クラウスとテオが暮らしているのは、シュヌーシアという名前の第三学生寮。
放課後になると、寮生達は寮のサロンに集まってくる。
クラウスとテオも教科書を部屋に置いたあと、サロンにやってきた。
扉を開けると、部屋の中央には、天井まで届きそうな大きさのクリスマスツリー。
11月下旬に寮生みんなで飾り付けをしたツリーだ。
ちなみにツリーの用意、企画をしたのはテオである。
クラウスは邪魔そうにツリーを避けて歩きながら、
一人掛けのソファに着く。その隣の席にテオが座った。
一人の生徒がテレビのリモコンを握っており、
「何か面白いのやってないかなー」とチャンネルを変えていた。
サロンの扉が静かに開く。部屋に入ってきた少年は問題集とペンケースを持っていた。
サラサラの栗毛をした中等部一年生、ラビット・マルセロだ。
誰かを見つけ、サロンの隅にあるテーブルに向かった。
先に席に着いていた少年は、右手に持ったシャーペンを器用にクルクルを回していた。
ラビットが座ると、得意げにシャーペン回しの技を披露して、ラビットを苦笑させていた。
シュヌーシア寮の最高学年であるクラウスは、そんな下級生達の無言劇を遠目に見守ったあと、
ソファの側に置かれている新聞をバサリと広げた。
「アリシアだ! いつ見てもキレーだなー」
赤いロングドレスの女性がテレビに映り、チャンネル変えが止まった。
40歳手前だと感じさせない女性的なボディラインに、美しいブロンドの髪。
クリスマスソングが世界中でヒットした歌姫だ。
「歌手のアリシア・キャリーさんがクリスマスツアー初日当日に公演をキャンセル。
所属事務所は、アリシアさんの体調不良による公演延期と説明」
「へえー」
「アリシアはやっぱイイよなー。俺があと十年早く生まれてたら」
「十年早く生まれてたって、お前なんか見向きもされないって」
「なんだよー。そんなのわかんないだろー」
「けれど、心配だね。クリスマスと言えば彼女の季節だし、せっかくのクリスマスツアーなのに」
寮生達が歌手の話をしている中、
クラウスは手にしている新聞の端から、ある生徒の様子を確かめていた。
サロンのドアが開く。シュヌーシア寮のバトラーだ。
ゆるゆると甘い香りが流れてくる。
「皆様、『天使も惑う悪魔の誘惑』はいかがですか?」
わっと生徒が集まってくる。バトラーが持ってきたのは、
この時期、シュヌーシア寮では毎年大人気のホットチョコレートである。
「ありがとう、バトラー! ああ、その名の通り、なんて魅惑的な香りだ」
寮生達にホットチョコレートを配り終わると、バトラーは生徒代表の側にやってきた。
「クラウス様にはコーヒーをお持ち致しましょうか?」
甘いものが苦手なことを心得ているので、そう申し出たのだが、反応がない。
「クラウス様?」
ある生徒を見ていたクラウスが、やっとバトラーに気付く。
「え? ああ、すまん。どうした?」
バトラーは首を傾げながら、
「ええっと。あの、クラウス様も本日は『天使も惑う悪魔の誘惑』をお飲みになりますか?」
「いや無理だ。俺にはコーヒーを頼む」
「あ、はい。畏まりました」
クラウスは再び新聞に視線を戻す。内容は頭に入ってこない。
新聞の一点を見つめながら、先程見た生徒のこと考えていた。
目の前に広げている宿題が進んでいる様子はなかった。
不機嫌な顔をしながら、奴はシャーペンを回してた。
→
放課後になると、寮生達は寮のサロンに集まってくる。
クラウスとテオも教科書を部屋に置いたあと、サロンにやってきた。
扉を開けると、部屋の中央には、天井まで届きそうな大きさのクリスマスツリー。
11月下旬に寮生みんなで飾り付けをしたツリーだ。
ちなみにツリーの用意、企画をしたのはテオである。
クラウスは邪魔そうにツリーを避けて歩きながら、
一人掛けのソファに着く。その隣の席にテオが座った。
一人の生徒がテレビのリモコンを握っており、
「何か面白いのやってないかなー」とチャンネルを変えていた。
サロンの扉が静かに開く。部屋に入ってきた少年は問題集とペンケースを持っていた。
サラサラの栗毛をした中等部一年生、ラビット・マルセロだ。
誰かを見つけ、サロンの隅にあるテーブルに向かった。
先に席に着いていた少年は、右手に持ったシャーペンを器用にクルクルを回していた。
ラビットが座ると、得意げにシャーペン回しの技を披露して、ラビットを苦笑させていた。
シュヌーシア寮の最高学年であるクラウスは、そんな下級生達の無言劇を遠目に見守ったあと、
ソファの側に置かれている新聞をバサリと広げた。
「アリシアだ! いつ見てもキレーだなー」
赤いロングドレスの女性がテレビに映り、チャンネル変えが止まった。
40歳手前だと感じさせない女性的なボディラインに、美しいブロンドの髪。
クリスマスソングが世界中でヒットした歌姫だ。
「歌手のアリシア・キャリーさんがクリスマスツアー初日当日に公演をキャンセル。
所属事務所は、アリシアさんの体調不良による公演延期と説明」
「へえー」
「アリシアはやっぱイイよなー。俺があと十年早く生まれてたら」
「十年早く生まれてたって、お前なんか見向きもされないって」
「なんだよー。そんなのわかんないだろー」
「けれど、心配だね。クリスマスと言えば彼女の季節だし、せっかくのクリスマスツアーなのに」
寮生達が歌手の話をしている中、
クラウスは手にしている新聞の端から、ある生徒の様子を確かめていた。
サロンのドアが開く。シュヌーシア寮のバトラーだ。
ゆるゆると甘い香りが流れてくる。
「皆様、『天使も惑う悪魔の誘惑』はいかがですか?」
わっと生徒が集まってくる。バトラーが持ってきたのは、
この時期、シュヌーシア寮では毎年大人気のホットチョコレートである。
「ありがとう、バトラー! ああ、その名の通り、なんて魅惑的な香りだ」
寮生達にホットチョコレートを配り終わると、バトラーは生徒代表の側にやってきた。
「クラウス様にはコーヒーをお持ち致しましょうか?」
甘いものが苦手なことを心得ているので、そう申し出たのだが、反応がない。
「クラウス様?」
ある生徒を見ていたクラウスが、やっとバトラーに気付く。
「え? ああ、すまん。どうした?」
バトラーは首を傾げながら、
「ええっと。あの、クラウス様も本日は『天使も惑う悪魔の誘惑』をお飲みになりますか?」
「いや無理だ。俺にはコーヒーを頼む」
「あ、はい。畏まりました」
クラウスは再び新聞に視線を戻す。内容は頭に入ってこない。
新聞の一点を見つめながら、先程見た生徒のこと考えていた。
目の前に広げている宿題が進んでいる様子はなかった。
不機嫌な顔をしながら、奴はシャーペンを回してた。
→
■シュヌーシア寮
■貴方の居ないクリスマス 続編
■貴方の居ないクリスマス 続編
「ああ。帝王学を受講して本当に良かった!」
緩やかな波のある金髪が、オレンジ色の太陽を浴びている。
「来週も楽しみにしているね。クラウスの活躍振りを」
隣を歩く生徒が息を吐いた。
「テオ。毎回言うようだが、授業は教授のほうを見て受けてくれ」
二人の影が肩を並べて歩いている。
本日の授業が全て終わり、生徒代表のクラウスと高等部二年のテオは、寮へ戻るところだった。
12月上旬の空は既に暮れ始め、宵闇が近いことを示していた。
「大体、お前は授業を真面目に」
「あっ、バロウズ!」
クラウスが小言を言いかけた時、テオが木の上に声をかけた。
そこには月桂樹の傍らで、梯子の頂上にまたがっている男が居た。
カーキ色の作業着に、同じような色のハンチング帽を被っているその男は、
首に金色のクリスマスモールを掛けていた。二人の生徒を見ると、帽子のつばを軽く持ち上げた。
「おや。テオ様、クラウス様。高いところから失礼致します」
テオはキラキラとした眼差しで見上げる。
「今年も月桂樹をクリスマスツリーに変身させてくれているのだね!」
はい、と穏やかな笑顔を見せた男が、聖アルフォンソ学院の森番を務めるバロウズ。
年齢は二十代後半から三十代前半だろうが、生徒に対して、とても礼儀正しかった。
顎に生やした無精髭も彼には似合っており、惰性ではなくファッションのひとつに見えた。
早朝ランニングを日課としているクラウスは、
その時、木々の手入れや掃除をしているバロウズを度々見かけるので、
職員の中ではよく言葉を交わす間柄ではあったが、ツリーの飾り付けに関しては初耳だった。
「ふうん。ツリーの飾り付けはバロウズがやっていたのか」
「はい。月桂樹に関することは全て森番の役目ですので」
「おや。知らなかったのかい、クラウス。私は知っていたよ!」
えへん、とテオは胸を張る。
「毎年バロウズが月桂樹をクリスマスツリーに変身させてくれているんだ。
月桂樹のクリスマスツリーを見ると、
今年もクリスマスの時期が来たのだなあと思って、ワクワクしてくるよ」
「そう言って頂ければ幸いです。ありがとうございます、テオ様」
「こちらこそ、毎年美しいツリーをありがとう、バロウズ。完成を楽しみにしているね」
「はい。それでは失礼致します」
森番と別れ、テオとクラウスは再び寮へ向かって歩く。
風が吹くと落ち葉が舞った。落葉樹の傍には黄色と茶色の絨毯ができている。
「楽しみだね、クリスマス」
テオは笑顔を見せていたが、クラウスはそうではなかった。
「ハロウィンをやったばかりだと思っていたが、もうクリスマスか」
「今年のクリスマスパーティーをどうするか、そろそろ決めなくてはいけないかな。
思いきり楽しいパーティーにするからね!」
「ほどほどにしてくれ。お前の考えるパーティーは派手過ぎるくらいだからな」
「そう?」
「そうだろう。去年などお前はパーティーだけでは飽き足らず、
クリスマスの夜、わざわざサンタの格好までして、
寮生全員にクリスマスプレゼントを置いて回ったりしただろう?」
「ああ、それはね。やはりクリスマスと言えばサンタさんだし。
けれど、今年は去年以上に最高のクリスマスにしなくては!」
「何故だ?」
「何故って」
テオは笑顔を見せた。
「クリスマスだもの。『No Fun No Christmas』だよ!」
テオはクラウスの背中に回る。
「ささ、早くサロンに帰って、放課後のブレイクタイムにしよう!」
「お、おい、押すなっ」
→
緩やかな波のある金髪が、オレンジ色の太陽を浴びている。
「来週も楽しみにしているね。クラウスの活躍振りを」
隣を歩く生徒が息を吐いた。
「テオ。毎回言うようだが、授業は教授のほうを見て受けてくれ」
二人の影が肩を並べて歩いている。
本日の授業が全て終わり、生徒代表のクラウスと高等部二年のテオは、寮へ戻るところだった。
12月上旬の空は既に暮れ始め、宵闇が近いことを示していた。
「大体、お前は授業を真面目に」
「あっ、バロウズ!」
クラウスが小言を言いかけた時、テオが木の上に声をかけた。
そこには月桂樹の傍らで、梯子の頂上にまたがっている男が居た。
カーキ色の作業着に、同じような色のハンチング帽を被っているその男は、
首に金色のクリスマスモールを掛けていた。二人の生徒を見ると、帽子のつばを軽く持ち上げた。
「おや。テオ様、クラウス様。高いところから失礼致します」
テオはキラキラとした眼差しで見上げる。
「今年も月桂樹をクリスマスツリーに変身させてくれているのだね!」
はい、と穏やかな笑顔を見せた男が、聖アルフォンソ学院の森番を務めるバロウズ。
年齢は二十代後半から三十代前半だろうが、生徒に対して、とても礼儀正しかった。
顎に生やした無精髭も彼には似合っており、惰性ではなくファッションのひとつに見えた。
早朝ランニングを日課としているクラウスは、
その時、木々の手入れや掃除をしているバロウズを度々見かけるので、
職員の中ではよく言葉を交わす間柄ではあったが、ツリーの飾り付けに関しては初耳だった。
「ふうん。ツリーの飾り付けはバロウズがやっていたのか」
「はい。月桂樹に関することは全て森番の役目ですので」
「おや。知らなかったのかい、クラウス。私は知っていたよ!」
えへん、とテオは胸を張る。
「毎年バロウズが月桂樹をクリスマスツリーに変身させてくれているんだ。
月桂樹のクリスマスツリーを見ると、
今年もクリスマスの時期が来たのだなあと思って、ワクワクしてくるよ」
「そう言って頂ければ幸いです。ありがとうございます、テオ様」
「こちらこそ、毎年美しいツリーをありがとう、バロウズ。完成を楽しみにしているね」
「はい。それでは失礼致します」
森番と別れ、テオとクラウスは再び寮へ向かって歩く。
風が吹くと落ち葉が舞った。落葉樹の傍には黄色と茶色の絨毯ができている。
「楽しみだね、クリスマス」
テオは笑顔を見せていたが、クラウスはそうではなかった。
「ハロウィンをやったばかりだと思っていたが、もうクリスマスか」
「今年のクリスマスパーティーをどうするか、そろそろ決めなくてはいけないかな。
思いきり楽しいパーティーにするからね!」
「ほどほどにしてくれ。お前の考えるパーティーは派手過ぎるくらいだからな」
「そう?」
「そうだろう。去年などお前はパーティーだけでは飽き足らず、
クリスマスの夜、わざわざサンタの格好までして、
寮生全員にクリスマスプレゼントを置いて回ったりしただろう?」
「ああ、それはね。やはりクリスマスと言えばサンタさんだし。
けれど、今年は去年以上に最高のクリスマスにしなくては!」
「何故だ?」
「何故って」
テオは笑顔を見せた。
「クリスマスだもの。『No Fun No Christmas』だよ!」
テオはクラウスの背中に回る。
「ささ、早くサロンに帰って、放課後のブレイクタイムにしよう!」
「お、おい、押すなっ」
→
■シュヌーシア寮
「ああ、メープル。秋の君はどうしてそんなに美しいの?」
片手を掲げ、一人でカエデの木に向かって問い掛けているその様子は、
まるでミュージカルの練習でもしているかのようだ。
普段から感動屋の彼の場合、これはただの独り言である。
ここはシュヌーシア寮の庭。足下には落葉樹の絨毯ができている。
先程から秋景色に心打たれているのは、この寮に住む金髪の上級生だ。
はらはらと赤い葉が舞い散る中、彼は木に微笑みかけていた。
「そんなに私を魅了して、一体どうするつもりだい?」
数秒後、彼は「あっ」と叫んだ。
「そうだ! その手があった!」
ちょっと待ってておくれー、と木に言い残し、彼はシュヌーシア寮へ走っていった。
サラサラの栗毛をした小柄な下級生が、寮へ向かって歩いていた。
保健室での定期カウンセリングを終えて、寮へ帰る途中だ。
すると、同じ寮の上級生を見つけた。上級生は落ち葉の上に体育座りしていた。
「あれ? テオだー」
近寄ってみると、テオは膝の上に乗せたスケッチブックに、
絵の具を塗っているところだった。傍らには絵の具用バケツもある。
上級生は下級生の顔を見ると、手を止めて、にこりと微笑んだ。
「ああ、ラビ。カウンセリングが終わったのだね。お疲れさま」
「うん。テオは絵を描いてたの?」
「そうなのだよ。先程まではメープルの木を愛でていただけだったのだけど、
この美しさは今限りなのかと思うと、切なくてねえ。
だから、今描き留めておかなくてはと思ったのだよ。あの、儚くも美しい色を」
「あの木を描いてたんだ。テオの絵、見てみたいな。僕、見てもいい?」
「もちろんだとも」
下級生は上級生の背後に回り、後ろから絵を覗き込んだ。
まだ作成途中だが、赤い木が華やかに描かれていた。
下級生は、目の前にある木と見比べながら、
「わあ、テオ、上手! すごい上手!」
「おや。そうかい? ふふ。ありがとう」
「テオ、すごいなあ」
そう言ってスケッチブックを眺めながら、下級生はパレットをチラチラ見ていた。
「ラビも一緒に描いてみるかい?」
「え? 僕?」
「うん。とっても楽しいよ?」
ラビは自分の部屋に戻ってきた。机の周りを探し始める。
「えっと、絵の具、絵の具……」
「お、やっと帰ってきたな、ラビ」
ベッドには同級生が寝転がっていた。
「あ、レオン、なあに? 僕、これから、お庭に行くんだけど……あ、あった」
「また外行くのか? てゆうか、何持ってんだよ?」
「ん? えのぐ」
「それは見りゃ解るけど」
「あのね。メープルの木、描くの。テオと一緒に」
「木ぃ? なんかの宿題か?」
「ううん。えっとね、ハカナクも、美しい色を、描き留めておかなくてはならないの!」
ラビはそう言いながら笑っている。レオンは首を捻っていた。
「あ、そうだっ」
ラビがレオンの手に触れる。
「レオンも一緒に描こっ? みんなで描いたら楽しいよ、きっと!」
生徒代表はシュヌーシア寮へ向かっていた。
授業後から今まで、生徒代表室で執務をしていたのだ。
キッチンの近くを通ると、何か良い匂いがした。生徒代表は腕時計を見る。
「夕食前には戻れたな。ん?」
庭のほうに複数の人影が見えた。
生徒代表が庭へ行ってみると、そこには寮生の殆どが集まっていた。
「あ、赤、なくなっちゃった。赤い絵の具貸してー」
皆、スケッチブックを抱え、絵筆や鉛筆などを握っていた。
「何やってるんだ、お前達?」
「あっ! クラウス!」
「見りゃ解んだろ、絵、描いてんだよ」
「それは解るが……課題でも出たのか?」
「あっ。クラウス、レオンとおんなじこと言ってるー」
「そんなに笑うなよ、ラビ!」
「それで、お前達は何故急に、写生会なんかやっているんだ?」
銀髪の生徒がデッサン用コンテをクイと向ける。
「最初はテオが一人で描いてたみたいだぜ?
それから、一人増え、二人増え、ってかんじ?」
他の生徒達も頷いている。
「なんか、皆が楽しそうに、わいわいやってんだもんな」
「俺、スケッチなんて暫くやってなかったけど、
久し振りにやると案外面白かったよ」
「ああ。来年は俺も美術の授業、選択してみよっかな。
今まで眠ってた才能が開花しちゃうかも!」
クシュン、という声がした。皆がそちらを向く。視線を浴びた下級生は俯いた。
生徒代表は眉間に皺を寄せ、苦々しく言った。
「おい、ラビ。お前、身体を冷やしたんじゃないのか?」
「だ、大丈夫だよ。テオに言われて、ちゃんと、あったかくしてきたし」
「上着を着ていても、この時期に長時間外に居れば、身体が冷えるのは当たり前だ。
少し考えれば解ることだろう。今日はもう終わりにして、寮の中に入れ」
「ご、ごめんなさい」
「ラビを怒らないでおくれ、クラウス。一緒に絵を描こうと誘ったのは私なんだ。
一枚羽織っておいでとは言ったのだけど、
そのあとは、私も絵に夢中になってしまって。
皆が寒そうにしていないかとか、気を配り切れていなかったと思う。
すまない、クラウス、ラビ。明日は気を付けるよ」
「明日?」
「うん。明日、今日の続きをやろうと思って」
「お? 明日もやんのか、テオ」
「うん。まだ絵が途中の子が多いようだし。
それから、絵が完成した暁には展覧会を開催する予定だよ?
他の寮の皆や先生方にも見て貰えるところに飾るんだ!」
「マジかよ? 聞いてねえぞ!」
「すまない。私も先程、思い付いたばかりだから。
皆の絵はどれも、とても素晴らしい作品だろう?
スケッチブックの中だけで展示しておいては、作品が可哀想だと思わないかい?」
生徒達は顔を見合わせる。
「うーん。まあ、テオがやりたいって言うんなら良いぜ?
そういうのは、数あったほうが派手に見えるだろうし」
「だな。仕方ねえ。俺の才能を世に知らしめてやるかっ」
「お前、さっきから調子乗り過ぎ!」
最上級生は他の生徒にも呼び掛ける。
「さあ、お前達も今日はもう片付けろ」
「俺、まだ色、塗り終わってなかったのにー」
「明日続きをやるんだろ? 第一、そろそろ夕食の時間だぞ?」
「え、もうそんな時間!?」
「そういや、ハラ減ったー」
「今日の晩ご飯、何かなー」
「今日は、カボチャのクリームシチューだって言ってたよ?」
「わっ、それ絶対うまいヤツじゃん! なら、さっさと片付けねえと!」
「僕もっ」
テキパキと片付けが始まった。
生徒代表はそんな後輩達の様子を見ながら息を吐く。
また一枚、赤い葉がひらりと舞った。
fin
片手を掲げ、一人でカエデの木に向かって問い掛けているその様子は、
まるでミュージカルの練習でもしているかのようだ。
普段から感動屋の彼の場合、これはただの独り言である。
ここはシュヌーシア寮の庭。足下には落葉樹の絨毯ができている。
先程から秋景色に心打たれているのは、この寮に住む金髪の上級生だ。
はらはらと赤い葉が舞い散る中、彼は木に微笑みかけていた。
「そんなに私を魅了して、一体どうするつもりだい?」
数秒後、彼は「あっ」と叫んだ。
「そうだ! その手があった!」
ちょっと待ってておくれー、と木に言い残し、彼はシュヌーシア寮へ走っていった。
サラサラの栗毛をした小柄な下級生が、寮へ向かって歩いていた。
保健室での定期カウンセリングを終えて、寮へ帰る途中だ。
すると、同じ寮の上級生を見つけた。上級生は落ち葉の上に体育座りしていた。
「あれ? テオだー」
近寄ってみると、テオは膝の上に乗せたスケッチブックに、
絵の具を塗っているところだった。傍らには絵の具用バケツもある。
上級生は下級生の顔を見ると、手を止めて、にこりと微笑んだ。
「ああ、ラビ。カウンセリングが終わったのだね。お疲れさま」
「うん。テオは絵を描いてたの?」
「そうなのだよ。先程まではメープルの木を愛でていただけだったのだけど、
この美しさは今限りなのかと思うと、切なくてねえ。
だから、今描き留めておかなくてはと思ったのだよ。あの、儚くも美しい色を」
「あの木を描いてたんだ。テオの絵、見てみたいな。僕、見てもいい?」
「もちろんだとも」
下級生は上級生の背後に回り、後ろから絵を覗き込んだ。
まだ作成途中だが、赤い木が華やかに描かれていた。
下級生は、目の前にある木と見比べながら、
「わあ、テオ、上手! すごい上手!」
「おや。そうかい? ふふ。ありがとう」
「テオ、すごいなあ」
そう言ってスケッチブックを眺めながら、下級生はパレットをチラチラ見ていた。
「ラビも一緒に描いてみるかい?」
「え? 僕?」
「うん。とっても楽しいよ?」
ラビは自分の部屋に戻ってきた。机の周りを探し始める。
「えっと、絵の具、絵の具……」
「お、やっと帰ってきたな、ラビ」
ベッドには同級生が寝転がっていた。
「あ、レオン、なあに? 僕、これから、お庭に行くんだけど……あ、あった」
「また外行くのか? てゆうか、何持ってんだよ?」
「ん? えのぐ」
「それは見りゃ解るけど」
「あのね。メープルの木、描くの。テオと一緒に」
「木ぃ? なんかの宿題か?」
「ううん。えっとね、ハカナクも、美しい色を、描き留めておかなくてはならないの!」
ラビはそう言いながら笑っている。レオンは首を捻っていた。
「あ、そうだっ」
ラビがレオンの手に触れる。
「レオンも一緒に描こっ? みんなで描いたら楽しいよ、きっと!」
生徒代表はシュヌーシア寮へ向かっていた。
授業後から今まで、生徒代表室で執務をしていたのだ。
キッチンの近くを通ると、何か良い匂いがした。生徒代表は腕時計を見る。
「夕食前には戻れたな。ん?」
庭のほうに複数の人影が見えた。
生徒代表が庭へ行ってみると、そこには寮生の殆どが集まっていた。
「あ、赤、なくなっちゃった。赤い絵の具貸してー」
皆、スケッチブックを抱え、絵筆や鉛筆などを握っていた。
「何やってるんだ、お前達?」
「あっ! クラウス!」
「見りゃ解んだろ、絵、描いてんだよ」
「それは解るが……課題でも出たのか?」
「あっ。クラウス、レオンとおんなじこと言ってるー」
「そんなに笑うなよ、ラビ!」
「それで、お前達は何故急に、写生会なんかやっているんだ?」
銀髪の生徒がデッサン用コンテをクイと向ける。
「最初はテオが一人で描いてたみたいだぜ?
それから、一人増え、二人増え、ってかんじ?」
他の生徒達も頷いている。
「なんか、皆が楽しそうに、わいわいやってんだもんな」
「俺、スケッチなんて暫くやってなかったけど、
久し振りにやると案外面白かったよ」
「ああ。来年は俺も美術の授業、選択してみよっかな。
今まで眠ってた才能が開花しちゃうかも!」
クシュン、という声がした。皆がそちらを向く。視線を浴びた下級生は俯いた。
生徒代表は眉間に皺を寄せ、苦々しく言った。
「おい、ラビ。お前、身体を冷やしたんじゃないのか?」
「だ、大丈夫だよ。テオに言われて、ちゃんと、あったかくしてきたし」
「上着を着ていても、この時期に長時間外に居れば、身体が冷えるのは当たり前だ。
少し考えれば解ることだろう。今日はもう終わりにして、寮の中に入れ」
「ご、ごめんなさい」
「ラビを怒らないでおくれ、クラウス。一緒に絵を描こうと誘ったのは私なんだ。
一枚羽織っておいでとは言ったのだけど、
そのあとは、私も絵に夢中になってしまって。
皆が寒そうにしていないかとか、気を配り切れていなかったと思う。
すまない、クラウス、ラビ。明日は気を付けるよ」
「明日?」
「うん。明日、今日の続きをやろうと思って」
「お? 明日もやんのか、テオ」
「うん。まだ絵が途中の子が多いようだし。
それから、絵が完成した暁には展覧会を開催する予定だよ?
他の寮の皆や先生方にも見て貰えるところに飾るんだ!」
「マジかよ? 聞いてねえぞ!」
「すまない。私も先程、思い付いたばかりだから。
皆の絵はどれも、とても素晴らしい作品だろう?
スケッチブックの中だけで展示しておいては、作品が可哀想だと思わないかい?」
生徒達は顔を見合わせる。
「うーん。まあ、テオがやりたいって言うんなら良いぜ?
そういうのは、数あったほうが派手に見えるだろうし」
「だな。仕方ねえ。俺の才能を世に知らしめてやるかっ」
「お前、さっきから調子乗り過ぎ!」
最上級生は他の生徒にも呼び掛ける。
「さあ、お前達も今日はもう片付けろ」
「俺、まだ色、塗り終わってなかったのにー」
「明日続きをやるんだろ? 第一、そろそろ夕食の時間だぞ?」
「え、もうそんな時間!?」
「そういや、ハラ減ったー」
「今日の晩ご飯、何かなー」
「今日は、カボチャのクリームシチューだって言ってたよ?」
「わっ、それ絶対うまいヤツじゃん! なら、さっさと片付けねえと!」
「僕もっ」
テキパキと片付けが始まった。
生徒代表はそんな後輩達の様子を見ながら息を吐く。
また一枚、赤い葉がひらりと舞った。
fin
■アンリ ジョシュア
まるで泣いているよう。
ピアノの音が、そんなふうに聞こえたのは初めてだった。
いつのまにか夏も終わり、僕、アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマンは中等部二年に進級していた。
風は少しずつ冷たくなり、落葉樹は染まり始めてる。
夏の余韻をまだ覚えているのに、カレンダーは10月の半ばまで来ていた。
日曜日、生徒はアクティヴィティの日。
各自が好きな活動をする為、殆どの生徒が寮から出掛けていた。
比較的、寮が静かになる日でもある。僕は前日に図書館から借りてきた本を自室で読んでいた。
そんな時、ピアノの音が聞こえた。ウーティス寮の音楽サロンにはピアノがある。
おそらく、そこで誰かが弾いているのだろう。
ウーティスの中でピアノが弾ける生徒は限られている。
一人目は、高等部二年のステファン。
作曲家の子息で、自身も時折、音楽サロンで新曲の発表会などもしている。
二人目は、中等部三年のジョシュア。
彼もピアノは弾けるらしいが、ステファンと違い、彼は殆どピアノに触れない。
音楽サロンの使用頻度が高いのはステファンだが、
自信家でヒステリックなところもある彼に、
これほど孤独で儚い音色が奏でられるだろうか。
僕は部屋を出て、音楽サロンへ向かうことにした。
誰がこんな弾き方をしているのか、確かめておかなくてはいけない気がして。
廊下に出て、音楽サロンへ近付いていくと、徐々に音がよく聞こえてきた。
誰とも擦れ違わずに、その場所まで着いた。
思った通り、ピアノは、この音楽サロンの中から聞こえてくる。
僕は、ドアを薄く開けて、中を覗いた。
やはり、彼か。
遠くから見ても、それはきらりと透明な輝きを放つ。
僕にしか見えない月桂樹の王冠を、頭上に持つ者。
ピアノの前に座っていたのは、ジョシュアだった。
今日の王冠が、いつもより少し暗く見えるのは気のせいだろうか。
淡々と物悲しい旋律を奏で続ける彼に、声をかける気にはならなかった。
でも、そのまま立ち去る気にもなれなくて。
そっと閉めた扉に、僕は背を預けた。
ドア越しに聞いているだけで、ジクジクと胸の奥が痛む。
まるで泣いているよう。
ピアノの音が、そんなふうに聞こえたのは初めてだった。
ジョシュアには声をかけないまま、僕は自分の部屋に戻った。
まだ少し聞こえる。ふと、僕のバイオリンケースが目に入った。
そう言えば、最近触ってない。なんとなく気が向いて、黒いケースに手を伸ばした。
暫く無心でバイオリンを弾いていたらしい。
コンコン、というノックの音で、僕は我に返った。
バイオリンを肩から下ろして、テーブルに置く。
ドアを開けると、そこに居たのはジョシュアだった。
「あの、アンリ、今」
彼の視線が、僕の後ろに向けられる。
「バイオリンを弾いてたの、アンリだったんだね」
「それが何か?」
「綺麗だった」
「え?」
「凄く繊細で、綺麗な音だった。
アンリ、こんなにバイオリンが上手だったんだね。知らなかったよ」
僕は面食らっていた。つい先程まで、あんなに悲しい旋律を奏でていた人が、
少し頬を紅潮させながら、嬉しそうに語るから。
「実は、俺もピアノを弾いていたところだったんだ、音楽サロンで」
知ってるよ、と僕は言わなかった。場が沈黙する。
彼が話さないので、「それで?」と先を促した。
「あ、えっと。もし、良かったらだけど」
いつもそうだけれど、彼は人見知りなのか、
人に何か提案する時でさえ、控えめで、自信なさそうに話す。
「アンリも音楽サロンに来てくれないかな? そのバイオリンを持って」
「バイオリンを持っていって、どうするの?」
「一緒に弾こう? 俺がピアノで伴奏するから」
「バイオリンとピアノでアンサンブルとしたい、という意味?」
「うん」
「僕、アンサンブルなんて、したことないけど」
「俺もそうだよ。でも、アンリとならできそうな気がするんだ」
行こう、と手を引かれて、僕は半ば強制的に音楽サロンに連れて行かれた。
僕のバイオリンに合わせて、ジョシュアがピアノを弾いた。
曲は、バイオリンとピアノの二重奏によるバイオリンソナタを幾つか。
大した会話もせずに僕達は楽器を奏でていた。
ビィンと鈍い音がして、僅かな痛みが僕の左頬を掠めた。
バイオリンから、弦が一本ぶらりと垂れ下がっている。一番線だ。
ろくに調弦もしていないのに、急に続けて弾いたから、切れてしまったのだろう。
こんな時に、と悔しく感じている自分に、僕は少し驚いた。
「アンリ? あ、ちょっと見せて」
ジョシュアはこちらに来て、僕の左頬を見た。
まるで、酷い怪我でも見るような顔をして。
「弦が当たってしまったんだね。痛そうだな」
「痛くないから、構わないで」
「駄目だよ。アンリ、自分では見えないかもしれないけど、
赤くなってて、血が滲んでるんだ。
保健室に行って、ちゃんと診て貰わなくちゃ」
「嫌。定期検診以外は保健室に行かないと決めているの」
「え、どうして?」
「嫌だから」
「でも……じゃあ、俺の部屋に来て。消毒くらいならできるから」
「君が?」
「うん。傷の手当ては必要だよ、アンリ」
きっぱりと彼は言った。
「保健室に行くのがどうしても嫌なら、せめて俺に診せて。ね、良いだろう?」
頑な態度。普段は大人しく、人の意見に合わせることも多い彼が。
「君って、変なところで自己主張するんだね」
音楽サロンの次は、彼の部屋に連れて行かれた。窓から夕陽が差し込んでいる。
白いベッドはオレンジ色に染め上げられていた。
インテリアは入学時から殆ど変更されていない。
机も床も、きちんと片付いている。随分、こざっぱりとした部屋だ。
「アンリ、ちょっと、そこに座って待ってて。今、準備するから」
示されたのがベッドだったので、浅く腰掛ける。
ジョシュアは救急箱を持ってきて、消毒液を箱から出した。
ピンセットの先に持った綿を消毒液で湿らせる。ツンとアルコールの香りがした。
ジョシュアは、ピンセットをこちらに向け、申し訳なさそうに言った。
「滲みると思うけど、少しの間、我慢して」
冷たい刺激が頬に触れる。
「ごめん。もうすぐ終わるから」
手当てが終わるまで、僕は彼の頭上にあるものを見ていた。
透明な、月桂樹の王冠。
彼が一人でピアノを弾いていた時は、いつもより暗い光だったのに。
「はい。もう良いよ」
傷の手当てが終わっていた。僕は小さく呟く。
聞こえなくてもいいと思って言ったのに。
「めるしい? ああ、フランス語、かな?」
彼はしっかり聞き取っていて、にこりと微笑んだ。
「ありがとうって言ってくれたんだよね? どういたしまして」
彼の王冠はきらきらと輝いていた。
fin
ピアノの音が、そんなふうに聞こえたのは初めてだった。
いつのまにか夏も終わり、僕、アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマンは中等部二年に進級していた。
風は少しずつ冷たくなり、落葉樹は染まり始めてる。
夏の余韻をまだ覚えているのに、カレンダーは10月の半ばまで来ていた。
日曜日、生徒はアクティヴィティの日。
各自が好きな活動をする為、殆どの生徒が寮から出掛けていた。
比較的、寮が静かになる日でもある。僕は前日に図書館から借りてきた本を自室で読んでいた。
そんな時、ピアノの音が聞こえた。ウーティス寮の音楽サロンにはピアノがある。
おそらく、そこで誰かが弾いているのだろう。
ウーティスの中でピアノが弾ける生徒は限られている。
一人目は、高等部二年のステファン。
作曲家の子息で、自身も時折、音楽サロンで新曲の発表会などもしている。
二人目は、中等部三年のジョシュア。
彼もピアノは弾けるらしいが、ステファンと違い、彼は殆どピアノに触れない。
音楽サロンの使用頻度が高いのはステファンだが、
自信家でヒステリックなところもある彼に、
これほど孤独で儚い音色が奏でられるだろうか。
僕は部屋を出て、音楽サロンへ向かうことにした。
誰がこんな弾き方をしているのか、確かめておかなくてはいけない気がして。
廊下に出て、音楽サロンへ近付いていくと、徐々に音がよく聞こえてきた。
誰とも擦れ違わずに、その場所まで着いた。
思った通り、ピアノは、この音楽サロンの中から聞こえてくる。
僕は、ドアを薄く開けて、中を覗いた。
やはり、彼か。
遠くから見ても、それはきらりと透明な輝きを放つ。
僕にしか見えない月桂樹の王冠を、頭上に持つ者。
ピアノの前に座っていたのは、ジョシュアだった。
今日の王冠が、いつもより少し暗く見えるのは気のせいだろうか。
淡々と物悲しい旋律を奏で続ける彼に、声をかける気にはならなかった。
でも、そのまま立ち去る気にもなれなくて。
そっと閉めた扉に、僕は背を預けた。
ドア越しに聞いているだけで、ジクジクと胸の奥が痛む。
まるで泣いているよう。
ピアノの音が、そんなふうに聞こえたのは初めてだった。
ジョシュアには声をかけないまま、僕は自分の部屋に戻った。
まだ少し聞こえる。ふと、僕のバイオリンケースが目に入った。
そう言えば、最近触ってない。なんとなく気が向いて、黒いケースに手を伸ばした。
暫く無心でバイオリンを弾いていたらしい。
コンコン、というノックの音で、僕は我に返った。
バイオリンを肩から下ろして、テーブルに置く。
ドアを開けると、そこに居たのはジョシュアだった。
「あの、アンリ、今」
彼の視線が、僕の後ろに向けられる。
「バイオリンを弾いてたの、アンリだったんだね」
「それが何か?」
「綺麗だった」
「え?」
「凄く繊細で、綺麗な音だった。
アンリ、こんなにバイオリンが上手だったんだね。知らなかったよ」
僕は面食らっていた。つい先程まで、あんなに悲しい旋律を奏でていた人が、
少し頬を紅潮させながら、嬉しそうに語るから。
「実は、俺もピアノを弾いていたところだったんだ、音楽サロンで」
知ってるよ、と僕は言わなかった。場が沈黙する。
彼が話さないので、「それで?」と先を促した。
「あ、えっと。もし、良かったらだけど」
いつもそうだけれど、彼は人見知りなのか、
人に何か提案する時でさえ、控えめで、自信なさそうに話す。
「アンリも音楽サロンに来てくれないかな? そのバイオリンを持って」
「バイオリンを持っていって、どうするの?」
「一緒に弾こう? 俺がピアノで伴奏するから」
「バイオリンとピアノでアンサンブルとしたい、という意味?」
「うん」
「僕、アンサンブルなんて、したことないけど」
「俺もそうだよ。でも、アンリとならできそうな気がするんだ」
行こう、と手を引かれて、僕は半ば強制的に音楽サロンに連れて行かれた。
僕のバイオリンに合わせて、ジョシュアがピアノを弾いた。
曲は、バイオリンとピアノの二重奏によるバイオリンソナタを幾つか。
大した会話もせずに僕達は楽器を奏でていた。
ビィンと鈍い音がして、僅かな痛みが僕の左頬を掠めた。
バイオリンから、弦が一本ぶらりと垂れ下がっている。一番線だ。
ろくに調弦もしていないのに、急に続けて弾いたから、切れてしまったのだろう。
こんな時に、と悔しく感じている自分に、僕は少し驚いた。
「アンリ? あ、ちょっと見せて」
ジョシュアはこちらに来て、僕の左頬を見た。
まるで、酷い怪我でも見るような顔をして。
「弦が当たってしまったんだね。痛そうだな」
「痛くないから、構わないで」
「駄目だよ。アンリ、自分では見えないかもしれないけど、
赤くなってて、血が滲んでるんだ。
保健室に行って、ちゃんと診て貰わなくちゃ」
「嫌。定期検診以外は保健室に行かないと決めているの」
「え、どうして?」
「嫌だから」
「でも……じゃあ、俺の部屋に来て。消毒くらいならできるから」
「君が?」
「うん。傷の手当ては必要だよ、アンリ」
きっぱりと彼は言った。
「保健室に行くのがどうしても嫌なら、せめて俺に診せて。ね、良いだろう?」
頑な態度。普段は大人しく、人の意見に合わせることも多い彼が。
「君って、変なところで自己主張するんだね」
音楽サロンの次は、彼の部屋に連れて行かれた。窓から夕陽が差し込んでいる。
白いベッドはオレンジ色に染め上げられていた。
インテリアは入学時から殆ど変更されていない。
机も床も、きちんと片付いている。随分、こざっぱりとした部屋だ。
「アンリ、ちょっと、そこに座って待ってて。今、準備するから」
示されたのがベッドだったので、浅く腰掛ける。
ジョシュアは救急箱を持ってきて、消毒液を箱から出した。
ピンセットの先に持った綿を消毒液で湿らせる。ツンとアルコールの香りがした。
ジョシュアは、ピンセットをこちらに向け、申し訳なさそうに言った。
「滲みると思うけど、少しの間、我慢して」
冷たい刺激が頬に触れる。
「ごめん。もうすぐ終わるから」
手当てが終わるまで、僕は彼の頭上にあるものを見ていた。
透明な、月桂樹の王冠。
彼が一人でピアノを弾いていた時は、いつもより暗い光だったのに。
「はい。もう良いよ」
傷の手当てが終わっていた。僕は小さく呟く。
聞こえなくてもいいと思って言ったのに。
「めるしい? ああ、フランス語、かな?」
彼はしっかり聞き取っていて、にこりと微笑んだ。
「ありがとうって言ってくれたんだよね? どういたしまして」
彼の王冠はきらきらと輝いていた。
fin
■テオ ジョシュア アンリ
「やあやあ、お邪魔するよ!」
放課後のウーティス寮サロンに金髪の生徒がやってきた。
シュヌーシア寮に住んでいる高等部一年生テオ・メネシスだ。
コーヒーを飲んでいた中等部三年生は「こんにちは、テオ」と挨拶した。
「こんにちは、ジョシュア。コーヒーが似合うねえ、君は。
ところで今日アンリは……ああ、居た居た! アンリ!」
隅の席にその後ろ姿を見つけた。昨年、入学した中等部二年生。
テオが意気揚々と近付いてみると、彼は古書を読んでいるところだった。
テーブルにはティーカップとタルトが置かれている。
テオはアンリの前で恭しく跪いた。
「ごきげんよう、アンリ。今日もまばゆい美しさだね!」
チラリとテオを見たあと、アンリは再び膝の上に視線を戻す。古びたページを捲りながら、
「何か用?」
「久し振りに天使とアフタヌーンティをと思ってね。
今日のお菓子はパンプキンタルトかい? そうか。もうすぐハロウィンだものね。
あ、そう言えば、ハロウィンの衣装はもう決まったのかな?」
「さあ?」
「ふふ。当日までお楽しみということか。解ったよ、楽しみにしているね。
おや、バトラー。私にもタルトを切り分けてくれるのかい?
ああ、うん。紅茶で構わないよ。いつもありがとう、バトラー。
それでは早速、タルトを頂こうかな。うん! これは美味しい!
ウーティスのシェフもまた素晴らしい腕だ。ねえ、アンリ? おやっ?」
テオはアンリの顔を覗き込んだ。
「アンリの美しい頬に傷が!」
それまで、アンリが頬杖を突いていた為に見えなかったが、
何か細いもので切ってしまったのか、左頬に傷があった。
色白の頬に赤いラインが目立っている。
「アンリ! その痛々しい頬は一体どうしたんだい!?」
アンリは面倒そうに溜め息を吐いた。
昨日から今日にかけて、擦れ違う生徒達から、同じ質問を何度もされたのだ。
テオは傷を見ているだけでも痛いといった顔をしている。
「喧嘩でもしたのかい? ちゃんと仲直りはできた?」
「大丈夫ですよ、テオ。アンリに傷を付けたのはバイオリンですから」
ジョシュアが代わりに答えた。テオは目をパチパチと瞬く。
「バイオリン?」
アンリは吐息混じりに呟いた。
「夕べ、演奏中に切れた一番線が、当たったの」
バイオリンの弦は一番線から四番線まであり、
最も高音で最も細い弦が、一番線と呼ばれる。
昨日、アンリは久し振りにバイオリンを弾いた。
その最中、ビィンという鈍い音と共に、弦が切れてしまい、
避けきれず、頬を掠めてしまったのである。
「なんて優雅な怪我だ!」
テオは感嘆していた。
「アンリは怪我をする時も美しいのだね!
怪我をした理由がバイオリンだなんて。さすがはアンリ!」
アンリは首を傾げる。
「僕のこと、馬鹿にしている?」
「とんでもない! 私は感激しているのだよ!
それで、傷の手当てはしたのかい?」
「されたよ」
アンリはジョシュアを見上げながら、
「保健室に行きたくないのなら、って脅されて、無理矢理ね?」
ジョシュアは苦笑していた。
「そうか。ジョシュアに手当てして貰ったのならば安心だね!
どうだい、ジョシュア。この傷は時間が経てば、綺麗に消えるかな?」
「ええ。すぐに手当てしましたし、今回は幸い、
弦が掠った程度で済んだので、大丈夫だと思いますよ」
「良かった! プリンセスのプリプリお肌に傷が残っては、世界遺産の損失だものね!」
その後もテオはお喋りを楽しみ、満足げにシュヌーシア寮へ帰っていった。
アンリは、疲れた、と言わんばかりに、
「ああ、やっとハリケーンが去った」
ジョシュアが苦笑する。
「テオ、楽しそうだったね」
「何しに来たのかな、あの人」
「アンリの顔を見に来たんだと思うけど」
ジョシュアはアンリの頬を見つめる。頬の傷は、まだ鮮明に残っている。
「早く治ると良いね。傷、痛むかい?」
「痛くないって言っているでしょう、最初から」
「うん。でも、アンリ、肌が真っ白だから、痛そうに見えて」
「平気」
アンリは皿を引き寄せた。パンプキンのタルトにフォークを入れる。
小さく切り分け、口へ運んでいた。
「アンリ。また、いつか、昨日の続きをしてくれるかい?」
アンリはジョシュアを見上げる。
「君、また、やりたいの?」
うん、とジョシュアは頷いた。
「俺、昔と比べると、学院に来てからは、あまりピアノを弾かなくなっていたけれど、
昨日、アンリと一緒に弾いていた時は、久し振りにピアノが楽しいと思えたんだ」
珍しく自分の話をする人をアンリは黙って見ていた。
「あの、だから、またできたら嬉しいな。
俺、それまでに、もっと練習しておくから、バイオリンソナタ」
アンリは答えない。ジョシュアは声が小さくなる。
「あ、ごめん。迷惑だったら」
「別に」
アンリはティーカップに指を絡める。
「良いけど」
fin
放課後のウーティス寮サロンに金髪の生徒がやってきた。
シュヌーシア寮に住んでいる高等部一年生テオ・メネシスだ。
コーヒーを飲んでいた中等部三年生は「こんにちは、テオ」と挨拶した。
「こんにちは、ジョシュア。コーヒーが似合うねえ、君は。
ところで今日アンリは……ああ、居た居た! アンリ!」
隅の席にその後ろ姿を見つけた。昨年、入学した中等部二年生。
テオが意気揚々と近付いてみると、彼は古書を読んでいるところだった。
テーブルにはティーカップとタルトが置かれている。
テオはアンリの前で恭しく跪いた。
「ごきげんよう、アンリ。今日もまばゆい美しさだね!」
チラリとテオを見たあと、アンリは再び膝の上に視線を戻す。古びたページを捲りながら、
「何か用?」
「久し振りに天使とアフタヌーンティをと思ってね。
今日のお菓子はパンプキンタルトかい? そうか。もうすぐハロウィンだものね。
あ、そう言えば、ハロウィンの衣装はもう決まったのかな?」
「さあ?」
「ふふ。当日までお楽しみということか。解ったよ、楽しみにしているね。
おや、バトラー。私にもタルトを切り分けてくれるのかい?
ああ、うん。紅茶で構わないよ。いつもありがとう、バトラー。
それでは早速、タルトを頂こうかな。うん! これは美味しい!
ウーティスのシェフもまた素晴らしい腕だ。ねえ、アンリ? おやっ?」
テオはアンリの顔を覗き込んだ。
「アンリの美しい頬に傷が!」
それまで、アンリが頬杖を突いていた為に見えなかったが、
何か細いもので切ってしまったのか、左頬に傷があった。
色白の頬に赤いラインが目立っている。
「アンリ! その痛々しい頬は一体どうしたんだい!?」
アンリは面倒そうに溜め息を吐いた。
昨日から今日にかけて、擦れ違う生徒達から、同じ質問を何度もされたのだ。
テオは傷を見ているだけでも痛いといった顔をしている。
「喧嘩でもしたのかい? ちゃんと仲直りはできた?」
「大丈夫ですよ、テオ。アンリに傷を付けたのはバイオリンですから」
ジョシュアが代わりに答えた。テオは目をパチパチと瞬く。
「バイオリン?」
アンリは吐息混じりに呟いた。
「夕べ、演奏中に切れた一番線が、当たったの」
バイオリンの弦は一番線から四番線まであり、
最も高音で最も細い弦が、一番線と呼ばれる。
昨日、アンリは久し振りにバイオリンを弾いた。
その最中、ビィンという鈍い音と共に、弦が切れてしまい、
避けきれず、頬を掠めてしまったのである。
「なんて優雅な怪我だ!」
テオは感嘆していた。
「アンリは怪我をする時も美しいのだね!
怪我をした理由がバイオリンだなんて。さすがはアンリ!」
アンリは首を傾げる。
「僕のこと、馬鹿にしている?」
「とんでもない! 私は感激しているのだよ!
それで、傷の手当てはしたのかい?」
「されたよ」
アンリはジョシュアを見上げながら、
「保健室に行きたくないのなら、って脅されて、無理矢理ね?」
ジョシュアは苦笑していた。
「そうか。ジョシュアに手当てして貰ったのならば安心だね!
どうだい、ジョシュア。この傷は時間が経てば、綺麗に消えるかな?」
「ええ。すぐに手当てしましたし、今回は幸い、
弦が掠った程度で済んだので、大丈夫だと思いますよ」
「良かった! プリンセスのプリプリお肌に傷が残っては、世界遺産の損失だものね!」
その後もテオはお喋りを楽しみ、満足げにシュヌーシア寮へ帰っていった。
アンリは、疲れた、と言わんばかりに、
「ああ、やっとハリケーンが去った」
ジョシュアが苦笑する。
「テオ、楽しそうだったね」
「何しに来たのかな、あの人」
「アンリの顔を見に来たんだと思うけど」
ジョシュアはアンリの頬を見つめる。頬の傷は、まだ鮮明に残っている。
「早く治ると良いね。傷、痛むかい?」
「痛くないって言っているでしょう、最初から」
「うん。でも、アンリ、肌が真っ白だから、痛そうに見えて」
「平気」
アンリは皿を引き寄せた。パンプキンのタルトにフォークを入れる。
小さく切り分け、口へ運んでいた。
「アンリ。また、いつか、昨日の続きをしてくれるかい?」
アンリはジョシュアを見上げる。
「君、また、やりたいの?」
うん、とジョシュアは頷いた。
「俺、昔と比べると、学院に来てからは、あまりピアノを弾かなくなっていたけれど、
昨日、アンリと一緒に弾いていた時は、久し振りにピアノが楽しいと思えたんだ」
珍しく自分の話をする人をアンリは黙って見ていた。
「あの、だから、またできたら嬉しいな。
俺、それまでに、もっと練習しておくから、バイオリンソナタ」
アンリは答えない。ジョシュアは声が小さくなる。
「あ、ごめん。迷惑だったら」
「別に」
アンリはティーカップに指を絡める。
「良いけど」
fin
■ソクーロフ×アイヴィー
目が覚めた時、アイヴィーの目に映ったのは、見慣れた真っ白い天井だった。
自分は保健室のベッドに居るのだと解り、胸を撫で下ろす思いだった。
自分はいつものように保健室へ昼寝に来たのだ。
暑い。ワイシャツの襟から手を滑らせたら、首筋にじっとりと汗をかいていた。
はあ、と重い息を吐く。久し振りに嫌な夢を見た。
島に来てから、その頻度は徐々に減っているが、
それでもこうして、忘れた頃に、昔の夢を見る。
もう遠い過去だと思いたい俺を、嘲笑うかのように。
あの時は、目が覚めたことを呪った。
俺は死んだと思ったのに。
俺だけが生き残っちまった。
俺は死んでも良かったのに。
大切なものも守れずに、生き長らえるくらいなら、
俺もあの時――
「17時10分だぞ、アイヴィー。まだ寝ているのか?」
白衣の男が立っていた。長い髪を一つに束ねた保健室の先生。
スタニスラフ・ニコライエヴィッチ・ソクーロフだ。
「なんだ、起きていたのか」
「ああ、うん」
保健教師でありカウンセラーをも務める瞳は、
タクシードライバーの様子を観察しながら、
「なら、さっさと正門前に向かえ。17時30分にアルフレッド達と約束しているんだろう?」
「そういや、そーだっけ」
よっ、とベッドから背中を引き剥がす。
「ふわーあー」
両腕を伸ばすと、肩がバキバキッと鳴った。
「ねー。ソクちゃーん」
ベッドの上で胡座を掻く。
「コーヒー飲まして? あっついの」
見上げられたソクーロフは、コーヒーメーカーを顎で指し示す。
「飲みたいのなら、自分で淹れろ」
アイヴィーは足首を持ったまま、笑った。
「けちけちソクちゃん」
ひょいとベッドから降りて、コーヒーメーカーの前に立つ。
アイヴィー専用と化している白いマグカップに黒い液体を注ぐ。
その背中をカウンセラーが見守っている。
寝乱れた金髪が下ろされているブルーのワイシャツには、くしゃくしゃの線が描かれていた。
「あー、オイシ」
アイヴィーは立ったまま、コーヒーを飲んでいた。
「やっぱソクちゃんの高いコーヒーは、インスタントより高級感ある気がするー」
「気がするだけか? 味の解らない奴だな」
「俺はインスタントでもオイシーのー」
「ところで、お前、今日も夜は独りか?」
「ハイハイ。今日も独りデスガ?」
「仕方ない。ならば、夕食に付き合ってやるか」
アイヴィーは笑う。
「飲みに行こ、ってフツーに言えばイイじゃん。
じゃー、夜に迎えに来るから、ココで待ってて?」
「ああ」
アイヴィーは最後にもう一口、マグカップに口付け、ざっと洗って片付けた。
「そんじゃ、マージナルプリンスどもをお迎えに行ってくるかなっ。
あっ、ベッド貸してくれてサンキュー。また夜にね」
ブルーのワイシャツがドアの向こうに消えた。
「――やれやれ」
一人になったカウンセラーは胸の内で呟いた。
悪夢を見たことに気付かないフリというのも疲れるな。
fin
自分は保健室のベッドに居るのだと解り、胸を撫で下ろす思いだった。
自分はいつものように保健室へ昼寝に来たのだ。
暑い。ワイシャツの襟から手を滑らせたら、首筋にじっとりと汗をかいていた。
はあ、と重い息を吐く。久し振りに嫌な夢を見た。
島に来てから、その頻度は徐々に減っているが、
それでもこうして、忘れた頃に、昔の夢を見る。
もう遠い過去だと思いたい俺を、嘲笑うかのように。
あの時は、目が覚めたことを呪った。
俺は死んだと思ったのに。
俺だけが生き残っちまった。
俺は死んでも良かったのに。
大切なものも守れずに、生き長らえるくらいなら、
俺もあの時――
「17時10分だぞ、アイヴィー。まだ寝ているのか?」
白衣の男が立っていた。長い髪を一つに束ねた保健室の先生。
スタニスラフ・ニコライエヴィッチ・ソクーロフだ。
「なんだ、起きていたのか」
「ああ、うん」
保健教師でありカウンセラーをも務める瞳は、
タクシードライバーの様子を観察しながら、
「なら、さっさと正門前に向かえ。17時30分にアルフレッド達と約束しているんだろう?」
「そういや、そーだっけ」
よっ、とベッドから背中を引き剥がす。
「ふわーあー」
両腕を伸ばすと、肩がバキバキッと鳴った。
「ねー。ソクちゃーん」
ベッドの上で胡座を掻く。
「コーヒー飲まして? あっついの」
見上げられたソクーロフは、コーヒーメーカーを顎で指し示す。
「飲みたいのなら、自分で淹れろ」
アイヴィーは足首を持ったまま、笑った。
「けちけちソクちゃん」
ひょいとベッドから降りて、コーヒーメーカーの前に立つ。
アイヴィー専用と化している白いマグカップに黒い液体を注ぐ。
その背中をカウンセラーが見守っている。
寝乱れた金髪が下ろされているブルーのワイシャツには、くしゃくしゃの線が描かれていた。
「あー、オイシ」
アイヴィーは立ったまま、コーヒーを飲んでいた。
「やっぱソクちゃんの高いコーヒーは、インスタントより高級感ある気がするー」
「気がするだけか? 味の解らない奴だな」
「俺はインスタントでもオイシーのー」
「ところで、お前、今日も夜は独りか?」
「ハイハイ。今日も独りデスガ?」
「仕方ない。ならば、夕食に付き合ってやるか」
アイヴィーは笑う。
「飲みに行こ、ってフツーに言えばイイじゃん。
じゃー、夜に迎えに来るから、ココで待ってて?」
「ああ」
アイヴィーは最後にもう一口、マグカップに口付け、ざっと洗って片付けた。
「そんじゃ、マージナルプリンスどもをお迎えに行ってくるかなっ。
あっ、ベッド貸してくれてサンキュー。また夜にね」
ブルーのワイシャツがドアの向こうに消えた。
「――やれやれ」
一人になったカウンセラーは胸の内で呟いた。
悪夢を見たことに気付かないフリというのも疲れるな。
fin
その夜、レオシュは一人で、アルファルド寮の自室に居た。
背は壁に預け、ベッドに座った姿勢で、本を読んでいた。
ベッドの側には窓があり、濃紺のカーテンが引かれている。
レオシュはちらりと時計を見た。就寝時間は過ぎている。
そろそろ眠らなくてはならないのは解っているが、レオシュはまた一枚ページを繰った。
トントン、と音がした。窓のほうからだ。
この部屋に好んで訪れる生徒は一人しか居ない。
レオシュはベッドに座ったまま、手を伸ばして、カーテンを開けてみた。
「今夜もイイ月夜だねえ」
思わずシルフェは呟いた。
アルファルド寮に向かう途中、見えた月。今夜の月は雪のように真っ白だ。
日中より少し冷たい夜風が心地好い。
聖アルフォンソ学院の決まりとして、夜間は原則外出禁止だが、
就寝時間を回った頃、シルフェは慣れた様子でシュヌーシア寮を抜け出した。
玄関からではなく、自室の窓から外へ飛び降りて。
夜のキャンパスを警備員に見つからないように歩いて、
三つある学生寮の中で、最も静寂な寮に辿り着く。
目的の部屋に到着する。今日は奇をてらって、ドアではなく窓ガラスをノックした。
数秒後、カーテンが開き、髪の長い綺麗な人が窓辺に顔を見せた。
シルフェは笑顔で「よっ」と手を挙げた。
ガラス越しで声は聞こえなかったが、綺麗な形の唇は、夕方と同じように「バカか」と動いた。
レオシュは何も見なかったかのように、また壁に背を預けた。
相変わらずそっけない横顔を愛でながら、シルフェは鍵が掛かっていない窓を開ける。
窓枠に手を置いて、ひょいと軽々飛び越えた。
レオシュのベッドに座って、本を読んでいた。
レオシュはシルフェの存在を無視して、ページをめくる。
シルフェはベッドに近付いていく。
「レオシュ、今日は何の本、読んでたの?」
「お前には関係ないだろう。何故いちいち知りたがる」
「ん? 知りたいから。レオシュのことは全部」
シルフェは本に顔を近付けて、表紙を覗き見た。
「『インドの錬金術』か。レオシュって神秘学の本、好きだよね?」
レオシュは否定も肯定もしなかった。
「あ、そうだ。今夜は約束してたよね? あの時のこと話すって」
今日、神秘学の授業が終わったあと、
忘れ物を取りに教室へ戻ったシルフェは、そこである光景を見た。
シルフェは、あとで話すとレオシュに約束していた。
話をすると言うと、レオシュはこちらを向いた。
ご機嫌は斜めのようだが、真っ直ぐな瞳が見上げてくる。
シルフェは右膝から、ベッドに乗った。シルフェの重みでベッドが少し沈む。
シルフェはレオシュの目の前にまで来た。
「じゃあ、教えるね? 放課後の化学準備室で俺が何を見たか」
「おい。何故、そんなに近寄る必要が」
一瞬で更に間合いを詰め、レオシュの唇に口付けた。
触れるだけの口付けだったが、レオシュには全くの不意打ちだったようで、
文句を口にするまで、たっぷり二秒かかった。
「お前……教えると言っただろう」
「教えてるよ?」
シルフェはニヤリと笑った。
「だ・か・らキスしたの。解る? つまりそーいうこと」
レオシュの眉間に皺が寄る。シルフェは壁に寄りかかる。
「してたんだよ、姫サンと先生が。化学準備室で」
「姫と先生って……アンリとボージェ教授のことか?」
「うん」
「嘘を吐くな。俺をからかうのもいい加減にしろ」
「ウソなんか吐かないよ。俺、見たもん。夕陽色に染まった化学準備室で、
先生が身体屈めて、チュッてなかんじで、姫サンにキスしてた」
「信じられるか。あのボージェ教授が」
以前、ボージェ教授がレオシュに参考文献を貸してくれたことがある。
元々神秘学に興味があり、ボージェ教授の授業をいつも真剣に聞いているレオシュは、
より教授に対して、憧れや尊敬の念を抱くようになったように見受けられる。
それはシルフェにとって、あまり面白いことではなかった。
「ビックリだよねえ、姫サンのお相手が王子様じゃなくて先生だったなんて」
この学院で『王子様とお姫様』と言えば、ウーティス寮のジョシュアとアンリのことだ。
二人とも中等部からの入学であり、同じ寮に住んでいるから、付き合いは長い。
入学当時は互いに一人で居ることが多かったが、
いつのまにか二人で一緒に居る姿が、学院内でよく見かけられるようになった。
以来、似合いの王子様とお姫様として、冗談半分に囁かれることもあった。
アンリが入学初日に、ジョシュアを見て「月桂樹の王冠が見える」って言ったことも有名な話だ。
「そうではなく。ボージェ教授がそんなことをする筈がないと言っているんだ」
「でもさ? 今思えば授業中も先生って姫サンが発言してる時、楽しそうにしてたじゃん?
姫サンは、神秘学の教科書にも載ってるサン・ジェルマン伯爵家の末裔だし、
神秘学の授業は、姫サンがやりたいって言ったからできたもんだから、
先生とアンリは仲良いんだって思ってたけど、想像以上に仲良かったみたいだねー」
シルフェは、あーあ、と笑う。
「毎週、授業で二人と会ってたのに。気付かないなんて、シルフェくん一生の不覚だなー。
授業終わりはレオシュのこと追っ駆けて、すぐ教室出てたのもあるけど、
やっぱ姫サンには王子様ってお決まりの存在が居たからさー。
いやいや。思い込みってのはコワイよねー。これからは二人のこと気を付けて見てみよっと。
あ、でも、あんなの見ちゃうと、来週からの授業、ちょっと心配だなー。
先生や姫サンの顔見たら、あのキスシーンを思い出して、俺もキスしたくなっちゃうかも。
あ、もちろん、相手はレオシュだから心配しないでね?」
「バカか、お前は」
「もしかして、まだ信じられない?」
「当たり前だ。第一、教授も生徒も男じゃないか」
「レオシュがそんなこと言っちゃう? 俺達だって男だけど?」
レオシュが視線を逸らす。シルフェはベッドに手を着いて、窓のほうを見た。
カーテンが開いている。窓から入ってくる時に、閉め忘れたのだろう。
ガラス窓越しに白い月が見える。
「俺、正直言うと、あの時、姫サン見て『綺麗だ』って思ったんだ」
レオシュの表情が僅かに冷たくなる。
「あれ? 信じた? 冗談だよ。半分は」
ひと気のない、夕暮れの化学準備室で。
白い頬にはオレンジ色の光が当たっていた。
「夕日に照らされてるのが姫サンじゃなくて、
レオシュだったらすっごい綺麗だろうなって思ったの。
ま。レオシュは俺の腕の中にいる時が一番可愛くて綺麗だけどな?」
睨んでくる視線を受け止めながら、シルフェは微笑する。
「というわけだから」
レオシュの肩にシルフェが手を置いた。レオシュが、しまったと思った時には、
背はベッドに沈んでいて、楽しそうな笑顔に見下ろされていた。
「俺達はその続きも……ね?」
fin
背は壁に預け、ベッドに座った姿勢で、本を読んでいた。
ベッドの側には窓があり、濃紺のカーテンが引かれている。
レオシュはちらりと時計を見た。就寝時間は過ぎている。
そろそろ眠らなくてはならないのは解っているが、レオシュはまた一枚ページを繰った。
トントン、と音がした。窓のほうからだ。
この部屋に好んで訪れる生徒は一人しか居ない。
レオシュはベッドに座ったまま、手を伸ばして、カーテンを開けてみた。
「今夜もイイ月夜だねえ」
思わずシルフェは呟いた。
アルファルド寮に向かう途中、見えた月。今夜の月は雪のように真っ白だ。
日中より少し冷たい夜風が心地好い。
聖アルフォンソ学院の決まりとして、夜間は原則外出禁止だが、
就寝時間を回った頃、シルフェは慣れた様子でシュヌーシア寮を抜け出した。
玄関からではなく、自室の窓から外へ飛び降りて。
夜のキャンパスを警備員に見つからないように歩いて、
三つある学生寮の中で、最も静寂な寮に辿り着く。
目的の部屋に到着する。今日は奇をてらって、ドアではなく窓ガラスをノックした。
数秒後、カーテンが開き、髪の長い綺麗な人が窓辺に顔を見せた。
シルフェは笑顔で「よっ」と手を挙げた。
ガラス越しで声は聞こえなかったが、綺麗な形の唇は、夕方と同じように「バカか」と動いた。
レオシュは何も見なかったかのように、また壁に背を預けた。
相変わらずそっけない横顔を愛でながら、シルフェは鍵が掛かっていない窓を開ける。
窓枠に手を置いて、ひょいと軽々飛び越えた。
レオシュのベッドに座って、本を読んでいた。
レオシュはシルフェの存在を無視して、ページをめくる。
シルフェはベッドに近付いていく。
「レオシュ、今日は何の本、読んでたの?」
「お前には関係ないだろう。何故いちいち知りたがる」
「ん? 知りたいから。レオシュのことは全部」
シルフェは本に顔を近付けて、表紙を覗き見た。
「『インドの錬金術』か。レオシュって神秘学の本、好きだよね?」
レオシュは否定も肯定もしなかった。
「あ、そうだ。今夜は約束してたよね? あの時のこと話すって」
今日、神秘学の授業が終わったあと、
忘れ物を取りに教室へ戻ったシルフェは、そこである光景を見た。
シルフェは、あとで話すとレオシュに約束していた。
話をすると言うと、レオシュはこちらを向いた。
ご機嫌は斜めのようだが、真っ直ぐな瞳が見上げてくる。
シルフェは右膝から、ベッドに乗った。シルフェの重みでベッドが少し沈む。
シルフェはレオシュの目の前にまで来た。
「じゃあ、教えるね? 放課後の化学準備室で俺が何を見たか」
「おい。何故、そんなに近寄る必要が」
一瞬で更に間合いを詰め、レオシュの唇に口付けた。
触れるだけの口付けだったが、レオシュには全くの不意打ちだったようで、
文句を口にするまで、たっぷり二秒かかった。
「お前……教えると言っただろう」
「教えてるよ?」
シルフェはニヤリと笑った。
「だ・か・らキスしたの。解る? つまりそーいうこと」
レオシュの眉間に皺が寄る。シルフェは壁に寄りかかる。
「してたんだよ、姫サンと先生が。化学準備室で」
「姫と先生って……アンリとボージェ教授のことか?」
「うん」
「嘘を吐くな。俺をからかうのもいい加減にしろ」
「ウソなんか吐かないよ。俺、見たもん。夕陽色に染まった化学準備室で、
先生が身体屈めて、チュッてなかんじで、姫サンにキスしてた」
「信じられるか。あのボージェ教授が」
以前、ボージェ教授がレオシュに参考文献を貸してくれたことがある。
元々神秘学に興味があり、ボージェ教授の授業をいつも真剣に聞いているレオシュは、
より教授に対して、憧れや尊敬の念を抱くようになったように見受けられる。
それはシルフェにとって、あまり面白いことではなかった。
「ビックリだよねえ、姫サンのお相手が王子様じゃなくて先生だったなんて」
この学院で『王子様とお姫様』と言えば、ウーティス寮のジョシュアとアンリのことだ。
二人とも中等部からの入学であり、同じ寮に住んでいるから、付き合いは長い。
入学当時は互いに一人で居ることが多かったが、
いつのまにか二人で一緒に居る姿が、学院内でよく見かけられるようになった。
以来、似合いの王子様とお姫様として、冗談半分に囁かれることもあった。
アンリが入学初日に、ジョシュアを見て「月桂樹の王冠が見える」って言ったことも有名な話だ。
「そうではなく。ボージェ教授がそんなことをする筈がないと言っているんだ」
「でもさ? 今思えば授業中も先生って姫サンが発言してる時、楽しそうにしてたじゃん?
姫サンは、神秘学の教科書にも載ってるサン・ジェルマン伯爵家の末裔だし、
神秘学の授業は、姫サンがやりたいって言ったからできたもんだから、
先生とアンリは仲良いんだって思ってたけど、想像以上に仲良かったみたいだねー」
シルフェは、あーあ、と笑う。
「毎週、授業で二人と会ってたのに。気付かないなんて、シルフェくん一生の不覚だなー。
授業終わりはレオシュのこと追っ駆けて、すぐ教室出てたのもあるけど、
やっぱ姫サンには王子様ってお決まりの存在が居たからさー。
いやいや。思い込みってのはコワイよねー。これからは二人のこと気を付けて見てみよっと。
あ、でも、あんなの見ちゃうと、来週からの授業、ちょっと心配だなー。
先生や姫サンの顔見たら、あのキスシーンを思い出して、俺もキスしたくなっちゃうかも。
あ、もちろん、相手はレオシュだから心配しないでね?」
「バカか、お前は」
「もしかして、まだ信じられない?」
「当たり前だ。第一、教授も生徒も男じゃないか」
「レオシュがそんなこと言っちゃう? 俺達だって男だけど?」
レオシュが視線を逸らす。シルフェはベッドに手を着いて、窓のほうを見た。
カーテンが開いている。窓から入ってくる時に、閉め忘れたのだろう。
ガラス窓越しに白い月が見える。
「俺、正直言うと、あの時、姫サン見て『綺麗だ』って思ったんだ」
レオシュの表情が僅かに冷たくなる。
「あれ? 信じた? 冗談だよ。半分は」
ひと気のない、夕暮れの化学準備室で。
白い頬にはオレンジ色の光が当たっていた。
「夕日に照らされてるのが姫サンじゃなくて、
レオシュだったらすっごい綺麗だろうなって思ったの。
ま。レオシュは俺の腕の中にいる時が一番可愛くて綺麗だけどな?」
睨んでくる視線を受け止めながら、シルフェは微笑する。
「というわけだから」
レオシュの肩にシルフェが手を置いた。レオシュが、しまったと思った時には、
背はベッドに沈んでいて、楽しそうな笑顔に見下ろされていた。
「俺達はその続きも……ね?」
fin
■シルフェ×レオシュ オーギュスト×アンリ
授業終了の鐘が鳴った。
ここは第二化学室。神秘学の教室だ。
「今日はここまでにしようか」
ブラウンのスーツを着た先生が教科書を閉じた。
神秘学は特別授業。学院の外部から特別講師を呼んでいる。
オーギュスト・ボージェ教授。神秘学の権威らしい。
「レポートの提出期限は来週だったかな?
諸君の素晴らしいレポートを楽しみにしているよ。ではごきげんよう」
生徒達が退室していく。
教師はいつものように、生徒が板書を終えたか確認したあと、黒板掃除を始めた。
高等部二年のシルフェはある生徒の前にやってきた。
「レーオシュ」
呼ばれた生徒が嫌そうに顔を上げる。美しい長い髪が揺れた。
『アルファルドの女王』と名高い高等部三年のレオシュだ。
シルフェは笑顔で話しかける。
「なっ、一緒に帰ろ? レオシュ」
「お前と俺は別の寮だろう」
「短い間だけでも一緒に居たいんだよ」
気だるげに漏らした溜め息さえ艶めかしい。
「バカか」
「そうだね、レオシュに関しては。レオシュバカかも」
相手しきれない、といった表情でレオシュは席を立った。
「あっ、置いてくなよ、レオシュー」
レオシュを追いかけてシルフェも教室を出ようとする。
擦れ違いざま、『ウーティスのプリンセス』と名高い生徒が、
まだ教室に残っているのをシルフェは見た。
『プリンセス』は頬杖を突きながら、正面のほうをぼんやり見ていた。
シルフェはすぐレオシュに追いついた。
二人、肩を並べて廊下を歩く。
「ねえ、レオシュはレポート何書く予定?」
レオシュは答えない。シルフェは気にせず喋り続ける。
「俺はさー、資料集に載ってた魔術師にしようかと思っててさ。名前は何て言ったっけなー」
シルフェは手にしている教科書やノートを見た。
「あ、資料集がない。教室の机に忘れたかな。レポート書くのに使うのに」
「なら、取りに戻るんだな」
「レオシュ、悪いけど、ここで待っててくんない? すぐに戻るからさ?」
「何故、お前を待たなければならない」
「俺のこと待ってて欲しいから」
レオシュは憮然とする。シルフェは片手を挙げ、
「絶対待ってろよなー!」
レオシュを一階に残し、廊下を走っていった。
シルフェは階段をヒョイヒョイと駆け上がっていく。息が乱れる様子は全くなかった。
教室のあるフロアに着いた時、既に人影はなく、廊下はひっそりとしていた。
窓から差し込む夕陽が廊下をオレンジに染め、シルフェの影を長くする。
このフロアは端から第一化学室、第二化学室、化学準備室の順に並んでいる。
第一化学室は広い教室で、化学や物理など自然科学の授業で使われている。
一般的には自然科学と相反する神秘学も、この学院では何故か自然科学に分類されている為、
このフロアに教室が設けられているのだが、
第一化学室での授業が許されたことは一度もない。
それは、神秘学という特殊な学問のせいか、神秘学担当講師が、学院の専任講師ではなく、
また、教授陣の中で一、二を争う程の変わり者だと言われているからだろうか。
他の理系の教授陣からは煙たがられているらしいが、
ボージェ教授本人は全く気にしていないとの噂もあった。
第二化学室まで辿り着いたシルフェはドアの前に立った。
ドアの一部が長方形のガラス窓になっていて、ドアを開けなくとも中の様子が見えた。
ついさっきまで授業をしていた部屋には、もう誰も居なかった。
第二化学室のドアを開けようと、一歩近付いた時、斜め左のほうに誰かの後ろ姿が見えた。
第二化学室に隣接している化学室準備室。
準備室の中の様子が、第二化学室のドアと準備室のドアのガラス窓越しに見える。
後頭部しか見えなかったが、誰だか解った。
肩までに揃えた髪。あれは『ウーティスのプリンセス』だ。
プリンセスの正面に立っている人物が居る。
プリンセスより背が高く、制服を着ていない。
顔は見えなかったが、そのブラウンのスーツを見て、シルフェは誰だか思い当たった。
(姫サンと先生? 準備室で何を……)
シルフェが疑問に思った時。
(おいおい、マジかよ)
その光景に、シルフェは自分の目を疑った。
ガラス窓が小さいせいで、一部しか見えないが。
(姫サンは王子様とデキてると思ってたんだけどな)
教師は少し身を屈め、それに対して生徒は抵抗しなかった。
シルフェの位置からは、二人が口付けをしているように見えた。
教師と生徒、それに男性同士だというのに、
ガラスで切り取られた四角の中で、
夕陽を浴びている二人は、とても綺麗に見えた。
シルフェが一階に戻ると、レオシュは機嫌悪そうにしながらも、その場所に居た。
「レオシュ、ホントに待っててくれたんだ?」
「なっ、待っていろと言ったのはお前だろう」
「うん。待たせてゴメンな。俺が居なくて寂しかっただろ?」
「バカか。 ん? お前、資料集はどうした?」
「ああ、資料集は明日にでも取りに行くよ」
「お前、教室へ戻ったんじゃないのか?」
「いや、行ったよ? けど、ちょっと、
隣の化学準備室が取り込み中で、第二化学室に入れなくてさ」
「取り込み中って、何だ?」
シルフェがニヤリと笑う。
「俺が化学準備室で何を見たか、演じてみせてあげよっか?
あんなの見せられちゃ、俺もしたくなっちゃったし」
「必要ない」
「またまたぁ~。レオシュは素直じゃないな~。ま、そこがスキなんだけど?」
レオシュは無視している。
「ね? 教えてあげるからさ、今夜もレオシュの部屋、行ってイイ?」
fin
ここは第二化学室。神秘学の教室だ。
「今日はここまでにしようか」
ブラウンのスーツを着た先生が教科書を閉じた。
神秘学は特別授業。学院の外部から特別講師を呼んでいる。
オーギュスト・ボージェ教授。神秘学の権威らしい。
「レポートの提出期限は来週だったかな?
諸君の素晴らしいレポートを楽しみにしているよ。ではごきげんよう」
生徒達が退室していく。
教師はいつものように、生徒が板書を終えたか確認したあと、黒板掃除を始めた。
高等部二年のシルフェはある生徒の前にやってきた。
「レーオシュ」
呼ばれた生徒が嫌そうに顔を上げる。美しい長い髪が揺れた。
『アルファルドの女王』と名高い高等部三年のレオシュだ。
シルフェは笑顔で話しかける。
「なっ、一緒に帰ろ? レオシュ」
「お前と俺は別の寮だろう」
「短い間だけでも一緒に居たいんだよ」
気だるげに漏らした溜め息さえ艶めかしい。
「バカか」
「そうだね、レオシュに関しては。レオシュバカかも」
相手しきれない、といった表情でレオシュは席を立った。
「あっ、置いてくなよ、レオシュー」
レオシュを追いかけてシルフェも教室を出ようとする。
擦れ違いざま、『ウーティスのプリンセス』と名高い生徒が、
まだ教室に残っているのをシルフェは見た。
『プリンセス』は頬杖を突きながら、正面のほうをぼんやり見ていた。
シルフェはすぐレオシュに追いついた。
二人、肩を並べて廊下を歩く。
「ねえ、レオシュはレポート何書く予定?」
レオシュは答えない。シルフェは気にせず喋り続ける。
「俺はさー、資料集に載ってた魔術師にしようかと思っててさ。名前は何て言ったっけなー」
シルフェは手にしている教科書やノートを見た。
「あ、資料集がない。教室の机に忘れたかな。レポート書くのに使うのに」
「なら、取りに戻るんだな」
「レオシュ、悪いけど、ここで待っててくんない? すぐに戻るからさ?」
「何故、お前を待たなければならない」
「俺のこと待ってて欲しいから」
レオシュは憮然とする。シルフェは片手を挙げ、
「絶対待ってろよなー!」
レオシュを一階に残し、廊下を走っていった。
シルフェは階段をヒョイヒョイと駆け上がっていく。息が乱れる様子は全くなかった。
教室のあるフロアに着いた時、既に人影はなく、廊下はひっそりとしていた。
窓から差し込む夕陽が廊下をオレンジに染め、シルフェの影を長くする。
このフロアは端から第一化学室、第二化学室、化学準備室の順に並んでいる。
第一化学室は広い教室で、化学や物理など自然科学の授業で使われている。
一般的には自然科学と相反する神秘学も、この学院では何故か自然科学に分類されている為、
このフロアに教室が設けられているのだが、
第一化学室での授業が許されたことは一度もない。
それは、神秘学という特殊な学問のせいか、神秘学担当講師が、学院の専任講師ではなく、
また、教授陣の中で一、二を争う程の変わり者だと言われているからだろうか。
他の理系の教授陣からは煙たがられているらしいが、
ボージェ教授本人は全く気にしていないとの噂もあった。
第二化学室まで辿り着いたシルフェはドアの前に立った。
ドアの一部が長方形のガラス窓になっていて、ドアを開けなくとも中の様子が見えた。
ついさっきまで授業をしていた部屋には、もう誰も居なかった。
第二化学室のドアを開けようと、一歩近付いた時、斜め左のほうに誰かの後ろ姿が見えた。
第二化学室に隣接している化学室準備室。
準備室の中の様子が、第二化学室のドアと準備室のドアのガラス窓越しに見える。
後頭部しか見えなかったが、誰だか解った。
肩までに揃えた髪。あれは『ウーティスのプリンセス』だ。
プリンセスの正面に立っている人物が居る。
プリンセスより背が高く、制服を着ていない。
顔は見えなかったが、そのブラウンのスーツを見て、シルフェは誰だか思い当たった。
(姫サンと先生? 準備室で何を……)
シルフェが疑問に思った時。
(おいおい、マジかよ)
その光景に、シルフェは自分の目を疑った。
ガラス窓が小さいせいで、一部しか見えないが。
(姫サンは王子様とデキてると思ってたんだけどな)
教師は少し身を屈め、それに対して生徒は抵抗しなかった。
シルフェの位置からは、二人が口付けをしているように見えた。
教師と生徒、それに男性同士だというのに、
ガラスで切り取られた四角の中で、
夕陽を浴びている二人は、とても綺麗に見えた。
シルフェが一階に戻ると、レオシュは機嫌悪そうにしながらも、その場所に居た。
「レオシュ、ホントに待っててくれたんだ?」
「なっ、待っていろと言ったのはお前だろう」
「うん。待たせてゴメンな。俺が居なくて寂しかっただろ?」
「バカか。 ん? お前、資料集はどうした?」
「ああ、資料集は明日にでも取りに行くよ」
「お前、教室へ戻ったんじゃないのか?」
「いや、行ったよ? けど、ちょっと、
隣の化学準備室が取り込み中で、第二化学室に入れなくてさ」
「取り込み中って、何だ?」
シルフェがニヤリと笑う。
「俺が化学準備室で何を見たか、演じてみせてあげよっか?
あんなの見せられちゃ、俺もしたくなっちゃったし」
「必要ない」
「またまたぁ~。レオシュは素直じゃないな~。ま、そこがスキなんだけど?」
レオシュは無視している。
「ね? 教えてあげるからさ、今夜もレオシュの部屋、行ってイイ?」
fin
■ウーティス寮の愉快な仲間達
「今日は宿題いっぱい出ちゃったね」
「ほんと。あーあ。めんどくさっ」
ユウタとハルヤは校舎を出て、寮に戻る途中だった。
二人とも教科書に加え、プリントの束を持っている。今日の授業で出た課題だ。
「ねえ、ハルヤ。宿題、一緒にやらない?」
「そうだね。一人でやるより早く終わるかも。じゃあ、サロンでやろっか?」
「うんっ。ありがと、ハルヤ!」
サロンのドアを開けると、コーヒーの良い香りがした。
ジョシュア、シルヴァン、アルフレッドが談笑しているところだった。
「でさ、フランスでは、最初のHは声出さないんだとよ」
アルフレッドがそう言うと、ジョシュアがコーヒーカップを置いた。
「うん。そうだね、フランスでは。アンリも声出さないし」
ユウタの頬が赤くなる。
「ええっ!? ジョシュア、何言ってんのっ!?」
「え?」
「俺だって、ジョシュアとアンリが中等部から同じ寮で、仲が良いのは知ってるよ?
それに、二人はなんか特別な雰囲気があるなとはちょっと思ってたけど、
そ、そこまで進んだ仲だったなんて……てゆうか、なんで、そんなこと、サロンでオープンに話し合ってんのっ!?」
ジョシュアは困惑している。
「えっと、話してはいけないことだったかな?」
「だ、だって、『最初の』ってことは、つまり、あの、
ジョシュアとアンリはもう何回も……ってこと、なんだよね……」
「俺は違うよ? 最初じゃないから」
「ええっ? アンリが初めてじゃないの? ってことは一体何歳の時に……」
シルヴァンが手を叩く。
「あっ! でも、ハルヤは声に出しますよねっ、『ハァッ』って」
「シルヴァンとハルヤまでっ!?」
ハルヤが顔を赤らめる。
「シ、シルヴァン! みんなの前で何言ってんだよっ」
「おや。ダメ、でしたか? でも、ハルヤは声出しますよね?」
「だから、そういうこと言っちゃダメだってば、シルヴァン!」
アルフレッドが首を捻っている。
「おいおい、ユウタもハルヤも、さっきからどうした?
二人して、何、顔赤くしてんだよ?
Hが最初の時に、声出すことの何が恥ずかしいんだ?
フランスではルールとして、声出さないってだけだろ?
アメリカやイギリスでは声に出すし。なあ、ジョシュア?」
「うん。ハッピーだと声に出るし」
ユウタが口ごもる。
「そ、それは、ハッピーなことかもしれないけどさ……」
「毎日毎日、騒がしいね、君達は」
ドアのほうからアンリが歩いてくる。ユウタは更に赤面する。
「あ、あああ、アンリ!?」
「ん? ユウタ、どうして、君、そんなに顔を赤くしているの?」
アルフレッドが頭を掻きながら、
「いやー、なんか解んねーんだけどよ? 俺達がフランス語の話してたら、
ユウタとハルヤが、顔真っ赤になっちまってな」
「フランス語の話だったの!?」
ユウタは大声で言った。
「じゃあ『最初のHは声出さない』って、もしかして黙字のこと!?」
ハルヤは肩を落とした。
「なんだ、驚かせないでよ……」
ジョシュアは首を傾げながらも、
「何か誤解があったみたいだけど、誤解が解けたみたいで良かったよ」
「つーか、どんな誤解をしたんだよ? おい、説明してくれよ、ユウタ」
「そ、そんなこと言えるわけないよっ!」
fin
「ほんと。あーあ。めんどくさっ」
ユウタとハルヤは校舎を出て、寮に戻る途中だった。
二人とも教科書に加え、プリントの束を持っている。今日の授業で出た課題だ。
「ねえ、ハルヤ。宿題、一緒にやらない?」
「そうだね。一人でやるより早く終わるかも。じゃあ、サロンでやろっか?」
「うんっ。ありがと、ハルヤ!」
サロンのドアを開けると、コーヒーの良い香りがした。
ジョシュア、シルヴァン、アルフレッドが談笑しているところだった。
「でさ、フランスでは、最初のHは声出さないんだとよ」
アルフレッドがそう言うと、ジョシュアがコーヒーカップを置いた。
「うん。そうだね、フランスでは。アンリも声出さないし」
ユウタの頬が赤くなる。
「ええっ!? ジョシュア、何言ってんのっ!?」
「え?」
「俺だって、ジョシュアとアンリが中等部から同じ寮で、仲が良いのは知ってるよ?
それに、二人はなんか特別な雰囲気があるなとはちょっと思ってたけど、
そ、そこまで進んだ仲だったなんて……てゆうか、なんで、そんなこと、サロンでオープンに話し合ってんのっ!?」
ジョシュアは困惑している。
「えっと、話してはいけないことだったかな?」
「だ、だって、『最初の』ってことは、つまり、あの、
ジョシュアとアンリはもう何回も……ってこと、なんだよね……」
「俺は違うよ? 最初じゃないから」
「ええっ? アンリが初めてじゃないの? ってことは一体何歳の時に……」
シルヴァンが手を叩く。
「あっ! でも、ハルヤは声に出しますよねっ、『ハァッ』って」
「シルヴァンとハルヤまでっ!?」
ハルヤが顔を赤らめる。
「シ、シルヴァン! みんなの前で何言ってんだよっ」
「おや。ダメ、でしたか? でも、ハルヤは声出しますよね?」
「だから、そういうこと言っちゃダメだってば、シルヴァン!」
アルフレッドが首を捻っている。
「おいおい、ユウタもハルヤも、さっきからどうした?
二人して、何、顔赤くしてんだよ?
Hが最初の時に、声出すことの何が恥ずかしいんだ?
フランスではルールとして、声出さないってだけだろ?
アメリカやイギリスでは声に出すし。なあ、ジョシュア?」
「うん。ハッピーだと声に出るし」
ユウタが口ごもる。
「そ、それは、ハッピーなことかもしれないけどさ……」
「毎日毎日、騒がしいね、君達は」
ドアのほうからアンリが歩いてくる。ユウタは更に赤面する。
「あ、あああ、アンリ!?」
「ん? ユウタ、どうして、君、そんなに顔を赤くしているの?」
アルフレッドが頭を掻きながら、
「いやー、なんか解んねーんだけどよ? 俺達がフランス語の話してたら、
ユウタとハルヤが、顔真っ赤になっちまってな」
「フランス語の話だったの!?」
ユウタは大声で言った。
「じゃあ『最初のHは声出さない』って、もしかして黙字のこと!?」
ハルヤは肩を落とした。
「なんだ、驚かせないでよ……」
ジョシュアは首を傾げながらも、
「何か誤解があったみたいだけど、誤解が解けたみたいで良かったよ」
「つーか、どんな誤解をしたんだよ? おい、説明してくれよ、ユウタ」
「そ、そんなこと言えるわけないよっ!」
fin
■テオ×クラウス
就寝前のシュヌーシア寮サロン。
生徒代表のクラウスは苦い顔をした。
「次の休日に、無人島でキャンプがしたいだと?」
「うんっ!」
テオは大きく頷いた。
「夏になったからシュヌーシアのみんなでキャンプに行きたいんだ!
やはり夏と言えば眩しい太陽、眩しい海、そしてキャンプ、だからね!」
うふふと楽しそうにテオが笑う。
「日中は海で思いきり遊んで、夜は満天の星空の下、テントで眠るのだよ!」
クラウスは浮かない顔だ。
「まあ、キャンプ自体は構わんが、無人島か。
もし体調不良の生徒が出たらどうする? 先ずはソクーロフ博士に」
「ご相談したら、一緒に来て下さるって!」
「……早いな」
こと娯楽に関して、テオのプロデュース能力は、非常に高い。
そのやる気をもっと勉学に回せないものか、とクラウスは以前より思っている。
「キャンプの開催が決定したら、警備にも声をかけておくよと仰っていたよ!」
ううむ、とクラウスが唸る。
「博士や警備が同行するなら、安全面に問題はないか」
「うんうん! ということで、クラウス!」
テオがクラウスの手を取った。
「クラウスも一緒にキャンプに行こう!」
「それは断る」
「ええっ!?」
テオの声がひっくり返った。
「ななな、何故だい!? 何故なんだい、クラウス!?」
「次の休日は卒業準備にあてたいんだ。もう六月下旬だしな」
テオの右手がギュッと結ばれる。
「だから、俺に構わず、キャンプはお前達で行ってこい。
くれぐれも、参加者の体調管理には気を付けてな」
「で、でも、まだ六月下旬なのだから、卒業の準備なんて、早過ぎるよ」
「そうか? 俺の予定としては、少し遅れているくらいなんだがな」
「では、キャンプ地を無人島から月桂樹の森に変更したら、クラウスも来てくれる!?」
「そんな近場でテントを張って、果たしてキャンプと言えるのか?」
他の生徒達は、二人の遣り取りを離れたテーブルから見守っていた。
中等部三年のシルフェは、それまで黙って紅茶を飲んでいたのだが、
「あー。見てらんない」
シルフェは席を立った。
「ここは俺がクラウスを口説き落とすしかないかっ」
シルフェの側では中等部一年のレオンとラビが宿題をしていた。
ラビが不思議そうに見上げる。
「シルフェ、どうするの?」
「俺の口説きのテクニックってヤツを見せてやる。
後学の参考にしろよ、レオン?」
「……なんで俺に振る?」
シルフェがクラウスとテオの元へ歩いていく。
「アタマの固いクラウスさーん」
クラウスが振り向いた。
「シルフェ、生徒同士はファーストネームで呼ぶ習慣だぞ」
「ははっ。期待以上にガッチガチだな」
「何の話だ?」
「ま、それは置いといて。俺が言いたいのはキャンプの話。
アンタ、さっきキャンプに行かないとか抜かしてたけど、
そりゃちょっと、無責任過ぎんじゃない?」
クラウスの眉がピクリと反応する。
「俺が無責任だと?」
「シュヌーシア全体のイベントなんだからさ、
やっぱ何かあった時の為に『責任者』が必要だろ?
シュヌーシアの最上級生で、生徒代表のクーラーウース?」
「責任者か」
クラウスは腕を組む。
「確かに、必要だな」
テオが乗り出す。
「一緒に行ってくれるの!?」
「仕方ない。お前達の監督責任は俺にあるからな」
「やったあ!」
ジャンプしてテオは喜んだ。
シルフェに駆け寄って、彼の両手を握り、上下にブンブン振った。
「ありがとう、シルフェ! ああ、なんとお礼を言っていいか解らないよ!」
「フフッ。どーいたしまして」
ラビは目を丸くしていた。
「シルフェ、すごーい」
レオンがぼそりと呟く。
「てゆーか、クラウスって案外、チョロいな」
シルフェは肩を竦め、「マジメだから」
「そこ、何をコソコソ話している?」
「ん? クラウスもキャンプに来てくれて嬉しいなーって話。な?」
皆が笑顔で頷いた。
fin
生徒代表のクラウスは苦い顔をした。
「次の休日に、無人島でキャンプがしたいだと?」
「うんっ!」
テオは大きく頷いた。
「夏になったからシュヌーシアのみんなでキャンプに行きたいんだ!
やはり夏と言えば眩しい太陽、眩しい海、そしてキャンプ、だからね!」
うふふと楽しそうにテオが笑う。
「日中は海で思いきり遊んで、夜は満天の星空の下、テントで眠るのだよ!」
クラウスは浮かない顔だ。
「まあ、キャンプ自体は構わんが、無人島か。
もし体調不良の生徒が出たらどうする? 先ずはソクーロフ博士に」
「ご相談したら、一緒に来て下さるって!」
「……早いな」
こと娯楽に関して、テオのプロデュース能力は、非常に高い。
そのやる気をもっと勉学に回せないものか、とクラウスは以前より思っている。
「キャンプの開催が決定したら、警備にも声をかけておくよと仰っていたよ!」
ううむ、とクラウスが唸る。
「博士や警備が同行するなら、安全面に問題はないか」
「うんうん! ということで、クラウス!」
テオがクラウスの手を取った。
「クラウスも一緒にキャンプに行こう!」
「それは断る」
「ええっ!?」
テオの声がひっくり返った。
「ななな、何故だい!? 何故なんだい、クラウス!?」
「次の休日は卒業準備にあてたいんだ。もう六月下旬だしな」
テオの右手がギュッと結ばれる。
「だから、俺に構わず、キャンプはお前達で行ってこい。
くれぐれも、参加者の体調管理には気を付けてな」
「で、でも、まだ六月下旬なのだから、卒業の準備なんて、早過ぎるよ」
「そうか? 俺の予定としては、少し遅れているくらいなんだがな」
「では、キャンプ地を無人島から月桂樹の森に変更したら、クラウスも来てくれる!?」
「そんな近場でテントを張って、果たしてキャンプと言えるのか?」
他の生徒達は、二人の遣り取りを離れたテーブルから見守っていた。
中等部三年のシルフェは、それまで黙って紅茶を飲んでいたのだが、
「あー。見てらんない」
シルフェは席を立った。
「ここは俺がクラウスを口説き落とすしかないかっ」
シルフェの側では中等部一年のレオンとラビが宿題をしていた。
ラビが不思議そうに見上げる。
「シルフェ、どうするの?」
「俺の口説きのテクニックってヤツを見せてやる。
後学の参考にしろよ、レオン?」
「……なんで俺に振る?」
シルフェがクラウスとテオの元へ歩いていく。
「アタマの固いクラウスさーん」
クラウスが振り向いた。
「シルフェ、生徒同士はファーストネームで呼ぶ習慣だぞ」
「ははっ。期待以上にガッチガチだな」
「何の話だ?」
「ま、それは置いといて。俺が言いたいのはキャンプの話。
アンタ、さっきキャンプに行かないとか抜かしてたけど、
そりゃちょっと、無責任過ぎんじゃない?」
クラウスの眉がピクリと反応する。
「俺が無責任だと?」
「シュヌーシア全体のイベントなんだからさ、
やっぱ何かあった時の為に『責任者』が必要だろ?
シュヌーシアの最上級生で、生徒代表のクーラーウース?」
「責任者か」
クラウスは腕を組む。
「確かに、必要だな」
テオが乗り出す。
「一緒に行ってくれるの!?」
「仕方ない。お前達の監督責任は俺にあるからな」
「やったあ!」
ジャンプしてテオは喜んだ。
シルフェに駆け寄って、彼の両手を握り、上下にブンブン振った。
「ありがとう、シルフェ! ああ、なんとお礼を言っていいか解らないよ!」
「フフッ。どーいたしまして」
ラビは目を丸くしていた。
「シルフェ、すごーい」
レオンがぼそりと呟く。
「てゆーか、クラウスって案外、チョロいな」
シルフェは肩を竦め、「マジメだから」
「そこ、何をコソコソ話している?」
「ん? クラウスもキャンプに来てくれて嬉しいなーって話。な?」
皆が笑顔で頷いた。
fin
■ミイラの神秘12 続編
●13 エピローグ
レースのカーテンを少しだけ開ける。
バートンが警察に連行されていくのを、僕達はホテルの部屋の窓から見送った。
警部に付き添われて、彼はパトカーに向かって歩いていく。重い足取りだ。
彼の背が曲がっているのは、その背に絶望を背負っているからかもしれない。
「ボージェ教授。どうして人を殺してはならないの?」
背後に居る教師に尋ねた。
「事件が解決したら、答えを教えるって言っていなかった?」
「そうだったね。では教えよう」
大人の低い声が僕の頭上から聞こえてくる。
「答えは『人を殺してはいけない、というルールを破っているから』だよ」
僕は教師を振り返る。彼は淡々と解説した。
「人を殺してはならない。そのルールを破ることがいけないことなんだ。
殺人を罪と見なすルールがあるからね、現代には」
僕は冷笑した。
「本質的な回答とは言えないけれど、間違いではないか」
殺せば殺す程、英雄となった時代もある。
子供が読む教科書に『国の為に死ね』と書かれていた時代がある。
その風潮は現代にはない。
現代では人を殺すことは罪になる。だから殺してはならない。
「解り易い答えだね。非情なまでにシンプルだ」
バートンがパトカーに乗り込むのが見えた。罪人を乗せた車がホテルを出ていく。
僕はそっとカーテンを閉めた。
僕とオーギュストは当初の予定通り昼前にホテルを出発した。
「自分が居ない間に、まさかアンリさんが殺人事件に巻き込まれるなんて」
ホテルから空港まで車で移動中。今日の運転手はフィオラノだった。
「アンリさん、お怪我はありませんでしたか?」
「見ての通りだよ」
「ご無事で何よりです。今回は一日目しかお側に付けず、すいやせんでした」
「フィオが謝るこたねえさ」
しゃがれた声が割り込んでくる。ディーノだ。
「お前には別の仕事を頼んでたからなあ」
後部座席には、左からディーノ、僕、オーギュストの順番で座っていた。
「ホテル周辺を張ってたダンテの話じゃ、事件のどさくさに紛れて、
昨日、ホテルに入ろうとしてたネズミが居たらしいぜ?」
「本当?」
「心配すんな。ネズミ野郎はダンテが駆除済みさ」
「そう」
車の窓からパレルモの街並みが見えた。
空港に近付くに連れ、海が見えてくる。港町の景色は美しい。
かつてのシチリアでは、政権さえマフィアが影で糸を引いていた時代があり、
公共事業や建築業との癒着があったとも言われている。
当時建設されたパレルモ市街地にある高層アパート群。
その下にはマフィアの餌食になった者達が今も眠っている。
コンクリートの中にはバラバラになった手足が埋められていると。
そんな噂が現在もまことしやかに囁かれる街。
噂は真実なのか。今も行われていることなのか。
昨日の“ネズミ”はどうやって駆除されたのか。
僕の隣に居る男は、それらを全て知っているのだろう。
チラリと見上げたら、たまたま目が合った。
「ん? お礼のキスがしたいってか? センセーの前で大胆なヤツだなあ」
マフィアは笑っていた。
一時間ほどでパレルモ空港に着いた。
僕達四人は観光客やビジネスマンと擦れ違いながら、搭乗口に向かっていた。
今日のディーノは白いスーツに白いハット。目立つ。
彼の先導で歩いている僕達は、端から見たら、どんな集団だと思われるのだろう。
やはり国外へ出張しようとしているマフィアの一味だろうか。
この中で一番年下の僕は、ディーノの弟分だと見なされるのだろうか。腹が立つ。
「なあ、ホントにもう帰っちまうのか、センセー?」
オーギュストがディーノに絡まれている。
「シチリアの旨いメシは食ったのかあ?」
「料理はホテルで頂いたよ。美味しいスプマンテもね」
彼等の後方を僕とフィオラノが歩いていた。
僕は二日前から気になっていたことがあった。今なら丁度良いタイミングだ。
前方を歩く二人に聞こえないよう、僕は静かに言った。
「フィオラノ。聞きたいことがあるんだけど」
「あ、へい。何でしょう?」
「僕とオーギュストって、似てる?」
カタコンベで会った老夫婦。ご婦人は僕達のことを「似てる」と言った。
利発な目許は特にそっくりだと。
学院の連中には、似ているなんて今まで言われたことがなかったから、
第三者の目からどう見えるのか聞いてみたかった。フィオラノはきょとんとしながら、
「ええっと、それはお顔が似てるかってことですかい?」
僕は頷く。フィオラノは僕の顔と前方を歩くオーギュストの横顔を見比べた。
「うーん。お二人ともお綺麗なお顔立ちだとは思いますが、
似てるかって言うと、似てるようなー、似てないようなー」
「はっきりしないね」
「ただ、言われてみますと、少し」
「似てるの? どこが?」
「いえ、どこがって言われると、うまく言えないんですけど、雰囲気、ですかねえ」
「何それ?」
「気高さって言うんでしょうか。お二人ともお上品だなあっていうのは感じてました」
「そう」
顔を上げると、ディーノがオーギュストの肩に腕を回していた。
初対面の時はオーギュストのことを「いけすかねえ奴」とまで言っていたのに、
今日のディーノは、オーギュストに対して嫌に馴れ馴れしい。
「なんなら、俺様の知り合いがやってるウマイ店に案内してやってもイイんだぜ?」
「ありがとう。でも明日は授業があるから。今日帰らなくてはいけないんだ」
「俺様よりクソガキどもの相手がイイってか。つれねえセンセーだなあ」
「私もディーノ君とは一度ゆっくりワインでも酌み交わしたいと思っているんだがね」
「俺もだぜ? センセーとはイロンナ話をしてみてえんだよなあ、例えば」
ディーノはオーギュストの耳許に唇を寄せ、何か囁いた。僕の位置からでは遠くて聞こえない。
何事かを耳打ちされたオーギュストは、フッと微笑んでいた。
「フライトは正常ですね」
フィオラノはフライトスケジュールを見上げていた。
欠航や大幅な遅れもない。この分なら、夜のうちに島に帰れそうだ。
「アンリさん、搭乗まであと20分ほどお時間ありますが、お飲物でもお持ちしましょうか?」
「構わなくていいよ。本でも読んでるから。君達、今日はもう」
帰ってくれていいよ、と言葉が続かなかった。
フライトスケジュールを伝える電子時刻表の近くに、テレビのニュース番組が映っていた。
交通事故のニュースだった。見慣れ過ぎて、普段は何も感じないくらいのニュースなのに。
その時の僕は、足が止まり、テレビから目が離せなかった。
「どうしたんだね、アンリ」
オーギュストの声で我に返った。彼がこちらにやってくる。
「オーギュスト、あれ」
彼もテレビを見上げた。
「あれは、カタコンベで会ったご夫婦だね」
僕とオーギュストのことを似ていると言ったご婦人と夫だ。
彼が運転する車が事故を起こして、夫婦共に死亡。
アナウンサーは淡々と、高齢者の交通事故が増えていると伝えていた。
「どうして、彼等が」
「なんだ、お前の知り合いか?」
ディーノが後ろに立っていた。
「知り合いという程では、ないけれど」
「ありゃあ社長さんだぜ?」
その時、ディーノは微かに嗤った。僕の脳に幾つかの仮説が浮かぶ。
もし、カタコンベで老夫婦と出会ったことが偶然でなかったとしたら。
ご婦人がスリに遭ったことも、
彼女の財布を取り返し、ご婦人と面識を持ったことも、
全てが偶然でなく、仕組まれたことだったとしたら。
「ディーノ。まさか、フィオラノに任せたことって」
「聞きてえのか?」
僕は思い出す。僕達をカタコンベに誘ったのは、フィオラノだった。
僕達はイタリアを出国して、聖アルフォンソ島に戻ってきた。
空港まで迎えに来たタクシーのドライバーは、金髪の煩い人だった。
オーギュストは彼にドライトマトとオリーブオイルを渡していた。
どうして彼にイタリア土産を渡す必要があるのか解らない。
大人達がパスタの話をしている間、僕は窓のほうを見ていた。
空港から市街地までは海沿いの道。夜の海。静寂の景色が続く。
暗い海には金色の三日月が浮かんでいた。
正門前で煩いドライバーから離れられた。
車から降りると、僕を迎えるように、葉の香りを感じた。
正門からキャンパスまで立ち並ぶ木々。この島にしかない亜種の月桂樹。
外出先から戻ってきてこの香りを吸うと、帰ってきたんだなと思う。
教職員の宿舎メルキュール館に住むオーギュストとは、校舎の前で別れた。
僕は一人で、第一学生寮に向かった。
僕が島の外に出ると、寮生は無駄に毎回心配している。
今回も例に洩れず、寮のサロンに僕が顔を見せると、
五人の寮生は僕を待ち受けていたかのように、わっと寄ってきた。
「アンリだ! 無事だったんだね! おかえり、アンリ!」
泣きそうな笑顔で出迎えたのは、日本から来た一年生。
「心配したよ、シチリアで猟奇殺人事件が起こったってニュースでやってたから」
眼鏡の日本人が続く。
「もしかしてアンリがまた巻き込まれてるんじゃないかって」
「ああ、巻き込まれたよ、思いきり。容疑者扱いされたし」
「アンリが犯人だったの!?」
「だったら、帰ってこれないよ」
「そ、そっか。そーだよね」
一年生は照れ笑いした。
「じゃあ、どんな巻き込まれ方をしたんですか?」
「聞かせろよ、アンリ。刑事役のオファーが来た時、参考にするからさ」
「明日にして。今夜はもう眠りたい。間抜け面見たら、疲れてきた」
「誰のことだ、誰のー!? こっちは心配して待ってたっていうのによー!」
「レッド。話は明日ゆっくり聞かせて貰うとして、今日はもう休ませてあげよう?」
「ちぇー」
「アンリ」
お人好しは僕を優しく見つめた。
「今夜は何の心配しないで、安心してゆっくりおやすみ」
やっと僕の部屋に辿り着いた。
ドアを閉め、歩きながらネクタイを緩める。
電気を付けないまま、倒れるようにして、ベッドに身を預けた。
これまで色々なホテルに泊まってきたけれど、
どこのスイートルームのベッドより、このベッドが一番落ち着く。
シャワーを浴びるのは明日の朝にして、今夜はこのまま眠ろう。
今回は本当に疲れた。目を閉じたら、すぐに眠れるだろうと思ったのに。
この三日間の出来事が次々と思い出されて、落ち着かない。
無口な男かと思いきや、片言しか英語が話せないマフィア。
かつて愛した人の遺体を見せられ、殺害容疑までかけられた男。
愛の果て、彼女を所有する為に殺した男。
そして、父親のエゴでミイラにされた少女。
三日の間に擦れ違った人達の顔や声が、浮かんでは消えていく。
「スーツも脱がずに眠るのかね?」
突然、声がして、僕は目を開けた。
そこに立っていたのは、いつも僕の部屋に勝手に入ってくる人物だった。
「……オーギュスト」
時計の秒針がチクタク時を刻んでいる。
夜の森からは、遠くで鳥が鳴いているのが聞こえた。ナイチンゲールだろう。
あのさえずりは、夜に聞いても耳障りじゃない。
暗い部屋で、僕はベッドに横たわったまま尋ねた。
「ねえ、ボージェ教授」
「ん?」
「ロザリア・ロンバルドをミイラにした人の名前、何ていったっけ?」
「死体防腐処理師のアルフレッド・サラフィア氏だよ」
「そのミイラ師も、目指したところは同じだったのかもしれないね、錬金術師と」
「錬金術師と?」
「ミイラ師も、錬金術師も、根本にある思想は同じような気がする。
どちらも永遠の身体を求めてることに変わりはないから」
「成程。確かに似ているのかもしれない。両者が目指したのは不老の身体だ」
「うん」
時計の針は、一秒ずつ時を進めている。
「ところで、君、さっき別れたばかりなのに、何しに来たの?」
彼は微笑むだけで答えない。
「用事がないなら、もう自分の部屋に帰ったら? 僕、疲れたから、早く眠りたいんだけど?」
「そうだね。今回は本当にお疲れ様」
そう言うと、オーギュストは僕の頭を撫でた。優しく、温かい手。
こういうのは好きじゃない。頭を撫でられるなんて、あの人にもされたことないのに。
「おやすみ、アンリ」
急に眠たくなってきて、僕は目を閉じた。
fin
レースのカーテンを少しだけ開ける。
バートンが警察に連行されていくのを、僕達はホテルの部屋の窓から見送った。
警部に付き添われて、彼はパトカーに向かって歩いていく。重い足取りだ。
彼の背が曲がっているのは、その背に絶望を背負っているからかもしれない。
「ボージェ教授。どうして人を殺してはならないの?」
背後に居る教師に尋ねた。
「事件が解決したら、答えを教えるって言っていなかった?」
「そうだったね。では教えよう」
大人の低い声が僕の頭上から聞こえてくる。
「答えは『人を殺してはいけない、というルールを破っているから』だよ」
僕は教師を振り返る。彼は淡々と解説した。
「人を殺してはならない。そのルールを破ることがいけないことなんだ。
殺人を罪と見なすルールがあるからね、現代には」
僕は冷笑した。
「本質的な回答とは言えないけれど、間違いではないか」
殺せば殺す程、英雄となった時代もある。
子供が読む教科書に『国の為に死ね』と書かれていた時代がある。
その風潮は現代にはない。
現代では人を殺すことは罪になる。だから殺してはならない。
「解り易い答えだね。非情なまでにシンプルだ」
バートンがパトカーに乗り込むのが見えた。罪人を乗せた車がホテルを出ていく。
僕はそっとカーテンを閉めた。
僕とオーギュストは当初の予定通り昼前にホテルを出発した。
「自分が居ない間に、まさかアンリさんが殺人事件に巻き込まれるなんて」
ホテルから空港まで車で移動中。今日の運転手はフィオラノだった。
「アンリさん、お怪我はありませんでしたか?」
「見ての通りだよ」
「ご無事で何よりです。今回は一日目しかお側に付けず、すいやせんでした」
「フィオが謝るこたねえさ」
しゃがれた声が割り込んでくる。ディーノだ。
「お前には別の仕事を頼んでたからなあ」
後部座席には、左からディーノ、僕、オーギュストの順番で座っていた。
「ホテル周辺を張ってたダンテの話じゃ、事件のどさくさに紛れて、
昨日、ホテルに入ろうとしてたネズミが居たらしいぜ?」
「本当?」
「心配すんな。ネズミ野郎はダンテが駆除済みさ」
「そう」
車の窓からパレルモの街並みが見えた。
空港に近付くに連れ、海が見えてくる。港町の景色は美しい。
かつてのシチリアでは、政権さえマフィアが影で糸を引いていた時代があり、
公共事業や建築業との癒着があったとも言われている。
当時建設されたパレルモ市街地にある高層アパート群。
その下にはマフィアの餌食になった者達が今も眠っている。
コンクリートの中にはバラバラになった手足が埋められていると。
そんな噂が現在もまことしやかに囁かれる街。
噂は真実なのか。今も行われていることなのか。
昨日の“ネズミ”はどうやって駆除されたのか。
僕の隣に居る男は、それらを全て知っているのだろう。
チラリと見上げたら、たまたま目が合った。
「ん? お礼のキスがしたいってか? センセーの前で大胆なヤツだなあ」
マフィアは笑っていた。
一時間ほどでパレルモ空港に着いた。
僕達四人は観光客やビジネスマンと擦れ違いながら、搭乗口に向かっていた。
今日のディーノは白いスーツに白いハット。目立つ。
彼の先導で歩いている僕達は、端から見たら、どんな集団だと思われるのだろう。
やはり国外へ出張しようとしているマフィアの一味だろうか。
この中で一番年下の僕は、ディーノの弟分だと見なされるのだろうか。腹が立つ。
「なあ、ホントにもう帰っちまうのか、センセー?」
オーギュストがディーノに絡まれている。
「シチリアの旨いメシは食ったのかあ?」
「料理はホテルで頂いたよ。美味しいスプマンテもね」
彼等の後方を僕とフィオラノが歩いていた。
僕は二日前から気になっていたことがあった。今なら丁度良いタイミングだ。
前方を歩く二人に聞こえないよう、僕は静かに言った。
「フィオラノ。聞きたいことがあるんだけど」
「あ、へい。何でしょう?」
「僕とオーギュストって、似てる?」
カタコンベで会った老夫婦。ご婦人は僕達のことを「似てる」と言った。
利発な目許は特にそっくりだと。
学院の連中には、似ているなんて今まで言われたことがなかったから、
第三者の目からどう見えるのか聞いてみたかった。フィオラノはきょとんとしながら、
「ええっと、それはお顔が似てるかってことですかい?」
僕は頷く。フィオラノは僕の顔と前方を歩くオーギュストの横顔を見比べた。
「うーん。お二人ともお綺麗なお顔立ちだとは思いますが、
似てるかって言うと、似てるようなー、似てないようなー」
「はっきりしないね」
「ただ、言われてみますと、少し」
「似てるの? どこが?」
「いえ、どこがって言われると、うまく言えないんですけど、雰囲気、ですかねえ」
「何それ?」
「気高さって言うんでしょうか。お二人ともお上品だなあっていうのは感じてました」
「そう」
顔を上げると、ディーノがオーギュストの肩に腕を回していた。
初対面の時はオーギュストのことを「いけすかねえ奴」とまで言っていたのに、
今日のディーノは、オーギュストに対して嫌に馴れ馴れしい。
「なんなら、俺様の知り合いがやってるウマイ店に案内してやってもイイんだぜ?」
「ありがとう。でも明日は授業があるから。今日帰らなくてはいけないんだ」
「俺様よりクソガキどもの相手がイイってか。つれねえセンセーだなあ」
「私もディーノ君とは一度ゆっくりワインでも酌み交わしたいと思っているんだがね」
「俺もだぜ? センセーとはイロンナ話をしてみてえんだよなあ、例えば」
ディーノはオーギュストの耳許に唇を寄せ、何か囁いた。僕の位置からでは遠くて聞こえない。
何事かを耳打ちされたオーギュストは、フッと微笑んでいた。
「フライトは正常ですね」
フィオラノはフライトスケジュールを見上げていた。
欠航や大幅な遅れもない。この分なら、夜のうちに島に帰れそうだ。
「アンリさん、搭乗まであと20分ほどお時間ありますが、お飲物でもお持ちしましょうか?」
「構わなくていいよ。本でも読んでるから。君達、今日はもう」
帰ってくれていいよ、と言葉が続かなかった。
フライトスケジュールを伝える電子時刻表の近くに、テレビのニュース番組が映っていた。
交通事故のニュースだった。見慣れ過ぎて、普段は何も感じないくらいのニュースなのに。
その時の僕は、足が止まり、テレビから目が離せなかった。
「どうしたんだね、アンリ」
オーギュストの声で我に返った。彼がこちらにやってくる。
「オーギュスト、あれ」
彼もテレビを見上げた。
「あれは、カタコンベで会ったご夫婦だね」
僕とオーギュストのことを似ていると言ったご婦人と夫だ。
彼が運転する車が事故を起こして、夫婦共に死亡。
アナウンサーは淡々と、高齢者の交通事故が増えていると伝えていた。
「どうして、彼等が」
「なんだ、お前の知り合いか?」
ディーノが後ろに立っていた。
「知り合いという程では、ないけれど」
「ありゃあ社長さんだぜ?」
その時、ディーノは微かに嗤った。僕の脳に幾つかの仮説が浮かぶ。
もし、カタコンベで老夫婦と出会ったことが偶然でなかったとしたら。
ご婦人がスリに遭ったことも、
彼女の財布を取り返し、ご婦人と面識を持ったことも、
全てが偶然でなく、仕組まれたことだったとしたら。
「ディーノ。まさか、フィオラノに任せたことって」
「聞きてえのか?」
僕は思い出す。僕達をカタコンベに誘ったのは、フィオラノだった。
僕達はイタリアを出国して、聖アルフォンソ島に戻ってきた。
空港まで迎えに来たタクシーのドライバーは、金髪の煩い人だった。
オーギュストは彼にドライトマトとオリーブオイルを渡していた。
どうして彼にイタリア土産を渡す必要があるのか解らない。
大人達がパスタの話をしている間、僕は窓のほうを見ていた。
空港から市街地までは海沿いの道。夜の海。静寂の景色が続く。
暗い海には金色の三日月が浮かんでいた。
正門前で煩いドライバーから離れられた。
車から降りると、僕を迎えるように、葉の香りを感じた。
正門からキャンパスまで立ち並ぶ木々。この島にしかない亜種の月桂樹。
外出先から戻ってきてこの香りを吸うと、帰ってきたんだなと思う。
教職員の宿舎メルキュール館に住むオーギュストとは、校舎の前で別れた。
僕は一人で、第一学生寮に向かった。
僕が島の外に出ると、寮生は無駄に毎回心配している。
今回も例に洩れず、寮のサロンに僕が顔を見せると、
五人の寮生は僕を待ち受けていたかのように、わっと寄ってきた。
「アンリだ! 無事だったんだね! おかえり、アンリ!」
泣きそうな笑顔で出迎えたのは、日本から来た一年生。
「心配したよ、シチリアで猟奇殺人事件が起こったってニュースでやってたから」
眼鏡の日本人が続く。
「もしかしてアンリがまた巻き込まれてるんじゃないかって」
「ああ、巻き込まれたよ、思いきり。容疑者扱いされたし」
「アンリが犯人だったの!?」
「だったら、帰ってこれないよ」
「そ、そっか。そーだよね」
一年生は照れ笑いした。
「じゃあ、どんな巻き込まれ方をしたんですか?」
「聞かせろよ、アンリ。刑事役のオファーが来た時、参考にするからさ」
「明日にして。今夜はもう眠りたい。間抜け面見たら、疲れてきた」
「誰のことだ、誰のー!? こっちは心配して待ってたっていうのによー!」
「レッド。話は明日ゆっくり聞かせて貰うとして、今日はもう休ませてあげよう?」
「ちぇー」
「アンリ」
お人好しは僕を優しく見つめた。
「今夜は何の心配しないで、安心してゆっくりおやすみ」
やっと僕の部屋に辿り着いた。
ドアを閉め、歩きながらネクタイを緩める。
電気を付けないまま、倒れるようにして、ベッドに身を預けた。
これまで色々なホテルに泊まってきたけれど、
どこのスイートルームのベッドより、このベッドが一番落ち着く。
シャワーを浴びるのは明日の朝にして、今夜はこのまま眠ろう。
今回は本当に疲れた。目を閉じたら、すぐに眠れるだろうと思ったのに。
この三日間の出来事が次々と思い出されて、落ち着かない。
無口な男かと思いきや、片言しか英語が話せないマフィア。
かつて愛した人の遺体を見せられ、殺害容疑までかけられた男。
愛の果て、彼女を所有する為に殺した男。
そして、父親のエゴでミイラにされた少女。
三日の間に擦れ違った人達の顔や声が、浮かんでは消えていく。
「スーツも脱がずに眠るのかね?」
突然、声がして、僕は目を開けた。
そこに立っていたのは、いつも僕の部屋に勝手に入ってくる人物だった。
「……オーギュスト」
時計の秒針がチクタク時を刻んでいる。
夜の森からは、遠くで鳥が鳴いているのが聞こえた。ナイチンゲールだろう。
あのさえずりは、夜に聞いても耳障りじゃない。
暗い部屋で、僕はベッドに横たわったまま尋ねた。
「ねえ、ボージェ教授」
「ん?」
「ロザリア・ロンバルドをミイラにした人の名前、何ていったっけ?」
「死体防腐処理師のアルフレッド・サラフィア氏だよ」
「そのミイラ師も、目指したところは同じだったのかもしれないね、錬金術師と」
「錬金術師と?」
「ミイラ師も、錬金術師も、根本にある思想は同じような気がする。
どちらも永遠の身体を求めてることに変わりはないから」
「成程。確かに似ているのかもしれない。両者が目指したのは不老の身体だ」
「うん」
時計の針は、一秒ずつ時を進めている。
「ところで、君、さっき別れたばかりなのに、何しに来たの?」
彼は微笑むだけで答えない。
「用事がないなら、もう自分の部屋に帰ったら? 僕、疲れたから、早く眠りたいんだけど?」
「そうだね。今回は本当にお疲れ様」
そう言うと、オーギュストは僕の頭を撫でた。優しく、温かい手。
こういうのは好きじゃない。頭を撫でられるなんて、あの人にもされたことないのに。
「おやすみ、アンリ」
急に眠たくなってきて、僕は目を閉じた。
fin
■ミイラの神秘11 続編
●12 「君が欲しかったのは」
翌朝。昨夜は結局、深夜まで起きていたから、睡眠時間は足りていない。
瞼は重たいけれど、脳は、やけにハッキリしている。
これから起こるであろうことに、防衛機能が働いているのだろうか。
ホテル内のレストランで朝食を終えたあと、
オーギュストに「せっかくイタリアに来たのだから」と言われて、食後のエスプレッソに付き合わされた。
苦い。コーヒーの香りは嫌いじゃないけれど、やはり紅茶のほうが良い。
「アンリは」
オーギュストはエスプレッソ用の小さなカップを持ちながら、ぽつりと言った。
「どうして、人を殺してはいけないのか解るかい?」
ウエイターが僕達の横を通り過ぎる。オーギュストはカップを置いた。
「事件が解決したら、答えを教えるよ」
僕は肩を竦めた。
「無事に解決すれば良いけどね」彼を見上げる。「大博打じゃない? 本当に上手くいくの?」
「La Roue de Fortune. 『運命の輪』は急速に回り始めている。決断の時は今だと思うよ」
朝食が終わったあと、僕とオーギュストが宿泊している部屋に、関係者が集められた。
バートンとヒューズは、それぞれ離れた位置で、壁を背に立っている。
僕とオーギュストは窓際の丸テーブルを挟んで座っている。
この空間を取り仕切るように、カタラーノ警部が部屋の中央に立っていた。
その傍らには警部の部下が二人控えており、警察以外の人間を監視していた。
バートンが口を開いた。
「あの、警部さんから、お話があるって聞きましたけど、何でしょうか?」
「そうですね。揃いましたし、始めましょうか。突然、お呼び出しして、すみません。
関係者の皆さんには、取り急ぎお知らせをと思いましたので」
ヒューズが痺れを切らす。
「なら、早く教えて下さいよ」
「ああ、すみません。実は、フローラさんの右腕が見つかりました」
僕はバートンとヒューズの様子を観察する。
「本当ですか!?」
最初に声を上げたのはヒューズだった。
「はい。先程、発見致しました」
警部からの発表に、ヒューズは表情を歪める。バートンは俯いていた。
ヒューズは食ってかかるように、
「どこにあったんです?」
警部は静かに言った。
「それは言えません。ですが、我々警察が管理していますので、ご安心を。
腕について調べが進めば、直に犯人を特定できるかと思います。
調査が終わるまで、もう一日か二日、お待ち頂けないでしょうか。
それから、もし、この中に犯人が居るのなら早いうちに自供して頂けると助かるのですが」
その場に居る全員が、互いの顔を見合った。
が、誰も申し出なかった。警部は頷く。
「ご協力頂けないようですね、残念です。
それでは我々から声をかけられるのを待っていて下さい。そうお時間はとらせませんので。
ご報告は以上です。お集まり頂き、ありがとうございました」
僕はバートンとヒューズを見やる。彼等は自分の部屋へと戻っていった。
警察は二手に分かれて、彼等のあとを密かに追いかけた。
僕とオーギュストは警部が居るほうへ付いていった。
警部は部屋のドアを少し開けると、声が聞こえてきた。
ドアの隙間から見えたのは、携帯電話を耳にあてているバートンの姿だった。
「すみません。ちょっとお尋ねしたいことがあって」
焦り、余裕のない顔をしている。
僕達に覗かれていることにも気付かずに彼は必死に話していた。
「あの、頼んだ荷物がまだ届かないのですが」
その時、バートンはイタリア語で話していた。
あとからオーギュストに聞いたところによると、このような話をしていたらしい。
「ええ。それで、荷物が今どこにあるか、
調べて貰うことはできますか? ……あ、はい、注文番号は」
小さな紙を手にし、番号を読み上げた。
その後、「少々お待ち下さい」と言われたのか、暫く黙っていた。
「ああ、まだ郵便局にありましたか。え? ああ、そうでした。
到着は明後日の予定でしたね」
オーギュストは小声で「郵便局にあるようだね」と僕に通訳した。
警部は静かにドアを開け、部屋の中へ入っていった。バートンは話し続けている。
「すみません、到着日を勘違いしていたようです。では、その荷物は予定通り」
「失礼」
彼が耳にあてていた携帯電話を抜き取って、警部は話し始めた。
「私はパレルモ警察のカタラーノと申します。
その荷物、これから警察が回収に伺いますので、
それまで誰にも渡さないよう、厳重に保管しておいて頂けますかな?
ある事件の重要な証拠物件ですので。はい。ご協力、感謝致します。
では担当の者に代わりますので、そちらのご住所を教えてやって下さい」
警部は「頼んだぞ」と言って、若い刑事に携帯電話を渡した。
そして、怯えた目で自分を見上げている人物に、優しく話しかけた。
「申し訳ありませんな、お電話をお借りして。
謝っておきながら、この携帯電話をお返しできないことにも、重ねてお詫び致します」
「ふうん。郵便局にあったんだ?」
僕も部屋の中に入っていく。
「それなら、ホテル中を探しても見つからないわけだね」
彼は誰にともなく呟いた。
「フローラの腕が見つかったというのは、芝居ですか」
「そうだよ? 腕の在りかを知っている犯人が、腕が見つかったと聞けば、
何らかの行動を起こしてくれるんじゃないかって思ったから」
僕はズボンのポケットに手を入れた。
指先に何か当たる。スウェードの手触り。
「腕を切断したのは、腕を残しておくと都合が悪いからだと思っていた。
でも、それ以外の理由もあるよね。理解には苦しむけれど」
僕は彼に尋ねた。
「腕だけだったんじゃない? 君が欲しかったのは」
「まさか。腕を手に入れて、一体どうするんですか?」
「ハンズ・オブ・グローリー」
その言葉は、呪文のようにバートンを硬直させた。
「あるオカルトマニアから聞いたんだけど、
魔術用具の一種として、死人の腕を護符代わりに持つことがあるそうだね?
『栄光の手』なんて、大層な呼び名が付いているけれど、
要は、ミイラの一種で、死蝋(しろう)化した腕のことだ。
死蝋が何か、君は知っているよね?」
彼は俯いたまま答えない。
「カタコンベで眠る少女、ロザリア・ロンバルドも死蝋だと言われている。
チーズ状の身体をした死蝋だとね」
僕が話し終わると、部屋は静まり返った。
ほんの三秒程度だったのだろうが、随分長く感じた。
バートンは足下から崩れ、床に座り込んだ。
「どうして?」
ゆっくりと天を仰いだ。
「どうして、僕を守ってくれなかったの、フローラ」
少年のよう。その時の彼は、酷く無垢な表情に見えた。
「君は僕の護符になってくれたのに」
フッと彼は笑った。
「――ああ。まだ、ハンズ・オブ・グローリーとして完成していなかったからかな」
「勝手だね」
僕は吐き捨てた。ポケットの中で小さな革袋を握り締めていた。
「護符ってそういうものじゃないと思う。生け贄のように切り落とされた腕よりは、
市場なんかで売ってる嘘っぽいパワーストーンのほうが、
よっぽど清浄で御利益がありそうだ。それに、自分を殺した犯人を、
守ってくれるお人好しなんて、居ないと思うけど?」
そう言いながら、僕は見知った顔を思い出していた。
自己犠牲好きなどこかの王子ならやり兼ねないかもしれない。僕は殺人者に一歩近付く。
「ねえ? どうして、彼女をミイラにしようと思ったの?」
「生きていたら、いつか終わりが来るだろう? フローラが心変わりするかもしれないし、
それがなかったとしても、いつかは死に別れる。それならミイラにすればいい」
彼の論理は破綻している。
「ミイラになれば永遠の身体が手に入る。ずっと僕の側に居て貰える」
彼は頭を抱えて、掠れ声で呟いた。
「愛していたんだ。フローラと離れたくなかった。ずっと側に居て欲しかった」
「僕には矛盾しているように聞こえるけれど。僕が可笑しいのかな?
ずっと側に居たかったと言いながら、君がしたことは殺人だ。
もう彼女は生きていないんだよ、君のせいで」
「僕の中では矛盾はないんだけど、僕と君では考え方が違うのかな」
「そのようだね」
「君も僕の話が理解できないのか。フローラも理解できないみたいだったけど」
「彼女には何て言ったの?」
「僕達もいつか一緒にミイラになりたいねって。
フローラなら絶対に理解してくれると思ってた。フローラもオカルトが好きだし、
シチリアのカタコンベに行こうって誘った時も、興味があるみたいだったから。
なのに、フローラは僕を拒絶した。化け物を見るような目で僕を見た。
せっかくシチリアまで来て、本物の夫婦ミイラも見せてあげたのに、
あの時はフローラも楽しそうだったのに、どうして」
「ミイラになることを断られたから、殺したの? それだけのことで?」
彼は僕の問いかけには答えず、警部を見上げた。
「刑事さん、フローラのハンズ・オブ・グローリーは、
僕のものではなくなってしまうんですか?」
「ええ。もちろんです。まずは検死官に送られ、その後は適切に埋葬致します」
「そうですか。じゃあ、もういいです」
「もういい、とは?」
「僕を死刑にして下さい。僕はもう何も要りません。
僕の栄光を奪われるのなら、もう何も、誰も、
僕を守ってはくれませんから。誰か僕を殺して下さい」
「それはできません」
警部はゆっくりと言った。
「何故なら、イタリアには死刑制度がないからです。
そう言えば貴方の母国はアメリカでしたか。
あそこは州によって死刑制度があったりなかったりしますからなあ」
バートンは軽く笑った。
「死刑制度がないなんて、残酷な国ですね、イタリアは」
「そうですね。死を与えられないことは、時に死より残酷なのかもしれません」
それまで黙っていたオーギュストが、バートンの元まで行く。
「だからこそ、罪を犯した人間は、生き続けなくてはならないのではないでしょうか」
床に座り込んでいるバートンの側で膝を落とす。
目線を合わせ、優しい声で言った。
「命とは、終わりを早めるものでも、長らえるものでもなく」
その時のオーギュストは少し辛そうな顔をしていた。
「ただ、全うするもの。それを知ることが罪人に与えられた罰なのだと私は思います」
→
翌朝。昨夜は結局、深夜まで起きていたから、睡眠時間は足りていない。
瞼は重たいけれど、脳は、やけにハッキリしている。
これから起こるであろうことに、防衛機能が働いているのだろうか。
ホテル内のレストランで朝食を終えたあと、
オーギュストに「せっかくイタリアに来たのだから」と言われて、食後のエスプレッソに付き合わされた。
苦い。コーヒーの香りは嫌いじゃないけれど、やはり紅茶のほうが良い。
「アンリは」
オーギュストはエスプレッソ用の小さなカップを持ちながら、ぽつりと言った。
「どうして、人を殺してはいけないのか解るかい?」
ウエイターが僕達の横を通り過ぎる。オーギュストはカップを置いた。
「事件が解決したら、答えを教えるよ」
僕は肩を竦めた。
「無事に解決すれば良いけどね」彼を見上げる。「大博打じゃない? 本当に上手くいくの?」
「La Roue de Fortune. 『運命の輪』は急速に回り始めている。決断の時は今だと思うよ」
朝食が終わったあと、僕とオーギュストが宿泊している部屋に、関係者が集められた。
バートンとヒューズは、それぞれ離れた位置で、壁を背に立っている。
僕とオーギュストは窓際の丸テーブルを挟んで座っている。
この空間を取り仕切るように、カタラーノ警部が部屋の中央に立っていた。
その傍らには警部の部下が二人控えており、警察以外の人間を監視していた。
バートンが口を開いた。
「あの、警部さんから、お話があるって聞きましたけど、何でしょうか?」
「そうですね。揃いましたし、始めましょうか。突然、お呼び出しして、すみません。
関係者の皆さんには、取り急ぎお知らせをと思いましたので」
ヒューズが痺れを切らす。
「なら、早く教えて下さいよ」
「ああ、すみません。実は、フローラさんの右腕が見つかりました」
僕はバートンとヒューズの様子を観察する。
「本当ですか!?」
最初に声を上げたのはヒューズだった。
「はい。先程、発見致しました」
警部からの発表に、ヒューズは表情を歪める。バートンは俯いていた。
ヒューズは食ってかかるように、
「どこにあったんです?」
警部は静かに言った。
「それは言えません。ですが、我々警察が管理していますので、ご安心を。
腕について調べが進めば、直に犯人を特定できるかと思います。
調査が終わるまで、もう一日か二日、お待ち頂けないでしょうか。
それから、もし、この中に犯人が居るのなら早いうちに自供して頂けると助かるのですが」
その場に居る全員が、互いの顔を見合った。
が、誰も申し出なかった。警部は頷く。
「ご協力頂けないようですね、残念です。
それでは我々から声をかけられるのを待っていて下さい。そうお時間はとらせませんので。
ご報告は以上です。お集まり頂き、ありがとうございました」
僕はバートンとヒューズを見やる。彼等は自分の部屋へと戻っていった。
警察は二手に分かれて、彼等のあとを密かに追いかけた。
僕とオーギュストは警部が居るほうへ付いていった。
警部は部屋のドアを少し開けると、声が聞こえてきた。
ドアの隙間から見えたのは、携帯電話を耳にあてているバートンの姿だった。
「すみません。ちょっとお尋ねしたいことがあって」
焦り、余裕のない顔をしている。
僕達に覗かれていることにも気付かずに彼は必死に話していた。
「あの、頼んだ荷物がまだ届かないのですが」
その時、バートンはイタリア語で話していた。
あとからオーギュストに聞いたところによると、このような話をしていたらしい。
「ええ。それで、荷物が今どこにあるか、
調べて貰うことはできますか? ……あ、はい、注文番号は」
小さな紙を手にし、番号を読み上げた。
その後、「少々お待ち下さい」と言われたのか、暫く黙っていた。
「ああ、まだ郵便局にありましたか。え? ああ、そうでした。
到着は明後日の予定でしたね」
オーギュストは小声で「郵便局にあるようだね」と僕に通訳した。
警部は静かにドアを開け、部屋の中へ入っていった。バートンは話し続けている。
「すみません、到着日を勘違いしていたようです。では、その荷物は予定通り」
「失礼」
彼が耳にあてていた携帯電話を抜き取って、警部は話し始めた。
「私はパレルモ警察のカタラーノと申します。
その荷物、これから警察が回収に伺いますので、
それまで誰にも渡さないよう、厳重に保管しておいて頂けますかな?
ある事件の重要な証拠物件ですので。はい。ご協力、感謝致します。
では担当の者に代わりますので、そちらのご住所を教えてやって下さい」
警部は「頼んだぞ」と言って、若い刑事に携帯電話を渡した。
そして、怯えた目で自分を見上げている人物に、優しく話しかけた。
「申し訳ありませんな、お電話をお借りして。
謝っておきながら、この携帯電話をお返しできないことにも、重ねてお詫び致します」
「ふうん。郵便局にあったんだ?」
僕も部屋の中に入っていく。
「それなら、ホテル中を探しても見つからないわけだね」
彼は誰にともなく呟いた。
「フローラの腕が見つかったというのは、芝居ですか」
「そうだよ? 腕の在りかを知っている犯人が、腕が見つかったと聞けば、
何らかの行動を起こしてくれるんじゃないかって思ったから」
僕はズボンのポケットに手を入れた。
指先に何か当たる。スウェードの手触り。
「腕を切断したのは、腕を残しておくと都合が悪いからだと思っていた。
でも、それ以外の理由もあるよね。理解には苦しむけれど」
僕は彼に尋ねた。
「腕だけだったんじゃない? 君が欲しかったのは」
「まさか。腕を手に入れて、一体どうするんですか?」
「ハンズ・オブ・グローリー」
その言葉は、呪文のようにバートンを硬直させた。
「あるオカルトマニアから聞いたんだけど、
魔術用具の一種として、死人の腕を護符代わりに持つことがあるそうだね?
『栄光の手』なんて、大層な呼び名が付いているけれど、
要は、ミイラの一種で、死蝋(しろう)化した腕のことだ。
死蝋が何か、君は知っているよね?」
彼は俯いたまま答えない。
「カタコンベで眠る少女、ロザリア・ロンバルドも死蝋だと言われている。
チーズ状の身体をした死蝋だとね」
僕が話し終わると、部屋は静まり返った。
ほんの三秒程度だったのだろうが、随分長く感じた。
バートンは足下から崩れ、床に座り込んだ。
「どうして?」
ゆっくりと天を仰いだ。
「どうして、僕を守ってくれなかったの、フローラ」
少年のよう。その時の彼は、酷く無垢な表情に見えた。
「君は僕の護符になってくれたのに」
フッと彼は笑った。
「――ああ。まだ、ハンズ・オブ・グローリーとして完成していなかったからかな」
「勝手だね」
僕は吐き捨てた。ポケットの中で小さな革袋を握り締めていた。
「護符ってそういうものじゃないと思う。生け贄のように切り落とされた腕よりは、
市場なんかで売ってる嘘っぽいパワーストーンのほうが、
よっぽど清浄で御利益がありそうだ。それに、自分を殺した犯人を、
守ってくれるお人好しなんて、居ないと思うけど?」
そう言いながら、僕は見知った顔を思い出していた。
自己犠牲好きなどこかの王子ならやり兼ねないかもしれない。僕は殺人者に一歩近付く。
「ねえ? どうして、彼女をミイラにしようと思ったの?」
「生きていたら、いつか終わりが来るだろう? フローラが心変わりするかもしれないし、
それがなかったとしても、いつかは死に別れる。それならミイラにすればいい」
彼の論理は破綻している。
「ミイラになれば永遠の身体が手に入る。ずっと僕の側に居て貰える」
彼は頭を抱えて、掠れ声で呟いた。
「愛していたんだ。フローラと離れたくなかった。ずっと側に居て欲しかった」
「僕には矛盾しているように聞こえるけれど。僕が可笑しいのかな?
ずっと側に居たかったと言いながら、君がしたことは殺人だ。
もう彼女は生きていないんだよ、君のせいで」
「僕の中では矛盾はないんだけど、僕と君では考え方が違うのかな」
「そのようだね」
「君も僕の話が理解できないのか。フローラも理解できないみたいだったけど」
「彼女には何て言ったの?」
「僕達もいつか一緒にミイラになりたいねって。
フローラなら絶対に理解してくれると思ってた。フローラもオカルトが好きだし、
シチリアのカタコンベに行こうって誘った時も、興味があるみたいだったから。
なのに、フローラは僕を拒絶した。化け物を見るような目で僕を見た。
せっかくシチリアまで来て、本物の夫婦ミイラも見せてあげたのに、
あの時はフローラも楽しそうだったのに、どうして」
「ミイラになることを断られたから、殺したの? それだけのことで?」
彼は僕の問いかけには答えず、警部を見上げた。
「刑事さん、フローラのハンズ・オブ・グローリーは、
僕のものではなくなってしまうんですか?」
「ええ。もちろんです。まずは検死官に送られ、その後は適切に埋葬致します」
「そうですか。じゃあ、もういいです」
「もういい、とは?」
「僕を死刑にして下さい。僕はもう何も要りません。
僕の栄光を奪われるのなら、もう何も、誰も、
僕を守ってはくれませんから。誰か僕を殺して下さい」
「それはできません」
警部はゆっくりと言った。
「何故なら、イタリアには死刑制度がないからです。
そう言えば貴方の母国はアメリカでしたか。
あそこは州によって死刑制度があったりなかったりしますからなあ」
バートンは軽く笑った。
「死刑制度がないなんて、残酷な国ですね、イタリアは」
「そうですね。死を与えられないことは、時に死より残酷なのかもしれません」
それまで黙っていたオーギュストが、バートンの元まで行く。
「だからこそ、罪を犯した人間は、生き続けなくてはならないのではないでしょうか」
床に座り込んでいるバートンの側で膝を落とす。
目線を合わせ、優しい声で言った。
「命とは、終わりを早めるものでも、長らえるものでもなく」
その時のオーギュストは少し辛そうな顔をしていた。
「ただ、全うするもの。それを知ることが罪人に与えられた罰なのだと私は思います」
→
■ミイラの神秘10 続編
●11 「犯人が解ったの?」
ヒューズの部屋を出たあと、警部は廊下を歩きながら、
「さて。二人の話を聞き終わったわけですが、いかがでしょう、先生?
あの二人の中に犯人は居るのでしょうか、それとも」
「一晩ゆっくり考えをまとめさせて頂くことは可能でしょうか?」
警部が立ち止まる。
「一晩待てば解決するということですか!?」
「かもしれません」
「さすがは先生! やはり先生は探偵の素質がおありになる!」
「明日、私達がチェックアウトするまでには、
何らかのお答えができるかと思います。明朝までお待ち頂けますか?」
警部と別れて、僕とオーギュストは部屋に戻った。
「オーギュ、犯人が解ったの?」
僕が尋ねると、彼は、あっさりと答えた。
「いいや。まだ解らないよ?」
「でも、さっき」
「今は解らない。でも明日には全てが解決していなければ、
私達は島に帰るのを少し延期してくれないかと言われるかもしれないよ?」
「そんなの」
「困る、だろう? さあ、今、私達にできることはなんだろう?」
僕は思い付いたことを口にする。
「明日までに犯人を特定する?」
「よくできました。さあ、では早速、捜査会議を始めよう」
オーギュストがカップに口付ける。
赤い水面が見える。彼が飲んでいるのはピュアアッサム。
「アンリは、犯人は誰だと推測しているのかな?」
「候補は今のところ二人だよね。一人目は、彼女と一緒にミイラ見学をしていたバートン。
二人目は第一発見者で、一時期ストーカーの疑いがあったヒューズ」
僕が選んだリーフはピュアダージリン。
ダージリンの渋味が眠気を振り払ってくれる気がしたからだ。この香りも悪くない。
「そうだね。二人とも犯行は不可能ではない。問題は」
「動機?」と僕。
「うん」
「ヒューズには動機がありそうだけれどね。振り向いて貰えないことで復讐しにきたとか、
彼女に会って口論となり衝動的に殺した、とか。
もし彼が犯人なら、彼女からのメールは自作自演ということになるだろうね。
殺したあとでメールを送り、メールを見てから初めて来たように振る舞ったんじゃないかな。
バートンのほうは今のところ動機が不明だけれど、愛が狂気に変わったのかな?」
「人が人を殺す理由など、解らないほうが良いだろうけどね」
「そうだね。僕は人を殺したいと思ったことはないから解らないな。
殺したいと思われたことなら、あるけれどね?」
僕が冷笑すると、オーギュストはこんなことを言い出した。
「アンリ? 私は授業で、言霊について教えた筈だよ?
陰陽道を学んだ回だったかな?」
言霊。発した言葉は、霊的な力を持ち、現実を左右するとした考え方だ。
プラスの言葉は幸福を招き、マイナスの言葉は不幸を招く。
広義では呪術や魔法の際に唱えられる呪文も言霊の一種。
「炎や氷の刃を出現させるまでには行かなくとも、
言葉には、人の心を突き刺すくらいの力は充分にある。
戯れに自分を傷付ける言葉を口にするのは止めなさい?」
僕は肩を竦めた。
「君は叱り方も変わってるね」
オーギュストは微笑んだ。
「さて。ここで論点を少し変えようか」
彼は椅子から立ち上がり、窓側へ歩いていく。
「解決すべき謎は他にもある」
こちらを振り返る。
「どうして、犯人は右腕を切断したんだろう?」
僕は答えた。
「それは、腕を残しておくと、犯人にとって何か不都合があったからじゃない?」
「不都合か。例えば、被害者が自分の腕に犯人の名前を血文字で書いたとか?」
「名前そのものではなかったとしても、犯人を示す何らかのメッセージがあった、
と考えるのが妥当じゃない? その他に理由なんて」
僕は言葉を失っていた。
「ん? どうしたんだね、アンリ」
「ねえ、ボージェ教授」
「なんだい?」
「神秘学の権威から、引き出したい知識がある。
僕がこれから言うことについて、もし、思い当たる話があれば、全て言ってみて?」
「うん。それは神秘学に関する話なのかね?」
「もちろん」
僕が辿り着いた仮説。
それをオーギュストに話し終わった頃には、紅茶はすっかりぬるくなっていた。
「もう一杯、淹れようか?」
と言われたので、僕は頷いた。
「どれにする?」
ティーバックが入った水色の箱を差し出される。
六種類あるリーフの中で、僕がまだ飲んでいないのは、
イングリッシュブレックファースト、ピュアアッサム、アールグレイ、オリジナル。
「では、オリジナルを」
僕は、この中で唯一どんな味がするか解らないリーフを選んだ。
オーギュストはピュアダージリン。僕がさっき飲んでいたリーフだ。
「ではアンリ、今後どんなことが起これば、犯人が特定できると思う?」
「第二の現場を捕らえる?」
「成程。確かに確実な手だけれど、少々リスクが高いし、
第二の殺人が起きないのならば使えない手であるね」
「では、犯人しか知り得ない情報を吐かせる?」
「それは良い手だね。例えば、どんな情報があるだろう?」
決まっている。
「無くなった腕のありか、でしょう? でも」
「解らないことは、解っている人に聞くのが一番早い。
だから、教師という存在が必要とされるんだ。解らないなら聞いてみよう。犯人に」
「どこに隠したんですか、と面と向かって聞くわけじゃないよね? どうやるつもり?」
「生徒の疑問を解決する為に教師は存在している。
けれど、何でも先生に聞いてはいけないよ? 考えてご覧、アンリ。
聡明な頭脳を持っている君なら、その方法が解る筈だよ、きっとね」
→
ヒューズの部屋を出たあと、警部は廊下を歩きながら、
「さて。二人の話を聞き終わったわけですが、いかがでしょう、先生?
あの二人の中に犯人は居るのでしょうか、それとも」
「一晩ゆっくり考えをまとめさせて頂くことは可能でしょうか?」
警部が立ち止まる。
「一晩待てば解決するということですか!?」
「かもしれません」
「さすがは先生! やはり先生は探偵の素質がおありになる!」
「明日、私達がチェックアウトするまでには、
何らかのお答えができるかと思います。明朝までお待ち頂けますか?」
警部と別れて、僕とオーギュストは部屋に戻った。
「オーギュ、犯人が解ったの?」
僕が尋ねると、彼は、あっさりと答えた。
「いいや。まだ解らないよ?」
「でも、さっき」
「今は解らない。でも明日には全てが解決していなければ、
私達は島に帰るのを少し延期してくれないかと言われるかもしれないよ?」
「そんなの」
「困る、だろう? さあ、今、私達にできることはなんだろう?」
僕は思い付いたことを口にする。
「明日までに犯人を特定する?」
「よくできました。さあ、では早速、捜査会議を始めよう」
オーギュストがカップに口付ける。
赤い水面が見える。彼が飲んでいるのはピュアアッサム。
「アンリは、犯人は誰だと推測しているのかな?」
「候補は今のところ二人だよね。一人目は、彼女と一緒にミイラ見学をしていたバートン。
二人目は第一発見者で、一時期ストーカーの疑いがあったヒューズ」
僕が選んだリーフはピュアダージリン。
ダージリンの渋味が眠気を振り払ってくれる気がしたからだ。この香りも悪くない。
「そうだね。二人とも犯行は不可能ではない。問題は」
「動機?」と僕。
「うん」
「ヒューズには動機がありそうだけれどね。振り向いて貰えないことで復讐しにきたとか、
彼女に会って口論となり衝動的に殺した、とか。
もし彼が犯人なら、彼女からのメールは自作自演ということになるだろうね。
殺したあとでメールを送り、メールを見てから初めて来たように振る舞ったんじゃないかな。
バートンのほうは今のところ動機が不明だけれど、愛が狂気に変わったのかな?」
「人が人を殺す理由など、解らないほうが良いだろうけどね」
「そうだね。僕は人を殺したいと思ったことはないから解らないな。
殺したいと思われたことなら、あるけれどね?」
僕が冷笑すると、オーギュストはこんなことを言い出した。
「アンリ? 私は授業で、言霊について教えた筈だよ?
陰陽道を学んだ回だったかな?」
言霊。発した言葉は、霊的な力を持ち、現実を左右するとした考え方だ。
プラスの言葉は幸福を招き、マイナスの言葉は不幸を招く。
広義では呪術や魔法の際に唱えられる呪文も言霊の一種。
「炎や氷の刃を出現させるまでには行かなくとも、
言葉には、人の心を突き刺すくらいの力は充分にある。
戯れに自分を傷付ける言葉を口にするのは止めなさい?」
僕は肩を竦めた。
「君は叱り方も変わってるね」
オーギュストは微笑んだ。
「さて。ここで論点を少し変えようか」
彼は椅子から立ち上がり、窓側へ歩いていく。
「解決すべき謎は他にもある」
こちらを振り返る。
「どうして、犯人は右腕を切断したんだろう?」
僕は答えた。
「それは、腕を残しておくと、犯人にとって何か不都合があったからじゃない?」
「不都合か。例えば、被害者が自分の腕に犯人の名前を血文字で書いたとか?」
「名前そのものではなかったとしても、犯人を示す何らかのメッセージがあった、
と考えるのが妥当じゃない? その他に理由なんて」
僕は言葉を失っていた。
「ん? どうしたんだね、アンリ」
「ねえ、ボージェ教授」
「なんだい?」
「神秘学の権威から、引き出したい知識がある。
僕がこれから言うことについて、もし、思い当たる話があれば、全て言ってみて?」
「うん。それは神秘学に関する話なのかね?」
「もちろん」
僕が辿り着いた仮説。
それをオーギュストに話し終わった頃には、紅茶はすっかりぬるくなっていた。
「もう一杯、淹れようか?」
と言われたので、僕は頷いた。
「どれにする?」
ティーバックが入った水色の箱を差し出される。
六種類あるリーフの中で、僕がまだ飲んでいないのは、
イングリッシュブレックファースト、ピュアアッサム、アールグレイ、オリジナル。
「では、オリジナルを」
僕は、この中で唯一どんな味がするか解らないリーフを選んだ。
オーギュストはピュアダージリン。僕がさっき飲んでいたリーフだ。
「ではアンリ、今後どんなことが起これば、犯人が特定できると思う?」
「第二の現場を捕らえる?」
「成程。確かに確実な手だけれど、少々リスクが高いし、
第二の殺人が起きないのならば使えない手であるね」
「では、犯人しか知り得ない情報を吐かせる?」
「それは良い手だね。例えば、どんな情報があるだろう?」
決まっている。
「無くなった腕のありか、でしょう? でも」
「解らないことは、解っている人に聞くのが一番早い。
だから、教師という存在が必要とされるんだ。解らないなら聞いてみよう。犯人に」
「どこに隠したんですか、と面と向かって聞くわけじゃないよね? どうやるつもり?」
「生徒の疑問を解決する為に教師は存在している。
けれど、何でも先生に聞いてはいけないよ? 考えてご覧、アンリ。
聡明な頭脳を持っている君なら、その方法が解る筈だよ、きっとね」
→
■ミイラの神秘09 続編
●10 「サン・ジェルマン伯爵も良いよねえ」
続いて、僕達は二人目の容疑者を訪ねた。
腕なし死体の第一発見者であるフレデリック・ヒューズ。
警部がドアをノックした。しかし、反応がなかった。
「もうお休みになっているんでしょうかねえ」
呑気に警部が呟いていた。
「どうします、先生?」
「ねえ」
僕は警部を見上げた。
「ドア、一応開けてみたほうが良いんじゃない?」
「やはり今夜のうちにお話を聞きたいですか」
「違うよ。ドアを開けてくれないのは、腕を無くしているからかもしれないってこと」
警部は青ざめた。
「そんな、もう一度呼んでみます!」
警部はドアに向き直って、強く叩き始めた。
「ヒューズさん、ヒューズさん!」
ドンドンという音がホテルの廊下に響く。ドアが壊れてしまいそうだ。
「警察です! ドアを開けて下さい! ヒューズさん!」
ドアは開かない。警部は「クソッ」と呟いて、僕達を見た。
「仕方ない。開けますよ」
一呼吸置いたあと、警部はドアを開け放った。
警部は衝撃を受けた。額に。
ヒューズは警部とぶつかった額を押さえながら、
「すみません。大丈夫ですか、刑事さん」
警部も赤くなった額を撫でている。
「ええ、大丈夫ですよ」
ここはシングルの部屋だった為、椅子は一脚しかなかった。
その椅子にはヒューズが座り、オーギュストと警部はベッドに座った。
僕は壁に背を預けて立っていた。警部はテーブルの上にあった物を発見した。
「何か音楽を聞いていたんですか?」
テーブルの上にはイヤフォンが付いた音楽プレイヤーが置かれていた。
「はい。モーツァルトを聞きながら、カリオストロ伯爵に祈りを捧げていたものですから、
警部さんの声に気付くのが遅れたみたいです。
ここパレルモは伯爵の出生地だったのを思い出して、
お力の一端でも、僕にお貸し頂けないかと。
あ、すみません。こんなこと言っても、一般の方には解りませんよね」
「貴方が降ろしたい霊はフローラさんですか?」
オーギュストがそう言うと、ヒューズは驚いた様子だった。
「は、はい」
オーギュストは頷いた。
「成程。カリオストロは降霊術にも通じていましたからね」
警部は首を傾げている。
「カリオス……なんですって?」
オーギュストが淡々と説明する。
「カリオストロ伯爵。彼の場合、伯爵というのは自称で、
本名はジュゼッペ・バルサモと言いますが。
18世紀、フランス革命の頃に、魔術師、錬金術師、また医師としても活躍していた男です。
口が達者で才能豊かな男でしたが、最後は、奥様に裏切られ、幽閉先で獄死。
カリオストロがある秘密結社に所属していることを、
奥様が暴露したことで捕まってしまったのです。
彼を詐欺師と評する文献は多いのですが、根は真面目で優しい男ですよ」
「はあ……そうなんですか」
警部は感心半分、呆れ半分といった顔をしていたが、ヒューズは目を丸くしていた。
「お詳しいんですね、貴方もオカルトに興味が?」
「ええ。お仲間かと思いますよ。ヒューズさんもお詳しいですね。
今、貴方が聞いていた音楽というのは、ひょっとして、
モーツァルトが作ったレクイエムではないですか?」
「はい! そうです」
「モーツァルトも、カリオストロと同じ秘密結社の一員ですからね」
「貴方、すごいですね。僕と対等に話ができるなんて」
滑稽な発言だ。目の前に居る人物が、神秘学の権威であることは知らないらしい。
こと神秘学の知識に於いて、オーギュストと対等に話せる人物なんて、
この世に居るのだろうか。警部はヒューズに対して、まず僕達のことを軽く説明した。
先程と同じように、有識者とその息子、という設定だった。
「それで、僕にどんなご用事なんですか?」
ヒューズは僕については眼中にないようで、
オーギュストに対して、同士の眼差しを向けている。
僕が誰の末裔なのかも知らない、無知な人で助かった。
「実は、アシュリー・バートンさんについて聞きたいのですが」
オーギュストがそう言うと、ヒューズは苦々しい顔をして、
「あいつが犯人ですよ。そうに決まってる」と言い切った。
「警察は何もたもたやってるんですか、早くあいつを捕まえて下さい」
怒りで早口になっているのか、まくしたてるように喋っていた。
オーギュストは自分のペースを乱されることなく、穏やかに確認していく。
「ヒューズさんは、彼が犯人だとお考えなんですね?」
「当たり前です。あいつが僕をはめたんだ。
僕がフローラを好きだったことを利用したんです」
「今、はめた、と仰いましたが、それはどのように?」
「あいつがフローラの携帯を使って僕にメールをしたんです。
そうとしか考えられない。彼女の携帯からあいつの指紋は出なかったんですか?」
警部が答える。
「出ていません。検出されたのは、彼女の指紋だけでした。
彼女自身がメールを書いたのか、殺害前に犯人が彼女を脅して書かせたか、
それとも、彼女を殺害したあと、彼女の手を使ってメールを打った可能性もあります」
ヒューズは頭を抱える。
「酷い。どうして、フローラが殺されなくちゃならないんだ」
「そうですね。それは大きなポイントだと思います。
どうして、彼女は殺されなければならなかったのか。
ヒューズさん。貴方は先程、バートンさんが犯人ではないかと仰っていましたが、
仮に、そうだとした場合、殺害理由は何だと思われますか?」
「理由なんてどうでもいいですよ!
どんな理由があったって、殺人は許されない大罪、そうでしょう?」
オーギュストは頷いた。
「ええ。もちろんです」
オーギュストが僕に視線を送った。
「アンリは、ヒューズさんに質問したいことはあるかね?」
もちろん、ある。
「被害者の携帯電話から送られてきたというメールについて、
詳しく聞きたいんだけど。メールが来たのはいつ?」
「今日の午後だよ。ええと13時くらい、でしたっけ? 刑事さん」
「ああ、はい」手帳を取り出す。「正確には13時13分ですな」
「メールの文面は?」
「文面は、『今、パレルモに居るの。話したいことがあるから会いに来てくれる?』で、
ホテルの名前と、ルームナンバーが書いてあったんだ」
「それで、貴方は、メールの返信をしたの?」
「そりゃあもちろん」
「何て?」
「えっと、『解ったよ。そこなら、一時間くらいで行けると思う』って」
「彼女からの返信はあったの?」
「あったよ。『待ってます』ってね」
「それは、何時何分の話?」
「え、どうですか、刑事さん?」
「13時32分です」
「ですって」
「貴方が遺体を発見したのは、15時頃ではなかった? 到着まで一時間半かかってない?」
「迷ったんだよ。この辺は道が解り辛いだろう」
「ふうん。ではメールの中にあった『話したいこと』って何だと思った?」
ヒューズの表情が曇る。
「解らない。もしかしたら、俺のこと、考え直してくれるのかもって、
ちょっと期待したけど。でも、それより胸騒ぎのほうが大きかった」
「胸騒ぎ? 嫌な予感がしたってこと?」
「ああ。だけど。フローラが」
ヒューズは遺体発見時の瞬間を思い出したのか、苦痛の表情を見せた。
「あんな姿になってるなんて」
これが演技なら相当なものだ。
「ところで、事件とは関係のない話になってしまうのですが」
オーギュストがまた脱線しようとしている。
「ヒューズさんは、神秘学の中では、どの分野にご興味があるのですか?
ちなみに、バートンさんは、ミイラにご興味があるようでしたよ。
パレルモにあるカタコンベを見学されていましたし」
ヒューズはバカにするように笑った。
「ミイラですって? さすがはバートン。可笑しな趣味をしている」
しかし、オーギュストが一人だけでなく二人ともに神秘学の話を振るなんて。
何らかの意図があってのことだろうか、それとも、ただのオカルトバカか。
「僕が今、一番興味あるのは」
ヒューズは、ある団体名の名前を出した。先程も話に出た秘密結社だ。
「会員の中には、多くの著名人が居るっていうじゃないですか!
世界的に有名な音楽家に作家、歴史を動かしてきた偉人や、
一国のトップにも会員が居たって話だし」
「そうですねえ」
「あ、カリオストロ伯爵は、サン・ジェルマン伯爵に勧められて入ったそうですし」
突然、伯爵の名前を出されて、僕は少し驚いた。
「伯爵も会員? そうなの?」
僕は神秘学の権威に確認した。すると、彼は苦笑混じりに答えた。
「まあ。そういう説があるのは、確かだね」
歯切れの悪い。授業中もそうだけれど、伯爵の話になると、
何故か彼の物言いは曖昧になることが多い。
直系の子孫の前では言い辛いことでもあるのだろうか。
ヒューズは、嬉しそうに僕を見て、こう言った。
「へえ。君もサン・ジェルマン伯爵のことを知っているんだ?」
「……まあ、それなりに」
「サン・ジェルマン伯爵も良いよねえ、優雅で知的な紳士でさ。
今もどこかで生きているかもしれない、謎の錬金術師だもんね」
ヒューズに僕のファミリーネームを言ったら、どんな顔をするだろう。
今思うと、オーギュストとの親子設定をとったのは正解だったかもしれない。
ヒューズの前で、僕のファミリーネームを正直に名乗っていたら、
面倒なことになっていただろうから。オーギュストが立ち上がる。
「ああ、雑談を話し込んでしまってすみません。どうもありがとうございました」
二人目のインタビューを終えた。
→
続いて、僕達は二人目の容疑者を訪ねた。
腕なし死体の第一発見者であるフレデリック・ヒューズ。
警部がドアをノックした。しかし、反応がなかった。
「もうお休みになっているんでしょうかねえ」
呑気に警部が呟いていた。
「どうします、先生?」
「ねえ」
僕は警部を見上げた。
「ドア、一応開けてみたほうが良いんじゃない?」
「やはり今夜のうちにお話を聞きたいですか」
「違うよ。ドアを開けてくれないのは、腕を無くしているからかもしれないってこと」
警部は青ざめた。
「そんな、もう一度呼んでみます!」
警部はドアに向き直って、強く叩き始めた。
「ヒューズさん、ヒューズさん!」
ドンドンという音がホテルの廊下に響く。ドアが壊れてしまいそうだ。
「警察です! ドアを開けて下さい! ヒューズさん!」
ドアは開かない。警部は「クソッ」と呟いて、僕達を見た。
「仕方ない。開けますよ」
一呼吸置いたあと、警部はドアを開け放った。
警部は衝撃を受けた。額に。
ヒューズは警部とぶつかった額を押さえながら、
「すみません。大丈夫ですか、刑事さん」
警部も赤くなった額を撫でている。
「ええ、大丈夫ですよ」
ここはシングルの部屋だった為、椅子は一脚しかなかった。
その椅子にはヒューズが座り、オーギュストと警部はベッドに座った。
僕は壁に背を預けて立っていた。警部はテーブルの上にあった物を発見した。
「何か音楽を聞いていたんですか?」
テーブルの上にはイヤフォンが付いた音楽プレイヤーが置かれていた。
「はい。モーツァルトを聞きながら、カリオストロ伯爵に祈りを捧げていたものですから、
警部さんの声に気付くのが遅れたみたいです。
ここパレルモは伯爵の出生地だったのを思い出して、
お力の一端でも、僕にお貸し頂けないかと。
あ、すみません。こんなこと言っても、一般の方には解りませんよね」
「貴方が降ろしたい霊はフローラさんですか?」
オーギュストがそう言うと、ヒューズは驚いた様子だった。
「は、はい」
オーギュストは頷いた。
「成程。カリオストロは降霊術にも通じていましたからね」
警部は首を傾げている。
「カリオス……なんですって?」
オーギュストが淡々と説明する。
「カリオストロ伯爵。彼の場合、伯爵というのは自称で、
本名はジュゼッペ・バルサモと言いますが。
18世紀、フランス革命の頃に、魔術師、錬金術師、また医師としても活躍していた男です。
口が達者で才能豊かな男でしたが、最後は、奥様に裏切られ、幽閉先で獄死。
カリオストロがある秘密結社に所属していることを、
奥様が暴露したことで捕まってしまったのです。
彼を詐欺師と評する文献は多いのですが、根は真面目で優しい男ですよ」
「はあ……そうなんですか」
警部は感心半分、呆れ半分といった顔をしていたが、ヒューズは目を丸くしていた。
「お詳しいんですね、貴方もオカルトに興味が?」
「ええ。お仲間かと思いますよ。ヒューズさんもお詳しいですね。
今、貴方が聞いていた音楽というのは、ひょっとして、
モーツァルトが作ったレクイエムではないですか?」
「はい! そうです」
「モーツァルトも、カリオストロと同じ秘密結社の一員ですからね」
「貴方、すごいですね。僕と対等に話ができるなんて」
滑稽な発言だ。目の前に居る人物が、神秘学の権威であることは知らないらしい。
こと神秘学の知識に於いて、オーギュストと対等に話せる人物なんて、
この世に居るのだろうか。警部はヒューズに対して、まず僕達のことを軽く説明した。
先程と同じように、有識者とその息子、という設定だった。
「それで、僕にどんなご用事なんですか?」
ヒューズは僕については眼中にないようで、
オーギュストに対して、同士の眼差しを向けている。
僕が誰の末裔なのかも知らない、無知な人で助かった。
「実は、アシュリー・バートンさんについて聞きたいのですが」
オーギュストがそう言うと、ヒューズは苦々しい顔をして、
「あいつが犯人ですよ。そうに決まってる」と言い切った。
「警察は何もたもたやってるんですか、早くあいつを捕まえて下さい」
怒りで早口になっているのか、まくしたてるように喋っていた。
オーギュストは自分のペースを乱されることなく、穏やかに確認していく。
「ヒューズさんは、彼が犯人だとお考えなんですね?」
「当たり前です。あいつが僕をはめたんだ。
僕がフローラを好きだったことを利用したんです」
「今、はめた、と仰いましたが、それはどのように?」
「あいつがフローラの携帯を使って僕にメールをしたんです。
そうとしか考えられない。彼女の携帯からあいつの指紋は出なかったんですか?」
警部が答える。
「出ていません。検出されたのは、彼女の指紋だけでした。
彼女自身がメールを書いたのか、殺害前に犯人が彼女を脅して書かせたか、
それとも、彼女を殺害したあと、彼女の手を使ってメールを打った可能性もあります」
ヒューズは頭を抱える。
「酷い。どうして、フローラが殺されなくちゃならないんだ」
「そうですね。それは大きなポイントだと思います。
どうして、彼女は殺されなければならなかったのか。
ヒューズさん。貴方は先程、バートンさんが犯人ではないかと仰っていましたが、
仮に、そうだとした場合、殺害理由は何だと思われますか?」
「理由なんてどうでもいいですよ!
どんな理由があったって、殺人は許されない大罪、そうでしょう?」
オーギュストは頷いた。
「ええ。もちろんです」
オーギュストが僕に視線を送った。
「アンリは、ヒューズさんに質問したいことはあるかね?」
もちろん、ある。
「被害者の携帯電話から送られてきたというメールについて、
詳しく聞きたいんだけど。メールが来たのはいつ?」
「今日の午後だよ。ええと13時くらい、でしたっけ? 刑事さん」
「ああ、はい」手帳を取り出す。「正確には13時13分ですな」
「メールの文面は?」
「文面は、『今、パレルモに居るの。話したいことがあるから会いに来てくれる?』で、
ホテルの名前と、ルームナンバーが書いてあったんだ」
「それで、貴方は、メールの返信をしたの?」
「そりゃあもちろん」
「何て?」
「えっと、『解ったよ。そこなら、一時間くらいで行けると思う』って」
「彼女からの返信はあったの?」
「あったよ。『待ってます』ってね」
「それは、何時何分の話?」
「え、どうですか、刑事さん?」
「13時32分です」
「ですって」
「貴方が遺体を発見したのは、15時頃ではなかった? 到着まで一時間半かかってない?」
「迷ったんだよ。この辺は道が解り辛いだろう」
「ふうん。ではメールの中にあった『話したいこと』って何だと思った?」
ヒューズの表情が曇る。
「解らない。もしかしたら、俺のこと、考え直してくれるのかもって、
ちょっと期待したけど。でも、それより胸騒ぎのほうが大きかった」
「胸騒ぎ? 嫌な予感がしたってこと?」
「ああ。だけど。フローラが」
ヒューズは遺体発見時の瞬間を思い出したのか、苦痛の表情を見せた。
「あんな姿になってるなんて」
これが演技なら相当なものだ。
「ところで、事件とは関係のない話になってしまうのですが」
オーギュストがまた脱線しようとしている。
「ヒューズさんは、神秘学の中では、どの分野にご興味があるのですか?
ちなみに、バートンさんは、ミイラにご興味があるようでしたよ。
パレルモにあるカタコンベを見学されていましたし」
ヒューズはバカにするように笑った。
「ミイラですって? さすがはバートン。可笑しな趣味をしている」
しかし、オーギュストが一人だけでなく二人ともに神秘学の話を振るなんて。
何らかの意図があってのことだろうか、それとも、ただのオカルトバカか。
「僕が今、一番興味あるのは」
ヒューズは、ある団体名の名前を出した。先程も話に出た秘密結社だ。
「会員の中には、多くの著名人が居るっていうじゃないですか!
世界的に有名な音楽家に作家、歴史を動かしてきた偉人や、
一国のトップにも会員が居たって話だし」
「そうですねえ」
「あ、カリオストロ伯爵は、サン・ジェルマン伯爵に勧められて入ったそうですし」
突然、伯爵の名前を出されて、僕は少し驚いた。
「伯爵も会員? そうなの?」
僕は神秘学の権威に確認した。すると、彼は苦笑混じりに答えた。
「まあ。そういう説があるのは、確かだね」
歯切れの悪い。授業中もそうだけれど、伯爵の話になると、
何故か彼の物言いは曖昧になることが多い。
直系の子孫の前では言い辛いことでもあるのだろうか。
ヒューズは、嬉しそうに僕を見て、こう言った。
「へえ。君もサン・ジェルマン伯爵のことを知っているんだ?」
「……まあ、それなりに」
「サン・ジェルマン伯爵も良いよねえ、優雅で知的な紳士でさ。
今もどこかで生きているかもしれない、謎の錬金術師だもんね」
ヒューズに僕のファミリーネームを言ったら、どんな顔をするだろう。
今思うと、オーギュストとの親子設定をとったのは正解だったかもしれない。
ヒューズの前で、僕のファミリーネームを正直に名乗っていたら、
面倒なことになっていただろうから。オーギュストが立ち上がる。
「ああ、雑談を話し込んでしまってすみません。どうもありがとうございました」
二人目のインタビューを終えた。
→
■ミイラの神秘08 続編
●09 「神秘学の先生なんですか?」
警部とオーギュストと僕は、早速、一人目の容疑者を訪ねることにした。
確か名前はアシュリー・バートン。被害者と同室だった男だ。
彼も昨日とは違う部屋に宿泊していた。
先頭に居る警部がドアをノックする。暫くすると、僅かにドアが開いた。
その隙間に突っ込むようにして、警部が顔を見せた。
「何度もすみません、カタラーノです」
相手は息を吐いた。その表情には疲労が見える。
「警部さんですか。お話は何度かさせて頂いたと思いますが」
「ええ。加えて、お聞きしたいことができましたので。
すみませんが、お部屋に入れて頂けますかな?」
どうぞ、と言いながらバートンが部屋の奥に入っていく。その背中に僕達が続いた。
ここはシングルではなくダブルの部屋だった。ダブルしか空いていなかったのか、
チェックイン時の部屋に合わせてホテル側が選んだのだろうか。
しかし、現在の宿泊客は一人。
大き過ぎるベッドに二脚ある椅子。広い部屋が却って虚しい。
「あの、そちらの方も刑事さんですか?」
バートンが警部の後ろに居たオーギュストと僕を訝しげに見た。
警部は手でオーギュストを示しながら、
「こちらはボージェ先生、捜査にご協力頂いている有識者の方です。
以前にも事件解決に力を貸して下さいました」
オーギュストが一礼する。
「ボージェと申します。よろしくお願いします、バートンさん」
バートンは、どうも、とだけ言った。そして、僕を見た。
「では、そちらの方は? 僕より若いように見えますが」
オーギュストが僕の肩に手を置く。
「この子は私の息子です」
またか。
「すみません、ホテル内に殺人鬼が潜んでいるかもしれない状況ですので、
大事な一人息子を部屋に残しておく気になれなくて」
「息子さんだったんですか。あまり似ていませんね」
「よく言われます。幸いなことに、この子は母親に似てくれたので、
こんなに綺麗な顔で生まれてきたんですよ」
オーギュストが『親バカな父親』を演じている。
案の定、バートンは嫌気が差したようで「良かったですね」とつまらなそうに言った。
「それで、僕は何の話をすればいいんでしょう?」
警部に視線を送られたオーギュストがインタビュアーを引き受けた。
「実は、第一発見者のフレデリック・ヒューズさんについて、お聞きしたいのですが」
「ヒューズについて?」
「ええ。彼について貴方がどうお考えなのか」
話し手はオーギュストに任せて、僕はバートンを観察することにした。
装いはホワイトのワイシャツにブラウンのズボン。
華奢な身体。僕より身長が低いかもしれない。
バートンは細い足を組み、刺々しく吐き捨てた。
「ヒューズが犯人なんじゃないですか?」
オーギュストは穏やかに尋ねる。
「どうして、そう思われるのでしょう?」
「ヒューズはフローラに振られています。それを恨んで、あんなことを」
「警部、バートンさんには遺体を見て頂いてますか?」
「はい。フローラさん本人だと確認して貰う為に」
「では、フローラさんの腕が一本なかったこともご存知ですね?
私達は何故、犯人が腕を奪っていったのか、理解できないでいます。
バートンさん、貴方は何か理由が思い付きますか?」
無意識なのか、バートンは足を揺らしていた。
「さあ。僕にも思い付きませんが、恨みが強かったとかじゃないですか?」
「恨み、ですか」
「惨殺死体は恨みの強さの現れだったってよく言うでしょう?
ヒューズが犯人なら、そのくらいやるかもしれません。
きっと彼は彼女を恨んでいるでしょうから」
「警部、右腕以外に傷付けられていた箇所はありましたか?」
「いえ。なかったと思います」
「そうですか」
オーギュストはそこで少し俯いた。暫しの沈黙があったあと、明るめの声で言った。
「ところで。事件からは、少し話が逸れてしまうのですが。
先程、警部から伺ったものですから、ぜひご本人とお話ししたくて」
そう前置きをした上で、オーギュストは話し始めた。
「バートンさんはオカルトサークルに所属されているそうですね?」
「ええ、そうですが?」
「実は私、専攻が神秘学なんです」
普通の人間なら、ここで胡散臭そうな目をオーギュストに向けただろう。
しかし、バートンは違った。
「神秘学の先生なんですか?」
身を乗り出す。
「すごい。うちの大学には神秘学がないんです。指導してくれる先生も居ないから、
サークルでは仲間内で話し合うことしかできなくて」
「そうでしたか。神秘学の講座を持っている大学は多くないですからね」
「そうなんです。うちの大学にも神秘学があったらいいのにね、ってフローラも」
話の勢いが落ちる。
「……フローラも、よくそう言っていました」
亡くなった女性のことを思い出したのか、少し優しい顔になった。
「実は、私達も昨日カタコンベに行ったんですよ?
そして、お二人と擦れ違いました」
「え? そうだったんですか? 全然、気が付きませんでした」
「でしょうね。お話もしませんでしたし、擦れ違ったのも一瞬でしたから。
カタコンベに行ったのは昨日が初めてですか?」
「ええ。そうです」
「やはりお目当ては、ロザリア嬢?」
「はい。ロザリアは世界一美しいミイラと有名でしょう?
だから、サークルの間でもいつか行きたいね、と話していたんです」
二人のオカルトマニアがミイラの話で盛り上がってる。
授業中もそうだけれど、彼の話は横道に逸れると長い。
「いかがでしたか、初めて間近で見るロザリア嬢は?」
「感動しました。写真で見るよりずっと美しく儚げで。天使のようだと思いました」
「ええ。本当に。フローラさんはどんな感想を言っていましたか?」
「フローラも、綺麗だったと言っていましたよ。
それで、夕食にチーズが出た時、ロザリアちゃんを思い出すから、
可哀想でチーズは食べられないなんて冗談を言っていました」
オーギュストは微笑した。
「成程。私などは気にもせず、昨日も今日もチーズを食べていましたがね」
二人のオカルトマニアは笑い合っていたが、
僕は意味が解らなかった。どうして急にチーズの話になったんだろう。
バートンはクスリと笑った。
「お子さんと警部さんは、今の話が通じていないようですね。
でも先生は解ってくれるんでしょう? 流石ですね。先生は本物だ。
先生から教えてあげて下さいよ、ロザリアと他のミイラとの違いについて」
「ミイラというのは、肉体を極限まで乾燥させたものなんですよ。
古代エジプトのピラミッドで眠っていたファラオもそうですが、
カプチン会のカタコンベにあるミイラの殆ども、この乾燥ミイラです。
しかし、ロザリア嬢は違います。特別な防腐処理を受けた彼女の肉体は、
適度に乾き、適度に潤った状態を維持しました。
例えるなら、そう、チーズ状なんです」
「チーズ? 肉体がですか?」と警部。
「はい。チーズが、ミルクの水分を適度に切って、
固形化した物であるのは、皆さんもご存じですね?」
警部が生徒のように頷いている。
「その昔、チーズが作られた理由は、食料が採れない冬季に向けて、
栄養価の高いミルクを長期保存する為でした」
「長期保存」
「そうです。ロザリア嬢の身体は、乾燥したミイラではなく、
チーズに近い保存状態であると考えられています」
警部は苦笑しながら、
「いやー、勉強させて頂きました。明日からはワインのつまみが変わりそうです」
これ以上ミイラの話は必要ないだろう。僕はオーギュストに注意する。
「もう、いいんじゃない?」
「そうだね。私からは以上です。貴重なお話を聞かせて頂き、
ありがとうございました、バートンさん」
オーギュストは僕を見た。
「アンリ。君から質問したいことはないかね?」
「僕? そうだね。情報を整理する為に、確認させて欲しいのだけれど。
今日になって、彼女が体調不良を訴えたから、
貴方は一人で外出したってことで間違ってない?」
「ああ」
「どうして、彼女の側から離れたの?」
「それは、フローラが『私のせいで貴方までホテルに居なくてもいいから』って、
僕に気を遣ってくれたんだ。フローラは優しいから」
「ふうん。じゃあ貴方がホテルを出てから、戻ってくるまで、
どこで何してたのか、詳しく聞かせて?」
「カタコンベに行きました。前日も同じ場所に行ったんですが、
一度目は落ち着いて見れなかったから、二度目ならもっとゆっくり見れるだろうと思って」
「他には?」
「ノルマン王宮も見学しました。カタコンベの近くをうろうろしていたんです。
あの辺りは散歩しているだけで過去にタイムスリップしたような気持ちになれますから」
誰かも同じようなことを言っていた気がする。
「すみません、もういいですか」
バートンに打ち切られる形で、僕達は一人目のインタビューを終えた。
→
警部とオーギュストと僕は、早速、一人目の容疑者を訪ねることにした。
確か名前はアシュリー・バートン。被害者と同室だった男だ。
彼も昨日とは違う部屋に宿泊していた。
先頭に居る警部がドアをノックする。暫くすると、僅かにドアが開いた。
その隙間に突っ込むようにして、警部が顔を見せた。
「何度もすみません、カタラーノです」
相手は息を吐いた。その表情には疲労が見える。
「警部さんですか。お話は何度かさせて頂いたと思いますが」
「ええ。加えて、お聞きしたいことができましたので。
すみませんが、お部屋に入れて頂けますかな?」
どうぞ、と言いながらバートンが部屋の奥に入っていく。その背中に僕達が続いた。
ここはシングルではなくダブルの部屋だった。ダブルしか空いていなかったのか、
チェックイン時の部屋に合わせてホテル側が選んだのだろうか。
しかし、現在の宿泊客は一人。
大き過ぎるベッドに二脚ある椅子。広い部屋が却って虚しい。
「あの、そちらの方も刑事さんですか?」
バートンが警部の後ろに居たオーギュストと僕を訝しげに見た。
警部は手でオーギュストを示しながら、
「こちらはボージェ先生、捜査にご協力頂いている有識者の方です。
以前にも事件解決に力を貸して下さいました」
オーギュストが一礼する。
「ボージェと申します。よろしくお願いします、バートンさん」
バートンは、どうも、とだけ言った。そして、僕を見た。
「では、そちらの方は? 僕より若いように見えますが」
オーギュストが僕の肩に手を置く。
「この子は私の息子です」
またか。
「すみません、ホテル内に殺人鬼が潜んでいるかもしれない状況ですので、
大事な一人息子を部屋に残しておく気になれなくて」
「息子さんだったんですか。あまり似ていませんね」
「よく言われます。幸いなことに、この子は母親に似てくれたので、
こんなに綺麗な顔で生まれてきたんですよ」
オーギュストが『親バカな父親』を演じている。
案の定、バートンは嫌気が差したようで「良かったですね」とつまらなそうに言った。
「それで、僕は何の話をすればいいんでしょう?」
警部に視線を送られたオーギュストがインタビュアーを引き受けた。
「実は、第一発見者のフレデリック・ヒューズさんについて、お聞きしたいのですが」
「ヒューズについて?」
「ええ。彼について貴方がどうお考えなのか」
話し手はオーギュストに任せて、僕はバートンを観察することにした。
装いはホワイトのワイシャツにブラウンのズボン。
華奢な身体。僕より身長が低いかもしれない。
バートンは細い足を組み、刺々しく吐き捨てた。
「ヒューズが犯人なんじゃないですか?」
オーギュストは穏やかに尋ねる。
「どうして、そう思われるのでしょう?」
「ヒューズはフローラに振られています。それを恨んで、あんなことを」
「警部、バートンさんには遺体を見て頂いてますか?」
「はい。フローラさん本人だと確認して貰う為に」
「では、フローラさんの腕が一本なかったこともご存知ですね?
私達は何故、犯人が腕を奪っていったのか、理解できないでいます。
バートンさん、貴方は何か理由が思い付きますか?」
無意識なのか、バートンは足を揺らしていた。
「さあ。僕にも思い付きませんが、恨みが強かったとかじゃないですか?」
「恨み、ですか」
「惨殺死体は恨みの強さの現れだったってよく言うでしょう?
ヒューズが犯人なら、そのくらいやるかもしれません。
きっと彼は彼女を恨んでいるでしょうから」
「警部、右腕以外に傷付けられていた箇所はありましたか?」
「いえ。なかったと思います」
「そうですか」
オーギュストはそこで少し俯いた。暫しの沈黙があったあと、明るめの声で言った。
「ところで。事件からは、少し話が逸れてしまうのですが。
先程、警部から伺ったものですから、ぜひご本人とお話ししたくて」
そう前置きをした上で、オーギュストは話し始めた。
「バートンさんはオカルトサークルに所属されているそうですね?」
「ええ、そうですが?」
「実は私、専攻が神秘学なんです」
普通の人間なら、ここで胡散臭そうな目をオーギュストに向けただろう。
しかし、バートンは違った。
「神秘学の先生なんですか?」
身を乗り出す。
「すごい。うちの大学には神秘学がないんです。指導してくれる先生も居ないから、
サークルでは仲間内で話し合うことしかできなくて」
「そうでしたか。神秘学の講座を持っている大学は多くないですからね」
「そうなんです。うちの大学にも神秘学があったらいいのにね、ってフローラも」
話の勢いが落ちる。
「……フローラも、よくそう言っていました」
亡くなった女性のことを思い出したのか、少し優しい顔になった。
「実は、私達も昨日カタコンベに行ったんですよ?
そして、お二人と擦れ違いました」
「え? そうだったんですか? 全然、気が付きませんでした」
「でしょうね。お話もしませんでしたし、擦れ違ったのも一瞬でしたから。
カタコンベに行ったのは昨日が初めてですか?」
「ええ。そうです」
「やはりお目当ては、ロザリア嬢?」
「はい。ロザリアは世界一美しいミイラと有名でしょう?
だから、サークルの間でもいつか行きたいね、と話していたんです」
二人のオカルトマニアがミイラの話で盛り上がってる。
授業中もそうだけれど、彼の話は横道に逸れると長い。
「いかがでしたか、初めて間近で見るロザリア嬢は?」
「感動しました。写真で見るよりずっと美しく儚げで。天使のようだと思いました」
「ええ。本当に。フローラさんはどんな感想を言っていましたか?」
「フローラも、綺麗だったと言っていましたよ。
それで、夕食にチーズが出た時、ロザリアちゃんを思い出すから、
可哀想でチーズは食べられないなんて冗談を言っていました」
オーギュストは微笑した。
「成程。私などは気にもせず、昨日も今日もチーズを食べていましたがね」
二人のオカルトマニアは笑い合っていたが、
僕は意味が解らなかった。どうして急にチーズの話になったんだろう。
バートンはクスリと笑った。
「お子さんと警部さんは、今の話が通じていないようですね。
でも先生は解ってくれるんでしょう? 流石ですね。先生は本物だ。
先生から教えてあげて下さいよ、ロザリアと他のミイラとの違いについて」
「ミイラというのは、肉体を極限まで乾燥させたものなんですよ。
古代エジプトのピラミッドで眠っていたファラオもそうですが、
カプチン会のカタコンベにあるミイラの殆ども、この乾燥ミイラです。
しかし、ロザリア嬢は違います。特別な防腐処理を受けた彼女の肉体は、
適度に乾き、適度に潤った状態を維持しました。
例えるなら、そう、チーズ状なんです」
「チーズ? 肉体がですか?」と警部。
「はい。チーズが、ミルクの水分を適度に切って、
固形化した物であるのは、皆さんもご存じですね?」
警部が生徒のように頷いている。
「その昔、チーズが作られた理由は、食料が採れない冬季に向けて、
栄養価の高いミルクを長期保存する為でした」
「長期保存」
「そうです。ロザリア嬢の身体は、乾燥したミイラではなく、
チーズに近い保存状態であると考えられています」
警部は苦笑しながら、
「いやー、勉強させて頂きました。明日からはワインのつまみが変わりそうです」
これ以上ミイラの話は必要ないだろう。僕はオーギュストに注意する。
「もう、いいんじゃない?」
「そうだね。私からは以上です。貴重なお話を聞かせて頂き、
ありがとうございました、バートンさん」
オーギュストは僕を見た。
「アンリ。君から質問したいことはないかね?」
「僕? そうだね。情報を整理する為に、確認させて欲しいのだけれど。
今日になって、彼女が体調不良を訴えたから、
貴方は一人で外出したってことで間違ってない?」
「ああ」
「どうして、彼女の側から離れたの?」
「それは、フローラが『私のせいで貴方までホテルに居なくてもいいから』って、
僕に気を遣ってくれたんだ。フローラは優しいから」
「ふうん。じゃあ貴方がホテルを出てから、戻ってくるまで、
どこで何してたのか、詳しく聞かせて?」
「カタコンベに行きました。前日も同じ場所に行ったんですが、
一度目は落ち着いて見れなかったから、二度目ならもっとゆっくり見れるだろうと思って」
「他には?」
「ノルマン王宮も見学しました。カタコンベの近くをうろうろしていたんです。
あの辺りは散歩しているだけで過去にタイムスリップしたような気持ちになれますから」
誰かも同じようなことを言っていた気がする。
「すみません、もういいですか」
バートンに打ち切られる形で、僕達は一人目のインタビューを終えた。
→
■ミイラの神秘07 続編
●08 「何故、ミイラを作るのか、解るかい?」
夕食はまたホテル内のレストランでとることになった。
「ディナーの間は、事件のことを一度忘れよう?」
オーギュストの提案に異論はなかった。僕だって、せっかく本場まで来ているのだから、
死体の話をしながら、イタリア料理を食べるのは嫌だったし。
今日、僕が選んだディナーはズッカのニョッキ。
ズッカとはイタリア語でかぼちゃのことだ。ソースだけでなく、
ニョッキ自体にもかぼちゃが練り込まれ、鮮やかな黄色が白い皿に映えている。
やはり、イタリアで食べる野菜は甘みが強いような気がする。
皿の端に添えられたかぼちゃのソテーは、ほくほくとした食感で悪くなかった。
僕がニョッキを選んだら、オーギュストに真似された。
彼の前にあるのは、ゴルゴンゾーラのニョッキ。
クセの強いブルーチーズの香りが、僕のほうまで来ている。
「まずは地下室に運ぶんだ、特別な部屋にね」
今夜も講義のように、ボージェ教授がほぼ一方的に話していた。
「そして、土で出来た台に置いて水分を抜く。一年、じっくり時間をかけてね。
水切りが終わったら、次は乾燥。完全に乾いたらお酢で清め、ハーブで包んだそうだよ」
昨日の『パレルモの歴史』のほうがまだマシだった。
今日のテーマは『ミイラの神秘』だったから。
「そもそも、何故、ミイラを作るのか、解るかい?
ミイラにすると普通に埋葬するよりずっと手間と時間がかかるのに」
僕は答えずニョッキを口に運ぶ。
「ミイラとなり肉体が地上に残っていれば、魂は死なない。
魂が生きていれば、生きている家族の魂だけを天国に呼んで、魂同士の語らいができる。
死んだあとも、一人で寂しい想いをすることなく、楽しい生活が送れる。
かつてのシチリアでは、そう信じられていたんだ。
生きている家族がミイラの手を握ると、死者の魂と語り合える。
家族が死者を想ってお祈りをすれば、その人からアドバイスを貰うこともできるとね」
僕は授業の時のように、片手を軽く挙げた。
「ボージェ教授、質問があるんだけど、いい?」
「はい、アンリ」
「ディナーの間、殺人事件の話は避けようって配慮ができるのに、
ミイラについては、ディナーの話題に相応しいと思って話してるの?
どちらも死体の話だってところまでは、気付けなかった?」
「え? ああ、そうか。すまない。アンリの興味を惹く話となると、
やはり神秘学に関する話が良いかなと思ったんだ。
それに、カタコンベに行ってから、日を置かないうちに、
ミイラについて復習をしたほうが記憶にも残るだろうと。
けれど、そうだね。時と場所を弁えていなかったかな。気分を害してしまったかい?」
「構わないよ、別に。神秘学担当教師に常識を求めた僕のほうが、
間違っていたんだと思うから。それに君がそういう人なのは解ってる」
「ははは。手厳しいね、アンリ」
夕食後。パレルモ警察のカタラーノ警部は、予告通り僕達の部屋を訪ねてきた。
オーギュストは「お疲れさまです、警部」と迎え入れた。
「よろしければ、警部もいかがですか? 紅茶があるのですが」
「そりゃどうも。頂いてもよろしいですかな」
オーギュストが彼に紅茶の箱を差し出す。
六種類の紅茶の中から、彼はアールグレイを選んだ。
彼は僕達にもう一度事情聴取する為に来たのかと思ったら、違った。
「亡くなった女性は、フローラ・フランクリンさん。
彼女と同室で、一緒にシチリア旅行をしていたのはアシュリー・バートンさんです。
お二人はミラノの大学に通う同級生で、年齢は21。
シチリアには学校の休みを利用して来たそうです。
パレルモにあるカタコンベを見学する為に。
何でも二人ともオカルトサークルに所属しているのだそうで」
「オカルトサークル? 物好きな集まりだね」
僕がそう言うと、オーギュストが笑った。
「私達と似たもの同士だと思うけれど?」
「僕は君ほどじゃない」
「ええと、話を続けて良いですかな? フローラさんとバートンさんは、
アメリカ出身の留学生だそうです。同郷であり、同じオカルト好きという、
共通点があったことから、親しくなったそうですわ。
でも、バートンさん曰く、まだ男女交際という程の仲ではないそうです。
私としては、付き合ってもない男女が二人で旅行することに驚きを感じますが。
ええと、そして、彼女に呼び出され、ホテルまで迎えに来た結果、
第一発見者となったのは、フレデリック・ヒューズさんと言います。
彼も21歳で、同じ大学のオカルトサークルに所属しておりました」
「過去形ですね?」
「ええ。ヒューズさんは既にミラノの大学を辞めておりまして、
現在は、パレルモ郊外のモンレアーレに住んでおります。
親戚の叔父さんがやっているカフェで店の手伝いをしているそうですわ」
「大学を辞めるきっかけがあったのでしょうか?」
「はい。実は以前、フローラさんに交際を申し込んだことがあったそうで、
まあ結果的にフラれたんですが、そのショックで大学を辞めたようで。
私も先程聞いたばかりなんですがねえ。
その後も、想いが捨てきれなくて、時々メールを送ったりしてたそうなんですわ。
いわゆるストーカー行為ってやつにあたるかもしれませんな。
そういったことを一か月続けた後、自分がやってきたことを虚しく思った日が来たとかで、
彼女のことをきっぱり諦める為にも、ミラノを離れてモンレアーレまで来たらしいですわ。
それ以来は一切、彼女に連絡を取っていないそうです」
「ふうん。彼は怪しくなさそうだね、彼の言ってることが真実なら、だけど」
「両名とも明確なアリバイがなく、時間的にみて犯行は可能だったと考えられます」
「成程。そうなると、アリバイの有無を決め手に犯人を特定する手法は使えませんね」
「そうなんですわ。それで、動機や犯行準備についても考えてみたんですがね?
被害者と同室だったバートンは殺害動機が不明ですが、
一緒に行動していただけに、より殺害のチャンスはあったと思われます。
対して、第一発見者ヒューズはストーカーまがいのことをしていた過去があるだけに、
それが殺害動機となった可能性はあります。
しかし、当日突然、彼女に呼び出されたという証言が事実だとしたら、
急に凶器や毒物の準備ができるかどうか疑問です」
「そう言えば、腕を切断した凶器って何だったの?」
「サン・ジェルマンさんには、まだ言ってませんでしたな。
遺体の側に落ちていたノコギリだと思われます、折り畳み式の」
「入手経路は?」
「残念ながら、その線から洗うのは難しいかと。
珍しい一品ではなく、その類の店にはよく並んでいる物でしたし、
今の時代、凶器はワールドワイドに入手可能ですからなあ」
「警部、無くなった右腕の行方は?」
「ホテル内、及び周辺は捜索しましたが、まだ発見できません」
「そうですか」
「先生、いかがでしょう? これだけの情報でも、
先生なら、ピーンとくるんじゃないかと思って、
同僚には事情聴取に行ってくると言って、こうして洗いざらい喋りにきたのですが」
「そうでしたか。残念ながら、今すぐにお答えできることはありません」
警部はしょんぼりと肩を落とす。
「そうですか。先生でも解りませんか」
「ええ。私にできることがあれば、警部のお力になりたいと考えています。
そこで警部にお願いしたいことがあるのですが?」
「はい。何なりと」
「バートンさんとヒューズさんも、今夜はこのホテルにご滞在されているんですよね?」
「はい。バートンさんは元々その予定でしたし、
ヒューズさんには我々からそうお願いしております」
「では、お二人にお話を聞くことはできますか? 警部と私とアンリで」
→
夕食はまたホテル内のレストランでとることになった。
「ディナーの間は、事件のことを一度忘れよう?」
オーギュストの提案に異論はなかった。僕だって、せっかく本場まで来ているのだから、
死体の話をしながら、イタリア料理を食べるのは嫌だったし。
今日、僕が選んだディナーはズッカのニョッキ。
ズッカとはイタリア語でかぼちゃのことだ。ソースだけでなく、
ニョッキ自体にもかぼちゃが練り込まれ、鮮やかな黄色が白い皿に映えている。
やはり、イタリアで食べる野菜は甘みが強いような気がする。
皿の端に添えられたかぼちゃのソテーは、ほくほくとした食感で悪くなかった。
僕がニョッキを選んだら、オーギュストに真似された。
彼の前にあるのは、ゴルゴンゾーラのニョッキ。
クセの強いブルーチーズの香りが、僕のほうまで来ている。
「まずは地下室に運ぶんだ、特別な部屋にね」
今夜も講義のように、ボージェ教授がほぼ一方的に話していた。
「そして、土で出来た台に置いて水分を抜く。一年、じっくり時間をかけてね。
水切りが終わったら、次は乾燥。完全に乾いたらお酢で清め、ハーブで包んだそうだよ」
昨日の『パレルモの歴史』のほうがまだマシだった。
今日のテーマは『ミイラの神秘』だったから。
「そもそも、何故、ミイラを作るのか、解るかい?
ミイラにすると普通に埋葬するよりずっと手間と時間がかかるのに」
僕は答えずニョッキを口に運ぶ。
「ミイラとなり肉体が地上に残っていれば、魂は死なない。
魂が生きていれば、生きている家族の魂だけを天国に呼んで、魂同士の語らいができる。
死んだあとも、一人で寂しい想いをすることなく、楽しい生活が送れる。
かつてのシチリアでは、そう信じられていたんだ。
生きている家族がミイラの手を握ると、死者の魂と語り合える。
家族が死者を想ってお祈りをすれば、その人からアドバイスを貰うこともできるとね」
僕は授業の時のように、片手を軽く挙げた。
「ボージェ教授、質問があるんだけど、いい?」
「はい、アンリ」
「ディナーの間、殺人事件の話は避けようって配慮ができるのに、
ミイラについては、ディナーの話題に相応しいと思って話してるの?
どちらも死体の話だってところまでは、気付けなかった?」
「え? ああ、そうか。すまない。アンリの興味を惹く話となると、
やはり神秘学に関する話が良いかなと思ったんだ。
それに、カタコンベに行ってから、日を置かないうちに、
ミイラについて復習をしたほうが記憶にも残るだろうと。
けれど、そうだね。時と場所を弁えていなかったかな。気分を害してしまったかい?」
「構わないよ、別に。神秘学担当教師に常識を求めた僕のほうが、
間違っていたんだと思うから。それに君がそういう人なのは解ってる」
「ははは。手厳しいね、アンリ」
夕食後。パレルモ警察のカタラーノ警部は、予告通り僕達の部屋を訪ねてきた。
オーギュストは「お疲れさまです、警部」と迎え入れた。
「よろしければ、警部もいかがですか? 紅茶があるのですが」
「そりゃどうも。頂いてもよろしいですかな」
オーギュストが彼に紅茶の箱を差し出す。
六種類の紅茶の中から、彼はアールグレイを選んだ。
彼は僕達にもう一度事情聴取する為に来たのかと思ったら、違った。
「亡くなった女性は、フローラ・フランクリンさん。
彼女と同室で、一緒にシチリア旅行をしていたのはアシュリー・バートンさんです。
お二人はミラノの大学に通う同級生で、年齢は21。
シチリアには学校の休みを利用して来たそうです。
パレルモにあるカタコンベを見学する為に。
何でも二人ともオカルトサークルに所属しているのだそうで」
「オカルトサークル? 物好きな集まりだね」
僕がそう言うと、オーギュストが笑った。
「私達と似たもの同士だと思うけれど?」
「僕は君ほどじゃない」
「ええと、話を続けて良いですかな? フローラさんとバートンさんは、
アメリカ出身の留学生だそうです。同郷であり、同じオカルト好きという、
共通点があったことから、親しくなったそうですわ。
でも、バートンさん曰く、まだ男女交際という程の仲ではないそうです。
私としては、付き合ってもない男女が二人で旅行することに驚きを感じますが。
ええと、そして、彼女に呼び出され、ホテルまで迎えに来た結果、
第一発見者となったのは、フレデリック・ヒューズさんと言います。
彼も21歳で、同じ大学のオカルトサークルに所属しておりました」
「過去形ですね?」
「ええ。ヒューズさんは既にミラノの大学を辞めておりまして、
現在は、パレルモ郊外のモンレアーレに住んでおります。
親戚の叔父さんがやっているカフェで店の手伝いをしているそうですわ」
「大学を辞めるきっかけがあったのでしょうか?」
「はい。実は以前、フローラさんに交際を申し込んだことがあったそうで、
まあ結果的にフラれたんですが、そのショックで大学を辞めたようで。
私も先程聞いたばかりなんですがねえ。
その後も、想いが捨てきれなくて、時々メールを送ったりしてたそうなんですわ。
いわゆるストーカー行為ってやつにあたるかもしれませんな。
そういったことを一か月続けた後、自分がやってきたことを虚しく思った日が来たとかで、
彼女のことをきっぱり諦める為にも、ミラノを離れてモンレアーレまで来たらしいですわ。
それ以来は一切、彼女に連絡を取っていないそうです」
「ふうん。彼は怪しくなさそうだね、彼の言ってることが真実なら、だけど」
「両名とも明確なアリバイがなく、時間的にみて犯行は可能だったと考えられます」
「成程。そうなると、アリバイの有無を決め手に犯人を特定する手法は使えませんね」
「そうなんですわ。それで、動機や犯行準備についても考えてみたんですがね?
被害者と同室だったバートンは殺害動機が不明ですが、
一緒に行動していただけに、より殺害のチャンスはあったと思われます。
対して、第一発見者ヒューズはストーカーまがいのことをしていた過去があるだけに、
それが殺害動機となった可能性はあります。
しかし、当日突然、彼女に呼び出されたという証言が事実だとしたら、
急に凶器や毒物の準備ができるかどうか疑問です」
「そう言えば、腕を切断した凶器って何だったの?」
「サン・ジェルマンさんには、まだ言ってませんでしたな。
遺体の側に落ちていたノコギリだと思われます、折り畳み式の」
「入手経路は?」
「残念ながら、その線から洗うのは難しいかと。
珍しい一品ではなく、その類の店にはよく並んでいる物でしたし、
今の時代、凶器はワールドワイドに入手可能ですからなあ」
「警部、無くなった右腕の行方は?」
「ホテル内、及び周辺は捜索しましたが、まだ発見できません」
「そうですか」
「先生、いかがでしょう? これだけの情報でも、
先生なら、ピーンとくるんじゃないかと思って、
同僚には事情聴取に行ってくると言って、こうして洗いざらい喋りにきたのですが」
「そうでしたか。残念ながら、今すぐにお答えできることはありません」
警部はしょんぼりと肩を落とす。
「そうですか。先生でも解りませんか」
「ええ。私にできることがあれば、警部のお力になりたいと考えています。
そこで警部にお願いしたいことがあるのですが?」
「はい。何なりと」
「バートンさんとヒューズさんも、今夜はこのホテルにご滞在されているんですよね?」
「はい。バートンさんは元々その予定でしたし、
ヒューズさんには我々からそうお願いしております」
「では、お二人にお話を聞くことはできますか? 警部と私とアンリで」
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■ミイラの神秘06 続編
●07 「私が居るよ、アンリ」
新たに用意された部屋は、昨日泊まったスイートより少し狭かった。
窓際のテーブルと椅子も小さく、グレードが下がってる。
ホテルスタッフには「この度の宿泊費は頂戴致しません」
と言われたから許してあげるけど。
僕は窓際の椅子に座った。やはり座り心地が違う。
窓から見える景色もスイートのほうが良かった。
「アンリ」
オーギュストに呼ばれた。彼はいつもと変わらない表情で、
「紅茶で一息入れないかね?」
「紅茶? ルームサービスに紅茶なんてあった?」
イタリアの嫌いなところのひとつは、紅茶文化があまり浸透していないことだ。
ここはコーヒー文化が発展している国だから、
メニュー表にエスプレッソがあって、紅茶がないケースが珍しくない。
「アンリは持ってきていないのかい? イタリアに旅行するなら必需品だろう?」
オーギュストは鞄の中から、長方形の箱を取り出した。ティーバッグの箱だ。
「わざわざ持ってきたの?」
「もちろん。アンリも飲むかと思ってね」
「そんなの持ってるなら、昨日の時点で言ってよ」
「すまない。昨日は忘れていたんだ。さてアンリ、リーフは何が良いかな?」
オーギュストは水色の箱に記載されたリーフ名を読み上げる。
「イングリッシュブレックファースト、イングリッシュアップル、
ピュアアッサム、ピュアダージリン、アールグレイに、オリジナル」
「アップル」
「お砂糖は二つでいいのかな?」
「うん」
オーギュストは紅茶を淹れながら、
「そう言えば、今日の商談でも家族自慢を聞かされたのかい?」
「いいや。今日会った人は、常識のある人だったよ」
「それは幸いだったね。商談は上手くいったのかな」
「まあね」
窓の外では太陽が海に沈もうとしていた。
青い空が赤に侵食されていく。今日の夕陽はやけに赤く見える。もうすぐ夜が来る。
「はい、どうぞ」
白いカップを差し出される。爽やかなリンゴの香り。
甘い紅茶を飲んだら、少し気持ちが落ち着いた。
「悪くないね、ティーバッグなのに」
「紅茶を淹れるのに、大切なことはリーフの量と抽出時間だ。
その二つさえ気を付ければ、美味しく淹れられるものだよ」
「それにしても、隣の部屋で殺人事件だなんて」
あまり面白くない展開が浮かぶ。
「僕のせいかもね?」
「どうして、アンリのせいになるんだい?」
「例えば、僕と間違えて殺されたとか、もしくは無差別殺人に見せかける為とか。
明日、右腕を無くしているのは僕かもしれないし、君かもしれない。
本格的に事件に巻き込まれないうちに、
さっさと島に帰ったほうが身の為かもよ、ボージェ教授。
学院には、教授を待っている生徒達が居るんだし」
「もし、事件が続くなら、尚更ここを離れるわけにはいかないよ。
ましてや、私の大事な生徒を置いて帰るなんて、できないな」
オーギュストが僕を見つめる。僕は彼から目を反らした。
「そう言えば、こんな時に、ディーノやフィオラノはどこで何してるの?
今日は一度も顔を見せないし。代わりの男は英語が上手く話せないし」
彼は、ホテルの近隣には居るのかもしれないけれど。
「ディーノ君達は、警察の皆さんが居るから、
姿を見せるのを遠慮しているんじゃないかな」
ボディガードのくせに、僕の周辺で事件が起きている時に居ないなんて。
何故あの二人のどちらも来ないのだろう。そう思った時、僕は嫌な仮説を思い付いた。
「まさか、彼等が」
「アンリ。そう簡単にお友達を疑うのは良くないよ?」
「友達じゃない。彼等とはビジネスだ」
アップルティーを一口飲む。
「でも、そうだね。彼等なら、こんなに目立つ事件を起こすとは考え難い」
彼等の犯罪はもっとスマートだ。
「けれど、肝心な時に役に立たないな。彼等が居ない間に、僕に何かあったらどうするの」
彼は微笑した。
「私が居るよ、アンリ。私が君を守る。例え」
オーギュストの冗談だったのかもしれない。
そのあとに続いた言葉は、考えようによっては少し怖い言葉だったから。
「この世の全てと引き換えにしても」
→
新たに用意された部屋は、昨日泊まったスイートより少し狭かった。
窓際のテーブルと椅子も小さく、グレードが下がってる。
ホテルスタッフには「この度の宿泊費は頂戴致しません」
と言われたから許してあげるけど。
僕は窓際の椅子に座った。やはり座り心地が違う。
窓から見える景色もスイートのほうが良かった。
「アンリ」
オーギュストに呼ばれた。彼はいつもと変わらない表情で、
「紅茶で一息入れないかね?」
「紅茶? ルームサービスに紅茶なんてあった?」
イタリアの嫌いなところのひとつは、紅茶文化があまり浸透していないことだ。
ここはコーヒー文化が発展している国だから、
メニュー表にエスプレッソがあって、紅茶がないケースが珍しくない。
「アンリは持ってきていないのかい? イタリアに旅行するなら必需品だろう?」
オーギュストは鞄の中から、長方形の箱を取り出した。ティーバッグの箱だ。
「わざわざ持ってきたの?」
「もちろん。アンリも飲むかと思ってね」
「そんなの持ってるなら、昨日の時点で言ってよ」
「すまない。昨日は忘れていたんだ。さてアンリ、リーフは何が良いかな?」
オーギュストは水色の箱に記載されたリーフ名を読み上げる。
「イングリッシュブレックファースト、イングリッシュアップル、
ピュアアッサム、ピュアダージリン、アールグレイに、オリジナル」
「アップル」
「お砂糖は二つでいいのかな?」
「うん」
オーギュストは紅茶を淹れながら、
「そう言えば、今日の商談でも家族自慢を聞かされたのかい?」
「いいや。今日会った人は、常識のある人だったよ」
「それは幸いだったね。商談は上手くいったのかな」
「まあね」
窓の外では太陽が海に沈もうとしていた。
青い空が赤に侵食されていく。今日の夕陽はやけに赤く見える。もうすぐ夜が来る。
「はい、どうぞ」
白いカップを差し出される。爽やかなリンゴの香り。
甘い紅茶を飲んだら、少し気持ちが落ち着いた。
「悪くないね、ティーバッグなのに」
「紅茶を淹れるのに、大切なことはリーフの量と抽出時間だ。
その二つさえ気を付ければ、美味しく淹れられるものだよ」
「それにしても、隣の部屋で殺人事件だなんて」
あまり面白くない展開が浮かぶ。
「僕のせいかもね?」
「どうして、アンリのせいになるんだい?」
「例えば、僕と間違えて殺されたとか、もしくは無差別殺人に見せかける為とか。
明日、右腕を無くしているのは僕かもしれないし、君かもしれない。
本格的に事件に巻き込まれないうちに、
さっさと島に帰ったほうが身の為かもよ、ボージェ教授。
学院には、教授を待っている生徒達が居るんだし」
「もし、事件が続くなら、尚更ここを離れるわけにはいかないよ。
ましてや、私の大事な生徒を置いて帰るなんて、できないな」
オーギュストが僕を見つめる。僕は彼から目を反らした。
「そう言えば、こんな時に、ディーノやフィオラノはどこで何してるの?
今日は一度も顔を見せないし。代わりの男は英語が上手く話せないし」
彼は、ホテルの近隣には居るのかもしれないけれど。
「ディーノ君達は、警察の皆さんが居るから、
姿を見せるのを遠慮しているんじゃないかな」
ボディガードのくせに、僕の周辺で事件が起きている時に居ないなんて。
何故あの二人のどちらも来ないのだろう。そう思った時、僕は嫌な仮説を思い付いた。
「まさか、彼等が」
「アンリ。そう簡単にお友達を疑うのは良くないよ?」
「友達じゃない。彼等とはビジネスだ」
アップルティーを一口飲む。
「でも、そうだね。彼等なら、こんなに目立つ事件を起こすとは考え難い」
彼等の犯罪はもっとスマートだ。
「けれど、肝心な時に役に立たないな。彼等が居ない間に、僕に何かあったらどうするの」
彼は微笑した。
「私が居るよ、アンリ。私が君を守る。例え」
オーギュストの冗談だったのかもしれない。
そのあとに続いた言葉は、考えようによっては少し怖い言葉だったから。
「この世の全てと引き換えにしても」
→
■ミイラの神秘05 続編
●06 「先生はお変わりありませんな」
翌日。この日の商談も無事に終えることができた。
今日の運転手はフィオラノではなかった。
黒い短髪に褐色の肌。無表情で無口な男。彼もマンゾーニ・ファミリーの舎弟。
顔は何度か見たことがあったけど、今まで名前は知らなかった。
「自分の名前はダンテです。今日、兄さん達は来られない。だから、来ました」
彼は英語に不慣れのようで、片言に近い話し方しかできないようだった。
その上、低音でぼそぼそと話すので、非常に聞き取りにくかった。
夕方、車でホテルに戻ってきたら、辺りの様子が可笑しかった。
ホテルの前にパトカーが何台か停まっている。
「すみません、サン・ジェルマンさん」
運転席からダンテが言う。
「自分は、ここで、さよならすることが、できますか?」
下手な英語だったが、言いたいことは解る。ホテル前まで乗りつける予定だったが、
パトカーが居るようなので、すまないがこの辺りで車を降りてくれないか。
そのようなことが言いたいのだろう。
無闇にパトカーの側に近寄って、彼が尋問されるのは僕も困る。
僕は平易な英語を選んで答える。
「オーケイ。またね。ありがとう」
「はい。また」
ホテルの前から少し離れた場所で、僕は車から降ろされた。
ホテルまで歩いていくと、入口には警官の服を着た男が立っていた。
僕が中に入ろうとすると、止められて、何か言われた。イタリア語だ。
シチリアに来るようになってからは、必要最低限のイタリア語は身に付けたつもりだが、
こうして早口でまくし立てられると、聞き取れない。
すると、ホテルの中から従業員と刑事らしい二人組がこちらに走って来た。
白いスーツを身に付けたホテルマンが、
「お客様は、サン・ジェルマン様ですね?」
英語でそう聞かれた。
「大変失礼致しました。只今、当ホテルで事件が起こってしまいまして」
「事件?」
「ええと、とりあえず中へ。ご案内致します」
部屋の前の廊下には警察らしい人物が何人も居た。
「ああ、戻ってきました」
オーギュストの声がした。彼が手を挙げている。
「アンリ、こっちだよ」
ホテルの廊下で刑事から聞き込みを受けているホテル従業員の横を通り抜けて、
オーギュストの傍へ行った。彼の前には中年の刑事が居て、親しげな様子で話していた。
「警部、この子が先程お話しした私の教え子です」
「ほう。これはこれは」
薄汚れたグリーンのジャケットから、少しでっぱった腹。
ベテランの50代くらいに見える刑事は、僕を眺めてこう言った。
「顔だけ見ると、女子生徒のようですね。いやいや、失敬」
この人、嫌いだな。
「アンリ、こちらはパレルモ警察のヴァルテル・カタラーノ警部だよ」
「カタラーナ警部?」
「あはは。よく間違われますが『凍らせたプリン』ではなくカタラーノ、ですよ」
「オーギュスト、この警部と知り合いなの?」
「うん」
「一時期、事件の解決にご協力頂いていたことがありましてね。
確か十年程前だったと思いますが、先生はお変わりありませんな。
私なんか、年取るごとに腹が膨れておりますよ」
でっぱった腹を叩く。ポンポンといい音がした。
「警部もお元気そうで何よりです」
「さて。アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマンさん?」
警部がすっと僕に近付く。キツイ煙草の匂い。
「貴方や、貴方の学校については、ボージェ先生から伺っております。
かの学校名については、例え、貴方が殺人犯でも、
公になることはないと思われますので、ご心配なく」
「殺人犯?」
「ああ、まだその話をしていませんでしたね。
実は、お二人が宿泊していた部屋の隣から遺体が発見されました」
遺体? 隣の部屋で人が死んでいたというの?
「亡くなっていたのは、隣の部屋に宿泊していた女性です。
ボージェ先生の話では、貴方とも一度お会いしている女性のようですね?」
「どこで」
「カタコンベで擦れ違ったそうですよ、ねえ、先生?」
「ええ。アンリは覚えているかな? ロザリア嬢を拝謁する前に、
手を繋いでいたお二人が居たんだが」
覚えてる。『ロザリアより君のほうが綺麗だよ』だとか言ってて、目障りだったから。
「その女性が、先程、身体の一部が欠損した遺体となって発見されたわけです」
「欠損?」
「腕が一本、切断されていました、右の。肘の辺りからですね」
警部は左手で作ったナイフで、自分の右肘を切る仕草をしてみせた。
「なくなった右腕は部屋の中にはなく、現在も捜索中です」
「殺されたってこと?」
「まあ、自殺した彼女の腕を誰かが切り取った可能性もあるかもしれませんが、
殺人事件とみるのが妥当でしょうな」
「警部、彼女はいつ亡くなられたんですか?」
「死亡推定時刻は、本日の朝食以降と思われます。
朝食は同室の彼とホテルのレストランで一緒に食べたそうですし、
ウエイターも二人が来ていたことを覚えておりました」
「その同室の人は、朝食以降、どこで何してたの?」
「一人で観光していたそうですよ。
彼女が『体調が悪いから今日は部屋で休みたい』と言い出したようで」
「怪しいね」
「第一発見者は彼なんですか?」
「いえ、第一発見者は、ああ、あそこに居る男ですわ」
警部が顎で差し示す。頭を抱えるようにして、ソファに座っている男が居た。
「先生、まさか彼ともどこかで会っていたりします?」
「彼は初めて見る顔ですね。カタコンベでも会わなかった。アンリはどうかな?」
「今初めて見た」
「そうですか。男の証言と合致しますね。
モンレアーレから真っ直ぐホテルまで来たと言っていましたから」
「モンレアーレ?」
「パレルモの郊外にある街だよ。ここまで車で30分程だ」
僕が呟くと、オーギュストがそう教えてくれた。
「何故彼が第一発見者になったんです?」
「呼び出されたんだそうです。携帯電話のメールで。彼女から」
警部の話によると、遺体の発見状況はこうだ。
メールで彼女から「話したいことがあるから、来て欲しい」と言われた男が、
15時頃、ホテルに到着。部屋を訪ねると、返事がなかった。
何度も呼び掛けたり、メールを送ったりしたが反応はない。
これはおかしいと思った男は、フロントに行き、ホテル従業員に事情を説明。
マスターキーでドアを開けて貰い、部屋に入った。
中には誰の姿もなかった。各部屋を探していると、シャワールームに彼女は居た。
びっしょり濡れた服を身に付けたまま、床に倒れていた。
クリーム色の床には大量の血が流れた跡があったらしい。
「犯人は、そのシャワールームで腕を切断したんでしょうか?」
「ええ。血の量からみて、おそらくそうでしょう。
さて。朝食以降、貴方はどちらにいらっしゃいましたか?」
「僕も容疑者の一人というわけ? 被害者とは昨日初めて会ったのに」
「貴方の無実を証明する為に必要な質問だとご理解頂けますかな?」
「そうだよ、アンリ。やましいことはないのだから、
ちゃんと警部にお話ししなさい? 警察に協力するのは善良な市民の義務だ」
「僕はパレルモ市民ではないけれどね」
僕は答えてあげることにした。
「12時にホテルを出て、13時から14時まで、商談先の会社に居ました」
「では14時までは証人が居るというわけですね? ――結構。その後は?」
「予定より早く商談が終わったから、旧市街の建築物を眺めてから、ホテルに」
「つまり、15時から16時まではお一人だったと。
腕を一本切断して、どこかに隠すのに、どれくらいの時間を要するかが問題ですかな」
「警部、死因は特定済みなのですか?」とオーギュスト。
「まだ断定はできませんが、おそらくは毒殺でしょう。
ワイングラスから微量ですが毒物が確認できました」
「毒殺したあと、腕を切ったってこと?」
「まあ、その順番のほうが現実的でしょうな、
生きたまま腕を切るのは骨が折れる作業でしょうし」
「何の為に腕を」
「そいつを今調べてるとこでしてね? 昨夜から今日にかけて、
隣の部屋から、何か言い争うような声や不審な物音などはしましたか?」
「気が付かなかった」
警部はメモを取りながら、
「お二人のご滞在はいつまでですかな?」
「チェックアウトは明日の予定です」
「明日ですか。では今夜またお話を伺いに、お部屋に行かせて頂くかと思いますが、
それまではどうぞお寛ぎ下さい、ホテル内で」
「外に出るなってことか」
「すみませんな」
「あの、失礼致します、お客様」
白いスーツのホテルスタッフが僕達に近寄ってきた。
「この度は誠に申し訳ございません。今夜のご宿泊はこちらのお部屋ではなく、
別のお部屋をご用意させて頂きたいと存じますが、よろしいでしょうか?」
「お気遣いありがとうございます。そうですね」
オーギュストが僕を見る。
「お言葉に甘えさせて貰おうか、アンリ」
→
翌日。この日の商談も無事に終えることができた。
今日の運転手はフィオラノではなかった。
黒い短髪に褐色の肌。無表情で無口な男。彼もマンゾーニ・ファミリーの舎弟。
顔は何度か見たことがあったけど、今まで名前は知らなかった。
「自分の名前はダンテです。今日、兄さん達は来られない。だから、来ました」
彼は英語に不慣れのようで、片言に近い話し方しかできないようだった。
その上、低音でぼそぼそと話すので、非常に聞き取りにくかった。
夕方、車でホテルに戻ってきたら、辺りの様子が可笑しかった。
ホテルの前にパトカーが何台か停まっている。
「すみません、サン・ジェルマンさん」
運転席からダンテが言う。
「自分は、ここで、さよならすることが、できますか?」
下手な英語だったが、言いたいことは解る。ホテル前まで乗りつける予定だったが、
パトカーが居るようなので、すまないがこの辺りで車を降りてくれないか。
そのようなことが言いたいのだろう。
無闇にパトカーの側に近寄って、彼が尋問されるのは僕も困る。
僕は平易な英語を選んで答える。
「オーケイ。またね。ありがとう」
「はい。また」
ホテルの前から少し離れた場所で、僕は車から降ろされた。
ホテルまで歩いていくと、入口には警官の服を着た男が立っていた。
僕が中に入ろうとすると、止められて、何か言われた。イタリア語だ。
シチリアに来るようになってからは、必要最低限のイタリア語は身に付けたつもりだが、
こうして早口でまくし立てられると、聞き取れない。
すると、ホテルの中から従業員と刑事らしい二人組がこちらに走って来た。
白いスーツを身に付けたホテルマンが、
「お客様は、サン・ジェルマン様ですね?」
英語でそう聞かれた。
「大変失礼致しました。只今、当ホテルで事件が起こってしまいまして」
「事件?」
「ええと、とりあえず中へ。ご案内致します」
部屋の前の廊下には警察らしい人物が何人も居た。
「ああ、戻ってきました」
オーギュストの声がした。彼が手を挙げている。
「アンリ、こっちだよ」
ホテルの廊下で刑事から聞き込みを受けているホテル従業員の横を通り抜けて、
オーギュストの傍へ行った。彼の前には中年の刑事が居て、親しげな様子で話していた。
「警部、この子が先程お話しした私の教え子です」
「ほう。これはこれは」
薄汚れたグリーンのジャケットから、少しでっぱった腹。
ベテランの50代くらいに見える刑事は、僕を眺めてこう言った。
「顔だけ見ると、女子生徒のようですね。いやいや、失敬」
この人、嫌いだな。
「アンリ、こちらはパレルモ警察のヴァルテル・カタラーノ警部だよ」
「カタラーナ警部?」
「あはは。よく間違われますが『凍らせたプリン』ではなくカタラーノ、ですよ」
「オーギュスト、この警部と知り合いなの?」
「うん」
「一時期、事件の解決にご協力頂いていたことがありましてね。
確か十年程前だったと思いますが、先生はお変わりありませんな。
私なんか、年取るごとに腹が膨れておりますよ」
でっぱった腹を叩く。ポンポンといい音がした。
「警部もお元気そうで何よりです」
「さて。アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマンさん?」
警部がすっと僕に近付く。キツイ煙草の匂い。
「貴方や、貴方の学校については、ボージェ先生から伺っております。
かの学校名については、例え、貴方が殺人犯でも、
公になることはないと思われますので、ご心配なく」
「殺人犯?」
「ああ、まだその話をしていませんでしたね。
実は、お二人が宿泊していた部屋の隣から遺体が発見されました」
遺体? 隣の部屋で人が死んでいたというの?
「亡くなっていたのは、隣の部屋に宿泊していた女性です。
ボージェ先生の話では、貴方とも一度お会いしている女性のようですね?」
「どこで」
「カタコンベで擦れ違ったそうですよ、ねえ、先生?」
「ええ。アンリは覚えているかな? ロザリア嬢を拝謁する前に、
手を繋いでいたお二人が居たんだが」
覚えてる。『ロザリアより君のほうが綺麗だよ』だとか言ってて、目障りだったから。
「その女性が、先程、身体の一部が欠損した遺体となって発見されたわけです」
「欠損?」
「腕が一本、切断されていました、右の。肘の辺りからですね」
警部は左手で作ったナイフで、自分の右肘を切る仕草をしてみせた。
「なくなった右腕は部屋の中にはなく、現在も捜索中です」
「殺されたってこと?」
「まあ、自殺した彼女の腕を誰かが切り取った可能性もあるかもしれませんが、
殺人事件とみるのが妥当でしょうな」
「警部、彼女はいつ亡くなられたんですか?」
「死亡推定時刻は、本日の朝食以降と思われます。
朝食は同室の彼とホテルのレストランで一緒に食べたそうですし、
ウエイターも二人が来ていたことを覚えておりました」
「その同室の人は、朝食以降、どこで何してたの?」
「一人で観光していたそうですよ。
彼女が『体調が悪いから今日は部屋で休みたい』と言い出したようで」
「怪しいね」
「第一発見者は彼なんですか?」
「いえ、第一発見者は、ああ、あそこに居る男ですわ」
警部が顎で差し示す。頭を抱えるようにして、ソファに座っている男が居た。
「先生、まさか彼ともどこかで会っていたりします?」
「彼は初めて見る顔ですね。カタコンベでも会わなかった。アンリはどうかな?」
「今初めて見た」
「そうですか。男の証言と合致しますね。
モンレアーレから真っ直ぐホテルまで来たと言っていましたから」
「モンレアーレ?」
「パレルモの郊外にある街だよ。ここまで車で30分程だ」
僕が呟くと、オーギュストがそう教えてくれた。
「何故彼が第一発見者になったんです?」
「呼び出されたんだそうです。携帯電話のメールで。彼女から」
警部の話によると、遺体の発見状況はこうだ。
メールで彼女から「話したいことがあるから、来て欲しい」と言われた男が、
15時頃、ホテルに到着。部屋を訪ねると、返事がなかった。
何度も呼び掛けたり、メールを送ったりしたが反応はない。
これはおかしいと思った男は、フロントに行き、ホテル従業員に事情を説明。
マスターキーでドアを開けて貰い、部屋に入った。
中には誰の姿もなかった。各部屋を探していると、シャワールームに彼女は居た。
びっしょり濡れた服を身に付けたまま、床に倒れていた。
クリーム色の床には大量の血が流れた跡があったらしい。
「犯人は、そのシャワールームで腕を切断したんでしょうか?」
「ええ。血の量からみて、おそらくそうでしょう。
さて。朝食以降、貴方はどちらにいらっしゃいましたか?」
「僕も容疑者の一人というわけ? 被害者とは昨日初めて会ったのに」
「貴方の無実を証明する為に必要な質問だとご理解頂けますかな?」
「そうだよ、アンリ。やましいことはないのだから、
ちゃんと警部にお話ししなさい? 警察に協力するのは善良な市民の義務だ」
「僕はパレルモ市民ではないけれどね」
僕は答えてあげることにした。
「12時にホテルを出て、13時から14時まで、商談先の会社に居ました」
「では14時までは証人が居るというわけですね? ――結構。その後は?」
「予定より早く商談が終わったから、旧市街の建築物を眺めてから、ホテルに」
「つまり、15時から16時まではお一人だったと。
腕を一本切断して、どこかに隠すのに、どれくらいの時間を要するかが問題ですかな」
「警部、死因は特定済みなのですか?」とオーギュスト。
「まだ断定はできませんが、おそらくは毒殺でしょう。
ワイングラスから微量ですが毒物が確認できました」
「毒殺したあと、腕を切ったってこと?」
「まあ、その順番のほうが現実的でしょうな、
生きたまま腕を切るのは骨が折れる作業でしょうし」
「何の為に腕を」
「そいつを今調べてるとこでしてね? 昨夜から今日にかけて、
隣の部屋から、何か言い争うような声や不審な物音などはしましたか?」
「気が付かなかった」
警部はメモを取りながら、
「お二人のご滞在はいつまでですかな?」
「チェックアウトは明日の予定です」
「明日ですか。では今夜またお話を伺いに、お部屋に行かせて頂くかと思いますが、
それまではどうぞお寛ぎ下さい、ホテル内で」
「外に出るなってことか」
「すみませんな」
「あの、失礼致します、お客様」
白いスーツのホテルスタッフが僕達に近寄ってきた。
「この度は誠に申し訳ございません。今夜のご宿泊はこちらのお部屋ではなく、
別のお部屋をご用意させて頂きたいと存じますが、よろしいでしょうか?」
「お気遣いありがとうございます。そうですね」
オーギュストが僕を見る。
「お言葉に甘えさせて貰おうか、アンリ」
→
■ミイラの神秘04 続編
●05 「先公と二人で旅行なんかするかよ、フツー」
夕食後、レストランからホテルの部屋に戻ってきた。
「美味しいディナーだったね」
ホテルの手配をオーギュストに任せたら、彼と同室にされた。
今日も明日も彼と同じ部屋に泊まる。
他人と長い時間を二人きりで過ごすことは多くないことだ。
学院の寮でも一人部屋をあてがわれているのだから。
「流石はスイートルームだね。良い眺めだ」
オーギュストは窓辺に立って、外の景色を見ている。
「アンリも見てご覧? 海が見えるよ」
「僕が海を見て喜ぶと思ってるの?」
「ご機嫌斜めだね。たくさん食べたからもう眠たいのかな?」
「……オーギュスト」
「ごめん、ごめん」
笑ってる。
「先にシャワーを浴びておいで、アンリ。ああ、それとも今日は止めておくかい?」
「どうして止めなくてはならないの?」
「個室で一人きりになったら、ミイラを思い出して怖いかなと」
オーギュストが余計なことを言うから、シャワーを浴びている時、
地下墓地で見た光景が脳裏に浮かんだ。
目が空洞になった頭蓋骨。汚れた布きれを纏った無数の白骨。
ミイラにされたことで、あの暗い地下墓地に閉じ込められた2歳の少女。
物音がした気がして、背後を振り返った。
何もなかったけど。
シャワールームの白い壁を伝う雫が、一瞬、少女の泣き顔のように見えた。
「いい度胸してるじゃねえか、センセーさんよー?」
僕がシャワーから上がると、自分の目を疑う光景があった。
オーギュストが、壁を背に追いつめられている。
彼の前で笑っているのは歪んだ長い黒髪の男。
シチリアマフィア、マンゾーニ・ファミリーのNo.2、ディーノ・マンゾーニだ。
「ディーノ。オーギュストに何してるの」
胸倉を掴まれているオーギュストは僕に微笑んでみせた。
「大丈夫だよ、アンリ。互いに自己紹介をしていただけだから」
ディーノがヒューと口笛を鳴らす。
「バスローブ姿で俺様を出迎えるたぁ、おめーにしては上出来じゃねえか。え?」
マフィアはオーギュストから手を離し、僕に近付いてきた。
「なんで、君がここに」
「あ? 夜に顔見せるって言ってあったろ? フィオ、言い忘れたのか?」
「あ、いえ。お伝えしたつもりですが」
ドアの側に控えていたフィオラノが答えた。
「なら、いいじゃねえか」
ディーノがベッドに腰掛ける。
「今日は相手してやれなくて悪かったなあ。俺様が居なくて寂しかっただろ?」
「別に。フィオラノ、君達は明日の予定について確認に来たんでしょう?」
「ええ、まあ」
「明日も予定通り商談先に向かうから12時に迎えに来て。以上」
「俺様を部屋から追い出して、センセーと何の授業するつもりだ?」
ヘッヘッヘとマフィアが薄汚く笑う。
「つーか、マジで部屋にオトコ連れ込んでるとはなあ。
しかも、どんだけ年上好きだよ。親と子くらい年離れてんじゃねえのか?」
「変な言い方しないで。彼は僕の教師で」
「先公と二人で旅行なんかするかよ、フツー。
おめー、その先公にダマされてねーだろーな?」
「騙す?」
「ガッコのセンセーだかなんだか知らねえが、
気ィ許したところで、アタマ撃ち抜かれても知らねえぞ?」
手で作った銃で「バーン」と頭を撃つ真似をしてみせた。
「馬鹿馬鹿しい」
「ひでぇなあ。心配してやってんのによお」
ディーノは笑って、ベッドから立ち上がる。
「なあ、お姫様? 今夜は俺が付いてなくてイイのか?」
ゆっくり歩いて、僕の近くまで来る。
「明日になったら俺達の可愛いお姫様が穴だらけなんてのは困るしよ?
今夜は俺様が直々にお前の傍に居てやるよ、朝までな」
ディーノが僕の肩に腕を回す。挑発するようにオーギュストを見ていた。
「先公の前でタップリ見せつけてやろうぜ?
俺達の間に割り込める隙なんかないってことをさ?」
僕は彼の腕を振り払った。
「いい加減にして。学院の教員にまで危険人物が」
「居る筈ねえと言い切れんのか? 何が世界一安全な島だ。
どんだけ脆弱なセキュリティかは、おめーだって知ってんだろ?」
確かに島の警備組織は、今までに何度もこのマフィアの上陸を許している。
「近寄ってくる大人は全員信用すんなよ、アンリ。
紳士面してる奴程、ハラん中でナニ考えてるか解んねーぜ?」
ディーノが再び僕の肩に手を回した。
「おめーの味方は俺達だけだ。そうだろう?」
彼から葉巻の匂いがする。苦くて甘い香りだった。
その時、携帯電話の着信音が鳴った。
「あっ、ママからだ」
急にディーノの口調が子供化した。携帯電話を耳にあてる。
「なあに、ママ? え? うん。あっ、ごめん、忘れてた。ごめんごめん。
うん、今すぐ帰るから。ごめんね。うん。じゃあね、愛してるよ、ママ」
電話を切った。
「フィオ、ずらかるぞ」
その時にはもう迫力のあるマフィアボイスに戻っていた。
毎度のことだが変わり身の早さにコケそうになる。
「へい、兄貴。それでは自分達はこれで。
何かありましたらいつでもお呼び下さい、他の者は近くにおりますんで」
ディーノがドアに向かう。その途中でオーギュストと目が合った。
瞬時に間合いを詰め、オーギュストの胸倉を掴んでいた。
「アンリを殺りやがったら、普通の死に方はできねえぞ」
ドスの効いた声にも、オーギュストは動じない。
まるで子供を諭すように一言だけ言った。
「解っているよ」
マフィアは舌打ちして、
「いけすかねえ奴」
ディーノが廊下に出たあとで、フィオラノがドアノブを持つ。
「おやすみなせえまし」
ドアが閉まった。
二人のマフィアが消えて、僕とオーギュストだけになった。
僕はビジネスパートナーの非礼を詫びた。
「悪かったね、躾がなってない番犬で」
「気にしていないよ、彼なりにアンリを守る為にしたことだからね。
見知らぬ物を見た時に、吠えたり噛み付いたりするのは、
それが危険なものでないか確かめる為の行為だ。
心強いパートナーだと思うよ、マンゾーニ・ファミリーは」
僕は頷いていた。
「マンゾーニは、伯爵が選んだファミリーだから」
初代サン・ジェルマン伯爵は、シチリア島のマフィアと交流があった。
何故、伯爵がマンゾーニを選んだか、どんな付き合いがあったのか、詳しい記録はない。
ボディガードを頼むなら、警備会社は他に幾らでもあるのに。
マフィアをパートナーにしなければならない具体的根拠は、自分でも未だに解らない。
伯爵が選んだ相手なら。
ただそれだけの理由で、僕は彼等と手を組むことを決めたのだから。
伯爵に選ばれたマンゾーニ。その跡取りであるディーノが、先程、僕に忠告した。
近寄ってくる大人は信用するなと。
確かにオーギュストは、つかみどころがない人だし、何を考えているのか解らない。
教師と二人で旅行するのは普通ではない、それもディーノの言う通りかもしれない。だけど。
「アンリ」
僕は振り向く。オーギュストの優しい顔が僕に向けられている。
「いつまでもその格好では身体を冷やしてしまうよ? そろそろ寝間着に着替えなさい?」
そう言えば、僕はシャワーから上がったばかりで、まだバスローブ姿だった。
水滴の残る腕。触れたら少し冷たかった。
「オーギュ」
「ん?」
「シャワー、浴びてくれば?」
彼は優しく笑った。
「そうだね」
→
夕食後、レストランからホテルの部屋に戻ってきた。
「美味しいディナーだったね」
ホテルの手配をオーギュストに任せたら、彼と同室にされた。
今日も明日も彼と同じ部屋に泊まる。
他人と長い時間を二人きりで過ごすことは多くないことだ。
学院の寮でも一人部屋をあてがわれているのだから。
「流石はスイートルームだね。良い眺めだ」
オーギュストは窓辺に立って、外の景色を見ている。
「アンリも見てご覧? 海が見えるよ」
「僕が海を見て喜ぶと思ってるの?」
「ご機嫌斜めだね。たくさん食べたからもう眠たいのかな?」
「……オーギュスト」
「ごめん、ごめん」
笑ってる。
「先にシャワーを浴びておいで、アンリ。ああ、それとも今日は止めておくかい?」
「どうして止めなくてはならないの?」
「個室で一人きりになったら、ミイラを思い出して怖いかなと」
オーギュストが余計なことを言うから、シャワーを浴びている時、
地下墓地で見た光景が脳裏に浮かんだ。
目が空洞になった頭蓋骨。汚れた布きれを纏った無数の白骨。
ミイラにされたことで、あの暗い地下墓地に閉じ込められた2歳の少女。
物音がした気がして、背後を振り返った。
何もなかったけど。
シャワールームの白い壁を伝う雫が、一瞬、少女の泣き顔のように見えた。
「いい度胸してるじゃねえか、センセーさんよー?」
僕がシャワーから上がると、自分の目を疑う光景があった。
オーギュストが、壁を背に追いつめられている。
彼の前で笑っているのは歪んだ長い黒髪の男。
シチリアマフィア、マンゾーニ・ファミリーのNo.2、ディーノ・マンゾーニだ。
「ディーノ。オーギュストに何してるの」
胸倉を掴まれているオーギュストは僕に微笑んでみせた。
「大丈夫だよ、アンリ。互いに自己紹介をしていただけだから」
ディーノがヒューと口笛を鳴らす。
「バスローブ姿で俺様を出迎えるたぁ、おめーにしては上出来じゃねえか。え?」
マフィアはオーギュストから手を離し、僕に近付いてきた。
「なんで、君がここに」
「あ? 夜に顔見せるって言ってあったろ? フィオ、言い忘れたのか?」
「あ、いえ。お伝えしたつもりですが」
ドアの側に控えていたフィオラノが答えた。
「なら、いいじゃねえか」
ディーノがベッドに腰掛ける。
「今日は相手してやれなくて悪かったなあ。俺様が居なくて寂しかっただろ?」
「別に。フィオラノ、君達は明日の予定について確認に来たんでしょう?」
「ええ、まあ」
「明日も予定通り商談先に向かうから12時に迎えに来て。以上」
「俺様を部屋から追い出して、センセーと何の授業するつもりだ?」
ヘッヘッヘとマフィアが薄汚く笑う。
「つーか、マジで部屋にオトコ連れ込んでるとはなあ。
しかも、どんだけ年上好きだよ。親と子くらい年離れてんじゃねえのか?」
「変な言い方しないで。彼は僕の教師で」
「先公と二人で旅行なんかするかよ、フツー。
おめー、その先公にダマされてねーだろーな?」
「騙す?」
「ガッコのセンセーだかなんだか知らねえが、
気ィ許したところで、アタマ撃ち抜かれても知らねえぞ?」
手で作った銃で「バーン」と頭を撃つ真似をしてみせた。
「馬鹿馬鹿しい」
「ひでぇなあ。心配してやってんのによお」
ディーノは笑って、ベッドから立ち上がる。
「なあ、お姫様? 今夜は俺が付いてなくてイイのか?」
ゆっくり歩いて、僕の近くまで来る。
「明日になったら俺達の可愛いお姫様が穴だらけなんてのは困るしよ?
今夜は俺様が直々にお前の傍に居てやるよ、朝までな」
ディーノが僕の肩に腕を回す。挑発するようにオーギュストを見ていた。
「先公の前でタップリ見せつけてやろうぜ?
俺達の間に割り込める隙なんかないってことをさ?」
僕は彼の腕を振り払った。
「いい加減にして。学院の教員にまで危険人物が」
「居る筈ねえと言い切れんのか? 何が世界一安全な島だ。
どんだけ脆弱なセキュリティかは、おめーだって知ってんだろ?」
確かに島の警備組織は、今までに何度もこのマフィアの上陸を許している。
「近寄ってくる大人は全員信用すんなよ、アンリ。
紳士面してる奴程、ハラん中でナニ考えてるか解んねーぜ?」
ディーノが再び僕の肩に手を回した。
「おめーの味方は俺達だけだ。そうだろう?」
彼から葉巻の匂いがする。苦くて甘い香りだった。
その時、携帯電話の着信音が鳴った。
「あっ、ママからだ」
急にディーノの口調が子供化した。携帯電話を耳にあてる。
「なあに、ママ? え? うん。あっ、ごめん、忘れてた。ごめんごめん。
うん、今すぐ帰るから。ごめんね。うん。じゃあね、愛してるよ、ママ」
電話を切った。
「フィオ、ずらかるぞ」
その時にはもう迫力のあるマフィアボイスに戻っていた。
毎度のことだが変わり身の早さにコケそうになる。
「へい、兄貴。それでは自分達はこれで。
何かありましたらいつでもお呼び下さい、他の者は近くにおりますんで」
ディーノがドアに向かう。その途中でオーギュストと目が合った。
瞬時に間合いを詰め、オーギュストの胸倉を掴んでいた。
「アンリを殺りやがったら、普通の死に方はできねえぞ」
ドスの効いた声にも、オーギュストは動じない。
まるで子供を諭すように一言だけ言った。
「解っているよ」
マフィアは舌打ちして、
「いけすかねえ奴」
ディーノが廊下に出たあとで、フィオラノがドアノブを持つ。
「おやすみなせえまし」
ドアが閉まった。
二人のマフィアが消えて、僕とオーギュストだけになった。
僕はビジネスパートナーの非礼を詫びた。
「悪かったね、躾がなってない番犬で」
「気にしていないよ、彼なりにアンリを守る為にしたことだからね。
見知らぬ物を見た時に、吠えたり噛み付いたりするのは、
それが危険なものでないか確かめる為の行為だ。
心強いパートナーだと思うよ、マンゾーニ・ファミリーは」
僕は頷いていた。
「マンゾーニは、伯爵が選んだファミリーだから」
初代サン・ジェルマン伯爵は、シチリア島のマフィアと交流があった。
何故、伯爵がマンゾーニを選んだか、どんな付き合いがあったのか、詳しい記録はない。
ボディガードを頼むなら、警備会社は他に幾らでもあるのに。
マフィアをパートナーにしなければならない具体的根拠は、自分でも未だに解らない。
伯爵が選んだ相手なら。
ただそれだけの理由で、僕は彼等と手を組むことを決めたのだから。
伯爵に選ばれたマンゾーニ。その跡取りであるディーノが、先程、僕に忠告した。
近寄ってくる大人は信用するなと。
確かにオーギュストは、つかみどころがない人だし、何を考えているのか解らない。
教師と二人で旅行するのは普通ではない、それもディーノの言う通りかもしれない。だけど。
「アンリ」
僕は振り向く。オーギュストの優しい顔が僕に向けられている。
「いつまでもその格好では身体を冷やしてしまうよ? そろそろ寝間着に着替えなさい?」
そう言えば、僕はシャワーから上がったばかりで、まだバスローブ姿だった。
水滴の残る腕。触れたら少し冷たかった。
「オーギュ」
「ん?」
「シャワー、浴びてくれば?」
彼は優しく笑った。
「そうだね」
→
■ミイラの神秘03 続編
●04 「きっと、アンリを守ってくれるよ」
パレルモ市内のホテル。今夜はここで一泊する。
夕食の為にまたどこかに行くのは面倒だったから、
ホテルの最上階にあるレストランで済ませることにした。
客の入りは少なく、僕達の他には三組程度。
それぞれ離れた位置のテーブルに着いているから、互いの会話は聞こえない。
店内には会話の邪魔にならない程度にピアノの楽曲が流れている。知らない曲だ。
シチリアは何かと暑苦しい土地だけれど、
眩しい太陽と地中海の恵みのおかげで、料理の味は悪くない。
アンティパスト(イタリア語で前菜)に出てきたサラダでさえも悪くはなかった。
プリモ・ピアット(イタリア語で第一の皿)に僕が頼んだのは、アンチョビのクリームパスタ。
パレルモは地中海に面した港町だけに魚介類のメニューは豊富だ。
このアンチョビもパレルモ産。塩味が効いたアンチョビがクリーミーなソースと合っている。
シチリアの料理に文句はない。けれど、シチリアの人間には文句がある。大いに。
「どうしてイタリアーノって、ああなんだろう」
今思い出しても理解に苦しむ。
「商談の最中くらいは、母親の料理自慢を止めて貰いたいよ」
「確かにね」
オーギュストは淡い黄金色のスパークリングワインを飲みながら、僕の話に相槌を打っている。
イタリアでは発泡性のワインをスプマンテと呼ぶらしい。
ワインボトルには天使の絵が描かれていた。
彼がワインの供にしているのは、カプレーゼという料理だ。
バジルの葉、モッツァレラチーズ、トマトを交互に並べ、
エクストラバージンオリーブオイルと塩コショウで味付けただけのシンプルな料理だが、
一皿の上で緑、白、赤と国旗を再現しているイタリアの代表料理であり、
シチリアの太陽を浴びた素材の味をそのまま楽しめる。
何よりワインによく合う、らしい。オーギュスト曰く。
フィオラノは離れたテーブルに居る。
引き続き僕の護衛中、という名目でホテルディナーを食しているだけだ。
僕の後方に居るから、今は彼の姿が見えないが、多分、皿ばかり見ているだろう。
僕が商談で島の外に出た時、食事はいつも一人でとっていた。
でも、今回はオーギュストが居る。
「で、僕が家族自慢を聞かされている間、オーギュはどこを観光してたの?」
「パレルモの旧市街に居たよ。アンリと一緒に行ったカタコンベと同じ地区なんだがね」
「地下墓地の近くまで戻ったの? さすが物好きだね、ボージェ教授」
「あの辺りは古い宮殿や教会が残っていて、
アラブ・ノルマン様式の美しい建築が今も拝見できる貴重な土地だから、
ただ歩いているだけで、懐かしい気分になれるし」
「懐かしい?」
「ああ、なんとなく、気分的にね? それから、市場があったから、ぶらぶら見ていたかな。
そのあとは、雰囲気の良いカフェを見つけてね?
美味しいコーヒーを頂きながら、一時間程のんびりさせて貰ったよ」
「一時間? 観光したいって言ってたくせに、随分、無計画な観光だったようだね?
しかも、大半はカフェに居たなんて」
「カフェからも旧市街の美しい街並みは見られたからね。
そう言えば、アンリはパレルモの起源を知っているのかな?」
「知らないよ、そんなの」
「紀元前8世紀まで遡るんだ。古代、フェニキア人によって開拓され、
その後、入植したギリシャ人にパノルムス、『全てが港』と呼ばれたことが、
由来になっているんだ。パレルモは今も少し歩けば海に出る港町だろう?」
オーギュストが窓の外を見る。パレルモの夜景は大人しい。
その向こうには暗く、広大な海が広がっている。
「パレルモを含めシチリアという土地は、
様々な国によって支配されてきた、屈辱の歴史を持っている。
紀元前、ポエニ戦争でローマの支配下に置かれたことを始め、
イスラムやフランス、スペインやオーストリアの手に落ちたこともあったから」
相変わらず理屈っぽい話し方。教室に居るような錯覚を覚える。
今日一日で、オーギュストからイタリアに関する知識を随分植え付けられた。
静寂のディナータイムが与えられる貴重な機会なのに、授業中みたいだ。
「旧市街の散策は、感慨深いものがあったよ、本当に。
連れてきてくれてありがとう、アンリ。良い観光ができたよ」
そうやってオーギュストは僕にお礼を言った。
そんなこと、言われる筋合いは無い。彼が勝手に付いてきただけなのだから。
教師のくせに。どうして僕に付いていたんだろう。
「ああ、そうだ」
オーギュストがスーツのポケットに手を入れる。
「アンリにお土産があるんだよ? はい」
差し出された手には、黒革の袋が乗っていた。
スウェード状の布で作られた、口を紐で締めるタイプの小さな袋だ。
とりあえず彼の手の上から、それを取って、黒い紐を引いてみる。
黒い革袋から出てきたのは薄い紫色をしたガラス玉のような物だった。
「アメジストだよ。紫水晶とも言うね」
透き通った紫。嫌じゃない色だ。見ていると、気持ちが落ち着く。
「紫は神秘的な力を高める色とされ、災いや邪霊を祓うと信じられてきた」
邪霊。ああ、またオカルトなことを言い出した。
「古代エジプト時代から、護符、つまりお守りとして、
重用されてきた石でね。旧市街の市場で見つけたんだ」
「市場で? 説得力が薄れるね」
僕が一蹴すると、彼は不敵な微笑を見せた。
「そう、思うだろう?」
神秘学の権威は、両手の指を絡めて話し始めた。
「野菜や果物が並ぶ市場の中で、一件だけ妖しげな雰囲気の露店があったんだ。
アクセサリーやお土産用のキーホルダーなどを売っているお店だった。
その一角にパワーストーンの類が雑多に置かれていて」
人差し指を立てる。
「ひとつだけ、その中に混ざっていたんだよ。見たところ、イミテーションでもなかった。
何故、こんなに見事な物がここにあるのか、私も不思議に思ったよ。
その石を見た時、なんだか、アンリを守ってくれる気がしてね」
「僕を?」
「うん。だから、アンリに」
どうして。
「きっと、アンリを守ってくれるよ」
どうしてこの大人は、僕にこんなものをくれるのだろう。
デザートが出てきた頃、オーギュストが可笑しな芸当を見せた。ある意味、器用な。
「ああ、ドルチェが来たよ、アンリ」
デザートに僕が選んだのはリモーネのジェラート。レモンのアイスクリームのことだ。
シチリアの柑橘類は有名だから、イタリア国外でも手に入るけれど、
この味が出せるのは現地のリモーネだけのような気がする。
ジェラートの柔らかい感触を舌で感じたくて、口の中でスプーンを裏向きにする。
普通のアイスクリームとは違う、まろやかな舌触り。
冷たくて甘酸っぱいレモンが、シュワと舌の上で溶けるかんじが心地好い。
さっぱりとした後味と爽やかな香りが口内に残った。
「そう言えば、ドルチェはひとつでいいのかい?
アンリは××(聞き取れない)なんだから、××××しなさい?」
「オーギュスト……君、酔ってる?」
「え? そうかな?」
「五分程前から気になってたんだけど。
一文の中で、英語とイタリア語を混在させるの止めて貰えない?」
『ドルチェ』は知っている。イタリア語でデザートという意味だ。
だが、他のイタリア単語は聞き取れなかった。
「おや。すまない。少し飲み過ぎてしまったのかな?
ちなみに今のはね、『デザートはひとつでいいのかい?
アンリは若いんだから、たくさん食べなさい?』と言いたかったんだ」
「二個も三個も食べないよ」
「そうかい? では私が頼んでもいいかな?
アンリがあんまり美味しそうにジェラートを食べるものだから、
私も甘いものが食べたくなってきてしまったよ」
「勝手にすれば」
彼はウエイターを呼んで、イタリア語で何かをオーダーした。
ウエイターが消えたあとで、僕は尋ねた。
「何を頼んだの?」
「シチリアを代表する伝統菓子、カンノーロだよ。アンリはまだ食べたことがなかったかい?
円筒状に巻いた生地の中に、リコッタチーズのクリームを詰めた揚げ菓子なんだ」
後に、ウエイターが持ってきたのは、僕がジェラートと迷ったメニューだった。
聖アルフォンソ島にある『キングズフィンガー』に似た形のお菓子。
確かメニューにはカンノーリと書いてあった筈だが。
「ああ、複数形ではカンノーリと言うんだよ。さて。物は相談だがね、アンリ」
オーギュストは何を思ったのか、その皿を僕に押しやった。
「残念ながら、もうお腹いっぱいになってしまってね。残すのは申し訳ないし。
すまないが、私の代わりに食べて貰えるかい、アンリ」
「……仕方ないな」
皿の上のカンノーロを見下ろす。キツネ色に揚がった筒型の菓子。
表面には真っ白な粉砂糖が降り懸かっている。
生地の中には白いクリームと、黄色いオレンジピールも見えた。
食べ辛そうだ。フォークで刺すには太くて固そうな気がする。
「これ、どうやって食べるの?」
「カンノーロは、手で持って食べていいんだよ?」
手で持って食べるのは、少し抵抗があったけれど、目の前に居るのは商談相手でもないし。
手に取ってみる。やはり太くて持ち辛いので両手で持った。
手前のほうから、少しだけ咥えるようにして、口に入れた。
生地は思ったより固くて、サクサクというよりはザクザクとした食感。パイに近い味がした。
その中に入っていたクリームは思ったより甘い。嫌いじゃない甘さだ。
もう一口頬張る。先から白いクリームが零れ落ちそうになったので、舌で舐めとった。
僕が顔を上げると、オーギュストと目が合った。
カンノーロを食べる僕を見て、彼は微笑んでいた。
「初めての、カンノーロのお味はどうかな?」
「……悪くはないけれど」
オーギュストは笑顔を見せる。
「良かったね」
その時の笑顔が、あまりにも幸せそうに見えたので、僕はなんだかむかついた。
→
パレルモ市内のホテル。今夜はここで一泊する。
夕食の為にまたどこかに行くのは面倒だったから、
ホテルの最上階にあるレストランで済ませることにした。
客の入りは少なく、僕達の他には三組程度。
それぞれ離れた位置のテーブルに着いているから、互いの会話は聞こえない。
店内には会話の邪魔にならない程度にピアノの楽曲が流れている。知らない曲だ。
シチリアは何かと暑苦しい土地だけれど、
眩しい太陽と地中海の恵みのおかげで、料理の味は悪くない。
アンティパスト(イタリア語で前菜)に出てきたサラダでさえも悪くはなかった。
プリモ・ピアット(イタリア語で第一の皿)に僕が頼んだのは、アンチョビのクリームパスタ。
パレルモは地中海に面した港町だけに魚介類のメニューは豊富だ。
このアンチョビもパレルモ産。塩味が効いたアンチョビがクリーミーなソースと合っている。
シチリアの料理に文句はない。けれど、シチリアの人間には文句がある。大いに。
「どうしてイタリアーノって、ああなんだろう」
今思い出しても理解に苦しむ。
「商談の最中くらいは、母親の料理自慢を止めて貰いたいよ」
「確かにね」
オーギュストは淡い黄金色のスパークリングワインを飲みながら、僕の話に相槌を打っている。
イタリアでは発泡性のワインをスプマンテと呼ぶらしい。
ワインボトルには天使の絵が描かれていた。
彼がワインの供にしているのは、カプレーゼという料理だ。
バジルの葉、モッツァレラチーズ、トマトを交互に並べ、
エクストラバージンオリーブオイルと塩コショウで味付けただけのシンプルな料理だが、
一皿の上で緑、白、赤と国旗を再現しているイタリアの代表料理であり、
シチリアの太陽を浴びた素材の味をそのまま楽しめる。
何よりワインによく合う、らしい。オーギュスト曰く。
フィオラノは離れたテーブルに居る。
引き続き僕の護衛中、という名目でホテルディナーを食しているだけだ。
僕の後方に居るから、今は彼の姿が見えないが、多分、皿ばかり見ているだろう。
僕が商談で島の外に出た時、食事はいつも一人でとっていた。
でも、今回はオーギュストが居る。
「で、僕が家族自慢を聞かされている間、オーギュはどこを観光してたの?」
「パレルモの旧市街に居たよ。アンリと一緒に行ったカタコンベと同じ地区なんだがね」
「地下墓地の近くまで戻ったの? さすが物好きだね、ボージェ教授」
「あの辺りは古い宮殿や教会が残っていて、
アラブ・ノルマン様式の美しい建築が今も拝見できる貴重な土地だから、
ただ歩いているだけで、懐かしい気分になれるし」
「懐かしい?」
「ああ、なんとなく、気分的にね? それから、市場があったから、ぶらぶら見ていたかな。
そのあとは、雰囲気の良いカフェを見つけてね?
美味しいコーヒーを頂きながら、一時間程のんびりさせて貰ったよ」
「一時間? 観光したいって言ってたくせに、随分、無計画な観光だったようだね?
しかも、大半はカフェに居たなんて」
「カフェからも旧市街の美しい街並みは見られたからね。
そう言えば、アンリはパレルモの起源を知っているのかな?」
「知らないよ、そんなの」
「紀元前8世紀まで遡るんだ。古代、フェニキア人によって開拓され、
その後、入植したギリシャ人にパノルムス、『全てが港』と呼ばれたことが、
由来になっているんだ。パレルモは今も少し歩けば海に出る港町だろう?」
オーギュストが窓の外を見る。パレルモの夜景は大人しい。
その向こうには暗く、広大な海が広がっている。
「パレルモを含めシチリアという土地は、
様々な国によって支配されてきた、屈辱の歴史を持っている。
紀元前、ポエニ戦争でローマの支配下に置かれたことを始め、
イスラムやフランス、スペインやオーストリアの手に落ちたこともあったから」
相変わらず理屈っぽい話し方。教室に居るような錯覚を覚える。
今日一日で、オーギュストからイタリアに関する知識を随分植え付けられた。
静寂のディナータイムが与えられる貴重な機会なのに、授業中みたいだ。
「旧市街の散策は、感慨深いものがあったよ、本当に。
連れてきてくれてありがとう、アンリ。良い観光ができたよ」
そうやってオーギュストは僕にお礼を言った。
そんなこと、言われる筋合いは無い。彼が勝手に付いてきただけなのだから。
教師のくせに。どうして僕に付いていたんだろう。
「ああ、そうだ」
オーギュストがスーツのポケットに手を入れる。
「アンリにお土産があるんだよ? はい」
差し出された手には、黒革の袋が乗っていた。
スウェード状の布で作られた、口を紐で締めるタイプの小さな袋だ。
とりあえず彼の手の上から、それを取って、黒い紐を引いてみる。
黒い革袋から出てきたのは薄い紫色をしたガラス玉のような物だった。
「アメジストだよ。紫水晶とも言うね」
透き通った紫。嫌じゃない色だ。見ていると、気持ちが落ち着く。
「紫は神秘的な力を高める色とされ、災いや邪霊を祓うと信じられてきた」
邪霊。ああ、またオカルトなことを言い出した。
「古代エジプト時代から、護符、つまりお守りとして、
重用されてきた石でね。旧市街の市場で見つけたんだ」
「市場で? 説得力が薄れるね」
僕が一蹴すると、彼は不敵な微笑を見せた。
「そう、思うだろう?」
神秘学の権威は、両手の指を絡めて話し始めた。
「野菜や果物が並ぶ市場の中で、一件だけ妖しげな雰囲気の露店があったんだ。
アクセサリーやお土産用のキーホルダーなどを売っているお店だった。
その一角にパワーストーンの類が雑多に置かれていて」
人差し指を立てる。
「ひとつだけ、その中に混ざっていたんだよ。見たところ、イミテーションでもなかった。
何故、こんなに見事な物がここにあるのか、私も不思議に思ったよ。
その石を見た時、なんだか、アンリを守ってくれる気がしてね」
「僕を?」
「うん。だから、アンリに」
どうして。
「きっと、アンリを守ってくれるよ」
どうしてこの大人は、僕にこんなものをくれるのだろう。
デザートが出てきた頃、オーギュストが可笑しな芸当を見せた。ある意味、器用な。
「ああ、ドルチェが来たよ、アンリ」
デザートに僕が選んだのはリモーネのジェラート。レモンのアイスクリームのことだ。
シチリアの柑橘類は有名だから、イタリア国外でも手に入るけれど、
この味が出せるのは現地のリモーネだけのような気がする。
ジェラートの柔らかい感触を舌で感じたくて、口の中でスプーンを裏向きにする。
普通のアイスクリームとは違う、まろやかな舌触り。
冷たくて甘酸っぱいレモンが、シュワと舌の上で溶けるかんじが心地好い。
さっぱりとした後味と爽やかな香りが口内に残った。
「そう言えば、ドルチェはひとつでいいのかい?
アンリは××(聞き取れない)なんだから、××××しなさい?」
「オーギュスト……君、酔ってる?」
「え? そうかな?」
「五分程前から気になってたんだけど。
一文の中で、英語とイタリア語を混在させるの止めて貰えない?」
『ドルチェ』は知っている。イタリア語でデザートという意味だ。
だが、他のイタリア単語は聞き取れなかった。
「おや。すまない。少し飲み過ぎてしまったのかな?
ちなみに今のはね、『デザートはひとつでいいのかい?
アンリは若いんだから、たくさん食べなさい?』と言いたかったんだ」
「二個も三個も食べないよ」
「そうかい? では私が頼んでもいいかな?
アンリがあんまり美味しそうにジェラートを食べるものだから、
私も甘いものが食べたくなってきてしまったよ」
「勝手にすれば」
彼はウエイターを呼んで、イタリア語で何かをオーダーした。
ウエイターが消えたあとで、僕は尋ねた。
「何を頼んだの?」
「シチリアを代表する伝統菓子、カンノーロだよ。アンリはまだ食べたことがなかったかい?
円筒状に巻いた生地の中に、リコッタチーズのクリームを詰めた揚げ菓子なんだ」
後に、ウエイターが持ってきたのは、僕がジェラートと迷ったメニューだった。
聖アルフォンソ島にある『キングズフィンガー』に似た形のお菓子。
確かメニューにはカンノーリと書いてあった筈だが。
「ああ、複数形ではカンノーリと言うんだよ。さて。物は相談だがね、アンリ」
オーギュストは何を思ったのか、その皿を僕に押しやった。
「残念ながら、もうお腹いっぱいになってしまってね。残すのは申し訳ないし。
すまないが、私の代わりに食べて貰えるかい、アンリ」
「……仕方ないな」
皿の上のカンノーロを見下ろす。キツネ色に揚がった筒型の菓子。
表面には真っ白な粉砂糖が降り懸かっている。
生地の中には白いクリームと、黄色いオレンジピールも見えた。
食べ辛そうだ。フォークで刺すには太くて固そうな気がする。
「これ、どうやって食べるの?」
「カンノーロは、手で持って食べていいんだよ?」
手で持って食べるのは、少し抵抗があったけれど、目の前に居るのは商談相手でもないし。
手に取ってみる。やはり太くて持ち辛いので両手で持った。
手前のほうから、少しだけ咥えるようにして、口に入れた。
生地は思ったより固くて、サクサクというよりはザクザクとした食感。パイに近い味がした。
その中に入っていたクリームは思ったより甘い。嫌いじゃない甘さだ。
もう一口頬張る。先から白いクリームが零れ落ちそうになったので、舌で舐めとった。
僕が顔を上げると、オーギュストと目が合った。
カンノーロを食べる僕を見て、彼は微笑んでいた。
「初めての、カンノーロのお味はどうかな?」
「……悪くはないけれど」
オーギュストは笑顔を見せる。
「良かったね」
その時の笑顔が、あまりにも幸せそうに見えたので、僕はなんだかむかついた。
→
■ミイラの神秘02 続編
●03 「チャチな犯罪は許せませんからね」
「ああ、ちょっと待ってくれるかい、アンリ」
“ミイラ屋敷”から離れようとすると、オーギュストに呼び止められた。
彼はカタコンベに隣接する土産屋の前に居た。
「教材になりそうだから、少し見て行きたいんだ」
「教材?」僕はゆっくり引き返す。「君の趣味でしょ」
土産屋にはミイラグッズが並んでいた。
オーギュストはポストカードコーナーの前で、どれを持って帰ろうか吟味している。
選ばれたポストカードは、のちに神秘学の授業で再会することになるのかもしれない。
フィオラノは先程「どうぞごゆっくり」と言って、僕達から少し離れた。
今は土産屋の前で煙草を取り出し、一服している。
「アンリは何か買わなくていいのかい? お友達に」
オーギュストは既に三枚のポストカードを手にしている。
「そんなの買ったら、ただの嫌がらせでしょう」
「アンリからのお土産だったらみんなも喜んでくれるんじゃないのかい? 珍しいものだし」
「ミイラの写真をお土産にして、喜ぶのは君くらいだよ」
そう言った後で、ウーティス寮には、お調子者のオカルトマニアが居ることを思い出した。
彼なら喜ぶかもしれない。ボロボロのドレスを着せられた白骨死体の写真でも。
「おや? アンリ、買わないのかい?」
「うん。煩くなりそうだから」
ミイラグッズを何点も購入したオカルトマニアと土産屋を出る。
「で、何を買ったの?」
「ん? ポストカードを六枚と、本と、それから」
オーギュストが誰かにぶつかった。
「ああ、すみません、マダム。お怪我はありませんか?」
オーギュストが老婆に謝っていた。
「大丈夫ですよ。私のほうこそごめんなさいね」
彼女の隣には老父が居る。先程、カタコンベの中に居たセレブリティの老夫婦だ。
「親子でカタコンベ見学にいらしたんですか?」
老婆は僕とオーギュストを見て、そう言った。目が悪いらしい。
オーギュストが微笑を浮かべながら、僕の隣に立つ。
「ええ。この子がどうしてもここに寄りたいと言うので」
酷い言いがかりだ。僕はオーギュストのジャケットの裾を引っ張る。
「ちょっと」
「教師と生徒だと言うつもりかい?」
オーギュストはフランス語に切り替えて僕だけに囁く。
「学校の名前も出せないし、ここは親子というのが一番自然な設定だと思わないかね?」
老婆が首を傾げている。
「どうか、なさいました?」
「ああ、いえ。親子と言われたのは初めてだねと話していただけです」
「あら? 違いましたか? 似ていらっしゃるから、私、てっきり」
「間違いではありませんよ、マダム。私達は血が繋がっていますが、
ただ、見た目で親子と言い当てられたことは、あまりなかったもので」
「そうでしたの? お綺麗なお顔立ちで、利発な目許なんか、そっくりですのにねえ。
あら、そう言えば奥様の姿が見えないようですが?」
老父が冗談めかして、
「奥さんはミイラ見学を嫌がって、ショッピングでもしているんじゃろう?」
オーギュストは少しだけ表情を曇らせて、
「妻も一緒に旅行ができたら良かったんですが。
彼女は元々身体が弱く、この子を生んですぐに」
老婆は、はっとする。
「あらあら。どうしましょう。そうだったの」
ごめんなさいね、老婆は僕に向かって謝った。オーギュストが対応する。
「いいえ。どうかお気になさらず、マダム。
天国に居ても、彼女がこの子を愛していることに変わりはありません」
「そうね、そうですとも」
力強く肯定した。
「それではワシらはこれで。お二人も良い旅を」
老父に促されて、老婆は僕達に一礼したあと、土産屋を出ていった。
彼女の後ろ姿は、少し腰が前方に曲がっていた。
「役者だね、オーギュ?」
老夫婦の背中を眺めながら、僕は言った。
「どこかのハリウッドスターより演技が自然なくらいだ」
「そんな。プロフェッショナルには遠く及ばないよ」
「お土産は買えましたかい?」
煙草を携帯灰皿に押し込み、フィオラノが僕達の側に寄ってきた。
「うん。ありがとう、それではそろそろ行こうか」
「へい」
僕達は駐車場に向かって歩き出す。僕は先程の仕返しのつもりで言った。
「ねえ、パパ? 僕、喉が渇いたから、どこかでアイスティー買ってきてくれない?」
「甘えん坊さんだね、アンリは」
オーギュストは笑ってた。
「でも、あんまりパパを顎で使うものではないよ?」
「パパって飲み物を買ってきてくれる人のことかと思ってた」
「ははは。ちょっと育て方を間違えてしまったかな?
フィオラノ君、この辺でアイスティーが買えるところはあるのかな?」
「えーと、自販機くらいなら教会にもあるとは思いやすが」
駐車場へ向かう途中、僕達の前方を歩いていた先程の老婆に通行人の男がぶつかった。
その直後、僕は見た。男が老婆のバッグから財布を抜き取る瞬間を。
男は悠々と歩き、澄ました顔で右の道に曲がっていく。
「フィオラノ」
「へい」
僕の号令で彼はすぐに走り出した。同じ瞬間を見ていたのだろう。
フィオラノはスリ男に追い付くと、その背後に立ち、何事か囁いていた。
すると、男は足を止め、財布をフィオラノに渡した。
素早く受け取ったフィオラノは、もう一言囁いて、スリ男を逃がした。
そのあとフィオラノは来た道を戻り、老婆を追いかけた。
「おばあちゃーん、落とし物ですよー」
振り返ったマダムに、フィオラノが追い付く。
財布を手渡す横顔は、本当にただの好青年にしか見えなかった。
老婆がフィオラノに頭を何度も下げている。目の前に居る若者がマフィアだとも知らずに。
「お待たせしやした、アンリさん」
好青年が帰ってきた。
「ご苦労様」
「いえいえ。スリなんてチャチな犯罪は許せませんからね」
「チャチ、ね」
「アンリさんに先生も、スリには充分気を付けて下さいね?
自分もお二人の周りは気を付けて見てますが、
この辺は観光地なんで、夜は特に危ないですから。
ええと、その辺でアイスティーを買ってから、車に乗りやしょうか」
→
「ああ、ちょっと待ってくれるかい、アンリ」
“ミイラ屋敷”から離れようとすると、オーギュストに呼び止められた。
彼はカタコンベに隣接する土産屋の前に居た。
「教材になりそうだから、少し見て行きたいんだ」
「教材?」僕はゆっくり引き返す。「君の趣味でしょ」
土産屋にはミイラグッズが並んでいた。
オーギュストはポストカードコーナーの前で、どれを持って帰ろうか吟味している。
選ばれたポストカードは、のちに神秘学の授業で再会することになるのかもしれない。
フィオラノは先程「どうぞごゆっくり」と言って、僕達から少し離れた。
今は土産屋の前で煙草を取り出し、一服している。
「アンリは何か買わなくていいのかい? お友達に」
オーギュストは既に三枚のポストカードを手にしている。
「そんなの買ったら、ただの嫌がらせでしょう」
「アンリからのお土産だったらみんなも喜んでくれるんじゃないのかい? 珍しいものだし」
「ミイラの写真をお土産にして、喜ぶのは君くらいだよ」
そう言った後で、ウーティス寮には、お調子者のオカルトマニアが居ることを思い出した。
彼なら喜ぶかもしれない。ボロボロのドレスを着せられた白骨死体の写真でも。
「おや? アンリ、買わないのかい?」
「うん。煩くなりそうだから」
ミイラグッズを何点も購入したオカルトマニアと土産屋を出る。
「で、何を買ったの?」
「ん? ポストカードを六枚と、本と、それから」
オーギュストが誰かにぶつかった。
「ああ、すみません、マダム。お怪我はありませんか?」
オーギュストが老婆に謝っていた。
「大丈夫ですよ。私のほうこそごめんなさいね」
彼女の隣には老父が居る。先程、カタコンベの中に居たセレブリティの老夫婦だ。
「親子でカタコンベ見学にいらしたんですか?」
老婆は僕とオーギュストを見て、そう言った。目が悪いらしい。
オーギュストが微笑を浮かべながら、僕の隣に立つ。
「ええ。この子がどうしてもここに寄りたいと言うので」
酷い言いがかりだ。僕はオーギュストのジャケットの裾を引っ張る。
「ちょっと」
「教師と生徒だと言うつもりかい?」
オーギュストはフランス語に切り替えて僕だけに囁く。
「学校の名前も出せないし、ここは親子というのが一番自然な設定だと思わないかね?」
老婆が首を傾げている。
「どうか、なさいました?」
「ああ、いえ。親子と言われたのは初めてだねと話していただけです」
「あら? 違いましたか? 似ていらっしゃるから、私、てっきり」
「間違いではありませんよ、マダム。私達は血が繋がっていますが、
ただ、見た目で親子と言い当てられたことは、あまりなかったもので」
「そうでしたの? お綺麗なお顔立ちで、利発な目許なんか、そっくりですのにねえ。
あら、そう言えば奥様の姿が見えないようですが?」
老父が冗談めかして、
「奥さんはミイラ見学を嫌がって、ショッピングでもしているんじゃろう?」
オーギュストは少しだけ表情を曇らせて、
「妻も一緒に旅行ができたら良かったんですが。
彼女は元々身体が弱く、この子を生んですぐに」
老婆は、はっとする。
「あらあら。どうしましょう。そうだったの」
ごめんなさいね、老婆は僕に向かって謝った。オーギュストが対応する。
「いいえ。どうかお気になさらず、マダム。
天国に居ても、彼女がこの子を愛していることに変わりはありません」
「そうね、そうですとも」
力強く肯定した。
「それではワシらはこれで。お二人も良い旅を」
老父に促されて、老婆は僕達に一礼したあと、土産屋を出ていった。
彼女の後ろ姿は、少し腰が前方に曲がっていた。
「役者だね、オーギュ?」
老夫婦の背中を眺めながら、僕は言った。
「どこかのハリウッドスターより演技が自然なくらいだ」
「そんな。プロフェッショナルには遠く及ばないよ」
「お土産は買えましたかい?」
煙草を携帯灰皿に押し込み、フィオラノが僕達の側に寄ってきた。
「うん。ありがとう、それではそろそろ行こうか」
「へい」
僕達は駐車場に向かって歩き出す。僕は先程の仕返しのつもりで言った。
「ねえ、パパ? 僕、喉が渇いたから、どこかでアイスティー買ってきてくれない?」
「甘えん坊さんだね、アンリは」
オーギュストは笑ってた。
「でも、あんまりパパを顎で使うものではないよ?」
「パパって飲み物を買ってきてくれる人のことかと思ってた」
「ははは。ちょっと育て方を間違えてしまったかな?
フィオラノ君、この辺でアイスティーが買えるところはあるのかな?」
「えーと、自販機くらいなら教会にもあるとは思いやすが」
駐車場へ向かう途中、僕達の前方を歩いていた先程の老婆に通行人の男がぶつかった。
その直後、僕は見た。男が老婆のバッグから財布を抜き取る瞬間を。
男は悠々と歩き、澄ました顔で右の道に曲がっていく。
「フィオラノ」
「へい」
僕の号令で彼はすぐに走り出した。同じ瞬間を見ていたのだろう。
フィオラノはスリ男に追い付くと、その背後に立ち、何事か囁いていた。
すると、男は足を止め、財布をフィオラノに渡した。
素早く受け取ったフィオラノは、もう一言囁いて、スリ男を逃がした。
そのあとフィオラノは来た道を戻り、老婆を追いかけた。
「おばあちゃーん、落とし物ですよー」
振り返ったマダムに、フィオラノが追い付く。
財布を手渡す横顔は、本当にただの好青年にしか見えなかった。
老婆がフィオラノに頭を何度も下げている。目の前に居る若者がマフィアだとも知らずに。
「お待たせしやした、アンリさん」
好青年が帰ってきた。
「ご苦労様」
「いえいえ。スリなんてチャチな犯罪は許せませんからね」
「チャチ、ね」
「アンリさんに先生も、スリには充分気を付けて下さいね?
自分もお二人の周りは気を付けて見てますが、
この辺は観光地なんで、夜は特に危ないですから。
ええと、その辺でアイスティーを買ってから、車に乗りやしょうか」
→
■ミイラの神秘01 続編
●02 「やはりミイラは怖かったかい?」
「ここ、撮影禁止なんだよね?」
若い女性の声がした。似たような服装をした女性三人組。
「うん。禁止って書いてあったね」
「撮影できたら、ミイラの写真撮ってブログに載せるのになー」
「入り口にあったお土産屋さんに、ポストカード売ってたから、それ買ってアップすれば?」
「あっ、そっかー。そうしよっ」
話している言語は三人ともフランス語だった。
イタリア旅行のついでに、ミイラ見学に来たのだろうか。
もっと他に見るところがあるだろうに。物好きなことだ。
「ねえ。でも、あの人、デジカメで撮影してない?」
「うそっ。あ、ホントだっ」
「えー。ズルーイ!」
彼女達が指を差しているのは一人の男性。僕達以外にも見学者は何組も居たが、
一番目につくのが、あの20代くらいの眼鏡をかけた、アジア顔の男だ。
彼は、先程から誰より熱心にミイラを観察している。
首から下げているデジタルカメラで時折撮影するかと思えば、
片手に持っている本をペラペラと捲ったりして、忙しい人だ。
彼は間違いなく誰かと同類のオカルトマニアだろう。
本の表紙にミイラの写真が幾つも見えたから。
本に載っている写真と同じミイラが目の前にあることで、
両者を見比べて恍惚としているのだろう。
僕の隣に居るオカルトマニアが呟く。
「微笑ましいね。彼とは朝まで語り合えそうだ」
別に微笑ましくはない。
「すみませーん。お兄さん、ここ、撮影禁止ですよー?」
先程の女性三人組のうちの一人が、
ごく簡単な英語を使って、噛みついていた。正義感の強いことだ。
注意されたほうの男性は大層驚いていた。
見るからに臆病そうな彼は、困った様子で、もごもごと何か話した。
だが、その言語は英語でもフランス語でもなかった。
「何て言ってるか解んなーい。えっとー、もう一回言って貰えますかー?」
「失礼」
僕の隣に居た筈のオーギュストが、彼等の間に入っていった。
女性に対してフランス語で話しかける。
「お嬢さん? 入り口で100ユーロを修道院に寄付すると、撮影許可が頂けるそうですよ?」
「あ、そうだったんですか?」
「ええ。彼はそう言っています。横から余計な口出しをして、すみません」
「いいえ。ありがとうございますっ。おかげで解りました。あ、お兄さんも、ごめんねっ」
男性は「はあ……」といったかんじで軽く頭を下げる。
「でも、100ユーロは高いよねー。どうするー? 今から戻って払ってくる?」
「うーん。じゃあ、ゴメンッ。戻ってもいいかな?
こんなにたくさんのミイラって、ここでしか撮れないし」
「良いよ。まだ入り口まで近いし」
「じゃあ戻りますかー」
三人組が経路を逆走していく。おかげでやっと辺りが静かになった。
オーギュストが僕の隣に戻ってくる。
「すまない。待たせてしまったね」
「君って、ほんとお節介」
教師は微笑む。
「性分なものだから」
「ちなみに、今の、何語だったの?」
「韓国語だよ?」
「へえ。韓国語もお分かりになるんで!?」
フィオラノが大袈裟に驚いている。
「こりゃあ参りましたっ。歩く電子辞書ですねえ」
今日だけでオーギュストが口にした言語はこれで4つ目。
英語、イタリア語、フランス語、そして韓国語まで。
彼が話せる言語数から見れば、これでも氷山の一角に過ぎないのだろうが。
「さあ、次のコーナーに行こうか」
オーギュストが歩き出す。その背中を見ながら、僕はふと思った。
彼の言語力を生かせる仕事は、もっと他にある筈だ。
どうして彼は、孤島の学校で神秘学の講師なんかやっているんだろう。
僕達は順路通りに歩いていった。
ミイラは一応、職業別とか、女性だけとか、ジャンル別に安置されているそうだが、
ミイラのある光景が延々と続くことに変わりはない。
「まあ、こちらのお二人は、まるで仲良く語らっているみたいに見えません?」
そう言ったのは、60代くらいの女性だった。
彼女の前には、男性の衣服を着用したミイラと、
女性の衣服を着用したミイラが寄り添って安置されていた。
「ああ、本当じゃ。生前はワシらみたいな夫婦だったのかもしれないなあ」
ハットを被ったご老人。右腕に高級ブランドの腕時計がチラリと見えた。
よく見ると、二人とも身なりが良い。セレブリティの老夫婦のようだ。
余りある時間と資産を消化する為に贅沢な旅行でもしているのだろうか。
ご婦人はミイラの夫婦を見上げながら、
「最初はミイラなんて恐ろしいと思いましたけど、
一日でこんなにたくさん見てしまったら、なんだか愛着と言うのかしら?
だんだんミイラの皆さんが可愛らしく見えてきましたわ。
元は同じ人間ですし、私達もいずれ死ぬんだもの。ねえ?」
「そうだね。カプチン会は他のカタコンベと違って、
ミイラを見せ物にしているわけじゃない。
死者を前にすることで、自分の生を省みる。それを目的としているんだ」
「そう。死んでからもお勤めしているのね。立派だわ。
素敵なお洋服を着て、大切に保存されて、幸せなことね。
それに比べて、私はどうかしら。もうこの年じゃ他人様のお役にも立てないし」
「何を言っているんだい。ワシの傍に居てくれるじゃないか。
こんな老いぼれになるまで見捨てないでくれて、充分じゃよ」
「まあまあ、どうしたんですか、あなたったら。急にそんな」
「いやいや。この夫婦のミイラを見ていたら、今言っておかなくちゃいかんと思ってな。
いつか、ワシが先に天国に召されても、お前が来るまで、ちゃんと待っとるからな」
「あらあら、そんなこと。どうしましょう」
「お、おい。泣かんでもいいだろう。ほら、これで涙を拭いて」
「すみません、私、嬉しくって」
老婆はハンカチで目許を押さえていた。
今度は若い二人組と擦れ違った。手を繋いでいる。
花柄の白いロングスカートの女性が、
「ほんと美少女だったね。ミイラとは思えない」
と言うと、チョコレート色のレザージャケットを着た連れが、
「ロザリアより君のほうが綺麗だよ?」
「やだ。こんなところで言わないで」
「本当なのに」
二人は出口に向かったようだ。清々する。僕は連れのイタリアーノに尋ねた。
「ねえ。イタリアでは地下墓地はデートスポットなの?」
「愛する人が居れば、そこがデートスポットになる。そういうものだよ、アンリ」
オーギュストに答えられた。
「あっそう。さっさと地上に戻りたくなってきたな」
「やはりミイラは怖かったかい? だから手を繋いであげると言ったのに」
「怖くない」
「さあ、アンリさん。あの奥にある棺が、お待ちかねのロザリアちゃんですよ」
小さな棺。その中に少女の遺体があった。
今まで見てきた白骨死体とは別格の保存状態。まるで精巧に作られた人形のようだ。
目を閉じた少女が、ブランケットにくるまっている。
豊かなセミロングヘアに飾られた大きなリボンを含め、
遺体全体がセピアで色であることを除けば、ただ眠っているだけのようにも見える。
少女らしくふっくらとした頬、髪や睫毛の一本一本まで、腐敗することなく残っていた。
「こちらがロザリア・ロンバルド嬢」
オーギュストが僕の隣に立つ。
「1920年、肺炎の為、2歳でこの世を去った少女だよ」
神秘学担当教師は少女について、次のように解説した。
「父親のロンバルド将軍は、我が子の早過ぎる死を嘆き悲しんだ。
そして、イタリアいち優秀な死体防腐処理師、
アルフレッド・サラフィア氏に娘の遺体保存を依頼した。
彼の手によってロザリア嬢は、まるで眠っているかのような永久遺体となった。
どのような手法を使ったのか、誰にも明かさずに死体防腐処理師が亡くなった為、
何故、ロザリア嬢だけが腐敗せずにいられるのか、長い間、謎だったんだ」
「もう謎ではないということ?」
「うん。2009年、イタリアの生物人類学者やサラフィア氏の遺族によって、
生前にサラフィア氏が残したと思われる、ノートが見つかるんだ。
それには、ロザリア嬢の美しさを可能にしたと思われる薬品の名前が綴られていた。
ホルマリン、グリセリン、塩化亜鉛、アルコール、サリチル酸、とね」
「ホルマリンって、化学室にあるカエルとかネズミに使っている、あの液体?」
「うん。ホルマリン漬けなどと呼ばれて、現在も標本の保存液として使われているが、
サラフィア氏が初めて、遺体保存にホルマリンを使用した人物だそうだよ。
最後に、蝋燭などの原料であるパラフィンを頬に注入して、
ロザリア嬢は世界一美しいミイラになったと言われているんだ。
だが、詳細な調合方法は不明だから、第二のロザリア嬢を作り出すのは難しいだろうね」
僕は棺の中の少女から目を離せないでいた。
世界最高レベルの保存状態でも、死体は死体でしかない。
いくら待ってもあの瞼が再び開くことはなく、
どんなに近付いても寝息は聞こえないのだろう。
「どうかな、アンリ。ロザリア嬢の感想は?」
「綺麗、だとは思う」
「うん」
「けれど、僕なら御免だね。死んだあとまで美しいだとか言われて見せ物にされるのは。
自分の死体を不特定多数の目に晒されるなんて、ぞっとしないよ。それに」
セピア色に染められた彼女の顔。
「僕には、彼女が泣いているように見える」
安らかな表情には、とても見えなかった。きっと彼女は望んでない、こんな死を。
ポンと僕の頭に手が置かれた。オーギュストの手だ。
「優しい子だ。そして、賢い。誇らしいよ、その聡明さが」
オーギュストは微笑んでいるのに、彼もどこか泣いているような顔をしていた。
「ああ、眩しいですねえ」
フィオラノが明るい笑顔を見せる。
「やっぱりシチリアには太陽がなくっちゃ」
階段を上り、地上に戻ってきた。
出口に光が差している。生の世界に戻ってきたように感じた。
僕は一度だけ後ろを振り返る。
暗い階段。あの下に広がっていたのは、生と死の狭間だったのかもしれない。
→
「ここ、撮影禁止なんだよね?」
若い女性の声がした。似たような服装をした女性三人組。
「うん。禁止って書いてあったね」
「撮影できたら、ミイラの写真撮ってブログに載せるのになー」
「入り口にあったお土産屋さんに、ポストカード売ってたから、それ買ってアップすれば?」
「あっ、そっかー。そうしよっ」
話している言語は三人ともフランス語だった。
イタリア旅行のついでに、ミイラ見学に来たのだろうか。
もっと他に見るところがあるだろうに。物好きなことだ。
「ねえ。でも、あの人、デジカメで撮影してない?」
「うそっ。あ、ホントだっ」
「えー。ズルーイ!」
彼女達が指を差しているのは一人の男性。僕達以外にも見学者は何組も居たが、
一番目につくのが、あの20代くらいの眼鏡をかけた、アジア顔の男だ。
彼は、先程から誰より熱心にミイラを観察している。
首から下げているデジタルカメラで時折撮影するかと思えば、
片手に持っている本をペラペラと捲ったりして、忙しい人だ。
彼は間違いなく誰かと同類のオカルトマニアだろう。
本の表紙にミイラの写真が幾つも見えたから。
本に載っている写真と同じミイラが目の前にあることで、
両者を見比べて恍惚としているのだろう。
僕の隣に居るオカルトマニアが呟く。
「微笑ましいね。彼とは朝まで語り合えそうだ」
別に微笑ましくはない。
「すみませーん。お兄さん、ここ、撮影禁止ですよー?」
先程の女性三人組のうちの一人が、
ごく簡単な英語を使って、噛みついていた。正義感の強いことだ。
注意されたほうの男性は大層驚いていた。
見るからに臆病そうな彼は、困った様子で、もごもごと何か話した。
だが、その言語は英語でもフランス語でもなかった。
「何て言ってるか解んなーい。えっとー、もう一回言って貰えますかー?」
「失礼」
僕の隣に居た筈のオーギュストが、彼等の間に入っていった。
女性に対してフランス語で話しかける。
「お嬢さん? 入り口で100ユーロを修道院に寄付すると、撮影許可が頂けるそうですよ?」
「あ、そうだったんですか?」
「ええ。彼はそう言っています。横から余計な口出しをして、すみません」
「いいえ。ありがとうございますっ。おかげで解りました。あ、お兄さんも、ごめんねっ」
男性は「はあ……」といったかんじで軽く頭を下げる。
「でも、100ユーロは高いよねー。どうするー? 今から戻って払ってくる?」
「うーん。じゃあ、ゴメンッ。戻ってもいいかな?
こんなにたくさんのミイラって、ここでしか撮れないし」
「良いよ。まだ入り口まで近いし」
「じゃあ戻りますかー」
三人組が経路を逆走していく。おかげでやっと辺りが静かになった。
オーギュストが僕の隣に戻ってくる。
「すまない。待たせてしまったね」
「君って、ほんとお節介」
教師は微笑む。
「性分なものだから」
「ちなみに、今の、何語だったの?」
「韓国語だよ?」
「へえ。韓国語もお分かりになるんで!?」
フィオラノが大袈裟に驚いている。
「こりゃあ参りましたっ。歩く電子辞書ですねえ」
今日だけでオーギュストが口にした言語はこれで4つ目。
英語、イタリア語、フランス語、そして韓国語まで。
彼が話せる言語数から見れば、これでも氷山の一角に過ぎないのだろうが。
「さあ、次のコーナーに行こうか」
オーギュストが歩き出す。その背中を見ながら、僕はふと思った。
彼の言語力を生かせる仕事は、もっと他にある筈だ。
どうして彼は、孤島の学校で神秘学の講師なんかやっているんだろう。
僕達は順路通りに歩いていった。
ミイラは一応、職業別とか、女性だけとか、ジャンル別に安置されているそうだが、
ミイラのある光景が延々と続くことに変わりはない。
「まあ、こちらのお二人は、まるで仲良く語らっているみたいに見えません?」
そう言ったのは、60代くらいの女性だった。
彼女の前には、男性の衣服を着用したミイラと、
女性の衣服を着用したミイラが寄り添って安置されていた。
「ああ、本当じゃ。生前はワシらみたいな夫婦だったのかもしれないなあ」
ハットを被ったご老人。右腕に高級ブランドの腕時計がチラリと見えた。
よく見ると、二人とも身なりが良い。セレブリティの老夫婦のようだ。
余りある時間と資産を消化する為に贅沢な旅行でもしているのだろうか。
ご婦人はミイラの夫婦を見上げながら、
「最初はミイラなんて恐ろしいと思いましたけど、
一日でこんなにたくさん見てしまったら、なんだか愛着と言うのかしら?
だんだんミイラの皆さんが可愛らしく見えてきましたわ。
元は同じ人間ですし、私達もいずれ死ぬんだもの。ねえ?」
「そうだね。カプチン会は他のカタコンベと違って、
ミイラを見せ物にしているわけじゃない。
死者を前にすることで、自分の生を省みる。それを目的としているんだ」
「そう。死んでからもお勤めしているのね。立派だわ。
素敵なお洋服を着て、大切に保存されて、幸せなことね。
それに比べて、私はどうかしら。もうこの年じゃ他人様のお役にも立てないし」
「何を言っているんだい。ワシの傍に居てくれるじゃないか。
こんな老いぼれになるまで見捨てないでくれて、充分じゃよ」
「まあまあ、どうしたんですか、あなたったら。急にそんな」
「いやいや。この夫婦のミイラを見ていたら、今言っておかなくちゃいかんと思ってな。
いつか、ワシが先に天国に召されても、お前が来るまで、ちゃんと待っとるからな」
「あらあら、そんなこと。どうしましょう」
「お、おい。泣かんでもいいだろう。ほら、これで涙を拭いて」
「すみません、私、嬉しくって」
老婆はハンカチで目許を押さえていた。
今度は若い二人組と擦れ違った。手を繋いでいる。
花柄の白いロングスカートの女性が、
「ほんと美少女だったね。ミイラとは思えない」
と言うと、チョコレート色のレザージャケットを着た連れが、
「ロザリアより君のほうが綺麗だよ?」
「やだ。こんなところで言わないで」
「本当なのに」
二人は出口に向かったようだ。清々する。僕は連れのイタリアーノに尋ねた。
「ねえ。イタリアでは地下墓地はデートスポットなの?」
「愛する人が居れば、そこがデートスポットになる。そういうものだよ、アンリ」
オーギュストに答えられた。
「あっそう。さっさと地上に戻りたくなってきたな」
「やはりミイラは怖かったかい? だから手を繋いであげると言ったのに」
「怖くない」
「さあ、アンリさん。あの奥にある棺が、お待ちかねのロザリアちゃんですよ」
小さな棺。その中に少女の遺体があった。
今まで見てきた白骨死体とは別格の保存状態。まるで精巧に作られた人形のようだ。
目を閉じた少女が、ブランケットにくるまっている。
豊かなセミロングヘアに飾られた大きなリボンを含め、
遺体全体がセピアで色であることを除けば、ただ眠っているだけのようにも見える。
少女らしくふっくらとした頬、髪や睫毛の一本一本まで、腐敗することなく残っていた。
「こちらがロザリア・ロンバルド嬢」
オーギュストが僕の隣に立つ。
「1920年、肺炎の為、2歳でこの世を去った少女だよ」
神秘学担当教師は少女について、次のように解説した。
「父親のロンバルド将軍は、我が子の早過ぎる死を嘆き悲しんだ。
そして、イタリアいち優秀な死体防腐処理師、
アルフレッド・サラフィア氏に娘の遺体保存を依頼した。
彼の手によってロザリア嬢は、まるで眠っているかのような永久遺体となった。
どのような手法を使ったのか、誰にも明かさずに死体防腐処理師が亡くなった為、
何故、ロザリア嬢だけが腐敗せずにいられるのか、長い間、謎だったんだ」
「もう謎ではないということ?」
「うん。2009年、イタリアの生物人類学者やサラフィア氏の遺族によって、
生前にサラフィア氏が残したと思われる、ノートが見つかるんだ。
それには、ロザリア嬢の美しさを可能にしたと思われる薬品の名前が綴られていた。
ホルマリン、グリセリン、塩化亜鉛、アルコール、サリチル酸、とね」
「ホルマリンって、化学室にあるカエルとかネズミに使っている、あの液体?」
「うん。ホルマリン漬けなどと呼ばれて、現在も標本の保存液として使われているが、
サラフィア氏が初めて、遺体保存にホルマリンを使用した人物だそうだよ。
最後に、蝋燭などの原料であるパラフィンを頬に注入して、
ロザリア嬢は世界一美しいミイラになったと言われているんだ。
だが、詳細な調合方法は不明だから、第二のロザリア嬢を作り出すのは難しいだろうね」
僕は棺の中の少女から目を離せないでいた。
世界最高レベルの保存状態でも、死体は死体でしかない。
いくら待ってもあの瞼が再び開くことはなく、
どんなに近付いても寝息は聞こえないのだろう。
「どうかな、アンリ。ロザリア嬢の感想は?」
「綺麗、だとは思う」
「うん」
「けれど、僕なら御免だね。死んだあとまで美しいだとか言われて見せ物にされるのは。
自分の死体を不特定多数の目に晒されるなんて、ぞっとしないよ。それに」
セピア色に染められた彼女の顔。
「僕には、彼女が泣いているように見える」
安らかな表情には、とても見えなかった。きっと彼女は望んでない、こんな死を。
ポンと僕の頭に手が置かれた。オーギュストの手だ。
「優しい子だ。そして、賢い。誇らしいよ、その聡明さが」
オーギュストは微笑んでいるのに、彼もどこか泣いているような顔をしていた。
「ああ、眩しいですねえ」
フィオラノが明るい笑顔を見せる。
「やっぱりシチリアには太陽がなくっちゃ」
階段を上り、地上に戻ってきた。
出口に光が差している。生の世界に戻ってきたように感じた。
僕は一度だけ後ろを振り返る。
暗い階段。あの下に広がっていたのは、生と死の狭間だったのかもしれない。
→
■ミイラの神秘00 続編
●01 「イタリアへようこそ」
空港に着くと、僕を見つけたイタリアーノが笑顔で近寄ってきた。
「ベンヴェヌータ・イン・イターリア」
こちらの言葉で『イタリアへようこそ』という意味ですよ、
以前そう教えてくれた本人に、今回も同じ台詞で出迎えられた。
「遠いところ、お疲れ様です。お待ちしておりやした、姫さん」
「フィオラノ。その呼び方、止めてって言ってるでしょ」
「ああ、すいやせん。ついクセで」
ここはシチリアの北西部パレルモ。
かつてシチリア王が暮らしていた古都であり、現在はシチリアの州都。
僕、アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマンは、
聖アルフォンソ学院を三日休んで、南イタリアまで来た。
僕が経営してる投資会社の取引先と商談をする為だ。
シチリアの玄関口であるパレルモ空港に着いたところ。
正式名称はファルコーネ=ボルセリーノ空港と言う。
長ったらしいこの空港名は、マフィア撲滅に力を尽くした二人の裁判官、
ジョヴァンニ・ファルコーネとパオロ・ボルセリーノの名字を合わせたものらしい。
マフィアを法によって裁いた彼等は、後に、マフィアによって裁かれ、二人とも暗殺された。
“殉職”した彼等の名が付けられた空港に、フィオラノが笑顔で立っているのは皮肉なことだ。
彼は、僕がボディーガードを頼んでいるシチリアマフィアなのだから。
濃い顔が多い国にしては爽やかな顔立ち。
人当たりは柔らかく、いかにも善人に見える彼が、
現在のシチリアで最も残虐と名高いマンゾーニ・ファミリーの舎弟。
かつ、次期ボスの右腕を務める男なのだから、本当にイタリアーノは顔で判断できない。
「この子を『ベンヴェヌータ』と迎えるのもクセなのかね?」
そして今回は同行者がもう一人。余計なオマケが島から付いてきた。
聖アルフォンソ学院、神秘学担当教師オーギュスト・ボージェ。
前回の授業後、僕がシチリアへ商談に行くことを話したら、
オーギュストは付いていくと言い出した。久し振りにシチリア旅行がしたいとかなんとか。
学院に赴任する前は旅行が趣味だったらしいけど。
その趣味のせいか、彼は世界の主要な言語なら不自由なく話せた。
「おや。そちらの方は、イタリア語がお解りになるんで?
はは。今回はイタリア語にも気をつけなきゃダメですねえ」
「ベンヴェヌータはイタリア語で『ようこそ』という意味じゃないの?」と僕。
「意味はね。ただ、ベンヴェヌータは女性単数に向けて使う言葉なんだ。
男性単数の場合はベンヴェヌート。まあ、アンリは可愛いから、どちらでも」
「良くない。フィオラノ、次からは気を付けて」
「はは。すいやせん、アンリさん」
フィオラノの今日の装いは、グレイのスーツ。
ホワイトのワイシャツに、グレイにストライプが入ったネクタイ。
眼鏡は彼を更に爽やか好青年に見せる。
見た目は、どこにでも居そうなビジネスマンだ。
オーギュストの出で立ちは教壇に立つ時と同じで、
ブラウンのスーツにクロスタイといった変わり映えのない装い。
僕はネイビーブルーのスーツ、ネクタイはスカイブルーにした。
ネクタイをすると、聖アルフォンソ島の外に居るのだなと思う。
なんとなく首が息苦しいから、できれば早く外したい。
「で、今日は君一人? ディーノはどうしたの?」
「あっ。今の台詞、兄貴が聞いたら喜んだでしょうねえ」
質問に対する答えがない。僕はもう一度聞いた。
「はは。すいやせん。ええと、兄貴はですねえ、ちょいと」
マフィアがニコリと笑う。
「別の仕事ができましてね? 代わりに自分がお迎えに。
兄貴も夜には顔を見せると言っていやした」
「別に見せに来なくてもいいけどね」
フィオラノが兄貴と呼んでいるのがディーノ・マンゾーニ。
マンゾーニ家の次期ボス。彼の顔立ちは、生粋のイタリアーノだ。残念なまでに。
空港を出たあとは商談先のビルまで、フィオラノが運転するフェラーリでの移動となった。
ハンドルを握りながら、フィオラノはふいに後部座席の僕達へこう話しかけた。
「そういや、ボージェ先生は、何の先生なんです?」
僕が無言でいると、オーギュストが口を開いた。
「神秘学を担当しています」
「へえ。学校でオカルトの授業があるだなんて、初めて知りました。
どんなこと勉強するんです? やっぱ黒魔術とかピラミッドパワーとか?」
「の、勉強もしましたね」
「そいつはすごいや。自分、子供の頃はそういう本、ちょっと読んでたクチで」
今日が初対面である二人はオカルト談義で盛り上がる。
その間、僕は古都の面影を残す街並みを車の窓から眺めてた。
商談の前なのだから、資料の最終チェックをしたほうがいいのだろうが、
内容は既に暗記しているし、大人達が煩くて集中できそうにないから。
先程、セントラル駅を通り過ぎた。パレルモの市街地まで来ている。
古都だけに、パレルモの建築はアンティークなものが多く、
特別な施設でない建物の中にも、目を惹くものが時々ある。
あの屋根の赤は色がきつい。あの白い家は悪くない。
建築学に興味があるらしい、あの日本人が見たら、どう感じるだろう。
街路樹に橙色の実がなっているのが見えた。オレンジの木だろうか。
そんな取り留めもないことを考えながら、退屈を紛らわしていた。
「ああ。そうだ、アンリさん」
フィオラノに話しかけられた。大人同士で勝手にやってればいいのに。
「せっかくシチリアにいらしたんですから、シチリアのオカルトでもお勉強して行きやす?
商談まで、まだお時間もありやすし」
「何か面白い物でもあるの?」
「へい。シチリアには、世界一の美少女がおりやす」
「美少女? それのどこが神秘学なの?」
「ロザリア・ロンバルド嬢のことかね?」
「へえ。さっすがオカルトの先生だ。ロザリアちゃんのこともご存知で」
「確かに彼女の美しさはシチリアが誇る神秘かもしれないね」
「誰なの、そのロザリアって」
「世界一美しい、2歳の少女だよ。約90年前からずっとね」
「何それ。その言い方じゃ、まるで不老不死みたいじゃない。
2歳の姿のまま今も生きてるみたいに聞こえるけれど?」
「そうだね。ある意味、不老不死なのかもしれない。彼女は2歳で時を止めたのだから」
2歳児の錬金術師だとでも言うのだろうか。有り得ない。
「流石のアンリさんも、チンプンカンプンみたいですね。これはとにかく見て貰わないと。
ところでアンリさん。ロザリアちゃんに会う前にひとつ確認ですがね?」
フィオラノは勿体つけて、こう言った。
「コワイのは平気なほうですか?」
駐車場にフェラーリを停め、フィオラノに連れてこられたのはクリーム色の建物。
三角屋根の上に十字架が見えた。
「教会?」
「へい。カトリック教会の一派、カプチン会の修道院でして、
目の前に見えますのが教会です。が、今日見て頂きたいのはこちらです」
先頭を歩くフィオラノは教会の前を通り過ぎ、その横にある建物に向かった。
どこにでもありそうなクリーム色の建物。ところどころ壁の塗装が剥がれている。
ドアの上に、白いビニールの屋根がある。あのドアが入り口らしい。
寄付金だか見学料だかで、ひとり1.5ユーロ取られた。
「はい、これがガイドブックです。英語版でいいですかね? どうぞ、アンリさん、センセ」
フィオラノが何かパンプレットのようなものを二冊取って、僕達に渡した。
「さ、行きやしょうか」
地下に続く階段を下りていく。
階下からひんやりとした空気が流れてくるのが解った。外気温より涼しくなってくる。
何故か一段下がるごとに嫌な予感を感じた。
地階に着いて顔を上げた時、一瞬、足がすくんだ。そこは異常な空間だった。
「……何なの、ここは」
フィオラノは場にそぐわない爽やかな笑顔を見せながら、
「地下墓地で、イタリア語ではカタコンベと言います。
ここには約2000体のミイラが安置されてます」
薄暗い地下通路の両側に、白骨死体がずらりと並べられている。
直立の姿勢で、壁に磔にされた状態で何体も何体も。
しかも、全て服を着せられた状態で安置されているのだ。
中には棺に納められているものもあるが、
通路の壁や天井に至るまで、白骨化したミイラで埋め尽くされている。
それにこの匂い。乾燥した空気の中に、
今までに一度も感じたことがない重苦しい匂いが仄かに漂っている。
おそらく、ヒトの死臭と腐臭に加え、ミイラが着ている布の腐臭や、
棺となっている木の腐臭も混じってる。
「思ったより、怖そうにしているね、アンリ。平気かい?」
オーギュストに手を差し出される。
「出口まで、手を繋いでてあげようか?」
「怖くない。子供扱いしないで」
笑われた。むかつく。
→
空港に着くと、僕を見つけたイタリアーノが笑顔で近寄ってきた。
「ベンヴェヌータ・イン・イターリア」
こちらの言葉で『イタリアへようこそ』という意味ですよ、
以前そう教えてくれた本人に、今回も同じ台詞で出迎えられた。
「遠いところ、お疲れ様です。お待ちしておりやした、姫さん」
「フィオラノ。その呼び方、止めてって言ってるでしょ」
「ああ、すいやせん。ついクセで」
ここはシチリアの北西部パレルモ。
かつてシチリア王が暮らしていた古都であり、現在はシチリアの州都。
僕、アンリ=ユーグ=ド=サン・ジェルマンは、
聖アルフォンソ学院を三日休んで、南イタリアまで来た。
僕が経営してる投資会社の取引先と商談をする為だ。
シチリアの玄関口であるパレルモ空港に着いたところ。
正式名称はファルコーネ=ボルセリーノ空港と言う。
長ったらしいこの空港名は、マフィア撲滅に力を尽くした二人の裁判官、
ジョヴァンニ・ファルコーネとパオロ・ボルセリーノの名字を合わせたものらしい。
マフィアを法によって裁いた彼等は、後に、マフィアによって裁かれ、二人とも暗殺された。
“殉職”した彼等の名が付けられた空港に、フィオラノが笑顔で立っているのは皮肉なことだ。
彼は、僕がボディーガードを頼んでいるシチリアマフィアなのだから。
濃い顔が多い国にしては爽やかな顔立ち。
人当たりは柔らかく、いかにも善人に見える彼が、
現在のシチリアで最も残虐と名高いマンゾーニ・ファミリーの舎弟。
かつ、次期ボスの右腕を務める男なのだから、本当にイタリアーノは顔で判断できない。
「この子を『ベンヴェヌータ』と迎えるのもクセなのかね?」
そして今回は同行者がもう一人。余計なオマケが島から付いてきた。
聖アルフォンソ学院、神秘学担当教師オーギュスト・ボージェ。
前回の授業後、僕がシチリアへ商談に行くことを話したら、
オーギュストは付いていくと言い出した。久し振りにシチリア旅行がしたいとかなんとか。
学院に赴任する前は旅行が趣味だったらしいけど。
その趣味のせいか、彼は世界の主要な言語なら不自由なく話せた。
「おや。そちらの方は、イタリア語がお解りになるんで?
はは。今回はイタリア語にも気をつけなきゃダメですねえ」
「ベンヴェヌータはイタリア語で『ようこそ』という意味じゃないの?」と僕。
「意味はね。ただ、ベンヴェヌータは女性単数に向けて使う言葉なんだ。
男性単数の場合はベンヴェヌート。まあ、アンリは可愛いから、どちらでも」
「良くない。フィオラノ、次からは気を付けて」
「はは。すいやせん、アンリさん」
フィオラノの今日の装いは、グレイのスーツ。
ホワイトのワイシャツに、グレイにストライプが入ったネクタイ。
眼鏡は彼を更に爽やか好青年に見せる。
見た目は、どこにでも居そうなビジネスマンだ。
オーギュストの出で立ちは教壇に立つ時と同じで、
ブラウンのスーツにクロスタイといった変わり映えのない装い。
僕はネイビーブルーのスーツ、ネクタイはスカイブルーにした。
ネクタイをすると、聖アルフォンソ島の外に居るのだなと思う。
なんとなく首が息苦しいから、できれば早く外したい。
「で、今日は君一人? ディーノはどうしたの?」
「あっ。今の台詞、兄貴が聞いたら喜んだでしょうねえ」
質問に対する答えがない。僕はもう一度聞いた。
「はは。すいやせん。ええと、兄貴はですねえ、ちょいと」
マフィアがニコリと笑う。
「別の仕事ができましてね? 代わりに自分がお迎えに。
兄貴も夜には顔を見せると言っていやした」
「別に見せに来なくてもいいけどね」
フィオラノが兄貴と呼んでいるのがディーノ・マンゾーニ。
マンゾーニ家の次期ボス。彼の顔立ちは、生粋のイタリアーノだ。残念なまでに。
空港を出たあとは商談先のビルまで、フィオラノが運転するフェラーリでの移動となった。
ハンドルを握りながら、フィオラノはふいに後部座席の僕達へこう話しかけた。
「そういや、ボージェ先生は、何の先生なんです?」
僕が無言でいると、オーギュストが口を開いた。
「神秘学を担当しています」
「へえ。学校でオカルトの授業があるだなんて、初めて知りました。
どんなこと勉強するんです? やっぱ黒魔術とかピラミッドパワーとか?」
「の、勉強もしましたね」
「そいつはすごいや。自分、子供の頃はそういう本、ちょっと読んでたクチで」
今日が初対面である二人はオカルト談義で盛り上がる。
その間、僕は古都の面影を残す街並みを車の窓から眺めてた。
商談の前なのだから、資料の最終チェックをしたほうがいいのだろうが、
内容は既に暗記しているし、大人達が煩くて集中できそうにないから。
先程、セントラル駅を通り過ぎた。パレルモの市街地まで来ている。
古都だけに、パレルモの建築はアンティークなものが多く、
特別な施設でない建物の中にも、目を惹くものが時々ある。
あの屋根の赤は色がきつい。あの白い家は悪くない。
建築学に興味があるらしい、あの日本人が見たら、どう感じるだろう。
街路樹に橙色の実がなっているのが見えた。オレンジの木だろうか。
そんな取り留めもないことを考えながら、退屈を紛らわしていた。
「ああ。そうだ、アンリさん」
フィオラノに話しかけられた。大人同士で勝手にやってればいいのに。
「せっかくシチリアにいらしたんですから、シチリアのオカルトでもお勉強して行きやす?
商談まで、まだお時間もありやすし」
「何か面白い物でもあるの?」
「へい。シチリアには、世界一の美少女がおりやす」
「美少女? それのどこが神秘学なの?」
「ロザリア・ロンバルド嬢のことかね?」
「へえ。さっすがオカルトの先生だ。ロザリアちゃんのこともご存知で」
「確かに彼女の美しさはシチリアが誇る神秘かもしれないね」
「誰なの、そのロザリアって」
「世界一美しい、2歳の少女だよ。約90年前からずっとね」
「何それ。その言い方じゃ、まるで不老不死みたいじゃない。
2歳の姿のまま今も生きてるみたいに聞こえるけれど?」
「そうだね。ある意味、不老不死なのかもしれない。彼女は2歳で時を止めたのだから」
2歳児の錬金術師だとでも言うのだろうか。有り得ない。
「流石のアンリさんも、チンプンカンプンみたいですね。これはとにかく見て貰わないと。
ところでアンリさん。ロザリアちゃんに会う前にひとつ確認ですがね?」
フィオラノは勿体つけて、こう言った。
「コワイのは平気なほうですか?」
駐車場にフェラーリを停め、フィオラノに連れてこられたのはクリーム色の建物。
三角屋根の上に十字架が見えた。
「教会?」
「へい。カトリック教会の一派、カプチン会の修道院でして、
目の前に見えますのが教会です。が、今日見て頂きたいのはこちらです」
先頭を歩くフィオラノは教会の前を通り過ぎ、その横にある建物に向かった。
どこにでもありそうなクリーム色の建物。ところどころ壁の塗装が剥がれている。
ドアの上に、白いビニールの屋根がある。あのドアが入り口らしい。
寄付金だか見学料だかで、ひとり1.5ユーロ取られた。
「はい、これがガイドブックです。英語版でいいですかね? どうぞ、アンリさん、センセ」
フィオラノが何かパンプレットのようなものを二冊取って、僕達に渡した。
「さ、行きやしょうか」
地下に続く階段を下りていく。
階下からひんやりとした空気が流れてくるのが解った。外気温より涼しくなってくる。
何故か一段下がるごとに嫌な予感を感じた。
地階に着いて顔を上げた時、一瞬、足がすくんだ。そこは異常な空間だった。
「……何なの、ここは」
フィオラノは場にそぐわない爽やかな笑顔を見せながら、
「地下墓地で、イタリア語ではカタコンベと言います。
ここには約2000体のミイラが安置されてます」
薄暗い地下通路の両側に、白骨死体がずらりと並べられている。
直立の姿勢で、壁に磔にされた状態で何体も何体も。
しかも、全て服を着せられた状態で安置されているのだ。
中には棺に納められているものもあるが、
通路の壁や天井に至るまで、白骨化したミイラで埋め尽くされている。
それにこの匂い。乾燥した空気の中に、
今までに一度も感じたことがない重苦しい匂いが仄かに漂っている。
おそらく、ヒトの死臭と腐臭に加え、ミイラが着ている布の腐臭や、
棺となっている木の腐臭も混じってる。
「思ったより、怖そうにしているね、アンリ。平気かい?」
オーギュストに手を差し出される。
「出口まで、手を繋いでてあげようか?」
「怖くない。子供扱いしないで」
笑われた。むかつく。
→
『漁師の後悔』
後悔なんてしてやるなよ、こんなにウマイんだから。
ツナサンドを食べる時、アイヴィーはいつも同じことを思った。
聖アルフォンソ島では、ヘンな名前が付いてる料理が多いけど、
なんで、こんなザンネンな名前になったんだか。
今日、アイヴィーは休日だった。いつもより少し遅く起きたあと、
午前中からやっているアイリッシュパブへブランチを食べにきた。
夜は大人達で賑わっているこの店も、平日の昼間は空いている。
アイヴィーの他は一組のオジサン達しか居ない。
店内には、丁度イイ大きさで音楽が流れてる。今はレゲエっぽい曲だ。
頼めば、昼からビールも飲ませてくれる店だけど、
今日は車で来てるし、飲みたい気分でもなかった。
アイヴィーの前にある皿には、三切れのツナサンドと、細切りのフライドポテト。
食べ易いサイズに切ったフランスパンに、ツナマヨが挟んである。
パンは少し焦げ目が付く程度に焼かれたものだ。
この店でサンドイッチを頼むと、フライドポテトが付いてくる。何故かは解らない。
ここのポテトには、ブラックペッパーと、なんかウマイ塩がかかっててスキだった。
ツナサンドが『漁師の後悔』なら、フライドポテトは『農家の後悔』だろうか、なんて、
どうでもいいことを考えているうちに、全部食べ終わった。
日が良いと、ここで食べている間に、新曲を思いつくこともあるのだが。
今日は全くメロディが思い浮かばなかった。
店を出たあとは、一週間分の買い出し。
ブランチのあと買い物に行くのは、いつのまにか、休日のお決まりコースと化していた。
いつもは、こじんまりとした店だが家から近いスーパーに行くのだが、
今日はそこへ行く気がしなくて、新市街のど真ん中に向かってハンドルを切っていた。
新市街のショッピングモールにある食品フロア。
アイヴィーは、先週とほぼ同じ時間に同じ場所に居た。
一週間分の食材をカートに乗せて、歩いてる。
水、ビール、パスタ、野菜、肉、卵、牛乳エトセトラ。
これ以上買う物はないのに、ムダに店内をもう一周していた。
ムダな二周目を回る気にはならず、ショッピングモールをあとにした。
アストンマーチンの後ろに食材を乗せ、次の場所へ向かった。
新市街の噴水広場。そこにピンクと白の水玉模様をしたワゴン車が停まっている。
この島では有名なアイスクリームの移動販売車だ。
「アイスじーさん」と呼ばれる老人が一人でやっている。
アイヴィーがワゴン車の前に立つと、白いキャップを被った店主が話しかけてきた。
「おや。アイヴィーじゃないか」
「こんちは、アイスじーさん」
「いらっしゃい。あれ? 今日は一人かい? 珍しいねえ」
「あ、うん。なんか、急にアイス食べたくなっちゃって、さ。
先週、食べたのウマかったから。俺、クッキー&クリームね」
「おやおや、アイヴィーも先週と同じのを頼むんだねえ。気が合うことだ」
「え?」
「お嬢さんにも先週と同じアイスを頼まれたのさ。ついさっきまでそこで食べてたよ?」
「ちょ、##NAME1##ちゃんのこと!? ここに来たの!?」
「ああ。買い物帰りに寄ってくれたみたいでね。
そこのベンチに座って食べてってくれたよ」
「##NAME1##ちゃんが……」
「おやおや。可愛い顔をするじゃないか、アイヴィー。もしかして」
「なっ、そ、そんなんじゃないよ! 俺は……だって、##NAME1##ちゃんは人妻で……」
「良いじゃないか、略奪愛。しかも人妻なんて、昔見たドラマみたいだ」
「じーさん! もう、アイスはまだ!?」
「はははっ。ちょっと待ってな」
アイスを持って、先週と同じベンチに座った。
男が一人で、平日の昼間にアイスを食べてる。女の子も連れずに。
強い風が吹いて、アイヴィーは身震いした。
「寒いな……」
スーパーでムダに一周しなければ良かった、とアイヴィーは思った。
人には要領が良いとか言われるけど、そんなことはない。
俺はいつも、肝心なとこで抜けてる。
気付いた時には、もう遅くて、大事なものを失っている。
アイスを食べ終わった頃には、口の中が冷えていた。
何も持っていない手が寒々しく見える。
右手の薬指には、もう絆創膏は巻かれていない。
「傷、もう治っちゃったな」
その翌日。
夕方、##NAME1##は一人で自宅に居た。
今の家は、聖アルフォンソ島の高級住宅街と呼ばれる地区にある。
##NAME1##の旦那様であるソクーロフ博士が選んだ家だ。
本来、学院の職員には、メルキュール館という教職員の宿舎がある。
以前は博士もそこに住んでいたのだが、
##NAME1##と結婚後、宿舎とは別の住まいを用意した。
メルキュール館を出ることについて、一度は学院側に止められたらしい。
保健教師であり、生徒達の主治医でもある立場上、
彼の住居はキャンパス内にあったほうが良いからだ。
しかし、学院側との『相談』の結果、生徒に急患が出た際には、
いつなりとも駆け付けることを条件に、
キャンパス外に住居を持つことを許されたのだそうだ。
それが本当に『相談』の結果だったのかどうか、
博士を問い質す勇気は、##NAME1##にはない。
##NAME1##は時計を見上げる。現在16時。旦那様はまだ暫く帰ってこないだろう。
家事も終わってしまったし、夕食を作るにはまだ早い。
携帯電話が目に入る。##NAME1##は着信履歴から一人選んでキーを押した。
「あ、姉貴?」
テレビ電話に弟のユウタが映る。弟の背景に見えたのは、
学院内の景色ではなくスーパーの食品売場だった。
「今ね、俺達、みんなでスーパーに来てて、うわっ」
「##NAME1##じゃん! ハーイ! 元気ィ?」
「お姉さんですか!? わお! コンニチハ!
ご無沙汰じゃないですかー。もっと電話して下さいよー!」
「こんちは。煩くてごめんね」
アルフレッド、シルヴァン、ハルヤが顔を出した。
##NAME1##が「みんなでお買い物?」と尋ねると、四人は代わる代わる説明してくれた。
一時間程前、ユウタとデッド・プリンスは、四人でアイヴィーの家に遊びに行ったそうだ。
放課後になったので、おやつ代わりに何か料理を作って貰うつもりで。
ところが、「今日は何もしてやれないから帰れ」と追い返されてしまった。
狭く開かれたドアから現れたアイヴィーは、辛そうな顔で咳き込んでいたそうだ。
「アイヴィーさん、昨日から、風邪引いちゃったみたいなんだって」
「俺、ソクーロフ博士から薬貰ったのかって聞いたんだ」
「本人は薬は昨日飲んだって言うんですけどねえ」
「でも、博士の薬を飲んだら、すぐに治ると思うんだけど」
「ねえ、姉貴。博士から、アイヴィーさんが風邪だって話、聞いた?」
聞いていない。アイヴィーが体調不良で博士の世話になったのなら、
昨日の夕食の席で話題に上っても良さそうなものだが。
「そうでしたか。妻の##NAME1##にも話していないとなると、
博士もアイヴィーが風邪を引いたことを知らないのかもしれませんねえ」
「はぁー。妻かあ。マジなんで博士と電撃結婚したんだよ、##NAME1##ー」
「そうですよー! 僕も博士より貴女を幸せにする自信ありましたー!」
「ちょっと、レッドもシルヴァンも、今、その話関係ないでしょ」
「それでね。アイヴィーさん、一人暮らしだからさ、
俺達がアイヴィーさんに、何か消化に良い物、作ってあげたいなと思って」
「アイヴィーには、今までたくさんの美味しい料理を作って貰いましたから」
「今度は俺達がウマイモン食わせてやろうってわけよ!
どうだ、イイ話だろー? 惚れ直したかー?」
「それで、勢い勇んでスーパーまでやってきたのはいいんですが、
風邪を引いた時に食べる物って、食べたことはありますけど、
僕達、作ったことがないのに気付きまして」
「アメリカではさ、チキンスープとかホットハニーレモン飲むんだ。
イタリアだと、リゾーニっていうリゾットみたいなやつとか、ホットワインとか。
けど、俺じゃそんなの作れねーって、さっき気付いたんだよな……」
「俺、おかゆなら作れるかなって思ってたんだけど」
「肝心のお米がない、っていうな」
「アイヴィーんちに置かせて貰ってた俺の常備米も、
丁度この前使い切っちゃってて、このスーパーにも売ってなくてさ。
新市街のショッピングモールまで行ってみようかって話してたとこなんだ」
##NAME1##はキッチンのほうを振り向く。お米ならありますけど、と伝えた。
四人は学院の車で、##NAME1##の家まで迎えに来てくれた。
旧市街を抜け、海沿いの道を走っていく。
車中、##NAME1##は博士との新婚生活について、
質問責めに遭いながら、アイヴィーの自宅へ向かった。
海に近い崖っぷちのコテージに着いた。
一階はガレージになっていて、三台の車が停まっている。
その中には、先週、##NAME1##が乗ったメタリック・ブラックのBMWもあった。
一階から続く梯子の先にコテージがある。
アルフレッドは我が家を紹介するように言う。
「ここがアイヴィーの家。あ、##NAME1##は来たの初めて?」
##NAME1##は頷いた。
「そっか。俺達はよく遊びに来てんだ。ま、俺達の別荘ってカンジ?
だから、##NAME1##も遠慮しないで上がってくれよ」
「あ、ちょっと待って下さい。アイヴィー、寝ているかもしれませんから、
起こさないように中に入りましょう?」
シルヴァンはそう言うと、何故かガレージの中に入っていった。
##NAME1##は彼の背中を追いかける。シルヴァンはガレージの奥でしゃがんでいた。
地面に置いてある工具箱を開け、その中からカギを取り出した。
振り向いたシルヴァンは##NAME1##にウインクをしながら、
「合い鍵です。僕が入学した頃に作って貰ったんですよ。
あの頃は、しょっちゅう入り浸ってましたから。
さあ、アイヴィーの家に潜入しましょー!」
自然と手を取られ、二人はガレージの外へ走っていった。
五人でそーっと中に入る。アイヴィーは奥の寝室で寝ていた。
唇の前で人差し指を立てながら、五人はリビングに戻ってきた。
シルヴァンが寝室のドアを見ながら呟く。
「こんなにぞろぞろ入ってきても起きないなんて、本当に具合が悪いようですね」
「なあ。今のうちに、その、オカユとかいうヤツ作ってビックリさせてやろうぜ」
そうして料理開始となったのだが、おかゆ作りに五人も必要ない為、
調理班が##NAME1##とハルヤ、他三人は味見班となった。
##NAME1##はハルヤと一緒にキッチンに立っている。
おかゆは土鍋で作るのが理想だが、当然このキッチンにはないので、普通の鍋を使った。
量は三人前くらいあるだろうか。##NAME1##はお米を多めに持ってきたし、
シルヴァンが「僕も貴女お手製のおかゆ食べてみたいですー」と言うので、
たっぷり作ることになった。柔らかくなった白米が、良い具合にグツグツと煮立っている。
##NAME1##は「そろそろ火を消したほうがいいんじゃないですか」と
鍋の前に居るハルヤに言った。ところが、ハルヤには聞こえていないのか、
おかゆを見つめたまま、ぴくりとも動かない。
##NAME1##はとりあえずハルヤの前に手を伸ばし、火を止めた。
それを見てハルヤが我に返る。
「ご、ごめん。俺、ぼーっとしてたね」
##NAME1##はハルヤも体調が悪いのか尋ねた。
「ううん。大丈夫。お姉さんと一緒に、台所に立ってたら、
東京に居た頃、思い出しちゃって」
俯いたまま、ぼそっと呟いた。
「なんか、母様と一緒に居るみたいだなって」
小林家の母と子が並んで台所に居る光景。
##NAME1##は彼の少年時代がふっと見えたような気がした。
「あ、お姉さんに母様みたいなんて言ったら失礼だったかな。ヘンなこと言ってごめんね」
ハルヤは頬をピンクに染めていた。
楽しそうな笑い声で、アイヴィーは目を覚ました。
聞き覚えのある声がリビングのほうから複数聞こえる。
額に手をやると、まだ少し熱かった。
重い身体を引きずるようにしてリビングに顔を出した。
「お前ら……なんでまた来た? 帰れって言ったろ……え、##NAME1##ちゃん?」
アイヴィーはふらりと壁に凭れて、呟いた。
「なんだ、夢か……何回キミを夢に見たら気が済むんだよ、俺は」
「夢じゃありませんよ、アイヴィー。彼女は本物です。
僕達が連れて来てあげたんですよ、感謝して下さいね?」
「つーか、その前に問題発言があったろ。##NAME1##を何回夢に見てんだよ?」
「まあまあ、レッド。相手は病人ですから、その話は後日にしましょう?」
「アイヴィー、具合はどう? さっきよりは良さそうだけど」
「ああ。だから寝てれば治るって」
「じゃあ、今、少し食べられるかな? 俺達とお姉さん、みんなで作ったんだよ?」
ハルヤはアイヴィーにおかゆを差し出した。
「じゃ、またな、アイヴィー!」
「おじゃましましたー」
「あったかくして寝るんですよー」
「おだいじに」
四人の生徒達がコテージを出て、車に向かう。
その一番後ろに居た##NAME1##は、ドアの前で振り向いた。
見送りに出てきたアイヴィーを見上げる。
「##NAME1##ちゃん? どうしたの?」
##NAME1##はアイヴィーに封筒を渡した。
「え? 俺にお手紙、書いてくれたの?」
##NAME1##は首を横に振り、開けてみて下さい、と言った。
アイヴィーが封筒を開ける。そこに便箋は入っていない。
手に落ちてきたのは、プラスチックでできた銀色のパッケージ。
「コレ……もしかして、風邪薬?」
錠剤を三日分。自宅用の救急箱から、くすねてきた物だ。
自分の家にある物なのだから、「くすねてきた」という言い方には語弊があるが、
これは博士が自宅用として用意してくれた物だし、
風邪薬を貰っていく許可も取っていないので、気分的には盗んできたも同然だ。
博士に黙って、何かをアイヴィーに渡すこと自体にも罪悪感があった。
第一、薬は、医者に症状を診て貰い、処方された物を飲むべきだ。けれど――
薬を飲まないよりは、快復が早いだろう。そう思い、薬を渡した。
何か困ったことがあったら私の携帯に連絡して下さい、と言い添えて。
「あ、アリガト、##NAME1##ちゃん」
それじゃお大事に、と言って背中を向ける。
「##NAME1##ちゃん!」
##NAME1##は振り向く。
「あのさ。昨日、あのアイス屋に行ったってホント?」
##NAME1##は驚いた。「行きましたけど、どうして」と呟いた。
「アイスじーさんから聞いたんだ。『さっきまで居たよ』って……俺も行ったんだよ、昨日」
「##NAME1##ー! 何やってるんだよ、置いてくぞー」
アルフレッドが呼んでいる。
「あ、引き止めてゴメン。今日は来てくれてありがとね、ホント。じゃまた」
ドアが閉まった。梯子を上ってくる音がする。迎えに来たのはアルフレッドだった。
##NAME1##の顔を見て、首を傾げる。
「ん? どうした、##NAME1##。元気ないじゃん?」
##NAME1##は笑顔を作り、何でもない、と答えた。
「そ? じゃ、早く行こうぜ。あ、梯子下りる時、気ィ付けてな」
一段ずつゆっくり下りていく。タン、タンという音が物悲しく聞こえる。
「##NAME1##、手」
先に地上に降りているアルフレッドが手を差し出していた。
「最後の段、高くなってるから。ほら」
##NAME1##は彼の手に自分の手を重ねる。彼に支えられて、ふわりと最後の一段を下りた。
「行こうぜ、##NAME1##」
コテージとBMWをもう一度見てから、みんなが待っている車へと向かった。
fin
後悔なんてしてやるなよ、こんなにウマイんだから。
ツナサンドを食べる時、アイヴィーはいつも同じことを思った。
聖アルフォンソ島では、ヘンな名前が付いてる料理が多いけど、
なんで、こんなザンネンな名前になったんだか。
今日、アイヴィーは休日だった。いつもより少し遅く起きたあと、
午前中からやっているアイリッシュパブへブランチを食べにきた。
夜は大人達で賑わっているこの店も、平日の昼間は空いている。
アイヴィーの他は一組のオジサン達しか居ない。
店内には、丁度イイ大きさで音楽が流れてる。今はレゲエっぽい曲だ。
頼めば、昼からビールも飲ませてくれる店だけど、
今日は車で来てるし、飲みたい気分でもなかった。
アイヴィーの前にある皿には、三切れのツナサンドと、細切りのフライドポテト。
食べ易いサイズに切ったフランスパンに、ツナマヨが挟んである。
パンは少し焦げ目が付く程度に焼かれたものだ。
この店でサンドイッチを頼むと、フライドポテトが付いてくる。何故かは解らない。
ここのポテトには、ブラックペッパーと、なんかウマイ塩がかかっててスキだった。
ツナサンドが『漁師の後悔』なら、フライドポテトは『農家の後悔』だろうか、なんて、
どうでもいいことを考えているうちに、全部食べ終わった。
日が良いと、ここで食べている間に、新曲を思いつくこともあるのだが。
今日は全くメロディが思い浮かばなかった。
店を出たあとは、一週間分の買い出し。
ブランチのあと買い物に行くのは、いつのまにか、休日のお決まりコースと化していた。
いつもは、こじんまりとした店だが家から近いスーパーに行くのだが、
今日はそこへ行く気がしなくて、新市街のど真ん中に向かってハンドルを切っていた。
新市街のショッピングモールにある食品フロア。
アイヴィーは、先週とほぼ同じ時間に同じ場所に居た。
一週間分の食材をカートに乗せて、歩いてる。
水、ビール、パスタ、野菜、肉、卵、牛乳エトセトラ。
これ以上買う物はないのに、ムダに店内をもう一周していた。
ムダな二周目を回る気にはならず、ショッピングモールをあとにした。
アストンマーチンの後ろに食材を乗せ、次の場所へ向かった。
新市街の噴水広場。そこにピンクと白の水玉模様をしたワゴン車が停まっている。
この島では有名なアイスクリームの移動販売車だ。
「アイスじーさん」と呼ばれる老人が一人でやっている。
アイヴィーがワゴン車の前に立つと、白いキャップを被った店主が話しかけてきた。
「おや。アイヴィーじゃないか」
「こんちは、アイスじーさん」
「いらっしゃい。あれ? 今日は一人かい? 珍しいねえ」
「あ、うん。なんか、急にアイス食べたくなっちゃって、さ。
先週、食べたのウマかったから。俺、クッキー&クリームね」
「おやおや、アイヴィーも先週と同じのを頼むんだねえ。気が合うことだ」
「え?」
「お嬢さんにも先週と同じアイスを頼まれたのさ。ついさっきまでそこで食べてたよ?」
「ちょ、##NAME1##ちゃんのこと!? ここに来たの!?」
「ああ。買い物帰りに寄ってくれたみたいでね。
そこのベンチに座って食べてってくれたよ」
「##NAME1##ちゃんが……」
「おやおや。可愛い顔をするじゃないか、アイヴィー。もしかして」
「なっ、そ、そんなんじゃないよ! 俺は……だって、##NAME1##ちゃんは人妻で……」
「良いじゃないか、略奪愛。しかも人妻なんて、昔見たドラマみたいだ」
「じーさん! もう、アイスはまだ!?」
「はははっ。ちょっと待ってな」
アイスを持って、先週と同じベンチに座った。
男が一人で、平日の昼間にアイスを食べてる。女の子も連れずに。
強い風が吹いて、アイヴィーは身震いした。
「寒いな……」
スーパーでムダに一周しなければ良かった、とアイヴィーは思った。
人には要領が良いとか言われるけど、そんなことはない。
俺はいつも、肝心なとこで抜けてる。
気付いた時には、もう遅くて、大事なものを失っている。
アイスを食べ終わった頃には、口の中が冷えていた。
何も持っていない手が寒々しく見える。
右手の薬指には、もう絆創膏は巻かれていない。
「傷、もう治っちゃったな」
その翌日。
夕方、##NAME1##は一人で自宅に居た。
今の家は、聖アルフォンソ島の高級住宅街と呼ばれる地区にある。
##NAME1##の旦那様であるソクーロフ博士が選んだ家だ。
本来、学院の職員には、メルキュール館という教職員の宿舎がある。
以前は博士もそこに住んでいたのだが、
##NAME1##と結婚後、宿舎とは別の住まいを用意した。
メルキュール館を出ることについて、一度は学院側に止められたらしい。
保健教師であり、生徒達の主治医でもある立場上、
彼の住居はキャンパス内にあったほうが良いからだ。
しかし、学院側との『相談』の結果、生徒に急患が出た際には、
いつなりとも駆け付けることを条件に、
キャンパス外に住居を持つことを許されたのだそうだ。
それが本当に『相談』の結果だったのかどうか、
博士を問い質す勇気は、##NAME1##にはない。
##NAME1##は時計を見上げる。現在16時。旦那様はまだ暫く帰ってこないだろう。
家事も終わってしまったし、夕食を作るにはまだ早い。
携帯電話が目に入る。##NAME1##は着信履歴から一人選んでキーを押した。
「あ、姉貴?」
テレビ電話に弟のユウタが映る。弟の背景に見えたのは、
学院内の景色ではなくスーパーの食品売場だった。
「今ね、俺達、みんなでスーパーに来てて、うわっ」
「##NAME1##じゃん! ハーイ! 元気ィ?」
「お姉さんですか!? わお! コンニチハ!
ご無沙汰じゃないですかー。もっと電話して下さいよー!」
「こんちは。煩くてごめんね」
アルフレッド、シルヴァン、ハルヤが顔を出した。
##NAME1##が「みんなでお買い物?」と尋ねると、四人は代わる代わる説明してくれた。
一時間程前、ユウタとデッド・プリンスは、四人でアイヴィーの家に遊びに行ったそうだ。
放課後になったので、おやつ代わりに何か料理を作って貰うつもりで。
ところが、「今日は何もしてやれないから帰れ」と追い返されてしまった。
狭く開かれたドアから現れたアイヴィーは、辛そうな顔で咳き込んでいたそうだ。
「アイヴィーさん、昨日から、風邪引いちゃったみたいなんだって」
「俺、ソクーロフ博士から薬貰ったのかって聞いたんだ」
「本人は薬は昨日飲んだって言うんですけどねえ」
「でも、博士の薬を飲んだら、すぐに治ると思うんだけど」
「ねえ、姉貴。博士から、アイヴィーさんが風邪だって話、聞いた?」
聞いていない。アイヴィーが体調不良で博士の世話になったのなら、
昨日の夕食の席で話題に上っても良さそうなものだが。
「そうでしたか。妻の##NAME1##にも話していないとなると、
博士もアイヴィーが風邪を引いたことを知らないのかもしれませんねえ」
「はぁー。妻かあ。マジなんで博士と電撃結婚したんだよ、##NAME1##ー」
「そうですよー! 僕も博士より貴女を幸せにする自信ありましたー!」
「ちょっと、レッドもシルヴァンも、今、その話関係ないでしょ」
「それでね。アイヴィーさん、一人暮らしだからさ、
俺達がアイヴィーさんに、何か消化に良い物、作ってあげたいなと思って」
「アイヴィーには、今までたくさんの美味しい料理を作って貰いましたから」
「今度は俺達がウマイモン食わせてやろうってわけよ!
どうだ、イイ話だろー? 惚れ直したかー?」
「それで、勢い勇んでスーパーまでやってきたのはいいんですが、
風邪を引いた時に食べる物って、食べたことはありますけど、
僕達、作ったことがないのに気付きまして」
「アメリカではさ、チキンスープとかホットハニーレモン飲むんだ。
イタリアだと、リゾーニっていうリゾットみたいなやつとか、ホットワインとか。
けど、俺じゃそんなの作れねーって、さっき気付いたんだよな……」
「俺、おかゆなら作れるかなって思ってたんだけど」
「肝心のお米がない、っていうな」
「アイヴィーんちに置かせて貰ってた俺の常備米も、
丁度この前使い切っちゃってて、このスーパーにも売ってなくてさ。
新市街のショッピングモールまで行ってみようかって話してたとこなんだ」
##NAME1##はキッチンのほうを振り向く。お米ならありますけど、と伝えた。
四人は学院の車で、##NAME1##の家まで迎えに来てくれた。
旧市街を抜け、海沿いの道を走っていく。
車中、##NAME1##は博士との新婚生活について、
質問責めに遭いながら、アイヴィーの自宅へ向かった。
海に近い崖っぷちのコテージに着いた。
一階はガレージになっていて、三台の車が停まっている。
その中には、先週、##NAME1##が乗ったメタリック・ブラックのBMWもあった。
一階から続く梯子の先にコテージがある。
アルフレッドは我が家を紹介するように言う。
「ここがアイヴィーの家。あ、##NAME1##は来たの初めて?」
##NAME1##は頷いた。
「そっか。俺達はよく遊びに来てんだ。ま、俺達の別荘ってカンジ?
だから、##NAME1##も遠慮しないで上がってくれよ」
「あ、ちょっと待って下さい。アイヴィー、寝ているかもしれませんから、
起こさないように中に入りましょう?」
シルヴァンはそう言うと、何故かガレージの中に入っていった。
##NAME1##は彼の背中を追いかける。シルヴァンはガレージの奥でしゃがんでいた。
地面に置いてある工具箱を開け、その中からカギを取り出した。
振り向いたシルヴァンは##NAME1##にウインクをしながら、
「合い鍵です。僕が入学した頃に作って貰ったんですよ。
あの頃は、しょっちゅう入り浸ってましたから。
さあ、アイヴィーの家に潜入しましょー!」
自然と手を取られ、二人はガレージの外へ走っていった。
五人でそーっと中に入る。アイヴィーは奥の寝室で寝ていた。
唇の前で人差し指を立てながら、五人はリビングに戻ってきた。
シルヴァンが寝室のドアを見ながら呟く。
「こんなにぞろぞろ入ってきても起きないなんて、本当に具合が悪いようですね」
「なあ。今のうちに、その、オカユとかいうヤツ作ってビックリさせてやろうぜ」
そうして料理開始となったのだが、おかゆ作りに五人も必要ない為、
調理班が##NAME1##とハルヤ、他三人は味見班となった。
##NAME1##はハルヤと一緒にキッチンに立っている。
おかゆは土鍋で作るのが理想だが、当然このキッチンにはないので、普通の鍋を使った。
量は三人前くらいあるだろうか。##NAME1##はお米を多めに持ってきたし、
シルヴァンが「僕も貴女お手製のおかゆ食べてみたいですー」と言うので、
たっぷり作ることになった。柔らかくなった白米が、良い具合にグツグツと煮立っている。
##NAME1##は「そろそろ火を消したほうがいいんじゃないですか」と
鍋の前に居るハルヤに言った。ところが、ハルヤには聞こえていないのか、
おかゆを見つめたまま、ぴくりとも動かない。
##NAME1##はとりあえずハルヤの前に手を伸ばし、火を止めた。
それを見てハルヤが我に返る。
「ご、ごめん。俺、ぼーっとしてたね」
##NAME1##はハルヤも体調が悪いのか尋ねた。
「ううん。大丈夫。お姉さんと一緒に、台所に立ってたら、
東京に居た頃、思い出しちゃって」
俯いたまま、ぼそっと呟いた。
「なんか、母様と一緒に居るみたいだなって」
小林家の母と子が並んで台所に居る光景。
##NAME1##は彼の少年時代がふっと見えたような気がした。
「あ、お姉さんに母様みたいなんて言ったら失礼だったかな。ヘンなこと言ってごめんね」
ハルヤは頬をピンクに染めていた。
楽しそうな笑い声で、アイヴィーは目を覚ました。
聞き覚えのある声がリビングのほうから複数聞こえる。
額に手をやると、まだ少し熱かった。
重い身体を引きずるようにしてリビングに顔を出した。
「お前ら……なんでまた来た? 帰れって言ったろ……え、##NAME1##ちゃん?」
アイヴィーはふらりと壁に凭れて、呟いた。
「なんだ、夢か……何回キミを夢に見たら気が済むんだよ、俺は」
「夢じゃありませんよ、アイヴィー。彼女は本物です。
僕達が連れて来てあげたんですよ、感謝して下さいね?」
「つーか、その前に問題発言があったろ。##NAME1##を何回夢に見てんだよ?」
「まあまあ、レッド。相手は病人ですから、その話は後日にしましょう?」
「アイヴィー、具合はどう? さっきよりは良さそうだけど」
「ああ。だから寝てれば治るって」
「じゃあ、今、少し食べられるかな? 俺達とお姉さん、みんなで作ったんだよ?」
ハルヤはアイヴィーにおかゆを差し出した。
「じゃ、またな、アイヴィー!」
「おじゃましましたー」
「あったかくして寝るんですよー」
「おだいじに」
四人の生徒達がコテージを出て、車に向かう。
その一番後ろに居た##NAME1##は、ドアの前で振り向いた。
見送りに出てきたアイヴィーを見上げる。
「##NAME1##ちゃん? どうしたの?」
##NAME1##はアイヴィーに封筒を渡した。
「え? 俺にお手紙、書いてくれたの?」
##NAME1##は首を横に振り、開けてみて下さい、と言った。
アイヴィーが封筒を開ける。そこに便箋は入っていない。
手に落ちてきたのは、プラスチックでできた銀色のパッケージ。
「コレ……もしかして、風邪薬?」
錠剤を三日分。自宅用の救急箱から、くすねてきた物だ。
自分の家にある物なのだから、「くすねてきた」という言い方には語弊があるが、
これは博士が自宅用として用意してくれた物だし、
風邪薬を貰っていく許可も取っていないので、気分的には盗んできたも同然だ。
博士に黙って、何かをアイヴィーに渡すこと自体にも罪悪感があった。
第一、薬は、医者に症状を診て貰い、処方された物を飲むべきだ。けれど――
薬を飲まないよりは、快復が早いだろう。そう思い、薬を渡した。
何か困ったことがあったら私の携帯に連絡して下さい、と言い添えて。
「あ、アリガト、##NAME1##ちゃん」
それじゃお大事に、と言って背中を向ける。
「##NAME1##ちゃん!」
##NAME1##は振り向く。
「あのさ。昨日、あのアイス屋に行ったってホント?」
##NAME1##は驚いた。「行きましたけど、どうして」と呟いた。
「アイスじーさんから聞いたんだ。『さっきまで居たよ』って……俺も行ったんだよ、昨日」
「##NAME1##ー! 何やってるんだよ、置いてくぞー」
アルフレッドが呼んでいる。
「あ、引き止めてゴメン。今日は来てくれてありがとね、ホント。じゃまた」
ドアが閉まった。梯子を上ってくる音がする。迎えに来たのはアルフレッドだった。
##NAME1##の顔を見て、首を傾げる。
「ん? どうした、##NAME1##。元気ないじゃん?」
##NAME1##は笑顔を作り、何でもない、と答えた。
「そ? じゃ、早く行こうぜ。あ、梯子下りる時、気ィ付けてな」
一段ずつゆっくり下りていく。タン、タンという音が物悲しく聞こえる。
「##NAME1##、手」
先に地上に降りているアルフレッドが手を差し出していた。
「最後の段、高くなってるから。ほら」
##NAME1##は彼の手に自分の手を重ねる。彼に支えられて、ふわりと最後の一段を下りた。
「行こうぜ、##NAME1##」
コテージとBMWをもう一度見てから、みんなが待っている車へと向かった。
fin
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