今日は人を使って隠れ家探しをやらせてみた。
結局、見付けられなかったのに、僕がケーキを奢る羽目になった。
全部あの講師のせいだ。むかつく。
夜中。僕は日記を綴っていた。
「…オーギュのばか」
どうしても見付けられないとなると、
余計、彼の隠れ家がどんな場所なのか気になってしまう。
僕も昔は秘密の隠れ家を持っていて、誰にも教えなかったけれど。
十年も前の話だから、あまりよく覚えていない。
あの頃は五歳くらいだっただろうか。
「うわ! サン・ジェルマンの子だ!」
僕は家から出て、一人で外に行くところだった。
門を出ると近所に住む子供達の声がした。身なりだけが良い子供が数人。
聞こえないフリをして走り去ろうとした。
彼等も上流階級の家の子だ。優雅さなどは身に付けていないが、
大人達が影で使っている辛辣な言葉はよく知っていた。
「なんかすげーお金持ちそうな服、着てるー!」
「あれって、ひとを騙して手に入れたお金なんでしょ?」
「ハクシャクだっけ?」
「違うよ。サギシって言うんだ、ママが言ってたもん」
伯爵家の少年が顔を上げる。指を差された。
「あいつの目の色、見ろよ! すげーヘン!」
「目を合わせるな! 石にされちゃうぞ!」
「もう行こうぜ、呪われちゃうよ!」
笑い声。今なら品のない笑い方だと一蹴することができる。
けれど、当時まだ五歳の僕には泣かずに走って逃げることが精一杯だった。
家から少し離れたところに、僕は秘密の隠れ家を持っていた。
廃屋。かつてフランス貴族が暮らしていたという古い家。
家主の名前は、子供の頃は覚えていたが、もう忘れてしまった。
屋敷には既に誰も住んでいない。建物は立派だが、手入れされていないので、
庭は雑草が生い茂り、近所では『お化け屋敷』と呼ばれていた。
倒壊する恐れがあるので、大人達は子供にあの屋敷には近付くなと言っていたのだろう。
お屋敷は灰色の煉瓦で囲まれている。
ところどころ崩れ落ちていて、子供がやっと通れるくらいの穴が一箇所ある。
僕はいつも、その隙間をくぐって中に入っていた。
正面玄関には門があるが、とっくに錆付いていて開かないからだ。
今日も僕用の出入り口から入る。
眼前に広がるのは荒れ果てた庭。
此処に人が居た頃は、季節の花が咲く綺麗な庭だったのかもしれないが、
今では玄関まで行くのに、腰の位置まである雑草の中を進んでいかなくてはならない。
半ズボンで来た日は、足を草に撫でられて、ちくちくとくすぐったかった。
玄関に辿り着くと、見上げるほどの大きな扉。
この重たい板を押すことは、五歳の身体には重労働だった。
お屋敷の中には当然、電気は通っておらず、灯かりがない。
窓から差し込む日の光だけが光源だった。
僕は薄暗い場所を怖いとは思わなかった。
家の物置にもよく入っていたから慣れていた。
むしろ明るい場所よりは少し暗い方が落ち着くぐらいだった。
コツコツと僕の小さな靴音だけが響く。
天井が高いので、ちょっと反響して聞こえる。
僕はいつも、窓のある部屋に入る。
適度に明るく、適度に暗いところが良かったし、捨てていかれた家具もある。
もう何も入っていない本棚。その木の板はささくれていて危ない。
部屋の端には、二人掛けのソファがあった。
青い生地は破れかかっているし、色褪せて少し黒っぽい。
けれど、小さな肢体を受け止めるだけの力は残っていた。
部屋には他にも何か家具があった筈だけれど、覚えていない。
僕はソファに座って、家から持ってきた本を読んだり、お菓子を食べたり、
いろんなことを考えたりするのが好きだった。
当時、ゆっくり考えごとができたのは、その場所くらいだったかもしれない。
今日もその『僕の席』に行こうと思っていた。
部屋のドアを開ける。このドアは重たくないのですぐに開けられる。
目に入る青いソファ。歩いていこうとすると、トン、と小さな音がした。
肩がびくっとなって足が止まる。
「だ、だれかいるの?」
返事はない。
お化けかもしれないと思った。
この『お化け屋敷』には本当にお化けが住んでいたのかと。
どうしよう。逃げた方が良いのか、でも少し見てみたい気もする。
普通の子供と比べると、僕はお化けの類に対する警戒心が少なかった。
トン、とまた音が鳴る。
ソファの影から、何か小さなものが出てきた。
ブルーの瞳、グレイの毛に包まれた細い手足、優雅に揺れるしっぽ。
「ねこ…」
グレイの猫は僕をじいっと見ていた。
そして、ゆっくりと僕の傍まで歩いてきた。
信じられない光景だった。
僕には誰も寄り付かないと思っていたのに。
僕のことを何も知らないのに、どうして近付いて来るんだろう。
猫は僕の目の前まで来て座ってしまった。こちらを見ている。
「僕のこと、気味が悪くないの?」
ブルーの瞳は、きょとんとしたまま僕を見ていた。
僕はそっとしゃがんでみる。
猫と距離が近くなり、瞳がよく見えた。空の色に近いブルー。
何かに似ていると思った。家にある大きな絵画。
絵や写真でしか知らないけれど。母さんの髪の色と同じだった。
猫はソファの方へ歩き出した。
伸びやかなジャンプをして、ソファに乗った。
くしゃりと欠伸をすると、其処で身体を丸めてしまった。
僕は静かに近付いていく。ある程度の距離は取って、猫の前に腰を下ろす。
ソファの上の猫と、目線の高さは同じくらいだった。
柔らかそうなグレイの毛。さわってみたいと思った。
動物は嫌いではなかったが、家に動物は一匹もいない。
父が大の動物嫌いだったからだ。
今まで動物に触れる機会はなかったが、今は目の前にある。
僕はそうっと手を伸ばした。
人差し指が滑らかな毛に触れる。
ブルーの瞳は眠たげに僕を一瞥しただけで瞳を閉じた。
今度は五本の指で、できるだけ優しく撫でた。
猫は僕から逃げず、目を閉じたままだった。
「君も一人ぼっちなの?」
猫の身体が思ったよりずっと、温かかった。
「僕と同じだね」
僕は猫の一挙一動を少し離れたところから見ていた。
猫は部屋の中をうろうろしたり、日当たりの良い場所で毛づくろいをしたり。
猫が甘えてくることはなかったが、僕が傍に居ても気にならないみたいだった。
僕に罵声を浴びせず、邪見にもしなかった。
それは奇蹟的な幸福だった。
あっという間に、部屋の中がオレンジ色になっていた。
そろそろ帰らないと、メイドの人達に嫌な顔をされる。
僕はちょっと猫の傍に近付く。
窓の下にできた夕焼けのひだまり。
オレンジ色の中で、うとうとしている。
「また、会えるかな?」
猫は手で顔を拭いていた。
「僕、また来るから」
猫を残して家に帰った。
その日の夜も父に怒られた。
彼はいつも機嫌が悪く、目が合うと睨まれる。
何をしても僕は彼を怒らせた。怒られた理由はいつもよく解らない。
僕の存在自体が彼を不快にさせるから。
僕にできることは、彼とできるだけ会わないよう努めることぐらいだった。
おそらく、僕に罵声を浴びせる近所の子供達が、親に思い切り甘えている頃。
僕は父に怯えながら毎日を過ごしていた。
けれど、この日は。
猫に初めて会えた日は、猫のことを考えながら眠ることができた。
「何かお菓子ちょうだい? ビスケットみたいなのが、いいんだけど」
次の日。メイドに頼んでおやつにビスケットを貰った。
猫が食べられそうだと思ったからだ。
それを綺麗なハンカチに包んで、ポケットに入れた。
久し振りにわくわくとした気分だった。逸る気持ちで隠れ家に向かった。
猫は居た。
昨日と同じ部屋、ソファの上で丸くなっていた。
ポケットからビスケットを出す。
このままでは大きいかなと思い、半分に割ってから猫の傍に置いてみた。
僕は其処から少し離れた場所でしゃがむ。
猫はビスケットをちらりと見ただけで、近付かなかった。
今日は駄目かもしれないと僕は諦めて、
自分用に持ってきたビスケットを食べ始めた。
ブルーの瞳は僕を見上げていた。
やがて、自分の傍に置かれたビスケットに手を伸ばした。
警戒しているようで、ちょん、ちょん、と触る。
おもちゃを扱うようにビスケットを転がしたり、叩いたりしていた。
くんくんと何度か匂いを嗅いでやっと食べ始めた。
猫には名前を付けた。アン。自分の名前から取った。
女性の名前だが、この猫がメスなのかは解らなかった。
偶然、ノドを触った時、猫は気持ち良さそうな顔をした。
ゴロゴロゴロと音がして、びっくりしたことがあった。
そのうちに猫は僕に触れてくるようになった。
ソファに僕が座り、僕の膝に猫が座る。
一緒に同じお菓子を食べることもできるようになった。
僕が隠れ家に行くと、猫は其処に居てくれた。
偶に出かけている時もあったが、暫く待っていると、
カマキリなどを銜えて戻ってくる。猫の口から、はみ出した羽や足。
初めて見た時は、そのグロテスクさに、とてもショックを受けた。
お屋敷の荒れた庭には、猫のエサとなるものが多いようだった。
猫もこのお屋敷を気に入ったらしかった。
僕だけの隠れ家は、アンとアンリの隠れ家になっていた。
膝に乗せた猫にクッキーを差し出した時があった。
家で今日のおやつに貰ったもの。アンの為に残しておいたものだ。
もう手の平に乗せたままでも大丈夫になっていた。
くんくんと少し匂いを嗅いだだけで、すぐに食べ始める。
クッキーを全部食べてしまうと、僕の手の平に付いた欠片や粉まで舐めた。
猫は僕の身体に昇ってきて、口許を舐められた。
小さな舌は少しざらざらしていて、とてもくすぐったかった。
僕は猫を抱いたまま、ソファに倒れ込む。
「僕のおうちで一緒に暮らせたら良いのにね」
父やメイドに言えないことも、この子には打ち明けられた。
当時の僕が唯一、友達と呼べる存在は、この猫しか居なかった。
「でも、駄目なの。パパ、動物嫌いだから。パパは、みんな嫌いなんだ。
パパはママだけが好きだったの。だから、他の人はみんな、嫌いなの。
誰も僕のこと好きになってくれない。近所の子も、メイドのお姉さん達も、パパも。
パパは、僕のことが一番嫌いなの」
猫が僕の頬を舐める。小さな舌が涙の痕を拭った。
くすぐったくて笑うと、また涙が零れた。
「僕に優しくしてくれるのはアンだけ」
あの日。また隠れ家に行った。
猫と会った部屋に行くと、ソファの上に猫の姿はなかった。
「アン、今日は居ないのかな」
肩を落としていると、みー、みー、という声が聞こえた。
部屋の中からだが、消えてしまいそうな小さい声。
耳を澄まして、声のする方に歩いていく。
猫は本棚の影で横たわっていた。
「どうしたの、アン」
足に擦り傷があった。グレイの毛が血で滲んでいる。
その周りは木屑で汚れていた。
はっと本棚を見る。この板は古くなって、あちこち棘がある。
ささくれた板に触れてしまったのかもしれない。
本棚を見ると、グレイの毛が少し落ちていた。
猫は傷口を舐めているが、表情は辛そうだ。
もし、このまま死んでしまったら。
最悪の場面が浮かんで涙が溜まっていく。
弱々しい鳴き声を前にして、どうすることもできなかった。
この猫は僕と出会ったから、不幸にしてしまったのではないか。
近所の子が言っていたように、自分が呪いを掛けてしまったのではないか。
「その猫、怪我しているんだね?」
大人の声がした。
僕の隠れ家に知らない大人が入ってきた。
どんな顔をしていたか忘れてしまったけれど、
コート姿で、黒っぽい鞄を持った男の人。
「私が怪我の手当てをしてあげよう。その猫を少しお借りできるかね?」
優しそうな声。身なりも良い。だが、人間は誰も信用できない。
こんな廃屋に入ってくるなんて可笑しい。
僕は猫を抱え、相手を睨んだ。
「あなたは、だれ?」
出来る限り棘のある言い方をしたつもりだが、彼は穏やかに返してきた。
「私かい? 動物のお医者さんだよ」
「…お医者さん?」
「うん。先程、足を痛めている猫がこの屋敷に入っていくのを見掛けてね、
追い駆けてきてしまったんだ。傷付いた子を見ると放っておけなくてね。
包帯を巻いてあげたいだけなんだ。そうしないと、猫は傷口を舐めてしまうからね」
「舐めてはいけないの?」
「うん。君も自分の髪をブラシで梳くだろう?」
「え、うん」
「猫も同じでね。自分の毛を綺麗に梳くんだ、舌でね。
舌がブラシの役割をするんだよ。
この子が自分の毛を舐めているの、見たことはあるかい?」
「あ、ある」
「あれはね、お掃除をしているんだよ。毛の汚れを取って、綺麗に梳いている。
それで猫の舌はブラシのように、少しざらざらしているんだ。
ブラシのような舌で傷を舐めると、傷口が広がってしまう。
だから、傷口を舐めないようにしないとね。
ああ、すまない。今の君にはちょっと難しい話だったかな?」
「ううん、解った。猫が怪我したら、包帯をした方が良いんでしょ?」
「そう。小さい時から賢い子だね。では猫をお借りして良いかな?」
「うん」
彼は黒い鞄から包帯を取り出す。
猫の細い足に手際良く巻いていく。僕は彼と猫を交互に眺めていた。
「ちょっと足を上げるよ? もう少しで終わるからね?」
猫も大人しく彼の言うことを聞いていた。
グレイの足に真っ白な布がちょこんと巻かれている。
「これでおしまいだよ。良い子だったね」
大人の手が猫の頭を撫でると、猫は気持ち良さそうに目を閉じていた。
僕はその様子をぼうっと見つめていた。
それに気付いたお医者さんは、僕の傍へ来た。
膝を着いて、僕と視線の高さを合わせる。
「君も。怪我した子を心配してくれて、良い子だね」
猫にしたように僕の頭を撫でた。
僕は何も言えないまま、動けなかった。
彼は優しく笑って、膝を伸ばす。
「それじゃ、私は失礼するよ」
「えっ」
「ああ、三日ほど経って、もし君がこの子に会うことがあったら包帯を外してもいいし、
包帯は緩めに巻いたから、放っておいても自然に剥がれるから大丈夫だよ」
「あ、うん。わかった」
「では、ごきげんよう」
お医者さんは鞄を持って出て行く。
パタンと閉まるドアを、ぼんやり見つめていた。
彼が居なくなった部屋は、がらんとして見えた。
「メルシーって言うの忘れちゃった」
僕の声だけが部屋に響く。
唯一、心を許せる友達を助けて貰ったのにお礼も言わなかった。
猫の足に巻かれた綺麗な包帯。
僕は駆け出して、彼の後を追い駆けた。
玄関の重たいドアを開ける。雑草の庭に彼の姿はなかった。
もうお屋敷の外に行ってしまったのだろうか。
草の海を進み、屋敷を囲う塀まで行く。
灰色の煉瓦が幾つか抜けた場所。その小さな穴を通って外に出る。
広い通りに、人影はひとつもなかった。
もう行ってしまったようだ。
「また、会えるかな、お医者さん」
僕は隠れ家に戻ることにした。
もう一度、猫を見てから家に帰ろうと思った。
煉瓦の塀に開いた穴。子供しか通れない大きさ。
いつも通る出入り口を見た時、やっと気が付いた。
このお屋敷に大人は入れない筈だ。
門は開かないし、この穴しか中に入れる場所はない。
彼と会ったことは夢だったのかもしれないとも思ったが、
部屋に戻ると、猫の足にはちゃんと包帯が巻かれていた。
真っ白な布を見つめながら、ぽつりと呟く。
「あのお医者さん…もしかして、お化けだったのかな?」
猫は、みゃあ、と鳴いた。
fin
結局、見付けられなかったのに、僕がケーキを奢る羽目になった。
全部あの講師のせいだ。むかつく。
夜中。僕は日記を綴っていた。
「…オーギュのばか」
どうしても見付けられないとなると、
余計、彼の隠れ家がどんな場所なのか気になってしまう。
僕も昔は秘密の隠れ家を持っていて、誰にも教えなかったけれど。
十年も前の話だから、あまりよく覚えていない。
あの頃は五歳くらいだっただろうか。
「うわ! サン・ジェルマンの子だ!」
僕は家から出て、一人で外に行くところだった。
門を出ると近所に住む子供達の声がした。身なりだけが良い子供が数人。
聞こえないフリをして走り去ろうとした。
彼等も上流階級の家の子だ。優雅さなどは身に付けていないが、
大人達が影で使っている辛辣な言葉はよく知っていた。
「なんかすげーお金持ちそうな服、着てるー!」
「あれって、ひとを騙して手に入れたお金なんでしょ?」
「ハクシャクだっけ?」
「違うよ。サギシって言うんだ、ママが言ってたもん」
伯爵家の少年が顔を上げる。指を差された。
「あいつの目の色、見ろよ! すげーヘン!」
「目を合わせるな! 石にされちゃうぞ!」
「もう行こうぜ、呪われちゃうよ!」
笑い声。今なら品のない笑い方だと一蹴することができる。
けれど、当時まだ五歳の僕には泣かずに走って逃げることが精一杯だった。
家から少し離れたところに、僕は秘密の隠れ家を持っていた。
廃屋。かつてフランス貴族が暮らしていたという古い家。
家主の名前は、子供の頃は覚えていたが、もう忘れてしまった。
屋敷には既に誰も住んでいない。建物は立派だが、手入れされていないので、
庭は雑草が生い茂り、近所では『お化け屋敷』と呼ばれていた。
倒壊する恐れがあるので、大人達は子供にあの屋敷には近付くなと言っていたのだろう。
お屋敷は灰色の煉瓦で囲まれている。
ところどころ崩れ落ちていて、子供がやっと通れるくらいの穴が一箇所ある。
僕はいつも、その隙間をくぐって中に入っていた。
正面玄関には門があるが、とっくに錆付いていて開かないからだ。
今日も僕用の出入り口から入る。
眼前に広がるのは荒れ果てた庭。
此処に人が居た頃は、季節の花が咲く綺麗な庭だったのかもしれないが、
今では玄関まで行くのに、腰の位置まである雑草の中を進んでいかなくてはならない。
半ズボンで来た日は、足を草に撫でられて、ちくちくとくすぐったかった。
玄関に辿り着くと、見上げるほどの大きな扉。
この重たい板を押すことは、五歳の身体には重労働だった。
お屋敷の中には当然、電気は通っておらず、灯かりがない。
窓から差し込む日の光だけが光源だった。
僕は薄暗い場所を怖いとは思わなかった。
家の物置にもよく入っていたから慣れていた。
むしろ明るい場所よりは少し暗い方が落ち着くぐらいだった。
コツコツと僕の小さな靴音だけが響く。
天井が高いので、ちょっと反響して聞こえる。
僕はいつも、窓のある部屋に入る。
適度に明るく、適度に暗いところが良かったし、捨てていかれた家具もある。
もう何も入っていない本棚。その木の板はささくれていて危ない。
部屋の端には、二人掛けのソファがあった。
青い生地は破れかかっているし、色褪せて少し黒っぽい。
けれど、小さな肢体を受け止めるだけの力は残っていた。
部屋には他にも何か家具があった筈だけれど、覚えていない。
僕はソファに座って、家から持ってきた本を読んだり、お菓子を食べたり、
いろんなことを考えたりするのが好きだった。
当時、ゆっくり考えごとができたのは、その場所くらいだったかもしれない。
今日もその『僕の席』に行こうと思っていた。
部屋のドアを開ける。このドアは重たくないのですぐに開けられる。
目に入る青いソファ。歩いていこうとすると、トン、と小さな音がした。
肩がびくっとなって足が止まる。
「だ、だれかいるの?」
返事はない。
お化けかもしれないと思った。
この『お化け屋敷』には本当にお化けが住んでいたのかと。
どうしよう。逃げた方が良いのか、でも少し見てみたい気もする。
普通の子供と比べると、僕はお化けの類に対する警戒心が少なかった。
トン、とまた音が鳴る。
ソファの影から、何か小さなものが出てきた。
ブルーの瞳、グレイの毛に包まれた細い手足、優雅に揺れるしっぽ。
「ねこ…」
グレイの猫は僕をじいっと見ていた。
そして、ゆっくりと僕の傍まで歩いてきた。
信じられない光景だった。
僕には誰も寄り付かないと思っていたのに。
僕のことを何も知らないのに、どうして近付いて来るんだろう。
猫は僕の目の前まで来て座ってしまった。こちらを見ている。
「僕のこと、気味が悪くないの?」
ブルーの瞳は、きょとんとしたまま僕を見ていた。
僕はそっとしゃがんでみる。
猫と距離が近くなり、瞳がよく見えた。空の色に近いブルー。
何かに似ていると思った。家にある大きな絵画。
絵や写真でしか知らないけれど。母さんの髪の色と同じだった。
猫はソファの方へ歩き出した。
伸びやかなジャンプをして、ソファに乗った。
くしゃりと欠伸をすると、其処で身体を丸めてしまった。
僕は静かに近付いていく。ある程度の距離は取って、猫の前に腰を下ろす。
ソファの上の猫と、目線の高さは同じくらいだった。
柔らかそうなグレイの毛。さわってみたいと思った。
動物は嫌いではなかったが、家に動物は一匹もいない。
父が大の動物嫌いだったからだ。
今まで動物に触れる機会はなかったが、今は目の前にある。
僕はそうっと手を伸ばした。
人差し指が滑らかな毛に触れる。
ブルーの瞳は眠たげに僕を一瞥しただけで瞳を閉じた。
今度は五本の指で、できるだけ優しく撫でた。
猫は僕から逃げず、目を閉じたままだった。
「君も一人ぼっちなの?」
猫の身体が思ったよりずっと、温かかった。
「僕と同じだね」
僕は猫の一挙一動を少し離れたところから見ていた。
猫は部屋の中をうろうろしたり、日当たりの良い場所で毛づくろいをしたり。
猫が甘えてくることはなかったが、僕が傍に居ても気にならないみたいだった。
僕に罵声を浴びせず、邪見にもしなかった。
それは奇蹟的な幸福だった。
あっという間に、部屋の中がオレンジ色になっていた。
そろそろ帰らないと、メイドの人達に嫌な顔をされる。
僕はちょっと猫の傍に近付く。
窓の下にできた夕焼けのひだまり。
オレンジ色の中で、うとうとしている。
「また、会えるかな?」
猫は手で顔を拭いていた。
「僕、また来るから」
猫を残して家に帰った。
その日の夜も父に怒られた。
彼はいつも機嫌が悪く、目が合うと睨まれる。
何をしても僕は彼を怒らせた。怒られた理由はいつもよく解らない。
僕の存在自体が彼を不快にさせるから。
僕にできることは、彼とできるだけ会わないよう努めることぐらいだった。
おそらく、僕に罵声を浴びせる近所の子供達が、親に思い切り甘えている頃。
僕は父に怯えながら毎日を過ごしていた。
けれど、この日は。
猫に初めて会えた日は、猫のことを考えながら眠ることができた。
「何かお菓子ちょうだい? ビスケットみたいなのが、いいんだけど」
次の日。メイドに頼んでおやつにビスケットを貰った。
猫が食べられそうだと思ったからだ。
それを綺麗なハンカチに包んで、ポケットに入れた。
久し振りにわくわくとした気分だった。逸る気持ちで隠れ家に向かった。
猫は居た。
昨日と同じ部屋、ソファの上で丸くなっていた。
ポケットからビスケットを出す。
このままでは大きいかなと思い、半分に割ってから猫の傍に置いてみた。
僕は其処から少し離れた場所でしゃがむ。
猫はビスケットをちらりと見ただけで、近付かなかった。
今日は駄目かもしれないと僕は諦めて、
自分用に持ってきたビスケットを食べ始めた。
ブルーの瞳は僕を見上げていた。
やがて、自分の傍に置かれたビスケットに手を伸ばした。
警戒しているようで、ちょん、ちょん、と触る。
おもちゃを扱うようにビスケットを転がしたり、叩いたりしていた。
くんくんと何度か匂いを嗅いでやっと食べ始めた。
猫には名前を付けた。アン。自分の名前から取った。
女性の名前だが、この猫がメスなのかは解らなかった。
偶然、ノドを触った時、猫は気持ち良さそうな顔をした。
ゴロゴロゴロと音がして、びっくりしたことがあった。
そのうちに猫は僕に触れてくるようになった。
ソファに僕が座り、僕の膝に猫が座る。
一緒に同じお菓子を食べることもできるようになった。
僕が隠れ家に行くと、猫は其処に居てくれた。
偶に出かけている時もあったが、暫く待っていると、
カマキリなどを銜えて戻ってくる。猫の口から、はみ出した羽や足。
初めて見た時は、そのグロテスクさに、とてもショックを受けた。
お屋敷の荒れた庭には、猫のエサとなるものが多いようだった。
猫もこのお屋敷を気に入ったらしかった。
僕だけの隠れ家は、アンとアンリの隠れ家になっていた。
膝に乗せた猫にクッキーを差し出した時があった。
家で今日のおやつに貰ったもの。アンの為に残しておいたものだ。
もう手の平に乗せたままでも大丈夫になっていた。
くんくんと少し匂いを嗅いだだけで、すぐに食べ始める。
クッキーを全部食べてしまうと、僕の手の平に付いた欠片や粉まで舐めた。
猫は僕の身体に昇ってきて、口許を舐められた。
小さな舌は少しざらざらしていて、とてもくすぐったかった。
僕は猫を抱いたまま、ソファに倒れ込む。
「僕のおうちで一緒に暮らせたら良いのにね」
父やメイドに言えないことも、この子には打ち明けられた。
当時の僕が唯一、友達と呼べる存在は、この猫しか居なかった。
「でも、駄目なの。パパ、動物嫌いだから。パパは、みんな嫌いなんだ。
パパはママだけが好きだったの。だから、他の人はみんな、嫌いなの。
誰も僕のこと好きになってくれない。近所の子も、メイドのお姉さん達も、パパも。
パパは、僕のことが一番嫌いなの」
猫が僕の頬を舐める。小さな舌が涙の痕を拭った。
くすぐったくて笑うと、また涙が零れた。
「僕に優しくしてくれるのはアンだけ」
あの日。また隠れ家に行った。
猫と会った部屋に行くと、ソファの上に猫の姿はなかった。
「アン、今日は居ないのかな」
肩を落としていると、みー、みー、という声が聞こえた。
部屋の中からだが、消えてしまいそうな小さい声。
耳を澄まして、声のする方に歩いていく。
猫は本棚の影で横たわっていた。
「どうしたの、アン」
足に擦り傷があった。グレイの毛が血で滲んでいる。
その周りは木屑で汚れていた。
はっと本棚を見る。この板は古くなって、あちこち棘がある。
ささくれた板に触れてしまったのかもしれない。
本棚を見ると、グレイの毛が少し落ちていた。
猫は傷口を舐めているが、表情は辛そうだ。
もし、このまま死んでしまったら。
最悪の場面が浮かんで涙が溜まっていく。
弱々しい鳴き声を前にして、どうすることもできなかった。
この猫は僕と出会ったから、不幸にしてしまったのではないか。
近所の子が言っていたように、自分が呪いを掛けてしまったのではないか。
「その猫、怪我しているんだね?」
大人の声がした。
僕の隠れ家に知らない大人が入ってきた。
どんな顔をしていたか忘れてしまったけれど、
コート姿で、黒っぽい鞄を持った男の人。
「私が怪我の手当てをしてあげよう。その猫を少しお借りできるかね?」
優しそうな声。身なりも良い。だが、人間は誰も信用できない。
こんな廃屋に入ってくるなんて可笑しい。
僕は猫を抱え、相手を睨んだ。
「あなたは、だれ?」
出来る限り棘のある言い方をしたつもりだが、彼は穏やかに返してきた。
「私かい? 動物のお医者さんだよ」
「…お医者さん?」
「うん。先程、足を痛めている猫がこの屋敷に入っていくのを見掛けてね、
追い駆けてきてしまったんだ。傷付いた子を見ると放っておけなくてね。
包帯を巻いてあげたいだけなんだ。そうしないと、猫は傷口を舐めてしまうからね」
「舐めてはいけないの?」
「うん。君も自分の髪をブラシで梳くだろう?」
「え、うん」
「猫も同じでね。自分の毛を綺麗に梳くんだ、舌でね。
舌がブラシの役割をするんだよ。
この子が自分の毛を舐めているの、見たことはあるかい?」
「あ、ある」
「あれはね、お掃除をしているんだよ。毛の汚れを取って、綺麗に梳いている。
それで猫の舌はブラシのように、少しざらざらしているんだ。
ブラシのような舌で傷を舐めると、傷口が広がってしまう。
だから、傷口を舐めないようにしないとね。
ああ、すまない。今の君にはちょっと難しい話だったかな?」
「ううん、解った。猫が怪我したら、包帯をした方が良いんでしょ?」
「そう。小さい時から賢い子だね。では猫をお借りして良いかな?」
「うん」
彼は黒い鞄から包帯を取り出す。
猫の細い足に手際良く巻いていく。僕は彼と猫を交互に眺めていた。
「ちょっと足を上げるよ? もう少しで終わるからね?」
猫も大人しく彼の言うことを聞いていた。
グレイの足に真っ白な布がちょこんと巻かれている。
「これでおしまいだよ。良い子だったね」
大人の手が猫の頭を撫でると、猫は気持ち良さそうに目を閉じていた。
僕はその様子をぼうっと見つめていた。
それに気付いたお医者さんは、僕の傍へ来た。
膝を着いて、僕と視線の高さを合わせる。
「君も。怪我した子を心配してくれて、良い子だね」
猫にしたように僕の頭を撫でた。
僕は何も言えないまま、動けなかった。
彼は優しく笑って、膝を伸ばす。
「それじゃ、私は失礼するよ」
「えっ」
「ああ、三日ほど経って、もし君がこの子に会うことがあったら包帯を外してもいいし、
包帯は緩めに巻いたから、放っておいても自然に剥がれるから大丈夫だよ」
「あ、うん。わかった」
「では、ごきげんよう」
お医者さんは鞄を持って出て行く。
パタンと閉まるドアを、ぼんやり見つめていた。
彼が居なくなった部屋は、がらんとして見えた。
「メルシーって言うの忘れちゃった」
僕の声だけが部屋に響く。
唯一、心を許せる友達を助けて貰ったのにお礼も言わなかった。
猫の足に巻かれた綺麗な包帯。
僕は駆け出して、彼の後を追い駆けた。
玄関の重たいドアを開ける。雑草の庭に彼の姿はなかった。
もうお屋敷の外に行ってしまったのだろうか。
草の海を進み、屋敷を囲う塀まで行く。
灰色の煉瓦が幾つか抜けた場所。その小さな穴を通って外に出る。
広い通りに、人影はひとつもなかった。
もう行ってしまったようだ。
「また、会えるかな、お医者さん」
僕は隠れ家に戻ることにした。
もう一度、猫を見てから家に帰ろうと思った。
煉瓦の塀に開いた穴。子供しか通れない大きさ。
いつも通る出入り口を見た時、やっと気が付いた。
このお屋敷に大人は入れない筈だ。
門は開かないし、この穴しか中に入れる場所はない。
彼と会ったことは夢だったのかもしれないとも思ったが、
部屋に戻ると、猫の足にはちゃんと包帯が巻かれていた。
真っ白な布を見つめながら、ぽつりと呟く。
「あのお医者さん…もしかして、お化けだったのかな?」
猫は、みゃあ、と鳴いた。
fin
■ウーティス寮
■教えてくれない 続編
■教えてくれない 続編
「四人か。悪くはないね、人数的には」
ある日のウーティス寮サロン。
ドアを開けたアンリは、開口一番そう言った。
談笑していたデッドプリンスとユウタが全員振り向く。
「生徒代表殿は?」
アンリの質問に、ユウタが答える。
「さっき生徒代表室に行くって、行っちゃったよ?」
「そう。まあ、四人でも五人でも変わらないかな」
「どうしたの、アンリ?」
ドアのところから、ゆっくりとテーブルの方へ歩いてくる。
四人の傍へ来て、小首を傾げた。
「ねえ? 僕と賭けをしない?」
ギャンブル好きのアルフレッドがいち早く反応する。
「お前から誘ってくるなんて、珍しいじゃん、アンリ。
それ、お前が勝つ仕組みになってんじゃないだろーな?」
アンリは挑発的な微笑を浮かべる。
「君にしては弱気な発言だね、レッド。まさか、やらないの?」
レッドが立ち上がる。
「やってやろーじゃねえかー!」
アンリはクスリと笑って、他のメンバーにも声を掛けた。
「君達も、僕と一緒に遊ぼう?」
その微笑みは、お誘いというよりは拒否権を許さない圧力がある。
ハルヤは少し困り顔になったが、ユウタとシルヴァンは楽しそうだ。
「なんか面白そうだね!」
「アンリアンリ、今日は僕も入れてくれるんですか?」
「うん。君の身体能力には期待しているからね?」
「キャッ。アンリってば僕のカラダで何をするおつもりですかっ♪」
提案者は腕を組んだ。
「探偵ごっこ」
寮生達は打ち合わせもしていないのに、綺麗に揃って復唱していた。
提案者はルール説明を始める。
「いい? 君達は全員、探偵役。目的は犯人役のアジトを突き止めること。
捜査範囲は島全域になるからあらゆる交通手段を使って良い。
目的達成の為なら、どんな手段を用いても構わない。
但し、犯人役に気付かれては駄目。
アジトを見付けられたら、ご褒美をあげても良いよ?」
「つまりー、お前と鬼ごっこすんのか?
そんなのカンタンじゃん。すぐに捕まえてやるぜ?」
レッドの言葉に、アンリは首を横に振った。
「犯人役は、僕ではないよ」
レッド、ユウタ、シルヴァン、ハルヤが寮を出発する。
サロンにはアンリ一人が残る。
提案者はソファに肘を掛け、足を組んだ。
「バトラー、僕に紅茶を。ルフナのセイロンが良いな」
執事は胸に手を置いて一礼する。
「畏まりました」
聖アルフォンソ島最大の街フィンシャル。
島の人口三万人のうち、二万人がこの街に暮らしている。
レッドとユウタ組は犯人の後を付けていた。
建物の影に隠れる様子は探偵ドラマさながらだ。
ハリウッドスターとその大ファンが囁き合う。
「遅れるなよ、ワトスン君」
「はーい、レッド探偵!」
二人とも名探偵と助手の役になりきっていた。
視線の先には一人の紳士。
紺のコート。手には黒い革の鞄を持っている。
アンリが言った犯人役は、神秘学の先生だった。
彼はこの島の何処かに隠れ家を持っているらしい。
今日は出掛けるそうだから、後を付けて、
彼の隠れ家を探し出して、とのことだった。
「てか、何処まで行くんだ、あの先生」
「ほんとだね。まだ、どのお店にも入ってないし」
「もしかして俺達が追い駆けてんのバレてんのか?」
「あっ、そうかも。スルドイね、さすが名探偵!」
「まあな! あ、いや、バレてちゃマズイだろ」
「そっか。あっ、レッド探偵! 見て!」
紳士が店の中に入っていく。レッドは首を捻った。
「あそこは確か…ドラックストア? よし、俺達も潜入するぞ、ワトスン!」
ウーティス寮サロン。
ジョシュアが生徒代表室から戻っていた。
アンリは紅茶のカップに口付けている。
テーブルには置いていかせたユウタの携帯電話。
探偵達には公衆電話からこの携帯へ連絡を入れるように言っていた。
ジョシュアは執事からコーヒーを受け取る。
「ありがとう、バトラー」
執事は「いえ」と礼をして、サロンから下がった。
コーヒーを一口飲んでから話の続きをした。
「じゃ、みんなは、先生の隠れ家を探しに行ったんだね?」
「そう。君も入れてあげるよ。電話番ね?」
「それは良いけど、アンリはどうしてみんなと行かなかったんだい?」
「僕、彼等と違って体力ないから」
シルヴァンとハルヤ組は、街まで乗せてくれたタクシー運転手に手を振る。
「ありがと、アイヴィー」
「また近いうちにおうちに遊びに行きますねー!」
煙草を銜えた運転手が返事の代わりにクラクションを鳴らし、去っていく。
「さて。じゃ、行きましょうか、ハルヤ」
「だね。ちゃんとやらないとアンリに怒られそうだし。ああ、めんどくさっ」
「では先ず、そこのお店でクレープを買っていきましょう♪」
「えー。いきなり?」
「食べながらだって、探偵ごっこはできますよ。ハルヤ、食べたくないんですか?」
「…食べたい」
「じゃ、行きましょ行きましょ♪」
サロンのテーブルで携帯が光る。探偵達から連絡が来たようだ。
アンリは紅茶のカップを持つ。ジョシュアが電話に出た。
「もしもし。レッド? うん。俺、電話番なんだ。
調子はどう? うん、うん。そっか。ちょっと待って」
ジョシュアはアンリに言う。
「みんな、先生のこと見失ってしまったって。どうする、アンリ?」
「では、罰として、天使の顎でも買ってくるように言って?」
「解った」
ジョシュアは微笑んで、携帯の向こう側に伝えた。
「みんな、お疲れ様。アンリがお礼にケーキをご馳走してくれるって。
好きなのをみんなで選んできてくれるかな? あ、アンリには天使の顎をね?
うん、頼むよ。じゃあ、待ってるね」
電話を終えた人を、アンリは睨み付ける。
「ジョシュア」
「俺は、アンリに言われた通り、伝えたつもりだよ?」
「君に電話番を頼んだのは間違いだったよ。僕が出れば良かった」
ジョシュアは可笑しそうに笑う。
「先生の隠れ家、見付けられなくて残念だったね、アンリ」
「別に。最初からあまり期待していなかったから」
そういう割には頬が少し膨れている。
「そもそもキャスティングミスだったね、彼等に探偵なんて」
「みんなのこと、頼りにしてたんだろう?」
アンリは、むすっと言った。
「最近、君とは英語が通じない」
fin
ある日のウーティス寮サロン。
ドアを開けたアンリは、開口一番そう言った。
談笑していたデッドプリンスとユウタが全員振り向く。
「生徒代表殿は?」
アンリの質問に、ユウタが答える。
「さっき生徒代表室に行くって、行っちゃったよ?」
「そう。まあ、四人でも五人でも変わらないかな」
「どうしたの、アンリ?」
ドアのところから、ゆっくりとテーブルの方へ歩いてくる。
四人の傍へ来て、小首を傾げた。
「ねえ? 僕と賭けをしない?」
ギャンブル好きのアルフレッドがいち早く反応する。
「お前から誘ってくるなんて、珍しいじゃん、アンリ。
それ、お前が勝つ仕組みになってんじゃないだろーな?」
アンリは挑発的な微笑を浮かべる。
「君にしては弱気な発言だね、レッド。まさか、やらないの?」
レッドが立ち上がる。
「やってやろーじゃねえかー!」
アンリはクスリと笑って、他のメンバーにも声を掛けた。
「君達も、僕と一緒に遊ぼう?」
その微笑みは、お誘いというよりは拒否権を許さない圧力がある。
ハルヤは少し困り顔になったが、ユウタとシルヴァンは楽しそうだ。
「なんか面白そうだね!」
「アンリアンリ、今日は僕も入れてくれるんですか?」
「うん。君の身体能力には期待しているからね?」
「キャッ。アンリってば僕のカラダで何をするおつもりですかっ♪」
提案者は腕を組んだ。
「探偵ごっこ」
寮生達は打ち合わせもしていないのに、綺麗に揃って復唱していた。
提案者はルール説明を始める。
「いい? 君達は全員、探偵役。目的は犯人役のアジトを突き止めること。
捜査範囲は島全域になるからあらゆる交通手段を使って良い。
目的達成の為なら、どんな手段を用いても構わない。
但し、犯人役に気付かれては駄目。
アジトを見付けられたら、ご褒美をあげても良いよ?」
「つまりー、お前と鬼ごっこすんのか?
そんなのカンタンじゃん。すぐに捕まえてやるぜ?」
レッドの言葉に、アンリは首を横に振った。
「犯人役は、僕ではないよ」
レッド、ユウタ、シルヴァン、ハルヤが寮を出発する。
サロンにはアンリ一人が残る。
提案者はソファに肘を掛け、足を組んだ。
「バトラー、僕に紅茶を。ルフナのセイロンが良いな」
執事は胸に手を置いて一礼する。
「畏まりました」
聖アルフォンソ島最大の街フィンシャル。
島の人口三万人のうち、二万人がこの街に暮らしている。
レッドとユウタ組は犯人の後を付けていた。
建物の影に隠れる様子は探偵ドラマさながらだ。
ハリウッドスターとその大ファンが囁き合う。
「遅れるなよ、ワトスン君」
「はーい、レッド探偵!」
二人とも名探偵と助手の役になりきっていた。
視線の先には一人の紳士。
紺のコート。手には黒い革の鞄を持っている。
アンリが言った犯人役は、神秘学の先生だった。
彼はこの島の何処かに隠れ家を持っているらしい。
今日は出掛けるそうだから、後を付けて、
彼の隠れ家を探し出して、とのことだった。
「てか、何処まで行くんだ、あの先生」
「ほんとだね。まだ、どのお店にも入ってないし」
「もしかして俺達が追い駆けてんのバレてんのか?」
「あっ、そうかも。スルドイね、さすが名探偵!」
「まあな! あ、いや、バレてちゃマズイだろ」
「そっか。あっ、レッド探偵! 見て!」
紳士が店の中に入っていく。レッドは首を捻った。
「あそこは確か…ドラックストア? よし、俺達も潜入するぞ、ワトスン!」
ウーティス寮サロン。
ジョシュアが生徒代表室から戻っていた。
アンリは紅茶のカップに口付けている。
テーブルには置いていかせたユウタの携帯電話。
探偵達には公衆電話からこの携帯へ連絡を入れるように言っていた。
ジョシュアは執事からコーヒーを受け取る。
「ありがとう、バトラー」
執事は「いえ」と礼をして、サロンから下がった。
コーヒーを一口飲んでから話の続きをした。
「じゃ、みんなは、先生の隠れ家を探しに行ったんだね?」
「そう。君も入れてあげるよ。電話番ね?」
「それは良いけど、アンリはどうしてみんなと行かなかったんだい?」
「僕、彼等と違って体力ないから」
シルヴァンとハルヤ組は、街まで乗せてくれたタクシー運転手に手を振る。
「ありがと、アイヴィー」
「また近いうちにおうちに遊びに行きますねー!」
煙草を銜えた運転手が返事の代わりにクラクションを鳴らし、去っていく。
「さて。じゃ、行きましょうか、ハルヤ」
「だね。ちゃんとやらないとアンリに怒られそうだし。ああ、めんどくさっ」
「では先ず、そこのお店でクレープを買っていきましょう♪」
「えー。いきなり?」
「食べながらだって、探偵ごっこはできますよ。ハルヤ、食べたくないんですか?」
「…食べたい」
「じゃ、行きましょ行きましょ♪」
サロンのテーブルで携帯が光る。探偵達から連絡が来たようだ。
アンリは紅茶のカップを持つ。ジョシュアが電話に出た。
「もしもし。レッド? うん。俺、電話番なんだ。
調子はどう? うん、うん。そっか。ちょっと待って」
ジョシュアはアンリに言う。
「みんな、先生のこと見失ってしまったって。どうする、アンリ?」
「では、罰として、天使の顎でも買ってくるように言って?」
「解った」
ジョシュアは微笑んで、携帯の向こう側に伝えた。
「みんな、お疲れ様。アンリがお礼にケーキをご馳走してくれるって。
好きなのをみんなで選んできてくれるかな? あ、アンリには天使の顎をね?
うん、頼むよ。じゃあ、待ってるね」
電話を終えた人を、アンリは睨み付ける。
「ジョシュア」
「俺は、アンリに言われた通り、伝えたつもりだよ?」
「君に電話番を頼んだのは間違いだったよ。僕が出れば良かった」
ジョシュアは可笑しそうに笑う。
「先生の隠れ家、見付けられなくて残念だったね、アンリ」
「別に。最初からあまり期待していなかったから」
そういう割には頬が少し膨れている。
「そもそもキャスティングミスだったね、彼等に探偵なんて」
「みんなのこと、頼りにしてたんだろう?」
アンリは、むすっと言った。
「最近、君とは英語が通じない」
fin
■ユウタ×エンジュ
エンジュは月桂樹の上に居た。
木の上は葉の青い香りがする。
講義は終わり、夕食まで自由時間だ。
今日はジムに行く気はしない。
ただ、ぼんやりと雲の流れを見ていた。
保証人からの連絡があった。
卒業へ向けて準備を始めた、とのことだった。
この学院に居た時間は悪いものではなかった。
急激な気温変化もなく、年中温暖な気候。
命を狙われる危険性はない。
苦労することなく、質の良い食事が与えられる。
此処に居る連中は日々を平穏に暮らせることに、何も感じていないのだろうか。
富裕層の人間ばかりだから、人生で一度も衣食住に困ったことなどないのだろう。
ポケットから板型のチョコレートを取り出す。
祖国ではあまり食べられなかった物だ。
この島にはたくさんある。
銀色の紙を破って、カカオの板を齧る。
パキンと小気味の良い音が鳴る。
月桂樹の上で食べるチョコレートは悪くない。
好きな時にチョコレートが食べられる。
こんな日が来るとは思わなかった。
空気は祖国よりは少し汚れているが、月桂樹の香りは気に入っていた。
此処では登山ができないが海がある。
想像以上に海は大きく、美しいものだった。
時間によって色が変わる。朝も昼も夜も綺麗だ。
此処を離れたら、海はもう見られないかもしれない。
あと何度、海が見られるだろう。
チョコレートを銜える。パキンと鳴った。
「あっ、エンジュだ! おーい!」
見下ろすとあいつが居た。ユウタ。寮も違うのにやたら絡まれる。
あれは何故いつも笑顔なのか。変だ。育ちの差か。
あいつの姉貴も面白くない状況で笑う。
そういう血筋か。笑う血か。変だ。
「あれ? エンジュー、何食べてるのー? 眩しくてよく見えないや」
チョコレートを銀の紙に包み、ポケットに入れる。
木から地面に降りた。
あいつが俺の顔を見ている。なんか変な顔だ。
「なんだ? 俺の顔に何か付いているか?」
「あっ、ううん。カッコイイなーって思って」
「カッコイイ?」
「あんな高い木から飛び降りちゃって平気なんだもん。
俺じゃあ、ぜったいムリ。あ、それで、さっき何食べてたの?」
ポケットから出して見せる。
「チョコ? エンジュ、チョコ好きなの?」
「ああ。お前は? 好きか?」
「あ、うん、好き」
「そうか」
カカオの板を半分に割る。さっきより大きな音がする。
片割れを差し出した。
「エンジュ、俺にくれるの? 半分も貰って良いの?」
「好きではないのか?」
「ううん。くれるとは思わなくてビックリしちゃった。ありがと。貰うね」
月桂樹の下で食べるチョコレートも悪くない。
木洩れ陽が、あいつの髪に当たって、きらきらと輝いている。
パキン、という音が増える。この音は良い音だ。
昔はよくこうして、食べ物を半分に分けていた。
それは嫌なことではなかった。
半分にした物を差し出すと、笑った顔が見れた。
ユウタがこちらを向く。
似ている。
「美味しいね。俺、板チョコ食べたの久し振りだよ。エンジュはよく食べるの?」
「食べる」
「このチョコ、なんて言うチョコ?」
「変なウサギのチョコレートだ」
「変なウサギ?」
「ああ。顔が怖い」
fin
木の上は葉の青い香りがする。
講義は終わり、夕食まで自由時間だ。
今日はジムに行く気はしない。
ただ、ぼんやりと雲の流れを見ていた。
保証人からの連絡があった。
卒業へ向けて準備を始めた、とのことだった。
この学院に居た時間は悪いものではなかった。
急激な気温変化もなく、年中温暖な気候。
命を狙われる危険性はない。
苦労することなく、質の良い食事が与えられる。
此処に居る連中は日々を平穏に暮らせることに、何も感じていないのだろうか。
富裕層の人間ばかりだから、人生で一度も衣食住に困ったことなどないのだろう。
ポケットから板型のチョコレートを取り出す。
祖国ではあまり食べられなかった物だ。
この島にはたくさんある。
銀色の紙を破って、カカオの板を齧る。
パキンと小気味の良い音が鳴る。
月桂樹の上で食べるチョコレートは悪くない。
好きな時にチョコレートが食べられる。
こんな日が来るとは思わなかった。
空気は祖国よりは少し汚れているが、月桂樹の香りは気に入っていた。
此処では登山ができないが海がある。
想像以上に海は大きく、美しいものだった。
時間によって色が変わる。朝も昼も夜も綺麗だ。
此処を離れたら、海はもう見られないかもしれない。
あと何度、海が見られるだろう。
チョコレートを銜える。パキンと鳴った。
「あっ、エンジュだ! おーい!」
見下ろすとあいつが居た。ユウタ。寮も違うのにやたら絡まれる。
あれは何故いつも笑顔なのか。変だ。育ちの差か。
あいつの姉貴も面白くない状況で笑う。
そういう血筋か。笑う血か。変だ。
「あれ? エンジュー、何食べてるのー? 眩しくてよく見えないや」
チョコレートを銀の紙に包み、ポケットに入れる。
木から地面に降りた。
あいつが俺の顔を見ている。なんか変な顔だ。
「なんだ? 俺の顔に何か付いているか?」
「あっ、ううん。カッコイイなーって思って」
「カッコイイ?」
「あんな高い木から飛び降りちゃって平気なんだもん。
俺じゃあ、ぜったいムリ。あ、それで、さっき何食べてたの?」
ポケットから出して見せる。
「チョコ? エンジュ、チョコ好きなの?」
「ああ。お前は? 好きか?」
「あ、うん、好き」
「そうか」
カカオの板を半分に割る。さっきより大きな音がする。
片割れを差し出した。
「エンジュ、俺にくれるの? 半分も貰って良いの?」
「好きではないのか?」
「ううん。くれるとは思わなくてビックリしちゃった。ありがと。貰うね」
月桂樹の下で食べるチョコレートも悪くない。
木洩れ陽が、あいつの髪に当たって、きらきらと輝いている。
パキン、という音が増える。この音は良い音だ。
昔はよくこうして、食べ物を半分に分けていた。
それは嫌なことではなかった。
半分にした物を差し出すと、笑った顔が見れた。
ユウタがこちらを向く。
似ている。
「美味しいね。俺、板チョコ食べたの久し振りだよ。エンジュはよく食べるの?」
「食べる」
「このチョコ、なんて言うチョコ?」
「変なウサギのチョコレートだ」
「変なウサギ?」
「ああ。顔が怖い」
fin
■オーギュスト×アンリ
■アンリの日記より
■アンリの日記より
生徒が尋ねてもいないことには、勝手に講釈するくせに。
生徒の質問には回答しない。
そんな可笑しな教授が、僕の特別講義を受け持っている。
オーギュスト・ボージェ。40歳前後の紳士。
サン・ジェルマン家の者は、神秘学を修める習慣がある。
入学した日、当時の生徒代表にそう言われた。
僕が受けてみたい、と言った為に招かれた特別講師。
彼は講義にはフォーマルな格好で来る。スーツかベスト。
首許も開けずに、クロスタイを留めている。
間違ってもTシャツにジーンズなどでは来ない。
そう言えば、プライベートでもラフな格好はしていない。
せいぜいタイを外しているくらいで、襟のあるシャツを着ている。
彼が住んでいるのはメルキュール館。教職員の宿舎だ。
内装は生徒の部屋とさして変わらず、カスタマイズも可能。
彼の部屋を訪ねたことはある。
初めて入った時は、オカルティズムの権威なのだから、壁一面に魔法円があるとか、
可笑しな香りで清めていたりするのかと思っていたのだけど。
生徒の期待は呆気なく裏切られる。
綺麗に整頓された、こざっぱりとした部屋だった。
机の引き出しを開けたら、何か変なものが出てくるのかもしれないけれど。
彼のプライベートを僕はあまり知らない。
もう四年も彼の講義を受けているのに。
彼には掴み所ない部分がある。講義中も自分の話は殆どしない。
講義をしていない時の彼が、何処で何をしているのか。
単細胞の証言から、ジムで見掛けることはないそうだし、
よく外出するお調子者に聞いても、街で見たことはないと言う。
僕と同じで学内からあまり出ない生徒代表殿も、彼とは出会わないらしい。
時折、教授が一人で出掛けていく姿は見掛ける。
けれど、何処へ行くのかは解らない。
教えてくれないのだ。
神秘学の権威が好きそうな場所は何処か。
静かな喫茶店か、何処か神秘が宿る場所でも知っているのか。
そんなことを考えながら図書館へ向かっていた時だった。
正門の方に歩いている紳士。
シックな紺のコートを羽織っている。手には黒の鞄。
「オーギュ」
振り向いた教授は、僕を見て笑顔になった。
「ごきげんよう。アンリ」
「これから出掛けるところ?」
「うん」
「何処へ行くの?」
「ちょっとね」
「何処へ行くのかと聞いているの」
「アンリ、私とデートがしたいのかね?」
「違う」
教授は微笑んで、左手を上げる。
「ではまたね、アンリ」
「待って。まだ僕の質問に」
上げた左手を、ぽんと生徒の頭に乗せた。
「行き先を訊ねる人は、相手に好意を抱いていることが多い」
まただ。理屈っぽい口調が始まる。
「自分の目の届かないところで、相手が何をしているのか、
気になって仕方がない。この考え方の多くは好意的な感情から生じる。
例えば、小さな子を持つ親や、愛しい人の行動を知っておきたい場合だね」
「勝手なこと言わないで。僕は君に好意なんか感じてない」
「それでは私の行き先を知らなくても良いんじゃないのかね? では失礼するよ」
憎らしい後ろ姿。
紺の裾が翻るのを睨むことしか出来なかった。
僕は彼の背中ばかり見ている気がする。
fin
生徒の質問には回答しない。
そんな可笑しな教授が、僕の特別講義を受け持っている。
オーギュスト・ボージェ。40歳前後の紳士。
サン・ジェルマン家の者は、神秘学を修める習慣がある。
入学した日、当時の生徒代表にそう言われた。
僕が受けてみたい、と言った為に招かれた特別講師。
彼は講義にはフォーマルな格好で来る。スーツかベスト。
首許も開けずに、クロスタイを留めている。
間違ってもTシャツにジーンズなどでは来ない。
そう言えば、プライベートでもラフな格好はしていない。
せいぜいタイを外しているくらいで、襟のあるシャツを着ている。
彼が住んでいるのはメルキュール館。教職員の宿舎だ。
内装は生徒の部屋とさして変わらず、カスタマイズも可能。
彼の部屋を訪ねたことはある。
初めて入った時は、オカルティズムの権威なのだから、壁一面に魔法円があるとか、
可笑しな香りで清めていたりするのかと思っていたのだけど。
生徒の期待は呆気なく裏切られる。
綺麗に整頓された、こざっぱりとした部屋だった。
机の引き出しを開けたら、何か変なものが出てくるのかもしれないけれど。
彼のプライベートを僕はあまり知らない。
もう四年も彼の講義を受けているのに。
彼には掴み所ない部分がある。講義中も自分の話は殆どしない。
講義をしていない時の彼が、何処で何をしているのか。
単細胞の証言から、ジムで見掛けることはないそうだし、
よく外出するお調子者に聞いても、街で見たことはないと言う。
僕と同じで学内からあまり出ない生徒代表殿も、彼とは出会わないらしい。
時折、教授が一人で出掛けていく姿は見掛ける。
けれど、何処へ行くのかは解らない。
教えてくれないのだ。
神秘学の権威が好きそうな場所は何処か。
静かな喫茶店か、何処か神秘が宿る場所でも知っているのか。
そんなことを考えながら図書館へ向かっていた時だった。
正門の方に歩いている紳士。
シックな紺のコートを羽織っている。手には黒の鞄。
「オーギュ」
振り向いた教授は、僕を見て笑顔になった。
「ごきげんよう。アンリ」
「これから出掛けるところ?」
「うん」
「何処へ行くの?」
「ちょっとね」
「何処へ行くのかと聞いているの」
「アンリ、私とデートがしたいのかね?」
「違う」
教授は微笑んで、左手を上げる。
「ではまたね、アンリ」
「待って。まだ僕の質問に」
上げた左手を、ぽんと生徒の頭に乗せた。
「行き先を訊ねる人は、相手に好意を抱いていることが多い」
まただ。理屈っぽい口調が始まる。
「自分の目の届かないところで、相手が何をしているのか、
気になって仕方がない。この考え方の多くは好意的な感情から生じる。
例えば、小さな子を持つ親や、愛しい人の行動を知っておきたい場合だね」
「勝手なこと言わないで。僕は君に好意なんか感じてない」
「それでは私の行き先を知らなくても良いんじゃないのかね? では失礼するよ」
憎らしい後ろ姿。
紺の裾が翻るのを睨むことしか出来なかった。
僕は彼の背中ばかり見ている気がする。
fin
■夢のテオシナリオ最終回。長い間ありがとうございました
■一か月後:ユウタ 続編
■一か月後:ユウタ 続編
ギリシャ旅行から二か月。
テオの結婚式当日となった。ユウタの姉の元へメールが届いた。
メッセージは日本語だった。
――姉貴、元気? 俺、またギリシャに来てるよ。
テオの結婚式に俺も招待されたんだ。テレビで生中継やるんだって。
俺、カメラに映るかもしれないし、姉貴もテオの結婚式見ててくれよな。
P.S. 後でゆっくり見たいからビデオに録画しといて!――
弟からの無邪気なメール。
断るのも可笑しい気がして、姉は録画のセットをした。
同日夜。テオは教会の控え室に居た。
ギリシャの結婚式は、教会で行うのが一般的。
式が始まるのは夜。その後に夜通しのパーティがあるからだ。
白の燕尾服を身に付け、テオは花嫁が来るのを待っていた。
お待たせしました、という女性の世話係の声と共に、
着付け室から真っ白なウエディングドレスを纏った花嫁が現れた。
「これはこれは…純白の薔薇だね、美しいよ、フィリア嬢」
花婿から絶賛を受け、花嫁は俯いてしまう。
その表情を見て、花婿は言った。
「すまない、少し彼女と二人にしてくれるかい?」
畏まりました、と世話係達が下がる。
上質な控え室に二人きりになると、花婿は改めて花嫁を眺めた。
「美しい。やはり、これほど麗しい姿は独り占めにはできないね。
この式を世界に向けて発信することにして良かったよ。
フィリア嬢、少し顔を上げておくれ。とても美しいのに勿体無いよ」
やっと花婿と花嫁の目が合う。テオは落ち着いた声で話した。
「最後にもう一度伺うよ。後悔は、しないね?」
花嫁は目を合わせたまま、頷いた。
「はい」
「ありがとう。私もだ。ずっと迷っていたけれど、これが正しい答えなのだと思う。
それから、式が始まる前にひとつだけ、私と約束して貰えるかな?」
「何でしょう?」
「この先、困ったことがあれば、いつでも相談しておくれ? 必ず力になるよ」
「ありがとうございます、メネシス様」
「これから式を挙げるというのに、まだメネシスと呼んでくれるのかい?
私のことはテオで良いのだよ? テオと聞かせておくれ?」
「…テオ、様」
「嬉しい。その鈴が鳴るような美声で呼んで頂けて。しかし、不思議なものだね。
正直に申し上げると、婚約指輪を貴女に渡した時は不安ばかりだった。
けれど今では、貴女と婚約したこと、とても幸運だったと思っている。
フィリア嬢で良かった。心から感謝しているよ。ありがとう」
「私もです、テオ様。本当に、ありがとうございます」
花嫁の青い瞳から雫が零れ落ちる。
「おやおや。すまない。私の唇は余計なことばかり言ってしまうようだね」
花婿は自分の胸にあるポケットチーフを取る。
「涙にはまだ早いよ、フィリア嬢」
綺麗に折り畳まれていた布で、静かに花嫁の涙を抑える。
「涙で輝くサファイアもまた美しいけれどね」
「テオ様…」
お時間です、という声がして二人は顔を見合わせる。
花嫁は緊張した面持ちになった。
テオの右手は自然と上がり、彼女の頬を支えた。
「大丈夫だよ。今日は最高の結婚式になる。
気楽に楽しんでおくれ。こんな式は二度と上げられないよ?」
海運王の次期当主は楽しそうに笑い、花嫁に手を差し出した。
「さあ、参りましょう。お手をどうぞ、フィリア姫」
ユウタの姉はチューリップのネックレスを眺めていた。
もう式は始まっている時刻だが、まだ画面を付けていなかった。
あまり見たくはなかったが、テオのことが気になる。
リアルタイムで見ていないと、ユウタに何か言われるかもしれない。
テオの花婿姿を見守ることにした。
インターネットを介して、PC画面に映った人。
真っ白な燕尾服を着ているのは紛れもなく、テオだった。
服のデザインが聖アルフォンソ学院の制服によく似ている。
彼の隣には花嫁。金髪の美しい少女だった。
二人は荘厳なパイプオルガンの前で誓いの儀式を行っていた。
「健やかなるときも、病めるときも、
喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも」
初老の牧師が厳かに、誓いの言葉を唱えている。
「これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、
その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
テオは令嬢を見つめる。確かめ合うように頷き、笑顔で客席を振り向いた。
すると二人は小さく、せーの、と声を合わせた。
「誓いません」
会場がどよめく中、花婿は堂々と一歩前に進み出た。
「私達は互いに別の想い人が居ると解りました。
関係者の皆様、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。
ですが、彼女を、そして私自身も幸せになる方法は、
この結婚式を取り止めることだけなのです。
私達は今日、この場を持って婚約を破棄します」
花嫁が花婿を見上げる。二人は微笑み合っていた。
その笑顔は何より、当人同士が満足している結果だということが伝わるものだった。
花婿はカメラに顔を向けた。
「ここからは私信です。世界でたった一人の、
愛おしい人へ向けたメッセージになることをお許し下さい」
テオは礼をして、視線を上げる。
世界中の視聴者が見守る中、優しい声で呼び掛けた。
「サンベリーナ、久し振りだね。元気だったかな?」
海の向こうに届くように丁寧に言葉を紡いでいく。
「姫に伝えたいことがあるんだ。聞いてくれるかい?」
大らかで揺らぎのない声。
会場中が息を飲むように静まり返った。
「私の元にツバメが飛んで来たのだよ。姫の弟だ。
彼は私を花の国へ、貴女へと導いてくれた。
我々の仲間達に掛け合って、今、この瞬間が実現したんだよ。
全く、姫の弟は素晴らしい男だね。彼のおかげで私はようやく気付いたんだ。
やはり私は、貴女に会いたいのだと。
それに姫もあれから何度も私の夢に会いに来てくれた。
私も姫の元へ何度も会いに行ったのだけど、覚えているかい?
今度はぜひギリシャに、私の家で会いたいな。
私の家族も姫に会いたがっている。心配することはないよ。
みんな、解ってくれたんだ。両親も姉上も…私の幸せを願ってくれた。
おいでよ、姫。そうしたら今度は本当に、裏庭で膝枕をしたり、
サンセットクルーズができる。海は肌で感じるのが一番だからね?」
テオは微笑み、胸に右手を置いた。
「ああ、姫のことがこんなにも愛おしいのに、
どうして私は、貴女にさよならを言ったのだろう。
私の唇は本当のことしか話せないのだと思ってきたけれど、
私はあの時、生涯で最も大きな嘘を吐いたのだね。
本当は離れたくなんてなかった。姫のことが愛しくて堪らなかったのに」
<海運王とホテル王が結婚式当日に婚約破棄>
このニュースは、翌日、ギリシャに止まらず、世界を駆け巡ることになる。
両家とも相当のバッシングを覚悟した上での行為だった。
しかし、花婿の堂々としたスピーチと、彼を見つめる花嫁の微笑みは、
両家の関係者や世間に、この奇行をむしろ歓迎させてしまう。
政略結婚という悪例によくぞ終止符を打ったと、両家の新しい船出を祝ったのだ。
翌日から多くの人々に祝福されることを、この時の二人はまだ知らない。
テオは人生で最高の笑顔を見せる。
「夢では何度も伝えているけれど、もう一度、心を込めてお伝えするよ、##NAME1##」
それは世界を照らす恒星のようにあたたかい笑顔だった。
海の向こうに居る人へ手を差し出す。
「愛してる。貴女が私の太陽だ」
END(Theo ending)
テオの結婚式当日となった。ユウタの姉の元へメールが届いた。
メッセージは日本語だった。
――姉貴、元気? 俺、またギリシャに来てるよ。
テオの結婚式に俺も招待されたんだ。テレビで生中継やるんだって。
俺、カメラに映るかもしれないし、姉貴もテオの結婚式見ててくれよな。
P.S. 後でゆっくり見たいからビデオに録画しといて!――
弟からの無邪気なメール。
断るのも可笑しい気がして、姉は録画のセットをした。
同日夜。テオは教会の控え室に居た。
ギリシャの結婚式は、教会で行うのが一般的。
式が始まるのは夜。その後に夜通しのパーティがあるからだ。
白の燕尾服を身に付け、テオは花嫁が来るのを待っていた。
お待たせしました、という女性の世話係の声と共に、
着付け室から真っ白なウエディングドレスを纏った花嫁が現れた。
「これはこれは…純白の薔薇だね、美しいよ、フィリア嬢」
花婿から絶賛を受け、花嫁は俯いてしまう。
その表情を見て、花婿は言った。
「すまない、少し彼女と二人にしてくれるかい?」
畏まりました、と世話係達が下がる。
上質な控え室に二人きりになると、花婿は改めて花嫁を眺めた。
「美しい。やはり、これほど麗しい姿は独り占めにはできないね。
この式を世界に向けて発信することにして良かったよ。
フィリア嬢、少し顔を上げておくれ。とても美しいのに勿体無いよ」
やっと花婿と花嫁の目が合う。テオは落ち着いた声で話した。
「最後にもう一度伺うよ。後悔は、しないね?」
花嫁は目を合わせたまま、頷いた。
「はい」
「ありがとう。私もだ。ずっと迷っていたけれど、これが正しい答えなのだと思う。
それから、式が始まる前にひとつだけ、私と約束して貰えるかな?」
「何でしょう?」
「この先、困ったことがあれば、いつでも相談しておくれ? 必ず力になるよ」
「ありがとうございます、メネシス様」
「これから式を挙げるというのに、まだメネシスと呼んでくれるのかい?
私のことはテオで良いのだよ? テオと聞かせておくれ?」
「…テオ、様」
「嬉しい。その鈴が鳴るような美声で呼んで頂けて。しかし、不思議なものだね。
正直に申し上げると、婚約指輪を貴女に渡した時は不安ばかりだった。
けれど今では、貴女と婚約したこと、とても幸運だったと思っている。
フィリア嬢で良かった。心から感謝しているよ。ありがとう」
「私もです、テオ様。本当に、ありがとうございます」
花嫁の青い瞳から雫が零れ落ちる。
「おやおや。すまない。私の唇は余計なことばかり言ってしまうようだね」
花婿は自分の胸にあるポケットチーフを取る。
「涙にはまだ早いよ、フィリア嬢」
綺麗に折り畳まれていた布で、静かに花嫁の涙を抑える。
「涙で輝くサファイアもまた美しいけれどね」
「テオ様…」
お時間です、という声がして二人は顔を見合わせる。
花嫁は緊張した面持ちになった。
テオの右手は自然と上がり、彼女の頬を支えた。
「大丈夫だよ。今日は最高の結婚式になる。
気楽に楽しんでおくれ。こんな式は二度と上げられないよ?」
海運王の次期当主は楽しそうに笑い、花嫁に手を差し出した。
「さあ、参りましょう。お手をどうぞ、フィリア姫」
ユウタの姉はチューリップのネックレスを眺めていた。
もう式は始まっている時刻だが、まだ画面を付けていなかった。
あまり見たくはなかったが、テオのことが気になる。
リアルタイムで見ていないと、ユウタに何か言われるかもしれない。
テオの花婿姿を見守ることにした。
インターネットを介して、PC画面に映った人。
真っ白な燕尾服を着ているのは紛れもなく、テオだった。
服のデザインが聖アルフォンソ学院の制服によく似ている。
彼の隣には花嫁。金髪の美しい少女だった。
二人は荘厳なパイプオルガンの前で誓いの儀式を行っていた。
「健やかなるときも、病めるときも、
喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも」
初老の牧師が厳かに、誓いの言葉を唱えている。
「これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、
その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
テオは令嬢を見つめる。確かめ合うように頷き、笑顔で客席を振り向いた。
すると二人は小さく、せーの、と声を合わせた。
「誓いません」
会場がどよめく中、花婿は堂々と一歩前に進み出た。
「私達は互いに別の想い人が居ると解りました。
関係者の皆様、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。
ですが、彼女を、そして私自身も幸せになる方法は、
この結婚式を取り止めることだけなのです。
私達は今日、この場を持って婚約を破棄します」
花嫁が花婿を見上げる。二人は微笑み合っていた。
その笑顔は何より、当人同士が満足している結果だということが伝わるものだった。
花婿はカメラに顔を向けた。
「ここからは私信です。世界でたった一人の、
愛おしい人へ向けたメッセージになることをお許し下さい」
テオは礼をして、視線を上げる。
世界中の視聴者が見守る中、優しい声で呼び掛けた。
「サンベリーナ、久し振りだね。元気だったかな?」
海の向こうに届くように丁寧に言葉を紡いでいく。
「姫に伝えたいことがあるんだ。聞いてくれるかい?」
大らかで揺らぎのない声。
会場中が息を飲むように静まり返った。
「私の元にツバメが飛んで来たのだよ。姫の弟だ。
彼は私を花の国へ、貴女へと導いてくれた。
我々の仲間達に掛け合って、今、この瞬間が実現したんだよ。
全く、姫の弟は素晴らしい男だね。彼のおかげで私はようやく気付いたんだ。
やはり私は、貴女に会いたいのだと。
それに姫もあれから何度も私の夢に会いに来てくれた。
私も姫の元へ何度も会いに行ったのだけど、覚えているかい?
今度はぜひギリシャに、私の家で会いたいな。
私の家族も姫に会いたがっている。心配することはないよ。
みんな、解ってくれたんだ。両親も姉上も…私の幸せを願ってくれた。
おいでよ、姫。そうしたら今度は本当に、裏庭で膝枕をしたり、
サンセットクルーズができる。海は肌で感じるのが一番だからね?」
テオは微笑み、胸に右手を置いた。
「ああ、姫のことがこんなにも愛おしいのに、
どうして私は、貴女にさよならを言ったのだろう。
私の唇は本当のことしか話せないのだと思ってきたけれど、
私はあの時、生涯で最も大きな嘘を吐いたのだね。
本当は離れたくなんてなかった。姫のことが愛しくて堪らなかったのに」
<海運王とホテル王が結婚式当日に婚約破棄>
このニュースは、翌日、ギリシャに止まらず、世界を駆け巡ることになる。
両家とも相当のバッシングを覚悟した上での行為だった。
しかし、花婿の堂々としたスピーチと、彼を見つめる花嫁の微笑みは、
両家の関係者や世間に、この奇行をむしろ歓迎させてしまう。
政略結婚という悪例によくぞ終止符を打ったと、両家の新しい船出を祝ったのだ。
翌日から多くの人々に祝福されることを、この時の二人はまだ知らない。
テオは人生で最高の笑顔を見せる。
「夢では何度も伝えているけれど、もう一度、心を込めてお伝えするよ、##NAME1##」
それは世界を照らす恒星のようにあたたかい笑顔だった。
海の向こうに居る人へ手を差し出す。
「愛してる。貴女が私の太陽だ」
END(Theo ending)
■一か月後:メール 続編
「え? 姉貴が誰とも話さないなんて、珍しいじゃん?
いつもは煩いくらい、代われ代われ言うのにさ?」
何か言い返されるだろうとユウタは思っていたのだが、姉は俯いたままだった。
「姉貴? あっ、そう言えばさ、ギリシャのお土産、ちゃんと届いた?」
届いてるよ、と返す。
「じゃあ、届いたってメールぐらい送ってよ」
テオがギリシャ旅行の二日目に見つけてきたチューリップのネックレス。
それはユウタに預けられ、その他のお土産と一緒に姉の元へ送られた。
銀色の花は携帯越しに見るより、ずっと美しく、かなり高価な物のようだった。
この小さなチューリップを眺めていると、
たった三日間という短い間、呼ばれていた名前が鮮やかに甦ってくるのだ。
物珍しそうにテレビ電話を見つめる笑顔や、
あの呼び名を楽しげに叫ぶ声が思い出される。
最初に呼ばれた時は、恥ずかしさもあり、
可笑しな名前を付けられたものだと感じたが、
もう二度と、その名で呼ばれることはないのだと思うと、やけに懐かしく思えて。
机の上に置いた銀色の花を、呆然と眺めていることがあった。
花を首許に身に付ければ、ネックレスを合わせてみたいと言われた場面を思い出す。
大らかな声で「可愛いよ」と言う声が聞こえてくるような気がした。
彼の結婚式まであと一か月を残すのみだというのに。
「姉貴、あのさ」
弟の声で、また銀色のチューリップを見ていたと気付く。
なに? と返すと、弟は言った。
「もしかして、テオに会いたいの?」
姉はとっさに言葉を返せなかった。
弟は呆然と驚いたように自分を見つめていた。
「姉貴…」
姉は唐突に、じゃあね、と言って電話を切った。
弟の言葉が耳に残る。もう会ってはいけない相手なのに。
―― テオに会いたいの? ――
ユウタは切られた携帯電話を見つめていた。
テオと別れる前、ユウタは言った。姉貴のアドレス教えとこうか、と。
携帯を返す時のテオが、すごく辛そうだったから、つい言ってしまった。
でもテオは、今の姉貴みたいに首だけで、ううんってして。
「俺にウソ吐けると思ってんのかよ、姉貴」
弟は思わず苦笑してしまった。姉にではなく、たぶん、自分に。
自分でも変だと思うけど。でも。姉貴には幸せになって貰いたい。
「あーあ。俺ってやっぱ、シスコンなのかも」
携帯電話を握り締めた。
いつもは煩いくらい、代われ代われ言うのにさ?」
何か言い返されるだろうとユウタは思っていたのだが、姉は俯いたままだった。
「姉貴? あっ、そう言えばさ、ギリシャのお土産、ちゃんと届いた?」
届いてるよ、と返す。
「じゃあ、届いたってメールぐらい送ってよ」
テオがギリシャ旅行の二日目に見つけてきたチューリップのネックレス。
それはユウタに預けられ、その他のお土産と一緒に姉の元へ送られた。
銀色の花は携帯越しに見るより、ずっと美しく、かなり高価な物のようだった。
この小さなチューリップを眺めていると、
たった三日間という短い間、呼ばれていた名前が鮮やかに甦ってくるのだ。
物珍しそうにテレビ電話を見つめる笑顔や、
あの呼び名を楽しげに叫ぶ声が思い出される。
最初に呼ばれた時は、恥ずかしさもあり、
可笑しな名前を付けられたものだと感じたが、
もう二度と、その名で呼ばれることはないのだと思うと、やけに懐かしく思えて。
机の上に置いた銀色の花を、呆然と眺めていることがあった。
花を首許に身に付ければ、ネックレスを合わせてみたいと言われた場面を思い出す。
大らかな声で「可愛いよ」と言う声が聞こえてくるような気がした。
彼の結婚式まであと一か月を残すのみだというのに。
「姉貴、あのさ」
弟の声で、また銀色のチューリップを見ていたと気付く。
なに? と返すと、弟は言った。
「もしかして、テオに会いたいの?」
姉はとっさに言葉を返せなかった。
弟は呆然と驚いたように自分を見つめていた。
「姉貴…」
姉は唐突に、じゃあね、と言って電話を切った。
弟の言葉が耳に残る。もう会ってはいけない相手なのに。
―― テオに会いたいの? ――
ユウタは切られた携帯電話を見つめていた。
テオと別れる前、ユウタは言った。姉貴のアドレス教えとこうか、と。
携帯を返す時のテオが、すごく辛そうだったから、つい言ってしまった。
でもテオは、今の姉貴みたいに首だけで、ううんってして。
「俺にウソ吐けると思ってんのかよ、姉貴」
弟は思わず苦笑してしまった。姉にではなく、たぶん、自分に。
自分でも変だと思うけど。でも。姉貴には幸せになって貰いたい。
「あーあ。俺ってやっぱ、シスコンなのかも」
携帯電話を握り締めた。
■一か月後:メール 続編
「博士? あ、そっか。博士と話しすれば、
スッキリするかもね。よし。じゃ保健室まで行こっか」
弟はウーティス寮から離れた建物まで、姉を連れて行った。
カウンセラーに携帯を預けた弟は、
後で携帯取りに来ますと言い残し、保健室から退室した。
二人きりになると、早速、博士は姉に挨拶をした。
「こんにちは、##NAME1##。久しいね」
背景はいつものカウンセリングルーム。
インリテリアは落ち着いた色合いで揃えられている。
白衣の先生は眼鏡を掛け直しながら言った。
「丁度、君のことを考えていたところだよ。
##NAME1##と話がしたいと思っていたのでね。
すまないが、カルテの準備をするから、少し此処で待っていてくれるかい?」
カウンセリングルームに携帯を置き去りにして、医師は部屋を出て行く。
姉の前に映し出されているのは壁に飾られた、あたたかみのある絵画。
ギリシャとは違う、見慣れた光景に少し気が楽になるようだった。
しかし、カウンセラーが戻ってくるまでの間は、やはり少々落ち着かない。
この博士に待たされることは今に始まったことではないが、
姿が見えない時間が続くと、もう戻ってこないのではと思う時もあった。
やがて、先生は片手にカルテと抱え、すまない遅くなったね、と言いながら、
もう片方の手は白衣のポケットに入れた姿で現れた。
ぱさとカルテを机の上に置く。
ゆっくりと椅子に座ると、やっと博士と目が合った。
眼鏡の奥の瞳が、面白そうに笑う。
「君はまた、そんな顔をして…」
低音の含み笑い。
待たされた後にそう聞かされると、何故か褒められたように感じてしまう。
まるで『良い子で待っていられたね』と言われた感覚に陥る。
「さて。では私から幾つか質問をさせて貰うよ」
博士はカルテを盗み見てから話した。
「ウーティスのギリシャ旅行に、君も付いて行ったそうだね?
いや、今の言い方では少し語弊があるかな。
君は携帯電話を通して、テオ・メネシスと話したと聞いているよ」
ユウタが喋ったのだろうかと思いつつ、ええ、と答える。
「想像に難くないが、君はテオに色々と甘言を囁かれたんじゃないかな?
だが、あれは生まれながらの性質で、彼はもう結婚する身だ。解っているね?」
ユウタの姉は、はい、という声が僅かに小さくなる。
灰色の瞳は心の奥底まで探るようにこちらを見つめている。
「##NAME1##、君が気に病むことではないよ。
テオが決めた道だ。彼の思うように歩ませなさい。
もしその道が間違いだと思えば、引き返すことも可能なのだから」
博士は白衣のポケットに手を入れる。
「いや、すまない。そうでは、なくて」
どうも歯切れが悪い。先程から視線も泳いでいる。
このカウンセラーにしては珍しいことだ。
「テオが結婚するという話を聞いて、私も、
その、そろそろ身を固めようと思ったんだ」
白衣のポケットから出した手には小さな四角い箱。
長い指が静かに箱を開ける。
純白に輝く指輪が入っていた。
博士は揺らぐ視線をやっと正面に向けた。
「私のパートナーは、君以外に考えられない。
##NAME1##、ずっと私の傍に居て貰えないだろうか?」
END(Sokurov ending)
スッキリするかもね。よし。じゃ保健室まで行こっか」
弟はウーティス寮から離れた建物まで、姉を連れて行った。
カウンセラーに携帯を預けた弟は、
後で携帯取りに来ますと言い残し、保健室から退室した。
二人きりになると、早速、博士は姉に挨拶をした。
「こんにちは、##NAME1##。久しいね」
背景はいつものカウンセリングルーム。
インリテリアは落ち着いた色合いで揃えられている。
白衣の先生は眼鏡を掛け直しながら言った。
「丁度、君のことを考えていたところだよ。
##NAME1##と話がしたいと思っていたのでね。
すまないが、カルテの準備をするから、少し此処で待っていてくれるかい?」
カウンセリングルームに携帯を置き去りにして、医師は部屋を出て行く。
姉の前に映し出されているのは壁に飾られた、あたたかみのある絵画。
ギリシャとは違う、見慣れた光景に少し気が楽になるようだった。
しかし、カウンセラーが戻ってくるまでの間は、やはり少々落ち着かない。
この博士に待たされることは今に始まったことではないが、
姿が見えない時間が続くと、もう戻ってこないのではと思う時もあった。
やがて、先生は片手にカルテと抱え、すまない遅くなったね、と言いながら、
もう片方の手は白衣のポケットに入れた姿で現れた。
ぱさとカルテを机の上に置く。
ゆっくりと椅子に座ると、やっと博士と目が合った。
眼鏡の奥の瞳が、面白そうに笑う。
「君はまた、そんな顔をして…」
低音の含み笑い。
待たされた後にそう聞かされると、何故か褒められたように感じてしまう。
まるで『良い子で待っていられたね』と言われた感覚に陥る。
「さて。では私から幾つか質問をさせて貰うよ」
博士はカルテを盗み見てから話した。
「ウーティスのギリシャ旅行に、君も付いて行ったそうだね?
いや、今の言い方では少し語弊があるかな。
君は携帯電話を通して、テオ・メネシスと話したと聞いているよ」
ユウタが喋ったのだろうかと思いつつ、ええ、と答える。
「想像に難くないが、君はテオに色々と甘言を囁かれたんじゃないかな?
だが、あれは生まれながらの性質で、彼はもう結婚する身だ。解っているね?」
ユウタの姉は、はい、という声が僅かに小さくなる。
灰色の瞳は心の奥底まで探るようにこちらを見つめている。
「##NAME1##、君が気に病むことではないよ。
テオが決めた道だ。彼の思うように歩ませなさい。
もしその道が間違いだと思えば、引き返すことも可能なのだから」
博士は白衣のポケットに手を入れる。
「いや、すまない。そうでは、なくて」
どうも歯切れが悪い。先程から視線も泳いでいる。
このカウンセラーにしては珍しいことだ。
「テオが結婚するという話を聞いて、私も、
その、そろそろ身を固めようと思ったんだ」
白衣のポケットから出した手には小さな四角い箱。
長い指が静かに箱を開ける。
純白に輝く指輪が入っていた。
博士は揺らぐ視線をやっと正面に向けた。
「私のパートナーは、君以外に考えられない。
##NAME1##、ずっと私の傍に居て貰えないだろうか?」
END(Sokurov ending)
■一か月後:メール 続編
「こんちは、##NAME1##。旅行の後、全然電話掛かってこないからさ、
風邪でも引いてるのかなって、みんなも心配してたんだ。良かった、大丈夫みたいだね?」
ほんわかとした笑顔。いつもなら、こちらもほっとさせられるところだが、
テオのことが気になって、心から和むことができなかった。
「どうしたの、##NAME1##? やっぱり、元気ない?
あの、困ってることとかあるんなら、話して欲しいな。
えっと、自分の中に閉じ込めておくよりは、
言っちゃった方が気持ちが楽になることもあるし。
君は今まで俺の不安も愚痴も聞いてくれたからさ。
俺、君にはいつも助けて貰ってばかりだし。だから今度は俺の番。ね?」
そう言われて、テオのことが心配だと正直に伝えた。
婚約者と結婚するようだが辛そうだったことを。
話を聞いたハルヤは「テオがそんなこと言ったんだ」と少し驚いていた。
ハルヤが言うには、テオは婚約者については語らなかったらしい。
「俺達の前では、お、お嫁さんの話とかも全然しなかったよ。
だから、俺達も何も聞かなかったし。テオは納得してるのかと思ってたんだ」
ギリシャ旅行の別れ際も、テオはいつも通りの様子で、
ハルヤにはお土産のお菓子をたくさん持たせてくれた、とのことだった。
「でも、やっぱり、テオが決めたことだから。それは尊重しないと。
テオんちにはテオんちの事情があるんだろうし。
何も知らないのに、変に慰めるわけにもいかないから」
その言葉には重みがあった。ハルヤの家にも単純ではない事情がある。
梅香流家元の婚外子。かつて『梅ヶ家の紅梅』と呼ばれた踊り子は、
扇も稽古着も持たずに、この島に流れ着いたのだ。
「##NAME1##、そんなにテオのこと、心配?」
弱々しい声に姉は驚いた。
「俺、本当は、嫌だった」
彼は頬をピンクに染め、俯いていた。
「テオと君が楽しそうに話してるの見たら、すごく不安になって。
君がテオに取られちゃうんじゃないかって、思ってさ。
テオだけじゃなくて、他のみんなと君が話してるのも…子供みたいだけど、やっぱり嫌だった。
今回の旅行でやっと解ったんだ。俺、君のこと、独り占めにしたいんだって…解った」
恥ずかしそうに、目を閉じる。
ゆっくりと顔を上げた。
「好きだよ、##NAME1##」
END(Haruya ending)
風邪でも引いてるのかなって、みんなも心配してたんだ。良かった、大丈夫みたいだね?」
ほんわかとした笑顔。いつもなら、こちらもほっとさせられるところだが、
テオのことが気になって、心から和むことができなかった。
「どうしたの、##NAME1##? やっぱり、元気ない?
あの、困ってることとかあるんなら、話して欲しいな。
えっと、自分の中に閉じ込めておくよりは、
言っちゃった方が気持ちが楽になることもあるし。
君は今まで俺の不安も愚痴も聞いてくれたからさ。
俺、君にはいつも助けて貰ってばかりだし。だから今度は俺の番。ね?」
そう言われて、テオのことが心配だと正直に伝えた。
婚約者と結婚するようだが辛そうだったことを。
話を聞いたハルヤは「テオがそんなこと言ったんだ」と少し驚いていた。
ハルヤが言うには、テオは婚約者については語らなかったらしい。
「俺達の前では、お、お嫁さんの話とかも全然しなかったよ。
だから、俺達も何も聞かなかったし。テオは納得してるのかと思ってたんだ」
ギリシャ旅行の別れ際も、テオはいつも通りの様子で、
ハルヤにはお土産のお菓子をたくさん持たせてくれた、とのことだった。
「でも、やっぱり、テオが決めたことだから。それは尊重しないと。
テオんちにはテオんちの事情があるんだろうし。
何も知らないのに、変に慰めるわけにもいかないから」
その言葉には重みがあった。ハルヤの家にも単純ではない事情がある。
梅香流家元の婚外子。かつて『梅ヶ家の紅梅』と呼ばれた踊り子は、
扇も稽古着も持たずに、この島に流れ着いたのだ。
「##NAME1##、そんなにテオのこと、心配?」
弱々しい声に姉は驚いた。
「俺、本当は、嫌だった」
彼は頬をピンクに染め、俯いていた。
「テオと君が楽しそうに話してるの見たら、すごく不安になって。
君がテオに取られちゃうんじゃないかって、思ってさ。
テオだけじゃなくて、他のみんなと君が話してるのも…子供みたいだけど、やっぱり嫌だった。
今回の旅行でやっと解ったんだ。俺、君のこと、独り占めにしたいんだって…解った」
恥ずかしそうに、目を閉じる。
ゆっくりと顔を上げた。
「好きだよ、##NAME1##」
END(Haruya ending)
■一か月後:メール 続編
「##NAME1##! 風邪で声が出ないのかと思ってましたよ!」
長い髪を揺らして、シルヴァンが画面に近付く。
「今、ニッポンは風邪が流行っている時期でしょう? もう僕、心配で心配で!」
大丈夫ですよ、と姉は答える。
「良かったです。また貴女の笑顔が見られて、ほっとしましたよ。
あ、あの、##NAME1##? 僕のお土産のことなんですけど…」
先日、ユウタから荷物が送られた。
その中には、シルヴァンからのお土産も入っていた。
名産のオリーブオイルで作られたオリーブ石鹸。
ギリシャ土産としてはポピュラーで、人気のある品だそうだ。
「オリーブソープ、使って貰えました? お風呂で…」
可愛い箱に添えられたポストカードには、
『これで貴女のボディを、もっとつるつるにして下さいね』と書いてあったので、
お風呂で使っていた。そう伝えると、シルヴァンは何故か頬を赤らめた。
「そうですか…使って下さってありがとうございます、##NAME1##…」
言いながら、両手で笑顔を隠す。どうしたんですか、と聞いてみた。
「えっ!? な、何でもないですっ! 想像なんてしてないですからね! あっ」
気まずい沈黙に、シルヴァンが慌てふためく。
「ま、ま、待って下さい、##NAME1##! 僕、お年頃の男の子なので、ついちょっと、
すみません! そんな怒らないで下さいよ、##NAME1##! ##NAME1##~!!」
END(Sylvain ending)
長い髪を揺らして、シルヴァンが画面に近付く。
「今、ニッポンは風邪が流行っている時期でしょう? もう僕、心配で心配で!」
大丈夫ですよ、と姉は答える。
「良かったです。また貴女の笑顔が見られて、ほっとしましたよ。
あ、あの、##NAME1##? 僕のお土産のことなんですけど…」
先日、ユウタから荷物が送られた。
その中には、シルヴァンからのお土産も入っていた。
名産のオリーブオイルで作られたオリーブ石鹸。
ギリシャ土産としてはポピュラーで、人気のある品だそうだ。
「オリーブソープ、使って貰えました? お風呂で…」
可愛い箱に添えられたポストカードには、
『これで貴女のボディを、もっとつるつるにして下さいね』と書いてあったので、
お風呂で使っていた。そう伝えると、シルヴァンは何故か頬を赤らめた。
「そうですか…使って下さってありがとうございます、##NAME1##…」
言いながら、両手で笑顔を隠す。どうしたんですか、と聞いてみた。
「えっ!? な、何でもないですっ! 想像なんてしてないですからね! あっ」
気まずい沈黙に、シルヴァンが慌てふためく。
「ま、ま、待って下さい、##NAME1##! 僕、お年頃の男の子なので、ついちょっと、
すみません! そんな怒らないで下さいよ、##NAME1##! ##NAME1##~!!」
END(Sylvain ending)
■一か月後:メール 続編
「僕に何か用? もう僕には掛けて来ないと思っていたけれど。
君はギリシャでのアバンチュールを随分楽しんでいたようだったからね」
電話に出た天使は、予想以上にご立腹の様子だった。
今日のバニラボイスはとても冷たい。
「聡明な判断だと思うよ? 君って僕から見ても馬鹿ではないし。
やはり、錬金術師の家系より海運王を選んだ方が懸命だよね。
現状、資産力では僕の事業もメネシスには遠く及ばないし」
褒められているのか、怒られているのか微妙な表現だ。
おそらくは、後者なのだろうが。
それに、プライドの高いアンリが、自ら卑下するような言葉を発している。
逆に恐ろしい。かなり怒らせてしまっているようだ。
「そう言えば、女性は男性には理解し得ないミステリアスな部分があるって、
何処かの単細胞が前に言ってたんだけど、本当だったんだね」
アンリと話すようになって解ったことだが、彼は非常に嫉妬深い。
うっかり、この前ジョシュアと電話で話した、などと言ってしまえば、
「生徒代表殿と仲良くしたいのなら、僕に電話しなければ良いんじゃない?」
などとキツイ口調で言われる。しかし、それも慣れてしまえば、
不器用に妬いているだけなのだと解ってきたので、むしろ微笑ましかった。
「悪いけれど、特に用がないなら、もう電話を切ってもいいかな? 僕、忙しいから」
不貞腐れているアンリも可愛いのだが、とても本人には言えない。
ユウタの姉は良い言葉を思い付く。アンリの友人からの直伝だ。
噛み付かないで下さいよ、と言ってみた。
「それ、生徒代表殿の物真似? 似てないよ? それとも僕を怒らせたいの?」
最初から怒ってたじゃないですか、とも言えない。
「##NAME1##」
呼ばれて、は、はい、と返事する。琥珀の瞳に思い切り睨まれる。
「暫く電話掛けて来ないで」
ブチ、と通信が切断された。
ユウタの姉は携帯画面を見つめる。アンリは『暫く』と言った。
暫くすれば、また電話しても良いらしい。
天使のお怒りが治まった頃には「この前は悪かったね」と言われるのだろう。
数時間後には、もう後悔しているのかもしれない。
アンリはそういう人だと以前ジョシュアに言われていた。
「だから、アンリのことよろしくね。彼、君のこと本当に大切に想っているから」と。
END(Henri ending)
君はギリシャでのアバンチュールを随分楽しんでいたようだったからね」
電話に出た天使は、予想以上にご立腹の様子だった。
今日のバニラボイスはとても冷たい。
「聡明な判断だと思うよ? 君って僕から見ても馬鹿ではないし。
やはり、錬金術師の家系より海運王を選んだ方が懸命だよね。
現状、資産力では僕の事業もメネシスには遠く及ばないし」
褒められているのか、怒られているのか微妙な表現だ。
おそらくは、後者なのだろうが。
それに、プライドの高いアンリが、自ら卑下するような言葉を発している。
逆に恐ろしい。かなり怒らせてしまっているようだ。
「そう言えば、女性は男性には理解し得ないミステリアスな部分があるって、
何処かの単細胞が前に言ってたんだけど、本当だったんだね」
アンリと話すようになって解ったことだが、彼は非常に嫉妬深い。
うっかり、この前ジョシュアと電話で話した、などと言ってしまえば、
「生徒代表殿と仲良くしたいのなら、僕に電話しなければ良いんじゃない?」
などとキツイ口調で言われる。しかし、それも慣れてしまえば、
不器用に妬いているだけなのだと解ってきたので、むしろ微笑ましかった。
「悪いけれど、特に用がないなら、もう電話を切ってもいいかな? 僕、忙しいから」
不貞腐れているアンリも可愛いのだが、とても本人には言えない。
ユウタの姉は良い言葉を思い付く。アンリの友人からの直伝だ。
噛み付かないで下さいよ、と言ってみた。
「それ、生徒代表殿の物真似? 似てないよ? それとも僕を怒らせたいの?」
最初から怒ってたじゃないですか、とも言えない。
「##NAME1##」
呼ばれて、は、はい、と返事する。琥珀の瞳に思い切り睨まれる。
「暫く電話掛けて来ないで」
ブチ、と通信が切断された。
ユウタの姉は携帯画面を見つめる。アンリは『暫く』と言った。
暫くすれば、また電話しても良いらしい。
天使のお怒りが治まった頃には「この前は悪かったね」と言われるのだろう。
数時間後には、もう後悔しているのかもしれない。
アンリはそういう人だと以前ジョシュアに言われていた。
「だから、アンリのことよろしくね。彼、君のこと本当に大切に想っているから」と。
END(Henri ending)
■一か月後:メール 続編
「よっ! 電話してくれて嬉しいぜ。つか、かなりご無沙汰じゃん?
もう俺のこと忘れちまったのかと思ってたんだからな?
テオんち行ってから、##NAME1##、全然連絡よこさねーし」
アルフレッドは子供のように口を尖らせている。
「##NAME1##、テオのこと、考えてたんじゃねーだろうな?
俺は君のことばっか考えてんのに、
サンセットクルーズ中もテオと二人で何処か消えちまうし!
なかなか帰ってこないから、俺、探しに行ったんだぞ!」
レッドは怒鳴るように言葉をぶつけていた。
自棄になっていると、本人も気付いているのだが、
ここ一か月も自分の中で燻っていた想いをこれ以上留めて置けなかった。
「ギリシャに行って思い知らされたよ。この俺が、
どーしようもないくらい、君に惚れてるってことがよーく解った!
悪いけどな! 君が誰のこと好きでも、俺のは変わらないっ!
もし君がテオのこと好きになっちまったってんなら、この手で奪い返すまでだ!
どーなんだよ、##NAME1##! それでも君は、あの伊達男の方が良いって言うのかよ!?」
ユウタの姉はここまで必死な彼を見たことはなかった。
語気は荒いが、まるで主人に捨てられそうな猛犬のようだ。
ユウタの姉は自分の正直な想いを伝える。私はレッドさんが好きですよ、と答えた。
すると彼は、急に威勢が無くなって耳を赤くする。ぼそりと呟いた。
「…なら、テオに優しくすんなよ。俺が今まですげー心配してたのバカみたいじゃん」
しゅんとなったのも束の間、また自棄になって叫ぶ。
「あー! なんで君の前でだけこんなカッコ悪ぃんだ、俺は!
何年も役者やってきたのに、カッコイイ演技のひとつもできねえっ!」
ユウタの姉は思わず笑ってしまう。そして彼にちゃんと伝えた。
演技してるレッドさんも、演技してないレッドさんも好きですよ、と。
彼は一瞬、虚を衝かれた顔を見せ、肩を竦めた。
「…ったく。さすがユウタの姉貴だな」
姉が首を傾げる。
「いーや、コッチのこと! んじゃ、俺、そろそろ行くわ」
うん、と頷くと、画面にレッドの笑顔が迫った。
「なあ、携帯、耳に当ててくれる?」
姉は言われる通りにする。彼の囁きが聞こえた。
「おやすみ、##NAME1##。愛してるぜ」
END(Alfred ending)
もう俺のこと忘れちまったのかと思ってたんだからな?
テオんち行ってから、##NAME1##、全然連絡よこさねーし」
アルフレッドは子供のように口を尖らせている。
「##NAME1##、テオのこと、考えてたんじゃねーだろうな?
俺は君のことばっか考えてんのに、
サンセットクルーズ中もテオと二人で何処か消えちまうし!
なかなか帰ってこないから、俺、探しに行ったんだぞ!」
レッドは怒鳴るように言葉をぶつけていた。
自棄になっていると、本人も気付いているのだが、
ここ一か月も自分の中で燻っていた想いをこれ以上留めて置けなかった。
「ギリシャに行って思い知らされたよ。この俺が、
どーしようもないくらい、君に惚れてるってことがよーく解った!
悪いけどな! 君が誰のこと好きでも、俺のは変わらないっ!
もし君がテオのこと好きになっちまったってんなら、この手で奪い返すまでだ!
どーなんだよ、##NAME1##! それでも君は、あの伊達男の方が良いって言うのかよ!?」
ユウタの姉はここまで必死な彼を見たことはなかった。
語気は荒いが、まるで主人に捨てられそうな猛犬のようだ。
ユウタの姉は自分の正直な想いを伝える。私はレッドさんが好きですよ、と答えた。
すると彼は、急に威勢が無くなって耳を赤くする。ぼそりと呟いた。
「…なら、テオに優しくすんなよ。俺が今まですげー心配してたのバカみたいじゃん」
しゅんとなったのも束の間、また自棄になって叫ぶ。
「あー! なんで君の前でだけこんなカッコ悪ぃんだ、俺は!
何年も役者やってきたのに、カッコイイ演技のひとつもできねえっ!」
ユウタの姉は思わず笑ってしまう。そして彼にちゃんと伝えた。
演技してるレッドさんも、演技してないレッドさんも好きですよ、と。
彼は一瞬、虚を衝かれた顔を見せ、肩を竦めた。
「…ったく。さすがユウタの姉貴だな」
姉が首を傾げる。
「いーや、コッチのこと! んじゃ、俺、そろそろ行くわ」
うん、と頷くと、画面にレッドの笑顔が迫った。
「なあ、携帯、耳に当ててくれる?」
姉は言われる通りにする。彼の囁きが聞こえた。
「おやすみ、##NAME1##。愛してるぜ」
END(Alfred ending)
■一か月後:メール 続編
「##NAME1##、電話してくれてありがとう」
画面に王子様の笑顔が映る。
以前、ハルヤがジョシュアについて「いつまでも見つめていたい」
という感想を述べていたことがあるが、それも頷けてしまう。
「久し振りだね。やっと話せて嬉しいよ」
私もです、と返事をすると、彼の視線は右下を向いた。
「実は生徒代表室から、何度か電話を掛けようとしたんだけど、
もし、君が俺を必要としていないのなら、君の迷惑になってしまうと思うと、
掛けられなくて、でも、ずっと##NAME1##に会いたかった」
ジョシュアは視線を上げる。
「俺、これからも君に電話しても良いのかな?」
もちろんです、と答える。ジョシュアは笑顔を見せた。
「良かった。あ、俺ばかり話してすまない。何か用事だったんだよね?」
姉は、声が聞きたかっただけです、と言った。
するとジョシュアは少し頬を染めた。
「##NAME1##…ありがとう。嬉しいよ。君にそう言って貰えるなんて。
俺も##NAME1##の声、聞きたかったから」
二人とも照れて黙ってしまったが、幸せな沈黙だった。
「あ、それじゃあ、今日は失礼するよ。電話ありがとう。またね」
はにかんだ笑顔でジョシュアは伝えた。
「おやすみ。愛してるよ、##NAME1##」
END(Joshua ending)
画面に王子様の笑顔が映る。
以前、ハルヤがジョシュアについて「いつまでも見つめていたい」
という感想を述べていたことがあるが、それも頷けてしまう。
「久し振りだね。やっと話せて嬉しいよ」
私もです、と返事をすると、彼の視線は右下を向いた。
「実は生徒代表室から、何度か電話を掛けようとしたんだけど、
もし、君が俺を必要としていないのなら、君の迷惑になってしまうと思うと、
掛けられなくて、でも、ずっと##NAME1##に会いたかった」
ジョシュアは視線を上げる。
「俺、これからも君に電話しても良いのかな?」
もちろんです、と答える。ジョシュアは笑顔を見せた。
「良かった。あ、俺ばかり話してすまない。何か用事だったんだよね?」
姉は、声が聞きたかっただけです、と言った。
するとジョシュアは少し頬を染めた。
「##NAME1##…ありがとう。嬉しいよ。君にそう言って貰えるなんて。
俺も##NAME1##の声、聞きたかったから」
二人とも照れて黙ってしまったが、幸せな沈黙だった。
「あ、それじゃあ、今日は失礼するよ。電話ありがとう。またね」
はにかんだ笑顔でジョシュアは伝えた。
「おやすみ。愛してるよ、##NAME1##」
END(Joshua ending)
■4日目:メネシス家 続編
ウーティス寮生はギリシャから聖アルフォンソ島へ戻った。
休暇も終わり、講義が再開する。
ギリシャ旅行からもうひと月ほど過ぎていた。
ユウタの姉は、あれから弟の携帯へ一度も電話していない。
携帯を触っているとメールを読み返していたりする。
他のメールとは違う英文のメッセージ。
『miss you』
『call me』
今、電話を掛けても、もうテオには繋がらない。
テオと過ごした三日間を、まだ鮮明に覚えていた。
綺麗な夕陽よりも、辛そうだった彼の顔が焼き付いて離れない。
彼は今頃何をしているのだろう、と考えてしまう。
そんな状態でいたため、ウーティスに電話することを躊躇っていた。
ある夜。メールが届いた。
メッセージに綴られていたのは、漢字とひらがな。
よく見慣れている日本語。弟からだった。
―― おーい、姉貴ー! 風邪でも引いた?
最近全然電話してこないから、みんな姉貴のこと心配してるよ。
元気だったら、ちょっと電話して貰えないかな? ――
そんなメールを貰って、無視するわけにもいかず、
久し振りに電話をすることにした。
画面に映った弟の顔が、なんだか懐かしい。
「姉貴ー! あー、良かった、電話して貰えて。
なんか、みんなが色々言うから、俺、ほんとに心配になってきちゃってさ。
だいじょうぶ、だよね? 病気とか事故とか、ないよね?」
ないよ、と姉は答える。
それまで本当に心配そうな顔をしていた弟は、ほっと息を吐いた。
「なら良いんだけど。あ、誰かと話す? てゆうか、話してくれないかな?
ここんとこ、みんなに姉貴のこと聞かれてさ、困ってたんだよね。で、誰と代わろっか?」
→ジョシュア
→アルフレッド
→アンリ
→シルヴァン
→ハルヤ
→ソクーロフ博士
→ユウタ
休暇も終わり、講義が再開する。
ギリシャ旅行からもうひと月ほど過ぎていた。
ユウタの姉は、あれから弟の携帯へ一度も電話していない。
携帯を触っているとメールを読み返していたりする。
他のメールとは違う英文のメッセージ。
『miss you』
『call me』
今、電話を掛けても、もうテオには繋がらない。
テオと過ごした三日間を、まだ鮮明に覚えていた。
綺麗な夕陽よりも、辛そうだった彼の顔が焼き付いて離れない。
彼は今頃何をしているのだろう、と考えてしまう。
そんな状態でいたため、ウーティスに電話することを躊躇っていた。
ある夜。メールが届いた。
メッセージに綴られていたのは、漢字とひらがな。
よく見慣れている日本語。弟からだった。
―― おーい、姉貴ー! 風邪でも引いた?
最近全然電話してこないから、みんな姉貴のこと心配してるよ。
元気だったら、ちょっと電話して貰えないかな? ――
そんなメールを貰って、無視するわけにもいかず、
久し振りに電話をすることにした。
画面に映った弟の顔が、なんだか懐かしい。
「姉貴ー! あー、良かった、電話して貰えて。
なんか、みんなが色々言うから、俺、ほんとに心配になってきちゃってさ。
だいじょうぶ、だよね? 病気とか事故とか、ないよね?」
ないよ、と姉は答える。
それまで本当に心配そうな顔をしていた弟は、ほっと息を吐いた。
「なら良いんだけど。あ、誰かと話す? てゆうか、話してくれないかな?
ここんとこ、みんなに姉貴のこと聞かれてさ、困ってたんだよね。で、誰と代わろっか?」
→ジョシュア
→アルフレッド
→アンリ
→シルヴァン
→ハルヤ
→ソクーロフ博士
→ユウタ
■3日目:太陽が沈む時 続編
ゼノ衣装デザイン:蔦様
ゼノ衣装デザイン:蔦様
メネシスの邸には日常が戻りつつあった。
午前は次期当主のご友人方を丁重にお送りし、
午後には家の者達がつつがなく客室の片付けを行った。
部屋の掃除、洗濯、ベッドメイキング。
ゲストの多い家なのでメイド達には普段と特別変わりないことだった。
今回のお客様はお綺麗な方ばかり、と楽しげに噂している者達は居たが。
彼等にはまた客人が来て去っていったに過ぎないのだ。
磨かれた廊下を歩きながら、次期当主の専属執事はそんなことを考えていた。
一日が終わり、執事は自室に戻った。地位と比べれば小さな部屋らしい。
初めは、幼い姉弟の世話係としてこの家に入ったのが、今や次期当主の右腕。
願い出れば、もっと大きな部屋を与えられる地位にあった。
実際、既に違う部屋に移るかと聞かれたこともあるのだが、
住み慣れた部屋に不自由も感じていないので、このままだった。
後は明日に備えて眠るだけだ。
眼鏡を外す。細型のシャープなデザインで視野は狭い。
レンズに覆われていない緑翠の瞳は憂いを帯びていた。
紺色のベストを脱ぐ。上等な布で肌触りが良い。
この家の使用人は皆、メネシスと親交のある老舗ブランドが、
特注で製作したものを着用していた。
嵌めていたアームバンドを取る。渋味のある落ち着いた金色。
ウイングカラーシャツは礼服にも用いられるフォーマルなもの。
胸の位置にはプリーツが入り、釦は当然のように全て留まっている。
一番上の釦を外す。襟から覗く白い首筋には一本の銀色の光。
釦を外しながら、頭の中ではまた余計なことを考えている。
原因は解ってる。東洋の姫君。あの御方のせいだ。
おかげで私の主人は夕食も召し上がれなかったし、
私は、遠い過去ばかり思い出している。
例えば、あの日。
海運王の家は朝から慌ただしかった。
通称メネシスパーティと呼ばれる大きな饗宴の日だった。
年に何度か、親戚や関係者を招待する享楽的な催し。
テーブルには贅を尽くした料理が並ぶ。
この場で美酒を片手に新しいビジネスが生まれることもざらだ。
ギャラリーではメネシスが手を掛けた芸術家の作品が展示される。
招かれた美術商に見初められて、後に名を馳せる者も居た。
メネシスのお子様は二人。ご両親に似た美しい幼い姉弟。
弟のテオ様は三歳。大きな瞳に、ぷっくりとした頬が可愛らしい。
天然の巻き髪は黄金色。触り心地の良い髪はよく人に撫でられていた。
やっと喋れるようになってきて、お喋りが楽しくて堪らない時期だった。
今日のパーティではテオ様が、お客様の前でご挨拶されることになっていた。
テオ様は今、お着替え中。
くりくりとした目は、目の前にある眼鏡レンズをじいっと眺めていた。
眼鏡を掛けている青年が、姉弟の世話係であるゼノ・エリティス。
世話係も金髪だが、テオ様よりも少し色が明るい。クセはなくストレート。
この時、二十歳。仕事振りはそつがなく、完璧主義のきらいがあった。
話をして気を引きながら、ミニチュアなタキシードを着せていく。
「テオ様、今日がご挨拶の日ですよ。覚えていますか?」
「ごあいさつー? あ、『ておです、さんさいです』」
「そうです。もう完璧ですね」
「てお、かんぺきー」
今日もご機嫌が良く、順調に身支度が進んでいく。
首許に小さなネクタイを結んでいると、突然、視界が暗くなった。
眼鏡レンズに、小さな人差し指が触れていた。
「あ、あの、テオ様?」
きらきらとした笑顔で眼鏡を突いている。
「これっ、なまえ、なあに?」
最近のテオ様は、物の名前を覚えること、周囲の人の真似をすることを好まれる。
家の者達は、まねっこ好きなテオ様の前で、可笑しなことができなくなった。
大きなまんまるの目は、人のちょっとした仕草を捉える。
弟は姉が大好きで、姉と同じ扱いにされると喜んだ。
何でも「ておも」と叫び、周囲を困らせることもあった。
「ぜのー、これ、なまえっ」
「眼鏡です」
「めー、がー、ね?」
「はい」
「めがねー」
新しく覚えた言葉で悦に入る。眼鏡から手をぱっと離された。
その隙に世話係は眼鏡を外し、レンズを拭いた。
すると今度は、眼鏡を掛けていない顔が珍しいのか、じいっと見つめる。
眼鏡フレームを指差した。
「ておも、めがね、ここっ」
ご自分の目許に手でぱちぱち触れる。
「テオ様は眼鏡をしなくても良いのですよ?」
「めがねー、いっしょー」
世話係は仕方なくご命令に従う。そっと眼鏡を掛けて差し上げる。
眼鏡をかけたテオ様は、きょとんとした顔になり、頭がぐらりと揺れた。
世話係は慌てて、頭を支える。その頭が、いやいやと振られたので静かに外した。
ちょっとした恐怖体験をしたテオ様は、眼鏡を見る目が少し怯えていた。
世話係は微笑んで、眼鏡を差し出す。
「テオ様、もう一度、お貸ししましょうか?」
首を激しく横に振り、眼鏡を押し返した。
「めがね、ぜのの」
「ありがとうございます」
返された眼鏡を元あった位置に戻した。
ドアがノックされた。
どうぞ、と世話係が言うと、白のロングドレスを纏った少女が現れた。
パーティの日はお姉様もこのような衣装をお召しになる。
髪はテオ様と同じブロンド。柔らかなパーマがきらきらと美しい。
ドレス姿は見慣れている。決して華美なデザインではない。
なのに、少女の姿に目を奪われた。
テオ様は世話係の腕を擦り抜けて、駆け寄る。
「あねうえっ! かわいー!」
「ありがとう、テオ」
「かわいー! かわいー!」
ドレスに顔を埋めてから、ぱっと顔を上げる。
「あっ!」
「どうしたの、テオ?」
何を思ったか弟はくるりと反転して棚に向かう。その前に座る。
絵本がびっしり入った本棚から、一冊ずつ本を出して、ぽいと後ろに除ける。
首を捻りながら動作を繰り返している。探しているものが見付からない様子だ。
世話係はピンと来て、棚の中からその一冊を抜き出した。
テオ様に「これですか?」と見せると、びしっと指を差して「これっ」と仰った。
弟はその絵本を抱えて、お姉様の元へ走っていく。
目の前まで来ると、両手で絵本を掲げた。
「あねうえっ、いっしょ!」
表紙にお姫様が描かれている絵本。
お姉様がお召しのドレスと色が似ていた。世話係がテオ様の通訳をする。
「このお姫様のようにお美しい、と仰っているのでしょう。
昨日、この絵本を読んで差し上げたので」
「そう。ありがとう、テオ。テオもとっても可愛い」
いいこいいこして貰った弟は、てへへへと笑う。
次に、お姉様の頭を指差した。肩までの金髪は綺麗なウエーブ。
頭の右と左には艶々とした飾り紐。
「あねうえっ、ここ、なあに?」
「リ、ボ、ン」
「り、ぼ、ん?」
「そう。リボン」
「りぼん、ておも、ておもっ、ここ!」
「うん。じゃあ、後でしてあげる」
「あとで?」
「パーティが終わったらテオの番。順番よ、テオは守れる?」
「てお、じゅんばん、まもれる!」
「偉い子ね、テオ」
メネシスパーティが開幕した。ホールはお客様でいっぱいだ。
テオ様はお姉様と一緒にステージに上がった。世話係は舞台下から見守っていた。
お客様方は、テオ様のことを将来はこの家の当主になると解って見ている。
メネシス家のご長男は、お姉様が持って下さるマイクの前でご挨拶した。
「ておです! さんさいです!」
自信満々に差し出した手は、三本ではなく、四本指になっていた。
小指を親指で押さえることが、まだできなかった。
お姉様は微笑みながら、「大きな声で言えたね、テオ」と頭を撫でる。
それを合図に、会場は笑顔と拍手に包まれた。
その後、お姉様とテオ様の元には、たくさんのお客様が挨拶に来られた。
テオ様は全く人見知りをせず「ておです!」と笑顔で繰り返していた。
お客様は『お優しいお姉さん』『利発なお坊ちゃん』と褒め称え、お世辞か本心か、
「うちの息子のお嫁さんに欲しいくらいですよ」と言う赤ら顔の輩が居た。
ダフネ様の困った微笑を見て、世話係が口を開こうとした時だった。
テオ様が、その輩とお姉様の間に立ちはだかった。
「だめっ! あねうえ、ておのおよめさん!」
世話係は昨日、絵本を読んで差し上げたことを心の底から良かったと思った。
『お姫様は王子様と結婚しました』で終わる物語だったのだ。
テオ様に、ケッコンってなあに、と尋ねられ、
お好きな人といつまでも一緒に居ることですよ、と教えていた。
「あねうえ、ておとケッコンするの! ねっ、あねうえっ?」
赤ら顔の男は「それは失礼しました」と豪快に笑いながら、その場を立ち去った。
「おやすみなさい、父上、母上」
ホールではまだ宴が続いていたが、まだ小さいご姉弟は先に退席する。
お姉様が両親の頬にキスをすると、彼等からも頬にキスを受けていた。
「おやすみ、ダフネ。いいゆめを」
それを見た弟は、おぼつかない足取りでやってくる。
ぐい、と両親の服をひっぱり、最近の口癖を言った。
「ておも、ておも!」
はいはい、と笑いながら両親は幼い息子にキスをしていた。
頬にキスをされた幼い子供は「いっしょー」と喜んでいた。
世話係はその微笑ましい家族の様子を遠巻きに見ていた。
両親におやすみを言って、戻ってきた姉弟を連れ、ホールを出て行く。
会場を出ると、廊下は少し涼しかった。
世話係はお二人を部屋まで送る。
姉と弟の部屋は別々ではなかった。
邸は広く、個人の部屋を与えることは出来るのだが、
姉が弟を大層可愛がっていた為、同じ部屋にして欲しいと願ったのだ。
姉は弟と手を繋いで、廊下を歩いている。
まだ歩くのが遅い弟に合わせ、かなりゆっくりとしたペースだ。
部屋に着くと、世話係はドアを開ける。
手を繋いだ姉弟が入るのを見てから、自分も入りドアを閉めた。
カーテンがまだ開いていた。するすると引く。
明日のお召し物の用意をしながら、ご姉弟の会話を聞いていた。
「あねうえっ、りぼん、りぼんー」
ダフネ様はご自分のリボンを片方外して、テオ様の髪に付けていた。
まだ短い黄金の髪にリボンが結ばれる。
「はい、できた」
弟を鏡の前に連れて行く。
鏡にはお揃いのリボンをつけた姉弟が映る。
テオ様は鏡に近付いて、指差した。
「てお、あねうえ、いっしょー」
嬉しそうな笑顔から、ふわわわ、と欠伸をされた。
「テオ、いらっしゃい。パジャマに着替えましょう」
上等な布で作られた黄色の布を腕に通している。
弟は姉がボタンを留めてくれる様子を見ていた。
くりくりとした大きな目が、自分の胸許をじいっと見ている。
「あねうえ、あねうえっ」
「はい?」
小さな指がパジャマに付いている丸い物を指差した。
「これっ、なまえ!」
「ボ、タ、ン」
「ぼ、た、ん?」
「うん。ボタン」
「ぼたん…」
幼い弟は覚えたての言葉に、めちゃくちゃな音程を付けて繰り返した。
「ぼ、たー、んっ、ぼ、たー、んっ♪」
「テオは歌が上手ね」
「てお、じょーず!」
姉は弟の行動を何でも褒めた。
何か失敗した時も決して叱らず、ここまでは出来たね、と指摘していた。
この姉が両親にそう育てられていた。
おかげで弟も失敗を恐れず、どんなことにも興味を持った。
今は得意げに『ボタンの歌』を歌っている。
世話係は明日のお召し物の用意を整え、退室しようとした。
「私はこれで失礼致します。おやすみなさいませ、ダフネ様、テオ様」
弟は世話係の様子を真似て、ぴょこんと頭を下げる。
「おやすみ、なさいませっ」
世話係は微笑んで、もう一度頭を下げる。
「待って、ゼノ。忘れ物があります」
お姉様に呼び止められた。
世話係は辺りを見渡すが、忘れている物などない。
「ゼノ、少ししゃがんで?」
「え? は、はい」
よく解らないまま、言われた通りにする。
ちゅ、と頬に何か触った。
驚いて顔を上げると無邪気な少女の笑顔。
「ゼノにも、おやすみのキスです」
「…ダフネ様。私にまで、なさらなくても」
「おやすみのキスは、いけないこと?」
「それは…」
ぐい、と世話係の服がひっぱられた。
握っていたのは弟だ。
子供の力は意外と強いもので、思わず上体が曲がる。
あっ、と思った時にはもう、頬は上書きされていた。
弟は満面の笑顔だった。
「いっしょー!」
メネシスのありふれた日常。
明日も明後日も、繰り返されるものだと思っていた。
けれど、この先には二度とない。
私はご姉弟の世話係から、次期当主の専属執事になっていた。
執事は胸元に下がるネックレスをそっと握る。
目を閉じて、心を落ち着かせてから、その言葉を唱える。
いつからか就寝の儀式になっていた。
「おやすみ。いいゆめを」
午前は次期当主のご友人方を丁重にお送りし、
午後には家の者達がつつがなく客室の片付けを行った。
部屋の掃除、洗濯、ベッドメイキング。
ゲストの多い家なのでメイド達には普段と特別変わりないことだった。
今回のお客様はお綺麗な方ばかり、と楽しげに噂している者達は居たが。
彼等にはまた客人が来て去っていったに過ぎないのだ。
磨かれた廊下を歩きながら、次期当主の専属執事はそんなことを考えていた。
一日が終わり、執事は自室に戻った。地位と比べれば小さな部屋らしい。
初めは、幼い姉弟の世話係としてこの家に入ったのが、今や次期当主の右腕。
願い出れば、もっと大きな部屋を与えられる地位にあった。
実際、既に違う部屋に移るかと聞かれたこともあるのだが、
住み慣れた部屋に不自由も感じていないので、このままだった。
後は明日に備えて眠るだけだ。
眼鏡を外す。細型のシャープなデザインで視野は狭い。
レンズに覆われていない緑翠の瞳は憂いを帯びていた。
紺色のベストを脱ぐ。上等な布で肌触りが良い。
この家の使用人は皆、メネシスと親交のある老舗ブランドが、
特注で製作したものを着用していた。
嵌めていたアームバンドを取る。渋味のある落ち着いた金色。
ウイングカラーシャツは礼服にも用いられるフォーマルなもの。
胸の位置にはプリーツが入り、釦は当然のように全て留まっている。
一番上の釦を外す。襟から覗く白い首筋には一本の銀色の光。
釦を外しながら、頭の中ではまた余計なことを考えている。
原因は解ってる。東洋の姫君。あの御方のせいだ。
おかげで私の主人は夕食も召し上がれなかったし、
私は、遠い過去ばかり思い出している。
例えば、あの日。
海運王の家は朝から慌ただしかった。
通称メネシスパーティと呼ばれる大きな饗宴の日だった。
年に何度か、親戚や関係者を招待する享楽的な催し。
テーブルには贅を尽くした料理が並ぶ。
この場で美酒を片手に新しいビジネスが生まれることもざらだ。
ギャラリーではメネシスが手を掛けた芸術家の作品が展示される。
招かれた美術商に見初められて、後に名を馳せる者も居た。
メネシスのお子様は二人。ご両親に似た美しい幼い姉弟。
弟のテオ様は三歳。大きな瞳に、ぷっくりとした頬が可愛らしい。
天然の巻き髪は黄金色。触り心地の良い髪はよく人に撫でられていた。
やっと喋れるようになってきて、お喋りが楽しくて堪らない時期だった。
今日のパーティではテオ様が、お客様の前でご挨拶されることになっていた。
テオ様は今、お着替え中。
くりくりとした目は、目の前にある眼鏡レンズをじいっと眺めていた。
眼鏡を掛けている青年が、姉弟の世話係であるゼノ・エリティス。
世話係も金髪だが、テオ様よりも少し色が明るい。クセはなくストレート。
この時、二十歳。仕事振りはそつがなく、完璧主義のきらいがあった。
話をして気を引きながら、ミニチュアなタキシードを着せていく。
「テオ様、今日がご挨拶の日ですよ。覚えていますか?」
「ごあいさつー? あ、『ておです、さんさいです』」
「そうです。もう完璧ですね」
「てお、かんぺきー」
今日もご機嫌が良く、順調に身支度が進んでいく。
首許に小さなネクタイを結んでいると、突然、視界が暗くなった。
眼鏡レンズに、小さな人差し指が触れていた。
「あ、あの、テオ様?」
きらきらとした笑顔で眼鏡を突いている。
「これっ、なまえ、なあに?」
最近のテオ様は、物の名前を覚えること、周囲の人の真似をすることを好まれる。
家の者達は、まねっこ好きなテオ様の前で、可笑しなことができなくなった。
大きなまんまるの目は、人のちょっとした仕草を捉える。
弟は姉が大好きで、姉と同じ扱いにされると喜んだ。
何でも「ておも」と叫び、周囲を困らせることもあった。
「ぜのー、これ、なまえっ」
「眼鏡です」
「めー、がー、ね?」
「はい」
「めがねー」
新しく覚えた言葉で悦に入る。眼鏡から手をぱっと離された。
その隙に世話係は眼鏡を外し、レンズを拭いた。
すると今度は、眼鏡を掛けていない顔が珍しいのか、じいっと見つめる。
眼鏡フレームを指差した。
「ておも、めがね、ここっ」
ご自分の目許に手でぱちぱち触れる。
「テオ様は眼鏡をしなくても良いのですよ?」
「めがねー、いっしょー」
世話係は仕方なくご命令に従う。そっと眼鏡を掛けて差し上げる。
眼鏡をかけたテオ様は、きょとんとした顔になり、頭がぐらりと揺れた。
世話係は慌てて、頭を支える。その頭が、いやいやと振られたので静かに外した。
ちょっとした恐怖体験をしたテオ様は、眼鏡を見る目が少し怯えていた。
世話係は微笑んで、眼鏡を差し出す。
「テオ様、もう一度、お貸ししましょうか?」
首を激しく横に振り、眼鏡を押し返した。
「めがね、ぜのの」
「ありがとうございます」
返された眼鏡を元あった位置に戻した。
ドアがノックされた。
どうぞ、と世話係が言うと、白のロングドレスを纏った少女が現れた。
パーティの日はお姉様もこのような衣装をお召しになる。
髪はテオ様と同じブロンド。柔らかなパーマがきらきらと美しい。
ドレス姿は見慣れている。決して華美なデザインではない。
なのに、少女の姿に目を奪われた。
テオ様は世話係の腕を擦り抜けて、駆け寄る。
「あねうえっ! かわいー!」
「ありがとう、テオ」
「かわいー! かわいー!」
ドレスに顔を埋めてから、ぱっと顔を上げる。
「あっ!」
「どうしたの、テオ?」
何を思ったか弟はくるりと反転して棚に向かう。その前に座る。
絵本がびっしり入った本棚から、一冊ずつ本を出して、ぽいと後ろに除ける。
首を捻りながら動作を繰り返している。探しているものが見付からない様子だ。
世話係はピンと来て、棚の中からその一冊を抜き出した。
テオ様に「これですか?」と見せると、びしっと指を差して「これっ」と仰った。
弟はその絵本を抱えて、お姉様の元へ走っていく。
目の前まで来ると、両手で絵本を掲げた。
「あねうえっ、いっしょ!」
表紙にお姫様が描かれている絵本。
お姉様がお召しのドレスと色が似ていた。世話係がテオ様の通訳をする。
「このお姫様のようにお美しい、と仰っているのでしょう。
昨日、この絵本を読んで差し上げたので」
「そう。ありがとう、テオ。テオもとっても可愛い」
いいこいいこして貰った弟は、てへへへと笑う。
次に、お姉様の頭を指差した。肩までの金髪は綺麗なウエーブ。
頭の右と左には艶々とした飾り紐。
「あねうえっ、ここ、なあに?」
「リ、ボ、ン」
「り、ぼ、ん?」
「そう。リボン」
「りぼん、ておも、ておもっ、ここ!」
「うん。じゃあ、後でしてあげる」
「あとで?」
「パーティが終わったらテオの番。順番よ、テオは守れる?」
「てお、じゅんばん、まもれる!」
「偉い子ね、テオ」
メネシスパーティが開幕した。ホールはお客様でいっぱいだ。
テオ様はお姉様と一緒にステージに上がった。世話係は舞台下から見守っていた。
お客様方は、テオ様のことを将来はこの家の当主になると解って見ている。
メネシス家のご長男は、お姉様が持って下さるマイクの前でご挨拶した。
「ておです! さんさいです!」
自信満々に差し出した手は、三本ではなく、四本指になっていた。
小指を親指で押さえることが、まだできなかった。
お姉様は微笑みながら、「大きな声で言えたね、テオ」と頭を撫でる。
それを合図に、会場は笑顔と拍手に包まれた。
その後、お姉様とテオ様の元には、たくさんのお客様が挨拶に来られた。
テオ様は全く人見知りをせず「ておです!」と笑顔で繰り返していた。
お客様は『お優しいお姉さん』『利発なお坊ちゃん』と褒め称え、お世辞か本心か、
「うちの息子のお嫁さんに欲しいくらいですよ」と言う赤ら顔の輩が居た。
ダフネ様の困った微笑を見て、世話係が口を開こうとした時だった。
テオ様が、その輩とお姉様の間に立ちはだかった。
「だめっ! あねうえ、ておのおよめさん!」
世話係は昨日、絵本を読んで差し上げたことを心の底から良かったと思った。
『お姫様は王子様と結婚しました』で終わる物語だったのだ。
テオ様に、ケッコンってなあに、と尋ねられ、
お好きな人といつまでも一緒に居ることですよ、と教えていた。
「あねうえ、ておとケッコンするの! ねっ、あねうえっ?」
赤ら顔の男は「それは失礼しました」と豪快に笑いながら、その場を立ち去った。
「おやすみなさい、父上、母上」
ホールではまだ宴が続いていたが、まだ小さいご姉弟は先に退席する。
お姉様が両親の頬にキスをすると、彼等からも頬にキスを受けていた。
「おやすみ、ダフネ。いいゆめを」
それを見た弟は、おぼつかない足取りでやってくる。
ぐい、と両親の服をひっぱり、最近の口癖を言った。
「ておも、ておも!」
はいはい、と笑いながら両親は幼い息子にキスをしていた。
頬にキスをされた幼い子供は「いっしょー」と喜んでいた。
世話係はその微笑ましい家族の様子を遠巻きに見ていた。
両親におやすみを言って、戻ってきた姉弟を連れ、ホールを出て行く。
会場を出ると、廊下は少し涼しかった。
世話係はお二人を部屋まで送る。
姉と弟の部屋は別々ではなかった。
邸は広く、個人の部屋を与えることは出来るのだが、
姉が弟を大層可愛がっていた為、同じ部屋にして欲しいと願ったのだ。
姉は弟と手を繋いで、廊下を歩いている。
まだ歩くのが遅い弟に合わせ、かなりゆっくりとしたペースだ。
部屋に着くと、世話係はドアを開ける。
手を繋いだ姉弟が入るのを見てから、自分も入りドアを閉めた。
カーテンがまだ開いていた。するすると引く。
明日のお召し物の用意をしながら、ご姉弟の会話を聞いていた。
「あねうえっ、りぼん、りぼんー」
ダフネ様はご自分のリボンを片方外して、テオ様の髪に付けていた。
まだ短い黄金の髪にリボンが結ばれる。
「はい、できた」
弟を鏡の前に連れて行く。
鏡にはお揃いのリボンをつけた姉弟が映る。
テオ様は鏡に近付いて、指差した。
「てお、あねうえ、いっしょー」
嬉しそうな笑顔から、ふわわわ、と欠伸をされた。
「テオ、いらっしゃい。パジャマに着替えましょう」
上等な布で作られた黄色の布を腕に通している。
弟は姉がボタンを留めてくれる様子を見ていた。
くりくりとした大きな目が、自分の胸許をじいっと見ている。
「あねうえ、あねうえっ」
「はい?」
小さな指がパジャマに付いている丸い物を指差した。
「これっ、なまえ!」
「ボ、タ、ン」
「ぼ、た、ん?」
「うん。ボタン」
「ぼたん…」
幼い弟は覚えたての言葉に、めちゃくちゃな音程を付けて繰り返した。
「ぼ、たー、んっ、ぼ、たー、んっ♪」
「テオは歌が上手ね」
「てお、じょーず!」
姉は弟の行動を何でも褒めた。
何か失敗した時も決して叱らず、ここまでは出来たね、と指摘していた。
この姉が両親にそう育てられていた。
おかげで弟も失敗を恐れず、どんなことにも興味を持った。
今は得意げに『ボタンの歌』を歌っている。
世話係は明日のお召し物の用意を整え、退室しようとした。
「私はこれで失礼致します。おやすみなさいませ、ダフネ様、テオ様」
弟は世話係の様子を真似て、ぴょこんと頭を下げる。
「おやすみ、なさいませっ」
世話係は微笑んで、もう一度頭を下げる。
「待って、ゼノ。忘れ物があります」
お姉様に呼び止められた。
世話係は辺りを見渡すが、忘れている物などない。
「ゼノ、少ししゃがんで?」
「え? は、はい」
よく解らないまま、言われた通りにする。
ちゅ、と頬に何か触った。
驚いて顔を上げると無邪気な少女の笑顔。
「ゼノにも、おやすみのキスです」
「…ダフネ様。私にまで、なさらなくても」
「おやすみのキスは、いけないこと?」
「それは…」
ぐい、と世話係の服がひっぱられた。
握っていたのは弟だ。
子供の力は意外と強いもので、思わず上体が曲がる。
あっ、と思った時にはもう、頬は上書きされていた。
弟は満面の笑顔だった。
「いっしょー!」
メネシスのありふれた日常。
明日も明後日も、繰り返されるものだと思っていた。
けれど、この先には二度とない。
私はご姉弟の世話係から、次期当主の専属執事になっていた。
執事は胸元に下がるネックレスをそっと握る。
目を閉じて、心を落ち着かせてから、その言葉を唱える。
いつからか就寝の儀式になっていた。
「おやすみ。いいゆめを」
■オーギュスト×アンリ
「講義は此処までにしようか」
神秘学の講師が教科書を閉じる。彼の名はオーギュスト・ボージェ。
今日はグレイのベストに、同色のジャケット。ベストの方が色が濃い。
受講生のアンリは時計を眺めた。鐘が鳴るまで十分近くある。
「さて。もうすぐ試験の季節だね。残りの時間で試験について説明するよ」
試験という単語を聞いても、此処の受講生達は静かなものだ。
「前回は筆記試験だったから、今回は口答試験にしようかと思うんだ。
受験者と試験官の一対一でね。
もちろん試験官は私が務めるから、緊張することはないよ。どうだろう、これで良いかな?」
教室は静かだった。反対意見はないようだが、賛成意見もない。
講師は勝手に全会一致と受け取り、「ありがとう」と言った。
講師は机に置いていたプリントを手にする。
教壇から降りると、彼の靴音だけがコツンと響く。
最前列の生徒達にプリントを配る。生徒は後ろの席に回していく。
全員に行き渡ったのを確認して、話し始めた。
「ではプリントを見てくれるかな。今回は試験問題を先に知らせておくよ?
心ゆくまで勉強して、試験に備えてね」
アンリはプリントに視線を落とす。
綴られていたのは一行の問題が三つ。問題と問題の間には広いスペースがある。
ほぼ白紙に近かった。B5の紙である必要性が感じられない。
講師の憎らしいほど穏やかな声が、その全三行を読み上げた。
「教科書で言うと、試験範囲は一冊全てかな。では問題文を読むよ?
第一問:ニュートン以前の錬金術師を一人挙げ、その人物について自由に論じて下さい。回答時間は二分。
第二問:現代の錬金術師と考えられる人物を一人挙げ、その理由を説明して下さい。これも二分。
第三問:神秘学の講義について、改善点を教えて下さい。こちらは一分。
配点は上から、40点、40点、20点だよ」
アンリは音無く息を吐く。
出題内容が解っていれば、試験範囲が限られるので生徒は無駄な勉強をしなくて済む。
その代わり、暗黙のうちに、より精度の高い回答が求められることになる。
親切なようで意地が悪い試験だ。彼らしいやり方に呆れた。
講師は紳士的な口調で話している。
「講義の改善点については、できるだけ批判的にお願いしたいな。
時間が足りなければ続きは後日、もしくはメールで教えてくれるとありがたいね。
回答時間は大体の目安だから、一人の持ち時間が五分といったところだね。
プリントの裏には、諸君の受験順を書いておいたから」
教室に紙の音が響く。
「自分の試験時間になったら、教室のドアをノックして入っておいで。
試験会場は此処、第二化学室だ」
アンリは自分の受験時間を見る。大体真ん中に位置している。
名前のアルファベッド順に並んでいた。
「では次に持ち物について。試験会場には紙一枚の持込を許可するよ。
今、配った用紙に回答を書いておくと便利ではないかな?
紙を見ながら話して良いから、全文を暗記してくる必要はないからね。
私からの説明は以上だけど、質問はないかな?」
アンリは肘を机に突いたまま、軽く手を挙げる。講師は生徒の名を呼ぶ。
「どうぞ、アンリ」
「第一問と第二問の答え方がよく解らなかったのだけど。
できれば、具体的な回答例を挙げて貰えますか? ボージェ教授」
「成程。私の説明不足でイメージが伝わらなかったのだね。申し訳ない。
第一問は、そうだね。仮に、君の始祖サン・ジェルマン伯爵について論ずるならば」
琥珀の瞳が驚いたように瞬く。講師は一瞬の微笑を見せて続けた。
「つまりね、伯爵がどういう人か、私に紹介して欲しいんだ。
彼が生きた時代はいつ頃で、彼の功罪は何かとか、もし解れば、人となりなどもね。
試験官は神秘学について何も知らない素人、だと思って貰いたいな。
難しい専門用語を用いる場合は、それについても解説があると解り易いね。
最後には伯爵に対する、君だけの、ユニークな意見を添えて貰えると、もっと良いな。
それは、どの歴史書にも載っていないものだからね。
第二問も同様に、人物紹介から始めると良いかな。
そして何故、その人の用いる術が錬金術だと考えられるのか、
諸君の柔軟な意見を教えて欲しい。アンリ、今の説明で伝わったかな?」
「最初からそう説明して貰えればね」
「すまない。諸君もイメージが掴めたかい?」
意見はない。アンリはプリントに今の説明を軽くメモをして、教科書に挟んだ。
丁度良い機会だ。伯爵について論じよう。そう思ったところだった。
「本番では、今の例以外で回答してくれるようお願いするよ」
アンリは顔を上げて、講師を睨み付ける。
彼は目を合わさず、教壇の上でテキストを揃えている。
なんとなく微笑しているように見える。
鐘が鳴る。講師は講義を終了させた。
「今回は口答試験だから特に喉を傷めないようにね。では諸君、ごきげんよう」
生徒達が退室していく。講師は教室に背を向けて黒板消しを持つ。
アンリは頬杖を突きながら、グレイの背中を眺めていた。
他の生徒達が皆、居なくなってから、その背中に声を掛けた。
「オーギュスト」
最後の文字を拭き取った講師が振り返る。
「おや、アンリ。他にも質問があったかね?」
「わざとなの?」
「何がだい?」
「わざと僕に質問させたの? 伯爵を例にとって、本番で回答させない為に」
「考え過ぎだよ、アンリ。君が質問するかなんて解らないじゃないか」
教壇を降りて生徒の傍に来る。
「それより、アンリ。今日が何の日か知っているかい?」
「ただの金曜日でしょう? 十三日ではないと思ったけれど」
「今日はね、教え子にケーキをご馳走したくなる日なんだ」
「勝手に決めないで。大体その日、年に何回あるの?」
「なるべく多い方が良いな。アンリはそう思わないかね?」
「思わない」
「おいで。きっと気に入るよ?」
講師は教室を出て行く。教え子は教科書を抱え、席を立つ。
少し頬を膨らませて、グレイの背に続く。不機嫌な声で質問した。
「オーギュ」
「なんだね?」
「何のケーキなの」
「レアチーズだよ。アンリの肌のような」
fin
神秘学の講師が教科書を閉じる。彼の名はオーギュスト・ボージェ。
今日はグレイのベストに、同色のジャケット。ベストの方が色が濃い。
受講生のアンリは時計を眺めた。鐘が鳴るまで十分近くある。
「さて。もうすぐ試験の季節だね。残りの時間で試験について説明するよ」
試験という単語を聞いても、此処の受講生達は静かなものだ。
「前回は筆記試験だったから、今回は口答試験にしようかと思うんだ。
受験者と試験官の一対一でね。
もちろん試験官は私が務めるから、緊張することはないよ。どうだろう、これで良いかな?」
教室は静かだった。反対意見はないようだが、賛成意見もない。
講師は勝手に全会一致と受け取り、「ありがとう」と言った。
講師は机に置いていたプリントを手にする。
教壇から降りると、彼の靴音だけがコツンと響く。
最前列の生徒達にプリントを配る。生徒は後ろの席に回していく。
全員に行き渡ったのを確認して、話し始めた。
「ではプリントを見てくれるかな。今回は試験問題を先に知らせておくよ?
心ゆくまで勉強して、試験に備えてね」
アンリはプリントに視線を落とす。
綴られていたのは一行の問題が三つ。問題と問題の間には広いスペースがある。
ほぼ白紙に近かった。B5の紙である必要性が感じられない。
講師の憎らしいほど穏やかな声が、その全三行を読み上げた。
「教科書で言うと、試験範囲は一冊全てかな。では問題文を読むよ?
第一問:ニュートン以前の錬金術師を一人挙げ、その人物について自由に論じて下さい。回答時間は二分。
第二問:現代の錬金術師と考えられる人物を一人挙げ、その理由を説明して下さい。これも二分。
第三問:神秘学の講義について、改善点を教えて下さい。こちらは一分。
配点は上から、40点、40点、20点だよ」
アンリは音無く息を吐く。
出題内容が解っていれば、試験範囲が限られるので生徒は無駄な勉強をしなくて済む。
その代わり、暗黙のうちに、より精度の高い回答が求められることになる。
親切なようで意地が悪い試験だ。彼らしいやり方に呆れた。
講師は紳士的な口調で話している。
「講義の改善点については、できるだけ批判的にお願いしたいな。
時間が足りなければ続きは後日、もしくはメールで教えてくれるとありがたいね。
回答時間は大体の目安だから、一人の持ち時間が五分といったところだね。
プリントの裏には、諸君の受験順を書いておいたから」
教室に紙の音が響く。
「自分の試験時間になったら、教室のドアをノックして入っておいで。
試験会場は此処、第二化学室だ」
アンリは自分の受験時間を見る。大体真ん中に位置している。
名前のアルファベッド順に並んでいた。
「では次に持ち物について。試験会場には紙一枚の持込を許可するよ。
今、配った用紙に回答を書いておくと便利ではないかな?
紙を見ながら話して良いから、全文を暗記してくる必要はないからね。
私からの説明は以上だけど、質問はないかな?」
アンリは肘を机に突いたまま、軽く手を挙げる。講師は生徒の名を呼ぶ。
「どうぞ、アンリ」
「第一問と第二問の答え方がよく解らなかったのだけど。
できれば、具体的な回答例を挙げて貰えますか? ボージェ教授」
「成程。私の説明不足でイメージが伝わらなかったのだね。申し訳ない。
第一問は、そうだね。仮に、君の始祖サン・ジェルマン伯爵について論ずるならば」
琥珀の瞳が驚いたように瞬く。講師は一瞬の微笑を見せて続けた。
「つまりね、伯爵がどういう人か、私に紹介して欲しいんだ。
彼が生きた時代はいつ頃で、彼の功罪は何かとか、もし解れば、人となりなどもね。
試験官は神秘学について何も知らない素人、だと思って貰いたいな。
難しい専門用語を用いる場合は、それについても解説があると解り易いね。
最後には伯爵に対する、君だけの、ユニークな意見を添えて貰えると、もっと良いな。
それは、どの歴史書にも載っていないものだからね。
第二問も同様に、人物紹介から始めると良いかな。
そして何故、その人の用いる術が錬金術だと考えられるのか、
諸君の柔軟な意見を教えて欲しい。アンリ、今の説明で伝わったかな?」
「最初からそう説明して貰えればね」
「すまない。諸君もイメージが掴めたかい?」
意見はない。アンリはプリントに今の説明を軽くメモをして、教科書に挟んだ。
丁度良い機会だ。伯爵について論じよう。そう思ったところだった。
「本番では、今の例以外で回答してくれるようお願いするよ」
アンリは顔を上げて、講師を睨み付ける。
彼は目を合わさず、教壇の上でテキストを揃えている。
なんとなく微笑しているように見える。
鐘が鳴る。講師は講義を終了させた。
「今回は口答試験だから特に喉を傷めないようにね。では諸君、ごきげんよう」
生徒達が退室していく。講師は教室に背を向けて黒板消しを持つ。
アンリは頬杖を突きながら、グレイの背中を眺めていた。
他の生徒達が皆、居なくなってから、その背中に声を掛けた。
「オーギュスト」
最後の文字を拭き取った講師が振り返る。
「おや、アンリ。他にも質問があったかね?」
「わざとなの?」
「何がだい?」
「わざと僕に質問させたの? 伯爵を例にとって、本番で回答させない為に」
「考え過ぎだよ、アンリ。君が質問するかなんて解らないじゃないか」
教壇を降りて生徒の傍に来る。
「それより、アンリ。今日が何の日か知っているかい?」
「ただの金曜日でしょう? 十三日ではないと思ったけれど」
「今日はね、教え子にケーキをご馳走したくなる日なんだ」
「勝手に決めないで。大体その日、年に何回あるの?」
「なるべく多い方が良いな。アンリはそう思わないかね?」
「思わない」
「おいで。きっと気に入るよ?」
講師は教室を出て行く。教え子は教科書を抱え、席を立つ。
少し頬を膨らませて、グレイの背に続く。不機嫌な声で質問した。
「オーギュ」
「なんだね?」
「何のケーキなの」
「レアチーズだよ。アンリの肌のような」
fin
■2日目6:再びテオの部屋 続編
ギリシャ旅行三日目。
三泊四日の日程では今日が最後の夜となる。
弟達はさぞ豪華な持て成しを受けているのだろう。
日本に居るユウタの姉は、遠い国のことを考えていた。
時計を見る。此処では夜が深まる頃、向こうでは日が暮れる頃。
日本とギリシャの時差も初めて知った。
たった二日前に知り合った人、その境遇、過剰なたくさんの言葉が思い浮かぶ。
自分の机には鳴らない携帯が居座っている。
おととい、昨日、と電話が鳴った時刻が近付くにつれ、携帯が気になる。
旅行の最終日なのだから、今日は彼等だけで楽しんでいるのかもしれない。
本当はそうあるべきだと、ふと思う。
電話が来るかもしれないと思うことの方が可笑しい。
そう思い直し、パジャマに着替えようとした時だった。
聞き慣れたメロディ。
ユウタの携帯から。電話ではない。メールだ。
携帯を開く。画面に映し出されたのは英文。
綴られていた英語は至ってシンプルなメッセージを伝えるものだったが、
間違っても自分の弟には書けない文章だ。
例え署名がなかったとしても、書いたのが誰か解った。
Dear Thumbelina(親愛なるサンベリーナへ
miss you 会いたいよ
call me 電話してくれるかい?
Theo XXX テオ キスキスキス)
「サンベリーナ! メールを読んでくれたのだね、ありがとう!」
姉が電話を掛けると、またアップで小麦色の顔が映った。
「今日は少し遅い時間になってしまったから、起きているか心配だったんだけど、
良かったよ、また姫に会えて。今日も一段とお美しいね。
お目に掛かる度に愛らしくなっているよ?
一体どんな魔法を私に掛けているんだい、サンベリーナ?
ああ、そのオリエンタルスマイルもなんてミステリアスな!」
昨日と変わらない笑顔が眩しい。
相変わらずのハイテンションな声で迎えられた。
昨日のテオは少し元気がなかったので今日はどうだろうと思ったが、
彼は笑顔の似合う人だ。まだ会ったばかりなのに、テオの笑顔を見ていると、
もうずっと前から、彼のことを知っていたような気持ちになるのが不思議だった。
彼もまた、自分に対してかなり打ち解けて話しているように見える。
出会った時から、好意的な言葉を浴びるように受けている。
ただ彼の場合は、誰にでもこのような対応をするような気がする。
彼と話すのは今日でまだ三回目だが、
日本の感覚とは程遠い言葉のセンスの持ち主だというのは充分解る。
自分のことに多少なりとも興味があり、嫌いではないのだろうとは思うが。
彼の言葉がどれも過剰な余り、それをどう解釈して良いのか解らない。
彼にとってはただの挨拶と同じなのかもしれない。
「サンベリーナ?」
考えごとをしていたユウタの姉はちょっとビックリして、はい、と応じる。
姫の名で呼ばれて、もう普通に返事している自分にも少し驚いた。
日本では誰もそんな風には呼ばない。
ウーティス寮のみんなも、##NAME1##、と言う。
彼だけが特別な名前で呼ぶ。
彼の目には現代版おやゆび姫と映ったらしい。
携帯を通して出会わなければ、そう呼ばれることもなかったのだろう。
「すまない。やはり今日は時間が遅かった? 迷惑、だったかな?」
画面にはどうしようと書かれた不安な顔が映し出されている。
大丈夫ですよ、と答えると嬉しそうな笑顔に変わった。
待っていた、と正直に伝えるのは、
いけないことのような気がして黙っていた。
今日のテオは白いワイシャツに深緑のジャケットを着ていた。
燕尾服でこそないが、学院の制服を彷彿とさせる色だ。
彼の学生時代の姿が思い浮かぶようだった。
あと一年早く会えていたら、何か変わっただろうか。
「今日はね、私の船でサンセットクルーズをしているんだ。
みんなも居るよ。ほら、向こうに見えるだろう?」
携帯画面がそちらに向けられる。
豪華客船では立食パーティ中のようだ。夕陽を指差したりしながら、
ウーティスの生徒達が寮のサロンに居る時と同じように戯れる姿が見える。
テオは後輩達を見守る卒業生の目をしていた。
「やはり良いものだね。『学院の生徒同士はファーストネームで呼び合う』というのは
聖アルフォンソ島を旅立ってから、その慣習のありがたみを深く感じたよ。
相手を名前で呼ぶことは、本当は大好きなんだ。呼び方ひとつで親しみが深まる気がしてね」
聖アルフォンソ学院の生徒は学年に関係なく、名前で呼び合う。
祖国に戻ればその機会を失う生徒が多いからだろう。
身分の高い子息が珍しくないのだ。弟の友達には王子が二人も居る。
この誰にも気さくな彼も、邸では『テオ様』と呼ばれていた。
けれど、ユウタの姉のことは、姫の名で呼ぶばかりで、
まだ名前では呼ばれていない気がする。
テオはハルヤのことも『東洋の黒い真珠』と呼んでいたし、
ファーストネームで呼ぶことも、特別な呼び名を付けることも好きなのかもしれない。
画面にはクルーズを楽しむウーティスのメンバー達。
ある者はグラスや皿を片手に、ある者は仔犬のようにじゃれあっている。
こちらを監視するかのような視線も見受けられた。
「少し移動した方が良さそうだね?」
苦笑するテオの声が聞こえ、携帯画面が揺れる。
彼等から見えない場所へ歩いているようだ。携帯にはテオが映る。
「サンベリーナと二人で話したいと言ったら、みんなを困らせてしまった。
ゼノにも姫とはもう話してはいけないと言われてる。
だけど、少しでも姫の傍に居たくて、メールを書いた。
姫が許してくれるのなら、もう一度会いたくて…今日が最後だから」
テオの表情が翳るのと同時に、画面は海の方へ向けられた。
赤い太陽が水平線の中央にある。半月の形。
「ご覧、サンベリーナ。あれがエーゲ海に沈む夕陽だよ。ギリシャが誇る美だ。
今日の私が姫にお贈りできる、最も美しい景色だよ」
線香花火の残り火が半分ぽうっと海に浮かんでいるようだ。
太陽の周りには、ちらほら白い薄雲。
夕陽に近い雲から朱色に染め上げられている。
広い空の中で、雲はオレンジのオーロラのようだった。
空の高いところは、かろうじて青を残していた。
夜になる少し前。この僅かな時間だけ見える景色なのだろう。
「ギリシャの朝陽は、どうあっても日本の朝陽に追い付くことはできないのだね。
この国が一歩、時を進めれば、姫の国もまた一歩進んでしまう。
永遠に七時間という距離に阻まれている。
どんなに想い焦がれても越えられない壁というものは、あるものね」
海には赤い縦のラインが引かれている。船に近付くにつれ光の幅が広い。
水平線と船の丁度真ん中には横のライン。その位置の波が最も赤い。
夕陽が海に赤い十字を刻んでいる。
太陽の麓は紺青。その暗い色が空と海を切り離しているかのように見えた。
「いけないね。夕陽を見ていると、どうも感傷的になってしまうよ。
そうだ。姫の国は今、夜だったね? 今宵は月が見えるのかい?」
ユウタの姉は窓際に寄り添う。
カーテンを開けると、闇夜に消え入りそうな細い月が出ていた。
見えました、とテオに伝えた。
「では私も見たいな、姫が今、見ているものを」
ユウタの姉は窓を開ける。部屋にひやりと夜気が吹き込む。
気恥ずかしさを抱えながら、寒空に腕を伸ばす。
あんなに細い月が携帯のカメラに映るのだろうかと思い、見えますか? と尋ねた。
「ありがとう、姫。少しの間、そのままで居てくれるかい?」
そう言ったきり、テオは黙っていた。
ユウタの姉もテオに月を見せたまま、月を見上げる。
今夜の月は本当に消えてしまいそうだ。
あまりにも沈黙が続いたので、ユウタの姉は腕を伸ばすのを止め、携帯を覗き見る。
画面にテオは居なかった。代わりに映っているのは緑と白。
呼び掛けると、やや遅れて反応があった。
「すまない。もう少し姫を抱き締めさせて」
緑と白は彼のジャケットとワイシャツの色だった。
テオの顔が見えなくとも、その声でどんな表情をしているのかは想像が付いた。
切なく、苦しい声でテオは呟いた。
「サンベリーナという呼び方、もし、気を悪くさせていたらすまない。
携帯画面に映った貴女を見た時、なんて小さく愛らしい姫なのだろうと感じて…
だからサンベリーナだと思ったんだ。それに、貴女をファーストネーム呼んだら、
きっと、今以上に愛おしくなる。貴女から、離れられなくなってしまうと思ったから」
彼は少し黙っていた。
姉もどう声を掛けて良いのか解らない。
今日は時間の進み方がとても遅く感じた。一秒一秒が重い。
沈黙の後、テオは口を開いた。
「私、昨夜、絵本を読み返してみたんだ。
昔々あるところに美しいチューリップが咲きました、という物語を」
テオはその童話について語った。
子供のない女性が魔法使いから手に入れた種。
植えるとチューリップの花が咲き、中に小さな小さな姫が座っていた。
姫はその美しさからヒキガエルやコガネムシに誘拐される。
しかし、可笑しな生き物だと捨てられ、一人ぼっちになってしまう。
夏、空にはツバメが飛んでいて、綺麗な声で歌っていた。
その美しい歌声を支えに、姫は宛てもなく彷徨い歩く。
秋、疲れと飢えで倒れてしまうが、ノネズミのおばあさんに拾われる。
恩人のおばあさんから、お金持ちのモグラの家との結婚を勧められる。
モグラは姫をひと目で気に入り、結婚話はまとまってしまう。
モグラの家までのトンネルには瀕死のツバメが居た。
この鳥は、夏の間、歌声を聞かせてくれたツバメかもしれないと思った姫は、
あたたかい毛布を作り、密かにツバメの元へ運び、介抱していた。
そして結婚式の日。悲しみに暮れる姫の所に、
元気になったツバメがやってきて、こう言うのだ。
「これからあたたかい国に行くところです。貴女も一緒にお連れしましょう」
姫はツバメの背に乗り、共に花の国へ行く。
そこで姫は、花の王子様と出会い、幸せに暮らす。
めでたし、めでたし、で終わる物語だ。
しかし、テオの声はハッピーエンドを語るものではなかった。
「私にとってこれは、ただの童話ではないのだよ。
この物語の姫は、私の姉上と重なる部分があるんだ。
姉上も見知らぬお金持ちと結婚した。
でも、花の国へ連れて行ってくれるツバメは来なかった」
画面はまだ緑と白を映し出している。少し画面が揺れる。
「姉上には、想い人が居たんだ。婚約者とは別に。
けれど、身分が違い過ぎると周囲に反対された。男はどうしたと思う?
彼はね、身を引いた。本当はとても優しい男なのに、
姉上にわざと冷たく当たって嫌われるように振る舞った。
姉上はね、彼のことを嫌いになどならなかったよ。
解っていたんだ。彼の意図を汲み、決められた婚約者の家へ嫁いだ。
二人は現在、別々の場所に暮らしているけれど、
互いを大切に想う心は、昔から変わっていない。
彼等はたったひとつ、揃いのネックレスを隠し持っているのだよ。
トップには小さな銀色の葉。彼は今も常に身に付けてる。
離れていても、許されなくても、相手を想うことはできるんだ」
画面に少し光が差し込む。携帯がテオの胸から離れていく。
やっと映ったテオは船に凭れて、優しく微笑んでいた。
「サンベリーナ、貴女という人に出会えたことを、私は幸福に思うよ」
彼の背景には細い夕陽。海に沈む直前の姿だ。
水平線は朱色の糸のようだった。その上の空は夜の色に染まり始めている。
テオは太陽と海に背を向けていた。
「本当なら、私は、姫に名を呼んで貰うことさえなかった。
ユウタは、私と入れ違うように学院に入ったのだから。
姫と出会えたことは奇跡と言っていい。
サンベリーナ、このような奇跡を、何と言うか知っているかい?」
姉は知っていた。意味も解っている。
シュヌーシア。ギリシャ語で『共にある奇跡』
姉がその言葉を伝えると、テオは微笑んで頷いた。
「そう。我が聖アルフォンソ学院 第三学生寮の名だ。私の大好きな言葉なのだよ」
テオは少し俯いた後、空を仰ぐ。黄金の髪がふわりと潮風に煽られた。
船に背を預けるのを止め、背筋を正す。しゃんとした声で言った。
「星も出てきたし、太陽は海に沈む時間だね」
先までは夕陽を浴びてオーロラのように見えた雲も、
今では綿埃と同じような灰色に変わっていた。
今日という日が終わりを告げようとしている。
水面は既にオレンジの輝きを失い、暗い影の色をしていた。
テオは片手を胸に置く。
向けられた笑顔は綺麗だったが、声からは明るさが消えていた。
「姫が傍に居てくれた時間は幸福だった。とても救われたよ。ありがとう。
貴女にこれからもたくさんの幸せが降り注ぐよう祈ってる。ではね、姫」
画面はテオを映し続けていた。
ボタンを押そうとしているのに彼は動かない。
二人とも沈黙したまま、一秒一秒が重く、過ぎていく。
彼の背景には暗くなっていく空。赤い水平線がもう消えてしまう。
サンベリーナ、と呼ばれた。
「すまない。もう一度だけ、姫への口付けを、許してくれるかい」
姉は手を差し出した。
ありがとう、と言って彼は手を取る。
そっと寄せられた唇。
手の甲にその柔らかい感触が伝わるような気がした。
テオはゆっくりと顔を上げながら伝える。優しい声だった。
「さよなら、愛しい人」
テオは電話を切った。
ぐらと上体が後ろに傾く。船に背を預け、項垂れる。
携帯を持つ手がだらりと下がる。
最後に見た、黒い真珠。
この世で最も美しい宝石に、自分の手では届かない。
テオの目には太陽も海も映っていない。
足許だけだ。高級な材質で作られた綺麗な床。
海運王の子息だから手にできた自分の船。
船がなくては翼をもがれた鳥のようだと思ってきた。
船は此処にあるのに。
何故、羽根を抜かれたような想いをしている。
「どうして、私は」
頬を潮風にひやりと撫でられる。
海の風をこんなに冷たく感じたことはない。
「メネシスに生まれたのだろう」
三泊四日の日程では今日が最後の夜となる。
弟達はさぞ豪華な持て成しを受けているのだろう。
日本に居るユウタの姉は、遠い国のことを考えていた。
時計を見る。此処では夜が深まる頃、向こうでは日が暮れる頃。
日本とギリシャの時差も初めて知った。
たった二日前に知り合った人、その境遇、過剰なたくさんの言葉が思い浮かぶ。
自分の机には鳴らない携帯が居座っている。
おととい、昨日、と電話が鳴った時刻が近付くにつれ、携帯が気になる。
旅行の最終日なのだから、今日は彼等だけで楽しんでいるのかもしれない。
本当はそうあるべきだと、ふと思う。
電話が来るかもしれないと思うことの方が可笑しい。
そう思い直し、パジャマに着替えようとした時だった。
聞き慣れたメロディ。
ユウタの携帯から。電話ではない。メールだ。
携帯を開く。画面に映し出されたのは英文。
綴られていた英語は至ってシンプルなメッセージを伝えるものだったが、
間違っても自分の弟には書けない文章だ。
例え署名がなかったとしても、書いたのが誰か解った。
Dear Thumbelina(親愛なるサンベリーナへ
miss you 会いたいよ
call me 電話してくれるかい?
Theo XXX テオ キスキスキス)
「サンベリーナ! メールを読んでくれたのだね、ありがとう!」
姉が電話を掛けると、またアップで小麦色の顔が映った。
「今日は少し遅い時間になってしまったから、起きているか心配だったんだけど、
良かったよ、また姫に会えて。今日も一段とお美しいね。
お目に掛かる度に愛らしくなっているよ?
一体どんな魔法を私に掛けているんだい、サンベリーナ?
ああ、そのオリエンタルスマイルもなんてミステリアスな!」
昨日と変わらない笑顔が眩しい。
相変わらずのハイテンションな声で迎えられた。
昨日のテオは少し元気がなかったので今日はどうだろうと思ったが、
彼は笑顔の似合う人だ。まだ会ったばかりなのに、テオの笑顔を見ていると、
もうずっと前から、彼のことを知っていたような気持ちになるのが不思議だった。
彼もまた、自分に対してかなり打ち解けて話しているように見える。
出会った時から、好意的な言葉を浴びるように受けている。
ただ彼の場合は、誰にでもこのような対応をするような気がする。
彼と話すのは今日でまだ三回目だが、
日本の感覚とは程遠い言葉のセンスの持ち主だというのは充分解る。
自分のことに多少なりとも興味があり、嫌いではないのだろうとは思うが。
彼の言葉がどれも過剰な余り、それをどう解釈して良いのか解らない。
彼にとってはただの挨拶と同じなのかもしれない。
「サンベリーナ?」
考えごとをしていたユウタの姉はちょっとビックリして、はい、と応じる。
姫の名で呼ばれて、もう普通に返事している自分にも少し驚いた。
日本では誰もそんな風には呼ばない。
ウーティス寮のみんなも、##NAME1##、と言う。
彼だけが特別な名前で呼ぶ。
彼の目には現代版おやゆび姫と映ったらしい。
携帯を通して出会わなければ、そう呼ばれることもなかったのだろう。
「すまない。やはり今日は時間が遅かった? 迷惑、だったかな?」
画面にはどうしようと書かれた不安な顔が映し出されている。
大丈夫ですよ、と答えると嬉しそうな笑顔に変わった。
待っていた、と正直に伝えるのは、
いけないことのような気がして黙っていた。
今日のテオは白いワイシャツに深緑のジャケットを着ていた。
燕尾服でこそないが、学院の制服を彷彿とさせる色だ。
彼の学生時代の姿が思い浮かぶようだった。
あと一年早く会えていたら、何か変わっただろうか。
「今日はね、私の船でサンセットクルーズをしているんだ。
みんなも居るよ。ほら、向こうに見えるだろう?」
携帯画面がそちらに向けられる。
豪華客船では立食パーティ中のようだ。夕陽を指差したりしながら、
ウーティスの生徒達が寮のサロンに居る時と同じように戯れる姿が見える。
テオは後輩達を見守る卒業生の目をしていた。
「やはり良いものだね。『学院の生徒同士はファーストネームで呼び合う』というのは
聖アルフォンソ島を旅立ってから、その慣習のありがたみを深く感じたよ。
相手を名前で呼ぶことは、本当は大好きなんだ。呼び方ひとつで親しみが深まる気がしてね」
聖アルフォンソ学院の生徒は学年に関係なく、名前で呼び合う。
祖国に戻ればその機会を失う生徒が多いからだろう。
身分の高い子息が珍しくないのだ。弟の友達には王子が二人も居る。
この誰にも気さくな彼も、邸では『テオ様』と呼ばれていた。
けれど、ユウタの姉のことは、姫の名で呼ぶばかりで、
まだ名前では呼ばれていない気がする。
テオはハルヤのことも『東洋の黒い真珠』と呼んでいたし、
ファーストネームで呼ぶことも、特別な呼び名を付けることも好きなのかもしれない。
画面にはクルーズを楽しむウーティスのメンバー達。
ある者はグラスや皿を片手に、ある者は仔犬のようにじゃれあっている。
こちらを監視するかのような視線も見受けられた。
「少し移動した方が良さそうだね?」
苦笑するテオの声が聞こえ、携帯画面が揺れる。
彼等から見えない場所へ歩いているようだ。携帯にはテオが映る。
「サンベリーナと二人で話したいと言ったら、みんなを困らせてしまった。
ゼノにも姫とはもう話してはいけないと言われてる。
だけど、少しでも姫の傍に居たくて、メールを書いた。
姫が許してくれるのなら、もう一度会いたくて…今日が最後だから」
テオの表情が翳るのと同時に、画面は海の方へ向けられた。
赤い太陽が水平線の中央にある。半月の形。
「ご覧、サンベリーナ。あれがエーゲ海に沈む夕陽だよ。ギリシャが誇る美だ。
今日の私が姫にお贈りできる、最も美しい景色だよ」
線香花火の残り火が半分ぽうっと海に浮かんでいるようだ。
太陽の周りには、ちらほら白い薄雲。
夕陽に近い雲から朱色に染め上げられている。
広い空の中で、雲はオレンジのオーロラのようだった。
空の高いところは、かろうじて青を残していた。
夜になる少し前。この僅かな時間だけ見える景色なのだろう。
「ギリシャの朝陽は、どうあっても日本の朝陽に追い付くことはできないのだね。
この国が一歩、時を進めれば、姫の国もまた一歩進んでしまう。
永遠に七時間という距離に阻まれている。
どんなに想い焦がれても越えられない壁というものは、あるものね」
海には赤い縦のラインが引かれている。船に近付くにつれ光の幅が広い。
水平線と船の丁度真ん中には横のライン。その位置の波が最も赤い。
夕陽が海に赤い十字を刻んでいる。
太陽の麓は紺青。その暗い色が空と海を切り離しているかのように見えた。
「いけないね。夕陽を見ていると、どうも感傷的になってしまうよ。
そうだ。姫の国は今、夜だったね? 今宵は月が見えるのかい?」
ユウタの姉は窓際に寄り添う。
カーテンを開けると、闇夜に消え入りそうな細い月が出ていた。
見えました、とテオに伝えた。
「では私も見たいな、姫が今、見ているものを」
ユウタの姉は窓を開ける。部屋にひやりと夜気が吹き込む。
気恥ずかしさを抱えながら、寒空に腕を伸ばす。
あんなに細い月が携帯のカメラに映るのだろうかと思い、見えますか? と尋ねた。
「ありがとう、姫。少しの間、そのままで居てくれるかい?」
そう言ったきり、テオは黙っていた。
ユウタの姉もテオに月を見せたまま、月を見上げる。
今夜の月は本当に消えてしまいそうだ。
あまりにも沈黙が続いたので、ユウタの姉は腕を伸ばすのを止め、携帯を覗き見る。
画面にテオは居なかった。代わりに映っているのは緑と白。
呼び掛けると、やや遅れて反応があった。
「すまない。もう少し姫を抱き締めさせて」
緑と白は彼のジャケットとワイシャツの色だった。
テオの顔が見えなくとも、その声でどんな表情をしているのかは想像が付いた。
切なく、苦しい声でテオは呟いた。
「サンベリーナという呼び方、もし、気を悪くさせていたらすまない。
携帯画面に映った貴女を見た時、なんて小さく愛らしい姫なのだろうと感じて…
だからサンベリーナだと思ったんだ。それに、貴女をファーストネーム呼んだら、
きっと、今以上に愛おしくなる。貴女から、離れられなくなってしまうと思ったから」
彼は少し黙っていた。
姉もどう声を掛けて良いのか解らない。
今日は時間の進み方がとても遅く感じた。一秒一秒が重い。
沈黙の後、テオは口を開いた。
「私、昨夜、絵本を読み返してみたんだ。
昔々あるところに美しいチューリップが咲きました、という物語を」
テオはその童話について語った。
子供のない女性が魔法使いから手に入れた種。
植えるとチューリップの花が咲き、中に小さな小さな姫が座っていた。
姫はその美しさからヒキガエルやコガネムシに誘拐される。
しかし、可笑しな生き物だと捨てられ、一人ぼっちになってしまう。
夏、空にはツバメが飛んでいて、綺麗な声で歌っていた。
その美しい歌声を支えに、姫は宛てもなく彷徨い歩く。
秋、疲れと飢えで倒れてしまうが、ノネズミのおばあさんに拾われる。
恩人のおばあさんから、お金持ちのモグラの家との結婚を勧められる。
モグラは姫をひと目で気に入り、結婚話はまとまってしまう。
モグラの家までのトンネルには瀕死のツバメが居た。
この鳥は、夏の間、歌声を聞かせてくれたツバメかもしれないと思った姫は、
あたたかい毛布を作り、密かにツバメの元へ運び、介抱していた。
そして結婚式の日。悲しみに暮れる姫の所に、
元気になったツバメがやってきて、こう言うのだ。
「これからあたたかい国に行くところです。貴女も一緒にお連れしましょう」
姫はツバメの背に乗り、共に花の国へ行く。
そこで姫は、花の王子様と出会い、幸せに暮らす。
めでたし、めでたし、で終わる物語だ。
しかし、テオの声はハッピーエンドを語るものではなかった。
「私にとってこれは、ただの童話ではないのだよ。
この物語の姫は、私の姉上と重なる部分があるんだ。
姉上も見知らぬお金持ちと結婚した。
でも、花の国へ連れて行ってくれるツバメは来なかった」
画面はまだ緑と白を映し出している。少し画面が揺れる。
「姉上には、想い人が居たんだ。婚約者とは別に。
けれど、身分が違い過ぎると周囲に反対された。男はどうしたと思う?
彼はね、身を引いた。本当はとても優しい男なのに、
姉上にわざと冷たく当たって嫌われるように振る舞った。
姉上はね、彼のことを嫌いになどならなかったよ。
解っていたんだ。彼の意図を汲み、決められた婚約者の家へ嫁いだ。
二人は現在、別々の場所に暮らしているけれど、
互いを大切に想う心は、昔から変わっていない。
彼等はたったひとつ、揃いのネックレスを隠し持っているのだよ。
トップには小さな銀色の葉。彼は今も常に身に付けてる。
離れていても、許されなくても、相手を想うことはできるんだ」
画面に少し光が差し込む。携帯がテオの胸から離れていく。
やっと映ったテオは船に凭れて、優しく微笑んでいた。
「サンベリーナ、貴女という人に出会えたことを、私は幸福に思うよ」
彼の背景には細い夕陽。海に沈む直前の姿だ。
水平線は朱色の糸のようだった。その上の空は夜の色に染まり始めている。
テオは太陽と海に背を向けていた。
「本当なら、私は、姫に名を呼んで貰うことさえなかった。
ユウタは、私と入れ違うように学院に入ったのだから。
姫と出会えたことは奇跡と言っていい。
サンベリーナ、このような奇跡を、何と言うか知っているかい?」
姉は知っていた。意味も解っている。
シュヌーシア。ギリシャ語で『共にある奇跡』
姉がその言葉を伝えると、テオは微笑んで頷いた。
「そう。我が聖アルフォンソ学院 第三学生寮の名だ。私の大好きな言葉なのだよ」
テオは少し俯いた後、空を仰ぐ。黄金の髪がふわりと潮風に煽られた。
船に背を預けるのを止め、背筋を正す。しゃんとした声で言った。
「星も出てきたし、太陽は海に沈む時間だね」
先までは夕陽を浴びてオーロラのように見えた雲も、
今では綿埃と同じような灰色に変わっていた。
今日という日が終わりを告げようとしている。
水面は既にオレンジの輝きを失い、暗い影の色をしていた。
テオは片手を胸に置く。
向けられた笑顔は綺麗だったが、声からは明るさが消えていた。
「姫が傍に居てくれた時間は幸福だった。とても救われたよ。ありがとう。
貴女にこれからもたくさんの幸せが降り注ぐよう祈ってる。ではね、姫」
画面はテオを映し続けていた。
ボタンを押そうとしているのに彼は動かない。
二人とも沈黙したまま、一秒一秒が重く、過ぎていく。
彼の背景には暗くなっていく空。赤い水平線がもう消えてしまう。
サンベリーナ、と呼ばれた。
「すまない。もう一度だけ、姫への口付けを、許してくれるかい」
姉は手を差し出した。
ありがとう、と言って彼は手を取る。
そっと寄せられた唇。
手の甲にその柔らかい感触が伝わるような気がした。
テオはゆっくりと顔を上げながら伝える。優しい声だった。
「さよなら、愛しい人」
テオは電話を切った。
ぐらと上体が後ろに傾く。船に背を預け、項垂れる。
携帯を持つ手がだらりと下がる。
最後に見た、黒い真珠。
この世で最も美しい宝石に、自分の手では届かない。
テオの目には太陽も海も映っていない。
足許だけだ。高級な材質で作られた綺麗な床。
海運王の子息だから手にできた自分の船。
船がなくては翼をもがれた鳥のようだと思ってきた。
船は此処にあるのに。
何故、羽根を抜かれたような想いをしている。
「どうして、私は」
頬を潮風にひやりと撫でられる。
海の風をこんなに冷たく感じたことはない。
「メネシスに生まれたのだろう」
■テオ×クラウス
「今日の講義もとても格好良かったよ、クラウス」
テオとクラウスが共に受けている帝王学の終了後。
教室を出て、長い廊下を歩きながら話していた。
「お前、真面目に講義を聞いているのか?」
「聞いているとも。今日は特に、明君と暗君の差異について論じたところが、
素晴らしかったなあ。一生貴方に付いていきたいと思ったよ」
「思わんでいい」
クラウスは高等部第二学年、テオは高等部一年。
後に二人とも生徒代表という王になるとは知らずに受けていた講義。
クラウスは、帝王学は修めておきたいと願って受講を決めた。
では私もご一緒したいなとテオが言ってきた為、二人揃っての受講となった。
クラウスが念の為「俺は、ノートは一切貸さないぞ」と釘を刺したところ、
返ってきたのは笑顔で「うん。解っているよ」とのこと。
言葉通り、テオからノートを要求されたことは一度もなかった。
テオもメネシス家の次期当主として、帝王学を学んでおきたいと思っているのだろうか。
しかし、この友人は、本人に面と向かって言うことはないが、
学問への知的好奇心が高い人種とは思えないのだ。
テオの好奇心は専ら『楽しいこと』に向かっている。
こと娯楽に関しては、クラウスが太刀打ちできない能力を持つ。
海運王の家だけあって、マリンスポーツの類は遊び尽くしている。そのくせ飽きていない。
クラウスもトライアスロンを趣味とするだけあって泳力には自信があったのだが、
テオも海に入れば自由に泳ぐ。ただ、二人の泳ぎ方には違いがあった。
黙々とスピード重視で泳ぎ続けるクラウスはシャチのようで、
意外と肺活量があり潜水に長けるテオは優雅な人魚のようだった。
海を愛する男は、今は片手にテキストを持ち、クラウスと肩を並べている。
「さて、クラウス。放課後のコーヒータイムにしようか?」
「え、ああ」
「今日はね、イタリアの新しい豆なのだよ」
帝王学の後、テオは毎回やけに機嫌が良い。
何がそんなに楽しいのか、満面の笑顔で話している。
今日の講義が終わりだから浮かれているのだろうかとクラウスには疑問だった。
テオが帝王学を受講した理由は、
優秀な成績を生み出すノートが傍にあるからではなかった。
講義中、実直で爽快な発言を聞くこと、
生真面目に板書する横顔を眺めることが許されれば、それで充分。
今日の講義も大満足に過ごせたと、いつも満面の笑顔だった。
クラウスが先に階段を降りて行く。その少し後をテオが続く。
テオの目前には、スポーツマンらしく短く切った髪。
晒された項。少し日に焼けてきたなとテオは密かに思う。
以前プレゼントしたトライアスロンバイクを使ってくれているようだ。
校舎から寮までの間、テオの方に、より多くの挨拶が掛けられる。
シュヌーシア寮に止まらず、ウーティスの生徒達や、
通りすがりのアルファルドの鳥にまで気さくに挨拶を返していた。
シュヌーシア寮サロンに、のどかな時間とエスプレッソの香りが流れる。
サロンの隅には高価なエスプレッソマシンがある。
以前、クラウスが何気なくエスプレッソが好きだと言った二日後に、
このサロンにドンと置かれていて大層驚かされた品だ。
深い苦みをストレートで飲めるのはこの寮ではクラウスただ一人。
テオは彼にエスプレッソ用の白い小さなカップを渡す。
このデミタスは、フランス語で『半分のコーヒーカップ』を意味する。
隣に座ったテオのカップは、学院の紋章がついた通常の大きさ。
黒い水面には黄金色の泡。クレマと呼ばれるものだ。
テオはエスプレッソの美味しさを示す泡に、グラニュー糖を静かに入れる。
その刹那、砂糖は繊細な泡の上に乗る。
雪のような白が、じゅわとコーヒー色にその身を溶かす瞬間。
砂糖がなんとも幸せそうで、いつも焦がれるように見守ってしまう。
テオは特別、コーヒー党というわけではなかったが、
クラウスにコーヒーを淹れるついでに自分も飲むようになり、
徐々にこの香りにも惹かれていったし、ミルクを攪拌する時に見られる、
美しい螺旋模様を愛でることも楽しみだった。
テオはコーヒーカップの芸術を鑑賞しながら、いつも思うことがあった。
きっと、エスプレッソがクラウスで、自分はミルクなのだろうと。
この黒は、きりりと凛々しく、深い味わいがある。
その苦味を一度知ってしまえば毎日会いたくなる。
たったひとくち飲んだだけで、全身の力が抜けるような幸福に包まれる。
ミルクがなくとも、エスプレッソは単独で充分立っていられる。
テオのカップは、すっかりカフェ・ラテ色になっていた。
一口飲む。喉を流れるまろやかな苦み。いつものように、ああ、と息を吐く。
「全く、この赤い実を見て飲んでみようと最初に思った人は天才だね。
実の種子を焙煎して抽出したものを飲もうなんて、どうして考え付いたのだろう」
「確かに、な」
コーヒーの木には、コーヒーチェリーと呼ばれる赤い実が生る。
実には、薄茶色の二つの種子が入っている。
その生豆をローストして初めて、よく見られる焦茶色のコーヒー豆になる。
「その天才さんのおかげで、私は今、夢のような時間が過ごせるのだね」
夢のよう。テオの口からよく聞く言葉だった。
ささいなことにも、いちいち感動を表明する。
「お前は朝から晩まで、夢の中に居るようだな」
冗談で言ったつもりだった言葉には、あまりに素直な返事があった。
「うん。そうだね。私は寝ても覚めても夢の中に居るのだろうね」
カフェ・ラテとの口付けを交わし、顔を上げると、
疑問を苦い顔に張り付けているクラウスと目が合った。
にこりと笑って、メネシス家の帝王学とも言うべき、大切な言葉について話し始めた。
「小さい頃、両親に『人生は夢』だと教わったんだ。
夢を楽しむために人は生まれてきたのだと」
テオの唇は、クラウスの辞書にない言葉を多用する。本当に。
9気圧で抽出した、ダークローストの芳香。
クラウスはデミタスに口付けたまま、友人の言葉を聞いていた。
「私はね、今、最も楽しい夢を見ているのだと思う。
この聖アルフォンソ島で、シュヌーシア寮で、貴方の隣で」
夜。クラウスは夢を見た。
テオが眠っている夢だった。
雲の上のような空間に一人で。
小麦色の寝顔。
黄色やピンクの花が落ちる、綺麗で儚い楽園。
ひだまりの中、真っ白な毛布にくるまって。
気持ち良さそうに夢を見ていた。

fin
テオとクラウスが共に受けている帝王学の終了後。
教室を出て、長い廊下を歩きながら話していた。
「お前、真面目に講義を聞いているのか?」
「聞いているとも。今日は特に、明君と暗君の差異について論じたところが、
素晴らしかったなあ。一生貴方に付いていきたいと思ったよ」
「思わんでいい」
クラウスは高等部第二学年、テオは高等部一年。
後に二人とも生徒代表という王になるとは知らずに受けていた講義。
クラウスは、帝王学は修めておきたいと願って受講を決めた。
では私もご一緒したいなとテオが言ってきた為、二人揃っての受講となった。
クラウスが念の為「俺は、ノートは一切貸さないぞ」と釘を刺したところ、
返ってきたのは笑顔で「うん。解っているよ」とのこと。
言葉通り、テオからノートを要求されたことは一度もなかった。
テオもメネシス家の次期当主として、帝王学を学んでおきたいと思っているのだろうか。
しかし、この友人は、本人に面と向かって言うことはないが、
学問への知的好奇心が高い人種とは思えないのだ。
テオの好奇心は専ら『楽しいこと』に向かっている。
こと娯楽に関しては、クラウスが太刀打ちできない能力を持つ。
海運王の家だけあって、マリンスポーツの類は遊び尽くしている。そのくせ飽きていない。
クラウスもトライアスロンを趣味とするだけあって泳力には自信があったのだが、
テオも海に入れば自由に泳ぐ。ただ、二人の泳ぎ方には違いがあった。
黙々とスピード重視で泳ぎ続けるクラウスはシャチのようで、
意外と肺活量があり潜水に長けるテオは優雅な人魚のようだった。
海を愛する男は、今は片手にテキストを持ち、クラウスと肩を並べている。
「さて、クラウス。放課後のコーヒータイムにしようか?」
「え、ああ」
「今日はね、イタリアの新しい豆なのだよ」
帝王学の後、テオは毎回やけに機嫌が良い。
何がそんなに楽しいのか、満面の笑顔で話している。
今日の講義が終わりだから浮かれているのだろうかとクラウスには疑問だった。
テオが帝王学を受講した理由は、
優秀な成績を生み出すノートが傍にあるからではなかった。
講義中、実直で爽快な発言を聞くこと、
生真面目に板書する横顔を眺めることが許されれば、それで充分。
今日の講義も大満足に過ごせたと、いつも満面の笑顔だった。
クラウスが先に階段を降りて行く。その少し後をテオが続く。
テオの目前には、スポーツマンらしく短く切った髪。
晒された項。少し日に焼けてきたなとテオは密かに思う。
以前プレゼントしたトライアスロンバイクを使ってくれているようだ。
校舎から寮までの間、テオの方に、より多くの挨拶が掛けられる。
シュヌーシア寮に止まらず、ウーティスの生徒達や、
通りすがりのアルファルドの鳥にまで気さくに挨拶を返していた。
シュヌーシア寮サロンに、のどかな時間とエスプレッソの香りが流れる。
サロンの隅には高価なエスプレッソマシンがある。
以前、クラウスが何気なくエスプレッソが好きだと言った二日後に、
このサロンにドンと置かれていて大層驚かされた品だ。
深い苦みをストレートで飲めるのはこの寮ではクラウスただ一人。
テオは彼にエスプレッソ用の白い小さなカップを渡す。
このデミタスは、フランス語で『半分のコーヒーカップ』を意味する。
隣に座ったテオのカップは、学院の紋章がついた通常の大きさ。
黒い水面には黄金色の泡。クレマと呼ばれるものだ。
テオはエスプレッソの美味しさを示す泡に、グラニュー糖を静かに入れる。
その刹那、砂糖は繊細な泡の上に乗る。
雪のような白が、じゅわとコーヒー色にその身を溶かす瞬間。
砂糖がなんとも幸せそうで、いつも焦がれるように見守ってしまう。
テオは特別、コーヒー党というわけではなかったが、
クラウスにコーヒーを淹れるついでに自分も飲むようになり、
徐々にこの香りにも惹かれていったし、ミルクを攪拌する時に見られる、
美しい螺旋模様を愛でることも楽しみだった。
テオはコーヒーカップの芸術を鑑賞しながら、いつも思うことがあった。
きっと、エスプレッソがクラウスで、自分はミルクなのだろうと。
この黒は、きりりと凛々しく、深い味わいがある。
その苦味を一度知ってしまえば毎日会いたくなる。
たったひとくち飲んだだけで、全身の力が抜けるような幸福に包まれる。
ミルクがなくとも、エスプレッソは単独で充分立っていられる。
テオのカップは、すっかりカフェ・ラテ色になっていた。
一口飲む。喉を流れるまろやかな苦み。いつものように、ああ、と息を吐く。
「全く、この赤い実を見て飲んでみようと最初に思った人は天才だね。
実の種子を焙煎して抽出したものを飲もうなんて、どうして考え付いたのだろう」
「確かに、な」
コーヒーの木には、コーヒーチェリーと呼ばれる赤い実が生る。
実には、薄茶色の二つの種子が入っている。
その生豆をローストして初めて、よく見られる焦茶色のコーヒー豆になる。
「その天才さんのおかげで、私は今、夢のような時間が過ごせるのだね」
夢のよう。テオの口からよく聞く言葉だった。
ささいなことにも、いちいち感動を表明する。
「お前は朝から晩まで、夢の中に居るようだな」
冗談で言ったつもりだった言葉には、あまりに素直な返事があった。
「うん。そうだね。私は寝ても覚めても夢の中に居るのだろうね」
カフェ・ラテとの口付けを交わし、顔を上げると、
疑問を苦い顔に張り付けているクラウスと目が合った。
にこりと笑って、メネシス家の帝王学とも言うべき、大切な言葉について話し始めた。
「小さい頃、両親に『人生は夢』だと教わったんだ。
夢を楽しむために人は生まれてきたのだと」
テオの唇は、クラウスの辞書にない言葉を多用する。本当に。
9気圧で抽出した、ダークローストの芳香。
クラウスはデミタスに口付けたまま、友人の言葉を聞いていた。
「私はね、今、最も楽しい夢を見ているのだと思う。
この聖アルフォンソ島で、シュヌーシア寮で、貴方の隣で」
夜。クラウスは夢を見た。
テオが眠っている夢だった。
雲の上のような空間に一人で。
小麦色の寝顔。
黄色やピンクの花が落ちる、綺麗で儚い楽園。
ひだまりの中、真っ白な毛布にくるまって。
気持ち良さそうに夢を見ていた。
fin
■2日目5:手を 続編
「ゼノ、ミルクティが飲みたいな」
お休み前にそう頼まれて、専属執事は紅茶の準備をしていた。
次期当主の広い自室。
此処はメイド達によって常に綺麗に掃除されている。
この執事の目から見ても完璧だ。
主人はベッドに腰掛け、紅茶ができるのを待っている。
手はメイキングされたシーツの上。
カップは一つ。ほんの数年前までカップは三つ必要だった。
ミルクティをメネシスの御方は好まれる。
これを淹れる度に浮かぶ光景があった。
庭で遊んでいた子供。
お茶の時間。
淹れたばかりのミルクティ。
それを運ぶまだ若い自分。
噴水の傍のテーブル。午後の日差し。
見惚れて。手を滑らせた。
宙に浮くカップ。それは子供の服に着地した。
上等なお召し物がミルクティ色に染まっていく。
初めての失敗。
完璧主義だった自分。どうすれば償えるのか。
もう此処には置いて貰えないと思った。
何もできず、紅茶がシルクに滲み込んでいくさまを見ていた。
なのに、あなたは。
熱い、と叱ることもなく。
ごめんなさい、と言いながら私を見て笑っていた。
――そんなにビックリしてるゼノは初めてだったから――
あれから何年も過ぎたのに、あの楽しげな笑顔は、
今も鮮明に焼き付いたまま脳裏を離れない。
柔らかな笑顔を記憶の奥底に無理に沈める。
「ねえ。ゼノ」
現在の主人の声。声変わりをしても面影は似ている。
テオはベッドに座ったまま、俯いていた。
「私、これからフィリア嬢と仲良くなれるのかな?」
「大丈夫ですよ。フィリア様もテオ様も素晴らしいお人なのですから。
ご一緒に過ごすうち、次第にお相手のことが解って距離が縮まってくるでしょう」
「そう、かな」
「ええ。テオ様は人と親しくなる才能をお持ちです。
ご婚約者だと意識せず、例えば、学院に来た新入生と接するように、
フィリア様と接してみてはいかがでしょう。
先ずご友人になるところから。ゆっくり始めて良いのですよ」
すらすらと流れるように出てくる言葉。
メネシスに仕える者として正しい台詞は、
自分でも不思議に思うくらい淀みなく話せた。
「そうか。うん、それなら私にもできるかな」
「ええ。できますよ、テオ様なら」
テオは暫く黙っていた。
学生時代より、少しシャープになった輪郭。
物想いに俯くと、幼少時代の面影を残しながらも、
次期当主としての風格が滲み出るようになった。
主人は、やがて顔を上げ、こう言った。
「私、今度、フィリア嬢と会っても良いかな?
これから友人になるのなら、一度くらいは、
二人でゆっくりとティータイムを過ごしてみないとね?」
「テオ様…」
「二人きりになれる場所と、彼女が好きそうなお菓子を用意してくれる?
お茶は私が淹れて差し上げたいな。どんなリーフが良いだろうね」
「やっと前向きなお気持ちになられましたね。もちろん、ご用意させて頂きます」
執事は喜ばしいことだと思いながら、
細い針で刺されるような痛みを感じていた。
こうやってメネシスの御方達は、正しいお相手を選び、
その道を進んでいくのだと、改めて思い知らされたようだった。
「ごめんね、ゼノ」
やけに沈んだ声。
「何がですか? テオ様」
「私、ゼノに迷惑ばかり掛けて、申し訳ないなと思って」
「良いのですよ。私は慣れていますから」
リーフの抽出が終わる。
ポットを傾けると、あたたかな音。
湯気とセイロンの香り。たっぷりのミルクと砂糖は一つ。
カップをお渡しすると、主人は一口飲み、すぐさま感想を述べる。
「ああ、ゼノはミルクティ屋さんでも生業になるねえ」
「恐れ入ります。ですが、やはり大袈裟ではないですか?」
「だって、いつも完璧なまでに私好みの味だもの」
「テオ様に何年お仕えしてきたとお思いですか?」
もう19歳になった主人。
聖アルフォンソ島にご滞在時を除き、ずっとお傍に居る。
テオが居ない六年間。
その間に初めて知らされたこと。
自分の髪色。
テオを次期当主とすることに異論はなかった。
テオは上に立つべき存在だ。
メネシスを、ギリシャを先導していける王だ。
テオが学院を卒業し、邸に戻った時は、
以前のように振る舞えるか心配だった。
幼少期そのままの笑顔を見て、肩の力が抜けた。
テオを一生支えていこうと改めて誓った。
それが許されるなら、この命の意味もあったというものだ。
お前は何も知らなくていい。
太陽の笑顔を失わせるわけにはいかない。
「美味しいよ、ゼノ」
毎回飽きずに賛辞や感謝を述べるメネシスの唇。
何世代も変わらない高尚な唇をテオも受け継いでいた。
「ゼノのミルクティを飲むと、これからもやっていけそうだなと思うよ」
微笑みながら、またカップに口付ける。
執事は主人に背を向けたままだった。
万華鏡のように過去が回りだす。
数か月前のパーティでお会いした時も私にミルクティを頼まれた。
――またゼノのミルクティが飲める日まで元気でいられる気がします――
執事は知らずに自分の胸許を握り締めていた。
指に触れるもの。手の平に小さな痛みが走る。
今ではもう、これを外さないのか、外せないのかさえ解らなかった。
眼鏡に掛かる前髪を除ける気も起こらない。
「同じことばかり言うんだな」
テオはカップを置いて、執事に尋ねる。
「え? なに、ゼノ?」
主人に問われ、クルリと身を翻す。
「いえ。メネシスの唇は相変わらず大袈裟ですね、と申し上げただけですよ」
お休み前にそう頼まれて、専属執事は紅茶の準備をしていた。
次期当主の広い自室。
此処はメイド達によって常に綺麗に掃除されている。
この執事の目から見ても完璧だ。
主人はベッドに腰掛け、紅茶ができるのを待っている。
手はメイキングされたシーツの上。
カップは一つ。ほんの数年前までカップは三つ必要だった。
ミルクティをメネシスの御方は好まれる。
これを淹れる度に浮かぶ光景があった。
庭で遊んでいた子供。
お茶の時間。
淹れたばかりのミルクティ。
それを運ぶまだ若い自分。
噴水の傍のテーブル。午後の日差し。
見惚れて。手を滑らせた。
宙に浮くカップ。それは子供の服に着地した。
上等なお召し物がミルクティ色に染まっていく。
初めての失敗。
完璧主義だった自分。どうすれば償えるのか。
もう此処には置いて貰えないと思った。
何もできず、紅茶がシルクに滲み込んでいくさまを見ていた。
なのに、あなたは。
熱い、と叱ることもなく。
ごめんなさい、と言いながら私を見て笑っていた。
――そんなにビックリしてるゼノは初めてだったから――
あれから何年も過ぎたのに、あの楽しげな笑顔は、
今も鮮明に焼き付いたまま脳裏を離れない。
柔らかな笑顔を記憶の奥底に無理に沈める。
「ねえ。ゼノ」
現在の主人の声。声変わりをしても面影は似ている。
テオはベッドに座ったまま、俯いていた。
「私、これからフィリア嬢と仲良くなれるのかな?」
「大丈夫ですよ。フィリア様もテオ様も素晴らしいお人なのですから。
ご一緒に過ごすうち、次第にお相手のことが解って距離が縮まってくるでしょう」
「そう、かな」
「ええ。テオ様は人と親しくなる才能をお持ちです。
ご婚約者だと意識せず、例えば、学院に来た新入生と接するように、
フィリア様と接してみてはいかがでしょう。
先ずご友人になるところから。ゆっくり始めて良いのですよ」
すらすらと流れるように出てくる言葉。
メネシスに仕える者として正しい台詞は、
自分でも不思議に思うくらい淀みなく話せた。
「そうか。うん、それなら私にもできるかな」
「ええ。できますよ、テオ様なら」
テオは暫く黙っていた。
学生時代より、少しシャープになった輪郭。
物想いに俯くと、幼少時代の面影を残しながらも、
次期当主としての風格が滲み出るようになった。
主人は、やがて顔を上げ、こう言った。
「私、今度、フィリア嬢と会っても良いかな?
これから友人になるのなら、一度くらいは、
二人でゆっくりとティータイムを過ごしてみないとね?」
「テオ様…」
「二人きりになれる場所と、彼女が好きそうなお菓子を用意してくれる?
お茶は私が淹れて差し上げたいな。どんなリーフが良いだろうね」
「やっと前向きなお気持ちになられましたね。もちろん、ご用意させて頂きます」
執事は喜ばしいことだと思いながら、
細い針で刺されるような痛みを感じていた。
こうやってメネシスの御方達は、正しいお相手を選び、
その道を進んでいくのだと、改めて思い知らされたようだった。
「ごめんね、ゼノ」
やけに沈んだ声。
「何がですか? テオ様」
「私、ゼノに迷惑ばかり掛けて、申し訳ないなと思って」
「良いのですよ。私は慣れていますから」
リーフの抽出が終わる。
ポットを傾けると、あたたかな音。
湯気とセイロンの香り。たっぷりのミルクと砂糖は一つ。
カップをお渡しすると、主人は一口飲み、すぐさま感想を述べる。
「ああ、ゼノはミルクティ屋さんでも生業になるねえ」
「恐れ入ります。ですが、やはり大袈裟ではないですか?」
「だって、いつも完璧なまでに私好みの味だもの」
「テオ様に何年お仕えしてきたとお思いですか?」
もう19歳になった主人。
聖アルフォンソ島にご滞在時を除き、ずっとお傍に居る。
テオが居ない六年間。
その間に初めて知らされたこと。
自分の髪色。
テオを次期当主とすることに異論はなかった。
テオは上に立つべき存在だ。
メネシスを、ギリシャを先導していける王だ。
テオが学院を卒業し、邸に戻った時は、
以前のように振る舞えるか心配だった。
幼少期そのままの笑顔を見て、肩の力が抜けた。
テオを一生支えていこうと改めて誓った。
それが許されるなら、この命の意味もあったというものだ。
お前は何も知らなくていい。
太陽の笑顔を失わせるわけにはいかない。
「美味しいよ、ゼノ」
毎回飽きずに賛辞や感謝を述べるメネシスの唇。
何世代も変わらない高尚な唇をテオも受け継いでいた。
「ゼノのミルクティを飲むと、これからもやっていけそうだなと思うよ」
微笑みながら、またカップに口付ける。
執事は主人に背を向けたままだった。
万華鏡のように過去が回りだす。
数か月前のパーティでお会いした時も私にミルクティを頼まれた。
――またゼノのミルクティが飲める日まで元気でいられる気がします――
執事は知らずに自分の胸許を握り締めていた。
指に触れるもの。手の平に小さな痛みが走る。
今ではもう、これを外さないのか、外せないのかさえ解らなかった。
眼鏡に掛かる前髪を除ける気も起こらない。
「同じことばかり言うんだな」
テオはカップを置いて、執事に尋ねる。
「え? なに、ゼノ?」
主人に問われ、クルリと身を翻す。
「いえ。メネシスの唇は相変わらず大袈裟ですね、と申し上げただけですよ」
■2日目4 続編
○手を差し出す1
ユウタの姉は昨日と同じように手を差し出した。
テオは恭しくその手に唇を寄せる。
瞼を覆う睫毛は少し長い。ぷっくりとした唇。
もし実際に触れられたら柔らかい感触がするのだろう。
微かに聞こえる小さな声がした。
「Se agapao.」
英語ではないようで聞き取れなかった。
ゆっくりと離れたテオに、今の言葉は、と尋ねる。
テオは何か口を開きかけたが息を共にその言葉を飲み込んだ。
まるで天気雨のような表情でポツポツと言う。
「ギリシャ語だよ。…意味は、聞かないでおくれ」
すまない、という声が泣き出しそうで、姉は何も言えなくなった。
携帯画面が元に戻る。静かに通信が途絶えた。
○手を差し出す2
ユウタの姉は昨日と同じように手を差し出した。
テオは恭しくその手に唇を寄せる。
「おやすみ、サンベリーナ。もし良ければ、
また私の夢へ会いに来ておくれ?
今宵は誘惑の代償を用意して待っているよ」
テオの笑顔を最後に、画面はぷつりと消えた。
○手を差し出さない
「サンベリーナ…」
ユウタの姉は手を差し出さなかった。
「すまない。無理を言ったようだね。今日は私に付き合ってくれてありがとう。
姫と過ごせて楽しかった。おやすみ、サンベリーナ。いいゆめを」
テオは電話をそっと切った。
このボタンひとつで、小さな姫は消えてしまう。
頭上の月桂樹を見上げる。
先程まであった木洩れ陽が見えない。空は灰色の雲に覆われていた。
苦笑して自分の膝を眺めた。
ユウタの姉は昨日と同じように手を差し出した。
テオは恭しくその手に唇を寄せる。
瞼を覆う睫毛は少し長い。ぷっくりとした唇。
もし実際に触れられたら柔らかい感触がするのだろう。
微かに聞こえる小さな声がした。
「Se agapao.」
英語ではないようで聞き取れなかった。
ゆっくりと離れたテオに、今の言葉は、と尋ねる。
テオは何か口を開きかけたが息を共にその言葉を飲み込んだ。
まるで天気雨のような表情でポツポツと言う。
「ギリシャ語だよ。…意味は、聞かないでおくれ」
すまない、という声が泣き出しそうで、姉は何も言えなくなった。
携帯画面が元に戻る。静かに通信が途絶えた。
○手を差し出す2
ユウタの姉は昨日と同じように手を差し出した。
テオは恭しくその手に唇を寄せる。
「おやすみ、サンベリーナ。もし良ければ、
また私の夢へ会いに来ておくれ?
今宵は誘惑の代償を用意して待っているよ」
テオの笑顔を最後に、画面はぷつりと消えた。
○手を差し出さない
「サンベリーナ…」
ユウタの姉は手を差し出さなかった。
「すまない。無理を言ったようだね。今日は私に付き合ってくれてありがとう。
姫と過ごせて楽しかった。おやすみ、サンベリーナ。いいゆめを」
テオは電話をそっと切った。
このボタンひとつで、小さな姫は消えてしまう。
頭上の月桂樹を見上げる。
先程まであった木洩れ陽が見えない。空は灰色の雲に覆われていた。
苦笑して自分の膝を眺めた。
■2日目3:受け取れません 続編
○良いんですよ
良いんですよ、とユウタの姉は言う。
「ありがとう。サンベリーナが共に居てくれると癒されるよ。
童話の中でも傷付いたツバメを看病した心優しい姫だったものね。
姫のお傍に居ると胸があたたかくなるんだ。いっそ、このまま時が止まれば良いのに。
そうしたら、いつまでも姫と共に居られるのに」
テオは膝に乗せた小さな姫を見つめる。
「ねえ、サンベリーナ?」
革の小さな袋を見せる。
「やはり、このチューリップのネックレス、受け取って貰えないだろうか?
嫌になったら、いつでも捨ててくれて構わない。
私がこれをユウタに預けることだけ、許しておくれ」
ユウタの姉が何か言う前に、テオは言葉を続ける。
「すまない。今日はそろそろ戻るよ。
私が部屋に居ないと、誰かに知られるといけないし。
今日もサンベリーナと会えて良かった。どうもありがとう。
では姫、今宵もおやすみのキスをしても良いかな?」
→手を差し出す
→手を差し出さない
○きっとマリッジブルーなんですよ
きっとマリッジブルーなんですよ、ユウタの姉は言った。
「まりっじぶるー? 結婚は青なのかい?」
伝わっていないようだ。もしかしたら和製英語なのかもしれないと思い、
結婚を控えた人が気分が落ち込む症状のことですよと教えた。
「ああ、そういう意味なのだね、なるほど。姫、私はその、まりっじぶるーなの?」
そうかもしれません、と答えた。決して珍しいことではないと言い添えて。
テオは「そういうもの、なのかな」と呟いていた。
ところで相手の方はどんな人なんですか、と尋ねてみた。
「そうだね。私には勿体無いご令嬢だと思うよ。
でも、まだ笑った顔を一度も見ていない。私と居るのはさぞ苦痛なのだろうね。
ご令嬢もまた家に言われて婚約したのだろうから。
もしかしたら、あのご令嬢も…同じなのかもしれない」
そこまで言うと、テオはやや自嘲的に笑っていた。
「こうして口にしてみると、思った以上に苦しいだけの婚約だね。
この気持ちが、まりっじぶるーで、誰しも同じように不安に思うのなら、
私もしっかりしなくてはいけないよね。
すまない、サンベリーナ。弱音ばかり聞かせてしまって」
テオは携帯を持って、すっと立ち上がった。
「姫、励ましてくれてありがとう。もう少し前向きに考えられるように努めるよ。ではね」
笑顔を見せて、電話を切る。
画面から姫が消えると、ふう、と息を吐いた。
「青…なのかな、私は」
○二人とも望んでない結婚なんて…
ユウタの姉は思わず、二人とも望んでない結婚なんて…と言葉を零す。
海運王の子息は力なく話し始める。
「私もね、以前、サンベリーナと同じようなことを姉上に言ったんだ。
けれど、姉上は行ってしまった。姉上も同じように石油王の家に嫁いだのだよ。
こればかりはメネシスに生まれた者の逃れられない定めなんだ」
月桂樹の裏庭に、さやさやと風が吹く。葉の香りに髪を撫でられる。
「心配してくれてありがとう。優しいのだね。
さすがはあの王子達が愛する姫だ。ねえ、サンベリーナ?」
革の小さな袋を見せる。
「やはり、このチューリップのネックレス、受け取って貰えないだろうか?
嫌になったら、いつでも捨ててくれて構わない。
私がこれをユウタに預けることだけ、許しておくれ」
ユウタの姉が何か言う前に、テオは言葉を続ける。
「すまない。今日はそろそろ戻るよ。
私が部屋に居ないと、誰かに知られるといけないし。
今日もサンベリーナと会えて良かった。どうもありがとう。
では姫、今宵もおやすみのキスをしても良いかな?」
→手を差し出す
→手を差し出さない
良いんですよ、とユウタの姉は言う。
「ありがとう。サンベリーナが共に居てくれると癒されるよ。
童話の中でも傷付いたツバメを看病した心優しい姫だったものね。
姫のお傍に居ると胸があたたかくなるんだ。いっそ、このまま時が止まれば良いのに。
そうしたら、いつまでも姫と共に居られるのに」
テオは膝に乗せた小さな姫を見つめる。
「ねえ、サンベリーナ?」
革の小さな袋を見せる。
「やはり、このチューリップのネックレス、受け取って貰えないだろうか?
嫌になったら、いつでも捨ててくれて構わない。
私がこれをユウタに預けることだけ、許しておくれ」
ユウタの姉が何か言う前に、テオは言葉を続ける。
「すまない。今日はそろそろ戻るよ。
私が部屋に居ないと、誰かに知られるといけないし。
今日もサンベリーナと会えて良かった。どうもありがとう。
では姫、今宵もおやすみのキスをしても良いかな?」
→手を差し出す
→手を差し出さない
○きっとマリッジブルーなんですよ
きっとマリッジブルーなんですよ、ユウタの姉は言った。
「まりっじぶるー? 結婚は青なのかい?」
伝わっていないようだ。もしかしたら和製英語なのかもしれないと思い、
結婚を控えた人が気分が落ち込む症状のことですよと教えた。
「ああ、そういう意味なのだね、なるほど。姫、私はその、まりっじぶるーなの?」
そうかもしれません、と答えた。決して珍しいことではないと言い添えて。
テオは「そういうもの、なのかな」と呟いていた。
ところで相手の方はどんな人なんですか、と尋ねてみた。
「そうだね。私には勿体無いご令嬢だと思うよ。
でも、まだ笑った顔を一度も見ていない。私と居るのはさぞ苦痛なのだろうね。
ご令嬢もまた家に言われて婚約したのだろうから。
もしかしたら、あのご令嬢も…同じなのかもしれない」
そこまで言うと、テオはやや自嘲的に笑っていた。
「こうして口にしてみると、思った以上に苦しいだけの婚約だね。
この気持ちが、まりっじぶるーで、誰しも同じように不安に思うのなら、
私もしっかりしなくてはいけないよね。
すまない、サンベリーナ。弱音ばかり聞かせてしまって」
テオは携帯を持って、すっと立ち上がった。
「姫、励ましてくれてありがとう。もう少し前向きに考えられるように努めるよ。ではね」
笑顔を見せて、電話を切る。
画面から姫が消えると、ふう、と息を吐いた。
「青…なのかな、私は」
○二人とも望んでない結婚なんて…
ユウタの姉は思わず、二人とも望んでない結婚なんて…と言葉を零す。
海運王の子息は力なく話し始める。
「私もね、以前、サンベリーナと同じようなことを姉上に言ったんだ。
けれど、姉上は行ってしまった。姉上も同じように石油王の家に嫁いだのだよ。
こればかりはメネシスに生まれた者の逃れられない定めなんだ」
月桂樹の裏庭に、さやさやと風が吹く。葉の香りに髪を撫でられる。
「心配してくれてありがとう。優しいのだね。
さすがはあの王子達が愛する姫だ。ねえ、サンベリーナ?」
革の小さな袋を見せる。
「やはり、このチューリップのネックレス、受け取って貰えないだろうか?
嫌になったら、いつでも捨ててくれて構わない。
私がこれをユウタに預けることだけ、許しておくれ」
ユウタの姉が何か言う前に、テオは言葉を続ける。
「すまない。今日はそろそろ戻るよ。
私が部屋に居ないと、誰かに知られるといけないし。
今日もサンベリーナと会えて良かった。どうもありがとう。
では姫、今宵もおやすみのキスをしても良いかな?」
→手を差し出す
→手を差し出さない
■テオ×クラウス
「クラウス、クラウス! ちょっと来ておくれ!」
「なんだ一体…おいっ」
シュヌーシア寮の放課後。
テオは自室で予習中だったクラウスの手を引っ張っていった。
クラウスが連れて行かれたのはサロン。
他にもテオを慕う後輩達が何人か集まっていた。
最近入った新入りも何故か居る。寮が違う筈なのだが。
生徒達が囲むテーブルには、巨大なウサギ型のチョコレート。
辺りには濃厚なカカオの香りが充満している。
甘いものが苦手な生徒代表は、もう具合が悪くなるようだった。
笑顔のテオは自信満々に紹介する。
「じゃーん! みんなでチョコレートを作ってみました!」
「チョコレートなのは解るが、何故こんなにも、でかいウサギにする必要が?」
「シルヴァンがオリエンタルのバレンタインを教えてくれたのだよ。
愛する人へウサギ型チョコレートを送るものなんだって。
それで、私とみんなで心を込めて、
愛するシュヌーシアのみんなに作った、というわけなのだよ」
だから新入りがそこに座っているのかと生徒代表は思う。
しかし、入ったばかりにしては馴染み過ぎだ。
生徒代表の渋い顔をよそに、テオのウキウキは止まらない。
「もちろん、みんなへの愛はチョコでは表現しきれないほど大きいのだけど、
一分の一サイズで作ると、みんなが虫歯になってしまうかもしれないからね」
「見ているだけで歯が痛くなりそうだがな」
「大丈夫だよ、クラウス。大きいけれど、それほど甘くはないんだ。
クラウスも食べられるように、少しビターなオトナの味で作ったんだ。
中等部のみんなはココアと一緒に食べると良いかな。
貴方に最初に食べて貰おうと思って、みんなも待っていてくれているんだよ?
やはり、生徒代表だし、シュヌーシアのお父さんだし、私のクラウスだから」
「…最後の方が、納得いかないが」
「そう? 私はそろそろ納得して欲しいよ?」
甘い笑顔を前に、クラウスは肩を落とす。
頭が痛くなってきたのは甘いカカオのせいだけだろうか。
「大体、チョコを食べるのは、俺が最初ではないだろう?」
「えっ?」
「お前の唇にチョコが付いている。ったく子供か、お前は。早く拭け」
テオは人差し指で唇をなぞる。指に少しチョコが付いた。
さっき味見をした時に付いたようだ。
ぺろと人差し指を舐めると、スイートな考えが浮かんだ。
「クラウス、それは私の唇に付いたチョコの方が食べたいという意味?」
「俺が『そうだ』とでも言うと思うのか」
「言えないよね、みんなの前だもの」
中等部一年が、ハイハイ、と手を叩く。
「おノロケはそのくらいにしてさ、早くチョコ食おうぜ?
じゃないと、熱くってチョコが溶けちゃうし?」
生意気な後輩にからかわれ、生徒代表は喧嘩を買った。
「レオン。今のどこが惚気なんだ」
「全体的にー。なあ、テオー。俺、おなかすいたー。もう食べてもイイだろ?」
「そうだね。みんなで食べようか」
それを合図に皆がチョコの端をポキポキ折って食べ始める。
お持ち帰り用の小箱に折ったチョコを入れる者も居た。
パキン、ポキンと小気味の良い音が響く。
テオもウサギの耳を少し折って箱に乗せ、クラウスに差し出した。
「はい、クラウス。ハッピーバレンタイン。愛しているよ」
至って自然に差し出された甘いもの。
クラウスが受け取れないでいると、テオは笑顔で首を傾げた。
「もしかして、口移しが良かった? 此処ではダメではない?」
「普通に食べる」
奪うように取って、チョコを口に入れた。
二人の遣り取りを見ていた生徒が、同じようにウサギチョコの耳を折った。
テオによく懐いているラビットだ。まだ小学生のような身体を持つ。
チョコを入れた箱を手にして一番の友達の元に戻ってくる。
「レオン、レオン」
「んー?」
「あの、これからも、一緒に宿題したり、遊んだりしてくれる?」
「おうよ! あったりまえじゃん!」
「ありがと! はい、ハッピーバレンタイン」
あーん、と開いた口にチョコを入れる。
ほのぼのと笑い合う中等部一年生の様子を見て、テオは微笑ましく見守っていた。
「若い子は素直で良いねえ。クラウスもあの子達を見習っては?」
「断る」
ラビットが駆け寄ってきて、テオの前にチョコの箱を差し出した。
「テオ! いつもありがと! ハッピーバレンタイン!」
「ああ、ラビ…なんて愛しい子なのだろう。ありがとう、頂くよ」
先輩は身を屈める。手を伸ばし、チョコを口に入れる。
後輩達と一緒に作ったチョコレートが甘く溶けていく。
堪え切れないと言わんばかりに後輩を抱き締めた。
「ラビの笑顔のような美味しさだった。ハッピーバレンタイン、ラビ。愛しているよ」
「うん! 僕もテオだいすきー」
仲良しの先輩後輩を見て、レオンとクラウスの二人は、
ほぼ似たような顔になっていた。
fin
「なんだ一体…おいっ」
シュヌーシア寮の放課後。
テオは自室で予習中だったクラウスの手を引っ張っていった。
クラウスが連れて行かれたのはサロン。
他にもテオを慕う後輩達が何人か集まっていた。
最近入った新入りも何故か居る。寮が違う筈なのだが。
生徒達が囲むテーブルには、巨大なウサギ型のチョコレート。
辺りには濃厚なカカオの香りが充満している。
甘いものが苦手な生徒代表は、もう具合が悪くなるようだった。
笑顔のテオは自信満々に紹介する。
「じゃーん! みんなでチョコレートを作ってみました!」
「チョコレートなのは解るが、何故こんなにも、でかいウサギにする必要が?」
「シルヴァンがオリエンタルのバレンタインを教えてくれたのだよ。
愛する人へウサギ型チョコレートを送るものなんだって。
それで、私とみんなで心を込めて、
愛するシュヌーシアのみんなに作った、というわけなのだよ」
だから新入りがそこに座っているのかと生徒代表は思う。
しかし、入ったばかりにしては馴染み過ぎだ。
生徒代表の渋い顔をよそに、テオのウキウキは止まらない。
「もちろん、みんなへの愛はチョコでは表現しきれないほど大きいのだけど、
一分の一サイズで作ると、みんなが虫歯になってしまうかもしれないからね」
「見ているだけで歯が痛くなりそうだがな」
「大丈夫だよ、クラウス。大きいけれど、それほど甘くはないんだ。
クラウスも食べられるように、少しビターなオトナの味で作ったんだ。
中等部のみんなはココアと一緒に食べると良いかな。
貴方に最初に食べて貰おうと思って、みんなも待っていてくれているんだよ?
やはり、生徒代表だし、シュヌーシアのお父さんだし、私のクラウスだから」
「…最後の方が、納得いかないが」
「そう? 私はそろそろ納得して欲しいよ?」
甘い笑顔を前に、クラウスは肩を落とす。
頭が痛くなってきたのは甘いカカオのせいだけだろうか。
「大体、チョコを食べるのは、俺が最初ではないだろう?」
「えっ?」
「お前の唇にチョコが付いている。ったく子供か、お前は。早く拭け」
テオは人差し指で唇をなぞる。指に少しチョコが付いた。
さっき味見をした時に付いたようだ。
ぺろと人差し指を舐めると、スイートな考えが浮かんだ。
「クラウス、それは私の唇に付いたチョコの方が食べたいという意味?」
「俺が『そうだ』とでも言うと思うのか」
「言えないよね、みんなの前だもの」
中等部一年が、ハイハイ、と手を叩く。
「おノロケはそのくらいにしてさ、早くチョコ食おうぜ?
じゃないと、熱くってチョコが溶けちゃうし?」
生意気な後輩にからかわれ、生徒代表は喧嘩を買った。
「レオン。今のどこが惚気なんだ」
「全体的にー。なあ、テオー。俺、おなかすいたー。もう食べてもイイだろ?」
「そうだね。みんなで食べようか」
それを合図に皆がチョコの端をポキポキ折って食べ始める。
お持ち帰り用の小箱に折ったチョコを入れる者も居た。
パキン、ポキンと小気味の良い音が響く。
テオもウサギの耳を少し折って箱に乗せ、クラウスに差し出した。
「はい、クラウス。ハッピーバレンタイン。愛しているよ」
至って自然に差し出された甘いもの。
クラウスが受け取れないでいると、テオは笑顔で首を傾げた。
「もしかして、口移しが良かった? 此処ではダメではない?」
「普通に食べる」
奪うように取って、チョコを口に入れた。
二人の遣り取りを見ていた生徒が、同じようにウサギチョコの耳を折った。
テオによく懐いているラビットだ。まだ小学生のような身体を持つ。
チョコを入れた箱を手にして一番の友達の元に戻ってくる。
「レオン、レオン」
「んー?」
「あの、これからも、一緒に宿題したり、遊んだりしてくれる?」
「おうよ! あったりまえじゃん!」
「ありがと! はい、ハッピーバレンタイン」
あーん、と開いた口にチョコを入れる。
ほのぼのと笑い合う中等部一年生の様子を見て、テオは微笑ましく見守っていた。
「若い子は素直で良いねえ。クラウスもあの子達を見習っては?」
「断る」
ラビットが駆け寄ってきて、テオの前にチョコの箱を差し出した。
「テオ! いつもありがと! ハッピーバレンタイン!」
「ああ、ラビ…なんて愛しい子なのだろう。ありがとう、頂くよ」
先輩は身を屈める。手を伸ばし、チョコを口に入れる。
後輩達と一緒に作ったチョコレートが甘く溶けていく。
堪え切れないと言わんばかりに後輩を抱き締めた。
「ラビの笑顔のような美味しさだった。ハッピーバレンタイン、ラビ。愛しているよ」
「うん! 僕もテオだいすきー」
仲良しの先輩後輩を見て、レオンとクラウスの二人は、
ほぼ似たような顔になっていた。
fin
■2日目2:月桂樹の裏庭 続編
○受け取れません
ユウタの姉は、ありがとう、と言おうとしたが、
なるべく感情を抑え、受け取れません、と答えた。
テオはとてもびっくりした様子だった。
「え? すまない…サンベリーナ、チューリップには何か悲しい想い出が?」
ユウタの姉は首を横に振り、貴方には婚約者が居ると聞きました、と伝えた。
「みんなに聞いたのかい? すまない…隠しているつもりは、なかったのだけど」
テオの伸びやかな声が途端に小さくなる。右手は左手に触れていた。
「確かに私は既に婚約している。ホテル王として名を馳せる財閥一族のご令嬢と。
結婚式も…まだ公にはされていないけど、日取りは決定しているんだ。二か月後だよ。
家同士で決めた相手なのだよ。海運王とホテル王の家が手を結んだ、その証だ。
父上が新しい事業を始めるんだ。その実現には彼等の家の協力が必要でね。
でも、ご令嬢とは顔見知りというだけで、まだ友人とも言えない状態だ。
婚約指輪をお渡しした時も、互いに最低限の言葉しか交わせなくてね。
彼女も私との婚約は本意ではないのだろう。
夜な夜な一人で泣かせてしまっているかもしれない。
式が近付くにつれて、少々気が塞いでしまってね。
そうしたらウーティスのみんなの顔が浮かんできて、
何者でもない彼等に会いたくなったのだよ。
みんなは何も聞かずにギリシャまで来てくれた。きっと事情を察してくれたのだろうね。
…すまない。こんなことまで聞かせてしまうなんて。姫には昨日会ったばかりなのにね」
→良いんですよ
→きっとマリッジブルーなんですよ
→二人とも望んでない結婚なんて…
ユウタの姉は、ありがとう、と言おうとしたが、
なるべく感情を抑え、受け取れません、と答えた。
テオはとてもびっくりした様子だった。
「え? すまない…サンベリーナ、チューリップには何か悲しい想い出が?」
ユウタの姉は首を横に振り、貴方には婚約者が居ると聞きました、と伝えた。
「みんなに聞いたのかい? すまない…隠しているつもりは、なかったのだけど」
テオの伸びやかな声が途端に小さくなる。右手は左手に触れていた。
「確かに私は既に婚約している。ホテル王として名を馳せる財閥一族のご令嬢と。
結婚式も…まだ公にはされていないけど、日取りは決定しているんだ。二か月後だよ。
家同士で決めた相手なのだよ。海運王とホテル王の家が手を結んだ、その証だ。
父上が新しい事業を始めるんだ。その実現には彼等の家の協力が必要でね。
でも、ご令嬢とは顔見知りというだけで、まだ友人とも言えない状態だ。
婚約指輪をお渡しした時も、互いに最低限の言葉しか交わせなくてね。
彼女も私との婚約は本意ではないのだろう。
夜な夜な一人で泣かせてしまっているかもしれない。
式が近付くにつれて、少々気が塞いでしまってね。
そうしたらウーティスのみんなの顔が浮かんできて、
何者でもない彼等に会いたくなったのだよ。
みんなは何も聞かずにギリシャまで来てくれた。きっと事情を察してくれたのだろうね。
…すまない。こんなことまで聞かせてしまうなんて。姫には昨日会ったばかりなのにね」
→良いんですよ
→きっとマリッジブルーなんですよ
→二人とも望んでない結婚なんて…
■2日目3:ありがとう 続編
○生徒代表の頃の話
「生徒代表の話かい? 生徒代表室という部屋があるのはもう知っているかな?
そこにね、私は今も居るのだよ。歴代の生徒代表は肖像画を飾らせて貰える伝統なんだ。
専属の芸術家が描いてくれるのだよ。素晴らしい老紳士だ。私を描いて貰った時にね、
『今年の生徒代表さんは随分落ち着いていますね』と彼に言われたんだ。
それで私が、昨年はどんな様子でしたか、と伺ったら、
『少し緊張されていたのか、終始、背筋の正しい方でした』って。
彼らしいなと笑ってしまったよ。ああ、彼はとても真面目な人だったんだ。
もし、姫と彼が出会っていたら、どうなったかな。
おそらくは、あの硬派な人も姫の虜になっていただろうね」
その時、遠くの方から「テオ様」と聞こえたような気がした。
膝の上に居る姫をそっと手に取る。
「名残惜しいけれど、今日はもう帰らなくてはいけないようだ。
姫、おやすみのキスをさせて頂けますか?」
→手を差し出す
→手を差し出さない
○寮に居た頃の話
「私はシュヌーシア寮に居たのだよ。私にとっては最高の寮だった。
ウーティスやアルファルドとは違って、身体の弱い生徒が多く入るんだ。
そのせいか、この寮に入った生徒は次第に面倒見が良くなるのだよ。
団欒を厭うアルファルドとは正反対の環境だね。
おかげでシュヌーシアの中等部は甘えん坊なあどけない子が多くて、
高等部になると後輩達の世話を焼くお兄さんに育つ傾向があるんだ。
サンベリーナは、シュヌーシアの生徒を誰か知っている?」
聞かれて姉は、ミハイルさんなら知っています、と答えた。
「ああ、ミハイルかい。彼は可愛い子の筆頭だったね。
彼もまた病弱で、なかなか部屋から出てきてはくれないのだけど、
時々彼の部屋から聞こえてくる歌声は楽しみだったな。
あ…まさか、姫。彼も姫の虜なのかい?」
ユウタの姉が言葉を濁していると、テオは少し落ち込んだようだった。
「そ、そうなのだね…ではアルファルドにも知っている生徒が居るの?」
ユウタの姉は、エンジュさんとジャワハルワールさんを少し、と答えた。
「エンジュかい? 彼の鋼鉄の心までも…すごいね、さすが姫だ。
私、彼とは親しくはなれなかったんだ。
やはり最初がいけなかったのだろうね。彼は黒髪だと聞いたから、
アルファルドへ拝見に行ったのだが、とても邪険にされてしまってね。
ジャハワルワールに至っては、ついぞ彼の声を聞かせて貰えなかったな。
あまりに無口だから、声帯を失っているのではという噂も一時はあったのだがね、
結局、真相は解らずじまいだったよ。彼のオウム君とは仲良くして貰えたけどね。
それで姫、他には? 他にも知っている生徒が居るの?」
もう居ないです、生徒は、と答えるとテオは胸を撫で下ろした。
「姫を慕う者はなんと多いのだろう。恐れ入るよ」
その時、遠くの方から「テオ様」と聞こえたような気がした。
膝の上に居る姫をそっと手に取る。
「名残惜しいけれど、今日はもう帰らなくてはいけないようだ。
姫、今宵もおやすみのキスをさせて頂けますか?」
→手を差し出す
→手を差し出さない
○子供の頃の話
「私の子供時代かい? そうだねえ、今とそう変わらない子供だったと思うよ。
父上や母上の真似が好きだったらしくてね、
子供の頃から、両親にそっくりだと言われていたようだよ」
ユウタの姉は幼少時代のテオを想像してみる。
その時から「美しい瞳だね」などと言っていたのだろうか。
「幼い頃は、姉上とゼノと三人で遊んでいた。そう言えば、
この家でかくれんぼをしていて、私が行方不明になったことがあるよ。
箱の中に入ったら、鍵が掛かってしまってね、出られなくなったんだ。
家の者が総出で探す大騒ぎになってね。
私を見つけ出してくれたのは姉上とゼノだった。
大泣きする私を二人が抱き締めてくれたんだ。
そのあたたかさは今もなんとなく覚えているよ」
ゼノ、と姉が呟くとテオは説明を補足した。
「ああ、昨日、見なかったかな? 長い金髪に眼鏡の似合う男だよ。
彼はゼノ・エリティスと言うんだ。
エリティス家は代々メネシスを補佐してくれる家系でね。
先祖が主従関係だったそうなんだ。ゼノは現在、私の専属執事ということになっている。
年は36、私の仕事の手伝いもボデイガードもしてくれる、我がメネシスの名参謀だ。
彼は、私達、姉弟とは子供の頃から共に此処で育った。
姉弟の世話係という位置付けだったが、私にとっては頼れる兄だ。
幼い頃は、姉上と私とでゼノの取り合いになることもしばしばあったね」
「昔話はそこまでですよ、テオ様」
振り向くと身形の正しい男が居た。眼鏡の執事だ。
テオは思わず携帯電話を後ろ手に隠した。執事は頭を抱える。
「テオ様は相変わらずですね…それで隠したおつもりですか?
昨夜、いけないと申し上げたのに…私に隠れて東洋の姫君と密会とは」
「…すまない。でも私は」
「言い訳は聞きたくありません。東洋の姫君、貴女も貴女ですよ」
眼鏡の執事は、ユウタの姉を鋭く見据えた。
「ご存知でないのならお教えしましょう。
テオ様には婚約者がいらっしゃいます。式は二か月後です。
こんな時にメネシスの次期当主をたぶらかすのは止めて頂けませんか」
「ゼノ、私が無理に連れてきたんだ。姫は悪くないよ」
「それは最も良くない状況ですね」
執事はゆっくりと手を差し出した。
「テオ様、携帯電話をこちらへ」
「えっ…」
「私からユウタ様にお返しします。
そして、二度とテオ様にはお渡ししないようお願いしておきます」
「そんな…私は姫とまだ話が」
「いけません」
執事はゆっくりと主人のすぐ傍まで近付く。
「お願いだよ、ゼノ。もう少し、もう少しだけ姫の傍に居させておくれ」
執事の柳眉が辛そうに歪む。押し殺した声でぽつりと零す。
「…ダフネと同じことを言うな」
テオは目を見開き、言葉を失う。
執事は、失礼、と小さく断り、テオが背中に回していた両手首を片手で押さえる。
一瞬のうちに、主人の手から携帯電話を抜き取った。
「ご無礼をお許し下さい、テオ様」
執事は深く頭を下げる。
「携帯電話をお返しして参ります」
踵を返し、主人の元から離れていく。
次期当主は座り込んだまま、その場から動けなかった。
月桂樹の幹に凭れる。黄金の髪は瞼まで覆っていた。
fin
「生徒代表の話かい? 生徒代表室という部屋があるのはもう知っているかな?
そこにね、私は今も居るのだよ。歴代の生徒代表は肖像画を飾らせて貰える伝統なんだ。
専属の芸術家が描いてくれるのだよ。素晴らしい老紳士だ。私を描いて貰った時にね、
『今年の生徒代表さんは随分落ち着いていますね』と彼に言われたんだ。
それで私が、昨年はどんな様子でしたか、と伺ったら、
『少し緊張されていたのか、終始、背筋の正しい方でした』って。
彼らしいなと笑ってしまったよ。ああ、彼はとても真面目な人だったんだ。
もし、姫と彼が出会っていたら、どうなったかな。
おそらくは、あの硬派な人も姫の虜になっていただろうね」
その時、遠くの方から「テオ様」と聞こえたような気がした。
膝の上に居る姫をそっと手に取る。
「名残惜しいけれど、今日はもう帰らなくてはいけないようだ。
姫、おやすみのキスをさせて頂けますか?」
→手を差し出す
→手を差し出さない
○寮に居た頃の話
「私はシュヌーシア寮に居たのだよ。私にとっては最高の寮だった。
ウーティスやアルファルドとは違って、身体の弱い生徒が多く入るんだ。
そのせいか、この寮に入った生徒は次第に面倒見が良くなるのだよ。
団欒を厭うアルファルドとは正反対の環境だね。
おかげでシュヌーシアの中等部は甘えん坊なあどけない子が多くて、
高等部になると後輩達の世話を焼くお兄さんに育つ傾向があるんだ。
サンベリーナは、シュヌーシアの生徒を誰か知っている?」
聞かれて姉は、ミハイルさんなら知っています、と答えた。
「ああ、ミハイルかい。彼は可愛い子の筆頭だったね。
彼もまた病弱で、なかなか部屋から出てきてはくれないのだけど、
時々彼の部屋から聞こえてくる歌声は楽しみだったな。
あ…まさか、姫。彼も姫の虜なのかい?」
ユウタの姉が言葉を濁していると、テオは少し落ち込んだようだった。
「そ、そうなのだね…ではアルファルドにも知っている生徒が居るの?」
ユウタの姉は、エンジュさんとジャワハルワールさんを少し、と答えた。
「エンジュかい? 彼の鋼鉄の心までも…すごいね、さすが姫だ。
私、彼とは親しくはなれなかったんだ。
やはり最初がいけなかったのだろうね。彼は黒髪だと聞いたから、
アルファルドへ拝見に行ったのだが、とても邪険にされてしまってね。
ジャハワルワールに至っては、ついぞ彼の声を聞かせて貰えなかったな。
あまりに無口だから、声帯を失っているのではという噂も一時はあったのだがね、
結局、真相は解らずじまいだったよ。彼のオウム君とは仲良くして貰えたけどね。
それで姫、他には? 他にも知っている生徒が居るの?」
もう居ないです、生徒は、と答えるとテオは胸を撫で下ろした。
「姫を慕う者はなんと多いのだろう。恐れ入るよ」
その時、遠くの方から「テオ様」と聞こえたような気がした。
膝の上に居る姫をそっと手に取る。
「名残惜しいけれど、今日はもう帰らなくてはいけないようだ。
姫、今宵もおやすみのキスをさせて頂けますか?」
→手を差し出す
→手を差し出さない
○子供の頃の話
「私の子供時代かい? そうだねえ、今とそう変わらない子供だったと思うよ。
父上や母上の真似が好きだったらしくてね、
子供の頃から、両親にそっくりだと言われていたようだよ」
ユウタの姉は幼少時代のテオを想像してみる。
その時から「美しい瞳だね」などと言っていたのだろうか。
「幼い頃は、姉上とゼノと三人で遊んでいた。そう言えば、
この家でかくれんぼをしていて、私が行方不明になったことがあるよ。
箱の中に入ったら、鍵が掛かってしまってね、出られなくなったんだ。
家の者が総出で探す大騒ぎになってね。
私を見つけ出してくれたのは姉上とゼノだった。
大泣きする私を二人が抱き締めてくれたんだ。
そのあたたかさは今もなんとなく覚えているよ」
ゼノ、と姉が呟くとテオは説明を補足した。
「ああ、昨日、見なかったかな? 長い金髪に眼鏡の似合う男だよ。
彼はゼノ・エリティスと言うんだ。
エリティス家は代々メネシスを補佐してくれる家系でね。
先祖が主従関係だったそうなんだ。ゼノは現在、私の専属執事ということになっている。
年は36、私の仕事の手伝いもボデイガードもしてくれる、我がメネシスの名参謀だ。
彼は、私達、姉弟とは子供の頃から共に此処で育った。
姉弟の世話係という位置付けだったが、私にとっては頼れる兄だ。
幼い頃は、姉上と私とでゼノの取り合いになることもしばしばあったね」
「昔話はそこまでですよ、テオ様」
振り向くと身形の正しい男が居た。眼鏡の執事だ。
テオは思わず携帯電話を後ろ手に隠した。執事は頭を抱える。
「テオ様は相変わらずですね…それで隠したおつもりですか?
昨夜、いけないと申し上げたのに…私に隠れて東洋の姫君と密会とは」
「…すまない。でも私は」
「言い訳は聞きたくありません。東洋の姫君、貴女も貴女ですよ」
眼鏡の執事は、ユウタの姉を鋭く見据えた。
「ご存知でないのならお教えしましょう。
テオ様には婚約者がいらっしゃいます。式は二か月後です。
こんな時にメネシスの次期当主をたぶらかすのは止めて頂けませんか」
「ゼノ、私が無理に連れてきたんだ。姫は悪くないよ」
「それは最も良くない状況ですね」
執事はゆっくりと手を差し出した。
「テオ様、携帯電話をこちらへ」
「えっ…」
「私からユウタ様にお返しします。
そして、二度とテオ様にはお渡ししないようお願いしておきます」
「そんな…私は姫とまだ話が」
「いけません」
執事はゆっくりと主人のすぐ傍まで近付く。
「お願いだよ、ゼノ。もう少し、もう少しだけ姫の傍に居させておくれ」
執事の柳眉が辛そうに歪む。押し殺した声でぽつりと零す。
「…ダフネと同じことを言うな」
テオは目を見開き、言葉を失う。
執事は、失礼、と小さく断り、テオが背中に回していた両手首を片手で押さえる。
一瞬のうちに、主人の手から携帯電話を抜き取った。
「ご無礼をお許し下さい、テオ様」
執事は深く頭を下げる。
「携帯電話をお返しして参ります」
踵を返し、主人の元から離れていく。
次期当主は座り込んだまま、その場から動けなかった。
月桂樹の幹に凭れる。黄金の髪は瞼まで覆っていた。
fin
■2日目2:月桂樹の裏庭 続編
○ありがとう
「ああ、その笑顔…私は溶けてしまいそうだ。気に入って頂けて良かった。
サンベリーナが傍に居てくれると、とても心が安らぐよ。
姫に膝枕をしているのは私なのに、私が髪を撫でて貰っているような気がする。
姫が姉上だからかな? 兄弟の上の子は聞き上手、下の子は話し上手というし、
やはり弟というものは姉には弱いのだろうね。こんな話を知っているかい?
男の潜在的な初恋相手は母や姉であることが多いそうだよ?
年を重ね、成長した男は無意識に、彼女達の面影を他の女性に求めることがあるらしい。
だから、姫には甘えたくなってしまうのかな?
私の姉上は安らぎを与えてくれる。けれど姫は、それ以上のものを与えてくれるのだね。
ああ、サンベリーナと共に海に行きたくなってきたよ。
愛しい人と愛しい場所へ行けたらどんなに幸せだろう。ねえ、姫は海で何がしたい?」
→クルージング
→スイカ割り
○クルージング
「船に乗りたいのかい、サンベリーナ! 姫に私の船に乗って頂けたらどんなに良いだろう。
最近、新たに手に入れた船があるんだ。そうだ! あの船をサンベリーナと名付けよう!
名前が欲しいと思っていたところなのだよ。やはり、名前があると愛着が増すだろう?
ああ、姫と二人ならば、朝の海も夜の海も、きっと光り輝いて見えるのだろうね」
少し強い風が吹いて、黄金の髪が煽られた。小麦色の右手が横髪を抑える。
指に絡む髪には柔らかな波がある。画面越しに見ても撫で心地の良さそうな髪だった。
「何処か、遠くに行きたいなあ」
ブロンズの頬に小さな水玉模様の木漏れ陽が当たったり消えたり。
さわさわと揺れる青い香りが日本まで流れてくるようだった。
「叶うなら、姫を船に乗せて遠い海まで連れ去ってしまいたい。何処までも、姫と二人で」
右手は髪を離れ、宙を降りていく。
その動きはなんとなくスローモーションに見える。
諦めるように手は地面に置かれた。
テオは膝に乗せた姫に笑顔を見せる。
「サンベリーナも私に何か聞きたいことがある? 何でも聞いておくれ?」
→生徒代表の頃の話
→寮に居た頃の話
→子供の頃の話
○スイカ割り
「スイカワリ? それはなんだい、サンベリーナ?」
ユウタの姉が説明すると、テオは、ほう、と驚いた様子だった。
「日本の遊びなのだね? なんだかバイオレンスだねえ。
日本は奥ゆかしいかと思えば、時折、極端に行動的な場合がないかい?
以前、シルヴァンにサムライムービーを見せて貰ったことがあるが、
見ているだけで身体が痛くなってきたよ。
あ、でも、スイカワリが日本の遊びならば、
東洋の黒い真珠も知っているということかな?」
ええ、とユウタの姉は答える。
「そうか。東洋の黒い真珠と手に手を取り合って、スイカを割ってみたかったものだ」
テオは膝に乗せた姫に笑顔を見せる。
「サンベリーナも私に何か聞きたいことがある? 何でも聞いておくれ?」
→生徒代表の頃の話
→寮に居た頃の話
→子供の頃の話
「ああ、その笑顔…私は溶けてしまいそうだ。気に入って頂けて良かった。
サンベリーナが傍に居てくれると、とても心が安らぐよ。
姫に膝枕をしているのは私なのに、私が髪を撫でて貰っているような気がする。
姫が姉上だからかな? 兄弟の上の子は聞き上手、下の子は話し上手というし、
やはり弟というものは姉には弱いのだろうね。こんな話を知っているかい?
男の潜在的な初恋相手は母や姉であることが多いそうだよ?
年を重ね、成長した男は無意識に、彼女達の面影を他の女性に求めることがあるらしい。
だから、姫には甘えたくなってしまうのかな?
私の姉上は安らぎを与えてくれる。けれど姫は、それ以上のものを与えてくれるのだね。
ああ、サンベリーナと共に海に行きたくなってきたよ。
愛しい人と愛しい場所へ行けたらどんなに幸せだろう。ねえ、姫は海で何がしたい?」
→クルージング
→スイカ割り
○クルージング
「船に乗りたいのかい、サンベリーナ! 姫に私の船に乗って頂けたらどんなに良いだろう。
最近、新たに手に入れた船があるんだ。そうだ! あの船をサンベリーナと名付けよう!
名前が欲しいと思っていたところなのだよ。やはり、名前があると愛着が増すだろう?
ああ、姫と二人ならば、朝の海も夜の海も、きっと光り輝いて見えるのだろうね」
少し強い風が吹いて、黄金の髪が煽られた。小麦色の右手が横髪を抑える。
指に絡む髪には柔らかな波がある。画面越しに見ても撫で心地の良さそうな髪だった。
「何処か、遠くに行きたいなあ」
ブロンズの頬に小さな水玉模様の木漏れ陽が当たったり消えたり。
さわさわと揺れる青い香りが日本まで流れてくるようだった。
「叶うなら、姫を船に乗せて遠い海まで連れ去ってしまいたい。何処までも、姫と二人で」
右手は髪を離れ、宙を降りていく。
その動きはなんとなくスローモーションに見える。
諦めるように手は地面に置かれた。
テオは膝に乗せた姫に笑顔を見せる。
「サンベリーナも私に何か聞きたいことがある? 何でも聞いておくれ?」
→生徒代表の頃の話
→寮に居た頃の話
→子供の頃の話
○スイカ割り
「スイカワリ? それはなんだい、サンベリーナ?」
ユウタの姉が説明すると、テオは、ほう、と驚いた様子だった。
「日本の遊びなのだね? なんだかバイオレンスだねえ。
日本は奥ゆかしいかと思えば、時折、極端に行動的な場合がないかい?
以前、シルヴァンにサムライムービーを見せて貰ったことがあるが、
見ているだけで身体が痛くなってきたよ。
あ、でも、スイカワリが日本の遊びならば、
東洋の黒い真珠も知っているということかな?」
ええ、とユウタの姉は答える。
「そうか。東洋の黒い真珠と手に手を取り合って、スイカを割ってみたかったものだ」
テオは膝に乗せた姫に笑顔を見せる。
「サンベリーナも私に何か聞きたいことがある? 何でも聞いておくれ?」
→生徒代表の頃の話
→寮に居た頃の話
→子供の頃の話
■2日目1:テオの部屋 続編
それから数分後、ユウタの携帯から着信があった。
画面いっぱいに映ったのは色鮮やかな花束だった。
ユウタの姉が驚いていると、ひょいと横からテオが現れた。
「サンベリーナに似合いそうな花だったから貰った来たんだ。
けれど、やはり姫の美しさには叶わないね」
そう言って楽しそうに笑っていた。
テオの背景に見えたのは森。
木々の間からは木洩れ陽が差し込んでいる。
それはユウタの姉にとって既に目に馴染む光景だった。
もしかして月桂樹ですか、とテオに聞いてみる。
「よく解ったね。そうなのだよ。私の父は月桂樹が大好きで、
卒業後、此処に戻ってきた時にこの月桂樹の裏庭を作ったんだ。
彼も学院の卒業生でね。メネシスの者は20世紀初頭から学院へ入学するようになったから。
此処は、聖アルフォンソ島の森よりは小さいが、なかなか雰囲気はあるだろう?
父も時折、一人で此処へシエスタに来るのだよ。他では得られない癒しの場なのだって。
私も学院を卒業してからは此処に来るようになったんだ。この葉の香りが良いのかな?
目を閉じると、過去へタイムスリップしたような気持ちになるんだ。
ナイチンゲールの歌声まで聞こえてくるようだよ。
そして今は、あの鳥よりも美しい声が私を癒してくれる」
掲げるように持っていた携帯を、伸ばした膝に乗せた。
テオは幹に右肩を預ける。覗き込むようにして画面に近付く。
「サンベリーナは膝枕をしても軽いのだね。ああ、私の心まで軽くなるようだ」
テオの横顔はとても穏やかで、リラックスしている雰囲気は画面越しにも伝わった。
黄金色の前髪が時折ふわりと風に遊ばれる。
きっとギリシャでは気持ちの良い風が吹いているのだろう。
画面からテオの横顔が消える。
「サンベリーナ、木洩れ陽を感じるかい? この木はね、今の時刻が最も美しいんだ」
テオが退けると頭上の光景がよく見えた。葉の隙間から光る太陽は宝石のようだ。
学院の森は何度か見せて貰ったことがあるのだが、
真下から月桂樹を眺めたのは初めてかもしれなかった。
「月桂樹はね、ギリシャ語では『ダフネ』と言うんだ。
私の姉上も同じ名なのだよ。この名は父上が考えたんだ。
ギリシャ神話のダフネのことを想うと少し皮肉な名だったかもしれないね」
一息置いて、画面にテオが戻ってくる。
「ああ、そうだ。サンベリーナ、昨夜は私との約束を守ってくれてありがとう」
ユウタの姉が首を傾げると、テオは楽しそうに笑った。
「おや。忘れてしまったのかい? 昨夜、姫は私の夢へ会いに来てくれただろう?
とても甘い夢だった。姫のおかげで今朝は久し振りに幸福な目覚めだったよ。
また私に会いたくなった時はいつでも来ておくれ。昨夜の続きをしよう?」
黄金の髪が木洩れ陽を受けて一層輝く。
甘い笑顔は次に少し子供っぽく変わる。
「それでね、今日は姫にお礼の贈り物を選んできたんだ」
ごそごそと姉の携帯画面が揺れる。
テオはポケットから革の小さな袋を取り出した。
中の物を丁寧に小麦色の手の平に乗せる。
しゃらりと音を立てたのはシルバーのアクセサリー。
「今日、ギリシャの観光中に見つけたんだ。
チューリップのネックレスだよ。サンベリーナにピッタリだろう?
この銀色の花を見た時、姫のことばかり考えていたから、
最初は錯覚かなと思ったくらいだよ。
見えるかな? ほら、雫のように花が咲いているのだよ」
ネックレスのトップに、小さなチューリップが揺れる。
「首許に合わせてみようか」
テオは膝に乗せていた携帯電話にネックレスを近付ける。
彼女の首許にチューリップを重ねた。
「可愛いよ、サンベリーナ。とても似合う。ああ、姫がもっと愛らしくなってしまった」
感激に浸り、とても嬉しそうな顔を見せていた。
「これはユウタに預ければ姫に届くかな? 彼に渡しておくね?」
テオはネックレスを小さな革の袋に戻し、ポケットに仕舞う。
ユウタの姉はその様子を見ながら、テオに伝える。
→ありがとう
→受け取れません
画面いっぱいに映ったのは色鮮やかな花束だった。
ユウタの姉が驚いていると、ひょいと横からテオが現れた。
「サンベリーナに似合いそうな花だったから貰った来たんだ。
けれど、やはり姫の美しさには叶わないね」
そう言って楽しそうに笑っていた。
テオの背景に見えたのは森。
木々の間からは木洩れ陽が差し込んでいる。
それはユウタの姉にとって既に目に馴染む光景だった。
もしかして月桂樹ですか、とテオに聞いてみる。
「よく解ったね。そうなのだよ。私の父は月桂樹が大好きで、
卒業後、此処に戻ってきた時にこの月桂樹の裏庭を作ったんだ。
彼も学院の卒業生でね。メネシスの者は20世紀初頭から学院へ入学するようになったから。
此処は、聖アルフォンソ島の森よりは小さいが、なかなか雰囲気はあるだろう?
父も時折、一人で此処へシエスタに来るのだよ。他では得られない癒しの場なのだって。
私も学院を卒業してからは此処に来るようになったんだ。この葉の香りが良いのかな?
目を閉じると、過去へタイムスリップしたような気持ちになるんだ。
ナイチンゲールの歌声まで聞こえてくるようだよ。
そして今は、あの鳥よりも美しい声が私を癒してくれる」
掲げるように持っていた携帯を、伸ばした膝に乗せた。
テオは幹に右肩を預ける。覗き込むようにして画面に近付く。
「サンベリーナは膝枕をしても軽いのだね。ああ、私の心まで軽くなるようだ」
テオの横顔はとても穏やかで、リラックスしている雰囲気は画面越しにも伝わった。
黄金色の前髪が時折ふわりと風に遊ばれる。
きっとギリシャでは気持ちの良い風が吹いているのだろう。
画面からテオの横顔が消える。
「サンベリーナ、木洩れ陽を感じるかい? この木はね、今の時刻が最も美しいんだ」
テオが退けると頭上の光景がよく見えた。葉の隙間から光る太陽は宝石のようだ。
学院の森は何度か見せて貰ったことがあるのだが、
真下から月桂樹を眺めたのは初めてかもしれなかった。
「月桂樹はね、ギリシャ語では『ダフネ』と言うんだ。
私の姉上も同じ名なのだよ。この名は父上が考えたんだ。
ギリシャ神話のダフネのことを想うと少し皮肉な名だったかもしれないね」
一息置いて、画面にテオが戻ってくる。
「ああ、そうだ。サンベリーナ、昨夜は私との約束を守ってくれてありがとう」
ユウタの姉が首を傾げると、テオは楽しそうに笑った。
「おや。忘れてしまったのかい? 昨夜、姫は私の夢へ会いに来てくれただろう?
とても甘い夢だった。姫のおかげで今朝は久し振りに幸福な目覚めだったよ。
また私に会いたくなった時はいつでも来ておくれ。昨夜の続きをしよう?」
黄金の髪が木洩れ陽を受けて一層輝く。
甘い笑顔は次に少し子供っぽく変わる。
「それでね、今日は姫にお礼の贈り物を選んできたんだ」
ごそごそと姉の携帯画面が揺れる。
テオはポケットから革の小さな袋を取り出した。
中の物を丁寧に小麦色の手の平に乗せる。
しゃらりと音を立てたのはシルバーのアクセサリー。
「今日、ギリシャの観光中に見つけたんだ。
チューリップのネックレスだよ。サンベリーナにピッタリだろう?
この銀色の花を見た時、姫のことばかり考えていたから、
最初は錯覚かなと思ったくらいだよ。
見えるかな? ほら、雫のように花が咲いているのだよ」
ネックレスのトップに、小さなチューリップが揺れる。
「首許に合わせてみようか」
テオは膝に乗せていた携帯電話にネックレスを近付ける。
彼女の首許にチューリップを重ねた。
「可愛いよ、サンベリーナ。とても似合う。ああ、姫がもっと愛らしくなってしまった」
感激に浸り、とても嬉しそうな顔を見せていた。
「これはユウタに預ければ姫に届くかな? 彼に渡しておくね?」
テオはネックレスを小さな革の袋に戻し、ポケットに仕舞う。
ユウタの姉はその様子を見ながら、テオに伝える。
→ありがとう
→受け取れません
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