■ジョシュア×アンリ
PR
ドアをノックしたが返事はなかった。
そろそろ日付が変わる時刻ではあるが、
もう眠っているかもしれない、とは思わなかった。
「ジョシュア、入るよ」
そう声を掛けて、アンリはドアを開けた。
ジョシュアの後ろ姿が目に入った。窓辺に一人で佇んでいる。
ガラスの向こうには夜の森。その上には月が見えた。
今日という日に、月が満ちた姿で輝いているのも、偶然ではないような気がした。
ジョシュア、と名を呼ぶと彼の肩が跳ねた。
「アンリ。いつからそこに」
「今だよ。ノックもしたんだけど?」
「そうだったのか。すまない、気が付かなくて。考えごとをしていたから」
アンリはベッドに腰掛ける。
「何、考えてたの?」
「今日は本当に幸せな誕生日だったなあと思って」
今日は7月28日。
ウーティス寮生はジョシュアのバースデーパーティを開いてくれた。
今年度の生徒代表であり、皆から慕われているジョシュアの誕生日とあって、
他の寮からもお祝いに駆け付けた生徒は多く、日中のパーティは盛大なものとなった。
夕食の時間には、ウーティス寮生のみで、改めてバースデーパーティが開かれた。
「俺、今年の誕生日のことは、一生忘れないと思う」
「そう」
ジョシュアの胸に、ある言葉が自然に浮かんだ。
脈絡がない台詞だと解ってはいるけれど、今伝えたいと感じた。
「ねえ、アンリ」
ジョシュアは、そのまま伝えた。
「ありがとう」
アンリの琥珀色の瞳が瞬く。
「何が」
「俺がアンリと出会ってから全部。君と同じ寮で暮らせて本当に良かった」
アンリは肩を竦めて、冷笑した。
「何それ。別れの台詞には、まだ早いんじゃない?」
「すまない。卒業は8月だからね」
ジョシュアは壁に掛けてあるカレンダーを眺めた。
今日は7月28日。あと3日で7月は終わる。
「だけど、すぐ8月になってしまうんだね」
アンリは、すっとベッドから立ち上がる。
無言でドアに向かうので、ジョシュアは少し慌てて呼び止めた。
「アンリ? そう言えば、どうして俺の部屋に?
何か、用事があったんじゃないのかい?」
アンリが振り向く。
「君に用事なんかない」
ドアを閉める前、アンリはジョシュアを見た。
目が合ったのは一瞬で、アンリの視線は少し上を向いた。
「おやすみ」
それだけ言って、アンリは部屋から出ていった。
勝手に開けられ、勝手に閉められたドアを、ジョシュアは暫し呆然と見ていた。
が、フッと息を洩らすと、一人、微笑んでいた。
ジョシュアは再び窓の外を見上げる。
金色の月光は、月桂樹の森を静かに照らしていた。
fin
そろそろ日付が変わる時刻ではあるが、
もう眠っているかもしれない、とは思わなかった。
「ジョシュア、入るよ」
そう声を掛けて、アンリはドアを開けた。
ジョシュアの後ろ姿が目に入った。窓辺に一人で佇んでいる。
ガラスの向こうには夜の森。その上には月が見えた。
今日という日に、月が満ちた姿で輝いているのも、偶然ではないような気がした。
ジョシュア、と名を呼ぶと彼の肩が跳ねた。
「アンリ。いつからそこに」
「今だよ。ノックもしたんだけど?」
「そうだったのか。すまない、気が付かなくて。考えごとをしていたから」
アンリはベッドに腰掛ける。
「何、考えてたの?」
「今日は本当に幸せな誕生日だったなあと思って」
今日は7月28日。
ウーティス寮生はジョシュアのバースデーパーティを開いてくれた。
今年度の生徒代表であり、皆から慕われているジョシュアの誕生日とあって、
他の寮からもお祝いに駆け付けた生徒は多く、日中のパーティは盛大なものとなった。
夕食の時間には、ウーティス寮生のみで、改めてバースデーパーティが開かれた。
「俺、今年の誕生日のことは、一生忘れないと思う」
「そう」
ジョシュアの胸に、ある言葉が自然に浮かんだ。
脈絡がない台詞だと解ってはいるけれど、今伝えたいと感じた。
「ねえ、アンリ」
ジョシュアは、そのまま伝えた。
「ありがとう」
アンリの琥珀色の瞳が瞬く。
「何が」
「俺がアンリと出会ってから全部。君と同じ寮で暮らせて本当に良かった」
アンリは肩を竦めて、冷笑した。
「何それ。別れの台詞には、まだ早いんじゃない?」
「すまない。卒業は8月だからね」
ジョシュアは壁に掛けてあるカレンダーを眺めた。
今日は7月28日。あと3日で7月は終わる。
「だけど、すぐ8月になってしまうんだね」
アンリは、すっとベッドから立ち上がる。
無言でドアに向かうので、ジョシュアは少し慌てて呼び止めた。
「アンリ? そう言えば、どうして俺の部屋に?
何か、用事があったんじゃないのかい?」
アンリが振り向く。
「君に用事なんかない」
ドアを閉める前、アンリはジョシュアを見た。
目が合ったのは一瞬で、アンリの視線は少し上を向いた。
「おやすみ」
それだけ言って、アンリは部屋から出ていった。
勝手に開けられ、勝手に閉められたドアを、ジョシュアは暫し呆然と見ていた。
が、フッと息を洩らすと、一人、微笑んでいた。
ジョシュアは再び窓の外を見上げる。
金色の月光は、月桂樹の森を静かに照らしていた。
fin
■ソクーロフ×アイヴィー
■原案:蔦様&呉羽
■原案:蔦様&呉羽
六月中旬の仕事帰り。アイヴィーとソクーロフは夕食をとる為、旧市街に寄った。
この日、二人が入った店はスペインバル。全てソファ席で、黒・赤・黄のソファがあった。
アイヴィー達は黒のソファに通され、飲み物から注文した。
「俺はカーニャ!」
カーニャとはスペイン語でグラスビールのことだ。
「うちでビール頼む時は、カーニャって言ってね!」
初来店した時に、店員のボーイからそう教わった。
以来、アイヴィーはビールを注文する際は毎回「カーニャ」と呼んでいた。
「ソクちゃんはー?」
「私は、このウイスキーを」
「あと、おつまみはー、とりあえずチーズの盛り合わせと、
タコのアヒージョと、トルティージャ(スペイン風オムレツ)で!」
「グラシアス!」
オーダーするごとにスペイン語で「ありがとう」と言ってくれる店だった。
飲み物とチーズが来ると、アイヴィーは早速身を乗り出して話し始めた。
「俺、昨日もサッカー見ちゃってさー、あ、見たのはね、アルゼンチン対」
「韓国、だろう?」
「え? ソクちゃん、なんで知ってんの?」
この前一緒に飲んだ時、ソクーロフはワールドカップに興味がない様子だった。
対するアイヴィーはビールを片手に観戦することが最近の楽しみだった。
「ソクちゃん、もしかして、昨日の試合、見てたの?」
「聞いていた。仕事の資料を作りながら、BGM代わりにな」
「そんなんで、試合の状況とか解んの?」
「解るさ。昨日のMVPを決めるなら、メッシだろうな」
「えー。ハットトリック決めたのはイグアインじゃん?」
両名ともアルゼンチンの選手だ。昨日は4対1で、アルゼンチンの圧勝。
その4点中、3点はイグアイン選手が決めた。残る1点はオウンゴール、
つまり相手チームが誤って味方ゴールに入れてしまった自殺点だった。
「ゴールを決めたのはイグアインだったが、メッシは4点中の3点に関与している。
ゴールに繋がるパスを出したり、オウンゴールを誘ったのも彼だった」
「ちょ、解説員ですか、あんたは! つーか、急に詳しくなり過ぎじゃない?」
酒を飲みながらサッカー談義をしていると、食べ物が来た。
「タコのアヒージョ、お待たせー」
アヒージョとは、スペインでは有名なおつまみ料理で、ガーリック炒めのことを言う。
小さめの黒いフライパンには、ぶつ切りのタコ。
刻んだガーリックがたっぷり入ったオリーブオイルにタコが浸かっていた。
「残ったオイルも、こっちのバゲットに付けて食べてみてね。
ガーリック味になってオイシイよ」
ボーイは薄切りにした小型フランスパンを横に置いていった。
アイヴィーは木のピンで差したタコを口に放る。
そのあとで美味そうにビールを飲んでいた。
「そういや、ソクちゃんは、パウル君って知ってる?」
「誰だ、それは」
「ヒトじゃないよ、タコ」
「タコ?」
「うん。ドイツの水族館に、占いダコのパウル君ってのが居てね?
ワールドカップ・ドイツ代表の試合を勝つか負けるか占ってるんだけど、
この前のドイツ対オーストラリアの試合を、ドイツが勝つって占ってて、
それが当たったってネットでニュースになってたんだ」
「タコがどうやって占うんだ?」
「ええっとねー、エサが入ってる箱を二つ、タコの水槽に入れるんだよ。
で、その箱にはドイツと、相手国の国旗が付いてんの。
パウル君がどっちの国旗が付いた箱を、先に開けるかで占ってるみたいよ?」
「タコが先に選んだ国が勝つというわけか。それで、タコがドイツ国旗を選んだと」
「そうそう」
ソクーロフは小馬鹿にしたように薄く笑った。
「平和なニュースだな。そんなもの偶然だろう」
「なんでさー。ちゃんと当たったんだよ?」
「生物学的に、タコは明度の区別はできても、色は殆ど識別できない筈だ」
「えっ?」
「ドイツの国旗は黒・赤・金の三色旗。他の国旗と比べて、
明度がはっきりした旗を好んだのだろう」
「ちょ、何いきなりタコ占いの謎、解いちゃってんの?」
「タコにサッカーの勝敗が解る筈がないだろう」
「むー。これだからインテリさんはヤだよねー、何でも理詰めでさー」
アイヴィーは頬を膨らませている。
「俺、パウル君はこれからも当ててくれると思う!」
「根拠は?」
「う、占いに根拠なんか要らないもん! 当たるから当たるの!」
「理屈になっていないな」
「パウル君の占いに根拠とか理屈とか要りませんー!」
ソクーロフはロックグラスを傾ける。
「やけにタコの肩を持つじゃないか?」
「だって、当たってんだもん。スゴイじゃん」
「では、賭けてみるか? ドイツの全試合、タコの占いが全て的中すると」
「全試合!? それって、一試合でもパウル君が外したら、賭けはソクちゃんの勝ちってこと?」
「ああ」
「お、俺が不利過ぎませんか、その賭け」
「賭けられないようだな。先程までの勢いはどうした。信じて貰えなくてタコも可哀相に」
「パウル君の実力を信じてないのはあんたでしょ? その賭け、やったろーじゃん!」
ソクーロフは微笑した。
「よし。では何を賭ける?」
「じゃあ、ビール一杯おごり券! 10枚綴りで!」
「乗った」
約一か月後。賭けの結果が出る時がきた。
2010年南アフリカW杯、決勝のカードはオランダ対スペイン。
タコのパウルは、世界中のメディアに見守られながら、優勝国をスペインと予想した。
試合は90分で勝敗が付かず、0対0のまま延長戦にもつれ込んだ。
そして迎えた後半11分、決定的な先制ゴールを決めたのはスペインだった。
翌日、アイヴィーはソクーロフに会うなり、開口一番にこう言った。
「ソクちゃん、試合見た!? スペインだよ、スペインの優勝!」
タコのパウルは、ドイツの全試合に加え、ドイツが出場しなかった決勝戦を含む、
全八試合の勝敗を見事に的中させた。
「ソクちゃん、ソクちゃん、俺との賭け、忘れてないよね?」
「ああ。ビール一杯おごり券、10枚綴りだろう?」
「やったー! ソクちゃんのオゴリでたくさん飲みにいけるー! パウル君ありがとー!」
その夜、アイヴィーはソクーロフを連れて、旧市街に向かった。
行き先は賭けをした日と同じ店。
「スペインが優勝したんだから、やっぱスペインバルでしょ!」
というアイヴィーの意見で、またこの店に来た。決勝戦を肴に酒が進む。
アイヴィーが、また空のグラスを掲げた。
「すみませーん、カーニャ、おかわりー」
スペインの優勝祝いと言って、今日のアイヴィーは最初から飛ばしていた。
しかし、彼の白い頬は既にほんのりとピンク色に染まっている。
「おい」
「んー? なあにー?」
とろんとした目で見上げられた。
「大分酔っているな、もう止めておけ」
ソクーロフは敢えて一度注意した。次にどんな台詞が返ってくるか予想した上で。
「えー。やだー。まだ飲めるー」
予想通りの言葉。ここでソクーロフは仕方ないなといった表情を見せる。
「それで終わりにしろ」
「はーい! ソクちゃんだいすきー!」
使い古された説得術が難なく成功した。
『ドア・イン・ザ・フェイス』などという名前まで付いているテクニックだ。
最初に、相手にとって不可能な要求を突き付け、そのあとでレベルを下げた要求を出す。
例えば一度目は100ユーロ貸して欲しいと頼み、
相手に断られたあとで、じゃあ10ユーロでいいからと提案するのだ。
この時、提案者が、本当に欲しいのは10ユーロである。
それを断られないようにする為に、敢えて事前に不可能な要求を繰り出すのだ。
そうすれば、相手は一回目の要求を断っている罪悪感と、
「自分の為に譲歩してくれた」と感じることで、二回目の要求を呑む確率が高くなる。
アイヴィーは欠伸して、ゴシゴシと目を擦った。
「なんか、ねむたくなってきたなあ」
彼が人前で欠伸をするのは珍しいことだ。普段なら欠伸は噛み殺している。
今の場合は、アルコールのせいかもしれないが。
時折アイヴィーがソクーロフに見せる幼い言動。
ソクーロフの観察によれば、年月を重ねるごとに、その回数は増えていた。
これも『子供返り』の一種だろうか、とソクーロフは考えていた。
身近な存在に必要以上に甘えたり、舌足らずな言葉遣いになるなど、
実年齢より子供の行動を見せること。
原因は、子供の頃に満たされなかった思いを取り戻そうとすること。
問題の多い家庭に生まれたり、親との関係が上手く築けなかった者が、
子供返りの症状を見せる場合があるという。
子供時代に子供らしく振る舞えなかったことで、
大人になっても、その内に子供が住んだままになってしまうのだ。
また、彼等が持つ特徴として、『慢性的に自己肯定感が低い』、『自分の感情を吐露しない』、
『他人と親密な関係が築けない』、『自分を愛せない』などが挙げられる。
今まで奥底に閉じ込められていた『内なる子供』を適度に表に出し、
子供の感情を発散させることは、ひとつのストレス解消になるのではないか。
特に彼は、若くして警備組織の司令官というトップに立ったアイヴィーは、
普段から部下や生徒達に頼りにされることで、
無意識のうちに、よりしっかりした大人であろうと気が張っている可能性がある。
「カーニャ、お待たせー」
「わーい。カーニャきたー」
両手でグラスを持ってグビグビと飲んでいた。
アイヴィーが気が付いた時、そこはスペインバルではなかった。
見慣れた天井。ベッドの上に居た。時計を見ると早朝の時間帯だった。
「あ……れ? 俺んち?」
頭を押さえる。鈍痛が走った。飲み過ぎたようだ。
どのくらい飲んだんだっけ、と昨夜の記憶を思い起こそうとする。
スペイン優勝記念に決勝戦トークで盛り上がったのは覚えてる。それから?
家にいつ、どうやって帰ってきたかが解らない。
海鳥の声が聞こえる。カーテンの隙間から真っ青な空が見えた。
「カーテン、閉めたっけ? 俺」
fin
この日、二人が入った店はスペインバル。全てソファ席で、黒・赤・黄のソファがあった。
アイヴィー達は黒のソファに通され、飲み物から注文した。
「俺はカーニャ!」
カーニャとはスペイン語でグラスビールのことだ。
「うちでビール頼む時は、カーニャって言ってね!」
初来店した時に、店員のボーイからそう教わった。
以来、アイヴィーはビールを注文する際は毎回「カーニャ」と呼んでいた。
「ソクちゃんはー?」
「私は、このウイスキーを」
「あと、おつまみはー、とりあえずチーズの盛り合わせと、
タコのアヒージョと、トルティージャ(スペイン風オムレツ)で!」
「グラシアス!」
オーダーするごとにスペイン語で「ありがとう」と言ってくれる店だった。
飲み物とチーズが来ると、アイヴィーは早速身を乗り出して話し始めた。
「俺、昨日もサッカー見ちゃってさー、あ、見たのはね、アルゼンチン対」
「韓国、だろう?」
「え? ソクちゃん、なんで知ってんの?」
この前一緒に飲んだ時、ソクーロフはワールドカップに興味がない様子だった。
対するアイヴィーはビールを片手に観戦することが最近の楽しみだった。
「ソクちゃん、もしかして、昨日の試合、見てたの?」
「聞いていた。仕事の資料を作りながら、BGM代わりにな」
「そんなんで、試合の状況とか解んの?」
「解るさ。昨日のMVPを決めるなら、メッシだろうな」
「えー。ハットトリック決めたのはイグアインじゃん?」
両名ともアルゼンチンの選手だ。昨日は4対1で、アルゼンチンの圧勝。
その4点中、3点はイグアイン選手が決めた。残る1点はオウンゴール、
つまり相手チームが誤って味方ゴールに入れてしまった自殺点だった。
「ゴールを決めたのはイグアインだったが、メッシは4点中の3点に関与している。
ゴールに繋がるパスを出したり、オウンゴールを誘ったのも彼だった」
「ちょ、解説員ですか、あんたは! つーか、急に詳しくなり過ぎじゃない?」
酒を飲みながらサッカー談義をしていると、食べ物が来た。
「タコのアヒージョ、お待たせー」
アヒージョとは、スペインでは有名なおつまみ料理で、ガーリック炒めのことを言う。
小さめの黒いフライパンには、ぶつ切りのタコ。
刻んだガーリックがたっぷり入ったオリーブオイルにタコが浸かっていた。
「残ったオイルも、こっちのバゲットに付けて食べてみてね。
ガーリック味になってオイシイよ」
ボーイは薄切りにした小型フランスパンを横に置いていった。
アイヴィーは木のピンで差したタコを口に放る。
そのあとで美味そうにビールを飲んでいた。
「そういや、ソクちゃんは、パウル君って知ってる?」
「誰だ、それは」
「ヒトじゃないよ、タコ」
「タコ?」
「うん。ドイツの水族館に、占いダコのパウル君ってのが居てね?
ワールドカップ・ドイツ代表の試合を勝つか負けるか占ってるんだけど、
この前のドイツ対オーストラリアの試合を、ドイツが勝つって占ってて、
それが当たったってネットでニュースになってたんだ」
「タコがどうやって占うんだ?」
「ええっとねー、エサが入ってる箱を二つ、タコの水槽に入れるんだよ。
で、その箱にはドイツと、相手国の国旗が付いてんの。
パウル君がどっちの国旗が付いた箱を、先に開けるかで占ってるみたいよ?」
「タコが先に選んだ国が勝つというわけか。それで、タコがドイツ国旗を選んだと」
「そうそう」
ソクーロフは小馬鹿にしたように薄く笑った。
「平和なニュースだな。そんなもの偶然だろう」
「なんでさー。ちゃんと当たったんだよ?」
「生物学的に、タコは明度の区別はできても、色は殆ど識別できない筈だ」
「えっ?」
「ドイツの国旗は黒・赤・金の三色旗。他の国旗と比べて、
明度がはっきりした旗を好んだのだろう」
「ちょ、何いきなりタコ占いの謎、解いちゃってんの?」
「タコにサッカーの勝敗が解る筈がないだろう」
「むー。これだからインテリさんはヤだよねー、何でも理詰めでさー」
アイヴィーは頬を膨らませている。
「俺、パウル君はこれからも当ててくれると思う!」
「根拠は?」
「う、占いに根拠なんか要らないもん! 当たるから当たるの!」
「理屈になっていないな」
「パウル君の占いに根拠とか理屈とか要りませんー!」
ソクーロフはロックグラスを傾ける。
「やけにタコの肩を持つじゃないか?」
「だって、当たってんだもん。スゴイじゃん」
「では、賭けてみるか? ドイツの全試合、タコの占いが全て的中すると」
「全試合!? それって、一試合でもパウル君が外したら、賭けはソクちゃんの勝ちってこと?」
「ああ」
「お、俺が不利過ぎませんか、その賭け」
「賭けられないようだな。先程までの勢いはどうした。信じて貰えなくてタコも可哀相に」
「パウル君の実力を信じてないのはあんたでしょ? その賭け、やったろーじゃん!」
ソクーロフは微笑した。
「よし。では何を賭ける?」
「じゃあ、ビール一杯おごり券! 10枚綴りで!」
「乗った」
約一か月後。賭けの結果が出る時がきた。
2010年南アフリカW杯、決勝のカードはオランダ対スペイン。
タコのパウルは、世界中のメディアに見守られながら、優勝国をスペインと予想した。
試合は90分で勝敗が付かず、0対0のまま延長戦にもつれ込んだ。
そして迎えた後半11分、決定的な先制ゴールを決めたのはスペインだった。
翌日、アイヴィーはソクーロフに会うなり、開口一番にこう言った。
「ソクちゃん、試合見た!? スペインだよ、スペインの優勝!」
タコのパウルは、ドイツの全試合に加え、ドイツが出場しなかった決勝戦を含む、
全八試合の勝敗を見事に的中させた。
「ソクちゃん、ソクちゃん、俺との賭け、忘れてないよね?」
「ああ。ビール一杯おごり券、10枚綴りだろう?」
「やったー! ソクちゃんのオゴリでたくさん飲みにいけるー! パウル君ありがとー!」
その夜、アイヴィーはソクーロフを連れて、旧市街に向かった。
行き先は賭けをした日と同じ店。
「スペインが優勝したんだから、やっぱスペインバルでしょ!」
というアイヴィーの意見で、またこの店に来た。決勝戦を肴に酒が進む。
アイヴィーが、また空のグラスを掲げた。
「すみませーん、カーニャ、おかわりー」
スペインの優勝祝いと言って、今日のアイヴィーは最初から飛ばしていた。
しかし、彼の白い頬は既にほんのりとピンク色に染まっている。
「おい」
「んー? なあにー?」
とろんとした目で見上げられた。
「大分酔っているな、もう止めておけ」
ソクーロフは敢えて一度注意した。次にどんな台詞が返ってくるか予想した上で。
「えー。やだー。まだ飲めるー」
予想通りの言葉。ここでソクーロフは仕方ないなといった表情を見せる。
「それで終わりにしろ」
「はーい! ソクちゃんだいすきー!」
使い古された説得術が難なく成功した。
『ドア・イン・ザ・フェイス』などという名前まで付いているテクニックだ。
最初に、相手にとって不可能な要求を突き付け、そのあとでレベルを下げた要求を出す。
例えば一度目は100ユーロ貸して欲しいと頼み、
相手に断られたあとで、じゃあ10ユーロでいいからと提案するのだ。
この時、提案者が、本当に欲しいのは10ユーロである。
それを断られないようにする為に、敢えて事前に不可能な要求を繰り出すのだ。
そうすれば、相手は一回目の要求を断っている罪悪感と、
「自分の為に譲歩してくれた」と感じることで、二回目の要求を呑む確率が高くなる。
アイヴィーは欠伸して、ゴシゴシと目を擦った。
「なんか、ねむたくなってきたなあ」
彼が人前で欠伸をするのは珍しいことだ。普段なら欠伸は噛み殺している。
今の場合は、アルコールのせいかもしれないが。
時折アイヴィーがソクーロフに見せる幼い言動。
ソクーロフの観察によれば、年月を重ねるごとに、その回数は増えていた。
これも『子供返り』の一種だろうか、とソクーロフは考えていた。
身近な存在に必要以上に甘えたり、舌足らずな言葉遣いになるなど、
実年齢より子供の行動を見せること。
原因は、子供の頃に満たされなかった思いを取り戻そうとすること。
問題の多い家庭に生まれたり、親との関係が上手く築けなかった者が、
子供返りの症状を見せる場合があるという。
子供時代に子供らしく振る舞えなかったことで、
大人になっても、その内に子供が住んだままになってしまうのだ。
また、彼等が持つ特徴として、『慢性的に自己肯定感が低い』、『自分の感情を吐露しない』、
『他人と親密な関係が築けない』、『自分を愛せない』などが挙げられる。
今まで奥底に閉じ込められていた『内なる子供』を適度に表に出し、
子供の感情を発散させることは、ひとつのストレス解消になるのではないか。
特に彼は、若くして警備組織の司令官というトップに立ったアイヴィーは、
普段から部下や生徒達に頼りにされることで、
無意識のうちに、よりしっかりした大人であろうと気が張っている可能性がある。
「カーニャ、お待たせー」
「わーい。カーニャきたー」
両手でグラスを持ってグビグビと飲んでいた。
アイヴィーが気が付いた時、そこはスペインバルではなかった。
見慣れた天井。ベッドの上に居た。時計を見ると早朝の時間帯だった。
「あ……れ? 俺んち?」
頭を押さえる。鈍痛が走った。飲み過ぎたようだ。
どのくらい飲んだんだっけ、と昨夜の記憶を思い起こそうとする。
スペイン優勝記念に決勝戦トークで盛り上がったのは覚えてる。それから?
家にいつ、どうやって帰ってきたかが解らない。
海鳥の声が聞こえる。カーテンの隙間から真っ青な空が見えた。
「カーテン、閉めたっけ? 俺」
fin
■アイヴィー
ある日曜日。俺んちにシルヴァンとハルヤが遊びに来ていた。
今日は俺も休みで、いつもよりちょっと遅く起きたとこに電話がかかってきた。
「アイヴィー、今日はお休みでしたよね?
今からハルヤと一緒に遊びに行きますので、
美味しいランチを用意して、待ってて下さいねっ!」
起き抜けの俺は、あいつらの昼メシを作ることになり、
まもなくやってきたシルヴァンとハルヤと一緒にブランチを食べることになった。
冷蔵庫に入ってたハムとチーズをパンに挟んで焼いただけのサンドイッチを、
あいつらは「美味しい」を連呼しながら、随分ウマそうに食ってくれた。
食事が終わると、シルヴァンが持ってきたDVDの鑑賞会が始まった。
「ああっ、この子です!」
シルヴァンがテレビ画面を指差す。
「僕、最近このキャラが好きなんですよ~!」
それはポニーテールのアニメキャラだった。
主人公である少年の幼馴染みのようで、弱気な主人公を叱り飛ばすシーンが続いた。
「僕もこんなふうに叱って欲しいですー、ユウタのお姉さんに!」
ハルヤは困ったような苦笑しながら、
「ユウタのお姉さんは優しい人だから、俺達にはこんなに怒ったりしないよ」
「でもでもっ! 弟には厳しい一面もあるじゃないですかー? ユウタだけズルイですー!
僕もお姉さんに『もう、シルヴァン、ダメだぞっ。めっ!』とかって怒られてみたいですー!」
「……てゆうか、なんで俺んちでアニメ見てんだよ」
「僕のイチ押し夏アニメをアイヴィーにも教えてあげようと思いまして!
アイヴィーがジャパニメーションの流行に乗り遅れないように!」
「……そりゃあ、あんがとさん」
「こういう子のこと、日本語で『ツンデレ』って言うんですよ! ねっ、ハルヤ!」
「うん、まあ。でも俺はシルヴァンから教わった言葉だったけど」
「僕、流行の言葉にはビンカンなほうですから♪ いいですか、アイヴィー?
ツンデレとは、普段はツンツン、仲良くなってくるとデレデレになる、
魅力的なキャラクターのことをいうんですよ!」
「……ハーイ。解りましたー」
ハルヤが苦笑している。
「ごめんね、アイヴィー。最近のシルヴァン、寮でもこんな調子なんだ。
ほんとシルヴァンって、ヘンな日本語ばっかり知ってるよね」
「ヘンじゃないですよー。ツンデレは立派な日本語です!」
「立派かなあ」
「例えばー、僕達ウーティス寮生で言うと、アンリがツンデレだと思うんですよ!」
「そーなん?」と俺。
「だって、ほら、普段はツンツンでしょう?」
「まー、確かに。でも俺は、アンリのデレを見たことないからなあ」
「僕は、さわりだけ見たことあります!」
「どんなの?」とハルヤ。
「怪我をして森に落ちていた小鳥を、アンリは拾って助けていたんです!」
「……そんなのもデレに入るんか?」
「入ります! こういうのも大事なデレの一種だと僕は思います!
普段はツンツンしているのに、たまに見せるデレ。
そこに本来の優しさが垣間見える。そのチラリズム具合がイイんですよー!」
「……熱弁だねえ」
それが先週の話。
今朝の俺は徹夜明けでバリバリ残業中。島に侵入者がやってきたからだ。
珍しいことに深夜に続いて早朝にも、黒服のオジサン達がおいでになすって、
俺達警備は砂浜で大乱闘――って程でもないかも。幸い、コッチの快勝だったから。
「はーい。みんな、朝までお疲れさん。じゃー、撤収っ」
俺の号令で、警備のみんなが車に戻っていく。
俺は一人、空に向かって腕を伸ばした。
見上げると、さっきまで真っ暗だった筈の空が、ピンクになっていた。
朝焼けだ。超キレイ。腕時計を覗くと午前4時25分だった。
「まだ4時半だってのに、もう夜明けかー。夏は朝が来るのが早いねー」
「司令」
振り返ると、副司令官のクロイツが居た。
「あ、ねえねえ、クロちゃん。空見てよ。朝焼け!」
「この時間なら、大抵見られるものです」
つまらなそうな顔で言われた。
「それより、本日は午前9時から理事会とのネットミーティングですが、一度ご自宅に戻られますか?」
「いんや。うち帰ってまた来るのめんどくさいし。
お片付けが終わったら、監視チームのお手伝いでもさせて貰うよ」
「いけません。徹夜明けで監視業務がまともにできるわけないでしょう。
事後処理は我々夜勤組に任せて、貴方はさっさと仮眠室へ行って下さい」
「……イイの?」
「司令官が眠そうな顔では理事達に失礼ですから」
「ん。サンキュ。じゃあ、一眠りしてシャキッとした顔になってくるわ」
警備本部の仮眠室。ここは年中、寝るの最適な環境がある。常に静かで暗い部屋だ。
ベッドも高級なヤツらしい。学院直属の警備組織は、莫大な運営資金を誇る学院の恩恵を受け、
ちょっとした備品までイイモンが用意されてる。
ま、俺なんかはパイプ椅子に座ったままでも寝れるくらいなんだけど。
寝心地の良いベッドに入って、目覚ましをセットする。
目を閉じたら、俺はすぐに眠りに落ちた。
仮眠を終えて、俺は執務室に顔を出したのは8時20分。
窓の向こうに見える空は、すっかり青に染まっていた。
「おはようございます。やっとお目覚めですか、司令」
副司令官の席に座っていたクロイツが、すっと立った。
「あと10分遅ければ、叩き起こしに行っていましたよ」
そう言いながら、執務室の隅に向かう。
「ありゃ、ちょっと遅かった? ゴメン、ゴメン」
俺は自分の席に着き、パソコンを起動させる。
習慣的にメールチェックをしたが、全てチェック済みの跡があった。
必要な返信作業は俺の代わりにクロイツがやってくれたようだ。
「クロちゃん、ありがと。メール見てくれて」
「仕事ですから。いちいちお礼を言って頂くようなことではないかと。
それより、まだ眠そうな顔ですね?」
「そう?」
「これでも飲んで、早く目を覚まして下さい」
俺の前に置かれた白いマグカップ。クロイツがコーヒーを淹れてくれた。
「あ、ありがと」
目覚めの一杯を口にする。美味い。俺はコーヒーを飲みながらあっと思う。
「もしかして……」
「どうなさいました、司令」
「う、ううん。何でもない」
もしかして、クロイツみたいなのも『ツンデレ』って言うのかな?
fin
今日は俺も休みで、いつもよりちょっと遅く起きたとこに電話がかかってきた。
「アイヴィー、今日はお休みでしたよね?
今からハルヤと一緒に遊びに行きますので、
美味しいランチを用意して、待ってて下さいねっ!」
起き抜けの俺は、あいつらの昼メシを作ることになり、
まもなくやってきたシルヴァンとハルヤと一緒にブランチを食べることになった。
冷蔵庫に入ってたハムとチーズをパンに挟んで焼いただけのサンドイッチを、
あいつらは「美味しい」を連呼しながら、随分ウマそうに食ってくれた。
食事が終わると、シルヴァンが持ってきたDVDの鑑賞会が始まった。
「ああっ、この子です!」
シルヴァンがテレビ画面を指差す。
「僕、最近このキャラが好きなんですよ~!」
それはポニーテールのアニメキャラだった。
主人公である少年の幼馴染みのようで、弱気な主人公を叱り飛ばすシーンが続いた。
「僕もこんなふうに叱って欲しいですー、ユウタのお姉さんに!」
ハルヤは困ったような苦笑しながら、
「ユウタのお姉さんは優しい人だから、俺達にはこんなに怒ったりしないよ」
「でもでもっ! 弟には厳しい一面もあるじゃないですかー? ユウタだけズルイですー!
僕もお姉さんに『もう、シルヴァン、ダメだぞっ。めっ!』とかって怒られてみたいですー!」
「……てゆうか、なんで俺んちでアニメ見てんだよ」
「僕のイチ押し夏アニメをアイヴィーにも教えてあげようと思いまして!
アイヴィーがジャパニメーションの流行に乗り遅れないように!」
「……そりゃあ、あんがとさん」
「こういう子のこと、日本語で『ツンデレ』って言うんですよ! ねっ、ハルヤ!」
「うん、まあ。でも俺はシルヴァンから教わった言葉だったけど」
「僕、流行の言葉にはビンカンなほうですから♪ いいですか、アイヴィー?
ツンデレとは、普段はツンツン、仲良くなってくるとデレデレになる、
魅力的なキャラクターのことをいうんですよ!」
「……ハーイ。解りましたー」
ハルヤが苦笑している。
「ごめんね、アイヴィー。最近のシルヴァン、寮でもこんな調子なんだ。
ほんとシルヴァンって、ヘンな日本語ばっかり知ってるよね」
「ヘンじゃないですよー。ツンデレは立派な日本語です!」
「立派かなあ」
「例えばー、僕達ウーティス寮生で言うと、アンリがツンデレだと思うんですよ!」
「そーなん?」と俺。
「だって、ほら、普段はツンツンでしょう?」
「まー、確かに。でも俺は、アンリのデレを見たことないからなあ」
「僕は、さわりだけ見たことあります!」
「どんなの?」とハルヤ。
「怪我をして森に落ちていた小鳥を、アンリは拾って助けていたんです!」
「……そんなのもデレに入るんか?」
「入ります! こういうのも大事なデレの一種だと僕は思います!
普段はツンツンしているのに、たまに見せるデレ。
そこに本来の優しさが垣間見える。そのチラリズム具合がイイんですよー!」
「……熱弁だねえ」
それが先週の話。
今朝の俺は徹夜明けでバリバリ残業中。島に侵入者がやってきたからだ。
珍しいことに深夜に続いて早朝にも、黒服のオジサン達がおいでになすって、
俺達警備は砂浜で大乱闘――って程でもないかも。幸い、コッチの快勝だったから。
「はーい。みんな、朝までお疲れさん。じゃー、撤収っ」
俺の号令で、警備のみんなが車に戻っていく。
俺は一人、空に向かって腕を伸ばした。
見上げると、さっきまで真っ暗だった筈の空が、ピンクになっていた。
朝焼けだ。超キレイ。腕時計を覗くと午前4時25分だった。
「まだ4時半だってのに、もう夜明けかー。夏は朝が来るのが早いねー」
「司令」
振り返ると、副司令官のクロイツが居た。
「あ、ねえねえ、クロちゃん。空見てよ。朝焼け!」
「この時間なら、大抵見られるものです」
つまらなそうな顔で言われた。
「それより、本日は午前9時から理事会とのネットミーティングですが、一度ご自宅に戻られますか?」
「いんや。うち帰ってまた来るのめんどくさいし。
お片付けが終わったら、監視チームのお手伝いでもさせて貰うよ」
「いけません。徹夜明けで監視業務がまともにできるわけないでしょう。
事後処理は我々夜勤組に任せて、貴方はさっさと仮眠室へ行って下さい」
「……イイの?」
「司令官が眠そうな顔では理事達に失礼ですから」
「ん。サンキュ。じゃあ、一眠りしてシャキッとした顔になってくるわ」
警備本部の仮眠室。ここは年中、寝るの最適な環境がある。常に静かで暗い部屋だ。
ベッドも高級なヤツらしい。学院直属の警備組織は、莫大な運営資金を誇る学院の恩恵を受け、
ちょっとした備品までイイモンが用意されてる。
ま、俺なんかはパイプ椅子に座ったままでも寝れるくらいなんだけど。
寝心地の良いベッドに入って、目覚ましをセットする。
目を閉じたら、俺はすぐに眠りに落ちた。
仮眠を終えて、俺は執務室に顔を出したのは8時20分。
窓の向こうに見える空は、すっかり青に染まっていた。
「おはようございます。やっとお目覚めですか、司令」
副司令官の席に座っていたクロイツが、すっと立った。
「あと10分遅ければ、叩き起こしに行っていましたよ」
そう言いながら、執務室の隅に向かう。
「ありゃ、ちょっと遅かった? ゴメン、ゴメン」
俺は自分の席に着き、パソコンを起動させる。
習慣的にメールチェックをしたが、全てチェック済みの跡があった。
必要な返信作業は俺の代わりにクロイツがやってくれたようだ。
「クロちゃん、ありがと。メール見てくれて」
「仕事ですから。いちいちお礼を言って頂くようなことではないかと。
それより、まだ眠そうな顔ですね?」
「そう?」
「これでも飲んで、早く目を覚まして下さい」
俺の前に置かれた白いマグカップ。クロイツがコーヒーを淹れてくれた。
「あ、ありがと」
目覚めの一杯を口にする。美味い。俺はコーヒーを飲みながらあっと思う。
「もしかして……」
「どうなさいました、司令」
「う、ううん。何でもない」
もしかして、クロイツみたいなのも『ツンデレ』って言うのかな?
fin
■ウーティス寮
ユウタ:日本勝っちゃったね! ワールドカップでベスト16なんてスゴイよー!
ハルヤ:なんか未だに信じられないな。日本ってこんなに強かったっけ?
シルヴァン:何言ってるんですか、ハルヤ! これがサムライの底力ですよ!
レッド:つーか、シルヴァン。おめー、なんで日本のユニフォームまで着てんだよ。
シルヴァン:だってサムライブルーですよ! 僕が着ないで誰が着るんですか!
レッド:日本代表だよ。あと日本のサポーターな。
アンリ:毎日毎日、テレビにかじりついてはギャーギャー騒いで、よく飽きないね、君達。
レッド:とか言ってー。アンリ、てめーはフランスが一次リーグ敗退したから面白くねーんだろー?
シルヴァン:フランスチームにはアンリと同じ名前の選手も居たので、
僕も日本の次に応援してたのですが残念でした。
アンリ:別に。僕は愛国心なんてものは持ち合わせてないから、
勝ち負けはどうでも良かったんだけれど、
ただ、試合と関係のないところでゴチャゴチャしてくれたのはどうかと思ったね。
ジョシュア:フランス代表に噛みつくなよ、アンリ。
レッド:あと、イタリアがなー。前回王者だってのに一次リーグ敗退とは。
うちのじーさん、エキサイトしてそーだぜ。
ハルヤ:そっか。レッドのおじいさん、イタリアに住んでるんだもんね。
レッド:なあ、フランス以外は、みんなベスト16に入ったんじゃね?
俺のアメリカに、ジョシュアのイングランドだろ? で、ユウタとハルヤの日本。
シルヴァン:僕も日本です、サムライですー!
ユウタ:ねえ、ねえ。みんな!
ジョシュア:なんだい、ユウタ?
ユウタ:あのね! 明日の放課後、みんなでサッカーしない?
毎日サッカー見てたら、俺もしたくなっちゃった!
シルヴァン:わお! ユウタ、グッドアイディアですー!
レッド:やろうぜ、やろうぜ! 他の寮にも声かけてさ!
きっと他にも、サッカーしたくてウズウズしてる奴居るだろうし!
シルヴァン:じゃあ、試合は北半球チーム対南半球チームでなんて、どうですか?
ジョシュア:面白そうだね。
ユウタ:よーし! みんなでアルフォンソカップ、開催しちゃおう!
レッド:おー!
ハルヤ:あ、あのー、盛り上がってるとこ悪いんだけど……
レッド:ん? 何だよハルヤ。
ハルヤ:俺、選手じゃなくてサポーターでもいいかな?
アンリ:僕もパス。
レッド:何言ってんだよ、アンリ選手!
アンリ:それは別人だから。
シルヴァン:ハルヤとアンリもサッカーしましょうよー!
ハルヤ:でも俺、みんなと違って、サッカー上手くないから、
戦力下がっちゃうし、てゆうか、走るのめんどくさいし。
シルヴァン:戦力なんて関係ないですよー!
みんなでボールを追いかけるのが楽しいんですからー。
ほら、日本の諺にもあるじゃないですか! 『ボールは友達』って!
ハルヤ:あ、相変わらず、一昔前のネタを持ってくるね、シルヴァンは。
まず、諺じゃないからね、それは。
シルヴァン:違うんですか!?
レッド:まあ、落ち着けよ、シルヴァン。アンリとハルヤがどうしてもヤダって言うならしゃーねー。
応援団として俺達の勇士を見守って貰おうぜ?
シルヴァン:ど、どうしたんですかレッド?
いつになくオトナなご意見じゃないですか。もしかして夏の暑さに
レッド:やられてねーよ! アンリとハルヤは選手じゃなくても構わねえ。
ただし、代わりにチアガールをやって貰うぜえええ!
シルヴァン:きゃいーん! レッド冴えてますー!
僕、早速、衣装ルームに行って、衣装を借りてきますね!
レッド:おし! 行ってこいシルヴァン!
シルヴァン:はーい!
ハルヤ:え、ちょっと待っ……
シルヴァン:待ってて下さいねー、ハルヤー、アンリー!
ハルヤ:もう見えないや。あそこまで足早かったっけ、シルヴァンって。
レッド:じゃあ、ジョシュアにはグラウンドの手配、頼んでいいか?
ジョシュア:うん。じゃ、行ってくるよ。
レッド:あとは、俺とユウタで他の寮に参加希望とってこようぜ!
俺がアルファルド寮、ユウタはシュヌーシア寮な!
ユウタ:はい! レッドキャプテン!
ハルヤ:あーあ。みんな行っちゃった。どうする、アンリ?
アンリ:知らない。
fin
ハルヤ:なんか未だに信じられないな。日本ってこんなに強かったっけ?
シルヴァン:何言ってるんですか、ハルヤ! これがサムライの底力ですよ!
レッド:つーか、シルヴァン。おめー、なんで日本のユニフォームまで着てんだよ。
シルヴァン:だってサムライブルーですよ! 僕が着ないで誰が着るんですか!
レッド:日本代表だよ。あと日本のサポーターな。
アンリ:毎日毎日、テレビにかじりついてはギャーギャー騒いで、よく飽きないね、君達。
レッド:とか言ってー。アンリ、てめーはフランスが一次リーグ敗退したから面白くねーんだろー?
シルヴァン:フランスチームにはアンリと同じ名前の選手も居たので、
僕も日本の次に応援してたのですが残念でした。
アンリ:別に。僕は愛国心なんてものは持ち合わせてないから、
勝ち負けはどうでも良かったんだけれど、
ただ、試合と関係のないところでゴチャゴチャしてくれたのはどうかと思ったね。
ジョシュア:フランス代表に噛みつくなよ、アンリ。
レッド:あと、イタリアがなー。前回王者だってのに一次リーグ敗退とは。
うちのじーさん、エキサイトしてそーだぜ。
ハルヤ:そっか。レッドのおじいさん、イタリアに住んでるんだもんね。
レッド:なあ、フランス以外は、みんなベスト16に入ったんじゃね?
俺のアメリカに、ジョシュアのイングランドだろ? で、ユウタとハルヤの日本。
シルヴァン:僕も日本です、サムライですー!
ユウタ:ねえ、ねえ。みんな!
ジョシュア:なんだい、ユウタ?
ユウタ:あのね! 明日の放課後、みんなでサッカーしない?
毎日サッカー見てたら、俺もしたくなっちゃった!
シルヴァン:わお! ユウタ、グッドアイディアですー!
レッド:やろうぜ、やろうぜ! 他の寮にも声かけてさ!
きっと他にも、サッカーしたくてウズウズしてる奴居るだろうし!
シルヴァン:じゃあ、試合は北半球チーム対南半球チームでなんて、どうですか?
ジョシュア:面白そうだね。
ユウタ:よーし! みんなでアルフォンソカップ、開催しちゃおう!
レッド:おー!
ハルヤ:あ、あのー、盛り上がってるとこ悪いんだけど……
レッド:ん? 何だよハルヤ。
ハルヤ:俺、選手じゃなくてサポーターでもいいかな?
アンリ:僕もパス。
レッド:何言ってんだよ、アンリ選手!
アンリ:それは別人だから。
シルヴァン:ハルヤとアンリもサッカーしましょうよー!
ハルヤ:でも俺、みんなと違って、サッカー上手くないから、
戦力下がっちゃうし、てゆうか、走るのめんどくさいし。
シルヴァン:戦力なんて関係ないですよー!
みんなでボールを追いかけるのが楽しいんですからー。
ほら、日本の諺にもあるじゃないですか! 『ボールは友達』って!
ハルヤ:あ、相変わらず、一昔前のネタを持ってくるね、シルヴァンは。
まず、諺じゃないからね、それは。
シルヴァン:違うんですか!?
レッド:まあ、落ち着けよ、シルヴァン。アンリとハルヤがどうしてもヤダって言うならしゃーねー。
応援団として俺達の勇士を見守って貰おうぜ?
シルヴァン:ど、どうしたんですかレッド?
いつになくオトナなご意見じゃないですか。もしかして夏の暑さに
レッド:やられてねーよ! アンリとハルヤは選手じゃなくても構わねえ。
ただし、代わりにチアガールをやって貰うぜえええ!
シルヴァン:きゃいーん! レッド冴えてますー!
僕、早速、衣装ルームに行って、衣装を借りてきますね!
レッド:おし! 行ってこいシルヴァン!
シルヴァン:はーい!
ハルヤ:え、ちょっと待っ……
シルヴァン:待ってて下さいねー、ハルヤー、アンリー!
ハルヤ:もう見えないや。あそこまで足早かったっけ、シルヴァンって。
レッド:じゃあ、ジョシュアにはグラウンドの手配、頼んでいいか?
ジョシュア:うん。じゃ、行ってくるよ。
レッド:あとは、俺とユウタで他の寮に参加希望とってこようぜ!
俺がアルファルド寮、ユウタはシュヌーシア寮な!
ユウタ:はい! レッドキャプテン!
ハルヤ:あーあ。みんな行っちゃった。どうする、アンリ?
アンリ:知らない。
fin
■ソクーロフ×姉貴(新婚モード)+アイヴィー ※ドリーム機能版はこちら
##NAME1##は新市街まで夕食の買い物に来ていた。
聖アルフォンソ島の新市街には大型のショッピングモールがある。
その一階には食品フロアがあり、品物を見ながら夕食のメニューを決めようと思っていた。
鮮魚コーナーの前を通った時、特売品が目に入った。
今日はエビが安いようだ。それを見て、メニューが決まった。よし。今夜はエビチリ。
「あれ? ##NAME1##ちゃん?」
名を呼ばれて振り返る。
「あっ、やっぱり##NAME1##ちゃんだっ」
そう言って嬉しそうに笑ったのは、金色の長髪をした背の高い男性。
タクシードライバー兼警備司令官のアイヴィーだ。
「##NAME1##ちゃんもお買い物?」
はい、と答える。
「そっか。俺もだよ。週に一度の買い出し。今日休みだから」
ショッピングカートには、一週間分らしい食材が入っていた。
そう言えば、今日の彼はネクタイをしていない。
ラフなシャツにダメージジーンズが似合ってる。
「##NAME1##ちゃん、今日の晩御飯は……エビ?」
はい。今夜エビチリにしようと思って、と言いながら、
まだ手に持ったままだった剥きエビを買い物カゴに入れる。
アイヴィーはポリポリと頬を掻きながら、
「……そっか。ソクちゃん、エビチリ好きだもんね」
独り言のようにポツリと呟く。
「なんか、##NAME1##ちゃんは、ホントにソクちゃんのお嫁さんなんだね」
一か月前、##NAME1##はソクーロフ博士と結婚した。
現在は旧市街にある新居で、ラブラブの新婚生活を送っている。
「あ、ねえ、##NAME1##ちゃん」
アイヴィーに呼ばれて、顔を上げる。
「ここまで何で来たの? バス? 歩き?」
バスです、と答えた。
「良かったら、家まで車で送ろっか?」
買い物を終えた後、アイヴィーと二人で駐車場に来た。
彼の車は、メタリック・ブラックのオープンカー、BMWカブリオレだった。
「##NAME1##ちゃん、荷物、貸して? 後ろに入れるよ」
荷物を受け取ったあとは、タクシードライバーだからか、自然に車のドアを開けてくれた。
シートは黒の本革だ。後ろで荷物を入れているアイヴィーの独り言が微かに聞こえた。
「##NAME1##ちゃんと会えるなら、アストンマーチンで来るんだったかなー」
アイヴィーが運転席に座る。
にこりと笑いながら、タクシードライバーの台詞を口にした。
「じゃーお客さん、どちらまで?」
最近やっとソラで言えるようになった住所を伝えた。
「えっ、##NAME1##ちゃんち、あそこなの!?
あの辺めっちゃ高級住宅街じゃん。スゴイなあ」
そうらしいことは##NAME1##も薄々気がついていた。エンジンがかかる。
「じゃ、出発しまーす」
ショッピングモールの駐車場を出て、街道を走る。
オープンカーだけあって、風を肌で感じる。爽快だ。
青空の下を走るオープンカーが、こんなに気持ち良いものだとは思わなかった。
派手な車が視界に入った。白とピンクの水玉。目立つワゴン車が広場に停まっている。
「ああ、あれはアイスクリームの移動販売車だよ」
丁度、なんだろうと思っている時に、アイヴィーが答えをくれた。
「生徒を乗せてる時に、あの車見かけると、『追いかけろー!』ってよく言われるんだ」
生徒にも人気があるらしい。
「##NAME1##ちゃんも食べてみる? マージナルプリンス御用達のアイスクリーム」
中央に噴水がある広場。
その入口付近にピンクと白の水玉模様のワゴン車が停まっている。
アイスクリームの移動販売車に乗っていたのは、白いキャップを被ったおじいさんだった。
よく日焼けしている。60歳前後だろうか。実年齢より若々しく見えるタイプかもしれない。
「いらっしゃい、ああ、アイヴィー。毎度どうも」
「こんちは、アイスじーさん。えっとー、俺はクッキー&クリーム。##NAME1##ちゃんは?」
アイスクリームは横に10、縦に2列並んでおり、計20種類。
悩む。どれも美味しそうだが、あれにしようか、これにしようか。
「おやおや。アイヴィー、今日はプリンスじゃなくて、
プリンセスを連れてきてくれたのかい?
やっとカノジョができたんだねえ、いやあ、羨ましいもんだ」
「えっ!? ち、違うよ。彼女はソクーロフ博士のおヨメさん」
「そうなのかい? あ、そういやマージナルプリンス達が騒いでたっけ。
俺達のプリンセスが博士に奪われたとか、洗脳されたとかなんとか。
あ、お嫁さん本人の前で失礼なこと言っちゃったかな?
洗脳されて結婚なんてある筈ないよねえ」
##NAME1##は日本人的微笑を見せる。
「ん? 博士は今お仕事中だろ? ってことは、
お二人さん、アレかい? 不倫ってヤツかい?」
「ちょ、ヘンな想像しないでよ! 俺達はさっきたまたま会っただけなんだから!」
「ハハハッ。何、慌ててんだい、アイヴィー。
大丈夫さ。アイヴィーにはいつも世話になってるからね。
今日、お二人さんを見たことは忘れてあげるよ」
おじいさんは八重歯を見せながら笑ってた。
「はいよ」
しわくちゃの手からアイスクリームを受け取る。
シングルで頼んだ筈が、コーンの上には、アイスがダブルで乗っていた。
「##NAME1##ちゃん。それはこの店の名物みたいなモンでね。
じーさんが勝手にもういっこ乗せちゃうんだよ、ほら、俺のもダブルになってるでしょ?」
本当だ。クッキー&クリームの上にエスプレッソのアイスが乗っている。
「俺、マージナルプリンスと何度もここに来てるんだけどさあ、
じーさんが選んだアイスって、あいつらが嫌いな味だったことが一度もないんだよ。
フシギとさ、『それとどっちにしようか迷ってた』って言う奴が多いんだ。
え? ##NAME1##ちゃんも? マジで? もう、じーさん、なんで分かんの?」
「ハハハッ。いつも言ってるだろ? 企業秘密だよ」
「絶対教えてくんないんだもんなー」
「毎度ありー。お嬢さん、今度はダンナさんと一緒においで」
そう言えば、博士とアイスを食べたことは一度もなかった。
「##NAME1##ちゃん、あそこで食べよっか?」
噴水を囲むように配置されているベンチに二人で座った。
外で食べるアイスクリームは格別だ。おじいさんが選んでくれた味も美味しい。
##NAME1##は隣を見る。男の人がアイスクリームを食べている姿はなんだか可愛らしい。
白いアイスクリームを舐める赤い舌先がチラリと見えた。
「そういや俺、久し振りだわ、ここのアイス食べるの。てゆうか、二回目?」
それは意外だ。
「マージナルプリンスがアイス食べてる時は、タバコ吸ってるから」
成程。
「しかも女の子とアイスなんて、この島に来てからは一度もなかったし。
え? まさか。全然モテないよ。同僚もお客さんも野郎ばっかだしねー」
しかし、客観的に見てもアイヴィーはモテる要素を幾つも持っているし、
##NAME1##自身もアイヴィーは非常に魅力的な男性だと思う。
こんなにイケメンで性格も良いし、この若さで役職はトップなのだ。
博士に籠絡されなければ、彼を好きになっていたかもしれないと思うほどだ。
六年の間、島に居て、言い寄ってくる女性は一人も居なかったのだろうか。
彼は老若男女問わず島の人みんなに好かれている。
来るもの拒まず、誰とも親しい関係が築けるタイプだと思う。
けれど、##NAME1##の勘違いかもしれないが、
一定のラインより奥へは、誰も寄せ付けない雰囲気を感じるのだ。
プライベート過ぎる質問は受け付けないかんじがある。特に過去に関するもの。
例えば、島に来る前までは、どこで何をしてたのか、とか。
「うーわ。昔の貴族とか住んでそうなおうちだね」
アイヴィーは三階建ての高級マンションを見上げている。
「こんなとこに住んでたんだねー。ソクちゃんってば教えてくんないんだもん」
歴史ある建築物が並ぶ旧市街。
ここに##NAME1##とソクーロフが暮らす新居があった。
三階までアイヴィーが持ってくれた荷物。部屋の前で手渡された。
「今日は、##NAME1##ちゃんと会えたおかげでイイ休日になったよ。ありがと」
##NAME1##もアイヴィーと会えたことはラッキーだったし、楽しかった。
このままさよならしてしまうのは淋しい、できればもっと一緒に居たいと感じている自分が居た。
「あのさ、##NAME1##ちゃん。もし、また会えたら一緒に……」
アイスでも食べに行こうね、おそらくそう続けたかったのだろう。
けれど、アイヴィーは続く言葉を飲み込んだ。
「いや、ゴメン、何でもない」
彼も##NAME1##と同じ気持ちなのだろうか。
「それじゃあね」
気が付くと、##NAME1##はアイヴィーを呼び止めていた。振り向いた金髪が揺れる。
「えっ? なあに、##NAME1##ちゃん」
なんて言えばいいんだろう。二秒という短い間、##NAME1##は必死に考えた。
苦し紛れにでてきた言葉は、車で送ってくれたお礼にコーヒーでも飲んでいきませんか、だった。
そう言われたアイヴィーは目をぱちくりしていた。数秒の沈黙のあと、彼は口を開いた。
「……イイの?」
##NAME1##は頷く。
「じゃ、じゃあ、一杯だけ、ご馳走して貰っちゃってもイイかな?」
彼も拒まなかった。
「へーえ。中は結構、現代的なんだねー」
とりあえずリビングに案内し、ロングソファに座って貰った。
アイヴィーは興味深げにキョロキョロしている。
##NAME1##は買ってきたものを、手早く冷蔵庫に入れ、コーヒーの準備に取りかかる。
そこで博士が好きなコーヒー豆を買い忘れたことに気が付いた。
##NAME1##はインスタントで十分なのだが、博士はお気に入りの豆があるのだ。
今、家にあるのは##NAME1##用のインスタントコーヒーだけだ。大きなボトルを見せながら、
これしかないんですけど良いですか、とあまり意味のない質問をする。
「うん。あ、そのコーヒー、俺んちにあるのとおんなじだ。それ、安いしウマイよね」
アイヴィーとは感覚が近いようだ。ちょっと嬉しかった。
グラスに入れたコーヒー色の粉を水で溶かす。自分で作る時より氷を二個多く入れた。
テーブルに置こうとした時、派手に水を零した音と派手にガラスが割れた音がした。
グラスを床に落としてしまった。アイヴィーの服を濡らさなかったのは幸いだったが、
アイスコーヒーが一杯分まるまる零れ、フローリングにコーヒー色の平べったい水たまりができた。
##NAME1##はグラスの破片を拾おうとした。
「##NAME1##ちゃん、手で触っちゃダメ!」
人差し指から血が滲んでいた。
「俺が片付けるから、##NAME1##ちゃんは――イタッ」
床に着いた手が跳ねる。
グラスが落ちた位置より距離があるのに、そこにも破片が飛んだらしい。
アイヴィーの右の薬指から赤い雫が見えている。
二人とも指に怪我をしてしまった。顔を見合った二人は、同時に笑っていた。
気を付けて周囲を掃除したあと、指の手当てをした。
##NAME1##は立派な救急箱を開ける。博士が自宅用として用意してくれたものだ。
確か一番上に絆創膏が入っていた筈である。
以前、##NAME1##が包丁で指を少しだけ切ってしまった時、
博士はここから絆創膏を出してくれた。
大した傷ではなかったのに、まるで大怪我のような扱いをされたっけ。
絆創膏はたくさんあった。これなら二枚くらい使っても大丈夫だろう。
##NAME1##は自分の人差し指に巻いたあと、アイヴィーの指にも絆創膏を巻いた。
「……あ、ありがと、##NAME1##ちゃん」
##NAME1##は彼の分のアイスコーヒーを入れ直す為、キッチンに向かった。
アイスコーヒー片手に他愛のない話をした。
アイヴィーが傍に居ると、いつの間にかリラックスしていて、なんだか安心できた。
二人で笑い合っている時間は、平和そのもので、とても心地の良い時間だった。
「ちょ、あれっ? 今何時!?」
気が付くと、窓の外は暗くなり始めていた。
「ヤバ、もうこんな時間か。長居しちゃってゴメン。俺、もう帰るね。
下手するとソクちゃんが帰ってきちゃう時間だし」
それはマズイ。
「##NAME1##ちゃん。あの、相談なんだけど、今日、俺がここに来たこと、
ソクちゃんにはナイショにしない? なんか怒られそうだし」
そうですね、と答えた。旦那様は、##NAME1##のこととなると束縛欲が強い。
次の瞬間、アラームのような音が聞こえた。
アイヴィーはその音で腕時計を見た。
デジタル時計は時刻ではなく地図のようなものを映していた。
「ありゃりゃあ」とアイヴィーが笑う。
続けて、電子音が鳴った。アイヴィーが携帯電話を取り出す。
サブディスプレイに表示された文字を確認してから、
「お呼び出しか。##NAME1##ちゃん、ちょっと電話出ても良いかな?」
はい、と答える。
「ありがと」と笑ったあと、一瞬で彼の顔つきが僅かに変わったように感じた。
普段の表情と変わらないようにも見えるが、
少しだけキリッとした隙のない雰囲気になったというか、
『休日モード』から『仕事モード』にスイッチングした瞬間を見た気がする。
「うん……うん……なら、俺もそっち行くわ。今、旧市街だから。……はーい。じゃ」
##NAME1##に聞こえたのはそれだけだったが、島に侵入者が来たという連絡のようだ。
侵入者を排除するのが警備組織の仕事であり、彼が最高責任者であるとは言え、容赦ない。
聞くまでもないことなのに##NAME1##は思わず、これからお仕事に行くんですか、と尋ねていた。
「ん、まあね」
週に一度のお休みの日なのに、とつい言ってしまう。
「しょうがないよ、そういうお仕事だし。
でも、今日のお客さんは大分空気読めてるほうだと思うよ?」
アイヴィーは立ち上がり、ドアに向かう。
死と背中合わせの仕事に向かう人は、笑顔を見せながら、
「それじゃあね、##NAME1##ちゃん。コーヒー、ごちそうさま」
アイヴィーが帰った後、##NAME1##は晩御飯の支度を始めたが、
彼の安否が気になって、料理の段取りを失敗してしまい、美味しくできるか自信がない。
テレビを付けても、この島のニュース番組は、今週のイベント紹介やグルメ情報など、
のどかな地域ニュースを伝えるばかりで、侵入者情報に関しては一切報じないのだ。
警備組織が島に住む全ての人間を守る為に、日夜働いていても、
何十人、何百人の侵入者から島を守ったとしても、その情報が表に出ることはない。
今こうしている間にも、アイヴィーは血を流しているかもしれないのに。
司令官に選ばれた彼の実力が、並でないのは解っているつもりだが、
さっきまで、ここに居て、笑っていた彼と、二度と会えなくなる可能性は、ゼロではない。
「ただいま」
エビチリが完成する前に旦那様が帰ってきてしまった。
料理を続けながら、「ごめんなさい。まだ晩御飯の用意ができていなくて」と謝った。
「いや、それは構わないんだがね」
博士の顔が見られない。
「脈が早い。緊張している、ね?」
博士に手首を掴まれた。博士の親指が##NAME1##の脈を計っている。
結婚後、何度もやられたことだが、まだ慣れない。
手首を捕らえていた手が人差し指に向かう。絆創膏を巻いた指だ。
「どうしたんだい? この指」
グラスを割ってしまったことだけを話した。その時、誰が来ていたかは伝えずに。
「そうか。これを選んだのは良い判断だったね。
これは主に医療関係者の間で、売買されるもので、一般にはあまり出回っていないものなんだ。
高機能の絆創膏だから、市販品の絆創膏より早く治してくれるよ」
絆創膏にも高機能なものと、そうでないものがあるのかと少し感心する。
「##NAME1##、一度、剥がしても良いかい?」
既に指は、しっかり捕らえられている。
「##NAME1##の綺麗な指に、ガラス片が残っていないか、この目で確かめたいんだ。いいね?」
YESしか選択肢がない雰囲気で、いつのまにか##NAME1##は頷いていた。
「剥がすよ?」
ピリピリと絆創膏が端から剥がされていく。超スローペースだ。
これならひと思いにペリッとやられたほうがマシではないだろうか。
そう思っていると、心を読まれたようなタイミングで、
「ゆっくり、丁寧に剥がさないと、皮膚組織を痛めてしまうからね?」
ただ絆創膏を取られるだけで、どうしてこんなにドキドキしなくてはいけないんだろう。
心臓が壊れそうだ。思わず漏れてしまった声を聞いて、博士が笑っている。
今すごく楽しそうな博士がコワイ。コワイのに。
イヤと言わないどころか、感情が高ぶり過ぎて、
エクスタシーに近いものを感じてしまっている自分は、もうどうしようもない。
絆創膏を剥がされたあとは、物凄い接写で人差し指を観察され、丁寧に丁寧に治療された。
「これでいい。明日また絆創膏を替えてあげるからね?」
##NAME1##には自分で絆創膏を替える権利がないようだ。
固定電話が鳴った。キッチンに居る##NAME1##が向かう前に、
「私が出るよ」
博士が受話器を取った。
「ソクーロフです。……解った。これから伺うよ。……いや、構わないよ今夜で。……うん……では」
それだけ言って博士は電話を切った。
急病の連絡なら症状を聞く。そうではない場合は警備からの要請だ。
##NAME1##は反射的に「アイヴィーさんから?」と尋ねてしまった。
「いいや。副司令官からだったが」
しまった、と##NAME1##は思った。
「##NAME1##? どうして、アイヴィーからだと思ったんだね?」
よく考えればアイヴィー相手にしては話し方が優しい。
先程、アイヴィーに休日出勤の連絡が来ていたから、つい彼からかと思い込んでしまった。
##NAME1##は少々しどろもどろになりながら、
追憶の塔に呼ばれたみたいだったからアイヴィーさんかと思ったと話した。
「成程。確かに、追憶の塔へのお招きの電話だった。さて、ではまた出掛けてくるよ」
意外にもそれ以上、追求されなくて##NAME1##はホッとした。
「帰りは遅くなるかもしれないから、##NAME1##は先に休んでくれて構わないよ。
私の帰りを待っていてくれるのは嬉しいけれど、そのせいで君の身体に悪い影響を及ぼしたくはないから」
ドアに向かう背中を追いかけ、お見送りをする。
「##NAME1##」
ドアを開ける前に、博士は振り向いた。
「すまない。せっかく今宵は私の好物を用意してくれたのに。今夜の分は明日頂くから」
すっと##NAME1##の頬に手を添える。唇に口付けを落とした。
「行ってくるよ」
「了解しました。こちらへご案内して下さい」
副司令官は内線電話の受話器を置いた。
「司令、ソクーロフ博士がお見えになったそうです」
「あ、ホント? 明日でも良かったのに」
「ええ。私もそう申し上げたのですが」
博士が独身でなくなった為、急ぎでなければ夜間の呼び出しは避けるよう配慮するようになっていた。
侵入者を捕らえたので、明日、自白をお願いしたい。
副司令官は電話にてソクーロフにそう伝えたのだが「今日で構わない」と言われたのだ。
まもなく追憶の塔の最上階にソクーロフは姿を現した。
「よっ、ソクーロフ。帰宅後に来て貰っちゃって悪いね。サンキュ」
「ああ」
「でも、明日でも良かったんだよ?」
「解っている。私の都合で来ただけだ。気にするな」
「都合? ま、まさか、##NAME1##ちゃんとケンカでもしたとか?」
「まさか。有り得ん」
「ハイハイ。ごちそーさまでーす」
アイヴィーの片手にソクーロフが注目した。
「どうしたんだ、その指」
「えっ!? うわっ、付けたままだった!」
絆創膏を巻いた薬指。アイヴィーは反射的にその指を隠した。
「絆創膏を付けたままだと、何かまずいのか?」
「い、いやー。全然、大した傷じゃないからさー。
あ、あのー、さっき、お仕事中にちょっと、やっちゃって」
「ほう。珍しいな、実力派の司令官にしては」
「い、いやー、そんなの買い被り過ぎだよー」
「傷口、私が診てやろうか?」
「いやいやいや! もう全然痛くないし、
ソクーロフ先生に診て貰うほどじゃないからホント!
俺なんかより、お客さん達の相手お願いしてもいいかなっ!?」
博士はアイヴィーから視線を外した。
「ああ、そうだったな」
fin
聖アルフォンソ島の新市街には大型のショッピングモールがある。
その一階には食品フロアがあり、品物を見ながら夕食のメニューを決めようと思っていた。
鮮魚コーナーの前を通った時、特売品が目に入った。
今日はエビが安いようだ。それを見て、メニューが決まった。よし。今夜はエビチリ。
「あれ? ##NAME1##ちゃん?」
名を呼ばれて振り返る。
「あっ、やっぱり##NAME1##ちゃんだっ」
そう言って嬉しそうに笑ったのは、金色の長髪をした背の高い男性。
タクシードライバー兼警備司令官のアイヴィーだ。
「##NAME1##ちゃんもお買い物?」
はい、と答える。
「そっか。俺もだよ。週に一度の買い出し。今日休みだから」
ショッピングカートには、一週間分らしい食材が入っていた。
そう言えば、今日の彼はネクタイをしていない。
ラフなシャツにダメージジーンズが似合ってる。
「##NAME1##ちゃん、今日の晩御飯は……エビ?」
はい。今夜エビチリにしようと思って、と言いながら、
まだ手に持ったままだった剥きエビを買い物カゴに入れる。
アイヴィーはポリポリと頬を掻きながら、
「……そっか。ソクちゃん、エビチリ好きだもんね」
独り言のようにポツリと呟く。
「なんか、##NAME1##ちゃんは、ホントにソクちゃんのお嫁さんなんだね」
一か月前、##NAME1##はソクーロフ博士と結婚した。
現在は旧市街にある新居で、ラブラブの新婚生活を送っている。
「あ、ねえ、##NAME1##ちゃん」
アイヴィーに呼ばれて、顔を上げる。
「ここまで何で来たの? バス? 歩き?」
バスです、と答えた。
「良かったら、家まで車で送ろっか?」
買い物を終えた後、アイヴィーと二人で駐車場に来た。
彼の車は、メタリック・ブラックのオープンカー、BMWカブリオレだった。
「##NAME1##ちゃん、荷物、貸して? 後ろに入れるよ」
荷物を受け取ったあとは、タクシードライバーだからか、自然に車のドアを開けてくれた。
シートは黒の本革だ。後ろで荷物を入れているアイヴィーの独り言が微かに聞こえた。
「##NAME1##ちゃんと会えるなら、アストンマーチンで来るんだったかなー」
アイヴィーが運転席に座る。
にこりと笑いながら、タクシードライバーの台詞を口にした。
「じゃーお客さん、どちらまで?」
最近やっとソラで言えるようになった住所を伝えた。
「えっ、##NAME1##ちゃんち、あそこなの!?
あの辺めっちゃ高級住宅街じゃん。スゴイなあ」
そうらしいことは##NAME1##も薄々気がついていた。エンジンがかかる。
「じゃ、出発しまーす」
ショッピングモールの駐車場を出て、街道を走る。
オープンカーだけあって、風を肌で感じる。爽快だ。
青空の下を走るオープンカーが、こんなに気持ち良いものだとは思わなかった。
派手な車が視界に入った。白とピンクの水玉。目立つワゴン車が広場に停まっている。
「ああ、あれはアイスクリームの移動販売車だよ」
丁度、なんだろうと思っている時に、アイヴィーが答えをくれた。
「生徒を乗せてる時に、あの車見かけると、『追いかけろー!』ってよく言われるんだ」
生徒にも人気があるらしい。
「##NAME1##ちゃんも食べてみる? マージナルプリンス御用達のアイスクリーム」
中央に噴水がある広場。
その入口付近にピンクと白の水玉模様のワゴン車が停まっている。
アイスクリームの移動販売車に乗っていたのは、白いキャップを被ったおじいさんだった。
よく日焼けしている。60歳前後だろうか。実年齢より若々しく見えるタイプかもしれない。
「いらっしゃい、ああ、アイヴィー。毎度どうも」
「こんちは、アイスじーさん。えっとー、俺はクッキー&クリーム。##NAME1##ちゃんは?」
アイスクリームは横に10、縦に2列並んでおり、計20種類。
悩む。どれも美味しそうだが、あれにしようか、これにしようか。
「おやおや。アイヴィー、今日はプリンスじゃなくて、
プリンセスを連れてきてくれたのかい?
やっとカノジョができたんだねえ、いやあ、羨ましいもんだ」
「えっ!? ち、違うよ。彼女はソクーロフ博士のおヨメさん」
「そうなのかい? あ、そういやマージナルプリンス達が騒いでたっけ。
俺達のプリンセスが博士に奪われたとか、洗脳されたとかなんとか。
あ、お嫁さん本人の前で失礼なこと言っちゃったかな?
洗脳されて結婚なんてある筈ないよねえ」
##NAME1##は日本人的微笑を見せる。
「ん? 博士は今お仕事中だろ? ってことは、
お二人さん、アレかい? 不倫ってヤツかい?」
「ちょ、ヘンな想像しないでよ! 俺達はさっきたまたま会っただけなんだから!」
「ハハハッ。何、慌ててんだい、アイヴィー。
大丈夫さ。アイヴィーにはいつも世話になってるからね。
今日、お二人さんを見たことは忘れてあげるよ」
おじいさんは八重歯を見せながら笑ってた。
「はいよ」
しわくちゃの手からアイスクリームを受け取る。
シングルで頼んだ筈が、コーンの上には、アイスがダブルで乗っていた。
「##NAME1##ちゃん。それはこの店の名物みたいなモンでね。
じーさんが勝手にもういっこ乗せちゃうんだよ、ほら、俺のもダブルになってるでしょ?」
本当だ。クッキー&クリームの上にエスプレッソのアイスが乗っている。
「俺、マージナルプリンスと何度もここに来てるんだけどさあ、
じーさんが選んだアイスって、あいつらが嫌いな味だったことが一度もないんだよ。
フシギとさ、『それとどっちにしようか迷ってた』って言う奴が多いんだ。
え? ##NAME1##ちゃんも? マジで? もう、じーさん、なんで分かんの?」
「ハハハッ。いつも言ってるだろ? 企業秘密だよ」
「絶対教えてくんないんだもんなー」
「毎度ありー。お嬢さん、今度はダンナさんと一緒においで」
そう言えば、博士とアイスを食べたことは一度もなかった。
「##NAME1##ちゃん、あそこで食べよっか?」
噴水を囲むように配置されているベンチに二人で座った。
外で食べるアイスクリームは格別だ。おじいさんが選んでくれた味も美味しい。
##NAME1##は隣を見る。男の人がアイスクリームを食べている姿はなんだか可愛らしい。
白いアイスクリームを舐める赤い舌先がチラリと見えた。
「そういや俺、久し振りだわ、ここのアイス食べるの。てゆうか、二回目?」
それは意外だ。
「マージナルプリンスがアイス食べてる時は、タバコ吸ってるから」
成程。
「しかも女の子とアイスなんて、この島に来てからは一度もなかったし。
え? まさか。全然モテないよ。同僚もお客さんも野郎ばっかだしねー」
しかし、客観的に見てもアイヴィーはモテる要素を幾つも持っているし、
##NAME1##自身もアイヴィーは非常に魅力的な男性だと思う。
こんなにイケメンで性格も良いし、この若さで役職はトップなのだ。
博士に籠絡されなければ、彼を好きになっていたかもしれないと思うほどだ。
六年の間、島に居て、言い寄ってくる女性は一人も居なかったのだろうか。
彼は老若男女問わず島の人みんなに好かれている。
来るもの拒まず、誰とも親しい関係が築けるタイプだと思う。
けれど、##NAME1##の勘違いかもしれないが、
一定のラインより奥へは、誰も寄せ付けない雰囲気を感じるのだ。
プライベート過ぎる質問は受け付けないかんじがある。特に過去に関するもの。
例えば、島に来る前までは、どこで何をしてたのか、とか。
「うーわ。昔の貴族とか住んでそうなおうちだね」
アイヴィーは三階建ての高級マンションを見上げている。
「こんなとこに住んでたんだねー。ソクちゃんってば教えてくんないんだもん」
歴史ある建築物が並ぶ旧市街。
ここに##NAME1##とソクーロフが暮らす新居があった。
三階までアイヴィーが持ってくれた荷物。部屋の前で手渡された。
「今日は、##NAME1##ちゃんと会えたおかげでイイ休日になったよ。ありがと」
##NAME1##もアイヴィーと会えたことはラッキーだったし、楽しかった。
このままさよならしてしまうのは淋しい、できればもっと一緒に居たいと感じている自分が居た。
「あのさ、##NAME1##ちゃん。もし、また会えたら一緒に……」
アイスでも食べに行こうね、おそらくそう続けたかったのだろう。
けれど、アイヴィーは続く言葉を飲み込んだ。
「いや、ゴメン、何でもない」
彼も##NAME1##と同じ気持ちなのだろうか。
「それじゃあね」
気が付くと、##NAME1##はアイヴィーを呼び止めていた。振り向いた金髪が揺れる。
「えっ? なあに、##NAME1##ちゃん」
なんて言えばいいんだろう。二秒という短い間、##NAME1##は必死に考えた。
苦し紛れにでてきた言葉は、車で送ってくれたお礼にコーヒーでも飲んでいきませんか、だった。
そう言われたアイヴィーは目をぱちくりしていた。数秒の沈黙のあと、彼は口を開いた。
「……イイの?」
##NAME1##は頷く。
「じゃ、じゃあ、一杯だけ、ご馳走して貰っちゃってもイイかな?」
彼も拒まなかった。
「へーえ。中は結構、現代的なんだねー」
とりあえずリビングに案内し、ロングソファに座って貰った。
アイヴィーは興味深げにキョロキョロしている。
##NAME1##は買ってきたものを、手早く冷蔵庫に入れ、コーヒーの準備に取りかかる。
そこで博士が好きなコーヒー豆を買い忘れたことに気が付いた。
##NAME1##はインスタントで十分なのだが、博士はお気に入りの豆があるのだ。
今、家にあるのは##NAME1##用のインスタントコーヒーだけだ。大きなボトルを見せながら、
これしかないんですけど良いですか、とあまり意味のない質問をする。
「うん。あ、そのコーヒー、俺んちにあるのとおんなじだ。それ、安いしウマイよね」
アイヴィーとは感覚が近いようだ。ちょっと嬉しかった。
グラスに入れたコーヒー色の粉を水で溶かす。自分で作る時より氷を二個多く入れた。
テーブルに置こうとした時、派手に水を零した音と派手にガラスが割れた音がした。
グラスを床に落としてしまった。アイヴィーの服を濡らさなかったのは幸いだったが、
アイスコーヒーが一杯分まるまる零れ、フローリングにコーヒー色の平べったい水たまりができた。
##NAME1##はグラスの破片を拾おうとした。
「##NAME1##ちゃん、手で触っちゃダメ!」
人差し指から血が滲んでいた。
「俺が片付けるから、##NAME1##ちゃんは――イタッ」
床に着いた手が跳ねる。
グラスが落ちた位置より距離があるのに、そこにも破片が飛んだらしい。
アイヴィーの右の薬指から赤い雫が見えている。
二人とも指に怪我をしてしまった。顔を見合った二人は、同時に笑っていた。
気を付けて周囲を掃除したあと、指の手当てをした。
##NAME1##は立派な救急箱を開ける。博士が自宅用として用意してくれたものだ。
確か一番上に絆創膏が入っていた筈である。
以前、##NAME1##が包丁で指を少しだけ切ってしまった時、
博士はここから絆創膏を出してくれた。
大した傷ではなかったのに、まるで大怪我のような扱いをされたっけ。
絆創膏はたくさんあった。これなら二枚くらい使っても大丈夫だろう。
##NAME1##は自分の人差し指に巻いたあと、アイヴィーの指にも絆創膏を巻いた。
「……あ、ありがと、##NAME1##ちゃん」
##NAME1##は彼の分のアイスコーヒーを入れ直す為、キッチンに向かった。
アイスコーヒー片手に他愛のない話をした。
アイヴィーが傍に居ると、いつの間にかリラックスしていて、なんだか安心できた。
二人で笑い合っている時間は、平和そのもので、とても心地の良い時間だった。
「ちょ、あれっ? 今何時!?」
気が付くと、窓の外は暗くなり始めていた。
「ヤバ、もうこんな時間か。長居しちゃってゴメン。俺、もう帰るね。
下手するとソクちゃんが帰ってきちゃう時間だし」
それはマズイ。
「##NAME1##ちゃん。あの、相談なんだけど、今日、俺がここに来たこと、
ソクちゃんにはナイショにしない? なんか怒られそうだし」
そうですね、と答えた。旦那様は、##NAME1##のこととなると束縛欲が強い。
次の瞬間、アラームのような音が聞こえた。
アイヴィーはその音で腕時計を見た。
デジタル時計は時刻ではなく地図のようなものを映していた。
「ありゃりゃあ」とアイヴィーが笑う。
続けて、電子音が鳴った。アイヴィーが携帯電話を取り出す。
サブディスプレイに表示された文字を確認してから、
「お呼び出しか。##NAME1##ちゃん、ちょっと電話出ても良いかな?」
はい、と答える。
「ありがと」と笑ったあと、一瞬で彼の顔つきが僅かに変わったように感じた。
普段の表情と変わらないようにも見えるが、
少しだけキリッとした隙のない雰囲気になったというか、
『休日モード』から『仕事モード』にスイッチングした瞬間を見た気がする。
「うん……うん……なら、俺もそっち行くわ。今、旧市街だから。……はーい。じゃ」
##NAME1##に聞こえたのはそれだけだったが、島に侵入者が来たという連絡のようだ。
侵入者を排除するのが警備組織の仕事であり、彼が最高責任者であるとは言え、容赦ない。
聞くまでもないことなのに##NAME1##は思わず、これからお仕事に行くんですか、と尋ねていた。
「ん、まあね」
週に一度のお休みの日なのに、とつい言ってしまう。
「しょうがないよ、そういうお仕事だし。
でも、今日のお客さんは大分空気読めてるほうだと思うよ?」
アイヴィーは立ち上がり、ドアに向かう。
死と背中合わせの仕事に向かう人は、笑顔を見せながら、
「それじゃあね、##NAME1##ちゃん。コーヒー、ごちそうさま」
アイヴィーが帰った後、##NAME1##は晩御飯の支度を始めたが、
彼の安否が気になって、料理の段取りを失敗してしまい、美味しくできるか自信がない。
テレビを付けても、この島のニュース番組は、今週のイベント紹介やグルメ情報など、
のどかな地域ニュースを伝えるばかりで、侵入者情報に関しては一切報じないのだ。
警備組織が島に住む全ての人間を守る為に、日夜働いていても、
何十人、何百人の侵入者から島を守ったとしても、その情報が表に出ることはない。
今こうしている間にも、アイヴィーは血を流しているかもしれないのに。
司令官に選ばれた彼の実力が、並でないのは解っているつもりだが、
さっきまで、ここに居て、笑っていた彼と、二度と会えなくなる可能性は、ゼロではない。
「ただいま」
エビチリが完成する前に旦那様が帰ってきてしまった。
料理を続けながら、「ごめんなさい。まだ晩御飯の用意ができていなくて」と謝った。
「いや、それは構わないんだがね」
博士の顔が見られない。
「脈が早い。緊張している、ね?」
博士に手首を掴まれた。博士の親指が##NAME1##の脈を計っている。
結婚後、何度もやられたことだが、まだ慣れない。
手首を捕らえていた手が人差し指に向かう。絆創膏を巻いた指だ。
「どうしたんだい? この指」
グラスを割ってしまったことだけを話した。その時、誰が来ていたかは伝えずに。
「そうか。これを選んだのは良い判断だったね。
これは主に医療関係者の間で、売買されるもので、一般にはあまり出回っていないものなんだ。
高機能の絆創膏だから、市販品の絆創膏より早く治してくれるよ」
絆創膏にも高機能なものと、そうでないものがあるのかと少し感心する。
「##NAME1##、一度、剥がしても良いかい?」
既に指は、しっかり捕らえられている。
「##NAME1##の綺麗な指に、ガラス片が残っていないか、この目で確かめたいんだ。いいね?」
YESしか選択肢がない雰囲気で、いつのまにか##NAME1##は頷いていた。
「剥がすよ?」
ピリピリと絆創膏が端から剥がされていく。超スローペースだ。
これならひと思いにペリッとやられたほうがマシではないだろうか。
そう思っていると、心を読まれたようなタイミングで、
「ゆっくり、丁寧に剥がさないと、皮膚組織を痛めてしまうからね?」
ただ絆創膏を取られるだけで、どうしてこんなにドキドキしなくてはいけないんだろう。
心臓が壊れそうだ。思わず漏れてしまった声を聞いて、博士が笑っている。
今すごく楽しそうな博士がコワイ。コワイのに。
イヤと言わないどころか、感情が高ぶり過ぎて、
エクスタシーに近いものを感じてしまっている自分は、もうどうしようもない。
絆創膏を剥がされたあとは、物凄い接写で人差し指を観察され、丁寧に丁寧に治療された。
「これでいい。明日また絆創膏を替えてあげるからね?」
##NAME1##には自分で絆創膏を替える権利がないようだ。
固定電話が鳴った。キッチンに居る##NAME1##が向かう前に、
「私が出るよ」
博士が受話器を取った。
「ソクーロフです。……解った。これから伺うよ。……いや、構わないよ今夜で。……うん……では」
それだけ言って博士は電話を切った。
急病の連絡なら症状を聞く。そうではない場合は警備からの要請だ。
##NAME1##は反射的に「アイヴィーさんから?」と尋ねてしまった。
「いいや。副司令官からだったが」
しまった、と##NAME1##は思った。
「##NAME1##? どうして、アイヴィーからだと思ったんだね?」
よく考えればアイヴィー相手にしては話し方が優しい。
先程、アイヴィーに休日出勤の連絡が来ていたから、つい彼からかと思い込んでしまった。
##NAME1##は少々しどろもどろになりながら、
追憶の塔に呼ばれたみたいだったからアイヴィーさんかと思ったと話した。
「成程。確かに、追憶の塔へのお招きの電話だった。さて、ではまた出掛けてくるよ」
意外にもそれ以上、追求されなくて##NAME1##はホッとした。
「帰りは遅くなるかもしれないから、##NAME1##は先に休んでくれて構わないよ。
私の帰りを待っていてくれるのは嬉しいけれど、そのせいで君の身体に悪い影響を及ぼしたくはないから」
ドアに向かう背中を追いかけ、お見送りをする。
「##NAME1##」
ドアを開ける前に、博士は振り向いた。
「すまない。せっかく今宵は私の好物を用意してくれたのに。今夜の分は明日頂くから」
すっと##NAME1##の頬に手を添える。唇に口付けを落とした。
「行ってくるよ」
「了解しました。こちらへご案内して下さい」
副司令官は内線電話の受話器を置いた。
「司令、ソクーロフ博士がお見えになったそうです」
「あ、ホント? 明日でも良かったのに」
「ええ。私もそう申し上げたのですが」
博士が独身でなくなった為、急ぎでなければ夜間の呼び出しは避けるよう配慮するようになっていた。
侵入者を捕らえたので、明日、自白をお願いしたい。
副司令官は電話にてソクーロフにそう伝えたのだが「今日で構わない」と言われたのだ。
まもなく追憶の塔の最上階にソクーロフは姿を現した。
「よっ、ソクーロフ。帰宅後に来て貰っちゃって悪いね。サンキュ」
「ああ」
「でも、明日でも良かったんだよ?」
「解っている。私の都合で来ただけだ。気にするな」
「都合? ま、まさか、##NAME1##ちゃんとケンカでもしたとか?」
「まさか。有り得ん」
「ハイハイ。ごちそーさまでーす」
アイヴィーの片手にソクーロフが注目した。
「どうしたんだ、その指」
「えっ!? うわっ、付けたままだった!」
絆創膏を巻いた薬指。アイヴィーは反射的にその指を隠した。
「絆創膏を付けたままだと、何かまずいのか?」
「い、いやー。全然、大した傷じゃないからさー。
あ、あのー、さっき、お仕事中にちょっと、やっちゃって」
「ほう。珍しいな、実力派の司令官にしては」
「い、いやー、そんなの買い被り過ぎだよー」
「傷口、私が診てやろうか?」
「いやいやいや! もう全然痛くないし、
ソクーロフ先生に診て貰うほどじゃないからホント!
俺なんかより、お客さん達の相手お願いしてもいいかなっ!?」
博士はアイヴィーから視線を外した。
「ああ、そうだったな」
fin
■私の天使 サイドストーリー
■アニメベース ※06/05に一部加筆
■アニメベース ※06/05に一部加筆
「わあ! 今日の晩ご飯はデザート付きだー!」
「ダークチェリーのレアチーズケーキでございます」
ウーティス寮のシェフが、ユウタの前に恭しく差し出した。
ある土曜日の夕食。最後に、シェフが持ってきた物は、長方形の真っ白なケーキだった。
生徒達の前で、シェフが切り分け、一人一人に手渡していく。
白いケーキの切り口から、赤い果物が見える。底の位置に敷かれているダークチェリーだ。
「チェリーは6月が旬でございますから、アメリカから最高品種を空輸致しました」
ハルヤは曖昧な微笑を見せながら、
「相変わらず、カミーユって……すごいよね」
「おお、ハルヤ様。お褒めのお言葉、ありがとうございます!」
「ど、どういたしまして」
「ちなみに、完熟期より、やや早めの物を使用しております。
熟したチェリーより、この時期に出回る、
酸味が強い物のほうが、クリームチーズとの相性が良いですから」
「カミーユ、カッコイー!」
ユウタはキラキラした目でシェフを見上げていた。
アルフレッドは小さく肩をすくめながら、隣のジョシュアに向かって囁く。
「ユウタって、何でもかんでも『カッコイー』だよな?」
同意を求められたジョシュアは苦笑していた。
「今日、アンリも居たら良かったのに。今日はお仕事でフランスに居るんだもんねー」
ユウタの言葉に、シェフが「あっ」と叫んだ。
「申し訳ありません。今夜はアンリ様がいらっしゃらないのに、
六等分に切り分けてしまいました。つい、いつもの癖で」
アルフレッドが皿を差し出す。
「いいって、いいって。アンリの分は俺が貰ってやるからさ!」
「えー。レッド、ズルイー! ジャンケンで勝った人が貰えることにしようよー!」
「おっし、望むところだぜ、ユウタ! ジャーンケーン」
その夜も賑やかな夕食だった。
ジャンケン三本勝負が行われてる中、ハルヤはジョシュアをちらりと見た。
こういう時のジョシュアは、お兄さんっぽい顔をしている。
その少し困った笑顔を見るのが、ハルヤは密かに好きだった。
けれど、その日、ハルヤの期待は裏切られる。ジョシュアは悲しそうな顔をしていた。
手を付けていないレアチーズケーキ。それを見つめる表情は、曇っていた。
いつもなら、騒いでいる友人達を、苦笑混じりに見守ってくれている人。
もし、喧嘩になりそうであれば止めにも入ってくれる、
みんなのお兄さんである筈のジョシュアが。
テーブルの向こう側で壮絶なジャンケン大会が行われている中、
ハルヤは、そっと話しかけてみた。
「ジョシュア、もしかして、おなか痛いの?」
「え? あ、いや、何でもないよ」
「うおっしゃあああ! 俺様の三連勝!」
アルフレッドがガッツポーズをしていた。
「心配しなくても、大丈夫じゃないですか? アンリのことなら」
シルヴァンはレアチーズケーキの先にフォークを入れる。
「この前だって、無事に帰ってこられたんですし」
「うん。それは、そんなに心配してないんだけど。今日は特別な日だから」
「ああ、命日でしたか、今日は」
ユウタは耳に入ってきた言葉に驚いた。
「えっ? 命日って、誰の?」
ジョシュアとシルヴァンが顔を見合わせる。
「良いんじゃないですか? 話しても」
「うん。そうだね」
空席を見る。
「アンリが居ないから話すけれど。実は、今日はアンリのお母さんの命日なんだ」
「えっ」
「アンリが今日フランスに行った理由は、仕事ではなくて、お母さんのお墓参りなんだよ」
「……そっか。そう言えば、アンリ、前言ってたね。お母さんは亡くなってるって」
「お母様は、アンリを生んで数日後に亡くなられたそうです」
「そうだったんだ……えっ、ちょっと待って。
じゃあ、アンリのお誕生日って、もう終わってるの?」
アルフレッドはチェリーをフォークに刺しながら、
「ああ、6月6日。すげー日に生まれたもんだよな」
「アンリのバースデーパーティーしてないじゃん!」
「してないな」
「なんで? 誕生日ならパーティーしようよ!
「それはさあ……」
アルフレッドはジョシュアに視線を送った。
その視線を受け止めて、ジョシュアは話し出した。
「すまない、ユウタ。俺達だって、アンリの誕生日を祝いたい気持ちは、ユウタと同じだよ?
だけど、アンリは自分の誕生日を素直に祝うことができないんだ」
「どうして? 誕生日は皆に祝って貰えるし、お誕生日ケーキも食べられるのに!」
「アンリは、自分が生まれたせいで、お母さんを亡くしたと思ってる。
だから、ずっと自分の誕生日が嫌いなんだよ。
誕生日の話をすると、毎年アンリはすぐに心を閉ざしてしまうんだ。
『そんなことを覚えていても、何の得にもならないよ』って」
「ねえ、ジョシュア。アンリ、明日帰ってくるんだよね?」
「うん。夜には帰るって言っていたけれど?」
ユウタは席を立ち上がった。
「やろうよ! アンリの誕生日パーティー!
明日、アンリが帰ってきたら、サプライズパーティーしよう!」
「でも、アンリ、嫌がるかもしれないよ?」
「嫌がられたっていいよ! 俺がお祝いしたいからする!
自分の誕生日が嫌いなんて、そんなのダメだよ!
みんながパーティーしないって言うんなら、俺一人でもパーティーするからね!」
ジョシュアが目をぱちくりする。
「ユウタ……」
「よおっし! 俺は乗ったあ!」
アルフレッドがユウタの肩に腕を回す。
「抜け駆けなんてさせるかよ! 俺も混ぜろよな、ユウタ!」
「ハイハーイ! 僕も入れて下さーい! もちろんハルヤも参加しますよね?」
「大丈夫かなあ」
苦笑しながらも、否定しなかった。
「さあ、あとはお前だけだぜ、ジョシュア?」
皆がジョシュアを見つめる。
ユウタを囲むデッドプリンスの三人を見て、
「……やっぱり、すごいな、ユウタは」
ジョシュアは微笑んだ。
「俺も入れてくれるかい、ユウタ」
テラスから外を眺めると、エッフェル塔が見えた。
その背景には、朝もやに包まれた街並み。明け方のパリは神秘的だ。
流石は高級ホテルの最上階だけのことはある。
こうして見ると、やはりフランスも変わったものだ。
つい先日まで、あの鉄塔は建設中だったのに。
まだ背が低くて、Hの形をしていた頃は、発育途中の幼子のようで愛らしかった。
当時の高さなら、あの塔は投身の名所などにはならなかっただろう。
けれども、321mの高さがあるから、あの鉄塔は美しいのだ。
風が少し冷たい。6月とは言え、早朝は肌寒い。テラスから、部屋の中へ戻った。
室温の暖かさにほっとする。時計を見ると、そろそろ起床時間だった。
このスウィートルームは、シングルベッドが二つ寄せて並べられている。
片方のベッドがまだ膨らんでいた。今回のフランス旅行には連れがいるのだ。
大きなブランケットにくるまって眠っている、私の天使が。
何か夢を見ていた。どんな夢を見ていたんだろう、僕は。
悪夢ではなかったと思う。懐かしい、という想いだけが残ってる。
だけど、夢の途中で終わってしまった気がする。
「朝だよ、アンリ」
そう。誰かの声が割り込んできたからだ。
「おはよう。さあ、起きなさいアンリ?」
「オーギュ……」
僕の声は掠れてた。
目を覚まして、最初に目に入ったものは、神秘学担当講師の顔だった。
彼の背景にある鉄の塔を見て、ああフランスのホテルに来ていたんだ、とぼんやり思い出した。
「起きてくれたかな? アンリ」
まだ眠い。
「なんじ……」
「6時だよ?」
早過ぎる。僕は8時に起きるって言ったのに。
「なんで、起こすの」
「ごめんね。予定より一時間早いフライトに変更したものだから」
「何、勝手なこと、してるの」
「少々、野暮用ができてね、予定より早く島に戻らなくてはいけなくなったんだ」
「なら、君だけ先に帰れば良いじゃない」
「そんなこと言わないで。さあ、朝食にしよう」
仕方なく、身体を起こす。
「今日のフランスは、夜までいい天気だそうだよ?」
そこで僕はやっと気が付いた。
「オーギュ」
「ん?」
「どうして、今日はフランス語で話してるの?」
この教授が数カ国、いやそれ以上の言語を話せるのは知っているけれど、
学院では英語で話している教授が、今日は「おはよう」から全てフランス語だった。
彼につられたのか、僕もフランス語で話していたけれど。
「おや。本当だ」
教授は窓の向こうを見やる。
「パリの灯を見ていたからかな」
ジョシュアはパンをちぎって食べている。
聖アルフォンソ学院の朝食は、どの寮もビュッフェスタイル。
ウーティス寮でも、五人の生徒達が各々好きな物を皿に取って、テーブルに着いている。
「おはようございます、皆様」
朝食中のダイニングルームに、シェフが入ってきた。
いつも『シェフのオススメ』を一品、追加しに来てくれるのだ。
「今朝のオススメは、トマト煮を半熟卵で包み込んだスパニッシュオムレツでございます。
今お作りしたばかりですのでトロトロですよ。よろしければ是非どうぞ」
できたてのメニューをビュッフェ台に置く。早速シルヴァンとユウタが席を立った。
アルフレッドはサンドイッチをオレンジジュースで流し込んで、
「あ! なあ、カミーユ。急な話で悪ぃんだけどさー」
話を聞いたシェフはいたく感銘を受けたようだ。
「アンリ様のバースデーパーティでございますか! ああ、なんと麗しい友情なのでしょう!」
「今夜なんだけど、用意できるか?」
「もちろんでございます! このカミーユ・ルブラン、腕によりをかけて、
アンリ様に喜んで頂ける、最高の料理をお作り致します!」
「ちょ、ちょっと待って、カミーユ」
ハルヤが止めた。
「アンリ、フランスから帰ってきたばっかりで疲れてると思うからさ」
寝癖なのか、右側の後ろ髪が少し跳ねている。
「豪華フランス料理フルコースとかじゃなくて、
サクッと食べれるオードブルみたいなかんじだと嬉しいんだけど」
「ああ、成程。お疲れのところでは、フルコースはお楽しみ頂けませんね」
「そう、そう。アンリの為に、軽めの料理でいいからね」
「但し! バースデーケーキは思いっきりやっちまいなー!」
「アンリ、甘いもの好きだもんね」とユウタ。
シェフは自身の割れた顎を撫でながら、
「そう言えば、アンリ様は『天使の顎』がお好きでしたなあ」
「つーわけで、軽めの料理と、でかめのケーキってことで、よろしくな、カミーユ」
「畏まりました、アルフレッド様。一体どんな料理が良いでしょうねえ。
ああ、早速メニューを考えなくては! では私はこれで失礼致します」
一礼して、足早に去っていった。シェフが居なくなると、ハルヤが東洋の微笑を見せた。
「カミーユ、はりきってたね。大丈夫かな?」
「やっぱ他の寮のシェフに頼むべきだったかー?」
「そんなんことして、あとでバレたら、カミーユ、泣いちゃいますよ」
「……だな。んじゃ、まあ、料理はこれで良いとして、
あと用意するモンはプレゼントに、会場作りに、
バースデーソングはアルフレッド・ヴィスコンティ様が弾き語りで歌ってやるかな」
「わお! 贅沢なバースデーソングですね!」
「俺様の歌で、アンリを泣かしちゃる!」
アンリとオーギュストは、他の一般客と共にパリの空港を発った後、
中継地点となる、ある空港に降り立った。
ここで聖アルフォンソ島行きの特別チャーター機に乗り換える為だ。
フライトまでの時間、空港内に並ぶ土産店を見て回っていた。
「あ、見てご覧、アンリ」
またオーギュストが足を止めた。その後方を教え子が遅れて歩いている。
「今度は何」
教え子のほうが保護者のような態度である。
「これなんか、寮の子達のお土産に良いんじゃないかな?」
「こうして見てみると、音符のようだろう?」
教師が足を止めたのはお菓子の店だった。
五線譜が描かれた白い板の上に、カラフルなマカロンが綺麗にディスプレイされている。
「私も何度か食べたことがあるんだ。
フランスのマカロンより美味しいくらいなんだよ、ここのは」
手前に平積みしてある箱を、オーギュストが手に取る。
「36個入りか。成長期の君達には丁度良いかもしれないね。
あ、アンリの成長期は終わっているんだったかな?」
「オーギュスト」
「失礼。アンリ、これで決めてしまっても良いんじゃないかな?」
「オーギュスト」
「なんだい、アンリ」
「何故こんな所で、のんびりお土産選んでるの?
君、野暮用があるから、一時間早く島に戻りたいんじゃなかったの?」
「おや。私はそんなふうに言っていたかい? 少し言い間違えてしまったようだね。
私は予定より早くフランスを発ちたいと言ったつもりなんだけれど」
「どっちでも同じでしょう。もう搭乗時刻なんだから、早く行こう」
「どうして? 搭乗まで、まだ一時間あるよ」
「それなら、当初の予定と同じじゃない」
「うん。そうだよ。私が搭乗時刻を変更したのは、先程のフライトだけだからね」
「え? 野暮用はどうしたの?」
オーギュストはマカロンの箱を見せる。
「だから、今、しているだろう?」
「まさか、お土産選びの為に、僕を朝6時に起こしたと言うの?」
「うん」
有り得ない。アンリは愕然とした。
「お土産選びは重要だよ、アンリ。お土産の神秘について、一時間講義しようか?」
「そんな講義があったら絶対に自主休講にする。
第一、君みたいな奇人だけには、常識云々を語られたくない」
「お土産は必要だと思うよ、特に今回は」
「どういう意味」
「アンリだって、この間のことで、身に沁みて解っただろう?
君の不在時、あの子達がどんなに心配しているか」
「心配してくれだなんて、僕は頼んでない」
「ああ、もしかして」
オーギュストはポンと手を打つ。
「アンリのおこづかいが足りなくて買えないのかな?
失礼。それなら私が買おう。あと私用にもう一箱」
二箱とも奪うようにアンリが取った。
「馬鹿にしないで。このくらい買えるよ」
会計に向かう背中を見て、教授は笑っていた。
その夜、ウーティス寮サロン。既にパーティの準備は万端である。
サロンいっぱいに派手な装飾が施されていた。
「どーよ! このクラッカー!」
アルフレッドは大き過ぎるクラッカーを見せびらかせていた。
「うわっ。何、このビックサイズ!?」とユウタ。
「ヘヘン。イイだろ~。俺はコレ鳴らすからな!」
ハルヤは掛け時計を見上げていた。
「アンリ、まだかなあ」
「確かにそろそろ帰ってきても良い時間ですよね」
シルヴァンが隣に立つ。ハルヤは俯いていた。
「俺、もう、おなかすいたよ」
「大丈夫ですか、ハルヤ。あ、僕のチョコレートでも食べます?」
テレビでは、ワールドニュースがやっていた。
画面に映った文字を見て、思わずジョシュアは呟いた。
「フランスの空港でシステムトラブル?」
寮生達がテレビの前に集まってくる。
「午後の便が全便欠航、ですか」
「まさか、アンリが乗る予定の飛行機も入ってんじゃねーだろーなー?」
「そうかもしれない。午後一番の便で帰るって言っていたから」
「おいおい、マジかよ? 外に出ると、つくづく運のねえ奴だなあ。
せっかくここまで、パーティの用意してやったのに、主役が遅れんのかよ」
サロンに飾られた煌びやかな装飾品やクラッカーなどが虚しく見えてくる。
「遅れるくらいなら良いんですけどね」
シルヴァンの呟きに、ハルヤも心配そうな顔になる。
「そう、だよね」
嫌な予感を感じながらも、ユウタは尋ねずにはいられなかった。
「ちょ、ちょっと、二人とも、遅れるくらいなら、って、どういうこと?」
「欠航で今日飛べなくなったのなら、アンリでも学院に一言連絡をくれると思いますから。
ジョシュア、アンリからの連絡は来ていないんですよね?」
「来てないよ」
「そ、それって、アンリがまた何か事件に巻き込まれるかもってこと!?
アンリ、怪我とかしてないよね、大丈夫だよね!?」
サロンは静まる。ユウタの問いに答えられる者は居なかった。
「何なの、この悪趣味なサロン」
冷たいバニラボイスに、皆が振り向いた。
馬鹿騒ぎがやっと終わって、僕は自分の部屋に戻ってきた。
すぐベッドに倒れ込みたいくらい疲れてたのに、僕は机の前に立っていた。
タロットカードを手にして、机の左端から右端へ、カードを散らす。
カードに描かれた、尾をくわえた蛇で、机がいっぱいになる。
数回シャッフルして、カードを重ねて、整える。一番上のカードを裏返した。
地上には二人の子供。その足下には二つの石が落ちている。
子供達の頭上には光輝く恒星。正位置だ。カードナンバーは19。
「Le Soleil(ル・ソレイユ)太陽は全ての始まり」
正位置の意味は、成功、祝福、そして、誕生。
ノックの音がした。誰が訪ねてきたのか予想は付いた。
「開いてるよ」
ドアを開けた人物は、タロットを持っていた僕を見て、緋色の瞳を瞬かせた。
「あっ、すまない。占い中だった?」
「ただカードを眺めてただけ」
「……そう」
彼は後ろ手でドアを閉めた。
「ねえ、ジョシュア?」
僕は太陽のカードを机に戻す。
「どうして、君が居ながら、彼等を止められなかったの?」
僕はジョシュアに背を向けたまま、再びカードをシャッフルする。
「フランスから帰ってきたら、いきなりパーティだなんて。僕は長い移動で疲れてるのに」
「みんな、祝いたかったんだよ、アンリの誕生日を」
「勝手だね」
ジョシュアは苦笑する。
「どうせ、主犯はユウタでしょう?」
「よく解ったね?」
「あんなクレイジーなこと考えるのは彼くらいだから」
「ユウタに噛み付くなよ」
ジョシュアの足音が近付いてくる。ぼそりと彼は呟いた。
「ユウタのおかげで、俺は、やっと言わせて貰える」
「何を――」
数枚、机からカードが落ちた。
理解できないことが起こると、思考は一瞬止まるらしい。
僕の視界にジョシュアの両腕が映っていた。
背中があたたかい。
それでやっと、後ろから抱き留められているのだと解った。
「すまない。伝えるのが遅くなって」
見えないのに、彼がどんな顔をしているのか解る。
どうして彼は、こんなにお人好しなんだろう。
「ハッピーバースデー、アンリ」
fin
「ダークチェリーのレアチーズケーキでございます」
ウーティス寮のシェフが、ユウタの前に恭しく差し出した。
ある土曜日の夕食。最後に、シェフが持ってきた物は、長方形の真っ白なケーキだった。
生徒達の前で、シェフが切り分け、一人一人に手渡していく。
白いケーキの切り口から、赤い果物が見える。底の位置に敷かれているダークチェリーだ。
「チェリーは6月が旬でございますから、アメリカから最高品種を空輸致しました」
ハルヤは曖昧な微笑を見せながら、
「相変わらず、カミーユって……すごいよね」
「おお、ハルヤ様。お褒めのお言葉、ありがとうございます!」
「ど、どういたしまして」
「ちなみに、完熟期より、やや早めの物を使用しております。
熟したチェリーより、この時期に出回る、
酸味が強い物のほうが、クリームチーズとの相性が良いですから」
「カミーユ、カッコイー!」
ユウタはキラキラした目でシェフを見上げていた。
アルフレッドは小さく肩をすくめながら、隣のジョシュアに向かって囁く。
「ユウタって、何でもかんでも『カッコイー』だよな?」
同意を求められたジョシュアは苦笑していた。
「今日、アンリも居たら良かったのに。今日はお仕事でフランスに居るんだもんねー」
ユウタの言葉に、シェフが「あっ」と叫んだ。
「申し訳ありません。今夜はアンリ様がいらっしゃらないのに、
六等分に切り分けてしまいました。つい、いつもの癖で」
アルフレッドが皿を差し出す。
「いいって、いいって。アンリの分は俺が貰ってやるからさ!」
「えー。レッド、ズルイー! ジャンケンで勝った人が貰えることにしようよー!」
「おっし、望むところだぜ、ユウタ! ジャーンケーン」
その夜も賑やかな夕食だった。
ジャンケン三本勝負が行われてる中、ハルヤはジョシュアをちらりと見た。
こういう時のジョシュアは、お兄さんっぽい顔をしている。
その少し困った笑顔を見るのが、ハルヤは密かに好きだった。
けれど、その日、ハルヤの期待は裏切られる。ジョシュアは悲しそうな顔をしていた。
手を付けていないレアチーズケーキ。それを見つめる表情は、曇っていた。
いつもなら、騒いでいる友人達を、苦笑混じりに見守ってくれている人。
もし、喧嘩になりそうであれば止めにも入ってくれる、
みんなのお兄さんである筈のジョシュアが。
テーブルの向こう側で壮絶なジャンケン大会が行われている中、
ハルヤは、そっと話しかけてみた。
「ジョシュア、もしかして、おなか痛いの?」
「え? あ、いや、何でもないよ」
「うおっしゃあああ! 俺様の三連勝!」
アルフレッドがガッツポーズをしていた。
「心配しなくても、大丈夫じゃないですか? アンリのことなら」
シルヴァンはレアチーズケーキの先にフォークを入れる。
「この前だって、無事に帰ってこられたんですし」
「うん。それは、そんなに心配してないんだけど。今日は特別な日だから」
「ああ、命日でしたか、今日は」
ユウタは耳に入ってきた言葉に驚いた。
「えっ? 命日って、誰の?」
ジョシュアとシルヴァンが顔を見合わせる。
「良いんじゃないですか? 話しても」
「うん。そうだね」
空席を見る。
「アンリが居ないから話すけれど。実は、今日はアンリのお母さんの命日なんだ」
「えっ」
「アンリが今日フランスに行った理由は、仕事ではなくて、お母さんのお墓参りなんだよ」
「……そっか。そう言えば、アンリ、前言ってたね。お母さんは亡くなってるって」
「お母様は、アンリを生んで数日後に亡くなられたそうです」
「そうだったんだ……えっ、ちょっと待って。
じゃあ、アンリのお誕生日って、もう終わってるの?」
アルフレッドはチェリーをフォークに刺しながら、
「ああ、6月6日。すげー日に生まれたもんだよな」
「アンリのバースデーパーティーしてないじゃん!」
「してないな」
「なんで? 誕生日ならパーティーしようよ!
「それはさあ……」
アルフレッドはジョシュアに視線を送った。
その視線を受け止めて、ジョシュアは話し出した。
「すまない、ユウタ。俺達だって、アンリの誕生日を祝いたい気持ちは、ユウタと同じだよ?
だけど、アンリは自分の誕生日を素直に祝うことができないんだ」
「どうして? 誕生日は皆に祝って貰えるし、お誕生日ケーキも食べられるのに!」
「アンリは、自分が生まれたせいで、お母さんを亡くしたと思ってる。
だから、ずっと自分の誕生日が嫌いなんだよ。
誕生日の話をすると、毎年アンリはすぐに心を閉ざしてしまうんだ。
『そんなことを覚えていても、何の得にもならないよ』って」
「ねえ、ジョシュア。アンリ、明日帰ってくるんだよね?」
「うん。夜には帰るって言っていたけれど?」
ユウタは席を立ち上がった。
「やろうよ! アンリの誕生日パーティー!
明日、アンリが帰ってきたら、サプライズパーティーしよう!」
「でも、アンリ、嫌がるかもしれないよ?」
「嫌がられたっていいよ! 俺がお祝いしたいからする!
自分の誕生日が嫌いなんて、そんなのダメだよ!
みんながパーティーしないって言うんなら、俺一人でもパーティーするからね!」
ジョシュアが目をぱちくりする。
「ユウタ……」
「よおっし! 俺は乗ったあ!」
アルフレッドがユウタの肩に腕を回す。
「抜け駆けなんてさせるかよ! 俺も混ぜろよな、ユウタ!」
「ハイハーイ! 僕も入れて下さーい! もちろんハルヤも参加しますよね?」
「大丈夫かなあ」
苦笑しながらも、否定しなかった。
「さあ、あとはお前だけだぜ、ジョシュア?」
皆がジョシュアを見つめる。
ユウタを囲むデッドプリンスの三人を見て、
「……やっぱり、すごいな、ユウタは」
ジョシュアは微笑んだ。
「俺も入れてくれるかい、ユウタ」
テラスから外を眺めると、エッフェル塔が見えた。
その背景には、朝もやに包まれた街並み。明け方のパリは神秘的だ。
流石は高級ホテルの最上階だけのことはある。
こうして見ると、やはりフランスも変わったものだ。
つい先日まで、あの鉄塔は建設中だったのに。
まだ背が低くて、Hの形をしていた頃は、発育途中の幼子のようで愛らしかった。
当時の高さなら、あの塔は投身の名所などにはならなかっただろう。
けれども、321mの高さがあるから、あの鉄塔は美しいのだ。
風が少し冷たい。6月とは言え、早朝は肌寒い。テラスから、部屋の中へ戻った。
室温の暖かさにほっとする。時計を見ると、そろそろ起床時間だった。
このスウィートルームは、シングルベッドが二つ寄せて並べられている。
片方のベッドがまだ膨らんでいた。今回のフランス旅行には連れがいるのだ。
大きなブランケットにくるまって眠っている、私の天使が。
何か夢を見ていた。どんな夢を見ていたんだろう、僕は。
悪夢ではなかったと思う。懐かしい、という想いだけが残ってる。
だけど、夢の途中で終わってしまった気がする。
「朝だよ、アンリ」
そう。誰かの声が割り込んできたからだ。
「おはよう。さあ、起きなさいアンリ?」
「オーギュ……」
僕の声は掠れてた。
目を覚まして、最初に目に入ったものは、神秘学担当講師の顔だった。
彼の背景にある鉄の塔を見て、ああフランスのホテルに来ていたんだ、とぼんやり思い出した。
「起きてくれたかな? アンリ」
まだ眠い。
「なんじ……」
「6時だよ?」
早過ぎる。僕は8時に起きるって言ったのに。
「なんで、起こすの」
「ごめんね。予定より一時間早いフライトに変更したものだから」
「何、勝手なこと、してるの」
「少々、野暮用ができてね、予定より早く島に戻らなくてはいけなくなったんだ」
「なら、君だけ先に帰れば良いじゃない」
「そんなこと言わないで。さあ、朝食にしよう」
仕方なく、身体を起こす。
「今日のフランスは、夜までいい天気だそうだよ?」
そこで僕はやっと気が付いた。
「オーギュ」
「ん?」
「どうして、今日はフランス語で話してるの?」
この教授が数カ国、いやそれ以上の言語を話せるのは知っているけれど、
学院では英語で話している教授が、今日は「おはよう」から全てフランス語だった。
彼につられたのか、僕もフランス語で話していたけれど。
「おや。本当だ」
教授は窓の向こうを見やる。
「パリの灯を見ていたからかな」
ジョシュアはパンをちぎって食べている。
聖アルフォンソ学院の朝食は、どの寮もビュッフェスタイル。
ウーティス寮でも、五人の生徒達が各々好きな物を皿に取って、テーブルに着いている。
「おはようございます、皆様」
朝食中のダイニングルームに、シェフが入ってきた。
いつも『シェフのオススメ』を一品、追加しに来てくれるのだ。
「今朝のオススメは、トマト煮を半熟卵で包み込んだスパニッシュオムレツでございます。
今お作りしたばかりですのでトロトロですよ。よろしければ是非どうぞ」
できたてのメニューをビュッフェ台に置く。早速シルヴァンとユウタが席を立った。
アルフレッドはサンドイッチをオレンジジュースで流し込んで、
「あ! なあ、カミーユ。急な話で悪ぃんだけどさー」
話を聞いたシェフはいたく感銘を受けたようだ。
「アンリ様のバースデーパーティでございますか! ああ、なんと麗しい友情なのでしょう!」
「今夜なんだけど、用意できるか?」
「もちろんでございます! このカミーユ・ルブラン、腕によりをかけて、
アンリ様に喜んで頂ける、最高の料理をお作り致します!」
「ちょ、ちょっと待って、カミーユ」
ハルヤが止めた。
「アンリ、フランスから帰ってきたばっかりで疲れてると思うからさ」
寝癖なのか、右側の後ろ髪が少し跳ねている。
「豪華フランス料理フルコースとかじゃなくて、
サクッと食べれるオードブルみたいなかんじだと嬉しいんだけど」
「ああ、成程。お疲れのところでは、フルコースはお楽しみ頂けませんね」
「そう、そう。アンリの為に、軽めの料理でいいからね」
「但し! バースデーケーキは思いっきりやっちまいなー!」
「アンリ、甘いもの好きだもんね」とユウタ。
シェフは自身の割れた顎を撫でながら、
「そう言えば、アンリ様は『天使の顎』がお好きでしたなあ」
「つーわけで、軽めの料理と、でかめのケーキってことで、よろしくな、カミーユ」
「畏まりました、アルフレッド様。一体どんな料理が良いでしょうねえ。
ああ、早速メニューを考えなくては! では私はこれで失礼致します」
一礼して、足早に去っていった。シェフが居なくなると、ハルヤが東洋の微笑を見せた。
「カミーユ、はりきってたね。大丈夫かな?」
「やっぱ他の寮のシェフに頼むべきだったかー?」
「そんなんことして、あとでバレたら、カミーユ、泣いちゃいますよ」
「……だな。んじゃ、まあ、料理はこれで良いとして、
あと用意するモンはプレゼントに、会場作りに、
バースデーソングはアルフレッド・ヴィスコンティ様が弾き語りで歌ってやるかな」
「わお! 贅沢なバースデーソングですね!」
「俺様の歌で、アンリを泣かしちゃる!」
アンリとオーギュストは、他の一般客と共にパリの空港を発った後、
中継地点となる、ある空港に降り立った。
ここで聖アルフォンソ島行きの特別チャーター機に乗り換える為だ。
フライトまでの時間、空港内に並ぶ土産店を見て回っていた。
「あ、見てご覧、アンリ」
またオーギュストが足を止めた。その後方を教え子が遅れて歩いている。
「今度は何」
教え子のほうが保護者のような態度である。
「これなんか、寮の子達のお土産に良いんじゃないかな?」
「こうして見てみると、音符のようだろう?」
教師が足を止めたのはお菓子の店だった。
五線譜が描かれた白い板の上に、カラフルなマカロンが綺麗にディスプレイされている。
「私も何度か食べたことがあるんだ。
フランスのマカロンより美味しいくらいなんだよ、ここのは」
手前に平積みしてある箱を、オーギュストが手に取る。
「36個入りか。成長期の君達には丁度良いかもしれないね。
あ、アンリの成長期は終わっているんだったかな?」
「オーギュスト」
「失礼。アンリ、これで決めてしまっても良いんじゃないかな?」
「オーギュスト」
「なんだい、アンリ」
「何故こんな所で、のんびりお土産選んでるの?
君、野暮用があるから、一時間早く島に戻りたいんじゃなかったの?」
「おや。私はそんなふうに言っていたかい? 少し言い間違えてしまったようだね。
私は予定より早くフランスを発ちたいと言ったつもりなんだけれど」
「どっちでも同じでしょう。もう搭乗時刻なんだから、早く行こう」
「どうして? 搭乗まで、まだ一時間あるよ」
「それなら、当初の予定と同じじゃない」
「うん。そうだよ。私が搭乗時刻を変更したのは、先程のフライトだけだからね」
「え? 野暮用はどうしたの?」
オーギュストはマカロンの箱を見せる。
「だから、今、しているだろう?」
「まさか、お土産選びの為に、僕を朝6時に起こしたと言うの?」
「うん」
有り得ない。アンリは愕然とした。
「お土産選びは重要だよ、アンリ。お土産の神秘について、一時間講義しようか?」
「そんな講義があったら絶対に自主休講にする。
第一、君みたいな奇人だけには、常識云々を語られたくない」
「お土産は必要だと思うよ、特に今回は」
「どういう意味」
「アンリだって、この間のことで、身に沁みて解っただろう?
君の不在時、あの子達がどんなに心配しているか」
「心配してくれだなんて、僕は頼んでない」
「ああ、もしかして」
オーギュストはポンと手を打つ。
「アンリのおこづかいが足りなくて買えないのかな?
失礼。それなら私が買おう。あと私用にもう一箱」
二箱とも奪うようにアンリが取った。
「馬鹿にしないで。このくらい買えるよ」
会計に向かう背中を見て、教授は笑っていた。
その夜、ウーティス寮サロン。既にパーティの準備は万端である。
サロンいっぱいに派手な装飾が施されていた。
「どーよ! このクラッカー!」
アルフレッドは大き過ぎるクラッカーを見せびらかせていた。
「うわっ。何、このビックサイズ!?」とユウタ。
「ヘヘン。イイだろ~。俺はコレ鳴らすからな!」
ハルヤは掛け時計を見上げていた。
「アンリ、まだかなあ」
「確かにそろそろ帰ってきても良い時間ですよね」
シルヴァンが隣に立つ。ハルヤは俯いていた。
「俺、もう、おなかすいたよ」
「大丈夫ですか、ハルヤ。あ、僕のチョコレートでも食べます?」
テレビでは、ワールドニュースがやっていた。
画面に映った文字を見て、思わずジョシュアは呟いた。
「フランスの空港でシステムトラブル?」
寮生達がテレビの前に集まってくる。
「午後の便が全便欠航、ですか」
「まさか、アンリが乗る予定の飛行機も入ってんじゃねーだろーなー?」
「そうかもしれない。午後一番の便で帰るって言っていたから」
「おいおい、マジかよ? 外に出ると、つくづく運のねえ奴だなあ。
せっかくここまで、パーティの用意してやったのに、主役が遅れんのかよ」
サロンに飾られた煌びやかな装飾品やクラッカーなどが虚しく見えてくる。
「遅れるくらいなら良いんですけどね」
シルヴァンの呟きに、ハルヤも心配そうな顔になる。
「そう、だよね」
嫌な予感を感じながらも、ユウタは尋ねずにはいられなかった。
「ちょ、ちょっと、二人とも、遅れるくらいなら、って、どういうこと?」
「欠航で今日飛べなくなったのなら、アンリでも学院に一言連絡をくれると思いますから。
ジョシュア、アンリからの連絡は来ていないんですよね?」
「来てないよ」
「そ、それって、アンリがまた何か事件に巻き込まれるかもってこと!?
アンリ、怪我とかしてないよね、大丈夫だよね!?」
サロンは静まる。ユウタの問いに答えられる者は居なかった。
「何なの、この悪趣味なサロン」
冷たいバニラボイスに、皆が振り向いた。
馬鹿騒ぎがやっと終わって、僕は自分の部屋に戻ってきた。
すぐベッドに倒れ込みたいくらい疲れてたのに、僕は机の前に立っていた。
タロットカードを手にして、机の左端から右端へ、カードを散らす。
カードに描かれた、尾をくわえた蛇で、机がいっぱいになる。
数回シャッフルして、カードを重ねて、整える。一番上のカードを裏返した。
地上には二人の子供。その足下には二つの石が落ちている。
子供達の頭上には光輝く恒星。正位置だ。カードナンバーは19。
「Le Soleil(ル・ソレイユ)太陽は全ての始まり」
正位置の意味は、成功、祝福、そして、誕生。
ノックの音がした。誰が訪ねてきたのか予想は付いた。
「開いてるよ」
ドアを開けた人物は、タロットを持っていた僕を見て、緋色の瞳を瞬かせた。
「あっ、すまない。占い中だった?」
「ただカードを眺めてただけ」
「……そう」
彼は後ろ手でドアを閉めた。
「ねえ、ジョシュア?」
僕は太陽のカードを机に戻す。
「どうして、君が居ながら、彼等を止められなかったの?」
僕はジョシュアに背を向けたまま、再びカードをシャッフルする。
「フランスから帰ってきたら、いきなりパーティだなんて。僕は長い移動で疲れてるのに」
「みんな、祝いたかったんだよ、アンリの誕生日を」
「勝手だね」
ジョシュアは苦笑する。
「どうせ、主犯はユウタでしょう?」
「よく解ったね?」
「あんなクレイジーなこと考えるのは彼くらいだから」
「ユウタに噛み付くなよ」
ジョシュアの足音が近付いてくる。ぼそりと彼は呟いた。
「ユウタのおかげで、俺は、やっと言わせて貰える」
「何を――」
数枚、机からカードが落ちた。
理解できないことが起こると、思考は一瞬止まるらしい。
僕の視界にジョシュアの両腕が映っていた。
背中があたたかい。
それでやっと、後ろから抱き留められているのだと解った。
「すまない。伝えるのが遅くなって」
見えないのに、彼がどんな顔をしているのか解る。
どうして彼は、こんなにお人好しなんだろう。
「ハッピーバースデー、アンリ」
fin
■クラウス
思えば、最初にその類の話を聞いたのは、先日、クラウスが学院の図書館に行った時だ。
借りていた世界史の参考文献を持って、返却コーナーに向かった。
すると、司書が話しているのが、クラウスの耳に入った。
「――ええ。また無くなりましたよ」
もう一人の司書が苦笑する。
「困ったものですね。この前、補充したばかりだと思っていたのに」
「本当に」
その時は、場所が図書館だったから、本が紛失した話かと思った。
校舎の廊下でも、クラウスは似たような話を聞いた。
「ほう。では、ボージェ教授も」
「ソクーロフ博士の『妖精』も、もう無くなりましたか」
先生方との擦れ違いざまには、そんな会話を聞いた。
更にはアイヴィーも何かを無くしていた。
それは、授業が終わり、クラウスがシュヌーシア寮に帰ってきた時。
「ドニー。アレ無くなっちゃったー」
寮のキッチンがある辺りで、アイヴィーは確かにこう言っていた。
「あれ? 居ないのー? ドーニー」
当時のクラウスは、知った顔を見て、ただ話しかけただけだった。
「ん? アイヴィーじゃないか」
「うひゃあ! ク、クラウス!?」
「何をそんなに驚いている。うちの寮のシェフに用事でもあるのか?」
「んー。ま、まあ、ちょっとー」
具体的なことは教えて貰えなかったのだ。
今思えば、この時のアイヴィーの様子は可笑しかった。
「えっとー。ドニ、今、居ないみたいだねー。お買い物でも行ってんのかなー?」
「シェフなら、うちの中等部を連れて、植物園に出かけている筈だ」
「植物園?」
「確か、スイートポテトの収穫だったか。
昨日、中等部の連中が『明日はお芋掘り』だと騒いでいたからな」
「へえ。楽しそ。じゃあ今日はドニには会えなそーだな」
「伝言があるなら、俺が引き受けるが?」
「いやー、クラウスには言えな……」
「ん?」
「あ、いやいや。別に大したことじゃないから、また出直すよ。じゃあな、クラウス」
そそくさとアイヴィーは立ち去った。
クラウスが生徒代表室に向かう途中、学生課を横切る時にも、三人の職員が話していた。
「もう無くなったよ」
「ああ。こっちも無い」
「気が付いたら無くなってるんですよね、いつも」
学生課でも何かが無くなっているのか。
同じ時期に、校内での紛失が頻発しているのだとしたら、
生徒代表として見過ごせない事態である。クラウスは、学生課の職員達に尋ねた。
「何か、学院の物が紛失したんですか?」
職員達は揃って慌て出した。
「こ、これはクラウス様!?」
「生徒代表に心配して頂くような話ではありませんので!」
「そうです! 私どものごく個人的な話ですので、クラウス様はどうかお気になさらず!」
「……そうですか。それなら、良いのですが」
あまりに必死な様子に気圧されて、それ以上は問い質せなかった。
「クーラーウース?」
夕食後のシュヌーシア寮サロン。
クラウスが考え事をしていると、テオの顔が目の前にあった。
しかも、クラウスの眉間を指で伸ばされている。クラウスは少し仰け反った。
「な、なんだ、どうした、テオ。そんなに顔を近付けるな、眉間の皺を伸ばすなっ」
テオが隣のソファに座る。
「どうした、は私の台詞だよ? 先程から何度呼んでも、ずっと難しい顔をして」
「そうだったのか? すまん」
「良いよ。それより、何をそんなに思い悩んでいたんだい?
私が聞いても良いことだったら、聞かせて欲しいな」
クラウスは組んでいた腕を解く。
「お前、何か、無くした物はあるか?」
「え? 子供の頃には持っていた奔放さ、とか?」
お前は今でも充分過ぎるほど奔放だ、とクラウスは呟く。
「俺が言っているのは、そういう心理的な話ではなく、物理的な話だ」
「物理的に無くした物かい? うーん。別に何も無くしてないと思うけれど。
クラウス、何か無くなってしまったのかい? 私も探すのを手伝うよ!」
「いや、俺じゃないんだ。実はな」
頭の中を整理する為にも、クラウスは先程考えていたことをテオに話してみることにした。
「ふむふむ。成程。つまり、こういうことだね?」
テオは、コーヒーカップをソーサーに戻す。
「ここ最近の間に、少なくとも、司書さんや学生課の職員さん、
ソクーロフ博士にボージェ教授、そしてアイヴィーまでもが、何かを無くしていると」
「そうだ」
「不思議なのは、何かを無くしたアイヴィーが、ドニを訪ねていることだね」
「ああ。ドニも関係者である可能性は高いな」
「それに、ボージェ教授が仰ってた『妖精』というキーワードも気になるねえ」
「そうだな」
「これは……事件だね! 事件だよ、ホームズ!」
テオに何かヘンなスイッチが入ってしまった。
「そうと決まれば、早速、明日の放課後から捜査開始だよクラウス・ホームズ!
捜査にはもちろん、このテオ・H・ワトスンがお供するからね!」
「落ち着け、テオ。まだ事件と決まったわけでは」
「あ、バトラー! 鹿撃ち帽とインバネス・コートって、学院の衣装部屋にあったかい?」
シュヌーシア寮の執事は微笑みながら答える。
「はい、ございますよ、テオ様」
「……ホームズの衣装を用意されても、俺は着ないからな?」
「そんな謙遜しなくとも、クラウスなら絶対に似合うよ! ふふ。楽しみだなあ!
あ、そうだ、バトラー! パイプと虫メガネもあったかなあ?」
完全に相談相手を間違えた、とクラウスは肩を落としていた。
就寝時間になり、クラウスは自室に戻った。
電気を消して、ベッドに入る。
暗い天井を見ながら、テオの言葉を思いだしていた。
――子供の頃には持っていた奔放さ、とか?――
目を閉じる前、クラウスはふと思う。
心理的な意味でなら、俺は何を無くしただろう。
「おはようございます、クラウス様。今、お帰りですか」
翌朝。日課の早朝ランニングから戻ってきた時、
月桂樹の森の傍で、ハンチング帽の男性に声をかけられた。森番のバロウズだ。
ランニングをしていると、しばしば会うので職員の中では親しい存在だった。
「ああ。おはよう、バロウズ」
森番は右手に月桂樹らしい枝を持っていた。
「毎朝、ランニング、お疲れ様です」
「いや。俺の場合は趣味のようなものだからな。
バロウズこそ、朝早くから剪定(せんてい)の仕事をしているじゃないか。
ここは日中は生徒が通る道だから、木の剪定は早朝に行っているんだろう?」
「ああ、これのことですか? でも、今日は剪定の日ではないんです。
バロウズは手にしている枝を見ながら、
「実は、シュヌーシアのシェフに、料理に使う月桂樹の葉を一枝分程、
選んでおいて欲しいと頼まれていたのものですから。
木々のチェックのついでに、良さそうな葉を選んでおりました。
確か、煮込みハンバーグに使う予定だと申しておりました」
つまり、今日もしくは近日中に煮込みハンバーグがシュヌーシア寮の食卓に上るということか。
しかし、料理に使う葉なら、一枝分は多過ぎるのではないか。
料理についてクラウスは詳しくなかったが、一枚や二枚で足りそうな気もした。
クラウスの疑問が顔に出ていたのか、それを読み取ったようにバロウズは微笑した。
「生徒のクラウス様にお教えして良いものか解りませんが」と前置きした上で、
「残りの葉は、薬酒に使うのですよ。ホワイトリカーに葉を漬け、
三か月程熟成させると、琥珀色の月桂樹酒になるのです」
「月桂樹酒……この葉は酒にもなるのか」
「はい。月桂樹酒は、疲労回復や精神安定に効果があると言われ、
もちろん料理の隠し味にも使われていますが、
香りの良さと仄かな苦味が、昔から学院の教職員には人気がありまして。
いつの頃からか、森番が選んだ月桂樹の葉で、シェフが月桂樹酒を作る伝統があるのです。
夏の葉で作った物を今月上旬に配布したのですが、早い方はそろそろ飲み切ってしまう頃です。
今度は冬に配布する為に、この、秋の葉で作るのですよ」
「ふうん」
「月桂樹酒は、クラウス様には、お気に召さない伝統でしたでしょうか?」
「ん?」
「クラウス様は今や生徒代表。聖アルフォンソ学院の教職員として不甲斐ない、
と私どもに処罰を与えることも可能ですよ」
「いや。そこまでしようとは思わん。俺は酒をやらないからよくは解らんが、
月桂樹酒は、昔から、大人達の楽しみになっているんだろう?」
「寛大なお言葉、ありがとうございます」
「俺が禁止したところで、どこかでこっそり伝統が受け継がれていきそうな気もするしな」
「おや。現実主義ですね、クラウス様」
「この前、世界史の講義でも学んだことだが、20世紀前半はアメリカを始め、
数か国で禁酒令が施行されたが、10年程で解除されている。
無謀な弾圧は民の反感を招き、犯罪が横行するだけだと歴史が物語っている」
「成程」
「しかし。先生方がそんなことをしていたとは、今まで知らなかっ……」
あっ、とクラウスは思う。
「バロウズ。今年、その月桂樹酒を作っているシェフは、うちのドニ・ドームシェフか?」
「え? ええ。そうですが?」
「それから、教職員に人気と言ったな。その酒は、図書館の司書や学生課の職員にも、
ソクーロフ博士やボージェ教授、それからアイヴィーにも渡している物なのか?」
「はい、もちろんです。『妖精の涙』は、ご希望の方には配られる物ですから」
「えっ? 妖精? 今、妖精と言ったか?」
「あ、はい。月桂樹酒のことは、この島では『妖精の涙』と呼ばれています。
ギリシャ神話で、月桂樹に身を変えた妖精ダフネになぞらえて、その名が付いたのでしょう」
そういうことか。大人達の会話に上っていた『無くなった物』は月桂樹酒のことだったようだ。
アイヴィーがドニを訪ねていたことにも、それなら理由が付く。
溜め息を吐いたクラウスを見て、バロウズは苦笑した。
「――ああ、つまらない話でお引き留めして申し訳ございません。
クラウス様はこれから朝食でしたね」
「いや。助かった。ありがとう、バロウズ」
「え? 私、クラウス様にお礼を言って頂けるような話をしましたか?」
「ああ」
クラウスは笑った。
「おかげで、今日の放課後に、コスチュームプレイをしないで済みそうだ」
fin
借りていた世界史の参考文献を持って、返却コーナーに向かった。
すると、司書が話しているのが、クラウスの耳に入った。
「――ええ。また無くなりましたよ」
もう一人の司書が苦笑する。
「困ったものですね。この前、補充したばかりだと思っていたのに」
「本当に」
その時は、場所が図書館だったから、本が紛失した話かと思った。
校舎の廊下でも、クラウスは似たような話を聞いた。
「ほう。では、ボージェ教授も」
「ソクーロフ博士の『妖精』も、もう無くなりましたか」
先生方との擦れ違いざまには、そんな会話を聞いた。
更にはアイヴィーも何かを無くしていた。
それは、授業が終わり、クラウスがシュヌーシア寮に帰ってきた時。
「ドニー。アレ無くなっちゃったー」
寮のキッチンがある辺りで、アイヴィーは確かにこう言っていた。
「あれ? 居ないのー? ドーニー」
当時のクラウスは、知った顔を見て、ただ話しかけただけだった。
「ん? アイヴィーじゃないか」
「うひゃあ! ク、クラウス!?」
「何をそんなに驚いている。うちの寮のシェフに用事でもあるのか?」
「んー。ま、まあ、ちょっとー」
具体的なことは教えて貰えなかったのだ。
今思えば、この時のアイヴィーの様子は可笑しかった。
「えっとー。ドニ、今、居ないみたいだねー。お買い物でも行ってんのかなー?」
「シェフなら、うちの中等部を連れて、植物園に出かけている筈だ」
「植物園?」
「確か、スイートポテトの収穫だったか。
昨日、中等部の連中が『明日はお芋掘り』だと騒いでいたからな」
「へえ。楽しそ。じゃあ今日はドニには会えなそーだな」
「伝言があるなら、俺が引き受けるが?」
「いやー、クラウスには言えな……」
「ん?」
「あ、いやいや。別に大したことじゃないから、また出直すよ。じゃあな、クラウス」
そそくさとアイヴィーは立ち去った。
クラウスが生徒代表室に向かう途中、学生課を横切る時にも、三人の職員が話していた。
「もう無くなったよ」
「ああ。こっちも無い」
「気が付いたら無くなってるんですよね、いつも」
学生課でも何かが無くなっているのか。
同じ時期に、校内での紛失が頻発しているのだとしたら、
生徒代表として見過ごせない事態である。クラウスは、学生課の職員達に尋ねた。
「何か、学院の物が紛失したんですか?」
職員達は揃って慌て出した。
「こ、これはクラウス様!?」
「生徒代表に心配して頂くような話ではありませんので!」
「そうです! 私どものごく個人的な話ですので、クラウス様はどうかお気になさらず!」
「……そうですか。それなら、良いのですが」
あまりに必死な様子に気圧されて、それ以上は問い質せなかった。
「クーラーウース?」
夕食後のシュヌーシア寮サロン。
クラウスが考え事をしていると、テオの顔が目の前にあった。
しかも、クラウスの眉間を指で伸ばされている。クラウスは少し仰け反った。
「な、なんだ、どうした、テオ。そんなに顔を近付けるな、眉間の皺を伸ばすなっ」
テオが隣のソファに座る。
「どうした、は私の台詞だよ? 先程から何度呼んでも、ずっと難しい顔をして」
「そうだったのか? すまん」
「良いよ。それより、何をそんなに思い悩んでいたんだい?
私が聞いても良いことだったら、聞かせて欲しいな」
クラウスは組んでいた腕を解く。
「お前、何か、無くした物はあるか?」
「え? 子供の頃には持っていた奔放さ、とか?」
お前は今でも充分過ぎるほど奔放だ、とクラウスは呟く。
「俺が言っているのは、そういう心理的な話ではなく、物理的な話だ」
「物理的に無くした物かい? うーん。別に何も無くしてないと思うけれど。
クラウス、何か無くなってしまったのかい? 私も探すのを手伝うよ!」
「いや、俺じゃないんだ。実はな」
頭の中を整理する為にも、クラウスは先程考えていたことをテオに話してみることにした。
「ふむふむ。成程。つまり、こういうことだね?」
テオは、コーヒーカップをソーサーに戻す。
「ここ最近の間に、少なくとも、司書さんや学生課の職員さん、
ソクーロフ博士にボージェ教授、そしてアイヴィーまでもが、何かを無くしていると」
「そうだ」
「不思議なのは、何かを無くしたアイヴィーが、ドニを訪ねていることだね」
「ああ。ドニも関係者である可能性は高いな」
「それに、ボージェ教授が仰ってた『妖精』というキーワードも気になるねえ」
「そうだな」
「これは……事件だね! 事件だよ、ホームズ!」
テオに何かヘンなスイッチが入ってしまった。
「そうと決まれば、早速、明日の放課後から捜査開始だよクラウス・ホームズ!
捜査にはもちろん、このテオ・H・ワトスンがお供するからね!」
「落ち着け、テオ。まだ事件と決まったわけでは」
「あ、バトラー! 鹿撃ち帽とインバネス・コートって、学院の衣装部屋にあったかい?」
シュヌーシア寮の執事は微笑みながら答える。
「はい、ございますよ、テオ様」
「……ホームズの衣装を用意されても、俺は着ないからな?」
「そんな謙遜しなくとも、クラウスなら絶対に似合うよ! ふふ。楽しみだなあ!
あ、そうだ、バトラー! パイプと虫メガネもあったかなあ?」
完全に相談相手を間違えた、とクラウスは肩を落としていた。
就寝時間になり、クラウスは自室に戻った。
電気を消して、ベッドに入る。
暗い天井を見ながら、テオの言葉を思いだしていた。
――子供の頃には持っていた奔放さ、とか?――
目を閉じる前、クラウスはふと思う。
心理的な意味でなら、俺は何を無くしただろう。
「おはようございます、クラウス様。今、お帰りですか」
翌朝。日課の早朝ランニングから戻ってきた時、
月桂樹の森の傍で、ハンチング帽の男性に声をかけられた。森番のバロウズだ。
ランニングをしていると、しばしば会うので職員の中では親しい存在だった。
「ああ。おはよう、バロウズ」
森番は右手に月桂樹らしい枝を持っていた。
「毎朝、ランニング、お疲れ様です」
「いや。俺の場合は趣味のようなものだからな。
バロウズこそ、朝早くから剪定(せんてい)の仕事をしているじゃないか。
ここは日中は生徒が通る道だから、木の剪定は早朝に行っているんだろう?」
「ああ、これのことですか? でも、今日は剪定の日ではないんです。
バロウズは手にしている枝を見ながら、
「実は、シュヌーシアのシェフに、料理に使う月桂樹の葉を一枝分程、
選んでおいて欲しいと頼まれていたのものですから。
木々のチェックのついでに、良さそうな葉を選んでおりました。
確か、煮込みハンバーグに使う予定だと申しておりました」
つまり、今日もしくは近日中に煮込みハンバーグがシュヌーシア寮の食卓に上るということか。
しかし、料理に使う葉なら、一枝分は多過ぎるのではないか。
料理についてクラウスは詳しくなかったが、一枚や二枚で足りそうな気もした。
クラウスの疑問が顔に出ていたのか、それを読み取ったようにバロウズは微笑した。
「生徒のクラウス様にお教えして良いものか解りませんが」と前置きした上で、
「残りの葉は、薬酒に使うのですよ。ホワイトリカーに葉を漬け、
三か月程熟成させると、琥珀色の月桂樹酒になるのです」
「月桂樹酒……この葉は酒にもなるのか」
「はい。月桂樹酒は、疲労回復や精神安定に効果があると言われ、
もちろん料理の隠し味にも使われていますが、
香りの良さと仄かな苦味が、昔から学院の教職員には人気がありまして。
いつの頃からか、森番が選んだ月桂樹の葉で、シェフが月桂樹酒を作る伝統があるのです。
夏の葉で作った物を今月上旬に配布したのですが、早い方はそろそろ飲み切ってしまう頃です。
今度は冬に配布する為に、この、秋の葉で作るのですよ」
「ふうん」
「月桂樹酒は、クラウス様には、お気に召さない伝統でしたでしょうか?」
「ん?」
「クラウス様は今や生徒代表。聖アルフォンソ学院の教職員として不甲斐ない、
と私どもに処罰を与えることも可能ですよ」
「いや。そこまでしようとは思わん。俺は酒をやらないからよくは解らんが、
月桂樹酒は、昔から、大人達の楽しみになっているんだろう?」
「寛大なお言葉、ありがとうございます」
「俺が禁止したところで、どこかでこっそり伝統が受け継がれていきそうな気もするしな」
「おや。現実主義ですね、クラウス様」
「この前、世界史の講義でも学んだことだが、20世紀前半はアメリカを始め、
数か国で禁酒令が施行されたが、10年程で解除されている。
無謀な弾圧は民の反感を招き、犯罪が横行するだけだと歴史が物語っている」
「成程」
「しかし。先生方がそんなことをしていたとは、今まで知らなかっ……」
あっ、とクラウスは思う。
「バロウズ。今年、その月桂樹酒を作っているシェフは、うちのドニ・ドームシェフか?」
「え? ええ。そうですが?」
「それから、教職員に人気と言ったな。その酒は、図書館の司書や学生課の職員にも、
ソクーロフ博士やボージェ教授、それからアイヴィーにも渡している物なのか?」
「はい、もちろんです。『妖精の涙』は、ご希望の方には配られる物ですから」
「えっ? 妖精? 今、妖精と言ったか?」
「あ、はい。月桂樹酒のことは、この島では『妖精の涙』と呼ばれています。
ギリシャ神話で、月桂樹に身を変えた妖精ダフネになぞらえて、その名が付いたのでしょう」
そういうことか。大人達の会話に上っていた『無くなった物』は月桂樹酒のことだったようだ。
アイヴィーがドニを訪ねていたことにも、それなら理由が付く。
溜め息を吐いたクラウスを見て、バロウズは苦笑した。
「――ああ、つまらない話でお引き留めして申し訳ございません。
クラウス様はこれから朝食でしたね」
「いや。助かった。ありがとう、バロウズ」
「え? 私、クラウス様にお礼を言って頂けるような話をしましたか?」
「ああ」
クラウスは笑った。
「おかげで、今日の放課後に、コスチュームプレイをしないで済みそうだ」
fin
■クラウス
早朝のシュヌーシア寮。生徒達はまだ夢の中。
シンとした廊下を歩いている生徒が一人居た。
高等部三年で生徒代表のクラウスである。これから日課のランニングに出かけるのだ。
寮のロビーまで来ると、ソファに座っている生徒が居た。
「おはよう、クラウス」
高等部二年のテオだ。パジャマ姿である。
「今朝も行くのかい? 早朝ランニング」
「ああ。ところで、テオ。お前はどうしてこんな時間に起きている?」
「今日は早くに目が覚めたから、貴方のランニングウエア姿を愛でてから、
もう一眠りしようと思ってね? ああ、今日はターコイズブルーのウエアなのだね。
凛々しいよ。夜の海に輝くマツサカウオみたい」
「俺のことは愛でなくていい」
「そう言えば、クラウスはいつも、どの辺りを走っているの?」
「幾つかルートはあるが。今日は学院の裏側にある丘の上まで行って帰ってくるコースを走る。
聖アルフォンソ島いちの朝陽が見られる丘なんだ」
「ほう。それは素晴らしい。良いコースを発見したねえ」
「いや、このコースは俺が見つけたものじゃない。貰い物だ」
「ランニングコースを貰ったのかい?
なんて素敵なプレゼントなのだろう。その話、もっと詳しく聞きたいな」
当時、クラウスは高等部一年。学院に入学した直後の話だ。
入学初日は色々あり、あっと言う間に一日終わった。
翌朝、クラウスは早朝に目覚めた。
祖国ドイツとの時差の影響で、少し眠たかったが、潔くベッドから出て身支度を始めた。
ドイツに居た時は、早朝ランニングをする習慣があった。
この島に来ても、可能であればランニングを続けたいと希望していた。
生徒手帳に記載されている校則は既に熟読済み。
夜間については、外出は原則禁止(届け出があれば外出可)という記載があったが、
早朝の外出については特に書かれていなかった。決まりはないということだろうか。
そこがはっきりしないと、早朝ランニングはできない。
昨夜のうちに確認しておけば良かったのだが、過ぎてしまったことは仕方がない。
「早朝ランニングをしてもいいかって? お前、それマジで言ってんの!?」
「素晴らしいことだね、クラウス! なんて健康的な爽やか青少年なのだろう!」
「義務でもないのに、朝っぱらから走りたいとか」
「シュヌーシアで、そんなこと言ってきたの、クラウスが初めてじゃないかなあ?」
「クラウスって、走るのそんな好きなの?」
「つーか、身体痛めつけるのがスキなタイプ?」
ここはシュヌーシア寮のダイニングルーム。
朝食時に、早速、寮生達に聞いてみたところ、
散々な感想(大袈裟な賞賛も含む)が寄せられた。
しかも、「早朝ランニングは可能か」という質問に対する回答がひとつもない。
「あの、それで、早朝の外出は可能なんでしょうか?」
寮生達は顔を見合わせていた。
「別にイイんじゃない?」
「だよな。ダメって生徒手帳に書いてないんなら」
「他の寮では、走ってる奴も居るんじゃなかったっけ?」
「あー、走りそうな奴居るよな、何人か」
「別に規則破りでも黙っててやるから、走ってこい、走ってこーい!」
この寮には正確な情報を持っている生徒が居ないらしい。
そこでクラウスは生徒代表のジブリールに確認することにした。
放課後、彼が住むアルファルド寮に行った。
寮内に入ったら、何故かオウムが飛んでいて驚いたが、
その後、生徒代表には会えて「もちろん構わない」と難なく許可を貰えた。
ジブリール曰く、これまでも早朝の走り込みをしていた生徒は居るそうだ。
生徒代表からも許可された。翌朝から早速始めよう。
明日着るランニングウエアを用意してから、眠りについた。
翌朝4時45分に起床した。その後の予定は、5時に寮を出発、6時までには寮に戻る。
シャワーを浴び、朝の読書をしてから朝食に出る予定だ。
ランニングの時間は通常、ストレッチを含めて30分程度が適切だが、
今日は第一回目のランニングだから、かなり余裕をもったタイムスケジュールにした。
走るコースは昨夜、島の地図を参考に大体決めたが、
島の散策を兼ねて、実際の景色を見ながら、コースを考えていきたいと思っていた。
机に広げた地図を確認しながら、ランニングウエアに着替える。
色は上下とも黒。ノースリーブのランニングシャツに、短めのランニングパンツ。
このシャツは、肩に白のラインが入っている程度のシンプルなデザインだが、
吸水性と通気性に優れ、プロのランナーも使うものだ。
ランニングウエアに袖を通すのは三日振りだが、随分着ていなかったように感じる。
予定通り5時に部屋を出た。
寮の廊下を歩いている時は、誰とも擦れ違わなかった。皆まだ眠っているのらしい。
外に出ると、まだぼんやり明るい程度だった。
真夏だが、早朝だけあって、まだ暑くはない。早朝だけの特別な心地良さだ。
寮の前でストレッチをしたあと、クラウスは走り出した。
正門まで続く一直線。日中であれば人が行き交う道だが、この時間に居るのはクラウスだけだ。
月桂樹のアーチになっている通路を真っ直ぐ駆けていく。
鳥の声と自分の足音だけがする。
そう思っていたら、左前方からバサリと何かが落ちた音がした。
月桂樹の葉が生い茂る枝。それが丸一本、木から落ちたのだ。
葉が枝ごと落ちるなど、自然な現象とは考え難い。
誰か居るのか。クラウスは木の上を見上げた。
葉に紛れて、人影があった。その人物はクラウスに気付き、木から飛び下りた。
ハンチング帽を押さえながら降ってきて、慣れた様子で着地した。
生徒ではない。無精髭を生やした大人の男。クラウスより十歳程上だろうか。
「高いところから失礼致しました。葉や枝でお怪我はなさいませんでしたか?」
「怪我はしていません」
「安心致しました。ああ、ご挨拶が遅れましたね」
ハンチング帽を取って、胸に置く。
「私は森番のバロウズと申します。月桂樹や他の動植物の飼育、管理などを
担当させて頂いております。お見知り置きを」
「自分は、先日入学した高等部一年のクラウス・フォン・モールです。
よろしくお願いします、バロウズさん」
「バロウズで構いませんよ。貴方はマージナルプリンスなのですから。
ところで、そのお召し物、クラウス様も早朝ランニングですか?」
「はい」
「そうでしたか。行ってらっしゃいませ、クラウス様」
バロウズに見送られ、月桂樹の並木道を走って行く。
正門に着いた。門番に朝の挨拶をするとともに、
生徒手帳を提示し、これから学院周辺を走ってくることを伝えた。
朝食までには戻ること、今後も早朝ランニングをする予定であることも説明した。
「畏まりました。ご丁寧にご説明頂きまして、ありがとうございます」
門番の警備スタッフは、敬礼して見送ってくれた。
クラウスは正門を出て、右の道を走った。
趣味がトライアスロンであるクラウスにとって、走ることは決して苦ではなかった。
きりりとした朝の空気は身が引き締まるし、走ることは気持ちが良い。
走っている間、余計なことは考えない。只ひたすらに前を向いて、腕を振り、足を踏み出す。
誰にも、何にも縛られない、自分だけの時間。走ることは、自由を感じる瞬間だった。
別れ道に差しかかった。どちらに行くんだっただろう。
立ち止まって、ウエストポーチから地図を取り出した。
「お前、イイ足してんなー。よく走り込んでる足だ」
前方から声をかけられ、顔を上げる。
ランニング姿の青年が居た。
短髪は限りなく白に近い金色。日々運動していることが解る肉体。
年はクラウスより上のようだ。島民だろうか。
青年は腰に手を置きながら、クラウスが持っている地図を覗き込んだ。
「ふうん。ランニングコースなら、それより良いコース、俺が教えてやるよ?」
「え? でも」
「大丈夫。朝食までには帰れる。お前、新しいマージナルプリンスだろ?」
「どうして」
「そんくらいの年で、地図持ってる奴なら、新入生に決まってるさ。
さあ、付いてきなっ。俺様の足に付いてこられれば、だけど?」
青年が走り出す。クラウスは地図をしまい、彼の背中を追いかけた。
彼に案内されたのは、学院の裏手に位置する小高い丘だった。
このコースなら、行き帰り含めておそらく30分程度。
上り下りがあり、適度なトレーニングにもなる。
何よりここ、丘の頂上まで来ると、広く景色が見渡せた。
アルフォンソ島の街並みが見え、その向こうには大きな海が広がっている。
ここまで案内してくれた青年は、草の上に足を投げ出して座っている。
彼の白銀色の髪が揺れる。気持ち良さそうに全身で風を浴びていた。
「海が見えるコースってイイだろ?」
クラウスは彼の傍らに立っていた。
「はい。良い景色ですね」
「だろだろっ? 俺が見つけたコースなんだぜ?」
どうだすごいだろう、といった様子で言われた。
「なあ、お前、明日も走るのか?」
「はい。雨でなければ」
「じゃあ、明日はもうちょい早く来てみな。ここから朝焼けが見られるんだ。
海から朝陽が昇って、海の上の雲が赤く光るとこなんて、ゲキアツなんだぜ!」
彼の言葉通りにクラウスは想像してみる。見てみたい、と思った。
「このコース、お前にくれてやるよ」
「え?」
「お前、イイ足してるしなっ」
左手で足をパンと叩かれた。
「感謝しろよ? 俺様だけのコースだったんだからな!」
「あ、ありがとうございます」
「イイってことよ。じゃあ俺、ちょっと寄り道して帰るから。
お前、ここからの帰り道は解るか? 解らねえなら付いていってやるけど?」
「大丈夫です。来た道を戻るだけですから解ります」
「へえ。記憶力、良いんだな、クラウスは」
「えっ。どうして、俺の名前」
「知ってるさ。お前がシュヌーシアに入った新入生だろ?
ジブリールに学院案内されてるの、チラッと見かけたしな」
「じゃあ、貴方も聖アルフォンソ学院の生徒だったんですか?」
「ああ。今日まで……いや、昨日までか。俺、今日卒業だから」
「今日、ですか?」
「最後に、島の景色を目に焼き付けておきたくってさ。もう二度と来れねえだろうし。
最後に挨拶しときたい人とか居たから、今日は特別早起きして、
島のあちこちを走り回ってたんだ。
そしたら、地図見ながら迷子になってる新入生と出くわしたってわけよ」
「あれは道を確認してただけで、別に迷子になってたわけでは」
「ハハハッ。そーゆーことにしといてやるよっ」
青年が立ち上がる。お尻に付いた砂を払う。
「先輩。名前を教えて下さい」
「名前? 今日卒業する奴のことなんて覚えなくていいさ。
これからは嫌でも俺の名前をなんかで見られるかもしんねーし」
彼はカラリと笑う。
「なーんてな! 名前も告げずに去っていくっての、一度やってみたかったんだよ!
んじゃ、これからの三年間、楽しめよ、クラウス!」
先輩は一人で走って行った。
追いかけたい気持ちはあったが、もうその背中を追ってはいけない気がして。
クラウスは学院へ帰る道に向かって走り出した。
寮に着いた。クラウスは真っ先に、ある寮生の部屋へ行った。
ドアをノックしても反応がない。起床時間にはまだ早いし、眠っているのだろう。
一瞬迷ったが、クラウスはドアを開けた。
ベッドの中にテオの寝顔があった。熟睡中のようだ。
「テオ。すまないが、起きてくれ、テオ」
「ん、んー」
「テオ」
「ん。えっ。クラウス? 私はまだ夢を見てるのかな」
「夢じゃない。朝早くから起こしてすまん。
だが、どうしても今すぐ聞きたいことがあるんだ」
「なんだい?」
「今日卒業する生徒が、誰か解るか?」
クラウスは正門前に駆け付けた。
門の前に、体格の良い後ろ姿が見える。
プラチナブロンドの短髪。背格好を見ても、間違いなく、今朝一緒に走った人だ。
彼の向こうには、タクシーとドライバーが見えた。
あの車に乗って空港に向かうのだろう。祖国へ帰還する為に。
「あれ? ひょっとして、クラウス?」
先輩がこちらに気が付いた。
「なんだよ。わざわざ見送りに来てくれたのか?」
クラウスは先輩の傍へ歩いていく。
「はい」
「今日初めて会ったばっかだっつーのに。律儀っつーか、バカ真面目な奴だなあ、お前は」
「貴方の名前、シュヌーシアの奴に聞きました」
本当は先月卒業する筈だったが、家庭の事情でひと月延期になった生徒が、一人居ると。
「ウーティス寮のエドガー・ラッセルさん、ですよね?」
「おいおい。違うだろ、クラウス」
「え?」
「マージナルプリンス同士は、学年に関係なく、ファーストネームで呼び合う決まりだろ?
俺は今日で卒業しちまうけど、卒業生同士だって、この習慣は永遠に守り続けるものなんだぜ?」
「そうでした。すみません、エドガー」
「ハハッ。やっぱお前、バカ真面目だなー」
「あの、エドガー。俺、貴方に一言、伝え忘れたことがあって、会いに来ました」
「ん? なんだよ?」
クラウスは頭を下げた。
「ご卒業、おめでとうございます」
エドガーは目を丸くしたあと、吹き出す。腹を抱えて笑う。
「ちょ、お前、それを言うだけの為に?」
「はい」
「ハハハッ! おっまえ、おもしれーなー!」
笑い過ぎて、涙が流れたのか、手の甲で涙を拭いている。
泣かれるまで笑われるとは思わなかったクラウスは戸惑った。
一頻り笑い終わると、彼は言った。
「俺、一か月、居残りしてたのは、お前に会う為だったのかもな」
エドガーは校舎のほうを見やる。月桂樹の並木道の向こうには、大きな学舎。
「卒業が一か月も延期になった時は、マジ意味解んねえって思った。
最後の最後までゴタゴタしやがるから、ヤンとは一緒に卒業できなかったし。
なんで俺だけと思っちまったけど、悪いことばっかりじゃなかったんだよな。
卒業を延期してなかったら、俺はお前と会えなかった」
クラウスはエドガーと目が合う。先輩の瞳は青く澄んでいた。
「今日で卒業するのが惜しくなってきたぜ。
お前とは30分くらいしか一緒に居られなかったのが残念だ」
エドガーはぼそりと呟いた。
「30分だけだったけど、これもシュヌーシアなのかもな」
それまでタクシーに凭れて、一服していたドライバーが時間を告げた。
「悪い、エドガー。空港に向かうには、そろそろギリの時間だ」
「ああ。待たせて悪かったな、アイヴィー。すぐ行く」
エドガーはクラウスに手を差し出した。
「わざわざ見送りに来てくれて、ありがとな、クラウス。
聖アルフォンソ学院は、世界一の学校だ。お前なら最高の三年間が過ごせるさ。
このエドガー・ラッセル様が保証してやるっ!」
後輩は、差し出された手を握る。先輩の手は大きく、がっしりとした手だった。
「ありがとうございます。卒業してもお元気で」
「お前も元気でな!」
エドガーがタクシーに乗り込む。
卒業生を乗せた車が見えなくなるまで、新入生は見送っていた。
翌朝。クラウスは前日より少し早く起床した。
海から昇る朝陽を見る為に。
「ああ、なんて清々しい! まさに朝の太陽のような思い出だね!」
シュヌーシア寮のロビー。
話を聞いたテオは感動しているようだ。
「そのランニングコースはエドガーから受け継いだ物だったのだね!
聖アルフォンソ島いちの朝陽をプレゼントされたと言ったほうが良いかなあ」
「あれ? テオとクラウスだ」
中等部一年のレオンが通りかかった。パジャマ姿で、まだ眠そうな顔だ。
天然パーマの上に寝癖が付いて、くちゃくちゃな髪をしている。
レオンは、ランニングウエア姿のクラウスとパジャマ姿のテオを見て、
「あんたら、そんなとこで何してんの? 朝メシ行かないの?」
クラウスは腕時計を見た。もう朝食の時間だ。
「走れなかった……」
愕然とするクラウスを見て、テオは楽しそうに笑っている。
「あはは、すまない、クラウス。私と話していたせいで、時間が過ぎてしまったね。
でも、いいんじゃないかい? 毎朝走っているのだから。たまにはお休みしても」
「良くない!」
fin
シンとした廊下を歩いている生徒が一人居た。
高等部三年で生徒代表のクラウスである。これから日課のランニングに出かけるのだ。
寮のロビーまで来ると、ソファに座っている生徒が居た。
「おはよう、クラウス」
高等部二年のテオだ。パジャマ姿である。
「今朝も行くのかい? 早朝ランニング」
「ああ。ところで、テオ。お前はどうしてこんな時間に起きている?」
「今日は早くに目が覚めたから、貴方のランニングウエア姿を愛でてから、
もう一眠りしようと思ってね? ああ、今日はターコイズブルーのウエアなのだね。
凛々しいよ。夜の海に輝くマツサカウオみたい」
「俺のことは愛でなくていい」
「そう言えば、クラウスはいつも、どの辺りを走っているの?」
「幾つかルートはあるが。今日は学院の裏側にある丘の上まで行って帰ってくるコースを走る。
聖アルフォンソ島いちの朝陽が見られる丘なんだ」
「ほう。それは素晴らしい。良いコースを発見したねえ」
「いや、このコースは俺が見つけたものじゃない。貰い物だ」
「ランニングコースを貰ったのかい?
なんて素敵なプレゼントなのだろう。その話、もっと詳しく聞きたいな」
当時、クラウスは高等部一年。学院に入学した直後の話だ。
入学初日は色々あり、あっと言う間に一日終わった。
翌朝、クラウスは早朝に目覚めた。
祖国ドイツとの時差の影響で、少し眠たかったが、潔くベッドから出て身支度を始めた。
ドイツに居た時は、早朝ランニングをする習慣があった。
この島に来ても、可能であればランニングを続けたいと希望していた。
生徒手帳に記載されている校則は既に熟読済み。
夜間については、外出は原則禁止(届け出があれば外出可)という記載があったが、
早朝の外出については特に書かれていなかった。決まりはないということだろうか。
そこがはっきりしないと、早朝ランニングはできない。
昨夜のうちに確認しておけば良かったのだが、過ぎてしまったことは仕方がない。
「早朝ランニングをしてもいいかって? お前、それマジで言ってんの!?」
「素晴らしいことだね、クラウス! なんて健康的な爽やか青少年なのだろう!」
「義務でもないのに、朝っぱらから走りたいとか」
「シュヌーシアで、そんなこと言ってきたの、クラウスが初めてじゃないかなあ?」
「クラウスって、走るのそんな好きなの?」
「つーか、身体痛めつけるのがスキなタイプ?」
ここはシュヌーシア寮のダイニングルーム。
朝食時に、早速、寮生達に聞いてみたところ、
散々な感想(大袈裟な賞賛も含む)が寄せられた。
しかも、「早朝ランニングは可能か」という質問に対する回答がひとつもない。
「あの、それで、早朝の外出は可能なんでしょうか?」
寮生達は顔を見合わせていた。
「別にイイんじゃない?」
「だよな。ダメって生徒手帳に書いてないんなら」
「他の寮では、走ってる奴も居るんじゃなかったっけ?」
「あー、走りそうな奴居るよな、何人か」
「別に規則破りでも黙っててやるから、走ってこい、走ってこーい!」
この寮には正確な情報を持っている生徒が居ないらしい。
そこでクラウスは生徒代表のジブリールに確認することにした。
放課後、彼が住むアルファルド寮に行った。
寮内に入ったら、何故かオウムが飛んでいて驚いたが、
その後、生徒代表には会えて「もちろん構わない」と難なく許可を貰えた。
ジブリール曰く、これまでも早朝の走り込みをしていた生徒は居るそうだ。
生徒代表からも許可された。翌朝から早速始めよう。
明日着るランニングウエアを用意してから、眠りについた。
翌朝4時45分に起床した。その後の予定は、5時に寮を出発、6時までには寮に戻る。
シャワーを浴び、朝の読書をしてから朝食に出る予定だ。
ランニングの時間は通常、ストレッチを含めて30分程度が適切だが、
今日は第一回目のランニングだから、かなり余裕をもったタイムスケジュールにした。
走るコースは昨夜、島の地図を参考に大体決めたが、
島の散策を兼ねて、実際の景色を見ながら、コースを考えていきたいと思っていた。
机に広げた地図を確認しながら、ランニングウエアに着替える。
色は上下とも黒。ノースリーブのランニングシャツに、短めのランニングパンツ。
このシャツは、肩に白のラインが入っている程度のシンプルなデザインだが、
吸水性と通気性に優れ、プロのランナーも使うものだ。
ランニングウエアに袖を通すのは三日振りだが、随分着ていなかったように感じる。
予定通り5時に部屋を出た。
寮の廊下を歩いている時は、誰とも擦れ違わなかった。皆まだ眠っているのらしい。
外に出ると、まだぼんやり明るい程度だった。
真夏だが、早朝だけあって、まだ暑くはない。早朝だけの特別な心地良さだ。
寮の前でストレッチをしたあと、クラウスは走り出した。
正門まで続く一直線。日中であれば人が行き交う道だが、この時間に居るのはクラウスだけだ。
月桂樹のアーチになっている通路を真っ直ぐ駆けていく。
鳥の声と自分の足音だけがする。
そう思っていたら、左前方からバサリと何かが落ちた音がした。
月桂樹の葉が生い茂る枝。それが丸一本、木から落ちたのだ。
葉が枝ごと落ちるなど、自然な現象とは考え難い。
誰か居るのか。クラウスは木の上を見上げた。
葉に紛れて、人影があった。その人物はクラウスに気付き、木から飛び下りた。
ハンチング帽を押さえながら降ってきて、慣れた様子で着地した。
生徒ではない。無精髭を生やした大人の男。クラウスより十歳程上だろうか。
「高いところから失礼致しました。葉や枝でお怪我はなさいませんでしたか?」
「怪我はしていません」
「安心致しました。ああ、ご挨拶が遅れましたね」
ハンチング帽を取って、胸に置く。
「私は森番のバロウズと申します。月桂樹や他の動植物の飼育、管理などを
担当させて頂いております。お見知り置きを」
「自分は、先日入学した高等部一年のクラウス・フォン・モールです。
よろしくお願いします、バロウズさん」
「バロウズで構いませんよ。貴方はマージナルプリンスなのですから。
ところで、そのお召し物、クラウス様も早朝ランニングですか?」
「はい」
「そうでしたか。行ってらっしゃいませ、クラウス様」
バロウズに見送られ、月桂樹の並木道を走って行く。
正門に着いた。門番に朝の挨拶をするとともに、
生徒手帳を提示し、これから学院周辺を走ってくることを伝えた。
朝食までには戻ること、今後も早朝ランニングをする予定であることも説明した。
「畏まりました。ご丁寧にご説明頂きまして、ありがとうございます」
門番の警備スタッフは、敬礼して見送ってくれた。
クラウスは正門を出て、右の道を走った。
趣味がトライアスロンであるクラウスにとって、走ることは決して苦ではなかった。
きりりとした朝の空気は身が引き締まるし、走ることは気持ちが良い。
走っている間、余計なことは考えない。只ひたすらに前を向いて、腕を振り、足を踏み出す。
誰にも、何にも縛られない、自分だけの時間。走ることは、自由を感じる瞬間だった。
別れ道に差しかかった。どちらに行くんだっただろう。
立ち止まって、ウエストポーチから地図を取り出した。
「お前、イイ足してんなー。よく走り込んでる足だ」
前方から声をかけられ、顔を上げる。
ランニング姿の青年が居た。
短髪は限りなく白に近い金色。日々運動していることが解る肉体。
年はクラウスより上のようだ。島民だろうか。
青年は腰に手を置きながら、クラウスが持っている地図を覗き込んだ。
「ふうん。ランニングコースなら、それより良いコース、俺が教えてやるよ?」
「え? でも」
「大丈夫。朝食までには帰れる。お前、新しいマージナルプリンスだろ?」
「どうして」
「そんくらいの年で、地図持ってる奴なら、新入生に決まってるさ。
さあ、付いてきなっ。俺様の足に付いてこられれば、だけど?」
青年が走り出す。クラウスは地図をしまい、彼の背中を追いかけた。
彼に案内されたのは、学院の裏手に位置する小高い丘だった。
このコースなら、行き帰り含めておそらく30分程度。
上り下りがあり、適度なトレーニングにもなる。
何よりここ、丘の頂上まで来ると、広く景色が見渡せた。
アルフォンソ島の街並みが見え、その向こうには大きな海が広がっている。
ここまで案内してくれた青年は、草の上に足を投げ出して座っている。
彼の白銀色の髪が揺れる。気持ち良さそうに全身で風を浴びていた。
「海が見えるコースってイイだろ?」
クラウスは彼の傍らに立っていた。
「はい。良い景色ですね」
「だろだろっ? 俺が見つけたコースなんだぜ?」
どうだすごいだろう、といった様子で言われた。
「なあ、お前、明日も走るのか?」
「はい。雨でなければ」
「じゃあ、明日はもうちょい早く来てみな。ここから朝焼けが見られるんだ。
海から朝陽が昇って、海の上の雲が赤く光るとこなんて、ゲキアツなんだぜ!」
彼の言葉通りにクラウスは想像してみる。見てみたい、と思った。
「このコース、お前にくれてやるよ」
「え?」
「お前、イイ足してるしなっ」
左手で足をパンと叩かれた。
「感謝しろよ? 俺様だけのコースだったんだからな!」
「あ、ありがとうございます」
「イイってことよ。じゃあ俺、ちょっと寄り道して帰るから。
お前、ここからの帰り道は解るか? 解らねえなら付いていってやるけど?」
「大丈夫です。来た道を戻るだけですから解ります」
「へえ。記憶力、良いんだな、クラウスは」
「えっ。どうして、俺の名前」
「知ってるさ。お前がシュヌーシアに入った新入生だろ?
ジブリールに学院案内されてるの、チラッと見かけたしな」
「じゃあ、貴方も聖アルフォンソ学院の生徒だったんですか?」
「ああ。今日まで……いや、昨日までか。俺、今日卒業だから」
「今日、ですか?」
「最後に、島の景色を目に焼き付けておきたくってさ。もう二度と来れねえだろうし。
最後に挨拶しときたい人とか居たから、今日は特別早起きして、
島のあちこちを走り回ってたんだ。
そしたら、地図見ながら迷子になってる新入生と出くわしたってわけよ」
「あれは道を確認してただけで、別に迷子になってたわけでは」
「ハハハッ。そーゆーことにしといてやるよっ」
青年が立ち上がる。お尻に付いた砂を払う。
「先輩。名前を教えて下さい」
「名前? 今日卒業する奴のことなんて覚えなくていいさ。
これからは嫌でも俺の名前をなんかで見られるかもしんねーし」
彼はカラリと笑う。
「なーんてな! 名前も告げずに去っていくっての、一度やってみたかったんだよ!
んじゃ、これからの三年間、楽しめよ、クラウス!」
先輩は一人で走って行った。
追いかけたい気持ちはあったが、もうその背中を追ってはいけない気がして。
クラウスは学院へ帰る道に向かって走り出した。
寮に着いた。クラウスは真っ先に、ある寮生の部屋へ行った。
ドアをノックしても反応がない。起床時間にはまだ早いし、眠っているのだろう。
一瞬迷ったが、クラウスはドアを開けた。
ベッドの中にテオの寝顔があった。熟睡中のようだ。
「テオ。すまないが、起きてくれ、テオ」
「ん、んー」
「テオ」
「ん。えっ。クラウス? 私はまだ夢を見てるのかな」
「夢じゃない。朝早くから起こしてすまん。
だが、どうしても今すぐ聞きたいことがあるんだ」
「なんだい?」
「今日卒業する生徒が、誰か解るか?」
クラウスは正門前に駆け付けた。
門の前に、体格の良い後ろ姿が見える。
プラチナブロンドの短髪。背格好を見ても、間違いなく、今朝一緒に走った人だ。
彼の向こうには、タクシーとドライバーが見えた。
あの車に乗って空港に向かうのだろう。祖国へ帰還する為に。
「あれ? ひょっとして、クラウス?」
先輩がこちらに気が付いた。
「なんだよ。わざわざ見送りに来てくれたのか?」
クラウスは先輩の傍へ歩いていく。
「はい」
「今日初めて会ったばっかだっつーのに。律儀っつーか、バカ真面目な奴だなあ、お前は」
「貴方の名前、シュヌーシアの奴に聞きました」
本当は先月卒業する筈だったが、家庭の事情でひと月延期になった生徒が、一人居ると。
「ウーティス寮のエドガー・ラッセルさん、ですよね?」
「おいおい。違うだろ、クラウス」
「え?」
「マージナルプリンス同士は、学年に関係なく、ファーストネームで呼び合う決まりだろ?
俺は今日で卒業しちまうけど、卒業生同士だって、この習慣は永遠に守り続けるものなんだぜ?」
「そうでした。すみません、エドガー」
「ハハッ。やっぱお前、バカ真面目だなー」
「あの、エドガー。俺、貴方に一言、伝え忘れたことがあって、会いに来ました」
「ん? なんだよ?」
クラウスは頭を下げた。
「ご卒業、おめでとうございます」
エドガーは目を丸くしたあと、吹き出す。腹を抱えて笑う。
「ちょ、お前、それを言うだけの為に?」
「はい」
「ハハハッ! おっまえ、おもしれーなー!」
笑い過ぎて、涙が流れたのか、手の甲で涙を拭いている。
泣かれるまで笑われるとは思わなかったクラウスは戸惑った。
一頻り笑い終わると、彼は言った。
「俺、一か月、居残りしてたのは、お前に会う為だったのかもな」
エドガーは校舎のほうを見やる。月桂樹の並木道の向こうには、大きな学舎。
「卒業が一か月も延期になった時は、マジ意味解んねえって思った。
最後の最後までゴタゴタしやがるから、ヤンとは一緒に卒業できなかったし。
なんで俺だけと思っちまったけど、悪いことばっかりじゃなかったんだよな。
卒業を延期してなかったら、俺はお前と会えなかった」
クラウスはエドガーと目が合う。先輩の瞳は青く澄んでいた。
「今日で卒業するのが惜しくなってきたぜ。
お前とは30分くらいしか一緒に居られなかったのが残念だ」
エドガーはぼそりと呟いた。
「30分だけだったけど、これもシュヌーシアなのかもな」
それまでタクシーに凭れて、一服していたドライバーが時間を告げた。
「悪い、エドガー。空港に向かうには、そろそろギリの時間だ」
「ああ。待たせて悪かったな、アイヴィー。すぐ行く」
エドガーはクラウスに手を差し出した。
「わざわざ見送りに来てくれて、ありがとな、クラウス。
聖アルフォンソ学院は、世界一の学校だ。お前なら最高の三年間が過ごせるさ。
このエドガー・ラッセル様が保証してやるっ!」
後輩は、差し出された手を握る。先輩の手は大きく、がっしりとした手だった。
「ありがとうございます。卒業してもお元気で」
「お前も元気でな!」
エドガーがタクシーに乗り込む。
卒業生を乗せた車が見えなくなるまで、新入生は見送っていた。
翌朝。クラウスは前日より少し早く起床した。
海から昇る朝陽を見る為に。
「ああ、なんて清々しい! まさに朝の太陽のような思い出だね!」
シュヌーシア寮のロビー。
話を聞いたテオは感動しているようだ。
「そのランニングコースはエドガーから受け継いだ物だったのだね!
聖アルフォンソ島いちの朝陽をプレゼントされたと言ったほうが良いかなあ」
「あれ? テオとクラウスだ」
中等部一年のレオンが通りかかった。パジャマ姿で、まだ眠そうな顔だ。
天然パーマの上に寝癖が付いて、くちゃくちゃな髪をしている。
レオンは、ランニングウエア姿のクラウスとパジャマ姿のテオを見て、
「あんたら、そんなとこで何してんの? 朝メシ行かないの?」
クラウスは腕時計を見た。もう朝食の時間だ。
「走れなかった……」
愕然とするクラウスを見て、テオは楽しそうに笑っている。
「あはは、すまない、クラウス。私と話していたせいで、時間が過ぎてしまったね。
でも、いいんじゃないかい? 毎朝走っているのだから。たまにはお休みしても」
「良くない!」
fin
■アイヴィー
■マジプラス@アイヴィー 結婚前
■マジプラス@アイヴィー 結婚前
丸皿には、焼きマシュルームがお花のように並んでる。
キノコの笠に詰まってるのは、カリカリになった生ハム。
それを木製のピンで刺して口に運ぶと、ジューシーな肉汁が口の中に広がる。
これがビールに合わないわけがないでしょ。
ハフハフしながら食べるのが旨い。熱過ぎて、たまにヤケドするけど。
「こら、アイヴィー!」
仕事帰り、スペインバルでマッシュルームの生ハム詰めを食べてたら、
後ろから頭を、はたかれた。ちょっと痛い。頭を押さえて振り向く。
そこに居たのは、褐色の肌をしたおばちゃんだった。
空港近くにあるスタンドの女主人であり、
島で一番古いバンド『ロシニョール』のメインボーカルでもある、シニョーラ・マルタだ。
ズンズンと、ダイナマイトなボディが俺に迫ってくる。地声も大きい。
「聞いたよ? アイヴィー、結婚するんだって!?」
マルタの口から『結婚』という言葉が出た。
この人に言わせてはいけない言葉を、言わせてしまったような気持ちになる。
「あ、う、うん。参ったな。シニョーラも知ってるのか。誰から聞いたの?」
「みんなからさ。もう島中の噂だよ! マージナルプリンスのお姉さんを射止めたんだろう?」
「うん、実はそうなんだ」
「器用な男だねえ。でも、なんであたしに一早く教えてくれないんだい?
そんなハッピーなニュースなら、あんたの口から直接聞きたかったよ」
「ゴメン、ゴメン。でも、式もまだ先だしさ。もう少し後になってから言おうと思ってたんだよ」
後半はウソだ。必要各所には既に結婚することを報告済みだし、酔っぱらって、口を滑らせたことも何回かある。
マルタには、俺が島に来たばかりの時から、何かと世話になってきたことを考えれば、
当然、一言報告すべき相手なのは、自分でも解ってた。
だけど、マルタには「俺、結婚するんだ」の一言が今まで言い出せなかった。
マルタには、かつてマージナルプリンスと恋に落ちたという噂がある。
そのプリンスが島に帰ってくるのを信じ、今も待ち続けている。
そうでなければ、毎朝、空港傍のスタンドに立っている理由が考えられない、という話だ。
もし、噂が事実なら、俺の幸せを報告するのは、相手のことを考えてない自慢みたいで嫌だし。
マルタが相手だと、母親に結婚を伝えるような気恥ずかしさを感じるからかもしれない。
「あ、イイコト思い付いたよ!」
褐色の唇から、白い歯が見える。
「お嫁さんと一緒に、あたし達のライブに来な。祝いに、シニョーラ・マルタが一曲歌ってやるからさ?」
「そ、そんなことして貰わなくても。てゆうか、ちょっとハズカシイし」
「なーに言ってんだい! 息子のように可愛がってやったのに、祝わせてもくれないのかい?
あたしゃ、そんなに薄情な男に育てた覚えはないよ?」
育てて貰った覚えはないけど。いや、この島では、育てて貰ったようなモンかもしれない。
ポンと肩に手を置かれた。
「おめでとさん、幸せにね」
「……う、うん。アリガト」
なんだか、すごく照れた。
「ハハハッ! 赤くなっちゃってカワイイねえ。トマトみたいだよ?」
いつもと同じように、マルタは豪快に笑ってた。
「おーい、マルター!」
ステージ脇から声がかかる。
「そろそろリハ始めるぞー」
おひげのおじさんが手を振っていた。マルタのバンドメンバーだ。
「若い男がいいのは解るけどさー。俺達のこと忘れるなよー!」
マルタは男勝りに笑う。
「バカだねえ。アイヴィーとは遊びだよー!」
なんでだろう。そう言われると、なんか少しヘコむ。
「ハハハッ、落ち込むんじゃないよ、アイヴィー」
パーンと背中を叩かれた。やっぱり、ちょっと痛い。
「今度はお嫁さんに会わせとくれよー」と言いながら、マルタはステージに向かった。
頼りがいのある背中を見送りながら、俺はビアジョッキを傾けた。
俺が結婚すること、マルタには言っちゃいけない気がしてた。
マルタはいつもと変わらない笑顔で、喜んでくれたけど、ホントは心のやらかいとこを傷付けたかもしれない。
でも、マルタに「おめでとう」と言って貰えたのは、じんわり嬉しかった。
少し温くなったビールが喉を流れていく。
皿に料理が残ってた。
熱々が美味しい焼きマッシュルーム。ピンで刺して口に放る。
ありゃ、もう冷めてるや。
fin
キノコの笠に詰まってるのは、カリカリになった生ハム。
それを木製のピンで刺して口に運ぶと、ジューシーな肉汁が口の中に広がる。
これがビールに合わないわけがないでしょ。
ハフハフしながら食べるのが旨い。熱過ぎて、たまにヤケドするけど。
「こら、アイヴィー!」
仕事帰り、スペインバルでマッシュルームの生ハム詰めを食べてたら、
後ろから頭を、はたかれた。ちょっと痛い。頭を押さえて振り向く。
そこに居たのは、褐色の肌をしたおばちゃんだった。
空港近くにあるスタンドの女主人であり、
島で一番古いバンド『ロシニョール』のメインボーカルでもある、シニョーラ・マルタだ。
ズンズンと、ダイナマイトなボディが俺に迫ってくる。地声も大きい。
「聞いたよ? アイヴィー、結婚するんだって!?」
マルタの口から『結婚』という言葉が出た。
この人に言わせてはいけない言葉を、言わせてしまったような気持ちになる。
「あ、う、うん。参ったな。シニョーラも知ってるのか。誰から聞いたの?」
「みんなからさ。もう島中の噂だよ! マージナルプリンスのお姉さんを射止めたんだろう?」
「うん、実はそうなんだ」
「器用な男だねえ。でも、なんであたしに一早く教えてくれないんだい?
そんなハッピーなニュースなら、あんたの口から直接聞きたかったよ」
「ゴメン、ゴメン。でも、式もまだ先だしさ。もう少し後になってから言おうと思ってたんだよ」
後半はウソだ。必要各所には既に結婚することを報告済みだし、酔っぱらって、口を滑らせたことも何回かある。
マルタには、俺が島に来たばかりの時から、何かと世話になってきたことを考えれば、
当然、一言報告すべき相手なのは、自分でも解ってた。
だけど、マルタには「俺、結婚するんだ」の一言が今まで言い出せなかった。
マルタには、かつてマージナルプリンスと恋に落ちたという噂がある。
そのプリンスが島に帰ってくるのを信じ、今も待ち続けている。
そうでなければ、毎朝、空港傍のスタンドに立っている理由が考えられない、という話だ。
もし、噂が事実なら、俺の幸せを報告するのは、相手のことを考えてない自慢みたいで嫌だし。
マルタが相手だと、母親に結婚を伝えるような気恥ずかしさを感じるからかもしれない。
「あ、イイコト思い付いたよ!」
褐色の唇から、白い歯が見える。
「お嫁さんと一緒に、あたし達のライブに来な。祝いに、シニョーラ・マルタが一曲歌ってやるからさ?」
「そ、そんなことして貰わなくても。てゆうか、ちょっとハズカシイし」
「なーに言ってんだい! 息子のように可愛がってやったのに、祝わせてもくれないのかい?
あたしゃ、そんなに薄情な男に育てた覚えはないよ?」
育てて貰った覚えはないけど。いや、この島では、育てて貰ったようなモンかもしれない。
ポンと肩に手を置かれた。
「おめでとさん、幸せにね」
「……う、うん。アリガト」
なんだか、すごく照れた。
「ハハハッ! 赤くなっちゃってカワイイねえ。トマトみたいだよ?」
いつもと同じように、マルタは豪快に笑ってた。
「おーい、マルター!」
ステージ脇から声がかかる。
「そろそろリハ始めるぞー」
おひげのおじさんが手を振っていた。マルタのバンドメンバーだ。
「若い男がいいのは解るけどさー。俺達のこと忘れるなよー!」
マルタは男勝りに笑う。
「バカだねえ。アイヴィーとは遊びだよー!」
なんでだろう。そう言われると、なんか少しヘコむ。
「ハハハッ、落ち込むんじゃないよ、アイヴィー」
パーンと背中を叩かれた。やっぱり、ちょっと痛い。
「今度はお嫁さんに会わせとくれよー」と言いながら、マルタはステージに向かった。
頼りがいのある背中を見送りながら、俺はビアジョッキを傾けた。
俺が結婚すること、マルタには言っちゃいけない気がしてた。
マルタはいつもと変わらない笑顔で、喜んでくれたけど、ホントは心のやらかいとこを傷付けたかもしれない。
でも、マルタに「おめでとう」と言って貰えたのは、じんわり嬉しかった。
少し温くなったビールが喉を流れていく。
皿に料理が残ってた。
熱々が美味しい焼きマッシュルーム。ピンで刺して口に放る。
ありゃ、もう冷めてるや。
fin
■アイヴィー×姉貴(新婚モード)+ソクーロフ博士 ※ドリーム機能版はこちら
ある日。##NAME1##は、仕事帰りの彼と旧市街で待ち合わせて、
外で夕食にしようという話になった。
彼とはもちろん、先日結婚したアイヴィーのことである。
一緒に暮らし始めてよく解ったが、警備責任者という彼の仕事は本当に大変なものだった。
勤務時間が終わっても、休日であっても、何かあれば容赦なく彼の携帯電話は鳴る。
必要な指示を出すだけで済むこともあるが、
「ちょっと顔出してくるわ」と仕事に向かうことも少なくなかった。
そんな中、昨日の夜に##NAME1##は言われたのだ。
「明日は早く上がれそうだから、夜、ちょこっとデートしよ?」と。
待ち合わせ場所は旧市街の広場。
##NAME1##は早めに来たのだが、それより早くアイヴィーは着いていた。
「随分早かったね」と言うと、アイヴィーは笑っていた。
「##NAME1##ちゃんに早く会いたいから、仕事放り出して来ちゃった。ひひひっ」
その後、アイヴィーと##NAME1##が気に入っているバーに行った。
ここは独身時代からアイヴィーが通っていたお店で、名前は『ネモフィラ』という。
今日はアイヴィーが車で来ているので、##NAME1##もお酒は飲まなかったが、
アルコールがなくても十分楽しい夜だった。
飲んでいないのに、少し気持ちがふわふわしている。
素敵なバーでアイヴィーと一緒に居られるからだろうか。
「あれ? ##NAME1##ちゃん、もしかして、ちょっと寒い?」
無意識に腕を抱いていたら、そう聞かれた。確かに肌寒い。
「そっか。ちょっと待ってて」
アイヴィーは片手を挙げて、ボーイを呼ぶ。
すると、リングのピアスをしている男の子が来た。
もう##NAME1##とも顔馴染みのボーイで、カールくんという子だ。
人懐っこく、お客(特に女の子)と話すのが大好きなタイプ。
空いたグラスを出しながら、アイヴィーはこう頼んだ。
「コレと同じのもう一杯、あとちょっと室温上げて貰ってもイイかな?」
ボーイはアイヴィーと##NAME1##を見比べて、##NAME1##のほうを見た。
「あっ、##NAME1##おねーさん、寒かった? ごめんね、すぐに温度上げてくるから」
たたたっと店の奥に走っていった。
「##NAME1##おねーさん?」
暫くすると、ボーイのカールくんが戻って来た。
「どう? 寒くなくなった?」
##NAME1##は頷き、お礼を言った。
「また寒かったり暑かったりしたら、すぐオレに言ってね?
あと、これはオレからおねーさんにプレゼント。カールくん特製スペシャルココア~!
あ、ちなみにマスターにはナイショの方向で♪」
バチンとウインクされたと思ったら、カールくんが顔が近づいてきた。
「オレのラブがいっぱい入ってるから、これで温まってね?」
「カ~~ル~~」
アイヴィーが唸る。カールくんはひょいと離れた。
「なんだよ、アイヴィー。オトナのくせにヨユーないなー。
結婚したのにそんなに嫉妬深いんじゃ、##NAME1##おねーさんに嫌われちゃうぞ~?
もっとドーンと構えてろよ、ドーンと。例えばほら『残念だったなあ、ボーズ。
この女が惚れてんのは俺だけなんだよ』くらい言えって」
「それがオトナのヨユーなのか?」
「じゃー、ごゆっくりー」
風のように去っていき、また他のテーブルへお喋りに行った。
翌朝。ベッドの中で##NAME1##は目を覚ました。
段々見慣れてきた風景。ここはアイヴィーと##NAME1##の自宅である。
博士に会う夢を見たような気がする。
どんな夢だったか思いだそうとすると、途端に光景が霧となってしまった。
しかし、アイヴィーと結婚したのに、他の男の人を夢に見るなんて。
とにかく起きあがろうとしたが、いつもより身体が重い気がした。
「あ、起きたんだね、##NAME1##ちゃん」
アイヴィーがやってきた。
「具合どう? あ、そうだ。熱は?」
ペタと額と額が触れ合う。
「うん、下がったね。さっすがソクちゃんのおクスリ」
##NAME1##が「博士?」と呟くと、アイヴィーは少し驚いた様子だった。
「##NAME1##ちゃん、覚えてないの? 昨日のこと」
あまりはっきり覚えていない。
アイヴィーの話によると、昨夜は大変だったらしい。
バーから家に帰ってきたが、夜中、##NAME1##が発熱しているのにアイヴィーが気付いた。
当時プチ・パニック状態に陥っていたアイヴィーは、真夜中にも関わらず、思わずソクーロフ博士に電話。
更には、夜の道を車で飛ばして、博士を家まで連れてきたというのだ。
結局、##NAME1##は軽い風邪だったようで、投薬して症状も落ち着いたので、
明け方、アイヴィーは博士を、教職員の宿舎『メルキュール館』まで送り届けた、らしい。
それほどのドタバタ劇があったというのに、##NAME1##の記憶には、何故か残っていない。
ただ、博士の夢を見たような見ていないような、といったおぼろげなものでしかなかった。
覚えていないのは、当時、熱があったからだろうか。
「##NAME1##ちゃん、食欲はある? なんか食べれそう?」
アイヴィーの顔を見て、##NAME1##はあれと思う。
今日だって彼は仕事の筈である。時計を見ると、とっくに出かけている筈の時間だった。
仕事はどうしたの、と聞いた。
「休んだよ。ダメモトでクロちゃんに『今日休んでもイイ?』って聞いてみたらイイって」
クロちゃんとは副司令官のラインハルト・クロイツさんのことだろう。
##NAME1##は一度だけ会ったことがある。
軍出身だけあって礼儀正しい人だったが、やや慇懃無礼なかんじでちょっと怖いくらいだった。
「休みたいって言ったら、クロちゃんにはイロイロ言われちゃったけどね」
大丈夫なの、と##NAME1##が聞く。
「ヘーキ、ヘーキ。俺一人居なくたって、クロちゃんが居れば問題ナシ」
##NAME1##が心配したのは、副司令官に言われたイロイロの部分だ。
そうじゃなくて、と言おうとしたが、咳が出て言葉にならなかった。
「ああ、##NAME1##ちゃん! まだ熱が下がっただけなんだから、今日は無理しちゃダメ!
ソクちゃんも安静にしてなさいって言ってたよ? あ、そだ。コレ」
一枚のメモを渡された。
「保健室の電話番号。ソクちゃんから預かったんだ。これからも何かあったら電話するようにって」
ボールペンで書かれた数字。おそらく博士の直筆だろう。
「あ、それからね、##NAME1##ちゃん。今日は俺が料理とか全部やるから」
いいの、と##NAME1##は聞いた。
「当たり前だよ。今日の##NAME1##ちゃんは、安静にして、早く元気になるのがお仕事なんだから」
彼は長く一人暮らしをしていたし、デッドプリンスのおかげで料理もできる。
家事全般を一人でこなせる旦那様は、こういう時とても心強い。
その朝、彼の言葉に甘えて、##NAME1##は、彼が作ってくれた朝食を食べた。
美味しい朝ご飯を食べたら元気が出てきた。安静にしている必要もなさそうなくらいだ。
「よしっ。じゃあ俺、ちょっと買い物してくるよ。##NAME1##ちゃん、なんか食べたいものある?
俺に作れるものなら何でも作るし、あ、フルーツとかのほうがいいのかな?」
普段から気を使ってくれる人だが、今日のアイヴィーは特別優しかった。
薬のおかげで、もう体調もほぼ回復しているし、そこまで大事に扱って貰わなくてもいい気がする。
けれど、アイヴィーはなんだかはりきっているようだし、
ここで「もう元気になったから」と言ってしまっては、仕事を休んでくれた意味がなくなってしまう。
今日は一日、彼に甘えさせて貰おう、と決めた。なんだか学校をズル休みしているような気分だが。
「じゃ、行ってくるね」
アイヴィーは買い物に出かけていった。
##NAME1##の手には一枚のメモ。
この番号にかければ、博士と話せる。これからいつでも。今すぐでも。
アイヴィーが帰ってくるまで、どんなに早くても30分はかかる。
博士に昨日のお礼を言わなくちゃ。そう思い、##NAME1##は携帯電話を手にした。
番号を押しながら、少し緊張しているのに気付いた。
最後の数字まで押したあと、携帯電話を耳にあてる。
コール音に耳を澄ませ、相手が出るのを待つ。
「ソクーロフです」
博士の声だ。テレビ電話で話す時と違って、彼の低音がダイレクトに耳を刺激する。
一瞬遅れて、##NAME1##は名乗った。
「君か」
博士の声が少し優しくなったように聞こえた。
「早速電話してくれたんだね、ありがとう。
声は元気そうに聞こえるが、今日の体調はどうだい? そう。良かった」
##NAME1##は昨日のお礼を言った。
「こちらこそ、ありがとう。
元気になった君の声が聞けて、医師になって良かったと思えたよ。
――いや、すまない。ところで、アイヴィーは仕事に行ったのかな?
やはり休んだか。そうなると、君は彼が居ない間に、私に電話をかけてくれたんだね?」
##NAME1##は黙ってしまう。
「##NAME1##? どうして今、罪悪感を感じたんだい?」
言い当てられた。
「昨夜の礼と体調が回復したことを報告する為に電話してくれたんだろう?
君が気に病むようなことは何も無い筈。それとも、他に話したいことがあるのかな?」
##NAME1##は言葉が出てこない。
「私には守秘義務があるのを忘れたのかい?
君から聞いた話は、例え、君の夫であっても伝えないよ」
どうして自分は博士に電話をしているのだろう。
昨夜のお礼を言いたかったのは間違いない。だけど、本当にそれだけか。
「やあ。良いよ、そこに座りたまえ」
博士の声が若干明るめに変わった。
「生徒が来たから、すまないが、今日はこれで失礼させて頂いても良いかな?」
##NAME1##は少しほっとしつつ、はいと答えた。
「私は大抵ここに居るから、また私と話したくなったら、いつでも電話をかけておいで。
風邪は治りかけが大切だ。今日は多めの水分補給を心がけ、
夜は、なるべく早く休むように。いいね?」
解りました、と言って電話を切った。
携帯電話をテーブルの上に置くと、大きな溜め息が出た。心臓の音が早い。
とりあえず、忘れないうちに、保健室の電話番号をアドレス登録しておこうと思った。
再び携帯電話を手にする。発信履歴から今かけた電話番号を選択する。
あとは『登録』のボタンを押すだけなのに、そこで、##NAME1##の手が止まった。
この番号を携帯電話に覚えさせて本当に良いのだろうか、という考えが浮かんだのだ。
頭の中で、先程聞いた博士の声が再生される。
――君が気に病むようなことは何も無い筈――
その通りだ。知り合いの医師に繋がる電話番号を登録することの何が悪いのか。
けれど、この些細な行動ひとつで、何かが狂い始める予感がするのだ。
携帯電話を握ったまま、どのくらいそうしていただろう。
タンタンタンと軽快なリズムで、螺旋階段を上がってくる音がした。
「##NAME1##ちゃん、ただいまー!」
アイヴィーの声が聞こえるのと同時に、##NAME1##は『登録』ボタンを押していた。
後日。##NAME1##が全快した頃に飲み会の開催が決まった。
メンバーは##NAME1##、アイヴィー、ソクーロフ博士の三人。
「##NAME1##、明日は来てくれるんだろう?」
はい、と答えた。
飲み会前日、##NAME1##は携帯電話で博士と話していた。
保健室の電話番号を知ってからというもの、断続的ながらも博士との電話は続いていた。
博士と電話したことは、アイヴィーには伝えなかった。いじけられるのが明白だからだ。
アイヴィーに知られたら、いい顔はされないと解っているのに。
あの低い声が聞きたいと思っている自分が居て、
何かと理由を付けては保健室に電話をしてしまう。
まるで、中毒性の高いクスリを欲するように、博士の声を求めてる。
いけないことだと知りながら、携帯電話を手にしてしまう。
「明日、久し振りに##NAME1##と会えるんだね。楽しみにしているよ」
明日、博士と会える。そう思うだけで胸が苦しかった。
「じゃ、カンパイしよ! せーの、カンパーイ!」
飲み会は旧市街のカフェバーが会場となった。
四人がけのテーブル席。##NAME1##から見て、隣がアイヴィー。向かいに博士が座っていた。
最初の10分くらいは、博士と目が合うと思わず逸らしていた##NAME1##だったが、この三人で飲むことは、とても楽しかった。
生徒達の話から始まり、新市街にできた新しい店の話、
和食や日本文化について、明日から使える心理学入門講座、
アルフォンソ島あるある、ソクーロフ博士のすべらない話など、話題は尽きなかった。
まるで学生時代からの友人同士で飲んでいるかのような飲み会だった。
「俺、ちょっとトイレ行ってくるねー」
アイヴィーが席を外し、##NAME1##は博士と二人きりになった。
博士はグラスや煙草に口付けるだけで、話しかけてこなかった。
二人の間を無言の時が流れる。##NAME1##は変に緊張してしまい、博士の顔を見上げることもできなかった。
テーブルの端にあるメニュー表を手に取ってみたりする。
##NAME1##の一挙一動を観察する視線を感じながらも、メニューを熟読するフリをしていた。
そんな演技をしていたせいか、クスリと笑われた。
「##NAME1##」
名前を呼ばれただけでビクリとした。
「アイヴィーが戻ってきたら、今宵はお開きにしよう?」
##NAME1##は少し拍子抜けだった。
「今日は##NAME1##が居るから、とても有意義な夜だったよ、ありがとう。
良ければ、また飲みに行かないかね? 今度は、私と二人で」
博士は微笑を湛え、「詳細については、また改めて誘うよ」
アイヴィーが帰ってきた。
「あれ? ##NAME1##ちゃん、どーしたの? 顔赤くして。酔っちゃった?
あっ! ソクちゃんが##NAME1##ちゃんに、なんかヘンなこと言ったんじゃないでしょーね?」
「まさか。お前の寝相について話していただけだ」
「ね、寝相って!?」
「アイヴィーは丸まって眠るクセがあるだろう? とな」
「ちょ、あんた、##NAME1##ちゃんの前で何言っちゃってんの!?
ご、誤解を招くよーなこと言うなって!」
「誤解? 保健室へ昼寝に来るのはお前だろう?」
「あ、なーんだ。そーゆーイミね」
「どういう意味だと思ったんだか。さあ、そろそろ引き上げるぞ」
##NAME1##が思っていたより、少し早めのお開きとなった。
店を出ると、二台のタクシーが待っていた。
博士が乗る車と、アイヴィーと##NAME1##を乗せる車だ。
「じゃー、ソクちゃん、またあしたー」
「ああ」
博士は背を向ける前に、##NAME1##に視線を送った。
暗に「また今度」と言うかのように。
##NAME1##はアイヴィーと同じ車に乗り込む。
旧市街を抜け、タクシーは海沿いの道を走っている。
後部座席に居るアイヴィーは。ゴキゲンで隣の##NAME1##に話しかける。
「今夜は楽しかったねー。また三人で飲みに行きたいなー」
##NAME1##は、そうだね、と相槌を打ちながら、アイヴィーが居ないほうの窓を見た。
暗い海の上には半月が浮かんでいた。
距離は遠くても、月は、ひっそりとタクシーを追い駆けてくる。
月は##NAME1##を追い越せない。けれど、##NAME1##を見逃すこともない。
##NAME1##のあとを追うように、欠けた月は付いてきた。
fin
外で夕食にしようという話になった。
彼とはもちろん、先日結婚したアイヴィーのことである。
一緒に暮らし始めてよく解ったが、警備責任者という彼の仕事は本当に大変なものだった。
勤務時間が終わっても、休日であっても、何かあれば容赦なく彼の携帯電話は鳴る。
必要な指示を出すだけで済むこともあるが、
「ちょっと顔出してくるわ」と仕事に向かうことも少なくなかった。
そんな中、昨日の夜に##NAME1##は言われたのだ。
「明日は早く上がれそうだから、夜、ちょこっとデートしよ?」と。
待ち合わせ場所は旧市街の広場。
##NAME1##は早めに来たのだが、それより早くアイヴィーは着いていた。
「随分早かったね」と言うと、アイヴィーは笑っていた。
「##NAME1##ちゃんに早く会いたいから、仕事放り出して来ちゃった。ひひひっ」
その後、アイヴィーと##NAME1##が気に入っているバーに行った。
ここは独身時代からアイヴィーが通っていたお店で、名前は『ネモフィラ』という。
今日はアイヴィーが車で来ているので、##NAME1##もお酒は飲まなかったが、
アルコールがなくても十分楽しい夜だった。
飲んでいないのに、少し気持ちがふわふわしている。
素敵なバーでアイヴィーと一緒に居られるからだろうか。
「あれ? ##NAME1##ちゃん、もしかして、ちょっと寒い?」
無意識に腕を抱いていたら、そう聞かれた。確かに肌寒い。
「そっか。ちょっと待ってて」
アイヴィーは片手を挙げて、ボーイを呼ぶ。
すると、リングのピアスをしている男の子が来た。
もう##NAME1##とも顔馴染みのボーイで、カールくんという子だ。
人懐っこく、お客(特に女の子)と話すのが大好きなタイプ。
空いたグラスを出しながら、アイヴィーはこう頼んだ。
「コレと同じのもう一杯、あとちょっと室温上げて貰ってもイイかな?」
ボーイはアイヴィーと##NAME1##を見比べて、##NAME1##のほうを見た。
「あっ、##NAME1##おねーさん、寒かった? ごめんね、すぐに温度上げてくるから」
たたたっと店の奥に走っていった。
「##NAME1##おねーさん?」
暫くすると、ボーイのカールくんが戻って来た。
「どう? 寒くなくなった?」
##NAME1##は頷き、お礼を言った。
「また寒かったり暑かったりしたら、すぐオレに言ってね?
あと、これはオレからおねーさんにプレゼント。カールくん特製スペシャルココア~!
あ、ちなみにマスターにはナイショの方向で♪」
バチンとウインクされたと思ったら、カールくんが顔が近づいてきた。
「オレのラブがいっぱい入ってるから、これで温まってね?」
「カ~~ル~~」
アイヴィーが唸る。カールくんはひょいと離れた。
「なんだよ、アイヴィー。オトナのくせにヨユーないなー。
結婚したのにそんなに嫉妬深いんじゃ、##NAME1##おねーさんに嫌われちゃうぞ~?
もっとドーンと構えてろよ、ドーンと。例えばほら『残念だったなあ、ボーズ。
この女が惚れてんのは俺だけなんだよ』くらい言えって」
「それがオトナのヨユーなのか?」
「じゃー、ごゆっくりー」
風のように去っていき、また他のテーブルへお喋りに行った。
翌朝。ベッドの中で##NAME1##は目を覚ました。
段々見慣れてきた風景。ここはアイヴィーと##NAME1##の自宅である。
博士に会う夢を見たような気がする。
どんな夢だったか思いだそうとすると、途端に光景が霧となってしまった。
しかし、アイヴィーと結婚したのに、他の男の人を夢に見るなんて。
とにかく起きあがろうとしたが、いつもより身体が重い気がした。
「あ、起きたんだね、##NAME1##ちゃん」
アイヴィーがやってきた。
「具合どう? あ、そうだ。熱は?」
ペタと額と額が触れ合う。
「うん、下がったね。さっすがソクちゃんのおクスリ」
##NAME1##が「博士?」と呟くと、アイヴィーは少し驚いた様子だった。
「##NAME1##ちゃん、覚えてないの? 昨日のこと」
あまりはっきり覚えていない。
アイヴィーの話によると、昨夜は大変だったらしい。
バーから家に帰ってきたが、夜中、##NAME1##が発熱しているのにアイヴィーが気付いた。
当時プチ・パニック状態に陥っていたアイヴィーは、真夜中にも関わらず、思わずソクーロフ博士に電話。
更には、夜の道を車で飛ばして、博士を家まで連れてきたというのだ。
結局、##NAME1##は軽い風邪だったようで、投薬して症状も落ち着いたので、
明け方、アイヴィーは博士を、教職員の宿舎『メルキュール館』まで送り届けた、らしい。
それほどのドタバタ劇があったというのに、##NAME1##の記憶には、何故か残っていない。
ただ、博士の夢を見たような見ていないような、といったおぼろげなものでしかなかった。
覚えていないのは、当時、熱があったからだろうか。
「##NAME1##ちゃん、食欲はある? なんか食べれそう?」
アイヴィーの顔を見て、##NAME1##はあれと思う。
今日だって彼は仕事の筈である。時計を見ると、とっくに出かけている筈の時間だった。
仕事はどうしたの、と聞いた。
「休んだよ。ダメモトでクロちゃんに『今日休んでもイイ?』って聞いてみたらイイって」
クロちゃんとは副司令官のラインハルト・クロイツさんのことだろう。
##NAME1##は一度だけ会ったことがある。
軍出身だけあって礼儀正しい人だったが、やや慇懃無礼なかんじでちょっと怖いくらいだった。
「休みたいって言ったら、クロちゃんにはイロイロ言われちゃったけどね」
大丈夫なの、と##NAME1##が聞く。
「ヘーキ、ヘーキ。俺一人居なくたって、クロちゃんが居れば問題ナシ」
##NAME1##が心配したのは、副司令官に言われたイロイロの部分だ。
そうじゃなくて、と言おうとしたが、咳が出て言葉にならなかった。
「ああ、##NAME1##ちゃん! まだ熱が下がっただけなんだから、今日は無理しちゃダメ!
ソクちゃんも安静にしてなさいって言ってたよ? あ、そだ。コレ」
一枚のメモを渡された。
「保健室の電話番号。ソクちゃんから預かったんだ。これからも何かあったら電話するようにって」
ボールペンで書かれた数字。おそらく博士の直筆だろう。
「あ、それからね、##NAME1##ちゃん。今日は俺が料理とか全部やるから」
いいの、と##NAME1##は聞いた。
「当たり前だよ。今日の##NAME1##ちゃんは、安静にして、早く元気になるのがお仕事なんだから」
彼は長く一人暮らしをしていたし、デッドプリンスのおかげで料理もできる。
家事全般を一人でこなせる旦那様は、こういう時とても心強い。
その朝、彼の言葉に甘えて、##NAME1##は、彼が作ってくれた朝食を食べた。
美味しい朝ご飯を食べたら元気が出てきた。安静にしている必要もなさそうなくらいだ。
「よしっ。じゃあ俺、ちょっと買い物してくるよ。##NAME1##ちゃん、なんか食べたいものある?
俺に作れるものなら何でも作るし、あ、フルーツとかのほうがいいのかな?」
普段から気を使ってくれる人だが、今日のアイヴィーは特別優しかった。
薬のおかげで、もう体調もほぼ回復しているし、そこまで大事に扱って貰わなくてもいい気がする。
けれど、アイヴィーはなんだかはりきっているようだし、
ここで「もう元気になったから」と言ってしまっては、仕事を休んでくれた意味がなくなってしまう。
今日は一日、彼に甘えさせて貰おう、と決めた。なんだか学校をズル休みしているような気分だが。
「じゃ、行ってくるね」
アイヴィーは買い物に出かけていった。
##NAME1##の手には一枚のメモ。
この番号にかければ、博士と話せる。これからいつでも。今すぐでも。
アイヴィーが帰ってくるまで、どんなに早くても30分はかかる。
博士に昨日のお礼を言わなくちゃ。そう思い、##NAME1##は携帯電話を手にした。
番号を押しながら、少し緊張しているのに気付いた。
最後の数字まで押したあと、携帯電話を耳にあてる。
コール音に耳を澄ませ、相手が出るのを待つ。
「ソクーロフです」
博士の声だ。テレビ電話で話す時と違って、彼の低音がダイレクトに耳を刺激する。
一瞬遅れて、##NAME1##は名乗った。
「君か」
博士の声が少し優しくなったように聞こえた。
「早速電話してくれたんだね、ありがとう。
声は元気そうに聞こえるが、今日の体調はどうだい? そう。良かった」
##NAME1##は昨日のお礼を言った。
「こちらこそ、ありがとう。
元気になった君の声が聞けて、医師になって良かったと思えたよ。
――いや、すまない。ところで、アイヴィーは仕事に行ったのかな?
やはり休んだか。そうなると、君は彼が居ない間に、私に電話をかけてくれたんだね?」
##NAME1##は黙ってしまう。
「##NAME1##? どうして今、罪悪感を感じたんだい?」
言い当てられた。
「昨夜の礼と体調が回復したことを報告する為に電話してくれたんだろう?
君が気に病むようなことは何も無い筈。それとも、他に話したいことがあるのかな?」
##NAME1##は言葉が出てこない。
「私には守秘義務があるのを忘れたのかい?
君から聞いた話は、例え、君の夫であっても伝えないよ」
どうして自分は博士に電話をしているのだろう。
昨夜のお礼を言いたかったのは間違いない。だけど、本当にそれだけか。
「やあ。良いよ、そこに座りたまえ」
博士の声が若干明るめに変わった。
「生徒が来たから、すまないが、今日はこれで失礼させて頂いても良いかな?」
##NAME1##は少しほっとしつつ、はいと答えた。
「私は大抵ここに居るから、また私と話したくなったら、いつでも電話をかけておいで。
風邪は治りかけが大切だ。今日は多めの水分補給を心がけ、
夜は、なるべく早く休むように。いいね?」
解りました、と言って電話を切った。
携帯電話をテーブルの上に置くと、大きな溜め息が出た。心臓の音が早い。
とりあえず、忘れないうちに、保健室の電話番号をアドレス登録しておこうと思った。
再び携帯電話を手にする。発信履歴から今かけた電話番号を選択する。
あとは『登録』のボタンを押すだけなのに、そこで、##NAME1##の手が止まった。
この番号を携帯電話に覚えさせて本当に良いのだろうか、という考えが浮かんだのだ。
頭の中で、先程聞いた博士の声が再生される。
――君が気に病むようなことは何も無い筈――
その通りだ。知り合いの医師に繋がる電話番号を登録することの何が悪いのか。
けれど、この些細な行動ひとつで、何かが狂い始める予感がするのだ。
携帯電話を握ったまま、どのくらいそうしていただろう。
タンタンタンと軽快なリズムで、螺旋階段を上がってくる音がした。
「##NAME1##ちゃん、ただいまー!」
アイヴィーの声が聞こえるのと同時に、##NAME1##は『登録』ボタンを押していた。
後日。##NAME1##が全快した頃に飲み会の開催が決まった。
メンバーは##NAME1##、アイヴィー、ソクーロフ博士の三人。
「##NAME1##、明日は来てくれるんだろう?」
はい、と答えた。
飲み会前日、##NAME1##は携帯電話で博士と話していた。
保健室の電話番号を知ってからというもの、断続的ながらも博士との電話は続いていた。
博士と電話したことは、アイヴィーには伝えなかった。いじけられるのが明白だからだ。
アイヴィーに知られたら、いい顔はされないと解っているのに。
あの低い声が聞きたいと思っている自分が居て、
何かと理由を付けては保健室に電話をしてしまう。
まるで、中毒性の高いクスリを欲するように、博士の声を求めてる。
いけないことだと知りながら、携帯電話を手にしてしまう。
「明日、久し振りに##NAME1##と会えるんだね。楽しみにしているよ」
明日、博士と会える。そう思うだけで胸が苦しかった。
「じゃ、カンパイしよ! せーの、カンパーイ!」
飲み会は旧市街のカフェバーが会場となった。
四人がけのテーブル席。##NAME1##から見て、隣がアイヴィー。向かいに博士が座っていた。
最初の10分くらいは、博士と目が合うと思わず逸らしていた##NAME1##だったが、この三人で飲むことは、とても楽しかった。
生徒達の話から始まり、新市街にできた新しい店の話、
和食や日本文化について、明日から使える心理学入門講座、
アルフォンソ島あるある、ソクーロフ博士のすべらない話など、話題は尽きなかった。
まるで学生時代からの友人同士で飲んでいるかのような飲み会だった。
「俺、ちょっとトイレ行ってくるねー」
アイヴィーが席を外し、##NAME1##は博士と二人きりになった。
博士はグラスや煙草に口付けるだけで、話しかけてこなかった。
二人の間を無言の時が流れる。##NAME1##は変に緊張してしまい、博士の顔を見上げることもできなかった。
テーブルの端にあるメニュー表を手に取ってみたりする。
##NAME1##の一挙一動を観察する視線を感じながらも、メニューを熟読するフリをしていた。
そんな演技をしていたせいか、クスリと笑われた。
「##NAME1##」
名前を呼ばれただけでビクリとした。
「アイヴィーが戻ってきたら、今宵はお開きにしよう?」
##NAME1##は少し拍子抜けだった。
「今日は##NAME1##が居るから、とても有意義な夜だったよ、ありがとう。
良ければ、また飲みに行かないかね? 今度は、私と二人で」
博士は微笑を湛え、「詳細については、また改めて誘うよ」
アイヴィーが帰ってきた。
「あれ? ##NAME1##ちゃん、どーしたの? 顔赤くして。酔っちゃった?
あっ! ソクちゃんが##NAME1##ちゃんに、なんかヘンなこと言ったんじゃないでしょーね?」
「まさか。お前の寝相について話していただけだ」
「ね、寝相って!?」
「アイヴィーは丸まって眠るクセがあるだろう? とな」
「ちょ、あんた、##NAME1##ちゃんの前で何言っちゃってんの!?
ご、誤解を招くよーなこと言うなって!」
「誤解? 保健室へ昼寝に来るのはお前だろう?」
「あ、なーんだ。そーゆーイミね」
「どういう意味だと思ったんだか。さあ、そろそろ引き上げるぞ」
##NAME1##が思っていたより、少し早めのお開きとなった。
店を出ると、二台のタクシーが待っていた。
博士が乗る車と、アイヴィーと##NAME1##を乗せる車だ。
「じゃー、ソクちゃん、またあしたー」
「ああ」
博士は背を向ける前に、##NAME1##に視線を送った。
暗に「また今度」と言うかのように。
##NAME1##はアイヴィーと同じ車に乗り込む。
旧市街を抜け、タクシーは海沿いの道を走っている。
後部座席に居るアイヴィーは。ゴキゲンで隣の##NAME1##に話しかける。
「今夜は楽しかったねー。また三人で飲みに行きたいなー」
##NAME1##は、そうだね、と相槌を打ちながら、アイヴィーが居ないほうの窓を見た。
暗い海の上には半月が浮かんでいた。
距離は遠くても、月は、ひっそりとタクシーを追い駆けてくる。
月は##NAME1##を追い越せない。けれど、##NAME1##を見逃すこともない。
##NAME1##のあとを追うように、欠けた月は付いてきた。
fin
■テオ×クラウス
「んじゃ、今日のミーティングは終わりってことで。いいか、テオ?」
「うん」
放課後、生徒代表室にて警備ミーティングがあった。
とは言っても、緊急の知らせなどはなく、通常の情報交換のみで終わった。
ミーティングの出席者は、警備責任者のアイヴィー、自白術で警備に協力するカウンセラーのソクーロフ博士、
そして今年度、生徒代表を務めるテオ・メネシス、以上の三名だ。
生徒代表には寮に戻る様子がない。
警備司令官は頭を掻く。保健教師は机上で書類を揃えながら、
「アイヴィー、このあと保健室に寄ってくれないか?」
「あ、うん」
「では、テオ。私達はこれで失礼させて頂くよ」
「はい。お疲れ様でした、博士、アイヴィー」
保健教師がドアに向かうので、司令官もあとに続いた。
一人になった生徒代表は、ミーティング用のテーブルから、荘厳な席へ移動した。
歴史を感じさせる木製の机。代々、生徒代表に受け継がれてきた玉座。
ミーティングが終わると、テオは毎回のようにそこに座る。
まるで祈るように、両手の指を絡めた姿勢をとる。
視線は正面を向いている時もあれば、目を閉じている時もあった。
特に何をするでもなく、テオは一人きりの時間を過ごしていた。
クラシックなコール音がする。
電話だ。テオはアンティークな受話器を取った。
「はい。生徒代表室です」
きっと警備か理事会関係者からの電話だろう。
そう思っていたテオの耳に聞こえてきたのは、予想外の声だった。
「……テオか?」
「えっ……その声は、クラウス? クラウスなのかい!?」
「ああ」
肯定の返事。テオは息を呑む。
思わず正面にある肖像画を見上げていた。額の中に佇む彼。
もう二度と聞けないかもしれないと思っていた声が再び耳に届く。
「今、ミーティング中か?」
「ううん!」
テオは意気込んで答えた。
「もう終わったところだよ! ここには今私しか居ない!」
「そうか」
もしミーティング中だと答えたら、真面目な彼は電話を切るだろう。
実際に今がミーティング終了後で本当に良かったとテオは思った。
どうしよう、何を話そう、と考えると同時に、思ったことがそのまま言葉になっていく。
「クラウス……本当に本物のクラウスなのだね。
嬉しい、貴方が学院に電話をしてくれるだなんて、思ってもみなかった。
ああ、でも、卒業した貴方が電話をしてくるなんて、
しかも生徒代表室の電話ということは、何か余程の緊急事態なの!?」
「いや、緊急事態などは、なく」
クラウスがしどろもどろになる。
「その、特別な用事があるかというと、特にはなくてだな」
「特別用事はないのに、電話を掛けてくれたのかい?」
「まあ、結果的に言えば、そうなる、な」
「クラウス……ありがとう。ああ、神様」
「学内の様子はどうだ? 何か問題は」
「困ったことは起こっていないよ。アイヴィーも今年は平和だなって言っていたし」
「シュヌーシアの奴等は元気にしているか」
「うん。風邪を引いたりすることはあったけれど、みんな治ったし、大きな病気もなかったよ」
「そうか。では、お前は……生徒代表の仕事はどうだ?」
「大丈夫だよ。生徒のみんな、先生方や警備の皆さんが助けて下さるから」
「なら、いい」
「クラウス、もしかして、私のことが心配で電話を?」
「それはお前が! お前が、任命式で自信なさそうにしていたから。
あんな顔をされたら、俺が卒業した後、
お前がちゃんとやっているか、何か悩んだりしていないか、
気になるだろうが! 先代の生徒代表として!」
「卒業しても、私のことを気にかけてくれてたの」
「ま、毎日というわけではないぞ決して!
時々、というか、折りに触れてというか、海や太陽を見た時とか」
「太陽? ということは毎日私のことを?」
「く、曇りや雨の日だってあるだろう」
「ありがとう、忘れないでいてくれて。
私ばかりが貴方のことを考えているのかと思ってた。今、電話が来る前だって、私」
「そんな簡単に忘れられるか、お前のような奴を」
「えっ」
「いや、あの、すまん。くだらないことで生徒代表室に電話をして。もう切る」
「待っておくれ、もう少し」
「じゃあな」
「クラウス!」
目が覚めた。
生徒代表の机の上に伏せて眠っていたようだ。
テオは受話器を探す。しかし、傍に転がってはいなかった。
何事もなかったかのように、受話器はあるべき場所にあった。
それが何より、クラウスからの電話が夢の中の出来事であったことを告げていた。
テオがシュヌーシア寮に戻ってくると、寮生達に声をかけられた。
「あっ。テオが帰ってきたよー」
「生徒代表のお仕事、お疲れ様!」
「テオ、遅かったね。大丈夫?」
「いや、居眠りをしてしまったみたいで」
「またかよ。そんなに寝心地良いのか? 生徒代表室って」
「静かな部屋だからね」
「ベッドの中で寝なきゃ風邪引いちゃうよー」
「じゃあそれは寝痕か。ほっぺに縦線入ってるぞ」
「おや。伸ばしておけば治るかな?」
テオは自分の右頬を伸ばす。
「ふぇいとひゃいひょうひつには」
「喋るなら、ほっぺから手離せよ」
「あ、そうか。生徒代表室には電話があるのだけれどね。
クラウスが電話をかけてきてくれた夢だったよ」
「テオ、クラウスとお話しできたの!?」
「うん。夢の中でね」
「クラウスと何てお話ししたの? 覚えてる?」
「学内の様子はとか、シュヌーシアのみんなは元気かって」
「えっ、ほんと?」
「夢の中でも、クラウスはクラウスだな」
「クラウス、元気にしてたんだね。良かった」
「夢の中の話だけどな」
「でも、話聞いてると、結構リアルな夢じゃん?
ひょっとして、電話をしたあとに昼寝したんじゃないの?」
「えっ? じゃあ夢じゃないってこと? テオ、そうなの?」
「ううん。夢だったのだと思うよ。よく考えれば、
生徒代表室にクラウスが電話をかけてくる筈がないもの」
「どうして?」
「生徒代表室の電話はね、私用の電話は禁止されているのだよ。
生徒代表だったクラウスなら、そのルールを知っている。
規律に厳しいあの人が、自らルールを破る筈がないだろう?」
「そっか。じゃあ、やっぱり夢なのか、残念だね」
「私は幸せだったよ。夢だとしても元気そうなクラウスに会えて」
夢は記憶を整理する為に見る。
その説を聞いたことはあるが、テオは密かにこう感じていた。
最近の私を見かねて、彼が夢の中まで会いに来てくれてたのではないかと。
テオは心の中でそっと伝える。――ありがとう、クラウス。
fin
「うん」
放課後、生徒代表室にて警備ミーティングがあった。
とは言っても、緊急の知らせなどはなく、通常の情報交換のみで終わった。
ミーティングの出席者は、警備責任者のアイヴィー、自白術で警備に協力するカウンセラーのソクーロフ博士、
そして今年度、生徒代表を務めるテオ・メネシス、以上の三名だ。
生徒代表には寮に戻る様子がない。
警備司令官は頭を掻く。保健教師は机上で書類を揃えながら、
「アイヴィー、このあと保健室に寄ってくれないか?」
「あ、うん」
「では、テオ。私達はこれで失礼させて頂くよ」
「はい。お疲れ様でした、博士、アイヴィー」
保健教師がドアに向かうので、司令官もあとに続いた。
一人になった生徒代表は、ミーティング用のテーブルから、荘厳な席へ移動した。
歴史を感じさせる木製の机。代々、生徒代表に受け継がれてきた玉座。
ミーティングが終わると、テオは毎回のようにそこに座る。
まるで祈るように、両手の指を絡めた姿勢をとる。
視線は正面を向いている時もあれば、目を閉じている時もあった。
特に何をするでもなく、テオは一人きりの時間を過ごしていた。
クラシックなコール音がする。
電話だ。テオはアンティークな受話器を取った。
「はい。生徒代表室です」
きっと警備か理事会関係者からの電話だろう。
そう思っていたテオの耳に聞こえてきたのは、予想外の声だった。
「……テオか?」
「えっ……その声は、クラウス? クラウスなのかい!?」
「ああ」
肯定の返事。テオは息を呑む。
思わず正面にある肖像画を見上げていた。額の中に佇む彼。
もう二度と聞けないかもしれないと思っていた声が再び耳に届く。
「今、ミーティング中か?」
「ううん!」
テオは意気込んで答えた。
「もう終わったところだよ! ここには今私しか居ない!」
「そうか」
もしミーティング中だと答えたら、真面目な彼は電話を切るだろう。
実際に今がミーティング終了後で本当に良かったとテオは思った。
どうしよう、何を話そう、と考えると同時に、思ったことがそのまま言葉になっていく。
「クラウス……本当に本物のクラウスなのだね。
嬉しい、貴方が学院に電話をしてくれるだなんて、思ってもみなかった。
ああ、でも、卒業した貴方が電話をしてくるなんて、
しかも生徒代表室の電話ということは、何か余程の緊急事態なの!?」
「いや、緊急事態などは、なく」
クラウスがしどろもどろになる。
「その、特別な用事があるかというと、特にはなくてだな」
「特別用事はないのに、電話を掛けてくれたのかい?」
「まあ、結果的に言えば、そうなる、な」
「クラウス……ありがとう。ああ、神様」
「学内の様子はどうだ? 何か問題は」
「困ったことは起こっていないよ。アイヴィーも今年は平和だなって言っていたし」
「シュヌーシアの奴等は元気にしているか」
「うん。風邪を引いたりすることはあったけれど、みんな治ったし、大きな病気もなかったよ」
「そうか。では、お前は……生徒代表の仕事はどうだ?」
「大丈夫だよ。生徒のみんな、先生方や警備の皆さんが助けて下さるから」
「なら、いい」
「クラウス、もしかして、私のことが心配で電話を?」
「それはお前が! お前が、任命式で自信なさそうにしていたから。
あんな顔をされたら、俺が卒業した後、
お前がちゃんとやっているか、何か悩んだりしていないか、
気になるだろうが! 先代の生徒代表として!」
「卒業しても、私のことを気にかけてくれてたの」
「ま、毎日というわけではないぞ決して!
時々、というか、折りに触れてというか、海や太陽を見た時とか」
「太陽? ということは毎日私のことを?」
「く、曇りや雨の日だってあるだろう」
「ありがとう、忘れないでいてくれて。
私ばかりが貴方のことを考えているのかと思ってた。今、電話が来る前だって、私」
「そんな簡単に忘れられるか、お前のような奴を」
「えっ」
「いや、あの、すまん。くだらないことで生徒代表室に電話をして。もう切る」
「待っておくれ、もう少し」
「じゃあな」
「クラウス!」
目が覚めた。
生徒代表の机の上に伏せて眠っていたようだ。
テオは受話器を探す。しかし、傍に転がってはいなかった。
何事もなかったかのように、受話器はあるべき場所にあった。
それが何より、クラウスからの電話が夢の中の出来事であったことを告げていた。
テオがシュヌーシア寮に戻ってくると、寮生達に声をかけられた。
「あっ。テオが帰ってきたよー」
「生徒代表のお仕事、お疲れ様!」
「テオ、遅かったね。大丈夫?」
「いや、居眠りをしてしまったみたいで」
「またかよ。そんなに寝心地良いのか? 生徒代表室って」
「静かな部屋だからね」
「ベッドの中で寝なきゃ風邪引いちゃうよー」
「じゃあそれは寝痕か。ほっぺに縦線入ってるぞ」
「おや。伸ばしておけば治るかな?」
テオは自分の右頬を伸ばす。
「ふぇいとひゃいひょうひつには」
「喋るなら、ほっぺから手離せよ」
「あ、そうか。生徒代表室には電話があるのだけれどね。
クラウスが電話をかけてきてくれた夢だったよ」
「テオ、クラウスとお話しできたの!?」
「うん。夢の中でね」
「クラウスと何てお話ししたの? 覚えてる?」
「学内の様子はとか、シュヌーシアのみんなは元気かって」
「えっ、ほんと?」
「夢の中でも、クラウスはクラウスだな」
「クラウス、元気にしてたんだね。良かった」
「夢の中の話だけどな」
「でも、話聞いてると、結構リアルな夢じゃん?
ひょっとして、電話をしたあとに昼寝したんじゃないの?」
「えっ? じゃあ夢じゃないってこと? テオ、そうなの?」
「ううん。夢だったのだと思うよ。よく考えれば、
生徒代表室にクラウスが電話をかけてくる筈がないもの」
「どうして?」
「生徒代表室の電話はね、私用の電話は禁止されているのだよ。
生徒代表だったクラウスなら、そのルールを知っている。
規律に厳しいあの人が、自らルールを破る筈がないだろう?」
「そっか。じゃあ、やっぱり夢なのか、残念だね」
「私は幸せだったよ。夢だとしても元気そうなクラウスに会えて」
夢は記憶を整理する為に見る。
その説を聞いたことはあるが、テオは密かにこう感じていた。
最近の私を見かねて、彼が夢の中まで会いに来てくれてたのではないかと。
テオは心の中でそっと伝える。――ありがとう、クラウス。
fin
■アンリ×姉貴(新婚モード) ※ドリーム機能版はこちら
「来週の土曜日のことなんだけど」
帰宅したアンリは、ネクタイを緩めながら、そう切り出した。
「ごめん。急だけど、出張になったんだ、海外に」
土曜日は、一緒にパリまで出かける約束をしていた日。
アンリの仕事が忙しくて、既に二度延期されたデートだったので、
##NAME1##は正直がっかりしたが、
それが表に出ないように「仕事じゃ仕方ないよね」と言った。
先日アンリと結婚した##NAME1##は、フランスにあるサン・ジェルマン邸で暮らし始めた。
予想以上に広く、歴史ある邸だった。
アンリは、亡父が経営していた会社や株の所有権は全て放棄したが、
この邸は誰にも譲らなかったのである。
現在は、在学中に起業した会社の経営者として忙しい毎日を送っている。
朝は早く、夜は遅い。家より会社に居る時間のほうが圧倒的に長く、
この頃は特に、##NAME1##は、夫であるアンリと、ろくに会話さえできない日々が続いていた。
そんな中、今度の土曜日は、やっとアンリの手が空くので、
久し振りに二人で過ごそうと約束していたのである。
ヒュルと布が擦れる音がした。
アンリが首からネクタイを抜いていた。
「##NAME1##との約束を、また破ることになるのは、悪いと思ってる。
でも、今後の取引を考えると、どうしても会っておきたい人が居て」
ソファの背に放られた濃紺のネクタイ。
それを見て、ふと##NAME1##は思った。死んだ蛇みたい。
「彼が出席するセレブパーティーが今度の土曜日なんだ」
言いながら、首許のボタンを上から二つ外す。
「次にいつ会えるか解らないし、僕はこのチャンスを逃したくない。だから」
解った、と##NAME1##は言った。そう言うより他になかった。
「ありがとう、##NAME1##。君ならそう言ってくれると思ってた」
##NAME1##だってアンリが忙しいのは解る。妻なのだから。
ここで「嫌だ」とワガママを言って、彼を困らせるようなことは絶対にしたくない。
そんなのは、彼も望んでいないし、自分のプライドが許さない。
「ごめんね、##NAME1##」
突然、背中からそっと抱き締められた。
前に回されたアンリの白い腕が、俯いてる##NAME1##の視界に入る。
ああ、これは白い蛇みたい。
「僕だって、本当は、##NAME1##と一緒に過ごしたかったんだよ?」
首筋で空気の振動を感じた。##NAME1##のうなじに吐息がかかってる。
「だからね? 海外出張だけど、今回は君を家に置いていくつもりはないんだよ?」
えっ、と##NAME1##が言った。
腕の拘束がとける。##NAME1##がアンリのほうを向く。
アンリは微笑していた。
「土曜日は、君も連れて行く。一緒に行こうよ?
目的地を、パリからアテネに変えてしまうけれど。
海外旅行にグレードが上がったとでも思って、許してくれないかな?」
##NAME1##に断る理由はない。
だが、彼は仕事で行くのに、自分が付いていったら邪魔にならないだろうか。
そう尋ねると、彼は「まさか」と笑い、ソファに座った。
##NAME1##も隣に座る。彼は脚を組む。
「実を言うとね? どうしても君を連れて行かなくちゃいけないんだ」
何、その言い方。##NAME1##は少しカチンときた。
アンリのことは好きだが、それでも時々彼の傲慢さや高圧的な態度にイラッとくるのは事実だ。
「君には悪いんだけど、僕と一緒にパーティーに出席して欲しいんだ。
パートナーが居るなら必ず連れて行くことが、暗黙の了解になってるパーティーなんだよね」
アンリは横髪をクルクルと弄びながら、
「伝統的に続いてる、由緒あるセレブパーティーだとかで、
昔の貴族みたいなシキタリがあるんだよ、僕は今時どうかと思うけど」
そんなパーティーに私が行っていいのか。##NAME1##は少しイライラしながら聞いた。
「ああ、平気だよ? 広いホールで行われる立食パーティーだから。
君は綺麗なドレスを着て、僕の隣に立っていてくれるだけでいい。
ビジネスの話をする時は、彼と僕の二人きりで話すから、
君は好きなものでも食べながら待っていて?
ね? 君にとっても、そんなに悪い話ではないでしょう? 来てくれるよね?」
##NAME1##は頷いた。
「ありがとう。助かるよ。パートナーが居ないと格好が付かないパーティーだから」
彼は冷笑していた。##NAME1##の苛立ちが増す。
どうして今日は、こんなに気持ちがざわめくのだろう。
アンリの一挙一動に対して、過敏になっている。
普段は何とも思わない言い方や仕草にさえ、感情が波立つ。
彼は凭れていた背を起こして、##NAME1##のほうを見る。
アンリの顔が間近にある。悔しいが、何度見ても綺麗な顔だ。
「明日の夜、新しいドレスを買いに行こう? 君に似合う物、僕が選んであげる」
土曜日。アンリと##NAME1##は航空機に乗り、フランスから離陸した。
彼がとった席は当たり前のようにファーストクラスだった。
「ごめん。向こうに着くまで一眠りさせてくれる?
今日の準備で、昨日はあまり寝ていないんだ」
そう言って、彼はすぐに眠ってしまい、着陸まで起きなかった。
夜、##NAME1##はドレスを着て、パーティー会場に来た。
アンリが選んだのは、淡いブルーのロングドレスだった。
彼はダークブルーのスーツ。ブルーは彼の好きな色だ。
二人並んで立っていると、同系色なので綺麗に揃って見える。
どちらの衣装も##NAME1##が日本に居た頃には目にしたことがないような値段。
超が付く高級ブランド店で、アンリが購入したものだ。
雲の上でよく眠ったおかげか、アンリは機嫌が悪くない様子だ。
今日の目的である、重要人物とはすぐに会えた。
おひげのおじいさんで、優しそうな雰囲気の人だった。
身なりは上品だし、チラリと見えた腕時計も高価そうに見えた。
アンリがどうしても会いたいと言うくらいだし、かなりのお金持ちのようだ。
「そちらのお嬢さんが、サン・ジェルマン氏の奥方ですか」
##NAME1##が挨拶しようとすると、アンリが先に口を開いた。
「はい。##NAME1##と申します」
##NAME1##は礼だけした。
「ほほう。サン・ジェルマン氏とご同様に、お若くてお綺麗な方ですな」
「妻をお褒め頂き、ありがとうございます」
アンリは礼儀正しく礼をした。
「今日は二階に別室を用意しています。ここで立ち話するのは申し訳ないので、
早速そちらでビジネスのお話をさせて頂きたいのですが」
「そうですな。カネの話はレディに聞かせるモンじゃない。
奥方には寂しい想いをさせてすまないが、旦那様を少しお借りして良いですかな?」
##NAME1##が返事しようとしたのだが、またアンリが答えた。
「構いません。彼女は、僕の仕事も、僕のことも理解していますから」
おじいさんがハハハッと豪快に笑う。
「これはこれは。理解ある奥方に恵まれて羨ましい。
うちの家内は、少し構ってやれないと、すぐヘソを曲げますから」
すると、アンリが軽く微笑したので、##NAME1##は内心ビックリした。
アンリは相手の言葉に合わせて、笑って“あげた”のだろう。
しかし、以前のアンリなら、そんなことはしなかった筈だ。
良くて無反応か、下手すると、
「あっそう」とか「くだらない」とバッサリ切ってしまうような人だった。
社会に出るようになって、彼も人並みの社交術を身に付けたらしい。
ホールに一歩入ってからのアンリは、普段と態度が違うのだ。
不機嫌なくらいがアンリのデフォルトだと思っている##NAME1##には、衝撃である。
愛想の良いアンリが見慣れないせいか、逆に気持ちが悪いくらいだ。
こんなに外面が良くなったとは知らなかった。仕事中はいつもこうなのだろうか。
「それでは別室にご案内します。――##NAME1##」
アンリの声が優しい。
「君は好きな場所で待っていて? 会場に戻ってきたら僕が君を探す。
もし見つけられなかったら携帯に電話するから」
アンリの先導で、彼等はホールから出て行った。
遠ざかっていくダークブルーの背中を、##NAME1##はぼうっと見ていた。
事前に解っていたことだが、知り合いが他に誰も居ない、広い会場で一人きりにされてしまった。
暫くの間、ここに居なくてはならない。待つことくらいならできる。そう長くはかからないだろうし。
料理を食べていればいいのだが、緊張しているせいか空腹ではない。
完全に手持ち無沙汰である。とりあえず何かグラスでも持とうか。
「おやおや。困ったものだねえ、アンリは。美しい姫にこんな憂い顔をさせるなんて」
##NAME1##の前方から声がした。思わず振り返る。
そこに居たのは、見知らぬ男性。彼は胸に手を置いて、こう言った。
「あの子が戻るまで、よろしければ私に、お相手をさせて頂けませんか、姫?」
##NAME1##のことを、いきなり姫と呼んだのは、燕尾服を着た男性だった。
髪は明るい金色で緩い波がある。年はアンリと同じくらいか、少し上だろうか。
アンリの名前を知っていたのだから、知り合いということになる。
取引先の人だろうか。それにしては、随分親しげな様子だったが。
この人は一体誰なのだろう?
##NAME1##の頭上に浮かぶ、透明な疑問符が見えたのか、金髪の男性は微笑んだ。
アンリとは種類が全く異なる、あたたかい笑顔で。
「失礼。自己紹介もせずに、驚かせてしまいましたね。
決して、怪しい者ではありませんから、安心して下さい。私は」
すっと##NAME1##に近付き、囁いた。
「アンリと同じ、マージナルプリンスです」
彼はテオ・メネシスと名乗った。
ジョシュアの前の生徒代表なのだそうだ。
学年で言えば、アンリより二個上の先輩ということになる。
アンリが入寮していたウーティス寮の生徒について、
テオはジョシュアからハルヤまで知っていた。
おそらく、ユウタの入学直前に卒業した生徒なのだろう。
現在はこの国で暮らし、実家の海運業を手伝っているらしい。
終始にこにこしながら、そう話してくれた。
##NAME1##も自己紹介をした。
名前を言うと、ほう、と感嘆の溜め息を吐かれた。
「なんと美しい響きなのだろう。姫の姫は名前も美しいのだね」
大袈裟にも思えるリアクションが返ってきた。
ちょっと変わった人みたいだが、悪い人ではなさそうだ。
正直、聖アルフォンソ学院の卒業生と聞いただけでも、##NAME1##は随分ほっとした。
それに、ジョシュア達とも知り合いなのだ。テオと##NAME1##は互いに、友達の友達と言える。
テオは学院の卒業生達の近況について詳しかった。
アルフレッドが出演した最新映画や、シルヴァンの噂話などに花が咲く。
ハルヤについては、日舞の復帰作が公演された時、テオは日本まで応援に駆け付けたらしい。
そこまで話すのに、おそらく五分も経っていなかっただろう。
その短い間に、##NAME1##はテオのことを古くからの友人のように感じていた。
今日が初対面の筈なのに、まるで親友と久し振りに再会できたかのような気持ちになっていたのだ。
共通の友人が居たせいか、テオの成せる技なのか、その両方かもしれない。
テオという人は、何もかもがアンリとは全く違う。
お喋りが大好きで、人に対しとてもフランク。根っからの社交派タイプといったかんじだ。
表情もコロコロ変わる。何より印象的なのは彼の笑顔だ。
見ている人の気持ちまで、あたためてくれる。
例えるなら、そう、太陽みたいな笑顔だ。
「ところで、アンリは」
一通りウーティス寮生の噂話をしたあと、テオはこう言った。
「アンゲロプロス氏にお話があるようだったけれど、
もしや、今後は娯楽産業にも手を広げるつもりなのかい?
年々素晴らしい業績を上げているのに、更に新規開拓とは。貪欲だねえ、アンリは」
さっきのおじいさんの名前を出したようだが、##NAME1##には「アンゲロ」までしか聞き取れなかった。
えっ、と聞き返した##NAME1##を見て、テオも同じように、えっ、と聞き返した。
「アンゲロプロス氏のこと、姫はアンリに聞いていなかったのかい?」
はい、と答える。テオは表情を曇らせ、ううむ、と唸った。
「ビジネスのお相手だから言わなかったのかなあ?
でも誰に会うかくらい話しても良いと思うけれどねえ」
確かにテオの言う通りである。
##NAME1##は今まで疑問に思わなかったが、教えてくれても良かった筈だ。
テオは、おじいさんの正体について説明してくれた。
「彼はヨルゴス・アンゲロプロス氏。ギリシャが誇る名映画監督だ。
姫も作品名は聞いたことがあるんじゃないかな。『1935年の日々』や『雲の中の風景』が代表作だよ」
聞いたことがある。有名な映画賞を総舐めにした作品だ。
「アンゲロプロス氏は昨年、惜しまれながら映画の世界から引退され、すぐに映画学校を設立された。
けれど、新たな遊び場を見つけたいと仰って、
学校の経営権は昔お世話になったというご友人にあげてしまったんだ」
人差し指を立て、##NAME1##にウインクする。
「そして、これは、まだ噂の段階なのだけれどね?」
ナイショ話をするように、急にヒソヒソ声になる。
「実は、世界のどこかに、今までにないニュータイプの娯楽施設の建設を計画されているとか?」
フフと楽しそうに笑う。
「そんな噂があるものだから、私はてっきり、その計画にアンリが一枚噛むつもりなのかと思ったのだよ」
声の大きさが通常に戻る。
「実は、私の父が、アンゲロプロス氏と知り合いで、私も少しお話をさせて頂いたことはあるんだ。
御年62になられたとは思えないほど、少年のような瞳と好奇心をお持ちでね。
流行に敏感で、今も変わらずアグレッシブな方だ。
彼は、創造と娯楽を司る神様のような人なのだよ!」
アンリがコンタクトを取りたがった人物が、そんなビックネームだったとは##NAME1##は思わなかった。
「アンゲロプロス氏は今までにも若い才能と親しくしてきた御方だから、
きっと、アンリの持つ天性の直感力と絶えまぬ努力に心惹かれたのだろうねえ。
ああ、これは大変に素晴らしいことだよ、姫!
あの二人がタッグを組むとなると、誰も想像しなかった新しいものが出来上がるに違いない!
ワクワクしてきたねえ! もし何か手伝えることがあれば、私も仲間に入れて欲しいくらいだよ!」
通りかかったボーイがテオに飲み物を勧める。
「シャンパンはいかがですか?」
金色のドリンクが細長いワイングラスに入っている。
ボーイは、それを五本、トレイに乗せていた。
「あ、ありがとう。丁度喉が渇いていたんだ。姫もどうかな?」
頂きます、と答える。
テオはボーイから両手でグラスを受け取り、片手を##NAME1##に差し出した。
「乾杯しようよ、姫」
何に乾杯しますか、と尋ねる。
「それはもちろん」
テオは笑って、グラスを少し掲げる。
「貴女のような美しい姫と、共にある奇蹟に」
二つのグラスが鳴った。
「それにしても、先程のアンリは酷い夫だったねえ。姫を悲しませるようなことをして」
##NAME1##を置き去りにしたことを言ってくれているのだろう。
酷い夫、という点については、##NAME1##は否定した。
アンリは仕事の一環で、あの人に会う為だけに来たのだ、と説明したのだが、
テオはいやいやと首を振った。
「姫を一人にしたこともそうだけれど、私はそれ以上に、姫に対する振る舞いが気になったのだよ」
##NAME1##は何も言えなくなる。
「姫に対する思い遣りに欠けていた。
まあ、あの子は昔から、人に冷たく接してしまうところがあったし、
本人に悪気がないのは解っているが。けれど、先程は、姫の憂い顔が何より物語っていた」
テオは##NAME1##の手を握った。
「姫? もしや、普段から、あの子の悪気のない冷たさに困ることがあったんじゃないのかい?」
「ああ、やっと見つけた」
バニラボイスがした。
「遅くなって悪かったね。思ったより話が長引い……」
##NAME1##の傍らに居る人物を見て、アンリは絶句した。
テオは笑顔で片手を挙げた。
「やあ! 久し振りだね、アンリ。大人になって、ますます美貌に磨きがかかったね?」
アンリはあからさまに嫌そうな顔をした。
「……テオ。どうして貴方が、##NAME1##と一緒に居るの」
「ここはギリシャだよ? 私はこのようなパーティーには、大抵、顔を出しているからね?」
「あっそう」
完全に機嫌が悪くなった。けれど、##NAME1##はご機嫌斜めなアンリを見て、なんだか安心した。
愛想の良いアンリから、##NAME1##の知っているアンリに戻ったのが嬉しかったのかもしれない。
アンリは溜め息を吐き出した。思いきり素の状態だ。
「社交界に顔を出し続けていたら、貴方と鉢合わせる日が来るかもしれないとは思っていたけれど」
「うん! 私もいつかきっとアンリに会える日が来ると信じていた! 会いたかったよアンリ!」
ガバッとハグした。アンリが怒り出さないか##NAME1##は心配したが、
意外にも、されるまま抱きつかれている。
満更でもない、というよりは抵抗するのも面倒といった顔をしていた。
「よりによって、今日みたいな日に、貴方に会うとは思わなかったよ」
会いたくなかったようだ。
「あっ! それより、アンリ! 姫に聞いたよ! 全く、君という子は!」
「……何」
「罰として、今夜は私の家に泊まりなさい!」
「……何の罰? 第一、今夜はホテルを取ってある」
「私の家をホテルにすればいいじゃないか! どこのホテルにも負けないよ、うちは!」
「……何を競っているの? 話が見えない。
もうここに用はないし、この人は放っておこう。行くよ、##NAME1##」
手首を捕まれる。しかし、##NAME1##は動かなかった。
「##NAME1##?」
アンリは驚いて、彼女を見つめた。
「君まで何? まさか、僕より彼の言うことを聞くというの? どうして」
アンリが、はっとする。
「テオ、貴方のせいなの? 僕が目を離している隙に」
テオを睨んだ。キツイ眼差しだ。
「##NAME1##のことはたぶらかさないで。彼女は僕と結婚しているの。
彼女に手を出すなら、幾ら貴方でも許さない。##NAME1##は僕のだ」
テオは額を押さえ、芝居がかった調子でふらつく。
「ああ、これだ! だから、姫を悲しませるのだよ、君は!」
テオが立腹してみせる。だが、プンプンといったかんじで可愛らしい。
本気で怒っているわけではないのだ。
「いけないよ、アンリ」
テオは優しく言った。
「それでは、まるでオモチャを取られた子供のようじゃないか?」
「……貴方は、何を言ってるの」
「よしっ! 解らないなら、解るまで教えるから、とにかく私の家においで!」
「だから、なんで貴方の家に」
「決まっているじゃないか! 下級生の面倒を見るのは、
上級生の役目だからだよ。シュヌーシアの伝統だからね!」
「僕はシュヌーシアじゃ」
「ゼノ! そういうわけだから、うちのみんなに電話をしておくれ!
これから、大切なゲストを二人連れて帰るよとね!」
いつから居たのか、テオの背後には、背の高い男性が控えていた。
長い金髪。色はテオよりやや暗い。細いシャープな眼鏡をかけている。
「しかし、テオ様、よろしいのですか? そのようなお節介をしては、ご夫妻にご迷惑では?」
「えっ!? 私、お節介!?」
テオはビックリしている。急にしゅんとなった。
「……ゼノが本当にそう思うのなら、止めようかな、私……」
眼鏡の男性は苦笑した。
「いえ。申し訳ございません。テオ様が仰るように、
今のご夫妻にはテオ様の手助けが必要なのかもしれませんね」
テオの表情がぱあっと明るくなる。
「そうだろう!? ああ、良かった! 私が二人に迷惑をかけているのかと思ったよ!」
アンリがぼそりと言う。
「僕は迷惑なんだけど」
眼鏡の男性が、まあまあと宥める。
「サン・ジェルマン様? ここはひとつ、テオ様のご提案に乗ってみてはいかがでしょう?
当家のゲストルームが、他のホテルに引けを取らないのは事実ですし、
テオ様のご学友から宿泊費を取るような真似も致しません。
そう思えば、サン・ジェルマン様にとっても、悪いお話ではないと存じますが?」
「ところで、貴方は誰なの?」
「ああ、失礼致しました。申し遅れましたが、私」
テオは##NAME1##に話しかける。
「あ、そうだ! 姫? お腹は空いていないかい?
先程はあまり料理を召し上がっていなかったみたいだし。
姫は何がお好きなのかな? うちのシェフはね、とっても腕が良いから、何でも作ってくれるよ?
やはりここはギリシャ料理のフルコースかな? それとも、ジャパンの料理が良い?
オスシも得意だし、アボカドマグロ丼だって用意できるよ!
あれ? アンリー! 早くうちに帰るよー!
帰ったら再会記念パーティーをするんだからね!」
「何を勝手に……なんでパーティーのあとにパーティーしなくちゃならないの」
三人の後方で、眼鏡の男性が微笑んでいる。
携帯電話を取り出し、手短に必要な手配を済ませ、三人のあとに続いた。
会場を出て行こうとする様子を見て、擦れ違った人達がテオに声をかけていた。
「おや。メネシス様、今日はもうお帰りですか?」
「ああ、はい」
テオが足を止めたので、##NAME1##とアンリも止まった。
周囲に居た紳士淑女がわらわらとテオに近寄ってくる。
「お早いお帰りなんですね。残念です」
「まだ夕方ですよ? もう少し良いじゃないですか。
例の件についてご説明させて頂きたかったのに」
「私もテオ様ともっとお話ししたかったですわ」
「私は、まだご挨拶もしていないのに。次はいつお会いできますか?」
大人気である。あっと言う間にテオは取り囲まれてしまった。
輪の外から##NAME1##は呆然と見ていた。すると、隣から冷たい溜め息が聞こえた。
アンリだ。おそらく##NAME1##にしか聞こえなかっただろうが。
彼は確かに小さく毒づいた。敵意しかない声で「ハイエナが」と。
輪の中心に居るテオは、笑顔で応対していた。
「申し訳ありません。今日はお先に失礼しますが、私は来週のパーティーにも伺う予定ですので、
その時にまた皆様とお話しさせて頂ければと思います。
今日は、友人とばったり会ったものですから、
我が家に招いて、再会を祝したいと思いまして。
あ、そちらの人見知りしている子が私の旧友でしてね?
これでも男性なのですよ。美しいでしょう?
実は彼が、かの有名な、フランスで投資会社を営むサン・ジェルマン社長です!」
その姓を聞き、テオを囲んでいた人達は、一斉にザワザワする。
ついさっきまでテオのご機嫌取りをしていた彼等は、
本気かお世辞か解らないが、アンリを褒め称え始めた。
「サン・ジェルマン伯爵家の末裔様でしたか!」
「これは驚きました! 彼があの有名な!」
「永遠の美貌とは本当だったのですね! なんてお美しい!」
「まさかギリシャでお目にかかれるとは!」
わらわらと囲まれてアンリが困ってる。
「ちょっと、テオ」
テオは笑顔で演説を続けている。
「そう! 21世紀の錬金術師とは彼のことなのです!
皆様、どうぞ彼を、アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマンを、よろしくお願い致します!
さあさ! 彼と名刺交換したい方は一列に並んで下さーい!」
結局、パーティー会場を出たあとは、テオの車に乗って、メネシス家まで連れてこられた。
「一日でこんなにたくさんの名刺が貰えるなんて!」
テーブルの上には、たくさんの名刺が乗っている。
「さすがはアンリ! 人気者だね!」
「要らないし、こんなに」
テオによって急遽開催された、アンリの名刺交換会にて、押し付けられた名刺達だ。
「でも、人脈作りは、アンリのビジネスでも重要だろう?」
「まあ、この一枚が手に入ったのは、ラッキーだったけど」
アンリはひとつだけ手に取り、人差し指と中指で挟んだ。
白地に黒文字の名刺。派手な装飾をした名刺が多い中、そのシンプルさが逆に目を惹く。
「名刺ひとつ見ても、悪くない。君もそう思わない?」
悪くないねと頷きながら、それにしてもカードが似合う人だなあと##NAME1##は思う。
アンリが持つと名刺もタロットカードに見えてくるから不思議だ。
彼は満足そうに、白い名刺を眺めてる。本当に嬉しいみたいだ。
「彼の名刺はこれで良いんだよ。
ハイエナ達と違って、彼は着飾る必要がないから」
どんな人なの、と##NAME1##は聞いた。
すると、アンリは、きょとんとした。
「どうして、そんなこと聞くの? 君、まさか、彼に興味あるの?」
あるわけない。全く知らない人なのだから。
アンリが興味を持っているみたいだから、誰なのか気になっただけだと説明した。
「そう。彼は、ゲームプログラマーだよ。覚えていない? 気弱そうに名刺をくれた若い人だよ」
居た気がする。首許の襟が曲がっていたあの人かもしれない。
「元は有名なゲームの開発チームに居た人なんだけど、最近独り立ちして、自分の会社を作ったんだ。
彼が作るコンピューターグラフィックは、本当に綺麗なんだよ、現実以上に」
ゲームプログラマーに、元映画監督。
テオの読み通り、娯楽産業に手を出すつもりなのかもしれない。
「アンリのお眼鏡に適う人が居たんだね! 良かった良かった!
いやあ、礼には及ばないよ、アンリ」
「うん。貴方の思い付きで無理矢理やらされただけだものね」
「アンリ、アンリ! 私で何かできることがあったら何でも言っておくれ!」
「貴方は、僕が何をしようとしているか解って言ってる?」
「ううん! でもアンリなら、きっと素晴らしいことを考えているに違いないからね!」
「そういうお気楽なところも変わらないんだね。
周りを信じてばかりだと、いつかハイエナ達に食われるよ?」
テオは微笑した。
「私のことを心配して言ってくれたのだね? ありがとう、アンリ。
けれど、彼等のことをあまり悪く言うものではないよ?」
「だって、事実だもの。貴方はお人好し過ぎる」
「アンリも変わらないねえ」
ディナーが運ばれてきた。
アンリも##NAME1##もパーティーでは殆ど食事をしていなかったので、
メネシス家の専属シェフが夕食を用意してくれた。
「アンリ? もう食べないのかい?」
「そんなに、食欲ないから」
「そう言えば、アンリは昔から小食だったものね」
フルコースみたいなものが出てきたらどうしようかと思ったが、出てきたのは、ハンバーガーだった。
ムサカというギリシャ料理を、もっと気軽に食べて貰えるようにアレンジしたものらしい。
味も良く、量も丁度良かった。
テオが事前に「それほどお腹は空いていないんだね?」と聞いてくれたおかげだろう。
「姫? お口に合ったかい? そう。良かった!」
##NAME1##の顔を見て、テオが思い出す。
「ああ、そうだ、アンリ。先程の話だけどね?」
アンリは頬杖を突いている。
「唇」
「え?」
「ソースが付いてる」
「ああ、ありがとう」
テオは白い布でキュキュッと口許を拭いた。
「それで、話というのはね? 姫が着ていたスカイブルーのドレスのことなんだ」
「##NAME1##の? それがどうかしたの?」
「ひょっとして、あれはアンリが選んだものじゃないかと思ってね」
「それのどこがいけないの? 僕は彼女の為に一級品を新調したんだよ?」
「姫が着る衣装なのに、何故、姫に選んで貰わなかったのかが、私には疑問なのだよ。
姫は君の着せ替え人形ではないのだから。
もしかしたら、姫は他のドレスが着たかったかもしれない。
青も綺麗だったが、姫には白や黒のドレスも似合いそうだし」
テオは諭すように優しく語りかける。
「結婚していても、彼女は君の所有物になったわけではないんだ。
例え、君にそのつもりはなくても、君の言動は周りにそう思わせる、私にも、彼女にもね?」
アンリが##NAME1##のほうを見る。
だが、その時、##NAME1##はアンリと目を合わせられなかった。
「いいかい、アンリ? 姫を大切にするということは、必ずしも高価な物を贈ることではないんだ。
どうしたら姫が喜んでくれるかが一番重要なのだよ?
普段も、姫が何を望んでいるか、ちゃんと姫に聞いているかい?
聖アルフォンソ学院は紳士を輩出する学校だ。
君も卒業生なのだから、学校で習ったことだろう?
レディの願いを叶えることは、紳士の喜びだと」
「……習ってない」
ムスッとしたアンリを見て、テオは笑った。
「君が誰より彼女を大切にしているのは私にだって解る。
入学時の君は誰にも心を閉ざしていたが、当時に比べると、君は本当に立派な紳士になった。だって」
にこりと##NAME1##に笑顔を向ける。
「こんなに素晴らしい女性に選ばれたのだもの」
ね、と言って微笑んだ。
翌朝。「もっとゆっくりしていっていいのだよ?」と言うテオを振り切って、
アンリは##NAME1##を連れて、ギリシャから出国した。
フランスに到着すると、アンリの部下が迎えに来ていた。
「僕は会社に寄っていくから、##NAME1##は先に帰ってて」
アンリと別れ、##NAME1##は一人で帰宅した。
夜。家のドアが開く音がした。
玄関に一番近い部屋に居た##NAME1##は、アンリが帰ってきたと思って、迎えに出た。
「よう、久し振りだなあ、嬢ちゃん。ドアまで迎えに来やがって。妬けるじゃねえか」
アンリではない、長身の男が立っていた。
歪んだ黒髪。濃い髭。彫りの深いイタリア顔。
「仕事でフランスまで来たからよ、新妻とイチャイチャしてるとこをジャマしてやろうと思って、
わざわざ寄ったんだが、その様子だとまだ帰ってねえみてえだな、あのクソガキは」
在学中、アンリがボディーガードとして雇っていた男。
シチリアマフィア、マンゾーニ・ファミリー次期ボス。ディーノ・マンゾーニだ。
アンリは父親の没後、身の危険を感じることは減った筈だが、
まだこのマフィアと手を切っていないのだ。
「つーか、ドアのカギ開いてたぞ? 日本の習慣が抜けてねえのか?
平和ボケしてっからなー、あの国は。ダメだろ? 物騒な世の中なんだからな?」
一番物騒なものの侵入を許してしまった。
我が物顔でディーノが勝手にリビングに入っていく。
止める暇もなく、##NAME1##はマフィアを追い駆けた。
マフィアはソファの背に腕を広げ、ドカッと座った。
「ん? 何、んなトコに突っ立ってんだよ? お前もココ来て座んな?」
隣に座れとソファをポンポンと叩く。
逆らうのもマズイ気がして、##NAME1##はマフィアから一人分離れて座った。
そんな様子を見て、マフィアは笑っていた。
「そういや、昨日は俺が傍に居てやれなくて、悪かったなあ。
パパに言われて、フランスに来てたからよ。
だが、お前等にはフィオが付いてたから、こうして無事に帰ってこれただろ?」
フィオというのは、マンゾーニ家の舎弟の一人でフィオラノさんという人だ。
マフィアとは思えないような優しい男の人。
彼が傍に居たとは##NAME1##は気付かなかった。アンリからも言われてなかった。
「フィオに聞いたぜー? 昨日はホテルをキャンセルして、男の家でお泊まりしたんだって?
やるじゃねえか、嬢ちゃん。案外、魔性なんだな?」
マフィアが笑っている。
「今日はコーヒーでも飲ませて貰うつもりだったんだが、気が変わったぜ。ダンナも居ねえことだし?」
あっと思った時には、マフィアの腕が##NAME1##の肩に回っていた。
「イイコトでもすっか?」
玄関のドアが閉まる音がした。足音が近付いてくる。
リビングのドアが開く。
「##NAME1##、またカギが開いてたよ? 何度も言うようだけど、危ないから閉めてと」
アンリの足下に薔薇の花束が落ちた。
fin
帰宅したアンリは、ネクタイを緩めながら、そう切り出した。
「ごめん。急だけど、出張になったんだ、海外に」
土曜日は、一緒にパリまで出かける約束をしていた日。
アンリの仕事が忙しくて、既に二度延期されたデートだったので、
##NAME1##は正直がっかりしたが、
それが表に出ないように「仕事じゃ仕方ないよね」と言った。
先日アンリと結婚した##NAME1##は、フランスにあるサン・ジェルマン邸で暮らし始めた。
予想以上に広く、歴史ある邸だった。
アンリは、亡父が経営していた会社や株の所有権は全て放棄したが、
この邸は誰にも譲らなかったのである。
現在は、在学中に起業した会社の経営者として忙しい毎日を送っている。
朝は早く、夜は遅い。家より会社に居る時間のほうが圧倒的に長く、
この頃は特に、##NAME1##は、夫であるアンリと、ろくに会話さえできない日々が続いていた。
そんな中、今度の土曜日は、やっとアンリの手が空くので、
久し振りに二人で過ごそうと約束していたのである。
ヒュルと布が擦れる音がした。
アンリが首からネクタイを抜いていた。
「##NAME1##との約束を、また破ることになるのは、悪いと思ってる。
でも、今後の取引を考えると、どうしても会っておきたい人が居て」
ソファの背に放られた濃紺のネクタイ。
それを見て、ふと##NAME1##は思った。死んだ蛇みたい。
「彼が出席するセレブパーティーが今度の土曜日なんだ」
言いながら、首許のボタンを上から二つ外す。
「次にいつ会えるか解らないし、僕はこのチャンスを逃したくない。だから」
解った、と##NAME1##は言った。そう言うより他になかった。
「ありがとう、##NAME1##。君ならそう言ってくれると思ってた」
##NAME1##だってアンリが忙しいのは解る。妻なのだから。
ここで「嫌だ」とワガママを言って、彼を困らせるようなことは絶対にしたくない。
そんなのは、彼も望んでいないし、自分のプライドが許さない。
「ごめんね、##NAME1##」
突然、背中からそっと抱き締められた。
前に回されたアンリの白い腕が、俯いてる##NAME1##の視界に入る。
ああ、これは白い蛇みたい。
「僕だって、本当は、##NAME1##と一緒に過ごしたかったんだよ?」
首筋で空気の振動を感じた。##NAME1##のうなじに吐息がかかってる。
「だからね? 海外出張だけど、今回は君を家に置いていくつもりはないんだよ?」
えっ、と##NAME1##が言った。
腕の拘束がとける。##NAME1##がアンリのほうを向く。
アンリは微笑していた。
「土曜日は、君も連れて行く。一緒に行こうよ?
目的地を、パリからアテネに変えてしまうけれど。
海外旅行にグレードが上がったとでも思って、許してくれないかな?」
##NAME1##に断る理由はない。
だが、彼は仕事で行くのに、自分が付いていったら邪魔にならないだろうか。
そう尋ねると、彼は「まさか」と笑い、ソファに座った。
##NAME1##も隣に座る。彼は脚を組む。
「実を言うとね? どうしても君を連れて行かなくちゃいけないんだ」
何、その言い方。##NAME1##は少しカチンときた。
アンリのことは好きだが、それでも時々彼の傲慢さや高圧的な態度にイラッとくるのは事実だ。
「君には悪いんだけど、僕と一緒にパーティーに出席して欲しいんだ。
パートナーが居るなら必ず連れて行くことが、暗黙の了解になってるパーティーなんだよね」
アンリは横髪をクルクルと弄びながら、
「伝統的に続いてる、由緒あるセレブパーティーだとかで、
昔の貴族みたいなシキタリがあるんだよ、僕は今時どうかと思うけど」
そんなパーティーに私が行っていいのか。##NAME1##は少しイライラしながら聞いた。
「ああ、平気だよ? 広いホールで行われる立食パーティーだから。
君は綺麗なドレスを着て、僕の隣に立っていてくれるだけでいい。
ビジネスの話をする時は、彼と僕の二人きりで話すから、
君は好きなものでも食べながら待っていて?
ね? 君にとっても、そんなに悪い話ではないでしょう? 来てくれるよね?」
##NAME1##は頷いた。
「ありがとう。助かるよ。パートナーが居ないと格好が付かないパーティーだから」
彼は冷笑していた。##NAME1##の苛立ちが増す。
どうして今日は、こんなに気持ちがざわめくのだろう。
アンリの一挙一動に対して、過敏になっている。
普段は何とも思わない言い方や仕草にさえ、感情が波立つ。
彼は凭れていた背を起こして、##NAME1##のほうを見る。
アンリの顔が間近にある。悔しいが、何度見ても綺麗な顔だ。
「明日の夜、新しいドレスを買いに行こう? 君に似合う物、僕が選んであげる」
土曜日。アンリと##NAME1##は航空機に乗り、フランスから離陸した。
彼がとった席は当たり前のようにファーストクラスだった。
「ごめん。向こうに着くまで一眠りさせてくれる?
今日の準備で、昨日はあまり寝ていないんだ」
そう言って、彼はすぐに眠ってしまい、着陸まで起きなかった。
夜、##NAME1##はドレスを着て、パーティー会場に来た。
アンリが選んだのは、淡いブルーのロングドレスだった。
彼はダークブルーのスーツ。ブルーは彼の好きな色だ。
二人並んで立っていると、同系色なので綺麗に揃って見える。
どちらの衣装も##NAME1##が日本に居た頃には目にしたことがないような値段。
超が付く高級ブランド店で、アンリが購入したものだ。
雲の上でよく眠ったおかげか、アンリは機嫌が悪くない様子だ。
今日の目的である、重要人物とはすぐに会えた。
おひげのおじいさんで、優しそうな雰囲気の人だった。
身なりは上品だし、チラリと見えた腕時計も高価そうに見えた。
アンリがどうしても会いたいと言うくらいだし、かなりのお金持ちのようだ。
「そちらのお嬢さんが、サン・ジェルマン氏の奥方ですか」
##NAME1##が挨拶しようとすると、アンリが先に口を開いた。
「はい。##NAME1##と申します」
##NAME1##は礼だけした。
「ほほう。サン・ジェルマン氏とご同様に、お若くてお綺麗な方ですな」
「妻をお褒め頂き、ありがとうございます」
アンリは礼儀正しく礼をした。
「今日は二階に別室を用意しています。ここで立ち話するのは申し訳ないので、
早速そちらでビジネスのお話をさせて頂きたいのですが」
「そうですな。カネの話はレディに聞かせるモンじゃない。
奥方には寂しい想いをさせてすまないが、旦那様を少しお借りして良いですかな?」
##NAME1##が返事しようとしたのだが、またアンリが答えた。
「構いません。彼女は、僕の仕事も、僕のことも理解していますから」
おじいさんがハハハッと豪快に笑う。
「これはこれは。理解ある奥方に恵まれて羨ましい。
うちの家内は、少し構ってやれないと、すぐヘソを曲げますから」
すると、アンリが軽く微笑したので、##NAME1##は内心ビックリした。
アンリは相手の言葉に合わせて、笑って“あげた”のだろう。
しかし、以前のアンリなら、そんなことはしなかった筈だ。
良くて無反応か、下手すると、
「あっそう」とか「くだらない」とバッサリ切ってしまうような人だった。
社会に出るようになって、彼も人並みの社交術を身に付けたらしい。
ホールに一歩入ってからのアンリは、普段と態度が違うのだ。
不機嫌なくらいがアンリのデフォルトだと思っている##NAME1##には、衝撃である。
愛想の良いアンリが見慣れないせいか、逆に気持ちが悪いくらいだ。
こんなに外面が良くなったとは知らなかった。仕事中はいつもこうなのだろうか。
「それでは別室にご案内します。――##NAME1##」
アンリの声が優しい。
「君は好きな場所で待っていて? 会場に戻ってきたら僕が君を探す。
もし見つけられなかったら携帯に電話するから」
アンリの先導で、彼等はホールから出て行った。
遠ざかっていくダークブルーの背中を、##NAME1##はぼうっと見ていた。
事前に解っていたことだが、知り合いが他に誰も居ない、広い会場で一人きりにされてしまった。
暫くの間、ここに居なくてはならない。待つことくらいならできる。そう長くはかからないだろうし。
料理を食べていればいいのだが、緊張しているせいか空腹ではない。
完全に手持ち無沙汰である。とりあえず何かグラスでも持とうか。
「おやおや。困ったものだねえ、アンリは。美しい姫にこんな憂い顔をさせるなんて」
##NAME1##の前方から声がした。思わず振り返る。
そこに居たのは、見知らぬ男性。彼は胸に手を置いて、こう言った。
「あの子が戻るまで、よろしければ私に、お相手をさせて頂けませんか、姫?」
##NAME1##のことを、いきなり姫と呼んだのは、燕尾服を着た男性だった。
髪は明るい金色で緩い波がある。年はアンリと同じくらいか、少し上だろうか。
アンリの名前を知っていたのだから、知り合いということになる。
取引先の人だろうか。それにしては、随分親しげな様子だったが。
この人は一体誰なのだろう?
##NAME1##の頭上に浮かぶ、透明な疑問符が見えたのか、金髪の男性は微笑んだ。
アンリとは種類が全く異なる、あたたかい笑顔で。
「失礼。自己紹介もせずに、驚かせてしまいましたね。
決して、怪しい者ではありませんから、安心して下さい。私は」
すっと##NAME1##に近付き、囁いた。
「アンリと同じ、マージナルプリンスです」
彼はテオ・メネシスと名乗った。
ジョシュアの前の生徒代表なのだそうだ。
学年で言えば、アンリより二個上の先輩ということになる。
アンリが入寮していたウーティス寮の生徒について、
テオはジョシュアからハルヤまで知っていた。
おそらく、ユウタの入学直前に卒業した生徒なのだろう。
現在はこの国で暮らし、実家の海運業を手伝っているらしい。
終始にこにこしながら、そう話してくれた。
##NAME1##も自己紹介をした。
名前を言うと、ほう、と感嘆の溜め息を吐かれた。
「なんと美しい響きなのだろう。姫の姫は名前も美しいのだね」
大袈裟にも思えるリアクションが返ってきた。
ちょっと変わった人みたいだが、悪い人ではなさそうだ。
正直、聖アルフォンソ学院の卒業生と聞いただけでも、##NAME1##は随分ほっとした。
それに、ジョシュア達とも知り合いなのだ。テオと##NAME1##は互いに、友達の友達と言える。
テオは学院の卒業生達の近況について詳しかった。
アルフレッドが出演した最新映画や、シルヴァンの噂話などに花が咲く。
ハルヤについては、日舞の復帰作が公演された時、テオは日本まで応援に駆け付けたらしい。
そこまで話すのに、おそらく五分も経っていなかっただろう。
その短い間に、##NAME1##はテオのことを古くからの友人のように感じていた。
今日が初対面の筈なのに、まるで親友と久し振りに再会できたかのような気持ちになっていたのだ。
共通の友人が居たせいか、テオの成せる技なのか、その両方かもしれない。
テオという人は、何もかもがアンリとは全く違う。
お喋りが大好きで、人に対しとてもフランク。根っからの社交派タイプといったかんじだ。
表情もコロコロ変わる。何より印象的なのは彼の笑顔だ。
見ている人の気持ちまで、あたためてくれる。
例えるなら、そう、太陽みたいな笑顔だ。
「ところで、アンリは」
一通りウーティス寮生の噂話をしたあと、テオはこう言った。
「アンゲロプロス氏にお話があるようだったけれど、
もしや、今後は娯楽産業にも手を広げるつもりなのかい?
年々素晴らしい業績を上げているのに、更に新規開拓とは。貪欲だねえ、アンリは」
さっきのおじいさんの名前を出したようだが、##NAME1##には「アンゲロ」までしか聞き取れなかった。
えっ、と聞き返した##NAME1##を見て、テオも同じように、えっ、と聞き返した。
「アンゲロプロス氏のこと、姫はアンリに聞いていなかったのかい?」
はい、と答える。テオは表情を曇らせ、ううむ、と唸った。
「ビジネスのお相手だから言わなかったのかなあ?
でも誰に会うかくらい話しても良いと思うけれどねえ」
確かにテオの言う通りである。
##NAME1##は今まで疑問に思わなかったが、教えてくれても良かった筈だ。
テオは、おじいさんの正体について説明してくれた。
「彼はヨルゴス・アンゲロプロス氏。ギリシャが誇る名映画監督だ。
姫も作品名は聞いたことがあるんじゃないかな。『1935年の日々』や『雲の中の風景』が代表作だよ」
聞いたことがある。有名な映画賞を総舐めにした作品だ。
「アンゲロプロス氏は昨年、惜しまれながら映画の世界から引退され、すぐに映画学校を設立された。
けれど、新たな遊び場を見つけたいと仰って、
学校の経営権は昔お世話になったというご友人にあげてしまったんだ」
人差し指を立て、##NAME1##にウインクする。
「そして、これは、まだ噂の段階なのだけれどね?」
ナイショ話をするように、急にヒソヒソ声になる。
「実は、世界のどこかに、今までにないニュータイプの娯楽施設の建設を計画されているとか?」
フフと楽しそうに笑う。
「そんな噂があるものだから、私はてっきり、その計画にアンリが一枚噛むつもりなのかと思ったのだよ」
声の大きさが通常に戻る。
「実は、私の父が、アンゲロプロス氏と知り合いで、私も少しお話をさせて頂いたことはあるんだ。
御年62になられたとは思えないほど、少年のような瞳と好奇心をお持ちでね。
流行に敏感で、今も変わらずアグレッシブな方だ。
彼は、創造と娯楽を司る神様のような人なのだよ!」
アンリがコンタクトを取りたがった人物が、そんなビックネームだったとは##NAME1##は思わなかった。
「アンゲロプロス氏は今までにも若い才能と親しくしてきた御方だから、
きっと、アンリの持つ天性の直感力と絶えまぬ努力に心惹かれたのだろうねえ。
ああ、これは大変に素晴らしいことだよ、姫!
あの二人がタッグを組むとなると、誰も想像しなかった新しいものが出来上がるに違いない!
ワクワクしてきたねえ! もし何か手伝えることがあれば、私も仲間に入れて欲しいくらいだよ!」
通りかかったボーイがテオに飲み物を勧める。
「シャンパンはいかがですか?」
金色のドリンクが細長いワイングラスに入っている。
ボーイは、それを五本、トレイに乗せていた。
「あ、ありがとう。丁度喉が渇いていたんだ。姫もどうかな?」
頂きます、と答える。
テオはボーイから両手でグラスを受け取り、片手を##NAME1##に差し出した。
「乾杯しようよ、姫」
何に乾杯しますか、と尋ねる。
「それはもちろん」
テオは笑って、グラスを少し掲げる。
「貴女のような美しい姫と、共にある奇蹟に」
二つのグラスが鳴った。
「それにしても、先程のアンリは酷い夫だったねえ。姫を悲しませるようなことをして」
##NAME1##を置き去りにしたことを言ってくれているのだろう。
酷い夫、という点については、##NAME1##は否定した。
アンリは仕事の一環で、あの人に会う為だけに来たのだ、と説明したのだが、
テオはいやいやと首を振った。
「姫を一人にしたこともそうだけれど、私はそれ以上に、姫に対する振る舞いが気になったのだよ」
##NAME1##は何も言えなくなる。
「姫に対する思い遣りに欠けていた。
まあ、あの子は昔から、人に冷たく接してしまうところがあったし、
本人に悪気がないのは解っているが。けれど、先程は、姫の憂い顔が何より物語っていた」
テオは##NAME1##の手を握った。
「姫? もしや、普段から、あの子の悪気のない冷たさに困ることがあったんじゃないのかい?」
「ああ、やっと見つけた」
バニラボイスがした。
「遅くなって悪かったね。思ったより話が長引い……」
##NAME1##の傍らに居る人物を見て、アンリは絶句した。
テオは笑顔で片手を挙げた。
「やあ! 久し振りだね、アンリ。大人になって、ますます美貌に磨きがかかったね?」
アンリはあからさまに嫌そうな顔をした。
「……テオ。どうして貴方が、##NAME1##と一緒に居るの」
「ここはギリシャだよ? 私はこのようなパーティーには、大抵、顔を出しているからね?」
「あっそう」
完全に機嫌が悪くなった。けれど、##NAME1##はご機嫌斜めなアンリを見て、なんだか安心した。
愛想の良いアンリから、##NAME1##の知っているアンリに戻ったのが嬉しかったのかもしれない。
アンリは溜め息を吐き出した。思いきり素の状態だ。
「社交界に顔を出し続けていたら、貴方と鉢合わせる日が来るかもしれないとは思っていたけれど」
「うん! 私もいつかきっとアンリに会える日が来ると信じていた! 会いたかったよアンリ!」
ガバッとハグした。アンリが怒り出さないか##NAME1##は心配したが、
意外にも、されるまま抱きつかれている。
満更でもない、というよりは抵抗するのも面倒といった顔をしていた。
「よりによって、今日みたいな日に、貴方に会うとは思わなかったよ」
会いたくなかったようだ。
「あっ! それより、アンリ! 姫に聞いたよ! 全く、君という子は!」
「……何」
「罰として、今夜は私の家に泊まりなさい!」
「……何の罰? 第一、今夜はホテルを取ってある」
「私の家をホテルにすればいいじゃないか! どこのホテルにも負けないよ、うちは!」
「……何を競っているの? 話が見えない。
もうここに用はないし、この人は放っておこう。行くよ、##NAME1##」
手首を捕まれる。しかし、##NAME1##は動かなかった。
「##NAME1##?」
アンリは驚いて、彼女を見つめた。
「君まで何? まさか、僕より彼の言うことを聞くというの? どうして」
アンリが、はっとする。
「テオ、貴方のせいなの? 僕が目を離している隙に」
テオを睨んだ。キツイ眼差しだ。
「##NAME1##のことはたぶらかさないで。彼女は僕と結婚しているの。
彼女に手を出すなら、幾ら貴方でも許さない。##NAME1##は僕のだ」
テオは額を押さえ、芝居がかった調子でふらつく。
「ああ、これだ! だから、姫を悲しませるのだよ、君は!」
テオが立腹してみせる。だが、プンプンといったかんじで可愛らしい。
本気で怒っているわけではないのだ。
「いけないよ、アンリ」
テオは優しく言った。
「それでは、まるでオモチャを取られた子供のようじゃないか?」
「……貴方は、何を言ってるの」
「よしっ! 解らないなら、解るまで教えるから、とにかく私の家においで!」
「だから、なんで貴方の家に」
「決まっているじゃないか! 下級生の面倒を見るのは、
上級生の役目だからだよ。シュヌーシアの伝統だからね!」
「僕はシュヌーシアじゃ」
「ゼノ! そういうわけだから、うちのみんなに電話をしておくれ!
これから、大切なゲストを二人連れて帰るよとね!」
いつから居たのか、テオの背後には、背の高い男性が控えていた。
長い金髪。色はテオよりやや暗い。細いシャープな眼鏡をかけている。
「しかし、テオ様、よろしいのですか? そのようなお節介をしては、ご夫妻にご迷惑では?」
「えっ!? 私、お節介!?」
テオはビックリしている。急にしゅんとなった。
「……ゼノが本当にそう思うのなら、止めようかな、私……」
眼鏡の男性は苦笑した。
「いえ。申し訳ございません。テオ様が仰るように、
今のご夫妻にはテオ様の手助けが必要なのかもしれませんね」
テオの表情がぱあっと明るくなる。
「そうだろう!? ああ、良かった! 私が二人に迷惑をかけているのかと思ったよ!」
アンリがぼそりと言う。
「僕は迷惑なんだけど」
眼鏡の男性が、まあまあと宥める。
「サン・ジェルマン様? ここはひとつ、テオ様のご提案に乗ってみてはいかがでしょう?
当家のゲストルームが、他のホテルに引けを取らないのは事実ですし、
テオ様のご学友から宿泊費を取るような真似も致しません。
そう思えば、サン・ジェルマン様にとっても、悪いお話ではないと存じますが?」
「ところで、貴方は誰なの?」
「ああ、失礼致しました。申し遅れましたが、私」
テオは##NAME1##に話しかける。
「あ、そうだ! 姫? お腹は空いていないかい?
先程はあまり料理を召し上がっていなかったみたいだし。
姫は何がお好きなのかな? うちのシェフはね、とっても腕が良いから、何でも作ってくれるよ?
やはりここはギリシャ料理のフルコースかな? それとも、ジャパンの料理が良い?
オスシも得意だし、アボカドマグロ丼だって用意できるよ!
あれ? アンリー! 早くうちに帰るよー!
帰ったら再会記念パーティーをするんだからね!」
「何を勝手に……なんでパーティーのあとにパーティーしなくちゃならないの」
三人の後方で、眼鏡の男性が微笑んでいる。
携帯電話を取り出し、手短に必要な手配を済ませ、三人のあとに続いた。
会場を出て行こうとする様子を見て、擦れ違った人達がテオに声をかけていた。
「おや。メネシス様、今日はもうお帰りですか?」
「ああ、はい」
テオが足を止めたので、##NAME1##とアンリも止まった。
周囲に居た紳士淑女がわらわらとテオに近寄ってくる。
「お早いお帰りなんですね。残念です」
「まだ夕方ですよ? もう少し良いじゃないですか。
例の件についてご説明させて頂きたかったのに」
「私もテオ様ともっとお話ししたかったですわ」
「私は、まだご挨拶もしていないのに。次はいつお会いできますか?」
大人気である。あっと言う間にテオは取り囲まれてしまった。
輪の外から##NAME1##は呆然と見ていた。すると、隣から冷たい溜め息が聞こえた。
アンリだ。おそらく##NAME1##にしか聞こえなかっただろうが。
彼は確かに小さく毒づいた。敵意しかない声で「ハイエナが」と。
輪の中心に居るテオは、笑顔で応対していた。
「申し訳ありません。今日はお先に失礼しますが、私は来週のパーティーにも伺う予定ですので、
その時にまた皆様とお話しさせて頂ければと思います。
今日は、友人とばったり会ったものですから、
我が家に招いて、再会を祝したいと思いまして。
あ、そちらの人見知りしている子が私の旧友でしてね?
これでも男性なのですよ。美しいでしょう?
実は彼が、かの有名な、フランスで投資会社を営むサン・ジェルマン社長です!」
その姓を聞き、テオを囲んでいた人達は、一斉にザワザワする。
ついさっきまでテオのご機嫌取りをしていた彼等は、
本気かお世辞か解らないが、アンリを褒め称え始めた。
「サン・ジェルマン伯爵家の末裔様でしたか!」
「これは驚きました! 彼があの有名な!」
「永遠の美貌とは本当だったのですね! なんてお美しい!」
「まさかギリシャでお目にかかれるとは!」
わらわらと囲まれてアンリが困ってる。
「ちょっと、テオ」
テオは笑顔で演説を続けている。
「そう! 21世紀の錬金術師とは彼のことなのです!
皆様、どうぞ彼を、アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマンを、よろしくお願い致します!
さあさ! 彼と名刺交換したい方は一列に並んで下さーい!」
結局、パーティー会場を出たあとは、テオの車に乗って、メネシス家まで連れてこられた。
「一日でこんなにたくさんの名刺が貰えるなんて!」
テーブルの上には、たくさんの名刺が乗っている。
「さすがはアンリ! 人気者だね!」
「要らないし、こんなに」
テオによって急遽開催された、アンリの名刺交換会にて、押し付けられた名刺達だ。
「でも、人脈作りは、アンリのビジネスでも重要だろう?」
「まあ、この一枚が手に入ったのは、ラッキーだったけど」
アンリはひとつだけ手に取り、人差し指と中指で挟んだ。
白地に黒文字の名刺。派手な装飾をした名刺が多い中、そのシンプルさが逆に目を惹く。
「名刺ひとつ見ても、悪くない。君もそう思わない?」
悪くないねと頷きながら、それにしてもカードが似合う人だなあと##NAME1##は思う。
アンリが持つと名刺もタロットカードに見えてくるから不思議だ。
彼は満足そうに、白い名刺を眺めてる。本当に嬉しいみたいだ。
「彼の名刺はこれで良いんだよ。
ハイエナ達と違って、彼は着飾る必要がないから」
どんな人なの、と##NAME1##は聞いた。
すると、アンリは、きょとんとした。
「どうして、そんなこと聞くの? 君、まさか、彼に興味あるの?」
あるわけない。全く知らない人なのだから。
アンリが興味を持っているみたいだから、誰なのか気になっただけだと説明した。
「そう。彼は、ゲームプログラマーだよ。覚えていない? 気弱そうに名刺をくれた若い人だよ」
居た気がする。首許の襟が曲がっていたあの人かもしれない。
「元は有名なゲームの開発チームに居た人なんだけど、最近独り立ちして、自分の会社を作ったんだ。
彼が作るコンピューターグラフィックは、本当に綺麗なんだよ、現実以上に」
ゲームプログラマーに、元映画監督。
テオの読み通り、娯楽産業に手を出すつもりなのかもしれない。
「アンリのお眼鏡に適う人が居たんだね! 良かった良かった!
いやあ、礼には及ばないよ、アンリ」
「うん。貴方の思い付きで無理矢理やらされただけだものね」
「アンリ、アンリ! 私で何かできることがあったら何でも言っておくれ!」
「貴方は、僕が何をしようとしているか解って言ってる?」
「ううん! でもアンリなら、きっと素晴らしいことを考えているに違いないからね!」
「そういうお気楽なところも変わらないんだね。
周りを信じてばかりだと、いつかハイエナ達に食われるよ?」
テオは微笑した。
「私のことを心配して言ってくれたのだね? ありがとう、アンリ。
けれど、彼等のことをあまり悪く言うものではないよ?」
「だって、事実だもの。貴方はお人好し過ぎる」
「アンリも変わらないねえ」
ディナーが運ばれてきた。
アンリも##NAME1##もパーティーでは殆ど食事をしていなかったので、
メネシス家の専属シェフが夕食を用意してくれた。
「アンリ? もう食べないのかい?」
「そんなに、食欲ないから」
「そう言えば、アンリは昔から小食だったものね」
フルコースみたいなものが出てきたらどうしようかと思ったが、出てきたのは、ハンバーガーだった。
ムサカというギリシャ料理を、もっと気軽に食べて貰えるようにアレンジしたものらしい。
味も良く、量も丁度良かった。
テオが事前に「それほどお腹は空いていないんだね?」と聞いてくれたおかげだろう。
「姫? お口に合ったかい? そう。良かった!」
##NAME1##の顔を見て、テオが思い出す。
「ああ、そうだ、アンリ。先程の話だけどね?」
アンリは頬杖を突いている。
「唇」
「え?」
「ソースが付いてる」
「ああ、ありがとう」
テオは白い布でキュキュッと口許を拭いた。
「それで、話というのはね? 姫が着ていたスカイブルーのドレスのことなんだ」
「##NAME1##の? それがどうかしたの?」
「ひょっとして、あれはアンリが選んだものじゃないかと思ってね」
「それのどこがいけないの? 僕は彼女の為に一級品を新調したんだよ?」
「姫が着る衣装なのに、何故、姫に選んで貰わなかったのかが、私には疑問なのだよ。
姫は君の着せ替え人形ではないのだから。
もしかしたら、姫は他のドレスが着たかったかもしれない。
青も綺麗だったが、姫には白や黒のドレスも似合いそうだし」
テオは諭すように優しく語りかける。
「結婚していても、彼女は君の所有物になったわけではないんだ。
例え、君にそのつもりはなくても、君の言動は周りにそう思わせる、私にも、彼女にもね?」
アンリが##NAME1##のほうを見る。
だが、その時、##NAME1##はアンリと目を合わせられなかった。
「いいかい、アンリ? 姫を大切にするということは、必ずしも高価な物を贈ることではないんだ。
どうしたら姫が喜んでくれるかが一番重要なのだよ?
普段も、姫が何を望んでいるか、ちゃんと姫に聞いているかい?
聖アルフォンソ学院は紳士を輩出する学校だ。
君も卒業生なのだから、学校で習ったことだろう?
レディの願いを叶えることは、紳士の喜びだと」
「……習ってない」
ムスッとしたアンリを見て、テオは笑った。
「君が誰より彼女を大切にしているのは私にだって解る。
入学時の君は誰にも心を閉ざしていたが、当時に比べると、君は本当に立派な紳士になった。だって」
にこりと##NAME1##に笑顔を向ける。
「こんなに素晴らしい女性に選ばれたのだもの」
ね、と言って微笑んだ。
翌朝。「もっとゆっくりしていっていいのだよ?」と言うテオを振り切って、
アンリは##NAME1##を連れて、ギリシャから出国した。
フランスに到着すると、アンリの部下が迎えに来ていた。
「僕は会社に寄っていくから、##NAME1##は先に帰ってて」
アンリと別れ、##NAME1##は一人で帰宅した。
夜。家のドアが開く音がした。
玄関に一番近い部屋に居た##NAME1##は、アンリが帰ってきたと思って、迎えに出た。
「よう、久し振りだなあ、嬢ちゃん。ドアまで迎えに来やがって。妬けるじゃねえか」
アンリではない、長身の男が立っていた。
歪んだ黒髪。濃い髭。彫りの深いイタリア顔。
「仕事でフランスまで来たからよ、新妻とイチャイチャしてるとこをジャマしてやろうと思って、
わざわざ寄ったんだが、その様子だとまだ帰ってねえみてえだな、あのクソガキは」
在学中、アンリがボディーガードとして雇っていた男。
シチリアマフィア、マンゾーニ・ファミリー次期ボス。ディーノ・マンゾーニだ。
アンリは父親の没後、身の危険を感じることは減った筈だが、
まだこのマフィアと手を切っていないのだ。
「つーか、ドアのカギ開いてたぞ? 日本の習慣が抜けてねえのか?
平和ボケしてっからなー、あの国は。ダメだろ? 物騒な世の中なんだからな?」
一番物騒なものの侵入を許してしまった。
我が物顔でディーノが勝手にリビングに入っていく。
止める暇もなく、##NAME1##はマフィアを追い駆けた。
マフィアはソファの背に腕を広げ、ドカッと座った。
「ん? 何、んなトコに突っ立ってんだよ? お前もココ来て座んな?」
隣に座れとソファをポンポンと叩く。
逆らうのもマズイ気がして、##NAME1##はマフィアから一人分離れて座った。
そんな様子を見て、マフィアは笑っていた。
「そういや、昨日は俺が傍に居てやれなくて、悪かったなあ。
パパに言われて、フランスに来てたからよ。
だが、お前等にはフィオが付いてたから、こうして無事に帰ってこれただろ?」
フィオというのは、マンゾーニ家の舎弟の一人でフィオラノさんという人だ。
マフィアとは思えないような優しい男の人。
彼が傍に居たとは##NAME1##は気付かなかった。アンリからも言われてなかった。
「フィオに聞いたぜー? 昨日はホテルをキャンセルして、男の家でお泊まりしたんだって?
やるじゃねえか、嬢ちゃん。案外、魔性なんだな?」
マフィアが笑っている。
「今日はコーヒーでも飲ませて貰うつもりだったんだが、気が変わったぜ。ダンナも居ねえことだし?」
あっと思った時には、マフィアの腕が##NAME1##の肩に回っていた。
「イイコトでもすっか?」
玄関のドアが閉まる音がした。足音が近付いてくる。
リビングのドアが開く。
「##NAME1##、またカギが開いてたよ? 何度も言うようだけど、危ないから閉めてと」
アンリの足下に薔薇の花束が落ちた。
fin
■ウーティス寮
シルヴァンとハルヤは、アイヴィーの自宅に遊びに来ていた。
アイヴィーが作ったパスタを平らげたあと、グリーンティで一息入れていた時のことだ。
「DJジョージのハッピー☆ラッキー☆ナイト!
今日もゴキゲンなミュージックをお送りしてるYO!」
BGM代わりに流していたFMラジオ。今、放送されているのは、
この島で10年続いている人気番組、通称『ハピラキ』である。
放送枠は、月曜日から金曜日の17時から19時まで。2時間生放送の音楽番組だ。
CM明けに派手なファンファーレが鳴った。
「この音が鳴ったということは、そう! スペシャルライブのお知らせだYO!」
イイ声の男性パーソナリティーが今日も陽気にお喋りしている。
「四月は春のフォークソング特集! みんなのハートに優しい春風、届けちゃうYO!
今月は毎週水曜日に、世界中から選りすぐりの男性フォークシンガーに来て貰ってるんだ!
先週はイタリアから、あのヴァレンティーノ・フェッリが来てくれたよね!
レディのみんなは、彼のスウィートボイスに腰砕けだったんじゃないかな?
トークコーナーでは、歌っている時とは全然違うお茶目な一面を見せてくれたよね!
そして今週水曜日に来てくれるのはー、ジャパンからヤタロー・モリサキ! ヒュ~!
代表曲は、そう、今流れてきた『シロツメクサ』、リッスン!」
バックに流れていた曲のボリュームが上がる。
ゆったりとした曲だ。囁きかけるような歌い方をしている。
アコースティックギターの音色が耳に心地良いとアイヴィーは思った。
日本語のまま歌われているので、アイヴィーには歌詞の意味は解らないのだが、
なんだか気持ちが落ち着く声だ。アイヴィーの人差し指は、自然とリズムを取っていた。
曲の一番が終わると、DJが再び話し始めた。
「ヒュ~! 優しくてあったかい曲だと思わない?
あ、ちなみに『シロツメクサ』は、英語ではクローバーのことなんだって!
ヤタローの声に酔いしれたいレディース・エーンド・ジェントルメーン!
今週水曜日はみんなでライブハウス『グラッパ』に来ちゃいなYO!
公開リハーサルは16時、ライブ本番は18時だから、ドーン・ミス・イット!
ハウスに来れないみんなも、ドーンウォーリー!
この番組でも生中継しちゃうから、お聞きのチャンネル、要チェキラー!」
マグカップを両手で持ちながら、ハルヤがぼそりと言う。
「ふうん。この島に弥太郎さんが来るんだ。すごいなあ」
アイヴィーは煙草の灰を落としながら、
「へえ。ハルヤも知ってるミュージシャンなのか?」
「うん。確かミリオンセラーだったし」
「そうですよ、アイヴィー。ヤタロー・モリサキは、
ニッポンでフォークの貴公子と呼ばれた有名なシンガーなんです!」
「よく知ってるね、シルヴァン」
「友達にCDを聞かせて貰ったことがあるんですー。でもハルヤこそよくご存知でしたね?
ハルヤにとって『シロツメクサ』は、ちょっと昔のヒットソングではないですか?」
「そうかも。兄様がよく聞いてて、俺も好きになった歌だから」
「成程。お兄様との思い出の曲でしたか」
水曜日の放課後、ハルヤはベッドの中で横たわっていた。
薬を飲んで、先程よりは楽そうには見えるが、
レンズ越しでない黒い瞳はまだ少し潤んでいる。
「俺のことはいいから、シルヴァンは行っておいでよ」
シルヴァンはハルヤの手を取る。
「でも、ハルヤを置いて行くなんて」
ハルヤは時計を見上げながら、
「ほら、早く行かないと、弥太郎さんのライブに間に合わなくちゃう」
ラジオを聞いたシルヴァンとハルヤは二人でライブハウスに行く約束をしたのだが、
当日の午後になって、ハルヤが体調を崩してしまった。
保健室に行き、熱を計ったところ微熱があった。
医師免許を持つ保健教師からは薬を処方され、
今日は自室で安静にしていなさい、と外出を止められてしまったのである。
熱い吐息を漏らしながらもハルヤは笑顔を見せる。
「俺はラジオで生放送聞くから、シルヴァンは俺の分までライブ、楽しんで来てよ」
「でも、ハルヤ……」
「シルヴァンだって、あんなに楽しみにしてたじゃん?
俺のせいでシルヴァンが行けなくなるなんて、やだよ」
シルヴァンは握っていた手を離す。
「……解りました。じゃあ僕、ハルヤの代わりだと思って行ってきます」
アルフォンソ島の新市街。
ショッピングモール付近のタクシー乗り場に一台停車している。
『予約車』のプレートを掲げた黄色いタクシー。
運転席に居るのは金髪のドライバー、アイヴィーだ。ハンドルに両腕と顎を乗せている。
カーラジオから聞こえてくるのは、音楽番組だ。
「DJジョージのハッピー☆ラッキー☆ナイト!
今日は東洋から来たフォークシンガー、ヤタロー・モリサキをゲストにお送りしてるYO!
このあと、ライブハウスのステージで歌って貰うからねー!
番組が始まる前、ヤタローは公開リハーサルをやってたんだけど、
そのあと、急遽ミニサイン会もやったんだって?」
「うん。リハーサルを聞いて、CDを買ってくれた方が何人も居たから、お礼にね。
CDを手に取ってくれた方、どうもありがとうございました」
「ヒュ~! やっさすぃ~! ジョージもヤタローに惚れちゃいそうだ!
実は、その中の一人から、番組にお礼のメールが届いてるんで、読んじゃうYO!
ラジオネーム・マーチヘアーさんからのメール!
『公開リハーサル聞きました! すっごくステキでした!
リハの後、CDにサインまで書いてくれて、ありがとうございました。
名前を書いて貰う時に、明日誕生日なんですと言ったら、
メッセージも書いてくれてありがとうございました。
だけど、ウソを吐いてすみません。本当は僕の名前じゃなくて、友達の名前だったんです。
友達が明日誕生日なので、バースデープレゼントのひとつとして、
今日サインして貰ったCDを友達に贈りたいと思っています。
素敵なバースデープレゼント、どうもありがとうございました。
ライブ本番も楽しみです。客席から応援しています!』……だって。
ヒュ~! ヤタロー、この子のこと覚えてるかい?」
「うん。覚えてるよ。可笑しいなと思ったんだ。
どう見ても名前と顔が合っていなかったから。
サインした時は、ハーフの子なのかなとも思ったんだけど、そういうことだったのか。
嬉しいね、僕のファンにこんなに友達思いの子が居るなんて。
明日はお友達と楽しい誕生日を過ごしてね。
一日早いけど、お誕生日おめでとう、ハルヤくん」
その名を聞いて、タクシードライバーは一瞬あっけにとられた。DJのお喋りは続く。
「それじゃ、ここでヤタローから一曲、ナマで歌って貰っちゃうYO!
ヤタローはステージに行っちゃって!」
「はい。じゃ、行ってきます」
「ン~。去り際も爽やかボーイだね~。スタジオの中なのに、春風を感じたYO!
春の歌を持つミュージシャンは、みんな笑顔が優しい気がするのはジョージだけー?
ソーリー! これラジオだから、みんなにはヤタローの顔が見えないじゃないかー!
さっきのメールをくれたマーチヘアーさん、ホットなメール、センキュウ!
それから、オレからも言わせて貰おうかな? ハッピーバースデー、ハルヤー!
DJジョージに祝って貰えるなんて、このラッキーボーイめ! ヒュ~!
そんなこんなで、そろそろヤタローはステージに着いたかなー?
オーケイ! 準備できたみたいだね。じゃ、いってみようかー!
東洋からきたフォークのプリンスからあなたへ、
ヤタロー・モリサキで『シロツメクサ』、ジョイナス!」
カーラジオからフォークソングが流れる。
ハンドルに凭れながらラジオを聞いていたタクシードライバーは、
「つか、何、メール読まれてんだよ、あいつ」
腕の中に顔を埋めてククと笑い出した。
コンコン。突然、音がしてビクッとする。
運転席の窓がノックされたのだ。
窓の外で立っていたのは、不機嫌な顔をした美少年。
その後ろには、申し訳なさそうに一礼する生徒代表が居た。
二人を後部座席に乗せ、黄色いタクシーは走り出す。目的地は聖アルフォンソ学院だ。
ドライバーはミラーを使って、後ろを見る。
美少年は窓側を見たまま、喋らずにいる。生徒代表は膝に抱えた荷物の中を覗いていた。
「今日はエライ大荷物だな?」
ドライバーが尋ねると、生徒代表が返事をした。
「ええ。ちょっと買い過ぎてしまったかもしれません。
なんだか楽しくて。新市街まで買い物に来るのは久し振りでしたし」
「なあ。お前さん達が今日買った物で、明日何するか、当ててやろうか?」
「えっ?」
深紅の瞳がぱちりと瞬く。窓を見ていた琥珀の瞳も正面を向いた。
ドライバーはフフンと笑う。
「今日買った物で、明日ハルヤのバースデーパーティをやるんだろ?」
生徒代表は少し身を乗り出した。
「すごい。どうして解ったんですか?」
「ま。お前さん達との付き合いも長いからな」
窓ガラスの向こうで宵闇の空が流れていく。
「明日、楽しいパーティになりそうだな」
気の早い星達が白く輝いていた。
fin
アイヴィーが作ったパスタを平らげたあと、グリーンティで一息入れていた時のことだ。
「DJジョージのハッピー☆ラッキー☆ナイト!
今日もゴキゲンなミュージックをお送りしてるYO!」
BGM代わりに流していたFMラジオ。今、放送されているのは、
この島で10年続いている人気番組、通称『ハピラキ』である。
放送枠は、月曜日から金曜日の17時から19時まで。2時間生放送の音楽番組だ。
CM明けに派手なファンファーレが鳴った。
「この音が鳴ったということは、そう! スペシャルライブのお知らせだYO!」
イイ声の男性パーソナリティーが今日も陽気にお喋りしている。
「四月は春のフォークソング特集! みんなのハートに優しい春風、届けちゃうYO!
今月は毎週水曜日に、世界中から選りすぐりの男性フォークシンガーに来て貰ってるんだ!
先週はイタリアから、あのヴァレンティーノ・フェッリが来てくれたよね!
レディのみんなは、彼のスウィートボイスに腰砕けだったんじゃないかな?
トークコーナーでは、歌っている時とは全然違うお茶目な一面を見せてくれたよね!
そして今週水曜日に来てくれるのはー、ジャパンからヤタロー・モリサキ! ヒュ~!
代表曲は、そう、今流れてきた『シロツメクサ』、リッスン!」
バックに流れていた曲のボリュームが上がる。
ゆったりとした曲だ。囁きかけるような歌い方をしている。
アコースティックギターの音色が耳に心地良いとアイヴィーは思った。
日本語のまま歌われているので、アイヴィーには歌詞の意味は解らないのだが、
なんだか気持ちが落ち着く声だ。アイヴィーの人差し指は、自然とリズムを取っていた。
曲の一番が終わると、DJが再び話し始めた。
「ヒュ~! 優しくてあったかい曲だと思わない?
あ、ちなみに『シロツメクサ』は、英語ではクローバーのことなんだって!
ヤタローの声に酔いしれたいレディース・エーンド・ジェントルメーン!
今週水曜日はみんなでライブハウス『グラッパ』に来ちゃいなYO!
公開リハーサルは16時、ライブ本番は18時だから、ドーン・ミス・イット!
ハウスに来れないみんなも、ドーンウォーリー!
この番組でも生中継しちゃうから、お聞きのチャンネル、要チェキラー!」
マグカップを両手で持ちながら、ハルヤがぼそりと言う。
「ふうん。この島に弥太郎さんが来るんだ。すごいなあ」
アイヴィーは煙草の灰を落としながら、
「へえ。ハルヤも知ってるミュージシャンなのか?」
「うん。確かミリオンセラーだったし」
「そうですよ、アイヴィー。ヤタロー・モリサキは、
ニッポンでフォークの貴公子と呼ばれた有名なシンガーなんです!」
「よく知ってるね、シルヴァン」
「友達にCDを聞かせて貰ったことがあるんですー。でもハルヤこそよくご存知でしたね?
ハルヤにとって『シロツメクサ』は、ちょっと昔のヒットソングではないですか?」
「そうかも。兄様がよく聞いてて、俺も好きになった歌だから」
「成程。お兄様との思い出の曲でしたか」
水曜日の放課後、ハルヤはベッドの中で横たわっていた。
薬を飲んで、先程よりは楽そうには見えるが、
レンズ越しでない黒い瞳はまだ少し潤んでいる。
「俺のことはいいから、シルヴァンは行っておいでよ」
シルヴァンはハルヤの手を取る。
「でも、ハルヤを置いて行くなんて」
ハルヤは時計を見上げながら、
「ほら、早く行かないと、弥太郎さんのライブに間に合わなくちゃう」
ラジオを聞いたシルヴァンとハルヤは二人でライブハウスに行く約束をしたのだが、
当日の午後になって、ハルヤが体調を崩してしまった。
保健室に行き、熱を計ったところ微熱があった。
医師免許を持つ保健教師からは薬を処方され、
今日は自室で安静にしていなさい、と外出を止められてしまったのである。
熱い吐息を漏らしながらもハルヤは笑顔を見せる。
「俺はラジオで生放送聞くから、シルヴァンは俺の分までライブ、楽しんで来てよ」
「でも、ハルヤ……」
「シルヴァンだって、あんなに楽しみにしてたじゃん?
俺のせいでシルヴァンが行けなくなるなんて、やだよ」
シルヴァンは握っていた手を離す。
「……解りました。じゃあ僕、ハルヤの代わりだと思って行ってきます」
アルフォンソ島の新市街。
ショッピングモール付近のタクシー乗り場に一台停車している。
『予約車』のプレートを掲げた黄色いタクシー。
運転席に居るのは金髪のドライバー、アイヴィーだ。ハンドルに両腕と顎を乗せている。
カーラジオから聞こえてくるのは、音楽番組だ。
「DJジョージのハッピー☆ラッキー☆ナイト!
今日は東洋から来たフォークシンガー、ヤタロー・モリサキをゲストにお送りしてるYO!
このあと、ライブハウスのステージで歌って貰うからねー!
番組が始まる前、ヤタローは公開リハーサルをやってたんだけど、
そのあと、急遽ミニサイン会もやったんだって?」
「うん。リハーサルを聞いて、CDを買ってくれた方が何人も居たから、お礼にね。
CDを手に取ってくれた方、どうもありがとうございました」
「ヒュ~! やっさすぃ~! ジョージもヤタローに惚れちゃいそうだ!
実は、その中の一人から、番組にお礼のメールが届いてるんで、読んじゃうYO!
ラジオネーム・マーチヘアーさんからのメール!
『公開リハーサル聞きました! すっごくステキでした!
リハの後、CDにサインまで書いてくれて、ありがとうございました。
名前を書いて貰う時に、明日誕生日なんですと言ったら、
メッセージも書いてくれてありがとうございました。
だけど、ウソを吐いてすみません。本当は僕の名前じゃなくて、友達の名前だったんです。
友達が明日誕生日なので、バースデープレゼントのひとつとして、
今日サインして貰ったCDを友達に贈りたいと思っています。
素敵なバースデープレゼント、どうもありがとうございました。
ライブ本番も楽しみです。客席から応援しています!』……だって。
ヒュ~! ヤタロー、この子のこと覚えてるかい?」
「うん。覚えてるよ。可笑しいなと思ったんだ。
どう見ても名前と顔が合っていなかったから。
サインした時は、ハーフの子なのかなとも思ったんだけど、そういうことだったのか。
嬉しいね、僕のファンにこんなに友達思いの子が居るなんて。
明日はお友達と楽しい誕生日を過ごしてね。
一日早いけど、お誕生日おめでとう、ハルヤくん」
その名を聞いて、タクシードライバーは一瞬あっけにとられた。DJのお喋りは続く。
「それじゃ、ここでヤタローから一曲、ナマで歌って貰っちゃうYO!
ヤタローはステージに行っちゃって!」
「はい。じゃ、行ってきます」
「ン~。去り際も爽やかボーイだね~。スタジオの中なのに、春風を感じたYO!
春の歌を持つミュージシャンは、みんな笑顔が優しい気がするのはジョージだけー?
ソーリー! これラジオだから、みんなにはヤタローの顔が見えないじゃないかー!
さっきのメールをくれたマーチヘアーさん、ホットなメール、センキュウ!
それから、オレからも言わせて貰おうかな? ハッピーバースデー、ハルヤー!
DJジョージに祝って貰えるなんて、このラッキーボーイめ! ヒュ~!
そんなこんなで、そろそろヤタローはステージに着いたかなー?
オーケイ! 準備できたみたいだね。じゃ、いってみようかー!
東洋からきたフォークのプリンスからあなたへ、
ヤタロー・モリサキで『シロツメクサ』、ジョイナス!」
カーラジオからフォークソングが流れる。
ハンドルに凭れながらラジオを聞いていたタクシードライバーは、
「つか、何、メール読まれてんだよ、あいつ」
腕の中に顔を埋めてククと笑い出した。
コンコン。突然、音がしてビクッとする。
運転席の窓がノックされたのだ。
窓の外で立っていたのは、不機嫌な顔をした美少年。
その後ろには、申し訳なさそうに一礼する生徒代表が居た。
二人を後部座席に乗せ、黄色いタクシーは走り出す。目的地は聖アルフォンソ学院だ。
ドライバーはミラーを使って、後ろを見る。
美少年は窓側を見たまま、喋らずにいる。生徒代表は膝に抱えた荷物の中を覗いていた。
「今日はエライ大荷物だな?」
ドライバーが尋ねると、生徒代表が返事をした。
「ええ。ちょっと買い過ぎてしまったかもしれません。
なんだか楽しくて。新市街まで買い物に来るのは久し振りでしたし」
「なあ。お前さん達が今日買った物で、明日何するか、当ててやろうか?」
「えっ?」
深紅の瞳がぱちりと瞬く。窓を見ていた琥珀の瞳も正面を向いた。
ドライバーはフフンと笑う。
「今日買った物で、明日ハルヤのバースデーパーティをやるんだろ?」
生徒代表は少し身を乗り出した。
「すごい。どうして解ったんですか?」
「ま。お前さん達との付き合いも長いからな」
窓ガラスの向こうで宵闇の空が流れていく。
「明日、楽しいパーティになりそうだな」
気の早い星達が白く輝いていた。
fin
「妃殿下」
振り向いて下さらない。
何か考えごとをされているのだろうか。窓の向こうを見たまま、動かない。
臣下はもう一度「妃殿下」とお呼びしたが同じだった。
「##NAME1##様」
お名前でお呼びすると、肩がビクッと跳ね、「は、はいっ」とこちらを向いた。
その初々しさは、大公家に数年仕えているホワイトには、微笑ましかった。
「妃殿下と呼ばれることに、まだ慣れて頂けていないようですね」
妃殿下は俯かれ、すみません、と仰った。
「いえ、無理もありません。妃殿下はつい先日まで、
日本の一般家庭で暮らしておいででしたから。
徐々に慣れて頂ければ良いのです。ご自分がロレートのプリンセスだということに」
ここはロレート公国。
去る建国記念式典にて、ジョシュアの王位継承権復帰と共に、
その婚約者として##NAME1##は発表された。
ジョシュアの学院卒業後、##NAME1##は彼と一緒にこの国へやってきた。
大々的な結婚式も済ませ、大公家の邸が##NAME1##の新たな住まいとなった。
今日の日中は公式行事があり、カーディス国王陛下、ジョシュア殿下と一緒に、
五時間にも及ぶ儀式に出席してきたのである。
但し##NAME1##はスピーチなどの出番はなく、
今日は、ただ大人しく座っていることが##NAME1##の仕事だったのだが、
たくさんの人とカメラの前に居たことから、どうしても気が張っていた。
せめて人前では、お姫様らしくしていなくちゃ、というプレッシャー。
自分が何かミスをすれば、そのパートナーであるジョシュアにも恥をかかせる。
もっと言えば、ジョシュアを次期国王に選んだカーディス陛下、
そして、ロレート公国全体に迷惑がかかる場合もあるだろう。
大好きな人とずっと一緒に居たくて、この国に来たけれど、
一国の姫になるということは、想像以上の責任と重圧があった。
大した出番のなかった今日だって、
国民から「プリンセスー!」と呼ばれれば、笑顔で手を振らなくていけない。
未だに信じられないことだが、「プリンセス」とは私のことなのだから。
殆ど座ってただけなのに、儀式が終わったあとは、ぐったりした。
プリンセスと決まってから、##NAME1##には何人もの臣下やメイドさんが付いた。
今、目の前に居るのは、ブラウン・ホワイトさん。
背が高く、綺麗な長い髪を持つ、超絶イケメンである。
他の臣下の人から聞いた情報によると、
ホワイトさんは、33歳。独身。性格はバカが付くほどマジメ。仕事バカでもある。
ま、臣下としてはよくできたヤツだから、仲良くしてやってよ、姫サマ。
……とのこと。臣下の方がそう言っていたのであって、##NAME1##の言葉ではない。
情報を教えてくれた、茶髪のあの人は陛下の臣下らしいが、随分軽いかんじの人だった。
ちなみに彼もイケメン。名前は何といっただろう。
聞いた筈なのに、紹介された人が多過ぎて忘れてしまった。
皇室の中にもああいう――言葉は悪いが――チャラいノリの人が居るんだなと少し驚いた。
彼が言うには、ホワイトさんは元々、カーディス陛下に仕える臣下の一人だった。
ジョシュアと##NAME1##がロレートに来たことで、
陛下直々の命により、殿下・妃殿下の専属へと異動になったらしい。
肩書きの上ではジョシュアの側近となっているが、
##NAME1##のことも同じように世話してくれる。
二人に付く従者の中で、おそらくトップの地位にあるのがホワイトさん。
きっと、カーディス陛下から厚い信頼を受けての結果だろう。
初めてホワイトさんに会った時は、なんだか冷たい第一印象で、
厳しそうな人だなと思ったものだが、
毎日顔を合わせ、少しずつ話すようになってみると、
仕事はできるし、よく気を遣ってくれるし、
実際は優しい人だったのだなと感じてきたところだ。とにかくカッコイイし。
これは、どうでもいいことだが。いや、そうでもないが。この邸に居る臣下の皆さんは、
イケメン率が高過ぎる。顔で選んだのかと思うくらい美形揃いだ。
中でも、カーディス陛下の側近であるラルヴィス・レイナさんという人は、
最初に会った時、本気で女性かなと思ったくらい綺麗な人だ。
そういった意味でもドキドキする新環境だ。
「妃殿下も今日はお疲れでしょう。今宵はごゆるりとお休み下さい」
「はい。ありがとうございます、ホワイトさん」
「恐れながら申し上げますが、私のことはホワイトと呼んで下さればよろしいのですよ?
私は貴女にお仕えする者なのですから」
「はい。すみません。でも、ホワイトさん、私より年上ですし」
「年齢など関係ございません。貴女は高貴な御方なのですから」
「そんな……私に流れてるのは庶民の血ですよ?」
そこで何故かホワイトさんに微笑まれた。
「妃殿下は殿下と同じく、控えめな方なのですね」
冗談でも謙遜でもなく、どうしようもない事実なのだが。
「では、私はこれで下がらせて頂きます。
御用の際はいつでもお呼び下さいませ。失礼致します」
ホワイトさんが居なくなり、部屋で一人きりになると、溜め息を吐いていた。
ドアがノックされる。##NAME1##が、はいと返事すると、ドアが開いた。
ジョシュアだ。
既に儀式用の礼服から普段着に着替えを終えていた。
「今日の儀式、緊張したね。厳かな雰囲気だったし」
ジョシュアと##NAME1##は並んでソファに座っている。
ローテーブルには、彼が淹れてくれたコーヒーが二人分。
「今日は君が隣に居てくれたから、心強かったよ。
白のロングドレス姿も綺麗だった。##NAME1##は何でも似合うね」
ジョシュアの優しいところは出会った頃から変わらない、王子となっても、夫となっても。
彼と今日の感想や他愛もないことを話していたら、今日の疲れがとれたようだ。
ロレートのプリンセスではなく、いつもの自分に戻れたような気がした。
「それじゃ、俺、シャワーを浴びてくるよ」
ジョシュアはソファから立ち上がった。
一人になった##NAME1##は窓辺に立つ。そこから庭が少し見えるのだ。
この邸には、月桂樹の庭があると聞いていた。
ロレート大公家は古くから聖アルフォンソ学院との繋がりがあり、学院出身者は多い。
そのうちの一人が、卒業後、学院の象徴とも言える月桂樹の森を、邸の庭に再現したのだ。
本物の広大な森と規模は違うが、月桂樹に囲まれた空間がそこにはある。
何代にも渡って、ロレート大公を影で支え、癒やしてきた森。
大公ではない自分では、おこがましいかもしれないが、
##NAME1##もその森に行ってみたくなった。
悪いことかなと思いつつも、誰にも告げずに部屋を出た。
夜の庭に来たのは初めてかもしれない。
四角いタイルの通路は、白いライトで足許が照らされている。
丸くて可愛いライトによって、月桂樹は闇夜に浮かび上がるように光っていた。
昼間の庭とは雰囲気が全然違う。なんて幻想的な空間なのだろう。
「誰かと思えば、うちの姫君じゃないか」
カーディス国王陛下が居た。幹を背凭れにして、地べたに座っている。
一国の王様にしては、驚くほど気軽な姿勢だ。まるでシルヴァンさんみたい。
「どうした、姫君。こんなところで?」
儀式の間とは、まるで別人のようだ。
国民の前で笑顔を見せないと決めている王が、今は柔らかく笑いかけている。
優しい顔に見惚れてしまったのか、返事が少し遅れた。
「あ、いえ。ちょっと、このお邸にある月桂樹の森に来てみたくなって。
でも、陛下がお寛ぎのところ邪魔をしてしまって、すみません。私、部屋に戻りますね」
「何故、戻る? ゆっくりしていけばいい。ここは、そういう場所だしな。
嫌じゃなければ、少し俺の話し相手になってくれないか、姫君?」
失礼します、と一応断って、陛下の傍に座った。
頭上で、さわさわと音がする。葉が揺れているのだ。
「風が出てきたな。寒くはないか?」
「あ、はい。大丈夫です。お気遣いありがとうございます、陛下」
そう言うと、笑われた。
「まるで臣下のような言葉遣いだな。俺相手に気を遣うな。普通に話してくれ。
それから前にも言ったと思うが、国民の目のないところで、『陛下』なんて呼ばなくていい。
姫君は、俺の甥っこの嫁なんだから、義理の姪っこだろう?
俺のことは『カーディスおじさん』で良いんだぞ?」
「無理です、そんな呼び方」
「そうか? なんなら『パパ』でも良いぞ?
俺はジョシュアのことは息子だと思っているしな」
「ええっと。もし、許して頂けるなら、カーディスさんってお呼びしても良いですか?」
「ああ。姫君の好きに呼べばいい」
「カーディスさんも、その『姫君』って呼び方、止めて貰えると嬉しいです。
私は貴方の姪っこなんだから、##NAME1##で良いです」
「それは失礼した。そうだな。確かにフェアじゃない。
しかし、あいつの嫁を、他の男が気安く呼び捨てて、あいつが気を悪くしないといいがな」
「ジョシュアのこと言ってるんですか?
彼はそんな心の狭い人じゃありませんから、大丈夫です!」
「へえ。気が強いところもあるじゃないか?」
「すみません、私、ムキになってしまって」
「さては、今まで姫らしくしてようと猫を被っていたな?」
「いや、別に、そういうわけじゃ……」
「今日の式でも、随分、無理をしていたように見受けられたが?」
「えっ……」
「自分を繕って姫らしく振る舞っても、自分が疲れるだけだぞ。
身分が変わったからと言って、自分まで変える必要などない。もっと本性を出せ」
青い香りを感じた。風が王の毛先を弄ぶ。
「常に自分らしくあれ。皇族の先輩として、俺がお前に言ってやれるのは、そのくらいだ」
少し冷たいが心地好い夜風だ。
「カーディスさんの場合は、本性出し過ぎのような気がしますけど?」
「良いぞ、その調子だ」
国王は笑っていた。
一国の王ならば、「常に姫たる自覚を忘れるな」などと言いそうなものだが。
彼が『規格外の王』と呼ばれる所以が解ったような気がする。
「##NAME1##」
ジョシュアの声だ。邸のほうから駆けて来る。
「ここに居たんだね。部屋に居なかったから、探してしまったよ。……あっ、カーディス」
「よう。すまんな。お前の姫を借りていた。心配するな。
少し話をしていただけだ。そうだろう、##NAME1##?」
「はい」
「陛下」
もう一人、誰かが邸からやってきた。暗がりから次第に姿が見える。
姿勢正しく、きびきびとした足取り、グレイを基調とした軍服に、
金色のショートヘア、中性的な甘いマスク。
美形側近のラルヴィス・レイナさんだ。
「陛下、私を呼んでおきながら、部屋にいらっしゃらないとは、どういう……」
私達の存在に気付き、態度を改める。
「これは妃殿下、殿下もご一緒でしたか」
頭を下げる。
「申し訳ございません。お二方にお見苦しいものをお見せして」
カーディスが笑う。
「お見苦しいものとは俺のことか?」
側近は答えない。
「お二方に陛下がご迷惑をおかけしていませんでしたか?」
「いいえ」
「大丈夫です」
「さようでしたか。今後、何かありましたら、すぐ私にお申し付け下さいませ。
私からよく言って聞かせますので。
さあ、陛下、夜風は身体に触ります。お部屋にお戻り下さい」
陛下はゆっくり立ち上がりながら、
「焦るな、ラルヴィス。まだ夜は始まったばかりだろう?」
側近は主を少し睨み、二人に向かって頭を下げた。
「では殿下、妃殿下。御前を失礼致します。おやすみなさいませ」
「お前達も良い夜をな、ご両人?」
側近の背に陛下が続いた。
陛下が側近の隣まで追い付くと、二人は何か話しながら歩いていた。
「俺達も戻ろう、##NAME1##」
ジョシュアは手を差し出していた。
##NAME1##がその手を握る。彼は嬉しそうに微笑んだ。
「行こう」
二人で歩き始める。あたたかい手だった。

fin
振り向いて下さらない。
何か考えごとをされているのだろうか。窓の向こうを見たまま、動かない。
臣下はもう一度「妃殿下」とお呼びしたが同じだった。
「##NAME1##様」
お名前でお呼びすると、肩がビクッと跳ね、「は、はいっ」とこちらを向いた。
その初々しさは、大公家に数年仕えているホワイトには、微笑ましかった。
「妃殿下と呼ばれることに、まだ慣れて頂けていないようですね」
妃殿下は俯かれ、すみません、と仰った。
「いえ、無理もありません。妃殿下はつい先日まで、
日本の一般家庭で暮らしておいででしたから。
徐々に慣れて頂ければ良いのです。ご自分がロレートのプリンセスだということに」
ここはロレート公国。
去る建国記念式典にて、ジョシュアの王位継承権復帰と共に、
その婚約者として##NAME1##は発表された。
ジョシュアの学院卒業後、##NAME1##は彼と一緒にこの国へやってきた。
大々的な結婚式も済ませ、大公家の邸が##NAME1##の新たな住まいとなった。
今日の日中は公式行事があり、カーディス国王陛下、ジョシュア殿下と一緒に、
五時間にも及ぶ儀式に出席してきたのである。
但し##NAME1##はスピーチなどの出番はなく、
今日は、ただ大人しく座っていることが##NAME1##の仕事だったのだが、
たくさんの人とカメラの前に居たことから、どうしても気が張っていた。
せめて人前では、お姫様らしくしていなくちゃ、というプレッシャー。
自分が何かミスをすれば、そのパートナーであるジョシュアにも恥をかかせる。
もっと言えば、ジョシュアを次期国王に選んだカーディス陛下、
そして、ロレート公国全体に迷惑がかかる場合もあるだろう。
大好きな人とずっと一緒に居たくて、この国に来たけれど、
一国の姫になるということは、想像以上の責任と重圧があった。
大した出番のなかった今日だって、
国民から「プリンセスー!」と呼ばれれば、笑顔で手を振らなくていけない。
未だに信じられないことだが、「プリンセス」とは私のことなのだから。
殆ど座ってただけなのに、儀式が終わったあとは、ぐったりした。
プリンセスと決まってから、##NAME1##には何人もの臣下やメイドさんが付いた。
今、目の前に居るのは、ブラウン・ホワイトさん。
背が高く、綺麗な長い髪を持つ、超絶イケメンである。
他の臣下の人から聞いた情報によると、
ホワイトさんは、33歳。独身。性格はバカが付くほどマジメ。仕事バカでもある。
ま、臣下としてはよくできたヤツだから、仲良くしてやってよ、姫サマ。
……とのこと。臣下の方がそう言っていたのであって、##NAME1##の言葉ではない。
情報を教えてくれた、茶髪のあの人は陛下の臣下らしいが、随分軽いかんじの人だった。
ちなみに彼もイケメン。名前は何といっただろう。
聞いた筈なのに、紹介された人が多過ぎて忘れてしまった。
皇室の中にもああいう――言葉は悪いが――チャラいノリの人が居るんだなと少し驚いた。
彼が言うには、ホワイトさんは元々、カーディス陛下に仕える臣下の一人だった。
ジョシュアと##NAME1##がロレートに来たことで、
陛下直々の命により、殿下・妃殿下の専属へと異動になったらしい。
肩書きの上ではジョシュアの側近となっているが、
##NAME1##のことも同じように世話してくれる。
二人に付く従者の中で、おそらくトップの地位にあるのがホワイトさん。
きっと、カーディス陛下から厚い信頼を受けての結果だろう。
初めてホワイトさんに会った時は、なんだか冷たい第一印象で、
厳しそうな人だなと思ったものだが、
毎日顔を合わせ、少しずつ話すようになってみると、
仕事はできるし、よく気を遣ってくれるし、
実際は優しい人だったのだなと感じてきたところだ。とにかくカッコイイし。
これは、どうでもいいことだが。いや、そうでもないが。この邸に居る臣下の皆さんは、
イケメン率が高過ぎる。顔で選んだのかと思うくらい美形揃いだ。
中でも、カーディス陛下の側近であるラルヴィス・レイナさんという人は、
最初に会った時、本気で女性かなと思ったくらい綺麗な人だ。
そういった意味でもドキドキする新環境だ。
「妃殿下も今日はお疲れでしょう。今宵はごゆるりとお休み下さい」
「はい。ありがとうございます、ホワイトさん」
「恐れながら申し上げますが、私のことはホワイトと呼んで下さればよろしいのですよ?
私は貴女にお仕えする者なのですから」
「はい。すみません。でも、ホワイトさん、私より年上ですし」
「年齢など関係ございません。貴女は高貴な御方なのですから」
「そんな……私に流れてるのは庶民の血ですよ?」
そこで何故かホワイトさんに微笑まれた。
「妃殿下は殿下と同じく、控えめな方なのですね」
冗談でも謙遜でもなく、どうしようもない事実なのだが。
「では、私はこれで下がらせて頂きます。
御用の際はいつでもお呼び下さいませ。失礼致します」
ホワイトさんが居なくなり、部屋で一人きりになると、溜め息を吐いていた。
ドアがノックされる。##NAME1##が、はいと返事すると、ドアが開いた。
ジョシュアだ。
既に儀式用の礼服から普段着に着替えを終えていた。
「今日の儀式、緊張したね。厳かな雰囲気だったし」
ジョシュアと##NAME1##は並んでソファに座っている。
ローテーブルには、彼が淹れてくれたコーヒーが二人分。
「今日は君が隣に居てくれたから、心強かったよ。
白のロングドレス姿も綺麗だった。##NAME1##は何でも似合うね」
ジョシュアの優しいところは出会った頃から変わらない、王子となっても、夫となっても。
彼と今日の感想や他愛もないことを話していたら、今日の疲れがとれたようだ。
ロレートのプリンセスではなく、いつもの自分に戻れたような気がした。
「それじゃ、俺、シャワーを浴びてくるよ」
ジョシュアはソファから立ち上がった。
一人になった##NAME1##は窓辺に立つ。そこから庭が少し見えるのだ。
この邸には、月桂樹の庭があると聞いていた。
ロレート大公家は古くから聖アルフォンソ学院との繋がりがあり、学院出身者は多い。
そのうちの一人が、卒業後、学院の象徴とも言える月桂樹の森を、邸の庭に再現したのだ。
本物の広大な森と規模は違うが、月桂樹に囲まれた空間がそこにはある。
何代にも渡って、ロレート大公を影で支え、癒やしてきた森。
大公ではない自分では、おこがましいかもしれないが、
##NAME1##もその森に行ってみたくなった。
悪いことかなと思いつつも、誰にも告げずに部屋を出た。
夜の庭に来たのは初めてかもしれない。
四角いタイルの通路は、白いライトで足許が照らされている。
丸くて可愛いライトによって、月桂樹は闇夜に浮かび上がるように光っていた。
昼間の庭とは雰囲気が全然違う。なんて幻想的な空間なのだろう。
「誰かと思えば、うちの姫君じゃないか」
カーディス国王陛下が居た。幹を背凭れにして、地べたに座っている。
一国の王様にしては、驚くほど気軽な姿勢だ。まるでシルヴァンさんみたい。
「どうした、姫君。こんなところで?」
儀式の間とは、まるで別人のようだ。
国民の前で笑顔を見せないと決めている王が、今は柔らかく笑いかけている。
優しい顔に見惚れてしまったのか、返事が少し遅れた。
「あ、いえ。ちょっと、このお邸にある月桂樹の森に来てみたくなって。
でも、陛下がお寛ぎのところ邪魔をしてしまって、すみません。私、部屋に戻りますね」
「何故、戻る? ゆっくりしていけばいい。ここは、そういう場所だしな。
嫌じゃなければ、少し俺の話し相手になってくれないか、姫君?」
失礼します、と一応断って、陛下の傍に座った。
頭上で、さわさわと音がする。葉が揺れているのだ。
「風が出てきたな。寒くはないか?」
「あ、はい。大丈夫です。お気遣いありがとうございます、陛下」
そう言うと、笑われた。
「まるで臣下のような言葉遣いだな。俺相手に気を遣うな。普通に話してくれ。
それから前にも言ったと思うが、国民の目のないところで、『陛下』なんて呼ばなくていい。
姫君は、俺の甥っこの嫁なんだから、義理の姪っこだろう?
俺のことは『カーディスおじさん』で良いんだぞ?」
「無理です、そんな呼び方」
「そうか? なんなら『パパ』でも良いぞ?
俺はジョシュアのことは息子だと思っているしな」
「ええっと。もし、許して頂けるなら、カーディスさんってお呼びしても良いですか?」
「ああ。姫君の好きに呼べばいい」
「カーディスさんも、その『姫君』って呼び方、止めて貰えると嬉しいです。
私は貴方の姪っこなんだから、##NAME1##で良いです」
「それは失礼した。そうだな。確かにフェアじゃない。
しかし、あいつの嫁を、他の男が気安く呼び捨てて、あいつが気を悪くしないといいがな」
「ジョシュアのこと言ってるんですか?
彼はそんな心の狭い人じゃありませんから、大丈夫です!」
「へえ。気が強いところもあるじゃないか?」
「すみません、私、ムキになってしまって」
「さては、今まで姫らしくしてようと猫を被っていたな?」
「いや、別に、そういうわけじゃ……」
「今日の式でも、随分、無理をしていたように見受けられたが?」
「えっ……」
「自分を繕って姫らしく振る舞っても、自分が疲れるだけだぞ。
身分が変わったからと言って、自分まで変える必要などない。もっと本性を出せ」
青い香りを感じた。風が王の毛先を弄ぶ。
「常に自分らしくあれ。皇族の先輩として、俺がお前に言ってやれるのは、そのくらいだ」
少し冷たいが心地好い夜風だ。
「カーディスさんの場合は、本性出し過ぎのような気がしますけど?」
「良いぞ、その調子だ」
国王は笑っていた。
一国の王ならば、「常に姫たる自覚を忘れるな」などと言いそうなものだが。
彼が『規格外の王』と呼ばれる所以が解ったような気がする。
「##NAME1##」
ジョシュアの声だ。邸のほうから駆けて来る。
「ここに居たんだね。部屋に居なかったから、探してしまったよ。……あっ、カーディス」
「よう。すまんな。お前の姫を借りていた。心配するな。
少し話をしていただけだ。そうだろう、##NAME1##?」
「はい」
「陛下」
もう一人、誰かが邸からやってきた。暗がりから次第に姿が見える。
姿勢正しく、きびきびとした足取り、グレイを基調とした軍服に、
金色のショートヘア、中性的な甘いマスク。
美形側近のラルヴィス・レイナさんだ。
「陛下、私を呼んでおきながら、部屋にいらっしゃらないとは、どういう……」
私達の存在に気付き、態度を改める。
「これは妃殿下、殿下もご一緒でしたか」
頭を下げる。
「申し訳ございません。お二方にお見苦しいものをお見せして」
カーディスが笑う。
「お見苦しいものとは俺のことか?」
側近は答えない。
「お二方に陛下がご迷惑をおかけしていませんでしたか?」
「いいえ」
「大丈夫です」
「さようでしたか。今後、何かありましたら、すぐ私にお申し付け下さいませ。
私からよく言って聞かせますので。
さあ、陛下、夜風は身体に触ります。お部屋にお戻り下さい」
陛下はゆっくり立ち上がりながら、
「焦るな、ラルヴィス。まだ夜は始まったばかりだろう?」
側近は主を少し睨み、二人に向かって頭を下げた。
「では殿下、妃殿下。御前を失礼致します。おやすみなさいませ」
「お前達も良い夜をな、ご両人?」
側近の背に陛下が続いた。
陛下が側近の隣まで追い付くと、二人は何か話しながら歩いていた。
「俺達も戻ろう、##NAME1##」
ジョシュアは手を差し出していた。
##NAME1##がその手を握る。彼は嬉しそうに微笑んだ。
「行こう」
二人で歩き始める。あたたかい手だった。
fin
聖アルフォンソ島の旧市街。ここ一帯は古い建築物が保存、維持されている。
かつて、この島に逃げ延びた貴族や芸術家が暮らしていたと言われる地区だ。
まるでモノクロフィルムだった頃のフランス映画のような、古き良き街並み。
現在は聖アルフォンソ島の高級住宅街となっているその一角に、三階建ての高級マンションがあった。
建築は十九世紀初頭に遡り、歴史的価値が高い。
内装は当時の面影を残しつつ、部屋は現代人が暮らし易いようリフォームされている。
その最上階、三階の一室がソクーロフと##NAME1##の新居だった。
ある朝。##NAME1##はベッドの中で眠っていた。
誰かにそっと髪を撫でられて、##NAME1##は目を覚ました。
「すまない。起こしてしまったね」
目に映ったのは先日結婚した彼。
既に身支度が済み、『ソクーロフ博士』の姿になっている。
もうそんな時間かと思い、##NAME1##はガバッと身を起こして、時計を見た。
しかし、時刻は朝五時。出勤するには早過ぎる。
ソクーロフは##NAME1##の肩に手を置いた。
「急患でね。今、シュヌーシア寮から連絡があったから診てくるよ。
今日は一緒に朝食を摂れないね。まだ早いから、君は寝ていなさい?」
ソクーロフは##NAME1##の顔に近付き、
「行ってくるよ」
彼の背がドアの向こうに消えた。
寝ていなさいと言われたが、せっかく目を覚ましたのだから起きたほうがいいだろうか。
けれど、なんだか身体が重い。ベッドに貼り付いているかのようだ。
朝早いし、身体もまだ眠いのだろう。##NAME1##は再び眠りについた。
次に目を覚ました時、昼過ぎだった。
目覚ましのアラームは鳴り終わった形跡がある。
自分に聞こえなかっただけらしい。
##NAME1##は引き摺るようにして、身体を起こす。
寝過ぎたせいか具合が少し悪い。
彼が一度家に戻ってきた様子はなかった。早朝出て行って、そのまま仕事中なのだろう。
とにかく起きなきゃ。のろのろと活動を開始する。遅い朝食を摂ることにした。
その夜、ソクーロフが帰宅した時。
「おや?」
##NAME1##の顔を見るなり、彼は眉間に皺を寄せた。
すっと手を伸ばし、##NAME1##の額や首に触れた。医師の手が体温を感じ取る。
「37度8分といったところか。すまない、朝まで傍に居たのに。
急患が出たからと言って、一番大切な人の初期症状を見逃すなんて」
##NAME1##の肩に手が置かれる。
「診察、させてくれるね?」
翌日。
放課後のウーティス寮ではこんな会話が交わされていた。
「今日、保健室行ったら、違う先生が居たんだ。博士、風邪なんだって」
「医者のくせに? 使えないね」
「アンリ。博士に噛み付くなよ」
同じ頃、ソクーロフは自宅のベッドに横たわっていた。
##NAME1##は今日一日、彼の前を行ったり来たりしながら、看病していた。
思いきり不慣れ丸出しで、段取りは非常に悪かった。
病人がお医者様なので、解らない点は彼に聞きながら世話をした。
病人用の食事は、##NAME1##にはおかゆしか思い付かなかった。
日本人でない彼の口に合うのか解らないが、それしかできないので、
とにかく愛情だけはたっぷり込めて作った。
「美味しいよ、オートミールのような料理なんだね。これなら消化も良さそうだ」
彼の口にも合ったようで、##NAME1##はほっとした。
おかゆは完食できたし、食後には彼自身が選んだ薬も飲んだ。
本人曰わく、明日には回復するだろうとのことだったし、
大事に至らず済みそうで、##NAME1##も一安心といったところだ。
今、彼はベッドの中に、##NAME1##はその傍に座って、のんびりとした夜を過ごしていた。
それまでバタバタしていたのがウソのように、ゆっくりとした時が流れている。
「ああ。本格的に風邪を引いたのは、随分と久し振りだ」
彼が呟く。今日は眼鏡をしていない。
「医者が自らの健康を管理するのは義務だからね。
常日頃から、できる限りの予防はしている。けれど、今日はこの有り様だ。
保健室には他の医師に来て貰っているし、医師失格だね。
これは病欠ではなく、ただのサボタージュだ」
そんなこと、と##NAME1##が言いかけたが、彼は首を横に振った。
「こうなることは、昨夜の段階で解っていたからね。
薬を飲んだとは言え、まだ完治していない君と、
濃密な接触をしたら、きっと風邪が移るだろうとね」
横たわる彼が手を伸ばしてくる。
「だけど、いや、だからこそ、私は君に触れたかった」
彼の手は##NAME1##の指先を捕まえた。まだ少し熱い手だ。

「昔、子供の頃に、私がインフルエンザになったことがあってね」
彼は唐突にそう呟いた。
「高熱が出る種類が流行っていたんだ。
医師だった父は忙しい時期で、家に帰ってこない夜も頻繁にあって」
寂しかったでしょうね、と##NAME1##が言うと、彼は微笑んだ。
「いいや。父が居ない夜を寂しいと思った記憶はあまりないんだ。
子供心にも、既に慣れていたんだろうね。それよりも彼女が」
そこでソクーロフは一度深呼吸した。ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「父が居なくても、普段と何も変わらず、
平然と赤いマニキュアを塗っている母を見たことのほうが鮮明に覚えてる。
彼女は彼が居ても居なくても変わらない。
ずっと自分のことだけを気にしてる。そういう人だったから」
息が熱い。自分の話は殆どしないタイプの彼が、自らの過去を話している。
まだ熱のある状態で喋るのは苦しいだろうに、今日の彼は語るのを止めなかった。
「私が熱を出した時も、父は傍に居なかったし、
風邪だからと言って、母に優しくして貰ったこともない」
ソクーロフは##NAME1##を見上げる。
「だから、今日は、嬉しいんだ。
君が当たり前のように、消化に良い料理を作ってくれたり、
付きっきりで世話をしてくれることが、本当に、嬉しいんだ」
##NAME1##は心臓がギュッとなるのを感じた。
心の奥底に沈んでいた澱だったのだろう。
過去を吐き出したせいか、彼の表情が少し楽になったように見える。
「もしかしたら」
ふと思案顔になった。
「急患が出ると、必要以上に手厚く世話してしまうのは、
私自身の欲望の現れだったのかもしれない。
高熱が出た時くらいは、両親に甘えてみたかったのかな、子供の私は」
彼は目を閉じる。
「ああ、まただね。君が傍に居てくれると、知らない自分に気付かされる。
私は、かくも脆く、幼い人間だったのかと思い知らされるよ」
少し照れたように微笑んだ。
fin
かつて、この島に逃げ延びた貴族や芸術家が暮らしていたと言われる地区だ。
まるでモノクロフィルムだった頃のフランス映画のような、古き良き街並み。
現在は聖アルフォンソ島の高級住宅街となっているその一角に、三階建ての高級マンションがあった。
建築は十九世紀初頭に遡り、歴史的価値が高い。
内装は当時の面影を残しつつ、部屋は現代人が暮らし易いようリフォームされている。
その最上階、三階の一室がソクーロフと##NAME1##の新居だった。
ある朝。##NAME1##はベッドの中で眠っていた。
誰かにそっと髪を撫でられて、##NAME1##は目を覚ました。
「すまない。起こしてしまったね」
目に映ったのは先日結婚した彼。
既に身支度が済み、『ソクーロフ博士』の姿になっている。
もうそんな時間かと思い、##NAME1##はガバッと身を起こして、時計を見た。
しかし、時刻は朝五時。出勤するには早過ぎる。
ソクーロフは##NAME1##の肩に手を置いた。
「急患でね。今、シュヌーシア寮から連絡があったから診てくるよ。
今日は一緒に朝食を摂れないね。まだ早いから、君は寝ていなさい?」
ソクーロフは##NAME1##の顔に近付き、
「行ってくるよ」
彼の背がドアの向こうに消えた。
寝ていなさいと言われたが、せっかく目を覚ましたのだから起きたほうがいいだろうか。
けれど、なんだか身体が重い。ベッドに貼り付いているかのようだ。
朝早いし、身体もまだ眠いのだろう。##NAME1##は再び眠りについた。
次に目を覚ました時、昼過ぎだった。
目覚ましのアラームは鳴り終わった形跡がある。
自分に聞こえなかっただけらしい。
##NAME1##は引き摺るようにして、身体を起こす。
寝過ぎたせいか具合が少し悪い。
彼が一度家に戻ってきた様子はなかった。早朝出て行って、そのまま仕事中なのだろう。
とにかく起きなきゃ。のろのろと活動を開始する。遅い朝食を摂ることにした。
その夜、ソクーロフが帰宅した時。
「おや?」
##NAME1##の顔を見るなり、彼は眉間に皺を寄せた。
すっと手を伸ばし、##NAME1##の額や首に触れた。医師の手が体温を感じ取る。
「37度8分といったところか。すまない、朝まで傍に居たのに。
急患が出たからと言って、一番大切な人の初期症状を見逃すなんて」
##NAME1##の肩に手が置かれる。
「診察、させてくれるね?」
翌日。
放課後のウーティス寮ではこんな会話が交わされていた。
「今日、保健室行ったら、違う先生が居たんだ。博士、風邪なんだって」
「医者のくせに? 使えないね」
「アンリ。博士に噛み付くなよ」
同じ頃、ソクーロフは自宅のベッドに横たわっていた。
##NAME1##は今日一日、彼の前を行ったり来たりしながら、看病していた。
思いきり不慣れ丸出しで、段取りは非常に悪かった。
病人がお医者様なので、解らない点は彼に聞きながら世話をした。
病人用の食事は、##NAME1##にはおかゆしか思い付かなかった。
日本人でない彼の口に合うのか解らないが、それしかできないので、
とにかく愛情だけはたっぷり込めて作った。
「美味しいよ、オートミールのような料理なんだね。これなら消化も良さそうだ」
彼の口にも合ったようで、##NAME1##はほっとした。
おかゆは完食できたし、食後には彼自身が選んだ薬も飲んだ。
本人曰わく、明日には回復するだろうとのことだったし、
大事に至らず済みそうで、##NAME1##も一安心といったところだ。
今、彼はベッドの中に、##NAME1##はその傍に座って、のんびりとした夜を過ごしていた。
それまでバタバタしていたのがウソのように、ゆっくりとした時が流れている。
「ああ。本格的に風邪を引いたのは、随分と久し振りだ」
彼が呟く。今日は眼鏡をしていない。
「医者が自らの健康を管理するのは義務だからね。
常日頃から、できる限りの予防はしている。けれど、今日はこの有り様だ。
保健室には他の医師に来て貰っているし、医師失格だね。
これは病欠ではなく、ただのサボタージュだ」
そんなこと、と##NAME1##が言いかけたが、彼は首を横に振った。
「こうなることは、昨夜の段階で解っていたからね。
薬を飲んだとは言え、まだ完治していない君と、
濃密な接触をしたら、きっと風邪が移るだろうとね」
横たわる彼が手を伸ばしてくる。
「だけど、いや、だからこそ、私は君に触れたかった」
彼の手は##NAME1##の指先を捕まえた。まだ少し熱い手だ。
「昔、子供の頃に、私がインフルエンザになったことがあってね」
彼は唐突にそう呟いた。
「高熱が出る種類が流行っていたんだ。
医師だった父は忙しい時期で、家に帰ってこない夜も頻繁にあって」
寂しかったでしょうね、と##NAME1##が言うと、彼は微笑んだ。
「いいや。父が居ない夜を寂しいと思った記憶はあまりないんだ。
子供心にも、既に慣れていたんだろうね。それよりも彼女が」
そこでソクーロフは一度深呼吸した。ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「父が居なくても、普段と何も変わらず、
平然と赤いマニキュアを塗っている母を見たことのほうが鮮明に覚えてる。
彼女は彼が居ても居なくても変わらない。
ずっと自分のことだけを気にしてる。そういう人だったから」
息が熱い。自分の話は殆どしないタイプの彼が、自らの過去を話している。
まだ熱のある状態で喋るのは苦しいだろうに、今日の彼は語るのを止めなかった。
「私が熱を出した時も、父は傍に居なかったし、
風邪だからと言って、母に優しくして貰ったこともない」
ソクーロフは##NAME1##を見上げる。
「だから、今日は、嬉しいんだ。
君が当たり前のように、消化に良い料理を作ってくれたり、
付きっきりで世話をしてくれることが、本当に、嬉しいんだ」
##NAME1##は心臓がギュッとなるのを感じた。
心の奥底に沈んでいた澱だったのだろう。
過去を吐き出したせいか、彼の表情が少し楽になったように見える。
「もしかしたら」
ふと思案顔になった。
「急患が出ると、必要以上に手厚く世話してしまうのは、
私自身の欲望の現れだったのかもしれない。
高熱が出た時くらいは、両親に甘えてみたかったのかな、子供の私は」
彼は目を閉じる。
「ああ、まただね。君が傍に居てくれると、知らない自分に気付かされる。
私は、かくも脆く、幼い人間だったのかと思い知らされるよ」
少し照れたように微笑んだ。
fin
聖アルフォンソ島南西部。海に近い崖っぷちのコテージ。
そこに一台の黒いタクシーが止まる。後部座席の窓からアルフレッドが外を見た。
「車は……よしっ、二台しかないぞ! 敵は居ないな!」
シルヴァンはニコニコしながら敬礼する。
「キャプテン! 出撃するなら今かと!」
ハルヤは苦笑している。
(あーあ。また始まっちゃったよ、海賊ごっこ)
船長アルフレッドは車の中で右手を掲げる。
「乗り込むぞ、野郎ども! 敵に奪われた宝を奪い返すのだー!」
「おー!」
アルフレッドとシルヴァンは、ここまで乗せてくれたドライバーに、
「サンキュ」「ありがとうございましたー」とお礼を言って、タクシーを降りた。
海賊ごっこはまだ続いているようで右手の拳を挙げながらダッシュでコテージに向かっている。
おそらく彼等の右手には見えない剣が握られているのだろう。
「煩くてすみません。ありがとうございました」
ハルヤは、やや恥ずかしそうにドライバーにそう言って、二人を追い駆けた。
「##NAME1##、会いに来たぜ!」
「遊びに来ちゃいましたー! ##NAME1##~!」
「お邪魔しまーす」
アポなしでやってきたデッドプリンスの三人は##NAME1##を驚かせた。
「何か作ってくれなきゃ帰らない」と言われ、ホットケーキを作った。
あっという間に完食した三人は、##NAME1##を囲んで、
食後のインスタントコーヒーを飲んでいる。
アルフレッドは頬杖を突きながら、##NAME1##を眺めていた。
新妻となった彼女の横顔でさえ幸せそうだった。
アルフレッドは大きな溜め息を吐いた。
「ったく、##NAME1##は俺のジュリエットだったのに。
アイヴィーに取られるとは思わなかったぜ」
ハルヤはオリエンタルスマイルを見せる。
「寝耳に水だったよね」
日本人の彼女を見ていたからか、ハルヤの口から思わず母国語が出た。
「あんだって? ネミミミ……? 日本語か?」
「あ、ごめん、突然で驚いたって言ったんだ。
ほんとにビックリしたよ。急に『結婚しました』って言われたんだもん」
シルヴァンが手を挙げる。
「僕は、お二人の仲が進展してることに気付いてましたー」
「ああ!? マジかよ、シルヴァン! 気付いてたんなら俺達にも言えよ!」
「でも、既に時遅しってかんじで、アイヴィーも幸せそうでしたし。
僕達としても、アイヴィーなら許せるじゃないですか、ギリギリ」
「……まあ、ギリな、ギリ!」
「ところでさ、##NAME1##。今、なんか煮物みたいなの作ってる?
さっきから、いい匂いがするんだけど?」
##NAME1##が「はい」と言うと、今食べたばかりの三人が「味見する」とキッチンに向かった。
##NAME1##が鍋の蓋を開ける。ふわっと醤油の香りがした。
アルフレッドは首を傾げていた。
「ん? これ何て料理?」
ハルヤは料理を見つめながら、
「肉じゃがだよ。そうだよね? すごいなあ。美味しそう」
「これが、あの有名なニクジャガですか! 男をメロメロにする代表料理ですね!
僕、ジャパニメーションで見たことありますー!」
「……前から気になってたんだけど、シルヴァンって、どんなアニメ見てるの?」
味見味見、と三人の『味見し隊』にせがまれ、小皿に取ったものを渡した。
味はなかなか好評だったようで、「おかわり」を要求されたが、
このままだと、なくなってしまいそうなのでリビングに戻って貰った。
二杯目のコーヒーを飲みながら、四人のお喋りが続く。
「それでー、##NAME1##? いかがです? アイヴィーとの新婚生活は。
彼は仕事から帰ってくるのが遅い日もあるでしょう?」
##NAME1##が頷くと、シルヴァンは手を合わせた。
「淋しい夜はいつでも呼んで下さいね? 僕、飛んできますから♪」
ハルヤがコーヒーを吹きそうになる。ゴホゴホと咳き込みながら、
「ちょ、シルヴァン、な、何言ってんの?」
「だってー、今の##NAME1##、すごくお綺麗ですし。新妻萌えですー♪」
アルフレッドは##NAME1##の手を握っていた。
「##NAME1##! 呼ぶのは俺にしろ! なっ?」
「##NAME1##、僕ですよね♪」
「もう止めなよ、二人とも。ごめんね、##NAME1##」
その後も、##NAME1##とデッドプリンスのお喋りは続いた。
ピンポーンとドアチャイムが鳴った。
ディナータイム前に迎えに来るよう頼んでいたタクシーが来た。
三人は「また遊びに来る」と言い残し、寮へ帰っていった。
警備本部。
アイヴィーは理事会への定期報告書をパソコンで作成しているところだった。
「締まりのない顔ですね」
隣の席から冷たい言葉が飛んできた。
副司令官のラインハルト・クロイツである。
「どうせ奥様のお顔でも思い出していたんでしょう?
これだから嫌だったんですよ。業務に差し支えるようでは困ります」
「ダ、ダイジョブだって。そんなコワイ顔しないでよ、クロちゃん」
「あまり言いたくはありませんが、ご結婚されてから、貴方は変わりました。残念です」
「そう? どこが?」
「私が少し目を離すと職務怠慢気味だった貴方が、
定時で上がれるよう、雑務はテキパキと終わらせるようになりましたし」
「うん……え、良いことじゃない?」
「以前は退勤時刻になっても職場でダラダラしていたのに、
今では、そそくさとお帰りになるし」
「うん……てか、昔から、時間になったらさっさと帰れって言ってたのクロちゃんじゃ……」
「何より、変わったのは、目ですが」
「目?」
「ご自分では解らないでしょうね。私は、貴方が時折見せるあの目が」
「え?」
「いえ。報告書作成中、失礼しました。どうぞ続けて下さい」
パパッと文章を書いて、メール送信。大して時間はかからなかった。
夕方の定期ミーティングは、ネット参加ではなく、生徒代表室まで足を運んだ。
それもサクサク終わり、アイヴィーはソクーロフと共に生徒代表室を出た。
廊下の窓から見える空も夜に近い色になっていた。
「ねえ。ソクちゃん、今夜……あ、いや、何でもない」
「私の顔を見ると、反射的に夕食に誘ってしまう、か」
「ゴメン。ついクセで」
「そう言えば、最近は行っていなかったな。お前が一人暮らしを止めてから」
白衣の内側から出てきたメスが、アイヴィーの頬に当てられる。
「彼女を泣かせるようなことはしていないか?」
「し、してないですから、メスは止めて……」
仕事用の車でアイヴィーは自宅に向かう。
海の側にあるコテージが見えてきた時、窓に明かりが灯っているのも見えた。
一人暮らしの時には有り得なかった風景だ。
些細なことだが、ハンドルを握りながらニヤついてしまう。
クロイツに「締まりがない顔」だと注意されたことを思い出す。
ニヤニヤしながら帰宅するのもヘンかなと思い、
自分の頬に触れ、一度深呼吸してから、ドアを開けた。
すると、そこに##NAME1##が立っていた。車の音で帰ってきたことが解ったのだろう。
おかえりなさい、と言われ、アイヴィーは少し照れながら、
「た、ただいま」
二人で夕食を食べた後。アイヴィーは伝言を思い出した。
「あ、そだ。あのね? さっきソクちゃんに言われたんだ。
今度一緒に飲みに行かないかって、##NAME1##ちゃんと俺とソクちゃんの三人で。
##NAME1##ちゃん、どーする?」
「行く!」と##NAME1##が即答する。
「ちょ、ちょっと、##NAME1##ちゃん。そんな嬉しそうにしなくても……」
アイヴィーは少しいじける。
「前から思ってたけど、##NAME1##ちゃんって、
ソクちゃんのこと好きだよね……でも、イチバンはっ」
俺でしょ!? そう言いそうになった自分を止めた。
何、妬いてんの、俺。結婚してくれたんだからイチバンは俺に決まってんじゃん。
アイヴィーはそう思い直し、明日の話をした。
「それよりさ! 明日、俺、休みだから、一緒に出かけたいんだけど……イイ?」
##NAME1##が頷く。
「ヨカッタ。でね? 明日はちょっと早起きして、市場に行かない?
##NAME1##ちゃん、まだ行ったことないでしょ?」
翌朝。いつもより早起きをして、市場に出かけた。
すごい活気である。市場のおじさんやおばさんは、
アイヴィーの姿を見ると、声をかけてくれた。みんな、アイヴィーを知っているようだ。
「らっしゃい! おっ! 新婚のアイヴィーじゃないか!」
「そちらがウワサの嫁さんかい? 可愛いねえ」
「アイヴィーを貰ってくれてありがとな、お嬢さん!」
「結婚する気がなさそうだったのに、こんなべっぴんさんを捕まえてるなんてなー!」
「毎度あり! ついでにコレも持っていきな! 結婚祝いだよ!」
「よし、うちからも結婚祝いだ。持ってけドロボー!」
市場を出る時には、アイヴィーも##NAME1##も大荷物になっていた。
いったん、駐車場に戻り、車のトランクに荷物を入れた。
今日二人が乗ってきたのは、シルバーグレイの車、アストンマーチン・V12ヴァンキッシュ。
アイヴィーが所有する三台の中で一番のお気に入りだ。
荷物を車に預けた後は、彼がよく利用するカフェでブランチ。
そこでも二人はカフェ店員のお兄さんに「結婚おめでとう」と言われ、
##NAME1##が頼んだカフェラテにはハートのラテアートが描かれていた。
夕暮れ時。二人は車に乗り、海沿いの車道を走っていた。
「##NAME1##ちゃん」
呼ばれて、助手席から隣を向く。
ハンドルを握る彼の背景に海が広がっている。まもなく夕陽が海に沈む。
「今日は朝から一日付き合ってくれて、ありがとね。
俺、##NAME1##ちゃんと一緒に歩けて、超楽しかったよ」
私も、と##NAME1##が言う。
「でも、みんなに新婚だ新婚だーって声かけられちゃったね。
もしかして、ちょっと騒がし過ぎた? 嫌だったかな?」
嫌な筈がない。島の人達は、アイヴィーが好きなのだ。
彼が結婚したことをみんなが喜んでくれた。
##NAME1##は、今日一日、とても誇らしかった。
多くの人に好かれている彼が。
そして、そんな彼が選んだのが自分だという奇跡さえも。
あまりにもたくさん、擦れ違う人々や、お店のご主人に「おめでとう」と言われたので、
まるで島中に祝福されたような気持ちだった。
##NAME1##は、皆さんに祝って貰えて嬉しかったと彼に伝えた。
「そっか、ヨカッタ」
オレンジ色の太陽が海に落ちていく。
「俺ね、ホントのこと言うと、今日は、みんなに自慢したかったんだ」
##NAME1##は「何を?」と尋ねる。
「あ、ソレ聞いちゃう? もちろん『俺は##NAME1##ちゃんと結婚したんだぞー!』ってコト。
俺、島のみんなに、##NAME1##ちゃんを見せびらかしたかったんだ、俺のお嫁さんを!」
ひひひ、と笑った。
fin
そこに一台の黒いタクシーが止まる。後部座席の窓からアルフレッドが外を見た。
「車は……よしっ、二台しかないぞ! 敵は居ないな!」
シルヴァンはニコニコしながら敬礼する。
「キャプテン! 出撃するなら今かと!」
ハルヤは苦笑している。
(あーあ。また始まっちゃったよ、海賊ごっこ)
船長アルフレッドは車の中で右手を掲げる。
「乗り込むぞ、野郎ども! 敵に奪われた宝を奪い返すのだー!」
「おー!」
アルフレッドとシルヴァンは、ここまで乗せてくれたドライバーに、
「サンキュ」「ありがとうございましたー」とお礼を言って、タクシーを降りた。
海賊ごっこはまだ続いているようで右手の拳を挙げながらダッシュでコテージに向かっている。
おそらく彼等の右手には見えない剣が握られているのだろう。
「煩くてすみません。ありがとうございました」
ハルヤは、やや恥ずかしそうにドライバーにそう言って、二人を追い駆けた。
「##NAME1##、会いに来たぜ!」
「遊びに来ちゃいましたー! ##NAME1##~!」
「お邪魔しまーす」
アポなしでやってきたデッドプリンスの三人は##NAME1##を驚かせた。
「何か作ってくれなきゃ帰らない」と言われ、ホットケーキを作った。
あっという間に完食した三人は、##NAME1##を囲んで、
食後のインスタントコーヒーを飲んでいる。
アルフレッドは頬杖を突きながら、##NAME1##を眺めていた。
新妻となった彼女の横顔でさえ幸せそうだった。
アルフレッドは大きな溜め息を吐いた。
「ったく、##NAME1##は俺のジュリエットだったのに。
アイヴィーに取られるとは思わなかったぜ」
ハルヤはオリエンタルスマイルを見せる。
「寝耳に水だったよね」
日本人の彼女を見ていたからか、ハルヤの口から思わず母国語が出た。
「あんだって? ネミミミ……? 日本語か?」
「あ、ごめん、突然で驚いたって言ったんだ。
ほんとにビックリしたよ。急に『結婚しました』って言われたんだもん」
シルヴァンが手を挙げる。
「僕は、お二人の仲が進展してることに気付いてましたー」
「ああ!? マジかよ、シルヴァン! 気付いてたんなら俺達にも言えよ!」
「でも、既に時遅しってかんじで、アイヴィーも幸せそうでしたし。
僕達としても、アイヴィーなら許せるじゃないですか、ギリギリ」
「……まあ、ギリな、ギリ!」
「ところでさ、##NAME1##。今、なんか煮物みたいなの作ってる?
さっきから、いい匂いがするんだけど?」
##NAME1##が「はい」と言うと、今食べたばかりの三人が「味見する」とキッチンに向かった。
##NAME1##が鍋の蓋を開ける。ふわっと醤油の香りがした。
アルフレッドは首を傾げていた。
「ん? これ何て料理?」
ハルヤは料理を見つめながら、
「肉じゃがだよ。そうだよね? すごいなあ。美味しそう」
「これが、あの有名なニクジャガですか! 男をメロメロにする代表料理ですね!
僕、ジャパニメーションで見たことありますー!」
「……前から気になってたんだけど、シルヴァンって、どんなアニメ見てるの?」
味見味見、と三人の『味見し隊』にせがまれ、小皿に取ったものを渡した。
味はなかなか好評だったようで、「おかわり」を要求されたが、
このままだと、なくなってしまいそうなのでリビングに戻って貰った。
二杯目のコーヒーを飲みながら、四人のお喋りが続く。
「それでー、##NAME1##? いかがです? アイヴィーとの新婚生活は。
彼は仕事から帰ってくるのが遅い日もあるでしょう?」
##NAME1##が頷くと、シルヴァンは手を合わせた。
「淋しい夜はいつでも呼んで下さいね? 僕、飛んできますから♪」
ハルヤがコーヒーを吹きそうになる。ゴホゴホと咳き込みながら、
「ちょ、シルヴァン、な、何言ってんの?」
「だってー、今の##NAME1##、すごくお綺麗ですし。新妻萌えですー♪」
アルフレッドは##NAME1##の手を握っていた。
「##NAME1##! 呼ぶのは俺にしろ! なっ?」
「##NAME1##、僕ですよね♪」
「もう止めなよ、二人とも。ごめんね、##NAME1##」
その後も、##NAME1##とデッドプリンスのお喋りは続いた。
ピンポーンとドアチャイムが鳴った。
ディナータイム前に迎えに来るよう頼んでいたタクシーが来た。
三人は「また遊びに来る」と言い残し、寮へ帰っていった。
警備本部。
アイヴィーは理事会への定期報告書をパソコンで作成しているところだった。
「締まりのない顔ですね」
隣の席から冷たい言葉が飛んできた。
副司令官のラインハルト・クロイツである。
「どうせ奥様のお顔でも思い出していたんでしょう?
これだから嫌だったんですよ。業務に差し支えるようでは困ります」
「ダ、ダイジョブだって。そんなコワイ顔しないでよ、クロちゃん」
「あまり言いたくはありませんが、ご結婚されてから、貴方は変わりました。残念です」
「そう? どこが?」
「私が少し目を離すと職務怠慢気味だった貴方が、
定時で上がれるよう、雑務はテキパキと終わらせるようになりましたし」
「うん……え、良いことじゃない?」
「以前は退勤時刻になっても職場でダラダラしていたのに、
今では、そそくさとお帰りになるし」
「うん……てか、昔から、時間になったらさっさと帰れって言ってたのクロちゃんじゃ……」
「何より、変わったのは、目ですが」
「目?」
「ご自分では解らないでしょうね。私は、貴方が時折見せるあの目が」
「え?」
「いえ。報告書作成中、失礼しました。どうぞ続けて下さい」
パパッと文章を書いて、メール送信。大して時間はかからなかった。
夕方の定期ミーティングは、ネット参加ではなく、生徒代表室まで足を運んだ。
それもサクサク終わり、アイヴィーはソクーロフと共に生徒代表室を出た。
廊下の窓から見える空も夜に近い色になっていた。
「ねえ。ソクちゃん、今夜……あ、いや、何でもない」
「私の顔を見ると、反射的に夕食に誘ってしまう、か」
「ゴメン。ついクセで」
「そう言えば、最近は行っていなかったな。お前が一人暮らしを止めてから」
白衣の内側から出てきたメスが、アイヴィーの頬に当てられる。
「彼女を泣かせるようなことはしていないか?」
「し、してないですから、メスは止めて……」
仕事用の車でアイヴィーは自宅に向かう。
海の側にあるコテージが見えてきた時、窓に明かりが灯っているのも見えた。
一人暮らしの時には有り得なかった風景だ。
些細なことだが、ハンドルを握りながらニヤついてしまう。
クロイツに「締まりがない顔」だと注意されたことを思い出す。
ニヤニヤしながら帰宅するのもヘンかなと思い、
自分の頬に触れ、一度深呼吸してから、ドアを開けた。
すると、そこに##NAME1##が立っていた。車の音で帰ってきたことが解ったのだろう。
おかえりなさい、と言われ、アイヴィーは少し照れながら、
「た、ただいま」
二人で夕食を食べた後。アイヴィーは伝言を思い出した。
「あ、そだ。あのね? さっきソクちゃんに言われたんだ。
今度一緒に飲みに行かないかって、##NAME1##ちゃんと俺とソクちゃんの三人で。
##NAME1##ちゃん、どーする?」
「行く!」と##NAME1##が即答する。
「ちょ、ちょっと、##NAME1##ちゃん。そんな嬉しそうにしなくても……」
アイヴィーは少しいじける。
「前から思ってたけど、##NAME1##ちゃんって、
ソクちゃんのこと好きだよね……でも、イチバンはっ」
俺でしょ!? そう言いそうになった自分を止めた。
何、妬いてんの、俺。結婚してくれたんだからイチバンは俺に決まってんじゃん。
アイヴィーはそう思い直し、明日の話をした。
「それよりさ! 明日、俺、休みだから、一緒に出かけたいんだけど……イイ?」
##NAME1##が頷く。
「ヨカッタ。でね? 明日はちょっと早起きして、市場に行かない?
##NAME1##ちゃん、まだ行ったことないでしょ?」
翌朝。いつもより早起きをして、市場に出かけた。
すごい活気である。市場のおじさんやおばさんは、
アイヴィーの姿を見ると、声をかけてくれた。みんな、アイヴィーを知っているようだ。
「らっしゃい! おっ! 新婚のアイヴィーじゃないか!」
「そちらがウワサの嫁さんかい? 可愛いねえ」
「アイヴィーを貰ってくれてありがとな、お嬢さん!」
「結婚する気がなさそうだったのに、こんなべっぴんさんを捕まえてるなんてなー!」
「毎度あり! ついでにコレも持っていきな! 結婚祝いだよ!」
「よし、うちからも結婚祝いだ。持ってけドロボー!」
市場を出る時には、アイヴィーも##NAME1##も大荷物になっていた。
いったん、駐車場に戻り、車のトランクに荷物を入れた。
今日二人が乗ってきたのは、シルバーグレイの車、アストンマーチン・V12ヴァンキッシュ。
アイヴィーが所有する三台の中で一番のお気に入りだ。
荷物を車に預けた後は、彼がよく利用するカフェでブランチ。
そこでも二人はカフェ店員のお兄さんに「結婚おめでとう」と言われ、
##NAME1##が頼んだカフェラテにはハートのラテアートが描かれていた。
夕暮れ時。二人は車に乗り、海沿いの車道を走っていた。
「##NAME1##ちゃん」
呼ばれて、助手席から隣を向く。
ハンドルを握る彼の背景に海が広がっている。まもなく夕陽が海に沈む。
「今日は朝から一日付き合ってくれて、ありがとね。
俺、##NAME1##ちゃんと一緒に歩けて、超楽しかったよ」
私も、と##NAME1##が言う。
「でも、みんなに新婚だ新婚だーって声かけられちゃったね。
もしかして、ちょっと騒がし過ぎた? 嫌だったかな?」
嫌な筈がない。島の人達は、アイヴィーが好きなのだ。
彼が結婚したことをみんなが喜んでくれた。
##NAME1##は、今日一日、とても誇らしかった。
多くの人に好かれている彼が。
そして、そんな彼が選んだのが自分だという奇跡さえも。
あまりにもたくさん、擦れ違う人々や、お店のご主人に「おめでとう」と言われたので、
まるで島中に祝福されたような気持ちだった。
##NAME1##は、皆さんに祝って貰えて嬉しかったと彼に伝えた。
「そっか、ヨカッタ」
オレンジ色の太陽が海に落ちていく。
「俺ね、ホントのこと言うと、今日は、みんなに自慢したかったんだ」
##NAME1##は「何を?」と尋ねる。
「あ、ソレ聞いちゃう? もちろん『俺は##NAME1##ちゃんと結婚したんだぞー!』ってコト。
俺、島のみんなに、##NAME1##ちゃんを見せびらかしたかったんだ、俺のお嫁さんを!」
ひひひ、と笑った。
fin
■何でもない日(6) 続編
警備本部、モニタールーム。
ここにはたくさんのモニターが並んでいる。島内にある監視カメラの映像だ。
映し出されているのは、長閑な午後の様子である。
今日は侵入者の影もなく、監視員達はいつものように、島民の日常を見守っていた。
「平和だなー」
「そりゃあ、侵入者も捕まえたばっかだし」
「連続で来ることはめったにないしな」
「早く上がって、ビール飲みたいよ」
「同感」
警備強化期間はピリピリした緊張感があり、監視員の人数も増やしていたが、
強化期間が解除された現在は、人数も平時に戻している。
「お疲れさまです」
突然、副司令官のクロイツが入ってきた。
「今日の島の様子はどうですか?」
椅子に凭れていた監視員が座り直す。
「ぜ、全エリア異常ありません」
「了解しました。引き続き、気を抜かずに、お願いしますね」
副司令官がモニタールームから自分の席に帰ってくると、
「退屈そうだな、クロイツ」
隣の席の司令官に声をかけられた。
「ヒマだなーって顔に書いてあるぜ?」
「つい先日まで、忙しい日々でしたからね」
「俺はヒマなほうがスキだよ? 仕事はラクなほうがイイじゃん?」
「そうですね。我々のような職務の従事者は、廃業しているほうが世界は平和です」
「廃業しちゃったら、俺達はご飯食べれなくなっちゃうけどね」
司令官は笑ったが、副司令官は笑わなかった。
「元を辿れば、私達が食べているのは、人の悪意なのかもしれません」
司令官は副司令官の表情を伺う。無表情な顔をして、彼は言った。
「人は時に、恨み、憎み、奪い、争います。
人に負の感情があり、負の行動を取る者が居るから、
我々の仕事は世に必要とされ、その対価に報酬を得て、食べていくことができる」
「だから、俺達が食べてるのは負の感情と言えるってわけか。
へえ。クロイツってそんなこと考えてたんだ?」
「すみません。つまらない話をお聞かせして」
「でもさ、人間っぽいと思わない? 恨んだり、憎んだりするのって」
「そうでしょうか?」
「世界中のみんながみんな、他人の幸福を願うような心のキレイな人だったら、
ソッチのほうが気持ち悪いと思うけど? 好意も悪意もあるのがヒトでしょ?
警備組織があるってことはセキュリティシステムが用意されてるってことだし。
警備が必要な世界ってのも、それはそれでイイんじゃないかなあ、人間クサくって。
ウマく言えないけど、そのほうがリアルっていうか、
ヒトらしいっていうか、なんか『生きてる』ってかんじがする」
そう言ったあとで司令官は笑った。
「なーんちゃって。俺もつまんない話聞かせちゃったな」
「退屈だと、人はロクでもないことを考えてしまうようですね。
ああ、この機会に、業務改善提案書などお書きになってみては?」
「え。それ、自由提出じゃん」
「お暇、なんでしょう?」
「そ、そだ! 俺、洗車でもしてこよっかな、天気も良いし。
車をキレーにするのもダイジだよね、商売道具だし!」
泣き腫らして赤くなっていたラビの目許も、元の真っ白な肌になった。
シュヌーシア寮にも平穏な日々が戻ろうとしていた。
一日の授業を終えて、レオンとラビは一緒にシュヌーシア寮に帰ってきた。
「ねえ、レオン。おやつ食べたら、今日出た宿題、一緒にやろ?」
「いや、俺、今日は外に行くから」
「おでかけするの? じゃあ僕も一緒に行っていい?」
「いや、今日は一人で行くから」
「えっ。レオン、どこ行くの?」
「どこって……お前には関係ないだろ」
「ご、ごめん」
レオンはサロンを出て行った。
「どうした、ラビ。しょんぼり、って顔に書いてあるぞ?」
サロンに顔を出したシルフェが、ラビの顔を見て、そう尋ねた。
「ううん、何でも、ないの」
「その顔で言われてもなあ。なんか困ってるなら言ってみな?」
「でも……」
「俺じゃ言えない?」
「そ、そんなことっ」
「なに?」
「あの……あの、レオンがね」
ラビは先程の出来事をつっかえながら話した。
出かけてくると言ったレオンが、行き先を教えてくれなかったことと、
自分を連れていってくれなかったことだ。
端から見れば些細なことだが、ラビには相当ショックだったようで。
「やっぱり、僕のこと嫌になっちゃったのかな。
僕、この前、いっぱい迷惑かけたからだよね……」
涙目になってしまった。
「どうしよ、レオンに嫌われちゃったら、僕……」
シルフェは自分の頭を掻く。
「お前は……」
ひょいと屈んでラビと目線を合わせる。シルフェは明るく言った。
「心配するなよ、ラビ。今日は一人で出かけたい気分だったんだろ、きっと」
「でも、お前には関係ない、って怒られちゃったし」
「それはさ。お前には言えない用事があったのかも、だろ?」
「僕に言えないことって?」
「例えば、ほら、エッチな本を買いに行ってる、とか?」
「えっ? ええっ?」
「はははっ。例えばの話だよ。ほっぺた赤くしちゃってカワイイなー、ラビは」
「もう、シルフェ……」
「悪い、悪い。まあ、俺が言いたいのは、そんなに気にすんなってことだよ」
ソクーロフの前には、ビールを瓶のまま煽っている男。
既に二本目が空こうとしている。
「お前、今日はペースが早いな」
緑の瓶から唇が離される。
「あ、そう? まあイイじゃん。久し振りの飲み会なんだし」
夜、ソクーロフはアイヴィーに誘われて、旧市街にあるバー『ネモフィラ』に訪れていた。
アイヴィーが飲んでいるのはオランダのビール、ソクーロフはポーランドのウオッカだ。
どちらもカラに近かった。
「あ、空きそうなグラスみーっけ!」
二人の前を顔馴染みのボーイが通りかかった。
すすすと近寄って来て、テーブルの傍でしゃがむ。
テーブルから顔を出すように二人を見上げた。
「お次は何飲む?」
ボーイは人懐っこい笑顔でソクーロフを見た。
「セーンセ! 今日はアイヴィーのオゴリなんだから、
ジャンジャン飲んじゃってね!」
アイヴィーはビールを吹き出しそうになる。手の甲で口許を拭いながら、
「な、なんで俺のオゴリなんだよっ!?」
「だってー、アイヴィーはこの前、ソクーロフ先生とうちの店で飲む約束してたのに、
大遅刻しちゃって、約束すっぽかしたじゃん?」
「で、でもあれは仕事だったから仕方ないって、
もう許して貰ってるから。そ、そうだよね、ソクちゃん?」
「成程。言われてみれば確かに、制裁が必要だねえ」
「ええっ!? あ、あの、実は俺、給料日前で……」
「アイヴィー? この前、何時間遅刻したんだっけー?」
「さ、三時間……」
「では、この店で一番高いウイスキーを貰えるかね? 彼のオゴリで」
「ちょ!?」
「はい、センセ! 畏まりましたー!」
ボーイは行ってしまった。
アイヴィーはテーブルに伏せる。
腕の中に顔を埋めて、ソクーロフをジトと見上げる。
「もー。ソクちゃんのイジワルー」
「仲が良いんだね、君達は」
テーブルの横に一人の紳士が立っていた。
「あれ?」
「貴方もいらしたんですか、ボージェ教授」
「こんばんは、アイヴィー、ソクーロフ博士。
似ている声が後ろの席から聞こえるなあと思っていたんだ」
微笑している紳士は、神秘学担当教師オーギュスト・ボージェ教授だった。
後日。
空が綺麗なオレンジに染まる頃。授業終了の鐘が鳴った。
「では、今日はここまで」
第二化学室では、神秘学の授業が終わったところだ。
受講生のシルフェは、レオシュの席へ駆け寄った。
「レオシュ、このあと予定ある?」
「……別にないが」
「じゃあさ、旧市街のほうに行こうぜ?」
「旧市街?」
「イイ店見つけたんだ。お前が好きそうな渋い店」
行こう行こうと追い立てられ、仕方なくといった様子でレオシュは席を立ったが、
去年の彼と比べると、それほど嫌そうに見えなかった。
黒板を消し終わった教授が、教室を振り向くと、生徒が一人だけ残っていた。
琥珀の瞳が教師に向けられる。机には本が置かれていた。
「これ、返す」
二人で教室を出た。廊下の窓からは夕陽が差し込む。
肩を並べてオレンジ色に染まった廊下を歩く。教師はふいに生徒に尋ねた。
「シュヌーシアの子を助けてあげたんだって? 良いことをしたね、アンリ」
「そんな覚えはないけれど」
「やはり君は優しい子だ。あ、そう言えば、逃げ出したウサギ、見つかったんだね?」
教師が指を差す。ブックバンドにウサギのマスコットが付いていた。
「どこにあったんだい?」
「廊下に転がっていたそうだよ。紐が切れて、落ちたみたい」
「親切な子に拾われて幸いだったね。大切な物だったんだろう? 良かったね」
「ねえ。さっきの、どこから聞いたの? 僕がシュヌーシアの子を助けたって話」
「ん? 風の噂でね」
「風に唇なんてあったかな? 僕、今回は自分の名前を出していないつもりだったんだけど」
教師は微笑むだけだった。
彼がこういう笑顔を見せる時は、それ以上答える気がない時だ。
アンリが校舎を出たところで、二人組の生徒に出くわした。
目が合ったので、アンリは「ごきげんよう」とだけ言った。
すると、少し背が低いほうの子が「ご、ごきげんよう……」と返した。
「ウーティスのお姫様、僕達に挨拶してくれたね! 今日はご機嫌だったのかな?」
アンリに話しかけられたラビは、擦れ違った後で、うれしそうにしていた。
隣のレオンは逆に少し機嫌を悪くしている。
「てゆうか、お姫様はお前に借りがあるんだから、挨拶くらいはするだろ」
「借りって……何?」
「ウサギだよ、ウサギのマスコット。
わざわざウーティスまで届けにいってやったじゃん」
「ああ。でも、借りなんかじゃないよ。落とし物だもん。
誰のだか解ったし、ちゃんと落とした人に返さなくっちゃ」
以前、レオンとラビが二人でウーティス寮のアンリを訪ねたことがあった。
廊下に落ちていたウサギ。それを拾ったのがラビだった。
このウサギが誰の落とし物か知っていたラビは、所有者へ届けに行ったのである。
「でも、ラビ、よく知ってたよな。あのウサギが、お姫様のだって」
「うん。だってブックバンドに付けるの見たことあるもん。ゆらゆら揺れて可愛いの。
お姫様もウサギさん好きなんだなって。嬉しかったから」
「お前、ホントに好きなんだな、ウサギ」
「うん。あの時は、ウーティス寮まで付いてきてくれてありがとね、レオン。
一人でお姫様に会いに行くの、ちょっとコワかったから。
お姫様はキレイだけど、怒るとすごくコワイっていうし」
「ああ。そんなことは別にいいんだけどさ」
「ん?」
「ちょっと俺の部屋来い」
自分の部屋に連れてきて、レオンは押し付けるように手を突き出した。
「これ、お前にやる」
ラビの手に乗せられたのは、小さなウサギのぬいぐるみが付いたストラップだった。
動物の白ウサギをモデルにしたデザイン。首の後ろに白い紐が付いている。
ラビは、手の上のウサギとレオンを交互に見る。
「え? レオン、僕にくれるの? 僕、今日お誕生日じゃないよ?」
レオンは口を少し尖らせながら、ぶつぶつ言った。
「この前、ゲーセン行ったらウサギのが取れたんだよ、たまたま。
俺はイヌの奴を狙ってたんだけど、ウサギが落ちてきたから……」
顔を上げて、手の平を見せる。
「いらないなら、返せよ!」
「え、いるっ!」
ウサギを抱えて、レオンに背を向けた。
ラビは改めて、手の中のウサギを見た。綿のような素材で作られている。
生きているウサギにするように、ぬいぐるみの背中をそっと撫でてみる。
柔らかくて気持ちの良い手触りだった。ラビは自然と笑顔になる。
「モコモコしてて可愛いなあ」
嬉しそうな横顔をレオンがそっと確認していた。
「あ、そうだ! このウサギさん、僕のブックバンドに付けてもいいかなあ?」
ラビがそう言うと、レオンは渋々と言った様子で了承した。
「いいけど、誰かさんみたいに、なくすなよ?」
「うんっ。絶対なくさないよ。ねえ、今、付けてみてもいいかなあ?」
「好きにしろよ、もうお前のなんだから」
「やった。僕もね、こういうの欲しかったんだ」
ラビのテキストをまとめているブックバンドにストラップを結ぶ。
ぶらさがったウサギが、ゆらゆら揺れた。
「かわいいなあ。ありがと、レオン」
眩しい程の笑顔からレオンは視線を逸らして「ああ」と言った。
「今度は僕がプレゼントするね、お誕生日じゃない日に。ねえ、レオンは何が好き?」
「俺の好きなもの?」
「うん。レオンは僕の好きな物くれたから。レオンの好きな物、何でも言って?」
部屋の外で廊下を駆けていく足音が聞こえる。レオンは少しの沈黙のあと、答えた。
「ウサギ、かな」
ラビは花が咲いたような笑顔になる。
「レオンもウサギさんが好きになってくれたの? 嬉しいな。探しておくね!」
「あ、ああ」
fin
ここにはたくさんのモニターが並んでいる。島内にある監視カメラの映像だ。
映し出されているのは、長閑な午後の様子である。
今日は侵入者の影もなく、監視員達はいつものように、島民の日常を見守っていた。
「平和だなー」
「そりゃあ、侵入者も捕まえたばっかだし」
「連続で来ることはめったにないしな」
「早く上がって、ビール飲みたいよ」
「同感」
警備強化期間はピリピリした緊張感があり、監視員の人数も増やしていたが、
強化期間が解除された現在は、人数も平時に戻している。
「お疲れさまです」
突然、副司令官のクロイツが入ってきた。
「今日の島の様子はどうですか?」
椅子に凭れていた監視員が座り直す。
「ぜ、全エリア異常ありません」
「了解しました。引き続き、気を抜かずに、お願いしますね」
副司令官がモニタールームから自分の席に帰ってくると、
「退屈そうだな、クロイツ」
隣の席の司令官に声をかけられた。
「ヒマだなーって顔に書いてあるぜ?」
「つい先日まで、忙しい日々でしたからね」
「俺はヒマなほうがスキだよ? 仕事はラクなほうがイイじゃん?」
「そうですね。我々のような職務の従事者は、廃業しているほうが世界は平和です」
「廃業しちゃったら、俺達はご飯食べれなくなっちゃうけどね」
司令官は笑ったが、副司令官は笑わなかった。
「元を辿れば、私達が食べているのは、人の悪意なのかもしれません」
司令官は副司令官の表情を伺う。無表情な顔をして、彼は言った。
「人は時に、恨み、憎み、奪い、争います。
人に負の感情があり、負の行動を取る者が居るから、
我々の仕事は世に必要とされ、その対価に報酬を得て、食べていくことができる」
「だから、俺達が食べてるのは負の感情と言えるってわけか。
へえ。クロイツってそんなこと考えてたんだ?」
「すみません。つまらない話をお聞かせして」
「でもさ、人間っぽいと思わない? 恨んだり、憎んだりするのって」
「そうでしょうか?」
「世界中のみんながみんな、他人の幸福を願うような心のキレイな人だったら、
ソッチのほうが気持ち悪いと思うけど? 好意も悪意もあるのがヒトでしょ?
警備組織があるってことはセキュリティシステムが用意されてるってことだし。
警備が必要な世界ってのも、それはそれでイイんじゃないかなあ、人間クサくって。
ウマく言えないけど、そのほうがリアルっていうか、
ヒトらしいっていうか、なんか『生きてる』ってかんじがする」
そう言ったあとで司令官は笑った。
「なーんちゃって。俺もつまんない話聞かせちゃったな」
「退屈だと、人はロクでもないことを考えてしまうようですね。
ああ、この機会に、業務改善提案書などお書きになってみては?」
「え。それ、自由提出じゃん」
「お暇、なんでしょう?」
「そ、そだ! 俺、洗車でもしてこよっかな、天気も良いし。
車をキレーにするのもダイジだよね、商売道具だし!」
泣き腫らして赤くなっていたラビの目許も、元の真っ白な肌になった。
シュヌーシア寮にも平穏な日々が戻ろうとしていた。
一日の授業を終えて、レオンとラビは一緒にシュヌーシア寮に帰ってきた。
「ねえ、レオン。おやつ食べたら、今日出た宿題、一緒にやろ?」
「いや、俺、今日は外に行くから」
「おでかけするの? じゃあ僕も一緒に行っていい?」
「いや、今日は一人で行くから」
「えっ。レオン、どこ行くの?」
「どこって……お前には関係ないだろ」
「ご、ごめん」
レオンはサロンを出て行った。
「どうした、ラビ。しょんぼり、って顔に書いてあるぞ?」
サロンに顔を出したシルフェが、ラビの顔を見て、そう尋ねた。
「ううん、何でも、ないの」
「その顔で言われてもなあ。なんか困ってるなら言ってみな?」
「でも……」
「俺じゃ言えない?」
「そ、そんなことっ」
「なに?」
「あの……あの、レオンがね」
ラビは先程の出来事をつっかえながら話した。
出かけてくると言ったレオンが、行き先を教えてくれなかったことと、
自分を連れていってくれなかったことだ。
端から見れば些細なことだが、ラビには相当ショックだったようで。
「やっぱり、僕のこと嫌になっちゃったのかな。
僕、この前、いっぱい迷惑かけたからだよね……」
涙目になってしまった。
「どうしよ、レオンに嫌われちゃったら、僕……」
シルフェは自分の頭を掻く。
「お前は……」
ひょいと屈んでラビと目線を合わせる。シルフェは明るく言った。
「心配するなよ、ラビ。今日は一人で出かけたい気分だったんだろ、きっと」
「でも、お前には関係ない、って怒られちゃったし」
「それはさ。お前には言えない用事があったのかも、だろ?」
「僕に言えないことって?」
「例えば、ほら、エッチな本を買いに行ってる、とか?」
「えっ? ええっ?」
「はははっ。例えばの話だよ。ほっぺた赤くしちゃってカワイイなー、ラビは」
「もう、シルフェ……」
「悪い、悪い。まあ、俺が言いたいのは、そんなに気にすんなってことだよ」
ソクーロフの前には、ビールを瓶のまま煽っている男。
既に二本目が空こうとしている。
「お前、今日はペースが早いな」
緑の瓶から唇が離される。
「あ、そう? まあイイじゃん。久し振りの飲み会なんだし」
夜、ソクーロフはアイヴィーに誘われて、旧市街にあるバー『ネモフィラ』に訪れていた。
アイヴィーが飲んでいるのはオランダのビール、ソクーロフはポーランドのウオッカだ。
どちらもカラに近かった。
「あ、空きそうなグラスみーっけ!」
二人の前を顔馴染みのボーイが通りかかった。
すすすと近寄って来て、テーブルの傍でしゃがむ。
テーブルから顔を出すように二人を見上げた。
「お次は何飲む?」
ボーイは人懐っこい笑顔でソクーロフを見た。
「セーンセ! 今日はアイヴィーのオゴリなんだから、
ジャンジャン飲んじゃってね!」
アイヴィーはビールを吹き出しそうになる。手の甲で口許を拭いながら、
「な、なんで俺のオゴリなんだよっ!?」
「だってー、アイヴィーはこの前、ソクーロフ先生とうちの店で飲む約束してたのに、
大遅刻しちゃって、約束すっぽかしたじゃん?」
「で、でもあれは仕事だったから仕方ないって、
もう許して貰ってるから。そ、そうだよね、ソクちゃん?」
「成程。言われてみれば確かに、制裁が必要だねえ」
「ええっ!? あ、あの、実は俺、給料日前で……」
「アイヴィー? この前、何時間遅刻したんだっけー?」
「さ、三時間……」
「では、この店で一番高いウイスキーを貰えるかね? 彼のオゴリで」
「ちょ!?」
「はい、センセ! 畏まりましたー!」
ボーイは行ってしまった。
アイヴィーはテーブルに伏せる。
腕の中に顔を埋めて、ソクーロフをジトと見上げる。
「もー。ソクちゃんのイジワルー」
「仲が良いんだね、君達は」
テーブルの横に一人の紳士が立っていた。
「あれ?」
「貴方もいらしたんですか、ボージェ教授」
「こんばんは、アイヴィー、ソクーロフ博士。
似ている声が後ろの席から聞こえるなあと思っていたんだ」
微笑している紳士は、神秘学担当教師オーギュスト・ボージェ教授だった。
後日。
空が綺麗なオレンジに染まる頃。授業終了の鐘が鳴った。
「では、今日はここまで」
第二化学室では、神秘学の授業が終わったところだ。
受講生のシルフェは、レオシュの席へ駆け寄った。
「レオシュ、このあと予定ある?」
「……別にないが」
「じゃあさ、旧市街のほうに行こうぜ?」
「旧市街?」
「イイ店見つけたんだ。お前が好きそうな渋い店」
行こう行こうと追い立てられ、仕方なくといった様子でレオシュは席を立ったが、
去年の彼と比べると、それほど嫌そうに見えなかった。
黒板を消し終わった教授が、教室を振り向くと、生徒が一人だけ残っていた。
琥珀の瞳が教師に向けられる。机には本が置かれていた。
「これ、返す」
二人で教室を出た。廊下の窓からは夕陽が差し込む。
肩を並べてオレンジ色に染まった廊下を歩く。教師はふいに生徒に尋ねた。
「シュヌーシアの子を助けてあげたんだって? 良いことをしたね、アンリ」
「そんな覚えはないけれど」
「やはり君は優しい子だ。あ、そう言えば、逃げ出したウサギ、見つかったんだね?」
教師が指を差す。ブックバンドにウサギのマスコットが付いていた。
「どこにあったんだい?」
「廊下に転がっていたそうだよ。紐が切れて、落ちたみたい」
「親切な子に拾われて幸いだったね。大切な物だったんだろう? 良かったね」
「ねえ。さっきの、どこから聞いたの? 僕がシュヌーシアの子を助けたって話」
「ん? 風の噂でね」
「風に唇なんてあったかな? 僕、今回は自分の名前を出していないつもりだったんだけど」
教師は微笑むだけだった。
彼がこういう笑顔を見せる時は、それ以上答える気がない時だ。
アンリが校舎を出たところで、二人組の生徒に出くわした。
目が合ったので、アンリは「ごきげんよう」とだけ言った。
すると、少し背が低いほうの子が「ご、ごきげんよう……」と返した。
「ウーティスのお姫様、僕達に挨拶してくれたね! 今日はご機嫌だったのかな?」
アンリに話しかけられたラビは、擦れ違った後で、うれしそうにしていた。
隣のレオンは逆に少し機嫌を悪くしている。
「てゆうか、お姫様はお前に借りがあるんだから、挨拶くらいはするだろ」
「借りって……何?」
「ウサギだよ、ウサギのマスコット。
わざわざウーティスまで届けにいってやったじゃん」
「ああ。でも、借りなんかじゃないよ。落とし物だもん。
誰のだか解ったし、ちゃんと落とした人に返さなくっちゃ」
以前、レオンとラビが二人でウーティス寮のアンリを訪ねたことがあった。
廊下に落ちていたウサギ。それを拾ったのがラビだった。
このウサギが誰の落とし物か知っていたラビは、所有者へ届けに行ったのである。
「でも、ラビ、よく知ってたよな。あのウサギが、お姫様のだって」
「うん。だってブックバンドに付けるの見たことあるもん。ゆらゆら揺れて可愛いの。
お姫様もウサギさん好きなんだなって。嬉しかったから」
「お前、ホントに好きなんだな、ウサギ」
「うん。あの時は、ウーティス寮まで付いてきてくれてありがとね、レオン。
一人でお姫様に会いに行くの、ちょっとコワかったから。
お姫様はキレイだけど、怒るとすごくコワイっていうし」
「ああ。そんなことは別にいいんだけどさ」
「ん?」
「ちょっと俺の部屋来い」
自分の部屋に連れてきて、レオンは押し付けるように手を突き出した。
「これ、お前にやる」
ラビの手に乗せられたのは、小さなウサギのぬいぐるみが付いたストラップだった。
動物の白ウサギをモデルにしたデザイン。首の後ろに白い紐が付いている。
ラビは、手の上のウサギとレオンを交互に見る。
「え? レオン、僕にくれるの? 僕、今日お誕生日じゃないよ?」
レオンは口を少し尖らせながら、ぶつぶつ言った。
「この前、ゲーセン行ったらウサギのが取れたんだよ、たまたま。
俺はイヌの奴を狙ってたんだけど、ウサギが落ちてきたから……」
顔を上げて、手の平を見せる。
「いらないなら、返せよ!」
「え、いるっ!」
ウサギを抱えて、レオンに背を向けた。
ラビは改めて、手の中のウサギを見た。綿のような素材で作られている。
生きているウサギにするように、ぬいぐるみの背中をそっと撫でてみる。
柔らかくて気持ちの良い手触りだった。ラビは自然と笑顔になる。
「モコモコしてて可愛いなあ」
嬉しそうな横顔をレオンがそっと確認していた。
「あ、そうだ! このウサギさん、僕のブックバンドに付けてもいいかなあ?」
ラビがそう言うと、レオンは渋々と言った様子で了承した。
「いいけど、誰かさんみたいに、なくすなよ?」
「うんっ。絶対なくさないよ。ねえ、今、付けてみてもいいかなあ?」
「好きにしろよ、もうお前のなんだから」
「やった。僕もね、こういうの欲しかったんだ」
ラビのテキストをまとめているブックバンドにストラップを結ぶ。
ぶらさがったウサギが、ゆらゆら揺れた。
「かわいいなあ。ありがと、レオン」
眩しい程の笑顔からレオンは視線を逸らして「ああ」と言った。
「今度は僕がプレゼントするね、お誕生日じゃない日に。ねえ、レオンは何が好き?」
「俺の好きなもの?」
「うん。レオンは僕の好きな物くれたから。レオンの好きな物、何でも言って?」
部屋の外で廊下を駆けていく足音が聞こえる。レオンは少しの沈黙のあと、答えた。
「ウサギ、かな」
ラビは花が咲いたような笑顔になる。
「レオンもウサギさんが好きになってくれたの? 嬉しいな。探しておくね!」
「あ、ああ」
fin
■何でもない日(5) 続編
「司令、ドクターをお連れしました」
翌日。一時間目の授業が始まった頃に、ソクーロフ博士が警備本部にやってきた。
「昨夜は私の都合で、キャンセルして悪かったね」
いえ、と副司令官のクロイツが言う。
「ドクターが、ドクターのお仕事を優先されるのは当然ですから」
司令官が尋ねる。
「ラビットはもう平気なの?」
「ああ。昨日は吸入薬で発作は治まったからな。
今朝も、ここに来る前に、ラビットの様子も見てきたが」
「どうだった?」
今朝、警備は改めてシュヌーシア寮へ報告を入れていた。
今回の侵入者は全員捕えたので心配要らないこと、
そして、ラビの母親が生きていたという話は嘘だったことを伝えたのだ。
「悪くはない。警備からの報告を聞いたあとは涙したようだがね」
「……そう、だよね、やっぱり」
司令官は声を落とした。
「だが、今日は発作を起こすまでには至らなかった。
ラビットのメンタルケアは引き続き行うから、あとはこちらに任せてくれればいい」
「ん。ありがと」
アイヴィーは、ソクーロフの目許を覗きながら、
「ね、あんたは昨日ちゃんと寝た? もしかして、ずっとラビットの」
「徹夜に近い君達に心配される程ではない。それで、私のクライアントは?」
副司令官が答える。
「取調室です。準備はできています」
「ありがとう。では早速、始めたいと思うが。良いかね、司令官?」
「お願いします、ドクター」
司令官と副司令官が居る部屋から、ガラス越しに取調室が見える。
ここの取調室は、マジックミラー越しに見学できる仕様になっていた。
真っ白な部屋の中央に、ひとつだけ椅子がある。
椅子に座っているのはダークスーツを着たスキンヘッドの男だ。年齢は30代前後だろう。
奥のドアから白衣を着たソクーロフ博士が入ってきた。
スキンヘッドの男の傍へゆっくりと歩いていく。
男が座る椅子の真横に立ち、静かに語り掛ける。
10分と経たないうちに、博士の手によって男は催眠状態に入った。
「お名前は?」
博士に尋ねられて、大の男がまるで素直な子供のように答えた。
「マイヤー」
「マイヤーだね」
こういう時、博士の声は酷く優しい。ゾクリとするほどに。
「君は、誰に言われて、ここに来たのかな?」
「サルヴァトーレ様に」
見ていたアイヴィーは「えっ」と驚いた。
「ディーノじゃないのかよ? でも、サルヴァトーレって、どっかで聞いた名前だな」
隣で副司令官が嘆息する。
「まさかとは思いますが、以前、貴方が危険視していた家の者では?」
苛立ちを滲ませた吐息だった。上司への憤りではなく、自分への。
「今になってその名を聞くなんて」
取調室で博士が質問を続ける。
「サルヴァトーレ様というのは?」
スキンヘッドの男が答える。
「……私達シーゲル・ファミリーの、アンダーボス」
アイヴィーは思わずガラスに触れていた。
「シーゲルかよ!?」
博士は一瞬、マジックミラーのほうに視線を送ったが、すぐにインタビュアーに戻った。
「サルヴァトーレ様から、この島のことを聞いたのかい?」
「いいえ」
「では、この島の存在は、どうやって知ったのかな?」
博士に操られるまま、男はあの夜の出来事を話した。
シーゲル・ファミリーが根城にしているレストラン『リストランテ・フィガロ』で、
定例の集会を行っていた時のことだ。その夜は部外者が二人現れた。
ドアを開けたのはグレイのスーツを着た眼鏡の男だった。白スーツの男が店内に入ってきた。
すかさずドアの傍に居た見張り番が追い出しにかかった。
「お兄さん達、クローズの札が見えなかったのか?
悪いが、今日は俺達の貸し切りなんだ。さあ、帰った、帰った」
ところが、白スーツの男は物怖じするどころか笑ったのだ。
それを見て、マイヤーは席を立とうとした。しかし、自分の腕に誰かの手が触れた。
黒に染められた爪。サルヴァトーレの手だった。
「僕が行きます」
そう呟いて、アンダーボス自ら仲裁に向かった。
「な、なんだ、てめえ」
見張り番が相手の胸倉を掴もうとした時。
「およしなさい」
サルヴァトーレに止められ、見張り番は肩が跳ねるほど驚いていた。
「大変失礼致しました。彼はうちで一番若いマフィオーソで、
教育が足りず、申し訳ありません。彼に見張りを言い付けたのは僕です。
お叱りは僕がお受けします。彼はどうかお許し下さい」
「お前が、ここのアンダーボスか」
「はい。サルヴァトーレ・シーゲルと申します。
貴方はマンゾーニ・ファミリーのアンダーボスさんですね?」
「ああ。ディーノ・マンゾーニだ」
名を聞いて、見張り番はヒッと短い悲鳴を上げた。
シチリアマフィアの中でも血塗られた歴史を持つマンゾーニ。
そのNo.2に無礼な態度を取ったのだ。
マンゾーニとシーゲル、どちらの人間から殺されても可笑しくはない。
事の重大さに気付いた顔から、さーっと血の気が引いていく。
ディーノの傍らに居る眼鏡の男が、すっと前に出る。
「ご心配には及びません。うちの兄貴は懐がでっかいですから。ね、兄貴?」
「ああ。新入りなら仕方ねえなあ。血の気が多い野郎は伸びるぜ。これからもその調子でな?」
シーゲルのNo.2は丁重に礼を述べた。
「寛大なお言葉、ありがとうございます。さ、お前は向こうへ行っていなさい」
「は、はい。すみませんでした! 失礼します!」
頭を下げ、奥へ引っ込んでいった。
「感謝します。このようなことで、業界内でも残虐で有名なマンゾーニ・ファミリーに、
目を付けられたくはないですからね。しかし、今宵はどうなさいました?
我々が集う店に、アンダーボス自らお越しになるとは。
他にも、うちの者がそちらに何か失礼をしましたでしょうか?」
「いいや」
「では、この店自慢の赤ワインの評判でもお聞きになりました?」
「へえ、そんなのがあんのか。なら、飲ませて貰いてえなあ。
丁度、こっちには酒の肴になるおもしれえ話があんだよ」
「面白い話、ですか。生憎、ボスは今日不在で、僕が伺っても良いお話でしょうか?」
「俺は、お前に話があって来たんだぜ? サルヴァトーレ」
「僕に?」
「たまにはアンダーボス同士の密会ってのもイイじゃねえか。
聞きてえだろ? お前の席の隣、空いてるか?」
「もちろんです。どうぞ、こちらへ」
カウンター席の端へ案内した。
サルヴァトーレ、ディーノ、その連れという並びで席に着いた。
「マスター、僕からこちらのお客様にワインを」
「か、畏まりました」
初老のマスターは、ディーノをちらりと盗み見てから、ワインボトルを手に取った。
ディーノはひょいと片手を挙げる。
「あー、メニュー表くれるか。俺、なんかハラ減ってきた。フィオもなんか食うだろ?」
眼鏡の男は苦笑している。
「アウェイなのに、マイペースですね、兄貴は」
マンゾーニの二人がメニュー表を見ている間に、
シーゲル・ファミリーの舎弟がサルヴァトーレに近付いてきた。
サルヴァトーレはディーノに「すみません。少し失礼します」と断って、席を外した。
壁側に移動してきたサルヴァトーレと舎弟の話し合いが、マイヤーの耳にも漏れ聞こえてくる。
「ダンナ、止めて下さい。マンゾーニなんかと話すことなんてないでしょう」
舎弟の訴えに、アンダーボスは冷静に答える。
「あのマンゾーニ・ファミリーが話があるとおっしゃってるんですよ?
お話も聞かずに追い返すなんて無礼が通用するとは思えませんが」
「ですが、いくらマンゾーニのアンダーボスと言っても、
連れは弱っちそうな眼鏡の優男だけじゃないすか。
あっちはたった二人、こっちは十二人ですぜ。いっそ、ここでやっちまうってのも」
「無知とは最大の勇気ですね。お前達十人が束になっても、あの優男さんにさえ敵いませんよ」
「えっ……」
「彼等のお相手は僕がします。お前達は外して下さい。
僕は可愛いお前達を無駄死にさせたくはないのです。解りますね?」
「でもダンナ」
「君は、僕に同じことを二度言わせるつもりですか?」
舎弟は息を呑む。サルヴァトーレは微笑した。
「心配しなくても大丈夫ですよ」
サルヴァトーレは、カウンター席に戻ってくる時に、長身の男を呼んだ。
「マイヤー、来て下さい」
スキンヘッドの男がやってくる。マンゾーニの二人に一礼した。
「マンゾーニさん、彼だけ、同席をお許し頂けますか? マイヤーと申します。僕の右腕です」
「いいぜ? こっちも一人連れてるしな。こいつは」
「自分はフィオラノと申します。初めまして。よろしくお願い致します」
「こちらこそお願いします。フィオラノさんのお噂はかねがね」
「へえ。おめーも有名になったもんだなあ、フィオ」
初老のマスターがワイングラスを差し出す。
「お待たせしました、当店のオリジナルワインです」
ディーノがグラスに手を伸ばす。色は限りなく紫に近い赤。
ワイングラスの中で一度だけ揺らし、口付けた。コクコクと喉仏を鳴らして。
「あー、ウマイじゃねえか、コレ!」
「お口に合いましたか。良かった」
サルヴァトーレは笑顔を見せた。
「ところで。お父上のカルロ氏はご健勝ですか?」
「親父に何か用か?」
「いえ、言葉の通りですよ。うちの父も大分年でしてね、
最近はよく腰が痛いと言うものですから。マンゾーニさんのお父上はお元気かなと」
「そういうことか。確かに昔のようにピンピンしちゃあいないが、頭はまだまだキレるぜ?」
「流石はドン・カルロ。『シチリアの毒牙』は、
衰えていないようですね。お元気そうで何よりです」
「おい、フィオ。こいつ、悪いヤツじゃねえぞ」
「もう。兄貴はボスを褒められると弱いんですから」
サルヴァトーレはまた笑った。
「ああ、すみません。余計なお喋りに付き合わせてしまって。
マンゾーニさんが僕にお話があるんでしたよね。お聞かせ願えますか、その面白いお話」
「ああ。ハラワタよじれるぜ?」
まるで店全体が静まり返ったように、ディーノの話に聞き入った。
「本当ですか?」
その事実は、シーゲルのNo.2を驚かせた。
「ああ。マジだぜ?」
サルヴァトーレは落ち着きを失い、動揺を隠せないでいる。
ディーノは旨そうに葉巻を吹かしながら、
「どーよ? ちょーおもしれえ話だろ?」
「ええ。面白過ぎますよ」
サルヴァトーレの悪癖が出たとマイヤーは思った。
アンダーボスなのだから、人前で子供染みた癖は控えるよう言っているのだが。
サルヴァトーレは親指を齧っていた。
「マルセロのご子息がご存命で、地図に載らない島に居るだなんて」
「ねえ、クロイツ。これってさあ」
自白する男をガラス越しに見ていたアイヴィーは、苦い顔をしていた。
「シーゲルに島の情報を流したのがディーノってことだよねえ?」
「そのようですね」
「あーいーつーめー!」
その夜、生徒代表室でミーティングが行われた。
出席者は、生徒代表のジョシュア、ソクーロフ博士、
警備本部からパソコン越しに参加している司令官のアイヴィーだ。
司令官から侵入者についての報告が終わると、次はソクーロフが話し手となった。
「ラビットのカウンセリングと、侵入者達の証言から解ったことだが、
元々シーゲルは、ラビットの行方を探していたようだ」
「うっそ。マジで!?」
パソコン画面に映るアイヴィーも驚いていた。
「シーゲルとマルセロは、表立って争うことはなかったが、内部ではいがみ合っていたようだ。
マルセロの先代ボスを焼き殺したのがシーゲルだと噂されるのと同じように、
マルセロは密かにシーゲルにスパイを送り込んでいるのではないかという噂もあったそうだ。
それから、アイヴィー。今朝のニュースは見たかね?」
司令官は下唇を噛む。
「あー、アレでしょ? 朝見て目ぇ覚めたわ」
そこで博士は生徒代表の表情を伺う。途惑っていた。
「ジョシュアはまだ知らないようだね」
失礼、と言ってジョシュアの横からマウスとキーボードを操作した。
アイヴィーが映っているウインドウを小さくし、脇に寄せる。
新たなウインドウでニュースサイトを開き、その記事を見せた。
「今朝、こういう報道があったんだ」
シチリアでシーゲル・ファミリーの次期ボスが捕まったニュースだった。
同時に構成員の多くが捕まり、もはやシーゲルは壊滅状態だというのだ。
聖アルフォンソ島にシーゲルが上陸しようとしたのと同じ日に。ソクーロフは淡々と話した。
「今回、シーゲルを壊滅させたことで、ラビットを、
そしてマルセロ家を守れたと言っても過言ではない。
この島にラビットが居る。敢えて正しい情報を相手に吹き込み、
そこへ現れたところを確実に一網打尽にする。
失敗するリスクがある中、この作戦を実行するには、相当の勝算と勇気が必要だ。
つまり、この計画の立案者は、警備への信用が篤かったとも考えられる。
もしくは、他にも何か手を打っていたか。
どちらにせよ、お前は彼等に礼を言うべきかもしれないな」
「誰にさ?」
「それは、お前も聞いていただろう? シーゲルにラビットの所在地を話したのは」
「ニュース、見たよ」
学院の通信室。完全防音のプライベートブースに一人の生徒が居た。
白く細い手が受話器を持っている。冷たくて甘いバニラボイスが呟かれる。
「シーゲル・ファミリーが壊滅したそうだね?」
受話器の向こうからは、笑いを含んだ、低いしゃがれ声。
「ああ。そういや、そんなニュース、やってたな」
「僕に白を切るつもり? シーゲルを潰したのは、君達でしょう?」
向こうはフッと笑うだけだった。
「君は、この僕を駒のひとつにしたんだ」
今日のバニラボイスは酷く冷えている。
「あの電話。ラビット・マルセロを島で見たと僕に伝えたのは、
僕に警戒心を植え付け、この島の警備レベルを上げさせることが目的だったんだ。
島に侵入してくるシーゲルを、警備組織が確実に捕らえられるように」
アンリは、ジョシュアから侵入者の正体はシーゲルだったと聞いた。
その時になってやっと今回の全貌が見えた。
ラビットの誘拐。それを実行したかったのはシーゲル家だけ。
彼等は、シーゲル家を潰したいマンゾーニに利用されたのだと。
「マンゾーニにとって邪魔な存在だったのは、マルセロではなくシーゲルだったんだね。
だから、わざとシーゲルにマルセロの一人息子が島に居る情報を流した。
島への侵入者は警備組織が捕まえる。彼等はそれが仕事だもの。
君は、自分の思惑通りに、警備組織を動かした。
そして、構成員が聖アルフォンソ島とシチリアに二分された時期を狙って、
君達は、シチリアに残ったシーゲル家を潰したんだ」
「ひでぇ言い草だなあ。それじゃあまるで、俺様が悪党みたいじゃねえか」
マフィアのくせに。
「俺達がやったって証拠があるんなら、サツに突き出せばいいさ」
「僕は無駄なことはしない主義だ。君が爪痕を残してるわけがない。
それに、君達を警察に売ることは、僕にとっての不利益が大き過ぎる」
せっかく手にした剣と盾をこんなことで失いたくない。
それに、一度内情を見せた人間を、そう易々と手放して赤の他人になってくれるとは思えない。
「そう言ってくれると思ったぜ、お姫様。俺達はまだ付き合い始めたばっかだもんなあ」
そう言って、自分で笑ったあとで、彼は自分が行ったことを認める発言をした。
「マルセロのガキを助ける為に、おめーが動いてくれるかが一番の賭けだったが。
ホントに思い通りに警備に連絡してくれるとはな。さすがパパだ」
「彼の策だったの?」
「そうさ。『ああ見えて、あのバンビーノは心根は優しく、甘い子供だ』ってな?」
「子供……」
「パパは天才だ。パパの言うことはいつだって正しい」
カルロ・マンゾーニ。ご老体のくせに未だボスの座に君臨し続けるだけのことはあるか。
「やっぱアレか? あのガキを助けようとしたのは、
マージナルプリンス同士の友情ってヤツか? 泣かせるじゃねえか。見直したぜ?」
「何、似合わないこと言ってるの。僕は借りを返しただけだ」
「借り?」
「君には関係ない。こんなふざけた真似、次はないよ」
「今のお電話、伯爵家の姫さんですかい?」
「ああ」
ディーノが携帯電話を閉じる。赤いフェラーリの後部座席に一人で悠々と座っていた。
ハンドルを握るフィオラノはミラーでディーノの表情を確認する。
ニヤリと笑っていた。“別れ”の電話ではなかったようだ。
「うちとのビジネスを切られるまでには至らなかったようですね? 安心しました」
ディーノは足を組みかえる。今日はブラックのレザージャケット。
襟のみブラウンで、シンプルながらダンディズムを感じさせるデザインだ。
アルマーニの黒ラベルが細身の身体にぴたりと合っている。
「んなことまだ気にしてたのかあ? 意外と気が小せえんだなあ、おめーは」
「兄貴がスーパーポジティブですから、自分は自然と慎重になってしまうんですよ。
でも、姫さんのご機嫌はいかがでした? 相当ご立腹だったように聞こえましたけど?」
「なんかニャアニャア鳴いてたが、要は俺の声を聞きたかっただけだろ」
フィオラノは笑った。
「お熱いことで。ごちそうさまです」
「妬くな、妬くな。それより、車、もっと飛ばせよ、フィオ。
今日は久し振りにママの手料理が食えるんだからな!」
「あ、そうだ。すみません。言い忘れていましたが、今日はマダムが、
兄貴のお好きなペペロンチーノを作って下さるそうですよ?
だから、寄り道しないで真っ直ぐ帰っていらっしゃいと」
「マジか! てか、フィオ、んな大事なこと言い忘れてんじゃねえよ!」
「すみません。つい、うっかり」
→
翌日。一時間目の授業が始まった頃に、ソクーロフ博士が警備本部にやってきた。
「昨夜は私の都合で、キャンセルして悪かったね」
いえ、と副司令官のクロイツが言う。
「ドクターが、ドクターのお仕事を優先されるのは当然ですから」
司令官が尋ねる。
「ラビットはもう平気なの?」
「ああ。昨日は吸入薬で発作は治まったからな。
今朝も、ここに来る前に、ラビットの様子も見てきたが」
「どうだった?」
今朝、警備は改めてシュヌーシア寮へ報告を入れていた。
今回の侵入者は全員捕えたので心配要らないこと、
そして、ラビの母親が生きていたという話は嘘だったことを伝えたのだ。
「悪くはない。警備からの報告を聞いたあとは涙したようだがね」
「……そう、だよね、やっぱり」
司令官は声を落とした。
「だが、今日は発作を起こすまでには至らなかった。
ラビットのメンタルケアは引き続き行うから、あとはこちらに任せてくれればいい」
「ん。ありがと」
アイヴィーは、ソクーロフの目許を覗きながら、
「ね、あんたは昨日ちゃんと寝た? もしかして、ずっとラビットの」
「徹夜に近い君達に心配される程ではない。それで、私のクライアントは?」
副司令官が答える。
「取調室です。準備はできています」
「ありがとう。では早速、始めたいと思うが。良いかね、司令官?」
「お願いします、ドクター」
司令官と副司令官が居る部屋から、ガラス越しに取調室が見える。
ここの取調室は、マジックミラー越しに見学できる仕様になっていた。
真っ白な部屋の中央に、ひとつだけ椅子がある。
椅子に座っているのはダークスーツを着たスキンヘッドの男だ。年齢は30代前後だろう。
奥のドアから白衣を着たソクーロフ博士が入ってきた。
スキンヘッドの男の傍へゆっくりと歩いていく。
男が座る椅子の真横に立ち、静かに語り掛ける。
10分と経たないうちに、博士の手によって男は催眠状態に入った。
「お名前は?」
博士に尋ねられて、大の男がまるで素直な子供のように答えた。
「マイヤー」
「マイヤーだね」
こういう時、博士の声は酷く優しい。ゾクリとするほどに。
「君は、誰に言われて、ここに来たのかな?」
「サルヴァトーレ様に」
見ていたアイヴィーは「えっ」と驚いた。
「ディーノじゃないのかよ? でも、サルヴァトーレって、どっかで聞いた名前だな」
隣で副司令官が嘆息する。
「まさかとは思いますが、以前、貴方が危険視していた家の者では?」
苛立ちを滲ませた吐息だった。上司への憤りではなく、自分への。
「今になってその名を聞くなんて」
取調室で博士が質問を続ける。
「サルヴァトーレ様というのは?」
スキンヘッドの男が答える。
「……私達シーゲル・ファミリーの、アンダーボス」
アイヴィーは思わずガラスに触れていた。
「シーゲルかよ!?」
博士は一瞬、マジックミラーのほうに視線を送ったが、すぐにインタビュアーに戻った。
「サルヴァトーレ様から、この島のことを聞いたのかい?」
「いいえ」
「では、この島の存在は、どうやって知ったのかな?」
博士に操られるまま、男はあの夜の出来事を話した。
シーゲル・ファミリーが根城にしているレストラン『リストランテ・フィガロ』で、
定例の集会を行っていた時のことだ。その夜は部外者が二人現れた。
ドアを開けたのはグレイのスーツを着た眼鏡の男だった。白スーツの男が店内に入ってきた。
すかさずドアの傍に居た見張り番が追い出しにかかった。
「お兄さん達、クローズの札が見えなかったのか?
悪いが、今日は俺達の貸し切りなんだ。さあ、帰った、帰った」
ところが、白スーツの男は物怖じするどころか笑ったのだ。
それを見て、マイヤーは席を立とうとした。しかし、自分の腕に誰かの手が触れた。
黒に染められた爪。サルヴァトーレの手だった。
「僕が行きます」
そう呟いて、アンダーボス自ら仲裁に向かった。
「な、なんだ、てめえ」
見張り番が相手の胸倉を掴もうとした時。
「およしなさい」
サルヴァトーレに止められ、見張り番は肩が跳ねるほど驚いていた。
「大変失礼致しました。彼はうちで一番若いマフィオーソで、
教育が足りず、申し訳ありません。彼に見張りを言い付けたのは僕です。
お叱りは僕がお受けします。彼はどうかお許し下さい」
「お前が、ここのアンダーボスか」
「はい。サルヴァトーレ・シーゲルと申します。
貴方はマンゾーニ・ファミリーのアンダーボスさんですね?」
「ああ。ディーノ・マンゾーニだ」
名を聞いて、見張り番はヒッと短い悲鳴を上げた。
シチリアマフィアの中でも血塗られた歴史を持つマンゾーニ。
そのNo.2に無礼な態度を取ったのだ。
マンゾーニとシーゲル、どちらの人間から殺されても可笑しくはない。
事の重大さに気付いた顔から、さーっと血の気が引いていく。
ディーノの傍らに居る眼鏡の男が、すっと前に出る。
「ご心配には及びません。うちの兄貴は懐がでっかいですから。ね、兄貴?」
「ああ。新入りなら仕方ねえなあ。血の気が多い野郎は伸びるぜ。これからもその調子でな?」
シーゲルのNo.2は丁重に礼を述べた。
「寛大なお言葉、ありがとうございます。さ、お前は向こうへ行っていなさい」
「は、はい。すみませんでした! 失礼します!」
頭を下げ、奥へ引っ込んでいった。
「感謝します。このようなことで、業界内でも残虐で有名なマンゾーニ・ファミリーに、
目を付けられたくはないですからね。しかし、今宵はどうなさいました?
我々が集う店に、アンダーボス自らお越しになるとは。
他にも、うちの者がそちらに何か失礼をしましたでしょうか?」
「いいや」
「では、この店自慢の赤ワインの評判でもお聞きになりました?」
「へえ、そんなのがあんのか。なら、飲ませて貰いてえなあ。
丁度、こっちには酒の肴になるおもしれえ話があんだよ」
「面白い話、ですか。生憎、ボスは今日不在で、僕が伺っても良いお話でしょうか?」
「俺は、お前に話があって来たんだぜ? サルヴァトーレ」
「僕に?」
「たまにはアンダーボス同士の密会ってのもイイじゃねえか。
聞きてえだろ? お前の席の隣、空いてるか?」
「もちろんです。どうぞ、こちらへ」
カウンター席の端へ案内した。
サルヴァトーレ、ディーノ、その連れという並びで席に着いた。
「マスター、僕からこちらのお客様にワインを」
「か、畏まりました」
初老のマスターは、ディーノをちらりと盗み見てから、ワインボトルを手に取った。
ディーノはひょいと片手を挙げる。
「あー、メニュー表くれるか。俺、なんかハラ減ってきた。フィオもなんか食うだろ?」
眼鏡の男は苦笑している。
「アウェイなのに、マイペースですね、兄貴は」
マンゾーニの二人がメニュー表を見ている間に、
シーゲル・ファミリーの舎弟がサルヴァトーレに近付いてきた。
サルヴァトーレはディーノに「すみません。少し失礼します」と断って、席を外した。
壁側に移動してきたサルヴァトーレと舎弟の話し合いが、マイヤーの耳にも漏れ聞こえてくる。
「ダンナ、止めて下さい。マンゾーニなんかと話すことなんてないでしょう」
舎弟の訴えに、アンダーボスは冷静に答える。
「あのマンゾーニ・ファミリーが話があるとおっしゃってるんですよ?
お話も聞かずに追い返すなんて無礼が通用するとは思えませんが」
「ですが、いくらマンゾーニのアンダーボスと言っても、
連れは弱っちそうな眼鏡の優男だけじゃないすか。
あっちはたった二人、こっちは十二人ですぜ。いっそ、ここでやっちまうってのも」
「無知とは最大の勇気ですね。お前達十人が束になっても、あの優男さんにさえ敵いませんよ」
「えっ……」
「彼等のお相手は僕がします。お前達は外して下さい。
僕は可愛いお前達を無駄死にさせたくはないのです。解りますね?」
「でもダンナ」
「君は、僕に同じことを二度言わせるつもりですか?」
舎弟は息を呑む。サルヴァトーレは微笑した。
「心配しなくても大丈夫ですよ」
サルヴァトーレは、カウンター席に戻ってくる時に、長身の男を呼んだ。
「マイヤー、来て下さい」
スキンヘッドの男がやってくる。マンゾーニの二人に一礼した。
「マンゾーニさん、彼だけ、同席をお許し頂けますか? マイヤーと申します。僕の右腕です」
「いいぜ? こっちも一人連れてるしな。こいつは」
「自分はフィオラノと申します。初めまして。よろしくお願い致します」
「こちらこそお願いします。フィオラノさんのお噂はかねがね」
「へえ。おめーも有名になったもんだなあ、フィオ」
初老のマスターがワイングラスを差し出す。
「お待たせしました、当店のオリジナルワインです」
ディーノがグラスに手を伸ばす。色は限りなく紫に近い赤。
ワイングラスの中で一度だけ揺らし、口付けた。コクコクと喉仏を鳴らして。
「あー、ウマイじゃねえか、コレ!」
「お口に合いましたか。良かった」
サルヴァトーレは笑顔を見せた。
「ところで。お父上のカルロ氏はご健勝ですか?」
「親父に何か用か?」
「いえ、言葉の通りですよ。うちの父も大分年でしてね、
最近はよく腰が痛いと言うものですから。マンゾーニさんのお父上はお元気かなと」
「そういうことか。確かに昔のようにピンピンしちゃあいないが、頭はまだまだキレるぜ?」
「流石はドン・カルロ。『シチリアの毒牙』は、
衰えていないようですね。お元気そうで何よりです」
「おい、フィオ。こいつ、悪いヤツじゃねえぞ」
「もう。兄貴はボスを褒められると弱いんですから」
サルヴァトーレはまた笑った。
「ああ、すみません。余計なお喋りに付き合わせてしまって。
マンゾーニさんが僕にお話があるんでしたよね。お聞かせ願えますか、その面白いお話」
「ああ。ハラワタよじれるぜ?」
まるで店全体が静まり返ったように、ディーノの話に聞き入った。
「本当ですか?」
その事実は、シーゲルのNo.2を驚かせた。
「ああ。マジだぜ?」
サルヴァトーレは落ち着きを失い、動揺を隠せないでいる。
ディーノは旨そうに葉巻を吹かしながら、
「どーよ? ちょーおもしれえ話だろ?」
「ええ。面白過ぎますよ」
サルヴァトーレの悪癖が出たとマイヤーは思った。
アンダーボスなのだから、人前で子供染みた癖は控えるよう言っているのだが。
サルヴァトーレは親指を齧っていた。
「マルセロのご子息がご存命で、地図に載らない島に居るだなんて」
「ねえ、クロイツ。これってさあ」
自白する男をガラス越しに見ていたアイヴィーは、苦い顔をしていた。
「シーゲルに島の情報を流したのがディーノってことだよねえ?」
「そのようですね」
「あーいーつーめー!」
その夜、生徒代表室でミーティングが行われた。
出席者は、生徒代表のジョシュア、ソクーロフ博士、
警備本部からパソコン越しに参加している司令官のアイヴィーだ。
司令官から侵入者についての報告が終わると、次はソクーロフが話し手となった。
「ラビットのカウンセリングと、侵入者達の証言から解ったことだが、
元々シーゲルは、ラビットの行方を探していたようだ」
「うっそ。マジで!?」
パソコン画面に映るアイヴィーも驚いていた。
「シーゲルとマルセロは、表立って争うことはなかったが、内部ではいがみ合っていたようだ。
マルセロの先代ボスを焼き殺したのがシーゲルだと噂されるのと同じように、
マルセロは密かにシーゲルにスパイを送り込んでいるのではないかという噂もあったそうだ。
それから、アイヴィー。今朝のニュースは見たかね?」
司令官は下唇を噛む。
「あー、アレでしょ? 朝見て目ぇ覚めたわ」
そこで博士は生徒代表の表情を伺う。途惑っていた。
「ジョシュアはまだ知らないようだね」
失礼、と言ってジョシュアの横からマウスとキーボードを操作した。
アイヴィーが映っているウインドウを小さくし、脇に寄せる。
新たなウインドウでニュースサイトを開き、その記事を見せた。
「今朝、こういう報道があったんだ」
シチリアでシーゲル・ファミリーの次期ボスが捕まったニュースだった。
同時に構成員の多くが捕まり、もはやシーゲルは壊滅状態だというのだ。
聖アルフォンソ島にシーゲルが上陸しようとしたのと同じ日に。ソクーロフは淡々と話した。
「今回、シーゲルを壊滅させたことで、ラビットを、
そしてマルセロ家を守れたと言っても過言ではない。
この島にラビットが居る。敢えて正しい情報を相手に吹き込み、
そこへ現れたところを確実に一網打尽にする。
失敗するリスクがある中、この作戦を実行するには、相当の勝算と勇気が必要だ。
つまり、この計画の立案者は、警備への信用が篤かったとも考えられる。
もしくは、他にも何か手を打っていたか。
どちらにせよ、お前は彼等に礼を言うべきかもしれないな」
「誰にさ?」
「それは、お前も聞いていただろう? シーゲルにラビットの所在地を話したのは」
「ニュース、見たよ」
学院の通信室。完全防音のプライベートブースに一人の生徒が居た。
白く細い手が受話器を持っている。冷たくて甘いバニラボイスが呟かれる。
「シーゲル・ファミリーが壊滅したそうだね?」
受話器の向こうからは、笑いを含んだ、低いしゃがれ声。
「ああ。そういや、そんなニュース、やってたな」
「僕に白を切るつもり? シーゲルを潰したのは、君達でしょう?」
向こうはフッと笑うだけだった。
「君は、この僕を駒のひとつにしたんだ」
今日のバニラボイスは酷く冷えている。
「あの電話。ラビット・マルセロを島で見たと僕に伝えたのは、
僕に警戒心を植え付け、この島の警備レベルを上げさせることが目的だったんだ。
島に侵入してくるシーゲルを、警備組織が確実に捕らえられるように」
アンリは、ジョシュアから侵入者の正体はシーゲルだったと聞いた。
その時になってやっと今回の全貌が見えた。
ラビットの誘拐。それを実行したかったのはシーゲル家だけ。
彼等は、シーゲル家を潰したいマンゾーニに利用されたのだと。
「マンゾーニにとって邪魔な存在だったのは、マルセロではなくシーゲルだったんだね。
だから、わざとシーゲルにマルセロの一人息子が島に居る情報を流した。
島への侵入者は警備組織が捕まえる。彼等はそれが仕事だもの。
君は、自分の思惑通りに、警備組織を動かした。
そして、構成員が聖アルフォンソ島とシチリアに二分された時期を狙って、
君達は、シチリアに残ったシーゲル家を潰したんだ」
「ひでぇ言い草だなあ。それじゃあまるで、俺様が悪党みたいじゃねえか」
マフィアのくせに。
「俺達がやったって証拠があるんなら、サツに突き出せばいいさ」
「僕は無駄なことはしない主義だ。君が爪痕を残してるわけがない。
それに、君達を警察に売ることは、僕にとっての不利益が大き過ぎる」
せっかく手にした剣と盾をこんなことで失いたくない。
それに、一度内情を見せた人間を、そう易々と手放して赤の他人になってくれるとは思えない。
「そう言ってくれると思ったぜ、お姫様。俺達はまだ付き合い始めたばっかだもんなあ」
そう言って、自分で笑ったあとで、彼は自分が行ったことを認める発言をした。
「マルセロのガキを助ける為に、おめーが動いてくれるかが一番の賭けだったが。
ホントに思い通りに警備に連絡してくれるとはな。さすがパパだ」
「彼の策だったの?」
「そうさ。『ああ見えて、あのバンビーノは心根は優しく、甘い子供だ』ってな?」
「子供……」
「パパは天才だ。パパの言うことはいつだって正しい」
カルロ・マンゾーニ。ご老体のくせに未だボスの座に君臨し続けるだけのことはあるか。
「やっぱアレか? あのガキを助けようとしたのは、
マージナルプリンス同士の友情ってヤツか? 泣かせるじゃねえか。見直したぜ?」
「何、似合わないこと言ってるの。僕は借りを返しただけだ」
「借り?」
「君には関係ない。こんなふざけた真似、次はないよ」
「今のお電話、伯爵家の姫さんですかい?」
「ああ」
ディーノが携帯電話を閉じる。赤いフェラーリの後部座席に一人で悠々と座っていた。
ハンドルを握るフィオラノはミラーでディーノの表情を確認する。
ニヤリと笑っていた。“別れ”の電話ではなかったようだ。
「うちとのビジネスを切られるまでには至らなかったようですね? 安心しました」
ディーノは足を組みかえる。今日はブラックのレザージャケット。
襟のみブラウンで、シンプルながらダンディズムを感じさせるデザインだ。
アルマーニの黒ラベルが細身の身体にぴたりと合っている。
「んなことまだ気にしてたのかあ? 意外と気が小せえんだなあ、おめーは」
「兄貴がスーパーポジティブですから、自分は自然と慎重になってしまうんですよ。
でも、姫さんのご機嫌はいかがでした? 相当ご立腹だったように聞こえましたけど?」
「なんかニャアニャア鳴いてたが、要は俺の声を聞きたかっただけだろ」
フィオラノは笑った。
「お熱いことで。ごちそうさまです」
「妬くな、妬くな。それより、車、もっと飛ばせよ、フィオ。
今日は久し振りにママの手料理が食えるんだからな!」
「あ、そうだ。すみません。言い忘れていましたが、今日はマダムが、
兄貴のお好きなペペロンチーノを作って下さるそうですよ?
だから、寄り道しないで真っ直ぐ帰っていらっしゃいと」
「マジか! てか、フィオ、んな大事なこと言い忘れてんじゃねえよ!」
「すみません。つい、うっかり」
→
■何でもない日(4) 続編
警備本部。司令室は『追憶の塔』の最上階にある。
現在の司令官であるアイヴィーは、部屋の角に佇んで窓から夜の海を眺めていた。
丁度この位置。壁に凭れて、窓を斜めから見下ろすと、視界に入るのは暗い海だけ。
夜色の窓は、鏡のように、その正面に居る人物を映した。
首許まできっちりネクタイを締めている男。副司令官のクロイツだ。
「警備強化を始めて、本日で一週間になります」
クロイツは、司令官が席に着いていない机の前で律儀に立っている。
「司令の指示通り、監視エリアを拡張し、今まで不備のあった箇所は改善しました」
改善箇所は、以前、マンゾーニが警備網の縄抜けをした部分が主だった。
今まで監視装置を置いてなかった場所へ、新たにカメラやトラップを仕掛けている。
悔しいが、マンゾーニに指摘された監視の穴を補強した形だ。
「今のところ、警備網にかかった者はありません」
司令官は黒い窓越しにちらりと副司令官を見る。
クロイツは今日も背筋がすっと伸びている。
アイヴィーの経験則上、ただ立っているだけでカッコイイ奴は、中身もカッコイイ。
中には、背中に鉄の棒が入っているのではないか、と思うくらい直立不動な奴も居る。
だが、それは、まだ肩の力が抜けていない証拠で、軍に入って間もない新人に多い例だ。
クロイツのように、凛と筋が通っていて、かつ、しなやかなラインを持っている奴が本物。
男に対して、綺麗とか美しいなんて言葉を使うのはヘンかもしれないが、
演習や儀式でない、『普段』の立ち姿が美しい軍人は、総じて優秀で、戦闘力も高い。
「問題は、いつまで警備強化を維持するか、ですが」
「ですよねー。ま、今夜はデッドプリンスのライブもあるし、動きがないほうが嬉しいけど」
司令官と副司令官は、今後の方針を決め兼ねていた。
生徒代表たっての『お願い』により、臨時警備強化期間を設けたが、現状、動きはない。
「焦らしプレイってイヤだよねー。来るなら来るで早くしてーってかんじ?」
「司令。島に攻めてくるのが、マンゾーニならば、既に島内に侵入している可能性もあるのでは?」
「ちょ、監視してるじゃん、ずっと」
「ええ。けれど、マンゾーニは何度も司令の警備網を突破していますから」
「そ、そーだけど」
警報が鳴った。司令官は頭を掻く。
「今夜はライブだってのに。ったく、空気の読めねえお客さん達だな」
「空気とやらを読める人間ならば、そもそも島に侵入しませんよ」
二人は中央作戦室へ向かった。
壁にかけられた大きな液晶画面に島の全体図が表示されている。
その隅で赤い丸が点滅していた。侵入者だ。
司令、副司令の姿を見て、オペレータが報告する。
「侵入者あり、F6エリアです!」
その場所は、今回、監視を拡張したエリアだった。司令官はモニタを見上げて、
「ひっかかったのか? 警備強化しといてマジ正解じゃねえかよ」
副司令官は素早く席に着き、キーボードを打ちながら、
「そうですね。匿名希望様はこうなることが解っていたんでしょうから」
夕食後のシュヌーシア寮サロン。
寮生達はテレビを見たり、カードゲームをして遊んでいる。
隅のテーブルでは、中等部三年コンビが宿題中。
数学が苦手なレオンが、ラビに教わっているところだ。
「それで、X=2。どう、レオン、解った?」
「もー、ムリ!」
ペンを投げ出した。
「てゆうか、こんな数式覚えて、なんかイミあんのかよ!?」
勉強に飽きた時、レオンがよく言う文句だ。
「じゃあ、10分だけ休憩する?」
「する!」
ラビは笑っていた。サロンにバトラーがやってきた。
丁度良い、コーラを頼もう。レオンはバトラーをこちらへ呼ぼうとした。
すると、バトラーのほうから、二人の傍へ来た。彼はテーブルに広げられている問題集を見て、
「お勉強中失礼致します」
バトラーはこう言った。
「ラビット様、お電話でございます」
「え、僕?」
「はい」
「電話なんて誰からだろ。あ、レオン、ごめん。僕、ちょっと行ってくるね」
「おう」
「10分休憩したら、このページは一人でやってみてね。あとで一緒に答え合わせしよ?」
「俺一人じゃムリだってー、マジでー」
「すぐに戻ってくるね」
パタパタとした足音でラビがサロンを出て行った。
それから10分が過ぎた。しかし、レオンは宿題を再開していなかった。
問題集のページをイヤそうに見ているだけで、コーラをちびちび飲んでいた。
「おっ。数学やってんのか、レオン」
後ろからシルフェに覗き込まれた。二冊並んでいる問題集と空席を見て、
「ラビと二人でやってたのか? ラビはどうした?」
「電話だってー」
「電話……」
「シルフェ、ラビに用事?」
「いや」
「ん?」
レオンに不思議そうな顔を向けられて、シルフェは笑顔を作る。
「ラビが戻るまで、俺が教えてやろうかと思ってさ?」
レオンは即答する。
「やだ」
「遠慮すんなよ。可愛い後輩の為なら、俺は喜んで手取り足取り教えてやるぜ?」
「お前、どーせ俺のジャマする気だろ?」
「信用ないなー。おにーさん、ショック」
「じゃー、俺が計算問題やってた時に、ゼロを勝手に書き加えたのはどこのどいつだ!?」
静かにドアが開く。俯いたラビが立っていた。
「あ、待ってたぜ、ラビ。この辺の問題なんだけど、やっぱ訳わかんなくてさー」
「……ごめん、レオン。僕、宿題、できなくなっちゃった」
「ちょ、お前、どうした? なんで泣いてんだよ?」
ラビの大きな瞳には、涙が溜まっていた。袖口で拭った目許が赤くなっている。
「電話か? なんて言われたんだよ?」
「ママが……ママが……」
レオンが顔をしかめる。
二代前の生徒代表から、レオンは秘密裏に聞かされていた。
ラビの両親が共に火事で亡くなっていることを。
「お前の母親が、どうしたって言うんだよ?」
「ママが僕に会いたい、って言ってるんだって」
「……誰がそんなこと」
「叔父さんの部下だっていう人。今、島まで迎えに来てるから、すぐ来てって」
「センス無さ過ぎだろ、その口説き文句」
シルフェがラビの傍へ行く。
「それじゃあ、まるで『君のパパが急病だから、今すぐ病院に行こう』とか言って、
子供を車に乗せるのとおんなじだ。解るだろ、ラビ?」
「じゃあウソってこと? ママが僕に会いたいって言ってるのに、シルフェはウソだって言うの?」
「ウソじゃない、って言えるなら、言ってやりたいけど。
このタイミングで、そんな電話が来るなんて、どう考えても」
「タイミングって何? シルフェの言ってることわかんない。僕、早く行かなきゃっ」
「落ち着け、ラビ。どうしても行くって言うんなら、俺も一緒に行ってやるから。
けど、その前に島の警備会社に連絡して、警備員にも何人か付いて来て貰う」
「ダメだよ! 僕一人で来てって言われた!」
「なら、ますます行かせられねえよ」
「離してよ、シルフェ!」
パン、と音がした。ラビの右頬を叩いたのは、レオンだった。
ラビの両肩を掴む。
「バカ! 行くんじゃねえよ! お前の母親は……」
「痛いよ、レオン、離してっ」
振り切ろうとする両肩を強く掴んで、レオンは言った。
「お前の母親は、火事で死んだんだろ!?」
周りの寮生達がざわつく。ラビの両親が既に他界していること、
その事実はレオン以外の生徒には初耳だ。ラビは手の甲で涙を拭いながら、
「だって……だって、ママが生きてたって、電話の人が言って」
「んなわけねえだろ、バカ! ダマされてんじゃねえ!」
ラビは泣きじゃくりながら床にしゃがみこんだ。レオンは更に叫ぶ。
「お前はバカかよ! んなくだらねえウソにダマされて、
そのあと、お前がどうなるかも解んねえのか!?」
レオンの右肩にシルフェが手を置く。
「よせ、レオン。もういい」
執事に指示を出した。
「バトラー、警備に緊急通報。侵入者が来てる。狙いはラビだ」
警備本部。
オペレータが声を上げる。
「司令、シュヌーシア寮のバトラーから通報がありました」
その報告を聞いた司令官は、「えっ?」と聞き返した。
「侵入者は解ってるけど、狙いがラビットだって? アンリじゃないのかよ?」
「ええ。ラビット様に今すぐ学院を出るようにと不審な電話があったそうです」
「そりゃマズイな」
「その電話が発信された位置が特定できました。モニタに映します」
「F6エリア内か。警備網にひっかかった奴と同一人物かお仲間だろうな。
よし。チームA、チームBはF6エリアへ、チームCは学院周辺へ急行!」
車で移動中、アイヴィーはシルヴァンの携帯に電話した。
「はーい。シルヴァンでーす」
声の後ろから、かすかに歌声が聞こえてくる。
おそらくデッド・プリンスのボーカルのものだろう。ライブ直前のリハーサル中らしい。
「練習中か?」
「あ、聞こえます? 今日のレッド、絶好調ですよ」
「悪ぃ、今夜のライブ、行けないわ」
「お仕事、ですか?」
「ああ、まあな」
「解りました。レッド達には僕から伝えておきますね」
「そーしてくれると助かるわ、じゃあな」
「あ、アイヴィー!」
「ん?」
「お詫びは、貴方の手作りピザで良いですよ?
ちなみに僕は、モッツァレラチーズとトマトたっぷりのマルゲリータが好きです」
「わーったよ。マルゲリータでもカルボナーラでも作ってやる」
「楽しみにしています。お気を付けて」
「あいよ」
アイヴィーは携帯電話を閉じる。パチンと小気味の良い音が鳴った。
入学当時、アイヴィーの自宅に何度も無断外泊しに来た問題児。
そんな不良王子と交わした、とるに足らない約束で、自分でも不思議な程、気合いが入った。
俺は今度あいつらの為にピザを作らなきゃいけない。その為には――
「侵入者を肉眼で確認しました。数十名程だと思われます」
「了解。じゃー、行きますかっ」
シュヌーシア寮。
ラビがすすり泣く声がサロンに響いている。先程よりは少し落ち着いたものの、まだ涙が止まらない。
床にへたり込んだまま、しゃくりあげている。シルフェは吐き捨てた。
「死んだ母親を餌に、ラビをおびき出そうとするなんて、最低だな」
他の寮生達は、ラビが泣き止まないことと、侵入者情報を聞いたことで、おろおろしてしまっている。
シュヌーシアは、心身共に繊細な生徒が少なくない。
中には涙ぐんでいる生徒も居て、混沌とした状況だった。
そろそろ就寝時間だが、誰も自室に戻ろうせず、このままでは眠れそうになかった。
サロンのドアが開いた。
「失礼致します」
バトラーと一緒にふわっと甘い香りが入ってきた。
「お休み前のお飲み物に『青い月』をお持ち致しました。どうぞお召し上がり下さいませ」
バトラーは生徒一人一人にホットミルクを手渡して回った。
不安がっている少年達には、優しく言葉を掛けていた。
「大丈夫ですよ、この島の警備が皆様を必ずお守り致します」
「ほんと? ほんとに大丈夫?」
「はい。私がシュヌーシアにお仕えしてから、
侵入者によって負傷された生徒様は、お一人もいらっしゃいません」
「え、そうなの?」
「はい。これを飲み終わる頃には、きっと解決していますよ、さあ、どうぞ」
「そっかな。ありがと、バトラー」
バトラーはレオンとラビの前にもやってきた。
「お二人の分も、こちらに置いておきます。よろしければどうぞ」
「ああ。おい、ラビ。バトラーがお前の好きなホットミルク持ってきてくれたぞ。いい加減……」
泣き止めよ、と言おうとした。
ラビの異変にレオンが気が付くのと同時に、バトラーも察した。
呼吸の間隔が速く、まるで肩で息をしているかのように、肩を上下させていた。
「ラビット様、これは喘息の発作では」
「苦しいのか、ラビ」
かろうじて頷いた。ヒュー、ヒューという声にならない音が聞こえた。
「俺、博士、呼んでくる」
「待て」
シルフェはレオンを止めた。
「保健室には俺が行く。俺のほうが足速いからな。お前はラビの傍に居ろ」
ポンとレオンの頭に手を置く。
「発作の応急処置、覚えてるか? ソファに座らせて、背中さすってやるんだぞ?」
「解ってる!」
レオンの返事を聞き、シルフェはサロンを出た。
保健室まで走る。その表情には悔しさが滲んでいた。
「クソッ。喘息持ちだって、解ってたのに」
急激な感情の変化は発作を起こす可能性がある。
それを知っていたのに、ラビを興奮させ過ぎてしまった。
夜風を切って、シルフェは走った。
旧市街。
練習スタジオの外からシルヴァンが戻ってきた。
「今日のライブ、来れないそうです。急なお仕事が入ったそうで」
アイヴィーからの伝言を伝えると、ハルヤとレッドはそれぞれのリアクションを見せた。
「そっか……仕方ないよね」
「えー。今日は、俺サマの新曲、初披露する予定だったのによー」
「ホント、残念ですね。でも、お詫びに、
今度は手作りピザを食べさせてくれるように頼んでおきました」
「よし! 許す!」
「はやっ。でも、俺もそれなら許しちゃうな。アイヴィーの作った料理、大好きだから」
ウーティス寮、アンリの自室。
電気は付いていない。月光だけが差し込む暗い部屋で、
アンリは一人、タロットに触れていた。
机上にカードを散らして、撫でるように軽くシャッフルする。
それが終わったら、カードを一つの束にする。
22枚の束。最上の一枚を手に取って、裏に返す。
二匹の犬と一匹のザリガニが、空を見つめている。
空に浮かんでいるのは人面の球体。カードナンバーは18だ。
また『月』のカードだった。
先日、ディーノから電話が掛かってくる前に、頭に浮かんできたカードもこれだった。
しかし、あの時とひとつだけ違うことがある。今度は正位置ではなく、逆位置だ。
『月』のカードは、逆位置のほうが良い意味になる。
危機からの脱出、母親の思い出、最愛の人、真実に出会う。
アンリは、少し気が楽になっていくのを感じた。
同時に、それまで身体が強張っていたことにも気付かされた。
たった一枚のカードを引いただけ。自分でも可笑しいと思うけれど、
大丈夫だと言われたような気がしたのだ、伯爵に。
「アンリ」
ノックもなしにドアが開けられた。
振り向くと、そこに居たのは、深紅の瞳を持つ友人だった。
走ってきたのか、珍しく息を切らせていた彼は、笑顔を見せてこう言った。
「アンリ、安心して。今、侵入者を捕まえたって連絡があったよ」
警備本部。
捕らえた侵入者様ご一行が運ばれた。
司令官のアイヴィーが、副司令官のクロイツの側に行く。
「で、今日のお客さんは何人だったー?」
「30名様ですね」
「大繁盛じゃん。マンゾーニって、意外と構成員多かったんだな」
「しかし、30名の中に、ディーノ・マンゾーニの姿はありませんよ?」
「みたいだな。下っ端だけ送り込んで来たのかね?
ったく、自分はおうちでシチリアビールでも飲んでやがんのか? で、ソクちゃんと連絡は取れた?」
「はい。今日は伺えない、とのことでした」
「ウソ!? なんで!?」
「生徒のラビット様が喘息の発作を起こされたそうで、
今夜は学院を離れられないと。明日は来て頂ける予定です」
同じ頃、聖アルフォンソ島のある場所で、携帯電話を耳に当てている眼鏡の男が居た。
上は白のラフなシャツ。首許のボタンは三つ開けている。
長い呼び出し音を待つ間、エスプレッソを一口流し込んだ。
相手が電話に出ると、眼鏡の男は言った。
「フィオラノです。今、いいですか?」
「おう。どうよ、そっちは?」
「手筈通りです。連中は島の警備に捕獲されました」
フッと笑った吐息が聞こえる。
「上等」
「兄貴のほうはどうなりました?」
「聞くまでもねえだろ?」
「ですね。失礼しやした」
夜風に髪を煽られる。仄かに潮の香りがする。シチリアの潮風とは香りが少し違う気がした。
「ああ、こちらは以前来た時より、強固な監視セキュリティが敷かれていましたよ?
これも兄貴の教育のおかげでしょう」
「なら、おめーの出番はなかったんだな?」
「ええ。自分が手を貸さなくても、ちゃあんと捕まえてくれましたよ。優秀ですね」
「そいつは、ヒマな役を振っちまって悪かったな、フィオ」
「いえいえ。全て我々のシナリオ通りにいったんですから、何よりです」
「あとは、おめーが帰ってくるだけだな。最後におめーまで、とっ捕まるなんてオチはいらねえぞ?」
「はい。自分も早くシチリアに帰りたいです。エスプレッソがどうも口に合わなくて」
「フィオ、今、島のどの辺りに居んだ?」
「兄貴オススメのオープンカフェでお茶してますよ。
ここは監視カメラもないですし、本当に美味しいですね、ここのパニーニ」
→
現在の司令官であるアイヴィーは、部屋の角に佇んで窓から夜の海を眺めていた。
丁度この位置。壁に凭れて、窓を斜めから見下ろすと、視界に入るのは暗い海だけ。
夜色の窓は、鏡のように、その正面に居る人物を映した。
首許まできっちりネクタイを締めている男。副司令官のクロイツだ。
「警備強化を始めて、本日で一週間になります」
クロイツは、司令官が席に着いていない机の前で律儀に立っている。
「司令の指示通り、監視エリアを拡張し、今まで不備のあった箇所は改善しました」
改善箇所は、以前、マンゾーニが警備網の縄抜けをした部分が主だった。
今まで監視装置を置いてなかった場所へ、新たにカメラやトラップを仕掛けている。
悔しいが、マンゾーニに指摘された監視の穴を補強した形だ。
「今のところ、警備網にかかった者はありません」
司令官は黒い窓越しにちらりと副司令官を見る。
クロイツは今日も背筋がすっと伸びている。
アイヴィーの経験則上、ただ立っているだけでカッコイイ奴は、中身もカッコイイ。
中には、背中に鉄の棒が入っているのではないか、と思うくらい直立不動な奴も居る。
だが、それは、まだ肩の力が抜けていない証拠で、軍に入って間もない新人に多い例だ。
クロイツのように、凛と筋が通っていて、かつ、しなやかなラインを持っている奴が本物。
男に対して、綺麗とか美しいなんて言葉を使うのはヘンかもしれないが、
演習や儀式でない、『普段』の立ち姿が美しい軍人は、総じて優秀で、戦闘力も高い。
「問題は、いつまで警備強化を維持するか、ですが」
「ですよねー。ま、今夜はデッドプリンスのライブもあるし、動きがないほうが嬉しいけど」
司令官と副司令官は、今後の方針を決め兼ねていた。
生徒代表たっての『お願い』により、臨時警備強化期間を設けたが、現状、動きはない。
「焦らしプレイってイヤだよねー。来るなら来るで早くしてーってかんじ?」
「司令。島に攻めてくるのが、マンゾーニならば、既に島内に侵入している可能性もあるのでは?」
「ちょ、監視してるじゃん、ずっと」
「ええ。けれど、マンゾーニは何度も司令の警備網を突破していますから」
「そ、そーだけど」
警報が鳴った。司令官は頭を掻く。
「今夜はライブだってのに。ったく、空気の読めねえお客さん達だな」
「空気とやらを読める人間ならば、そもそも島に侵入しませんよ」
二人は中央作戦室へ向かった。
壁にかけられた大きな液晶画面に島の全体図が表示されている。
その隅で赤い丸が点滅していた。侵入者だ。
司令、副司令の姿を見て、オペレータが報告する。
「侵入者あり、F6エリアです!」
その場所は、今回、監視を拡張したエリアだった。司令官はモニタを見上げて、
「ひっかかったのか? 警備強化しといてマジ正解じゃねえかよ」
副司令官は素早く席に着き、キーボードを打ちながら、
「そうですね。匿名希望様はこうなることが解っていたんでしょうから」
夕食後のシュヌーシア寮サロン。
寮生達はテレビを見たり、カードゲームをして遊んでいる。
隅のテーブルでは、中等部三年コンビが宿題中。
数学が苦手なレオンが、ラビに教わっているところだ。
「それで、X=2。どう、レオン、解った?」
「もー、ムリ!」
ペンを投げ出した。
「てゆうか、こんな数式覚えて、なんかイミあんのかよ!?」
勉強に飽きた時、レオンがよく言う文句だ。
「じゃあ、10分だけ休憩する?」
「する!」
ラビは笑っていた。サロンにバトラーがやってきた。
丁度良い、コーラを頼もう。レオンはバトラーをこちらへ呼ぼうとした。
すると、バトラーのほうから、二人の傍へ来た。彼はテーブルに広げられている問題集を見て、
「お勉強中失礼致します」
バトラーはこう言った。
「ラビット様、お電話でございます」
「え、僕?」
「はい」
「電話なんて誰からだろ。あ、レオン、ごめん。僕、ちょっと行ってくるね」
「おう」
「10分休憩したら、このページは一人でやってみてね。あとで一緒に答え合わせしよ?」
「俺一人じゃムリだってー、マジでー」
「すぐに戻ってくるね」
パタパタとした足音でラビがサロンを出て行った。
それから10分が過ぎた。しかし、レオンは宿題を再開していなかった。
問題集のページをイヤそうに見ているだけで、コーラをちびちび飲んでいた。
「おっ。数学やってんのか、レオン」
後ろからシルフェに覗き込まれた。二冊並んでいる問題集と空席を見て、
「ラビと二人でやってたのか? ラビはどうした?」
「電話だってー」
「電話……」
「シルフェ、ラビに用事?」
「いや」
「ん?」
レオンに不思議そうな顔を向けられて、シルフェは笑顔を作る。
「ラビが戻るまで、俺が教えてやろうかと思ってさ?」
レオンは即答する。
「やだ」
「遠慮すんなよ。可愛い後輩の為なら、俺は喜んで手取り足取り教えてやるぜ?」
「お前、どーせ俺のジャマする気だろ?」
「信用ないなー。おにーさん、ショック」
「じゃー、俺が計算問題やってた時に、ゼロを勝手に書き加えたのはどこのどいつだ!?」
静かにドアが開く。俯いたラビが立っていた。
「あ、待ってたぜ、ラビ。この辺の問題なんだけど、やっぱ訳わかんなくてさー」
「……ごめん、レオン。僕、宿題、できなくなっちゃった」
「ちょ、お前、どうした? なんで泣いてんだよ?」
ラビの大きな瞳には、涙が溜まっていた。袖口で拭った目許が赤くなっている。
「電話か? なんて言われたんだよ?」
「ママが……ママが……」
レオンが顔をしかめる。
二代前の生徒代表から、レオンは秘密裏に聞かされていた。
ラビの両親が共に火事で亡くなっていることを。
「お前の母親が、どうしたって言うんだよ?」
「ママが僕に会いたい、って言ってるんだって」
「……誰がそんなこと」
「叔父さんの部下だっていう人。今、島まで迎えに来てるから、すぐ来てって」
「センス無さ過ぎだろ、その口説き文句」
シルフェがラビの傍へ行く。
「それじゃあ、まるで『君のパパが急病だから、今すぐ病院に行こう』とか言って、
子供を車に乗せるのとおんなじだ。解るだろ、ラビ?」
「じゃあウソってこと? ママが僕に会いたいって言ってるのに、シルフェはウソだって言うの?」
「ウソじゃない、って言えるなら、言ってやりたいけど。
このタイミングで、そんな電話が来るなんて、どう考えても」
「タイミングって何? シルフェの言ってることわかんない。僕、早く行かなきゃっ」
「落ち着け、ラビ。どうしても行くって言うんなら、俺も一緒に行ってやるから。
けど、その前に島の警備会社に連絡して、警備員にも何人か付いて来て貰う」
「ダメだよ! 僕一人で来てって言われた!」
「なら、ますます行かせられねえよ」
「離してよ、シルフェ!」
パン、と音がした。ラビの右頬を叩いたのは、レオンだった。
ラビの両肩を掴む。
「バカ! 行くんじゃねえよ! お前の母親は……」
「痛いよ、レオン、離してっ」
振り切ろうとする両肩を強く掴んで、レオンは言った。
「お前の母親は、火事で死んだんだろ!?」
周りの寮生達がざわつく。ラビの両親が既に他界していること、
その事実はレオン以外の生徒には初耳だ。ラビは手の甲で涙を拭いながら、
「だって……だって、ママが生きてたって、電話の人が言って」
「んなわけねえだろ、バカ! ダマされてんじゃねえ!」
ラビは泣きじゃくりながら床にしゃがみこんだ。レオンは更に叫ぶ。
「お前はバカかよ! んなくだらねえウソにダマされて、
そのあと、お前がどうなるかも解んねえのか!?」
レオンの右肩にシルフェが手を置く。
「よせ、レオン。もういい」
執事に指示を出した。
「バトラー、警備に緊急通報。侵入者が来てる。狙いはラビだ」
警備本部。
オペレータが声を上げる。
「司令、シュヌーシア寮のバトラーから通報がありました」
その報告を聞いた司令官は、「えっ?」と聞き返した。
「侵入者は解ってるけど、狙いがラビットだって? アンリじゃないのかよ?」
「ええ。ラビット様に今すぐ学院を出るようにと不審な電話があったそうです」
「そりゃマズイな」
「その電話が発信された位置が特定できました。モニタに映します」
「F6エリア内か。警備網にひっかかった奴と同一人物かお仲間だろうな。
よし。チームA、チームBはF6エリアへ、チームCは学院周辺へ急行!」
車で移動中、アイヴィーはシルヴァンの携帯に電話した。
「はーい。シルヴァンでーす」
声の後ろから、かすかに歌声が聞こえてくる。
おそらくデッド・プリンスのボーカルのものだろう。ライブ直前のリハーサル中らしい。
「練習中か?」
「あ、聞こえます? 今日のレッド、絶好調ですよ」
「悪ぃ、今夜のライブ、行けないわ」
「お仕事、ですか?」
「ああ、まあな」
「解りました。レッド達には僕から伝えておきますね」
「そーしてくれると助かるわ、じゃあな」
「あ、アイヴィー!」
「ん?」
「お詫びは、貴方の手作りピザで良いですよ?
ちなみに僕は、モッツァレラチーズとトマトたっぷりのマルゲリータが好きです」
「わーったよ。マルゲリータでもカルボナーラでも作ってやる」
「楽しみにしています。お気を付けて」
「あいよ」
アイヴィーは携帯電話を閉じる。パチンと小気味の良い音が鳴った。
入学当時、アイヴィーの自宅に何度も無断外泊しに来た問題児。
そんな不良王子と交わした、とるに足らない約束で、自分でも不思議な程、気合いが入った。
俺は今度あいつらの為にピザを作らなきゃいけない。その為には――
「侵入者を肉眼で確認しました。数十名程だと思われます」
「了解。じゃー、行きますかっ」
シュヌーシア寮。
ラビがすすり泣く声がサロンに響いている。先程よりは少し落ち着いたものの、まだ涙が止まらない。
床にへたり込んだまま、しゃくりあげている。シルフェは吐き捨てた。
「死んだ母親を餌に、ラビをおびき出そうとするなんて、最低だな」
他の寮生達は、ラビが泣き止まないことと、侵入者情報を聞いたことで、おろおろしてしまっている。
シュヌーシアは、心身共に繊細な生徒が少なくない。
中には涙ぐんでいる生徒も居て、混沌とした状況だった。
そろそろ就寝時間だが、誰も自室に戻ろうせず、このままでは眠れそうになかった。
サロンのドアが開いた。
「失礼致します」
バトラーと一緒にふわっと甘い香りが入ってきた。
「お休み前のお飲み物に『青い月』をお持ち致しました。どうぞお召し上がり下さいませ」
バトラーは生徒一人一人にホットミルクを手渡して回った。
不安がっている少年達には、優しく言葉を掛けていた。
「大丈夫ですよ、この島の警備が皆様を必ずお守り致します」
「ほんと? ほんとに大丈夫?」
「はい。私がシュヌーシアにお仕えしてから、
侵入者によって負傷された生徒様は、お一人もいらっしゃいません」
「え、そうなの?」
「はい。これを飲み終わる頃には、きっと解決していますよ、さあ、どうぞ」
「そっかな。ありがと、バトラー」
バトラーはレオンとラビの前にもやってきた。
「お二人の分も、こちらに置いておきます。よろしければどうぞ」
「ああ。おい、ラビ。バトラーがお前の好きなホットミルク持ってきてくれたぞ。いい加減……」
泣き止めよ、と言おうとした。
ラビの異変にレオンが気が付くのと同時に、バトラーも察した。
呼吸の間隔が速く、まるで肩で息をしているかのように、肩を上下させていた。
「ラビット様、これは喘息の発作では」
「苦しいのか、ラビ」
かろうじて頷いた。ヒュー、ヒューという声にならない音が聞こえた。
「俺、博士、呼んでくる」
「待て」
シルフェはレオンを止めた。
「保健室には俺が行く。俺のほうが足速いからな。お前はラビの傍に居ろ」
ポンとレオンの頭に手を置く。
「発作の応急処置、覚えてるか? ソファに座らせて、背中さすってやるんだぞ?」
「解ってる!」
レオンの返事を聞き、シルフェはサロンを出た。
保健室まで走る。その表情には悔しさが滲んでいた。
「クソッ。喘息持ちだって、解ってたのに」
急激な感情の変化は発作を起こす可能性がある。
それを知っていたのに、ラビを興奮させ過ぎてしまった。
夜風を切って、シルフェは走った。
旧市街。
練習スタジオの外からシルヴァンが戻ってきた。
「今日のライブ、来れないそうです。急なお仕事が入ったそうで」
アイヴィーからの伝言を伝えると、ハルヤとレッドはそれぞれのリアクションを見せた。
「そっか……仕方ないよね」
「えー。今日は、俺サマの新曲、初披露する予定だったのによー」
「ホント、残念ですね。でも、お詫びに、
今度は手作りピザを食べさせてくれるように頼んでおきました」
「よし! 許す!」
「はやっ。でも、俺もそれなら許しちゃうな。アイヴィーの作った料理、大好きだから」
ウーティス寮、アンリの自室。
電気は付いていない。月光だけが差し込む暗い部屋で、
アンリは一人、タロットに触れていた。
机上にカードを散らして、撫でるように軽くシャッフルする。
それが終わったら、カードを一つの束にする。
22枚の束。最上の一枚を手に取って、裏に返す。
二匹の犬と一匹のザリガニが、空を見つめている。
空に浮かんでいるのは人面の球体。カードナンバーは18だ。
また『月』のカードだった。
先日、ディーノから電話が掛かってくる前に、頭に浮かんできたカードもこれだった。
しかし、あの時とひとつだけ違うことがある。今度は正位置ではなく、逆位置だ。
『月』のカードは、逆位置のほうが良い意味になる。
危機からの脱出、母親の思い出、最愛の人、真実に出会う。
アンリは、少し気が楽になっていくのを感じた。
同時に、それまで身体が強張っていたことにも気付かされた。
たった一枚のカードを引いただけ。自分でも可笑しいと思うけれど、
大丈夫だと言われたような気がしたのだ、伯爵に。
「アンリ」
ノックもなしにドアが開けられた。
振り向くと、そこに居たのは、深紅の瞳を持つ友人だった。
走ってきたのか、珍しく息を切らせていた彼は、笑顔を見せてこう言った。
「アンリ、安心して。今、侵入者を捕まえたって連絡があったよ」
警備本部。
捕らえた侵入者様ご一行が運ばれた。
司令官のアイヴィーが、副司令官のクロイツの側に行く。
「で、今日のお客さんは何人だったー?」
「30名様ですね」
「大繁盛じゃん。マンゾーニって、意外と構成員多かったんだな」
「しかし、30名の中に、ディーノ・マンゾーニの姿はありませんよ?」
「みたいだな。下っ端だけ送り込んで来たのかね?
ったく、自分はおうちでシチリアビールでも飲んでやがんのか? で、ソクちゃんと連絡は取れた?」
「はい。今日は伺えない、とのことでした」
「ウソ!? なんで!?」
「生徒のラビット様が喘息の発作を起こされたそうで、
今夜は学院を離れられないと。明日は来て頂ける予定です」
同じ頃、聖アルフォンソ島のある場所で、携帯電話を耳に当てている眼鏡の男が居た。
上は白のラフなシャツ。首許のボタンは三つ開けている。
長い呼び出し音を待つ間、エスプレッソを一口流し込んだ。
相手が電話に出ると、眼鏡の男は言った。
「フィオラノです。今、いいですか?」
「おう。どうよ、そっちは?」
「手筈通りです。連中は島の警備に捕獲されました」
フッと笑った吐息が聞こえる。
「上等」
「兄貴のほうはどうなりました?」
「聞くまでもねえだろ?」
「ですね。失礼しやした」
夜風に髪を煽られる。仄かに潮の香りがする。シチリアの潮風とは香りが少し違う気がした。
「ああ、こちらは以前来た時より、強固な監視セキュリティが敷かれていましたよ?
これも兄貴の教育のおかげでしょう」
「なら、おめーの出番はなかったんだな?」
「ええ。自分が手を貸さなくても、ちゃあんと捕まえてくれましたよ。優秀ですね」
「そいつは、ヒマな役を振っちまって悪かったな、フィオ」
「いえいえ。全て我々のシナリオ通りにいったんですから、何よりです」
「あとは、おめーが帰ってくるだけだな。最後におめーまで、とっ捕まるなんてオチはいらねえぞ?」
「はい。自分も早くシチリアに帰りたいです。エスプレッソがどうも口に合わなくて」
「フィオ、今、島のどの辺りに居んだ?」
「兄貴オススメのオープンカフェでお茶してますよ。
ここは監視カメラもないですし、本当に美味しいですね、ここのパニーニ」
→
■何でもない日(3) 続編
翌日、警備本部。
「警備強化? 生徒代表からですか?」
「ああ。ジョシュアが、匿名の生徒から頼まれたんだと」
「それも匿名とは……前代未聞ですね」
朝イチで生徒代表から、司令官であるアイヴィーの自宅へ電話があった。
昨夜、ある生徒から警備強化を頼まれました。
申し訳ありませんがお願いできないでしょうか、と。
この島の警備は、聖アルフォンソ学院直下の組織。
学院の王である生徒代表という立場を考えれば、
警備に対しても『お願い』ではなく、『命令』ができる身の上だ。
それを解っていて尚『お願いできないでしょうか』と言ってくるところは、
なんともジョシュアらしいと言えるが。
「ある生徒って誰だよ?」とアイヴィーも一応聞いてはみたが、
「名前は出さない約束をしたので……すみません」と謝られた。
その話を司令官から聞いた副司令官は、困惑を通り越し、若干の憤りを見せた。
「守って欲しいと要求しながら、ご自分の名前を知らせないとは。
一体どなたなんでしょうね、その非協力的なマージナルプリンスは。
私共はマージナルプリンスのみに仕える従者のつもりなんですが」
司令官は椅子に凭れて、天井を見上げる。
「さーて、どーしたもんかなー?」
「やはり、匿名希望様を特定するのが先決では?
ターゲットが解らなければ、こちらも対策の立てようがありません」
「対策だけなら立てられるさ」
「なんです?」
「とにかく、招かれざる客を島に入れなきゃイイ」
「簡単に言ってくれますね」
「で、お客さんがどこのどいつかは、捕まえてから聞きゃあいい。
俺達にはその手段がある、だろ?」
副司令官の脳裡に、白衣の教師が浮かぶ。あまり得意ではない男だ。
「それは、そうですが」
「ま、匿名希望の王子様が誰なのかも、予想くらいなら付くし」
「えっ? 司令には解るんですか?」
「なんとなくな。匿名にしなきゃならない理由がありそうなヤツで、
こんなふうにジョシュアを使えるのは、多分」
頭脳明晰で今年度の生徒代表と距離が近い人物。
該当する生徒が誰なのか、副司令官にも予想が付いた。
「もしそうなら、これはガチでヤバイかもなー」
そう言いながら、司令官は少し笑っていた。
「あいつは自前のボディガードを持ってるんだぜ?
なのに俺達に頼ってくるってことは、ボディガードを使えない理由があるってことだろ?」
そう、例えば。
「ボディガードが侵入者の場合、ですね?」
聖アルフォンソ島で平穏な日々が過ぎていく間に、
マフィアが巣くう島では日常が軋み出そうとしていた。
住宅街から外れた寂しい道路を赤いフェラーリが走っている。
運転手はダークグレイのスーツを着た男。
眼鏡を掛けており、温和そうな顔立ち。仕事帰りの会社員にも見えた。
後部座席に居る男は、白の派手なスーツ。一人で悠々と座っている。
黒くクセの強い長髪に、顎髭を蓄えたイタリアーノだ。
人相の悪さから言ってもカタギには見えない。
ホストかその筋の人間だろうと思わせるルックスだった。
見た目通り、彼はマフィア。マンゾーニ家次期ボス、ディーノ・マンゾーニである。
運転手はマンゾーニ家の舎弟、名はフィオラノという。
赤いフェラーリは、ある店の前で停まった。
イタリアの街角でよく見られる一軒家レストラン。
赤い屋根に白い壁。しかし、どちらのペンキも剥がれかけ、木の色が顔を出していた。
人相が悪いほうの男は、車の窓から店を見上げて、
「ここだな? あいつら御用達の店ってのは」
「ええ。看板があります。『リストランテ・フィガロ』、間違いありません」
「ボロっちい店」
「失礼ですよ、兄貴」
「いや、こういう店のほうがウマイもんがあんだよ。
見た目がボロいってことは、潰れずに長くやってる店だってことだろ?
ボロくて少しくらいきったねえ店はウマイんだ、ってパパも言ってたぞ?」
眼鏡の男は、なるほど、と苦笑した。
「あ、見て下さい。ドアにクローズのプレートも出ています」
「情報通りだな」
「ええ。集会中でしょう」
「いいか、フィオ。おめーは手を出すなよ」
「へい。向こうがディーノの兄貴に手出ししなけりゃ、ですが」
「俺が一発殴られるくらいならカッカすんな。今日は爆笑トークをしに来ただけなんだからな」
コメディアンですか、とツッコんだあとで、
「あの、兄貴。自分、ボスの前では言えなかったんですがね?」
「ん?」
「兄貴は本当にいいんですかい?」
「何でえ」
「兄貴が可愛がってる、伯爵家の姫さんのことですよ。
ファミリーの為とは言え、こんなこと……姫さんにバレたら、確実にご機嫌を損ねます。
今となっては、姫さんとのビジネスを切られるのは、結構な損害ですよ?」
「構やしねえよ。あいつはクソ生意気だからなあ。身の程ってヤツを教えてやんのさ。
それに、あいつのほうから俺達を切ることなんて、できるわけがねえ」
その逆はあっても、という意味だろう。
「ですね。余計なことを言って、すいやせん。じゃ、そろそろ行きやしょうか」
二人は車を降りた。
フィオラノがドアを開け、ディーノが店内に入っていく。
店の外観は年季が入っているものの内装は小綺麗だった。
奥のほうに男達が固まって座っているのが見えた。悪そうな奴がざっと十人。
普通の客が誤って入店したのなら、彼等の威圧感に負けて、逃げ出すような光景だ。
「お兄さん達、クローズの札が見えなかったのか?」
二人が店に入ると、ドアの近くに居た男にガンを飛ばされた。
「悪いが、今日は俺達の貸し切りなんだ」
見張り番らしきその男は、虫を払うように手で追いやる。
「さあ、帰った、帰った」
ディーノはフッと可笑しそうに笑った。見張り番が食ってかかる。
「な、なんだ、てめえ」
胸倉を掴もうとした時。
「およしなさい」
その手首を止めたのは、黒いマニキュアをした手だった。
ライトグレイのスーツを着た、20代後半にも見える若い男。
ディーノに対し威勢の良かった見張り番は、黒爪の男に止められて、途端に委縮した。
黒爪の男は手を離すと、ディーノに向き直った。
「大変失礼致しました」
丁寧に頭を下げた。
「彼はうちで一番若いマフィオーソ(構成員)で、教育が足りず、申し訳ありません。
彼に見張りを言い付けたのは僕です。お叱りは僕がお受けします。彼はどうかお許し下さい」
ディーノは許すとも許さないとも言わなかった。
「お前が、ここのアンダーボスか」
「はい」
アンダーボス同士が密談している間。
フィオラノは黒爪のアンダーボスを注意深く観察していた。
野蛮な質のディーノと比べてしまうせいかもしれないが、
ファミリーのNo.2にしては言葉遣いも振る舞いも丁寧過ぎて怖い程だ。
今も「お叱りは僕がお受けします」と下手に出てまで、
マフィオーソを守ろうとした時は、部外者のフィオラノでさえ、少し感動した。
恐ろしく柔軟で、したたかだ。ディーノとは全く違う種類のアンダーボスの格を感じた。
それにしても、十本の指に塗られている黒いマニキュアが目立つ。
彼の手にかかった者は、最期の瞬間にその黒を目に焼き付けて息絶えるのかもしれない。
「本当ですか?」
密談は核心に触れるところまで来たらしい。
「ああ、マジだぜ?」
流石に少し動揺したのか、黒爪の男は髪をいじり、落ち着かない仕草を見せた。
髪を梳く白い手を見ていたフィオラノが気付く。
親指と人差し指。その先端だけ黒いマニキュアが剥がれていた。
→
「警備強化? 生徒代表からですか?」
「ああ。ジョシュアが、匿名の生徒から頼まれたんだと」
「それも匿名とは……前代未聞ですね」
朝イチで生徒代表から、司令官であるアイヴィーの自宅へ電話があった。
昨夜、ある生徒から警備強化を頼まれました。
申し訳ありませんがお願いできないでしょうか、と。
この島の警備は、聖アルフォンソ学院直下の組織。
学院の王である生徒代表という立場を考えれば、
警備に対しても『お願い』ではなく、『命令』ができる身の上だ。
それを解っていて尚『お願いできないでしょうか』と言ってくるところは、
なんともジョシュアらしいと言えるが。
「ある生徒って誰だよ?」とアイヴィーも一応聞いてはみたが、
「名前は出さない約束をしたので……すみません」と謝られた。
その話を司令官から聞いた副司令官は、困惑を通り越し、若干の憤りを見せた。
「守って欲しいと要求しながら、ご自分の名前を知らせないとは。
一体どなたなんでしょうね、その非協力的なマージナルプリンスは。
私共はマージナルプリンスのみに仕える従者のつもりなんですが」
司令官は椅子に凭れて、天井を見上げる。
「さーて、どーしたもんかなー?」
「やはり、匿名希望様を特定するのが先決では?
ターゲットが解らなければ、こちらも対策の立てようがありません」
「対策だけなら立てられるさ」
「なんです?」
「とにかく、招かれざる客を島に入れなきゃイイ」
「簡単に言ってくれますね」
「で、お客さんがどこのどいつかは、捕まえてから聞きゃあいい。
俺達にはその手段がある、だろ?」
副司令官の脳裡に、白衣の教師が浮かぶ。あまり得意ではない男だ。
「それは、そうですが」
「ま、匿名希望の王子様が誰なのかも、予想くらいなら付くし」
「えっ? 司令には解るんですか?」
「なんとなくな。匿名にしなきゃならない理由がありそうなヤツで、
こんなふうにジョシュアを使えるのは、多分」
頭脳明晰で今年度の生徒代表と距離が近い人物。
該当する生徒が誰なのか、副司令官にも予想が付いた。
「もしそうなら、これはガチでヤバイかもなー」
そう言いながら、司令官は少し笑っていた。
「あいつは自前のボディガードを持ってるんだぜ?
なのに俺達に頼ってくるってことは、ボディガードを使えない理由があるってことだろ?」
そう、例えば。
「ボディガードが侵入者の場合、ですね?」
聖アルフォンソ島で平穏な日々が過ぎていく間に、
マフィアが巣くう島では日常が軋み出そうとしていた。
住宅街から外れた寂しい道路を赤いフェラーリが走っている。
運転手はダークグレイのスーツを着た男。
眼鏡を掛けており、温和そうな顔立ち。仕事帰りの会社員にも見えた。
後部座席に居る男は、白の派手なスーツ。一人で悠々と座っている。
黒くクセの強い長髪に、顎髭を蓄えたイタリアーノだ。
人相の悪さから言ってもカタギには見えない。
ホストかその筋の人間だろうと思わせるルックスだった。
見た目通り、彼はマフィア。マンゾーニ家次期ボス、ディーノ・マンゾーニである。
運転手はマンゾーニ家の舎弟、名はフィオラノという。
赤いフェラーリは、ある店の前で停まった。
イタリアの街角でよく見られる一軒家レストラン。
赤い屋根に白い壁。しかし、どちらのペンキも剥がれかけ、木の色が顔を出していた。
人相が悪いほうの男は、車の窓から店を見上げて、
「ここだな? あいつら御用達の店ってのは」
「ええ。看板があります。『リストランテ・フィガロ』、間違いありません」
「ボロっちい店」
「失礼ですよ、兄貴」
「いや、こういう店のほうがウマイもんがあんだよ。
見た目がボロいってことは、潰れずに長くやってる店だってことだろ?
ボロくて少しくらいきったねえ店はウマイんだ、ってパパも言ってたぞ?」
眼鏡の男は、なるほど、と苦笑した。
「あ、見て下さい。ドアにクローズのプレートも出ています」
「情報通りだな」
「ええ。集会中でしょう」
「いいか、フィオ。おめーは手を出すなよ」
「へい。向こうがディーノの兄貴に手出ししなけりゃ、ですが」
「俺が一発殴られるくらいならカッカすんな。今日は爆笑トークをしに来ただけなんだからな」
コメディアンですか、とツッコんだあとで、
「あの、兄貴。自分、ボスの前では言えなかったんですがね?」
「ん?」
「兄貴は本当にいいんですかい?」
「何でえ」
「兄貴が可愛がってる、伯爵家の姫さんのことですよ。
ファミリーの為とは言え、こんなこと……姫さんにバレたら、確実にご機嫌を損ねます。
今となっては、姫さんとのビジネスを切られるのは、結構な損害ですよ?」
「構やしねえよ。あいつはクソ生意気だからなあ。身の程ってヤツを教えてやんのさ。
それに、あいつのほうから俺達を切ることなんて、できるわけがねえ」
その逆はあっても、という意味だろう。
「ですね。余計なことを言って、すいやせん。じゃ、そろそろ行きやしょうか」
二人は車を降りた。
フィオラノがドアを開け、ディーノが店内に入っていく。
店の外観は年季が入っているものの内装は小綺麗だった。
奥のほうに男達が固まって座っているのが見えた。悪そうな奴がざっと十人。
普通の客が誤って入店したのなら、彼等の威圧感に負けて、逃げ出すような光景だ。
「お兄さん達、クローズの札が見えなかったのか?」
二人が店に入ると、ドアの近くに居た男にガンを飛ばされた。
「悪いが、今日は俺達の貸し切りなんだ」
見張り番らしきその男は、虫を払うように手で追いやる。
「さあ、帰った、帰った」
ディーノはフッと可笑しそうに笑った。見張り番が食ってかかる。
「な、なんだ、てめえ」
胸倉を掴もうとした時。
「およしなさい」
その手首を止めたのは、黒いマニキュアをした手だった。
ライトグレイのスーツを着た、20代後半にも見える若い男。
ディーノに対し威勢の良かった見張り番は、黒爪の男に止められて、途端に委縮した。
黒爪の男は手を離すと、ディーノに向き直った。
「大変失礼致しました」
丁寧に頭を下げた。
「彼はうちで一番若いマフィオーソ(構成員)で、教育が足りず、申し訳ありません。
彼に見張りを言い付けたのは僕です。お叱りは僕がお受けします。彼はどうかお許し下さい」
ディーノは許すとも許さないとも言わなかった。
「お前が、ここのアンダーボスか」
「はい」
アンダーボス同士が密談している間。
フィオラノは黒爪のアンダーボスを注意深く観察していた。
野蛮な質のディーノと比べてしまうせいかもしれないが、
ファミリーのNo.2にしては言葉遣いも振る舞いも丁寧過ぎて怖い程だ。
今も「お叱りは僕がお受けします」と下手に出てまで、
マフィオーソを守ろうとした時は、部外者のフィオラノでさえ、少し感動した。
恐ろしく柔軟で、したたかだ。ディーノとは全く違う種類のアンダーボスの格を感じた。
それにしても、十本の指に塗られている黒いマニキュアが目立つ。
彼の手にかかった者は、最期の瞬間にその黒を目に焼き付けて息絶えるのかもしれない。
「本当ですか?」
密談は核心に触れるところまで来たらしい。
「ああ、マジだぜ?」
流石に少し動揺したのか、黒爪の男は髪をいじり、落ち着かない仕草を見せた。
髪を梳く白い手を見ていたフィオラノが気付く。
親指と人差し指。その先端だけ黒いマニキュアが剥がれていた。
→
■何でもない日(2) 続編
数日後、ウーティス寮サロン。
「お待たせ致しました」
この寮に仕えて長い老紳士が、ジョシュアの前にコーヒーを置いた。
「本日の豆は、ブラジルコーヒーの最高グレード『サントスNo.2』でございます。
柔らかな口当たりと上品なほろ苦さをお楽しみ下さいませ」
ジョシュアは、以前バトラーから聞いたことがある。
ブラジル最高級豆が『No.2』という名なのは、敢えて最上位を空席にした為だ。
No.1があると、それ以上の豆が作れなくなってしまう。
今後も品質向上を目指し、No.1のコーヒーを作り出そう、そんな想いが込められた名なのだと。
ジョシュアはカップを手に取る。
「ありがとう、バトラー」
老紳士は一礼した。二人の寮生が談笑しながらサロンに入ってきた。
「今日の授業、あっという間でしたね」
「シルヴァンは殆ど寝てたからでしょ?
それでもテストの成績はそこそこ取っちゃうんだからなあ」
「僕、ヤマを当てるのは得意なんです!」
二人は向かい合って、ロングソファに座った。
老紳士は彼等にも声を掛ける。
「本日も一日お疲れさまでした。シルヴァン様、ハルヤ様も何かお飲みになりますか?」
「僕はハルヤと同じものをお願いします!」
「え? 俺、何飲むか、まだ言ってないのに?」
「はい! 何でもいいですよ」
「そう? んー。じゃあ、この前買ってきたティーパックのグリーンティー、まだあるかな?」
「ええ。ございます。ああ、グリーンティーと言えば、
先日、ハルヤ様から頂いたグリーンティー、
大変美味しゅうございました。ありがとうございます、ハルヤ様」
「あ、ほんと? 良かった」
「お二人ともグリーンティーですね。少々お待ち下さいませ」
老紳士が下がる。シルヴァンはハルヤに詰め寄る。
「ちょ、ちょっとハルヤ! バトラーにプレゼントしたんですか?」
「うん。てゆうか、それ買った時、シルヴァンも一緒に居たじゃん。俺、二箱買ってたでしょ?」
「両方ハルヤが飲むのだと思っていました。ハルヤは食に関しては誰より貪欲ですからね。
でも、どうして、バトラーにグリーンティーをプレゼントしようと思ったんです?」
静かにコーヒーを飲んでいたジョシュアも、ハルヤに注目した。
ジョシュアとシルヴァンに見つめられて、ハルヤはぼそぼそと答えた。
「な、なんとなく、バトラーなら好きな味なんじゃないかなと思って。
緑茶って、どっちかって言うと、お年寄りに好まれる飲み物なんだよ、日本では。だから」
「ああ、なんだ、そういうことだったんですね。良かった」
「良かったって?」
「僕、てっきり、ハルヤとバトラーが急激に仲良くなったのかと思ってしまいました」
「別にそういうわけじゃ……あ、でも」
「でも!? でもってなんですか!?」
「最近、俺、バトラーと話すの、好きかも。なんだか落ち着くんだ。
昔は、うちのじいさまと話してたからかな? おじいちゃんっ子ってやつ?」
「ま、まさかのバトラー×ハルヤですか!? 僕を差し置いて、そんなのダメですー!」
「ごめん、ちょっとシルヴァンが何言ってのるか解んないや」
サロンがコンコンとノックされる。返事を待たずにドアが開いた。
「こんちはー」
「こ、こんにちは」
入ってきたのは、ウーティス寮生ではない二人の少年。ハルヤが声を掛ける。
「あれ? 君達はシュヌーシア寮の、えっと……」
「レオンとラビットだね。こんにちは」
顔は知っているが名前が思い出せない様子だったので、さりげなくジョシュアが助けた。
「二人がウーティスに来てくれるなんて珍しいね。誰かに用事かな?」
レオンはズボンのポケットに手を入れている。
「ああ。ウーティスのお姫様にな」
「お姫様……アンリのこと?」
「そう、そいつ」
「ちょっとだけ会いたいんですけど……」
「俺で良ければ、部屋まで案内するよ?」
「悪いねえ、生徒代表サマ自ら」
「じゃあ行こう」
ジョシュアが二人を連れて、サロンを出て行く。
三人の背中を見送って、シルヴァンが言う。
「アンリに他の寮からお客様が来るなんて久し振りですね。
もしかして、あの子達、アンリのファンでしょうか?」
「そうは見えなかった気がするけど」
「ハルヤが入学する前は、テオが時々来てたんですよ、アンリへの貢ぎ物を抱えて」
「そんなことしてたんだ、あの人……やりそうだけど」
「文化祭の前になると、毎年打ち合わせをしていたみたいですから」
「打ち合わせ?」
「プリンセスの衣装を決めたり、あとギャランティの話とか。
僕は詳しくは教えて貰えませんでしたが、
恐ろしい額が動いてたようですよ? イイですよねー、お金持ちの皆さんは」
ハルヤはオリエンタルスマイルを見せた。
「なんてゆうか、雲の上の話だよね」
ドアが開く。バトラーがサロンに戻ってきた。
「シルヴァン様、ハルヤ様。お待たせ致しました、グリーンティーでございます」
ティーカップに入った緑茶が二つ並べられる。
「ありがと、バトラー」
「ありがとうございまーす」
白いカップに淡い緑色がよく映える。シルヴァンは一口飲んで、笑顔を見せた。
「美味しいですね、ハルヤ。この苦みが良いんですよね!」
「うん。湯飲みじゃないからちょっと不思議だけど」
「ユノミ? ああ、サムライがグリーンティーを飲む時のグラスですね?」
サロンのドアが開く。アルフレッドとユウタだ。
アルフレッドはシルヴァンの隣に座る。両腕を広げて、ソファに全身を預けた。
「あー、授業で頭使ったから、ハラ減ったー!」
ユウタは笑いながらハルヤの隣に座る。
「じゃあレッド、クッキーでも食べる?」
「いや、今日はもっとガッツリ」
アルフレッドは急に席を立った。
「あ、そうだ!」
「どうしたの、レッド?」
「こういう時こそ、あそこだろ!」
「ごちそうさまでした」
空の皿の前でハルヤが両手を合わせた。
アルフレッド、シルヴァン、ハルヤ、ユウタの四人は、アイヴィーの家に居た。
彼のタクシーを呼んで、彼の自宅に向かわせ、おやつ代わりのパスタを作らせた。
突然のオーダーで大した材料もなく、メニューは問答無用で、
牛乳の残りと酒のツマミ用のチーズで和えたチーズクリームパスタになった。
具なしパスタ二人前を四人で分け合い、すぐに完食した。
満腹とは言えないが、おやつには丁度良い量だったようである。
「ウマかったぜ、アイヴィー! あ、俺にもインスタントコーヒー淹れてくれよ!」
アルフレッドがそう言うと、シルヴァンは手を挙げた。
「僕も欲しいですー」
自分用のインスタントコーヒーを淹れようとしていたアイヴィーが苦笑している。
「相変わらず自由だなー、お前さん達は」
遠慮のない友人達に少しびっくりしながら、ユウタが申し出る。
「あの、俺、手伝います」
申し訳なさそうなユウタを見て、アイヴィーは笑った。
「ああ、ユウタは座ってな。俺がやるよ。カップに粉とお湯を入れるだけだから」
カップを五つ用意した。
アイヴィーが淹れたコーヒーをアルフレッドは至極旨そうに飲んだ。
「コーヒーはインスタントに限るな!」
丁度、カップに口付けていたアイヴィーは吹き出しそうになった。
「何言ってんだよ、アルフレッド」
「だってさー、寮でバトラーが飲ませてくれるコーヒーは、最高級豆で淹れたヤツなんだぜ?」
「そりゃ、良かれと思って、バトラーが用意してくれてんだろ?」
「なあ! このインスタントコーヒー、
ボトルごと持って帰ろうぜ! んで、寮のサロンに置こう!」
「賛成です!」
「待て待て。俺のコーヒーを勝手にお持ち帰りすんな。
インスタントコーヒーなら自分で買えばいいだろ? それかバトラーに頼めばいくらでも」
「アイヴィーが新しいの買えばいいじゃん」
「なんでだよ!?」
アルフレッドとアイヴィーのやりとりを、
笑顔で見守っていたシルヴァンが、そこでパチンと手を合わせる。
「あ、言い忘れてました。僕達、今度ライブするんで、アイヴィーも良かったら来て下さいね!」
「そうそう。絶対来いよな! ヒマだろ?」
「あのなあ。ヒマそうに見えっかもしんねえけど、これでもイロイロ忙しいんだよ」
ハルヤがぼそりと言う。
「でも、アイヴィーって時々保健室でサボッてるよね?」
「まー、それは、な」
「やっぱヒマなんじゃん! ならライブに来るしかないな!
損はさせないぜ? あ、ユウタも来るだろ?」
「うんっ!」
「たまにはお前も歌ってみっか?」
「ええっ? 俺が!? ム、ムリだよ、そんなの!」
「一度、ステージで歌ったら、ヤミツキになるぜ?」
「お前さん達、そろそろ寮に戻んなくていいのか?」
「もうそんな時間?」
「なんだか帰りたくないですー。アイヴィーのおうちに来るとまったりしちゃって」
「だなー。帰ったって、待ってるのはカミーユのカンペキ過ぎるディナーだし」
「カミーユが泣くぞ、アルフレッド」
「今夜は外で食べるってのどうよ!?」
「いいかも」
「いいですね!」
「いいのかなあ?」
「ユウタだって、夜の街を歩いたことは殆どないだろ?」
「う、うん。そうだけど」
「おっしゃ! なら、俺達デッドプリンスが案内してやる!」
「デッドプリンスプレゼンツ・スペシャル・フィンシャルナイトツアーですね!」
「つーわけで、アイヴィー君! 君をスペシャル・ドライバーに任命しよう!」
「やっぱ俺も巻き込まれんのな」
「あったりまえじゃん!」
「ったく、マージナルプリンスどもめ」
アンリがウーティス寮ダイニングルームに入った時、席に着いているのはジョシュア一人だった。
テーブルに置かれているナイフやフォークなども二人分しか用意しかされていない。
「今日のディナーは、僕と君だけ?」
「うん。レッド達、今夜はユウタに街を案内したいから、
外食にするって。さっき寮に連絡があったんだ」
「随分安易な言い訳だね。ルブラン・シェフも気の毒に」
「え?」
「あの四人が居ないなら、久し振りに落ち着いたディナーになりそうだ」
この日のディナーは、フランス料理のフルコースだった。
一流シェフ渾身の料理が、スープ、前菜と続いていく。
ジョシュアとアンリは会話らしい会話をせずに食事をしていた。
今となっては貴重な静寂。ナイフと食器が擦れる金属音さえ、
はっきり聞こえるほどだったが、互いに気まずい様子は見られなかった。
最後のデザートが出て、シェフが下がった頃、ジョシュアがしみじみと言った。
「なんだか、夏休みの日みたいだったね。二人きりのディナーなんて」
アンリは紅茶を置く。
「僕は毎日これでいいけれど?」
ジョシュアは吐息を漏らした。琥珀の瞳が相手をキツく見つめる。
「……何笑ってるの?」
「いや、ゴメン。何でもないよ」
そう言って、コーヒーに口付ける。再び訪れた沈黙。
紅茶を飲み終えたら部屋に戻ろう、そうアンリが思った時。
「アンリ、変わったよね」
二人きりだからだろうか。今夜のジョシュアはお喋りだ。
「変わったというなら、君のほうだ」
アンリの何が変わったか、その話題を避けるように、話が押し返された。
「君はこの学院に来なければ、いや、小鳥と出会わなければ、君と僕の未来はきっと変わってた」
「え?」
「君がグラント家を、僕はサン・ジェルマン家を継いで、
僕達が敵同士になる未来。そうなる可能性もあったでしょう?
けれど、ここに来て、僕達の前には、王を導く小鳥が現れた。
彼女のおかげで、君はグラントではなく、ロレートを選ぶことができたんでしょう?」
「うん。でもね、アンリ。俺は、思うんだ。もし、もしもの話だけど。
俺達がグラントとサン・ジェルマンの当主になったなら、両家の関係は変わったと思う」
「どういうふうに?」
「俺は君の敵にはなれない。そうならない方法を探すと思うから」
「戦う前から戦意喪失? 甘いね。本当に君は甘い」
琥珀の瞳は挑戦的に見つめていた。
「僕なら、全力でグラント家を潰しにかかると思うよ。君が相手なら尚更ね」
グラントの深紅の瞳が瞬く。それを確認したあとで、アンリは冷笑した。
「冗談だよ」
横髪を耳にかけながら、その手で頬杖を突く。
「もしもの未来について話しても無意味じゃない?」
全力でグラント家を潰す、それが本当に冗談で言ったものなのか。
ジョシュアがアンリの真意を図り兼ねていると、ドアがノックされ、静かに開いた。
「お食事中、失礼致します。アンリ様、お電話でございます」
「そう。解った。食事は済んでいるから、下げてくれて構わないよ」
「畏まりました」
アンリは膝にかけていた白いナプキンを持つ。
軽く口許を抑えてから、テーブルの左側に置いた。
「話はここまでだね、ジョシュア。失礼するよ」
寮から通信室へ向かう途中、月が見えた。
宵闇に浮かぶ白い半月。
「La Lune(ラ・ルナ)、月は満ち、欠ける」
タロットカードにおける『月』の意味が自然に頭に浮かんでくる。
それが全て正位置のものだった。月が姿を現すのは夜。
『月』のカードの場合、正位置は総じて悪い意味だ。
不安定、偽りの心、裏切り、原因不明、スキャンダル、災厄の前兆。
一歩進む度、気分が重く沈んでいくような感覚。
白い月は、アンリと同じ歩幅で付いてくる。
「嫌な月だな」
同じ頃、シュヌーシア寮。
この生徒の部屋は、大抵脱いだ制服は床に転がっている。
それは今夜も同じだった。
本棚に片付ける気のないマンガは、積み重なったままタワーになっている。
平たくいうと、散らかった部屋だった。
部屋の主は仰向けでベッドに寝転がっていた。
右手に握るものを、ぼーっと見つめている。そのままコロンと左側に寝返りを打った。
彼が手にしているのは、怒った顔をしたウサギだった。
通信室。生徒が電話する場合に使う部屋だ。
アンリはプライベートブースに入った。完全防音の空間で、受話器を耳に当てる。
耳障りなしゃがれ声が聞こえてきた。
「よう、お姫様。起きてたか?」
電話の主は、アンリのビジネスパートナー、ディーノ・マンゾーニだった。
「何。この前ミーティングをしたばかりでしょう?」
マフィアは少し笑ったあと、こう切り出した。
「おめーのガッコに、マルセロ家のガキが居るだろ?」
アンリは心臓を掴まれたような衝撃を受けた。
だが、それと同時に、遂にばれたか、という想いもあった。
あの少年がシチリアマフィア、マルセロ家だと知った時から、
いつかこんな日が来るかもしれないと予測していたのかもしれない。
動揺が露ほども声に出ないように、努めて言った。
「知らないね」
マフィアは笑った。受話器越しだと解っているのに、
彼の吐息が直接耳にかかった気がして、アンリは眉間を歪ませた。
「つまんねえウソ吐くなって。俺、この目で見たんだぜ? マルセロの坊ちゃんを島でな。
お前と揃いの制服だったから、同じガッコに居るわけだろ?
緑の燕尾服なんて制服、このガッコしかないからなあ」
「なら、僕に確認を取る必要ないじゃない。何が言いたいの」
「ただの自慢話さ」
「自慢?」
「イイめっけもんだったぜ。焼け死んだ筈の坊ちゃんだからなあ。
まあ、坊ちゃんの死体は確実なものがなかったから、
どっかでまだ生きてんじゃないかって話もあったさ。
だが、まさかお前と同じガッコに居たとはなあ。イタリアを探しても居ないわけだぜ」
「探す? マルセロとマンゾーニは敵対していないでしょう?」
「バカかお前? 同業他社は少ないほうがイイに決まってんだろ。
マルセロ家は、シチリアマフィアの中でも、無駄に構成員が多いんだよ。
ゆくゆくは、そこのボスになんだろ、あの坊ちゃん。ククッ。笑いが止まらねえぜ」
「彼をどうする気?」
「さあて。使い道は幾らでもあるからなあ。
生け捕りにした仔ウサギを、マルセロの奴等に見せびらかせば、
マルセロ・ファミリーは俺達の操り人形になるかもな」
アンリの頭に、一枚のタロットカードが浮かぶ。
ナンバーは18。先程も脳裏によぎった『月』のカード。災厄の前兆とはこのことか。
「言っておくけれど、彼の身柄を狙おうとしたって無駄だよ。この島の警備が」
「ああ、優秀だよなあ、ここの警備は。俺様を何度も島に上陸させてくれてるんだから」
アンリは冷静さを失わないよう努めつつ、持てる頭脳で最良の案を探した。
「この学院は島に厄介事を輸入した生徒は退学になる校則でね。
君が彼に手出しして、もし、僕との関係がバレたら、
厄介事を島に持ち込んだ者、つまり僕の責任になるかもしれない。
そうなった場合、僕は君とのビジネスを続けられないな」
「同じガッコの生徒を守るってか。泣かせるねえ」
「僕の退学を免れる為だと言っているでしょう。ディーノ、何が狙いなの」
「おっと。そろそろハミガキの時間だ。もう眠らねえと。おやすみ、アモーレ」
「ふざけないで。僕は真面目に」
「話したいなら、夢の中まで追いかけて来いよ」
そこで電話は一方的に切られた。
アンリが寮に戻った時、ジョシュアと廊下で擦れ違った。
そのたった一瞬で彼はこう聞いてきた。
「どうしたんだい、アンリ」
「何が」
「電話、何か悪い知らせだったのかい?」
「どうして、そう思うの?」
「君と何年同じ寮で暮らしてると思ってるんだい?
アンリが言いたくないなら、これ以上聞かないよ。
だけど、もし俺で力になれることがあるなら」
「そうだね。今年度の君には特別な力がある」
「特別?」
「君はこの島のプライベートミリタリーとも連絡が取れる筈だよね、生徒代表殿?」
「え? うん。警備組織とはミーティングも多いけど」
「島の警備レベルを上げる権限は、君にもある?」
→
「お待たせ致しました」
この寮に仕えて長い老紳士が、ジョシュアの前にコーヒーを置いた。
「本日の豆は、ブラジルコーヒーの最高グレード『サントスNo.2』でございます。
柔らかな口当たりと上品なほろ苦さをお楽しみ下さいませ」
ジョシュアは、以前バトラーから聞いたことがある。
ブラジル最高級豆が『No.2』という名なのは、敢えて最上位を空席にした為だ。
No.1があると、それ以上の豆が作れなくなってしまう。
今後も品質向上を目指し、No.1のコーヒーを作り出そう、そんな想いが込められた名なのだと。
ジョシュアはカップを手に取る。
「ありがとう、バトラー」
老紳士は一礼した。二人の寮生が談笑しながらサロンに入ってきた。
「今日の授業、あっという間でしたね」
「シルヴァンは殆ど寝てたからでしょ?
それでもテストの成績はそこそこ取っちゃうんだからなあ」
「僕、ヤマを当てるのは得意なんです!」
二人は向かい合って、ロングソファに座った。
老紳士は彼等にも声を掛ける。
「本日も一日お疲れさまでした。シルヴァン様、ハルヤ様も何かお飲みになりますか?」
「僕はハルヤと同じものをお願いします!」
「え? 俺、何飲むか、まだ言ってないのに?」
「はい! 何でもいいですよ」
「そう? んー。じゃあ、この前買ってきたティーパックのグリーンティー、まだあるかな?」
「ええ。ございます。ああ、グリーンティーと言えば、
先日、ハルヤ様から頂いたグリーンティー、
大変美味しゅうございました。ありがとうございます、ハルヤ様」
「あ、ほんと? 良かった」
「お二人ともグリーンティーですね。少々お待ち下さいませ」
老紳士が下がる。シルヴァンはハルヤに詰め寄る。
「ちょ、ちょっとハルヤ! バトラーにプレゼントしたんですか?」
「うん。てゆうか、それ買った時、シルヴァンも一緒に居たじゃん。俺、二箱買ってたでしょ?」
「両方ハルヤが飲むのだと思っていました。ハルヤは食に関しては誰より貪欲ですからね。
でも、どうして、バトラーにグリーンティーをプレゼントしようと思ったんです?」
静かにコーヒーを飲んでいたジョシュアも、ハルヤに注目した。
ジョシュアとシルヴァンに見つめられて、ハルヤはぼそぼそと答えた。
「な、なんとなく、バトラーなら好きな味なんじゃないかなと思って。
緑茶って、どっちかって言うと、お年寄りに好まれる飲み物なんだよ、日本では。だから」
「ああ、なんだ、そういうことだったんですね。良かった」
「良かったって?」
「僕、てっきり、ハルヤとバトラーが急激に仲良くなったのかと思ってしまいました」
「別にそういうわけじゃ……あ、でも」
「でも!? でもってなんですか!?」
「最近、俺、バトラーと話すの、好きかも。なんだか落ち着くんだ。
昔は、うちのじいさまと話してたからかな? おじいちゃんっ子ってやつ?」
「ま、まさかのバトラー×ハルヤですか!? 僕を差し置いて、そんなのダメですー!」
「ごめん、ちょっとシルヴァンが何言ってのるか解んないや」
サロンがコンコンとノックされる。返事を待たずにドアが開いた。
「こんちはー」
「こ、こんにちは」
入ってきたのは、ウーティス寮生ではない二人の少年。ハルヤが声を掛ける。
「あれ? 君達はシュヌーシア寮の、えっと……」
「レオンとラビットだね。こんにちは」
顔は知っているが名前が思い出せない様子だったので、さりげなくジョシュアが助けた。
「二人がウーティスに来てくれるなんて珍しいね。誰かに用事かな?」
レオンはズボンのポケットに手を入れている。
「ああ。ウーティスのお姫様にな」
「お姫様……アンリのこと?」
「そう、そいつ」
「ちょっとだけ会いたいんですけど……」
「俺で良ければ、部屋まで案内するよ?」
「悪いねえ、生徒代表サマ自ら」
「じゃあ行こう」
ジョシュアが二人を連れて、サロンを出て行く。
三人の背中を見送って、シルヴァンが言う。
「アンリに他の寮からお客様が来るなんて久し振りですね。
もしかして、あの子達、アンリのファンでしょうか?」
「そうは見えなかった気がするけど」
「ハルヤが入学する前は、テオが時々来てたんですよ、アンリへの貢ぎ物を抱えて」
「そんなことしてたんだ、あの人……やりそうだけど」
「文化祭の前になると、毎年打ち合わせをしていたみたいですから」
「打ち合わせ?」
「プリンセスの衣装を決めたり、あとギャランティの話とか。
僕は詳しくは教えて貰えませんでしたが、
恐ろしい額が動いてたようですよ? イイですよねー、お金持ちの皆さんは」
ハルヤはオリエンタルスマイルを見せた。
「なんてゆうか、雲の上の話だよね」
ドアが開く。バトラーがサロンに戻ってきた。
「シルヴァン様、ハルヤ様。お待たせ致しました、グリーンティーでございます」
ティーカップに入った緑茶が二つ並べられる。
「ありがと、バトラー」
「ありがとうございまーす」
白いカップに淡い緑色がよく映える。シルヴァンは一口飲んで、笑顔を見せた。
「美味しいですね、ハルヤ。この苦みが良いんですよね!」
「うん。湯飲みじゃないからちょっと不思議だけど」
「ユノミ? ああ、サムライがグリーンティーを飲む時のグラスですね?」
サロンのドアが開く。アルフレッドとユウタだ。
アルフレッドはシルヴァンの隣に座る。両腕を広げて、ソファに全身を預けた。
「あー、授業で頭使ったから、ハラ減ったー!」
ユウタは笑いながらハルヤの隣に座る。
「じゃあレッド、クッキーでも食べる?」
「いや、今日はもっとガッツリ」
アルフレッドは急に席を立った。
「あ、そうだ!」
「どうしたの、レッド?」
「こういう時こそ、あそこだろ!」
「ごちそうさまでした」
空の皿の前でハルヤが両手を合わせた。
アルフレッド、シルヴァン、ハルヤ、ユウタの四人は、アイヴィーの家に居た。
彼のタクシーを呼んで、彼の自宅に向かわせ、おやつ代わりのパスタを作らせた。
突然のオーダーで大した材料もなく、メニューは問答無用で、
牛乳の残りと酒のツマミ用のチーズで和えたチーズクリームパスタになった。
具なしパスタ二人前を四人で分け合い、すぐに完食した。
満腹とは言えないが、おやつには丁度良い量だったようである。
「ウマかったぜ、アイヴィー! あ、俺にもインスタントコーヒー淹れてくれよ!」
アルフレッドがそう言うと、シルヴァンは手を挙げた。
「僕も欲しいですー」
自分用のインスタントコーヒーを淹れようとしていたアイヴィーが苦笑している。
「相変わらず自由だなー、お前さん達は」
遠慮のない友人達に少しびっくりしながら、ユウタが申し出る。
「あの、俺、手伝います」
申し訳なさそうなユウタを見て、アイヴィーは笑った。
「ああ、ユウタは座ってな。俺がやるよ。カップに粉とお湯を入れるだけだから」
カップを五つ用意した。
アイヴィーが淹れたコーヒーをアルフレッドは至極旨そうに飲んだ。
「コーヒーはインスタントに限るな!」
丁度、カップに口付けていたアイヴィーは吹き出しそうになった。
「何言ってんだよ、アルフレッド」
「だってさー、寮でバトラーが飲ませてくれるコーヒーは、最高級豆で淹れたヤツなんだぜ?」
「そりゃ、良かれと思って、バトラーが用意してくれてんだろ?」
「なあ! このインスタントコーヒー、
ボトルごと持って帰ろうぜ! んで、寮のサロンに置こう!」
「賛成です!」
「待て待て。俺のコーヒーを勝手にお持ち帰りすんな。
インスタントコーヒーなら自分で買えばいいだろ? それかバトラーに頼めばいくらでも」
「アイヴィーが新しいの買えばいいじゃん」
「なんでだよ!?」
アルフレッドとアイヴィーのやりとりを、
笑顔で見守っていたシルヴァンが、そこでパチンと手を合わせる。
「あ、言い忘れてました。僕達、今度ライブするんで、アイヴィーも良かったら来て下さいね!」
「そうそう。絶対来いよな! ヒマだろ?」
「あのなあ。ヒマそうに見えっかもしんねえけど、これでもイロイロ忙しいんだよ」
ハルヤがぼそりと言う。
「でも、アイヴィーって時々保健室でサボッてるよね?」
「まー、それは、な」
「やっぱヒマなんじゃん! ならライブに来るしかないな!
損はさせないぜ? あ、ユウタも来るだろ?」
「うんっ!」
「たまにはお前も歌ってみっか?」
「ええっ? 俺が!? ム、ムリだよ、そんなの!」
「一度、ステージで歌ったら、ヤミツキになるぜ?」
「お前さん達、そろそろ寮に戻んなくていいのか?」
「もうそんな時間?」
「なんだか帰りたくないですー。アイヴィーのおうちに来るとまったりしちゃって」
「だなー。帰ったって、待ってるのはカミーユのカンペキ過ぎるディナーだし」
「カミーユが泣くぞ、アルフレッド」
「今夜は外で食べるってのどうよ!?」
「いいかも」
「いいですね!」
「いいのかなあ?」
「ユウタだって、夜の街を歩いたことは殆どないだろ?」
「う、うん。そうだけど」
「おっしゃ! なら、俺達デッドプリンスが案内してやる!」
「デッドプリンスプレゼンツ・スペシャル・フィンシャルナイトツアーですね!」
「つーわけで、アイヴィー君! 君をスペシャル・ドライバーに任命しよう!」
「やっぱ俺も巻き込まれんのな」
「あったりまえじゃん!」
「ったく、マージナルプリンスどもめ」
アンリがウーティス寮ダイニングルームに入った時、席に着いているのはジョシュア一人だった。
テーブルに置かれているナイフやフォークなども二人分しか用意しかされていない。
「今日のディナーは、僕と君だけ?」
「うん。レッド達、今夜はユウタに街を案内したいから、
外食にするって。さっき寮に連絡があったんだ」
「随分安易な言い訳だね。ルブラン・シェフも気の毒に」
「え?」
「あの四人が居ないなら、久し振りに落ち着いたディナーになりそうだ」
この日のディナーは、フランス料理のフルコースだった。
一流シェフ渾身の料理が、スープ、前菜と続いていく。
ジョシュアとアンリは会話らしい会話をせずに食事をしていた。
今となっては貴重な静寂。ナイフと食器が擦れる金属音さえ、
はっきり聞こえるほどだったが、互いに気まずい様子は見られなかった。
最後のデザートが出て、シェフが下がった頃、ジョシュアがしみじみと言った。
「なんだか、夏休みの日みたいだったね。二人きりのディナーなんて」
アンリは紅茶を置く。
「僕は毎日これでいいけれど?」
ジョシュアは吐息を漏らした。琥珀の瞳が相手をキツく見つめる。
「……何笑ってるの?」
「いや、ゴメン。何でもないよ」
そう言って、コーヒーに口付ける。再び訪れた沈黙。
紅茶を飲み終えたら部屋に戻ろう、そうアンリが思った時。
「アンリ、変わったよね」
二人きりだからだろうか。今夜のジョシュアはお喋りだ。
「変わったというなら、君のほうだ」
アンリの何が変わったか、その話題を避けるように、話が押し返された。
「君はこの学院に来なければ、いや、小鳥と出会わなければ、君と僕の未来はきっと変わってた」
「え?」
「君がグラント家を、僕はサン・ジェルマン家を継いで、
僕達が敵同士になる未来。そうなる可能性もあったでしょう?
けれど、ここに来て、僕達の前には、王を導く小鳥が現れた。
彼女のおかげで、君はグラントではなく、ロレートを選ぶことができたんでしょう?」
「うん。でもね、アンリ。俺は、思うんだ。もし、もしもの話だけど。
俺達がグラントとサン・ジェルマンの当主になったなら、両家の関係は変わったと思う」
「どういうふうに?」
「俺は君の敵にはなれない。そうならない方法を探すと思うから」
「戦う前から戦意喪失? 甘いね。本当に君は甘い」
琥珀の瞳は挑戦的に見つめていた。
「僕なら、全力でグラント家を潰しにかかると思うよ。君が相手なら尚更ね」
グラントの深紅の瞳が瞬く。それを確認したあとで、アンリは冷笑した。
「冗談だよ」
横髪を耳にかけながら、その手で頬杖を突く。
「もしもの未来について話しても無意味じゃない?」
全力でグラント家を潰す、それが本当に冗談で言ったものなのか。
ジョシュアがアンリの真意を図り兼ねていると、ドアがノックされ、静かに開いた。
「お食事中、失礼致します。アンリ様、お電話でございます」
「そう。解った。食事は済んでいるから、下げてくれて構わないよ」
「畏まりました」
アンリは膝にかけていた白いナプキンを持つ。
軽く口許を抑えてから、テーブルの左側に置いた。
「話はここまでだね、ジョシュア。失礼するよ」
寮から通信室へ向かう途中、月が見えた。
宵闇に浮かぶ白い半月。
「La Lune(ラ・ルナ)、月は満ち、欠ける」
タロットカードにおける『月』の意味が自然に頭に浮かんでくる。
それが全て正位置のものだった。月が姿を現すのは夜。
『月』のカードの場合、正位置は総じて悪い意味だ。
不安定、偽りの心、裏切り、原因不明、スキャンダル、災厄の前兆。
一歩進む度、気分が重く沈んでいくような感覚。
白い月は、アンリと同じ歩幅で付いてくる。
「嫌な月だな」
同じ頃、シュヌーシア寮。
この生徒の部屋は、大抵脱いだ制服は床に転がっている。
それは今夜も同じだった。
本棚に片付ける気のないマンガは、積み重なったままタワーになっている。
平たくいうと、散らかった部屋だった。
部屋の主は仰向けでベッドに寝転がっていた。
右手に握るものを、ぼーっと見つめている。そのままコロンと左側に寝返りを打った。
彼が手にしているのは、怒った顔をしたウサギだった。
通信室。生徒が電話する場合に使う部屋だ。
アンリはプライベートブースに入った。完全防音の空間で、受話器を耳に当てる。
耳障りなしゃがれ声が聞こえてきた。
「よう、お姫様。起きてたか?」
電話の主は、アンリのビジネスパートナー、ディーノ・マンゾーニだった。
「何。この前ミーティングをしたばかりでしょう?」
マフィアは少し笑ったあと、こう切り出した。
「おめーのガッコに、マルセロ家のガキが居るだろ?」
アンリは心臓を掴まれたような衝撃を受けた。
だが、それと同時に、遂にばれたか、という想いもあった。
あの少年がシチリアマフィア、マルセロ家だと知った時から、
いつかこんな日が来るかもしれないと予測していたのかもしれない。
動揺が露ほども声に出ないように、努めて言った。
「知らないね」
マフィアは笑った。受話器越しだと解っているのに、
彼の吐息が直接耳にかかった気がして、アンリは眉間を歪ませた。
「つまんねえウソ吐くなって。俺、この目で見たんだぜ? マルセロの坊ちゃんを島でな。
お前と揃いの制服だったから、同じガッコに居るわけだろ?
緑の燕尾服なんて制服、このガッコしかないからなあ」
「なら、僕に確認を取る必要ないじゃない。何が言いたいの」
「ただの自慢話さ」
「自慢?」
「イイめっけもんだったぜ。焼け死んだ筈の坊ちゃんだからなあ。
まあ、坊ちゃんの死体は確実なものがなかったから、
どっかでまだ生きてんじゃないかって話もあったさ。
だが、まさかお前と同じガッコに居たとはなあ。イタリアを探しても居ないわけだぜ」
「探す? マルセロとマンゾーニは敵対していないでしょう?」
「バカかお前? 同業他社は少ないほうがイイに決まってんだろ。
マルセロ家は、シチリアマフィアの中でも、無駄に構成員が多いんだよ。
ゆくゆくは、そこのボスになんだろ、あの坊ちゃん。ククッ。笑いが止まらねえぜ」
「彼をどうする気?」
「さあて。使い道は幾らでもあるからなあ。
生け捕りにした仔ウサギを、マルセロの奴等に見せびらかせば、
マルセロ・ファミリーは俺達の操り人形になるかもな」
アンリの頭に、一枚のタロットカードが浮かぶ。
ナンバーは18。先程も脳裏によぎった『月』のカード。災厄の前兆とはこのことか。
「言っておくけれど、彼の身柄を狙おうとしたって無駄だよ。この島の警備が」
「ああ、優秀だよなあ、ここの警備は。俺様を何度も島に上陸させてくれてるんだから」
アンリは冷静さを失わないよう努めつつ、持てる頭脳で最良の案を探した。
「この学院は島に厄介事を輸入した生徒は退学になる校則でね。
君が彼に手出しして、もし、僕との関係がバレたら、
厄介事を島に持ち込んだ者、つまり僕の責任になるかもしれない。
そうなった場合、僕は君とのビジネスを続けられないな」
「同じガッコの生徒を守るってか。泣かせるねえ」
「僕の退学を免れる為だと言っているでしょう。ディーノ、何が狙いなの」
「おっと。そろそろハミガキの時間だ。もう眠らねえと。おやすみ、アモーレ」
「ふざけないで。僕は真面目に」
「話したいなら、夢の中まで追いかけて来いよ」
そこで電話は一方的に切られた。
アンリが寮に戻った時、ジョシュアと廊下で擦れ違った。
そのたった一瞬で彼はこう聞いてきた。
「どうしたんだい、アンリ」
「何が」
「電話、何か悪い知らせだったのかい?」
「どうして、そう思うの?」
「君と何年同じ寮で暮らしてると思ってるんだい?
アンリが言いたくないなら、これ以上聞かないよ。
だけど、もし俺で力になれることがあるなら」
「そうだね。今年度の君には特別な力がある」
「特別?」
「君はこの島のプライベートミリタリーとも連絡が取れる筈だよね、生徒代表殿?」
「え? うん。警備組織とはミーティングも多いけど」
「島の警備レベルを上げる権限は、君にもある?」
→
■何でもない日(1) 続編
何でもない夜が明け、また何でもない朝が来た。
今日は金曜日。週に一度の神秘学がある日だ。
「これ、借りてた本。返す」
講義が終わり、他の生徒が居なくなった後で、僕は教授に本を返した。
黒板を消し終わった教授が僕の傍まで来る。
「面白かったかい?」
「あまり」
教師は紳士的な微笑みを見せる。
「アンリのお口には合わなかったか。では他の本を貸そう。研究室に寄ってくれるかね?」
僕は彼と目を合わさず、テキストをブックバンドでまとめる。
「今日はダメ。用事があるから」
「おや。ご機嫌斜めのようだね、アンリ。もしや、彼とケンカでもしたのかい?」
「ケンカ? 誰と?」
「ユウタだよ。彼から貰ったウサギのお守り、今日はどうして付けてないんだい?」
普段はブックバンドに、ウサギのマスコットをぶら下げているのだが、今日はない。
「なくしただけ」
僕は教室を後にした。
放課後のウーティス寮サロン。
生徒達は今日一日の授業を終え、皆自由にくつろいでいた。
今、サロンに居るのはジョシュア、アルフレッド、ハルヤ、ユウタの四人。
その中で一人だけキョロキョロと落ち着かない様子の生徒が居る。高等部一年の日本人、ユウタだ。
「まだかなあ」
その小さな呟きに眼鏡の日本人が気付く。クッキーをほうばっていたハルヤだ。
「誰か待ってるの?」
ユウタはこくんと頷く。
「アンリを。勉強教えて貰おうと思って」
「へえ。珍しいね、アンリになんて」
「うん。もう少し仲良くなれたら良いなって。
俺、アンリには相手にされてないってかんじでしょ?」
「うーん。そんなことないと思うけど。てゆうか、去年に比べたら、
アンリ、大分話してくれるようになったし。昔はもっと無口だったらしいよ?」
「そうなの?」
「おい、ユウタ、勉強なら俺に聞けよ!」
アルフレッドがユウタの肩に腕を回してウインクした。
「演劇の基礎から女の子の口説き方まで、何でも教えてやるぜ?」
「それって、守備範囲がかなり限定されてるような」
「あーっ!? お前まで俺をバカ扱いすんのかー?」
「してないよー。でも、俺が知りたいのは情報学だし、レッドだとちょっと不安かなって」
「バカにしてんじゃねーかよー!」
「あははっ。レッド、くすぐったいよー」
最上級生のジョシュアが苦笑しながら、やんわりと仲裁に入る。
「アンリなら少し遅れて来るかもしれないよ、ユウタ。神秘学の後だからね」
「え、どうして神秘学の後だと遅くなるの?」
「教授の研究室に寄って行くことがあるんだよ。アンリは神秘学の教授とは親しいから」
「ああ、あの不思議な先生か。そう言えば仲良さそうだったな」
廊下で先生とアンリが二人で話してるのをユウタは見かけたことがある。
アンリが先生に何か毒づいているみたいだった。それを先生は微笑みながら聞いていたのだ。
「あの先生は、どうやってアンリと仲良くなったのかな?」
「あいつの一番好きな講義が神秘学だからだろ? 俺にはさーっぱり解らない授業だったけどな」
アルフレッドが手の平を空に向けて、首を横に振る。
いかにも外国人なオーバーリアクションも、アルフレッドがやると、様になっていた。
「研究室に行ったんなら、もう少し待ったら帰ってくるかな、アンリ」
「アンリでしたら、街へおでかけみたいでしたよ?」
突然、ユウタの背後からシルヴァンの声がした。いつのまにかサロンに入っていたようだ。
「シルヴァンはアンリを見たの?」
「はい、先程、門の近くで擦れ違いましたから」
そう言いながらアルフレッドの隣に座る。
「ってことは、シルヴァン! お前、教室に来ねえと思ったら、街に行ってたのか!?」
「ええ、ちょっと。アイヴィーのパスタが急に恋しくなりましてね」
「シルヴァン、アイヴィーのパスタ食べたの? それなら俺も誘って欲しかったな」
「すみません、ハルヤ。でも、パスタは食べられなかったんです。
アポなしで行ったら、お留守だったみたいで。今度は一緒に食べに行きましょうね?」
「ハルヤだけじゃなくて俺も誘えよ!」
「解ってますよ、レッド。今度はみんなで行きましょう」
聖アルフォンソ島の新市街。
シュヌーシア寮のシルフェ、レオン、ラビが一緒に買い物に来ていた。
シルフェは右手に細長い箱を持っている。
街まで出てきたついでに、シュークリーム専門店で、寮生へのお土産を買ったのだ。
「やっぱ、街に来る時は制服に限るよなー」
今日のシルフェはご機嫌だ。その隣を歩くレオンは、少しご機嫌斜めな様子で、
「なんでだよ?」
「マージナルプリンスは、文字通りこの島の王子サマだからさ。
さっきのシュークリーム屋でも二個多く入れて貰えたろ?」
「制服はカンケーなくね? てめーがキザなセリフとか言って、
店のおばちゃんをたぶらかすから、オマケしてくれたんだろ?」
「珍しいじゃん? レオンが俺のこと褒めてくれるなんて」
「バカにしてんだよ。つーか、なんでシルフェまで来んだよ」
「ラビとのデート、ジャマしちゃった?」
「デ、デートなんかじゃねえ!」
「なら、イイじゃん。ん?」
ラビの視線にシルフェが気付く。雑貨店のウインドウを見ていた。
「ラビ。その店、気になるのか?」
「あ、うん、ちょっと」
「なら、遠慮しないで言えよ。おい、レオン!」
前方を歩くレオンを呼び止めた。
「あ?」
「ラビが、ここ見たいってさ。寄ってこうぜ」
「ここぉ? オンナが行く店じゃねえの?」
「じゃー、俺とラビだけで入ろーっと。行こうぜ、ラビ」
「ちょ、俺も行くー!」
店内にはアメリカ風のカントリー雑貨やぬいぐるみなどが綺麗にディスプレイされていた。
レオンは辺りを見回して、あからさまにイヤな顔をした。
「うっわ。ここ、完全にお嬢様とかマダムが来る店じゃん。俺達、場違い過ぎね?」
居心地悪そうにしているレオンに対し、シルフェは余裕で歩いている。
「可愛いカノジョへのプレゼントを買いに来ましたーてな顔してりゃあいいんだよ。
ラビは慣れてるかんじだな? こういう店、好きなのか?」
「えっとね、ママがこういうお店好きなの。
イタリアに居た時は、ママがよく連れてってくれたから。懐かしいなって思って」
「ふうん。ラビのママなら、なんか似合いそうな気がする」
ラビとシルフェがそんな話をしている間、レオンは一人で機嫌の悪い顔をしていた。
店の中を歩いていると、ある場所でラビの足が止まった。
ウサギの置き物がたくさん並んでいるコーナーだ。
「お前、ウサギ好きだなー。リサイクル市に行った時もウサギのぬいぐるみガン見してたし」
「ウサギ好きは、ラビだけじゃないぜ。ウーティスには三人も居る」
「三人も?」
「あ、僕、解るよ。シルヴァンとアンリとユウタでしょ?
みんな、同じウサギさんが好きなんだよ」
「ああ。シルヴァンは、パーティでもウサギの着ぐるみ着てたしな」
「あとね、アルファルドにも、同じウサギさんが好きな人居るよ。
ウサギさんのチョコをね、いっぱい買ってたの。僕、見たんだ」
「そんなに、人気あったのか、そのウサギ。てか、どんなの?」
「赤い目で、お口が大きいの。ちょっとコワイかんじ。僕はもっとカワイイほうが好きだなあ」
たくさんのウサギの前で、シルフェが尋ねる。
「ラビは、この中でどれが一番好きなんだ?」
木製のテーブルの上に20個程陳列されているウサギの置き物。
手作りの品らしく、笑顔や泣き顔など、ひとつひとつ顔の表情が違った。
「うんっと。えっと、僕はこれが好き!」
笑顔のウサギを指差した。
「イイねえ、可愛くて。レオン、ちなみにお前は?」
「俺? そうだなあ、俺はこの怒ってるかんじのヤツ」
「すさんでるなあ、お前は。ココロがすさんでる」
「お前に言われたくねえし」
その後も店を一回りしたが、ラビは結局、何も買わなかった。
「そろそろ出ようぜ」とレオンが言った時、
シルフェは「ここでちょっと待ってな」と言って、一人で店の奥に向かった。
「シルフェ、どうしたのかなあ」
「トイレじゃね?」
二人の元に帰ってきたシルフェは、小さなプレゼントをラビに差し出した。
「え? なあに? シルフェ」
「開けてみな?」
簡易包装の袋を開ける。中から出てきたのは、笑顔のウサギ。
先程、ラビが好きだと言った置き物だった。
「それ、ラビに似合うし、欲しそうだったからさ。俺からプレゼント」
「いいの?」
「ああ。高いモンでもなかったし」
「ありがと! 大事にするね」
「てめえは……何カッコつけてんだよ、シルフェ!」
「お前は俺サマを見習えよ。男ならプレゼントのひとつやふたつ、
このくらいスマートにできないとな? 特に大切な人へは。
将来、役に立つこと言ってやってんだから覚えておけよ、レオン」
「でも、プレゼントって……誕生日でも何でもない日にかよ?」
「昨日もパーティをやってみせただろ? 何でもない日だからサプライズになるんだろうが。
プレゼントされて嬉しくないヤツが居るか? ほい」
ラビにあげたものと同じ袋をレオンに差し出した。
「何コレ。俺にもかよ?」
包みを開ける。中身はレオンが好きだと言った怒り顔のウサギだった。
「お前はラビのついで、だけどな」
シルフェはレオンの頭をポンと叩く。
「次は本屋に行っていいか? 俺、読みたい雑誌あるんだ」
新市街のオープンカフェ。
顎鬚を蓄えたイタリア顔の男と、フランス人形のような美少年。
前者は彫りが深く浅黒い肌、後者は陶器のような白肌。年齢で言えば三十代と十代だろう。
あまりにも対照的な二人組が、ひとつの丸テーブルに着き、向かい合って座っている。
近くを通った客に振り向かれたり、指を差されてヒソヒソ囁かれてる。
その視線に対し、美少年は完全無視の姿勢を貫いていたが、いい加減うんざりしていた。
「何故こんな目立つ場所を選んだの?」
イタリア男は葉巻を吹かした。甘い香りが立ち昇る。
「この前ちょっと寄った時、ここのパニーニがウマかったからさ」
彼の名は、ディーノ・マンゾーニ。シチリアマフィア、マンゾーニ家の次期ボス。
向かいに居る美少年、アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマンが、
ボディーガードとして雇っているのが、このマフィアだった。
「大体、たったこれだけのことを話すのに、
何故、君と顔を合わせる必要があったの? メールで十分じゃない」
葉巻の先は白い灰。その奥が赤く燃えている。
「前から言ってんだろ? 愛とビジネスについて語る時は、
相手の顔をじっくり見つめながらじゃねえとな。パパもよくそう言ってる」
このファザコンが。アンリは舌打ちしたい気分だった。アンリは席を立つ。
「話はもう終わったよね。失礼するよ」
「待てよ、お姫様」
手首を掴まれた。
「島の警備網を擦り抜けて、わざわざ会いにきてやったのに、一人寝させるつもりか?」
「君が勝手に来ただけでしょう。手を離して」
「へいへい。じゃあ」
手首を引き寄せる。
「またな、お姫様」
手の甲に口付けをして、手を離した。
オープンカフェという公衆の面前で、何をしてくれる。
アンリは反対の腕の袖口で、けがされた手の甲を拭く。
マフィアを鋭く睨み付けたが、同級生達を凍らせる眼光も、この男には効かなかった。
「帰る。君もさっさとイタリアに帰って」
炎を吐き付けるようにそう言って、立ち去った。
マフィアは椅子に凭れて、笑った。
「ツレねえなあ、うちのお姫様は」
灰皿に置いていた葉巻を持つ。まだ大分長い。
たっぷりと煙を吸い込む。キャラメルとコーヒーの香り。厚い白煙を空にも分けてやった。
「さあて、今日は急いで帰る用事もねえし。久し振りに金髪の愛人宅にでも泊まってやるかなあ」
その頃、保健室に遊びに来ていたアイヴィーは、急に身震いした。
保健室の先生がそれに気付く。
「どうした?」
「い、いや、急に寒気が。どうしたんだろ。カゼでもひいちゃったかなあ、俺」
「知っているか? 日本の言葉に『バカはカゼをひかない』という言葉があるらしいぞ?」
「そーなんだー。って、なんで今ソレ言ったの?」
アイヴィーの携帯電話が鳴った。
サブディスプレイに表示された『D』を見て、アイヴィーはギョッとする。
以前、無理矢理、電話番号とメールアドレスを交換させられた。
だけど、あいつの名前をそのままで登録するのは、どうにも憚られて、
イニシャルのアルファベット一文字だけにしたのだが、
こうして表示されると、まるで悪党のコードネームのようだ。
「電話だろう? 出ないのか?」
ソクーロフにそう言われて、ここが職場ではなく、
保健室なのは不幸中の幸いかもしれないと感じた。
携帯電話は「早く出ろ」と言わんばかりに鳴り続けている。
アイヴィーは小さな機械を握りしめて、
「ソクちゃん、ちょっとコッチの部屋貸してっ。入って来ないでね!」
アイヴィーは診察室からカウンセリングルームに移る。
部屋の内側からカギを掛けて、携帯電話を耳に当てた。
「も、もしもし?」
「よう、アモーレ? 俺が居ない間、泣いてなかったか?」
特徴的な低音のしゃがれ声。イタリア訛りの英語。
間違いなくディーノ・マンゾーニだ。
条件反射的にアイヴィーはイラッとくる。
「何の用デスカ?」
「お前んちの冷蔵庫にビールあるか?」
「……な、なんで、んなことあんたに気にされなきゃ」
「俺様が、今夜お前んち泊まるから」
「は、はあー!? ちゅうことは、おまっ、今、島に居んのかよ!?」
「居るから、ビールあるかって聞いてんだろ?」
「てめっ、ど、どうやって島に入ったんだよっ!?」
「あん? それが人にモノを聞く態度か?」
「それが島に不法侵入したヤツの態度かああ!? いい加減、捕まえんぞっ!?」
「うるせーなー、耳元で。俺様と久し振りに話せたのが嬉しいからって、そんなにガッツクなよ。
おめーと会うの久し振りだからよ、寂しい想いをさせた分、
今夜はたっぷり慰めてやろうと思ってんだぜ?」
「遠慮します! 結構です! つか、今すぐお帰り頂きたいんですけど!?」
「クッ。キャンキャン吠えやがって、そんなにシッポ振って喜ぶなよ」
「あー、相変わらず話が通じねー。……けど、まあ、そうだな」
「ん?」
「丁度、あんたに聞きたいことあっから、今回はトクベツに宿泊を許可してやってもいい」
「クソ生意気だな、てめーも。で、聞きたいことって? 愛の言葉か? 欲しがるねえ」
「んなもん欲しがってねえよ! まあ、お宅の業界事情っつーか」
マルセロ家、という名前は明かせないが、アイヴィーが聞きたいのはマルセロ家周辺についてだった。
先日、ラビットを連れ戻しにやってきたマルセロ家の者達。
自白させた供述の中で、次期ボスを奪還しようと島にやってきたのは、
家長制を重んじる保守派だけだったことが解ったのだ。
現在、ボス代理を務めるラビットの叔父、従兄弟を推しているのは、革新派らしい。
構成員が多いだけあって、ファミリー内の統制が難しいのだろう。
このまま悪化すれば、内部分裂の危険性があるかもしれない。
マルセロ家やその周辺で、何かキナ臭い話が上がっていないか、
シチリアマフィアに確かめておきたかった。
「えと、最近のシチリアマフィア界で、なんかヘンな動きとかないかなーって。どう?」
「話してやってもいいけどよ、そんな言い訳が必要か?
理由がなくたって、俺様はお前んちに泊まってやるぜ?
それよりビールはあるのか、ビールは?」
「あるよ。コロナだけど、いいの?」
「メッシーナが良かったが、それでもいいか」
「シチリアビールなんか、あるわけないし。てゆうか、どっちも似たような味じゃん」
「全然違うだろ。味は解らねえんだな? 舌の感度はイイ筈だが?」
アイヴィーが何も言い返せずにいると、笑われた。
「んじゃ、あとで夜這いに行くからシャワーを浴びて待っ……」
明らかに話の途中だった。しかし、それ以降の言葉が聞こえてこない。
「ディーノ?」
受話器の向こうは黙ったままだった。
「おい、ディーノってば」
「……マージナルプリンス、か」
「ど、どした?」
「こりゃ、今日のお泊まりはオアズケだ」
「あ? ああ!?」
「すぐうちに帰らねえといけなくなっちまった。残念だが、お楽しみはまた今度だ」
つい先程まで、今夜泊まらせろと言っていた奴が、
たった一瞬で態度を変え、家に帰ると言い出した。
「どうしたんだよ、急に」
「んな切ない声聞かせんなよ。帰り難くなっちまうだろ? 俺だってツライんだぜ?」
「お構いなく帰って下さい! けど、なんで」
「またな、アモーレ」
マフィアは電話を切り、携帯電話の電源ごと落とした。
電話中、ディーノの視界に入ったのは、覚えのある緑色。
雑貨店から出てきたガキ三人が着ていた濃緑の燕尾服だった。そして、あの顔。間違いない。
三人は呑気な様子で歩いていたが、突然、立ち止まった背の高いガキが、
他の二人を庇うようにして、進行方向を変えた。
そいつは手を挙げ、傍に停まっていたタクシーを呼び寄せた。
連れの二人を追い立てるように車内に乗せたのだ。
ディーノは一部始終を見守り、逃げるように立ち去った車を見送った。
「一人、ビンカン体質が居たか。クッ。まあ、いい。今日は見逃してやるさ」
顎髭を撫でながら、口許を歪ませた。
「デカイ土産話ができたモンだぜ。きっとパパに喜んで貰える」
シルフェ、レオン、ラビの三人は新市街の雑貨店を出た。
レオンは頭の後ろで手を組みながら歩いている。
「つーかさ、雑誌ならライブラリで取り寄せて貰えばいいじゃん?」
シルフェはシュークリームの箱をブラブラさせながら、
「取り寄せたら、学院に着くまで一週間もかかるだろ? ちょっと立ち読みしたいだけだから」
「本屋さんに行くなら、僕も何か本買ってみようかなー」
「ラビまで何言ってんだー? ライブラリで手に入るだろ、本は」
「うん。でも、ライブラリの本を読むのって、なんか緊張しちゃうの。
絶対汚しちゃいけないでしょ? でも、自分の本だと安心して読めるから」
「んなこと気にしてたのかよ、ラビ。
汚しても破いても、『ごめんなさい』で済むだろ、本なんだから」
「でも、やっぱり、みんなの本だから」
「緊張しながら本読んでるなんて、お前くらいだよ。な、シルフェ? ――って、あれ?」
二人の後ろで、シルフェは立ち止まっていた。
いつも余裕の彼にしては珍しく、
何かに怯えたような顔をして、何も落ちてない地面を見つめていた。
「どうしたの? シルフェ」
「あ、いや」
ラビに声を掛けられて、シルフェは我に返った。
見られた。
こっちに飛んでくる鋭い視線をシルフェは感じた。
殺気ではないのに。なんだ、この嫌なかんじ。
誰を見てる? 俺か? いや、俺の命は狙われるようなもんじゃない。それなら、レオンかラビか。
「シルフェ、どうしちゃったの? どこかいたいの?」
上級生は下級生二人の肩に手を回す。
「帰るぞ」
自分でも驚く程、シリアスな声が出た。レオンとラビは顔を見合わせている。
「え? でも、シルフェ、さっき本屋さんに行くって」
シルフェは努めて、声を和らげる。
「見たいテレビがあるの忘れてたんだよ」
「こんな時間に面白い番組なんかやってたかー? てか、雑誌はいいのかよ?」
んなモンどうだっていい、お前らに比べれば。
「ああ。早くしねえと始まっちまう。あ、タクシー!」
そこらに停まっていたタクシーを拾って、すぐさまその場を離れた。
空が夕焼けから夜の色へ染まり始めた頃。
マフィアとの密会を済ませ、寮のサロンに帰ってきたアンリは、待ち構えていたユウタに捕まった。
「あ、やっと帰ってきた! アンリ!」
「何」
アンリ本人に睨んだつもりはないが、ユウタにはそう見えた。
「あ、あのね? 俺、アンリに勉強教えて貰いたいなーと思って。情報学なんだけど」
「情報学ならみんな取っているのだから、僕でなくても」
ユウタとアンリの会話を寮生達が見守っている。
「姉貴に聞いたんだ。勉強で解らないことがあれば、アンリさんに教えて貰いなさいって。
どこが解らないか言えばアンリさんはちゃんと教えてくれるって」
ユウタの姉の名を出され、アンリの態度が少し軟化する。
以前、彼女と電話で話した時、確かにそういう約束をしたのだ。
「それは、言ったけれど」
「ありがと! じゃあ、アンリの部屋で教えて?」
「仕方ないな」
そう言ったあとで、アンリは言い直した。
「――いや、勉強するなら君の部屋でもいいでしょう?」
「え? う、うん」
「ディナーまで、まだ少し時間があるね。今しよう」
サロンを出ていくアンリのあとを、ユウタが追いかけた。
二人が居なくなると、ジョシュアが笑顔を見せた。アルフレッドが首を傾げる。
「どうしたんだよジョシュア、ニヤニヤして。思い出し笑い?」
「いや。本当に良かったなあと思って」
「何がだよ?」
ハルヤもジョシュアを見つめる。ジョシュアは手元のコーヒーカップに視線を落としながら、
「ユウタがウーティス寮に入ってくれて」
本当に良かった、と呟くジョシュアの顔は優しくて。ハルヤは兄の顔を思い出した。
「そりゃあ、俺もユウタが入ってくれたのはラッキーだったと思うけどさー」
アルフレッドは不満げである。
「情報学なら、俺に聞きゃあいいのによー、ユウタの奴」
「僕はユウタが羨ましいですー!」
「え? シルヴァンもアンリに勉強教えて貰いたかったの?」とハルヤ。
「はい! ぜひ神秘学を! サン・ジェルマン伯爵のこと色々教えて欲しいです!」
「それは……難しそうだね」
→
今日は金曜日。週に一度の神秘学がある日だ。
「これ、借りてた本。返す」
講義が終わり、他の生徒が居なくなった後で、僕は教授に本を返した。
黒板を消し終わった教授が僕の傍まで来る。
「面白かったかい?」
「あまり」
教師は紳士的な微笑みを見せる。
「アンリのお口には合わなかったか。では他の本を貸そう。研究室に寄ってくれるかね?」
僕は彼と目を合わさず、テキストをブックバンドでまとめる。
「今日はダメ。用事があるから」
「おや。ご機嫌斜めのようだね、アンリ。もしや、彼とケンカでもしたのかい?」
「ケンカ? 誰と?」
「ユウタだよ。彼から貰ったウサギのお守り、今日はどうして付けてないんだい?」
普段はブックバンドに、ウサギのマスコットをぶら下げているのだが、今日はない。
「なくしただけ」
僕は教室を後にした。
放課後のウーティス寮サロン。
生徒達は今日一日の授業を終え、皆自由にくつろいでいた。
今、サロンに居るのはジョシュア、アルフレッド、ハルヤ、ユウタの四人。
その中で一人だけキョロキョロと落ち着かない様子の生徒が居る。高等部一年の日本人、ユウタだ。
「まだかなあ」
その小さな呟きに眼鏡の日本人が気付く。クッキーをほうばっていたハルヤだ。
「誰か待ってるの?」
ユウタはこくんと頷く。
「アンリを。勉強教えて貰おうと思って」
「へえ。珍しいね、アンリになんて」
「うん。もう少し仲良くなれたら良いなって。
俺、アンリには相手にされてないってかんじでしょ?」
「うーん。そんなことないと思うけど。てゆうか、去年に比べたら、
アンリ、大分話してくれるようになったし。昔はもっと無口だったらしいよ?」
「そうなの?」
「おい、ユウタ、勉強なら俺に聞けよ!」
アルフレッドがユウタの肩に腕を回してウインクした。
「演劇の基礎から女の子の口説き方まで、何でも教えてやるぜ?」
「それって、守備範囲がかなり限定されてるような」
「あーっ!? お前まで俺をバカ扱いすんのかー?」
「してないよー。でも、俺が知りたいのは情報学だし、レッドだとちょっと不安かなって」
「バカにしてんじゃねーかよー!」
「あははっ。レッド、くすぐったいよー」
最上級生のジョシュアが苦笑しながら、やんわりと仲裁に入る。
「アンリなら少し遅れて来るかもしれないよ、ユウタ。神秘学の後だからね」
「え、どうして神秘学の後だと遅くなるの?」
「教授の研究室に寄って行くことがあるんだよ。アンリは神秘学の教授とは親しいから」
「ああ、あの不思議な先生か。そう言えば仲良さそうだったな」
廊下で先生とアンリが二人で話してるのをユウタは見かけたことがある。
アンリが先生に何か毒づいているみたいだった。それを先生は微笑みながら聞いていたのだ。
「あの先生は、どうやってアンリと仲良くなったのかな?」
「あいつの一番好きな講義が神秘学だからだろ? 俺にはさーっぱり解らない授業だったけどな」
アルフレッドが手の平を空に向けて、首を横に振る。
いかにも外国人なオーバーリアクションも、アルフレッドがやると、様になっていた。
「研究室に行ったんなら、もう少し待ったら帰ってくるかな、アンリ」
「アンリでしたら、街へおでかけみたいでしたよ?」
突然、ユウタの背後からシルヴァンの声がした。いつのまにかサロンに入っていたようだ。
「シルヴァンはアンリを見たの?」
「はい、先程、門の近くで擦れ違いましたから」
そう言いながらアルフレッドの隣に座る。
「ってことは、シルヴァン! お前、教室に来ねえと思ったら、街に行ってたのか!?」
「ええ、ちょっと。アイヴィーのパスタが急に恋しくなりましてね」
「シルヴァン、アイヴィーのパスタ食べたの? それなら俺も誘って欲しかったな」
「すみません、ハルヤ。でも、パスタは食べられなかったんです。
アポなしで行ったら、お留守だったみたいで。今度は一緒に食べに行きましょうね?」
「ハルヤだけじゃなくて俺も誘えよ!」
「解ってますよ、レッド。今度はみんなで行きましょう」
聖アルフォンソ島の新市街。
シュヌーシア寮のシルフェ、レオン、ラビが一緒に買い物に来ていた。
シルフェは右手に細長い箱を持っている。
街まで出てきたついでに、シュークリーム専門店で、寮生へのお土産を買ったのだ。
「やっぱ、街に来る時は制服に限るよなー」
今日のシルフェはご機嫌だ。その隣を歩くレオンは、少しご機嫌斜めな様子で、
「なんでだよ?」
「マージナルプリンスは、文字通りこの島の王子サマだからさ。
さっきのシュークリーム屋でも二個多く入れて貰えたろ?」
「制服はカンケーなくね? てめーがキザなセリフとか言って、
店のおばちゃんをたぶらかすから、オマケしてくれたんだろ?」
「珍しいじゃん? レオンが俺のこと褒めてくれるなんて」
「バカにしてんだよ。つーか、なんでシルフェまで来んだよ」
「ラビとのデート、ジャマしちゃった?」
「デ、デートなんかじゃねえ!」
「なら、イイじゃん。ん?」
ラビの視線にシルフェが気付く。雑貨店のウインドウを見ていた。
「ラビ。その店、気になるのか?」
「あ、うん、ちょっと」
「なら、遠慮しないで言えよ。おい、レオン!」
前方を歩くレオンを呼び止めた。
「あ?」
「ラビが、ここ見たいってさ。寄ってこうぜ」
「ここぉ? オンナが行く店じゃねえの?」
「じゃー、俺とラビだけで入ろーっと。行こうぜ、ラビ」
「ちょ、俺も行くー!」
店内にはアメリカ風のカントリー雑貨やぬいぐるみなどが綺麗にディスプレイされていた。
レオンは辺りを見回して、あからさまにイヤな顔をした。
「うっわ。ここ、完全にお嬢様とかマダムが来る店じゃん。俺達、場違い過ぎね?」
居心地悪そうにしているレオンに対し、シルフェは余裕で歩いている。
「可愛いカノジョへのプレゼントを買いに来ましたーてな顔してりゃあいいんだよ。
ラビは慣れてるかんじだな? こういう店、好きなのか?」
「えっとね、ママがこういうお店好きなの。
イタリアに居た時は、ママがよく連れてってくれたから。懐かしいなって思って」
「ふうん。ラビのママなら、なんか似合いそうな気がする」
ラビとシルフェがそんな話をしている間、レオンは一人で機嫌の悪い顔をしていた。
店の中を歩いていると、ある場所でラビの足が止まった。
ウサギの置き物がたくさん並んでいるコーナーだ。
「お前、ウサギ好きだなー。リサイクル市に行った時もウサギのぬいぐるみガン見してたし」
「ウサギ好きは、ラビだけじゃないぜ。ウーティスには三人も居る」
「三人も?」
「あ、僕、解るよ。シルヴァンとアンリとユウタでしょ?
みんな、同じウサギさんが好きなんだよ」
「ああ。シルヴァンは、パーティでもウサギの着ぐるみ着てたしな」
「あとね、アルファルドにも、同じウサギさんが好きな人居るよ。
ウサギさんのチョコをね、いっぱい買ってたの。僕、見たんだ」
「そんなに、人気あったのか、そのウサギ。てか、どんなの?」
「赤い目で、お口が大きいの。ちょっとコワイかんじ。僕はもっとカワイイほうが好きだなあ」
たくさんのウサギの前で、シルフェが尋ねる。
「ラビは、この中でどれが一番好きなんだ?」
木製のテーブルの上に20個程陳列されているウサギの置き物。
手作りの品らしく、笑顔や泣き顔など、ひとつひとつ顔の表情が違った。
「うんっと。えっと、僕はこれが好き!」
笑顔のウサギを指差した。
「イイねえ、可愛くて。レオン、ちなみにお前は?」
「俺? そうだなあ、俺はこの怒ってるかんじのヤツ」
「すさんでるなあ、お前は。ココロがすさんでる」
「お前に言われたくねえし」
その後も店を一回りしたが、ラビは結局、何も買わなかった。
「そろそろ出ようぜ」とレオンが言った時、
シルフェは「ここでちょっと待ってな」と言って、一人で店の奥に向かった。
「シルフェ、どうしたのかなあ」
「トイレじゃね?」
二人の元に帰ってきたシルフェは、小さなプレゼントをラビに差し出した。
「え? なあに? シルフェ」
「開けてみな?」
簡易包装の袋を開ける。中から出てきたのは、笑顔のウサギ。
先程、ラビが好きだと言った置き物だった。
「それ、ラビに似合うし、欲しそうだったからさ。俺からプレゼント」
「いいの?」
「ああ。高いモンでもなかったし」
「ありがと! 大事にするね」
「てめえは……何カッコつけてんだよ、シルフェ!」
「お前は俺サマを見習えよ。男ならプレゼントのひとつやふたつ、
このくらいスマートにできないとな? 特に大切な人へは。
将来、役に立つこと言ってやってんだから覚えておけよ、レオン」
「でも、プレゼントって……誕生日でも何でもない日にかよ?」
「昨日もパーティをやってみせただろ? 何でもない日だからサプライズになるんだろうが。
プレゼントされて嬉しくないヤツが居るか? ほい」
ラビにあげたものと同じ袋をレオンに差し出した。
「何コレ。俺にもかよ?」
包みを開ける。中身はレオンが好きだと言った怒り顔のウサギだった。
「お前はラビのついで、だけどな」
シルフェはレオンの頭をポンと叩く。
「次は本屋に行っていいか? 俺、読みたい雑誌あるんだ」
新市街のオープンカフェ。
顎鬚を蓄えたイタリア顔の男と、フランス人形のような美少年。
前者は彫りが深く浅黒い肌、後者は陶器のような白肌。年齢で言えば三十代と十代だろう。
あまりにも対照的な二人組が、ひとつの丸テーブルに着き、向かい合って座っている。
近くを通った客に振り向かれたり、指を差されてヒソヒソ囁かれてる。
その視線に対し、美少年は完全無視の姿勢を貫いていたが、いい加減うんざりしていた。
「何故こんな目立つ場所を選んだの?」
イタリア男は葉巻を吹かした。甘い香りが立ち昇る。
「この前ちょっと寄った時、ここのパニーニがウマかったからさ」
彼の名は、ディーノ・マンゾーニ。シチリアマフィア、マンゾーニ家の次期ボス。
向かいに居る美少年、アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマンが、
ボディーガードとして雇っているのが、このマフィアだった。
「大体、たったこれだけのことを話すのに、
何故、君と顔を合わせる必要があったの? メールで十分じゃない」
葉巻の先は白い灰。その奥が赤く燃えている。
「前から言ってんだろ? 愛とビジネスについて語る時は、
相手の顔をじっくり見つめながらじゃねえとな。パパもよくそう言ってる」
このファザコンが。アンリは舌打ちしたい気分だった。アンリは席を立つ。
「話はもう終わったよね。失礼するよ」
「待てよ、お姫様」
手首を掴まれた。
「島の警備網を擦り抜けて、わざわざ会いにきてやったのに、一人寝させるつもりか?」
「君が勝手に来ただけでしょう。手を離して」
「へいへい。じゃあ」
手首を引き寄せる。
「またな、お姫様」
手の甲に口付けをして、手を離した。
オープンカフェという公衆の面前で、何をしてくれる。
アンリは反対の腕の袖口で、けがされた手の甲を拭く。
マフィアを鋭く睨み付けたが、同級生達を凍らせる眼光も、この男には効かなかった。
「帰る。君もさっさとイタリアに帰って」
炎を吐き付けるようにそう言って、立ち去った。
マフィアは椅子に凭れて、笑った。
「ツレねえなあ、うちのお姫様は」
灰皿に置いていた葉巻を持つ。まだ大分長い。
たっぷりと煙を吸い込む。キャラメルとコーヒーの香り。厚い白煙を空にも分けてやった。
「さあて、今日は急いで帰る用事もねえし。久し振りに金髪の愛人宅にでも泊まってやるかなあ」
その頃、保健室に遊びに来ていたアイヴィーは、急に身震いした。
保健室の先生がそれに気付く。
「どうした?」
「い、いや、急に寒気が。どうしたんだろ。カゼでもひいちゃったかなあ、俺」
「知っているか? 日本の言葉に『バカはカゼをひかない』という言葉があるらしいぞ?」
「そーなんだー。って、なんで今ソレ言ったの?」
アイヴィーの携帯電話が鳴った。
サブディスプレイに表示された『D』を見て、アイヴィーはギョッとする。
以前、無理矢理、電話番号とメールアドレスを交換させられた。
だけど、あいつの名前をそのままで登録するのは、どうにも憚られて、
イニシャルのアルファベット一文字だけにしたのだが、
こうして表示されると、まるで悪党のコードネームのようだ。
「電話だろう? 出ないのか?」
ソクーロフにそう言われて、ここが職場ではなく、
保健室なのは不幸中の幸いかもしれないと感じた。
携帯電話は「早く出ろ」と言わんばかりに鳴り続けている。
アイヴィーは小さな機械を握りしめて、
「ソクちゃん、ちょっとコッチの部屋貸してっ。入って来ないでね!」
アイヴィーは診察室からカウンセリングルームに移る。
部屋の内側からカギを掛けて、携帯電話を耳に当てた。
「も、もしもし?」
「よう、アモーレ? 俺が居ない間、泣いてなかったか?」
特徴的な低音のしゃがれ声。イタリア訛りの英語。
間違いなくディーノ・マンゾーニだ。
条件反射的にアイヴィーはイラッとくる。
「何の用デスカ?」
「お前んちの冷蔵庫にビールあるか?」
「……な、なんで、んなことあんたに気にされなきゃ」
「俺様が、今夜お前んち泊まるから」
「は、はあー!? ちゅうことは、おまっ、今、島に居んのかよ!?」
「居るから、ビールあるかって聞いてんだろ?」
「てめっ、ど、どうやって島に入ったんだよっ!?」
「あん? それが人にモノを聞く態度か?」
「それが島に不法侵入したヤツの態度かああ!? いい加減、捕まえんぞっ!?」
「うるせーなー、耳元で。俺様と久し振りに話せたのが嬉しいからって、そんなにガッツクなよ。
おめーと会うの久し振りだからよ、寂しい想いをさせた分、
今夜はたっぷり慰めてやろうと思ってんだぜ?」
「遠慮します! 結構です! つか、今すぐお帰り頂きたいんですけど!?」
「クッ。キャンキャン吠えやがって、そんなにシッポ振って喜ぶなよ」
「あー、相変わらず話が通じねー。……けど、まあ、そうだな」
「ん?」
「丁度、あんたに聞きたいことあっから、今回はトクベツに宿泊を許可してやってもいい」
「クソ生意気だな、てめーも。で、聞きたいことって? 愛の言葉か? 欲しがるねえ」
「んなもん欲しがってねえよ! まあ、お宅の業界事情っつーか」
マルセロ家、という名前は明かせないが、アイヴィーが聞きたいのはマルセロ家周辺についてだった。
先日、ラビットを連れ戻しにやってきたマルセロ家の者達。
自白させた供述の中で、次期ボスを奪還しようと島にやってきたのは、
家長制を重んじる保守派だけだったことが解ったのだ。
現在、ボス代理を務めるラビットの叔父、従兄弟を推しているのは、革新派らしい。
構成員が多いだけあって、ファミリー内の統制が難しいのだろう。
このまま悪化すれば、内部分裂の危険性があるかもしれない。
マルセロ家やその周辺で、何かキナ臭い話が上がっていないか、
シチリアマフィアに確かめておきたかった。
「えと、最近のシチリアマフィア界で、なんかヘンな動きとかないかなーって。どう?」
「話してやってもいいけどよ、そんな言い訳が必要か?
理由がなくたって、俺様はお前んちに泊まってやるぜ?
それよりビールはあるのか、ビールは?」
「あるよ。コロナだけど、いいの?」
「メッシーナが良かったが、それでもいいか」
「シチリアビールなんか、あるわけないし。てゆうか、どっちも似たような味じゃん」
「全然違うだろ。味は解らねえんだな? 舌の感度はイイ筈だが?」
アイヴィーが何も言い返せずにいると、笑われた。
「んじゃ、あとで夜這いに行くからシャワーを浴びて待っ……」
明らかに話の途中だった。しかし、それ以降の言葉が聞こえてこない。
「ディーノ?」
受話器の向こうは黙ったままだった。
「おい、ディーノってば」
「……マージナルプリンス、か」
「ど、どした?」
「こりゃ、今日のお泊まりはオアズケだ」
「あ? ああ!?」
「すぐうちに帰らねえといけなくなっちまった。残念だが、お楽しみはまた今度だ」
つい先程まで、今夜泊まらせろと言っていた奴が、
たった一瞬で態度を変え、家に帰ると言い出した。
「どうしたんだよ、急に」
「んな切ない声聞かせんなよ。帰り難くなっちまうだろ? 俺だってツライんだぜ?」
「お構いなく帰って下さい! けど、なんで」
「またな、アモーレ」
マフィアは電話を切り、携帯電話の電源ごと落とした。
電話中、ディーノの視界に入ったのは、覚えのある緑色。
雑貨店から出てきたガキ三人が着ていた濃緑の燕尾服だった。そして、あの顔。間違いない。
三人は呑気な様子で歩いていたが、突然、立ち止まった背の高いガキが、
他の二人を庇うようにして、進行方向を変えた。
そいつは手を挙げ、傍に停まっていたタクシーを呼び寄せた。
連れの二人を追い立てるように車内に乗せたのだ。
ディーノは一部始終を見守り、逃げるように立ち去った車を見送った。
「一人、ビンカン体質が居たか。クッ。まあ、いい。今日は見逃してやるさ」
顎髭を撫でながら、口許を歪ませた。
「デカイ土産話ができたモンだぜ。きっとパパに喜んで貰える」
シルフェ、レオン、ラビの三人は新市街の雑貨店を出た。
レオンは頭の後ろで手を組みながら歩いている。
「つーかさ、雑誌ならライブラリで取り寄せて貰えばいいじゃん?」
シルフェはシュークリームの箱をブラブラさせながら、
「取り寄せたら、学院に着くまで一週間もかかるだろ? ちょっと立ち読みしたいだけだから」
「本屋さんに行くなら、僕も何か本買ってみようかなー」
「ラビまで何言ってんだー? ライブラリで手に入るだろ、本は」
「うん。でも、ライブラリの本を読むのって、なんか緊張しちゃうの。
絶対汚しちゃいけないでしょ? でも、自分の本だと安心して読めるから」
「んなこと気にしてたのかよ、ラビ。
汚しても破いても、『ごめんなさい』で済むだろ、本なんだから」
「でも、やっぱり、みんなの本だから」
「緊張しながら本読んでるなんて、お前くらいだよ。な、シルフェ? ――って、あれ?」
二人の後ろで、シルフェは立ち止まっていた。
いつも余裕の彼にしては珍しく、
何かに怯えたような顔をして、何も落ちてない地面を見つめていた。
「どうしたの? シルフェ」
「あ、いや」
ラビに声を掛けられて、シルフェは我に返った。
見られた。
こっちに飛んでくる鋭い視線をシルフェは感じた。
殺気ではないのに。なんだ、この嫌なかんじ。
誰を見てる? 俺か? いや、俺の命は狙われるようなもんじゃない。それなら、レオンかラビか。
「シルフェ、どうしちゃったの? どこかいたいの?」
上級生は下級生二人の肩に手を回す。
「帰るぞ」
自分でも驚く程、シリアスな声が出た。レオンとラビは顔を見合わせている。
「え? でも、シルフェ、さっき本屋さんに行くって」
シルフェは努めて、声を和らげる。
「見たいテレビがあるの忘れてたんだよ」
「こんな時間に面白い番組なんかやってたかー? てか、雑誌はいいのかよ?」
んなモンどうだっていい、お前らに比べれば。
「ああ。早くしねえと始まっちまう。あ、タクシー!」
そこらに停まっていたタクシーを拾って、すぐさまその場を離れた。
空が夕焼けから夜の色へ染まり始めた頃。
マフィアとの密会を済ませ、寮のサロンに帰ってきたアンリは、待ち構えていたユウタに捕まった。
「あ、やっと帰ってきた! アンリ!」
「何」
アンリ本人に睨んだつもりはないが、ユウタにはそう見えた。
「あ、あのね? 俺、アンリに勉強教えて貰いたいなーと思って。情報学なんだけど」
「情報学ならみんな取っているのだから、僕でなくても」
ユウタとアンリの会話を寮生達が見守っている。
「姉貴に聞いたんだ。勉強で解らないことがあれば、アンリさんに教えて貰いなさいって。
どこが解らないか言えばアンリさんはちゃんと教えてくれるって」
ユウタの姉の名を出され、アンリの態度が少し軟化する。
以前、彼女と電話で話した時、確かにそういう約束をしたのだ。
「それは、言ったけれど」
「ありがと! じゃあ、アンリの部屋で教えて?」
「仕方ないな」
そう言ったあとで、アンリは言い直した。
「――いや、勉強するなら君の部屋でもいいでしょう?」
「え? う、うん」
「ディナーまで、まだ少し時間があるね。今しよう」
サロンを出ていくアンリのあとを、ユウタが追いかけた。
二人が居なくなると、ジョシュアが笑顔を見せた。アルフレッドが首を傾げる。
「どうしたんだよジョシュア、ニヤニヤして。思い出し笑い?」
「いや。本当に良かったなあと思って」
「何がだよ?」
ハルヤもジョシュアを見つめる。ジョシュアは手元のコーヒーカップに視線を落としながら、
「ユウタがウーティス寮に入ってくれて」
本当に良かった、と呟くジョシュアの顔は優しくて。ハルヤは兄の顔を思い出した。
「そりゃあ、俺もユウタが入ってくれたのはラッキーだったと思うけどさー」
アルフレッドは不満げである。
「情報学なら、俺に聞きゃあいいのによー、ユウタの奴」
「僕はユウタが羨ましいですー!」
「え? シルヴァンもアンリに勉強教えて貰いたかったの?」とハルヤ。
「はい! ぜひ神秘学を! サン・ジェルマン伯爵のこと色々教えて欲しいです!」
「それは……難しそうだね」
→
■ある日のアイヴィー 続編
「おっ、イイ匂いしてるじゃん」
聖アルフォンソ学院、第三学生寮シュヌーシア。
夕食前のキッチンに一人の生徒が顔を出した。
「ディナーの準備は順調そうだな?」
「あ、はいっ。パーティは予定通りに始められると思います」
ライトブルーのバンダナに同じ色の腰巻きエプロン。
シュヌーシア寮専属シェフ、ドニ・ドームが笑顔で答えた。
生徒がシェフの傍へ歩いてくる。並んで立つと大人のシェフのほうが背が低かった。
「ヘンなオーダーだったのに、応えてくれてサンキュな、ドニ」
「いえいえ。素晴らしいアイディアですよ!
カミーユさんもアランさんも、こんな料理は初めて作るっておっしゃってましたし」
「だろうな」
時計を見上げた。
「おっと。もうイイ時間だな。んじゃ、俺はそろそろ仕上げをしてくるよ」
「仕上げって何ですか?」
A4サイズの白い紙を見せる。
「この招待状を各寮のダイニングテーブルに置いてくるのさ」
シェフは顔を近付けて、それに印刷された文字を読み上げた。
『親愛なる
マージナルプリンスの皆様へ
森にお越し下さい。
ディナーをご用意して、
お待ちしています。
イカれ帽子屋より』
同じ頃、警備組織本部。
「え? じゃあホントに、昨日の侵入者はマルセロの人だったってこと?」
ソクーロフの報告を聞いて、俺は身を乗り出していた。
「あの、敵対してるシーゲル家の人じゃなくて?」
白衣の男が答える。
「ああ、彼は間違いなくマルセロの舎弟だ」
「読みが外れたようですね、司令?」
ノートパソコンで書記役に徹していた副司令官に苦笑された。
ちょっとハズい俺。軽い羞恥プレイだ。
昨日、聖アルフォンソ島に侵入した者達が居た。
島の警備組織は昨日のうちに全員を捕まえた。
今日は、ソクーロフ博士を警備本部に招き、彼等の自白を依頼した。
というのも、ソクーロフは、学院の保健教師かつ自白のプロフェッショナル。
そのお力を借りて、侵入者に素性やターゲットなどを吐かせる。それがさっき終わったところだ。
今はミーティングルームで、博士が司令官、副司令官を前に結果を報告している。
本日は非番の予定だった俺も、司令官という立場上、自動的に休日出勤ちゅうっわけだ。
博士の報告によると、侵入者は全員シチリアマフィア、マルセロ家の下っ端だった。
侵入の目的は、聖アルフォンソ学院の生徒、
ラビット・マルセロを本国イタリアに連れ戻す為だった。
ラビットの両親、つまりボスとその妻は、無差別の連続放火事件に巻き込まれ、焼死した。
少年の焼死体も同時に発見された。行方不明である一人息子の遺体と見て捜査中。
公になっているニュースはそこまでだ。
ラビットがこの学院に居るということは、
少年の焼死体が発見されたというニュースは誤報かフェイク。
もしくは、それは、ラビットとは別の少年だったということになる。
そもそも放火事件が無差別などではなかった可能性も高い。
最初からマルセロ家ボスを狙った犯行だったと考えるほうが納得できる。
火を放ったのは、マルセロ家と敵対関係にある、
シチリアマフィア、シーゲル家ではないか、という噂があるらしい。
そんな話を司令官は以前、某シチリアマフィアから聞いたことがあったのだ。
それを思い出した俺は、昨日の尋問にて、
侵入者に「シーゲルに言われてラビットを捕らえに来たのでは」と聞いてみた。
結果「違う。私はマルセロの者だ」と突っぱねられたが、
シーゲルの名を聞いた侵入者は拳を握り締める様子が見られたので、
もしかして嘘を吐いてんじゃないかなーと思ったんだ。
けど、自白させても証言内容に変わりはなかった。
俺は椅子に凭れかかる。
「なんだー、シーゲルじゃないのか」
「ただ」
白衣の男は、手の中で赤いボールペンをクルリと回す。もったいぶっちゃってヤなかんじ。
「マルセロの人間が、シーゲルに対して、穏やかでない感情を持っていることは確からしい。
先程、自白させた彼もマルセロの先代ボスを焼き殺したのは、シーゲルだと思っていた」
ミーティングルームに、ノートパソコンのタイピング音が響く。
椅子に背を預けていた司令官が身体を起こす。
「りょーかいっ。これ以上は考えても解んないね。じゃあ、ミーティングは終わりかな」
速記を終えた副司令官が顔を上げた。
「そうですね。ご協力ありがとうございました、ドクター」
「どういたしまして」
副司令官はノートパソコンをシャットダウンしながら、
「司令、今日はこのまま上がって下さって結構ですよ」
「そ、そう?」
「ええ。休日出勤、お疲れ様でした」
「サンキュ、クロイツ」
退室しようとする白衣の背中を呼び止める。
「あ、ソクーロフ!」
博士がゆっくりと振り向く。眼鏡の奥から、全てを見透かす瞳に見つめられた。
司令官は少し怯えたかのように、声が小さくなる。
「ガッコまで、車で送ってく」
警備本部を出て、駐車場まで歩く間。
「昨日はほんとゴメン!」
俺から先制攻撃。先に手を打って主導権を握ることは重要だ、何事も。
「何を謝っている?」
チョー怒られると思ってたら拍子抜け。
「え? いや、昨日、俺が飲みに誘ったのに、すっぽかしちゃったから」
久し振りに二人で飲もうと誘ったのは俺。
なのに、侵入者が来たせいですっかり忘れちゃって、店に着いた時には三時間の大遅刻。
その頃には当然ソクーロフの姿はなかった。マスターが言うには、
ソクーロフは待ち合わせの時刻から一時間も待ってくれた後で、帰ったらしい。
「侵入者を捕らえるのに夢中で約束を忘れたんだろう?」
「う、うん」
「お前の思考は十分予想できる。きっとそうだろうと思って、私も勝手に帰ったからな」
「ソクちゃん、怒ってないの?」
「仕事で飲みに行けなくなるくらい大したことではないだろう。特にお前のような職務ではな」
「えと。今日は空いてる? 昨日の埋め合わせに」
「今夜は空いてない」
「やっぱ怒ってる……」
「違う。シュヌーシア寮のシェフによると、今夜は生徒主催のパーティが開かれるそうでな。
催し物がある日は、なるべく保健室を空けたくない」
その夜、月桂樹の森は、立食パーティ会場と化していた。
普段、夕食は寮ごとに摂るものだが、今宵は三寮の生徒全員が森に集結していた。
森に流れている音楽は、不思議な国に迷い込んだ少女の話に出てくる曲。
会場に着いた僕は、思わず吐め息を漏らした。
「卑怯だよね、このパーティ」
「何を怒っているんだい、アンリ」
この良い人面をしているのが、僕と同じウーティス寮のジョシュア・グラント。
高等部三年。僕よりひとつ上。今年度の生徒代表で、ついでに言えばロレート公国の王子様だ。
「だって、夕食の時間にダイニングルームに行ったら、
テーブルの上に『森に来い』ってメッセージがあったんだよ?
事前の連絡もなしに、夕食を人質にして、無理矢理、全生徒集めるなんて」
「人質って……」
「主催者の性格の悪さが伺える。誰なのかな、犯人の『イカれ帽子屋』は」
「犯人だなんて、言わなくてもいいじゃないか。そういう趣向のパーティなんだろう?
アンリはお腹が空いてると、機嫌が悪くなるよね?」
「子供みたいに言わないで」
「ここで待ってて。俺が何か料理を取ってくるよ」
僕を残して、ジョシュアは料理が並ぶテーブルに向かった。
僕は木に凭れて、待つことにした。テーブルのほうから甲高い声が聞こえてくる。
「アー、オレンジー! ジャワハルワール、オレンジ、アッター!」
好物を見つけたオウムが騒いでいる。
「チョーダイ、チョーダイ、オレンジ、チョーダイ!」
オウムを肩に乗せている生徒が、テーブルから輪切りのオレンジを取り、オウムに与えた。
金色の豊かな長髪には、神様がかけたパーマがかかっている。
彼がオウムを連れ歩くことで有名なアルファルド寮のジャワハルワールである。
白いオウムはオレンジを器用に持って、チューと吸った。
「アマーイ! オレンジ、モットー!」
飼い主はもうひとつオレンジを与える。
「オレンジ、ダイスキー!」
「煩いぞ、鳥」
気だるそうに長い黒髪をかき上げる。黒髪を梳く指に小さな赤。
入学以来、右の薬指に、赤い石の指輪を常に身に付けてる。
彼がアルファルド寮のレオシュ。僕と同じ神秘学の受講生だ。
彼も容姿のせいで女装させられたり、『アルファルドの女王』だとか呼ばれてる生徒だ。
男子校に居るのに女性扱いされていることには同情できるが、
彼のせいで僕が何かと比較対象にされて、
『アルファルドの女王、ウーティスの姫』と呼ばれる羽目になったのならば、むかつく。
「おい、ジャワハルワール。鳥に好物ばかり食わせていいのか?」
「ジョウオウは、キョウも、ゴキゲンナナメ!」
「大体、このパーティは誰が主催者なんだ」
「俺を呼んでくれた? レオシュ」
パステルピンクのタキシードに、ショッキングピンクのシルクハット。
異常な装いをした生徒が後ろに立っていた。レオシュは怪訝な顔をする。
「その帽子……やはり、お前が『イカれ帽子屋』だったのか」
「俺だって解ったんだ? レオシュも俺のこと大分解ってきたねえ?」
大き過ぎて不格好なシルクハットを取って一礼した。
「ようこそ、アリス?」
彼はシルフェ・ダフラティン。シュヌーシア寮の高等部二年。
彼も神秘学を取っているから顔は毎週見かける。その程度の知り合いだ。
シルフェの前に居るレオシュは、いつも以上に不機嫌だ。
「当日になって全員を集めて、このパーティのコンセプトは何だ」
「何もないよ? 今日の俺は『イカれ帽子屋』なんだぜ?」
シルフェと同じ寮の生徒達が集まってくる。
「おいおい、なんだ? そのド派手な格好!」
髪が跳ねてる下級生がそう言った。レオン・ライト。シュヌーシア寮の中等部三年。
そう言えば、彼の家柄についての噂は聞いたことがない。
目の前に居る人間がどこの誰だか解らなくても、ここでは珍しくないことだ。
彼も何か訳があって、メインストリートから足を踏み外し、こんな孤島に堕ちてきたのだろう。
「シルフェが『イカれ帽子屋』さんだったの!?」
いつものようにレオンの隣に居るのが、シュヌーシア寮の中等部三年、ラビット・マルセロ。
彼の家については知っている。僕がマンゾーニ家にボディガードを依頼する前、
シチリアマフィアについて一通り調べたことがある。
その時に、マルセロという名字を目にしたことがあった。
もしやと思って調べてみたら、やはりラビットはシチリアマフィア、マルセロ家の子息だった。
しかも、無差別放火事件で焼け死んだ筈の少年だ。
世界中から訳ありの人間が集まる学校とは言え、全くどうかしてる。
しかし、入学以前の過去が存在しない人間が居るくらいだ。
焼け死んだ筈の人間が入学することもあるのだろう。
マルセロ家はマンゾーニ家と利害関係はないようだった。
両家の歴史を紐解いても、表立った抗争はなかった。
現在は、ラビットの叔父と従兄弟がボス代理を務めているらしい。
だが、後にボスの座に着くのは、あの少年なのだろう。そんな器にはとても見えないが。
「ねえ、ねえ。シルフェが『イカれ帽子屋』さんってことは、
これは不思議の国のアリスに出てくるパーティなの?」
「ああ。俺、好きなんだ、あのパーティ」
「『三月ウサギ』さんは居ないの? 『イカれ帽子屋』さんと一緒にパーティしてたウサギさん」
「もちろん、用意してるさ。そろそろ着替えが終わる頃だと思うけど」
ウーティス寮のほうを見る。
「ああ、来た来た。シルヴァーン!」
「はーい!」
やってきたのは、イエローのウサギの着ぐるみを着たシルヴァン・クラークだった。
「ハルヤ、ハルヤ! 僕、似合いますか? 似合ってますか?」
黄色いウサギが、眼鏡の寮生に詰め寄っている。
昨年度の生徒代表が寵愛していた黒き瞳が揺らぐ。
日本出身のハルヤ・コバヤシ。僕と同じ高等部二年。
NOと言えない日本人は、オリエンタルスマイルを見せながら、
「あ、う、うん。似合ってる似合ってる」
「わーい! ありがとうございます!」
「つか、無理矢理言わせてんじゃねーかよ!」
アルフレッドに頭をはたかれて、ウサギの耳が前後に揺れた。
「じゃ、『三月ウサギ』も来たことだし、ちょっと目立ってこよっかな。
シルヴァン、行くぞ! 見てろよ、レオシュ!」
音楽が止まった。イベントスタッフがステージにスポットライトを当てる。
食事をしていた皆の注目が集まった。
「不思議の森へ迷い込んだマージナルプリンスの皆様。
ようこそ、『イカれ帽子屋』のパーティへ」
シルフェはシルクハットを胸に置き、一礼した。
それを合図に『お誕生日じゃない日のうた』のイントロが流れ出した。
シルフェとシルヴァン扮する『イカれ帽子屋』と『三月ウサギ』は、
それぞれティーポットとティーカップを持ち、歌い出した。
誕生日は1年の中でたった1日、何でもない日は364日。
祝え、何でもない日、バンザーイ!
そんな内容のお気楽で、どこかイカれた歌詞。
ごく短い曲だが、二人は紅茶を注ぎ合いながら、
ディズニー映画の該当場面さながらに歌い上げた。
歌が終わると、生徒達から大きな拍手と歓声が上がった。
『イカれ帽子屋』は帽子を取って礼をし、
『三月ウサギ』はぴょんぴょん跳ねながら手を振って歓声に応えた。
シルフェは『イカれ帽子屋』の役から本人への口調に戻ってこう叫んだ。
「つーわけで、今日は何でもない日のパーティだ!
みんな、今夜は肩肘貼らず、ただ、何でもない夜を思う存分楽しんでくれ!」
「ははっ、面白いじゃん、シルフェ!」
アルフレッドが笑っている。ハリウッドスターはこの酔狂なパーティが気に入ったらしい。
他の生徒達も同じ意見のようだ。
「たまには、そーゆーパーティもアリか」
「サイコーだぜ! イカれ帽子屋ー!」
生徒達から歓声を浴びたシルフェは、最後にシルクハットから、
ナイチンゲールを出し、拍手喝采の中、ステージを下りた。
シルフェは迷わずレオシュの傍に駆けて来た。
「お待たせ、レオシュ! どう? 俺、カッコ良かった?」
レオシュは腕組みをしたままそっぽを向いている。
シルフェは笑って、レオシュの右腕を掴んだ。レオシュは前のめりになる。
「おい、何をする」
「来いよ! 向こうに今日のメインディッシュがあるんだ!」
強引に腕を引かれ、二人は森の奥に消えていった。
「お待たせ、アンリ。料理を持ってきたよ」
ようやくジョシュアが僕の元へ帰ってきた。皿を二つ持っている。
「ほら、見て? 今日のディナー、スゴイんだ」
この日、並んでいる料理は、全て普通でなかった。
青や紫など、通常では有り得ない色の食べ物ばかり。しかし、そのどれもが不味くはなかった。
ジョシュアは青に染まった料理を見つめながら呟いた。
「ねえ、アンリ。さっきの、歌の言う通りだよね」
「何が?」
「シルフェとシルヴァンが歌ってたことだよ。
誕生日じゃなくっても、ここに居る364日は全て特別で、大切な日だなって」
五年間、彼を見てきたけれど、未だに彼のこういうところが信じられない。
どうして彼は、真面目なことを真面目な顔をして言うことができるんだろう。
僕の視線は自然と彼の額に行く。
俯きがちに話す彼の額には、僕にしか見えない月桂樹の冠。
「解っていることなのに、普段は忘れてしまうんだ。この学院に居られる時間が、
どんなに幸せなことかってことを。シルフェはきっと、それを俺達に」
「ジョシュア」
「ん?」
「君は、どうして飲み物を取ってこなかったの? 食べ物だけじゃ喉が詰まる」
ジョシュアは目を大きくした後、可笑しそうに笑った。
「すまない、気が付かなくて。今、取ってくるよ」
月桂樹の青い香りの中で、何でもない夜が過ぎていった。
→
聖アルフォンソ学院、第三学生寮シュヌーシア。
夕食前のキッチンに一人の生徒が顔を出した。
「ディナーの準備は順調そうだな?」
「あ、はいっ。パーティは予定通りに始められると思います」
ライトブルーのバンダナに同じ色の腰巻きエプロン。
シュヌーシア寮専属シェフ、ドニ・ドームが笑顔で答えた。
生徒がシェフの傍へ歩いてくる。並んで立つと大人のシェフのほうが背が低かった。
「ヘンなオーダーだったのに、応えてくれてサンキュな、ドニ」
「いえいえ。素晴らしいアイディアですよ!
カミーユさんもアランさんも、こんな料理は初めて作るっておっしゃってましたし」
「だろうな」
時計を見上げた。
「おっと。もうイイ時間だな。んじゃ、俺はそろそろ仕上げをしてくるよ」
「仕上げって何ですか?」
A4サイズの白い紙を見せる。
「この招待状を各寮のダイニングテーブルに置いてくるのさ」
シェフは顔を近付けて、それに印刷された文字を読み上げた。
『親愛なる
マージナルプリンスの皆様へ
森にお越し下さい。
ディナーをご用意して、
お待ちしています。
イカれ帽子屋より』
同じ頃、警備組織本部。
「え? じゃあホントに、昨日の侵入者はマルセロの人だったってこと?」
ソクーロフの報告を聞いて、俺は身を乗り出していた。
「あの、敵対してるシーゲル家の人じゃなくて?」
白衣の男が答える。
「ああ、彼は間違いなくマルセロの舎弟だ」
「読みが外れたようですね、司令?」
ノートパソコンで書記役に徹していた副司令官に苦笑された。
ちょっとハズい俺。軽い羞恥プレイだ。
昨日、聖アルフォンソ島に侵入した者達が居た。
島の警備組織は昨日のうちに全員を捕まえた。
今日は、ソクーロフ博士を警備本部に招き、彼等の自白を依頼した。
というのも、ソクーロフは、学院の保健教師かつ自白のプロフェッショナル。
そのお力を借りて、侵入者に素性やターゲットなどを吐かせる。それがさっき終わったところだ。
今はミーティングルームで、博士が司令官、副司令官を前に結果を報告している。
本日は非番の予定だった俺も、司令官という立場上、自動的に休日出勤ちゅうっわけだ。
博士の報告によると、侵入者は全員シチリアマフィア、マルセロ家の下っ端だった。
侵入の目的は、聖アルフォンソ学院の生徒、
ラビット・マルセロを本国イタリアに連れ戻す為だった。
ラビットの両親、つまりボスとその妻は、無差別の連続放火事件に巻き込まれ、焼死した。
少年の焼死体も同時に発見された。行方不明である一人息子の遺体と見て捜査中。
公になっているニュースはそこまでだ。
ラビットがこの学院に居るということは、
少年の焼死体が発見されたというニュースは誤報かフェイク。
もしくは、それは、ラビットとは別の少年だったということになる。
そもそも放火事件が無差別などではなかった可能性も高い。
最初からマルセロ家ボスを狙った犯行だったと考えるほうが納得できる。
火を放ったのは、マルセロ家と敵対関係にある、
シチリアマフィア、シーゲル家ではないか、という噂があるらしい。
そんな話を司令官は以前、某シチリアマフィアから聞いたことがあったのだ。
それを思い出した俺は、昨日の尋問にて、
侵入者に「シーゲルに言われてラビットを捕らえに来たのでは」と聞いてみた。
結果「違う。私はマルセロの者だ」と突っぱねられたが、
シーゲルの名を聞いた侵入者は拳を握り締める様子が見られたので、
もしかして嘘を吐いてんじゃないかなーと思ったんだ。
けど、自白させても証言内容に変わりはなかった。
俺は椅子に凭れかかる。
「なんだー、シーゲルじゃないのか」
「ただ」
白衣の男は、手の中で赤いボールペンをクルリと回す。もったいぶっちゃってヤなかんじ。
「マルセロの人間が、シーゲルに対して、穏やかでない感情を持っていることは確からしい。
先程、自白させた彼もマルセロの先代ボスを焼き殺したのは、シーゲルだと思っていた」
ミーティングルームに、ノートパソコンのタイピング音が響く。
椅子に背を預けていた司令官が身体を起こす。
「りょーかいっ。これ以上は考えても解んないね。じゃあ、ミーティングは終わりかな」
速記を終えた副司令官が顔を上げた。
「そうですね。ご協力ありがとうございました、ドクター」
「どういたしまして」
副司令官はノートパソコンをシャットダウンしながら、
「司令、今日はこのまま上がって下さって結構ですよ」
「そ、そう?」
「ええ。休日出勤、お疲れ様でした」
「サンキュ、クロイツ」
退室しようとする白衣の背中を呼び止める。
「あ、ソクーロフ!」
博士がゆっくりと振り向く。眼鏡の奥から、全てを見透かす瞳に見つめられた。
司令官は少し怯えたかのように、声が小さくなる。
「ガッコまで、車で送ってく」
警備本部を出て、駐車場まで歩く間。
「昨日はほんとゴメン!」
俺から先制攻撃。先に手を打って主導権を握ることは重要だ、何事も。
「何を謝っている?」
チョー怒られると思ってたら拍子抜け。
「え? いや、昨日、俺が飲みに誘ったのに、すっぽかしちゃったから」
久し振りに二人で飲もうと誘ったのは俺。
なのに、侵入者が来たせいですっかり忘れちゃって、店に着いた時には三時間の大遅刻。
その頃には当然ソクーロフの姿はなかった。マスターが言うには、
ソクーロフは待ち合わせの時刻から一時間も待ってくれた後で、帰ったらしい。
「侵入者を捕らえるのに夢中で約束を忘れたんだろう?」
「う、うん」
「お前の思考は十分予想できる。きっとそうだろうと思って、私も勝手に帰ったからな」
「ソクちゃん、怒ってないの?」
「仕事で飲みに行けなくなるくらい大したことではないだろう。特にお前のような職務ではな」
「えと。今日は空いてる? 昨日の埋め合わせに」
「今夜は空いてない」
「やっぱ怒ってる……」
「違う。シュヌーシア寮のシェフによると、今夜は生徒主催のパーティが開かれるそうでな。
催し物がある日は、なるべく保健室を空けたくない」
その夜、月桂樹の森は、立食パーティ会場と化していた。
普段、夕食は寮ごとに摂るものだが、今宵は三寮の生徒全員が森に集結していた。
森に流れている音楽は、不思議な国に迷い込んだ少女の話に出てくる曲。
会場に着いた僕は、思わず吐め息を漏らした。
「卑怯だよね、このパーティ」
「何を怒っているんだい、アンリ」
この良い人面をしているのが、僕と同じウーティス寮のジョシュア・グラント。
高等部三年。僕よりひとつ上。今年度の生徒代表で、ついでに言えばロレート公国の王子様だ。
「だって、夕食の時間にダイニングルームに行ったら、
テーブルの上に『森に来い』ってメッセージがあったんだよ?
事前の連絡もなしに、夕食を人質にして、無理矢理、全生徒集めるなんて」
「人質って……」
「主催者の性格の悪さが伺える。誰なのかな、犯人の『イカれ帽子屋』は」
「犯人だなんて、言わなくてもいいじゃないか。そういう趣向のパーティなんだろう?
アンリはお腹が空いてると、機嫌が悪くなるよね?」
「子供みたいに言わないで」
「ここで待ってて。俺が何か料理を取ってくるよ」
僕を残して、ジョシュアは料理が並ぶテーブルに向かった。
僕は木に凭れて、待つことにした。テーブルのほうから甲高い声が聞こえてくる。
「アー、オレンジー! ジャワハルワール、オレンジ、アッター!」
好物を見つけたオウムが騒いでいる。
「チョーダイ、チョーダイ、オレンジ、チョーダイ!」
オウムを肩に乗せている生徒が、テーブルから輪切りのオレンジを取り、オウムに与えた。
金色の豊かな長髪には、神様がかけたパーマがかかっている。
彼がオウムを連れ歩くことで有名なアルファルド寮のジャワハルワールである。
白いオウムはオレンジを器用に持って、チューと吸った。
「アマーイ! オレンジ、モットー!」
飼い主はもうひとつオレンジを与える。
「オレンジ、ダイスキー!」
「煩いぞ、鳥」
気だるそうに長い黒髪をかき上げる。黒髪を梳く指に小さな赤。
入学以来、右の薬指に、赤い石の指輪を常に身に付けてる。
彼がアルファルド寮のレオシュ。僕と同じ神秘学の受講生だ。
彼も容姿のせいで女装させられたり、『アルファルドの女王』だとか呼ばれてる生徒だ。
男子校に居るのに女性扱いされていることには同情できるが、
彼のせいで僕が何かと比較対象にされて、
『アルファルドの女王、ウーティスの姫』と呼ばれる羽目になったのならば、むかつく。
「おい、ジャワハルワール。鳥に好物ばかり食わせていいのか?」
「ジョウオウは、キョウも、ゴキゲンナナメ!」
「大体、このパーティは誰が主催者なんだ」
「俺を呼んでくれた? レオシュ」
パステルピンクのタキシードに、ショッキングピンクのシルクハット。
異常な装いをした生徒が後ろに立っていた。レオシュは怪訝な顔をする。
「その帽子……やはり、お前が『イカれ帽子屋』だったのか」
「俺だって解ったんだ? レオシュも俺のこと大分解ってきたねえ?」
大き過ぎて不格好なシルクハットを取って一礼した。
「ようこそ、アリス?」
彼はシルフェ・ダフラティン。シュヌーシア寮の高等部二年。
彼も神秘学を取っているから顔は毎週見かける。その程度の知り合いだ。
シルフェの前に居るレオシュは、いつも以上に不機嫌だ。
「当日になって全員を集めて、このパーティのコンセプトは何だ」
「何もないよ? 今日の俺は『イカれ帽子屋』なんだぜ?」
シルフェと同じ寮の生徒達が集まってくる。
「おいおい、なんだ? そのド派手な格好!」
髪が跳ねてる下級生がそう言った。レオン・ライト。シュヌーシア寮の中等部三年。
そう言えば、彼の家柄についての噂は聞いたことがない。
目の前に居る人間がどこの誰だか解らなくても、ここでは珍しくないことだ。
彼も何か訳があって、メインストリートから足を踏み外し、こんな孤島に堕ちてきたのだろう。
「シルフェが『イカれ帽子屋』さんだったの!?」
いつものようにレオンの隣に居るのが、シュヌーシア寮の中等部三年、ラビット・マルセロ。
彼の家については知っている。僕がマンゾーニ家にボディガードを依頼する前、
シチリアマフィアについて一通り調べたことがある。
その時に、マルセロという名字を目にしたことがあった。
もしやと思って調べてみたら、やはりラビットはシチリアマフィア、マルセロ家の子息だった。
しかも、無差別放火事件で焼け死んだ筈の少年だ。
世界中から訳ありの人間が集まる学校とは言え、全くどうかしてる。
しかし、入学以前の過去が存在しない人間が居るくらいだ。
焼け死んだ筈の人間が入学することもあるのだろう。
マルセロ家はマンゾーニ家と利害関係はないようだった。
両家の歴史を紐解いても、表立った抗争はなかった。
現在は、ラビットの叔父と従兄弟がボス代理を務めているらしい。
だが、後にボスの座に着くのは、あの少年なのだろう。そんな器にはとても見えないが。
「ねえ、ねえ。シルフェが『イカれ帽子屋』さんってことは、
これは不思議の国のアリスに出てくるパーティなの?」
「ああ。俺、好きなんだ、あのパーティ」
「『三月ウサギ』さんは居ないの? 『イカれ帽子屋』さんと一緒にパーティしてたウサギさん」
「もちろん、用意してるさ。そろそろ着替えが終わる頃だと思うけど」
ウーティス寮のほうを見る。
「ああ、来た来た。シルヴァーン!」
「はーい!」
やってきたのは、イエローのウサギの着ぐるみを着たシルヴァン・クラークだった。
「ハルヤ、ハルヤ! 僕、似合いますか? 似合ってますか?」
黄色いウサギが、眼鏡の寮生に詰め寄っている。
昨年度の生徒代表が寵愛していた黒き瞳が揺らぐ。
日本出身のハルヤ・コバヤシ。僕と同じ高等部二年。
NOと言えない日本人は、オリエンタルスマイルを見せながら、
「あ、う、うん。似合ってる似合ってる」
「わーい! ありがとうございます!」
「つか、無理矢理言わせてんじゃねーかよ!」
アルフレッドに頭をはたかれて、ウサギの耳が前後に揺れた。
「じゃ、『三月ウサギ』も来たことだし、ちょっと目立ってこよっかな。
シルヴァン、行くぞ! 見てろよ、レオシュ!」
音楽が止まった。イベントスタッフがステージにスポットライトを当てる。
食事をしていた皆の注目が集まった。
「不思議の森へ迷い込んだマージナルプリンスの皆様。
ようこそ、『イカれ帽子屋』のパーティへ」
シルフェはシルクハットを胸に置き、一礼した。
それを合図に『お誕生日じゃない日のうた』のイントロが流れ出した。
シルフェとシルヴァン扮する『イカれ帽子屋』と『三月ウサギ』は、
それぞれティーポットとティーカップを持ち、歌い出した。
誕生日は1年の中でたった1日、何でもない日は364日。
祝え、何でもない日、バンザーイ!
そんな内容のお気楽で、どこかイカれた歌詞。
ごく短い曲だが、二人は紅茶を注ぎ合いながら、
ディズニー映画の該当場面さながらに歌い上げた。
歌が終わると、生徒達から大きな拍手と歓声が上がった。
『イカれ帽子屋』は帽子を取って礼をし、
『三月ウサギ』はぴょんぴょん跳ねながら手を振って歓声に応えた。
シルフェは『イカれ帽子屋』の役から本人への口調に戻ってこう叫んだ。
「つーわけで、今日は何でもない日のパーティだ!
みんな、今夜は肩肘貼らず、ただ、何でもない夜を思う存分楽しんでくれ!」
「ははっ、面白いじゃん、シルフェ!」
アルフレッドが笑っている。ハリウッドスターはこの酔狂なパーティが気に入ったらしい。
他の生徒達も同じ意見のようだ。
「たまには、そーゆーパーティもアリか」
「サイコーだぜ! イカれ帽子屋ー!」
生徒達から歓声を浴びたシルフェは、最後にシルクハットから、
ナイチンゲールを出し、拍手喝采の中、ステージを下りた。
シルフェは迷わずレオシュの傍に駆けて来た。
「お待たせ、レオシュ! どう? 俺、カッコ良かった?」
レオシュは腕組みをしたままそっぽを向いている。
シルフェは笑って、レオシュの右腕を掴んだ。レオシュは前のめりになる。
「おい、何をする」
「来いよ! 向こうに今日のメインディッシュがあるんだ!」
強引に腕を引かれ、二人は森の奥に消えていった。
「お待たせ、アンリ。料理を持ってきたよ」
ようやくジョシュアが僕の元へ帰ってきた。皿を二つ持っている。
「ほら、見て? 今日のディナー、スゴイんだ」
この日、並んでいる料理は、全て普通でなかった。
青や紫など、通常では有り得ない色の食べ物ばかり。しかし、そのどれもが不味くはなかった。
ジョシュアは青に染まった料理を見つめながら呟いた。
「ねえ、アンリ。さっきの、歌の言う通りだよね」
「何が?」
「シルフェとシルヴァンが歌ってたことだよ。
誕生日じゃなくっても、ここに居る364日は全て特別で、大切な日だなって」
五年間、彼を見てきたけれど、未だに彼のこういうところが信じられない。
どうして彼は、真面目なことを真面目な顔をして言うことができるんだろう。
僕の視線は自然と彼の額に行く。
俯きがちに話す彼の額には、僕にしか見えない月桂樹の冠。
「解っていることなのに、普段は忘れてしまうんだ。この学院に居られる時間が、
どんなに幸せなことかってことを。シルフェはきっと、それを俺達に」
「ジョシュア」
「ん?」
「君は、どうして飲み物を取ってこなかったの? 食べ物だけじゃ喉が詰まる」
ジョシュアは目を大きくした後、可笑しそうに笑った。
「すまない、気が付かなくて。今、取ってくるよ」
月桂樹の青い香りの中で、何でもない夜が過ぎていった。
→
■ハルヤとシュヌーシア寮
テーブルには旬の夏野菜をふんだんに使ったサラダやピザがテーブルに並んでいる。
今宵、シュヌーシア寮のディナーは、新入生の話題で持ちきりだった。
先日もハリウッドスター、アルフレッド・ヴィスコンティが入ったが、
本日付けで入学した新入生もウーティスへ入寮した。同じ寮に連続で、というのは珍しいことである。
新入生の名はハルヤ・コバヤシ。出身国は日本。学年は高等部一年だ。
今頃、あちらのダイニングルームでは、新入生を囲んで、さぞ賑やかなディナーを楽しんでいることだろう。
ここ、シュヌーシア寮に、新入生本人は居ないが、生徒代表のテオが居た。
聖アルフォンソ学院に来た生徒は、入学初日に学院案内を受ける。
その案内役を務めるのが生徒代表。それは生徒代表の重要な任務とされていた。
夕食の時間になると、テオは後輩達にせがまれて、新入生について話した。
楽しかった学院案内を想い浮かべながら、うっとりと、おとぎ話を語るような口調で。
「それはそれは、美しい、黒い瞳をしていてね?
私は彼のことを『東洋の黒い真珠』と呼ばせて頂くことにしたのだよ」
テオ自身も、皆よりいち早く会えた新入生について、話したくて仕方がなかったのである。
「とーよーの、くろい、しんじゅ?」
中等部二年のラビが、トマトをフォークに差したまま、小首を傾げている。
「そんなに綺麗な目をしてるの? 真珠みたいに?」
「そうだよ、ラビ。けれどね、その呼び名は自分には相応しくないとでも言うように、彼は恥じらうんだ。
ジャパンは謙遜のお国柄だと、話には聞いていたけれど、いやはや、本当なのだねえ」
食後のセイロンティーを飲んでいた生徒が、ふうん、と微笑む。高等部一年のシルフェだ。
「恥じらう顔なら見てみたい、かな」
「そうだろう? 東洋の黒い真珠の美しさならば、シルフェの御眼鏡にもきっと適うと思うよ!」
「ハードル上げるねー。テオがそこまで言うなら、楽しみにしておこうかな」
「うん! あ、そうだ。みんなにグッドニュースがあるんだ。東洋の黒い真珠の入学を祝って、
これから一週間、ジャパニーズスウィーツ・ウイークにして貰ったよ!」
「おっ。この前のアメリカのスウィーツ特集も面白かったもんな。今度はジャパンか」
お菓子から新入生のお国を知ろう、というテオのアイディア。
シュヌーシア寮のおやつが、一週間限定で、新入生の母国のお菓子になる。
これは先日入った新入生アルフレッド・ヴィスコンティの時から始まった、新しい企画だった。
この企画にはシェフの協力が欠かせない。テオのお願いをシェフは快く引き受けてくれた。
シュヌーシア寮の専属シェフ、ドニ・ドームは世界各国の家庭料理を得意としている。
また、お菓子作りも好きなシェフだった。
そんなシェフにとって『新入生の故郷のお菓子作り』は、興味深く嬉しいオーダーだったのである。
「ドニも、はりきっていた。ジャパンのお菓子は美味しくてヘルシーなのだそうだよ」
「ジャパニーズフードはヘルシーだから長寿が多いって言うもんなー」
「楽しみだねっ」
新入生の話題で盛り上がる中、一人、浮かない顔をしていた生徒が口を開いた。
「なあ、テオー」
「なんだい、レオン?」
中等部二年のレオン。皿の端にはトマトだけが三つ残っている。
「テオがさっきから話してる新入生ってさ、今日、ライブラリにも連れてった?」
「もちろん。あ、もしや、学院案内中の私達を見掛けたのかい?」
「うん。チラッと」
「じゃあ、レオン。東洋の黒い真珠、見たの? どうだった? 目、黒い真珠みたいだった?」
「ううん、目までは見えねえよ。遠かったし、眼鏡掛けてたみたいだし」
「え? 眼鏡っ子なのかよ? テオが『瞳が美しい』って言うから、今まで眼鏡のイメージなかったぞ?」
「おや。言ってなかったかい? 失礼。そう、東洋の黒い真珠は、レンズ越しにも伝わる美しさなのだよ」
「レオン、他には、他には?」
「んー。髪は長めでー、こんくらいだった」
レオンは手で肩の辺りを示した。
「ウーティスのお姫様と同じくらい?」
「あー、大体そんくらい」
「これは、ウーティスの姫サンも、いよいよ世代交代かー?」
それから数日。
噂の新入生が、自らシュヌーシア寮にやってきた日があった。
「あのー、こんちは。シュヌーシア寮のサロンは、ここでいいのかな?」
「そうだけど……あんたは?」
「あっ! 東洋の黒い真珠だ!」
「え? この人が!?」
「ああ。学院案内の時、テオと歩いてたの、確かこいつだ。な、お前が東洋の黒い真珠だろ?」
「あ、いや、テオはそう呼んでるけど、でも」
「僕、会ってみたかったんだ! 初めまして、東洋の黒い真珠」
「ど、どうも」
「へえ。あんたが。あ、そうだ。瞳が綺麗なんだって? 近くで見てもいいかい?」
「僕も見たい!」
「俺も見る!」
「あ、あの、ちょっと……」
新入生の瞳を間近で観察した生徒達は、顔を寄せ合って、ひそひそと会議した。
「目の黒いとこ、おっきかったね!」
「そーかー? 綺麗な瞳って言われればそうだけど、普通って言えば普通じゃね?」
「オコサマだな、レオン。見るトコが違うんだよ」
「なんだよ?」
「俺達に一斉に見つめられて、ピンクに染まった頬を見ろよ」
「……お前のほうが見るトコ間違ってるし」
「東洋の黒い真珠は、シュヌーシアに遊びに来てくれたの? 何して遊ぶ?」
「あ、えっと、テオにこれ、渡しに来たんです。日本のマンガなんだけど」
ハルヤが英語の勉強をするのに使った本で、日本の人気マンガが英訳版になっているものだ。
学院でできた友達にも読んで貰えるし、自分も好きなマンガだったので、日本から持ってきた。
学院案内の日、テオは「私は東洋の文化が大好きでねえ」と言っていて、
何か日本の文化が解るものがあったら、ぜひ見せて欲しいと頼まれていた。
先程、寮の自室で荷物の片付けをしている時に、
このマンガを目にし、テオの言葉を思い出したのである。
「テオ、サロンには居ないみたいだね。部屋に居るのかな。
悪いんですけど、どこか教えて貰ってもいいですか?」
「テオなら部屋にも居ないぜ。さっき生徒代表室に行ったから」
「じゃあ、テオを待ってる間、僕達と一緒におやつ食べる?」
「いいねえ。そのうち、テオが帰ってくるかもしんないし」
「あ、そうだ。東洋の黒い真珠、このお菓子、知ってる?」
「あ、うん。どら焼き、だよね。日本じゃないのに、なんでどら焼きが」
壁一面には歴代の生徒代表達の肖像画が飾られている。
窓からは月桂樹の森が見渡せた。
ここは生徒代表の執務室。現在はネットミーティング中だ。執務室内に居るのは二名。
生徒代表のテオと、その傍らに立っている保健教師兼カウンセラーのソクーロフ博士。
テオの前にあるデスクトップ型パソコン。画面に長い金髪の男が映し出されている。
警備組織司令官のアイヴィーだ。彼のみ、島内の警備組織本部からネット越しの参加である。
今の議題は、先日入学したハルヤ・コバヤシについて。
新入生に不審なところがないか、また、在校生の中に新入生に対して、
不穏な感情を持っている生徒が居ないか、などの報告が生徒代表から行われる筈なのだが。
「すると、ミチザネを慕って、梅の花が彼の元へ追いかけてきたそうなのですよ」
ほう、と白衣の男。保健教師のソクーロフ博士だ。
「美しい話だね」
「はい。ロマンティックですよね」
プロの聞き手が居るおかげで、話し手は気持ち良く話し続けている。
「あ、それから、好きなものは、アボカドまぐろ丼だそうです」
「へえ。アボカドとまぐろを一緒に食べるのかい?」
「そうなんです! 面白いでしょう!? これは、どのように作るのかと言いますと」
「あー、いやいや、お料理レシピはまた別の機会に聞かせて貰うとしてー」
いい加減、司令官がストップを掛けた。
カウンセラーが、テオの話をどんどん横道に進ませるので、
パソコン越しにいる司令官が、止めに入らなくてはならなかった。
時間があれば、何でもゆっくり聞いてやりたいのだが、
ミーティングの終了時刻はとうに過ぎているし、生憎今日は忙しい。
「でー、結局、新入生に問題はなかったってことでいいのか?」
「え? ああ、すまない。そういう話だったね。うん。何も問題なかったよ。
あれほど美しい目をした人間が、悪人の筈がないもの」
自信満々なテオを見て、警備担当者は少し笑った。
「あいよ。じゃー、来週は予定通り、定期検診とカウンセリングってことで。頼むぜ、ドクター?」
「ああ」
白衣の男は短く答えた。長い付き合いの司令官は、その一言にトゲを感じた。
司令官の横に誰かが立つ。副司令官からメモを差し出された。お偉方からの電話らしい。
「あー、わりぃ。用事が出来ちまった。今日のミーティングはこれで終わりでいいかな?」
「うん。よろしいですか、博士?」
「構わないよ」
「今日はバタバタしちまって悪いな。じゃー、また」
パソコンの画面から司令官が消えた。白衣の男は生徒代表を振り返って、
「今日はこれで解散かな」
「そうですね」
しかし、テオは立ち上がる様子がなかった。
「寮に帰らないのかね、テオ」
「ええ。私はもう少しここに。まだ、執務が残っていますから」
一瞬、確かめるように、カウンセラーは生徒の表情を伺った。
「そうか。では私はお先に失礼するよ」
「はい。お疲れ様でした、博士」
少し軋みながら扉が閉まる。テオはゆっくりと席を立った。
パソコンの前から離れ、生徒代表の席に移動する。
一人きりの生徒代表室に靴音が響く。
大きな窓の向こうには、夏の日差しを浴びる月桂樹。
青々とした葉が、まるで宝石のように輝く。その根元には濃い影が落ちていた。
テオが生徒代表室から寮に戻ったのは、ディナータイム間近だった。
サロンに姿を現したテオに寮生達がそれぞれ労いの声を掛ける。
「あ、やっとテオ帰ってきたー!」
「良かったー。ディナーに間に合ったね」
「遅かったな、お疲れ」
一人の少年がテオに駆け寄った。
「テオ、あのね、あのね!」
「ん? なんだい、ラビ」
「さっきね、東洋の黒い真珠、来たんだよ、テオに会いに」
「わ、私に会いに!? 東洋の黒い真珠が!?」
レオンが一冊のマンガを掲げる。
「これを渡しにな。ジャパニーズコミックだってさ。ほい」
「わざわざ届けに来てくれたのか。ああ、なんて優しい子なのだろう」
ひしとマンガを胸に抱き締める。
「なのに、私が不在で東洋の黒い真珠に寂しい想いをさせてしまうとは、なんたる不覚」
「そんなに寂しい想いはさせてないと思うぜ。俺達がオモテナシしといたし」
「僕達ね、東洋の黒い真珠と一緒にドラヤキ食べたのー」
「あいつ、三個も食ってたんだぜ? あれで、これから晩メシ食えんのかな、ホントに」
「あとね、色々お話ししたの。東洋の黒い真珠って面白いね!
とっても楽しかった! テオもサロンに居たら良かったね」
「……ああ、何故、私はサロンに居なかったのだろう」
「そこまで落ち込まなくてもいいだろ?
生徒代表の仕事で居なかったんだから仕方ねーじゃん」
「いや、実は、ミーティングが終わった後、つい、うとうとしてしまってね」
「えー? テオ、生徒代表室でお昼寝してたのー?」
「午睡などせずに寮に戻っていれば、東洋の黒い真珠との、
甘いティータイムが待っていたというのに……ああ、私としたことが」
「あ、テオ、テオ。東洋の黒い真珠、明日も来てくれるかもしれないよ?」
「えっ?」
「明日のおやつもジャパニーズスウィーツだろ?
だから、良かったら明日も来なよって誘っといたんだ」
「本当かい! ありがとう、みんな!」
fin
今宵、シュヌーシア寮のディナーは、新入生の話題で持ちきりだった。
先日もハリウッドスター、アルフレッド・ヴィスコンティが入ったが、
本日付けで入学した新入生もウーティスへ入寮した。同じ寮に連続で、というのは珍しいことである。
新入生の名はハルヤ・コバヤシ。出身国は日本。学年は高等部一年だ。
今頃、あちらのダイニングルームでは、新入生を囲んで、さぞ賑やかなディナーを楽しんでいることだろう。
ここ、シュヌーシア寮に、新入生本人は居ないが、生徒代表のテオが居た。
聖アルフォンソ学院に来た生徒は、入学初日に学院案内を受ける。
その案内役を務めるのが生徒代表。それは生徒代表の重要な任務とされていた。
夕食の時間になると、テオは後輩達にせがまれて、新入生について話した。
楽しかった学院案内を想い浮かべながら、うっとりと、おとぎ話を語るような口調で。
「それはそれは、美しい、黒い瞳をしていてね?
私は彼のことを『東洋の黒い真珠』と呼ばせて頂くことにしたのだよ」
テオ自身も、皆よりいち早く会えた新入生について、話したくて仕方がなかったのである。
「とーよーの、くろい、しんじゅ?」
中等部二年のラビが、トマトをフォークに差したまま、小首を傾げている。
「そんなに綺麗な目をしてるの? 真珠みたいに?」
「そうだよ、ラビ。けれどね、その呼び名は自分には相応しくないとでも言うように、彼は恥じらうんだ。
ジャパンは謙遜のお国柄だと、話には聞いていたけれど、いやはや、本当なのだねえ」
食後のセイロンティーを飲んでいた生徒が、ふうん、と微笑む。高等部一年のシルフェだ。
「恥じらう顔なら見てみたい、かな」
「そうだろう? 東洋の黒い真珠の美しさならば、シルフェの御眼鏡にもきっと適うと思うよ!」
「ハードル上げるねー。テオがそこまで言うなら、楽しみにしておこうかな」
「うん! あ、そうだ。みんなにグッドニュースがあるんだ。東洋の黒い真珠の入学を祝って、
これから一週間、ジャパニーズスウィーツ・ウイークにして貰ったよ!」
「おっ。この前のアメリカのスウィーツ特集も面白かったもんな。今度はジャパンか」
お菓子から新入生のお国を知ろう、というテオのアイディア。
シュヌーシア寮のおやつが、一週間限定で、新入生の母国のお菓子になる。
これは先日入った新入生アルフレッド・ヴィスコンティの時から始まった、新しい企画だった。
この企画にはシェフの協力が欠かせない。テオのお願いをシェフは快く引き受けてくれた。
シュヌーシア寮の専属シェフ、ドニ・ドームは世界各国の家庭料理を得意としている。
また、お菓子作りも好きなシェフだった。
そんなシェフにとって『新入生の故郷のお菓子作り』は、興味深く嬉しいオーダーだったのである。
「ドニも、はりきっていた。ジャパンのお菓子は美味しくてヘルシーなのだそうだよ」
「ジャパニーズフードはヘルシーだから長寿が多いって言うもんなー」
「楽しみだねっ」
新入生の話題で盛り上がる中、一人、浮かない顔をしていた生徒が口を開いた。
「なあ、テオー」
「なんだい、レオン?」
中等部二年のレオン。皿の端にはトマトだけが三つ残っている。
「テオがさっきから話してる新入生ってさ、今日、ライブラリにも連れてった?」
「もちろん。あ、もしや、学院案内中の私達を見掛けたのかい?」
「うん。チラッと」
「じゃあ、レオン。東洋の黒い真珠、見たの? どうだった? 目、黒い真珠みたいだった?」
「ううん、目までは見えねえよ。遠かったし、眼鏡掛けてたみたいだし」
「え? 眼鏡っ子なのかよ? テオが『瞳が美しい』って言うから、今まで眼鏡のイメージなかったぞ?」
「おや。言ってなかったかい? 失礼。そう、東洋の黒い真珠は、レンズ越しにも伝わる美しさなのだよ」
「レオン、他には、他には?」
「んー。髪は長めでー、こんくらいだった」
レオンは手で肩の辺りを示した。
「ウーティスのお姫様と同じくらい?」
「あー、大体そんくらい」
「これは、ウーティスの姫サンも、いよいよ世代交代かー?」
それから数日。
噂の新入生が、自らシュヌーシア寮にやってきた日があった。
「あのー、こんちは。シュヌーシア寮のサロンは、ここでいいのかな?」
「そうだけど……あんたは?」
「あっ! 東洋の黒い真珠だ!」
「え? この人が!?」
「ああ。学院案内の時、テオと歩いてたの、確かこいつだ。な、お前が東洋の黒い真珠だろ?」
「あ、いや、テオはそう呼んでるけど、でも」
「僕、会ってみたかったんだ! 初めまして、東洋の黒い真珠」
「ど、どうも」
「へえ。あんたが。あ、そうだ。瞳が綺麗なんだって? 近くで見てもいいかい?」
「僕も見たい!」
「俺も見る!」
「あ、あの、ちょっと……」
新入生の瞳を間近で観察した生徒達は、顔を寄せ合って、ひそひそと会議した。
「目の黒いとこ、おっきかったね!」
「そーかー? 綺麗な瞳って言われればそうだけど、普通って言えば普通じゃね?」
「オコサマだな、レオン。見るトコが違うんだよ」
「なんだよ?」
「俺達に一斉に見つめられて、ピンクに染まった頬を見ろよ」
「……お前のほうが見るトコ間違ってるし」
「東洋の黒い真珠は、シュヌーシアに遊びに来てくれたの? 何して遊ぶ?」
「あ、えっと、テオにこれ、渡しに来たんです。日本のマンガなんだけど」
ハルヤが英語の勉強をするのに使った本で、日本の人気マンガが英訳版になっているものだ。
学院でできた友達にも読んで貰えるし、自分も好きなマンガだったので、日本から持ってきた。
学院案内の日、テオは「私は東洋の文化が大好きでねえ」と言っていて、
何か日本の文化が解るものがあったら、ぜひ見せて欲しいと頼まれていた。
先程、寮の自室で荷物の片付けをしている時に、
このマンガを目にし、テオの言葉を思い出したのである。
「テオ、サロンには居ないみたいだね。部屋に居るのかな。
悪いんですけど、どこか教えて貰ってもいいですか?」
「テオなら部屋にも居ないぜ。さっき生徒代表室に行ったから」
「じゃあ、テオを待ってる間、僕達と一緒におやつ食べる?」
「いいねえ。そのうち、テオが帰ってくるかもしんないし」
「あ、そうだ。東洋の黒い真珠、このお菓子、知ってる?」
「あ、うん。どら焼き、だよね。日本じゃないのに、なんでどら焼きが」
壁一面には歴代の生徒代表達の肖像画が飾られている。
窓からは月桂樹の森が見渡せた。
ここは生徒代表の執務室。現在はネットミーティング中だ。執務室内に居るのは二名。
生徒代表のテオと、その傍らに立っている保健教師兼カウンセラーのソクーロフ博士。
テオの前にあるデスクトップ型パソコン。画面に長い金髪の男が映し出されている。
警備組織司令官のアイヴィーだ。彼のみ、島内の警備組織本部からネット越しの参加である。
今の議題は、先日入学したハルヤ・コバヤシについて。
新入生に不審なところがないか、また、在校生の中に新入生に対して、
不穏な感情を持っている生徒が居ないか、などの報告が生徒代表から行われる筈なのだが。
「すると、ミチザネを慕って、梅の花が彼の元へ追いかけてきたそうなのですよ」
ほう、と白衣の男。保健教師のソクーロフ博士だ。
「美しい話だね」
「はい。ロマンティックですよね」
プロの聞き手が居るおかげで、話し手は気持ち良く話し続けている。
「あ、それから、好きなものは、アボカドまぐろ丼だそうです」
「へえ。アボカドとまぐろを一緒に食べるのかい?」
「そうなんです! 面白いでしょう!? これは、どのように作るのかと言いますと」
「あー、いやいや、お料理レシピはまた別の機会に聞かせて貰うとしてー」
いい加減、司令官がストップを掛けた。
カウンセラーが、テオの話をどんどん横道に進ませるので、
パソコン越しにいる司令官が、止めに入らなくてはならなかった。
時間があれば、何でもゆっくり聞いてやりたいのだが、
ミーティングの終了時刻はとうに過ぎているし、生憎今日は忙しい。
「でー、結局、新入生に問題はなかったってことでいいのか?」
「え? ああ、すまない。そういう話だったね。うん。何も問題なかったよ。
あれほど美しい目をした人間が、悪人の筈がないもの」
自信満々なテオを見て、警備担当者は少し笑った。
「あいよ。じゃー、来週は予定通り、定期検診とカウンセリングってことで。頼むぜ、ドクター?」
「ああ」
白衣の男は短く答えた。長い付き合いの司令官は、その一言にトゲを感じた。
司令官の横に誰かが立つ。副司令官からメモを差し出された。お偉方からの電話らしい。
「あー、わりぃ。用事が出来ちまった。今日のミーティングはこれで終わりでいいかな?」
「うん。よろしいですか、博士?」
「構わないよ」
「今日はバタバタしちまって悪いな。じゃー、また」
パソコンの画面から司令官が消えた。白衣の男は生徒代表を振り返って、
「今日はこれで解散かな」
「そうですね」
しかし、テオは立ち上がる様子がなかった。
「寮に帰らないのかね、テオ」
「ええ。私はもう少しここに。まだ、執務が残っていますから」
一瞬、確かめるように、カウンセラーは生徒の表情を伺った。
「そうか。では私はお先に失礼するよ」
「はい。お疲れ様でした、博士」
少し軋みながら扉が閉まる。テオはゆっくりと席を立った。
パソコンの前から離れ、生徒代表の席に移動する。
一人きりの生徒代表室に靴音が響く。
大きな窓の向こうには、夏の日差しを浴びる月桂樹。
青々とした葉が、まるで宝石のように輝く。その根元には濃い影が落ちていた。
テオが生徒代表室から寮に戻ったのは、ディナータイム間近だった。
サロンに姿を現したテオに寮生達がそれぞれ労いの声を掛ける。
「あ、やっとテオ帰ってきたー!」
「良かったー。ディナーに間に合ったね」
「遅かったな、お疲れ」
一人の少年がテオに駆け寄った。
「テオ、あのね、あのね!」
「ん? なんだい、ラビ」
「さっきね、東洋の黒い真珠、来たんだよ、テオに会いに」
「わ、私に会いに!? 東洋の黒い真珠が!?」
レオンが一冊のマンガを掲げる。
「これを渡しにな。ジャパニーズコミックだってさ。ほい」
「わざわざ届けに来てくれたのか。ああ、なんて優しい子なのだろう」
ひしとマンガを胸に抱き締める。
「なのに、私が不在で東洋の黒い真珠に寂しい想いをさせてしまうとは、なんたる不覚」
「そんなに寂しい想いはさせてないと思うぜ。俺達がオモテナシしといたし」
「僕達ね、東洋の黒い真珠と一緒にドラヤキ食べたのー」
「あいつ、三個も食ってたんだぜ? あれで、これから晩メシ食えんのかな、ホントに」
「あとね、色々お話ししたの。東洋の黒い真珠って面白いね!
とっても楽しかった! テオもサロンに居たら良かったね」
「……ああ、何故、私はサロンに居なかったのだろう」
「そこまで落ち込まなくてもいいだろ?
生徒代表の仕事で居なかったんだから仕方ねーじゃん」
「いや、実は、ミーティングが終わった後、つい、うとうとしてしまってね」
「えー? テオ、生徒代表室でお昼寝してたのー?」
「午睡などせずに寮に戻っていれば、東洋の黒い真珠との、
甘いティータイムが待っていたというのに……ああ、私としたことが」
「あ、テオ、テオ。東洋の黒い真珠、明日も来てくれるかもしれないよ?」
「えっ?」
「明日のおやつもジャパニーズスウィーツだろ?
だから、良かったら明日も来なよって誘っといたんだ」
「本当かい! ありがとう、みんな!」
fin
■オーギュスト×アンリ シルフェ×レオシュ
ここは聖アルフォンソ学院の第二化学室。
教壇には四十歳前後の男性が立っている。
授業開始の鐘が鳴り終わるのを待って、彼は口を開いた。
「ごきげんよう、諸君。一週間、元気だったかな?」
紳士面してる彼が、この神秘学を受け持つオーギュスト・ボージェ教授。
今日のスーツはダークブラウン。昨日食べたガトーショコラみたいな色だ。
僕は受講生の一人、アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマン。中等部三年。
この教室ではいつも後方の席を取っている。
神秘学は入学した時から受けているから、もう三年目だ。
この学院に入ったサン・ジェルマン家の者は、神秘学を修める伝統だとかで、
僕も、入学時の生徒代表に「神秘学を受けてみないか」と勧められたのだ。
入学の際に卒業生の保証人を必要とする聖アルフォンソ学院において、
保証人を必要としない場合が稀にある。
その例のひとつが、僕。
サン・ジェルマン家の者は、初代サン・ジェルマン伯爵を保証人とし、
本人に入学の意志があるだけで入学が許可される。
伯爵と学院が交わした契約のおかげで、
僕は13歳であの家を出て、ここ聖アルフォンソ島に来ることができた。
神秘学を修める習わしを作ったのも、きっと伯爵なのだろう。
彼は、黄金変成、不老不死を成し得たという稀代の錬金術師らしいし。
サン・ジェルマンの家には、錬金術を始めとする妖しげな古書がたくさんあった。
その類の本は、伯爵嫌いである曾祖父の代から、次第に目に付かない物置部屋に片付けられた。
僕は父に隠れて、あの物置部屋に入ってた。
日が差さない、埃っぽい部屋に忍び込んで、伯爵に関する本を手に取った。
父に見つかって、罵られたり、折檻されたこともあったけど。
僕は読まなきゃいけない気がしたから。サン・ジェルマン家の始祖のことを。
教授が片手に持ってる本をパラパラとめくる。
「今日は教科書で言うと、188ページだね」
今では誰に叱られることなく、授業のひとつとして、学ぶことができる。
窓からは色を変えようとしている青空。
授業が終わる頃には、オレンジ色の光が教室に差し込むだろう。
「では、東洋の錬金術について、勉強しよう」
今日の授業内容も大体のところは聞く前から解ってる。予習もしてきたし。
東洋の中国では、西洋で生まれた錬金術とは別に、独自の錬金術が存在していた。
丹薬(たんやく)の作成を目的とした術で、煉丹術(れんたんじゅつ)という。
煉丹術の丹薬は、錬金術の『賢者の石』に相当する。
丹薬とは、不老不死を得られる薬で、副次的に黄金変成の力を持つ薬。
卑金属を貴金属に変え、また不老不死の霊薬でもある『賢者の石』と同じ能力だ。
「今日は、丹薬の原料となった石を持ってきたんだ」
教授が革鞄からそれを取り出す。
透明なケースに入った赤い石を生徒達に見せた。
「これが原石。名前はシナバー。別名は『賢者の石』だ」
石の大きさは5cm程か。レンガのような赤褐色だ。
「産出国は中国と邪馬台国、いや、今は日本と言うんだったね。
日本の南では現在も産出する石だ。
シナバーを加熱し、冷却することで水銀になる。化学式は」
そこまで書かなくてもいいのに。
「硫化水銀 + 酸素 → 水銀 + 二酸化硫黄、だね」
黒板に書かれた化学式を、黒髪の生徒がご丁寧にノートに写し取る。
つられて他の生徒達も板書していた。
化学室の黒板としては、珍しく相応しい文字だ。変な呪文とか妖しいマークとかよりは。
教授はチョークを置いて、赤い石が入った四角いケースを持つ。
「ああ、ちなみに、クリアケースに入れてある理由は、素手で触ることはあまり勧められないからだよ、水銀だからね。
少しくらいなら直接触っても構わないが、念の為、あとで手を洗うように。では前から回すよ」
教授はシナバーの原石を、最前列の生徒に手渡す。
見せびらかしたいのか、彼は教室に持ってきた物を、生徒の手に触れさせるのが常だった。
最前列の生徒は、興味がなかったのか、ちょっと見ただけで、早々と後ろの席に回していた。
「シナバーを見て貰いながら、錬金術と煉丹術の違いについて説明しよう」
説明されなくても、僕は知っていた。両者の違いはその目標だ。
錬金術は黄金変成が最大目標であるのに対し、煉丹術は不老不死。
中国は古来から、不老長寿の仙人という存在を信じていたから、
不死の肉体を求める傾向が西洋よりも強かった。
教授もそのようなことを説明した。
「秦の始皇帝も例外ではなく、不老不死に焦がれていた。
特に、晩年は生への執着が強くてね。周囲の注意にも耳を傾けず、彼は丹薬を飲み続けた。
そして、どうなったと思う? 仙人になったと思うかい?」
問いかけながらも、独り言のように呟いた。
「亡くなったんだよ、水銀中毒で」
丹薬の原料が、硫化水銀であるシナバーなのだから当然だ。
水銀は神経毒。神経細胞を破壊し、手足の痙攣から歩行障害、
口許の痺れから言語障害などを引き起こす。
そう言えば、何かで聞いたことがある。水銀が原因となった、人類史上初の公害病。
工場から流れた水銀が魚の体内に入り、それを食べた近隣住民が1000人以上死亡したという。
プリンセス、と言う小声が聞こえた。
前の席の生徒が、赤い石が入ったクリアケースを差し出している。
教授が最前列から回してきた、シナバーの原石が僕のところに回ってきたのだ。
僕の前に座っていたのが、僕をお姫様扱いしている上級生の一人だった。
僕は彼を睨んで、赤い石を取る。
コワイコワイ、と笑って彼は正面に向き直った。
僕はケースを開けず、石を机の上に置いて観察した。
表面はレンガ色だが、裏面は普通の石のように灰や茶をしていた。
全体的に銀色の粒が混ざっている。鈍く妖しげな銀の光。
これが、東洋の錬金術師が不老不死の源だと信じた、賢者の石。
毒の塊だとも知らないで。
僕は石を次の席へ回し、教授の話に耳を傾けた。
「始皇帝の没後、翌年には『陳勝・呉広の乱』という史上初の農民反乱が起きて、
秦の時代は加速度的に滅亡への道を辿ることになる。
煉丹術の最盛期は唐の時代。当時は皇帝の多くが丹薬の常用による水銀中毒で寿命を縮めた」
不老不死の薬で死期を早める。哀れな話だ。
「それ以降、煉丹術は衰退していく。不老不死の薬ではなく、
実用的な薬の開発を目指す、現在の医学へと形を変えてね。
今の話を聞いて、煉丹術は未完成、丹薬は失敗作、と思うかい?」
誰も答えない。教授は続ける。
「確かに、始皇帝や唐代の皇帝が服用したものはそう言える。
だが、煉丹術師の中には、不老不死を得て仙人になった者も居るそうだよ。
それを伝説と見るか、真実と見るかは、諸君次第だ」
伝説があるだけで事実ではないと言えば良いのに。
どうして、敢えて煙に巻くような態度を取るのだろう。教師のくせに。
授業が終わった。
教室の中央に座っていた銀髪の生徒が、素早く立った。
シュヌーシア寮のシルフェ・ダフラティン。学年は僕と同じ中等部三年。たまに面白い質問をする生徒だ。
彼はそそくさと窓側の席に向かった。長い黒髪の生徒の前に立って、にこりと笑う。
「レオシュ、帰ろ?」
アルファルド寮のレオシュ。高等部一年。
レオシュはシルフェが目に入らないかのように無視している。いつものことだ。
僕は黒板のほうを見る。
教授は、授業が終わると、さっさと黒板を消すのだが、今日はまだ消えてなかった。
一冊の本を片手に教壇を下りた。僕のところに来るのかなと一瞬思ったが。
彼が足を止めたのは、長い黒髪の生徒の前だった。
「レオシュは、不老不死に興味があるのかい?」
呼ばれた生徒はエメラルドグリーンの瞳を大きくした。
「いえ、別に……どうして」
「先程、君は随分熱心にシナバーを観察していたようだから」
シルフェが横から口を出す。
「へえ、驚いた。センセは生徒のことよく見てるんだね。それで、レオシュに何の用なんです?」
教授は持っていた本をレオシュに差し出した。紅色のハードカバー。
「今日の授業に関する参考文献だ。良ければ、君に読んで貰いたいと思うのだが」
「良いんですか?」
「生徒の興味関心を伸ばすのが、私達教師の務めだからね。返すのはいつでも構わないよ」
差し出された本にレオシュは手を伸ばさない。教授は優しく言葉を重ねた。
「何かに興味を持つことは素晴らしいことだよ、レオシュ。
生徒の興味関心は、この学院で何より重要視されていることだ。
それが例え、どんなに荒唐無稽なことでもね」
俯いていたレオシュがそっと呟いた。
「お借りしても、いいですか」
「どうぞ」
レオシュは紅色の本を受け取った。
「ありがとうございます、ボージェ教授」
見守っていたシルフェが口を開く。
「へえ。面白そうじゃん? 読み終わったら、俺にも貸してよ、レオシュ」
途端にレオシュは普段通りの不機嫌な顔になる。
シルフェの言葉が、まるで耳に入らないかのように席を立った。
「待てよ、レオシュ。一緒に帰ろって言っただろ」
シルフェが後を追う。
嫌がられてるのは明白なのに、シルフェはレオシュにつきまとう。
授業中もチラチラ見てるし。まあ、どうでもいいけど。
彼等が教室を出て行くと、残ったのは僕と教授だけになっていた。
教授は教壇に戻り、黒板消しを持った。几帳面な性質で、彼はいつも隅々まで綺麗にする。
このまま寮に帰る気になれなくて、僕は席に着いたまま、呟いた。
「珍しいことするんだね、ボージェ教授」
僕の声が、二人きりの第二化学室に響く。彼は黒板消しを左右に振りながら、
「それは誤解だよ、アンリ」
「何が誤解なの?」
「私がレオシュに参考文献を貸してあげたことが、お気に召さなかったんだろう?」
「違う。珍しい、と言っただけだ」
彼の肩がククと震えた。むかつく。
黒板に残ってた最後の文字を拭き取ると、彼はゆっくり振り返った。
「あれは、彼に必要な本だったから、渡しただけなんだ」
「レオシュに? 何が書いてある本なの?」
「唐代を生きた六人の皇帝の話が詳しく載っている。不老不死を望んだ者の末路がね」
授業で少し触れた話か。
丹薬を飲んで死期を早めたという唐の皇帝達。
「それが、レオシュに必要な本だと言うの?
どういう意味? それに、どうして、そんなことが君に」
彼は教壇を下りた。靴音が、一歩、一歩、近付いてくる。今度は僕に向かって。
僕の目の前まで来て、にこりと微笑んだ。
「今日はね、アールグレイのシフォンケーキがあるんだ。私の研究室でお茶にしよう?」
彼に付いていったのは、シフォンケーキに釣られたからじゃない。
話が途中だったからだ。
fin
教壇には四十歳前後の男性が立っている。
授業開始の鐘が鳴り終わるのを待って、彼は口を開いた。
「ごきげんよう、諸君。一週間、元気だったかな?」
紳士面してる彼が、この神秘学を受け持つオーギュスト・ボージェ教授。
今日のスーツはダークブラウン。昨日食べたガトーショコラみたいな色だ。
僕は受講生の一人、アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマン。中等部三年。
この教室ではいつも後方の席を取っている。
神秘学は入学した時から受けているから、もう三年目だ。
この学院に入ったサン・ジェルマン家の者は、神秘学を修める伝統だとかで、
僕も、入学時の生徒代表に「神秘学を受けてみないか」と勧められたのだ。
入学の際に卒業生の保証人を必要とする聖アルフォンソ学院において、
保証人を必要としない場合が稀にある。
その例のひとつが、僕。
サン・ジェルマン家の者は、初代サン・ジェルマン伯爵を保証人とし、
本人に入学の意志があるだけで入学が許可される。
伯爵と学院が交わした契約のおかげで、
僕は13歳であの家を出て、ここ聖アルフォンソ島に来ることができた。
神秘学を修める習わしを作ったのも、きっと伯爵なのだろう。
彼は、黄金変成、不老不死を成し得たという稀代の錬金術師らしいし。
サン・ジェルマンの家には、錬金術を始めとする妖しげな古書がたくさんあった。
その類の本は、伯爵嫌いである曾祖父の代から、次第に目に付かない物置部屋に片付けられた。
僕は父に隠れて、あの物置部屋に入ってた。
日が差さない、埃っぽい部屋に忍び込んで、伯爵に関する本を手に取った。
父に見つかって、罵られたり、折檻されたこともあったけど。
僕は読まなきゃいけない気がしたから。サン・ジェルマン家の始祖のことを。
教授が片手に持ってる本をパラパラとめくる。
「今日は教科書で言うと、188ページだね」
今では誰に叱られることなく、授業のひとつとして、学ぶことができる。
窓からは色を変えようとしている青空。
授業が終わる頃には、オレンジ色の光が教室に差し込むだろう。
「では、東洋の錬金術について、勉強しよう」
今日の授業内容も大体のところは聞く前から解ってる。予習もしてきたし。
東洋の中国では、西洋で生まれた錬金術とは別に、独自の錬金術が存在していた。
丹薬(たんやく)の作成を目的とした術で、煉丹術(れんたんじゅつ)という。
煉丹術の丹薬は、錬金術の『賢者の石』に相当する。
丹薬とは、不老不死を得られる薬で、副次的に黄金変成の力を持つ薬。
卑金属を貴金属に変え、また不老不死の霊薬でもある『賢者の石』と同じ能力だ。
「今日は、丹薬の原料となった石を持ってきたんだ」
教授が革鞄からそれを取り出す。
透明なケースに入った赤い石を生徒達に見せた。
「これが原石。名前はシナバー。別名は『賢者の石』だ」
石の大きさは5cm程か。レンガのような赤褐色だ。
「産出国は中国と邪馬台国、いや、今は日本と言うんだったね。
日本の南では現在も産出する石だ。
シナバーを加熱し、冷却することで水銀になる。化学式は」
そこまで書かなくてもいいのに。
「硫化水銀 + 酸素 → 水銀 + 二酸化硫黄、だね」
黒板に書かれた化学式を、黒髪の生徒がご丁寧にノートに写し取る。
つられて他の生徒達も板書していた。
化学室の黒板としては、珍しく相応しい文字だ。変な呪文とか妖しいマークとかよりは。
教授はチョークを置いて、赤い石が入った四角いケースを持つ。
「ああ、ちなみに、クリアケースに入れてある理由は、素手で触ることはあまり勧められないからだよ、水銀だからね。
少しくらいなら直接触っても構わないが、念の為、あとで手を洗うように。では前から回すよ」
教授はシナバーの原石を、最前列の生徒に手渡す。
見せびらかしたいのか、彼は教室に持ってきた物を、生徒の手に触れさせるのが常だった。
最前列の生徒は、興味がなかったのか、ちょっと見ただけで、早々と後ろの席に回していた。
「シナバーを見て貰いながら、錬金術と煉丹術の違いについて説明しよう」
説明されなくても、僕は知っていた。両者の違いはその目標だ。
錬金術は黄金変成が最大目標であるのに対し、煉丹術は不老不死。
中国は古来から、不老長寿の仙人という存在を信じていたから、
不死の肉体を求める傾向が西洋よりも強かった。
教授もそのようなことを説明した。
「秦の始皇帝も例外ではなく、不老不死に焦がれていた。
特に、晩年は生への執着が強くてね。周囲の注意にも耳を傾けず、彼は丹薬を飲み続けた。
そして、どうなったと思う? 仙人になったと思うかい?」
問いかけながらも、独り言のように呟いた。
「亡くなったんだよ、水銀中毒で」
丹薬の原料が、硫化水銀であるシナバーなのだから当然だ。
水銀は神経毒。神経細胞を破壊し、手足の痙攣から歩行障害、
口許の痺れから言語障害などを引き起こす。
そう言えば、何かで聞いたことがある。水銀が原因となった、人類史上初の公害病。
工場から流れた水銀が魚の体内に入り、それを食べた近隣住民が1000人以上死亡したという。
プリンセス、と言う小声が聞こえた。
前の席の生徒が、赤い石が入ったクリアケースを差し出している。
教授が最前列から回してきた、シナバーの原石が僕のところに回ってきたのだ。
僕の前に座っていたのが、僕をお姫様扱いしている上級生の一人だった。
僕は彼を睨んで、赤い石を取る。
コワイコワイ、と笑って彼は正面に向き直った。
僕はケースを開けず、石を机の上に置いて観察した。
表面はレンガ色だが、裏面は普通の石のように灰や茶をしていた。
全体的に銀色の粒が混ざっている。鈍く妖しげな銀の光。
これが、東洋の錬金術師が不老不死の源だと信じた、賢者の石。
毒の塊だとも知らないで。
僕は石を次の席へ回し、教授の話に耳を傾けた。
「始皇帝の没後、翌年には『陳勝・呉広の乱』という史上初の農民反乱が起きて、
秦の時代は加速度的に滅亡への道を辿ることになる。
煉丹術の最盛期は唐の時代。当時は皇帝の多くが丹薬の常用による水銀中毒で寿命を縮めた」
不老不死の薬で死期を早める。哀れな話だ。
「それ以降、煉丹術は衰退していく。不老不死の薬ではなく、
実用的な薬の開発を目指す、現在の医学へと形を変えてね。
今の話を聞いて、煉丹術は未完成、丹薬は失敗作、と思うかい?」
誰も答えない。教授は続ける。
「確かに、始皇帝や唐代の皇帝が服用したものはそう言える。
だが、煉丹術師の中には、不老不死を得て仙人になった者も居るそうだよ。
それを伝説と見るか、真実と見るかは、諸君次第だ」
伝説があるだけで事実ではないと言えば良いのに。
どうして、敢えて煙に巻くような態度を取るのだろう。教師のくせに。
授業が終わった。
教室の中央に座っていた銀髪の生徒が、素早く立った。
シュヌーシア寮のシルフェ・ダフラティン。学年は僕と同じ中等部三年。たまに面白い質問をする生徒だ。
彼はそそくさと窓側の席に向かった。長い黒髪の生徒の前に立って、にこりと笑う。
「レオシュ、帰ろ?」
アルファルド寮のレオシュ。高等部一年。
レオシュはシルフェが目に入らないかのように無視している。いつものことだ。
僕は黒板のほうを見る。
教授は、授業が終わると、さっさと黒板を消すのだが、今日はまだ消えてなかった。
一冊の本を片手に教壇を下りた。僕のところに来るのかなと一瞬思ったが。
彼が足を止めたのは、長い黒髪の生徒の前だった。
「レオシュは、不老不死に興味があるのかい?」
呼ばれた生徒はエメラルドグリーンの瞳を大きくした。
「いえ、別に……どうして」
「先程、君は随分熱心にシナバーを観察していたようだから」
シルフェが横から口を出す。
「へえ、驚いた。センセは生徒のことよく見てるんだね。それで、レオシュに何の用なんです?」
教授は持っていた本をレオシュに差し出した。紅色のハードカバー。
「今日の授業に関する参考文献だ。良ければ、君に読んで貰いたいと思うのだが」
「良いんですか?」
「生徒の興味関心を伸ばすのが、私達教師の務めだからね。返すのはいつでも構わないよ」
差し出された本にレオシュは手を伸ばさない。教授は優しく言葉を重ねた。
「何かに興味を持つことは素晴らしいことだよ、レオシュ。
生徒の興味関心は、この学院で何より重要視されていることだ。
それが例え、どんなに荒唐無稽なことでもね」
俯いていたレオシュがそっと呟いた。
「お借りしても、いいですか」
「どうぞ」
レオシュは紅色の本を受け取った。
「ありがとうございます、ボージェ教授」
見守っていたシルフェが口を開く。
「へえ。面白そうじゃん? 読み終わったら、俺にも貸してよ、レオシュ」
途端にレオシュは普段通りの不機嫌な顔になる。
シルフェの言葉が、まるで耳に入らないかのように席を立った。
「待てよ、レオシュ。一緒に帰ろって言っただろ」
シルフェが後を追う。
嫌がられてるのは明白なのに、シルフェはレオシュにつきまとう。
授業中もチラチラ見てるし。まあ、どうでもいいけど。
彼等が教室を出て行くと、残ったのは僕と教授だけになっていた。
教授は教壇に戻り、黒板消しを持った。几帳面な性質で、彼はいつも隅々まで綺麗にする。
このまま寮に帰る気になれなくて、僕は席に着いたまま、呟いた。
「珍しいことするんだね、ボージェ教授」
僕の声が、二人きりの第二化学室に響く。彼は黒板消しを左右に振りながら、
「それは誤解だよ、アンリ」
「何が誤解なの?」
「私がレオシュに参考文献を貸してあげたことが、お気に召さなかったんだろう?」
「違う。珍しい、と言っただけだ」
彼の肩がククと震えた。むかつく。
黒板に残ってた最後の文字を拭き取ると、彼はゆっくり振り返った。
「あれは、彼に必要な本だったから、渡しただけなんだ」
「レオシュに? 何が書いてある本なの?」
「唐代を生きた六人の皇帝の話が詳しく載っている。不老不死を望んだ者の末路がね」
授業で少し触れた話か。
丹薬を飲んで死期を早めたという唐の皇帝達。
「それが、レオシュに必要な本だと言うの?
どういう意味? それに、どうして、そんなことが君に」
彼は教壇を下りた。靴音が、一歩、一歩、近付いてくる。今度は僕に向かって。
僕の目の前まで来て、にこりと微笑んだ。
「今日はね、アールグレイのシフォンケーキがあるんだ。私の研究室でお茶にしよう?」
彼に付いていったのは、シフォンケーキに釣られたからじゃない。
話が途中だったからだ。
fin
カレンダー
| 06 | 2026/07 | 08 |
| S | M | T | W | T | F | S |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | 4 | |||
| 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
| 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
| 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
| 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
ブログ内検索
キャラ名、CP名などで作品検索可
最新記事
(02/22)
(02/20)
(02/18)
(02/16)
(01/16)
(12/18)
(09/20)
(08/18)
(08/15)
(05/05)
(04/22)
(04/15)
(03/28)
(03/27)
(03/13)
アーカイブ
カウンター