栗毛。
ベッドの傍には、テオとレオンが居た。
「博士! ラビが! ラビがぁー!!」
テオが縋り付くように医師に迫る。
「寝る前になって、急に苦しみ出して!」
心配で胸が潰れそうと言わんばかりに目に涙を浮かべている。
「落ち着きなさい、テオ。私が来たのだから」
「ああ! なんて頼もしいお言葉!」
ラビットはウサギのぬいぐるみを抱き締めながら、苦しそうに肩を上下させている。
息を吐く時に、ヒュー、ヒュー、という喘鳴(ぜんめい)がしている。
ラビットは紫色に近い唇で「せん、せ……」と切れ切れな声で医師を呼んだ。
ソクーロフはベッドの前で膝を着き、優しい顔を見せる。
栗毛をそっと撫でながら「大丈夫だからね」と言った。
医師が患者の診察している間、周りの生徒達は息を飲んで見守っていた。
「一時的な発作のようだから、薬を飲めばすぐに良くなるよ。さあ、君達」
生徒達を振り向く。優しい先生の笑顔を見せる。
「ラビットを心配してくれてありがとう。後は私に任せて、君達は部屋に戻って休みなさい?
今夜は冷えるから、あたたかくして寝るんだよ?」
先生にそう言われた生徒達は、名残惜しそうにしながらも、
「はーい」「おやすみなさーい」と言うことを聞いて、部屋に戻って行った。
ラビットをアイヴィーの背に乗せる。
クラウスが医師に頭を下げる。
「ありがとうございます、博士。いつもすみません」
「良いんだよ。いつも迅速に知らせてくれてありがとう、クラウス」
「いえ。後輩の面倒を見るのは上級生の責任ですから」
「毎年思うが、シュヌーシアは面倒見の良いお兄さんに恵まれて、弟達は幸せだ。ではラビットをお預かりするよ」
「はい。よろしくお願いします」
保健室。薬を飲んだ後、ラビットの呼吸は次第に元に戻っていった。
今はベッドで規則的な寝息を立てている。先生の手が生徒の頭をそっと撫でる。
「おやすみ、ラビット」
電気を消した。
医師が二階のベッドルームから下りてくる。
診察室には買い出しから戻ったアイヴィーが居た。
缶コーヒーを飲みながら、簡易ベッドに腰掛けて寛いでいる。
ソクーロフの顔を見て、ひょいと缶を掲げる。
「眠った? ウサギちゃん」
「ああ」
「ヨカッタ」
医師は自分の椅子に座る。保健室の異変に気付いた。
「おい、この匂いは」
普段は薬の香りがする診察室が食べ物の匂いで侵されている。
デスクには、ビニール袋が乗っていた。アイヴィーは笑顔で「じゃーん」と取り出した。
二人分のカレーとナン。ラッシーと呼ばれる、ヨーグルトドリンクまである。
「お前、新しいカレー屋とやらまで行ってきたのか?」
「うん。テイクアウトもできんだね。美味かったら通っちゃおうかなー。ソクちゃん、中辛と辛口どっちがイイ?」
「どちらでも」
「じゃー、中辛ね。俺、辛口にチャレンジする」
ガサガサと袋から出した。
夜中の診察室で、大人二人がカレーを食べている。
「まだあったかいね」などと、はしゃぎつつ、
アイヴィーはカレーとラッシーを交互に口に運んでいた。
「ラビットはさ、よくこうやって発作を起こすの?」
ソクーロフは特にテンションが上がる様子なく、黙々とナンをちぎって、上品に食している。
「いや。ラビットは間欠型だ」
「カンケツ型?」
「毎日、発作を起こすのではなく、時々しか起こらないという意味だ。
喘息の重症度から言えば、最も軽症のグループに位置する」
「じゃあ、今日はなんで」
「複数の要因が考えられる。外的要因で言えば、先ずは気候だな。
今日は昨日より5度も気温が低い上に、雨上がりで湿度が高い。喘息の発作を誘発する確率の高い日だ」
アイヴィーはラッシーのストローを銜えながら聞いていたが、あっと言って離した。
「だから、俺がカレー屋さん行こうって言った時、一人で行けって……」
「それから、あのぬいぐるみ」
「あ、ウサギの?」
「ああ。今日のバザーで貰った物だと言っていた。
ラビットが気に入って見ていたら、それならタダでいいよ、と言われたそうだ。
少し汚れていた。あれからホコリやダニを吸い込んだのかもしれない。
他に何か心理的な負荷が掛かった可能性もある」
アイヴィーは、ひー、と舌を出す。
「ね、やっぱ交換して?」
「何を」
アイヴィーは自分のカレーを差し出す。
「辛口、カラかった。俺、そっちの中辛食べたい」
カレーがトレードされる。
交換したカレーをアイヴィーがひと口食べる。
「あ、コッチのがウマイ」
ソクーロフは辛口を食べても、表情が変わることもなく、黙々と口に運んでいた。
「それを食べたら、お前はもう帰って良いぞ。用済みだからな」
「使い終わったらポイ捨てかよ。リサイクルの時代なんだぞ、今は」
「お前に優しくする必要はない」
酷いオトコ、とアイヴィーは笑った。
「ソクーロフ先生は? ホントに今夜は寝ないで看るつもり?」
「当たり前だ。夜間の喘息は、二、三度繰り返す可能性があるからな」
アイヴィーは腕時計を眺める。
「じゃあさ、三時間ずつ、俺と交代で寝るっての、どう?」
fin
学院のタクシードライバーはハンドルを握りながら、後部座席にそう尋ねた。
聖アルフォンソ島、最大の街フィンシャルでは、年に四回、広場でバザーが行われる。
島民も生徒も楽しみにしているイベントだ。
「楽しかったよ! 掘り出し物がたくさんあったんだ! 素晴らしいね、リサイクルは!」
今日の乗客はシュヌーシア寮の三人。元気良く答えたのは、高等部二年のテオ。
「で、なんか、イイモン買えたのか?」
ドライバーにそう聞かれ、テオは座席から乗り出した。
「そうなのだよ! 見ておくれ、アイヴィー! このデミタスカップ!」
運転中のドライバーは赤信号で止まってからチラッと視線を落とす。
白のシンプルなデザイン。エスプレッソ用の小さなカップが二つ。
「ペアのカップが欲しいなと思っていたところだったんだ」
「へえ。そいつは良かったな」
「うん!」
大事そうに抱えて、後部座席に凭れた。アイヴィーは他の二人に尋ねる。
「レオンとラビットも、お買い物したのか?」
「うん。あのね、優しいおじいさんが居てね」
中等部一年のラビットが、ぼそぼそ話し出したところで、同じく一年のレオンが、叫んだ。
「あー! ちょっと、車止めてー!」
「ど、どうした?」
「あそこ! アイスクリームの車が停まってる! 俺、あれ、食いたい!」
ピンク地に白の水玉模様の移動販売車。あたたかくなってくると見掛ける車だ。
ラビットとテオも釘付けになっている。
「アイス? 僕も食べたい!」
「私も! アイヴィー、向かってくれるかい?」
運転手は「わーったよ」とハンドルを切った。
月が月桂樹の森を照らしている。
生徒が歩いていない森では、あちこちで夜行性の動物達の目が光っていた。
森の中腹にある泉。その傍らに場違いな木が一本だけ佇んでいる。
冷たい夜風が葉を一枚落とした。真っ暗な水面が揺れ、満月がぼやける。
森から少し離れた建物には人工の光が灯っている。
保健室の窓にはまだ明かりが付いているのが見えた。
とっくに勤務時間が終わっているにも関わらず、保健医はここに居た。
スタニスラフ・ニコライエヴィッチ・ソクーロフ。
学院の保健教師兼、カウンセラーは、
気に入りのクラシック・セレクションを掛けながら、机に向かっている。
頬を拳で支えながら、途切れ途切れにペンを走らせる。
カチャ、と音がしてカセットテープが止まる。A面が終わったようだ。
それを聞いてカウンセラーはペンを置いた。
部屋の中が肌寒いのに気付いて、ゆっくりと窓辺に向かう。
室内室外温度計の数値を眺めた後、窓の外を見上げた。
今夜の月は位置が低い。畏怖を感じさせる、大きな満月。
アメリカのロマンチストな精神科医が唱えた、非科学的な理論が思い出される。
“月は人を狂わせる”
黒にくっきりと浮かぶ白。昨日雨が降ったせいか、夜空が澄んで見える。
音楽のない部屋で一人、保健医は呟いた。
「嫌な夜だ」
保健室のドアがノックされた。コン、コン、コン、と小気味良く三回。
入りたまえ、と言う気が失われる。黙っていても勝手に開くと解っているからだ。
「ソークーちゃん。あー、居た居たー」
ドアを開けた金髪の男は、ニコニコと入ってくる。
アイヴィーと名乗っている、学院の専属ドライバー兼、警備担当者だ。
「ねえ、ねえ。カレー、好きー?」
保健室に居たのは保健教師一人。白衣の男はつまらなさそうに、
「なんだ?」
「あのね、フィンシャルに新しいカレー屋さんができたんだって。今晩、味見に行かない?」
「新しい店か」
「カレーだけじゃなくて、焼きたてのナンもウマイって街で評判になってた。
コックさんは本場のインド人らしいよん。もうウマイの間違いなしってかんじ」
「客のフリをして新店舗の視察か、ご苦労なことだな」
「正式な視察は終わってるよ」
「ほう。二度行かなくてはいけない理由でも?」
「無い無い。俺がカレー食べたいだけ」
「なら、一人で行け」
「もー、んなイジワル言ってないでさー」
保健室の固定電話が鳴る。顔を見合わせた後、保健医は受話器を取った。
アイヴィーは静かに見守る。保健医はこれだけ言った。
「解った。すぐに行くよ。クラウス、部屋の窓を半分程開けておいてくれるかい? うん。頼むよ」
受話器を置くと、すぐに革鞄に必要な物を揃え始めた。
「シュヌーシアにお呼ばれしちゃった?」
金髪の男が尋ねると、保健医は背中を向けたまま、
「ああ。ラビットが発作を起こした。あの子は生まれつき、小児喘息を持っている」
手早く用意を終えた保健医が振り向く。
「カレー屋には行けないぞ」
「あ、うん。そだね。じゃあ俺は……」
「待て。誰が帰って良いと言った? お前も来い。手伝え」
「えっ? でも俺、医師免許持ってないし」
「お前はタクシー代わりだ。おそらくラビットを保健室に運ぶことになる。お前が背負え」
金髪の男はフッと笑う。
「ソクちゃんってば、いっつも俺のカラダ目的」
「他にお前の使い道があるか? 行くぞ」
第三学生寮シュヌーシア。保健室から一番近い寮だ。
ドアを開けたところで、クラウスが待っていた。
今年の生徒代表は、このシュヌーシア寮の最高学年だ。
場違いなタクシードライバーを見て、眉間に皺を寄せる。
「助手として連れてきたんだ。ラビットを保健室に運ぶ為にね」
ソクーロフ博士がそう言うと、一応、納得してくれたみたいで、
クラウスは「こちらです」とラビットの部屋まで案内してくれた。
歩きながら医師はクラウスに尋ねる。
「ラビットの発作に気付いたのは君かい?」
「いえ。レオンです。ベッドに入った時に、宿題があったことに気付いたようで、
ラビットに答えを写させて貰おうと、部屋を訪ねたんです」
生真面目な眉間に皺が寄る。
「おかげで発作の発見が早かったわけですが、
宿題の答えを写そうなどと考えた点については、後で俺から叱っておきます」
ラビットの部屋の前には、パジャマ姿の生徒達が居た。
廊下から、心配そうに部屋の中を伺っている。
そのうちの一人が、医師の到着に気付く。
「あっ! 先生が来たよ!」
生徒達は、ほっとした表情を見せた。
身体の弱い生徒が多いこの寮では特に、この医師は絶大な信頼を得ていた。
生徒の間を通って、クラウス、ソクーロフ、アイヴィーが部屋の中に入る。
寮では見慣れぬタクシードライバーの登場に、生徒達は一瞬「えっ?」という顔をするが、
そんなことより今は、と博士の一挙一動に視線が集まった。
部屋の中は肌寒かった。医師の言い付け通り、窓はきっちり半分開けられている。
おかげで室内は既に換気され、空気は澄んでいる。
ラビットはベッドの上で横になっていた。
雪のように透き通る肌に、サラサラとした栗毛。
ベッドの傍には、テオとレオンが居た。
「博士! ラビが! ラビがぁー!!」
テオが縋り付くように医師に迫る。
「寝る前になって、急に苦しみ出して!」
心配で胸が潰れそうと言わんばかりに目に涙を浮かべている。
「落ち着きなさい、テオ。私が来たのだから」
「ああ! なんて頼もしいお言葉!」
ラビットはウサギのぬいぐるみを抱き締めながら、苦しそうに肩を上下させている。
息を吐く時に、ヒュー、ヒュー、という喘鳴(ぜんめい)がしている。
ラビットは紫色に近い唇で「せん、せ……」と切れ切れな声で医師を呼んだ。
ソクーロフはベッドの前で膝を着き、優しい顔を見せる。
栗毛をそっと撫でながら「大丈夫だからね」と言った。
医師が患者の診察している間、周りの生徒達は息を飲んで見守っていた。
「一時的な発作のようだから、薬を飲めばすぐに良くなるよ。さあ、君達」
生徒達を振り向く。優しい先生の笑顔を見せる。
「ラビットを心配してくれてありがとう。後は私に任せて、君達は部屋に戻って休みなさい?
今夜は冷えるから、あたたかくして寝るんだよ?」
先生にそう言われた生徒達は、名残惜しそうにしながらも、
「はーい」「おやすみなさーい」と言うことを聞いて、部屋に戻って行った。
ラビットをアイヴィーの背に乗せる。
クラウスが医師に頭を下げる。
「ありがとうございます、博士。いつもすみません」
「良いんだよ。いつも迅速に知らせてくれてありがとう、クラウス」
「いえ。後輩の面倒を見るのは上級生の責任ですから」
「毎年思うが、シュヌーシアは面倒見の良いお兄さんに恵まれて、弟達は幸せだ。ではラビットをお預かりするよ」
「はい。よろしくお願いします」
保健室。薬を飲んだ後、ラビットの呼吸は次第に元に戻っていった。
今はベッドで規則的な寝息を立てている。先生の手が生徒の頭をそっと撫でる。
「おやすみ、ラビット」
電気を消した。
医師が二階のベッドルームから下りてくる。
診察室には買い出しから戻ったアイヴィーが居た。
缶コーヒーを飲みながら、簡易ベッドに腰掛けて寛いでいる。
ソクーロフの顔を見て、ひょいと缶を掲げる。
「眠った? ウサギちゃん」
「ああ」
「ヨカッタ」
医師は自分の椅子に座る。保健室の異変に気付いた。
「おい、この匂いは」
普段は薬の香りがする診察室が食べ物の匂いで侵されている。
デスクには、ビニール袋が乗っていた。アイヴィーは笑顔で「じゃーん」と取り出した。
二人分のカレーとナン。ラッシーと呼ばれる、ヨーグルトドリンクまである。
「お前、新しいカレー屋とやらまで行ってきたのか?」
「うん。テイクアウトもできんだね。美味かったら通っちゃおうかなー。ソクちゃん、中辛と辛口どっちがイイ?」
「どちらでも」
「じゃー、中辛ね。俺、辛口にチャレンジする」
ガサガサと袋から出した。
夜中の診察室で、大人二人がカレーを食べている。
「まだあったかいね」などと、はしゃぎつつ、
アイヴィーはカレーとラッシーを交互に口に運んでいた。
「ラビットはさ、よくこうやって発作を起こすの?」
ソクーロフは特にテンションが上がる様子なく、黙々とナンをちぎって、上品に食している。
「いや。ラビットは間欠型だ」
「カンケツ型?」
「毎日、発作を起こすのではなく、時々しか起こらないという意味だ。
喘息の重症度から言えば、最も軽症のグループに位置する」
「じゃあ、今日はなんで」
「複数の要因が考えられる。外的要因で言えば、先ずは気候だな。
今日は昨日より5度も気温が低い上に、雨上がりで湿度が高い。喘息の発作を誘発する確率の高い日だ」
アイヴィーはラッシーのストローを銜えながら聞いていたが、あっと言って離した。
「だから、俺がカレー屋さん行こうって言った時、一人で行けって……」
「それから、あのぬいぐるみ」
「あ、ウサギの?」
「ああ。今日のバザーで貰った物だと言っていた。
ラビットが気に入って見ていたら、それならタダでいいよ、と言われたそうだ。
少し汚れていた。あれからホコリやダニを吸い込んだのかもしれない。
他に何か心理的な負荷が掛かった可能性もある」
アイヴィーは、ひー、と舌を出す。
「ね、やっぱ交換して?」
「何を」
アイヴィーは自分のカレーを差し出す。
「辛口、カラかった。俺、そっちの中辛食べたい」
カレーがトレードされる。
交換したカレーをアイヴィーがひと口食べる。
「あ、コッチのがウマイ」
ソクーロフは辛口を食べても、表情が変わることもなく、黙々と口に運んでいた。
「それを食べたら、お前はもう帰って良いぞ。用済みだからな」
「使い終わったらポイ捨てかよ。リサイクルの時代なんだぞ、今は」
「お前に優しくする必要はない」
酷いオトコ、とアイヴィーは笑った。
「ソクーロフ先生は? ホントに今夜は寝ないで看るつもり?」
「当たり前だ。夜間の喘息は、二、三度繰り返す可能性があるからな」
アイヴィーは腕時計を眺める。
「じゃあさ、三時間ずつ、俺と交代で寝るっての、どう?」
fin
■アイヴィー ソクーロフ
タクシードライバーの一番イイトコは、
空き時間を割と自由に過ごせることだと思う。
あんまりサボってると、バレて怒られちゃうけど。
「ね、ソクちゃん。今日さ、久し振りに飲みに行きません?」
新市街の道路脇に停めたタクシー。
その超目立つ黄色い扉に凭れて、俺は携帯電話を耳に当てていた。
「なんでって? 俺が明日お休みだから」
道路の向こうを通りがかった島民が、俺を見付けて笑顔を見せた。
赤毛を後ろでひょいと結んだ若いオトコ。美味いナチョスを作れるバー店員だ。
俺は空いてる右手を挙げて、挨拶する。
赤毛のお兄さんも同じように手で挨拶を返して、また歩いていった。
携帯から低い声が聞こえる。俺は笑って、返事した。
「ダイジョーブだよ、今日は。え? 勘だよ、アイヴィー様のカン」
タクシーの屋根を枕に空を見る。
キレーな野菜ジュース色。いや、ニンジン色かな。
冬も終わったから、気温だって最高に丁度イイ。
「こーんな夕焼けの日に、お客さんなんか来ないって」
気持ち良く晴れた日に、島への侵入者が来る確率は低い(当社調べ)
耳許で、呆れた吐息。
電話越しなのにゾクリとして、少しだけ耳から離す。
「あー、ゴメン、何? ああ、そだね。現地集合にしよっか。時間はー」
手首を覗く。現在17時45分。
「りょーかい。ほいじゃ、20時に『ネモフィラ』で」
携帯をポケットに仕舞う。
とっておきのバーでソクちゃんとの飲み会が決まった。
お休みの前の日って、なんでこんなにワクワクするんだろ。
「さて。次の王子様方を迎えに行きますか」
飲み会まで、もうひと仕事。
次の待ち合わせは、18時にライブハウス前だ。
黄色い扉を開ける。運転席に滑り込み、シートベルトを締める。
手に馴染んだハンドルを握った。
新市街から向かった先は、旧市街のライブハウス前。
王子様トリオは、もう店先で待っていた。
後部座席に、アルフレッド、シルヴァン、ハルヤが乗った。
三人はライブハウスのスタジオを借りて、バンドの練習をしていた。
こいつらが組んでるバンド『デッドプリンス』のライブが近いのだ。
で、その帰りの車に呼ばれたのが俺のタクシー。
後部座席では、あーだーこーだとライブについて打ち合わせしている。
そのうちに、アルフレッドが後部座席から乗り出した。
「なあ、アイヴィー。やっぱさ、今日、泊めてくんね?」
「ああ? 何、言ってんだよ、急に?」
「最近、あんたんち行ってなかったからさ。イイだろ?」
「イイですね! じゃ、行き先はアイヴィーの家に変更で」
「勝手に決めんな。行き先はガッコ」
「俺、家ん中がちらかってても、全然気にならないぜ?」
「んなとこ気にしてねーよ。俺がダメなの。今夜は空いてない」
「ほおー? さては、ついにオンナでもできたかー? このこのー」
「えっ、そ、そうなの?」
「アイヴィーに限って有り得ませんよー。ね、アイヴィー?」
「……まあ、その通りなんだけどさ。自信満々に言ってくれるな」
「じゃー、なんでダメなわけー? 俺、今日はあんたのパスタが食いたい!」
「カミーユに食わせて貰えよ。何でも作ってくれんだろ? お前さん達のシェフは」
「それがイヤだから、言ってんだろー。あーあ、カミーユの腕が急に三流になったりしねーかなー」
「無茶苦茶なこと言うなよ、一流シェフに向かって」
三人が住んでいる寮には、専属シェフが居る。
カミーユ・ルブラン。島に来るまでは某有名店で正統派フレンチシェフだった男だ。
完璧過ぎるお上品な料理が、このガキどもにはどうも不評のようで。
ちょくちょく俺の雑な料理を食べにくるのだ。
突然、車中に警報音が響いた。俺の手首も鳴っている。
同時にカーナビが自動的に起動する。島の地図が映し出され、赤い点が光る。
音声のスイッチだけ急いで切った。
「なんだ、なんだ? 何のサイレンだよ?」
「どうしたの? アイヴィー、今の何?」
俺が警備の人間だと知らないアルフレッドとハルヤに、
そう聞かれ、俺はいつもの調子で答える。
「次の王子様がお待ちだから、早く行けってさ」
「マジで? そんなシステム付いてんだ、この車?」
「へえ。知らなかった。スゴイ音だからビックリしちゃった」
なんか意外とフツーに信じてくれたらしい。
バックミラーの中で菫色の瞳がこちらを見ていた。
この三人の中で唯一、警報の本当の意味を理解している奴だ。
「僕達、ここで降りましょうか? 歩いてもそう遠くはありませんし」
侵入者を知らせるサイレンだと察しての提案だろう。
「ガッコまで、すぐソコなんだから、送ってやるよ」
シルヴァンは、俺の目を見た後、
明るい声で「じゃあ、お願いしまーす」と言った。
「つーわけで、今日、俺んちに泊まるのはナシだぞ、アルフレッド?」
「えー。マジかよー。じゃあさー、そのカノジョ、あんたのドコにホレたわけ?」
「だから居ねえって。……てか、そう言わなきゃいけない俺の気持ちもちったあ考えろ」
「まあまあ。また今度、押し掛けましょうよ。いつだって行けるじゃないですか、アイヴィーの家なんて」
「ったく、しょーがねーなー」
シルヴァンがとりなしてくれたおかげで、今日は逃がして貰えそうだ。
三人を正門前で降ろして、来た道を引き返した。
警備本部。お客様用のお部屋は大盛況。
祭りの日でもないのに、皆さんお誘いの上で、大勢お越しになる時もたまにある。
今日は島中、鬼ごっこしちまった。警備側もお客さん達もゼエゼエ、ハアハア。
今は、取調室の中で、主犯格の男に尋問中。質問者はうちの人間。
強面なせいか、侵入者はヘコヘコ謝りながら答えているようだ。
その様子を、俺は部屋の外からマジックミラー越しに眺めてた。
「今日のお客様は良い子ですね。助かります」
俺の隣に立ったのは、有能な副司令官。
聴取したばかりの調書を眺めながら、
「全員、狙いはラビット様だったと証言しています」
「あいつか。今、中等部、何年だっけ?」
副司令官は息を吐きながら「三年です」と答え、再び視線を手許に落とす。
「高等部に上がる前にイタリアへ呼び戻したいと、
叔父上がラビット様に頼んでいたようです。けれど、嫌だと断られ」
「そりゃ嫌だろうよ」
「ご両親は既に他界されていますから、血筋上、ラビット様がマルセロ家のボスですからね」
ラビット・マルセロ。サラサラの髪にクリクリおめめの可愛い奴だ。
同じシュヌーシア寮だったテオも、めちゃ可愛がってた。
だけど、15でマフィアのボスをやらされそうになってる。
今のところは、叔父さんと従兄弟が代理を務めているらしい。
聞いた話じゃ、マフィア同士の縄張り争いの中で、ラビットの両親は火事に見せかけて殺されたらしい。
犯人が未だに捕まっていない、無差別放火事件のうちの一件として処理されたのだ。
だが、黒幕は確実に、マルセロ家と反目しているマフィアの仕業だろうって話だ。
「マルセロは構成員が多くて、最近は内部統制が難しいらしいから、早く連れ戻したいんだろうけどな」
「司令は、ここ数年で、随分マフィア界の事情に詳しくなられましたね? 勉強熱心で結構なことです」
キツイ皮肉だ。
俺が某シチリアマフィアと仲が良いのではないか、という誤解がなかなか解けない。
あのマフィアに度々、警備網を擦り抜けられるのは、
貴方が密かに手引きしてるからじゃないですか? って疑われてる。
そんなことあるわけないのに!
取調室から主犯格の男が出てくる。
長時間の鬼ごっこと尋問で大分疲れたのか、ぐったりしてる。
こっちもこれが仕事とは言え、可哀想になってくる。
連れて行こうとするのを「あ、ちょい待ち」と止めた。
強面の部下が「何でしょう、司令」と言ったので、男も顔を上げた。
「お兄さん、晩ゴハンまだ食べてないよね? 後で何か美味しいお夜食出すから」
「えっ? 本当ですか?」
「ホント、ホント。せめてものお詫び。お兄さんもオシゴトで来たんだもんね?
それなのに捕まえちゃって。こっちもオシゴトだからさ、ゴメンネ?」
「は、はあ」
「それで、確認なんだけどー、お兄さんは、マルセロの人なんだよね?」
「はい」
「マルセロのエライ人に言われて、ここに来たの?」
「そうですが?」
「実は、シーゲル家に言われて来たんじゃない?」
「シーゲル家? まさか。自分はマルセロの者。ファミリーへの裏切りは即ち死を意味します」
「あー、そっか。マフィアには厳しい掟があるんだもんね?」
「そうです」
「ありがと。じゃあ、お夜食、食べて、今日はゆっくり休んでね。おやすみ」
男が部下に連れられて行く。
二人の姿が完全に消えてから、副司令官に睨まれた。
「司令。何故、シーゲル家の名前を? 関係のないマフィアでしょう?」
「ラビットの親を殺したのは、シーゲルだって話があるんだ」
副司令官がまた溜め息を吐く。
「本当にお詳しい。では、彼は、ラビット様を手土産に、シーゲルに寝返ると?」
「可能性の話だけどね。でも、俺が『シーゲル』って言った時、右手、急に握ったのヘンだった」
「今回はドクターをお呼びせずに済むと思っていたのですが、残念です」
「そんな嫌わなくても。これ以上は俺も解んないし、やっぱ自白のプロにお願いしよ?」
「解りました。ドクターをお招きするのは、明日の午後で良いですか?」
「うん」
「では、貴方からお伝えして下さい。私はそろそろ失礼しますよ」
「あー、うん。お疲れっ」
一段落着いたし、もう夜勤組との交代の時間だ。
俺は時計を見ていて「あれ?」と思う。22時55分。なにかしら、この胸騒ぎ。
「司令? どうしました? 棒立ちで。お帰りにならないんですか?」
忘れてた。
ソクちゃんとの飲み会。
待ち合わせの店に来たものの、影も形もなかった。
店内では、ピアノの生演奏と静かな語らいのみが聞こえる。
この店は旧市街の入り組んだ裏路地の奥にある。知る人ぞ知る隠れ家ってヤツだ。
カウンターでグラスを拭いてる老紳士を見付けた。
今日も相変わらず、優しそうな丸眼鏡と渋いカシス色のベストがよく似合ってる。
いつものように、俺に微笑み掛けてくれる。
「やあ、アイヴィー。いらっしゃい。久し振りだねえ?」
「こんちは、マスター。あのさ、今日、ソクちゃん来てなかった?」
「ああ。ソクーロフ先生なら、マティーニを一杯だけ舐めて、お帰りになったよ」
「それって、いつ?」
「さあ、どうだっただろうねえ。二時間くらい前だったかなあ」
そうだとしたら、ソクちゃんはここで一時間も待っててくれたことになる。
「アイヴィー、今日は先生と約束してたのかい?」
「あ、うん。ここで待ち合わせしたんだけど、俺が遅れちゃってさ」
「おや。そうだったのか。てっきり、今日はお一人で飲みにいらしたんだと思ってたよ。
何か熱心に書き物をされていたし。でも、そうか。
先生なら、まだ飲み足りないだろうに、とも思ったんだ。
あの先生はお強いからねえ。私は好きなんだよ、あの人の飲みっぷり」
ソクーロフ先生は地味に人気者で、島のあちこちにファンが居る。
おじいちゃんからおカマちゃんまで、手広くおモテになる。
何故なら、とにかく外面がイイからだ。
いつかソクーロフ先生にカウンセリングして貰いたいと思ってる島民も一人や二人じゃない。
「やっぱり、センセはアイヴィー待ちだったんだー?」
空になったカクテルグラスを両手に持ったボーイが来た。
耳にリングのピアスをしている。全開の笑顔を近付けて、
「センセ、スッゴイ怒ってたよ?」
「マジでっ!?」
「うん。まあ、顔には出てなかったけど、あれはゼッタイ怒ってた」
「ええっ? じゃあ、何を根拠に言ってんだよ?」
「だって、センセ、お気に入りのスピリタスも飲まずに帰っちゃったんだよ?
うちの店に来たら、あのウオッカ、必ず一杯は飲んでくのに」
根拠として正しいのかどうか、かなり微妙だけど。
誘われたのに、一時間待たされて、電話の一本もなしで、怒らないヒトって居ない気もする。
マスターは、マイペースに次のグラスを拭きながら、
「それで、アイヴィーは、どのくらい遅刻したんだい?」
店の古時計を見る。23時12分。待ち合わせは20時だったから、
「……三時間、くらい」
「ははっ。それは派手にやったね。相手が女性なら、とっくに振られてるよ」
俺、空笑い。
今日は早く帰んなさい、とマスターに言われて、有難く、そうさせて貰うことにした。
ピアノの演奏が『Let It Be』に変わる。聞きたかったな、と思いながら店を出た。
旧市街の裏路地を歩く。少ない街灯で照らされた足許は暗い。
夜空では、真っ白な満月が、独りぼっちで浮かんでる。
「さーて。どーしたもんかなあ」
春になったばかりの夜風はまだ冷たい。
ポケットに手を入れ、背中を丸めて歩いた。
fin
空き時間を割と自由に過ごせることだと思う。
あんまりサボってると、バレて怒られちゃうけど。
「ね、ソクちゃん。今日さ、久し振りに飲みに行きません?」
新市街の道路脇に停めたタクシー。
その超目立つ黄色い扉に凭れて、俺は携帯電話を耳に当てていた。
「なんでって? 俺が明日お休みだから」
道路の向こうを通りがかった島民が、俺を見付けて笑顔を見せた。
赤毛を後ろでひょいと結んだ若いオトコ。美味いナチョスを作れるバー店員だ。
俺は空いてる右手を挙げて、挨拶する。
赤毛のお兄さんも同じように手で挨拶を返して、また歩いていった。
携帯から低い声が聞こえる。俺は笑って、返事した。
「ダイジョーブだよ、今日は。え? 勘だよ、アイヴィー様のカン」
タクシーの屋根を枕に空を見る。
キレーな野菜ジュース色。いや、ニンジン色かな。
冬も終わったから、気温だって最高に丁度イイ。
「こーんな夕焼けの日に、お客さんなんか来ないって」
気持ち良く晴れた日に、島への侵入者が来る確率は低い(当社調べ)
耳許で、呆れた吐息。
電話越しなのにゾクリとして、少しだけ耳から離す。
「あー、ゴメン、何? ああ、そだね。現地集合にしよっか。時間はー」
手首を覗く。現在17時45分。
「りょーかい。ほいじゃ、20時に『ネモフィラ』で」
携帯をポケットに仕舞う。
とっておきのバーでソクちゃんとの飲み会が決まった。
お休みの前の日って、なんでこんなにワクワクするんだろ。
「さて。次の王子様方を迎えに行きますか」
飲み会まで、もうひと仕事。
次の待ち合わせは、18時にライブハウス前だ。
黄色い扉を開ける。運転席に滑り込み、シートベルトを締める。
手に馴染んだハンドルを握った。
新市街から向かった先は、旧市街のライブハウス前。
王子様トリオは、もう店先で待っていた。
後部座席に、アルフレッド、シルヴァン、ハルヤが乗った。
三人はライブハウスのスタジオを借りて、バンドの練習をしていた。
こいつらが組んでるバンド『デッドプリンス』のライブが近いのだ。
で、その帰りの車に呼ばれたのが俺のタクシー。
後部座席では、あーだーこーだとライブについて打ち合わせしている。
そのうちに、アルフレッドが後部座席から乗り出した。
「なあ、アイヴィー。やっぱさ、今日、泊めてくんね?」
「ああ? 何、言ってんだよ、急に?」
「最近、あんたんち行ってなかったからさ。イイだろ?」
「イイですね! じゃ、行き先はアイヴィーの家に変更で」
「勝手に決めんな。行き先はガッコ」
「俺、家ん中がちらかってても、全然気にならないぜ?」
「んなとこ気にしてねーよ。俺がダメなの。今夜は空いてない」
「ほおー? さては、ついにオンナでもできたかー? このこのー」
「えっ、そ、そうなの?」
「アイヴィーに限って有り得ませんよー。ね、アイヴィー?」
「……まあ、その通りなんだけどさ。自信満々に言ってくれるな」
「じゃー、なんでダメなわけー? 俺、今日はあんたのパスタが食いたい!」
「カミーユに食わせて貰えよ。何でも作ってくれんだろ? お前さん達のシェフは」
「それがイヤだから、言ってんだろー。あーあ、カミーユの腕が急に三流になったりしねーかなー」
「無茶苦茶なこと言うなよ、一流シェフに向かって」
三人が住んでいる寮には、専属シェフが居る。
カミーユ・ルブラン。島に来るまでは某有名店で正統派フレンチシェフだった男だ。
完璧過ぎるお上品な料理が、このガキどもにはどうも不評のようで。
ちょくちょく俺の雑な料理を食べにくるのだ。
突然、車中に警報音が響いた。俺の手首も鳴っている。
同時にカーナビが自動的に起動する。島の地図が映し出され、赤い点が光る。
音声のスイッチだけ急いで切った。
「なんだ、なんだ? 何のサイレンだよ?」
「どうしたの? アイヴィー、今の何?」
俺が警備の人間だと知らないアルフレッドとハルヤに、
そう聞かれ、俺はいつもの調子で答える。
「次の王子様がお待ちだから、早く行けってさ」
「マジで? そんなシステム付いてんだ、この車?」
「へえ。知らなかった。スゴイ音だからビックリしちゃった」
なんか意外とフツーに信じてくれたらしい。
バックミラーの中で菫色の瞳がこちらを見ていた。
この三人の中で唯一、警報の本当の意味を理解している奴だ。
「僕達、ここで降りましょうか? 歩いてもそう遠くはありませんし」
侵入者を知らせるサイレンだと察しての提案だろう。
「ガッコまで、すぐソコなんだから、送ってやるよ」
シルヴァンは、俺の目を見た後、
明るい声で「じゃあ、お願いしまーす」と言った。
「つーわけで、今日、俺んちに泊まるのはナシだぞ、アルフレッド?」
「えー。マジかよー。じゃあさー、そのカノジョ、あんたのドコにホレたわけ?」
「だから居ねえって。……てか、そう言わなきゃいけない俺の気持ちもちったあ考えろ」
「まあまあ。また今度、押し掛けましょうよ。いつだって行けるじゃないですか、アイヴィーの家なんて」
「ったく、しょーがねーなー」
シルヴァンがとりなしてくれたおかげで、今日は逃がして貰えそうだ。
三人を正門前で降ろして、来た道を引き返した。
警備本部。お客様用のお部屋は大盛況。
祭りの日でもないのに、皆さんお誘いの上で、大勢お越しになる時もたまにある。
今日は島中、鬼ごっこしちまった。警備側もお客さん達もゼエゼエ、ハアハア。
今は、取調室の中で、主犯格の男に尋問中。質問者はうちの人間。
強面なせいか、侵入者はヘコヘコ謝りながら答えているようだ。
その様子を、俺は部屋の外からマジックミラー越しに眺めてた。
「今日のお客様は良い子ですね。助かります」
俺の隣に立ったのは、有能な副司令官。
聴取したばかりの調書を眺めながら、
「全員、狙いはラビット様だったと証言しています」
「あいつか。今、中等部、何年だっけ?」
副司令官は息を吐きながら「三年です」と答え、再び視線を手許に落とす。
「高等部に上がる前にイタリアへ呼び戻したいと、
叔父上がラビット様に頼んでいたようです。けれど、嫌だと断られ」
「そりゃ嫌だろうよ」
「ご両親は既に他界されていますから、血筋上、ラビット様がマルセロ家のボスですからね」
ラビット・マルセロ。サラサラの髪にクリクリおめめの可愛い奴だ。
同じシュヌーシア寮だったテオも、めちゃ可愛がってた。
だけど、15でマフィアのボスをやらされそうになってる。
今のところは、叔父さんと従兄弟が代理を務めているらしい。
聞いた話じゃ、マフィア同士の縄張り争いの中で、ラビットの両親は火事に見せかけて殺されたらしい。
犯人が未だに捕まっていない、無差別放火事件のうちの一件として処理されたのだ。
だが、黒幕は確実に、マルセロ家と反目しているマフィアの仕業だろうって話だ。
「マルセロは構成員が多くて、最近は内部統制が難しいらしいから、早く連れ戻したいんだろうけどな」
「司令は、ここ数年で、随分マフィア界の事情に詳しくなられましたね? 勉強熱心で結構なことです」
キツイ皮肉だ。
俺が某シチリアマフィアと仲が良いのではないか、という誤解がなかなか解けない。
あのマフィアに度々、警備網を擦り抜けられるのは、
貴方が密かに手引きしてるからじゃないですか? って疑われてる。
そんなことあるわけないのに!
取調室から主犯格の男が出てくる。
長時間の鬼ごっこと尋問で大分疲れたのか、ぐったりしてる。
こっちもこれが仕事とは言え、可哀想になってくる。
連れて行こうとするのを「あ、ちょい待ち」と止めた。
強面の部下が「何でしょう、司令」と言ったので、男も顔を上げた。
「お兄さん、晩ゴハンまだ食べてないよね? 後で何か美味しいお夜食出すから」
「えっ? 本当ですか?」
「ホント、ホント。せめてものお詫び。お兄さんもオシゴトで来たんだもんね?
それなのに捕まえちゃって。こっちもオシゴトだからさ、ゴメンネ?」
「は、はあ」
「それで、確認なんだけどー、お兄さんは、マルセロの人なんだよね?」
「はい」
「マルセロのエライ人に言われて、ここに来たの?」
「そうですが?」
「実は、シーゲル家に言われて来たんじゃない?」
「シーゲル家? まさか。自分はマルセロの者。ファミリーへの裏切りは即ち死を意味します」
「あー、そっか。マフィアには厳しい掟があるんだもんね?」
「そうです」
「ありがと。じゃあ、お夜食、食べて、今日はゆっくり休んでね。おやすみ」
男が部下に連れられて行く。
二人の姿が完全に消えてから、副司令官に睨まれた。
「司令。何故、シーゲル家の名前を? 関係のないマフィアでしょう?」
「ラビットの親を殺したのは、シーゲルだって話があるんだ」
副司令官がまた溜め息を吐く。
「本当にお詳しい。では、彼は、ラビット様を手土産に、シーゲルに寝返ると?」
「可能性の話だけどね。でも、俺が『シーゲル』って言った時、右手、急に握ったのヘンだった」
「今回はドクターをお呼びせずに済むと思っていたのですが、残念です」
「そんな嫌わなくても。これ以上は俺も解んないし、やっぱ自白のプロにお願いしよ?」
「解りました。ドクターをお招きするのは、明日の午後で良いですか?」
「うん」
「では、貴方からお伝えして下さい。私はそろそろ失礼しますよ」
「あー、うん。お疲れっ」
一段落着いたし、もう夜勤組との交代の時間だ。
俺は時計を見ていて「あれ?」と思う。22時55分。なにかしら、この胸騒ぎ。
「司令? どうしました? 棒立ちで。お帰りにならないんですか?」
忘れてた。
ソクちゃんとの飲み会。
待ち合わせの店に来たものの、影も形もなかった。
店内では、ピアノの生演奏と静かな語らいのみが聞こえる。
この店は旧市街の入り組んだ裏路地の奥にある。知る人ぞ知る隠れ家ってヤツだ。
カウンターでグラスを拭いてる老紳士を見付けた。
今日も相変わらず、優しそうな丸眼鏡と渋いカシス色のベストがよく似合ってる。
いつものように、俺に微笑み掛けてくれる。
「やあ、アイヴィー。いらっしゃい。久し振りだねえ?」
「こんちは、マスター。あのさ、今日、ソクちゃん来てなかった?」
「ああ。ソクーロフ先生なら、マティーニを一杯だけ舐めて、お帰りになったよ」
「それって、いつ?」
「さあ、どうだっただろうねえ。二時間くらい前だったかなあ」
そうだとしたら、ソクちゃんはここで一時間も待っててくれたことになる。
「アイヴィー、今日は先生と約束してたのかい?」
「あ、うん。ここで待ち合わせしたんだけど、俺が遅れちゃってさ」
「おや。そうだったのか。てっきり、今日はお一人で飲みにいらしたんだと思ってたよ。
何か熱心に書き物をされていたし。でも、そうか。
先生なら、まだ飲み足りないだろうに、とも思ったんだ。
あの先生はお強いからねえ。私は好きなんだよ、あの人の飲みっぷり」
ソクーロフ先生は地味に人気者で、島のあちこちにファンが居る。
おじいちゃんからおカマちゃんまで、手広くおモテになる。
何故なら、とにかく外面がイイからだ。
いつかソクーロフ先生にカウンセリングして貰いたいと思ってる島民も一人や二人じゃない。
「やっぱり、センセはアイヴィー待ちだったんだー?」
空になったカクテルグラスを両手に持ったボーイが来た。
耳にリングのピアスをしている。全開の笑顔を近付けて、
「センセ、スッゴイ怒ってたよ?」
「マジでっ!?」
「うん。まあ、顔には出てなかったけど、あれはゼッタイ怒ってた」
「ええっ? じゃあ、何を根拠に言ってんだよ?」
「だって、センセ、お気に入りのスピリタスも飲まずに帰っちゃったんだよ?
うちの店に来たら、あのウオッカ、必ず一杯は飲んでくのに」
根拠として正しいのかどうか、かなり微妙だけど。
誘われたのに、一時間待たされて、電話の一本もなしで、怒らないヒトって居ない気もする。
マスターは、マイペースに次のグラスを拭きながら、
「それで、アイヴィーは、どのくらい遅刻したんだい?」
店の古時計を見る。23時12分。待ち合わせは20時だったから、
「……三時間、くらい」
「ははっ。それは派手にやったね。相手が女性なら、とっくに振られてるよ」
俺、空笑い。
今日は早く帰んなさい、とマスターに言われて、有難く、そうさせて貰うことにした。
ピアノの演奏が『Let It Be』に変わる。聞きたかったな、と思いながら店を出た。
旧市街の裏路地を歩く。少ない街灯で照らされた足許は暗い。
夜空では、真っ白な満月が、独りぼっちで浮かんでる。
「さーて。どーしたもんかなあ」
春になったばかりの夜風はまだ冷たい。
ポケットに手を入れ、背中を丸めて歩いた。
fin
■アイヴィー現在
■囚われ人13 続編
■囚われ人13 続編
今日は生徒代表室でミーティング。
ドアをノックしようとしたら、中から話し声が聞こえた。
ノックを止めて、そーっとドアを開ける。
生徒代表の背中が見えた。今年度の代表ジョシュアは、お電話中のようだ。
「ああ、そうだね。もうミーティングの時間だ。もっと君の声が聞きたかったけど」
生徒代表室で私用の電話は禁止という決まりにはなってるんだけど、
どうやら理事会のオジサンとかと電話してるわけじゃないらしい。
俺は後ろ手にドアを閉めて、音を立てずにジョシュアへ近付いていく。
「うん。それじゃあ、またね」
「お前さんでも規則破りくらいはするんだな、ジョシュア?」
ジョシュアが受話器を置いた後、そう声を掛けたら、めちゃくちゃ驚かれた。
「アイヴィー!? あの、すみません、俺……」
「あー、怒るつもりで言ったんじゃないから。俺はガッコのセンセじゃねーし」
ジョシュアの肩に肘を置く。
「てゆうかさ、今、女のコと話してたろ?」
「どうして解るんですか?」
「バーカ。男は女のコと話す時、声が優しくなんだよ。やっぱ、ユウタのお姉ちゃん?」
「え、ええ」
「良かったー。違うコって言われた時のほうが怒ったわ、俺。
イイコ見つけたもんだよなー。彼女、俺もちょっと狙ってたのにー」
「ええっ?」
ジョシュアが俺から離れる。肩に置いていた肘がカクッと下がる。
「ダ、ダメです! 彼女は俺のっ」
「俺の?」
「彼女は俺の、フィアンセです」
「ははっ。わーってるよ」
そうだと知ったのはニュースサイトで見たのが最初だった。
『世紀のカップル、再び』とかいう見出しで、
『エドワード王子の子息、婚約者を連れ、帰還。ロレートの次期国王へ』てなかんじで。
俺、聞いてませんけど、みたいな。
「いやー、ジョシュアが隠れて女の子と電話するようになったのかー。そりゃ俺も30超えるわな」
俺がこの島に来て6年、毎日毎日お仕事してる間に、
13歳だった坊ちゃんは、すっかりオトコ前になっていた。
しかも、男子校に居ながら、国に連れて帰るお姫様までゲットしてるなんて。
島に来てから、彼女の一人もできなかったお兄さんには正直フクザツな心境だ。
「お前さんもいつの間にか大きくなったもんだよなー。俺の車に初めて乗った時はこーんなちっこかったのに」
そう言った後、自分で吹き出す。
「ワーリィ。親戚のオジサンみたいなこと言っちゃった」
「いえ。嬉しいです。貴方にそう言って貰えること」
「そーかー?」
ジョシュアは窓辺に向かう。
「本当は、俺、この学院に来た時は、世界で一人ぼっちになったように感じることがあったんです」
ガラスの外には月桂樹の森が広がっている。
「俺はやっぱり、誰にも必要とされていない。居るだけで邪魔になってしまう。
グラント家出身の俺には、ここにも居場所がなかったって」
振り返った生徒代表は、笑顔を見せた。
「だけど、俺は間違ってました。俺には学院で出来た友人や大切な人が居て、
グラントやロレートの皆さんにも支えて頂いて。
生徒代表になってからは、この学院がたくさんの人達の手によって存在、維持していることを知りました。
俺は貴方にもずっと支えられてきた」
「俺?」
「貴方の車に初めて乗った時のこと、覚えています。俺が中等部一年の時でしたよね?」
「あ、ああ」
「一年生の時、俺は」
ジョシュアの言葉が止まる。急に緊張した面持ちになった。
少しの沈黙の後、結んだ唇が開かれる。
「俺は、ある先輩がとても怖かったんです」
まるで重い罪を告白するかのように、話し始めた。
「彼はグラントに恨みを持っていて、俺の存在が許せなかったんだと思います。
彼が卒業するまでの一年間は、彼の姿を目にするのも怖くて、
学院の外に行けば、彼に会わなくて済むと思って。それが初めて車を呼ぼうと思った理由なんです。
行く場所はどこでも良かった。彼の目のないところに、行きたかっただけなんです」
伏せられた緋色の瞳が開く。
「あの時、俺は『街のほうに行きたい』と曖昧なことを言ったのに、
貴方は『お任せコースね』と言って、楽しいドライブに連れて行ってくれました。
俺がどこの誰であろうと関係なく、貴方は普通に接してくれた。
また何かあったら、貴方の車に乗せて貰おうと思いました。
もう少し、この学院でやっていこうと思えたんです」
「ちょ、何だよ。今になって、そんなこと」
「俺だけじゃありません。俺達生徒は皆、貴方にお世話になっています。
警備責任者、タクシードライバーという以上に、
俺達生徒にとって、貴方は頼りになるお兄さんです。
生徒を代表して、お礼の言葉を言わせて下さい。
本当に、いつもありがとうございます、アイヴィー」
この島の総帥が、俺に深々と頭を下げた。
「や、止めろよ。そんな改まって」
そう言うのが精一杯だった。
「すみません、なんだか色々話してしまって。でも、本当のことですから」
「あ、ああ」
俺はかゆくもない首許を掻いていた。
ジョシュアは古時計を見上げる。
「そう言えば、遅いですね、博士」
窓から外を眺める。ノックの音がした。
白衣のセンセが、にこやかに入ってくる。
「失礼するよ。遅刻してすまなかったね」
「ソクちゃん、もしかして、ずっと立ち聞きしてた?」
「えっ? 博士、そうなんですか?」
「まさか。保健室に遊びに来た生徒が居て、遅くなってしまっただけだよ」
この笑顔は、聞いてたな。
「ね。ホントはさ、廊下で聞いてたでしょ? ジョシュアの話」
「ああ」
ミーティングが終わった後。
二人で廊下を歩いている時に、聞いてみたら、あっさり認めた。
「何故、解った?」
「俺は、ソクちゃんのことなら大体解んの。もう五年も一緒に居んだから。
ヒトのことが解るのは自分だけだと思うなよ、カウンセラー」
「生意気な」
「あーあ。この島に来て六年目かあ。過ぎてみると、あっという間だったなあ」
「そうだな。この長閑で危険な島は、適度に退屈で適度に刺激的だ」
「あー、それ言えてるー」
後頭部に手を置きながら、ドクターの隣を歩く。
意識しなくても、ソクーロフとの歩幅は同じくらいに揃ってた。
「ねえ、ソクちゃん。俺、昔は、あんたのこと、あんまスキじゃなかったよ?」
「今は?」
「だあーいキライッ! 決まってんでしょ」
「奇遇だな。私もだ」
「ハイ出たー。ソクちゃんのドS攻撃ー」
「誰が」
「あんた以外に居るかよ。あー、ハラ減った。ナチョス食いたいな。ねえ」
「ジェフなら店には居ないだろう。今頃は冬休みの筈だからな」
「ああ。もう、そんな時期か」
ジェフは毎年、この時期になると店を休んで、島の外へ行く。
マイクの母国を訪ね、命日に花を手向ける為だ。自分は今年も元気でやっているとマイクに伝える。
そうしなさい、と勧めたのは、このカウンセラーだ。自分の気が済むまで続けてごらん、と指示をした。
このカウンセリング手法のおかげか、俺達が店に出向けば、笑顔で迎えてくれる。
マイクに似た俺の顔を見ても平気になり、俺を俺として見てくれるようになった。
「あー、じゃあ、ソクちゃんが好きなチューカの店、行こ?」
「一緒に行きたいのか? 私のことはキライなんだろう?」
「だから、キライだって言ってんでしょ。早く、チューカ行こっ」
fin
ドアをノックしようとしたら、中から話し声が聞こえた。
ノックを止めて、そーっとドアを開ける。
生徒代表の背中が見えた。今年度の代表ジョシュアは、お電話中のようだ。
「ああ、そうだね。もうミーティングの時間だ。もっと君の声が聞きたかったけど」
生徒代表室で私用の電話は禁止という決まりにはなってるんだけど、
どうやら理事会のオジサンとかと電話してるわけじゃないらしい。
俺は後ろ手にドアを閉めて、音を立てずにジョシュアへ近付いていく。
「うん。それじゃあ、またね」
「お前さんでも規則破りくらいはするんだな、ジョシュア?」
ジョシュアが受話器を置いた後、そう声を掛けたら、めちゃくちゃ驚かれた。
「アイヴィー!? あの、すみません、俺……」
「あー、怒るつもりで言ったんじゃないから。俺はガッコのセンセじゃねーし」
ジョシュアの肩に肘を置く。
「てゆうかさ、今、女のコと話してたろ?」
「どうして解るんですか?」
「バーカ。男は女のコと話す時、声が優しくなんだよ。やっぱ、ユウタのお姉ちゃん?」
「え、ええ」
「良かったー。違うコって言われた時のほうが怒ったわ、俺。
イイコ見つけたもんだよなー。彼女、俺もちょっと狙ってたのにー」
「ええっ?」
ジョシュアが俺から離れる。肩に置いていた肘がカクッと下がる。
「ダ、ダメです! 彼女は俺のっ」
「俺の?」
「彼女は俺の、フィアンセです」
「ははっ。わーってるよ」
そうだと知ったのはニュースサイトで見たのが最初だった。
『世紀のカップル、再び』とかいう見出しで、
『エドワード王子の子息、婚約者を連れ、帰還。ロレートの次期国王へ』てなかんじで。
俺、聞いてませんけど、みたいな。
「いやー、ジョシュアが隠れて女の子と電話するようになったのかー。そりゃ俺も30超えるわな」
俺がこの島に来て6年、毎日毎日お仕事してる間に、
13歳だった坊ちゃんは、すっかりオトコ前になっていた。
しかも、男子校に居ながら、国に連れて帰るお姫様までゲットしてるなんて。
島に来てから、彼女の一人もできなかったお兄さんには正直フクザツな心境だ。
「お前さんもいつの間にか大きくなったもんだよなー。俺の車に初めて乗った時はこーんなちっこかったのに」
そう言った後、自分で吹き出す。
「ワーリィ。親戚のオジサンみたいなこと言っちゃった」
「いえ。嬉しいです。貴方にそう言って貰えること」
「そーかー?」
ジョシュアは窓辺に向かう。
「本当は、俺、この学院に来た時は、世界で一人ぼっちになったように感じることがあったんです」
ガラスの外には月桂樹の森が広がっている。
「俺はやっぱり、誰にも必要とされていない。居るだけで邪魔になってしまう。
グラント家出身の俺には、ここにも居場所がなかったって」
振り返った生徒代表は、笑顔を見せた。
「だけど、俺は間違ってました。俺には学院で出来た友人や大切な人が居て、
グラントやロレートの皆さんにも支えて頂いて。
生徒代表になってからは、この学院がたくさんの人達の手によって存在、維持していることを知りました。
俺は貴方にもずっと支えられてきた」
「俺?」
「貴方の車に初めて乗った時のこと、覚えています。俺が中等部一年の時でしたよね?」
「あ、ああ」
「一年生の時、俺は」
ジョシュアの言葉が止まる。急に緊張した面持ちになった。
少しの沈黙の後、結んだ唇が開かれる。
「俺は、ある先輩がとても怖かったんです」
まるで重い罪を告白するかのように、話し始めた。
「彼はグラントに恨みを持っていて、俺の存在が許せなかったんだと思います。
彼が卒業するまでの一年間は、彼の姿を目にするのも怖くて、
学院の外に行けば、彼に会わなくて済むと思って。それが初めて車を呼ぼうと思った理由なんです。
行く場所はどこでも良かった。彼の目のないところに、行きたかっただけなんです」
伏せられた緋色の瞳が開く。
「あの時、俺は『街のほうに行きたい』と曖昧なことを言ったのに、
貴方は『お任せコースね』と言って、楽しいドライブに連れて行ってくれました。
俺がどこの誰であろうと関係なく、貴方は普通に接してくれた。
また何かあったら、貴方の車に乗せて貰おうと思いました。
もう少し、この学院でやっていこうと思えたんです」
「ちょ、何だよ。今になって、そんなこと」
「俺だけじゃありません。俺達生徒は皆、貴方にお世話になっています。
警備責任者、タクシードライバーという以上に、
俺達生徒にとって、貴方は頼りになるお兄さんです。
生徒を代表して、お礼の言葉を言わせて下さい。
本当に、いつもありがとうございます、アイヴィー」
この島の総帥が、俺に深々と頭を下げた。
「や、止めろよ。そんな改まって」
そう言うのが精一杯だった。
「すみません、なんだか色々話してしまって。でも、本当のことですから」
「あ、ああ」
俺はかゆくもない首許を掻いていた。
ジョシュアは古時計を見上げる。
「そう言えば、遅いですね、博士」
窓から外を眺める。ノックの音がした。
白衣のセンセが、にこやかに入ってくる。
「失礼するよ。遅刻してすまなかったね」
「ソクちゃん、もしかして、ずっと立ち聞きしてた?」
「えっ? 博士、そうなんですか?」
「まさか。保健室に遊びに来た生徒が居て、遅くなってしまっただけだよ」
この笑顔は、聞いてたな。
「ね。ホントはさ、廊下で聞いてたでしょ? ジョシュアの話」
「ああ」
ミーティングが終わった後。
二人で廊下を歩いている時に、聞いてみたら、あっさり認めた。
「何故、解った?」
「俺は、ソクちゃんのことなら大体解んの。もう五年も一緒に居んだから。
ヒトのことが解るのは自分だけだと思うなよ、カウンセラー」
「生意気な」
「あーあ。この島に来て六年目かあ。過ぎてみると、あっという間だったなあ」
「そうだな。この長閑で危険な島は、適度に退屈で適度に刺激的だ」
「あー、それ言えてるー」
後頭部に手を置きながら、ドクターの隣を歩く。
意識しなくても、ソクーロフとの歩幅は同じくらいに揃ってた。
「ねえ、ソクちゃん。俺、昔は、あんたのこと、あんまスキじゃなかったよ?」
「今は?」
「だあーいキライッ! 決まってんでしょ」
「奇遇だな。私もだ」
「ハイ出たー。ソクちゃんのドS攻撃ー」
「誰が」
「あんた以外に居るかよ。あー、ハラ減った。ナチョス食いたいな。ねえ」
「ジェフなら店には居ないだろう。今頃は冬休みの筈だからな」
「ああ。もう、そんな時期か」
ジェフは毎年、この時期になると店を休んで、島の外へ行く。
マイクの母国を訪ね、命日に花を手向ける為だ。自分は今年も元気でやっているとマイクに伝える。
そうしなさい、と勧めたのは、このカウンセラーだ。自分の気が済むまで続けてごらん、と指示をした。
このカウンセリング手法のおかげか、俺達が店に出向けば、笑顔で迎えてくれる。
マイクに似た俺の顔を見ても平気になり、俺を俺として見てくれるようになった。
「あー、じゃあ、ソクちゃんが好きなチューカの店、行こ?」
「一緒に行きたいのか? 私のことはキライなんだろう?」
「だから、キライだって言ってんでしょ。早く、チューカ行こっ」
fin
■アイヴィー4年前
■囚われ人12 続編
■囚われ人12 続編
「今日のお客さんはジョシュアか」
きっと今日も一人で待っているのだろうと思い込んでたから、俺は少し驚いた。
「こんにちは、アイヴィー」
愛想良く挨拶をするジョシュアの横に、連れが居た。
それも、この前入学してきた、無愛想な美少年だ。
二人を後部座席に乗せて、俺は運転席に入る。
バックミラーに二人のガキが映っている。ちっこい方は窓の外を見ていた。俺は赤い瞳と目が合う。
「どちらまで?」
「あちこち見て回りたいんですけど、良いですか? アンリにこの島を案内したいんです」
「そりゃあ、もちろん」
「ありがとうございます。それじゃ、最初は植物園へ」
「あいよ」
俺が運転中、ジョシュアはアンリに植物園の見所を説明していた。
だが、はっきり言って説明下手だ。話すこと自体に慣れていないかんじ。
緊張しているようにも見える。先月会ったばかりだし、まだそんなに親しくないのだろう。
アンリは大した相槌も打たず、迷惑そうな顔をして聞いていた。
「あとは、えっと。あっ、クジャクが放し飼いになってるんだ。アンリ、クジャクは好き?」
美少年の眉間に皺が寄る。
「……別に。好きでも嫌いでもないけれど」
「そ、そっか。ごめんね」
その日も無事に一日のお仕事が終わった。
家に着くと、郵便物が幾つか来てた。
お仕事関係の封筒に交じって、ポストカードがあった。もう見慣れた文字。
ピコだ。どうせまた旅の自慢話なのだろう。
まとめてデスクに置き、PCとラジオのスイッチを入れる。
チューニングは合わせてある。一日中、音楽番組をやってる局だ。
背中でボサノヴァを聞きながら、アイスコーヒーを作る。
茶色い粉をグラスに入れて、ミネラルウォーターをちょこっと注ぐ。
マドラーで掻き混ぜ、茶色い原液が出来てから、残りの水を入れて、軽く混ぜる。
溶け残りの粉が水面に少し浮いてるくらいが美味しい、という思い込みだ。
氷を入れた後、グラスに口を付けながらPCの前に座る。
メールチェックをすると、理事会から来ていた。タイトルは、【重要】入学希望者について。
先月、あの美少年が入ってきたばっかなのに。ご盛況なことだ。
「今度はどんな奴が入ってくんのよ」
添付ファイルを開けると、入学希望者の資料が書かれていた。
「へえ。ドイツ軍人の家柄か、なんかクロイツに似てんなあ、こいつ」
メールチェックが終わった。次はアナログメールの確認だ。
ポストカードを手に取る。映っているのは海。左側には海に面した島。
島には街の灯りが見え、海はピンクとオレンジが溶け合った夕焼け色。手前には小さな船が浮かんでいる。
カードを表に返して、短いメッセージに目を移す。
「それでは、次のリクエストです」
ラジオの声に肩が跳ねる。DJは流れるような口調で次の曲を紹介した。
「マルタ大好きさんからのリクエストで、『スタンド・バイ・ミー』です」
特徴的な前奏のベース・ライン。四人の少年が冒険する映画の主題歌。
俺はその曲を最後まで、ぼうっと聞いていた。
泣きはしない
泣いたりしない
ホントだよ?
涙なんか一粒も流さない
君が居てくれるなら
君がボクの傍に居てくれるなら
ダーリン ダーリン
傍に居て
傍に居て
傍に居て
一緒に居たいだけなんだ
ボクの傍に居て欲しい
俺は汗をかいたグラスに手を伸ばす。
生ぬるいコーヒー。口の中には酸味だけが残った。
→
きっと今日も一人で待っているのだろうと思い込んでたから、俺は少し驚いた。
「こんにちは、アイヴィー」
愛想良く挨拶をするジョシュアの横に、連れが居た。
それも、この前入学してきた、無愛想な美少年だ。
二人を後部座席に乗せて、俺は運転席に入る。
バックミラーに二人のガキが映っている。ちっこい方は窓の外を見ていた。俺は赤い瞳と目が合う。
「どちらまで?」
「あちこち見て回りたいんですけど、良いですか? アンリにこの島を案内したいんです」
「そりゃあ、もちろん」
「ありがとうございます。それじゃ、最初は植物園へ」
「あいよ」
俺が運転中、ジョシュアはアンリに植物園の見所を説明していた。
だが、はっきり言って説明下手だ。話すこと自体に慣れていないかんじ。
緊張しているようにも見える。先月会ったばかりだし、まだそんなに親しくないのだろう。
アンリは大した相槌も打たず、迷惑そうな顔をして聞いていた。
「あとは、えっと。あっ、クジャクが放し飼いになってるんだ。アンリ、クジャクは好き?」
美少年の眉間に皺が寄る。
「……別に。好きでも嫌いでもないけれど」
「そ、そっか。ごめんね」
その日も無事に一日のお仕事が終わった。
家に着くと、郵便物が幾つか来てた。
お仕事関係の封筒に交じって、ポストカードがあった。もう見慣れた文字。
ピコだ。どうせまた旅の自慢話なのだろう。
まとめてデスクに置き、PCとラジオのスイッチを入れる。
チューニングは合わせてある。一日中、音楽番組をやってる局だ。
背中でボサノヴァを聞きながら、アイスコーヒーを作る。
茶色い粉をグラスに入れて、ミネラルウォーターをちょこっと注ぐ。
マドラーで掻き混ぜ、茶色い原液が出来てから、残りの水を入れて、軽く混ぜる。
溶け残りの粉が水面に少し浮いてるくらいが美味しい、という思い込みだ。
氷を入れた後、グラスに口を付けながらPCの前に座る。
メールチェックをすると、理事会から来ていた。タイトルは、【重要】入学希望者について。
先月、あの美少年が入ってきたばっかなのに。ご盛況なことだ。
「今度はどんな奴が入ってくんのよ」
添付ファイルを開けると、入学希望者の資料が書かれていた。
「へえ。ドイツ軍人の家柄か、なんかクロイツに似てんなあ、こいつ」
メールチェックが終わった。次はアナログメールの確認だ。
ポストカードを手に取る。映っているのは海。左側には海に面した島。
島には街の灯りが見え、海はピンクとオレンジが溶け合った夕焼け色。手前には小さな船が浮かんでいる。
カードを表に返して、短いメッセージに目を移す。
|
「それでは、次のリクエストです」
ラジオの声に肩が跳ねる。DJは流れるような口調で次の曲を紹介した。
「マルタ大好きさんからのリクエストで、『スタンド・バイ・ミー』です」
特徴的な前奏のベース・ライン。四人の少年が冒険する映画の主題歌。
俺はその曲を最後まで、ぼうっと聞いていた。
泣きはしない
泣いたりしない
ホントだよ?
涙なんか一粒も流さない
君が居てくれるなら
君がボクの傍に居てくれるなら
ダーリン ダーリン
傍に居て
傍に居て
傍に居て
一緒に居たいだけなんだ
ボクの傍に居て欲しい
俺は汗をかいたグラスに手を伸ばす。
生ぬるいコーヒー。口の中には酸味だけが残った。
→
■アイヴィー4年前
■囚われ人11 続編
■囚われ人11 続編
この島に来て、二度目の夏が来た。
おととい、発表された新しい生徒代表はジブリールだった。
生徒代表の交代劇を見届けた生徒達は、順次夏休みに入っていった。
聖アルフォンソ学院では、一年中、授業を受けることができる。
学院としては夏休みを設けず、生徒の自由に任せているのだ。
当然、多くの生徒は、外界の夏休みと合わせて、海外へ脱走してる。
学院の特質上、夏休みも島に残る留守番組の生徒が居るから、先生達や警備の俺達も、一斉の長期休暇などは取れない。
まあ、大部分の生徒が居ないから、侵入者はゼロに近い。お客さん達もバカンスを楽しんでるんだろう。
おかげで警備部隊は割とヒマな時期だ。
今日、新年度一回目の警備ミーティングがあった。もう副司令官は出席しなくなった。
メンバーは三人。俺、留守番組のジブリール、そして、前年度の功績から契約更新となったソクーロフ先生だ。
ジブリールに、「タクシードライバーで、警備組織の司令官です」って自己紹介したら、めっちゃ睨まれた。
でも、ヤン曰く「彼は別に睨んでるわけじゃなくて、じっと見てるだけ」らしいので、
多分、熱く見つめられただけなんだと自分に言い聞かせた。
ミーティングが終わったのが、丁度イイ時間だったから、
晩メシにソクーロフを誘って、旧市街まで車を走らせた。
ソクーロフが時々行っているという店で中華を食った。
腹もいっぱいになって、店を出たら、まさかのドシャ降り。
駐車場に着くまでに、靴下もびっちょびちょになった。
運転席に滑り込んで、手で顔を拭く。助手席では眼鏡を外しながら、
「酷い雨だな」
「だね。俺んちで、雨宿りしてく?」
言った後で、ヘンなこと言ったかなと思った。
なんか、使い古された誘い文句みたいだ。だけどソクーロフは「そうだな」と言った。
シャワー上がりのソクーロフを見たのは、当然、その時が初めてで、
普段の白衣姿とは別人みたいだった。眼鏡掛けてないし、濡れた髪は長くて。
顔だけ見たら、色白の美人さん……って、何考えてんの、俺。
「ビールでも飲む?」
「ああ」
俺もシャワーを浴びた後、二人で冷蔵庫にあった缶ビールを空けた。
つまみはピーナッツしかなかった。
今日は酔いの回りが早い気がして、窓を少し開けた。
夜の潮風が入ってくる。なんだか平和だ。
「ヒマでイイよねー、夏休みは。大人もさー、たまには、ながーいお休み貰って、どっか旅でも行きたいよねー」
「どこへ?」
「行くなら山だな」
「ほう。山、か」
「あっ! 今、カウンセラー的なこと考えたでしょ!? 『旅は現状への不満の表れ』とかなんとか」
「いいや? 私を旅行に誘っているのかと思っただけだが」
「ちがいますー。行くなら一人で行くよ。男の一人旅。夜行列車とか乗っちゃったりして」
「旅行が好きなのか? それともただの憧れか?」
ソクーロフにそう尋ねられて、理由が思い当たった。
「あー。いや、一人旅してるヒトからお便り貰うからさ、影響されてんのかな、俺」
「お便り?」
「ピコからなんだけどね。覚えてる? ピコ」
電子メールが主流になった時代に見る直筆の文字。
プライベートで俺なんかにアナログメールを送ってくるのは、この時代錯誤なじーさんだけだ。
ピコから貰ったポストカードをテーブルに広げる。
ピコが今世界のあちこちを一人旅していること、
旅先で買ったポストカードを俺に送ってくることを、初めて人に話した。
「ほう。それは羨ましいご身分だな」とか言ってくれると思ったのに。
カウンセラーはポストカードを手に取ったまま、真面目な顔をして黙りこくってしまった。
「ソクーロフ?」
カウンセラーはポストカードをテーブルに置く。
「おそらくピコは、これらをお前だけに送っているのだろう」
「それって、もしかして、ピコ、俺のこと……」
「違う。全く、興味深いな、この島は」
「ねえ。何、一人で納得しちゃってんの? 何が解ったのさ?」
「お前は、アルフォンソ王の伝説を知っているか?」
「え? うん。陰謀から逃れてこの島に辿り着き、立派になって祖国に帰りましたってお話でしょ?」
「現在もよく語られている、表のストーリーだな」
私も最近知ったのだが、とカウンセラーは話し始めた。
「王の伝説は複数存在する。その中のひとつに、
アルフォンソは災厄を呼ぶ王子だった為、この島に封じ込められた、という裏のストーリーがある。
生徒や島民を観察していくうちに、私には、裏のストーリーのほうが、
この島の特質を適確に表現しているように思えてきた。島民は、この島に囚われてる。心理的にな」
「囚われてる?」
「ここに住んでいる人間、ここから去っていく人間が、島に対して持っている感情は、愛国心や郷愁とは違う。
純粋にこの島が好きで留まっているというより、魅入られて、出られなくなっているように見受けられる。
帰らぬ友人を待っている青年、尊敬する上官を失った副司令官、島から追い出された老人にも当て嵌まる」
カウンセラーが窓の外を眺める。
開けた窓の向こうは、真っ暗な海。
「災厄の王子にとって、そうだったように、島自体が牢獄なのさ」
「牢獄って……」
「お前の手首にも、既に、見えない手枷が嵌められているかもしれないな」
→
おととい、発表された新しい生徒代表はジブリールだった。
生徒代表の交代劇を見届けた生徒達は、順次夏休みに入っていった。
聖アルフォンソ学院では、一年中、授業を受けることができる。
学院としては夏休みを設けず、生徒の自由に任せているのだ。
当然、多くの生徒は、外界の夏休みと合わせて、海外へ脱走してる。
学院の特質上、夏休みも島に残る留守番組の生徒が居るから、先生達や警備の俺達も、一斉の長期休暇などは取れない。
まあ、大部分の生徒が居ないから、侵入者はゼロに近い。お客さん達もバカンスを楽しんでるんだろう。
おかげで警備部隊は割とヒマな時期だ。
今日、新年度一回目の警備ミーティングがあった。もう副司令官は出席しなくなった。
メンバーは三人。俺、留守番組のジブリール、そして、前年度の功績から契約更新となったソクーロフ先生だ。
ジブリールに、「タクシードライバーで、警備組織の司令官です」って自己紹介したら、めっちゃ睨まれた。
でも、ヤン曰く「彼は別に睨んでるわけじゃなくて、じっと見てるだけ」らしいので、
多分、熱く見つめられただけなんだと自分に言い聞かせた。
ミーティングが終わったのが、丁度イイ時間だったから、
晩メシにソクーロフを誘って、旧市街まで車を走らせた。
ソクーロフが時々行っているという店で中華を食った。
腹もいっぱいになって、店を出たら、まさかのドシャ降り。
駐車場に着くまでに、靴下もびっちょびちょになった。
運転席に滑り込んで、手で顔を拭く。助手席では眼鏡を外しながら、
「酷い雨だな」
「だね。俺んちで、雨宿りしてく?」
言った後で、ヘンなこと言ったかなと思った。
なんか、使い古された誘い文句みたいだ。だけどソクーロフは「そうだな」と言った。
シャワー上がりのソクーロフを見たのは、当然、その時が初めてで、
普段の白衣姿とは別人みたいだった。眼鏡掛けてないし、濡れた髪は長くて。
顔だけ見たら、色白の美人さん……って、何考えてんの、俺。
「ビールでも飲む?」
「ああ」
俺もシャワーを浴びた後、二人で冷蔵庫にあった缶ビールを空けた。
つまみはピーナッツしかなかった。
今日は酔いの回りが早い気がして、窓を少し開けた。
夜の潮風が入ってくる。なんだか平和だ。
「ヒマでイイよねー、夏休みは。大人もさー、たまには、ながーいお休み貰って、どっか旅でも行きたいよねー」
「どこへ?」
「行くなら山だな」
「ほう。山、か」
「あっ! 今、カウンセラー的なこと考えたでしょ!? 『旅は現状への不満の表れ』とかなんとか」
「いいや? 私を旅行に誘っているのかと思っただけだが」
「ちがいますー。行くなら一人で行くよ。男の一人旅。夜行列車とか乗っちゃったりして」
「旅行が好きなのか? それともただの憧れか?」
ソクーロフにそう尋ねられて、理由が思い当たった。
「あー。いや、一人旅してるヒトからお便り貰うからさ、影響されてんのかな、俺」
「お便り?」
「ピコからなんだけどね。覚えてる? ピコ」
電子メールが主流になった時代に見る直筆の文字。
プライベートで俺なんかにアナログメールを送ってくるのは、この時代錯誤なじーさんだけだ。
ピコから貰ったポストカードをテーブルに広げる。
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ピコが今世界のあちこちを一人旅していること、
旅先で買ったポストカードを俺に送ってくることを、初めて人に話した。
「ほう。それは羨ましいご身分だな」とか言ってくれると思ったのに。
カウンセラーはポストカードを手に取ったまま、真面目な顔をして黙りこくってしまった。
「ソクーロフ?」
カウンセラーはポストカードをテーブルに置く。
「おそらくピコは、これらをお前だけに送っているのだろう」
「それって、もしかして、ピコ、俺のこと……」
「違う。全く、興味深いな、この島は」
「ねえ。何、一人で納得しちゃってんの? 何が解ったのさ?」
「お前は、アルフォンソ王の伝説を知っているか?」
「え? うん。陰謀から逃れてこの島に辿り着き、立派になって祖国に帰りましたってお話でしょ?」
「現在もよく語られている、表のストーリーだな」
私も最近知ったのだが、とカウンセラーは話し始めた。
「王の伝説は複数存在する。その中のひとつに、
アルフォンソは災厄を呼ぶ王子だった為、この島に封じ込められた、という裏のストーリーがある。
生徒や島民を観察していくうちに、私には、裏のストーリーのほうが、
この島の特質を適確に表現しているように思えてきた。島民は、この島に囚われてる。心理的にな」
「囚われてる?」
「ここに住んでいる人間、ここから去っていく人間が、島に対して持っている感情は、愛国心や郷愁とは違う。
純粋にこの島が好きで留まっているというより、魅入られて、出られなくなっているように見受けられる。
帰らぬ友人を待っている青年、尊敬する上官を失った副司令官、島から追い出された老人にも当て嵌まる」
カウンセラーが窓の外を眺める。
開けた窓の向こうは、真っ暗な海。
「災厄の王子にとって、そうだったように、島自体が牢獄なのさ」
「牢獄って……」
「お前の手首にも、既に、見えない手枷が嵌められているかもしれないな」
→
■テオ ハルヤ シルヴァン アンリ
注:エイプリルフールネタではありませんが春のお話です
注:エイプリルフールネタではありませんが春のお話です
「今日は風が冷たいねえ。季節は春だというのに」
生徒代表室からシュヌーシア寮への帰り道。
テオは、冬のような風に吹かれ、身体を震わせていた。
枝の上でも小鳥達がぴったり並んで留まっている。
その根元にはウサギ。賢いことに幹を風よけにしているようで、身体を丸めて目を瞑っている。
「森の皆もあんなに寒がって……けれど、ああ、なんて愛らしい。できることなら私も混ざ」
また強風が吹く。
「これではシュヌーシアに着くまでに凍えてしまう。あ、そうだ! ウーティスで少し休ませて貰おう」
現在地から一番近い寮へ急いだ。
「ジンジャーハニーティでございます」
「おお! 素晴らしいチョイスだね、ありがとう、バトラー」
ウーティス寮サロンは、丁度、放課後のティタイムだった。
テオは受け取った紅茶を、早速ひと口飲む。ほうと息を吐き、ソファに身を沈めた。
「美味しい。凍死寸前だったが、おかげで生き返ったよ」
向かいのソファでハルヤが笑った。
「いつも大袈裟だね、テオは」
生徒代表は胸に手を当てる。
「ああ、今の君の笑顔で冷えた胸があたたまったよ」
ハルヤはオリエンタルスマイルを見せる。
「……そういうのが大袈裟なんだってば」
ハルヤの隣で、シルヴァンも笑っていた。
「でも、今日は本当に寒いですよね。昨日までは春の陽気だったのに」
窓の外を見る。雲が濃くなっている。
風もまだ止んでいない。森も震えているかのようだ。
「今日は冬に逆戻りですね。明日はあたたかいと良いんですけど」
ぼそりとハルヤが呟く。
「あ、そっか。アルフォンソ島も『花冷え』なのかも」
「ハナビエ? 東洋の黒い真珠! それはもしかして日本語かい!?」
「あ、ごめん。学院では英語を話さなきゃダメだよね」
「母国語禁止なんて校則があるわけないじゃないか!」
「そうですよ! ハルヤ、ハナビエとは、どういう意味なんですか?」
子供の頃、母様に聞いたんだけどね、とハルヤは話し始めた。
「春の初めって、日本では気温が変わりやすいんだ。
桜の花が咲く頃に、急に寒くなることを、『花冷え』って言うんだよ。
英語で直訳すると『Cherry blossom Chill』ってかんじかな?」
ニッポン大好きなシルヴァンとテオは目を輝かせる。
「わお。綺麗な言葉ですね!」
「美しい……流石は東洋の黒い真珠を生み出した国だ!」
「俺は関係ないよ。昔からある言葉だし、春の季語なんだ。あ、二人は季語なんて知らないよね」
「知ってます!」「知っているとも!」と二人の手が同時に上がる。
「ハイクに必ず入れる季節の言葉ですよね! サムライムービーで見ましたー!」
「私も東洋文化の講義で習ったよ!」
「あ、そうなんだ。二人とも、勉強熱心だね……」
「当たり前だよ、東洋の黒い真珠。東洋の神秘的な文化は元々好きだったし、君との話題を広げたいのだよ」
「堂々と下心を言いましたね、テオ」
「というわけで、東洋の黒い真珠。冷え切った私の手をあたためるのに、
君のその美しい手をちょっと貸しておくれ?」
「あー! ズルイです、テオ! ハルヤ、僕も、お願いします!」
「ええっ? ちょ、ちょっと、二人とも……」
「僕の手なら、貸してあげてもいいよ?」
氷の微笑を見せているのは、隅の席に座っているアンリだった。
「僕の手じゃ、不満?」
「まさか! ぜひとも貸しておくれ!」
アンリは、ちょっとした嫌がらせのつもりだったのだ。
この手の冷たさに驚いて、すぐに離すだろうと思ったのだ。
ところが、テオは冷たさを物ともせず、アンリの左手をひしと両手で包んだ。
アンリは一瞬驚き、憮然とする。
「ねえ。冷たくないの?」
「アンリの愛が、あたたかいのだよ」
「……意味が解らない」
「ああ。今、私の手も胸もポッカポカだよ。ありがとう、アンリ」
「……離して」
「おや、急に冷たくなって。どうしたんだい? あっ!」
テオが指を鳴らす。
「アンリ! これから君のことを、『花冷え』と呼んでも」
「嫌」
fin
生徒代表室からシュヌーシア寮への帰り道。
テオは、冬のような風に吹かれ、身体を震わせていた。
枝の上でも小鳥達がぴったり並んで留まっている。
その根元にはウサギ。賢いことに幹を風よけにしているようで、身体を丸めて目を瞑っている。
「森の皆もあんなに寒がって……けれど、ああ、なんて愛らしい。できることなら私も混ざ」
また強風が吹く。
「これではシュヌーシアに着くまでに凍えてしまう。あ、そうだ! ウーティスで少し休ませて貰おう」
現在地から一番近い寮へ急いだ。
「ジンジャーハニーティでございます」
「おお! 素晴らしいチョイスだね、ありがとう、バトラー」
ウーティス寮サロンは、丁度、放課後のティタイムだった。
テオは受け取った紅茶を、早速ひと口飲む。ほうと息を吐き、ソファに身を沈めた。
「美味しい。凍死寸前だったが、おかげで生き返ったよ」
向かいのソファでハルヤが笑った。
「いつも大袈裟だね、テオは」
生徒代表は胸に手を当てる。
「ああ、今の君の笑顔で冷えた胸があたたまったよ」
ハルヤはオリエンタルスマイルを見せる。
「……そういうのが大袈裟なんだってば」
ハルヤの隣で、シルヴァンも笑っていた。
「でも、今日は本当に寒いですよね。昨日までは春の陽気だったのに」
窓の外を見る。雲が濃くなっている。
風もまだ止んでいない。森も震えているかのようだ。
「今日は冬に逆戻りですね。明日はあたたかいと良いんですけど」
ぼそりとハルヤが呟く。
「あ、そっか。アルフォンソ島も『花冷え』なのかも」
「ハナビエ? 東洋の黒い真珠! それはもしかして日本語かい!?」
「あ、ごめん。学院では英語を話さなきゃダメだよね」
「母国語禁止なんて校則があるわけないじゃないか!」
「そうですよ! ハルヤ、ハナビエとは、どういう意味なんですか?」
子供の頃、母様に聞いたんだけどね、とハルヤは話し始めた。
「春の初めって、日本では気温が変わりやすいんだ。
桜の花が咲く頃に、急に寒くなることを、『花冷え』って言うんだよ。
英語で直訳すると『Cherry blossom Chill』ってかんじかな?」
ニッポン大好きなシルヴァンとテオは目を輝かせる。
「わお。綺麗な言葉ですね!」
「美しい……流石は東洋の黒い真珠を生み出した国だ!」
「俺は関係ないよ。昔からある言葉だし、春の季語なんだ。あ、二人は季語なんて知らないよね」
「知ってます!」「知っているとも!」と二人の手が同時に上がる。
「ハイクに必ず入れる季節の言葉ですよね! サムライムービーで見ましたー!」
「私も東洋文化の講義で習ったよ!」
「あ、そうなんだ。二人とも、勉強熱心だね……」
「当たり前だよ、東洋の黒い真珠。東洋の神秘的な文化は元々好きだったし、君との話題を広げたいのだよ」
「堂々と下心を言いましたね、テオ」
「というわけで、東洋の黒い真珠。冷え切った私の手をあたためるのに、
君のその美しい手をちょっと貸しておくれ?」
「あー! ズルイです、テオ! ハルヤ、僕も、お願いします!」
「ええっ? ちょ、ちょっと、二人とも……」
「僕の手なら、貸してあげてもいいよ?」
氷の微笑を見せているのは、隅の席に座っているアンリだった。
「僕の手じゃ、不満?」
「まさか! ぜひとも貸しておくれ!」
アンリは、ちょっとした嫌がらせのつもりだったのだ。
この手の冷たさに驚いて、すぐに離すだろうと思ったのだ。
ところが、テオは冷たさを物ともせず、アンリの左手をひしと両手で包んだ。
アンリは一瞬驚き、憮然とする。
「ねえ。冷たくないの?」
「アンリの愛が、あたたかいのだよ」
「……意味が解らない」
「ああ。今、私の手も胸もポッカポカだよ。ありがとう、アンリ」
「……離して」
「おや、急に冷たくなって。どうしたんだい? あっ!」
テオが指を鳴らす。
「アンリ! これから君のことを、『花冷え』と呼んでも」
「嫌」
fin
■アイヴィー5年前
■囚われ人10 続編
■囚われ人10 続編
警備組織本部。
取調室の中央にポツンと置かれた二つの椅子。
一脚には、黒服の男が項垂れて座っている。ジブリールを裏切り、誘拐しようとしたファビアンだ。
彼の向かいには白衣のドクター。組んだ足にカルテを乗せ、ゆったりと構えている。
警備責任者の立ち会いの下、暗殺者を自白させているのだ。
司令官の俺と副司令官のクロイツは、部屋の外からガラス越しに、ドクターのお手並みを拝見していた。
「つまり、君はフリーランスの暗殺者、なんだね?」
「ええ。そうです」
「前にも、この島に来たことがあるのかな?」
「はい。二年前に私を買った男は、数学の研究者でしたか。
けれど、任務は失敗です。私は深手を負い、島から撤退するだけで精一杯でした。
一度は、島に上陸した経験を見込まれ、再び、この島へ」
「今回の依頼主は、ジブリールの父上、アブル国王かい?」
「ええ。アブル様とは、以前より親しくさせて頂いています。何かと物騒なお国ですから」
自白のエキスパートという経歴が、目の前で立証されつつある。
クロイツは白衣の男を見つめながら、「まるで魔法のようですね」と眉を顰めた。
ドクターは暴力や脅迫を用いることなく、幼い子供と話すような優しい口調で語り掛けていた。
「成程。君は、アブル国王陛下が島に来ることを、事前にジブリールへ伝えていたんだね?」
「はい。いざとなれば、私がジブリール様をお守り致しますので、と申し上げました」
「その台詞を言うように、君に命じたのは誰なんだい?」
「アブル国王陛下です」
「陛下は、本当にジブリールを次期後継者にするつもりだったのかな?」
「いいえ。陛下は第一王子を後継者にと考えておいででした。
ですから、第一王子を後継者争いから確実にお守りする為、第三王子を」
取り調べが終わった後。
俺はドクターに呼ばれ、保健室に連れて行かれた。
「慢心の結果だね、司令官?」
ドクターが俺の手に包帯を巻く。
ファビアン達とやり合った時に、短刀を素手で持っちゃった左手だ。
「だって、あの時は、こうするしかなかっ――」
「今日、君が犯した失敗は二つだ。
一つ、自分一人で戦闘に臨んだこと。二つ、戦闘が終わる前に一瞬気を抜いたこと。
新人司令官だからと気負い過ぎたことが原因だ。大いに反省するんだね」
真っ暗な帰り道。俺は一人で歩いてた。
部下が車で家までお送りしますって言ってくれたけど遠慮した。
道路脇に何か黒い塊が落ちていた。
捨てられたぬいぐるみみたいに見えた。
近付いて行くにつれ、心臓の音が煩くなる。
倒れていたのは黒い猫。
首輪に小さい鈴が付いていた。ジェフが探していたベルだ。
また命を失った。
街でジェフに会った時に、一緒にベルを探してやれば
ベルは死ななくて済んだかもしれないのに。
俺が任務を優先させたからだ。
どうして俺は。
何度も同じ過ちを――
俺の手に巻かれた包帯を見て、ベルを助けてくれそうな人の顔が浮かんだ。
猫を抱き上げて、俺は走り出した。首輪の鈴は煩いくらいにチリンチリンと鳴り続けてた。
そこからの記憶は断片的だ。
学院の門番が俺を見て驚いた顔をしてたのは覚えてる。
何か話し掛けられたけど、振り切って中に入った。
あの先生は、まだ保健室に居るのか、先生達の宿舎に居るのか。
保健室まで走ってくると、明かりが付いているのが見えた。
「ドクター!」
ドアを開けると、黒いスーツ姿の男と目が合った。
白衣を着ていなかったから、誰かと思ったけど、帰り支度をしていたドクターだった。
「なあ、あんた、医者なんだろ? この猫、助けてくれよ!」
「猫? 専門外だね。私はホモサピエンスしか」
「診るだけ診てくれよ、頼むからっ!」
ベルをドクターに突き出す。
ドクターは黒猫を一瞥して、そっと身体に手を伸ばした。少し触っただけで、ドクターは言った。
「抱いた時点で、本当は解っているんじゃないのか?」
俺は顔を上げる。医者は冷静な声で告げた。
「生きている物の体温じゃない。この子の心臓は止まっている」
黒猫はピクリとも動かない。
つい、この間まで歩いてた。小さな舌で俺の手を舐めてたのに。
「だけど、この猫は」
どうしたんだろう、俺。
「ベルは、マイクの代わりだったんだ。ベルまで居なくなったら、あいつは」
飼い主でもないのに。何、むきになってんだ。
何も関係ないドクターに八つ当たりまでして。
「ジェフは、どうしたらいいんだよ、もう、マイクも居ないのに――」
なんで、俺が。
泣いてるんだろう。
次に気が付いた時には、白い天井が見えた。
前に身体測定をした部屋。俺は保健室のベッドで起きた。
「おや、もうお目覚めかい?」
白衣の男に見下ろされた。
「ドクター? なんで……」
「私のことが識別できるんだね。けれど、どうして私が居るのかは解らないか。
君が私を訪ねて来たんだよ、猫の死骸を抱えてね。
君は私に、猫の死を宣告されたのを引き金に、軽度の混乱状態に陥った。
その身体能力で暴走されては、私の手には負えないから、鎮静剤を打たせて貰った。
左腕を見てご覧。針の痕があるだろう?」
「ベルは、どうしたの」
「私が預かっているよ。大分汚れていたから、泥と埃を取って、綺麗にしておいた。
老体のようだし、車の音がきちんと聞き取れず、轢かれたのかもしれないね」
「車に?」
「怪我の具合から見るとね。猫は死に目を人に見せないとよく言われるが、
自身の体力が落ちてくると、身を守る為、一人きりになれる場所へ身を隠す。
弱みを誰にも見せようとしない、憶病な生き物なんだ。
飼い主から離れ、街を彷徨っている時に、おそらく」
「ベルは、死んだの?」
ドクターは頷いて、落ち着いた声でゆっくりと言った。
「ああ。そうだよ」
「どうして」
「生き物全ての定めだからだ。猫も、君も、私も、必ず、いつかは死ぬ。解るかい?」
「……解ってるよ、そんなの」
「錯乱状態の君は、その動かしようもない事実が全く解っていなかった。
落ち着きを取り戻してくれて良かったよ」
「あんた、その腕のアザ、どうしたの?」
「覚えていないだろうね。これは君に掴まれてできたアザだ。握力が強いんだね」
「ごめん……」
「良いんだよ。この程度のアザならすぐに消える。
人間には自然治癒力という機能が備わっている。脆弱に見えて、人は意外と強い生き物だ」
「ねえ。ジェフにベルを見せるの?」
「もちろん、そうしたほうがいい。マイクが帰って来ないことも教えるべきだ」
「なんで、あんたがマイクのこと」
「君と一緒にジェフからマイクの話を聞いた時から、どこかで聞いた名だと思っていた。
あの後、保健室に戻って調べたら、書いてあったよ、フォン・ゲーテ元司令官のカルテにね。
彼は、マイクを失ったことを、自分の責任だと深く悔んでいたから」
「でも、ジェフは信じてんだぞ、マイクがいつか帰ってくるって」
「永遠に来ない人物を待ち続ける。その苦しみを味合わせるべきだと、そう言いたいのかい?」
「それは……」
「真実を知ったジェフは、きっと泣くだろうね。
泣いて、マイクとベルがこの世から居なくなったことを受け入れなくてはならない。
ジェフも、マイクとベルの死を乗り越えられるよ。君が心配するほど、彼もそう弱くはないだろう。
明日にでもジェフの店に行こう。私も付いていくよ、心配だからね」
カウンセラーが一緒に来てくれることに幾らか安堵し、心強く感じた。
「さて、今宵はもう大分遅いし、ここに泊まっていきなさい?」
「保健室に?」
「ああ。今日の君は、身体に受けた傷以上に、精神が酷く憔悴している。
それに君は一人暮らしなんだろう? とてもじゃないが一人きりにさせられない。今夜は家には帰さないよ」
「女のコじゃないんだから。家に帰るよ」
一瞬のうちに俺の腕を取られ、注射器を肌に突き刺す直前まで近付けられる。
「次は睡眠薬を打たれたいのかい? 患者には、医師の言うことを聞いて貰うよ。
私に逆らうなら、無理矢理にでも眠って貰う」
「どんだけ強引なんだよ、あんた」
「私は医師としての務めを果たしているだけだ」
「……ったく。オトコと一夜を明かすことになるなんてな」
ドクターは俺に背中を向けている。
あちらさんはまだ眠る気はないらしく、真夜中なのに机で読書を始めた。
読書のお供に、クラシックみたいな曲を掛けた。俺は普段聞かないジャンルだ。
ドクターは普段からこういうの聞いてるのかな? でも、今時カセットテープって。
ゆったりとした穏やかな曲を聞きながら、俺はベッドの中で白衣の背中を眺める。
少し落ち着かない気分で、ブランケットの中で足をもぞりと動かした。
ドクターの背中が揺れる。
「眠れそうにないかい? すぐに気が遠くなる注射を打ってあげようか?」
「それはヤメテ。俺、昔からダメなんだわ、お注射」
「子供のような弱点があるんだね。では錠剤は飲めるかい? 粉薬じゃないとダメかな?」
「そこまで子供じゃないよ」
ドクターは引き出しの中をゴソゴソする。
なんか奥のほうから取り出した物を俺に見せた。手の平の上に白い玉薬。
「どのくらいで眠たくなるモンなの?」
「この睡眠薬は30分程で頭が重たくなってくる。1時間もあれば眠れるだろう」
「そ」
「いいゆめが見られるように、先生がご本を読んであげようか? それとも子守唄を歌おうか?」
「だから、子供扱いしないでってば」
錠剤を飲んで、また真っ白なベッドに入る。
保健室のベッドは、クスリっぽい匂いがした。
「ドクター」
「ん?」
「あんた、俺が目を覚ますまで、ずっと傍に居てくれたの?」
「ここで暴れられては困るのでね。保健室には精密機械も、危険な薬品もあるから」
スローテンポのクラシック。単調な音楽だ。
さっきからずっと、おんなじようなメロディが続いている気がする。
段々、頭がぼうっとしてきた。
全身が重たくなっていく。まるで身体がベッドに沈んでいくみたい。
普段眠りに就く前とは少し違う眠さだ。強制的なけだるさ。あんまりイイもんじゃない。こういうのがクスリの力なのかな。
「ねえ」
「随分お喋りだね、今日の司令官は。もういいから、眠りなさい」
「ソクー、ロフ…」
それ以上、続かなかった。
もう目を開けていられない。世界が真っ暗になる。
――ジェフの境遇に、自分を重ねていたか。
ドクターの声を聞いたような気がした。
それが現実か夢か解らないまま、俺は深い眠りに堕ちた。
――君は過去に、誰を失ったんだい?
→
取調室の中央にポツンと置かれた二つの椅子。
一脚には、黒服の男が項垂れて座っている。ジブリールを裏切り、誘拐しようとしたファビアンだ。
彼の向かいには白衣のドクター。組んだ足にカルテを乗せ、ゆったりと構えている。
警備責任者の立ち会いの下、暗殺者を自白させているのだ。
司令官の俺と副司令官のクロイツは、部屋の外からガラス越しに、ドクターのお手並みを拝見していた。
「つまり、君はフリーランスの暗殺者、なんだね?」
「ええ。そうです」
「前にも、この島に来たことがあるのかな?」
「はい。二年前に私を買った男は、数学の研究者でしたか。
けれど、任務は失敗です。私は深手を負い、島から撤退するだけで精一杯でした。
一度は、島に上陸した経験を見込まれ、再び、この島へ」
「今回の依頼主は、ジブリールの父上、アブル国王かい?」
「ええ。アブル様とは、以前より親しくさせて頂いています。何かと物騒なお国ですから」
自白のエキスパートという経歴が、目の前で立証されつつある。
クロイツは白衣の男を見つめながら、「まるで魔法のようですね」と眉を顰めた。
ドクターは暴力や脅迫を用いることなく、幼い子供と話すような優しい口調で語り掛けていた。
「成程。君は、アブル国王陛下が島に来ることを、事前にジブリールへ伝えていたんだね?」
「はい。いざとなれば、私がジブリール様をお守り致しますので、と申し上げました」
「その台詞を言うように、君に命じたのは誰なんだい?」
「アブル国王陛下です」
「陛下は、本当にジブリールを次期後継者にするつもりだったのかな?」
「いいえ。陛下は第一王子を後継者にと考えておいででした。
ですから、第一王子を後継者争いから確実にお守りする為、第三王子を」
取り調べが終わった後。
俺はドクターに呼ばれ、保健室に連れて行かれた。
「慢心の結果だね、司令官?」
ドクターが俺の手に包帯を巻く。
ファビアン達とやり合った時に、短刀を素手で持っちゃった左手だ。
「だって、あの時は、こうするしかなかっ――」
「今日、君が犯した失敗は二つだ。
一つ、自分一人で戦闘に臨んだこと。二つ、戦闘が終わる前に一瞬気を抜いたこと。
新人司令官だからと気負い過ぎたことが原因だ。大いに反省するんだね」
真っ暗な帰り道。俺は一人で歩いてた。
部下が車で家までお送りしますって言ってくれたけど遠慮した。
道路脇に何か黒い塊が落ちていた。
捨てられたぬいぐるみみたいに見えた。
近付いて行くにつれ、心臓の音が煩くなる。
倒れていたのは黒い猫。
首輪に小さい鈴が付いていた。ジェフが探していたベルだ。
また命を失った。
街でジェフに会った時に、一緒にベルを探してやれば
ベルは死ななくて済んだかもしれないのに。
俺が任務を優先させたからだ。
どうして俺は。
何度も同じ過ちを――
俺の手に巻かれた包帯を見て、ベルを助けてくれそうな人の顔が浮かんだ。
猫を抱き上げて、俺は走り出した。首輪の鈴は煩いくらいにチリンチリンと鳴り続けてた。
そこからの記憶は断片的だ。
学院の門番が俺を見て驚いた顔をしてたのは覚えてる。
何か話し掛けられたけど、振り切って中に入った。
あの先生は、まだ保健室に居るのか、先生達の宿舎に居るのか。
保健室まで走ってくると、明かりが付いているのが見えた。
「ドクター!」
ドアを開けると、黒いスーツ姿の男と目が合った。
白衣を着ていなかったから、誰かと思ったけど、帰り支度をしていたドクターだった。
「なあ、あんた、医者なんだろ? この猫、助けてくれよ!」
「猫? 専門外だね。私はホモサピエンスしか」
「診るだけ診てくれよ、頼むからっ!」
ベルをドクターに突き出す。
ドクターは黒猫を一瞥して、そっと身体に手を伸ばした。少し触っただけで、ドクターは言った。
「抱いた時点で、本当は解っているんじゃないのか?」
俺は顔を上げる。医者は冷静な声で告げた。
「生きている物の体温じゃない。この子の心臓は止まっている」
黒猫はピクリとも動かない。
つい、この間まで歩いてた。小さな舌で俺の手を舐めてたのに。
「だけど、この猫は」
どうしたんだろう、俺。
「ベルは、マイクの代わりだったんだ。ベルまで居なくなったら、あいつは」
飼い主でもないのに。何、むきになってんだ。
何も関係ないドクターに八つ当たりまでして。
「ジェフは、どうしたらいいんだよ、もう、マイクも居ないのに――」
なんで、俺が。
泣いてるんだろう。
次に気が付いた時には、白い天井が見えた。
前に身体測定をした部屋。俺は保健室のベッドで起きた。
「おや、もうお目覚めかい?」
白衣の男に見下ろされた。
「ドクター? なんで……」
「私のことが識別できるんだね。けれど、どうして私が居るのかは解らないか。
君が私を訪ねて来たんだよ、猫の死骸を抱えてね。
君は私に、猫の死を宣告されたのを引き金に、軽度の混乱状態に陥った。
その身体能力で暴走されては、私の手には負えないから、鎮静剤を打たせて貰った。
左腕を見てご覧。針の痕があるだろう?」
「ベルは、どうしたの」
「私が預かっているよ。大分汚れていたから、泥と埃を取って、綺麗にしておいた。
老体のようだし、車の音がきちんと聞き取れず、轢かれたのかもしれないね」
「車に?」
「怪我の具合から見るとね。猫は死に目を人に見せないとよく言われるが、
自身の体力が落ちてくると、身を守る為、一人きりになれる場所へ身を隠す。
弱みを誰にも見せようとしない、憶病な生き物なんだ。
飼い主から離れ、街を彷徨っている時に、おそらく」
「ベルは、死んだの?」
ドクターは頷いて、落ち着いた声でゆっくりと言った。
「ああ。そうだよ」
「どうして」
「生き物全ての定めだからだ。猫も、君も、私も、必ず、いつかは死ぬ。解るかい?」
「……解ってるよ、そんなの」
「錯乱状態の君は、その動かしようもない事実が全く解っていなかった。
落ち着きを取り戻してくれて良かったよ」
「あんた、その腕のアザ、どうしたの?」
「覚えていないだろうね。これは君に掴まれてできたアザだ。握力が強いんだね」
「ごめん……」
「良いんだよ。この程度のアザならすぐに消える。
人間には自然治癒力という機能が備わっている。脆弱に見えて、人は意外と強い生き物だ」
「ねえ。ジェフにベルを見せるの?」
「もちろん、そうしたほうがいい。マイクが帰って来ないことも教えるべきだ」
「なんで、あんたがマイクのこと」
「君と一緒にジェフからマイクの話を聞いた時から、どこかで聞いた名だと思っていた。
あの後、保健室に戻って調べたら、書いてあったよ、フォン・ゲーテ元司令官のカルテにね。
彼は、マイクを失ったことを、自分の責任だと深く悔んでいたから」
「でも、ジェフは信じてんだぞ、マイクがいつか帰ってくるって」
「永遠に来ない人物を待ち続ける。その苦しみを味合わせるべきだと、そう言いたいのかい?」
「それは……」
「真実を知ったジェフは、きっと泣くだろうね。
泣いて、マイクとベルがこの世から居なくなったことを受け入れなくてはならない。
ジェフも、マイクとベルの死を乗り越えられるよ。君が心配するほど、彼もそう弱くはないだろう。
明日にでもジェフの店に行こう。私も付いていくよ、心配だからね」
カウンセラーが一緒に来てくれることに幾らか安堵し、心強く感じた。
「さて、今宵はもう大分遅いし、ここに泊まっていきなさい?」
「保健室に?」
「ああ。今日の君は、身体に受けた傷以上に、精神が酷く憔悴している。
それに君は一人暮らしなんだろう? とてもじゃないが一人きりにさせられない。今夜は家には帰さないよ」
「女のコじゃないんだから。家に帰るよ」
一瞬のうちに俺の腕を取られ、注射器を肌に突き刺す直前まで近付けられる。
「次は睡眠薬を打たれたいのかい? 患者には、医師の言うことを聞いて貰うよ。
私に逆らうなら、無理矢理にでも眠って貰う」
「どんだけ強引なんだよ、あんた」
「私は医師としての務めを果たしているだけだ」
「……ったく。オトコと一夜を明かすことになるなんてな」
ドクターは俺に背中を向けている。
あちらさんはまだ眠る気はないらしく、真夜中なのに机で読書を始めた。
読書のお供に、クラシックみたいな曲を掛けた。俺は普段聞かないジャンルだ。
ドクターは普段からこういうの聞いてるのかな? でも、今時カセットテープって。
ゆったりとした穏やかな曲を聞きながら、俺はベッドの中で白衣の背中を眺める。
少し落ち着かない気分で、ブランケットの中で足をもぞりと動かした。
ドクターの背中が揺れる。
「眠れそうにないかい? すぐに気が遠くなる注射を打ってあげようか?」
「それはヤメテ。俺、昔からダメなんだわ、お注射」
「子供のような弱点があるんだね。では錠剤は飲めるかい? 粉薬じゃないとダメかな?」
「そこまで子供じゃないよ」
ドクターは引き出しの中をゴソゴソする。
なんか奥のほうから取り出した物を俺に見せた。手の平の上に白い玉薬。
「どのくらいで眠たくなるモンなの?」
「この睡眠薬は30分程で頭が重たくなってくる。1時間もあれば眠れるだろう」
「そ」
「いいゆめが見られるように、先生がご本を読んであげようか? それとも子守唄を歌おうか?」
「だから、子供扱いしないでってば」
錠剤を飲んで、また真っ白なベッドに入る。
保健室のベッドは、クスリっぽい匂いがした。
「ドクター」
「ん?」
「あんた、俺が目を覚ますまで、ずっと傍に居てくれたの?」
「ここで暴れられては困るのでね。保健室には精密機械も、危険な薬品もあるから」
スローテンポのクラシック。単調な音楽だ。
さっきからずっと、おんなじようなメロディが続いている気がする。
段々、頭がぼうっとしてきた。
全身が重たくなっていく。まるで身体がベッドに沈んでいくみたい。
普段眠りに就く前とは少し違う眠さだ。強制的なけだるさ。あんまりイイもんじゃない。こういうのがクスリの力なのかな。
「ねえ」
「随分お喋りだね、今日の司令官は。もういいから、眠りなさい」
「ソクー、ロフ…」
それ以上、続かなかった。
もう目を開けていられない。世界が真っ暗になる。
――ジェフの境遇に、自分を重ねていたか。
ドクターの声を聞いたような気がした。
それが現実か夢か解らないまま、俺は深い眠りに堕ちた。
――君は過去に、誰を失ったんだい?
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■アイヴィー5年前
■囚われ人9 続編
■囚われ人9 続編
俺にとって、第一回目の聖アルフォンソ祭が始まった。
学校の文化祭ってゆうより、島を上げての一大フェスティバルってかんじだ。
この島で、こんなに人がたくさん居る光景を見たのは初めてだ。
お仕事中に、ちらりと見えた仮装行列。
海賊扮するエドガーに肩を組まれてる王様は、ヤンだった。
長髪に金色の王冠を乗せ、マントを羽織った立派な王族衣装。
眼鏡掛けてないのに、なんか頭良さそうな王様に見える。
普段の『よれよれカーディガン、散髪をめんどくさがってる髪型、時代遅れの眼鏡』な姿より、全然イケてた。
あいつ、コンタクトのほうが絶対モテる。あ、でもガッコに女の子が居ないんだった。
皆さんがカーニバルでお楽しみの間、俺達警備のお兄さん達は、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ。
こっちのほうも想像以上の集客率でビックリ。
そこらじゅうの人間が仮装してるもんだから、誰が誰だか解んねえし、
銃や剣を腰にぶら下げてても、仮装の小道具だと思って貰える。
これなら確かに、侵入者さん達も気軽に参加し易い。誰だ、こんな警備泣かせのお祭り考えた奴。
仮装行列のどさくさに紛れて行われる犯罪が多いって聞いてはいたけど。
ジブリールに限っては、日中、普通にお祭りに参加していて、俺達が出る幕はなかった。
奴が動き出したのは祭りの酔いも冷めた夜中。
一人で寮から抜け出し、門を越えて、街に出て行った。
俺達はジブリールの後を追い駆けたのだが。
「ったく。ジブリールの奴、どこまで夜遊びに行ったんだよ」
「見失うほうが悪いだろう、司令官?」
「だって、途中からバイク使うなんて思わねえじゃん!」
真夜中の王子様探し。
俺は戦闘能力が低いと思われるドクターとペアを組むことになった。
「こんなことなら、ジブリールのポケットにGPSチップでも入れときゃ良かったかなー」
「次に、ひじを噛もうとしても、もう遅い」
「ああ?」
「ロシアのことわざだよ。後になって悔んでも取り返しがつかないという意味だ」
「この忙しい時に、ロシア語講座開いてくれてありがとさん」
てゆうか、ひじなんて噛まねえし。
道を曲がると、誰かが飛び出してきた。
「ご、ごめんなさいっ! あっ、アイヴィー?」
ぶつかったのは、赤っぽい髪の男。今日は髪を結んでない。
マイクと親しかった、バー店員だ。
「ジェフ……な、何してんの、こんなとこで」
「ベルが帰って来ないんだ! だから俺、探しに」
「ベル? ああ、あのにゃんこか。どっかお散歩してるだけだろ?」
「俺も最初はそう思ったんだけど、それからもう何日も顔を見ないんだ」
ジェフは右手で、自分の左手首に触れた。
不安を抑えつけるように、何重ものブレスレットごと握っていた。
「こんなに長い間、帰って来ないなんてことなかったし。
ベル、おじいちゃんくらいの年だからさ、もしかして……」
「待て待て。そう悪いほうに考えんなって」
「ベルはマイクが置いていった猫なんだ。ベルまで店に来なくなったら、やだよ」
俺の腕時計型端末が赤く光った。
「ヤベッ」
手を背中の後ろに隠す。
「どうしたの、アイヴィー」
「あー、えっと、アラームだよ、アラーム! じゃあ、ちょっと急いでるから、またなっ」
端末にナビゲートされて着いた場所は海に近い公園。
ランプ型の街灯に囲まれていて、レトロな雰囲気がある。
夜中の公園に、四つの人影があった。二人ずつ対峙して立っている。
オレンジ街灯に照らされて、やっと顔が判別できる。
一人は、浅黒い肌と漆黒の髪。ジブリールだ。
向かい合ってるのは、アブル国王陛下、ジブリールの親父さんだった。
黒い長髪、肌は子息よりも濃い褐色で皺も見える。
砂漠の国の王子と王は、傍らに一人ずつ黒服の男を連れている。
彼等に気付かれないように、ドクターを連れて木の茂みに隠れる。
公園内が一望できる、そのベストポジションには、既にクロイツが居た。
余りにも冷たい眼差しで出迎えられたので、俺は先に小声で謝った。
「ゴメン。遅くなった。今、どんな様子?」
「お静かに。彼等の声が聞こえません」
「……ハイ」
耳を澄ます。少し冷たい潮風の中、苛立ったジブリールの声が聞こえてきた。
「つまらん昔話はもういい。何しに来た」
「父親が息子の文化祭を見に来てはいけないのか?」
「そんなもの、ただの口実だろう」
「今年は、お前にどうしても伝えたいことがあってな」
「伝えたいこと?」
「ジブリール、お前を私の跡継ぎにしたい」
「冗談だろ。兄貴二人を差し置いて?」
「ああ。あいつらは欲だけ強くて、頭は弱いからな。私はお前を一番頼りにしてる」
「嘘だ」
「嘘なものか。だから、お前だけ、聖アルフォンソ学院に入れた。
誰の手からも守りたかったからさ。お前こそ、私の後継者に相応しい。
お前のその名、私がどんな想いを込めたと思う?」
「名前だと……」
「アラビア語を忘れたか? ジブリールとは、最高位の天使ガブリエル。
イスラム教の開祖ムハンマドに、聖典コーランを与えた大天使だ。
その名の通り、お前は最高位に立ち、皆を導く為、生まれた者」
「無駄だ、俺に何を言おうと。貴方の言葉は、もう二度と信じないと決めたんだ」
「お前は昔から強情だったな。すぐには信じられないのも無理はない。
だから、うちに帰ってゆっくり話したい。祭りも終わったんだ。少し休みを取って、一度帰って来ないか?」
「俺はもう、貴方のところに帰るつもりはない」
「どうしてだ、ジブリール」
「じゃあ教えてくれ。何故この場に、エルヴィンを連れてきた?」
「用心棒さ。この島は危険な犯罪者も度々やってくるそうだから。私とお前を守る為のな」
俺は、父と子を見たまま、隣の男に尋ねる。
「ねえ、ドクターってさ、ヒトがウソ吐いてるかどうかも解る?」
「100%とは言えないが。今、この場合なら解るよ。99%間違いない」
「あのお父さんの言ってること、ホント? ウソ?」
「嘘だ」
「クロイツは? どう思う?」
「嘘だと思います」
「うん。俺もそう思うわ」
俺は副司令官に指示する。
「クロイツ。ドクターとここに居てくれる?」
「司令、お一人では」
「クロイツも、俺の腕がどんなモンか、ホントは知りたいでしょ?
この司令官ダメだなと思ったら、助けに来てちょ?」
砂漠の王は従者に命じた。
「エルヴィン、ジブリールを連れて帰るぞ」
「仰せのままに、アブル様」
ジブリールも従者に命じた。
「ファビアン、国王にお引き取り願え」
「仰せのままに、ジブリール様」
従者は、そう言うと仄かに笑った。
向こうから、国王の従者がやってくる。
従者同士は顔を見合わせる。二人の顔はよく似ていて、兄弟のように見えた。
次の瞬間、ジブリールの従者はきびすを返し、主人の右腕を掴んだ。
すかさず左腕を、国王の従者が押さえる。両腕を拘束された王子は鋭い目で睨み付けた。
「ファビアン。貴様、俺を騙したのか」
「殿下は何か勘違いをしておいでのようだ。私は、貴方の味方になると申し上げた」
「なら、何故」
「これが殿下の為だからです。後に貴方にも解って頂ける筈」
「ファビアン、離せ!」
父親が薄笑いを浮かべながら、
「連れて行け、ファビアン」
「仰せのままに、アブル様」
「ねえ。王子様が離せって言ってんだから、離してあげたら? オジサン達」
俺が出ていくと、王様は余裕ありげに笑った。
「ネズミが居たか」
「チューチュー、ってこんなイケメンのネズミが居るかよ。な、ジブリール?」
王子様が俺を見つめる。
「何故、ドライバーがこんなところに」
「迎えに来たんだよ、夜中に出歩いてる校則違反者が居るっていうからさ?」
「俺に構うな! あいつらは暗殺者だ!」
「やっぱりねえ。どうりで黒服がお似合いだと思った」
「殺されたいのか!? さっさと逃げろ!」
「んなワケに行くかよ。マージナルプリンスを置いて逃げたら、クビになっちゃうだろ?」
ファビアンと呼ばれた黒服の男が、俺を見て、おや、と微笑んだ。
「貴方は、以前にもお会いしましたね、金髪のネズミさん?」
「何それ? 口説き文句にしても古過ぎない?」
「お元気そうで何よりです、二年振りでしょうか?」
「だからさ、あんた、誰と勘違い……」
「仕留めたかと思っていましたが。しぶといんですね、この島のネズミは」
→
学校の文化祭ってゆうより、島を上げての一大フェスティバルってかんじだ。
この島で、こんなに人がたくさん居る光景を見たのは初めてだ。
お仕事中に、ちらりと見えた仮装行列。
海賊扮するエドガーに肩を組まれてる王様は、ヤンだった。
長髪に金色の王冠を乗せ、マントを羽織った立派な王族衣装。
眼鏡掛けてないのに、なんか頭良さそうな王様に見える。
普段の『よれよれカーディガン、散髪をめんどくさがってる髪型、時代遅れの眼鏡』な姿より、全然イケてた。
あいつ、コンタクトのほうが絶対モテる。あ、でもガッコに女の子が居ないんだった。
皆さんがカーニバルでお楽しみの間、俺達警備のお兄さん達は、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ。
こっちのほうも想像以上の集客率でビックリ。
そこらじゅうの人間が仮装してるもんだから、誰が誰だか解んねえし、
銃や剣を腰にぶら下げてても、仮装の小道具だと思って貰える。
これなら確かに、侵入者さん達も気軽に参加し易い。誰だ、こんな警備泣かせのお祭り考えた奴。
仮装行列のどさくさに紛れて行われる犯罪が多いって聞いてはいたけど。
ジブリールに限っては、日中、普通にお祭りに参加していて、俺達が出る幕はなかった。
奴が動き出したのは祭りの酔いも冷めた夜中。
一人で寮から抜け出し、門を越えて、街に出て行った。
俺達はジブリールの後を追い駆けたのだが。
「ったく。ジブリールの奴、どこまで夜遊びに行ったんだよ」
「見失うほうが悪いだろう、司令官?」
「だって、途中からバイク使うなんて思わねえじゃん!」
真夜中の王子様探し。
俺は戦闘能力が低いと思われるドクターとペアを組むことになった。
「こんなことなら、ジブリールのポケットにGPSチップでも入れときゃ良かったかなー」
「次に、ひじを噛もうとしても、もう遅い」
「ああ?」
「ロシアのことわざだよ。後になって悔んでも取り返しがつかないという意味だ」
「この忙しい時に、ロシア語講座開いてくれてありがとさん」
てゆうか、ひじなんて噛まねえし。
道を曲がると、誰かが飛び出してきた。
「ご、ごめんなさいっ! あっ、アイヴィー?」
ぶつかったのは、赤っぽい髪の男。今日は髪を結んでない。
マイクと親しかった、バー店員だ。
「ジェフ……な、何してんの、こんなとこで」
「ベルが帰って来ないんだ! だから俺、探しに」
「ベル? ああ、あのにゃんこか。どっかお散歩してるだけだろ?」
「俺も最初はそう思ったんだけど、それからもう何日も顔を見ないんだ」
ジェフは右手で、自分の左手首に触れた。
不安を抑えつけるように、何重ものブレスレットごと握っていた。
「こんなに長い間、帰って来ないなんてことなかったし。
ベル、おじいちゃんくらいの年だからさ、もしかして……」
「待て待て。そう悪いほうに考えんなって」
「ベルはマイクが置いていった猫なんだ。ベルまで店に来なくなったら、やだよ」
俺の腕時計型端末が赤く光った。
「ヤベッ」
手を背中の後ろに隠す。
「どうしたの、アイヴィー」
「あー、えっと、アラームだよ、アラーム! じゃあ、ちょっと急いでるから、またなっ」
端末にナビゲートされて着いた場所は海に近い公園。
ランプ型の街灯に囲まれていて、レトロな雰囲気がある。
夜中の公園に、四つの人影があった。二人ずつ対峙して立っている。
オレンジ街灯に照らされて、やっと顔が判別できる。
一人は、浅黒い肌と漆黒の髪。ジブリールだ。
向かい合ってるのは、アブル国王陛下、ジブリールの親父さんだった。
黒い長髪、肌は子息よりも濃い褐色で皺も見える。
砂漠の国の王子と王は、傍らに一人ずつ黒服の男を連れている。
彼等に気付かれないように、ドクターを連れて木の茂みに隠れる。
公園内が一望できる、そのベストポジションには、既にクロイツが居た。
余りにも冷たい眼差しで出迎えられたので、俺は先に小声で謝った。
「ゴメン。遅くなった。今、どんな様子?」
「お静かに。彼等の声が聞こえません」
「……ハイ」
耳を澄ます。少し冷たい潮風の中、苛立ったジブリールの声が聞こえてきた。
「つまらん昔話はもういい。何しに来た」
「父親が息子の文化祭を見に来てはいけないのか?」
「そんなもの、ただの口実だろう」
「今年は、お前にどうしても伝えたいことがあってな」
「伝えたいこと?」
「ジブリール、お前を私の跡継ぎにしたい」
「冗談だろ。兄貴二人を差し置いて?」
「ああ。あいつらは欲だけ強くて、頭は弱いからな。私はお前を一番頼りにしてる」
「嘘だ」
「嘘なものか。だから、お前だけ、聖アルフォンソ学院に入れた。
誰の手からも守りたかったからさ。お前こそ、私の後継者に相応しい。
お前のその名、私がどんな想いを込めたと思う?」
「名前だと……」
「アラビア語を忘れたか? ジブリールとは、最高位の天使ガブリエル。
イスラム教の開祖ムハンマドに、聖典コーランを与えた大天使だ。
その名の通り、お前は最高位に立ち、皆を導く為、生まれた者」
「無駄だ、俺に何を言おうと。貴方の言葉は、もう二度と信じないと決めたんだ」
「お前は昔から強情だったな。すぐには信じられないのも無理はない。
だから、うちに帰ってゆっくり話したい。祭りも終わったんだ。少し休みを取って、一度帰って来ないか?」
「俺はもう、貴方のところに帰るつもりはない」
「どうしてだ、ジブリール」
「じゃあ教えてくれ。何故この場に、エルヴィンを連れてきた?」
「用心棒さ。この島は危険な犯罪者も度々やってくるそうだから。私とお前を守る為のな」
俺は、父と子を見たまま、隣の男に尋ねる。
「ねえ、ドクターってさ、ヒトがウソ吐いてるかどうかも解る?」
「100%とは言えないが。今、この場合なら解るよ。99%間違いない」
「あのお父さんの言ってること、ホント? ウソ?」
「嘘だ」
「クロイツは? どう思う?」
「嘘だと思います」
「うん。俺もそう思うわ」
俺は副司令官に指示する。
「クロイツ。ドクターとここに居てくれる?」
「司令、お一人では」
「クロイツも、俺の腕がどんなモンか、ホントは知りたいでしょ?
この司令官ダメだなと思ったら、助けに来てちょ?」
砂漠の王は従者に命じた。
「エルヴィン、ジブリールを連れて帰るぞ」
「仰せのままに、アブル様」
ジブリールも従者に命じた。
「ファビアン、国王にお引き取り願え」
「仰せのままに、ジブリール様」
従者は、そう言うと仄かに笑った。
向こうから、国王の従者がやってくる。
従者同士は顔を見合わせる。二人の顔はよく似ていて、兄弟のように見えた。
次の瞬間、ジブリールの従者はきびすを返し、主人の右腕を掴んだ。
すかさず左腕を、国王の従者が押さえる。両腕を拘束された王子は鋭い目で睨み付けた。
「ファビアン。貴様、俺を騙したのか」
「殿下は何か勘違いをしておいでのようだ。私は、貴方の味方になると申し上げた」
「なら、何故」
「これが殿下の為だからです。後に貴方にも解って頂ける筈」
「ファビアン、離せ!」
父親が薄笑いを浮かべながら、
「連れて行け、ファビアン」
「仰せのままに、アブル様」
「ねえ。王子様が離せって言ってんだから、離してあげたら? オジサン達」
俺が出ていくと、王様は余裕ありげに笑った。
「ネズミが居たか」
「チューチュー、ってこんなイケメンのネズミが居るかよ。な、ジブリール?」
王子様が俺を見つめる。
「何故、ドライバーがこんなところに」
「迎えに来たんだよ、夜中に出歩いてる校則違反者が居るっていうからさ?」
「俺に構うな! あいつらは暗殺者だ!」
「やっぱりねえ。どうりで黒服がお似合いだと思った」
「殺されたいのか!? さっさと逃げろ!」
「んなワケに行くかよ。マージナルプリンスを置いて逃げたら、クビになっちゃうだろ?」
ファビアンと呼ばれた黒服の男が、俺を見て、おや、と微笑んだ。
「貴方は、以前にもお会いしましたね、金髪のネズミさん?」
「何それ? 口説き文句にしても古過ぎない?」
「お元気そうで何よりです、二年振りでしょうか?」
「だからさ、あんた、誰と勘違い……」
「仕留めたかと思っていましたが。しぶといんですね、この島のネズミは」
→
■ジョシュアとホワイトデー■
……あっ、ごめん、ユウタじゃなくて。
いや、これ、ユウタの携帯だから、間違えてしまっても仕方がないよ。
俺の方こそ、すまない。眠っていたのに起こしてしまったんだね。
また今度、電話したほうが良いかな?
でも、君、パジャマを着てるし、ベッドの中に居るみたいだから。
あ、ううん。そのままでいいよ。
この時間に電話を掛けると、パジャマ姿の君に会えるんだね。覚えておこうかな?
ごめん、ごめん。今度はもっと早い時間に電話するね。
あのね、今夜はホワイトデーだから、電話したんだ。
日本では、男性から女性に、感謝と愛を伝える日なんだよね?
うん。バレンタインの時にも電話したけど、
君への想いは何度伝えても足りないから。
ありがとう。
俺もだよ。できるなら、いつも君の傍に居たい。
だけど、もう少しで、それも現実になるんだね。
卒業したら、ロレートで、君と一緒に暮らせるんだ。
早く君に会いたいよ。
おやすみ。夢の中で待ってるよ。
■アルフレッドとホワイトデー■
ハロー! 元気にしてるかい?
俺? 元気に決まってるじゃん。君と電話してんだからさ?
今日はまず、コレ言わせてっ。
ハッピーホワイトデー。
俺はこれからも君だけのヒーローで在り続ける。
君はこれからも俺だけのヒロインで居てくれよなっ!
サンキュ! あのさ、来週の土曜日なんだけど、シチリアに遊びに行かねえ?
うちのじいさんがさ、急に俺のバースデーパーティを開いてやるとか言い出してんだよ。
で、彼女と友達も連れて、遊びに来いって。
まあ、じいさんがハルヤに会いたいだけなんだよ、どーせ。
あのじいさん、最近はハルヤのことを、自分の孫みたいに可愛がってんだぜ?
俺を飛び越して、ハルヤに電話してたり、
手紙とか、昔の資料とか、ドッカドカ送り付けてるみたいなんだよ!
あんたの孫は、この俺様だっつーのっ!
あっ、つい熱くなっちまった。君に怒ってどうすんだよな、俺。
ごめんな? じいさんの話はクシャクシャポイして、っと。
つーことで、俺と一緒に、シチリアに行ってくれる?
君が嫌なら、全然、他の場所で良いんだ。
俺は、君に誕生日を祝って貰えるんなら、シチリアでも、ニッポンでも、
例え世界の果てだって飛んで行くぜ!
シチリアに行ってくれんの?
やった! 今年は最高のバースデーになりそうだぜっ!
え、欲しい物? そりゃあ、色々あるけどさ。
イイの? 俺が欲しいモノ、言っちゃって?
んじゃ、言わせて貰うよ。俺が欲しいプレゼントは、
君のキス。決まってんだろ?
■アンリとホワイトデーM■
アロー。今、話せるかな?
1か月前、電話で話したこと、覚えてる?
そう、株の話。
君が選んだ株を、僕が買う。3月13日の値と比較して、
株価が上がっていれば君の勝ち、下がれば僕の勝ち。
敗者は、勝者の言うことをひとつ聞く、シンプルなゲーム。
君が選んだM社の株、あれから、急騰したよね。
こんな時期に、新商品の発表なんて、異例中の異例だよ。
君はインサイダーなのかと疑ったくらいだ。
僕ね? 君が選んだ株、たくさん買っておいたの。
メルシー。君のおかげで、結構なおこづかいになったよ。
本当に君は、僕に幸運を運んでくれる。流石は僕の天使だ。
約束通り、君の願い、叶えさせて?
僕、今日は、とても機嫌が良いから、多少の無理なら特別に聞いてあげる。
ねえ。君は、僕に、何をして欲しい?
遠慮しないで、言ってよ。今日は、ホワイトデーなんでしょう?
■アンリとホワイトデーS■
僕と君でやった、ギャンブル、忘れてないよね?
君が選んだS社の株、大暴落したんだけど。どうしてくれるの?
君は、僕の天使だけど、勝利の女神ではないんだね。
あーあ、がっかりだな。多めに買って、失敗だったよ。
損害額? それ、聞きたいの?
止めておいたほうが良いと思うよ? 君の想像を遙かに超えているから。
それじゃあ、お楽しみの罰ゲームの時間だね。僕が決めた罰、受けて貰おうか?
罰は何かって? 良いよ、教えてあげる。
では、まず、このドア、開けてくれる?
気付かなかった? 本当に君はどうしようもなく鈍い人だね。
僕、今、君の家の前に居るの。
■シルヴァンとホワイトデー■
『こんばんは! 夢でお会いして以来ですね!』
あれっ? 面白くなかったですか、今の。
日本では、爆笑間違いなしのギャグだって聞いたんですけど。おかしいですねえ。
ええっ? ちょっと古いギャグなんですか? もう?
ああ、日本って流行のサイクルが早いですからね。すみません、僕の勉強不足でした。
そうそう、今日はお礼のお電話なんですよ。
貴女からのクッキー、届きました。ありがとうございます。
まさか、逆チョコのお返しに、逆ホワイトデーをして頂けるなんて!
ヤマトナデシコは義理堅いですね。僕、感動しちゃいましたっ!
それでですね! 僕、もう、じっとしていられなくなって♪
ジャーン! 今、成田空港です!
ほら、あれが今乗ってきた飛行機ですよ。カッコイイですよね!
ということで。今から二時間後に、池袋で待ってますから♪
待ち合わせ場所は、これからメールする、執事喫茶の前です。
一か月前から予約済みですので、遅れないようにお願いしますね?
日本では今、執事が大ブームと聞いたので、僕もすごく興味があったんですよー♪
え? ああ、まあ、確かに僕達の寮には本物のバトラーが居ますけど……
池袋って、秋葉原に次ぐ、聖地じゃないですか!
アのお店も本店は池袋ですし! ね? 一緒に行きましょう?
ああ、そうこうしている間に、予約の時間が近付いてきちゃいますよっ。
じゃ、電話は一回切りますね。現地に着いたら、またメールします。
今日は一生忘れられない、ホワイトデートにしてみせますから、覚悟しておいて下さいね?
では、二時間後、貴女に会えるのを楽しみにしています、お嬢様♪
■ハルヤとホワイトデー■
こんちは。今日はね、植物園から電話してるんだ。
君にね、見て欲しい景色があって。これだよ。
うん。満開の梅が、散った跡。
ちょっと、がっかりさせちゃったかな?
でもね、これ、ちゃんと名前があって、零れ梅っていうんだ。
枝から散り零れた花のこと、そう呼ぶんだって。
俺がまだ小さい時にね、じいさまが言ってたんだ。
「枝に咲く梅も、零れ梅も、梅は梅。どっちも可愛くてしょうがない」って。
あの時は、普通に梅の話だと思ってたんだけどさ。
今になって考えるとね。じいさまは、兄様と俺のこと、言ってくれてたのかなって。
梅ヶ枝の姓を持つ兄様も、その姓を持てなかった俺も、
梅は梅で、変わらない。二人とも可愛い孫だよって。そういう意味だったのかな?
ごめん。俺、君には励まして貰ってばっかりだね。
なんか、君にはいつも甘えちゃってる気がする。
あの、こんな俺で、嫌にならない?
ほんと? 嫌だったら、ちゃんと言ってね? 俺、直すから。
俺だって、君に見合う男になりたいって思うんだよ?
君と、ずっと一緒に居たいから。
や。そんな、「そのままでいい」なんて言われたら、俺、
もっと、君に甘えちゃうじゃん……
■エンジュとホワイトデー■
ああ、ユウタから聞いた。
3月14日はチョコレートのお返しをする日なのだと。
それで、お前の部屋のベランダまで来たのだが。
窓の鍵を開けてくれないか? ここは寒い。
お前は、あたたかいな。
■アイヴィーとホワイトデー■
そんなにパスタを褒めてくれても、もう何も出ないって。
いやー。けど、ホワイトデーだからって、うちまで来てくれるとは思わなかったよ。
だから、この前、俺の休みがいつかって聞いてたんだね?
迷惑なんかじゃないよ。嬉しいに決まってんじゃん。
こんな辺境の島まで、はるばる会いに来てくれて嬉しいよ。
でも、親御さんには何て言って出て来たの?
え、ウーティスに?
それでよく許してくれたなあ、野郎ばっかの寮に泊まろうとするなんて。
あいつら、この島では『プリンス』なんて呼ばれてっけど、
中身はただのガキで、女のコに飢えたオオカミなんだから油断してちゃダメだよ?
キミ、人気あるし、可愛いんだからさ。
アルフレッドとか、シルヴァン辺りは特にキケンだし。あと白衣着てる人もアブナイから。
それに、キミはもう……
あ、あのさ。この前、君が言ってくれたことだけど。
ホントに、俺でイイの?
え? 「私でイイんですか」って?
イイに決まってるよ! 俺が好きなのは、キミだけなんだから!
目の前でそう言って貰えると、照れるけど、安心したよ。ありがと。
キミは知らないと思うけど、1か月前にプロポーズした時、
電話越しだったのに、俺、心臓バックバクだったからね?
マジで、長い人生の中で、いっちばんキンチョーした。
俺、あの時、携帯をテーブルに置いてたのは、手が震えて、持てなかったからだからさ。
あ。こんな情けない話、聞きたくなかった、かな?
そう? 良かった。なんか、キミの前では俺もただのガキだね。
俺さ、お仕事してる時は、それなりに司令官っぽくしてなきゃいけないし、
マジプリどもの前では、お兄さんっぽくしてなきゃダメじゃん?
この島に来てから、別に無理してるつもりなかったんだけど。
やっぱり、プレッシャー、っていうか、ちょっと背伸びしてたのカモって、最近思ってさ。
俺、キミと一緒に居る時が、一番好きなんだって解ったから。
あっ、そうだ。今度、会えた時に渡そうと思ってたんだけど、
今、渡しちゃおうかなっ。ちょっと待ってて。
キミに似合いそうなの選んだんだ。エンゲージリングだよ。
俺が付けてあげてもイイ?
ヨカッタ。やっぱり似合うね。コレがイイって思ったんだ。
大好きだよ。
キミのこと、一生、俺が守るから。
■ソクーロフ博士とホワイトデー■
入りたまえ。
やあ。よく来たね。どうだい? 携帯越しではなく、肉眼で見る保健室は?
薬の匂い? ああ、成程。嗅覚で感じるのは初めてというわけか。
そうだね、この部屋は教室や寮とは違う、独特の香りがある。
正確には消毒用エタノールの香りだ、器材を殺菌する為のね。
この香りを快いと感じる人、不快に感じる人が居るが、君はどうかな?
そう。君の肌に合って良かったよ。
この匂いだけで拒否反応を示す生徒も居るからね、良い香りなのに。
せっかくここまで来てくれたんだ。少し、保健室の中を見てみるかい?
便宜上、保健室と呼ばれているが、一室ではなく、複数の部屋を持った建物だからね。
先ず、ここは診察室と呼んでいる部屋だ。定期健診の身体測定もここで行っている。
怪我の治療など、ごく日常的に使われる場所だね。私が普段居るのは、その椅子だ。
次は、隣の部屋に行こうか。
ここがカウンセリングルームだ。君も携帯越しでは、来たことがあるだろう?
君だけでなく、生徒達と面談する際も、こちらを使っている。
一見、普通の部屋と変わりがないように見えるが、
カウンセリングを円滑に行えるよう、様々な工夫や、仕掛けが施されている。
ん? 詳しくは言えないよ、君でもね? これは企業秘密というものだ。
トリックを明かしてしまっては、今後のカウンセリングに差し支えるからね。
では、二階に案内しよう。
君は初めて見る部屋じゃないかな? 二階は全室ベッドルームになっているんだ。
今日は誰も使っていないよ。入ってみるかい?
ここは、症状の重い生徒を休ませたり、寮から隔離する為に使う部屋だ。
学院で風邪が流行してしまった時などは、一時的だが、満床になる場合もあるよ。
まあ、シュヌーシアの別荘のようなフロアだね。あの子達はここの常連だから。
ところで。立っていないで、座っていいんだよ、ここに。
日本からの長旅で疲れているだろう?
顔を見れば解るよ、君はいつもより少し疲労している。
遠慮せずに、私の隣に座りなさい?
良い子だね。医師の言うことは、素直に聞いたほうが身の為だ。
身体的には疲れているだろうが、気分は悪くないんじゃないかな?
脈は、少し早いようだね。緊張しているのかな?
ベッドの上で、私と二人きりになったことで、途惑っている?
嘘は良くないよ。前にも言った筈だ。私は、人の心を映す鏡なのだと。
君が保健室の内部を見てみたいと心の中で願っていたから、私は案内したんだよ?
そして、二階に来た時、君の願いは、次のものへと変わった。
私は、君の願うまま、君の手に触れた。私の言っていることは、間違っているかい?
その紅潮した頬、美しいよ。
さあ、顔を上げて、私の目を見て、言ってごらん?
君は、保健室に、どんな用事があって、来たのかな?
私に言い当てて欲しいのかい?
仕方のない子だ。では私が、君の願いを口にしよう。
君が持って来た、ホワイトデーのプレゼントは、君自身、なんだね?
fin
■ジョシュア×姉貴 アイヴィー 王×側近
生徒代表室に、午後の日射しが差し込んでいる。
窓の向こうには、青々と広がる森。月桂樹は今日も、さわさわと、その葉を揺らしていた。
「もう、アイヴィー。そういう冗談は、困ります……」
生徒代表のジョシュアは、PCの前で俯いていた。
画面上では、金髪の男が白い歯を見せている。
「いやー、ワリィ、ワリィ。お前さん、からかうと面白いからさー。
何でも、すぐ本気にすんだもんよ。そんなんじゃ、悪いオジサンにダマされちゃうぞー?」
ネットミーティングが終わった後で、生徒代表は、PC越しの警備責任者と雑談をしていた。
ジリリ、とアンティークな呼び出し音が鳴った。
「あっ、すみません。電話が」
「みたいだな。んじゃ、メールの件は、そーゆーことでヨロシク。またなー」
「ええ。失礼します」
生徒代表は固定電話の前に向かう。
この古めかしい電話は、生徒代表としての自分に用がある人間から掛かってくる電話だ。
呼吸を整え、心の準備をしてから、受話器を取った。
「お待たせしました。生徒代表のジョシュア・グラントです」
「交換台のスミスでございます。ウーティス寮のバトラーから、
ジョシュア様が生徒代表室にいらっしゃると伺い、ご連絡差し上げました。
カーディス国王陛下から、ジョシュア様にお電話でございます」
「えっ? カーディスからですか?」
「ええ。陛下がお急ぎのご様子でしたので、今、こちらのお電話にお繋ぎしても、よろしいでしょうか?」
余程の緊急事態なのだろうか、とジョシュアは緊張する。
「繋いで下さい」
「畏まりました。そのまま、お待ち下さいませ」
プツ、と無機質な音がして、回線が切り替わる。
「急に電話をしてすまないな、ジョシュア。今、話せるか?」
父と似た、柔らかく頼もしい声。間違いなく叔父の声だった。
「ええ。ロレートで、何かあったんですか?」
「いいや? 今度の公式行事のことで、少し話したいことがあってな」
何事かと思えば、次の帰国スケジュールの確認だった。
ジョシュアは既に、ロレートの次期国王に指名されているので、
国の行事に出席すること自体には、何ら異論はないのだが。
一国の主が時間を割いて、わざわざ電話してくる内容には、到底思えなかった。
これまで、ロレートからジョシュアへの連絡は、カーディスの側近が行っていた。
ラルヴィス・レイナ。金髪緑眼。若くして、王の右腕を務める優秀な人だ。
カーディスが最も信頼する存在であることは、ジョシュアにも見て取れた。
「あの、カーディス?」
「何だ?」
「今日、レイナさんはどうしたんですか? もしかして体調が悪いとか……大丈夫ですか?」
尋ねながら、それにしても変だな、とジョシュアは思う。
王に仕える従者はレイナだけではない。他に何人も居るのだ。
「ラルヴィスなら、普段通り口煩くしているぞ? 今は席を外しているがな。あいつに用があったのか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど、貴方から俺に電話なんて、珍しいから」
「今日はお前に頼みがあって、電話したんだ」
「カーディスが、俺に?」
「ああ。何、難しいことではない。先程話した公式行事、今回は、お前の姫にも出席して欲しいんだ」
カーディスが『姫』と呼んだのは、ユウタの姉のことだ。
先日、ロレートで行われた建国記念式典にて、
ジョシュアの王位継承権復帰と共に、その正式なパートナーとして発表された。
新たな『世紀の恋』の誕生に、皆が驚き、歓喜した。
「国民も、俺も、東洋の姫にまた会いたいと願っている。国中からのリクエストだ。
お前から姫に、都合が付くかどうか、聞いておいてくれないか?」
「解りました、聞いてみます」
「頼んだぞ。それから、もうひとつ。実はこちらのほうが本題だ。
こういう話は、姫の前では話し難いから、お前に直接、言っておきたくてな」
ジョシュアに再び緊張が走る。
彼女に言えない話。何かまた良からぬ陰謀でも持ち上がっているのだろうか。
「何ですか?」
「悪いが、俺はこの先も、妃を取る予定はない」
「えっ?」
「これが、どういう意味かは解るな? ジョシュア」
「えっと……」
「お前の次に、王となる者を、俺が作るつもりはない、と言っているんだ。
後継者の用意は任せたぞ、ジョシュア」
「ちょっと、カーディス……」
「真面目な話さ。お前まさか、ロレート大公家を自分の代で終わりにするつもりか?」
「い、いいえ……」
「だが、あまり焦ると、姫に嫌われるから、気を付けろよ?
かと言って、ここぞという好機に、男が躊躇するのは、最も良くない。
いいか? チャンスがあれば迷わず、口を塞いで押し倒」
言葉が途切れるのと同時に、「陛下、いい加減にして下さい!」と言う怒声が聞こえた。
いつの間にか戻って来ていたらしい側近が、とても恐縮した声で電話に出た。
「殿下、レイナでございます。申し訳ありません。
私が居ない隙に、陛下がこんな悪ふさげを……ご気分を害し、大変失礼致しました」
「そんな。カーディスは俺のことを心配して」
「恐れながら申し上げますが、違います。本来、殿下へのお電話は全て、私から差し上げるもの。
陛下は、ただ、戯れに貴方を弄んで、お楽しみになっただけです。本当に申し訳ございません。
二度とこのようなことがないよう、陛下には後でよく言って聞かせますので。どうかお許し頂きたく」
「ええ。俺は、大丈夫ですから」
「ありがとうございます。殿下の寛大なお心に、感謝致します。
お世継ぎについて、この機会に、少しだけお話させて頂いてもよろしいでしょうか?」
「えっ? はい……」
「陛下の無神経なご指南には語弊がありましたが、その真意に、間違いはございません。未来永劫、ロレート公国を築いていくには必要不可欠なこと。
確かに、殿下には、まだ先のお話ですが、いずれ、確実に、問題になることでございます。
ロレートの未来を担う、お世継ぎの誕生は、私共、国民一同の願いであることを、
胸の内に覚えておいて下さいますよう、お願い申し上げます」
「は、はい。解りました……」
「本日は、大変申し訳ありませんでした。それでは失礼致します」
受話器を置いた側近は、早速、主に苦言を述べる。
「陛下! 殿下を相手に、このようなお暇潰しはお止め下さい!
殿下は、貴方と違って、純粋で繊細な方なのですよ!?」
王は笑っていた。
「重要なことだろう? この国の命運が掛かった話だ。
俺は当代の国王として、叔父として、人生の先輩として適切な助言を」
「不適切にも程があります! あの直接的な言い方は何ですか!」
「お前の言い方のほうに問題があっただろう?
あれほど深刻に話して。無駄にプレッシャーを与えていたな」
「いいえ。陛下のほうが」
「俺に言われるより、側近のお前に言われたことで、より真実味が増していた。
ジョシュアの奴、今頃、真剣に苦悩しているぞ。馬鹿が付くほど真面目だからな、あの優等生は」
「もしもし。ジョシュアだけど、今、少し良いかな?」
生徒代表はアンティークな受話器を耳に当てている。
「今度、ロレートで公式行事があるんだ。さっき、カーディスから電話があって、
その、君も一緒に来て欲しいって言われたんだ。
来月末なんだけど、大丈夫かな? うん。そっか。良かった。
じゃ、詳しいことは今度改めて。それから、えっと……」
言葉に詰まる。
可笑しな間が空いた。彼女に名を呼ばれ、ジョシュアは声が小さくなる。
「あっ、ごめん。何でも、ないよ。また、電話するね……」
その夜、空は雲で覆われていた。
せっかくの満月も濃い雲に覆われ、姿を現わせないでいる。
王の寝室にも、白光は届いていない。王が先まで吸っていた煙草の香りが漂っている。
「それでは、おやすみなさいませ、陛下」
側近が頭を下げると、左の手首を掴まれた。
王は寝台に腰掛けたまま、側近を見上げる。
緑眼は、つまらなそうなフリをして、主を見据えた。
「何か?」
「来い」
引かれた腕。王の寝台に無理矢理座らされる。
カーディスは黙ったまま、従者を見つめた。
――陛下の瞳に、私が映っている。他の誰でもなく、自分が。
優越と罪悪を感じた次の瞬間、唇は覆われていた。
後頭部に主の腕が回る。その手に項を撫でられゾクリとした。
舌を絡めとられながら、煙草の苦味を味合わされる。
上唇は口髭にチクチクとくすぐられる。少し開いた唇から、つう、と雫が伝う。
――もう、どうだっていい。
従者は、理性を保つことを放棄する。
深い口付けに押されるまま、背と寝台の距離が縮まっていった。
夜が更けていくにつれ、外では風が出てきた。
満月は、流れる雲の間から、切れ切れに肌を覗かせる。
広い寝室では、卑猥で虚しい音が響く。
室内が静かになった頃、雨が降り始めた。
ポツポツと窓ガラスを濡らす音が聞こえたかと思うと、すぐに本降りになった。
寝台では、王と側近が、けだるい身体を横たえている。
雨のせいか、寝室の中も肌寒くなったように、カーディスは感じた。
憂鬱な雨音を聞きながら、カーディスは無言で、従者の髪を梳いていた。
特別理由もないのに、情事の後は、癖のように従者の髪に触れる。
王は、何も生み出さない、何の意味もない行為を繰り返していた。
「陛下」
擦れた声で従者が主を呼ぶ。
「ん?」
「今日のような、お電話は、以後、お控え下さい」
王は薄く笑う。
「ベッドの中でも口煩い奴だな、お前は。今言う説教か?」
従者は無表情のまま呟く。
「弄ぶのは、私だけにして下さい」
王は思わず肩を揺らした。
「陛下?」
「……これだから、妃の必要が感じられないんだ」
fin
窓の向こうには、青々と広がる森。月桂樹は今日も、さわさわと、その葉を揺らしていた。
「もう、アイヴィー。そういう冗談は、困ります……」
生徒代表のジョシュアは、PCの前で俯いていた。
画面上では、金髪の男が白い歯を見せている。
「いやー、ワリィ、ワリィ。お前さん、からかうと面白いからさー。
何でも、すぐ本気にすんだもんよ。そんなんじゃ、悪いオジサンにダマされちゃうぞー?」
ネットミーティングが終わった後で、生徒代表は、PC越しの警備責任者と雑談をしていた。
ジリリ、とアンティークな呼び出し音が鳴った。
「あっ、すみません。電話が」
「みたいだな。んじゃ、メールの件は、そーゆーことでヨロシク。またなー」
「ええ。失礼します」
生徒代表は固定電話の前に向かう。
この古めかしい電話は、生徒代表としての自分に用がある人間から掛かってくる電話だ。
呼吸を整え、心の準備をしてから、受話器を取った。
「お待たせしました。生徒代表のジョシュア・グラントです」
「交換台のスミスでございます。ウーティス寮のバトラーから、
ジョシュア様が生徒代表室にいらっしゃると伺い、ご連絡差し上げました。
カーディス国王陛下から、ジョシュア様にお電話でございます」
「えっ? カーディスからですか?」
「ええ。陛下がお急ぎのご様子でしたので、今、こちらのお電話にお繋ぎしても、よろしいでしょうか?」
余程の緊急事態なのだろうか、とジョシュアは緊張する。
「繋いで下さい」
「畏まりました。そのまま、お待ち下さいませ」
プツ、と無機質な音がして、回線が切り替わる。
「急に電話をしてすまないな、ジョシュア。今、話せるか?」
父と似た、柔らかく頼もしい声。間違いなく叔父の声だった。
「ええ。ロレートで、何かあったんですか?」
「いいや? 今度の公式行事のことで、少し話したいことがあってな」
何事かと思えば、次の帰国スケジュールの確認だった。
ジョシュアは既に、ロレートの次期国王に指名されているので、
国の行事に出席すること自体には、何ら異論はないのだが。
一国の主が時間を割いて、わざわざ電話してくる内容には、到底思えなかった。
これまで、ロレートからジョシュアへの連絡は、カーディスの側近が行っていた。
ラルヴィス・レイナ。金髪緑眼。若くして、王の右腕を務める優秀な人だ。
カーディスが最も信頼する存在であることは、ジョシュアにも見て取れた。
「あの、カーディス?」
「何だ?」
「今日、レイナさんはどうしたんですか? もしかして体調が悪いとか……大丈夫ですか?」
尋ねながら、それにしても変だな、とジョシュアは思う。
王に仕える従者はレイナだけではない。他に何人も居るのだ。
「ラルヴィスなら、普段通り口煩くしているぞ? 今は席を外しているがな。あいつに用があったのか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど、貴方から俺に電話なんて、珍しいから」
「今日はお前に頼みがあって、電話したんだ」
「カーディスが、俺に?」
「ああ。何、難しいことではない。先程話した公式行事、今回は、お前の姫にも出席して欲しいんだ」
カーディスが『姫』と呼んだのは、ユウタの姉のことだ。
先日、ロレートで行われた建国記念式典にて、
ジョシュアの王位継承権復帰と共に、その正式なパートナーとして発表された。
新たな『世紀の恋』の誕生に、皆が驚き、歓喜した。
「国民も、俺も、東洋の姫にまた会いたいと願っている。国中からのリクエストだ。
お前から姫に、都合が付くかどうか、聞いておいてくれないか?」
「解りました、聞いてみます」
「頼んだぞ。それから、もうひとつ。実はこちらのほうが本題だ。
こういう話は、姫の前では話し難いから、お前に直接、言っておきたくてな」
ジョシュアに再び緊張が走る。
彼女に言えない話。何かまた良からぬ陰謀でも持ち上がっているのだろうか。
「何ですか?」
「悪いが、俺はこの先も、妃を取る予定はない」
「えっ?」
「これが、どういう意味かは解るな? ジョシュア」
「えっと……」
「お前の次に、王となる者を、俺が作るつもりはない、と言っているんだ。
後継者の用意は任せたぞ、ジョシュア」
「ちょっと、カーディス……」
「真面目な話さ。お前まさか、ロレート大公家を自分の代で終わりにするつもりか?」
「い、いいえ……」
「だが、あまり焦ると、姫に嫌われるから、気を付けろよ?
かと言って、ここぞという好機に、男が躊躇するのは、最も良くない。
いいか? チャンスがあれば迷わず、口を塞いで押し倒」
言葉が途切れるのと同時に、「陛下、いい加減にして下さい!」と言う怒声が聞こえた。
いつの間にか戻って来ていたらしい側近が、とても恐縮した声で電話に出た。
「殿下、レイナでございます。申し訳ありません。
私が居ない隙に、陛下がこんな悪ふさげを……ご気分を害し、大変失礼致しました」
「そんな。カーディスは俺のことを心配して」
「恐れながら申し上げますが、違います。本来、殿下へのお電話は全て、私から差し上げるもの。
陛下は、ただ、戯れに貴方を弄んで、お楽しみになっただけです。本当に申し訳ございません。
二度とこのようなことがないよう、陛下には後でよく言って聞かせますので。どうかお許し頂きたく」
「ええ。俺は、大丈夫ですから」
「ありがとうございます。殿下の寛大なお心に、感謝致します。
お世継ぎについて、この機会に、少しだけお話させて頂いてもよろしいでしょうか?」
「えっ? はい……」
「陛下の無神経なご指南には語弊がありましたが、その真意に、間違いはございません。未来永劫、ロレート公国を築いていくには必要不可欠なこと。
確かに、殿下には、まだ先のお話ですが、いずれ、確実に、問題になることでございます。
ロレートの未来を担う、お世継ぎの誕生は、私共、国民一同の願いであることを、
胸の内に覚えておいて下さいますよう、お願い申し上げます」
「は、はい。解りました……」
「本日は、大変申し訳ありませんでした。それでは失礼致します」
受話器を置いた側近は、早速、主に苦言を述べる。
「陛下! 殿下を相手に、このようなお暇潰しはお止め下さい!
殿下は、貴方と違って、純粋で繊細な方なのですよ!?」
王は笑っていた。
「重要なことだろう? この国の命運が掛かった話だ。
俺は当代の国王として、叔父として、人生の先輩として適切な助言を」
「不適切にも程があります! あの直接的な言い方は何ですか!」
「お前の言い方のほうに問題があっただろう?
あれほど深刻に話して。無駄にプレッシャーを与えていたな」
「いいえ。陛下のほうが」
「俺に言われるより、側近のお前に言われたことで、より真実味が増していた。
ジョシュアの奴、今頃、真剣に苦悩しているぞ。馬鹿が付くほど真面目だからな、あの優等生は」
「もしもし。ジョシュアだけど、今、少し良いかな?」
生徒代表はアンティークな受話器を耳に当てている。
「今度、ロレートで公式行事があるんだ。さっき、カーディスから電話があって、
その、君も一緒に来て欲しいって言われたんだ。
来月末なんだけど、大丈夫かな? うん。そっか。良かった。
じゃ、詳しいことは今度改めて。それから、えっと……」
言葉に詰まる。
可笑しな間が空いた。彼女に名を呼ばれ、ジョシュアは声が小さくなる。
「あっ、ごめん。何でも、ないよ。また、電話するね……」
その夜、空は雲で覆われていた。
せっかくの満月も濃い雲に覆われ、姿を現わせないでいる。
王の寝室にも、白光は届いていない。王が先まで吸っていた煙草の香りが漂っている。
「それでは、おやすみなさいませ、陛下」
側近が頭を下げると、左の手首を掴まれた。
王は寝台に腰掛けたまま、側近を見上げる。
緑眼は、つまらなそうなフリをして、主を見据えた。
「何か?」
「来い」
引かれた腕。王の寝台に無理矢理座らされる。
カーディスは黙ったまま、従者を見つめた。
――陛下の瞳に、私が映っている。他の誰でもなく、自分が。
優越と罪悪を感じた次の瞬間、唇は覆われていた。
後頭部に主の腕が回る。その手に項を撫でられゾクリとした。
舌を絡めとられながら、煙草の苦味を味合わされる。
上唇は口髭にチクチクとくすぐられる。少し開いた唇から、つう、と雫が伝う。
――もう、どうだっていい。
従者は、理性を保つことを放棄する。
深い口付けに押されるまま、背と寝台の距離が縮まっていった。
夜が更けていくにつれ、外では風が出てきた。
満月は、流れる雲の間から、切れ切れに肌を覗かせる。
広い寝室では、卑猥で虚しい音が響く。
室内が静かになった頃、雨が降り始めた。
ポツポツと窓ガラスを濡らす音が聞こえたかと思うと、すぐに本降りになった。
寝台では、王と側近が、けだるい身体を横たえている。
雨のせいか、寝室の中も肌寒くなったように、カーディスは感じた。
憂鬱な雨音を聞きながら、カーディスは無言で、従者の髪を梳いていた。
特別理由もないのに、情事の後は、癖のように従者の髪に触れる。
王は、何も生み出さない、何の意味もない行為を繰り返していた。
「陛下」
擦れた声で従者が主を呼ぶ。
「ん?」
「今日のような、お電話は、以後、お控え下さい」
王は薄く笑う。
「ベッドの中でも口煩い奴だな、お前は。今言う説教か?」
従者は無表情のまま呟く。
「弄ぶのは、私だけにして下さい」
王は思わず肩を揺らした。
「陛下?」
「……これだから、妃の必要が感じられないんだ」
fin
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