ウーティス寮シェフは、圧力鍋に蓋をした。
「よし。これで明日の仕込みもおしまいだ」
掛け時計を見上げる。
「そろそろ時間だな。着替えなければ」
ピカピカに磨かれた調理場から離れ、真っ白なコック帽を取った。
その夜は、シェフ三人で旧市街に行き、中華料理屋で夕食をとった。
一番年少のドニが、三人の中で一番喋る。
「朝は毎日ヴィッフェ式だから、メニュー考えるの大変ですよねー」
三人揃うと、いつの間にか料理の話になっていることが多かった。
ドニは喋りながら、デザートの胡麻団子を食べている。
アランは既に食事を終えており、ビールを飲みながら、
時々、ピスタチオの殻を割って、ナッツを口に入れる作業を繰り返していた。
「あれ?」とドニが声を上げた。
「今、お店出て行くの、ソクーロフ先生とアイヴィーさんじゃないですか?」
カミーユには、彼等の後ろ姿だけが見えた。
長い髪を一つに結わえた人物が、
長い金髪を下ろした人物を連れて、店を出て行くところ。
ドアが閉まり、二人の姿は見えなくなった。
確かに、今の髪型と背格好は、保健室の先生とタクシードライバーのようにも見えるが、
一瞬の後ろ姿だけだったので確定はできない。
もしかしたら、髪の長い女性だったかもしれない。
「同じお店に居たんですねー。もっと早く気が付けば良かったなー」
ソクーロフ博士達に話しかけたかったのか、ドニは残念がっていた。
シュヌーシア寮の生徒は、何かと保健室にお世話になることが多いせいか、
シュヌーシア寮シェフも、何かと保健室の先生と話す機会があるらしい。
ドニはソクーロフ博士のことを「優しくて生徒想いの先生」だと慕っている。
「そう言えば、ソクーロフ先生とアイヴィーさんって、
よく一緒にお食事されてますよね。
アイヴィーさんは、先生の保健室によくお昼寝に来ているみたいですし」
仲が良いんだなー、と言ってドニはニコニコしている。
アランは相変わらず淡々とピスタチオの殻を割っていた。
「あ、そうだ。今度、三人で釣りに行きませんか?」
「釣り?」
「はい。今夜、アランさんは一人で夜釣りに行くご予定だったんですって、ホントは。
でも、僕達がお誘いしたから、今日はこちらに来てくれたんです」
「釣りか。新鮮な魚が手に入れば、メニューがひとつ増えるなあ」
「ですよね! じゃあ、今度行きましょうよ、三人で。いつ行きましょうか」
「天気の良い日が良いだろうなあ」
カミーユが腕を組む。アランはぼそりと言った。
「行くなら、二週間後の日曜日」
「二週間後? やけに遠いなあ」
「どうしてなんですか、アランさん」
「新月だから」
「新月、ですか?」
「魚は、満月と新月の日に釣れる」
「えっ。そうなんですか?」
「ああ、そう言えば、そうらしいな。
満月と新月の日は、潮の満ち引きが大きいから、
魚がよく釣れると聞いたことがある」
カミーユの話にアランはこくりと頷いた。
「じゃあ、釣り、行きましょうよ! 二週間後の日曜日、新月の日に」
「ああ、そうだな。行ってみるか」
アランも頷いていた。
ドニは、楽しみだなー、と言ってまたニコニコ笑っていた。
結局、その夜も、ドニはテーブルで伏して眠ってしまうまで飲んでいた。
酔うとすぐ眠くなってしまう体質なのだ。
それを知っていながら、
ドニを止めない自分達にも十分責任はある、とカミーユは感じていた。
「さて。そろそろ帰るか」
いつものように、ドニをアランの背中に乗せ、
カミーユが会計をし、店のドアを開ける。
カミーユは自分がドニを背負うと言ったことはなかった。
外に出ると、少し涼しかった。
タクシー乗り場まで歩いていく。
ふと見上げると、天には月が浮かんでいた。
夜空に、ぽっかりと浮かんだ、まあるい月。
今夜は美しい満月だった。
「これは見事な満月だなあ」
カミーユは思わず見惚れる。
すると、アランがぽつりと言った。
「だから、釣りに行こうとした」
「では、なんで行かなかったんだ?」
「新月でも、釣れる」
アランはドニを背負い直し、歩いていく。
カミーユはその少し後ろを歩いていった。
月を見るようなフリをして、カミーユはちらりと眺める。
飲んだあと、これを見るのが少し楽しみなのかもしれない。
あの月のように、まあるい顔。
ドニの寝顔は、自分で背負っていては見られない。
→
「よし。これで明日の仕込みもおしまいだ」
掛け時計を見上げる。
「そろそろ時間だな。着替えなければ」
ピカピカに磨かれた調理場から離れ、真っ白なコック帽を取った。
その夜は、シェフ三人で旧市街に行き、中華料理屋で夕食をとった。
一番年少のドニが、三人の中で一番喋る。
「朝は毎日ヴィッフェ式だから、メニュー考えるの大変ですよねー」
三人揃うと、いつの間にか料理の話になっていることが多かった。
ドニは喋りながら、デザートの胡麻団子を食べている。
アランは既に食事を終えており、ビールを飲みながら、
時々、ピスタチオの殻を割って、ナッツを口に入れる作業を繰り返していた。
「あれ?」とドニが声を上げた。
「今、お店出て行くの、ソクーロフ先生とアイヴィーさんじゃないですか?」
カミーユには、彼等の後ろ姿だけが見えた。
長い髪を一つに結わえた人物が、
長い金髪を下ろした人物を連れて、店を出て行くところ。
ドアが閉まり、二人の姿は見えなくなった。
確かに、今の髪型と背格好は、保健室の先生とタクシードライバーのようにも見えるが、
一瞬の後ろ姿だけだったので確定はできない。
もしかしたら、髪の長い女性だったかもしれない。
「同じお店に居たんですねー。もっと早く気が付けば良かったなー」
ソクーロフ博士達に話しかけたかったのか、ドニは残念がっていた。
シュヌーシア寮の生徒は、何かと保健室にお世話になることが多いせいか、
シュヌーシア寮シェフも、何かと保健室の先生と話す機会があるらしい。
ドニはソクーロフ博士のことを「優しくて生徒想いの先生」だと慕っている。
「そう言えば、ソクーロフ先生とアイヴィーさんって、
よく一緒にお食事されてますよね。
アイヴィーさんは、先生の保健室によくお昼寝に来ているみたいですし」
仲が良いんだなー、と言ってドニはニコニコしている。
アランは相変わらず淡々とピスタチオの殻を割っていた。
「あ、そうだ。今度、三人で釣りに行きませんか?」
「釣り?」
「はい。今夜、アランさんは一人で夜釣りに行くご予定だったんですって、ホントは。
でも、僕達がお誘いしたから、今日はこちらに来てくれたんです」
「釣りか。新鮮な魚が手に入れば、メニューがひとつ増えるなあ」
「ですよね! じゃあ、今度行きましょうよ、三人で。いつ行きましょうか」
「天気の良い日が良いだろうなあ」
カミーユが腕を組む。アランはぼそりと言った。
「行くなら、二週間後の日曜日」
「二週間後? やけに遠いなあ」
「どうしてなんですか、アランさん」
「新月だから」
「新月、ですか?」
「魚は、満月と新月の日に釣れる」
「えっ。そうなんですか?」
「ああ、そう言えば、そうらしいな。
満月と新月の日は、潮の満ち引きが大きいから、
魚がよく釣れると聞いたことがある」
カミーユの話にアランはこくりと頷いた。
「じゃあ、釣り、行きましょうよ! 二週間後の日曜日、新月の日に」
「ああ、そうだな。行ってみるか」
アランも頷いていた。
ドニは、楽しみだなー、と言ってまたニコニコ笑っていた。
結局、その夜も、ドニはテーブルで伏して眠ってしまうまで飲んでいた。
酔うとすぐ眠くなってしまう体質なのだ。
それを知っていながら、
ドニを止めない自分達にも十分責任はある、とカミーユは感じていた。
「さて。そろそろ帰るか」
いつものように、ドニをアランの背中に乗せ、
カミーユが会計をし、店のドアを開ける。
カミーユは自分がドニを背負うと言ったことはなかった。
外に出ると、少し涼しかった。
タクシー乗り場まで歩いていく。
ふと見上げると、天には月が浮かんでいた。
夜空に、ぽっかりと浮かんだ、まあるい月。
今夜は美しい満月だった。
「これは見事な満月だなあ」
カミーユは思わず見惚れる。
すると、アランがぽつりと言った。
「だから、釣りに行こうとした」
「では、なんで行かなかったんだ?」
「新月でも、釣れる」
アランはドニを背負い直し、歩いていく。
カミーユはその少し後ろを歩いていった。
月を見るようなフリをして、カミーユはちらりと眺める。
飲んだあと、これを見るのが少し楽しみなのかもしれない。
あの月のように、まあるい顔。
ドニの寝顔は、自分で背負っていては見られない。
→
■アラン・ウー
■天月様、リクエストありがとうございました!
■天月様、リクエストありがとうございました!
天気の良い昼下がり。
アルファルド寮シェフは、ゾウにおやつのリンゴを与えているところだった。
寮の中に、ペット達と一緒に入学した生徒が一人居る。
寮の食事一切を担当するシェフは、そのペット達の食事も任されていた。
ペット達の住みかが、学院内で「動物園」と呼ばれているのは、
ここにはゾウを含むたくさんの動物が暮らしているからだ。
プールの中央では三匹の兄弟ペンギンが、
スイーッと泳いでいる。見るからに涼しげな光景だ。
プールの端にはカピバラが浸かっている。
目を閉じて、うとうとしているようだった。
あのまま眠ってしまうと、また溺れかけてビクッとなるだろう。
シェフの腕に何かが当たる。
褐色の腕にぶかってきたのはゾウの鼻だった。
シェフはもうひとつリンゴを与えた。
「アランさーん」
動物園の外側に、小動物のようなシェフが立っていた。
シュヌーシア寮担当のドニ・ドームだ。
アランがそちらを向くと、小柄なシェフが言った。
「あの、アランさん、今夜、何かご予定あります?」
アランは暫く黙っていた。アランの沈黙は考えている時間。
それを知っているドニは、アランが口を開くまで待っていた。
やがて、アランは、ぼそりと答えた。
「釣りに。一人で」
「あ、そうだったんですかー。じゃあ、ダメかなー」
アランは首を傾げた。
「あの、実は、カミーユさんとアランさんと三人で、
久し振りに晩ご飯をご一緒できたらなあと思って、お誘いに来たんです。
さっき、カミーユさんは行くと言って下さったんですが」
「行く」
「えっ。釣りはいいんですか?」
アランは頷いた。
「ありがとうございます!
じゃあ、20時半頃にカミーユさんのキッチンに集合でいいですか?」
アランは頷く。
「やったあ! それじゃあ、今夜、待ってますね!
僕、カミーユさんにも知らせてきまーす!」
小柄なシェフが走っていった。
アランの腕に何かが当たる。
褐色の腕にぶつかってきたのはゾウの鼻だった。
アランはリンゴをゾウに与え、大きな鼻を撫でていた。
→
アルファルド寮シェフは、ゾウにおやつのリンゴを与えているところだった。
寮の中に、ペット達と一緒に入学した生徒が一人居る。
寮の食事一切を担当するシェフは、そのペット達の食事も任されていた。
ペット達の住みかが、学院内で「動物園」と呼ばれているのは、
ここにはゾウを含むたくさんの動物が暮らしているからだ。
プールの中央では三匹の兄弟ペンギンが、
スイーッと泳いでいる。見るからに涼しげな光景だ。
プールの端にはカピバラが浸かっている。
目を閉じて、うとうとしているようだった。
あのまま眠ってしまうと、また溺れかけてビクッとなるだろう。
シェフの腕に何かが当たる。
褐色の腕にぶかってきたのはゾウの鼻だった。
シェフはもうひとつリンゴを与えた。
「アランさーん」
動物園の外側に、小動物のようなシェフが立っていた。
シュヌーシア寮担当のドニ・ドームだ。
アランがそちらを向くと、小柄なシェフが言った。
「あの、アランさん、今夜、何かご予定あります?」
アランは暫く黙っていた。アランの沈黙は考えている時間。
それを知っているドニは、アランが口を開くまで待っていた。
やがて、アランは、ぼそりと答えた。
「釣りに。一人で」
「あ、そうだったんですかー。じゃあ、ダメかなー」
アランは首を傾げた。
「あの、実は、カミーユさんとアランさんと三人で、
久し振りに晩ご飯をご一緒できたらなあと思って、お誘いに来たんです。
さっき、カミーユさんは行くと言って下さったんですが」
「行く」
「えっ。釣りはいいんですか?」
アランは頷いた。
「ありがとうございます!
じゃあ、20時半頃にカミーユさんのキッチンに集合でいいですか?」
アランは頷く。
「やったあ! それじゃあ、今夜、待ってますね!
僕、カミーユさんにも知らせてきまーす!」
小柄なシェフが走っていった。
アランの腕に何かが当たる。
褐色の腕にぶつかってきたのはゾウの鼻だった。
アランはリンゴをゾウに与え、大きな鼻を撫でていた。
→
■夏はビールとディーノと××3 続編
マフィアが立ち去ったあと、警備の車が三台到着した。
目許がクールなシルバーの車から降りてきたのが、
ラインハルト・クロイツ。ドイツから引き抜かれた元軍人。
司令官なんかより余程しっかりしてる副司令官だ。
「おや。司令が片付けてくれたのですか」
俺の周りで伸びている侵入者達を見て、副司令官は珍しく褒めてくれた。
「まだお知らせしていなかったのに、仕事が早いですね、司令」
「まあ、たまたまね」
「旧市街でお食事でもされていたのですか」
「う、うん。そんなとこ」
「そうですか。では、私達の出番はないようですし、
あとは塔に帰って、ドクターをお呼びするだけですね」
「ちょ、ちょっと待ったあ!」
「何か?」
今、ソクーロフに会うのはマズイ。絶対マズイ。
「ソクーロフは、あの、喘息で!」
「喘息? ドクターがですか?」
「いやいや、喘息なのはシュヌーシアのヤツで!
今夜は生徒の傍に居たいって言ってて、だから、とにかく、
今日は呼ばないほうが良いんじゃないかなーみたいな!」
「司令。何故それほど挙動不審なのですか?」
「そ、そんなことないよ!?」
「まあ、良いでしょう。ドクターをお呼びするのは明日にします。
マージナルプリンスの看病をして頂くほうが優先事項ですから。
――では、各自、撤収準備」
はい、と部下達が答えた。テキパキと侵入者達を確保し、車に乗せていく。
それを確認し、副司令官がこちらを向く。
「司令は勤務時間外ですし、このままお帰り頂いて構いませんよ」
「あ、そう?」
「ええ。居ても貴方の仕事はありませんし」
「そ、そうだよね」
冷淡とも言える程クールな口調。
本人に悪気はない。これがクロイツのデフォルトだ。
そうだと解るまでに、少し時間はかかったけど。
「では、私達は戻りますので」
「ああ、うん。お疲れ」
「お疲れ様でした」
クールな副司令官が部下達と捕獲した侵入者を率いて、撤収していった。
夏の夜風が俺の傍を通り過ぎる。
さっきまで生温かった筈の夜風が、少し冷たくなっていた。
風を冷たく感じるのは、俺の頬が熱いせいか。
そう思ったら、余計に風は冷たくなった。
「ったく。今日は車だっつったのに」
俺は無意識に口許を手で隠していた。
見た目は真っ黒なのに、舌触りはマイルドで。
ほろ苦いのに、少しだけ甘い後味がクセになる。
「クソッ……完全にビールの味がしやがった」
fin
目許がクールなシルバーの車から降りてきたのが、
ラインハルト・クロイツ。ドイツから引き抜かれた元軍人。
司令官なんかより余程しっかりしてる副司令官だ。
「おや。司令が片付けてくれたのですか」
俺の周りで伸びている侵入者達を見て、副司令官は珍しく褒めてくれた。
「まだお知らせしていなかったのに、仕事が早いですね、司令」
「まあ、たまたまね」
「旧市街でお食事でもされていたのですか」
「う、うん。そんなとこ」
「そうですか。では、私達の出番はないようですし、
あとは塔に帰って、ドクターをお呼びするだけですね」
「ちょ、ちょっと待ったあ!」
「何か?」
今、ソクーロフに会うのはマズイ。絶対マズイ。
「ソクーロフは、あの、喘息で!」
「喘息? ドクターがですか?」
「いやいや、喘息なのはシュヌーシアのヤツで!
今夜は生徒の傍に居たいって言ってて、だから、とにかく、
今日は呼ばないほうが良いんじゃないかなーみたいな!」
「司令。何故それほど挙動不審なのですか?」
「そ、そんなことないよ!?」
「まあ、良いでしょう。ドクターをお呼びするのは明日にします。
マージナルプリンスの看病をして頂くほうが優先事項ですから。
――では、各自、撤収準備」
はい、と部下達が答えた。テキパキと侵入者達を確保し、車に乗せていく。
それを確認し、副司令官がこちらを向く。
「司令は勤務時間外ですし、このままお帰り頂いて構いませんよ」
「あ、そう?」
「ええ。居ても貴方の仕事はありませんし」
「そ、そうだよね」
冷淡とも言える程クールな口調。
本人に悪気はない。これがクロイツのデフォルトだ。
そうだと解るまでに、少し時間はかかったけど。
「では、私達は戻りますので」
「ああ、うん。お疲れ」
「お疲れ様でした」
クールな副司令官が部下達と捕獲した侵入者を率いて、撤収していった。
夏の夜風が俺の傍を通り過ぎる。
さっきまで生温かった筈の夜風が、少し冷たくなっていた。
風を冷たく感じるのは、俺の頬が熱いせいか。
そう思ったら、余計に風は冷たくなった。
「ったく。今日は車だっつったのに」
俺は無意識に口許を手で隠していた。
見た目は真っ黒なのに、舌触りはマイルドで。
ほろ苦いのに、少しだけ甘い後味がクセになる。
「クソッ……完全にビールの味がしやがった」
fin
■夏はビールとディーノと××2 続編
黒服の五名様は、あっけなくディーノの挑発に乗った。
この店が先払い式のキャッシュ・オン・デリバリーだったのは幸いだ。
俺はとりあえず、危険人物の皆さんを店の外に追い出して、
なるべく人目に付かない路地裏にお誘いした。
そこまでは良かったんだけど、やっぱ敵・味方の二択で言うと、
俺はディーノの味方をしなくちゃいけないわけで。
「今日はサイアクだわ」
俺の背後から「ああ?」と声が聞こえる。
「なんで俺が、ディーノと背中合わせて戦わなきゃいけないんだよ」
「興奮してんのか? まだイクなよ?」
「バッカじゃないの!? やられても助けてやんねーからなっ!?」
「ケッ。誰に言ってんだー? 派手に行くぜ!」
夏の夜に始まった大乱闘は、あっけない程、すぐに片が付いた。
暴れん坊マフィアは、倒れている五人を見下ろしなら、パンパンと手を払う。
「もー、終わっちまったかー。物足りねーヤツらだぜ。ヘヘッ」
「あーあー。ホントに派手にやってくれちゃって」
「おめーだって、こーするつもりだったんだろうが」
「あのねえ。一応、俺達のお仕事は、
『生徒を狙う存在からなるべく速やかに、穏便かつ完全に放逐すること』
なんだからさ。最初はもうちょっと穏便に」
「完全に放逐ってことは、結局ブッ飛ばすってことだろ」
「最終的にはそーなるかもだけど。まずはお話するでしょ。穏便に」
「フン。話して解ってくれたヤツが、今までに居たのか?」
「それは……たまーに、だけど居ることは居るよ? すぐ逃げてくヤツとか」
「腰抜けが」
「それで良いんだよ、俺達にとっては」
黒服の五名様は、もれなくコテンパンに伸されていたが、
全員、息をしていた。一緒に戦っていて解ったけど、
ディーノはただ遊んでいるだけで、全然本気じゃなかった。
おそらく、本来の力の一割も出してなかっただろう。
まあ、本気のディーノを、実際に見たことはないけど。想像はできる。
ディーノはスピードがあって、一打一打が強い。
その上、奇抜な攻撃を仕掛けるのが異常に上手かった。
相手にとって全く予想外の攻撃は、それ自体が高い殺傷力となる。
今日のディーノが、もしナイフやピストルを持っていったら、瞬殺だっただろう。
ディーノは顔がゴツ過ぎるから、細身なイメージないけど、
背が高いから身体は細いほうだ。華奢と言う程ではないけど、
決して太くは見えないあの腕から、かなり強烈なパンチを繰り出していたし、
相手に蹴りを入れる時を見ても、結構高く、足は上がるみたいだったし。
特に拳を真っ直ぐ前に出す時のかんじとかが、綺麗だった。
綺麗、なんてディーノに使う言葉じゃないけど。他の言葉が見つからない。
次に誰が、どのように動くか、もディーノは正確に予測して、行動していた。
広く視野を持ち、周りの些細な動きにも目を配っていないとできないことだ。
うちの警備組織に、ディーノ以上の実力を持った男が居るだろうか。
居る、と言える自信がない。俺を含めて。
普段のディーノは、口を開いたら下ネタばっかだし、
ファザコンだし、ガキっぽい言動が多いけど。
戦い方は、別人かと思うくらい、スマートだった。
戦闘は、多少センスもあるけど、何より経験が物を言う。
教科書を何度も読んだら上手くなるもんじゃない。
今まで実際に、何度戦って、何度死にかけたかだ。
実は、アイツがビールを飲んでる時に見てしまった。
ディーノの胸に古傷があったのを。
黒いモジャモジャで見え難くはなってたけど、あの傷はかなり深い。
しかも、あれだけ心臓に近ければ、
生死を彷徨う程の傷だったことは間違いない。
ディーノはアンダーグラウンドの人間。
アイツも地獄を見て、生き抜いてきた人間なんだろう。かつての俺以上に。
――本気のコイツとやったら、俺はどうなるだろう――
もしかしたら。
たった一瞬でも、そう考えた自分に嫌気が差した。
「さーて。飲み直すかっ」
ディーノの言葉に、俺の左肩がコケた。
「まだ飲むんかいっ! もうおうち帰れって!」
「帰れ帰れって言われると、ますます帰りたくねーなー」
「じゃあ、帰らないでクダサイ」
「おし。帰らねえ!」
「そう言うと思ったわっ!」
すると、車が三台こちらに向かってくるのが見えた。警備組織の車だ。
先頭を走っているのは、シルプルなデザインをしたシルバーの車。
あれはおそらく、うちの副司令官が所有している、フォード・モンデオ。
どうやら、副司令官が部下達を引き連れてやってきてくれたらしい。
「ん? あれは、おめーのお仲間か?」
「そうみたいだね。丁度イイや。このヒト達、運んで貰えるし」
「なんか面倒くさいヤツが居そうだな。
んじゃ俺は、ビールも飲んだし、帰るわ」
「えっ? 帰んの?」
思わずそう言ってしまった。帰って欲しくないから言ったんじゃない。
急に帰ると言われてビックリしたからなのに。ニヤニヤされた。
「俺様が居ねえとサビシイのか?」
「ダレがっ」
「なら、今日はこれでガマンしな?」
一瞬で間合いを詰められた。
予想外過ぎて、何もできなかった。
しまった、と思った時には、もう遅くて。
ヌルッとした生暖かいものが、俺の口の中に入っていた。
強引に奥まで入り込み、弱いトコロを攻められる。
固くて太い、黒ヒゲがジョリジョリ当たってる。
相手の肩に手を置き、押し戻そうとしてるのに、
上手く、力が、入らない。
→
この店が先払い式のキャッシュ・オン・デリバリーだったのは幸いだ。
俺はとりあえず、危険人物の皆さんを店の外に追い出して、
なるべく人目に付かない路地裏にお誘いした。
そこまでは良かったんだけど、やっぱ敵・味方の二択で言うと、
俺はディーノの味方をしなくちゃいけないわけで。
「今日はサイアクだわ」
俺の背後から「ああ?」と声が聞こえる。
「なんで俺が、ディーノと背中合わせて戦わなきゃいけないんだよ」
「興奮してんのか? まだイクなよ?」
「バッカじゃないの!? やられても助けてやんねーからなっ!?」
「ケッ。誰に言ってんだー? 派手に行くぜ!」
夏の夜に始まった大乱闘は、あっけない程、すぐに片が付いた。
暴れん坊マフィアは、倒れている五人を見下ろしなら、パンパンと手を払う。
「もー、終わっちまったかー。物足りねーヤツらだぜ。ヘヘッ」
「あーあー。ホントに派手にやってくれちゃって」
「おめーだって、こーするつもりだったんだろうが」
「あのねえ。一応、俺達のお仕事は、
『生徒を狙う存在からなるべく速やかに、穏便かつ完全に放逐すること』
なんだからさ。最初はもうちょっと穏便に」
「完全に放逐ってことは、結局ブッ飛ばすってことだろ」
「最終的にはそーなるかもだけど。まずはお話するでしょ。穏便に」
「フン。話して解ってくれたヤツが、今までに居たのか?」
「それは……たまーに、だけど居ることは居るよ? すぐ逃げてくヤツとか」
「腰抜けが」
「それで良いんだよ、俺達にとっては」
黒服の五名様は、もれなくコテンパンに伸されていたが、
全員、息をしていた。一緒に戦っていて解ったけど、
ディーノはただ遊んでいるだけで、全然本気じゃなかった。
おそらく、本来の力の一割も出してなかっただろう。
まあ、本気のディーノを、実際に見たことはないけど。想像はできる。
ディーノはスピードがあって、一打一打が強い。
その上、奇抜な攻撃を仕掛けるのが異常に上手かった。
相手にとって全く予想外の攻撃は、それ自体が高い殺傷力となる。
今日のディーノが、もしナイフやピストルを持っていったら、瞬殺だっただろう。
ディーノは顔がゴツ過ぎるから、細身なイメージないけど、
背が高いから身体は細いほうだ。華奢と言う程ではないけど、
決して太くは見えないあの腕から、かなり強烈なパンチを繰り出していたし、
相手に蹴りを入れる時を見ても、結構高く、足は上がるみたいだったし。
特に拳を真っ直ぐ前に出す時のかんじとかが、綺麗だった。
綺麗、なんてディーノに使う言葉じゃないけど。他の言葉が見つからない。
次に誰が、どのように動くか、もディーノは正確に予測して、行動していた。
広く視野を持ち、周りの些細な動きにも目を配っていないとできないことだ。
うちの警備組織に、ディーノ以上の実力を持った男が居るだろうか。
居る、と言える自信がない。俺を含めて。
普段のディーノは、口を開いたら下ネタばっかだし、
ファザコンだし、ガキっぽい言動が多いけど。
戦い方は、別人かと思うくらい、スマートだった。
戦闘は、多少センスもあるけど、何より経験が物を言う。
教科書を何度も読んだら上手くなるもんじゃない。
今まで実際に、何度戦って、何度死にかけたかだ。
実は、アイツがビールを飲んでる時に見てしまった。
ディーノの胸に古傷があったのを。
黒いモジャモジャで見え難くはなってたけど、あの傷はかなり深い。
しかも、あれだけ心臓に近ければ、
生死を彷徨う程の傷だったことは間違いない。
ディーノはアンダーグラウンドの人間。
アイツも地獄を見て、生き抜いてきた人間なんだろう。かつての俺以上に。
――本気のコイツとやったら、俺はどうなるだろう――
もしかしたら。
たった一瞬でも、そう考えた自分に嫌気が差した。
「さーて。飲み直すかっ」
ディーノの言葉に、俺の左肩がコケた。
「まだ飲むんかいっ! もうおうち帰れって!」
「帰れ帰れって言われると、ますます帰りたくねーなー」
「じゃあ、帰らないでクダサイ」
「おし。帰らねえ!」
「そう言うと思ったわっ!」
すると、車が三台こちらに向かってくるのが見えた。警備組織の車だ。
先頭を走っているのは、シルプルなデザインをしたシルバーの車。
あれはおそらく、うちの副司令官が所有している、フォード・モンデオ。
どうやら、副司令官が部下達を引き連れてやってきてくれたらしい。
「ん? あれは、おめーのお仲間か?」
「そうみたいだね。丁度イイや。このヒト達、運んで貰えるし」
「なんか面倒くさいヤツが居そうだな。
んじゃ俺は、ビールも飲んだし、帰るわ」
「えっ? 帰んの?」
思わずそう言ってしまった。帰って欲しくないから言ったんじゃない。
急に帰ると言われてビックリしたからなのに。ニヤニヤされた。
「俺様が居ねえとサビシイのか?」
「ダレがっ」
「なら、今日はこれでガマンしな?」
一瞬で間合いを詰められた。
予想外過ぎて、何もできなかった。
しまった、と思った時には、もう遅くて。
ヌルッとした生暖かいものが、俺の口の中に入っていた。
強引に奥まで入り込み、弱いトコロを攻められる。
固くて太い、黒ヒゲがジョリジョリ当たってる。
相手の肩に手を置き、押し戻そうとしてるのに、
上手く、力が、入らない。
→
■夏はビールとディーノと××1 続編
旧市街の奥には、男の隠れ家と呼ぶに相応しい、アイリッシュパブがある。
美味いフイッシュ&チップスと樽生ビールが飲める店だ。
ここに連れてきたのは、マフィアの脅しに屈したわけじゃない。決して。
俺だってメシ食いに旧市街に来てたんだし、
旧市街にあって、客が少なめで、口の固いマスターが居る店が、
たまたまビールの美味い店だっただけだ。ホントに。
店内の客入りは三割程。このくらいで丁度良い。
カウンターで飲んでる常連二人とか、隅のテーブルに居る三人組とか、
一人で来てるオジサンもちらほら居る。
シチリアビールはないのか、と文句を言ってたマフィアさんは、
アイルランドの黒ビールをゴキュゴキュと喉を鳴らしながら煽ってる。
白くて柔らかな泡が特徴の、黒いスタウトビール。
今夜は車で来てるから、ビールが飲めない俺の前で。
「美味そうに飲みやがって……それ飲んだら帰れよ」
マフィアさんがパイントグラスを掲げる。
「あ、兄ちゃん、このビールもう一杯!」
「言ってる側から二杯目かよ!」
「飲みてえなら、お前も飲めばイイじゃねえか」
「だから、俺は車なの!」
「なら、今夜は、車ン中で泊まるか? 俺様と」
「断固拒否っ!」
ゴキゲンなマフィアさんはヘッヘッヘッと笑ってた。
「ギネス、お待たせしましたー」
店員さんが黒ビールを持ってきた時、
マフィアさんは「おう、グラッツェ」と言って受け取っていた。
そう言えば、一杯目を受け取った時も「ありがとな」と言っていた。
その時はまだ英語だったけど。
「アンタ、店員さんには、ちゃんとお礼とか言えんだね」
「それがどーした?」
「いや、ちょっと意外っていうか」
「ああ? 何かして貰ったら礼言うぐらいは当たり前だろーが」
そういうトコはきちんとしてるらしい。
パパの教育の賜物なのか、お国柄なのかしんないけど。
「あー! やっぱ夏はビールだなー!」
すげーイイ飲みっぷり。だが、黒ヒゲに白い泡が付いていた。
「ディーノ、自慢のおヒゲにクリーミーな泡が付いてんぞ」
「舐めさせて欲しいってか。仕方ねえなー」
「言ってねえし! ったく、なんで俺が、
ディーノのビールに付き合わなきゃいけないんだよ」
「本当なら今頃、ソクちゃんとミルク飲んでる筈だったのに、ってか?」
「い、言ってねえし!」
「ミルクなら、あとで俺様が飲ましてやるよ。顔いっぱいにな?」
「ア、アンタな。夏だからって、ポンポン下ネタ言ってんじゃねえぞ」
「けど、今夜、あの変態眼鏡にアンアン言わされる予定だったのはホントだろ?」
「お、俺達は別に、そーゆーカンケーじゃ……」
「俺様に、ウソが吐けると思うなよ? 『ディーノは良い嗅覚を持ってる』って、
パパも認めるくらいだからなあ、俺の鼻は」
「だ、だから、ソクーロフとは晩メシ食いに行く約束しかしてねえって」
フン、とマフィアさんが鼻で笑う。
「な、なんだよっ?」
「おめー、警備だかタクシーだかの仲間とはメシ行かねえのか」
「え? 行かないってことはないけど」
「それよか、ソクちゃんを誘うほうが多いんだろ?」
「まあ、そうだけど」
「なんでだ?」
「なんでって言われても……やっぱ、普段一緒にお仕事してる人は
ちょっと誘いにくいっていうか、気ぃ遣わせちゃうかもしんないし、
ソクちゃんは、俺の部下でもないし」
「あんな眼鏡のドコがそんなにイイんだか」
ドコが、を強調して言ったマフィアがニヤニヤ笑ってる。
「つーか、アンタだって、なんで今夜は俺と居るんだよ。
仲良しのファミリーさん達と飲めば良いじゃねえかっ。
あれ? そういやアンタ、今日は一人で来たの? いつも連れてる舎弟さん達は?」
「二人は先に帰した。残り一人はそこらでメシでも食ってんじゃねえかー?」
「なんで別行動してんだよ」
「さっき、おめーを見つけたからに決まってんだろ?
俺様が近くに居ることに気付きもしねえで、電話だけで感じたカオしやがって」
「か、感じたカオなんてしてないっつの!」
「いちいち慌てやがって。おもしれーオモチャだぜ」
「俺をオモチャにすんなっ!」
カランカランとドアが開く。
入ってきたのは、黒っぽい服に身を包んだ男が2人。
そいつらは、店の隅に座っていた3人組に声をかけ、何かひそひそと話していた。
島の人間じゃない。そう感じた。
理屈じゃなく、これはもう直感と言ったほうが近い。
聖アルフォンソ島の人口は約3万人。その全員と知り合いなわけじゃないけど。
この特殊な島で6年もこんな仕事をやってれば、
島の人間かそうでないかくらいは、大体解るようになっていた。
あれは明らかに異質なかんじ。そして何か、企んでる。
島に来る前から、相手が危険人物かどうかくらいは見分けられた。
いざという時、それを一瞬で見抜けなければ、命を落とす世界に居たのだから。
自分でも、どういうふうに判断しているのか、言葉では表現し難いけど。
目付きとか、話し方とか、そういうちょっとした日常の動作。
そいつを見た時の印象を総合的に判断しているんだと思う。
人を殺めたことのある人間かどうかってことを。
この肌に刻み付けられた、血みどろの過去と経験が、
今こんな形で役に立っているなんて、皮肉なモンだ。
やっぱり俺は、と思い知らされる。
俺の力は、こういうことでしか役に立たず、
俺という人間は、こういう世界でしか生きられない。
「気になるか」
俺が向こうを見てたのに気付いたディーノが薄く笑った。
「さすがにビンカンだなあ。お前もイイ嗅覚してんじゃねえか」
「そりゃドーモ」
嬉しくないけど、と心の中で呟いた。
だけど、ディーノにも解るらしい。あいつらが危険人物だということが。
「じゃ、俺はちょっと、あのヒト達にお話し聞いてくるから、ディーノは」
「アイツら、ブッ飛ばせばイイんだろ?」
「ええっ!? あ、ちょっと!?」
もうイタリアに帰って欲しかったのに、マフィアの目は燃えていた。
「俺様はなあ、最初から最後までクライマックスなんだよ」
「な、おい!? マジでっ!?」
本当なら今頃は、久し振りに美味しい中華料理を食べてる筈だったのに。
「行くぜ、行くぜ、行くぜー!」
元々血気盛んな上に酔ったディーノが拳を振り回しながら行ってしまう。
「……あー、もー!」
仕方なく、酔っ払いマフィアを追いかけた。
→
美味いフイッシュ&チップスと樽生ビールが飲める店だ。
ここに連れてきたのは、マフィアの脅しに屈したわけじゃない。決して。
俺だってメシ食いに旧市街に来てたんだし、
旧市街にあって、客が少なめで、口の固いマスターが居る店が、
たまたまビールの美味い店だっただけだ。ホントに。
店内の客入りは三割程。このくらいで丁度良い。
カウンターで飲んでる常連二人とか、隅のテーブルに居る三人組とか、
一人で来てるオジサンもちらほら居る。
シチリアビールはないのか、と文句を言ってたマフィアさんは、
アイルランドの黒ビールをゴキュゴキュと喉を鳴らしながら煽ってる。
白くて柔らかな泡が特徴の、黒いスタウトビール。
今夜は車で来てるから、ビールが飲めない俺の前で。
「美味そうに飲みやがって……それ飲んだら帰れよ」
マフィアさんがパイントグラスを掲げる。
「あ、兄ちゃん、このビールもう一杯!」
「言ってる側から二杯目かよ!」
「飲みてえなら、お前も飲めばイイじゃねえか」
「だから、俺は車なの!」
「なら、今夜は、車ン中で泊まるか? 俺様と」
「断固拒否っ!」
ゴキゲンなマフィアさんはヘッヘッヘッと笑ってた。
「ギネス、お待たせしましたー」
店員さんが黒ビールを持ってきた時、
マフィアさんは「おう、グラッツェ」と言って受け取っていた。
そう言えば、一杯目を受け取った時も「ありがとな」と言っていた。
その時はまだ英語だったけど。
「アンタ、店員さんには、ちゃんとお礼とか言えんだね」
「それがどーした?」
「いや、ちょっと意外っていうか」
「ああ? 何かして貰ったら礼言うぐらいは当たり前だろーが」
そういうトコはきちんとしてるらしい。
パパの教育の賜物なのか、お国柄なのかしんないけど。
「あー! やっぱ夏はビールだなー!」
すげーイイ飲みっぷり。だが、黒ヒゲに白い泡が付いていた。
「ディーノ、自慢のおヒゲにクリーミーな泡が付いてんぞ」
「舐めさせて欲しいってか。仕方ねえなー」
「言ってねえし! ったく、なんで俺が、
ディーノのビールに付き合わなきゃいけないんだよ」
「本当なら今頃、ソクちゃんとミルク飲んでる筈だったのに、ってか?」
「い、言ってねえし!」
「ミルクなら、あとで俺様が飲ましてやるよ。顔いっぱいにな?」
「ア、アンタな。夏だからって、ポンポン下ネタ言ってんじゃねえぞ」
「けど、今夜、あの変態眼鏡にアンアン言わされる予定だったのはホントだろ?」
「お、俺達は別に、そーゆーカンケーじゃ……」
「俺様に、ウソが吐けると思うなよ? 『ディーノは良い嗅覚を持ってる』って、
パパも認めるくらいだからなあ、俺の鼻は」
「だ、だから、ソクーロフとは晩メシ食いに行く約束しかしてねえって」
フン、とマフィアさんが鼻で笑う。
「な、なんだよっ?」
「おめー、警備だかタクシーだかの仲間とはメシ行かねえのか」
「え? 行かないってことはないけど」
「それよか、ソクちゃんを誘うほうが多いんだろ?」
「まあ、そうだけど」
「なんでだ?」
「なんでって言われても……やっぱ、普段一緒にお仕事してる人は
ちょっと誘いにくいっていうか、気ぃ遣わせちゃうかもしんないし、
ソクちゃんは、俺の部下でもないし」
「あんな眼鏡のドコがそんなにイイんだか」
ドコが、を強調して言ったマフィアがニヤニヤ笑ってる。
「つーか、アンタだって、なんで今夜は俺と居るんだよ。
仲良しのファミリーさん達と飲めば良いじゃねえかっ。
あれ? そういやアンタ、今日は一人で来たの? いつも連れてる舎弟さん達は?」
「二人は先に帰した。残り一人はそこらでメシでも食ってんじゃねえかー?」
「なんで別行動してんだよ」
「さっき、おめーを見つけたからに決まってんだろ?
俺様が近くに居ることに気付きもしねえで、電話だけで感じたカオしやがって」
「か、感じたカオなんてしてないっつの!」
「いちいち慌てやがって。おもしれーオモチャだぜ」
「俺をオモチャにすんなっ!」
カランカランとドアが開く。
入ってきたのは、黒っぽい服に身を包んだ男が2人。
そいつらは、店の隅に座っていた3人組に声をかけ、何かひそひそと話していた。
島の人間じゃない。そう感じた。
理屈じゃなく、これはもう直感と言ったほうが近い。
聖アルフォンソ島の人口は約3万人。その全員と知り合いなわけじゃないけど。
この特殊な島で6年もこんな仕事をやってれば、
島の人間かそうでないかくらいは、大体解るようになっていた。
あれは明らかに異質なかんじ。そして何か、企んでる。
島に来る前から、相手が危険人物かどうかくらいは見分けられた。
いざという時、それを一瞬で見抜けなければ、命を落とす世界に居たのだから。
自分でも、どういうふうに判断しているのか、言葉では表現し難いけど。
目付きとか、話し方とか、そういうちょっとした日常の動作。
そいつを見た時の印象を総合的に判断しているんだと思う。
人を殺めたことのある人間かどうかってことを。
この肌に刻み付けられた、血みどろの過去と経験が、
今こんな形で役に立っているなんて、皮肉なモンだ。
やっぱり俺は、と思い知らされる。
俺の力は、こういうことでしか役に立たず、
俺という人間は、こういう世界でしか生きられない。
「気になるか」
俺が向こうを見てたのに気付いたディーノが薄く笑った。
「さすがにビンカンだなあ。お前もイイ嗅覚してんじゃねえか」
「そりゃドーモ」
嬉しくないけど、と心の中で呟いた。
だけど、ディーノにも解るらしい。あいつらが危険人物だということが。
「じゃ、俺はちょっと、あのヒト達にお話し聞いてくるから、ディーノは」
「アイツら、ブッ飛ばせばイイんだろ?」
「ええっ!? あ、ちょっと!?」
もうイタリアに帰って欲しかったのに、マフィアの目は燃えていた。
「俺様はなあ、最初から最後までクライマックスなんだよ」
「な、おい!? マジでっ!?」
本当なら今頃は、久し振りに美味しい中華料理を食べてる筈だったのに。
「行くぜ、行くぜ、行くぜー!」
元々血気盛んな上に酔ったディーノが拳を振り回しながら行ってしまう。
「……あー、もー!」
仕方なく、酔っ払いマフィアを追いかけた。
→
■ソクーロフ×アイヴィー ←ディーノ
■天月様、リクエストありがとうございました!
■天月様、リクエストありがとうございました!
聖アルフォンソ島、旧市街。
広場の中央には月桂樹の木が一本ある。
ここは島民達の待ち合わせ場所によく使われる。
木の周りは広く座れるようになっているので、
ここで待ち合わせて旧市街へ飲みに行くのに、丁度良いスポットだった。
今夜は俺もここに居た。
夏の夜の、少しだけ生温い風に混じって、月桂樹の匂いがする。
木の下で腰かけ、煙草を吸いながら、一人で夜空を見上げていた。
「おや。アイヴィーじゃないか」
オバチャンの声がして、煙草を口から離す。
声をかけたのは、豊かな身体をした、明るい笑顔のオバチャン。
この島イチの歌姫、シニョーラ・マルタだ。
歌姫は、男女合わせて5、6名程に囲まれていた。
この島ではよく見る光景だ。今夜のライブでマルタの歌声に酔った客達が、
マルタを誘って「もう一軒行こう」、「一杯おごらせてくれ」となったのだろう。
「どうしたんだい、アイヴィー。シケたツラして」
「え。俺、そんなカオしてた?」
「してたさ。ヒマならアタシ達と一緒に行くかい?」
「あ、いや、ヒト待ってるから。まあ、ちょっと待たされてるけど」
「ソクーロフ先生かい?」
一発で待ち合わせ相手を当てられた。
「まあ、うん。よく解ったね?」
「アンタが連れてる相手なんて、ソクーロフ先生ばっかじゃないか。
でも、先生が待ち合わせに遅れるなんてねえ」
心配そうに、頬に手を当てる。肉付きの良い柔らかそうな手だ。
「マージナルプリンスが熱でも出したんじゃなきゃ良いけど」
俺も同じことを考えているところだった。
晩メシの約束が、例え今日の夕方にしたものであっても、
夜になってキャンセルされる場合はある。
警備司令官に、お医者さん。
どちらもお客さん次第の商売だ。突然のお客さんに呼ばれて、
晩メシの約束をキャンセルすることも、されることも、互いに何度も経験済み。
ソクーロフは、時間にルーズな人間ではないし、
うっかり約束を忘れるようなドジっこでもない。
待ち合わせ時刻になっても現れない、ということは、つまり、
お医者さんはお仕事中なのだろう。それが敢えてのプレイでない限りは。
そこまで解っているのに、万が一の可能性を考えて、
相手が来るのを、なんとなく待ってしまう俺のほうがおかしいのだ。
息を切らせながら「すまない、遅くなった」
と走ってくる相手ではないと解っているのに。
「マルター。そろそろ行こう。皆、お待ちかねだよー!」
次の店に行く途中で足を止めたマルタに、ファン達からいい加減お呼びがかかる。
「アイヴィーにはソクーロフ先生が居るんだから、
マルタがいくらナンパしたってダメさ!」
お酒が入ってご機嫌なオジサン、オバサン達は大笑いしていた。
「じゃあね、アイヴィー。たまにはカワイイ女の子連れてるとこ見せとくれよー」
楽しげに笑いながら、マルタ御一行は旧市街に消えていった。
賑やかな人達が過ぎ去ったあとは、嫌に静寂を感じる。
また一人になった俺は、とりあえず煙草を銜えた。
それから数分後、俺の携帯電話が鳴った。
やっぱり、というか、ソクーロフからキャンセルの連絡だった。
喘息の発作を出した生徒が居たらしい。
シュヌーシア寮に、喘息持ちの生徒が居るのは俺も知っていた。
「そっか。で、ダイジョブなの?」
「今はな。鎮静剤で落ち着いている。
再発の可能性があるから、今夜は側に付いていたい」
「そうだよ、ね。じゃあ、メシはまた今度」
「ああ。一人で食事できるか?」
「なっ! できます!」
「そうか。ならば」
そこでわざと間を置き、ソクーロフは囁くように言った。
「今夜は一人でしてみせろ」
「え……」
「フフッ。ではな」
一方的に電話は切られた。携帯電話を見ながら、俺は額を押さえる。
今の低い囁き声が、まだ耳に残っているような気がして、イヤだった。
「へえ。今夜は一人なのか」
イタリア訛りの英語。紫煙を燻らせながら、一人の男が近付いてきた。
先の尖ったエナメル靴に、黒いパンツ。うっすらと透けるシルバーのワイシャツ。
大きく開けた胸元からは、あろうことか、真っ黒なモジャモジャを覗かせている。
自ら、カタギの人間ではないと見せ付けるように、
口にもアゴにもヒゲを生やした男。
ただでさえ厳つい顔に、モジャついた長い黒髪が更に暑苦しい。
がっかりするほどに、シチリアンマフィアなその男は、
マンゾーニさんちのディーノ君だった。
「よお。一人寝がサビシイなら、今夜は俺様が抱い」
「言わせねえよっ!? つーか。なんでまたアンタが居んだよ」
「俺様が居ちゃ悪ぃのか?」
「悪いから言ってんでしょうが!」
「ま。とりあえずビール飲めるトコに連れてけや。
話はそこでじっくり聞いてやるから。な?」
「肩に手を回すな!」
「腰のほうがイイってか。焦んなよ。気が早えなあ」
「いや、だから。アンタ、自分の立場」
「解ってねえのはてめえだろ?」
グイと引き寄せ、わざと耳の傍で囁く。
「今、ここで、てめえをアンアン言わせたってイイんだぜ?」
→
広場の中央には月桂樹の木が一本ある。
ここは島民達の待ち合わせ場所によく使われる。
木の周りは広く座れるようになっているので、
ここで待ち合わせて旧市街へ飲みに行くのに、丁度良いスポットだった。
今夜は俺もここに居た。
夏の夜の、少しだけ生温い風に混じって、月桂樹の匂いがする。
木の下で腰かけ、煙草を吸いながら、一人で夜空を見上げていた。
「おや。アイヴィーじゃないか」
オバチャンの声がして、煙草を口から離す。
声をかけたのは、豊かな身体をした、明るい笑顔のオバチャン。
この島イチの歌姫、シニョーラ・マルタだ。
歌姫は、男女合わせて5、6名程に囲まれていた。
この島ではよく見る光景だ。今夜のライブでマルタの歌声に酔った客達が、
マルタを誘って「もう一軒行こう」、「一杯おごらせてくれ」となったのだろう。
「どうしたんだい、アイヴィー。シケたツラして」
「え。俺、そんなカオしてた?」
「してたさ。ヒマならアタシ達と一緒に行くかい?」
「あ、いや、ヒト待ってるから。まあ、ちょっと待たされてるけど」
「ソクーロフ先生かい?」
一発で待ち合わせ相手を当てられた。
「まあ、うん。よく解ったね?」
「アンタが連れてる相手なんて、ソクーロフ先生ばっかじゃないか。
でも、先生が待ち合わせに遅れるなんてねえ」
心配そうに、頬に手を当てる。肉付きの良い柔らかそうな手だ。
「マージナルプリンスが熱でも出したんじゃなきゃ良いけど」
俺も同じことを考えているところだった。
晩メシの約束が、例え今日の夕方にしたものであっても、
夜になってキャンセルされる場合はある。
警備司令官に、お医者さん。
どちらもお客さん次第の商売だ。突然のお客さんに呼ばれて、
晩メシの約束をキャンセルすることも、されることも、互いに何度も経験済み。
ソクーロフは、時間にルーズな人間ではないし、
うっかり約束を忘れるようなドジっこでもない。
待ち合わせ時刻になっても現れない、ということは、つまり、
お医者さんはお仕事中なのだろう。それが敢えてのプレイでない限りは。
そこまで解っているのに、万が一の可能性を考えて、
相手が来るのを、なんとなく待ってしまう俺のほうがおかしいのだ。
息を切らせながら「すまない、遅くなった」
と走ってくる相手ではないと解っているのに。
「マルター。そろそろ行こう。皆、お待ちかねだよー!」
次の店に行く途中で足を止めたマルタに、ファン達からいい加減お呼びがかかる。
「アイヴィーにはソクーロフ先生が居るんだから、
マルタがいくらナンパしたってダメさ!」
お酒が入ってご機嫌なオジサン、オバサン達は大笑いしていた。
「じゃあね、アイヴィー。たまにはカワイイ女の子連れてるとこ見せとくれよー」
楽しげに笑いながら、マルタ御一行は旧市街に消えていった。
賑やかな人達が過ぎ去ったあとは、嫌に静寂を感じる。
また一人になった俺は、とりあえず煙草を銜えた。
それから数分後、俺の携帯電話が鳴った。
やっぱり、というか、ソクーロフからキャンセルの連絡だった。
喘息の発作を出した生徒が居たらしい。
シュヌーシア寮に、喘息持ちの生徒が居るのは俺も知っていた。
「そっか。で、ダイジョブなの?」
「今はな。鎮静剤で落ち着いている。
再発の可能性があるから、今夜は側に付いていたい」
「そうだよ、ね。じゃあ、メシはまた今度」
「ああ。一人で食事できるか?」
「なっ! できます!」
「そうか。ならば」
そこでわざと間を置き、ソクーロフは囁くように言った。
「今夜は一人でしてみせろ」
「え……」
「フフッ。ではな」
一方的に電話は切られた。携帯電話を見ながら、俺は額を押さえる。
今の低い囁き声が、まだ耳に残っているような気がして、イヤだった。
「へえ。今夜は一人なのか」
イタリア訛りの英語。紫煙を燻らせながら、一人の男が近付いてきた。
先の尖ったエナメル靴に、黒いパンツ。うっすらと透けるシルバーのワイシャツ。
大きく開けた胸元からは、あろうことか、真っ黒なモジャモジャを覗かせている。
自ら、カタギの人間ではないと見せ付けるように、
口にもアゴにもヒゲを生やした男。
ただでさえ厳つい顔に、モジャついた長い黒髪が更に暑苦しい。
がっかりするほどに、シチリアンマフィアなその男は、
マンゾーニさんちのディーノ君だった。
「よお。一人寝がサビシイなら、今夜は俺様が抱い」
「言わせねえよっ!? つーか。なんでまたアンタが居んだよ」
「俺様が居ちゃ悪ぃのか?」
「悪いから言ってんでしょうが!」
「ま。とりあえずビール飲めるトコに連れてけや。
話はそこでじっくり聞いてやるから。な?」
「肩に手を回すな!」
「腰のほうがイイってか。焦んなよ。気が早えなあ」
「いや、だから。アンタ、自分の立場」
「解ってねえのはてめえだろ?」
グイと引き寄せ、わざと耳の傍で囁く。
「今、ここで、てめえをアンアン言わせたってイイんだぜ?」
→
■テオとハルヤと夏祭り2 続編
屋台の列を抜けて、海が見渡せる場所に出た。
涼しい風が、浴衣の袖から入り、すっとハルヤの素肌を撫でる。
熱気があった場所から離れた為、辺りは少し涼しく感じられた。
テオはもう一度、腕時計を確かめていた。
「みんなー! 海を見ていておくれー!」
生徒達が海のほうを見る。夜空は満天の星で飾られているが、
海は真っ暗なままだ。テオと同じ寮の生徒達が言う。
「テオー。海がどうしたんだよ?」
「何もないよー?」
楽しそうにテオがウインクした。
「これから起こるのだよ」
シュヌーシア寮の生徒達は首を傾げていた。テオは笑顔で言った。
「愛するマージナルプリンス諸君に、日本の美しい花を贈るよ」
テオが掲げた右手。その先には夜の海と空が広がっている。
すると、海上から一筋の光が昇った。ヒューという音と共に。
オレンジ色の光は天に向かって、弾けた。
ハルヤは呆然と見上げている。夜空には大輪の花が次々と咲いた。
「美しい花って……花火?」
「うん。日本で一番美しい花、だろう?」
花火はとても大きく見えた。
こんなに近くで、花火を見るのは初めてかもしれない、とハルヤは思う。
空を震わせる大きな振動が、空気を伝って、こちらにまで響いてくるようだ。
ドン、と鳴る度に、自分の胸にまで振動が伝わってくる。
ドッカンドッカン上がっている花火を、ハルヤは信じられない気持ちで見ていた。
テオの家が、海運王と呼ばれるくらい、ギリシャでも有数の資産家なのは知ってる。
でも、ああいう花火って個人で上げられるものなのかな。
五百円玉を二枚貰って、大金だと思ってた頃の自分がなんだか恥ずかしく思えてくる。
レッドは、シルヴァンと肩を組んで花火を見ている。
アンリは呆れているようだ。その様子を見て、ジョシュアは苦笑していた。
他の生徒達も、歓声を上げたりしながら、夜空に咲く花を眺めていた。
「ますます美しいねえ。花火を背景にした君は」
ハルヤの隣にテオが来た。
「今宵は、美しい花火と美しい真珠が愛でられて、とても贅沢だよ。
今日は本当に来てくれてありがとう、東洋の黒い真珠」
「えっと、こっちのほうこそ、ありがと。日本の夏祭りに、日本の花火まで」
「いいや。お礼を言うのは私のほうなのだよ。今日という日に、皆が傍に居てくれて」
テオの横顔は花火でオレンジに照らされ、ふっと暗くなった。
そしてまた、次の花火が上がっていく。
「美しいね。どうして、日本の花火は、あんなにも美しいのだろう」
キレイだねー、と誰かの声がする。ハルヤは少し考えて、こう答えた。
「すぐに消えちゃうから、かな。多分」
ピンクと白の小さな花火が連続で昇った。
「成程。きっとそれが正解だね」
青と白の花火が上がる。次は赤と黄色だった。
最後には、続けて黄金の大きな花火が咲き乱れ、花火大会は幕を閉じた。
「おしまいか。物悲しく感じてしまうものだね、花火が終わってしまった空は」
「うん。終わっちゃうと、もっと見たかったな、と思うよね」
「では、最後にもう一度、花火を共に見ようか?」
「え?」
「生徒代表の任期満了パーティにも、花火を打ち上げようかなと思ってね?」
「ま、また?」
「うん。私ももう一度見たいから」
海運王の子息は、にこやかに笑っていた。
「テーオー! 一緒にお店見に行こー!」
中等部の生徒達がテオを呼んでいた。シュヌーシア寮の面々だ。
「おや。私をお呼びかな。ではね、東洋の黒い真珠。
今宵は美味しい物もたくさん用意しているから、
このあともナツマツリを楽しんでおくれ」
テオはシュヌーシアの寮生達に囲まれて、屋台のほうへ戻っていった。
「なあ、シルヴァン! 俺と勝負しねえか?」
レッドは銃を構えるポーズをとっていた。
「さっきさ、シューティングゲームみたいなヤツがあったんだよ」
「シャテキのことですね! 僕もやりたいと思ってたところなんですよー!
その勝負、受けて立ちましょう!」
「おっしゃ! じゃあ、行こうぜ。おい、お前らも付いて来いよ。
勝負にギャラリーは必要だからな」
ギャラリー扱いされたのは、ジョシュア、アンリ、ハルヤである。
琥珀色の瞳がきらりと光った。
「ただ見てるだけじゃ、つまらないから、どちらが勝つか、賭けでもする?」
アンリの提案に、ジョシュアとハルヤは顔を見合わせる。
「僕はシルヴァンに賭けるけれど。ハルヤは?」
「え? えっとー、俺もシルヴァン、かな」
「おいおいおいー! ジョシュアは俺に賭けてくれるんだろーなー?」
「え? あ、うん」
「もちろん、賭けに負けた人と勝負に負けた人は、罰ゲーム、ね?」
「わ、解ったよ、アンリ」
「大丈夫だ、ジョシュア! 俺様を信じろ!」
「面白くなってきましたね! じゃあ、行きましょう!」
fin
涼しい風が、浴衣の袖から入り、すっとハルヤの素肌を撫でる。
熱気があった場所から離れた為、辺りは少し涼しく感じられた。
テオはもう一度、腕時計を確かめていた。
「みんなー! 海を見ていておくれー!」
生徒達が海のほうを見る。夜空は満天の星で飾られているが、
海は真っ暗なままだ。テオと同じ寮の生徒達が言う。
「テオー。海がどうしたんだよ?」
「何もないよー?」
楽しそうにテオがウインクした。
「これから起こるのだよ」
シュヌーシア寮の生徒達は首を傾げていた。テオは笑顔で言った。
「愛するマージナルプリンス諸君に、日本の美しい花を贈るよ」
テオが掲げた右手。その先には夜の海と空が広がっている。
すると、海上から一筋の光が昇った。ヒューという音と共に。
オレンジ色の光は天に向かって、弾けた。
ハルヤは呆然と見上げている。夜空には大輪の花が次々と咲いた。
「美しい花って……花火?」
「うん。日本で一番美しい花、だろう?」
花火はとても大きく見えた。
こんなに近くで、花火を見るのは初めてかもしれない、とハルヤは思う。
空を震わせる大きな振動が、空気を伝って、こちらにまで響いてくるようだ。
ドン、と鳴る度に、自分の胸にまで振動が伝わってくる。
ドッカンドッカン上がっている花火を、ハルヤは信じられない気持ちで見ていた。
テオの家が、海運王と呼ばれるくらい、ギリシャでも有数の資産家なのは知ってる。
でも、ああいう花火って個人で上げられるものなのかな。
五百円玉を二枚貰って、大金だと思ってた頃の自分がなんだか恥ずかしく思えてくる。
レッドは、シルヴァンと肩を組んで花火を見ている。
アンリは呆れているようだ。その様子を見て、ジョシュアは苦笑していた。
他の生徒達も、歓声を上げたりしながら、夜空に咲く花を眺めていた。
「ますます美しいねえ。花火を背景にした君は」
ハルヤの隣にテオが来た。
「今宵は、美しい花火と美しい真珠が愛でられて、とても贅沢だよ。
今日は本当に来てくれてありがとう、東洋の黒い真珠」
「えっと、こっちのほうこそ、ありがと。日本の夏祭りに、日本の花火まで」
「いいや。お礼を言うのは私のほうなのだよ。今日という日に、皆が傍に居てくれて」
テオの横顔は花火でオレンジに照らされ、ふっと暗くなった。
そしてまた、次の花火が上がっていく。
「美しいね。どうして、日本の花火は、あんなにも美しいのだろう」
キレイだねー、と誰かの声がする。ハルヤは少し考えて、こう答えた。
「すぐに消えちゃうから、かな。多分」
ピンクと白の小さな花火が連続で昇った。
「成程。きっとそれが正解だね」
青と白の花火が上がる。次は赤と黄色だった。
最後には、続けて黄金の大きな花火が咲き乱れ、花火大会は幕を閉じた。
「おしまいか。物悲しく感じてしまうものだね、花火が終わってしまった空は」
「うん。終わっちゃうと、もっと見たかったな、と思うよね」
「では、最後にもう一度、花火を共に見ようか?」
「え?」
「生徒代表の任期満了パーティにも、花火を打ち上げようかなと思ってね?」
「ま、また?」
「うん。私ももう一度見たいから」
海運王の子息は、にこやかに笑っていた。
「テーオー! 一緒にお店見に行こー!」
中等部の生徒達がテオを呼んでいた。シュヌーシア寮の面々だ。
「おや。私をお呼びかな。ではね、東洋の黒い真珠。
今宵は美味しい物もたくさん用意しているから、
このあともナツマツリを楽しんでおくれ」
テオはシュヌーシアの寮生達に囲まれて、屋台のほうへ戻っていった。
「なあ、シルヴァン! 俺と勝負しねえか?」
レッドは銃を構えるポーズをとっていた。
「さっきさ、シューティングゲームみたいなヤツがあったんだよ」
「シャテキのことですね! 僕もやりたいと思ってたところなんですよー!
その勝負、受けて立ちましょう!」
「おっしゃ! じゃあ、行こうぜ。おい、お前らも付いて来いよ。
勝負にギャラリーは必要だからな」
ギャラリー扱いされたのは、ジョシュア、アンリ、ハルヤである。
琥珀色の瞳がきらりと光った。
「ただ見てるだけじゃ、つまらないから、どちらが勝つか、賭けでもする?」
アンリの提案に、ジョシュアとハルヤは顔を見合わせる。
「僕はシルヴァンに賭けるけれど。ハルヤは?」
「え? えっとー、俺もシルヴァン、かな」
「おいおいおいー! ジョシュアは俺に賭けてくれるんだろーなー?」
「え? あ、うん」
「もちろん、賭けに負けた人と勝負に負けた人は、罰ゲーム、ね?」
「わ、解ったよ、アンリ」
「大丈夫だ、ジョシュア! 俺様を信じろ!」
「面白くなってきましたね! じゃあ、行きましょう!」
fin
■テオとハルヤと夏祭り1 続編
「おや? そう言えば、レッド達が居ないですねえ」
シルヴァンがキョロキョロしている。
「ああ、うん。はぐれちゃったみたいだね、俺達、勝手に離れちゃったし」
ハルヤとシルヴァンがりんご飴を手にした時には、
ジョシュア、アンリ、レッドの姿が見えなくなっていた。
「まあ、そのうちに会えますよ。わあ、甘酸っぱくて美味しいですー」
シルヴァンは早速りんご飴にかぶりついていた。
かじられたところは白い実が見えている。
ハルヤのりんご飴はまだ真っ赤だった。
すぐに食べてしまうのが勿体無くて、表面の飴をペロペロ舐めていた。
「おお、ハルヤ様ー! シルヴァン様ー!」
屋台のほうから名前を呼ばれた。
誰かと思えば、ウーティス寮のシェフ、カミーユ・ルブランだった。
「あ、カミーユもお店やってたんだ」
「はい。シェフ達にもお祭りで、その腕を振るって欲しい、とテオ様の仰せで。
微力ながら、私も参加させて頂いております」
「ちなみに、カミーユは何屋さんなの?」
「ムールフリット屋でございます」
「え?」
「極上の白ワインで蒸した、最高品種のムール貝に、
貴重な岩塩で味付けたフライドポテトを添えたものでございます」
「あ、あはは……何て言うか、カミーユらしいお店だね、他のお店と雰囲気違って……」
「おひとつ、いかがですか! ハルヤ様、シルヴァン様」
「えっ? えっと、あの」
「すみません、カミーユ。僕達、今は、コレがありますので」
シルヴァンはりんご飴を盾にした。
「ああ、他の物をお召上がり中だったのですね。それは残念」
「本当、残念ですー。じゃあ、カミーユもお祭り楽しんで下さいねー」
二人はそそくさとカミーユの屋台を離れた。
そこから少し行った先では、アルファルド寮シェフが、黙々と焼き鳥を焼いていた。
屋台の列の端まで来た二人は、一度そこで立ち止まった。
「大体、これで一周できましたかね?」
「うん。思ったより、たくさんお店あったね」
「どこから攻めましょうかー。ん? どうしました、ハルヤ」
「いや、アイヴィーは来てないのかなあと思って」
「ああー、あの人は多分、絶賛お仕事中じゃないですかね?」
「そっか。タクシードライバーさんも大変だなあ。
アイヴィーも一緒にお祭り来られたら良かったのにね」
「まあ、それより! 僕、シャテキがやってみたいですー!」
「射的かあ。シルヴァン、そういうの上手そうだもんね」
露店を見ながら、「あれは日本語で何ですか」と聞かれて、
さっき教えたばかりの日本語を、シルヴァンは正確に記憶しているようだった。
「あとあと! ヨーヨーツリとスーパーボールスクイもやりたいですー!」
「はいはい。じゃあ、射的から行こっか。俺も、その近くにあった、たこ焼き食べたいし」
「はーい!」
来た道を戻ろうとした時、道の脇にゴミ箱を見つけた。
その頃には二人ともりんご飴を食べ終わり、
りんごに刺さっていた割り箸を握っているだけだった。
ハルヤが割り箸を捨てに行こうとした時、シルヴァンに手を差し出された。
「僕が捨ててきますよ」
「あ、ありがと」
お団子頭の友達がゴミ箱まで行って、タタタと帰ってくる。
「じゃあ、シャテキに、行きましょー!」
「おや。お綺麗なお嬢さんが二人も居ると思ったら、
シルヴァンと東洋の黒い真珠じゃないか」
前方から優雅で陽気な声がした。
にこやかな笑顔でやってきたのは、やはりこの夏祭りの主催者。
生徒代表のテオ・メネシスだった。シルヴァンが駆け寄る。
「テオー! 今夜は、ニッポンの夏祭りをプレゼントしてくれて、
本当にどうもありがとうございます! 僕、カンゲキしちゃいました!」
「喜んで貰えて良かったよ、シルヴァン。こちらこそ、ありがとう。
二人とも、私が用意したユカタで来てくれたのだね?
ああ、本当に良く似合っている。特に」
ハルヤの手を、テオが両手でガシと握り締める。
「東洋の黒い真珠! やはりユカタには君の黒い瞳が一番だ!」
真夏のスコールのような勢いで、テオによる褒め殺し攻撃が始まった。
隣でシルヴァンも頷いている。テオは握った手をブンブンと振りながら、
「ああ、なんという美しさだ。この衣装が、これほどまでに、
君を美しく、ミステリアスに輝かせるなんて。やはり君は美そのものだ!」
褒められているようなので、ハルヤは一応お礼を言いながら、
無意識にオリエンタル・スマイルを浮かべる。
それがまた褒め殺しスコールの降水量を増大させたのは言うまでもない。
ハルヤがテオに絶賛されるのは、これが初めてではないが、
日本にはこういうタイプの友達が居なかったので未だに慣れなかった。
「あー! 居た、居たー! おーい、シルヴァン、ハルヤー!」
レッドの大きな声がした。彼の後ろにはジョシュアとアンリも居る。
三人がハルヤ達の元へ来る。はぐれていたウーティス寮生が合流した。
「こんばんは、テオ。貴方が開くパーティはいつも本格的ですね」
ジョシュアは最上級生に挨拶したが、
隣のアンリは目も合わせず不機嫌な顔をしている。
レッドは頭の右側にひょっとこのお面を付けている。三人も浴衣姿で参加していた。
「よっ、テオ! テオが騒いでる声が聞こえたから、
傍にハルヤが居るんじゃないかと思って来てみたら、ビンゴだったぜ!」
「おや。私、騒いでいたかい?」
「東洋の黒い真珠がどうのこうのってな」
「ああ。そうなのだよ。東洋の美に魅入られていたんだ。――おや?
アンリ! 君もユカタで! ああ、君が着ると、何やら妖艶だねえ、まるで」
「僕のことはいいから。貴方は東洋の黒い真珠を構ってなよ」
「アンリ、テオに噛み付くなよ」
ジョシュアに注意され、アンリはツンとそっぽを向く。
それを見て、テオは楽しそうに笑っていた。
突然、夏祭り会場に音楽が流れ始めた。
何だろう、と思った生徒達がざわざわする中、テオが「そうだった!」と声を上げた。
「いけない、いけない。時間がないんだった!」
テオが腕時計を見る。
「ああ、まだ大丈夫だった。危ない、危ない。君達の美しさに魅入られたあまり、
東洋の黒い真珠に会いに来た目的を忘れるところだった。
さあ、海がもっと良く見えるところに行こう!」
「えっ?」
「ほら、早く」
質問する間も与えず、テオは皆を連れて走り出す。
「おーい! みんなも、私に付いて来ておくれー!」
訳が解らないまま、他の生徒達もテオのあとに付いて行った。
→
シルヴァンがキョロキョロしている。
「ああ、うん。はぐれちゃったみたいだね、俺達、勝手に離れちゃったし」
ハルヤとシルヴァンがりんご飴を手にした時には、
ジョシュア、アンリ、レッドの姿が見えなくなっていた。
「まあ、そのうちに会えますよ。わあ、甘酸っぱくて美味しいですー」
シルヴァンは早速りんご飴にかぶりついていた。
かじられたところは白い実が見えている。
ハルヤのりんご飴はまだ真っ赤だった。
すぐに食べてしまうのが勿体無くて、表面の飴をペロペロ舐めていた。
「おお、ハルヤ様ー! シルヴァン様ー!」
屋台のほうから名前を呼ばれた。
誰かと思えば、ウーティス寮のシェフ、カミーユ・ルブランだった。
「あ、カミーユもお店やってたんだ」
「はい。シェフ達にもお祭りで、その腕を振るって欲しい、とテオ様の仰せで。
微力ながら、私も参加させて頂いております」
「ちなみに、カミーユは何屋さんなの?」
「ムールフリット屋でございます」
「え?」
「極上の白ワインで蒸した、最高品種のムール貝に、
貴重な岩塩で味付けたフライドポテトを添えたものでございます」
「あ、あはは……何て言うか、カミーユらしいお店だね、他のお店と雰囲気違って……」
「おひとつ、いかがですか! ハルヤ様、シルヴァン様」
「えっ? えっと、あの」
「すみません、カミーユ。僕達、今は、コレがありますので」
シルヴァンはりんご飴を盾にした。
「ああ、他の物をお召上がり中だったのですね。それは残念」
「本当、残念ですー。じゃあ、カミーユもお祭り楽しんで下さいねー」
二人はそそくさとカミーユの屋台を離れた。
そこから少し行った先では、アルファルド寮シェフが、黙々と焼き鳥を焼いていた。
屋台の列の端まで来た二人は、一度そこで立ち止まった。
「大体、これで一周できましたかね?」
「うん。思ったより、たくさんお店あったね」
「どこから攻めましょうかー。ん? どうしました、ハルヤ」
「いや、アイヴィーは来てないのかなあと思って」
「ああー、あの人は多分、絶賛お仕事中じゃないですかね?」
「そっか。タクシードライバーさんも大変だなあ。
アイヴィーも一緒にお祭り来られたら良かったのにね」
「まあ、それより! 僕、シャテキがやってみたいですー!」
「射的かあ。シルヴァン、そういうの上手そうだもんね」
露店を見ながら、「あれは日本語で何ですか」と聞かれて、
さっき教えたばかりの日本語を、シルヴァンは正確に記憶しているようだった。
「あとあと! ヨーヨーツリとスーパーボールスクイもやりたいですー!」
「はいはい。じゃあ、射的から行こっか。俺も、その近くにあった、たこ焼き食べたいし」
「はーい!」
来た道を戻ろうとした時、道の脇にゴミ箱を見つけた。
その頃には二人ともりんご飴を食べ終わり、
りんごに刺さっていた割り箸を握っているだけだった。
ハルヤが割り箸を捨てに行こうとした時、シルヴァンに手を差し出された。
「僕が捨ててきますよ」
「あ、ありがと」
お団子頭の友達がゴミ箱まで行って、タタタと帰ってくる。
「じゃあ、シャテキに、行きましょー!」
「おや。お綺麗なお嬢さんが二人も居ると思ったら、
シルヴァンと東洋の黒い真珠じゃないか」
前方から優雅で陽気な声がした。
にこやかな笑顔でやってきたのは、やはりこの夏祭りの主催者。
生徒代表のテオ・メネシスだった。シルヴァンが駆け寄る。
「テオー! 今夜は、ニッポンの夏祭りをプレゼントしてくれて、
本当にどうもありがとうございます! 僕、カンゲキしちゃいました!」
「喜んで貰えて良かったよ、シルヴァン。こちらこそ、ありがとう。
二人とも、私が用意したユカタで来てくれたのだね?
ああ、本当に良く似合っている。特に」
ハルヤの手を、テオが両手でガシと握り締める。
「東洋の黒い真珠! やはりユカタには君の黒い瞳が一番だ!」
真夏のスコールのような勢いで、テオによる褒め殺し攻撃が始まった。
隣でシルヴァンも頷いている。テオは握った手をブンブンと振りながら、
「ああ、なんという美しさだ。この衣装が、これほどまでに、
君を美しく、ミステリアスに輝かせるなんて。やはり君は美そのものだ!」
褒められているようなので、ハルヤは一応お礼を言いながら、
無意識にオリエンタル・スマイルを浮かべる。
それがまた褒め殺しスコールの降水量を増大させたのは言うまでもない。
ハルヤがテオに絶賛されるのは、これが初めてではないが、
日本にはこういうタイプの友達が居なかったので未だに慣れなかった。
「あー! 居た、居たー! おーい、シルヴァン、ハルヤー!」
レッドの大きな声がした。彼の後ろにはジョシュアとアンリも居る。
三人がハルヤ達の元へ来る。はぐれていたウーティス寮生が合流した。
「こんばんは、テオ。貴方が開くパーティはいつも本格的ですね」
ジョシュアは最上級生に挨拶したが、
隣のアンリは目も合わせず不機嫌な顔をしている。
レッドは頭の右側にひょっとこのお面を付けている。三人も浴衣姿で参加していた。
「よっ、テオ! テオが騒いでる声が聞こえたから、
傍にハルヤが居るんじゃないかと思って来てみたら、ビンゴだったぜ!」
「おや。私、騒いでいたかい?」
「東洋の黒い真珠がどうのこうのってな」
「ああ。そうなのだよ。東洋の美に魅入られていたんだ。――おや?
アンリ! 君もユカタで! ああ、君が着ると、何やら妖艶だねえ、まるで」
「僕のことはいいから。貴方は東洋の黒い真珠を構ってなよ」
「アンリ、テオに噛み付くなよ」
ジョシュアに注意され、アンリはツンとそっぽを向く。
それを見て、テオは楽しそうに笑っていた。
突然、夏祭り会場に音楽が流れ始めた。
何だろう、と思った生徒達がざわざわする中、テオが「そうだった!」と声を上げた。
「いけない、いけない。時間がないんだった!」
テオが腕時計を見る。
「ああ、まだ大丈夫だった。危ない、危ない。君達の美しさに魅入られたあまり、
東洋の黒い真珠に会いに来た目的を忘れるところだった。
さあ、海がもっと良く見えるところに行こう!」
「えっ?」
「ほら、早く」
質問する間も与えず、テオは皆を連れて走り出す。
「おーい! みんなも、私に付いて来ておくれー!」
訳が解らないまま、他の生徒達もテオのあとに付いて行った。
→
かき氷に、たこ焼き、射的もある。
特設夏祭り会場には日本で見るのと同じ屋台がズラリと並んでいた。
そもそもの始まりは、二週間程前に遡る。
聖アルフォンソ島にも、夏の兆しが見えてきた頃。
放課後のウーティス寮にて、ハルヤとシルヴァンが、
日本の夏祭りについて話していた。
「ニッポンのサマーフェスティバルってどんなかんじですか」
とシルヴァンに聞かれ、ハルヤは昔を思い出しながら、答えていた。
そこに、たまたま生徒代表のテオが遊びに来たのである。
日本文化が大好きというシルヴァンとテオが盛り上がってしまい、
「聖アルフォンソ島でもナツマツリをやろう!」となってしまったのである。
そして今日のお昼休み、突然の校内放送があった。
「今夜、ジャパニーズ式のサマーフェスティバルをやるよ!」
放送室をジャックしたのは、生徒代表のテオだった。
「ジャパンの言葉ではナツマツリと言うそうだよ。
私は以前からオリエンタルの文化に惹かれていてねえ。
今年はジャパンから新入生も来てくれたことだし、
ジャパンの夏を肌で学ぼうと思い、開催することにしたんだ。
既に、各寮にナツマツリグッズをプレゼントしておいたから、
それを身に付けて来てくれると嬉しいな。
というわけで、参加できる皆は、今夜19時に正門前に集合だよ。
今夜は皆で楽しもう。特に東洋の黒い真珠!
君がユカタで来てくれるのを待っているよ!」
名指しのアナウンスを受け、ハルヤに断る気力はなかったし、
まあ行っても良いかなと思う理由もあった。
テオは最上級生。この夏が終わる頃には、ここを卒業している人だから。
「スゴイですー! これがニッポンのナツマツリなんですね!」
海に程近い広場を貸し切った、聖アルフォンソ島特設夏祭り会場は、
日本からお祭りをひとつ持ってきたかのようになっていた。
ハルヤの隣ではシルヴァンが目を輝かせている。
ハルヤ達の前方には、ジョシュアとアンリとレッドが並んで歩いている。
レッドとアンリが何か言い合いをしているようで、
仲裁に入ろうか迷っているジョシュアの横顔がちらりと見えた。
「それにしてもハルヤって、本当にキモノが似合いますねえ」
シルヴァンがハルヤを上から下まで眺める。
「そ、そんなにじっくり見なくても」
「お綺麗です。ヤマトナデシコですよ、ハルヤ」
「もう。それは男に使う言葉じゃないよ」
この夜のハルヤは、テオが用意した衣装を身に付けていた。
わざわざ日本からお取り寄せした浴衣である。
着心地の良い布地に、細やかに縫われた柄。
和服を着慣れているハルヤの目から見ても、この浴衣は決して安物ではなかった。
たった一夜の夏祭りの為だけに、こんな良い物まで用意するなんて、とハルヤは思う。
ほんと、お金持ちのすることって解んない。
「あの、僕も似合ってますか、ユカタ!」
シルヴァンが浴衣の袖を広げてクルリと回ってみせる。
普段は下ろしている長い髪も、今夜はお団子頭にして、赤い玉かんざしでまとめていた。
露わになっている白い首筋や、耳許に少しだけ垂れ下がる横髪は妙に女性的に見えた。
「今日の僕、サムライですか!?」
「いや、シルヴァンのは、サムライっていうか、何て言うか……」
「……僕、サムライじゃないですか?」
「ま、まあ、和服だし、制服姿とかよりはサムライに近い、かな?」
「ですよね! ですよねー! 今日は僕、サムライですよね!」
聖アルフォンソ島に突如現れた日本式のお祭りで、
一番楽しんでるのはシルヴァンかもしれなかった。
「ハルヤ、何か食べましょうよ!」
シルヴァンに腕を組まれる。
「ハルヤのオススメはどれですか? 教えて下さい!」
「オススメ? そうだなあ」
ハルヤは歩きながら、辺りを見渡す。
まだ和歌山で暮らしていた頃、近所の神社で、こういう夏祭りがあったっけ。
夜店が並ぶ光景を見ていたら、ハルヤは自然と昔を思い出した。
母様に浴衣を着せて貰って、兄様に会いに行った。
少し久し振りに会った父様には「なんだか女の子みたいだな」と少し笑われて。
「春也はすぐ迷子になるから」と兄様が手を繋いでくれた。
小さな財布には、母様から貰った五百円玉と、
「これでりんご飴でも食べといで」と、じい様から貰った五百円玉が入ってた。
子供の頃の自分には大金過ぎて、ドキドキするくらいだったのを覚えてる。
夏の夜に浮かぶ夜店の灯り。夏祭りには独特の雰囲気がある。
賑やかなのに、どこか寂しいかんじがするのは、どうしてだろう。
焼きそば、お好み焼きに、わたあめ。その向こうに、赤くて丸い物が見えた。
「最初は、りんご飴が良いかな」
ハルヤがそう呟くと、シルヴァンは首を傾げた。
「リンゴアメ? リンゴアメって何ですか?」
「ああ、ごめん。日本語だったね。えっと、英語にすると、
アップル・キャンディ、になるのかな。アップルを丸ごとキャンディにした物なんだけど」
「わお! それなら、アメリカにもあったと思いますよ!」
「え、そうなの?」
「はい。名前は、キャンディ・アップルだったと思います」
「あ、キャンディが先に来るんだ。
じゃあ、それ舐めながら、他にどんなお店があるか、一周見て回らない?」
「イイですね! そうしましょう! リンゴアメ下さーい!」
既にシルヴァンは駆け出していた。
「あ、ちょっと、待ってよ、シルヴァン」
人の間を擦り抜け、背の高いお団子頭を追いかけた。
「あれ? リンゴアメ売ってるの、ドニじゃないですか?」
「あ、ほんとだ」
赤いハッピを着た売り子は、シュヌーシア寮シェフ、ドニ・ドームだった。
小柄なせいか、サイズが合っていないようで、ハッピのほうが少々大きい。
こちらに気付いた童顔のシェフが、ぴょこんと頭を下げながら、挨拶した。
「シルヴァン様にハルヤ様。いらっしゃいませ!」
「ドニもお店出してたんだ?」
「はい。シェフ達も協力して欲しい、とテオ様に頼まれまして」
「ドニは、リンゴアメ屋さんなんですね」
「はい。キャンディ・アップルが、日本でもお祭りのお菓子だと聞いたので」
「他の国でもそうなの?」
「そうなんです。例えば、イギリスやフランスでは、
ハロウィンとか、秋の収穫祭などで見かけるお菓子ですね」
「へえ。なんか不思議だね。そっちでは、何て名前なのかな?」
「えっと、イギリスでは、『タフィー・アップル』ですね。
フランスでは『愛のリンゴ』という意味で、『ポム・ダムール』と呼ばれています」
「わお! 『愛のリンゴ』だなんてステキですね!」
ハルヤは曖昧な微笑を見せる。
「……なんか、オシャレな名前なんだね、向こうでは」
「あれ? ところで、お値段が書いてないみたいですけど、
『愛のリンゴ』は、おひとつ、おいくらですか?」
「あっ、お代は頂戴してないんです」
「いいの?」
「はい。テオ様が『今夜のお祭りは私が勝手に開いたものだから』と仰って」
「……え。じゃあ、全部テオのおごりってこと?」
「やーん! テオのそういうとこ、大好きですー!」
「キャンディ・アップルは、おひとつずつで良いですか? はい、どうぞ」
割り箸に刺した真っ赤なりんご飴が差し出される。
ハルヤは懐かしいなと思いながら、それを受け取った。
→
特設夏祭り会場には日本で見るのと同じ屋台がズラリと並んでいた。
そもそもの始まりは、二週間程前に遡る。
聖アルフォンソ島にも、夏の兆しが見えてきた頃。
放課後のウーティス寮にて、ハルヤとシルヴァンが、
日本の夏祭りについて話していた。
「ニッポンのサマーフェスティバルってどんなかんじですか」
とシルヴァンに聞かれ、ハルヤは昔を思い出しながら、答えていた。
そこに、たまたま生徒代表のテオが遊びに来たのである。
日本文化が大好きというシルヴァンとテオが盛り上がってしまい、
「聖アルフォンソ島でもナツマツリをやろう!」となってしまったのである。
そして今日のお昼休み、突然の校内放送があった。
「今夜、ジャパニーズ式のサマーフェスティバルをやるよ!」
放送室をジャックしたのは、生徒代表のテオだった。
「ジャパンの言葉ではナツマツリと言うそうだよ。
私は以前からオリエンタルの文化に惹かれていてねえ。
今年はジャパンから新入生も来てくれたことだし、
ジャパンの夏を肌で学ぼうと思い、開催することにしたんだ。
既に、各寮にナツマツリグッズをプレゼントしておいたから、
それを身に付けて来てくれると嬉しいな。
というわけで、参加できる皆は、今夜19時に正門前に集合だよ。
今夜は皆で楽しもう。特に東洋の黒い真珠!
君がユカタで来てくれるのを待っているよ!」
名指しのアナウンスを受け、ハルヤに断る気力はなかったし、
まあ行っても良いかなと思う理由もあった。
テオは最上級生。この夏が終わる頃には、ここを卒業している人だから。
「スゴイですー! これがニッポンのナツマツリなんですね!」
海に程近い広場を貸し切った、聖アルフォンソ島特設夏祭り会場は、
日本からお祭りをひとつ持ってきたかのようになっていた。
ハルヤの隣ではシルヴァンが目を輝かせている。
ハルヤ達の前方には、ジョシュアとアンリとレッドが並んで歩いている。
レッドとアンリが何か言い合いをしているようで、
仲裁に入ろうか迷っているジョシュアの横顔がちらりと見えた。
「それにしてもハルヤって、本当にキモノが似合いますねえ」
シルヴァンがハルヤを上から下まで眺める。
「そ、そんなにじっくり見なくても」
「お綺麗です。ヤマトナデシコですよ、ハルヤ」
「もう。それは男に使う言葉じゃないよ」
この夜のハルヤは、テオが用意した衣装を身に付けていた。
わざわざ日本からお取り寄せした浴衣である。
着心地の良い布地に、細やかに縫われた柄。
和服を着慣れているハルヤの目から見ても、この浴衣は決して安物ではなかった。
たった一夜の夏祭りの為だけに、こんな良い物まで用意するなんて、とハルヤは思う。
ほんと、お金持ちのすることって解んない。
「あの、僕も似合ってますか、ユカタ!」
シルヴァンが浴衣の袖を広げてクルリと回ってみせる。
普段は下ろしている長い髪も、今夜はお団子頭にして、赤い玉かんざしでまとめていた。
露わになっている白い首筋や、耳許に少しだけ垂れ下がる横髪は妙に女性的に見えた。
「今日の僕、サムライですか!?」
「いや、シルヴァンのは、サムライっていうか、何て言うか……」
「……僕、サムライじゃないですか?」
「ま、まあ、和服だし、制服姿とかよりはサムライに近い、かな?」
「ですよね! ですよねー! 今日は僕、サムライですよね!」
聖アルフォンソ島に突如現れた日本式のお祭りで、
一番楽しんでるのはシルヴァンかもしれなかった。
「ハルヤ、何か食べましょうよ!」
シルヴァンに腕を組まれる。
「ハルヤのオススメはどれですか? 教えて下さい!」
「オススメ? そうだなあ」
ハルヤは歩きながら、辺りを見渡す。
まだ和歌山で暮らしていた頃、近所の神社で、こういう夏祭りがあったっけ。
夜店が並ぶ光景を見ていたら、ハルヤは自然と昔を思い出した。
母様に浴衣を着せて貰って、兄様に会いに行った。
少し久し振りに会った父様には「なんだか女の子みたいだな」と少し笑われて。
「春也はすぐ迷子になるから」と兄様が手を繋いでくれた。
小さな財布には、母様から貰った五百円玉と、
「これでりんご飴でも食べといで」と、じい様から貰った五百円玉が入ってた。
子供の頃の自分には大金過ぎて、ドキドキするくらいだったのを覚えてる。
夏の夜に浮かぶ夜店の灯り。夏祭りには独特の雰囲気がある。
賑やかなのに、どこか寂しいかんじがするのは、どうしてだろう。
焼きそば、お好み焼きに、わたあめ。その向こうに、赤くて丸い物が見えた。
「最初は、りんご飴が良いかな」
ハルヤがそう呟くと、シルヴァンは首を傾げた。
「リンゴアメ? リンゴアメって何ですか?」
「ああ、ごめん。日本語だったね。えっと、英語にすると、
アップル・キャンディ、になるのかな。アップルを丸ごとキャンディにした物なんだけど」
「わお! それなら、アメリカにもあったと思いますよ!」
「え、そうなの?」
「はい。名前は、キャンディ・アップルだったと思います」
「あ、キャンディが先に来るんだ。
じゃあ、それ舐めながら、他にどんなお店があるか、一周見て回らない?」
「イイですね! そうしましょう! リンゴアメ下さーい!」
既にシルヴァンは駆け出していた。
「あ、ちょっと、待ってよ、シルヴァン」
人の間を擦り抜け、背の高いお団子頭を追いかけた。
「あれ? リンゴアメ売ってるの、ドニじゃないですか?」
「あ、ほんとだ」
赤いハッピを着た売り子は、シュヌーシア寮シェフ、ドニ・ドームだった。
小柄なせいか、サイズが合っていないようで、ハッピのほうが少々大きい。
こちらに気付いた童顔のシェフが、ぴょこんと頭を下げながら、挨拶した。
「シルヴァン様にハルヤ様。いらっしゃいませ!」
「ドニもお店出してたんだ?」
「はい。シェフ達も協力して欲しい、とテオ様に頼まれまして」
「ドニは、リンゴアメ屋さんなんですね」
「はい。キャンディ・アップルが、日本でもお祭りのお菓子だと聞いたので」
「他の国でもそうなの?」
「そうなんです。例えば、イギリスやフランスでは、
ハロウィンとか、秋の収穫祭などで見かけるお菓子ですね」
「へえ。なんか不思議だね。そっちでは、何て名前なのかな?」
「えっと、イギリスでは、『タフィー・アップル』ですね。
フランスでは『愛のリンゴ』という意味で、『ポム・ダムール』と呼ばれています」
「わお! 『愛のリンゴ』だなんてステキですね!」
ハルヤは曖昧な微笑を見せる。
「……なんか、オシャレな名前なんだね、向こうでは」
「あれ? ところで、お値段が書いてないみたいですけど、
『愛のリンゴ』は、おひとつ、おいくらですか?」
「あっ、お代は頂戴してないんです」
「いいの?」
「はい。テオ様が『今夜のお祭りは私が勝手に開いたものだから』と仰って」
「……え。じゃあ、全部テオのおごりってこと?」
「やーん! テオのそういうとこ、大好きですー!」
「キャンディ・アップルは、おひとつずつで良いですか? はい、どうぞ」
割り箸に刺した真っ赤なりんご飴が差し出される。
ハルヤは懐かしいなと思いながら、それを受け取った。
→
■夏はデンジャラスに水着に白衣4 続編
後日。聖アルフォンソ学院、プライベートビーチ。
夏の青空の下、学院の生徒四人が広い海辺で遊んでいた。
うち二人は、砂浜で綺麗な貝殻探し。
「ユウタ、ごめんね、僕のせいでっ」
「大丈夫だよ、ミハイル。まだまだ、たくさんあるんだから」
ユウタが見つけた貝殻をミハイルが踏んでしまっていた。
「あ、そうだ。次は砂に埋まるやつやろっか。
ミハイル、俺の身体、砂に埋めてくれる?」
「えっ!? ユウタを砂に? 僕、ユウタにそんなことできないよっ」
「あ、えーと。そうじゃなくてー」
海から一人の生徒が上がってきた。髪の長い生徒が出迎えている。
「ハルヤ、スゴイですー! またまた大漁じゃないですかー!」
「うん。まあ、いっぱい居るから、この辺」
砂浜に上げられた魚達がピチピチ跳ねている。
「ハルヤ、ハルヤ! あとでまたアレ、やって下さいねっ」
「良いけど。ほんと好きだよね、シルヴァンは」
「じゃーん! 今日はデジカメ持ってきちゃいましたー!」
「ええ? 写真撮るの?」
「バッシャバッシャ撮っちゃいますよー!
ハルヤの包丁捌き&水着エプロンを!」
四人の生徒達を、二人の大人達が見守っている。
うち一人は、ここまで皆を乗せてきたタクシードライバー。
海辺にある木製のコテージで、生徒達を眺めながら寛いでいる。
「なんか楽しそーだな。何言ってるか聞こえないけど」
その隣には、引率の先生としてやってきた保健教師。
ビーチチェアに寝そべり、麦わら帽子を顔に乗せている。
タクシードライバーは、保健教師を覗き込む。
「ソクちゃーん、もう寝ちゃったのー?」
返事はない。
「じゃー、俺もお昼寝しちゃおっかなー」
「お前は子供達を見ていろ」
「なんだ。起きてんじゃん。つーか、また水着に白衣ですか」
「何か問題でも?」
「存在自体が……あ、いえ、何でもないです」
「ところで。手の具合はもう良いのか? 運転に支障はないようだったが」
「え? ああ、うん。傷口はもう殆ど塞がってるから」
「トカゲ並みの回復力だな」
「ほんと。ムダにジョーブだから」
「見せてみろ、手。傷の経過を診ておきたい」
「えっ。だから、もう平気だって」
「何を勿体ぶっている。早く」
「ちょ、水着白衣で、そんなに近付くなって」
「アーイヴィー!」
大声で呼ばれ、二人は離れる。
「アイヴィーも、こちらに来ませんかー?」
シルヴァンが手を振っている。
「ハルヤがオサシミ作ってくれましたよー! 水着エプロンでー!」
続いてユウタも声を張り上げる。
「博士も一緒にどうですかー? ミハイルも来て欲しいって言ってまーす!」
アイヴィーは笑って、隣を見る。
「呼ばれてるよ、ソクちゃん」
「お前もな」
「じゃー、行きますかっ」
「そうだな。貴重な水着エプロンを観察しに」
「ソッチかよ!? てゆうか水着白衣のほうが珍しいと思うけど」
「幾ら好みのコスチュームでも、子供達の前では慎めよ?」
「こ、好みなんかじゃありません!」
「行くぞ。傷は、あとでじっくり診てやるからな」
fin
夏の青空の下、学院の生徒四人が広い海辺で遊んでいた。
うち二人は、砂浜で綺麗な貝殻探し。
「ユウタ、ごめんね、僕のせいでっ」
「大丈夫だよ、ミハイル。まだまだ、たくさんあるんだから」
ユウタが見つけた貝殻をミハイルが踏んでしまっていた。
「あ、そうだ。次は砂に埋まるやつやろっか。
ミハイル、俺の身体、砂に埋めてくれる?」
「えっ!? ユウタを砂に? 僕、ユウタにそんなことできないよっ」
「あ、えーと。そうじゃなくてー」
海から一人の生徒が上がってきた。髪の長い生徒が出迎えている。
「ハルヤ、スゴイですー! またまた大漁じゃないですかー!」
「うん。まあ、いっぱい居るから、この辺」
砂浜に上げられた魚達がピチピチ跳ねている。
「ハルヤ、ハルヤ! あとでまたアレ、やって下さいねっ」
「良いけど。ほんと好きだよね、シルヴァンは」
「じゃーん! 今日はデジカメ持ってきちゃいましたー!」
「ええ? 写真撮るの?」
「バッシャバッシャ撮っちゃいますよー!
ハルヤの包丁捌き&水着エプロンを!」
四人の生徒達を、二人の大人達が見守っている。
うち一人は、ここまで皆を乗せてきたタクシードライバー。
海辺にある木製のコテージで、生徒達を眺めながら寛いでいる。
「なんか楽しそーだな。何言ってるか聞こえないけど」
その隣には、引率の先生としてやってきた保健教師。
ビーチチェアに寝そべり、麦わら帽子を顔に乗せている。
タクシードライバーは、保健教師を覗き込む。
「ソクちゃーん、もう寝ちゃったのー?」
返事はない。
「じゃー、俺もお昼寝しちゃおっかなー」
「お前は子供達を見ていろ」
「なんだ。起きてんじゃん。つーか、また水着に白衣ですか」
「何か問題でも?」
「存在自体が……あ、いえ、何でもないです」
「ところで。手の具合はもう良いのか? 運転に支障はないようだったが」
「え? ああ、うん。傷口はもう殆ど塞がってるから」
「トカゲ並みの回復力だな」
「ほんと。ムダにジョーブだから」
「見せてみろ、手。傷の経過を診ておきたい」
「えっ。だから、もう平気だって」
「何を勿体ぶっている。早く」
「ちょ、水着白衣で、そんなに近付くなって」
「アーイヴィー!」
大声で呼ばれ、二人は離れる。
「アイヴィーも、こちらに来ませんかー?」
シルヴァンが手を振っている。
「ハルヤがオサシミ作ってくれましたよー! 水着エプロンでー!」
続いてユウタも声を張り上げる。
「博士も一緒にどうですかー? ミハイルも来て欲しいって言ってまーす!」
アイヴィーは笑って、隣を見る。
「呼ばれてるよ、ソクちゃん」
「お前もな」
「じゃー、行きますかっ」
「そうだな。貴重な水着エプロンを観察しに」
「ソッチかよ!? てゆうか水着白衣のほうが珍しいと思うけど」
「幾ら好みのコスチュームでも、子供達の前では慎めよ?」
「こ、好みなんかじゃありません!」
「行くぞ。傷は、あとでじっくり診てやるからな」
fin
■夏はデンジャラスに水着に白衣3 続編
「道標にメス落とすって、どんなヘンゼルとグレーテルだよ。ホラー過ぎんだろ」
アイヴィーは回収してきたメスを眺めている。
「でも、ソクーロフがメス落とすってことは故意だろうから、
やっぱ誘拐、だよな。そんで、俺に場所を教えようとしたんだ」
メスが大量に落ちていた付近には、
今は使われていない、お誂え向きの倉庫があった。
「この中にソクーロフが……まだ生きててくれよっ」
バンと扉を開ける。
「ソクーロフ! 助けにっ」
倉庫の中で見た光景に、アイヴィーは息を呑んだ。
鉄骨に腰掛けているソクーロフの足に、知らない男が、頬を擦り寄せていた。
アイヴィーは思わず扉を閉めた。
「ちょ、今の何!? イマのナニ!?」
あまりの出来事に心臓がバクバクいっている。
「いや、きっと見間違いだ。そうに決まってる。
誘拐されてる筈の人が、下僕ごっこしてるわけないもん、しかも王様役で。
よ、よしっ。勇気を振り絞って、もっかい確認だっ!」
もう一度、バンと扉を開けた。
「ああ、スタニスラフ様……」
見知らぬ男は、恍惚とした表情で、ソクーロフの名を呼んでいた。
王に仕える下僕でも今時ここまでしないだろう。
「ソクーロフ! 何してんの!? てか、ホントにナニしてんの!?」
ソクーロフは面倒だなと言わんばかりの顔で、
「島民が急患だと呼ばれていったら、この男に誘拐された。
その後、色々話を聞いていたら、彼は私の洗脳技術に興味があるのだと解ってな。
拘束を解いて貰う為、策を講じていたら、こうなった」
誘拐犯はまだソクーロフの足に寄り添っていた。
アイヴィーは力が抜けて、笑ってしまった。
「誘拐犯を骨抜きにしちゃうなんて。俺、助けに来る必要なかったね」
「必要さ」
「えっ?」
「ここから学院まで歩いて帰るのは難儀だからな」
「必要なのは車だけかよ」
ソクーロフは吐息を漏らすように笑った。
「スタニスラフ様……」
今や、しもべと化した誘拐犯が、主人の名前を呼んでいる。
ソクーロフは優しい微笑みを返す。しもべの肩に手を置き、彼の耳元で何かを囁いた。
すると、しもべは糸が切れた操り人形のように力を失い、ソクーロフの腕の中に倒れた。
その身体を支えながら、ゆっくりとコンクリートの上に横たえた。
それを見守っていたアイヴィーは頬を掻いていた。
「ありゃりゃあ。赤ちゃんみたいな寝顔しちゃって」
「そうだな」
「てかさ、ソクちゃん、その顔……ほっぺも唇も切れてんじゃん。眼鏡もないし」
「眼鏡ならそこだ。顔を蹴られた時に割れた」
「顔っ!? 勇気あんなあ……じゃなくて、ごめん、遅くなって」
「私を気にするより、お前にはすることがあるだろう?
早く警備に連絡して、キリルと、その仲間を捕らえるんだな」
「キリル? あれ。どっかで聞いた名前だな……てか、仲間?」
「キリル!」
倉庫に、四角い顔をした大柄の男が入ってきた。
大柄の男は、倒れていたキリルを抱き起こす。
「キリル、しっかりしろ! おい!」
揺り起こされ、ゆっくりと目を開ける。
「スタニスラフ様……スタニスラフ様……」
目覚めて尚、うわごとのようにソクーロフの名を呼び続けていた。
大柄の男は舌打ちする。
「腑抜けにされやがって。ソクーロフにやられたのか。
だから、俺は反対だったんだ。心を操る男を仲間に入れるなんて」
大柄の男はキリルをそっと寝かせたあと、顔を上げた。
「ソクーロフ。よくもやってくれたな。借りは返すぜ」
男が胸元から何か取り出したのをアイヴィーの目が捉える。
鞘から覗いたのは銀色のナイフだった。
「危ない!」
それは一瞬の出来事だった。
ソクーロフの目には、金色の長い髪だけが映っていて、
次の瞬間にはバタリと大柄の男が倒れた。
「ああ、やっと思い出したよ」
アイヴィーの声は僅かに笑っていた。
「キリルってのは、イヴァニコフ・ファミリーのキリルかあ。
ロシアンマフィアにはナイフ遣いが多いもんね。こちらさんもファミリーの人かな」
ナイフの刃を直に掴んだままの左手からは、赤い滴が伝っている。
それを見て、ソクーロフはアイヴィーの背中で遮断された光景を察する。
ソクーロフに向けられたナイフ。
それをアイヴィーは左手で掴むことで、相手の懐に入り、一撃で倒したのだろう。
ソクーロフは息を吐きながら言った。
「いつまで握っている」
「えっ?」
アイヴィーはまだ刃の部分を握っている。その柄をソクーロフが掴む。
「離せ」
「ああ、うん」
アイヴィーが刃から手を離す。
ソクーロフが持つナイフは、鮮やかな血で濡れていた。
「何故こんな真似を。お前なら他にも対処法はあっただろう」
「いやあ、とっさに、ね。あ、今頃痛くなってきた。イテテテッ」
「馬鹿だな」
「でも、守るのは俺のお仕事だもん。
怪我は、ソクちゃんが治してくれんでしょ?」
ソクーロフは真っ赤な手を見ながら、
「私の手を煩わせるな」
アイヴィーは笑っていた。
「治すのはソクちゃんのお仕事なんだから、ちゃんとしてよ」
医師は怪我人を見つめたあと、白衣を脱ぎだした。怪我人は慌てる。
「ちょ!? な、なんで今脱ぐの!?」
医師は言葉でなく、行動で答えを示した。
脱いだ白衣を両手に持ち、勢い良く引き裂いた。
幾度かそれを繰り返すことで、細長い白い布ができた。
アイヴィーは、目をぱちくりしている。
「……白衣を、包帯に?」
「外側は一部汚れているが、内側は支障ない。
これで止血する。そこに座って、手を出せ」
「う、うん」
怪我人が鉄骨に座る。その正面に医師が膝を落とす。
医師を見下ろす姿勢になった怪我人は、少しぼうっとしていた。
「おい。早く手を出せ」
「そ、そうだった。ハイ」
怪我人の手に触れた医師の手はあたたかかった。
医師の応急処置は非常に手際が良かった。
まず、ポケットティッシュで血を拭った。サラサラとした感触が少しくすぐったい。
露わになった傷口を見て、医師はひとつ息を漏らしていた。怪我人は不安になる。
「な、なに? ヤバめなの?」
「いや、良く見えん」
「あ、眼鏡がないからねえ……って、ソレちょっと接写過ぎない!?」
「気が散る。少し静かにしていろ」
細胞まで観察するかの如く、目を近付け、
真剣な眼差しで傷の具合を診察していた。
そして、傷口を強く圧迫するようにして、白い布を巻いていった。
「……あの、ごめんね。ソクちゃんの白衣、ダメにしちゃって」
「静かにしていろと言っただろ」
「うん……」
傷口に近い部分から白い布が血に染みていく。医師はぼそりと呟いた。
「お前が申し訳なく思う必要はない」
「でも」
「お前が私に白衣を一着プレゼントしてくれるのならな。私の白衣は高いぞ」
「ハハッ……ホントに高そうだな、ソクちゃんの白衣」
→
アイヴィーは回収してきたメスを眺めている。
「でも、ソクーロフがメス落とすってことは故意だろうから、
やっぱ誘拐、だよな。そんで、俺に場所を教えようとしたんだ」
メスが大量に落ちていた付近には、
今は使われていない、お誂え向きの倉庫があった。
「この中にソクーロフが……まだ生きててくれよっ」
バンと扉を開ける。
「ソクーロフ! 助けにっ」
倉庫の中で見た光景に、アイヴィーは息を呑んだ。
鉄骨に腰掛けているソクーロフの足に、知らない男が、頬を擦り寄せていた。
アイヴィーは思わず扉を閉めた。
「ちょ、今の何!? イマのナニ!?」
あまりの出来事に心臓がバクバクいっている。
「いや、きっと見間違いだ。そうに決まってる。
誘拐されてる筈の人が、下僕ごっこしてるわけないもん、しかも王様役で。
よ、よしっ。勇気を振り絞って、もっかい確認だっ!」
もう一度、バンと扉を開けた。
「ああ、スタニスラフ様……」
見知らぬ男は、恍惚とした表情で、ソクーロフの名を呼んでいた。
王に仕える下僕でも今時ここまでしないだろう。
「ソクーロフ! 何してんの!? てか、ホントにナニしてんの!?」
ソクーロフは面倒だなと言わんばかりの顔で、
「島民が急患だと呼ばれていったら、この男に誘拐された。
その後、色々話を聞いていたら、彼は私の洗脳技術に興味があるのだと解ってな。
拘束を解いて貰う為、策を講じていたら、こうなった」
誘拐犯はまだソクーロフの足に寄り添っていた。
アイヴィーは力が抜けて、笑ってしまった。
「誘拐犯を骨抜きにしちゃうなんて。俺、助けに来る必要なかったね」
「必要さ」
「えっ?」
「ここから学院まで歩いて帰るのは難儀だからな」
「必要なのは車だけかよ」
ソクーロフは吐息を漏らすように笑った。
「スタニスラフ様……」
今や、しもべと化した誘拐犯が、主人の名前を呼んでいる。
ソクーロフは優しい微笑みを返す。しもべの肩に手を置き、彼の耳元で何かを囁いた。
すると、しもべは糸が切れた操り人形のように力を失い、ソクーロフの腕の中に倒れた。
その身体を支えながら、ゆっくりとコンクリートの上に横たえた。
それを見守っていたアイヴィーは頬を掻いていた。
「ありゃりゃあ。赤ちゃんみたいな寝顔しちゃって」
「そうだな」
「てかさ、ソクちゃん、その顔……ほっぺも唇も切れてんじゃん。眼鏡もないし」
「眼鏡ならそこだ。顔を蹴られた時に割れた」
「顔っ!? 勇気あんなあ……じゃなくて、ごめん、遅くなって」
「私を気にするより、お前にはすることがあるだろう?
早く警備に連絡して、キリルと、その仲間を捕らえるんだな」
「キリル? あれ。どっかで聞いた名前だな……てか、仲間?」
「キリル!」
倉庫に、四角い顔をした大柄の男が入ってきた。
大柄の男は、倒れていたキリルを抱き起こす。
「キリル、しっかりしろ! おい!」
揺り起こされ、ゆっくりと目を開ける。
「スタニスラフ様……スタニスラフ様……」
目覚めて尚、うわごとのようにソクーロフの名を呼び続けていた。
大柄の男は舌打ちする。
「腑抜けにされやがって。ソクーロフにやられたのか。
だから、俺は反対だったんだ。心を操る男を仲間に入れるなんて」
大柄の男はキリルをそっと寝かせたあと、顔を上げた。
「ソクーロフ。よくもやってくれたな。借りは返すぜ」
男が胸元から何か取り出したのをアイヴィーの目が捉える。
鞘から覗いたのは銀色のナイフだった。
「危ない!」
それは一瞬の出来事だった。
ソクーロフの目には、金色の長い髪だけが映っていて、
次の瞬間にはバタリと大柄の男が倒れた。
「ああ、やっと思い出したよ」
アイヴィーの声は僅かに笑っていた。
「キリルってのは、イヴァニコフ・ファミリーのキリルかあ。
ロシアンマフィアにはナイフ遣いが多いもんね。こちらさんもファミリーの人かな」
ナイフの刃を直に掴んだままの左手からは、赤い滴が伝っている。
それを見て、ソクーロフはアイヴィーの背中で遮断された光景を察する。
ソクーロフに向けられたナイフ。
それをアイヴィーは左手で掴むことで、相手の懐に入り、一撃で倒したのだろう。
ソクーロフは息を吐きながら言った。
「いつまで握っている」
「えっ?」
アイヴィーはまだ刃の部分を握っている。その柄をソクーロフが掴む。
「離せ」
「ああ、うん」
アイヴィーが刃から手を離す。
ソクーロフが持つナイフは、鮮やかな血で濡れていた。
「何故こんな真似を。お前なら他にも対処法はあっただろう」
「いやあ、とっさに、ね。あ、今頃痛くなってきた。イテテテッ」
「馬鹿だな」
「でも、守るのは俺のお仕事だもん。
怪我は、ソクちゃんが治してくれんでしょ?」
ソクーロフは真っ赤な手を見ながら、
「私の手を煩わせるな」
アイヴィーは笑っていた。
「治すのはソクちゃんのお仕事なんだから、ちゃんとしてよ」
医師は怪我人を見つめたあと、白衣を脱ぎだした。怪我人は慌てる。
「ちょ!? な、なんで今脱ぐの!?」
医師は言葉でなく、行動で答えを示した。
脱いだ白衣を両手に持ち、勢い良く引き裂いた。
幾度かそれを繰り返すことで、細長い白い布ができた。
アイヴィーは、目をぱちくりしている。
「……白衣を、包帯に?」
「外側は一部汚れているが、内側は支障ない。
これで止血する。そこに座って、手を出せ」
「う、うん」
怪我人が鉄骨に座る。その正面に医師が膝を落とす。
医師を見下ろす姿勢になった怪我人は、少しぼうっとしていた。
「おい。早く手を出せ」
「そ、そうだった。ハイ」
怪我人の手に触れた医師の手はあたたかかった。
医師の応急処置は非常に手際が良かった。
まず、ポケットティッシュで血を拭った。サラサラとした感触が少しくすぐったい。
露わになった傷口を見て、医師はひとつ息を漏らしていた。怪我人は不安になる。
「な、なに? ヤバめなの?」
「いや、良く見えん」
「あ、眼鏡がないからねえ……って、ソレちょっと接写過ぎない!?」
「気が散る。少し静かにしていろ」
細胞まで観察するかの如く、目を近付け、
真剣な眼差しで傷の具合を診察していた。
そして、傷口を強く圧迫するようにして、白い布を巻いていった。
「……あの、ごめんね。ソクちゃんの白衣、ダメにしちゃって」
「静かにしていろと言っただろ」
「うん……」
傷口に近い部分から白い布が血に染みていく。医師はぼそりと呟いた。
「お前が申し訳なく思う必要はない」
「でも」
「お前が私に白衣を一着プレゼントしてくれるのならな。私の白衣は高いぞ」
「ハハッ……ホントに高そうだな、ソクちゃんの白衣」
→
■夏はデンジャラスに水着に白衣2 続編
薄暗い倉庫。湿った匂いと埃っぽい匂いが入り混じっている。
コンクリートの上には歪んだ眼鏡のフレームと、砕けたレンズが散らばっていた。
一人の男が、その破片のひとつを拾い、花びらを見るような目で愛でながら、
「少々、手荒な真似を致しました。どうか、ご容赦下さい。
これ以上、貴方に傷を付けるつもりはありませんので」
彼は最初からロシア語で話していたし、
破片を持っている左腕には、ロシアンマフィア特有の、
ダークブルーで彫られたタトゥーが見えた。
「今は窮屈でしょうが、直に私の仲間が準備を終え、ここに参ります。
それまで今暫くご辛抱頂けますか?」
彼の前方には、白衣の男がコンクリートに転がされていた。
身体は縄で縛られ、白衣は砂で汚れ、擦り切れている箇所もあった。
眼鏡に覆われていない眼差しは爛々としている。
相手に合わせて、同じロシア語で話しかけた。
「私を交渉材料に、学院の生徒を差し出させるつもりかい?」
唇の右側から血を流しながらも、獲物を前にしたかのような表情で、
「死ぬ前に、誰を狙っているのか、ぜひ伺いたいね」
見上げられた男は笑っていた。
「よろしいですよ。お話ししましょう」
一歩ずつ近付いて来る。
「私どもにとっても、人脈と情報は財産でしてね?
ある筋から聞いたのですよ。素晴らしい才能と、
技術を持った鬼才が居ると。しかし、彼は高過ぎる能力故に、
組織を追われたというじゃありませんか?」
眼鏡を失った男は黙ったまま、目を凝らす。
語る男は笑みを深くしていた。
「そして、現在は、小さな島へ身を寄せ、保健室の先生をしていらっしゃると。
ずっと、探していたのですよ?」
捕らえた男の顎を右手で持ち上げる。
左手に持っていた破片で、頬をなぞる。
「私が欲しいのはガキなどではなく、貴方ですよ、ドクター」
破片で描いた通りに、赤いラインが浮かび上がった。
「すみません。もう傷は付けないと申し上げましたのに。
つい、傷を付けたくなってしまうのです」
男は満足そうに微笑んでいた。
「貴方があまりにも、美しいので」
→
コンクリートの上には歪んだ眼鏡のフレームと、砕けたレンズが散らばっていた。
一人の男が、その破片のひとつを拾い、花びらを見るような目で愛でながら、
「少々、手荒な真似を致しました。どうか、ご容赦下さい。
これ以上、貴方に傷を付けるつもりはありませんので」
彼は最初からロシア語で話していたし、
破片を持っている左腕には、ロシアンマフィア特有の、
ダークブルーで彫られたタトゥーが見えた。
「今は窮屈でしょうが、直に私の仲間が準備を終え、ここに参ります。
それまで今暫くご辛抱頂けますか?」
彼の前方には、白衣の男がコンクリートに転がされていた。
身体は縄で縛られ、白衣は砂で汚れ、擦り切れている箇所もあった。
眼鏡に覆われていない眼差しは爛々としている。
相手に合わせて、同じロシア語で話しかけた。
「私を交渉材料に、学院の生徒を差し出させるつもりかい?」
唇の右側から血を流しながらも、獲物を前にしたかのような表情で、
「死ぬ前に、誰を狙っているのか、ぜひ伺いたいね」
見上げられた男は笑っていた。
「よろしいですよ。お話ししましょう」
一歩ずつ近付いて来る。
「私どもにとっても、人脈と情報は財産でしてね?
ある筋から聞いたのですよ。素晴らしい才能と、
技術を持った鬼才が居ると。しかし、彼は高過ぎる能力故に、
組織を追われたというじゃありませんか?」
眼鏡を失った男は黙ったまま、目を凝らす。
語る男は笑みを深くしていた。
「そして、現在は、小さな島へ身を寄せ、保健室の先生をしていらっしゃると。
ずっと、探していたのですよ?」
捕らえた男の顎を右手で持ち上げる。
左手に持っていた破片で、頬をなぞる。
「私が欲しいのはガキなどではなく、貴方ですよ、ドクター」
破片で描いた通りに、赤いラインが浮かび上がった。
「すみません。もう傷は付けないと申し上げましたのに。
つい、傷を付けたくなってしまうのです」
男は満足そうに微笑んでいた。
「貴方があまりにも、美しいので」
→
■夏はデンジャラスに水着に白衣1 続編
「ちわー。ベッド借りに来たよーん」
ノックを三回したあと、保健室のドアを開けたのは、長い金髪の男だった。
「あー。やっぱ保健室は涼しくてイイねー。
ねー、ソクちゃん、なんか冷たいやつ飲ましてー?」
返事はない。金髪の男は食い下がる。
「無視なんてしてないでさー、お願いっ。
よっ! 世界一のお医者さん! よっ! 世界一のヘンタイ!」
それでも保健室はしんとしていた。
「アレ? ソクちゃん、居ないの?」
あちこち見て回るが、誰も居なかった。金髪の男は肩を落とす。
「なんだよ。俺、長過ぎる独り言だったじゃん……居なくても羞恥プレイかよ」
金髪の男は気分を切り替えることにした。
「ま、そのうち来るでしょ。そだ。たまにはメモでも書いてみよーっと」
固定電話のある机に向かう。ペン立てから一本借りて、
電話の傍に置いてあるメモ帳にサラサラと走り書きをした。
――ベッド借りてまーす。
17時にシルヴァンに呼ばれてるから、
優しく起こしてちょ?――
書いたメモを破って、机の中央に置く。
「これでよしっと。じゃあ寝よーっと」
ベッドに寝転がる。
欠伸をひとつしたあと、間もなく、寝息が聞こえてきた。
それから、彼を起こしたのは、携帯電話の着信音だった。
反射的に壁かけ時計を見上げる。二つの針は17時20分を差していた。
「ヤベッ。お手紙書いたら、携帯のアラームセットすんの忘れた」
携帯電話の小さな画面は、電話をかけてきた相手は『シルヴァン』だと教えていた。
自分の額を叩いてあと、通話ボタンを押した。
「ああ、シルヴァン? ワリィ、ワリィ。
保健室で寝てたわ。今すぐ行っから」
相手は笑っていた。
「きっとそうだろうなーと思って、街には徒歩で向かってまーす」
その背景からは車の走行音を聞こえた。道路沿いを歩いているようだ。
「マジかよ。歩き出す前に電話すりゃあ良かったじゃねえか」
「街までなら歩いても行けますからね。
今、電話したのは、貴方に次のお仕事があるといけないと思ったので、
一応モーニングコールしてみました。僕ってば優しいでしょう?
というわけで、今度、また美味しい手作りピザ、お願いしますね?」
「ああ。わーったよ」
「やったあ。それじゃ、また」
「おう。サンキュな」
「はーい」
アイヴィーは耳から携帯電話を離す。ベッドの上で大きく伸びをした。
「も~。ソクちゃ~ん、なんで起こしてくれないの~?」
その文句だけが保健室に響く。
予想していた冷たい言葉は返って来なかった。
「え? まだ、帰ってきてないとか?」
ベッドから出て、一階も二階もくまなく探したが、
眼鏡に白衣の先生はどこにも居なかった。
金髪の男は、携帯電話を取り出し、会社に電話した。
「ああ、クロイツ? うん。俺、俺。あのさ、
もしかして、そっちにソクちゃん行ってたりする?」
「いえ。まだお呼びしていませんが。司令も博士にご用事でしたか?
それなら、博士に伝言を頼みたいのですが」
「え、伝言?」
「ええ。実は先程、島民の方から、街に手術用と思われるメスが、
複数個落ちているとの通報がありまして」
「メスが落ちてる!?」
「はい。それで、博士にお話を伺おうと。
もしかしますと、博士ご本人の落とし物かもしれませんし」
「まさか、それって」
「司令?」
「教えて、メスが落ちてた場所。俺が回収してくる」
→
ノックを三回したあと、保健室のドアを開けたのは、長い金髪の男だった。
「あー。やっぱ保健室は涼しくてイイねー。
ねー、ソクちゃん、なんか冷たいやつ飲ましてー?」
返事はない。金髪の男は食い下がる。
「無視なんてしてないでさー、お願いっ。
よっ! 世界一のお医者さん! よっ! 世界一のヘンタイ!」
それでも保健室はしんとしていた。
「アレ? ソクちゃん、居ないの?」
あちこち見て回るが、誰も居なかった。金髪の男は肩を落とす。
「なんだよ。俺、長過ぎる独り言だったじゃん……居なくても羞恥プレイかよ」
金髪の男は気分を切り替えることにした。
「ま、そのうち来るでしょ。そだ。たまにはメモでも書いてみよーっと」
固定電話のある机に向かう。ペン立てから一本借りて、
電話の傍に置いてあるメモ帳にサラサラと走り書きをした。
――ベッド借りてまーす。
17時にシルヴァンに呼ばれてるから、
優しく起こしてちょ?――
書いたメモを破って、机の中央に置く。
「これでよしっと。じゃあ寝よーっと」
ベッドに寝転がる。
欠伸をひとつしたあと、間もなく、寝息が聞こえてきた。
それから、彼を起こしたのは、携帯電話の着信音だった。
反射的に壁かけ時計を見上げる。二つの針は17時20分を差していた。
「ヤベッ。お手紙書いたら、携帯のアラームセットすんの忘れた」
携帯電話の小さな画面は、電話をかけてきた相手は『シルヴァン』だと教えていた。
自分の額を叩いてあと、通話ボタンを押した。
「ああ、シルヴァン? ワリィ、ワリィ。
保健室で寝てたわ。今すぐ行っから」
相手は笑っていた。
「きっとそうだろうなーと思って、街には徒歩で向かってまーす」
その背景からは車の走行音を聞こえた。道路沿いを歩いているようだ。
「マジかよ。歩き出す前に電話すりゃあ良かったじゃねえか」
「街までなら歩いても行けますからね。
今、電話したのは、貴方に次のお仕事があるといけないと思ったので、
一応モーニングコールしてみました。僕ってば優しいでしょう?
というわけで、今度、また美味しい手作りピザ、お願いしますね?」
「ああ。わーったよ」
「やったあ。それじゃ、また」
「おう。サンキュな」
「はーい」
アイヴィーは耳から携帯電話を離す。ベッドの上で大きく伸びをした。
「も~。ソクちゃ~ん、なんで起こしてくれないの~?」
その文句だけが保健室に響く。
予想していた冷たい言葉は返って来なかった。
「え? まだ、帰ってきてないとか?」
ベッドから出て、一階も二階もくまなく探したが、
眼鏡に白衣の先生はどこにも居なかった。
金髪の男は、携帯電話を取り出し、会社に電話した。
「ああ、クロイツ? うん。俺、俺。あのさ、
もしかして、そっちにソクちゃん行ってたりする?」
「いえ。まだお呼びしていませんが。司令も博士にご用事でしたか?
それなら、博士に伝言を頼みたいのですが」
「え、伝言?」
「ええ。実は先程、島民の方から、街に手術用と思われるメスが、
複数個落ちているとの通報がありまして」
「メスが落ちてる!?」
「はい。それで、博士にお話を伺おうと。
もしかしますと、博士ご本人の落とし物かもしれませんし」
「まさか、それって」
「司令?」
「教えて、メスが落ちてた場所。俺が回収してくる」
→
■ソクーロフ×アイヴィー
「あーちー。常春じゃなかったのかあ、この島は」
真夏の太陽が降り注ぐ中、濃い顔の男は服の胸元をパタパタする。
向かいに座っている美しい少年は気だるげに、
「聖アルフォンソ島でも、夏になれば気温は上がるよ。
だから、オープンカフェは嫌だと言ったのに」
「海で泳ぎてえー。水着持ってくれば良かったなあ」
濃い顔の男の隣では、柔らかな雰囲気の男がにこやかに笑っていた。
「そう言えば、兄貴は今年最新の水着、買ったばかりですもんね」
「おうよ。パパに買って貰ったアレ、おめーにも見せてやりたかったぜ」
「持ってきてくれてなくて、ありがとう」
「あっ、今度来る時によ、おめーのヤワ肌に似合いそうなビキニ、
買ってきてやろうか? パレオ付きの」
「男の水着に、パレオは付かないと思ったけれど」
「あ、パレオはスケスケでエロめのヤツな?」
美しい少年が冷たく微笑む。
「聞かなかったことにしてあげるから、
バカなこと言ってないで、さっさと帰って?」
「で、パレオはちょい長めな。脚がチラチラ見えるやつ。色は……ん?」
濃い顔の男が目をこらす。
向こうの通りを歩いている男に見覚えがあった。
「あれ、キリルじゃねえか?」
えっ、と弟分が真顔になる。
「あ、兄貴。キリルって、あのキリルですかい?」
「ああ。間違いねえ。左腕に薔薇の刺青(いれずみ)もしてやがった。
何だって奴がこんなところに。あいつ、ムショから出たばっかだろ?」
「ええ。確か三か月程前に」
美しい少年は首を傾げていた。
「知り合いでも居た?」
「いえ。知り合いと言いやすか」
弟分は言葉を濁した。話して良いのか、というように兄貴分を見る。
「マフィアさ。ロシアのな」
教えてやれ、というように兄貴分は顎で許可した。弟分が頷く。
「キリル・イヴァニコフ。奴が所属するイヴァニコフ・ファミリーは、
ロシアンマフィアの中でも、なんというか……クレイジーなことで有名でして」
「クレイジー?」
「ええ、ちょっと。いや、かなり。それで、キリルはボスの次男坊なんですが、
長男より頭が切れるもので、次のボスは彼だろうと言われています。
名目上ではまだ長男の参謀役のようですが」
「ふうん。ロシア系か。で、君達との関係は? 対立でもしてるの?」
「いえ。特には」
「そう。利害関係もないのに、国外のマフィアにも詳しいんだね?」
「そうですね。同業者については、多少知っておかないと、まあ、色々ありますので」
「つーか、キリルの奴、こんな小せぇ島に何しに来たんだか」
「刑務所上がりのバカンスには持って来いかもしれませんが、どうでしょうねえ」
外部の人間が、この辺境の島に来る理由は、大体決まっている。
それは、この島に、あの特殊な学院がある以上、避けられない。
それ故に学院は、プライベートミリタリーなんてものを抱えているのだから。
「ま。地下組織と繋がりのある、ロシアの生徒でも居れば、ビンゴだろ」
少年が黙り込むのを見て、濃い顔の男は愉快そうに目を細くした。
「へえ。居るみてえだぜ?」
→
真夏の太陽が降り注ぐ中、濃い顔の男は服の胸元をパタパタする。
向かいに座っている美しい少年は気だるげに、
「聖アルフォンソ島でも、夏になれば気温は上がるよ。
だから、オープンカフェは嫌だと言ったのに」
「海で泳ぎてえー。水着持ってくれば良かったなあ」
濃い顔の男の隣では、柔らかな雰囲気の男がにこやかに笑っていた。
「そう言えば、兄貴は今年最新の水着、買ったばかりですもんね」
「おうよ。パパに買って貰ったアレ、おめーにも見せてやりたかったぜ」
「持ってきてくれてなくて、ありがとう」
「あっ、今度来る時によ、おめーのヤワ肌に似合いそうなビキニ、
買ってきてやろうか? パレオ付きの」
「男の水着に、パレオは付かないと思ったけれど」
「あ、パレオはスケスケでエロめのヤツな?」
美しい少年が冷たく微笑む。
「聞かなかったことにしてあげるから、
バカなこと言ってないで、さっさと帰って?」
「で、パレオはちょい長めな。脚がチラチラ見えるやつ。色は……ん?」
濃い顔の男が目をこらす。
向こうの通りを歩いている男に見覚えがあった。
「あれ、キリルじゃねえか?」
えっ、と弟分が真顔になる。
「あ、兄貴。キリルって、あのキリルですかい?」
「ああ。間違いねえ。左腕に薔薇の刺青(いれずみ)もしてやがった。
何だって奴がこんなところに。あいつ、ムショから出たばっかだろ?」
「ええ。確か三か月程前に」
美しい少年は首を傾げていた。
「知り合いでも居た?」
「いえ。知り合いと言いやすか」
弟分は言葉を濁した。話して良いのか、というように兄貴分を見る。
「マフィアさ。ロシアのな」
教えてやれ、というように兄貴分は顎で許可した。弟分が頷く。
「キリル・イヴァニコフ。奴が所属するイヴァニコフ・ファミリーは、
ロシアンマフィアの中でも、なんというか……クレイジーなことで有名でして」
「クレイジー?」
「ええ、ちょっと。いや、かなり。それで、キリルはボスの次男坊なんですが、
長男より頭が切れるもので、次のボスは彼だろうと言われています。
名目上ではまだ長男の参謀役のようですが」
「ふうん。ロシア系か。で、君達との関係は? 対立でもしてるの?」
「いえ。特には」
「そう。利害関係もないのに、国外のマフィアにも詳しいんだね?」
「そうですね。同業者については、多少知っておかないと、まあ、色々ありますので」
「つーか、キリルの奴、こんな小せぇ島に何しに来たんだか」
「刑務所上がりのバカンスには持って来いかもしれませんが、どうでしょうねえ」
外部の人間が、この辺境の島に来る理由は、大体決まっている。
それは、この島に、あの特殊な学院がある以上、避けられない。
それ故に学院は、プライベートミリタリーなんてものを抱えているのだから。
「ま。地下組織と繋がりのある、ロシアの生徒でも居れば、ビンゴだろ」
少年が黙り込むのを見て、濃い顔の男は愉快そうに目を細くした。
「へえ。居るみてえだぜ?」
→
■悪魔の神秘12 続編
「――これで、僕がローマで見た悪魔憑きの話は終わり」
僕は机の上に置いた携帯電話に話している。
小さな液晶画面。その向こう側に居る一人の女性に向けて。
「まあ、こんな話、信じられなくて当然だと思うよ。
僕だって白昼夢を見たような気がしているのだから。君の好きに思ってくれればいい」
話が悪魔憑きの儀式に差しかかった時などは、
携帯電話の中に居る女性は怖がっているようだった。
笑った顔も悪くないけれど、そういう顔も嫌いじゃない。
話が進むにつれ、彼女は俯きがちになり、相槌も消えていった。
僕が話したのは、悪魔憑きの話だったというのに。
下らない、馬鹿げてる、などと罵ることは一度もなく。
彼女は僕の話を最後まで真剣に聞いてくれた。
「君も、気を付けてね?」
彼女が顔を上げる。
「女性のほうが多いんだって、悪魔に憑かれるのは。
悪魔が女好きなのか、女性が悪魔好きなのかは解らないけれど」
彼女は考え込むような顔になる。
「君は、奪われないで。君の身体と心は、悪魔なんかに奪われたくない」
「えっ?」
「いや――少し変なこと言ったかな。気にしないで。忘れて」
携帯電話に表示されている時刻が目に入る。
思ったより時間が過ぎていた。彼女の国ではもう深夜だ。
「遅くまで、つまらない話に付き合わせて悪かったね。君はもう眠る時間でしょう?」
彼女は曖昧な返事をする。
「じゃあ、またね。おやすみ」
そう言って僕が電話を切ろうとしたら、その直前で名前を呼ばれた。
「何?」
真面目な顔をして、彼女は言った。
「やっぱり、アンリさんの中に悪魔は居ないと思います」
何を根拠に言っているのだろう。
存在の証明が難しいというのに、不在の証明などできるのだろうか。
僕が「どうして?」と訊ねると、彼女はこう答えた。
「私も嫌です。悪魔なんかにアンリさんを奪われるのは」
真面目な顔をして、面白いことを言う人だ。
だから君との時間は退屈しないのかな。
「――あっ。ど、どうして笑うんですか」
「いや。君にしては、随分、自己中心的な意見だと思ってね」
すると、君は何か言いたげに僕を見ていたが、結局、言葉にはしなかった。
「じゃ、おやすみ」
「はい。おやすみなさい、アンリさん」
携帯電話から君の姿が消える。
君と話したあとは、いつも不思議な気持ちになる。
嬉しいような、泣きたくなるような気持ち。
その両方を同時にくれるのは君だけだ。
「素敵なお嬢さんだね。良いことを言ってくれる」
突然声がした。振り返ると、ドアに凭れている人物が居た。
ブラウンのスーツを身に付けた神秘学担当教師。
「……オーギュスト」
一体いつからそこに居たのか。神出鬼没にも程がある。
担任のような者だからと言って、生徒の部屋に無断で入って良いわけがない。
しかも、彼女との会話を立ち聞きしていたなんて。
教師は胸の前で両手を軽く挙げる。
「ああ、一応、ノックはしたんだよ?」
「嘘だ。絶対聞こえなかった」
「すまない。でも、静かにしていただろう?
お嬢さんとの時間を邪魔してはいけないと思ったから」
「静かにするんじゃなくて、入って来ないでと言っているの」
ごめんごめん、と謝る割に反省している様子が見えない。
「でもね、アンリ」
教師は落ち着いた口調でこう言った。
「私もそう思うよ。アンリの中に悪魔は居ないと」
何を言うかと思えば。
「父はそう信じて疑わなかったみたいだけれどね?」
僕がそう言うと、教師は少し悲しそうな顔をした。
どうしてこの教師は、そんな顔をするのだろう。
教師はゆっくりとドアへ向かう。最後にぽつりと呟いた。
「Le Diable. 束縛されし者」
パタンとドアが閉まった。
fin
僕は机の上に置いた携帯電話に話している。
小さな液晶画面。その向こう側に居る一人の女性に向けて。
「まあ、こんな話、信じられなくて当然だと思うよ。
僕だって白昼夢を見たような気がしているのだから。君の好きに思ってくれればいい」
話が悪魔憑きの儀式に差しかかった時などは、
携帯電話の中に居る女性は怖がっているようだった。
笑った顔も悪くないけれど、そういう顔も嫌いじゃない。
話が進むにつれ、彼女は俯きがちになり、相槌も消えていった。
僕が話したのは、悪魔憑きの話だったというのに。
下らない、馬鹿げてる、などと罵ることは一度もなく。
彼女は僕の話を最後まで真剣に聞いてくれた。
「君も、気を付けてね?」
彼女が顔を上げる。
「女性のほうが多いんだって、悪魔に憑かれるのは。
悪魔が女好きなのか、女性が悪魔好きなのかは解らないけれど」
彼女は考え込むような顔になる。
「君は、奪われないで。君の身体と心は、悪魔なんかに奪われたくない」
「えっ?」
「いや――少し変なこと言ったかな。気にしないで。忘れて」
携帯電話に表示されている時刻が目に入る。
思ったより時間が過ぎていた。彼女の国ではもう深夜だ。
「遅くまで、つまらない話に付き合わせて悪かったね。君はもう眠る時間でしょう?」
彼女は曖昧な返事をする。
「じゃあ、またね。おやすみ」
そう言って僕が電話を切ろうとしたら、その直前で名前を呼ばれた。
「何?」
真面目な顔をして、彼女は言った。
「やっぱり、アンリさんの中に悪魔は居ないと思います」
何を根拠に言っているのだろう。
存在の証明が難しいというのに、不在の証明などできるのだろうか。
僕が「どうして?」と訊ねると、彼女はこう答えた。
「私も嫌です。悪魔なんかにアンリさんを奪われるのは」
真面目な顔をして、面白いことを言う人だ。
だから君との時間は退屈しないのかな。
「――あっ。ど、どうして笑うんですか」
「いや。君にしては、随分、自己中心的な意見だと思ってね」
すると、君は何か言いたげに僕を見ていたが、結局、言葉にはしなかった。
「じゃ、おやすみ」
「はい。おやすみなさい、アンリさん」
携帯電話から君の姿が消える。
君と話したあとは、いつも不思議な気持ちになる。
嬉しいような、泣きたくなるような気持ち。
その両方を同時にくれるのは君だけだ。
「素敵なお嬢さんだね。良いことを言ってくれる」
突然声がした。振り返ると、ドアに凭れている人物が居た。
ブラウンのスーツを身に付けた神秘学担当教師。
「……オーギュスト」
一体いつからそこに居たのか。神出鬼没にも程がある。
担任のような者だからと言って、生徒の部屋に無断で入って良いわけがない。
しかも、彼女との会話を立ち聞きしていたなんて。
教師は胸の前で両手を軽く挙げる。
「ああ、一応、ノックはしたんだよ?」
「嘘だ。絶対聞こえなかった」
「すまない。でも、静かにしていただろう?
お嬢さんとの時間を邪魔してはいけないと思ったから」
「静かにするんじゃなくて、入って来ないでと言っているの」
ごめんごめん、と謝る割に反省している様子が見えない。
「でもね、アンリ」
教師は落ち着いた口調でこう言った。
「私もそう思うよ。アンリの中に悪魔は居ないと」
何を言うかと思えば。
「父はそう信じて疑わなかったみたいだけれどね?」
僕がそう言うと、教師は少し悲しそうな顔をした。
どうしてこの教師は、そんな顔をするのだろう。
教師はゆっくりとドアへ向かう。最後にぽつりと呟いた。
「Le Diable. 束縛されし者」
パタンとドアが閉まった。
fin
■悪魔の神秘11 続編
悪魔祓いの儀式が終わったあと、カイム邸のホームパーティは自然とお開きになった。
悪魔祓い前に帰ってしまったゲストも少なくなかったし。
僕もホテルに帰ろうとフィオラノの車に乗ったところで、彼の携帯電話が鳴ったのだ。
それがディーノからの電話で、フィオラノが泣きつくように、
「悪魔憑きが目の前で起こって大変だったんですよー」などと口走ったものだから、
ディーノが食い付いてきて「詳しく聞かせろ。あ? 今だ、今!」
とあまりにも煩いから、また一緒に夕食をとることになってしまったのだ。
しかも、ディーノに呼び出された店には、またオーギュストが居た。
彼もディーノに呼ばれたらしい。
こうして僕は二夜連続で、僕、オーギュスト、ディーノ、フィオラノ、
という意味不明なメンバーでディナーを食べる羽目に陥った。最悪。
まあ、パーティ会場では、悪魔憑き騒ぎで食事どころではなかったし、
まともに口にした物は、子供にご馳走されたティラミス程度だったから、
軽く食事できたのは悪くなかったけれど。
「悪魔かあー」
ディーノは悪魔祓いに――いや、悪魔自体のほうに、
興味があったようで、かなり熱心に話を聞いていた。
肉食動物のように、ガツガツむしゃむしゃ食べながら、ではあったが。
「俺様も悪魔ってヤツを、ナマで見たかったぜー。
やっぱナマがイイよな、何事もよ。ヘヘッ」
ディーノは鶏の手羽先に手を伸ばし、犬歯で引きちぎるようにして食べた。
彼の前にこんもりと積まれているメニューは、
辛そうなソースがかかった『手羽先チキンの悪魔風』だ。
既にディーノの唇や口髭、指までもが、
真っ赤なソースでベタベタになっている。品のない。
「やっぱ、ほれはまが、ひひょやくでいひゃあ、よきゃったああ」
「喋るか食べるかにして。酷いよ、口の周り」
僕が文句を言うと、横からフィオラノが笑顔で紙ナプキンを差し出した。
ディーノがそれを受け取り、口周りを乱雑に拭く。右の口角が拭ききれてない。
それに気付いたフィオラノが、ご丁寧に「兄貴、残ってやすよ」と教えていた。
「なあ! そのガキに憑いてた悪魔は、もうどっか行っちまったのか?」
「一応はね。でも、悪魔が消滅したわけではないそうだよ?
今は、悪魔祓いの儀式によって、一時的に力を失っただけ。
また悪魔に憑かれる可能性もあるとか」
「マジでか! 悪魔は無事なんだな!?」
マフィアには朗報だったらしい。
「クゥー! なかなかイイ根性してんじゃねえか、悪魔のヤツー!」
「……感心するところじゃないと思うけれど」
それまでオーギュストは、僕とディーノの遣り取りを、
微笑ましい、とでも言いたげな顔をして見守っていたが、ここでこう発言した。
「アンリの話を聞いているうちに、ディーノ君は悪魔に仲間意識が芽生えたんじゃないかな」
教師は食後のエスプレッソを片手に、
「悪魔と違って、シチリアンマフィアは一般人には優しいけれど、
同じ悪の道を行く者同士、志はどこか通ずるものがあるのだろうね」
「おっ。センセー、イイコト言うじゃねえかー。
そうだぜ。シチリアの悪魔とは俺様達のことさ」
「……喜ぶところじゃないと思うけれど」
教師はまた微笑ましいと言いたそうな顔をして笑っていた。
ディーノの取り皿には、細い骨だけになった手羽先肉の残骸が積まれている。
「で、結局よう。おめー、商談はどうすることにしたんだ?」
ディーノは手に持った手羽先の細い骨を振りながら、
「その、カイムって社長とは仕事することにしたのか? やっぱ止めてきたのか?」
「せっかくローマまで来て成功させた商談を、わざわざ破棄するわけないでしょう?」
「へえ。流石だなあ。気の弱ぇヤツなら、気味悪がってキャンセルしたかもしれねえぜ?」
「ビジネスはビジネスでしょう? プライベートなんかに興味はないよ」
「今回は、小さなお友達もできやしたからね?」
笑顔でそう言い添えたのはフィオラノだった。
「帰り際、『アンリ君、またうちに遊びに来てくれる?』って、
涙ながらに言われちゃいやしたし」
「ほーう?」
二人のマフィアが僕を見る。
「彼のことは、ビジネスには関係ない」
「てめえにダチができるとはキセキじゃねえか。
こーんなクソガキとダチになってくれるヤツなんざキチョーだぜー? なあ、センセ?」
ディーノがオーギュストに振る。教師は穏やかに笑っていた。
「そうだね。イタリアで新しいお友達ができて良かったね、アンリ」
むかつく。
「あー、食った、食ったー。あ、葉巻がねえ。フィオ、持ってるかー?」
へい、と言ってシガーケースごと渡す。マフィアは葉巻の時間らしい。
僕はおそらく、大人になっても葉巻を吸わないだろう。あの白煙は好きになれない。
マフィアはギロチンカッターで葉巻の先を落とす。
ゴールドのライターで、葉巻の先を炙るようにして火を灯していた。
どうして僕は、こんなに遅くまでマフィアに付き合わなくてはいけないんだろう。
そろそろホテルに帰って眠りたい。
何故僕がこんな目に、と思ったところで、ある疑問を思い出した。
「ん? どうしたんだい、アンリ。思案顔だね?」
「今更だけど、どうして、あの神父は、子供の悪魔憑きごっこなんかに、
付き合っていたのかなと思ってね。
神父が子供の危険な遊びを止めていれば、本物を呼ばずに済んだかもしれないのに」
「ンなことも解らねえのか。やっぱ、おめーはバンビーノだなー」
「ディーノ君。君だって、その答えはそう想像できるというだけだろう?
ご本人に聞いたわけではないのだから。答えは彼以外知り得ないことだよ」
「オーギュストも答えが解るの?」
「想像の域を出ない回答だがね」
「何」
「センセーの口から言い辛ぇなら、俺様が教えてやるよ、バンビーノ。
まあ、言ってみりゃ、俺達のカンケーと同じさ」
「僕達と?」
「おめーは、身の危険を感じるようになったら、俺達マフィアと手を組んだ。だろ?
だが、事情が変わって、身の安全が保障されたら、どうする?」
ニヤリと笑う口内には真っ白な煙が充満している。
「悪魔が憑いてるフリをしたほうが都合が良かったのさ、その神父にとってはな」
口許から葉巻の苦くて甘い香りがする。
「悪魔が憑いてんなら、また会えんだろ?」
マフィアが吹かす白煙は、ゆるゆると昇り、空気中に霧散した。
「ああ、すいやせん。そろそろお休みの時間ですよね、ホテルまでお送りしやす」
フィオラノに言われ、彼の運転でホテルまで戻ることになった。
後部座席には、左から、僕、オーギュスト、ディーノの順で座っていた。
窓からは夜中の景色が見える。繁華街だけがギラついていて、他は暗い。
既に深夜に近い時間で、人通りも少なくなっていた。
ローマの石畳の上を車が走っている。適度な揺れが眠気を誘う。
何度か、夢に落ちそうになっていたのを、オーギュストに見られていたらしい。
フッと笑う吐息が右隣から聞こえた。
「アンリ、私に凭れて眠っても良いんだよ? 部屋までおぶっていってあげるから」
「絶対イヤ」
ベッドに入るまで絶対寝ない。
「オーギュ、そう言えば、今日は何してたの?」
眠気を覚ます為に話し相手にしてやろうと思って、
どうでもいいことを聞いたつもりだったのに、次の返事を聞いたら目が覚めた。
「ん? 私はアンリに昨夜言われた通り、ローマ観光をしていたよ?
バチカンの辺りを――ディーノ君と」
僕は彼をパーティに連れて行きたくはなかったから、
ローマ観光でもしてて、とは言ったけれど、ディーノと一緒に居ろだなんて言ってない。
「最初は私一人で美術館や博物館を見学していたんだ。
大聖堂は混んでいるようだったから外から眺めて、
サン・ピエトロ広場を出たところだったかな。偶然、ディーノ君と会ってね」
偶然? そんな偶然が起こり得る筈がない。
「そのあとは、ディーノ君オススメのバールに、
連れて行って貰ったんだ。良いお店だったよ?」
「だろ? オトナのサシ飲みには打ってつけの店なんだ、アソコは」
「ディーノ」
「言っただろ? 俺はセンセとサシ飲みがしたいって」
電話でローマ行きについて打ち合わせをした時のことを言っているのか。
確かに「センセーとサシで飲みたい」と言っていた、けれど。
「昨日の夜だって、僕が行くまでは二人で会っていたんでしょう。
どうして君達が、二人で何度も会う必要があるの」
「野暮なこと聞きやがる。だから、てめえはガキだってんだよ」
「オーギュスト。何の話をしていたの」
彼はいつもと変わらない優しく微笑を見せる。
「世間話に花を咲かせていただけだよ、ありふれた世間話に」
教師は僕の質問に答えなかった。
「ああ。そういや、アレはどういうイミだったんだろーなー」
ディーノが笑みを浮かべながら言う。
「悪魔がおめえに言ってた、『大嘘吐き野郎の末裔』っての?
アレはどういうイミだったんだか」
つまらないことを聞く。
「どうせ、初代サン・ジェルマン伯爵への愚弄でしょう?
不老不死で時間旅行者、おまけに予言者とまで言われる人なのだから。
当時から散々、詐欺師だ山師だと言われていた伯爵のことを、
改めて『大嘘吐き』と言ってくれたんじゃない?」
「んな本にでも載ってそうなこと、わざわざ言うかよ? 相手は悪魔だぜ?
なあ、センセ。アンタは神秘学の先生なんだろ?
コイツんちの伯爵は、なんかデカイ嘘を吐いたのか?」
僕は教師を見る。教師はいつものように落ち着いた口調で、
「さあ。どうかな」
そこで、ちらりと僕を見る。
「遠いながらも血縁者のアンリの前で言うのは申し訳ないけれど、
彼をペテン師だと論じる文献が多いのは事実だよ、真偽は別としてね」
マフィアの目が教師を愉快そうに見つめる。
「守備範囲だろ? 真実は知らねえのか、神秘学のセンセー?」
神秘学担当教師は微笑むだけだった。
→
悪魔祓い前に帰ってしまったゲストも少なくなかったし。
僕もホテルに帰ろうとフィオラノの車に乗ったところで、彼の携帯電話が鳴ったのだ。
それがディーノからの電話で、フィオラノが泣きつくように、
「悪魔憑きが目の前で起こって大変だったんですよー」などと口走ったものだから、
ディーノが食い付いてきて「詳しく聞かせろ。あ? 今だ、今!」
とあまりにも煩いから、また一緒に夕食をとることになってしまったのだ。
しかも、ディーノに呼び出された店には、またオーギュストが居た。
彼もディーノに呼ばれたらしい。
こうして僕は二夜連続で、僕、オーギュスト、ディーノ、フィオラノ、
という意味不明なメンバーでディナーを食べる羽目に陥った。最悪。
まあ、パーティ会場では、悪魔憑き騒ぎで食事どころではなかったし、
まともに口にした物は、子供にご馳走されたティラミス程度だったから、
軽く食事できたのは悪くなかったけれど。
「悪魔かあー」
ディーノは悪魔祓いに――いや、悪魔自体のほうに、
興味があったようで、かなり熱心に話を聞いていた。
肉食動物のように、ガツガツむしゃむしゃ食べながら、ではあったが。
「俺様も悪魔ってヤツを、ナマで見たかったぜー。
やっぱナマがイイよな、何事もよ。ヘヘッ」
ディーノは鶏の手羽先に手を伸ばし、犬歯で引きちぎるようにして食べた。
彼の前にこんもりと積まれているメニューは、
辛そうなソースがかかった『手羽先チキンの悪魔風』だ。
既にディーノの唇や口髭、指までもが、
真っ赤なソースでベタベタになっている。品のない。
「やっぱ、ほれはまが、ひひょやくでいひゃあ、よきゃったああ」
「喋るか食べるかにして。酷いよ、口の周り」
僕が文句を言うと、横からフィオラノが笑顔で紙ナプキンを差し出した。
ディーノがそれを受け取り、口周りを乱雑に拭く。右の口角が拭ききれてない。
それに気付いたフィオラノが、ご丁寧に「兄貴、残ってやすよ」と教えていた。
「なあ! そのガキに憑いてた悪魔は、もうどっか行っちまったのか?」
「一応はね。でも、悪魔が消滅したわけではないそうだよ?
今は、悪魔祓いの儀式によって、一時的に力を失っただけ。
また悪魔に憑かれる可能性もあるとか」
「マジでか! 悪魔は無事なんだな!?」
マフィアには朗報だったらしい。
「クゥー! なかなかイイ根性してんじゃねえか、悪魔のヤツー!」
「……感心するところじゃないと思うけれど」
それまでオーギュストは、僕とディーノの遣り取りを、
微笑ましい、とでも言いたげな顔をして見守っていたが、ここでこう発言した。
「アンリの話を聞いているうちに、ディーノ君は悪魔に仲間意識が芽生えたんじゃないかな」
教師は食後のエスプレッソを片手に、
「悪魔と違って、シチリアンマフィアは一般人には優しいけれど、
同じ悪の道を行く者同士、志はどこか通ずるものがあるのだろうね」
「おっ。センセー、イイコト言うじゃねえかー。
そうだぜ。シチリアの悪魔とは俺様達のことさ」
「……喜ぶところじゃないと思うけれど」
教師はまた微笑ましいと言いたそうな顔をして笑っていた。
ディーノの取り皿には、細い骨だけになった手羽先肉の残骸が積まれている。
「で、結局よう。おめー、商談はどうすることにしたんだ?」
ディーノは手に持った手羽先の細い骨を振りながら、
「その、カイムって社長とは仕事することにしたのか? やっぱ止めてきたのか?」
「せっかくローマまで来て成功させた商談を、わざわざ破棄するわけないでしょう?」
「へえ。流石だなあ。気の弱ぇヤツなら、気味悪がってキャンセルしたかもしれねえぜ?」
「ビジネスはビジネスでしょう? プライベートなんかに興味はないよ」
「今回は、小さなお友達もできやしたからね?」
笑顔でそう言い添えたのはフィオラノだった。
「帰り際、『アンリ君、またうちに遊びに来てくれる?』って、
涙ながらに言われちゃいやしたし」
「ほーう?」
二人のマフィアが僕を見る。
「彼のことは、ビジネスには関係ない」
「てめえにダチができるとはキセキじゃねえか。
こーんなクソガキとダチになってくれるヤツなんざキチョーだぜー? なあ、センセ?」
ディーノがオーギュストに振る。教師は穏やかに笑っていた。
「そうだね。イタリアで新しいお友達ができて良かったね、アンリ」
むかつく。
「あー、食った、食ったー。あ、葉巻がねえ。フィオ、持ってるかー?」
へい、と言ってシガーケースごと渡す。マフィアは葉巻の時間らしい。
僕はおそらく、大人になっても葉巻を吸わないだろう。あの白煙は好きになれない。
マフィアはギロチンカッターで葉巻の先を落とす。
ゴールドのライターで、葉巻の先を炙るようにして火を灯していた。
どうして僕は、こんなに遅くまでマフィアに付き合わなくてはいけないんだろう。
そろそろホテルに帰って眠りたい。
何故僕がこんな目に、と思ったところで、ある疑問を思い出した。
「ん? どうしたんだい、アンリ。思案顔だね?」
「今更だけど、どうして、あの神父は、子供の悪魔憑きごっこなんかに、
付き合っていたのかなと思ってね。
神父が子供の危険な遊びを止めていれば、本物を呼ばずに済んだかもしれないのに」
「ンなことも解らねえのか。やっぱ、おめーはバンビーノだなー」
「ディーノ君。君だって、その答えはそう想像できるというだけだろう?
ご本人に聞いたわけではないのだから。答えは彼以外知り得ないことだよ」
「オーギュストも答えが解るの?」
「想像の域を出ない回答だがね」
「何」
「センセーの口から言い辛ぇなら、俺様が教えてやるよ、バンビーノ。
まあ、言ってみりゃ、俺達のカンケーと同じさ」
「僕達と?」
「おめーは、身の危険を感じるようになったら、俺達マフィアと手を組んだ。だろ?
だが、事情が変わって、身の安全が保障されたら、どうする?」
ニヤリと笑う口内には真っ白な煙が充満している。
「悪魔が憑いてるフリをしたほうが都合が良かったのさ、その神父にとってはな」
口許から葉巻の苦くて甘い香りがする。
「悪魔が憑いてんなら、また会えんだろ?」
マフィアが吹かす白煙は、ゆるゆると昇り、空気中に霧散した。
「ああ、すいやせん。そろそろお休みの時間ですよね、ホテルまでお送りしやす」
フィオラノに言われ、彼の運転でホテルまで戻ることになった。
後部座席には、左から、僕、オーギュスト、ディーノの順で座っていた。
窓からは夜中の景色が見える。繁華街だけがギラついていて、他は暗い。
既に深夜に近い時間で、人通りも少なくなっていた。
ローマの石畳の上を車が走っている。適度な揺れが眠気を誘う。
何度か、夢に落ちそうになっていたのを、オーギュストに見られていたらしい。
フッと笑う吐息が右隣から聞こえた。
「アンリ、私に凭れて眠っても良いんだよ? 部屋までおぶっていってあげるから」
「絶対イヤ」
ベッドに入るまで絶対寝ない。
「オーギュ、そう言えば、今日は何してたの?」
眠気を覚ます為に話し相手にしてやろうと思って、
どうでもいいことを聞いたつもりだったのに、次の返事を聞いたら目が覚めた。
「ん? 私はアンリに昨夜言われた通り、ローマ観光をしていたよ?
バチカンの辺りを――ディーノ君と」
僕は彼をパーティに連れて行きたくはなかったから、
ローマ観光でもしてて、とは言ったけれど、ディーノと一緒に居ろだなんて言ってない。
「最初は私一人で美術館や博物館を見学していたんだ。
大聖堂は混んでいるようだったから外から眺めて、
サン・ピエトロ広場を出たところだったかな。偶然、ディーノ君と会ってね」
偶然? そんな偶然が起こり得る筈がない。
「そのあとは、ディーノ君オススメのバールに、
連れて行って貰ったんだ。良いお店だったよ?」
「だろ? オトナのサシ飲みには打ってつけの店なんだ、アソコは」
「ディーノ」
「言っただろ? 俺はセンセとサシ飲みがしたいって」
電話でローマ行きについて打ち合わせをした時のことを言っているのか。
確かに「センセーとサシで飲みたい」と言っていた、けれど。
「昨日の夜だって、僕が行くまでは二人で会っていたんでしょう。
どうして君達が、二人で何度も会う必要があるの」
「野暮なこと聞きやがる。だから、てめえはガキだってんだよ」
「オーギュスト。何の話をしていたの」
彼はいつもと変わらない優しく微笑を見せる。
「世間話に花を咲かせていただけだよ、ありふれた世間話に」
教師は僕の質問に答えなかった。
「ああ。そういや、アレはどういうイミだったんだろーなー」
ディーノが笑みを浮かべながら言う。
「悪魔がおめえに言ってた、『大嘘吐き野郎の末裔』っての?
アレはどういうイミだったんだか」
つまらないことを聞く。
「どうせ、初代サン・ジェルマン伯爵への愚弄でしょう?
不老不死で時間旅行者、おまけに予言者とまで言われる人なのだから。
当時から散々、詐欺師だ山師だと言われていた伯爵のことを、
改めて『大嘘吐き』と言ってくれたんじゃない?」
「んな本にでも載ってそうなこと、わざわざ言うかよ? 相手は悪魔だぜ?
なあ、センセ。アンタは神秘学の先生なんだろ?
コイツんちの伯爵は、なんかデカイ嘘を吐いたのか?」
僕は教師を見る。教師はいつものように落ち着いた口調で、
「さあ。どうかな」
そこで、ちらりと僕を見る。
「遠いながらも血縁者のアンリの前で言うのは申し訳ないけれど、
彼をペテン師だと論じる文献が多いのは事実だよ、真偽は別としてね」
マフィアの目が教師を愉快そうに見つめる。
「守備範囲だろ? 真実は知らねえのか、神秘学のセンセー?」
神秘学担当教師は微笑むだけだった。
→
■悪魔の神秘10 続編
つい先程までホームパーティを行っていたホールは、しんと静まり返っている。
ホールの片隅に、一脚だけ置かれた白い椅子。
そこに一人の少年が身を屈め、頭を抱えるようにして座っている。
その傍らには彼の父親。胸が潰れんばかりに心配していることが解る表情だ。
両の手を組み、天に祈りながら我が子を見つめている。
僕を含め数名のギャラリーが見守る中、少年の正面に神父が立っている。
神父は紫色をした儀式用のストールを首から下げ、
右手には聖書の祈りが綴られた赤い本、左手には金色の十字架を持っている。
それらはまるで武器のように見えた。
いや、神父にとっては実際に、あれが盾と矛なのかもしれなかった。
死地へ向かう兵士のような、覚悟を決めた顔付きで、彼は赤い経典を開いた。
神父は少年に祈りの言葉を捧げ続けた。
ホールに聖書の言葉だけが響いたのは、おそらく一分程だけだった。
呻くようにして、少年が苦しみ始めたのだ。
徐々に呼吸が荒くなっていく。それには目もくれず、神父は祈り続けた。
聖書の言葉と子供の呻き声。
決して交わらない両者の協奏曲は、ある時、突如として終わった。
「うるせえ」
誰かがそう言った。神父は祈りを止めない。
「うるせえって言ってんだろ」
低い、しわがれ声は少年の口から発されていた。
ばっと顔を上げ、血走った目をぎらつかせながら周囲を見回す。
「薄汚い人間どもが揃ってやがる」
ハンと舞台役者のように笑う。
「こりゃあいい。どいつもこいつも俺様が見られて興奮してやがる!
このガキの心配してる奴なんか一人も居やしねえ!」
腹を抱えて笑っていた。神父が皆に声を飛ばす。
「耳を貸してはなりません。あれは嘘を吐き、人を騙します」
「嘘なんか吐かねえよ! お前ら人間とは違ってなあ!」
少年は神父を睨み付けたあと、周りを見回し、一点で止まった。
「そこにも居るじゃねえか」
少年が見ていたのは、僕だった。薄ら笑いを浮かべながら彼はこう言った。
「大嘘吐き野郎の末裔だろう、てめえ」
「……どういう意味? 君は何を言っているの?」
「ああ」
少年の言語が切り替わる。
「こっちの言葉じゃなきゃ解らなかったか?」
それはフランス語だった。アミィは話せないと言っていたのに。
あれは嘘だったのだろうか。僕は肉親に確かめる。
「カイム社長、彼はフランス語を話せますか?」
「話せるわけないじゃないですか! アミィはフランスなんて行ったこともない!」
父親は絶叫するように言った。
「悪魔です! 今、喋っているのはアミィじゃない。悪魔なんです!」
「そうさ」
アミィがニヤリと笑う。
「んなことも解らねえのか。お前は本当にマヌケだな。
お前はバカなんだよ! 騙されてることにも気付かねえで!
クククッ! お前だけが何も知らねえのさ!」
「君、悪魔とまともにやりあってはいけません。下がって」
神父の制止を僕は無視した。
僕が何を知らないのか、今、問い質さなくてはと感じたから。
「君が僕の何を知っているというの」
「知ってるさ。人間なんかと比べ物にはならないぜ。悪魔は何でも知ってんだよ」
アミィは僕を見て笑ったあと、すうっと目を閉じた。
そして、再び、その目が開いた時、彼は僕に向かってこう言ったんだ。
「帰って来なければ、良かったのに」
冗談でも、からかうでもなく。
ただ、本当に、ぽつりと。
「無事に帰ってこられるとは、やはり悪魔だな」
何故、知っている?
何故、この子供が、あの人の言葉を知っている?
まるで、あの人が乗り移ったかのように。
言葉も言い方も、あの時の父と同じだった。
動けないでいる僕を見て、少年は腹を抱えていた。甲高く薄汚い声がホールで反響する。
「ヒャハハハ! 見たか、あの間抜け面!」
尚も嫌な声が響き渡る。それは明らかに人のものではなく、悪魔の嗤い声だった。
「アンリさん」
フィオラノが僕の左肩を押すようにして、僕の前に出る。
周囲には、秘書が身を盾にして年若い社長を守っているように見えただろう。
その時、僕はフィオラノに肩を触れられて、反射的にビクリとなった自分に苛ついていた。
「下がっていて下さい」
神父はテーブルの上から何かを取った。
僕の盾になるようにして、少年と僕の間に立ちはだかる。
「鎮まれ」
少年に向かって何かをかけた。ギャアアと叫び声が上がる。
神父の右手に握られていたのは青い小瓶。聖水が入っていた物だ。
少年は椅子から崩れ落ち、床に倒れた。
「熱い! 燃えちまう!」
頭を押さえながら、床をのた打ち回っている。
「汝、名乗りなさい」
「嫌だね」
「名を」
「誰が言うか」
「聖なる水よ、彼の者を清めたまえ」
神父はそう唱えながら、聖水を浴びせた。小瓶に入っていた水の量は元々少量で、
少年の服を僅かに濡らす程度だったにも関わらず、少年はギャアアと咆哮を上げる。
「悪魔よ。お前の名前を言いなさい」
「……ハ、ハル」
「ハル? 貴様、ハルファスか」
少年は答えず、神父を睨み付ける。
「ハルファスなのだな」
少年はギリギリと奥歯を噛み締めていた。
神父は首にかけていた紫のストールを少年の右肩に当てた。
びくん、と少年の身体が跳ねる。
「触るな! 止めろ!」
「ハルファスよ」
「いやだ! やめてくれ!」
厳粛に神父は唱えた。
「神の名に於いて、お前に命じる。去れ、ハルファス!」
「ギャアアアア」
叫び声がホールにこだまする。
床に倒れたまま、少年は大人しくなった。
ここまで、実際には二十分もかかっていなかったのだろうが、
僕にはたった一秒がとても長く感じられた。
現実感がなくて、まるで、どこかの小劇場に迷い込んでしまったかのような感覚。
僕は、舞台上の二人芝居を傍観しているような、そんな気持ちだったんだ。
「アミィ!」
父親が駆け寄る。床に倒れている我が子を抱き起こす。
「大丈夫か、アミィ」
小さな手がぴくりと動く。ゆっくりと目を開けた。
「……パ、パパ?」
「アミィ! もう大丈夫だぞ。神父様がお前を救って下さった」
父親は少年を抱え、椅子に座らせた。
「パパ……」
少年は苦痛に顔を歪めながら、声を発していた。
「……だめ……だめっ!」
少年は渾身の力で父親を突き飛ばした。
床に倒れた父親は目をぱちくりさせている。
「……どうしたんだ、アミィ」
その時、ガクンと少年の首が項垂れた。
再び顔を上げた時、少年はギロリと目を向いた。
「カイムさん、離れて!」
神父の叫びとほぼ同時に、ホールに異変が起きた。
チカチカと照明が点滅し始めたのだ。皆が天井を見上げる。
照明がひとつだけ点滅していた。天使の飾りが付いているシャンデリアだけが。
「クソガキが」
その声で皆が一斉に同じ人物を見た。
「俺様に抵抗しやがって」
また少年の声色が変わっていた。子供の声ではない。
先程のしわがれ声と似ているが、先より更に低い。父親は混乱していた。
「神父様、どういうことです。悪魔は祓われたのではないのですか!?」
「ええ。ハルファスは祓いました。しかし」
神父は息を吐く。
「もう一体、憑いていたようです」
少年は妖艶に首を傾げる。
「ハルファスを祓うとは。なかなかやるな、神父」
カラになっている青い小瓶を見ながら、
「しかし、どうする? 聖なる水とやらは、もう無いようだが?」
「お前はハルファスではないな? お前の名前は?」
「教えるものか」
神父は祈り始めた。
「聖ガブリエルよ、我らの為に祈りたまえ」
「失せろ、協会の犬が」
「聖ミカエル、聖ラファエルよ、我らの為に祈りたまえ」
「ああ、うんざりだ! 吐き気がする!」
「パードレ・ピオよ、我らの為に祈りたまえ」
「聖者の名前しか言えないのか、バカ神父!」
神父は祈り続け、少年は神父を罵倒し続けていた。
聖なる言葉は悪魔には効果があるらしい。
徐々にではあるが、悪魔は目に見えて疲弊してきた。
「我らを癒やしたまえ、主よ。神の子アミィを癒やしたまえ」
「うるせえ! このガキは俺のもんだ!」
「アミィは神の子だ、お前のものではない」
「俺のもんなんだよ」
「神はアミィを愛している。神よ、我らの為に祈りたまえ」
「黙れ、黙れ、黙れ!」
「名前を言いなさい」
「教えるものか。ハルファスを追い出した奴なんかに」
「やけにハルファスを気にしているな?」
「それがどうした」
「成程。それでか。――やけに鳥が飛んでいると思ったんだ」
少年は憎しみをぶつけるように神父を睨んでいる。
「悪魔よ、お前の名を当ててみせよう」
金色の十字架を少年の額に向ける。
「神の名に於いて命じる。去れ、マルファス」
「グッ、グアアア!」
「聖なる神よ! マルファスを祓いたまえ!」
少年は椅子の上で、大きく身体を反らせた。
弓なりに突き出した腹から、まるで悪魔が出て行くように。
獣の断末魔がホールに響き渡る。
少年の身体は全身の力が抜けたように椅子に凭れかかっていた。
荒い息を吐き出している。その間隔が徐々に長く落ち着いてくると、
吐息は涙声に変わっていった。ただの、子供の泣き声に。
神父はそれを見て、ほうっと長い息を吐く。
疲弊しながらも、優しい顔つきで少年を見つめている。
「神父様、終わったのですか?」
子供の父親が神父に問う。神父はゆっくり頷く。
「ええ。終わりました」
椅子に座ったまま泣いている少年の前で、神父は膝を着く。
下から少年の顔を覗き込むようにして、見上げた。
「アミィ君?」
神父が優しい声で呼びかけると、
少年は手で涙を拭きながらも、はい、と返事した。
「終わりましたよ。もう大丈夫です」
「……ほんと?」
「はい」
「ほんとに?」
「はい。アミィ君に、悪魔はもう憑いていません」
「しんぷさまっ!」
少年が神父の胸に飛び込む。その衝撃で椅子が横に倒れた。
飛び込まれた神父は尻餅を着くことになったが、
少年の身体はしっかりと受け止めていた。
神父は少年を抱き留めながら、優しく頭を撫でていた。
→
ホールの片隅に、一脚だけ置かれた白い椅子。
そこに一人の少年が身を屈め、頭を抱えるようにして座っている。
その傍らには彼の父親。胸が潰れんばかりに心配していることが解る表情だ。
両の手を組み、天に祈りながら我が子を見つめている。
僕を含め数名のギャラリーが見守る中、少年の正面に神父が立っている。
神父は紫色をした儀式用のストールを首から下げ、
右手には聖書の祈りが綴られた赤い本、左手には金色の十字架を持っている。
それらはまるで武器のように見えた。
いや、神父にとっては実際に、あれが盾と矛なのかもしれなかった。
死地へ向かう兵士のような、覚悟を決めた顔付きで、彼は赤い経典を開いた。
神父は少年に祈りの言葉を捧げ続けた。
ホールに聖書の言葉だけが響いたのは、おそらく一分程だけだった。
呻くようにして、少年が苦しみ始めたのだ。
徐々に呼吸が荒くなっていく。それには目もくれず、神父は祈り続けた。
聖書の言葉と子供の呻き声。
決して交わらない両者の協奏曲は、ある時、突如として終わった。
「うるせえ」
誰かがそう言った。神父は祈りを止めない。
「うるせえって言ってんだろ」
低い、しわがれ声は少年の口から発されていた。
ばっと顔を上げ、血走った目をぎらつかせながら周囲を見回す。
「薄汚い人間どもが揃ってやがる」
ハンと舞台役者のように笑う。
「こりゃあいい。どいつもこいつも俺様が見られて興奮してやがる!
このガキの心配してる奴なんか一人も居やしねえ!」
腹を抱えて笑っていた。神父が皆に声を飛ばす。
「耳を貸してはなりません。あれは嘘を吐き、人を騙します」
「嘘なんか吐かねえよ! お前ら人間とは違ってなあ!」
少年は神父を睨み付けたあと、周りを見回し、一点で止まった。
「そこにも居るじゃねえか」
少年が見ていたのは、僕だった。薄ら笑いを浮かべながら彼はこう言った。
「大嘘吐き野郎の末裔だろう、てめえ」
「……どういう意味? 君は何を言っているの?」
「ああ」
少年の言語が切り替わる。
「こっちの言葉じゃなきゃ解らなかったか?」
それはフランス語だった。アミィは話せないと言っていたのに。
あれは嘘だったのだろうか。僕は肉親に確かめる。
「カイム社長、彼はフランス語を話せますか?」
「話せるわけないじゃないですか! アミィはフランスなんて行ったこともない!」
父親は絶叫するように言った。
「悪魔です! 今、喋っているのはアミィじゃない。悪魔なんです!」
「そうさ」
アミィがニヤリと笑う。
「んなことも解らねえのか。お前は本当にマヌケだな。
お前はバカなんだよ! 騙されてることにも気付かねえで!
クククッ! お前だけが何も知らねえのさ!」
「君、悪魔とまともにやりあってはいけません。下がって」
神父の制止を僕は無視した。
僕が何を知らないのか、今、問い質さなくてはと感じたから。
「君が僕の何を知っているというの」
「知ってるさ。人間なんかと比べ物にはならないぜ。悪魔は何でも知ってんだよ」
アミィは僕を見て笑ったあと、すうっと目を閉じた。
そして、再び、その目が開いた時、彼は僕に向かってこう言ったんだ。
「帰って来なければ、良かったのに」
冗談でも、からかうでもなく。
ただ、本当に、ぽつりと。
「無事に帰ってこられるとは、やはり悪魔だな」
何故、知っている?
何故、この子供が、あの人の言葉を知っている?
まるで、あの人が乗り移ったかのように。
言葉も言い方も、あの時の父と同じだった。
動けないでいる僕を見て、少年は腹を抱えていた。甲高く薄汚い声がホールで反響する。
「ヒャハハハ! 見たか、あの間抜け面!」
尚も嫌な声が響き渡る。それは明らかに人のものではなく、悪魔の嗤い声だった。
「アンリさん」
フィオラノが僕の左肩を押すようにして、僕の前に出る。
周囲には、秘書が身を盾にして年若い社長を守っているように見えただろう。
その時、僕はフィオラノに肩を触れられて、反射的にビクリとなった自分に苛ついていた。
「下がっていて下さい」
神父はテーブルの上から何かを取った。
僕の盾になるようにして、少年と僕の間に立ちはだかる。
「鎮まれ」
少年に向かって何かをかけた。ギャアアと叫び声が上がる。
神父の右手に握られていたのは青い小瓶。聖水が入っていた物だ。
少年は椅子から崩れ落ち、床に倒れた。
「熱い! 燃えちまう!」
頭を押さえながら、床をのた打ち回っている。
「汝、名乗りなさい」
「嫌だね」
「名を」
「誰が言うか」
「聖なる水よ、彼の者を清めたまえ」
神父はそう唱えながら、聖水を浴びせた。小瓶に入っていた水の量は元々少量で、
少年の服を僅かに濡らす程度だったにも関わらず、少年はギャアアと咆哮を上げる。
「悪魔よ。お前の名前を言いなさい」
「……ハ、ハル」
「ハル? 貴様、ハルファスか」
少年は答えず、神父を睨み付ける。
「ハルファスなのだな」
少年はギリギリと奥歯を噛み締めていた。
神父は首にかけていた紫のストールを少年の右肩に当てた。
びくん、と少年の身体が跳ねる。
「触るな! 止めろ!」
「ハルファスよ」
「いやだ! やめてくれ!」
厳粛に神父は唱えた。
「神の名に於いて、お前に命じる。去れ、ハルファス!」
「ギャアアアア」
叫び声がホールにこだまする。
床に倒れたまま、少年は大人しくなった。
ここまで、実際には二十分もかかっていなかったのだろうが、
僕にはたった一秒がとても長く感じられた。
現実感がなくて、まるで、どこかの小劇場に迷い込んでしまったかのような感覚。
僕は、舞台上の二人芝居を傍観しているような、そんな気持ちだったんだ。
「アミィ!」
父親が駆け寄る。床に倒れている我が子を抱き起こす。
「大丈夫か、アミィ」
小さな手がぴくりと動く。ゆっくりと目を開けた。
「……パ、パパ?」
「アミィ! もう大丈夫だぞ。神父様がお前を救って下さった」
父親は少年を抱え、椅子に座らせた。
「パパ……」
少年は苦痛に顔を歪めながら、声を発していた。
「……だめ……だめっ!」
少年は渾身の力で父親を突き飛ばした。
床に倒れた父親は目をぱちくりさせている。
「……どうしたんだ、アミィ」
その時、ガクンと少年の首が項垂れた。
再び顔を上げた時、少年はギロリと目を向いた。
「カイムさん、離れて!」
神父の叫びとほぼ同時に、ホールに異変が起きた。
チカチカと照明が点滅し始めたのだ。皆が天井を見上げる。
照明がひとつだけ点滅していた。天使の飾りが付いているシャンデリアだけが。
「クソガキが」
その声で皆が一斉に同じ人物を見た。
「俺様に抵抗しやがって」
また少年の声色が変わっていた。子供の声ではない。
先程のしわがれ声と似ているが、先より更に低い。父親は混乱していた。
「神父様、どういうことです。悪魔は祓われたのではないのですか!?」
「ええ。ハルファスは祓いました。しかし」
神父は息を吐く。
「もう一体、憑いていたようです」
少年は妖艶に首を傾げる。
「ハルファスを祓うとは。なかなかやるな、神父」
カラになっている青い小瓶を見ながら、
「しかし、どうする? 聖なる水とやらは、もう無いようだが?」
「お前はハルファスではないな? お前の名前は?」
「教えるものか」
神父は祈り始めた。
「聖ガブリエルよ、我らの為に祈りたまえ」
「失せろ、協会の犬が」
「聖ミカエル、聖ラファエルよ、我らの為に祈りたまえ」
「ああ、うんざりだ! 吐き気がする!」
「パードレ・ピオよ、我らの為に祈りたまえ」
「聖者の名前しか言えないのか、バカ神父!」
神父は祈り続け、少年は神父を罵倒し続けていた。
聖なる言葉は悪魔には効果があるらしい。
徐々にではあるが、悪魔は目に見えて疲弊してきた。
「我らを癒やしたまえ、主よ。神の子アミィを癒やしたまえ」
「うるせえ! このガキは俺のもんだ!」
「アミィは神の子だ、お前のものではない」
「俺のもんなんだよ」
「神はアミィを愛している。神よ、我らの為に祈りたまえ」
「黙れ、黙れ、黙れ!」
「名前を言いなさい」
「教えるものか。ハルファスを追い出した奴なんかに」
「やけにハルファスを気にしているな?」
「それがどうした」
「成程。それでか。――やけに鳥が飛んでいると思ったんだ」
少年は憎しみをぶつけるように神父を睨んでいる。
「悪魔よ、お前の名を当ててみせよう」
金色の十字架を少年の額に向ける。
「神の名に於いて命じる。去れ、マルファス」
「グッ、グアアア!」
「聖なる神よ! マルファスを祓いたまえ!」
少年は椅子の上で、大きく身体を反らせた。
弓なりに突き出した腹から、まるで悪魔が出て行くように。
獣の断末魔がホールに響き渡る。
少年の身体は全身の力が抜けたように椅子に凭れかかっていた。
荒い息を吐き出している。その間隔が徐々に長く落ち着いてくると、
吐息は涙声に変わっていった。ただの、子供の泣き声に。
神父はそれを見て、ほうっと長い息を吐く。
疲弊しながらも、優しい顔つきで少年を見つめている。
「神父様、終わったのですか?」
子供の父親が神父に問う。神父はゆっくり頷く。
「ええ。終わりました」
椅子に座ったまま泣いている少年の前で、神父は膝を着く。
下から少年の顔を覗き込むようにして、見上げた。
「アミィ君?」
神父が優しい声で呼びかけると、
少年は手で涙を拭きながらも、はい、と返事した。
「終わりましたよ。もう大丈夫です」
「……ほんと?」
「はい」
「ほんとに?」
「はい。アミィ君に、悪魔はもう憑いていません」
「しんぷさまっ!」
少年が神父の胸に飛び込む。その衝撃で椅子が横に倒れた。
飛び込まれた神父は尻餅を着くことになったが、
少年の身体はしっかりと受け止めていた。
神父は少年を抱き留めながら、優しく頭を撫でていた。
→
■悪魔の神秘09 続編
神父は少年をホールの隅に連れて行った。
近くのテーブルから取ってきた白い椅子に少年を座らせる。
少年の父親を傍に呼び、少年が暴れたら身体を抑えるように頼んでいた。
僕達も「カイムさん一人の力で足りない時は皆さんも手伝って下さい」と言われた。
僕とフィオラノを含め数人のギャラリーは、
少し離れたところから、少年を囲むようにして見守ることとなった。
神父は悪魔祓いの準備をしているようだった。
黒い革鞄の中から取り出した物を、テーブルの上へ置いていく。
どれも、真っ白なレースが敷かれたパーティテーブルには不釣り合いな品々だ。
赤い本、青い小瓶、銀の缶、紫のストール。あれらがおそらく、悪魔祓いに必要な、
経典、聖水、聖油、ストラ、なのだろう。昨夜の“悪魔学講座”で学んだ通りなら。
神父は紫のストールを自分の首にかけ、左右の肩から前に下ろす。
最後に鞄から取り出したのは、金色で少し大きめの十字架だった。
金の十字架を額に当てながら祈りの言葉を唱えているようだった。
その間、僕は少年に視線を移した。
先程より明らかに顔色が悪くなっていた。少年は酷く落ち着かない様子で、
爪を噛んだり、無意識なのか、しきりに右足を揺らしていた。
「皆さん」
神父が呼びかける。
「儀式の前に、皆さんに祝福を与えます。悪魔に飲み込まれないように」
テーブルに置いていた、銀色の平たくて円い缶を持つ。
「これは聖油です。悪魔は聖なるものを嫌がります。
魔除けの為、聖油で皆さんの額に十字を切らせて頂けますか」
まばらに、はい、と言う声は聞こえたが、嫌だと言う声は聞こえなかった。
神父は先ず自分の人差し指を聖油で清め、自分の額から十字に聖油を塗った。
そして、祝福の言葉を唱えながら、一人一人の額に聖油で小さな十字を描いていく。
祝福を与えられた者は「ありがとうございます、神父様」などと礼を言っていたが、
僕には、何がありがたいのか解らなかった。あれを僕も受けなければいけないのか。
他人に触れられるのは好きではないのに。しかも、今日会ったばかりの、エクソシストに。
「ありがとうございます」
隣のフィオラノが終わった。僕の番が来た。
神父はまず僕にも祈りを捧げた。
ぼそぼそと何かの呪文のようなのに。これが祝福なのだろうか。
神父の指が、僕の額に近付いていく。香油で濡れた指が。
ヌルリ、と額をなぞられる。生温い。冷たいほうがまだましだった。
「主よ、この者に祝福を」
やっと終わった。神父は次の人へ向かう。やはり僕は礼が言えなかった。
神父が目の前から去った後、息を吐いた時に気が付いた。
祝福を受ける間、僕は息を止めていたのだと。
なぞられた部分が少し蒸発している。気持ちが悪い。
神父は淡々と祝福を与え、少年の父親まで終えた。
この中で、まだ祝福を受けていないのは、
一人だけ椅子に座らされている少年だけになった。
彼の元へ神父が歩いていく。皆の視線が少年と神父に集中する。
神父は、人差し指に聖油を塗り直し、少年の額にも十字を切ろうとした。
神父の指が少年の額に触れた瞬間。
「うわああああ!」
叫びと共に少年はのけぞった。
「熱い! 熱いよ!」
皆の額に塗った物と同じ筈なのに。
まるで炎を突き付けられたかのような反応だ。
「止めて、神父様、止めて!」
神父はその反応を予想していたのか、驚きは見せなかった。
金の十字架を胸に、厳かに祈りを捧げた。
「天にまします我らの父よ、聖なる我らの母マリアよ、我らの為に祈りたまえ」
悪魔祓いの儀式が始まった。
→
近くのテーブルから取ってきた白い椅子に少年を座らせる。
少年の父親を傍に呼び、少年が暴れたら身体を抑えるように頼んでいた。
僕達も「カイムさん一人の力で足りない時は皆さんも手伝って下さい」と言われた。
僕とフィオラノを含め数人のギャラリーは、
少し離れたところから、少年を囲むようにして見守ることとなった。
神父は悪魔祓いの準備をしているようだった。
黒い革鞄の中から取り出した物を、テーブルの上へ置いていく。
どれも、真っ白なレースが敷かれたパーティテーブルには不釣り合いな品々だ。
赤い本、青い小瓶、銀の缶、紫のストール。あれらがおそらく、悪魔祓いに必要な、
経典、聖水、聖油、ストラ、なのだろう。昨夜の“悪魔学講座”で学んだ通りなら。
神父は紫のストールを自分の首にかけ、左右の肩から前に下ろす。
最後に鞄から取り出したのは、金色で少し大きめの十字架だった。
金の十字架を額に当てながら祈りの言葉を唱えているようだった。
その間、僕は少年に視線を移した。
先程より明らかに顔色が悪くなっていた。少年は酷く落ち着かない様子で、
爪を噛んだり、無意識なのか、しきりに右足を揺らしていた。
「皆さん」
神父が呼びかける。
「儀式の前に、皆さんに祝福を与えます。悪魔に飲み込まれないように」
テーブルに置いていた、銀色の平たくて円い缶を持つ。
「これは聖油です。悪魔は聖なるものを嫌がります。
魔除けの為、聖油で皆さんの額に十字を切らせて頂けますか」
まばらに、はい、と言う声は聞こえたが、嫌だと言う声は聞こえなかった。
神父は先ず自分の人差し指を聖油で清め、自分の額から十字に聖油を塗った。
そして、祝福の言葉を唱えながら、一人一人の額に聖油で小さな十字を描いていく。
祝福を与えられた者は「ありがとうございます、神父様」などと礼を言っていたが、
僕には、何がありがたいのか解らなかった。あれを僕も受けなければいけないのか。
他人に触れられるのは好きではないのに。しかも、今日会ったばかりの、エクソシストに。
「ありがとうございます」
隣のフィオラノが終わった。僕の番が来た。
神父はまず僕にも祈りを捧げた。
ぼそぼそと何かの呪文のようなのに。これが祝福なのだろうか。
神父の指が、僕の額に近付いていく。香油で濡れた指が。
ヌルリ、と額をなぞられる。生温い。冷たいほうがまだましだった。
「主よ、この者に祝福を」
やっと終わった。神父は次の人へ向かう。やはり僕は礼が言えなかった。
神父が目の前から去った後、息を吐いた時に気が付いた。
祝福を受ける間、僕は息を止めていたのだと。
なぞられた部分が少し蒸発している。気持ちが悪い。
神父は淡々と祝福を与え、少年の父親まで終えた。
この中で、まだ祝福を受けていないのは、
一人だけ椅子に座らされている少年だけになった。
彼の元へ神父が歩いていく。皆の視線が少年と神父に集中する。
神父は、人差し指に聖油を塗り直し、少年の額にも十字を切ろうとした。
神父の指が少年の額に触れた瞬間。
「うわああああ!」
叫びと共に少年はのけぞった。
「熱い! 熱いよ!」
皆の額に塗った物と同じ筈なのに。
まるで炎を突き付けられたかのような反応だ。
「止めて、神父様、止めて!」
神父はその反応を予想していたのか、驚きは見せなかった。
金の十字架を胸に、厳かに祈りを捧げた。
「天にまします我らの父よ、聖なる我らの母マリアよ、我らの為に祈りたまえ」
悪魔祓いの儀式が始まった。
→
■悪魔の神秘08 続編
僕達がパーティ会場に戻った時。
悪魔談義は流石に終わったようで、散り散りに談笑しているみたいだった。
アミィは「僕、パパのとこ行ってくるね!」と言い残し、僕達から離れた。
少年が駆けて行った先には彼の父親が居て、
子供の笑顔を父親も笑顔で受け止めていた。
「社長」
僕の偽秘書に呼ばれた。
「よろしければ、何かお料理でもお持ち致しましょうか?
お腹が空いていないなら、お飲み物でも」
「別に、そこまで構わなくても良いんだよ? 君は執事じゃなくて秘書なんだし」
「あっ、それから、そのお話なんですけど」
「何?」
彼は周りに聞こえないよう声を落とす。
「えっと、『このままずっと秘書にならないか』というお話なんですが」
「ああ、うん。考えてくれた?」
彼は頭を掻きながら、
「すみません。自分に秘書なんてお上品なお役目は務まりやせんから」
「そう? 今日だって充分務まっていると思うけれど。君ならね?」
「いえいえ。無理ですって、ホント。
ご期待に添えず、すみません、社長。いえ……アンリさん」
どうやら、秘書の利用期限は延長できないらしい。
「そんな申し訳なさそうな顔しないでよ。冗談に決まってるでしょう?」
「え? あ、冗談でしたか。あはは。本気にしちゃいやした」
まあ、断られるのは解っていたことだ。
マフィアが足を洗うことは、そう簡単なことではないだろうし。
それに以前フィオラノから聞いたことがある。
「何故、マフィアなんかやっているのか」と僕が聞いた時、彼は迷いなくこう答えた。
「自分は兄貴に拾って貰ったんです。それだけです」と。
過去、フィオラノとディーノの間に何があったのか、僕は聞いていない。
少しも迷わず、僕よりディーノの側を選ぶなんて。
「君って、変わった趣味してるよね」
フィオラノは少し笑った。
「そんなに拗ねないで下さいよ」
「拗ねてなんかない。君の趣味が変わってるってことを言及してるの」
「ははっ。ホント、アンリさんって――」
彼が何か言いかけた時、どこかから異質な音がした。
和やかなパーティ会場で聞くような音ではなかった。
例えるなら、獣の唸り声のような、暗く重い声。
パーティ会場に居る者の中で、最初に気付いたのは耳の良い数人。
また、聞こえた。
異変が波のように皆に伝わっていき、ざわざわし始めた。
一体どこから聞こえるのか、と皆が辺りを見渡す。
会場内にたった一人、身体を前方へ折り曲げている人物が居た。
右手は左胸を掴み、ぶら下がっているだけの左手は痙攣していた。
苦しんでいるのは、子供だった。
「どうしたんだ、アミィ」
父親が我が子に駆け寄る。
「まさか。あいつなのか。悪魔が来たのか?」
その瞬間、会場の空気は明らかに一変した。
驚き、恐怖、それ以上に親子に向けられた視線は、好奇だった。
偽秘書のフィオラノが僕に耳打ちする。
「悪魔の“ショータイム”が始まったんですかね?」
確かに、悪魔に憑かれる、という演技を、あの少年は今ここで見せてくれるらしい。
この大衆に披露することが、彼にとって何らかの利益があるのだろう。
「でも、今日、ショーを予定していたのなら、さっきそう言えば良かったのに」
「驚かせたかったんですよ、きっと。あとで聞かれますよ? 『アンリ君、驚いた?』って。
でも、ここからじゃ遠くて良く見えませんね。せっかくですから良い席で拝見しましょう。
なかなかお目にかかれないショーなんですから」
腕を引かれて、人の間を擦り抜けていく。連れてこられたのは最前列の端っこだった。
カイム社長は神父に向かって叫んだ。
「神父様、どうか悪魔祓いを!」
皆の視線が神父に集中する。神父はそこに呆然と立ち尽くしていた。
呟きながら、ゆっくりと首を横に振る。
「まさか……」
「どうしたのです、神父様! 早くアミィをお救い下さい!」
「は、はい」
叱咤され、やっと彼は神父として機能した。
ゆっくりと少年に近付きながら、少年に話しかける。
「アミィ君。私の声が聞こえるかね?」
「は、はい、しんぷさま」
「今、君の中で何が起きているんだい?」
寒さで声が上手く出ないかのように、切れ切れと話す。
「のぞみを、かなえてやるって」
「望み?」
決して寒くはない会場で、少年は小刻みに震えていた。
「あくまに、つかれたかったんだろうって、こえ、が」
神父がひとつひとつ確かめていく。
「声が、聞こえるんだね?」
うんうんと必死に頷いた。
「おまえらが、おれをよんだって、いってる」
その目は怯えきっていた。
「こわいよ、しんぷさま。どうしよう」
少年は神父の右腕にしがみつく。
「うそじゃないの。ほんもの、なの。ほんものが、きちゃったの!」
ぽろぽろと涙を零していた。
「たすけて。たすけて、しんぷさま!」
「大丈夫だよ。すぐに祓うからね」
神父は毅然とした態度で皆に呼び掛けた。
「これから悪魔祓いの儀式を行います。危険な目に遭いたくない方は、早く部屋の外へ!」
一瞬の間があった。その後、幾つかの悲鳴と共にたくさんの足音が鳴り響いた。
ホールに残ったのは、カイム社長の他にはたった数人だけだった。フィオラノが僕に囁く。
「社長、あれ、演技だと思いますか?」
「演技なら、今すぐにでも天才子役になれるだろうね」
「じゃあ、彼が言っていたように、本物の悪魔が」
「どうだろうね」
「あの、私達も会場から失礼したほうが」
「見ておきたいな。クライアントのことだから」
僕がそう言うと、フィオラノは諦めたように笑っていた。
「悪魔からもお守りしろ、だなんて聞いてませんよー」
「悪魔からは守らなくていい、とは言ってなかったと思うけれど?」
彼は何か呟いたが、僕には聞き取れなかった。観念したのか、こう言った。
「解りました。自分の傍から離れないで下さいよ」
→
悪魔談義は流石に終わったようで、散り散りに談笑しているみたいだった。
アミィは「僕、パパのとこ行ってくるね!」と言い残し、僕達から離れた。
少年が駆けて行った先には彼の父親が居て、
子供の笑顔を父親も笑顔で受け止めていた。
「社長」
僕の偽秘書に呼ばれた。
「よろしければ、何かお料理でもお持ち致しましょうか?
お腹が空いていないなら、お飲み物でも」
「別に、そこまで構わなくても良いんだよ? 君は執事じゃなくて秘書なんだし」
「あっ、それから、そのお話なんですけど」
「何?」
彼は周りに聞こえないよう声を落とす。
「えっと、『このままずっと秘書にならないか』というお話なんですが」
「ああ、うん。考えてくれた?」
彼は頭を掻きながら、
「すみません。自分に秘書なんてお上品なお役目は務まりやせんから」
「そう? 今日だって充分務まっていると思うけれど。君ならね?」
「いえいえ。無理ですって、ホント。
ご期待に添えず、すみません、社長。いえ……アンリさん」
どうやら、秘書の利用期限は延長できないらしい。
「そんな申し訳なさそうな顔しないでよ。冗談に決まってるでしょう?」
「え? あ、冗談でしたか。あはは。本気にしちゃいやした」
まあ、断られるのは解っていたことだ。
マフィアが足を洗うことは、そう簡単なことではないだろうし。
それに以前フィオラノから聞いたことがある。
「何故、マフィアなんかやっているのか」と僕が聞いた時、彼は迷いなくこう答えた。
「自分は兄貴に拾って貰ったんです。それだけです」と。
過去、フィオラノとディーノの間に何があったのか、僕は聞いていない。
少しも迷わず、僕よりディーノの側を選ぶなんて。
「君って、変わった趣味してるよね」
フィオラノは少し笑った。
「そんなに拗ねないで下さいよ」
「拗ねてなんかない。君の趣味が変わってるってことを言及してるの」
「ははっ。ホント、アンリさんって――」
彼が何か言いかけた時、どこかから異質な音がした。
和やかなパーティ会場で聞くような音ではなかった。
例えるなら、獣の唸り声のような、暗く重い声。
パーティ会場に居る者の中で、最初に気付いたのは耳の良い数人。
また、聞こえた。
異変が波のように皆に伝わっていき、ざわざわし始めた。
一体どこから聞こえるのか、と皆が辺りを見渡す。
会場内にたった一人、身体を前方へ折り曲げている人物が居た。
右手は左胸を掴み、ぶら下がっているだけの左手は痙攣していた。
苦しんでいるのは、子供だった。
「どうしたんだ、アミィ」
父親が我が子に駆け寄る。
「まさか。あいつなのか。悪魔が来たのか?」
その瞬間、会場の空気は明らかに一変した。
驚き、恐怖、それ以上に親子に向けられた視線は、好奇だった。
偽秘書のフィオラノが僕に耳打ちする。
「悪魔の“ショータイム”が始まったんですかね?」
確かに、悪魔に憑かれる、という演技を、あの少年は今ここで見せてくれるらしい。
この大衆に披露することが、彼にとって何らかの利益があるのだろう。
「でも、今日、ショーを予定していたのなら、さっきそう言えば良かったのに」
「驚かせたかったんですよ、きっと。あとで聞かれますよ? 『アンリ君、驚いた?』って。
でも、ここからじゃ遠くて良く見えませんね。せっかくですから良い席で拝見しましょう。
なかなかお目にかかれないショーなんですから」
腕を引かれて、人の間を擦り抜けていく。連れてこられたのは最前列の端っこだった。
カイム社長は神父に向かって叫んだ。
「神父様、どうか悪魔祓いを!」
皆の視線が神父に集中する。神父はそこに呆然と立ち尽くしていた。
呟きながら、ゆっくりと首を横に振る。
「まさか……」
「どうしたのです、神父様! 早くアミィをお救い下さい!」
「は、はい」
叱咤され、やっと彼は神父として機能した。
ゆっくりと少年に近付きながら、少年に話しかける。
「アミィ君。私の声が聞こえるかね?」
「は、はい、しんぷさま」
「今、君の中で何が起きているんだい?」
寒さで声が上手く出ないかのように、切れ切れと話す。
「のぞみを、かなえてやるって」
「望み?」
決して寒くはない会場で、少年は小刻みに震えていた。
「あくまに、つかれたかったんだろうって、こえ、が」
神父がひとつひとつ確かめていく。
「声が、聞こえるんだね?」
うんうんと必死に頷いた。
「おまえらが、おれをよんだって、いってる」
その目は怯えきっていた。
「こわいよ、しんぷさま。どうしよう」
少年は神父の右腕にしがみつく。
「うそじゃないの。ほんもの、なの。ほんものが、きちゃったの!」
ぽろぽろと涙を零していた。
「たすけて。たすけて、しんぷさま!」
「大丈夫だよ。すぐに祓うからね」
神父は毅然とした態度で皆に呼び掛けた。
「これから悪魔祓いの儀式を行います。危険な目に遭いたくない方は、早く部屋の外へ!」
一瞬の間があった。その後、幾つかの悲鳴と共にたくさんの足音が鳴り響いた。
ホールに残ったのは、カイム社長の他にはたった数人だけだった。フィオラノが僕に囁く。
「社長、あれ、演技だと思いますか?」
「演技なら、今すぐにでも天才子役になれるだろうね」
「じゃあ、彼が言っていたように、本物の悪魔が」
「どうだろうね」
「あの、私達も会場から失礼したほうが」
「見ておきたいな。クライアントのことだから」
僕がそう言うと、フィオラノは諦めたように笑っていた。
「悪魔からもお守りしろ、だなんて聞いてませんよー」
「悪魔からは守らなくていい、とは言ってなかったと思うけれど?」
彼は何か呟いたが、僕には聞き取れなかった。観念したのか、こう言った。
「解りました。自分の傍から離れないで下さいよ」
→
■悪魔の神秘07 続編
アミィ・カイムの部屋で、僕とフィオラノはティラミスを食べることになった。
ここまで社長の息子に付き合ってやる意味はないのだけれど、
パーティ会場から抜け出す理由にはなったから。
それにしても、子供部屋にしては随分立派な部屋だ。
今、僕達がティラミスを食べている場所は子供部屋のベランダに設置されたテラスだった。
目の前に広がっているのは森とそれに続く草原。その先にローマの街並みがある。
テラスは、濃い色の木の柵で囲われた空間で、そこここに緑の植物が飾られている。
鳥でさえテラスを森だと思っているのか、柵の上では一羽の野鳩が羽を休めている。
のんびりとクチバシで羽の掃除をしているようだった。
今は夜だが、昼間なら太陽光が差し込み、確かにここも森の一部のように感じられるだろう。
夜のテラスを囲う柵は定間隔でランプが灯されている。
ウッドテーブルには、品の良いキャンドル。
森と草原の向こうでオレンジに煌めいているのはローマの夜景だ。
三階のテラスから、こんな景色が見えるのは、ここが空の広いローマ郊外だからだろう。
子供以上に大人が好みそうな空間に仕上がっているウッドテラスだ。
カアと鳴き声が聞こえた。近くの木にカラスが一羽止まっていた。
僕達のケーキを狙っているのか。
「アンリ君、アンリ君。ティラミス、美味しい?」
「悪くなかったね」
僕は最後の一口を口に入れる。
「悪くないってことは良いってことだよね? 良かった!」
できれば飲み物はカフェオレではなく、
紅茶にして欲しかったけれど。ここはコーヒー文化が根付くイタリアだ。
「ねえ、秘書さんも、ティラミス美味しかった?」
「はい。美味しかったです。私までご馳走して頂きまして、ありがとうございました」
偽秘書のフィオラノが、にっこりと子供に微笑みかけると、
アミィも嬉しそうに笑顔を返していた。
僕は少し具合が悪くなってきているのを感じていた。
久し振りにコーヒーを飲んだせいか、なんとなく鼓動が早い気がするし、
昨夜の寝不足が響いているのか、頭が重かった。
「ご歓談中、失礼致します」
幾つか鳥の鳴き声が通り過ぎて行く。部屋の中から黒髪の男がテラスへ入って来た。
先程、僕達にティラミスやカフェオレをサーブした若い男だった。
アミィにはヴィネと呼ばれていた。
この家の使用人らしい。担当はアミィの世話係といったところか。
年は20代のように見えるが、覇気のない青い目をしていた。
「アミィ様。そろそろお部屋の中へ。直に冷えてまいります。もう夜なのですから」
「まだ寒くないよー。ねっ、アンリ君?」
面倒な。子供から目を逸らしたら、世話係と目が合った。
僕に何かを訴えかけるような目を向けられても困る。
「そう言えば、丁度ちょっと寒くなってきたなあ、と思ってたところだったんですよ」
横から口を出したのはフィオラノだった。
「実は、風邪が治ったばかりで」
コホコホ、と咳してみせる。わざとらしい。
「えっ? そうだったの!? 秘書さん、大丈夫?」
アミィは騙されたらしい。
「じゃあ、あんまりお外に居ると、秘書さん、また風邪引いちゃうかなあ?」
問われた世話係は頷いた。
「そうですね。お部屋に入って頂いたほうがよろしいのでは?」
「じゃあ、みんな、中に入ろう。いいかな、アンリ君?」
僕達はテラスから子供部屋へと移動することになった。
アミィは世話係にフィオラノに温かい飲み物を用意するよう頼んでいた。
子供部屋の中に入ると、少し暖かかった。やはり外のほうが寒かったらしい。
流石は社長の息子の部屋と言うべきか。
大きなオーディオスピーカーが目を惹く。調度品も一級品のようだ。
机上には最新のタブレット型コンピュータが乗っている。
玩具も良い物を買い与えられているらしい。
フィオラノは興味があるらしく「カッコイイですねー」と目を輝かせていた。
「あ、そうだ。これ、アンリ君に見て貰おっかな」
小さな指が軽やかにタブレットを数回タップした。
画面に映ったものを見て、僕は驚いた。
「君、株やってるの?」
「うん。ちょっと。パパのマネ」
そこには株取引の画面が映っていた。
「これ……君が一人でトレードしたの?」
「うん。そうだよ?」
「随分、利益があったんじゃない?」
「ううん。実際には買ってないから」
「嘘でしょう」
「ホントだよ? だって、もし失敗しちゃったら、僕のお小遣いなくなっちゃうもん」
彼は個人トレーダーとして凄い才能を持っている。投資会社を経営している僕から見ても。
「君、どうやって、株トレードの勉強をしたの?」
「してないよ、あんまり。だって難しそうなんだもん。
これは、なんとなく、勘でやってるだけ」
ならば、ただの偶然か。トレードするにあたって、何の根拠もなく、
勘だけでこれほどのトレードができるのなら、天性の才能というべきか。
「これ、カイム社長には――お父さんには見せたの?」
「見せてないよ?」
「では、どうして始めたの? その年で株なんて」
「パパがやってるみたいだから。僕もやってみたかったんだ」
どうしてだろう。彼の言葉はチクリを僕の胸を刺した。
「僕ね、アンリ君みたいになれたらいいな」
「僕みたいに?」
「うん。パパと一緒にお仕事できるようになれたら、
もっと仲良くなれるかもしれないから」
少年は照れたように笑っていた。
「僕、大きくなったら、パパのお手伝いできるかな? ねえ、アンリ君はどう思う?」
「それは僕に聞くことではないよ」
「えっ?」
「ああ、成程。アミィ様次第だということですね」
と言いながら、一人でフィオラノが頷いている。
「あっ、そっか。そうだよね。解ったよ。ありがとう、アンリ君!」
何故僕が礼を言われたのだろう。
ところで、と言ってフィオラノが話題を変える。
「アミィ様は先程、我が社の社長のファンだと仰っていましたが、
どうして、社長のことをご存知だったのですか?」
「アンリ君のことはね、パパから聞いたの。
高校生なのに、投資会社の社長さんなんだよって。
今度、その社長さんとお仕事できることになったんだよって」
「へえ。そんなこと、父親が子供に話すんだ。仲が良いんだね、カイム親子は」
少年は首を振った。
「パパが僕とお話してくれるようになったのは最近になってからだよ?
子供の頃は全然遊んで貰えなかったんだ。パパは仕事が忙しいから」
今も子供だと思うけれど。もっと幼い時のことを言っているのだろう。
「でもね、前ね、僕が風邪で三日くらい寝込んだ時があってね。
その時はホントに風邪だったんだけど、なかなか治らないから、
パパが『悪魔が憑いたせいじゃないか』って言い出したんだ。
それからは、パパが僕のこと凄く心配してくれて、
僕、嬉しいなって思っちゃったんだ。パパは僕のこと嫌いじゃなかった、
大切な子供だって思ってくれてたんだ、って、その時、初めて思えて」
「そう」
「神父様はね、本物のエクソシストなんだけど、
今は僕の演技に合わせて協力してくれてるだけ。
先生がパパに呼ばれて、僕を初めて診察した時にね、
先生はすぐに『これは悪魔のせいではなく、ただの風邪ですね』って言ったんだよ。
でも僕がお願いしたんだ。『パパには言わないで、悪魔が憑いてることにして』って」
「では、君が悪魔憑きというのは、全部お芝居?」
「う、うん。ごめんなさい。でも、あの、パパにはナイショにして」
僕とフィオラノは顔を見合わせる。
「お願いっ」
懇願する少年に、フィオラノが微笑みかけた。
「解りました。お父様には内緒、ですね?」
僕はひとつ気になることがあった。
「ねえ」
「なあに、アンリ君」
「では、さっき大人達が話していた、“呪いの紙”を君の部屋に仕掛けたのは?」
「僕だよ」
あまりにもあっさりと認めた。
「ネットとか本で調べたの、やってみたんだ」
「あのねえ」
僕は呆れ、憤りさえ感じた。今の時代は、良くも悪くも情報収集が簡単過ぎる。
第一、呪詛返しという言葉を知らないのか、と口から出そうになって、止めた。
相手は、神秘学の受講生でも何でもない、ただの子供なのだ。
「呪術というのは、そんな不用意に行って良いものではないと思うよ。
下手すれば、呪いをかけた本人に呪いが返ってくる場合もある」
「うん。それは神父様にも怒られちゃった。こういうことは、もうしちゃダメだよって。
悪魔が好きなことをすると、悪魔が来ちゃうかもしれないからって」
呪いの紙に関しては彼が単独で行ったものらしい。神父に叱られるのは当然だ。
しかし、神父は何故、少年の“悪魔憑きごっこ”なんかに付き合っているのだろう。
それこそ、何かを呼び寄せかねない危険な遊びではないのだろうか。
→
ここまで社長の息子に付き合ってやる意味はないのだけれど、
パーティ会場から抜け出す理由にはなったから。
それにしても、子供部屋にしては随分立派な部屋だ。
今、僕達がティラミスを食べている場所は子供部屋のベランダに設置されたテラスだった。
目の前に広がっているのは森とそれに続く草原。その先にローマの街並みがある。
テラスは、濃い色の木の柵で囲われた空間で、そこここに緑の植物が飾られている。
鳥でさえテラスを森だと思っているのか、柵の上では一羽の野鳩が羽を休めている。
のんびりとクチバシで羽の掃除をしているようだった。
今は夜だが、昼間なら太陽光が差し込み、確かにここも森の一部のように感じられるだろう。
夜のテラスを囲う柵は定間隔でランプが灯されている。
ウッドテーブルには、品の良いキャンドル。
森と草原の向こうでオレンジに煌めいているのはローマの夜景だ。
三階のテラスから、こんな景色が見えるのは、ここが空の広いローマ郊外だからだろう。
子供以上に大人が好みそうな空間に仕上がっているウッドテラスだ。
カアと鳴き声が聞こえた。近くの木にカラスが一羽止まっていた。
僕達のケーキを狙っているのか。
「アンリ君、アンリ君。ティラミス、美味しい?」
「悪くなかったね」
僕は最後の一口を口に入れる。
「悪くないってことは良いってことだよね? 良かった!」
できれば飲み物はカフェオレではなく、
紅茶にして欲しかったけれど。ここはコーヒー文化が根付くイタリアだ。
「ねえ、秘書さんも、ティラミス美味しかった?」
「はい。美味しかったです。私までご馳走して頂きまして、ありがとうございました」
偽秘書のフィオラノが、にっこりと子供に微笑みかけると、
アミィも嬉しそうに笑顔を返していた。
僕は少し具合が悪くなってきているのを感じていた。
久し振りにコーヒーを飲んだせいか、なんとなく鼓動が早い気がするし、
昨夜の寝不足が響いているのか、頭が重かった。
「ご歓談中、失礼致します」
幾つか鳥の鳴き声が通り過ぎて行く。部屋の中から黒髪の男がテラスへ入って来た。
先程、僕達にティラミスやカフェオレをサーブした若い男だった。
アミィにはヴィネと呼ばれていた。
この家の使用人らしい。担当はアミィの世話係といったところか。
年は20代のように見えるが、覇気のない青い目をしていた。
「アミィ様。そろそろお部屋の中へ。直に冷えてまいります。もう夜なのですから」
「まだ寒くないよー。ねっ、アンリ君?」
面倒な。子供から目を逸らしたら、世話係と目が合った。
僕に何かを訴えかけるような目を向けられても困る。
「そう言えば、丁度ちょっと寒くなってきたなあ、と思ってたところだったんですよ」
横から口を出したのはフィオラノだった。
「実は、風邪が治ったばかりで」
コホコホ、と咳してみせる。わざとらしい。
「えっ? そうだったの!? 秘書さん、大丈夫?」
アミィは騙されたらしい。
「じゃあ、あんまりお外に居ると、秘書さん、また風邪引いちゃうかなあ?」
問われた世話係は頷いた。
「そうですね。お部屋に入って頂いたほうがよろしいのでは?」
「じゃあ、みんな、中に入ろう。いいかな、アンリ君?」
僕達はテラスから子供部屋へと移動することになった。
アミィは世話係にフィオラノに温かい飲み物を用意するよう頼んでいた。
子供部屋の中に入ると、少し暖かかった。やはり外のほうが寒かったらしい。
流石は社長の息子の部屋と言うべきか。
大きなオーディオスピーカーが目を惹く。調度品も一級品のようだ。
机上には最新のタブレット型コンピュータが乗っている。
玩具も良い物を買い与えられているらしい。
フィオラノは興味があるらしく「カッコイイですねー」と目を輝かせていた。
「あ、そうだ。これ、アンリ君に見て貰おっかな」
小さな指が軽やかにタブレットを数回タップした。
画面に映ったものを見て、僕は驚いた。
「君、株やってるの?」
「うん。ちょっと。パパのマネ」
そこには株取引の画面が映っていた。
「これ……君が一人でトレードしたの?」
「うん。そうだよ?」
「随分、利益があったんじゃない?」
「ううん。実際には買ってないから」
「嘘でしょう」
「ホントだよ? だって、もし失敗しちゃったら、僕のお小遣いなくなっちゃうもん」
彼は個人トレーダーとして凄い才能を持っている。投資会社を経営している僕から見ても。
「君、どうやって、株トレードの勉強をしたの?」
「してないよ、あんまり。だって難しそうなんだもん。
これは、なんとなく、勘でやってるだけ」
ならば、ただの偶然か。トレードするにあたって、何の根拠もなく、
勘だけでこれほどのトレードができるのなら、天性の才能というべきか。
「これ、カイム社長には――お父さんには見せたの?」
「見せてないよ?」
「では、どうして始めたの? その年で株なんて」
「パパがやってるみたいだから。僕もやってみたかったんだ」
どうしてだろう。彼の言葉はチクリを僕の胸を刺した。
「僕ね、アンリ君みたいになれたらいいな」
「僕みたいに?」
「うん。パパと一緒にお仕事できるようになれたら、
もっと仲良くなれるかもしれないから」
少年は照れたように笑っていた。
「僕、大きくなったら、パパのお手伝いできるかな? ねえ、アンリ君はどう思う?」
「それは僕に聞くことではないよ」
「えっ?」
「ああ、成程。アミィ様次第だということですね」
と言いながら、一人でフィオラノが頷いている。
「あっ、そっか。そうだよね。解ったよ。ありがとう、アンリ君!」
何故僕が礼を言われたのだろう。
ところで、と言ってフィオラノが話題を変える。
「アミィ様は先程、我が社の社長のファンだと仰っていましたが、
どうして、社長のことをご存知だったのですか?」
「アンリ君のことはね、パパから聞いたの。
高校生なのに、投資会社の社長さんなんだよって。
今度、その社長さんとお仕事できることになったんだよって」
「へえ。そんなこと、父親が子供に話すんだ。仲が良いんだね、カイム親子は」
少年は首を振った。
「パパが僕とお話してくれるようになったのは最近になってからだよ?
子供の頃は全然遊んで貰えなかったんだ。パパは仕事が忙しいから」
今も子供だと思うけれど。もっと幼い時のことを言っているのだろう。
「でもね、前ね、僕が風邪で三日くらい寝込んだ時があってね。
その時はホントに風邪だったんだけど、なかなか治らないから、
パパが『悪魔が憑いたせいじゃないか』って言い出したんだ。
それからは、パパが僕のこと凄く心配してくれて、
僕、嬉しいなって思っちゃったんだ。パパは僕のこと嫌いじゃなかった、
大切な子供だって思ってくれてたんだ、って、その時、初めて思えて」
「そう」
「神父様はね、本物のエクソシストなんだけど、
今は僕の演技に合わせて協力してくれてるだけ。
先生がパパに呼ばれて、僕を初めて診察した時にね、
先生はすぐに『これは悪魔のせいではなく、ただの風邪ですね』って言ったんだよ。
でも僕がお願いしたんだ。『パパには言わないで、悪魔が憑いてることにして』って」
「では、君が悪魔憑きというのは、全部お芝居?」
「う、うん。ごめんなさい。でも、あの、パパにはナイショにして」
僕とフィオラノは顔を見合わせる。
「お願いっ」
懇願する少年に、フィオラノが微笑みかけた。
「解りました。お父様には内緒、ですね?」
僕はひとつ気になることがあった。
「ねえ」
「なあに、アンリ君」
「では、さっき大人達が話していた、“呪いの紙”を君の部屋に仕掛けたのは?」
「僕だよ」
あまりにもあっさりと認めた。
「ネットとか本で調べたの、やってみたんだ」
「あのねえ」
僕は呆れ、憤りさえ感じた。今の時代は、良くも悪くも情報収集が簡単過ぎる。
第一、呪詛返しという言葉を知らないのか、と口から出そうになって、止めた。
相手は、神秘学の受講生でも何でもない、ただの子供なのだ。
「呪術というのは、そんな不用意に行って良いものではないと思うよ。
下手すれば、呪いをかけた本人に呪いが返ってくる場合もある」
「うん。それは神父様にも怒られちゃった。こういうことは、もうしちゃダメだよって。
悪魔が好きなことをすると、悪魔が来ちゃうかもしれないからって」
呪いの紙に関しては彼が単独で行ったものらしい。神父に叱られるのは当然だ。
しかし、神父は何故、少年の“悪魔憑きごっこ”なんかに付き合っているのだろう。
それこそ、何かを呼び寄せかねない危険な遊びではないのだろうか。
→
■悪魔の神秘06 続編
カイム社長と神父を中心に、いい年をした大人達は、まだ悪魔の話をしている。
僕は飲み物を取りに行くフリでもして、そっと輪から抜けようと思った。
「社長?」
僕が一歩動くと、フィオラノに気付かれた。
「飲み物を取ってくる」
と言うとフィオラノは少し笑って、
「畏まりました」
十数人の輪から離れると、少し涼しく感じた。遠巻きに彼等を眺めてみる。
輪の中心では悪魔談義が続いている。興味津々で耳を傾けている人も居るようだが、
あのテーブルから離れるに従って、小馬鹿にしながら聞いている率が高まるのだろう。
「ぼっちゃんの部屋に呪いの紙をしかけるだなんて、恐ろしいことをする人が居るものですね」
「本当に。一体誰がそんなことを」
隣のテーブルで眉を顰めて噂話をするご婦人方は、どこか嬉しそうに見えた。
「カイム家を呪おうなんて考えるのは、きっと取引先の人間だよ」
「ああ、そうかもしれんなあ」
ご婦人方の連れらしい男が二人来た。
二人とも派手で変な柄のシャツを着ている。大人達の噂話が続く。
「カイムさんとこの会社に恨みでもあるんじゃないか?」
「でも、そんなことで呪ったりするかしら?」
「カイムさんは、仕事では結構シビアで、容赦なく契約を打ち切ったりするらしいからね」
「仕事上の知人なら、アミィ君の部屋に侵入できないだろう?」
「ああ、そうか。いや、でも、こういうパーティがあれば、不可能とも言い切れないさ」
「そうかねえ?」
「呪いの紙に関しては、カイムさんのお姉さんなんじゃないかしら」
「そう言えば、お姉さんが居るんだっけ。ちょっと陰湿そうな感じの」
「苦労してる人みたいだから、弟の成功を妬んで、とか」
「カイムさんのお姉さんなら、アミィ君の部屋にも入れるかもしれないね」
「大人とは限らないよ。アミィ君の同級生にやられてるんじゃないか?」
「成程。同級生なら部屋に遊びに行けるもんなあ」
「何かで見て覚えた呪いを試してみたくなったのかしら」
「遊び半分で、呪いの紙をカーペットの下に滑り込ませたか」
「本当に子供が犯人だったら後味悪いな」
「あら。大人でも後味は悪いですよ」
「大人でも子供でも、『悪魔の力を借りた呪い』って手段が嫌だよな」
「そうですね。第一、悪魔なんてもの居る筈がないのに」
僕の隣に誰か立った。
「悪魔憑きについては、他の皆さんも半信半疑のようですね」
一日秘書のフィオラノだ。悪魔談義の輪の中に置いてきたのに。
「なんだ。君も抜けてきたの?」
「社長のお側に控えているのが秘書ですから……なんて、理由は社長と一緒ですよ」
フィオラノも長い悪魔談義に嫌気が差したようだ。
「全く。カイム社長も、大勢の前であんな話をするなんて。
余程、取引先を減らしたいのかな?」
「昨日、成功したばかりの商談、考え直しますか、社長?」
「商談を破棄するには、惜しい相手なんだよね。
悪魔憑きに関しては、仕事とは関係のない、言わばプライベートな話だし。
当初より彼への期待度は下がったけれど、暫くは様子見、かな」
「畏まりました、社長」
そう言うフィオラノは本当に秘書みたいだった。
マンゾーニ・ファミリーで次期ボスの右腕を務めるフィオラノなら、
投資会社の右腕も、似たようなものなのかもしれない。
彼なら、仕事を覚えるのも早そうだし、実際に僕の秘書にもなれるかもしれない。
運転手に加え、ボディガードの役割だって果たせるし。
これまでだって、僕がイタリアに滞在している時は、秘書のような仕事をしてくれていた。
そう考えると、フィオラノは本当に参謀役として申し分のない人間だ。
アンダーグラウンドで働いて、その手を血で汚すより、
僕ならもっと日の光を浴びられる仕事をさせてあげられるのに。
「ねえ」
「はい。何でしょうか、社長?」
「君、これからも僕の秘書を務めてみる? このままずっと」
「えっ?」
「アンリ君、アンリ君」
スーツの裾を引っ張られた。振り返ってみると、そこに居たのは社長の息子だった。
「パーティなんかつまんないでしょ? 僕の部屋来てよ」
何を言い出すんだ、この子供は。
「何故、僕が君の部屋に行かなくてはならないの?」
「アンリ君、ケーキ好き?」
「……嫌いではないけれど」
「じゃあ、僕の部屋で一緒に食べよっ!」
グイと裾が引っ張られる。
「美味しいケーキ貰ったの。アンリ君にもひとつあげる!」
→
僕は飲み物を取りに行くフリでもして、そっと輪から抜けようと思った。
「社長?」
僕が一歩動くと、フィオラノに気付かれた。
「飲み物を取ってくる」
と言うとフィオラノは少し笑って、
「畏まりました」
十数人の輪から離れると、少し涼しく感じた。遠巻きに彼等を眺めてみる。
輪の中心では悪魔談義が続いている。興味津々で耳を傾けている人も居るようだが、
あのテーブルから離れるに従って、小馬鹿にしながら聞いている率が高まるのだろう。
「ぼっちゃんの部屋に呪いの紙をしかけるだなんて、恐ろしいことをする人が居るものですね」
「本当に。一体誰がそんなことを」
隣のテーブルで眉を顰めて噂話をするご婦人方は、どこか嬉しそうに見えた。
「カイム家を呪おうなんて考えるのは、きっと取引先の人間だよ」
「ああ、そうかもしれんなあ」
ご婦人方の連れらしい男が二人来た。
二人とも派手で変な柄のシャツを着ている。大人達の噂話が続く。
「カイムさんとこの会社に恨みでもあるんじゃないか?」
「でも、そんなことで呪ったりするかしら?」
「カイムさんは、仕事では結構シビアで、容赦なく契約を打ち切ったりするらしいからね」
「仕事上の知人なら、アミィ君の部屋に侵入できないだろう?」
「ああ、そうか。いや、でも、こういうパーティがあれば、不可能とも言い切れないさ」
「そうかねえ?」
「呪いの紙に関しては、カイムさんのお姉さんなんじゃないかしら」
「そう言えば、お姉さんが居るんだっけ。ちょっと陰湿そうな感じの」
「苦労してる人みたいだから、弟の成功を妬んで、とか」
「カイムさんのお姉さんなら、アミィ君の部屋にも入れるかもしれないね」
「大人とは限らないよ。アミィ君の同級生にやられてるんじゃないか?」
「成程。同級生なら部屋に遊びに行けるもんなあ」
「何かで見て覚えた呪いを試してみたくなったのかしら」
「遊び半分で、呪いの紙をカーペットの下に滑り込ませたか」
「本当に子供が犯人だったら後味悪いな」
「あら。大人でも後味は悪いですよ」
「大人でも子供でも、『悪魔の力を借りた呪い』って手段が嫌だよな」
「そうですね。第一、悪魔なんてもの居る筈がないのに」
僕の隣に誰か立った。
「悪魔憑きについては、他の皆さんも半信半疑のようですね」
一日秘書のフィオラノだ。悪魔談義の輪の中に置いてきたのに。
「なんだ。君も抜けてきたの?」
「社長のお側に控えているのが秘書ですから……なんて、理由は社長と一緒ですよ」
フィオラノも長い悪魔談義に嫌気が差したようだ。
「全く。カイム社長も、大勢の前であんな話をするなんて。
余程、取引先を減らしたいのかな?」
「昨日、成功したばかりの商談、考え直しますか、社長?」
「商談を破棄するには、惜しい相手なんだよね。
悪魔憑きに関しては、仕事とは関係のない、言わばプライベートな話だし。
当初より彼への期待度は下がったけれど、暫くは様子見、かな」
「畏まりました、社長」
そう言うフィオラノは本当に秘書みたいだった。
マンゾーニ・ファミリーで次期ボスの右腕を務めるフィオラノなら、
投資会社の右腕も、似たようなものなのかもしれない。
彼なら、仕事を覚えるのも早そうだし、実際に僕の秘書にもなれるかもしれない。
運転手に加え、ボディガードの役割だって果たせるし。
これまでだって、僕がイタリアに滞在している時は、秘書のような仕事をしてくれていた。
そう考えると、フィオラノは本当に参謀役として申し分のない人間だ。
アンダーグラウンドで働いて、その手を血で汚すより、
僕ならもっと日の光を浴びられる仕事をさせてあげられるのに。
「ねえ」
「はい。何でしょうか、社長?」
「君、これからも僕の秘書を務めてみる? このままずっと」
「えっ?」
「アンリ君、アンリ君」
スーツの裾を引っ張られた。振り返ってみると、そこに居たのは社長の息子だった。
「パーティなんかつまんないでしょ? 僕の部屋来てよ」
何を言い出すんだ、この子供は。
「何故、僕が君の部屋に行かなくてはならないの?」
「アンリ君、ケーキ好き?」
「……嫌いではないけれど」
「じゃあ、僕の部屋で一緒に食べよっ!」
グイと裾が引っ張られる。
「美味しいケーキ貰ったの。アンリ君にもひとつあげる!」
→
■悪魔の神秘05 続編
社長の息子は、次々に話しかけてきた。
「アンリ君はフランス人なんだよね?」
「そうだけれど?」
カッコイイ、と少年は言った。
「アンリ君、フランス人なのに英語上手だね!」
「まあ、英語は必要だったから。でも、それは君もじゃない?
イタリア人なのに、英語が話せるんだね」
「うん。ママがイギリスの人なの。もう死んじゃったけど」
僕は、そう、とだけ言った。
「アンリ君、イタリア語は?」
「日常会話レベルかな。まだ足りないね。今、勉強中だから」
「そうなんだー!」
前回パレルモに行った時、思ったより、解らないイタリア語が多かった。
あれからずっとイタリア語の勉強をしていたと言う必要はない。
「イタリア語で解らないことがあったら、僕が教えてあげるよ!
代わりに僕にはフランス語教えてね! 僕、フランス語は全然知らないから」
人懐っこい子供だ。純粋な瞳で僕を見上げてくる。人を疑うことを知らないのか。
僕もこんな子供だったら、と一瞬思う。
いや、僕が純粋な子供時代を過ごせていたら、僕はここに居なかっただろう。
この歳から事業経営なんてしていなかっただろうから。
「あ、神父様!」
社長の息子が大きな声を出した。神父様と呼ばれた人物は、それらしい格好はしていなかった。
ごく普通の黒っぽいスーツを身に付けた眼鏡の男。
年は40歳後半くらいだろうか。眼鏡の紳士は目尻に皺を寄せながら、
「こんばんは、アミィ君」
「神父様、こっちこっち!」
少年は神父の手を引いて、こちらの、父親が居るテーブルにやってくる。
「こんばんは、カイムさん。今宵はお招きありがとうございます」
神父が丁寧に挨拶をすると、カイム社長は神父の手を握りながら、
「いえいえ。お忙しい中、お越し下さり、ありがとうございます。
今日はゆっくりしていって下さい」
「悪魔祓い師の神父……」
僕の呟きは本人の耳にも聞こえたようで、
「はい。バラムと申します」と挨拶された。
眼鏡レンズ越しに濃緑の瞳が僕を観察した。
「エクソシストは珍しいですか?」
「ええ、まあ」
「神父様は」カイム氏は子息の肩を抱き寄せ「この子の恩人なのですよ」
カイム社長が語ったところによると要はこういうことだ。
半年程前、子供の体調不良が続くようになったらしい。
最初は社長も子供も、風邪が長引いているのだと考えていた。
その頃、社長が仕事で付き合いのある友人から、知り合いが悪魔憑きになった話を聞いたそうだ。
風邪の治りが悪いのか、ずっと熱っぽい状態で、更には左腕に痛みがあったらしい。
医師に処方された薬でも治らないので、神父に悪魔祓いをして貰ったところ、すぐに完治。
社長も信じ難い話ではあったが、もしかしたらうちの息子も助かるかもと思い、
知り合いの神父に息子を診せたところ悪魔憑きだと言われた、らしい。
社長は最初、僕に向かって話をしていたのだが、気が付くと周りに人が集まっていた。
来客の殆どがこのテーブルを囲むようにして、社長が語る悪魔の話を聞いていた。
「カイム社長、人間が悪魔に憑かれると、具体的にはどうなるのですか?」
一人の客人が尋ねた。先程から熱心に頷きながら聞いている痩せた男だ。
社長のご機嫌取りがしたいのだろう。社長が質問に答える。
「私は悪魔祓いの儀式に立ち会わせて頂いたことがあるのですが、
本当に悪魔が憑いているとしか考えられない状況でした。
悪魔に憑依されている時のアミィは、12歳の子供とは思えない程、低い声で喋るのです。
かと思えば、少女のような声で泣き出したり、突然叫び出したり。
神父様が「汝、名を名乗りなさい」とお尋ねになった時、
アミィは「セーレ」と名乗りました。神父様曰く、セーレというのは、
美しい少年の姿をしており、翼の生えた馬に乗っている悪魔の名だそうで。
悪魔祓いが終わったあと、アミィにその話をしたら、以前、夢で見たことがあると言うじゃありませんか」
ご機嫌取りが目を見開いて驚く。
「夢で見た? その、悪魔をですか?」
「ええ。そうだろう、アミィ?」
「うん。男の子でね、僕と同じくらいの年みたいだった。
青い目で、綺麗な銀色の髪ので、真っ白のペガサスを連れてた。
僕は森の中に居て、一人で遊んでて、そしたら、その男の子が後ろに立ってて、
『淋しそうだね』『一緒に遊ぼう?』って言われたんだよ。
僕は嬉しくって、それで森の中で一緒に遊んだんだ。
いっぱい遊んだら、暗くなってきて、僕が「もうおうちに帰らなきゃ」って言ったら、
その男の子が『もう帰っちゃうの? もっと遊ぼうよ』って。
でも僕が『あんまり遅くなるとパパが心配するから。また明日遊ぼう?
ねえ、君はどこに住んでるの? 僕のうちの近くかな?』って聞いたら、
男の子は空を指差した。僕は意味が解らなくて、もう一回『どこに住んでるの?』って言ったんだ。
そしたら、『今はあの辺に住んでるよ。本当はもっともっと高いところに居たんだけどね。
僕達は、あの方に嫌われちゃって、下界に堕とされちゃったから』って」
神父が口を開く。
「物や人を棲み家としている悪魔もおりますが、悪魔の多くは空気中に潜んでおりますから」
「あの方に嫌われたというのは?」とご機嫌取り。
「神のことです。神の意に反した天使は地に堕とされます。その堕天使こそが悪魔なのです」
「では、悪魔というのは、元は天使?」
「ええ。その通りです」
白髪混じりのご婦人が生徒のように手を挙げた。
「あの、神父様? ちょっとお尋ねしてもよろしいですか?」
「はい。何でしょう?」
「悪魔憑きというのは、よくあることなのでしょうか?
悪魔祓いの依頼を受けても、その全ての人に悪魔が憑いているわけではないんでしょう?」
「ええ、そうですね。悪魔憑きの判断は一般の方には難しいものですから。
悪魔の仕業ではなく、お身体やお心のご病気の場合が殆どですので、
その際はお医者様と連携を取りながら、医療機関への受診をお勧めしております」
「では、本当に悪魔が憑いている場合もあるということですね?」
答えは「はい」だった。
「そんなに心配なさらなくとも大丈夫ですよ、奥様。私が祓ってきた悪魔は、
今までご相談頂いた件数の0.1パーセントにも満たない数ですから」
成程。あの神父は、あくまで『悪魔は居る』と言い張るわけか。
ギャラリーは静かにざわめいている。感想でも言い合っているのだろう。
カイム社長は次にこんなことを言い出した。
「それから、家で呪いの道具が見つかったこともありまして」
「呪いの、道具ですか?」
「はい。ある日、アミィが足が痛いと言い出したことがあって。
病院に連れて行ったのですが、お医者様にはどこも悪くないと言われました。
確かに、傷口もないし、赤く腫れているわけでもに、真っ白な足なのです。
それでも、アミィはこのところずっと痛くて、
毎日だんだん痛みが強くなっていると言うものですから、
また悪魔が悪さをしているのかと思って、神父様にご相談したんです。
神父様にアミィを診て頂いたら、『足の痛い部分に触れてみても良いですか』と仰ったので、
アミィに靴と靴下を脱がせました。神父様に青い小瓶に入った透明な液体を手に付け、
その手でアミィの足に触れたのです。すると、アミィは『痛い!』と叫びました。
消毒薬でも塗ったのかと思いましたが、傷口もないのに痛がる筈がありません。
一体何を塗ったのですか、と私はお尋ねしました」
神父は厳かに語る。
「アミィ君の足に付けたのは、聖水でした。悪魔祓いの儀式でも使用するものです。
悪魔は概して、聖なるもの、清らかなるものを嫌がります。
アミィ君の足は、悪魔から何らかの影響を受けているのだと思いました」
「神父様は仰いました。アミィの部屋、それもフローリングのほうに、
何か良くないものがあるようです。一度、調べて貰えませんか、と。
それで、カーペットをめくってみたところ」
「何があったのですか」
「黒い紙が一枚ありました」とカイム氏。
「紙? それが一枚だけですか?」
「はい。黒い紙に赤い絵の具で棒人間のような絵と、
何語か解らない文字の羅列が描かれていました。
私に読めたのは、『アミィ』という文字だけでした。それを神父様に見て頂いたんです」
神父は言う。
「その黒い紙に記されていたのは呪いの一種でした。
呪文を書いた紙に、呪いたい人物の名を書き、悪魔の力を借りて相手を痛めつける。
その呪いの紙を用意したのは悪魔ではなく人間です。
どなたか、悪魔を崇拝する者、サタニストが用意したものだと思われます」
とエクソシストが言った。
→
「アンリ君はフランス人なんだよね?」
「そうだけれど?」
カッコイイ、と少年は言った。
「アンリ君、フランス人なのに英語上手だね!」
「まあ、英語は必要だったから。でも、それは君もじゃない?
イタリア人なのに、英語が話せるんだね」
「うん。ママがイギリスの人なの。もう死んじゃったけど」
僕は、そう、とだけ言った。
「アンリ君、イタリア語は?」
「日常会話レベルかな。まだ足りないね。今、勉強中だから」
「そうなんだー!」
前回パレルモに行った時、思ったより、解らないイタリア語が多かった。
あれからずっとイタリア語の勉強をしていたと言う必要はない。
「イタリア語で解らないことがあったら、僕が教えてあげるよ!
代わりに僕にはフランス語教えてね! 僕、フランス語は全然知らないから」
人懐っこい子供だ。純粋な瞳で僕を見上げてくる。人を疑うことを知らないのか。
僕もこんな子供だったら、と一瞬思う。
いや、僕が純粋な子供時代を過ごせていたら、僕はここに居なかっただろう。
この歳から事業経営なんてしていなかっただろうから。
「あ、神父様!」
社長の息子が大きな声を出した。神父様と呼ばれた人物は、それらしい格好はしていなかった。
ごく普通の黒っぽいスーツを身に付けた眼鏡の男。
年は40歳後半くらいだろうか。眼鏡の紳士は目尻に皺を寄せながら、
「こんばんは、アミィ君」
「神父様、こっちこっち!」
少年は神父の手を引いて、こちらの、父親が居るテーブルにやってくる。
「こんばんは、カイムさん。今宵はお招きありがとうございます」
神父が丁寧に挨拶をすると、カイム社長は神父の手を握りながら、
「いえいえ。お忙しい中、お越し下さり、ありがとうございます。
今日はゆっくりしていって下さい」
「悪魔祓い師の神父……」
僕の呟きは本人の耳にも聞こえたようで、
「はい。バラムと申します」と挨拶された。
眼鏡レンズ越しに濃緑の瞳が僕を観察した。
「エクソシストは珍しいですか?」
「ええ、まあ」
「神父様は」カイム氏は子息の肩を抱き寄せ「この子の恩人なのですよ」
カイム社長が語ったところによると要はこういうことだ。
半年程前、子供の体調不良が続くようになったらしい。
最初は社長も子供も、風邪が長引いているのだと考えていた。
その頃、社長が仕事で付き合いのある友人から、知り合いが悪魔憑きになった話を聞いたそうだ。
風邪の治りが悪いのか、ずっと熱っぽい状態で、更には左腕に痛みがあったらしい。
医師に処方された薬でも治らないので、神父に悪魔祓いをして貰ったところ、すぐに完治。
社長も信じ難い話ではあったが、もしかしたらうちの息子も助かるかもと思い、
知り合いの神父に息子を診せたところ悪魔憑きだと言われた、らしい。
社長は最初、僕に向かって話をしていたのだが、気が付くと周りに人が集まっていた。
来客の殆どがこのテーブルを囲むようにして、社長が語る悪魔の話を聞いていた。
「カイム社長、人間が悪魔に憑かれると、具体的にはどうなるのですか?」
一人の客人が尋ねた。先程から熱心に頷きながら聞いている痩せた男だ。
社長のご機嫌取りがしたいのだろう。社長が質問に答える。
「私は悪魔祓いの儀式に立ち会わせて頂いたことがあるのですが、
本当に悪魔が憑いているとしか考えられない状況でした。
悪魔に憑依されている時のアミィは、12歳の子供とは思えない程、低い声で喋るのです。
かと思えば、少女のような声で泣き出したり、突然叫び出したり。
神父様が「汝、名を名乗りなさい」とお尋ねになった時、
アミィは「セーレ」と名乗りました。神父様曰く、セーレというのは、
美しい少年の姿をしており、翼の生えた馬に乗っている悪魔の名だそうで。
悪魔祓いが終わったあと、アミィにその話をしたら、以前、夢で見たことがあると言うじゃありませんか」
ご機嫌取りが目を見開いて驚く。
「夢で見た? その、悪魔をですか?」
「ええ。そうだろう、アミィ?」
「うん。男の子でね、僕と同じくらいの年みたいだった。
青い目で、綺麗な銀色の髪ので、真っ白のペガサスを連れてた。
僕は森の中に居て、一人で遊んでて、そしたら、その男の子が後ろに立ってて、
『淋しそうだね』『一緒に遊ぼう?』って言われたんだよ。
僕は嬉しくって、それで森の中で一緒に遊んだんだ。
いっぱい遊んだら、暗くなってきて、僕が「もうおうちに帰らなきゃ」って言ったら、
その男の子が『もう帰っちゃうの? もっと遊ぼうよ』って。
でも僕が『あんまり遅くなるとパパが心配するから。また明日遊ぼう?
ねえ、君はどこに住んでるの? 僕のうちの近くかな?』って聞いたら、
男の子は空を指差した。僕は意味が解らなくて、もう一回『どこに住んでるの?』って言ったんだ。
そしたら、『今はあの辺に住んでるよ。本当はもっともっと高いところに居たんだけどね。
僕達は、あの方に嫌われちゃって、下界に堕とされちゃったから』って」
神父が口を開く。
「物や人を棲み家としている悪魔もおりますが、悪魔の多くは空気中に潜んでおりますから」
「あの方に嫌われたというのは?」とご機嫌取り。
「神のことです。神の意に反した天使は地に堕とされます。その堕天使こそが悪魔なのです」
「では、悪魔というのは、元は天使?」
「ええ。その通りです」
白髪混じりのご婦人が生徒のように手を挙げた。
「あの、神父様? ちょっとお尋ねしてもよろしいですか?」
「はい。何でしょう?」
「悪魔憑きというのは、よくあることなのでしょうか?
悪魔祓いの依頼を受けても、その全ての人に悪魔が憑いているわけではないんでしょう?」
「ええ、そうですね。悪魔憑きの判断は一般の方には難しいものですから。
悪魔の仕業ではなく、お身体やお心のご病気の場合が殆どですので、
その際はお医者様と連携を取りながら、医療機関への受診をお勧めしております」
「では、本当に悪魔が憑いている場合もあるということですね?」
答えは「はい」だった。
「そんなに心配なさらなくとも大丈夫ですよ、奥様。私が祓ってきた悪魔は、
今までご相談頂いた件数の0.1パーセントにも満たない数ですから」
成程。あの神父は、あくまで『悪魔は居る』と言い張るわけか。
ギャラリーは静かにざわめいている。感想でも言い合っているのだろう。
カイム社長は次にこんなことを言い出した。
「それから、家で呪いの道具が見つかったこともありまして」
「呪いの、道具ですか?」
「はい。ある日、アミィが足が痛いと言い出したことがあって。
病院に連れて行ったのですが、お医者様にはどこも悪くないと言われました。
確かに、傷口もないし、赤く腫れているわけでもに、真っ白な足なのです。
それでも、アミィはこのところずっと痛くて、
毎日だんだん痛みが強くなっていると言うものですから、
また悪魔が悪さをしているのかと思って、神父様にご相談したんです。
神父様にアミィを診て頂いたら、『足の痛い部分に触れてみても良いですか』と仰ったので、
アミィに靴と靴下を脱がせました。神父様に青い小瓶に入った透明な液体を手に付け、
その手でアミィの足に触れたのです。すると、アミィは『痛い!』と叫びました。
消毒薬でも塗ったのかと思いましたが、傷口もないのに痛がる筈がありません。
一体何を塗ったのですか、と私はお尋ねしました」
神父は厳かに語る。
「アミィ君の足に付けたのは、聖水でした。悪魔祓いの儀式でも使用するものです。
悪魔は概して、聖なるもの、清らかなるものを嫌がります。
アミィ君の足は、悪魔から何らかの影響を受けているのだと思いました」
「神父様は仰いました。アミィの部屋、それもフローリングのほうに、
何か良くないものがあるようです。一度、調べて貰えませんか、と。
それで、カーペットをめくってみたところ」
「何があったのですか」
「黒い紙が一枚ありました」とカイム氏。
「紙? それが一枚だけですか?」
「はい。黒い紙に赤い絵の具で棒人間のような絵と、
何語か解らない文字の羅列が描かれていました。
私に読めたのは、『アミィ』という文字だけでした。それを神父様に見て頂いたんです」
神父は言う。
「その黒い紙に記されていたのは呪いの一種でした。
呪文を書いた紙に、呪いたい人物の名を書き、悪魔の力を借りて相手を痛めつける。
その呪いの紙を用意したのは悪魔ではなく人間です。
どなたか、悪魔を崇拝する者、サタニストが用意したものだと思われます」
とエクソシストが言った。
→
■悪魔の神秘04 続編
翌日、別件の商談を済ませたあと、僕達はカイム邸のホームパーティに向かった。
今日の連れは秘書役のフィオラノのみ。ディーノの姿はない。
『昼間はパパにおつかいを頼まれてる』だとか。どうでもいいけど。
フィオラノの話では、今日は他にマンゾーニ・ファミリーの舎弟が、
数人近くに控えているらしい。今のところ、彼等の姿は僕の目に映っていないけれど。
オーギュストはホテルに置いてきた。
彼には「私も第二秘書役で行きたいな」などと言われそうだったから、
そう言われる前に「君は連れて行かないから、今日はローマ観光でもしてて」
と僕のほうから言っておいたのだ。
意外にあっさりと教師は「解ったよ」と言った。随分聞き分けが良いと思ったら、
「これをポケットに入れて行きなさい」と小さな十字架を渡された。
十字架は悪魔が嫌いな物のひとつ、らしいけれど。
まあ、青くて綺麗だったから、スーツの内ポケットに入れてあげた。
フィオラノが運転する車で、ローマの中心地を抜けていく。
昨日の商談で渡された招待状。それにはカイム邸の場所はローマ郊外だと記されていた。
僕は後部座席の窓から街並みを眺める。日は暮れ始め、街全体が夕焼け色に染まっていく。
古代ローマ帝国の都だからだろうか。古い建築物から、栄華と衰退の美しさを感じるのは。
「アンリさん、そろそろ起きて下さい。もうすぐ着きやすよ」
フィオラノの声で目が覚めた。少し眠っていたらしい。
外はもう暗くなっている。車窓から見える景色は、殆ど草原になっていた。
偶に家がぽつぽつと点在しているような田舎の景色だ。
「ほら、向こうに見える、あの白くて大きいお邸、あれがカイム社長のご自宅みたいです」
今、僕達が居る草原の先に、徐々に木が増え、森のようになっている場所があった。
その森の中に、ぽつん佇むと白い家が見えた。
「あれ? アンリさん、起きてます?」
返事しないでいたら、また声をかけられた。
「……起きてる」
眠い。起きたばかりで頭がぼうっとする。
誰かの話が長くて、昨夜の授業が長引いたせいだ。
木々の中を車で走っていくと、直に今夜の目的地に到着した。
僕は秘書役のフィオラノを伴って、カイム邸の前に立つ。
高さは三階くらいか。社長の邸ならこんなものだろう。
鳥達が邸の広い屋根に群れて留まっていた。
「おっきなうちだなあ。ああ。なんだか緊張しやすねえ」
邸を見上げながら偽秘書のフィオラノがぼそりと零していた。
「平気だよ、君は。その妙な話し方だけ気を付けてくれれば」
「へい……あ、じゃなくて、はい、社長」
人選を誤っただろうか。
邸の中に入ると、使用人に案内され、パーティ会場となるホールに来た。
なかなか広い。天井には、天使の飾りが付いたシャンデリアがあった。
今日のフィオラノは落ち着いた色のスーツを着用している。
シルバーの眼鏡も知的に見える。伊達だそうだけれど。
見た目は十分、本物の秘書のようだ。
「違和感ないね、秘書として」
「そうですか? ありがとうございます」
彼はこういうフォーマルで大人しい服装も着こなせる。
誰が彼をマフィアだと思うだろう。マンゾーニ・ファミリーの中では貴重な存在だ。
「おお、サン・ジェルマンさん、ようこそいらっしゃいました」
シャンパングラスを片手に、カイム氏がやってきた。
白に近いクリーム色をしたタキシード姿。
「お忙しい中、突然のお誘いにお付き合い下さり、
ありがとうございます、サン・ジェルマンさん」
「こちらこそ。お招きありがとうございます」
「そちらがサン・ジェルマンさんの秘書さんですかな?」
「ええ」
昨日の帰り際、秘書一人を連れて行っても良いかと聞いたところ、
もちろん構わないと言われた。一日秘書のフィオラノが頭を下げる。
「わたくしは、秘書のフェネクスと申します」
フェネクス? 覚え難い偽名だな。
「本日は私まで出席をお許し頂き、ありがとうございます」
「いえいえ。今日はいつもお世話になっている方々を招いての、
小さなパーティーですから、秘書さんもどうぞお寛ぎになって下さい」
「他のお客様もビジネスでお付き合いのある方々なのですか?」
フィオラノは自然に他の来客について尋ねた。
「ええ。他に私の友人、知人も居ますよ」
「そのようなパーティーに、新参者の我が社もお招き頂き、光栄です」
「こちらこそ。サン・ジェルマンさんは将来有望ですからな。
これから長いお付き合いができますよう願っておりますよ」
「ありがとうございます。ご期待を裏切らぬよう、精進して参ります」
秘書役の配役に間違いはなかったようだ。
ディーノを据えていたら、今頃、会場を追い出されていたかもしれない。
「パパ!」
タキシードを着た少年がこちらに来た。小学校高学年か中学生くらいに見える。
パパと呼んでいたから、カイム氏の子供のようだ。
ということは、この子が悪魔に憑かれている息子か。
とてもそんなふうには見えない。元気そうな少年だ。
「ねえ、パパ、その人がアンリ君?」
「そうだよ」
「うわ。すごい。近くで見ると本当に女の人みたい」
なんなの、この子供。
「こら、アミィ。失礼だよ。すみません、サン・ジェルマンさん。
アミィ、初めて会う人にはまずご挨拶しなさいと言っているだろう?」
「ああ、そうだった」
子供は姿勢を正した。
「初めまして。アミィ・カイムです。
ねえ! アンリ君はまだ高校生なのに投資会社の社長なんだよね?」
馴れ馴れしい子供だな。
「そうだけれど?」
「僕、ファンなんです! 握手して下さい!」
「こらこら、アミィ。サン・ジェルマンさんが困っているだろう」
「カイム社長のご子息がファンとは光栄なことですね。
喜んで握手させて頂きますよ。ね、社長?」
フィオラノにそう言われて、僕は手を出さざるを得なくなった。
仕方ない。これもビジネスの一環だ。
「初めまして。アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマンです」
「初めまして! 会えて嬉しいです!」
嬉しそうに握り返してくる少年の手は、ひんやりと冷たかった。
→
今日の連れは秘書役のフィオラノのみ。ディーノの姿はない。
『昼間はパパにおつかいを頼まれてる』だとか。どうでもいいけど。
フィオラノの話では、今日は他にマンゾーニ・ファミリーの舎弟が、
数人近くに控えているらしい。今のところ、彼等の姿は僕の目に映っていないけれど。
オーギュストはホテルに置いてきた。
彼には「私も第二秘書役で行きたいな」などと言われそうだったから、
そう言われる前に「君は連れて行かないから、今日はローマ観光でもしてて」
と僕のほうから言っておいたのだ。
意外にあっさりと教師は「解ったよ」と言った。随分聞き分けが良いと思ったら、
「これをポケットに入れて行きなさい」と小さな十字架を渡された。
十字架は悪魔が嫌いな物のひとつ、らしいけれど。
まあ、青くて綺麗だったから、スーツの内ポケットに入れてあげた。
フィオラノが運転する車で、ローマの中心地を抜けていく。
昨日の商談で渡された招待状。それにはカイム邸の場所はローマ郊外だと記されていた。
僕は後部座席の窓から街並みを眺める。日は暮れ始め、街全体が夕焼け色に染まっていく。
古代ローマ帝国の都だからだろうか。古い建築物から、栄華と衰退の美しさを感じるのは。
「アンリさん、そろそろ起きて下さい。もうすぐ着きやすよ」
フィオラノの声で目が覚めた。少し眠っていたらしい。
外はもう暗くなっている。車窓から見える景色は、殆ど草原になっていた。
偶に家がぽつぽつと点在しているような田舎の景色だ。
「ほら、向こうに見える、あの白くて大きいお邸、あれがカイム社長のご自宅みたいです」
今、僕達が居る草原の先に、徐々に木が増え、森のようになっている場所があった。
その森の中に、ぽつん佇むと白い家が見えた。
「あれ? アンリさん、起きてます?」
返事しないでいたら、また声をかけられた。
「……起きてる」
眠い。起きたばかりで頭がぼうっとする。
誰かの話が長くて、昨夜の授業が長引いたせいだ。
木々の中を車で走っていくと、直に今夜の目的地に到着した。
僕は秘書役のフィオラノを伴って、カイム邸の前に立つ。
高さは三階くらいか。社長の邸ならこんなものだろう。
鳥達が邸の広い屋根に群れて留まっていた。
「おっきなうちだなあ。ああ。なんだか緊張しやすねえ」
邸を見上げながら偽秘書のフィオラノがぼそりと零していた。
「平気だよ、君は。その妙な話し方だけ気を付けてくれれば」
「へい……あ、じゃなくて、はい、社長」
人選を誤っただろうか。
邸の中に入ると、使用人に案内され、パーティ会場となるホールに来た。
なかなか広い。天井には、天使の飾りが付いたシャンデリアがあった。
今日のフィオラノは落ち着いた色のスーツを着用している。
シルバーの眼鏡も知的に見える。伊達だそうだけれど。
見た目は十分、本物の秘書のようだ。
「違和感ないね、秘書として」
「そうですか? ありがとうございます」
彼はこういうフォーマルで大人しい服装も着こなせる。
誰が彼をマフィアだと思うだろう。マンゾーニ・ファミリーの中では貴重な存在だ。
「おお、サン・ジェルマンさん、ようこそいらっしゃいました」
シャンパングラスを片手に、カイム氏がやってきた。
白に近いクリーム色をしたタキシード姿。
「お忙しい中、突然のお誘いにお付き合い下さり、
ありがとうございます、サン・ジェルマンさん」
「こちらこそ。お招きありがとうございます」
「そちらがサン・ジェルマンさんの秘書さんですかな?」
「ええ」
昨日の帰り際、秘書一人を連れて行っても良いかと聞いたところ、
もちろん構わないと言われた。一日秘書のフィオラノが頭を下げる。
「わたくしは、秘書のフェネクスと申します」
フェネクス? 覚え難い偽名だな。
「本日は私まで出席をお許し頂き、ありがとうございます」
「いえいえ。今日はいつもお世話になっている方々を招いての、
小さなパーティーですから、秘書さんもどうぞお寛ぎになって下さい」
「他のお客様もビジネスでお付き合いのある方々なのですか?」
フィオラノは自然に他の来客について尋ねた。
「ええ。他に私の友人、知人も居ますよ」
「そのようなパーティーに、新参者の我が社もお招き頂き、光栄です」
「こちらこそ。サン・ジェルマンさんは将来有望ですからな。
これから長いお付き合いができますよう願っておりますよ」
「ありがとうございます。ご期待を裏切らぬよう、精進して参ります」
秘書役の配役に間違いはなかったようだ。
ディーノを据えていたら、今頃、会場を追い出されていたかもしれない。
「パパ!」
タキシードを着た少年がこちらに来た。小学校高学年か中学生くらいに見える。
パパと呼んでいたから、カイム氏の子供のようだ。
ということは、この子が悪魔に憑かれている息子か。
とてもそんなふうには見えない。元気そうな少年だ。
「ねえ、パパ、その人がアンリ君?」
「そうだよ」
「うわ。すごい。近くで見ると本当に女の人みたい」
なんなの、この子供。
「こら、アミィ。失礼だよ。すみません、サン・ジェルマンさん。
アミィ、初めて会う人にはまずご挨拶しなさいと言っているだろう?」
「ああ、そうだった」
子供は姿勢を正した。
「初めまして。アミィ・カイムです。
ねえ! アンリ君はまだ高校生なのに投資会社の社長なんだよね?」
馴れ馴れしい子供だな。
「そうだけれど?」
「僕、ファンなんです! 握手して下さい!」
「こらこら、アミィ。サン・ジェルマンさんが困っているだろう」
「カイム社長のご子息がファンとは光栄なことですね。
喜んで握手させて頂きますよ。ね、社長?」
フィオラノにそう言われて、僕は手を出さざるを得なくなった。
仕方ない。これもビジネスの一環だ。
「初めまして。アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマンです」
「初めまして! 会えて嬉しいです!」
嬉しそうに握り返してくる少年の手は、ひんやりと冷たかった。
→
■悪魔の神秘03 続編
悪魔は、今、どこに居るでしょう?
聞き手が神秘学の受講生でなければ、変人の戯言だと言われても仕方のない台詞。
まるで、なぞなぞみたいな問題だけれど、神秘学の授業では、
こういった類の問題が、実際に試験問題として出題される場合がある。
僕は神秘学の受講生として回答を考える。
悪魔は普段どこに棲息してるのか。ヒントは既に出ていた。
「悪魔が好きな場所に居るんでしょう? 廃墟とか、洞窟とか」
「ああ。それも正解だね。でも、もっと広い範囲で考えていいんだよ?」
「……広い範囲って何」
「これは先に答えを言おうか。大きく分けて三箇所に悪魔は居る。
一つ目は地獄だ。これは想像に難くない所だね」
地獄とかも入るなんて聞いてない。
「二つ目は空気中。そこにもここにも居るということだね。
面白いところでは、空気中にはぎっしり悪魔が居るという説もあるんだよ?」
教授は笑っているが、別に面白くはない。
「では三つ目。最後の場所は解るね?」
教師は手を胸に当てた。
「人間の中だ。これが悪魔憑きと言われる現象だね。
悪魔に身体と心を乗っ取られ、悪魔的な言動をとってしまうことだ。
精密に言えば、悪魔憑きには二種類あって、
悪魔が身体の外側に付着する『オブセッション』と、
身体の内側、体内に入ってしまう『ポゼッション』がある。
どちらの悪魔憑きが多いのかと言えば、圧倒的に後者だろうね。
悪魔は聖人の体内には入り難いが、一般人の体内には容易く入れるそうだから」
悪魔は人間の身体に棲むことができるということか。この僕の中にも。
「悪魔憑きの話が出たところで、イタリアでの悪魔憑きについて話しておこうか。
アンリがフィオラノ君からも聞いたように、
イタリアでは現実に、悪魔憑きと悪魔祓いが行われている。
国内で年間50万人の相談者に対して、公式エクソシストは300名程。
圧倒的にエクソシストが不足していることから、
イタリアのある大学ではエクソシストの養成講座や勉強会が開かれ、
エクソシストの迅速な育成が急務となっているんだよ、本当にね」
それが事実なら、僕は意見がある。
授業の時と同じように、片手を挙げてから発言した。
「急がなくてはならないのは、悪魔祓い師を増やすことではないんじゃない?」
「悪魔憑きを減らす方法を考えるべきだ、ということだね?」
僕は頷いた。
「もちろん、そういう意見もある。悪魔憑きに懐疑的な精神科医や心理学者は、
悪魔憑きは、病気の一種だと考えているからね」
「どんな?」
「精神医学の見地から言えば、悪魔憑きの症状は、『解離性同一性障害』、
『解離性トランス障害』の病名で説明できるそうだよ。いわゆる『多重人格』だね」
成程と僕は思った。確かに、悪魔憑きを、悪魔という別人格として捉えれば、
悪魔憑きは、二重人格や多重人格に当てはまるのではないか。
得体の知れない者に憑依されたなどと時代錯誤なことを言うよりは、
精神の病気だと考えるほうが、余程科学的だと言える。
「それでも、イタリアで、悪魔憑きが無くならないのには理由がある。
イタリアでは『貴方は解離性同一性障害』だと言われるより、
『貴方は悪魔憑き』だと言われるほうが良いと考えている人が少なくない」
「どうして」
「イタリア人は、精神の病だと診断されると酷く傷付く。
何にも代え難い侮辱のように感じてしまうんだ。
気が狂ったと言われるよりは、悪魔憑きのほうがずっとまし。
だから、悪魔憑きの相談者がこんなにも多くなってしまうのかもしれないね」
そんなことがあるのか。病気だと言われるより悪魔に憑かれているほうが良いだなんて。
「悪魔憑きの是非について、イタリア国内でも意見は割れている。
しかし実際に、悪魔祓いの儀式によって、心を癒やされ、救われる人が居るのは事実だ。
幾つもの病院に行き、どんな薬を処方されても効果がなかった患者が、
最後に辿り着いた神父の元で、悪魔祓いの儀式を受け、やっと癒される。
それが現実に起こっているんだよ、イタリアではね」
ボージェ教授は窓のほうを見ていた。
「では、エクソシストの話に移ろうか。イタリアのバチカンには有名なエクソシストも多いが、
世界で最も、力の強いエクソシストは誰だか解るかい?
アンリも知っている筈だよ。一度は読んだことがあるだろうから」
「知らない」
「聖書だよ。思い出してごらん? 聖書には、悪魔や、悪魔祓いについて記述がある。
キリストが悪魔祓いを行う場面があっただろう? 世界で最強のエクソシストはキリストだ」
教師はどこか遠い目をしていた。
「ところで。存在の有無は別にして、何故、この世に悪魔という概念があるんだろう?
何故、悪魔という存在が生まれたんだと思う?」
「何故、悪魔が生まれたか?」
「うん。この世にある、ということは、必要だから『ある』んだと思うんだ。
一体、誰が最初に、悪魔を必要としたんだろうね?」
僕は少し考えたあと、思ったことを発言する。
「やっぱり、犯罪者とかじゃないの?
自分が犯した罪を『悪魔にそそのかされたせいだ』って言い訳する為に」
「成程。一理あるね」
教師は頷いたが、「正解」とは言わなかった。
「ボージェ教授が用意していた答えとは違うんだね? 正解は?」
誰が最初に、悪魔を必要としたか。教師がその答えを告げる。
彼が口にしたのは、悪魔と対極にある存在だった。
「神だよ」
僕は思わず聞き返した。
「神が悪魔を必要としたと言うの? 敵対者なのに?」
「うん。敵対者だから必要だったんだ。
一元論でありながら、二元論的性格を持つキリスト教ではね」
意味が解らない。彼の言っていることが理解できない。
「こんな話をすると、敬虔なクリスチャンからは、
怒られてしまうだろうけれど。悪魔学の見地から言えば、
神が唯一の善なる神である為には、悪魔という存在が必要不可欠なんだよ」
教師は詩を朗読するように解説する。
「何故、自分に嫌なことばかり起こるのか。何故、自分が事故に遭わなくてはならないのか。
何故、世界から犯罪がなくならないのか。何故、世界から病がなくならないのか。
この世の理不尽な不幸を、神ではなく、他の何かのせいにする為に」
世の全てを司るのが神ならば、世の幸福も不幸も神のせいになる。
その中で、不幸だけは、神のせいでないことにする為に、
悪魔という存在が生まれたというのか。神が唯一の善なる存在である為に。
「……だから、悪魔を欲したのは神」
僕の独白に、神秘学の権威が頷く。
「そう。悪魔なしに、神は成立しないんだ」
→
聞き手が神秘学の受講生でなければ、変人の戯言だと言われても仕方のない台詞。
まるで、なぞなぞみたいな問題だけれど、神秘学の授業では、
こういった類の問題が、実際に試験問題として出題される場合がある。
僕は神秘学の受講生として回答を考える。
悪魔は普段どこに棲息してるのか。ヒントは既に出ていた。
「悪魔が好きな場所に居るんでしょう? 廃墟とか、洞窟とか」
「ああ。それも正解だね。でも、もっと広い範囲で考えていいんだよ?」
「……広い範囲って何」
「これは先に答えを言おうか。大きく分けて三箇所に悪魔は居る。
一つ目は地獄だ。これは想像に難くない所だね」
地獄とかも入るなんて聞いてない。
「二つ目は空気中。そこにもここにも居るということだね。
面白いところでは、空気中にはぎっしり悪魔が居るという説もあるんだよ?」
教授は笑っているが、別に面白くはない。
「では三つ目。最後の場所は解るね?」
教師は手を胸に当てた。
「人間の中だ。これが悪魔憑きと言われる現象だね。
悪魔に身体と心を乗っ取られ、悪魔的な言動をとってしまうことだ。
精密に言えば、悪魔憑きには二種類あって、
悪魔が身体の外側に付着する『オブセッション』と、
身体の内側、体内に入ってしまう『ポゼッション』がある。
どちらの悪魔憑きが多いのかと言えば、圧倒的に後者だろうね。
悪魔は聖人の体内には入り難いが、一般人の体内には容易く入れるそうだから」
悪魔は人間の身体に棲むことができるということか。この僕の中にも。
「悪魔憑きの話が出たところで、イタリアでの悪魔憑きについて話しておこうか。
アンリがフィオラノ君からも聞いたように、
イタリアでは現実に、悪魔憑きと悪魔祓いが行われている。
国内で年間50万人の相談者に対して、公式エクソシストは300名程。
圧倒的にエクソシストが不足していることから、
イタリアのある大学ではエクソシストの養成講座や勉強会が開かれ、
エクソシストの迅速な育成が急務となっているんだよ、本当にね」
それが事実なら、僕は意見がある。
授業の時と同じように、片手を挙げてから発言した。
「急がなくてはならないのは、悪魔祓い師を増やすことではないんじゃない?」
「悪魔憑きを減らす方法を考えるべきだ、ということだね?」
僕は頷いた。
「もちろん、そういう意見もある。悪魔憑きに懐疑的な精神科医や心理学者は、
悪魔憑きは、病気の一種だと考えているからね」
「どんな?」
「精神医学の見地から言えば、悪魔憑きの症状は、『解離性同一性障害』、
『解離性トランス障害』の病名で説明できるそうだよ。いわゆる『多重人格』だね」
成程と僕は思った。確かに、悪魔憑きを、悪魔という別人格として捉えれば、
悪魔憑きは、二重人格や多重人格に当てはまるのではないか。
得体の知れない者に憑依されたなどと時代錯誤なことを言うよりは、
精神の病気だと考えるほうが、余程科学的だと言える。
「それでも、イタリアで、悪魔憑きが無くならないのには理由がある。
イタリアでは『貴方は解離性同一性障害』だと言われるより、
『貴方は悪魔憑き』だと言われるほうが良いと考えている人が少なくない」
「どうして」
「イタリア人は、精神の病だと診断されると酷く傷付く。
何にも代え難い侮辱のように感じてしまうんだ。
気が狂ったと言われるよりは、悪魔憑きのほうがずっとまし。
だから、悪魔憑きの相談者がこんなにも多くなってしまうのかもしれないね」
そんなことがあるのか。病気だと言われるより悪魔に憑かれているほうが良いだなんて。
「悪魔憑きの是非について、イタリア国内でも意見は割れている。
しかし実際に、悪魔祓いの儀式によって、心を癒やされ、救われる人が居るのは事実だ。
幾つもの病院に行き、どんな薬を処方されても効果がなかった患者が、
最後に辿り着いた神父の元で、悪魔祓いの儀式を受け、やっと癒される。
それが現実に起こっているんだよ、イタリアではね」
ボージェ教授は窓のほうを見ていた。
「では、エクソシストの話に移ろうか。イタリアのバチカンには有名なエクソシストも多いが、
世界で最も、力の強いエクソシストは誰だか解るかい?
アンリも知っている筈だよ。一度は読んだことがあるだろうから」
「知らない」
「聖書だよ。思い出してごらん? 聖書には、悪魔や、悪魔祓いについて記述がある。
キリストが悪魔祓いを行う場面があっただろう? 世界で最強のエクソシストはキリストだ」
教師はどこか遠い目をしていた。
「ところで。存在の有無は別にして、何故、この世に悪魔という概念があるんだろう?
何故、悪魔という存在が生まれたんだと思う?」
「何故、悪魔が生まれたか?」
「うん。この世にある、ということは、必要だから『ある』んだと思うんだ。
一体、誰が最初に、悪魔を必要としたんだろうね?」
僕は少し考えたあと、思ったことを発言する。
「やっぱり、犯罪者とかじゃないの?
自分が犯した罪を『悪魔にそそのかされたせいだ』って言い訳する為に」
「成程。一理あるね」
教師は頷いたが、「正解」とは言わなかった。
「ボージェ教授が用意していた答えとは違うんだね? 正解は?」
誰が最初に、悪魔を必要としたか。教師がその答えを告げる。
彼が口にしたのは、悪魔と対極にある存在だった。
「神だよ」
僕は思わず聞き返した。
「神が悪魔を必要としたと言うの? 敵対者なのに?」
「うん。敵対者だから必要だったんだ。
一元論でありながら、二元論的性格を持つキリスト教ではね」
意味が解らない。彼の言っていることが理解できない。
「こんな話をすると、敬虔なクリスチャンからは、
怒られてしまうだろうけれど。悪魔学の見地から言えば、
神が唯一の善なる神である為には、悪魔という存在が必要不可欠なんだよ」
教師は詩を朗読するように解説する。
「何故、自分に嫌なことばかり起こるのか。何故、自分が事故に遭わなくてはならないのか。
何故、世界から犯罪がなくならないのか。何故、世界から病がなくならないのか。
この世の理不尽な不幸を、神ではなく、他の何かのせいにする為に」
世の全てを司るのが神ならば、世の幸福も不幸も神のせいになる。
その中で、不幸だけは、神のせいでないことにする為に、
悪魔という存在が生まれたというのか。神が唯一の善なる存在である為に。
「……だから、悪魔を欲したのは神」
僕の独白に、神秘学の権威が頷く。
「そう。悪魔なしに、神は成立しないんだ」
→
カレンダー
| 06 | 2026/07 | 08 |
| S | M | T | W | T | F | S |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | 4 | |||
| 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
| 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
| 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
| 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
ブログ内検索
キャラ名、CP名などで作品検索可
最新記事
(02/22)
(02/20)
(02/18)
(02/16)
(01/16)
(12/18)
(09/20)
(08/18)
(08/15)
(05/05)
(04/22)
(04/15)
(03/28)
(03/27)
(03/13)
アーカイブ
カウンター