■闇の家系08 続編
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グラント当主との対面を終えたアイヴィー達三人は、
今夜宿泊する、ランベール館の一室に居た。
この部屋はゲスト用の部屋だそうで、ベッドも三つ用意されていた。
今夜はこの広い部屋で、ジョシュア、アイヴィー、ラルヴィスが一緒に泊まる。
「てゆうか、ちょっと広過ぎないかなー、この部屋。
ベッドもでかいし、ソファもクッションもフッカフカだし」
アイヴィーはクッションを抱きながら、ソファの座り心地を確かめている。
「ねえ。ラルちゃんも、そんな端っこに立ってないでさ、
コッチ来て座ったら? この部屋は俺達三人しか居ないんだしさ」
「いえ。わたくしにはどうぞお構いなく」
「じゃあ、ジョシュアー」
「はい?」
「お前さんからラルちゃんに『座って』って言ってあげて?」
「あ、はい。すみません。あの、良かったら、レイナさんも座って下さい」
「……殿下にまでお気遣い頂き、申し訳ございません。
畏まりました。それでは失礼させて頂きます」
「よっし。みんな座ったところで、やっと落ち着いたね。
今日はみんなお疲れ。伯父さんとのご対面も無事に終わって良かったな?」
「ええ。でも、驚きました。伯父さんが俺を次の当主にしたいと思っていたなんて」
「俺もそんな話が出てくるとは思ってなかったけどさ。
グラントの家訓上は男系の子孫が受け継ぐってルールなんだろ?
突然自分が死んだあとも、ちゃんとそのルールが守られるように、
ジョシュアにも、一応、話しておいたってかんじなんじゃないかなあ?」
「そうですね。そうかもしれません」
ジョシュアには同意を得ながらも、アイヴィーの胸にはモヤモヤが残る。
父エドワードの没後、突然グラント家に舞い込んだ後継者候補第一位。
おそらくジョシュアは『自分はグラント家にとって邪魔な存在』だと、
そう思ってきた筈だ。長い間ずっと。
ところが、今日、ご当主から聞いた話では、
ジョシュアのことを邪魔な存在と思うどころか、
本当に次期当主にしたいと思っていた、というのである。
ならば、これまで肩身の狭い想いをしてきたジョシュアは、何だったのだろう。
それとも、ご当主がジョシュアに好意的だったからこそ、
周囲の目が厳しく、それがジョシュアに突き刺さっていたのだろうか。
幼い頃のジョシュアは、この家に居た時、
誰に、どういう目で、見られていたんだろう。
アイヴィーは、少し想像するだけで、背筋が寒くなるようだった。
「ねえ。ラルちゃんはさ、今日の話、やっぱり王様にご報告するんだよね?」
「ええ。お伝え致します」
「だよねー」
アイヴィーはソファに身体を預け、喉仏を天井に向ける。
「なんかコッチに来て、ますます解んなくなってきちゃったなー。
グラントのご当主は、思ってたよりイイ人だったしー」
「アイヴィー。伯父さんのこと、悪い人だと思っていたんですか?」
「あ。いやー、グラントは悪く言われることもあるからさー。
でも、実際に会ってみると、めっちゃ紳士で、ステキなオジサマじゃん?
お前さんとも血が繋がってるだけあって、イケメンだったしな?」
「そう、ですか?」
「ああ。見た目だけじゃなくて、話し方とかも落ち着いてたし、
ウソ吐いてるようにも見えなかったし。
ジョシュアのことも、色々考えてくれてたみたいだしな?」
「ええ。伯父さんは昔からそうです。俺にも母にも優しくて、
俺がここに住んでいた時も、本当に良くして頂きました」
「そっか。ま。あとは明日、アルフォンソ島まで無事に帰るだけだな」
「そうですね」
「心配しなさんな。お前さんのことは俺が、死んでも守るから。
今日はラルちゃんも一緒に居てくれるし。ね?」
「アイヴィー様の仰る通りです。今宵はわたくし達がずっとお側におります。
殿下は何もご心配なさらず、ごゆるりとお休み下さい」
「そうそう。ってコトで今日はもう寝な? 疲れたろ? んじゃ、おやすみー」
「……駄目です。アイヴィーも俺と同じこと言っています」
「何が?」
「死んでも守るなんて言わないで下さい。
アイヴィーが犠牲になって、俺が助かっても駄目なんです。
アイヴィーも一緒に帰りましょう、アルフォンソ島へ。
レイナさんもです。怪我をせずに、ロレートに帰ると約束して下さい」
「殿下……畏まりました。殿下の仰せのままに」
「ムチャクチャ言うねえ、護衛の人間に向かって」
「でも、みんなが無事に帰らないと、きっと博士に叱られます」
「ハハッ。まーね。怒りんぼだからなー、ソクちゃんは。
わーったよ。俺もちゃんと帰るから。今日はもう寝な?
あ、俺達はしばらく、オトナのポーカーして遊んでるけど、
お前さんは気にしないで寝るんだぞ?」
ジョシュアが眠っている間も、二人は護衛を続けなくてはいけない。
それが二人の仕事で、その為に同じ部屋に泊まるのだと、
ジョシュアは理解してくれたようだった。
「……解りました。では、すみませんが、先に休みます。
おやすみなさい、アイヴィー、レイナさん」
「おう。おやすみー」
アイヴィーは片手を挙げ、ラルヴィスは頭を下げた。
「おやすみなさいませ、殿下」
→
今夜宿泊する、ランベール館の一室に居た。
この部屋はゲスト用の部屋だそうで、ベッドも三つ用意されていた。
今夜はこの広い部屋で、ジョシュア、アイヴィー、ラルヴィスが一緒に泊まる。
「てゆうか、ちょっと広過ぎないかなー、この部屋。
ベッドもでかいし、ソファもクッションもフッカフカだし」
アイヴィーはクッションを抱きながら、ソファの座り心地を確かめている。
「ねえ。ラルちゃんも、そんな端っこに立ってないでさ、
コッチ来て座ったら? この部屋は俺達三人しか居ないんだしさ」
「いえ。わたくしにはどうぞお構いなく」
「じゃあ、ジョシュアー」
「はい?」
「お前さんからラルちゃんに『座って』って言ってあげて?」
「あ、はい。すみません。あの、良かったら、レイナさんも座って下さい」
「……殿下にまでお気遣い頂き、申し訳ございません。
畏まりました。それでは失礼させて頂きます」
「よっし。みんな座ったところで、やっと落ち着いたね。
今日はみんなお疲れ。伯父さんとのご対面も無事に終わって良かったな?」
「ええ。でも、驚きました。伯父さんが俺を次の当主にしたいと思っていたなんて」
「俺もそんな話が出てくるとは思ってなかったけどさ。
グラントの家訓上は男系の子孫が受け継ぐってルールなんだろ?
突然自分が死んだあとも、ちゃんとそのルールが守られるように、
ジョシュアにも、一応、話しておいたってかんじなんじゃないかなあ?」
「そうですね。そうかもしれません」
ジョシュアには同意を得ながらも、アイヴィーの胸にはモヤモヤが残る。
父エドワードの没後、突然グラント家に舞い込んだ後継者候補第一位。
おそらくジョシュアは『自分はグラント家にとって邪魔な存在』だと、
そう思ってきた筈だ。長い間ずっと。
ところが、今日、ご当主から聞いた話では、
ジョシュアのことを邪魔な存在と思うどころか、
本当に次期当主にしたいと思っていた、というのである。
ならば、これまで肩身の狭い想いをしてきたジョシュアは、何だったのだろう。
それとも、ご当主がジョシュアに好意的だったからこそ、
周囲の目が厳しく、それがジョシュアに突き刺さっていたのだろうか。
幼い頃のジョシュアは、この家に居た時、
誰に、どういう目で、見られていたんだろう。
アイヴィーは、少し想像するだけで、背筋が寒くなるようだった。
「ねえ。ラルちゃんはさ、今日の話、やっぱり王様にご報告するんだよね?」
「ええ。お伝え致します」
「だよねー」
アイヴィーはソファに身体を預け、喉仏を天井に向ける。
「なんかコッチに来て、ますます解んなくなってきちゃったなー。
グラントのご当主は、思ってたよりイイ人だったしー」
「アイヴィー。伯父さんのこと、悪い人だと思っていたんですか?」
「あ。いやー、グラントは悪く言われることもあるからさー。
でも、実際に会ってみると、めっちゃ紳士で、ステキなオジサマじゃん?
お前さんとも血が繋がってるだけあって、イケメンだったしな?」
「そう、ですか?」
「ああ。見た目だけじゃなくて、話し方とかも落ち着いてたし、
ウソ吐いてるようにも見えなかったし。
ジョシュアのことも、色々考えてくれてたみたいだしな?」
「ええ。伯父さんは昔からそうです。俺にも母にも優しくて、
俺がここに住んでいた時も、本当に良くして頂きました」
「そっか。ま。あとは明日、アルフォンソ島まで無事に帰るだけだな」
「そうですね」
「心配しなさんな。お前さんのことは俺が、死んでも守るから。
今日はラルちゃんも一緒に居てくれるし。ね?」
「アイヴィー様の仰る通りです。今宵はわたくし達がずっとお側におります。
殿下は何もご心配なさらず、ごゆるりとお休み下さい」
「そうそう。ってコトで今日はもう寝な? 疲れたろ? んじゃ、おやすみー」
「……駄目です。アイヴィーも俺と同じこと言っています」
「何が?」
「死んでも守るなんて言わないで下さい。
アイヴィーが犠牲になって、俺が助かっても駄目なんです。
アイヴィーも一緒に帰りましょう、アルフォンソ島へ。
レイナさんもです。怪我をせずに、ロレートに帰ると約束して下さい」
「殿下……畏まりました。殿下の仰せのままに」
「ムチャクチャ言うねえ、護衛の人間に向かって」
「でも、みんなが無事に帰らないと、きっと博士に叱られます」
「ハハッ。まーね。怒りんぼだからなー、ソクちゃんは。
わーったよ。俺もちゃんと帰るから。今日はもう寝な?
あ、俺達はしばらく、オトナのポーカーして遊んでるけど、
お前さんは気にしないで寝るんだぞ?」
ジョシュアが眠っている間も、二人は護衛を続けなくてはいけない。
それが二人の仕事で、その為に同じ部屋に泊まるのだと、
ジョシュアは理解してくれたようだった。
「……解りました。では、すみませんが、先に休みます。
おやすみなさい、アイヴィー、レイナさん」
「おう。おやすみー」
アイヴィーは片手を挙げ、ラルヴィスは頭を下げた。
「おやすみなさいませ、殿下」
→
■闇の家系07 続編
グラント当主から握手を求められ、アイヴィーはその手を握りながら、
「ご丁寧にどうも。今日はお招き頂いてないのに、
自分まで押し掛けて、なんだか、すみません」
「とんでもない。聖アルフォンソ学院のセキュリティの高さを実感しました」
握手はしっかりと握り返された。強過ぎず、弱過ぎもしない、丁度良さで。
「今日は、ジョシュアの為にロンドンまで足を運んで頂き、ありがとうございます。
私がジョシュアの元へ行くことができれば良かったんですが、
それだと余計に、学院の皆さんに負担をかけてしまいそうで」
確かにな、とアイヴィーは心の中で呟いた。
この時期にグラント当主が島を訪れるとなれば、警備組織は厳戒態勢を免れない。
「それで、ジョシュアをこちらに呼ぶことにしたんですが、
それでもこうして、レイナさんに司令官さんまで同行させてしまう結果となり、
関係各位にご迷惑をお掛けして、申し訳ありません。
それに、本来であれば、今回のことがあった時に、
学院にも一報を入れるべきでは、とも思ったのですが、
学院の皆さんやこの子に無用な心配をかけるのもどうかと思いましてね。
ご連絡も差し上げず、司令官さんにはご無礼を致しました」
「ああ、いえいえ」
学院に連絡を入れなかったことを反省はしているらしい。
「それから、ジョシュア」
「はい」
「今回は私が襲撃されたことで、お前の名前を挙げられ、
心ない記事を書かれたことも知っている。
お前は純粋だから、さぞ心を痛めただろう。
私のせいで辛い思いをさせてすまなかったね、ジョシュア」
ジョシュアは首を横に振る。
「いいえ。俺は大丈夫ですから」
「しかし、報道のせいで、私の周りにも、お前を怪しむ者が居てね。
私は、お前にできる芸当ではないことは解っているんだがね」
アイヴィーはそっとラルヴィスの表情を伺う。
ラルヴィスは無言のままだったが、目は怒っていた。
殿下が疑われて腹立だしいのだろう。当主はこう続けた。
「ジョシュアには言っていなかったかもしれないが。
私はね? 昔から、相手が嘘を吐いているかどうか、目を見れば解るんだ。
だから、私から周囲に『本人に会って確かめた』と説明する為に、
私の目を見て、言ってくれないか、ジョシュア。
自分が仕組んだことではない、伯父を貶める理由はない、と」
「はい」
ジョシュアは伯父を真っ直ぐ見上げて言った。
「俺ではありません」
すると、伯父は優しく微笑んだ。
「曇りのない、綺麗な目だ。クリスティーナと同じ」
当主は穏やかな顔をして、ジョシュアを見た。
「お前は大きくなるにつれて似てくるね、あの子に。
クリスも、今のお前と同じように、澄んだ瞳をしていた」
アイヴィーは『クリス』がクリスティーナの愛称だと気付くのが少し遅れた。
愛称で亡き妹を呼ぶ兄の表情は寂しそうだった。
「ありがとう、ジョシュア。
やはり会って話すとよく解るね。お前が黒幕ではないと」
「社長? ご質問が足りないのでは?」
そう言ったのは秘書のヘンリーだった。
「納得がいかないかい? ヘンリー」
当主に尋ねられ、秘書はジョシュアに向かって、頭を下げた。
「ご無礼をお許し下さい、ジョシュア殿下。
殿下を疑う者とは、我が社の一部の人間のことなのです。
彼等を納得させる為に、どうかお聞かせ下さい。
ジョシュア殿下は、グラントが襲撃された当日、
聖アルフォンソ島にいらっしゃったのですよね?」
「はい」
「事件前、島の外部と連絡を取っていませんか?」
「外部……あ、一人の女性とは電話で話しました」
「女性?」
「日本に居る、俺のパートナーです。俺、彼女とは電話をしました。
でも、彼女は今回の事件に関係ありません」
「成程。では、今、仰って頂いたこと、証明することはできますか?」
「証明、ですか……」
「はーい。俺で良ければ、できますけど?」
手を挙げたのはアイヴィーだった。
「……アイヴィー、証明できるんですか?」
その時、一番驚いていたのはジョシュアだった。
「事件前、ジョシュアが島から出ていないことと、
カノジョとしか電話をしていないことは、
うちの警備組織の監視カメラと通信記録が証明できます。
ま、プライバシーの問題で、他の生徒の部分とか見せられないトコはありますけど?」
驚いているジョシュアとアイヴィーの目が合う。
「悪いな、ジョシュア。物的な証拠があったほうが良いって言うヒトが居てさ?
事前にお前さんのこと、調べさせて貰ってたんだわ。勝手なことしてゴメンな?」
「いいえ……ありがとうございます、アイヴィー」
「礼ならドクターに言いな? あのヒトのアイディアだから」
パチパチと拍手の音がする。
「素晴らしい。ジョシュアは本当に、良い人達に恵まれているね」
拍手をしていたのは当主だった。当主は秘書を見上げる。
「どうだい、ヘンリー? これで君の気は済んだかな?」
「――ええ。ご無礼の数々、申し訳ございませんでした、ジョシュア殿下」
「いいえ。良いんです」
「では、次の話に移ろうか」当主は身を乗り出す。「本当は次が本題なんだ」
「本題、ですか?」
「うん。実は、今回の一件で、私も少し弱気になってしまってね。
やはり私も、いつ、どうなるかは解らないと思い知らされた。
だから、万一の時に備えて、この機会にジョシュアと話をしたいと思ったんだ。
私の身に何かあれば、グラントは次の当主を立てなければならない。それは解るね?」
「……はい」
「これから言うことは、まだ誰とも相談をしていないことで、
私個人の意思なのだがね。この先、私に何かあれば。
私はね、ジョシュアにグラントを継いで貰いたいと思っているんだよ」
ジョシュア、アイヴィー、ラルヴィスは声も出せないでいた。
唯一、「えっ?」と僅かに声を発したのは、秘書のヘンリーだった。
「しかし、現状では、お前をグラント当主に立てることは難しい。
何故なら、お前は既に、ロレートの次期国王に指名されているからだ。
そこで、ロレート公国に伺いたいことがあるのですが。レイナさん?」
ラルヴィスは返事をするのが一瞬遅れる。
「はい。何でしょうか」
「もし私が、近いうち、本当に凶刃に倒れ、死亡した場合の話です。
その場合、ロレートの王子をグラント当主に立てることは可能でしょうか?」
ロレート公国としての答えを求められ、
ラルヴィスは少し俯いたあと、慎重に口を開いた。
「恐れ入りますが、前例がない為、わたくしの口から今すぐにはお答えしかねます」
「そうですか。では、レイナさんのお考えを聞かせて下さい」
「わたくしの考え、でございますか?」
「ええ。ロレートの国王陛下がご健在で、グラント当主が不在という場合でも、
ジョシュアを当主に迎えることは、できないと思われますか?」
「現実的に考えますと、その状況、かつ、殿下ご本人のご意思もあるなら、
グラント当主の座が優先される可能性は、あるかと存じます。
もちろん、それには各所との協議が必要となりますが」
「……本当なんですか、レイナさん。俺がグラントに……」
「殿下。只今、申し上げましたのは、あくまで可能性の一例でございます。
しかし、殿下や陛下のご意思を伺う前に、わたくし個人の考えを口にしたことで、
殿下のお心を惑わせ、申し訳ございません」
「あ、いえ、頭を上げて下さい」
「そうですよ。レイナさん個人のご意見を聞いたのは私なのですから、
レイナさんが謝ることではありません。ジョシュアも余り心配しないでくれ。
私だって、まだまだ元気でいるつもりなのだから」
「はい……」
「けれど、そうか。お前も既にグラントへ戻る意思はないようだね?」
「あ……」と言ったきり、ジョシュアは何も言えなくなってしまった。
「ハハッ。お前は昔から隠し事が苦手だね? 良いんだよ、ジョシュア。
お前はロレートの王子になると決めた時点で、
グラント当主の座を捨てる覚悟をしていた筈だ。
だから、お前はそれで良い。お前の心はロレートにあるべきなんだ」
「……はい。ありがとうございます」
「ではグラントは引き続き、後継者問題に頭を悩ませることにするよ。
候補者の第一位が王子様になるなんて、それこそ前例がなくて、
お恥ずかしいことに、こちらも色々と手探り状態なんですよ?」
「俺のせいで、すみません、伯父さん……」
「ああ、いやいや。すまない。ジョシュアの前で言うことではなかったね。
悪かった。気にしないでくれ? お前はお前の道を進みなさい。
あとは私達の問題だからね。――それから、ヘンリー?」
「はい、社長」
「今、聞いて貰った通りだよ? この子は候補から外れる。良いね?」
「ええ。畏まりました」
「さて。急にこんな話をして、皆さんを驚かせてしまい、
すみませんでした。でも……これでひとつ、解ったかもしれません」
「何ですか?」とジョシュア。
「いや。すまないが、今言うのは控えさせて欲しい。
これこそ、容易に口にしてはいけないことかもしれないからね。
しかし、ジョシュアは、なるべく早く学院に帰ったほうが良いでしょう。
呼び寄せておいて、すぐに帰れというのも気が引けますが、
今のロンドンにはあまり長く留まらないほうが良い。
三人用の部屋を用意しております。お二方も今夜はうちで早めにお休み下さい。
明日は朝一番で学院に帰れるよう、こちらで車をご用意致します」
「お心遣い痛み入りますが、帰りの手段は私共で用意しております。
どうぞご心配なく。殿下は我々が必ず、学院までご無事にお連れ致しますので」
「ああ、すみません。そうでしたね。ではお二方にお任せ致します。
ジョシュア。慌ただしい再会になってしまって、すまない。
でも、今日はお前と話せて、本当に良かった。
今度帰ってきた時はゆっくり食事でもしよう?」
「はい。俺も、伯父さんとお話しができて良かったです」
「そうか。ありがとう。では少し早いけれど、おやすみ、ジョシュア」
「おやすみなさい、伯父さん」
→
「ご丁寧にどうも。今日はお招き頂いてないのに、
自分まで押し掛けて、なんだか、すみません」
「とんでもない。聖アルフォンソ学院のセキュリティの高さを実感しました」
握手はしっかりと握り返された。強過ぎず、弱過ぎもしない、丁度良さで。
「今日は、ジョシュアの為にロンドンまで足を運んで頂き、ありがとうございます。
私がジョシュアの元へ行くことができれば良かったんですが、
それだと余計に、学院の皆さんに負担をかけてしまいそうで」
確かにな、とアイヴィーは心の中で呟いた。
この時期にグラント当主が島を訪れるとなれば、警備組織は厳戒態勢を免れない。
「それで、ジョシュアをこちらに呼ぶことにしたんですが、
それでもこうして、レイナさんに司令官さんまで同行させてしまう結果となり、
関係各位にご迷惑をお掛けして、申し訳ありません。
それに、本来であれば、今回のことがあった時に、
学院にも一報を入れるべきでは、とも思ったのですが、
学院の皆さんやこの子に無用な心配をかけるのもどうかと思いましてね。
ご連絡も差し上げず、司令官さんにはご無礼を致しました」
「ああ、いえいえ」
学院に連絡を入れなかったことを反省はしているらしい。
「それから、ジョシュア」
「はい」
「今回は私が襲撃されたことで、お前の名前を挙げられ、
心ない記事を書かれたことも知っている。
お前は純粋だから、さぞ心を痛めただろう。
私のせいで辛い思いをさせてすまなかったね、ジョシュア」
ジョシュアは首を横に振る。
「いいえ。俺は大丈夫ですから」
「しかし、報道のせいで、私の周りにも、お前を怪しむ者が居てね。
私は、お前にできる芸当ではないことは解っているんだがね」
アイヴィーはそっとラルヴィスの表情を伺う。
ラルヴィスは無言のままだったが、目は怒っていた。
殿下が疑われて腹立だしいのだろう。当主はこう続けた。
「ジョシュアには言っていなかったかもしれないが。
私はね? 昔から、相手が嘘を吐いているかどうか、目を見れば解るんだ。
だから、私から周囲に『本人に会って確かめた』と説明する為に、
私の目を見て、言ってくれないか、ジョシュア。
自分が仕組んだことではない、伯父を貶める理由はない、と」
「はい」
ジョシュアは伯父を真っ直ぐ見上げて言った。
「俺ではありません」
すると、伯父は優しく微笑んだ。
「曇りのない、綺麗な目だ。クリスティーナと同じ」
当主は穏やかな顔をして、ジョシュアを見た。
「お前は大きくなるにつれて似てくるね、あの子に。
クリスも、今のお前と同じように、澄んだ瞳をしていた」
アイヴィーは『クリス』がクリスティーナの愛称だと気付くのが少し遅れた。
愛称で亡き妹を呼ぶ兄の表情は寂しそうだった。
「ありがとう、ジョシュア。
やはり会って話すとよく解るね。お前が黒幕ではないと」
「社長? ご質問が足りないのでは?」
そう言ったのは秘書のヘンリーだった。
「納得がいかないかい? ヘンリー」
当主に尋ねられ、秘書はジョシュアに向かって、頭を下げた。
「ご無礼をお許し下さい、ジョシュア殿下。
殿下を疑う者とは、我が社の一部の人間のことなのです。
彼等を納得させる為に、どうかお聞かせ下さい。
ジョシュア殿下は、グラントが襲撃された当日、
聖アルフォンソ島にいらっしゃったのですよね?」
「はい」
「事件前、島の外部と連絡を取っていませんか?」
「外部……あ、一人の女性とは電話で話しました」
「女性?」
「日本に居る、俺のパートナーです。俺、彼女とは電話をしました。
でも、彼女は今回の事件に関係ありません」
「成程。では、今、仰って頂いたこと、証明することはできますか?」
「証明、ですか……」
「はーい。俺で良ければ、できますけど?」
手を挙げたのはアイヴィーだった。
「……アイヴィー、証明できるんですか?」
その時、一番驚いていたのはジョシュアだった。
「事件前、ジョシュアが島から出ていないことと、
カノジョとしか電話をしていないことは、
うちの警備組織の監視カメラと通信記録が証明できます。
ま、プライバシーの問題で、他の生徒の部分とか見せられないトコはありますけど?」
驚いているジョシュアとアイヴィーの目が合う。
「悪いな、ジョシュア。物的な証拠があったほうが良いって言うヒトが居てさ?
事前にお前さんのこと、調べさせて貰ってたんだわ。勝手なことしてゴメンな?」
「いいえ……ありがとうございます、アイヴィー」
「礼ならドクターに言いな? あのヒトのアイディアだから」
パチパチと拍手の音がする。
「素晴らしい。ジョシュアは本当に、良い人達に恵まれているね」
拍手をしていたのは当主だった。当主は秘書を見上げる。
「どうだい、ヘンリー? これで君の気は済んだかな?」
「――ええ。ご無礼の数々、申し訳ございませんでした、ジョシュア殿下」
「いいえ。良いんです」
「では、次の話に移ろうか」当主は身を乗り出す。「本当は次が本題なんだ」
「本題、ですか?」
「うん。実は、今回の一件で、私も少し弱気になってしまってね。
やはり私も、いつ、どうなるかは解らないと思い知らされた。
だから、万一の時に備えて、この機会にジョシュアと話をしたいと思ったんだ。
私の身に何かあれば、グラントは次の当主を立てなければならない。それは解るね?」
「……はい」
「これから言うことは、まだ誰とも相談をしていないことで、
私個人の意思なのだがね。この先、私に何かあれば。
私はね、ジョシュアにグラントを継いで貰いたいと思っているんだよ」
ジョシュア、アイヴィー、ラルヴィスは声も出せないでいた。
唯一、「えっ?」と僅かに声を発したのは、秘書のヘンリーだった。
「しかし、現状では、お前をグラント当主に立てることは難しい。
何故なら、お前は既に、ロレートの次期国王に指名されているからだ。
そこで、ロレート公国に伺いたいことがあるのですが。レイナさん?」
ラルヴィスは返事をするのが一瞬遅れる。
「はい。何でしょうか」
「もし私が、近いうち、本当に凶刃に倒れ、死亡した場合の話です。
その場合、ロレートの王子をグラント当主に立てることは可能でしょうか?」
ロレート公国としての答えを求められ、
ラルヴィスは少し俯いたあと、慎重に口を開いた。
「恐れ入りますが、前例がない為、わたくしの口から今すぐにはお答えしかねます」
「そうですか。では、レイナさんのお考えを聞かせて下さい」
「わたくしの考え、でございますか?」
「ええ。ロレートの国王陛下がご健在で、グラント当主が不在という場合でも、
ジョシュアを当主に迎えることは、できないと思われますか?」
「現実的に考えますと、その状況、かつ、殿下ご本人のご意思もあるなら、
グラント当主の座が優先される可能性は、あるかと存じます。
もちろん、それには各所との協議が必要となりますが」
「……本当なんですか、レイナさん。俺がグラントに……」
「殿下。只今、申し上げましたのは、あくまで可能性の一例でございます。
しかし、殿下や陛下のご意思を伺う前に、わたくし個人の考えを口にしたことで、
殿下のお心を惑わせ、申し訳ございません」
「あ、いえ、頭を上げて下さい」
「そうですよ。レイナさん個人のご意見を聞いたのは私なのですから、
レイナさんが謝ることではありません。ジョシュアも余り心配しないでくれ。
私だって、まだまだ元気でいるつもりなのだから」
「はい……」
「けれど、そうか。お前も既にグラントへ戻る意思はないようだね?」
「あ……」と言ったきり、ジョシュアは何も言えなくなってしまった。
「ハハッ。お前は昔から隠し事が苦手だね? 良いんだよ、ジョシュア。
お前はロレートの王子になると決めた時点で、
グラント当主の座を捨てる覚悟をしていた筈だ。
だから、お前はそれで良い。お前の心はロレートにあるべきなんだ」
「……はい。ありがとうございます」
「ではグラントは引き続き、後継者問題に頭を悩ませることにするよ。
候補者の第一位が王子様になるなんて、それこそ前例がなくて、
お恥ずかしいことに、こちらも色々と手探り状態なんですよ?」
「俺のせいで、すみません、伯父さん……」
「ああ、いやいや。すまない。ジョシュアの前で言うことではなかったね。
悪かった。気にしないでくれ? お前はお前の道を進みなさい。
あとは私達の問題だからね。――それから、ヘンリー?」
「はい、社長」
「今、聞いて貰った通りだよ? この子は候補から外れる。良いね?」
「ええ。畏まりました」
「さて。急にこんな話をして、皆さんを驚かせてしまい、
すみませんでした。でも……これでひとつ、解ったかもしれません」
「何ですか?」とジョシュア。
「いや。すまないが、今言うのは控えさせて欲しい。
これこそ、容易に口にしてはいけないことかもしれないからね。
しかし、ジョシュアは、なるべく早く学院に帰ったほうが良いでしょう。
呼び寄せておいて、すぐに帰れというのも気が引けますが、
今のロンドンにはあまり長く留まらないほうが良い。
三人用の部屋を用意しております。お二方も今夜はうちで早めにお休み下さい。
明日は朝一番で学院に帰れるよう、こちらで車をご用意致します」
「お心遣い痛み入りますが、帰りの手段は私共で用意しております。
どうぞご心配なく。殿下は我々が必ず、学院までご無事にお連れ致しますので」
「ああ、すみません。そうでしたね。ではお二方にお任せ致します。
ジョシュア。慌ただしい再会になってしまって、すまない。
でも、今日はお前と話せて、本当に良かった。
今度帰ってきた時はゆっくり食事でもしよう?」
「はい。俺も、伯父さんとお話しができて良かったです」
「そうか。ありがとう。では少し早いけれど、おやすみ、ジョシュア」
「おやすみなさい、伯父さん」
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■闇の家系06 続編
ランベール館の長い廊下を歩いていく。
先頭が執事。続いて、ラルヴィス、ジョシュア、アイヴィーの順だ。
「旦那様、ジョシュア様とお付きの方をお連れ致しました」
どうぞ、と声がした。執事がドアを開ける。
三人は当主が待つ部屋の中へ入っていく。
執事は部屋の中には入らず、静かにドアを閉めた。
アイヴィーは護衛として、部屋の中を注意深く観察する。
そこは本で囲まれた書斎のような部屋だった。
椅子から立ち上がり、こちらを向いた男性は、
まさに英国紳士と呼ぶに相応しい人だった。
年は40歳後半に差し掛かったくらいか。上品なグレイのスーツ。
髪はジョシュアより少し短く、整った口髭もよく似合っている。
そして、こちらを見た瞳は、ジョシュアと同じ、赤い色をしていた。
「お待たせしてすみませんでした。丁度、取引先から電話が来てしまって」
ジョシュアが大人になって、立派なジェントルマンになったら、
こういうかんじになるのかも、とアイヴィーは感じた。
甥の顔を見た伯父は、穏やかに微笑した。
「来てくれてありがとう、ジョシュア。おかえり」
「……ただいま、伯父さん」
アイヴィーから見て、ジョシュアの返事は、なんとなくぎこちなかった。
「あの、伯父さん、怪我の具合は?」
「ああ、もうすっかり良くなったよ。大丈夫」
「そうですか。良かった……」
ジョシュアは本当に安堵した様子だった。
いい子過ぎて、アイヴィーは泣けてくる想いだった。
「ニュースでは大袈裟に報道されてしまったから、心配させてすまなかったね。
私は、野球のバットのような物で一度殴られただけで、
頭に少し痣ができた程度なんだ。ヘンリーが守ってくれたから」
当主が見上げたのは、当主の後方に立っていた男。
高そうなグリーンのスーツも、尖った鷲顎も、プライドの高そうなキツイ視線も、
いかにもデキル男といった顔だ。部屋に入った瞬間から観察されていた。
アイヴィーは初めて見る顔だったが、それはジョシュアも同じだったらしく。
「じゃあ、そちらの方が、怪我をされた秘書さんですか?」
「そうだよ。ああ、ジョシュアもヘンリーと会うのは今日が初めてかい?
では紹介するよ。彼はグラントの新規事業に必要な人でね、
最近入って貰った、私の新しい秘書なんだ。今日は彼も同席させて下さい」
眼鏡の男が一歩前に出て、挨拶をした。
「グラントの秘書を務めております、ヘンリー・トルーマンと申します。
どうぞ宜しくお願い致します、皆様。
本日は、お目にかかれて光栄です、ジョシュア殿下」
「殿下なんて、そんな……」
ジョシュアは、ロレートの人間以外に「殿下」と呼ばれたことに驚いたらしい。
「あ、いえ、すみません。宜しくお願いします……」
殿下と呼ばれても可笑しくない身分に、既になっていることに、自分で気が付いたようだ。
自分の新しい身分に慣れていない、ジョシュアのたどたどしさは場を少し和ませた。
当主はパチンと両手を合わせながら、
「ああ、皆さんを立たせたままですみません。どうぞお掛け下さい」
当主が皆に席を勧める。眼鏡の秘書は座らず、当主の後方に控えていた。
ジョシュアとアイヴィーは、当主の正面に座ったが、
ラルヴィスは座ることを固辞した。その様子を見て、当主は微笑んだ。
「レイナさんは以前から変わりませんね。しかし今日、
側近のレイナさんがジョシュアの護衛で来て下さるとは」
「伯父さん、レイナさんと知り合いだったんですか?」
「もちろん。入学前の詳しい話はジョシュアには話していなかったけれどね。
お前の保証人がカーディス国王陛下であることは、もう聞いているね?」
「はい」
「ジョシュアを聖アルフォンソ学院に入れてはどうか、と提案して下さったのは、
カーディス国王陛下だった。レイナさんは、お前が入学できるまでの間、
ロレートとグラントの連絡係を務め、両家の間を上手く取り持って下さった。
お前がスムーズに聖アルフォンソ学院に入学できたのも、
レイナさんが架け橋となってくれたからだ。
お前は入学前からずっと、レイナさんにお世話になっていたんだよ?」
「そうだったんですか……すみません、レイナさん。俺、知らなくて」
「ご存知なかったのは当然です。殿下ご本人にはお伝えしないよう、
グラント様にお願いしていたのは、ロレートなのですから。
こちらこそグラント様には、殿下の王位継承権復帰の折には、
お世話になり、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。ところで、陛下はお変わりありませんか?」
「ええ。お元気でいらっしゃいます。陛下もグラント様を心配されておりました。
お怪我が良くなったとのこと、陛下にもお伝えさせて頂きます」
「ええ。ピンピンしていたとお伝え下さい。
陛下にもご心配をおかけして申し訳ありませんね」
グラント家とロレート大公家の挨拶が終わると、
当主の視線はアイヴィーに向けられた。その時になってアイヴィーは、
自分だけが両家の関係者ではない異分子だと、気付かされたような気がした。
「ではジョシュア? そちらの方が学院直属の、
警備組織からおいで頂いた方だね?」
「はい。アイヴィーは警備組織の司令官です。
俺達生徒は、いつもお世話になっています」
「司令官、ですか。トップの方に護衛して頂き、大変恐縮です。
司令官さんとは、今日が初めてになりますね」
当主はアイヴィーに手を差し出した。
「初めまして。私がジョシュアの伯父の、ネイサン・グラントです」
→
先頭が執事。続いて、ラルヴィス、ジョシュア、アイヴィーの順だ。
「旦那様、ジョシュア様とお付きの方をお連れ致しました」
どうぞ、と声がした。執事がドアを開ける。
三人は当主が待つ部屋の中へ入っていく。
執事は部屋の中には入らず、静かにドアを閉めた。
アイヴィーは護衛として、部屋の中を注意深く観察する。
そこは本で囲まれた書斎のような部屋だった。
椅子から立ち上がり、こちらを向いた男性は、
まさに英国紳士と呼ぶに相応しい人だった。
年は40歳後半に差し掛かったくらいか。上品なグレイのスーツ。
髪はジョシュアより少し短く、整った口髭もよく似合っている。
そして、こちらを見た瞳は、ジョシュアと同じ、赤い色をしていた。
「お待たせしてすみませんでした。丁度、取引先から電話が来てしまって」
ジョシュアが大人になって、立派なジェントルマンになったら、
こういうかんじになるのかも、とアイヴィーは感じた。
甥の顔を見た伯父は、穏やかに微笑した。
「来てくれてありがとう、ジョシュア。おかえり」
「……ただいま、伯父さん」
アイヴィーから見て、ジョシュアの返事は、なんとなくぎこちなかった。
「あの、伯父さん、怪我の具合は?」
「ああ、もうすっかり良くなったよ。大丈夫」
「そうですか。良かった……」
ジョシュアは本当に安堵した様子だった。
いい子過ぎて、アイヴィーは泣けてくる想いだった。
「ニュースでは大袈裟に報道されてしまったから、心配させてすまなかったね。
私は、野球のバットのような物で一度殴られただけで、
頭に少し痣ができた程度なんだ。ヘンリーが守ってくれたから」
当主が見上げたのは、当主の後方に立っていた男。
高そうなグリーンのスーツも、尖った鷲顎も、プライドの高そうなキツイ視線も、
いかにもデキル男といった顔だ。部屋に入った瞬間から観察されていた。
アイヴィーは初めて見る顔だったが、それはジョシュアも同じだったらしく。
「じゃあ、そちらの方が、怪我をされた秘書さんですか?」
「そうだよ。ああ、ジョシュアもヘンリーと会うのは今日が初めてかい?
では紹介するよ。彼はグラントの新規事業に必要な人でね、
最近入って貰った、私の新しい秘書なんだ。今日は彼も同席させて下さい」
眼鏡の男が一歩前に出て、挨拶をした。
「グラントの秘書を務めております、ヘンリー・トルーマンと申します。
どうぞ宜しくお願い致します、皆様。
本日は、お目にかかれて光栄です、ジョシュア殿下」
「殿下なんて、そんな……」
ジョシュアは、ロレートの人間以外に「殿下」と呼ばれたことに驚いたらしい。
「あ、いえ、すみません。宜しくお願いします……」
殿下と呼ばれても可笑しくない身分に、既になっていることに、自分で気が付いたようだ。
自分の新しい身分に慣れていない、ジョシュアのたどたどしさは場を少し和ませた。
当主はパチンと両手を合わせながら、
「ああ、皆さんを立たせたままですみません。どうぞお掛け下さい」
当主が皆に席を勧める。眼鏡の秘書は座らず、当主の後方に控えていた。
ジョシュアとアイヴィーは、当主の正面に座ったが、
ラルヴィスは座ることを固辞した。その様子を見て、当主は微笑んだ。
「レイナさんは以前から変わりませんね。しかし今日、
側近のレイナさんがジョシュアの護衛で来て下さるとは」
「伯父さん、レイナさんと知り合いだったんですか?」
「もちろん。入学前の詳しい話はジョシュアには話していなかったけれどね。
お前の保証人がカーディス国王陛下であることは、もう聞いているね?」
「はい」
「ジョシュアを聖アルフォンソ学院に入れてはどうか、と提案して下さったのは、
カーディス国王陛下だった。レイナさんは、お前が入学できるまでの間、
ロレートとグラントの連絡係を務め、両家の間を上手く取り持って下さった。
お前がスムーズに聖アルフォンソ学院に入学できたのも、
レイナさんが架け橋となってくれたからだ。
お前は入学前からずっと、レイナさんにお世話になっていたんだよ?」
「そうだったんですか……すみません、レイナさん。俺、知らなくて」
「ご存知なかったのは当然です。殿下ご本人にはお伝えしないよう、
グラント様にお願いしていたのは、ロレートなのですから。
こちらこそグラント様には、殿下の王位継承権復帰の折には、
お世話になり、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。ところで、陛下はお変わりありませんか?」
「ええ。お元気でいらっしゃいます。陛下もグラント様を心配されておりました。
お怪我が良くなったとのこと、陛下にもお伝えさせて頂きます」
「ええ。ピンピンしていたとお伝え下さい。
陛下にもご心配をおかけして申し訳ありませんね」
グラント家とロレート大公家の挨拶が終わると、
当主の視線はアイヴィーに向けられた。その時になってアイヴィーは、
自分だけが両家の関係者ではない異分子だと、気付かされたような気がした。
「ではジョシュア? そちらの方が学院直属の、
警備組織からおいで頂いた方だね?」
「はい。アイヴィーは警備組織の司令官です。
俺達生徒は、いつもお世話になっています」
「司令官、ですか。トップの方に護衛して頂き、大変恐縮です。
司令官さんとは、今日が初めてになりますね」
当主はアイヴィーに手を差し出した。
「初めまして。私がジョシュアの伯父の、ネイサン・グラントです」
→
■闇の家系05 続編
ロンドン郊外。『ランベール館』と呼ばれる、この大きな邸がグラントの本家だ。
アイヴィーはラルヴィスと共に護衛役として、ジョシュアをこの邸まで連れてきた。
ジョシュアは父親のエドワードが亡くなった後、
母親のクリスティーナ・グラントに連れられ、
彼女の実家にあたる、このランベール館に来たという。
父親が亡くなったのは、ジョシュアが五歳の頃。
それから、十三歳でアルフォンソ学院に入学するまで、
約八年の間、ジョシュアはこの邸で暮らしていたことになる。
母親はボランティアで世界中を回っていた為、
この邸に居る時、ジョシュアはいつも一人ぼっちだったのかもしれない。
ランベール館に着いた時、ジョシュアは邸の外観をぼうっと眺めていた。
あの時ジョシュアは、何を考えながら邸を見ていたんだろう。
あいつは、グラントのことをどう思っているんだろう。
「あの、アイヴィー様」
ラルヴィスの声でアイヴィーは我に返る。ここは既にランベール館の中。
グラント当主と会う為、アイヴィー、ジョシュア、ラルヴィスの三人は、
この応接室で待たされていた。ご当主はお電話中とのことだった。
「ん? なあに、ラルちゃん?」
「失礼ですが、アイヴィー様のネクタイが、
少々、緩んでいるようでしたので、
グラント様とお会いする前に直したほうが良いのではと」
今日のアイヴィーは、ジョシュア王子の護衛役ということで、
SPっぽい服のほうが良いかと思い、黒のスーツを着てみた。
スーツの中は、白のワイシャツに渋めのブルーのネクタイ。
アイヴィーは普段からそうだが、ネクタイは緩めに結ばれていた。
ラルヴィスはいつも通り、ダークグレイを基調とした軍服チックな正装。
ロレート国王側近としての服だ。今日もよく似合っている。
赤ワイン色の襟は折り目一つなく、きっちりと立てられていた。
ちなみにジョシュアも今日は正装だった。
ラルヴィスが身に付けているダークグレイと比べると、
色は明るいが、ジョシュアもグレイのシックなスーツを着ている。
甥と伯父が会うというには随分堅苦しい格好だ。
「アイヴィー様? 宜しければ、
わたくしがネクタイをお直し致しましょうか?」
「ああ、イイの、イイの。俺はコレで。
俺のネクタイは、こーゆー作戦だから」
「……作戦、でございますか?
何か深いお考えがあってのことなのですね?」
「まー、そんなカンジ」
「左様でございましたか。そうとは存じ上げず、
申し訳ございません。失礼なことを申し上げ」
「あー、いやいや、ゴメンね、コッチこそ」
コンコン、とドアがノックされた。
「失礼致します」
応接室に初老の紳士が入ってきた。彼はグラント家の執事だという男。
名前はルーカスと言ったか。玄関からこの部屋まで案内してくれた人だ。
年はおそらく50歳前後、白髪混じりの髪、ブラウンのスーツ姿だ。
「ジョシュア様、お待たせ致しました。旦那様のお部屋へご案内致します」
ご当主の長電話が終わったらしい。
「はい」
緊張した面持ちでジョシュアが席を立つ。
アイヴィーとラルヴィスも共に行こうとすると、執事はこう言った。
「恐れ入りますが、お付きの方は、お控え頂けませんか?」
ジョシュアは驚いて立ち止まり、護衛達を振り返る。執事は丁寧な口調で話す。
「旦那様とジョシュア様が、お話しになる席ですので、
お付きの方は、こちらでお待ち頂けないでしょうか?」
アイヴィーが、どういう言葉遣いで切り抜ければ良いのか悩んでいる間に、
すっと一歩前に出たのは、ラルヴィスだった。
「恐れ入りますが、私共も同行させて頂きたく存じます。
でなければ、ロレート公国のジョシュア殿下は、どこへもお連れできません。
これは、カーディス国王陛下、直々のご命令です」
ほう、と執事が微笑む。
「それはまた。陛下のお言葉ならば、無下にはできませんね。
しかし、ご幼少の頃は、ここで暮らしておいででしたのに、
それほど、この家は信用できませんか、ジョシュア様?」
ジョシュアが口を開くより先にラルヴィスが答えた。
「殿下のご意思ではございません。先程も申し上げましたように、
陛下のお言葉によるものであることを、ご理解頂きたく存じます」
「――成程。左様でございましたね。申し訳ございません」
執事はジョシュアに向かって、軽く頭を下げた。
「大変失礼致しました、ジョシュア様」
か細い声でジョシュアは、いいえ、とすぐに許した。
執事に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだったのだろう。
アイヴィーは見ていて、ジョシュアが痛々しかった。
ロレートとグラントの間に生まれた子どもは、
邸に入って早速、両家の板挟みに遭ってしまっていた。
当主に会う前からこんなんで大丈夫か、とアイヴィーは心配になる。
「それでは、お付きの方もご一緒にご案内させて頂きます。どうぞ」
→
アイヴィーはラルヴィスと共に護衛役として、ジョシュアをこの邸まで連れてきた。
ジョシュアは父親のエドワードが亡くなった後、
母親のクリスティーナ・グラントに連れられ、
彼女の実家にあたる、このランベール館に来たという。
父親が亡くなったのは、ジョシュアが五歳の頃。
それから、十三歳でアルフォンソ学院に入学するまで、
約八年の間、ジョシュアはこの邸で暮らしていたことになる。
母親はボランティアで世界中を回っていた為、
この邸に居る時、ジョシュアはいつも一人ぼっちだったのかもしれない。
ランベール館に着いた時、ジョシュアは邸の外観をぼうっと眺めていた。
あの時ジョシュアは、何を考えながら邸を見ていたんだろう。
あいつは、グラントのことをどう思っているんだろう。
「あの、アイヴィー様」
ラルヴィスの声でアイヴィーは我に返る。ここは既にランベール館の中。
グラント当主と会う為、アイヴィー、ジョシュア、ラルヴィスの三人は、
この応接室で待たされていた。ご当主はお電話中とのことだった。
「ん? なあに、ラルちゃん?」
「失礼ですが、アイヴィー様のネクタイが、
少々、緩んでいるようでしたので、
グラント様とお会いする前に直したほうが良いのではと」
今日のアイヴィーは、ジョシュア王子の護衛役ということで、
SPっぽい服のほうが良いかと思い、黒のスーツを着てみた。
スーツの中は、白のワイシャツに渋めのブルーのネクタイ。
アイヴィーは普段からそうだが、ネクタイは緩めに結ばれていた。
ラルヴィスはいつも通り、ダークグレイを基調とした軍服チックな正装。
ロレート国王側近としての服だ。今日もよく似合っている。
赤ワイン色の襟は折り目一つなく、きっちりと立てられていた。
ちなみにジョシュアも今日は正装だった。
ラルヴィスが身に付けているダークグレイと比べると、
色は明るいが、ジョシュアもグレイのシックなスーツを着ている。
甥と伯父が会うというには随分堅苦しい格好だ。
「アイヴィー様? 宜しければ、
わたくしがネクタイをお直し致しましょうか?」
「ああ、イイの、イイの。俺はコレで。
俺のネクタイは、こーゆー作戦だから」
「……作戦、でございますか?
何か深いお考えがあってのことなのですね?」
「まー、そんなカンジ」
「左様でございましたか。そうとは存じ上げず、
申し訳ございません。失礼なことを申し上げ」
「あー、いやいや、ゴメンね、コッチこそ」
コンコン、とドアがノックされた。
「失礼致します」
応接室に初老の紳士が入ってきた。彼はグラント家の執事だという男。
名前はルーカスと言ったか。玄関からこの部屋まで案内してくれた人だ。
年はおそらく50歳前後、白髪混じりの髪、ブラウンのスーツ姿だ。
「ジョシュア様、お待たせ致しました。旦那様のお部屋へご案内致します」
ご当主の長電話が終わったらしい。
「はい」
緊張した面持ちでジョシュアが席を立つ。
アイヴィーとラルヴィスも共に行こうとすると、執事はこう言った。
「恐れ入りますが、お付きの方は、お控え頂けませんか?」
ジョシュアは驚いて立ち止まり、護衛達を振り返る。執事は丁寧な口調で話す。
「旦那様とジョシュア様が、お話しになる席ですので、
お付きの方は、こちらでお待ち頂けないでしょうか?」
アイヴィーが、どういう言葉遣いで切り抜ければ良いのか悩んでいる間に、
すっと一歩前に出たのは、ラルヴィスだった。
「恐れ入りますが、私共も同行させて頂きたく存じます。
でなければ、ロレート公国のジョシュア殿下は、どこへもお連れできません。
これは、カーディス国王陛下、直々のご命令です」
ほう、と執事が微笑む。
「それはまた。陛下のお言葉ならば、無下にはできませんね。
しかし、ご幼少の頃は、ここで暮らしておいででしたのに、
それほど、この家は信用できませんか、ジョシュア様?」
ジョシュアが口を開くより先にラルヴィスが答えた。
「殿下のご意思ではございません。先程も申し上げましたように、
陛下のお言葉によるものであることを、ご理解頂きたく存じます」
「――成程。左様でございましたね。申し訳ございません」
執事はジョシュアに向かって、軽く頭を下げた。
「大変失礼致しました、ジョシュア様」
か細い声でジョシュアは、いいえ、とすぐに許した。
執事に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだったのだろう。
アイヴィーは見ていて、ジョシュアが痛々しかった。
ロレートとグラントの間に生まれた子どもは、
邸に入って早速、両家の板挟みに遭ってしまっていた。
当主に会う前からこんなんで大丈夫か、とアイヴィーは心配になる。
「それでは、お付きの方もご一緒にご案内させて頂きます。どうぞ」
→
■闇の家系04 続編
「あのねえ」
アンリは苛立ちを隠さない。
「ネイサン・グラントに呼ばれたからって、
素直にロンドンに行くことないでしょう?」
鋭い眼差しに、ジョシュアは思わず一歩後退りながら、
「でも、伯父さんが大事な話があるから、直接会って話し」
「だから」
アンリはジョシュアの言葉を切った。
「それで君が、体良く犯人に仕立て上げられたり、
挙句に殺されたりする可能性をちっとも考えないの?」
「伯父さんはそんなことするような」
「彼の人柄について君と議論したくない。するだけ無駄だから」
昨日、ジョシュアの元に、グラント家の執事から電話があった。
怪我の具合が良くなり、退院した当主のネイサン・グラントが、
ジョシュアと会って話したいことがあるので、
できるだけ早く、グラント本家に来て欲しい。そう言われたのだ。
一晩考え、伯父に会いに行くことを決めたジョシュアは、
先程、夕食の席で「明日からロンドンに行ってくる」と皆に話した。
その夕食後、ジョシュアはアンリに手首を掴まれ、
「ちょっと来て」とアンリの部屋に連れて来られた。
「君ってさ、どうしてそんなに、お人好しなの?」
おそらく怒られるのだろうと思ってはいたが、予想以上にアンリは苛立っていた。
「ごめん。アンリの言う通り、俺が今、ロンドンに行くのは、
危険かもしれない。それで、護衛が二人付いてくれることになったんだ」
「その二人の護衛、信用できるの?」
「大丈夫だよ。二人とも本当に良い人で、
あの二人が一緒に来てくれるなんて、申し訳ないくらいなんだ」
「じゃあ、僕がこれ以上、何を言っても、君はネイサン・グラントと会うんだね?」
「うん。会ってくる」
「じゃあ、この話はこれで終わりだね。時間の無駄だから。
もう用はないから、さっさと出て行って」
「うん。ごめんね、アンリ。おやすみ」
ドアが開き、閉まる音がした。
一人になったアンリは、短い息を吐きながら、ベッドに倒れ込んだ。
同じ夜。
アイヴィーはソクーロフを連れて、旧市街のバーに来ていた。
二人はカウンター席の端に座っている。
軽く夕食を取りながら、ちびりちびりと飲んでいた。
今日は車で来ているアイヴィーはジンジャーエール、
助手席に乗ってきたソクーロフは透明なウオッカだ。
「では、ロレートからも応援が来るんだな? 国王の側近が直々に」
「うん。ラルちゃんがね。やっぱ俺一人で24時間守るのは無理あるし、
ラルちゃんもジョシュアのこと心配してくれてたから。
今回は協力して貰っちゃった。明日、朝イチで島の空港まで来てくれるって。
だから、島を出るところから、二人体制でバッチリ警備」
アイヴィーは指でピースして見せる。
「ロンドンで合流すれば良さそうなものだがな」
「俺もそう言ったんだけど、ラルちゃん、マジメだから。
ま、今回は三人で仲良くロンドンに行ってくるよ。
ちょっとの危険はあるカモだけど、行かないよりは解ることもあるだろうし」
「今回の状況では、ロレートに応援を要請したのは正解だろうな。
島は警備強化期間中なのだから、なるべく外に人員を出したくはない。
また、グラント側から、見知らぬSPを付けられるよりは、
顔や性格を知っている、ロレートの側近のほうが余程信用できる。
側近の彼ならば、誠心誠意、ジョシュア殿下を守ってくれるだろう」
「おっ? ソクちゃんが俺の作戦をホメてくれるなんて珍しいじゃん?」
「私が評価しているのは、側近の真面目さと従順さだ」
「もー。俺には冷たいんだからー」
アイヴィーは笑っていた。
そのあと、笑みを浮かべながら静かにこう言った。
「でも、こうやって、ソクちゃんにイジワル言われるのも、
今夜が最後かもしれないねー。……なーんつって」
アイヴィーは隣を覗き込む。
「アレ? ちょっとムシしないでよー。ジョークなんだから」
「笑って欲しければ、面白いジョークを言うんだな」
「ほらー。またすぐイジワル言うー」
「そろそろ引き上げるぞ。警備する側が寝不足で体調不良では話にならん」
「あ、ちょっと待ってよー」
アイヴィーの車で、ソクーロフを教職員用の宿舎まで送って行く。
海沿いの道路を走っている時、黒い海の上には金色の三日月が浮かんでいた。
その夜、月は、やけに綺麗に見えた。
「明日の早朝、島を出発し、その夜はグラント家に泊まるんだったな?」
唐突に、助手席から声がした。
どうしたんだろうと思いながら、運転手は答える。
「うん。そうだけど?」
「グラント家に着き、当主とジョシュアの対面が終了したら、状況を報告しろ」
運転手は思わず聞き返す。
「えっ? 報告?」
「何か起こっても、起こらなくても、
その日、ジョシュアの周りで起きたことを、私に報告するんだ」
「ええっ!? 俺がロンドンから、ソクちゃんにお電話しろってこと?」
「できないのか?」
「い、いや、でも……」
「返事は?」
「ハイ……って! 次の日には島に帰ってくんのに、
なんで、わざわざ国際電話しなきゃなんないのさー?」
「ジョシュアを守る為に決まっている。お前が見聞きしたことを、
私の頭で考え、解析してやる。お前の頭はスッカラカンだからな」
「だ、誰がスッカラカンだー!」
→
アンリは苛立ちを隠さない。
「ネイサン・グラントに呼ばれたからって、
素直にロンドンに行くことないでしょう?」
鋭い眼差しに、ジョシュアは思わず一歩後退りながら、
「でも、伯父さんが大事な話があるから、直接会って話し」
「だから」
アンリはジョシュアの言葉を切った。
「それで君が、体良く犯人に仕立て上げられたり、
挙句に殺されたりする可能性をちっとも考えないの?」
「伯父さんはそんなことするような」
「彼の人柄について君と議論したくない。するだけ無駄だから」
昨日、ジョシュアの元に、グラント家の執事から電話があった。
怪我の具合が良くなり、退院した当主のネイサン・グラントが、
ジョシュアと会って話したいことがあるので、
できるだけ早く、グラント本家に来て欲しい。そう言われたのだ。
一晩考え、伯父に会いに行くことを決めたジョシュアは、
先程、夕食の席で「明日からロンドンに行ってくる」と皆に話した。
その夕食後、ジョシュアはアンリに手首を掴まれ、
「ちょっと来て」とアンリの部屋に連れて来られた。
「君ってさ、どうしてそんなに、お人好しなの?」
おそらく怒られるのだろうと思ってはいたが、予想以上にアンリは苛立っていた。
「ごめん。アンリの言う通り、俺が今、ロンドンに行くのは、
危険かもしれない。それで、護衛が二人付いてくれることになったんだ」
「その二人の護衛、信用できるの?」
「大丈夫だよ。二人とも本当に良い人で、
あの二人が一緒に来てくれるなんて、申し訳ないくらいなんだ」
「じゃあ、僕がこれ以上、何を言っても、君はネイサン・グラントと会うんだね?」
「うん。会ってくる」
「じゃあ、この話はこれで終わりだね。時間の無駄だから。
もう用はないから、さっさと出て行って」
「うん。ごめんね、アンリ。おやすみ」
ドアが開き、閉まる音がした。
一人になったアンリは、短い息を吐きながら、ベッドに倒れ込んだ。
同じ夜。
アイヴィーはソクーロフを連れて、旧市街のバーに来ていた。
二人はカウンター席の端に座っている。
軽く夕食を取りながら、ちびりちびりと飲んでいた。
今日は車で来ているアイヴィーはジンジャーエール、
助手席に乗ってきたソクーロフは透明なウオッカだ。
「では、ロレートからも応援が来るんだな? 国王の側近が直々に」
「うん。ラルちゃんがね。やっぱ俺一人で24時間守るのは無理あるし、
ラルちゃんもジョシュアのこと心配してくれてたから。
今回は協力して貰っちゃった。明日、朝イチで島の空港まで来てくれるって。
だから、島を出るところから、二人体制でバッチリ警備」
アイヴィーは指でピースして見せる。
「ロンドンで合流すれば良さそうなものだがな」
「俺もそう言ったんだけど、ラルちゃん、マジメだから。
ま、今回は三人で仲良くロンドンに行ってくるよ。
ちょっとの危険はあるカモだけど、行かないよりは解ることもあるだろうし」
「今回の状況では、ロレートに応援を要請したのは正解だろうな。
島は警備強化期間中なのだから、なるべく外に人員を出したくはない。
また、グラント側から、見知らぬSPを付けられるよりは、
顔や性格を知っている、ロレートの側近のほうが余程信用できる。
側近の彼ならば、誠心誠意、ジョシュア殿下を守ってくれるだろう」
「おっ? ソクちゃんが俺の作戦をホメてくれるなんて珍しいじゃん?」
「私が評価しているのは、側近の真面目さと従順さだ」
「もー。俺には冷たいんだからー」
アイヴィーは笑っていた。
そのあと、笑みを浮かべながら静かにこう言った。
「でも、こうやって、ソクちゃんにイジワル言われるのも、
今夜が最後かもしれないねー。……なーんつって」
アイヴィーは隣を覗き込む。
「アレ? ちょっとムシしないでよー。ジョークなんだから」
「笑って欲しければ、面白いジョークを言うんだな」
「ほらー。またすぐイジワル言うー」
「そろそろ引き上げるぞ。警備する側が寝不足で体調不良では話にならん」
「あ、ちょっと待ってよー」
アイヴィーの車で、ソクーロフを教職員用の宿舎まで送って行く。
海沿いの道路を走っている時、黒い海の上には金色の三日月が浮かんでいた。
その夜、月は、やけに綺麗に見えた。
「明日の早朝、島を出発し、その夜はグラント家に泊まるんだったな?」
唐突に、助手席から声がした。
どうしたんだろうと思いながら、運転手は答える。
「うん。そうだけど?」
「グラント家に着き、当主とジョシュアの対面が終了したら、状況を報告しろ」
運転手は思わず聞き返す。
「えっ? 報告?」
「何か起こっても、起こらなくても、
その日、ジョシュアの周りで起きたことを、私に報告するんだ」
「ええっ!? 俺がロンドンから、ソクちゃんにお電話しろってこと?」
「できないのか?」
「い、いや、でも……」
「返事は?」
「ハイ……って! 次の日には島に帰ってくんのに、
なんで、わざわざ国際電話しなきゃなんないのさー?」
「ジョシュアを守る為に決まっている。お前が見聞きしたことを、
私の頭で考え、解析してやる。お前の頭はスッカラカンだからな」
「だ、誰がスッカラカンだー!」
→
■闇の家系03 続編
「お話ししたいことがあるので、生徒代表室に来て頂けませんか」
電話でそうジョシュアに呼ばれたアイヴィーは、
ソクーロフを連れて、生徒代表室に向かった。
生徒代表室のドアをノックすると、少し硬い表情をしたジョシュアがドアを開けた。
「すみません。突然お呼びして。どうぞ」
大きな窓の外では、月桂樹の青々とした葉が揺れている。
アイヴィーとソクーロフはソファに通され、
テーブルを挟み、ジョシュアと向き合って座った。
アイヴィーがそっと18歳の生徒代表の表情を窺うと、
可哀相になるくらい、緊張し、思い詰めた顔をしていて、
どう切り出して良いのか解らない、といったかんじが読み取れた。
呼び出された理由は、事件の話だろうとアイヴィーも解っていた。
しかし、近年の生徒代表の中でも、人一倍、気の優しいジョシュアだ。
この手のネタは、話し難いのだろうとアイヴィーは察する。
ジョシュアは一度、口を開きかけたが、そのあと俯いてしまった。
何とも言えない、気まずい沈黙が数秒続く。
重苦しい間に耐えられず、アイヴィーは、そっとソクーロフに視線を投げる。
すると、無音の溜め息を吐かれ、冷たい眼差しがアイヴィーに向けられた。
「ジョシュア?」
一秒前の冷たさとは真逆の、慈愛に満ちた声がソクーロフの口から出ていた。
名を呼ばれ、ジョシュアがビクリと顔を上げた。
「君の伯父さんが襲撃され、怪我をしたという事件については、私達も知っているよ。
君からアイヴィーに電話があった時も、その件について話していたところだ」
ソクーロフがそう切り出すと、強張っていたジョシュアの肩が下がり、
その表情からは明らかに緊張が和らいだ。
「そう、でしたか」
それまで止めていた息をゆっくりと吐き出すかのように、
ジョシュアは静かに呼吸をした。
「伯父さんが被害に遭い、君はさぞ苦しんだだろう。
それに、酷い書き方をされていた記事もあったね。まるで君が犯人かのように」
この場はソクーロフが引き受けてくれるようなので、
アイヴィーは完全に話し手を譲り、二人の会話を見守ることに徹する。
この時のソクーロフは、落ち着きのある、優しい話し方をしていた。
普段よりゆっくりと、一語一語をしっかり相手に伝えるように。
アイヴィーと接している時とは全然違う。
これではまるで『信頼できるドクター』みたいだ。
アイヴィーは少し腑に落ちない思いをしていた。
「最初に伝えておくよ。ジョシュア。
私達は、あれが君の仕業だとは微塵も思っていない」
ジョシュアは唇を硬く結んだ。
ジョシュアが今欲しているであろう言葉を全て与えるかのように、
ソクーロフは優しく、言葉を重ねていく。
「何故なら、まず、君には伯父さんを狙う理由がない。
何より、君のように優しい子には、到底できない、
思いつきもしない所業だからだ。そうだろう?」
「……はい。俺じゃありません」
「解っているよ。君じゃない。君の筈がない。
それは、君と六年一緒に居る私達がよく知っていることだ」
「……ありがとう、ござい、ます。
ウーティスのみんなも、そう、言ってくれて……」
最後のほうは声が掠れて、よく聞こえない程だった。
ジョシュアは泣くのを必死に堪えていた。
アイヴィーはギョッとする。
たった数分で、泣く寸前までジョシュアを感動させたドクターの手腕に。
すると、ソクーロフは席を立ち、ジョシュアの傍に行った。
どうしたんだろう、とアイヴィーが見守っていると、
ソクーロフはジョシュアを抱き締めた。
驚きの余りアイヴィーは声さえ出なかった。
ソクーロフは抱き締めながら、ジョシュアに何か声をかけていた。
「すみません……」と呟くジョシュアの涙声が微かに聞こえる。
ソクーロフは更に、ジョシュアの頭を引き寄せ、
すっぽりとジョシュアの全てを包み込むようなハグをしていた。
アイヴィーはこの時ほど『ハグの力は偉大だ』と思ったことはない。
その後、ジョシュアが落ち着くまで、ソクーロフはずっと抱き締めていた。
アイヴィーはその間、ハグ・カウンセリングの邪魔にならないよう、
黙って見ていることしかできなかったが、
思っていた以上に、ジョシュアは傷付いていたようだと知った。
相手がソクーロフとは言え、少し声をかけられたくらいで、
これほど脆く、感情が揺れるとは思いもしなかった。
いや、傷付いていたという以上に、ソクーロフやウーティスの仲間達が、
全面的に自分を信じてくれたことへの感動だったのかもしれない。
だが、信じて貰えるのは、ジョシュアの人望によるものであって、
信じて貰えないかもしれないと思っていたのは、おそらく本人だけだろう。
時間を持て余していたアイヴィーは、そんなことを考えていた。
ジョシュアが充分に落ち着いた頃、ソクーロフは話を再開させた。
「さて。君の伯父さんが襲われ、犯人の候補として君の名が挙がっている中、
君は私達に話があると呼び出した。話というのは、これで終わりかい?
それとも、私達に何か頼みたいことがあるのかな?」
「はい。警備の皆さんにお願いしたいことがあります」
ソクーロフはアイヴィーをチラと見ながら、
「警備ね。丁度、その責任者がここに居るよ。
遠慮なく言ってごらん、ジョシュア」
「伯父さんを襲った犯人が、次に何をするか解りません。
万一のことを考えて、島の警備強化をお願いしたいと思っています。
もし、犯人の狙いがグラントの人間であるなら、
――可能性は低いとは思いますが、次は俺かもしれません。だから」
ソクーロフとアイヴィーに見つめられる中、ジョシュアは言った。
「みんなを守って下さい」
「それが、君のお願いかい?」
「はい」
「その『みんな』の中には、君も入っていると、そう考えても良いのかな?」
「……はい、でも」
「でも?」
「みんなを優先して下さい。俺のせいで他の誰かが傷付くのは」
「ジョシュア?」
ソクーロフは優しく、かつ毅然とした声で語り掛けた。
「自分が犠牲になっても、みんなを守りたい。
その思想を、私はとても尊いと思うよ?
けれど、自分を蔑ろにするということは、
君の周りに居る人のことも蔑ろにするのと同義なんだ。解るかね?」
ジョシュアは黙ってしまった。ソクーロフは続ける。
「君の場合は、自分の立場を他人に置き換えてみると理解しやすいかな?
例を挙げて話そう。例えば、君を狙って、この島に大勢の侵入者が来たとする。
そうなれば、警備組織は、君を守る為に戦うだろう。
そして、最後に敵が一人残ったとする。敵は警備司令官にこう言う。
司令官が死ぬのなら、ジョシュアの命は見逃しても良い、と」
「えっ?」
「そうなれば、司令官は迷わず言うだろう。解った、と」
「駄目です! そんな、そんなこと」
「どうして駄目なんだい? ジョシュア。
君はさっき、それと同じことを私達に言ったんだよ?
『みんなを優先して下さい』と。みんなと自分、二者択一の場面があれば、
自分が死んでも、みんなを優先して欲しい、そう君は願ったんだろう?」
「はい……」
「君が死んで、みんなが助かっても、みんなは悲しむだけだ。
自己犠牲という名の身勝手は周囲を悲しませる。解るかい? ジョシュア」
「……はい。すみません、博士」
「良いんだよ。この問題は難しく、大人でも解っていない者が居るから。
それでは、もう一度、私達にお願いしてごらん、ジョシュア」
「はい」
ジョシュアが大人達を見上げる。
「みんなを守って下さい、俺も、警備の皆さんも含めて。
どうか、警備の皆さんも怪我をしないで下さい」
アイヴィーは思わず吹き出す。
まさかここで、警備も『みんな』に含められるとは思っていなかった。
「アハハッ。ソクちゃんのせいでムチャ振りになっちゃったよ」
「それで良いんだよ、ジョシュア。よく言えたね」
ソクーロフに褒められ、少し照れたジョシュアは、
普段の大人びた顔より子どもっぽく見えて、アイヴィーは妙に安心した。
→
電話でそうジョシュアに呼ばれたアイヴィーは、
ソクーロフを連れて、生徒代表室に向かった。
生徒代表室のドアをノックすると、少し硬い表情をしたジョシュアがドアを開けた。
「すみません。突然お呼びして。どうぞ」
大きな窓の外では、月桂樹の青々とした葉が揺れている。
アイヴィーとソクーロフはソファに通され、
テーブルを挟み、ジョシュアと向き合って座った。
アイヴィーがそっと18歳の生徒代表の表情を窺うと、
可哀相になるくらい、緊張し、思い詰めた顔をしていて、
どう切り出して良いのか解らない、といったかんじが読み取れた。
呼び出された理由は、事件の話だろうとアイヴィーも解っていた。
しかし、近年の生徒代表の中でも、人一倍、気の優しいジョシュアだ。
この手のネタは、話し難いのだろうとアイヴィーは察する。
ジョシュアは一度、口を開きかけたが、そのあと俯いてしまった。
何とも言えない、気まずい沈黙が数秒続く。
重苦しい間に耐えられず、アイヴィーは、そっとソクーロフに視線を投げる。
すると、無音の溜め息を吐かれ、冷たい眼差しがアイヴィーに向けられた。
「ジョシュア?」
一秒前の冷たさとは真逆の、慈愛に満ちた声がソクーロフの口から出ていた。
名を呼ばれ、ジョシュアがビクリと顔を上げた。
「君の伯父さんが襲撃され、怪我をしたという事件については、私達も知っているよ。
君からアイヴィーに電話があった時も、その件について話していたところだ」
ソクーロフがそう切り出すと、強張っていたジョシュアの肩が下がり、
その表情からは明らかに緊張が和らいだ。
「そう、でしたか」
それまで止めていた息をゆっくりと吐き出すかのように、
ジョシュアは静かに呼吸をした。
「伯父さんが被害に遭い、君はさぞ苦しんだだろう。
それに、酷い書き方をされていた記事もあったね。まるで君が犯人かのように」
この場はソクーロフが引き受けてくれるようなので、
アイヴィーは完全に話し手を譲り、二人の会話を見守ることに徹する。
この時のソクーロフは、落ち着きのある、優しい話し方をしていた。
普段よりゆっくりと、一語一語をしっかり相手に伝えるように。
アイヴィーと接している時とは全然違う。
これではまるで『信頼できるドクター』みたいだ。
アイヴィーは少し腑に落ちない思いをしていた。
「最初に伝えておくよ。ジョシュア。
私達は、あれが君の仕業だとは微塵も思っていない」
ジョシュアは唇を硬く結んだ。
ジョシュアが今欲しているであろう言葉を全て与えるかのように、
ソクーロフは優しく、言葉を重ねていく。
「何故なら、まず、君には伯父さんを狙う理由がない。
何より、君のように優しい子には、到底できない、
思いつきもしない所業だからだ。そうだろう?」
「……はい。俺じゃありません」
「解っているよ。君じゃない。君の筈がない。
それは、君と六年一緒に居る私達がよく知っていることだ」
「……ありがとう、ござい、ます。
ウーティスのみんなも、そう、言ってくれて……」
最後のほうは声が掠れて、よく聞こえない程だった。
ジョシュアは泣くのを必死に堪えていた。
アイヴィーはギョッとする。
たった数分で、泣く寸前までジョシュアを感動させたドクターの手腕に。
すると、ソクーロフは席を立ち、ジョシュアの傍に行った。
どうしたんだろう、とアイヴィーが見守っていると、
ソクーロフはジョシュアを抱き締めた。
驚きの余りアイヴィーは声さえ出なかった。
ソクーロフは抱き締めながら、ジョシュアに何か声をかけていた。
「すみません……」と呟くジョシュアの涙声が微かに聞こえる。
ソクーロフは更に、ジョシュアの頭を引き寄せ、
すっぽりとジョシュアの全てを包み込むようなハグをしていた。
アイヴィーはこの時ほど『ハグの力は偉大だ』と思ったことはない。
その後、ジョシュアが落ち着くまで、ソクーロフはずっと抱き締めていた。
アイヴィーはその間、ハグ・カウンセリングの邪魔にならないよう、
黙って見ていることしかできなかったが、
思っていた以上に、ジョシュアは傷付いていたようだと知った。
相手がソクーロフとは言え、少し声をかけられたくらいで、
これほど脆く、感情が揺れるとは思いもしなかった。
いや、傷付いていたという以上に、ソクーロフやウーティスの仲間達が、
全面的に自分を信じてくれたことへの感動だったのかもしれない。
だが、信じて貰えるのは、ジョシュアの人望によるものであって、
信じて貰えないかもしれないと思っていたのは、おそらく本人だけだろう。
時間を持て余していたアイヴィーは、そんなことを考えていた。
ジョシュアが充分に落ち着いた頃、ソクーロフは話を再開させた。
「さて。君の伯父さんが襲われ、犯人の候補として君の名が挙がっている中、
君は私達に話があると呼び出した。話というのは、これで終わりかい?
それとも、私達に何か頼みたいことがあるのかな?」
「はい。警備の皆さんにお願いしたいことがあります」
ソクーロフはアイヴィーをチラと見ながら、
「警備ね。丁度、その責任者がここに居るよ。
遠慮なく言ってごらん、ジョシュア」
「伯父さんを襲った犯人が、次に何をするか解りません。
万一のことを考えて、島の警備強化をお願いしたいと思っています。
もし、犯人の狙いがグラントの人間であるなら、
――可能性は低いとは思いますが、次は俺かもしれません。だから」
ソクーロフとアイヴィーに見つめられる中、ジョシュアは言った。
「みんなを守って下さい」
「それが、君のお願いかい?」
「はい」
「その『みんな』の中には、君も入っていると、そう考えても良いのかな?」
「……はい、でも」
「でも?」
「みんなを優先して下さい。俺のせいで他の誰かが傷付くのは」
「ジョシュア?」
ソクーロフは優しく、かつ毅然とした声で語り掛けた。
「自分が犠牲になっても、みんなを守りたい。
その思想を、私はとても尊いと思うよ?
けれど、自分を蔑ろにするということは、
君の周りに居る人のことも蔑ろにするのと同義なんだ。解るかね?」
ジョシュアは黙ってしまった。ソクーロフは続ける。
「君の場合は、自分の立場を他人に置き換えてみると理解しやすいかな?
例を挙げて話そう。例えば、君を狙って、この島に大勢の侵入者が来たとする。
そうなれば、警備組織は、君を守る為に戦うだろう。
そして、最後に敵が一人残ったとする。敵は警備司令官にこう言う。
司令官が死ぬのなら、ジョシュアの命は見逃しても良い、と」
「えっ?」
「そうなれば、司令官は迷わず言うだろう。解った、と」
「駄目です! そんな、そんなこと」
「どうして駄目なんだい? ジョシュア。
君はさっき、それと同じことを私達に言ったんだよ?
『みんなを優先して下さい』と。みんなと自分、二者択一の場面があれば、
自分が死んでも、みんなを優先して欲しい、そう君は願ったんだろう?」
「はい……」
「君が死んで、みんなが助かっても、みんなは悲しむだけだ。
自己犠牲という名の身勝手は周囲を悲しませる。解るかい? ジョシュア」
「……はい。すみません、博士」
「良いんだよ。この問題は難しく、大人でも解っていない者が居るから。
それでは、もう一度、私達にお願いしてごらん、ジョシュア」
「はい」
ジョシュアが大人達を見上げる。
「みんなを守って下さい、俺も、警備の皆さんも含めて。
どうか、警備の皆さんも怪我をしないで下さい」
アイヴィーは思わず吹き出す。
まさかここで、警備も『みんな』に含められるとは思っていなかった。
「アハハッ。ソクちゃんのせいでムチャ振りになっちゃったよ」
「それで良いんだよ、ジョシュア。よく言えたね」
ソクーロフに褒められ、少し照れたジョシュアは、
普段の大人びた顔より子どもっぽく見えて、アイヴィーは妙に安心した。
→
■闇の家系02 続編
「たっだいまー!」
ある日の放課後。
ユウタがウーティス寮サロンのドアを開けると、
テーブルの周りに集まっているアルフレッド、シルヴァン、ハルヤが、
揃って沈んだ表情をしていた。普段は隅の席に座っているアンリは、
ドア近くの壁に背を預け、無表情な顔で立っている。
「あ、あれ? 皆どうしたの? 何かあった? てゆうか、ジョシュアは?」
ユウタの問いに答えたのは最年長のシルヴァンだった。
「ジョシュアなら、栗毛の彼女に会いに行っていますよ」
「か、彼女って、もしかして、うちの姉貴!?」
「いえ、厩舎に行っているんですよ。愛馬のアルセイデスに会いに」
「あ、なんだ。そっちかー」
「全く。変わらないね、彼は」
冷淡にアンリが毒吐く。
「何かあると、すぐ厩舎に行くクセは、生徒代表になっても直らないのだから」
「ジョシュアに、何かあったの?」
「大ありだから困ってんだろ!? ユウタも見てみろよ、コレ!」
アルフレッドはテーブルに投げ捨てられていた雑誌をユウタに突き出した。
記事の見出しには、『グラント家当主襲撃事件』と書かれていた。
ニュースの最後には、目を疑う文章があった。
ユウタは思わず指で辿りながら、もう一度、読んだ。
「な、何これ? 『しかし今、ネイサン氏に何かあれば、
ジョシュア氏が、グラント当主の座に返り咲く可能性も、
否定できない状況か』って、この書き方じゃあ、まるで」
「そうさ! このライターはジョシュアが犯人じゃないかって言ってやがんだよ!
クソッ! マジ腹立つ! だからマスコミは嫌いなんだっ!」
シルヴァンの視線が廊下のほうを向く。すると、次にこう声をかけた。
「あの、皆さん。ちょっと、お茶でも飲んで一息入れません?
僕達がカッカしてても事態は良くなりませんし、少し落ち着いて」
「これが落ち着いていられるかああ! ジョシュアが犯人扱いされてんだぞ!?」
「あの、ですから、ちょっと声を抑えて」
「レッドの言う通りだよ! ジョシュアが犯人のわけない!」
アルフレッドに続き、ユウタもヒートアップした。
「ジョシュアがそんなことするわけないし、
それに、ロンドンの事件なんだから、ジョシュアには無理だよ」
「彼はずっと島に居たのだからロンドンでの犯行は不可能、とでも言いたいの?」
アンリの冷たい眼差しを浴び、ユウタは少したじろぎながら、
「う、うん。だって、そうでしょ?」
冷たい溜め息を吐きながら、「君は、本当に頭が良くないね」
「ちょっ」
「彼がどこに居ても犯行は可能だよ。それを誰かにやらせれば良いのだから」
アルフレッドの声が更に大きくなる。
「アンリ、てめえ、じゃあ何か!? 実行犯が別に居て、
その指示をしたのがジョシュアだって言うのかよ!?」
「かどうか、聞いてみればいいじゃない?」
「聞いてみるって、どういう」
「君が黒幕なの? 生徒代表殿?」
「えっ!? ジョシュア居るの!?」
ユウタがキョロキョロする。サロンの中にジョシュアの姿はない。
アンリはもう一度呼びかけた。
「そこに居るんでしょう? 隠れてないで、出てくれば?」
少しの沈黙の後、ゆっくりとドアが開く。
そこにはジョシュアが立っていた。気まずそうに俯いたまま謝った。
「ごめん……みんなが話しているみたいだったから、俺……」
「そんなことはどうでもいいから、僕の質問に答えてくれない?
ネイサン・グラントを襲わせたのは、君なの?」
ジョシュアは目を閉じて、首を横に振った。
喉の奥から絞り出すようにして、一言言った。
「俺じゃない」
目を開ける。グラントの血を引く赤い瞳で皆を見た。
「信じて、貰えないかもしれないけど、俺じゃないんだ」
ダッと駆け出したのは、ウーティスの最年少、ユウタだった。
「何言ってるんだよ、ジョシュア!」
ジョシュアの手を取って、両手で強く握り締めた。
「信じるよ! 俺達に、信じて貰えないかもなんて言わないで!」
「ユウタ……」
真っ直ぐに自分を見上げてくる眼差しに、ジョシュアは気圧されていた。
「ジョシュアは、誰かにそんな酷いことする人じゃないもん!
ジョシュアはいつもみんなこと考えてくれる生徒代表で、
俺にもいつも優しくしてくれるし、だから、だから……」
痛いくらい必死に握り締めてくる手。ジョシュアは嬉しかった。
「……ありがとう、ユウタ」
「おい、おい。ユウタだけじゃないだろ?」
アルフレッドは笑顔を見せながら、
「ここに居るヤツらはみーんな、ジョシュアの味方さ! 決まってんじゃん!」
「そうですよ。僕達のことも忘れないで下さい?」
シルヴァンがそう言うのに続いて、ハルヤも頷いた。
「すまない……ありがとう、みんな」
ウーティス寮の仲間達が自分を信じてくれる。
それだけでジョシュアは、今後誰にどんなことを言われても、
大丈夫だと心の底から思った。パン、パンと手を叩く音がする。
「馬鹿だね、君達は。まだ何も解決してないでしょう?」
手を叩いていたのはアンリだった。
「三流の感動ドラマごっこはそのくらいにしてくれる?
役者が混ざってると、話が下手に盛り上がって困るよね」
「なんだとぉ、アンリ!」
「まあ、まあ、レッド」とシルヴァンが笑顔で宥める。
不貞腐れながらもアルフレッドはソファに腰を下ろした。
シルヴァンは冷静な面持ちになり、話し始めた。
「確かに、アンリの言う通り、ハッピーエンドはまだ迎えていません。
誰かが、グラントのご当主に危害を加えた。
犯人の狙いもまだ解りません。ネイサン・グラント本人を狙っての行動なのか、
あるいは、加害者として、ジョシュアの名を出すことが目的なのか」
「そんな! どうして!?」
ユウタが叫ぶ。シルヴァンは頷きながら、
「そうですね。『どうして』、そこが問題です。どうして今更。
もし、ジョシュアをおとしめるのが目的なら、時期が遅過ぎます」
「え? 遅過ぎるって、どういうこと?」
ユウタに疑問に、同じ日本人のハルヤがぼそりと答えた。
「ジョシュアは、もう、王子様だから?」
「そうです。ジョシュアは既にロレート公国の、
王位継承権第一位として、正式に認められました。
その時点で、グラントとは縁が切れたようなものなんです。
グラントの後継ぎ問題からエスケープできた、という意味では、ですが」
「ゆくゆくはロレートの王様になる予定だから、
グラントの当主にならない、ってことだよね?」
「ええ。ですから、グラント側のトラブルにはもう巻き込まれないだろうと、
僕、個人的には安心していたんですが」
「僕も、そう思ってた」
シルヴァンに同意したのはアンリだった。
「ロレート側でなら、何らかの抗争に巻き込まる可能性は、
あるだろうけれど、グラント側で揉める理由は考え難い。
ジョシュアがロレートの王子様になったことで、
一番喜んでいるのは、お荷物が居なくなったグラントだろうから」
「お、お荷物って、てめえは、さっきから、言い難いことをズバズバと!」
「良いんだよ。アンリの言う通りだから」
ジョシュアは微笑みながら、ありがとうレッド、とお礼を言った。
その一言ですっかり毒気を抜かれたアルフレッドは、
何か小さく呟きながら、ソファに腰を下ろした。
「これから、どうすればいいの?」
ユウタは不安になって皆に尋ねる。
「決まってるでしょう?」
即座に答えを提示したのはアンリだった。
「生徒代表殿がさっさと生徒代表室に行って、警備に連絡すれば良いんだよ。
もちろん、向こうも知ってることだろうとは思うけれど」
「でも、俺の口から、何て言えば……」
困惑の表情を見せるジョシュアに、アンリは苛立ちを感じた。
「馬鹿なの? 『俺を守れ』だよ。他に言うことないでしょう?
グラントの人間が襲われた以上、『次』は君かもしれない。
ロレートの王位継承権が認められたことで、
君の身分を変えることができても、その血筋だけは変えられない。
やっぱり君には、半分、グラントの血が流れてる」
「アンリ……」
「突っ立ってないで、さっさと生徒代表室に行って」
「すまない。じゃあ、俺、行ってくるよ」
そう言って、ジョシュアは部屋を出て行った。
サロンには五人の寮生達と重い空気が残っていた。
「俺も、ジョシュアは犯人じゃないと思うけど」
最初に口を開いたのは、ハルヤだった。
「でも、そうだとしたら、一体誰がジョシュアの伯父さんを」
「そうですね」
シルヴァンが相槌を打つと、つまらなそうにアンリが言った。
「グラント家当主が襲われると得をする人、が犯人でしょう?」
「だから、それがダレだって話だろ!?」
アルフレッドがアンリに噛み付く。
「絞り込むのは難しいでしょうね。グラントは、敵が多過ぎますから」
「多過ぎるって、そんなに恨まれてる家なのかよ?」
「知らないの?」
自身のサン・ジェルマン家も、グラント家の敵にあたるアンリは冷笑する。
「ヨーロッパで、最も恨まれてる家がグラントだよ?」
→
ある日の放課後。
ユウタがウーティス寮サロンのドアを開けると、
テーブルの周りに集まっているアルフレッド、シルヴァン、ハルヤが、
揃って沈んだ表情をしていた。普段は隅の席に座っているアンリは、
ドア近くの壁に背を預け、無表情な顔で立っている。
「あ、あれ? 皆どうしたの? 何かあった? てゆうか、ジョシュアは?」
ユウタの問いに答えたのは最年長のシルヴァンだった。
「ジョシュアなら、栗毛の彼女に会いに行っていますよ」
「か、彼女って、もしかして、うちの姉貴!?」
「いえ、厩舎に行っているんですよ。愛馬のアルセイデスに会いに」
「あ、なんだ。そっちかー」
「全く。変わらないね、彼は」
冷淡にアンリが毒吐く。
「何かあると、すぐ厩舎に行くクセは、生徒代表になっても直らないのだから」
「ジョシュアに、何かあったの?」
「大ありだから困ってんだろ!? ユウタも見てみろよ、コレ!」
アルフレッドはテーブルに投げ捨てられていた雑誌をユウタに突き出した。
記事の見出しには、『グラント家当主襲撃事件』と書かれていた。
ニュースの最後には、目を疑う文章があった。
ユウタは思わず指で辿りながら、もう一度、読んだ。
「な、何これ? 『しかし今、ネイサン氏に何かあれば、
ジョシュア氏が、グラント当主の座に返り咲く可能性も、
否定できない状況か』って、この書き方じゃあ、まるで」
「そうさ! このライターはジョシュアが犯人じゃないかって言ってやがんだよ!
クソッ! マジ腹立つ! だからマスコミは嫌いなんだっ!」
シルヴァンの視線が廊下のほうを向く。すると、次にこう声をかけた。
「あの、皆さん。ちょっと、お茶でも飲んで一息入れません?
僕達がカッカしてても事態は良くなりませんし、少し落ち着いて」
「これが落ち着いていられるかああ! ジョシュアが犯人扱いされてんだぞ!?」
「あの、ですから、ちょっと声を抑えて」
「レッドの言う通りだよ! ジョシュアが犯人のわけない!」
アルフレッドに続き、ユウタもヒートアップした。
「ジョシュアがそんなことするわけないし、
それに、ロンドンの事件なんだから、ジョシュアには無理だよ」
「彼はずっと島に居たのだからロンドンでの犯行は不可能、とでも言いたいの?」
アンリの冷たい眼差しを浴び、ユウタは少したじろぎながら、
「う、うん。だって、そうでしょ?」
冷たい溜め息を吐きながら、「君は、本当に頭が良くないね」
「ちょっ」
「彼がどこに居ても犯行は可能だよ。それを誰かにやらせれば良いのだから」
アルフレッドの声が更に大きくなる。
「アンリ、てめえ、じゃあ何か!? 実行犯が別に居て、
その指示をしたのがジョシュアだって言うのかよ!?」
「かどうか、聞いてみればいいじゃない?」
「聞いてみるって、どういう」
「君が黒幕なの? 生徒代表殿?」
「えっ!? ジョシュア居るの!?」
ユウタがキョロキョロする。サロンの中にジョシュアの姿はない。
アンリはもう一度呼びかけた。
「そこに居るんでしょう? 隠れてないで、出てくれば?」
少しの沈黙の後、ゆっくりとドアが開く。
そこにはジョシュアが立っていた。気まずそうに俯いたまま謝った。
「ごめん……みんなが話しているみたいだったから、俺……」
「そんなことはどうでもいいから、僕の質問に答えてくれない?
ネイサン・グラントを襲わせたのは、君なの?」
ジョシュアは目を閉じて、首を横に振った。
喉の奥から絞り出すようにして、一言言った。
「俺じゃない」
目を開ける。グラントの血を引く赤い瞳で皆を見た。
「信じて、貰えないかもしれないけど、俺じゃないんだ」
ダッと駆け出したのは、ウーティスの最年少、ユウタだった。
「何言ってるんだよ、ジョシュア!」
ジョシュアの手を取って、両手で強く握り締めた。
「信じるよ! 俺達に、信じて貰えないかもなんて言わないで!」
「ユウタ……」
真っ直ぐに自分を見上げてくる眼差しに、ジョシュアは気圧されていた。
「ジョシュアは、誰かにそんな酷いことする人じゃないもん!
ジョシュアはいつもみんなこと考えてくれる生徒代表で、
俺にもいつも優しくしてくれるし、だから、だから……」
痛いくらい必死に握り締めてくる手。ジョシュアは嬉しかった。
「……ありがとう、ユウタ」
「おい、おい。ユウタだけじゃないだろ?」
アルフレッドは笑顔を見せながら、
「ここに居るヤツらはみーんな、ジョシュアの味方さ! 決まってんじゃん!」
「そうですよ。僕達のことも忘れないで下さい?」
シルヴァンがそう言うのに続いて、ハルヤも頷いた。
「すまない……ありがとう、みんな」
ウーティス寮の仲間達が自分を信じてくれる。
それだけでジョシュアは、今後誰にどんなことを言われても、
大丈夫だと心の底から思った。パン、パンと手を叩く音がする。
「馬鹿だね、君達は。まだ何も解決してないでしょう?」
手を叩いていたのはアンリだった。
「三流の感動ドラマごっこはそのくらいにしてくれる?
役者が混ざってると、話が下手に盛り上がって困るよね」
「なんだとぉ、アンリ!」
「まあ、まあ、レッド」とシルヴァンが笑顔で宥める。
不貞腐れながらもアルフレッドはソファに腰を下ろした。
シルヴァンは冷静な面持ちになり、話し始めた。
「確かに、アンリの言う通り、ハッピーエンドはまだ迎えていません。
誰かが、グラントのご当主に危害を加えた。
犯人の狙いもまだ解りません。ネイサン・グラント本人を狙っての行動なのか、
あるいは、加害者として、ジョシュアの名を出すことが目的なのか」
「そんな! どうして!?」
ユウタが叫ぶ。シルヴァンは頷きながら、
「そうですね。『どうして』、そこが問題です。どうして今更。
もし、ジョシュアをおとしめるのが目的なら、時期が遅過ぎます」
「え? 遅過ぎるって、どういうこと?」
ユウタに疑問に、同じ日本人のハルヤがぼそりと答えた。
「ジョシュアは、もう、王子様だから?」
「そうです。ジョシュアは既にロレート公国の、
王位継承権第一位として、正式に認められました。
その時点で、グラントとは縁が切れたようなものなんです。
グラントの後継ぎ問題からエスケープできた、という意味では、ですが」
「ゆくゆくはロレートの王様になる予定だから、
グラントの当主にならない、ってことだよね?」
「ええ。ですから、グラント側のトラブルにはもう巻き込まれないだろうと、
僕、個人的には安心していたんですが」
「僕も、そう思ってた」
シルヴァンに同意したのはアンリだった。
「ロレート側でなら、何らかの抗争に巻き込まる可能性は、
あるだろうけれど、グラント側で揉める理由は考え難い。
ジョシュアがロレートの王子様になったことで、
一番喜んでいるのは、お荷物が居なくなったグラントだろうから」
「お、お荷物って、てめえは、さっきから、言い難いことをズバズバと!」
「良いんだよ。アンリの言う通りだから」
ジョシュアは微笑みながら、ありがとうレッド、とお礼を言った。
その一言ですっかり毒気を抜かれたアルフレッドは、
何か小さく呟きながら、ソファに腰を下ろした。
「これから、どうすればいいの?」
ユウタは不安になって皆に尋ねる。
「決まってるでしょう?」
即座に答えを提示したのはアンリだった。
「生徒代表殿がさっさと生徒代表室に行って、警備に連絡すれば良いんだよ。
もちろん、向こうも知ってることだろうとは思うけれど」
「でも、俺の口から、何て言えば……」
困惑の表情を見せるジョシュアに、アンリは苛立ちを感じた。
「馬鹿なの? 『俺を守れ』だよ。他に言うことないでしょう?
グラントの人間が襲われた以上、『次』は君かもしれない。
ロレートの王位継承権が認められたことで、
君の身分を変えることができても、その血筋だけは変えられない。
やっぱり君には、半分、グラントの血が流れてる」
「アンリ……」
「突っ立ってないで、さっさと生徒代表室に行って」
「すまない。じゃあ、俺、行ってくるよ」
そう言って、ジョシュアは部屋を出て行った。
サロンには五人の寮生達と重い空気が残っていた。
「俺も、ジョシュアは犯人じゃないと思うけど」
最初に口を開いたのは、ハルヤだった。
「でも、そうだとしたら、一体誰がジョシュアの伯父さんを」
「そうですね」
シルヴァンが相槌を打つと、つまらなそうにアンリが言った。
「グラント家当主が襲われると得をする人、が犯人でしょう?」
「だから、それがダレだって話だろ!?」
アルフレッドがアンリに噛み付く。
「絞り込むのは難しいでしょうね。グラントは、敵が多過ぎますから」
「多過ぎるって、そんなに恨まれてる家なのかよ?」
「知らないの?」
自身のサン・ジェルマン家も、グラント家の敵にあたるアンリは冷笑する。
「ヨーロッパで、最も恨まれてる家がグラントだよ?」
→
■闇の家系01 続編
アイヴィーが最初に電話をかけたのは、聖アルフォンソ島の警備組織。
自分の勤め先である。アイヴィーはそこの司令官を任されていた。
「お疲れさまです。アイヴィーですけど、クロちゃん居るかな? はーい。
あ、クロちゃん? おはよ。うん、休みなんだけど、
さっきヤなニュース見ちゃってさ。グラント家当主襲撃事件ってやつ、見た?
あ、まだ? いや、今朝のニュースみたいだからしょうがないよ。
俺もさっきたまたま見てさ。じゃあ悪いけど、ちょっと調べといてくれる?
それから、警備のみんなには、このこと知らせといて? うん、ゴメンね。
で、今んトコ、島は異常なし?
そっか。うん。そのほうがイイかもしんないね、念の為。
あっ、それからさ。この話、詳しいこと解るまで、ジョシュアにはオフレコで。
うん。必要になったら知らせるけど、まだイイかなって。どうかな?
ありがと。じゃ、それだけお知らせでしたっ。あとはヨロシクです。
何か困ったことあったら電話ちょーだい? うん。じゃあねー」
副司令官との電話を終えたあと、アイヴィーはすぐに次の場所へ電話をかけた。
次は聖アルフォンソ学院の第一学生寮である。
「あ、もしもし、バトラー? あ、アイヴィーです、おはよーございます。
忙しい時間に電話してゴメンね。あのさ、ソッチにジョシュア居る?
うわーゴメン違う違う! 電話代わって欲しいわけじゃないんだ!
ただ、ジョシュアが寮に居るか確認したかっただけ。
そ。居るなら良いんだ。ありがとね。え? ああ、うん。
バトラーには知らせとこうかな。でも、ジョシュアには言わないでね?」
アイヴィーはウーティス寮のバトラーにも事件の内容を伝え、
ジョシュア本人がテレビなどで事件を知ったようなら、
こっそりこちらに教えて欲しいと頼み、電話を切った。
「ま。とりあえずは、こんなモンかな」
アイヴィーは深く息を吐く。電話している間、
コーヒーを飲みながら、ずっとこちらを見ていた人を見上げる。
「……そんなにジーッと見なくてもイイじゃん」
「私の視線が気になって仕方がないと」
「言ってません!」
「連絡が済んだのなら早く着替えろ。そんな格好で私を送るつもりか?」
アイヴィーは自分の格好を見る。
昨日着ていたブルーのワイシャツを羽織っている、だけだった。
ワイシャツは寝乱れて皺くちゃ。ボタンは全て開いていた。
アイヴィーは、途端に顔が赤くなる。
ブランケットを引き寄せ、晒されていた素肌を覆う。ソクーロフは微笑した。
「滑稽だったぞ? その淫らな姿で、真面目に仕事の電話をしている姿は」
「そ、そーゆーことは電話する前に言ってよっ!」
「いいから、さっさと着替えろ」
「俺はアンタのシモベかよ!?」
「違ったか?」
「ちーがーいーまー!」
言い終わる前にスマートフォンが鳴った。
「また電話か。人気者だな、私のシモベは」
「シモベじゃないー!」
アイヴィーはスマートフォンを手に取る。
ディスプレイには、珍しい名前が表示されていた。
「わ。すっごいトコから、かかってきてるな。もしもーし?」
「いつも大変お世話になっております。
わたくし、ロレート大公家にお仕えしております、
ラルヴィス・レイナと申します。
こちらはアイヴィー様の携帯電話でお間違いないでしょうか?」
「ハ、ハイ」
「お忙しいところ申し訳ございません。
只今、少々お時間頂戴しても宜しいでしょうか」
「ヨロシイです。ってゆうか、俺相手にそんな固い挨拶なんて、
しなくてイイのに。久し振りだね、ラルちゃん」
「はい。ご無沙汰しております、アイヴィー様、あの」
「グラント当主が襲われた事件の話、かな?」
「はい……アイヴィー様もご存知でしたか。
あの、殿下はご無事でいらっしゃいますでしょうか。
何か島で不審なことなどはございませんか?」
「大丈夫だよ、今のところは。俺も確認したけど、
ジョシュアはさっき起きたところだって。元気だよ」
「殿下はご無事でしたか。安心致しました」
「でも、ジョシュアには話してないんだ、この件。まだ知らないと思うし。
状況次第では、本人と話して、警備の打ち合わせとかしなきゃだけど、
それまでは、できるだけ、うちの警備の間で処理するつもり」
「左様でございましたか。お心遣い、ありがとうございます。
もし、私共でお役に立てることがございましたら、お申し付け下さい。
ロレート公国大公家は、全面的に聖アルフォンソ学院に協力致します。
皆様のお邪魔でさえなければ、いつなりともお呼び下さい。
わたくし自身も、殿下の警備に駆け付ける許可は、陛下より頂いております」
「うわ、ありがと。ラルちゃんにそう言って貰えると心強いよ。
でも、今のところはダイジョブ。もし、ソッチに、
協力して欲しいこと出てきたら、お電話しちゃうかもしれないけど」
「ええ。その際には、何なりとお申し付け下さい。
では、本日はこれで失礼させて頂きます」
「うん。またね、ラルちゃん。わざわざ連絡くれてありがと」
「いえ。お忙しいところお時間を頂き、ありがとうございました。
今後とも殿下のこと、どうぞ宜しくお願い致します。失礼致します」
アイヴィーはスマートフォンを耳から離して、電話を切った。
ソクーロフが目を合わせてくる。
「ロレートの国王側近から、お前の携帯電話に直接電話がかかってくるとはな」
「ま。何度か顔合わせるうちにね。ジョシュアもロレートの王子様になったことだし、
ラルちゃんとは番号交換しといたほうが、ベンリかなーと思ってさ。
あれ? もしかしてソクちゃん、ヤキモチさん?」
「側近の用件は、事件の知らせと、ジョシュア殿下の安否確認か?」
「と、協力できることがあればお申し付け下さいってさ。
ドコかのイジワルさんと違って、ラルちゃんってホンット丁寧な人だなー。
王様にお仕えしてると、みんな、ああなるのかねー?
ラルちゃんと話してると心が洗われるわー!」
ソクーロフは掛け時計を見上げる。
「そろそろ出るぞ。朝食に間に合わん。2秒で着替えろ」
「ムーリー!」
そう言いつつも、アイヴィーは素早く着替え、手櫛で髪をざっくり整えると、
ソクーロフをベントレーに乗せ、聖アルフォンソ学院へ向かった。
それは、保健室の先生かつカウンセラーを学院へ送り届ける為である。
アイヴィーには、とことん厳しく冷たいこのヒトが、
生徒達や島民の間では、優しくて親切な名医と評判の、
ソクーロフ博士だというのだから、納得できない。
特に、身体の弱い子ども達が多いシュヌーシア寮での人気は絶大だった。
ベントレーが大急ぎの安全運転で海沿いの道を走る中、
人気者のソクーロフ博士は、助手席から朝の海を見下ろしていた。
アイヴィーも運転席から海を眺めてみる。
朝方の海は、荒んだ心には眩し過ぎるくらい、美しいエメラルドグリーンをしていた。
「……連絡が来たのは、ロレートだけか」
唐突に呟かれた言葉。運転手は聞き返す。
「え? 何か言った?」
「ロレートはジョシュアを心配して、すぐに連絡を寄越してきたのに、
当事者のほうは、こちらに何も言ってこないんだな」
「当事者……グラントのこと?」
「ああ。ロレートよりグラントのほうが先に、
連絡を寄越せた筈だろう、当事者なのだからな」
「あ……そう、だね」
「ジョシュアの身を案じるなら、『ロンドンでこういう事件があったから、
島も警備強化して欲しい』などと言ってきても不思議はない。
しかし、ニュースになっても、こちらに何も言ってこないとはな」
アイヴィーはハンドルを握ったまま答える。
「まあ、当主が怪我して、てんやわんやしてるのかもしんないよ?
それにさ……俺も、あんまり、こういうこと言いたくないけど、
実はさ、別に珍しくないんだよ。外の世界で何があっても、
コッチには連絡がないってパターン? どっちかって言うと、
そのパターンのが多いくらいだったりするんだよね」
「そうか」
綺麗な海が背中に消えて行く。車は島の街並みの中に入っていった。
人通りはまばらで、誰かが犬と一緒に散歩をしているのが見えた。
「あっ。今日は俺も、教職員用の食堂で朝メシ食わせて貰おっかなー」
「お前も?」
「俺も学院の専属ドライバーなんだから権利くらいはあるでしょ?
シェフにお願いしてみよーっと。もし料理の用意がないって言われたら、
ソクちゃんの分けてね? あそこの料理ってウマイんでしょ、やっぱ?」
「誰がお前に恵んだりするものか」
「もう。ケーチー!」
→
自分の勤め先である。アイヴィーはそこの司令官を任されていた。
「お疲れさまです。アイヴィーですけど、クロちゃん居るかな? はーい。
あ、クロちゃん? おはよ。うん、休みなんだけど、
さっきヤなニュース見ちゃってさ。グラント家当主襲撃事件ってやつ、見た?
あ、まだ? いや、今朝のニュースみたいだからしょうがないよ。
俺もさっきたまたま見てさ。じゃあ悪いけど、ちょっと調べといてくれる?
それから、警備のみんなには、このこと知らせといて? うん、ゴメンね。
で、今んトコ、島は異常なし?
そっか。うん。そのほうがイイかもしんないね、念の為。
あっ、それからさ。この話、詳しいこと解るまで、ジョシュアにはオフレコで。
うん。必要になったら知らせるけど、まだイイかなって。どうかな?
ありがと。じゃ、それだけお知らせでしたっ。あとはヨロシクです。
何か困ったことあったら電話ちょーだい? うん。じゃあねー」
副司令官との電話を終えたあと、アイヴィーはすぐに次の場所へ電話をかけた。
次は聖アルフォンソ学院の第一学生寮である。
「あ、もしもし、バトラー? あ、アイヴィーです、おはよーございます。
忙しい時間に電話してゴメンね。あのさ、ソッチにジョシュア居る?
うわーゴメン違う違う! 電話代わって欲しいわけじゃないんだ!
ただ、ジョシュアが寮に居るか確認したかっただけ。
そ。居るなら良いんだ。ありがとね。え? ああ、うん。
バトラーには知らせとこうかな。でも、ジョシュアには言わないでね?」
アイヴィーはウーティス寮のバトラーにも事件の内容を伝え、
ジョシュア本人がテレビなどで事件を知ったようなら、
こっそりこちらに教えて欲しいと頼み、電話を切った。
「ま。とりあえずは、こんなモンかな」
アイヴィーは深く息を吐く。電話している間、
コーヒーを飲みながら、ずっとこちらを見ていた人を見上げる。
「……そんなにジーッと見なくてもイイじゃん」
「私の視線が気になって仕方がないと」
「言ってません!」
「連絡が済んだのなら早く着替えろ。そんな格好で私を送るつもりか?」
アイヴィーは自分の格好を見る。
昨日着ていたブルーのワイシャツを羽織っている、だけだった。
ワイシャツは寝乱れて皺くちゃ。ボタンは全て開いていた。
アイヴィーは、途端に顔が赤くなる。
ブランケットを引き寄せ、晒されていた素肌を覆う。ソクーロフは微笑した。
「滑稽だったぞ? その淫らな姿で、真面目に仕事の電話をしている姿は」
「そ、そーゆーことは電話する前に言ってよっ!」
「いいから、さっさと着替えろ」
「俺はアンタのシモベかよ!?」
「違ったか?」
「ちーがーいーまー!」
言い終わる前にスマートフォンが鳴った。
「また電話か。人気者だな、私のシモベは」
「シモベじゃないー!」
アイヴィーはスマートフォンを手に取る。
ディスプレイには、珍しい名前が表示されていた。
「わ。すっごいトコから、かかってきてるな。もしもーし?」
「いつも大変お世話になっております。
わたくし、ロレート大公家にお仕えしております、
ラルヴィス・レイナと申します。
こちらはアイヴィー様の携帯電話でお間違いないでしょうか?」
「ハ、ハイ」
「お忙しいところ申し訳ございません。
只今、少々お時間頂戴しても宜しいでしょうか」
「ヨロシイです。ってゆうか、俺相手にそんな固い挨拶なんて、
しなくてイイのに。久し振りだね、ラルちゃん」
「はい。ご無沙汰しております、アイヴィー様、あの」
「グラント当主が襲われた事件の話、かな?」
「はい……アイヴィー様もご存知でしたか。
あの、殿下はご無事でいらっしゃいますでしょうか。
何か島で不審なことなどはございませんか?」
「大丈夫だよ、今のところは。俺も確認したけど、
ジョシュアはさっき起きたところだって。元気だよ」
「殿下はご無事でしたか。安心致しました」
「でも、ジョシュアには話してないんだ、この件。まだ知らないと思うし。
状況次第では、本人と話して、警備の打ち合わせとかしなきゃだけど、
それまでは、できるだけ、うちの警備の間で処理するつもり」
「左様でございましたか。お心遣い、ありがとうございます。
もし、私共でお役に立てることがございましたら、お申し付け下さい。
ロレート公国大公家は、全面的に聖アルフォンソ学院に協力致します。
皆様のお邪魔でさえなければ、いつなりともお呼び下さい。
わたくし自身も、殿下の警備に駆け付ける許可は、陛下より頂いております」
「うわ、ありがと。ラルちゃんにそう言って貰えると心強いよ。
でも、今のところはダイジョブ。もし、ソッチに、
協力して欲しいこと出てきたら、お電話しちゃうかもしれないけど」
「ええ。その際には、何なりとお申し付け下さい。
では、本日はこれで失礼させて頂きます」
「うん。またね、ラルちゃん。わざわざ連絡くれてありがと」
「いえ。お忙しいところお時間を頂き、ありがとうございました。
今後とも殿下のこと、どうぞ宜しくお願い致します。失礼致します」
アイヴィーはスマートフォンを耳から離して、電話を切った。
ソクーロフが目を合わせてくる。
「ロレートの国王側近から、お前の携帯電話に直接電話がかかってくるとはな」
「ま。何度か顔合わせるうちにね。ジョシュアもロレートの王子様になったことだし、
ラルちゃんとは番号交換しといたほうが、ベンリかなーと思ってさ。
あれ? もしかしてソクちゃん、ヤキモチさん?」
「側近の用件は、事件の知らせと、ジョシュア殿下の安否確認か?」
「と、協力できることがあればお申し付け下さいってさ。
ドコかのイジワルさんと違って、ラルちゃんってホンット丁寧な人だなー。
王様にお仕えしてると、みんな、ああなるのかねー?
ラルちゃんと話してると心が洗われるわー!」
ソクーロフは掛け時計を見上げる。
「そろそろ出るぞ。朝食に間に合わん。2秒で着替えろ」
「ムーリー!」
そう言いつつも、アイヴィーは素早く着替え、手櫛で髪をざっくり整えると、
ソクーロフをベントレーに乗せ、聖アルフォンソ学院へ向かった。
それは、保健室の先生かつカウンセラーを学院へ送り届ける為である。
アイヴィーには、とことん厳しく冷たいこのヒトが、
生徒達や島民の間では、優しくて親切な名医と評判の、
ソクーロフ博士だというのだから、納得できない。
特に、身体の弱い子ども達が多いシュヌーシア寮での人気は絶大だった。
ベントレーが大急ぎの安全運転で海沿いの道を走る中、
人気者のソクーロフ博士は、助手席から朝の海を見下ろしていた。
アイヴィーも運転席から海を眺めてみる。
朝方の海は、荒んだ心には眩し過ぎるくらい、美しいエメラルドグリーンをしていた。
「……連絡が来たのは、ロレートだけか」
唐突に呟かれた言葉。運転手は聞き返す。
「え? 何か言った?」
「ロレートはジョシュアを心配して、すぐに連絡を寄越してきたのに、
当事者のほうは、こちらに何も言ってこないんだな」
「当事者……グラントのこと?」
「ああ。ロレートよりグラントのほうが先に、
連絡を寄越せた筈だろう、当事者なのだからな」
「あ……そう、だね」
「ジョシュアの身を案じるなら、『ロンドンでこういう事件があったから、
島も警備強化して欲しい』などと言ってきても不思議はない。
しかし、ニュースになっても、こちらに何も言ってこないとはな」
アイヴィーはハンドルを握ったまま答える。
「まあ、当主が怪我して、てんやわんやしてるのかもしんないよ?
それにさ……俺も、あんまり、こういうこと言いたくないけど、
実はさ、別に珍しくないんだよ。外の世界で何があっても、
コッチには連絡がないってパターン? どっちかって言うと、
そのパターンのが多いくらいだったりするんだよね」
「そうか」
綺麗な海が背中に消えて行く。車は島の街並みの中に入っていった。
人通りはまばらで、誰かが犬と一緒に散歩をしているのが見えた。
「あっ。今日は俺も、教職員用の食堂で朝メシ食わせて貰おっかなー」
「お前も?」
「俺も学院の専属ドライバーなんだから権利くらいはあるでしょ?
シェフにお願いしてみよーっと。もし料理の用意がないって言われたら、
ソクちゃんの分けてね? あそこの料理ってウマイんでしょ、やっぱ?」
「誰がお前に恵んだりするものか」
「もう。ケーチー!」
→
■ソクーロフ×アイヴィー +ジョシュア 長編
■カーシャ様、大変遅くなり申し訳ございません。
リクエストありがとうございました!
※全13話、毎日0時更新を予定しています。
■カーシャ様、大変遅くなり申し訳ございません。
リクエストありがとうございました!
※全13話、毎日0時更新を予定しています。
アイヴィーがそのニュースを知ったのは、ベッドの中だった。
休日は遅めに起きる、というポリシーがあるにも関わらず、
その朝は、目が覚めてしまった。それに、なんだか頭が重い。
スマートフォンで時計を見て、まだ早い時刻にがっかりしたあと、
ベッドから出るのがイヤで、メールをチェックしたり、
ニュースサイトを人差し指で流し読みしたりしていた。
朝のニュースチェックは、アイヴィーの日課のひとつだが、
いつからかニュース媒体は新聞やテレビではなくなっていた。
アイヴィーが利用しているのはもっぱらウェブで、
最近ではパソコンからスマートフォンへ移行しつつある。
政治に経済、スポーツ、芸能人のゴシップまで。
起き抜けにブランケットにくるまったままでも、世界中の情報が手の中に集まる。
便利か不便かで言えば、きっとベンリな時代なんだろう。
スルスルとニュースを滑らせていると、目に留まる文字があった。
<グラント家当主、襲撃される>
アイヴィーは、その文字をタップして、人差し指と親指で画面を拡大した。
そこには次のようなニュースが書かれていた。
――ヨーロッパ屈指の財閥グラント家の当主、
ネイサン・グラント氏が何者かに襲われた。
夜中の帰宅時、棒状の鈍器で頭部を殴打され、
傍に居た秘書も負傷。二名は病院にて治療中。
ロンドン警察が犯人の行方を追っている。
グラント家はヨーロッパ最大の財閥で敵も多い。
代々、男系の子孫のみが家督を相続し、現在の当主はネイサン氏。
血筋上では甥のジョシュア・グラント氏が後継ぎにあたるが、
ジョシュア氏は先日、ロレート公国の第一王子として正式に認定された為、
事実上、グラント家の後継ぎ争いからは除外されたと言える。
しかし今、ネイサン氏に何かあれば、ジョシュア氏が、
グラント当主の座に返り咲く可能性も否定できない状況か――
日付を見ると、襲撃事件が起こったのは昨日の夜。
ニュースがアップされたのは今朝のようだ。
アイヴィーは関連記事を探してみたが、まだ第一報のようで、
それ以上の情報が載っている記事は見当たらなかった。
明るい液晶画面から一度目を離し、ベッドの中から天井を見上げる。
そこには何も書かれていない。ただ真っ白な板があるだけ。
右手の中にあるスマートフォンを軽く握り締める。
「……ったく、休みの朝に相応しいニュースだなあ」
いつでもどこでも手の中に情報が集まる。本当にフベンな時代になったものだ。
まだ目覚めきっていない頭で、どうすべきかを無理矢理考え始めようとした時、
足音が近付いてくるのに気付いた。俺の家に誰か居るのか、
と思うのと同時に、その人物が顔を見せた。
「どうしてお前の家には、インスタントのコーヒーしかないんだ?」
その人が手にしている白いカップからはコーヒーの良い香りがした。
普段はひとつに結わえている長い髪は下ろしたままだったが、
眼鏡は既にかけていた。着ているのは、昨日の白いワイシャツにグレイのスボン。
ネクタイをしていない首許は、白過ぎる鎖骨が見え隠れしていた。
目が合うと、とても冷たい目で見られた。
「まだダラダラしていたのか。さっさと起きろ。お前は休日でも私は平日なんだ。
今日は火曜日なんだからな。30分後に出発する。学院まで送れ」
「……ソクーロフ、居たんだ?」
「何を寝ぼけている。昨夜、『明日は休みだから』と、
私を家まで連れてきたのはお前だろう?」
「……あ、ああ、うん。そーだったカモ」
おぼろげに昨夜の記憶が甦る。
一週間の中で、『明日は休みという夜』が一番好きなアイヴィーは、
ソクーロフを誘って旧市街で夕食をとったあと、
スーパーで酒を買って、そのまま自宅へと連れてきた。
家で飲むと、車で送れなくなってしまうので、ソクーロフは泊まることになる。
今まで何度となく繰り返してきた、おうち飲みコースだ。
ソクーロフは手にしているコーヒーを、またひと口飲みながら、
「いい加減、もっと良いコーヒーを買ったらどうなんだ?」
「俺はそれがスキなのー!」
アイヴィーはガバッと身を起こす。
「文句言うなら飲まなきゃイイじゃん! 水もあったでしょ!?」
「私は朝はコーヒーと決めている。お前の家にこれしかないのが悪いんだろう?」
「俺は悪くないー! ……って、そんなことやってる場合じゃないんだった。
ソクちゃんも居るなら丁度イイや。ねえ、コレちょっと見てよ」
スマートフォンを差し出し、先程のニュースを見せた。
ソクーロフはそれに目を通し、アイヴィーに返すまでの間、終始無言だった。
アイヴィーはベッドの上に座ったまま、ソクーロフを見上げる。
「ソクーロフ先生、ご感想は?」
「勇気ある犯人だな。『闇の家系』の当主を狙うとは」
「まあね」
ヨーロッパ最大の財閥、グラント家。ジョシュアの母親の生家だ。
グラントは各地にネットワークを持ち、国家をまるごと、
支配している場合もあると囁かれる程、得体の知れない勢力を持った財閥だ。
しかし、メディアにも力を持っている為、その支配は表には現れない。
グラント一族は関わるもの全てを呑み込む、闇の家系。
実際、聖アルフォンソ学院の長い歴史を紐解けば、
グラントに国を追われ、学院に逃げてきた生徒も少なくないという。
ロレート公国の前大公は、ロレートの王子エドワードと、
グラント家の令嬢であるクリスティーナの結婚に反対していた。
結婚を反対されたエドワードは、王位を捨てて駆け落ちする。
それが散々メディアに踊った『王位を懸けた恋』だ。
しかし、闇の家系だったから反対された、という報道は一切なく、
ただ、今世紀最大のロミオとジュリエットだということだけが騒ぎ立てられた。
「闇の歴史を担う当主を襲撃するとは、それほどグラントが憎いのか、
あるいは他に、何か別の意図があるのか」
「どんな?」
「私が知るか。犯人に聞け」
「ハイハイ。で、どうしよ? コレ」
アイヴィーはニュースが載ったスマートフォンを振ってみせる。
聖アルフォンソ学院の警備組織として、
自分達はどう動くべきだろうか、という相談だった。
ソクーロフの返事はアイヴィーの予想通り冷たかった。
「お前の仕事だろう。自分で考えろ」
「ジョシュアには、まだ知らせなくて良いかな?」
アイヴィーが気にしているのは、そこだった。
ジョシュアに知らせれば、心を傷付けるのは間違いない。
しかし、今やジョシュアは生徒代表だ。
事件がすぐに解決しないようなら、生徒代表とも相談の上で、
島の警備強化をする必要が出てくるかもしれない。
でも、ロンドン警察が、あっと言う間に犯人を逮捕してくれるかもしれない。
いつかはジョシュアに知らせる必要があっても、
できるだけ遅く知らせてやりたいし、できるなら知らせたくない。
その判断は、司令官として誤っているだろうか。
アイヴィーはソクーロフを見上げる。
ソクーロフはコーヒーに口付けたあと呟いた。
「キナ臭い話はお前のところで止める。それが仕事だろう?」
「……うん。ありがと」
そうと決まれば、まずは電話だ。
アイヴィーはスマートフォンを耳に当てた。
→
(次話へのリンクは翌0時頃に繋がります)
休日は遅めに起きる、というポリシーがあるにも関わらず、
その朝は、目が覚めてしまった。それに、なんだか頭が重い。
スマートフォンで時計を見て、まだ早い時刻にがっかりしたあと、
ベッドから出るのがイヤで、メールをチェックしたり、
ニュースサイトを人差し指で流し読みしたりしていた。
朝のニュースチェックは、アイヴィーの日課のひとつだが、
いつからかニュース媒体は新聞やテレビではなくなっていた。
アイヴィーが利用しているのはもっぱらウェブで、
最近ではパソコンからスマートフォンへ移行しつつある。
政治に経済、スポーツ、芸能人のゴシップまで。
起き抜けにブランケットにくるまったままでも、世界中の情報が手の中に集まる。
便利か不便かで言えば、きっとベンリな時代なんだろう。
スルスルとニュースを滑らせていると、目に留まる文字があった。
<グラント家当主、襲撃される>
アイヴィーは、その文字をタップして、人差し指と親指で画面を拡大した。
そこには次のようなニュースが書かれていた。
――ヨーロッパ屈指の財閥グラント家の当主、
ネイサン・グラント氏が何者かに襲われた。
夜中の帰宅時、棒状の鈍器で頭部を殴打され、
傍に居た秘書も負傷。二名は病院にて治療中。
ロンドン警察が犯人の行方を追っている。
グラント家はヨーロッパ最大の財閥で敵も多い。
代々、男系の子孫のみが家督を相続し、現在の当主はネイサン氏。
血筋上では甥のジョシュア・グラント氏が後継ぎにあたるが、
ジョシュア氏は先日、ロレート公国の第一王子として正式に認定された為、
事実上、グラント家の後継ぎ争いからは除外されたと言える。
しかし今、ネイサン氏に何かあれば、ジョシュア氏が、
グラント当主の座に返り咲く可能性も否定できない状況か――
日付を見ると、襲撃事件が起こったのは昨日の夜。
ニュースがアップされたのは今朝のようだ。
アイヴィーは関連記事を探してみたが、まだ第一報のようで、
それ以上の情報が載っている記事は見当たらなかった。
明るい液晶画面から一度目を離し、ベッドの中から天井を見上げる。
そこには何も書かれていない。ただ真っ白な板があるだけ。
右手の中にあるスマートフォンを軽く握り締める。
「……ったく、休みの朝に相応しいニュースだなあ」
いつでもどこでも手の中に情報が集まる。本当にフベンな時代になったものだ。
まだ目覚めきっていない頭で、どうすべきかを無理矢理考え始めようとした時、
足音が近付いてくるのに気付いた。俺の家に誰か居るのか、
と思うのと同時に、その人物が顔を見せた。
「どうしてお前の家には、インスタントのコーヒーしかないんだ?」
その人が手にしている白いカップからはコーヒーの良い香りがした。
普段はひとつに結わえている長い髪は下ろしたままだったが、
眼鏡は既にかけていた。着ているのは、昨日の白いワイシャツにグレイのスボン。
ネクタイをしていない首許は、白過ぎる鎖骨が見え隠れしていた。
目が合うと、とても冷たい目で見られた。
「まだダラダラしていたのか。さっさと起きろ。お前は休日でも私は平日なんだ。
今日は火曜日なんだからな。30分後に出発する。学院まで送れ」
「……ソクーロフ、居たんだ?」
「何を寝ぼけている。昨夜、『明日は休みだから』と、
私を家まで連れてきたのはお前だろう?」
「……あ、ああ、うん。そーだったカモ」
おぼろげに昨夜の記憶が甦る。
一週間の中で、『明日は休みという夜』が一番好きなアイヴィーは、
ソクーロフを誘って旧市街で夕食をとったあと、
スーパーで酒を買って、そのまま自宅へと連れてきた。
家で飲むと、車で送れなくなってしまうので、ソクーロフは泊まることになる。
今まで何度となく繰り返してきた、おうち飲みコースだ。
ソクーロフは手にしているコーヒーを、またひと口飲みながら、
「いい加減、もっと良いコーヒーを買ったらどうなんだ?」
「俺はそれがスキなのー!」
アイヴィーはガバッと身を起こす。
「文句言うなら飲まなきゃイイじゃん! 水もあったでしょ!?」
「私は朝はコーヒーと決めている。お前の家にこれしかないのが悪いんだろう?」
「俺は悪くないー! ……って、そんなことやってる場合じゃないんだった。
ソクちゃんも居るなら丁度イイや。ねえ、コレちょっと見てよ」
スマートフォンを差し出し、先程のニュースを見せた。
ソクーロフはそれに目を通し、アイヴィーに返すまでの間、終始無言だった。
アイヴィーはベッドの上に座ったまま、ソクーロフを見上げる。
「ソクーロフ先生、ご感想は?」
「勇気ある犯人だな。『闇の家系』の当主を狙うとは」
「まあね」
ヨーロッパ最大の財閥、グラント家。ジョシュアの母親の生家だ。
グラントは各地にネットワークを持ち、国家をまるごと、
支配している場合もあると囁かれる程、得体の知れない勢力を持った財閥だ。
しかし、メディアにも力を持っている為、その支配は表には現れない。
グラント一族は関わるもの全てを呑み込む、闇の家系。
実際、聖アルフォンソ学院の長い歴史を紐解けば、
グラントに国を追われ、学院に逃げてきた生徒も少なくないという。
ロレート公国の前大公は、ロレートの王子エドワードと、
グラント家の令嬢であるクリスティーナの結婚に反対していた。
結婚を反対されたエドワードは、王位を捨てて駆け落ちする。
それが散々メディアに踊った『王位を懸けた恋』だ。
しかし、闇の家系だったから反対された、という報道は一切なく、
ただ、今世紀最大のロミオとジュリエットだということだけが騒ぎ立てられた。
「闇の歴史を担う当主を襲撃するとは、それほどグラントが憎いのか、
あるいは他に、何か別の意図があるのか」
「どんな?」
「私が知るか。犯人に聞け」
「ハイハイ。で、どうしよ? コレ」
アイヴィーはニュースが載ったスマートフォンを振ってみせる。
聖アルフォンソ学院の警備組織として、
自分達はどう動くべきだろうか、という相談だった。
ソクーロフの返事はアイヴィーの予想通り冷たかった。
「お前の仕事だろう。自分で考えろ」
「ジョシュアには、まだ知らせなくて良いかな?」
アイヴィーが気にしているのは、そこだった。
ジョシュアに知らせれば、心を傷付けるのは間違いない。
しかし、今やジョシュアは生徒代表だ。
事件がすぐに解決しないようなら、生徒代表とも相談の上で、
島の警備強化をする必要が出てくるかもしれない。
でも、ロンドン警察が、あっと言う間に犯人を逮捕してくれるかもしれない。
いつかはジョシュアに知らせる必要があっても、
できるだけ遅く知らせてやりたいし、できるなら知らせたくない。
その判断は、司令官として誤っているだろうか。
アイヴィーはソクーロフを見上げる。
ソクーロフはコーヒーに口付けたあと呟いた。
「キナ臭い話はお前のところで止める。それが仕事だろう?」
「……うん。ありがと」
そうと決まれば、まずは電話だ。
アイヴィーはスマートフォンを耳に当てた。
→
(次話へのリンクは翌0時頃に繋がります)
■ハルヤ
和歌山にある梅ヶ枝本家。
日本舞踊 梅ヶ枝流の家元が暮らす邸だ。
縁側の前には庭が広がっている。
梅の木に、まだ花は咲いていないが、少しずつ蕾が膨らみ始めていた。
今日の稽古を終えた幼い兄弟が、縁側に座って、おやつを食べている。
今日のおやつは最中。薄皮の中には大きな栗と白あんが入っていた。
兄は温かい緑茶を両手でずずずと飲んだ。
兄弟は稽古着のままで、兄は淡い青地の着物に紺の帯。
弟は淡い緑地の着物に黄緑の帯を結んでいる。
弟は縁側で足をぶらぶら揺らしている。
真っ白な膝小僧の下には、この前、練習中に転んだ痕が青く残っていた。
「うめが、さいたら、わかるかなあ?」
「ん? どうした、春也」
「あのね。ぼく、まだわからないの。うめのきもち」
「ああ、じいさまが言ってたやつか」
「うん」
梅ヶ枝流は梅に纏わる演目が多い。
次の舞台では、兄が白梅の精、弟が紅梅の精という役を与えられている。
目下、その練習中で、師範の祖父から「梅の気持ちで舞うように」と言われていた。
「にいさまは、うめのきもち、わかった?」
「ううん。でも、解らなくても、良いんじゃないかなあ」
「えっ?」
「僕達にはまだ解らないことなのかもしれない。
でも、いつか解るような気がするんだ」
「いつかって……あした?」
「ううん。多分、明日とかじゃなくて。僕達が大人になった時かもしれない」
「えっ! とうさまくらい、おとなになったら?
もしかして、じいさまくらいにならないと、わからないのかな?」
「どうかな。でも、きっと解る日が来る。
じいさまには梅の気持ちが解るんだから、僕達にもいつか解るよ」
「そっか。じゃあ、ぼく、わかるまで、まってみる」
「うん」
「でも、にいさま」
「ん?」
「にいさまが、うめのきもちがわかったら、ぼくにもおしえてね?
もし、ぼくがさきに、うめのきもちがわかったら、にいさまに、おしえるから!
ぜったい、いちばんに、おしえるから!」
「うん」
弟は、まだ小さな足を元気良く揺らした。
「たのしみになってきちゃった。はやくしりたいな。うめのきもち」
「大丈夫。春也なら、いつかきっと解るよ」
「うんっ!」
「春臣、春也。ここに居たのか」
古木のような色の和服を着た老人が邸から出てきた。
梅ヶ枝流家元、梅ヶ枝春海。幼い兄弟の祖父だ。
稽古中の祖父は、時に厳しくもある師範だが、
稽古が終わってしまうと、孫が大好きな優しいじいさまに戻る。
「そんなところで、寒くないか?」
「大丈夫、寒くないよ、じいさま」
「じいさま、じいさま」
「なんだ、春也」
「うめ、いつ、さくの?」
「じきに咲くよ。ご覧、蕾も段々膨らんできたじゃろう?」
「もうすぐ、さくの? あした?」
「はははっ。明日は気が早いやろうけど、春になれば咲く。私達の季節にな」
祖父と二人の孫は、まだ花のない梅の木を見上げていた。
ウーティス寮ダイニングルーム。
四人の生徒が席に着いていた。
本日のディナーはフレンチのフルコース。
シェフが一人一人の皿にかぼちゃのクリームスープをよそっている。
「ハールヤー! これ見て下さーい!」
シルヴァンが入ってきた。右手にはB5サイズの紙を持っていた。
「あれ? ハルヤ、まだ来てないんですか?」
「うん、まだだけど」
ユウタはシルヴァンの右手を見ながら、
「シルヴァンは何持ってるの? チラシ?」
「はい。今日、街で貰ったんですー。今度の日曜日、早食い大会があるんですって。
だから、ハルヤに出場して貰おうと思いまして。
ハルヤは島一番のフードファイターですから!」
「早食い大会かあ! ハルヤが出るなら、俺も応援に行こうかなっ!」とユウタ。
「そのフードファイターが、まだ姿を見せないなんて珍しいね」
アンリの意見にジョシュアが頷く。
「そうだね。もうディナータイムなのに。どうしたのかな」
「僕が部屋に行って呼んできますよ!」
「頼むよ、シルヴァン」
ハルヤの部屋の前。シルヴァンはコン、コンとドアをノックする。
「ハールヤ、お待ちかねのディナータイムですよー」
返事がないので、そっとドアを開けてみる。
ハルヤは勉強机の椅子に座ったまま、自分の腕を枕に眠っていた。
「シエスタ中でしたか。おや。これは」
机の上には扇が置かれていた。先日、寮の中で発見された舞扇だ。
白い扇には、梅の絵と菅原道真が詠んだ和歌が綴られている。
ハルヤの祖父とアルフレッドの祖父が在学時に隠した物のようで、
ハルヤとアルフレッドとユウタが宝探しをした結果、ウーティス寮の中で見つけた。
眠りに落ちるまで、ハルヤは舞扇を見ていたのだろうか。
舞扇はハルヤの手元に落ちていた。シルヴァンは思わず微笑む。
「起こしにくい寝顔ですね。良い夢でも見ているんでしょうか?」
fin
日本舞踊 梅ヶ枝流の家元が暮らす邸だ。
縁側の前には庭が広がっている。
梅の木に、まだ花は咲いていないが、少しずつ蕾が膨らみ始めていた。
今日の稽古を終えた幼い兄弟が、縁側に座って、おやつを食べている。
今日のおやつは最中。薄皮の中には大きな栗と白あんが入っていた。
兄は温かい緑茶を両手でずずずと飲んだ。
兄弟は稽古着のままで、兄は淡い青地の着物に紺の帯。
弟は淡い緑地の着物に黄緑の帯を結んでいる。
弟は縁側で足をぶらぶら揺らしている。
真っ白な膝小僧の下には、この前、練習中に転んだ痕が青く残っていた。
「うめが、さいたら、わかるかなあ?」
「ん? どうした、春也」
「あのね。ぼく、まだわからないの。うめのきもち」
「ああ、じいさまが言ってたやつか」
「うん」
梅ヶ枝流は梅に纏わる演目が多い。
次の舞台では、兄が白梅の精、弟が紅梅の精という役を与えられている。
目下、その練習中で、師範の祖父から「梅の気持ちで舞うように」と言われていた。
「にいさまは、うめのきもち、わかった?」
「ううん。でも、解らなくても、良いんじゃないかなあ」
「えっ?」
「僕達にはまだ解らないことなのかもしれない。
でも、いつか解るような気がするんだ」
「いつかって……あした?」
「ううん。多分、明日とかじゃなくて。僕達が大人になった時かもしれない」
「えっ! とうさまくらい、おとなになったら?
もしかして、じいさまくらいにならないと、わからないのかな?」
「どうかな。でも、きっと解る日が来る。
じいさまには梅の気持ちが解るんだから、僕達にもいつか解るよ」
「そっか。じゃあ、ぼく、わかるまで、まってみる」
「うん」
「でも、にいさま」
「ん?」
「にいさまが、うめのきもちがわかったら、ぼくにもおしえてね?
もし、ぼくがさきに、うめのきもちがわかったら、にいさまに、おしえるから!
ぜったい、いちばんに、おしえるから!」
「うん」
弟は、まだ小さな足を元気良く揺らした。
「たのしみになってきちゃった。はやくしりたいな。うめのきもち」
「大丈夫。春也なら、いつかきっと解るよ」
「うんっ!」
「春臣、春也。ここに居たのか」
古木のような色の和服を着た老人が邸から出てきた。
梅ヶ枝流家元、梅ヶ枝春海。幼い兄弟の祖父だ。
稽古中の祖父は、時に厳しくもある師範だが、
稽古が終わってしまうと、孫が大好きな優しいじいさまに戻る。
「そんなところで、寒くないか?」
「大丈夫、寒くないよ、じいさま」
「じいさま、じいさま」
「なんだ、春也」
「うめ、いつ、さくの?」
「じきに咲くよ。ご覧、蕾も段々膨らんできたじゃろう?」
「もうすぐ、さくの? あした?」
「はははっ。明日は気が早いやろうけど、春になれば咲く。私達の季節にな」
祖父と二人の孫は、まだ花のない梅の木を見上げていた。
ウーティス寮ダイニングルーム。
四人の生徒が席に着いていた。
本日のディナーはフレンチのフルコース。
シェフが一人一人の皿にかぼちゃのクリームスープをよそっている。
「ハールヤー! これ見て下さーい!」
シルヴァンが入ってきた。右手にはB5サイズの紙を持っていた。
「あれ? ハルヤ、まだ来てないんですか?」
「うん、まだだけど」
ユウタはシルヴァンの右手を見ながら、
「シルヴァンは何持ってるの? チラシ?」
「はい。今日、街で貰ったんですー。今度の日曜日、早食い大会があるんですって。
だから、ハルヤに出場して貰おうと思いまして。
ハルヤは島一番のフードファイターですから!」
「早食い大会かあ! ハルヤが出るなら、俺も応援に行こうかなっ!」とユウタ。
「そのフードファイターが、まだ姿を見せないなんて珍しいね」
アンリの意見にジョシュアが頷く。
「そうだね。もうディナータイムなのに。どうしたのかな」
「僕が部屋に行って呼んできますよ!」
「頼むよ、シルヴァン」
ハルヤの部屋の前。シルヴァンはコン、コンとドアをノックする。
「ハールヤ、お待ちかねのディナータイムですよー」
返事がないので、そっとドアを開けてみる。
ハルヤは勉強机の椅子に座ったまま、自分の腕を枕に眠っていた。
「シエスタ中でしたか。おや。これは」
机の上には扇が置かれていた。先日、寮の中で発見された舞扇だ。
白い扇には、梅の絵と菅原道真が詠んだ和歌が綴られている。
ハルヤの祖父とアルフレッドの祖父が在学時に隠した物のようで、
ハルヤとアルフレッドとユウタが宝探しをした結果、ウーティス寮の中で見つけた。
眠りに落ちるまで、ハルヤは舞扇を見ていたのだろうか。
舞扇はハルヤの手元に落ちていた。シルヴァンは思わず微笑む。
「起こしにくい寝顔ですね。良い夢でも見ているんでしょうか?」
fin
■アルフレッド
ウーティス寮、ダイニングルーム。
日曜日の朝食。今日はアクティヴィティの日だ。
新入生のユウタはアルフレッドに聞いた。
「ねえ、ねえ。レッドは今日のアクティヴィティ、何するの?」
「俺か? 今日はジムでボクシングかな」
「えっ! スゴーイ! レッドってボクシングできるんだー!」
「ボクシングくらい、男なら誰でもやるだろ?」
「や、やらないよー」
「ユウタはボクシングやったことないのか?」
「う、うん……」
「なら、俺が教えてやろっか? 今日!」
「え? ええっ!?」
「よしっ、決まりっ! そうと決まれば早速行こうぜっ! ほら早く!」
「あ、ちょっと、レッドー!」
聖アルフォンソ学院のジムは、とにかくでかい。
最新のマシンが揃ったトレーニングルームから、
ボクシングジム、バスケットコート、プールの他にも、
ヨガのクラスなど、あらゆるフィットネスにも対応している。
アルフレッドはボクシングジムにユウタを連れてきた。
ユウタがここで最初に感じたのは、男臭い汗の匂いだった。
ボクシングジムは広い一室で、奥にリングが二つある。
右側の壁は全面、鏡貼りになっている。
左側の壁では数人の生徒が練習していた。
アルフレッドに気付いた生徒が声をかけてきた。
「よ、レッド。あれ? その子は確か新入りの」
「ああ。こいつ、ユウタ。この前ウーティスに入ったんだ。
んで、ボクシングは今日が初めてなんだってさ」
「へえ? 今日が初めてなんだ?」
「は、はい」
「なら、初めての子にはとびきり優しくしてやれよ? レッド」
「おい。からかうなよ、シルフェ」
「フフッ。あ、リング使うなら、今、空いてるぜ?」
「まだいいや。俺達、鏡の前で練習すっから。その辺貸してくれよ」
「ああ、そっちも空いてるよ。どうぞごゆっくり、お二人さん」
「行くぞ、ユウタ」
「あ、待って、レッドー」
アルフレッドとユウタは壁一面が鏡になっている場所を陣取った。
練習を始める前に、レッド主導でストレッチを行った。
「ウォーミングアップしないとケガすっからな、しっかりやれよ、ユウタ」
「はーい」
レッドは赤いTシャツに黒のトレーニングパンツ、
ユウタは白いTシャツに青のハーフパンツ姿である。
ストレッチが終わると、レッドはユウタの前に立った。
「よーし。ユウタは初めてだから、まずはグローブなしでやるか。
ユウタ、ちょっとジャブ打ってみ? 俺、見ててやるから」
「え? えっと……ジャブって何?」
「ジャブも知らないの? お前はホンットなーんにも知らないんだなー」
「だから、ボクシングなんてやったことないんだってばっ!」
「いいか? ジャブってのは、簡単に言うと、軽いパンチのことさ」
「軽いパンチがジャブ?」
「そ。でー、ユウタ、お前、右利き?」
「え? うん」
「右利きなら、左手で打つのがジャブさ。
利き腕じゃないほうが軽いパンチになるだろ?」
「あ、うん」
「で、実際にやってみると、こんなかんじ」
アルフレッドは左手で、正面に向かって、シュッとパンチを繰り出す。
思わずユウタは、「おおー」っと歓声を上げた。
「こんな初歩のパンチで喜ぶなよ。
と言っても、ジャブは基本中の基本だからな。
色んな使い方ができるし、大事なパンチなんだ。
とりあえずユウタも、俺のマネして打ってみな?」
アルフレッドはユウタの右側に立ち、正面の鏡に向かってジャブを打つ。
ユウタも鏡を見ながら、軽くパンチしてみた。
「こ、こんなかんじかな?」
「あー、ダメ、ダメー」
「え? 何がダメなの?」
「まあー、まだ教えてなかったけど、足が違うのさ。
左でパンチしてんだから、前に出す足は左足だろ?」
「あ、そうなんだ」
「それから、肩に力が入り過ぎ。もっと力抜いて」
「力抜けって言われても……」
「もっとリラックスして、ラクに打ってイイんだよ、ジャブは。
で、手の動きに合わせて、身体も揺らす。こんなふうに。な?」
「うん」
「じゃあ、もう一回やって?」
「こ、こうかな?」
「ああ。さっきよりイイぜ? それを続けて」
「うん」
ユウタは連続でジャブを繰り出していく。
何度も続けるうちに、なんとなく形になってきた。
「よし。大分、良くなってきたぜ、ユウタ。
それじゃあ、次は反対側やってみるか。さっきと逆の足を前に出して?」
「こう?」
「そう。で、今度は右手でパンチ。利き腕のパンチはクロスって言うんだ。
クロスパンチは、さっきのジャブより少し強めでやってみな?」
「うんっ!」
それから三十分程過ぎた頃。
ユウタは大分、息が上がっていた。
繰り出すパンチがヘロヘロパンチになりつつある。
アルフレッドは腰に手を置き、首を捻る。
「どうしたー、ユウタ。もう限界かー?」
「ごめん、レッド……俺、あんまり体力なくて……」
「少し休ませてやんなよ、レッド。初めての子には優しく、って言っただろ?」
「んだよ、シルフェ」
「さっきから見てたけど、もう30分もノンストップで練習してんじゃん?
ビギナーはそろそろ休憩の時間さ。その子は、俺達と違って、
いつもトレーニングしてるわけじゃないんだろ?」
「しょーがねーなー。じゃあ、少し休むか」
「ほんと? 良かったあ……」
ユウタはその場にペタリと座り込んだ。額には汗の粒が見える。
「ユウタ。これやるよ、飲みな?」
シルフェという人が、ペットボトルを差し出した。
中に入っているのは淡いイエローのドリンクのようだ。
「これ、何ですか?」
「色々入ってるスポーツドリンクみたいなモン。疲れが取れるよ?」
「そうなんだ。ありがとう」
「どーいたしまして。なんかキミ、新鮮だね? ここじゃ珍しいタイプだよ」
「え?」
「素直で可愛いね、ってイミ」
「え、あの……」
「おい、シルフェ!」
「ハイ、ハイ。なんだかコワイなあー、今日のレッドは」
「お前がいちいち絡んでくるからだろ?」
「フフッ。じゃー、お邪魔虫は消えるよ」
ヒラヒラと手を振りながら、シルフェが離れて行く。
アルフレッドはボソリと呟いた。
「ったく。なんなんだ、アイツ」
「あ、これ、美味しい」
「おい、ユウタ!」
「え、なに、なに!?」
「お前もさ、次からは、疲れたんなら『疲れた』って、ちゃんと言えよ」
「あ、うん。ごめんね、レッド」
「なっ、謝るのは……」
「レッド?」
「あと10分休んだら、再開するからな!」
「う、うん」
fin
日曜日の朝食。今日はアクティヴィティの日だ。
新入生のユウタはアルフレッドに聞いた。
「ねえ、ねえ。レッドは今日のアクティヴィティ、何するの?」
「俺か? 今日はジムでボクシングかな」
「えっ! スゴーイ! レッドってボクシングできるんだー!」
「ボクシングくらい、男なら誰でもやるだろ?」
「や、やらないよー」
「ユウタはボクシングやったことないのか?」
「う、うん……」
「なら、俺が教えてやろっか? 今日!」
「え? ええっ!?」
「よしっ、決まりっ! そうと決まれば早速行こうぜっ! ほら早く!」
「あ、ちょっと、レッドー!」
聖アルフォンソ学院のジムは、とにかくでかい。
最新のマシンが揃ったトレーニングルームから、
ボクシングジム、バスケットコート、プールの他にも、
ヨガのクラスなど、あらゆるフィットネスにも対応している。
アルフレッドはボクシングジムにユウタを連れてきた。
ユウタがここで最初に感じたのは、男臭い汗の匂いだった。
ボクシングジムは広い一室で、奥にリングが二つある。
右側の壁は全面、鏡貼りになっている。
左側の壁では数人の生徒が練習していた。
アルフレッドに気付いた生徒が声をかけてきた。
「よ、レッド。あれ? その子は確か新入りの」
「ああ。こいつ、ユウタ。この前ウーティスに入ったんだ。
んで、ボクシングは今日が初めてなんだってさ」
「へえ? 今日が初めてなんだ?」
「は、はい」
「なら、初めての子にはとびきり優しくしてやれよ? レッド」
「おい。からかうなよ、シルフェ」
「フフッ。あ、リング使うなら、今、空いてるぜ?」
「まだいいや。俺達、鏡の前で練習すっから。その辺貸してくれよ」
「ああ、そっちも空いてるよ。どうぞごゆっくり、お二人さん」
「行くぞ、ユウタ」
「あ、待って、レッドー」
アルフレッドとユウタは壁一面が鏡になっている場所を陣取った。
練習を始める前に、レッド主導でストレッチを行った。
「ウォーミングアップしないとケガすっからな、しっかりやれよ、ユウタ」
「はーい」
レッドは赤いTシャツに黒のトレーニングパンツ、
ユウタは白いTシャツに青のハーフパンツ姿である。
ストレッチが終わると、レッドはユウタの前に立った。
「よーし。ユウタは初めてだから、まずはグローブなしでやるか。
ユウタ、ちょっとジャブ打ってみ? 俺、見ててやるから」
「え? えっと……ジャブって何?」
「ジャブも知らないの? お前はホンットなーんにも知らないんだなー」
「だから、ボクシングなんてやったことないんだってばっ!」
「いいか? ジャブってのは、簡単に言うと、軽いパンチのことさ」
「軽いパンチがジャブ?」
「そ。でー、ユウタ、お前、右利き?」
「え? うん」
「右利きなら、左手で打つのがジャブさ。
利き腕じゃないほうが軽いパンチになるだろ?」
「あ、うん」
「で、実際にやってみると、こんなかんじ」
アルフレッドは左手で、正面に向かって、シュッとパンチを繰り出す。
思わずユウタは、「おおー」っと歓声を上げた。
「こんな初歩のパンチで喜ぶなよ。
と言っても、ジャブは基本中の基本だからな。
色んな使い方ができるし、大事なパンチなんだ。
とりあえずユウタも、俺のマネして打ってみな?」
アルフレッドはユウタの右側に立ち、正面の鏡に向かってジャブを打つ。
ユウタも鏡を見ながら、軽くパンチしてみた。
「こ、こんなかんじかな?」
「あー、ダメ、ダメー」
「え? 何がダメなの?」
「まあー、まだ教えてなかったけど、足が違うのさ。
左でパンチしてんだから、前に出す足は左足だろ?」
「あ、そうなんだ」
「それから、肩に力が入り過ぎ。もっと力抜いて」
「力抜けって言われても……」
「もっとリラックスして、ラクに打ってイイんだよ、ジャブは。
で、手の動きに合わせて、身体も揺らす。こんなふうに。な?」
「うん」
「じゃあ、もう一回やって?」
「こ、こうかな?」
「ああ。さっきよりイイぜ? それを続けて」
「うん」
ユウタは連続でジャブを繰り出していく。
何度も続けるうちに、なんとなく形になってきた。
「よし。大分、良くなってきたぜ、ユウタ。
それじゃあ、次は反対側やってみるか。さっきと逆の足を前に出して?」
「こう?」
「そう。で、今度は右手でパンチ。利き腕のパンチはクロスって言うんだ。
クロスパンチは、さっきのジャブより少し強めでやってみな?」
「うんっ!」
それから三十分程過ぎた頃。
ユウタは大分、息が上がっていた。
繰り出すパンチがヘロヘロパンチになりつつある。
アルフレッドは腰に手を置き、首を捻る。
「どうしたー、ユウタ。もう限界かー?」
「ごめん、レッド……俺、あんまり体力なくて……」
「少し休ませてやんなよ、レッド。初めての子には優しく、って言っただろ?」
「んだよ、シルフェ」
「さっきから見てたけど、もう30分もノンストップで練習してんじゃん?
ビギナーはそろそろ休憩の時間さ。その子は、俺達と違って、
いつもトレーニングしてるわけじゃないんだろ?」
「しょーがねーなー。じゃあ、少し休むか」
「ほんと? 良かったあ……」
ユウタはその場にペタリと座り込んだ。額には汗の粒が見える。
「ユウタ。これやるよ、飲みな?」
シルフェという人が、ペットボトルを差し出した。
中に入っているのは淡いイエローのドリンクのようだ。
「これ、何ですか?」
「色々入ってるスポーツドリンクみたいなモン。疲れが取れるよ?」
「そうなんだ。ありがとう」
「どーいたしまして。なんかキミ、新鮮だね? ここじゃ珍しいタイプだよ」
「え?」
「素直で可愛いね、ってイミ」
「え、あの……」
「おい、シルフェ!」
「ハイ、ハイ。なんだかコワイなあー、今日のレッドは」
「お前がいちいち絡んでくるからだろ?」
「フフッ。じゃー、お邪魔虫は消えるよ」
ヒラヒラと手を振りながら、シルフェが離れて行く。
アルフレッドはボソリと呟いた。
「ったく。なんなんだ、アイツ」
「あ、これ、美味しい」
「おい、ユウタ!」
「え、なに、なに!?」
「お前もさ、次からは、疲れたんなら『疲れた』って、ちゃんと言えよ」
「あ、うん。ごめんね、レッド」
「なっ、謝るのは……」
「レッド?」
「あと10分休んだら、再開するからな!」
「う、うん」
fin
■シルヴァン
日曜の午後。天気は良く、気持ちの良い風が吹いている。
聖アルフォンソ学院の正門前に、タクシーが一台停まっていた。
ドライバーはこの車の持ち主、アイヴィー。
後部座席には、先日学院に入った新入生が座っている。
入学初日早々の外泊で一躍有名になった、高等部一年のシルヴァンだ。
ちなみにその外泊先はアイヴィーの自宅だった。
以来、シルヴァンには、すっかり懐かれてしまったようで、
しょっちゅう、こうして車を呼び出されている。
アイヴィーはルームミラーで後部座席を見ながら、
「で、今日はどこまで行くんだー?」
「今日は、旧市街の公園までお願いしまーす」
「公園ってドコのよ?」
「ええっとー、バスケットコートがあるところなんですけどー」
「ああ、あの古い公園か」
ドライバーは旧市街に向かって車を出発させながら、
「なんでまた、そんなトコに用があんだ?」
「先週、その辺を歩いていた時に、近所の子達がバスケをしてたんです。
それを見ていたら、なんだか懐かしくなりましてね。
僕も仲間に入れて貰ったら、仲良くなっちゃいまして。
また来週も来いよ、って誘われちゃったんですー」
「ったく、お前さんの社交性の高さには呆れるわ」
「そんなに褒められると照れちゃいますー」
「褒めてねーよ」
「ねえ、今日はアイヴィーも一緒にバスケしませんか?」
「おいおい。俺まで巻き込むなよ」
「アイヴィーも実はバスケ得意でしょ? 苦手なスポーツ、なさそうですもんね?」
「若いお前さん達相手じゃ敵わねーよ」
「でも、僕と一緒なら、胸張ってお仕事サボれるんじゃないですか?」
「……なんだよ、そのアクマの囁きは」
「ココロが揺れ動いちゃいました?
あ、それから僕、今夜は貴方の家に泊まる予定ですから」
「あっそ……って、また泊まんのかよっ!?」
「もし、他の誰かさんがお泊まりする予定なら仕方ないですけど。
誰も来ないなら、僕が居てもイイですよね?」
「……ったく。どうしようもない問題児が入ったもんだな」
「おやおや。今日は僕のことベタ褒めですね?」
「だから、一個も褒めてないっての!」
その約一時間後。違うタクシーに二人の生徒が乗っていた。
こちらの後部座席に座っているのは、高等部三年のクラウスと高等部二年のテオだ。
日曜日に街で買い物をしたかったテオが、強引にクラウスを連れ出したのである。
市街地での買い物を終えたあとは、テオがアイスクリームの販売車を見つけ、
広場でアイスクリームを食べたりもした。
甘いものが苦手なクラウスが頼んだのはアイスコーヒーだったが。
その後「旧市街のケーキ屋さんで寮へのお土産を買おう」
とテオが言い出した為、二人を乗せた車は旧市街を走っていた。
「おや?」
窓の外を見ながら、テオがそう呟いた。腕を組んで座っているクラウスが尋ねる。
「どうした?」
「今、公園でバスケットボールをしていたの、
うちのワイルドボーイじゃないかなあと思って」
その名を聞いた途端、クラウスは反射的に苦い顔になった。
「……ワイルドボーイって、シルヴァンのことか?」
「うん。入学初日から、貴方を翻弄しているワイルドボーイだよ?」
「あいつ、またフラフラ出歩いて……」
クラウスは運転席を掴みながら、
「すまないが、車を戻してくれないか。その公園に行ってくれ!」
バスケットコートは高いフェンスに囲まれた中にあった。
周りに幾つかベンチがある程度で、公園と言うには随分寂れたところだ。
フェンスは錆びた緑色で、ペンキは剥げ、黒っぽい中身が見え隠れしている。
コートの白いラインもかなり擦り切れ、ラインは途切れ途切れになっていた。
フェンスがドアのように開く場所には、とっくに壊れた鍵がぶら下がっている。
「旧市街にこんな場所があったのか」
クラウスは眉を顰めていたが、テオは物珍しそうにキョロキョロしていた。
「昔の映画に出てきそうな場所だねえ。強いギャングがここで決闘しそうだ」
二人がフェンスのドアを開けて入ってくる。
最初に気付いたのは、ベンチで一服しながら見学していたアイヴィーだった。
「ありゃ? なんで……」
すると、シルヴァンも気付いてこう叫んだ。
「あ! お父さん! とテオも! どうしたんですか?」
「おいコラッ! お父さんと呼ぶな! しかも、こんな人前で!」
「おや、クラウスは本当に照れ屋さんだねえ」
「テオ! 俺は別に照れてるわけじゃないんだぞ!」
シルヴァンとバスケをしていた五名の子ども達はきょとんとして、
突然登場したクラウスとテオを交互に見ていた。
子ども達は皆シルヴァンより年下で、小学生か中学生くらいに見えた。
浅黒い肌の子どもがシルヴァンに尋ねる。
「おい、シルヴァン。その二人、知り合いか?」
「ええ、まあ。お二人も学院の生徒で、僕の先輩です」
「へえ。そっちもマージナルプリンスか。シルヴァンとは全然、雰囲気違うけど」
「あははっ。それは僕のほうが珍しいタイプなんですよ」
子ども好きなテオが前へ進み出て、シルヴァンに尋ねた。
「この可愛い子達はみんな、シルヴァンのお友達なのだね?」
「はい。先週、ここで会ったばかりですけど、僕達バスケ仲間なんです」
「そうか。それでは私も自己紹介させて貰おうかな。
こんにちは。私もシルヴァンの友達でね? 私の名前はテオだよ。
そして、こちらはクラウスと言うんだ。よろしくね、みんな」
「おう」
「お前は、いいヤツっぽいな」
「俺はジョニー! よろしくな、テオ!」
「テオはバスケできるのか!?」
五人の子ども達は次々と名乗り始めた。
テオはあっと言う間に囲まれ、質問攻めに合っていた。
輪の外に立っているのは、シルヴァンとクラウスだけだ。
二人の目が合い、シルヴァンが口を開いた。
「ええと、それで、どうしたんですか? こんなところで」
「買い物の帰り、テオが車の窓からお前の姿が見えたと言うから、来たんだ」
「おや。テオと二人きりでお買い物デートだったんですか。仲が良いですねえ」
「違う! ただの買い物だ。俺は付き合わされただけで!」
「フフッ。それで、僕を見かけたと言われて、
僕のことが心配になったんですか? 本当にお父さんは心配性ですねえ」
「だから、俺をその呼び方で呼ぶな」
「でも、丁度良かったです。僕、クラウスにお伝えしたいことがあって」
「何だ?」
「僕、今夜、アイヴィーの家にお泊まりしますから」
「なっ……またかっ!?」
クラウスの大きな声で、子ども達の肩が一斉にビクッと跳ねた。
テオが、大丈夫だよと子ども達を宥めている。
シルヴァンは全く怯えた様子なく会話を続けていた。
「はいっ。それで、外泊届だかを書いていないので、
またお手数お掛けしますが、代わりにその手続きを……」
「許さんっ!」
「えー。どうしてですかー?」
「お前なあっ! 入学してまだ日も浅いのに、そう何度も何度も外泊するな!
寮があるんだから、寮で寝れば良いだろう!」
「でも、アイヴィーの家のほうが落ち着……」
「落ち着く落ち着かないの問題じゃない。
聖アルフォンソ学院は全寮制なんだぞ。
わざわざ他の家に泊まって迷惑をかけるな!」
「アイヴィーは迷惑なんて思ってませんよー。ね、アイヴィー?」
「構うな、アイヴィー! こいつに迷惑だと、はっきり言ってやれ!」
「え……いやあ、俺は……」
シルヴァンとクラウスにそれぞれ別の答えを求められ、アイヴィーは困り果てた。
「えーっと、参ったな、こりゃ……」
困っているアイヴィーを見て、テオは思わず微笑んだ。
「フフッ。何やらまるで、アイヴィーの奪い合いのようだねえ」
「どこがだっ!?」
一人呑気なテオにクラウスが突っ込んだ。
「それに、さっきから気になっていたんだが、
何故、アイヴィーがここに居る? 勤務中じゃないのか?」
「ギクッ」
「……アイヴィー。自分の立場が解っているのか」
「い、いやあ……あの……ね。
ちょ……そんなコワイ顔すんなよ、クラウス」
「そうだよ、クラウス。貴方がそんな顔をするから、
この子達も怖がっているようだし」
そうテオに言われて、クラウスは初めて、
子ども達から怯えた視線を向けられていることに気付く。
言葉に詰まったクラウスは、意味無く咳払いをしていた。
「よし。とりあえずこの勝負、私に預けてみてはどうかな?」
テオからの謎の提案に、クラウスが首を捻る。
「……何の勝負を、どう預けろと言うんだ?」
「要するに、シルヴァンは今宵、アイヴィーの家に泊まりたいのだろう?」
「え? はい」
「だが、クラウスはそれを止めたい。シルヴァンの家である、
ウーティス寮で眠って欲しいと願っている。そうだろう?」
「ああ。そうだが」
「ならば、シルヴァンとクラウスが勝負をして、
勝ったほうの言うことを聞く、というのはどうかな?」
「どうやって勝負するんだ?」
「おや、それを聞くのかい? ここにはバスケットコートがあるのだから、
勝負はもちろんバスケットボールだよ。シルヴァンとクラウスの一対一だから、
ワン・オン・ワンになるね。ルールは10点先取したほうが勝ち、でどうかな?」
「わお! じゃあ、僕がクラウスに勝てば今夜はお泊まりして良いんですね!
クラウスともバスケができるし、それって最高じゃないですか!
テオってスゴイです! ありがとうございます、テオ!」
「フフッ。お礼を言うのは私のほうだよ。
これほど貴重な名勝負を、最前列で見られるのだから」
「お前達、何を勝手に!」
「おや、クラウス。どんなスポーツも得意な貴方なら、
きっとシルヴァンにも勝てるだろうと思ったのだけど?
まさか、自ら勝負を降りるつもりかい? それとも、彼に勝つ自信がないのかな?」
「クッ……テオ、お前……」
「フフッ。たまにはストリートバスケも良いじゃないか、クラウス。
第一、私達が乱入したせいで、せっかくの試合を止めてしまったのだし。
この場を盛り上げる為にも最良の方法だと、自負しているのだけどね、私は」
子ども達のお願いするような視線がクラウスに突き刺さる。
「……おい、シルヴァン! 10点取ったら終わりだからなっ!
俺が勝ったら、今日は大人しく寮に帰るんだぞっ!」
「はーいっ!」
シルヴァンとクラウスがバスケットコートに立つ。
近所の子ども達はシルヴァンを応援し始めた。
フェンスに背を預けて立っているテオの側に、アイヴィーが来る。
「マジで大したもんだよ、お前さんは」
「いや何。私は、私と皆が一番楽しめることを提案をしただけだよ」
「その提案のおかげで俺もイロイロ助かったよ。サンキュな、テオ」
「あははっ。先程はアイヴィーの奪い合いになっていたからねえ。
流石は人気ドライバーのアイヴィーだ」
バスケットコートでは、シルヴァンがコイントスで攻守を決めようとしている。
「では、コイントスで勝ったほうが、先攻にしましょうか。
お先にどうぞ、クラウス。表と裏、どちらにします?」
クラウスは間髪入れず答えた。
「表」
「奇遇ですね。僕は裏にしようと思っていたところです」
「……さっさとコインを投げろ」
「はーい。それじゃ、お待たせしました、皆さん。
行っきますよー! そーれっ!」
皆の視線がコインと一緒に空を向く。
コインは太陽の光を浴びながら、宙を舞った。
→
聖アルフォンソ学院の正門前に、タクシーが一台停まっていた。
ドライバーはこの車の持ち主、アイヴィー。
後部座席には、先日学院に入った新入生が座っている。
入学初日早々の外泊で一躍有名になった、高等部一年のシルヴァンだ。
ちなみにその外泊先はアイヴィーの自宅だった。
以来、シルヴァンには、すっかり懐かれてしまったようで、
しょっちゅう、こうして車を呼び出されている。
アイヴィーはルームミラーで後部座席を見ながら、
「で、今日はどこまで行くんだー?」
「今日は、旧市街の公園までお願いしまーす」
「公園ってドコのよ?」
「ええっとー、バスケットコートがあるところなんですけどー」
「ああ、あの古い公園か」
ドライバーは旧市街に向かって車を出発させながら、
「なんでまた、そんなトコに用があんだ?」
「先週、その辺を歩いていた時に、近所の子達がバスケをしてたんです。
それを見ていたら、なんだか懐かしくなりましてね。
僕も仲間に入れて貰ったら、仲良くなっちゃいまして。
また来週も来いよ、って誘われちゃったんですー」
「ったく、お前さんの社交性の高さには呆れるわ」
「そんなに褒められると照れちゃいますー」
「褒めてねーよ」
「ねえ、今日はアイヴィーも一緒にバスケしませんか?」
「おいおい。俺まで巻き込むなよ」
「アイヴィーも実はバスケ得意でしょ? 苦手なスポーツ、なさそうですもんね?」
「若いお前さん達相手じゃ敵わねーよ」
「でも、僕と一緒なら、胸張ってお仕事サボれるんじゃないですか?」
「……なんだよ、そのアクマの囁きは」
「ココロが揺れ動いちゃいました?
あ、それから僕、今夜は貴方の家に泊まる予定ですから」
「あっそ……って、また泊まんのかよっ!?」
「もし、他の誰かさんがお泊まりする予定なら仕方ないですけど。
誰も来ないなら、僕が居てもイイですよね?」
「……ったく。どうしようもない問題児が入ったもんだな」
「おやおや。今日は僕のことベタ褒めですね?」
「だから、一個も褒めてないっての!」
その約一時間後。違うタクシーに二人の生徒が乗っていた。
こちらの後部座席に座っているのは、高等部三年のクラウスと高等部二年のテオだ。
日曜日に街で買い物をしたかったテオが、強引にクラウスを連れ出したのである。
市街地での買い物を終えたあとは、テオがアイスクリームの販売車を見つけ、
広場でアイスクリームを食べたりもした。
甘いものが苦手なクラウスが頼んだのはアイスコーヒーだったが。
その後「旧市街のケーキ屋さんで寮へのお土産を買おう」
とテオが言い出した為、二人を乗せた車は旧市街を走っていた。
「おや?」
窓の外を見ながら、テオがそう呟いた。腕を組んで座っているクラウスが尋ねる。
「どうした?」
「今、公園でバスケットボールをしていたの、
うちのワイルドボーイじゃないかなあと思って」
その名を聞いた途端、クラウスは反射的に苦い顔になった。
「……ワイルドボーイって、シルヴァンのことか?」
「うん。入学初日から、貴方を翻弄しているワイルドボーイだよ?」
「あいつ、またフラフラ出歩いて……」
クラウスは運転席を掴みながら、
「すまないが、車を戻してくれないか。その公園に行ってくれ!」
バスケットコートは高いフェンスに囲まれた中にあった。
周りに幾つかベンチがある程度で、公園と言うには随分寂れたところだ。
フェンスは錆びた緑色で、ペンキは剥げ、黒っぽい中身が見え隠れしている。
コートの白いラインもかなり擦り切れ、ラインは途切れ途切れになっていた。
フェンスがドアのように開く場所には、とっくに壊れた鍵がぶら下がっている。
「旧市街にこんな場所があったのか」
クラウスは眉を顰めていたが、テオは物珍しそうにキョロキョロしていた。
「昔の映画に出てきそうな場所だねえ。強いギャングがここで決闘しそうだ」
二人がフェンスのドアを開けて入ってくる。
最初に気付いたのは、ベンチで一服しながら見学していたアイヴィーだった。
「ありゃ? なんで……」
すると、シルヴァンも気付いてこう叫んだ。
「あ! お父さん! とテオも! どうしたんですか?」
「おいコラッ! お父さんと呼ぶな! しかも、こんな人前で!」
「おや、クラウスは本当に照れ屋さんだねえ」
「テオ! 俺は別に照れてるわけじゃないんだぞ!」
シルヴァンとバスケをしていた五名の子ども達はきょとんとして、
突然登場したクラウスとテオを交互に見ていた。
子ども達は皆シルヴァンより年下で、小学生か中学生くらいに見えた。
浅黒い肌の子どもがシルヴァンに尋ねる。
「おい、シルヴァン。その二人、知り合いか?」
「ええ、まあ。お二人も学院の生徒で、僕の先輩です」
「へえ。そっちもマージナルプリンスか。シルヴァンとは全然、雰囲気違うけど」
「あははっ。それは僕のほうが珍しいタイプなんですよ」
子ども好きなテオが前へ進み出て、シルヴァンに尋ねた。
「この可愛い子達はみんな、シルヴァンのお友達なのだね?」
「はい。先週、ここで会ったばかりですけど、僕達バスケ仲間なんです」
「そうか。それでは私も自己紹介させて貰おうかな。
こんにちは。私もシルヴァンの友達でね? 私の名前はテオだよ。
そして、こちらはクラウスと言うんだ。よろしくね、みんな」
「おう」
「お前は、いいヤツっぽいな」
「俺はジョニー! よろしくな、テオ!」
「テオはバスケできるのか!?」
五人の子ども達は次々と名乗り始めた。
テオはあっと言う間に囲まれ、質問攻めに合っていた。
輪の外に立っているのは、シルヴァンとクラウスだけだ。
二人の目が合い、シルヴァンが口を開いた。
「ええと、それで、どうしたんですか? こんなところで」
「買い物の帰り、テオが車の窓からお前の姿が見えたと言うから、来たんだ」
「おや。テオと二人きりでお買い物デートだったんですか。仲が良いですねえ」
「違う! ただの買い物だ。俺は付き合わされただけで!」
「フフッ。それで、僕を見かけたと言われて、
僕のことが心配になったんですか? 本当にお父さんは心配性ですねえ」
「だから、俺をその呼び方で呼ぶな」
「でも、丁度良かったです。僕、クラウスにお伝えしたいことがあって」
「何だ?」
「僕、今夜、アイヴィーの家にお泊まりしますから」
「なっ……またかっ!?」
クラウスの大きな声で、子ども達の肩が一斉にビクッと跳ねた。
テオが、大丈夫だよと子ども達を宥めている。
シルヴァンは全く怯えた様子なく会話を続けていた。
「はいっ。それで、外泊届だかを書いていないので、
またお手数お掛けしますが、代わりにその手続きを……」
「許さんっ!」
「えー。どうしてですかー?」
「お前なあっ! 入学してまだ日も浅いのに、そう何度も何度も外泊するな!
寮があるんだから、寮で寝れば良いだろう!」
「でも、アイヴィーの家のほうが落ち着……」
「落ち着く落ち着かないの問題じゃない。
聖アルフォンソ学院は全寮制なんだぞ。
わざわざ他の家に泊まって迷惑をかけるな!」
「アイヴィーは迷惑なんて思ってませんよー。ね、アイヴィー?」
「構うな、アイヴィー! こいつに迷惑だと、はっきり言ってやれ!」
「え……いやあ、俺は……」
シルヴァンとクラウスにそれぞれ別の答えを求められ、アイヴィーは困り果てた。
「えーっと、参ったな、こりゃ……」
困っているアイヴィーを見て、テオは思わず微笑んだ。
「フフッ。何やらまるで、アイヴィーの奪い合いのようだねえ」
「どこがだっ!?」
一人呑気なテオにクラウスが突っ込んだ。
「それに、さっきから気になっていたんだが、
何故、アイヴィーがここに居る? 勤務中じゃないのか?」
「ギクッ」
「……アイヴィー。自分の立場が解っているのか」
「い、いやあ……あの……ね。
ちょ……そんなコワイ顔すんなよ、クラウス」
「そうだよ、クラウス。貴方がそんな顔をするから、
この子達も怖がっているようだし」
そうテオに言われて、クラウスは初めて、
子ども達から怯えた視線を向けられていることに気付く。
言葉に詰まったクラウスは、意味無く咳払いをしていた。
「よし。とりあえずこの勝負、私に預けてみてはどうかな?」
テオからの謎の提案に、クラウスが首を捻る。
「……何の勝負を、どう預けろと言うんだ?」
「要するに、シルヴァンは今宵、アイヴィーの家に泊まりたいのだろう?」
「え? はい」
「だが、クラウスはそれを止めたい。シルヴァンの家である、
ウーティス寮で眠って欲しいと願っている。そうだろう?」
「ああ。そうだが」
「ならば、シルヴァンとクラウスが勝負をして、
勝ったほうの言うことを聞く、というのはどうかな?」
「どうやって勝負するんだ?」
「おや、それを聞くのかい? ここにはバスケットコートがあるのだから、
勝負はもちろんバスケットボールだよ。シルヴァンとクラウスの一対一だから、
ワン・オン・ワンになるね。ルールは10点先取したほうが勝ち、でどうかな?」
「わお! じゃあ、僕がクラウスに勝てば今夜はお泊まりして良いんですね!
クラウスともバスケができるし、それって最高じゃないですか!
テオってスゴイです! ありがとうございます、テオ!」
「フフッ。お礼を言うのは私のほうだよ。
これほど貴重な名勝負を、最前列で見られるのだから」
「お前達、何を勝手に!」
「おや、クラウス。どんなスポーツも得意な貴方なら、
きっとシルヴァンにも勝てるだろうと思ったのだけど?
まさか、自ら勝負を降りるつもりかい? それとも、彼に勝つ自信がないのかな?」
「クッ……テオ、お前……」
「フフッ。たまにはストリートバスケも良いじゃないか、クラウス。
第一、私達が乱入したせいで、せっかくの試合を止めてしまったのだし。
この場を盛り上げる為にも最良の方法だと、自負しているのだけどね、私は」
子ども達のお願いするような視線がクラウスに突き刺さる。
「……おい、シルヴァン! 10点取ったら終わりだからなっ!
俺が勝ったら、今日は大人しく寮に帰るんだぞっ!」
「はーいっ!」
シルヴァンとクラウスがバスケットコートに立つ。
近所の子ども達はシルヴァンを応援し始めた。
フェンスに背を預けて立っているテオの側に、アイヴィーが来る。
「マジで大したもんだよ、お前さんは」
「いや何。私は、私と皆が一番楽しめることを提案をしただけだよ」
「その提案のおかげで俺もイロイロ助かったよ。サンキュな、テオ」
「あははっ。先程はアイヴィーの奪い合いになっていたからねえ。
流石は人気ドライバーのアイヴィーだ」
バスケットコートでは、シルヴァンがコイントスで攻守を決めようとしている。
「では、コイントスで勝ったほうが、先攻にしましょうか。
お先にどうぞ、クラウス。表と裏、どちらにします?」
クラウスは間髪入れず答えた。
「表」
「奇遇ですね。僕は裏にしようと思っていたところです」
「……さっさとコインを投げろ」
「はーい。それじゃ、お待たせしました、皆さん。
行っきますよー! そーれっ!」
皆の視線がコインと一緒に空を向く。
コインは太陽の光を浴びながら、宙を舞った。
→
■アンリ
聖アルフォンソ学院、体育館。
その中央で、僕とオーギュストは向かい合って立っている。
僕達以外に人は居ない。ここは、何世紀前かの生徒が建てた、
フェンシング専用の体育館で、この競技ができる生徒は、極端に少ないから。
試合は幅1.8m、長さ18mの『ピスト』と呼ばれる台で行われる。
僕とオーギュストは、フェンシング用の白いユニフォームとマスクを着け、
エペという剣を手にしている。
今日は日曜日。神秘学を含め、全ての授業は休みだ。
それなのに何故、日曜の、それも午前中から、
神秘学の教授とフェンシングをやる羽目になったのか。
誰のせいかと言えば、馬好きのあの人のせいだ。
今日のアクティヴィティ、僕は高等部一年のジョシュアを相手に、
フェンシングをやろうと思っていたのだけれど、
声をかける前に、彼は朝早くから愛馬と遠乗りに行ってしまっていた。
ジョシュアは時折、何かから逃げるように厩舎に行く。
おそらくは幼少期からの癖なのだろう。けれど、最近は、その回数も減ったようだ。
今朝、バトラーに聞いた話では、ジョシュアはこう言って寮を出発したらしい。
「そろそろ会いに行かないと、機嫌を損ねてしまいそうだから。
寂しがり屋なんだ、俺のアルセイデスは」と。
フェンシングの練習相手が外出した為、
僕は仕方なく、予定を変更してライブラリに行った。
そこでこの教授と出くわしたのが運の尽き。
「私にお友達の代役は務まらないかな?」と言われた。
壁を相手に練習するよりはましかと思って、彼を体育館に連れて来た。
けれど、神秘学専攻の教授に、フェンシングなんて本当にできるのだろうか。
フェンシングはキスから始まる。
試合開始前、選手は互いに剣先を地に向ける。
次に剣先を天に向け、垂直に立てた柄を口許に運ぶ。
剣へのキスを終えたら、剣を相手に真っ直ぐ向ける。
その一連の動作を『サリュ』と言う。試合前の儀式的な挨拶だ。
僕は神秘学の教授が、どのようにサリュをするのか見ていた。
彼は意外に慣れた様子で、優雅に剣とキスをして見せた。
僕の視線に気付いた彼は穏やかに微笑しながら、
「フェンシングは、随分久し振りだから、お手柔らかにね? アンリ」
確かにそう言っていたくせに。
試合が始まってみれば、初めて剣を持った時を思い出す程、
圧倒的に、彼の実力のほうが上だった。
まるで、小さな子どもが大人と勝負しているみたい。
ジョシュアと僕の実力はほぼ互角なのに。
オーギュストには、こんなに敵わないなんて。
試合終了後。オーギュストはマスクを取って、にこりと笑った。
「上手だね、アンリ。驚いたよ」
むかつく。
fin
その中央で、僕とオーギュストは向かい合って立っている。
僕達以外に人は居ない。ここは、何世紀前かの生徒が建てた、
フェンシング専用の体育館で、この競技ができる生徒は、極端に少ないから。
試合は幅1.8m、長さ18mの『ピスト』と呼ばれる台で行われる。
僕とオーギュストは、フェンシング用の白いユニフォームとマスクを着け、
エペという剣を手にしている。
今日は日曜日。神秘学を含め、全ての授業は休みだ。
それなのに何故、日曜の、それも午前中から、
神秘学の教授とフェンシングをやる羽目になったのか。
誰のせいかと言えば、馬好きのあの人のせいだ。
今日のアクティヴィティ、僕は高等部一年のジョシュアを相手に、
フェンシングをやろうと思っていたのだけれど、
声をかける前に、彼は朝早くから愛馬と遠乗りに行ってしまっていた。
ジョシュアは時折、何かから逃げるように厩舎に行く。
おそらくは幼少期からの癖なのだろう。けれど、最近は、その回数も減ったようだ。
今朝、バトラーに聞いた話では、ジョシュアはこう言って寮を出発したらしい。
「そろそろ会いに行かないと、機嫌を損ねてしまいそうだから。
寂しがり屋なんだ、俺のアルセイデスは」と。
フェンシングの練習相手が外出した為、
僕は仕方なく、予定を変更してライブラリに行った。
そこでこの教授と出くわしたのが運の尽き。
「私にお友達の代役は務まらないかな?」と言われた。
壁を相手に練習するよりはましかと思って、彼を体育館に連れて来た。
けれど、神秘学専攻の教授に、フェンシングなんて本当にできるのだろうか。
フェンシングはキスから始まる。
試合開始前、選手は互いに剣先を地に向ける。
次に剣先を天に向け、垂直に立てた柄を口許に運ぶ。
剣へのキスを終えたら、剣を相手に真っ直ぐ向ける。
その一連の動作を『サリュ』と言う。試合前の儀式的な挨拶だ。
僕は神秘学の教授が、どのようにサリュをするのか見ていた。
彼は意外に慣れた様子で、優雅に剣とキスをして見せた。
僕の視線に気付いた彼は穏やかに微笑しながら、
「フェンシングは、随分久し振りだから、お手柔らかにね? アンリ」
確かにそう言っていたくせに。
試合が始まってみれば、初めて剣を持った時を思い出す程、
圧倒的に、彼の実力のほうが上だった。
まるで、小さな子どもが大人と勝負しているみたい。
ジョシュアと僕の実力はほぼ互角なのに。
オーギュストには、こんなに敵わないなんて。
試合終了後。オーギュストはマスクを取って、にこりと笑った。
「上手だね、アンリ。驚いたよ」
むかつく。
fin
■ジョシュア
日曜日の朝。ウーティス寮ダイニングルーム。
聖アルフォンソ学院の朝食は、毎朝ビュッフェ方式。
寮の専属シェフが用意した一流ホテル並みのメニューが並ぶ。
今、席に着いているのは三人。高等部三年のジョシュア、シルヴァンは、
揃って、食後のホットコーヒーを飲んでいた。
「食った、食ったー」
高等部の二年レッドがオレンジジュースを飲み干しながら席を立つ。
「シルヴァン、出かける準備できたら俺の部屋来いよー」
「はーい。解りましたー」
シルヴァンの返事を聞いて、レッドがダイニングルームを出て行く。
コーヒーカップを持ったまま、ジョシュアがシルヴァンに尋ねる。
「今日は二人で出かけるのかい?」
「はい。街まで行ってきます。次のライブに使うライブハウスを選びに。
あと、レッドがギターや服を見に行きたいと言うので、
あちこちのお店を見に行くと思いますよ。
僕は、帰りにゲームセンターにも寄りたいと思ってますけど。
今日のアクティヴィティは『バンド活動エトセトラ』ですかね」
レッドとシルヴァンはデッドプリンスというバンドを組んでいるが、
メンバーはもう一人居る。高等部二年のハルヤだ。
バンドの活動なのに、ハルヤは一緒に行かないのだろうか、
とジョシュアが思っていると、シルヴァンのほうから話し始めた。
「ハルヤも誘ったんですけど、断られちゃったんですよー」
「断られた?」
「ええ。『俺、二人に付き合える体力ないし、めんどくさいから』って。
この前、ちょっと振り回し過ぎちゃったからですかねえ?」
「ああ……もしかしたら……そうかもしれないね」
そう言えば、いつかの日曜日。デッドプリンス三人で出かけた時があった。
午前中から出かけて、帰ってきたのは夜遅く。門限ギリギリの時間だった。
一日中、街で遊び倒してきたようで、
ハイテンションなレッドとシルヴァンに比べると、
ハルヤは疲労困憊といった表情をしていた。
「それじゃ、僕もお先に失礼しますね」
シルヴァンが席を立ち、ダイニングルームのドアを開ける。
「おっと。おはようございます」
ジョシュアからはシルヴァンの背中しか見えなかったが、
ドアの向こうで誰かと会ったらしい。
シルヴァンと入れ違いにダイニングルームに入ってきたのは、
まだ眠そうな顔をした高等部一年生。今年入った新入生、ユウタだ。
頭の右側に少し寝癖が付いている。
「おはよう、ユウタ」
「おはよ……あれ? ジョシュアだけ? もしかして俺が一番最後?」
「ううん。あと、アンリとハルヤも来ていないよ。
まだ眠っているんじゃないかな? 二人とも朝は苦手みたいだから」
「そっか。うわあ、今日の朝ご飯も美味しそうだなあー」
ここでの料理が珍しいようで、朝食のメニューに対して、
まだ新鮮なリアクションを見せる新入生を最上級生は微笑ましく見ていた。
ユウタが料理を少し食べたあと、ジョシュアはこう尋ねた。
「ユウタは、今日のアクティヴィティ、何をするか決まっているのかい?」
「それが、まだ決まってないんだよー。
毎週、毎週、日曜日に何かやんなきゃいけない、ってのが、
まだ慣れないっていうか。何して良いのか解んなくて」
「そんなに気負わなくても良いんだよ?
アクティヴィティは何をやっても大丈夫なんだから」
「うん。それは解ってるんだけどね……」
「レッドとシルヴァンは『バンド活動エトセトラ』だって言ってたよ?
ライブに使うライブハウスを選んだり、
買い物をしたり、ゲームセンターにも行くって」
「そっかー。俺もレッド達みたいに自由に考えられたら良いんだけど。
あ、ジョシュアは今日、何するの?」
「俺はアルセイデスと一緒に過ごそうと思ってるんだ」
アルセイデスとはジョシュアが幼少期から一緒に居るという馬のことだ。
今はこの学院の厩舎に居て、先日、ユウタもアルセイデスに会って、
少し乗馬の練習をさせて貰った。栗毛と大きな黒目が綺麗な馬だった。
「ってことは、ジョシュアは乗馬かあ。
休日に乗馬なんて……ジョシュアってやっぱりすごいなあ」
「そう、かな?」
「俺は何しようかなー。あー、悩んでる間に一日終わっちゃいそうだよー」
頭を抱えているユウタを見て、ジョシュアが微笑む。
「それじゃあ、今日は俺に付き合って貰えないかな? 良かったら、だけど」
「えっ? 一緒に行って良いの!?」
「うん。この前、ユウタと一緒に乗馬の練習をした時も、
初めてにしては本当に上手だったし、
今日一日練習したら、もっと上手くなるんじゃないかな?」
「そ、そうかな? あ、あの……」
「ん?」
「もし……もし、俺が馬に乗れるようになったら、
姉貴、ビックリするかな? 俺のこと見直すかな?」
「うん。きっと」
「じゃ、じゃあ、ジョシュアコーチ! 今日は一日、よろしくお願いしますっ!」
朝食のあと、ユウタはジョシュアと一緒に厩舎へ向かった。
厩舎の前に着くと、ジョシュアは立ち止まって、突然こんなことを言い出した。
「実はね、今日はユウタにプレゼントがあるんだ」
「えっ? プレゼント!? 俺に?」
「うん。この前一緒に乗馬をした時、
やっぱり、ユウタの分もあったほうが良いな、と思ってね」
こっちだよ、とジョシュアに連れられて行った先は、
厩舎とは別に建てられているクラブハウスだった。
ハウス内にはシャワールーム完備の更衣室や談話室などが入っている。
ジョシュアに連れて来られたのは、ロッカールーム。
『ジョシュア』と名前が入っているロッカーの隣には、
『ユウタ』と名前が入っていた。
「え? 俺専用のロッカー!? 俺、そんなに使わないかもしれないのに!?」
「ロッカーだけじゃないよ。プレゼントはこの中の」
ユウタの名前が入ったロッカーを開ける。中には乗馬服が入っていた。
ブラウンのジャケットに白のシャツ、クリーム色のズボンに黒のブーツ等、
乗馬に必要な物が一式全て揃っているようだった。
「こここ、この乗馬服がプレゼント!?」
「うん。気に入って貰えたかな?」
「う、嬉しいけど……こ、こんな、英国紳士みたいなの、
俺なんかには似合わないよ!? ジョシュアは似合うと思うけど」
「大丈夫。ユウタなら似合うよ。ねえ。一度、着てみて貰えないかな?」
言い方は優しくて控えめだが、どこか押しの強いジョシュアの笑顔に負けて、
ユウタは恥ずかしそうな顔で渋々頷いた。
「ありがとう、ユウタ。着替える間、携帯を預かっておくよ」
数分後、ユウタは頬をほんのりピンクに染めながら更衣室から出てきた。
「乗馬服の着方ってこれで良いのかな……」
「よく似合うよ、ユウタ。普段より大人っぽく見えるね」
「えっ、そ、そう?」
「うん。どうだい? お姉さんの目から見ても似合っているだろう?」
ジョシュアは右手にユウタの携帯電話を持っていた。
テレビ電話が通話状態になっており、その液晶画面にはユウタの姉が映っていた。
「あ、あああ、姉貴ー!? ジョシュア、いつの間に電話してたのっ!?」
「ユウタが着替えている間にね。勝手に使ってすまない。
でも、ユウタの乗馬服姿を彼女にも見て欲しくて。
――ね? 似合っているだろう?」
ジョシュアがユウタの姉に問い掛ける。
弟は顔を真っ赤にしながら、姉の言葉を待った。
fin
聖アルフォンソ学院の朝食は、毎朝ビュッフェ方式。
寮の専属シェフが用意した一流ホテル並みのメニューが並ぶ。
今、席に着いているのは三人。高等部三年のジョシュア、シルヴァンは、
揃って、食後のホットコーヒーを飲んでいた。
「食った、食ったー」
高等部の二年レッドがオレンジジュースを飲み干しながら席を立つ。
「シルヴァン、出かける準備できたら俺の部屋来いよー」
「はーい。解りましたー」
シルヴァンの返事を聞いて、レッドがダイニングルームを出て行く。
コーヒーカップを持ったまま、ジョシュアがシルヴァンに尋ねる。
「今日は二人で出かけるのかい?」
「はい。街まで行ってきます。次のライブに使うライブハウスを選びに。
あと、レッドがギターや服を見に行きたいと言うので、
あちこちのお店を見に行くと思いますよ。
僕は、帰りにゲームセンターにも寄りたいと思ってますけど。
今日のアクティヴィティは『バンド活動エトセトラ』ですかね」
レッドとシルヴァンはデッドプリンスというバンドを組んでいるが、
メンバーはもう一人居る。高等部二年のハルヤだ。
バンドの活動なのに、ハルヤは一緒に行かないのだろうか、
とジョシュアが思っていると、シルヴァンのほうから話し始めた。
「ハルヤも誘ったんですけど、断られちゃったんですよー」
「断られた?」
「ええ。『俺、二人に付き合える体力ないし、めんどくさいから』って。
この前、ちょっと振り回し過ぎちゃったからですかねえ?」
「ああ……もしかしたら……そうかもしれないね」
そう言えば、いつかの日曜日。デッドプリンス三人で出かけた時があった。
午前中から出かけて、帰ってきたのは夜遅く。門限ギリギリの時間だった。
一日中、街で遊び倒してきたようで、
ハイテンションなレッドとシルヴァンに比べると、
ハルヤは疲労困憊といった表情をしていた。
「それじゃ、僕もお先に失礼しますね」
シルヴァンが席を立ち、ダイニングルームのドアを開ける。
「おっと。おはようございます」
ジョシュアからはシルヴァンの背中しか見えなかったが、
ドアの向こうで誰かと会ったらしい。
シルヴァンと入れ違いにダイニングルームに入ってきたのは、
まだ眠そうな顔をした高等部一年生。今年入った新入生、ユウタだ。
頭の右側に少し寝癖が付いている。
「おはよう、ユウタ」
「おはよ……あれ? ジョシュアだけ? もしかして俺が一番最後?」
「ううん。あと、アンリとハルヤも来ていないよ。
まだ眠っているんじゃないかな? 二人とも朝は苦手みたいだから」
「そっか。うわあ、今日の朝ご飯も美味しそうだなあー」
ここでの料理が珍しいようで、朝食のメニューに対して、
まだ新鮮なリアクションを見せる新入生を最上級生は微笑ましく見ていた。
ユウタが料理を少し食べたあと、ジョシュアはこう尋ねた。
「ユウタは、今日のアクティヴィティ、何をするか決まっているのかい?」
「それが、まだ決まってないんだよー。
毎週、毎週、日曜日に何かやんなきゃいけない、ってのが、
まだ慣れないっていうか。何して良いのか解んなくて」
「そんなに気負わなくても良いんだよ?
アクティヴィティは何をやっても大丈夫なんだから」
「うん。それは解ってるんだけどね……」
「レッドとシルヴァンは『バンド活動エトセトラ』だって言ってたよ?
ライブに使うライブハウスを選んだり、
買い物をしたり、ゲームセンターにも行くって」
「そっかー。俺もレッド達みたいに自由に考えられたら良いんだけど。
あ、ジョシュアは今日、何するの?」
「俺はアルセイデスと一緒に過ごそうと思ってるんだ」
アルセイデスとはジョシュアが幼少期から一緒に居るという馬のことだ。
今はこの学院の厩舎に居て、先日、ユウタもアルセイデスに会って、
少し乗馬の練習をさせて貰った。栗毛と大きな黒目が綺麗な馬だった。
「ってことは、ジョシュアは乗馬かあ。
休日に乗馬なんて……ジョシュアってやっぱりすごいなあ」
「そう、かな?」
「俺は何しようかなー。あー、悩んでる間に一日終わっちゃいそうだよー」
頭を抱えているユウタを見て、ジョシュアが微笑む。
「それじゃあ、今日は俺に付き合って貰えないかな? 良かったら、だけど」
「えっ? 一緒に行って良いの!?」
「うん。この前、ユウタと一緒に乗馬の練習をした時も、
初めてにしては本当に上手だったし、
今日一日練習したら、もっと上手くなるんじゃないかな?」
「そ、そうかな? あ、あの……」
「ん?」
「もし……もし、俺が馬に乗れるようになったら、
姉貴、ビックリするかな? 俺のこと見直すかな?」
「うん。きっと」
「じゃ、じゃあ、ジョシュアコーチ! 今日は一日、よろしくお願いしますっ!」
朝食のあと、ユウタはジョシュアと一緒に厩舎へ向かった。
厩舎の前に着くと、ジョシュアは立ち止まって、突然こんなことを言い出した。
「実はね、今日はユウタにプレゼントがあるんだ」
「えっ? プレゼント!? 俺に?」
「うん。この前一緒に乗馬をした時、
やっぱり、ユウタの分もあったほうが良いな、と思ってね」
こっちだよ、とジョシュアに連れられて行った先は、
厩舎とは別に建てられているクラブハウスだった。
ハウス内にはシャワールーム完備の更衣室や談話室などが入っている。
ジョシュアに連れて来られたのは、ロッカールーム。
『ジョシュア』と名前が入っているロッカーの隣には、
『ユウタ』と名前が入っていた。
「え? 俺専用のロッカー!? 俺、そんなに使わないかもしれないのに!?」
「ロッカーだけじゃないよ。プレゼントはこの中の」
ユウタの名前が入ったロッカーを開ける。中には乗馬服が入っていた。
ブラウンのジャケットに白のシャツ、クリーム色のズボンに黒のブーツ等、
乗馬に必要な物が一式全て揃っているようだった。
「こここ、この乗馬服がプレゼント!?」
「うん。気に入って貰えたかな?」
「う、嬉しいけど……こ、こんな、英国紳士みたいなの、
俺なんかには似合わないよ!? ジョシュアは似合うと思うけど」
「大丈夫。ユウタなら似合うよ。ねえ。一度、着てみて貰えないかな?」
言い方は優しくて控えめだが、どこか押しの強いジョシュアの笑顔に負けて、
ユウタは恥ずかしそうな顔で渋々頷いた。
「ありがとう、ユウタ。着替える間、携帯を預かっておくよ」
数分後、ユウタは頬をほんのりピンクに染めながら更衣室から出てきた。
「乗馬服の着方ってこれで良いのかな……」
「よく似合うよ、ユウタ。普段より大人っぽく見えるね」
「えっ、そ、そう?」
「うん。どうだい? お姉さんの目から見ても似合っているだろう?」
ジョシュアは右手にユウタの携帯電話を持っていた。
テレビ電話が通話状態になっており、その液晶画面にはユウタの姉が映っていた。
「あ、あああ、姉貴ー!? ジョシュア、いつの間に電話してたのっ!?」
「ユウタが着替えている間にね。勝手に使ってすまない。
でも、ユウタの乗馬服姿を彼女にも見て欲しくて。
――ね? 似合っているだろう?」
ジョシュアがユウタの姉に問い掛ける。
弟は顔を真っ赤にしながら、姉の言葉を待った。
fin
■シュヌーシア寮 ソクーロフ博士
今日は日曜日。授業はない。朝食の時間が終わり、
シュヌーシア寮には、平日以上にのんびりとした時間が流れていた。
寮のサロンには、中等部二年のシルフェが居た。
紅茶を飲みながらソファで雑誌を読んでいる。
組んだ足に雑誌を乗せ、パラパラとめくっていた。
ドアが開く。入ってきたのは金髪の生徒。高等部一年のテオだ。
「おや。サロンにも居ない。どこに行ったのだろう」
天然のパーマがかかった金色の頭を右に傾ける。
「朝食の時に今日の予定を聞いておけば良かったなあ。
あとはライブラリか、もしかしたら、もう外に」
テオが探している相手を、なんとなく予想できたシルフェは、テオの名を呼んだ。
「テーオ」
「ん? ああ、なんだい、シルフェ」
「探してんのは、クラウス?」
「ああ、うん。そうなのだよ」
やっぱりな、とシルフェは心の中で呟く。
「今日のアクティヴィティ、良かったらご一緒したいなあと思ってねえ。
昨日のうちに誘おうと思っていたのだけど、昨夜はいつの間にか眠ってしまって」
授業のない日曜日、聖アルフォンソ学院の生徒は、
『アクティヴィティ』という名の自由活動を行う。
その活動内容は、生徒の自主性に完全に任せられており、
いつ、誰と一緒に、何をやっても良いことになっている。
余程の迷惑行為でない限りは、どんな活動でもOKだ。
「クラウスなら、ジムのプールに行ったよ。
今日のアクティヴィティは水泳だって」
シルフェがそう言うと、テオは大きな声で、
「おお! そうなのかい!」
「ああ。さっき会ったから」
先程、シルフェが寮の廊下を歩いていた時、
階段から降りてきたクラウスと出くわしたのだ。
クラウスはトレーニングウェア姿で、
ワークアウト用のバッグを右肩に背負っていた。
これはクラウスが学院のジムに行く時の格好だとシルフェは知っていた。
「クラウスってば、日曜の朝からジム?」
「ああ。今日は時間があるから、久し振りにジムで泳ごうと思ってな。
今日のアクティヴィティは水泳にしたんだ」
そう話すクラウスは嬉しそうで、清々しい表情をしていた。
ドイツ軍人の家系に生まれ、立派な体躯を持つクラウスは、
スポーツ全般を得意としているが、「トライアスロンが趣味」と言うだけあり、
スポーツの中でもランニング、スイミング、サイクリングは特に好んでいるようだった。
保健室の常連が多いシュヌーシア寮生の中で、
早朝ランニングを日課にしている生徒は、クラウス唯一人だった。
「アンタもスキだよねー、身体イジメんの」
シルフェがからかうと、クラウスの眉間に皺が寄った。
「お前には言われたくないぞ、シルフェ」
実はシルフェも身体を鍛えている生徒の一人。
ジムでクラウスと顔を合わせることも度々あった。
「アンタ程じゃないよ、オレは」
とシルフェはクラウスに言ってやった。
シルフェはクラウスと違い、日曜の朝から、早朝ランニングにスイミング、
などというハードなメニューを組んだりはしない。
ちなみに、本日、シルフェのアクティヴィティは午後から。
活動内容は『新市街の探検』である。ある人を誘って、新市街へ遊びに行くのだ。
「ジムのプールとは思い付かなかった! クラウスは本当にスポーツマンだねえ!」
テオは目を輝かせていた。
「クラウスの行き先を教えてくれてありがとう、シルフェ! 助かったよ!
では、私もちょっと行ってこようかなっ!」
「テオも泳ぐの?」
「いやいや。私は泳がないよ」
聖アルフォンソ学院には、馬用のプールもあるが、ここは人間用。
ジムに併設された屋内プールである。
25m×10コース、50m×10コースのプールが縦に並んでいる。
日曜の午前中から遊泳中の生徒・教職員は、まばらだった。
プールの第10コース目側は全面ガラス窓になっており、
朝の光が水の中に差し込み、プールはキラキラと輝いていた。
第1コース側の上にはガラス越しに見学席がある。
二階のロビーから、プール全体が見学できるようになっているのだ。
このプールで水泳大会などが行われる際にはズラリとギャラリーが並ぶ場所だ。
50mプールの第1コース目に、クロールで泳ぎ続けている生徒が居た。
あれがシュヌーシア寮のクラウス。学年は高等部二年。
水を掻く手に、疲れや乱れは見えない。
その綺麗なフォームは、一目で上級者だと解るものだった。
端まで泳ぎきり、クラウスは水面から顔を上げた。
ふと見上げると、二階のロビーからこちらを見下ろしている生徒と目が合った。
クラウスは黒いゴーグルを外して、目を凝らす。
「あれは……」
「テオのようだね?」
背後から声がして、クラウスが振り返る。
真っ白な胸板が目に付く。黒いゴーグルをかけた、大人の男性がそこに居た。
生徒ではないので、教職員の誰かだろう。
一瞬、クラウスはこの大人が誰なのか解らなかった。
「私だよ、クラウス」
大人の男性はゴーグルを外しながら、
「白衣を着ていないと解り難いかな?」
その低い声と「白衣」という言葉でピンときた。
保健室に居る時の姿とは、印象が全然違うので解らなかった。
「ソクーロフ博士でしたか。すみません」
博士とは、このプールでも何度か会ったことがあるのに、
すぐに解らなくて、クラウスは申し訳なく思った。
「謝る程のことではないよ。眼鏡をかけていないだけでも、
誰だか解らないと言われるくらいだからね」
博士が二階の見学席を見上げると、テオはニコニコしながら、
こちらに向かって右手を振った。ところが、博士は手を振り返さず、
テオを見ていただけだったので、クラウスは不思議に思った。
「博士? 手を振られていますよ?」
「フフッ。対象は私ではないと思うがね」
そう言いながらも、博士は「やあ」と言うように、テオに向かって右手を軽く挙げた。
すると、テオは嬉しそうに笑って、より元気に手を振り返してきた。
その時、クラウスには、テオの唇が「博士ー!」と動いたように見えた。
博士はゆっくりと手を下ろし、クラウスに視線を移す。
「テオに見られていると思うと、泳ぎに集中できないかい?」
「いえ。ただ、疑問なんです。そこに居るぐらいなら、泳げば良いでしょう?
あいつは、あんなところで、一体、何をしているんだか」
すると、博士は微笑していた。
「疑問に思うのなら、本人にそう聞いてみるといい」
「そう、ですね。後で聞いておきます」
「さて。私はサウナで少し休憩してこようかな。失礼」
「あ、はい。お疲れ様でした、博士」
ソクーロフ博士はクラウスの前を通り、ザバアッとプールから上がった。
クラウスはゴーグルを付け、息を吸い込む。
水面に入り、プールサイドを勢い良く蹴った。
「お疲れ様、クラウス!」
クラウスがプールから上がり、ロビーに来ると、笑顔のテオに出迎えられた。
「スポーツドリンク、飲むだろう? はいっ!」
「え? ああ、ありがとう」
「やはりクラウスはスイミングが上手だね!
まるでシャチのようだったよ! いやー、本当に美しかった!
改めて惚れ惚れしてしまったよ!」
「お前は、ずっとここに居たのか?」
「うん! クラウス、ソクーロフ博士と何かお話ししていたね?
クラウスの隣に居たの、ソクーロフ博士だろう?」
「ああ。そう言えば、お前、あの位置からよく博士だと解ったな?」
「解るとも。私はクラウスが学院に来る前から、
博士の水着姿を、よく拝見していたからね。
博士はシュヌーシア寮が海に行く時など、よく一緒に来て下さったから」
「そうか」
「ところで先程は、博士と水の中で、インテリジェンスなお話をしていたのかい?」
「いや。お前の話をしていたんだ」
「えっ! 私のっ!?」
「お前は見学席で何をしているんだ、って話をな。何してたんだ?」
「私? 私はクラウスを見ていただけだよ?」
「……何?」
「貴方こそ何言っているんだい、クラウス。私はずっと貴方を見ていたじゃないか」
「………俺を見て、どうするんだ?」
「見るだけだよ? クラウスの美しく逞しいスイミングを拝見して、
『ああ。やはり素晴らしい』と愛でていたんだ。
あらゆるスポーツ観戦だってそうだろう?
クラウスだって、ワールドカップの試合を見るの、好きじゃないか?」
「それは、そうだが」
「さてさて。時間はまだ少し早いけれど、
クラウスはランチにするかい? 私もご一緒して良いかなあ?」
「ああ。それは構わんが……」
「カフェにでも行こうか? クラウス、何食べたい?
クラウスはたくさん泳いだから、たくさん食べなくてはね!
あ、それから、クラウス。午後の予定は?」
「午後の前半は、ライブラリで帝王学のレポートを書こうと思っていたが」
「再来週が提出日の、あのレポートのことかい?
あははっ。さすがクラウス、仕事が早いねえ。
帝王学のレポートなら、私もまだ手を付けていないから、
隣で私も書いて良いかなあ? もちろん邪魔はしないから!」
「それなら、別に構わないが」
「やったあ! 今日は素敵な日曜日になるよ! ありがとう、クラウス!
さあっ、それでは早速、ランチに行こう!」
クラウスはよく解らないままだったが、
テオがとても楽しそうだったので、腕を引かれるまま、
まずは腹ごしらえに向かうことにした。
fin
シュヌーシア寮には、平日以上にのんびりとした時間が流れていた。
寮のサロンには、中等部二年のシルフェが居た。
紅茶を飲みながらソファで雑誌を読んでいる。
組んだ足に雑誌を乗せ、パラパラとめくっていた。
ドアが開く。入ってきたのは金髪の生徒。高等部一年のテオだ。
「おや。サロンにも居ない。どこに行ったのだろう」
天然のパーマがかかった金色の頭を右に傾ける。
「朝食の時に今日の予定を聞いておけば良かったなあ。
あとはライブラリか、もしかしたら、もう外に」
テオが探している相手を、なんとなく予想できたシルフェは、テオの名を呼んだ。
「テーオ」
「ん? ああ、なんだい、シルフェ」
「探してんのは、クラウス?」
「ああ、うん。そうなのだよ」
やっぱりな、とシルフェは心の中で呟く。
「今日のアクティヴィティ、良かったらご一緒したいなあと思ってねえ。
昨日のうちに誘おうと思っていたのだけど、昨夜はいつの間にか眠ってしまって」
授業のない日曜日、聖アルフォンソ学院の生徒は、
『アクティヴィティ』という名の自由活動を行う。
その活動内容は、生徒の自主性に完全に任せられており、
いつ、誰と一緒に、何をやっても良いことになっている。
余程の迷惑行為でない限りは、どんな活動でもOKだ。
「クラウスなら、ジムのプールに行ったよ。
今日のアクティヴィティは水泳だって」
シルフェがそう言うと、テオは大きな声で、
「おお! そうなのかい!」
「ああ。さっき会ったから」
先程、シルフェが寮の廊下を歩いていた時、
階段から降りてきたクラウスと出くわしたのだ。
クラウスはトレーニングウェア姿で、
ワークアウト用のバッグを右肩に背負っていた。
これはクラウスが学院のジムに行く時の格好だとシルフェは知っていた。
「クラウスってば、日曜の朝からジム?」
「ああ。今日は時間があるから、久し振りにジムで泳ごうと思ってな。
今日のアクティヴィティは水泳にしたんだ」
そう話すクラウスは嬉しそうで、清々しい表情をしていた。
ドイツ軍人の家系に生まれ、立派な体躯を持つクラウスは、
スポーツ全般を得意としているが、「トライアスロンが趣味」と言うだけあり、
スポーツの中でもランニング、スイミング、サイクリングは特に好んでいるようだった。
保健室の常連が多いシュヌーシア寮生の中で、
早朝ランニングを日課にしている生徒は、クラウス唯一人だった。
「アンタもスキだよねー、身体イジメんの」
シルフェがからかうと、クラウスの眉間に皺が寄った。
「お前には言われたくないぞ、シルフェ」
実はシルフェも身体を鍛えている生徒の一人。
ジムでクラウスと顔を合わせることも度々あった。
「アンタ程じゃないよ、オレは」
とシルフェはクラウスに言ってやった。
シルフェはクラウスと違い、日曜の朝から、早朝ランニングにスイミング、
などというハードなメニューを組んだりはしない。
ちなみに、本日、シルフェのアクティヴィティは午後から。
活動内容は『新市街の探検』である。ある人を誘って、新市街へ遊びに行くのだ。
「ジムのプールとは思い付かなかった! クラウスは本当にスポーツマンだねえ!」
テオは目を輝かせていた。
「クラウスの行き先を教えてくれてありがとう、シルフェ! 助かったよ!
では、私もちょっと行ってこようかなっ!」
「テオも泳ぐの?」
「いやいや。私は泳がないよ」
聖アルフォンソ学院には、馬用のプールもあるが、ここは人間用。
ジムに併設された屋内プールである。
25m×10コース、50m×10コースのプールが縦に並んでいる。
日曜の午前中から遊泳中の生徒・教職員は、まばらだった。
プールの第10コース目側は全面ガラス窓になっており、
朝の光が水の中に差し込み、プールはキラキラと輝いていた。
第1コース側の上にはガラス越しに見学席がある。
二階のロビーから、プール全体が見学できるようになっているのだ。
このプールで水泳大会などが行われる際にはズラリとギャラリーが並ぶ場所だ。
50mプールの第1コース目に、クロールで泳ぎ続けている生徒が居た。
あれがシュヌーシア寮のクラウス。学年は高等部二年。
水を掻く手に、疲れや乱れは見えない。
その綺麗なフォームは、一目で上級者だと解るものだった。
端まで泳ぎきり、クラウスは水面から顔を上げた。
ふと見上げると、二階のロビーからこちらを見下ろしている生徒と目が合った。
クラウスは黒いゴーグルを外して、目を凝らす。
「あれは……」
「テオのようだね?」
背後から声がして、クラウスが振り返る。
真っ白な胸板が目に付く。黒いゴーグルをかけた、大人の男性がそこに居た。
生徒ではないので、教職員の誰かだろう。
一瞬、クラウスはこの大人が誰なのか解らなかった。
「私だよ、クラウス」
大人の男性はゴーグルを外しながら、
「白衣を着ていないと解り難いかな?」
その低い声と「白衣」という言葉でピンときた。
保健室に居る時の姿とは、印象が全然違うので解らなかった。
「ソクーロフ博士でしたか。すみません」
博士とは、このプールでも何度か会ったことがあるのに、
すぐに解らなくて、クラウスは申し訳なく思った。
「謝る程のことではないよ。眼鏡をかけていないだけでも、
誰だか解らないと言われるくらいだからね」
博士が二階の見学席を見上げると、テオはニコニコしながら、
こちらに向かって右手を振った。ところが、博士は手を振り返さず、
テオを見ていただけだったので、クラウスは不思議に思った。
「博士? 手を振られていますよ?」
「フフッ。対象は私ではないと思うがね」
そう言いながらも、博士は「やあ」と言うように、テオに向かって右手を軽く挙げた。
すると、テオは嬉しそうに笑って、より元気に手を振り返してきた。
その時、クラウスには、テオの唇が「博士ー!」と動いたように見えた。
博士はゆっくりと手を下ろし、クラウスに視線を移す。
「テオに見られていると思うと、泳ぎに集中できないかい?」
「いえ。ただ、疑問なんです。そこに居るぐらいなら、泳げば良いでしょう?
あいつは、あんなところで、一体、何をしているんだか」
すると、博士は微笑していた。
「疑問に思うのなら、本人にそう聞いてみるといい」
「そう、ですね。後で聞いておきます」
「さて。私はサウナで少し休憩してこようかな。失礼」
「あ、はい。お疲れ様でした、博士」
ソクーロフ博士はクラウスの前を通り、ザバアッとプールから上がった。
クラウスはゴーグルを付け、息を吸い込む。
水面に入り、プールサイドを勢い良く蹴った。
「お疲れ様、クラウス!」
クラウスがプールから上がり、ロビーに来ると、笑顔のテオに出迎えられた。
「スポーツドリンク、飲むだろう? はいっ!」
「え? ああ、ありがとう」
「やはりクラウスはスイミングが上手だね!
まるでシャチのようだったよ! いやー、本当に美しかった!
改めて惚れ惚れしてしまったよ!」
「お前は、ずっとここに居たのか?」
「うん! クラウス、ソクーロフ博士と何かお話ししていたね?
クラウスの隣に居たの、ソクーロフ博士だろう?」
「ああ。そう言えば、お前、あの位置からよく博士だと解ったな?」
「解るとも。私はクラウスが学院に来る前から、
博士の水着姿を、よく拝見していたからね。
博士はシュヌーシア寮が海に行く時など、よく一緒に来て下さったから」
「そうか」
「ところで先程は、博士と水の中で、インテリジェンスなお話をしていたのかい?」
「いや。お前の話をしていたんだ」
「えっ! 私のっ!?」
「お前は見学席で何をしているんだ、って話をな。何してたんだ?」
「私? 私はクラウスを見ていただけだよ?」
「……何?」
「貴方こそ何言っているんだい、クラウス。私はずっと貴方を見ていたじゃないか」
「………俺を見て、どうするんだ?」
「見るだけだよ? クラウスの美しく逞しいスイミングを拝見して、
『ああ。やはり素晴らしい』と愛でていたんだ。
あらゆるスポーツ観戦だってそうだろう?
クラウスだって、ワールドカップの試合を見るの、好きじゃないか?」
「それは、そうだが」
「さてさて。時間はまだ少し早いけれど、
クラウスはランチにするかい? 私もご一緒して良いかなあ?」
「ああ。それは構わんが……」
「カフェにでも行こうか? クラウス、何食べたい?
クラウスはたくさん泳いだから、たくさん食べなくてはね!
あ、それから、クラウス。午後の予定は?」
「午後の前半は、ライブラリで帝王学のレポートを書こうと思っていたが」
「再来週が提出日の、あのレポートのことかい?
あははっ。さすがクラウス、仕事が早いねえ。
帝王学のレポートなら、私もまだ手を付けていないから、
隣で私も書いて良いかなあ? もちろん邪魔はしないから!」
「それなら、別に構わないが」
「やったあ! 今日は素敵な日曜日になるよ! ありがとう、クラウス!
さあっ、それでは早速、ランチに行こう!」
クラウスはよく解らないままだったが、
テオがとても楽しそうだったので、腕を引かれるまま、
まずは腹ごしらえに向かうことにした。
fin
実戦訓練後、クロイツはすぐに更衣室に向かった。
トレーニングウェアからスーツへ着替えながらも、
その間、頭の中にあるのは、先程の実戦訓練の残像だ。
また負けた。司令に。
実力であの人に勝てないのが悔しい。
しかも、最後は殴られずに終わったのだ。
司令は顔面に突き出した拳を寸前で止め、そのまま手を下ろした。
最後に余計な手加減などせず、殴ってくれれば良かったものを。
あの人はいつも、相手をなるべく傷付けないように戦う。
訓練の時だけでなく、侵入者が相手の本番もそうだ。
侵入者を捕らえ、追憶の塔に連れてきた時も、
友人と話すかのように、司令は侵入者とフランクに話している。
ドアが開く。司令が更衣室に入ってきた。
ここに来るのが遅くなったのは、
訓練の後、若い隊員達に少し囲まれたからだろう。
年代が近い隊員にはよく好かれているのだ。
組織のトップでありながら、本人はそれを鼻にかける様子は全くなく、
誰にもフランクに接し、実力は肩書き通りトップときている。
『仕事』中、司令のフォローに助けられた者達も多い。
「お疲れ、クロちゃん」
司令はクロイツの背後を通って、一番奥のロッカーの前に立った。
本人は無意識かもしれないが、誰かの背後を通る時、
司令は必ずと言っていい程、相手に声をかけている。癖のように。
一般人であれば、その癖に気づきもしないだろう。
けれどクロイツは、その些細な癖にも司令の実力の高さを感じた。
無言で背後に立つ者、すなわち敵、という状況がこの世にはある。
だから「自分では敵ではない」と知らせる為に、
仲間の背後を通る時には、声をかけるようにしてきたのだろう。
「クロちゃん、今日も強かったねー。
俺、今日こそ負けちゃうカモって思ったよー」
普段通り明るく話しかけてくる勝者に、敗者は自嘲的に返した。
「……何を仰るのです。勝ったのは貴方じゃないですか」
「勝負なんて時の運デショ? 俺はたまたま勝てただけ」
偶然の勝利だと言われ、クロイツは思わず隣を見る。
すると、司令は水色のTシャツを脱いだところだった。
素肌の上半身が目に入る。司令の左胸にある古い傷。
司令は正面を向いたままで、こちらの視線に気付いた様子はなかった。
クロイツは傷から視線を逸らした。
「もー。クロちゃんってば、毎回毎回、強くなるみたいなんだもん。
おかげで、ウカウカしてらんないよ、ホント。
クロちゃんは全然手ぇ抜いてくんないしさー」
「当たり前です」
「たまには、もうちょっと気楽にやってくれてもイイと思うんだけど?」
「私が『解りました』と言うと思いますか?」
「ハハッ。やっぱダメかー」
そう言って、明るく笑っていた。
自分が手を抜いて司令と勝負する筈がない。
本気でぶつかっても勝てないのに。
実戦訓練で司令を本気にさせられないのは、弱い自分のせい。
相手に加減させているのは、自分なのだ。
「司令」
「んー?」
「最後、何故、殴らなかったのです」
「え?」
「私に対して、寸止めなど必要ありません。
実戦を想定した訓練なのですから、私を殺すつもりで来て下さい」
「こっ、殺すつもりなんて、クロちゃん相手にムリだよー」
「私では相手にならないという意味ですか」
「いやいや! そーゆーイミじゃなくて!
やっぱ皆の中でクロちゃんが一番強いし!」
「貴方以外の皆の中で、でしょう?
私より貴方のほうが優れた軍人であるのは、誰の目にも明らかだ」
「えっ……と、ホラ、俺とクロちゃんは仲間なんだから、
いくら実戦訓練って言っても、殺すつもりにはなれないってイミで」
「私がテロを起こしても、同じことが言えますか」
「テ、テロって……クロちゃんが一番しないヒトじゃん……」
「司令。訓練というものは、あらゆる事態を想定して」
「あー、ゴメンゴメン! 今度はもっと、
マジメにやるからっ、そんな怒んないでよー」
親に叱られた子どものような態度。
これが自分を毎回打ち負かしている人間なのかと思うと、
クロイツはいつも苛立ちを感じ、そして疑問に思うのだった。
戦っている時の司令は、本当に風のようだ。
私は風を相手に戦っているのではないかと感じてしまう。
風は色や形を持たず、ただ流れる。
全てを受け流し、気まぐれで、捕らえることができない。
司令も自分の色や自分の意志といった物を持っていない。
だから、この人の戦い方が嫌いなのかもしれない。
生に執着しない、この人の戦い方は、
いつか風のようにふっと消えてしまいそうで――
「クロちゃん、どーしたの? 今度は急に黙ったりして。
今日のクロちゃん、なんかヘンだよ?」
黙っていると、少し顔を覗き込まれた。
「もしかして具合悪い? それなら、ソクちゃんに」
「いいえ」
あの男の名前を出され、反射的に否定してしまった。
そんな名前、聞きたくもなかったからだ。
司令は心配そうにこちらを見ている。
本当に具合が悪いのではないかと疑っているのだろう。
上官に身体の心配をさせてどうする。
最近の自分は少しおかしい。
こうして司令と話している時や、司令のことを考えている時に、
苛立つことが多くなった気がする。
みっともない。
敗者が勝者のことを考えて苛立つなど。
ただの八つ当たりではないか。
「えと……じゃ、お着替えも終わったし、戻ろっか?」
「――申し訳ありません」
「……え?」
「貴方に当たるなど、八つ当たりもいいところだ」
「いや、別にそんな……」
「先に戻ります」
更衣室を出て、中央司令室へ向かう間も、
クロイツはまだ自分が苛立っているのが解った。
また頭の中に残像が浮かぶ。
こんなこと思い出したくはないのに。
司令の左胸にある、古い傷。
自宅に居る時なども、ふと思い浮かぶのだ。
あの男の声と共に。
――司令の裸体を見たことはあるのかな? 上半身の――
先程、更衣室で司令の傷を目にした時も、
ドクターの声が甦り、ゾクリとした。
先日、司令の古傷について執拗に質問されたのだ。
――傷が付いた原因について聞いたことは?――
ない。あるわけがない。
我々軍人の身体に傷があるのは当然のことで、
それについて本人に尋ねることはタブー。
司令の左胸に古い傷があるのは、
前から知っていたが、気にしたことはなかった。
知りたいと思ったことはなかった。今までは一度も。
ドクターは司令のことを知りたがっている。
タブーであるのに。あのドクターは、あの男は。
「あ、副司令、お疲れ様です」
部下に呼ばれた。自分はもう中央司令室まで戻ってきていた。
「今日の訓練、終わったんですね。お疲れ様でした」
別に疲れてはいませんよ、と言いそうになって口を閉ざした。
クロイツはモニターを見た。アラートの出ていない島のマップを眺めながら、
「こちらは、異常ありませんでしたか」
「はい、何も。今日は人の出入りもなく、海も穏やかなもんです」
そうですか、とクロイツは言う。
異常が出ているのは自分のほうか、と思いながら。
fin
トレーニングウェアからスーツへ着替えながらも、
その間、頭の中にあるのは、先程の実戦訓練の残像だ。
また負けた。司令に。
実力であの人に勝てないのが悔しい。
しかも、最後は殴られずに終わったのだ。
司令は顔面に突き出した拳を寸前で止め、そのまま手を下ろした。
最後に余計な手加減などせず、殴ってくれれば良かったものを。
あの人はいつも、相手をなるべく傷付けないように戦う。
訓練の時だけでなく、侵入者が相手の本番もそうだ。
侵入者を捕らえ、追憶の塔に連れてきた時も、
友人と話すかのように、司令は侵入者とフランクに話している。
ドアが開く。司令が更衣室に入ってきた。
ここに来るのが遅くなったのは、
訓練の後、若い隊員達に少し囲まれたからだろう。
年代が近い隊員にはよく好かれているのだ。
組織のトップでありながら、本人はそれを鼻にかける様子は全くなく、
誰にもフランクに接し、実力は肩書き通りトップときている。
『仕事』中、司令のフォローに助けられた者達も多い。
「お疲れ、クロちゃん」
司令はクロイツの背後を通って、一番奥のロッカーの前に立った。
本人は無意識かもしれないが、誰かの背後を通る時、
司令は必ずと言っていい程、相手に声をかけている。癖のように。
一般人であれば、その癖に気づきもしないだろう。
けれどクロイツは、その些細な癖にも司令の実力の高さを感じた。
無言で背後に立つ者、すなわち敵、という状況がこの世にはある。
だから「自分では敵ではない」と知らせる為に、
仲間の背後を通る時には、声をかけるようにしてきたのだろう。
「クロちゃん、今日も強かったねー。
俺、今日こそ負けちゃうカモって思ったよー」
普段通り明るく話しかけてくる勝者に、敗者は自嘲的に返した。
「……何を仰るのです。勝ったのは貴方じゃないですか」
「勝負なんて時の運デショ? 俺はたまたま勝てただけ」
偶然の勝利だと言われ、クロイツは思わず隣を見る。
すると、司令は水色のTシャツを脱いだところだった。
素肌の上半身が目に入る。司令の左胸にある古い傷。
司令は正面を向いたままで、こちらの視線に気付いた様子はなかった。
クロイツは傷から視線を逸らした。
「もー。クロちゃんってば、毎回毎回、強くなるみたいなんだもん。
おかげで、ウカウカしてらんないよ、ホント。
クロちゃんは全然手ぇ抜いてくんないしさー」
「当たり前です」
「たまには、もうちょっと気楽にやってくれてもイイと思うんだけど?」
「私が『解りました』と言うと思いますか?」
「ハハッ。やっぱダメかー」
そう言って、明るく笑っていた。
自分が手を抜いて司令と勝負する筈がない。
本気でぶつかっても勝てないのに。
実戦訓練で司令を本気にさせられないのは、弱い自分のせい。
相手に加減させているのは、自分なのだ。
「司令」
「んー?」
「最後、何故、殴らなかったのです」
「え?」
「私に対して、寸止めなど必要ありません。
実戦を想定した訓練なのですから、私を殺すつもりで来て下さい」
「こっ、殺すつもりなんて、クロちゃん相手にムリだよー」
「私では相手にならないという意味ですか」
「いやいや! そーゆーイミじゃなくて!
やっぱ皆の中でクロちゃんが一番強いし!」
「貴方以外の皆の中で、でしょう?
私より貴方のほうが優れた軍人であるのは、誰の目にも明らかだ」
「えっ……と、ホラ、俺とクロちゃんは仲間なんだから、
いくら実戦訓練って言っても、殺すつもりにはなれないってイミで」
「私がテロを起こしても、同じことが言えますか」
「テ、テロって……クロちゃんが一番しないヒトじゃん……」
「司令。訓練というものは、あらゆる事態を想定して」
「あー、ゴメンゴメン! 今度はもっと、
マジメにやるからっ、そんな怒んないでよー」
親に叱られた子どものような態度。
これが自分を毎回打ち負かしている人間なのかと思うと、
クロイツはいつも苛立ちを感じ、そして疑問に思うのだった。
戦っている時の司令は、本当に風のようだ。
私は風を相手に戦っているのではないかと感じてしまう。
風は色や形を持たず、ただ流れる。
全てを受け流し、気まぐれで、捕らえることができない。
司令も自分の色や自分の意志といった物を持っていない。
だから、この人の戦い方が嫌いなのかもしれない。
生に執着しない、この人の戦い方は、
いつか風のようにふっと消えてしまいそうで――
「クロちゃん、どーしたの? 今度は急に黙ったりして。
今日のクロちゃん、なんかヘンだよ?」
黙っていると、少し顔を覗き込まれた。
「もしかして具合悪い? それなら、ソクちゃんに」
「いいえ」
あの男の名前を出され、反射的に否定してしまった。
そんな名前、聞きたくもなかったからだ。
司令は心配そうにこちらを見ている。
本当に具合が悪いのではないかと疑っているのだろう。
上官に身体の心配をさせてどうする。
最近の自分は少しおかしい。
こうして司令と話している時や、司令のことを考えている時に、
苛立つことが多くなった気がする。
みっともない。
敗者が勝者のことを考えて苛立つなど。
ただの八つ当たりではないか。
「えと……じゃ、お着替えも終わったし、戻ろっか?」
「――申し訳ありません」
「……え?」
「貴方に当たるなど、八つ当たりもいいところだ」
「いや、別にそんな……」
「先に戻ります」
更衣室を出て、中央司令室へ向かう間も、
クロイツはまだ自分が苛立っているのが解った。
また頭の中に残像が浮かぶ。
こんなこと思い出したくはないのに。
司令の左胸にある、古い傷。
自宅に居る時なども、ふと思い浮かぶのだ。
あの男の声と共に。
――司令の裸体を見たことはあるのかな? 上半身の――
先程、更衣室で司令の傷を目にした時も、
ドクターの声が甦り、ゾクリとした。
先日、司令の古傷について執拗に質問されたのだ。
――傷が付いた原因について聞いたことは?――
ない。あるわけがない。
我々軍人の身体に傷があるのは当然のことで、
それについて本人に尋ねることはタブー。
司令の左胸に古い傷があるのは、
前から知っていたが、気にしたことはなかった。
知りたいと思ったことはなかった。今までは一度も。
ドクターは司令のことを知りたがっている。
タブーであるのに。あのドクターは、あの男は。
「あ、副司令、お疲れ様です」
部下に呼ばれた。自分はもう中央司令室まで戻ってきていた。
「今日の訓練、終わったんですね。お疲れ様でした」
別に疲れてはいませんよ、と言いそうになって口を閉ざした。
クロイツはモニターを見た。アラートの出ていない島のマップを眺めながら、
「こちらは、異常ありませんでしたか」
「はい、何も。今日は人の出入りもなく、海も穏やかなもんです」
そうですか、とクロイツは言う。
異常が出ているのは自分のほうか、と思いながら。
fin
■実戦訓練1 続編
実戦訓練が終わり、アイヴィーは更衣室に向かった。
更衣室は、縦に長い銀色のロッカーが、壁に沿って一列に並んでいる。
元の色はシルバーだったようだが、今では輝きを無くした灰色だ。
アイヴィーのロッカーは一番奥。
そこまで行く間にも男臭い匂いがする部屋だ。
アイヴィーの手前は、クロイツのロッカー。
司令官と副司令官のロッカーは、昔からこの場所にあるらしい。
クロイツは丁度、ネクタイを結んでいるところだった。
白いワイシャツにネイビーのネクタイが映えている。
白が似合う人だなあ、とアイヴィーは思う。
「お疲れ、クロちゃん」
アイヴィーはクロイツの後ろを通って、自分のロッカーの前に立つ。
いつものようにクロイツと話しながら着替え始めた。
「クロちゃん、今日も強かったねー。
俺、今日こそ負けちゃうカモって思ったよー」
「……何を仰るのです。勝ったのは貴方じゃないですか」
「勝負なんて時の運デショ? 俺はたまたま勝てただけ」
Tシャツを脱ぎ、ロッカーの中から青いワイシャツを取る。
ワイシャツをするりと脱がされたハンガーは、手前にゆらりと下がる。
羽織った青いワイシャツのボタンを留めながら、
「もー。クロちゃんってば、毎回毎回、強くなるみたいなんだもん。
おかげで、ウカウカしてらんないよ、ホント。
クロちゃんは全然手ぇ抜いてくんないしさー」
「当たり前です」
「たまには、もうちょっと気楽にやってくれてもイイと思うんだけど?」
「私が『解りました』と言うと思いますか?」
「ハハッ。やっぱダメかー」
何も羽織っていないハンガーは、前に後ろに揺れ動いていたが、
徐々に動きが止まっていった。
アイヴィーが黒いネクタイを結び始めた時、クロイツはまだ隣に居た。
クロイツは既にダークスーツに着替え終わっているのに、
まだロッカーの前に立っている。いつもなら、
アイヴィーを待つことなく、すぐに仕事場へ戻ってしまうのに。
どうしたのかな、とアイヴィーは思っていた。
珍しくアイヴィーが着替え終わるのを待っていてくれてるのだろうか。
けれど、それにしては俯いている。何か考え事でもしているだろうか。
「司令」
「んー?」
「最後、何故、殴らなかったのです」
「え?」
アイヴィーが聞き返すと、クロイツはこう言った。
「私に対して、寸止めなど必要ありません」
試合の最後、アイヴィーがパンチを寸止めしたことを怒っているようだ。
けれど、仲間の顔を殴る気にはなれない。しかも、こんなに綺麗な顔を。
第一、クロイツが急に顔に傷をつけていたら、生徒や先生達も驚くだろう。
「実戦を想定した訓練なのですから、私を殺すつもりで来て下さい」
「こっ、殺すつもりなんて、クロちゃん相手にムリだよー」
クロイツは静かに呟いた。
「私では相手にならないという意味ですか」
「いやいや! そーゆーイミじゃなくて!」
アイヴィーは慌てて両手を振った。
「やっぱ皆の中でクロちゃんが一番強いし!」
「貴方以外の皆の中で、でしょう?
私より貴方のほうが優れた軍人であるのは、誰の目にも明らかだ」
「えっ……と、ホラ、俺とクロちゃんは仲間なんだから、
いくら実戦訓練って言っても、殺すつもりにはなれないってイミで」
「私がテロを起こしても、同じことが言えますか」
「テ、テロって……クロちゃんが一番しないヒトじゃん……」
「司令。訓練というものは、あらゆる事態を想定して」
「あー、ゴメンゴメン! 今度はもっと、
マジメにやるからっ、そんな怒んないでよー」
クロイツの語気にビビったアイヴィーはとにかく謝った。
すると、クロイツは急に表情を暗くしていた。
「クロちゃん、どーしたの? 今度は急に黙ったりして。
今日のクロちゃん、なんかヘンだよ?」
クロイツは黙っている。
「もしかして具合悪い? それなら、ソクちゃんに」
「いいえ」
ピシャリと言われ、それ以上、体調について聞けなくなった。
「えと……じゃ、お着替えも終わったし、戻ろっか?」
「――申し訳ありません」
「……え?」
「貴方に当たるなど、八つ当たりもいいところだ」
「いや、別にそんな……」
「先に戻ります」
「あ、うん……」
クロイツはアイヴィーを置いて更衣室を出て行った。
「……っていうことがあってねー」
アイヴィーは頬を手で支えながら、今日の出来事を話していた。
ここは旧市街のアイリッシュパブ。アイヴィーが度々訪れる店だ。
今夜は飲みに来ており、カウンターの端に席をとっていた。
「クロちゃんに怒られちゃったワケなんだけどー。
でもねっ? 俺だってイッショケンメやってたんだよっ?」
アイヴィーは明日が休みなので、今夜は既にアルコールが入っている。
ニ杯のビアジョッキを空にしているせいか、口調が子供っぽくなってきた。
「マジメにやんないと、ボッコボコに負けちゃうの解ってるし。
そんなに手抜いてたりとかはしてなかったんだよっ!?
クロちゃんには『今度はもっとマジメにやる』って言ったけどさ、
俺は今日だってマジメにやってたの! ホントだよ!?」
酔っ払いの話を聞かされているのは、全く酔っていない様子の連れ。
保健室の先生で、警備組織の協力者でもあるソクーロフ博士だ。
アイヴィーの右隣で紫煙を燻らせながら、
「私に言い訳してどうする。本人にそう言えば良かっただろう」
「だって、一人でさっさか帰っちゃうんだもん……。
それに、今日のクロちゃん、なんか調子悪いみたいだったしさ」
眼鏡の先生は紫煙を、ふう、と吐きながら、
「調子が悪い、というのは?」
「訓練の時もー、なんかいつもと違ったっていうかー」
「実戦訓練の最中にも、いつもと違うと感じたのか?」
「うん」
「どういうふうに?」
「いつもよりコワかった」
「コワイ?」
「目とかー、俺のこと超睨んでたしー、あんまり余裕ないかんじでー」
「どうして、余裕がないと感じたんだ?」
「んー。初っ端から超攻めてこられたしー、
なんかもう傍に近付けないかんじでー。
お着替えしてた時は、ぼんやりしてたかんじだしー。
クロちゃん、最近、ちょっと冷たいかんじもするし」
「冷たい? クロイツの態度が素っ気無いという意味か?」
「うん」
「彼は元々、愛想が良いほうではないと思うが」
「まあ」
「今までに以上に冷たくなってきているのか?」
「うん、そう。冷たい」
「誰に対しても、か?」
「……いや。他の皆には普通、かなあ?」
眼鏡の先生はそこで微かに笑った。
「成程。――――だな」
「あ、ゴメン、聞こえなかった。なあに?」
先生は煙草を灰皿に押し付けた。
「そろそろ帰るか、と言ったのさ」
「えっ! ソクちゃん、もう帰っちゃうの?」
「なんだ? まだ私に、もてあそんで欲しいのか?」
「ダレがアンタに、もてあそんで欲しいんだよっ!?」
「では、どうして欲しい?」
「えと……だから、あの……明日休みだから、帰るにはまだ早いしー、
もうちょっと、どっかで遊んでから帰っても良いかなーって」
「それで?」
「あ、そだ! 久し振りにダーツとかどーよ? ソクちゃんスキでしょ?」
「マイ・ダーツも持っているしな」
「ソクちゃんのは、マイ・メスでしょ?」
「今夜は久し振りに、お前をダーツの的にして遊んでやろうか?」
「ダレがそんなん喜ぶんだよっ!?」
「いつも走り回って悦ぶくせに」
「そりゃ、アンタのメスから逃げてんだよっ!」
「行くぞ」
「あ、ちょっと! 行くのはフツーのダーツバーだからねっ!?」
「ダーツバーじゃないところへ行きたいのか?」
「ダ、ダーツバーですっ!」
→
更衣室は、縦に長い銀色のロッカーが、壁に沿って一列に並んでいる。
元の色はシルバーだったようだが、今では輝きを無くした灰色だ。
アイヴィーのロッカーは一番奥。
そこまで行く間にも男臭い匂いがする部屋だ。
アイヴィーの手前は、クロイツのロッカー。
司令官と副司令官のロッカーは、昔からこの場所にあるらしい。
クロイツは丁度、ネクタイを結んでいるところだった。
白いワイシャツにネイビーのネクタイが映えている。
白が似合う人だなあ、とアイヴィーは思う。
「お疲れ、クロちゃん」
アイヴィーはクロイツの後ろを通って、自分のロッカーの前に立つ。
いつものようにクロイツと話しながら着替え始めた。
「クロちゃん、今日も強かったねー。
俺、今日こそ負けちゃうカモって思ったよー」
「……何を仰るのです。勝ったのは貴方じゃないですか」
「勝負なんて時の運デショ? 俺はたまたま勝てただけ」
Tシャツを脱ぎ、ロッカーの中から青いワイシャツを取る。
ワイシャツをするりと脱がされたハンガーは、手前にゆらりと下がる。
羽織った青いワイシャツのボタンを留めながら、
「もー。クロちゃんってば、毎回毎回、強くなるみたいなんだもん。
おかげで、ウカウカしてらんないよ、ホント。
クロちゃんは全然手ぇ抜いてくんないしさー」
「当たり前です」
「たまには、もうちょっと気楽にやってくれてもイイと思うんだけど?」
「私が『解りました』と言うと思いますか?」
「ハハッ。やっぱダメかー」
何も羽織っていないハンガーは、前に後ろに揺れ動いていたが、
徐々に動きが止まっていった。
アイヴィーが黒いネクタイを結び始めた時、クロイツはまだ隣に居た。
クロイツは既にダークスーツに着替え終わっているのに、
まだロッカーの前に立っている。いつもなら、
アイヴィーを待つことなく、すぐに仕事場へ戻ってしまうのに。
どうしたのかな、とアイヴィーは思っていた。
珍しくアイヴィーが着替え終わるのを待っていてくれてるのだろうか。
けれど、それにしては俯いている。何か考え事でもしているだろうか。
「司令」
「んー?」
「最後、何故、殴らなかったのです」
「え?」
アイヴィーが聞き返すと、クロイツはこう言った。
「私に対して、寸止めなど必要ありません」
試合の最後、アイヴィーがパンチを寸止めしたことを怒っているようだ。
けれど、仲間の顔を殴る気にはなれない。しかも、こんなに綺麗な顔を。
第一、クロイツが急に顔に傷をつけていたら、生徒や先生達も驚くだろう。
「実戦を想定した訓練なのですから、私を殺すつもりで来て下さい」
「こっ、殺すつもりなんて、クロちゃん相手にムリだよー」
クロイツは静かに呟いた。
「私では相手にならないという意味ですか」
「いやいや! そーゆーイミじゃなくて!」
アイヴィーは慌てて両手を振った。
「やっぱ皆の中でクロちゃんが一番強いし!」
「貴方以外の皆の中で、でしょう?
私より貴方のほうが優れた軍人であるのは、誰の目にも明らかだ」
「えっ……と、ホラ、俺とクロちゃんは仲間なんだから、
いくら実戦訓練って言っても、殺すつもりにはなれないってイミで」
「私がテロを起こしても、同じことが言えますか」
「テ、テロって……クロちゃんが一番しないヒトじゃん……」
「司令。訓練というものは、あらゆる事態を想定して」
「あー、ゴメンゴメン! 今度はもっと、
マジメにやるからっ、そんな怒んないでよー」
クロイツの語気にビビったアイヴィーはとにかく謝った。
すると、クロイツは急に表情を暗くしていた。
「クロちゃん、どーしたの? 今度は急に黙ったりして。
今日のクロちゃん、なんかヘンだよ?」
クロイツは黙っている。
「もしかして具合悪い? それなら、ソクちゃんに」
「いいえ」
ピシャリと言われ、それ以上、体調について聞けなくなった。
「えと……じゃ、お着替えも終わったし、戻ろっか?」
「――申し訳ありません」
「……え?」
「貴方に当たるなど、八つ当たりもいいところだ」
「いや、別にそんな……」
「先に戻ります」
「あ、うん……」
クロイツはアイヴィーを置いて更衣室を出て行った。
「……っていうことがあってねー」
アイヴィーは頬を手で支えながら、今日の出来事を話していた。
ここは旧市街のアイリッシュパブ。アイヴィーが度々訪れる店だ。
今夜は飲みに来ており、カウンターの端に席をとっていた。
「クロちゃんに怒られちゃったワケなんだけどー。
でもねっ? 俺だってイッショケンメやってたんだよっ?」
アイヴィーは明日が休みなので、今夜は既にアルコールが入っている。
ニ杯のビアジョッキを空にしているせいか、口調が子供っぽくなってきた。
「マジメにやんないと、ボッコボコに負けちゃうの解ってるし。
そんなに手抜いてたりとかはしてなかったんだよっ!?
クロちゃんには『今度はもっとマジメにやる』って言ったけどさ、
俺は今日だってマジメにやってたの! ホントだよ!?」
酔っ払いの話を聞かされているのは、全く酔っていない様子の連れ。
保健室の先生で、警備組織の協力者でもあるソクーロフ博士だ。
アイヴィーの右隣で紫煙を燻らせながら、
「私に言い訳してどうする。本人にそう言えば良かっただろう」
「だって、一人でさっさか帰っちゃうんだもん……。
それに、今日のクロちゃん、なんか調子悪いみたいだったしさ」
眼鏡の先生は紫煙を、ふう、と吐きながら、
「調子が悪い、というのは?」
「訓練の時もー、なんかいつもと違ったっていうかー」
「実戦訓練の最中にも、いつもと違うと感じたのか?」
「うん」
「どういうふうに?」
「いつもよりコワかった」
「コワイ?」
「目とかー、俺のこと超睨んでたしー、あんまり余裕ないかんじでー」
「どうして、余裕がないと感じたんだ?」
「んー。初っ端から超攻めてこられたしー、
なんかもう傍に近付けないかんじでー。
お着替えしてた時は、ぼんやりしてたかんじだしー。
クロちゃん、最近、ちょっと冷たいかんじもするし」
「冷たい? クロイツの態度が素っ気無いという意味か?」
「うん」
「彼は元々、愛想が良いほうではないと思うが」
「まあ」
「今までに以上に冷たくなってきているのか?」
「うん、そう。冷たい」
「誰に対しても、か?」
「……いや。他の皆には普通、かなあ?」
眼鏡の先生はそこで微かに笑った。
「成程。――――だな」
「あ、ゴメン、聞こえなかった。なあに?」
先生は煙草を灰皿に押し付けた。
「そろそろ帰るか、と言ったのさ」
「えっ! ソクちゃん、もう帰っちゃうの?」
「なんだ? まだ私に、もてあそんで欲しいのか?」
「ダレがアンタに、もてあそんで欲しいんだよっ!?」
「では、どうして欲しい?」
「えと……だから、あの……明日休みだから、帰るにはまだ早いしー、
もうちょっと、どっかで遊んでから帰っても良いかなーって」
「それで?」
「あ、そだ! 久し振りにダーツとかどーよ? ソクちゃんスキでしょ?」
「マイ・ダーツも持っているしな」
「ソクちゃんのは、マイ・メスでしょ?」
「今夜は久し振りに、お前をダーツの的にして遊んでやろうか?」
「ダレがそんなん喜ぶんだよっ!?」
「いつも走り回って悦ぶくせに」
「そりゃ、アンタのメスから逃げてんだよっ!」
「行くぞ」
「あ、ちょっと! 行くのはフツーのダーツバーだからねっ!?」
「ダーツバーじゃないところへ行きたいのか?」
「ダ、ダーツバーですっ!」
→
■アイヴィー
『追憶の塔』と呼ばれる、海沿いにそびえる塔。
ここに聖アルフォンソ島の警備本部がある。
その中の一室に、今日が訓練日の隊員達が集まっていた。
本日のトレーニングメニューは実戦訓練。
隊員達は腕が衰えないよう、日々厳しいトレーニングを積んでいるが、
その中でも、集大成と言えるトレーニングがこの実戦訓練だ。
試合は1対1、素手による肉弾戦で行われる。
銃器や刃物など武器を使用しないこと以外はルール無用。
隊員同士が拳をぶつけ合うことで、士気と力を高め合う。
警備組織が設立された当初から続いている伝統的な訓練だった。
ここ、第1トレーニングルームに集まっている隊員達は、
各自バラバラのトレーニングウェアを身に着けていた。
門番など各所の警備をする際には、決められた制服があるが、
トレーニングウェアについては決まった物がない為、
隊員達は個人で所有しているウェアを自由に着ている。
中には、前職の物と思われるトレーニングウェアを使用している者もおり、
どこの物だと解る企業ロゴや軍の紋章が入っていた。
それを包み隠さず着ているのは、
同志に対する信頼の証か、余程そのウェアに愛着があるのか。
あるいは、単に新調するのが面倒なだけかもしれない。
「それでは最終試合です」
審判を務める隊員が、実戦訓練、最後の組を呼んだ。
「司令、副司令、前へ」
他の隊員達が固唾を呑んで見守る中、呼ばれた二人が前へ出た。
最後の試合は司令官と副司令官の一騎打ち。
審判を挟み、左側に立っている、姿勢の正しい男が、
副司令官のラインハルト・クロイツ。
右側に立っている長い金髪の男が司令官のアイヴィーだ。
クロイツのトレーニングウェアは白地で、
胸部より上に紺色のラインが入っている。
立てた白い襟には、赤い紋章が見えた。
アイヴィーはジムに通う一般人のような格好をしている。
上はどこにでも売っていそうな水色のTシャツ。
下は黒地に金色のラインが縦に二本入ったジャージのズボン。
ズボンの腰の部分には、ごく一般的なスポーツメーカーのロゴがあった。
司令官と副司令官が向き合う中、
壁際で座っている隊員達は小声でこんなことを話していた。
「クロイツ様は、今日もコワイくらい気合い入ってるな」
「ああ。目に闘志がみなぎってる」
「闘志っていうか、殺気じゃないか、ありゃ」
「始まった!」
「今日はどっちが勝つか」
「やっぱ、アイヴィーさんだろ?」
「ほぼ全勝だもんな」
「クロイツ様が勝った時もあるぜ?」
「そりゃ、アイヴィーさんが調子悪かった日だろ?
負けた次の日は、熱出したりとかさ」
「しかし、今日も攻めてるなー、クロイツ様」
試合の前半は、副司令官の一方的な攻撃で進んで行く。
攻撃の手を緩めることなく、次々と拳や蹴りが繰り出される。
その表情は真剣そのもので、全身から闘争心がみなぎっているようだった。
対して司令官は受け身の姿勢だった。
自分からは攻めず、相手の拳や蹴りを避けてばかり。
司令官の飄々とした表情と、すぐに勝負を決めようとしない姿勢は、
訓練に対してあまり真面目でないようにも見えたし、
相手の攻撃が乱れる瞬間を待っているようにも見えた。
「アイヴィーさんは今日も見事に受け流してるなー」
「よく避けられるよ。俺だったらとっくに吹っ飛ばされてる」
隊員達は、尊敬と恐怖の眼差しでトップ2の試合を見ていた。
「あれ見てると、あのお二人が味方で良かったと思うよ」
「ホントホント」
「なんであんな実力者が、こんな小っさい島に居るんだか」
「おっ。アイヴィーさんの蹴りが決まった!」
「足技得意だよなー、足長いし」
「そろそろ決着つきそうだな」
防戦一方だった司令官が、時折、攻撃を入れるようになってきた。
余計な労力は使わず、相手の僅かな隙を突いて仕留めようとするやり方は、
まるで経験値の高い熟練者のように、冷静で無駄のない戦い方だった。
副司令官は食らいつくように応戦していたが、
勝敗は、ある時、突然決まった。
アイヴィーのパンチがクロイツの顔面でピタリと止まっていた。
クロイツは、まばたきせずに上官を見上げ、キツく睨みつけていた。
ふう、と息を吐いて、アイヴィーが拳を下ろす。
それを見て、審判を務めていた隊員が声を上げた。
「そ、そこまで! 司令の勝ちです!」
自然と隊員達から拍手が起こる。二人の健闘を讃える拍手だ。
勝者の司令官は、ぴょこんと軽く頭を下げながら礼を言う。
「ありがとーございましたっ」
その一言で、司令官の息が殆ど乱れていないことが皆に知れる。
隊員達は改めて、司令官の実力の高さを思い知らされる。
普段の司令官は、副司令官に何かと怒られてばかりで、
どちらが上官なのか解らない場面も多々見られるが、
1対1の実戦訓練の時ばかりは、
やはりあの人が司令官なのだ、と隊員達は感じるのだった。
「……ありがとう、ございました」
副司令官は深く頭を下げながら言った。
→
ここに聖アルフォンソ島の警備本部がある。
その中の一室に、今日が訓練日の隊員達が集まっていた。
本日のトレーニングメニューは実戦訓練。
隊員達は腕が衰えないよう、日々厳しいトレーニングを積んでいるが、
その中でも、集大成と言えるトレーニングがこの実戦訓練だ。
試合は1対1、素手による肉弾戦で行われる。
銃器や刃物など武器を使用しないこと以外はルール無用。
隊員同士が拳をぶつけ合うことで、士気と力を高め合う。
警備組織が設立された当初から続いている伝統的な訓練だった。
ここ、第1トレーニングルームに集まっている隊員達は、
各自バラバラのトレーニングウェアを身に着けていた。
門番など各所の警備をする際には、決められた制服があるが、
トレーニングウェアについては決まった物がない為、
隊員達は個人で所有しているウェアを自由に着ている。
中には、前職の物と思われるトレーニングウェアを使用している者もおり、
どこの物だと解る企業ロゴや軍の紋章が入っていた。
それを包み隠さず着ているのは、
同志に対する信頼の証か、余程そのウェアに愛着があるのか。
あるいは、単に新調するのが面倒なだけかもしれない。
「それでは最終試合です」
審判を務める隊員が、実戦訓練、最後の組を呼んだ。
「司令、副司令、前へ」
他の隊員達が固唾を呑んで見守る中、呼ばれた二人が前へ出た。
最後の試合は司令官と副司令官の一騎打ち。
審判を挟み、左側に立っている、姿勢の正しい男が、
副司令官のラインハルト・クロイツ。
右側に立っている長い金髪の男が司令官のアイヴィーだ。
クロイツのトレーニングウェアは白地で、
胸部より上に紺色のラインが入っている。
立てた白い襟には、赤い紋章が見えた。
アイヴィーはジムに通う一般人のような格好をしている。
上はどこにでも売っていそうな水色のTシャツ。
下は黒地に金色のラインが縦に二本入ったジャージのズボン。
ズボンの腰の部分には、ごく一般的なスポーツメーカーのロゴがあった。
司令官と副司令官が向き合う中、
壁際で座っている隊員達は小声でこんなことを話していた。
「クロイツ様は、今日もコワイくらい気合い入ってるな」
「ああ。目に闘志がみなぎってる」
「闘志っていうか、殺気じゃないか、ありゃ」
「始まった!」
「今日はどっちが勝つか」
「やっぱ、アイヴィーさんだろ?」
「ほぼ全勝だもんな」
「クロイツ様が勝った時もあるぜ?」
「そりゃ、アイヴィーさんが調子悪かった日だろ?
負けた次の日は、熱出したりとかさ」
「しかし、今日も攻めてるなー、クロイツ様」
試合の前半は、副司令官の一方的な攻撃で進んで行く。
攻撃の手を緩めることなく、次々と拳や蹴りが繰り出される。
その表情は真剣そのもので、全身から闘争心がみなぎっているようだった。
対して司令官は受け身の姿勢だった。
自分からは攻めず、相手の拳や蹴りを避けてばかり。
司令官の飄々とした表情と、すぐに勝負を決めようとしない姿勢は、
訓練に対してあまり真面目でないようにも見えたし、
相手の攻撃が乱れる瞬間を待っているようにも見えた。
「アイヴィーさんは今日も見事に受け流してるなー」
「よく避けられるよ。俺だったらとっくに吹っ飛ばされてる」
隊員達は、尊敬と恐怖の眼差しでトップ2の試合を見ていた。
「あれ見てると、あのお二人が味方で良かったと思うよ」
「ホントホント」
「なんであんな実力者が、こんな小っさい島に居るんだか」
「おっ。アイヴィーさんの蹴りが決まった!」
「足技得意だよなー、足長いし」
「そろそろ決着つきそうだな」
防戦一方だった司令官が、時折、攻撃を入れるようになってきた。
余計な労力は使わず、相手の僅かな隙を突いて仕留めようとするやり方は、
まるで経験値の高い熟練者のように、冷静で無駄のない戦い方だった。
副司令官は食らいつくように応戦していたが、
勝敗は、ある時、突然決まった。
アイヴィーのパンチがクロイツの顔面でピタリと止まっていた。
クロイツは、まばたきせずに上官を見上げ、キツく睨みつけていた。
ふう、と息を吐いて、アイヴィーが拳を下ろす。
それを見て、審判を務めていた隊員が声を上げた。
「そ、そこまで! 司令の勝ちです!」
自然と隊員達から拍手が起こる。二人の健闘を讃える拍手だ。
勝者の司令官は、ぴょこんと軽く頭を下げながら礼を言う。
「ありがとーございましたっ」
その一言で、司令官の息が殆ど乱れていないことが皆に知れる。
隊員達は改めて、司令官の実力の高さを思い知らされる。
普段の司令官は、副司令官に何かと怒られてばかりで、
どちらが上官なのか解らない場面も多々見られるが、
1対1の実戦訓練の時ばかりは、
やはりあの人が司令官なのだ、と隊員達は感じるのだった。
「……ありがとう、ございました」
副司令官は深く頭を下げながら言った。
→
■オーギュスト×アンリ
■蔦様、リクエストありがとうございました!
■蔦様、リクエストありがとうございました!
「では、今日の授業はここまでにしよう」
教授が片手にしていたテキストを閉じる。
生徒達は席を立ち、教室の外へ出て行く。
教授は黒板に向かい、黒板掃除を始めた。
彼は神秘学の特別講師、オーギュスト・ボージェ教授。
ここは聖アルフォンソ学院の第二化学室。
金曜日のこの時間は、神秘学の教室として使われている。
神秘学の受講生達が続々と退室して行く中、
一人だけ、席を立つ様子がない生徒が居た。
後ろのほうに座っている無表情な生徒。
両手で頬杖をつきながら、ぼうっと黒板のほうを見ている。
その瞳は美しい琥珀色をしていた。
几帳面な黒板掃除を終えた教授がやっと振り返る。
一人だけ残っている生徒を見て、教授は優しい笑顔を見せた。
「おや、アンリ」
「君の黒板掃除は、いつも遅いね」
いきなり文句を言われた教授は、微笑みながら、
「待たせてすまない。何か、質問があるのかな?」
「質問じゃない」
「なんだい?」
「来週、冬期講習をして? 水曜日の3講目だけ」
「1回だけで良いのかい? 私は何回でも良いけれど」
「金融工学の教授が、勝手に冬休みを取るんだよ。
だから、その空き時間、君で暇潰ししようかと思って」
生意気な物言いに対して、教授はむしろ嬉しそうな顔をしていた。
「成程。そういうことなら、喜んで承るよ。
講義のテーマはどうしようか? もし、リクエストがあれば」
「マスターについて」
教授を言葉を切って、生徒はキッパリと言った。
「神秘学でマスターと言うと、ブラヴァツキー女史が、
交信を行っていたマスター達のことかな?」
マスターという言葉には様々な意味がある中、教授は事も無げに一発で当てた。
生徒は思う。この教授はやはり変人だ、と。
「そう。そのマスター達について学びたい」
どこか挑戦的に見上げてくる琥珀の瞳を受け止めて、
教授は少しばかり苦笑したように見えた。
「解ったよ。ではテーマは『マスター』にしよう。水曜日までに準備しておくよ」
よし、と言うようにアンリが小さく頷いた。
「教室はどうしようか? 私の研究室に来るかい?」
アンリは頑なに首を横に振る。
「ここで良い」
「では、ここで。来週の水曜日、待っているね?」
次の水曜日。
アンリが第二化学室のドアを開けると、
ボージェ教授は、先週の言葉通り、そこで待っていた。
窓際に立ち、一人で冬の寒空を見上げているところだった。
教授はゆっくりと振り向くと、「ごきげんよう。好きな席に座って良いよ?
今日はアンリの貸し切りだからね」と言った。
アンリは迷わず、いつも座っている、後ろのほうの席を選んだ。
教授はそれを見て微笑する。
二人だけの教室で、教師と生徒の距離は大分離れていた。
「では、冬期講習を始めようか。今日のテーマは『マスター』について」
教授は黒板に白いチョークで『Master』と綴った。
Mの始まりは優美にくるりと巻かれている。
彼が書く文字の先端は、リボンのように巻かれることが多い。
アンリは彼のクセ字を見るのが嫌いではなかった。
この学院の閉架書庫に保管されている、サン・ジェルマン伯爵直筆の本。
それに刻まれている伯爵の文字も、ところどころ先端がくるりと巻かれているのだ。
そのささやかな一致をアンリは密かに気に入っていた。
伯爵と同じクセ字を持つ者が、神秘学の教授であることは、悪くない偶然だ、と。
アンリは左手で頬杖をつきながら、黒板を眺めていた。
「さて。最初は、何から話そうかなあ」
教授の呑気な発言に、アンリの左手が少しカクッとなる。
「オーギュ。考えてこなかったの?
先週、『準備しておく』って言ってなかった?」
「いや、もちろん、考えてきているのだけどね」
「なら、早く話して」
「はいはい」
教授が微笑むと、アンリは何かボソリと呟いていた。
「ではマスターについて話す前に、
神智学を創唱し、マスター達と交信を行っていた、
ブラヴァツキー女史について、少し話しておこうか」
ボージェ教授はブラヴァツキーについて語り始めたが、
それについて、アンリは興味がなかった。
「フルネームは、エレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー。
お父上はドイツの軍人、お母上はロシアの小説家で、出身はロシアだ。
幼少の頃から精霊などの霊的なものに興味がある子だった。
非常に使命感の強い女性で、晩年まで精力的に活動していたんだよ」
彼女の年譜や人となり。それが必要以上の詳しさだった為、
アンリが教壇を見つめる目は、徐々に睨むような目つきになっていた。
マスターの話を聞きたいアンリにとって、
ブラヴァツキーの気性は荒いほうだったとか、
ヘビースモーカーだったなんてことは、どうでもいいことだった。
「彼女は、イギリスで高名な霊媒師の助手となり、霊媒について学ぶ」
アンリが適当に聞き流している中、
教授はいつものように、滔々と語っていた。
「そして1875年のニューヨークにて、彼女は仲間達と共に、
神智学協会を創設する。当時はなかなかの人気でね。多くの人に影響を与えた。
神智学協会を支持していた人物の中には、
アインシュタインやエジソン、コナン・ドイルも居るね。
神智学協会の目的はこうだ。
1.人種や性別、肌の色などの違いに関わらず、人類の普遍的同胞愛の中核となること。
2.世界各国の宗教、哲学、科学の研究促進。
3.未解明の自然法則と人間の潜在能力の調査研究。
ちなみに、協会の紋章には、自らの尾を咥える蛇も描かれているんだよ?」
「それって」
気になることがあり、アンリは軽く右手を挙げて発言した。
尾を咥える蛇は、錬金術の象徴、かつサン・ジェルマン家の紋章でもあるからだ。
「錬金術を象徴する『ウロボロス』と同じ蛇なの?」
「絵は同じなんだけれどね。微妙に意味合いが違うんだ」
神秘学の権威はこう解説した。
「蛇に対してのイメージは、錬金術では『不老不死』だが、
神智学では『知恵』という意味が強いんだ。
蛇は脱皮を繰り返すことから『死と再生』の象徴とも言われる。
その為、錬金術で描かれる蛇は『不老不死』としてのイメージが色濃く、
ウロボロスが、賢者の石のシンボルにもなっているんだ。
一方、神智学で描かれる蛇は『知恵』の象徴。
蛇は賢い生き物だからね。蛇のように利口であれ、いう意味が強い」
アンリは声に出さずに、ふうん、と思った。
「紋章には、蛇以外の記号も書かれていて」
「待って、ボージェ教授」
「おや。もうひとつ質問があったかな?」
「彼女や神智学協会の話はもういいから」
ブラヴァツキーについて少し話す、というから聞いてあげていたのに、
気が付けば、ここまでに講義前半以上の時間を費やしていた。
「いい加減、マスターの話に入ってくれない? ボージェ教授」
「ああ、すまない。そうだったね。
ではここで、マスターとは何かという話に移ろう」
本題に入るのが遅過ぎる、とアンリは唇を尖らせていた。
「女史が言うには、『人類の魂を高める為、密かに動いている人物』のことで、
マスター、あるいは、マハトマとも呼ばれていた。
例を挙げれば、まず、有能な宗教指導者もマスターだとされているね。
儒教の開祖である孔子、仏教の開祖である釈迦、道教の創案者老子、
つまり、中国三大宗教の始祖がマスターということになる。
その他、古代イスラエルの最盛期を築いたソロモン王や、
キリスト教神学者であり哲学者のフランシス・ベーコンも入っているね。
また、マスターの姿は、限られた者にしか見えないとも言われている」
アンリは身を入れて、教授の話を聞いていた。
「このマスターは世界の中に144人居て、彼等はひとつの組織を形成している。
それが『グレート・ホワイト・ブラザーフッド』と呼ばれる団体だ。
一団の本拠地はチベット仏教の理想郷シャンバラヤで、
そこに居る世界の王が一団のリーダー。リーダーの祖先は愛と美の女神ヴィーナス。
マスター達との交信を行っていた、ブラヴァツキー女史もその一団に属している」
ついにヴィーナスまで出てきた。
やはり今日は、1対1のプライベートレッスンで良かった、とアンリは思う。
この手の話に興味のない普通の人間なら、そろそろ眠たくなってくる頃だ。
「次に、ブラヴァツキー女史はどうやって、
マスター達と交信を行っていたのか、という話をしようか。
女史によると、最初はテレパシーによる交信だったそうだ。
つまり、彼女には聞こえた、ということだね。
神智学協会が南インドに移ってからは、マスターから手紙が届くようになった。
突然、頭上から手紙が降ってきたり、神殿という名の戸棚に手紙が現れたり。
これまではテレパシーで伝えられてきたことが、具現化されるようになったんだね。
ところが、この手紙がブラヴァツキー女史を窮地に追い込んでしまう」
そこで、ボージェ教授は一瞬悲しそうな顔をした。
「マスターからの手紙の出現は、トリックによるものだと、
ブラヴァツキー女史の家政婦をしていた、エマ・クーロンが暴露するんだ。
秘密のすべり戸から、女史が手紙を出現させているんだ、とね。
エマの暴露を受け、イギリスの心霊現象研究協会が調査した結果、
神智学協会は詐欺団体で、ブラヴァツキーはペテン師だとする、
ホゾシン報告が発表された。それが1884年。
同年、ブラヴァツキー女史はインドを追われ、イギリスへ移る。
彼女は常に批判に晒されていたが、ホゾシン報告によって、
元々、彼女や神智学協会に懐疑的だった論者から、更に攻撃されたんだ。
彼女の死から約100年後になって、心霊現象研究協会はホゾシン報告を撤回し、
亡き女史に謝罪することになるのだがね」
「どうして撤回したの?」
「ブラヴァツキー女史は、マスターからの手紙を、
自作自演で出現させるような人物ではない、ということだよ」
「では、他の誰かがやったということ?」
「告発したエマ・クーロンによる自作自演だったという説がある。
ブラヴァツキー女史と揉めて解雇された腹いせにね」
気性の荒さが災いしたのだろうか、とアンリは思う。
「ホゾシン報告から7年後、女史が60歳で病に倒れるまでに、
彼女は『シークレット・ドクトリン』など3冊の著書を遺している。
病で生死をさ迷う中、著書を遺すように、と導いてくれたマスターが居たそうだよ。
死んで自由になるか、生きて『シークレット・ドクトリン』を完成させるか、
どちらにするか、とね」
教授は灰色の冬空を見つめていた。
「彼女は最初から、皆の役に立つように、
マスターから告げられた大切な話を、皆に伝えただけだった。
ただ、聞こえたものを聞こえたと言っただけなんだ」
教授の目はどこか遠いところを見ているようだった。
鐘の音がした。教授が天井を見上げて、おや、と言う。
「では今日の授業はここまで、かな」
生徒は両手で頬杖をつきながら、吐息混じりに言った。
「ボージェ教授は、本当に期待を裏切らないね」
「それは、今回の冬期講習にご満足頂けた、ということかな?」
逆だよ、と気だるげに生徒は言った。
「ねえ? 触れるべきマスターを、一人忘れてない?」
「おや。勉強したいマスターが入っていなかったかね?」
生徒の頬が不満げに少し膨らむ。
「伯爵も、マスターと呼ばれるうちの一人だと思ったけれど?
ブラヴァツキーは、インドに居た頃、伯爵と会って話したとも言われている筈だ」
「伯爵……ああ。君の家の、サン・ジェルマン伯のことかね?
すまない。彼のことをうっかり忘れてたよ。マスターは144人も居るから」
「Qui vole un oeuf vole un boeuf(嘘吐きは泥棒の始まりだよ)」
「Pardon pardon(ごめん、ごめん)」
教授は穏やかな笑顔を見せて、軽く謝るだけだった。
fin
教授が片手にしていたテキストを閉じる。
生徒達は席を立ち、教室の外へ出て行く。
教授は黒板に向かい、黒板掃除を始めた。
彼は神秘学の特別講師、オーギュスト・ボージェ教授。
ここは聖アルフォンソ学院の第二化学室。
金曜日のこの時間は、神秘学の教室として使われている。
神秘学の受講生達が続々と退室して行く中、
一人だけ、席を立つ様子がない生徒が居た。
後ろのほうに座っている無表情な生徒。
両手で頬杖をつきながら、ぼうっと黒板のほうを見ている。
その瞳は美しい琥珀色をしていた。
几帳面な黒板掃除を終えた教授がやっと振り返る。
一人だけ残っている生徒を見て、教授は優しい笑顔を見せた。
「おや、アンリ」
「君の黒板掃除は、いつも遅いね」
いきなり文句を言われた教授は、微笑みながら、
「待たせてすまない。何か、質問があるのかな?」
「質問じゃない」
「なんだい?」
「来週、冬期講習をして? 水曜日の3講目だけ」
「1回だけで良いのかい? 私は何回でも良いけれど」
「金融工学の教授が、勝手に冬休みを取るんだよ。
だから、その空き時間、君で暇潰ししようかと思って」
生意気な物言いに対して、教授はむしろ嬉しそうな顔をしていた。
「成程。そういうことなら、喜んで承るよ。
講義のテーマはどうしようか? もし、リクエストがあれば」
「マスターについて」
教授を言葉を切って、生徒はキッパリと言った。
「神秘学でマスターと言うと、ブラヴァツキー女史が、
交信を行っていたマスター達のことかな?」
マスターという言葉には様々な意味がある中、教授は事も無げに一発で当てた。
生徒は思う。この教授はやはり変人だ、と。
「そう。そのマスター達について学びたい」
どこか挑戦的に見上げてくる琥珀の瞳を受け止めて、
教授は少しばかり苦笑したように見えた。
「解ったよ。ではテーマは『マスター』にしよう。水曜日までに準備しておくよ」
よし、と言うようにアンリが小さく頷いた。
「教室はどうしようか? 私の研究室に来るかい?」
アンリは頑なに首を横に振る。
「ここで良い」
「では、ここで。来週の水曜日、待っているね?」
次の水曜日。
アンリが第二化学室のドアを開けると、
ボージェ教授は、先週の言葉通り、そこで待っていた。
窓際に立ち、一人で冬の寒空を見上げているところだった。
教授はゆっくりと振り向くと、「ごきげんよう。好きな席に座って良いよ?
今日はアンリの貸し切りだからね」と言った。
アンリは迷わず、いつも座っている、後ろのほうの席を選んだ。
教授はそれを見て微笑する。
二人だけの教室で、教師と生徒の距離は大分離れていた。
「では、冬期講習を始めようか。今日のテーマは『マスター』について」
教授は黒板に白いチョークで『Master』と綴った。
Mの始まりは優美にくるりと巻かれている。
彼が書く文字の先端は、リボンのように巻かれることが多い。
アンリは彼のクセ字を見るのが嫌いではなかった。
この学院の閉架書庫に保管されている、サン・ジェルマン伯爵直筆の本。
それに刻まれている伯爵の文字も、ところどころ先端がくるりと巻かれているのだ。
そのささやかな一致をアンリは密かに気に入っていた。
伯爵と同じクセ字を持つ者が、神秘学の教授であることは、悪くない偶然だ、と。
アンリは左手で頬杖をつきながら、黒板を眺めていた。
「さて。最初は、何から話そうかなあ」
教授の呑気な発言に、アンリの左手が少しカクッとなる。
「オーギュ。考えてこなかったの?
先週、『準備しておく』って言ってなかった?」
「いや、もちろん、考えてきているのだけどね」
「なら、早く話して」
「はいはい」
教授が微笑むと、アンリは何かボソリと呟いていた。
「ではマスターについて話す前に、
神智学を創唱し、マスター達と交信を行っていた、
ブラヴァツキー女史について、少し話しておこうか」
ボージェ教授はブラヴァツキーについて語り始めたが、
それについて、アンリは興味がなかった。
「フルネームは、エレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー。
お父上はドイツの軍人、お母上はロシアの小説家で、出身はロシアだ。
幼少の頃から精霊などの霊的なものに興味がある子だった。
非常に使命感の強い女性で、晩年まで精力的に活動していたんだよ」
彼女の年譜や人となり。それが必要以上の詳しさだった為、
アンリが教壇を見つめる目は、徐々に睨むような目つきになっていた。
マスターの話を聞きたいアンリにとって、
ブラヴァツキーの気性は荒いほうだったとか、
ヘビースモーカーだったなんてことは、どうでもいいことだった。
「彼女は、イギリスで高名な霊媒師の助手となり、霊媒について学ぶ」
アンリが適当に聞き流している中、
教授はいつものように、滔々と語っていた。
「そして1875年のニューヨークにて、彼女は仲間達と共に、
神智学協会を創設する。当時はなかなかの人気でね。多くの人に影響を与えた。
神智学協会を支持していた人物の中には、
アインシュタインやエジソン、コナン・ドイルも居るね。
神智学協会の目的はこうだ。
1.人種や性別、肌の色などの違いに関わらず、人類の普遍的同胞愛の中核となること。
2.世界各国の宗教、哲学、科学の研究促進。
3.未解明の自然法則と人間の潜在能力の調査研究。
ちなみに、協会の紋章には、自らの尾を咥える蛇も描かれているんだよ?」
「それって」
気になることがあり、アンリは軽く右手を挙げて発言した。
尾を咥える蛇は、錬金術の象徴、かつサン・ジェルマン家の紋章でもあるからだ。
「錬金術を象徴する『ウロボロス』と同じ蛇なの?」
「絵は同じなんだけれどね。微妙に意味合いが違うんだ」
神秘学の権威はこう解説した。
「蛇に対してのイメージは、錬金術では『不老不死』だが、
神智学では『知恵』という意味が強いんだ。
蛇は脱皮を繰り返すことから『死と再生』の象徴とも言われる。
その為、錬金術で描かれる蛇は『不老不死』としてのイメージが色濃く、
ウロボロスが、賢者の石のシンボルにもなっているんだ。
一方、神智学で描かれる蛇は『知恵』の象徴。
蛇は賢い生き物だからね。蛇のように利口であれ、いう意味が強い」
アンリは声に出さずに、ふうん、と思った。
「紋章には、蛇以外の記号も書かれていて」
「待って、ボージェ教授」
「おや。もうひとつ質問があったかな?」
「彼女や神智学協会の話はもういいから」
ブラヴァツキーについて少し話す、というから聞いてあげていたのに、
気が付けば、ここまでに講義前半以上の時間を費やしていた。
「いい加減、マスターの話に入ってくれない? ボージェ教授」
「ああ、すまない。そうだったね。
ではここで、マスターとは何かという話に移ろう」
本題に入るのが遅過ぎる、とアンリは唇を尖らせていた。
「女史が言うには、『人類の魂を高める為、密かに動いている人物』のことで、
マスター、あるいは、マハトマとも呼ばれていた。
例を挙げれば、まず、有能な宗教指導者もマスターだとされているね。
儒教の開祖である孔子、仏教の開祖である釈迦、道教の創案者老子、
つまり、中国三大宗教の始祖がマスターということになる。
その他、古代イスラエルの最盛期を築いたソロモン王や、
キリスト教神学者であり哲学者のフランシス・ベーコンも入っているね。
また、マスターの姿は、限られた者にしか見えないとも言われている」
アンリは身を入れて、教授の話を聞いていた。
「このマスターは世界の中に144人居て、彼等はひとつの組織を形成している。
それが『グレート・ホワイト・ブラザーフッド』と呼ばれる団体だ。
一団の本拠地はチベット仏教の理想郷シャンバラヤで、
そこに居る世界の王が一団のリーダー。リーダーの祖先は愛と美の女神ヴィーナス。
マスター達との交信を行っていた、ブラヴァツキー女史もその一団に属している」
ついにヴィーナスまで出てきた。
やはり今日は、1対1のプライベートレッスンで良かった、とアンリは思う。
この手の話に興味のない普通の人間なら、そろそろ眠たくなってくる頃だ。
「次に、ブラヴァツキー女史はどうやって、
マスター達と交信を行っていたのか、という話をしようか。
女史によると、最初はテレパシーによる交信だったそうだ。
つまり、彼女には聞こえた、ということだね。
神智学協会が南インドに移ってからは、マスターから手紙が届くようになった。
突然、頭上から手紙が降ってきたり、神殿という名の戸棚に手紙が現れたり。
これまではテレパシーで伝えられてきたことが、具現化されるようになったんだね。
ところが、この手紙がブラヴァツキー女史を窮地に追い込んでしまう」
そこで、ボージェ教授は一瞬悲しそうな顔をした。
「マスターからの手紙の出現は、トリックによるものだと、
ブラヴァツキー女史の家政婦をしていた、エマ・クーロンが暴露するんだ。
秘密のすべり戸から、女史が手紙を出現させているんだ、とね。
エマの暴露を受け、イギリスの心霊現象研究協会が調査した結果、
神智学協会は詐欺団体で、ブラヴァツキーはペテン師だとする、
ホゾシン報告が発表された。それが1884年。
同年、ブラヴァツキー女史はインドを追われ、イギリスへ移る。
彼女は常に批判に晒されていたが、ホゾシン報告によって、
元々、彼女や神智学協会に懐疑的だった論者から、更に攻撃されたんだ。
彼女の死から約100年後になって、心霊現象研究協会はホゾシン報告を撤回し、
亡き女史に謝罪することになるのだがね」
「どうして撤回したの?」
「ブラヴァツキー女史は、マスターからの手紙を、
自作自演で出現させるような人物ではない、ということだよ」
「では、他の誰かがやったということ?」
「告発したエマ・クーロンによる自作自演だったという説がある。
ブラヴァツキー女史と揉めて解雇された腹いせにね」
気性の荒さが災いしたのだろうか、とアンリは思う。
「ホゾシン報告から7年後、女史が60歳で病に倒れるまでに、
彼女は『シークレット・ドクトリン』など3冊の著書を遺している。
病で生死をさ迷う中、著書を遺すように、と導いてくれたマスターが居たそうだよ。
死んで自由になるか、生きて『シークレット・ドクトリン』を完成させるか、
どちらにするか、とね」
教授は灰色の冬空を見つめていた。
「彼女は最初から、皆の役に立つように、
マスターから告げられた大切な話を、皆に伝えただけだった。
ただ、聞こえたものを聞こえたと言っただけなんだ」
教授の目はどこか遠いところを見ているようだった。
鐘の音がした。教授が天井を見上げて、おや、と言う。
「では今日の授業はここまで、かな」
生徒は両手で頬杖をつきながら、吐息混じりに言った。
「ボージェ教授は、本当に期待を裏切らないね」
「それは、今回の冬期講習にご満足頂けた、ということかな?」
逆だよ、と気だるげに生徒は言った。
「ねえ? 触れるべきマスターを、一人忘れてない?」
「おや。勉強したいマスターが入っていなかったかね?」
生徒の頬が不満げに少し膨らむ。
「伯爵も、マスターと呼ばれるうちの一人だと思ったけれど?
ブラヴァツキーは、インドに居た頃、伯爵と会って話したとも言われている筈だ」
「伯爵……ああ。君の家の、サン・ジェルマン伯のことかね?
すまない。彼のことをうっかり忘れてたよ。マスターは144人も居るから」
「Qui vole un oeuf vole un boeuf(嘘吐きは泥棒の始まりだよ)」
「Pardon pardon(ごめん、ごめん)」
教授は穏やかな笑顔を見せて、軽く謝るだけだった。
fin
■ソクーロフ×アイヴィー+ジョシュア
■カーシャ様、リクエストありがとうございました!
■カーシャ様、リクエストありがとうございました!
聖アルフォンソ学院、生徒代表室。
今日は警備組織との定期ネットミーティングの日。
ジョシュアは一人で早めに生徒代表室へ来て、
ミーティングの準備をしているところだった。
今日の出席者は三名。
学院の保健教師であり警備の協力者であるソクーロフ博士、
パソコン画面から参加する警備組織司令官のアイヴィー、
それから今年度の生徒代表、自分だ。
ミーティングの準備が終わると、ジョシュアは無意識に窓際に立っていた。
この窓からは月桂樹の森が見える。見えているのは、同じ森なのに、
ウーティス寮の部屋から見える森とは、また違った景色に見えた。
この部屋に呼ばれ、生徒代表に就任した日、
前代表のテオは、この場所に立って、自分を待っていた。
生徒代表になって暫く経っているけれど、
あの時、テオが居た場所に、今、自分が居るのは未だに不思議だった。
生徒代表室の壁一面に飾られている絵画には、歴代の生徒代表達が描かれている。
その中で一番新しい場所にテオが居る。その前はクラウス。
皆、一年間この任務を全うしてきた、立派な生徒代表達。
先輩達と比べて自分はどうだろう。上手くやっていけているだろうか。
絵画を見上げながら思うことは、いつも同じ不安だった。
生徒代表室の電話が鳴った。
ジョシュアはアンティークな受話器を取る。
「はい、生徒代表室です」
「警備のクロイツでございます。ジョシュア様ですね?」
電話をかけてきたのは、警備組織の副司令官だった。
知っている人が相手でジョシュアは少し安心した。
「はい。こんにちは、クロイツさん。どうしました?」
「ミーティング直前のご連絡となり、誠に申し訳ございません。実は――」
「えっ? ――そう、ですか。解りました。
博士にはこちらから知らせておきますね。
はい。いえ。気にしないで下さい。大丈夫ですから。
ご連絡、ありがとうございました。失礼します」
ジョシュアは受話器を置いて、今、受けた連絡事項を頭の中で復唱する。
次に必要なことは、この連絡を博士へ伝えることだ。
時計を見上げる。ミーティング開始時刻は迫っていた。
「博士、まだ保健室に居るかな」
再び受話器を取ろうと思ったところで、
コン、コンと生徒代表室のドアがノックされた。
「はい、どうぞ」
「失礼するよ」
扉を開けたのは、白衣の保健教師だった。
間に合わなかった。ジョシュアは申し訳ない気持ちになる。
「すみません、博士。今、保健室に電話しようと思ったんですが」
博士は後ろ手に扉を閉め、ゆっくりと中へ入ってくる。
「何か、あったのかね?」
「はい。アイヴィーに急用が入ったそうで、少し遅れるそうです」
「……そう。どのくらい遅れそうなのかな?」
「あと30分くらいかかるかもしれないとのことでした。
俺はここで待っていますが、博士は一度、保健室に戻りますか?」
少し間を置いたあと、博士はこう答えた。
「いや。君さえ良ければ、カウンセリングをさせて貰えないかな?」
「俺の、ですか?」
「そうだよ。そろそろ必要な頃だと思っていたんだ。
もちろん、君の都合が悪いなら、私は保健室に引き揚げるが?」
「ああ、いえ。そんなことは」
「ありがとう。では、向こうのソファに座ろう」
「はい」
それから、20分程経った頃。
パソコンのモニタに金髪の男が映った。
「お待たせー。ゴメンゴメン、遅くなってー」
司令官と言うにはまだ若いこの男が、
聖アルフォンソ島の警備を任されている、アイヴィーという男だった。
「いやー、お喋り好きなお偉いさんから、
急に電話かかってきちゃってさー、なかなか終わんなくてさー、
あのオジサン、いつもそーなんだよーって……」
アイヴィーの目に映ったのは、島への侵入者を自白させる際によく見られる光景だった。
今日、ソファに項垂れて座らされているのは、侵入者でなく、ジョシュアだった。
ジョシュアの傍らには白衣のドクターが立っていた。アイヴィーが叫ぶ。
「わー! ジョシュアがソクちゃんの餌食にー!」
「煩い。今、良いところなんだ。終わるまでお前は待っていろ」
ドクターに睨まれ、少しビビリながら司令官が立ち向かう。
「ちょ、ちょっと、アンタ! 俺が居ない隙にジョシュアに何してんだよ!?」
「生徒代表のカウンセリングだが、何か問題でも?」
「だ、だだだってソレ完全に、懺悔モードじゃん!」
「私の自白術に変な名称を付けるな」
「あー、ジョシュア! 守ってやれなくてゴメン!
俺がオジサンの長電話に付き合わされたばっかりにー!」
「随分騒がしいが。お前も、私にして欲しいのか? カウンセリング」
「ななな、ンなワケないし! てゆうか、ジョシュア返してよ!
生徒代表がおねんねしてちゃ、俺達、ミーティングできないでしょ!」
「……チッ。もう少し長電話していれば良かったものを」
「舌打ちとかしてないで、早くジョシュア、起こしてよ!」
「あと10分はかかる。お前は指を咥えて見ていろ」
10分後。ドクターに何かを囁かれたジョシュアは、ゆっくりと目を覚ました。
優しい先生の笑顔でドクターはこう言った。
「おはよう、ジョシュア」
「はかせ……」
「気持ち良さそうにうたた寝していたね? ジョシュア」
「えっ?」
「起こしてしまうのが忍びなかったのだが、
ミーティングの開始時間を過ぎてしまったから、起こさせて貰ったよ?」
「俺……眠っていたんですか……すみません」
「良いんだよ。私も彼も急ぐ用事はないからね」
パソコン画面にはアイヴィーが映っていて、ジョシュアを心配そうに見つめていた。
ジョシュアと目が合ったアイヴィーは、軽く右手を挙げる。
「よ、よう、ジョシュア。えと……ダイジョブ?」
「はい……」
「そ、そか。じゃ、じゃあ、ミーティング始めちゃう?
起きたばっかだから、ちょっと休憩してからでもイイけど」
「いえ。大丈夫です。お待たせして、すみません」
「……い、いや、うん」
「では、定期ミーティング、始めましょう」
fin
今日は警備組織との定期ネットミーティングの日。
ジョシュアは一人で早めに生徒代表室へ来て、
ミーティングの準備をしているところだった。
今日の出席者は三名。
学院の保健教師であり警備の協力者であるソクーロフ博士、
パソコン画面から参加する警備組織司令官のアイヴィー、
それから今年度の生徒代表、自分だ。
ミーティングの準備が終わると、ジョシュアは無意識に窓際に立っていた。
この窓からは月桂樹の森が見える。見えているのは、同じ森なのに、
ウーティス寮の部屋から見える森とは、また違った景色に見えた。
この部屋に呼ばれ、生徒代表に就任した日、
前代表のテオは、この場所に立って、自分を待っていた。
生徒代表になって暫く経っているけれど、
あの時、テオが居た場所に、今、自分が居るのは未だに不思議だった。
生徒代表室の壁一面に飾られている絵画には、歴代の生徒代表達が描かれている。
その中で一番新しい場所にテオが居る。その前はクラウス。
皆、一年間この任務を全うしてきた、立派な生徒代表達。
先輩達と比べて自分はどうだろう。上手くやっていけているだろうか。
絵画を見上げながら思うことは、いつも同じ不安だった。
生徒代表室の電話が鳴った。
ジョシュアはアンティークな受話器を取る。
「はい、生徒代表室です」
「警備のクロイツでございます。ジョシュア様ですね?」
電話をかけてきたのは、警備組織の副司令官だった。
知っている人が相手でジョシュアは少し安心した。
「はい。こんにちは、クロイツさん。どうしました?」
「ミーティング直前のご連絡となり、誠に申し訳ございません。実は――」
「えっ? ――そう、ですか。解りました。
博士にはこちらから知らせておきますね。
はい。いえ。気にしないで下さい。大丈夫ですから。
ご連絡、ありがとうございました。失礼します」
ジョシュアは受話器を置いて、今、受けた連絡事項を頭の中で復唱する。
次に必要なことは、この連絡を博士へ伝えることだ。
時計を見上げる。ミーティング開始時刻は迫っていた。
「博士、まだ保健室に居るかな」
再び受話器を取ろうと思ったところで、
コン、コンと生徒代表室のドアがノックされた。
「はい、どうぞ」
「失礼するよ」
扉を開けたのは、白衣の保健教師だった。
間に合わなかった。ジョシュアは申し訳ない気持ちになる。
「すみません、博士。今、保健室に電話しようと思ったんですが」
博士は後ろ手に扉を閉め、ゆっくりと中へ入ってくる。
「何か、あったのかね?」
「はい。アイヴィーに急用が入ったそうで、少し遅れるそうです」
「……そう。どのくらい遅れそうなのかな?」
「あと30分くらいかかるかもしれないとのことでした。
俺はここで待っていますが、博士は一度、保健室に戻りますか?」
少し間を置いたあと、博士はこう答えた。
「いや。君さえ良ければ、カウンセリングをさせて貰えないかな?」
「俺の、ですか?」
「そうだよ。そろそろ必要な頃だと思っていたんだ。
もちろん、君の都合が悪いなら、私は保健室に引き揚げるが?」
「ああ、いえ。そんなことは」
「ありがとう。では、向こうのソファに座ろう」
「はい」
それから、20分程経った頃。
パソコンのモニタに金髪の男が映った。
「お待たせー。ゴメンゴメン、遅くなってー」
司令官と言うにはまだ若いこの男が、
聖アルフォンソ島の警備を任されている、アイヴィーという男だった。
「いやー、お喋り好きなお偉いさんから、
急に電話かかってきちゃってさー、なかなか終わんなくてさー、
あのオジサン、いつもそーなんだよーって……」
アイヴィーの目に映ったのは、島への侵入者を自白させる際によく見られる光景だった。
今日、ソファに項垂れて座らされているのは、侵入者でなく、ジョシュアだった。
ジョシュアの傍らには白衣のドクターが立っていた。アイヴィーが叫ぶ。
「わー! ジョシュアがソクちゃんの餌食にー!」
「煩い。今、良いところなんだ。終わるまでお前は待っていろ」
ドクターに睨まれ、少しビビリながら司令官が立ち向かう。
「ちょ、ちょっと、アンタ! 俺が居ない隙にジョシュアに何してんだよ!?」
「生徒代表のカウンセリングだが、何か問題でも?」
「だ、だだだってソレ完全に、懺悔モードじゃん!」
「私の自白術に変な名称を付けるな」
「あー、ジョシュア! 守ってやれなくてゴメン!
俺がオジサンの長電話に付き合わされたばっかりにー!」
「随分騒がしいが。お前も、私にして欲しいのか? カウンセリング」
「ななな、ンなワケないし! てゆうか、ジョシュア返してよ!
生徒代表がおねんねしてちゃ、俺達、ミーティングできないでしょ!」
「……チッ。もう少し長電話していれば良かったものを」
「舌打ちとかしてないで、早くジョシュア、起こしてよ!」
「あと10分はかかる。お前は指を咥えて見ていろ」
10分後。ドクターに何かを囁かれたジョシュアは、ゆっくりと目を覚ました。
優しい先生の笑顔でドクターはこう言った。
「おはよう、ジョシュア」
「はかせ……」
「気持ち良さそうにうたた寝していたね? ジョシュア」
「えっ?」
「起こしてしまうのが忍びなかったのだが、
ミーティングの開始時間を過ぎてしまったから、起こさせて貰ったよ?」
「俺……眠っていたんですか……すみません」
「良いんだよ。私も彼も急ぐ用事はないからね」
パソコン画面にはアイヴィーが映っていて、ジョシュアを心配そうに見つめていた。
ジョシュアと目が合ったアイヴィーは、軽く右手を挙げる。
「よ、よう、ジョシュア。えと……ダイジョブ?」
「はい……」
「そ、そか。じゃ、じゃあ、ミーティング始めちゃう?
起きたばっかだから、ちょっと休憩してからでもイイけど」
「いえ。大丈夫です。お待たせして、すみません」
「……い、いや、うん」
「では、定期ミーティング、始めましょう」
fin
■ソクーロフ×アイヴィー
その朝、アイヴィーは自宅のベッドで目を覚ました。
腕を伸ばして、スマートフォンを手に取る。
もう家を出る時間だ、と思い、一瞬焦ったが、今日の日付を見て落ち着いた。
今日は1月1日。
タクシードライバーも司令官のお仕事も、今日ばかりはお休みだ。
ほっとすると、シャワーの音が耳に入った。
シャワールームのほうから、微かに水音が聞こえる。
それと、ほぼ同時に肩が寒いのを感じた。
ブランケットから出ていた肩は素肌だった。
向こうのテーブルの上には、昨夜、飲み散らかした痕が残っていた。
年越しのカウントダウンだから、と少し調子に乗って、空けた瓶や缶が、
そのまま転がっているのが見えた。
確認するまでもないのに、アイヴィーは僅かな期待を込めて、
ブランケットをめくって、そっと中を覗いてみた。
すぐさま、期待は打ち砕かれる。自分の生足などが見えて、気が重くなった。
昨夜の記憶がおぼろげに蘇ってくる。
久し振りに飲み過ぎた。酒の勢いで、昨日は……全部、酒のせいだ。
アイヴィーは右手でブランケットを引き寄せる。
うつ伏せになり、首許までブランケットで覆った。
布の柔らかさを、直接、肌で感じて、更にツライ気持ちになる。
――年の始めからナニやってんだか……
重い溜め息と共に、両腕の中に顔を埋めた。
ガラッとシャワールームが開く音がした。
そんなことで、想像しなくて良い姿を想像してしまい、
ついでに、昨夜のモロモロまで思い出した自分がイヤになる。
「あー、もう……」
ブランケットを頭まですっぽり被った。
次に聞こえてきたのは足音だった。
こちらに近付いてくる。ベッドの前で足音は止まった。
アイヴィーはブランケットを全身に被ったまま、息を止めていた。
「何故、寝たフリをしている?」
ブランケットを剥ぎ取られた。
冷たい眼差しでアイヴィーを見下ろしているのは、シャワー上がりのオトコ。
濡れた長い髪を白いバスタオルで拭きながら、昨夜の格好をラフに着ている。
下は黒いズボン、上は白いワイシャツを羽織っただけ。
ボタンは一つも留められていない。素肌の胸板には水滴が伝っていた。
普段は一つに結わえられている長い髪は、
真っ直ぐ下ろされていた。濡れた髪が光って見える。
眼鏡をかけてない目で、上から見下ろされていた。
「何をそんなにジロジロ見ている?」
「ソ、ソクちゃん、眼鏡かけてないと、ダレだか解んないんだもん」
シャワー上がりのヒトは首を横に傾ける。
「お前は私を眼鏡で識別してるのか?」
「い、いや、別にそーゆーワケじゃないですけど……」
「お前、眼鏡フェチか?」
「チガイマスッ!」
「年明けからバカなこと言ってないで、いい加減、起きろ」
自分ちのボディシャンプーの香りが相手からする。
シャワー上がりのヒトは身を屈め、アイヴィーの赤い耳に向かって囁く。
「お前こそ、早くシャワーを浴びてきたほうが良いと思うが?」
一瞬で身体に熱が走った気がした。
「……わ、解ってるよっ!」
そう言うと、軽く笑われた。
サイアクの年明け。
今年も、このヒトに振り回される、ダメな年になりそうだ。
fin
腕を伸ばして、スマートフォンを手に取る。
もう家を出る時間だ、と思い、一瞬焦ったが、今日の日付を見て落ち着いた。
今日は1月1日。
タクシードライバーも司令官のお仕事も、今日ばかりはお休みだ。
ほっとすると、シャワーの音が耳に入った。
シャワールームのほうから、微かに水音が聞こえる。
それと、ほぼ同時に肩が寒いのを感じた。
ブランケットから出ていた肩は素肌だった。
向こうのテーブルの上には、昨夜、飲み散らかした痕が残っていた。
年越しのカウントダウンだから、と少し調子に乗って、空けた瓶や缶が、
そのまま転がっているのが見えた。
確認するまでもないのに、アイヴィーは僅かな期待を込めて、
ブランケットをめくって、そっと中を覗いてみた。
すぐさま、期待は打ち砕かれる。自分の生足などが見えて、気が重くなった。
昨夜の記憶がおぼろげに蘇ってくる。
久し振りに飲み過ぎた。酒の勢いで、昨日は……全部、酒のせいだ。
アイヴィーは右手でブランケットを引き寄せる。
うつ伏せになり、首許までブランケットで覆った。
布の柔らかさを、直接、肌で感じて、更にツライ気持ちになる。
――年の始めからナニやってんだか……
重い溜め息と共に、両腕の中に顔を埋めた。
ガラッとシャワールームが開く音がした。
そんなことで、想像しなくて良い姿を想像してしまい、
ついでに、昨夜のモロモロまで思い出した自分がイヤになる。
「あー、もう……」
ブランケットを頭まですっぽり被った。
次に聞こえてきたのは足音だった。
こちらに近付いてくる。ベッドの前で足音は止まった。
アイヴィーはブランケットを全身に被ったまま、息を止めていた。
「何故、寝たフリをしている?」
ブランケットを剥ぎ取られた。
冷たい眼差しでアイヴィーを見下ろしているのは、シャワー上がりのオトコ。
濡れた長い髪を白いバスタオルで拭きながら、昨夜の格好をラフに着ている。
下は黒いズボン、上は白いワイシャツを羽織っただけ。
ボタンは一つも留められていない。素肌の胸板には水滴が伝っていた。
普段は一つに結わえられている長い髪は、
真っ直ぐ下ろされていた。濡れた髪が光って見える。
眼鏡をかけてない目で、上から見下ろされていた。
「何をそんなにジロジロ見ている?」
「ソ、ソクちゃん、眼鏡かけてないと、ダレだか解んないんだもん」
シャワー上がりのヒトは首を横に傾ける。
「お前は私を眼鏡で識別してるのか?」
「い、いや、別にそーゆーワケじゃないですけど……」
「お前、眼鏡フェチか?」
「チガイマスッ!」
「年明けからバカなこと言ってないで、いい加減、起きろ」
自分ちのボディシャンプーの香りが相手からする。
シャワー上がりのヒトは身を屈め、アイヴィーの赤い耳に向かって囁く。
「お前こそ、早くシャワーを浴びてきたほうが良いと思うが?」
一瞬で身体に熱が走った気がした。
「……わ、解ってるよっ!」
そう言うと、軽く笑われた。
サイアクの年明け。
今年も、このヒトに振り回される、ダメな年になりそうだ。
fin
「クリスマスライブも大成功だったね!」
夕方のウーティス寮サロンには寮生達が集まっている。
今日は寮生だけでなく、生徒代表のテオが遊びに来ていた。
先日行われたクリスマスライブの感動を伝える為だ。
「流石はデッドプリンス! 最高のライブだったよ!」
「おうよ! マジでみんな、ぶちあがってたよな!」
デッドプリンスの大ファンである生徒代表に褒めちぎられ、
デッドプリンスのギター兼リーダーはすっかり気を良くしていた。
「思ったよりお客さんも来てくれましたよね」
デッドプリンスのドラマーが手にしているのは、ホットレモネード。
透明なガラスのカップには、レモンピールが入っている。
「ちょっと会場が狭かったぐらいでしたし」
「あー、それは反省点!」
リーダーが膝を打つ。
「来年やる時はさ、もっとデカイ会場押さえようぜ!」
デッドプリンスのベースを担当する東洋人が黒目を瞬く。
「えっ。来年もやるの?」
「来年もやってくれっていっぱい言われたじゃん!
ファンの期待に応えてこそ、プロなんだぜ!」
「いや、俺は別にプロじゃないんだけど……」
「何を言っているんだい、東洋の黒い真珠!
君達のバンドは、とっくにプロ顔負けだよ!
もし、島でCDを出そうものなら、あっという間に売り切れるよ!?」
「そ、それは、どうも……」
「クリスマスも終わっちゃいましたし、あとはもう新年ってかんじですねー」
「あっ! カウントダウンライブでもやっちゃう!?」
「やらないよ、俺は」
「なんでだよ、ハルヤ!」
「お正月だから。お正月くらいはゆっくりさせてよ」
「あ、そうそう。ニッポンの新年って、とっても特別な雰囲気がありますよね。
世界の中でも、ニッポンが一番、新年を大切にしている国だと思いますよ」
「そっか。うん。そうかもしれないね」
「東洋の黒い真珠、君の国では一年の始まりをどのように過ごすんだい?」
「お正月の過ごし方? まあ、家庭によって色々だと思うけど……」
「東洋の黒い真珠家では、どのように過ごしていたんだい?」
「東洋の黒い真珠家って……まあ、いいや。
子供の頃は、本家に集まって、みんなでおせち食べたり、色々ね」
「本家と言うと、おじいさまのおうちか。
成程。ご家族総出で、賑やかに新年を祝うのだね」
「まあ、そんなかんじ。兄様と会えるのは楽しみだったな。
じいさまも一緒に遊んでくれたし。
あと、楽しみだったのは、お年玉かな、やっぱり」
「あっ! オトシダマは僕も知ってますー!
ジャパニメーションで絶対出てきますもんね!」
「流石はシルヴァン。君は本当に博識だねえ」
「いやー、それほどでもありますー」
「そのオトシダマとは、どんなものなんだい?」
「子ども達が大人達から貰える、お金のことです!」
「なんと!」
「ニッポンでは、お正月に特別なおこづかいが貰えるんですよ。
パパ・ママ、グランパ・グランマに親戚の方からも。
小さな紙の袋に入ってて、とってもキュートなんですよ。
だから、ニッポンの子どもは1月1日が1番お金持ちなんですー」
「なんだって!? ニッポンでは、
子どもが大人から金を巻き上げんのか!?」
「ま、巻き上げてるわけじゃないよ。昔からある行事みたいなもので」
「では、私もみんなにオトシダマを贈ろうかな! 生徒代表として!」
「わお! ホントですか! 助かっちゃいますー!」
「も、貰えないよ。友達からお年玉なんて」
「えー。ダメなんですかー?」
「私ではオトシダマのプレゼンターにはなれないのかい?」
「う、うん。大人が子どもにあげるものだから。
しかもテオからなんて……なんかコワイよ。とんでもない額が入ってそうで」
「では、お金ではない物ならば良いのかな?
一年の始まりに、初めて贈るプレゼントなんて、素敵だからね。
心ばかりの、小さなプレゼントならば、良いのだろう?」
「小さなプレゼントって、例えば?」
「フフッ。今、言ってしまっては、当日の驚きがなくなってしまうよ。
当日まで楽しみにしておいで、東洋の黒い真珠。
一年の始まりの日、愛を込めて、君にプレゼントを贈るから」
「う、うん。ありがと……」
日本人は東洋の微笑を浮かべながら、
「俺、余計なこと言っちゃったかな」と少し思った。
「他には? 新年にやるゲームとかはないのか?」
「えっと。お正月の遊びはいっぱいあるけど。かるた、とか」
「カルタ? カルタとは何だい? 東洋の黒い真珠」
日本人はみんなにかるた遊びの説明をした。
説明が終わると、テオは大きくニ度頷いた。
「成程、成程。つまり、文字を書いた紙を読んでくれる人が居て、
その読まれたカードをたくさん取れた人が勝ち、
というカードゲームなのだね!」
「カードゲーム……なのか。そうだね、言われてみれば」
「でもさー、そのカード、日本語で書いてあんだろ?
俺達、読めねえじゃん。アルファベットのやつ売ってんのかよ?」
「うーん。どこかには売ってるだろうけど、
新市街のお店とかにはないだろうね、流石に」
「よしっ!」
テオが立ち上がった。
「作ろう! アルファベットのカルタがないなら作ろう!」
「おっ。オーダーメイドすんのか?」
「いいや。この手で作るのだよ! 私達の手で!」
「手作りかよっ!?」
「私達にも作れるよね、東洋の黒い真珠!?」
「まあ、必要な物は、紙とペンくらいだから、
できないことはないと思うけど、26枚作るのはちょっと」
「そうか! みんなで手分けして作れば良いのだね!
みんなで作ったカルタで、みんなで遊ぶ!
ああ、なんと素晴らしい! 流石は東洋の黒い真珠!」
「じゃあ、1枚目はAから始まる文を考えれば良いんですよね」
「Aだからー、『アンリは生意気お姫様』とかどうだ? ヒヒヒッ」
「僕、イニシャルはAじゃなくて、Hだから。君と一緒にしないで」
アルフレッドが隅のソファに向かって、
そう言うと、すぐに冷たい毒舌が返ってきた。
本人が言うように、アンリのスペルは『Henri』であり、頭文字はHである。
「あ、そうか。俺、Aだった! じゃあ俺がAのカード書く!」
「それじゃ僕はSですね! ジョシュアはJ、お願いしますねっ」
「う、うん。解ったよ」
急に話を振られたジョシュアは少し驚きながら頷く。
テオは優雅に手を自分の胸に当てる。
「では、私はTを担当しよう。東洋の黒い真珠は……
はっ! 君もHじゃないか! Hが2人居るなんて! ああ、一体どうすれば」
「僕を外せば?」
隅の席に居るイニシャルHがそう言うと、眼鏡のイニシャルHもこう言った。
「俺も入らなくていいけど。てゆうか、
かるたの文字を、誰かの名前にする決まりもないし」
「ああ! なんて素晴らしい譲り合いの精神!」
冷めた吐息が隅の席から聞こえる。
「……貴方はいちいち感動しないで」
「では早速、カルタを作ろう! おっと、その前に材料がないじゃないか!
よしっ! 紙とペン一式を借りてこよう!
東洋の黒い真珠! 君も私と一緒に来てくれるかい?
どんな紙を選べば良いか、ナイスアドバイスをしておくれ?」
「あ、うん」
「僕も一緒に行って良いですか? 荷物が多くなったら、
男手が必要になるかもしれませんから、僕にもお手伝いさせて下さい!」
「おお、力持ちのシルヴァンが来てくれれば助かるよ! ありがとう!
では三人で行ってくるから、君達はここで少し待っていておくれ」
「はい。解りました」とジョシュアが答える。
テオ、ハルヤ、シルヴァンがサロンを出て行く。
首を捻っていたアルフレッドは、
閉まったドアに向かって、一歩遅れてツッコんだ。
「てゆうか、全員、男手だろ!」
fin
夕方のウーティス寮サロンには寮生達が集まっている。
今日は寮生だけでなく、生徒代表のテオが遊びに来ていた。
先日行われたクリスマスライブの感動を伝える為だ。
「流石はデッドプリンス! 最高のライブだったよ!」
「おうよ! マジでみんな、ぶちあがってたよな!」
デッドプリンスの大ファンである生徒代表に褒めちぎられ、
デッドプリンスのギター兼リーダーはすっかり気を良くしていた。
「思ったよりお客さんも来てくれましたよね」
デッドプリンスのドラマーが手にしているのは、ホットレモネード。
透明なガラスのカップには、レモンピールが入っている。
「ちょっと会場が狭かったぐらいでしたし」
「あー、それは反省点!」
リーダーが膝を打つ。
「来年やる時はさ、もっとデカイ会場押さえようぜ!」
デッドプリンスのベースを担当する東洋人が黒目を瞬く。
「えっ。来年もやるの?」
「来年もやってくれっていっぱい言われたじゃん!
ファンの期待に応えてこそ、プロなんだぜ!」
「いや、俺は別にプロじゃないんだけど……」
「何を言っているんだい、東洋の黒い真珠!
君達のバンドは、とっくにプロ顔負けだよ!
もし、島でCDを出そうものなら、あっという間に売り切れるよ!?」
「そ、それは、どうも……」
「クリスマスも終わっちゃいましたし、あとはもう新年ってかんじですねー」
「あっ! カウントダウンライブでもやっちゃう!?」
「やらないよ、俺は」
「なんでだよ、ハルヤ!」
「お正月だから。お正月くらいはゆっくりさせてよ」
「あ、そうそう。ニッポンの新年って、とっても特別な雰囲気がありますよね。
世界の中でも、ニッポンが一番、新年を大切にしている国だと思いますよ」
「そっか。うん。そうかもしれないね」
「東洋の黒い真珠、君の国では一年の始まりをどのように過ごすんだい?」
「お正月の過ごし方? まあ、家庭によって色々だと思うけど……」
「東洋の黒い真珠家では、どのように過ごしていたんだい?」
「東洋の黒い真珠家って……まあ、いいや。
子供の頃は、本家に集まって、みんなでおせち食べたり、色々ね」
「本家と言うと、おじいさまのおうちか。
成程。ご家族総出で、賑やかに新年を祝うのだね」
「まあ、そんなかんじ。兄様と会えるのは楽しみだったな。
じいさまも一緒に遊んでくれたし。
あと、楽しみだったのは、お年玉かな、やっぱり」
「あっ! オトシダマは僕も知ってますー!
ジャパニメーションで絶対出てきますもんね!」
「流石はシルヴァン。君は本当に博識だねえ」
「いやー、それほどでもありますー」
「そのオトシダマとは、どんなものなんだい?」
「子ども達が大人達から貰える、お金のことです!」
「なんと!」
「ニッポンでは、お正月に特別なおこづかいが貰えるんですよ。
パパ・ママ、グランパ・グランマに親戚の方からも。
小さな紙の袋に入ってて、とってもキュートなんですよ。
だから、ニッポンの子どもは1月1日が1番お金持ちなんですー」
「なんだって!? ニッポンでは、
子どもが大人から金を巻き上げんのか!?」
「ま、巻き上げてるわけじゃないよ。昔からある行事みたいなもので」
「では、私もみんなにオトシダマを贈ろうかな! 生徒代表として!」
「わお! ホントですか! 助かっちゃいますー!」
「も、貰えないよ。友達からお年玉なんて」
「えー。ダメなんですかー?」
「私ではオトシダマのプレゼンターにはなれないのかい?」
「う、うん。大人が子どもにあげるものだから。
しかもテオからなんて……なんかコワイよ。とんでもない額が入ってそうで」
「では、お金ではない物ならば良いのかな?
一年の始まりに、初めて贈るプレゼントなんて、素敵だからね。
心ばかりの、小さなプレゼントならば、良いのだろう?」
「小さなプレゼントって、例えば?」
「フフッ。今、言ってしまっては、当日の驚きがなくなってしまうよ。
当日まで楽しみにしておいで、東洋の黒い真珠。
一年の始まりの日、愛を込めて、君にプレゼントを贈るから」
「う、うん。ありがと……」
日本人は東洋の微笑を浮かべながら、
「俺、余計なこと言っちゃったかな」と少し思った。
「他には? 新年にやるゲームとかはないのか?」
「えっと。お正月の遊びはいっぱいあるけど。かるた、とか」
「カルタ? カルタとは何だい? 東洋の黒い真珠」
日本人はみんなにかるた遊びの説明をした。
説明が終わると、テオは大きくニ度頷いた。
「成程、成程。つまり、文字を書いた紙を読んでくれる人が居て、
その読まれたカードをたくさん取れた人が勝ち、
というカードゲームなのだね!」
「カードゲーム……なのか。そうだね、言われてみれば」
「でもさー、そのカード、日本語で書いてあんだろ?
俺達、読めねえじゃん。アルファベットのやつ売ってんのかよ?」
「うーん。どこかには売ってるだろうけど、
新市街のお店とかにはないだろうね、流石に」
「よしっ!」
テオが立ち上がった。
「作ろう! アルファベットのカルタがないなら作ろう!」
「おっ。オーダーメイドすんのか?」
「いいや。この手で作るのだよ! 私達の手で!」
「手作りかよっ!?」
「私達にも作れるよね、東洋の黒い真珠!?」
「まあ、必要な物は、紙とペンくらいだから、
できないことはないと思うけど、26枚作るのはちょっと」
「そうか! みんなで手分けして作れば良いのだね!
みんなで作ったカルタで、みんなで遊ぶ!
ああ、なんと素晴らしい! 流石は東洋の黒い真珠!」
「じゃあ、1枚目はAから始まる文を考えれば良いんですよね」
「Aだからー、『アンリは生意気お姫様』とかどうだ? ヒヒヒッ」
「僕、イニシャルはAじゃなくて、Hだから。君と一緒にしないで」
アルフレッドが隅のソファに向かって、
そう言うと、すぐに冷たい毒舌が返ってきた。
本人が言うように、アンリのスペルは『Henri』であり、頭文字はHである。
「あ、そうか。俺、Aだった! じゃあ俺がAのカード書く!」
「それじゃ僕はSですね! ジョシュアはJ、お願いしますねっ」
「う、うん。解ったよ」
急に話を振られたジョシュアは少し驚きながら頷く。
テオは優雅に手を自分の胸に当てる。
「では、私はTを担当しよう。東洋の黒い真珠は……
はっ! 君もHじゃないか! Hが2人居るなんて! ああ、一体どうすれば」
「僕を外せば?」
隅の席に居るイニシャルHがそう言うと、眼鏡のイニシャルHもこう言った。
「俺も入らなくていいけど。てゆうか、
かるたの文字を、誰かの名前にする決まりもないし」
「ああ! なんて素晴らしい譲り合いの精神!」
冷めた吐息が隅の席から聞こえる。
「……貴方はいちいち感動しないで」
「では早速、カルタを作ろう! おっと、その前に材料がないじゃないか!
よしっ! 紙とペン一式を借りてこよう!
東洋の黒い真珠! 君も私と一緒に来てくれるかい?
どんな紙を選べば良いか、ナイスアドバイスをしておくれ?」
「あ、うん」
「僕も一緒に行って良いですか? 荷物が多くなったら、
男手が必要になるかもしれませんから、僕にもお手伝いさせて下さい!」
「おお、力持ちのシルヴァンが来てくれれば助かるよ! ありがとう!
では三人で行ってくるから、君達はここで少し待っていておくれ」
「はい。解りました」とジョシュアが答える。
テオ、ハルヤ、シルヴァンがサロンを出て行く。
首を捻っていたアルフレッドは、
閉まったドアに向かって、一歩遅れてツッコんだ。
「てゆうか、全員、男手だろ!」
fin
■古傷8 続編
夜、司令官は自宅でシャワーを浴びていた。
ボディシャンプーを洗い流す。首から胸、胸から腹へ。
昨夜、眼鏡のお医者さんが貼ってくれた防水仕様の絆創膏のおかげで、
昨日少し切られた腹も痛くない。足まで泡を洗い流し、シャワーを止めた。
鏡に自分の身体が映っている。
シャワールームから鏡を外そうかと思った時期もあるけど。
結局、鏡はここにある。普段はあまり見ていないけど。
見て面白いモンじゃないし、綺麗なモンでもないから。
けれど、この日は鏡を見たまま、止まってしまった。
左胸にある古い傷。
久し振りに自分の手で触れてみた。昨夜の感触が甦る。
やっぱり、あの時、触られた。
ソクーロフの薬指がここに触れた。
おそらく『偶然ぶつかった』フリをして。
一瞬、すうっ、と撫でられた。
その時。自分でもどうして、そう感じたのかは解らないけど。
まるで「早く治りますように」と言われたような気がして、
息が詰まりそうになった。
ソクーロフが自分の過去に興味を持っているのは、解ってる。
あのヒトのセーカクからして、本当はどんな手段を用いてでも、
根ほり葉ほり聞いて、洗いざらい白状させたい筈だ。
もちろん、この古い傷についても。
あのヒトはそーゆーヒトだし、それを可能にする術も持っている。
だけど、あのヒトは、無理矢理、聞き出そうとしたことは一度もない。
侵入者相手なら、いつだって、そうしてるくせに。
どうして、俺からは無理矢理聞き出そうとしないのか。
予想は付く。もう六年の付き合いだ。
ソクーロフはきっと、俺の口から話し出すのを待ってる。
そうでなければ意味がない、とか何とか考えてる。
だから、無理強いせずに俺を放置している。あのヒトの得意なプレイだ。
今まで何度か、話すチャンスみたいなものを作られたことはあったけど。
それを全て受け流してきたのは自分。
この島に来てから、過去について自ら口を開いたことはなかった。誰にも。
ポタリ、ポタリと髪から雫が落ち続けている。
「いつか、話せる時が来るのかな?」
疑問がシャワールームの中で反響する。
自分の過去について、この傷について。話せる時が来るのか、ソクーロフに。
もし、そんな奇跡が起こるとしたら、それはきっと――
無意識に、口の端には笑みが浮かんでいた。
「俺が死んだ時、かな」
fin
ボディシャンプーを洗い流す。首から胸、胸から腹へ。
昨夜、眼鏡のお医者さんが貼ってくれた防水仕様の絆創膏のおかげで、
昨日少し切られた腹も痛くない。足まで泡を洗い流し、シャワーを止めた。
鏡に自分の身体が映っている。
シャワールームから鏡を外そうかと思った時期もあるけど。
結局、鏡はここにある。普段はあまり見ていないけど。
見て面白いモンじゃないし、綺麗なモンでもないから。
けれど、この日は鏡を見たまま、止まってしまった。
左胸にある古い傷。
久し振りに自分の手で触れてみた。昨夜の感触が甦る。
やっぱり、あの時、触られた。
ソクーロフの薬指がここに触れた。
おそらく『偶然ぶつかった』フリをして。
一瞬、すうっ、と撫でられた。
その時。自分でもどうして、そう感じたのかは解らないけど。
まるで「早く治りますように」と言われたような気がして、
息が詰まりそうになった。
ソクーロフが自分の過去に興味を持っているのは、解ってる。
あのヒトのセーカクからして、本当はどんな手段を用いてでも、
根ほり葉ほり聞いて、洗いざらい白状させたい筈だ。
もちろん、この古い傷についても。
あのヒトはそーゆーヒトだし、それを可能にする術も持っている。
だけど、あのヒトは、無理矢理、聞き出そうとしたことは一度もない。
侵入者相手なら、いつだって、そうしてるくせに。
どうして、俺からは無理矢理聞き出そうとしないのか。
予想は付く。もう六年の付き合いだ。
ソクーロフはきっと、俺の口から話し出すのを待ってる。
そうでなければ意味がない、とか何とか考えてる。
だから、無理強いせずに俺を放置している。あのヒトの得意なプレイだ。
今まで何度か、話すチャンスみたいなものを作られたことはあったけど。
それを全て受け流してきたのは自分。
この島に来てから、過去について自ら口を開いたことはなかった。誰にも。
ポタリ、ポタリと髪から雫が落ち続けている。
「いつか、話せる時が来るのかな?」
疑問がシャワールームの中で反響する。
自分の過去について、この傷について。話せる時が来るのか、ソクーロフに。
もし、そんな奇跡が起こるとしたら、それはきっと――
無意識に、口の端には笑みが浮かんでいた。
「俺が死んだ時、かな」
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